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更新日:2016年3月18日

文人に愛された別荘地「稲毛」

海水浴場と「海気館」

江戸時代、佐倉堀田藩所領や旗本知行地として農業が営まれていた稲毛の一帯は、当時の千葉町に県庁が置かれ、さらに鉄道が開通したことで、その性格を大きく変えていきます。

稲毛や黒砂の目前、現在の国道14号の辺りは遠浅の海岸でしたが、明治21年(1888年)、千葉県初の海水浴場が開かれ、同年、医学士の濱野昇により「稲毛海気療養所」が設立されました。施設は海水温浴場、海水冷浴場、海水灌漑場、遊戯場、運動場などで、救急に備え医師が1名常駐していました。当時海水浴は、諸疾病に対する治療法として提唱され、海気館はそれに応じた施設だったのです。稲毛浅間神社周辺の松林の中に建てられた施設は、林芙美子が昭和9年(1934年)に書いた小説『追憶』に、「赤や青の色ガラスがはめこまれている明治の建物」と形容されています。

後に「稲毛海気療養所」は所有者が変わり、別荘風旅館「海気館」として、宴会や行楽などにも用いられるようになりました。大正10年(1921年)にはそれまでの総武鉄道に加え京成電鉄が開通し、東京から海水浴や潮干狩りに来る客が増加、海岸には多くの旅館や店が立ち並ぶ一大保養地となりました。

海気館は、島崎藤村、徳田秋声、森鴎外、上司小剣といった文人たちが滞在し、また田山花袋の『弟』、里見弴の『おせっかい』、中戸川吉二の『北村十吉』など多くの文学作品にその名前が登場しています。俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごうとう)の名著で、3年半にわたる全国行脚の大旅行日記である『三千里』では、明治39年(1906年)8月6日、稲毛の海気館に一泊し、のんびりと潮干狩をするところから始まります。

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「稲毛海岸の海水浴風景」

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「海気館」 

避暑地「稲毛」と「ワイン王」

東京からの交通の利便さもあって、稲毛の海岸は東京方面の人々の保養地として人気を集め、明治から昭和にかけて松林を中心に多くの別荘・別邸が建てられました。当時の保養地・避暑地としての隆盛ぶりは鳥瞰図「千葉県稲毛海水浴場鳥瞰」(作 松井天山 1869~1946)などから窺い知ることが出来ます。

往時をしのぶ建物の一つとして「千葉市民ギャラリー・いなげ(外部サイトへリンク)」の敷地に、国の登録文化財に指定されている旧神谷伝兵衛稲毛別荘が残されています。

別荘の主であった神谷伝兵衛は、江戸末期の安政3年(1856年)2月11日、三河国、現在の愛知県幡豆郡一色町で生まれ、わずか8歳で酒造家を志し、17歳で酒造りを学ぶため横浜に渡りました。

横浜で葡萄酒のすばらしさを知り、東京に出た伝兵衛は、浅草で日本初の洋酒バーを開店し、成功をおさめました。それが、現在も営業を続け、電気ブランで有名な「神谷バー」です。

その後、明治14年(1881年)、輸入葡萄酒に改良を加え、独特の葡萄酒をつくることに成功、蜂印香竄葡萄酒として製造販売、類似品が出回る程の人気を博し、さらに国内で葡萄園やワイン醸造場「牛久シャトー」を建設し「日本のワイン王」と呼ばれています。

神谷伝兵衛は大正6年(1917年)病気静養のため、同年、別荘の建設に着手しました。当時としては非常に珍しい鉄筋コンクリート造りの洋館で、現在では、初期の鉄筋コンクリート建築として全国的に大変貴重な建築史跡になっています。また、京成稲毛駅から別荘方面へと続くせんげん通り商店街には「電気ブラン」やシャトーカミヤのワインケーキを販売する店もあり、神谷伝兵衛と稲毛の繋がりを今に伝えています。

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「旧神谷伝兵衛別荘」

 

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「神谷伝兵衛氏肖像」

 

軍郷「稲毛」と「ラストエンペラー」

旧神谷伝兵衛別荘から歩いて5分ほどの場所には「ラストエンペラー」(清朝最後の皇帝)として知られる愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)と嵯峨公爵の長女、嵯峨浩が新婚時代を過ごした家が残っています。

溥傑が当時作草部町にあった陸軍歩兵学校に在籍した関係で、夫妻は大正初期に建てられた稲毛のこの家で昭和12年(1937年)から半年ほど生活しました。現在はこの家は「千葉市ゆかりの家・いなげ」として公開されています。

明治、大正、昭和の初めにかけて、稲毛には陸軍歩兵学校をはじめ、千葉陸軍戦車学校(現稲毛区役所、京葉工業高校付近)や千葉陸軍防空学校(現小中台公民館や千葉女子高校付近)などの陸軍の学校や施設が集中し、山王、長沼原の一帯は陸軍下志津演習場の一部でした。作草部町の陸軍歩兵学校の辺りは、軍隊の行進する音が賑やかであったことから後に轟町の地名が名付けられたと云われています。

現在、軍郷稲毛の面影はほとんど残っていませんが、川光倉庫が使用している作草部町の気球聯隊の旧第二格納庫や千葉経済学園内にある鉄道第一聯隊材料廠跡などから当時の様子を伺うことができます。

愛新覚羅溥傑と浩夫妻は程なく東京に転居し、その後長女の慧生を日本に残して中国に帰国、満州に向かいます。日本の敗戦により、満州国は解体され、溥傑はソビエトの捕虜になり、浩も八路軍に拘禁されました。また、戦後も、溥傑は単身中国の収容所に収監され、また慧生が伊豆山中で心中事件を起こし亡くなるなどの波乱が続きますが、昭和36年(1961年)浩は中国への入国を許され溥傑と再会、その後夫妻は共に日中親善に尽力され、その生涯を終えました。

夫妻が新婚時代を過ごした稲毛の半年間は、日本に戦争が影を落とし始めた時期ではありましたが、二人にとっては穏やかな平和な時代だったのかもしれません。

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「在りし日の愛新覚羅溥傑・嵯峨浩夫妻」

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