• サイトマップ
  • 携帯サイト
  • 文字サイズ・色合いの変更
  • 音声読み上げ
  • Foreign Language
  • 医療機関情報
  • 防犯防災消防情報

千葉市トップページ教育委員会事務局 > 生涯学習部 > 生涯学習振興課 > 千葉市地域文化財

マイメニュー

使い方

マイメニューの機能は、JavaScriptが無効なため使用できません。ご利用になるには、JavaScriptを有効にしてください。

  • お問い合わせの前によくある質問と回答(FAQ)

区役所のホームページ

美浜区 花見川区 稲毛区 若葉区 緑区 中央区

  • 中央区
  • 若葉区
  • 花見川区
  • 緑区
  • 稲毛区
  • 美浜区

ここから本文です。

更新日:2013年2月8日

千葉市地域文化財

 平成19年4月の千葉市文化財保護条例の改正に伴い、新たに千葉市地域文化財という登録制度を設け、市内の一定の地域において、地域の方々が守ってきた文化財や地域を知る上で必要な文化財、市民の生活と密接な関係にある文化財などを順次登録しています。

検見川神社の神楽・祭囃子(けみがわじんじゃのかぐら・まつりばやし)


<巫女舞>

(1) 種別 無形民俗文化財
(2) 保持団体 検見川神社神楽囃子連
(3) 保持団体所在地 千葉市花見川区検見川町1丁目1番地(検見川神社内)
(4) 主な曲目・演目
〔神楽の演目〕
巫女舞(みこまい)/衢神六合堅目の舞(ちまたのかみろくごうかためのまい)/老翁悪神祓の舞(ろうおうあくしんばらいまい)/千箭発弓の舞(ちのりはっきゅうのまい)/八重事代主神釣の舞(やえことしろぬしつりのまい)/天鈿女神遊行の舞(あめのうずめのかみゆうぎょうのまい)/天目一箇神鍛冶の舞(あめのまひとつのかみかじのまい)/大山祓神悪人退散の舞(おおやまづみのかみあくにんたいさんのまい)
〔祭囃子の曲目〕
屋台~聖天~鎌倉~四丁目~上り屋台・岡崎・投げ遣り・八木節
(5)説  明
花見川区検見川町にある検見川神社に伝わる神楽と祭囃子です。
神楽は、毎年10月の尾鷲神社祭礼にて演じられています。神楽の起源については、記録が残されていないため定かではありませんが、口伝によると、安政時代には、神社の神事を取り仕切る講として祓講があり、この祓講は各講中の家々で神楽を奉納していたといいます。祓講の存在を示すものとして、検見川神社の境内には、「御祓講」と刻まれた明治時代の石碑が残されています。神楽の形態が、周辺の畑町子安神社や武石町三代王神社と非常に良く似ているため、花見川沿いに伝承されたものであると考えられます。現在は上記の八座を奉納していますが、当初は十二座の神楽で構成されており、明治時代が一番盛んでした。第二次世界大戦で舞い手を失い、一時途絶えたこともありましたが、戦後発足した囃子講に指導して受け継がれ、今日に至っています。
祭囃子は、毎年8月1・2・3日の検見川神社例祭にて、山車の上や舞台で演じられています。この神社の祭囃子は、江戸囃子(葛西囃子)の流れをくむものであるといわれています。昭和21年に、祭礼に伴う神輿渡御を盛り上げるために、検見川にも祭囃子を伝えようと、若者達が船橋の三山(二宮神社囃子連)から師匠を呼び、習い始めたのが最初です。
地域住民の生活文化を理解する上で必要なものであり、また当地域にとっては無くてはならないものとなっています。

参考文献:『千葉市の民俗芸能』(千葉市教育委員会 1981年)『けみがわ』(検見川郷土史編集委員会 1992年)、検見川神社神楽囃子連ホームページhttp://www.kemigawa.com/f_top.htm
                                            

稲荷町有文書(いなりちょうゆうもんじょ)

 
<千葉寺村新田絵図(年不詳)>

(1)種別 有形文化財(古文書)
(2)員数 441点
(3)所有者 稲荷神社
(4)所在地 千葉市中央区稲荷町2丁目8番30号(稲荷神社境内)
(5)説明
中央区稲荷町で伝えられてきた近世から近代にかけての文書群です。従来は上宿・上仲・中宿・下宿の四地区持ち回りで保管してきましたが、現在は稲荷神社の宝物殿に保管されています。
稲荷町はもともと千葉寺村の新田で、御達報(ごたっぽ、五田保)と呼ばれていました。古文書の中には「御達報村」の記載も見られますので、一つの独立した集落としての性格を持っていたようです。
文書中には、村絵図(年不詳)の他に黒砂~今井海岸を測量した際の絵図(天保13年・1842)なども残されています。また神社関係の文書、船鑑札の控など、貴重な海沿いの村の様子を伝える文書も多く含まれています。特に明治になって鉄道ができるまでの当地の舟運の繁栄を示す史料が残っている点は注目されます。なお、稲荷町有文書の内、主要なものについては『千葉市史史料編2近世』に翻刻掲載されています。
いずれも稲荷町という地域を知る上でなくてはならない重要な古文書です。

参考文献:『千葉市史史料編2近世』(千葉市 1977 年)
                                        

三代王神社の神楽(さんだいおうじんじゃのかぐら)


 <衢神六合堅目舞>

(1)種別 無形民俗文化財
(2)保持団体 三代王神社神楽連
(3)保持団体所在地 千葉市花見川区武石町1丁目4番地(三代王神社内)
(4)主な曲目
巫女舞(みこまい)/衢神六合堅目舞(ちまたのかみろくごうかためのまい)/老翁悪神払舞(ろうおうあくしんはらいまい)/稲倉魂神五穀種蒔舞(いなくらしこめのかみごこくたねまきのまい)/千箭発弓舞(ちのりはっきゅうのまい)/天目一箇神鍛冶舞(あめのまひとつのかみかじのまい)/天狐乱舞(てんこみだれまい)/山神豊楽餅投舞(やまのかみほうらくもちなげのまい)
(5)説  明
花見川区武石町にある三代王神社に伝わる神楽です。神社境内には神楽殿があり、2月の春祭と10月の秋祭にここで神楽が奉納されています。当社の神楽は三山神楽(船橋二宮神社の十二座式の神楽)の系統で、三山の神楽師から教えられたと伝えられています。現在は主に上記の八座を奉納していますが、周辺の畑町子安神社の神楽や検見川神社の神楽とも形態がよく似ており、もとは十二座あったものと考えられます。
当地での神楽の起源については、定かではありませんが、文政八年(1825)遷宮の時に神楽が奉納されたとの記録もあり、江戸時代後期には当地で神楽が行われていたようです。武石地区では今日に至るまで農業後継者を中心にこの神楽が大切に伝えられてきました。
神楽は地域の災厄を払い、平和と子孫繁栄、豊作等を祈る内容となっており、最後に行われる餅蒔きには地元の子供たちなどが大勢詰めかけ餅を取り合います。
長く当地域において守り伝えられてきた神楽で、当地域にとっては無くてはならないものとなっています。

参考文献:『千葉市の民俗芸能』(千葉市教育委員会 1981 年)、『社寺よりみた千葉の歴史』(千葉市教育委員会 1984 年)
                                                       

遠近庵三市の追悼碑(おちこちあんさんいちのついとうひ)


<遠近庵三市の追悼碑>

(1)種 別 有形文化財(記念物<史跡>)
(2)員 数 1基
(3)所在地 花見川区検見川町1丁目5番(宝蔵院境内)
(4)管理者 宝蔵院
(5)説 明
俳人であった藤代三市(俳号・遠近庵)の三回忌に、妻の藤代市産らが建てた追悼碑です。三市は上飯山満村(現船橋市飯山満町)の名主で、小金牧の牧士でもあった完(宍)倉家から検見川村の藤代家に養子に入りました。三市は周辺の村々で俳諧を指導していたようですが、病にかかり耳が不自由になってからは、俳諧のみを事として遁世的で放浪する生活を送りますが、門人たちからは尊敬を集めていたようです。
妻である藤代市産は幼くして学問を好み、広く和漢書を学んでいて、地域では博識者として名高く、書も巧みでした。夫の死後、自宅に家塾を創立し、近郷の子弟約3,000人を教育したことで知られています。特に塾生の内女子が約4分の1に及んでおり、当地域における女子教育の先駆的な事例として高名です。この追悼碑はこの地域が文化的、教育的にも先進的な地域であったことを示すもので、当地域の成り立ちを知る上でたいへん貴重なものであるといえます。

参考文献:『千葉市史史料編8近世』(千葉市 1997 年)
              

 「開有富」の開墾碑(かいゆうふのかいこんひ)

 
<「開有富」の開墾碑>

(1)種 別 有形文化財(記念物<史跡>)
(2)員 数 2基
(3)所在地 花見川区作新台5丁目14番(春日神社境内)
(4)管理者 春日神社
(5)説 明
千葉市花見川区作新台5丁目、京成電鉄の線路脇にある春日神社の境内に建っている二基の石碑です。江戸時代、当地域から松戸市にかけて幕府の広大な牧場が広がっていました。明治2年以降、新政府はこの牧を廃止するとともに、当該地の大規模な開墾事業を開始しました。このとき開墾や経営のための労働力として、東京の「無産窮民」、特に旧来の知行・俸禄を失った旗本・御家人層やその奉公人たちを移住させることが想定されました。これは東京の治安対策も同時に企図したものでした。これに対して、田畑が不足していた地元からも開墾を望む動きが出てきますが、政府の意図が上記のようなものであったため、その実現にはたいへんな困難をともないました。
明治2年、天戸・花島・三山・田木野井・上飯山満と長作の計6か村で葛飾県役所へ開墾許可願を願い出ました。しかし、牧に馬がまだ残っていたことなどを理由に保留とされます。その後も政府側の対応は芳しくありませんでしたが、三年に及ぶ粘り強い請願運動の末、一部の開墾が許可されました。それがこの長作村字開有富(現花見川区作新台付近)の部分です。当時牧周辺の多くの村々が開墾を望んだにも関わらず、ほとんどが叶わず断念している中にあって、開墾が認められた稀有な事例です。この運動を主導したのが長作村の名主であった中台武左衛門でした。碑は武左衛門の献身的な尽力を讃えたものです。現在、住宅が広がっているこの地域が、先人の弛まぬ努力によって開墾された歴史を持っていることを示す碑で、当地域の成り立ちを雄弁に物語るものです。

参考文献:『千葉市史史料編9近世』(千葉市 2004 年)

寒川神社の御浜下り(さむがわじんじゃのおはまおり)


<寒川神社の御浜下り>

(1)種 別 無形民俗文化財
(2)保持団体 寒川神社氏子青年会
(3)保持団体所在地 千葉市中央区寒川町1丁目123番地(寒川神社社務所内)
(4)説 明
千葉市中央区にある寒川神社の例祭の中で行われる行事です。その由来は中世に遡ると伝えられており、『千葉妙見大縁起絵巻』や『千学集抜粋』などにも千葉妙見(現千葉神社)の祭礼の中で「御浜下り」が執り行われていたことが記されています。当時の祭礼は千葉町と寒川村の一体的な祭りで、「千葉舟」と「結城舟(別名寒川舟)」という舟形の山車を曳き出すなど、大規模に行われていました。この祭りは江戸時代の記録にも度々登場し、二基の「大舟」の上では神楽が奉納されたといいます。また、「御浜下り」は寒川の人々がつとめる役とされており、「妙見様が海に入らないと漁がない。」という言い伝えがあるほど、漁業に支えられた当地域の生活に密着した行事でした。
戦後になって、寒川神社が神輿を新調したのをきっかけに、「御浜下り」は寒川神社の例祭として行われるようになり、出洲海岸にあった大鳥居をくぐって海中渡御が行われていました。しかし昭和30年代後半に出洲海岸は埋め立てられ、「御浜下り」も一時中断しました。昭和43年から平成10年までは千葉港に御座船を出して船渡御を行っていましたが、往年の御浜下りの復活を望む声も少なくありませんでした。そこで寒川氏子青年会を中心に復活を検討し、平成12年「御浜下り」を復活させました。現在も、以前と同様に毎年8月20日の夕方に行われます。神輿は高張提灯に導かれ千葉ポートパークの砂浜に設けられた斎場に安置され、お祓いを受けた後に、氏子青年会の担ぎ手により威勢よく海に入ります。その後、浜に上がったり海に入ったりを3回繰り返し、禊を行います。氏子青年会の方々のたいへんな努力と多くの関係者の温かい協力によって復活したこの祭りは、現在では地域の大きな行事として定着しつつあります。

参考文献:『千葉県祭り・行事調査報告書』(千葉県教育委員会 2002 年)

登戸の神楽囃子(のぶとのかぐらばやし)


 <寿獅子二頭舞>

(1)種別  無形民俗文化財
(2)保持団体  登渡神社登戸囃子連
(3)保持団体所在地  千葉市中央区登戸(登渡神社社務所内)
(4)主な曲名・演目
〔演奏曲〕
切り囃子~昇殿~鎌倉~四丁目~屋台・投げあい・神田丸 上下・秘曲七曲・大喜利
〔神 楽〕
仁羽舞(道化)・寿獅子二頭舞・仁羽獅子舞・三番叟舞・巫女舞・天狐舞・鬼舞
(5)説明
千葉市中央区登戸地区に伝わっている祭囃子や神楽です。囃子は東京葛西囃子系深川囃子を継承していると言われています。登戸囃子連の育ての親である天羽奥次郎氏が天羽家と交流のあった江戸深川扇橋の武平師匠から指導を受け、それを登戸の子供たちに教えたことを起源としています。この明治期に結成された囃子連は子供たちの成長とともに自然解散してしまいましたが、昭和24年、奥次郎八三歳の時に登渡神社の氏子の青年達が奥次郎翁を囲んで再び囃子連を結成し、それが今日にまで至っています。
主な行事としては、正月行事の一環として除夜祭に祭囃子を奉納し、獅子頭をお祓いして社頭で新春を迎え、歳旦祭には厄払いと招福を祈る獅子舞を演じています。また、二月の節分祭には鬼舞を、豆まきの前後に祭囃子、神楽、道化舞などを奉納しています。九月の例祭でも祭囃子や獅子舞が演じられます。
演目の中でも寿獅子二頭舞と呼ばれる獅子舞は、金獅子、赤獅子、もどきで演じられ、千葉市内では他に例を見ない特徴的なものです。
また、同囃子連は後継者育成のための取り組みや地域での様々な行事に積極的に参加している点でも特徴があります。毎月2回練習日を定めて、後継者養成のため地元の子供たちへの指導とさらにその親への指導も実施しています。また、日頃の練習成果を発表する場として、市内の小・中学校、幼稚園の行事や千葉市産業まつりなどに参加しています。
同囃子連では、伝統的に神楽囃子という名称を用いてきましたが、実際は音楽のみならず舞踊も含まれており、地域の総合的な芸術であることが高く評価できます。

参考文献:『千葉市の民俗芸能』(千葉市教育委員会 1981年)                       

平川町内会文書(ひらかわちょうないかいもんじょ)

 
<天正19年検地帳>

(1)種別  有形文化財(古文書)
(2)員数  1,098点
(3)所有者  平川町内会
(4)所在地  千葉市中央区亥鼻(千葉市立郷土博物館内)
(5)説明
緑区平川町で伝えられてきた文書群及び近代から現代に至るまでの町の共有文書類を含めた文書群です。
内容は多岐に渡りますが、最も古いものは天正19(1591)年7月の検地帳です。これは関東移封により近世大名として再出発しつつあった徳川氏が、新たに領国とした両総地域で同年に実施した検地の一環で作成されたものです。これは近世の平川村の出発を示す史料ということになります。
このほかに他村との境界をめぐっての争論関係の文書も残っています。中でも宝永5年(1708)には平川村南部の「平十文字野」と呼ばれる広大な野の入会権をめぐっての大木戸村・高津戸村との間で争論となり、また、平川村北部では野呂村との間で村境をめぐって争論となっていました。これらはいずれも幕府評定所まで持ち込まれ、幕府の役人が当地を訪れ、検分の結果境界が決められ、裁許絵図が作成されている。彩色されたこの裁許絵図は平川村の成り立ちを知る重要な文書として今日まで伝えられています。なお、平川町内会文書の内、近世の主要なものについては『千葉市史史料編7近世』に翻刻掲載されています。
近代以降については、町内会運営関係の帳簿類の他、消防団、婦人会などの団体関係資料が含まれています。他に青年館関係の資料や共有地の図面などもあります。いずれも平川という地域を知る上でなくてはならない重要な古文書ばかりです。
平川町内会文書は昭和60年郷土博物館に寄託になるまでは町内会長が持ち回りで保管してきました。当時、文書は郷箱に入れられており、毎年土用の丑日前後に行われる虫干し会の度に役員が割印厳封して伝えてきました。町内会長は火事の時、家族や家財より先に郷箱を抱えて逃げることとされており、会長の重責はたいへんなものがあったといわれています。


このページの情報発信元

教育委員会事務局生涯学習部生涯学習振興課
〒260-8730 千葉市中央区問屋町1-35 千葉ポートサイドタワー11階
電話:043-245-5957
mail:shogaigakushu.EDL@city.chiba.lg.jp

千葉市役所

地図
〒260-8722 千葉市中央区千葉港1番1号
代表電話番号 043-245-5111
開庁時間:8時30分から17時30分(土日祝日および12月29日~1月3日を除く)

千葉市役所コールセンター

電話番号 043-245-4894
よくある質問と回答(FAQ)