HOW TO ENJOY
CHIBA FOTO

CHIBAFOTO開催に寄せて
写真展の楽しみ方
粟生田 弓
CHIBA FOTO ディレクター/日本写真史研究

CHIBA FOTOの準備で、真夏の盛りに千葉市のなかを強い日差しを浴びながら、古い建物を尋ね歩いていると、ふとした瞬間に子どもの頃の記憶が蘇ってくる。

小学生の頃、私は雷が怖かった。

夏休みの夕暮れ時は、空ばかりを見つめていた。積乱雲が発生していないかどうかが一番気になることだった。家にひとりでいるときに雷がやってきたりすると、押し入れの奥にこもり雷鳴が過ぎ去るのをひたすら待った。遠雷を聞きつければ、堪らず友達の家に逃げ込んだりしたものだ。

その友達も私と同じく雷を怖がった。エリちゃんといって、ひとつ上にアヤちゃんという姉がいる。その日、エリちゃんの家で遊んでいると雷が鳴り始めた。すると、いつもなら部屋の奥に逃げこむ彼女が、急に玄関まで走って勢いよくドアを開けた。外では大粒の雹が降っていた。少し前に外へ出かけたきりのアヤちゃんが、まだ帰っていなかった。エリちゃんは玄関先で「アヤが死んじゃう」といって大泣きをはじめた。泣くのを見るのは初めてだった。私はひとりっ子で姉はいなかった。グレーの空を背景にエリちゃんが豪快に泣く後ろで、なだめ続けるしかなかった。「大丈夫」と100回以上言った。どのくらいの時間が経っただろうか。いよいよアヤちゃんが帰ってきた時は、心底ホッとした。

まだ遠くに稲光が見えたけれど、もう雷は怖くなかった。

突然、なんの話が始まったのだ、と思われるかもしれないが、私がこうして、急に昔のことを思い出したりするのも、ただ、夏という思い出の詰まった季節に由来するものではなく、CHIBA FOTOで開かれる12名もの写真家の作品を思い浮かべながら街を歩いているせいなのではないかと、思うのである。

たとえば、北井一夫の作品である。
街中や電車のなかに展開するポスターにもなっているので、目にされた方も多いかと思う、

あの「風景のまん中にぽつんと子供がいる写真」である。

撮影されたのは1970年代だ。今回、展示されるのは、撮影当時にプリントされた貴重な1枚で、そういうプリントのことをヴィンテージ・プリントと呼んだりするのだが、

あの写真は一度見たら忘れられない。

子供の写真といえば、川内倫子の「as it is」もそうだ。
日常の小さな変化を捉えてきたこの写真家にとって、成長を続ける子供のいる時間は一瞬ではなく、ずっと繋がっている。

この写真とあの写真との間にある、“見えていない時間” を想像させてくれる作品だ。

千葉市に暮らしのある「ひとびと」を捉えた蔵真墨の写真では、一期一会に蔵が出会った人々なはずなのに、

繰り返し見ていると「久しぶり」と声をかけたい

気持ちが湧いてくる。

生まれる前の風景や、会ったこともない人々。

写っているのは、自分が経験したはずのない他の人の過去のはずなのに、どうして、それを懐かしんだり、愛おしんだりできるのだろうか。

テーマはまったく異なるけれども、吉田志穂の「空白と考古学」は、“見えていない時間”どころか“見えるはずのない” 歴史に迫ろうとする。

写そうとしても叶うことのない、遥か大昔のその景色

を、それでも吉田は想像力と創作力で掘り返してくる。

もう、そこにはないということを写そうとする気持ち

は、横湯久美の亡くなった祖母の不在を表現しようとすることや、他人の夢を写真に蘇らせる清水裕貴の作品にも通じているものだ。

なぜ、彼らには、そんなことが可能だと思えるのだろうか?

この問いに答えるには、こう考えるしかなさそうである。

写真には、何か空いた穴を埋める力があるのではないだろうか?

と。

そして、優れた写真家とは、その力を最大限に活かして表現することができる存在なのである。

北井一夫の「ぽつんと子供の写真」が、まるで自分の記憶のように脳裏に焼き付くのも、川内倫子の「見えていない時間」がなぜか見えるのも、空いた穴を埋める写真の力を引き出して、彼らが表現するからなのだろう。
そして、金川晋吾の「他人の記録」に、金川自身が撮った作品だけではなく、かつて誰かが撮った花光志津さんの昔の写真が並ぶのも、とても自然なことだとわかる。

その写真は、志津さんの時間と現在との間に繋がりをもたらしてくれる

のだ。

ここで、すべての展覧会に触れることはしないが、12名もの優れた写真家の作品に触れ合うことで、昔を思い出してしまうのも、

彼らの表現のなかに広がる、自分が経験したことのない「いつか」が、本物の記憶を刺激するためなのかもしれない。

写真に撮り損ねたその瞬間が、夏の太陽に照りつけられて、脳裏に一瞬、蘇るのだ。