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更新日:2023年12月19日
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まだこの地が「千葉」と呼ばれる遥か昔、人々は、海で取れた貝や魚をはじめとした、海の幸・山の幸を食べて暮らし、加曽利貝塚などの数々の貝塚を残しました。
やがて、武士の一族「千葉氏」によって、都市としての「千葉」の街の歴史が始まります。そして、東京湾に面した、海と陸の交通が集まる地として栄えました。
千葉の街に県庁が置かれた頃、遠浅の海を活かした海苔づくりや漁業に加えて、都心に近いという利便性から海水浴や潮干狩りも楽しめる行楽地、また、美しい海と松林に恵まれた別荘地としても賑わうようになりました。
そして今は、埋め立てによってその姿を変え、新しい街と産業が生まれました。海辺には、数々の工場や団地が立ち並び、幕張メッセなどのすぐ先に広がる人工海浜で、かつての海辺の街の面影を感じることができます。
今から約5,000~3,000年前の縄文時代に、日本最大級の貝塚「加曽利貝塚」が形成されました。
加曽利貝塚のように2,000年にわたって続いた集落・貝塚はほかの地域にはなく、当時から千葉がとても住みやすい地域だったことが分かります。
当時は木をくりぬいて作った丸木舟を使い、加曽利貝塚の近くを流れる坂月川から、潮の満ち引きを利用して海まで行き来し、貝や魚をムラに運んでいたようです。
丸木舟(複製)
律令制の時代、役人が都と各国を行き来しやすくするために東海道が整えられました。初期の東海道は、相模の走水(はしりみず)(神奈川県横須賀市)から房総半島へ船で渡るルートをとっていました。
役人たちの行き来を便利にするために「駅家(うまや)」と呼ばれる施設が作られ、千葉市にも河曲(かわわ)駅(中央区寒川町周辺)と浮嶋(うきしま)駅(花見川区幕張町周辺)があったと考えられています。
千葉市の礎を築いた一族「千葉氏」の館は、千葉の湊(船が集まる場所)に通じる都川の近くにあったと考えられています。
湊は、東京湾の対岸の金沢や品川から船で物が運ばれてくる千葉の経済の中心でした。千葉氏はこの地を押さえ、陸と海のものや人の行き来を支配していたと考えられます。
安西順一作「千葉介常胤像」(千葉市立郷土博物館蔵)
江戸時代には、千葉市域は佐倉藩や生実藩、旗本、寺社などの所領が入り混じっていました。
寒川村には佐倉藩の米蔵が置かれそこから江戸に物資が運ばれました。近隣の登戸村も江戸と往来する人々でにぎわっていました。
葛飾北斎「富嶽三十六景 登戸浦」
遠浅の千葉市の海辺は海水浴や潮干狩りに絶好の場所でした。
1888(明治21)年には稲毛海岸に千葉県初の海水浴場が開かれ、その後鉄道が開業すると東京から1時間弱と交通の便も良かったことから日帰り行楽地として賑わいました。
当時の稲毛海岸(市民ギャラリー稲毛所蔵)
当時、海水浴は病気を治す方法として考えられていました。
稲毛海水浴場がオープンした年、海岸には「稲毛海気療養所」が設立され、医師が常駐していました。
その後、所有者が変わり、別荘風旅館「海気館」となり多くの文人がこの地を訪れました。
1912(明治45)年には、稲毛海岸に日本で最初の民間専用の飛行場が開設され、1917(大正6)年に高潮による被害のため閉鎖されるまで、多くの民間飛行家たちが活躍しました。
この地が選ばれたのは、遠浅で砂もしまっており、重量のある乗り物も楽に走れたからだと言われています。
稲岸公園の民間航空発祥之地記念碑
千葉市の遠浅の海は海水浴や潮干狩りなどに適し、東京方面などからの日帰りの行楽地としてにぎわいました。
1955年ごろの幕張海岸の入口
千葉県では、1950年代から県産業の工業化が進められ、東京湾沿岸の浦安市から富津岬にいたる海を埋め立て、京葉工業地域がつくられました。
これにより、千葉市の海辺も埋め立てが行われ、千葉市の面積の8分の1にあたる土地が生まれ、工業団地や住宅団地が建設されました。
東京湾の一角にあり、京葉工業地域を支える重要な港、千葉港。
川崎製鉄(現:JFEスチール東日本製鉄所)開設や、千葉火力発電所の完成が千葉市の戦後復興と消費都市から生産都市への転換に中心的な役割を果たしました。
他にも、日本で最初かつ最大の食品工業団地である千葉食品コンビナートや、石油ターミナルなどがあり人々の生活や産業を支えています。
千葉港
海辺には、市の鳥「コアジサシ」をはじめとした様々な生き物が生息しています。
豊かな自然環境を守るため、海辺の生き物や水質を保全する取組みが行われています。
コアジサシ(第1回市制100周年記念フォトコンテスト入賞作品 @higeduraajisashi さん)
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