千葉氏 > 全国の千葉氏ゆかりの地 > 千葉氏ゆかりの市町紹介

更新日:2020年4月10日

ここから本文です。

千葉氏ゆかりの市町紹介

一関市

まちの概要

一関市は、岩手県の最南端、東北のほぼ中央に位置し、仙台市と盛岡市の中間地点にあります。人口は約115,000人、面積1,256.42平方kmで古くから交通の要衝として栄え、岩手県南、宮城県北エリアの中核としての役割を担ってきました。

また、宮城、秋田の両県に隣接し、市内には3県にまたがる栗駒山(くりこまやま)、猊鼻渓(げいびけい)や厳美渓(げんびけい)の名勝地、一関温泉郷などの観光地があり、世界遺産登録のまち「平泉」や三陸方面への観光拠点ともなっています。

平成25年8月に、当市を含む北上高地の南部地域は、宇宙誕生の謎などを研究するために世界にただ一つ建設される国際研究施設「国際リニアコライダー(ILC) の国内候補地として選定されました。市では、ILCを「一関発展の基軸」と位置づけ、まちづくりを進めております。

千葉氏とのゆかり

本丸に建つ千葉介頼胤供養碑

本丸入口

葛西時代、その領内いたるところにおいて勢威を誇っていた千葉一族の始祖は、千葉介頼胤と言われています。長坂唐梅館(ながさかからうめたて)城主千葉氏も頼胤を始祖としております。 しかし頼胤、その人について伝わっていることは様々で、何れが真実を伝えているものか知る由もありません。
長坂千葉系図によると、頼胤は千葉介常胤の七男で、平泉藤原氏滅亡後、葛西氏のじきじきの家来として伊沢百岡(いさわももおか)と唐梅館の二城を源頼朝から与えられ、奥州に下向し、建久2年(1191年)、その子良胤とともに百岡から唐梅館に移り住む。以来、約400年間に渡り栄えたが天正18年(1590年)葛西氏滅亡とともに落ちぶれていったと伝わっています。
居城唐梅館跡は、東山町長坂の町並の北方、唐梅館山の頂にあります。本丸をめぐる西方の土壇上には初代城主、千葉介頼胤の供養碑が建っております。

一関市のホームページへ

涌谷町

まちの概要

宮城県涌谷町は、宮城県の北東部に位置し、面積は82.16平方kmで、仙台駅までの所要時間は1時間程度となっています。

涌谷町は、天平21年(749)に我が国において初めて金を産出した地です。黄金900両(約13kg)を奈良の都に献上し、東大寺の虚舎那仏の造立へと大きく貢献しました。時の天皇であった聖武天皇は、このことを大いに喜び、年号を「天平」から「天平感宝」へと改めるほどでした。

この時、万葉の歌人・大伴家持は、聖武天皇が全国に出した詔(みことのり)に応じて、「天皇の御代栄むと東なる陸奥山に金花咲く」と万葉集に残る歌を詠んでいます。このことから、万葉集に登場する地名の中で北限の町でもあります。

千葉氏や妙見とのつながり

涌谷要害

妙見宮

妙見宮(神明社)

涌谷町は、江戸時代にこの地域を治めた伊達家一門「涌谷伊達(亘理)氏」の居館「涌谷要害」があったところです。現在の市街地はこの涌谷要害を中心に小城下町を形成しており、往時の名残を所々に見ることができます。
涌谷伊達氏の遠祖は、千葉介常胤の3男である武石三郎胤盛です。文治5年(1189)、胤盛は父常胤とともに奥州合戦に従軍して功績をあげ、源頼朝から現在の福島県北部~宮域県南部の「宇多・伊具・亘理」3郡を拝領しました。その後、亘理郡へ移住、「亘理氏」と名乗るようになったと伝わります。そして、天正19年(1591)、亘理元宗・重宗父子が「亘理」から「涌谷」へ移転、涌谷の町づくりが始まりました。
町内には涌谷伊達氏の氏神を配る妙見宮(現在は神明社)があり、地域の拠り所として祀られています。

涌谷町のホームページへ

相馬市

まちの概要

相馬野馬追

相馬市は、福島県の東北端にあって、西に阿武隈山地が連なり、東は太平洋に面しています。江戸時代初期の慶長16年(1611)に相馬氏の本拠が中村城に移され、現在の相馬市の基礎となる近世城下町が形成されました。江戸時代後期になると、東北諸藩を襲った天明・天保の大飢饉により相馬中村藩も大きな被害を受けましたが、二宮尊徳の農業復興施策である報徳仕法を推進し、藩財政を立て直しました。

その時の二宮尊徳の教えは現在も市民に根付いています。
千有余年の歴史を誇る国指定重要無形民俗文化財相馬野馬追は見どころの一つですが、新たな観光の柱として、天然芝コート3面、人工芝コート2面を有す光陽サッカー場をはじめとした市内の各種スポーツ施設も観光資源と位置づけ、スポーツ観光にも積額的に取り組んでいます。

千葉氏とのゆかり

中村城跡

相馬氏は、系図では平将門を祖とし、桓武平氏良将を称している。それによると将門は下総国相馬郡(茨城県北相馬郡)を領し、相馬小次郎と称して相馬氏の祖となったとされる。
将門から10代後の師国には嫡子がいなかったため、千葉常胤の次男師常が養子となって相馬氏を継承したとされる。文治5年(1189)の奥州藤原氏追討で相馬師常は実父・千葉常胤とともに功をあげ、源頼朝から多くの所領を与えられた。

相馬師常も陸奥国行方郡(現在の南相馬市)を与えられ、本領の下総国相馬郡とともに支配しました。師常から6代目の重胤は一族内の所領をめぐる対立などから、元亨3年(1323)に一族郎党を従え、本領であった下総国相馬郡から陸奥国行方郡に移住したといわれています。
慶長16年(1611)、相馬利胤は行方郡小高から現在の相馬市中村の地に居城を移し、政治経済の中心地として整備、北辺に対する強化を図りました。
現在の相馬市の基礎となる城下町が形成されることとなりました。

相馬市のホームページへ

南相馬市

まちの概要

太平洋のなぎさ

甲冑競馬

平成18年1月1目、旧小高町・旧鹿島町・旧原町市の1市2町が合併し南相馬市が誕生しました。旧市町の区域ごとに地域自治区となっており、「小高区」「鹿島区」「原町区」に移行し住所に名称を残しています。
福島県の太平洋沿岸北部のいわき市と宮城県仙台市のほぼ中聞に位置し、面積398.58平方キロメートル、緑深い阿武隈の山すそに広がる豊かな平野、その果てに連なる太平洋のなぎさ、海洋性の気象にはぐくまれた豊かな自然環境のまちです。
この豊かな自然は、市内に現存する延喜式内社の縁起に見られるように、古くから当地方開発の大きな要因をなしてきました。
相馬野馬追のメイン会場となる雲雀ヶ原祭場地は原町区に、野馬懸の会場となる相馬小高神社は小高区にあります。

千葉氏や妙見とのつながり

神旗争奪戦

相馬氏は平将門が遠祖ともいわれています。始祖は千葉常胤の二男相馬師常で、下総国相馬郡を領したことから相馬を名乗りました。師常は父常胤とともに奥州合戦で戦功をあげ、父常胤から本領のほかに陸奥国行方郡 (現在の南相馬市・飯舘村)を与えられました。師常から3代後の胤村の五男師胤は行方郡に多くの所領を譲り受け、その子重胤が元亨年間(1321-13 23)に一族の岡田氏・大悲山氏らとともに行方郡に下向して、奥州相馬氏の祖となりました。

以後、相馬氏は小高城を処点に所領を拡大し、江戸時代には現在の相馬市中村に城を移して中村藩主となりました。
相馬氏は妙見を氏神として城内や守護神として藩境にも祀り、一族も同様に妙見を祀ったため、領内には妙見ゆかりの神社仏閣や祠が約70か所あります。なお、明治以降の神社では、妙見は天之御中主神として祀られています。

南相馬市のホームページへ

成田市

まちの概要

成田山の参道

宗吾霊堂

成田市は、千葉県の北部中央に位置する中核都市です。市の西側には根木名川、東側には大須賀川が流れ、それらを取り囲むように広大な水田地帯や肥沃な畑地帯が広がっています。
成田市は、霊場として名高い成田山新勝寺の門前町として古くから栄えてきました。歴史的建造物が残り江戸情緒あふれる成田山の表参道には、多数の土産物屋や飲食店が軒を並べ、国内外の観光客に親しまれています。成田山新勝寺の他にも、江戸時代の義民・木内惣五郎(佐倉宗吾)を祀った宗吾霊堂など、市内には数多くの寺社が点在しています。
また、市の南部には、年間の空港旅客数が4,000万人を超え、世界100都市以上とのアクセスがある、日本の空の表玄関・成田国際空港を有しており、国際交流都市としての一面も併せ持っています。

千葉氏や妙見とのつながり

成田市北東部に位置する大須賀地域、尾羽川流域、荒海川流域は、千葉常胤の子息である胤信や胤通が地頭として入府して以降、それぞれ大須賀氏、国分氏を名乗って勢力を張り、戦国時代末期に徳川家康が関東に入府するまで一族の所領として維持されてきました。とりわけ、鎌倉時代、宝治合戦(1247年)の後、大須賀氏惣領としての地位を確立した胤信の孫胤氏は、将軍の近習として活躍し、大須賀氏興隆の基礎を作りました。

戦国時代には当地に多くの城が築かれましたが、大須賀氏の居城とされる松子城跡、大須賀氏の分家とされる助崎城跡の周囲には、「内宿」「新宿」などの小字名があり、戦国時代終わり頃には城下町が形成されていたことが窺えます。また、城跡には千葉氏の守護神である妙見神が鎮座し、助崎城では石造、松子城では木造の妙見像がそれぞれ祀られています。江戸時代に作られたものですが、千葉氏一族の遺領を今に伝えています。

成田市のホームページへ

佐倉市

まちの概要

オランダ風車

佐倉市は、自然豊かな北総台地に所在し、北に印旛沼の水面が広がります。印旛沼のほとりには威風堂々としたオランダ風車「リーフデ」があり、チューリップをはじめとした季節の花が美しく咲き、夏には花火も夜空に瞬きます。
佐倉では幾層にも重なる歴史文化を間近に見ることができます。古くは縄文時代の環状盛土遺構を目にすることが出来る井野長割遺跡があり、千葉一族の盛衰を肌に感じる臼井城跡・本佐倉城跡があります。江戸時代には、首都江戸を支える町として栄え、佐倉城跡・武家屋敷・佐倉順天堂記念館・旧堀田邸とその庭園などが残された町並みは、「世界から一番近い江戸」をキーワードに、当時の人々の息吹を伝える日本遺産として、「北総四都市江戸紀行-江戸を感じる北総の町並み」のひとつに認定されました。

千葉氏や妙見とのつながり

勝胤寺中世石塔群

佐倉市域は、千葉氏と同族である上総介一族の勢力が元来強かった地域ですが、鎌倉幕府を創立した源頼朝が、上総介一族を弾圧し、千葉常胤を登用したことから、千葉氏の勢力があらたに浸透していきます。
戦国時代の初め、千葉氏は内紛によって分裂しました。その戦いに勝利した一派は、本拠地を千葉から佐倉へ移しました。戦国時代に佐倉地域は、太田道灌や上杉謙信、さらには里見氏による武力侵攻を受けますが、千葉氏はその都度危機を乗り越えていきます。しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めによって、ついに千葉氏は没落してしまいます。海隣寺や勝胤寺に残される千葉氏供養塔群は、千葉氏の栄華の痕跡と言えます。
臼井城の妙見堂は、現在も星神社にその信仰が引き継がれており、戦国時代に原氏によって寄進された仏像や釣灯籠に、その信仰を感じることができます。また、六崎にある妙見神社も地域で大切に守られています。

佐倉市のホームページへ

酒々井町

まちの概要

酒の井の碑

酒々井町の町名はそのむかし孝行息子が汲んだ井戸水が酒になったことが由来と伝わります。
町の面積は約19平方km、千葉県の北部、都心から50キロメートルの圏内にあって、北西には印旛沼、東南には北総台地を配し、緑豊かな自然環境に恵まれています。
歴史的には3万4千年前の日本最大級の環状集落跡をはじめ国史跡の千葉氏の居城跡、徳川幕府直轄の野馬会所、成田山や芝山参詣客の宿場町の名残などが町中にあります。

明治22年に町村制が施行され、酒々井町が誕生した以後、自治体合併を経ず一番古い町として現在に至っています。
鉄道や道路などの交通網、新東京国際空港に隣接するなど好立地条件を備え、少子高齢化という時代の流れの中にあっても、おしゃれで高品質なコンパクトシティを基本にまちづくりを進めています。

千葉氏や妙見とのつながり

享徳3年(1454)、鎌倉公方と関東管領の争いは千葉氏を巻き込み、千葉氏も両派に分かれ戦うこととなります。混乱のなか千葉介胤直・胤宣父子は自刃し、長禄3年(1459)に一族の岩橋輔胤が千葉宗家を継ぐこととなります。

本佐倉城跡

千葉輔胤は本拠地を千葉から現在の酒々井町に移します。文明年間(1469~1486) の終わり頃には本佐倉城を築城、その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めにより千葉氏が滅ぶまでの100余年の間、酒々井町は千葉氏九代の居城として下総の政治文化の中心地でした。
現在、千葉氏の城跡は関東の戦国時代を代表する城郭として国指定史跡となっています。

また町内には千葉氏ゆかりの城館跡、氏神である妙見社などの神社、祈願寺である佐倉五か寺などの寺院が数十か所に見られるほか、千葉氏時代に起源をもつ馬牧跡があります。

酒々井町のホームページへ

多古町

まちの概要

あじさい

祇園祭

多古町は、千葉県の北総台地の東側に位置し、東西約13.6km、南北約12.9km、面積72.80平方kmと、県内町村の中では2番目の広さを誇る人口約1万5千人の町です。町の中央を流れる栗山川の流域は水田地帯が広がり、食味日本一にも輝いた「多古米」の一大産地となっています。一方、台地上に広がる畑から産出される「大和芋」は、全国有数の生産量を誇り、町の新たな農産物ブランドになっています。また、栗山川のあじさいが鮮やかに色づく初夏、「ふるさと多古町あじさい祭り」が盛大に開催され、江戸時代さながらの衣装を身にまとった町民が多古米を大盤振舞いするなど、多くの観光客が押し寄せ、賑わいを見せます。江戸時代から続く夏の風物詩「多古祇園祭」は、お囃子や威勢のいい掛け声とともに山車が引き回され、山車の上では鮮やかな舞が彩りを添えています。
自然と文化、歴史に恵まれた多古町は、成田国際空港の隣町にあってやすらぎを感じる過ごしやすい町です。

千葉氏や妙見とのつながり

千葉氏一族の努力が下総一帯に及んでいた中世、多古は千葉氏の荘園「千田荘」の中心地でした。千葉氏の勢力が全国に及び隆盛を極めると一族間では争いが度々起き、「千田荘」もその戦いの舞台となりました。南北朝期の千田荘動乱(1335~1341)では、土橋城周辺を中心に、並木城や志摩滅が戦場となりました。その後、室町時代中期の享徳の乱では、千田荘が千葉氏宗家終焉の地となりました。千葉家当主胤直は同族の原胤房・馬加康胤と戦うことになります。康正元年(1455)、胤直は原胤房に千葉城を急襲されて千田荘に逃れて再起を図りましたが、両軍の攻撃に多古城、志摩城とも落城しました。胤直は土橋城の一角にある東禅寺に逃れましたが、すぐさま敵勢に包囲され一族郎党とともに自刃し果てました。

東禅寺境内西側の墓地にある五輪塔7基は、胤直ほか一族の墓と伝わり、現在でも地元の人たちに懇ろに供養されています。

多古町内には、千葉氏の居城に関係するものをはじめ、妙見社が多数存在しています。例えば、土橋城の妙見社は、明治以後「妙見」の称号が廃止され、北辰天の中枢を意味する「天御中主命神社」と改められました。その他星宮神社まで含めると20社ほどを数えます。なかでも、多古城北側にあった妙見堂に祀られていた「妙見菩薩倚像」は、千葉氏の守護神として相応しい力強い造形で、鎌倉時代後期の特徴をよく留めており、千葉県指定文化財となっています。

多古町のホームページへ

東庄町

まちの概要

東庄町は、千葉県北東部、東京から約80キロメートル圏、成田から約30キロメートル圏の位置にあり、銚子市や香取市、旭市と接しています。面積は、約46平方キロメートル、温暖な気候で、平均気温は約16度、冬の間は東京より2~3度暖かく、夏は逆に涼しい町です。北西には八溝山地の末端にある筑波山を臨み、本町を含む一帯は水郷筑波国定公園の区域に属しています。

雲井岬つつじ公園や東大社、東圧県民の森では、町の木「オオムラサキ」が色鮮やかに咲きほこり、訪れた人々の目を和ませます。ほかにも、のどかな田園風景の中で楽しめるいちご狩り、農業体験、農産物の朝市、ウォーキング、サイクリングなど、自然を存分に満喫できる町、それが東庄町です。

千葉氏や妙見とのつながり

木造妙見菩薩立像

千葉常胤の6男胤頼は幼い頃から武術に励み、やがて京に上り鳥羽上皇の第3皇女・上西門院に仕え和歌を学び、文覚上人に師事して文学、歴史を学ぶほか、都の政治にも関心を傾けました。源頼朝の挙兵にはいち早く下総に戻り、常胤に京の政治情勢を報告し軍事面でも才能を発揮しました。

常胤は、守護に命ぜられたのを機に6人の子息にそれぞれ領地を与え、胤頼には東荘33郷(今の東庄町とその近隣)が与えられ東氏を名乗りました。また、胤頼が尊崇する妙見像を安置し本尊にしたとされる妙見山星福寺吉祥院や、東氏に伝わったとされる木造妙見菩薩立像(県指定有形文化財)など妙見信仰が受け継がれました。

その後東氏は、長男重胤へ受け継がれ3代将軍源実朝に近侍し、その子胤行は承久の乱で功績を上げ、常胤以来蓄念の美濃国山田庄 (岐阜県郡上市)を拝領し両所を統治しました。

東庄町のホームページへ

郡上市

まちの概要

郡上市は、郡上郡の八幡町・大和町・白鳥町・高鷲村・美並村・明宝村・和良村の7町村が合併して平成16年(2004)に誕生しました。日本列島そして岐阜県のほぼ中央部に位置し、面積約1,030平方キロメートルに人口約4万2千人が住む山間の市で、海抜が110メートルから1,810メートルまでと高低差が大きく、市の中央を北から南に流れる長良川をはじめ24本の一級河川があり、雄大な自然と美しく豊かな水に恵まれています。

また、市内には東名・名神高速道路と北陸自動車道とをつなぐ東海北陸自動車道が長良川に沿って走っており、比較的交通アクセスに恵まれた地域です。

奥美濃の小京都と言われる郡上八幡には、400年を超える歴史を持ち日本三大盆踊りの一つに数えられる「郡上おどり」があり、お盆の4日間は翌朝まで踊り明かす徹夜おどりで賑わいます。また冬季には、西日本トップクラスのウインターリゾート地として、市内10 のスキー場数を誇ります。平成27年(2015)12月に、郡上市を含む長良川上・中流域の「清流長良川の鮎」が世界農業遺産に認定されるなど、お国自慢は尽きません。

千葉氏や妙見とのつながり

薪能会場となる妙建神社

千葉常胤の息子「千葉六党」の6男・胤頼は、下総国東庄(千葉県東庄町)を領し、東を名乗りました。胤頼の孫にあたる胤行は、承久の乱の功績により美濃国郡上郡山田庄(岐阜県郡上市)を与えられたとされ、東氏は下総国東庄と美濃国郡上郡の二つに分かれました。
郡上東氏は代々和歌に優れており、中でも室町時代の9代目・東常縁は、当代きっての歌学者で、古今和歌集の解釈を秘伝する「古今伝授」の形式を整え、「古今伝授の祖」といわれました。

永禄2(1559)年、郡上東氏は一門の遠藤氏に城を追われ、三百余年の歴史に幕を閉じました。
現在、郡上東氏の居館跡「東氏館跡庭園」(国名勝)一帯は、東氏記念館、和歌文学館などを配した「古今伝授の里フィールドミュージアム」として整備され、和歌・短歌のまちづくりの拠点となっています。

郡上市のホームページへ

小城市

まちの概要

須賀神社

小城市は、佐賀県のほぼ中央部にあり県庁所在地・佐賀市に隣接しています。福岡市へ70キ口、長崎市へは100キロの距離にあります。地勢的には、北部に天山山系がそびえ、中央部には肥沃な佐賀平野が開けています。南部にはクリーク地帯が広がり、日本一の干潟・有明海に面しています。天山山系に源を発する祇園川・晴気川・牛津川は平野部を潤し、嘉瀬川および六角川に合流し、有明海へと注いでいます。

気候は、夏は高温多湿でやや蒸し暑く、冬は乾燥した北西の季節風(天山おろし)が強いのが特徴で、天山県立自然公園、ムツゴロウ・シオマネキ保護区に代表される貴重で豊かな自然資源を有しています。小城市の面積は、95.81平方キロメートルで県土の3.93パーセントを占めています。
平成30年3月には市内に長崎自動車道の小城スマートインターチェンジが開通、4月に西九州大学看護学部が開学しました。

千葉氏や妙見とのつながり

千葉城跡

鎌倉時代後期に下向し、小城を拠点とした千葉氏は室町、戦国時代に肥前国の中枢部に勢力を及ぼしました。朝鮮国で15世紀に著された『海東諸国紀』によると当時小城には民居一千二百余戸、正兵五百を擁するなど千葉氏の拠点として北部九州を代表する都市であったことがわかります。現在も市内には千葉氏の城館跡、寺社、仏像、歴史資料が伝わり、繁栄した千葉氏の歴史・文化を知ることができます。
妙見信仰とのつながりでは千葉氏の居城である千葉城の北にある北浦妙見社や晴気城の東にある西晴気妙見社など妙見信仰にまつわる寺社、宝剣、古文書が確認でき、千葉氏の精神的支柱であった妙見信仰が小城の地に根付いていたことがうかがえます。

小城市のホームページへ

千葉市

まちの概要

千葉市は、千葉県のほぼ中央部に位笛する県庁所在地であり、人口約97万人の政令指定都市です。東京都心部まで約40kmの地点にあり、県内の幹線道路や鉄道の結節点となっています。

中央区・花見川区・稲毛区・若葉区・緑区・美浜区の6区からなり、面積は約270平方キロメートルあり、温暖な気候と肥沃な土地、豊かな緑と水辺など自然環境に大変恵まれています。

また、千葉市は幕張メッセなどの国際交流拠点を抱えるとともに、日本最大級の「加曽利貝塚」や、世界最古の花といわれ、市の花にもなっている「オオガハス」、平安時代後期に都市としての礎を築いた「千葉氏」、日本初・日本最長の総延長を誇る人口海浜を有する「海辺」など、歴史的にも地理的にも素晴らしい地域資源を持つ都市です。

千葉氏とのつながり

千葉介常胤像

千葉市の都市としての起源は、桓武平氏・高望王の子孫である平常重が、大治元(1126)年に現在の千葉市中央区亥鼻付近に本拠を置いたことに始まると言われています。
常重の子常胤は、平家打倒の兵を挙げた源頼朝が、石橋山の合戦に敗れ、房総に逃げてきた際に、真っ先にこれをたすけて、鎌倉幕府成立に大きな貢献をした人物としてよく知られています。

常胤は、治承・寿永の乱(源平合戦)や奥州合戦で多くの功績を挙げて、北は東北地方から南は九州地方まで多くの所領を獲得し、千葉氏は鎌倉幕府の有力な御家人となりました。
常胤の6人の息子たちは、「千葉六党」と言われ、常胤が獲得した所領をそれぞれが引き継ぎ、その中心となる地名を名乗りました。

千葉市のホームページへ

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?