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更新日:2020年3月27日

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千葉氏ゆかりの史跡・文化財

各地に残る千葉氏ゆかりの史跡や文化財等をご紹介します。

千葉常胤ゆかりの地1.(千葉市内)

千葉常胤は、千葉常重を父に、常陸平氏の一族である豊田政幹の娘を母として、元永元年(1118)5月24日に生まれました。

大治元年(1126)、常重が本拠を上総国大椎(今の千葉市緑区大椎町)から千葉へ移すと、当時8歳の常胤も千葉に移り住んだと考えられています。常重が名字の地とした千葉庄は、これとほぼ同時期に鳥羽天皇の皇女八条院に寄進され成立したとみられています。千葉庄は下総国内では最大級の荘園で、陸海の交通の拠点でもありました。

常重の所領は千葉庄のほか、両総平氏の族長である平常晴の養子となり獲得した相馬郡(今の茨城県守谷市や千葉県我孫子市などの地域)、立花郷(今の香取市、香取郡東庄町)、麻績郷(今の香取市)などでした。

保延元年(1135)、常重は家督を常胤に譲りました。

(1)大椎城跡(千葉市緑区大椎町)

常胤の父常重が大治元年(1126)に千葉に移るまでの居城とされています。土塁・堀がクランク状になるなど戦国期の城郭の特徴をもっていることから、前代の状況は不明ながら、現況では、土気酒井氏が本拠である土気城の支城として16世紀半ば以降に築いたものではないかと考えられています。

(2)猪鼻城跡(千葉市中央区亥鼻)

鎌倉時代に著された『源平闘諍録』には、千葉氏の本拠として「重代相伝ノ堀内」としての「千葉館」について記載されています。南北朝時代までの武士の館は低地上にあるのが一般的とされていますが、有事の際には、この亥鼻台地が立て籠もるための「詰めの城」として機能したとも考えられます。
いまのところ、千葉氏の館の所在地は明確になっておりませんが、かつて方形の堀・土塁に囲まれて「御殿跡」と呼ばれた現千葉地方裁判所の場所を比定地の一つとする説もあります。

(3)千葉神社(千葉市中央区院内)

常重が大治元年(1126)大椎より千葉に居館を移したとき、先祖より伝わる妙見菩薩をこの地に運び、妙見宮を建立したと伝えられています。一説には、治承4年(1180)、源頼朝が鎌倉へ向かう途中、常胤やその一族とともに参詣したともいわれています。千葉氏が各地の所領に移住する際、館や城の近くには必ず同社から勧請した妙見宮を建てて祀っていました。

相馬御厨をめぐる角逐と源義朝との関わり

千葉常重は、大治5年(1130)に相馬郡内の所領を伊勢神宮に寄進して相馬御厨を成立させ、この永代下司権(荘園管理の権利)を獲得しました。

千葉常胤が家督を継承した翌年の保延2年(1136)、下総国国司の藤原親通は、公田官物の未進(税金の滞納)を理由に常重を捕え、常胤の所領の相馬御厨と立花郷(後の橘庄)の割譲を要求してきました。

同時に、この事件を知った源義朝も相馬御厨の割譲を常胤に要求してきます。常胤は一旦相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、のちに滞納分を弁済して相馬郡司に任命されました。また義朝に対しては、主従関係を結ぶことで、御厨の下司権を確保しました。

しかし、平治の乱(1159)で義朝が平清盛に敗れると、この所領は朝廷に没収されてしまいました。こうして常胤は継承した相馬御厨と立花郷の権利を全て失うこととなり、20年余りにわたる努力は無駄になってしまいました。

(1)千葉常胤家督相続時の主な所領

常胤の所領地図

(2)蛟蝄神社(茨城県北相馬郡利根町)

御厨とは皇室や伊勢神宮、賀茂神社などの有力な神社の荘園を指します。相馬御厨は、伊勢神宮の荘園として下総国相馬郡に設置されました。その範囲は、同郡のほぼ全域,すなわち、今の茨城県守谷市・取手市・北相馬郡から千葉県我孫子市・柏市・流山市周辺にわたる広大なものでした。
蛟蝄神社は延喜式内社とされる古社で、この周辺地帯が相馬御厨の東の境と考えられています。

房総に上陸した源頼朝と千葉常胤との出会い

治承4年(1180)8月、源義朝の子、頼朝が伊豆で挙兵し、平家方との戦いに敗れて安房国に逃れてくると、頼朝は房総の武士に加勢を求めました。千葉常胤は、いち早く味方する意向を示しました。平家政権下では没収された相馬御厨と立花郷の回復が困難なこと、千葉氏の先祖である平忠常の反乱を頼朝の先祖の源頼信が鎮めて以後、千葉氏一族が源氏の戦いに参加することも多く、常胤自身も保元の乱で源義朝とともに戦ったことから、頼朝に味方することを決意したと考えられます。

常胤は下総国の目代※を攻撃し、千葉に侵攻してきた平家方の藤原親政と合戦し(結城浜の戦い)勝利します。常胤ら両総平氏が頼朝に味方することにより、周辺の武士団も同調しました。

※国司が現地に赴任しない時に、その代理として政務を司る代官

(1)源頼朝と千葉常胤の進軍図

房総半島地図

(2)君待橋(千葉氏中央区港町)

君待橋の名は、一説には治承4年(1180)9月、常胤が一族郎党を引き連れ源頼朝をこの橋で迎えたことに由来するとされています。
君待橋は、今の都川にではなく、この石碑が立っている近辺の小川にかかっていた橋でしたが、現在は暗渠となっているため橋はありません。

(3)お茶ノ水(千葉市中央区市場町)

猪鼻城跡のふもとにあるお茶の水は、常胤がこの泉から湧き出る水でたてたお茶を頼朝に勧めたことに由来しています。ただし、当時はまだお茶が普及していなかったので、湧水を差し出したのではないかともいわれています。

(4)下総総社跡(千葉県市川市)

『吾妻鏡』には、上総国から下総国に向かった頼朝が下総国府で常胤と合流したと記されています。下総国府の正確な所在地は明らかになっておりません。国を治める国守の任務の中に、国内にある神社を毎年巡拝して奉幣祭祀するというものがありましたが、各神社を巡ることが大変なことから、国府の近くに諸社のご神体を合祀し巡拝を簡略化しました。この斎場が総社または六所神社であるといわれています。

鎌倉における千葉常胤ゆかりの地

千葉常胤は、頼朝に対して鎌倉に本拠を構えることを進言します。この進言が武家の都としての鎌倉が栄えるきっかけとなりました。

常胤は鎌倉でも様々な活動をしています。治承5年(1181)、頼朝が鎌倉に入って初めての元日の「垸飯※1」を献上しました。年始の垸飯を担当することは、御家人を代表して祝意を表すことで、大変な名誉とされています。また寿永元年(1182)8月には、頼朝の嫡男源頼家の誕生に際して、常胤と六人の息子達が頼朝から「七夜の儀※2」を任されています。これらの大事な儀式を任されるほど、常胤は頼朝から信頼を得ていました。

※1 慶賀の時に、御家人(ごけにん)が将軍に祝膳や馬・太刀などを献上する儀式
※2 子どもが生まれてから7日目の夜に行われる祝いの儀式

(1)弁谷の碑(神奈川県鎌倉市)

常胤の館跡と伝えられています。常胤の官職とされる下総介の「介※」の唐名「別駕」から、彼が住んだ谷部分を「別駕谷」とよび、それが「弁谷」に転化したとされています。
この弁谷以外にも鎌倉市役所の北側にある御成町は千葉地ともいわれ、常胤の館があったと伝えられています。また、千葉地の近くには、常胤次男相馬師常の館跡と伝えられる巽神社があります。
※古代から中世の地方行政単位である国の行政官国司の次官

御成町(神奈川県鎌倉市)

巽神社(神奈川県鎌倉市)

(2)蓮乗院(神奈川県鎌倉市)

はじめは蓮乗寺といいましたが、光明寺がこの地に移転してきたことに伴いその子院となったため、蓮乗院に名を改めました。本尊の阿弥陀如来立像は寄木造の像で、『相模国風土記稿』には、この阿弥陀如来立像は常胤の守護仏とされています。

源平合戦での転戦と西国の所領獲得

元暦元年(1184)、源頼朝は平家追討の兵を挙げます。千葉常胤は、頼朝の弟、源範頼の軍に属して西国を転戦しました。

文治元年(1185)、頼朝は平家追討中の常胤を気遣い、範頼宛ての書状に「千葉介(常胤)は特に戦でも高名を得た者であるから、大事になさるように」との一文を送ったことが『吾妻鏡』に記されています。

常胤は壇ノ浦の戦いでの平家の滅亡後も、九州に留まって戦後処理にあたりました。その結果、豊前国上毛郡成恒名(今の福岡県築上郡上毛町)、肥前国小城郡(今の佐賀県小城市)、薩摩国島津庄寄郡(今の鹿児島県薩摩川内市)内の五つの郡、大隅国菱刈郡入山村(今の鹿児島県伊佐市)に所領を得ました。

(1)源平合戦地図

源平合戦図

(2)九州における千葉常胤の所領

九州常胤所領

(3)小城郡(佐賀県小城市)(写真提供小城市教育委員会文化課)

肥前国小城郡は、常胤が源平合戦の功績により得た所領です。鎌倉時代にモンゴルの襲来(元寇)に対応するため、常胤の5代後の千葉頼胤とその子宗胤は九州へ出兵しました。頼胤はこの時の戦傷により小城で没し、宗胤もそのまま九州に留まったため、弟の胤宗が本家を継ぎました。これ以降、千葉氏は下総と肥前の千葉氏に分裂します。

小城に本拠を置いた肥前千葉氏は、室町時代に全盛期を迎えますが、周辺勢力との抗争や内紛により次第に衰え、戦国時代には東西に分裂、江戸時代には佐賀藩の家臣となりました。 

奥州への出陣とさらなる所領の拡大

文治5年(1189)、源頼朝は源義経をかくまったことを理由に、奥州平泉の藤原氏を攻撃します。その際、頼朝の軍勢は、白河関を抜けて進む大手軍、常陸国から勿来関を抜けて進む太平洋沿岸を進む東海道軍、上野国から越後国を経て念珠関を抜けて出羽国に進む北陸道軍の3軍に分けられました。

千葉常胤は、八田知家とともに東海道大将軍として出陣しました。東海道軍は多賀城で大手軍と合流し平泉に進軍します。平泉を逃れた当主の藤原泰衡は家臣に討たれ、ここに藤原清衡以来、平泉の地に100年の栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡しました(奥州合戦)。

千葉氏は、この功績により、新たに陸奥国好島庄(今の福島県いわき市)・行方郡(今の南相馬市周辺)・亘理郡(今の宮城県)・高城保(今の宮城県松島町周辺)などを得ました。

(1)奥州合戦進軍図

奥州進軍図

(2)平泉(岩手県西磐井郡平泉町)(写真提供手県教育委員会生涯学習文化財課)

奥州藤原氏の本拠。永保3年(1083)に始まる後三年の役後、藤原清衡が陸奥国江刺郡豊田館(今の岩手県奥州市)から移拠して以来、約1世紀の間、奥州藤原氏の拠点として繁栄しました。柳之御所跡は、中世都市の原型を示す貴重な遺跡であり、3代秀衡時代の政庁跡と考えられています。平成23年(2011)、中尊寺金色堂や毛越寺などが「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の名で、世界遺産に登録されました。

(3)源氏の白旗(復元)

『吾妻鏡』によると、文治5年(1189)6月24日、頼朝は義経をかくまったことを理由に奥州藤原氏への攻撃を決意すると、常胤に御旗一流を調進するように命じました。常胤は、同年7月8日に、新調の御旗を頼朝に献じました。 旗は頼朝の先祖の源頼義が、永承6年(1051)に始まる前九年の役で使った御旗の寸法に合わせたもので、一丈二尺(約363cm)二幅、白糸の縫物があり、上に伊勢大神宮・八幡大菩薩、下に相対した鳩二羽が縫いこまれていたとされています。

(4)東北における千葉常胤の所領

東北常胤所領

千葉常胤ゆかりの地2(千葉市内)

千葉常胤は源平合戦・奥州合戦での功績により、朝廷に没収された相馬御厨と立花郷(橘庄)を取り戻した他、下総・上総の2か国をはじめ、東北地方、九州地方などに全国で20数か所といわれる広大な所領を得ました。その結果、千葉氏は東国の一豪族から、鎌倉幕府の中でも屈指の有力御家人に成長しました。常胤の所領は「千葉六党」と称された6人の息子が分割して受け継ぎ、一族は全国に広がっていきました。

常胤は建仁元年(1201)3月24日、当時としては異例の長寿である84歳で没しました。

常胤以降の千葉氏の多くが、「胤」の字を通字として自らの名前に受け継いでいきましたが、これは千葉氏が一族の繁栄の礎を築いた功績から、常胤を中興の祖として仰いでいるからです。

(1)紅嶽弁財天(千葉市若葉区みつわ台)

伝承によると常胤は、あつく神仏を敬い、子孫の長久繁栄と福寿円満を祈願していました。ある夜、夢枕に弁財天が現れたことに感激し、嘉応2年(1170)鎌倉の弁ヶ谷弁財天をこの地に移したといわれています。

(2)千葉山(千葉市稲毛区園生町)

この地は千葉氏累代の墓地であったと伝えられています。江戸時代の「千葉大系図」には、常胤について「下総国千葉山に葬る」とあります。明治39年(1906)の安川辰蔵氏の調査によると、南北約180mの直線状に大小13基の塚が並んでいたことが確認されています。このうち現存するものは、大型の塚(星宮塚)1基と小型の塚4基です。なお、この塚の上に大日寺の五輪塔が建てられていたと伝えられています。

(3)大日寺(千葉市稲毛区轟町)

寺伝に、天平宝字元年(757)に創建と伝えられる古刹です。第二次大戦後今の稲毛区轟町に移転するまでは、千葉神社の南、今の通町公園にありました。境内には16基の五輪塔があります。これは常胤の祖父の平常兼から室町時代の当主千葉胤直、胤将父子までの千葉氏歴代の墓碑といわれています。

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