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更新日:2020年3月18日

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千葉氏入門Q&A

千葉氏のここが知りたいにお答えします。

Q1 千葉氏ってなに?

A1 千葉氏は、平安時代の末に千葉の町の礎を築き、戦国時代まで現在の千葉市一帯を 支配した武士団です。

千葉氏は、平安時代の終わり(12世紀)から戦国時代(16世紀)まで下総国(今の千葉県北部等。国とは今の県にあたります。)を支配した武士の一族です。

桓武天皇のひ孫の高望王は「平」の姓を与えられて桓武平氏の祖となりました。高望の子平良文の子孫で、上総国(今の千葉県中部)・下総国に勢力を伸ばしたのが「両総平氏」ですが、その中で下総国千葉郡の地域を開発して「千葉庄」という荘園(皇族や貴族の持つ私有地)を立て、千葉を名字として名乗ったのが千葉氏です。千葉氏は荘園を支配する一方、下総国の国府(国の役所)にも仕え、国司(国府の役人)のナンバー3に当たる権介の地位に就いていました。

千葉常胤は、反平家の兵を挙げた源頼朝を助けて鎌倉幕府の成立に大きく貢献し、有力な御家人(将軍に仕えた武士)となりました。下総国の守護(国の軍事権と警察権を持つ役職)にも任じられ、房総半島のみならず北は東北地方から南は九州地方まで日本列島各地にたくさんの領地を持っていました。このため、千葉氏の一族は全国各地に広がったのです。

千葉氏は南北朝時代、室町時代に一族の間の争いがしばしばありましたが、関東の大名(広い領地を持ち多数の家来を持つ有力武士)として勢力を持っていました。戦国時代を迎えると、安房国(今の千葉県南部)の里見氏等と対抗するため、小田原(今の神奈川県小田原市)を拠点とする北条氏と結びつきを強めますが、次第にその支配下に組み込まれていきました。そして、北条氏が豊臣秀吉に敗れると、ともに滅亡しました。

Q2 千葉氏がこの地にやって来た当時の武士って、どんな暮らし?

A2 当時の武士は馬に乗って戦うだけでなく、農地の経営やボディーガード、役所勤め等様々な役割を果していました。

当時の武士は道路や河川、海等に面した交通の便利な場所に館(屋敷)を置いていました。館は、板葺屋根の複数の建物からなり、その周りを堀や土塁で囲み、門を設け柵をめぐらす等、敵を防ぐ備えがありました。馬術や流鏑馬(やぶさめ)を練習するため、馬場も設けられていました。

武士は戦いのプロであり、特に騎兵として弓術と馬術に熟練することが重視されていたためです。

千葉氏等の有力な武士の子弟は、都へ出て「侍」として皇族や上級貴族に仕えました。

また、京都から派遣された国司のもとで、在庁官人として軍事・警察等の行政を分担して行いました。このように、武士は国家権力や貴族と結び付きました。一方で、農民を呼び集め、新たな耕地を開拓したり、荒れ果てた耕地を復興したりして領地としました。武士は農業経営者でもあったのです。

武士は平家や源氏の有力者を「武家の棟梁」と仰ぎ、仕えるとともに保護を受けました。千葉氏は源氏を棟梁としていました。常胤が源義朝に従って保元の乱(1156)に参加し、その子の頼朝の挙兵に応じたのもこのような関係が背景にありました。

また、武士は近隣の武士と婚姻関係を結びました。常胤の父千葉常重の妻は常陸国(今の茨城県)の豊田政幹の娘であり、常胤の妻は武蔵国(今の埼玉県・東京都)の秩父重弘の娘です。こうして武士が力を持つとともに「兵の道」「武家のならい」と言われる武士の道徳が作られていきました。

Q3 千葉氏の家紋はどんなかたち?

A3 千葉氏の家紋は、守護神妙見に由来する月星紋・九曜紋です。

武士は、「家紋」と呼ばれる家を表すマークを持ち、旗等に付けていました。家紋は武士の家を象徴するものとして、その出身や血統、家柄を表します。

千葉氏の家紋は、三日月と星一つをあしらった「月星紋」や、星の周りに星八つを置いた「九曜紋」等でした。この他にも、「九曜紋」の真ん中が三日月であるものや、星が九つある「十曜紋」等もあります。これらは月や星といった天体をかたどったものです。天体は光を与え、満ち欠けを繰り返すという、霊力を備えた不思議な存在として信仰の対象でした。

千葉氏は北極星や北斗七星を神とした妙見(みょうけん)を信仰していたため、「月星紋」や「九曜紋」を家紋として用いたのです。

今も妙見をまつる千葉神社をはじめ、千葉氏ゆかりの神社やお寺で「月星紋」や「九曜紋」を見ることができます。千葉一族の子孫と伝えられる家もこれらの紋を家紋としています。

現在の千葉市の市章にも、千葉氏の月星紋を基にしたデザインが採用されています。

Q4 平将門は千葉氏と何か関係があったの?

A4 千葉氏は東国の英雄平将門との関係を大切にしました。

平将門の先祖は、平安京(今の京都の元になった都)を造った桓武天皇です。桓武天皇の子の葛原親王の孫、つまり、桓武天皇からはひ孫になる高望王が「平」という氏の名をもらい、平高望として皇族の身分を離れたのです。高望は上総国(今の千葉県中部)の国司のナンバー2である上総介になって関東にやって来ます。国司の任期が終わっても都に帰らずに、子どもたちと一緒に関東に留まりました。高望の子の中では平国香、平良兼、平良将、平良文がよく知られた名前です。将門は良将の子であり、千葉氏は良文の子孫ですから直接の関係はないのですが、『源平闘諍録』という鎌倉時代に書かれた書物では良文は将門の養子になったとされ、戦国時代の『千葉妙見大縁起絵巻』では良文と将門は一緒に国香と戦ったとされています。また千葉氏の一族相馬氏の系図には将門を祖としたものがあります。将門は国家への反逆者ですが、それ以上に関東の英雄で強い武将というイメージができ上がっていました。千葉氏は同じ桓武平氏として、将門との関係を大切にしたのです。

Q5 千葉氏はなんで千葉に移ってきたの?

A5 千葉が農業に適した土地で、交通の要地であったからだと考えられています。

千葉氏の祖先の良文は別名村岡五郎と呼ばれ、村岡(相模国村岡郷(今の神奈川県藤沢市)や武蔵国村岡郷(今の埼玉県熊谷市)等諸説あります)に住んでいましたが、その後下総国相馬郡(今の茨城県取手市・守谷市、千葉県柏市・流山市・我孫子市等)等に移ったといいます。子孫の平忠常は上総国大椎(今の千葉市緑区)、平常将は千葉、平常永は下総国大友(今の千葉県東庄町)、平常兼は大椎を本拠にしたといわれます。大治元年(1126)、千葉常重の代に千葉を本拠にしましたが、それまであちこちと移動することが多かったようです。千葉を本拠にしたのは、ここが農業を営むのに適していたこと、水陸交通の要地であること等魅力的な土地であったためと思われます。

古代の東海道は、相模国(今の神奈川県)の三浦半島から東京湾を渡り、上総国の富津岬近辺に上陸して下総国を通り、北の常陸国(今の茨城県)を結んでいました。東海道から下総国府、武蔵国(今の埼玉県・東京都)へ至る道は千葉付近で分れていました。千葉の前の本拠とされる大椎は、下総国と上総国(今の千葉県北部と南部)との境に位置し、太平洋へ通じる街道の近くにあります。東京湾は水上交通も盛んで、千葉はその港として利用することができました。千葉は広い平地は少ないですが小さな谷津田が幾つもあり、用水技術が整う前にはこのような谷津田の方が水を引きやすく農業には適していました。このように高い生産力に恵まれた千葉庄(ちばのしょう)は下総国内で最も大きな荘園になりました。

Q6 平氏である千葉常胤はどうして源氏に味方したの?

A6 「恩こそ主よ!」武士は血縁関係よりも自分の領地を保証してくれる者に味方しました。

当時の武士にとって、自分が支配する領地を守るとともに、機会があれば領地を広げていくことは、その一族の繁栄につながる重要なことでした。領地が他者に侵入された時も、今のように政府が領地を保証し守ってくれる時代ではありませんでしたから、自分自身で武器を取って戦うことで、土地や家族、自分たちの安全を守るしかありませんでした。武士にとって、自分の領地は「一所懸命」の地だったのです。

そういう時に所有する土地の権利を認め保証をしてくれる人物がいれば、その人を棟梁」と仰いで仕えました。自分の領地の権利を保証してくれる「御恩」に対して、棟梁の命令に従って戦いに行くこと、つまり「奉公」をしました。このように「御恩」と「奉公」によって結ばれる制度を封建制度といいます。

千葉常胤が棟梁に選んだのは源義朝やその子の源頼朝であったので、平氏とか源氏という氏(血縁関係にある同族集団のこと)にこだわる事はありませんでした。また、同じ桓武平氏でありながら、千葉氏等の良文流と平清盛に代表される平家とは対立関係にありました。

Q7 正式には「千葉介常胤」っていうの?

A7 名字+介の名乗りは、代々国府で高い地位を受け継ぐ武士の証でした。

千葉氏は、領地を支配するとともに、下総国の国府(今の千葉県市川市国府台にありました。)に勤め、京から派遣された国司のナンバー1の下総守、ナンバー2の下総介のもとで、ナンバー3にあたる下総権介という職に代々就いていました。「介」とは「守」を補佐するという意味で、「権」とは定員外という意味です。千葉氏の当主は「千葉介」と名乗りましたが、それは、「千葉氏」が務める「下総権介」という意味です。

先祖代々下総国に住んでいた千葉氏は、現地の事情を詳しく知っていたことから、都から来た国司にはできない国内の様々な実務の仕事をこなしていました。具体的には、武力を背景に今の警察のように治安の維持や、税務署のように税の徴収等を行っていたと思われます。

なお、千葉氏以外にも当時の力ある武士も、国府に役人として仕え、様々な実務を担当していました。上総国の武士上総氏が「上総介」、相模国の武士三浦氏が「三浦介」、下野国(今の栃木県)の武士小山氏が「下野大掾」と称されたのも、彼らが千葉氏と同じく国府の役人であったからです。

Q8 源頼朝に「父と思う」とまで信頼された千葉常胤。どんなことをした人なの?

A8 千葉常胤は源頼朝の復活と飛躍の立役者として、誠心誠意頼朝に仕えました。

治承4年(1180)8月、伊豆国(今の静岡県の伊豆半島部分)で挙兵した源頼朝が平家軍に敗れ、安房国(今の千葉県南部)に逃れてきた時、ただちに味方になったのは千葉常胤です。そのことが頼朝を感激させたものとみられます。この時、常胤は千葉氏の当主でしたが、当時の千葉氏は平家方に圧迫されていて、その領地の多くを奪われていましたから、これを跳ね返す機会と思ったのでしょう。頼朝の勢力確立のために働き、頼朝が武蔵国(今の埼玉県・東京都)を経て鎌倉(今の神奈川県鎌倉市)を本拠とする事を支えました。なお、鎌倉を本拠とすることは常胤の強い勧めがあったといわれています。

常胤はその後頼朝から本領を安堵され信任を得ます。常胤も70歳近い高齢にもかかわらず、頼朝の期待に応えて、木曽義仲や平家、奥州藤原氏との合戦で京都や九州、東北まで遠征し、北は東北地方から南は九州まで広大な領地を与えられました。また、鎌倉においても新年の宴席や、頼朝長男の源頼家の出産祝い等の重要な儀式を取り仕切りました。こうして常胤が戦や儀式をとおして貢献していくことで、頼朝からさらなる信頼を得て、有力御家人の地位を確かなものにしたのです。

Q9千葉常胤はどこに領地をもらったの?

A9 千葉氏の領地は、下総国を越えて、北は東北から南は九州まで全国に広がりました。

武士が元々持っていた領地を「本領」といいます。千葉氏の場合、下総国(今の千葉県 北部等)の千葉庄(今の千葉市)の他、相馬御厨(今の茨城県取手市・守谷市、千葉県柏市・流山市・我孫子市等。御厨とは伊勢神宮等の大きな神社の荘園のこと)、東庄(今の千葉県東庄町)でした。

常胤は頼朝の命令で平家との戦いに出陣します。平家の滅亡後に、その恩賞(褒美)として、九州の肥前国小城郡(今の佐賀県小城市)、豊前国上毛郡(今の福岡県上毛町)、薩摩国島津庄内・入来院・祁答院・大隅国菱刈郡入山村(今の鹿児島県薩摩川内市・伊佐市ほか)等の領地を与えられました。奥州藤原氏との戦いでは、常胤は東海道大将軍として多くの御家人を率いて参加しましたが、奥州藤原氏の滅亡後に、陸奥国好島庄(今の福島県いわき市)、行方郡・宇多郡・伊具郡(今の福島県相馬市・南相馬市)・亘理郡(今の宮城県亘理郡)、高城保(今の宮城県松島町周辺)を頼朝から与えられました。

常胤の活躍により、千葉氏の領地は本領の下総国の領地以外に、北は東北から南は九州まで全国に広がったのです。

Q10 千葉常胤の死後、それらの領地はどうなったの?

A10 千葉常胤が広げた千葉氏の広大な領地は、息子たちに分割して受け継がれました。

常胤は建仁元年(1201)に84歳で亡くなりましたが、子孫は、千葉氏を有力御家人に発展させた功績をたたえて、代々自分たちの名前に、常胤の「胤」の字を受け継ぎました(これを「通字」といいます)。

当時の相続は、分割相続といい、親の領地を息子や娘が分割して相続しました。そのため、常胤の死後に千葉氏の広大な領地は、長男の千葉胤正をはじめとする6人の息子(彼らは「千葉六党」と呼ばれました)たちが分割して相続し、それぞれ武士団として発展しました。

  • 長男千葉胤正の領地:千葉庄、千田庄(今の千葉県多古町)、肥前国小城郡
  • 次男相馬師常の領地:下総国相馬御厨、陸奥国行方郡・宇多郡等
  • 三男武石胤盛の領地:下総国千葉郡武石郷(今の千葉市花見川区)、陸奥国亘理郡、 伊具郡等 
  • 四男大須賀胤信の領地:下総国香取郡大須賀保(今の千葉県成田市)、陸奥国好島庄等
  • 五男国分胤通の領地:下総国葛飾郡国分郷(今の千葉県市川市)、香取郡大戸庄(今の千葉県香取市・成田市)等
  • 六男東胤頼の領地:下総国香取郡東庄(今の千葉県香取市・香取郡東庄町)、三崎庄 (今の千葉県銚子市・旭市)等

Q11 千葉氏はどうして北条氏に滅ぼされなかったの?

A11 北条氏との密接な関係により、千葉氏は生き残りました。

鎌倉幕府の初代将軍となった頼朝の死後、その妻で2代将軍源頼家・3代将軍源実朝の母北条政子と、政子の父北条時政等の北条氏が執権(将軍を補佐する役職)となって勢力を強め、ライバルの比企能員、畠山重忠、和田義盛等の有力御家人を滅ぼしていきました。

一方、千葉氏は北条氏に滅ぼされることなく、鎌倉時代の間、有力御家人としての地位を守り抜きます。本拠地の下総国における千葉氏の支配が強固であったこと、北条氏と婚姻関係を結んだこと、北条氏のライバル打倒に協力することで千葉氏が北条氏に従う姿勢を示したことが、その理由と考えられています。

ただし、千葉氏一族も全くの無傷であったわけではありません。当時の千葉氏では、上総国(今の千葉県中部)に本拠を置き「上総千葉氏」と呼ばれた千葉常秀・秀胤親子が勢力を伸ばしていました。秀胤は、千葉氏ではじめて幕府の最高政務機関「評定衆」の一員に選ばれてその勢力を強めますが、執権北条時頼がライバルの三浦泰村を滅ぼした宝治合戦(1247)の後に、秀胤の妻が泰村の妹であったため、北条氏に滅ぼされました。この時、秀胤の領地の多くが北条氏に奪われ、千葉氏の勢力は大きく低下しました。

このような状況の中、下総の千葉氏本家は、当主千葉頼胤のもとで、この危機を乗り切りました。

Q12 元寇のとき千葉氏も出陣したの?

A12 千葉氏も元寇(モンゴル(元)との戦い)に参加しましたが、このことが肥前(九州)千葉氏成立の原因になりました。

日本とモンゴル(元)との関係が悪化し、戦いが迫る中、文永8年(1271)、鎌倉幕府はモンゴル軍の襲来に備えて、九州に領地を持つ東国の御家人に九州に向うよう命令しました。千葉氏も肥前国小城郡(今の佐賀県小城市)に領地を持っていたことから、当主の千葉頼胤が九州に派遣されることとなりました。文永11年(1274)、モンゴル軍が博多湾沿岸を襲う(文永の役)と、頼胤も戦闘に参加しました。ところが頼胤は戦いで負った傷が原因で、37歳の生涯を閉じました。その後任として、長男の千葉宗胤が父に代わって九州に派遣され、博多の警備に加わりました。宗胤は九州で新たな領地をあたえられ、また大隅国(今の鹿児島県東部)の守護という高い地位を与えられますが、現地への赴任が長引く中で、本拠地の下総(しもうさ)国(のくに)に残った弟の千葉胤宗が、実質的に当主の地位を継ぐことになりました。

九州に残った本来の本家である宗胤と、兄宗胤の代わりに下総の本領を受け継いだ弟の胤宗は、その子どもの代に千葉氏の当主の地位を巡って争うことになります。元寇(モンゴルの襲来)は、千葉氏の内紛の遠因となったのです。

Q13 鎌倉幕府が滅亡したとき、千葉氏はどうなったの?

A13 千葉氏は鎌倉幕府の滅亡と南北朝の混乱を乗り切りましたが、一族が2つに分裂しました。

御家人は分割相続によって代を重ねるごとに領地が狭くなりました。また、モンゴル(元)との戦いの出費もあって、借金を重ねて生活が苦しくなり、領地を手放す者も現れました。

幕府は「徳政令」を出して御家人を救おうとしますが、御家人の生活は良くならなかったため、幕府は次第に御家人からの支持を失っていきました。

後鳥羽上皇が幕府を倒そうとして起こした承久の乱(1221)の敗北以後、幕府に抑えられていた京都の朝廷は、後醍醐天皇が幕府打倒に立ち上がりました。足利尊氏等有力御家人たちも次々と幕府を見限り、天皇に味方して幕府と戦いました。この時期の千葉氏当主の千葉貞胤も幕府に背き、上野国(今の群馬県)の御家人の新田義貞とともに鎌倉の攻撃に参加し、幕府と執権北条氏を滅亡させるため活躍しました。

幕府の滅亡後、貞胤はいとこの千葉胤貞と当主の座を巡って争いました。尊氏が後醍醐天皇に対抗して京都に新たに天皇を立て(北朝)、吉野(今の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇側(南朝)との間に戦いが始まりましたが、胤貞が尊氏に味方したことから、貞胤は尊氏のライバルとなった南朝方の義貞と行動をともにします。後に、貞胤は尊氏に降伏し北朝方となりました。これと同時期に胤貞が病死したことから、最終的には貞胤の千葉氏当主の地位が保証され、その子孫が下総の本家の地位を受け継ぎます。一方、胤貞の子孫は九州の小城に移りました。前者を下総千葉氏、後者を肥前(九州)千葉氏と呼び、千葉氏は関東と九州に分裂しました。

Q14 室町時代の千葉氏はどんな様子?

A14 関東屈指の有力大名として、鎌倉公方を支えて活躍しました。

千葉貞胤は室町幕府の初代将軍になった足利尊氏に重く用いられ、下総国(今の千葉県 北部等)に加えて伊賀国(今の三重県西部)や遠江国(今の静岡県西部)の守護になり ました。その子の千葉氏胤も尊氏のもとで活躍し、上総国(今の千葉県中部)の守護にもなりました。この頃、当主は幕府が置かれた京都にいることが多かったのですが、氏胤の子千葉満胤や孫の千葉兼胤の頃には、下総国の守護として千葉にいるほか、幕府が東国を支配するために置いた鎌倉府に仕えるため鎌倉にいました。満胤は幼くして当主となったため、一族や家臣が補佐しました。

鎌倉府のトップは室町将軍の一族である足利氏が就任し「鎌倉公方」と称され、尊氏の母の実家の家柄である上杉氏が「関東管領」として補佐していました。公方と管領の下には、財政を担当する政所等の様々な機関がありましたが、千葉氏は警察や裁判等を担当する侍所の長官として鎌倉府で重要な役割を占めました。なお、関東の大名たちの中で侍所の長官になれたのは千葉氏だけです。

ところが、次第に公方と管領が対立するようになり、千葉氏も両者の争いに巻き込まれていきます。しかし、上杉禅秀の乱(1416~1417)、永享の乱(1438)、結城合戦(1440)を乗り切り、戦国時代を迎えました。

Q15 香取神宮って千葉氏と関係あったの?

A15 千葉氏は香取神宮と対立することもあり、一方で神宮を厚く信仰した記録も残っています。

下総国の一の宮(一国内で最も格式の高い神社のこと)であった香取神宮(当時は「香取社」と呼ばれていました)は、国府と密接な結び付きを持ち、伊勢神宮と同じように20年に一度、社殿等を建て替えて御神体等を遷す式年遷宮が行われていました。下総国を代表する大名である千葉氏と葛西氏は、交代で遷宮の責任者を務めました。また、遷宮の費用は、下総国内の領主に割り当てられましたが、千葉氏とその一族も多く負担しています。

一方、千葉常胤の五男である国分胤通は地頭(幕府が荘園等を管理するために置いた役職)として香取地域に進出し、その子孫である国分氏は香取社の領地を侵略したり、神官の任命を行ったりしました。また、千葉氏当主の家臣たちも香取社領の侵略を進めました。 これに対して、応安7年(1374)には香取社側は神輿を鎌倉へ動かし、神の威光を背景に鎌倉府へ訴え出たのです。国分・大須賀・東等の千葉一族の協力によって香取社は領地を回復することができましたが、これ以降も千葉一族の香取社領への進出は続きました。その一方で、千葉氏とその一族の香取信仰は厚く、今も「香取文書」には千葉氏の文書が多く残されています。

Q16 千葉氏はいつまで千葉にいたの?

A16 千葉氏は15世紀末に本拠を千葉から本佐倉城へ移転しました。

鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠の関係が悪化すると、千葉氏の内部も公方側と管領側に分裂しました。公方側には満胤の子の馬加康胤や重臣の原胤房が付き、管領側には当主の千葉胤直や重臣の円城寺氏が属しました。享徳3年(1455)に成氏が憲忠を殺害し享徳の乱が起こると、関東地方は京都より十数年早く戦国時代に突入しましたが、翌年3月には康胤や胤房は千葉を攻撃しました。胤直たちは敗れ、名字の地である千葉を棄て、千田庄(今の千葉県多古町)に逃れましたが、8月には胤直や子の千葉宣胤等は自害し、千葉氏本家は滅亡しました。

胤房は康胤を新たな千葉氏当主として立てました。これが「馬加千葉氏」です。しかし、京都の幕府から上杉方を支援するため派遣された、千葉一族の東常縁によって康胤が討たれ、子の千葉胤持も早く亡くなりました。そこで、氏胤の子孫である岩橋輔胤が当主の地位を継ぎました。千葉氏はしばらく原氏の本拠地小弓(今の千葉市中央区)に近い平山(今の千葉市緑区)にいたようですが、輔胤もしくはその子の千葉孝胤の代には、本佐倉城(今の千葉県酒々井町・佐倉市)が築かれました。本佐倉の地が取り立てられたのは文明16年(1484)で、城下町が建設されたのは延徳2年(1490)のことといわれます。本佐倉の地は千葉氏が滅亡するまで本拠となりました。

Q17 千葉氏は戦国大名だったの?

A17 千葉氏は、鎌倉時代から続く名門で大きな勢力を持つ戦国大名でした。

戦国大名というと、「下剋上」を行って実力でのし上がった者というイメージがありますが、千葉氏は鎌倉時代以来下総国(今の千葉県北部等)の守護を受け継ぐ、関東を代表する名門大名でした。

千葉氏の一族や家臣は、「屋形様」と呼ばれた当主のもと、ナンバー2の「家宰」の地位を受け継ぐ原氏、「御一家」と呼ばれる当主の親戚たち、大須賀氏・国分氏等の千葉常胤の息子たちの子孫である「六党」、「御近習侍衆」や「国中諸侍衆」と呼ばれる家臣たち、千葉氏の家臣でありながら独自の権力に成長した高城氏・酒井氏等の外様の国衆によって、構成されていました。

千葉氏の領国(戦国大名の領地のこと)は、本城である本佐倉城(今の千葉県酒々井町・佐倉市)を中心とする地域、有力な支城であった森山城(今の千葉県香取市)を中心とする東総地域のほか、原氏や国衆の支配地域からなっていました。これは野田市や現在の茨城県域を除く下総国と、上総国の旧山武郡域にほぼ相当します。

千葉氏の兵力ですが、豊臣方の調査によると天正18年(1590)の段階では、当主の軍勢は3000騎にのぼりました。一方、「臼井衆」と呼ばれた原氏の軍勢は2500騎でした。千葉氏領国の総兵力は7250騎ですが、関東で最大の大名であった小田原北条氏を除いて、周辺の大名の中で千葉氏を超える兵力を持つ者はいませんでした。

Q18 千葉氏はどんな戦国大名と戦ったの?

A18 千葉氏VS太田道灌・小弓公方足利義明・安房里見氏・上杉謙信

武蔵国(今の埼玉県・東京都)に逃れた旧本家の血を引く武蔵千葉氏とこれを支援する太田道灌は、千葉孝胤を討つため下総国に軍を進め、文明10年(1478)には境根原(今の千葉県柏市)で孝胤を破りました。

上総国(今の千葉県中部)に勢力をもった上総武田氏や安房国(今の千葉県南部)の里見氏に擁立された足利義明は、原氏の本拠であった生実城(小弓城)(今の千葉市中央区)に入り、「小弓公方」と称されました。千葉氏は義明に対抗するため、相模国(今の神奈川県)の小田原北条氏に接近します。義明が天文7年(1538)に国府台(今の千葉県市川市)で北条氏綱に討たれると(第一次国府台合戦)、原氏が生実城に復帰しましたが、その後も生実や千葉はたびたび里見氏の侵攻を受けています。

また、里見氏の重臣正木氏は、永禄3年(1560)と天正3年(1575)の二度にわたって香取地域を攻撃しました。里見氏との争いの中で、千葉氏は北条氏への依存を強めていきます。里見義弘は永禄7年(1564)に北条氏康と戦い大敗しました(第二次国府台合戦)。窮地に陥った里見氏は越後国(今の新潟県)の上杉謙信に助けを求め、これに応じた謙信は、永禄9年(1566)、房総の北条方の中心人物であった原胤貞の臼井城(今の千葉県佐倉市)を攻めましたが、北条氏の援軍を得た原氏・千葉氏に敗退しました。

このように、千葉氏は小田原北条氏との連携を深め、周辺の反北条氏の勢力と戦っていたのです。

Q19 千葉氏はどうして滅亡したの?

A19 小田原北条氏の支配下になった千葉氏は、北条氏と運命を共にして滅亡しました。

小弓公方や安房の里見氏に対抗するため、千葉氏は小田原北条氏に接近し、千葉氏当主は北条氏と婚姻関係を結びました。千葉親胤の妻は氏康の娘であり、千葉邦胤は北条氏政の娘(芳桂院)を妻としています。さらに、天正13年(1585)に邦胤が家臣に殺害されると、氏政の息子が邦胤と芳桂院との間に生まれた娘と結婚し、千葉氏の当主を継ぐことになりました。これが千葉直重です。

直重の兄北条氏直に家督を譲って「御隠居様」と呼ばれていた氏政は、自ら佐倉に来て千葉氏領国の直接支配を行い、千葉家中の反北条派を従えました。こうして佐倉には北条氏の軍勢が置かれ、直重のもとには「佐倉御旗本」と呼ばれた直属部隊が組織され、千葉氏とその領国は北条氏の領国に完全に組み込まれたのです。千葉一族の武将は北条氏の命令で各地に派兵されるようになりました。

ところが、北条氏は全国統一を進める豊臣秀吉に服属しようとしなかったため、秀吉は天正18年(1590)に北条氏を攻めました。千葉氏とその一族家臣は、北条氏の動員命令に従って小田原城等の守りに就き、豊臣軍と戦いました。

しかし、北条氏が敗北すると、千葉氏や原氏をはじめとする一族も運命をともにし、大名としての千葉氏はここに滅亡しました。

Q20 千葉一族で江戸時代まで残った家はあるの?

A20 江戸300藩の中で、千葉氏系列の大名は相馬氏・遠藤氏の両家です。

千葉氏本家は戦国時代の終わりとともに滅びましたが、千葉氏一族で江戸時代に大名として生き残った家に、相馬氏、遠藤氏がいます。

相馬氏は千葉常胤の二男相馬師常を祖とします。相馬氏は奥州に移って発展し、伊達氏の侵攻を防いで領国を維持し、江戸時代には中村藩(今の福島県相馬市・南相馬市)6万石の大名となりました。この地は、「相馬野馬追」で有名ですが、現在まで続くかたちが確立したのは江戸時代のことです。

遠藤氏は常胤の六男の東胤頼を祖とします。美濃国郡上藩(今の岐阜県郡上市)を治めました。その後、跡継ぎがいないことを理由に一旦郡上藩は廃止されましたが、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉の側室の甥が遠藤胤親を名乗って遠藤氏を継ぎ、近江国三上藩(今の滋賀県野洲市)として再建されました。

当館が寄託をうけた「旧妙見寺文書(長國寺蔵)」には、妙見寺(今の千葉神社)の住職が隔年で江戸城へ年頭挨拶に赴いた際、遠藤家に祝儀・献上品を持参していた記録や、相馬家にも妙見寺が年頭の挨拶や祈祷をしていたという記録が残されています。

Q21 江戸時代には、千葉氏や家臣の子孫はどうしていたの?

A21 武士として幕府・大名に仕える者や、農民になる等の武士以外の道を歩む子孫もいました。

千葉氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、一族や家臣の中には江戸幕府や各藩に仕えた者もいました。原氏、高城氏、酒井氏は旗本として幕府に仕えました。当館が所蔵する「原文書」は、室町末期~安土桃山時代の千葉氏の状況を知ることができる貴重な史料ですが、これは越前福井藩に仕えた原氏に伝えられたものです。

武士をやめて農民になった者も多く、彼らは有力農民として村の役人や地域の指導者として活躍しました。佐倉藩の圧政に苦しむ農民を救うため、将軍に直訴して処刑されたという木内惣五郎(佐倉惣五郎)も千葉氏の一族と伝えられています。

下総国には小金牧・佐倉牧という幕府直轄の牧場が広がっていました。その牧の管理を行う「牧士」には千葉氏家臣の子孫という言い伝えを持つ者たちも任じられています。

その他、医師・神官・僧侶になった者や、あるいは旗本領の代官等に任命された例もあります。佐原(今の千葉県香取市)は中世からの町でしたが、近世に発展したのは千葉氏家臣の子孫たちの力が大きかったといわれています。

江戸時代の千葉氏家臣の子孫たちは、先祖が千葉氏に仕えていたことを誇りとし、当主の子孫や千葉氏と関係の深い妙見寺との縁を求めました。「千葉氏ブランド」は、彼らが滅びた江戸時代になっても一定の影響力を保っていたのです。

Q22 千葉氏の子孫で江戸時代より後に活躍した人っている?

A22 幕末の剣術家千葉周作、維新の英雄江藤新平、『武士道』の著者新渡戸稲造が有名です。

鎌倉時代からの歴史を持つ千葉氏には多くの子孫がいました。江戸時代以降に活躍した人物では以下の3名が有名です。

千葉周作:幕末の剣術家。常胤を開祖とする「北辰流」をもとに「北辰一刀流」を開きました。幕末の思想家山岡鉄舟は周作の門人の一人です。なお、弟の千葉定吉が指導する桶町千葉道場(今の東京都中央区八重洲)では、坂本龍馬が剣を学びました。

江藤新平:佐賀藩主鍋島氏の家臣であった江藤家は、肥前千葉氏に仕えた家とされ、新平は「胤雄」とも名乗りました。明治維新で活躍した「維新十傑」の一人として知られ、明治初期の司法卿(法務大臣)として近代法制度を確立しましたが、征韓論が受け入れられず職を辞して佐賀に帰り、士族の反乱である佐賀の乱が起きるとその首謀者として命を落としました。

新渡戸稲造:千葉常秀を祖とする南部藩士の家に生まれました。教育者、思想家、農学・法学博士として活躍し、日本の武士道を海外に紹介した著書『武士道』は、セオドア・ルーズベルト大統領やケネディ大統領に高く評価されました。また、国際連盟の事務次長を7年間務めるとともに、東京女子大学の初代学長になる等、女性教育にも力を注ぎました。新渡戸は前の5千円札の肖像に採用されましたが、新5千円札の肖像となる津田梅子の津田塾の顧問も務めました。

Q23 千葉市には千葉氏に関係あるものが何か残っている?

A23 千葉神社や東光院等、市内には千葉氏の足跡が多く残されています。

室町時代まで千葉氏の本拠であった千葉市内には、千葉氏に関わる遺跡が数多く残っています。

中央区にある千葉神社は元は北斗山金剛授寺といいましたが、千葉常重が大治元年(1126)に大椎から千葉に館を移した時、代々伝わる妙見をその館に遷し、後に現在地へ移したと伝えられています。その他にも、常胤が一族を引き連れ源頼朝を迎えたとされる君待橋や、常胤がこの泉から湧き出る水で頼朝の茶を点てたと伝わるお茶の水、千葉宗胤の五輪塔がある宗胤寺等があります。

花見川区にある真蔵院には、常胤の三男武石胤盛の母の追善供養のため、永仁2年(1294)に建てられたとされる板碑が残されています。近くには胤盛を祀る武石神社もあります。

稲毛区には、大日寺と来迎寺があります。大日寺は平常兼から千葉胤直・胤将父子までの千葉氏累代の墓碑と伝わる16基の五輪塔があります。近くの来迎寺は、千葉貞胤の建立と伝えられ、千葉氏胤とその夫人や子の千葉満胤等の5基の五輪塔が残っています。

なお、大日寺も来迎寺も戦前までは千葉神社の側にありました。

若葉区には、『千葉妙見大縁起絵巻』や木造妙見立像等を伝える榮福寺があります。

緑区には、大椎城跡や東光院があります。大椎城は、千葉に移る前に千葉氏が居城にしていたと伝わる地です。東光院には、千葉氏の妙見信仰の根本とされる木造伝七仏薬師坐像があります。

これ以外にも、市内には千葉氏に由来のある寺社や伝承の地が多く残されています。皆様も千葉氏の活躍に思いをはせて、ゆかりの地を訪れてみてはいかがでしょうか?

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