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更新日:2020年3月18日

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千葉氏の歴史

千葉氏の歴史

千葉氏のはじまり

千葉氏の始祖、平良文

千葉氏は、桓武天皇の血を引く関東の名族です。
桓武天皇のひ孫高望王(たかもちおう、後に平高望)は上総介(かずさのすけ)となって関東に下向しました。
その子の国香(くにか)、良正(よしまさ)、良兼(よしかね)、良持(よしもち)、良文(よしぶみ)などは、高望の所領を継承するとともに関東各地に土着し、勢力を広げていきました。
高望の末子とされる良文は、当初、相模国村岡(現神奈川県藤沢市)を拠点としますが、平将門の乱の前後に下総国の相馬郡(現在の柏市、我孫子市、茨城県北相馬郡など)を獲得し、以後この地を中心として活躍するようになります。

平忠常の乱

桓武平氏略系図良文の孫平忠常は、香取郡東庄町の大友城などを拠点として上総下総に勢力をふるっていましたが、官物の納入などをめぐる争いから、1028年(長元元年)安房国司を焼き殺すという事件が起こります。
朝廷は忠常の追討を命じますが、忠常は上総国の国衙を占領し、周囲の国人たちを味方に付け、さらに後任の安房の国司を追放するなどして抵抗し、反乱は長期化しました。
その後、甲斐国司源頼信(みなもとのよりのぶ)に追討が命じられると、1031年(長元4年)忠常は降伏してきました。
忠常は都に連れて行かれる途中でこの世を去りましたが、子孫は処罰を免れました。
忠常の子常将や孫の常長は長い戦いで荒廃したこの地方の再開発に着手し、房総全体に勢力を広げていきました。

大椎権介常兼

忠常のひ孫常兼(つねかね)は、上総国大椎の地(現緑区大椎町)を拠点として大椎権介(おおじいごんのすけ)と称しました(『千学集抜粋』)。
大椎は、村田川上流部の山間部に位置し、鹿島川水系の分水界ともなっています。
大椎は鹿島川を経由して印旛沼・利根川に至ることができ、村田川を利用すれば、容易に上総国府(市原市国分寺台)に至ることができました。
また、陸上交通については東部の丘陵地帯を抜ければ太平洋沿岸の匝瑳郡海上郡に至り、西部に下れば、東京湾に面する千葉郷に至るなど水上交通、陸上交通の要衝の地でした。

現在、大椎集落の北側丘陵上に残る連郭式の中世城郭は、遺構から16世紀後半の築城と考えられており、土気酒井氏の出城だったのではないかといわれており、常兼が拠点とした城(館)との関係は明らかになっていません。

千葉氏拠点の推移<千葉氏拠点の推移>

千葉移住と鎌倉幕府の創設

千葉への移住

千葉氏略系図1大椎常兼の子常重(つねしげ)は、1126年(大治元年)大椎から千葉に移住し、千葉介常重と称しました(『千学集抜粋』)。
常重が名字の庄園とした千葉庄は、ほぼ同時期に八条院に寄進され成立したと見られています。
千葉庄は下総国内では最大級の庄園で、陸海の交通の拠点でもありました。

常重の所領は、千葉庄の他に相馬郡、立花郷(後の橘庄、香取市、香取郡東庄町)、麻績郷(香取市)などでした。
常重は継承した所領の拡充に努め、1130年(大治5年)には相馬郡内の所領を伊勢神宮に寄進して相馬御厨(そうまみくりや)を成立させ、この永代下司権(土地の支配権)を獲得しました。
常重は、千葉移住の九年後の1135年(保延元年)家督を嫡子の常胤に譲りました。

千葉常胤の活躍

常胤が家督を継承した翌年の1136年(保延2年)、下総国国司藤原親通(ちかみち)は公田官物の未進(税金の滞納)を理由に常重を捕え、相馬御厨と立花郷の割譲を要求してきました。
同時にこの事件を知った源義朝(よしとも)も相馬御厨の割譲を要求してきました。

常胤は一旦、相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、後で滞納分を弁済して相馬郡司に任命されました。
また、義朝に対しては、主従関係を結ぶことで、御厨の下司権を確保しました。
しかし、平治の乱(1159年)で義朝が平清盛に敗れると、この所領は国に没収されてしまいました。
こうして常胤は継承した相馬御厨と橘庄の権利を全て失うこととなり、20年余りにわたる努力は無駄になってしまいました。

しかし、1180年(治承4年)源義朝の子、頼朝(よりとも)が伊豆で挙兵し、平家方との戦いに敗れて房総に逃れてくるといち早くこれに味方する意向を示し、さらに頼朝に対して鎌倉に本拠を構えることを進言するなど鎌倉幕府の創設に重要な役割を果たしました。
その後、源平合戦・奥州合戦などにも参戦し、この功績で常胤は失った相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2か国をはじめ、東北地方、九州地方など全国で20数カ所といわれる広大な所領を獲得し、千葉氏は幕府の中でも屈指の御家人に成長しました。

獲得した所領は、その後常胤の6人の子、胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)がそれぞれ分割して受け継ぎ、それぞれの中心となる所領の地名を名乗りました。
これを千葉六党(ちばりくとう)といい、惣領である千葉介を中心に一族が強固に団結していました。

千葉介常胤像<安西順一作「千葉介常胤像」>

その後の千葉氏

九州千葉氏

千葉氏略系図2千葉氏は九州の北部(今の佐賀県)に領地を持っていました。
そのため蒙古襲来の時、幕府の命令で頼胤と宗胤の親子が元と戦うために九州へと出かけました。
しかし、頼胤は戦いでうけた傷がもとで九州で没し、宗胤は、元が三度攻めてくる可能性があったため九州から離れることができませんでした。
そこで、千葉氏の本家は弟の胤宗が継ぐことになり、ここで千葉氏は九州千葉氏と下総千葉氏に大きく分かれることとなりました。

一族の分裂

室町時代以後、千葉一族は次第に分立・独立することによって衰退していきました。
やがて室町幕府の出先機関である鎌倉府の内部において鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の間に内紛が生じると千葉一族もその争いに巻き込まれて両派に分かれて争うようになりました。
そして1455年(康正元年)に公方派であった千葉一族の馬加康胤や原胤房は、上杉派であった千葉介胤直の居城、千葉城を攻めました。
この戦いで千葉城は落城し、康胤は、多古に逃れた胤直一族を追い、ついにこれを滅ぼしました。

本佐倉城へ

千葉介胤直一族を滅ぼした馬加康胤は、千葉氏本宗を継承しましたが、その子孫は千葉城を放棄し、文明年間印旛郡大佐倉に新たな城(本佐倉城)を築き移りました。本佐倉城は印旛沼の南岸に位置し、印旛沼・利根川の水運を掌握する絶好の地であり、馬加系千葉氏が属した古河公方とも水運で繋がっていました。

千葉氏の滅亡

馬加千葉氏略系図その後、第1次国府台合戦、第2次国府台合戦を経て古河公方が衰えると戦国時代後期には小田原城を本拠とする後北条氏に従うこととなりました。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原城を攻めると、千葉氏の当主であった重胤(しげたね)は一族とともに小田原城に入城しました。
その後、後北条氏が百日余の籠城の末、秀吉に降伏すると後北条氏に従った千葉氏も所領を没収され、ここに関東の名族といわれた千葉氏は滅亡することとなり、約470年にわたる下総国を中心とした房総半島北部の支配に終止符を打ちました。


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