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更新日:2022年4月4日

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第2回 千葉市郷土博物館 館長 天野 良介さん

(区長)
中央区を知るということと、どうまちづくりを行っていこうかということ考えたとき、まちの歴史は私たちにさまざまに示唆を与えてくれるのだと考えます。そこで、今回は千葉のまちの歴史の部分を紐解いて行きたいと思うのですけれど、大きく3つ、「鎌倉」の頃、「江戸」の頃、あと「軍都」と呼ばれた頃について、館長さんにお伺いしたいと思います。

 鎌倉「千葉氏とまち」

(区長)
まずは「鎌倉」の頃、今年はNHKの大河ドラマで『鎌倉殿の13人』が放映され、千葉常胤も登場するわけですが、その当時の千葉は幕府の置かれた鎌倉と同じくらい大きかった、栄えていたという話を聞くのですが、本当のところどうなのでしょうか。

(館長)
この千葉のまちが鎌倉に匹敵するような町であったというのは、『千学集抜粋』という記録の中に書いてありますが、少し盛りすぎかもしれないなとは思います。規模的には鎌倉ほどではない。ですが、この千葉が鎌倉と同じような、非常に栄えた、下総における中心的な「都市的な場(「まち」)」であったことは間違いないと思います。
中世の「まち」は三つの要素によって成立していると思います。一つは「政治的」中心地であるということ、そして、「経済的」核になる地点であるということ、それからもう一つは、この辺は今の感覚とはちょっと離れるかもしれないのですけれども、精神的な支柱、具体的には「宗教的」拠点があることです。
要するに核となるものがしっかりあるというところが、中世における、実は今でも同じだと思うのですが、「まち」というものをつくり上げているのではないかなと思います。「まち」というものは、人が恒常的にそこで暮らし、活動していくための場所なのです。

(区長)
おそらくその頃から、千葉は街道の宿場であったり、都川の水運もあったりして、どうしてもひいき目で見てしまって、「やっぱり千葉は昔からよかったのではないかな」というように思ってしまうのですよね。

(館長)
そこは私もそうだと思います。どうしても千葉の歴史というのは、これまで中世の千葉氏がここに拠点を構えていた時代の300年ぐらいのことだけをすごくクローズアップしていて、何もないようなところにいきなり千葉氏が来たので町ができ、それが本佐倉に移った後は一寒村になり果てたみたいなとらえ方をされるわけですが、やはり、これは相当に誤った捉え方だろうと思います。
川があり、海があり、もちろんそこは、人や物の集まる場所であったり、地域における重要な拠点であるからこそ、千葉氏も移ってきたのだと思います。そして、千葉氏が他に移った後も経済上の重要な拠点であるという機能は相当に残っていたはずですよね。
また、千葉氏の本拠が本佐倉に移った後も、もう一つの宗教の拠点の意味合いというものは、千葉に残されるのです。今で言う千葉神社は本来あるべき千葉に残されるのです。それはやはり、この地にあってこその意味がある、苗字の地にある神社であるからそれは持っていけないのだと考えられるのです。

 

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本佐倉に移った後も、千葉氏の当主が元服をするときには、千葉までわざわざ行列を組んでやってくるのですが、「高品」(若葉区高品町は中央区に隣接しています。)で履物を脱いで裸足になり、馬からも降りて金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)に向かうのです。元服は通常旧暦11月15日の「冬至」に行われます。この日から日が伸びていくことと、元服後の興隆とを重ね合わせたのだと思われます。今では廃れてしまいましたが当時は冬至に妙見社で大きな祭礼が執り行われていたのです。何れにせよ、千葉のまちの中に来るときは神聖な場所に脚を踏み入れるという意識があったことがわかるのではないでしょうか。
そうしたことを見ると千葉のまちというのは、千葉氏が千葉を離れた後も、彼らにとってものすごく重要な拠点だったと思いますよ。

 

江戸時代「海・陸・モノ」

(区長)
先ほど、「一寒村になり果てた」は間違い、といったお話をいただきましたが、江戸期に話を移すと、確かにその頃、都川の水運を使って物品が集積していたということが書かれたりしています。現在の千葉市の都市の機能としても、商業や業務系のものを集積させている中では、そこに何某かの示唆するところがあるのだろうなとは思うのですが、そのあたりはどうなのでしょうか。

(館長)
江戸時代、千葉は「海」と「陸」の結節点の位置付けであったのだと思います。東京湾に面している千葉から船に乗せ換えて、どこかに運ぶ。どこかといっても、経済の一番の中心地は江戸ですから、江戸に船で運んでいた。江戸時代、明治より前の時代というのは、物を大量に運ぶのは船が一番有効な手段でした。
特に佐倉藩の蔵屋敷が千葉の寒川の河口のところにあって、藩領の村々から陸路を用いて運んできた年貢米は、この場に集積されました。更に、ここからは「五大力船」のような船を使って現在の東京湾をいき、江戸の佐倉藩の屋敷に運んでいた。同じく、今の中央区のエリアにあった生実藩の米も浜野に運ばれて、そこから船でやはり江戸に運ばれていたのです。生実藩も浜野に蔵屋敷を構えていました。彼ら大名は、米を江戸で売ることで現金化し、藩の運営費用としていたのです。
今、「都川を使って」と言いましたが、当時、川底が浅くても運行できる川専用の船があって、そうした船を用いながら、相当上流の方に至るまで、川を下り、また川を遡って、物を運んでたと思いますよ。
「海」と「陸」の結節点についてもう少し付け加えますと、千葉県は今でも国道51号線だとか、東金方面に国道126号線だとか、大網街道といった街道が、千葉を起点として内陸部に向かっている。これは江戸時代、もっと言ってしまえば中世にも遡る話で、外房や九十九里、或いは房総半島の内陸部の物資が、陸路で馬などに乗せながら運んできたものが大量に千葉のまちまで運ばれて集積され、それが寒川や浜野、登戸だとかの港からどんどんと運ばれていく。例えば、九十九里の「干鰯」(イワシを乾燥させて作った有機肥料の一種)などもこのルートを通って行った品物ですね。そして、江戸で荷物を降ろすと、今度は江戸にあるものを買って積み込んで千葉に戻ってきて、逆ルートを経て、あちこちに流通していく。こういうことが行われていたのです。先ほどの干鰯などは、江戸の問屋から全国へと流通していき、江戸時代の商品作物増産に多大なる貢献をすることになります。つまり、外房と内房とを繋ぐ陸路と、内房から江戸へ向かう水運は、日本国内における経済の大動脈として機能していたということなのです。つまり、千葉というまちもその大きな拠点であったことになります。

(区長)
千葉市は「アイデンティティ」の取組みの中で「海」を発信してきていて、これまで東京湾に遠浅に広がった浜を中心にいろいろと展開してきましたが、北斎の「登戸浦」にも描かれていますが、当時から物流を支える「みなと」があり、そしてそこには物流を支えるだけの機能があった、そうしたまちなのだということはしっかり伝えていかなくてはならないですね。

(館長)
「地域づくり」というのは、他のところと同じようなことをやっていても駄目だと思うのですね。千葉の文化や伝統、その歴史を生かしてできるものを、千葉でしかできないものを、作り上げていくっていうことがやっぱり何よりも大事だと思います。
例えば、今までの話の関係では、この時代なかなか難しいところはありますけど、江戸時代の船を復原して、「それで江戸まで行ってみましょうよ」とか、「それで東京湾をクルーズしてみたらどんな感じでしょうか」といったことだと思うのですよ。そんなことは千葉でしかできないですよ。私も真っ先に乗ってみたいですよ(笑)。
ぜひいろいろなことに取り組んでみてもらいたいですね。

「軍都」がもたらしたもの

(区長)
さて、その後となると、やはり「軍都」であったということは、私たちは「七夕空襲」との絡みなどから、まちの歴史として認識しているわけですが、今あるさまざまな集積、特に医療系の集積などは千葉市の中央区周辺はかなり集積が図られていると感じますが、そうした部分は軍都であった効果なのだろうか、などとも考えてしまったりもします。このあたり実際どうなのでしょうか。

(館長)
医療の歴史と軍隊の歴史と繋がっているかというと、陸軍の病院があったのは間違いないですけれども、必ずしもそうとは言い切れないかなという気はします。
医療系の集積については、すぐそこにある、今の千葉大学医学部(中央区亥鼻。千葉市郷土博物館とは目と鼻の先)の前身となる千葉医科大学を中心に、公的な病院だけではなく、私的な病院・医療機関も含め集積が図られてきた歴史があり、「医学のまち」という、また一つの別の伝統的なものとして千葉には受け継がれているのだと思います。
話を「軍都」に戻すと、軍都は大きな連隊が幾つも置かれていたようなところで、例えばこの辺では佐倉などは、陸軍の「歩兵第57連隊」という実際に戦闘にあたる部隊が置かれていましたが「軍都」とは称されることはありません。やはり、それには部隊が一つだけということからでしょう。それに対して、千葉は幾つもの部隊や学校などの陸軍関係の機関が集中していたことが、そう呼ばれた理由だと思います。
ただ、千葉についていえば、陸軍で唯一千葉に置かれていた「気球連隊」などがあるのですが、その役割は敵情の偵察だったり、砲撃の際の指示だったりなどで、戦闘部隊ではないのですよね。要するに戦う部隊じゃない。
あとは「鉄道連隊」。鉄道連隊というのは、戦地に入って鉄道を応急に敷くのですよ。例えば大陸に行くと、道路が整備されていないところでは、奥地に兵隊や物資を運ばなければいけないわけでしょ。そうすると、鉄道連隊が行ってそこに鉄道を早急に設営して、奥地に物を運んだり人を運んだりする。
だから、そういう意味では千葉というところは、どちらかというと戦闘部隊ではない部隊、つまり技能的な部隊。あともう一つ言えることは、学校機能がいっぱいあった。高射砲学校だとか、歩兵学校だとか。
そういう技能連隊だとか、学校機能みたいなものが中心的だったのが千葉の軍都の特徴で、だから「軍都」ではなくて「軍郷」という、言葉の使われ方もされているところです。

(区長)
軍都って聞くと、私などはやはり横須賀とか広島をイメージしてしまって、私たちの街もそんなイメージで考えてしまいますし、七夕空襲を勉強するとき、軍都だから狙われたっていう言い方をサラサラっとしてしまったりする。今お伺いしたあたりは、事実は事実としてきちんと次の世代にも伝えていかなくてはならないですね。

(館長)
もう一つ、千葉市はむしろ積極的に陸軍を誘致した歴史があることを知っておくことは必要だと思います。その他にも、蘇我地先の埋立地に日立航空機を誘致し、そこでいわゆる「ゼロ戦」練習機を製造していたことも米軍から標的とされた大きな理由になっています。つまり、たくさんの兵隊さんが来てくれれば、軍需工場が進出してくれれば、ともに地元は潤うということです。今の工場誘致のようなものと思っていただければ当たらずしも遠からじです。
良し悪しという問題ではなく、「軍都」に限らず、郷土の歴史として、今ある都市にある機能や経済的な側面は過去とにつながっている部分があることを知ることは極めて重要だと思います。

まちづくりのために「まちを知る」

(区長)
ここまで、大きく3つの項目を中心にお話をお伺いしてきましたが、最後に改めて、郷土の歴史というものを踏まえて、まとめ的に「まちづくり」という部分で館長の思うところをお聞かせください。

(館長)
「まちづくり」を考えるうえで「フック」、何か「引っかかる」ものがあるというのは重要だということだと考えます。その核となるのが、その地域固有の「歴史」なのです。つまりは千葉という「まち」の特性を捉えて、現在・未来へとつなげていく座標軸を持つことを全ての核にすべきなのだと思います。それがなければ、常に流行や思い付きのその場限りの対応に終始してしまいます。歴史で言えば、例えば、中世の千葉氏の時代のまちとしての記憶だとか、或いは千葉神社だとか。

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あとは、先ほど出てきた「海」も、「五大力船」のような船を取り上げる方法もあるし、或いはかつて千葉の海には干潟が広がっていて、昔はたくさんの貝をとってたわけですよね。ハマグリとかアサリを採って。ハマグリの串焼きは千葉の名物にもなっていた。

(区長)
昔の写真でも、かつての海際を走る国道14号沿いに、ハマグリ屋さん?貝屋さん?があって、道行く人、車に売っている様子をうかがうことができますよね。

(館長)
そうそう。これは飽くまでも私の夢に過ぎませんが、千葉の海に干潟、人工の砂干潟を再生してみたいです。
埋立そのものは戦後発展のために必要だったのは十分理解できるんですが、TVで東京湾を再生するという取組みをやってるじゃないですか。「干潟」が再生すれば、たくさんの生物が戻ってくる。千葉がやるべきだと思いますよ。さらに話を大きくすると、干潟の博物館なんてあってもいいかな。そこで、東京湾で取れた江戸前の魚や貝の料理が食べることができる施設もあって……とかですかね。
そうした自然とか、環境が整っていたからこそ、人がここに住んだわけです。加曽利貝塚があるのは、日本一の貝塚の集積地なのは、そうした自然環境があったからですから。だからこそ、それを復原するという訳ではないですが、分かるような施設があって、そこで採れたものが食べられる場があって、市民も外から御出でになるお客さんも千葉の長い歩みを五感で実感できることが本当の意味での「まちづくり」なのだと思うのです。
先ほど話に出た都川の河口だって、そこからの景色はいろいろな時代のものが見える。工場が見えて、煙突が見えて、溶鉱炉が見えて、でもそこにはかつて寒川の船溜まりがあって、今も違う船が止まってますけど、昔は漁船や運搬する船がひしめいていたはずです。その向こうの対岸に神奈川の方も見えて、富士と大山があって。いいところだなあって、本当思いますよね。夕日が沈んでいく頃なんてもっと綺麗。
そういう意味で、千葉って無限の可能性があると思います。

最後に宣伝なのですが、郷土博物館では3月に市民向けの千葉市歴史読本『史料で学ぶ 千葉市の今むかし』という本を刊行しました。これを読んでいただけると千葉というまちが、原始から今に至るまでに、非常に豊かな歴史を持って歩んできたことが分かっていただけると思います。それを知った上で、まち歩きを是非どんどんしてもらいたいなあ……と願っています。
そしてできればその時には、耳につけてるイヤホンを外し、五感をフルに使ってまちを味わってもらいたい。まちの音、におい、後は食べ物の味……といった多種多様な街の姿を、身体全体で味わってもらうと、まちの姿が見えてきます。事前の知識を持つ。それから、実際に出かけていって五感でまちを感じる。古くからいる人の話を聞く、しゃべる。是非とも、そういうふうにして、まちを味わってもらえると、他にはない千葉だけのものが見つかると私は思いますね。

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千葉市郷土博物館では常設展に加え、企画展示やイベントなどが予定されています。詳細は千葉市郷土博物館のHPをご覧ください。

千葉市歴史読本『史料で学ぶ 千葉市の今むかし』は、千葉市郷土博物館受付、市政情報室(千葉市中央コミュニティセンター2階)および中央区地域振興課(きぼーる11階)で販売中です。(税込1,000円)

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