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更新日:2024年3月26日

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千葉市市制施行100周年記念誌の紹介

 この度、千葉市市制施行100周年を記念して、「100周年記念誌」が発行されました。

 花見川区にまつわる歴史も掲載されていますので紹介します。ホームページ上の電子書籍でもご覧になれます。

花見川区関連の記事一覧

  • 「江戸時代の千葉市域」中P31「青木昆陽と薩摩芋一件」(注)
  • 「オリンピックと国体」中P52「東京大学検見川総合運動場におけるオリンピック競技風景」
  • 「海辺の生活」中P54「打瀬舟 検見川海岸」、P55「貝漁 幕張海岸」、「潮干狩り 幕張海岸」
  • 「市域の拡大と臨海部の埋め立て」中P56「市域の拡大図・各町合併時期」、P57 「昔の検見川海岸」
  • 「人口の増加と交通網の整備」中P58「花見川団地」
  • 「次代に伝えたい4つの千葉市らしさ」中P72「古代のロマンを秘めた世界最古の花 オオガハス」
  • 「区のプロフィール」中P79「花見川区」 など

 

(注)「薩摩芋一件」…次の千葉市立郷土博物館資料より

 ◆千葉市域の甘藷栽培と薩摩芋一件

 享保20年(1735)馬加村字北夜縄で甘藷の試作が行われました。この試作によって馬加村では栽培法が普及し、馬加村自体も甘藷の栽培によって大きな利益を収めたといわれています。また、天明・天保の大飢饉の際には馬加村でも甘藷によって多くの人命が救われました。これらのことにより、青木昆陽の没後、弘化3年(1846)には昆陽を祭神として昆陽神社が建立されています。

 救荒作物として幕府の保護を受けて急速に普及した甘藷も、19世紀に入ると次第に商品作物の一つとして価値を持つようになっていました。文化14年(1817)、幕府へ「御用芋」を納入する権利を持つ江戸の特権商人は、この権利を拡大し、問屋仲間を組織して芋の流通を独占しようともくろみましたが、生産者側は商人が相互に結託し、芋の価格を不当に安く設定されてしまう恐れがあるとしてこれに反対し争いとなりました。幕府はさつまいもをあくまでも救荒作物として位置付け、問屋仲間などの公認を行わず、取り引きは従来通り相対(あいたい)とすることとし、問屋仲間は解散しました。しかしその後も、新規問屋仲間結成や流通ルート変更、産地からの御用芋の直納要求などが発生し、天保末期までたびたび訴訟がくり返されました。この一連の争いは「薩摩芋一件」と呼ばれ、当時の江戸と当該地域の関係を知る上でたいへん注目される事件です。

 

千葉市市制100周年記念誌 (別ウインドウで開く)

 

sekou100(別ウインドウで開く)

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