緊急情報
更新日:2024年3月26日
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この度、千葉市市制施行100周年を記念して、「100周年記念誌」が発行されました。
花見川区にまつわる歴史も掲載されていますので紹介します。ホームページ上の電子書籍でもご覧になれます。
(注)「薩摩芋一件」…次の千葉市立郷土博物館資料より ◆千葉市域の甘藷栽培と薩摩芋一件 享保20年(1735)馬加村字北夜縄で甘藷の試作が行われました。この試作によって馬加村では栽培法が普及し、馬加村自体も甘藷の栽培によって大きな利益を収めたといわれています。また、天明・天保の大飢饉の際には馬加村でも甘藷によって多くの人命が救われました。これらのことにより、青木昆陽の没後、弘化3年(1846)には昆陽を祭神として昆陽神社が建立されています。 救荒作物として幕府の保護を受けて急速に普及した甘藷も、19世紀に入ると次第に商品作物の一つとして価値を持つようになっていました。文化14年(1817)、幕府へ「御用芋」を納入する権利を持つ江戸の特権商人は、この権利を拡大し、問屋仲間を組織して芋の流通を独占しようともくろみましたが、生産者側は商人が相互に結託し、芋の価格を不当に安く設定されてしまう恐れがあるとしてこれに反対し争いとなりました。幕府はさつまいもをあくまでも救荒作物として位置付け、問屋仲間などの公認を行わず、取り引きは従来通り相対(あいたい)とすることとし、問屋仲間は解散しました。しかしその後も、新規問屋仲間結成や流通ルート変更、産地からの御用芋の直納要求などが発生し、天保末期までたびたび訴訟がくり返されました。この一連の争いは「薩摩芋一件」と呼ばれ、当時の江戸と当該地域の関係を知る上でたいへん注目される事件です。 |
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