更新日:2023年3月19日
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しめやかに、新たな歳である令和5年(2023)を迎えることとなりました。皆様は、新年を如何お迎えでいらっしゃいましょうか。標題歌は、昨年の大河ドラマ最終回にて北条義時追討を命じ返り討ちに遭った後鳥羽院の詠歌であり、『新古今和歌集』口開け2首目に「春のはじめの歌」との詞書を伴い掲げられております(巻頭歌はかの天才歌人藤原良経が担っております)。よく万能の天才と言われる後鳥羽でありますが、流石に和歌の才も図抜けております。例によって例の如く以下引用をさせていただく塚本邦雄氏の激賞にも関わらず、若い頃にはちっともピンと来なかった冒頭歌ですが、この歳になってみると何と大らかな詠歌であろうかと感心させられるようになりました。一見して、何となく軽く読み飛ばしたような何気ない作品に思えますが決して左にあらず!!ゆったりとしたこの風格は誰にでも詠める歌ではございません。正に“王者の作”であると存じます。令和5年「初春」に相応しい作として掲げさせていただきました。
新古今集獨撰の英帝。文武両道に秀で、殊に和歌は二十歳の百首詠から抜群の天才振り。「天の香久山」は元久三年(1206)年二十六歳の作。柿本一麿「久方の 天の香久山 このゆふべ 霞たなびく 春たつらしも」の本歌取り。はるばるとした第二句と。潔い三句切れによつて、一首は王侯の風格を具へ、立春歌としても、二十一代集中屈指の作であらう。 [塚本邦雄撰『清唱千首』1983年(冨山房百科文庫35)より] |
令和5年(2023)は、「十干十二支(じっかんじゅうにし)」[通常は略して「干支(えと)」と称します]で申すと、「癸卯(みずのと・う)」となります。十干のうちの「癸」は「次なる生命の脈動に向けて動きが出てきた状態(小寒・閑静・渋滞)」を意味し、十二支のうちの「卯」(うさぎ)は「控えめに成長する」ことを指すとのことです。従って、「癸卯」として合わさると「寒気が緩み、萌芽を促す」状態、つまりは「厳冬が去り春の兆しが訪れたこと」、ひいては「これまでの努力が花開き実り始めること」を意味するということのようです。昨年来、相も変わらずに継続する国際秩序の混乱と、国内において年末に色々と考えさせられる情勢も世情を賑わしておりました。また、コロナ禍も完全に終息することなく未だ現在進行形の状況でございます。「癸卯」の干支に因んで、この一年が徐々に良き方向へと進み始める、そんな契機となる一年であることを願ってやみません。
さて、歳は明けたものの、本館の事業は未だ令和4年度分でありますし、年度は未だ四分の一を残す状況にございます。例年実施される「埋蔵文化財調査センター」主催の特別展が1月22日(日曜日)まで本館1階展示室を会場に開催中でございますが(令和4年度『遺物から見える地域文化の発達-縄文時代前期後葉~末葉-』)、既に本館主催にかかる特別展・企画展等に関しては昨年中に済ませております。従いまして、これから御期待いただきたいのは、年度内刊行予定「刊行物」でございます。毎年恒例の物として、3月末日に『千葉いまむかし』と『研究紀要』が最新号として刊行されます。前者『千葉いまむかし 第36号』(有償頒布:価格未定)には、過日に本稿でも御紹介させていただきました、「千葉市近現代を知る会」代表の市原徹さんによる論考が寄稿されます。戦前の千葉市内陸軍施設に存在した4棟の建築物が、戦後に千葉市内に移築され公共建物として再利用された経緯を丹念に明らかにされた内容となります。市内の「戦争遺産」について知見を深める切っ掛けにしていただきたいものと存じます。内容につきましては、ここでこれ以上は繰り返すことを致しませんが、是非ともお楽しみにされていてください。大変に読み応えのある“目から鱗”間違いなしの論考です。
また、後者『研究紀要 第29号』(希望者への無償頒布)に、本館白井千万子研究員による興味深い“千葉氏関係資料”が紹介されることになります。それが、近世後期に江戸で上梓された、千葉一族を主人公とする「黄表紙」作品『月星千葉功(つきとほしちばのいさおし)』でございます。多くの皆様にとっては殆ど馴染みのない本作が翻刻され、誰もが普通に読める状態となるのは国内初のこととなります。『黄表紙』とは、江戸時代における今日の“漫画”に相当する作品で、洒落を利かせた痛快なる物語を、絵付きで楽しむ読み物であります(むしろ絵の方が主役ですが)。従って、元より千葉氏の研究に資するような資料ではございません。しかし、「黄表紙」を始めとする江戸時代の読み物に千葉氏が採り上げられること自体が決して多くはありません。その意味で、千葉氏が近世末期の江戸庶民に如何様に受容されていたかを知り得る、貴重な作品であると考えます。題材としては、源頼朝の挙兵に従った千葉一族(常胤とその子胤政)と千田親政の対立が採り上げられます。そこでは、千葉一族らの機知と活躍により、親政らの“悪だくみ”が頓挫する様子が描かれるのです。登場人物として、その他に上総介広常や北条時政が登場するのはよいとして、史実とは全く関係の無い行徳のうどん屋「笹屋」までもが登場。ストーリー上でもその主人が重要な役割を果たします(「笹屋」は刊行当時「行徳河岸」で繁盛した著名な“うどん屋”で、頼朝との由緒を称しておりました:市川市歴史博物館で当家伝来「笹屋屏風」が展示されております)。物語の展開で登場する道具立てとして、茶道・花道までが時代背景とは無関係に登場するなどして物語が進行していきます。タイトルからも判明するように、何にも増して、千葉一族の活躍に大きく貢献するのが「妙見神」であることは申すまでもございません。冷静に読めば馬鹿バカしくもハチャメチャな物語であり、識者を自称される皆様には、「こんな下らぬ作品を!!」と大いに不評であろうかと推察するところでもございます。しかし、当時に本作を享受した江戸町人からは「何、野暮なこと言ってやがんでぇ、洒落の分からねぇ半可通ってぇなぁ、おめえみてぇなヤツのことだ」と大いに叱責されることになりましょう。何よりも、極めて近世後期「化政文化」期の空気を実感させる作品となっております。過去の歴史が、その後の時代の中で如何に受容されていったのかを、各時代のコンテクストに置いて理解することも価値あることでありましょう。その意味でも、漫画を見るような気持ちでお愉しみいただければ幸いでございます。千葉氏が滅亡した後の江戸時代後期に、千葉介がかような姿で受容されていたことに一驚されましょう。どうぞご期待ください。
刊行物以外で、年度末の本館主催の催しといたしましては、例年の如く「歴史散歩」もご準備してございます。実施期日は【2月4日(土曜日)13時30分~16時00分】となります。ここ2年間はコロナ禍もあって、参加人数を絞る代わりに同内容2回の実施と致しましたが、本年度は従来通りに1回実施に戻させていただきます。また、申込期間は【本日1月1日(日曜日)~同18日(水曜日)】となっております。申し込み方法につきましては、「本館ホームページ」または「ちば市政だより1月号」にてご確認ください。「電子申請」か「往復葉書」で申し込みください。ただ、ご注意を頂きたいことは、土曜日の配送が中止となって以降、普通郵便の郵送には相当に時間が掛かっているのが実態です。以前には県内でしたら翌日到着であったかと思いますが、昨今では土日を挟んだりすると4~5日を要することすらございます。18日(水曜日)必着でありますから、往復葉書での応募の際はお早目の対応をお願いいたします(応募者多数の場合は抽選となります)。本年度は、本館で昨年実施した特別展に因んだ内容として「おゆみ歴史探訪」と題して実施いたします。下総国との国境に近接する地であり、浜野湊と陸路との結節点である当地には、古代から多くの古墳が造営されておりました。また、中世には千葉氏の家宰原氏所縁の地として「小弓(生実)城」が築かれ、後に小弓公方足利義明がこの地を本拠としました。そして、近世には生実藩森川氏一万石が置かれるなど、一貫して地域における要衝として重視された土地となっております。それらの遺跡や海と内陸との結節点としての豊かな歴史を体感していただこうと目論んでおります。どうぞ奮ってお申し込みください。
ところで、“あの一件はその後どうなっているんだ!?”とお思いの方も多かろうと存じますので、一言申し上げたいと存じます。懸案となっておりました本年度実施企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』図録でありますが(実際の刊行にあたっては、展示会終了後刊行のゆえ「資料集」名称となると思います)、可能な限り年度末までに刊行できるように準備万端整えております。あとは予算の都合を待つばかりでございます。年度末まで今暫く御座いますので、現状では未だ確たることは申せませんが、長くお待ちいただいた皆様の御期待に応えるためにも、充実の内容とすべく製作に取り組んでおります。こちらも是非ともお楽しみにして頂ければと存じます。
申し訳ございませんが、最後の最後に一つ追加をさせてください。昨年末12月24日付で、昨年6月に実施しました「千葉氏公開市民講座」講演録を「千葉氏ポータルサイト」上にアップさせていただきました。岩田慎平先生による「鎌倉幕府成立史における千葉氏と北条氏」の御講演でございます。こちらの作業の都合で、大河ドラマも最終回を終えた後のアップとなってしまいましたことを誠に申し訳なく存じます。「千葉氏ポータルサイト」は、本館ホームページからもアクセスできますので、是非ともご一読を賜りましたら幸いです。
言葉整いませんが、以上、初春のご挨拶とさせていただきます。本年も皆様の知的好奇心を大いに刺激すべく、様々な形での発信をして参りますので、何卒市民の皆様のご支援とご協力とをお願い申し上げる次第でございます。本年も何卒宜しくお願いいたします。皆様にとって、本年がより良き一年となりますよう祈念申しあげたいと存じます。
1.年始につきましては1月3日(火曜日)まで休館。翌4日(水曜日)より開館となります。ご確認の上ご来館くださいますようお願いいたします。 2.1月9日(月曜日)「成人の日」は開館、翌10日(火曜日)が休館となります。変則休館日となりますのでご来館の際にはご注意ください。 |
年末・年始休みを終えて、世の中もまた動き出しました。本館も4日より開館をしております。皆さまは、この令和4年から5年にかけての年末・年始を如何お過ごしでいらっしゃいましたでしょうか。小生は、人混みが苦手でありますので、近所の氏神と信徒寺への初詣を済ませた後は、専ら自宅に「お籠もり」で“御節料理”をつまみに飲んだくれているだけ。酔生夢死の状態で「箱根駅伝」を愉しんだことくらいであります。小生のような東京に生まれ育った人間には、帰るべき「田舎(故郷)」がございません。従って、子供の頃には帰省した友人が羨ましかったことを想い出します。ここ数年、コロナ禍の影響をもって所謂“帰省控え”をされていたご家庭が多かったことでございましょう。しかし、今回は特段の規制も存在しない久方ぶりの松の内でございましたから、数年ぶりに故郷へと脚を運ばれたご家庭が多かったのではありますまいか。きっと、美味しい空気と食べ物、御当地のお国言葉や人情を満喫されてこられたことでしょう。
飽くまでも個人的にではございますが、今年は新春を迎える浮き浮きとした気分にはなれなかったのが正直なところでありました。情けなくも“飲んだくれて”いたのは、斯様な想いもあってのことでございます。その理由が、他でもない昨年末にも述べさせていただきましたような世情の諸々にございます。その一つに、冷戦終結後の国際社会における最大級の危機的状況が歳を跨ぎ、核戦争の脅威すら喧伝される状況が未だに継続している状況があること、二つに、我が国内においても斯様な国際情勢を反映したかのように、戦後安全保障政策の一大転換点と目される政策が打ち出されるなど、何かとキナ臭い気配が漂っていることにございます。国家の「防衛政策」についての議論が盛んになること自体は何の問題もありませんし、若者を中心とする政治への無関心が跋扈するなかにおいて、それが真剣に議論されるのであれば、むしろ歓迎して然るべきかもしれません。しかし、「専守防衛(自国を守ることを専らとする)」から「敵基地攻撃能力保有(自国の防衛上必要と認められる場合、当該相手国領国内に直接攻撃を加えるための武力を保有する)」訳ですから、「日本国憲法」下で戦後に保持してきた「防衛政策」の“一大転換”であることは間違いありません。自身にとって、これらが気鬱な初春の最大要因でございます。新年早々、斯様なことを思うのは精神衛生上宜しくないことは重々承知しておりますが、考えずにいることは“主権者として無責任”の誹りを免れますまい。長寿テレビ番組として知られる「徹子の部屋」で、昨年末に出演したタモリが黒柳徹子に「来年はどのような年になると思いますか」と問われ、「新しい“戦前”になるのではないか」と答えたことが、昨今の世相を的確にとらえた言説として話題となったそうです。時代の潮目が変わりつつあることを危惧される一言なのかと推察するものでございます。やはり、何かが変わりつつあることを敏感に感じ取っている方が多いのかと思われます
そこで、新年早々“唐突”の感は否めませんが、斯様な社会情勢の下、我が国の「最高法規」である「日本国憲法 前文」を以下に掲げてみようと存じます。何故かと申せば、一つに、我が国の「最高法規」に何がどう書かれているのかを、国民の一人ひとりが改めて熟読玩味する必要があると考えたこと。二つに、中学校社会科教師として「公民」の授業で必ず生徒に読み上げた「憲法前文」が、斯様な「何でもあり」の世の中への強烈なる“カウンターパンチ”となりそうな気がしたからでございます。
日本国憲法 前文
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昭和21年(1946)11月3日公布、翌年5月3日に施行されて今日に至っている日本国憲法。その前文などに接したのは、ほとんどの方々にとって中高生以来の事ではございますまいか。久し振りに接したご感想は如何なるものであったでしょうか。小生も生徒への授業から離れて10年以上となりますから久方振りに接した次第です。一読して「これは名文の一つに数えるべき文章ではないか……」と改めて思わされましたし、何にも増して先人たちの決意に深く頭を垂れる……、そんな思いに満たされました。同時に、曰く言い難き「勇気」と「気概」が湧いてくるかのような「精神の高揚」も味わったのです。先人の「熱き息吹」に圧倒されるかのようです。斯様な「最高法規」を有する、我が国の在り方に誇りと勇気を与えられた思いでございます。何より、新年の「気鬱」解消に大いに資することとなりました。
これは、単なる個人的な妄想にすぎませんが、その昔に学校等で「教育勅語」奉読があったように、国民全員が折に触れて我が国の「憲法前文」を声に出して読み上げてみるようにしたら如何でしょうか。そういえば、前文朗読ではありませんが、公務員となる時に「日本国憲法の精神に則り勤務すること」を誓う「宣誓書」を読みあげた記憶がございますし、校長の時代にも新卒教員が全職員の前で宣誓する儀式を挙行していたことを思い出しました。少なくとも我が国の「最高法規」なのでありますから、学校でこうしたことを行っても、少なくとも法的には何の問題がなかろうと存じます。このあたりの是非につきましては、法律家の方に是非ともうかがってみたいものでございます。もっとも、「この憲法はアメリカから押し付けられたから絶対嫌だ」と主張される方もいるやに存じます。以下、この点の是非についても検証してみたいと思います。
戦後一貫して「日本国憲法は連合国(主としてアメリカ)に“押し付けられた憲法”である」から「自主憲法を制定すべし」との主張が繰り返されてきたことは、皆様もよくご存知のことでございましょう。勿論、日本は民主主義国家でありますし、就中「日本国憲法」内に明確な条文として「言論の自由」が保障されておりますから、「憲法」について如何なるご意見をお持ちになることも、如何なるお考えを述べても「公共の福祉」に反しない限り構わないことは申すまでもございません。それに、憲法のついての異なった考えを堂々と議論し合い、内容を検討することも大いに結構なことだと存じます。しかし、「自主憲法制定」を主張される方々が、屡々根拠とされる「アメリカから押しつけられた……」なる主張は本当なのでしょうか。勿論、如何なる事象をもって「押し付けられた」と言うのかにもよって話は異なりましょうが、少なくとも辞書的な意味において「押し付ける」とは「仕事や責任を無理に引き受けさせる」との謂いでございます[新村出編『広辞苑』1991年版(岩波書店)より]。その意味において、連合国(アメリカ)が日本に憲法を「押し付けた」のか否かを確認して参りたいと存じます。最初に結論を申し上げるようで恐縮でありますが、小生はそうした主張は歴史的事実に基づいたものにあらずと考える者でございます。従いまして、新年早々で申し訳ございませんが、日本国憲法制定までの流れを簡略に説明し、「押し付けられた憲法」なる主張の適否に関する、小生の存念を明らかにしておきたいと存じます。
日本国が「ポツダム宣言」を受諾し、連合国軍に「無条件降伏」したのが昭和20年(1945)8月15日のこと。そして、同年9月2日に東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズーリ号甲板にて「降伏文書」調印書が交わされ、ここに国際法規上において正規戦争終結となりました。この時、日本側からは、天皇と大日本帝国を代表して、外務大臣重光葵、大本営を代表して梅津美治郎参謀長が署名。連合国側からは、連合国軍総司令部長官ダグラス・マッカーサーが4連合国(米・英・ソ・中)を代表するとともに、日本と交戦状態にあった他連合国軍を代表して署名。その後、出席した各国代表が署名したのです(米・英・ソ・中・仏・蘭・豪・加・ニュージーランド)。この「ポツダム宣言」受諾から「降伏文書」調印までの17日間における、日本と連合国諸国での“鬼気迫る駆け引き”につきましては、令和2年12月10日~12日の本稿『日本の戦争終結と「緑十字機」のこと-忘れてはならない秘められた最重要任務の歴史について-』を是非ともお読みいただければと存じます。こちらにつきましては、本館HP内で読むことが可能です。
(後編に続く)
後編では、戦後に行われた「新憲法制定」に焦点を絞って話を進めましょう。日本の戦後統治を担ったのは「連合国軍総司令部」(以後GHQ)でありましたが、実質的には長官ダグラス・マッカーサーの下、アメリカが中核としてそれを担ったことは申すまでもございますまい。しかし、彼らの占領政策はGHQによる「直接統治」の形をとることなく、日本政府を通して戦後改革を行ったこともご存知でございましょう。所謂「間接統治」であります。つまり、飽くまでも「日本政府の主体性」を重視し、その下で日本国の民主国家化を図ろうとしたのです。従って、GHQとしては「ポツダム宣言」の趣旨に基づく新憲法制定も、日本政府によって自主的に成されることを期待しておりました。その指示の下、昭和20年(1945)から日本政府は松本烝治国務長官を担当大臣として憲法改正案の調査研究を進め、翌21年(1946)年には改正原案を纏めております。それが俗に言う「松本案」でございます。
しかし、その内容は、例えば「大日本帝国憲法」第一条「天皇は神聖にして侵すべからず」内の「神聖」文言を、「至尊」に置き換えただけであることからも明らかなように、依然として旧来の「国体護持」を保持しようとする内容でありました。これは明らかに「ポツダム宣言」趣旨に反する内容であり、到底GHQの認めるものではありませんでした(日本政府は「ポツダム宣言」を受諾し連合国軍に“無条件降伏”をしたのですから、GHQの対応には何らの瑕疵もございますまい)。これでは日本の民主化は成し遂げることができないと判断したからこそ、止むを得ずコートニー・ホイットニーやスイロ・ラウスルを中心とするアメリカ人スタッフによって急遽草案が作られることになったのです。その期間は僅か1週間ほどであったとも伝えられます。これを以って、果たして「押し付けられた」と言えるでしょうか。GHQの肩を持つつもりなど毛頭ございませんが、彼らに言わせれば正に「お門違いの言いがかり」に過ぎないことが御理解いただけましょう。
更に、アメリカ人による原案は日本語に翻訳され、「大日本帝国憲法(明治憲法)」第73条「憲法改正」の手続に則り、昭和21年(1946)5月16日に召集された「第90回帝国議会(貴族院・衆議院)」(会期:5月16日~10月12日)で審議されております。その結果、あまつさえ数多の文言修正すら行われております(あの「第9条」ですら修正が加えられております!)。こうして日本の議会で審議検討を経た新憲法案は、GHQによる確認を経てから同年10月29日枢密院にて可決・成立し、同年11月3日に公布されたのです(施行は半年後の昭和22年5月3日)。ここまでですと、原案作成はアメリカ人だから「押し付けられたっぽいかも……!?」と思われるかもしれません。しかし、ここで重要なことは、新憲法を審議した、この時の衆議院議員の選出方法にこそございます。つまり、昭和21年4月10日に実施された「第22回帝国議会衆議院議員選挙」は、日本憲政史上初めて「20歳以上の男女普通選挙」によって執り行われたのであり(要するに初めて女性に選挙権・被選挙権が認められた選挙)、実際に39名の女性議員が当選しております。この女性議員数は、平成17年(2005)に女性議員43名当選までの最高記録を維持していたほどです。つまり、日本の国政史上で初めて民主的な手続を経て選出された、日本人議員によって憲法改正案が審議されたことを極めて重大に捉えるべきでございましょう。「いや、実際の可決は枢密院で行われているではないか……」との反論もございましょう。その通りです。ただ、それは「大日本帝国憲法」改正手続という既存制度の手続きに則って行われたからに他なりません。枢密院では内容を修正されることなく、日本国民により正当な手続きを経て当選した、真の意味で「国民の代表」が集う、「衆議院」を中核とする「帝国議会」において実質的な審議がなされていることが重要だと考えるものであります。これでも、まだ「GHQに押し付けられた」との主張が適切と申せましょうか。
GHQは戦前のシステムであれ、大日本帝国憲法における正規手続をきちんと踏んで改正をすることを求めているのです。小生は、中高時代の学校教育を通じて「民主主義とは正当な手続きを踏むことで成立している」と教えられて参りましたし、その通りだと思っております。何れかの手続をすっ飛ばして物事が決まるようなことになれば、恣意的な決定に流れる確率が飛躍的に高まるからです。そのために「三権分立」が重要な意味を有するとも。そして、そのことは過去の数々の歴史が証明しております。そうした意味で、昨今は「国権の最高機関」である国会の存在が、如何にも軽く扱われているように思えて仕方がないのですが、これは小生の思い過ごしでございましょうか。
少なくとも、新憲法の制定時に「この憲法は押し付けられた(仕事や責任を無理に引き受けさせられた)」と感じた国民は決して多くは無かったのではないかと考えます。むしろ、大多数の国民は、歓迎して新憲法を受け入れたものと思うのです。表立って表明することはできなかったとしても、戦中において国民の多くも、相次ぐ空襲被害や満足な物資の入手も叶わぬ日々の暮らしに辟易しており、また働き手を兵隊として採られ戦死で失うなど、流石に「新たな世の誕生」を密かに願っていたのが実情ではありますまいか。その意味では、戦後における国民の願望こそが、新憲法の積極的受容を促したということも言えるのではないでしょうか。仮にそれが正しければ、「押し付け憲法だ!」との主張の矛先は、GHQ(アメリカ)にあらず、いみじくも当時の大多数の同胞へ向けられることになりましょう。
ただし、ここで一言申し添えておきたいことは、大多数の国民が、決して一方的な「軍事体制の被害者」であった訳ではないことであります。つまり、戦前の「政党政治」への批判勢力が国民の軍部への大きな支持を生みだし、結果として戦争とその体制を後押ししたことを見逃すべきではございません。その点では、国民一人ひとりが戦争を推進した側面もまた大きいことを認識すべきだと思います。戦後に「私たちは騙されていた」が恰も「免罪符」のように国民に多用されました。確かに、その通りの側面もあったことと思いますが、それで済ませてはならない国民一人ひとりが向き合わねばならないこともあるのです。そうしたことを考えてみたいと思われる向きには、東京大学大学院人文社会系研究科の加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』2016年(新潮文庫)がお薦めでございます。本書は、加藤教授が神奈川県の栄光学園在籍の高校生を対象に実施された5回の講義をもとに、著者と高校生との対話形式で平易に叙述されております。5百頁に及ばんとする大著でありますが、時間さえ確保できれば瞬く間に読了できるものと存じます。
以上、新年早々に、暑苦しい物言いばかりで誠に申し訳ございませんでした。小生としましては、子々孫々が暮らすこの日本という国家が、国民に安全と幸福をもたらす国家であり続けてほしいと切に願う一心から発した言説でありました。お聞くぐるしい点の数々は何卒ご寛恕くださいませ。日本が民主国家の亀鑑として、子々孫々正しく続いてほしいと心の底から願う者であります。つまり、過去の戦禍を経て戦後を再出発させた日本と言う国家が、新たに民主主義の国としての自覚を胸に再出発し、今にその姿を引き継ぎ、今後も長くかく在り続けてほしいと願うものです。その想いは誰でも等しく胸に秘めているのではありますまいか。そのためにも、行政の手続きの適正化を、是非とも在るべき姿に整え直すこと、そして歴史(過去)に学ぶことが極めて重要であると考えるものでございます。以上、遠くない将来に去りゆくロートルの切なる願いであります。そうした明るい未来への希望・展望こそが、小生に限ることなく、昨今この国に暮らす人々に蔓延する「気鬱解消」の「特効薬」に他らないと考える次第でございます。
今回の本稿では、現在「千葉市埋蔵文化財調査センター」にて開催中の展示会『泥めんことガラスのおもちゃ』の紹介をさせていただきます。こちらは、市内に居住されている田中和夫氏による総計2700点にも及ぶ「泥めんこ」「ガラス製玩具」等の個人コレクションを紹介するものでございます。田中氏は、単なるコレクターに留まらず、むしろ「泥めんこ(以下「泥面子」)「ガラス製おはじき」等の調査研究者と呼称するのが相応しい方だと存じます。
過日、小生も会場に脚を運んで拝見をさせていただきました。そもそもが極々小さなものでありますから、展示総数が3千点近いと申しても、展示スペース自体は決して広いものではございません。しかし、展示される「泥面子」「ガラス製玩具」に凝縮された情報量は、正に小宇宙をも思わせるものでございます。たかが2cmほどの一つひとつの土製・ガラス製の遺物が語り掛ける歴史的な情報の数々、そこから読み解くことができる歴史ストーリーの数々に、正に圧倒される思いでございました。「泥面子って何だろう??」という初心者の方にも、「そんなことは知っている」とお考えの方にも、恐らく驚くような新発見に充ちていることを保証いたします。ともかく、「観なきゃ損!!」と自信をもってお薦めする展示会でございます。
小生が脚を運んだ当日は、幸運にも田中氏ご本人が会場にいらっしゃり、その研究成果を惜しげもなく開陳してくださりました。小生も、朧気ながら「知っているつもり」のクチでありましたが、自身が理解してきたことに180度修正を迫られることも多々あり、改めて自身の不明を恥じた次第でございました。正に「目から鱗が落ちる」とはこのようなことであります。それでも、余りにも膨大な情報量でありましたので、小生も全てを整然と整理できたわけではございません。従って、以下に述ベることも“あやふや”な部分が散見され、田中氏からはお叱りを受けることも多々あるかと存じます。その点、何卒ご寛恕の程お願い申しあげます。以下、皆様が実際に会場に脚を御運びいただくための「露払い」の役目を果たすべく、ザックリではございますが「泥面子」や「ガラス製玩具」について粗々の説明をさせてください。それで、ご興味をもたれましたら是非とも「千葉市埋蔵文化財調査センター」にお出かけくださいませ。時間の許す時には、田中氏が会場に待機されて解説を加えてくださっております。運がよければその幸運に与ることができましょう。
さて、そもそも「泥面子とは何ぞや」ということから始めたいと存じます。
我々の世代の方々であれば、「面子」と言えば幼少期に遊んだ、漫画のキャラクター等が描かれた四角形や丸形の厚紙製のものを懐かしく思い浮かべられることでしょう。ベーゴマと同様に子供同士によって行われる、謂わば「対戦型ゲーム」の元祖のような遊びであります。少し横道に逸れることを御容赦頂ければと存じますが、若い世代の方々に少々解説をくわえると、地面に互いの「面子」を撃ち合い、風圧で相手の「面子」を裏面にひっくり返すことができると(「起こし」)、その面子は打ち手のものになるという、至ってプリミティブで単純な遊びであります(だからこそ誰もが夢中になって楽しめるのだと思いますが)。従って、沢山の「面子」を所持しているのが強者の証となります。昭和30年代後半から40年代にかけては、東京下町の道路際・裏路地といえば、何処も「面子」やら「ベーゴマ」対決の舞台でありました。子どもたちが、「めんこ」を地面に打ち付ける“パチン”という音、「ベーゴマ」で勝負をする際に互いにコマを打ち出す「チッチッチーのぉ、チィ!!」なる掛け声、樽に被せたシート上で勢いよく廻る「ベーゴマ」が樽に共鳴して発するクウォーンという音、そして鉄製コマ同士がカチカチと喧嘩する金属音が、あちこちの路地に響き渡っておりました。「ベーゴマ」も「面子」同様、相手の独楽をシートから弾き出した方が相手独楽を手に入れることができるのです。男子たちにしてみるとずっしりと重い鉄製「ベーゴマ」の価値が上回っておりましたから、「ベーゴマ」には真剣な「勝負感」が張り詰めていたように記憶しております。品が宜しいとはお世辞にも言い難き下町の裏路地は、子どもたちの「鉄火場」となっていたのが実態でございました。それに比べると、「面子」の方は、どこかしら鄙びた長閑感が支配的であったようにも思います。その「面子」と「泥面子」とは如何なる関係があるのでしょうか。
「泥面子」とは、粘土を直系2cmほど厚さ1cmほどに成形(模様をつけた土型・木製の原型に押し込む)してから素焼きした、円盤状の陶器であります。田中氏によると江戸時代の享保年間あたりに上方(京・大坂周辺)を発祥として、その後に全国へと広がっていったと言い、江戸時代後期には江戸でも大流行したと言います。実は、「泥面子」との名称は、明治以降に泥以外の材料で「面子」がつくられるようになってから、泥製の面子を十羽一絡げに斯様に総称するようになったものであり、上に説明した形状のものは「面打(めんちょう)」と称されていたものに他なりません。しかも、「泥面子」の解説でよく見られるような「子供用の玩具」との説明は必ずしも当たっていないのです。
何故なら、江戸市中発掘調査で「面打」が出土する地点は、「大名屋敷」「旗本屋敷」のあった場所、つまり武家地であることが多いことからもそれが分かります。更に、今に残る「大名屋敷絵図」と比較すると、勤番として江戸屋敷に同行してきた下級家臣や武家奉公人たちの居住区(「長屋」)から出土することが多いのです。つまり、大人たちが使用していたのです。単身赴任の武士たちが無聊を慰めるために行ったことの一つと申せば、それは「博打(ギャンブル)」に他なりますまい。つまり、これらは大人に用いられていたものが、後に子供にまで広がっていったものと考えられるのです。要するに、必ずしも「泥面子=子供用玩具」とは言えないということであります。ただ、「面打」が大人子供に関わらず、“勝負事”遊戯”に用いられてきたことは紛れもない事実であり、我々の知る「紙面子」のルーツと言っても決して間違いではございません。因みに、「泥面子」は、明治に入って金属製の「鉛面子」にとって代わられたものの鉛害発生問題で廃れ、紆余曲折の末「紙面子」に移り変わります。そして、戦後に一世を風靡するようになる……といった経緯を経ているものと整理できるかと存じます。
それでは、大人たちは「面打」を如何に用いて如何様に「博打」をしたのでしょうか。どうやら、それが「穴一(江戸では“キズ”と称していたようです)」との名称で知られる賭博であるようです。その内容とは、まずは地面に穴を開けたり、地面に線や図を描いたりします。そして、そこに手持ちの「面打」を投げて、穴に入れたり、一定の区画内に落ちたり、前の人の投じた「面打」を弾き出したりして、その相手の「面打」を獲得するゲームのようです。もともとは、銅銭(「寛永通宝」等)を用いて実施されていた「正真正銘の博打」であったものが、次第に泥製の代用品に変わり、よりゲーム性の高いものとなっていったという理解ができるのかもしれません。更に、それが遊戯として子供たちにも拡大していったという流れになりましょう。事実、近世後期の天保年間になると、江戸市中では子供の風紀を乱すことを懸念して、「泥面子」の販売と使用とを禁ずる触書が度々発出されるようになることからも、そのことがわかります。ゲームに夢中になって学習が疎かになる、現代社会にも一脈通じるような社会現象を惹起していたことを推察できましょう。
その「面打」に刻印された多種多様な模様が、「泥面子」の一つの魅力でもあります。そして、何が描かれているかで、製造された年代までの特定が可能となるからでもあります。これらの模様モチーフには、文字・人顔(力士・歌舞伎役者)・動物・植物・縁起物・鬼・化物・家紋(役者紋・定火消纏模様)・幾何学模様、それに江戸時代に多く見られる所謂「判じ物」も多く御座います。その多様さが、一種の収集趣味を喚起した物と思われます。そして、その読み解きもまた田中氏の独壇場であります。人物の中には、明らかに錦絵に天狗鼻で描かれた「ペリー」の顔が刻印されたものもございました(展示会に出品されております)、何れも、その時々の江戸の街の世相(事件・芝居の演目・流行等々)を反映した絵柄が選ばれているといって宜しいかと存じます。
また、こうした円盤状の「面打」だけではなく、通称「泥面子」の中には、円盤状をとらない人型・動物・昆虫・鬼妖怪の類を模ったものも多く、こちらは「芥子面(けしめん)」と呼称されております。こちらも会場に沢山展示をされております。こちらは、子供同士の「ままごと」遊び[田中氏は「ままごと」は漢字表記では「飯事(まんまごと)」であるのに「ママごと」と勘違いされている人が多いと嘆いていらっしゃいました]、「おはじき」遊び等でも用いられたのかもしれませんが、現代でもよく見られるように、多くの場合はアクセサリー小物を集める感覚で、近世に暮らす人達の収集癖を満足させていたのではないかとも想像いたします。近世において子供を埋葬した墓地の副葬品として「芥子面」「面打」が発見されることからも、その子供の愛玩品であったことが偲ばれましょう。これらの「泥面子」は、そもそも相当に安価で販売されていたことでしょうから、江戸市中に居住する下層民であっても蒐集対象ともできたことでございましょう。因みに、「泥面子」なるカテゴリーには、上述いたしました「面打」「芥子面」の他に、今回は話題として採り上げておりませんが、土製型の雌型にあたる「面撲(めんかた)」と分類されるものもあり、その3種を総称するものとお考えいただければ宜しいかと存じます。
(後編に続く)
ところで、田中氏は2700点にも及ぶ「泥面子」「ガラス玩具(おはじき・ビー玉等々)をどの様にコレクションされたのでしょうか。ご本人に伺ったところ、お金を出して購入したものは一点も存在せず、全て千葉市や周辺市町村の畠地周辺でマッピングしたものと語られました。そうなのです。今でも市内の畠脇を探れば比較的容易に「泥面子」を見つけることができます。千葉市内に在住されて本館ボランティアをお務めの方も、散歩中に地表に転がっている「泥面子」を集めて200個ほどになっているとおっしゃっておりました。それほどに、千葉市周辺の畑地で相当数が見いだされるのです。しかし、「泥面子」の製造された地は採集地とは全く異なった地であるのです。
現在は、「泥面子」が何処で製造されていたのかはほぼ判明しております。その中核となる地が、少なくとも関東においては江戸、特に浅草寺の北に位置する「今戸(いまど)」の地となります。ここで焼かれた焼物は一般に「今戸焼」と称されております。その起源は明らかではありませんが、一説には千葉氏の遺臣がこの地に土着して始めたとの伝承もあるそうです。今戸の少し北の隅田川西岸は「享徳の乱」で滅ぼされた千葉本宗家一流が拠って立った「石浜城」の比定地でありますから(武蔵千葉氏)、何らかの由緒を持つこともあり得ましょう。そもそも、「今戸」は「今津」の転化であり、一遍や他阿真教が布教のための時衆道場を構えるなど、中世以来の「湊」機能を有する都市的場でもありました。何よりも、浅草寺自体の創建として、推古天皇の御代に隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像(浅草寺本尊聖観音像)を拝した、兄弟の主人・土師直中知(はじのまつち)が出家し自宅を寺に改めて供養したことが浅草寺の始まりという伝承が伝わります。ここで注目すベきことは、土師器(土器)づくりに関わる「土師部」と関係すると思われる人物が創建に関わる伝承があることでございます。古代寺院浅草寺の建築関係に関わる職人も多く周辺には集住する地でもあったことでしょう(『吾妻鏡』にも、源頼朝が鶴ヶ岡八幡宮の造営に当たって浅草から大工を呼び寄せた記事があります)。つまり、江戸時代に入って江戸が巨大都市として成熟していく過程で、「今戸焼」が大きな発展を遂げるのことは言うまでもございませんが、古代・中世以来の伝統を引き継ぐ焼物の生産地であったことが想定されるのです。
また、この地は隅田川右岸に位置し、重量のある原料の粘土(荒川流域に豊富に堆積する「荒木田土」)の搬入や、焼成した製品の輸送に舟運を活用できる流通上の利点がありました。ここでは、近世を通して瓦等の素焼きの焼物を製造する窯元が蝟集しており、瓦の他に家内の神棚に飾る陶製置物のような、素焼きで焼成した後に着色する土製人形(「招き猫」や落語演目でも知られる「今戸の狐」)や、素焼きの儘で取引される焙烙・植木鉢等々の製造も担っておりました。その生産品の一つに所謂「泥面子」も含まれていたのです。現在も1軒のみ土製置物を製造販売されているようです。隅田川沿いに居並ぶ土饅頭型の所謂「だるま窯」からの煙棚引く風景は江戸の街の風物誌として錦絵にも描かれております。ただ、実際の「泥面子」は、今戸に限らず江戸市中の他地でも製造されていたようです。また、発掘調査で明らかになった特筆すべき事例として、旗本屋敷内での焼成が確認されております(「御庭焼」の由緒を有する「泥面子」!)。恐らく、内証の苦しい武家の内職として製造されていたものと思われます。因みに、田中氏によると明治以降の「ガラス製玩具(おはじき等々)」の生産地は愛知県名古屋市内にあることを突き止めたそうです[かつしかブックレット12『江戸・東京のやきもの-かつしかの今戸焼-』2001年(葛飾区郷土と天文の博物館)~本冊子では、関東大震災での今戸地区の壊滅的被害と街場拡大の結果、業者が葛飾区を含む周辺地域へと移転を余儀なくされていった経緯をも追っており興味深いものがございます]。
ここで、こうした江戸市中でつくられた「泥面子」や明治期の「ガラス製玩具」が、何故江戸(東京)周縁の「畠地」で見つかるのかという疑問に迫ってまいりましょう。そう言っておいて、舌の根も乾かぬうちに申し上げておきますが、実は、この“不思議”に対する「確たる解答」「確たる証拠」は、未だに見いだされてはおりません。つまり「仮説」の状態にあるのが現実だと思われます。その仮説に一つとして、これまで誠しやかに唱えられてきたのが、以下のような仮説に他なりません。すなわち、江戸(東京)市中から排出される芥(ゴミ)や下肥(人の糞尿)が、有効な肥料として周辺農村に流通する際、その中に「泥面子」が混入しており、その下肥が畠地に蒔かれたことが大きな要因であるとの一説でございます。江戸・東京では、何らかの理由(おそらく一種の呪術的理由でありましょう)で、「泥面子」「ガラス製玩具」を便壺に廃棄する風習があったというのです(本当でしょうか!?)。つまり、それが肥料として流通する際に、巡り巡って現在東京周縁の農地で発見される理由との説明でございます。確かに「おはじき」などは、その名称からも分かるように「邪気をはじく(魔除)」の意味合いを有しておりましょうから、それらを糞尿と一緒にして家の外に締め出すといったことは想定できないことはないと存じます。
しかし、田中氏は当該仮説には懐疑的であります。つまり、例え斯様なる習俗があるにしても、江戸から船で運搬されてきた下肥を直接に畠に散布することはございません。何故なら下肥は一端畠地の脇に設けられた「肥溜」に入れ、長期熟成させ成分が分解した上でなければ肥料として利用できません。その間、陶製の泥面子は肥溜の底に沈殿してしまい、柄杓で掬いとられることはありえません。要するに、下肥・江戸ゴミ説は、全くないとは言えないものの、江戸近郊でこれほど多くの泥面子が採取される理由としては脆弱であることに落ち着くとお考えです。それでは他に如何なる仮説が考えられましょうか。田中氏は、畠での豊作を祈願し、農民が主体的に「泥面子」「ガラス製玩具(おはじき)」を入手して畠地周辺(四隅)に魔除として意図的に埋めたものとの想定であります。それが、戦後の農耕機械の普及で、農地の掘り返しが行われたことで地表近くに現れていると。確かに、石ころのような「泥面子」を畠地に散布することは農作物のため、また効率的な農作業にとっては邪魔な存在でしかございません。かつて都で行われた「四境祭」のように、畠地の四隅に埋納することで、各方位から侵入する魔物を防ぎ農作物の豊作を祈る民間習俗があっても不思議ではありません。特には、明治以降の「ガラス製おはじき」は、その名称からしても「魔をはじく」意味として機能いたしましょう。小生も「田中説」に分があるように思います。
勿論、前提として「泥面子」が基本的に江戸の地から周辺農村へと広がっていったことは間違いありません。田中氏は、我らが千葉県内での「泥面子」分布には、江戸と現在の千葉県内房の諸湊を結んで諸物資を運搬した「五大力船」の輸送が関わっているのではないかともお考えであります。つまり、江戸に物資を輸送した戻り荷に「泥面子」も積まれていたであろうこと、それが内房の湊から更に河川や街道を伝って、内陸の村部部に広がったものとするのです。今後の精緻な「泥面子」の分布調査によって、その適否が明らかにできる日が近いかもしれません。田中氏によれば、県内内陸の市町村では「泥面子」の分布は少ないそうで、それはその地が近世には馬を飼育する広大な「牧」であって、農業生産地ではなかったことが背景にあるともおっしゃっておりました。現在で申すと、国内で初めて「泥めんこ展」を開催された市川市歴史博物館のある市川市、船橋市、習志野市等の所謂「東葛地域」、千葉市には濃密に分布が見られます。田中氏は、木更津船の発着点である木更津を南に下ると「泥面子」分布が少なくなることからも、江戸との間を往復した五大力船の存在が影響している根拠となるとお考えのようです。更には、現在の千葉県以外の都県での「泥面子」の分布状況にも興味が沸きます。巨大都市「江戸」と周辺地域との商品流通の問題を解明する一つのツールとして、「泥面子」の存在は無視し得ない重要な意味を今後有する可能性もあるかもしれません。
何れにしましても、近世社会の諸相に思いを致すことのできる「泥面子」の存在は到って興味深い歴史資料でございます。必ずしも交通の便は宜しい立地とは申しかねますが、是非とも千葉市埋蔵文化財調査センターにお出かけください。お薦めの展示会でございます。貴重なこの機会を逃されませんように!会期・開館日等々を改めて以下に掲載いたしますのでご参照くださいませ。
田中和夫コレクションが語る江戸から昭和
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NHK制作の傑作ドキュメンタリー番組『新日本紀行』[昭和38年(1963)~同57年(1982)]については、本稿にて折節話題にしております。現在でもBSプレミアムにて週1回『よみがえる新日本紀行』が放映され(土曜日早朝)、小生は在りし日の我が国の光景に触れることを大いに愉しみにしております。こちらは原作30分に現況取材10分を加えて構成された内容であり、放映時から概ね半世紀程を経た取材地の変貌を見て取れるように構成されております。この半世紀程の間に、地域社会の在り様と人々の暮らしが如何に大きく変貌してしまったのかを痛いほどに実感させられる、極めて優れた番組になっているものと存じます。長い歴史を有し膨大なるアーカイブが保存されるNHKならではの企画であります。本放送は、土曜日早朝に放映されますので、基本的に開館日にあたりオンタイムで見ることができません。そこで「毎週録画予約」をして時間を見つけては拝見しております。如何せん、20年間程に亘って放送された全794話に及ぶシリーズですから、放送年代や地域を適宜選択しながら放送しているようです。
そして、過日、勤務非番の日に録画再生に及んだところ、冨田勲の手になるテーマ音楽にのせて『歌が生まれて そして~長崎県奈留島』タイトルが画面に浮かんだではありませんか。直ぐに「えっ!?もしかしたら!?」と背筋が伸びました。何故ならば、今日なお日本を代表する音楽アーティストとして音楽会に君臨する松任谷由実(以後、愛称“ユーミン”)が、未だ旧姓の荒井由実であった頃、長崎県五島列島のとある島の学校に在籍する生徒からの“ひょんな”依頼を受けて「校歌」を手掛けることとなったことは、我々の世代であればよく知られた事実であるからであります。そして、その作品が、後に彼女の2枚目のオリジナルアルバム『MISSLIM』(ミスリム)に収録されることとなる「瞳を閉じて」なる楽曲であることも。『新日本紀行』は当時から機会があれば拝見していたクチですが、今日とは異なり、当時は一般家庭に録画機能を有する機材など存在しておりませんでしたから、見逃した回の方が遥かに多かったものと思われます。本作品が放映された当時[昭和51年(1976)4月12日放映作品]、小生は高校2年生になったばかりで、呑気にテレビを見ている年恰好にあらず、況や“一家に一台”の「テレビ」を占有することなど思いもよらぬ身の上でありました。実際、再放送される作品の殆ど記憶にないものばかりです。斯様な次第で、“あのユーミン”が“あの「新日本紀行」”に採り上げられていたことなど想像すらしておりませんでした。“半信半疑”の思いで試聴を始めたのが正直なところでした。
ところが、タイトル曲が終わるや否や、恐らく東京のスタジオで取材を受ける、若かりし日のユーミンの姿が映し出されているではありませんか。胸の高鳴りを抑えることが難しいほど興奮させられました。そこでユーミンは、離島の高等学校に在籍する女子生徒から、深夜放送に届けられた一通の手紙を切っ掛けに、一つの「歌」ができあがった楽曲制作の経緯を語っているのです。その作品と関わる島が番組の舞台である「奈留島」に他なりません。本島は、長崎県五島列島を構成する大小150余の島々の一つであり、北東から南西へと連なる五島列島のほぼ中央に位置する中規模の島嶼となります。その他の島々同様、リアス式海岸が複雑に入り組む地形は風光明媚な景勝地であり、天然の良港を数多く擁する反面、農耕に適する平坦地は殆ど存在しません。つまり、昔から漁業が生業の中核となっていたのです。列島中で最大面積を有するのは奈留島の南西にある「福江島」であり、現在も列島の行政中核としての機能を有しております。
この「福江島」は、江戸時代には五島藩1万5千石の本拠地がおかれ、五島列島全域もその支配下に置かれておりました。国内の西方に位置する五島列島は、幕末に異国船来航が頻繁となる情勢下で防備を固める必要があったこともあり、五島藩は幕府からの特例許可を得て、本拠地“福江”に新たに「石田城」を築城いたしました。文久3年(1863)に完成した本城は、同じ理由で安政元年(1885)蝦夷地に築城された「松前城」と併せ、近世最末期における稀なる築城事例となっております。また、五島列島は歴史的には「隠れキリシタン」の存在した島々でもあります。『新日本紀行』では代々この奈留島に暮らす老人が、古くから家に伝わる「おらしょ」(キリスト教の祭文)を唱える姿も映し出され、計らずも遠藤周作の小説を思い出したりもいたしました。因みに、現在NHKで放映“朝の連続テレビ小説”『舞いあがれ』でも、五島列島は舞台の一つとなっており、一躍脚光を浴びております。主人公の祖母が暮らす島は「知嘉島」として設定されておりますが、その島名は架空であり、美しい五島でのロケは主に福江島・中通島で行われているようです。
話を『よみがえる新日本紀行』に戻しましょう。映像には、昭和49年(1974)当時、奈留島の高等学校2年生として在学し、深夜放送に校歌制作の依頼をした御本人である“藤原あつみ”さんご自身も出演されておりました。取材時には卒業して島を離れて東京で一人暮らしをされており、その取材場所も下宿先のようでした。そこで彼女は、昼間は予備校に通いながら、夜は東京駅地下街のレストランで働き生活費を賄いながら勉強を続けていると語り、その時の想いを回想されております。それによれば、校歌作成依頼の経緯とは以下のようなものでした。すなわち、昭和40年(1965)に「長崎県立五島高等学校奈留分校」として発足した本校には、分校であったが故に独自の校歌は存在せず、福江島の石田城跡に立地する本校「五島高校校歌」を歌わざるを得ない状況にあったこと、その歌詞には城跡のことが含まれるなど奈留島との縁が殆どない歌詞であったこと、自分たちの学校のある奈留島に相応しい校歌があってほしかったこと、その一心からラジオ深夜番組内の“あなたの願いを叶えます”コーナーへ「私たちの校歌を作ってください」との投書に繋がったこと、また、島の主たる産業は零細な漁業であるため多くの卒業生が島を離れて都会に出て行くこと、自身も希望を持って島を離れた一人だが港から出港するときには「追われるような想い」で一杯になったこと等々、奈留島やそこで若者が置かれている当時の実情を振り返りながら、奈留島の丘から見える青い海が大好きで忘れられないことを付け加えることも忘れませんでした。
その深夜放送が、毛利久がパーソナリティを務めていた「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)であり、放送局からの依頼によってユーミンがその大役を仰せつかったとの経緯のようです。つまり、依頼者はユーミン御指名で投書をされた訳ではなかったのでしょう。実際、調べてみたところ、ニッポン放送からの依頼は当初“加藤和彦(1947~2009)”にされたとのこと。加藤和彦と言えば、当時ですら音楽会の大物でしたから、ニッポン放送としても相当な肝煎りの企画であったのでしょう。しかし、有ろうことか、加藤制作の楽曲は番組でオンエアされ、その後に依頼者に録音テープが送られまでしたものの、どうやら郵送事故によって行方知らずとの結末となったそうであります。その後の細かな経緯は分かりかねますが、その代替措置として、未だ当時はデビュー間もなかった新人の荒井由実に、改めて依頼がされることになったようです。それに応えて、奈留島の海や山のイメージと島で暮らす若者の思いを歌詞に託した、「瞳を閉じて」という曲が贈られることになったのです。名曲誕生の“数奇譚”と申しても過言ではございますまい。
斯様な事情について、次にユーミン側からの視点で追ってみましょう。『新日本紀行』放送内におけるご自身の回想によれば、取材を受けた2年前となる昭和49年(1974)、島の学校に在籍する女子生徒から「離島の高校に校歌をつくってほしい」との願いが深夜放送に届き、彼女にそれが託されたことにとても驚いたこと、しかし、高校を卒業する若者の多くが島を後にして、都会に出て行かざるをえない環境にあることを知って依頼を受けたこと、「校歌」ではあるけれども島を離れた人達にも故郷を思い出して歌ってもらえる、そんな楽曲にしたいとの願いを作品に込めたこと……等々の述懐をされておりました。あまつさえ、ピアノの弾き語りで「瞳を閉じて」を全曲歌われてもいるではありませんか。なんという贅沢かつ貴重な映像記録でございましょう。曲は文章では御紹介はできませんし、著作権の関係で全ての歌詞は引用できませんが、「一番」の歌詞のみ紹介をさせてください。
「瞳をとじて」(一番のみ) 作詞・作曲 荒井 由実風がやんだら 沖まで船を出そう 手紙を入れた ガラスびんをもって 遠いところへ行った友達に 潮騒の音がもう一度届くように 今 海に流そう。 |
よく知る楽曲でありますが、久しぶりに拝聴し、改めてユーミンの名曲の一つだとの思いを新たにいたしました。いや、むしろアルバムに納められたバンド編成で歌われる本作と異なり、ピアノ一つで歌われる、一切の化粧を施されない“すっぴん”の楽曲の素顔にこそ、本作品に込められたナイーブな情感がしみじみと伝わるように感じました。島を離れて都会に出て行った者と、島に残らざるを得なかった者との、引き裂かれた仲間同士の静かな「想い」の交流が滲むような歌詞と曲想であります。年齢を重ねてすっかり緩くなった目頭が熱くなりました。
「新日本紀行」には、昭和51年(1976)晴れて「長崎県立奈留高等学校」として独立することが決まった校内で、ユーミンから贈られた楽曲を校歌として採用するべきか否かを巡って、教職員が議論を重ねられる様子も映しだされておりました。先生方の肩を持つ訳ではありませんが、確かに一般的な「校歌」として相応しいかと問われれば、答に詰まる楽曲なのかも知れません。最終的な結論として「校歌」としての採用は見送られましたが、「瞳を閉じて」は奈留高校「愛唱歌」として定められ、今も校内で歌い継がれているとのことです。余談となりますが、肝心の「校歌」は、「新日本紀行」に感動した昭和歌謡を代表する大作詞家“石本美由起(1924~2009年)”[男性です!]氏が作詞を担当し、長崎の音楽家“深町一朗”氏に作曲の依頼を仰いで完成させ、当校に贈られたそうです。作詞家の石本氏は、美空ひばりを筆頭とする錚々たる昭和歌謡の数々を作詞された方でありますから、奈留高校は国内最高峰の方々の手になる校歌・愛唱歌を擁する、全国でも稀なる学校となったのです。
『よみがえる新日本紀行』の最後の10分間では、現在では『瞳を閉じて』が高校の愛唱歌であることに留まらず、島民全体の愛唱歌として歌い継がれていることが描かれておりました。就職や進学で卒業生が島を離れるとき、港で「蛍の光」と本作をもって、多くの島民が卒業生を見送るのです。昭和63年(1983)8月14日には、松任谷由実直筆の文字で刻まれた「瞳を閉じて」の歌碑が、同窓生の手により奈留高校内に建立されております(勿論「荒井由実」名義での刻印です)。残念ながら、現在段階での藤原さんの近影は映し出されることはありませんでしたが、最後に大学卒業後に結婚されて現在は東京にお住まいである旨のテロップが入りました。小生よりも恐らく3つほどの年嵩でございましょう。そして、現在では「私にとって『瞳を閉じて』は自分の一部のような曲です」と回想されているとも。ただ、出来ることなら、その心境を是非とも彼女の口から直接に拝聴してみたかったものです。
さて、令和4年度における長崎県立奈留高等学校の全生徒数は32名。今では『新日本紀行』放映時の十分の一になっているそうです。そうした島内からの人口流出と少子化への対応のため、平成13年(2001)から連携型中高一貫教育を、同18年より連携型小中高一貫教育を導入し、更に長崎県内に留まることなく、全国から「離島留学生」を受け入れているとのことでした。現在の3年生にも、様々な理由から地元を離れ、遠い離島の学校に通っている生徒が3名在籍しております。放送では、元々島生まれで島育ちの子達と、他県から入学生との交流が進んでいるようで、休みの日に男女とも仲良く釣りをして遊ぶ姿に、何ともほのぼのとした思いを抱かされました。そして、互いに刺激を受け合いながら伸び伸びと学んでいる10名の姿は、もし、時計の針を巻き戻すことが可能ならば、自分もこんな高校生活が送りたかったとの思へと誘ったのです。こんな素敵な「愛称歌」のある奈留島と奈留高校での生活は、さぞかし自身の人生観にも大きな変革を迫ったことでございましょうから。
(中編に続く)
昨年は、前編で話題といたしました「瞳を閉じて」の作詞・作曲者であるユーミンが、昭和47年(1972)に「返事はいらない」でデビューしてから「50周年」となる“アニヴァーサリーイヤー”であったとのことですので、中・後編では彼女のことを少しばかり述べてみようと思います。
現在でも第一線で旺盛に活躍をされているユーミン。その手から半世紀の間に紡ぎ出された名曲の数々は枚挙に暇がありません。世には俗に「一発屋」なる一曲のヒットソングのみで消え去ったアーティストが山のようであることに鑑みれば、そのことがどれだけ奇跡的な足跡に他ならないかを実感させましょう。それも、作品は自身のアルバムに納めるための作品だけではなく、他のアーティストのために描き下ろされた作品も、掛け値無しに名曲揃いだと思います。後者では、往々にしてグレタ・ガルボ(スウェーデン生まれのハリウッド映画女優)を捩ったペンネーム「呉田軽穂」名義で作品を提供されてもおります。申すまでもなく、昭和51年(1976)に、優れた音楽家で一貫してユーミン作品の音楽プロデューサーを務める松任谷正隆(1951年~)と結婚され、荒井から松任谷へと改姓して現在に至っております。
ただ、ここでは前編に因んで「荒井由実時代」のことを中心に述べてみたいと思います。何故ならば、当該時代の作品にこそ、彼女の核となるものが無垢の形で凝縮されていると考えるからであり、個人的に限りない愛着を覚えるからでございます。松任谷由実になってからの作品については、ベスト盤に含まれるような代表作も個人的に素晴らしい楽曲だと思いますし、事実ベスト盤は所有しており、よくターンテーブルに乗せております。ただ、オリジナルアルバムを揃えて聴くほどの熱心なリスナーではございません。それは、荒井由実時代の傑出した作品群に圧倒的に惹かれてしまうからに他なりません。
荒井由実名義のオリジナルアルバムは、デビュー作『ひこうき雲』(1973年)、第二作『MISSLIM』(1974年)、第三作『COBALT HOUR』(1975年)、第四作『THE 14th MOON』(1976年)までの四枚となります[別にベスト盤『YUMING BRAND』(1976年)あり]。個別の楽曲で申せば、最近ジブリ映画『風立ちぬ』(2013年)主題歌に採用された「ひこうき雲」、「きっと言える」、「ベルベット・イースター」、「雨の街を」、「返事はいらない」(以上『ひこうき雲』)、「生まれた街で」、忘れ難き「瞳を閉じて」、「やさしさに包まれたなら」、「海を見ていた午後」、「12月の雨」、「魔法の鏡」(以上『MISSLIM』)、“ハイファイセット”が歌って大ヒットした「卒業写真」、「ルージュの伝言」、「少しだけ片想い」、「雨のスティション」(以上『COBALT HOUR』)、「朝陽の中で微笑んで」、「中央フリーウェイ」、「グッド・ラック・アンド・グッドバイ」、あの“竹内まりや”(1955年~)に美大出身のユーミンにし書けない曲と大絶賛された「晩夏(ひとりの季節)」(以上『THE 14th MOON』)、シングル盤のみの「あの日にかえりたい」、「翳りゆく部屋」(共にベスト盤『YUMING BRAND』収録)。たった5年で書かれた名作の数々に、正に「戦慄」するほどでございます。
その他にも、荒井由実時代に他者に提供した曲にも忘れ難き名作がございます。多くの方に知られる作品としては、“バンバン”に提供された「『いちご白書』をもう一度」と「冷たい雨」(後者がヒットしたのは“ハイファイセット”によるカバーによってでしたが)、元々“三木聖子”に提供された曲で、後に“石川ひとみ”が大ヒットさせた「まちぶせ」も忘れ難き名品でありましょう。ユーミンのオリジナルアルバムとしては、第五作『紅雀』(1978年)からが松任谷由実名義となります。それ以降、現時点まで総数35点程のオリジナルアルバムをコンスタントにリリースされ続け、その半数が年間トップセールスを飾っているのですから驚異的であります。何よりも、その才能の破格さが知られるというものでございます。そして、作品から発せられるメッセージとユーミンの生き方そのものが、高度計経済成長終焉からバブル経済を経て現在にいたるまで、それぞれの時代の最先端の価値を内包する楽曲を通じて、各時代における女性像や恋愛の在り方等々のパラダイムシフトを牽引したのであり、実際に社会的ムーブメントまで生み出すことになったのです。その意味において、正に「時代の寵児」「世相のカリスマ」的存在として君臨されてきたアーティストと申すことに一縷の疑念もございません。
そんなユーミンは、昭和29年(1954)東京の八王子市に、4人兄弟の次女として生まれております。八王子は「桑都(そうと)」と美称される、古くから養蚕や織物業の盛んな地でありました。特に幕末に横浜が開港されると生糸等は重要な輸出品となり、八王子はその主要な供給地となりました(八王子と神奈川を結ぶ神奈川往還が「シルクロード」と通称される由縁)。彼女のご実家も「桑町」との由緒が深く、大正元年(1912)に創業し現在に続く「荒井呉服店」となります。彼女の幼少期には80人もの従業員がいたと言いますから相当な大店でありましたでしょうし、街の旦那衆を構成するような裕福なご家庭であったことと想像されます。八王子は武州と甲州との結節点にあたり、軍事的・経済的な要衝として幕府からも重視されておりました。甲州街道随一の宿場も置かれ、更には「八王子千人同心」が配置されるなど都市的な場として繁栄しました。ユーミンも、こうした近世以来の文化的伝統に彩られる環境の中で才能を育み、見事大輪の花を開かせたのでありましょう。
実際に、6歳からピアノ(西洋クラシック音楽)、11歳からは三味線(邦楽)、14歳からはベース(欧米のポピュラー音楽)を始めたといいますから、多彩な音楽的環境を背景にもっていたことになります。昭和56年(1966)にミッションスクールである立教女学院中学校・高等学校に入学。校内チャペルで接したパイプオルガンの荘厳な音世界に衝撃を受けたと語っております(“ユーミン”なるニックネームもこの頃からとのこと)。一方で、当時一世を風靡していた“グループサウンズ”の“追っかけ”をしたり、西欧のポピュラー音楽の洗礼を受けたり等、ご多分に漏れず同世代の多くの少年少女と世界を共有してもおりました。特に、自身の音楽世界の方向性を決定づけたのが、イギリスのバンド“プロコル・ハルム”の作品『青い影』(1967年)との出会であったと語っておられるのを聞いたことがあります。当時の欧米ポピュラー音楽と言えばギターを中核とした音づくりであった中、オルガンの響きとバロック音楽をバックボーンとする本作の楽曲構成に、自らの音楽的素養を活かす可能性を見出したのでございましょう。御自身も、音楽的基盤には「ブリティッシュ・ロック」があると述べておられます。
そして、高校一年時には既に他者に提供した作品がレコード化、三年生となるとピアニストとしてレコーディングセッションに参加するなど、早熟さを示すことになります。更に、当時各界の文化人が集う場として夙に知られていた、川添浩史・梶子夫妻経営になる麻布のイタリア料理店『キャンティ』に出入りしては、交友関係を広げていったのです。大学は多摩美術大学絵画科(日本画専攻)を選択されたのもユーミンらしいと思います。素人考えでは音楽大学に進むのが当然と思われましょうが、それについてはユーミン自身が以下のように述べております。「絵を描くことが音楽の勉強になると信じていた。その日その時、その時間の、すべてを包む雰囲気の、タッチや質感を、音楽という形でアウトプットするやり方が性に合っている。だからこそ、曲がかける。(中略)へたに音楽理論を学んでしまったら、この自分だけの感覚が失われてしまいそうな気がした」(「日本画と曲づくり」)。また、彼女は「コード(和音)は色彩」とも語っております。
レコード会社がその図抜けた才能を見逃す筈もなく、18歳となった昭和47年(1972)7月5日、自作の詞・曲を引っ提げ、シングル「きっと言える/空と海の輝きに向けて」で満を持してレコードデビューを果たします。かまやつひろし(1939~2017年)[ザ・スパイダーズのメンバー“ムッシュかまやつ”]がプロデュースを手掛け、ガロ(「学生街の喫茶店」!)・BUZZ(「ケンとメリー〜愛と風のように〜」!)等の大物がバックをつけていることからも、彼女がどれほど期待される存在であったかが知れましょう。ただ、一説に販売成績は300枚程度であったと言います。今、後にアルバムに納められた同作とは別テイクとなる当シングル盤を聴いて感じることは、ロック調アレンジが色濃く施されていることで、ユーミンの曲の持つ内省的な歌詞と音楽世界とが、重たいバックにスポイルされてしまっているように感じさせます。これも販売面で苦戦した要因であるように思えます。彼女の声の持ち味はグレイス・スリック(“ジェファーソン・エアプレイン”の女性ヴォーカリスト)のようなシャウターにはございませんから。
もう一つの要因に、彼女自身「歌うことに自信が持てず好きではなかった」と語られていることもあるように思われるのです。御本人は「音楽作家(作詞・作曲)」を目指したい」と考えていたと語られているように、その後に「歌い手」として活躍し続けるつもりはなかったのでしょう。実際、デビューシングル盤における彼女の歌唱を拝聴すると、そこには「歌い手」としての重大な課題があるように考えます。それは、彼女の歌には全編に亘って声に細かなビブラートが掛かり続けるため、聴いていて心地よく感じさせないのです(これを俗に「縮緬(ちりめん)ビブラート」といいます)。良い意味ではなく、常に揺れ続ける歌声に“酔ってしまう”感じがします。しかし、彼女のこうした弱点は、デビューアルバムでは一掃されます。決して「歌が上手い」とは感じさせませないものの、唯一無二のユーミン独自の魅力溢れる歌唱が誕生することになるのです。そのことは後編にて。
(後編へ続く)
後編では、小生が彼女の最高傑作と確信し、小生が今も一生の宝として40年来聞き続けて参ったデビューアルバム『ひこうき雲』について述べてみようと存じます。本作が世に出たのは、デビューシングルの翌年となる昭和48年(1973)11月20日のことでございます。当方はこれまで本作を何百回も繰り返して聴き続けておりますが、微塵なりとも聴き飽きることはありません。それどころか、今でもターンテーブルに乗せて聴き始めれば、忽ちの裡に楽曲と詞世界の調和に魅了されている自分がおります。汲めども尽きぬ「発見の泉」だとも感じております。昭和48年前後と言えば、フォーク音楽の全盛期でした。“吉田拓郎”、“南こうせつとかぐや姫”、“山本コータローとウィークエンド”、“武田鉄矢と海援隊”、“さだまさしとグレープ”等々。小生も「神田川」「二十二歳の別れ」「岬めぐり」等々といった楽曲に心惹かれない訳ではありませんが、俗に“四畳半フォーク”と揶揄されるような、言わずもがなの卑近な内容を歌にする世界には、大いに飽き足らない想いを抱いておりました。そこに、彗星のように登場したユーミンによる本作は、多くのリスナーにとって衝撃的に映ったことでありましょう……。恐らく多くの日本人にとって、同胞から斯くも洗練された音楽世界が発信されようとは思いも及ばなかったことと存じます。因みに、ここで小生が「ことでしょう」「恐らく」として記述しているのには理由がございます。この時、小生は中学2年生であり、日本の音楽などに聴く価値はないとイキがって、洋楽ばかり漁っていた時期に当たりますから。従って、本アルバムに真摯に向き合うことになったのは(ホントウの意味での出会いは)、ちょうど彼女が結婚をされて松任谷由実となった頃、つまり昭和51年(1976)のことであります(高校2年生)。つまりピタリ同時代の出会いではなかったからでございます。
何時か述べたことがありますが、小生は、山下達郎(1953年~)・大貫妙子(1953年~)の所属した“シュガー・ベイブ”『ソングス』(1975年)に感銘を受け、そこから過去に遡る形で、日本人アーティストの音楽の素晴らしさに気づいていった経緯がありました。「類は友を呼ぶ」の例えの如く、ユーミンの第2作~4作には、山下達郎・大貫妙子そして吉田美奈子(1953年~)らがバックコーラスで参加しております。達郎氏はコーラスアレンジを任せてもらえるなら……と、条件付けで参画したと耳にしたことがあります。3作品でのコーラスワークに聞き惚れるのも宜なるかなでございます。シュガー・ベイブの未発表音源には「ユーミン」なる、彼女を讃える楽曲が存在するほどに互いに尊敬を捧げ合う仲間であったのだと思われます。ただ、小遣いも少なくて、当時はLPレコードを購入する余裕はございませんでした。
その後、大学生になった小生は、親しくなった長野県須坂市出身者S君の下宿先で、アルバム『ひこうき雲』との真の意味での付き合いが始まることになります。S君の下宿は京王電鉄「仙川駅」から相当に距離のあるアパートでありましたが、その室内には見事な程に伽藍としていて物がありませんでした。しかし、その室内には何故かラジカセがあったのです(当時は下宿にテレビのある学生は多く多くはありませんでした)。そして、彼の所有するカセットテープ中を漁っていて大いに驚愕したのです。何と!!『ひこうき雲』があるではありませんか。その他は、歌謡曲とフォークソングばかりでしたので、まさに“何とかに鶴”の思いでございました。それから共に大学を卒業するまでの4年間、奴さんの下宿にお世話になる際には毎度毎度、必ず『ひこうき雲』を聴かせてもらい続けたのでした(最後には呆れられておりました)。そして、その音楽世界の素晴らしさに、すっかり魅了されてしまったのです。
さて、アルバム『ひこうき雲』の中身に移りましょう。本作は全作の作詞・作曲をユーミン自身が手掛けております。また、そのジャケットは、自身が愛聴してきた「アルヒーフ」レーベル(ドイツ・グラムフォン社のバロック音楽を含む古学専門レーベル)ジャケットのデザインに似せて欲しいとのご本人の強い希望により、シンプルで瀟洒な装丁なっております。LP時代にはA面が「ひこうき雲」で幕を開け「きっと言える」まで、B面トップ「ベルベット・イースター」から最終曲「ひこうき雲(ショートヴァージョン)」までの15曲構成となっております。本作のプロデューサーであった有賀恒夫は、彼女の破格の才能への全幅の信頼と、これまで日本国内には全く存在しなかった画期的なアルバムとなることを確信しながら、唯一の弱点と思われる彼女の歌唱「縮緬ビブラート」の矯正が必要と考えられたのでした。そのため、録音の完成までには一年を要しております。勿論、一番大変な想いをされたのはユーミン御自身であったことでしょう。しかし、有賀氏の徹底的な指導の賜により、ユーミンはホントウの意味で日本を代表する「シンガーソングライター」となり得たのだと思います。当初有賀氏の指導に反発していたユーミンでしたが、今では有賀氏に心から感謝を捧げていると言います。
加えて、本作が傑作となり得た要因に、バックバンドに“キャラメル・ママ(後:ティン・パン・アレー)”を起用したことがあるのは間違いのないことです(彼らは2~4作でも全面的にバックアップしております)。“はっぴいえんど”解散後の細野春臣(1947年~)[ベース等々]・鈴木茂(1951年~)[ギター]、林立夫(1951年~)[ドラムス]、そして後に荒井由実と結婚することとなる松任谷正隆(1951年~)[キーボード]の4人が、昭和48年(1973)に結成したバンドが“キャラメル・ママ”であります。彼らには、オリジナルアルバムも2枚ありますが、どちらかと言うと傑出した音楽センスと演奏力を有する「音楽ユニット」、あるいは「音楽プロデュース・チーム」としての色彩の濃い存在でありました。そのリズムセクションとしての技倆とプロデュース力は傑出しており、最早国際的なレヴェルにあったことは『ひこうき雲』を一聴して明白です。そして、彼らの持つアメリカ音楽をベースとする音楽性が、元来イギリス音楽をベースとするユーミンの音楽性と融合し、何処かしらに「軽み」と「明るさ」を加味することにつながりました。デビューシングル「きっと言える」とアルバム版の同曲とを比較試聴すれば、後者が圧倒的に優れていることに気づかれましょう。そして、その演奏に乗って歌われる“縮緬ビブラート”を克服した、ストレートで澄んだユーミンのトーンが染み渡ります。傑出した楽曲と演奏と歌唱が、在るべき姿で融合した、類まれなる実例がここに在ると言っても過言ではありません。
ただ、当然のことではございますが、本作の成功の最大要因はユーミンの手になる卓越した楽曲に由来します。音楽に関する専門的な解説は出来かねますが、それらは、驚くべき精妙さで展開される転調の美しさと、ちょっと古風な伝統的な日本語の語彙と、絵画科で学習に由来すると思われる濃やかな色彩感を感じさせる、希有なる詞世界に拠っていると思います。小生はそれ以上には上手く言い表せません。そこで、平成8年(1996)松任谷由実が「荒井由実時代の作品」を昔の仲間達と展開したライブ盤(彼女のライブ盤は50年のキャリアで本盤の他に一枚在るきりだと思います)に、小倉エージ(1946年~)が寄せた文章の一部を以下に引用させて頂きます。そこには本作の“精髄”が端的に語り尽くされていると存じますので、音楽評論家の聴き取る力と的確に表現する力には脱帽しかございません。
デビュー・アルバム「ひこうき雲」は、愛聴盤となった。せつなく、翳りや、鬱ろいの表情をもつ陰翳にとんだ歌と作品に惹かれた。内省的な歌詞を持つ作品は、彰かに彼女の体験を踏まえた私小説的なものでありながら、いくつかの作品はボク自身の体験にも照らし合せられるものがあったことや、昔、どこかで見た記憶のある風景が鮮やかに蘇ってくるのに驚いたものである。後に彼女が口にするようになる温度感や湿度感を、そこから汲み取っていたのだと思う。そして、2作目の「MISSLIM」。まさしく「ひこうき雲」と表裏一体を成すアルバムであり、そこでの私小説世界をより普遍化させたもの、といえようか。当時の最新の音楽のトレンドを反映し、リズム面とバンド的なアンサンブルを強化したそのアルバムは、いわば都会のポップスを具現化したものであった。その完成度の高さもさることながら、極私的な愛着からその年度のミュージック・マガジン誌の年間ベスト・アルバムの1枚に選び、「たった1枚となると、文句なくユーミンを選ぶ」コメントし、アルバムのカバーを載せたこともある。
[荒井由実『Yumi Arai The Concert with old Friends』(1996年)ライナーノートより小倉エージ「荒井由実の“追っかけ”が自慢の種」一部引用] |
小倉氏の言説は、2作目『MISSLIM』との比較もホントウに我が意を得たりの思いでございます。そうなのです!『ひこうき雲』の魅力は、内省的(インティメット)な世界観であることにあるのに対して、『MISSLIM』の魅力は前作の「内省的世界」と「外向性・開放性」との融合にあることを感じるのです。その後の2作『COBALT HOUR』、『THE 14th MOON』では徐々に後者の占める割合が色濃くなり、特に『THE 14th MOON』は、その後のユーミン世界への飛躍の原点ともなる作品だと考えます。小生は4枚が4枚とも傑作だと思います。そして、松任谷由実名義の初編となる『紅雀』から現在に至る、エンターティナ-として君臨する「ユーミン世界」が豊かに展開することになります。ただ、小生にはこれ以降のユーミンを論じるほどに、オリジナルアルバムに接しておりませんので、ここまでにしておきたいと存じます。これ以降のユーミンの魅力につきましては皆様の方が遥かにお詳しいと存じます。小生の出る幕ではございますまい。
その意味で、小生は“インティメット”さの横溢する『ひこうき雲』、その世界観の勝る「荒井由実時代」のユーミン作品群を取り分けて偏愛するのです。アルバムタイトルともなる冒頭・末尾曲「ひこうき雲」は、そもそも“若くして死す”ことをテーマにする楽曲です。彼女は「翳りゆく部屋」でも“死”を扱っております。因みに、同曲で用いられる壮麗なパイプオルガンは、丹下健三(1913~2005年)の手になる世界的に評価の高い、美しき教会建築「東京カテドラル聖マリア大聖堂」初代パイプオルガンであります。ただ、アルバム『ひこうき雲』における歌詞の世界は、内省的とは言っても、当時全盛期であったフォークソングのような矮小な身辺世界を歌ったものではありません。これを理解するには、傑作「雨の街を」の歌詞冒頭を引用すれば充分でしょう。「夜明けの雨はミルク色 静かな街に ささやきながら 降りてくる 妖精たちよ」。昔、武田鉄矢が同時代に初めてこの曲に接して、余りに洗練された歌詞に打ちのめされたこと、自らの歌詞に恥ずかしさをおぼえたことを語っておりましたが宜なるかな。『THE 14th MOON』に納められ“竹内まりや”に絶賛された「晩夏(ひとりの季節)」の色彩感。「ゆく夏に 名残る暑さは 夕焼けを吸って燃え立つ葉鶏頭 秋風の心細さは コスモス」「藍色は群青に 薄暮は紫に ふるさとは深いしじまに輝きだす 輝きだす」。『MISSLIM』収録の「海を見ていた午後」における「ソーダ水の中を 貨物船がとおる 小さなアワも 恋のように消えていった」の絵画的表現等々。正に「絵のような風景」が詩的に展開されております。因みに、後者は横浜港を臨む高台(山手)にあるレストラン「ドルフィン」を舞台としており、歌詞にも店名が織り込まれております。
何時ものことですが長丁場となりました。斯様な次第でありまして、小生としては、松任谷由実の時代もさることながら、今も心から「荒井由実時代」の彼女の楽曲とオリジナルアルバムとを礼讃する者であります。もし、昔のユーミンに触れてみたいと思われましたら「荒井由実」名義の4枚のオリジナルアルバムを、もし一枚であるのなら『ひこうき雲』を是非ともお手にされてみては如何でしょうか。きっと一生の宝物を見つけた喜びに誘ってくれることと存じます。改めて本稿執筆にあたって荒井由実名義4枚のオリジナルアルバムを拝聴しましたが、やはり、デビュー作の傑出振りは唯一無二であることを個人的に確信した次第でございます。
令和5年も一か月が過ぎ去ろうとしております。還暦を過ぎてこれまで以上に「光陰矢の如し」なる言葉が身に染みるようになりました。ところで、暖かいと思っていた今冬でございましたが、年明けから冷え込みがきつくなったように感じます。まぁ。我々の肉体は温度計ではございませんから、生身で感じる暑さ寒さの感じ方も人それぞれでございましょうから、飽くまでも小生の感覚のおいてのお話しでございます。そう言えば、以前、人出の少ないこの時期を選んで、旧尾張国から旧美濃国南部に歴史探訪を出かけたことがあります。まぁ、文化財を巡るフィールドは、そのほとんどが野外でありますし、古建築も内部に暖房機器などがあろうはずもございません。ただ、東京より相当西に位置する愛知県から岐阜県南部なら寒さも大したことはあるまい……、そもそも日本で2番目の広さを誇る濃尾平野なのだから高度のあるところでもないし……と、高を括って出かけたのが素人の浅はかさでした。小生の愚考をあざ笑うがごときキンキンに冷えた北風に四六時中晒され、少々薄着であったこともあり相当に難儀した記憶がございます。よく晴れていて、雪も一切積もってもおりません。しかし、吹き付ける風は身も凍りつくような低温で、寺社巡りもそこそこに、度々暖かい茶店にしけ込まねば耐え難いほど過酷な陽気でございました。そして、これが世に言う「伊吹下ろし」であることを思い知ったのでございます。しかし、時既に遅し……。逆に、這う這うの体で帰り着いた東京駅で、車両を降りた途端に実感したことは、濃尾平野と比較して関東平野が何とまぁ温暖であるかということでした。毎日の通勤で寒い寒いなどと言っていることが、如何に軟弱な言い分であるかを心底思い知らされたものでした。その時ほど、関東に生まれ育ったことに感謝したことはございません。
さて、寒さ談義はここまでとし、今回は千葉市美術館で現在開催中の「亜欧堂田善-江戸の洋風画家・創造の軌跡-』展について御紹介をさせていただこうと存じます。亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)[1748~1822年]と言ってもさほど広く知られる人物ではございますまい。少なくとも、代表作が眼に浮かぶという方は極々稀だと存じます。現行の教科書は手元にないので分かりかねますが、ちょっと昔の「高等学校日本史B」2006年(山川出版社)を紐解くと、平賀源内・司馬江漢と並んで太文字記載されておりますから、どこかで聞いたことがあるという方は、教科書の記憶があるからだと思われます。彼ら三人の名が挙がっているのは、江戸時代の後期「化政美術」の項目であり、「南蛮人がもたらしたのちに途絶えていた西洋画が、蘭学の隆盛につれて西洋絵画の技法が油絵具とともに長崎を通して伝えられ、日本人による油絵の作品も生まれた」との文脈とともに、代表的な作者として説明されております。国内で、伝統的な「日本画」とは異なる、主に油彩で描かれる「洋画」が、広く一般的に描かれるようになるのは、その技法が周知される明治以降のこととなります。しかし、教科書に斯様に記されている如く、江戸時代以前にも西洋画の技法に倣った絵画を描く動向も見られたのです。長崎を窓口にして西洋から伝わった油絵具を使用して絵を描くこと、及び「遠近法」「陰影法」等々の西洋の描写法を積極的に採用して、日本人によって描かれた“西洋画風”絵画がそれであります。そうした“なんちゃって西洋風絵画”を、正真正銘の「洋画」と区別して一般的に「洋風画」と称しております。そして、今回話題とする亜欧堂田善もまた「洋風画」作者の一人となります。そこで、田善について語る前に、まずは日本における「洋風画」の流れを簡単に辿ってみましょう。概ね三つの時期に分けてとらえると分かり易いかと思われます。
日本における洋風画の「第一期」とは、大航海時代に南蛮人(スペイン・ポルトガル)が来訪してキリスト教(カトリック)に付随して宗教画を伝えた「安土桃山時代」のこととなります。すなわち、宣教師が各地に建設した教会や教育機関で西洋画が伝えられ、それを見よう見真似で日本人の手によって描かれた絵画となります。技法的には日本古来の伝統的な絵画技法を用いてはおります。また、「洋風画」ではありませんが、この時期には狩野派等の絵師により南蛮風俗を描いた屏風なども残されております。続く「第二期」は、鎖国政策の下で貿易が行われていた長崎で花開く「長崎派」の潮流となります。つまり、オランダから持ち込まれた油絵具を用い、洋書の挿絵等を手本に描かれた作品群であり、平賀源内(1728~1780年)などもその一人に数えられます。そして、「第三期」が、所謂「秋田蘭画」と称する絵画の流れであり、18世紀後半に出羽国久保田藩第8代当主の佐竹義敦(1748~1785年)[号“曙山”]が、領内の鉱山開発を進める中で平賀源内を招いたことから久保田藩で花開いた「洋風画」の潮流となります。作者として佐竹曙山やその家臣である小田野直武(1750~1780年)等の存在がございます。そして、今回の主人公である田善の「洋風画」は、以下に述べるように、師筋にあたる司馬江漢(1748~1818)や、実際に長崎へ遊学していることから考えて、この「長崎派」の流れに位置づくものと考えて宜しいかと存じます。
さて、亜欧堂田善に話題を戻します。田善の実名は永田善吉であり、寛延元年(1748)に農具商・染物業等を営む永田惣四郎の子として、陸奥国須賀川(現在の福島県須賀川市)に生まれております。苗字と名前から一文字ずつとって「田善」と称したと言います。「亜欧堂」は号であります(命名の由来については後述)。田善は生来作画を好み、安永元年(1779)伊勢参宮の折、伊勢国宇治山田にある寂照寺の僧月僊(げっせん)に画を学んでおります。そして、何時か絵師として立ちたいとの志を抱きながらも、奥州街道の一宿駅にすぎない須賀川の地で、前半生を染物業にせざるを得ない境遇を託っていたのです。そのような田善に、ある日天啓の如き転機が訪れることになります。ここで登場するのが、皆さんもご存知の松平定信(1759~1829年)であります。定信が老中首座として天明7年(1782)から寛政5年(1793)にかけて幕政改革を主導したことはよく知られておりましょう(所謂「寛政の改革」)。その定信が諸々の事情で老中を辞した寛政6年(1794)、奥州白河藩主であった定信が領内巡遊の折、須賀川の安藤家で偶然に田善描く「江戸愛宕図」に目をとめたことが契機となりました。定信は早速に田善を引見し、田善を取り立て扶持を賜るだけではなく、帯刀を許し士分ともしたのです。何故定信は田善を取り立てたのでしょうか。
そして、田善は定信の居城である白河城(小峰城)三の丸にアトリエを構えることを許されていた江戸の絵師である谷文晁(1763~1841)に弟子入りし、絵画について正式に学ぶことになりました。文晁は田安家に仕えており、定信にその作画能力を高く買われていたのです。実際に、老中辞任直前寛政5年(1973)には、屡々日本近海に来航するようになった異国船からの防備を固めるための事前調査として、沿岸部調査を目的とする巡航への随行を許されております。勿論、単なる船旅ではなく、能う限り真景に近い沿岸風景を記録させることを目的とした随行でありました。当時は未だ写真の技術は開発されてもおりませんでしたし、狩野派のような絵師が描く風景絵画は写生ではなく、絵画表現のために相当にデフォルメされたものでしたから、正しく地形を捉えるという意識は風景画には認められませんでした。そうした中で、文晁は西洋絵画の技法を学び、その手法をとりいれた画期的な沿岸風景図「公余探勝図」を纏めることでその責を果たしたのです。ということは、定信は偶々眼にとめた田善の作品に、文晁の後継者たり得る資質を認めたのということだと思われます。「亜欧堂」の堂号は「アジア(亜)とヨーロッパ(欧)に亘る」の意味を有するものであり、定信より授けられたものと言います。更に寛政8年(1796)には小峰城下に屋敷を賜って移り住むことになるのです。
こうして、定信に見いだされた田善は、文晁の下での学びながら、定信から命じられた「銅版画」の技法の習得にも取り組んだものと思われます。定信は、西洋から伝わった書物に掲載されている図版に用いられている「銅版画」の技術が、医学や地図等の実用的な目的に大いに役立つものと考えており、それにふさわしい人物と探索していたと考えられると、今回の展示会主担当である千葉市美術館学芸員の松岡まり江氏は述べていらっしゃいます(C’n scene news vol.106)。一説には「洋風画」の先駆者であり「銅版画」を既に手掛けていた司馬江漢にも師事したらしき記録も残ります。この記録は、幕府から蝦夷地・樺太の探検を命じられた間宮林蔵(1780~1844年)が帰還後、その地図の考訂をした際「永田善吉に命じて銅版に鐫(せん)せり」(“鐫する”とは“彫りつける”こと)とあること。更に、司馬江漢と親交のあった伊能忠敬(1745~1818年)が江漢から聞き取ったことを、後に林蔵が口述した記録が残っており、そこには以下のような記述があります。測量地図製作の関係により、予て伊能忠敬と間宮林蔵とは深い親交があったのです。
銅版を鐫せる永田善吉は、奥州須賀河の人なり。初め白河候の命をうけて銅鐫の事を司馬江漢に学ぶ。然れども性遅重にして肄行(いぎょう)[技を習得する]運用にうとしとて、江漢これをしりぞけしとなり。その後善吉はその習う所に刻意して、逆にその妙を得、銅鐫のわざは江漢が上にいでし。江漢もその人をあふりしりぞけし事を自悔して、善吉のわざを称賞し、善吉はまことに日本に生まれし和蘭陀人なりと、しばしば伊能子(忠敬のこと)にいわれしとなり。 (『東韃紀行』間宮林蔵) |
要するに、田善は江漢に師事したものの見放されることとなり、銅版画の技術習得も儘ならなかったようです。そこで、定信は寛政11年(1799)長崎への公費遊学を命じたのです。そして、彼の地で4年間に亘ってその技法の習得に努めたと伝えられます。その結果、銅版画の技術は江漢を大きく凌ぐようになったこと、その結果、江漢は田善を退けたことを後悔するとともに、田善の技量を大いに賞賛するようになったこと。それを記したのが上の記事となりましょう。
ここで銅版画について簡単にご説明しておきたいと存じます。まず「版画」とは、一点物の「肉筆画」と異なり、何らかの方式で“版”を作成し、それに絵具(インク)を載せて刷ることによって成立する、絵画の一ジャンルであります。従って、大量に複製画が出来上がるため基本的に安価で入手ができることになります。“版”の作成方法は幾つかありますが、基本的には以下の四つとなります。木版画を代表とする“凸版画”、主に銅版画に用いられる“凹版画”、リトグラフのような“平版画”、そしてTシャツに絵柄を印刷するシルクスクリーンのような“孔版画”となります。更に、それらの中に様々な技法のヴァリエーションがございます。その内の凸版画である木版画は、所謂「浮世絵(錦絵)」で用いられている技法であり、当時も日本で広く行われていた技法です。次に田善の学んだ凹版画の一つである銅版画とは、金属板に絵画表現したい部分を尖ったニードルやビュランといった特殊な道具で削って描き、その溝に残ったインクだけをプレス機を用いて紙に写しとる版画となります。このための技法としては、様々な方法がありますが(メゾチント、エングレーヴィング等々)、江漢や田善が用いた手法は「エッチング」と言われる技法であります。
この技法は、銅板全面に腐食防止剤(グランド)を塗り(日本では漆を用いたと考えられています)、その板面に硬いニードルで絵を描き(つまりグランドを削り金属面を露出させる)、その後に銅板を硝酸に浸して暫し放置します。すると、絵として残したい削った部分だけが酸で腐食して溝が出来上がります(濃淡は酸に浸す時間で調整します)。そうして完成した銅板全体にインクを塗ってから拭き取ると、溝にだけインクが入り込んで残ります。それをプレス機にかけて紙に写し採るという方法となります。小学校の時にアクリル板を用いて版画を制作したことがありませんでしたでしょうか。原理は同じ事です。文字にしてしまえば至って簡単に見えますが、実際には大変に細かでデリケートな作業を擁する技術です。田善の作品には1cm四方に80本もの溝が刻まれているそうで、これによって西洋画の特色でもある微妙な陰影が表現できるのです。ここからもお分かりの通り、筆で絵を描くという修練の他に、以上の腐食の技術を会得しなければ、銅版画を制作することはできないのです。従って、殆ど技術の知られていない江漢や田善の時代には、暗中模索の中での困難を極めた作業であったことと思われます。
遊学先の長崎から戻った田善は、江戸で銅版画の実験制作を重ねて技量を高めていき、当時としては最高峰ともいえる銅版画の技術をマスターするだけではなく、卓越した技術に基づく、絵画としての表現にも優れた作品を多数残しました。また、同時に習得した遠近法や陰影法等の洋画の表現手法を用いた、肉筆画の分野の名作を残しました。当時は、銅板や腐蝕に用いる硝酸の入手は簡単ではありませんでしたし、モデルとなる西洋の版画作品も手軽に入手はできませんでした。それを可能としたのは、偏に蘭学者を抱え、西洋の先進技術に関心の高い白河藩の存在あってこそでございましょうし、多くの洋書を入手できる環境を有するとともに財政支援を惜しまなかった藩主松平定信の存在あってのことでありました。今回の展示会でもモデルとなった西洋版画と田善がそれに倣って制作した版画とが比較して展示されており、次の段階としてその技術を江戸の風景画に転じていく発展の過程が明瞭に読みとれるように構成されております。また、肉筆の「洋風画」作品も相当数制作しております。本展ではそれらも展示されており、その卓越した技量も見て取ることができます。小生が楽しみにしているのは、前々回の本稿でも取り上げた「今戸焼」を採り上げた『今戸瓦焼図』であります。隅田川に接するだるま窯で正に瓦を焼成している光景を描いております。ここで注目すべきは、黒々とした煙の存在です。小生は図版でしか見たことはなく、実物をみるのは初めてとなりますが、本作品における田善の関心事は「煙」を如何にリアルに描くかにあったのではないかと考えます。田善の生地須賀川もまた瓦の生産が盛んであり、幼少期に飽きもせず窯から立ち昇る煙を眺めていたとの口碑が伝わります。田善としては、日本画では表現し得ないリアルな煙の姿を描くことを可能とした洋画表現を完成させた、記念碑とも申すべき田善会心の一作ではなかったかと考える者です。
さて、その後の田善でありますが、文化13年(1816)定信の子である松平定永(1791~1838年)が桑名へ転封となったのを機に、白河藩の御用絵師を辞し、須賀川に帰郷して町絵師としての活動をすることになりました。その後も銅版画制作を続けようとしていたようですが、エッチングに必要な銅板や硝酸の入手が難しいことから、次第に「洋風画」を描くこともなくなり、月僊や谷文晁仕込みの日本絵画へと回帰していくことになったのです。地元民を対象として描いた当該時期の絵画も地元須賀川には相当数が残されているそうで、今回展示会でも出品されております。しかし、経済的には苦しかったようで、文政5年(1822)75歳で没し、須賀川の長碌寺に埋葬されました。しかし、彼の「洋風画」は、時代の婀娜華として一筋の光芒として消え去ったのではなく、その「洋風表現」は葛飾北斎・歌川国芳らの浮世絵にも多大な影響を齎したと考えられております。余計なことですが、後に日本特撮の神とも称されることとなる円谷英二(ゴジラ映画・円谷プロダクションの創始者にしてウルトラシリーズの父)も須賀川の産であり、何と!!田善の後衛にあたるそうです!!血は争えないということでございましょうか。これには大いに驚かされた次第でございます。
さて、千葉市美術館では開館以来。「近世絵画」コレクションの充実とその紹介を大きな柱として据えて来られました。更に、特に当時のアカデミズムに属する流派とは言えない(狩野派・土佐派等々)、どちらかと言うと“異端の画家の系譜”に焦点を当てた画期的な展覧会を開催されて来られました。今回の亜欧堂田善展もそうした館の方針の一環に位置づくものと申せましょう。これまでも田善を扱った展示会はございましたが、管見の限り展示総数250点余りに及ぶ、これだけ大規模な田善の回顧展は初めてだと思います(重要文化財15点、重要美術品1点が一同に会します!)。観覧料は¥1.200、展示図録は300頁を超える大部な冊子で一冊¥2.750と、何れも少々お高めの価格設定となっておりますが、極めて充実の内容でありますから全く不満はございません。いや、むしろこれだけの充実の内容にしてはお安い位だと存じます。まさに一生の宝物級の展示会に他ならないと考えます。会期等を最後に記しますが、会期は前後半二期で構成され、前後半で大幅な展示替がなされるそうです。当然どちらか一方にしか展示されない作品がございます。小生は、過日図録のみを購入に脚を運びましたが、展示会場を拝見せずに戻って参りました。何故なら、小生が是非ともこの目で拝見したいと思っている上述の『今戸瓦焼図』は後期のみの展示となるからです。流石に前後半両者を拝見する余裕はございませんから。前後期の展示品については千葉市美術館のHPにてご確認できると存じます。
最後に、本展のチラシと図録から、「展示概要」「展示構成」「展示スケジュール」を掲げさせていただきました。ご覧いただき、ご興味が沸くようでしたら是非ともお出かけくださいませ。それこそ、今後数十年間は、これだけ大規模な田善の回顧が開催される可能性はございますまいから。
展示概要(「亜欧堂田善展」のチラシより)
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展示構成(「展示図録」の目次より)
・兄・崑山と最初の師・月僊
・白河藩主・松平定信、谷文晁との出会い
・同郷の画僧・白雲
・洋風画の先駆者・司馬江漢
・松平定信のネットワーク・鍬形蕙斎
・リーディンガー『トルコの馬飾り・諸国馬図』に学ぶ
・洋風表現の模索
・洋風風景表現の広がり ― 江漢、田善と浮世絵
・江戸の風物を描く
・洋風画の成熟
・西洋画法の摂取
・初期の模索
・《銅版画見本帖》(十二図)とその周辺
・技術と表現の深化 ― 小形江戸名所図から《大日本金龍山之図》まで
・実用銅版画の高みへ ― 『医範提鋼内象銅版図』から《新訂万国全図》まで
・田善とテンセン
・須賀川の田善
・月僊と田善
・須賀川ゆかりの作品
・須賀川系洋風画 ― 田善の弟子とその周辺
・浮世絵への波及
・後続の銅版画家たち
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展示会スケジュール
・前期展示 1月13日(金曜日)~2月 5日(日曜日) ・後期展示 2月 7日(火曜日)~2月26日(日曜日) 休 館 日 2月 6日(月曜日)
会 場 千葉市美術館 ・〒260-0013 千葉市中央区中央3年10月8日 ・TEL 043-221-2311(代表) |
2月「如月」に入り、本日は「節分」となります。各地の寺社では盛んに豆撒きが行われ、恐らく夕方のニュースで広く採り上げられましょう。例年申しあげておりますが、本日の帰宅後には小生も若干の遠慮をもって「鬼は外!福は内!!」とやらかすことになります。ということは、翌日が「立春」。明日からは、暦の上では「春」になります。まだ寒さはこれからが本番かと存じますが、徐々に梅の蕾が膨らみ始めることでございましょう。一気に暑くなるのは御免被りたいところですが、やはり花の便りには心を沸きたてられます。トップバッターは「辛夷(こぶし)」あたりでしょうか。真っ先に春の訪れを告げる、その開花が待ち遠しいことでございます。
冒頭歌は、そんな当方の思いと気脈を通じる作として選ばせていただきました。作者は、小生が心の底より敬愛し、もし時間旅行が可能であったなら、是非この方の謦咳に接したいと請い願う太田垣蓮月(1791~1875年)でございます。蓮月は“寛政の世”に京師に生まれ、生涯の殆どを彼の地で送った人であります。相次いで大切な身寄りを亡くし、髪をおろして出家の身ととなり「蓮月」を称しました。歌人として、いや、同時代にはむしろ陶芸家として知られておりました。自身の詠歌を刻んだ“手づくね”の茶道具(急須等)などを販(ひさ)いでは日々の暮らしの足しにする、まさに清貧な晩年をおくった人でございます。その頃に寺子として面倒を見た人に、後に明治「文人画」の大家中の大家として夙に知られることとなる、あの富岡鉄齋がいたことでも知られます。鉄齋もまた、蓮月尼を実母のように心底慕った人でございました。明治8年(1875)12月に85歳で虚しくなられましたが、別れを惜しんだ西賀茂村の住人が総出で、涙ながらの弔いをしたと伝えられます。冒頭歌は、俗に言うところの名作・名歌の範疇には入らないかもしれませんが、蓮月の為人(ひととなり)とその生涯を知れば、誰の心にも静かに染み入るような、そんな感銘を受ける作となっていると存じます。正に「作品は人なり」を体現するような和歌だと思います。斯様な澄んだ心で寒さ厳しき日々をおくれたら……何と倖せな境遇でございましょう。蓮月という方は、この歌のような晩年を送られたお人なのです。蓮月尼については、何れ機会をみて改めて採り上げさせていただきたいと存じます。
さて、過日(1月22日)を以って、1階展示室で開催していた「遺物から見える地域文化の発達」(公益財団法人千葉市教育振興財団主催)が終了し(同展示会は2月3日~3月5日の会期で「千葉市埋蔵文化財調査センター」にて後期展示を行います)、現在1階展示場では、昨年開催「千葉氏パネル展」以前に展示しておりました「千葉市の遺跡-中世城館跡-」展示が復活しております。こちらは、本館の建つ猪鼻城跡の発掘調査の成果を出遺物とともにご紹介する内容でございます(なお、地名は「亥鼻」ですが遺跡名としては「猪鼻」と記述するのが正式です)。しかし、過去の展示会を単純に繰り返すのも芸がございません。そこで、時あたかも令和5年のNHK大河ドラマ「どうする家康」が始まっていることをこれ幸いに(平たく申せば“便乗”して)、城館展示の内容とも合致する、徳川家康と関連する内容を新たに付加する展示構成といたしました。要するに、千葉市域内には徳川家康と関わる城館が存在するということでございます。こうした事実は、歴史愛好家にとっては周知のことでございましょうが、一般市民の方々には必ずしも知られぬことと存じますので、タイトルも“大河ドラマ”に準じたものとし、これを機に「徳川家康と千葉市域との関係」を広く市民の方々に知っていただこう……と目論んだということでございます。
本来であれば、斯様なテーマでの展示会であれば「特別展・企画展」レヴェルでの開催が順当かと存じます。しかし、現状において千葉市として最優先をするべきは、令和8年「千葉開府900年」でございます。つまり、千葉市では何を措いても「千葉氏推し」でありまして、当該年度までは特別展にて家康を採り上げる予定はございません。企画展ではどうか……とのお声も上がろうかと存じますが、一方で本館では令和8年度末刊行にて一先ず完結を見る『千葉市史史料編 近現代』を編纂中でございます。従いまして、企画展では少なくとも次年度から次々年度辺りまでは千葉市内の「近現代」周辺の題材を扱うことを優先にしたいと考えております。従って、残念ながら暫くは徳川家康の御出座を仰ぐチャンスはない……というのが実際でございます。まぁ、徳川家康はビッグネームでございますから、遠からず大河ドラマで採り上げられる機会がございましょう。次の機会を待ちたいと存じます。ただ、「どうする家康」をみすみす逃してしまうのも如何なものかと、これを機に「中世城館」紹介の一環に徳川家康を位置付け、家康と千葉市域との関係、及び市内に遺構の残る家康関連「城館」を取り上げる「ミニ展示」を行うことにいたしました。
ところで、昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」からバトンを引き継いだ「どうする家康」でございますが、既に4回分の放送が終わったところであります。昨年は、前半(頼朝編)の余りにゆったりした物語展開の煽りを喰って、期待していた肝心要の後半(北条義時編)が相当に快速運転となってしまったように感じさせられました(逆に千葉常胤が10月初旬まで登場するという幸運にも繋がりましたが)。その反省に基づいてかどうかは知りませんが、「どうする家康」では初回にいきなり今川義元が討ち取られてしまうなど矢鱈と急展開であります。義元を演じる野村萬斎氏の立ち居振る舞いが流石に美しく気品があって大いに感銘を受けただけに、まさかの初回退場は大いに残念ではございました。まぁ、以降では、流石に時代を少しばかりは行き来しながら物語展開がされるのでしょうから、萬斎再登場(回想!?)の機会もございましょう。大いに楽しみにしていたいと思います。ただ、4回を拝見しての印象として、ここのところの大河ドラマの潮流である「チョンマゲ・ホームドラマ」的傾向が濃厚と感じます。しばし、視聴を続けて物語の動向をしかと見極めたいとは存じます。
さて、徳川家康が生涯に亘って「鷹狩」を愛好したことはよく知られておりましょう。「鷹狩」とは、訓練した鷹を用いて、鶴や兎などの動物・鳥類を捕えさせる狩猟であります。鷹が狩りをしやすいように、獲物を叢から平地へ追い出すのは人が行う必要がありますので、それなりの人数を要します。それが軍事行動にも通じるため、その訓練に準じて行われることも多くあったのです。家康による「鷹狩」の記録は、今川家の人質として過ごした駿府の頃まで遡ります。そして、天下人となって慶長8年(1603)征夷大将軍に補任され江戸に幕府を開き、2年後に地位を秀忠に譲って駿府城に居を定め大御所として実権を掌握。そして、元和2年(1616)齢75にて彼の地で没するまで、生涯に何と一千回にも及ぶ「鷹狩」を行ったと言います。特に、駿府城で大御所として過ごした晩年には、毎年秋に東海道を下って関東に至り、相模国・武蔵国・上総国・下総国の各地で「鷹狩」を楽しんでおります。「鷹狩」自体は遊興(レクレーション)でありますが、「関ケ原」の余燼未だ燻る中、各地域の民情を視察する意味合いも有していたでしょうし、更には、家臣の尚武の気風の涵養(軍事行動の演習)や、自らの健康維持のためといった意味合いもあったものと思われます(家康は相当な“健康おたく”でもありましたから)。その関東各地で広域に挙行された家康の「鷹狩」でありますが、最晩年におこなわれた房総の地でのそれが、他地域での「鷹狩」と大きく異なる点は、新規に道路まで造営して行われたことです。それも、“ちょっとやすっと”の距離ではございません。この新道ルートは、既存の房総往還「船橋宿」で分岐した佐倉(成田)街道を進んだ先、現在の津田沼の手前で佐倉(成田)街道から分岐して東金に至り、更に東金市田間から九十九里海岸に程近い山武市小松までに及ぶものであり、その距離は合計40km程にも達します。地形の高低差を一切無視して、基本的に起点から終点までを一直線に結ぶルートが採られております。つまり最短距離で両地点を結ぶ道路なのです。
家康が東金周辺での鷹狩を決めたのは慶長18年(1613)12月のことであり、当時佐倉城主であった腹臣の土井利勝に命じて新道造営を担当させております。翌元和元年(1614)1月に着工し、おそらく同年11月に完成したのが、船橋から東金に到るほぼ一直線の道路と、東金市田間から山武市小松に到る一直線の道路(「御成新道」)であります。後者は俗に「新道」と称されますが時間的な前後関係があるわけではなく、両道ともに一体の道路として造営されております。この新道は「三日三晩」で造営したとする伝承もあります。しかし、それは飽くまでも“言い伝え”と考えるべきものであり、上述したように10カ月間の工事で完成したと考えられます。それでも、相当に短時間での造営であることは間違いありません。そのことを象徴的に言うための言説であると思われます(よく言われる「一夜城」のように)。
家康が、実際に東金方面への鷹狩を行ったのは、慶長19年(1614)1月とのことですから、上述のように、思いついてから凡そ“一月ほど”での実施となり、事前の手筈を整えてからの実際の工期は、極めて短期間で造営されたとの伝承がもっともらしく思えます。事実、東金御成街道の研究者として知られる故本保弘文先生もその説を採っております。しかし、現代の重機をフル活用しても、斯様な短期間で40kmもの道路をかほどに短期間で造営することは難しかろうと思われます。これにつきましては、簗瀬裕一氏による明快なご指摘がございます。それは、『徳川実紀』に見える家康が訪れた「千葉」を、現在の千葉市若葉区御殿町に遺構が残る「御茶屋御殿」に比定するという、事実誤認から生じたものであるということです。このことは、以下でも触れたいと存じますが、そもそも、「御茶屋御殿」は今でこそ「千葉市域」に含まれますが、当時この地が「千葉」と称されることはあり得ません。当時の「千葉」とは、少なくとも現在の千葉市中央区に属する旧千葉町にあたる中心部だけに限られます。つまり、これまで「千葉御茶屋御殿」と称されていた御殿と、「千葉御殿」とは全くの別物であるということなのです。従って、最初の家康の東金への鷹狩は、船橋から房総往還を通行して「千葉」に至り、そこから土気往還を辿って大網に至り、そこから東金に到達したのが事実として正確であるということになります。そうであれば土気の地に休憩所としての「土気の茶亭」が造営されたことも腑に落ちます(「土気の茶亭」は東金御成街道とは全く明後日の場所にあります)。つまり、この段階では、東金御成街道も「千葉御茶屋御殿」も、未だ造営・建設の途上にあったのであり、従って、既存の道路網を用いて東金に到ったということになります。
しかし、東金方面への「鷹狩」のために、何故新道の造営が必要とされたのでしょうか。当時の幕府・家康の置かれていた状況とは、以下に述べるように「家康は鷹狩が好きだったから」で説明できるほど余裕綽々ではございませんでした。中世以来の東金往還や土気往還といった既存のルートも存在しておりましたし、わざわざ時間と労力をかけて新道を建設する必要などなかったと考えるのが至極当然だと思われます。実際、上述の如く慶長19年1月には当該ルートで東金に向かっていることがほぼ確実です。東金と土気を本拠とする戦国期の国衆「酒井氏」にとって、支配領域と現在の東京湾に面する千葉の地を結ぶルートの確保は重要でありましたから、既存の道路網は完備していたことと思われます。それにも関わらず、わざわざ新道を造営する必要性は那辺にあったのでしょうか。その解明には、東金御成街道が造営に関わる元和元年(1614)~元和2年(1615)という時節が、江戸幕府(徳川家康)にとって如何なる状況にある時期なのかを確認をしてみれば自ずと明らかになります。年表で追ってみると、家康が東金周辺での鷹狩の意向を伝えた慶長18年(1613)年12月には「キリシタン禁教令」が布告されており、年が改まった翌慶長19年[元和元年](1614)1月には小田原城主の重臣“大久保忠隣”が改易されております。そして、同年9月それに連座する形で南総の外様大名“里見忠義”が安房の地を没収され、伯耆国倉吉3万石に転封となっているのです(実質的には改易)。しかも、東金御成街道の造営工事がほぼ完成したと考えられる同年11月には、「大坂冬の陣」が勃発しております。つまり、江戸と大坂との間で極めて重大な軍事的緊張状態にあったのが、この時期と言うことになります。呑気に鷹狩をしているような時期ではないのは申すまでもございません。まして、「鷹狩」のために家臣や領民を造営事業に駆り出しているような事態ではありません。
従って、東金御成街道の造営の目的には、「鷹狩」に託(かこつ)けた他の重大な理由があったことを想起せざるを得ません。ここで、重要なことは、東金御成街道が一直線(最短距離)で目的地を結ぶ道路だということであります。政治的な目的で造営された古代官道は基本的に広幅員の直線道路でありますし、戦国期に武田信玄が造営した軍用道路「棒道」も目的地へ最短距離で到達できるように直線に近い形で造営されております。そもそも、道路を直線にするということは、地形的条件を一切無視することでありますから、必然的にアップダウンを繰り返す道路となります。自動車が輸送手段である現代ならいざ知らず、人力や牛馬等動物を移動・輸送手段とする時代には、基本的に避けなければならない道路造営であります。実際に、中世・近世の道路がクネクネとくねくねと曲がりくねっているのは、高低差を避けて、できる限り平坦な土地を辿って道を造営するからであり、決して好き好んでそうしているわけではありません。つまり、この東金御成街道もまた、何らかの「政治的(軍事的)な意図」を有していたことを想定すべきでございましょう。
そうであれば、この道が最終的に外房の九十九里海岸の程近くまで至っていることに、最大限の注目を向けるベきものと考えます。豊臣氏との決戦前夜に大坂とは逆方向に軍用道路を造営する必要性として、最も説得力のある仮設は、大坂との合戦に徳川勢が敗れた場合の、“緊急避難路”としての造営を兼ねていたということかと存じます。つまり、最短距離で江戸から太平洋へと至り、九十九里浜から船舶で何処かへと海路で退避するための道ということになります。そう考えれば、慶長19年(1614)9月に里見氏が南総の地を追われていることの意味も理解しやすくなりましょう。房総の地に敵対勢力と転ずる可能性の大きな外様大名を置いておくことは避けなければならないからです。東金御成街道の完成は同年の11月と想定されます。そして、こうした条件整備の末に、元和2年(1615)4月の「大阪夏の陣」が位置づくということでございます。我々は、歴史を振り返って眺めることができますが、同時代の感覚に照らせば、難攻不落とされた大坂城に陣取る豊臣秀頼の存在は決して侮る状況にはありませんでした。家康ですら100%勝利できるとの確信が持てなかったのではありますまいか。そもそも、合戦においては、「もしも敗れた場合の善後策」を事前に決めておくのが当然のことであります。そのことに「鷹狩」を口実とする避難経路造営が組み込まれていたとするのならば、「石橋を叩いて渡る」家康の用意周到さが際立つように思われませんでしょうか。勿論、こうした推論は、本保先生を始めとする多くの先学の方々が指摘されておることであり、小生のオリジナルではございません。しかし、改めて、自身でも前後関係を精査したことで、「東金御成街道」の造営目的について確信に到ったとの思いです。皆様は如何でございましょうか。そして、家康の2回目(最後)の東金への鷹狩は、元和元年(1615)8月「大阪夏の陣」で豊臣氏滅亡後の同年11月のこととなります。勿論、その時点では新規に造営され、完成をみていた「東金御成街道」と「御茶屋御殿」が利用されたことでありましょう。そうであれば、この段階では最早本来の造営目的は滅失しており、純粋な鷹狩のための道として機能していたことになります。
余談でありますが、『徳川実紀』によると、家康は、慶長15年(1610)にも「上総」で鷹狩を行ったとの記事がございますが、具体的な場所は記されません。これも東金であれば、その際にも千葉市域を通過している可能性が大きいものと思われます。そうであれば、千葉市域に3回来訪していることになりますが、以後の本稿では1回目を慶長19年(1614)1月、2回目を元和2年(1615)11月として扱って参ります。
(後編に続く)
続いて、徳川家康による東金方面への「鷹狩」に利用された宿泊・休憩のための施設についての確認をしておきましょう。前編で述べましたように、家康の東金方面への2回の鷹狩に利用された宿泊・休憩施設として、青戸御殿(現:東京都葛飾区)、船橋御殿、千葉御殿、御茶屋御殿、土気の茶亭、そして東金御殿の6つが挙げられます。将軍家は、「鷹狩」を始めとする遊興や上洛などの利用に供するための宿泊施設・休憩施設を設けておりました。基本的に、宿泊施設として利用されたものを「御殿」、休憩施設として活用されたものを「御茶屋」と呼んでおります。宿泊施設の「御殿」には、食事を整えるための施設としての「賄屋敷」が付属するのが基本となります。これらの施設は家康が使用したものに限っても全国に60余を数えあげることができ、その内駿府から関東にかけて造営されたものだけで35程も確認できます[ブックレット19『徳川御殿@府中』2018年(府中市郷土の森博物館)]。
東金方面への「鷹狩」で使用された御殿・御茶屋の内、千葉市若葉区御殿町に残る「御茶屋御殿」については、明らかに街道造営と同時に新規に設けられた施設だということが明確です(宿泊・休憩の双方の施設名が並列して呼称されておりますが、ここは休憩施設としての御茶屋となります)。何故ならば、東金御成街道を基軸に造営されていることが明らかだからです。つまり、街道から170m程奥まった地点に造営された方形区画と内部建物遺構ともに、東金御成街道に直交するプランにて造営されているのです。この地は、都市的な場では全くなく、広大な台地上の「野」(うつし野)でありましたので、新規造営をする以外の選択肢がなかったものと思われます。一辺が約90mのほぼ正方形の平面プランを有し、周囲を取り囲む土塁と空堀が良好に残存している、全国的に見ても極めて貴重な遺構となっております。「千葉市指定史跡」となっておりますが、全国に数多ある将軍家の御殿遺構中、これほど良好な状態で残る御殿・御茶屋遺構の類例はありませんので、「国指定史跡」であっても微塵も不思議ではありません。しかも、廃絶後に内部は畠地として利用されただけでしたので、地下遺構が破壊されずに残っておりました。従って、敷地のほぼ全面が発掘調査された結果、御茶屋の中に如何なる施設が何処に建てられていたのかも判明しております。想定される復元絵図もミニ展示では掲げております。その他、「土気の茶亭」も新規造営されたものと考えられます。御茶屋としての遺構は明瞭ではありませんが、該当地(大網白里市池田)には日吉神社があり、地元では「権現様」と言い慣わしているそうです。ただ、ミニ展示「きてたの!? 家康」では、家康との関係深い「御茶屋御殿」(若干「千葉御殿」)を採り上げております。
しかし、その他の御殿は、基本的に中世から伝わる何等かの関連施設を転用したものであったものと考えられます。江戸の地から東金までにいたるルートに沿って確認すれば、江戸から出発して最初に宿泊するのが「青戸御殿」となります。こちらは、発掘調査の結果、中世に頻繁に関東戦国大名の争奪対象となった「葛西城」の遺構を転用したものであることが明らかになっております。続いて「船橋御殿」でありますが、こちらも意富比(おおひ)神社[現:船橋大神宮]神主である富(とみ)氏の中世における屋敷地を転用したことがわかっております。船橋宿の外れで房総往還と佐倉(成田)街道が分岐しますが、後者の道筋をとって進むと、現在の津田沼手前の前原で佐倉(成田)街道から東金御成街道が分岐します。そこからは、東金までがほぼ一直線の道筋となります。道は東京湾と利根川流域との分水嶺となる高燥な地点を進み、船橋と東金の中間に新規に造営されたのが、上述いたしました「御茶屋御殿」、そして目的地の「東金御殿」もまた、中世に東金城を本拠とした国衆“酒井氏”の居館跡地を転用したものと考えられます。つまり、大坂との緊張関係の高まる時期が時期だけに、「御茶屋御殿」を除く御殿・御茶屋に関しては、中世の由緒を有する旧施設を転用して再利用していることになります(内部建物は新規に造営した可能性が大きいですが)。
ここで問題とすべきは、家康が、初めて東金方面への鷹狩を行った慶長19年(1614)1月に、「船橋御殿」から移動して立寄った「千葉御殿」についてでございます。この「千葉御殿」とは何処にあり、如何なる由緒を有していたのでしょうか。このことにつきましては、簗瀬裕一「千葉におけるもうひとつの御殿跡」[『千葉いまむかし』2005年(千葉市教育委員会)]が極めて明快な解答を提示してくれております。ここで簗瀬氏が明らかにされたことが、「千葉御殿」が、従来混同されてきた内陸の「御茶屋御殿」とは全く別の施設であり、まさに現在の千葉市中央区の中心街に存在したものであることでございます。因みに、家康の来葉から40年後の延宝2年(1674)に、千葉の地を訪問した徳川光圀(家康の孫)は、『甲寅紀行』にこう記しております。「古城の山根に水あり。『東照宮お茶の水』と云ひ伝う。右の方に森あり。『東照宮御旅館』の跡なりと云ふ」と。ここで言う古城とは現在本館の立地する「猪鼻城」跡のことであり、「お茶の水」とは現在も麓に残る湧水遺構でございます(もっとも本市においては千葉常胤が源頼朝を館に迎えた際に、この水でお茶をたて頼朝に進呈した由来名高いものでございますが)。光圀はこれを伝承扱いしているのに対して、そこから見える家康の「御旅館の跡」については伝承としては扱っておりません。それだけ確信があるのでございましょう。そして、光圀の言う位置関係に鑑みれば、それが現在「千葉地方裁判所・家庭裁判所」のある地であることがわかります。しかも、当地は明治以降の調査からも明らかな通り、「御殿地」との通称地名が付されていたのです。更に、ここは少なくとも明治の段階では、土塁と堀を巡らす方一町ほどの土地であり、明らかに「方形居館」遺構を推定させる場であったのです。
次に、これが家康によって新規に造営されたものか、それとも中世由来の何らかの遺構を転用したものかが問題となります。現在までのところ、現地の発掘調査は行われておらず、文献でも跡付けることができないなど、確たる証拠は見いだせておりません。従って、結論は不明であるとしかいいようがないのです。しかし、想像を逞しくすれば、同時期に利用している青戸御殿、船橋御殿、東金御殿の全てが、中世由来施設の再利用であるのです。そのことに照らせば、千葉御殿のみが新規造営とは考えにくいと思われます。第一、千葉は妙見宮もある都市的な場であり、当時も賑わいを見せていた街場でありました。そもそも、家康が東金への鷹狩を言い出したのが、慶長18年12月であったことに鑑みれば、土地の造成から建物の建設まで1カ月ほどで完了させるのは簡単ではなかったものと想像されます。しかも、繰り返しますが“ご時世がご時世”であります。つまり、中世における方形館遺構の転用という蓋然性は極めて大きいものと考えるのです。そうであれば、中世都市「千葉」における方形館とは、恐らく千葉氏に関連する居館遺構であった可能性が極めて高いということであります。もっとも、「享徳の乱」で本宗家である千葉介胤直が滅ぼされた後、千葉介を継承した一族は、本拠を千葉の地から本佐倉へと移しております。従って、千葉にそのまま使用できる建築物は既に失われていた可能性が高いと思われます。しかし、「御茶屋御殿」のような中世の方形居館遺構は残存していたのではありますまいか。その地に補修を加えて上物を建て活用……という筋書きは充分あり得る可能性かと存じます。もしもこの仮説が正しければ、この地には、中世千葉氏関連の遺跡と遺物が人知れず埋まっている可能性が大きいということになります。可能な限りの早急な発掘調査が必要となりましょう。
さて、徳川家康は元和2年(1616)4月17 日に駿府城にて亡くなっております。75歳の大往生でございました。その後、将軍家による東金方面への「鷹狩」はどうなっていったのでしょうか。『徳川実紀』によれば、千葉・東金方面への鷹狩は、2代将軍の秀忠も引き続いて行っていることがわかります。元和3年(1617)から寛永7年(1630)にかけ、将軍在位期間に6回、大御所時代に4回、合計10 回に亘って行われております。また、3代将軍となる家光も大納言時代の元和6年(1620)に千葉・東金に鷹狩に脚を運んでいることがわかります。その後も船橋御殿が寛永17年(1639)に修理が行われた記録が残ることから、街道と御殿・御茶屋の維持管理が継続されていることも分かります。しかし、千葉・東金方面での鷹狩は、秀忠による寛永7年を最後に実施されなくなります。これには、徳川家光の頃から将軍や大名の鷹狩場が設定されるようになり、概ね江戸から15km以内の近郊での日帰りでの鷹狩になることが背景にあるものと思われます。そして、寛文11年(1671)前後には、船橋・御茶屋・東金の3つの御殿は取り壊されております。こうして、徳川将軍家の通行が途絶えた東金御成街道は、将軍の名代として鷹匠等の鷹役人の通行はあったものの、本来の用途として用いられることはなくなります。
そして、江戸時代中期以降には、船橋から東金へと至る一貫した街道の機能は失われ、幕末から明治にかけてはほぼ廃道と化していたところもあったようです。これは、東金御成街道が「政治の道」として、地形を無視した直線の道として造営されたため、アップダウンが頻出し、人の通行や牛馬を用いての物資輸送には不向きであったこと、更には、内陸部の分水嶺付近を通るため水運(河川交通)との結節点を有しなかったこと等から、「政治の道」から「経済の道」への転換が見込めなかったことが大きな原因となっていると考えます。ただ、地域の道として、また他の街道と結びつく形で、盛んに用いられた区間もありました。18世紀後半に、銚子から江戸まで以下の7つの街場を継立場として荷物が継ぎたてられて陸送されている史料が残ります。ここでは、現在の千葉市から船橋市にかけての東金御成街道が盛んに活用されていることがわかります。つまり、こうした転用がなされなかった東側の区間では圧倒的に利用頻度の低い道として、寂れていかざるを得なかったのだと考えられます。所謂「古代官道」も中世には、そのほとんどが廃絶しているのも同じ理屈だろうと思います。小生は詳しく知りませんが、信玄の「棒道」遺構も現在国道・県道などの幹線道路として活用はされていないのではありますまいか。
飯沼(銚子市)→1.太田(旭市)→2.横芝(横芝光町)→[内陸部に入る]→3.埴谷(山武市)→[現在の八街市内を抜ける]→4.馬渡(佐倉市)→[山梨(四街道市)を経て六方野(千葉市)で御成街道に合流]→5.犢橋(千葉市)→[御成街道]→6.船橋(船橋市)→[佐倉(成田)街道から行徳道に入る]→7.行徳(市川市)→[川船に荷を積み替え新川・小名木川を通行]→江戸 |
最後になりますが、ミニ展示「きてたの!? 家康」展示の一角に、「東金御成街道」研究をライフワークとされ、令和3年(2021)3月に惜しまれつつ物故された、本保弘文氏を追悼するコーナーを設け、先生の著書・編著となる書籍等を展示させていただきました。恐らく、千葉市にお住いの歴史を愛する方であれば、一度や二度は先生の講義を拝聴されたことがございましょう。これを機に先生のことを偲んでいだだければと存じます。小生にとって個人的に大恩ある方でございますし、心底敬愛をさせていただいた先生でございます。早すぎるご逝去は残念以外の何物でもございません。本稿では、本保説を否定して記述している部分もあって、恩知らずと思われるかもしれませんが、柳瀬説に分があるのですから致し方がありません。あの世の本保先生も、ちょっとした毒を交えた“返し”をされた後に、笑って許してくださるでしょう。本保先生とはそういう方でございました。
以下に、本ミニ展示の「総論」(外山総括主任研究員による)、及びこれも展示している「“東金御成街道”研究の泰斗 本保弘文先生を悼む」を引用させていただき、本稿を閉じたいと存じます。ミニ展示でありますので、わざわざこのために来館してくださいとは申し難いのですが、一先ず令和5年5月23日(火曜日)までの会期を予定しております。一日置いて25日から令和5年度「千葉氏パネル展」を開催いたす予定でおります。それまでに、本館を御来訪の際には是非ともご覧いただけますと幸いです。
ミニ展示「きてたの!? 家康」総論
※飼いならした鷹を放して獲物を捕らえさせる狩猟方法。権力者に愛好された。 |
“東金御成街道”研究の泰斗」 本保 弘文 先生 を悼む
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昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放映は、我らが千葉常胤の登場もあって、なんだかんだ言っても最後まで大いに楽しんで拝見をさせていただいた所でございます。そして、よくある話ではありますが、本作は大河ドラマ効果による思わぬ余沢もまた齎してくれたようにも思っております。小生にとって、その一つが、過日本稿で紹介をさせていただいた太宰治『右大臣実朝』(岩波文庫)の刊行でございました。更に、昨年末に河出書房新社より塚本邦雄(1920~2005年)による標題作品が文庫化されたのも、その一つの顕れに相違ありますまい。ドラマで終盤になって大いにクローズアップされた尾上松也演じる後鳥羽院。あたかもそれを狙いすましたかのように、11月下旬に世に出ることとなったのですから。本作は、昭和53年(1978)に集英社から書き下ろし作品として上梓されましたが、随分と昔に絶版となり今では古書で求めるしかございませんでした。平成11年(1999)刊行『塚本邦雄全集』第5巻(ゆまに書房)にも納められましたが、こちらは如何せん高額商品でありまして、小生のような小市民には手が出せません!!半ば諦めかけていた中でのまさかの文庫化でしたので、正に“手の舞い脚を措く能わず”の喜びでございました。価値ある再刊を断行された河出書房新社様には感謝の思いで一杯でございます。
塚本邦雄の小説作品につきましては、昨年は、河出文庫から相次いで、ミステリー作品『十二神将変』と短編小説集『紺青のわかれ』が新装版として再刊されたところでしたので、もしかしたら本作も……と、密かに期待してはおりました。しかし、正直なところまさかそれが現実のものとなるとは思いもしませんでした。流石に文芸書で鳴らした歴史を有する「河出書房」だと、嬉しさも一入であったのです。偉そうな物言いに聞えるかも知れませんが、「流石に分かっていらっしゃる」と思わされますし、痒いところに手が届くとは正にこのことでございます。当社では、他に久生十蘭作品の文庫化も進めてくださっておりますが、この2人の作品には、主たるジャンルは異なれど、どこかしら通底する“味わい”や“匂い”を感じます。案ずるに、こうした毛色の作家と作品群を大切に思われる編集者の方が社内にいらっしゃるのでございましょう。もし可能でしたら、この余勢をかって、本作の姉妹編というべき小説『藤原定家-火宅玲瓏』1973年(人文書院)の文庫化を切望する次第でございます。欲を申せば、併せて『獅子流離譚-わが心のレオナルド』1975年(集英社)、『荊冠伝説-小説イエス・キリスト』1976年(集英社)も所望いたしたいところでございます。この4作にて塚本邦雄の評伝小説を網羅できますゆえ。河出書房さんの英断に大いに期待したいと存じます。
さて、『菊帝悲歌-小説後鳥羽院』でございますが、タイトルで一目瞭然のごとく、塚本邦雄が終生に亘って敬愛を捧げた、歌人としての後鳥羽上皇(以後、後鳥羽院)を中心に描いた小説作品でございます。塚本と申せば、本稿にて何時も巻頭歌とその短評の引用で御世話になっております。そこで知ることのできる塚本とは、卓抜なる審美眼によって、必ずしも世に広く知られぬ歌人とその詠歌を紹介されてきた文芸評論家の姿でございます。しかし、塚本邦雄の実像とは斯様に狭いものではありません。そこで、まず最初に、塚本邦雄ご本人について押さえておきたいと存じます。
塚本は大正9年(1920)、滋賀県神崎群南五個荘村川並に生を受けております。五個荘村と申せば、世に名高い「近江商人」の郷里の一つとして夙に知られておりましょう。現在でも金堂地区には往古の家並が残され、国の「伝統的建造物群保存地区」に指定されております。そして、ご多分に漏れず塚本も、近江商人の家系である父方・母方双方の血を引いており、青年期には商業学校に進学され卒業もしております。戦時中は、呉海軍工廠に徴用され、昭和20年(1945)8月6日、広島に投下された原爆の茸雲の仰いだ、その映像が鮮明に焼き付いていると語られております。戦後の作品に、どこか戦時中の暗い影を感じるのは、斯様な原体験が背景にお持ちであるからでございましょう。また、母方の祖父(外村甚吉)は近江一帯に弟子を有する俳諧の宗匠でもあったそうです。その文学者としての資質には、隔世遺伝の要因も大いに寄与したことでございましょう。
そうした血脈を有した塚本邦雄の“一義的な姿”とは、何を措いても「現代短歌」の優れた創作者のそれに他なりません。つまりは「歌人」ということでございます。そもそも、塚本は兄の影響から短歌を始めたと言い、戦後になってからは前衛的な作風により、寺山修司・岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称されました。上梓された歌集の類は概ね50冊程にもなります。小生は、現代短歌、特に前衛短歌には全く疎いのでありますが、その作風とは「反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性と方法意識の支えられた」ことにあるとのことです。以下に、彼の代表作を4つほど掲げてみましょう(以上「ウィキペディア」による)。概ね、塚本の作風の特徴を知り得ましょうし、そこに戦争の影と反権力的な匂いを嗅ぎ取られましょう。
・突風に 生卵割れ、かつてかく 撃ちぬかれたる 兵士の眼(まなこ) ・日本 脱出したし 皇帝ペンギンも 皇帝ペンギン 飼育係りも ・革命歌 作詞家に 凭りかかられて すこしづつ 液化していくピアノ ・馬を洗はば 馬のたましひ 冱ゆるまで 人戀はば 人あやむるこころ |
上の引用歌に鑑みれば、塚本の作風とは、明治以降の和歌の潮流であったアララギ派等の「写実主義」的傾向に真っ向から抗うものであり、正にそれとは正反対の「反写実」「幻想」「暗喩」等の前衛性にあったことは明らかでございましょう。だとすれば、塚本が「象徴性に彩られた美学」こそが支配的である「新古今和歌集」の世界に心惹かれたことは腑に落ちます。そして、その実質的な主導者であった後鳥羽院や、それまでの勅撰和歌集の歌風を一新させた功労者としての藤原定家とその詠歌に、強烈な親近感を抱くことは充分に納得するところでございます。そのことは、塚本の美学に則って選び採られた数々の「秀歌アンソロジー」編集方針にも直結することになりました。小生が頻繁に活用をさせていただく『清唱千首』の他、『定家百首』、『西行百首』、『雪月花』、そして『新撰小倉百人一首』等々枚挙に暇がないほどのアンソロジーを編まれておりますが、その関心が新古今歌人とその周辺に向けられていることは明らかであります。
そして、アンソロジーを編むことを通じて、知られざる新古今歌人たちの作品を、卓抜なる短評とともに我々に近づけてくれた功績は、限りなく大きなものと存じます。小生が、藤原(九条)良経という不世出の天才歌人と出会うことができたのも、偏に塚本氏のお陰でございます。しかし、そうした短歌や短評だけで歌人の全体像を描くことは、どうしても断片的な姿にならざるを得ず、流石に困難をともないましょう。だからこそ、「小説」という表現媒体が必要とされたのだと思われます。それが、今回ご紹介させていただく『菊帝悲歌-小説後鳥羽院』であり、先に挙げた『藤原定家-火宅玲瓏』ということになります。同時代に並び立った天才歌人2名を、それぞれの視点から相互に照射しようとする塚本氏の小説2作の試みとは、おそらく両者をもって補完し合い、円環を閉じる「新古今集とは如何なる歌集なのか?」に対する、解答のそれであったと考える次第でございます。「おそらく」と申しあげるのは、後者は未だに入手に到らず拝読できてはいないからであります。いっそのこと、文庫化を待たずに古書で仕入れてしまおうかと思っております。前者を知ってしまったら、後者を読まずに済ますことなどできませんから。
ここで、御鳥羽院と新古今和歌集編纂について簡単に述べておきましょう。後鳥羽は、治承4年(1180)生まれで、諱は尊成(たかひら)であります。高倉帝の第四皇子であり(後白河院の孫)、母は坊門信隆娘の殖子(七条院)となります(安徳天皇は異母兄)。その幼少期は、正に源平合戦の只中にあり、また鎌倉の武家政権誕生の黎明期と軌を一にしております。寿永3年(1183)に木曽義仲の入京が迫ると、平家は「神鏡剣璽」とともに、安徳帝を奉じて西国へと落ちていきました。その結果、紆余曲折を経て、後白河院は寿永2年(1183)4歳の尊成親王を即位させることに決します。つまり、後白河院の院宣を受け「神器」の無い中での践祚となりました(翌元暦2年の即位式も神器の欠けたまま実施)。これが後鳥羽天皇の誕生ということになります。しかし、この時には安徳帝は西国にあっても退位した訳ではありませんでした。従って、この時から文治元年(1185)までは、形式的には国内に両帝が並び立つ異例の形ともなったのです。皆様もご存知の通り、その後に壇ノ浦での平家滅亡の際、安徳帝と共に水没した神器のうち、「剣璽」については懸命の捜索にも関わらず回収が叶わず、それも文治3年(1187)には捜索活動すら事実上終結することになりました。こうした事情もあって、後鳥羽帝は神器の無いままでの皇位継承について、皇位欠格者であるとのコンプレックスを終生に亘って抱え込むことになったとされます。後鳥羽にとって、それがどれほどに深き心疵であったかは、後年の建暦2年(1212)になっても、藤原秀能(「承久の乱」で朝廷側の中心となった人物)に宝剣の探索を命じていることからも明らかでございます。本小説中にも、後鳥羽院が夢でそのことに苛まれる姿が描かれておりました。
後鳥羽院という人物の諸活動の多くは、おそらくこうした重く伸しかかったコンプレックスの反動として捉えることができましょう。すなわち、文武両道の並び立つ支配者であることを自らに課し、何れの芸術分野に於いても頂点に立とうとしたこと(作歌・蹴鞠)、盗賊を自ら捉えるような力業と武芸の堪能さの琢磨に邁進したこと(弓馬の鍛錬、相撲好み等々)、剣璽なき即位を振り払うかのように刀剣鍛造に自ら取りくんだこと[刀剣には16弁の菊紋を毛彫りしております(菊御作)]等々、枚挙に暇がございません。因みに、今では皇室の紋として誰もが疑うことのない「菊紋」は、菊華をこよなく溺愛した後鳥羽院に由来するとされます(菊自体は中国から伝わった外来種であります)。更に、王権の象徴でもある「勅撰和歌集」編纂に邁進する姿勢にも、負の感情を払いのけようとする気概を読み取れましょう。そして、それはかつてない新風の横溢する画期的な勅撰集「新古今和歌集」である必要があったということです。後鳥羽帝は、建久9年(1198)に土御門帝に譲位。以後、「治天の君」として土御門帝、順徳帝、仲恭帝と都合3代23年にも亘って院政を壟断することになります。これ以降のことは詳細にはふれません。皆様もよくご存じのことと拝察するからでございます。ざっと概観すれば、承久3年(1221)、時の執権北条義時追討の院宣を発出し「承久の乱」を引き起こしたものの逆に幕府に返り討ちにあったこと、結果として隠岐へ遠島となり都への帰還も叶わず、延応元年(1239)に19年もの余生を送った配流先で崩御したこと、その時の年齢が宝算(天子を敬って言う年齢のこと)60であったこと等々でございましょうか。それに致しましても、余りと言えば余りの波瀾万丈の生涯でありました。今回御紹介する塚本邦雄の小説作品には、斯様なコンプレックスに翻弄されながらも、王権の保持者として雄々しく奔放に生きようとする姿が、それが周囲に波風を起こして藤原定家と確執を深める姿が、幕府との軋轢に抗う姿が、それが最終的に討幕への試みへと自らを追い込み敗れ去る姿が、そして、遠島に処された隠岐の地で新たな決意の下で生きようと決意するまでの院の姿が、それぞれ克明に心理描写されていくことになります。
その「新古今和歌集」の編纂は、彼が譲位して上皇(後鳥羽院)になった後の建仁元年(1201)、勅命によって開始されました。院の御所に「和歌所」が置かれ、撰者として、藤原定家、藤原家隆、寂蓮等の6名が召集されました。上記メンバーを見れば明らかなように、「九条家」を核として形成された「御子左家」とその周辺を包含する、当時和歌に新風をもたらした歌人がその中核に据えられたことが分かりましょう。上述いたしましたように、後鳥羽院はこれまでにない作風の勅撰和歌集編纂を強く意図しておりました。事実、何ごとにも凝り性の後鳥羽院は、撰歌を撰者に一任するようなことは一切なく、彼らが選出してきた作品は必ず後鳥羽院が吟味して選別をいたしましたし、自ら親撰すらしております。そして、元久2年(1205)に完成を祝う意宴がもたれましたが、後鳥羽院はその後も改訂(「切り継ぎ」)を継続しております。更に、「承久の乱」の結果、隠岐に配流となった後も、流刑地で更なる「切り継ぎ」を行い、新古今集を琢磨し続けたのでした。最終的に、隠岐の地で400首程を除き(あまつさえ自身の詠歌ですら凡そ半数を葬り去っております)、これこそが真の「新古今集」であると主張までしているのです。因みに、通常知る「新古今集」でありますが、勅撰和歌集中で最多の和歌数(2千首弱)を誇りますから、琢磨に継ぐ琢磨を経て実に五分の一を削ってしまったことになります(これを一般的に「隠岐本」と称します)。最上の勅撰和歌集とすべく配流後までにも及ぶ「切り継ぎ」に拘り抜く後鳥羽院の姿には鬼気迫るものを感じます。何たる執念深さでございましょうか。
その結果、「新古今和歌集」は、これまでの勅撰和歌集には見られることのなかった清新な歌風を有する稀有なるそれとなったのです。一般的に新古今集の特徴として挙げられる「唯美的・情緒的・幻想的・絵画的・韻律的・象徴的・技巧的」は本歌集に顕著に見て取れます。少なくとも、従来の7つの勅撰和歌集からは感じられない肌合い感じるのは間違いない所でございます。そして、この功績は誰でもない、後鳥羽院の審美眼の賜物に拠っていると考えます。勿論、後鳥羽院に影響をもたらした俊成・定家親子の天才や、当時の雲英星のような並み居る名歌人の存在あって具現化したものでありましょう。しかし、新古今集に続いて編纂された9番目の勅撰和歌集『新勅撰和歌集』は、当初藤原定家の独撰として始められ、紆余曲折を経ながらの成立となりましたが、優れた歌集としての評判は寡聞にして耳にしません。
ここから類推することと申せば、御鳥羽院と藤原定家という天才二人の相克こそ、傑作を生み出した最大の要因ではなかったのではないかということでございます。新古今集編纂を巡る両者の関係は、当初の親密さから次第に火花を散らす関係へと進みます。それは、後鳥羽院の奔放さと、定家卿の妥協を許さない狷介さという、決して並び立つことのない天才同士であったことに由来しましょう。しかし、互いに認め合いながらも、最後に決裂する両者の緊張関係が、逆に新古今集をここまで琢磨することに繋がったのではないかとも考えるのであります。両者の関係の機微につきましては、塚本の標題小説に書き込まれておりますから、是非ともご確認いただけましたら幸いでございます。全くの蛇足ではございますが、これを書いていて、ジョン・レノンとポール・マッカートニーという強力な2つの太陽が並び立っていた、かの「ビートルズ」解散後のことを“ふと”思い出だしました。グループ時代にあれだけの名曲を矢継ぎ早に量産していたポールでしたが、解散後暫くはソロアルバムをリリースしても鳴かず飛ばずとなってしまいました。やはり、ジョンという強烈な存在あってこそのポールであったのだと思います。「ビートルズ」という不世出の音楽集団には、優れた才能同士の核融合が生じていたことと似たような状況を感じた次第です。因みに、ポールがようやく独自の音楽世界を掴みかけたのは、その後『バンド・オン・ザ・ラン』(1973年)あたりからではありますまいか。グループの解散から既に3年が経過しておりました。事例として不適切かもしれませんが、イメージとして御理解頂けるのではないかと存じます。
最後の最後に、その塚本邦雄『菊帝悲歌-小説後鳥羽院』につきまして少々(御安心ください。ネタバレとなるようなことは致しませんから)。本小説作品は、皇位継承にともなう深刻なコンプレックスを抱えるからこそ、彼の関わる諸事万端に於いて強烈な光を放ち続ける、まるで「太陽」のような後鳥羽院の精神世界と、「月光」の下で蠢くような影を纏う精神性を有する藤原定家との対比を基軸としながら、後鳥羽院の心の在りどころとその変容とを描く、得難き小説作品でございます。そして、何よりも本作を稀有なる作品としている要因は、塚本による「絢爛たる散文」にこそあるものと存じます。島内景二氏(国文学者)は本文庫の末尾解説で以下のように論じていらっしゃいます。小生が生半可な解説をするよりも、遥かに本小説の特色を的確にとらえていらっしゃいますので引用をさせていただきしょう。
(前略)塚本が試みたのは、「美文体の芸術小説」の創出だった。それは、近代の小説概念に反旗を翻すことだった。明治時代には「話すように書く」運動が全盛を極めた。その「言文一致」が、近代小説の基盤となった。その対極に、「美文」という表現スタイルが存在した。 口語(話し言葉)では、王朝の和歌や物語で用いられた美しい言葉が使えない。とおろが、文語(書き言葉)を排除して、近代小説は隆盛を見た。それへの精一杯の抵抗として、散文と韻文とが一つに融合し、文化的に誇るべき雅やかな日本語をちりばめた7「美文」という領域が、かつて存在したのである。 (中略)泉鏡花や三島由紀夫などのように、小説の世界に美文の要素がなかったわけではない。1970年に三島が自決したあと、「美文小説」や「美文評論」の可能性は、塚本邦雄と澁澤龍彦たちが受け継ぎ、更なる展開を見せた。塚本が「正字正仮名」表記にこだわったのは、漢字と仮名づかいにこそ、「美文」のDNAが宿ると信じたからである。(中略)新しい小説世界の扉を開けば、新しい人間世界が創造できる。現代日本に「変」を起こせるのだ。(後略) (島内景二「美文小説の開拓者」:塚本邦雄『菊帝悲歌-小説後鳥羽院』解説) |
島内氏が指摘されている、こうした「美文体」で綴られた散文は、一読されて「読みやすい」ものではございません。ただ、じっくりと向き合えば、そこで描かれる普通の世界が、忽ちの裡に「絢爛豪華な王朝世界」へと変貌を遂げるのです。これこそが、通常の現代用語を用いての会話文では生み出し得ない得も言われぬ世界を生み出す根源であると思われます。用語自体の「美しさ」が、王朝物語の世界を比類なき架空の「美的世界」へと誘う重要な要件となっていることを実感させます。小生が、泉鏡花や久生十蘭の小説世界に心惹かれるのも、おそらく同じ匂いを感じるからだと思います。さて、塚本氏は本作について本作の「跋文」で以下のように語っていらっしゃいます(冒頭と末尾の二首は塚本自身の作であります)。こちらに接し、もしご興味をもたれましたら、皆様もお手にされては如何でしょうか。読んでガッカリされることはまずないと存じます。ただ、ラノベ作品のように一度読んで楽しめるとは限りません。何度も反芻することで、その美しさが染みわたってくる作品かと存じます。残念ながら、跋文中にある「いつの日にか稿をあらためて別の物語にしたい」とされている、崩御までに到る後鳥羽院の精神世界の軌跡は描かれることはございませんでした。小説は、隠岐の地で生きる意味を見出した院の決意をもって終わるのですから。それから長きに亘った隠岐での日々を、塚本が如何に書き記すか……是非とも拝読してみたかったものであります。
跋 五黄の菊帝王の かく閑(しづ)かなる 怒りもて 割く新月の 香のたちばなを
(中略)少年の日から後鳥羽院は何よりも「新古今和歌集」の独撰者として、次には菊御作の太刀の主として、終には隠岐に果てた悲劇の人として、強烈な憧憬の的であった。文武両道の達人などといふ通俗的な見地からでも、書かるべきことの数多を持つ稀なる一人であるが、王侯貴族の独占し続けて来た芸術と政治の、その有終の美を、惜しげもなく断崖から深淵に突き落とした天才かつ英雄として、世界に冠たる一人であった。 詩歌や評伝には尽くさなかったこの英帝の姿を、私は小説の中に浮かび上がらせたかつた。玉葉、吾妻鏡、明月記、愚管抄、増鏡等を身近に並べて一年に年は過ぎ、 にくむべき 詩歌わすれなむ ながつきを 五黄(ごおう)の菊の わがこころ喩(こ)ゆ
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先週の金曜日(2月10日)、関東地方は「大雪警報」が発令されておりましたが、小生の居住する東京東部低地では、幸いに小雪交じりの空模様程度で済みました。路上がシャーベット状にはなりましたが、昨年のように積ることがなくて幸いでございました。予報から判断する限り千葉市は終日雨であったようです。それよりも、平日でありましたから、首都圏での交通網の混乱が左程に大きなものではなかったことが何よりでございました。
そういえば、昨年の関東は年明け6日に積雪に見舞われました。翌日は出勤日でありましたから、自宅周辺の雪掻きを早々に片附けてから出勤。開館2時間前から職員総出でせっせと雪掻きしたことを思いだしました。ということは、公共交通機関は動いていたのでしょう。ただ、今回は偶々の非番の日に当たっておりましたが翌日は出勤でしたので、本降りとなるか否か……気を揉みながら空模様を眺めておりました。しかし、どうやら東京東部低地では、大層な積雪はなさそうで、しかも職場のある千葉市は雨模様とのことでありましたので、自宅で気楽なる「籠り居」を決め込んでおりました。しかし、不思議なもので、その時の心の内とは、積もらなくてよかった……とのホッと胸を撫で下ろす「安堵感」と、せっかくの雪なのに残念……との「無念」とが、相半ばに拮抗していた……というのが事実に近かったかもしれません。前者の想いとは、皆様も恐らく共有されるであろう、あの重労働の雪掻きや公共交通機関混乱に起因する通勤の難渋を回避できそうだとの、極々“ゲンジツ的”な判断に拠ります。しかし、後者の想いもまた大きなものでありました。いや……、正直なところを白状するのならば、相半ばするというのは正確ではなく、後者の想いの方が強かったかもしれません。何時もは「雪が降って喜ぶのは子供と犬コロだけだ」などと嘯いているにも関わらずです。この心の淵源は何処から湧き起こってくるのでしょうか。不謹慎にも、街々がすっぽりと雪に包まれるとよいな……との想いがムクムクと頭を擡げてくるのは何故なのでしょうか。
思いつくことと申せば、炬燵にあたりながら手酌で熱燗を一献……、つまりは「雪見酒」を洒落込めるとの想いでしょうし、それも全否定はいたしません。しかし、それだけもないような気も致します。自身の想念の出所を探ると、それは幼少期にまで遡る思いであるようにも思います。それは、幼き日に雪が積もった時、普段は賑やかな街が森と静まりかえり、曰く言い難い多幸感に包まれた経験でございます。おそらく、誰にでも経験のある遠い記憶ではありますまいか。それは、外へ飛び出して行って雪達磨をつくったり雪合戦をしたりという、多くの人との繋がりの中で生じる思いとは異なるものであり、街や自らの住まいが雪に“すっぽりと包まれている”ことによって生じて来る不思議な安堵感に似た感情のように思うのです。そして、それは、決して多くの人が集って生じる幸福感ではなく、個としての心中でしみじみと湧き起こってくるようなそれでありましょう。逆に、今回の積雪は、そこまでの想いに至らせてくれる状況を生じさせなかったので、少々の気落ちは免れなかったということでもございます。今回、巻頭に掲げた蕪村の句3つには、こうした自分自身の感情と通じる匂いが感じ取れるのであり、だからこそ冒頭で御紹介をさせていただくことに致したのです。そんなこんなで、関東の地で舞った雪を契機に、今回の本稿では与謝蕪村の作品について少々述べてみようと存じます。
しかし、最初に紹介させていただくのは、俳句をメインフィールドとする文学者としてのその人についてではございません。蕪村には「俳人」ではない、もう一つの別の姿がございます。小生が述べるまでもないことかとも存じますが、蕪村は池大雅と並び立つ著名な「南画家」であり、同時に軽妙洒脱な画風の「俳画家」でもございます。つまり絵師でもあったのです。むしろ、当時は絵師としての方が高名であったのかも知れません。そして、その南画の代表作が、最近「重要文化財」から「国宝」へと格上げされた、蕪村晩年の傑作『夜色楼台図(夜色楼台雪萬家図)』であることに異論はございますまい。小生は、過去の蕪村回顧展で実物を2度鑑賞する機会を持った経験がありますが[茨城県立歴史館(1997年)・江戸東京博物館(2001年)]、2度ともその作の奥深い世界に吸い込まれるような感銘を受け、大いにに魅了されたのでした。
ところで、唐突に話題が変わるようですが、長谷川宏『幸福とは何か』2018年(中公新書)の冒頭見開きに、標題と大凡関わりのなさそうな『夜色楼台図』が掲げられていることに驚かされた経験がございます。著者は「ドイツ観念論」の研究者であり、本書もまた“哲学書”の範疇に入る書物でございますから、「えっ!何故、蕪村!?」「何故、夜色楼台図!?」と怪訝な想いにとらわれたのでした。しかし、書物を読み進め、最初に抱いた違和感は徐々に薄れていきました。それは、作者が当該作品を掲げた理由が、本作が「しあわせとは何かを考えさせる絵」だからであり、上述した雪に覆われた家の中で感じた小生の思いと何処かで通じるものがあったからです。実際の作品をここには掲げることができませんが、ネット検索されれば、とりあえず見ることができると存じますので、もしご存知でなければ是非ともご覧になってみてくださいませ。それを眼にしながら、以下の長谷川氏の述べることをお読みいただければ、なるほどと頷いていただけるものと存じます。
描かれるのは雪の降り積もった冬の夜の街並だ。晩年の蕪村が住んだ、身近な京都の町並に材を取ったものであろうか。墨の濃淡を巧みに使いこなすとともに、塗り残した白と黒との対比が鮮やかな水墨画で、ところどころに施された※代赭色の淡彩が、そこに住む人の動きを伝えて情景にぬくもりをあたえている。しあわせの感じは、なにより、このゆるやかな曲線の下に広がる家並のたたずまいからやってくる。雪の降りつもる冬に身を寄せ合うようにしてひっそりと並ぶ家々の姿は、そういうところにこそくらしのしあわせが宿ると思わせるのだ。(中略)寄り添うようにして並ぶ屋根の下の暮らしは、いつに変わらぬ平穏な時がそこに流れていると想像され、そういう時の流れが人々のしあわせの源だと感じられる。 [長谷川宏『幸福とは何か』2018年(中公新書)より] |
縦約30cm・横約130cmの横長画面に描かれる、左右に連なる京都東山連峰を思わせる山並、その手前には同じく左に右に奥に手前にと弓なりに連なる、雪の降り積もった家並。そこから小生が感じる印象は、第一に不思議な静寂と安らぎ感です。そして、どの家々にも等しく雪が降り積もり、その包まれ感が街全体とそれぞれの家々の「しあわせ感」と深く共鳴するように思わされます。もしかしたら、小生が幼少期に雪の降り積もる家の中で感じていた「多幸感」とは斯様な感情ではなかったのかもしれません。それは、雪に覆われていくことによる「安堵感」と置き換えてもよいのかもしれません。
さて、ここで巻頭に掲げさせていただいた、蕪村の俳諧作品3句との関連性について触れさせていただきましょう。蕪村が『夜色楼台図』に描きこんだこうした世界観は、巻頭の俳諧作品の世界観と水脈を一つにすると思われませんでしょうか。「桃源」とは言うまでもなく「この世を離れた別天地=理想郷」を表す言葉です。それが細い路地を抜けた先にぽっかりと開ける感じ。それが詩人蕪村の思い願う栖家(すみか)であり、そこに一人じっと冬籠もりをする幸福。室内には蕪村が手を翳す火鉢があり、その中心点にあるのが灰に覆われた「埋み火」であり、そこには薄く代赭色に灯っている熾火があります。室内の薄明、そして人知れぬ「隠れ家」をすっぽりと優しく包み込む積雪。それらは埋み火を中心に同心円状に広がります。しかし、それは決して野山に孤立する一軒家ではなく、肩を寄せ合うように並ぶ家並の奥にあることをも感じさせます(路地の奥にある桃源郷!!)。
蕪村その人は、市井の賑わいをこよなく愛する人でもありました。こうした蕪村の姿は、松村月渓(後に円山応挙門下に入り「呉春」を名乗り画派「四条派」の祖となりました)が描いた、背中を丸めて室内で書物と戯れているような蕪村像を思わせます。蕪村は決して胸を張って如何にも偉い人のように振舞う人ではなかったことは、その絵画作品と、後編で主として採り上げる俳諧作品に接すればたちどころに判明すると存じます。勿論、蕪村は雪景色ばかりを描いたわけではございません。池大雅との共作である南画『十便十宜図』(国宝)でも、大雅の描いた『十便図』と比較した蕪村の『十宜図』は、どこか力の抜けた融通無碍さと親しみやすさに特色があるように感じます。
長々と記述してまいりましたが、前編の最後に一冊の書物を御紹介させてください。小生が与謝蕪村という人物の作品に心から親近感をもってつき合う契機を与えてくれた作品であります。また、上述したようなことに目を開かせてくれた書物でもございます。それが、文芸評論家である芳賀徹(1931~2020年)の名著『与謝蕪村の小さな世界』1986年(中央公論社)でございます。今では新刊本としては入手できないようですが、アマゾン等で古書としてお安く購入可能です。小生は初版の単行本を購入しましたが、その後中公文庫にもなっております。是非とも御一読されてみてください。
(後編へ続く)
後編では、与謝蕪村(1716~1784年)その人と、詩人としての姿に焦点を当てて参りましょう。蕪村が、松尾芭蕉(1649~1694年)や小林一茶(1763~1828年)と並び称される、近世を代表する俳人として教科書にも採り上げられるビッグネームであることは論を待ちますまい。ただ、生没年をご覧いただければ明らかなように、それぞれの活躍した時代は若干ずれており、蕪村の生涯は、8代将軍徳川吉宗から10代将軍家治の治世(田沼意次の時代)までにほぼ収まります。つまり、江戸時代中期の人と言うことになりましょう。
蕪村は、摂津国(現:大阪府)の産であり、20歳の頃に江戸に下って、俳人の早野巴人(「夜半亭」)に師事して俳諧を学びました。しかし、低俗化した江戸の俳諧に飽き足らず、27歳で師匠と死別してからは下総国結城(現:茨城県結城市)に移り、更には私淑する芭蕉の足跡を追って東北地方を周遊したといいます。その後、丹後国(現:京都府)を経て、42歳の頃に京師に居を構え、明和7年(1770)「夜半亭二世」に推戴されております。そして、天明3年(1784)齢68をもって鬼籍に入ったのです。その奥津城は、生涯敬愛を捧げてやまなかった松尾芭蕉の葬られる京都金福寺にある芭蕉墓の隣にございます。それが、本人の断っての望みであったからであります。
当たり前のことですが、蕪村の作風は、尊敬を捧げた芭蕉とも、一茶とも、相当に異なっております。個人的な好みではございますが、その中でも、小生は蕪村の作品に最もシンパシーを感じます。何故ならば、芭蕉の作風に畏敬の念を抱きつつも、その求道者然とした孤高に、時に息苦しさを感じることがあるからです。対して蕪村のそれは、もっと心の襞に寄り添う親密さが持ち味のように思います。蕪村の句は市井における等身大の人間像に触れる思いがして、呼吸が楽になるように感じるのです。勿論、その作品に接すれば天才詩人・天才画家であることは紛れもない事実なのですが、平たく申せば欠点も弱みも多々抱える、酢いも甘いも噛み分けた、街の何処にでもいる心易い極々普通の叔父さんのような親しみやすさがあるように思うのです。一茶は、作品の親しみやすさとは裏腹に、ちょっと付き合い辛い偏屈な人であるように感じますし、芭蕉に至っては、会社で言えば重役級のちょっと気軽に近寄りがたい、威厳ある人の印象が強いのです。
今でこそ、江戸俳諧における巨匠の一人として奉られる蕪村でありますが、生前には必ずしも評価は高いものではなく不遇を託っていたといいます。斯様な蕪村が、今や3大俳人の一翼を担っているのは何故かともうせば、偏に、明治になってから正岡子規とその門人たちによって喧伝された面が大きいと、近代詩人の第一人者萩原朔太郎が、その著『郷愁の詩人 与謝蕪村』(昭和11年初版発行)で述べております。ただ、朔太郎は、返す刀で彼ら子規一派による蕪村の評価が、極めて浅薄皮相であると舌鋒鋭く指弾もしております。つまり、「詩からすべての主観とヴィジョンを排斥し、自然をその『あるがままの印象』で、単に平面的にスケッチすることを能事とする、いわゆる『写実主義』を唱えた」子規一派の在り方に引き寄せた高評価であり、詩人としての蕪村の本質を見誤っていると述べております。そして、朔太郎は、彼らが見落としている、蕪村作品に一貫する特色を以下のように指摘しております。そして、その顕著な事例として蕪村の作品を紹介して解説を加えております。春夏秋冬から一句ずつを朔太郎の評と共に御紹介させていただきましょう。なるほど、小生のようなド素人には思いもつかない、天才詩人ならではの審美眼に若干戸惑う部分もございますが、それでもその作品への斬り込みと、その読み解きには「流石!朔太郎!!」と小手を打たざるを得ないところが多々御座います。皆様は如何お感じになられましょうか。
蕪村こそは、一つの強い主観を有し、イデアの痛切な思慕を歌ったところの、真の抒情詩の抒情詩人、真の俳句の俳人であったのである。ではそもそも、蕪村におけるこの「主観」の実体は何だろうか。換言すれば、詩人蕪村の魂が詠嘆し、憧憬し、永久に思慕したイデアの内容、すなわち彼のポエジイの実体は何だろうか。一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった。実にこの一つのポエジイこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いて来る音楽であり、詩的情感の本質を成す実体なのだ。
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遅き日の つもりて遠き 昔かな 《春》
愁ひつつ 丘に登れば 花茨(はないばら) 《夏》
「愁ひつつ」という言葉に、無限の詩情がふくまれている。無論現実的の憂愁ではなく、青空に漂う雲のような、または何かの旅愁のような、遠い眺望への視野を持った、心の茫漠とした愁いである。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憐な野生の姿が、主観の情愁に対象されている。西洋詩に見るような詩境である。気宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れている。 おのが身の 闇より吠えて 夜半の秋 《秋》
凧(いかのぼり) きのふの空の 有りどころ 《冬》
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北壽老仙をいたむ君あしたに去りぬゆふべのこころ千々(ちぢ)に 何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲きたる 見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴くを聞ば 友ありき河をへだてて住にき
へげのけぶりのはと打ちれば西吹風(にしふくかぜ)の はげしくて小竹原(をざさはら)眞(ま)すげはら のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてて住にきけふは ほろろともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に 何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず 花もまいらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は ことにたうとき [尾形仂校注『蕪村俳句集』1989年(岩波文庫)より] |
以上、引用いたしました蕪村の作品は、俳諧4句と自由詩1つでございます。皆様は如何にお感じになられたでしょうか。特に、『北壽老仙をいたむ』に初めて接した方であれば、(朔太郎もそう指摘するように)これが江戸時代半ばの作品とは到底信じられますまい。明治になってからの「新体詩(自由詩)」だと思われること必定でございましょう。本作は、蕪村の関東での遊歴時代、世話になった結城の酒造業者で、俳人としての交友のあった早見晋我(隠居後の号が「北壽」)が延享2年(1745)に75歳で没した際、当時30歳であった蕪村が悲しみに耐えずに創作した作品とされております(後の“晋我33回忌”に寄せての作と考える向きもあり、仮にそうであれば蕪村晩年62歳の作となります)。親しき亡き老友の死を心底悲しみ、悼む思いを抑えがたく岡野辺を彷徨う蕪村の姿が目に浮かぶようです。慟哭というのとは異なる、しみじみと静かに悲痛が滲み出るような語り口に、より奥深い蕪村の悲しみの胸中が察せられます。
萩原朔太郎の手になる本書は、天才詩人による真の意味における「蕪村再発見」の書として貴重な提言に溢れております。また、前編の最後に紹介をさせていただきました芳賀徹『与謝蕪村の小さな世界』1986年(中央公論社)も極めて優れた蕪村論でございます。両者ともに、蕪村によって考案されたと思われる独特な詩形による「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」なる長詩も紹介されております。こちらは、十数の俳句と数聯の漢詩と、その間を繋ぐ連句とで構成された、全く独創的な新体詩の型式の作品でございます。蕪村の作品に少しでも興味をお持ちになられましたら、いきなり『蕪村句集』から入られるより、まずはこの2冊を水先案内としてご一読されることをお薦めいたします。おそらく、蕪村の作風について端的に掴むことができ、句集の読解も深まることと存じます。
最後に、前編の巻頭に掲げた3つの蕪村作品と、前編で御紹介した蕪村の傑作絵画『夜色楼台図』についてですが、芳賀徹『与謝蕪村の小さな世界』も、前編で採り上げた長谷川宏『幸福とは何か』も、当該作品を採り上げた後に、共に三好達治の詩集『測量船』[昭和5年(1930)]に納められた、かの著名なる二行詩『雪』に触れております。本作の単純で豊かな感銘深い繰り返しの想は、蕪村の作品から得たとのことが述べられております。正に宜なるかな。何ともすんなりと腑に落ちる逸話でございます。春の訪れはもうじき。本館の梅樹も沢山の蕾を膨らませております。今年は雪景色を楽しむことは最早ないかもしれません。ちょっと残念な思いを禁じ得ません。
雪太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。 (三好達治『測量船』1996年(講談社文芸文庫)より) |
二月も末となり、直ぐそこに弥生三月の声が聞こえてまいります。この季節の陽気と申せば、俗に「三寒四温」なる例えがございます。温かな日と冷え込む日とが交互にやってくること、冬と春とが互いに逡巡し乍ら行きつ戻りつしながら徐々に季節が移ってゆく……、そんな感じをよく伝える言葉かと存じます。しかし、そうはいっても、この時季の冷え込みには身体にじんわりと染み入るが如き厳しさを感じます。そうなると、身体の芯より温まりたいとの思いが止み難し……となるのが人情でございましょう。思いは、自ずと湯煙漂う温泉地の巷へと彷徨うことになります。とりわけ、コロナ感染症の流行が始まってからというもの、温泉旅行は勿論、飲み会ですら“全く”と言えるほどに御無沙汰でありました。途中で「旅行優待キャンペーン」のような政策対応もございましたが、根っからの「天の邪鬼」の小生としては、その施策がどうにも腑に落ちませんでしたので、幾ら「お得」であろうが絶対便乗するものかと、頑なに拒絶しておりました。しかし、コロナ感染症が次第に下火となり、それに関する“行動制限”の縛りも漸く緩くなったこともございますので、そろそろ自主解禁にしようと決心したところでございます。
さて、ここで、藪から棒の質問をさせていただきます。皆様は「温泉がお好きですか??」と問われたら何とお答えになりましょうか。勿論、考えは十人十色でございましょうが、恐らく余程の臍曲がりでない限り、殆どの日本人の解答は「イエス」でございましょう。我が国は「温泉大国」と称しても宜しいほどに膨大な数の「温泉」が湧出し、それぞれに所謂「温泉場」が形成され賑わい呈していることは申すまでもありますまい。しかし、皆様は「温泉」あるいは「温泉場」に出かける目的は何処にありましょうや。直ちに「野暮なこと言うねぇ!温泉そのものに決まってんだろう!」との声が飛んできそうです。まぁ、湯に浸かりにいくのが温泉旅行の“基本のキ”でありますから、仰せの通りではございます。しかし、それだけであれば近くの銭湯でも、自宅の内風呂でも構わないはずです。要するに、それは「必要条件」ではございますが、温泉地に付随する様々な“有り様”が人々を温泉地へと誘うのだと思われます。例えば、温泉地にて食するその地ならではの特産物であったり、お土産の物色であったり、今では流行らないかもしれませんが芸者さんを揚げて宴会で“どんちゃん騒ぎ”であったり、温泉街を散策して温泉情緒を楽しむことであったりが、その「充分条件」となりましょう。
実際に、世に出回る山のような「旅行ガイドブック」の類を拝見すれば、どれもこれも温泉地のグルメ・土産物情報ばかりが氾濫しておりますから、逆に多くの方々が温泉地に求めることが何であるかが透けて参りましょう。もっとも、多くの旅行者は基本的に一泊二日の滞在で温泉地を後にされるのでしょうから、その程度の情報で構わないのかも知れません。勿論、それが誤っていると言いたいわけではございませんし、それもまた温泉地の楽しみであることに一縷の疑問もございません。そう考えると、現在の温泉地の位置づけとは、当たり前に思われましょうが、「観光地」「保養地」のそれに過ぎないということになりましょう。しかし、温泉・温泉場の魅力とは決してそのようなことだけに留まるものではございません。大きなお世話であることを承知の上で、折角の“宝の山”に赴きながら、何と勿体ないことかと思ってもしまうのです。
しかし、巷に出回る「観光情報誌」もネットでの観光案内も、こうした情報が誌面に満載されており、それはそれで利用価値は高いとは思いますが、予てより不満を募らせていたのが本当のところです。以前には、もそっと広く地域を紹介する書籍、例えばかつては「日本交通公社」発刊の「新日本ガイド」シリーズがございましたが、今ではこの手の書籍は絶滅しております。仕事柄もあり、折角出かけた温泉地のことをもっと深く知りたいと思っても、その知的好奇心を満たしてくれる書物も、多様な温泉地の歴史・文化を教えてくれる情報も滅多に入手することが叶わないのが現実でございます。“キラキラ”ガイドブックには、そもそもその温泉水に如何なる効能が在るのかさえ記載されてはおりません。つまり、泉質の説明などに接した記憶などとんとございません。温泉の温泉たる由縁とは、泉源から湧出する温泉水にあるのですから、これほど甚だしき本末転倒もありますまい。個性的な温泉水を有する各地の温泉を、ただ一律に「温泉」としてしか把握していない案内書とは一体何なのかと、常々慨嘆する者でございます。ここまで申しあげて、更に唐突な問いかけをさせて頂きます。それは「説教節の『小栗判官(おぐりはんがん)』をご存知ですか?」との問いでございます。もしや、ご存じない方がいらっしゃるといけませんので、老婆心ながら粗筋を簡単に御説明申しあげましょう。
『小栗判官』は、常陸国小栗御厨を所領とする小栗氏をモデルにした物語とされますが、飽くまでも伝説上の人物である小栗判官助重を主人公とする架空の物語であり、中世以来様々な唱道者による「語り」によって伝承されてきた口承物語の一つとなります。都を追われて常陸国に下った小栗判官は、横山氏の娘である照手姫(てるてひめ)を強引に奪ったことから、父親とその兄たちによって毒殺されましたが、閻魔大王の計らいにより“異形の姿”[「癩者(らいしゃ)」:中世から近年に到るまで差別された「ハンセン病」の患者のこと]で蘇り、時衆の総本山藤沢遊行寺上人にその身が託されることになります。そこで遊行上人は、彼に阿弥号「餓鬼阿弥陀仏」を授け、歩くことも儘ならない彼を土車(つちぐるま)に乗せて向かわせたのが熊野本宮「湯の峰温泉」でありました(現:和歌山県田辺市)。その際、上人は餓鬼阿弥の胸に木札を下げ「この車を引くものは供養になるべし」と認めました。一方、相模川に捨てられた照手姫も一命を取り留めますが、人買いに売り飛ばされ美濃国青墓宿(この地は様々な物語に登場する大変に興味深い磁場を持った地であります)にて下女としてこき使われる身となります。その青墓宿に、多くの人々に引かれ引かれてやって来たのが、土車に載せられた餓鬼阿弥(実は小栗判官)でありました。照手姫は餓鬼阿弥が小栗であると知らずに土車を引き、ついに熊野に到着するのでした。そして、「湯の峰温泉」の薬効にて、七日で両目が開き、十四日目に耳が聞こえるようになり、二十一日目には会話が出来るようになり、更に四十九日経つとすっかり元の小栗判官の姿に蘇り、照手姫との涙の再会となるのです。その後の物語はここでは必要がございませんので省略させていただきます。ここで何故『小栗判官』を採り上げたのかは、ここまでで充分御理解頂けたことでございましょう。余談でありますが、本作に御興味がございましたら、他の著名な説教節(「しんとく丸」「さんせう太夫」)と併せて、現代語訳でお読みになれる、伊藤比呂美『新訳説教節』2015年(平凡社)を御紹介させて頂きます。
そうです、説教節『小栗判官』とは、温泉の効能を説く説話でもあることにお気づきいただきたく御紹介いたした次第でございます。つまり、温泉地とは、歴史的には治療を旨とする「湯治」のための場であったのであり、温泉の湯そのものに霊験あらたかな薬効が期待されていたこと、従って温泉は信仰の対象ともされてきたことを知っておくことが極めて重要であると考えるものでございます。つまり、歴史的に温泉とは数日(その多くは一泊二日)滞在する保養地ではなく、1ヶ月単位で長逗留することが基本的なスタイルの場であったことになります。何れの医者にも匙を投げられた、小栗判官のような重い病の人々が最後の救いを求めてやってくる場でもあったのです。従って、古い由緒を有する温泉場には、必ずと言ってよいほどに、源泉の湧く場(泉源)に、それを祀るための寺社が造営されていることが普通であります。あるいは、泉源を発見した由緒ある宗教者が厚く祀られている温泉地もございます(“弘法の湯”等々)。ちょっと想い浮かべていただければ、城崎温泉の「温泉寺」、玉造温泉の「玉作湯神社」、伊香保温泉の「伊香保神社」、四万温泉の「日向見薬師堂」(国指定重要文化財)等々、枚挙に暇無き事例を思い浮かべられましょう。
そもそも、『小栗判官』における「湯の峰温泉」の奇蹟そのものが熊野神社の霊験を語る説話でもあるのです。つまり、温泉を知るために必要不可欠の施設が、薬効高き温泉水が湧出する「泉源」の存在、それを祀る「寺社」のそれにあるということになります。しかし、皆様は、温泉地に出かけて、斯様な場に脚を運ばれることがございましょうか。これらには、往々にして温泉の由緒や薬効を語る「石碑」が多々建立されております。しかし、現状において、何処の温泉地でも最も基軸となるはずの場は閑散としているばかりか、場合に拠っては荒れ果てていることすらございます。つまり、温泉客だけでなく、温泉の側でも存立条件となる重要な施設が大切にされていないようにも感じさせられます。また逆に、各地の温泉は、その全てではありますまいが、少なくとも中世までの時代には有力な寺社勢力によって管理されていたことを窺わせます。
そして、歴史的には、餓鬼阿弥がそうであったように、温泉地と申せばそうしたハンセン病等に罹患された方々をはじめとする、重度の病に苦しむ方々が最終的に身を寄せる場でもあったのであり、逆に近現代における温泉の観光地化・保養地化の流れとは、こうした長逗留する「湯治客」を温泉地の表舞台から隠蔽していく歴史でもあったことも目を向ける必要もあると存じます。例えば草津温泉では、中心にある湯畑の周辺から病患者が排除され、明治以降には特定の居住区への移転を余儀なくされております。つまり、観光と保養を目的とする客からの隔離が推進されることにもなったということです。温泉地の経営戦略として行われた側面が大きいのであり、そのこと自体を一概にとやかく申すべきではございませんが、忘れ去られてよい歴史ではないと存じます。せめて、そうした温泉地の歩みを理解した上で、温泉の保養・観光を楽しまれることが大切かと思う次第でございます。草津の地では、後にハンセン病療養所として「国立療養所栗楽泉園」が開園されることになるのも、温泉地としての歴史的経緯に位置付くこと理解しておきたいものであります。
さて、本稿をお読み下さる方々の多くは、歴史・民俗等々に深い関心をお寄せになる方々でいらっしゃることを想定し、何時ものように一つの研究団体と一冊の書物を御紹介させていただきましょう。それが「日本温泉文化研究会」と、その皆さんが共同執筆された一般向書籍となります。本会は平成17年(2005)に結成された“学術研究会”であります。その設立の目的について「特定の分野からではなく、広く総合的かつ学際的に温泉について議論をする場と位置づけており、会員の専門分野も歴史学・民俗学・考古学・文学・観光学・比較文化論・地質学・医学…健康科学など多方面におよぶ」とされております(後述の書籍からの引用)。これまでに、3冊の論集と1冊の一般向書籍を刊行されており、本会のホームページも開設されておりますので是非ともアクセスされてみてください。3冊の専門書は各々一万円前後の販売されており、おいそれとは手出し出来ませんが、講談社現代新書『温泉をよむ』は安価な一般書であり、他に類書の見あたらない極めて優れた論考であると存じます。本稿では、主に宗教的・歴史的な視点から温泉を採り上げましたが、地質学的・医学的(温泉の質と効能)・博物学・文学等々、温泉と温泉地に根付いた文化に、多面的・多角的にアプローチするための視座を与えてくれると存じます。本書を読んでから温泉に出かければ、観光・保養だけではない、重層的な温泉の姿を実感できることと存じます。つまり、温泉地を深く理解する楽しみが生まれること必定でございます。これはお薦めです。ただ、これ以降に後続の書籍が上梓されないことが惜しまれます。講談社様に限りませんが、是非とも続編の刊行を切望致したいと存じます。前編の末尾に本会が刊行される書籍の一覧と、『温泉をよむ』目次を掲げておきます。御興味がございましたら是非ともお求めください。
日本温泉文化研究会の本
『温泉の文化誌 論集【温泉学1.】』2007年(岩田書院) 『湯治の文化誌 論集【温泉学2.】』2010年(岩田書院) 『温泉の原風景 論集【温泉学3.】』2013年(岩田書院) 『温泉をよむ』2011年(講談社現代新書)
『温泉をよむ』目次第1章 湯の底の記憶──温泉の歴史学 1 道後はなぜ「日本最古」の温泉なのか 2 中世の熱海と有馬 3 幻の温泉、さまよえる温泉 4 入浴法さまざま 第2章 再生と変身──温泉の宗教学 1 病気平癒への深い祈り 2 神の湯 3 薬師と地蔵 第3章 「湯治」の実態をさぐる──温泉の医史学 1 温泉番付表の意味 2 江戸時代の「城崎にて」 3 有馬温泉と『温泉論』 4 湯治場と保養地のはざま 第4章 効きめはいったいどのくらい?──温泉の医学 1 保険は適用外 2 療養泉と適応疾患 3 大湯リハビリ温泉病院の試み 第5章 来た、見た、浸かった──温泉の博物学 1 温泉、奇石を生ず 2 噴き出る不思議 3 湯へのまなざし 第6章 湯の力、人びとの暮らし──温泉の民俗学 1 祭りの場 2 生活のなかの温泉 3 みやげと伝統産業 第7章 漱石、川端、賢治──温泉の文学 1 坊ちゃんの赤手拭い 2 『伊豆の踊子』と『雪国』のあいだ 3 花巻温泉の三つの花壇
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後編では、「コロナ規制」自主解禁の決断(!?)の下、過日週末に出かけた「熱海温泉」について述べてみたいと存じます。まず最初に、前編であれこれと偉そうに申しあげておきながら、目的は、今日において極々一般的な「一泊二日」での観光・保養を目的とする旅であったことを白状せざるを得ないことが、大いに気恥ずかしい思いであることを記しておきたいと存じます。しかも、グループ企業の経営になる格安の温泉ホテルに人生初宿泊とあいなりました(食事が時間制限付バイキング形式なのは普通ですが酒類まで飲み放題なことに驚かされました)。とても長逗留出来る時間的・経済的余裕はありません。しかも山の神からの「安価で済ませるように」との厳命が下っておりましたから、自身の趣味を優先できなかったのであります。ただ、僅かな滞在時間でありましたが、少しでも多面的・多角的に熱海を読み込もうと彼方此方へ巡り廻ってまいりました。
さて、その「熱海」でございますが、何を今更の如くに余りにも著名な温泉地でございます。東京に在住しているのであれば、新幹線を用いて東京駅からモノの45分もあれば、その膝下にまで到達できる極めて利便性にも優れた立地であります。もっとも、我々夫婦は旅情を感じるために(ホントウは節約のために)通常路線での訪問となりましたが、それでも2時間足らずで到着できます。正に「東京(江戸)の奥座敷」との呼称に相応しい温泉地でございましょう。恐らく、本稿をお読み下さっている皆様にとっても、何度も脚を運ばれた経験をお持ちの温泉地と存じます。しかし、実のところ、小生はこれほどにポピュラーな温泉地でありながら、還暦を過ぎた今日まで一度も訪問したことはありませんでした。つまり、お初の熱海訪問となったのであります。
それには小生の身勝手な思い込みが手伝っていたと思います。何よりも、熱海と言えばかつては企業慰安旅行のメッカであり、「団体客」優先の“大型ホテル”ばかりが林立する温泉であるとの認識が強かったことにあります。その所為もあって、まぁ、これも温泉文化の一つの在り方ではありましょうが、いかがわしさ満載の賑やかな歓楽街の櫛比する温泉地とのイメージが余りにも強かったからでございます。そのことが、個人的に熱海への訪問を躊躇させる理由であったように思います。そもそも、折角の温泉地にも関わらず、部屋貸し形式の「ホテル」では、どうも温泉に出掛けた気になれません。別に山中の一軒宿である必要はありませんが、やはり、個人的には家に客人を迎えいれる型式の「旅館」への宿泊が温泉旅行には相応しいと思えますし、そうした宿屋への宿泊を願うものであります。
つまり、熱海は落ち着いた“温泉情緒”漂う場とは程遠い……との思い込みが強かったということです。例えば、大きな温泉場であっても、東日本であれば草津・四万・伊香保・箱根湯元等々、西で申せば城崎・有馬・道後・別府等々には、それなりの温泉情緒を感じ取れるような街場になっております。しかし、熱海には管見の限り斯様なる情緒を感じとれる期待が持てなかったのです。しかも、バブルの崩壊以降、会社の慰安旅行そのものが下火となり、団体客優先の商売モデルが崩壊。多くの大型ホテルが左前となり、中には廃業したホテルがあるなど、熱海の街自体が寂れてしまったとの勝手な思い込みもあったのです。実際のところ、平成18年(2006)には、熱海市がついに「財政危機宣言」を発するまでになったのですから。
しかし、実際に訪れてみて、こうした自身の思い込みは大いに的外れであることを実感いたしました。これほどに賑わいのある温泉地とは思いもよりませんでしたし、歴史・文化への配慮もされている街であることに驚かされ、つくづく、自らの不明を恥じるとともに自身の眼で見ることの大切さを痛感した次第でございます。熱海は確かに一度斜陽となったものの、近年、熱海駅ビルの開業(「ラスカ」)、駅前の再開発や空店舗への誘致、経営体力のある宿泊施設の改装、新興リゾートホテルチェーン店による宿泊施設の買収と経営の合理化、及びパーソナルな顧客の積極的受け入れ等々を推進。熱海市も「熱海温泉」の過去の歴史・文化を大切にしながら市街地の再生を図ろうとされていることにも感銘を受けました(これにつきましては後に触れます)。確かに、熱海は戦後の大火で街全域が焼亡しており、昔ながらの温泉街としての風情は失われておりますが、温泉地としての成り立ちには変化はなく、それを読み解くことのできる街の骨格をよく残していることも分かりました。我らが出かけたのは、日曜日から月曜日にかけてでありましたが、実際に街にでかけて感じたことは、衰退した温泉街によくみるような廃墟には殆ど出会うことが無く、古い建物もシックに改装されるなど、かつての賑わいが戻っているように感じました。特に日曜日の人出はあたかも都会の目抜き通り級でありましたし、平日の月曜日にもそれなりに賑わいを見せておりました。事実、熱海市の財政も平成23年(2011)以降にはV字回復に及んだと聞き及びます。
現在の熱海温泉は、戦国時代に泉源としての「大湯」の湧出によって開かれて温泉街として整備されたとされております。海に向かう斜面の途中にある「大湯」には所謂「間欠泉」があり、定期的に温泉水の噴出を見ることが出来ます。ただ、ここは昭和の初めに枯渇しており、現在は人工的な噴出となっております。また今では上部へ向かって噴出するようになっておりますが、近世までは真横に向かって噴出していたことを記録から知ることが出来ます。江戸時代には、この斜面に沿って27戸程の「湯戸」と称される引湯権を有する特権的な温泉宿が軒を連ねて、湯治場が形成されていたようです。この地が江戸時代に湯治場として栄えた背景には、温泉水の効能も然ることながら、慶長9年(1604)徳川家康が湯治に訪れたことを手始めに、3代家光が湯治を目的に「熱海御殿」を設け湯治に訪れ(現熱海市役所の地)、4代家綱以降は熱海の温泉水を江戸城に運ばせる「将軍の御用湯」として地位を確立したことが大きな背景となっております。また、東海道から程近い立地は、大名や旗本等の湯治も盛んにさせていったという経緯もありました。この「大湯」の泉源に程近く、「湯前神社」が存在することも古くからの「湯治場」として正しい在り方を見てとることができます。ここには、近世に建立された石碑が残っていることも、温泉地の有り様を伝える貴重な遺構であることも確認できました。
さらに、熱海温泉が興味深いのは、中世以来の湯治の記録が様々な形で残されていることであります。戦国期より前は、現在の熱海温泉の中核をなす「大湯」を中心とした地域と異なり、若干北に寄って立地する現在「伊豆山温泉」として知られる地が「湯治場」として賑わいを見せていたようです。そこには、相模湾縁に史跡指定される「走り湯」を見ることができます。ここは大規模な泉源の一つであり、現在でも横穴の奥でゴーゴーと音を立てて盛んに温泉水を湧出させております。かつては、今以上の湧湯量を誇っていたようであり、泉源から海に向けて湯が横に迸り出ていたことが名称の由来となっております(「大湯」間欠泉もかつては斯様な姿であったことは先に述べたとおりです)。そこから尾根に沿った長い長い参道を登った先に、伊豆修験の本拠地であり、鎌倉幕府による「二所詣」寺社として厚く尊崇を集めていた「走湯山伊豆山権現(現:伊豆山神社)」が立地しております(頼朝挙兵の砌、政子が身を寄せた地でもあります)。ここは、かつては長い参道の両側に数多の僧坊が林立して栄え、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれたように、僧兵を擁する世俗的な権力をも有しておりました。しかし、豊臣秀吉による小田原攻めの際に北条方に与したことによって全山焼き討ちに逢い、近世には熱海に逗留した徳川家康によって再興を遂げたものの、かつての勢いは失いました。今でも参道の両側には、平場と石垣により段々に造成された僧坊遺構が延々と続く姿をみてとることができます。かつて僧坊が斜面に沿って林立していたことでございましょう。
この在り方からは、熱海に於いても、中世には「走り湯」を泉源とする温泉の管理が寺社(伊豆山権現)によって担われていた古い姿を偲ぶことが出来そうです。その衣鉢を継ぐ伊豆山神社には『走湯山縁起』が伝わり、そこには「走湯山権現は善光寺如来とともに三国から伝来した渡来の異域の神人(本地観音)で、温泉を湧出して衆生を済度することを本誓としている」とあるようです(鴨志田美香「『走湯山縁起』ついて-その価値の再検討』より」)。本論文で鴨志田氏は更に“伊豆山”の呼称は「広義において権現が垂迹した日金山、岩戸山、伊豆山などの霊山を含む霊場そのものを示している」とも指摘されております。また、同山と併せて「二所詣」の対象となっていた「箱根権現」に伝わる『箱根権現縁起絵巻』には、伊豆山権現の姿が描かれており、斜面に連なる数多の堂舎と、海岸で迸り出る「走り湯」の下で温泉水を浴びる湯治客の姿を見てとることができます(今でいう“打たせ湯”でございましょう)。鴨志田氏は当該論文で伊豆山権現の在り方を以下のように纏めていらっしゃいますので、ほんの一部のみですが御紹介させていただきます。
走湯山には、役行者が湧き出づる湯の中に千手観音を感得し、『無垢霊場 大悲心水 沐浴罪滅 六根清浄』という偈を授かったという伝説があり、また、『梁塵秘抄』に“四方の霊験所”と歌われるほど、早くから優れた修験霊場として名を馳せ、顕密両派がその勢力を競っていた。鎌倉時代には、鎌倉幕府の鶴岡八幡宮を中核とした宗教政策の下において、走湯権現と箱根権現はともに準宗社として遇され、走湯権現と箱根権現の二所を詣でる二所詣が流行した。 (鴨志田美香「『走湯山縁起』ついて-その価値の再検討』」1998年 『生活機構研究科紀要』第7号掲載) |
伊豆山神社の境内には熱海市が運営するこじんまりとした「伊豆山郷土資料館」があり、かつての神仏混交の時代を示す仏像・神像、周辺の経塚から出土した貴重な遺物等を拝見できます。何よりも、海岸縁にある「走り湯」から中腹の「伊豆山神社本殿」までの参道を登って、威容を誇ったかつての伊豆山権現の面影を体感していただくことをお薦めしたいと存じます。因みに、令和3年(2021)7月3日に、この熱海の地で発生して甚大なる人的・物的被害を齎した大規模土石流は、現在の熱海温泉と伊豆山神社の間に入り込む谷間一帯を飲み込んだものであり、現在もその傷跡生々しく、復旧も道半ばであることを知ることになりました。
さて、先に熱海市も行政の立場から、熱海温泉を核とする活性化を図るべく取り組まれていると記述いたしましたが、それが「市制施行80周年記念」事業として取り組まれた『熱海温泉誌』(2017年)の刊行でございます。定価は1冊3,300円(税込)となっております。「矢鱈と高いじゃないか」との声が聞こえてきそうですが、それは本冊を実際に見てご判断下さい。オールカラーで400頁にもなりなんとする立派な図録であり、多面的・多角的に熱海温泉を読み解く内容に戦慄させられるほどです。何よりも、行政機関として「温泉」という地域資源をここまで突き詰めて追及し、そのことを通じて街の再興を果たそうとする気概に打たれます。行政としての相当な覚悟がなければここまでの書物は出来上がらないと存じます。しかも、市内の特定の場で細々と販売するだけではなく、アマゾン等を通じて広く販路を求めてもおり、できる限り多くの方々に熱海温泉について知ってほしい……という行政マンの覚悟の程を感じさせられます!!小生は、本冊子を手にして、その値段は内容の充実に鑑みて寧ろ安価であるとさえ思えました。
本誌は、熱海駅から徒歩15分ほどにある「熱海市立図書館」で販売しております(日曜日も18時まで開館)。因みに、本書は上述のようにアマゾン等でも販売されておりますが、驚いたことに軒並み定価の二培・三培の値段がつけられております(一万円を超える値段のものさえありました!)。アマゾンへの手数料が加算されているのか、そのあたりの事情は分かりかねます。それだけ需要があることが高値を呼ぶ原因とも存じます。しかし、何のことはない、熱海市には在庫があり定価にて購入可能であります(恐らく郵送販売もしてくれると思います)。勿論、小生も熱海市で購入を致しました。以下、その「目次」を引用させて頂きます。行政による編集物でありますから様々な制約があり、どうしても取り上げ辛い内容もあると存じますが、それでも“よくぞここまで”……と驚愕される内容でございます。「ブラタモリ」熱海の回に出演された京都府立大学大学院生命環境科学研究科准教授である、あの素敵な松田法子先生(建築史・都市史の研究者)も幾編も御執筆されております(「別府」の回にも御出演されましたね)。
市制施行80周年記念『熱海温泉誌』(熱海市刊行)
「あたみ」の黎明期から伊豆山・熱海郷の温泉時代へ 石川理夫
中世社会における「熱海」 髙橋一樹 浄土信仰と伊豆山経塚 村木二郎 ・修験と走湯 ※ ・はコラム(以下同) 栗木 崇 温泉の五山文学 住吉朋彦 ・歌に見る熱海 中世まで 吉野朋美 戦国時代の熱海 中世から近世へ 黒田基樹 中世熱海温泉の様相 栗木 崇 ・温泉を見つめてきた温かいまなざし 熱海の神像・仏像 田島 整
近世熱海村の社会と温泉 大湯と湯戸、村方・浜方・七湯 松田法子 近世熱海の空間イメージと建築 松田法子 ・大名湯治と奉納品 栗木 崇 ・御汲湯と熱海温泉 梅原郁三 江戸紀行が描く熱海 板坂輝子 江戸絵本の作者が描いた熱海『熱海温泉図彙』『金草鞋』『伊豆熱海温泉縁起』 津田眞弓 ・温泉番付にみる熱海温泉 石川理夫 湯前神社の由来と伝承 山田芳和・梅原郁三
写真で見る明治の熱海温泉 イメージとその普及 三井圭司 明治・大正期における湯戸・湯株・大湯の変容 松田法子 ・熱海の近代化を促した二人 田中平八と雨宮敬次郎 熱海における旅館業の成立と発展 大久保あかね ・明治初期の宿帳から見える熱海の旅館 大久保あかね 近代の熱海と軍隊 陸軍療養所をめぐって 高柳文彦 熱海温泉の噏滊館 その意義と影響 高柳文彦 絵はがきと旅館案内にみる熱海 松田法子 近代熱海の旅館の系譜と立地・建築 松田法子 名別荘建築を訪ねて 起雲閣・東山荘・旧日向家熱海別邸 伊藤裕久 文学が映す熱海の近代 瀬崎圭二 昭和初期における温泉源と分譲地の開発 松田法子 近代熱海における交通インフラの進展 高柳文彦 外国人が見た熱海の温泉 石川理夫 ・大正期熱海旅行とその余韻 ある一家の思い出に寄せて 長尾祥子 米軍占領期の温泉地と熱海 平井和子 熱海の旅館経営を支えた女性たち 高柳文彦 ・熱海芸妓の歴史 松田法子 熱海温泉郷としての発展とその展開 高柳文彦 熱海温泉の生活インフラ整備 高柳文彦 ・熱海の温泉組合と共同浴場 高柳文彦
熱海の温泉 再発見 資源・効果・集客 地球科学的にみた熱海温泉 その生成機構 遊佐悠紀 熱海の温泉資源の経年変化について 甘露寺泰雄 温泉観光都市・熱海の地域変化と課題 山村順次 熱海の主な泉質の効用と海浜保養地 阿岸祐幸 温泉の健康的活用 市民特定検診結果から 早坂信哉 全国的にみた熱海温泉の実力と人気度 石川理夫 市民が選ぶ、熱海ゆかりの人びと 枡田豊美 |
小生にとって、初めての熱海は、多くの発見があり、未だ未だ拝見したいところが沢山できました。その第一は、我が国に滞在していたブルーノ・タウトが設計した、国内唯一の現存建築「旧日向家熱海別邸」でございます。次に熱海を訪問する際には、是非とも「旅館」に宿泊して、ゆるりと熱海を楽しみたいものであります。かつての思い込みはすっかりと払拭され、あっという間に熱海温泉ファンと化してしまいました。この軽薄さに我ながら情けない思いで一杯でございます。何れにしましても、流石に「熱海」という温泉の奥は深そうです。
3月に入り、本年度も一か月弱となりました。そして、本日は「桃の節句」です。恐らく国内の何処でも、春を告げるように、美しくも愛らしい「雛飾」が華やかに飾りつけられておりましょう。我が家には男の子しかおりませんから、この風習とは無縁でございました。「端午の節句」は「鎧兜飾」となりますから、どうしても武張ってしまうことは否めません。男の子だけでも恵まれたことに感謝しつつも、この時節を迎えると“ちょっぴり”ではありますが、羨望の念抑えがたき想いにも駆られます。
それにいたしましても、前回にも記しました「三寒四温」の内、“三寒”の冷え込みがここに至って一入に染み入るようで老体に応えます。取り分け2月末に吹き荒んだ北風には身の縮む思いを致しました。暦は既に春とはなりましたが、関東では今季一番の冷え込みであったように感じましたが、皆様は如何でございましたでしょうか。かような次第で、この度は恒例の塚本氏撰のアンソロジー集から、冬と春の作品を一首ずつ引用させて頂きました。ともに、塚本氏が『新古今集』と並んで偏愛していらした勅撰集、『玉葉集』『風雅集』期における“京極派歌人”の詠歌でございます。冴え渡るような冒頭歌を、塚本氏の“キレッキレ”の短評とともに味わって頂ければと存じます。
初句「雲こほる」、第三句「嵐にみがく」、いづれも冱えた強勢表現で、寒夜の凄じい風景を活冩してゐる。墨繪の樹々が、逆立つ髪さながらの木末を振り亂すさまが下句に盡されてゐる。「散りまよふ 木の葉にもろき 音よりも 枯木吹きとほす 風ぞさびしき」が一聯中に見え、同工異曲ながら、いづれも結句の直接表現が、餘韻を失はぬ点を買ほう。 こまやかに潤んだ丈(たけ)高い調べは、名勅撰集の聞こえ高い玉葉を代表する歌風。伏見天皇中宮、太政大臣西園寺實兼女、藤原鏱子の作品はその典型であつた。朝からの雨が夕暮には雪まじりになり、春とはいへ身も心も顫へるひととき、餘寒への恨みが屈折した美を生み出す。十四世紀初に到って、古歌の不可思議が、このやうな燻銀(いぶしぎん)の世界を見せる。 [塚本邦雄撰『淸唱千首』1983年(冨山房百科文庫)より] |
さて、去る1月11日から改修工事のために閉鎖となっておりました本館の5階でございますが、ようやく工事が終了し、3月1日(水曜日)の検査終了後より立ち入りできることになりました。長らく皆様にはご迷惑をお掛け致しましたこと、改めましてこの場でお詫び申しあげたいと存じます。この間に御来館を頂いたお客様からは幾度となく「5階からの眺望を楽しみにしてきたのに」との苦言を頂戴しておりましたので、漸う漸うのこと完成に漕ぎ着けることができて、大いに安堵しております。実のところ、今回の5階の改修目的は、皆様が本館に御来館頂ける楽しみの一つとされております、その「眺望」環境を改善することにございました。そこで、今回は本館のこれまでの歩みも含め、改修工事のあらましを述べてみようと存じます。
本館の建物が新規に建設されオープンしたのは、今を半世紀以上も遡る昭和42年(1967)4月のことでございました。中世城址に恰も近世城跡を思わせる模擬天守閣を建設することには、当時でさえも時代錯誤であるとの批判があったそうですし、文化行政を担う当時の「文部省文化局(1968年より外局の文化庁に改組)」からの苦言も頂いたようです。しかし、宮内三朗市長の断っての願いもあって実現したと耳にしております。それには、戦後に徐々にその規模を拡大し荷物取扱量が増加する「千葉港」に寄港する船が、ここが千葉であると一見して確認できる「日和山」的存在となる象徴的な建物が必要であるとの市長の熱い思いがあったと、当時本館建設に携わった市役所職員ОBの方から伺ったことがございます。生憎、小生にはそうした経験はございませんが、船舶で木更津から東京湾を北上するとなれば、恐らく内房には高い山もなく何処も代わり映えしない風景が続くことになりましょう。確かに、そこに天守閣風の建物があれば、そこがまごうことなき「千葉港」と知れることになります。それに加え、建設地が猪鼻城跡であったことも、模擬天守閣のデザインが選択された理由でございましょう。半世紀以上を経た今日からみれば、時代錯誤を論うよりも、高度経済成長期の「歴史的産物」としてとらえることもできましょう。
そのことと併せて、本建物が当初“千葉市観光課”所管の観光施設「千葉市郷土館」として産声をあげたことに触れておかなければなりません。今日のような「博物館組織」として再出発することになったのは、昭和51年(1976)に“千葉市教育委員会社会教育課”所管に移って以降の同58年(1983)からとなります。その際に、名称を「千葉市立郷土博物館」と改めて今日に至っております。その折には、博物館施設として必須の「収蔵庫」が増築されております。その後、大規模な耐震工事に併せて展示内容に手が加わり、平成13年(2001)12月にリニューアルオープン。更に平成19年(2007)「千葉市科学館」のオープンとともに、本館4階プラネタリウム施設が閉鎖となったことを受け、その跡を「近現代展示室」とすることで、ほぼ現況に到っております。
ただ、元来が観光施設として建設された建物であることもあり、導線の設定の難しさ等々「展示施設」としての機能は、必ずしも充分とは言えない状況にあります。また、原始・古代・近世の展示が存在しないなど、政令指定都市の博物館としての課題も多く存在しております。これらのことは、千葉市博物館施設の諮問機関である「博物館協議会」から予て指摘されており、その改善の必要性と方向性とが提言されております。早急なる施設・展示内容の改修・改善に向けた取り組みが必要になってきております。令和8年(2025)「千葉開府900年」記念事業を一つの画期と定め、こうした課題の解決に少しでも寄与できるよう取り組むことを目指していきたいと考えるものでございます。従って、今回の施設の改修は、そうした本館の課題解決の手始めとして具現化に到ったものとお考えくださると宜しいかと存じます。因みに、これまで存在した5階回廊外の金網フェンスが、何時の段階で設置されたものなのかは今回調べ切れませんでした。ただ、館内にある過去の写真を見ると、建設当初から2mほどのフェンスが存在してはおりましたが、過日まであった形状のものではありません。ただ、昭和53年(1978)の写真では既に先日まであった金網フェンスとなっていることが確認できます。昭和51年(1976)に教育委員会所属施設に移管となったのを機に、安全性確保を最優先とするフェンス改修工事が行われたのかもしれません。
何れにしましても、本館にとって、最上階からの眺望は常に重要な機能の一つであることは間違いございません。建設当初は視界を遮る高層建築など一切存在しませんでしたから、さぞかし広々とした風景が広がっていたことでしょう。模擬天守建築は国内に数あれど、本館の場合は最上階5階の外部四周に回廊を巡らせ、外へ出て眺望を楽しむ構造となっております。同じく鉄筋コンクリート造復元天守閣を有し、内部が博物館施設として活用されている「小田原城」と似通った構造であります(もっとも本館と異なり小田原城外観は近世の姿を復元したものとなります)。こうした構造は必ずしも一般的なものではございません。例えば、県内では大多喜城復興天守の最上階には回廊は存在せず、飽くまでも窓越しに城下を眺める形となりますので、本館のような構造では格別な開放感が感じられるものと考えます。
ただ、公共施設でありますから、同時にお客さまの落下防止の手立ても講じなければなりません。構造上は回廊外側には朱色の低い欄干があるだけですから、そのままでは安全性の確保に重大な問題が起こりえます。そこで、これまでは落下防止のために、2.5メートルにも達するような鉄格子のフェンスが回廊をぐるりと取り巻くように張り巡らされていたのです。確かに、安全性の確保という面では万全に近いものでしたが、折角の眺望がフェンスで遮られてしまうのは如何ともしがたいものでございました。そもそも最上階は展望施設であり、フェンスがそれへの阻害要因となってしまうのでは本末転倒ではないか……との指摘も受けており、その御高説も確かに御尤もでございました。実際、折角の広大な光景も網越しに眺めざるを得ない状況にあり、写真撮影をされるにしても、金網越しの風景となってしまうなど、確かにモヤモヤ感は否めない状況にもあったのは紛れもない現実でありました。今日の博物館組織の在り方として「観光施設としてのプレゼンス」も極めて重要な任務となっております。こうした課題が理解されて、ようやく本年度に予算化がなされて改修工事に到った経緯となります。まぁ、これまでの状況につきましては、小生は縷々述べるまでもなく、過去に本館にお出でになった方であれば、よくよくご承知のことでございましょう。
具体的な改修工事の概要について述べておきたいと存じます。一つ目が、2メートル越えのフェンスを、人の目線を隠さない程度に上部をカットすることでした。ただ、それだけですと既存の低い欄干に足がかりが出来てしまい、フェンスを軽々と越えることができてしまいます。これでは安全確保面で重大な問題があることになります。そこで、2つ目に回廊内部の四周に、視界を遮らない高さの格子状フェンスを回して、足がかりがとれないようにすることで安全性の確保を成し遂げることにいたしました。つまり、眺望の改善を図りながら、落下防止フェンスを二段構えで設置し落下防止に備える構造となったということでございます。
また、併せて、外回廊の東西南北各面の外フェンス中央に、「展望案内パネル」を設置いたしました。各方位に眺望できる主な施設・建築の案内をしております。お天気が良ければ、富嶽と筑波峰も眺望可能ですので、こちらも記載してございます。因みに、案内パネルには記載しておりませんが、富士山の手前に重なって見える、左側に傾いたように山頂が尖って見えるのが相模の大山でございます。富士も大山も筑波も、古くから房総の方々からの信仰を集めた“おやま”でございます。こうした施設で小生が第一に探すのはこれらの山々であり、見つけると知らず知らずに背筋が伸びるように感じます。これもご先祖様から引き継がれる坂東人のDNAの為せる業なのかもしてません。
さて、過日、工事の完了した5階に上り、展望回廊から四周の景色を眺望いたしましたが、その開放感は格別なものと実感した次第でございます。当日は快晴でありましたから、上述いたしました富士と大山、そして筑波山もクッキリと屹立しておりました。南面には、キラキラと水面を輝かす千葉港、溶鉱炉を始めとする工場煙突が林立するJFE千葉工場、そして遥かに南に続く南総の山々は広がっております。東には旧東金街道に沿って連なる千葉大学医学部や千葉大学病院等々から青葉の森への広がり、北には都川低地をへて広がる広大な景色、そして西側には県庁舎を始めとする千葉中心街の新しい高層建築が建ち並んでおります。何よりも、改修工事前と変わらぬ光景であるにも関わらず、フェンスに邪魔をされずに見通せることにより、あたかも別施設に脚を運んだような感銘を感じた次第でございます。それほどに、これまでとは全く違った“異次元(何処かで聞いたことがある言い回しですが)”の眺めのようだったのです。フェンス越しではないだけでこれほどに見え方が変わることに驚かされました。そして、本館よりも遥かに高い建築が存在する現在においても、本館最上階から眺望する景色には未だ未だ十二分に通用する価値があるものと確信した次第でございます。決してありきたりの光景ではございません。今回の改修工事の成果に、きっと皆様もお喜び頂けるものと確信いたした次第でございます。そして、これで、皆様のご来館時に撮影される風景をバックにした記念写真にも何の支障もなくなりました。
更には、外から見上げる本館の立ち姿の印象も、随分と変わったようにも思います。小生は日々京葉線・外房線を用いて通勤をしておりますが、その車窓から遠望する本館の印象が明らかに違っております。これまでは最上階がフェンスに覆われていたため、どことなく全体も靄の掛かったようにぼやけて見えておりました。ところが、フェンスが低くなったことで、遠方からでも明らかに最上階が縁どられたようにみえるようになり、本館自体もキリリと引き締まった立ち姿になりました。それは、本館に近づいて見上げると更に明瞭であります。例えとして適切かどうか分かりませんが、「目鼻立ちがクッキリした」と申せばイメージしやすいかもしれません。都市には、謂わば“街の顔”となる「ランドマーク」となる施設が必要だと思います。そして、それが如何なる建物であるかで街の印象も大きく変わります。その点、本館の見え方が良い方向に変貌したことが市民の皆さんに、本市住民であることの誇りを感じていただく要因の一つとなってくれることを期待するものでございます。今回の改修工事は、規模的には決して大きなものではございませんでしたが、そのもたらした効果は極めて大きなものとなったと考えるものであります。これまで小生の述べたことが、決して大袈裟な物言いでも嘘偽でもないことを、本館にいらっしゃれば誰もが御実感いただけるものと確信しております。ひとつ、騙されたと思って、是非とも本館に脚を御運んでみてくださいませ。これまでと同じ風景が、正に薄皮を剥いだように違って見えることに驚かれましょう。
最後に、今年は3年ぶりに「千葉城さくら祭」が、この亥鼻公園を舞台に開催されることが決定されました。概要は過日配付「千葉市政だより3月号」にも掲載されておりましたが、その概要を以下に引用させていただきます。ただ、コロナ感染症が完全に終息した訳ではありませんので、シートを敷いての宴会は禁止とすると聞いております。未だ未だ気を抜けない状況がございますので、その点は是非とも御理解の上でご協力を賜りますようお願い申しあげます。そして、その際には、眺望の改善された本館の5階展望回廊から、膝下の亥鼻山に咲き誇る櫻を眺めてみては如何でしょうか。きっと、これまでにないような感銘を抱かれることと推察いたします。皆様のご来館を心よりお待ち申しあげております。なお、本祭の主催は本館ではなく「千葉城さくら祭り実行委員会(市観光協会内)」となりますので、詳細のお問い合わせはそちらへお願いいたします。また同委員会では「ホームページ」も開設しており、出店協力店、開催予定催事等々の詳細が掲載されるようですから、是非ともご確認の上で出掛けくださいませ。
「千葉城さくら祭り」 千葉開府の地にあたる亥鼻公園で、千葉城さくら祭りを開催します。 日 時 3月25日(土曜日)~4月2日(日曜日)12時00分~21時00分 ※詳細のお問い合わせは「千葉城さくら祭り実行委員会(市観光協会内)」まで[電話043-242-0007]
(「千葉市政だより」3月号より一部を引用致しました) |
「さくら祭り」開催中の本館の開館状況等について1.会期中の月曜日(3月27日)は「臨時開館日」といたします。 2.近隣3館による「体験コーナー」を開設します。 ・期 日:3月25日(土曜日)・同26日(日曜日)の2日間 ・開催時間:12時00分~15時00分 ・会 場:本館1階「講座室」 ・費 用:無 料 ・予 約:必要無 ・参 加 館 :千葉市立郷土博物館(両日)、千葉市科学館(両日)、千葉市美術館(25日のみ) 3.会期中における本館の開館時間は全ての日とも通常通りとなります!! ・9時00分~17時00分(入館は16時30分まで) |
今回は、本年度末までに刊行される本館冊子等の宣伝をさせていただこうと存じます。最初は、予てから告知ばかりで「何時になったら刊行されるの!?」と、ヤキモキしながらお待ちいただいている皆様への朗報でございます。遂に、本年度企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』(会期:令和4年8月30日~10月16日)関連資料集を刊行できる運びとなりました。そして、本日から本館にて販売を開始いたします。お値段は1冊700円となります。どうぞお求めくださいますようにお願いを申し上げます。皆様には長らくお待たせをしてしまい誠に申し訳ございませんでした。
千葉市所縁の「青木昆陽」と「さつまいも」につきましては、千葉市に生まれ育ち、市内公立学校で義務教育をお受けになった方であれば、誰もがその人と出来事については知っております。徳川吉宗の命令により青木昆陽が飢饉対策のために薩摩芋を広めることに努めたことと、市内の幕張がその試作地になったことでございます。しかし、千葉市民にとって斯くも耳馴染みのある昆陽と薩摩芋のことについては、恐らくそれ以上に知る方は滅多にいらっしゃらないと存じます。しかし、気になさる必要はございません。むしろそれが当然なのだと思います。博物館に勤務する小生にとっても認識は皆様と左程に変わりませんでしたから。何故ならば、それ以上に深く「昆陽と千葉のさつまいも」について追求した一般書も、ましてや子供向けの学習図書すら出版されておりません。本来、そうした役割を担わねばならない本館でさえ、これまで「青木昆陽」「さつまいも」を冠した展示会を開催したことがなかったのです。更に、県内に目を向けても、管見の限り、昨年度旭市「大原幽学記念館」開催の企画展『甘藷王国の軌跡-さつまいも栽培の先駆者・穴澤松五郎-』が初めてのように思います。もしかしたら、記憶の埒外であれば、相当昔に開催されている可能性は皆無ではないと存じますが、少なくとも青木昆陽を絡めた展示は初めてのことと存じます。斯様な有様ですから、市民の皆様がこれ以外のことなど知れる筈など無理であったのが現状でありました。
以下に令和元年(2019)の国内における薩摩芋生産高の各県別データ上位6県を掲げてみましょう。是非ご覧になってみてください。千葉県は、現状において、全国で3位となるほどの薩摩芋生産量を誇っているのです。本県は、かくも国内有数の「薩摩芋王国」であるにも関わらず、これまで昆陽や県内の薩摩芋等についての展示会が開催されていなかったことが、むしろ不思議の感すらいたします。おそらく、その起点には青木昆陽が位置付き、昆陽の「置き土産」から派生しながら今日の興隆に至っているはずであります。しかし、その過程については、県民ですらその全貌を(例え“あらまし”であっても)知り得なかったのが実際であったということでございます。
順位 | 県名 | 生産量(万t)[構成比(%)] | 作付面積(万ha)[構成比(%)] |
1 | 鹿児島県 | 26.1 [34.9] | 1.1 [32.7] |
2 | 茨城県 | 16.8 [22.5] | 0.7 [20.0] |
3 | 千葉県 | 9.4 [12.5] | 0.4 [11.8] |
4 | 宮崎県 | 8.1 [10.8] | 0.3 [ 9.8] |
5 | 徳島県 | 2.7 [ 3.6] | 0.1 [ 3.2] |
6 | 熊本県 | 1.9 [ 2.6] | 0.1 [ 2.6] |
(農林水産省:令和元年度「作物統計」より)
ご覧いただいて、生産量は国内3位とはいうものの「トップの鹿児島県には大きく水をあけられているなぁ……」とお感じになられましょうか。しかし、この統計表からは読み取れませんが、各県で作付けされる薩摩芋の目的別生産量の構成比でみると以下のようなことが判明いたします。それは、鹿児島県では生産量の約9割が「アルコール加工用」(芋焼酎の原料)と「澱粉加工用」として利用されているのです。それに対して、千葉県では全く逆に約9割が「生食市場販売用」となっております(茨城県も約8割が「生食市場用」)。つまり、現在では、食糧として直接食する薩摩芋の大生産地となっているのは、千葉県(そして茨城県)ということになります。ここに、鹿児島県と異なった、首都圏に位置する千葉県(茨城県)の薩摩芋生産の在り方が明確になっていると存じます。つまり、我々の思いとは、青木昆陽から始まる千葉における薩摩芋生産の歩みを明らかにすることを通じて、薩摩芋生産県としての千葉県・千葉市の在り方を明らかにすることにございました。それが100%実現できたとは存じませんが、今後の調査・研究へと繋がる“地盤”をつくり得たものと自負するところでございます。
さて、以下、図録に掲載させていただいた小生の「挨拶」と各章「総論」を引用させていただきます。ただ、全体は大分となりますので、第2章「総論」以下は明日アップの「後編」に引き続いて掲載させていただきます。是非、続けてお読みくださいましたら幸いです。本市で“偉人”として位置付けられる青木昆陽の実像と、その「置き土産」である市内・県内で生産される薩摩芋の歩み、及びそれを原料として発展する工業生産等について、その“あらまし”を御理解いただけるものと考える次第でございます。これで、他市・他県出身の方に、千葉県民・千葉市民として、胸を張って「青木昆陽」と「千葉の薩摩芋」とを語ることができましょう。今回の資料集の刊行は、そのようなことを可能にする県内初の意義を有するものと存じます。また、小生は、是非とも小中学校で「青木昆陽」「千葉の薩摩芋」の授業化をしていただきたいものと願ずるものです。社会科の先生方にとっても、本資料集は掛け替えのない貴重な資料集となるものと存じます。
企画展『甘藷先生の置き土産
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企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』
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(第2章以下の「総論」は「後編」に続く)
後編では、前編に引き続いて、企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』関連資料集の各章冒頭に据えられた、第2章以下の「総論」を紹介させていただきます。
第2章 江戸時代のさつまいもと千葉
第3章 千葉における近代のさつまいも栽培とデンプン製造業の発展<近代におけるさつまいもの品種と栽培方法の改良>近代になると、さつまいもに関する品種の新発見・改良が各地で行われた。千葉県では、千葉県農事試験場によって、「甘藷農林1号」や「紅赤31号」といった品種が改良された。千葉郡でも、幕張町や検見川町などの西部地域でさつまいもの生産力が高く、同郡農会の事業として「千葉赤」という品種が改良され、その種苗が、千葉県内のみならず、全国各地へ販売された。千葉県農会発行の農業雑誌『愛土(あいど)』には、戦時下でさつまいもの増収が奨励される中、その栽培方法などに関する記事が多く掲載されるようになった。また、県農会は、穴澤松五郎が改良した幌式の苗床を取り入れ、さつまいもの増産に取り組んだ。松五郎は、「昭和の青木昆陽」「今昆陽」と称された。
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以上でございます。ここまでお読みになられた方は、すぐにでも手に取ってみたくなられたことでございましょう。企画展に脚を運ばれて展示をご覧になられた方であれば、展示されていた史資料が目の前に思い浮かべられること存じます。勿論、展示をご覧いただいていない方にとっても、本資料集をお読みいただければ、展示内容を十二分に御理解いただけるものとなっております。もう一つ、資料集中には、千葉県立佐倉東高等学校調理国際科の先生方と生徒諸君にご協力いただいた「江戸時代の薩摩芋料理レシピの復元+現代的アレンジ」も掲載できました。こちらで、ご家庭でアレンジ料理に挑戦されてみては如何でしょうか。何れに致しましても、どなたにとっても必携の貴重な資料集となり得たものと自信をもってお薦め致す次第でございます。
続いて、長らく品切れをしておりまして、皆様から再販の要望を頂いていた、以下2冊の再販を実現することができました。こちらも、昨日(3月10日)より販売を再開いたしました。もしお手にされていなければ、是非ともお求めくださいませ。小さくて読みにくいと苦情の多かった「千葉氏系図」は、これまでの1頁から見開2頁に改めるなど、適宜改訂も加え利用し易くしてございます。
~以下の24の「クエスチョン」に対して、「アンサー」の形で解説した内容となっています。「千葉氏系図」と「略年表」も付属しております。
・Q1「千葉氏ってなに?」
・Q2「千葉氏がこの地にやってきた当時の武士って、どんな暮らし?」
・Q3「千葉氏の家紋はどんなかたち?」
・Q4[平将門は千葉氏と何か関係があったの?]
・Q5「千葉氏はなんで千葉に移ってきたの?」
・Q6「平氏である千葉常胤はどうして源氏に味方したの?」
・Q7「正式には“千葉介常胤”っていうの?」
・Q8「源頼朝に“父と思う”とまで信頼された千葉常胤。どんなことをした人なの?」
・Q9「千葉常胤はどこに領地をもらってたの?」
・Q10「千葉常胤の死後、それらの領地はそうなったの?」
・Q11「千葉氏はどうして北条氏に滅ぼされなかったのか?」
・Q12「千葉氏が信仰した妙見って何?」
・Q13「元寇の解き千葉氏も出陣したの?」
・Q14「鎌倉幕府が滅亡したとき、千葉はどうなったの?」
・Q15「室町時代の千葉氏はどんな様子?」
・Q16「香取神宮って千葉氏と関係あったの?」
・Q17「千葉氏はいつまで千葉にいたの?」
・Q18「千葉氏は戦国大名だったの?」
・Q19「千葉氏はどんな戦国大名と戦ったの?」
・Q20「千葉氏はどうして滅亡したの?」
・Q21「千葉一族で江戸時代まで残った家はあるの?」
・Q22「江戸時代には、千葉市の家臣の子孫はどうしていたの?」
・Q23「千葉氏の子孫で江戸時代より後に活躍した人っている?」
・Q24「千葉市には千葉氏に関係のあるものが何か残っている?」
~平安時代から鎌倉時代、特に12世紀後半の源平合戦(治承・寿永の乱)期に武士が使用した武具や当時の戦法について説明した内容で す。写真・図版も豊富に掲載されています!!目次は以下の通りです。
はじめに
1 武士とは その起源と成立
2 滋籐の弓 鎌倉武士のメインウェポン
3 軍馬とは 武士の機動兵器・ステータスシンボル
4 馬具とは 人馬一体のためのアイテム
5 大鎧とは 騎射のための鎧
6 源平合戦 様式化された戦法と現実の戦場
7 一 騎 打 武門の誉れ・戦場の華
8 従者とは 武士の戦いを支えた者
エピローグ 鎌倉以降 変わりゆく戦法と装備
最後に
参考文献
最後に、上述した3冊以外に、3月末日までに刊行される冊子とその内容(目次)を纏めて御紹介させていただき、本稿を閉じたいと存じます。こちらも是非とも楽しみにされてください。販売・頒布開始日につきましては、決定次第「本館ホームページ」・「ツイッター」等でお知らせ致しますので、ご確認いただけましたら幸いでございます。
・紙上古文書講座「『一村』を証明するもの~村にとっての高札」(遠藤真由美)
・「千葉市所蔵の木製プロペラに関する一考察(小暮達夫)
・「漆喰の原料となる貝灰―その歴史」(黒住耐二)
・「下志津飛行学校格納庫の市内三小学校講堂と千葉公園体育館への転用について」(市原徹)
・「千葉市の弥生式土器・石器―新田山遺跡―」(小林崇)
・「新聞にみる千葉のむかし 大正期千葉町のまちづくり」(小林啓祐)
・「千葉資料ネット小中台村文書整理報告」(遠藤真由美)
・「千葉御殿の跡地利用(仮)」(土屋雅人)
・「令和4年度千葉氏関係史料調査会調査概報」(石造遺物・椎名家文献・尾張文書通覧)
・資料紹介「黄表紙『月星千葉功』の翻刻と作品解説」(白井千万子)
・「逸翁本『大江山絵詞』の輪郭」
(千葉大学大学院人文科学研究院・准教授:久保 勇)
・「逸翁本『大江山絵詞』の伝来と千葉氏」
(都留文科大学教養学部・特任教授:鈴木哲雄)
・「クロストーク」(久保 勇、鈴木哲雄、本館総括研究主任:外山信司)
令和4年度も残すところ2週間程となりました。この一年間は、ある意味で「戦争報道によって明け暮れた」一年間でもありました。申すまでもなく、ロシア連邦が、令和4年(2022)2月24日にウクライナに軍事侵攻を開始してから一年を超過することになりました。その間、ウクライナでは数え切れないほどの尊い生命が失われ、同時に街々が破壊されるなどの悲劇が延々と繰り返されております。それは小生が本稿を執筆している正にこの瞬間にも生じておりましょう。そのことで、引き裂かれた家族が日々その数を増すとともに、故国を離れて国外での避難生活を余儀なくされる方々もまた増えており、本市にも多くの方々が避難されております。そのことは、ウクライナの方々が本館に度々見学にいらっしゃることからも実感するところでございます。また、本館エデュケーターが過日出張出前授業に訪問した小学校児童中にも、ウクライナからの避難児童が在籍していたそうです。そう言えば、過日の報道番組で、ウクライナ国内の子供たちが描いたという一連の絵画を拝見しました。誰もが夢と希望とは遥かに乖離したような、今置かれている現実をあまりに生々しく絵画表現していることに、心の底から暗澹たる思いとなりました。
勿論、戦争の当事者はウクライナだけではございません。当然のことながら、この戦いは軍事侵攻を進めるロシア兵士の生命をも奪っていることは申すまでもございません。侵攻を続けるロシア国民も決して決して一枚岩ではなく、中には本侵略戦争に反対を唱える方々もおります。彼らは周囲からの抑圧を受け、更には家族内でも考えが異なることもあり、深刻な家族の分断をもたらしていると聞きます。その結果、多くの良識あるロシア人の国外流失をも加速させているようです。つまり、戦争当事国双方で悲しみの連鎖を生み出しているのです。しかし、残念ながら、現状に於いて戦争終息の見通しは全くたっておりません。あろうことか、ロシアは核軍縮路線休止や核兵器削減国際条約からの離脱を宣言するなど、むしろ状況は確実に悪化の一途を辿っているようにすら思えます。日本を含む多くの国がロシアを非難するのは当然としても、欧米諸国もウクライナに大量の兵器を供与しているのですから、血で血を洗う連鎖を断ち切ることは、そう簡単なことではないと考えざるを得ません。そうかといって、何の支援もなしにウクライナが大国ロシアに対抗出来ないことは論を待ちません。どうすれば、人々の悲劇が拡大再生産されることなく戦争の終結に結びつくのか……、悲しいことですが、小生のような者には簡単に解は導き出せそうにはありません。諸書にあたるに連れて、その解決は一筋縄ではいかないことを実感するからでございます。
こうした折も折、小生はこの一年間、副題に掲げました千葉市「記憶の保存事業」に、若干ではございますが関わることとなりました。本事業は「千葉市中央図書館情報資料課」が主管課となり、令和2年度から進めている調査活動でございます。本年度、小生は担当者から人選の依頼を受けたことで、本事業へ直接的に関わることになったのでした。そして、その取材を通じて受け取った想いが、図らずもロシアとウクライナとの間で繰り広げられる闘いによって生じている現状と深く繋がることにもなりました。つまり、両国民の悲劇が彼らの心に残していくであろう深い心の傷、そして「平和」が維持されていることが如何に重い価値を有するものかを、奇しくも今回の取材は時空を超えて直結してくれたように思っております。その意味で、不思議な縁を感じさせられたのでございます。今回はそのことを取り上げてみたいと存じます。まず、本事業の目的を以下に引用させていただきますのでご覧ください。
「記憶の保存」(「知の保存」)として、文書化されていないような市民等の記憶の中にある貴重な情報について、インタビュー等を通じてオーラルヒストリーとしてデータを記録・保存し、公開する。これにより、市制100周年、さらに千葉開府900年を迎える本市の資料を整備し、図書館としての「知」の拠点づくりにつなげる。 |
さて、本事業の聞き取り調査に関して、小生が推薦させて頂いたのが、副題にも掲げさせて頂きました池田一男先生に他なりませんでした。先生は、現在満102歳というご高齢でいらっしゃいますが、一昨年度「千葉市近現代を知る会」代表をお務めの市原徹さんと、別件での聞き取り調査にご協力を頂いた際、池田先生の為人(ひととなり)に接して、先生ほど本事業の適任者はいらっしゃらないと確信していたからです。確かにお耳が若干遠くなられ、足弱にもなられてはいらっしゃいます。しかし、それは百歳を超えれば誰にも共通することであり、当たり前のことでございます。しかし、先生は、102歳というご高齢にも関わらず、実年齢を遥かに超越する明晰で闊達な思考・判断をお持ちでいらっしゃること、過去のことも驚くほど明確に御記憶されていらっしゃること、好奇心を広く世界と社会とに開いていらっしゃること、何よりご自身の体幹としての揺るがない理念・哲学をお持ちであること、それに基づく極めて的確なご意見を整然と語ってくだされる、誠にもって稀有なる御方であることに心底驚かされたことが、先生を強くご推薦させていただいた所以でございました。
今回の御依頼につきまして、先生は当初「お役にたてるかどうか」と逡巡されておりました。しかし、小生がインタビューに同席してお手伝いをすることを条件に、最終的にはお引き受けくださったのでした。こうして、先生から、生い立ちから皇国史観に基づく尋常高等小学校での学び、教師を目指して進学した師範学校での学習の実際、教師として赴任した師範学校附属国民学校における子供たちとの想い出、戦時下の教育、生々しい空襲と陸軍への召集の記憶、戦後の混乱期における苦しいながらも心温まる子どもたちとの交流、高度成長期に教育行政に携わったご苦労、荒れた学校の校長に赴任して先生の教育理念を如何なく発揮され子供たちを惹きつけて正常化を成し遂げられたこと等々、示唆に富む沢山の貴重な証言を拝聴させていただくことになったのです。先生が、戦前・戦中から戦後にかけて教育活動に深く携わられ、それぞれの混乱の時期に、そのお持ちの教育理念を基盤とされて、各時代の困難な課題解決に誠心誠意を尽くされたこと、そして一貫して「一人ひとり」の子供の成長に目を向けてこられたこと等々にも、今回の取材を通して触れることができ深き感銘を頂いた次第でございます。
改めまして、池田先生のご経歴のあらましを御紹介させていただきます。先生は、大正9年(1920)曽呂村(現:鴨川市)に祖父・父ともに教職を担う御家庭に生を受けております。地元小学校を卒業後の昭和8年(1933)に千葉県立長狭中学校(現:千葉県立長狭高等学校)に入学。同校2年次に千葉県師範学校本科第一部(千葉大学教育学部の前身の一つで男子教員育成機関~現在の千葉県文化会館の場所にあった)に転じ、5年間に及ぶ教員となるための学びを開始されます。「猪丘寮(ちょきゅうりょう)」なる学生寮に入寮し、あたかも軍隊のような学生生活を送られたそうです。そして、昭和15年(1940)同校を卒業、鴨川の母校曽呂尋常高等小学校訓導として教職生活をスタートされました。2年度に師範学校専攻科(1年間)に再入学され、修了と同時に千葉師範学校女子部(千葉大学教育学部の前身の一つで女子教員育成機関~現在の千葉市中央区富士見町にあった)附属国民学校(男女共学の学級編成)訓導に抜擢されました。時あたかも戦時下にあたり、児童との校外学習中にアメリカ軍戦闘機からの機銃掃射に遭遇しておられます。また、昭和20年(1945)6月10日の千葉空襲では、女子師範学校への空爆に遭遇。防空壕で間一髪一命を取り留めたと語られました。さらに、同年7月7日未明の所謂「七夕空襲」では、2人の教え子を亡くされる悲劇にも遭遇されております。その間、召集令状により、その翌日に陸軍東部第12部隊に入隊されますが、出征前の訓練中に終戦を迎え復員されることとなりました。先生は、その時のお気持ちを「申し訳ないけど、私はこれで帰れるなと思いました。子どもたちと(※必ず戻ってくるからな……と)約束しましたからね」と語られております。
戦後は、昭和21年(1946)から、三々五々疎開先から戻った生徒とともに、焼け残った附属国民学校体育館、後に四街道の野砲校跡、更に焼け残っていた師範学校(男子)「猪丘寮」と“学び舎”を転々としながら、劣悪な環境の中で授業を再開されました。その時の教え子一人ひとりに先生が手渡しされた、先生自作の和歌を添えた色紙が報告書には掲載されております。卒業後ずっと大切に保管されてきた教え子たちの先生への感謝の念と、先生の子供たちを思う気持ちの深さに目頭が熱くなる思いです。ただ、同年に御尊父が急逝されたことで、先生は一端故郷の鴨川にお戻りになられ、26歳で中学校教頭に、39歳で校長となられました。そして、その学校経営の手腕を買われ、昭和37年(1962)に千葉県教育センターに転じられ、昭和47年(1972)同センター次長から千葉市内小学校校長に着任されることとなりました(51歳)。更に、千葉市教育委員会の初代企画調整課(現:企画課)課長に就任され、高度成長期に百余校にものぼる千葉市内小中学校の新設計画を樹立されます。そして、昭和52年(1977)千葉市立末広中学校校長に着任され、自らの教育哲学を掲げて当時の“荒れた学校”の建て直しに熱心に取り組まれました。そして4年後の昭和56年(1981)にご勇退されております。その間、「千葉県教育功労表彰」、「文部大臣表彰」等々の各種栄典の授与に与っていらっしゃることからも、本市・本県教育界への御貢献の程を推して知ることができましょう。
(後編に続く)
よくよく考えて見れば、先生は、小生が千葉市教職員となった昭和58年(1983)の2年前に現役を退いていらっしゃるのです。千葉市教員となった小生が37年間の教員生活を終えたのが令和2年3月ですから、池田先生は小生の教員生活とほぼ同じ月日を定年後に過ごされていらしたことになります。その意味で、小生が令和の世に池田先生に見(まみ)えること自体が、正に「奇跡」的なことと考えざるを得ません。しかも、満102歳をお迎えになられた今日でも意気軒高でいらっしゃり、あまつさえ貴重なお話を“同時代人”としてうかがうことのできたのです。そのことが本来あり得ない程の僥倖に他ならないと存じます。因みに、先生はご退職後も大学講師や各種教育施設の顧問等々を務められ、平成11年(1999)永年に亘る教育界への貢献の御功績により、栄典「勲五等瑞宝章」の授与にも与かられていらっしゃいます。また、平成15年(2007)には自分史『蛙の子』を纏められるとともに、趣味とされる川柳集をこれまでに2冊刊行。102歳の現在も毎日5句を詠むことを日課とされていらっしゃるなど、今日なお意気軒高に人生を謳歌されておられます。先生には、このまま健康を維持され、我々後進へのお手本となり続けてくださることを、衷心より祈念するものでございます。
先生の御証言につきましては、今月末にアップされるWebページ等にて是非ともご覧いただきたいのですが(後ほどURLをお知らせいたします)、ここでは、最後の纏め括りの部分のみ引用をさせていただきます。先生に投げかけられた質問と、それに対する先生の御答となります。実際に教師として戦時下で教育に携われた池田先生だからこその、誠に心に染み入る箴言・金言だと存じあげます。須らく、教員は熟読玩味し、また肝に銘ずべき“言の葉”だと存じます。併せて、「平和への道」と題された、先生の手になる近作の「川柳」4句も併せてご紹介させていただきます。何よりも、本報告書を、プーチン大統領とゼレンスキー大統領のお二方にこそお伝えしたいものでございます。
【質問】教育に対する今も変わらぬ思いは、いかがですか。
【最新作「川柳」・平和への道】 ・一億が勅語そらんじ神がかる ・国連の機能強化し平和維持 ・国民と国勢順位はき違え ・ロシア見て日本の過去を振り返る |
さて、本報告書をお読みくだされば、どなたにもお感じいただけると存じますが、先生のお話は、御自身の御功績を雄に誇って語られるような趣は一切ございません。小生は、御自身の経験とお考えを切々と丁寧に語られる先生の誠実な御人柄に強く惹かれ、時間を経るに従い尊敬の念がいや増しとなって参りました。今回の取材を通じて、“美辞麗句”を連ねることも、阿諛追従を弄することも微塵もなく、先生につきまして斯様に感じたのです。即ち「教育者」としては勿論のこと、「人」として、また「生きることの達人」として、須からく我々がお手本とすべき方であると……。そして、その姿とお言葉を「記憶の遺産」として、令和の世に伝えることができたこと、市民の皆様に広くお伝えできたことを、今、心の底から誇りに感じております。そして、当方の断っての願いをお引き受けくださり、取材に応じてくださった池田先生に感謝の気持ちで一杯でございます。
ここで、先生が私信として小生に宛てた御手紙の一節を是非ともご紹介をさせていただきます。そこには、先生が、戦時中に秘めていらっしゃった「揺れる思い」、怒涛のように流れる「時代の潮流」に抗おうにも、個人の力だけでは如何ともし難かった「無力感」に近い悔悟の念が綴られておりました。流石に、広く読まれる報告書には、ここまで踏み込みこんで内心を開陳されることは避けられたのだと存じます。私信であるからこそ、80年もの間ずっと消えることなく澱のように沈澱していた思いを初めて吐露されたのだと存じます。真っ直ぐな青年教師の心の奥底に今も癒えない思いを残したものが「戦争」という時代なのです。皆様には、先生の本当の心の奥底からの御発言に、是非とも触れていただきたかったのです。正直、先生のお手紙を拝読させていただいたとき、何時もは闊達でいらっしゃる先生の、心の底に秘められていた「想い」を目の当たりにして、不覚にも涙が零れたことを白状せねばなりません。
「私信」を表に出すことなど本来あってはならないことは承知しております。しかし、先生の「オーラルヒストリー」を後世に残す「記憶の遺産」とするには、先生の「裏の信念」を御紹介することこそが、教育者として「戦争」の時代を生きてこられた時代を正しくお伝えすることになると確信したのでございます。こうすることで、初めて先生の「オーラルヒストリー」が“円環を閉じる”ものであると信じて止みません。勿論、先生に小生の想いをお伝えし、ご了解いただいての御紹介となります。今ウクライナ侵攻に直面する方々が未来永劫に背負っていかざるを得ない「心の傷」とは、先生が今でも心の奥底に秘められている、その想いと重なるのだと思います。小生は、以下をお読みくださることで、池田先生の「オーラルヒストリー」が“画竜点睛”に到るものと存じ上げる次第でございます。
戦時中の教育について、戦時色のうすい教育をしたことを思い出します。
(池田一男先生から天野へ宛てられた私信の一部)[令和5年2月17日] |
最後に、「記憶の遺産」事業について改めて御紹介をさせていただきます。先生の「オーラルヒストリー」をお読みいただくためにも必要でありますから。本事業は3年目にとなる継続事業であり、令和2年度に5件、令和3年度に10件の聞き取りを行い、その成果を小冊子として刊行すると共に、「千葉市地域情報デジタルアーカイブ」に搭載しウェブ上でも閲覧できようにしております。因みに、本ウェブサイトには「オーラルヒストリー」の他にも、絶版となって久しい『千葉市史 通史編 第1巻』に続き『千葉市史 通史編 第2巻』・『千葉市史 通史編 第3巻』(昭和49年刊行)をデジタル化して公開しております。本冊の内容は流石に現在の研究水準からすると旧態然としていることは否めず、それが絶版となっている理由であります(今後「新編通史編」の刊行が求められております)。ただ、これも当時における歴史的認識を理解する意味で用いるべき部分もあると考えます。3巻フルテキストを読むことが出来るようになっております。是非とも、令和2・3年分の「オーラルヒストリー」15編とともにご覧いただければ存じます。
こうした「証言の収集」とその「デジタルアーカイブ化」を進めることは、今日益々重要なこととなっております。何故ならば、過去の記録を残すことは、往々にして現実に残る“モノ”としての「史資料」のみを対象としがちであり、こうした生の声は「市史編纂事業」からは漏れ落ちてしまうことが多いからであります。当該課が、そのことに着目され「オーラルヒストリー」として資料化に取り組まれていること自体、大変に志の高いことだと存じ上げる次第でございます。勿論、如何なる内容であれ、資料化に取り組むことは価値あることは言うまでもありませんが、本事業で最も重要な要は「誰に」「何を」聞き取るのかの見定めること、つまり価値ある記録となる内容をお持ちの方を選定することにございましょう。つまり「人選こそが生命線」に他ならないと存じます。今回の池田先生の「オーラルヒストリー」はその求めに十二分に応える内容となり得たものと自負するところでございますが、今後も多面的・多角的な人選が行われ、千葉市に生きる幅広い方々の「声の歴史」「記憶の遺産」が紡がれていくことに、大いに期待をしたいと存じます。以下に、過去2年間の「オーラルヒストリー」15編タイトルとURLを掲げさせていただきますので、是非ともアクセスされてみてください。
千葉市オーラルヒストリー
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