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更新日:2024年4月13日

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館長メッセージ

 目次

 

令和5年度 4月から9月の館長メッセージは →こちらへ

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令和4年度 4月から12月の館長メッセージは →こちらへ 

1月から3月の館長メッセージは →こちらへ

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令和2年度の館長メッセージは →こちらへ

 

 

令和6年度の千葉市立郷土博物館 ―引き続き天野が館長を勤めさせていただきます― ―令和8年度『千葉開府900年』に向け、本年度下半期から約一年間の休館を経て、令和7年度下半期にリニューアルオープンを迎える予定となっております― ―令和6年度千葉氏パネル展『千葉氏をめぐる水の物語』についての概略の紹介―

 

4月1日(月曜日)
 

 昨年度から引き続き、本年度も館長の任を勤めさせていただくこととなりました天野良介と申します。令和2年度に館長職を仰せつかってから、今年度で5年目に突入することになります。代り映えのない続投で申し訳ございませんが、乗りかかった本館の展示リニューアルを果たし、無事に再オープンが叶うまでの道筋をしっかりとつけ、その具現化が図れるよう粛々と取り組んで参る所存でございます。本年度も何卒よろしくお願い申し上げます。

 さて、本日より令和6年度がスタートいたしました(尤も本日の月曜日は休館日となりますから本館の令和6年度は実質的には明日からとなります)。本年度の本館の最大かつ最重要な事業が、以前から繰り返し述べておりますように、下半期からの「展示リニューアル」工事への突入にございますことは申すまでもございません。表題にもございますように、約1年間の休館を経て、令和7年度の下半期に「リニューアルオープン」を迎える予定でおります。既に一年前となる令和4年度4月始めの本稿でも述べました通り、改修コンセプト『「郷土千葉のあゆみ、そのダイナミズム(躍動感ある変遷)がわかる」博物館への再生』、展示テーマ『陸と海・人とモノを結ぶ「千葉」』の具現化を目指し、これまで凡そ2年間に渡って進めて参りました準備の成果を取り纏め、下半期からの工事に臨ませて頂きたく存じます。何よりも、政令指定都市の博物館として、余りに脆弱に過ぎた展示内容を一新すべく尽力して参ります。具体的には、これまで原始古代と近世の展示を欠き、中世における千葉氏の盛衰と簡単な近現代展示のみしかなかった展示から、郷土の「通史」を理解できる展示に一新いたします。それも、淡々と歴史的事実を並べるのではなく、各時代像を実感して頂けるようにして参ることを眼目にいたします。そのために重要となるのが、各時代だけではなく、時代が移り変わっていく「転換期」の姿を併せて提示することだと考えております。「原始古代」から「中世」への転換、「中世」から「近世」への転換、「近世」から「近現代」への転換は、目が覚めた翌日から次の時代に移り変わっている訳ではありません。こうした時代区分とは、社会の在り方の特色の違いを根拠になされているからです。

 様々な要因によって社会の仕組みは徐々に変化していきますが、その契機を掴む「転換期」展示を間奏曲のような形で挟み込むことで、地域における時代の推移をダイナミックに把握できるようにすることを意図したいと考えます。また、皆様が実際に手に取ったり、映像と通して理解できたり、はたまた皆で立ち止まって考える展示も工夫して参ります。何より、誰もが楽しみながらも、地域のこれまでの歩みに対する「学び」が実感できる通史展示に改めたいと考えております。ただ、今回の展示リニューアルは、別地に新規の博物館を新設するのではなく、飽くまでも現在の模擬天守風建築の内装を改装することで実現をいたします。現在不明確と不評である導線も明確にして、時代の移り変わりを実感いただけるように配慮いたします。何よりも、千葉氏の歴史を含む郷土の歩みを知ることで、市民の皆さんに千葉市に生れ育ったことを誇りに思っていただけるような展示内容としなければと考えます。また、常設展を撤去して特別展・企画展を開催しなければならなかった不合理を解消するために、特別展示室も確保いたします。常設展が真の意味で“常設”であるように改めるということであります。是非、令和7年度下半期のリニューアルオープンを楽しみしていてくださいませ。尤も、昨年度は実施設計の段階であり、業者の決定を見るのは今年度前期となります。昨今のご時世でございますから、入札不調や、業者が決定しても資材不足や職人の手配が儘ならぬ等々に起因する、工期の変動等が惹起する可能性はゼロではございません。その点、予定通りに事が進まないことが出来いたしました場合には、逐次ホームページ等を通じてご報告をさせていただきたいと存じます。責任重大で負担も大きな仕事ではございますが、我々職員も大いに楽しみながら取り組んで参る所存でございます。

 また、「開府900年」を記念して本館が取り組む事業は上述いたしました「展示リニューアル」の他に2つございます。一つ目は、「リニューアルオープン」後の令和7年度下半期から「開府900年」を迎える令和8年度にかけて開催を予定しております3回の「特別展(企画展)」となります。こちらにつきましては、両総平氏の一族である千葉常胤の父常重が大治元年(1126)に本拠を大椎から千葉の中心地に移したことが都市千葉の礎となったことから、900年目を迎えることに因んで内容となります。未だ具体的には公表することはできませんが検討は進んでおります。平たく申せば3回とも「千葉氏」に因んだ内容となり、様々な角度から千葉氏の活躍に焦点を当て、現在までに繋がる遺産についても採り上げてみたいと目論んでおります。これらは、新たに本館1階に設置される「企画展示室」での開催となりますので、お楽しみにされてお待ち頂ければと存じます。二つ目は、これまでも機会のあることに申し上げて参りました、令和7年度末刊行予定「千葉氏関係史料集(仮称)」でございます。これまで各自治体史をはじめ様々な書籍に個別に掲載されており、活用に困難を来していた千葉氏関連史資料を1冊に集積して、何方もがご利用しやすくすることを目指し、昨年度から本館に着任した坂井法曄氏を中心に、現在意欲的に編集作業が進められております。坂井氏は日蓮宗を中心にした宗教史の優れた研究者であるだけではなく、古文書の読解にも極めて練達されておられます。全ての史料の原本にまで遡って校訂作業を進めていただいており、これまで流布している翻刻の誤りを多々発見もされていらっしゃいます。また、新たな千葉氏関連史料が発見されているケースもございます。勿論、そうした作業は専門家の皆様の御活用に資することに直結することですが、より多くの歴史を愛する方々に愉しんでいただけますよう、代表的な史料を採り上げ著名な研究者の方々に分かりやすく解説をして頂く「読み物」を冒頭に集載しようとも目論んでおります。相当に分厚の冊子になる予定でございます。こちらに関しましても楽しみにされていてくださいませ。また、未だご本人の了解を得ておりませんので、現段階でお名前を公表するには至りませんが、本年度は中世前期武士団研究のホープと目される研究者の方にも一緒に仕事をしていただくことになりました。追って本稿でも紹介をさせていただきたく存じますが、今後の本館における研究体制充実が図れることになるものと期待をするものでございます。

 何れにしましても、本年度は下半期から閉館を致します関係で、毎年恒例として時期を定めて実施している本館行事につきましては、実施できない行事(例えば9月以降の学校等からの団体見学の予約)、時期を変更して実施する行事(例えば古文書講座)、閉館中でも実施する行事(例えば小中学校からの依頼に基づく出張出前授業)等々、特別な対応をして参らねばなりなくなります。それら個々の対応につきましては、できる限り早い段階で一覧にするなどして皆様にお知らせする必要があろうと存じております。何れにしましても、一年間強に亘る閉館に伴い、皆様方には一方ならぬご迷惑をおかけいたすことは間違いございませんが、状況に鑑みまして何卒ご寛恕のほどをお願い申しあげます。

 従いまして、こちらも過去に何度も申し上げて参りましたが、本年度上半期は開館を致すものの、例年のような形での特別展・企画展は開催致しません。ただ、令和8年(2026)度「千葉開府900年」を控えている関係もあり、毎年開催しております「千葉氏パネル展」は開催をさせていただきます。本パネル展では毎年様々なテーマを掲げ、そのテーマについて様々な角度から切り込む7~8枚のパネルで構成しております。昨年度は『京(みやこ)と千葉氏』のタイトルでの展示といたしましたが、その趣旨は、千葉氏が草深い東国で所領経営にあたる質実剛健な武士などでは決してなく、京都と密接な結びつきをもって全国に分散する所領経営を行っていたこと、都の文化の強い影響を受けるだけではなく、むしろその担い手であったこと等々を皆様に知って頂くことにございました。そして、本年度は『千葉氏をめぐる水の物語』と題する展示とさせていただきます。会期につきましては、5月28日(火)開幕、リニューアル工事による閉館前の最終開館日と想定しております9月30日(日)閉幕を予定しております(工期の関係で閉幕日は変更の可能性あり)。何時も通りご観覧は無料でございます。また、本年度は開幕と同時にブックレット販売(100円を予定)を開始いたします。ところで「“水の物語”って何だ??」とお思いになられる方もいらっしゃいましょう。生きとし生けるもの、水無しに生きていくことはできませんし、水をめぐる自然環境の中で生の営みを歩んでおります。当たり前のことではございますが、千葉氏もその置かれた千葉の自然環境と如何に折り合いをつけていくかを課題としながら、その勢力地盤での様々なる取り組みをしていったのです。その中でも、「水環境」は「様々な局面」において最も重大な条件として彼らの活動を規定した筈であります。千葉氏がそれを如何に活用し、また克服しながら歩んで来たのかを各パネルを通じてご紹介をさせていただきます。具体的に「水環境」における「様々な局面」とは何を指すのか、要するに、何を切り口として「水の物語」を綴っていくのかにつきましては、開催前の5月半ば頃に本稿にてご紹介をさせていただきたいと存じます。従いまして、今回はこの辺りにさせていただこうと存じます。我々も、皆様にご覧いただくことが今から楽しみであります。

 最後に、本稿を執筆しておりますのは前年度3月末日でございますが、弥生三月後半が寒の戻りがきつい毎日でございました関係で、我が亥鼻山でもようやく花がほころび始めた段階であります。23日(土)に賑々しく「千葉城さくら祭り」が開幕したにも関わらず、連日の雨模様の寒空続きで、この亥鼻山もお気の毒なほどに閑散としておりました。そうした状況に鑑み、主催する「千葉城さくら祭り実行委員会」では、本祭の会期を4月5日(金)までの延長を決定いたしました。急な会期変更となりますので、本館につきましては本日4月1日(月)「臨時開館」はできず閉館とせざるを得ませんが、「千葉城さくら祭り」は実施しております。また、明日4月2日(火)から会期終了5日(金)までは通常通り開館をしております。せめて今週中には満開を迎えてほしいと期待をするところでございます。尤も、この状況が続けば、日本における季節の風物詩である「満開の桜の下での入学式」という光景が久しぶりに復活する可能性がございます。温暖化の進展によって、昨今は桜花が卒業式の付きものと化していた現実がございましたから、新入生・新入社員の皆さんには歓迎されるかもしれません。

 以上、本年度の本館の事業につきまして、極々簡単でございますが申し述べさせていただきました。今後も、公共機関としての本務を忘れることなく各事業を推進する所存でございます。本年度の千葉市立郷土博物館の活動につきまして、今後ともご支援を賜りますことをお願いいたしまして、年度当初のご挨拶とさせていただきます。本年度も何卒宜しくお願いいたします。

 

静寂の支配する会場に漂う張り詰めたモノクロームの静謐(前編) ―群馬県立近代美術館『長谷川潔 銅版画の世界』展に接して[会期は4/7(日)まで] または中山道倉賀野宿・倉賀野河岸と徳川忠長墓所の風景―

 

4月5日(金曜日)
 

 亥鼻山における「千葉城さくら祭り」が会期を延長して実施されることになったことにつきましては、過日の本館ホームページ等でもお知らせを致しましたが、それも本日をもって最終日を迎えることとなりました。三月末日に漸くチラホラと開花した亥鼻山の「染井吉野」でしたが、三月晦日の夏日到来に驚いたものでしょうか、本館5階からの眺めも一気に「さくら祭り」の雰囲気が漂い始めました。尤も、先月最終の土日でも、ほんの数輪が綻んでいるばかりの櫻樹の下で、大いに気炎を上げている方々が多々いらっしゃいました。その昔より我が国では「花より団子」と申しますが、コミックバンド「バラクーダ」の曲として知られる「日本全国酒飲み音頭」(作詞:岡本圭司、作曲:ベートーベン鈴木)[1979年:東芝EMI]宜しく、屁理屈であっても何かに託けて酒を飲むのが人間と言うモノの性(さが)であろうかと存じます。素面でそうした皆さんを眺めていると何ともはや……との思いともなりますが、羽目を外さない程度に遣っている分には、寧ろ微笑ましい光景ですらございます。

 因みに、「日本全国酒飲み音頭」は皆様も一度や二度は耳にされたことがあろうかと拝察致するところでございますが、大きなお世話と糾弾されることを覚悟で、念のため(!?)歌詞を御紹介しておきましょう。その1番は、1月から12月まで何らかの理由で酒が飲めることを歌います。今の時季に関しましては「四月は花見で酒が飲めるぞっと」となり、まさに今目の前で繰り広げられる光景と重なります(尤も、温暖化が進む以前の歌詞であることが知れることがチト複雑な思いですが)。因みに、四月以外は以下のようであります。1月:正月、二月:豆撒き、三月:雛祭、五月:こどもの日、六月:田植え、七月:七夕、八月:暑い、九月:台風、十月:運動会、十一月:何でもないけど、十二月:ドサクサ……。六月などは、まさに日本の原風景に通じる地域共同体を彷彿とさせますが、八月は暑いお蔭で酒が呑めるというよりビールでも呑まずにゃやってられん……というのが実態でしょうし、九月の台風も外に出ることも儘ならず自宅で自棄酒に近いモノがございましょう。十一月以降の歌詞に至っては最早一切の理屈を抜きに一杯やるという風情であり、脳天気の爆発的な内容に逆にスカッとした潔ささえ感じさせられます。また、続く2番の歌詞でありますが、北は北海道から南は沖縄県まで12の名物・特産品と絡めて酒が飲めると歌います。標題に“日本全国”を掲げる由縁でもございます。

 それに致しましても、これらの歌詞は酒飲みの本性を実に見事に、過たず射貫いていると存じます(苦笑)。小生も折々申し上げておりますが、世に“通人”と目される方が、「こんな不味い酒は飲むに値しない」と仰せになっているのを耳にしたことがございますが、ホントウの意味での「酒飲み・酒好き」は、自分自身もその仲間に限りなく近い存在でありますからよく分かるのですが、もっと意地汚いものでありまして、不味い酒でも「こりゃ不味い酒だねぇ……」と独り言ちつつ全部平らげてしまうものだと存じます。これがホントウの意味における「酒飲み・酒好き」の性(さが)ではないかと考えるものでございます。そりゃ、酒の旨い不味いくらいは解ります。しかし、酒となればちょいと一杯やろう……と、貧乏徳利が空になるまで呑んでしまうのが“呑兵衛”の実像ではありますまいか。従って、その昔に小生が目にした光景、つまりお邪魔したお宅の居間にある立派なチェストに、高級そうな酒瓶がずらりと並んでいる光景とは、小生には全く理解の範疇を超えたものでした。ついつい「酒って飾るモノじゃなくて呑むもんですよね!?」と口をついてしまいそうになったものです。尤も、小生は酒なしで生きていられない、所謂「アルコール依存症」ではございません。無ければ無いで充分に日常生活は送れます。ただ、あれば呑んでしまうのが実のところでございます。酒好きの皆様は如何でございましょうか。

 さて、「さくら祭り」に託けて長々とした余談で失礼致しました。以下の本稿では、「群馬の森」内にある隣接する「群馬県立近代美術館」で拝見した標記展覧会について御紹介させていただこうと存じます(「群馬の森」は過日の「朝鮮人追悼碑」の撤去問題報道で揺れた場でもございます)実は、3月半ばに関東の博物館関係会議の会場が「群馬県立歴史博物館」で、かの地にまで脚を運ばねばならぬ都合もございました関係で、接して建つ美術館で開催されていた企画展示をも拝見したのでした。尤も、本展は明後日には閉幕となってしまうので、これを機に出掛けてみようとするには、御紹介がチト遅きに失した感がございます。まぁ、いろいろと取り込んでおりましたのでご容赦の程をお願い申し上げます。展示リニューアルを控える身としましては、高い評価を有していらっしゃる「群馬県立歴史博物館」の常設展示を拝見したかったのですが、残念ながら現在「中世展示リニューアル」の為に閉館中であり観覧は叶いませんでした。勿論、最近になって漸く長谷川潔の魅力に気づき始めたものですから、その展覧会を拝見することも大いに愉しみにしておりましたから、これを好機としてこの不世出の銅版画家について触れさせていただこうと思った次第でございます。

 さて、その御紹介の前に、歴史散歩宜しく「群馬の森」周辺のご案内を少々。当館への直近鉄道駅は「北藤岡駅」なのですが、何故か高崎線と平行しているにも関わらず八高線の駅でしか無く、東京から出掛けるには高崎線の倉賀野駅が最も至近となります。その次駅となる高崎駅からは、倉賀野駅を経て「群馬の森」にも巡回するコミュニティバスもございますが、本数も少なく倉賀野駅から徒歩で訪れることにいたしました。それには、折角の機会に中山道の要地であった「倉賀野宿」の雰囲気を味わうことも理由でございました。本宿は、朝廷が日光東照宮に奉弊を捧げるために派遣する「例幣使」が、京から中山道を下って日光へ向かう際に通行する「日光例幣使街道」との分岐点でもあり、宿外れの分岐点は「追分」は面影を色濃く残していると畏友小野氏から聴き及んでいたこともありました。倉賀野の地には4世紀末頃から大規模古墳が築造されており、今も周辺には浅間山古墳を筆頭に多くの古墳がございます。鎌倉期になると、武蔵児玉党の一族がこの地に盤踞して倉賀野氏を名のり、室町期になると下流で利根川と合流する烏川の段丘に面した地に倉賀野城を築城しております(遺構は明瞭ではございませんが)。戦国期になると上杉・北条・武田の勢力争いに巻き込まれ、最終的には小田原北条氏の旗下に納まったことから、天正18年(1590)の小田原落城と命運を伴にすることになります。そして、江戸期になって中山道が整備されると、宿場町として整備され殷賑を極めることになります。その殷賑の背景となるのが、利根川水系最上流に位置する河岸場となる、「倉賀野河岸」が烏川に面して存在したことにございます。信州・上州周辺から陸送された年貢米や物資を下流の江戸へと運搬する、水運への結節点として大変な賑わいをもたらしたのです。逆に、その帰り舟は江戸周辺からの物資を大量に積んで倉賀野河岸に戻りますから、この地は関東から更に上州・信州へと生活物資を陸送する発着点となったわけです。

 特に我々千葉県民にとって注目すべきことは、内陸部への行徳塩流通の重要な中継地となったことであります。海に面しない内陸地では塩の確保は枢要であり、行徳塩はこの倉賀野河岸で陸揚げされ、ここから上州・信州へと陸送されていったのです。中山道の倉賀野宿から倉賀野河岸へ向かう「河岸道」はちょうど盲腸のように中山道に取り付いており、後の大火で旧家は残っておりませんが地割りは明瞭に見て取ることが出来ました。現在倉賀野から山名(この地が室町期に中国地方で覇をとなえた守護大名山名氏の出自の地であります)方面へと向かう道路が烏川を渡る、「共栄橋」から北を眺めると未だ真っ白に雪化粧した浅間山を臨むことができました。本河岸は天明3年(1783)浅間山大噴火噴出物の流下により、河川水運の維持が難しくなって衰退の道を辿ることになったそうですが、それも納得の距離感にある地であること実感した次第でありました。中山道にも明治以降の再建となりますが脇本陣家を含む旧宅が点在しており、宿場街の雰囲気を色濃く残しております。また、先にも触れましたように、「倉賀野宿」江戸側の宿外れに日光例幣使街道との追分がございます。その分岐点には、常夜灯と文化11年(1814)建立銘のある道標が残り、その背後には当地が異界との境であるかのように閻魔堂が建っているのが印象的でありました。その道標には「右 江戸道 左 日光道」との文字が深々と刻まれており、そこから小生は左の道を辿って「群馬の森」へと歩みを進めることになりました。しかし、旧道の両側の多くは工業団地や住宅地としてすっかりと開発されてしまっており、道路も交通の至便を計ってすべて拡幅されておりました。要するに、期待していた旧道の雰囲気を全く残していないのが残念でございました。因みに「群馬の森」へは小生の足で追分地点から30分強で到着いたしました。

(後編に続く)
 

 

静寂の支配する会場に漂う張り詰めたモノクロームの静謐(後編) ―群馬県立近代美術館『長谷川潔 銅版画の世界』展に接して[会期は4/7(日)まで] または中山道倉賀野宿・倉賀野河岸と徳川忠長墓所の風景―

 

4月6日(土曜日)
 

 後編では、ようやく辿り着きました長谷川潔について述べて参りたいと存じます。長谷川潔は、明治24年(1891)第一国立銀行の横浜支店長であった長谷川一彦の長男として、神奈川県横浜市に生まれ、昭和55年(1980)に老衰のためパリの自宅にて齢89で没した日本人版画家(何より銅版画家として名高い存在)であります。ここで「日本人」と敢えて記すのは、長谷川が大正7年(1913)に渡仏して以来一度も祖国の土を踏むことがなかったからであり、ある意味日本でよりもフランスを含む欧州で高く評価される版画家であったからであります。また敢えて「版画家」と申しますのは、制作の初期において長谷川が「創作版画家」として、当時の多くの創作版画家がそうしたように、木版画による書籍の装丁・口絵なども手掛けることが多かったからでございます。今回の群馬での展覧会にも初期の木版画が相当数展示されておりましたが、「栴檀は双葉より芳し」の例えの如く、このまま木版画家としての活動を続けていても恐らく一流の芸術家として大成したことを思わせる作品揃いでありました。そうした中、長谷川はバーナード・リーチから銅版画(エッチング)の技法を学んでもおります。しかし、西洋芸術への憧れは黙しがたく、版画技術の習得を目的に、長谷川は上述したように横浜港を出港、アメリカ経由でフランスへと向かったのでした。その地で、長谷川は様々な版画技法の習得に努め、大正末年には既に版画による個展を開催するなどパリ画壇で確固たる地位を築くようになります。今回の展覧会でも、渡仏から第二次世界大戦に至るまでの時期に、長谷川が様々な銅版画技法を駆使しながら自己の表現方法を模索している様が窺えて、とても興味深いものがございました。この時期の長谷川で特筆すべき事としては、戦後になって長谷川作品の代名詞ともなる銅版画技法である「マニエール・ノワール(メゾチント)」の復活に尽力したことにあると言われます。本技法は当時フランスでは既に廃れて見向きもされなかった技法でありましたが、その可能性に開眼し、独自の工夫をしながら技法の習得に努めたことで、戦後に比類のない銅版画世界に昇華させていくことになるのです。第二次世界大戦勃発により、敵国民となった長谷川の立場は一転して逆風に晒され苦境に陥る経験も経ておりますが、それを凌いで戦後に「マニエール・ノワール」の第一人者として日本以上に世界で高い評価を確立するなど、銅版画家として大輪の花を咲かせることになるのです。

 ここで、そうした銅版画の技法について整理にしておきましょう。木版画が彫り残した面にインクを乗せて紙に摺り取る、所謂「凸版印刷」の技法となるのに対し、銅版画は金属に何らかの形で傷をつけ(窪みをつくり)、その中に残ったインクをプレス等の圧力で摺り取る、所謂「凹版印刷」の技法となります。また、銅版画で銅板に溝を形成する技法は、間接技法と直接技法とに大別されます。前者は、銅板に腐食防止の松脂等を全面に塗り、その上に鉄筆のようなもので絵を画くとその部分の松脂が剥がれ落ちます。その銅板を酸性溶液に漬けることで、描いた部分だけが酸に反応した銅が腐食して溝をつくる「エッチング」等の技法があります。また、後者は、銅板に物理的に直接彫り込みを入れる技法であり、銅よりも硬質の金属製刃物(「ビュラン」)で彫り込む「エングレーヴィング」、エッチングと同様の鉄筆(ニードル)で直接に銅を引き欠くように彫り込む「ドライ・ポイント」等の技法がございます。前者は、刃物で彫りますのでシャープな線が表現できる反面、どうしても刃物の動線には方向性が生じる関係から表現には制約が生じます。後者のニードルは刃物ではありませんから自由に描けるメリットがありますが、反面で刃物での彫り込みに比べればラインの鋭さは望めません。引き欠いた後に残る金属の破片が線に滲みを生み出し易くなるからです(しかし反面で暖かみある線表現になるというメリットもあります)。そして、長谷川の十八番となる「マニエール・ノワール(メゾチント)」も直接技法の一種となります。

 「マニエール・ノワール」とはフランス語で「黒の技法」を意味する言葉だそうです。本技法は、まずベルソーという鑿のような道具を銅板に直接当て、縦・横・斜めに揺り動かし無数の細かい傷やささくれをつけ、銅板に目立てすることが基本となります。こうして完成した銅板にインクを乗せてプレスして印刷すると全面が漆黒となります。しかし、この黒の深みたるや、まるでビロードのような温かさを有します。この銅板の傷やささくれをスクレイパー(篦状のこそげ取る道具)で削り取り、パニッシャー(手斧のような道具)で磨いて滑らかにすることで、漆黒の下地から明部を描き起こすように作画を行う技法が「マニエール・ノワール(メゾチント)」であります。つまり、これまでの直接技法とは真逆の発想から生まれた技法と申せましょう。17世紀にドイツ人によって発明され、その後は主としてイギリスを中心に肖像画や油彩画の複製手段として活用されました。しかし、19世紀になって写真が発明されると利用価値を失い、本技法は急速に廃れ忘れ去られたと言います。長谷川がフランスに渡った20世紀初頭には、フランスでもベルソ-等の道具すら入手出来ない状態であったと言います。そうした状況下であったからこそ直のこと、長谷川は全ての表現を黒と白の柔らかなグラデーションによって表現できる本技法の復活に全力を注ぐようになります。尤も、長谷川はメゾチントの技法で大成することになりますが、全ての技法の長所を熟知し、それぞれの技法の特色を活かした作画を行っていることは申し述べておきたいと存じます。ただ、エッチングのような間接技法には懐疑的であり、銅板に直接に対峙できる直接技法の版画家であることに誇りを持っていたと言われます。

 彼の描く銅版画作品の題材は、その初期におけるヨーロッパの田舎を画く風景画、裸婦像を除けば、専ら花瓶に生けられた草花や、室内の静物に限定されます。特に晩年に至れば至るほどにその傾向は顕著になります。小生は父親が銅版画家でもあったこともあり(父の繪は全く評価しませんが)、銅版画には幼い頃から接して参りました。しかし、若い頃の小生は、駒井哲郎(1920~1976年)のような夢幻的な作風(パウル・クレーを思わせる洒脱な抽象画)や、メゾチントを主とする銅版画家では黒の世界に色彩を導入した浜口陽三(1909~2000年)による、サクランボの詩的な表現に惹かれており(以前、小生の尊敬する校長先生が千葉の画廊で浜口作品を購入しようとした際、浜口作品はサクランボ一つ○○円が相場なので本作は6つあるので値段がこれと示され、呆れて購入する気が失せたと伺ったことがありますが、青果商でもあるまいし何と薄っぺらな画商かと思ったことがございます)、それに対して長谷川作品の理詰めに構築されたような緻密な作風に窮屈さを感じて苦手にしておりました。しかし、こちらも還暦を過ぎてからは、黒と白のグラデーションでのみ表現され、他の色彩を伴わない長谷川作品の静物画に、水墨画の深淵にも通じる奥深さと、静謐な世界観を感じ取れるようになったのです。今回の群馬県美の展示会も、広い会場に2~3人しか観覧する静寂が支配する会場で、長谷川の描く静物画の静謐さが更に深まるように実感させられたのです。

 歌舞伎の下座音楽では、雪が深々と降り積もる世界を、大太鼓の小さくゆっくりと連打することで表現すること、つまり静寂を音で表現するといった逆説的な優れた技法がございます。長谷川のメゾチントの深々としたビロードのようなモノクロームのマチエールからも、何故かかそけく小さな調べが響いてくるように思えたのです。そこに時計が描かれていれば、時を刻むかそけき響きが、より静けさを強調するように思えるような感覚と申せば御理解を頂けましょうか。これだけの長谷川作品に直接に接したのは初めての経験でございましたが、こんな思いにさせられる作品に出会ったことも長谷川のメゾチントが初めてでございました。それほどに、大いなる感銘を頂けた展覧会であったことを御紹介させていただきたく、長々と述べさせていただきました。残念ながら今回の展示会では図録は作成されておりません。そこで、平成3年(1991)横浜美術館で開催された『生誕100周年記念展 長谷川潔の世界』図録を古書で仕入れて紐解いております。また、長谷川潔御自身の証言集なのでしょうか『白昼に神を観る』(1991年)[白水社]なる書籍もございましたので、興味を惹かれてこちらも古書を注文したところでございます。会期は、明日と明後日を残すのみでありますが、宜しければお運びを頂ければと存じます。

 さて、最後に今回の群馬行きに話を戻します。「群馬県立歴史博物館」で開催されました会議は、ありがたいことにバス時刻に併せて終了するようにご配慮いただけましたので、帰りは「群馬の森」からコミュニティバスで倉賀野駅の一つ先である高崎駅に出ることにいたしました。もう日は大部傾いておりましたが、乗車までの時間を利用し高崎駅近くにある大信寺に寄ってある墓所に参ることも目論んでの高崎行きでもございました。それが、徳川忠長(1606~1633年)の墓塔でございます。歴史好きの方ならばその名を聞いて如何なる人物か直ぐにご理解いただけましょうが、一般の方々であれば誰なの……というのが正直なところでございましょう。生没年をご覧いただければご理解いただけましょうが江戸時代初期の人でございます。父親が二代将軍徳川秀忠(1579~1632年)、母が浅井長政三女である御台所の江(ごう)(1573~1626年)[姉は豊臣秀頼の母である淀殿]であり(幼名:国松)、同母兄に後の三代将軍徳川家光(1604~1651年)[幼名:竹千代]、異母弟に会津藩主となる保科正之(1611~1673年)がおります。よく知られる話として、両親ともに活発な国松を溺愛し、“根暗”な(!?)竹千代を疎んじたことを気に病んだ、竹千代の乳母である春日局(1579~1643年)が大御所家康に直訴したことで、後継者指名に家康が介入することで竹千代が将軍職後継に納まったとの話でございます。こうした兄弟間の確執が幼少期からあったことが、後の兄弟間の悲劇的な結末に至ったとの伏線としてよく引き合いに出される話でございます。ここでは、細かな経緯を述べることは致しませんが、甲斐国に所領を与えられていた忠長は、寛永元年(1624)に駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、家康所縁の駿府城を本拠とする55万石を知行する大大名となります。更に寛永3年(1626)に大納言に任官し「駿河大納言」と称されるようになります。しかし、父親の秀忠に大坂城と知行100万石とを懇願して拒絶されるなど、次第に常軌を逸した行動を示すようになり、父秀忠の死後の寛永9年(1632)に改易となります。そして、当時高崎城主であった安藤重長に預けられ、その地に幽閉されます。しかし、翌10年に幕命により自刃をしております。その亡骸は高崎の大信寺に葬られますが、廟所を築くことも許されず土饅頭に松樹を植えただけであったと言います。正式な墓塔が築かれることが許されたのは、兄家光も亡くなった後の4代徳川家綱(1641~1680年)治世下の延宝3年(1675)のことであり、その際に豪奢な囲塀と拝殿・唐門も造営されました。

 今回目にした五輪塔はその時のものであり、高3m程で石の玉垣に囲まれた立派な墓塔であり、戒名が「峰巌院殿前亜相清徹暁雲大居聰」と刻まれております。“亜相”とは“大納言”の唐名でありますから、赦免によって名誉回復がなされたことになりましょう。拝殿と塀は明治の初めに失われたようであり、唯一残った唐門も先の大戦の“高崎空襲”により焼失。現在は地表に建物の痕跡は残されてませんでした。因みに、徳川忠長につきましては、小池進氏による『徳川忠長-兄家光の苦悩、将軍家の悲劇-』2021年(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー527)が唯一の単著でございます。家光と忠長の対立と悲劇が、決して長い遺恨の結末とは言えないことを論じた好著であると存じます。最近刊行の書籍でございますので、新本での購入も可能だと存じます。ご興味を持たれた方はどうぞ。江戸幕府草創期の徳川家親藩の内紛では、父秀忠による弟松平忠輝(1592~1683年)の改易・蟄居、甥である越前宰相松平忠直(1595~1650年)を絡んだ“幕府転覆”計画の可能性に基づくと考えられる、忠直卿の追放等が思い浮かびます(菊池寛の小説『忠直卿行状記』もよく知られます)。家光の寛永期に至っても、俗に「元和偃武」などと言われる状況にはなかったことが理解できるように思います。正に薄氷を踏むような対応を重ねながら幕藩体制が確立していったことを、帰りの“鈍行”列車中で思いながらの帰路となった、寒々しい墓所の風景でございました。
 

 

「伏見」周辺の風景 または豊臣政権におけるその位置づけについて(前編) ―足利健亮氏の著作と若林正博氏の最新の論考「尾張・徳川義直と紀伊・徳川頼宜の伏見滞在―慶長から寛永にかけて―」で学んだこと―

 

4月12日(金曜日)

 

 一年の中で、この亥鼻山が最も賑わう「さくら祭り」が去る5日(金)に閉幕となりました。しかし、会期を5日間延長したにも関わらず、その間の空模様も安定することなく、雨模様が続きひんやりした陽気であったこともあってか、「染井吉野」が花盛りを迎えたのは先の土日以降となりました。つまり、「さくら祭り」も終わった後のことであり、7日(日)の本館に入場されたのは3千人弱と、「さくら祭り」開催中の最大入場者数の約2倍ほどを数えたのでした。それはそれで、本館と致しましても大変にありがたいことなのですが、反面「さくら祭り」実行委員会が設営していたゴミ処理の場も撤去されてしまったこともあって、ゴミの捨て場にお困りになられたのでしょうか、本館施設内にゴミを放置される方、亥鼻公園内にゴミが散乱しているなどの困った事態も惹起していたのも実際でございます。桜の名所では何処でもこうしたトラブルが発生しているようです。海外でのサッカー試合の後に日本人観客がスタジアムを清掃して帰ることが評判だそうですが、何故「花見」の場ではそうした共助の精神の発露が見られないのか……、日本人の精神構造への思考を巡らす機会ともなったのでございました。尤も、世間では小中学校の入学式が満開の桜の下で行われたことは慶賀の念に耐えません。週明けの9日(火)は「花に嵐、花に村雲」の例えの如く大変なる荒天でございましたから、この亥鼻山の桜花もそろそろ終焉を迎え、本館周辺も漸く落ち着きを取り戻して参りましょう。我々といたしましても、正直なところホッと胸を撫でおろしているところでもございます。

 さて、一昨年度末、「京都府立京都学・歴彩館」他県でいう文書館と同様の機能を有する機関のようです)から本館に御寄贈頂きました『京都学・歴彩館紀要』第6号に掲載された若林正博氏の巻頭論文「伏見における黎明期の徳川政権-家康はどこに居たのか-」に興味を惹かれ拝読させて頂き、その内容に大いに感銘を受けた経緯を昨年度当初の本稿で述べたことがございます。天正18年(1590)小田原北条氏滅亡後、秀吉から関東への転封を申し渡された徳川家康が、江戸に入府してから元和2年(1616)に駿府城で没するまでの期間における、その動向を綿密にデータ化された結果(膨大な一覧表も附属しております)を下に、その間に家康が最も長く拠点として統治行為を執行したのは「伏見城」に他ならず、その日数は2.786日に及ぶことを明らかにされました。大御所として君臨した「駿府城」が2.483日であり、「江戸城」に至っては1.799日に過ぎないことから、江戸幕府黎明期において徳川政権の拠点とは「伏見城」であったといっても決して過言ではない状況にあったこと、家康が実質的に江戸より伏見において幕政を差配していたこと等々、徳川家の上方での本拠機能を伏見城が担っていたばかりか、ある意味で「伏見幕府」の様相すら呈していることに気づかされたのです。しかも、徳川家康ばかりか、秀忠・家光までの3代に亘って行われた将軍宣下は、すべて伏見城で執り行われております。小生にとって、現在の“京都市伏見区”という住所に引きずられ、漠然と京都の一部とばかり認識していた「伏見」が、俄然全く別の都市として浮上して参ったのです。しかし、実際には、家光の将軍宣下の後に伏見城は廃されており、その有した機能は、一時「淀城」に移り、後に洛中の「二条城」へと吸収されたのでしょう。また、その後の「伏見」が酒造業の栄える商工業都市として京都の一部に組み込まれ栄えた……というシナリオは必ずしも誤りとは申せますまい。若林先生の論文に接し、伏見と言う地の有する磁場とは何なのか、それが歴史的な歩みを通じて如何に機能し、また変容していったのか等々、これまで漠然と“豊臣政権が居城としていた場”としてしか認識していなかった「伏見」の存在を、「徳川政権の伏見(伏見城)」として再認識して、評価していく必要があることに目を開かせて頂いたのです。そのことは、恐らく近世を通じて近現代へ至る伏見の位置づけにも再考迫ることをになろうかと存じた次第でございます。少なくとも、徳川黎明期の歴史に興味をお持ちの方であれば必読の内容でございます。大変な労作であり、正しく「目から鱗」の内容でございます。一年を経て、改めて本論考を御拝読されることを心底お薦めしたいと存じます。

 因みに、論考の筆者で「京都府立京都学・歴彩館」職員でいらっしゃる若林正博氏は「伏見学」を標榜される研究者の方でございます。そのテリトリーは近世に限ることなく広い裾野を有しており、「伏見」と周辺部が有する歴史的な意味を明らかにし、長い歴史の中に「伏見」と周辺という「場」を位置付けるべく、精力的な研究を進めていらっしゃるようです。しかも、“象牙の塔”に閉じ籠もるような研究者にはあらず、その成果を広く共有すべく、市民の方々を巻き込んだ現地ワークショップ等々も熱心に推進されていらっしゃるなど、実にフットワークの軽い活動にもされていらっしゃるようです。論より証拠、昨年度の初夏の頃でしたでしょうか、本館の受付から「館長に若林さんという方がお尋ねになっていらっしゃいます」との連絡が入りました。小生の身近で本館に訪問される“若林”さんは唯の一人も思い当たりません。「もしかして……」との思いで受付に出向いたところ、何と!!「歴彩館の若林です」と仰る、如何にもノーブルな雰囲気を全身から発する方が目の前にいらっしゃるではありませんか。初対面にも関わらず何処かで出会ったような親しみさえ感じさせられる先生でございました。その際のお話しによれば、先生は小生の雑文をお読み下さり、東京での会議後に谷津海岸に残る「読売巨人軍発祥地」碑文取材のために習志野市を訪問された序でに、本館にも脚を運んでくださったとのことでございました。何でも、その昔(?)伏見にもプロ野球球団招聘の機運があったそうで、その関連での調査とのことでございました。その後ネットで調べてみましたが該当する記事は発見できませんでしたが、ネットにある先生のお姿の中には野球ユニフォームを着用されるものもありましたので、根っからの野球好きでいらっしゃることは間違いないものと思われます。こんなことからも、先生の「伏見学」の守備範囲の広さを御実感いただけましょうか。そして、この3月に本館に御寄贈いただいた『京都学・歴彩館紀要』第7号を拝見いたしましたところ、今年も若林先生の論文が巻頭を飾っておりました。題して「尾張・徳川義直と紀伊・徳川頼宜の伏見滞在-慶長から寛永にかけて-」でございます。一読、新たな知見ばかりに目を開かされ、徳川政権黎明期の伏見の有り様に一段と興味を惹かれた次第でございます。その概要につきましては最後に御紹介をさせていただくこととし、今回の本稿では、そもそも伏見城を最初に築いて政権の本拠とし、伏見の都市整備を進めた、豊臣(羽柴)政権に遡ってみようと存じます。

 さて、豊臣(羽柴)秀吉が何処を本拠としていたかと問われれば、おそらく十中八九「大坂城」との返答が帰ってくるものと思われます。確かに、秀吉が大坂本願寺の跡地に大坂城を造営するのは天正11年(1583)であり、慶長20年(1615)に「大坂夏の陣」で落城するときには、その子秀頼が在城していたわけですから、その解答は正しいと申してよろしいでしょう。秀吉は、織田信雄・徳川家康連合軍との「小牧・長久手の戦い」を経て、天正14年(1586)に結果的に家康を臣従させることに成功します。その間、天正13年(1585)「関白」への任官、翌年には正親町天皇から「豊臣」の賜姓を経て年末に太政大臣に就任し、ここに豊臣政権を確立することしました。この間の本拠地が大坂にあったことは確かでございます。しかし、慶長3年(1598)秀吉が最期を迎えたのは他ならぬ「伏見城」であったことは、意外に知られていないのではありますまいか。そのことからも明々白々のように、その本拠は必ずしも一つに限ることができないのも事実でございましょう。ところで、余計なお世話かもしれませんが、「豊臣」は飽くまでも天皇から下賜された“姓”に他なりませんから、「とよとみ の ひでよし」と称するのが正しいと思われます。また、“名字”がそれ以降に変更された形跡はございませんから、その名字は「羽柴」とするのが当然でございます。従って、教科書記述で「豊臣秀吉」とするのであれば、家康は「源家康」と記述するのが正確でありましょうし、逆に「徳川家康」を活かすのであれば「羽柴秀吉」と記述としないと釣り合いがとれないことになります。せめて「豊臣(羽柴)」と記載するのが宜しかろうと存じますが如何でしょうか。以下では、秀吉が関白に任官された後に京都に築いた本拠について述べ、後編では肝心要の「伏見」について述べてみたいと存じます。

 秀吉は、朝廷の官職である「関白」任官後の天正15(1587)、平安京大内裏の跡地(「内野」)に、豊臣氏の本邸とすべく「聚楽第」を造営し、翌年には後陽成天皇を迎えて饗応をしております。更に、天正19年からは、当時の都市「京都」を土塁と堀とで囲繞する全長22.5㎞にも及ぶ「御土居」構築を始めております。このことは、(諸説ございますが)聚楽第の城下町として、都市京都を再構築する目的が大きかったと考えられましょう。聚楽第が、新たに構築された御土居の範囲の中心に据えられる構造となっていることからも、そのことが判明致します。また、その立地は信長が将軍足利義昭のために構築した二条城と同様、当時の洛中における二つの都市的な場である「上京」と「下京」の中間点にあたり、両者に睨みを利かすことのできる立地でもあったのです。併せて、秀吉は平安京の方形地割が既に崩壊していた下京を中心に、再度方形区画の町割りを実施しており(「天正地割」)、寺院を洛中東端にあたる鴨川右岸(西岸)の「京極通」に移転させ、鴨川に沿う形で長く南北に配置したり(現在に地名に名残を留める「京極寺町」)、上京等に散在していた公家屋敷を、天皇の居住する「御所」周辺に集め、恰も城下町を形成するかのように「公家町」を形成することもしております(現在に残る「京都御所」周辺の「京都御苑」は明治に至るまで五摂家をはじめとする公家屋敷が櫛比する場所であったのです)。つまり、今に残る京都の姿とは、平安京の遺産と言うより秀吉による改造の遺産と言ってもよろしいものなのです。つまり、この時期における豊臣政権の本拠とは「京都」であると申しても決して言い過ぎとはなりますまい。後に、聚楽第は後継の関白となった甥秀次に譲られますが、文禄4年(1593)秀次謀反の嫌疑による粛正によって、聚楽第は徹底的に破却されることとなったため、政権の中核としての位置づけは短いものとなりました(未だに聚楽第の正確な構造は明確ではありません)。しかし、慶長2年(1597)に、京都における新たな豊臣政権の拠点として、御所に程近い地に「京都新城」造営が行われております。秀吉は完成した本城に定住することなく翌年伏見城に没し、子の秀頼も秀吉の遺命によって伏見城から大坂城に移りますから、京都新城が政権の本拠となることはありませんでした。長くその場所は明確ではありませんでしたが、近年京都御苑内の発掘調査により石垣遺構が発見されたことで、これを京都新城に比定する説が有力になっているようです。

 さて、前編はここまでとさせていただきます。後編では、豊臣政権にとって伏見の地に本拠を構える意味が奈辺にあったのか、また伏見城下の整備の在り方について追ってみたいと存じます。その際に全面的に参考にさせて頂いたのが、歴史地理学を専門とされた足利健亮氏の『地理から見た 信長・秀吉・家康の戦略』2000年(創元社)でございます。本書は若林先生の論考に出会うずっと前に読んでいたものでありましたが、その刺激的なご指摘は長く忘れることなく頭に残っておりました。後編では最初に、伏見の地とは如何なる地理的条件を有し、秀吉の築城に至るまでの歴史を有していた地なのかを簡単に押さえたいと存じます。また、本稿では、若林先生が京都南部に位置する伏見の地を周辺にまで広くとって考えていらっしゃる顰に倣い、現在の伏見の地番を有する地よりも広く本地域を捕らえて考えてみたいと存じております。
(後編に続く)
 

「伏見」周辺の風景 または豊臣政権におけるその位置づけについて(後編) ―足利健亮氏の著作と若林正博氏の最新の論考「尾張・徳川義直と紀伊・徳川頼宜の伏見滞在―慶長から寛永にかけて―」で学んだこと―

 

4月13日(土曜日)

 

 現在の「伏見」中心街は京都駅から南に下って6㎞ほどの場所、京都駅より近鉄線でモノの10分程の場所にございます。現在は京都市伏見区に属しており、今では京都市内の一衛生都市的な趣の地でございましょう。その南東には平等院鳳凰堂のある宇治市が隣接する位置関係にもございます。こうした伏見という場の理解には、現在は埋立によってすっかり消滅してしまった「巨椋池(おぐらいけ)」が南に存在したことを抜きにすることはできません。巨椋池は、本来であるならば「湖」とも称すべき巨大な内水面を有しており、伏見はその巨椋池に南面する場に立地していたのです。巨椋池の存在していた場は京都盆地の中で最も標高の低い場であり、ここには琵琶湖から流出する唯一の河川である宇治川が東から流れ込み、当該低地の西部は北の京都方面から南流してくる鴨川・桂川水系と、南の奈良方面から流れ込む木津川とが合流する場所でもあることから、それぞれ豊富な水量を有する3水系合流域に、今残っていれば国内最大面積を誇る一大遊水池が形成されたのです。これが巨椋池の正体に他なりません。そして、これら3河川がここから一本の河川となって南西に流れ下り、大阪(明治より前は「大坂」)で海に注ぐことになります。この河川が「淀川」でございます。つまり、当該地域は(南東の宇治の地も含め)、平安時代末には平安京南の郊外に広がる、水に恵まれた風光明媚な地として認識されていたものと思われます。実際に、この地域には貴族の別業(別荘地)が多く営まれておるようです。白河上皇による壮大なる鳥羽離宮の造営等もこうした風潮と気脈を通じたものでございましょう。

 しかし、同時に、古代から中世を通じて、平安京と南都(旧平城京)との中間部に存在する内水面は、3水系の結節地であり、更には淀川を通じて海へと直結するわけであり、経済面において極めて大きな要衝性を秘めた地として有効に利用されて参ったものでもございましょう。ここで、鎌倉初期における具体的な動きをご紹介いたしましょう。世に言う「源平の争乱」の際、平重衡によって焼き払われた南都の再興に力を尽くしたのが重源であります。その再建に向けての苦労は並大抵のことではございませんでした。取り分け巨大な東大寺「大仏殿」を再建する良材の確保は困難を極めたのです。最早近隣からは不可能であり、結果として周防国(現在の山口県瀬戸内側)から切り出された巨木を利用したことはよく知られておりましょう。周防から遥か遠方にある内陸部の奈良に、斯様なる巨木を如何に運搬したのでしょうか。巨木は筏に汲まれて瀬戸内海を東に運ばれ、難波の地からは淀川を遡って巨椋池の手前で木津川入って更に河川を遡り、正に名は体を表す「木津」(現:奈良県木津川市))まで送られ陸揚げされたのです。ここまで来れば奈良までは陸路で10㎞程です。こうして遠距離を運ばれた巨木が無事に大仏殿の再建に用いられたのです。ここまで記せば、巨椋池周辺の伏見という地の要衝性が際だって参りましょう。京と奈良、更に宇治川を通して近江(琵琶湖)方面へも水運で繋がることを可能とし、更に下れば難波津から海を通じてその先へと連なっていくことができるのです。巨椋池の存在と池に南面する伏見の地が、どれほど重要な地勢かがここでも明らかとなりましょう。

 また、伏見は、京都東山から南へと連なる丘陵の最南端に位置しております(以後は「東山丘陵」と記させていただきます)。つまり、巨椋池で東山丘陵が尽き、その麓を巨椋池の水面が洗っている地形的条件にあります。小生は伏見には何度か脚を運んだことはあるものの、その地形に着目して当地を観察していたわけではありませんから、飽くまでも拙い地形図の読み取りから想像して記述しております。従って、相当な勘違いがありえましょう。また、以下の陸路の有り様も含め、現地の空間認識も今一つ明瞭ではございませんから、重大な誤謬を犯している可能性もございます(現地の方々にご指摘を頂けますと幸甚でございます)。それに致しましても、こうした地勢を有する地を本拠にすれば、巨椋池の前方に南方の地が遥かに見渡すことのできる防衛拠点となりうること、水上流通の管理の面でも卓越する地であることは確実です。晩年の秀吉がこの地に眼を付けたのは慧眼以外の何者でもございません。

 しかし、伏見の地には弱点がありました。それが京都と南都とを結ぶ陸路が伏見の地を通過せず素通りすることでありました。何故ならば、伏見の地は南に広大な巨椋池が存在していたからです。ここでは巨椋池は陸上の通行を阻む存在として立ちはだかったのです。伏見では東山丘陵が巨椋池に突き出すようになっており、道路を巨椋池の北岸に整備するにも狭隘であり、しかも伏見から南東の宇治へと向かう先は、東から巨椋池に注ぎ込む宇治川の最下流部に当たり、流路が大きく3筋に分流する乱流域であって、伏見から宇治へと直行する道路の安定的な維持が難しい状況にあったものと想像されます。従って、古代以来の所謂「大和(奈良)街道」は、奈良から北上してきた場合、木津で木津川を渡って、途中から宇治川の左岸を進んだ後に宇治の地に至ってからは、急流で知られる宇治川に架橋された「宇治橋」で渡河して右岸に至り、そこから北上して木幡と六地蔵を経て、東山丘陵の東側を北上する経路をとっていたのです。つまり、東山丘陵の西側にあたる伏見の地を経るルートでは無かったことになります。例え、城郭を構える最適な機能を有する地勢であっても、また水上交通の面で重要な機能を果たす立地であっても、その地が水上交通と陸上交通の結節点とならなければ、その地は重要な経済的拠点とはなり得ません。防衛拠点としてポツネンと城だけがあればよいのならばそれでもよいのかも知れませんが、その場が都市としての機能を十全に果たし得ないことは明らかです。秀吉がかようなことを放置する筈がありません。そうした課題に秀吉がとった対策は、実に大胆かつ目を見張るべき驚くべきものでございました。

 秀吉は、天正19年(1591)関白と聚楽第を甥の秀次に譲った後、隠居のために伏見に屋敷を構えております。ただその時点で秀吉が伏見にどれだけの重要性を見出していたのかは解りません。何故ならば、その屋敷の立地は伝統的な伏見の属性である“風雅の地”としての意味合いから選ばれているように思われ、「観月の名所」として知られる伏見の“指月”の地に造営されました。ただ、どうやら、京都の聚楽第周辺から多くの町人をこの地に移住させているようですから、都市的な機能を持たせる志向も有していたようです。この隠居屋敷は文禄2年(1593)には完成をみたようで、徳川家康等との茶会がもたれております。しかし、同年に後継者である捨丸(秀頼)が生まれると、大坂を捨丸に与えることを想定し、隠居屋敷を本格的な拠点城郭に改修することを決め、更にその膝下に城下町を築いて経済的な拠点とすべく手を打ち始めるのです。まず、翌文禄3年(1594)から南東に大規模な「槙島堤」を構築し、宇治川の流路を宇治橋の下流から北へ変え、東山丘陵南端膝下にまでを流し下し、伏見城下で巨椋池に注ぎ込む形状に改めております。そして、伏見城下に「伏見湊」を構築し巨椋池を利用した水運の拠点とするのです。そのことは、これまでの宇治川流路に存在した地域の重要な水運拠点として機能した「岡屋津」の機能を無効にすることに繋がったのです。要するに岡屋津の機能を伏見湊へと吸収したことになりました。

 更に、懸案の南都から京都へと向かう「大和街道」の経路を伏見城下へと導くための手が打たれます。宇治川の流路が変更されたことで、これまで宇治川が巨椋池に注いでいた乱流地の利用が可能となったことで、ここに大々的な土木工事を加え「小倉堤」を構築するのです。本堤は巨椋池中に延々と大規模な土手を築いたもので、先の槙島堤と伏見城の膝下で連結し、その合流点に流れ下るように改造した宇治川に「豊後橋」を架橋、伏見城下に陸路を導いたのです。つまり、この小倉堤とは土手であると同時に、堤上は大和街道の新たな経路であることになります。その堤の長さは概ね4㎞に及び、その間の道路は左右に巨椋池の水面が広がる中を歩む一本道となります。他にも幾つもの堤を当該地域の構築しており、これらを総称して「太閤堤」と称します。こうなると、旧来の大和街道が宇治橋を渡って伏見城下を迂回してしまうことを防止しなければなりません。足利健亮氏は史料群を博捜し、この時に秀吉がこの宇治橋を撤去した証拠を見出されました。こうすることで、京都と奈良を行き来する場合は嫌が負うにも伏見を通過せざるを得なくなります。こうして、秀吉は伏見を一大流通拠点とする条件を整えることになったのです。足利氏は、河川の乱流地域に囲い込むように堤を造営する対応に、秀吉の故郷である地で盛んに造営された「輪中」の発想を想定されておられます。因みに、宇治橋を破却しても何らかの手段で対岸に渡ることは可能だろうと考える向きがございましょう。しかし、宇治川の流れは、「浼浼横流 其疾如箭(べんべんたるおうりゅう そのはやきことやのごとく……」と書き起こされる、今に伝わる最古級の石碑「宇治橋断碑」に記されるように急流で知られます。その碑文にあるように歩行渡りが危険であるだけではなく、渡船での渡河も難しい地でしたから、“源平の争乱”や“承久の乱”の際にも、この宇治川を巡る両勢力の攻防で様々な物語が生まれることになったのです。要するに、宇治橋破却は必然的に伏見城下を奈良と京都に直結させることになりました。その「宇治橋断碑」大意を大西廣氏による現代文翻訳でご紹介させていただきましょう。
 

 「勢い盛んに、あふれるような川の流れ、速さは矢のようだ。往き来する旅人たちは、馬を停めて、群がり集う。あえて深みを渡ろうとしても、人馬もろとも命を失うことになろう。昔から今にいたるまで、舟でこの川を渡った人はだれもいない。あるとき、一人の僧がいた。その名を道登という。山城の生まれで、恵満の家の者であった。大化二年、丙午の歳。この宇治橋を造立し、人や動物を渡した。いささかばかりの善行ではあるが、大いなる願いをかけたのである。この橋をつくって、衆生を彼岸(浄土)に渡そうと。全宇宙の生きとし生けるものよ、この大願に心を合わせられよ。夢の中、現し世の空の中を、苦しみを超えて導きゆかれんために。」


[網野善彦・大西廣・佐竹昭広 編『いまは昔 むかしは今 2天の橋 地の橋』1991年(福音館書店)より引用]

 

 ここでは、「慶長伏見大地震」による指月伏見城の大破と、あらたな木幡山伏見城への移転等、伏見城の変遷について触れることはせず、以下に伏見城下町が如何に構築されたかを足利健亮氏の書物に基づいて触れてみたいと存じます。伏見城は東山丘陵南端に西側を正面にして構築されましたから、城の正門である大手門は西を向いており、その西側に広がる丘陵裾野の小高い地に大名屋敷を、更に西の低地に町屋を、それぞれ配置するかたちで城下町構成がなされました。ここで注目すべき事が、その町屋が、伏見城に対して直行する形をとらず、横向き……つまり南北に走る大和街道に面して町場が形成されていたことです。足利氏は、こうした城下町構造の在り方を「ヨコ町」型(逆に直行するのを「タテ町」型)とされ、江戸時代になると一般化する「ヨコ町」型の城下町を、初めて意図的に構造したのが秀吉であることをご指摘されます。逆に言えば、これまで秀吉が本拠として構築した城下町は基本的に「タテ町」型であったことになります。そのことは、伏見城の場合、大手門から西に向かう「城」にとってのメインストリートが「大手筋」と呼称されることからも、それが秀吉によって意図されていたことを証明致します。本来「筋」とは「路地・横町」的な道路の呼称であり、主要な道は「通り」とすることが普通であるからです。確かに城下町では「大手通」と呼称される商店街が櫛比する繁華な町を目にします。ところが伏見城下では城の正門前の道が「筋」であるのです。この辺りに秀吉の伏見城を含めた伏見城下構築の構想が透けて参りましょう。伏見は飽くまでも商業都市としての経済的一大拠点とすることを意図して構築された都市であり、そのためには、物言いとしては少々大袈裟には聞こえましょうが、秀吉居城である伏見城でさえ副次的な位置づけにあったということになります。

 以上が、巨椋池を含む京都府南部における秀吉の地域構想であります。個人的には秀吉という統治者の在り方には共感できないことが多いのですが、統治政策の発想の卓抜さと実行力は図抜けたものであると改めて思わされます。こうして新たなる再編を経て成立した“シン伏見”であるからこそ、その実質的な後継政権となる徳川幕府もまた、その黎明期において伏見を重視したのは至極当然のことと理解できます。ただし、その後の徳川家光期になって伏見城が廃され、その機能が淀城に、そして最終的には京都(経済的には大坂なのかもしれませんが)に吸収され収斂していく過程とは如何なる意味を有するのかが検討されなければなりますまい。勿論、その後も伏見には遠国奉行の「伏見奉行所」が置かれて幕府直轄の統治を受けるなど重視されており、城が廃された後にも、近世を通じて酒造業をはじめとする商工業の中核として都市伏見が機能していたことは申すまでもございません。ただ、徳川幕府にとって当該地域の位置づけが低下していったことは否めない事実ではありますまいか。若林先生は、最初に伏見奉行となった小堀遠州の施策に注目をされ、伏見城が廃された後の伏見とその周辺に対する徳川幕府の施策の在り方の検討をされることを目論んでいらっしゃるようですので、その解明に大いなる期待が高まります。

 最後に、前編でも予告させていただきました、今回の若林先生の論考についての概略を紹介させて頂き本稿を〆たいと存じます。本論考は、御自身が「おわりに」でお書きになっていらっしゃるように、昨年度の論考の延長線上に位置付く内容であり「徳川将軍家、尾張徳川家、紀伊徳川家と伏見のかかわりについて探ること」を主題とされ、同時に当該時期の伏見について理解するために見落とされていた史料を発掘されることを通じて、「元和から寛永にかけての地域史の補強を目指した」と、その意図を書き記されていらっしゃいます。本論考を通じて、家康最晩年の子である義直と頼宜が驚く程に家康と密着した養育を受け、更に父が2人の子息と伴に行動し(最末子で頼宜と同母である後の水戸藩主頼房は2人ほどには密接ではないのは不思議でありますが)、屡々伏見にも随行していたこと、家康没後にも秀忠・家光に従って2人が畿内に入ることが多く、伏見城が廃された後には伏見に新たな屋敷地がそれぞれ「尾張藩伏見屋敷」・「紀伊藩伏見屋敷」として宛がわれるなど、徳川幕府黎明期にこの地が重要な位置を占めていたこと、四代家綱以降に将軍の上洛が絶えることで両藩でも伏見藩邸の役割が低下し、御殿等は廃絶するものの両藩にとって一定の機能を有して近世を通じて維持されていたこと、更に近代に入っても伏見の都市としての発展にその跡地が関わり、現在も町の中核を成していること等が論じられております。また、加えて伏見城廃城後に上洛時に将軍家光が淀城を利用し、京都からの使節を迎えるなど上方における中核城郭として機能していたことも紹介されております。家康・秀忠の後の寛永年間においても、伏見・淀地域が徳川家に留まらず、御家門の二家にとっても深い関わりを有する地であったことは初めて知ることであり、驚かされた次第でございました。徳川黎明期における伏見の位置づけに関しては、更に考察を加える必要があると深く考えさせられる、極めて貴重な論考でございました。是非とも、昨年度の論考と併せてお読みいただくことをお薦めさせていただきたいと存じます。併せて、併せて足利健亮『地理から見た 信長・秀吉・家康の戦略』2000年(創元社)もご一読されては如何でしょうか。

 

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