更新日:2025年1月31日
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昨年度から引き続き、本年度も館長の任を勤めさせていただくこととなりました天野良介と申します。令和2年度に館長職を仰せつかってから、今年度で5年目に突入することになります。代り映えのない続投で申し訳ございませんが、乗りかかった本館の展示リニューアルを果たし、無事に再オープンが叶うまでの道筋をしっかりとつけ、その具現化が図れるよう粛々と取り組んで参る所存でございます。本年度も何卒よろしくお願い申し上げます。
さて、本日より令和6年度がスタートいたしました(尤も本日の月曜日は休館日となりますから本館の令和6年度は実質的には明日からとなります)。本年度の本館の最大かつ最重要な事業が、以前から繰り返し述べておりますように、下半期からの「展示リニューアル」工事への突入にございますことは申すまでもございません。表題にもございますように、約1年間の休館を経て、令和7年度の下半期に「リニューアルオープン」を迎える予定でおります。既に一年前となる令和4年度4月始めの本稿でも述べました通り、改修コンセプト『「郷土千葉のあゆみ、そのダイナミズム(躍動感ある変遷)がわかる」博物館への再生』、展示テーマ『陸と海・人とモノを結ぶ「千葉」』の具現化を目指し、これまで凡そ2年間に渡って進めて参りました準備の成果を取り纏め、下半期からの工事に臨ませて頂きたく存じます。何よりも、政令指定都市の博物館として、余りに脆弱に過ぎた展示内容を一新すべく尽力して参ります。具体的には、これまで原始古代と近世の展示を欠き、中世における千葉氏の盛衰と簡単な近現代展示のみしかなかった展示から、郷土の「通史」を理解できる展示に一新いたします。それも、淡々と歴史的事実を並べるのではなく、各時代像を実感して頂けるようにして参ることを眼目にいたします。そのために重要となるのが、各時代だけではなく、時代が移り変わっていく「転換期」の姿を併せて提示することだと考えております。「原始古代」から「中世」への転換、「中世」から「近世」への転換、「近世」から「近現代」への転換は、目が覚めた翌日から次の時代に移り変わっている訳ではありません。こうした時代区分とは、社会の在り方の特色の違いを根拠になされているからです。
様々な要因によって社会の仕組みは徐々に変化していきますが、その契機を掴む「転換期」展示を間奏曲のような形で挟み込むことで、地域における時代の推移をダイナミックに把握できるようにすることを意図したいと考えます。また、皆様が実際に手に取ったり、映像と通して理解できたり、はたまた皆で立ち止まって考える展示も工夫して参ります。何より、誰もが楽しみながらも、地域のこれまでの歩みに対する「学び」が実感できる通史展示に改めたいと考えております。ただ、今回の展示リニューアルは、別地に新規の博物館を新設するのではなく、飽くまでも現在の模擬天守風建築の内装を改装することで実現をいたします。現在不明確と不評である導線も明確にして、時代の移り変わりを実感いただけるように配慮いたします。何よりも、千葉氏の歴史を含む郷土の歩みを知ることで、市民の皆さんに千葉市に生れ育ったことを誇りに思っていただけるような展示内容としなければと考えます。また、常設展を撤去して特別展・企画展を開催しなければならなかった不合理を解消するために、特別展示室も確保いたします。常設展が真の意味で“常設”であるように改めるということであります。是非、令和7年度下半期のリニューアルオープンを楽しみしていてくださいませ。尤も、昨年度は実施設計の段階であり、業者の決定を見るのは今年度前期となります。昨今のご時世でございますから、入札不調や、業者が決定しても資材不足や職人の手配が儘ならぬ等々に起因する、工期の変動等が惹起する可能性はゼロではございません。その点、予定通りに事が進まないことが出来いたしました場合には、逐次ホームページ等を通じてご報告をさせていただきたいと存じます。責任重大で負担も大きな仕事ではございますが、我々職員も大いに楽しみながら取り組んで参る所存でございます。
また、「開府900年」を記念して本館が取り組む事業は上述いたしました「展示リニューアル」の他に2つございます。一つ目は、「リニューアルオープン」後の令和7年度下半期から「開府900年」を迎える令和8年度にかけて開催を予定しております3回の「特別展(企画展)」となります。こちらにつきましては、両総平氏の一族である千葉常胤の父常重が大治元年(1126)に本拠を大椎から千葉の中心地に移したことが都市千葉の礎となったことから、900年目を迎えることに因んで内容となります。未だ具体的には公表することはできませんが検討は進んでおります。平たく申せば3回とも「千葉氏」に因んだ内容となり、様々な角度から千葉氏の活躍に焦点を当て、現在までに繋がる遺産についても採り上げてみたいと目論んでおります。これらは、新たに本館1階に設置される「企画展示室」での開催となりますので、お楽しみにされてお待ち頂ければと存じます。二つ目は、これまでも機会のあることに申し上げて参りました、令和7年度末刊行予定「千葉氏関係史料集(仮称)」でございます。これまで各自治体史をはじめ様々な書籍に個別に掲載されており、活用に困難を来していた千葉氏関連史資料を1冊に集積して、何方もがご利用しやすくすることを目指し、昨年度から本館に着任した坂井法曄氏を中心に、現在意欲的に編集作業が進められております。坂井氏は日蓮宗を中心にした宗教史の優れた研究者であるだけではなく、古文書の読解にも極めて練達されておられます。全ての史料の原本にまで遡って校訂作業を進めていただいており、これまで流布している翻刻の誤りを多々発見もされていらっしゃいます。また、新たな千葉氏関連史料が発見されているケースもございます。勿論、そうした作業は専門家の皆様の御活用に資することに直結することですが、より多くの歴史を愛する方々に愉しんでいただけますよう、代表的な史料を採り上げ著名な研究者の方々に分かりやすく解説をして頂く「読み物」を冒頭に集載しようとも目論んでおります。相当に分厚の冊子になる予定でございます。こちらに関しましても楽しみにされていてくださいませ。また、未だご本人の了解を得ておりませんので、現段階でお名前を公表するには至りませんが、本年度は中世前期武士団研究のホープと目される研究者の方にも一緒に仕事をしていただくことになりました。追って本稿でも紹介をさせていただきたく存じますが、今後の本館における研究体制充実が図れることになるものと期待をするものでございます。
何れにしましても、本年度は下半期から閉館を致します関係で、毎年恒例として時期を定めて実施している本館行事につきましては、実施できない行事(例えば9月以降の学校等からの団体見学の予約)、時期を変更して実施する行事(例えば古文書講座)、閉館中でも実施する行事(例えば小中学校からの依頼に基づく出張出前授業)等々、特別な対応をして参らねばなりなくなります。それら個々の対応につきましては、できる限り早い段階で一覧にするなどして皆様にお知らせする必要があろうと存じております。何れにしましても、一年間強に亘る閉館に伴い、皆様方には一方ならぬご迷惑をおかけいたすことは間違いございませんが、状況に鑑みまして何卒ご寛恕のほどをお願い申しあげます。
従いまして、こちらも過去に何度も申し上げて参りましたが、本年度上半期は開館を致すものの、例年のような形での特別展・企画展は開催致しません。ただ、令和8年(2026)度「千葉開府900年」を控えている関係もあり、毎年開催しております「千葉氏パネル展」は開催をさせていただきます。本パネル展では毎年様々なテーマを掲げ、そのテーマについて様々な角度から切り込む7~8枚のパネルで構成しております。昨年度は『京(みやこ)と千葉氏』のタイトルでの展示といたしましたが、その趣旨は、千葉氏が草深い東国で所領経営にあたる質実剛健な武士などでは決してなく、京都と密接な結びつきをもって全国に分散する所領経営を行っていたこと、都の文化の強い影響を受けるだけではなく、むしろその担い手であったこと等々を皆様に知って頂くことにございました。そして、本年度は『千葉氏をめぐる水の物語』と題する展示とさせていただきます。会期につきましては、5月28日(火)開幕、リニューアル工事による閉館前の最終開館日と想定しております9月30日(日)閉幕を予定しております(工期の関係で閉幕日は変更の可能性あり)。何時も通りご観覧は無料でございます。また、本年度は開幕と同時にブックレット販売(100円を予定)を開始いたします。ところで「“水の物語”って何だ??」とお思いになられる方もいらっしゃいましょう。生きとし生けるもの、水無しに生きていくことはできませんし、水をめぐる自然環境の中で生の営みを歩んでおります。当たり前のことではございますが、千葉氏もその置かれた千葉の自然環境と如何に折り合いをつけていくかを課題としながら、その勢力地盤での様々なる取り組みをしていったのです。その中でも、「水環境」は「様々な局面」において最も重大な条件として彼らの活動を規定した筈であります。千葉氏がそれを如何に活用し、また克服しながら歩んで来たのかを各パネルを通じてご紹介をさせていただきます。具体的に「水環境」における「様々な局面」とは何を指すのか、要するに、何を切り口として「水の物語」を綴っていくのかにつきましては、開催前の5月半ば頃に本稿にてご紹介をさせていただきたいと存じます。従いまして、今回はこの辺りにさせていただこうと存じます。我々も、皆様にご覧いただくことが今から楽しみであります。
最後に、本稿を執筆しておりますのは前年度3月末日でございますが、弥生三月後半が寒の戻りがきつい毎日でございました関係で、我が亥鼻山でもようやく花がほころび始めた段階であります。23日(土)に賑々しく「千葉城さくら祭り」が開幕したにも関わらず、連日の雨模様の寒空続きで、この亥鼻山もお気の毒なほどに閑散としておりました。そうした状況に鑑み、主催する「千葉城さくら祭り実行委員会」では、本祭の会期を4月5日(金)までの延長を決定いたしました。急な会期変更となりますので、本館につきましては本日4月1日(月)「臨時開館」はできず閉館とせざるを得ませんが、「千葉城さくら祭り」は実施しております。また、明日4月2日(火)から会期終了5日(金)までは通常通り開館をしております。せめて今週中には満開を迎えてほしいと期待をするところでございます。尤も、この状況が続けば、日本における季節の風物詩である「満開の桜の下での入学式」という光景が久しぶりに復活する可能性がございます。温暖化の進展によって、昨今は桜花が卒業式の付きものと化していた現実がございましたから、新入生・新入社員の皆さんには歓迎されるかもしれません。
以上、本年度の本館の事業につきまして、極々簡単でございますが申し述べさせていただきました。今後も、公共機関としての本務を忘れることなく各事業を推進する所存でございます。本年度の千葉市立郷土博物館の活動につきまして、今後ともご支援を賜りますことをお願いいたしまして、年度当初のご挨拶とさせていただきます。本年度も何卒宜しくお願いいたします。
亥鼻山における「千葉城さくら祭り」が会期を延長して実施されることになったことにつきましては、過日の本館ホームページ等でもお知らせを致しましたが、それも本日をもって最終日を迎えることとなりました。三月末日に漸くチラホラと開花した亥鼻山の「染井吉野」でしたが、三月晦日の夏日到来に驚いたものでしょうか、本館5階からの眺めも一気に「さくら祭り」の雰囲気が漂い始めました。尤も、先月最終の土日でも、ほんの数輪が綻んでいるばかりの櫻樹の下で、大いに気炎を上げている方々が多々いらっしゃいました。その昔より我が国では「花より団子」と申しますが、コミックバンド「バラクーダ」の曲として知られる「日本全国酒飲み音頭」(作詞:岡本圭司、作曲:ベートーベン鈴木)[1979年:東芝EMI]宜しく、屁理屈であっても何かに託けて酒を飲むのが人間と言うモノの性(さが)であろうかと存じます。素面でそうした皆さんを眺めていると何ともはや……との思いともなりますが、羽目を外さない程度に遣っている分には、寧ろ微笑ましい光景ですらございます。
因みに、「日本全国酒飲み音頭」は皆様も一度や二度は耳にされたことがあろうかと拝察致するところでございますが、大きなお世話と糾弾されることを覚悟で、念のため(!?)歌詞を御紹介しておきましょう。その1番は、1月から12月まで何らかの理由で酒が飲めることを歌います。今の時季に関しましては「四月は花見で酒が飲めるぞっと」となり、まさに今目の前で繰り広げられる光景と重なります(尤も、温暖化が進む以前の歌詞であることが知れることがチト複雑な思いですが)。因みに、四月以外は以下のようであります。1月:正月、二月:豆撒き、三月:雛祭、五月:こどもの日、六月:田植え、七月:七夕、八月:暑い、九月:台風、十月:運動会、十一月:何でもないけど、十二月:ドサクサ……。六月などは、まさに日本の原風景に通じる地域共同体を彷彿とさせますが、八月は暑いお蔭で酒が呑めるというよりビールでも呑まずにゃやってられん……というのが実態でしょうし、九月の台風も外に出ることも儘ならず自宅で自棄酒に近いモノがございましょう。十一月以降の歌詞に至っては最早一切の理屈を抜きに一杯やるという風情であり、脳天気の爆発的な内容に逆にスカッとした潔ささえ感じさせられます。また、続く2番の歌詞でありますが、北は北海道から南は沖縄県まで12の名物・特産品と絡めて酒が飲めると歌います。標題に“日本全国”を掲げる由縁でもございます。
それに致しましても、これらの歌詞は酒飲みの本性を実に見事に、過たず射貫いていると存じます(苦笑)。小生も折々申し上げておりますが、世に“通人”と目される方が、「こんな不味い酒は飲むに値しない」と仰せになっているのを耳にしたことがございますが、ホントウの意味での「酒飲み・酒好き」は、自分自身もその仲間に限りなく近い存在でありますからよく分かるのですが、もっと意地汚いものでありまして、不味い酒でも「こりゃ不味い酒だねぇ……」と独り言ちつつ全部平らげてしまうものだと存じます。これがホントウの意味における「酒飲み・酒好き」の性(さが)ではないかと考えるものでございます。そりゃ、酒の旨い不味いくらいは解ります。しかし、酒となればちょいと一杯やろう……と、貧乏徳利が空になるまで呑んでしまうのが“呑兵衛”の実像ではありますまいか。従って、その昔に小生が目にした光景、つまりお邪魔したお宅の居間にある立派なチェストに、高級そうな酒瓶がずらりと並んでいる光景とは、小生には全く理解の範疇を超えたものでした。ついつい「酒って飾るモノじゃなくて呑むもんですよね!?」と口をついてしまいそうになったものです。尤も、小生は酒なしで生きていられない、所謂「アルコール依存症」ではございません。無ければ無いで充分に日常生活は送れます。ただ、あれば呑んでしまうのが実のところでございます。酒好きの皆様は如何でございましょうか。
さて、「さくら祭り」に託けて長々とした余談で失礼致しました。以下の本稿では、「群馬の森」内にある隣接する「群馬県立近代美術館」で拝見した標記展覧会について御紹介させていただこうと存じます(「群馬の森」は過日の「朝鮮人追悼碑」の撤去問題報道で揺れた場でもございます)実は、3月半ばに関東の博物館関係会議の会場が「群馬県立歴史博物館」で、かの地にまで脚を運ばねばならぬ都合もございました関係で、接して建つ美術館で開催されていた企画展示をも拝見したのでした。尤も、本展は明後日には閉幕となってしまうので、これを機に出掛けてみようとするには、御紹介がチト遅きに失した感がございます。まぁ、いろいろと取り込んでおりましたのでご容赦の程をお願い申し上げます。展示リニューアルを控える身としましては、高い評価を有していらっしゃる「群馬県立歴史博物館」の常設展示を拝見したかったのですが、残念ながら現在「中世展示リニューアル」の為に閉館中であり観覧は叶いませんでした。勿論、最近になって漸く長谷川潔の魅力に気づき始めたものですから、その展覧会を拝見することも大いに愉しみにしておりましたから、これを好機としてこの不世出の銅版画家について触れさせていただこうと思った次第でございます。
さて、その御紹介の前に、歴史散歩宜しく「群馬の森」周辺のご案内を少々。当館への直近鉄道駅は「北藤岡駅」なのですが、何故か高崎線と平行しているにも関わらず八高線の駅でしか無く、東京から出掛けるには高崎線の倉賀野駅が最も至近となります。その次駅となる高崎駅からは、倉賀野駅を経て「群馬の森」にも巡回するコミュニティバスもございますが、本数も少なく倉賀野駅から徒歩で訪れることにいたしました。それには、折角の機会に中山道の要地であった「倉賀野宿」の雰囲気を味わうことも理由でございました。本宿は、朝廷が日光東照宮に奉弊を捧げるために派遣する「例幣使」が、京から中山道を下って日光へ向かう際に通行する「日光例幣使街道」との分岐点でもあり、宿外れの分岐点は「追分」は面影を色濃く残していると畏友小野氏から聴き及んでいたこともありました。倉賀野の地には4世紀末頃から大規模古墳が築造されており、今も周辺には浅間山古墳を筆頭に多くの古墳がございます。鎌倉期になると、武蔵児玉党の一族がこの地に盤踞して倉賀野氏を名のり、室町期になると下流で利根川と合流する烏川の段丘に面した地に倉賀野城を築城しております(遺構は明瞭ではございませんが)。戦国期になると上杉・北条・武田の勢力争いに巻き込まれ、最終的には小田原北条氏の旗下に納まったことから、天正18年(1590)の小田原落城と命運を伴にすることになります。そして、江戸期になって中山道が整備されると、宿場町として整備され殷賑を極めることになります。その殷賑の背景となるのが、利根川水系最上流に位置する河岸場となる、「倉賀野河岸」が烏川に面して存在したことにございます。信州・上州周辺から陸送された年貢米や物資を下流の江戸へと運搬する、水運への結節点として大変な賑わいをもたらしたのです。逆に、その帰り舟は江戸周辺からの物資を大量に積んで倉賀野河岸に戻りますから、この地は関東から更に上州・信州へと生活物資を陸送する発着点となったわけです。
特に我々千葉県民にとって注目すべきことは、内陸部への行徳塩流通の重要な中継地となったことであります。海に面しない内陸地では塩の確保は枢要であり、行徳塩はこの倉賀野河岸で陸揚げされ、ここから上州・信州へと陸送されていったのです。中山道の倉賀野宿から倉賀野河岸へ向かう「河岸道」はちょうど盲腸のように中山道に取り付いており、後の大火で旧家は残っておりませんが地割りは明瞭に見て取ることが出来ました。現在倉賀野から山名(この地が室町期に中国地方で覇をとなえた守護大名山名氏の出自の地であります)方面へと向かう道路が烏川を渡る、「共栄橋」から北を眺めると未だ真っ白に雪化粧した浅間山を臨むことができました。本河岸は天明3年(1783)浅間山大噴火噴出物の流下により、河川水運の維持が難しくなって衰退の道を辿ることになったそうですが、それも納得の距離感にある地であること実感した次第でありました。中山道にも明治以降の再建となりますが脇本陣家を含む旧宅が点在しており、宿場街の雰囲気を色濃く残しております。また、先にも触れましたように、「倉賀野宿」江戸側の宿外れに日光例幣使街道との追分がございます。その分岐点には、常夜灯と文化11年(1814)建立銘のある道標が残り、その背後には当地が異界との境であるかのように閻魔堂が建っているのが印象的でありました。その道標には「右 江戸道 左 日光道」との文字が深々と刻まれており、そこから小生は左の道を辿って「群馬の森」へと歩みを進めることになりました。しかし、旧道の両側の多くは工業団地や住宅地としてすっかりと開発されてしまっており、道路も交通の至便を計ってすべて拡幅されておりました。要するに、期待していた旧道の雰囲気を全く残していないのが残念でございました。因みに「群馬の森」へは小生の足で追分地点から30分強で到着いたしました。
(後編に続く)
後編では、ようやく辿り着きました長谷川潔について述べて参りたいと存じます。長谷川潔は、明治24年(1891)第一国立銀行の横浜支店長であった長谷川一彦の長男として、神奈川県横浜市に生まれ、昭和55年(1980)に老衰のためパリの自宅にて齢89で没した日本人版画家(何より銅版画家として名高い存在)であります。ここで「日本人」と敢えて記すのは、長谷川が大正7年(1913)に渡仏して以来一度も祖国の土を踏むことがなかったからであり、ある意味日本でよりもフランスを含む欧州で高く評価される版画家であったからであります。また敢えて「版画家」と申しますのは、制作の初期において長谷川が「創作版画家」として、当時の多くの創作版画家がそうしたように、木版画による書籍の装丁・口絵なども手掛けることが多かったからでございます。今回の群馬での展覧会にも初期の木版画が相当数展示されておりましたが、「栴檀は双葉より芳し」の例えの如く、このまま木版画家としての活動を続けていても恐らく一流の芸術家として大成したことを思わせる作品揃いでありました。そうした中、長谷川はバーナード・リーチから銅版画(エッチング)の技法を学んでもおります。しかし、西洋芸術への憧れは黙しがたく、版画技術の習得を目的に、長谷川は上述したように横浜港を出港、アメリカ経由でフランスへと向かったのでした。その地で、長谷川は様々な版画技法の習得に努め、大正末年には既に版画による個展を開催するなどパリ画壇で確固たる地位を築くようになります。今回の展覧会でも、渡仏から第二次世界大戦に至るまでの時期に、長谷川が様々な銅版画技法を駆使しながら自己の表現方法を模索している様が窺えて、とても興味深いものがございました。この時期の長谷川で特筆すべき事としては、戦後になって長谷川作品の代名詞ともなる銅版画技法である「マニエール・ノワール(メゾチント)」の復活に尽力したことにあると言われます。本技法は当時フランスでは既に廃れて見向きもされなかった技法でありましたが、その可能性に開眼し、独自の工夫をしながら技法の習得に努めたことで、戦後に比類のない銅版画世界に昇華させていくことになるのです。第二次世界大戦勃発により、敵国民となった長谷川の立場は一転して逆風に晒され苦境に陥る経験も経ておりますが、それを凌いで戦後に「マニエール・ノワール」の第一人者として日本以上に世界で高い評価を確立するなど、銅版画家として大輪の花を咲かせることになるのです。
ここで、そうした銅版画の技法について整理にしておきましょう。木版画が彫り残した面にインクを乗せて紙に摺り取る、所謂「凸版印刷」の技法となるのに対し、銅版画は金属に何らかの形で傷をつけ(窪みをつくり)、その中に残ったインクをプレス等の圧力で摺り取る、所謂「凹版印刷」の技法となります。また、銅版画で銅板に溝を形成する技法は、間接技法と直接技法とに大別されます。前者は、銅板に腐食防止の松脂等を全面に塗り、その上に鉄筆のようなもので絵を画くとその部分の松脂が剥がれ落ちます。その銅板を酸性溶液に漬けることで、描いた部分だけが酸に反応した銅が腐食して溝をつくる「エッチング」等の技法があります。また、後者は、銅板に物理的に直接彫り込みを入れる技法であり、銅よりも硬質の金属製刃物(「ビュラン」)で彫り込む「エングレーヴィング」、エッチングと同様の鉄筆(ニードル)で直接に銅を引き欠くように彫り込む「ドライ・ポイント」等の技法がございます。前者は、刃物で彫りますのでシャープな線が表現できる反面、どうしても刃物の動線には方向性が生じる関係から表現には制約が生じます。後者のニードルは刃物ではありませんから自由に描けるメリットがありますが、反面で刃物での彫り込みに比べればラインの鋭さは望めません。引き欠いた後に残る金属の破片が線に滲みを生み出し易くなるからです(しかし反面で暖かみある線表現になるというメリットもあります)。そして、長谷川の十八番となる「マニエール・ノワール(メゾチント)」も直接技法の一種となります。
「マニエール・ノワール」とはフランス語で「黒の技法」を意味する言葉だそうです。本技法は、まずベルソーという鑿のような道具を銅板に直接当て、縦・横・斜めに揺り動かし無数の細かい傷やささくれをつけ、銅板に目立てすることが基本となります。こうして完成した銅板にインクを乗せてプレスして印刷すると全面が漆黒となります。しかし、この黒の深みたるや、まるでビロードのような温かさを有します。この銅板の傷やささくれをスクレイパー(篦状のこそげ取る道具)で削り取り、パニッシャー(手斧のような道具)で磨いて滑らかにすることで、漆黒の下地から明部を描き起こすように作画を行う技法が「マニエール・ノワール(メゾチント)」であります。つまり、これまでの直接技法とは真逆の発想から生まれた技法と申せましょう。17世紀にドイツ人によって発明され、その後は主としてイギリスを中心に肖像画や油彩画の複製手段として活用されました。しかし、19世紀になって写真が発明されると利用価値を失い、本技法は急速に廃れ忘れ去られたと言います。長谷川がフランスに渡った20世紀初頭には、フランスでもベルソ-等の道具すら入手出来ない状態であったと言います。そうした状況下であったからこそ直のこと、長谷川は全ての表現を黒と白の柔らかなグラデーションによって表現できる本技法の復活に全力を注ぐようになります。尤も、長谷川はメゾチントの技法で大成することになりますが、全ての技法の長所を熟知し、それぞれの技法の特色を活かした作画を行っていることは申し述べておきたいと存じます。ただ、エッチングのような間接技法には懐疑的であり、銅板に直接に対峙できる直接技法の版画家であることに誇りを持っていたと言われます。
彼の描く銅版画作品の題材は、その初期におけるヨーロッパの田舎を画く風景画、裸婦像を除けば、専ら花瓶に生けられた草花や、室内の静物に限定されます。特に晩年に至れば至るほどにその傾向は顕著になります。小生は父親が銅版画家でもあったこともあり(父の繪は全く評価しませんが)、銅版画には幼い頃から接して参りました。しかし、若い頃の小生は、駒井哲郎(1920~1976年)のような夢幻的な作風(パウル・クレーを思わせる洒脱な抽象画)や、メゾチントを主とする銅版画家では黒の世界に色彩を導入した浜口陽三(1909~2000年)による、サクランボの詩的な表現に惹かれており(以前、小生の尊敬する校長先生が千葉の画廊で浜口作品を購入しようとした際、浜口作品はサクランボ一つ○○円が相場なので本作は6つあるので値段がこれと示され、呆れて購入する気が失せたと伺ったことがありますが、青果商でもあるまいし何と薄っぺらな画商かと思ったことがございます)、それに対して長谷川作品の理詰めに構築されたような緻密な作風に窮屈さを感じて苦手にしておりました。しかし、こちらも還暦を過ぎてからは、黒と白のグラデーションでのみ表現され、他の色彩を伴わない長谷川作品の静物画に、水墨画の深淵にも通じる奥深さと、静謐な世界観を感じ取れるようになったのです。今回の群馬県美の展示会も、広い会場に2~3人しか観覧する静寂が支配する会場で、長谷川の描く静物画の静謐さが更に深まるように実感させられたのです。
歌舞伎の下座音楽では、雪が深々と降り積もる世界を、大太鼓の小さくゆっくりと連打することで表現すること、つまり静寂を音で表現するといった逆説的な優れた技法がございます。長谷川のメゾチントの深々としたビロードのようなモノクロームのマチエールからも、何故かかそけく小さな調べが響いてくるように思えたのです。そこに時計が描かれていれば、時を刻むかそけき響きが、より静けさを強調するように思えるような感覚と申せば御理解を頂けましょうか。これだけの長谷川作品に直接に接したのは初めての経験でございましたが、こんな思いにさせられる作品に出会ったことも長谷川のメゾチントが初めてでございました。それほどに、大いなる感銘を頂けた展覧会であったことを御紹介させていただきたく、長々と述べさせていただきました。残念ながら今回の展示会では図録は作成されておりません。そこで、平成3年(1991)横浜美術館で開催された『生誕100周年記念展 長谷川潔の世界』図録を古書で仕入れて紐解いております。また、長谷川潔御自身の証言集なのでしょうか『白昼に神を観る』(1991年)[白水社]なる書籍もございましたので、興味を惹かれてこちらも古書を注文したところでございます。会期は、明日と明後日を残すのみでありますが、宜しければお運びを頂ければと存じます。
さて、最後に今回の群馬行きに話を戻します。「群馬県立歴史博物館」で開催されました会議は、ありがたいことにバス時刻に併せて終了するようにご配慮いただけましたので、帰りは「群馬の森」からコミュニティバスで倉賀野駅の一つ先である高崎駅に出ることにいたしました。もう日は大部傾いておりましたが、乗車までの時間を利用し高崎駅近くにある大信寺に寄ってある墓所に参ることも目論んでの高崎行きでもございました。それが、徳川忠長(1606~1633年)の墓塔でございます。歴史好きの方ならばその名を聞いて如何なる人物か直ぐにご理解いただけましょうが、一般の方々であれば誰なの……というのが正直なところでございましょう。生没年をご覧いただければご理解いただけましょうが江戸時代初期の人でございます。父親が二代将軍徳川秀忠(1579~1632年)、母が浅井長政三女である御台所の江(ごう)(1573~1626年)[姉は豊臣秀頼の母である淀殿]であり(幼名:国松)、同母兄に後の三代将軍徳川家光(1604~1651年)[幼名:竹千代]、異母弟に会津藩主となる保科正之(1611~1673年)がおります。よく知られる話として、両親ともに活発な国松を溺愛し、“根暗”な(!?)竹千代を疎んじたことを気に病んだ、竹千代の乳母である春日局(1579~1643年)が大御所家康に直訴したことで、後継者指名に家康が介入することで竹千代が将軍職後継に納まったとの話でございます。こうした兄弟間の確執が幼少期からあったことが、後の兄弟間の悲劇的な結末に至ったとの伏線としてよく引き合いに出される話でございます。ここでは、細かな経緯を述べることは致しませんが、甲斐国に所領を与えられていた忠長は、寛永元年(1624)に駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、家康所縁の駿府城を本拠とする55万石を知行する大大名となります。更に寛永3年(1626)に大納言に任官し「駿河大納言」と称されるようになります。しかし、父親の秀忠に大坂城と知行100万石とを懇願して拒絶されるなど、次第に常軌を逸した行動を示すようになり、父秀忠の死後の寛永9年(1632)に改易となります。そして、当時高崎城主であった安藤重長に預けられ、その地に幽閉されます。しかし、翌10年に幕命により自刃をしております。その亡骸は高崎の大信寺に葬られますが、廟所を築くことも許されず土饅頭に松樹を植えただけであったと言います。正式な墓塔が築かれることが許されたのは、兄家光も亡くなった後の4代徳川家綱(1641~1680年)治世下の延宝3年(1675)のことであり、その際に豪奢な囲塀と拝殿・唐門も造営されました。
今回目にした五輪塔はその時のものであり、高3m程で石の玉垣に囲まれた立派な墓塔であり、戒名が「峰巌院殿前亜相清徹暁雲大居聰」と刻まれております。“亜相”とは“大納言”の唐名でありますから、赦免によって名誉回復がなされたことになりましょう。拝殿と塀は明治の初めに失われたようであり、唯一残った唐門も先の大戦の“高崎空襲”により焼失。現在は地表に建物の痕跡は残されてませんでした。因みに、徳川忠長につきましては、小池進氏による『徳川忠長-兄家光の苦悩、将軍家の悲劇-』2021年(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー527)が唯一の単著でございます。家光と忠長の対立と悲劇が、決して長い遺恨の結末とは言えないことを論じた好著であると存じます。最近刊行の書籍でございますので、新本での購入も可能だと存じます。ご興味を持たれた方はどうぞ。江戸幕府草創期の徳川家親藩の内紛では、父秀忠による弟松平忠輝(1592~1683年)の改易・蟄居、甥である越前宰相松平忠直(1595~1650年)を絡んだ“幕府転覆”計画の可能性に基づくと考えられる、忠直卿の追放等が思い浮かびます(菊池寛の小説『忠直卿行状記』もよく知られます)。家光の寛永期に至っても、俗に「元和偃武」などと言われる状況にはなかったことが理解できるように思います。正に薄氷を踏むような対応を重ねながら幕藩体制が確立していったことを、帰りの“鈍行”列車中で思いながらの帰路となった、寒々しい墓所の風景でございました。
一年の中で、この亥鼻山が最も賑わう「さくら祭り」が去る5日(金)に閉幕となりました。しかし、会期を5日間延長したにも関わらず、その間の空模様も安定することなく、雨模様が続きひんやりした陽気であったこともあってか、「染井吉野」が花盛りを迎えたのは先の土日以降となりました。つまり、「さくら祭り」も終わった後のことであり、7日(日)の本館に入場されたのは3千人弱と、「さくら祭り」開催中の最大入場者数の約2倍ほどを数えたのでした。それはそれで、本館と致しましても大変にありがたいことなのですが、反面「さくら祭り」実行委員会が設営していたゴミ処理の場も撤去されてしまったこともあって、ゴミの捨て場にお困りになられたのでしょうか、本館施設内にゴミを放置される方、亥鼻公園内にゴミが散乱しているなどの困った事態も惹起していたのも実際でございます。桜の名所では何処でもこうしたトラブルが発生しているようです。海外でのサッカー試合の後に日本人観客がスタジアムを清掃して帰ることが評判だそうですが、何故「花見」の場ではそうした共助の精神の発露が見られないのか……、日本人の精神構造への思考を巡らす機会ともなったのでございました。尤も、世間では小中学校の入学式が満開の桜の下で行われたことは慶賀の念に耐えません。週明けの9日(火)は「花に嵐、花に村雲」の例えの如く大変なる荒天でございましたから、この亥鼻山の桜花もそろそろ終焉を迎え、本館周辺も漸く落ち着きを取り戻して参りましょう。我々といたしましても、正直なところホッと胸を撫でおろしているところでもございます。
さて、一昨年度末、「京都府立京都学・歴彩館」他県でいう文書館と同様の機能を有する機関のようです)から本館に御寄贈頂きました『京都学・歴彩館紀要』第6号に掲載された若林正博氏の巻頭論文「伏見における黎明期の徳川政権-家康はどこに居たのか-」に興味を惹かれ拝読させて頂き、その内容に大いに感銘を受けた経緯を昨年度当初の本稿で述べたことがございます。天正18年(1590)小田原北条氏滅亡後、秀吉から関東への転封を申し渡された徳川家康が、江戸に入府してから元和2年(1616)に駿府城で没するまでの期間における、その動向を綿密にデータ化された結果(膨大な一覧表も附属しております)を下に、その間に家康が最も長く拠点として統治行為を執行したのは「伏見城」に他ならず、その日数は2.786日に及ぶことを明らかにされました。大御所として君臨した「駿府城」が2.483日であり、「江戸城」に至っては1.799日に過ぎないことから、江戸幕府黎明期において徳川政権の拠点とは「伏見城」であったといっても決して過言ではない状況にあったこと、家康が実質的に江戸より伏見において幕政を差配していたこと等々、徳川家の上方での本拠機能を伏見城が担っていたばかりか、ある意味で「伏見幕府」の様相すら呈していることに気づかされたのです。しかも、徳川家康ばかりか、秀忠・家光までの3代に亘って行われた将軍宣下は、すべて伏見城で執り行われております。小生にとって、現在の“京都市伏見区”という住所に引きずられ、漠然と京都の一部とばかり認識していた「伏見」が、俄然全く別の都市として浮上して参ったのです。しかし、実際には、家光の将軍宣下の後に伏見城は廃されており、その有した機能は、一時「淀城」に移り、後に洛中の「二条城」へと吸収されたのでしょう。また、その後の「伏見」が酒造業の栄える商工業都市として京都の一部に組み込まれ栄えた……というシナリオは必ずしも誤りとは申せますまい。若林先生の論文に接し、伏見と言う地の有する磁場とは何なのか、それが歴史的な歩みを通じて如何に機能し、また変容していったのか等々、これまで漠然と“豊臣政権が居城としていた場”としてしか認識していなかった「伏見」の存在を、「徳川政権の伏見(伏見城)」として再認識して、評価していく必要があることに目を開かせて頂いたのです。そのことは、恐らく近世を通じて近現代へ至る伏見の位置づけにも再考迫ることをになろうかと存じた次第でございます。少なくとも、徳川黎明期の歴史に興味をお持ちの方であれば必読の内容でございます。大変な労作であり、正しく「目から鱗」の内容でございます。一年を経て、改めて本論考を御拝読されることを心底お薦めしたいと存じます。
因みに、論考の筆者で「京都府立京都学・歴彩館」職員でいらっしゃる若林正博氏は「伏見学」を標榜される研究者の方でございます。そのテリトリーは近世に限ることなく広い裾野を有しており、「伏見」と周辺部が有する歴史的な意味を明らかにし、長い歴史の中に「伏見」と周辺という「場」を位置付けるべく、精力的な研究を進めていらっしゃるようです。しかも、“象牙の塔”に閉じ籠もるような研究者にはあらず、その成果を広く共有すべく、市民の方々を巻き込んだ現地ワークショップ等々も熱心に推進されていらっしゃるなど、実にフットワークの軽い活動にもされていらっしゃるようです。論より証拠、昨年度の初夏の頃でしたでしょうか、本館の受付から「館長に若林さんという方がお尋ねになっていらっしゃいます」との連絡が入りました。小生の身近で本館に訪問される“若林”さんは唯の一人も思い当たりません。「もしかして……」との思いで受付に出向いたところ、何と!!「歴彩館の若林です」と仰る、如何にもノーブルな雰囲気を全身から発する方が目の前にいらっしゃるではありませんか。初対面にも関わらず何処かで出会ったような親しみさえ感じさせられる先生でございました。その際のお話しによれば、先生は小生の雑文をお読み下さり、東京での会議後に谷津海岸に残る「読売巨人軍発祥地」碑文取材のために習志野市を訪問された序でに、本館にも脚を運んでくださったとのことでございました。何でも、その昔(?)伏見にもプロ野球球団招聘の機運があったそうで、その関連での調査とのことでございました。その後ネットで調べてみましたが該当する記事は発見できませんでしたが、ネットにある先生のお姿の中には野球ユニフォームを着用されるものもありましたので、根っからの野球好きでいらっしゃることは間違いないものと思われます。こんなことからも、先生の「伏見学」の守備範囲の広さを御実感いただけましょうか。そして、この3月に本館に御寄贈いただいた『京都学・歴彩館紀要』第7号を拝見いたしましたところ、今年も若林先生の論文が巻頭を飾っておりました。題して「尾張・徳川義直と紀伊・徳川頼宜の伏見滞在-慶長から寛永にかけて-」でございます。一読、新たな知見ばかりに目を開かされ、徳川政権黎明期の伏見の有り様に一段と興味を惹かれた次第でございます。その概要につきましては最後に御紹介をさせていただくこととし、今回の本稿では、そもそも伏見城を最初に築いて政権の本拠とし、伏見の都市整備を進めた、豊臣(羽柴)政権に遡ってみようと存じます。
さて、豊臣(羽柴)秀吉が何処を本拠としていたかと問われれば、おそらく十中八九「大坂城」との返答が帰ってくるものと思われます。確かに、秀吉が大坂本願寺の跡地に大坂城を造営するのは天正11年(1583)であり、慶長20年(1615)に「大坂夏の陣」で落城するときには、その子秀頼が在城していたわけですから、その解答は正しいと申してよろしいでしょう。秀吉は、織田信雄・徳川家康連合軍との「小牧・長久手の戦い」を経て、天正14年(1586)に結果的に家康を臣従させることに成功します。その間、天正13年(1585)「関白」への任官、翌年には正親町天皇から「豊臣」の賜姓を経て年末に太政大臣に就任し、ここに豊臣政権を確立することしました。この間の本拠地が大坂にあったことは確かでございます。しかし、慶長3年(1598)秀吉が最期を迎えたのは他ならぬ「伏見城」であったことは、意外に知られていないのではありますまいか。そのことからも明々白々のように、その本拠は必ずしも一つに限ることができないのも事実でございましょう。ところで、余計なお世話かもしれませんが、「豊臣」は飽くまでも天皇から下賜された“姓”に他なりませんから、「とよとみ の ひでよし」と称するのが正しいと思われます。また、“名字”がそれ以降に変更された形跡はございませんから、その名字は「羽柴」とするのが当然でございます。従って、教科書記述で「豊臣秀吉」とするのであれば、家康は「源家康」と記述するのが正確でありましょうし、逆に「徳川家康」を活かすのであれば「羽柴秀吉」と記述としないと釣り合いがとれないことになります。せめて「豊臣(羽柴)」と記載するのが宜しかろうと存じますが如何でしょうか。以下では、秀吉が関白に任官された後に京都に築いた本拠について述べ、後編では肝心要の「伏見」について述べてみたいと存じます。
秀吉は、朝廷の官職である「関白」任官後の天正15(1587)、平安京大内裏の跡地(「内野」)に、豊臣氏の本邸とすべく「聚楽第」を造営し、翌年には後陽成天皇を迎えて饗応をしております。更に、天正19年からは、当時の都市「京都」を土塁と堀とで囲繞する全長22.5㎞にも及ぶ「御土居」構築を始めております。このことは、(諸説ございますが)聚楽第の城下町として、都市京都を再構築する目的が大きかったと考えられましょう。聚楽第が、新たに構築された御土居の範囲の中心に据えられる構造となっていることからも、そのことが判明致します。また、その立地は信長が将軍足利義昭のために構築した二条城と同様、当時の洛中における二つの都市的な場である「上京」と「下京」の中間点にあたり、両者に睨みを利かすことのできる立地でもあったのです。併せて、秀吉は平安京の方形地割が既に崩壊していた下京を中心に、再度方形区画の町割りを実施しており(「天正地割」)、寺院を洛中東端にあたる鴨川右岸(西岸)の「京極通」に移転させ、鴨川に沿う形で長く南北に配置したり(現在に地名に名残を留める「京極寺町」)、上京等に散在していた公家屋敷を、天皇の居住する「御所」周辺に集め、恰も城下町を形成するかのように「公家町」を形成することもしております(現在に残る「京都御所」周辺の「京都御苑」は明治に至るまで五摂家をはじめとする公家屋敷が櫛比する場所であったのです)。つまり、今に残る京都の姿とは、平安京の遺産と言うより秀吉による改造の遺産と言ってもよろしいものなのです。つまり、この時期における豊臣政権の本拠とは「京都」であると申しても決して言い過ぎとはなりますまい。後に、聚楽第は後継の関白となった甥秀次に譲られますが、文禄4年(1593)秀次謀反の嫌疑による粛正によって、聚楽第は徹底的に破却されることとなったため、政権の中核としての位置づけは短いものとなりました(未だに聚楽第の正確な構造は明確ではありません)。しかし、慶長2年(1597)に、京都における新たな豊臣政権の拠点として、御所に程近い地に「京都新城」造営が行われております。秀吉は完成した本城に定住することなく翌年伏見城に没し、子の秀頼も秀吉の遺命によって伏見城から大坂城に移りますから、京都新城が政権の本拠となることはありませんでした。長くその場所は明確ではありませんでしたが、近年京都御苑内の発掘調査により石垣遺構が発見されたことで、これを京都新城に比定する説が有力になっているようです。
さて、前編はここまでとさせていただきます。後編では、豊臣政権にとって伏見の地に本拠を構える意味が奈辺にあったのか、また伏見城下の整備の在り方について追ってみたいと存じます。その際に全面的に参考にさせて頂いたのが、歴史地理学を専門とされた足利健亮氏の『地理から見た 信長・秀吉・家康の戦略』2000年(創元社)でございます。本書は若林先生の論考に出会うずっと前に読んでいたものでありましたが、その刺激的なご指摘は長く忘れることなく頭に残っておりました。後編では最初に、伏見の地とは如何なる地理的条件を有し、秀吉の築城に至るまでの歴史を有していた地なのかを簡単に押さえたいと存じます。また、本稿では、若林先生が京都南部に位置する伏見の地を周辺にまで広くとって考えていらっしゃる顰に倣い、現在の伏見の地番を有する地よりも広く本地域を捕らえて考えてみたいと存じております。
(後編に続く)
現在の「伏見」中心街は京都駅から南に下って6㎞ほどの場所、京都駅より近鉄線でモノの10分程の場所にございます。現在は京都市伏見区に属しており、今では京都市内の一衛生都市的な趣の地でございましょう。その南東には平等院鳳凰堂のある宇治市が隣接する位置関係にもございます。こうした伏見という場の理解には、現在は埋立によってすっかり消滅してしまった「巨椋池(おぐらいけ)」が南に存在したことを抜きにすることはできません。巨椋池は、本来であるならば「湖」とも称すべき巨大な内水面を有しており、伏見はその巨椋池に南面する場に立地していたのです。巨椋池の存在していた場は京都盆地の中で最も標高の低い場であり、ここには琵琶湖から流出する唯一の河川である宇治川が東から流れ込み、当該低地の西部は北の京都方面から南流してくる鴨川・桂川水系と、南の奈良方面から流れ込む木津川とが合流する場所でもあることから、それぞれ豊富な水量を有する3水系合流域に、今残っていれば国内最大面積を誇る一大遊水池が形成されたのです。これが巨椋池の正体に他なりません。そして、これら3河川がここから一本の河川となって南西に流れ下り、大阪(明治より前は「大坂」)で海に注ぐことになります。この河川が「淀川」でございます。つまり、当該地域は(南東の宇治の地も含め)、平安時代末には平安京南の郊外に広がる、水に恵まれた風光明媚な地として認識されていたものと思われます。実際に、この地域には貴族の別業(別荘地)が多く営まれておるようです。白河上皇による壮大なる鳥羽離宮の造営等もこうした風潮と気脈を通じたものでございましょう。
しかし、同時に、古代から中世を通じて、平安京と南都(旧平城京)との中間部に存在する内水面は、3水系の結節地であり、更には淀川を通じて海へと直結するわけであり、経済面において極めて大きな要衝性を秘めた地として有効に利用されて参ったものでもございましょう。ここで、鎌倉初期における具体的な動きをご紹介いたしましょう。世に言う「源平の争乱」の際、平重衡によって焼き払われた南都の再興に力を尽くしたのが重源であります。その再建に向けての苦労は並大抵のことではございませんでした。取り分け巨大な東大寺「大仏殿」を再建する良材の確保は困難を極めたのです。最早近隣からは不可能であり、結果として周防国(現在の山口県瀬戸内側)から切り出された巨木を利用したことはよく知られておりましょう。周防から遥か遠方にある内陸部の奈良に、斯様なる巨木を如何に運搬したのでしょうか。巨木は筏に汲まれて瀬戸内海を東に運ばれ、難波の地からは淀川を遡って巨椋池の手前で木津川入って更に河川を遡り、正に名は体を表す「木津」(現:奈良県木津川市))まで送られ陸揚げされたのです。ここまで来れば奈良までは陸路で10㎞程です。こうして遠距離を運ばれた巨木が無事に大仏殿の再建に用いられたのです。ここまで記せば、巨椋池周辺の伏見という地の要衝性が際だって参りましょう。京と奈良、更に宇治川を通して近江(琵琶湖)方面へも水運で繋がることを可能とし、更に下れば難波津から海を通じてその先へと連なっていくことができるのです。巨椋池の存在と池に南面する伏見の地が、どれほど重要な地勢かがここでも明らかとなりましょう。
また、伏見は、京都東山から南へと連なる丘陵の最南端に位置しております(以後は「東山丘陵」と記させていただきます)。つまり、巨椋池で東山丘陵が尽き、その麓を巨椋池の水面が洗っている地形的条件にあります。小生は伏見には何度か脚を運んだことはあるものの、その地形に着目して当地を観察していたわけではありませんから、飽くまでも拙い地形図の読み取りから想像して記述しております。従って、相当な勘違いがありえましょう。また、以下の陸路の有り様も含め、現地の空間認識も今一つ明瞭ではございませんから、重大な誤謬を犯している可能性もございます(現地の方々にご指摘を頂けますと幸甚でございます)。それに致しましても、こうした地勢を有する地を本拠にすれば、巨椋池の前方に南方の地が遥かに見渡すことのできる防衛拠点となりうること、水上流通の管理の面でも卓越する地であることは確実です。晩年の秀吉がこの地に眼を付けたのは慧眼以外の何者でもございません。
しかし、伏見の地には弱点がありました。それが京都と南都とを結ぶ陸路が伏見の地を通過せず素通りすることでありました。何故ならば、伏見の地は南に広大な巨椋池が存在していたからです。ここでは巨椋池は陸上の通行を阻む存在として立ちはだかったのです。伏見では東山丘陵が巨椋池に突き出すようになっており、道路を巨椋池の北岸に整備するにも狭隘であり、しかも伏見から南東の宇治へと向かう先は、東から巨椋池に注ぎ込む宇治川の最下流部に当たり、流路が大きく3筋に分流する乱流域であって、伏見から宇治へと直行する道路の安定的な維持が難しい状況にあったものと想像されます。従って、古代以来の所謂「大和(奈良)街道」は、奈良から北上してきた場合、木津で木津川を渡って、途中から宇治川の左岸を進んだ後に宇治の地に至ってからは、急流で知られる宇治川に架橋された「宇治橋」で渡河して右岸に至り、そこから北上して木幡と六地蔵を経て、東山丘陵の東側を北上する経路をとっていたのです。つまり、東山丘陵の西側にあたる伏見の地を経るルートでは無かったことになります。例え、城郭を構える最適な機能を有する地勢であっても、また水上交通の面で重要な機能を果たす立地であっても、その地が水上交通と陸上交通の結節点とならなければ、その地は重要な経済的拠点とはなり得ません。防衛拠点としてポツネンと城だけがあればよいのならばそれでもよいのかも知れませんが、その場が都市としての機能を十全に果たし得ないことは明らかです。秀吉がかようなことを放置する筈がありません。そうした課題に秀吉がとった対策は、実に大胆かつ目を見張るべき驚くべきものでございました。
秀吉は、天正19年(1591)関白と聚楽第を甥の秀次に譲った後、隠居のために伏見に屋敷を構えております。ただその時点で秀吉が伏見にどれだけの重要性を見出していたのかは解りません。何故ならば、その屋敷の立地は伝統的な伏見の属性である“風雅の地”としての意味合いから選ばれているように思われ、「観月の名所」として知られる伏見の“指月”の地に造営されました。ただ、どうやら、京都の聚楽第周辺から多くの町人をこの地に移住させているようですから、都市的な機能を持たせる志向も有していたようです。この隠居屋敷は文禄2年(1593)には完成をみたようで、徳川家康等との茶会がもたれております。しかし、同年に後継者である捨丸(秀頼)が生まれると、大坂を捨丸に与えることを想定し、隠居屋敷を本格的な拠点城郭に改修することを決め、更にその膝下に城下町を築いて経済的な拠点とすべく手を打ち始めるのです。まず、翌文禄3年(1594)から南東に大規模な「槙島堤」を構築し、宇治川の流路を宇治橋の下流から北へ変え、東山丘陵南端膝下にまでを流し下し、伏見城下で巨椋池に注ぎ込む形状に改めております。そして、伏見城下に「伏見湊」を構築し巨椋池を利用した水運の拠点とするのです。そのことは、これまでの宇治川流路に存在した地域の重要な水運拠点として機能した「岡屋津」の機能を無効にすることに繋がったのです。要するに岡屋津の機能を伏見湊へと吸収したことになりました。
更に、懸案の南都から京都へと向かう「大和街道」の経路を伏見城下へと導くための手が打たれます。宇治川の流路が変更されたことで、これまで宇治川が巨椋池に注いでいた乱流地の利用が可能となったことで、ここに大々的な土木工事を加え「小倉堤」を構築するのです。本堤は巨椋池中に延々と大規模な土手を築いたもので、先の槙島堤と伏見城の膝下で連結し、その合流点に流れ下るように改造した宇治川に「豊後橋」を架橋、伏見城下に陸路を導いたのです。つまり、この小倉堤とは土手であると同時に、堤上は大和街道の新たな経路であることになります。その堤の長さは概ね4㎞に及び、その間の道路は左右に巨椋池の水面が広がる中を歩む一本道となります。他にも幾つもの堤を当該地域の構築しており、これらを総称して「太閤堤」と称します。こうなると、旧来の大和街道が宇治橋を渡って伏見城下を迂回してしまうことを防止しなければなりません。足利健亮氏は史料群を博捜し、この時に秀吉がこの宇治橋を撤去した証拠を見出されました。こうすることで、京都と奈良を行き来する場合は嫌が負うにも伏見を通過せざるを得なくなります。こうして、秀吉は伏見を一大流通拠点とする条件を整えることになったのです。足利氏は、河川の乱流地域に囲い込むように堤を造営する対応に、秀吉の故郷である地で盛んに造営された「輪中」の発想を想定されておられます。因みに、宇治橋を破却しても何らかの手段で対岸に渡ることは可能だろうと考える向きがございましょう。しかし、宇治川の流れは、「浼浼横流 其疾如箭(べんべんたるおうりゅう そのはやきことやのごとく……」と書き起こされる、今に伝わる最古級の石碑「宇治橋断碑」に記されるように急流で知られます。その碑文にあるように歩行渡りが危険であるだけではなく、渡船での渡河も難しい地でしたから、“源平の争乱”や“承久の乱”の際にも、この宇治川を巡る両勢力の攻防で様々な物語が生まれることになったのです。要するに、宇治橋破却は必然的に伏見城下を奈良と京都に直結させることになりました。その「宇治橋断碑」大意を大西廣氏による現代文翻訳でご紹介させていただきましょう。
「勢い盛んに、あふれるような川の流れ、速さは矢のようだ。往き来する旅人たちは、馬を停めて、群がり集う。あえて深みを渡ろうとしても、人馬もろとも命を失うことになろう。昔から今にいたるまで、舟でこの川を渡った人はだれもいない。あるとき、一人の僧がいた。その名を道登という。山城の生まれで、恵満の家の者であった。大化二年、丙午の歳。この宇治橋を造立し、人や動物を渡した。いささかばかりの善行ではあるが、大いなる願いをかけたのである。この橋をつくって、衆生を彼岸(浄土)に渡そうと。全宇宙の生きとし生けるものよ、この大願に心を合わせられよ。夢の中、現し世の空の中を、苦しみを超えて導きゆかれんために。」
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ここでは、「慶長伏見大地震」による指月伏見城の大破と、あらたな木幡山伏見城への移転等、伏見城の変遷について触れることはせず、以下に伏見城下町が如何に構築されたかを足利健亮氏の書物に基づいて触れてみたいと存じます。伏見城は東山丘陵南端に西側を正面にして構築されましたから、城の正門である大手門は西を向いており、その西側に広がる丘陵裾野の小高い地に大名屋敷を、更に西の低地に町屋を、それぞれ配置するかたちで城下町構成がなされました。ここで注目すべき事が、その町屋が、伏見城に対して直行する形をとらず、横向き……つまり南北に走る大和街道に面して町場が形成されていたことです。足利氏は、こうした城下町構造の在り方を「ヨコ町」型(逆に直行するのを「タテ町」型)とされ、江戸時代になると一般化する「ヨコ町」型の城下町を、初めて意図的に構造したのが秀吉であることをご指摘されます。逆に言えば、これまで秀吉が本拠として構築した城下町は基本的に「タテ町」型であったことになります。そのことは、伏見城の場合、大手門から西に向かう「城」にとってのメインストリートが「大手筋」と呼称されることからも、それが秀吉によって意図されていたことを証明致します。本来「筋」とは「路地・横町」的な道路の呼称であり、主要な道は「通り」とすることが普通であるからです。確かに城下町では「大手通」と呼称される商店街が櫛比する繁華な町を目にします。ところが伏見城下では城の正門前の道が「筋」であるのです。この辺りに秀吉の伏見城を含めた伏見城下構築の構想が透けて参りましょう。伏見は飽くまでも商業都市としての経済的一大拠点とすることを意図して構築された都市であり、そのためには、物言いとしては少々大袈裟には聞こえましょうが、秀吉居城である伏見城でさえ副次的な位置づけにあったということになります。
以上が、巨椋池を含む京都府南部における秀吉の地域構想であります。個人的には秀吉という統治者の在り方には共感できないことが多いのですが、統治政策の発想の卓抜さと実行力は図抜けたものであると改めて思わされます。こうして新たなる再編を経て成立した“シン伏見”であるからこそ、その実質的な後継政権となる徳川幕府もまた、その黎明期において伏見を重視したのは至極当然のことと理解できます。ただし、その後の徳川家光期になって伏見城が廃され、その機能が淀城に、そして最終的には京都(経済的には大坂なのかもしれませんが)に吸収され収斂していく過程とは如何なる意味を有するのかが検討されなければなりますまい。勿論、その後も伏見には遠国奉行の「伏見奉行所」が置かれて幕府直轄の統治を受けるなど重視されており、城が廃された後にも、近世を通じて酒造業をはじめとする商工業の中核として都市伏見が機能していたことは申すまでもございません。ただ、徳川幕府にとって当該地域の位置づけが低下していったことは否めない事実ではありますまいか。若林先生は、最初に伏見奉行となった小堀遠州の施策に注目をされ、伏見城が廃された後の伏見とその周辺に対する徳川幕府の施策の在り方の検討をされることを目論んでいらっしゃるようですので、その解明に大いなる期待が高まります。
最後に、前編でも予告させていただきました、今回の若林先生の論考についての概略を紹介させて頂き本稿を〆たいと存じます。本論考は、御自身が「おわりに」でお書きになっていらっしゃるように、昨年度の論考の延長線上に位置付く内容であり「徳川将軍家、尾張徳川家、紀伊徳川家と伏見のかかわりについて探ること」を主題とされ、同時に当該時期の伏見について理解するために見落とされていた史料を発掘されることを通じて、「元和から寛永にかけての地域史の補強を目指した」と、その意図を書き記されていらっしゃいます。本論考を通じて、家康最晩年の子である義直と頼宜が驚く程に家康と密着した養育を受け、更に父が2人の子息と伴に行動し(最末子で頼宜と同母である後の水戸藩主頼房は2人ほどには密接ではないのは不思議でありますが)、屡々伏見にも随行していたこと、家康没後にも秀忠・家光に従って2人が畿内に入ることが多く、伏見城が廃された後には伏見に新たな屋敷地がそれぞれ「尾張藩伏見屋敷」・「紀伊藩伏見屋敷」として宛がわれるなど、徳川幕府黎明期にこの地が重要な位置を占めていたこと、四代家綱以降に将軍の上洛が絶えることで両藩でも伏見藩邸の役割が低下し、御殿等は廃絶するものの両藩にとって一定の機能を有して近世を通じて維持されていたこと、更に近代に入っても伏見の都市としての発展にその跡地が関わり、現在も町の中核を成していること等が論じられております。また、加えて伏見城廃城後に上洛時に将軍家光が淀城を利用し、京都からの使節を迎えるなど上方における中核城郭として機能していたことも紹介されております。家康・秀忠の後の寛永年間においても、伏見・淀地域が徳川家に留まらず、御家門の二家にとっても深い関わりを有する地であったことは初めて知ることであり、驚かされた次第でございました。徳川黎明期における伏見の位置づけに関しては、更に考察を加える必要があると深く考えさせられる、極めて貴重な論考でございました。是非とも、昨年度の論考と併せてお読みいただくことをお薦めさせていただきたいと存じます。併せて、併せて足利健亮『地理から見た 信長・秀吉・家康の戦略』2000年(創元社)もご一読されては如何でしょうか。
本稿を執筆しているのは卯月四月の半ばに至ろうとする頃となりますが、この亥鼻山の桜花は流石に盛りを越えたものの、未だ捨てたものではない様子を留めております。この頃には、風に舞う花びらがことのほかに美しい頃でもございます。しかし、盛りを過ぎてからというもの、この亥鼻山はすっかり閑散としております。去り行く今年の花の季節をしみじみと味わいたいのならば、今を逃す手はございません。どうぞお出でくださいませ。散りゆく花の姿は、ことのほかに“もののあはれ”へと、我々の想いを誘います。“紋切り型”と揶揄もされましょうが、実際に斯様な気持ちとなるのですから致し方がございません。日本に生まれた人々の片隅に、こうした心情を惹起させる遺伝子が組み込まれているのでございましょう。冒頭歌二首は、そうした思いを取り分けて昇華させた作品でございます。例によって例の塚本邦雄のアンソロジーからの引用でございます。以下の塚本氏による短評ともどもお味わいくださいますように。因みに、良経につきましてはこれまで何度となく述べてまいりましたが、後二條天皇(1285~1308年)について触れたことはございませんでしたので、ほんの少しばかり御紹介を。鎌倉時代後期、所謂「両統迭立」時代の大覚寺統の天皇であり(在位:1301~1308年)、後宇多天皇の第一皇子となります(後醍醐天皇の異母兄)。以下で塚本氏も触れているように、その在位中に父の院宣によって編纂された勅撰集和歌集が『新後撰集』であります。勿論、これは単に風雅の道を探求する以上に、持明院統に対して大覚寺統の正当性を誇示することを目的とした、優れて政治的行為に他ならなかったことは申すまでもございません。まぁ、かようなお堅いことは一先ず脇にどけても、散りゆく花を静かに味わうことのできる、佳い時節に移ったことを心の底から慶びたいと存じます。
珠玉の家集として聞こえる秋篠月清集巻頭の百首歌の、殊に心に沁む落花の賦。世を憂きものと観じるのは常道ながら、下句に醒めきつた、冷やかな眼はどうであらう。建久元年二十一歳の秋、天才良経は水面に虚無の映るのを視てゐた。「明方の 深山の春の 風さびて 心砕けと 散る櫻かな」の斬新鮮麗な修辞に、新古今時代の曙光をありありと見る。 夢に散る花は古今集の躬恆に、庭に散る花は新古今集の定家に代表され、かつよみ盡された。「心と庭に散る」櫻花を、半眼を開きかつ閉ぢて視る作者の詩魂。訪れる人の足音は無論、微風さへはたとやんだ白晝のその静寂に、うつつと幻の二様の櫻は散りしきる。崩御十四世紀の初頭二十三歳、その短い生涯の御製は新後撰集以後に入撰百餘首。
[塚本邦雄撰『清唱千首』1983年(冨山房百科文庫35)より引用] |
さて、如月二月末頃の本稿で、学生時代のサークル「古美術愛好会」仲間と五輪開催年に行っている「同窓旅行」について述べ、その二月半ばにはコロナ禍で延期となっていた、実に八年振りとなる「西播磨」への旅に出かけたことに触れております。そして、今回の旅についても何れ頃合いを見て述べさせていただきたいとも。斯様な次第で、他人の旅の記録など然したる関心事ではございませんでしょうが、もしかしたら“歴史好き”の皆様の心に多少なりとも刺さる部分もあろうかと思い、大きなお世話と揶揄されることを覚悟で以下に書き記させていただければと存じます。どうぞ、御気楽にお付き合いを頂ければ幸いです。今回の同窓旅行は二月中旬の土日に組まれ、初日は姫路駅に集合、二日間に亘ってレンタカーで西播磨の古寺を巡り、翌日夕刻には新神戸駅で解散という日程でございました。そして、一夜の宿りは、古代から明治に至るまでを通じて、瀬戸内海航路の重要湊として機能し続けた「室津(むろつ)」に致すことにしました。ただ、「長野組」は早朝出発でも姫路に到着可能な時刻は11時となりますから、左程に余裕のある日程ではありません。そこで、何時ものごとく時間の都合のつく3人は姫路に前入りしてコース外の見学をすることになったのであります。姫路まで来て何をやっているんだと指弾されそうですが、正規コースには姫路城は含まれておりません。それ以上の優先すべき見学場所があるからでございます。如何せん、初日は実質的に午後しか見学時間が取れず、しかも冬季の夜長で早々に日が暮れますから、明るいうちに室津に入らねばならないとなれば、必然的に姫路城はパスとせざるを得ないのです。そこまで訪れるべき場所、それが「書写山圓教寺」に他なりません。まぁ、そのことについては何れとして、斯様な訳で前泊組はコース外「姫路城」を見ておこうとの算段となりました。
実は、小生が姫路城を訪れるのは二度目でございましたが、実質的には今回が初めてというのが正確です。全くの余談ではございますが、その訳は以下の通りであります。最初の訪問は20歳にすらなっていない学生時代と記憶しております。何より、姫路は目的地ではなく、同級仲間3人での四国一周旅行の途中、ひょんな切っ掛けで立ち寄ることになったのでした。如何せん手元不如意でありますから、鈍行列車乗り継ぎの旅でした。東京からは恒例の大垣行夜行に乗車、大垣で西明石行に乗り換えて更に西へと向かいました。マトモな睡眠はとれずに西明石に到着した時には相当にぐったりです。如何せん今から半世紀近くも前のことですから「本四架橋」などは夢の亦夢の時代。四国へは今は無き「宇高連絡船」に乗船するしかありません。終点の西明石から岡山まで移動し、更に宇野線に乗り換えて終点の玉野まで至る必要がありました。当日は、同行の一人の御実家(愛媛県の丹生川)にお世話になる予定でしたから、遅くない時間に到着する必要があったのです(四国に至れば「四国周遊券」で急行列車は利用可能)。それまでは安くあげるためには鈍行列車利用が原則です。つまり時間的な余裕があるはずもございません。ところが、時刻表と睨めっこしたところ、どこをどう節約しても、玉野で宇高連絡船に乗るには小一時間ほどの時間的空白が生じることを発見。その時、三人が下した無謀なる思い付きが、姫路で途中下車し姫路城を見に行くというものでありました。今思えば、「若さ」とは実に美しくも愚かなものであります。路銀も些少なのに時間節約のために姫路駅から大手門まではタクシーで直行し、時計との睨めっ子の強行軍でございました。天守の天辺まで駆けるように登って、眺望を楽しむ間もなく降り下って、帰りは姫路駅まで走って予定の鈍行列車に飛び乗るという、恰も運動会のような行動でした。従って「姫路城を見た」などとは冗談でも言えるような状況にはなかったからであります。更に、姫路城の記憶を全消去する様な出来事があったのでした。その際に利用したタクシーの運転手は、30歳がらみの到って柄の悪そうなチンピラ風の御仁でした。その人物が信号で停車して、やにわに振り向き後部座席中央に座った小生の顔をシミジミと眺めてこう言ったのです。「兄ちゃん、スケベそうな顔してんなぁ」と。まぁ、その感想を全否定する自信はございませんでしたが、選りによって初対面の人物に斯様に断じられたことに唖然として、声を出すことも叶わぬほどに気も動転いたしました。お笑い芸人の東西交流が日常となった今とは異なり、関東と関西の文化交流もほとんどない時代でしたから、関西人の気質など知りようもありませんでした。今同じことが起これば「いや、バレちゃいましたか!?でも、運転手さんほどじゃありませんよ……」とでも返してその場を納めるでしょう。しかし、20歳前の純な(!?)関東人としてはその言葉を真っすぐに受け止めるしかありませんでした。その結果、小生の姫路の第一印象は、その“運ちゃん”の強烈な一言と分かちがたく結びついております。姫路城の記憶などすっかり霞んでしまったのもご理解いただけましょうか。
斯様な想いを心の奥底に秘めて半世紀ぶりに足を踏み入れた姫路。駅と駅前の様子はすっかりと様変わりをしておりましたが、姫路駅から姫路城まで貫くメインルートの真正面に国宝大天守を眺む風景は昔の儘でした。当夜宿泊するビジネスホテルに荷物を預けてから、中華料理「東来春(トンライシュン)」で名物シュウマイを頂き、まずは街を散策しながらお城をめざしました。何よりも感銘をうけたのは、街中にアーケードが縦横無尽に張り巡らされており、何れの通りも地元の方々で賑わいを見せる商店街であることでした。昨今、地方都市を巡ると何処でも目にする「シャッター通り」とは全く無縁の、ここまで昭和の賑わいを感じさせる街に出会ったのは本当に久しぶりで、色とりどりの店舗が延々と連なる街のありように心底嬉しくなりました。小生の考える「古書店と和菓子屋が健在の町は教養ある文化都市」を絵に描いたように体現する街が、ここには脈々と息づいておりました(呉服屋が多いことも和服文化が根付いている証拠でしょう)。ここには創業元禄年間、和菓子司「いせや本店」の銘菓「玉椿」もございます。見て美しく口にして幸福(口福かな?)を伝える和菓子の存在は、流石「酒井雅樂頭家」の伝統を今に伝える城下町を思わせます。学生時代のわだかまりなど一気に雲散霧消のファースト(セカンド?)コンタクトとなりました。それにいたしましても、姫路の中心街は明治以降に姫路城址に設営された「陸軍第10師団」の存在もあって、太平洋戦争末期に大規模な空襲を受けております。そのため中心市街地はすっかり焼け野原となりましたから、城下町の面影はほとんど残りませんが、望ましい戦後復興を遂げてきたのだと思われます。まぁ、その中で姫路城がほとんど被害を受けなかったことは天の配材というほかはございません。尤も、大天守も焼夷弾の直撃を受けているそうですが、これまた奇跡的に不発弾であったとのことであります。皆様もよくご存じの通り、近世にまで遡ることのできる現存天守建築はたったの12に過ぎません。記憶の限りですのでもっと多いかもしれませんが、東から西へ追っていくと水戸城(御三階)、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、備後福山城、広島城は先の大戦までは残存しておりました。しかし、何れも空襲で焼失してしまったのです(最後の広島城天守は原爆ドームの近くにありましたから言わずもがなでございます)。大規模空襲に遭遇した大都市部で、姫路城だけがほぼ無傷で残ったことは、正に奇跡であったことが御理解いただけましょう。
現在の姫路市の人口は、兵庫県内では神戸市に次ぐ二番目となる50万人強を有する大都市であり(西宮市や尼崎市よりも多い)、工業生産額においても県下二位を誇っております。戦前から臨海部に日本製鉄等の製鉄業が発展しておりましたし(これも空襲の対象となった背景でもございましょう)、戦後も多くの工業が臨海部を中心に進出しており、想像以上の一大工業都市でもあるのです。姫路市街地の賑わいには、こうした地元で盛んな第二次産業の存在は大きいものだと想像できます。また、歴史的にみれば、姫路の中心地は古代に「国府」の置かれた地でありましたから、姫路城造営の遥か昔から播磨国の中心地でもあったことになります。そのことは、今も姫路城下に「播磨国総社(射楯兵主神社)」存在することからも明らかです。本社にも寄ってみましたが、空襲での焼失を経ており現在は新しい社殿となっております。61年毎に挙行される「一ツ山祭」、その間の21年毎に行われる「三ツ山祭」は、戦国期から今日まで伝わる祭りだそうで、総社がその時代からは土地の住民から尊崇を集めていたことが知れるといいます。今回は時間的な都合で立ち寄ることは叶いませんでしたが、播磨国分寺の遺構も姫路東の御着駅近くにございます。
さて、前入りした目的地である姫路城も、今回はゆっくりと見て回ることができました。世界遺産にも登録される国内有数の城郭遺構であり、残された建築の多くが国宝・国重要文化財に指定されておりますから、見どころは山のようにあります。その全貌を見て回るのは一日あっても不可能でございます。しかし、そこは「古美愛魂」で、能う限り貪欲に城跡を経めぐり廻りました。勿論、前回は叶わなかった、天守最上階からの光景も堪能できました。幸い好天に恵まれ、海からの心地よい風を浴びながら、遠く播磨灘に浮かぶ淡路島と小豆島まで一望することができました。観光客でごった返しており、とても泉鏡花の手になる戯曲『天守物語』の幻想を思い描く雰囲気にはなれませんでしたが、こちらも、半世紀前の積年の遺恨(!?)を忘れさせるに充分でございました。また、方角は異なりますが、明日参詣する城の北西にあたる書写山の姿も確認できたのも幸いでした。勿論、天守からの眺望は、この城の立地が現実的に如何に要衝を占めていたかを実感させるに充分でありました。また、天守群の建つ備前丸(本丸)に至るまでの、微に入り細をうがったような防衛の手練手管には驚き呆れるほどでございました。それも、これだけ遺構が残っていてこそ実感できるのだと改めて実感できたことは何にも代えがたい体験となりました。近世城郭の在り方を理解するためには姫路城を体感することが必要でしょう。ただ、姫路城に関する案内書は掃いて捨てるほどにございますし、特に備前丸や千姫所縁の西の丸の城郭中心地について、小生などがここで屋上屋を架すこともありますまい。それよりも、我々は殆ど方々が足を運ばれることがない、城の西から北にかけての外郭を歩いて回りました。天守群に登っただけで姫路城を観たと思って帰るのは余りにももったいないと存じます。大きなお世話かとは存じますが、せっかく遺構が残る城の全体像に是非ともアプローチされることをお薦めいたします。極一般的に、私達は姫路城を姫路駅の方角、つまり南から眺めることが多い訳ですが、その中心である天守群を東西北の方位からも眺めてみると、別の姿が浮かび上がって来ると思います。是非ともそのことを知っていただきたく、少しばかりご紹介をさせていただこうと存じます。
姫路城は、三重に巡る掘割を有した近世城郭であり、通常我々が姫路城として認識しているのは、そのうちの最も内側にある「内堀」内にすぎません。即ち、我々が姫路城にアプローチする正門である「桜門跡」より内部に当たる区域でございます。その桜門から有料区域となる「菱の門」までですら相当な距離がございます。その左右が「三の丸」であり、ここに城主居館と行政機関としての「三の丸御殿」と「向屋敷」があり、本多氏の時代には忠刻に再嫁した千姫の居住屋敷「武蔵野御殿」も桜門近くにございました。つまり内郭ですら途轍もない広大さであります。尤も、外側にある「外堀」の最南端は現在のJR姫路駅の辺りとなりますから、その城域は、ただでさえ広大な内郭の10倍でもきかない程の面積を有します。どれほど巨大な城郭であったかが知れましょう。ただ、その南部の外堀は明治以降にその全てが破却され埋め立てられており、地表上には遺構が残りません。従って、今回経めぐり廻った外廓とは、実際には両者の中間に巡らされた「中堀」ということになります。その中堀ですら、南側の多くは既に埋められて道路と化しております。しかし、城郭時代の虎口であった門跡の石垣等は残っており、往時を偲ぶことができます。未だに水を湛える中堀の姿を見ることができるのが、城域の西と北と東になります。今回は、城下を西へ抜ける「西国街道(山陽道)」虎口でもある「車門」跡から時計回りで巡ることにしました。
まず、「車門」跡の防衛ですが、桝形門の中に更にもう一つ桝形が構築された「二重桝形」という極めて防御性の高い構造となっていることに注目です。そこから更に中堀を北へ進むと、右手から迫る内堀と左手から迫る中堀の間は限りなく接近し、その地点で北の曲輪に侵入する経路を遮断する「南勢隠門」に行きつきます。この門は、二つの掘に挟まれた狭隘な地に枡形門を築いて、内堀の西と北にあたる曲輪である「勢隠」への敵侵入をシャットアウトする機能を有しております。しかも、中堀の外には「外堀(船場川)」が中堀と極々至近に並行するように築かれており、両者の間は「帯廓」といってもよいほどの狭さで土塁が築かれております。更にこの南勢隠門を通り抜けると、右手の内堀の対岸は自然の岩肌が延々とそそり立ちます。ここは自然地形の姫山・鷺山であり、小高い両山上に天守の建つ「備前丸(本丸)」と「西の丸」が築かれているのです。姫路城の縄張図をみると、天守群北の内堀はその幅も狭く、余りにも天守からの直線距離も短いものであり、こんな狭さで防衛可能か一見して不思議に思われるほどです。しかし、実際にみれば、天守群の北側は自然地形をそのまま活用した急峻な岩肌を有する斜面であり、到底大軍でここを上ることは不可能であると理解できます。しかし、個々の兵が偲び込むことは可能かもしれません。それを防止するために、この「勢隠」廓の直北に総石垣で構築された立派な内堀が延々と内郭を取り囲みます。その壮大な姿に実に驚かされました。しかし、一点、城の北側は天守群と比高差での防衛には優れますが、内堀・中堀との距離はとれてはおらず、大筒での攻撃には一たまりもございますまい。そのため、中堀は、南勢隠門の先に設けられた「北勢隠門」と、その外部至近に設けられた「清水門」跡で複雑に防備された虎口から二手に分けて、内郭の北に広大な曲輪を構築して防衛ラインを設けているのです(ただ、こちらは石垣ではなく土塁を構築しております。そして、西側では、先ほどの外堀に当たる船場川が、その分かれた中堀に沿うようにして流れるように構築されてもおります。このあたりを探訪される方はほとんど見かけませんでしたが、これを見逃す手はありません。すさまじいまでの鉄壁の防衛ラインの構築に驚嘆すること疑いなしでございます。その後、旧武家屋敷が配置された曲輪に建設された兵庫県立歴史博物館を拝観し、その南にある煉瓦造の旧兵舎を活用した姫路市立美術館・文学館を外から拝見しながら散策を終了。文学館で翌日から開幕となる『生誕120周年記念 木山捷平 展』にギリ間に合わなかったことだけが心残りでしたが、こればかりは致し方がございますまい。木山捷平の作品は「講談社文芸文庫」でかなりの冊数が復刻されております。特段の感銘を受ける作品という訳でもないのに、その飄々とした筆致の小説・随筆には不思議と引き付けられ、ついついクセになって次も手にしてしまう…不思議な魅力を有する作家だと存じます。
さて、上述したような、優れて実戦的な縄張を揺ぎ無く構築したのは、「関ヶ原」での戦功を認められ三河吉田城から入城した、徳川家康の娘婿である池田輝政であることはよく知られておりましょう(北条氏直と離縁させられた後に池田家に再嫁した督姫)。秀吉が築いたとされる城郭を徹底的に改造して成立したのが現在残る姫路城の基本形なのだと存じます。家康が娘婿に期待していたのが、西国に控える豊臣恩顧の大名に対する防備に他ならなかったことを、これほど実感させる城郭遺構もございますまい。ただ、先ほどから触れております、城の西側を外堀として流れ下る船場川は、城下から瀬戸内海に開かれた外港の飾磨津へと至る人工運河でありますが、池田輝政の時代には完成せず、その転封後に配された本多忠政(四天王の一人である本多忠勝の子)が完成させたものとなります。因みに、池田家は、元和3年(1617)に輝政に代わって藩主となった光政が幼少で、山陽道の要衝を任せるには不安があるとの理由で、因幡国鳥取に転封となります。その時の池田家の石高は52万石程でありました。新たに入った本多家、その後は同じく徳川四天王の一人榊原康政の後裔に代わるなど、目まぐるしく城主が入れ代わります。そして、寛延2年(1749)に酒井氏が入ってからは定着し幕府瓦解にまで至ります(この酒井は雅樂頭家であり、徳川四天王の一人酒井忠次後裔の左衛門尉家とは親類ですが別家となります)。何れも信頼厚い譜代大名が配置されておりますが、その石高は何れも池田家の三分の一にも満たない15万石ほどにすぎません。先に述べた城下西の西国街道虎口「車門」跡から眺むと、天守は遥か先に実に小さく見えました。その時に小生が思ったことは、これしきの石高で維持できる規模の城郭ではないということです。我らが下総の後期堀田藩は10万石強でありましたが、それでも佐倉城の維持管理に汲々としておりましたから。それに鑑みれば、巨大な姫路城をプラス5万石の経済力で充分に維持できるとは到底思えません。いや、実際に困難を極めたことは想像に難くありません。以前「ブラタモリ」で57万石を有した最上義光が築いた山形城は名古屋城にも匹敵する巨大な面積を有する城にもかかわらず、その改易後は概ね10万石程度の譜代大名の居城となるに及んだことで、既に近世の段階で外郭は荒廃するに任せられ、以前武家地であった外郭内の多くが農地と化していたと指摘されていたことを思い出したのです。まぁ、それでも、姫路城はそれなりには維持されたのでしょう。だからこそ、今日にこれだけの遺構を残す稀に見る素晴らしい近世城郭遺構となっているのでありましょうから。
その夜は3人で「姫路おでん」を食して一杯を傾け(大した分量の飲食をしたわけでもないのに一人5千円越えで何とも不可解でしたが)、ビジネスホテルに宿泊。翌日は旅本番となりますが、長野組の合流は11時となりますので、朝は恒例の町散策となりました。まずは、昨日の車門跡から船場川を渡り、旧西国街道を西に辿りました。船場川西岸には空襲が及んでいなかったようで、旧道に沿って旧家が居並ぶ様が美しい道でございました。そこから戻って、東本願寺末の船場本徳寺の巨大御影堂を拝見、その後は道を南へとって瀬戸内海へ向かう旧飾磨街道を辿り、西本願寺末の亀山本徳寺を訪問。ここは、寺内町を形成していたようで、周囲に関連末寺が集まる等、その雰囲気を残す寺院でございました。その御影堂は江戸期末に京都西本願寺で仮御堂として使われた北集会所を明治初期に移築したもので、幕末の一時期に新選組が屯所として活用していた建物と伝わります。新選組ファンは多かろうと存じます。他の伽藍も殆ど文化財に指定される素晴らしき真宗寺院でございましたが、特に新選組を好まれる皆様には必見の寺院であると存じます。今回の旅の前泊分のご報告はここまでとして、続きは何れということにさせていただきます。
最後になりますが、前回の本稿で「伏見」を採り上げましたが、若林先生から2点の御指摘を賜りましたので、この場をお借りして前稿の訂正をさせていただきます。両者ともに、調べもせずに「こうだろう」と予断の下に記述したところでございます。お恥ずかしき限りでございます。その内の一点目は、小生が「伏見でもプロ野球球団招致の動きがあった」と述べた部分であり、2点目が、徳川政権の黎明期に伏見城が廃城となった後、伏見が「酒造業が盛んであったことからも経済的な発展が維持された」と記載したところであります。後者につきましては、灘の酒造業の歴史が古くまで遡ることから類推して、酒処として世に知られる伏見もそうだろうと勝手に思い込んで述べたことが原因であります。御指摘を頂き、逆に伏見の酒造業の成立が斯くも新しいことを知り驚きました。両者ともに、若林先生からご指摘いただいた文章をそのまま以下に引用させていただき、前稿の修正と致したく存じます(前者につきましては先生が以前に書かれた論考までご紹介してくださっております)。皆様には誤った事実をお伝えしてしまったことをお詫び申し上げるとともに、若林先生には衷心よりの感謝を申し上げます。ありがとうございました。
【4月12・13日「館長メッセージ」に関する訂正】
(1)プロ野球球団招致について
① 近世の伏見宿が、近代になり荒廃。 (明治初期) ② 船宿や蔵が毀され、酒蔵が立地。 (明治中期) ③ 灘に次ぐ産地に成長。 (明治後期から大正期にかけて) 市場のシェアについて、おおざっぱに捉えると、灘が二分の一、伏見が四分の一、残りの四分の一を全国の蔵元で分け合う。この構造が大正期 に出来上がり、現代まで概ねこの骨格が基本となっています。」 (「京都府立京都学・歴彩館」若林正博先生から御指摘頂いた文章を転載) |
本稿がアップされる日は、明日からGWに突入する前日にあたりましょう。4月27日(土)から5月6日(月)に至るまで、途中の4月30日(火)~5月2日(木)まで有休休暇を取得できるのであれば、何と!!10日連休となります。尤も、GWこそが稼ぎ時という業種(まぁ、本館もそのクチでありますが)にお勤めの方々は、そんなことを言われても……との思いに駆られることでもございましょう。それぞれでございますが、その振替休暇も含めてせっかくの機会でありますので、どこかへ出かけるなり、思い切りのんびりと過ごすなり、各人それぞれに有意義にお過ごしになられていただきたいものと存じます。小生は、人込みほど苦手なものはございませんので、旧友と池袋辺りで落ち合う約束がございますが、残りは自宅の庭の樹木伐採と除草に相励むこととなります。こちらも例年の恒例行事でございます。
さて、今回は、公共交通機関の在り方について採り上げてみようと思っておりますが、その切っ掛けとなったのが、昨今の幾つかの報道記事に接したことにございます。その一つが、去る4月19日付「千葉日報」でございました。その一面に「小湊バス大幅減便」なる文字が大きく躍っていたのです。今日日、国内の何処でも起こっていることでありますが、とうとう千葉市周辺でも……との思いで文字を追いました。そこには、千葉市・市原市で路線バスを運行する「小湊鉄道バス」が今月のダイヤ改正に伴い17路線で大幅減便を行っい、平日は従来の893本から748本に、土休日は543本から322本に、それぞれ減便したとありました。中でも“JR千葉駅-蘇我駅東口-イオンタウンおゆみ野”路線は、26本あった平日下り便を1本に、上り便も15本を8本に減らすことになったとありました(土休日は上下便ともに運行中止)。それ以外の路線でも大幅な減便となった路線は幾つもあるようです。その理由として、運行会社は「運転手不足」「2024年問題」に対応するためと説明していると記事にはございました。こうした実情に、利用者からは「免許を返納したばかりのに……」「年寄りへの配慮がない……」等の“困惑の声”が上がっているとも報道されていたのです。サービスの提供と享受という立場の違いはあれど、両者ともに尤もなご意見であろうかと存じます。
日本の「路線バス事業」は、平成14年(2002)「改正道路運送法」施行による所謂“規制緩和”により、営業への新規参入が従来より容易になったことは皆様もご存知でございましょう。当時は、恰も“絶対正義”のように振りかざされた「規制緩和」でありますが、果たして20年程が経過した現状からは、それが吉と出たのか凶と出たのかは何方とも判断はつきかねるように思います。飽くまでも小生個人の素人考えでは、むしろ弊害の方が大きいのではないかとも感じさせられます。今回報道された実態もまた、規制緩和の帰結の一つに他ならないと考えるからでございます。行政による様々な規制を撤廃し、諸事業への自由な参入を促すことを標榜する施策が「規制緩和」であり、それは「路線バス事業」にも適用されたわけであります。その目的が、自由競争の導入による経済活動の活性化にあったことは申すまでもございますまい。確かに、利用者の目線から申せば、競争により運賃の低廉化やサービス向上するなどのメリットも見られた地域もあったようです。しかし、逆に、運営事業の側からみれば、利益の見込めない路線へ参入する事業主体などある筈もなく、これまで公共性(公益性)の観点から不採算路線を維持してきた企業も、当該路線を切り捨てざるを得なくなるデメリットも顕在化しているのが現実であり、今回の報道の事例もそれに当たりましょう。本事例に競合会社路線があったわけでは無いのかも知れませんが、収支バランスが悪いことが減便の主たる理由でございましょう。しかし、路線バスは、地方の高齢化率の高い地域にとって深刻であることは勿論のこと、日常生活に密着した最も市民レベルの公共交通機関でありますから、政令指定都市の千葉市内であってさえ、利用者としては「仕方がない」と素直に頷けないのも宜なるかなでございます。ただ、運営企業もまた私企業であり、ボランティアで路線バスを運行している訳ではございません。申すまでもなく資本主義の根本原理は利潤追求にこそございますから、それが見込めなければ撤退することを一概に攻めることはできません。会社そのものが倒産してしまえば、他のバス路線も消滅してしまいますから、そのハレーションは極めて大きなものとなります。
小生はここで「規制撤廃」が誤りであったなどと申したい訳ではございません。しかし、それ以前の状況を鑑みるに、運営企業は不採算路線が存在しても路線バスの公益性に鑑み、謂わば「ボランティア」的な発想の下で運行を続けてきた面が大きいと思われます。それを可能にした条件とは、規制による事業への新規参入条件を厳しくすることで、不適切な物言いかもしれませんが当該運営企業を保護していたことが前提にございましょう。不採算の赤字路線の運行を、採算性の高い路線の利益が補うことで相殺が出来ていたからだと思われます。勿論、新規参入を目論む企業からすれば、不公平との声が上がることも当然でありましょう。しかし、そうした新規組が不採算路線への参入をすることはおそらくございますまい。従って、採算性の高い路線への新規参入組があった場合、必然的に従来組が当該路線でこれまでのような収益が望めなくなりますから、不採算路線の維持が難しくなるのは余りにも当然の帰結であります。しつこいようですが、従来の「規制」が良かったと言いたい訳ではありません。こうした公益性の高い事業を私企業の自由競争に任せれば、こうした結末に至るのは実施前から解っていたことではないでしょうか。皆さんも学んだ中学校社会科「公民」の授業でも習った経済のイロハでありますから。また、そのために公共性の高い事業は公共機関(国家・地方自治体)が担うべき経済活動であることも同時に学んだ筈です(「財政」の機能)。東京都における「都営地下鉄」「都営バス」、政令指定都市である横浜市の「市営地下鉄」「市営バス」……千葉市にある「都市モノレール」もその仲間でしょう、今でも公営交通路線が維持されることは、そうした理念の具現化に他なりますまい。しかし、現実的には稠密なる交通ネットワーク構築の全てを公共団体が担うことは不可能です。従って、私企業にもその役割を分担して貰うことで、その責務を担ってきたのが実態と言うことになります。であるのならば、公共交通を担う私企業は、本来は自治体等の担うべき事業を補完する意味において「準公共団体的事業主体」と認識すべきではありますまいか。その具体的な在り方の一つが(確かに問題も多かったのだとは思いますが)「規制」にあったのかもしれません。つまり、住民の公益性の追求を第一にする、不採算路線の維持を可能にする施策でもあったのではないかということであります。以下に述べることは、飽くまでも小生の個人的な見解であり、一切公的な意見ではございませんが、全てを公営交通が担うよりも遙かに財政支出を減らすことができ、かつ地域住民の利便性の確保にも繋がるものであった可能性も否定できないのではないかとも考えるのです。尤も、問題は公共交通の規制に留まらず、より広範な要因も大きなものであることは間違いありますまい。ここで、当方が述べるほど単純な問題ではないとは承知しておりますが。
一方、取材を受けた運営会社が理由の一つに挙げていたように、(バス運行に限ることなく)物流に携わるトラック運転手等の労働規制強化策として施行された法規の猶予期間が切れる本年から、一気に顕在化するであろう所謂「2024年問題」も事業主体にとっては深刻な問題でございましょう。そもそも、バス業界では新規採用者が退職者に追い付かず慢性的な運転手不足に陥っていたのですから、バス運転手の運行時間制限によって運転手の手配が充分に行えない現実が刻一刻と迫っているのが現実なのです。従って、取材を受けた事業主は今後更なる減便が必要になる可能性があるとも回答しております。本問題は、トラックによる荷物輸送にも絶大なる影を落としており、深刻な物流危機の惹起も懸念されております。勿論、本規制の目的は人・物の輸送を担う労働者の過酷な勤務実態の改善にあり、推進すべき政策であることは申すまでもございません。このことは逆に申せば、これまで余りに過酷な労働負担を運送業者(運転手)に強いてきた経緯があることを示しております。長距離に及ぶ観光バスやトラックの運行で深刻な事故が現実に起こっており、多数の死傷者を生み出して来た過去を振り返れば納得できましょう。
しかし、そうした過酷な労働によって、これまでの我が国の経済発展や、我々の便利で快適な生活が成立していたことを忘れるわけには参りません。自宅でマウスをクリックすれば翌日には自宅に荷物が届く、所謂「宅配便」業者の過酷な労働環境もよく報道されます。従って、運輸業に携わる業界に不便になったと文句を言うだけでは何の解決にもつながりません。彼らの負担に見合った労働環境の提供が施されず、野放しに放置されて来た実態があったことは間違いございますまい。つまり本施策は待遇改善の一環に位置付くものでございます。しかし、そのことは、他方で、必然的にこれまでと同等のサービス提供が不可能になる不都合も生み出す痛し痒しのジレンマを生み出すことも確実なのです。何れにせよ、今回の施策は一つの前進には違いありませんが、如何にも対処療法的といった感は否めません。経済の維持発展のレヴェルは落としたくない、でも労働者の環境にも配慮しなければならないという、双方向的な課題を共に満たさねばならないのです。政府は、主要高速道路に無人で物資輸送を可能にする特別ルートを設置する検討を進めると言いますが、何とも雲を掴むような提案に聞こえます。水運や鉄道輸送の効率的な運行等を含む、抜本的な人流・物流の構造改革・制度改革に踏み込む必要があるかと思います。そのためには、国家にも企業にもそして我得国民にも、基盤整備に向けた巨額の負担が求められましょう。もし、そんな金が出せないというのなら、企業も国民も相応の不便を強いられることを甘受すべきでしょうし、国民もまた不便・不利益を被ることを覚悟せねばなりますまい。これまでの便利と快適が多くの労働者の犠牲の上に成り立っていることに、真摯に向き合わない社会・国家は何れ破綻することになりましょう。後半は公共交通の問題から、物流の問題までに話題が拡散してしまったようです。何時ものとっ散らかった内容になってしまったようで反省頻りでございます。如何せん素人考えで物を申しておりますから、重大な視点を見落としている可能性も大きいとは存じます。しかし、問題の核心だけは外していないと思ってもおります。前編はここまでとさせていただき、後編では江東区で始まったという新たな公共交通の在り方の検討に話題を転じたいと存じます。
(中編に続く)
千葉日報「小湊鉄道バス減便」報道前日になりますが、ネットニュースで東京都江東区がこの4月「臨海部都市交通ビジョン」を策定したとの報道に接し、そこにJR総武線「亀戸駅」とIR京葉線「新木場駅」とを結ぶLRT構想の検討が盛り込まれたとございました。後編では、このことを巡って公共交通機関の在り方について述べてみたいと存じます。
さて、本報道に接し、個人的に「ようやく再始動することになったのか……」との感慨を禁じえなかったのです。何故「再始動」かと申せば、この構想は20年も前となる平成15年(2003)には「江東区LRT基本構想策定調査」なる立派な報告書としてあがっていたからです。ただ、諸条件が整わず直近の実施は難しいとの判断が下り、長く塩漬けになっていた事業なのでございます。何故、斯様なことを知っているかと申せば、当時在職していた千葉大学教育学部附属中学校における「総合的な学習の時間『共生』」のゼミの一つとして小生が開設した、「路面電車の有効活用から探る都市の再生」の校外学習で、その2年程後にゼミ生と伴に江東区役所担当課に足を運び、事業担当者から直接にレクチャーを受けた機会を持ったからです。今では多くの方々の耳にも馴染んでいるとは思われますが、まずここで「LRT」とは何かを押さえておきましょう。LRTとは「ライト・レール・トランジット」の頭文字をとったもので、通常の鉄道を「ヘヴィー・レール」とするのに対して、より軽易な鉄道を「ライト・レール」と称したものとなります。ただ、皆さんには「LRT」よりも「路面電車」といったほうがイメージしやすいかと存じます。ただ、現在の「LRT」は、基本的に路面に敷かれたレール上を走行するということ以外、小生の子供の頃に接した「チンチン電車」とは全く違った位相にあると言っても過言ではありません。従って、「未来型都市交通」とも呼称すべき、従来の「路面電車」とは似て非なる交通手段を指すと言って宜しいかと存じます。
かつての日本では、大都市は勿論のこと中規模都市であっても、路面電車は極々一般的な公共交通機関でありました。小生の生まれ育った東京都内も稠密に張り巡らされた路線網が存在し、クリーム色に近い黄色に赤い帯の単行電車が縦横無尽に走行しておりましたし、関東に限っても横浜市や水戸市といった県庁所在地、大都市である川崎市、中規模都市の小田原市にも、観光都市の日光市や成田市にもございました。また、学生時代に頻繁に訪れた京都市の中心地にも碁盤の目の街を緑の塗装をした「京都市電」が走っておりました(小生が学生一年目の9月に全廃されましたから、その姿に接していたものの残念ながら古寺巡礼でお世話になる機会は殆どございませんでした)。しかし、今では上述した路面電車中で残るのは、東京都の都電「荒川線(「東京さくらトラム」」が唯一であり、その他は全廃となりました。荒川線が生き残ったのも、私鉄として営業を開始した「王子電車」を都が買収した路線であったため、ほぼ全線が専用軌道であり路面走行区間が殆ど存在しなかったからに他なりません。つまり、高度成長期以降のモータリゼーションの渦に巻き込まれ、渋滞する路面で立往生する路面電車は、定時運行も儘ならず乗客から敬遠され、自動車通行の障害として邪魔者扱いされ、結果として姿を消していくことになったのです。それは、関東に限らず日本国中で同時並行的に進められたことであります(それでも現在でも路面電車の残る都市は“西高東低”であり関西には路面電車が維持されたケールが多くなっております)。
そして、斯様な動向は日本に限らず欧米でもごく一般的に見られたことでございました。しかし、日本が路面電車の廃止に躍起になっていた1970年代に、既に欧米では自動車中心社会の限界を見据え、路面電車の再生による公共交通機関の立て直しを模索する萌芽が見られたといいます[宇都宮浄人『路面電車ルネッサンス』2003年(新潮新書)~小生開設の「共生ゼミ」のテキストとしても活用致しました]。そうした都市交通の立て直しの切り札が、従来の「路面電車」の単なる復活とは異なる、次世代型ともいうべき路面電車復興である「LRT構想」に他なりません。自動車の利便性は申すまでもございませんが、路上の占有面積に比して余りにも少ない輸送人員という輸送効率の低さに加え、環境負荷の大きさの問題は極めて課題であります。それに比較すれば圧倒的に鉄道・バス等の優位は揺るぎません。しかも、環境負荷の低さと輸送量の大きさで鉄道に勝る陸上交通手段はないと申せましょう。その鉄道に限定しても、専用軌道を設けねばならない「ヘヴィーレール」と比較して、「ライトレール(路面電車)」は圧倒的に低廉な予算で建設可能です。都市交通と言うことに限って申せば、現在最も活用される交通手段は「ヘヴィーレール」である「地下鉄」でありましょう。東京生まれで東京育ちの小生ですら、その複雑な路線体系は把握できないほどに現在は多くの路線が張り巡らされております。しかし、一概には言えないでしょうが、概ね1㎞あたりの地下鉄建設費は200億円以上となると言います。それに対して路面電車であれば、その二十分の一~十分の一で建設可能です(10~20億円)!!このことからも、費用対効果は絶大だと思われませんでしょうか。我が市内にも存在するモノレールを含む「新交通システム」でも100億円前後だそうですから、それと比較しても圧倒的に低廉な予算での建設が可能なのです。しかも、道路上にレールを敷くので新規に土地を買収する必要もございません。場合に拠っては既存の線路(廃止されたり貨物線用のヘヴィーレール)を活用することも可能です(後に触れる江東区の場合は正にその事例です)。つまり低コストでの実現が可能な公共交通機関なのであります。
しかも、現在の地下鉄網の複雑さは路線そのものが目に触れないこともあって、全体像の把握もできず、煩瑣なる乗り換え経路も慣れた人でも迷う程です。また、乗車には地下に降り下ったり、高い高架駅にまで登る必要もありません。歩道からそのまま乗車出来る鉄道なのです。昔のチンチン電車の時代と異なり、現在のLRTの列車は低床車両であり乗降の利便性も高いものですし、老人や障碍のある方が利用する場合の“心理的バリア”も低くなります。しかも昔のような単行列車ではなく、5両編成ほどに連接することができますから中規模輸送人員の確保が可能です(連接バスでも2台が関の山です)。また、欧米では、基本的にLRT走行地帯と自動車走行地帯とは区別され、LRT線路内は専用軌道となり自動車の侵入が出来ない規制が加えられておりますから、渋滞で定時走行が阻害されることもございません。そんなことをすれば再び自動車の渋滞をもたらすではないかとの声が上がりましょう。だからこそ、自動車の利用を抑制することにも繋がるのです。地球温暖化の問題に対応するには、自動車の利用を控えて公共交通機関の利用にシフトする必要があるのです。LRTを利用する方が“便利”であり、“地球環境”にも優しく、しかも“経済的にオトク”である運行体制を採れれば、自動車の利用を抑制することに繋がるでしょう。皆様の中には、狭い道ばかりの日本(我らが千葉の中心街の道路もそうです)では敷設は難しかろうと思われましょう。しかし、欧米の旧市街でも道は極めて狭隘です(そもそも道路は人と馬車が通行するように計画されているのですから)。こうした場合、欧米では時間制限により、中心街への自家用車乗り入れを制限する方策も実施されております。そうすることで、自動車優先の道路事情は劇的に変化します。人と路面電車とが通行するだけの道路が復権するのです。人が主人公として逍遥しやすい町には自然と賑わいが生まれます。主要駅の前から気軽に乗車出来る路面電車があれば賑わう町まで数分。そこで買い物を愉しみ、目の前から路面電車に飛び乗って主要駅にまで数分で戻れる環境。こうした中心街には魅力的な店舗が進出して更なる賑わいの起爆剤となります。自動車が大きな顔をしていた道を人が安心して逍遙できる場として、回遊性のある街路にするため交通手段、それが「LRT(路面電車)」に他ならないと思います。
現在の日本における主要都市の様子とは如何なものかを考えれば、何処でも旧中心部の凋落が著しいものであり、賑わいの消えた商店街が軒並みシャッター通りと化している現実がございます(前回述べた姫路市の賑わいは今や例外に属しましょう)。それに反して、郊外には巨大な駐車場を擁するショッピングモールが林立して、自家用車を利用した人々を呼び寄せて大変な賑わいを見せております。何故斯なっているのかは、火を見るより明らかであります。中心街は道も狭く駐車場の確保も難しい、街を歩き回ってもシャッターばかりでワクワクする思いもしない。それならば、自動車で行くことのできる郊外型大型店舗で必要なものは十分に揃うからでありましょう。その結果、中心市街地の地盤沈下は更に進展し、何処も目を覆うばかりの惨状を呈しております。かつて賑わいを見せていた本市の旧市街も決してその例に洩れません。千葉駅前から撤退した百貨店「三越」の跡地では現在タワーマンションが建設されておりますが、千葉駅から連続した街の賑わいが無ければ、その先の旧市街地への回遊性はどうしても途切れてしまいましょう。これでは都市中心街の賑わいの復活は簡単ではないのでございますまいか。住宅地になれば確かに居住者はそれなりに増えましょうが居住者のみの町となり、他所からその地を目指して来訪する必要性は全くございません。千葉駅から下車しても周遊性の欠片も無い街では、駅から降りて周辺で買い物等の用を済ませば、そのまま電車に乗って帰るだけです。場合に拠っては「駅ナカ」で買い物を済ませて駅外へは一切出ない人も多いかも知れません。
つまり、賑わいのある街の創造に不可欠なこととは、一つの駅周辺に全てを集約しすぎて、その場ですべてが完結するような都市構造にしないことではないでしょうか。そのためにどうすればよいのか、LRTの活用には大きな可能性があるのではないかと小生は考えるものでございます。
(後編に続く)
そのためには、周辺部からの人流を如何に中心街に誘うかの方策こそが重要です。しかし、自家用車を留める場所も少ない中心市街地は、周辺部に居住する人々にとっては、今や訪れるにハードルが高い場となっているのです。そこで、欧米では中心街を走行するLRT路線を、その外の郊外へと延伸しているケースも多々見られます。そして、郊外の停留所に大きな駐車場を整備し、自宅からここまで自家用車を利用して移動してもらい、そこからはLRT路線に乗車して中心街に移動するように仕向けてもおります(「パーク&ライド」なる在り方です)。そのため中心街に自家用車の乗り入れを制限するケースもあります。更に、LRTを通常の鉄道(ヘヴィーレール)へ乗り入れて運行をするケースもございます。千葉市内で例えれば、「千葉県庁前」という停留場から乗車したLRTが「成田行」であり、千葉駅の近所でLRT線路とJR線路とが接続させ、乗り換えの必要なく成田方面へと向かうことが出来る交通システムを構築しているのです。仕事場の目の前から自宅の最寄り駅まで直通する利便性は途轍もなく大きなモノでございましょうし、逆に成田から賑わう千葉市の中心街へ直行できるメリットは計り知れない利便性の向上でございましょう。ヘヴィーレールとライトレールの乗り入れでは、運行システム上乗り越え無ければならないハードルは高いものがありますが、実際にドイツのカールスルーエ市ではこれを見事に具現化したことで、市中心街の人流回帰は著しいものになったと言います。同時に利用者の増加は運営企業にとっての利潤の増加と新規サービスへの投資を促すことで、更なる利便性の高い交通システムへの転換を推し進めましょう。こうして、欧米で成果を次々に挙げているのがLRTであります。その成功に肖り、一度廃止して撤去した路面電車を再敷設した都市さえ数多あるほどです。まぁ、こうして申し上げれば良いこと尽くしのように聞こえますが、勿論沢山の課題をクリアーしなければ効果的な運営は覚束ないと存じます。その効果にも十分な事前検討とその評価が求められることは申すまでもございません。そもそも、LRTをどのような目的で設置し活用するのか等の見極めこそが重要になりましょう。実のところ、附属中でゼミ生徒たちとは、千葉県内で地盤沈下著しい中心市街地を具体的に採り上げ、LRTの活用を通して再生する可能性を提案する学習をしていたのです。生徒たちも身近な地域の都市計画の立案に、生き生きと取り組んでおりました。附属中時代の懐かしい記憶の一ページでもございます。
その意味では、栃木県宇都宮市において導入に関する賛成派と反対派の長い駆け引きの末、令和5年(2023)8月末に開業に漕ぎつけた「宇都宮ライトレール」の事例は、今後の試金石になるであろうと存じます。国内でも、今日まで路面電車を維持してきた富山県富山市や同県高岡市で、廃止となったJR富山港線を活用して市内の路面走行区間との接続を成し遂げた事例や、低床車の導入による利便性の向上などの取り組みが行われ、それぞれ成果を挙げてきた実例はございます。しかし、新規にLRT路線を敷設して運行を開始したのは、「宇都宮ライトレール」が初めてのケースではないかと思われます。本LRT構想の発端は、高度経済成長期に宇都宮市東部地域(鬼怒川左岸)に国内最大規模の工業団地が造成され、更に当該工業団地に隣接する芳賀市・真岡市でも大規模工業団地が整備されたことが背景にありました。宇都宮都市圏においては、従業員の通勤に伴う人流、原材料・製品の輸送等による物流の大幅な増大が生じ、自家用車・大型トラックの通行による慢性的な道路渋滞が深刻な社会問題化するに至ったことから(特に限られた鬼怒川渡河地点の橋梁部)、従来全く存在しなかった東西軸公共交通の必要性が浮上することになったのでした。様々な交通システム検討の結果、平成13年(2001)に安価な費用で建設が可能な、(高架式でも地下式でもない)地上に線路を敷設するLRTの新規建設に決定をみたのです。運営主体についても紆余曲折の末、自治体が主体的な役割を担う「第三セクター方式」新会社設立が決定。平成19年(2015)に宇都宮市51%、芳賀市49%の出資比率とする「宇都宮ライトレール株式会社」の設立となりました。その結果、宇都宮駅東口から芳賀・高根沢工業団地までの14.6㎞が優先整備区間として先行整備の末に開業に漕ぎつけました。山吹色を主体としたスタイリッシュな3連接式低床式の新造車両が導入され、都市景観の飛躍的向上に寄与していると市民に好評を得ているとのことです。実際に利用者も当初見込まれていた倍となっているなど順調なスタートを切ったと申せましょう。勿論、料金支払いに時間がとられて遅延が発生するなどの課題も浮き彫りになっているようです。しかし、最初からすべてがうまく機能するわけではありません。何よりも、市民の関心と協力の下に、自らの交通手段として育てていくという自覚をもてる、自らも街づくりの主体であるとの市民意識の醸成が成し遂げられつつあることを高く評価すべきでありましょう。今後の動向に注目していきたいと存じます。
最後に、今回報道されていた東京都江東区のLRT構想について若干触れておきたいと存じます。都内及び首都圏と言われる地域における公共交通の最大の課題は、殆どどの鉄道・道路網が東京を中心にして放射状に地方へと広がっているため、拡散していく路線同士を繋げる鉄道敷設が極めて脆弱であることにございます。そうした課題は古くから意識されており、都心では環状道路の建設が進められてまいりました(小生が子供の頃に「環状七号線」が亀有にまで到達したことを記憶しております)。しかし、当時の高速道路では都心を経なければ他の地域へ移動できない構造となっており、都心における渋滞は本当に深刻なものでありました。それが、環状高速道が外へ外へと幾筋も構築されるようになった背景であり、現在も建設が行われている過程にあります。また、鉄道でも、本来は都心を避けて貨物輸送をするために建設された迂回路線を営業路線に転換した「武蔵野線」の開業も大きなものでした。小生は、現在常磐線の亀有駅から千葉へと通勤しておりますが、もし武蔵野線を使わずにJR線だけで行くとすれば、一度都心へ出て秋葉原から総武線に乗り換えるしかありません。「亀有→北千住→上野→秋葉原→千葉」という途轍もなく胡乱な経路を辿るしかなくなります。ですから武蔵野線の存在は極めて有り難いものです。しかし、本来、常磐線と総武線との間が最も短距離で結び付けることが可能なのは東京都内であります。葛飾区の北を東西に敷かれた常磐線と、同区南部を東西に通る総武線との間は左程に離れてはおりません。それでも、亀有から新小岩までバス路線で移動すると小一時間を要します。ここに南北の鉄道線がありさえすれば……と何度思ったことでしょうか。しかし、実は亀有の隣駅である金町から総武線の新小岩までにはJRの貨物専用路線が存在しているのです(俗称:新金線)。一日に数往復しか利用されない本路線の旅客営業が始まれば、どれほどの利便性が高まるかと思います。葛飾区も旅客営業を可能にすべく働きかけているようですが、一向に話が前に進みません。つまり、葛飾区の公共交通の課題も南北経路の欠如にあるのです。
それは、江東区の場合も状況は同じです。つまり、江東区内にある主要な鉄道路線であるJR総武線・都営地下鉄新宿線・JR京葉線は、全てが東西方向の移動用に敷設されており、南北間の移動の利便性が考慮されていないのです。バス路線は存在するものの、時間帯によっては自動車通行量の多さ故の交通渋滞で定時走行は期待できません。迅速に定時で移動できる交通網として鉄道路線は不可欠なのです。そこで江東区が着目したのが総武線亀戸駅から南下して京葉線新木場駅の至近にまで伸びるJR貨物線(俗称:越中島線)であります。本路線も日に数往復のみの貨物輸送で使用されているだけの閑散路線であります。本路線の利用をJRに認めて貰い、足りない区間のみ区有地等の活用により京葉線新木場駅まで線路を延伸すれば、南北交通の解消に寄与できるとの構想であります。今から20年程前に伺った話では、通行量の多い国道357号との平面交差地点があるため交通渋滞の問題を解消が難しいこと、JR貨物線利用に当たっての賃料が予想を超える高額である等の課題があり、直近で実現は不可能との判断の下でペンディングとなったとのことでございました。営業距離としては約6㎞でありますが、将来的には亀戸駅から北へ、新木場から南の埋立地への延伸も視野にいれているようです。亀戸から北への延伸ルートとしては、東武亀戸線が想定される可能性もありましょうが、当該JR貨物路線は亀戸から新小岩にかけて総武線と並行する形で別途に線路が敷かれており、そのまま新金線へと接続する運行が可能であります。葛飾区民としましては、「宇都宮ライトレール」が宇都宮市と芳賀市の共同出資で運営されているように、関連する江戸川区・葛飾区との連携による、更なる広域な南北交通の具現化に向けていくべきではないかと考えます。常磐線金町駅から直通で京葉線新木場駅まで至ることが可能となれば、東京東部低地の南北間の移動の利部性は限りなく高まりましょう。また、ヘヴィーレール運行よりも短い間隔で停留所を設ける「LRT」としての特性を活かせば、地域住民の利便性は更に高まりましょう。もっとも、宇都宮でもLRTの実現までには30年前後の年月を費やしていることに鑑みれば一朝一夕に事が運ぶことはありますまい。しかし、まずは江東区の亀戸と新木場間の既存の線路を活用したLRTの実現に期待したいと存じますし、JRには線路使用料にも特段の配慮を願いたいものです。一企業の問題ではなく、広域な住民の利便性に関わる問題なのですから。
以上、長々と千葉市も政令指定都市として、固有の都市交通建設の必要性があったことから「千葉都市モノレール」路線の敷設が選択され、現在に到っている訳であります。ただ、中長期的なヴィジョンとして、将来的にこのままモノレールを保善しながら活用していくのか、新たな公共交通施設に切り替えていくのかの選択せざるを得ない時期が参りましょう。その折には、LRTを含む都市交通の在り方を検討する可能性も出来いたしましょう。その時が到るまで、少なくとも様々な可能性を模索していく必要性はありそうです。そうは申しても、ここで小生が縷々述べたように導入が決まるような簡単なことではございません。ただ、「街づくりゲーム」のような感覚で、どうしたら賑わいのある中心街の創生に繋がるのか、LRT路線の導入を思い巡らせてみるのも一興かと存じます。それならば、莫大な費用も面倒な折衝の必要もございません。そうした気軽な想像から思いもかけぬ妙策が生まれるかもしれません。
因みに、手軽に入手できる参考図書として、上述した書籍以外に今尾恵介『路面電車-未来型都市交通への提言-』2001年(ちくま新書 286)もございます。小生の拙い雑文より有意義な2冊に接して頂く方が何百倍もお役にたちましょう。もし宜しければどうぞ。
桜の季節が随分後ろへとずれ込んだ令和5年でございましたが、その分の皺寄せが生じているようで、その後の季節が到って慌ただしく移ろっていくように感じます。通常であれば桜花の後には、春の薫風と伴に目にも彩なる新緑を愉しむことができます。この亥鼻山でも木々の鮮やかさは目に眩しいくらいですが、吹く風は薫風どころか初夏を思わせる暖風でございます。恐らく直ぐに青々とした力強い緑に変貌を遂げてしまうことでしょう。昨年は6月初めの本稿で「行く春」に関する近代文学者の俳句を採り上げましたが、今年は1と月ばかり「惜春」の思いも前倒しになっているように存じます。かような訳で、今回も塚本邦雄氏のアンソロジー集から「行く春」に想いを巡らす和歌を2首を冒頭に引用させていただきました。ともに女性の詠歌となります。式子内親王は、今上天皇・皇后の御息女である愛子内親王の研究対象となった歌人であると聞き及びますが、流石お目が高いと存じます。何時もの塚本氏の短評と併せて、今の「惜春の情」の味わっていただけましたら幸甚でございます。
家集の萱斎院御集にも、心を搏(う)つ惜春歌は少なからず見られるが、千載集にのみに残るこの一首「春のかぎり」は、作者最高の三月盡であらう。上の第二・三句の勢ひ餘つたかの句跨りと第四句の強く劇(はげ)しい響きが重なつて、この抽象的世界が、意外に鮮明に、人の心の中に映し出される。後鳥羽院御口傳中の、「もみもみとあるやうによまれき」の一典型。
作者の玉葉集入撰五十六首、春は六首を占め、いづれも心に残る調べだが、春下巻末に近い「外山の朝け」は一入に餘情豊かである。「このままに霞めや」の、願望をこめた命令句が、上・下句に跨るあたりも格別の面白さで、結句の「春を残して」なる準秀句が一際冱(さ)える。調べの美しさは、春の巻軸歌、為兼の三月盡を歌つた作を凌ぐ感あり。 [塚本邦雄撰『淸唱千首』1983年(冨山房百科文庫)より] |
さて、今回は、昨年度中に触れることができなかった事業報告をさせていただきます。それが、標題にも掲げさせていただきました、令和5年度「千葉氏ゆかりの地」案内看板でございます。本事業は、千葉市教育委員会生涯学習部文化財課が主管として行っておりますが、内容は本館が請け負って作成しております。こちらは、令和8年度に迎える「千葉開府900年」に向け、令和2年度からスタートした「千葉氏PR計画」の一環に位置づく事業に他なりません。過去3年間の設置場所は、令和2年度の5か所(猪鼻城跡・お茶の水・大日寺跡・本円寺・浜野城跡)、同3年度の4か所(智光院・胤重院・宗胤寺跡・紅嶽弁財天)、同4年度の5か所(高徳寺・大巌寺・高品城跡・小弓城跡・南小弓城跡)であり、そこに令和5年度分の3か所が加わることとなりました。そこで、本稿でも毎年恒例でその内容を採り上げておりますので、案内看板の文言のみではございますが、今回の3か所も以下に紹介をさせていただきます。近々、現地の設置状況を撮影し、現地の状況をツイッターにてご紹介もさせていただきたいと存じております。また、写真等も含まれる実際の看板につきましては、以下の千葉市教育委員会生涯学習部文化財課にアクセスしていただくか(アドレスは以下に掲載してございます)、現地で看板にあるQRコードをスマホで読み込むと「案内看板ホームページ」にアクセスいただけますので、全容につきましてはそちらをご覧ください。また、当該HPには「英・中・韓」三か国語による解説文翻訳も掲載されることとなっております。お知り合いに外国の方がいらっしゃいましたら、是非ともお伝えいただけましたら幸いでございます。
千葉氏ゆかりの史跡・伝承スポット
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神明神社(千葉市中央区神明町12-13)
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以上でございます。「千葉氏ゆかりの地」案内看板も4年間で合計17か所に設置されることとなりました。今後も、令和8年度「千葉開府900年」まで継続して市内各所に設置してまいります。現在は主に中央区に偏る設置場所も徐々に広げて参りますので、こちらも楽しみにされていてくださいませ。お天気の宜しき折に、ご家族でサイクリングやピクニックがてら、千葉氏関連史跡をお巡りされては如何でございましょうか。
続いて、昨年度の刊行物につきまして、無償頒布のものを未だ紹介しておりませんでしたので、今回は以下の2部を採り上げました。既に本館にて頒布を開始しております。何れも、本館のみでの頒布となります。『研究紀要』につきましては、受付で御所望の旨を係員にお伝えくださりましたら御手渡しをさせていただきます。また、「ちば市史編さん便り」は、受付近くの販売図書展示場所に設置してございますのでご自由にお取りください。共に、お一人様1冊(1部)でお願いいたします。なお、何れも品切れ次第、頒布を終了させていただきます。その点ご了承してください。印刷数も左程に多いものではございません。ご希望の方はお早目に御出でくださいませ。
『ちば市史編さん便り』第32号
◎千葉市の明治・大正・昭和がみえる!!『千葉市史 史料編』近代・現代を“ちょっとだけ”見せちゃいます。 |
『研究紀要』第30号
◎「千葉氏関係史料調査概報」(六) 〇新加文書「国分朝胤書状」(称名寺聖教紙背文書)の紹介(坂井 法曄) 〇千葉氏関連石造史料調査(5)(早川 正司) ◎令和5年度特別展『関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏-宗家の交代・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動』 〇研究ノート 平山城をめぐって(遠山 成一・倉田 義広・外山 信司) ・平山城の構造について (遠山 成一) ・考古資料からみえる平山について(倉田 義広) ・千葉氏の本拠としての平山-「千学集抜粋」の記事を中心に-(外山 信司)
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最後になりますが、本稿がアップされるのが5月3日(金)8時でありますから、GWも残すところ本日を入れて4日となります。執筆時の長期予報では本年のGWのお天気は余り芳しくないように見受けられますが、実際にはどうなっておりましょうか。遠くへ出かけずとも、もし雨模様でなければ江戸時代からの古道を辿ってのハイキングなど如何でしょうか。千葉市内であれば、江戸と南総とを結んだ「房総往還」がございます。江戸時代からの旧道もかなり残っておりますし、検見川、寒川、浜野辺りには昔の地割も残り、そこに旧家が建ち並ぶ風情を味わうこともできます。また、房総往還から分岐して千葉寺や大巌寺に向かうことを案内するために建立された、近世造営の道標も幾つか目にすることもできます。多くの道標には「右○○道、左△△道」といった行き先と、建立主体の名、建立年などが彫り込まれております。また、道路の周辺の地名を確認して想像を膨らませたり(例えば「塩田」ならば塩づくりをしていたのか……等々)、沿道に数多存在する寺社に立ち寄って由緒を確認したりすることで、地域の長い歴史に触れることもできましょう。ガイドブックになど掲載されない、地元の鄙びた大衆食堂に飛び込んで食する昼飯も格別です。長くそんなことをしていると、旨い店かどうかも自然と分かるようになります。他にも、千葉から佐倉へ向かう佐倉道、千葉から東金と土気に向かう東金街道・土気往還(大網街道)もあります。また、徳川家康が造営した東金御成街道のハイキングもよいものです。そうそう、小生がお薦めしたいのは、街道ではありませんが、川下りハイキングです。小生の最初の赴任校であった千葉市立更科中学校で行った「鹿島川ライン下りハイキング」は滅法面白い行事でした。もう50歳を超える教え子たちも今でも懐かしく思い出すと言っております。土気の源流域から終点の印旛沼までなら大層に歩き甲斐がございます。土手道をとぼとぼ周囲の風景を愛でながら歩くのも一興でございます。途中の佐倉市馬渡には造酒屋「旭鶴酒造」もございますので、もしかしたら今でも試飲が可能かもしれません(その昔はやっておりましたが)。お気に召したら一升瓶を担いでゴールまで歩くのもよいのではありますまいか(飲み乍らのハイキングはオススメ致しかねますが)。そんなことを言われても昔の道筋もよくわからないし……などと怖気づく必要はございません。各街道の全路程を制覇せずとも、途中で迷ってしまっても一向に構わないではありませんか。迷ったおかげで出会うことのできる風景や人もございましょう。それはそれで貴重な発見であります。まずは、外へ飛び出して行動されることが全ての始まりです。土曜日一番の楽しみであったのに哀しいことに終了してしまった「ブラタモリ」テーマソングで井上陽水が「テレビなんて見ていないで何処かへ出かけよう」と歌うように、まずは実行してみては如何でしょうか。皆様にとっても有意義なGW残り4日間になること疑いなしと存じます。
本稿がアップされます頃はGWも過ぎ去り、我々社会人としましては流石に本年度の業務に本腰を入れざるを得なくなっていることでございましょう(苦笑)。ところで、本年のGW中は余り好天に恵まれないとの予報でございましたが、中間の1~2日当たりには曇天・雨天であったものの、それ以外は思いの他に好天が続きました。ただ、ここ数年恒例になっておりますように、爽やかさとは程遠い蒸し暑い夏日続きで往生いたしました。本来であれば自宅で庭の除草・伐採で終始するGWですが、4月末日の夏日の天気予報ではございましたが、今年はちょっぴり欲をかいて渋谷区から港区にかけての博物館巡りに出かけて参りました。そもそも、渋谷の町は、学生時代に大変にお世話になった創業から百年を越える歴史を有する老舗書店「大盛堂」を除いては縁がなく、東京の生まれ育ちではありますが駅周辺以外はほぼ無縁の地でとして今日に至っております。ただ、優れた神道関係の企画展を続けざまに開催されている『国學院大学博物館』には是非とも一度脚を運びたいものと思っておりましたし、こちらは縁の深い地ではございますが御隣の港区で平成30年(2018)に移転リニューアルオープンした『港区立郷土歴史館』にも一度出かけなくてはと期してもおりました。GWに出かけるのはチト気が重かったのですが、蛮勇を振るって出かけることにいたしました。
まず、連休中で賑わう渋谷駅から人混みを避けるようにして向かったのが「国學院大学渋谷キャンパス」でございます。本館は國學院大学附属の博物館であり、前身の諸施設を統合する形で平成25年(2013)新規開館した施設でございます。「考古」・「神道」・「校史」の3つの常設展示室に加えて企画展示室を有し、その企画展示室では大河ドラマ関連でありましょう、「春の特別列品『恋とさすらいの系譜―源氏物語と平安文学』―國學院大學図書館の名品―」が開催されておりました。こちらの企画展では神道関係の内容が毎回のように途轍もない充実度でございます。小生が気づいた時には会期は既に終了し、展示図録も品切れで入手が叶わなかった令和4年度特別展『走湯山と伊豆修験-知られざる山伏たちの足跡-』展(図録は古書でも高騰しておりますから再販を切にお願いして参りました)、令和5年度特別展「三嶋の神のモノガタリー焼き出された伊豆の島々ー」もまた充実の内容であります(こちらは幸いに未だ図録在庫があって幸い購入が叶いました)。3つの分野からなる常設展では、やはり何と申しても「神道」の展示に興味を惹かれましたが、「校史」で採り上げられている国学院所縁の学者・文学者であり、忘れ難き小説作品『死者の書』で親しみ深き折口信夫(釈超空)展示コーナーも興味深く拝見いたしました。因みに、こちらは入館無料です。かくも充実の内容にも関わらず……。これからも変わることなく優れた展示活動をなさってくださるでしょう。今後ともに決して目の離すことなどできない博物館だと存じあげあす。
続いて、國學院大學博物館から徒歩で3分も離れていない場所にある渋谷区立「白根記念郷土博物館・文学館」に立ち寄りました。現在は『写真展 明治通りを走った都電 -金子芳夫撮影写真から-』を開催中。かつて渋谷区内「明治通り」を走行していた都電の写真には背景として当時の街並みが映り込んでおります。その昭和40年代の写真と現況写真とを対置して展示することで、東京随一の繁華街である渋谷の今昔を知ることのできる内容でございました。こちらは、文学館も有しており、大岡昇平は子供時代に渋谷区内で過ごしていたこと(小説『幼年』『少年』の世界)、銚子生れの国木田独歩がこの地で代表作『武蔵野』を物したこと等を知りました。折角、渋谷まで出かける機会がございましたなら、是非ともこちらにも脚を運んでみては如何でしょうか。小生としては、“忠犬ハチ公”の特別展図録を入手したかったのですが、既に数年前の開催で図録も既に売り切れておりました。残念です!!当館を後にして、凡その方角だけを頼りに港区立郷土歴史館のある「ゆかしの杜」を目指します。その途次にある小生とは縁も所縁もない広尾や白金の小洒落た街には目もくれず、あちこちと道に迷いながら、なるべく大通りを避けて裏道を行きつ戻りつ、小一時間をかけて汗だくとなってようやく目的地に到着しました。
小生が過去にお世話になった港区の博物館は、「港区立郷土資料館」と称しており、港区立三田図書館の4階にありました。特別展で刊行される図録等のレベルが高い反面、失礼でございますが、常設展示は未だ本館の方がマシだと思えてしまう程に、充実からは程遠い状況にございました。23区内でも冠たる存在の港区としては、そうした状況は流石に忸怩たるものであったものと推察されます。その解消をすべく、港区は昭和13年(1938)竣工の「旧公衆衛生院」を国から取得し、耐震補強やバリアフリー化等の改修工事を施した複合施設「ゆかしの杜」内に、平成30年(2018)に新規オープンさせた博物館が「港区立郷土歴史館」でございます。そして、翌令和元年(2019)に建物自体を「港区指定有形文化財」に指定しております。小生は、この港区の判断に心底の敬意を捧げたいと存じあげる者でございます。何故ならば、恐らく新規に博物館を新築した方が返って安上がりかもしれないにも関わらず、歴史的に価値ある建築物を後世に残し伝えることを選択されたからです。斬新な現代建築が悪い訳ではありません。しかし、地域のランドマークにもなりうる古い建物の残る町は、町としての格が段違いに上がります。本建築は、あの東大「安田講堂」の設計者としても知られる、東京大学建築学科教授の内田祥三(よしかず)の手になります。鉄骨・鉄筋コンクリート造、スクラッチタイルで覆われたゴシック調の外観を有し、前庭の噴水とその背後にある重厚な玄関、四角に円筒を取り入れた正面の高層棟の左右に、翼廊を扇状に手前に迫り出す優雅な建物として設計されております。細部の装飾も決して五月蠅く感じさせない程度に瀟洒な造形で付加されており、そのリズミカルな軽妙さにも感心させられました。何よりも実に立派な建造物として屹立しております。こうした優れた建築物を効率優先で無暗に破壊してしまわない見識の高さに、港区の文化財行政が生きて機能していることを実感させられるのです。その内部は、上述いたしました通り、博物館を含む複合施設となっておりますが、建築そのものを鑑賞できるようにもなっております(建物内を見て回るだけならば無料です!!)。中でも「中央ホール」と「旧講堂」の造形には圧倒されました。本当に素晴らしい建物に嬉しくなりました。
勿論、博物館の常設展も実に素晴らしいもので、以前の施設とは正に“月と鼈”の充実振りでございます。研究所時代の個々の研究室は必ずしも広いものばかりではございませんが、小さめの部屋はテーマ的な展示室として活用したり、外部団体に貸し出す展示室として活用したり、博物館開催の様々な研修室・会議室の会場としても有効活用されているようです。是非とも皆様もお出かけになってみてください。原始古代から近現代に至る展示も流石に充実しておりますし(港区の旧海岸線で発見された明治初期の鉄道遺構である貴重な「高輪築堤」の特設展示コーナーもありました)、視聴覚展示もふんだんに設置されているなど、様々な世代を対象に据えていることも分ります。それらが、歴史ある建物内に位置づいていることが尚更に素晴らしさをいや増しにしております。
これらの展示を拝見しながら、小生は図らずも、本館近くに存在し学部が移転した後に“空き家”になったままに放置されている「旧千葉大学医学部本館」建築の姿が何度も思い浮かびました。こちらも「旧公衆衛生院」とほぼ同じ昭和11年(1936)建築の重厚な建物であります。「内田ゴシック」とは異なるシンプルで重厚さの勝った外観ではございますが、内部装飾等では様々な工夫が見ることのできる、決して遜色のない素晴らしい建築でございます。ここが港区のように将来的に博物館等として再活用できたら、さぞかし素晴らしい施設になることでしょう。そのことを、港区の事例は如実に示していることを実感いたします。何よりも、歴史を感じさせる建築物がほとんど存在しない千葉市中心地のランドマークとして、政令指定都市である本市の格を高めることに貢献いたしましょう。同時に、当時「千葉大学医学部附属病院」であった本建築は数多の焼夷弾にも耐えて、山のような負傷者の救護にあたるとともに、戦後には平和都市建設の象徴ともなった建物でもあるのです。千葉市にとっても幾重にも価値を有する建物であります。その意味で、皆様も、是非とも港区白金台に存在する「ゆかしの杜」にお出かけになり、その目でご覧になっていただきたいものと存じます。このように古い建物を有効活用することで、当該地域を質の高い街として再生する見本のような取り組みだと信じて止みません。以下に、当館の常設展示の構成を掲げておきたいと存じます。お出かけの際のご参考にしていただけましたら幸いでございます。
◎ガイダンスルーム
・歴史を知る -プロジェクションマッピングで学ぶ港区の歴史-
※原始・古代から現代に到る港区の自然・歴史・文化のあらましを映像で紹介
・地域を知る -5地区の歴史を特色-
※港区の5地区(芝・麻布・赤坂・高輪・芝浦港南)が持つ様々な特性を映像 でつかむ
Ⅰ 海とひとのダイナミズム
・東京湾内湾の世界
※「沿岸地形の変化」「水質の変遷と漁業」「東京湾を代表する魚貝類」
・内湾の環境資源を求めて -1 ~貝塚の世界~
※「貝塚とは何か」「港区の貝塚」「伊皿子貝塚遺跡研究室」
・内湾の環境資源を求めて -2 ~本芝浦・金杉浦の漁業~
※「本芝浦・金杉浦の世界」「本芝浦・金杉浦の歴史-1~古代から中世~」
「本芝浦・金杉浦の歴史-2~近世から現代~」「海からの景観」「魚商い」
「本芝浦・金杉浦の漁業」「内湾と人びとのこれから」
Ⅱ 都市と文化のひろがり
・江戸のまちづくり
※「初期のまちづくり」「まちと災害」「土地に刻まれたまちづくり」
・近世寺社の世界
※「港区域の近世寺院」「将軍の菩提寺-増上寺-」「大名の菩提寺
「寺の境内と門前」「発掘された寺院跡」「港区域の陣者」
・大名屋敷と大名
※「大名」「大名屋敷」「大名と家臣」「大名文化」「くらしと装いの道具」
「大名家の幕末・維新」
・旗本・御家人の世界
※「旗本・御家人」「発掘された旗本屋敷」「旗本・御家人の家族」
・町人のくらしと文化
※「町と町人」「くらしの諸相-発掘された町屋-」「金杉川河岸の町屋敷-倉松屋嘉兵衛宅-」
Ⅲ ひとの移動とくらし
・国際化にみる近現代
※「国際化の幕開け」「台場をつくる」「外国の人びととの関わり」
「滞在する外国の人びと、定住する外国の人びと」
・教育に見る近現代
※「公立学校の成立と展開」「私立学校のあゆみ」「福沢諭吉と慶應義塾」
「医学教育の展開」「さまざまな教育機関の歴史」
・交通・運輸にみる近現代
※「交通機関と都市の広がり」「都電の歴史」「道路網と港湾の整備」
「新しい交通とくらしの広がり」「港区の観光」
・生業と産業にみる近現代
※「殖産興業政策と官営事業」「大企業の発展」「町工場の展開」
「港区の商業」
・戦争・災害にみる近現代
※「明治の戦争と港区域」「関東大震災と港区」「アジア・太平洋戦争」
「戦後復興と港区」
◎コミュニケーションルーム
・遺跡から知ろう(土器や暮らしの道具をさわったりして観察)
・資料から読み解こう(古地図・浮世絵を間近にみて昔の港区を旅する)
・港区の音を聞いてみよう(港区域に生息する生き物や街中で聞こえる音を体験)
・ちょっと昔のくらしを体験しよう(昭和30~50年代頃の道具に触れる)
・動物の骨を観察しよう(犬・猫・猪・鹿の骨格標本を観察)
◎建物展示 ~建物を知る~(「旧公衆衛生院」)
10日と少し後となる今月末の28日(火)から、本年度唯一の展示会となる『千葉氏をめぐる水の物語』が本館1階展示室を会場に開幕となります。そこで、今回は前後編でその全容を紹介させていただきたく存じます。本展は、例年開催しております「千葉氏パネル展」の一環として開催される内容であり、令和8年(2026)度に迎えることとなる「千葉開府900年」に向け、本市の都市としての礎を築いた中世武士団「千葉氏」への理解を深めていただくことを目途とする展示会となります。そして、本年度採り上げる内容が、千葉氏と“水世界”との関係に焦点を当てたものでございます。また、本パネル展は、「千葉県誕生150周年記念事業」として本市が開催する「ちば・かわまつり」とタイアップ開催する内容でもあります[市内の3つの河川(「鹿島川」・「花見川」・「都川」)に因んだ諸行事の開催しております(鹿島川・花見川関連行事は開催済)]。本事業主管は本市「都市政策課」でございますが、その最後となる「都川」を採り上げる6月1日(土)・2日(日)開催「ちば・かわまつり」にあたり、本館で千葉市内「河川」に関連する展示ができないかとの相談を、今から一年以上前に担当課から受けたのでした。本館の都合としては、本年度下半期から展示リニューアルを控えている関係から企画展開催は「千葉氏パネル展」のみとなっております。斯様な事情から、千葉氏との関連する形で「河川」を採り上げることこと、採り上げる内容は「河川」に限らず「海」「池」「用水」「湧水」といった“水世界”全般を扱うこと、その両者の条件で宜しければ開催可能である旨を逆に提案させていただいたのです。それが理解され晴れて実現の運びとなったのが、今回のパネル展開催の“裏事情”ということになります。
このように述べますと、本館としての主体性が感じられない、如何にも役所内都合による開催とお感じになられるかもしれませんが、そうした情実は一切ございません。我々は、担当課からの申し出を、新たな視点から千葉氏の動向に焦点を当てる絶好の機会であると考え、むしろ大歓迎で前向きに受けとった……というのが正確です。生きとし生けるもの、水を抜きに生きていくことはできませんし、水をめぐる自然環境の中で生を営んでおります。また、千葉氏の地域支配にとっても、海と河川等を含む水世界との関係は極めて深いものがあると考えるからでございます。勿論、千葉氏に限ることではありませんが、水環境は、ある時は人と物とを結びつけ、ある時には人を隔て、またある時には地域の生産性向上に深く関係もする、最も重大な自然条件として彼らの活動を規定した筈であります。千葉氏がそれに如何に対応し、また活用しながら本地域における歴史を刻んで来たのか……を、各パネルを通じてご紹介をさせていただきます。本展は、「総論」1枚と「各論」7枚の、計パネル8枚で構成されます。以下、本展趣旨の概要をご理解いただくため、パネル1「総論」については全文を、その後の各論であるパネル2から8までは各パネル標題と概要とをお示しさせていただきます。お読みいただきご興味をお持ちになられましたら、是非とも5月28日(火)から開催の本パネル展へ脚をお運びくださいませ。皆様の生活の舞台である市内を流れる河川や海、本市の周囲に広がっている湖沼等々の「水世界」が、千葉一族の歴史とどれほど深く関わりを有してきたのかをご理解いただける内容と自負するものでございます。
パネル1 総 論「千葉氏をめぐる水の物語」 千葉市の市域には、北部に印旛放水路(花見川)と浜田川、中心部に都川、南部に浜野川、村田川が流れ、それぞれ東京湾に注いでいます。また、鹿島川は印旛沼に流入し、葭川・支川都川・坂月川は都川に合流しています。市域を流れる河川の特徴は、多くが低地の谷津を流れ、川幅が狭く、自己水量も乏しいことにあります。一方、市域の西側には、船舶交通の要所であり日本経済をけん引する東京湾が広がります。東京湾岸には、我が国を代表する国際貿易港である千葉港をはじめ、幕張メッセや大企業、大学、マリンスタジアムを擁する幕張新都心や、総延長約4.3kmの日本一の長さを誇る人工海浜など本市の特徴ともいえる海辺の風景を形成しています。
パネル2 「海の領主」千葉氏と中世都市千葉 ①
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(後編に続く)
パネル5 両総国境をめぐる水と陸の中世
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以上、パネル展の概要を説明させていただきました。例年の本展と同様、各パネル内には文章だけに留まらず、豊富な写真・資料・地図等を散りばめ、その理解を助けるように構成しております。手前味噌ではございますが、大いに見応えのある展示内容となっているものと存じます。話は元に戻りますが、本展は、既に市の広報紙等で広く伝えられておりますように、6月1日(土)・同2日(日)の2日間「本町公園」で開催される「ちばかわまつり 都川 歴史と今をつなぐ」行事との関連開催行事となります。都川での「和船乗船体験」「カヤック体験」等が行われる他(こちらの参加申込期間は終了しており飛び込みでの参加はできません)、本町公園では特設舞台が設営されて催し物が開催されるようです。また、公園内にはキッチンカーも繰り出すと聞いておりますので、地域を流れる河川に親しむよい機会として、ご家族で参加されると宜しいのではないでしょうか。また、近くの千葉市美術館でも特集展示として『無縁寺心澄が描いた都川』(会期:4月3日~6月2日)が開催されております。こちらは観覧料が必要ですのでご注意下さい(¥300)。初夏の1日を「都川」と寄り添ってお過ごしになられては如何でしょうか。しつこいようですが、その際には是非とも本館へも御来館へも脚を伸ばしていただき、千葉氏パネル展『千葉氏をめぐる水の物語』をご覧いただけましたら幸いでございます。なお、本展の会期は9月29日(日)までとなります。10月1日からは閉館となって展示リニューアル工事へと突入する予定となっております。
最期に、一点お詫びをお伝えしておきたいと存じます。それは、開幕と同時に販売を予定しておりました本展ブックレット(¥100)の刊行が若干遅れてしまうことでございます。6月末日には刊行予定でございますので今暫しお待ちくださいますよう、お願いを申し上げます。
昨年度末の3月、本年度4月の本稿において、2回に亘って掲載をさせていただきました同標題の「その3」となります。何時もの通り、小生とて他人の旅行記などどうでも宜しいものと認識しておりますが、何処かしら引っ掛かりのある部分もあろうかと勝手(一方的)に決めて、続きの掲載をさせていただこうと存じます。何時も通りのお願いでございますが、お気軽にお付き合いをいただけましたら幸いであります。
去る2月の半ばに挙行いたしました第7回「古美愛同窓旅行」につきまして、今回は正規日程(?)初日行程を採り上げてみたいと存じます。長野市に居住する2人の到着が、当日朝に出発しても姫路到着の最早時刻が11時であることから、正規日程はそこから“始まり始まり~”となりました。まずは腹拵えをしてから、レンタカーを利用して書写山圓教寺へと向かうことになります(尤も、長野組の片割れは休日ダイヤであることを失念して予定の特急に乗り遅れ、宿での合流という為体のオマケ付きとなったのですが)。姫路中心市街地から書写山までは自動車で30分も要せずに到着できる至近の場でございます。中心街を抜けても姫路駅北側には郊外型大規模店舗は全く見当たらず、至って落ち着いた風景が続きます。そして、間もなく自然豊かな低山の連なる地にいたりました。この点、翌日に姫路市の瀬戸内海沿岸部を通過したときに目にした、国内何処とも変わらない巨大商業施設が林立している光景とは全く異なっておりました。姫路城や書写山のような風致地区を維持するため、同じ市内であっても姫路駅北側には建築規制等が掛かっているのかもしれません。圓教寺は山号でもある標高371mの書写山上に壮大な伽藍が林立しておりますから、参詣者の便を図るために、夢前川(ゆめさきがわ)西岸の山麓から山上駅までロープ―ウェイが運行されております(施設は姫路市のものだそうです)。それさえ利用できれば、山上駅まではたった四分で到着できる筈でした。ところが、旅行一週間ほど前に共に幹事を務める小野氏が偶々書写山のホームページで運行状況を確認したところ、訪問日前後1週間ほどが年一回の定期点検期間に当たっており「運行停止期間」となっていることが判明!!早速圓教寺に問い合わせたところ、参詣は通常通りに行っているが自家用車での参詣は不可で、徒歩で登ってくる以外の方法はないこと、ただ小一時間もあれば登れるとの回答が返ってきたとのことでした。まぁ、小一時間であれば何ということもないでしょうが、如何せん雨天では参詣は難しかろうと想像されます。ただ、今更日程変更など叶う筈もなく、幹事としては取り急ぎ雨天時の行程変更の検討をせざるを得なくなりました。更に、参加者全員にメールで事情を説明の上、雨天でない限り徒歩で参詣することの了承を取りつけ、更に相応しい靴等の用意をお願いすることにしました。
幸い、当日は(快晴ではありませんでしたが)雨は振ることはなさそうでした。昼頃には天気は回復するでしょう……との予報を信じ、予定通り書写山への参詣を決行することにしたのです。山上へ登る参道は6つあるとのことですが、夢前川右岸に程近い、メインルートと目される「東参道」を選択。運行休止中のロープーウェイを恨めしそうに横目にしながら、同行5名は民家の間を抜けて登り路に突入、終点の山上駅を目指します。「参道」と銘打たれておりますが、その路は成田山新勝寺のような門前町風景とは隔絶しておりました。設置された丁石で申すと13丁にあたる付近が、かの弁慶が長刀を研いだとの伝承に由来する「砥石坂」と名付けられてることが象徴するように、岩場の連続する急坂の難路続きであり、正に登山道と言うのが適切な山道でございました。修行場でありますから当然といえば当然なのですが、少なくとも雨天の一般参詣は危険にすぎましょう。難行苦行の末、坊さんの言う通り小一時間でロープ―ウェイ山上駅に到着しましたが、中心伽藍のある「西谷」「奥の院」までは、そこから「東谷」「中谷」を経て更に30分程を要します。その道程には山楽・山雪と継承された「京狩野」三代目永納(『本朝画史』著者)による貴重な障壁画が残る塔頭「十妙院」(非公開)や、既に失われて久しい伽藍跡を眼にしながらの歩行でありますから決して苦にはなりませんが、山岳寺院特有の葛折りが続く参道は流石にボディブローのように効いて参ります。当日はロープ―ウェイ運行休止に併せて運行されておりませんでしたが、通常は山上駅から中心伽藍近くまで有料小型バスが運行されているほどです。このことからも、書写山圓教寺が古来「西の比叡山」との異名をとるほどの巨刹であることが知れましょう。何はともあれ、足弱を自認される方であれば、ロープ―ウェイ運行状況を必ず確認の上でお参りされることをお薦めいたします。それが運行されていれば山上バスも動いている筈です。ここは、『西国三十三観音巡礼』第27番札所として大変に賑わう霊場でもございます。皆様もお出かけになる可能性の高い寺院でありましょうし、何より素晴らしい伽藍を眼にするだけでもお出かけする価値のある寺院でございます。まぁ、我々ロートルには身体的にキツい参詣ではありましたが、文明の利器の使用が叶わない分、他の参詣者には殆ど出会うこともなく、森厳なる雰囲気の中で古刹を十二分に堪能することができたことが、何にも増しての僥倖でございました。苦労した甲斐があったというものです。これも性空上人のお導きかもしれません。
さて、天台宗寺院である圓教寺を開いた人は、その性空(しょうくう)上人(910~1007年)でございます。性空は、従四位下の貴族橘善根の子として京で生まれておりますが、若年時から出家の志が高かったと言われております。齢36で比叡山の良源(912~985年)(「慈恵大師」「元三大師」とも)に師事して出家(当時としては相当に遅い出家です)。その後、叡山を出て九州に向かい、霧島山や肥前国脊振山で修行を重ね、康保3年(966)に播磨国(現兵庫県西部)の書写山に入って庵を結びます。これが圓教寺の起こりであり、性空57歳の時のことになります。書写山に近い姫路は、中世には「府中」と称されていたとおり、古代の播磨国府が置かれていた地であり、圓教寺も国司藤原季孝の庇護の下で次第に伽藍が整備されたといいます。そして、性空を慕う京の貴顕から多くの帰依をうけることにもなったのです。ただ、時の円融天皇からの入洛にも応じなかったように、少なくとも初期の段階で、性空は栄華を極める人との面会も極力避け、地位や名誉を求めなかったと伝わります。因みに、上人が書写山に庵を結んだ同年に生れた藤原道長(966~1028年)の帰依も後に受けております。円融天皇も含め、ここからは、性空上人がNHK大河ドラマ『光る君へ』の登場人物と同じ空気を吸っていた時代の人であることが知れましょう。
特に、上人を深く信仰したのが花山法皇(天皇)(968~1008年)でございます(大河ドラマでは本田奏多の怪演が印象的でした)。寛和2年(986)、道長の兄で「七日関白」との異名を有する藤原道兼(961~955年)らの陰謀により、退位・出家に追い込まれた、あの天皇であります。失意の中、同年花山法皇は僅かな従者とともに京から遠路遥々自ら書写山まで陸路訪問して上人と対面、翌日には慌ただしく夢前川河口の港津である英賀(あが)から船で還幸したとのことです。一切の栄華を求めない上人に、千々に乱れる思いの救いを求めたのでしょうか。更に、花山法皇は16年を経た長保4年(1002)にも総勢100名近くの従者を従えて船で播磨国に下り、古くからの飾磨(しかま)津に上陸して2度目の訪問に及んでおります。山上の喧噪を嫌った性空は、長保2年(1000)書写山の更に奥地に草庵を開き、当時はその地で隠棲しておりました。そこを訪れた法皇は性空との再会を果たし、翌日には書写山に登って祈りを捧げ、その地の小松を都に持ち帰って植えたと伝わります。そして、その後に勅命が下り播磨国司の巨智延昌(こちのえんしょう)が諸堂を建立し、草庵は弥勒寺と称されるようになります。性空はその寺で齢98にてその生涯を終えることになります。今も通宝山弥勒寺はその地で法灯を伝えております。本寺も訪れてみたかったのですが、残念ながら徒歩での書写山参詣の煽りをくって時間的な余裕がなく、今回は断念せざるをえませんでした。現在、赤松義則再建になる中世建築の本堂が国指定重要文化財に指定されて残ります。
性空は、上述いたしましたように、権門寺院から遠ざかり、実践的山岳修行者の道を選択した「聖(ひじり)」の系統に属する法華経持経者であります。しかし、決して俗世間への関与を一切拒否した“自行”に徹したわけではありません。花山法皇との交流にも見られるように、次第に貴顕をはじめとした衆生済度のための“化他行”へも積極的に関わるようになるのです[菊地大樹『鎌倉仏教への道』2011年(講談社選書メチエ516)]。そのことは、当時から貴顕に留まることのない多様な人々からの信仰を集め、極めて多くの説話として現在まで伝わっていることからも理解できます。以下の事例は、貴顕に当たる事例となってしまうかも知れませんが、かつて本稿の巻頭歌として採り上げたこともある和泉式部の詠歌「くらきより くらき道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」に纏わる説話でございます。本歌は勅撰和歌集『拾遺集』に初めて撰ばれた式部歌であり、本集に採られた式部唯一の歌でもありますが、同時に最も人口に膾炙した和泉式部の作品でもございましょう。その詞書には「 性空上人のもとによみてつかはしける」とあり、恋多き女流歌人として知られる彼女が性空とも宗教上の交流を有していたことが窺えます。また、本歌は、和泉式部が道心をもった人物であるとして、法華経注釈書にも再々引かれているそうでもあります。一方で、本詠歌が説話伝承の世界では、更なる膨らみを以て語られていることもご存知でございましょう。本説話には多くのヴァリエーションがあるようですが、最大公約数的な内容としては概ね以下のようになりましょうか。
即ち、一条天皇中宮の彰子(道長娘)に仕えていた和泉式部が、彰子や他の女房達と書写山に性空を尋ねた際、性空は貴顕の人達との面会を避けて居留守をつかったというものです。そこで和泉式部は、寺の柱に本詠歌を書き記して立ち去ろうとしたところ、本作に感銘を受けた上人が「日は入りて 月はまだ出ぬ たそがれに 掲げて照らす 法の灯」と返歌して一行を呼び戻し、丁重に教えを授けたとの話でございます。尤も、式部が彰子に仕えた頃、性空は既にこの世の人ではありませんでしたから、本説話は史実とは申せませんし、実際に和泉式部が書写山に脚を運んだのかも定かではありません。ただ、拾遺集にあるように、和泉式部と性空には何らかの接点があったこと、また本詠歌が包含する宗教的な意味合いから、後世斯様なる説話として増幅されていったものでしょう。あまつさえ、圓教寺の奥の院「開山堂」の裏手には「和泉式部歌塚」があり、そこには天福3年(1233)の宝篋印塔が造立されております。鎌倉期の段階で圓教寺でも当説話が喧伝されていたものと思われます。こうした夥しい数にのぼる「性空説話」は、その没後早い時期から形成されていったようで、そこには様々な伝承伝播の経路が存在していたのでしょう。中でも、源信(「恵心僧都」「横川僧都」とも)(942~1017年)を頂点とする横川(よかわ)を中心とした叡山関係者の関与が大きいことが想定されるようです。何れにいたしましても、現在までのところ吉川弘文館「人物叢書」でも、ミネルヴァ書房「日本人物選」でも、性空を採り上げた単著がないことが残念です。何でも、前者は何十年も先までの採り上げる人物と著者が決まっていると聞きますから、既に予定に入っているかもしれません。ただ、余りにも長いスパンの予定であるからこそ、逆に書かないうちに御隠れになってしまう方も多々いらっしゃるのではありますまいか。もし、性空上人の御担当になっていらっしゃる方がおれらましたら、是非とも刻苦勉励の程をお願いしたいものでございます。小生も左程に長くは待てませんから。
さて、肝心の現在の圓教寺のことが後回しになってしまいました。書写山圓教寺にて絶対に外してはならない圧巻の鑑賞ポイントは、「西谷」の並び立つ中世建築群の威容にこそございます。小生は見たことがないので何とも言えませんが、その圧倒的なスケール感を買われ、近年では平成15年(2003)公開のハリウッド映画作品『ラスト サムライ』の主要な撮影場所にもなっているそうです。そこに到るには、まずは如意輪観音を祀る「西国三十三観音霊場」札所である「中谷」の懸崖造になる巨堂「摩尼殿」(大正期に焼失し昭和に再建)を経てからとなります。そこからは「西谷」の中心伽藍まではもうじきです。胸突き八丁の最後の急坂を登り切ると、そこには突如別天地のような清浄なる空間が広がります。真正面には総二階建で左右に長く延びる「食堂(じきどう)」が、右手前には食堂右手に被るように屹立する重厚な重層建築「大講堂」が、そして左手前には舞台を伴う軽やかな出で立ちの「常行堂」が大講堂と向き合っており、3堂が中央の空間を“コの字型”に取り囲むようにして建ち並びます。その偉容は余りにも森厳で厳粛なる建築群の威容として、その場に立つ者を圧倒します。それら3棟は何れも室町期に焼失した堂宇を再建した堂々たる中世建築であり、全てが国重要文化財でございます。本来は、コの字の欠けている部分に五重塔が存在していたのですが、江戸期に到る前には失われており、その跡地には池田家が転封後に姫路城主となった、本多家(徳川四天王の一人である本多忠勝の後裔)廟所となっております。
ここで建築の構造を述べたところでイメージは描き辛かろうと存じますから省略させていただきますが、これまでに多くの寺院を見て参りましたが圓教寺の「西谷」伽藍ほど、3つの堂宇が相互に関連しながら醸し出す総合的な建築美に出会ったことはございません。参加した誰もがしばし声もなく陶然と立ち尽くしてしまうほどの感銘を受けるものと存じますし、現に自分自身もその他の仲間もそうなりました。中央部に優雅なる唐破風を擁する常行堂の舞台は、正面の大講堂に安置される本尊釈迦如来へ舞楽を奉納するための装置でもあるのです。その意味でも、大講堂の偉容を前に軽やかな常行堂建築を配した理由も頷けますし、両堂間の清浄なる空間を画するように奥に横一文字に建つ、我が国でも他に類例の存在しない40メートルにも及ぶ総二階建の食堂の存在は、向き合う両堂の間の空間の特別性を極だてる効果を有するように感じられました。あの世に旅建つ前に、是非ともこの目で見たいものと願っていた光景に接することが叶い、心底の感銘をいただきました。一つひとつの建物は重要文化財であるかもしれませんが、全体的な建物構成としての結構は国宝級だと申しても決して大袈裟には当たるまいと存じます。因みに、上述いたしました「本多家廟所」内に立入ることはできませんが、開いた門扉から内部を覗くことができます。土塀に囲まれた中に5棟の霊廟建築が残り、多くの立派な石塔が林立している様子が見えます。小生は、近世初期から中期にかけての大名墓は相当に見て回りましたが、その中でも霊廟建築まで揃ってここまで綺麗な状態で残っているところは余りないと思われます。その中には藩祖本多忠勝の石塔もございます。ただ、忠勝は本多家が姫路に転封となる前に没しておりますから、これは供養塔であって実際の墓所は桑名城下の浄土寺にございます。また、近くには、本多家移封後に姫路城に入った榊原家2代の藩主墓もございます。徳川四天王のうちの2家関連墓所が極近くに存在していることにも深い因縁を感じさせられました。皆様も是非とも脚をお運びになられてみていただければと存じます。絶対のお薦めの寺院でございます。
書写山圓教寺につきましては、その奥にある「奥の院」も含めて未だ未だ語るべく事がございますが、この辺にさせていただこうと存じます。後編では宿泊地でありました瀬戸内海の要地「室津(むろつ)」について綴りたいと存じます。
(後編に続く)
後編では、本同窓旅行の宿泊地でもあった「室津(むろつ)」について採り上げたく存じます。行程初日の午後を書写山参詣に費やした我々でありましたが2月の日脚は短いものです。急いで険しい参道を駆け下りてレンタカーに飛び乗り、脇目も振らずに室津への道を進むことにいたしました。明るい内に瀬戸内海に開かれた湊町まで到達したかったからであります。幸いにお天気もこのまま持ちそうですし、美しい瀬戸の夕景を眺めることが出来そうです。
島々の点在する穏やかな内海である瀬戸内海とその沿岸の地は、小生にとっては何の所縁も無いところなのですが、その景色に接すると不思議と故郷に帰ってきたような穏やかな気持ちに誘ってくれる場なのです。その意味で、小生が心から惹かれる水に纏わる光景の第一は自信をもって瀬戸内海だと断言することができます(第二は近江国琵琶湖のそれであります)。瀬戸内海へのそうした思いの切っ掛けは、例の学生時代に出掛けた四国旅行にあったと言えます。漸く夕刻近くになって脚を踏み入れることのできた四国の地。高松駅から乗車した予讃本線急行列車が坂出から丸亀の辺りを通過したのがちょうど日没の頃でありました。車窓から見た暮れなずむ瀬戸内の光景を今でも在り在りと思い出します。海岸線には未だ塩田の跡地が広がっており、四角く区画された塩田跡地に溜まった水面と、その先に浮かぶ瀬戸の小島を茜色に染めて暮れていく落日の光景が途轍もない美しさで小生を圧倒したのです。言葉を失う程の感動と言うのはこの時のことと言い換えてもよいほどです。その後も瀬戸内海との縁は度々ございました。今は航路自体が廃止されているようですが、宮島から尾道までの船旅をした際にも、次から次へと現れては去っていく、数々の美しい島々の景観の変化に我を忘れて引き込まれました。それぞれの島々にある、近世の潮待・風待に利用されたと思しき湊を有する古い街並を航行する船上から目にすることができました。また、備後国「鞆の浦」は近世のままの湊町の構造を今に伝えており、これまでに3度訪問しておりますが訪れる度に新たな発見がございます。朝鮮通信使の宿となった寺院「福禅寺」に残る「対潮楼」から見る鞆の浦の光景は正に一幅の名画に他なりません。山口大学附属光中学校の公開研究会に参加した際に訪れた「室積」でも、常夜灯のある船着場の光景が江戸の昔のままで心打たれました。かように、瀬戸内では本当に忘れ難き旅の記憶を頂いております。未だ訪れたい湊町は沢山ありますが(「牛窓」「御手洗」等々)、今回の「室津」もその一つでございました。自らが幹事を務める今回の同窓旅行は、播磨国の古寺巡礼が大きな目的でありましたが、未だ訪問していない瀬戸内の湊を併せて訪問する絶好の機会でもあったのです。海の幸も美味しいでしょうからさぞかし酒も進みましょう。仲間たちも室津泊に異存はあるまいと考えての選定でもございました。
その「室津」は、古代・中世から明治に到るまで“海の道”として重要な物流・人流の大動脈であった「瀬戸内海」における、要津の一つとして各時代を通じて大いに繁栄した湊として夙に知られる場であります。しかし、姫路市南西部の網干を西に進むと、次第に山が海に迫るようになり、室津に向かう国道250号線も幾重に入り組んだ入江を幾度も曲がりながら走るようになります。こんな場所に瀬戸内海随一と言われる重要な湊が開けるのか……と、不安に駆られる程の移動でございました。そして、実際に到着した「室津」は、山が海に迫る相当に狭隘な場所にあり、そこには恰も箱庭を思わせるような光景が広がっておりました。湊としての水面も想像以上の狭さでありました。山々から瀬戸内海に突き出た尾根状の半島が、上手い具合に海を袋状に囲み込むことで、もともと穏やかな瀬戸内海の海面から隔絶されたような、まるで鏡のように穏やかな水面が形成されたのでしょう。こうした地形を生み出した自然の妙には、ただただ感心するばかりでございます。宿泊先の宿は海に迫る斜面に立地しておりましたので、その窓から湊と集落が手に取るように見渡せてしまうほどの小さく纏まった湊町であり、風光明媚であることは間違いなしとして、ここが本当に歴史的に重要な役割を果たした湊なのかと思わせるほどでございました。
ただ、姫路から室津までに存在する播磨国諸湊と決定的に異なる特色を「室津」は有しております。それは室津以外の湊(飾磨津、英賀、網干等々)は全て河口に開かれた湊であることです(正確には大坂にある難波津から室津に到るまでの湊は全て同様の立地であると思います)。当然、河川が運搬した土砂が堆積するため、これらの湊は充分な水深を確保することができません。従って、大きな船が湊に入りこむのが難しい湊なのです。しかし、室津には湊に流入する河川はございません。山の斜面が落ち込んだ急斜面に海水が入り込んで形成された「リアス式海岸」に形成された湊だからであります。つまり、充分な水深が確保できる湊なのです。これであれば、近世の大型船(千石船との異名をとった大型の「弁財船」)であっても入湊は可能でございましょう。狭い水面ではありますが船数も確保できるものと思われます。しかも、外海と隔絶したかのような穏やかな水面を有する得難き湊であったことが、周辺の湊では決して見ることのできない室津の特性であったのです。古く8世紀初頭に編纂された『播磨国風土記』には「室津」の名前の由来が以下の如く記されております。お読みいただければ地名の由来にご納得いただけるものと存じます。つまり“室”内にいるような湊との意味合いを由来としているのです。逆に申せば、室津から難波津に到るまでは、暴風を避けるため機能は充分ではなかったということでしょう。このことは、後に述べるように西国大名の参勤交代で室津が大きな位置づけを有したことに繋がるのです。
「室原(むろふ)の泊(とま)り、室と号くる所以は、此の泊り、風を防ぐこと室の如し。故、因りて名と為す」(日本古典文学大系『風土記』岩波書店) |
かような地勢的な立地でございますから、平地は極めて狭隘であり、現在でも人家はその袋状の海面にへばり付くように櫛比しております。逆に、明治以降は鉄道の開通に伴ない、室津は主要陸上ルートから外れていたが故に衰退し、漁村として命脈を繋いでいくことになるのです。その漁港として整備される過程で、本来は湾内を囲むように存在したであろう、干満に併せて荷揚げができるように造成されていた階段状の石積船着場の形状は今では姿を消しております(それを現在まで残しているのは備後国「鞆の浦」でございます)。因みに、室津の現在の住所は「たつの市」となりますが(町村合併前は「御津町」)、近世を通じてここは姫路藩の飛び地となっており、姫路藩によって湊の管理が行われておりました。従って、ここには姫路藩の「船番所」と「御茶屋」とが設置され、前者は出入りする船舶の管理を担っておりました(後者の有した機能については以下でご説明いたします)。船番所の建物は失われておりますが、湊への入り口に当たる場所には城郭のような石垣遺構が今も明瞭に残されておりました。また、その船番所背後の半島台地上には「賀茂神社」が卜しております。境内にある横一列に並び立つ檜皮葺の社殿は惚れ惚れする程に美しく、元禄年間に再建された8棟が国重要文化財に指定されております、また、境内の蘇鉄は日本北限の自生地として県指定文化財に指定されております。かのフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも文政9年(1826)江戸参府の途次に室津に一泊し、その際本社を訪れ、参籠所からの播磨灘の展望を絶賛する記録を『江戸参府日記』に残しております。そこには一枚のスケッチも添えられており、その光景が現状と左程に変わっていないことにも驚かされます(ただ彼の描いた多宝塔は明治の神仏分離で撤去され今は残りません)。しかし、景勝地としての在り方は、どうやらシーボルトを遡ること650年前ともほぼ変わることはなかったようです。その記録は、治承4年(1180)に平清盛が挙行した厳島神社参詣に出向いた高倉上皇の記録に見ることができます。その文面を以下に引用いたしますが、船で室津に入港した際の光景を描写したものと思われます。因みに、室津に賀茂社が存在するのは、当地が平安時代末に京都「賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)~通称:上賀茂社」に寄進され、御厨(みくりや)[伊勢神宮と賀茂社の荘園を「御厨」と称します]となっていたためでございます。つまり、それから僅かな期間の裡に室津にも賀茂社が勧請され、すでに立派な社殿が造営されていたことを知ることのできる貴重な記録ともなっております。
「むろのとまりにつき給。山まはりて。そのなかにいけなどのやうにぞみゆる。ふねどもおほくつきたる。(中略)この山のうへにかもをぞいはひたてまつりける。(中略)このやしろはかものみくりやに。このとまりのまかりなりしそのかみ。ふりわけまいらせて。御しるしあらたかなり。やしろ五六 大やかにならびつくりたる。」 (『高倉院厳島御幸記』) |
中世において「室津」が歴史の転換点で重要な役割を果たしたこととして知られる事実では、南北朝動乱期における建武3年(1336)足利尊氏の動向に関する歴史が挙げられましょう。後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏でありましたが、1月に京での合戦に敗れ、その後の2月には摂津打出浜・西の浜での楠木正成・新田義貞連合軍と戦いにも敗れ、再起を図るために九州を目指し、兵庫から船で西へと敗走します。その翌日、室津に上陸した尊氏は、当地の見性寺(現存)で世にいう「室津軍議」を開き、後の東上に備えて中国・四国の軍備を再編したと伝えられています。その前提として2つのことがこの地で決定されたのです。それが「元弘没収地返付令」と 持明院統の光厳上皇「院宣」の獲得工作となります。前者は、鎌倉幕府滅亡直後に後醍醐天皇により北条氏に与して没収された所領を、元の武士に返付するという方針であります(建武の新政に不満を持つ武士勢力の取り込みを目論む施策となります)、後者は、後醍醐天皇に敵対した事によって「朝敵(賊軍)」とされていたことへの対応です。つまり、反後醍醐天皇派である持明院統「光厳上皇」から「院宣」を受ける工作を開始したことです。その結果、室津の先である備後国「鞆の浦」滞在中にその院宣を受取ることに成功します。これにより尊氏は「朝敵」では無くなり、武士の棟梁として南朝勢と戦ための“大義名分”を獲得することになったのです。このことは、足利尊氏に従うことの正統性を日本全国の在地勢力に明示できることとなり、足利陣営に加勢する勢力の爆発的な増加をもたらしたのです。そのことが、直接的に武家政権再興へと繋がったことは申すまでもございません。その意味で、室津での軍議が歴史的に有し意義は限りなく大きなものであり、その後の歴史の動向を左右したと言っても過言ではございません。室津が重要な歴史の舞台となったのです。
続いて、近世における室津を採り上げましょう。上述もいたしましたように、姫路藩領の他湊は河口に位置する立地であることから、浅瀬が広がり湊の機能としては劣ったものの、河川を通じて後背地と直結しておりましたから、それぞれ藩領内の物資の集散地として商業活動の興隆に繋がる地となりました。一方、室津は湊としての機能に優れていた反面、山がちのリアス式海岸に立地することから後背地を有しません。そこで、物流・人流の結節点としての機能を基盤に発展を図る道を選択することになるのです。その重要な機能の一つが、西国大名の参勤交代における「宿駅(海駅)」としての機能でございました。近世にはこの狭隘な室津の海縁に、「野本屋」「肥後屋」「筑前屋」「薩摩屋」「肥前屋」「一津屋」という6軒の「本陣」が軒を連ねており、それぞれが大名家の指定本陣となっておりました。西国大名の参勤交代経路は時代によっても藩主によっても時々で変わりましたが、山陽道(西国街道)という陸路を利用することも可能な中国地方の大名以外の、九州・四国に所領を有する大名は何処かで「船」を利用しなければ江戸へ辿り着くことは不可能です。従って、西国大名はそれぞれ「御座船」なる専用船舶を有しており、瀬戸内海を航行して江戸へと向かっていたのです(中国地方でも船を利用する大名は多くおりました)。室津の本陣を使用する大名家の総数が70家近くに及ぶことからも、西国大名の瀬戸内を利用しての参勤交代が極一般的であったことが知れましょう(勿論、そのすべてが宿泊するわけではなく休泊の場合等もあります)。
尤も、参勤交代で船を利用すると申しましても、江戸までの全行程で船を利用することはございません。太平洋のような外洋を航行することは難船の危険が大きすぎるからです。従って、規模の大きな船舶移動は、基本的に瀬戸内海に限られると申して宜しかろうと存じます(大坂の難波津からは川船を利用して淀川を遡り淀の地にまで到る場合もありました)。ただ、先にちらりと触れたように、室津から先には大坂に到るまで、暴風を避けることのできる湊がございません。また、地図で御確認いただければ明々白々でありますが、室津から大坂までの播磨灘には淡路島のような大きな島はありますが、小さな島々が殆ど存在しません(室津には家島諸島が直ぐ南に控えております)。つまり、暴風が生じた場合にそれを避けることのできる場所がなく、風と波の直撃を浴びる航路となります。しかも、明石海峡のような潮流のきつい海域もあり、決して安全とは言えない航海を強いられる可能性が大きいのです。実際に、長州藩では瀬戸内海航海中に難船し、(藩主への被害はなかったものの)多くの家臣が生命を失う事故も発生するケースすらありました(その結果、長州藩は船での参勤交代を中止し、山陽道での移動をするように経路を変更したといいます)。そのため、殆どの西国大名家は、室津より先の航海は行わず、室津で上陸して当地から陸路に切り替えて江戸に向かいました(帰国の際には室津から乗船)。室津からは「室津道」を辿って山越えし「正條(しょうじょう)宿」で山陽道(西国街道)に合流し、姫路方面を経て遥かなる江戸までの道程を歩むことになりました。つまり、室津は海路と陸路の切り替え地点として大いに賑わうことになったのです。参勤交代におけるこの後の道筋の選択も大変に興味深いものがありますが、それはまたの機会に。ここでも「伏見」が重要な地として登場します!!
その他、近世に室津が果たした重要な国際的交流の機能がございました。それが「朝鮮通信使」と「琉球江戸上がり」の寄港と使節への対応となります(長崎出島「オランダ商館長江戸参府」もそれに相当します)。前者は、徳川将軍の代替わり毎に朝鮮王国から派遣された善隣外交使節であります。近世の日本が唯一対等の国家間交流をもった国家、それが朝鮮王国であります(オランダ・中国は商業的な取引のみでの付き合いとなります)。対等だとされるのに、日本から朝鮮王府へ到る使節は送られなかったことを不思議に思われましょうが、それは朝鮮側の判断があったからでございます。つまり、秀吉による朝鮮出兵の際に、それまでに日本人が王府まで頻繁に行き来しており、その経路を知悉していたため、日本軍を容易に王府へと導いてしまったことへの深い反省があったからだと言われております。従って、日本人が赴けるのは釜山(プサン)の「和館」までとなったのです。「朝鮮通信使」の江戸までの行程の全てを本稿で述べることはいたしませんが、釜山を出港して九州に達してからは、瀬戸内海を航行して大坂まで至ります(つまり彼らは播磨灘も船で通行したことになります)。その後は川船で淀川を遡って淀で下船し、伏見から京都に入ります(西国大名の参勤交代では入京しないことが大原則です)。その後に京を発った近江国では、中山道を進みますが野洲宿からは、徳川家“吉例の道”として大名家の通行を禁止していた琵琶湖側の「朝鮮人街道」を通行し、鳥居本宿で再び中山道に合流。その後は再び中山道から分かれて名古屋に到り、東海道に入って江戸へ向かう道程を辿ります。その間の宿泊・休泊場所は概ね定まっており、それぞれの場所での接待を担当する大名も決まっておりました。宿泊場所の多くは地域の大寺院でしたが、室津では姫路藩造営の施設である「御茶屋」がその機能を果たしておりました。その場所は、室津の湊の最奥の絶好のロケーションの地を占有しており、姫路藩が使節とその随行員への接遇の役を果たしたのです。もう一つの「琉球江戸上がり」の場合も同様ですが、琉球王家は近世においては薩摩藩の支配下にもありましたから、琉球を発ってから薩摩国山川湊「琉球屋敷」に入り、そこからは薩摩藩同行での江戸参府となりました。朝鮮通信使と同様に瀬戸内海に入ってからは室津にも立ち寄っており、難波津まで船での移動も同じです。しかし、その後の経路は若干異なります。一点目は京には立ち寄ることなく、西国大名の参勤のように伏見から大津へと直行するルートをとったこと、二つ目は近江国では「朝鮮人街道」通行は許されず、守山宿から鳥居本宿までは通常の中山道の通行となったことでございます。幕府としては、琉球中山王府は飽くまでも他の諸侯と同等との意識であったものでございましょう。対等の外交関係にあった朝鮮王国との対応には差があったのです。
最後になりますが、室津が果たした「海の宿駅」としての機能は、上述したような「参勤交代」や「海外使節」対応といった公的機能だけに留まりませんでした。船舶を利用しての物資運搬のための風待・潮待のための湊としての機能も果たしていたからです。その内、公的な物資輸送として「西回り航路」の開発による、各地の領主からの年貢米輸送の寄港地としての利用がございました。東北地方の大名でも、例えば会津藩の場合でありますが年貢米の一部は阿賀野川を下して日本海側に運搬し、そこから海船の「弁才船」に積み替えて日本海から関門海峡を経て瀬戸内海を東へ辿り、最終的には大坂にある会津藩「蔵屋敷」に運搬しました。そして「天下の台所」として国内の米相場を決めた堂島市場で換金し、藩費の運営として充てていたのです。瀬戸内海の諸湊はそのための寄港地として利用され、室津もまたその機能を果たしていたのです。一方、物資の輸送はこうした公的なものばかりではございませんでした。特に近世になると農業生産の大幅な向上によって各地に特産物が登場し、それらが“商品作物”として全国から大消費地に向けて大量に流通するようにもなるのです。そうした流通の機能において重要な役割を果たしたのが、大量運搬が可能な水運に他なりませんでした。しかも、陸路における宿場町も同様ですが、海の宿駅である湊でも、公定料金しか支払われない公用荷物の運搬に比べて、私的運送の方が圧倒的に利益率の高いケースが殆どですから、宿場でも湊でもそちらを重視する様になるのです。
こうした私的な物資輸送において、近世に大いに活躍したのが「北前船」の存在に他なりません。おそらくその名前はよく耳にされることでしょう。北前船とは、船型の名称ではなく(船型は以下の海運で使用されるものも全て「弁才船(べざいせん)」です)、その船を利用した経営の在り方による名称に他なりません。北前船は、物資輸送業に当たる「運送船」(運賃収入)ではなく(教科書で扱われる「菱垣廻船」「樽廻船」はそれにあたります)、船の所有者が商品物資を各地の湊々で仕入れ、航海を通じて別の湊々ではそれらを販売する経営の在り方を言い、そうした業態を「買積船(かいつみぶね)」と称します。その内、蝦夷地から日本海と瀬戸内海を経て大坂までの間を舞台に活動したものを「北前船」と称します(一方、太平洋側で活躍した買積船としては、尾張を拠点とした「内海船(うつみぶね)」が知られており房総にも頻繁に訪れております)。通信機能が未発達な時代ですから、購入者は商品が蝦夷地で幾らで仕入れられたのかを知る術がありません。従って、北前船の言い値で買い取るしかなくなります。従って、彼らは“濡れ手に粟”の利潤を挙げることが可能だったのです。日本海側の古くからの湊町には豪壮な「北前船主の館」なるものをよく目にいたしますが、それが何よりの証となりましょう。室津もまた瀬戸内海の諸湊と同様に、こうした北前船の寄港地になっておりました。瀬戸内海水運では、上述してきましたように東西の移動だけを採り上げて参りましたが、それだけに留まらないことは申すまでもございません。何故ならば、「本四架橋」などない時代には、四国との往復は船以外には不可能でしたから、瀬戸内海を南北に移動する物資・人の輸送もまた、室津をはじめとする瀬戸内の湊の大きな機能でもあったからです。一例ではございますが、人の移動と言うことでは、室津は金毘羅宮への参詣者を多く運んだことが知られております。こうした船乗りや巡礼の人びとの集まる室津にも、他の湊と同様の大規模な「遊郭」が存在しており、大いに賑わいを見せていたことが知られることも付加しておきたいと存じます。現在はそうした匂いを感じさせる街の面影を見ることはできませんでしたが。
以上、8年ぶりに開催となった同窓旅行についての“正規日程”初日の行程について長々と御案内をさせていただきました。室津での宿泊は、戦前本館に滞在して「乱菊物語」を書いた谷崎潤一郎や、同じく当時の本館女主人をモデルに「室津」を描き残した竹下夢二とも関係の深い「割烹旅館 きむらや」にお世話になりました。宿泊棟は若干古びてはおりますが、別館の「先年茶屋」で頂いた牡蠣や穴子等の“海の幸”尽くしの食事とお酒は実に美味なるものでありましたが、季節ごとに様々な瀬戸内の幸が食卓にのぼるようです。是非とも夏に鱧料理を頂いてみたいものです。室津の町では、昭和40年代までは残存していた本陣建築も、姫路藩の御茶屋も既に失われておりますが、廻船問屋を営んでいた古民家が狭い路地を挟んで多く残されております。それらの内の2軒は復元改修され、たつの市の「室津海駅館」「室津民俗館」として一般公開されております。古民家の楽しみと伴に博物館機能にも優れており、瀬戸内海の要津として栄えた室津を理解できるよう、実に丁寧なる展示解説が施されております。また、優れた特別展も過去に開催されており、その展示図録も沢山販売されております。街自体が小じんまりとしており、見学ポイントも纏まっておりますので散策するのが楽しい街であります。是非とも旅の途中にでもお寄りいただけると宜しいかと存じます。先ほどの「きむらや」は昼食の営業もされております。因みに、昼に合流できなかった長野組の片割れとも当地で無事に合流でき、漸くオールスターキャストとなって正規日程二日目(最終日)を迎えることとなりました。
その内に、機会を見て同窓旅行第四弾(最終回)として、播磨の古寺巡礼を採り上げてみたいと存じます。播磨の法隆寺とも称される「鶴林寺」、平安建築の優美な三重塔が残る「一条寺」、そして東大寺再建に尽力した重源上人所縁の名刹「浄土寺」を御紹介させていただきたいと考えております。長々とお付き合いをいただき、誠にありがとうございました。
桜色に 染めし 衣もぬぎかへて
山ほととぎす 今日よりぞ待つ
(和泉式部『後拾遺集』夏)
今日よりは 袂も薄く たちかへて
花の香遠き 夏衣かな
(後花園院『新續古今集』夏)
3日前の28日(火)より、本年の千葉氏パネル展『千葉氏をめぐる水の物語』が開幕となりました。平日にも関わらず、本展を目的として来館される皆様も多くいらっしゃり、我々と致しましても嬉しいこと限りなし!!正に欣喜雀躍「手の舞い、脚の措能はず」の有様でございます。ブックレット刊行が遅れてしまい、ご来館の皆様からも御小言をいただきますが、全て仰せの通りでございまして、小生の不徳のいたすところと平身低頭のうえ改めまして深くお詫び致します。6月末日までには上梓が叶いますよう、編集作業を鋭意進めて参ります。今暫しお待ちくださいますよう伏してお願いを申し上げます。
毎度お馴染みの物言いしか思い付かず、我ながら到らぬ語彙力・表現力に嫌気がさしますが、季節は瞬く間に巡り明日から水無月に入ります。「惜春の情」などは味わう間もなく足早に過ぎ去ってしまい、世は挙げて「お暑うございます」との挨拶が幅を利かせる陽気へと移り変わってしまったようです。小生が生まれてこの方、中学校の教員として働いていた10年程前までは6月1日と10月1日は「衣替え」の日でした(前後1~2週間ほどの移行期間がありましたが)。ところが、10年程前からは前後に1ヶ月拡大され、それが5月と11月に変わり、今年度からは千葉市でも「ナチュラルビズ」の導入となりました(千葉県庁でも同様の対応となると聞きました)。これは、職員自らが快適で働きやすい服装を選択することで、働きやすい職場環境や業務の効率化を推進するということであるとともに、このことを通じて更なる市民サービスの向上を図ること、及び脱炭素社会の実現に向けて、気温に合わせた服装を選択し、環境に配慮した働き方を我々職員が率先して実施することを目的としている……と説明されております。まぁ、小難しいことは脇に置いて平たく申せば、通年でのノーネクタイ・ノージャケットなどでの軽装勤務が可能になったということであり、これからは「夏季軽装期間」というもの自体がなくなることになります。つまり、このことは「衣替え」なる“季節の節目”が消滅することをも意味します。制服の着用がある中学校・高等学校で如何に対応されるのか知りませんが、毎年のように繰り返される昨今の猛暑記録更新の環境変化に対応するため、服装に関しては飽くまでも個人の問題として各自の判断に任せることにしたということに他なりますまい。欧州由来のネクタイ着用という、高温多湿の我が風土には全く馴染まない服飾文化を導入し、これまで頑なに墨守してきた慣習をようやく改めること自体は、個人的に大いに歓迎したいと考えるものでございます。
しかし、この「衣替え」は決して“ポッと出”の年中行事などではございません。歴史的には、平安時代の宮中行事「更衣(こうい)」なる習慣にまで遡る、四季ある日本の伝統を伝える風物詩でもあります。地球環境の大きな変動が、千年余りも続いてきた生活習慣をも変えてしまったことに、ある種の感慨をおぼえます。そうした環境変動を生み出す原因をつくったのも、我々人間に他なりませんから何とも申しようもありません。まぁ、せめて、そうした季節感を感じていただければとも思い、古典和歌の中から「更衣」に関わるものを選んで冒頭に掲げさせていただきました。それにいたしましても「衣替え」という言葉自体が将来的には季節の表現として成立しなくなるばかりか、行く末は死語と化す可能性すらあると考えると、「ある種の感慨」を「一抹の寂しさ」と言い代えても宜しいのかもしれません。皆様は如何お感じになられましょうか。まぁ、このことは逆に考えれば、一律にある時から「衣替え」に移行するという、ある意味で思考停止に近い状態から、季節に応じた服装や場に応じた服装を自らの判断しなければならないこと意味しましょう。その意味では、特に学校教育の場において、そうした状況判断(「思考」と言い換えても宜しいでしょう)を子供たちに委ねることになり、それはそれで大きな意義があると思います。そこで「委ねる」というのは、決して子供達に判断を「丸投げする」ことではありません。暑い寒いという問題とともに、場に応じた服装とは何かを子供とともに考え、場合によっては大人としてのアドヴァイスも加えて、子供が適切な判断ができるよう修練を重ねる機会を持つことであると存じます。昨今では、よいトシをしてTPOの判断ができない大人も多々おります。それは、そもそもそうした判断をする「学び」を経ていなかったことに原因があると思われます。つまり、須らく自分の好き勝手だけが優先される「俺様」人生しか送ってなかった成れの果ての姿なのだと思います。まぁ、“一抹の寂しさ”はひとまず置いて、教育面では今回のことを良い「学び」の機会ととらえていく必要がございましょう。
さて、5月末日の本稿では「わたしの城下町」についての話題とさせていただこうと存じます。改めて申すまでもなく、「わたしの城下町」と耳にすれば、少なくとも小生と同年配の方々であれば、十人中十人までが過たず小柳ルミ子(1952年~)の空前の大ヒット曲を思い浮かべましょう。更に、冒頭の「♪格子戸をくぐりぬけ 見あげる夕焼けの空に だれが歌うのか 子守歌 わたしの城下町……」を口ずさむことすら可能でございましょう。それ以降の歌詞はともかく、彼女のファンでもなければ、1枚の音盤すら購入したこともない小生ですら、何も見ずともスラスラと書き記すことができたほどです。本作は、彼女のデビュー曲であり、昭和46年(1971)4月ワーナーミュージックジャパンから発売されており、それは小生が小学校6年生の時のことになります。作詞:安井かずみ(1939~1994年)、作曲:平尾昌晃(1937~2017年)の手になる作品であることは初めて知りましたが、お二方とも星の数ほどのヒット曲を生み出した一時代を築いた大御所でございます。小柳ルミ子は、福岡市内の生まれだそうですから、黒田家の福岡城下を思い浮かべて歌っていたのかも知れませんが、空襲に遭った福岡と隣接する博多には城下町の面影は殆ど残っていなかったことでしょう。そもそも福岡藩黒田家は50万石の大藩であり、その城も国内有数の規模を有しておりましたから、もし面影が残っていたにせよ「わたしの城下町」という小じんまり纏まった風情からは程遠かったことでしょう。そのことは作家達とて似たり寄ったりだったことと思われます。平尾は東京牛込の生まれで小中学校時代を神奈川県藤沢市で送ったそうですから、城下町の想い出とは無縁であったことでしょう。尤も、御本人は諏訪の高島城と上諏訪の街を思い浮かべて曲をつけたと語ったことがあるそうです。安井も横浜生まれの横浜育ちのクリスチャンで、フェリス女学院に通うお嬢様であったそうですから、間違いなく城下町との因縁はございますまい。因みに、加賀まりこの証言によれば、安井は20分ほどで本作の歌詞を仕上げたそうです。こういっては失礼に当たるかもしれませんが、飽くまでもプロの流行歌作家としての“お仕事”で造られた作品と言うことができましょう。小学6年生には意味など理解せずに耳にしておりましたから、前期高齢者の仲間入りを果たした今になって初めて全ての歌詞をマジメに拝読いたしました。すると、しっとりとした曲調に似合わず、実らぬ初恋へのもどかしさを歌った、案に反して情念の籠もった歌詞であることに逆に驚かされた次第でもございます。
この歌が世に出た昭和46年(1971)は、その2年後に所謂「石油ショック」が始まる直前にあたるわけですから、我が国は「高度経済成長」最末期の繁栄を謳歌していた時代でありました。その2年目の水前寺清子『365歩のマーチ』の大ヒットが象徴するように、日本社会全体が「休まないで歩け」ば、自ずと豊かさと幸福が転がり込むと、明るい未来を思い描いて疑いも持たずに突き進んでいた時代であったように思います。前年の昭和45年(1970)には、そのことを眼に見える形で示すかのように「日本万国博覧会」が開催され、9年前に開通した東海道新幹線が空前の観光客を大阪へと運びこみました(小生もその中の一人でありました)。天井知らずの経済発展がこれからも永遠に続くだろうと、誰もが夢見ることの出来た最後の時代であったとも言えるのかもしれません。昭和47年(1972)6月には自由民主党総裁選を控えた田中角栄が「日本列島改造論」を政策綱領としてぶち上げ、同年7月の総裁選で勝利し内閣総理大臣に就任していることからも、その時代の空気を類推することができましょう。その趣旨とは、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコに、「人・金・物」の流れを巨大都市から地方に逆流させ地方分権を推進させること」でありました。しかし、一方で、金権政治を蔓延させ、地方都市の個性を消滅させ、何処でも似たり寄ったりの「金太郎飴」都市を生み出す契機に繋がっていったことも紛れもない現実でございます。その意味で、「わたしの城下町」が大ヒットした時代とは、まさに日本社会全体が、“集団的狂騒”に沸き立っていた時代だったのだということができましょう。かような中で子供時代を過ごした小生にも、そうした時代の空気感は肌感覚として伝わりました。
しかし、その一方で、「わたしの城下町」の大ヒットには異なった時代の空気の芽生えを感じ取ることもできるように思うのです。それは、その前年に大ヒットした加藤登紀子『知床旅情』や(民謡『さらばラウスよ』に名優の森繁久弥が新たな歌詞を付した楽曲で、1965年にリリースされていた楽曲に同年になって火が付いたのです)、「わたしの城下町」翌年にヒットした同じ小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』からも、何処か同じ匂いを感じさせられるのです。それは、これら3曲からそこはかとなく伝わる、社会全体の狂騒から一歩身を引き、静かに日本社会や日本の心を見直してみたい……という、よりパーソナルな心情に他なりません。つまり、斯様な心情の芽生えこそが、古き日本の風景や心情を伝える楽曲が爆発的な受容を生み出した、大きな背景になっているのではないかとの観測でございます。そして、そうした国民の心情の変化を敏感にも察知して、商売に結び付けようとした動向が登場することになります。これが、同年輩の方であれば誰もが懐かしく思い出されるであろう、昭和45年(1970)10月14日(「鉄道の日」)から、当時の国鉄によって大々的に展開された「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンに他なりません。「日本を発見し、自分自身を再発見する」をコンセプトとして打ち出された本キャンペーンには、「美しい日本と私」と銘打たれた副題が添えられもおりました。国鉄の経営戦略は、これまでの国内旅行の在り方を「団体旅行」一辺倒から、よりパーソナルな「個人旅行」への転換を促すことにあり、より直近の問題としては同年10月閉幕した大阪万博終了後の顧客確保対策であったとも言われております。しかし、当時の人々に芽生えていた心情を過たず射貫いたことも紛れもない事実だと思います。だからこそ、今でも語り伝えられるような大きな経済効果を生み出したのでありましょう。そして、そのメインターゲットは戦後社会進出著しい若い女性層であったといいます。余談とはなりますが、その2年前となる昭和43年(1968)に「ノーベル文学賞」を受賞した川端康成の授賞式講演「美しい日本の私」に瓜二つの副題であったこともあり、本副題の使用を御本人に打診し川端の快諾を得たとのことです。また、この成功体験は国鉄に「柳の下の泥鰌」的キャンペーンを次々に促すことになります。昭和53年(1978)山口百恵『いい日旅立ち』もまた、国鉄の旅行キャンペーンソングとして世に出たものでございます。
「ディスカバー・ジャパン」と申せば、古き良き城下町の風情を色濃く残す、金沢市内にある麦芽飴の老舗「俵屋」を映した印象的な宣伝ポスターが、車内や駅に賑々しく飾られていたことを朧気ながら記憶にございます(伝統的町屋の店頭を横切る和服に蛇の目傘姿の女性を、アンノン族風情の若い女性2人が珍しそうに眺めている構図でありました)。しかし、それ以上にテレビ・新聞等のマスコミに採り上げられ、「ディスカバー・ジャパン」なるキャッチコピーとその有するイメージが国民に刷り込まれたことが、経営戦略として絶大な効果を生み出したことは間違いございますまい。今でも番組自体は半世紀に亘って継続する「遠くへ行きたい」が始まったのも同年10月のことです。作詞:永六輔(1933~2016年)、作曲:中村八大(1931~1992年)の名曲『遠くへ行きたい』を主題歌とし、永自身が著名な観光地とは言えないような日本各地を訪れ、住民との触れあいを通じて地域の魅力を伝える内容となっておりました。今では何処でもある番組構成ではございますが、当時はホントウに斬新な番組でありました。「知らない町を 歩いてみたい どこか遠くへ 行きたい (中略) 遠い街 遠い海 夢はるか 一人旅 (後略)」と歌う主題歌の、何処か哀愁に満ちた旋律と歌詞の世界に寄り添うような構成は、地方に埋もれ見向きもされなくなっていた日本の良さを視聴者に気づかせる契機にもなったものと思います。永六輔は、その後番組プロデユーサーから番組にグルメ的志向を導入したいと提案されたことに反発し、番組を降板することになりました。日本テレビ系列で放映された本番組の提供が「ディスカバー・ジャパン」を打ち上げた国鉄であったことは申すまでもございません(よく知りませんが“メディアミックス”の走りと言うことでしょうか。尤も現在は後継JRも一切関係しておりません)。同時に容易く個人旅行ができるよう「ミニ周遊券」などの乗車設定が始まったのもこの時期となります。「わたしの城下町」が世に出た背景には、こうした時代状況とそれを反映した企業戦略があったことを知ることは重要でしょう。文化は時代像を映し出す鏡なのでありますから、単体として味わうだけではなく、様々な視点から眺めることで多くの発見に繋がるものと存じます。
そうであればこそ、このことは改めて、小生にとっての「わたしの城」「わたしの城下町」について、諸々と思いを及ぼすことにも繋がりました。取りも直さず、現在千葉の町に屹立している千葉城と、その膝下に広がる千葉の町についてでございます。そもそも、「城下町」とは「城」あっての存在でありますから、両者は密接不可分のものでございます。城下町とは「領主の居館を中心として成立した都市形態」を言い、その成立は戦国期に始まるとされます。一般的には、城(居館)の防衛機能を主とし、領域を支配するための行政機能と、領域の商業流通を統括する機能とを併せ持つ都市形態……なる説明がなされるのではありますまいか。つまり、城無くして城下町無し……なのは間違いありません。後編では、現在我らが千葉市立郷土博物館が入る、通称「千葉城」の存在を考えながら、戦後の城と城下町の復興について考えてみたいと存じております。
(後編に続く)
我々千葉市には通称「千葉城」と呼称される鉄筋コンクリート造の天守閣型の建物が建ち、内部は「千葉市立郷土博物館」となっております(尤も、電話等での問い合わせで、市民の方であっても両者が等号で結び付かないことが屡々であることに内心忸怩たるものがございます)。本館の建つ「亥鼻公園」は、中世城址「猪鼻城」遺構であり、周辺に散在する「七天皇塚」を含め「猪鼻城跡(含七天王塚)」として昭和34年に千葉市指定文化財(史跡)となっております。中心市街地にしては珍しく、この地には土塁や空堀遺構が明瞭に残存しております。如何せん指定されたのが小生の生年と同じ65年も昔のことになりますので、当地が千葉常胤を中興の祖とし下総国に覇を唱えた、中世武士団「千葉氏」の本拠地と考えられていたことが史跡指定の理由であったのでしょう。しかし、現在本市文化財課のホームページにも明記されておりますように、発掘調査の結果を踏まえると、千葉本宗家が本拠を千葉から本佐倉に移した後、同地を実質的に支配していた千葉氏庶流で家宰の地位にあった原氏により、戦国期に整備された城跡であることがほぼ明らかになっております。そして、千葉介が千葉を本拠としていた時代の居館は、都川の北の微高地(中世には「掘内(ほりのうち)」と称された地でした)に存在したと考えられていることも皆様は既にご存知のことでございましょう(正確な位置は未解明でありますが千葉地方裁判所の場所はその有力な比定地の一つです)。
それでは、原氏が猪鼻城を築くまでの亥鼻台地は如何なる場であったのかと申せば、それは中世都市千葉における葬送の地であったと考えられ、周辺の発掘調査でも大量の人骨が出土しているようです。そうなると、第一に、中世戦国期の城に天守閣風の建物が建っていること自体が歴史的に「怪しげ」なこととなります。何故ならば、そもそも天守閣のような高層望楼建築が城郭に建てられるのは織豊政権の成立以降のことでありますから。しかも、目にも眩しき白亜の天守閣建築に拘ったのは徳川家康であったと言います。その意味では、千葉城の建築は歴史的錯誤も甚だしい建築物ということになりましょう。所謂「ホンモノ」から外れた、いかがわしい建築と指弾されても致し方のない建物ということになります。二つ目に、猪鼻城が戦国期に造営された城とは申せ、拠点城郭ではなく原氏の本拠であった生実(小弓)城の支城であったと推定されること、また、千葉介の転出後も都市としての機能が継承され繁栄を続けましたが、猪鼻城を中核とした「城下町」としての都市形態を有していたとは想定できないことから、千葉が「城下町」であったことも怪しくなります。どうも、千葉の場合は「城」も「城下町」も歴史的事実からは二重三重に離れたものとなり、大いに分が悪い状況にあると言わざるを得ません。そうした視点だけからすれば、少なくとも天守閣風の「千葉城」は、「マガイモノ」「ニセモノ」であり、いかがわしさ満載の建物であると言われても仕方がございませんし、そのような城の周囲に所謂「城下町」が広がっていたことは考えられません。ご批判は、甘んじて受け止めるしかございません。しかし、改めて「ニセモノ」と「ホンモノ」の境界線とは何処に在りや……を問い直してみる必要はありそうです。
実のところ、歴史的考証から適切とは言い難い「千葉城」建築に対しては、歴史的なピューリタニズムの観点から、小生も一貫して苦言を呈してきた経緯がございます。しかし、現在の立場となって、様々な方々の話に接したりすることを通じて考えさせられることも多く、次第に本館の建物について別の見方もできるようにもなりました。それは、本館建設の旗振りをされた当時千葉市長であった宮内三朗(1889~1972年)[千葉市長在職期間:1950~1970年]氏の思い(願い)に触れたことが大きかったのです。勿論、宮内氏は鬼籍に入られておりますが、その下で本館建設事業に一から携わった経験を有する、90歳近い市役所職員OBの方から数度に亘り、その経緯を窺ったことが契機でとなりました。このことは、以前にも書き記したことがあり繰り返しにはなりますが、戦後本市が工業都市建設を目指すなかで築港した「千葉港」に入港する国内外の船舶が、一目で“ここが千葉市!!”と認識可能となる象徴的建物を建設する意図が宮内市長にあったということでございます。木更津から北の千葉県域は特段に標高のある山も、特色ある形から航海の目印となる「日和山(ひよりやま)」のような自然地形はございません。只管、平坦なる台地が連なるばかりでありますから、海から眺めれば何処も同じ風景となりましょう。確かに、これでは「ここが千葉市である」と船員が目視により判断することは難しかろうと思われます。
だからこそ、歴史的な整合性は脇に置いても、当時は中世武士千葉氏の城跡と認識されていた猪鼻城跡に、城を象徴する天守閣の建設が決まったということです。恐らく、宮内市長には、本館建設直前の昭和40年(1965)に千葉港が「特定重要港湾」に格上げされたことが念頭にあったものと推察されます。案の定、その時代であっても現在の文化庁の前身組織から、歴史的な適性を欠く建設には補助金を出せないと苦言を呈されたようです。しかし、当該OBの方々の工夫により自主財源をどうにか捻出することが叶い、建設が可能になったとのことでした。その結果、昭和41年(1966)3月に着工、翌年3月に早々に竣工した「千葉城」は、千葉市観光課の所管施設「千葉市郷土館」として産声を上げたのです。それが、現在の通称「千葉城」に他なりません。その後の歩みを概観しておくとすれば、後に教育委員会へ移管となり、昭和58年(1983)3月「収蔵庫」完成をもって、同年4月から名称を「千葉市立郷土博物館」と改め、主として歴史・民俗系の“登録博物館”として再スタートを切ります。更に、平成12年(2000)からの耐震工事、平成19年(2007)のプラネタリウム・天文普及事業終了を経て現在に到っております。何れにしましても、「小田原城」復興天守をモデルにデザインされたという本建築は、既に半世紀と少々という長い月日を経て今に到っているのです(よく見ると小田原城とは相当に意匠が異なるのですが、総体として受ける印象は確かによく似ております)。よく言われるように「50年経過すれば文化財の資格を有する」のであります。確かに、中世城址に建つ建築としての在り方は、鉄筋コンクリート造であることを含めて悉く史実に反しております。しかし、「高度経済成長」という千葉市の一時代を伝える貴重な「歴史の証人(証物!?)」に他ならないことは、何方にも異論はございますまい。
つまり、近世天守閣風の本館建築は、千葉市の「高度経済成長期」の歴史を表象する貴重な「歴史文化遺産」に他ならないのだと、今の小生は考えることができるようになったということです。その意味において、本建築は決して「ニセモノ」でも「マガイモノ」でもないと言えるのではありますまいか。そもそも、本館が消え去ってしまった千葉市の景観を想像してみてください。瞬く間に、四角四面の高層マンション等々しか目に入らない、千葉市ならではの特色の欠片も感じさせない、何処にでもある平凡な街の光景へと転じることでしょう。威容を誇った明治のルネサンス様式の煉瓦建築であった旧千葉県庁舎も既にこの世から消え去っております。高度成長期の「古きは悪だ」なる社会風潮が吹き荒れる中、昭和38年(1963)に解体の憂き目にあってしまったからでございます。今残っていたらどれほど魅力ある千葉の町の景観に資することになったかと思うと、心底残念でなりません。その跡地は公園になっており別の建物が建っている訳ではないのです。残ってさえいれば活用法は幾らでもあったでしょうに……。もし残っていたら間違いなく国指定重要文化財になっていたことでしょう。その意味でも、半世紀以上を経過した建築である本館もまた、単なる老朽建築とはとらえてはならないと考えます。勿論、これは市としての公式見解では一切なく、単なる当方の個人的見解に過ぎません。しかし、考えてもみてください。本館を遡ること36年も前となる昭和6年(1631)、同じく鉄筋コンクリート造で再建された大阪城天守閣が、築90年を越えた今も健在であり、平成9年(1997)に「国登録有形文化財」となっていることを。こちらは、近世大坂城の天守台の上に、福岡藩黒田家伝来品である『大坂夏の陣図屏風』に描かれる豊臣大坂城天守閣の姿を模した天守が建てられたのです。従って、復興大阪城天守とは、城郭建築として史実に則った復元では全くありません。しかし、登録文化財は文化財指定の予備軍でありますから、登録された理由には復興当時の社会の在り様が根拠とされ文化的価値ありと認められたことになります。そのことを、千葉城を有する我々千葉市民も考えてみれば自ずと答えが導かれましょう。勿論、市民に誤った歴史認識を齎すものであってはなりません。その前提として重要なことは、「中世城址の近世城郭の建物があること自体は誤りである」事実は正しく伝え理解を進めることであり、その上で現代史の中に正しく位置付けて歴史認識を形成していただくことにありましょう。
繰り返しになりますが、本館の建設には、第一に国内外の船舶の「千葉港」入港の日和山的機能が期待されたこと、第二に当初観光課によって所管されたことからも自明なように、目立った観光施設の無かった千葉市中心街に本市の歴史を伝える目玉施設が必要とされたことも背景となっておりましょう。確かに、本建築は正しい形で歴史を伝えることにはなっておりません。しかし、過去から目を背け、今の繁栄ばかりを追い求めていたイケイケドンドンの時代に、市民の方々に本市の過去に目を向けていただく切っ掛けをつくった建物とも言えるのではありますまいか。本館の建設は、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーン開始と小柳ルミ子「わたしの城下町」大ヒットを4~5年遡りますが、「千葉城」もまた高度経済成長とその前後の時代の要請に基づいて建設された、時代を象徴する建築であり、決して「ニセモノ」でも「マガイモノ」でもないと評することができるものと考えるのです。一方、その膝下に広がる千葉の町が「城下町」かと言われれば、そもそも猪鼻城の在った時代にここが城下町であった史実はない訳であり、小田原のように明治に到るまでは過たず「城下町」であった都市に天守閣が復興されるのとは位相が異なりますから、「そうではありえない」と申し上げるしかないものです。しかし、例えば、企業に関わる人々が、自らの生活を成立させるために、また盛り立て支えるために、その周辺に居住する町を「企業城下町」と称するように、千葉市民にとって千葉市に居住することの精神的な紐帯を思い起こさせる建物が「千葉城」であるとすれば、自ら居住する千葉城の見える街を「わたしの城下町」と認識できることにはなりましょう。江戸時代の城下町では、聳え建つ領主の居城を見上げて畏怖の念を抱いたのかもしれません。しかし、現在の我々にとって、政治家・役人の働く「千葉市役所」を眼にして、畏怖の念も誇りを持てるとは到底考え難いものです。もし、そうした思いを抱けるモノがあるとすれば、それは本市の歴史や在り方を体現するようなシンボリックな施設・モノに対してでございましょう。小生は、それが通称「千葉城」であっても聊かの違和感も抱きません。また、そうした心情が市民に共有されることが、「わたしの城下町=愛する我が町」の形成に繋がることではないかと存じます。
さてさて、ここまで来て今更のごとくになってしまいましたが、今回の本稿の目的は、標題に掲げました木下直之『わたしの城下町-天守閣からみえる戦後の日本-』2018年(ちくま学芸文庫)[原書は2007年に筑摩書より刊行]を御紹介することにもございました。本書の存在は、畏友小野一之氏に教えていただき知るところとなりました。その契機は、同窓旅行の打ち合わせの際、池袋の喫茶店で「千葉城」建築の成り立ちと歴史的価値について思うことを話していた時のことでありました。その時にその概要を拝聴し、更に千葉城も2か所で触れられているとも伝えられ俄然興味が湧きました。実際に読み始めたのは1カ月程後のことでしたが、教えられることの実に多い、滅法面白い内容であり、アッと言う間に読了いたしました。木下氏の語り口は実にエスプリの精神に溢れており、笑いありシニカルな皮肉在りで……電車内での通読で何度吹き出しそうになって周囲を見回したか知れません。その内容は城の天守閣が戦後に再建されていく過程と、その歴史的な意義を戦後社会の変遷に位置付けて述べるものであり、実に示唆に富む極めて優れた歴史書でもございます。本書では小柳ルミ子『わたしの城下町』については一言も触れられてはおりませんでしたが、恐らくそれを十分に意識したタイトル設定であるものと拝察いたします。タイトルがタイトルだけに、何時もの小生の悪い癖で小柳楽曲にかまけているうちに前編のほゞ全てをそのことに費やしていまいました。その結果、本書に触れることが限られてしまったのです。他にもご紹介したきことが山のようにあるのですが、以下の内容のみとさせていただきます。
最後になりますが、本稿と直接的に関係する、本書の第6章「お城が欲しい」を採り上げたいと存じます。そこでは、千葉城建築の際にモデルとされた戦後の小田原城天守閣復興のケースが採り上げられております。戦争が終わって10年が経過した昭和30年(1955)、明治初期の段階で既に建物を失っていた小田原城天守台上に「観覧車」が出現したのです。城跡の有効活用のための一貫として、子供達が楽しく過ごせる場をつくろうとしたのでしょう。その名残は、今でも天守閣膝下に小遊園地・動物園に見ることができますし、小さな子供達が愉しそうに遊んでいる姿からは当時の空気感を想像することもできます(そういえば2月に訪問した姫路城内にも動物園がありました)。しかし、一年後に市民からの「天守台に観覧車は情けない、本物の天守閣が欲しい」との願いが湧き起ったそうです。そうした市民の声を基盤に、小田原市長を顧問、小田原商工会議所会頭を会長とする「小田原城天守閣復興促進会」が設立されたとのことです。その背景には、天守閣があれば観光資源になるとの思いが大きなものであったといいます。それまでの小田原は、一大観光地「箱根」と東京との往復の際、トイレに立ち寄るだけの役割しか有しないと揶揄されていたそうで、「箱根の便所」との不名誉極まりない異名を奉られてもいたとのこと。必然的に、地元ではこうした汚名を返上したいとの願いが強かったと言います。そして、その願いは、昭和33年(1958)小田原市長による「天守閣復興計画」発表へとつながったのです。その時点で、「富山・岸和田・岐阜・浜松・和歌山など、空襲で焼野原にされた六つの都市で、すでに天守閣が復興していた。さらに翌年の春に岡崎城と大垣城で、秋には小倉城と名古屋城で、天守閣が再び姿を現した」(本書)といった動向のなかで、「バスに乗り遅れまいとする気持ちもあったに違いない」と木下氏は述べておられます。日本人の心性からもさもありなんと思わせます。千葉城のケースも、それから若干遅れは致しますが、そうした社会全体の文脈に位置づくことはほぼ間違いございますまい。尤も、千葉の場合は上に記された全ての都市と異なり、そもそも近世には城が存在しなかったという違いがありますが。
その上、昭和34年(1959)には、小田原の隣町である熱海でも「熱海城」が出現することにもなりました。そうです、新幹線で熱海駅を通過する際、海岸線の断崖上に忽然と姿を現すあの天守閣建築であります。ご存知の通り、歴史的に熱海は温泉町であって城下町でも何でもありません。この城は、地上9階、地下3階の大坂城や名古屋城をも凌駕するほどの巨大天守閣風の建築であり、木下氏の著書には当時の地元新聞記事が引用されております(小生は実際に脚を踏み入れたことはありませんが)。そこには「地下各階はプール、大小浴場、名店街、宇宙館、遊園地、温室、神前結婚式場など、地上各階には美術館、大食堂、喫茶店、名店街、大広間、和室、展望台などの近代施設があり、熱海名所の一つとして登場する」と記されているそうです。これを読む限り信じがたいような施設であります。しかし、木下氏は「熱海城はいささか極端な例かもしれないが、敗戦から立ち直ろうとするそのころの日本人のお城への期待がよく伝わってくるような話だ。全国各地で、こんなふうに真偽入り乱れて、天守閣の建設が相次いだ。これを称して『昭和の築城ブーム』という」と述べておられます。小田原でも、熱海城建設に後押しをされるように建設が進み、昭和35年(1960)に晴れて小田原城天守閣が地上に姿を現すことになりました。そのことについて「こうして昭和35年(1960)5月15日に竣工した小田原城天守閣は、かつての小田原城に少しずつ『似せたもの』(天野註:鉄筋コンクリート造で外観のみを復元したこと、また最上階からの眺望確保のために史実に反する江戸時代小田原城天守には存在しなかった廻縁回廊を敢えて設営したこと等を指す)という意味では正真正銘『ニセモノ』であるかもしれないが、当時の小田原市民にとっては、観覧車の代わりにようやく手に入れた「ホンモノ」のお城であった」と木下氏が書き記されていることに、小生は限りない共感を覚えるものです。こうした動向を、現在の視点から「正しい歴史を伝えない」と糾弾するのは、余りに戦後復興に寄せる市民の願望を踏みにじることになりはしまいかと考えるからでございます。そして、そのことは詰まるところ、千葉城のケースで上述しました通り、「ホンモノ」と「ニセモノ」との境界線とは一体何処にありやという問題に繋がる問題でもございます。
以下、本書の「あとがき」にあたる「お城とお城のようなものをめぐる旅を終えて」の末尾を引用させていただきます。纏まりがつかずに“とっ散らかった”ままの結論を、木下氏に代弁していただき、時間切れの講談のように“強制終了”とさせていただきたく存じます。長らくのお付き合いを頂きありがとうございました。兎にも角にも、木下直之氏『わたしの城下町-天守閣から見える戦後の日本-』は絶対のお薦め書物でございます。
各地のお城が、明治維新を境に一気に「無用の長物」を化したことは、本文で見てきたとおりだ。だから取り壊された訳だし、壊されないまでも荒廃は急速に進んだ。ほどなくして、それを保存しようとする気運が高まる。彦根城、名古屋城、姫路城がその先陣を切った。やがて、各地で、住民たちの間に、お城を史跡としてとらえる新たな価値観が芽生えた。かれらの手で城跡は整備され、取り壊しを免れた天守閣の多くは、昭和4年(1929)制定の国宝保存法によって国宝に指定されている。
[木下直之『わたしの城下町』2018年(ちくま学芸文庫)P404~405より] |
あと一回を残す播磨国への同窓旅行から一端離れ、今回は3月末日「山の神」と出かけた近場への訪問について話題としたいと存じます。この御時世、間髪を入れずに旅行に出かけて豪勢なことだ……と、白い目で見られる可能性が高いかもしれませんが、決してかように結構なるものではございません。こちらの目的は、大きな声では言えませんが「自分だけ旅行に出かけて美味しいものを食べて……」なる「山の神」の怨念を鎮めるための「神事」(苦笑)に他ならないからでございます。平たく申せば、我が家における波風を荒立てぬための危機回避対応であります(もっと卑近な言い方では“ガス抜き”というヤツであります)。当然、内容は「山の神」の希望の実現にありますから、こちらの意向は二の次・三の次となります。尤も、折角出かけるのですから若干はこちらの希望も叶えたい願望もありますが、それは極々遠慮がちに遂行せねばなりません。また、こちらからの「贅沢」の提案は御法度であり、相手の口から言うように仕向けるのが賢い対応になります。従って、行程等の提案は「節約」に“配慮しているアピール”を表明することが肝要となります。従って、全ての行程は基本的に可能な限り普通列車での移動(運賃のみとなりますから新幹線利用のほゞ半額で済みます)、しかも、宿泊は2度目となる格安チェーン経営の温泉ホテルとなります。その分、昼食で少し贅沢ができます。つまりメリハリある計画が何より重要であります。ケチりながらも、盛るべきは盛る……その匙加減こそが大事でございます。特に食事は重要であります。山の神の希望は「静岡おでん」を食してみたい……でありました。それを聞いてホッとしましたが、これで頭に乗ってはなりません。戦略としては、翌日は起死回生の贅沢メシを提案せねばならないと戦略をたてます。宿泊先は伊豆の「大仁(おおひと)温泉」でありましたから、往復での乗り換えは三島駅となります。そうとなれば、翌昼は三島名物「鰻重」決め打ちが定石となりましょう。その小生の提案は案の定“吉”と出て、「山の神」からの御託宣として下ったのでした。小生も鰻は大好物でありますが、この御時世シラスウナギの不漁で高値を呼び、斯様な折でもなければ滅多に口にできない超高級品となりました。斯様な訳で、今回は歴史的なことにも触れますが、そもそも、旅の目的はそもそもそちらにはございません。従って、それらは簡単に済ませ、ご当地グルメが「名物に旨いものなし」なものか否かを含め、そうした周辺雑事をも採り上げてもみようかと存じます。
さて、最初の訪問地を静岡市と定め、往路は東海道本線を利用することにしました。東京駅を7時前後に出る普通電車にて一路西を目指します。唯の一度、終点の熱海駅で浜松行に乗り継ぐだけで静岡駅に到着できますから気楽な列車旅となります。さぞかし時間を持て余すだろうとの心配は一切ご無用。車窓右手に見える大山や周囲に聳える丹沢山系、そして次第に近づく富士の偉容を追いつつ、小田原を過ぎれば相模湾と伊豆の島々が見えて参ります。丹那トンネルを抜ければ富士はもう目の前になりますが、いつ見てもその立ち姿に感銘を受けます。そうこうしているうちに、左手にちらちらと駿河湾も見えてまいります。季節になれば河川敷を桃色に染める桜海老の天日干を見ることが出来る富士川を渡れば、薩埵峠を控える景勝地の由比はもうじきです。汀近くを走る車窓から早春の陽光眩しき駿河湾を堪能できます。かように車窓に次々に展開する移り変わる景観を楽しめるのが、鈍行列車の何よりの楽しみです。そうこうしている内に、11時前には静岡駅到着となりました。「静岡おでん」の店は山のようにございましたが、流行に乗じた俄か仕込みの店は御免ですし、そもそも「おでん」ですから気取った感じの店など絶対にお断りです。下調べで、100年程も昔から駄菓子屋風に焼き芋・大学芋と静岡おでんの販売をしている店を発見。持ち帰りも店内での飲食も可能とのことで、迷うことなくそちらに伺うことにいたしました。それが、駿府城跡の北で店舗を構える「大やきいも」なる店でございました。
静岡市内で使える時間は僅かに3時間ほどでありますから店舗まではタクシーを利用することにしました。駅前から乗りこんだ、その運転手氏は気さくで話し好きの初老の方でしたが、驚いたことに行き先を告げてから到着まで、車内で開陳された話題は「静岡おでん」への悪口雑言に終始しておりました。その主張を掻い摘んで記すとすれば、静岡では一般の家庭では透き通った出汁のおでんを食しており、煮込んだ真っ黒な「静岡おでん」は一般的なものではなく、あれを以て静岡名物とするのは遺憾であるとの主張でございました。悪気はない話し振りでしたから、嫌悪感は全く抱きませんでしたし、むしろ名物が地域住民にとっては決して一般的な者と限らないことを知れて大いに愉快でありました(山の神は「楽しみにしていたのに」と少々憤慨気味でありましたが)。そして、10分もせずに到着した店舗は、青いトタン屋根に同色庇を突き出した木造平屋建築、やれた感じの臙脂色の暖簾を下げた、実にいい感じに仕上がった店舗でありました。ざっと築50年以上は経過していることでありましょう。狙い通りの外観であります。内部も土間敷、大きな焼き芋釜が幾つか土間に並び、これまた昭和を絵にかいたような木枠ガラスケースに、旨そうに焼けた薩摩芋・大学芋・握飯等々の軽食がならびます。そして、お目当てのおでんは、よく見かける6槽に分かれた四角の“おでん鍋”に噂通りの真っ黒な出汁がなみなみと満ち、そこに全て串刺しにされたおでん種が並びます。店内の煤けたような天井や柱の色合い、客席はパイプにビニールを張った背もたれのない円椅子に安手のテーブル。店の内外ともに、狙って作り込んだセット風のものではない、昭和から時間が止まったようにして引き継がれる、真正の昭和感満載の風情でございます。それを味わうだけでも訪れる価値がございましょう。小生など趣溢れるこの空間だけでお腹一杯の思いに満たされた程でありました。
こうしたスタイルのおでんが静岡の地で食され始めたのは大正期とのことです。特に戦後に肉食文化が広まると、当時は廃棄対象であり手軽に入手できた牛スジ肉・牛豚鳥モツ肉等で出汁を採り、味付けに濃口醤油を用い長時間煮込むこと、出汁は継ぎ足しを繰り返すこと、更には静岡特産の練物である「黒はんぺん」(身だけでなく魚肉全てを擦りこむために黒っぽい色となったハンペン)から滲み出る色が、それぞれ混然一体となった黒い出汁のおでんが誕生したようです。主たる“おでん種”としては、上述の黒はんぺんを除けば、茹卵、糸蒟蒻、ジャガイモ、牛スジ等の定番が殆どですが、一般的に定番である「大根」は入っておりません。店のおばちゃんに尋ねたところ、出汁が薄まってしまうので昔からの店では使わないとのことでした(従って新しく始めた店舗では扱うことが多いようです)。当店では、如何にも駄菓子屋感覚で、食べたいおでん種を自身で選んで皿に盛り、最後に串の数(焼き芋はグラム単価販売なので値段の書いた紙が渡されます)での勘定となります(串頭の形状で値段を判断)。食する前に「練辛子」を用いるのは同じですが、同時に「だし粉」(魚粉・青海苔)をたっぷりと振り掛けて食するのは他では見ない特色です。そういえば「富士宮焼きそば」も似たような「だし粉」をふんだんに掛けますから、静岡県では一般的な食文化なのかもしれません。肝心のお味の方ですが、運転手からの“ディスリ”意見に反して、他では味わえない個性的なおでんとして美味しく頂けました。まぁ味の好みは人それぞれでございましょうが、東京下町育ちで駄菓子屋に散々にお世話になった小生にすれば、駄菓子屋でおでんなどを食する風習はございませんでしたから、なかなかに贅沢なB級(C級?)グルメだと思いました。もう一度食したいかと問われれば、迷うことなくイエスと答えることは間違いございません。少なくともその一ヶ月半ほど前に食した、“生姜醤油”をかけて食することを特色とする「姫路おでん」より、遥かに特色ある独自のおでん文化の産物だと思いました(それを用いなければフツウの関西風おでんではありますまいか)。因みに、当店の名称の由来となっている、小生大好物の「焼き芋」も、塩を敷き詰めた壺釜で焼かれているため、ほんのり塩味が効いており、実に美味しゅうございました。「山の神」念願の一つが無事にクリアーできただけでなく、自身にとっても貴重な食体験となった重畳の口切となったのでした。
その後の静岡市内の散策については極々簡単に。14時過ぎの普通列車で三島へ向い、そこからは伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換え、終点「修善寺駅」2つ手前の「大仁駅」に夕刻までには到着せねばなりませんから、左程余裕のある日程ではございません。静岡市は徳川家康が幼き頃に、今川氏の人質となっていた時代、及び幕府を開いた後に隠居城とした拡充した駿府城があり、そちらが家康の死没地であるなど、家康との縁の深い地であります。そもそも、静岡は明治以降に名付けられたもので、江戸時代までは「駿府」と呼ばれました。それは、ここが駿河国の府中であったことに由来します(甲斐国の府中が「甲府」と呼ばれるが如し)。「府中」とは、古代律令制下の地方統治機関である国府(国衙)機能が、平安後期以降になって中世的な地方中枢都市として変容を遂げた結果として発祥した都市の呼称でありましょう。尤も、東京都の府中市は武蔵国国府の地でありますが、そのまま「府中」でありますし、地域毎に呼称は様々のようです。この旅で翌日に訪問する三島市も、天武9年(680)に駿河国から分離されたとされる伊豆国国府が置かれていた地ですが、少なくとも近世には既に府中とは呼ばれてはいないようです。つまり、この静岡市も今川・徳川の本拠である前に地域支配の拠点としての長い歴史が存在しているのです。今川の館が何処にあってどのような姿であったかもわかっておりませんが(恐らく家康の駿府城築城で上書きされてしまったのでしょう)、それ以前の国府の所在地も明確ではないようです。そのことも踏まえて、まずは近くの「浅間神社」への参詣から。
こちらは、正しくは「静岡浅間神社」と言い、「駿河国総社」を称しております。広大な境内には、延喜式内社である大国主命を祀る「神部(かんべ)社」、此花昨夜姫を祀る「浅間社」、大市此売命を祀る「大歳御祖(おおとしみおや)社」の3社が併存しており、それら神社総体をかように称しているとのことであります。ただし、元来の総社は「神部社」であったそうですが、既に平安末からこの形で駿河国総社(惣社)として扱われていたようです。律令制下では各国へ赴任した国司の着任後に、国内神社を順に参拝することが重要な任務とされておりましたが、平安時代後期になるとその煩瑣を省くため、国府(国衙)近くに国内祭神を集めて祀ることが行われるようになります。これが「総社」であります。従って、総社があれば、国衙はその近隣に存在したということができます。実際、社務所にいらした老齢の神主氏に国衙の場所を訪ねたところ、やはり浅間社の前にある民家の櫛比する辺りが想定されていると仰せでありました。
千葉市内の稲毛にも分社のある「浅間神社」は霊峰富士を御神体とする社であります(稲毛からは東京湾の向こうに屹立する芙蓉峰を臨むことができますからこの地が礼拝場だったのでしょう)。その大本は、同県富士宮市にある「冨士浅間本社」であり、静岡の浅間社もそちらから分祀された新宮となります[駿河国「一の宮」も富士浅間本社です(そもそも各国「一の宮」制自体の成立も平安末期とされております)]。富士山と向き合う形で東向きに建つ、江戸後期文化年間再建になる2階建形式の大拝殿(国重要文化財)は現在改修中で、生憎すっぽりシートで覆われてしまって拝見できず残念でありました。何れにせよ、今川・徳川家の信仰厚かった静岡浅間社にはしっかりとお参りをする必要がございます。何せ、その対象は富士山であります、早い話が火を噴く「山の神」なのですから……(汗)。参拝を終えた後は、駿府城公園(駿府城跡)を抜けます。現在、明治維新後に破壊され堀が埋められた本丸跡の発掘調査が進んでおり、その現場が公開されております。今であれば日本最大規模と称される天守台基礎構造を見ることも出来ます。静岡には何度も訪れておりますが、発掘現場を見るのは初めてです。山の神は関心無し……でありますから、山の神には茶屋で休んでもらい一人で拝見しました。勿論、上部構造は全て破壊されておりますが、地中に埋まっていた基礎構造からも判明する、聞きしに勝る大規模な天守台の姿に圧倒されました。あの巨大な江戸城天守台の規模を更に上回ります。流石に大御所家康の城であります。返す返すも明治以降に本丸を破壊してしまったことが惜しまれます。豊臣大名時代の築造と想定される一次天守台遺構も重なるように残り、その姿も拝見出来ます。今後、如何なる形で保存されるのか、整備されるのか知りませんが、今の形で見ることが出来るのは長くはありますまい。お城好きの方であれば出かける価値は十分にございます。数年前に新規開館した「静岡市立歴史博物館」も館内を見る余裕がなく、急いで図録購入だけを済ませ、市内の目抜き通りの散策をしてから電車に飛び乗って大仁温泉へ向かいました。
宿泊した大仁温泉は、昭和24年(1949)開湯の新しい温泉地であります。そのことは周囲に民家が多く、所謂温泉街が形成されていないことからも知れます。元々、この地には金を採掘する大仁鉱山が明治時代に開かれたのです。しかし、坑道から温泉が湧出して採掘作業が不可能となったことから、それを温泉に転用することになったとのことであります。狩野川を臨む丘陵状の上の温泉地からの富士山眺望は素晴らしく、その地に高級温泉ホテルが建設されました。今回宿泊した大仁温泉ホテルも、西武系列の名門ホテルでしたが、現在は格安料金を売りにするチェーン経営ホテルに買収されております。ただ、広大な庭園と素晴らしい富士の眺望、湧き出るさらりとした泉質、そして敷地内に離れ座敷を10数棟がそのまま維持されている等、名門ホテルであった片鱗を今も感じることが出来ます。何故ここまでご紹介をしたかと申しますと、こちらが読売巨人軍の名誉監督であり、ミスタージャイアンツの異名を有する長嶋茂雄氏が愛顧されていた宿であったことを知ったからでございます(申すまでもなく長嶋氏は千葉県佐倉市出身であります)。ジャイアンツファンでも、長嶋氏に特段のリスペクトを捧げる訳でもない小生でも、彼が日本野球界の至宝的な存在であることくらいは存じております。その長嶋氏は、現役時代の昭和42年(1967)から同48年(1973)までの7年間、同ホテルを拠点に同地で自主トレーニングを行っていたとのことです。しかも、長嶋氏が必ず指定して滞在した離れ座敷「冨士」が当時のままに現存し、なおかつ今でも宿泊可能であることです。勿論、このことはホテルに到着して初めて知ったことですから我々は極々フツウの部屋でした。確認したところ、空室であれば通常宿泊費に僅かの追加料金で離れ座敷にも宿泊可能だそうです(勿論「富士」にも!!)。もともと格安ホテルを標榜しておりますから大した金額にはなりません。もっとも、離れ座敷で食事が出来ることはできず、その他の宿泊者と同様に食堂でのバイキングになるようです。長嶋氏は、その「冨士」室内に網を張って素振とトスバッティングの練習までされたそうで、その際に付けたバット傷も残されているそうです。更に、伊豆の国市では、当時長嶋氏がトレーニングをした毎日のルーティンコースを「読売巨人軍長嶋茂雄ロード」と命名し、街中にそのコースを示す看板を立ててもおりました。長嶋氏は、ホテルから、その正面の狩野川対岸に聳えるロッククライミングの場としても知られる「城山(じょうやま)」頂上まで、毎日ランニングを欠かすことがなかったとのことです。よく長嶋氏は天才といわれますが、人知れずかくも過酷な自主トレを積んでいたことを知りました。まさに「努力に勝る天才無し」であります。別に宣伝料を頂いているわけではありませんが、読売巨人軍ファンであれば見逃せない“聖地ホテル”ではありますまいか。長嶋氏の宿泊した同じ座敷に宿泊できるなど滅多にないのではありますまいか。まぁ、知らぬは我が身だけで、ジャイアンツファンには周知のことなのかもしれませんが。
一夜明け、三島に戻って三島大社の参詣と昼食を採り、午後には普通列車で自宅へ戻る予定であります。近世の三島は、箱根越を控える東海道の宿場町として栄えた町でございますが、古代にはこの地に伊豆国の国府が置かれ、国分寺・尼寺や総社も存在した伊豆国の政治的中核でございました。伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒を旗印に挙兵し、“イの一番”に攻撃対象として血祭にあげたのが、平家の息のかかった伊豆国目代の山木兼隆であったことからも、頼朝が伊豆国の政治的中枢を掌握しようとしたことが窺えます。また、駿河国の府中(駿府=静岡)では国分寺・尼寺の場所は確定されていないようですが、伊豆国の場合は三島駅の近くに国分寺七重塔礎石が残されております。また、近世東海道に面した「三島大社」が今でも多くの参詣者を集めておりますが、こちらが伊豆国の「一の宮」であり、同時に実質的な「総社」でもありました(全国的傾向は知りませんがこうしたケースは稀なのではありますまいか)。勿論、源頼朝からの尊崇も厚いものでしたから、その由緒からも中世から近世にかけて武家政権からの信仰を集めてきたのです。また、国衙(国庁)は三嶋大社の南方にあったと推定されているそうです。さて、これ以降は、國學院大學博物館で開催された特別展『三嶋の神のモノガタリ-焼き出された伊豆の島々-』図録(2023年)、三島市郷土資料館の企画展『古代伊豆国-国府と国分寺-』図録(2022年)に依拠しながら、小生も初めて知ることになった伊豆国とその地の神々の物語について少々でありますが、御紹介をさせていただこうと存じます。
伊豆国は、郡が三つ(田方郡・賀茂郡・那賀郡)の小規模な国であります。ただ、見逃してはならないことは、現在では東京都に属する「伊豆諸島」がこの伊豆国に含まれていたことであります。確かに、地学的な観点から申しても、この伊豆半島と伊豆諸島は国内で唯一「フィリピン海プレート」上にあり、伊豆半島も伊豆諸島もプレートの北上に伴って南の海から移動してきたという共通点を有する、正に一心同体の特殊な地であったからであります。その点で、現代行政区分よりも、そうした知見などなかった古代の国郡範囲設定の方に遥かに合理性を感じさせるのが不思議な思いともなります。そして、古代伊豆国における「式内社」(「延喜式 神名帳」に掲げられる朝廷が奉弊をささげる社)は92を数え、特に重く扱われるべき明神(名神)大社がその内5社含まれているのです。これは周辺国と比べて突出した数であるようです。例えば、現在の関東地方に相当する地域(相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野)の延喜式内社は、全て併せても130(明神大社はその内17)であることから自明でございましょう。面積比率に換算すると伊豆国への集中が図抜けていることが知れるのです。朝廷が神として恐れ敬う存在であるからこそ奉幣を捧げる存在が「式内社」でありましょうから、伊豆の国にはそれだけ彼らが恐れ敬う神々が集中して存在したことに他なりますまい。もう、標題からして皆様にはその回答は明白でございましょう。
地震・火山等の地殻運動が活発な日本列島でも、この地域は伊豆半島・伊豆諸島の乗るフィリピン海プレートと他プレート(太平洋プレート・アムールプレート・オホーツクプレート)とが鬩ぎ合う極めて特別な場にあることは、皆様も理科(地学)の授業で学んだ記憶があるのではございましょう。つまり、伊豆国は取り分けて地殻運動の盛んな地であり、それをより目に見える形で実感させられるのが、山が火を噴く“火山活動”に他なりますまい。伊豆では他の地域に比較して火山活動が極めて活発であることが背景にはあるのです。勿論、駿河国と甲斐国に跨る富士山自体が本地域における地殻運動と密接に関連しておりますが、伊豆国では今でも伊豆大島・三宅島等の伊豆諸島での火山活動が極めて活発であることは皆様もよくご存じでございましょう。両島での火山活動で島民が島外に避難することになったことは、これまでの小生の人生中にも何度か生じております。そうした火を噴く島々の姿を、原始・古代の人びとは神の業と理解し、奉斎の場が整えられて祭祀が捧げられてきたのであります。実のところ「三嶋」の神々は、現在の三島市に鎮座する前は、伊豆の島々を目前に臨む伊豆半島南端に祀られていたのです(現在の下田市内に存在する「白浜神社」はその本宮の一つだそうです)。更に遡れば、三嶋神は実際に火を噴く島である三宅島に祀られていたとも考えられております。しかし、平安時代中期以降に島嶼部での火山活動が小康を迎えたことを契機に、「神々が霊験を示した島嶼や半島南部から、国府の地へと遷っていった」(國學院大學図録より)という歩みがあったのです。つまり、不謹慎との誹りを免れないかもしれませんが、三嶋の神も、島から半島に渡り「天城越え」(石川さゆり)を経て、平安末になってから国衙の奉斎にとって都合の良い府中の地(現在の三島市)へと変遷を重ねたことになります。このことは三嶋社に期待される機能が、火を噴く神々を鎮めることから、「伊豆国の鎮守」へと変質していったことを意味しましょう。そのことが中世以降に武家政権による三嶋信仰を促すことの背景ともなったと考えられることでもございます。そして、その転換点に伊豆国・三嶋神と深い関係を有した源頼朝が位置づくことは間違いございますまい。これが今に至る「三嶋大社」の歩みに他なりません。小生があれこれ駄弁を弄するまでもなく、極めて優れた國學院大學博物館の図録をお読みくださいませ(未だ在庫はあるようですが発行部数は決して多くはありませんからお早めに!!)。初めて知ることばかりの充実の内容に、小生は大いに感銘をうけました。実はこちらも畏友小野氏仕込みでございます。持つべきものは友でございます。有り難き幸福を噛み締めております。
最後に、三島の鰻についてちょっとだけ。三島といえば「鰻」という程に、三島の鰻が美味であることは夙に知られております。それには以下のような話が伝わると言います。江戸時代まで鰻は「三嶋大社の使い」とされ、三島宿で鰻を食することは禁忌とされていたというものであります。実際に、二代将軍徳川秀忠が三島に逗留した際、家臣某が三嶋大社の神池の鰻を捕獲して食したことが露見し、この者が処罰されたとの言い伝えが残るとも言います。ところが、幕末に江戸に向かった官軍が三島の鰻を捕獲して蒲焼にして食べてしまったにもかかわらず、何の神罰も下らなかったことから、それを機に鰻屋が増えて今日のように繁盛するようになったとの話であります。まるで「日本むかしばなし」のような牧歌的な内容でありますが、事実は如何なるものであったのでしょうか。小生は過去に何度も三島には訪れており、未だ今ほどに高級食材ではなかった鰻をよく食しました。小生のお気に入りは創業70年を越える「うなよし」でありますが、現在移転による店舗建築中とのことでお休み。そこで、旧東海道に面する三島で最も有名な鰻店である、創業安政3年(1856)を伝える老舗「桜屋」で食することにいたしました(もっとも三島鰻食の由来が正しいのであれば明治に到るまでは鰻屋ではなかったことになりましょう)。鰻重一人前5千円近くいたしましたが、流石に上品極まりない爽やかなお味でございました(個人的には食べ慣れた「うなよし」の少し野趣ある味付が好みですが)。ところで、何故三島の鰻が名物なのでしょうか。少なくとも三島は鰻の生産地ではありません。ただ、これには納得の明確な理由がありそうです。それは三島の水(富士山の伏流水)の質が良いことに尽きると思われます。各店とも、鰻を4~5日この水に打たせることで、生臭さや泥臭さを消すことができるのでしょう。過去に何度もペットボトルに汲んで持ち帰った、あの柿田川湧水でいれた緑茶の美味しいことといったらありませんでした。名水ファンではありませんので、全国の旨い水の事はわかりませんが、三島の水の質の高さが図抜けていることは確実です。食物を美味しくする秘訣はよい水にあり……の典型的な事例であると存じます。ただ、今回は柿田川には寄れないことが残念でありました。
1泊2日の駿河・伊豆への訪問でしたが、ともに「国府」のおかれた各国の中核地という共通項がございました。更に、今回お参りした「総社」は双方ともに火を噴く山と島(これも海底から聳え立つ山に他なりません)を祭神として、その荒ぶる猛威を鎮める目的で祀られた社であります。その意味でも、二つの「山の神」にお参りできたことは、誠にもって意義深いものでございました。少なくとも、それから2カ月以上経過いたしましたが、我が身辺での“噴火活動”も鎮静化しており、安穏とした日々を過ごせておりますから。浅間社・三嶋社の霊験誠にあらたかなるものと存じ上げる次第でございます。帰りは、小田原で乗り換え、運賃のお安い小田急で帰りましたが、明るいうちに自宅に到着できたのでした。土産とした伊豆産の「わさび漬け」も他産地のものとは段違いの旨さで、その後のご飯の御供となりました。合掌!!
6月も半ばとなり、本館入口下の土手に植えられている紫陽花が今を盛りと咲き誇っております。紫陽花は放っておくと矢鱈と茂ってしまい手に負えなくなりますが、そうかといってのんびり構えてから剪定をすると、翌年は花を咲かせなくなります。これにつきましては、花が終わった後に間を置かずに刈り込むことが“基本のキ”のようです。我が家の紫陽花も、伸び放題で狭い庭を我が物顔に覆ってしまうのが嫌で、毎年相当に荒っぽく剪定をしておりましたが、それが過ぎた所為か、この冬を越えることができずに枯れてしまいました。まぁ、我が家のものはよく目にする花弁[本当は萼(がく)に相当するモノなのだそうですが]の集合体が丸く集まって咲くタイプであり、しかもピンク色の花は個人的に好みではありませんでした(尤も、これは紫陽花の所為だけではなく我が家の土質にも拠るのですが)。斯様な次第で、「まぁ、仕方がないか……」と諦めてはおりますが、小さい時分から見ていたその場所に紫陽花が無くなって、すっかり空虚な隙間ができてしまったのは、流石に寂しい感もございます。何れにしましても、紫陽花が咲き始めたということは「梅雨」の到来が近づいたということに他なりません。今年は梅雨入りが例年より遅くなると耳にしましたが、遠からず鬱陶しい季節がやってまいりましょう。しかし、例年申し上げますが、我が国の水田耕作には無くてはならぬ“御蔭”の季節(!?)であることは論を俟ちません。小生としましても、逆にその訪れを歓迎し、楽しめる心の余裕をもって遣り過ごしたいと存じております。
さて、標題歌は何時もの塚本邦雄氏のアンソロジーからの引用でございますが、以下の短評で塚本氏も触れていらっしゃるように、我が国の古典和歌で詠まれた「紫陽花」歌は驚くほどに稀なのです。その僅かな作品中の2首となります。皆様もご存知のことでございましょうが、我が家から消え去った、よく目にする紫陽花は、「萼紫陽花(がくあじさい)」から改良された謂わば“園芸品種”でありますから(あの集合体で丸く咲くのを「手毬咲き」と称するようです)、奈良時代の橘諸兄(たちばな の もろえ)と新古今歌人の藤原家隆の見た紫陽花が、萼紫陽花であったことは間違いありますまい。小生は初めて知りましたが、そもそも萼紫陽花は日本原産種だそうです。道理で楚々とした花であります。個人的には、紫陽花といえば萼紫陽花というほどに、こちらが好みであります(一方、ヨーロッパで改良された「セイヨウアジサイ」なるものまであるようですが、如何なるものか知りません)。千葉県では、夷隅郡大多喜町「麻綿原高原」、貴重な中世史料を今に伝える日蓮宗寺院「本土寺」(松戸市)あたりが名所となりましょうか。小生は紫陽花の季節に訪れたことはございませんが、鎌倉の「明月院」も“紫陽花寺”の異名で知られます。尤も、この時節は相当に混み合うと聞いたことがございます。まぁ、遠くまで脚を運ばずとも、近場で幾らでも紫陽花を楽しむことはできましょう。雨の季節の楽しみの一つとされては如何でしょうか。因みに、本館下の土手に咲く紫陽花の内、駐車場南側は萼紫陽花の群落となっております。しかし、正面入口下の手毬咲きを映像に納める方はよく目に致しますが、事務室の視界から外れることもありましょうが、萼紫陽花に写真機を向ける方は少ないように思います。控えめな日本原種の姿に惹かれる小生としましては、ちょっぴり残念な気も致しますが、あまりチヤホヤされないでいるのが却って萼紫陽花にはお似合いなのかもしれません。以下塚本氏が短評でご指摘される如く、恰も冒頭歌二首目作者の為人のように……。
右大辨丹比(たぢひ)國人眞人(まひと)の宅に、諸兄が招かれての宴の、席上の贈答歌で、「左大臣、味狭藍(あぢさゐ)の花に寄せて詠めり」とある。「わが背子」は主人眞人。紫陽花は四瓣花の一重で、繖房花序(さんぼうくわじょ)であるが、八重と強調したのだらう。幾代も幾代もの意の「彌つ代」の序詞的修飾としてふさはしい。眞人はこの時「石竹花(なでしこ)」の歌一首を、左大臣に献げてゐる。
[塚本邦雄撰『清唱千首』1983年(冨山房百科文庫)より] |
今回の本稿では2つのことについて話題とさせていただきますが、まず手始めに、今月末に開催される当該時期の本館恒例行事「千葉氏公開市民講座」で講師を務めて頂く先生と、講演概要について御紹介させていただこうと存じます。本年度は、武蔵大学教授で、多くの一般向歴史書の刊行、NHK歴史関連番組のコメンテーター等で大活躍の研究者「桃崎有一郎(ももざき ゆういちろう)」先生をお迎えし、「武士の起源について」の御講演をいただけることになりました。上述の如く御多忙を極めていらっしゃる先生でございますので、お引き受けいただくことは難しいであろうとの観測もございました。ところが、「ダメ元」の思いで御連絡を差し上げ趣旨をお伝えしたしましたところ、御快諾を賜ることができたのです。手前味噌ではございますが、「是非とも桃崎先生の御話をうかがいたい……」と切望しておりました、本館錦織主査の一念が先生に通じたものと存じます。また、ご多忙にも関わらず、それを鷹揚なるお心でお受けくださいました桃崎先生には、衷心よりの感謝を捧げたく存じます。
さて、その桃崎先生は、昭和58年(1978)の御生れでいらっしゃいます。歴史研究者では所謂「大御所」と称されるような方々が、多々現役でご活躍されているいらっしゃるなか、未だ40代半ばの先生も精力的にご活躍されていらっしゃいます。正に「脂の乗った」研究者の方と称して何の問題もございますまい。これまでに上梓された御高著も多く、小生も先生のお名前で上梓される書籍はほぼ購入し拝読をさせていただいて参りました。そして、その何れからも瞠目すべき知見の数々を頂くなど目を見開かされることばかりでございました。巧言令色などを弄する必要など一切無しに、「気鋭の研究者」と呼称させていただくことに何の躊躇もございません。先生は、過去の膨大な研究を踏まえながらも、それらの成果には納得しえないことが多いことを出発点に、その解明に向け果敢に研究を進められていらっしゃいます。そして、御自身の研究成果を、専門誌のみならず一般書でも大胆に御提言をされていらっしゃいます。残念ながら、小生は、先生が本来の専門分野とされていらっしゃる「古代・中世の礼制と法制・政治の関係史」のうち、特に「礼制」について専論された著書に接したことはございません[『中世京都の空間構造と礼節体系』2010年(思文閣出版)、『礼とは何か:日本の文化と歴史の鍵』2020年(人文書院)が、それに当たりましょうか]。しかし、小生が、予て疑問に思って多くの書籍に接しながらも、ほとんど満足のいく回答を得られていなかった個人的な疑問、古代国家において「政治の中枢として機能すべき「大内裏」(そこには「大極殿」が存在します)がその機能を失い廃絶するのは何故なのか??」「天皇の居住空間である内裏がその機能を果たすようになるのは何故なのか??」に対して、初めて納得できる解答に出会えたのは、桃崎先生の一連の著作を通じてでございました。即ち、『平安京はいらなかった:古代の夢を喰らう中世』2016年(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)、『「京都」の誕生 武士が造った戦乱の都』2020年(文春新書)、『京都を壊した天皇、護った武士 「一二〇〇年の都」の謎を解く』2020年(NHK出版新書)という三部作(?)でございます。
因みに、古代末から中世に移ると、内裏自体がこの世にしっかりと存在している時期ですら、天皇がそこには長居することがなくなります。天皇は、主に内裏外の「里内裏(里内)」に居住し、そちらが政治の舞台となって行くことで、内裏自体の機能も失われていくことになると言われます。承久元年(1219)源頼茂(以仁王の令旨によって反平氏の兵を挙げて討たれたあの源頼政の孫で、父の頼兼を引き継ぎ「大内守護」の任に当たっていた)の謀反によって“大内(だいだい)”が焼失します。後鳥羽上皇は“大内”再建に血道を上げるのですが頓挫しております。“大内”は、それ以前の焼失の際にも再建されずに放置されたままのことが多かったようです(白河・鳥羽院の時代もそうだった筈です)。お恥ずかしながら、つい最近村井泰彦『古代日本の宮都を歩く』2013年(ちくま新書)を拝読して知ったことですが、ここで言う“大内”とは、大極殿を含む大内裏を指すものではなく、里内裏(“里内”)に対する正式な内裏という意味合いで当時用いられた歴史用語であり、具体的には「内裏」のことを言うということであります。つまり、焼失したのは「内裏」であり、再建を目指した“大内”も「内裏」であったということでございます。そうであれば、後の後醍醐天皇が再建を目指したのも「大内裏(大極殿)」ではなかったということなのでしょう。この時期に到って、あの巨大な大内裏(大極殿)の再建なのか……と不思議の感を抱いておりましたが、ようやく腑に落ちました。
一方、今回の演題「武士の起源について」と関連する著作として、『武士の起源を解き明かす-混血する古代、創発される中世』2018年(ちくま新書)、その続編とも申すべき『平安王朝と源平武士-力と血統でつかみ取る適者生存』2024年(ちくま新書)がございます。実のところ、初めてタイトルを目にしたときには、これまで儀礼空間としての「平安京」の在り方の変容を追求されていらしたのに、「何故武士の起源なのかな?」と感じたことも正直な思いでございました。しかし、著書を拝読させて頂き、その疑問は氷解いたしました。先生の平安京の御研究によれば、中世平安京の形成に関わったのは、その住人である天皇・貴族にあらず武士に他ならなかったのであり、そうであれば古代都市と中世都市に再構成した武士の存在が、何時、何処で、何故誕生したのかが解明できていなければ、都市の在り方の変容を解明する道筋自体が変わってしまうことになりかねないからであります。しかし、膨大な「武士の起源」を論じた過去の研究の蓄積からは、充分に腑に落ちる説明を得られなかったことから、自らその解明に取り組むしかない……との思いに到ったとのことでございます。つまり、武士とは何かという問題の解決は、実のところ儀礼空間としての「平安京」の解明に不可欠な問題でもあったことに気づかされることになりました。そして、恐らく本質的には、小生は未だ拝読できていない「礼制」の問題とも不可分となることだろうと想像するものであります。つまり、桃崎先生の中ではそれぞれの研究課題を繋ぐ道筋は一本につながっているのだと存じます。
そのことは、歴史の流れとしては更に後の時代を扱う『室町の覇者 足利義満-朝廷と幕府はあいかに統一されたか』で論じられた足利義満の政権構想についても連綿と繋がって行きます。幕府の長としての「征夷大将軍」から、朝廷の代表を兼ねる「室町殿」へ、更には朝廷・幕府を外から超越的に支配する「北山殿」に脱皮したことを御指摘されました(小生の読み違いがある可能性も大きいとは存じますが)。その儀礼空間として機能したのが、巨大な堂塔や就中「金閣」を有する、洛北に造営されたこれまで前例のない「北山第」の存在にあったことであります(明の使節との外交儀礼も本邸宅空間の中で挙行されたのです)。こうして、一見すると取り散らかったように見える著書の追求対象には、通底する問題意識が通奏低音のように響いて居るものと拝察するものでございます。改めて、未読の著書は勿論のこと、過去に拝読させていただいた作品をも、刊行順に読み進めてみたいと存じております。より一層、桃崎先生の思考の回路に迫り得るのではないかと考えるものでございます。今回の御講演は、たったの90分でありますので、その全貌の構想をお話しいただくことは土台無理なことであります。講演標題にそうあるように、主として『武士の起源を解きあかす』と密接に関わるお話になりましょう。しかし、先生の脳裏に描かれる古代・中世史の世界は、より広大な裾野を有しており、おそらく新たなる歴史像の構築へむけての高みを見据えていらっしゃるものと存じます。その片鱗でも会場にてお伝えいただけましたら幸いに存じます。勿論、今後の先生の御活躍をしっかり追い続けたいと存じあげてもおります。皆様も、もし、未だお手にされていないのであれば、まずは今回の演題と密接に関わる本書からお読み頂くのが宜しいかと存じます。その昔「角川映画」キャッチコピーに、「見てから読むか、読んでから見るか」というものがございました。どちらでも構わないと思いますが、大きなお世話を承知で敢えて申し上げるとすれば、御講演を御理解いただくためには、先生が問題の所在を何処に見定めていらっしゃるのかを事前にお知り頂けることが有益かと存じます。更に、御講演の後に再読されれば本問題につきましてのご理解は更に深まりましょう。要するに「聴く前に読み、聴いてからも読む」が宜しかろうと存じあげます。
ところで、本講演会の申し込み〆切日は、副題にも掲げておりますように、本日6月14日(金)となります。本稿がアップされるのは同日午前9時ですから、これでお気づきになられても、“電子申請”でならば未だ残り時間が15時間もございます(往復葉書での申し込みは本日必着でありますので今からでは無理ですが、本館まで葉書を御自身でお届けいただければ間に合います)。ただ、よくお間違えになられる方がいらっしゃいますが、本館のメールアドレス宛に申し込みの意思を伝えても“申し込みエントリー”はされません。千葉市フォーマットにて申し込みをされてください。本館ホームページを開いていただきますと、表紙に「お知らせ」があり、その中に「千葉氏公開市民講座」開催のお知らせがございます。そちらに入っていただけますと、その中に「電子申請」に入り込むリンクが張ってありますので、そちらの「申し込みフォーマット」も必要事項を記入されて申し込まれてください。もっとも、本稿執筆時(締め切り9日前)で既に定員の200名に迫らんとしておりますから、抽選となることはほぼ間違いないことだけは申し添えておきたいと存じます。それだけ桃崎先生の御講演には大きな期待が寄せられていることの動かぬ証拠でございます。抽選の仕儀となりました砌には、お聞きになれない方も出てしまいますが、状況に鑑みて御寛恕の程をお願い申し上げます。
ここからは、もう一つの話題に移らせて頂きます。こちらも会期が目前の明後日(16日)に終了となる、現在「長野市立博物館」で開催中の春季企画展『青い目の人形 記憶から何かへ-戦後80年を目前に』についての御紹介でございます。当企画展のチラシには、その内容について以下のように記されておりますので、まずは以下に引用をさせていただきましょう。
昭和2年の日米親善人業、通称「青い目の人形」は戦時中に排斥の対象となった一方で、一部の人形は隠され、戦戦まで残されてきました。しかし、戦後80年を目前として、戦前の記憶を残す人は非常に少なくなってきています。「青い目の人形」の記憶はどうなっていくのか、考える展示です。 |
何故、ここで本展示会の御紹介をするかと申せば、2年ほど前のことになりますが、現在千葉市内在住で長野県御出身の方から、昭和初期に渋沢栄一が深く関わって実現した、日米親善を目的に日本に送られた「友情人形(フレッドシップ・ドール)」があるので是非とも寄贈したい……とのお申し出が本館にあったのです。本人形は、その後の日米開戦により「敵性人形」との扱いを受け、あまつさえ敵愾心高揚の目的から竹槍で突かれて焼却されたりする等の惨い扱いを受けたこともあって、戦後まで残存した人形は稀であります。従って、その情報を頂いたときには、正直なところ胸の高鳴りを抑える事ができないほどでありました。早速ご自宅で拝見させていただいた人形は、素人目で見ても同時代の人形に違いなく、その方のご実家に伝えられた来歴も含めて、「友情人形」であっても一向に不思議ではないものでありました。しかし、その人形が長野県由来のものである以上、故郷である長野にあって呵るべき物であり、所有者のご了解も頂き長野市立博物館に引き取って頂くことになったのでした。その経緯につきましては、令和4年7月29日付の本稿「千葉市以内で新たな「友情人形」の発見か!?―アメリカ生まれ「青い目の人形」の来し方と行く末―」で報告させていただいておりますので、宜しければお読み頂ければと存じます。
その後、長野市博において当該人形についての詳細な調査が行われました。その結果につきましては、令和5年6月23日付の本稿「故郷『長野』に戻った『友情人形』の可能性を有する『青い目の人形』その後について―長野市立博物館における現段階における調査結果の紹介 または調査担当の方の研究者としての矜持への感銘―」として前後編で御紹介しております(こちらも同上HPでお読みいただけます)。結果は、同時代のアメリカ人形であることは間違いないものの、「友情人形」として日本に送られたものかの確証が得られなかったとのことであります。しかし、同時代にアメリカで製造された人形であることは確実であり、現在の長野市内の旧家に伝わった来歴も確かであることから、長野市博では寄贈された人形を死蔵することなく、展示等に積極的に活用をしていくこと、ゆくゆくは展示会も開催することを考えているとのご連絡を頂いたのでした。そして、翌年に当たる本年度にその展示会が実現したという経緯でございます。アメリカに生れ、戦前に日本の長野にやってきた「青い目の人形」は、理不尽な扱いを受けることが忍びないとお考えになられた、寄贈された方の御母堂様の手によって、密かに守られて戦中を生き延び今に伝わったのです。敵性人形扱いをされたのは、何も渋沢栄一が関わった「友情人形」だけに限りません。「青い目の人形」が家にあると言うことが露見すれば、同じような運命を辿ったはずであります。その人形が、その後当家のご息女に伝えられ千葉に移り、この度晴れて故郷に戻ることになったのです。それを、実際の「友情人形」やその他関連資料とともに展示されているのが今回の展示会となります。残すところ、会期は本日を入れて3日となりますが、もしも週末に長野におでかけの都合がございましたらどうぞ。
実は、4月半ばに長野市博から本展のご案内を頂きました。小生も最初から本件には関わって参った身として、長野の地に戻った人形を是非とも拝見したいと思っておりましたから、会期終了までには必ず伺う旨のお返事をさしあげました。実は、それが本稿のアップされる6月14日(金)でございまして、休暇を取得して長野市博に出かける予定であり、原稿アップの9時に朝一番で長野市博に入館をしている筈であります(余計な事かも知れませんが飽くまでも私費で出掛けております)。実は前日は仕事を終えた足で新幹線に飛び乗って長野へ向かい、2月に同窓旅行に出かけた長野組2人の旧友と一献傾けることになっておりますから当日は少々酒臭いかもしれません。博物館の玄関前に禅宗寺院のように「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と書かれた「戒壇石」でも立っていない限り、余りに“へべれけ(ギリシア神話に登場する女神の名前を語源とすると聞いたことがありますがホントウなのでしょうか)”に過ぎたり、その場で一杯引っかけながらでもなければ、入館は許されましょう。見学後は長野市内の散策をして、昔の信越本線(現:しなの鉄道)の普通列車で車窓の景色を愉しみながら戻るつもりです。尤も、旧信越本線の内、軽井沢と横川間の碓氷峠線は廃線となっており、本区間はバスでの移動となります。新幹線の建設と開通が必ずしも地元民にとって益することばかりではない好例かと存じます。それでも、あちらを14頃に発てば、通常の勤務日における帰宅時間とほぼ変わらぬ時間に帰宅できます。何も倍の値段を支払わなくとも充分に愉しい鉄道旅ができます。「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」のキャッチコピーは、今こそ求められるべき文句なのではありますまいか。長野市博での「青い目の人形」の様子などは、何時か機会がございましたらご紹介をさせていただこうと存じております。
先週の本稿でも触れさせていただきましたが、長野市立博物館で先の日曜日まで開催の春季企画展『青い目の人形 記憶から何かへ-戦後80年を目前に』に脚を運んで参りました。ご招待もいただいておりましたが、先方に御手数をとらせてしまうのはこちらとしても心苦しく、必ず出向かせて頂くが、名乗ることなく拝見させていただくので一切ご対応の必要なしと事前に連絡をしての訪問となりました。今年は遅れておりますが、この時節は我らが関東では梅雨の頃となり、とても爽やかとは言い難き季節でありますが、信濃の地であれば少しは爽やかな風が吹いているだろう……と思っての訪問でございました。確かに、到着した日に旧友と一献を傾けた後の夜風も心地よいものでしたし、翌14日(金)早朝はそれを上回るような爽やかな空気が街に満ちておりました。長野駅前のビジネスホテルを夜明けとともに(4時半)出立し、善光寺を中心に2時間半ほど市内散策をしましたが、涼やかな風を浴びながらの散策は実に爽快であり、流石に山国信州は関東の下界とは段違いだと喜んでおりました。それから2~3時間後に、それが嘘のように灼熱の地と化することなど想像だにしておりませんでしたが。
さて、朝の5時過ぎに到着した善光寺は、既に国宝本堂の扉も開いており、流石に境内は閑散とはしているものの、熱心に祈りを捧げる地元の方々の姿が見られ、古くから阿弥陀信仰の霊場であった本寺の在り方を肌身で感じさせられました。その姿は『一遍聖絵』にも描かれておりますし(本絵巻からは、鎌倉時代には一直線に配置される山門と本堂の間の軸上に五重塔が置かれる伽藍配置であったことが知れます)、近いうちに本稿で取扱う予定の重源上人もその有する浄土信仰を背景に2度善光寺に参っているなど、善光寺信仰は地方レベルのものではなく正に全国区であります。小生もこれで3度目の訪問でございますが、やはり国宝本堂は見応えのある素晴らしい建築です。何よりも長野駅から続く緩やかな登り路である参道を歩むアプローチが素晴らしい。可能であれば、タクシーやバスなどに頼ることなく、長野駅から凡そ30分程の表参道散策を楽しみながら善光寺に赴かれることをお薦めします。今回は早朝故に参道に居並ぶ店舗は全て開店前でありましたが、時間を選べば各店舗に寄り寄りして小一時間程の街歩きを楽しめましょう。本堂周辺には全国からの奉納物が林立しておりますが、その右手に「武蔵國」と大きく刻印された常夜灯を発見しました。そこには世話人として「新宿町」の何某と刻まれておりましたから、てっきり「内藤新宿」周辺に人々による奉納かと思ってよくよく確認したところ、「西葛飾郡」の文字があるではありませんか。他にも「小合村」「青戸村」等々の村名がありましたので、小生の地元の方々が近世末に奉納したものとしれたのです。従って「新宿町」の訓は「にいじゅくまち」となります。千住宿と松戸宿の間にある水戸道中の宿場でございます(摩滅しており亀有村は見出せませんでした)。長野まできて地元の人々の歴史に触れることになり、感無量の思いでございました。
ところで、標題にも掲げましたように、信濃国には古来「みすゞ」なる枕詞(まくらことば)が冠せられることを、この度の長野行きまで何の疑いもなく信じておりました(館の恥を晒すようですが長野県出身の方を含めた本館職員も同様でした)。ところが、実際に枕詞として和歌で如何様に用いられているのか、また「みすゞ」とは具体的には何を指すものかを明らかにすべく調べて、小生は驚天動地の事実を知ることになったのです。何と!!『万葉歌』には信濃国に枕詞「みすゞ」を冠した和歌など存在せず、ホントウは「みこも」であったことです。そして、「みすゞ」を漢字にすると「御篶」で、「みこも」は「御薦」であることから、どうやら見た目で似た文字を誤読して広まったのが、枕詞「みすゞ」の由来である可能性が大きいことまでが判明してしまったです。そうした取違いが生じたのは、恐らく近世末から明治に到るまでの間のようです。信州銘菓に「みすゞ飴」(上田市)がございますが、製造元「みすゞ飴本舗 飯島商店」の開業は明治末年であるようですから、遅くともその頃には取り違えが起こっていることになります。同社による商品案内書を拝見すると、そこにも「信濃国は、昔より枕詞にも『みすず刈る信濃』と歌われる山紫水明の地でございます。その名に因んだみすゞ飴は、新鮮な空気と清澄な水にはぐくまれて、完熟いたしました、あんず・もも・さんぼうかん・りんご・ぶどうなどの自然の風味をそのまゝ加工したお菓子でございます」と高らかに謳われているではありませんか。ということは、地元でもそれを疑問に思われる方は殆どいらっしゃらないということでございましょう。勿論、商品としての宣伝文句には一切の偽りはないとと小生も思います。しかし、「みすゞ」の部分の説明は正確ではないということになります(全くの余談ですが、個人的に「みすゞ飴」は“買って嬉しく、頂いて嬉しい”信州土産のベスト4に入るほどに愛好する御菓子でございます。因みに、他の3つは小布施“竹風堂”の栗羊羹、長野市“利休堂”の杏菓子、諏訪“新鶴”塩羊羹となります。何れも甲乙つけがたい信州銘菓であります)。
また、本来の「みこも」は水辺に生える“イネ科”の多年草「マコモ」のことで(酒樽を包む所謂“薦被り”を編む材料として用います)、「みすゞ」は「スズタケ」を指し主にブナ林に群生する笹(篠竹)の一種だそうですから、そもそも論として両者は全く異なる植物ということになります。しかし、今や「みすゞ」なる言葉は、充分に長野らしさ、信州らしい爽やかさと、密接不可分に分かち難く結びついているものと存じます。逆に、今更「みすゞ飴」を「みこも飴」に変更せよとの無体を申し立てる輩もおりますまい。そもそも、現状で飯島商店に苦情が寄せられているとは耳にしたこともありません。何にも増して、「みこも」に比べ「みすゞ」の語感の美しさが際立ちます。そこからは、爽やかな長野のイメージが、その繊細な味覚としても香り立ってくるように感じさせます。やっぱりお菓子の方も「みすゞ飴」以外の名称はあり得ますまい。少なくとも学問的な拘りを除けば、最早「みすゞ」こそが信州を表象する存在感のある言葉となっていると存じます。果たして皆様のお考えや如何でしょうか。ところで、我らが「総」の国にも、その地域性を象徴するような枕詞があるのでしょうか。残念ながら、小生は無学にして耳にしたことがございません。
かような次第で、当初目論んでいた「みこも刈る」万葉歌の引用は止めにして、少々堅苦しい感のある七言絶句を冒頭に引用させていただくことにいたしました。漢詩人であり、歴史家であり、更には南画家でもあった江戸時代後期を代表する「文人」頼山陽(1781~1832)の手になる、歴史に題材を採った「詠史」なるジャンルの漢詩となります。「詩吟」でも頻繁に採り上げられることで、相当に人口に膾炙した作品ともなっております。今回は信濃国の話題のようだが、なんでまた頼山陽なのか……と思われる方もいらっしゃいましょう。こちらは、山陽本人と信州との関連ではなく(山陽は実際に信州に脚を踏み入れてもおりますが)、本作で扱われた題材と信州との関連からの選択となります。本作は、この地の帰趨を巡って、前後6回に亘った「川中島の戦い」の中で、最も大規模な衝突となった永禄4年(1561)「第四次合戦(八幡原の戦い)」のクライマックスシーンとして伝わる出来事を詠んだ作品となっているのです。申すまでもございますまいが、それが上杉謙信と武田信玄という武将二人による、謂わば“一騎討ち”シーンに他なりません。改めて冒頭詩の題をご覧ください。そこに「不識庵」とあるのが上杉謙信で(この時は「政虎」が正確ですが煩瑣ですから以後も「謙信」とします。因みに出家して「謙信」を名乗るのはこの9年後です。)、それに続く「機山」が「武田信玄」を指します。本合戦の経緯は江戸時代の『甲陽軍鑑』以外の史料は断片的だそうですが、概要としてはざっと以下の通りとなります。
川中島の戦いは、天文22年(1553)から永禄7年(1564)にかけて、信濃川中島における甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信との5回におよぶ合戦の総称である。なかでも第4回の戦いにあたる永禄4年八幡原の合戦が最大の激戦になった。『妙法寺記』は「この年(永禄4年)の10月(9月の誤り)10日に、晴信(信玄)と景虎(謙信)合戦になられ候て、景虎ことごとく人数打死にいたされ申し候、甲州国は晴信御舎弟、典厩(信繁)打死にて御座候」とある。また『信濃奇勝録』に「その時の戦いは東福寺・中沢より始まり、荒堀・杵渕・水沢この辺大戦なり、それより八幡原・陣場河原は別して烈しき大戦なり」とある。この激戦で武田方は、武田信繁・山本勘助・室住虎定・初鹿野忠次をはじめ、多くの将兵を失った。 (『長野市デジタルミュージアム ながの好奇心の森 川中島の戦い』より抜粋) |
この時に戦場となったのは、現在は長野市に属する長野盆地(善光寺平)南部の千曲川・犀川の氾濫原である「八幡原」であります。現在その舞台は「川中島古戦場史跡公園」として整備されております。そして、その一角に八幡社の小祠があり、その脇に“謙信と信玄との一騎討ちシーン”が銅像として再現されております。よく目にする銅像でありますが、小生は今回初めて間近で拝見いたしました。偉人の銅像の類には全く興味がございませんでしたが、木下直之氏が銅像造像の時代背景や経緯等(作者も含めて)を探った書籍をものされております。以前に御紹介させていただきました『私の城下町』内でも銅像への言及が多く、興味深い存在だと思い始めております。ただ、今回の銅像の解説にはそうしたことについては一切触れられておりませんでした。謙信と信玄のそれぞれの銅像を組み合わせてパノラミックに仕上げた作品であり、合戦の最中、突如単騎で信玄の前に姿を現わした謙信が、信玄を討ちとらんと名刀「小豆長光」を馬上から振り下ろさんとする瞬間と、「諏方法性兜」を被って床几に坐する信玄が上半身をのけぞらせながら軍配で受け止めようとする姿とが造形されております。尤も、いみじくも長野市のデジタルミュージアムでも述べられておりますように、かような一騎打ちが実際にあったか否かの真偽は定かではないのです。確かに、物語としては極めて劇的であり、映像構成上不可欠なシーンでありましょう。最近は知りませんが、かつて拝見した歴史ドラマでは必ずこの場面が描かれました。しかも小生が目にした殆どの映像に登場する謙信は、本銅像がそうであるように頭巾を被った法体姿でありました(1969年『天と地と』の石坂浩二も)。先にも触れたように、例え一騎打ちがあったとしても、謙信のヴィジュアルは実際とは異なっていたと言わざるを得ません。
ここまで、お読みになられて、改めて冒頭の山陽の作品を声にして朗されてみてください。内容の如何はさて措き、山陽の名調子に感銘をうけられることだけは間違いございますまい。だからこそ、詩吟で屡々採り上げられる作品となっているのだと存じます。そして、山陽が如何なるシーンを切り取り、如何なる表現で、当該シーンを一編の絶句に仕上げたのか、そのイメージを広げていただければと存じます。因みに、詩中の用語について、「鞭聲粛々」は“馬に当てる鞭の音を抑えひっそりと進む”様を、「大牙」は“大将旗”、「遺恨十年」とは“信玄を討たんと謙信が十年ひたすら剣を磨いてきたこと”を、「流星光底」とは“打ち下ろされた剣が流星のように閃光を発する”一瞬を、「長蛇」は“大敵(この場合は信玄を指します)”を、それぞれ意味しますのでご参考にされてください。なお、妻女山に陣取っていた謙信が夜陰に紛れて山を下り、密かに北上して渡っている「河」が、かの千曲川となります(その下流域が信濃川です)。
実は、ここで頼山陽の作品を採り上げた理由の一つに、この5月に上梓された揖斐高氏の最新刊『頼山陽-詩魂と史眼』(岩波新書)を拝読させていたいたことがございました。頼山陽については、学生時代に接した中村真一郎『頼山陽とその時代』1971年(中央公論社)[単行本の題字は石川淳の流麗なる手になる忘れ難き書籍ですが、小生が実際に手にして読んだのは「中公文庫」版によります。現在も「ちくま学芸文庫」で現役です]によって、江戸時代の漢詩人の広範な交流と豊饒な詩的世界に開眼させていただき、それ以降富士川英郎氏の著作にも触れて近世の漢詩世界への関心が広がっていくことになりました。しかし、両作者ともに文学者である関係もあり、頼山陽について知るところは、詩人としての姿と、親交あった文人との交流に偏ったものとなったのは如何ともし難いものでございました。勢い、大著『日本外史』(平氏政権から11代将軍徳川家斉が太政大臣に任官されるに至る武家政権の成立と変遷を紀伝体で記した通史)、『日本政記』(神武天皇から後陽成天皇に至る日本の歴史を天皇毎に標目をたてて編年体で記した通史)、『日本楽府』(日本の建国と遣隋使を主題とする「日出所」から、豊臣秀吉が明皇帝からの冊法封書に激怒したことを詠んだ「裂封冊」までの66首が収められる詠史集)等の著述はお留守となり、そこに現われた“歴史家”としての実像には触れぬままに過ごして来た嫌いがございます。そのことは、本書「あとがき」で揖斐氏御自身が以下のように書かれていることと軌を一にしておりました。揖斐氏は大戦直後となる昭和21年(1946)の御生れでありますから、戦前教育の反動という強烈な洗礼を小生自身がモロに浴びた訳ではございません。しかし、山陽の歴史モノには、読んでみることもせず、何処となく胡散臭い内容の書籍というイメージを抱いていたのも正直ございました。それには、山陽三男の三樹三郎(1825~1859年)が勤王思想に感化されたことで「安政の大獄」に連在し、橋本左内らと伴に江戸伝馬町の牢屋敷にて斬首に処せられ露と消えたことも関係していたかもしれません(小生は佐幕派に近い立ち位置にありますので!?)。従って、詩作品に親しみを持つ反面、山陽のこれら著作は敬して遠ざけていたように思います。
アジア・太平洋戦争後の日本は戦前を否定することに急だった。戦前にもてはやされた思想や文化は、日本を敗戦に導いた元凶として断罪された。幕末に勤王討幕のイデオロギーとして利用され、明治維新後の人々の歴史意識の形成に大きく影響した頼山陽の『日本外史』もまた、戦後になると否定的な評価に晒され、顧みられなくなった。戦後教育のまっただ中で育った私もまた、その内実を知らないまま、頼山陽は大言壮語する反動的な漢詩人・歴史家、極限すれば煽動家(アジテーター)に過ぎないと思い込み、長らく関心の外に置いていた。 [揖斐高『頼山陽―詩魂と史眼』2024年(岩波新書)「あとがき」より] |
しかし、本書は、手頃な値段で入手可能な一般書として世に出た初めての『頼山陽評伝』であり、そうした故なき予断を排除し、虚飾を剥ぎ取った“人間頼山陽”の全体像を俯瞰して提示した書物となっております。勿論、新書という性格上、筆者としても論じ足りない部分は山のようにあったことと存じます。小生にとっては、これまで詩人・文人的な側面ばかりに焦点が当たっていた人物像に、大きな修正を迫る内容でございました。特に、山陽の歴史認識の在り方について時代を動かす原動力としての「勢」と「機」という理論を初めて知ることとなったのです。決して一方的な勤王の書ではないことも知らされました。何よりも、一連の国史を著述するに至った動機が、予て日本の歴史を編むことを念願としていた亡父頼春水の願いを代わって実現することにあり、それが若年時に迷惑をかけ通しであった父への贖罪意識に由来することを揖斐氏は指摘されていらっしゃいます。その部分を拝読したときには、不覚にも目頭が熱くなったことを白状せねばなりません。改めて、本書は、人間山陽の“全体像”に迫ることのできる唯一無二の作品であると申し上げたいと存じます。そもそも、江戸時代という厳格な社会の中で、広島藩儒であった父の下を出奔して廃嫡とされ、その後一切諸侯に仕えることもせず、筆一本(それだけはありませんが要は給料に頼らず独立独歩で生計を営んだことを指します)で文人生活を送った実に興味深い自由人なのです。その点でも、近世社会の中に位置づく文人として、「頼山陽」ほど面白き人はザラにはおりません。興味を引かれましたら、本書に続けて中村真一郎の大作にも是非お進み頂けましたら幸いでございます。
さてさて、頼山陽の七言絶句に詠み込まれた謙信・信玄一騎討ちの銅像のある広大な「川中島古戦場史跡公園」には、この度訪問をさせていただく第一の目的地「長野市立博物館」もございます。後編では、本来の長野訪問第一の目的である、「長野市立博物館」開催の企画展を拝見させていただいての感想等を記させていただこうと存じます。
(後編に続く)
「長野市立博物館」のある広々した平坦な「川中島古戦場史跡公園」からは、善光寺平をとりまくように山々が美しく聳え、更に遙か西方にうっすら見える標高ある連山には未だ雪渓が残っているのが明らかで、如何にも涼しげな光景が広がっておりました(北アルプスの山々が見えているでしょうか?)。ところが、早朝の爽やかさとはまるっきり様変わりしたように、未だ朝の9時過ぎだというのに容赦なく陽光が降り注ぎます。それは、恰も地面からゆらゆらと陽炎が立ち上るほどでございました。盆地の気候でありますから日格差が大きいことは承知しておりましたが、まさか6月でここまでとは……。後悔は先に立たず、もっと薄着にしておくべきだったと悔やんだところで、最早“後の祭り”でございました。さてさて、文句はここまでとして先に進ませて頂きます。
長野市には何度か脚を運んでおりますが、当館への訪問は今回が初めてでございました。昭和51年(1981)に開館した当本館は、その後、何度かの常設展改修を経て今日に至っているようです。豊かな自然に溶け込むように設計された、規模が大きいながら瀟洒な建物も素敵なものでありました。こちらは、長野盆地の自然・歴史(通史)・民俗の常設展示、そして天文(プラネタリウム)も有する総合博物館でございます。研修室・講座室も充実しており、一部屋では数年前の長野豪雨で罹災した水没文書類の救済作業が行われているのが垣間見えました。その常設展も見応えのあるものでしたが、今回は春季企画展についてのみご紹介をさせていただきます。残念ながら展示図録の刊行はございませんが、同館発行の「博物館だより第129号」が本企画展紹介号となっており、6頁に亘って展示概要が纏められております。同紙の表紙には、この度千葉から里帰りした「青い目の人形」が掲載されております。そして、企画展会場に入った正面に展示されていたのも本人形で、約2年ぶりの再会となりました。そこは多少贔屓目がございましょうが、大変に保存状態も宜しく展示ケース内で佇む大変に愛らしい人形だと再確認を致した次第でございます。何より、その姿に再び見えることができたことを心底嬉しく思った次第でございます。所有者であった方が幼少時に本人形と一緒にして遊んだという、日本人形2体とセルロイド人形1体も伴にケース内に揃えて展示されておるのも微笑ましいものでした。「青い目の人形」以外の3体の人形の文化財的価値は決して高いものではありますまいが、所有者が子供の時分に一緒に大切にされて今日に伝えられた、そうした人の思いを大切にされ一括で引き受けてくださり、更にこうして一緒に展示までしてくださった長野市博の皆さんの美しい心映えにも感銘を受けた次第でございます。展示会の趣旨は、今回長野市博の下に寄贈されて保存されることとなった「青い目の人形」を出発点にして、当時の歓迎ムードの社会状況、その人形達が戦時下に一転して敵愾心の向上のため「敵性人形」として惨い方法で処分されることになったこと、極々僅かな人達の果敢な意思と行動により奇跡的に戦後まで生き延びた人形があったこと(現在長野県に現存する「青い目の人形」実物数体も展示されておりました)、そして戦争を生き延びて再発見された「青い目の人形」が戦後になって“平和教育”教材として今日に至るまで積極的に活用されてきたこと……等々、その歩んだ数奇な運命を追っております。一方、本活動を推進した米国の神父シドニー・ギューリックの孫にあたるデニー・ギューリック氏によって、現在も新しい人形を日本の小学校に贈る活動が引き継がれていることを本展示で初めて知りました。そして、末尾に、今回寄贈された人形の調査を通じて、本人形が当時の正式な日米交流事業を通じた正式ルートに乗って日本に渡った「青い目の人形」とは確定できていないこと、「史料や人々の記憶として語られてきたことをどのように理解し、後世に伝えていくか、それは現在史料を見る私たち次第です」とされて展覧会を締め括られておりました。
尤も、寄贈された人形の出自がどうであれ、本人形もまた「日米親善人形」事業と同時期の昭和初期に日本に伝わってきたものであることは確実であり、流石に学校に送られ周知の「青い目の人形」ほどではなかったでしょうが、それを個人的に所有していた人々にとって、戦時中は表立って公表することが憚られる存在であったことは間違いございますまい。それぞれの家庭で個人の判断で処分されてしまった人形が大方であったことでしょう。逆に、今日まで伝えられる人形は相当に密かに守られたものでもあったことと思われます。そうだとすれば、正に歴史を伝える貴重な遺産と称すべき資料と言わなければなりません。人形を伝えた家でも、戦時中は元より戦後も暫くは「青い目の人形」が家にあることを口外してはならないと、子供たちには母親から厳重な緘口令が敷かれていたと言います(その内の末子が人形を今日まで伝えた方であります)。その点においても、本人形が昭和初期から大凡百年近くに亘って伝存した意味は極めて大きな物と考えます。一方で、「青い目の人形」が常に政治的な意味合いによってその運命を左右されてきたことに、改めて思いを至らされた展示会でもございました。それは、ある意味で戦後になって再発見された「青い目の人形」たちの存在にも及んでおります。何故ならば、良きにつけ悪しきにつけ、イデオロギー的な意味づけを避けることが出来ないのが平和教育に他ならないからでございます。本来であれば、子ども達に夢と希望を分けあたえるために製造された人形が、常に国家間の政治状況に翻弄され、生き延びた人形もまたそうした人々の思惑から逃れることができていないのです。今回の人形の鑑定においても、ここまでの状況証拠があれば「日米親善人形」と断定すべきだろう……とのご意見があることも承知しております。つまり、学問を越えた力が働き勝ちになるのです。同じ人形であっても「日米親善交流」で来日した人形か、一般の商業ルートで輸入された人形かによって、人形の「箔」が付くか否かが左右されるからです。それが「日米親善人形」であれば様々な形で物語る機会が生じるのですから、その思いもまた充分理解できます。しかし、今回の長野市博での調査では一切の予断を廃し、現状で断定できるまでの証拠が見出されていないと結論されました。そうした学問的な姿勢に感銘を受けたことも再度述べておきたいと存じます。実に学ぶところの多い、優れた展示を拝見させていただいたことに、この場で感謝の念をお伝えしたいと存じます。それにしましても、故郷に戻った人形は実に愛らしい存在であり、今後は世間の思惑などに惑わされることなく、静かな余生を第二の故郷である長野で安穏に過ごして欲しいと願ってやみません。
ここで、本展示で印象的だった史料を2つほどご紹介させて頂きましょう。一つは、昭和初期「日米親善人形」が長野市の尋常小学校に配付された際に、『人形を迎える歌』がつくられていたことで、その詞を高野辰之が担当していたことです。会場には高野による自筆墨書が大振りの掛け軸として展示されておりました。何故関心を惹いたかと申せば、我々の地元の学校である千葉高等女学校(現:千葉女子高等学校)と佐倉高等女学校(現:佐倉東高等学校)の校歌が高野辰之による作詞であるからでございます。全く知りませんでしたが、高野は、明治9年(1876)に現在の長野県中野市に生まれた、信州を故郷とする人であったのです(1947年没:中野市に「高野辰之記念館」があることも今回初めて知りました)。高野は、国文学者であるとともに、作詞家として数多くの唱歌や校歌にその作品を残しております。唱歌『故郷』『朧月夜』『もみじ』『春がきた』『春の小川』等々、誰でも口ずさめることでございましょう。その高野が、昭和2年(1927)に「日米親善人形」交流事業の為に作詞したのが本作であります。展示されていたのは全歌詞を続き書きに墨書したものでありましたが、以下では1番から3番までを分かち書きにして引用させていただきました。また、本展では紹介をされておりませんでしたし、そもそも余り知られていないことですが、日本からお礼で米国に送られた「答礼人形(日本人形)」の為に、『人形を送る歌』も作詞しておりますので併せて引用をさせていただきましょう。ナイーブに過ぎるとのご批判はあろうかと存じますが、「日米親善人形」の交流に籠められた願いには素朴に胸を打たれませんでしょうか。
人形を迎える歌 1 海のあちらの友だちの まことの心のこもってる かはいいかはいい人形さん あなたをみんなで迎へます。 2 波をはるばる渡り来て ここ迄おいでの人形さん さびしいやうにはいたしません お国につもりでいらつしゃい 3 顔も心もおんなしに やさしいあなたを誰がまあ ほんとの妹と弟と おもはぬものがありませう
人形を送る歌 1 この日の国より星の国へ きょうを門出の人形よ すめる眼をうるおさず 眉をひらきてさらばゆけ 2 よろこび迎えていだす子に その手をのべよ人形よ まことをこむる手と手には 笑みの花こそつねに咲け 3 我等が心を心とし さらばとく行け人形よ 波の十日を過ごさなば いたる所に春をみん
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二つ目に関心を惹いた史料が、当時の地元紙『信濃毎日新聞』に掲載されていた「日米親善人形」に関わる記述の紹介であります。その中でも、昭和18年(1943)に掲載された3つの記事に注目してご紹介をさせていただきます。担当者が記述されているように、一般的に人形は「軍部や政府からの指示で処分された」と言い伝えられておるものの、実際に学校に処分を伝達する公文書や記録の類は残っておらず(敗戦後に急ぎ処分された可能性は否定できませんが)、新聞記事にもそのような報道は見あたらないといいます。むしろ、「新聞記事からは、敵国に対する敵愾心を煽ろうとした結果、人形の処分が推し進められたのではないかとする見方もできる」との観測を示されております。一方で、文意としては「戦力増強」といった用語からも時流に棹さす内容ではあるものの、こうした行為が「非科学的」であり「皇國國民教育上からも百害無念」とする意見があったことも紹介されており、実に興味深く拝見をさせていただきました。長野県は、国内でも有数の「青い目の人形」残存県でもあることにも、こうした至極真っ当な意見が根強く存在したことに思い至った次第であります。他県で、ここまで言い切った意見を掲載した新聞を寡聞にして知りませんから。また、企画展を担当された学芸員の方は、そうした敵性人形への残酷な処分を遂行した人々の内面には、戦場に赴くことのできない銃後を守る女性達が、「敵国に対峙する姿勢を示す」ために遂行を推し進めた背景があったことを指摘されております。意識的であったか無意識であったかは最早判然とはいたしませんが、おそらく渾然一体となった想いが、子ども達の中でも人形と親和性の高い女子児童に敢えて人形への残虐行為を行わせたことにも繋がった……との考察は卓見であると思わされた次第でございます。会期は既に終了してしまいましたが、無料で配布されている長野市立博物館『博物館だより』第129号を是非ご覧下さいますようお薦め申し上げたく存じます。
信濃毎日新聞 昭和18年(1943)2月10日 朝刊 「いますぐ一掃すべき敵性臭 (中略) 7 国民学校の親善人形焼却」 同紙 同年 2月25日 朝刊 同紙 同年 3月12日 夕刊
(長野市立博物館『博物館だより 第129号』2024年) |
さて、長野市立博物館を後にした小生は、千曲川を越えれば指呼の地にある城下町「松代」を再訪することにいたしました。まだ長野と屋代を結ぶ長野電鉄線が健在であった時分に2度訪問したことがありますが、既に鉄道は廃線となりバスしか通わない地になっておりました。調べたところ平成24年(2012)廃止ですからたった12年前のことです。バス停には未だ「松代駅」の名称があり、旧駅舎もそのままに残されておりましたが、鉄路は既に撤去されその痕跡も定かではございませんでした。過去の訪問では、他の見学場所との抱き合わせで松代に寄りましたから、中心の「真田宝物館」「真田邸」「文武学校」等を見て回ったのみでした。従って、今回は城下町地割と武家屋敷遺構、それに城主真田家関連の霊廟建築の見学をすることに致しました。残された時間は2時間強しかありませんでしたが、「町を知ることは即ち街を歩くこと」を信条とする小生としては、地図を片手にトボトボ歩きで町散策に出かけたのです。しかし、炎天下の散策は思いの他にシンドイものでありました。そこで、ちょっとした浮気心で涼しい所に行きたいとの思いが萌し、一部が公開されている「松代大本営(象山地下壕)」に寄ることにしたのです(我乍ら「不謹慎にもほどがある」と思います)。こちらは、アジア・太平洋戦争の最末期となる昭和19年(1944)秋から、戦局不利の状況に鑑み本土決戦に備えて極秘に急造された、総延長10㎞にも及ぶ巨大地下壕でございます。「国体護持」のため、天皇・皇族・政府機関を全て東京からこの地に移す「善光寺平遷都計画」の中核となったのが、地下壕の掘削でありました。信州が太平洋からも日本海からも最も距離を有する内陸であること、また岩盤が安定しており落盤などの危険性が少ない地として、この地が選定されたようです。その建設に当たっては、7千人からの朝鮮人が強制労働に駆り出され多くの犠牲者を出したと伝えられております。工事は「ポツダム宣言」受諾に至るまで突貫工事で進められましたが結局未完の儘で放棄されました。無用の長物となった地下壕ですが、今日長野市によって惠明寺口から500mほどが整備されて公開されております(無料で入壕できますが、事前・事後に名簿で人員確認が求められます)。極秘で進められた「大本営」築造であるため、入口は驚くほどに狭く、目につかないように築造されておりますが、奥に進むと相当に広いトンネルが格子状に掘られていることが分ります。戦局が極めて深刻な中で進められた斯様な事業は、たかが今から80年ほど前のことにすぎません。当時は已むに已まれぬ思いで完遂することが目指されたのでしょうが、実際に掘削機と人力で掘られた延々と続く地下壕を歩むと、時代の「狂気」がひしひしと迫ってくるように感じさせられ、実際の気温を更に下回る薄ら寒さに身震いしたほどでございました。松代には、「象山地下壕」の他に「舞鶴山地下壕」の掘削も進められましたが、現在こちらは気象庁地震火山部が地震波を精密に観測するための施設として再利用されているようです。
その他、是非ともこの目で拝見したかったのが、近世大名としての松代藩に君臨した真田家関係の霊廟建築群でございます。初代藩主真田信之(1566~1658年)をはじめとする藩主霊廟建築の残される菩提寺「長国寺」の他にも、町内に散在する寺院に真田家関係霊廟が散在しているのが松代の特徴です。ところが、大本営地下壕見学で予想以上に時間を要してしまい、肝心要の長国寺は山門前まで行ったにも関わらずタイムリミットとなりました。急いで松代駅に向かい「長野県庁行」バスに飛び乗ったのでした。ただ、その前に真田信之の妻小松姫(1573~1629年)の霊廟建築が現在本堂に転用されいる「大英寺」には寄ることができました。小松姫は、徳川四天王の一人本多忠勝(1548~1610年)の娘で、異説もございますが徳川家康の幼女として真田家に嫁ぎました。そのエピソードとしてよく知られるのが、「関ヶ原の戦い」前、真田家が徳川方(信之)と石田方(父昌幸と弟信繁)とに分れて戦うことになり、上田城に戻る昌幸らが、当時信之の居城であった沼田城に立ち寄り入城を請うたのでした。しかし、留守の夫に代わって城を守る小松姫は開門を拒んだこと。しかし、城下の旅宿に案内して岳父を丁重にもてなす一方で、沼田城の防備を固め石田方に付いた岳父からの攻撃に備えたというものでございます。昌幸も「流石本多忠勝の娘だ」と手並みの鮮やかさを褒め称えた……との話であります。尤も、これが史実か否かを巡っては諸説あるようです。ただ、小松姫が近世大名としての真田家を生み出した立役者の一人であったことは確かでございましょう。その所為もあってか、小松姫を祀る霊廟建築は、今回拝見できませんでしたが、夫信之をはじめとする真田家累代の藩主霊廟建築の何れをも凌ぐ、最大規模を以て建築されているとのことです。小松姫は、元和6年(1620)病気療養のために江戸から草津温泉に湯治に向かう途中、鴻巣で没しております。戒名は「大蓮院殿英誉皓月大禅定尼」。彼女が帰依していた浄土宗の僧円誉が住持を務める、没地鴻巣にある「勝願寺」に葬られました。他に沼田の正覚寺、上田の「常福寺(現:芳泉寺)」にも分骨され、それぞれ墓塔がございます。当時は真田信之が松代に転封される前でしたから、小松姫に所縁の深い沼田と上田にも墓塔が営まれたのでしょう(上田の墓塔は一周忌に信之が建立したそうです)。また、彼女を弔うための大英寺も当初は上田に営まれましたが、元和8年(1622)上田・沼田から松代へと転封後にその地に移されました。それが今日残る大英寺の小松姫霊廟建築に他なりません(長野県指定県宝)。信之は、妻の死によって「家中から火が消えたようだ」と嘆いたと伝えられます。小松姫は人として魅力あふれる方であったのでしょう。小松姫霊廟だけには接することができて何よりでございました。他は、また機会を作って拝見したいと思います。
最後になりますが、長野駅からの鈍行での復路では、車窓から目にできる浅間山の姿が刻々と移り変わることに感銘をうけましたし(噴煙が上がるのも目にできました)、軽井沢近辺の高原らしい樹木の続く光景も美しいものでした。終点「軽井沢駅」から「横川駅」を繋ぐJRバスから間近に眺めることのできる妙義山の峩々たる山様も見応え充分。長野駅では時間が無くて昼食抜きでありましたので、横川の乗り換え待ち時間で「峠の釜めし」を食することを楽しみにしていたのですが、ドン詰りの駅となってしまった横川駅周辺の衰退はあまりに著しく、創業の地故に死守されていると思われる「荻野屋」さんも4時には店仕舞いされており、残念至極でございました。その地には現在「碓氷峠鉄道文化むら」なる鉄道関連の博物館施設となっております。バスの車窓からも沢山の車両が展示されているのが見えましたが、釜めしと伴に今回はお預けとなったのが残念でありました。何れにしましても、鈍行列車での旅は実り多いことをこの度も実感させられました。
過去3回に亘って不定期連載をさせていただきました「古美愛同窓旅行」もようやく最終回となりました。どうでもよい他人の旅にお付き合いいただきました皆様には衷心よりの御礼を申し上げます。一度初めてしまった以上、途中で投げ出して強制終了とするのも悔しいものですから、乗り掛かった舟でここまで引っ張ってしました。しかし、流石に今回で店じまいとさせていただきます。閉店記念セールという訳にはまいりませんが、これまで同様に粛々と旅の行程を追いつつ、関連事項を綴ってまいる所存でございます。腐れ縁でどうぞよしなにお付き合いくださいませ。
8年ぶりに開催した本同窓旅行は前泊を含めて3日間の旅でありましたが、ようやく最終日に到達したことになります。最終日は、室津の宿からの出発となりますが、前日室津に到着したのは夕刻でありましたから、実際に室津の街を観て回ったのは最終日の朝方となりました。当日は帰りに乗車する列車も決まっており、所謂「ケツカッチン」の状況です。小さな港町ではございますが隅々まで見て回るには、早朝の時間を無駄にすることはできません。流石に棺桶に片足を突っ込むまでに室津再訪の可能性は低いと思いますから。斯様な訳で、何時ものように一人寝床を這い出し、夜明けとともに宿を出て朝食前まで街の散策をいたしました。そのお蔭で、これも前回に記述した賀茂神社や姫路藩船番所跡や姫路藩茶屋跡を拝見できましたし、路地の入り組んだ湊町特有の裏道探訪をすることも叶いました。宿に戻って朝食を済ませ、7人うち揃って『室津海駅館』『室津民俗資料館』見学に出向きましたが、9時開館でありますから結局室津を発ったのは10時過ぎになってしまったのでした。当日は17時には新神戸でレンタカーを返却し新幹線に乗り込まねばなりません。西播磨から内陸部へ入り、最終的には東播磨の神戸までの長丁場を、凡そ6時間で移動見学するというタイトな行程となりました。運転は一貫して幹事の小生が行いましたが、道筋はカーナビを観ながら的確な指示をしてくれる友人の御蔭で、恐らく最短時間で移動できました。しかし、安全に最速で移動することが求められておりますから、暢気に周辺の景色に目を逸らしてばかりとは参りません。従って、移動中の光景については殆ど報告することもできません。従って、そのあたりのことは特に記すべきことがあることのみに止め、以後、実際に訪れた鶴林寺(加古川市)、一乗寺(加西市)、浄土寺(小野市)について各々記したいと存じます。何れも日本美術史に関心のある方であれば、誰もが一度は目にしたいと思われる寺院ばかりでございましょう。小生にとっては、何れも初訪問の寺院でありますが、特に「浄土寺」と「重源(重源)上人」に関心がございます。時間は限られた中での訪問でありますが、期待に胸膨らませての最終日の旅立ちとなりました。
リアス式海岸に面する室津から海岸を一路東に向かって揖保川を越えれば、瀬戸内海沿いに平坦な地が続きます。姫路の南にあたる古くからの湊町である網干、英賀、飾磨と過ぎていきますが、右手の埋め立て地には煙突が高々と聳える工業地帯が延々と連続しておりましたし、移動する道路自体の左右には大型商業施設やら全国チェーン展開の店舗が延々と続く、実に味気ない道を行く行程となりました。それは市川を越えても変わらず、加古川を渡って「もうじき鶴林寺です」のナビガイドが聞こえても風景には少しも変化がございません。果たして斯様な殺風景な景色の中に、あの歴史ある古刹「鶴林寺」があるのだろうかと、流石に疑念に囚われるほどでございました。そして、ようやく到着した鶴林寺は、意外なことにそうした何の変哲もない広幅員の新興道路から少し入っただけの場に、周囲の空間とは隔絶した異空間のような別天地として存在しておりました。こと「古刹」というだけであれば、旧播磨国内で「刀田山(とださん)鶴林寺(かくりんじ)」ほど、その名に相応しい古寺はないと存じます。本寺はかの聖徳太子による開基伝承を有します。物部守屋に迫害され播磨に逃れた高句麗僧の恵便(えべん)を招請し、太子が秦河勝に命じて創建したとの伝承を伝えるのです。故に「西の法隆寺」とも称される寺院であります。勿論、聖徳太子創建伝承自体は後に付会されたものでしょうが、時間的制約で今回訪問が叶いませんでしたが、西播磨の太子町鵤(いかるが)には「斑鳩寺(いかるがでら~はんきゅうじ)」があり、その町名・地名・寺名からも想像されるように、こちらにも聖徳太子創建伝承がございます。こうした濃密な聖徳太子伝承の分布からも、播磨の地とは何らかの深い関係性が存在していたのでございましょう。尤も、「鶴林寺」の寺号は鳥羽天皇が勅額を下賜して命名したものであり、現在は天台宗に属します(因みに「鶴林」とは“沙羅双樹の林”を指すそうです)。こうした、寺院の由緒は伊達ではなく、白鳳期から現在に到るまでの仏教美術の遺品が連綿として今に伝えられており、正に仏教美術の“宝石箱”とも言うべき建築・宝物の数々に現在も接することができるのです。決して広大という訳でもない平地の境内に、古いものでは平安期にまで遡ることのできる多くの古建築が林立しており、それだけでも圧倒されるほとでございます。その内の2棟は国宝に、4棟は国重要文化財に、2棟が兵庫県文化財に指定されております。その他、「聖徳太子像」を始めとする貴重な仏教絵画の数々、白鳳仏である本尊「銅像聖観音立像」を筆頭に枚挙に暇なきほどの平安仏・鎌倉仏を有しております。現在、これらは新しく整備された立派な「宝物館」に収蔵・展示されております。かつて、これらの文化財は韓国人窃盗グループによる盗難に遭っており、返還されたものの大きく破損したり、海外に渡りその所在が明らかでも法的に返還困難なものもあるとのこと。それもあって、厳重な管理ができる新宝物館の建設に至った経緯があると耳にしました。
江戸時代初期に建立された仁王門から境内に入って、正面にあるのが国宝の本堂でございます。桁行(けたゆき)[正面]6間、梁間(はりま)[側面]6間の境内最大規模を誇る建造物であります(ここで「間(けん)」と称するのは長さを示す単位ではなく柱間の数を示します)。内陣厨子の棟札に応永4年(1397)銘が残る貴重な中世建築となります。この堂が著名なのは、何れの建築史関係書籍にも「折衷様(せちゅうよう)を代表する建造物」として採り上げられているからでもあります(その点で大阪府河内長野市にある観心寺の国宝本堂と双璧の存在です)。“折衷”を辞書で引いてみれば「いろいろな物からいいところをとり、一つにあわせること」でありますから、様々な建築様式の“いいとこどり”をした建物ということになります。日本の仏教建築の様式は、最も古くから存在する日本独自に洗練された「和様(わよう)」を基本に、中世初めに中国から禅宗の建築様式として伝わった「禅宗様(唐様とも)」、そして今回の旅で最後に訪れる浄土寺に残る阿弥陀堂に典型的にその様式を観ることのできる、やはり同時期に大陸から伝えられた「大仏様(天竺様とも)」と呼ばれる建築様式の3つに大きく分類することができます。それぞれの様式を言葉で伝えてもただただ煩瑣になるばかりでしょうから、簡単に特色だけをお話しすると、「和様」建築は、立材としての柱と柱同士を繋ぐ横材の「梁(はり)」等を組み合わせて構造体を構築し、その上部に小屋根組を構築して屋根を架す構造をとり、内部は基本的に床面を構築します(古代寺院の仏殿には床は張りませんが)。それに対して、中国から伝わった「禅宗様」は、躯体と小屋根組の構築法は上述の和様と同じ説明となりますが、その構築に際しての構造原理はより合理的であり過重構造を支える細部の構成にも独特の様式がございます。教科書にも掲載される鎌倉の禅宗寺院である円覚寺に残る国宝「舎利殿」を思い浮かべていただければ幸いです(本建築は元来同じ鎌倉にあった尼寺「太平寺」仏殿であったものを廃寺後に円覚寺に移築したものです。本寺と関係の深い人物が、小弓公方足利義明の娘である「青岳尼」であったことはご存知でございましょう)。内部の母屋(もや)柱と庇(ひさし)柱とを結ぶための材である「海老虹梁(えびこうりょう)」は禅宗様に特有の建築材であります。因みに純粋な禅宗様では床は構築せず土間床に瓦を敷いて仕上げます。3つ目の「大仏様」も中世初めに中国の宋から伝えられた建築様式で、それを導入したのは源平の争乱で焼失した東大寺再興に後半生を捧げた“勧進聖(かんじんひじり)”「俊乗坊 重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)」でございます。重源につきましては後編で扱いますが、本建築は立材である柱に穴をあけて横材を貫き通す構造を幾重にも構築することで建物の強度を確保する建築様式であり、巨大建築の構築に極めて有効な建築様式となります。大仏殿再建に用いられたことが宜なるかなの建築様式とも申すことができます。肝心要の再建鎌倉期大仏殿が戦国期に再び焼失して今に残りませんが、幸い東大寺南大門が当時の儘で現在に伝わりますから、その構造がよく理解できようかと存じます(因みに現在の大仏殿は江戸時代元禄期に公慶上人の勧進によって棟幅を縮小して再建されたものとなります)。下から見上げると、整然と幾何学的に材木を組み上げた“構造体”としての建築様式が見て取れる筈です。しかし、本様式は重源死後に純粋な建築様式としては生き残らず、間もなく廃れてしまいます。確かに、機能第一で意匠的にはぶっきらぼうに過ぎ、日本人の趣向には適合しなかったのではないかと思われます。
ここで、「折衷様」の意味がご理解いただけましょう。日本人ほど“いいとこどり”を得意とする国民性はありますまい。西洋から伝わったバンに饅頭の餡を組み込んで「アンパン」にする、イタリアのパスタに明太子や納豆を併せて食する等々であります。ただ、いくら折衷しても肝心要な基本は和風を崩さないことも面白い所です。例えば、家を幾ら洋風にしても玄関で靴を脱ぐ生活(つまり土足厳禁!)をするのもそれに当たりましょう。従って、玄関に前後開閉式扉を設置する場合は脱いだ下足に当たらぬよう“外開き扉”として設置することになります。欧米では自宅内でも土足で生活しますから玄関ドアは“内開き扉”となります(日本でもホテルがそうであるように)。従って、海外映画ではドアを蹴破って室内に突入するシーンが登場しますが、日本映画では基本的にそのシーンは成立しません。尤も、古い日本家屋の玄関は引き戸の形式が基本でしょうが……。余計なことを熟々と失礼を致しましたが、つまり、新様式が日本に入ってきてからは、建築様式においても和様の中に、禅宗様・大仏様の様式が部分的に導入されていくことになるのです。両者には和様にはない構造上の利点があったからだと考えられます。これが、謂わば「折衷様」ということになります。禅宗寺院の仏殿・法堂(はっとう)では純粋の禅宗様が維持されていきますが、和様の仏教建築では純粋な和様で統一して建築されることは稀になり、多かれ少なかれ禅宗様と大仏様の“いいとこどり”で建築されることになります。鶴林寺本堂は、その意味で日本を代表する「折衷様」建築であり、ぱっと見は純粋な和様建築に見えるのですが、よくよく目を凝らでば諸様式が瀬中されていることが見て取れます。例えば、正面に見える柱の上部では貫が柱を横に貫いて構築されております。これは大仏様の様式です。また、内部に入ると舎身(もや)柱と外柱を繋ぐ構造材に「海老虹梁」が用いられております。これは禅宗様に典型的な構造です。また舎身柱同士を前後に渡して固定する「大虹梁」は大仏様となります。支輪つきの「組入格天井」は和様です。他にも、細かな点を指摘すれば無数の様式が折衷されておりますが、流石に煩瑣になりますのでここまでといたします。これだけ、様々な様式が混在していながら、仏堂として破綻の無く均衡の取れた造形となっており、そこには工匠たちの優れた力量が示されております。見応えのある素晴らしい建築だと思います。もう一棟、本堂の斜め右手前に位置する「太子堂」も国宝であります。こちらは、屋根裏の墨書から天永3年(1112)に建築されたことが判明しており、兵庫県内最古となる純和様の平安建築であります。檜皮葺(ひわだぶき:檜の樹皮を重ねた屋根の葺き方をいいます)の極めて繊細な曲線・曲面で構成される屋根を有し、一見して気品の高さ際立つ優美なる建築となっております。聖徳太子像を安置していることから太子堂名称となっておりますが、元来は「法華堂」であります。その逆側に建つ国重要文化財に指定される平安建築「常行堂」と対となる建造物であります(天台宗に顕著な堂配置であります)。太子堂は、桁行・梁間ともに3間の舎身に梁間1間の庇(ひさし)が「礼堂(らいどう)」として付加さえ、両者を合わせて屋根がかけられております。屋根は基本的に宝形造なのですが、庇が付加された部分の屋根のラインは微妙なる諧調の変化が生じ、惚れ惚れする程に美しい御堂であります。実際にこの目に納めることができたことを生涯の宝としたいほどの極美の御堂でございました。残り時間も少なく、貴重な文化財の宝庫「新宝物館」の見学もそこそこに、後ろ髪を引かれる思いで鶴林寺を後にすることになりました。
前編の最後に、次に向かった法華山「一乗寺」については簡単に述べて終わりにしたいと存じます。何故ならば、今回の旅で最も割を食って見学時間を割くことができなかった寺院であったからでございます。こちらは、鶴林寺のある加古川市から内陸に移動した加西市にある天台宗寺院であり、「西国三十三所観音巡礼」第26番札所でもございます(次の27番札所が書写山圓教寺となります)。里山風景の広がる地から山勝ちの地に入り込み、山道を進んで左程の時間も経ず到着しましたが、それでも書写山同様に深山幽谷の趣を感じさせる地に卜する寺院でございました。寺伝では白雉元年(650)に開かれたとします。現状ではその適否を証拠だてることはできませんが、近隣には多くの白鳳寺院跡が残ることからもその可能性を否定するものではないとされます。本寺には真言律宗の祖でもある大和国西大寺の叡尊が訪れた記録があり、また後醍醐天皇の護持僧であった文観が本寺の僧であったとも伝わります。その経緯からか船上山から京へと戻る途中の後醍醐帝が本寺へ立ち寄ってもおるようです。つまり、本寺は基本的に真言律宗の影響下にある寺院であったことになりましょう。ただ、近世に東叡山寛永寺の支配下に入り現在は天台宗に属しております。本寺院は斜面に諸堂が建造される所謂山岳寺院であり、江戸時代初期に建造された懸造として斜面に建造された本堂に向かって参道が伸び、本堂の直下に国宝三重塔がございます。伏鉢(ふくばち)に残された銘文から承安元年(1171)に建造されたことが明らかな平安建築となります。平安時代にまで遡り建造年代まで明確になる三重塔は稀有な存在かと思われます。想い込みから多少眼鏡が曇っている感は否定できませんが、各層の屋根の反りが比較的ゆるく、初重から三重までの面積が大きく減るように建設されている(逓減率が大きい)ことなど、鎌倉期以降の雄渾さの勝った三重塔とは相当に受ける印象が異なります。これほど繊細な優美さを有する三重塔は稀であります。時間的な余裕が少ないなかではありましたが、足を向けてよかったと思った寺院でありました(三重塔を下から見上げるのではなく懸造の本堂欄干から真横に見ることができるのも結構でございます)。こちらは、最初にお示ししたように「西国三十三所観音巡礼」札所でありますから、本堂内部には巡礼者が納めた木札が到るところに所狭しと打ち付けられ、現在でも現役の巡礼地であることに気づかされます。その意味においても、人々の信心の強さに心打たれる思いでございました。
明日の後編では、最後に訪れた「浄土寺」(兵庫県小野市)と、本寺を創建した俊乗坊重源の驚異的なる宗教活動について述べてみたいと存じます。本シリーズも明日で店仕舞となりますので、今暫しお付き合の程をお願い申し上げます。
(後編に続く)
一乗寺を後にして向かったのが、今回の同窓旅行最後の目的地である小野市の極楽山「浄土寺」でありました。小生にとって、書写山圓教寺と並び40年以上も前となる学生時代から訪れたいと思って果たせずにいた古寺でございました。如何せん交通の便が悪く二の足を踏んでしまっていたのです。従って、還暦を過ぎて晴れて訪問が叶ったことに感無量でございました。本寺を創建した人物は、他でもない「源平の争乱」の最中、平重衡による「南都焼き討ち」で焼け落ちた東大寺再興事業に取り組んだ「重源」その人でございます。そして、ここには重源の創建当時から残る「浄土堂」と、その本尊として造立された快慶作の巨大な「阿弥陀仏三尊像」が800年の時を越えて今に伝えられているのです。そして、この浄土堂こそ、国内に遺存数が極めて稀である、「大仏様」で当時建設された建造物に他なりません。かて加えて、この浄土堂に参詣した民衆が「阿弥陀仏」が“来迎(らいごう)~死者を極楽浄土に迎えに来るためにやってくる”を体感できるよう、驚くべき荘厳の演出が施された建築でもあるのです。もっとも、今回は、訪問する時季・時間帯との関係でその荘厳に出会うことは叶いませんでした。しかし、実際に接した浄土堂の姿には心底の感銘を受けました。ただ、それを述べるには重源という人物と、大仏再建の歩みとを確認しなければなりますまい。そもそも、南都における東大寺復興事業と播磨国に存する重源所縁の寺院「浄土寺」との関係性が掴めなければ、単に一美術品として美しさを堪能するだけに終わってしまいます。重源という不世出の偉業を成し遂げた為人を知った上で、奈良やこの浄土寺に訪れていただけたならば、その建物と仏像とが何重もの意味を纏って迫ってくるでしょう。
重源の姿は、教科書には掲載されてはいないようですが、歴史資料集などで目にされた方も多かろうと存じます。重源が建永元年(1206)に75歳で入滅する直前の最晩年の姿を写したものとされ(寿像)、その皺だらけの顔と首筋、への字に曲がった口、薄い瞼から除く眼が発する異様なまでの意志の力、それらは驚くほどの写実性をもって造形された、あの肖像彫刻の傑作であります。作者については、重源と深い関係性を有して造像活動を行った「快慶」であるとする説や、そのリアルな写実性から「運慶」を想定する説など諸説あるようですが、単なる老人の表現に堕することなく、そこに秘められた強靭なる身体と精神とを表現する仏師の力量は、余人をもって成し遂げ難いものであることは間違いございますまい。各別所(後述)にも重源像は残りますが、その獅子奮迅の活動により再興を果たした東大寺「俊乗堂」に安置される本像の完成度は傑出しております。鎌倉、いや日本の肖像彫刻の最高峰に位置づく作品といっても過言ではございません。その重源が、焼失した「東大寺大仏殿」を始めとする東大寺伽藍の再建、及び大仏殿炎上により上半身の大部分が融解してしまった金銅「毘盧遮那仏」再鋳という、誰からも不可能と考えられていた難事業にあたるよう命じられた時、重源は既に還暦を過ぎた61歳でございました。逆に、その没年から遡れば明らかなように、14年と言う極々短期間で、その主要部分のほゞ全てを成し遂げたことは、想像がつかないほどに驚異的なことであります。現在のような重機も輸送手段も十分に存在しない時代、物資の調達・輸送、現場での建設にあたるまでの細かな段取りと調整、工匠・職人の調達と組織化、及び何よりも重大な懸案事項は、再建に必要な膨大な費用の調達確保の問題でありました。それぞれが難事業であるなか、この巨大プロジェクトの殆ど全てをほぼ完遂してから没しております。神業でありましょう。
しかも、当時は平安な時代ではありませんでした。大仏鋳造を開始した養和元年(1181)は、「炎旱・飢饉・関東以下諸国謀反・天変怪異」によって治承から養和への改元がされたように、災厄に満ちた年であったということです。また、その4年後の大仏開眼供養までの期間を年表で確認すれば、それが「平家の都落ちと没落」「木曽義仲の入京と没落」「鎌倉軍(源義経)の入京」「西国での源平の戦い」と、目まぐるしいほどに政治状況が変転し、戦乱が相次ぎ、当然のことながら社会自体も疲弊する時期にあたっていることが分ります。更に、大仏開眼供養後に大仏殿再建が始まりますが、それも10年で完成させております。それは、「南都焼き討ち」で大仏殿を始めとする諸堂と大仏が失われてから、たった17年間ということを知るとき、それが重源個人の熱意に留まらず、大仏再興を世の中の平安に繋げて欲しいと願う、広範なる裾野を有する巨大な民衆のエネルギーが事業を後押ししていたことを理解することが必要でしょう。そうしたエネルギーを重源は組織化して統合していったのだと思われます。民衆からそっぽを向かれた事業は、いくら傑出した人材がいたところで「笛吹けど踊らず」に終わることでしょう。そのことは、この時に再建された大仏殿・大仏が、永禄10年(1567)に松永久秀らの戦闘により再び焼失してから再興に至るまでに125年を要していることからもご理解いただけましょう。焼失した時点の戦国末期ならいざ知らず、社会そのものが安定し農業生産力も大いに向上した江戸時代元禄期まで再建は叶わなかったのです(その時の再興事業は公慶上人によって実質17年で完成されました。これが現存する大仏・大仏殿となります)。
さて、その重源でありますが、保安2年(1121)に当時衰退傾向にある貴族の紀季重(きのすえしげ)の子として産まれ、13歳「醍醐寺」で出家、房号を「俊乗房(しゅんじょうぼう)」、僧名を「重源(ちょうげん)」と定めたとされております。つまり、真言密教僧として宗教生活を始めたことになります。そして、法華経を奉ずる「持経者」として、大峰山系を初めとする近畿一帯から四国・北陸の霊場を徒走しながら厳しい修行を積み重ねる「聖(ひじり)」と呼ばれる山林修行僧としての歩みを重ねていくことになりました。前半生の重源の足跡については不明な点も多いのですが、高野山に寄進した梵鐘銘にその名が見られ、そこには「入唐三度聖人」と記しております。ここでいう「唐」は中国を指しておりますから、当時「宋」に三度渡ったと述べているのです。つまり、彼の修行の範囲は日本国内には留まらなかったということであります。重源が実際三度も渡宋したか否かについては諸説あるようですが、少なくとも宋に渡って、かの地の寺院で学ぶとともに、現地の宋人と深い交流をもったことは間違いないものとされます。何故ならば、当時は博多を中心にした日宋貿易が盛んにおこなわれており、日本人と宋人とが頻繁に行き来するようになっていたからであります。実際に、後に臨済禅を日本に導入する「栄西」とは浙江省の明州で出会い、伴に帰国した後には日本でも深く交流を有したこと(重源の没後「東大寺大勧進」職に就いたのは他ならぬ栄西でありましたし、独特な建築様式で知られる東大寺鐘楼の建築は栄西が大勧進職の時代の産物となります)、またよく知られるように東大寺再建では宋人工匠を起用してその成功をもたらしたことが明らかであるからでございます[その棟梁が陳 和卿(ちん なけい)であり、彼なくして大仏再鋳造と大仏殿再建は成し得なかったことでしょう]。一方、肝心要の仏教に関する修行として、重源が中国に仏教聖地を巡ったことで、その後の重源の活動に顕著にみられる「仏舎利信仰」「文殊信仰」に覚醒するとともに、大陸で民間仏教として浄土信仰が熱烈に受け入れられていることに接し、大きな影響を受けたことが重要であります。そして、帰国後に念仏を口に出して唱える「念仏信仰」に大きく傾倒することになり、自らを「南無阿弥陀仏」と称するようにもなりました。帰国後の重源は、醍醐寺を離れ(関係を断ったわけではありません)以後20年に亘って高野山に「専修往生院(せんじゅおうじょういん)」を開いて移り住み、そこに阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂と、仏舎利を祀る三重塔を建立し、新たな宗教へのアプローチを採るようになるのです。つまり、この期間の重源の立ち位置を総合するとすれば「真言密教の僧であることを基底におきながら、持経者から念仏聖へと、信仰の転換を確認する意義深い時間であった」[中尾堯「重源の生涯-山岳と渡海の聖者-」~中尾堯(編)『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』2004年(吉川弘文館)]ということになりましょう。彼自身は「専修念仏」と言っておりますが、親交もあった法然が唱えた念仏だけに特化した真の意味における「専修念仏」ではないことに注意を払う必要がございます。
そして、その時が訪れます。「南都焼き討ち」による未曾有の大炎上のうちに治承4年(1180)が暮れ、翌年6月から後白河院は東大寺再建に着手することとし、まずはそのスタッフが任じられております。しかし、余りの巨大国家プロジェクト故、再建のための人的・技術的・経費的・資材的課題の解決が儘ならず、進捗の見通しが全くたたなかったのです。この儘では事業自体が頓挫する可能性すらあったものと思われます。その打開策として白羽の矢が立ったのが重源であり、8月になって彼に「東大寺造営勧進」の宣旨がくだることになるのです。その時に重源が既に61歳であったことは先に触れました。勿論、その起用には、それまでの彼の勧進活動の実績があり、その能力が高く評価されたためでありましょう。宣旨を受けた重源の内面に如何なる思いが渦巻いたかわかりませんが、「俺がやらずに誰がやる!?」との意欲がわき出したことは間違いありますまい。当時の混乱する社会情勢の中で人と資材の手配も、そもそも元手となるべき資金さえも儘ならぬ中、誰もが尻込みをするのが当然の状況であります。そもそも、重源は再建すべき東大寺とはこれまで深い関係を有していたわけではありません。ある意味で乗り込みでの事業推進を行わざるを得ないのですから、東大寺僧との軋轢は免れません。実際に重源はその調整に大いに手間取ることになるのですが、そうは言っても東大寺の僧であってもこの難事業を引き受ける勇気ある人物は一人もいなかったのでしょう。最終的には重源に従うしか術はなかったものと思われます。先にも述べたように、国内社会が疲弊する状況下で、国内では東大再興を国内の安定へと繋げることを願う民衆の強力な後押しがありました。その財源確保のために単なる民衆からの簒奪に勤しむのではなく、天平の時代の大仏建立における聖武天皇の意思にもあり、それを受けた僧行基がそうしたように、それらに習って社会の上下を問わず広範な人々からの資縁を求めることを主眼とした活動を進めることで、民衆を含む人々の仏教との結縁をすすめることを重源は目指すことになります。所謂「勧進活動」であります。そのために、例え僅かな端布でも構わず広く民衆からの喜捨を求めようと、一輪車を製作し弟子達を「七道」全てに派遣して行脚させることで大仏再建の意義を民衆に伝え寄付を募ることを実践したのです。その地道な活動は、国内に遍く大仏再興への理解と結縁を広めたことに繋げることになりました。特に民衆との結縁のために有効だったのが阿弥陀仏への帰依を進める浄土信仰でありました。後述するように各地の建立した「別所」には必ず阿弥陀堂が建立され、地域民衆の振興拠点となるとともに、それを活かした大仏再興のための支援拠点としても機能することになります。一方で、新たな政治権力となりつつあった源頼朝、奥州藤原氏への働きかけによる巨額の資金援助を得る活動も同時に進めたことにも、重源の慧眼を知ることができます。そのため、重源と親交のある西行が鎌倉と平泉に派遣されたこと、また、歌舞伎の演目『勧進帳』もこの時の東大寺再興の勧進活動を題材として後に成立したお話であることもご存知のことでございましょう。
さて、これ以降は、大仏・大仏殿そのものの再興の過程を追うことは致しません。余りにも膨大な紙数が必要になるからであります。そこで、ここでは小原仁「東大寺の復興と勧進-国家の大業-」[中尾堯(編)『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』2004年(吉川弘文館)]から、小原氏が東大寺再建を三期に分けて捕らえていらっしゃることを引用させていただくことで東大寺再興の概要をつかんでいただき、重源による「別所」経営(今回訪問した浄土寺もその一つであります)についての話題に転じていこうと存じます。
◎第1期[養和元年(1181)~文治元年(1185)] ~東大寺再興始動から大仏鋳造完了までの時期(大仏開眼供養は後白河院がこれを挙行、同年平家滅亡) ◎第2期[文治元年(1185)~建久6年(1195)] ~大仏を安置する大仏殿再建が完成するまでの10年で、各地の東大寺別所を拠点として資材や労働力の集積をはかり、新興の鎌倉幕府との協調関係を保ちつつ事業を推進していく時期(後白河院・奥州藤原氏既に亡く、大仏殿供養会の盛儀で抜群の存在感を示したのが源頼朝と率いる幕府御家人であった) ◎第3期[建久6年(1195)~建仁3年(1203)] ~戒壇院や南大門が成り、金剛力士像をはじめとする諸仏菩薩像も彫像され 概ね往時の寺観に復し、その総供養が挙行されるまでの時期(源頼朝既に亡 く、総供養の3年後に重源も86年の生涯を閉じる)。 |
今回訪問を致しました兵庫県小野市にある「極楽山浄土寺」は、「播磨別所」と呼ばれたように重源が東大寺再興のために西日本各所に設けた「別所」の一つとなります。「別所」とは、本寺のある地域とは別場所に、修行やその他の目的を持って営まれた場を言い、専ら平安後期以降に念仏聖によって営まれました。東大寺再興事業に全勢力を傾けた重源の場合も、民衆との結縁を広範に東大寺再興に繋げるため、阿弥陀信仰を積極的に推進したことは先述したとおりでございます。従って、重源の営んだ別所は基本的に再興事業拠点である東大寺内、予てから重源自身の信仰拠点であった高野山内の他は、東大寺領荘園として復興の安定的経済地盤として期待された地域、大仏殿再建の重要な資材の入手地点(周防の木材、伊賀の瓦)と巨木運搬の重要拠点(渡辺津)などに設けられたのです。それが、「東大寺別所」(現:奈良県)、「高野山新別所」(現:和歌山県)、「周防別所(阿弥陀寺)」(現:山口県)、「播磨別所(浄土寺)」(現:兵庫県)、「渡辺別所」(現:大阪府)、「備中別所」(現:岡山県)、「伊賀別所(新大仏寺)」(現:三重県)の所謂“七別所”となります。それらには、基本として阿弥陀堂(浄土堂)が設けられ本尊として丈六の阿弥陀如来が祀られました。また、仏舎利が祀られたることも共通します。「播磨別所」である浄土寺もその例に洩れず、しかも創建時の浄土堂と阿弥陀如来が完存する唯一の別所遺構となっております(ともに国宝に指定されております)。また、浄土寺には重源が営んだ「迎講(むかえこう)」の遺物も残されます。迎講とは、大和国の当麻寺で営まれる「練供養」のように、人の死に当たって阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土へ導くことを視覚的に体験する行事として営まれます。浄土寺には「裸形阿弥陀如来像」(実際に衣装を着せて西方浄土から来迎する姿を現す)、付き従う眷属を人間が担う際に被る仏面の数々でございます。こうした行事が社会の如何なる階層に人々に向けられたものなのかは直ちに御理解いただけることでしょう。また「周防別所(阿弥陀寺)」は大仏殿再建のための木材の殆どはこの周防国から納められたので最も重要な別所でしたが、そちらでは源平の争乱で疲弊しきった壇ノ浦のある周防国に住まう民衆に米を支給することで、まず生活の安定を最優先にしたことが特筆されます。周防別所に限りませんが、入浴施設を多く設け、巨木の切り出しで活躍する民衆に対する福利厚生に積極的に関わったことも重要です(周防国では現在でも重源起源を伝える“蒸風呂”の伝統が続き、湯屋には重源が祀られてもおります)。何にも増して、重源による東大寺復興事業が、現地の疲弊した民衆に多くの仕事を提供したのは間違いございません。つまり、重源にとっての東大寺再興事業とは、一面で疲弊した地域社会再興に向けての社会事業として位置付いていたことを見落とすべきではございますまい。
さて、この度の同窓旅行で訪れた、夢にまで見た浄土寺でございます。兎にも角にも、新神戸駅着の時間は決まっておりますから、一乗寺からは只管走りに走って小野市に向かいましたから、周辺の景色を味わう余裕すらありませんでした。ようやく到着した浄土寺は、圓教寺や一乗寺のような「西国三十三所観音」巡礼寺院のような山岳寺院とは異なり、平坦な地にある小野市中心街から東へ外れた、少々小高い茫漠とした感のある地にございました。つまり、特別な空気感のある地ではありません。しかし、その境内に一歩足を踏み入れた途端に、どことなく通常の寺院とはかけ離れた感のある伽藍配置に困惑いたしました。まず、境内の中心に南面して建つのは「八幡社」、その前に極々小さな池泉があります。そして、その池泉を挟んで相当な距離感をもって、互いに対面するように、西に薬師堂が、東に阿弥陀堂が存在しております。八幡社南の池泉の向こうに文珠堂が、薬師堂の南には並んで重源像を祀る開山堂がございます。まぁ、薬師堂と阿弥陀堂の位置取りも本寸法でございます(東方浄瑠璃世界の教主である薬師如来、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来の居所を意味する位置取り)。しかし、諸堂同士の求心性は感じさせず、どこか大陸的なおおらかさを感じさせるのです。浄土寺は、上述いたしましたように、建久5年(1194)に東大寺領であった播磨国「大部荘(おおべのしょう)」に「東大寺別所」として、重源によって創設された寺院でございます。そして、建久8年(1197)に本堂として、薬師堂と浄土堂が中国の建築様式として伝わったばかりの「大仏様」の様式で建立されております。資料として明確には裏付けることができませんが、おそらく重源が招来して東大寺大仏殿再建に重要な役割を果たした、陳和卿(ちんなけい)を筆頭とする宋人工匠が関与していることは間違いありますまい。創建時のままに現存しているのは浄土堂のみで、薬師堂は室町期に焼失し永正14年(1517)再建された建築であります。恐らく創建時は浄土堂と全く同じ大仏様で建設されたのでありましょうし、再建時にも浄土堂に似せて造ろうとしたのでしょうが、諸様式が混在した折衷様となってしまったのが御愛嬌です。しかし、こちらも国指定重要文化財であります。
国宝に指定された浄土堂でございますが、鎌倉再建大仏殿が失われた現在、仏堂形式で現存する唯一の大仏様建築として貴重なものであり、国宝に指定されております。しかし、面白いもので純粋な大仏様ではなく、伝統的な和様の様式も導入して建設されております。例えば、土間ではなく床を張っていること、西背面を蔀戸(しとみど)で構成していること等でございます。特に後者は、日没時に西側の蔀戸を全て開け放つことで西日が阿弥陀三尊像を背後から照らす効果を生み、阿弥陀仏の来迎を目前に体感できるように演出することを狙ったからであります。国内には阿弥陀堂は山のようにありますが、ここまで具体的な来迎の演出を施した古建築は他にないのではございますまいか。尤も、当日は時間的にもお天気の面でも、途轍もない圧巻であろう来迎シーンを体験することは叶いませんでした。宝形造の浄土堂は、一見するとこじんまり見えます。内部も方三間の単純な構成ではあります。しかし、大仏様の堅牢な構造性故でありましょう、内部空間は思いの他に広々としたもので、多くの民衆を迎え入れることができたはずです。建築されてから800年この方、夕陽に背後から照らされた阿弥陀如来の姿と真っ赤に染まる堂内の有り様に接した多くの民衆が、極楽往生の疑似体験をしたことでありましょう。東大寺再興には、こうした一般民衆の熱狂的な下支えがあったことを伺わせるに十分であります。また、浄土堂の本尊である国宝に指定される阿弥陀三尊像は、重源と深い関係を有して造仏活動を展開した「快慶」(重源から「安阿弥陀仏」の阿弥号を授けられております)の手に拠ります。中尊の阿弥陀如来立像の像高5.3m(須弥壇を含めて7.5m)、両脇侍の観音・勢至菩薩像の像高3.7mに達します。所謂「丈六仏」でありますが、ほとんどの丈六仏は坐像の形で造像されますから(それでも相当に大きな仏像です)、本来の立像だと取り分け巨大に見えます。ただ、快慶が得意とした像高1m程の繊細極まりない優美さの際だった阿弥陀像と異なり、宋風の味付けが相当に濃く大味な風貌に見えます。快慶が同時期に「伊賀別所(新大仏寺)」のために造像した丈六の阿弥陀如来坐像の頭部(頭部以外は後補)の表現と比較してもどこか中国風を感じさせます。何れにしましても、学生時代以来40年以上に亘って訪問することを夢見ながら、交通の便が極めて悪いことを言い訳にして、今日まで先延ばしにしておりましたが、ある意味で東大寺本体以上に、重源の息遣いを感じさせる寺院であったことに喜びで満たされた想いとなりました。重源に関する資料にはそこそこ接して参りましたし、本稿も以下の書籍・図録等に大いに依拠して綴らせて頂いております。記して御礼を捧げたく存じます。皆様も、ご興味がありましたら是非とも入手されてお読みくださいますようお勧めいたします。小生が本稿に綴った重源の世界は極々表面的なことに過ぎませんから。
◎五味文彦『大仏再建 中世民衆の熱狂』 1995年(講談社選書メチエ56)
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その内の中尾堯(編)『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』2004年(吉川弘文館)から、編者である中尾堯氏御自身がお書きになっている冒頭「重源の魅力」の末尾に据えられた“限りない総合”の全文を引用させて頂き、4回に亘って不定期連載をさせていただきました同窓旅行に関する内容を閉じたいと存じます。重源という不世出の僧に寄せる中尾氏の熱い思いが伝わり胸を打ちます。小生も、重源という類稀なる組織力と行動力を有しながらも、如何なる人にも温かな眼差しを向けることのできる“人間としての魅力”に限りない愛着と興味を抱いております。その意味で、購入したままで積読状態にある、建築史家の伊藤ていじ氏の手になる小説『重源』1994年(新潮社)を、これを良い機会として一読に及ばねばとも考えております。さてさて、4年後の同窓旅行は「越前から若狭」を巡ることが決まりました。元気に参加できるよう養生に努めなければなりません。今から4年後の旅が待ち遠しい想いで一杯でございます。尤も、最早本稿として世に出ることはございませんからご安心を!
限りない総合
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早いもので7月文月に入りました。関東でも先月末には遅れていた梅雨に入り、蒸し蒸しとした毎日が続いております。この「文月(ふみつき)」の名称の由来は「七夕」に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝したりする風習があるから……とのことのようです(所謂“虫干”)。尤も、旧暦の七月七日は季節としては「秋」に入りますから納得できますが、それでも本稿アップの数日後に市内のとある神社で文書類を町内会の方々が虫干する機会があり、招かれて本館職員がちょっとした調査に出向くことになっております。現在の季節感では湿気の多い時季になってしまっておりますが、古くからの伝統的な虫干の伝統を新暦でも引く継がれているのかもしれません。尤も、七夕の行事は元来日本の行事ではなく中国由来のものであることは周知のことでございましょう。中国の「乞巧節(きっこうせつ)」なる牛郎と織女の逢瀬を祝う中国の祭が、奈良時代になって伝来したもののようです。わが国では、牽牛と織女の二星が一年の間に、たった一度だけ逢うことの伝説として、「星合(ほしあい)」なる美しい言葉が生まれ、万葉の昔から多くの歌に詠みこまれております。個人的に、子供の時分にも、教員として学級経営をする際にも、季節の風物詩として、子どもたちが短冊に願いを書いて笹竹に括り付ける行事を度々おこなったものです。いわば「星に願いを……」でございます。短冊は誰もが目にすることができますから、子どもがそこに本当の願いを吐露することはございますまいが、子供らしい差し迫った願いを記していることが多く(「成績が上がりますように」「お小遣いがアップしますように」等々)、微笑ましい思いにさせてもらったものです。尤も、事例に挙げた後者は、いい歳をこいた小生にとっては切実な願いであって、微笑ましいどころか身に詰まされる思いともなったのでしたが(汗)。さて、冒頭歌でございますが、旧暦での「七夕」は、上述致しましたように初秋の行事でありから、歌集の部建てでも「秋」の最初辺りに入り込みます。ただ、古典和歌の季節感とは大分ずれが生じます。従って、「秋」の文字が入り込んだ歌は避けて二首を冒頭に掲げさせていただいた次第でございます。例によって何時もの塚本氏の傑作アンソロジーからの引用となります。以下の塚本氏「短評」共々お味わいください。個人的には光厳院の和歌の“玉葉・風雅”風の調べに惹かれます。
「槢なくて行く=甲斐なくて生く」の懸詞を導き出すための天の河であるが、この戀の底には、紛れもなく二星の儚い逢瀬がひそんでをり、それは「心の空」なる縁語でも明らかだ。今一首、星合の戀歌に「天の河 川邊の霧の 中わけて ほのかに見えし 月の戀しき」があり、「月」とはすなはち思ふ人の面影、「遇ひで逢はざる戀」風の味はひがある。 天には銀河の二星に光を添へる月、地には庭燎(にはび)の天に映る光。星合の星を殊更に言はず、他の、これに増す光を歌って、いやさらに七夕の雰圍氣を傳へるあたり、巧者なものだ。また「秋風に動く」とでもあるべきところを、助詞を省いて、動くのは秋風自體とし、燈火の揺れを暗示するのも、風雅調と言ふべきか。初句切れの思い響きも格別。 [塚本邦雄撰『清唱千首』1983年(冨山房百科文庫35)より] |
ちょっとした付け加えをさせていただけるとすると、飽くまでも個人的な感想にすぎませんが、平兼盛の詠歌からは、一世を風靡した角川映画『Wの悲劇』(1984年)の主題歌『Woman “Wの悲劇”より』の作品世界を思い起こします。作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂(松任谷由美のペンネーム)という名コンビの手になる作品であり、ユーミン御自身が「他人に提供したものの中で一番の“神曲”」と自負されるのが宜なるかな……の“傑作”に他ならないと感じます。映画で主演を務めた薬師丸ひろ子の歌唱によりますが、彼女は元々合唱を学んでいたと耳にしたことがございます。そのような経歴からか、アイドル的な色合いを感じさせない透明な声質による、爽やかな印象を伝える歌唱でございます。歌詞は権利関係もありますから、ここでは一切引用はいたしませんが、ネット等で検索されれば容易に目にすることができるものと存じます。小生が兼盛詠歌と共振するものが何処かを勘案頂けましたら幸いでございます。本作は大ヒットをいたしましたから、多くの皆さんも耳にされたこともございましょう。因みに、薬師丸による原曲が全く素晴らしい出来であることは申すに及びません。しかし、数年前に松本隆のトリビュートアルバムで池田エライザがカバーした同曲では、薬師丸とは異なった情念の籠った呼吸の深い歌唱によって、実に感銘深い楽曲に変貌しております。かつての大相撲での優勝を決める貴乃花と武蔵丸の取り組み。膝を痛めて激痛の走る中で貴乃花が気力で勝利を掴んだ際、時の首相が表彰式で発した「感動した!!」の科白が思い浮かんだほどです(最早ピンと来ない方も多かろうと存じます)。多彩な才能を有する池田エライザの、ミュージシャンとしての図抜けた表現力に大きな感動を頂きました。もし関心がございましたら『松本隆 作詞活動50周年トリビュートアルバム「風街に連れてって!」』2021年(日本コロンビア)をどうぞ。他のカバー曲も聴き応えのあるものが多いのですが、池田エライザの歌う『Woman “Wの悲劇”より』一曲を聴くために購入しても、決して損はないと思います。
さて、前回の本稿は、播磨同窓旅行における古建築に関する内容に傾くものでございましたが、今回もまた日本建築の話題とさせていただきます。ただ、同じ建築を扱っても、前回の「仏教建築」とは異なり「住宅建築」に関する内容となります。住宅建築といえば、縄文時代の「竪穴式住居」から始めるのが筋なのかもしれませんが、本稿では現在放映中のNHK大河ドラマに因んで(!?)、平安時代の貴族の住いについて採り上げたいと存じます(尤も、大河ドラマの方はすっかり御留守となっておりますが)。平安時代の貴族の住宅建築といえば「寝殿造」と言うことで異論はございますまい。他でもない、小生を含める多くの皆様方も中高時代の教科書で斯様に習った記憶があるものと存じます。小生が教員になった頃からは、決まって斜め上方から「寝殿造」(貴族屋敷)をとらえた図版が掲載されておりました。その敷地手前には、中島を伴った池泉があり、中央にある建物の左右からは手前の池に延びた回廊が池の淵にまで及んでおります。また中心の建物の周辺にも建物が幾つも建て込んでおり、それぞれが回廊で繋がっていることにも気づかされました。池に臨んだその回廊の先端には「釣殿(つりどの)」などと記されおり、貴族屋敷には釣りを愉しむ施設まであるのか……優雅なもんだな……と、無闇に感心した記憶がございます。
ところで、復元模型にせよ皆様もその目でご覧になったことのある「寝殿造」について、「どんな建物なのか?」と問いかけられとしたら、皆様は如何なる説明をなさいますでしょうか。いざ説明しろと言われると恐らく誰もが機と口を噤まれてしまうのではありますまいか。少し建築を聞きかじったことのある人でも相当に難渋されることと存じます。実のところ、長らく教員を生業にしてきた(しかも古建築大好き親父である)小生でも、それは決して簡単なことではございません。お恥ずかしながら、これまでその正体をしっかりと捉えらぬままに曖昧な説明を生徒にしてきたというのが正直なところでございます。教える方がそんなことで生徒諸君が理解できるはずもございません。因みに、教科書に示されていた図版は、全て復元模型か絵画によるものであった筈であり、実際の建物写真ではございません。それは、取りも直さず「寝殿造」の現物が全く現存していない事実を明らかにしましょう。そのことが貴族達の居住建築の実態を、より掴み難たいものにしている主たる要因ともなっております。そこで、今回の本稿では自分自身も平安時代(国風文化の頃)の貴族住宅建築を学び直してみよう……との算段でございます(教員を引退した今頃になって何を言っているのかとのご批判は甘んじて享受いたします)。そこで、先ず手始めに教科書が「寝殿造」について如何なる説明を加えているのかを確かめてみようと思います。併せて、対比させて理解すると理解もし易いかと考え(!?)、同じく教科書で必ず採り上げられる住宅建築「書院造」に関する説明にも及んでみようかと存じます。
さて、興味津々で紐解いてみることになった、中学校社会科(歴史的分野)教科書では、「第2章:古代までの日本」→「第3節:古代国家の歩みと東アジア世界」→「第8項:国風文化」内に採り上げられており、9世紀に入ると貴族の住居は、複数の建物が廊下で結ばれるとともに、広い庭や池が備えられるようになったと説明され、それを「寝殿造」と称すると記します。また、その具体例として国立歴史民俗博物館に展示される「東三条殿」の復元模型が別頁に大きなカラー図版で紹介されております。続いて、手元にある少々以前の高等学校「日本史」教科書では、「第3章:貴族政治と国風文化」→「第2節:国風文化」内にある「国風美術」項目内で採り上げられております。そこには、貴族の住宅が白木造・檜皮葺の寝殿造と呼ばれる日本風のものになったと記され、中学校教科書と全く同じ復元模型図版が同頁に掲載されております。そして図版解説として以下のような説明が極めて細かな文字で記されます。即ち、敷地の中央に寝殿(正殿)があり、東面には透渡殿(すきわたどの)があって東対(ひがしのたい)と接続すること、西面は透渡殿から西透廊が延びて釣殿(つりどの)へと続くこと、また庭園には池や中島があること……でございます(情報は之が全てであります)。図版には全てではありませんが幾つか建物名称が記入されており、その全体像が把握できるようにはなっております。高校教科書ではかなり詳細な説明が加えられておりますが、皆様はこの内容で御理解頂けましたでしょうか。
続いて「寝殿造」の理解に資すための比較資料として「書院造」の教科書記述も確認してみましょう。まずは中学校教科書から。「第3章:中世の日本」→「第1節:武士の政権の成立」→「第7項:室町文化とその広がり」内の「室町文化」に記されております。そこには、15世紀後半からは質素で落ち着いた文化が発展し、寺から武士へ広がった「書院造」住宅では床の間が設けられたとします。そして、図版として「東求堂同仁斎」の内部写真が掲載され、解説文には代表的な書院造であるとされております。続く高等学校日本史教科書では、「第5章:武家社会の成長」→「第3節:室町文化」内にある「東山文化」で、「同仁斎」の写真図版を掲載し、同仁斎に見られる書院造が近代和風住宅の原型になったと記します。そして、欄外注釈として以下のように説明を加えております。そこには、書院造が寝殿造を母体として誕生したこと、住宅内を襖や障子で仕切ることで幾つかの部屋に分けること、その一室に押板(おしいた)・棚・付書院(つけしょいん)などの施設を設置すること、床は畳敷で天井を張り、明障子(あかりしょうじ)を有することを特色とすると、これまた実に細かな文字で記されます。実のところ、書院造については15世紀以降の実際の建物がそれなりに残っておりますので、実際に目にすることができます。従って教科書でも、初期の事例として室町将軍足利義政の建築となる「同仁斎」の内部写真が掲載されているのです(個人的には同仁斎が代表的な書院造との説明には首肯致しかねますが)。
さてさて、ここには、図版がありませんから教科書の説明文のみとなりますが、皆様は「寝殿造」「書院造」それぞれの住宅建築様式について相互に理解いただき、誰にでも理解できるように説明をすることが可能になりましたでしょうか。恐らく、多くの皆さんにとって、これら教科書記述に接する前以上の困惑にとらわれているのではありますまいか。そもそも、寝殿造の説明は貴族屋敷全体の建物構成を語っているだけですし、書院造のそれは建物構成ではない建物自体の説明となっております。つまり、視点が全く異なりますから本来比較することが叶うはずもございません。まぁ、百歩譲って「書院造」についてはある程度のイメージをもって理解することは可能でありましょう。写真が示されますし今日の住宅建築にも引き継がれているところも多くあるからでございます。しかし、「寝殿造」については、建築様式自体の説明は中高教科書ともに皆無でありますから、正直なところ理解しろという方が土台無理な話です。尤も、辛うじて書院造の説明から類推して以下のような特色があるのだろうと知ることはできます。要するに、「畳敷きではなかった」こと、「襖や障子が無く建物の中に間仕切りがなかった」こと等でございます。しかし、「書院造が寝殿造を母体にして誕生した」の一文からは、寝殿造の何が母体になったのかの説明が皆無ですから。誰もがお手上げとなるしかございますまい。書院造とは、寝殿造の如何なる要素が引き継がれ、または引き継がれていかなかったのでしょうか。かような説明は「書院造は竪穴式住居を母体として誕生した」としても文意には全く変わりがありません。即ち、建て材である柱と、横材とを組み合わせて、そこに屋根を葺くという建築の基本のキを説明していることと同じことでございましょう。つまり、その記述で貴族の住宅建築を理解することは難しい、いや不可能というのが正確でありましょう。
しかしながら、こうした思いは、小生のように学生時代に「古建築」ついて少々聞き齧って学んだ頃から、今日に至るまでさほどに変わらぬ儘に継続してきたことでもあるように感じます。ある程度専門性のある建築史の書籍に当って専門家の記述を拝読させていただいても、正直なところはっきりとした焦点を結ばないのが「寝殿造」であったからであります。少々古い書籍には、必ずと言ってよいほど、「寝殿造は基本的に左右対称のシンメトリーの建物配置を志向して建築される」と記されております。そこで「基本的に」ということは敷地の制約等がある場合は必ずしもその限りではないが……との含みがございましょう。確かに、代表的な寝殿造復元模型である「東三条殿」もシンメトリー構成にはなっておりません。敷地の制約が理由だと思われるかもしれませんが、「東三条殿」は藤原摂関家によって最も重要な屋敷であり、重要な儀式がその屋敷で執り行われたのです。だからこそ、史資料が豊富に残存しているため、曲がりなりにも復元模型の製作が可能になったのです。斯様な「ザ・寝殿造・オブ・寝殿造」の建物でさえシンメトリー構成を採らない事実は、シンメトリーは必ずしも寝殿造の主たる要素ではなかったことにもなりましょう。また、平安京の発掘調査や残された史資料からは「東三条殿」のような中核建造物である「寝殿」の前庭にそもそも池泉が造営されていないケースも多くあることがわかっております。つまり、教科書等に書かれる寝殿造の説明は、必ずしも寝殿造の実態を伝えることになってはいないのです。それでは「寝殿造」とは一体何者なのでしょうか??後編ではその辺りを探って参りたいと存じます。
(後編に続く)
「寝殿造」は平安貴族の邸宅として10世紀半ばから11世紀にかけて誕生したと考えられているようですが、初期の状況は必ずしも明確にはなっていないようです。実際に寝殿造の姿を伝える資料が見出されるのは12世紀以降となるとのことですし、それも摂関家のようなトップクラスの貴族の屋敷が中心で、中級以下の貴族住宅の状況は明確にできないようです。それでもある程度までは実態が判明するのは。藤原氏「氏長者」の邸宅である「東三条殿」が復元されて模型になったように、いわゆる最上級貴族の屋敷には比較的資料が伝わっているからです。それによれば、「寝殿造」とは、儀礼を執り行う正殿としての「寝殿」を中心として。幾つかの建物が何らかの意図を持って廊で接続され、前庭(池泉の有無にかかわらず)との関係性を勘案しながら平面構成された建築様式であることになります。そもそも、同じ貴族であっても、そのご先祖が平城京に建設した館とは屋敷内の建物配置が異なることが分っております。長く続いた平城京の発掘調査の御蔭で、「長屋王邸宅跡」等の発掘成果が積み重ねられてきたからでございます。その結果、長屋王邸宅等の奈良貴族の邸宅では各建物の独立性が強く、廊で密接に各建物が連結されることは少ないようです。それぞれの建物も後に述べるような「寝殿造」が極めて開放的な建築であるのに対して、室内と外との境はその多くが板壁で掩われているなど、閉鎖的な空間であったと言われます(柱等の部材も朱塗塗装がなされているなど中国風でもあったようです)。何れにしましても、寝殿造では、それぞれの建築物が具体的に如何に配置され、その構成自体に如何なる意味があるのか、また後の書院造と異なる如何なる建築物としての特色を有しているのか……等々の一般性が指摘されなければ、そもそも「寝殿造」という様式に収斂することはできません。
個人的には、「寝殿造とは何か?」といった疑問の一方で、15世紀に「書院造」が誕生するまでの四五百年の期間における、貴族住宅建築の変遷とは如何なるものであったのかといった疑問もございます。ある日、いきなり寝殿造から書院造へと住宅様式が変わった訳ではありますまい。そもそも、貴族は明治に至るまで故地である京都に居住し、それぞれの屋敷を構えおりましたが、その貴族の館もまた書院造に入れ代わってしまったのでしょうか(そうであれば寝殿造は何時・何故廃滅したのか、また残されているとすれば何故、如何なる形で引き継がれたのか)。そもそも、大名を始めとする武家の住居建築と公家のそれとは如何なる関係性があるのか、それとも異なっているのか……等々、いやはや頭の中は?(ハテナ)マークは際限なく広がることになったのです。第一、公家屋敷の平面図ですら容易に入手できませんし、もし手に入ったとしても建築史だけを専門にしている訳でもない小生には、それを読み解き分析する力が欠如しております。若い頃には手頃な研究書も一切存在しておりませんでしたから、お手上げだと音を上げたまま、瞬く間に還暦を越してしまったというのが現実でありました。ところが、漸くその光明を見出すことのできる研究者の方と、素人にも理解できそうな手ごろな値段で入手可能な、その方の手になる一般書を見出すことができました。無論のこと、無我夢中の思いであっという間に読了したしたことは申すまでもございません。それが、副題に掲げさせていただいた、現在「関西大学環境都市工学部」に在籍される藤田勝也(ふじたまさや)教授の手になる『平安貴族の住まい 寝殿造から読み直す日本住宅史』2021年(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー520)でございます。本書籍に出会って、ようやく寝殿造とは何ぞや、また書院造への移行がどのように進んだのか、また江戸時代の公家屋敷に寝殿造の伝統が引き継がれたのか否かといった疑問について、(全てにおいて「一件落着」にまでは至ってはおりませんが)相当に明瞭な光明を見いだせたと思います。以下、本書に基づき、「寝殿造」とは如何なる特色を有するのか、その概要をご紹介させていただこうと存じます。
最初に、長らく通説のように述べられてきた「寝殿造りとは左右のシンメトリーを志向する」という理解が、何時頃まで遡るものかを探ると、それは江戸時代後期頃にまでしか遡れないどころか、そもそも「寝殿造」なる用語自体がその時期に生み出された、たかが150年程の歴史しか有しない極々新しい用語なのだと言うことを知りました(実は「書院造」も!!)。藤田氏の調査によれば、寝殿造が左右対称建築であるとの説は、江戸時代後期に会津藩士(儒学者・国学者)の沢田名垂(なたり)(1775~1854年)著作となる『家屋雑考』(天保13年刊)に掲載された「寝殿全図」と題して掲載された「寝殿造鳥瞰図」が後世に大きな影響を与えているからだと言います。本書には、名足による所謂「寝殿造」平面図は、悉く見事なまでに左右対象にそれぞれ建築が配置された平面図が掲載されております。一見して、果たして日本にここまで左右対象に建物があったのだろうか……と思えてしまうほどの違和感満載の平面図となっております(まるで欧州の宮殿のようです)。そうした、謂わば半ば“想像的復元”が一人歩きしてしまったのが「シンメトリー伝説」の出発であったことがわかります。それはそれとして、それでは「寝殿造」として類型化される特色とは一体何なのか……が問われなければなりません。少なくとも、建築とは何らかの機能性を求めて構成されるわけですから、貴族達の如何なる必要性があって建築されたのかを追求することが重要になるものと思われます。しかも、貴族は平安期で消滅したわけではありません。鎌倉幕府から室町幕府の時代を経て、明治に到るまで連綿と子孫は京に居住しつづけて屋敷を構えてもおりました。そうした時代の変遷の中で「変わらぬ様式」が見いだせるのであれば、それこそが「寝殿造の本質」……つまり「寝殿造とは何か?」への回答となることになりましょう。寝殿造の実物が立体物として一切現存しないことがその解決を難しくしますが、発掘調査で得られた知見と、新しい時期の貴族屋敷であれば残された平面図がございます。藤田氏は、そこから「寝殿造」としての「型」を抽出されたのです。そのことを藤田氏は本書で以下のように綴っていらっしゃいます。「寝殿造が成立する以前の9世紀を中心に大規模遺跡に目を通した後、13世紀から19世紀まで通覧することで、「型」を追求した。時代を超えて変化しない「型」として抽出できたのは、寝殿を中心とする建物群の組立と配置構成であった」と。紙面の関係もありますので、途中経過は省略し、一気にその結論をご紹介させていただきますが、大変な労作であろうかと存じます。ようやく「寝殿造」についての理解が自らの射程に入ってきた思いに欣喜雀躍でございます。こうした問題に御興味があるのでしたら、是非とも本書をお読み頂ければと存じます。何よりも、以下の結論に至った追求の経緯こそが本書の山場であり、最も興味深い部分でありますから。
(1)寝殿を中心に建物が取り囲んで前庭をつくり、寝殿と前庭は一体的な空間を形成する。 中門廊や塀、柵列などによって、寝殿は正面に前庭をもと、寝殿と前庭は一体的に活用される空間で、伝統的な諸儀式の舞台となる。寝殿が南面する場合は南庭だが、時代が下がると「南」庭とは限らない。 寝殿から二棟廊、侍廊(さぶらいろう)、中門廊(ちゅうもんろう)、中門(ちゅうもん)そして表門にいたるというアプローチを形成する建物群は一定の組み立てをもち、配置構成も変化しない。 それはまた古代的な空間の維持、あるいは再編を意味するもので、必然的に室礼(しつらい)を導くことになろう。そこで派生して、次の点を加えることができる。 (4)室礼によって、大空間を適宜、間仕切り、家具・調度を置き、用途・機能に応じた空間をつくる。
[藤田勝也『平安貴族の住まい 寝殿造から読み直す日本住宅史』 |
これらを理解するためには、若干の補足が必要かと存じます。まずは、藤田氏の指摘される(1)と(2)に関する内容から。皆さん、その昔に教科書で見た「東三条殿」復元模型を思い浮かべてみてください。さて、この建物の正門は何処でしょうか?つまり、主人や家人、客人はどこから屋敷地に入り、どこで屋敷の建物に入るのでしょうか……と言い換えても構いません。小生は、その昔は南側、即ち池の側から正面の寝殿へとアプローチするのだとばかり思い込んでおりました。そのために池の中島に橋が架けられているのだと。しかし、そうではないのです。寝殿造の屋敷では、平安時代であれば寝殿は南面しておりますから、左右(東西)どちらかの門が正門にあたります[「東三条殿」の場合は右手(東側)となりますが、その違いは屋敷と道との位置関係性によって変わりましょう。以下は「東三条殿」を例としますから東門を正門として話を進めます]。屋敷の主人及び訪問者の殆どは高位の貴族ですから、マイカーである「牛車(ぎっしゃ)」に乗車しております。従って、東門を入った左手(南側)には通常「車宿」(謂わば“屋根付駐車場)”と「随身所」(訪問者のお付きの人々の控所)があります(両者は東西棟の一体の建物内に納められていたようです)。また、右手(北側)には「中門廊(ちゅうもんろう)」(後述)から東に延びる「侍廊(さぶらいろう)があり、その前には目隠しのための塀が建てられております。こちらは、貴族屋敷の家政施設であるとともに、身分の低い人々はここから屋敷に入る、内向きの玄関の機能も有したようです。つまり、正門を入った空間は左右に建物が東西に建つ比較的閉鎖性の高い場となっております。さて、そこから正面(西)を見ると、そこには屋敷の中核建築である「寝殿」から南に延びる「中門廊」が正面を塞いでおり、屋敷内の外郭部分と内郭部分とを区切る機能を有しております。そして、正門である東門の真正面の中門廊には門が開いております。こちらが「中門」であり(中門のある廊だから中門廊と称するのです)、こちらから内部は屋敷の内郭である主人のための空間であり、誰もが入れる場ではありませんでした。また、中門の内部には前庭が広がり(東三条殿では池泉がありますが、その存在がない屋敷も多かったようです)、右手には主屋としての「寝殿」が眼に入るはずです。また、正面には寝殿の西側から分かれて南北に延びて「釣殿」に到る廊が、前庭を区画する役割を果たしておりました。つまり、寝殿の南側の「前庭」は、特別な儀礼空間として、中門廊ともう一方の廊によって意図的に区画されて存在しているのです。さて、その中門でありますが、単に内郭部分への進入口であるだけではなく、基本的に屋敷の主人や身分の高い貴族の訪問者の玄関としての機能を有しており、中門内に入った付近で靴を脱いで中門廊へと昇殿したようです。寝殿正面には「前庭」にアプローチする木段が備えられておりますが、こちらから昇降するのは儀式の時などの限られた場合のみと考えられます。
続いて(3)と(4)に関する補足をさせていただきましょう。主屋としての「寝殿」は東西棟の建築として南面して建てられます。建物は「母屋」(構造上最も重要な建築の中核部分)と「庇」(内部空間を確保する為に、母屋の前後左右に付加して拡張した空間であり、建物の構造自体には関わりがない空間となります。その庇を更に延ばして内部空間の拡張を図った場合、それを「孫庇(まごびさし)」と称することになります)とで構築されております。藤田氏によれば、こうした母屋・庇・孫庇の空間の床には段差をもって空間自体の差別化が図られていたそうであり、それはこの空間で行われていた儀式の在り方(身分的な差を可視化する等)の意味を強く有していたとされております。そして、その貴族社会の在り方こそが、貴族が寝殿造を後世まで、例え形式上であっても維持した大きな要因であったものと考えられるのであります。また、建物の外周には壁に当たるものが少なく、出入口として両開きの「妻戸(つまど)」が設けられる以外の柱間は「蔀(しとみ)」(板戸のことですが、実際には格子状に組んだ木材を板に貼り付けて装飾的に仕上げられております)を嵌め込み、日中は中央から上部を跳ね上げて軒先に吊して開け放し、通風・採光する状態といたします。従って、母屋の一部「塗籠(ぬいりごめ)」なる寝所としての部屋らしき存在があったものの、その他の寝殿内部は極めて開放的な空間となります。逆に夜間に蔀を下ろしてしまうと、上記とは全く逆に通風・採光は全く確保されなくなります。一方、床は板床であり、屋根は入母屋造で構築され、檜樹の表皮を重ねる檜皮葺であったと考えられます(身分が下がれば板葺)。また、建物の部材は奈良時代のように彩色されず、白木のままであったようです。これも平安期の国風化の動向と軌を一にしておりましょう。前回の本稿で紹介いたしました鶴林寺の太子堂を大型化した、さぞかし優美な建物であったことと想像されます。こうした開放的な間仕切りの殆ど無い空間であったからこそ、その内部には必要な物を適宜配置することで空間を分割したり、また冬季の寒さを防ぐ必要が生じることになります。それが(4)の「室礼」と言うことになります。これにつきましては、この場での説明を省略させていただきますが、国宝『源氏物語絵巻』をみれば、寝殿造の内部が決して伽藍とした空間ではないことが御理解いただけましょう。「御簾(みす)」(簾を下げて内を隠す)、「几帳(きちょう)」(布製のカーテン)、「障子(しょうじ)」(現在の障子とは異なり室内を区切るパーテーションを総称した物)、「屏風(びょうぶ)」(障子の一種で折り畳んで持ち運びでき、表面に絵画も描き装飾性も高いもの)等々でございます。また、床は板敷であるため、筵(むしろ)で編んだ畳を置いて着座しました。謂わば現在の座布団のような存在となりましょう(現在の和室のように、床全面に畳が敷き詰められるのは書院造になってからとなります)。
さて、今回はここまでとさせていただきます。如何でございましたでしょうか。何となく知っているようで、その実態が曖昧模糊としていた「寝殿造」について、少しでもその輪郭に迫ることができましたでしょうか。本来であれば、「寝殿造」のその後の歴史的展開という極めて興味の尽きない問題もございますが、他の仕事と出張もあってタイムリミットとせざるを得なくなりました。未だ未だ藤田氏の著書についても、ご紹介したいことが沢山ございますが、またの機会とさせていただきたいと存じます。少しだけ触れるとすれば、藤田氏は、中世・近世を通じて寝殿造が如何に変容していったのか、また15世紀に書院造が如何なる経緯をもって誕生していったのか等々に関して、実に興味深いのお考えも述べられておられます。その中で、江戸時代の「五摂家(摂関を出す最上級の藤原氏の5つの家を指し、その序列は「近衛家」→「一条家」→「九条家」→「鷹司家」→「二条家」の順となります)」の屋敷には、日常生活の場としての「書院造」が存在する一方、形を変化させながらも、藤田氏が御指摘される(1)~(4)の様式を引き継ぐ「寝殿造」正殿に当たる建物が別に設けられているなど、平安期の貴族屋敷の伝統が連綿と引き継がれていることを知ることができました。つまり、貴族にとっては伝統的な儀礼の遂行のために、「寝殿」の有する建築空間が機能上必要であったということになりましょう。小生にとって、40年以上蟠っていた疑問がようやく解決いたしました。藤田氏の他の論文にも接しましたが(藤田勝也「近世近衛家の屋敷について」2102年、「近世九條家の屋敷について」2014年)、公家である裏松光世[固禅](1736~1804年)による有職故実の研究に基づく、寛政期「復古内裏」が建設されるより以前の近世初期から、既に五摂家の中には故実に基づいた「寝殿造」の空間構成が見出されると御指摘されております(近衛家では復古的な寝殿を建設するのは若干遅れるようですが、それでも寛政期の復古内裏建設よりは以前のこととなります)。論考に引用される建築配置図の中に、くっりきと寝殿造の構成要素である一定の“型”が浮かびあがって見いだせた時には、流石に声をだしてしまったほどに感銘をうけました。五摂家より下位となる貴族屋敷ではどうであったのか等までは知り得ないのが残念ですが、今後藤田氏の他の論考にも接してみたいと存じます。一つだけ、「初期書院造」にだけ見ることの出来る「中門」の由来について、藤田氏が如何にお考えをお聞かせいただきたかったと存じました。よく、この「中門」の存在を「寝殿造」の残滓として説明する説に接しますし、小生もそう思ってきたのです。飽くまでも素人考えではございますが、本書で藤田氏が述べていらっしゃる“書院造生成過程”では、この不可思議な存在である「中門」の存在意義だけは説明できないように存じ上げるからでございます。それにしましても、還暦を過ぎて、積年の疑問に漸く明るい見通しがつけることができたことを心底喜びたいと存じております。
最後の最後に、昨年度12月に開催した千葉氏公開市民講座の講演録と動画をホームページ上で公開中です。また、冊子として手元でお読み頂きたい場合、本館窓口で希望者に無償にて頒布しております。どうぞお気軽に受付職員にお申し付けくださいませ。因みに、お一人様一部でお願い致します。
お暑うございます……と、本稿を書き起こした今は7月初週でございます。未だ梅雨に入って間もないのですが、関東の地では連日陽光燦々と降り注ぐ状況にございまして、有体に申せば最早“梅雨明け”の様相を呈しております。7月初旬でこのじりじりと照り付ける盛夏そのものの陽気に、この先はどれだけの酷暑となるかと空恐ろしくなるほどでございます。こうした中、千葉市内の公立小中学校は本日が夏季休業前の授業最終日となり、明日から実質的な夏休みに入ることになります。その昔は、これから一週間後辺りが長期休業の入りでありましたが、昨今の酷暑はそれを一週間も前倒してしまったということでしょう。昨今では、市内の公立小中学校では各教室にエアコンが備え付けられているのでしょうが、登下校を含めて戸外での活動には不適切な気候との判断なのかもしれません。一方、中学校の場合は酷暑の中で挙行される「総合体育大会」開催時期の問題もあるなど、諸々の条件を勘案した結果の前倒しなのでございましょうか。尤も、夏季休業期間が延びた訳ではなく、本市では8月25日には終了となります。つまり正確には夏休みの期間が1週間前倒しになったという訳であります。しかし、そうなれば残暑厳しき中での再始動となります。何処をどう弄っても、暑さ対策の決め手にはなり得ないかもしれませんが、身体が暑さに慣れてからなら少しはマシか……との判断があるのかもしれません。何れにしましても悩ましいことでございます。そういえば、沢山飛来していると耳にしていた燕をこの亥鼻山では見かけないように思います。真っ先に鳴き始めるニイニイ蝉のこえも一向に響いて参りませんが、こんな天気続きなら来週あたりには羽化し始めましょう。何れにせよ何だか変梃なことになりました。
さて、過日、毎年この時期に文化庁が主催する「全国博物館長会議」がございまして、小生も東京の虎ノ門にある文科省に出かけて参りました(公益財団法人「日本博物館協会」という全国組織があり共催で運営されているのだと思われます)。決して「いそいそ」という感はございませんが、これも大事なお仕事の一つでありますから、粛々と馳せ参じた次第でございます。令和6年度は「これからの社会に期待される博物館の役割~持続可能な未来に求められる取り組み~」をテーマに掲げ、行政説明は勿論のこと、先進的な取り組みをされている博物館施設の提案等が行われました。これらを通じて、全国から上京してきた各館館長に、施策の趣旨をしっかりと伝達し、優れた博物館の取り組みに学んで自館に持ち帰って貰うことを狙いとする会議なのでございましょう。「博物館」と申せば、一般には「歴史民俗系博物館」を想起いたしますが、ここで文化庁が言う所の「博物館」は、科学系・動物園・美術館等々の施設も広範に含んだものでございます。ただ、「博物館長会議」自体は午後からの開催なのですが、午前中に「Innovate MUSEUM事業」に関係した博物館の成果報告会もあった関係で、実質的には朝から夕刻まで丸々一日の日程で、その間に行政説明も含めた10余りの説明・報告を拝聴し続けるというナカナカにしんどい一日であったのも現実でありました。ただ、それぞれの実践報告には流石に学ぶところが多くございましたし、中でもキラリと光るお話しにも幾つか遭遇することができました。そこで、今回の本稿では、僭越ながら、その中で印象深かったお二方のお話を、皆様にも御裾分けをさせていただければと存じます。
一つ目は、「第4回日本博物館協会賞」を受賞された「明石市立天文科学館」館長の井上毅(いのうえたけし)氏による「明石市立天文科学館の果たしてきた役割」なる御講演でございます。内容そのものは創立以来の当館の活動紹介という極々一般的な内容でございましたが、昨今の当館の活動そのものが途轍もなく印象的なものでありました。お蔭で、小生も直ぐにでも当館に行ってみたい衝動に駆られたほどでございました。当館は、昭和35年(1960)開館の東経135度「日本標準時子午線」上に建つ、「時と宇宙」をテーマとした博物館でございます。日本に現存する天文科学館の中では、最初に竣工した館として知られており、プラネタリウムで使用される旧東ドイツ「カール・ツァイス社」製の投影機もまた現役稼働する国内最古の機材であるとのことです。また、平成7年(1995)に発生した「阪神・淡路大震災」では震源地に至近の地である明石市の被害は甚大であり、奇跡的にプラネタリウムは機材も含めて大きな被害を免れたそうですが、その他の館施設も大々的に損傷を受けたそうです。そして、3年の月日を経て改修等を終え、平成10年(1998)新装開館し今に至っているとのことです。その間、平成22年(2010)に開館50周年を迎え、同時に建物が国の「登録有形文化財」にも登録されております。現館長である井上氏は、大震災の2年後に本館学芸員に採用され、平成29年(2017)から現職となられたそうですが、若き頃の震災からの再起に果敢に取り組んだ経験と、閉館中に離れてしまった来館者の興味関心を向けて貰うため、獅子奮迅の活動をされたことが語られ、大いに感銘をうけたのです。
そのご苦労たるや途轍もない困難に満ちたものであったことは間違いありますまいが、ただ、その取り組みの在り方は、決して“捩じり鉢巻に青筋を立てた”感のあるものには感じませんでした。如何なる困難の状況にあっても、井上氏自身が困難な状況を物ともせずに前向きにとらえ、寧ろ楽しみながら館の活動をアピールしていこうと活動されて参られたことが伝わりました。その経緯を述べる語り口が常に明朗快活さに満ちたものであったことも、そうした印象を強めたのでしょう。それは、館長となった今も少しも変わっていないどころか、ますますヒートアップ(!?)されているようにも感じました。井上館長御自身は、山口大学時間学研究所客員教授の御立場にもある天文学の専門家でいらっしゃいますが、何にも増して天文を心から愛し、その面白さを誰にでも伝えたいとの思いに満ち、率先して天文教育普及活動にも従事されておられます。館長自らが常に第一線に立ち、プラネタリウムの生解説を毎回担当されたり(「僕が解説すると観覧される方が気持ちよさそうに眠ってくれるんですよ……」とご謙遜されておられましたが、それを逆手に取った「プラ寝たリウム」なる“マイ枕”持参のイヴェントも開催されて好評を博しているようです)、“館ヒーロー”として活躍中の「軌道星隊シゴセンジャー」に対抗する悪役「ブラック星博士」を館長自らが勤め、そのことを心底楽しまれていらっしゃる様子が、お話される姿からもひしひしと伝わってまいりました。勿論、シゴセンジャーを務めるのも館職員であり、今ではファンクラブまで結成され、市内で彼らのことを知らない子供はいないほどだと言います。最近になって、館の印象的な時計塔が変形して巨大ロボに変身する巨大ヒーロー「シゴセンオー」も登場。その活躍を描くアピール動画は、市内に居住する映像クリエーターの方が無償で作成してくださったとのこと。映像中には、明石名物「明石蛸」「卵焼(明石焼)」など地元アピール素材が採り上げらるなど、地元愛満載のユーモアあふれる特撮風作品となり得ておりました。こうした子供達にも希求する活動の積極的推進によって来館者数も鰻登りであり、博物館グッズも大いに売上げアップだとのこと。何も増して、博物館が明石市にとって無くてはならない施設であるとの市民の意識が高まっていることが大きな成果に他なりますまい。それもこれも、館長御自身が専門知識の普及に、手段を問わずに(!?)率先垂範して取り組まれているからこそ実現されたことと実感した次第でございます。決して井上館長の真似はできませんが、職員が展示対象を愛し面白がること、それを楽しみながら分かり易い手段に置換して伝えようとする、その精神(姿勢)だけは受け継ぎたいものだと強く思ったご講演でございました。
続いてご紹介をさせていただきたいのが、橋本麻里(はしもとまり)氏による「博物館の魅力をどう伝えるか?<内>と<外>とを往復しながら」でございます。最初に申し上げたきことは、少なくとも小生にとって今回の館長会議の中で、最も提言性に満ちた白眉の内容であったのが橋本さんの御話でありました。何故ならば、今年度の本会議のテーマ「これからの社会に期待される博物館の役割~持続可能な未来に求められる取り組み~」では沢山の報告等がございましたが、橋本さんが仰せになられたことほど、その核心に迫る本質的な提言はなかったと考えるからでございます。少なくとも小生にとって最も正鵠を射たお話でありましたし、また我が意を得たり……の思いともなりました。こうした会議での講演というのは、多かれ少なかれ館の活動紹介と言った趣きに終始しがちでございます(勿論、井上館長のお話しは“受賞記念講演”でありますからそれで宜しいことは申すまでもございませんが)。逆に、テーマに迫りうる理念や思考の在り方、それに向かうための姿勢や自身の意識の在り方に直接問いかけるような、知的で内省的なお話しに出会える機会はとんとございません。であるからこそ、橋本氏の話に深い感銘をいただけたのだとも存じます。そうは申しても、単に理念的なことを縷々述べていらっしゃるわけではございません。お話の多くは、これまで(そして現在)彼女が取り組まれて来られた、正に多彩としか申し上げようのないお仕事の数々に関するものであります。ただ、それら一つひとつのお仕事からは、本稿最後で引用させていただいた橋本氏の理念が生きていることを色濃く感じさせられており、その精神と実践との一貫性に感銘を受けたのです。御自身の仕事の紹介をされているだけに堕するお話では全くございませんでした。小生が理念的・内省的などと申しているのは、そうした意味においてでございます。もし、担当者がそうしたことを意識されて橋本氏を講師に選ばれたのだとすれば、文化庁には極めて優秀な職員の方がいらっしゃるのでしょう。そうであてくれれば嬉しいところです。
まず何よりも、橋本氏は言葉一つ一つを大切にされていらっしゃると思います。タイトル(副題)からして、とても詩的に感じさせます。よくよく吟味された言葉を、適切な場所に配しながら微かな抑揚をもって切々と語られることで、御話が実に詩的に心地よく音楽的に耳に届きます。勿論、その内容はよくよくの思考を経て整理された知的に洗練されたものでありますから、単に心地よいばかりでなく、すんなりと頭の中に入って明快に理解できます。ちょっと段違いの言葉の遣い手(!?)であると存じた次第でございます。橋本さんの姿は、NHKで放送される歴史・美術関連番組で拝見をさせていただいておりましたが、この場で直接に御話を拝聴できたことは極めて幸運でございました。この30分だけでもこの場に脚を運べたことの価値は十二分にございます。ところで、橋本氏は大名細川家に伝わった文化財を保存展示する「永青文庫」の副館長であると思っておりましたが、現在の肩書は現代美術家杉山博司氏の収集した美術品を展示する予定の「柑橘山美術館」準備室長に移っていらしたようです。古典から現代にまで及ぶ美術(その中心は日本美術であります)を、サブカルチャーの世界をも視野に入れてとらえ、執筆・キュレーション活動をされていらっしゃいます。また、編集者として、国内で最後の紙本としての美術全集となるのではないかと取沙汰もされる『日本美術全集』(全20巻)の編集にも関われていらっしゃるなど、今日の「美術研究」「美術アナリスト」界において決して目を離すことのできない、才気煥発な気鋭の論客でもあるとも存じます。しかし、これまで紹介させていただいた略歴は、実はその活躍の極々一部にすぎず、そのご活躍は遙かに広範なものに及ぶマルチなことでも知られます。何でもインバウンド利用の多い北海道のホテルからの依頼により、館内に「和」のイメージを有する内部空間をプロデュースすることにまで及んでおられます。何たるマルチな才能でしょうか!?
余計なことかもしれませんが、この度少々略歴を調べて初めて知って驚いたことは、橋本さんが小説家の高橋源一郎氏のお嬢さんであることでした。一般書である『日本の国宝100』2011年(幻冬舎新書)における、卑近な喩えを厭わずに取り入れて軽妙な語り口でそれぞれの魅力を伝えられている一方、『かざる日本』2021年(岩波書店)では、岩波書店の宣伝文句に「「この世ならざるもの」を招き寄せ、日常を異化し、聖化し、荘厳する。〈かざる〉という営みには、私たちの心をざわめかせる不穏な力がそなわっている。霊威を放つ帯、無限の創造性を湛えた一条の紐、あるいは色や、香りや、音や、味──美術・工芸はもちろん、ありとある領域に分け入り、〈かざり〉の術式を闡明する」とあるように、「日本文化」の本質にヒタヒタと肉迫し、静謐さをもって知的・詩的に語られるなど、場に応じた文体(語り口)を適宜使い分けていらっしゃることにも、御尊父から引き継がれた才能が大きいものと拝察するものでございます。両書におけるアプローチの違いとは、正に以下にご紹介させていただいたように、橋本氏による対象によってコミュニケーションの在り方を変幻自在に変えることの意味を、自ら実践されていることに他ならないのだと存じます。尤も、あたかも精読したように語っている『かざる日本』については、手元にはあるものの未だ斜め読みしただけであます。これを機に精読させていただく所存でございます。
最後になりますが、橋本氏の今回の御話の核心は、彼女がご講演でお示しされた三枚の御講演資料シートに集約されていると存じますので、最後にそれを御紹介させて頂きたいと存じます。彼女のお話から小生が心から得心して共感を頂いたこととは、ここに尽きております。他者に伝えること、他者との間にコミュニケーションをとることとは、決して表面的で簡単な一見して分かりやすいことだけでは充分ではなく、深く考えられた思いを伝えて理解しあうことが同時に必要であることであります。そして、時にはそれらを、拘りをもって冗長に伝えることも厭わない姿勢を忘れてはならないと存じます。何事においても、分かり易さ、ビジュアル最優先が金科玉条のように言われますが、それだけでは物足りない、もっと深く知りたい、更に広く理解したいという人々には何とも物足りない思いに駆られることが屡々ございます。我々博物館が伝えることもまた、その両面を意識することが求められることにあるのだということであります。全てが分かりやすく目に見えるように……は一面の真理ではございますが、それで失われてしまうことも、理解の本質から外れてしまうことも、また多いのです。それが、例えとして適切かどうかはわかりませんが、若いうちから流動食ばかり食していては真の美味には出会えません。同時にスルメのような固い食物に齧り付いて、しっかり時間をかけて咀嚼することでしか味わえないものもあります。そうした静かで深い思考を促すこともまた極めて重要であり、それを伝えることもまた、専門家の集合体としての博物館の重要な機能だと小生は考えます。
その役を果たしている否かは小生が判断することではございませんし、謙遜でも何でもなく、決してそうではないと自省することばかりではありますが、ヴィジュアルもなくひたすら文章で長々と伝えるだけである、“週一”アップの本稿もまた、小生は本館の「スルメ部門担当」として意図的に続けている面が大きいのであります。X(旧ツイッター)のようなSNSの世界は飽くまでも流動食であり、そこから面白さの発見へと繋がる、広範で冗長なる世界へと脚を踏み込んでいただく橋渡しができれば……と、密かに願って愚直に続けておる次第でございます。
文化/博物館は冗長 有斐閣『現代心理学事典』 |
「博物館(の〇〇)を伝える」コミュニケーション
何を? 誰が? いかにして? 時間 長い/短い 空間 遠い/近い 文脈 High/Low |
速い、安い、マズい?
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[橋本麻里『全国博物館館長会議』講義資料(2024年7月3日)より]
クラシック音楽に関心をお持ちの方であれば、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971年)の作品には親しんでおられる方が多いことでございましょう。相当昔の学生時代の話ですが、クラシック音楽に全く関心のない後輩が、ストラヴィンスキーの作品だけは例外と言っておりましたから、彼の作品はポピュラー音楽愛好者にも希求する力を有しているものと思われます。そのストラヴィンスキーは、帝政ロシア時代にその首都サンクト・ペテルブルグ近郊に生れ、ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844~1908年)の下で音楽を学びました。リムスキー=コルサコフの代表作である交響組曲『シェーラザード』をお聴きになればお分かりのように、彼は色彩感を豊かに表現する管弦楽法の大家として知られており、その技法は弟子にもっかりと引き継がれているように思います。ストラヴィンスキーは、その後ロシアを離れ活動の舞台をフランスに移し、更にナチスドイツのパリ侵攻を契機にアメリカに移住します。その最期はニューヨークで迎えておりますが、その墓所はヴェネチアに営まれております。変幻自在に作風を変えていった彼自身の音楽のように、ストラヴィンスキーの生涯そのものもまた、どこかしら“根無し草”的な故郷喪失者としての面影を感じます。
その作品として最も人口に膾炙している名作が、バレエ音楽『火の鳥』(1910年)、同『ペトルーシュカ』(1911年)、同『春の祭典』(1913年)の所謂“三部作”に止めを刺すことに異論はございますまい。ただ、上にも触れましたように、初期から晩年に至るまで、その作風を原始主義、新古典主義、セリー主義(十二音技法)と、カメレオンのように変えていった作曲家としても著名であり、作品も同じ人物の手になるものとは思えないほど多彩であります。余計なことでありますが、個人的には三部作も好んでおりますが、新古典主義の作品である、バレエ音楽『プルチネッラ』(1920年)、同『ミューズを率いるアポロ』(1928年)、オペラ『放蕩者のなりゆき』(1951年)等々をこよなく愛好する者でもございます。その初期三部作の掉尾を飾る『春の祭典』が、名指揮者ピエール・モントゥー(1875~1964年)の棒の下、1913年5月29日、パリ「シャンゼリゼ劇場」の“杮落とし”公演として初演されたときに、当公演が一大スキャンダルを生み出したと伝えられていることも広く喧伝されておりますが、よく耳にする“その野蛮極まりない音楽に対して観客が暴動に及んだ”という風説は相当に誇張されたものであると、昨今の研究は伝えております。パリの劇場での前衛的な作品の初演では斯様なる騒動が屡々惹起しており、何も『春の祭典』には限りません。バルトークのバレエ音楽『中国の不思議な役人』、シェーンベルグの弦楽四重奏曲、更に今では全く信じ難いことに、ラヴェルのバレエ音楽『ボレロ』の初演でも同様な反応があったとされますから。以上、冒頭でストラヴィンスキー絡みの話をさせていただきましたが、これは飽くまでも以下の話題の前振りでございます。初期三部作の初演が行われるまでは、まったく無名の駆け出し“ロシア人作曲家”に過ぎなかったストラヴィンスキーが芸術の総本山とも申すべきパリで大成功を収め、一躍メジャー作曲家として雄飛する契機を彼に齎した人物、及びその人物と関わりを有するのですが、恐らくほとんど知られていない作曲家を取り上げるための露払いの役回りを、この著名な作曲家に勤めていただいたということでございます。ストラヴィンスキーの話題を期待された方々にはご容赦をお願いしたいと存じます。
さて、そのストラヴィンスキーにパリの劇場で上演するバレエのための音楽作曲を委嘱した人物が、ロシア人の「総合芸術プロデューサー」と言うべき人物であるセルゲイ・ディアギレフ(1872~1929年)に他なりませんでした。ディアギレフは比較的裕福な地方貴族の子として産まれますが、芸術家を志しサンクト・ペテルブルグでリムスキー=コルサコフに師事したものの、作曲家としての才能の欠如を自覚。紆余曲折の末に、ロシア芸術を西欧に広く紹介する活動を積極的に展開するようになるのです。その主たる舞台となるのがフランスのパリであり、その地で多くのロシア人作曲家の作品を採り上げるコンサート(ラフマニノフ自身のピアノによる協奏曲2番等々)や、ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の上演、はたまたロシアバレエ団の公演等々での大成功を齎し、その知名度を上げていきます。そして、その過程で当時極めて優れた多くのロシア人芸術家を動員した「総合芸術」としてのバレエ上演に可能性を見出すことになるのです。その結果、1911年にディアギレフは常設のバレエ団「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」の結成に踏み込んだのです。実際には、1909年と翌年にかけて「セゾン・リュス(ロシア・シーズン)」として、ロシアの超一流の劇場として君臨していたモスクワ「ボリショイ劇場」とサンクト・ペテルブルグ「マリンスキー劇場」のオフシーズンに、それぞれの座員を率いてパリとベルリンでの公演を行い大成功を収めていたのです。しかし、当たり前のことですが、本業がある彼らとは常設公演を打つことは叶いません。それが自身のバレエ団の結成を決断させたのでしょう。
彼の率いる「バレエ・リュス」の活動を支えたのが、今から考えれば想像を絶するような多彩な芸術家の面々に他なりませんでした(ストラヴィンスキーのようにディアギレフに見出され「バレエ・リュス」を通じて世界に雄飛した人も多くおりました)。バレエにおける一流の舞踏家と振付師はその核となるものであり、全くのバレエ門外漢である小生でも耳にしたことのある著名な人ばかりの名が連なります。ミハイル・フォーキン(1880~1942年)、プロニスヴァ・ニジンスカヤ(1891~1972年)、アンナ・パブロワ(1881~1931年)〈以上:ロシア〉、ヴァーツラフ・ニジンスキー(1890~1950年)、イダ・ルビンシュタイン(1885~1960年)〈以上・ウクライナ〉等々の正に舞踊の歴史を作った人ばかり。バレエは「踊り」だけではない「総合芸術」として成立しますから、その舞台や衣装の創作も極めて重要であります。その分野では、アンリ・マティス(1869~1954年)、アレクサンドル・ブノワ(1870~1960年)、ジョルジュ・ルオー(1871~1958年)、パブロ・ピカソ(1881~1973年)、ジョルジュ・ブラック(1882~1963年)、モーリス・ユトリロ(1883~1955年)、マリー・ローランサン(1883~1955年)、ココ・シャネル(1883~1971年)、ジョルジュ・デ・キリコ(1888~1978年)、ジョアン・ミロ(1893~1983年)〈出身地は様々ですが主としてパリを活躍の舞台として芸術家〉等々が名を連ねます。彼らこそ、当時のフランス絵画史を彩った大芸術家ばかりであることは申すに及びますまい。
そして、何よりも驚くべきことは、ディアギレフから作品を委嘱された音楽家と、それによって世に出たバレエ音楽の数々に他なりません。ニコライ・チェレプニン(1873~1945年)[『アルミードの館』、『ナルシスとエコー』]、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971年)[三部作以外に、『夜鳴き鶯』、『花火』、『プルチネルラ』、『狐』、『結婚』、『エディプス王』、『ミューズを導くアポロ』]、セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953年)[『道化師』、『鋼鉄の歩み』]〈以上:ロシア〉、リヒャルト・シュトラウス(1864~1949年)[『ヨゼフの伝説』]〈ドイツ〉、クロード・ドビュッシー(1862~1918年)[『遊戯』、『放蕩息子』]、エリック・サティ(1866~1925年)[『パラード』、『メルキュール』]、フローラン・シュミット(1870~1958年)[『サロメの悲劇』]、モーリス・ラヴェル(1875~1937年)[『ダフニスとクロエ』]、ダリウス・ミヨー(1892~1974年)[『青列車』]、フランシス・プーランク(1899~1963年)[『牝鹿』]、ジョルジュ・オーリック(1899~1983年)[『うるさがた』、『水夫』、『パストラール』]〈以上:フランス〉、マヌエル・デ・ファリャ(1876~1946年)[『三角帽子』]〈スペイン〉、オットリーノ・レスピーギ(1879~1961年)[『風変わりな店』]〈イタリア〉等々でございます。これらの名曲がディアギレフに委嘱によって現在親しまれていることを思えば、まさに奇跡としか言いようがございません。また、それらの作品をとりまとめて上演に持ち込んだ指揮者の存在も極めて重要です、ピエール・モントゥー、デジレ=エミール・アンゲルブレシュト(1880~1965年)〈以上フランス〉、エルネスト・アンセルメ(1883~1969年)〈スイス〉。その他にも、台本作者として協力したジャン・コクトー(1889~1963年)〈フランス〉、フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874~1929年)〈オーストリア〉の存在も忘れてはなりません。
以上を一瞥されて如何お感じになられましょうか。正に、20世紀前半を象徴する芸術の総体とも申すべき芸術家を束ね、それら全てを総合して作品をプロデュースした巨人がディアギレフであり、「バレエ・リュス」の活動であったことが、最早説明など一切要せず、ご理解いただけることと存じます(勿論、「バレエ・リュス」では新作に限らず、ロシア音楽を象徴するチャイコフスキーのバレエ曲の上演、ムソルグスキーのオペラ上演もされてもおります)。大木裕子氏の論考「ディアギレフのバレエ・リュス」(2014年)によれば、その活動は概ね3期に分けてとらえられるとされております。それぞれを詳述すれば“なるほど”と思わされることが多いのですが、ここでは省略させていただきます。ネットアップもされておりますので是非お読みいただければと存じます。ディアギレフは、1929年の上演シーズン終了後に持病の糖尿病が悪化、旅の途中のヴェネチアで客死しその地に葬られました。それは「世界恐慌」勃発の二ヶ月前であり、中核を失った「バレエ・リュス」も解散となりました。その後のファシズムの台頭と第二次世界大戦の勃発という、暗黒の時代を眼にすることなく旅だったことは、ディアギレフにとって却って幸福だったのかもしれません。
第1期(1909~1914年)「エキゾティズムとプリミティヴィズムの時代」
第2期(1915~1920年)「モダニズムとの結合の時代」 第3期(1921~1929年)「アヴァンギャルドの実験と狂騒の時代」 |
以下、ディアギレフ生誕150周年を記念して集成された22枚組CD『バレエ・リュス』BOX(ワーナー社)が発売されております。とてもその全貌とは参りませんが、音楽だけでも愉しみたいとの向きがございましたらどうぞお買い求め下さい。大手レコード販売店の在庫を確認したところ、未だ購入可能でございました。ただ、輸入盤でありますので日本語による解説は附属しません。以下にその22枚に如何なる作品が収録されているかご紹介をさせていただきますのでご参考にされてくださいませ。小生も所有しており、全て通して拝聴しております。それぞれの楽曲の殆どは単発の音盤でも聴いておりますが、本BOXの利点は上演年毎に楽曲を編集して収録していることにございます。従って、労せずして「バレエ・リュス」の概略を耳で確認することができます。演奏も旧EMI製作にかかる素晴らしいものが集積されておりますので安心できます。
《CD1:シーズン1909年》
ニコライ・チェレプニン:バレエ音楽「アルミードの館」Op.29
《CD2:シーズン1909 -1910年》
ボロディン(R=コルサコフ&グラズノフ編):「だったん人の踊り」
R=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」Op.35
《CD3:シーズン1910年》
アダン:バレエ音楽「ジゼル」(ビュッセル編)
《CD4:シーズン1910年》
シューマン:「謝肉祭」Op.9(複数の作曲者による管弦楽編曲版)
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」
《CD5:シーズン1911年》
チェレプニン:バレエ音楽「ナルシスとエコー」Op.40
ウェーバー(ベルリオーズ編):「舞踏への勧誘」
《CD6-7:シーズン1911年》
チャイコフスキー:バレエ音楽「白鳥の湖」Op.20(全曲版)
《CD8:シーズン1911年》
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1947年版)
デュカス:舞踏詩「ラ・ペリ」
ドビュッシー:「牧神の午後への前奏曲」
《CD9:シーズン1912年》
バラキレフ:交響詩「タマーラ」
ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(全曲)
《CD10:シーズン1913年》
ドビュッシー:舞踏詩「遊戯」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」
フローラン・シュミット:バレエ音楽「サロメの悲劇」組曲
《CD11:シーズン1914年》
R.シュトラウス:バレエ音楽「ヨゼフ伝説」Op.63
ストラヴィンスキー:歌劇「うぐいす」
《CD12:シーズン1916年》
R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
フォーレ:パヴァーヌ Op.50
トマジーニ:バレエ音楽「上機嫌な婦人たち」組曲(原曲:D.スカルラッティ)
ストラヴィンスキー:交響的幻想曲「花火」Op.4
リャードフ:交響詩「キキーモラ」Op.63、交響詩「バーバ・ヤガー」Op.56
サティ:バレエ音楽「パラード」
《CD13:シーズン1919年》
ロッシーニ/レスピーギ:バレエ音楽「風変わりな店」組曲
ファリャ:バレエ音楽「三角帽子」
《CD14:シーズン1920年》
ストラヴィンスキー:交響詩「ナイチンゲールの歌」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「プルチネルラ」
《CD15-17:シーズン1921年》
チャイコフスキー:バレエ音楽「眠れる森の美女」(全曲版)
プロコフィエフ:バレエ組曲「道化師」
《CD18:シーズン1922年》
ストラヴィンスキー:ブルレスク「きつね」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「結婚」(フランス語歌唱)
プーランク:バレエ音楽「牝鹿」
《CD19:シーズン1924年》
ムソルグスキー(R=コルサコフ編):交響詩「禿山の一夜」
オーリック:バレエ音楽「はた迷惑な人たち」
ミヨー:バレエ音楽「青列車」
《CD20:シーズン1927-1928年》
アンリ・ソーゲ:バレエ音楽「牝猫」
サティ:バレエ音楽「メルキュール」
プロコフィエフ:バレエ音楽「鋼鉄の歩み」組曲Op.41bis
ヘンデル(ビーチャム編):バレエ組曲「物乞う神々」
《CD21:シーズン1928-1929年》
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ミューズを率いるアポロ」
プロコフィエフ:バレエ音楽「放蕩息子」Op.46
《CD22:歴史的録音集》~内容は省略
(後編に続く)
後編では、副題に掲げてあるのにさっぱり登場しないことにヤキモキされていらっしゃる方があるかもしれませんので、まずは、アレクサンドロヴィッチ・デュケルスキー(1903~1969年)に、満を持して登場していただきましょう。尤も、後編まで焦らしに焦らして紹介したところで、「それって一体誰!?」と、不思議の感にとらわれる方が殆どでございましょう。もし「あぁ~、デュケルスキーね!」と思わる方がいらっしゃるとしたら、相当に筋金入りの「バレエ・リュス」ファンの方だと存じます。それほど無名な人物だと思います。まずは、この如何にもロシア人バリバリの氏名を有する人物とディアギレフとの関係について、「バレエ・リュス」上演記録を追って確認したいと存じます。すると、1925年にモンテカルロ歌劇場で上演されたバレエ作品に『ゼフィルスとフロール』があり、その作曲者としてデュケルスキーの名前をみいだすことができます。従って、ディアギレフからの委嘱を受けるだけの作曲者であることが知れましょう。つまり、偉大なる「バレエ・リュス」の系譜に連なる音楽家になります。しかし、少なくともその名も、楽曲も殆ど知られてはおりますまい。代表作であると目される本バレエ曲ですら、録音されたのは歴史上でたったの一枚だけありますから(そのCD盤に「世界初録音」と明記されておりますから間違いございますまい)。それがゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮、ハーグ・レジデンティ管弦楽団による英シャンドス盤(1999年)でございます。小生は直ぐに廃盤となるに違いないと思い直ちに購入しました。案の定、今では入手困難の音盤かと存じます。大木氏の論考に従えば、第3期「アヴァンギャルド期」にあたりますが、一聴すれば明々白々のように、まったく斯様に感じさせない、優雅さを基本とする古典的なバレエ曲であると感じますし、本盤前に録音されなかった(その後もされていない??)ことが不当に思われるほどに、なかなかに魅力的な作品だと思います。まぁ、ラヴェルの大傑作『ダフニスとクロエ』には到底及
びませんが、それでもニコライ・チェレプニンの『ナルシスとエコー』と肩を並べるか、それより少々劣る位の作品にはなっていると思います(余談ですが「ゴジラ」のテーマを作曲した伊福部昭が師事した作曲家アレクサンドル・チェレプニンはニコライの子息であります)。
ここで、もう一人副題に?マークを付加して並置した人物についての話題に移りましょう。こちらもそこまで著名とは申せますまいが、デュケルスキーに比較すれば遥かにポピュラーな人物でございましょう。それが、ヴァーノン・デューク(1903~1969年)でございます。両者の生没年を比べていただけると、ピタリと重なることがお分かりになりましょう。そこで、今度は両者の名字を原綴で比較してみてください。デューク(Duke)とデュケルスキー(Dukelsky)でございます。注目すべきは最初の4文字でございます。そうです。アメリカでミュージカル作曲家として、スタンダードジャズの名曲の数々をモノした作曲家のヴァーノン・デュークの本名が、アレクサンドロヴィッチ・デュケルスキーであり、その英語風の愛称の名付け親こそが『ラプソディ・イン・ブルー』や『パリのアメリカ人』等々で知られる、アメリカを代表する音楽家ジョージ・ガーシュイン(1898~1937年)に他なりません。つまり、デュケルスキーとデュークとは同一人物ということになります。この人は、本格的作品を書くときには本名を、ポピュラー音楽を書くときには愛称を名乗ったのであります。生涯に亘って二足の草鞋を履いて活躍した音楽家として歩んだことには、予て親交を結んでいたロシア人の大作曲家であるセルゲイ・プロコフィエフから才能を認められ、本格作品を書き続けることを強く進められたことがあります。その一方で、溢れ出るようなメロディの才能を「ポピュラー音楽」として活かして活動することを支援し続けた、ガーシュインの存在もありました。二人の恩人からの助言に忠実に歩んだのがデュークの人生であったのでした。因みに、以下では煩瑣を避けてヴァーノン・デューク(デューク)で記述させていただきます。
さて、デュークの関する文献資料はネット等で捜索してみましたがほとんど見つからなかったため(“ウィキペディア”には項目だてがありますが詳細ではございません)、小生が心底偏愛するソプラノ“ドーン・アップショウ”歌唱になる音盤『オータム・イン・ニューヨーク~シングス・ヴァーノン・デューク』1999年(ノンサッチ原盤)に掲載される解説文(文:スティーブン・サスキン、翻訳:栗田洋)をもとに、その為人をご紹介させていただこうと存じます。デュークは1903年に白系ロシア人の子として、ミンスク(現ベラルーシの首都)近郊に生まれております。早くから音楽の才能を発揮した神童は、「キエフ(ウクライナ語ではキーウ)音楽院」に進み、レインゴリト・グリエール(1875~1956年)に作曲法を学んだといいます。しかし、やがて勃発したボルシェビキ革命によって亡命を余儀なくされ、コンスタンチノープル(現:イスタンブール)に移り住むことになります。そして、その地ではカフェのピアノ弾きとして小金を稼いで生計を立てておりました。当時のコンスタンチノープルは、1883年から運行が開始されたパリ発の「オリエント急行」の終着駅として、広く国際的な人や文化の交流が盛んな都市でありました。従って、その都市の風を全身に浴びた下積生活は、恐らくデュークにとって多くの果実を齎したものと思います。事実、カフェの客からのリクエストに応え、当時アメリカで大ヒットしていた『スワニー』(ガーシュイン作曲)を弾いたことすらあったそうですから、その後のデューク歩みを思えば何とも出来すぎた話であります。そうこうしているうちに、デュークは1921年にアメリカに活路を見出そうと新天地へと渡りますが、落ち着いたニューヨークでも仕事といえばジプシー・ヴァイオリンの伴奏や、奇術ショーのための作曲などばかり。そんなしがない音楽活動を続けるしかありませんでした。ところが、ある突然の出会いが彼の運命を切り開くことになるのです。それは、デュークが19歳の時のことでした(1923年)。
デュークが自作を演奏していた会場に偶然居合わせたのが、かつてオリエントの地で弾いた『スワニー』の作曲者ジョージ・ガーシュイン(1898~1937年)であったのです(当時24歳)。おそらく安酒場のようなところでの演奏でしょうから、誰一人としてデュークの音楽に耳を貸そうとしなかった中で、ただ一人関心を示したのがガーシュインであったのです。そればかりか、ガーシュインは何かにつけてデュークを引き立てて面倒をみるようになります。ガーシュイン作品のピアノ・パート譜を書いたり、多忙なガーシュインに代わってバレエ音楽のゴーストライターと務めたことすらあったといいます。また、ガーシュインの代表作『ラプソディ・イン・ブルー』のピアノ独奏編曲を担当したのもデュークであり、その時には小遣いを遥かに超える報酬を手にすることになりました。本格的作曲家として自立したいと考えていたデュークは、プロコフィエフからの助言もあって芸術音楽家としての復帰を目指すことにします。そして、その資金を元手にフランスにわたり、パリで一世を風靡していた寵児ディアギレフに自作を売り込むチャンスを得ることができたのです(すでにディアギレフと関わりを有していたプロコフィエフの推しがあったのかもしれません)。その結果、新作レエ曲を委嘱されることになります。それが、上述したデュケルスキー名義のバレエ音楽『ゼフィルスとフロール』であり、1925年に初演されたことは先に触れました。本名による芸術音楽作品の制作は晩年に至るまで継続しており、交響曲三曲を含む多くの作品が残るといいますが、音盤化はされておらず残念ながら耳にすることはできません。
一方、英語名「ヴァーノン・デューク」を考案して出版社にも紹介をしてくれるようになった、恩人ガーシュインの忠告「そうした音楽はあまりお金にはならない。ポピュラー音楽も書いてみたらどうだい?」にも真摯に従います。1929年にはアメリカに戻り、ガーシュインの支援を受けて(当時売り出し中の作詞家であった兄のアイラ・ガーシュインとイップ・ハーバーグを宛がってくれたのです)、ブロードウェイでの活躍の道が開けることになるのです。それからの作品群は膨大なものでありますが、残念ながら音盤となって世に出ている作品はほとんどなく、ミュージカル作品の全貌を知りえないのは何とも残念です(まぁ、ガーシュインですら状況は変わりませんので諦めるしかありませんが)。ただ、その中の個別の歌がポピュラー音楽市場で大ヒットすることになり、デュークの名は一躍アメリカ国内に轟くことになります。今日われわれが耳にできるデュークの作品集といえば、こうした個別のヒット曲集となります。そこで接する作品の数々は、どれも人懐っこいメロディが零れ落ちるような誰にも愛される曲ばかりでございます。一方で単に楽しいだけではない、懐かしい郷愁の念に誘われる曲想にも溢れております。帝政ロシアに生まれて波乱万丈な生涯を異国で歩んだ人生(フランスでの活躍とアメリカへの移住という生活環境の変化)という点で、ストラヴィンスキーと通じる境遇にあった生涯でありました。しかし、方や、根無し草に生きて生涯を送り、異国に没したストラヴィンスキーのどこか乾いた感のある作品に対して、スタンダードジャズの名作として今日歌い継がれるデューク作品から感じられるのは、その歌詞の内容に関係なく、どこかしら失われた故郷に対する強烈なノスタルジー、謂わば湿潤なる感触を強く受けるのです。先に記載したアップショウの歌唱による音盤は如何なくそれを伝えてくれる名演奏であると存じます。何より高音から低音まで淀みなく響く透き通った声と表現力が抜群に素晴らしい。以前に推薦をさせていただいたカントルーブ『オーヴェルニュの歌』の歌唱も抜群なのですが、デュークは彼女の母国アメリカで活躍した作曲家ですから共感する部分も大きいのだと思われます。すでに25年程前の音盤ですから新譜での入手は叶いませんが、中古市場で手ごろな価格で落手できるものと存じます。ガーシュインとプロコフィエフという二大巨匠の教えを守って、生涯二足の草鞋を履き続けたデュークでありますが、少なくとも、彼はその世界をキッパリと二分して作品制作に臨んだのだと思われます。そもそも接することのできる作品そのものが少ないので何とも申せませんが、それぞれの作品世界に共通点は感じません。デュークは、1969年カリフォルニア州のサンタモニカで波乱万丈の生涯を終えることになりました。その遺灰は遺言により1993年になってから海に散骨されたといいます。異国の土となるよりも、海を漂いボスポラス海峡から故郷に程近い黒海へと辿り着くことを願ったのかもしれません。
世界が大きく移り変わった19世紀末から20世紀初頭。第一次世界大戦とロシア革命、そしてその後のファシズムの台頭等々の激動の時代でありました。帝政ロシアに生まれた芸術家、特にその方々がユダヤの血を宿していれば猶更にその運命を大きく左右されることになりました。本稿で今回採り上げた人々の他にも、そうした芸術家は山のようにおりました。その中で、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキー(1874~1951年)などの生涯も、そうした政治社会に翻弄された数奇な人として語り継ぐことができましょうか。祖国の作曲家ムソルグスキーのピアノ曲『展覧会の絵』のオーケストラ編曲をラヴェルに委嘱したのも(1922年)、社会主義国となった祖国を逃れざるを得なくなったクーセヴィツキーであります。そして、それは自らの財力で編成したオーケストラでパリのオペラ座で初演しており、今でも演奏会の定番曲として生きております。また、ナチスの台頭する社会情勢に鑑み、フランスからアメリカに移ったのもストラヴィンスキーやデュークと同様であります。アメリカでは、亡くなるまでボストン交響楽団の指揮者として活躍し、大戦中にアメリカに逃れてきた音楽家に新作を委嘱することで、彼らの生活を支援したことが広く知られております。その一人に、アレクサンドロヴィッチ・デュケルスキーもおり、その交響曲はクーセヴィツキーとボストン交響楽団によって初演されております。因みに、彼がアメリカで委嘱した作品中、今でも広く親しまれる大傑作はハンガリーの人ベーラ・バルトーク(1881~1945年)による『管弦楽のための協奏曲』(1943年)でしょう。ほかにも、ドイツからアメリカに逃れたユダヤ人音楽家、アーノルト・シェーンベルク(1874~1951年)やクルト・ヴァイル(1900~1950年)などのナチスに翻弄された人生も大変に興味深いものです。それぞれの芸術が、如何にして理不尽で不条理な社会と切り結んでいったかを、今後も追っていきたいものだと思います。
最後に、ミュージカル作品『サムズ・アップに!』内で歌われる一曲であり、後の1958年にフランク・シナトラ(1915~1998年)が歌って大ヒットさせた名作「オータム・イン・ニューヨーク(ニューヨークの秋)」の歌詞を引いて本稿を閉じたいと存じます(原曲は1934年に初演されております)。因みに音楽だけではなく、本作の歌詞はヴァーノン・デュークご本人によるものです。
written by Vernon Duke
It’s time to end my lonely holiday
And bid the country a hasty farewell.
So on this gray and melancholy day
I’ll move to a Manhattan hotel.
I’ll dispose of my rose-colored chattels
And prepare for my share of adventures and battles.
Here on the twenty-seventh floor,
Looking down on the city I hate
And adore!
Autumn in New York,
Why does the seem so inviting?
Autumn in New York,
It spells the thrill of first-nighting.
Glittering crowds and shimmering clouds
In canyons of steel,
They’re making me feel
I’m home.
It’s Autumn New York
That brings the promise of new love;
Autumn in New York
Is often Mingled with pain.
Dreamers with empty hands
may sigh for exotic lsnds;
It’s Autumn in New York,
it’s good to live it again.
Autumn in New York,
The gleaming rooftops at sundown.
Autumn in New York,
It lifts you up when you’re rundown.
Jaded rues and gay divorcees
Who lunch at the Rits,
Wikk tell that “it’s
Divine!”
This Autumn in New York
Transforms the slums into Mayfare;
Autumun in New York,
You’ll need no castle in Spain
Lovers that bless the dark
On benches in Central Park
Greet Autumn in New York,
It’s good to live it again.
翻訳 栗田 洋
今こそは寂しい休日なんか終わりにして
田舎にあわただしく別れを告げる時。
だから灰色で憂鬱なこの日に
マンハッタン・ホテルに移ろう。
ばら色の持ち物は処分して
冒険と戦いの分け前のために備えよう
この27階から見下ろした都会が
私は大嫌いで大好き!
私のニューヨークは
どうしてこんなに素敵なの?
私のニューヨークは
初めての夜遊びのようにわくわくする。
群衆が輝き、雲がきらめく鋼鉄の峡谷
故郷にいるような気分にしてくれる。
秋のニューヨークは
新しい恋の期待を運んでくる
秋のニューヨークは
時には悲しみもまぎれ込む。
何も持たない空想家たちが
異国の土地を思ってため息をもたらしたりもする
それが秋のニューヨーク
何度でも暮らしてみたい街。
秋のニューヨーク
日暮れ時には屋根が輝く。
秋のニューヨーク
疲れたときには元気づけてくれる。
リッツで昼食をとる疲れた道楽者も陽気なバツイチ女も
きっとこう言う、「とても素敵!」と。
秋のニューヨークは
スラム街も高級住宅街に変えてしまう。
私のニューヨーク
スペインのお城なんかいらない。
セントラルパークのベンチで
暗闇を祝福する恋人たちも
秋のニューヨークを歓迎する
何度でも暮らしてみたい街。
[ドーン・アップショウ『オータム・イン・ニューヨーク~シングス・ヴァーノン・デューク』1999年(ノンサッチ原盤)ライナーノーツより引用]
本館のある関東では、一週間前の7月18日(木)に「梅雨明けしたと考えられる」との報道がございました。事実、それ以降本日までの間、7月当初の陽気が再来したかのような酷暑続きでございます。かような次第で、恰も“土用干”した梅干しの如く、小生も心身ともにいい塩梅に干し上がった感がございます。それにいたしましても、今年の「梅雨」は相当に短いものでございました。一方、西国ではたったの一日で例月分の降水量があった地域もございましたので、一概には申せませんが、少なくとも関東においては、これからの水資源の確保や農業の進捗には大きな影響を及ぼすことになるのではありますまいか。大いに気になるところでございます。
さて、今回は古都「鎌倉」についての話題とさせていただきます。何故かと申せば、表題に掲げました書籍を拝読し、ざっと20年以上にも亘って脚が遠ざかっておりました“鎌倉の街”への記憶が鮮明に甦ると同時に、新たな知見を得て俄か高まることになったからでございます。学生の頃から20~30歳代までは、それこそ頻繁に出かけて彼方此方を散策して回りました。例によって例の「古美術愛好会」の仲間とも古寺を巡っての文化財見学をいたしましたし、そのうちに“中世都市”しての鎌倉の在り方に関心が移り、名水先案内である小野一之氏と共に都市の周辺部の山稜部や複雑に入り組んだ谷[鎌倉ではこうした谷を「谷戸(やと)」(関東で一般的にいう「谷津(やつ)」とも)]の探索も致しました。時には、歴史好きな生徒諸君を率いて鎌倉探訪に出かけたこともございます。京浜急行の「金澤文庫」駅で下車、「称名寺」から、「金澤八景」駅裏で当時発掘中であった「上行寺東遺跡」を見学、その後は「朝比奈切通」を歩いて越え鎌倉中へ。その後、「瑞泉寺」「永福寺(ようふくじ)」跡」「覚園寺」を見てから「天園ハイキングコース」を歩き「建長寺」へ。そして、北鎌倉駅から千葉へと戻るコースでした。「大仏」も、「鶴ケ丘八幡宮」も、況や「小町通り」の食べ歩きも皆無の相当にディープなコースでした。尤も、「学校行事」ではなく、教師が個人で子供達を率いて出かけることは責任問題などがあり今日では許容されませんでしょう。当時でも決して若年教師の無鉄砲は褒められたものではなかったかもしれません。それでも保護者の方は大きな心で子供を送り出してくれたことに感謝したいですし、何よりも参加してくれた生徒諸君が大いに喜んでくれ、更に歴史の学習への興味関心を高めてくれることになったことを今でも誇りにさえ思っております。まぁ、考えてみれば大らかな“良き時代”であったと思います。
都市鎌倉の魅力とは、よく言われるように、三方を山稜に一方を海によって囲饒され、小河川がその山稜部を浸食して形成した複雑に発達した「谷戸」という自然条件を、今もそのままに残していること、更に、その中に鎌倉時代・室町時代の武家の都であった時代の歴史的痕跡が、その特色ある土地に今も明瞭に刻印されていることにあると存じます。流石に当時の武士の家屋敷が目に見える形で残っているわけではありませんが、由緒ある寺社が今に残り、その地割がほぼ継承されていることも、その歴史を感じ取れる地となっていることの最大の要因かと存じます。そして、そうした鎌倉らしい魅力溢れる古寺社が今も残っている場が「谷戸」に他なりません[余談でありますが、現在の鎌倉市にある寺院数は115カ寺ですが、貫達人・川副武胤『鎌倉廃寺事典』1980年(有隣堂)には250ケ寺が掲載されております。最盛期の鎌倉にはあの空間に360程もの寺院が犇めいていたことは驚き以外の何物でもございません。そしてその殆どが谷戸の内に営まれていたのです]。地形図をご覧になれば一目瞭然のように、鎌倉は三方を低山に囲まれた極々狭小な地でありますが、その山々を小河川が浸食して形成した谷状地形が至る所に存在します(繰り返された海面の変化によって谷に海水が侵入したことでV字型の谷に土砂の堆積が起こり、谷戸内には平地が形成されることになったのだと思われます)。その谷戸は、主谷とそこから更に分岐する支谷とが恰も“柏手”を広げたように奥へ奥へと続き、訪れた人をラビリンス(迷宮)に迷い込むような不思議な思いに誘います。
そして、その谷戸内の狭隘な平場は、多くの場合は武士の館として利用されていた跡地と思われます(各々の谷戸に歴史的由緒が伝わります)。また、その最奥には、ほぼ例外なく古色を纏った由緒ある古寺が佇んでいるのも魅力的です。また、谷戸の周囲は丘陵状の地であり斜面には鬱蒼とした森が広がっておりますから、谷戸に入り込めば周囲を緑に囲まれた中を奥に進むにつれて、恰も「桃源郷」に向かうかの如き安堵感さえ覚えさせられるのです。周辺に目をやれば、谷戸の斜面には屡々ぽっかりと口を開けた岩窟が幾つも目に入ります。これが「やぐら」と称される、中世において当地域で盛んに造営された墳墓・供養の場でございます。鎌倉の山々を形成する岩石は、砂岩質・泥岩質の比較的柔らかいものでありますし、平地そのものが狭隘であることも相まって、谷戸の斜面がこうした葬送等の場として活用されたようです。こうした「やぐら」は鎌倉周辺の三浦半島や六浦(保存運動も実ることなく破壊され今はマンションと化した金沢八景駅裏にあった「上行寺東遺跡」にも多くの「やぐら」がございました)、東京湾を越えた千葉県南部にも分布が見られます。しかし、何と言っても鎌倉にその多くが集中しており、その数は判明するだけで5千を超えるそうです。正に中世都市鎌倉を象徴する歴史遺産と申すべき遺跡となっております。更に、谷戸の奥へと続く道は、都市鎌倉を外部と画する山稜部へと向かい、次第に勾配をきつくしていきます。そして、そのうちの幾つかは鎌倉の外へと連なる道筋となり、その最頂部に「切通(きりどおし)」と称される軍事的防衛関門を形成しております。それらの都市鎌倉への入口は俗に「鎌倉七口」と称される、「名越(なごえ)切通」「朝比奈(あさひな)切通」「巨福呂(こぶくろ)坂」「亀谷(かめがやつ)坂」「化粧(けわい)坂」「大仏切通」「極楽寺坂」の七つがございます。ただ、その成立年にも差があって、これらが綿密なる都市計画の下で一気に成立したわけではありません。そもそも「鎌倉七口」の名称が史料上で初めて出てくるのは近世始めの頃であるようです。逆に申せば、七口以外のルートも存在したものと思われます。
例えば、文治5年(1189)、奥州合戦で滅ぼした奥州藤原氏と弟義経ら戦没者供養のために源頼朝が建立することを決め、建久3年(1192)に落慶供養が営まれた寺院「永福寺(ようふくじ)」は、当時の幕府政治の拠点として造営された「大倉幕府」鬼門にあたる東北部の狭隘な谷戸に建設されております。頼朝が目にした平泉における壮麗な浄土寺院の数々を再現すべく建立されたという本堂が重層建築であったことから、その周辺の地名が「二階堂」と名付けられたことはよく知られておりましょう。かようなことを知りながら若き頃に訪問した永福寺跡は、雑草の生い茂る実に狭隘な湿地状の地に、かつて浄土庭園を飾ったものと覚しき岩が幾つか目にできる荒地に過ぎず、ここに壮麗な寺院があったとは到底想像すらできない地でございました。それが、今では発掘成果を生かして再現された基壇等が整備され、往時を偲ぶことができる歴史公園に整備されているのですから隔世の感がございます(残念ながら未だ出掛けたことはございません)。しかし、小生が当時から不思議だったのは、その建立理由から考えて、この二階堂の奥へと向かう道筋が、鎌倉七口の一つに数えられていなかったことでありました。何故ならば、大倉幕府の鬼門に当たるドン詰まりの地にこのような寺院を造営する意味が動機として不可解であると思ったからでございます。ここが、鎌倉の北東部ということは、すなわちこの方位は滅ぼした奥州藤原氏の本拠である平泉の方角と重なります。当時の人々の精神世界には、恨みを抱いて死んだ者の霊は必ず生き残ったものに災いを成すとの畏怖・恐怖の対象であったからであります。そうであれば、永福寺の造営地は鎌倉外から入り込む邪気から幕府を護る機能を期待されていたに違いありません。要するに、永福寺から谷戸の奥へと続く道は、鎌倉の外部である奥州へと連なる道筋に当たっていたのではないでしょうか。その昔はそうした疑問に応えてくれる図書には出会ったことがございませんが、ずっと後になって藤原良章氏が『中世のみちと都市』2005年(山川出版社:日本史リブレット25)で、そのことに触れていらっしゃるのを拝読して快哉を叫んだものでございます。二階堂奥の谷戸には鎌倉周辺の山稜部へと連なる切通状の道の遺構が今でもみられるようです。そこから横浜市南部の円海山(山の神が子供時分に居住していた洋光台の近くでよく遊びに出かけたそうです。小生も結婚後に倅と三人で訪れたことがあります)の周辺を通って奥州へと向かうルートがあったことを想定されております。おそらく、頼朝に率いられた奥州攻めの本隊はこのルートを辿ったのではありますまいか。だからこそ、大倉幕府の鬼門の地に永福寺が造立される必要があったのであり、一方で奥州方面から鎌倉を訪れた人々が、山を越えて初めて出会うのが永福寺の「荘厳」であることにも大きな意味合いが生じましょう。完全リタイアー後に、是非この「二階堂ルート」探索に出かけてみたいものです。明治の「迅速測図」を眺めて当該ルートに相当する道筋がないかよく調べておりますが、未だに地図上で解明はできておりません。尤も「鎌倉街道」についても知っているわけではございませんから、改めて一から学びなおす必要性を実感しておりますが。
さて、この度、小生にその昔を思い起こさせてくれただけでなく、多くの新たな知見を与えてくれた書籍『鎌倉の歴史 谷戸めぐりのススメ』2017年(高志書店)でございますが、その目次だけでもご紹介させていただきたく存じます。編者を務められた高橋信一朗氏以外の執筆者は、概ね若手・中肩の研究者でございますが、発掘成果を中心にして各谷戸が中世都市鎌倉の中で有した意味や位置づけが考察されており、これまで余り見られない切口で中世都市鎌倉を論じる書籍となっていると存じます。それでありながら、小生のような素人にも希求するように平易に述べられておりますから瞬く間に読了いたしました。若干、論考毎に内容に重複があることが気にならないわけではございませんでしたが、これだけ多くの著者の分担執筆では致し方がなかろうと存じます。一点、「弁谷(べんがやつ)」項目で筆者の古田土俊一氏が、「弁谷」の地名の由来について、『田代略系図』に「弁ノ谷は千葉氏の敷地であったから、千葉介の「介」の唐名である「別駕」を由来とする」としている一方、『鎌倉攬勝考』には「千葉介はここに居住していないのだから、近隣に屋敷のあった佐竹氏の常陸介・上総介からきているのだろう」と反論していることを挙げ、その「名の由来は不明としておきたい」とされていることについて若干の補足を加えさせていただこうと存じます。それは、千葉に伝わる史料である『千学集(抜粋)』(戦国期の成立と考えられております)には、「常胤千葉介、在鎌倉にて弁谷殿と申」、その子の胤正についても「胤政在鎌倉にて弁谷殿と申」とあることでございます(その後の近世初期成立『千葉大系図』における常胤の部分にも、常胤が弁谷に屋敷を有して忠勤した旨が記されます)。少なくとも千葉氏の中では、鎌倉初期には千葉介の主たる屋敷が弁谷にあったことが伝わっていたことになります。まぁ、何れにしましても、類書の見あたらない魅力的な書籍だと存じます。鎌倉散策が何十倍も愉しくなること請け合いでございます。また、高橋慎一朗氏の手頃に入手出来る単著として、『武家の古都、鎌倉』2005年(山川出版:日本史リブレット21)、『幻想の都 鎌倉 都市としての歴史をたどる』2022年(光文社新書)も併せてどうぞ。
『鎌倉の歴史 谷戸めぐりのススメ』2017年(高志書店)
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さて、本書「あとがき」は編者の高橋氏がものされておりますが、そこには、平成25年(2013)に「世界遺産登録」に推薦されていた「武家の古都・鎌倉」が、ICOMOS(イコモス)から「不記載」の勧告を受けたこと、その「推薦書原案作成委員」の一人として推薦状作成に関わって来られた高橋氏自身が責任の重さを痛感されていると記述されております。そして、その原因を「鎌倉の文化財としての魅力と価値をわかりやすく伝えることに失敗した」とも。そして、その反省の過程から生まれた若手・中肩の研究者との勉強会の成果から生まれたのが本書であるとされていらっしゃいます。小生自身は個人的に「世界遺産」なる制度には殆ど関心がないこともあって、制度的なこともよく知りませんでしたし、不記載の一件もすっかり失念しておりました。当時の報道記事を探ると、「日本に初めての武家政権が樹立され、貴族支配に代わる新しい体制から数々の文化や伝統、生活様式が生み出された場所」として、「世界遺産登録」を目指した「神奈川県・鎌倉市・横浜市・逗子市」からの推薦書が、ICOMOS[国際記念物遺跡会議]の調査・審議の結果、世界遺産登録の基準を満たしていないとの決定を見たということでございます。そもそも本制度自体も分かっておりませんでしたので調べてみたところ、「世界遺産」とはUNESCO(ユネスコ)[交際連合教育科学文化機関](国連の「経済社会理事会」の下に置かれた国際協定)において、1972年「総会」で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に基づく「世界遺産リスト」に登録される「文化財」「景観」「自然」などの、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件を指すのだそうです。そして、その登録事業を担うのが、政府間委員会である「世界遺産委員会」であり、その審議を経て決定されることになるようです。ただ、諮問機関として設置された専門機関、つまり文化遺産についてはICOMOS(国際記念物遺跡会議)が、自然遺産についてはIUCN(国際自然保護連合)が、それぞれ専門的調査を経て推薦に値する遺産を選定し、世界遺産委員会にて審議・決議を経て「世界遺産登録」が決定するという流れになるようです。つまり、それに値しないと判断された場合は「勧告書」に記載されないということになるのでしょう。それが「不記載」の意味だと思われます。まぁ、有り体に言えば「落選」ということであり鎌倉のケースもそれに当たります。ということは、実質的に登録の有無を左右する権限はICOMOSにあるということなのでしょう。因みに、「世界遺産の登録基準」とは如何なる内容なのか調べたところ、以下の10項目の基準が示されておりました(「日本ユネスコ協会連盟」ホームページより)。
(1)人類の創造的資質を示す傑作。
(2)建築や技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展において、ある期間または世界の文化圏内での重要な価値観の交流を示すもの。 (3)現存する、あるいは消滅した文化的伝統または文明に関する独特な証拠を伝えるもの。 (4)人類の歴史上において代表的な段階を示す、建築様式、建築技術または科学技術の総合体、もしくは景観の顕著な見本。 (5)ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落や土地・海上利用の顕著な見本。または、取り返しのつかない変化の影響により危機にさらされている、人類と環境との交流を示す顕著な見本。 (6)顕著な普遍的価値を持つ出来事もしくは生きた伝統、または思想、信仰、芸術的・文学的所産と、直接または実質的関連のあるもの。(この基準は、他の基準とあわせて用いられることが望ましい。) (7)ひときわ優れた自然美や美的重要性をもつ、類まれな自然現象や地域。 (8)生命の進化の記録や地形形成における重要な地質学的過程、または地形学的・自然地理学的特長を含む、地球の歴史の主要段階を示す顕著な見本。 (9)陸上や淡水域、沿岸、海洋の生態系、また動植物群集の進化、発展において重要な、現在進行中の生態学的・生物学的過程を代表する顕著な見本。 (10)絶滅の恐れのある、学術上・保全上顕著な普遍的価値を持つ野生種の生息域を含む、生物多様性の保全のために最も重要かつ代表的な自然生息域。 |
何となく分かったようなよく分からないような、到って大雑把な基準のように感じますが、当時の報道を総合すると鎌倉落選の理由としてICOMOSが掲げているのは、推薦理由を証明する証拠が薄弱であるということであったようです。つまり、推薦者で述べている二つの理由、第一に「登録基準」(3)に関わる「三方が山に一方が海に囲繞された要害性の高い土地に行政機関や宗教施設が交通路を通じて機能的に配置されている」、及び、同(4)に関わる「ある様式の建築物あるいは景観のすぐれた見本となるものである」(円覚寺舎利殿などを想定しているのでしょうか)に対して、ICOMOSは、各遺産の精神的・文化的側面は認めながらも、「それ以外の要素は物的証拠が少ないか(史跡、防御的要素)、限定的か(武家館跡、港跡)、ほとんど証拠がない(市街地、権力の証拠、生活の様子)」としたうえで、「顕著な普遍的価値を有していることを証明できておらず、鎌倉の歴史的重要性が十全な形で示されていない」と断じたということになります。報道記事では「構成資産として掲げた史跡に関しても、鎌倉時代の遺産は鎌倉大仏、瑞泉寺庭園、切通など僅かであり、建築物も室町期以降の再建か、関東大震災後の再建も多いこと、武家の館に至っては北条氏常盤亭跡のみと、きわめて限定的だ」とも指摘しております。また、「保護管理体制や都市化する周辺環境・景観への懸念、慢性的な交通渋滞など」も落選理由となったとも。まぁ、確かに、世界の人々に希求するような眼に見える強烈なアピール力に欠けるのは間違いないでしょうが、それにしても「そこまで言うか!?」と思わされる程のディスられぶりでございます。その反省を活かし、その後も1県3市”は再度の登録推薦を目指し、世界の登録事例の研究を進め、登録に値するストーリー性の構築を目指して取り組まれてきたそうですが、(寡聞にして存じ上げませんでしたが)登録に向けた推薦書案の作成を「令和2年度(2020)以降、当面の間休止する」と発表したしといいます。新たなコンセプトの構築を目指して研究・調査を進めてきたが、「ただちに再推薦に向けた推薦書案を作成できる状況にない」と判断したとのことのようです(検討委員会そのものは存続するそうですが)。
まぁ、何処も「世界遺産」に登録されることで、世界規模での価値を認められるという“お墨付き”が欲しいのでしょうが、その結果として、国内では「オーバーツーリズム」状態となって、悲鳴を上げている京都や富士山のようなケースもございます。過日の報道(7/17「朝日新聞」夕刊)によれば、鎌倉でも増える観光客に対する「トイレの問題が深刻化している」そうであります。公衆トイレが少なく、コンビニエンスストアー等が公衆トイレ代わりに利用されるようなマナー違反の続出で、商業活動自体にも支障が生じているそうです(何一つ購入せずにトイレだけを使うためにコンビニ外まで連なる待ち人の行列ができるとのことですからさぞかし困惑されておりましょう)。「世界遺産」に登録されなくともこれですから、もし登録されればオーバーツーリズムの問題は、よりキャパの大きな京都などを遙かに凌ぐような大問題に発展することは間違いございますまい。少なくとも、小生が鎌倉の住民であれば「世界産登録」など不要との意見を表明することでしょう。登録が逆に文化遺産の破壊、その文化を育んできた人々の生活を蔑ろにしてしまうのであれば、本末転倒も甚だしいものです。昔、そんなテレビ番組がございましたが、正に「こんなもの要らない」というのが本音でございます。そもそも観光化は地元に居住する人々を決して経済的に潤すことには繋がりません。金儲けに殺到するのは利に聡い企業(外資系も含めた)であり、利潤の多くは彼らに吸い上げられてしまい、その負の部分(ゴミ処理問題等々)だけが地元公共団体にツケとして回されるのがオチであるのが目の前で惹起している現実であります。インバウンド景気とは、訪日客の増加による金儲けにしかつながらないのであれば単なる一過性のムーブメントにしかなりません。今後もたびたび訪れてくれるリピーターになって貰うための、戦略的な日本文化のアピールに繋げていくことが肝要であります。文化財の保護と活用の本来の在り方を一度立ち止まって、よりよき制度構築を進めた方が宜しいのではありますまいか。
鎌倉の場合も同様です。飽くまでも個人的な見解ですが、「世界遺産登録」不記載を吉として、世界遺産登録の基準に振り回されることのない、独自に鎌倉と周辺都市において歴史的・文化的な価値を大切にした街づくりを標榜した取り組みをされていかれれば宜しいのではないでしょうか。国内の由緒ある町々が高層マンションが林立する、どこでも変わらぬ街に変貌している昨今です。しかし、小生は鎌倉市とその周辺には、未だ未だ充分に歴史と自然的環境が両立する類い稀な環境が残っていると思います。改めて申し上げますが、鎌倉という都市は、例え直接に目に触れる文化財がなくとも、過去の歴史を重層的にその土地に刻印し、それらが周囲の自然環境と相俟って現在に引き継がれ、今でも閑静な住宅街として日々の生活が営まれております。このような魅力的な都市は少なくとも関東では鎌倉以外に思い浮かびません。それほどに歴史・文化的な価値を有する地でございます。そのことを誇りに思い、安易で無謀なる地域開発をしないことを堂々と推し進めることができれば、自ずと鎌倉の街の魅力は更に高まって参ることは間違いございませんし、未来に歴史的価値をバトンタッチして繋いでいくことができましょう。周辺都市と同じことをしていても地域固有の魅力を失うだけです。鎌倉が、未来永劫にそんな都市であり続けることを願っております。こんなことを書いていると、久しぶりに未踏の「鎌倉」に出掛けて見たい気持ちで一杯になりました。
7月も残すところ一週間弱となり、暑さの盛りとなる8月を迎えようとしております。この亥鼻山でも梅雨明けを待たずに一斉にニイニイゼミの声が聞こえるようになりましたが、先週に入ったころからはミンミンゼミが如何にも「俺たちの季節がやってきた」と言わんとばかりに威勢よく鳴き始めました。これからは、アブラゼミの「蝉時雨」が降り注ぐようになりましょう。地球温暖化の進行とともに、昨今では本来西国が生息域であったクマゼミの東遷が顕著であり、東国では馴染みの薄い「シャッシャッシャッ」という、どうにも関西弁の話しぶりを思わせるような喧しい声が時に響いてきます。ただ、未だ亥鼻山ではさほど勢力範囲は拡大していないように思えます。
さて、その昔、萩原朔太郎が「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」(旅上『抒情小曲集』)と、詩を書き起こしましたことは皆さまもよくご存じでいらっしゃいましょう。その顰に倣うことが許されるならば、今の小生の思いは「京都へ行きたしと思へども 京都はあまりにも立ち籠みたり」とでも言い表すことができましょうか。前回話題にさせて頂いた鎌倉ほどではございませんが、京都にも久しく足を運んでおりません。勿論、出かけたくない訳では全くなく、むしろ今すぐにでも飛んで行きたい思いでございます。以前に本稿でも採り上げました『京都市学校歴史博物館』や『琵琶湖疎水記念館』、何よりも昨年度の企画展『商人たちの選択』でお世話になりました「奈良屋」を経営されていた杉本家の本宅「杉本家住宅」にも御礼に伺いたいと思っております。更に洛外にも脚を伸ばし、伏見、淀、男山に鎮座する「石清水八幡宮」と周辺の古寺(正法寺等々)をじっくりと巡ってみたいところであります。また、その時の宿泊は何時でも混んでいて予約がとれないばかりか、ビジネスホテルですら一流ホテル並みの宿泊費を吹っ掛けられる京都市内は避けて、男山麓の淀川に面する地にある「橋本遊郭」で素泊まりのみ旅館業を営む「橋本の香」(旧:三枡楼)にお世話になりたいものとも考えます。申すまでもなく、物理的には新幹線にでも乗車すればたかが2時間半もあれば到着できる場所でございます。しかし、訪れる場所にも拠りましょうが、連日報道される京都のオーバーツーリズムの喧騒を思うと、どうにも二の足を踏んでしまいたくもなるのです(尤も、現段階であれば京都の夏の暑さが格別なことも理由となります)。
もちろん、本当の被害者は観光地周辺にお住いの京都市民の方々でございましょう。おそらく、日常生活を送るのも難しい状況に立ち至っているのではありますまいか。インバウンドを中心とした観光客の激増により、バス等の公共交通を利用することですら困難を来していると言いますし、街中の食べ歩きによるゴミのポイ捨て被害等も深刻だと聞きます。祇園花街での舞妓・芸妓さんへの付き纏いも度を越えていると聞きます。現状のような経済状況では、今後円安傾向が収束することは想像できません。従いまして、ますます盛んとなるであろうインバウンド景気に戦々恐々の思いでいらっしゃいましょう。前回、鎌倉を採り上げた際の話題と重なってしまいますが、その結果として地域社会そのものが崩壊してしまうのであれば、そんな「観光推進政策」など本末転倒であり、逆に文化の破壊に加担していることにしかなりません。観光地は映画のセットではありません。そこに住む人がいて、長く地域の文化を創り支えてきているのです。その人々がその地域を捨て去ってしまうのであれば、京都は、実態のない恰も「映画村」のような場所に成り果てましょう。文化財を人目につかないように仕舞い込んでいるだけは意味がないことは申すまでもありません。しかし、安易に利潤追求の俎板に乗せるのも大問題です。その活用のされ方が本質から離れた利潤追求の道具と化しまっては、文化財行政が本来果たすべき使命から逸脱しましょう。単に自由に任せれば、我々の住む社会は資本主義経済でありますから、そうした方向に突っ走るのは余りにも明々白々なのです。
かような次第で、その昔に訪問した未だ未だ静かであった頃の京都に思いを馳せながら、諸々を綴ってみたいと存じます。京都の「西本願寺」を拝観させていただいたのは、はっきりと記憶しておりませんが、たぶん学生時代のことだと思います。境内に入って、東面して並ぶようにして屹立する巨大建築、阿弥陀如来を祀る「本堂(阿弥陀堂)」と、それを上回る規模の親鸞を祀る「御影堂」を拝見することは何時でもできます。しかし、その裏手にある壮大な「書院」と庭園にある「飛雲閣」のような建物は通常は非公開であり、当時は申し込みで許可を得て拝観が許されたように記憶しております。小生のお目当ては、その中の「書院」群とも申すべき建物と、その建物を飾る華麗な障屏画にありましたから、当該手続きをとっての訪問となりました。恐らく古美術愛好会「夏合宿」(例年9月に実施)の前後だったのだと思います。そうであれば同好の士と出かけたと思うのですが、不思議と誰と出かけたのかの記憶はすっかりと抜け落ちております。本願寺が浄土真宗の本山であることは誰でもご存じでございましょうが、同じ京都にはこれまで話題にしてまいりました「西本願寺」の他に、同じように壮大な伽藍を有する「東本願寺」もございますし、三重県の一身田には「専修寺(せんじゅじ)」という巨大伽藍を有する本山もございます。また、何も浄土真宗に限るおとではありませんが、宗祖親鸞以降の宗教活動の歴史的な経緯を通じて、極めて多くの様々な門流が分立して現在に至っていることは申すまでもございません。例えば、現在一身田に国宝の壮大な伽藍を構える「専修寺」は、親鸞が東国への布教を行った拠点であった下野国(現:栃木県)の高田に設けた布教拠点が元となっております(その地には現在「高田専修寺」がございます)。そのためでありましょう、我らが千葉県内を見ても本願寺系統の真宗寺院はほとんど存在しておりません。本館ボランティア活動のチーフをお勤めいただいている方は「安芸門徒」との用語がある通り、本願寺派の信仰が盛んな土地柄である広島県の方でありますが、仕事の関係でこちらを地盤として生活をされるなかで、最も困ったことは千葉に本願寺派寺院が殆ど存在しないことであったそうです。つまり、浄土真宗信者と申しても一様ではないのでございます。今回は真宗諸派についての話題ではなく、飽くまでも西本願寺でありますので、まずは本願寺の歴史を概略したいと存じます。資料として活用しますのは、手元にある平成15年(2003)に東京国立博物館で開催された『西本願寺』展の図録に収められた、既に故人でいらっしゃる千葉乗隆氏(龍谷大学元学長)による「西本願寺の歴史と文化財」でございます。そちらの記述に導かれて、本願寺なる寺院の歩みを簡単に纏めておきたいと存じます。
浄土真宗の宗祖「親鸞」が、弘長2年(1262)洛中にて行年90で没すると、東山麓の古来葬送の地であった鳥辺野(とりべの)北にある、「大谷」の地に墓所が営まれました。その墓所は方形の土壇の中央に石造の笠塔婆をたてただけの極めて質素なものであったといいます。しかし、東国から墓参に訪れる門弟は余りの慎ましさを解消すべく墓所の整備を図ることになります。その結果、文永9年(1271)に大谷の西にある末娘「覚信尼」の住む地に墓堂を建て(大谷廟堂)、覚信尼がそれを守護することになります(後に「留守職」と称するように)。また、その護持費は東国門徒が負担したといいます。その後、覚信尼の孫の第三代留守職「覚如」は廟堂の寺院化を図り、紆余曲折の末にこれを「本願寺」といたしました。覚如は自らが親鸞の正統な血脈であるとし、本願寺の下に真宗門徒の大同団結を訴えますが、各地の門流はそれぞれに自らの主張を繰り広げ独立教団としての歩みを強めます。それを概ね達成するのが、親鸞と並んで真宗関係者で知られる八代「蓮如(れんにょ)」でございます。その下で、衰退していた本願寺教団としての改革が進められることになります。蓮如の布教は誰に対しても平座で信者と膝をつきあわえて語り合うことを根気強く推し進め、広く人々の共感を集めていくものであったとされます。こうして、蓮如の時代に本願寺の信者は近畿を手始めに北陸・東海へと広がることになりました。こうした中、比叡山からの弾圧を受けた蓮如は、近畿各地の転々としたのち、文明3年(1471)越前国(現:福井県)吉崎に坊舎を設け、こちらを拠点として北陸への伝導に取り組みます。時あたかも、近畿を中心に有力農民たちの惣村が形成され、世俗支配から自立する傾向が強まるようになります。こうした社会情勢と蓮如の説く「一切衆生は同朋である」との教えは次第に習合するようになり、引いては彼らの一揆の精神的な基盤ともなっていくのです。しかし、蓮如はいわゆる武力による抵抗運動には肯定的ではなかったとされます。そこで越前の地を離れ文明12年(1480)に京都東にあたる山科に本願寺を再興します。蓮如の去った北陸では、長享2年(1488)「一向一揆」が加賀国の守護富樫政親を滅ぼし、以後百年にも亘り「百姓の持ちたる国」を維持することになりますが、皆様もこのことは教科書等でご存じでございましょう。この頃となると、本願寺の門徒は全国に広がっていき、良きにつけ悪しきにつけ、彼らの動向は各地で地域の世俗権力との軋轢を生み、その対応を迫られることにもなっていきます。
蓮如の没後となる、第9代実如(じつにょ)から第11代顕如(けんにょ)まで三代の百年間は、所謂「戦国時代」に当たります。上述のような巨大な社会的勢力にまで成長していた本願寺は必然的に、世俗的な大名権力と無縁で過ごすことは不可能となります。9代実如は、管領細川政元と連携して教団勢力の伸長を図らんと、近畿・北陸・東海の各地で門徒の蜂起を指令しますが、反対する門徒も多く失敗に終わっております。次の10代証如(しょうにょ)の時代になると、その重臣たちが本願寺による世俗的権力奪取を目指すようになったこともあり、武士権力との衝突が深刻化します。その結果、細川晴元らに山科本願寺を焼かれることになり本拠を大坂に移しております。この頃の本願寺は加賀国を領国化するなど莫大な経済力を有しており政治的な影響力をも持つようになっておりました。従って、経済的に逼迫していた朝廷(公家)への財政支援を通じて結びつきを強めます。その結果、本願寺の寺家としての地位も向上し、11代顕如の時にその最高位である「門跡」に列せられることになります。その顕如の時代、元亀元年(1570)から11年にも及び、断続的に織田信長による大坂本願寺攻めを受けることになります。しかし、天正8年(1580)朝廷の斡旋により信長と和解し、本願寺は大坂を明け渡して紀州鷺森に移転することになります。
天正11年(1582)に信長が没し羽柴(豊臣)秀吉が政権を掌握すると、顕如は秀吉と友好関係を保つことに努めます。その結果、天正12年(1583)に寺基を和泉国貝塚に移転、翌年には秀吉から寺地を寄進され大坂天満に移転します。更に、天正19年(1591)には秀吉の勧めで京都四条堀川(現在の西本願寺の地)に移っております。しかし、顕如は京都の伽藍を整備した文禄元年(1592)に没します。その後裔は秀吉の指示で顕如の長男である教如(きょうにょ))が12代門主となりました。しかし、顕如は三男の准如(じゅんにょ)を後継者とする譲状を残しており、これを秀吉に示し准如の就任を要請することになりました。先にい述べた大坂合戦の際、信長と和睦を決めた顕如に対して、長男の教如は籠城しての徹底抗戦を主張して対立。そのため顕如は教如を義絶していたのです。その後両者は和解したものの対立関係は容易には解消することはありませんでした。秀吉は、教如に10年後に准如に寺務を譲ることを提案したものの、教如はこれを拒絶。そのため秀吉は教如に隠退を命じ、改めて12代に准如がつくことになります。しかし、隠居した教如を支援する門徒たちはその姿勢を崩さず、教団内には不穏な気配が漂うようになったといいます。その教如は、早くから徳川家康に親近しており、家康が政権を掌握すると本願寺の処遇について協議したといいます。家康は教如の門主就任を支持したそうですが、重臣本多正信は本願寺の対立を使用して教団を二分割する案を展示したとされております。その結果、献策を容れた家康によって、慶長7年(1602)教如に京都七条烏丸に寺地が寄進され伽藍が営まれることになったのです。寺の場所がこれまでの本願寺の東に位置することから、一般に通称の「東本願寺」と呼称されます(教如の院号による「信浄院本願寺」(大谷派)が正式な寺名)。一方の本願寺も通称の「西本願寺」と称されるようになりますが「龍谷山本願寺」(本願寺派)が正式な名称となります。以上、ざっと本願寺の成立から東西本願寺の成立までの流れを追ってみました。以下の内容とは直接に関係はしませんが、本願寺に何故東西の二つがあるのかよく分からない方もいらっしゃいましょうから、老婆心ながら長々と説明させていただきました。勿論、以下の内容はそのうちの西本願寺に関わるものとなりますのでご承知おきください。
従って、京都の地における本願寺の歴史は、基本的に近世になってからのものであり、その伽藍自体もそれ以降の建築となります。ただ、東本願寺は江戸時代に都合4回焼失する憂き目に遭っており、その最後は幕末の元治元年(1864)「禁門の変」による所謂「どんどん焼け」でした(昨年度の企画展で採り上げた「奈良屋杉本家住宅」もこの時に焼失した後の再建となります)。斯様な次第で、東本願寺は焼失・再建を繰り返したことから「火出し本願寺」との有り難くない異名で揶揄されてもいるそうです。尤も、東本願寺の名誉のために一言付言させていただきますが、東本願寺が火元となったのは1回のみで、後の3回は全て類焼でございます。従って、東本願寺の巨大な伽藍の殆どは明治になってからの再建となります(ただ優れた建築群であり、その殆どが国重要文化財に指定されております)。それに対して、西本願寺は大規模な火災に遭っておりませんし、自火火災があっても小規模で全山焼失のようなことは出来しておりませんから、近世初期の伽藍がほぼそのままに今に伝えられており、正に「桃山建築」の宝庫となっております(阿弥陀堂・御影堂・飛雲閣・唐門、書院群を構成する対面所・白書院・北能舞台・黒書院等々が国宝指定)。今回の本稿での主眼は、最後に挙げた西本願寺の国宝書院群とそこに描かれた障塀画の作者についてとなります。小生が学生時代に西本願寺を訪問させて頂いた動機もまた、書院群の建物とそれを飾る絵画に触れてみたかったからに他なりませんでした。
(後編に続く)
前編で述べました、その西本願寺の現存する国宝の書院は、桁行40m弱・梁行30m弱に及ぶ国内でも有数の巨大書院建築であります。この規模に匹敵するのは江戸幕府拠点城郭(江戸城・二条城等々)に築かれた大広間(諸大名との謁見の御殿)くらいではないかと思われます。その書院内の部屋構成も、真宗寺院としての特色を有しながらも、一方で城郭内の御殿建築を想起させるようなものでございますし、後に触れますように室内の荘厳(障屏画・欄間彫刻・金具装飾等々)も丹念に施されております。この書院についての詳細な説明について書かれた資料は多くはありませんので、最も詳細に説明されていると「ウィキペディア」を参考にして記述をさせていただきます(「西本願寺」項目)。現在に伝わる国宝書院建築は、大広間とも呼ばれる「対面所」と「白書院」と付属する幾つもの部屋をひとつ屋根の下に納めたものであり、国宝の「黒書院」は別棟となっております(廊下で繋がっておりますが扉があって閉じられており常に非公開であります)。その中でも「対面所」は、「上段間」と付属する「上々段間」で41畳、「下段」162畳の合計203畳で構成される横長の大部屋であり、真宗の本堂の一つである宗祖親鸞を祀る「御影堂」の内陣部分を上段部分に充てた形の構造となっております。天井は格式の高い「格天井(ごうてんじょう)」とし、雲と鴻(こうのとり)を透彫にした豪壮な欄間と、金地を有する極彩色の障屏画が飾ります。正面の上段は、中央に「大床」、左に「帳台構(ちょうだいがまえ)」、右手には上段から更に床高を設けた「上々段」を設け、「違棚(ちがいだな)」と「付書院(つけしょいん)」が設えられております。その天井も上段の格天井を更に格式高くした折上格天井とするなど、最も格式高い設えとしております。このような儀礼空間としての「対面所」構成が完璧に整えられている建物であります。また、「対面所」の西側には控室としての「雀の間」「雁の間」「菊の間」が、北側には納戸2室を介して「白書院」が存在します。「白書院」は、西側「三の間」から「二の間」を経て東側「一の間(紫明の間)」へと三間が連なり、一の間は変型10畳の上段と大床・付書院・違棚・帳台を構え、寺院でありながら武家御殿と遜色ない「書院造」の本寸法で構成されております。「白書院」は「対面所」よりも若干古い建築であるようで、もともと別棟であったことは前に触れました。因みに、「対面所」と「白書院」の三の間は畳を上げると板敷で「能舞台」としても利用できるように設えてもおります[別に書院の外に、書院から鑑賞するための能舞台として、国内現存最古の「北能舞台」(国宝)と「南能舞台」(国重文)の2棟が付属します]。
こうした大規模で至れり尽くせりの空間構成から、古くから、本書院が伏見城から移築されたものと言い伝えられておりました(尤も、そうであれば秀吉の伏見城ではなく家康のそれとなりましょう)。しかし、これまでの修理成果からそこまでの大規模な移築の痕跡は発見されておらず、新規にこの地に建築されたことがほぼ明らかになっております。ただ、その成立は一様ではないようで、「対面所」は元和3年(1617)に焼失した旧対面所に代わって、翌年に現「御影堂」付近に東向きで再建した建物を、新たな「御影堂」の建設に先立って、寛永7年(1630)に現在地に90度向きを変えて移築されたことが確認されたそうです。更に、後の安永6年(1777)になってから、対面所北側に別棟としてあった「白書院」を移築し、対面所と接続させて全体を大屋根で覆ったのが現況という流れになるようです。そうなると、現在のような形状となるのは、江戸中期ということになりましょう。このあたりの建築の経緯を詳細に知りたいと思いますが、なかなか適当な資料が入手できないのが残念であります。
さて、小生が学生時代に購入して愛用していた,建築史を専門とされる藤岡通夫氏による『城と書院』1971年(小学館)を書庫から引っ張り出して、そこに納められる論考を確認したところ、「西本願寺」の「対面所」平面構成は。滋賀県長浜市の大通寺広間や、戦災により失われた紀州鷺森本願寺別院のそれとほぼ同じ構成をとっているといい、真宗における「対面所」における儀礼では、上段の中央に法主が着座し、上段向かって右手に連枝(れんし:法主の兄弟)、左手には新門(しんもん:法主の法嗣)が並び、一段下がった区画には役僧が控え、それより先に上段と対面して着座する僧との間での儀礼が展開されたといいます。しかし、西本願寺では上段右手に更に「上々段」が設けられ、書院の設えが設えられるだけではなく、その前面に軍配型の火灯窓が設けられて特別な空間を構成しているのが、他の真宗寺院の「対面所」と異なる特別な設えとなっているとのことです。西本願寺の対面所が武家の最上級の設えに匹敵する豪華な空間として構成された背景に、藤岡氏は(確実な証拠はないとしながら)以下のような事情を想定されておられます。つまり、寛永11年(1634)の徳川家光の上洛を機に将軍の御成りを実現するための整備であったのではないか……との仮説に他なりません(実際には、上洛中に江戸城で火災があり家光は予定を切り上げて江戸に戻ったため実現しなかったと推察しておられます)。東西本願寺分裂の経緯をお読みいただければご理解いただけましょうが、西本願寺は豊臣氏との関係の深い寺院であり(関ケ原合戦の際にも西軍に近い立場にあったとされます)、江戸幕府の覇権がほぼ確立したこの段階で、家光が上洛するのを絶好の機会と考えたことは十分あり得ましょう。それが、家光の御成りを迎えて饗応することで江戸幕府への恭順の姿勢を明確に打ち出すことに他なりません。そう考えれば、白書院(その段階では現在のように一体の建物ではない別棟であったのでしょうが)内に「葵」の裏紋が多く使われていることも、上々段が設えられていることも、東南部に別に玄関が設けられているのもすべてが符合するとおっしゃっております。近世初頭の東本願寺成立の過程を見れば、そうした推論も排除するべきではございますまい。確かに、必要以上に武家の書院を意識した豪華な装飾空間がここにはございます。
さて、その室内装飾の白眉とも申すべきものが、書院を飾る絢爛豪華な障屏画の数々でございます。公開されていない、数寄屋風の書院建築である国宝「黒書院」は江戸狩野の総帥探幽狩野守信の手になる絵画でありますが、「対面所」・「白書院」は渡辺了慶(わたなべりょうけい)とその門人による作と考えられております。ただ、今でもそれほど研究が進んだとは申せませんが、ネット環境など存在しなかった当時、渡辺了慶とは何者かに迫る論考も資料もなく、本当に悶々とした思いとなったことをありありと思い出すことができます。描かれてる画風からは、明らかに「狩野派」の一員であることは小生のような素人にもわかりました。しかし、一体全体如何なる系譜に属する絵師なのかを詳細を伝えるものは何処にもありませんでした。それから40年以上が経過しネット環境の整備や、そもそも研究も進展したことで、薄紙を剝がすように、漸くその実像がつかめてくるようになりました。それによれば、渡辺了慶は、狩野永徳の子である光信の高弟であったのです。永徳・光信と申せば絵師集団「狩野派」の、正に本流中の本流の系譜でございます。狩野派はその時の権力者と深く結びつき、彼らの依頼に応えて城郭や関係寺院に健筆を振るった絵師集団であります。その流派の祖は室町時代後期の狩野正信であり、その子狩野元信と続けて優れた絵師を輩出したことで室町幕府との関係を有するようになります。そうした指向性はその孫の永徳に至って織田信長の命により安土城障屏画の制作に関わることで一気に高まることになります。広大な近世城郭の御殿建築に描く障屏画の数は膨大に及びますから、絵師個人の技量は勿論のこと、優れた弟子を集め、それを組織化して分業体制で作画を進めることが肝要となります。そうして、狩野派の惣領の下には全国から優れた絵師たちが集まると同時に、素質を有する若い絵師を育成する学習システムが構築されて絵師が量産されることになります。同じ御殿内の絵画には絵師の強烈な個性は不必要であり、むしろ様式の統一性こそが求められましたから、門弟たちには徹底した狩野派としての骨法訓練が施されました。その教育とて、狩野家の惣領一人では到底賄いきれません。高度な技量を有する高弟はそうした門弟の育成にも関わることになります。
狩野光信の下にもそうした優れた技量を持つ高弟が幾人もいた筈であります。勿論、かれらは狩野一族ではございませんから、元々は他の名字を名乗っておりました。その代表的な人物が、渡辺了慶であり、その功績の大きさから光信から狩野の名字を与えられることになる狩野興以(かのうこうい:元の名字は伝わりません)となります(本稿の最後に触れますが狩野道保なる人物も高弟の一人でした)。特に、興以は関東に生まれ(生地は足利、伊豆、武蔵等の諸説あり)、京都に出て光信の門弟となり頭角を現します。残された作品からもその卓抜たる技量が見て取れます。光信が若くして亡くなった後、光信の弟でこれまた若くして没することとなる狩野孝信から、その子息である狩野守信(探幽)・尚信・安信の三兄弟の育成を託されることになり、それを見事に成し遂げたことは、彼ら三兄弟が江戸幕府の御用絵師(奥絵師)となり、それぞれの後裔が江戸時代の画壇に君臨したことからも明らかでございましょう。探幽の絵画は、祖父である永徳から大きく変貌を遂げ、荒々しいまでの迫力を廃した、瀟洒な上品さを旨としたものでありますが、それはとりもなおさず光信とそれに学んだ興以の有していた画風の持ち味に他なりません。その貢献から、狩野興以とその子息は、それぞれ徳川御三家との関係を有するようになります。興以と長男興甫以降の後裔は紀州藩の、次男興也以降の後裔は水戸藩の、それぞれ御用絵師の家系として定着いたします。三男興之は尾張藩の絵師となっておりますが一時的なものなのか、尾張藩御用絵師としては定着していないようです。因みに、興以と興甫後裔の紀州藩御用絵師の墓所は、東京赤坂の地にある種徳寺に営まれております。何年か前に確認に出かけ、手を合わせてまいりましたので間違いありません。
続いて、同じく狩野光信高弟の渡辺了慶についてであります。研究が進んだといわれる今日でも狩野興以と比較してしまうと資料は圧倒的に少ないものであります。系譜的なことで現在判明していることは、出羽国の出身であったらしいこと、その後京都に出て狩野光信の門に入り高弟の一人として活躍したこと、京都を中心に活動し、慶長11年(1606)高台寺客殿に師狩野光信と兄弟弟子狩野興以と共に描いたこと、師没後の元和3年(1617)から翌年にかけて本稿で採り上げている西本願寺書院群の作画の中心として門弟を取りまとめて健筆を振るったこと、その他東福寺普門院 妙心寺には塔頭の退蔵院・大法院に作品を残していること、晩年は平戸藩松浦家の御用絵師となったことくらいであります。「平戸市松浦史料館」に問い合わせをしましたが、松浦藩関係史料中に渡辺了慶に関するものは見当たらないとのことでした。まぁ、近世大名は参勤交代による江戸での生活期間も長い訳ですから、江戸を介在した人的交流によって必要な人材の召し抱え等も行われましょう。従って、必ずしも了慶と九州との地縁がある必要はありません。ただ、それにしても何故松浦家との関係があったのかとの疑問がないわけではございません。これは単なる憶測でございますが、松浦家は嵯峨源氏の一流である「摂津渡辺党」(渡辺綱でよく知られます)の後裔を称していることと何らかの関係がないかと想像します。了慶の生地が出羽国と想定されていると述べましたが、水運との関係の深い渡辺党の一流は、本館の遠山研究員の調査研究によると「香取の海」周辺での活動も確認されるとのことです。相当広範な活動がみられておりますから、その一流が出羽あたりにまで広がっていた可能性は皆無ではありますまい。まぁ、それは戯言に過ぎないかもしれません。尤も、了慶自身も平戸と江戸とを行き来しながら作画をしたようです。ただ、少なくともその後に了慶の後裔が松浦藩御用絵師になって家系を繋ぐことにはなっておりません。その後の平戸藩御用絵師は、探幽の弟尚信の弟子にあたる片山尚景が入り、その後裔が務めていることが明らかだからです。また、ものの本によれば、了慶も光信から狩野を名字とすることを許されたとするものもございますが、明確ではありません。後に触れる了慶の子である了之(りょうし)が狩野の名字を名乗ることが許されたことは記録が残るようですが、それは松浦藩でのことではありません。そして、了慶自身は、正保2年(1645)に没しております。没地が平戸か江戸なのかは判然としませんが、平戸に渡辺了慶の墓石は残らないようです。因みに、同門である誼でございましょう。了慶の子である了之のもとには狩野興以の娘が嫁いでおり、両家は姻戚関係を取り結んでおります。これ以降も両家は何らかの形でつながりをもっていたのです。そのことは本稿の最後に触れさせていただきます。意外な関係性が浮かび上がるのです。
さて、その渡辺了慶という優れた技量を有する狩野派の系譜は、その後如何なる道を辿ったのでありましょうか。その長男である了之(りょうし)が狩野の名字の名乗りを許されたと書きましたが、これはどうやら父の師でもあった狩野光信から直接のものであったようです。父了慶に匹敵する技量を光信から認められていたのでしょう。ただ、父了慶とは別に京都で活動をしていたようです。その結果、狩野了之は、寛永15年(1638)に福井藩3代藩主の松平忠昌によって200石で福井藩に召し抱えられることになりました。しかも、当初は洛中住居を許される待遇を得ております(後に福井城下に移っておりますが)。これには、岳父である狩野興以とその子息が徳川御三家との関係を深め、それぞれ和歌山藩・水戸藩の御用絵師となったように、由緒としては家康の次男結城秀康を藩祖とする福井藩(「制街の家」との由緒と権威を有した御家門の筆頭とも言える家であります)の御用絵師となることが、了之にとっても福井藩にとっても、その権威付けに資するものとなったことがございましょう。資料には現れませんが、岳父興以が娘婿である了之を福井藩に推したこともあったのではありますまいか。ただ、当時の福井藩の置かれた状況はなかなかに複雑なものでもありました。よく知られるように、藩祖秀康の嫡男で2代藩主であった松平忠直が「大坂の陣」で戦功を将軍徳川秀忠に認められなかった不満から反幕府の姿勢をとるようになったため、元和9年(1623)に豊後国大分に配流となり、翌年その子の光長が福井67万石から越後高田藩26万石弱に減俸の上で転封となっていたのです(この家系は後の元禄期に所謂「越後騒動」により改易処分を受けますが、後に許され美作国津山で10万石程を与えられて復活します)。代わって、別家として高田藩を与えられていた忠直の弟である忠昌が入れ替わりの形で、主だった福井藩家臣団とともに福井藩50万石を継承し3代目藩主となりました(こうした経緯から、江戸時代を通じての藩祖秀康から続く「越前系松平家」の宗家が津山藩か福井藩かとの互いの主張が展開されることになります。血統だけでで言えば津山でしょうが、分裂の経緯と石高に鑑みれば福井の圧勝でしょう)。つまり、了之は新生福井藩に召し抱えられたことになったというわけです。余談でありますが、福井藩には忠直の時代に召し抱えられた奇想の天才絵師「岩佐又兵衛」の後裔も絵師として仕えておりましたが、又兵衛以降の絵師には目ぼしい活躍をした者を輩出することはなかったようです。このことは、狩野派による絵師育成のプログラムが如何に有効であったのかを逆に照射いたしましょう。天才の後裔が天才とはなることは極々稀であります。やはり、重要なのはアカデミズムに基づく訓練・教育なのです。
その了之が万治3年(1660)に没すると、その後は、嫡男狩野元昭(もとあき:画号は了海)が150石で継ぎ、御用絵師の地位も継承しております。元昭は、父に学んだ後に江戸に出て狩野宗家(中橋狩野家)を継いだ狩野安信に入門し、画技の研鑽に努めております。福井に残される多くの元昭作品を見ると、江戸狩野の基本をよく学んだ破綻のない作風であり、流石に御家門筆頭の絵師に相応しい技量の持ち主であることが確認できます。福井藩の4代目藩主となった松平光通に重用され、大愚宗築(たいぐそうちく)を開山に迎え越前松平家の永代菩提所として創建された「大安禅寺(大安寺)」の障屏画を任されております。本寺にはそれ以外にも元昭作品が多く伝わっております。福井市内は、福井空襲と福井地震(1948年)という立て続けの災害で多くの文化財が失われましたが、幸いに郊外の大安寺は被災を免れました。壮大な福井松平家墓所(千畳敷)、豪壮な伽藍とともに、かつての華やかなりし福井文化の香りを伝えております(尤も、小生も福井に行ったことはございますが、本寺を訪れたことはございませんので、福井市立郷土歴史博物館で平成31年(2019)開催の特別展図録『大安禅寺の名宝』で接して申しております)。元昭の後は長子の竹雲が継承しますが、その後の福井藩は支藩への分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、貞享3年(1686)に第6代藩主綱昌が発狂を理由に強制隠居処分され、前藩主昌親が領地半減の上で再襲(吉品)することになるなど混乱が続きます。竹雲もそうした混乱の最中に没し、ここで一度福井狩野家は断絶します。しかし、元昭の四男狩野興碩が江戸に出て「中橋狩野家」当主永叔(えいしゅく:文京区の護国寺本堂天井の雲竜図で知られます)に学び、元禄7年に福井藩に帰参が許され再び御用絵師となっております。この後も9代まで家系を繋ぎますが、了慶の家系はここで断絶しているとのことです。なお、こうした福井藩における狩野派の系譜につきましては、『福井市立郷土歴史館研究紀要 第9号』(2001年)に収められる論考、志賀太郎「福井の狩野派資料(一)」を大いに参照させていただきました。
最後になりますが、その志賀氏の論考にある福井狩野派に関する記述のある史資料として紹介されているなかに、福井藩法制史料「御停止異変死失」があり、その中の“切支丹”の項に狩野了之が切支丹であったらしきことが記述されているといいます。実際に大安寺に伝わる狩野了之筆『布袋図』の表裏墨書銘には、「破墨了之者狩野元昭之師匠而学画法於切支丹(後略)」(了之は画法をキリシタンから学んだ)とあるとのことです。当該作品は水墨画作品であり洋画の技法は全く見当たりませんが、少なくとも了之が切支丹との接触があったことは広く知られていたのでしょう。そうであるとすれば、父の渡辺了慶が海外貿易の窓口でもあった平戸に赴いたことには、もっと違った背景があった可能性もあるかもしれません。それについては、『文化財保存修復研究センター紀要』(2019年)に所収の中右恵理子氏の論考「日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察」に紹介されている記事にも目が留まりました。日光東照宮の陽明門の修復の際に発見された装飾に、当時としては極めて珍しい「油彩」の技法(唐油蒔絵)を用いて描いた狩野派作品が発見され、寛永19年(1642)当時その制作にあたった狩野派の中心的絵師が、狩野探幽(以下「狩野」略)・尚信(探幽弟)・長信(永徳末弟)・興甫(興以長子)・興也(興以二子)・友我(長信弟子)・時信(安信子)であり、更に高木一雄『江戸キリシタン山屋敷』に以下のような記述があると引用までされております。本書は、日本におけるキリスト教の布教から禁教時代の修道士やキリシタンの動向を記した内容であり、ここには狩野興甫がキリシタンであるとの記述があるそうです。
「初めに狩野彌右衛門興甫についてであるが彼は武蔵野国で生まれた。そして成長してから山城国に移っている。のち寛永4年(1627)から万治3年(1660)まで兄狩野興以(※天野註:父の誤り)跡を継いで和歌山藩絵師となり一〇〇五(※100石??)支給され三三年間仕えていた。その間、寛永11年(1634)から寛永13年(1636)まで日光東照宮の絵師も務めている。」
中右氏の論考によれば、「興甫の息子である狩野彌右衛門興益もキリシタンであり、父とともに三年間小日向の山屋敷(天野註:江戸小石川にあり後にシドッチも収監されたキリシタン隔離施設)に収容されていた」とのこと。また、神谷道子「キリシタン時代の絵師-狩野派とキリシタンー」(2019年)も紹介され、そこには「狩野興甫がキリシタンとして捕らえられた件は『南紀徳川史』、『徳川実記』にも記載がみられ、興甫は父興以の兄弟弟子の一人である狩野道保(生没年未詳)娘を娶っており、その道保作とされる「南蛮屏風」がリスボン国立古美術館に所蔵されていること、『日本フランシスコ会史年表』には“狩野道保ペドロ”がフランシスコ会の財務担当であったと記載されていることがわかり、やはりキリシタンであったと報告されていると書かれております。狩野興以の同じく兄弟弟子であった渡辺了慶が平戸藩に御用絵師として晩年に仕えたこと、興以の娘が了慶長子である了之に嫁いでいること、福井藩の記録によればその了之がキリシタンであったこと等々からも、彼ら相互にキリシタンとして相当濃厚な関係を取り結びながら、肝心の絵師としての仕事にも当たっていたこと、そこに西洋の油絵技法を導入する素地があったこと等が考察されましょうか。父世代の興以と了慶の二人に関してはキリシタン関連であったとの証拠は見当たりませんが、それでも狩野道保と同門であったこと、了慶が平戸松浦藩の御用絵師となったことからは、何らかの関係性を想定はできましょうか。近世初頭の国内では幕府の周辺の人間にも思いのほかキリスト教は浸透していたことを知ることができます。
ちょっとした追伸でありますが、そういえば、千葉一族でもキリシタンとなり過酷な最期を迎えた人物がおりますので、斯様な機会でもなければ二度と採り上げる機会もないかと思いご紹介をさせていただきましょう。それが、千葉介が小田原北条氏の滅亡と運命を伴にした後、家宰の地位にあった臼井城主の家系に連なる原胤信(原胤栄の孫にあたります)であります。彼は、徳川家康から名族の家系として小姓として召し出され、旗本に列するのですが、その一方でキリスト教の洗礼を受け信者となっていたのでした。所謂「ジョアン・原主水」であります。主水は慶長19年(1614)に捕らえられて棄教を迫られますが拒みます。その後の経緯は省きますが、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で追放されることになります。それでも布教活動を続けた主水でしたが、密告によって捕らえられ元和9年(1623)宣教師47名とともに市中引き回しの末、高輪「札の辻」で火刑に処されております。なお、真正面からではありませんが、遠藤周作が短編小説でこのことを採り上げております(「札ノ辻」1963年作)。つい最近の6月に岩波文庫として上梓された『遠藤周作短編集』にも収められておりますので宜しければどうぞ。因みに、明治初期のプロテスタントである原胤昭(江戸南町奉行所の最後の与力)は、戦国末期の原家当主胤栄弟の子孫にあたり(手賀原氏)、原宗家の断絶がキリシタン弾圧によることを知り、主水の功績を伝えることに尽力しております。胤昭自身も葬られる柏市の手賀原氏墓所の近くには、 民家を明治16年(1883)に教会堂に改装した茅葺きの「手賀教会堂」が残り「千葉県有形文化財」に指定されております。千葉一族にも斯様な信念の人がいたことを知ることに意義はございましょう。さてさて、西本願寺の話題から随分と遠くまで散策してまいりました。このあたりで筆を置かせていただくことにいたします。長々とお付き合いをいただきました方には御礼を申し上げたいと存じます。
お暑うございます。尤も、毎日が斯様な陽気でございますから、恐らく何百年にも亘って交わされてきたと思われる斯様な挨拶も、程なく殆ど意味を有しなくなることになるのではありますまいか。この時節における「こんにちは」……と同義となることでしょう。いやはや、我が国の言葉自体を変えてしまいそうな勢いで季節の有り様が激変していることを実感いたします。
さて、我が家では、毎年7月末から8月初旬にかけての時節に宿泊を伴った旅行を挙行して参りました。もっとも、宿泊と申しましても2日間の週休との抱き合わせで出掛けるわけですから、1泊旅行が“基本のキ”となります。従って、その射程は自ずと関東周辺に定まることになります。その他の条件でありますが、山の神よりの絶対的要望により温泉宿へ宿泊することがある一方、小生の希望は歴史的環境を拝見する可能性の高い地、一緒に旅行に付いてきた時分に限りますが、倅のそれは昆虫採集が可能な自然条件に恵まれている地……でありました。まぁ、温泉地への宿泊に反対する者はおりませんから特段問題もないようですが、実際には鄙びた温泉旅館かホテルかという問題もございます(小生は温泉街に立地する鄙びた和風旅館を好みますが、伴侶はトイレ・洗面所が部屋に備えられたホテル形式の宿が良いと言います)。一方、小生と倅とは、人文系と理系で好みが分かれますので、あまり好みが交差することがございません。従いまして、何よりも、それらの鼎立させるための旅行地の選択がナカナカに難しいのです。まぁ、今や倅は独立して生活しておりますし、この時期は昆虫採集の最盛期となりますから誘っても合流することは無くなりました。従って山の神との攻防により決定を見ることになります。本年は、相方から「瀬波温泉」に入湯したいとの希望がありましたから、新潟から羽越本線を北へ辿って越後村上で下車するルートを採ることになります。そうであれば、城下町村上を計画に入れ込むことができます。しかも、初日は新幹線での新潟下車後に、昼食を兼ねて未だ脚を踏み入れたことのない、萬代橋で信濃川を渡った先に広がる本来の新潟の中心地(古町界隈)に出掛けることも出来そうです。村上は2度目になりますが、前回は新潟県内でも随一と称される石垣を有する村上城の山上郭群には足を運べませんでしたから、有無もなく目出度くコースは決定したのでした。
瀬波温泉といえば、村上市内の日本海に面する海岸部に広がる温泉街であります。写真を見ると海岸縁にずらりと立派なホテルが林立しております。小生が最も忌み嫌う温泉街の光景です。しかし、ちょっと内陸には古くからの一軒家の和風旅館が存在し、地図を拝見すると源泉もその近くにあるため、この地域が開湯の地である温泉街に違いないと踏んだところでございます。山の神にもその旨を伝えて決裁を取り付けて今回は和風旅館に宿泊となりました。本稿の最初はその瀬波温泉について少々。瀬波温泉は、城下町村上に程近い日本海に面した地に所在するため、江戸時代から村上藩士の保養地であったのだろうと予て思っておりました。村上を北上した日本海に面した湯野浜温泉が庄内藩士のそれであったように(藤沢周平の傑作時代小説『蝉時雨』の最終場面で“牧文四郎”と“ふく”が最後の邂逅を果たした地も、藤沢氏はおそらく湯野浜をモデルにされたのだと思われます……。このシーンは今思い返すだけでも胸中に切なさがこみあげて参ります。正に名場面だと存じます)。ところが、実際に瀬波に来てみると意外なことに、所謂「温泉街」らしい雰囲気を感じさせない実にあっけらかんとした場であり、浴衣を着て温泉街の散策を楽しむような環境ではございませんでした。それもその筈です。迂闊なことに現地に着てから知ったのですが、当該温泉の開湯は明治37年(1904)に石油試掘中に95度の温泉が噴出したことが起源であるとのことです。それでも百年を超える歴史を有しますが、さほどに古い温泉地ではなかったのです。因みに、同県では豊富温泉・羽根沢温泉・月岡温泉も同様の経緯で温泉地となったとのことであります。お若い方だと日本で石油と言われてもピンと来なかろうと存じますが、現在でも新潟県・北海道・秋田県の3県では石油の掘削が続けられており(道県別生産量の順は記述の通り)、トップの新潟県は毎年国内生産60%強の生産を占めております(最盛期には秋田がトップでしたが)。北海道・秋田県・山形県・新潟県と、国内石油の産出地は概ね日本海沿岸に分布しているのが特色でありますが、太平洋側にも1カ所のみでありますが、静岡県相良市が産出地であったことは意外に知られておりません(かつて田沼意次が大名として築城した地)。ただ、ここの原油は一般的な漆黒のドロドロしたものとは異なり、製油工程を必要としない産出時から既にウィスキーのような琥珀色の透明な液体という世界的に見ても稀な石油であり、そのまま給油して自動車が走行できたそうです。残念ながら、昭和30年(1955)には輸入石油に押されて閉山しました。現在の国内石油年産高は概ね50万キロリットル強で、国内原油使用料に占める国産原油の比率は0.3%に過ぎません。しかし、日本は僅かではありますが、今日でも産油国であることを若い方々には知っておいていただけましたら幸いでございます。
さて、瀬波温泉に戻りますが、大正3年(1914)に村上までの鉄道が開業すると開発に拍車がかかったようで、今回宿泊させていただいた旅館内の写真からは、道路の両側に木造三階の旅館建築が立ち並ぶ、往時の栄えた温泉地の繁栄が伝わりました。是非ともそんな時代の瀬波に訪問したかったものです。現在は、おそらく当時は見向きもされなかった海岸縁の地に温泉街の中心が移ってしまっており、本来の中心であった地は寂れてしまった感は否めませんでした。尤も、海岸に沿って林立するホテル群も「夕陽の見える露天風呂」を売りにしておりますが、ホテル周辺には温泉街が形成されているわけでもなく、温泉地としては寒々とした光景が広がっております。今日のJRの「駅ナカ」の発想が全くそうであるように、ホテル旅館というのは顧客の需要を全てホテル内で完結させようとします(もっと卑近なる言い方をして宜しいのであれば全ての儲けを独り占めしようとします)から、周囲の温泉街に利益が還元されることが少なくなり、結果として街が寂れていくことになります。そうなれば、温泉街としての魅力が喪失しますから訪問者もまた街をそぞろ歩くことをしなくなります。つまり、ホテル旅館“直行直帰”という構造となりますから、街としての活気が失われた温泉街としての魅力は更に劣化していくことなる悪循環が出来上がるのです。温泉ホテルもリピーターを増やそうとすれば、更に投資して自身のホテルをより豪華絢爛に飾っていくことを続けざるをえなくなり、経営を更に圧迫していくことになりましょう。従って、大きな資本を有する大規模経営ホテル旅館こそ、その内に竹篦返しが及ぶことを今の内に見据え、温泉地の将来像を見据えた対応を打つ必要がございましょう。何をすべきなのか、それは、ともに街全体として賑わいを創出する「街を育てる」発想で、各旅館や土産物屋・食堂・居酒屋・遊興施設等々が各自の役割と魅力を分け持つことです。「○○ホテルに行く……」ではなく、「◎◎温泉に行きたい……」といった方向への顧客の需要を掘り起こすことが重要だと考えます。古くからの温泉街である草津温泉や伊香保温泉等々にはこれがあります。また一度凋落の極みにあった熱海温泉の奇跡の復活劇には、こうした意識の転換があったといいます。残念ながら、ここ瀬波でも、昨今よく見る寒々しい温泉街の現状を垣間見た思いがいたしました。温泉自体は、塩化ナトリウム泉であり大変に素晴らしいものでありますから、温泉街としての意識が高まれば充分に嘗ての賑わいを取り戻すことが可能でしょう。そんな「瀬波温泉」を再訪してみたいものです。因みに、昭和12年(1937)には与謝野晶子が瀬波温泉に逗留し、45首の歌を詠んだそうで、平成10年(1998)には45本の歌碑が設置されたといいます。ところが、海までの散策の途中にはそれがあったかどうかも気づきませんでした(温泉旅館でも紹介があったわけでもありません)。もっと「与謝野晶子推し」があっても宜しいのではないでしょうか。勿体ない!!
ただ、(若干身体は重かったのですが折角の機会ですから)夜明けとともに一人で、その後の朝食前に山の神と二人で、海岸線に出て日本海の風景を満喫できたことは大いに嬉しきことでございました。湿気の充満する海岸線でありましたが、海上に浮かぶ「粟島」も、うっすらとですが目にすることが叶いました。穏やかな日本海の彼方に眺めることのできる平坦な地形の粟島は、海岸縁にあるホテル旅館が「夕陽の沈む露天風呂」を売りにしているように、西に沈む夕陽に浮かんで目にする島嶼であります。言わんとしていることは最早ご説明も不要でございましょう。中世の人々には美しい一光景としてではなく、そこに西方浄土の存在が重ねられていたのです。小生は、夕陽の粟島ではなく、朝日を浴びる粟島を微かにのぞんだだけでありますが、それでも遙か遠くの世界を垣間見たように思えました。事実、この島は中世以来、亡くなった人の「納骨」が盛んに行われる信仰の島でございました。粟島では現在でも数多くの板碑が出土いたします。中世に生きた人々は、西方の海に浮かぶ「粟島」を、死者が遙か彼方にある「浄土」に旅立つ前に、一時的に留まる場として認識していたのでありましょう。如何にもそんな風に見える存在であります。こうした「納骨」習俗はかつて広く日本各地で見られましたが、東北地方で今でもそれが行われる会津の「八葉寺」がございますし、宮城県の一大観光名所「松島」に浮かぶ「雄島」でも、多くの板碑と今でも地面に散乱する納骨された夥しい骨片を目にすることができます(ブラタモリでも採り上げられておりました)。また、日本海側では同じ新潟県の佐渡島にも同様の習俗が見られます。小生も嘗て訪問したことがございますが、小木町にある蓮華峰寺には中世に遡る「骨堂」が残り、国指定重要文化財に指定されております。解体修理の際には堂内の土間が納骨された人骨で真っ白であったと伝えられます。粟島と同じく西方の海上に浮かぶ浄土としての認識を背景にしておりましょう。こうした諸々は、以前の本稿で『死者のゆくえ』を紹介させていただいたことがございますが、小生の私淑する東北大学名誉教授の佐藤弘夫氏の著作の数々からご教示いただいたことでございます。近作となる『人は死んだらどこへ行けばいいのか 現代の彼岸を歩く』2021年(興山社)、『激変する日本人の死生観 人は死んだらどこへ行けばいいのか 第2巻』2024年(興山社)をどうぞ。興山社はよく新聞一面の広告で目にする雑誌「月刊住職」を刊行している出版者であります。小生は2冊とも読了しておりますが、何れ第三巻が出版されて完結となるそうですから大いに楽しみに待ちたいと存じます。
さて、時計の針を前日にまで戻させていただきます。最初に訪問しました新潟市は、歴史的には信濃川水系と阿賀野川水系が日本海に注ぐ河口に立地しており、二つの大河と日本海との結節点となる重要な地勢にある港湾都して中世以来大きな発展を見た町であります。特に、近世には北前船や西廻航路における、日本海沿岸屈指の寄港地として栄えるとともに、所謂「安政の五ケ国条約」における5つの開港地の一つとなったことはその重要な地勢によるものでございます。因みに、近世の多くの時期において当地は長岡藩領でありましたが、同藩による「新潟町奉行」が置かれ“町場支配”が実施されておりました。長岡藩によっても経済的な枢要として重視する地であったのです。ただ近世末の天保期になると、湊としての重要性から、その統制を強化する必要に鑑み、新潟湊は幕府によって上地され天領となりました。戊辰戦争における北越戦線では戦場となり市街地を焼失して明治維新を迎えます。しかし、その後も都市機能の重要性が変わることはありませんでした。間もなく市街地の復興がなっただけでなく、明治22年(1889)に市制の敷かれた日本でも最古に属する「市」の一つになったことからも、そのことを知ることが出来ましょう。戦時中には、原爆投下の候補地ともなりながら、市内への空襲は実施されることなく戦後を迎えます(米軍の攻撃は新潟港の機能停止を目途とした機雷の投下に限定されたようです)。ただ、戦後になって昭和30年(1955)「新潟大火」、昭和39年(1964)「新潟地震」によって市の広範囲が罹災したことは知って置いて宜しいことかと存じます。そして、現在の人口は80万人弱となり、平成19年(2007)には8つの行政区を有する「政令指定都市」となっております。本州に限って申せば日本海沿岸で唯一のそれとなります。
これまで述べてきた歴史的な新潟の中心地とは、新潟駅を下車して北へ向かい、信濃川を「萬代橋」(昭和4年建設の橋梁で国指定重要文化財)を渡った対岸でございます。この地は、信濃国を淵源とする信濃川(信州では千曲川)が運搬した土砂が日本海の波浪と強風で砂丘を形成した地盤であり、地形的には日本海と信濃川に挟まれた東西に長く延びる土地となります(従って、俗に「新潟島」と呼称されることがございます)。新潟地震では大規模な液状化が惹起し多くのビルの倒壊がみられたのは、こうした砂地によって形成された地盤の故でありました。現在は近代になって開削された大河津分水(おおこうづぶんすい)」という放水路がございますが、かつては信濃川河口周辺が越後平野ほぼ唯一の河口であったのです。従って、かつての信濃川流域の平地部は低湿で、数多くの潟湖も存在する場でもありましたから、実は稲作の好適地とは到底言えない地でもあったのです。越後平野が現在のような国内有数の米産地となるのは、偏に戦後になってからの土地改良の賜なのです。これまでの湿田が乾田化され、新幹線の車窓から眺める広大な美田が広がるようになりました。「米どころ 新潟」は永きに亘る越後人と水との戦いの末の成果であったことを忘れてはなりません。余談かも知れませんが、米作には水が不可欠なことは申すまでもございませんが、年中湿田であっては良質な米にはなりません(これは稲が元来熱帯サバナ気候の原産であることに由来しましょう。従って畑で育てた「陸稲(おかぼ)」の味がよくならないのも逆の意味で真なりでしょう)。それに、泥深い湿田での農家の収穫作業は途轍もなく過酷なものでもあったのです。再びに新潟市のことに戻りますが、現在でも市域の3割は海面下の低地であり自然排水ができません。従って、動力ポンプで水を汲み上げて強制排水をしております。このことはNHK「ブラタモリ」でも採り上げられておりましたから、ご覧になられた皆様も多い事でありましょう。
その古町(町名としての古町を含む近世以来の旧新潟町辺りを指して使用しております)は、現在では整然とした道路が交差する都市であります。しかし、古地図を引き比べてみると、その道筋の多くは信濃川に通じる水路を埋め立てたものであることが分かります。曾ての新潟古町は大変な「水の街」であったのです。その畔には延々と柳が植えられていたことから「柳都(りゅうと)」との美称もあるとも聞きました。勿論、その水路は美観のために存在したのではございません。水路の両岸には商家が櫛比しており、信濃川に碇泊した廻船から瀬取船に積み替えられた物資が盛んに荷揚されていたのです。古地図を見ると、その繁栄の有様が彷彿とするほどに運河沿に延々と商家が連なっております。ところが、昭和30年代にはモータリゼーションのために殆どが埋め立てられて消滅してしまったようです。実は、我らが昼食をとった新潟ラーメンの名店「真吉(しんきち)」のある「本町中央市場商店街(人情横丁)」は、その面影を留めておりましたのでご紹介させていただきましょう。この商店街は、道路中央にある中央分離帯のような、細長い空間に雑多なる店舗が居並ぶ風情あるジャンキーな場でございましたが、どう見てもその中央分離帯は元来は運河(堀)であったことが明らかです。周囲を確かめると、案の定商店街の端には「浦安橋遺構」として橋脚だけがその運河の幅で残っておりました(ブラタモリでも紹介されていたように記憶しておりますが別の場所だったのかもしれません)。不思議な場所で、しかも到って魅力的な商店街であります。整えられた商店街も結構ですが、旅の醍醐味はこうした場所の発見にございます。
ところで、肝心の「真吉」ラーメンですが、すっきりとした醤油と塩の中間くらいのスープに極細麺の浮かぶ「中華蕎麦」で大変に結構なお味でありました。ただ、11時に開店して、途中から女将さんが麺の量を行列客に聞くようになりました(普通か中盛りか)。要は、そもそも用意している分量が僅かなのでしょう。案の定、我々が僅か8席ほどのカウンターで食している内に、「最後のお姉さんで終わりにするんで、後からの人には品切れって伝えてね」と女将さんの声が行列末に並ぶ方に飛んでおりました。それが、11時半少し前でありましたから、恐らくは12時頃には店仕舞いをしたはずです。幸いに我々夫婦は食することができましたが、30人分ほどしか用意していないようです。営業されるのは老夫婦のお二人で、他の御客との会話で大盛を無くしたのは麺の湯切りが辛いからだと話しているのが聞こえました。休店も週一度から次第に増えて今では3日の休みになっております。もしお出かけの希望がございましたらお早めが宜しいでしょう。その後は、日差しの降り注ぐ中で新潟古町散策を強行いたしましたが相当にしんどいものでした。しかし、古くからの湊町らしく花街の面影も色濃く残す一画もあり、そんな辛さを忘れる程でもあったのです。特に、明治43年(1846)再建の巨大な料亭建築「鍋茶屋」は圧巻の存在感でございました(現在も営業をされており登録有形文化財になっております)。また、アーケード街の商店街が多くございますが、何処の県庁所在地でも顕著であるようなシャッター通りと化すことなく、元気に営業を続けていらっしゃる様子が見受けられるなど、活気ある街は散策する者の気持ちまで華やかにさせてくれます。ただ、当日は月曜日でありましたので、幕末の開港5港のうち、開港当時の姿のまま唯一現存する国指定重要文化財「旧新潟税関庁舎」を中心に整備された、「新潟市立歴史博物館 みなとぴあ」も、大正期の建築・庭園の残る豪商の豪邸であった「旧斎藤家別邸」も残念ながら休館日に当たっておりました。まぁ、小生も同業であり、その定休日を利用して来ているわけですから仕方がございません。現在、博物館では開館20周年記念企画展『北前船と新潟-廻船と日本海海運の時代-』(会期:7/27~9/1)開催中です。せめて展示図録だけでも仕入れたいと思っております。新潟もよき季節にじっくり巡りたい街の一つとなりました。たった半日ほどの滞在でしたが、大好きな街となりました。
次の訪問地である村上までは、新潟から「特急いなほ」に乗車して羽越本線を一路北に向かいます。途中で溝口家の城下町「新発田(しばた)」を経て僅か50分ほどで到着です。瀬波温泉もある村上市は、新潟県の最北にあり町村合併の結果県内で県内最大面積を誇る市となっているそうです。羽越本線はこの村上駅までは日本海を車窓に見ることはできませんが、地図で確認するとこれより北は日本海に沿って鉄路が走り、山形県との県境を越え小一時間程で庄内平野の鶴岡や酒田に到達できるようです。我々の訪問した前々日には、山形県から秋田県にかけての集中豪雨があり、その影響で山形新幹線は8月中旬まで運休と聞いておりました。また、最上川河口の酒田市や秋田県の日本海にある由利本荘市でも大雨被害が酷かったと知っておりましたので、もしかして「いなほ」は運休ではないか、村上市街も被災していないかと心配しておりましたが、幸いにも羽越本線は通常運行されており、村上市街も全く被災はされていないようで安堵いたしました。村上市の現在の人口は5万人強ほどで、その中心街は村上藩の城下町であり、現在も市中に武家町と商人町の面影が色濃く残っております。村上城も戊辰戦争と明治初年の解体で建物は全く残っておりませんが、標高135mの独立峰である臥牛山上に形成される総石垣づくりの山上曲輪群は完存しており、その精緻な石組とともに最大の見どころとなっております。また、町人居住区の町割もよく維持され、それにともなう旧家も多く残されております。そこでは、町屋再生等の各種プロジェクトが進んでおり、平成20年(2008)度には都市景観大賞「美しいまちなみ大賞」を受賞、また平成27年(2016)には「プロジェクト未来遺産2016」に選定されてもいる、実に魅力ある街であります。また、今回初めて知りましたが、ここは「北限の茶どころ」なのだそうです。これまた如何にも歴史ある城下町に相応しい産業かと存じます(北の栽培地ゆえタンニンが少なく渋みの少ない茶となるとのこと)。また、こちらは余りにも有名ことですが、城下を日本海に流れ下る三面川(みおもてがわ)を遡る鮭を捕獲して塩引きにし、町場の家々の軒先に吊るす光景が見ることのできる街でもございます。その昔、吉永小百合さんを起用した旅行広告ポスターで一躍有名にもなりました。先にも触れましたが、小生は2度目の訪問であり、かつては3月にお邪魔したこともあり鮭料理フルコースを頂くことができましたが、現在はシーズンオフであります。3月の「雛祭り」前後には各町家での雛人形飾りも公開されるなど華やかさも増します。もし出かけられるのであれば冬から早春にかけてがオススメであろうかと存じます。
さて、当日の到着は16時近くでしたから、旧村上城下の見学は翌日に回し宿に直行となり、落ち着いた和数の宿では大変結構な温泉を満喫させていただきました。ところが、夕食では“酒どころ”新潟のなかでも村上を代表する銘酒「〆張鶴」を調子に乗って過ごしてしまったようで、翌日は少々体調が思わしくなくなりました。当日の新潟古町での炎天下の散策で身体に少々ダメージがあったようで、どうやら軽い熱中症になっていたもののようです。そこに、美味しい日本酒が必要以上に効いてしまった感がございます。早朝には2回にわたって日本海にまで出かけたのですが、城下町散策の頃には散策するのも億劫となってしまい、念願の村上城攻略も叶わず仕舞いとなりました。村上市立博物館「おしゃぎり会館」、武家屋敷「若林家」、ちょっと離れた「いよぼや会館」(村上の鮭に関する展示で大変に有意義でした)位しか巡れず、近世から「村上茶」を販売される「九重園」さんの喫茶部で美味しい抹茶とお菓子を頂き、予定を早めて帰宅することにいたしました。せっかくの機会であったのに残念でなりませんが、如何せんこちらも馬齢を重ねて無理が出来ない身体になっているのだと実感をした次第でございました。山の神とは、今後は夏の時期の旅行は取りやめ、どうせ週休を利用して出掛ける旅行ならば、秋から冬にかけてに限ると決めたところでございます。村上はホントウに美しい街であり述べたいことも多々あるのですが(内藤家の参勤交代ルート等々!!)、このあたりで未成仕舞いとさせていただきます。本稿をお読みくださっている方々には、小生と同年輩の方々が多かろうと存じます。小生も前期高齢者の仲間入りをしたばかりで、少々のことではへこたれないつもりでしたが、無理はきかないことをつくづくと実感いたしました。「これしきは大丈夫だ」との自信過剰は禁物だということでございます。大きなお世話かとも存じますが、皆様にも歴史散策は時期を選んで行われますようお願い申しあげる次第でございます。
「井月(せいげつ)」は、江戸末期から明治中期を生きた俳人でございます。没年から推定して生年は文政年間(1818~1831年)初頭、生地は越後国長岡であることが分かってはいるものの、その実名も定かではありませんし、如何なる出自なのかも判然とはしません。ただ、井上を名字としていたことは確かなようで、長岡藩士の家柄であったとも推定はされるようです(そうであれば譜代大名牧野家の家臣となりましょうが、藩の記録が残らず確認がとれないようです)。理由は定かではありませんが、どうやら30歳を過ぎた頃に生家を飛び出したようで(出奔?)、その後は各地を漂白して廻ったことが残された句から垣間見えるといいます。そして、30代後半になって(何故その地であるのかは判然とはいたしませんが)信濃国伊那谷に姿を現し、それから明治20年(1887)にその地で没するまでの30年間は上伊那を中心に生活を続けたといいます。その井上某の俳号が「井月」ということになります。それまでに俳諧の道に通じていた井月は、伊那谷の好学の士に歓迎され、彼らに俳句を手ほどきしたりしては酒食や幾ばくかの金銭を手にしては、南信州一帯を放浪して暮らしたといいます。小生は幼い頃に父親から「信州は教育に熱心な地で、傷んだ家にお邪魔しても家内の書棚は書籍で埋まっていることが多い」と聞いたことがありますが、たとえ「風来坊」のような一見胡散臭そうな人物であったとしても、教養人であると認められれば大切にして面倒を見る……そんな大らかな地域性が伊那谷の人々にも共有されていたのだと存じます(尤も、酔っぱらっては寝小便を垂れてしまう井月を土地の女性や子供は毛嫌いし「乞食井月」と称したとも伝わりますが)。そうした逸話には事欠かない井月でありますが、今回は井月を採り上げることが目的ではございませんので、これ以上の詳細には踏みこむことはしないようにしたいと思います。ただ、あと少しだけ述べさせてください。
一所不住の放浪を題材とした飄々とした句をものした井月でありますが、斯様な生活をしていたものですから、自身で句集を残すことはありませんでした。しかし、晩年の井月に少年時代に接したことのある伊那出身の医師である下島勲が、散在する井月作品の収集に努め、大正10年(1921)に句集を編纂し出版するのです。その序文を書いたのが、他でもない下島を主治医としていた芥川龍之介であり、そこで芥川は井月の句を称賛しているとことです(全集に収録されておりましょうから今度探してみたいと思います)。こうした生き方を貫いた井月の、漂泊を題材とした飄々とした作品は、同様の指向性を有する自由律俳句の種田山頭火(1882~1940年)、漫画家のつげ義春(1937年~)に愛され大きな影響を与えたと言います。こちらも小生は拝読したことがありませんが、後者による漫画作品『無能の人』最終話「蒸発」は井月を描いているそうですから是非とも入手して接してみたいと思います。また、映像作品『ほかいびと 伊那の井月』(2011年)[監督:北村皆雄]があるそうです(「ほかいびと」は漢字で「乞人」と書き「家の戸口に立ち、祝いの言葉を唱えて物を乞い歩いた人」を指すそうです)。井月をあの舞踏家でもある名優の田中泯が演じているというのですから(ナレーターは樹木希林)、何が何でも拝見せねばなりますまい。それにしましても、今では、かような井月の句集が「岩波文庫」に入っており、千円ちょっとの値段で容易にその作品に接することができます。いつもながらの岩波書店の志の高さには感謝感激でございますし、何という良き時代なのかを実感させられます[そういえば、岩波書店の創業者岩波茂雄(1881~1946年)もまた信州の人(諏訪の産)でございます!!]。この度は、そちらから、小生がしみじみと夏を実感する句を5つほど選んでみました。特に最後の句は、如何にも井月の漂白の日々を思わせる句ではありますまいか(「潦(にはたづみ)」とは、夕立後に地面にできた水たまりを意味する語であります)。その他の4句もまた、どこかしら孤愁すら愉しむ飄々とした為人が伝わってくるように感じます。ただでさえ、むさ苦しい酷暑のなか、せめて斯様な夏の句で涼感を感じてみるのはいかがでしょうか。夏の詩歌では、和歌よりも「俳諧」に心に寄り添う作品が多いように思いますが如何でございましょうか。
さて、本題に入る前に、宣伝をひとつさせてください。それが副題の2つ目として掲げさせていただきました、8月19日(月)21時よりNHK‐BSで毎週放送される『英雄たちの選択』「昭和の選択 敗戦国日本の決断 マッカーサー「直接軍政」の危機」についてでございます。本番組は、歴史学者磯田道史氏の名調子とともに、普段なかなか注目されない歴史事象を採り上げてくれ、新たな知見に目を開かせてくれることの多い有意義な番組でありますが、今回もやってくれます!!本件については、令和2年12月10日から3回に分けて本稿「日本の戦争終結と『緑十字機』のこと-忘れてはならない秘められた最重要任務の歴史について-」で小生も述べております。日本が昭和20年8月15 日「ポツダム宣言」を受け入れてから、同年9月2日に東京湾上に浮かぶアメリカ軍艦ミズーリ号艦上での降伏文書の調印に漕ぎつけるまでの約2週間という、途轍もなく緊迫した国内外の政治的な動向に焦点を当てたものでございます。所謂「アジア・太平洋戦争」終結は国内では一般的に8月15日と認識されておりますが、それは決して正しくはありません。現にそれ以降も日本とソ連とは北方で戦争を継続しております。何故ならば、8月15日は日本が「ポツダム宣言」の受諾を決めた日に過ぎず、未だ日本と連合国の間に降伏文書の調印が交わされていない訳ですから、国際法上は未だ戦争が終結してはいないからに他なりません。その降伏文書の調印までの2週間の緊迫した国内外の情勢を、知られざる「緑十字機」の派遣とその劇的な顛末とを軸に調査研究をされ、知られざる事実を発掘されて自費出版として世に紹介されたのが静岡県磐田市にお住まいの郷土史家岡部英一氏でございます(現在では、内容が補完され、2017年に静岡新聞社より『緑十字機 決死の飛行』として刊行されております)。小生は、自費出版本をご本人から直接購入させて頂いた縁もあって、メールを通じてではございますがそれ以来ご厚誼をいただいております。その岡部氏から本放送のことをつい先日メールでお知らせを頂いたのです。本放送をご覧いただければ、この2週間がその後の戦後日本の歩みに如何に甚大な影響を及ぼしたのかが理解することができると存じます。その大きさたるや、もしこの動向が頓挫していたら……と想像すると戦慄に震えが止まらなくなることは間違いないほどでございます。岡部さんは番組内でコメンテーターとして出演はされないそうですが、現地取材をお受けになったそうですから映像出演をされることでしょう。恐らく、初めてその事実をお知りになられた皆様は、余りのドラマチックな展開に震撼されるものと存じます。是非とも、ご覧いただいた後には、岡部氏による名著へとお進みください。日本人として是非とも知っておくべき歴史だと信じて止みません。本書を採り上げる際には必ず申し上げますが、絶対のオススメの必読の名著だと存じております。
さて、ようやく今回の本題に移らせていただきましょう。それは、去る8月5日朝日新聞の第一面に、表題として掲げさせていただきました「タワマンやめた 神戸の選択」なる文言が踊っており、興味深く拝読をさせていただいたことから考えたことでございます。本記事は、関西屈指の繁華街である神戸市三宮から神戸港へと向かう一角に「最後のタワーマンション」がもうじき完成することから書き起こされております。記事によれば、その27階建タワマン2棟からは神戸自慢の夜景が一望できるといい、上層階の販売価格は2億円にも及ぶとされる高級マンションでありながら、それでも全690戸が順調に売れているとしております。その好調の理由は、そこに居住することにとどまらず、これが神戸市内における最後のタワマンとなることから、その希少性故に今後の資産価値向上を見込んでのものとも言われます。さて、我らが千葉市を引き合いに出すまでもなく全国何処でもタワマンの建設ラッシュが相次ぐ中、“お洒落な街”の代表とも目される神戸市のタワマン建設が最後なのは何故かと申せば、それは神戸市が中心街でのタワマン建設に規制をかけたため、今後タワマン建設ができなくなるからに他ならないと記事は伝えております。お隣の大阪市がタワマン建設に遮二無二に邁進するのを横目に、神戸市は正反対の対応をとっているのです。その理由を神戸市長の久元喜造氏は以下のように語っているそうです。「自治体間で人口を奪い合うタワマンは人口減少時代にふさわしくない。大阪がどんどん建てるから神戸も、というは発想には立たない」と。また、「神戸市が再び人口増加に転換する可能性はほぼない」「人口が減るのが分かっていながら住宅を建て続けることは、将来の廃棄物を造ることに等しい。タワマンはその典型」とも。神戸市がタワマン規制の理由に挙げるのはそれだけではありません。それはタワマンが抱える将来的なリスクにもあるとしております。つまり、タワマンが老朽化すれば修繕費はかさむ一方、居住者は多種多様で合意形成が難しく修繕すら儘ならなくなり、その結果として不動産としての価値は下落し、更に居住者が出ていけば解体費すら賄えず、廃墟化して中心部に残ることになるというのです。廃墟化したタワマンが林立する未来像を想像しただけで悪夢を見た思いともなりませんでしょうか。実際に、今の国内の都市部では高度成長期に建設されたマンション老朽化対策がにっちもさっちもいかない深刻な局面にあることが頻繁に報道されております。それに対して、タワマンは30階ほどにもなる巨大建築物でございます。実際に、神戸市は平成23年(2011)をピークに人口減少に転じ、昨年は150万を割り込んだといいます。つまり、政令指定都市中でいち早くそうした問題に直面してきたということです。ここで、何らかの手を打たねば……との対策の一環として、このタワマン規制も位置づくことになります。ただ、これは、神戸市だけの問題ではないことは申すまでもなく、我々千葉市を含む全国の都市部が何れ直面する問題ととらえておく必要がございましょう。
以上記したようなタワマンの老朽化問題への懸念だけではなく、神戸市が問題視するのは、タワマンが住民を市の中心部へと引き寄せれば、その反動として都市部の過密と周縁部の過疎とは一層加速化するとの懸念があるといいます。そうなれば、街づくりの根幹となる交通インフラの維持が困難となることにもつながり、結果として市資産が負債に転じる可能性が大きくなるのです。つまり、市中心部へのタワマン建設規制には、中心部を企業と商業施設の集積する「活気ある都心」とし、神戸全体を牽引する機能を持たせていく狙いがあるといいます。現在の千葉駅周辺でもかつて百貨店が牽引する賑わいのあった駅前地区でタワマン建設が進んでおります。現在は工事中ですから完成後の姿は分かりませんし、下層階には店舗が入るのだとは思いますが、高層住宅が蝟集する千葉駅前に、以前のような街の賑わいが創出されるとは想像し難いものがございます。そうなれば、わざわざ千葉駅で下車して、中心街を散策しながら買い物を楽しもうとする人は更に減少することでしょう。それよりも、快速で東京に出ていく方が遥かに有意義な時間が過ごせることは間違いありますまい。神戸市もまた、こうした危惧を有し、そうなる前に具体的な手を打とうとされているのです。こうした対策をとるのは神戸市に限らず、同じ港町である横浜市でも横浜駅周辺でのタワマン建設への制限をかけたといいます。しかし、こうした対策に追随する自治体はその二市以外にはなく、多くの自治体は人口増加の起爆剤としてタワマン建設を位置づけているといいます。事実、大阪市のタワマン建設に誘導されるようにして、神戸市の人口が大阪市へと流出している現実にも直面しているといいます。それについて、久元市長は「人口の奪い合いではなく、同じ商圏として連携協力し、全体の発展を目指すべきだ」と語りつつ、一方で他都市とのサービス格差が生じることを防ぐためには人口獲得競争に乗らざるを得ない時もあると語るなど、その苦衷をにじませているとも報道されております。同紙面には、大都市政策に詳しい大阪大学の北村亘教授のコメントが掲載されておりました。そこには、全国的な高齢化が一層深刻化する2040年代に求められるのは、神戸が大阪と同じことを進めることではなく、これまで歴史的に神戸市が周辺地区との間に構築してきた機能を活かし、神戸市が周辺市町村との「有志連合」の核として諸問題に対処していく発想にこそあると指摘されております。「医療やデジタルといった課題ごとに市町村が協力する枠組みを作り、お金や知恵を出し合って、住民が快適に暮らすためのサービス維持を模索する。こうした広域連携の核になるのは神戸市のような大都市だ」と。神戸が堂々と「ダウンサイジング」を打ち出し、周囲を巻き込んで人口減に適応できるかの成否は、日本中の都市の未来を占うことにほかならないともありました。確かに、一筋縄ではいかない問題ではありましょうが、一自治体だけの対応では如何ともしがたいレヴェルにまで問題は深刻化していくであろうことが、小生のような素人にも目に見えてくるように思います。
しかし、タワマンの建設を人口吸引の起爆剤と考える自治体と、それによって巨額の収益を上げようとする企業との思惑が一致した、驚くべき勢いでの建設ラッシュの様子を見るにつけ、今後の日本の在り方が将来的な視点から見て(地球環境問題も含めて)果たして適切なのかという一抹の疑念が脳裏を去来するのも事実であります。一度立ち止まって、神戸市や横浜市の動向を鏡とし、各自治体が自身の自治体に留まらず、日本全体の国民の幸福を考慮した対応を構築する可能性を検討する意味は大きいものと考えます。小生の居住する葛飾区でも、以前に述べたこともございますが、“千ベロの町”「立石」が一斉にタワマンの町と化すのはもうじきです。小生は、常に個人的にこう言って参りました。これは「地域再生」という美名の下で、古くから当該地域を創ってきた「地元共同体」を根こそぎ破壊する行為に他ならないと……。他方、タワマンを供給する企業側の経営戦略にも同様な視点が求められるのではないかと、常々個人的に考えるものでございますが如何でしょうか。不動産事業評論家ではございませんから詳細は存じ上げませんが、基本的にこれまでのニュータウン建設を含め、こうしたタワマンも「分譲撤退型」といえるのではありますまいか。流石に、売ったら御仕舞というドラスティックな関係ではございませんでしょうが、それでも企業として50年から100年後という未来を見据えて分譲した住民に寄り添って都市全体を創造していく……、もっと端的に申せば人々の幸福を生み出す地域共同体を創造するという発想を何処までお持ちであるのかをお聞きしたいものでございます。その方向性が強く共有されていなければ、地域社会は空中分解していくことになると存じます。
さて、これまで述べてきたことを実現すべく地域開発を果敢に推進される企業が、実はこの千葉県内に存在しておりますのでご紹介させていただきましょう。それが、副題にも掲げさせていただき、昨今様々なメディアで取り上げられている不動産企業の「株式会社山万(やままん)」でございます。「山万??……聞いたことないな??」と思われる方も多かろうと思いますが、「ユーカリが丘」の開発経営企業であると言えばご理解いただけましょうか。小生もこうした資料を手元に有しているわけではございませんので、以下の記述は、主としてネット掲載される「ウィキペディア」の記述に基づいていることを最初に述べておきたいと存じます。その山万は、元々は昭和26(1951)に大阪で創業された繊維卸問屋であったそうですが、同39年(1964)に本社を東京に移し、翌年から宅地開発事業に進出。「湘南ハイランド」の開発を手始めに、同46年(1971)からは佐倉市の「ユーカリが丘」ニュータウンの開発に乗り出したと言います。そして、同54年(1979)から分譲が開始された京成電鉄「ユーカリが丘駅」(山万からの請願により設置された駅とのこと)周辺では、翌年から住民の入居が始まりました。そして、現段階で凡そ7600戸に1万8千人程の方々がその地に居住しており、将来的には8400戸(人口3万人)の町とすることが計画されているそうです。ここでも山万独自の発想が展開されております。山万は、たとえ「バブル景気」の時代ですら、年間200~300戸の分譲戸数を堅持することで、一気に町が高齢化することを意図的に避ける対応を当初から継続してきたのです。こうした将来を見据えた経営の御蔭で、現在日本各地のニュータウンが深刻な高齢化問題を抱えている中で、ユーカリが丘居住者の年齢構成は概ね各世代のバランスが確保されており、高齢化の問題も深刻化していないといいます。更に、京成電鉄「ユーカリが丘駅」からユーカリが丘の各地を結ぶ公共交通機関である「山万ユーカリが丘線」を不動産会社自らが整備・運営することで、ニュータウン内と京成鉄道とを結びつけ、京成電鉄で東京方面(東京駅まで47分)と成田方面(成田空港駅まで30分)という交通アクセスを自社独自で確保までしております。現在では、更に移動手段の稠密化を図るために、山万の運行する「循環バス」も運営されております(当初は佐倉市の提案するニュータウン内のバス運行も住環境悪化を防止するために断わったと言います)。つまり、山万のユーカリが丘開発事業は、ごくごく一般的な「分譲撤退型」ではなく、長期的な街づくりを前提とした「成長管理型」と称すべき開発が行われているのです。山万は、それを5つのキーワード「自然と都市機能の調和」「少子高齢化」「安心・安全」「文化の発信」「高度情報通信化」に沿った一貫した開発だと称してとのこと。
現在、京成・山万「ユーカリが丘駅」周辺には、高層住宅を含む複合施設「スカイプラザ・ユーカリが丘」、シネコンプレックスを有するショッピングセンター「ユーカリプラザ」等の「超高層住宅・商業立体開発エリア」として整備されている一方、当駅をユーカリが丘線で離れた各駅周辺は集合住宅「立体開発エリア」として、それ以外の区域は一戸建主体「平面開発エリア」と定め、良好な住環境維持のために、当初から全域に建築協定を設定し、建築制限や緑化を義務付けるとともに、一定面世紀以下の宅地の分割を規制した開発を推し進めております。また、ユーカリが丘内に整備される、「総合子育て支援センター」「保育所」「老人保健施設」「グループホーム」「温浴施設」「ホテル」等の施設は、すべて山万グループが整備・運営しており、ニュータウン内に居住する住民の利便性の向上を第一とした地域づくりに果敢に取り組んでおられます。また、区域内の治安の維持のための山万が警備隊を編成し、日夜パトロールを実施しているためニュータウン内の犯罪発生件数も極めて少なく、治安も維持されているといいます。更に、全世帯に山万社員の担当者が配当されており、定期的に一軒一軒を訪問して各家の相談事にも対応するシステムを構築しているとのことです。「売ったら御仕舞!」とは真逆の発想で、本来行政が担うことまでも開発業者が補完的(主体的?)に関わり、住民個々にまで懇切丁寧に寄り添う姿勢を貫いているのです。つまり、共に地域を創出していくことが企業の使命だと考えた地域開発を進める姿勢に、在るべき地域コミュニティづくりのモデルを見る思いがいたします。これを実施しているのが私企業であることに感心させられませんでしょうか。居住者の方々からは、こうした地区に住むことができることを誇りの思うと声が聞こえてまいります。当然でありましょう。
今回はここまでとさせていただきます。不動産業界の実情には全く詳しくもない、あくまでも素人考えで述べてまいりましたので、事実誤認や見当違いもあろうかと存じますが、それでも問題の本質は外してはいないと思ってもおります。前回の温泉街再生の問題ともどこかで通底する問題であるとも思います。大切なことは、どこかの企業が独り勝ちする、どこかの地方公共団体だけが有利となるといった方向性から脱却することかと存じます。「今だけ、金だけ、自分だけ」といった発想から、歴史的にわが国で大切にされてきた共存共栄を意識した街づくりに舵を切る必要が求められているのではありますまいか。それは、本館で昨年度開催した企画展『商人(あきんど)たちの選択』で採り上げた3家の経営者たちが共有する精神構造でもあったと思うのです。
連日の酷暑続きで、外出など御免被りたいと思われる方が多い中で、かようなご紹介をすることは小生としても少々気が引けます。しかし、斯様な中で果敢にも企画展示会を開催されている東京下町の区立博物館がございます。そして、それぞれに魅力的な展示会でありますので、この場を借りてご紹介をさせて頂きたいと存じます。特に、墨田区の方は残す会期が1週間ほどでございますので、ご紹介には最後のチャンスとなりましょう。実のところ、小生は未だここまで過酷な陽気ではなかった開始直後の6月中旬に、我が家から自転車に駆って拝見しにまいりましたが、本日まで紹介の機会を逸しておりました。斯様なわけで、つい先日の盂蘭盆会中に出かけた、地元葛飾区の特別展との“合わせ技”にて採り上げてさせていただこうと存じます。因みに、地元の博物館は自転車か徒歩で出掛けるのが常でありますが、今回はこの陽気と山の神も同道故、流石に自家用車で出掛けた次第でございます。
ところで、この2つの展示会の内、我が葛飾区の博物館では展示図録の製作・刊行が成されておりましたが、残念ながら墨田区の資料館では作成されておりませんでした。その代わりに「すみだ郷土文化資料館だより『みやこどり』」69号が当該展示会の特集号となっております(過日訪問した長野市立博物館の春季企画展『「青い目の人形」記憶~何かへ』と同じパターンです)。そして、その全頁(4頁)を本展示の解説に充てております。しかし、図版掲載は6つに止まります。会場配布の「展示資料目録」によれば展示資料総数は50点余りにも及びますから、パンフレットの類で展示の全容を把握することは到底叶うものではございません。小生も折に触れて本稿でこのことを指摘させて頂いておりますが、昨今開催される博物館の展示会では(市町村立の博物館は勿論のこと、都道府県レベルのそれですら)、展示図録の製作刊行が成されないケースは極々一般的になっております。しかし、今回の墨田区の場合もそうですが、せっかく優れた展示会を開催されて、貴重な各種史資料を集成されても、「展示史資料一覧」一枚しか手元に残らないのでは、追って内容を確認しようにも如何ともしようがございません。勿論、その裏事情は重々承知しているつもりではございます。特に市町村クラスの博物館では、現在のような社会経済状況の下では、首長を一とする行政中枢にある方々が文化行政に各段の御理解がある場合を除いて、そちらに配分する予算はどうしても“渋チン”となるのは致仕方の無いことだと存じます。また、人件費の削減のために、公共機関ですら人員雇用等への締め付けは年々厳しくなっております。それは博物館職員でも同様であり、正規雇用の学芸員を極力削り、年度雇用の非正規職員で賄おうとする傾向が顕著でございます。かような現状においては、基本的に一つの企画展の担当者(主担当として一人が配当されるのが精一杯です)が、展示資料借り出しの交渉から手続き、更にはキャプションの製作から展示まで……と、何から何までこなさねばなりません。図録の編集となれば執筆の分担はいたしますが、編集作業は主担当が担うことになりますから、展示のための手配で手一杯の中で、図録製作まではナカナカ手が回らなくなるのは十二分に理解できるところではございます。
本館では、可能な限り(意地でも!!)図録等の刊行をしておりますが、過日開催された「博物館協議会」で、本年度を以て委員を御退任される委員長の小島道裕先生(国立歴史民俗博物館前教授)から以下のようなご指摘がございました。それは、展示図録の説明キャプションが、そのまま展示会場の説明キャプションに転用されていることについて、展示図録内に詳細な説明があることは構わないが、展示会場の説明としては文章量も多く一般の観覧者が理解するのは難しいのではないか、従って展示用解説は別にかみ砕いた説明とするなどの工夫が必要ではないかとの内容でございました。誠に仰せの通りであると小生も考えます。ただ、そのご指摘の背景には以下のような事情があることも申し述べて置きたいと存じます。展示会で図録を製作刊行するケースでは、展示会の準備は、展示の構想が固まり、具体的な展示資料の選定が定まった後は、まず図録製作が優先されます。最低でも展示会開催1ヶ月前には原稿を全て確定し印刷に入稿せねば、開催日には販売できません。従って、それまでに何度も校正をかけて推敲を重ねることになります(それでも後で誤りが見つかり「正誤表」で対応することが多くなります)。当然、図録に掲載される資料(同時に展示資料であります)は、実物を借用する前に全ての写真データを揃え、図録掲載について資料所有者と交渉し許諾を得なければなりません。1ヶ月前に原稿を出版者に渡した後、今度は展示品を所蔵者・所有者から借用する計画を立てて彼方此方を経巡り廻りながら展示品を借用しに出掛けます(運送業者に依頼するケースもありますが相手様のあることですから業者丸投げというわけには参りません。必ず担当者が同行します)。同時に展示会場の展示計画を元に展示説明パネルを製作していきます。これらをごく限られた人数で限られた時間内で成し遂げていかねばなりません。従って、上述のような状況の中で、この段階で展示解説用に原稿を改稿する余裕を確保するのはナカナカ難しいのが現実でもあるのです。つまり、図録製作を進めるとなると、皆さんが思われている以上の手間暇を要します。ざっとの勘定となりますが、展示だけで済ませるのと比べて2倍から3倍の労力が必要となります。従って、労働条件に鑑みても、そこまで労力をかけても見合わないから図録製作は諦める……との判断が下されるケースが極めて多いことも一概には論うこともできないのです。しかし、そうは申しても、小島先生から頂いた一つひとつのご指摘は誠に得心のいくことばかりでございます。今回、本年度任期の終了をもって御退任されることは、誠にもって残念でなりません。頂いた御指摘は一つひとつ胸に刻んでその改善に向けて取り組んで参りたいと存じております。
ご多分に洩れず、本館でも事情は似たり寄ったりでありまして、偉そうに他館のことを申し上げている場合ではないのが実情でございます。事実、企画展・特別展開始日には図録販売が間に合わず、遅れて販売されることがあったりもしましたし(現在開催中の『千葉氏をめぐる水の物語』ブックレットもそうでした)、予算配当の都合で展示会の会期中には図録製作刊行をすることができず、年度末になって予算の算段をつけることが叶って製作刊行に漕ぎ着けた、昨年度の企画展図録『商人達の選択』、『京(みやこ)と千葉氏』ブックレットのような事例もありました。しかし、本館では、展示内容は冊子化して後世に残すことが博物館の使命だと考え、予算的・配置職員数等の関係からホントウに厳しい状況はございますが、小生が館長に就任してからの4年と半期の期間においては特別展・企画展・パネル展として開催した殆ど全ての展示会の図録・ブックレット刊行を実現させてまいりました。特に100円で販売するブックレットは、価格を抑えるためにオールカラーのパネル資料をモノクロにして収めております。しかし、展示資料と文章は一つとして省いているものはございません。幸いに、手軽に入手出来ることも奏功してか、各冊ともに幾度も重刷して長くご愛顧をいただいております。
さて、それでは本題に入らせていただきましょう。まずは記憶の鮮明な「葛飾区郷土と天文の博物館」令和6年度特別展『徳川三代と青戸御殿』から。まず、本展の概要(パンフレットに掲載される記述)と展示構成(図録の目次)を以下に引用をさせていただきます。東京東部低地の発掘成果として多くの成果を挙げた中世「葛西城」発掘調査は、中世考古学の分野を世に知らしめましたが、その遺構を近世に再整備して徳川将軍家が「青戸御殿」として再利用していたことも、その発掘によって明らかにもなったのです。今回の展示では、その「青戸御殿」の発掘資料を中心として構成されているのは勿論でありますが、それとの比較対象のために、我が千葉市域に旧状を留めて残存する「千葉御茶屋御殿」とその発掘資料(「千葉市埋蔵文化財調査センター」から多くの発掘資料が提供されております)、また関東で最も早い時期に家康が造営したとされる「府中御殿」とその発掘資料の紹介にも多くのスペース(ページ)を費やしております。
天正18年(1590)北条氏に代わって新たに関東の支配者となった徳川家康は豊臣政権中で台頭し、やがて統一政権となる江戸幕府を開きます。家康は領内の視察を兼ねた鷹狩を行っており、各地に鷹狩の休息、宿泊施設となる御殿がつくられました。葛飾区内一帯もその1つで、中世の葛西城を利用して青戸御殿が造営されました。青戸御殿は徳川家康、秀忠、家光の3代にわたって将軍、将軍を退いた大御所が利用しています。
1章 徳川家康の関東入国と将軍の御殿 2章 鷹狩 3章 徳川家康・秀忠・家光の葛西来訪と青戸御殿 4章 初期の御殿 府中御殿 千葉御茶屋御殿 鴻巣御殿 忍城 5章 家光期の御殿 品川御殿 6章 家綱期以降の御殿 隅田川御殿 小菅御殿
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江戸城の東方近郊にあたる葛西地域は、少なくとも徳川3代の治世下においては「下総国」に属しており(「武蔵国」に編入されるのは4代将軍家綱の治世下のこととなります)、その地に営まれた「青戸御殿」につきましては、我々のような千葉県・千葉市域をフィールドとする者にとって、主として家康・秀忠の上総国東金周辺での鷹狩と当時の政治状況との関連で考えようとする傾向が強かったように思います。しかし、今回の特別展では飽くまでも「徳川御殿」としての構造とその内に建てられた御殿建築の在り方の追求が主たる目的とされており、それはそれで大変に興味深い内容となっております(図録全93頁中、この第3・4章だけで64頁を占めていることからもそのことが御理解いただけましょう)。従って、図録中の第5・6章は併せても8頁に過ぎませんが、これまで一緒くたに「徳川御殿」として理解しがちであった御殿群が、必ずしも草創期3代が造営し利用した御殿だけに止まらず、8代将軍までに至るまでに連綿と営まれていたことに改めて目を開かされたことには大きな意義があったものと考えるものでございます。更に、内部御殿の構成が発掘や図面から残る御殿建築の構成からは、幕藩体制の基盤が整備されてくる家光期からは、その建築群の構成に変化が生じていることが、図録末尾に纏められた本展主担当の当館学芸員である永越信吾氏の論考「区画・主要建物からみた近世の将軍御殿の構造について」からも知ることが出来たことも大きな収穫でありました。
また、もう一点の論考である当館専門調査員の清武雄二氏「「青戸御殿復元図」の作成~『新編武蔵風土記稿』所載「貞享年中御殿蹟図」に描かれた青戸御殿」も大変に有意義な読み物でございました。その内容は、これまで資料として一人歩きしていた感のある「御殿蹟図」に描かれる大雑把な建物構成が、現地の発掘調査に基づいて旧葛西城遺構に如何様に位置づけて描かれたものであるのかを考察し復元した論考であり、小生にとってはこれまで絵図で見てきて全く得体の知れない御殿だと思っていた「青戸御殿」が、初めて具体像を以て脳裏に描けるようになった次第でございます。有りがたいことです。もうひとつ、江戸幕府草創期の鷹狩における上総・下総への訪問で、家光は大納言時代に僅かしか訪れていないのですが、葛西へは40回近くも訪れていることを初めて知りました(家康8回、秀忠6回)。当然その折に「青戸御殿」がその利用に供されたことも多かったものと思われます(青戸御殿から出土した葵紋軒丸瓦も展示されております~府中御殿のそれも展示あり)。これまで十分に知り得ていなかった「徳川御殿」の実像に詳細に接することが出来た点においても、大変に有意義な展示会でございました。千葉県域における徳川将軍家の行動について深く理解するためにも、本特別展は是非ともご覧頂きたい内容であり、図録も購入されてしかるべき内容であると存じます(1冊600円という大変に良心的な価格設定でございます)。まだ残された会期は一か月以上もございますので、(千葉からだと若干交通の便は宜しくないかもしれませんが)是非ともお出かけくださることをお薦めいたします。
続いて、会期を一週間ほどしか残しておりません「すみだ郷土文化資料館」開催の企画展『武者の記憶-水辺の武士とその伝承-』でございます。当館と本館との因縁は浅からず、本館で令和2年に開催致しました特別展『軍都千葉と千葉空襲』で採り上げました、旧本所区(戦後に向島区と併せて墨田区になります)の国民学校の子ども達が千葉市域に「学童疎開」で来葉していた事実の発掘等で、当館の石橋星志氏から多くのご教示を頂いただきました。更に、石橋氏には当該展示に併せて開催しております市民講座での講師をもお務めいただいた経緯がございます。一方、当館では、平成20年(2008)に当館の開館10周年を記念して、極めて優れた特別展『隅田川文化の誕生-梅若伝説と幻の町・隅田宿-』を開催されております。東京東部低地に残る中世に由緒を求めることのできる伝承世界を軸に、埋もれていた中世都市「隅田宿(すだのしゅく)」の姿を炙り出した内容であり、極めて優れた展示会に震撼するほどの思いでございました。小生は図録を買いそびれていたうちに、あっという間に売り切れてしまい、後に中古市場でそこそこの高値で入手いたしました。それでも入手出来たことを後悔するどころか、今でも度々手にしては充実の内容に接しては、購入できた喜びを実感しております。そして、今回の展示内容もその系譜に位置付くものだと申して宜しい内容だと存じます。
だからこそ、「すみだ郷土文化資料館」には本展図録を作成して頂きたかったものと思うのです。たった二ヶ月前に本展を観覧させて頂き感銘をうけていながら、前期高齢者となったロートルには既に記憶が明瞭にあらず、手元の「展示資料目録」と『みやこどり』69号だけから、本展示の詳細を皆様にお伝えする責任は負えないほどに既に記憶は朧気となっております。しつこいようですが、哀しいかな、展示図録の有りや無しや……は、それだけ後に大きな理解の差となって顕れてしまうのであります。ここでは、せめて葛飾区同様に、本展の概要(パンフレットに掲載される記述)と展示構成を引用させていただき、ご容赦願うこととさせていただこうと存じます。尤も、そうした事態に陥った要因は偏に小生個人の能力の問題であって、決して展示内容に起因する問題ではないことを当館の名誉のためにも申し添えておきます。間違いなく優れた見応えのある展示内容であったと存じます。葛飾区と併せてお出かけになる価値は十二分にあることを断言しておきます。「すみだ郷土文化資料館」は、隅田川に架橋される名橋のひとつ「言問橋(ことといばし)」の袂にございますから、スカイツリーからも浅草からも至近の地でございます。
東京低地は、江東五区(墨田区・江東区・足立区・葛飾区・江戸川区)を中心とした東京都東部と最多仮面、千葉県の一部の地域で構成され、隅田川、中川、荒川、江戸川などの河川が集中する地域です。江戸時代以前の墨田区は、南部に海岸線が入り込み、河川の河口に形成された微高地(砂州)が点在する水辺の景観が広がっていました。長い歴史のなかで、河川は改修され、微高地は排水路を作って開発され、生活空間は拡大し、現在のような地理環境になりました。
1章 水辺の武士たち -地域にねむる武者たちの記憶- 2章 水辺の武士・江戸氏 -墨田の渡と隅田宿- 3章 水辺の武士・葛西氏 -葛西御厨と寺社- 4章 葛西清重という武士 5章 地域に刻まれた武者の記憶 ○渡河点と名所 ○信仰がかたるもの -熊野信仰と武士-
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そうでした、「たばこと塩の博物館」も「すみだ郷土文化資料館」「スカイツリー」の極々至近の距離にございます。特に特別な展示会を開催中ではありませんが、常設展では、人の生命維持に欠かせない「塩」と、こちらはそうとは申しがたい「煙草」について知ることができます(入館料が格安なのも素晴らしい博物館です)。暑い時期ではございますが是非!!ところで、「言問橋」という洒落た命名の由来は『伊勢物語』中の“東下り”段における在原業平(ありはらのなりひら)の詠歌に因んだものでございます。隅田川に繋がる掘割である近くの大横川には、その作者に因む「業平橋」までも存在しております。何という優雅なる命名でしょうか!!「業平橋」の脇にある東部鉄道伊勢崎線の駅名も「業平橋駅」を称しておりましたが、「東京スカイツリー」開業とともに、いとも簡単にその名称を捨て去り「とうきょうスカイツリー駅」なる、何とも無粋な駅名に改称されてしまいました。何とも悲しいことでございます。線名には愛称として「とうきょうスカイツリーライン」が加わりました。路線名は愛称に過ぎず、正しくは伊勢崎線であると納得することはできますが、少なくとも駅名は典雅な旧称に戻していただきたいと強く願うものでありますが、皆様は如何お考えでしょうか。その腹癒せに(苦笑)、由緒ある名称の由来となっている『伊勢物語』の当該部分を引用させていただきましょう(皆様もその昔に教科書で学ばれた一節ではありますまいか)。惚れ惚れとする素晴らしい場面だと存じます。小生は、「とうきょうスカイツリー駅」と「業平橋」との名称の間には、限りなく深くて広い溝が横たわっていると考えるものでございます。
なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国とのなかにいと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、 はや船に乗れ、日も暮れぬ といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見しらず。渡守に問ひければ、 これなむ都鳥 といふを聞きて、 名にしおはば いざ言問はむ 都鳥
とよめりければ、船こぞりて泣きにけり。 |
明後日には長月九月を迎えることになります。普通であればツクツクボウシが盛んに鳴きはじめ、日が傾く頃になれば一斉に秋の虫たちの声が喧しくなる頃でございましょう。まだ、それまで10日前に本稿を書いておりますので何とも申せませんが、少なくとも本日の段階では、未だニイニイゼミ・ミンミンゼミ・アブラゼミが“我が世の「夏」”とばかりに聲を張り上げて存在を誇示しております。この亥鼻山でも今年は何度かクマゼミの聲も耳にしましたが、その暑苦しいまでの声色にはどうにも馴染めません。斯様な時代で、現状においては未だツクツクボウシが遠慮がちにチラホラ響いてくるだけです。過日の超大型と喧伝されていた台風7号の接近といい、日々繰り返される集中豪雨やら轟きわたる雷鳴やら、あたかも地球が上げる悲鳴のように感じてしまいます。夕刻になると、打ち水をして団扇片手に縁台で涼むといった夏の風情すら、もはや遠い昔の光景に感じます。過日拝見した天気の長期予報では、「今年は9月も夏」であり「10月が残暑」「11月に申し訳程度に秋らしい陽気があってからは冬に移るだろう」……と、気象予報士が宣うておりました。いやはや、日本の気候区分も「温帯」から徐々に「熱帯」に近づきつつあるのかもしれません。
さて、本稿では昨今拝読いたしました『日本建築史』についての話題とさせていただきます。ここのところ、日本建築の歩みに関わる話題を度々採り上げております関係で何度か述べておりますが、小生が日本建築史に関して集中的に学んだのは学生時代であります。つまり、ざっと申しても既に40年以上も昔のこととなります。しかも、建築関係学部で専門的に学んだ訳ではなく、これまたよく話題といたします学生時代に所属したサークル活動の関係で、書籍を通して学び実地見学を進める形での学びでございましたから、所詮は素人の横好き以外の何物でもない知見に過ぎません。更には、その時に学んだことで「わかったつもり」でいたのですから、今思えば始末が悪いままに今日にまで及んでしまったのです。従って、それ以降の建築史の研究の進展にも余り深くは触れても参りませんでした。ですから、建築史の大枠については理解してはおりますが、その詳細については体系的に追及できていないままであったのです。過日、「寝殿造」について話題にさせていただきましたが、その実態も理解できていないままに馬齢を重ねてきたのです。そこで、人生の終末を間近に控え、改めて初心に戻って「知っているつもり」であった日本建築史を、初手から学び直そうと思うようになったのです。それには、先にも述べましたように「寝殿造」について、かくも知らずに過ごしていたという忸怩たる思いが原動力になったように思います。斯様なわけで、前稿執筆の際に大変にお世話になった書籍『平安貴族の住まい-寝殿造から読み直す日本住宅史』2021年(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)の著者である、関西大学環境都市工学部建築学科の藤田勝也教授が編者のお一人として関わっていらっしゃる『日本建築史』1999年(昭和堂)[藤田勝也・古賀秀策編]に接することで再始動を切ることにいたしました。そして、早速入手し一読に及びました。いや、40年前と比べて、日本の建築史を描く叙述構成にも格段の進歩があることに驚かされました。大いに刺激的な書籍でありましたので、皆さまにも是非ともご紹介をさせていただこうと存じます。
藤田勝也・古賀秀策編『日本建築史』1999年(彰国社)<目 次>(「コラム」は省略)
Ⅰ 建築と集落の黎明 建築と集落の黎明
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以上、「目次」によって本書の構成をご理解いただけたことと存じますが、皆様は如何お感じになられましょうか。本書の「はしがき」には、日本建築史を描き出すために、本書が採用した特色が二つあるとしておりますので、遡って確認をさせていただきましょう。そこには、その一つ目として、類書にあるような「時代ごとの叙述形式をとっていない点」があるとし、「区分けの困難な古墳時代以前は別にして、歴史時代以降は神社・寺院・住宅といった建築の種類ごとに章立てし、これに都市の歴史を加えた」と述べております。また、その際に「住宅は支配者層と被支配者層で様相を大きく異にする点を考慮し、後者は庶民の住宅として別個に章を設けている」ともしております。そして、こうした時代ごとの全体像が見えにくいスタイルを採用したのは、「様式や細部、空間のあり方、その変容の過程などさまざまな側面における建築の種類ごとの多様性に注目したからだ」と述べておられます。また二つ目の特色として、「叙述の中心を京都ならびに奈良・大阪といった近畿圏に据えたこと」とされ、その理由を、それら地域に「とりわけ高い価値を有する物件が高密度で数多く存する」からだと述べられます。まぁ、二つ目の理由には、本書の出版元が京都にあること、本書の分担執筆者が概ね京都・大阪で職を得ていらっしゃる(初版出版当時)事情も大きなものであろうかと存じます。
そして、それらを総括して、本書の狙いについて以下のように纏めてもおられます。つまり、「建築が人間生活の舞台として時空間を超えた普遍性を有する」一方、「ある地域、ある時代の社会を映す『鏡』とも言われるように、政治・経済・文化・芸術といった時代のさまざま情況や精神と分かち難く結びついた、極めて社会的存在」でもあり、そうした「両義的な建築のあり方は、建築を通して日本の歴史の一端を垣間見ることを可能にする」ことにあると。その意味で、本書は建築史を学ぶことにとどまらず、日本の歴史と文化の理解に大いに資することを念頭において書かれてもいるということになります。建物ジャンル毎の違いを理解し変遷を見ることで、神社建築のように大きな様式の変化が生じないジャンルもあれば、それぞれの宗派による宗教活動の変遷に伴って平面構成に大きな変化が生じていく寺院建築のようなジャンルもあります。しかし、それ以上に劇的な変化を示すのが住居建築であり、ここには時代毎に人々が住居に何を求めていたのかが色濃く反映していることが理解できます。また、それが支配者層と被支配者層との間では大きく異なることも、何となくはつかんではおりましたが、それらをきちんと整理した状態で理解してきたとは言い難い状況でした。要するに、時代毎の箱に一緒くたに知識を入れ込んだごちゃ混ぜ状態であり、未整理のままで理解しているつもりになっていたということになります。その点、本書がそれぞれのジャンルごとに建築史を構成することで、時代の変遷により、どのジャンルが何故変化していき、逆に何故変化しないのかを明らかにすることを通じて、実は日本の社会そのものの在り方の変化に光を当てることになることを、改めて本書から教えて頂いた次第でございます。人間の必要から造られるのが建築でありますから、当然そうであるに違いないのですが、小生はこれまでそこまで意識せずに建物自体への興味をばかりを優先してみてきたことに気づかされたということであります。その意味で、藤田勝也氏の担当される「第5章:支配者の住宅」の充実は特筆すべきであろうと存じます(それぞれの時代が最も明確に反映される分野だからです)。
ただ、斯様な優れた建築史の概説書であるのですが、図版・写真等の資料掲載数が限られてしまうのは残念でありました。こうした概説書では説明されていることの全てを資料で確認できることが不可欠なのですが、それが十分にできないことが多い点は玉に瑕でございます。また、建築用語の解説も注釈等で補わないと、初めての読者には理解しがたいことも多いものと存じます。尤も、それを十分に成し遂げるためにはこの倍のページ数が必要でしょう。そうなれば、値段も現在の販売価格の2,500円程を大幅に超過することは間違いありません。しかもモノクロ図版をカラー化すれば、倍の価格でも販売できなかろうと存じます。そうなれば誰でも気軽に入手することは難しくなりましょうから、出版社としましても痛し痒しの判断であったことと推察するものであります。しかし、そうしたこともございますが、コストパフォーマンスを考慮すれば、ここまで充溢した、日本建築史の書籍が得難いものであることは間違いございません。もし、日本の建築史にご興味がございましたら、躊躇なくお勧めしたい書籍です。
さて、本書の特色を更にクローズアップするため、小生が学生時代のサークルでテキストとして日本建築史を学んだ古典的名著、太田博太郎『日本建築史序説』1969年増補新版(彰国社)目次も以下に引用させていただきましょう。著者の太田博太郎(1912~2007年)氏[東京大学名誉教授]は本書の原稿を戦争中に書き上げ、昭和22年(1947)に出版されました。そして、ここでご紹介するのは、その増補版にあたります。書庫から引きずり出して確認したところ、小生が購入したのは学生となった昭和53年(1978)のことであり、その時点で既に12刷でありました(当時の販売価格は¥1,500です)。そして、本書は令和6年現在も「増補三版」として現役で販売されており(現在の価格は税込¥3,000強)、凡そ80年近くにも亘って読み継がれております。太田氏が志賀直哉の文体を意識して書かれたという文章は簡潔明瞭であり、今読み返してみても流石と思わせる書きぶりだと存じますし、現在でもその価値は全く失われていないと思わされました(因みに、以下の目次中で第Ⅲ章の詳細を省略しておりますが、こちらには80頁に亘って膨大な参考文献が紹介されており、建築史研究を志ざす者にとって得難い資料ともなっております)。ただ、『日本建築史』の目次と比べれば、その構成に大きな違いがあることもお分かりいただけましょうし、逆に、藤田勝也氏を中心とした方々の編集意図が何処にあるかも、明確にご理解いただけましょう。是非とも比較してみていただき、必要に応じて使い分けていただければと存じます(建築組織や城郭建築に関する記述に関しては太田氏の著作が今なお必要となりましょう)。
太田博太郎『日本建築史序説』1969年:増補新版(彰国社)
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最後になりますが、建築史関係の話題ともうひとつ。本館ボランティアとしてご活躍されてくださっている(展示解説・古文書解読)Kさんからご教示いただいた、建築史関係の展示図録について簡単にご紹介させていただきます。Kさんからは、京都の番組小学校のことを含めて何時も有意義な知見を分けて頂いておりますが、今回も実に貴重なご教示でございました。それが、平成21年(2009)に佐倉にある国立歴史民俗博物館で開催された企画展示『日本建築は特異なのか-東アジアの宮殿・寺院・住宅-』図録でございます。極々至近で開催されていたにも関わらず、小生は斯くも優れた展示会を全くスルーしておりました。全くもって汗顔の至りでございます。Kさんから図録を借用して一読に及び、その充実の内容に大いに感銘を受けました。早速、古書で仕入れようと思って吃驚!!なんと市場では一冊1万円前後で販売されているではありませんか!!これだけ優れた図録であれば、少しでも建築史に興味があれば入手したいと思われましょう。高騰も止むなしです。しかし、その価格では流石に手が出ません。まぁ、自業自得でありますが自身の迂闊に後悔頻りでございます。
東アジアの文化とは中国から生まれ、周辺地域(韓国・日本もその一部)へと拡散していったというのが基本的な理解であろうかと存じます。しかし、小生はこの3か国の建築を比較して類似性と差異とを考察するといった視点で考えたことすらございませんでした。もっと言ってしまえば、そもそも論として、日本の建築と中国・韓国のそれとは別物といった認識がございました。しかし、本展図録にもありますように、欧米人の認識では三国の建築にはさしたる違いはないと把握されているといいます。改めて、本図録を拝読すれば、細部の装飾は相当に異なりますが、大枠としての建築の構造はほぼほぼ共通しております。前提の文化伝播の理解を元にすれば当たり前と申せましょう。そうであれば、寺院建築で「和様」なる様式がございますが、その建築も元を辿れば大陸から伝わった建築技術に基づいたものに他ならず、その後に細部の意匠等を日本人好みにアレンジしたものを所謂「和様(日本式)」の建築と称してきたのです。そもそも仏教はいわば宗教的には所謂「普遍的宗教」にあたりますから、それぞれの地で建築される建物には、概ね共通性があることは当然と言えば当然であります。別に、日本に固有とされる「特殊的宗教」の神社建築では、確かに伊勢神宮などの初期の姿を留めるものに限れば確実に中国・韓国と大きく異なる建築様式を採り、その形式が千年単位の時間軸で維持され続けております。これは、日本という地域性を反映した結果でございましょう。しかし、神道の教義が、後に仏教教義を元にして整備されたように、次第に神仏習合の影響を受け社殿にも仏教の様式が取り入れられて建設されるようにもなります。建築様式そのものにも習合が見られるようになるということです。また、三国の宮殿(北京の「紫禁城」、ソウルの「景福宮」、日本の「京都御所」)の比較でも、唐の都「長安」を真似たのが韓国・日本の都城であることに鑑みれば、共通点が多いことは当然なのですが、お恥ずかしながら大きく異なる点のあることにも、改めて気づかされた次第でございます。例えば、日本の平城京・平安京のような都城に城壁が築かれていなかったことは有名ですが、日本の場合は「古代の国家を象徴する装置として祖先を祀る宗廟や、土地の神と穀物の神を祀る社稷(しゃしょく)」が存在しない(北京とソウルには宮殿と並ぶ重要な施設として都城の一角を占めております)のです。一方、三つの国家における伝統建築で、最も顕著に民族性が現れるのは「住宅建築」でありましょう。建築技術の面というよりも、その平面構成・建物配置では、それぞれの地域性が大きく反映されることは当然でありますが、中国との差異は極めて大きなものがございます。中国では敷地内の中庭を取り囲む形で左右対称に建物を配置することで、外部に対しての閉鎖性を強くする形式とすること(所謂「四合院」と呼ばれる形式)が、古代から現在まで一貫してとられております(室内での生活は土足)。しかし、日本と韓国では左右対称や閉鎖性はあまり意識されず、室内での土足生活もなされておりません。こうした、東アジアにおいて、一般的には“近い存在”とされる、三国の建物を比較することで、如何なるジャンルの建物で、その何が共通し何が異なるのかに焦点を当てた展示は、実は在りそうで無かったものではないかと存じます。その点で、実に刺激的な展示会であったことが想像できます。返す返すも、展示会を拝見できなかったことが残念です。それに致しましても、貴重な資料をご教示くださった、何時もお世話になっております本館ボランティアのKさんに、衷心よりの感謝を捧げたいと存じます。ありがとうございました。本稿末尾に、本展図録目次を掲載させていただき本稿を閉じさせていただこうと存じます。
国立歴史民俗博物館 企画展示『日本建築は特異なのか-東アジアの宮殿・寺院・住宅-』図録(2009年)
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9月に突入をいたしました。旧暦では「長月」と称しますが、現在の新暦では9月下旬から11月上旬にあたります。秋の夜長に因んだ命名とも言われますが、新暦では秋の気配となるのには未だ未だ相当に先のことになりましょう。確かに秋の彼岸ももう直ですから流石に暮れゆくのは随分と早まってまいりました。しかし、猛烈な暑さ、日々繰り返される集中豪雨を伴う落雷、ちょっと登場時期の早まっている大型の迷走台風、そして静かに進行するコロナウィルス感染症の変異株の存在等々、未だ未だ夏の色彩が濃厚であり、今後とも様々に用心をせねばならぬことが多くなっております。それでも、朝夕の気配、灯ともし頃から鳴き始める蟲たちの聲、路傍の草花、そして“行く雲”の姿等々に「小さい秋」を見つけだす、そんな心のゆとりを持っていたいものでございます。
さて、本日の本稿では9月1日(日)「防災の日」に因んで、8月18日(日)付『千葉日報』内に「奏論」として掲載されておりました記事についてご紹介したいものと存じます(共同通信社配信)。それが、標題に掲げました「災害時のトイレ 排せつ環境 失われたら」であり、「日本トイレ協会」会長の山本耕平氏と、「日本トイレ研究所」代表理事の加藤篤氏というお二方への取材記事となっておりました。前者では、平成7年(1995)に発生した「阪神淡路大震災」において「排泄環境」が失われたことで如何に深刻な社会問題(衛生問題)が惹起しかが、後者では、その反省が必ずしもその後30年間に発生した自然災害対策に充分に学ばれておらず、以降の巨大地震災害等で「トイレパニック」ともいうべき問題が相も変わらず繰り返されていること、及びそれに対して個人・行政は何を備えるべきかが語られております。その内容は、これまで小生が把握している以上に極めて深刻なものであり、わが身の問題として突き付けられた思いでございました。つまり、これ以降の内容は「排泄環境」の話題という、決して皆様を快くはさせない尾籠なる話題が続きますし、何よりもお二方の証言も相当に生々しい内容となります。従いまして、こうした話題がどうしても苦手な方は、お読みにならずに済ませることをお薦めいたします。まぁ、こんなことを語る小生も、決して好き好んで述べるわけではありません。しかし、極めて重問題であり誰もが把握しておくべきこと……との思いから敢えて述べさせていただきます。我々の足元にひたひたと迫りつつある「南海トラフ巨大地震」「首都圏直下地震」等々の大規模災害が一度発生すれば、誰でもが等しく例外なく、否が応にも直面せざるを得ない問題であると存じます。その意味では、決して目を背けてはならぬ問題であることを直視して、事前に備えることが肝要ではないかと存じます。そのことを踏まえて各自ご判断を頂ければと存じます。
さて、災害に備えるための対策の問題としても、それ以外の日常生活で接する報道の話題としても、我々にとって極々日常的な当たり前の行為である「排泄行為」について正面から採り上げられる機会は滅多にないものと存じます。報道番組であっても、視聴者にとって決して愉快とは言えない内容となる可能性が大きいでしょうから、重要なこととは認識すれど、ついつい避けて通ってしまうのが正直なところでございましょうし、そのことを理解できないわけではございません。確かに、「食う」「飲む」といった「食(グルメ)」に関する報道は枚挙に暇がありませんし、様々なメディアで嫌という程に目にします。しかし、「食」と「排泄」とは密接不可分であり、決して一方だけで成立する行為ではないことは申すまでもございません。そうであれば、我々は「排泄」の問題をあたら疎かにすることはできません。もっと真正面から向き合うべき問題であると考えるものであります。本稿では、「排泄」の問題に最も切実で鮮明な問題として誰もが直面せざるを得ない、大規模自然災害における「排泄環境の喪失」なる冷厳なる現実から、この問題をとらえてみようとするものでございます。その契機を与えて下さったのが本記事であります。証言を寄せられる「阪神淡路大震災」を体験された山本氏も、その時が訪れるまでは「ここまで大事な問題だとは思っていませんでした」と振り返られております。大規模自然災害と排泄問題という、実に厄介な大問題についてこれ以降で考えて見たいと存じます。
今日の我々日本人のおかれた「排泄」環境が、世界にも冠たる先進国に値するものであることは、自他共に認めることだと存じます。昭和34年(1959)に生を受けた小生にとって、大正末から昭和初めにかけて建てられた東京下町にある我が家の便所は、心地良さとは無縁の場であったことは間違いありません。自宅の鬼門にあたる薄暗い場所に設置された男子小用便器と、その先の扉の奥には所謂「汲み取り式」の和式便器がございました。通称“ぼっとん便所”という、当時極々一般的な形式のものでありました。トイレットペーパーなど存在せず、しゃがんだ右先に四角い「落とし紙」がおいてあり、排便後にはそれを利用する便所であります(雑貨屋で購入していたそれ鼠色をした見るからに質の宜しくない紙でありました)。当然、臭気もあがってまいりますし、特に夜間の薄暗い中での用足しは、子供心に恐怖以外の何物でもございませんでした(これが便所に因んだ「怪談噺」が伝わる背景でありましょう)。今から思えば用を足しながら読書を楽しむなどといった、コンフォタブルな場とは程遠い空間であったと思います。また、各家に屎尿を汲み取るために、臭気を撒き散らしながら定期的に街々を巡る「バキュームカー」の存在も親しき存在でもありました。まぁ、当時は回収した屎尿は廃棄物として処理されたのでしょうが、少なくとも戦前より以前には、「屎尿」は農業肥料として金銭で取引される「商品」として市場で流通しておりました。つまり、屎尿は廃棄物などではなかったことはよく知られておりましょう。貴重な社会資源の一つであったのです。小生の居住する葛飾区でも、区内北の「水元」に行けば未だ畑も多く、その脇には「肥溜め」なる屎尿を溜めて発酵させる場があり、曰く言い難き臭気を発散しておりました。子供たちはそれを「田舎の香水」などと言い慣わしておりましたが、今では全く目にすることもなくなりました。衛生の問題を別にすれば、循環型社会の典型モデルであったことは認識しておく必要がございましょう。
しかし、こうした「くみ取り式」便所の存在は、特に東京下町のような低地においては水害の発生時に、伝染病流行等の衛生問題に深刻な影響をもたらしました(戦後直ぐのカスリン台風では東京東部低地も水害に見舞われ我が家も水没しました)。従って、昭和40年代の「高度成長期」に入ると、新たに建設される個人住宅も住環境の改善を伴ったものに転じ、同時に大規模集合団地の建設が急速に進み、それと符合を合わせるように「排泄環境」も水洗式トイレへと様変わりするようになりました。我が家でも、小生が小学校4年生時の自宅新築を機に水洗トイレが導入されました。これで、夜中にトイレに行くことが苦にならなくなったことは申すまでもございません。そして、こうした動向は下水道整備とともに加速度的に進展し、瞬く間に日本国中を席巻することになったのです(尤も、我が家での水洗トイレ導入当初は東京下町の下水道整備が遅れており「浄化槽」対応でした)。斯様な訳で、今では汲み取り式便所に出会う機会は皆無となりました。しかも、トイレ関連企業による「温座トイレ」「洗浄装置」等々の開発によって、今や日本は世界でも冠たるトイレ先進国になっております。このことは、海外旅行の経験がある方ならば、しみじみとその有難味を実感されたことでございましょう。小生が知るのはアジアと欧州の国々の一部にすぎませんが(欧州諸国は超先進国であります)、それらの国々とは比較にならないほどに、日本における快適な「排泄環境」は図抜けたものだと確信いたします。尤も、それは清掃を含めた排泄環境の衛生管理が徹底されていることにも拠りましょう。駅や店舗、公園の公衆トイレでも以前のような悲惨な汚れ方をしているケースは滅多に目にすることもなくなりました。日本に訪れる諸外国の方々からも、こうした質の高い「排泄環境」の在り方は「クール・ジャパン」の条件の一つとさえなっていると耳にするほどです。ただ、それによって、歴史的に人と近しい存在であった排泄物と人との距離感は途轍もないほどに広がり、水に流してお仕舞い……といった存在となることで、我々の関心事の外へと追いやられ、単なる「廃棄物」扱いとなりました。
しかし……であります。こうした快適な「排泄環境」とは、ある意味で極めて脆弱な薄氷の上に成立しているものに過ぎないことに、嫌が応にも突きつけられる事態が惹起いたします。それが平成7年(1995)1月17日早暁に発生した「阪神淡路大震災」でございました。申すまでもございませんが、ここまで広く普及した水洗トイレは、「停電」や「断水」という事態の前には全く無力であることが白日の下に晒されることになったからです。巨大地震で電力・上下水道といった都市インフラに壊滅的なダメージが生ずれば、水洗トイレは全く機能することはございません。つまり、被災地では、その時点からほぼ全てのトイレが機能不全に陥るという深刻な現実に直面することになったのです。食料は、ある程度は備蓄品で補うことはできます。しかし、繰り返しになりますが、食と排泄とは一連の流れにあり、いくら食料が事足りていたとしても、排泄行為を止めることはできません。食べれば必然的に排泄をしなければ人は生きていけないのです。その場で、その現実に直面された山本氏は以下のように述べていらっしゃいます。皆さまも心してお読み頂ければと存じます。
「震災1カ月後、ボランティアで行ったときに市役所の知人を訪ねたら『仮設トイレのくみ取りをしなければいけないが、どこに何基あるのかわからない。助けてほしい』と言うんです。あちこちから災害用トイレが送られていて把握しきれなかったんです。避難所の学校を見て回りましたが汚れたり、あふれたりして使用禁止の仮設トイレが多くありました。水洗化でバキュームカーが減っていたし、汲み取りは大変だったと思います」 (以上「日本トイレ協会」会長 山本 耕平 氏 の談話より) |
如何でしょうか??実際に大震災後の神戸で「排泄環境」の問題に直面された方ならではの証言の数々ではないかと存じます。続きまして、もう一方の証言を引用させていただきます。加藤氏は能登の地震等でも繰り返される「排泄環境」整備の遅れを指摘されております。被災者アンケートによれば被災から6時間以内に7割の方がトイレに行きたくなったと回答しているそうです。しかし、断水・停電で水洗トイレは一切使えない。交通も混乱し救援物資が届くのも何日もかかるなかで、「トイレは水や食料よりも先に必要とされる」ことを強調されております。実体験に基づくご証言には圧倒的な説得力がございます。加藤氏は、能登大地震下での排泄環境の課題を以下のように述べたうえで、最後に行政の体制整備は未だ未だ不十分であることを指摘されます。併せて、我々が、個人(家庭)で何を備えておくべきなのか、また来るべき大地震災害に備えて行政は何をしておかねばならないか、大きな示唆をくださっております。これらを正しく読み取り、今日からの対応に取り組むことが求められましょう。
「(各家で準備すべきもの?)例えば携帯トイレですね。便器に袋をかぶせて、吸水シートや凝固剤で水分を安定化させる仕組みです。4人家族で1週間なら140回分が目安ですが、回数は個人差があります」
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以上、何とも暗澹たる思いにさせるようなお話でございましたが、皆様は如何お感じになられたでしょうか。本記事「奏論」をまとめられた共同通信社の編集委員 鎮目宰司氏は、本稿を以下のように纏めていらっしゃいますので引用をさせていただきましょう。タイトルは「身の安全、次にトイレ」となります。小生がここに追記することは何もございません。
首都圏直下地震で水洗トイレが使えなくなったら、東京は汚物だらけになるのではないか。不燃化された市街は形を保ち、耐震化されたビルも健在なのに、水道も電気も止まった大都会では排泄ができない。感染症がはびこり、安全が失われる。
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我が家でも、まずは個人的な防衛策をとらねばなりません。便座式の簡易トイレを納屋に備えておりますが、吸水シートや凝固剤の入った「携帯トイレセット」を用意することが必要です。本稿執筆後の非番日にホームセンターに購入に行きましたが、在庫は少なく災害時には大混乱すると思わされました。それでも幸いに、二人三日分「簡易トイレセット」が5箱ほどが棚にございました。小生は最低1週間分の2箱を購入しようとしましたが、本記事を読んでいない山の神は1箱2500円の価格に難色を示しました。言い争いの結果、結局は1箱3日分を購入することになりましたが、これでは絶対に足りません。小生は「明日起こるかも知れないんだぞ」と説得しましたが駄目でした。そうならないことを祈って今後少しづつ買い足していかねばならないと存じます。併せて、行政としての対応も点検することが必要でしょう。本市でも去る9月1日に防災訓練を行っております。聞くところによれば、避難所とされる小中学校体育館において設置される「マンホールトイレ」は基本的に5台ほどといいます。一か所の体育館に避難する人員は概ね200~300程を想定しているのだと思われますが、それで5つのトイレで対応を仕切れるのでしょうか。単純に平均して、1台あたり40~60人配当に勘定となります。そうであれば、仮に一人5分間使用するものとして、順番が一巡するまでに、単純に3時間半から5時間の待ち時間が必要となります。下水を流すための水槽も備えてあるようですが、プールのような大きなモノではなく長い期間は持たない水量のようです。そもそも、下水道が寸断していればマンホールトイレも使えなくなります。貯留式トイレが置かれるようになってからの「汲み取り」体制(多くのバキュームカーが必要でしょうし、各場所へと移動できる緊急道路の確保も求められましょう。東日本大震災の際には市内幹線道路は深刻な渋滞で自動車での移動が難しかったことを思い出しました)。
また、大規模災害では公的機関(行政)が一律に被災者全員の問題に対処することが困難なことは証明済みです。従って、各家庭での対応と、避難住民の自治活動が如何に機能するかが極めて重要となります。阪神淡路大震災でも、瓦礫に埋もれた人の救出に最も大きな機能を有したのは、住民同士による救出作業でした(当たり前のことですが一斉に110番・119番通報しても対応できないことは明らかでしょう)。「排泄環境」の問題に限れば、それぞれの避難所における「トイレ衛生環境」体制構築(清掃)と道具の準備は「町内会・自治会」の役割に委ねられましょう。全てを行政に頼っても対応仕切れるはずがないのですから、住民が実行するしかないのです。そのために「共助」を担う「自治会・町内会」活動の重要性があると思われます。つまり、個人(自助)・地域社会(共助)・行政(公助)が、それぞれで出来る事を事前に考えて置くべきであり、それらが補完しあって初めて適切な「排泄環境」が成立します。それは、勿論「排泄環境」だけの問題ではございませんが、それ以外の諸問題に優先して取り組むべき重大な問題であることを本稿でご理解いただけましたら幸いでございます。
大規模災害が発生すれば、考えただけでも空恐ろしい状況が惹起するのだと覚悟し、第一段階として主体的に対応をしていくことが必要です。次に地域社会の活動を点検しておくべきでしょう。巨大災害が惹起したときこそ、それぞれの自治体の、それぞれ地域の住民の底力の実像が露呈します。隣に住む人の名前も知らないようでは、こうした地域の協力などは望みようもございませんでしょう。個々の住民、地域住民組織、行政のそれぞれが「誰かがやってくれるだろう」といった、“三竦み(さんすくみ)”に陥らぬよう、それぞれが出来る事、やるべきことを見据え、責任をもって準備を進めることこそが肝要です。我々行政の立場としては、住民から怨恨の罵声を浴びせかけられぬよう、またその後も後ろ指されぬよう、むしろ本市に居住していて助かったと言う声をいただけるよう、体制整備を万全に構築して対応を進めねばなりますまい。その中には「排泄環境」の整備と維持という重大な問題があることを忘れてはなりません。その時は決して遙か先の問題とは申せません。もしかしたら明日のことなのかも知れないのです。
前回の本稿では、大規模災害時に惹起する「排泄環境」喪失の問題を採り上げました。今回も「大規模災害」時における課題解決の話題となりますが、より博物館組織にとって身近な問題について扱いたいものと存じます。それが、大規模自然災害で被災する文化財の復旧・復興の問題でございます。ここ数年、異常気象に起因して日本全国何処においても頻発する、水害・土砂被害を引き起こす「集中豪雨」、「阪神淡路大震災」「東日本大震災」を手始めに熊本・宮崎・能登と続けざまに日本各地で発生した「巨大地震」等々、今やここは安全安心といえる地域はないと思うほどの自然災害が頻発しているのが我が国の現実でございます。その中で、幾多の人命が奪われる傷ましい惨状が繰り返されております。そして、それは人命にだけにとどまらず、長い歴史を生き延びて今日まで伝えられてきた「文化財」へも甚大な被害を齎しております。特に「熊本地震」の際に「奇跡の一本石垣」に支えられ辛うじて倒壊を免れた「熊本城:飯田丸五階櫓」の姿、ペシャンコに潰れた「阿蘇神社:楼門」の姿は、それを象徴的に伝える映像であったことは、恐らく皆様にも記憶に新しいところかと存じます。大規模地震や集中豪雨被害に遭遇した地域では、熊本だけではなく何処においても同様の文化財への被害も同時に引き起こされております。
そうした中で、今回の本稿では、熊本地震における事例を採り上げてみようと存じます。具体的には、地震災害による広域な文化財被害に当たって、熊本県と関係市町村との連携によって実現した「熊本地震被災文化財復旧復興基金」とその活用方針の画期性についてとなります。今回も、8月21日付「朝日新聞」(夕刊)に掲載された記事で、その事実を知ったことが契機となっております(執筆:筒井次郎 記者)。余談ではございますが、ネット報道の影響をモロに受ける形で、昨今新聞の定期購買家庭が減少しており、必然的に購読年齢の高齢化が急速に進んでいるのが現状となっているそうです(敢えてここでは書きませんが平均年齢を聞いて小生は大いに驚愕しました)。従って、大手の新聞社であってもこのままの経営ではジリ貧である……と、報道関係者から直接に聞いたことがございます(確かに、独立した倅は新聞の定期購読をしておりません)。しかし、ネット記事のように日々消費されて消えていくのではなく、何時でも手元で確認が可能な紙媒体の存在は有難いものです。この文化が是非とも将来的にも守り伝えられてほしいものでございます。今回もまた新聞報道がこうしたことを知る契機となっております。むしろ、定期購読をさせて頂いていることに感謝の気持ちを捧げたいところでございます。
さて、申すまでもないことかもしれませんが、「熊本地震」は、平成28年(2016)4月14日21:26以降に熊本県・大分県で相次いで発生した地震全体を指します。
当該時刻に震度7を観測する地震が、更に翌々日にあたる16日未明にも同じ震度7を観測したほか、最大震度6強の地震が2回、6弱の地震が3回も発生しております。日本国内において震度7を観測したのは観測史上片手で数える回数しかないそうですし、震度7の地震が続けざまに2回観測された事例も初めてのことだそうですから、改めて途轍もない巨大地震であったことが知れます(因みに、気象庁では2回の震度7地震中、14日は「前震」で16日が「本震」との見解のようですが、学者によっては両者は異なるメカニズムによると唱える方もいらっしゃるそうです)。何れにせよ、最大クラスの地震が立て続けに発生したわけですから、被害もまた甚大でございました。ただ、震源が海底でなかったことで津波被害がなかったこと、また防災意識の向上もあってか広域に及ぶような火災被害には見舞われることがなかったことは、不幸中の幸いであったと存じます。それでも、これだけの震度の地震が頻発したのですから、住宅の全壊8,667棟、半壊34,719棟、一部破損163,500棟等々が確認され、一連の地震による人的被害として、倒壊住宅や土砂崩れに巻き込まれるなどにより、熊本県で50人の死亡が確認されているのみならず、重軽傷70人以上が病院搬送をされているとのことです(消防庁発表による)。一方、一年後までに自治体に震災関連死と認定された人は200人強に上っているといいます。
そうした中で、熊本城や阿蘇神社に象徴されるように、文化財被害もまた深刻なものであったことは申すまでもございませんでした。熊本県教育委員会による『平成28年熊本地震被災文化財の復旧の歩み』(平成30年度)によると、その被災状況は、国と県の指定文化財、及び国による登録文化財限定でありますが、以下の通りとなりますので一覧表を引用させていただきましょう。
<指定等文化財の件数・割合>
指定等件数 (地震発生時) |
被災件数 | 被災割合(%) | |
国指定 | 148 | 44 | 29.7 |
県指定 | 383 | 59 | 15.5 |
国登録 | 156 | 56 | 35.9 |
合計 | 687 | 159 | 23.1 |
<被災文化財の種別ごとの状況(※主な被災文化財は抄出)>
種別 | 国指定・県指定・国登録 | 主な被災文化財(指定類型・所在地) | ||
指定等件数A |
被災件数B | 割合(%) B/A |
||
建造物 | 230 | 88 | 38.3 | 阿蘇神社[国:阿蘇市]、十三重塔[国:八代市]、八勢眼鏡橋[県:三船町] |
史跡 | 119 | 44 | 37.0 | 熊本城跡[国・熊本市]、井寺古墳[国:高島町] |
美術工芸品 | 212 | 13 | 6.1 | 浄水寺碑[国:宇城市] |
名勝 | 11 | 6 | 54.5 | 旧熊本藩八代城主浜御茶屋(松浜軒)庭園[国:八代市] |
天然記念物 | 59 | 3 | 5.1 | 阿蘇北向原始林[国:大津市] |
民俗文化財 | 48 | 3 | 6.3 | 菊池松囃子能場[県:菊池市] |
重要文化的景観 | 3 | 2 | 66.7 | 通潤用水と白糸台地の棚田景観[国:山郡町] |
無形文化財 | 5 | 0 | 0.0 | |
合計 | 687 | 259 | 23.1 |
こうした文化財被災の実情を受け、まずは民間での動きが始まったといいます。地震直後から熊本県に対して復旧を目的とした多くの寄附金の申し出が寄せられるようになったのです。そうした動向は、平成28年(2016)7月に地元経済界や熊本由縁の方々を中心として「熊本城・阿蘇神社等被災文化財復興支援委員会」が発足すると加速化し、更に組織的な募金活動が本格化したといいます。その結果、驚くべきことに900を超える団体・個人からの寄附金の総額は39億円を超えることになったと言います(於:平成30年12月時点)。こうした動向を受け、熊本県では同年10月に寄附金を財源とする「平成28年熊本地震被災文化財等復旧復興基金(以下「文化財基金」と略記)」を創設、有識者による審議を経て配分方針等を決定します。それが、①「寄附者の意向の尊重」、②「民間所有者の負担軽減」、③「未指定文化財への支援」という“3方針”となります。①につきましては、寄附をされた方の寄附金使途の希望であるますが、“熊本城”に限定した希望が14億円、“熊本城以外の文化財”が3億円、“使途の制限なし”が22億円(合計で39億円)であったと言います。ここからも、どれだけ熊本城の震災被害の映像が与えたインパクトが大きかったかが理解できましょう。しかし、逆に、使途を限定しない寄附金が、それを上回っていたことが注目されます(因みに、その後も寄附金は続き、最終的な寄附団体・個人は1160件、寄附総額は45億円にも及んでいるそうです)。
当該委員会が決定した「文化財基金」配分方針として注目されるべきことが、②③となります。先に③からでありますが、文化財に指定・登録されていなくとも、全国には歴史的価値が高い貴重な文化財は数多く存在しております(所謂「未指定文化財」)。指定文化財であれば、当然の如く修復等の費用の一部は指定する国・公共団体から一定の割合での補助金が支給されますし、国登録文化財でも修復過程の一部での幾ばくかの補助があるようです。しかし、通常、未指定文化財の修理には補助金は一切なく、全額が所有者負担となります。そもそも、指定・登録の網が掛かっていない文化財の数は極めて膨大であり、公的機関で被害状況の全貌を把握することも簡単なことではございません。しかし、実際にはこれから文化財に指定・登録すべき、所謂“文化財予備軍”が膨大であるのも現実です。古い建物を半壊のまま放置していると、瞬く間に修復不能な状態にまで破損が深刻化していきます。余程に文化財保存に対する意識が高い所有者でもないかぎり、新築する以上の巨額を要する古建築の修復を自己負担で行おうとする方は多くはございません。結果的にはそのまま解体されてしまうことが殆どのケースだと思われます。実際にこれまでの自然災害で罹災した未指定文化財の多くもこうした運命を辿ったものと思われます。熊本県でも事態は緊急性を要したのです。そうした状況の中で、熊本県の文化財保護審議委員会は、地震二か月後の緊急提言として、「未指定文化財には将来指定される候補も多い。地域の『宝』として価値がある」として、県に支援策の検討を訴えたと言います。それを受け、熊本県も以下のような対応を採り、結果として大変に目覚ましい成果に繋がることになったといいます。朝日新聞の記事を以下に引用させていただきましょう。
具体的には、将来、国の登録有形文化財にすることを同意した場合は修理費の三分の二、しない場合でも二分の一を補助した。文化財としての価値があるかどうかは、有識者や県建築士会所属の「ヘリテージマネージャー」らが評価した。 (令和4年8月21日付『朝日新聞(夕刊)』より 記者:筒井次郎)
※吉田松花堂~薬の製造販売を手掛けてきた商家で、1877年の西南戦争で焼失後に再建された明治期の大邸宅であるが、熊本地震で屋根瓦が数千枚落ちて土蔵に亀裂が入る大規模半壊の被害をうけていた。
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以上お読みいただければ、熊本県の素早い対応が奏功したことが知れましょう。これだけの補助金を受けることができることが分かれば、多くの方々は当該制度の利用をされることに繋がりましょう。こんなことを言うのは如何なものかと存じますが、極々一般的な俗に言う「お役所仕事」であったならば、斯くも迅速な対応は望めません。平たく申せば、相当に長い期間を要します。文化財保存に熱意のある所有者でもなければ、多くの場合長い月日に辛抱できずに解体され、地上から貴重なる文化財が消滅していたことでありましょう(そもそも半壊・全壊状態なのですから放置しておくこともできますまい)。勿論、熊本のケースが成果を上げた背景には、多額の寄附金が集まったことが大きかったことは筒井記者も指摘されるところでございます。それだけ、被災後の熊本城の惨状がインパクトをもって受け止められたというわけです。
当該記事の後半では、本年の元日に発生した「能登半島地震」のケースに話題が敷衍されております。当然の如く、能登でも多くの歴史的建造物が被災しており、その数は国指定だけでも190件近く、未指定文化財被害に至っては把握すらできていないようです。記事によれば、5月に日本イコモス国内委員会が「ふるさと納税制度」「クラウドファンディング」などを活用した文化財の復旧復興基金を、早急に創設するように石川県に提言しているそうです。ただ、熊本県のような多額の寄附金が集まるか否かは不透明であるといいます。熊本城のようなシンボリックな被災を伝える文化財がないことが要因だと、石川県の担当者は話しているといいます。一方で、文化庁では3月に官民連携で文化財を支える「文化財サポーターズ」事業を始め、能登半島地震の復旧支援を目的にした寄附を募ったそうですが、クラウドファンディング目標額1千万円に対し、集まった金額は178万円にとどまったとしております。熊本城のような存在がないから……との理由は、決して理解できない訳ではありません。しかし、それだからと言って、能登半島の文化財が熊本県のそれと比較して価値が低いことは決してございません。小生はアピールが目に見える形で全国に伝わっていないことが、要因として大きいものと存じます。しかし、目先のことで精一杯である被災地の方々にそれを求めるのは酷なことです。国・地方公共団体の関係機関が先陣を切って様々なメディアでのアピール・宣伝、もっと地道な県内・全国行脚等に取り組むべきではありますまいか。
実は、熊本県では、多額の寄附金の割り振りをして被災文化財復旧にあたるだけではなく、熊本地震で被災した文化財の歴史的価値、被災の状況や文化財復旧に向けた取り組みを広く県民に理解をしてもらうための「情報発信」にも果敢に取り組んでこられているのです。それが、一般の方を対象にした講演会・パネル展の開催であり、また県内各小学生を対象にした「出張授業」の実施であります。平成30年だけでも県内10校、500人を超える児童に授業を行い、熊本県の文化財の価値やそれらを護るための事業について理解を促しているのです。こうした地道な活動こそが文化財を大切にして後世に伝える意識を育成することにつながるのだと存じます。熊本県の取り組みは我々の先達となるものと考えます。何かを仕掛けなければ、寄附金もその場限りとなります。何にも増して文化財が特定の所有者だけのものではなく、地域のアイデンティティとして大切にして後の世に伝える重要性を育むことではありますまいか。そうした意識を長い目で展開することが求められましょう。
古い建物を「非効率」「非経済的」と経済的観念のみで“クラッシュ&ビルト”を繰り返してきたのが、戦後の高度経済成長期以来の日本のスタンスであったのだと思います(勿論、戦災等による大規模な破壊があったことも要因です)。しかし、我が国の将来において、最早高度経済成長時代の再来を期待することは難しいことでございましょう。低成長時代に入っていくなかでこそ、国民は別の価値観を大切に育んでいく必要があるのではありますまいか。日本イコモスの言う「品格のある町」とは何なのかを考えてみることも、その一つであると存じます。便利で豊かであれば見てくれなどどうでもよい……といった、所謂「成金的精神」の時代は何れ価値を失っていきましょう。飽くまでも個人的な思いでございますが、それは過去の歴史に誇りをもって、住民が面影を色濃く伝える建物と文化を後世に伝えることを大切にしている町なのだと考えるものであります。それでは、埋め立てで新しくできた町は品格など持ち得ないではないか……との反論が寄せられるかもしれません。いやいや、千葉の埋立地の歴史は既に50年に及ぶところも多くなっております。50年経てば文化財候補とよく言われます。埋め立ての歴史と町の移り変わりをより良い方向で伝えていくことを意識されれば、おのずと品格ある町が生まれましょう。千葉市は令和8年度(2026)に「開府900年」というアニヴァーサリーイヤーを迎えます。町としての歴史が斯くも長いのですが、果たしてそれを伝えるような品格ある町になりえているのか、少なくとも省みる必要性を大切にしたいものだと存じます。何時も申しますが、明治旧県庁の解体、昨今の気球連隊第二格納庫・旧東京帝国大学第二工学部共通第三教室棟の解体は、その大切なパーツを失うことに繋がったと存じます。しかし、未だ千葉大学医学部旧本館や同精神科病棟、千葉高等学校講堂などの昭和初期の建築が残っているいまこそ、「品格ある町」とは何かを自省したいものです。そうそう、これも本稿で何度か採り上げておりますが、我が「千葉市立郷土博物館」も令和8年度「開府900年」の際には、建設から59年目を迎えます。千葉市の高度経済成長期を象徴する立派な文化財候補であると存じあげる次第でございます。同時に、千葉市の中心地が「品格ある町」となるための、重要な構成要素の一つであることも確実だと信じて止みません。
藪から棒で申し訳ございませんが、皆様はナディア・ブーランジェ(1887~1879年)という女性「音楽家」の名前を御存知でいらっしゃいましょうか。恐らく、その名前をお耳にされたことのある方は多かろうと存じますが(何故かは以後にご説明をいたします)、その長きにわたる人生についてご存知の方は決して多くは無かろうと存じます。以前に、ジェルメーヌ・タイユフェール(1892~1983年)というフランスの女性「作曲家」についてご紹介をさせていただきましたが、その生没年を比べていただければご理解頂けるように、ほぼ同時代を生きた人でございます。また、同じくフランスの人でもございます(因みに「ブーランジェ」はフランス語で“パン職人”を意味するとのことです)。タイユフェールを「作曲家」と記したのに対しナディア・ブーランジェ「音楽家」と上述したのには訳があって、ナディア(因みに以後に妹リリ・ブーランジェも登場するので、混同を避けるため姉については以降このように記させていただきます)は「作曲家」「教育者」「演奏家(指揮者・オルガニスト・ピアニスト)」といった様々な相貌を有しており、「音楽家」と表現する他はない人物であるからであります。しかし、どうしても一つに絞るのであれば「教育者」となろうかと存じます。いや、それには“偉大な”という言葉を冠するしかないような「音楽教育者」となのでございます。彼女に教えを乞うた「門人」に当たる人物は枚挙に暇がないほどで、それぞれが超一流の作曲家・演奏家としてその後に活躍をしております。つまり、彼女の名前を耳にする機会が多いのは、功なり名を遂げた彼門人たちが偉大な師であるナディアの名を、感謝を込めて方々で語っているからに他ならないと存じます。今回の本稿では、パリ五輪・パラ五輪に因んで(?)、フランスの二人の姉妹音楽家について取り上げてみたいと存じます。前編では主として姉ナディアを、後編では妹リリをご紹介させていただこうと思います。本稿全般に関しては、ジェームズ・スピケ著・大西穣訳『名音楽家を育てた“マドモアゼル” ナディア・ブーランジェ』2015年(彩流社)[原著1987年刊]に大きく依拠しておりますので、最初にご紹介しておきたいと存じます。ただ、本稿でナディア92年の生涯の全貌を綴ることなど到底できません。興味がございましたら是非とも本書をお手にされてください。毀誉褒貶のある人物でもございますが、その一貫した教育者としての姿勢、決してぶれることのない凛とした生き様には感銘させられること間違いなしだと存じます。
因みに、余談ではございますが、同時代を生き、ナディアと交流のあった多くの音楽家(ストラヴィンスキー、ラヴェル、フォーレ、フランス6人組の面々)が共通し、更に妹のリリとは音楽学校時代に恐らく面識があって当然な環境にいた筈なのですが、タイユフェールの自伝がブーランジェ姉妹のことに触れることは一切ございません。また、ナディアの著書や交友範囲にタイユフェールの名前を見ることも一切ありません。下種の勘繰りに過ぎないかもしれませんが、庶民出身であったことに引け目を感じ、幼少時代に理解のない父親の下で苦労しながら音楽を学んだタイユフェールにとって、(後述いたしますように)出自も経済的にも恵まれた環境で音楽教育を受けることができたブーランジェ姉妹には、羨望の思いが人一倍強かったことでしょうし、曰く言い難き負の感情を抱くこともまた多かったものと思われます。また、(リリは分かりませんが)ナディアにもどこかしら、そうした階級意識の存在が皆無ではなかった面もあるのではありますまいか。共通の音楽家同士の交友関係に、両者の接点だけが見事に抜け落ちていることが、その事実を照射しているように思います。
さて、その姉である「教育者ナディア」に師事した門人をホンの僅かだけご紹介させていただきましょう。まず作曲家として活躍した人として、ジャン・フランセ(1912~1997年):フランスを象徴するような軽妙洒脱な作品で知られます、ミシェル・ルグラン(1932~2019年):映画音楽家として活躍「シェルブールの雨傘」「愛と哀しみのボレロ」等々[以上:フランス]、レノックス・バークリー(1903~1989年)[イギリス]、アーロン・コープランド(1900~1990年)[如何にもアメリカ的なバレエ音楽『アパラチアの春』『ロデオ』や管弦楽曲『エル・サロン・メヒコ』等で知られます]、エリオット・カーター(1908~2012年)、フィリップ・グラス(1937年~)[以上:アメリカ]、そしてアストル・ピアソラ(1921~1992年)[アルゼンチン:タンゴの巨匠ピアソラです!!]らがおります。音楽学者では膨大なドメニコ・スカルラッティの「チェンバロ・ソナタ」を系統的に整理して番号を付した(「カークパトリック番号」)ラルフ・カークパトリック(1911~1984年)[アメリカ:チェンバロ奏者としても著名]、演奏家として、名ヴァイオリニストのジェネット・ヌヴー(1919~1949年)[フランス:航空機事故で30歳没]、ヘンリク・シェリング(1918~1988年):J・S・バッハ『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』全曲録音は名盤の誉れ高し![ポーランド→メキシコ]、名ピアニスト達としてディヌ・リパティ(1917~1950年)[ルーマニア:病魔に斃れ33歳で早世]、クリフォード・カーゾン(1907~1982年)[イギリス:小生最愛のピアニストの一人]、ダニエル・バレンボイム(1942年~)[アルゼンチン]、キース・ジャレット(1945年~)[アメリカ:クラシック以上にジャズピアニストとして著名]、指揮者としてスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(1923~2017年)[ポーランド:小生最愛の指揮者の一人]、ガリー・ベルティーニ(1927~2005年)[イスラエル]、ジョン・エリオット・ガーディナー(1943年~)[イギリス:バロック音楽の古楽器による演奏から古典・ロマン派・近代音楽まで広範なレパートリーを有します(リリの作品の録音もあり)]、ヤン・パスカル・トルトゥリエ(1947年~)[フランス]、演奏家と作曲者を兼ねた存在してはレナード・バーンスタイン(1918~1990年)[アメリカ:言わずと知れた世紀の大指揮者であり「ウエスト・サイド・ストーリー」等の作曲家としても著名、ナディア最期の直前に面会が許された人の一人]、イゴーリ・マルケヴィチ(1912~1983年)[ロシア→スイス:現代指揮法を体系的に纏めた初めての指導派として多くの後進を育成。上述のピアニスト:バレンボイムの指揮者としての才能も認め指揮者として育成にも努めたことでも知られます(指揮者のサヴァリッシュやブロムシュテットも門人)。最近になってその図抜けた音楽性に小生が遅まきながら気づかされた音楽家の一人。男色であったディアギレフの最後の愛人であったとされます]がおります(ピアソラもこちらに含めるべきかもしれません)。如何でしょうか。これでも門人の極々一部に過ぎませんから“吃驚”ではございませんでしょうか。
その教育は、和声法・対位法・楽曲分析・ソルフェージュ(楽譜を中心とした音楽理論を実際の音に結びつける訓練)・スコアリーディング・伴奏法等々多岐に亘ったといいますが、ナディア自身が組織だった教授関係資料や詳細なる門人名簿を残していないこともあって、その詳細は判明しないようです。ただ、門人の証言が数多く残っており、その一端を知ることができます。例えば、ピアニスト・指揮者として活躍するバレンボイムはJ・S・バッハ『平均律クラーヴィア曲集』(鍵盤楽器のための作品で第1巻と第2巻があり、各24曲構成で全ての調による前奏曲・フーガで構成された曲集)の任意の曲を、その場で指定された調性で弾くことを求められたと証言しております。それが何の訓練に繋がるのかは音楽理論については全く無知の小生には理解し難いところですが、バレンボイムの現在の活躍を見れば、そのことが有用に作用したであろうことは明らかでございましょう。また、上述の門人を見るとアメリカ人の作曲家を多く受け入れていることが分かります。特に、1920年代の門人の多くは大西洋対岸の人々であったといいます。ただ、教えを乞いに訪れる才能ある学生の殆どを差別なく受け入れたと言われるナディアだと言われますが、実はアメリカからフランスに渡って更なる音楽家としての高みを目指そうと扉を叩いたジョージ・ガーシュイン(1898~1937年)の入門は断っております。実は、それ以前に、ガーシュインはモーリス・ラヴェル(1875~1937年)に入門を乞い、それも断られております。その時に、ラヴェルはガーシュインに次のように伝えたと言います。「君は、既に一流の“ジョージ・ガーシュイン”です。何も二流のラヴェルになる必要はありません」と。同時に、才能溢れるガーシュインを門人とすべきか否かの苦悩をナディアに手紙で伝えてもおります。そこでは、ガーシュインが学びたいと思っていることを教えてしまうことが、彼固有の音楽を破滅させてしまうことに繋がりはしまいかとの懸念であり、「この恐ろしいほどの責任を背負う勇気があなた(ナディア)にはありますか。私にはないのです」(ラヴェル)と訴えているのです。結局、ナディアもラヴェルと同じ判断を下すことになります。それは、誰でもないガーシュインという破格の才能を護るためであったということです。
それと同じことは、アルゼンチンタンゴを芸術の域にまで昇華させたアストール・ピアソラにも当てはまります。彼は、たった一年間の門人であったにも関わらず、ナディアを「第一の師(第二の母)」と慕い終生の尊敬を捧げております。未だ30歳代であった若きバンドネオン(タンゴ演奏に欠かせない独特のボタン式アコーディオン)奏者であったピアソラは、タンゴなど低俗な大衆音楽であると見切りをつけ、本格的作曲家として脱皮しようと、タンゴ奏者・作曲家としての出自を隠してパリを訪れ、彼女への入門を乞うたのです。その時、彼が持参した作品の楽譜を一瞥したナディアは、そこに全く関心出来るものが見いだせなかったようです。しかし、彼の友人がタンゴの即興演奏でピアソラを凌ぐ者はいないとナディアに告げたことが契機となりました。そこで、彼女はピアソラにタンゴで如何なる音楽表現ができるかを聴かせるように求めます。始めは拒否したピアソラでしたが、渋々自作のタンゴ『勝利』をその面前で演奏することになったのです。それを耳にしたナディアは、「これこそあなたの分野です。交響曲などやめて、タンゴにあなたの力を注ぎなさい」と熱心に告げ励ましたといいます。後にピアソラは、ナディアの言葉がその後の人生を決める決定的な一言となったと述懐しているそうです。その後のピアソラが、アルゼンチンタンゴを単なる踊りの伴奏音楽から、深淵なる芸術の域にまで昇華していったことを思えば、ナディアの一言がどれほどに大きな芸術的意義を有したことかが判明いたしましょう。ここからは、ナディアが決して教条主義的な指導者でなかったことがご理解いただけることと存じます。だからこそ、出身地域もその音楽的出自も様々な門人に寄り添いながら、門下からここまで優秀な音楽家を輩出したのだと考えます。彼女が、音楽に関わる教育者として矜持としたことを自身で以下のように述べてりますので、以下に引用させていただきます。これは、音楽教師に限ることなく、須らく教育者たるものが頭を垂れて傾聴すべき言質に他ならないと確信するものでございます。つまり、ナディアは、如何なる形であれ学生に個人的な影響を及ぼすことを拒絶し、自らの定めた本質的な距離感を踏み越えることはしない音楽教育を徹底したということです。
「(音楽家として生きるために求められる要件は)過酷な技術であり、技術についての深い知識なくして、音楽家は自分が最も重要だと思う箇所を表現することは出来ないのです。そこに割って入るのが教師です。教師にできることは、絶え間なく集中をし、常にその場にいて、忍耐することを学ぶよう要求しながら、生徒が自らの道具を効果的に扱うことができるように成長させることです。しかし、教師は学生が道具によって具体的に何をするかに関しては、どんな積極的役割を担うことはないのです」
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さて、ここで一度、ナディア(妹リリ)・ブーランジェの出自、及び少女時代から若年期のナディアに遡ってみたいと存じます。ブーランジェ家は代々音楽一家であり、父方の祖父フレデリックは、1797年に19歳でパリ音楽院のチェロ最高賞を授与された名チェリストでありました。そして、後に声楽の指導にも携わるうちに、ソプラノ歌手のマリー=ジュリー・アランジェと出会い結婚。彼女自身も19世紀初めに声楽賞を受賞した経歴を有し、軽やかな美声と舞台姿で忽ちオペラ・コミークの人気者にとなったといいます。その夫婦が授かった一人息子が父エルネスト(1815~1900年)であり、同じくパリ音楽院作曲科に進み、1835年当時最高の権威を有する「ローマ賞」(後述)で大賞を受賞し、その後はオペラ作曲家として活躍しております。また、30歳も年下であるカブリエル・フォーレ(1845~1924年)はパリ音楽院におけるエルネストの同僚で、親しく交友した人物であり、ブーランジェ家にも頻繁に出入りしていたとのこと。そして、エルネストの子であるナディアとリリの二人の娘を実の子のように可愛がり、その才能を見抜いたといいます。さて、フォーレと比べれば、エルネスト・ブーランジェの名は今日殆ど知られてはおりませんし、実際にその作品が音盤化されていることもないように思います。しかし、フランスオペラ史上において重要な音楽家の一人として高く評価される人物と目されております。エルネストは、同時に母校パリ音楽院声楽家教授として後進の指導にも当たっており、その折に教え子であるロシア貴族の娘ライサと出会い結婚(エルネスト62歳、ライサが19歳でありました)[男性として急いで言い添えておきたいのですが、両者の結婚に積極的であったのはエルネストに惚れ込んだライサの方であったとのことであります]。そして、2人の間に1887年に生まれた長女がナディアで、1893年に生まれの三女がリリとなります(二女・四女は早世)。エルネストが70~83歳にかけての子宝でありました。こうした知的・芸術的な環境に恵まれた姉妹は、幼い頃から音楽への鋭い感受性を養っていったものと思われます。
このような環境の中で、ナディアもまた本格的に音楽を学ぶことになります。10歳となった1897年にパリ音楽院に入学、オルガンをルイ・ヴィエルヌ(1870~1937年)らに、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドール(1844~1937年)[多くの華麗な「オルガン交響曲」の作曲者として知られます]とフォーレに、伴奏法をポール・ヴィダル(1863~1931年)に師事し、和声、対位法、オルガン、ピアノ伴奏、フーガで首席となるなど早熟ぶりを示します。そして、その熱意が更に高まる契機となったのが6歳年下の虚弱体質のリリの誕生であったと言います。何故ならば、ナディアが12歳、リリが6歳の時に亡くなった年老いた父から、ナディアは虚弱体質であった妹の世話(音楽教育も含めて)を託されたことが大きな転機となったとされます。事実、ナディアは無条件の愛情を注ぎ込み、献身的にリリの音楽教育にも当たります。その結果、後編で述べますように間もなくリリの驚くべき才能が花開くことになるのです。しかし、一方で、作曲家としての道を歩もうとしていたものの、自作に対しての批評精神の強かったナディアは、妹の才能に圧倒され自らの作品など世の中に無用のものに過ぎないとの自己規定をすることになったと言います。その結果、妹リリ急逝の後に作曲者としての筆を折ることになったというのです。ざっくり言えば、音楽教育者として生きる道を選択することになったということです(このことの是非については後編の最後で述べてみたいと思います)。ただ、先に申し上げておきますが、ナディアの死後に世に出ることとなった彼女の作品に接すれば(妹リリの天才的作品の域には達せずとも)、凡百の作曲家の作品など足元にも及ばぬほどに十二分に魅力的な内容に驚かされます。実際に、ナディアもパリ音楽院に入学してから10年後に、父エルネストが獲得した「ローマ大賞(音楽部門)」を目指して、作曲の研鑽を積み「ローマ賞」に3度の挑戦をしております。ここで、その「ローマ賞」について簡単に説明をさせていただきましょう。
「ローマ賞」は、芸術を学ぶ学生に対して、フランス国家が授与した“奨学金付”の「留学制度」であり、1663年ルイ14世によって創設され、フランス革命後も1968年に廃止されるまで約300年に亘って継続されました。その最高賞が「ローマ大賞」であり、受賞者にはローマへの公費留学が認められ、かの地に残る巨匠たちの作品に直接に接して学ぶことができるようにされました。当初「建築」「彫刻」「版画」の分野で始められ、19世紀の初頭に「音楽」賞が追加されました。尤も、特に音楽の分野に関して言えば、19~20世紀のローマの地に留学に値する芸術の素材があったかと申せば、「?」マークを付さざるを得ますまい。これは音楽部門が後に追加されることになったことが背景にございます。まぁ、何れにしましても、本賞が各分野の若手芸術家の登竜門として大きな権威を有することになったのは間違いございません。特に「大賞」は最高のステータスとなったのです。以後は「音楽賞」のみについてご紹介をさせていただきますが、その長い歴史の中で「ローマ大賞(音楽部門)」を獲得した著名な作曲家をご紹介しておきましょう。1830年受賞ヘクトール・ベルリオーズ(1803~1818)、1839年受賞シャルル・グノー(1818~1893年)、1857年受賞ジョルジュ・ビゼー(1838~1975年)、1863年受賞ジュール・マスネ(1842~1912年)、1882年受賞ガブリエル・ピエルネ(1863~1937年)、1994年受賞クロード・ドビュッシー(1862~1918年)、1887年受賞ギュスターヴ・シャルパンティエ(1860~1956年)、1900年受賞フロ-ラン・シュミット(1870~1958年)、1919年受賞ジャック・イベール(1890~1962年)、1938年受賞アンリ・デュティユー(1916~2013年)などを挙げることができます。何れ劣らぬキラ星の如き名作曲家ばかりであり流石に権威ある「ローマ大賞」を思わせます。しかし、ここには名前の挙がらぬ、優れたフランス人の作曲家が数多いることも気になりませんでしょうか。応募しなかっただけではないのかと思われる向きもございましょうが、何度も応募して弾かれた名作曲家もおり、その筆頭とも目される人がモーリス・ラヴェル(1875~1937年)であります。
ラヴェルは、1900年から5年間に5回も応募しておりますが、1901年に「第二等次席」受賞が最高であり、遂に「大賞」受賞はなりませんでした。しかも、確か最後は予選落ちだったと記憶しております。「ローマ賞(音楽部門)」には30歳以下という応募条件があり、その段階で6回目の挑戦権を失っております。流石に、その年齢までに多くの名作をものしていたラヴェルの未受賞は社会問題化しており、当時のパリ音楽院院長辞職と新院長ガブリエル・フォーレの就任、及びその後の音楽院大改革へとつながったとされます。今回の主役であるナディアも3度「ローマ賞」に挑戦しており、1906年とその翌年には最終選考にまでに残りながらも落選、1908年に「二等賞(銅賞)」(実質的には3位)を獲得はしますが[大賞:一人、大賞次席(銀賞):二人に次ぐ受賞]、それ以上の成績を残せずに終わり、それ以降ローマ賞応募は断念しております。まだ、女性の社会進出が広く認識されていない中で、女性であるがゆえの狭き門という側面が皆無ではなかったことが想像されましょう。ナディアの作品には、多くは接する機会がございませんが、歌曲30程、室内楽多数、ピアノとオーケストラのためのラプソディ、オペラ「死の町」があるといいます。また、「ローマ賞」応募の際に仕上げたカンタータ『シレーヌ』は是非とも聴いてみたいものでございますが、音盤化はされていないようです。幸いに歌曲に関しては、妹リリの作品と併せて、ナディアの残した全作品が「フランス・ハルモニアムンディ社」より3CDで発売されました(数カ月前!!)。素晴らしい!!感動しました。作曲者としての姉ナディアの再評価がなされることを大いに期待する者でございます。
ナディアは、第一次世界大戦から第二次世界大戦を経て、その時々の社会情勢に翻弄されながらも92年という長い生涯を生き延びただけでなく、死の直前まで倦むことなく後進の音楽家の育成に努め、また妹リリの残した作品の紹介に努めました。見事な一生であったと称すべきかと存じます。1979年10月22日の早朝、75年前にリリと母親ライサと初めて一緒に眠ったパリの一室で92年の生涯を閉じることになりました。今は最愛の妹リリと共にモンマルトルの墓地で安らかな眠りについております。リリは勿論でありますが、ナディアも伴侶を持つことがございませんでしたので、残念ながら名門音楽一家ブーランジェ家の歴史もここで途切れることになりました。
(後編に続く)
後編では、ナディアの6歳年下の妹リリの音楽家としての肖像を綴ってみようと存じます。その誕生については、姉ナディアの歩みを綴った前編で記しました。これも前編で述べましたように、二人の父母との間に生まれた子のうち二人は夭折しておりますが、リリも臓器に障害があったようで医師からはその短命を予告されていたといいます。しかし、そうした運命を抱えていたリリの天賦の才は幼くして開花します。語学とピアノ・オルガンといった楽器を得意とし、4歳の時には、既に姉の学ぶパリ音楽院の講義にも潜り込んで音楽を学んでいたといいます。ただ、リリが正式に作曲家として生きていこうと決意したのは1909年であったようです。健康面での不安のあったこともあり、パリ音楽院の教授たちから個人教授の形で和声と対位法等々を学びました。その結果、通常ならば数年を要する作曲科のカリキュラムを、たったの1年余りで達成してしまったと言います(僅か15歳で!!)。ブーランジェ家と交友のあった当時パリ音楽院の院長フォーレの計らいで特別入学証が発行され、音楽院での聴講も続けていたようですが、基本的には個人レッスンを主体として学んでいったのです。勿論、姉のナディアにも教えを受けることがありましたが、ナディアも自分自身が10年程をかけて学んだことを驚異的な速度で学びとるリリの楽才に、瞠目すべきものを感じていたことでしょう。そして、リリの思いは自ずと、父が過去に獲得し、姉が3度の挑戦で果たせなかった「ローマ大賞」を獲得することへと向かっていくことになったのです。因みに、リリに関する評伝等は我が国では翻訳されておらず資料は圧倒的に少ないのが現状です。そこで、本稿は小林緑編『女性作曲家列伝』1999年(平凡社選書189)に収められる第15章「リリ・ブーランジェ」(執筆は編者である小林氏自身によります)に、その多くを負っておりますので最初に申し上げておきたいと存じます(実は小生も最近古書で入手したばかりですが、以前本稿でご紹介させていただいたタイユフェールの一項も設けられております。もっと早くに入手すべきでございました)。本書は、リリ・ブーランジェ以外の女性作曲家の多くを採り上げており(邦人も含め)、大変に読み応えのある充実した内容になっております。小生も初めて知る作曲家も多く、是非作品に接してみたい作曲家ができてしまい嬉しい悲鳴を上げております。古書でもさほど高値ではなく入手できると存じますので、是非ともお手にされては如何でしょうか。
リリの「ローマ賞」への挑戦は1912年から開始されます。しかし、同年は予選用のフーガを書き終えたところで病状が悪化したため、途中棄権をせざるを得なくなりました(因みに、同年の「ローマ賞(音楽部門)」の本選進出は4名で大賞該当者なしの結果となったとのこと)。その後、医者にかかる頻度も増し転地療養を繰り返すことになっておりますが、その甲斐もあって翌1903年には体調も持ち直すことになりました。そこで、同年の「ローマ賞」へ仕切り直して挑戦をすることになります。「ローマ賞」は、志願者をパリの東北部にあるコンピエーニュ城に隔離して行われます。“一次予選”では、応募者は与えられた主題に基づくフーガと合唱曲を5日以内に仕上げ、審査の結果その内の6名までが“最終選考”に進むことになります。その課題が、伝統的な主題の押韻テキストによるカンタータの作曲であり、合唱・オーケストラに独唱者3名を含む編成で構成することとなります。そして、4週間以内に総譜とピアノ・スコアを揃えて提出することが求められると言います。1913年の志願者は13名で、そのうちの2人が女性であったといいます。同年の最終選考は、ゲーテ『ファウスト』第二部に基づき制作された台本に基づきカンタータとする課題でありました。その結果、同年7月にリリ自身の指揮による実演による最終審査で、審査員36票中の31票獲得という圧倒的大差でリリへの「大賞」授与が決まりました。姉も成し遂げられなかった、しかも史上初の女性への「ローマ大賞」受賞を、僅か19歳のリリが成し遂げたのです。「課題への知的な取り組み」「朗誦の正確さ」「暖かく豊かな感受性」「あふれる詩情」「的確で色彩的なオーケストレーション」において極めて優れる作品であることが受賞理由として挙げられているそうです。その作品が『ファウストとエレーヌ』であり、フォーレ、サン=サーンス、G・シャルパンティエなどの審査員からも「数年来最高の出来栄え」と絶賛されたそうです。小林氏は本作を評して「確固とした合唱様式に、旋法性やオリエンタリズムと、半音階や印象派風な和声を織り混ぜた、リリの音楽的個性の結晶が見られる」としております。また、過去に22歳で「ローマ大賞」を獲得したクロード・ドビュッシーは「さまざまな作曲手法の経験が、19歳とは思えぬほどの貫禄を彼女に与えている」と書き残しております。20歳にも達していない女性初の「ローマ大賞」受賞は、当然の如く世間一般でもセンセーショナルに受け止められ、リリが一躍音楽界の寵児として持て囃されることになったことは申すまでもございません。それは、フランス国内に止まらず欧米諸国でも同様で、これ以降アメリカ・ロシア・イタリアからもスコアの注文が相次いだと言います。楽譜出版社として著名な「リコルディ社」(イタリアのミラノに本拠をおき、ベッリーニ、ドニゼッテイ、ヴェルディ、プッチーニのオペラ作品の楽譜出版をほぼ独占した出版会社)との“独占出版契約”も結ばれ、受賞作の公開初演も大成功を博してもおります[作曲家でもあるガブリエル・ピエルネ指揮「コンセール・ラムルー」(ラムルー管弦楽団)による]。リリにとっての1913年秋は華やかに彩られた、生涯で最良の日々であったものと想像されます。しかし、こうした多忙な毎日でリリの健康は次第に蝕まれていき、年末には再び病床につくようになります。従って、大賞受賞者に課されるローマ留学も遅れての旅立ちとなりました。先に申しあげておかねばならないことは、この段階で、彼女に残された時間は僅かに5年に過ぎなかったのです。因みに、リリの受賞作である『ファウストとエレーヌ』でありますが、ナディアの門人でもあるヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮BBCフィルハーモニック等々による英シャンドス盤(1999年)が現在入手しやすい唯一の音盤かと存じます(イゴール・マルケヴィッチ指揮モンテカルロ歌劇場管弦楽団による米エベレスト社製の音盤を拝聴したいと願っておりますが、哀しいかなCD化すらされておりません)。
さて、「ローマ大賞」受賞者に対する特権であり義務でもあった4年間のローマ留学も、健康上の理由からリリは1914年と1916年の前後二回、約6か月の滞在で切り上げざるを得なかったと言います。湿気の多いローマのメディチ荘の建物、リリ以外の受賞者が男性ばかりであったこと等々、そもそも身体的に虚弱なリリにとっては決して居心地の宜しい場ではございませんでした。また、リリの体調を維持するために母の付き添いと介護女性を雇い入れたこと、感染を避けるために集団での食事をとらずに自室で済ませてしまうことも、メディチ荘の支配人からの不信感を助長したとされます。今では考えられないことですが、リリの身体的な実情への周囲の無理解が大きかったのです。また、ローマ留学が短期間に終わったもう一つの理由として、第一次世界大戦の勃発も大きな影を落としてもおりました。申し上げるまでもなく、第一次世界大戦において、当初フランスとイタリアとは敵対関係にあったからに他なりません。ただ、そうした中でも、リリはメディチ荘の庭園を愛で、街の美しさに感銘を受け、また同宿の芸術家仲間とは温かい交友関係を結んだと言います。そして、最初のローマ生活から、ヴァイオリンとピアノのための作品「行列」が生まれております[ナディアの門下生でもあったクリフォード・カーゾン(ピアノ)とユーディ・メニューイン(ヴァイオリン)という名手二人の共演によって収録された名演がございます(EMI)]。穏やかで明るさにも満ちた愛らしい忘れがたき佳品であると存じます。
一端パリに戻ったリリですが、時は第一次世界大戦の渦中でした。姉と協力して戦地に駆り出されたパリ音楽院同窓生に手紙や必要物資を送ったり、留守家族の相談に乗ったりと、物心両面から彼らを支える人道支援活動に邁進することになります。また、ヴィドールなどの賛同を得ての慈善演奏会の開催にも尽力したといいます。この時期のリリの作品が殆ど残されていないことは、こうした活動に邁進していたことが大きな要因だともいいます。ただ、2度目のローマ行きに先立って、リリは予て望んでいたモーリス・メーテルリンク(1862~1949年)[ベルギー生まれの象徴主義の詩人・劇作家で児童劇『青い鳥』の作者と申せば誰でもピンときましょう]の戯曲『マレーヌ姫』のオペラ化の手はずを整えたとのことです(リコルディ社との契約の一項にも本格オペラの提供が含まれていたそうです)。決して優れぬ健康状態でしたが、創作意欲は旺盛であったことを知ることができます。ただ、死の直前までスケッチを続けた本作も、リリの早世によって未完となっております。小林氏は「完成していれば、同じ台本作者によるドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』と比較してみる興味も大きかっただろう」と述べておられますが大いに同感でございます。しかし、この2度目のローマ滞在のリリの体調はますます深刻の度を増しており(戦時支援での無理が祟ったこともございましょう)、窓辺に立つのがやっとという有様であったといいます。そうした中でも、力作として今に残る『詩篇』2曲(『詩篇24《全地は主のもの》』、『詩篇129《私が若いころから彼らは私を苦しめた》』が生まれており、小康を得た際には母と姉とともにヴァチカンへの参拝もしていたとのことです。しかし、体力の衰えは如何ともしがたく、本人は医師からは内密に余命は2年と告げられたと言います。しかし、そのことを母と姉に語ることなく、ローマのメディチ荘を引き払ってパリに戻ります。その車中ではもはや固形物が喉を通らない状態だったといいます。
そのような状況の中でも、歌曲『はかり知れぬ悲しみに包まれて』、翌1907年には詩編130番に基づく演奏時間30分にも及ぶ畢生の大作『深き淵より』、そしてオリエンタリズムを思わせるタイトルにも関わらず陳腐な東洋風楽曲ではなく“普遍的な愛と平和への祈り”(小林氏)の音楽となり得ている『仏教徒の古い祈り』を完成させております。それぞれ、忘れがたき名作です。その後、転地療養を繰り返したものの健康状態が回復することはなく、1918年3月にドイツによる爆撃激化に備えて移転したパリ郊外のメヅィの家が終の棲家となったのでした。リリが危篤となった際、リリは姉ナディアに“辞世の歌”としてのレクイエム『ピエ・イエズ(敬虔なイエス)』を口述筆記してもらっており、これが彼女の絶筆となりました(ソプラノ・弦楽四重奏・ハープ・オルガンで奏される、震えの来るような静謐さの支配する音楽です)。リリの親友、ナディアの教え子たちが昼夜を分かたず看病に当たりましたが、それも奏功することなく同年3月15日遅くにリリは24歳7か月という若さで身罷ることになったのでした。遺体はパリに運ばれモンマルトルの墓地で今も安らかな眠りについております。こんなことは、どうでもよいことですが、リリの生きた時代は映像技術が飛躍的に進歩した時代にあたりますから、彼女の姿も多くの写真に収められております。その肖像をご覧いただければ、誰もがリリの上品な美しさに驚かされると存じます。ネットで検索されれば今すぐにでも、生前の姿に接することができます。死を間際に控えた病床の写真もございます。姉ナディアと親友ミキと三人で撮られた写真であります。ナディアとミキの表情には悲痛な硬さがあるにも関わらず、心を許す者同士の撮影のためでしょうか……二人を見つめる病床のリリの顔には、静かな微笑みがたたえられているではありませんか。そこには、どこにも病魔との戦いによるやつれた姿を微塵も感じさせません。そこにいる恰も『ミューズ』を想起させる穏やかなリリの姿に胸の詰まる思いとなります。
リリ・ブーランジェが短い人生で残した完成作品は50曲ほどといわれます。実際に音盤で聴くことのできる楽曲は決して多いとは申せませんが、それでも探してみると可成り数になります。もともとの作品数が少ないので音盤化されている楽曲の割合でいえば、例えばジェルメーヌ・タイユフェールに比較すれば圧倒的に高いものがございます。しかし、それでも手軽にすべての作品に接することができるわけではありません。しかし、小生もその半数ほどには接して言えることでありますが、採るに足らないと思うような作品には、ただの一つもございません。いや、むしろ耳目をそばだてるに値する作品ばかりでございます。本文中で作品名を挙げたものは申すに及びませんが、これが20歳前後の人がものした作品とは信じがたいほどの完成度でございます。その中でも、小生が屈指の傑作と称して憚らない作品がございます。それが、「ローマ大賞」受賞の副賞であったローマ留学(第1回目)に出かけた1914年、移動の途中のニースにある親友の家で出会ったフランシス・ジャム(1868~1938年)の詩集『悲しみ』に出会ったことから生まれた作品であります。リリがジャムの詩集から選んだ13編に曲をつけ翌年に纏め上げた歌曲集『雲の切れ目(「空のひらけたところ」「空の広がり」「雲の晴れ間」等の様々な訳語で知られますが如何せん仏語には通じておりませんのでどれが正しいのか全く分かりません)』でございます。ジャムは、スペインと国境を接するピレネー県に生まれたフランスの詩人で、終生その地方の自然を愛したといいます。その作品には手塚伸一訳『フランシス・ジャム詩集』2012年(岩波文庫)で手軽に接することができます。小生は出かけたことはありませんが、彼の故郷であるピレネー山脈周辺の自然(木漏れ日の降り注ぐ林や、足元に可憐に花をつける花の愛らしさや香り)を背景にして綴られる、少女へ寄せる思慕、叶うことなく散った結末といった、切ない哀惜が穏やかに紡がれます。私のような古い人間には、どこか懐かしさを感じさせる作品群です。それがジャムらしさなのではないかと思います。そして、そのような詩にリリが惹かれたことも何となく頷けるようにも思えます。以下に同作全13曲のタイトルを並べてみましょう。
歌曲集『雲の切れ目』(詩:フランシス・ジャム)(曲:リリ・ブーランジェ) 1 彼女は牧場の下の方へ 2 彼女は陽気だが 3 時々ぼくは悲しい 4 ひとりの詩人が言った 5 ベッドの裾の壁に 6 もしこういうことすべてが 7 こんど会うとき 8 あなたはぼくを 9 去年咲いたこのリラは 10 二本のおだまきが 11 僕が苦しんだから 12 彼女のくれた 13 オドーの湿った牧場で (フランシス・ジャム 手塚伸一訳『桜草の喪・空の晴れ間』より1994年(平凡社ライブラリー) |
上記13篇の歌詞につきましては、藤井宏行氏による「梅丘歌曲会館・詩と音楽」なるホームページでフランス語原詩と邦訳とを読むことができますのでご紹介をさせていただきます。本サイトについて、運営をされる藤井氏はその趣旨について以下のように語っていらっしゃいますので、以下に冒頭部分を引用させていただきます。サイトの内容は、数多くの作曲家別・詩人別に多くの歌曲作品の原詩(英語・仏語・独語・露語等々)とその邦訳とを併記して紹介するものでございます。基本的に価格の安い輸入盤しか購入しない小生のような者には、言語を伴う歌曲集の場合は邦訳に接することができませんから。何よりもその膨大な歌曲作品群の邦訳は有難いものでございます。実際、小生は度々お世話になっております。こちらに「リリ・ブーランジェ」の項目も設けられており、そこに『雲の切れ目(空の広がり)』全13篇全てのフランス語の原詩・邦訳が掲載されております。是非ともご覧になってみてください。また、併せて本歌曲集につけたリリの楽曲についての藤井氏のコメントも付されております。それも併せて部分的にですが引用をさせて頂きたいと存じます。藤井氏の素敵なコメントに小生が付加することは何もございません。流石に沢山の歌曲を聴き込んで斯様な素晴らしいHPを作成される方ならではの審美眼で、本歌曲集の特色を的確に射抜いていらっしゃることに感心させられます。これを読まれたら、皆様も恐らく御自身でも聴いてみたくなること存じます。
【本サイトについて】より 【リリ・ブーランジェ『雲の切れ目』】より |
因みに、藤井氏御自身は、仏ティンパニ社製のジャン・ポール・フーシェのテノール歌唱の音盤を愛聴されていると述べておられますが、藤井氏も書き及んでいるように現在入手困難盤でありまして、中古市場でも高値がついております。そこで……と言ってはナンでございますが、前編でもご紹介させていただいた、数カ月前に新譜として発売されたばかりの仏ハルモニアムンディ社製『ナディア&リリ・ブーランジェ歌曲作品集』(3CD)をお薦めいたします。3枚組最後の一枚にリリの手になる歌曲の全てが収められており、ここで『雲の切れ目』全13篇もお聴きいただけます。ただ、こちらの独唱にはソプラノが充てられております。それはそれで結構ではございますが、(リリが楽譜で如何なる独唱を指定しているのか存じませんが)ジャム原作は男性から少女への思慕を題材にしておりますから、本来であれば男性歌唱が望ましいのではありますまいか(それでもワーグナー楽劇のような「ヘルデン・テノール」のような歌唱は願い下げですが)。また、本CDでは、姉ナディアの歌曲の全てがその前の2枚に網羅されているのも魅力的です(従って実質的には姉妹の歌曲全集と称すべき内容であります)。ところで、ナディアの手による残された作品の成立年は、必ずしも妹リリ没年より前の作品ばかりではないようです。つまり、ナディアが自身で語る「私の音楽は美しいと言えるほど良くないし、面白がられるほどに悪くはない」から、リリの才能に遠く及ばない自身の作曲活動を断筆した……という、よく知られるエピソードは、生前には自作は公開しないということであり、実際には細々である可能性が大きいとは思われますが、作品を手掛けてはいたのだと思われます。今回ご紹介した歌曲集については、作品の成立年までは記されておりませんから、恐らくリリ没年より以前に書かれた作品なのかもしれませんが、遺作の形で相当に多くの作品は残されているではないでしょうか。多忙であったナディアの人生でありましたから、恐らく大曲までは無理としても、折に触れて手掛けた歌曲やピアノ曲は、そこそこの数が自筆楽譜の形で残されているのではないかと想像するものでございます。ナディアの遺品調査というのは行われているのでしょうか。気になるところであります。勿論、リリの死後に、自身の作品でなく妹リリの残した作品を世に知らしめることを使命と考えていたこと、また「音楽教育者」として後進を育成することを何よりの天命としていたことは紛れもない事実であります。しかし、実際に耳にするナディアの歌曲を耳にすれば決して駄作などではないことは明らかです。本CDでブーランジェ姉妹の歌曲作品の現状における全貌を堪能しながらも、新たなる作品の発見に接するチャンスが訪れることにも密かに期待を寄せるものでもございます。
もしご興味が喚起されたのでしたら、皆様もブーランジェ姉妹の作品や為人について知ることのできる書籍等に接してみてはいかがでしょうか。姉妹それぞれの人生を思いながら作品に接すれば、様々な思いが去来することは間違いないものと思います。そうでした、ネット上のサイトに『リリ・ブーランジェに関するエッセイ二編』がございます(鷺澤伸介さんという方が運営されていらっしゃるようです)。そちらではカミーユ・モークレールとボール・ランドルミがリリについて述べたエッセイが翻訳されておりますが、それ以上に鷺澤氏の「補注」の充実ぶりに瞠目させられます。是非検索されてみてください。
早いもので、長月9月も残すところ本日を入れて4日となりました。古来「暑さ寒さも彼岸まで」と言い慣わされて参りましたが、この時期に至っても未だ真夏日が続きます。流石に朝夕には秋らしさを感じないわけではございませんが、今後もそこそこの残暑に見舞われましょう。そこで、何時もお世話になっております塚本氏撰による名アンソロジーより、姉弟の作品を一首ずつ冒頭に掲げさせていただきました。鎌倉時代後期から室町時代の初めにかけて一世を風靡した京極派(所謂「玉葉・風雅調」)の詠歌によって、少しでも秋らしさをお感じとりいただけましたら幸いです。何時もの塚本氏の短評とともにご堪能ください。
三夕の寂蓮を彷彿とさせる第二句が「夕暮の尾花」を巧者に表現してゐる。更に、定家も顔色無しの大胆な修辞「秋ぞうかべる」が、この一首を凡百の尾花歌から際立たせた。同じ秋上、進子内親王の「秋さむき 夕日は峰に かげろいひて 丘の尾花に 風すさぶなり」は、清楚でストイックな叙景で、為兼の歌とは対照の妙をなし、これもまた捨てがたい。 秋草の、白・黄・紫の淡々しい色にうつすらと霧がかかり、しかも、夕月の下の衣の襲色目(かさねいろめ)のやうに、ゆかしく匂ひ立つ。「隠れぬほどにほのかなる」の第二・三句の微妙な斡旋(あっせん)は、作者の歌才を示す。しかもそれが、萬葉集の歌の一句「かくれぬほどに」を題に取つた、殊更な趣向との詞書を見れば、一入(ひとしほ)に面白い。花野の扇絵を思はせる一首。
[塚本邦雄撰『清唱千首』1983年(冨山房百科文庫35)より] |
さて、予てからお知らせをさせていただいておりますように、本日を含めた4日後の令和6年9月30日(月)から、本館は「常設展示リニューアル」に向けた休館に入らせていただくことになります。期間は令和7年10月末日までを予定しております。令和7年11月のリニューアルオープンを目指しますが、世間では資材不足・人員確保の困難等による工事期間の遅れが生じておりますので、本館においても再開の遅れが生じる可能性が皆無とは申せません。こればかりは予測がつかないところでございますので、飽くまでも「予定」とさせていただいております。この点、承知おきくださいますようお願い申し上げます。ちなみに、NHKニュースでは「全面改修に伴う休館」と報道されておりましたが、正しくは「常設展示を中心とする展示内容のための改修」となります。つまり、建物の外観等には全く手が入りません。要するに外からの見た目は現状と全く変わりません。外壁の洗浄や再塗装もいたしません(そのためには建物全体に足場を組んで飛散防止シートで建物全体を覆わなければなりませんから途轍もない金額が必要になります)。飽くまでも中身勝負の改修となりますことをご承知おきください。我々としましては、新築したかのようなピカピカの外観ではなく、ある程度の古色が伴った外観である方が反って趣があるのではないかとも思ってもおりますが、皆様は如何お感じになられましょうか。
さて、一年と一カ月の休館中は、各展示室改修(通史展示の実現・導線の明確化・特別展示室の新設等々)・トイレ改修・エレベーター全面入れ替え等々を行う関係で、当然のことながら「展示事業」、館内での講座などの「教育普及事業」は一切できなくなります。他の市内施設の改修工事と異なり、博物館リニューアル作業というのは、我々職員が展示内容改修に直接関与しなければなりません(展示資料選定から解説キャプションの執筆等々まで)。また、同時並行で『千葉市史』編纂事業も継続し、「開府900年記念事業」として進める『千葉氏史料集(仮称)』編集も鋭意進行中(令和7年度末刊行予定)であります。従いまして、職員は引き続いて未改修区域の「事務室」「市史編纂室」で勤務をしておりますから、これまで通りの場所でのメール・電話等での対応は可能でございます。ただし、休館中の職員出勤日は変更となりますのでご注意ください。従来の「開館日:土曜日・日曜日・祝祭日」、「休館日:月曜(祝祭日に当たる場合はその翌日)」というパターンではなくなります。リニューアル工事は日曜日・祝祭日以外は土曜日も含めて実施されますので、我々職員もそれに合わせての勤務対応となるからです。つまり、休館期間中は、日曜日・祝祭日は職員全員が非番となり、土曜日・月曜日はシフト対応での出勤体制をとることになります。以上のことにつきましてご承知おきくださいますようお願い申し上げます。従って、日曜日・祝祭日は電話対応等ができませんので御注意ください。
ただ、館外での事業は基本的には休館中も実施をさせていただきます。本年度後半に関しましては、例えば10月に開催いたします「千葉市史研究講座」[12日(土)「原始古代」「中世」、19日(土)「近世」「近現代」]、千葉大学との共催で12月に開催いたします「千葉氏公開市民講座」がそれにあたります。前者の申し込み期間は既に終了しておりますが、後者のご案内はこれからとなります。「市政だより(11月号)」と「本館ホームページ」等で詳細につきましてはご確認いただき、ご希望の方は所定の方法でお申し込みください。加えて、千葉市内小中学校からの要請による「出張出前授業」は休館中も実施しますので、ご要望がございましたらご相談ください。また、本館で刊行しております図録・書籍の販売に関しましては通信販売での対応が基本的となりますが、休館中も取り扱っております。在庫状況・購入方法等の詳細につきましては本館ホームページ内に「調査研究・刊行物」というコンテンツがございますので、そちらで御確認いただけます。特に複数冊のご購入の場合は、重量で発送方法と送料が変わってまいります。その場合は、HPには各冊子・図録等の重量も記載しておりますので購入冊子の重量を合算してください。HP内に重量と送料との換算表がございますから、それで送料と発送方法とをご確認いいただけます。お手数をお掛けいたしますが、何卒よろしくお願いを申し上げます。また、10月1日より郵便関係料金が改訂されますので(値上がりします!)、今まで通りではございません。必ず本館ホームページにて送料のご確認をお願いいたします(9月末日まではHP内に、“現状料金”と10月以降“新料金”との双方を掲載してございます)。
また、リニューアルオープン後となる、令和7年度後半には「千葉開府900年」を記念する「プレ特別展」を、「千葉開府900年」当該年度となる令和8年度には、「千葉開府900年」記念特別展を2回開催をさせていただくことを予定しております。何れも中世武士団「千葉氏」に関わる内容となります。まだ、その詳細を述べる段階にはございませんが、明らかにできる段階になりましたら本稿でもご紹介をさせて頂きたいと存じます。つまり、通常「特別展」は年度内に1回の開催となりますが、令和7年度後半からは「開府900年」を寿ぐための特別展を立て続けに3回開催させていただくということでございます。そうするためには、当該年度になってから準備を始めたのではとても間に合いません。従いまして、我々職員は休館期間後半には、担当者毎に3回に亘る特別展に向けての準備も並行して進めていくことになります。周囲からは「休館になって仕事がなくなって羨ましいですねぇ……」などという、「トンデモ発言」「カンチガイ発言」を受けて困惑することがございますが、それは上述いたしましたことから明々白々のように大いなる認識違いでございます。我々も相当な激務になろうかと戦々恐々としておる次第でございます(苦笑)。尤も、こうしたことが好きでこの仕事をしているのですから、大いに楽しみながら準備を進めて参りたいとは存じております。新装なった館内と「常設展示リニューアル」は勿論でございますが、3回の特別展開催も大いにご期待をされていてくださいませ。
ところで、小生執筆になる本稿も展示リニューアル事業に伴う休館中は、当該事業に専念するため、従来のような定期的アップ(基本的に毎週金曜日)を差し控えさせていただく所存でございます。以降は、展示リニューアル事業の進捗状況の報告を含め、不定期でのアップとさせていただきますので、併せてご理解をいただけましたら幸いでございます。これまで、ほぼ4年半に亘って、どうでもよいような長文でありますが、毎週欠かすことなくアップを続けてまいりました。これまで懲りもせずにお付き合いくださった皆様には、衷心よりの感謝を申し上げます。ありがとうございました。知っていることを縷々述べているだけの自己満足に過ぎないと揶揄されたこともありましたが、館長としての小生の任務の一つは皆さまの興味・関心の範囲を広げることにあると考えております。一つ事を掘り下げて追及するのは専門家(研究者)の役割であります。そして、本館ではそのためのコンテンツとしてHP内に「研究員の部屋」を開設しております。従って、小生がそれに屋上屋を架すがごときことを繰り返してもさしたる有効性は生じますまい。そもそも、小生は「専門家」ではございません。しかし、何事にも興味を持って面白がることが、人生の幅を広げ、結果としてたった一度しかない人生を豊かにすることを小生はこれまでの半生の中で痛感しております。勿論、自身の人生の本質に関わらないと考えることに関しては、一切触れることもしてまいりませんでした。たった一度の人生ですから、さしたる興味も面白味も感じないことに関わる時間も手間も無駄でございます。小生も既に前期高齢者の仲間入りを果たし、平均寿命から推しても人生残するところ10~15年に過ぎますまい。余命10年間として、何時も申し上げることですが、毎日一冊の本を読んだとしても3650冊、二日で一冊として1850冊、週に一冊ならたったの500冊ほどしか読むことができないのです。それがどれほど少ないものか、是非とも図書館の書架で確認されると宜しかろうと存じます。あまりの少なさに驚愕されること必定かと存じます。小生としては、他にも耳にしたい音楽は山のようにあり、出かけたいところ、見てみたいものもごまんとございます。大切な親友との時間、掛け替えのない家族との時間も大切にしたいと思います。それぞれを十二分に味わい尽くし、楽しみつくしてあの世に旅立つためにも、その世界の大小はあっても、棺桶に片足を突っ込むまでは、できる限り自身にとっての本質と深くかかわることを選び取り関わり続けて行きたいものだと思っております。実際のところ、世の中は興味深いことで満ち溢れておりますし、個人的にそれら一つひとつを慈しみ、堪能して参りたいとも願うものでありますし、人生は生きるに値するものだと確信する次第でございます。本稿でこれまで採り上げた内容も、その折々のそうした出会いの報告でございました。今後も数は減りますが折に触れてはアップをしてまいりたいと存じます。その時の訪れを気長にお待ちくださいましたら幸いでございます。尤も、斯様な原稿をお待ちになる以上に、皆様お一人おひとりが、興味を感じる世界を広げられ、大いに楽しみまれることが何より肝要かと存じます。逆に、小生もそうしたお話を耳にして自己の興味の範疇を広げる機会になればと存じます。
最後になりますが、本稿も不定期掲載となります関係で、小生が現段階で知りえて強い興味・関心を抱いている博物館の展覧会等について、「大きなお世話」を承知で幾つかご紹介をさせていただこうと存じます。それが、前後数カ月の期間で開催される幾つかの美術展・歴史展、及びテレビ番組でございます。それらを以下でご紹介をさせて頂きますので、もしよろしければ皆様もどうぞ脚をお運びくださいませ(各展示会の概要文につきましては、各館のホームページに掲載される内容をそのまま引用させていただいております)。因みに、土浦市博の展示会は「テーマ展」でありますので図録は作成されていないことを確認しております(8頁のリーフレットを無料で配布しているとのこと)。その他2館は特別展であり図録が販売されるものと存じます(英一蝶展図録は3千円弱の価格です)。小生の自宅の近くを通過する水戸街道、江戸の都市インフラ整備としての玉川上水開削事業と、それぞれ興味のある内容でございますが、特にサントリー美術館で開催中の英一蝶展には多大なる関心がございます。英一蝶に特化した美術展は、記憶にある限りこれまで2回開催されており、何れも板橋区立美術館でのものでありました。2回の図録は共に所有しており、特に2回目『一蝶リターンズ -元禄風流子 英一蝶の画業-』(2009年)は充実の内容で今でも時に紐解く図録です。しかし、今回のサントリー美術館の展覧会は初の本格的な回顧展を謳っており、展示作品数も過去の展示会を大きく上回っております。近世絵画にご興味がございます方でしたら、必ずや出掛けておかれることをお薦めいたします。これほどの規模の一蝶作品が集合するチャンスは、この後もそうはないものと思われます。今から会場で一蝶作品と出会えることにワクワクといたします。個人的には、評判が評判を呼んで会場が込み合わないうちに早めに出かけようと思っております。続いて、テレビ番組のご紹介です。テレビ番組で楽しみに待つ番組などは滅多にございませんが今回は例外です。何故ならば、偏愛しておりました『ブラタモリ』が特番で帰ってくるからです!!定期放送時には、これほど心待ちにしていた番組はございませんでした。斯様な次第で放送終了時以来、土曜日の生活にぽっかりと穴が開いたようだったのです。定期放送の終了時に、機会が許せば今後は特番で放送の可能性があることが示唆されておりましたが、斯くも早くに実現するとは思いませんでした。喜ばしい限りです。パートナーが野口葵衣さんでないようのがチト残念ですが。
今回の復活編は、三日間連続放送で「江戸時代の道」を歩いて探る内容となるようです。今回は3回に分けて京都から大坂(現:大阪)までを歩いて探る内容となることまでが予告されております。所謂「東海道」(江戸の日本橋から京の三条大橋まで)の延長となる、大坂までの街道(俗に「京街道」と呼ばれる街道です)を採り上げるものと思われます。京都から順に伏見宿、淀宿、枚方(ひらかた)宿、守口(もりぐち)宿を経て大坂にまで至る近世以来の街道が対象となるのだと予想されます。淀宿の先の南には男山が聳えており、山上には石清水八幡宮が鎮座しております。また淀宿と枚方宿の間には遊郭を有する間の宿(あいのしゅく)橋本もあり、今なおその面影を伝えております。正確には、京都から南下して伏見宿に至るまでは「伏見街道」、その伏見宿で東海道を大津で分岐して山科盆地を南西に向かう「大津街道」とが合流し、その後に淀川左岸を大坂へと向かう道が「京街道」ということになるのだと思われます。尤も、現在とは異なり道路名称と区間が明確に法規的に定められているわけではありませんので、場所によっては「大坂街道」と呼称されているなど曖昧なものでありました。しかし、京都から大坂までの経路は江戸と京都を結ぶ東海道と一体的に把握されることもあり、(昭和になってからの俗称のようですが)「東海道53宿」に「京街道4宿」を加えて、「東海道57次」と呼称される場合もあったと言います。何れにしましても、個人的に当該地域の街道の在り方には大いに興味・関心がございます。古代道としての山陽道を引きつぐ「西国街道」は京から淀川右岸を西に向かいますから大坂を経由しません(西国街道の経路は、京の東寺口を出てから山崎宿→芥川宿→郡山宿→瀬川宿→昆陽宿→西宮宿→兵庫津と続き、更に西へ西へと続いていきます)。従いまして、西国街道を逆に東に進んできた者が大坂に向かうためには、西宮宿で西国街道から分岐し、城下町である尼崎を経由して大坂に至る「中国街道(中国路・浜街道とも)」を利用することになりました。西国大名の場合、彼らが京都に入ることは基本的に幕府がご法度としていたようですから、参勤交代で江戸へと向かう際に畿内を通行するルートは、領国→西国街道→(西宮)→中国街道→(大坂)→京街道→(伏見)→大津街道→(大津)→東海道→江戸という複雑なルートを通行したものと考えられます。まぁ、瀬戸内海を船で移動する大名もありましたから、実際には更に複雑な手段と経路が用いられていたのだと思われますが、大坂からの伏見へと向かう京街道は主たる幹線道路として機能したものと考えられます。このあたりのことにつきましての水先案内は「伏見学」を標榜され、広く当該地域のフィールドワークを展開される京都歴彩館の若林正博さんが適任者だと存じます。放送に出演される解説者は本稿執筆時には公表されておりませんが、若林先生の『ブラタモリ』登場に大いに期待が高まります。これを機に、小生も大いなる関心の対象としております「道」シリーズを年に何度かの枠で放送していただければこれに勝る喜びはございません。タモリ氏の健康を第一にすることは勿論でございますが、今後とも細く長く続けていただきますよう心より祈念する次第でございます。
英一蝶(はなぶさいっちょう・1652~1724)は元禄年間(1688~1704)前後に、江戸を中心に活躍した絵師です。はじめは狩野探幽の弟・安信のもとでアカデミックな教育を受けますが、菱川師宣や岩佐又兵衛らに触発され、市井の人々を活写した独自の風俗画を生み出しました。この新しい都市風俗画は広く愛され、一蝶の画風を慕う弟子たちにより、英(はなぶさ)派と呼ばれる一派が形成されます。他にも、浮世絵師・歌川国貞のように一蝶に私淑した絵師は多く、後世にも大きな影響を与え続けました。また、松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむなど、幅広いジャンルで才能を発揮しています。
加えて、その波乱万丈な生涯も人気に拍車をかけました。一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪になるという異色の経歴を持ちます。宝永6年(1709)、将軍代替わりの恩赦によって江戸へ戻りますが、島で描かれた作品は〈島一蝶(しまいっちょう)〉と呼ばれ、とくに高く評価されています。そして江戸再帰後は、「多賀朝湖(たがちょうこ)」などと名乗っていた画名を「英一蝶」と改めました。
2024年は一蝶の没後300年にあたります。この節目に際し、過去最大規模の回顧展を開催します。瑞々しい初期作、配流時代の貴重な〈島一蝶〉、江戸再帰後の晩年作など、国内外の優品を通して、風流才子・英一蝶の画業と魅力あふれる人物像に迫ります。 (サントリー美術館HPより)
江戸時代、土浦の城下町やその周辺地域は、水陸交通の要衝として繁栄しました。陸路の中でも多くの往来があったのが、水戸道中です。江戸から土浦を経て水戸へ繋がるこの道は、江戸時代前期には整備されたと考えられており、土浦藩主や水戸徳川家、東北諸藩の交通を支えました。
江戸時代当時の姿を探る手がかりとなるのが、宝暦8年(1758)に土浦藩主土屋篤直(1732~76)が描いた「土浦道中絵図」です。この絵図には千住宿(東京都足立区)から中貫宿(土浦市中貫)までの道程や周辺の様相が細かに描かれています。土浦市内の個人が所蔵していましたが、令和6年に土浦市立博物館へ収蔵されることとなりました。
今回の展覧会では、「土浦道中絵図」をとおして18世紀中頃の水戸道中の姿を紹介するとともに、この道の機能や通行を支えた人々や地域の様相にも迫ります。
(土浦市立博物館HPより)
玉川上水は、今から370年前の承応3年(1654)に江戸市中に水を送るために作られた上水道です。
多摩川の羽村取水堰から水を引き、四谷大木戸水番所(現在の四谷区民センターの場所)までの43㎞は地上を川のように流し、その先の江戸市中は地下に石や木でできた水道管(石樋(せきひ) ・木樋(もくひ) )を通して配水しました。
新宿区内には上水の水質・水量の管理を行う水番所があった他、神田上水への助水堀(じょすいぼり)、渋谷川への余水吐(よすいばき)、四谷見附の掛樋(かけひ)など、多くの関連施設がありました。玉川上水の歴史や江戸時代の水道利用について、古文書や絵図、発掘調査の成果などを通して紹介します。
(新宿区歴史博物館HPより)
以上、長々と失礼をいたしました。休館中は様々なる面で皆様にはご迷惑とご不便とをおかけ致しますことにつきまして、最後に改めましてお詫び申し上げます。令和8年(2026)は、大治元年(1126)に千葉常胤の父常重が内陸部の大椎から、現在の千葉中心街に本拠を移し(その地名を名字として名乗ることになります)、現在の千葉の町の礎を築くことになってから「900年」という記念すべき年を迎えます。100年に一度しか訪れない「開府記念行事」に生きて出会える幸運を、是非とも市民の皆様にも味わっていただけますよう、我ら博物館職員もそれに相応しい充実の展示内容の具現化に向けて尽力してまいります。一年強の休館期間となりますが、皆様におかれましてはご理解を賜りますよう、伏してお願いを申し上げる次第でございます。
本稿を執筆しているのは10月半ば過ぎであります。本来であれば季節は既に秋へと移り、「次第に秋色も深まりを見せるころになりました」などと記してもさしたる見当違いのない頃合いだと存じます。しかし、今年に限って申せば、少なくとも小生は出退勤時にせっせと歩くと暫くは汗が止まらず、昼間は半袖でないと過ごせないほどでございます。植物は正直なもので、何でも今年は中秋の頃の月見飾りに薄(すすき)が間に合わなかったと聞きますし、我が家もそうでしたが各地の曼殊沙華の名所での開花も相当に遅れたといいます。金木犀も10月初めに微かに香ったように感じましたが(気のせいであったかも)、この千葉で本格的に街々にその芳香が強く漂いだしたのはここ数日であります。秋が短いのはここ数年恒例のことながら、本年は殊更にその感が強いように思われます。おそらく、いきなり冬に移るのでしょう。因みに、地球は「温暖化」の段階を通り越し、既に「沸騰化」のフェーズに移行している……といった言説まで耳に入ってまいります。これが単なる与太話であることを願いますが、本年の様子などを見ると強ち否定できないことを実感いたします。東京湾が熱帯魚の漁場となり、北海道が蜜柑の産地になったりすることが、近い将来に現実化するのではないかとの懸念が拭えません。その行きつく先は、寒冷地に適した農作物や魚介類の消滅を意味しましょう。近い将来、林檎が絶滅危惧種となり、塩引鮭一切れが数千円もする時代が本当にやってくるかもしれないのです。考えただけでも恐ろしい。ここにも「今だけ、金だけ、自分だけ」という現代社会の縮図が見え隠れするように思いますが皆様は如何お感じになられましょうか。地球上の国々は、武力を背景にしたいがみあいやら、実際に戦火を交えている場合ではないはずなのですが……。流石に明日明後日の問題ではありますまいが、このままでは、何れ地球上の人々が共倒れする可能性すら皆無ではないのですから。
さて、ここで話題を卑近なところに戻させていただきます。9月末日をもって本館はリニューアルのための休館に入らせていただいたところですが、それからアッという間に一か月が経過することとなります。9月27日(金)付の本稿にてリニューアル事業に傾注するため、9月末日をもって毎週金曜日アップという本稿の定期便形態を中断し、今後は不定期掲載とさせていただく旨を述べさせていただきました。その予告通り、凡そ一か月ぶりのアップとなります。ただ、不定期とは申せ、最低でも月一回程度のペースを基本とし、月末に近況報告を含めた内容をアップさせていただこうとは目論んではおります。尤も、関連業務にも自ずから繁閑が生じますので、必ずしもその限りではございませんが、その点はご承知おきいただければと存じます。リニューアルのための作業として、この一か月間で取り組んでおりますことは主に2つとなります。一つは開館時にはできなかった館内展示物の片付(収蔵庫への収納)、旧態然とした展示ケース・パネル等の撤去作業という前提条件の整備作業であり、二つには、新たな展示にあたっての解説等の作成という、正にリニューアルの核心となる重要な作業であります。まずは、初めに前者の方から……。
これまで各階展示室にあった展示物につきましては、常設展示の全面リニューアルの前提として、基本的には全て片付る必要があります。展示物の多くは複製でありますが、それでも製作には相当な費用が掛かっておりますし、リニューアル後にも展示するものも多々ございます。それらを収蔵庫内の取り出しやすい場所に整理して収納することは結構厄介なものでありますし、実物については特に破損しないように細心の注意を払って移動させなばならず神経を使う作業であります。また、これまで使用してきた展示ケースにつきましては、SDG’Sの要請もありますが、この御時世リニューアル費用が潤沢な訳ではありませんから、何にも増して経費節減のために継続使用が可能な展示ケースはそのまま再利用することになります。ただ、流石にそれ自体が展示資料となりそうな老朽化した「覗見ケース」「有孔ボード」等は廃棄処分となります。その峻別は既に業者と検討して決定を見ておりますが、現在エレベーター改築工事中のため使用不可能でありますから、階段での運搬が可能なものは職員で階下まで下ろして集積しております。もちろん、そこからは業者対応となりますが、そこまでは相当な力仕事も必要なのであります。片付けが終わった後の館内の様子は、過日本館X(旧ツイッター)でもアップさせていただきました。所謂「スッピン」に近い本館内の様子を見ることができるのは今だけとなります。我々職員であっても、こんなところに窓があったのか!?……などと新鮮な思いでいるくらいです。他方で、伽藍とした館内に立つと否が応にも「いよいよ始まってしまったな……」との背筋の伸びる思いにもさせられます。兎にも角にも片づけが終了しないと、新たな展示室の構成にも取り掛かれませんので、取っ掛かりはここからとなります。
現在職員が取り組んでおります二つ目の作業が、これまで数年の会議を通じて決定をみている展示構成と、ほぼ選定の終わっている各時代の概説や各展示品に関する、膨大な分量となる「解説キャプション」等々を分担して執筆することでございます。なるべく早めに取り掛かっておいた方がよいことは重々承知しておりましたが、開館中にはなかなか十分に時間をとって取り組むことができませんから、必然的に現在お尻に火がついて捩じり鉢巻きで執筆に勤しんでいる現況にあります。特に時間を要するのが、それぞれの解説を基本的に150文字以内に納めることであります。公立の博物館における常設展示のリニューアルであります。歴史をあまり理解していない方々も分かるように、専門用語を避け平易な言葉を用いて簡潔に説明とせねばなりません。我々は、正に本稿がそうであるように、長々と書くことは決して苦労の種にはなりません。しかし、短く纏めて伝えることは決して簡単なことではありません。何を削り何を残したらこちらの伝えたい内容を理解していただけるのか、如何なる文章構成で記述すれば分わかりやすいのか……等々、言葉を吟味し彫琢に彫琢を重ながら150字前後で纏めるのは思いのほかの難事でございます。下手をするとキャプション一つに(たった150文字の解説文を創るだけで)2~3時間を費やすことすらございます。書かねばならない原稿は一人当たりで10や20ではございません。従って、相当に苦吟しながらの作業となっていることを想像いただけるものと存じます。だから、早めに取り組んでおけばよかったんだよ……と仰られる皆様の顔が目に浮かびます。誠に御尤もではございますが、定期テスト前であっても学習に力が入るのは切羽詰まってから……というのが多かれ少なかれ“人の性(さが)”ではございますまいか。現状は間違いなくそれであります。
申し訳ございませんが、かような次第でして、「館長メッセージ」もそうですが、「研究員の部屋」も開店休業状態になっております(『千葉氏関係資料集(仮称)』編纂担当の坂井法曄氏も大変な作業なのですが、リニューアル作業には直接的には関わっておられませんので、我々の状況を勘案されて編纂作業で考えたことであればということで執筆をしてくださっております。ありがたいことでございます)。お前は大丈夫なんじゃないのか……と言われそうなので申し添えておきますが、小生も元々担当者の少ない「近現代」担当の一人として執筆に携わっております。また、各担当者からの原稿をすべて確認し、記載事項の過不足を確認したり、各時代間での記載の調整をして整合性をとる作業もございます。これはこれでなかなかに難しい作業でございます。斯様な次第で、現状で何より優先となるのがそれらの作業であり、職員一同で全力をあげて取り組んでいる状況にございます。月に2度の業者との打ち合わせを持ちながら、進捗状況の確認と作業の調整を綿密に行いながら作業は進められております。以上、現況でご報告できますことを述べさせていただきました。他にも予算関係のことなどでもあれこれと調整が必要であり、結構バタバタしながら作業を進めているのが現状でございます。
続いて、昨今仕事の合間の通勤時間で読んだ書籍で印象に残った書籍等につきまして5冊程をご紹介させていただきます。まず、地元千葉市と関わりのある小説家であり、本市に由緒のある話題を採り上げた書籍を真っ先にご紹介させていただきましょう。それが椎名誠『幕張少年マサイ族』2021年(東京新聞)なる回想録であります。この不思議なタイトルの由来については是非とも本書を手に取ってご確認いただければと存じますが(実に微笑ましい命名であります)、椎名誠の作品は元来興味の対象外にありましたから、作品を拝読したことも皆無でありました。ところが、出版元の東京新聞千葉支局長の方から本館に寄贈していただいた一本がございましたし、何よりも「地元ネタ」でもあったものですから、拝読させていただいた次第でございます。皆様も御存知の通り、小説『岳物語』で知られる椎名氏は、昭和19年(1944)東京都三軒茶屋に生まれております。しかし、5歳の折に千葉県酒々井へ転居、更に半年後に幕張に移り19歳で実家を離れるまでその地で暮らしました[幕張町が千葉市と合併して千葉市域となるのは昭和29年(1954)のことですから椎名氏が千葉市民となるのは小学校の高学年になってからのことです]。幕張小・幕張中で学び、高等学校は創立間もない千葉市立千葉高等学校に進学されております[昭和34年(1959)創立]。つまり、幼少時代から青年期に至るまでの多感な時期を本市域で過ごされたのです。本作は、東京新聞(千葉版)にのみ連載された記事を書籍化したものであり、連載は現在も継続しているようです(支局長さんから記事に掲載する写真提供の依頼を時に頂くことがありますのでそれと知れます)。
それに致しましても、椎名氏の作品が一地方版にしか連載されていないとは驚くべきことではありますまいか。それだけ、多くの方の目に触れずにいる可能性もあろうかと、今回ご紹介をさせていただくことにも少しは価値があろうかと存じます。尤も、話題は専ら幕張を中心としたローカルな内容でもありますし、既に時効が成立しているとは申せ、如何せん悪ガキのやることは表向きに語れないことも多いものですから、椎名氏御自身も千葉版だけなら……という条件でお引き受けなさったのかもしれません。しかし、実際に読み始めれば、滅法面白い作者の回想に引き込まれ、小生は一日半の通勤電車往復で240頁を読了しました。そして、何処でもこの時代の子供達のやっていることは似たり寄ったりだなと懐かしい思いにもさせられると同時に、子供達の遊び場であった干潟が埋め立てられていくことへの心情がノスタルジーを伴って綴られ、しみじみとした思いにさせられました。その意味で、子供の目を通して地域の変化を綴る、図らずも社会史的な面白さも横溢する作品として楽しみました。この時代のことはこれまでも諸々の作品で断片的には触れていらっしゃいましょうが、椎名氏は前書にあたる「潮風の朝」で、これまで280冊もの本を書いてきたが「この時代の話を書くのは初めて」と述べておられます。恐らく、ここまで纏めて千葉時代を書いたことが初めてということなのでしょう。そして、前書の末尾を「結局あの贅沢な海浜草原と、百万の小さな生物が賑やかに息づいていたビオトープと、そこで毎日活発に飛び跳ねていたぼくたち少年マサイ族は、怪物のような幕張メッセによって絶滅させられていったのである」と締めくくっておられます。その意味で、本書は少年時代から青年時代にかけて過ごした「幕張」という海辺の街への、「郷愁と愛惜と無念」の思いを捧げる「レクイエム」なのだと思いました。ここでは、敢えて一つひとつのエピソードには触れることは致しません。少なくとも千葉市域に古くからお住まいの方であれば、お読みになって共感されることばかりであろうかと存じます。勿論、その埋立地にお住いの方もその昔の幕張を知る有効な読書時間となりましょう。現在も連載中の諸篇が纏められる「続編」の刊行が大いに楽しみです(恐らく中学・時代の内容となると存じます)。皆様も宜しければ是非ともお手にされてみては如何でしょうか。
二冊目は、辻惟雄『最後に絵を語る-奇想の美術史家の特別講義-』2024年(集英社)でございます。辻氏は初代の千葉市美術館館長であり、本書の副題にもあるように伊藤若冲や曽我蕭白といった「奇想の画家」を世に広めた大なる功績で称えられるべき近世絵画研究者でございます。これまで異端の絵師として高い評価を与えられていなかった絵師の才能を知らしめた功績は極めて大なるものがございます。しかし、ご本人も語っておられますように、昨今は彼らの画業が特筆大書きされるようになり、本来王道であるべき画派の業績が霞んでしまうという弊害も及ぼすことになったのです。本書は、編集者が辻氏と対話する形でまとめられておりますが、水先案内人を務める方の目的もその点にあり、近世絵画の世界をよりバランスよく理解できるよう、敢えて王道の画派について辻氏が如何に考えているのかを聞き出そうとされております。辻氏もまた、自身の撒いた薬が効きすぎた面があるとの思いもあり、ここでは「やまと絵」「狩野派」「応挙」等の主流画派の特色とその見どころと素晴らしさを語っております。一方、主流派と奇想の画家を繋ぐ人物として、円山応挙の弟子である長澤芦雪を採り上げているのも気が利いております。近世絵画の全体像の中で奇想の画家を把握すべきと常々考えていた小生としては、今年92歳となられた辻氏が本書で語られる内容の持つ意味はとても大きいと思います。今後の近世絵画の理解をバランスの取れたものに軌道修正する良書であると存じます。対談集ですからとても読みやすい書物です。オススメです。
三冊目は、岡田暁生『西洋音楽史講義』2024年(角川ソフィア文庫)となります。個人的に岡田氏の著書には大変にお世話になって参りました。その中の一冊に、小生が千葉大学教育学部附属中での在職中に担当していた選択社会科「西洋音楽史」テキストとして用いた書籍が『西洋音楽史-「クラシック」の黄昏-』2005年(中公新書)がございました。各章毎に担当生徒を決めてレジュメを作成してもらい、その内容について質疑応答した後に、小生の所有する音盤を鑑賞するという授業でありました。今回の角川ソフィア文庫はそれとは別内容であり、岡田氏が実際に放送大学のラジオ講座で用いたテキストを文庫化したものとなります。そのような成り立ちからもお分かりの通り、当方のような音楽素人にとって救世主であった名著『西洋音楽史』と比べても、より平易な語り口で語りかけるように記述されます。そうかと言って内容を単純化したり省いたりすることは一切無く、今日のポピュラー音楽にまで続く西洋音楽の成り立ちを明快に位置付けて綴っていらっしゃるのは流石という他はありません。改めて感銘を受けた次第でございます。岡田氏は、本書の前書で「少しでも具体的に音楽について具体的に語れることが出来るようにすること-本書の最終的な目標はこれに尽きる」と述べるとともに、「このテキスト/授業は、音楽を切り口とした、1つの『西洋史』でもある」とも書かれます。小生は千葉大学教育学部附属中に在職中に総合的な学習の時間「共生」にて「ウルトラの精神史、ウルトラの社会史」と銘打つ講座を開設しておりました。そこでは年間を通じて、生徒諸君と、今日まで連綿として続く「ウルトラマンシリーズ」の諸作品の脚本家に注目し、作品に顕れた作者の精神性が製作時の如何なる社会性を繁栄したものかを追求しておりました。本書の面白さも小生は西洋史の中に芸術を位置づけて把握されようとすることにございます。音楽を「好き嫌い」でしか語るだけに止まらず、一歩踏み込んで聴き語れるようになれる、そんな入口に立つことに誘ってくれる、本当に素晴らしい書物だと存じます。これまたオススメです。
四冊目は、小川剛生『「和歌所の鎌倉時代-勅撰集はいかに編纂され、なぜ続いたか-』2024年(NHKブックス)でございます。小川氏の著作にもこれまで数多くお世話になってまいりました……『武士はなぜ歌を詠むか-鎌倉将軍から戦国大名まで』2008年(角川叢書)、『足利義満-公武に君臨した室町将軍』2012年(中公新書)、『兼好法師-徒然草に記されなかった真実』2017年(中公新書)等々。小川氏は他ならぬ「国文学者」でございますが、同時に精密な史料分析により新たな歴史的世界の展開に目を開かせていただく、超一流の「歴史学者」でもあると常々思っております。今回の著書は、知っているようで知らなかった、勅撰和歌集が如何にして編纂されていたのかを、編纂母体である「和歌所」に焦点を当てて探る内容でございます。鎌倉時代を中心に各勅撰和歌集が如何に編纂されていたのか、平安期のそれにまで目配りされつつ、その在り方の変遷を明らかにされた、極めて優れた論考であると存じます。勅撰和歌集と申せば平安期から鎌倉初期に編纂された所謂「八代集」が名高いことは申すまでもありませんが、勅撰和歌集が権威を持つようになるのは鎌倉時代以降のことであり、その編纂には朝廷と幕府の関係性、朝廷内勢力の力学、そして定家の後裔となる各家(二条家・京極家・冷泉家)の確執等々が深く関わり合いながらなされていったことが明らかにされております。その意味において、本書の帯にあるように、勅撰集編纂から見えてくるのは「単なる文学を超えた、和歌と政治の相互補完関係という中世という時代の特質である」という文句に心底納得出来る内容となっております。中世文学に興味のある方にも、中世史(特に鎌倉期)に関心の深い方にも、共に希求する素晴らしい労作だと信じて止みません。岡田氏は本書の末文を以下のように締めくくられております。即ち「勅撰和歌集の歴史の上で、続後拾遺集と風雅集との間には、見えないが深い断絶があった。これがどのようにして再生するのか、あるいは新しい伝統が生まれるのかは続編で記すことにしたい」と。小生の偏愛する「風雅集」を含む南北朝期以降の和歌編纂史が綴られる「続編」を、嘘偽りなく“一日千秋の思い”で待ちたいと存じます。
五冊目は、畏友小野一之くんからご教示いただいた、今尾文昭『天皇陵古墳を歩く』2018年(朝日選書)でございます。余計なことでありますが、今尾氏はその昔小生も出席をさせていただいた小野氏の「華燭の典」会場に同席されていたそうです。如何せん最早30年程も前のことになります。何故古代史に無案内な小生が古墳関係の書籍に触れたかと申しますと、以前一寸触れた中国を手本に建設された我が国の都城内に、中国や韓国には必ずある「社壇」と「宗廟」が存在しない事についての疑問を小野くんに発したことが機縁となったからであります。その際にお薦めいただいたのが小野氏と親交のある今尾氏の手になる本書ということになります。そこには、藤原京では宮都造成に当たって当地にあった古墳の多くが撤去されたことが発掘調査から判明していること、しかしその全てが破壊されたのではなく、その中から選ばれた古墳が「神武陵」「綏靖陵」として整備され、天皇の始祖として祀られたことが記されておりました。社壇の機能も特別な施設ではなく、都城内の社が追っていた可能性もありましょうか。何れにせよ、単純には日本の都には「祖廟」「社壇」は置かれなかったとは言い切れないことを考える機会を与えていただいた読書の時間でございました。
まだ何冊か有るのですが、今回はここまでとさせていただきます。サントリー美術館『英一蝶展』観覧記、また今月末に梯子しようと思っております江戸のインフラとして機能した『神田上水展』(文京区ふるさと歴史館)、『玉川上水展』(新宿区歴史博物館)についても次回はご紹介できればと思っております。それと、本館関連の行事ですが、12月に恒例となる千葉大学と共催となる「千葉氏公開市民講座」について、近日「市政だより」等で届けられるものと存じます。是非ともお申し込み下さいませ。本稿も次回は11月末日となろうかと存じますが、まだ地道な解説キャプションの調整等が継続しているものと存じます。我々としましても今が正念場であります。捻り鉢巻で乗り切りたいと存じます。
11月も残すところ今日を入れて二日となり、明後日より「師走」12月に入ります。今月の半ばまでは「霜月」とは名ばかりの汗ばむような陽気が多かったのですが、後半からは一転して冷え込みの強い日々が続いております。温暖であるが故に湿度が高かったためか、春霞ならぬ「秋霞」の棚引く毎日でありました。かような訳もあってか、本館の5階展望台から眺めることのできる「芙蓉峰」富士を目にすることができたのは、11月前半に僅か2日程にすぎませんでした。その折にも山頂には雪帽子も一切被っておらず、黒々とした姿のお出ましでありました。ところが、今では裾野まですっかり雪化粧となっております。あまりにも慌ただしい季節の急転換に、まるで狐に摘ままれたような思いであります。こうした“季節の急変”は我が家でも様々なる影響をもたらしております。20日頃には流石にガスストーブを納屋から引きずりだし、既に朝夕には活躍しております。布団も全て冬支度となりました。夕食も、少し前までは見ることさえ嫌だった「鍋料理」がここのところ続いております(小生の大好きな“おでん”が美味しい季節となるのは嬉しい限りですが)。この分だと、ここ数年の間は殆ど活躍の場面が無かった厚手の冬物コートの出番も多くなりそうです。一方、陽気の思わぬ急変の所為か、小生の周辺には風邪を背負い込んで体調不良となった職員も多くおりますし、世間でも様々な感染症が流行中と耳にしております。ところが、世間では米不足だけに止まらず、抗生剤すらも払底しているそうです。一体全体、この国の危機管理は何時から斯様な為体となったのでしょうか。こうした時期に、コロナウィルスなどがまたぞろ勢いを盛り返さなければよいな……と祈るばかりであります。長期予報によれば、今季は例年並みの寒い冬となるそうですが、移り行く季節を愛でる間もなく、駆け足で冬になってしまう昨今の風情の無い季節感に寂しさを感じないといったら噓になります。
さて、リニューアルのための休館に入ってから2か月が経過しました。そして、前回の「館長メッセージ」からも瞬く間に1カ月が経ったことになります。定期便ということで、まずは、その間のリニューアル作業の進捗状況について簡単にご紹介をさせていただこうと存じます。一つ目に、本館リニューアル事業を担当する丹青社の手により、館内の不要物品搬出と不要設備撤去作業がほぼ完了したことでございます。前回お知らせいたしましたように、休館に入ってからの一カ月間は、我々職員の手で館内にある不要物品の集積作業をしておりました。館内各所に山積みになっていた廃棄物品が丹青社の手により搬出され、これまで以上にすっかり伽藍とした館内となりました。併せて、リニューアル展示に不要となる施設の解体撤去工事が敢行されました。特に著しく変貌したのが4階展示室です。従来「近現代展示室」でありましたが、この場がリニューアル後に「原始古代」「古代から中世への転換期」展示室となる関係で、不要となる「戦前の和室」と「戦後の団地キッチン」が撤去されました。その結果、現在4階展示室に入った左手に広大なスペースが姿を現しております。古くからの本館を御存知の方は、それ以前ここに「プラネタリウム」があったことを御記憶でございましょう。現在、撤去された後の床には、映写室の痕跡である円弧状の基礎ラインも見て取れます。また、4階解体部分では天井も撤去されたことで、天井裏に隠されていたプラネタリウム時代に天球ドームが設置されていた広い空間を見ることができます。もしかしたらドーム構造がそのまま残っているのではないかと密かに思っていたのですが、見えるのは躯体の構造材と、その後に設置されたエアコンの巨大ダクト、そして後に展示室とした際に設営した天井を釣るための施設があるだけで、天球ドーム自体は撤去されておりました。まぁ、よく考えれば、ドームが残っていたのでは天井を吊り下げるための構造体が設置できませんから当たり前でした。ただ、それでも、それらの設営物の上部には、その2倍ほどの空間が残されております。大いに残念ではありますが、リニューアルでも流石に活用することは出来ず、何とも勿体ない話ですがデットスペースとせざるを得ません。リニューアルの完成後は新たな天井が設営されてしまいますので、この光景を目にすることができるのは今だけであります。4階展示室の解体と現状の様子は、一昨日本館X(旧ツイッター)にもアップさせて頂きましたので是非ともご覧いただければと存じます。
もう一つ、大きく見た目が変わったのが、長大な移動スロープが設置されていた1階空間でございます。このスロープと導線に沿って設置されていた「千葉市の年表展示」が全撤去されました。本スロープは、平成12年(2000)から翌年にかけて本館が耐震工事を実施した際に、バリアフリー具現化のために設置されたものであったのでしょうが、車椅子利用をされる方を含めた足弱の皆さんには、別に館外のスロープを利用の上、本館裏側出入口から出入りをしていただくようになっております。入館後の上下移動はエレベーターとなりますから、スロープ利用は受付で販売される資料を購入するために利用する機能が残されているだけです。それにしては、大変広いスペースを占有しており、他の用途に活用できない空間と化しておりました。そこで、リニューアル後には別の場所にコンパクトな形でスロープを設営し、従来の長大なスロープを撤去することで、これまで本館に存在せず、不便を託っていた「企画展示室」として活用できるようになります(「特別展」開催の場合には「講座室」を展示室に転用し、二部屋を連続させて展示室に利用もできます)。また、「年表」は5階に移動となります。斯様な次第で、1階にもそこそこではありますが、広い空間が姿を現しております。2階・3階・5階につきましては、見た目ではさほどの変化は生じておりませんが、それでも更にすっきりした空間になっております。これまで2階の正面に鎮座ましましていた安西順一の作「千葉常胤」木彫は、リニューアル後には3階展示室へと御遷座(!?)いただくことになりますが、如何せん巨大であり今すぐに移動出来ません。他の展示物が全て片付けられた跡に、「ポツンと一軒家」ではございませんが、ポツネンと佇んでいる姿は如何にも寂しそうであります。養生のためにビニールを被せられた孤高の(!?)常胤像もX(旧ツイッター)にて近々お知らせいたします。
二つ目も、ハード面……“施設”に関わることです。昨年度には入札不調で実施できず今年度にずれ込んでいた、懸案の「エレベーター工事」が漸くほぼ終了したところでございます。未だ最終検査が終わっておりませんので使用できる段階には至っておりませんが、今回は従来機器の改修ではなく全てのエレベーター施設を新規の機材に入れ替える工事でありました(メーカーも従来の企業とは異なります)。従来使用してきた本館2代目エレベーターは老朽化しており、時に動作にも不安定さを見せておりましたから、全面的に入れ替えることができて、館員一同もホッと胸を撫でおろしております。如何せん、一時期社会問題となりましたが、エレベーター事故が発生すれば忽ち人命に関わる問題になりますから。エレベーター輸送力に関しましては、建物の構造体を拡大するわけにはいきませんので、従来と同等規模にしかなりませんが、安全が確保できたことが何より重要だと思っております。
最後の三つ目でありますが、ソフト面での作業であります。前回も報告させていただきました「資料解説原稿」等の執筆・調整等を、現在も継続して進めている段階でございます。「何だ!!未だ終わってないのか??」と思われる向きもございましょうが、本作業こそリニューアルの一つの「肝(キモ)」でありますから、何度も何度も査読を重ね、担当者とやり取りをしながら推敲に推敲を繰り返しながら進めております。「各時代の特色を的確・簡潔に伝える記述になっているか」「用いる用語が専門家にしか伝わらないものになっていないか」「限られた時数で沢山の内容を詰め込みすぎていないか」「遂行の結果文章がねじれて文意が伝わりにくくなっていないか」「初出の人名や出来事にある程度の説明で理解できるように配慮されているか」「時代の理解に不可欠な説明に矛盾や過不足がないか」「そもそも誰でも各時代を理解できるストーリー構成が成立しているか」等々に目配りしながら進める作業は、相当に神経をすり減らすものに他なりません。それは、各時代(「原始・古代」「中世」「近世」「近現代」)の間に挟み込む展示である「転換期の様相(仮称)」においても同様です。各時代が千葉市域において大きく移り変わっていく転換期展示を含め、「前後の時代との関係性が意識されて記述となっているか」「記述の書きぶりに時代間の齟齬が生じていないか」といった、各時代の担当責任者同士の打ち合わせも持って協議を進めております。小生も含めてでありますが原稿執筆者の皆さんに常々お願いしていることは、優れたレストランのシェフが「コース料理」の提供をするように記述をしてほしいということであります。これまで存在しなかった通史展示の実現を目指すのが今回のリニューアルの眼目ですから、最も避けなければならないのは「アラカルト(一品)」料理の集合体となることです。一つひとつの料理が幾ら旨かろうと、前後の料理との関連性が意図されていないのでは、料理人の総合的な意図が反映されることはありません。通史の叙述も、コース料理において料理人が意図することと基本的に寸分も異ならないと存じます。歴史に詳しくない方がご覧になっても、過去の千葉が如何に歩んできたのか、大河のような滔々とした流れとして理解していただけないのであれば、通史展示としての体を成さないと言わなければなりません。勿論、我々職員とて完全無欠ではございません。しかし、時間の許す限り、そのことの具現化すべく日々尽力しております。12月末日アップ予定の本稿で「ほぼ目途がつきつつある」と、皆様にご報告ができるよう取り組んで参ります。現段階でのリニューアルの途中経過の報告はここまでとさせていただきます。
これから以降は、前回の本稿で予告しましたように、これまでに出かけた他館の企画展示について、極々簡単にご紹介をさせていただきます。一つ目は、既に会期は終了しておりますが、サントリー美術館開催『英 一蝶(はなぶさ いっちょう)展』でございます。この手の美術展は、NHK『日曜美術館』、美術関係誌・新聞等で採り上げられる途端に大勢の観覧者で混み合うのが常でありますので、開会早々の非番の平日に出かけて参りました。英一蝶(1652~1724年)は江戸時代前期を生きた絵師であり、狩野宗家「中橋狩野家」初代当主である狩野安信(探幽の末弟)に入門して狩野派を学んでおります。一般的には英一蝶と称されますが、その名を名乗るのは、徳川綱吉の死による代替わりの恩赦によって、奇跡的に流刑地である三宅島から江戸に戻った宝永6年(1709)頃からで、それ以前は多賀朝湖(たがちょうこ)を名乗っておりました。つまり英一蝶を称した期間は20年にも満たないのですが、ここでは煩瑣を避けるため英一蝶で通したいと存じます。罪を犯して流罪に処せられたのが元禄6年(1693)であり、恐らくそれを機に狩野安信からは破門されたものと思われます。彼の絵画の真骨頂は、習得した狩野派の骨法を用いて、世俗の人々の何気ない生活風景を切り取った洒脱な風俗画に仕立て上げたことにありますから、所詮は狩野派の画風の範疇には納まり切らない絵師でございます。こうしたことがなくとも、遅かれ早かれ狩野派からは離脱すべくして離脱する道を歩んだことでありましょう。その作風については、小林忠『英一蝶』(至文堂「日本の美術」)「はじめに」で以下のように記述されておりますので部分的に引用をさせて頂きます。
英一蝶は、元禄年間(1688~1704年)を前後する時期に江戸で活躍した風流画人である。その、取り上げる主題は機知的に処理されて常套から離れ、描写の技法は快活な筆致と明朗な彩色により、図様の布置構成は意表をついて変化に富むのが常であった。いかにも元禄ぶりの、闊達で制裁に富んだ都会ぶりの一蝶の絵画は、当時の江戸に住む人々、すなわち上は大名・旗本の武家から、下は豊裕かつ趣味ある町人にいたるまで、各層の人士に愛されたばかりではない。没後しばらくを経てから幕末期にいたるまでの長い間、江戸っ子たちの自慢の種、愛好の対象として親しみ続けたものである。(後略) 小林 忠『英一蝶』1988年(至文堂「日本の美術」No.260) |
因みに、一蝶が如何なる罪で配流となったのかについては諸説入り乱れており、確たるものはないように思います。ただ一つ、小生が大変に興味深く感じる説がございます。それが、後の時代となりますが太田南畝によって書き留められた、一蝶が当時ご禁制であった日蓮宗「不受不施派」に与したためという一説でございます。彼の墓所は東京港区高輪の承教寺にございますが、本寺院も日蓮宗であります。この見解は、日本美術史家の狩野博幸氏の手になる『江戸絵画の不都合な真実』2010年(筑摩叢書)で初めて出会ったものでありますが、配流先の三宅島で描かれた作品(俗に「島一蝶」と言われる作品群)には、上質の紙や岩絵具を用いて描かれた驚くほど美麗な作品が数多ございます。余程の支援者がいなければ配流先で斯様な画材を手にすることは叶いますまいから、然もありなんという思いを抱かされるのです(本館で『千葉氏関係資料集(仮)』の編集をして下さっている坂井法瞱氏からお聞きしたことですが、度々配流された日蓮も、極貧であったはずの流刑地で書かれた著作は到底現地で手に入る筈もない上質な紙が用いられているとのことです。宗教的な支援の団結は途轍もなく大きなものです)。一蝶のこれらの作品も江戸の支援者からの注文を受けて描いたものであります。尤も、島の住民の注文で描いたと考えられる作品も多く、こちらは相当に省エネで描かれております(数段落ちる紙質・墨一色等々)。意外に知られておりませんが、現在の刑務所暮らしとは異なり、島流しになった人々は島で収監されて世話をされるわけではなく、生活費が支給されるわけでもありません。要するに、その地で自力で生きていかねばならないのです。従って、手に職のある者はそれを活かして稼ぐこともでき、中にはそれで財を成して家屋敷を購入してそこそこ豊かに暮らす流刑者もおりましたが、多くの流刑者は日雇労働や農業の手伝いなどで日銭を稼ぐくらいしか生き延びる術はなかったのです。また、支援者がいれば定期的に江戸から支援物資が送られてもきました。ということは、一蝶も比較的余裕のある流刑人であったということになります。この「島一蝶」の作品群は、三宅島だけではなく遠くは八丈島まで、伊豆諸島に相当数が売りさばかれ、かなりの数が残っていたようです。しかし、既に江戸時代のうちから、一蝶人気で一儲けしようとする利に敏い江戸商人らに洗いざらい買い取られていて、現在の伊豆諸島に残る一蝶作品は決して多くはありません(これらも今回の美術展で紹介されておりました)。ただ、地形的に舟をつけることが難しかった新島と御蔵島は、商人たちの盲点であったようで、他島に比較すると例外的に残存数が多いようです。
今回のサントリー美の展覧会は、過去最大規模の一蝶回顧展との触れ込みでありました。展示スペースの関係で前後期展示において相当数の作品が入れ替わってしまうので、その全容を把握するには2度出かけなければなりません。残念ながら小生が出かけることができたのは前期だけでしたが、それでも一蝶の画風を十二分に堪能させていただきました。彼の手になる風俗画に描かれた人々の表情と姿は、他の如何なる絵師の作品にも見ることのできない飄々としたもので、思わず笑みが零れるのを禁じ得ない魅力にあふれております。次の英一蝶展が開催されるのが何時、何処でのことになるのか分かりませんが、もし機会がありましたら是非ともお出かけになることをお薦めいたします。
ところで突然の余談となりますが、今回の『英一蝶展』の入館料は¥1,700でございました。こちらは公立ではなく私立美術館であります。従いまして、これくらいのお値段であっても納得でありますし、むしろこれだけの内容の美術展をこのお値段で拝見できるならお安いくらいだと思います。そもそも、企業として利益の社会還元の意味をもってこの料金を設定されているのだと存じます。サントリー社には感謝しかございません(飽くまでも個人的な感想ですがビールはサントリーが一番の好みです)。しかし、朝日新聞夕刊に週一火曜日に掲載される“美術展開催一覧表”を拝見していていると、何時も腑に落ちないモヤモヤ感を抑えることができずにおります。何故ならば、一覧表中で最も高額の入館料を設定しているのが、何れもその名に「国立」「都立」を冠した公立博物館・美術館に他ならないからでございます。勿論、「国立」と銘打っていても、現在は「独立行政法人」化されております。つまり、経営は自己責任で行うことになっているのです(全国の国立大学と同じように組織の在り方が変えられたのです)。これだけの展覧会ならそれだけの入館料金を頂かなければ経営が破綻してしまうのでしょう。しかし、今でも「国立」を標榜している訳ですし、「公共性」を第一として運営する公営的色彩を有する施設であることは間違い有りますまい。それらが一覧表の中で最も高い値段を支払う展示会となっていることに困惑の思いを禁じ得ません(いずれもサントリー美を越える2千円台です!!!)。これらの博物館が正真正銘の「国立」であった小生の若かりし時代には、同等の規模の展示会でも千円をずっと下回る料金で観覧できました。そもそも論として、誰にでも公平に門戸を開かねばならないのが公立博物館であるはずです。豊かな者だけに開かれた「公共施設」とは如何??その段階で既に「公共性」から逸脱しているのではございますまいか。勿論、博物館・美術館の責任ではございません。公立機関の「独立行政法人化」に舵を切った政策転換に根本的な問題があるからであり、各国立博物館もこうせざるを得ない仕儀に立ち至っているのだと思われます。国立科学博物館が収蔵資料の維持管理のための資金が決定的に不足し、資料に危機が迫っていることの解消に迫られた末に、クラウドファンディングで億単位の資金を集めたことが報道されておりました。しかし、決してこれを美談に終わらせてはならない現実だと存じます。本来は誰が責任をもって担うべきことかは論を待たないことではありますまいか。皆さんは、国法である「博物館法」第23条には以下のように規定されていることを御存じでしょうか。国内の殆どの博物館が「維持運営のためにやむを得ない事情がある」のでしょうか??そうだとすれば、それは今の制度設計自体に問題があると考えること考えるのが至極当然だと思うのですが、皆様は如何お考えでしょうか。因みに、本館は常設展でも企画展でも常に入館料は頂いておりません(無料)。また、リニューアルオープン後も、少なくとも当面の間はその体制を維持して参ることになります。小生は、千葉市におけるこの対応は、周囲に胸を張って誇るべき施策であると信じて疑いません。
「公立博物館は、入館料その他博物館資料の利用に対する対価を徴収してはならない。ただし、博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合は、必要な対価を徴収することができる」 (「博物館法」第26条) |
さて、長すぎる余談で失礼を致しました。二つ目は、江戸の水道に関する展示会の3本立てでございます。10月晦日が非番でありましたので、朝一番から3館を立て続けに仕上げてまいりました(正直前期高齢者入りをした小生には少々しんどい日程でしたが)。出かけた順で申しますと、新宿歴史博物館開催の特別展『江戸の水道 玉川上水』(会期は12/1まで!!)、文京ふるさと歴史館開催の特別展『川と人と水道と-神田上水・千川上水と文京-』(会期は12/8まで)、東京都水道歴史館開催の展示会『上水記-江戸の二大上水 玉川上水と神田上水-』(会期終了)となります。最後の施設は東京都水道局に併設される博物館で、水道橋駅(江戸の街に水道水を届けるために神田川に上水専用の橋梁をかけて神田上水を渡した施設が水道橋の由来ですが、この水道橋は明治期に撤去されて今に残りません)とお茶の水駅の中間あたりにございます。江戸時代の水道の全容を知るには当館2階の常設展示が便利です(残念なのは手頃な概説書が作成されていないことです)。それにしましても、今年が江戸・東京の水道事業の何らかのアニヴァーサリーイヤーであるとは思えません。一気に三館が水道関係の展示会を並行して開催されたのは、決して偶然ではないと思われますが、如何なる機縁があったのでしょうか??何れにしましても、個人的に都市インフラの整備の観点から、大都市江戸の上水道整備には予て関心がありましたが、先にも記したように手頃に入手できる概説書が存在しません。従いまして、なかなかその全貌を体系的に理解できることができずもどかしい思いでしたから、江戸の上水道整備の流れを取り扱った展覧会が開催されたことに欣喜雀躍の思いでございます。だた、余談で紙数を費やしてしまいましたので、以下では若干短めに江戸の水道について概説的に記述させていただきます。
徳川家康が江戸に入府したのは、彼が天下人となる10年程前となる天正9年(1590)であり、豊臣大名の一人としてであったことは改めて説明する必要もございますまい。そこから、江戸城と家臣の屋敷の整備が始まる訳ですが、併せて城下町の整備にも着手がされました。神田山を崩した土砂により江戸前海の埋立が進められるなど、大規模な土木工事が行われたのです。その一環として都市インフラの整備も進められました。特に人々の生活にとって不可欠なのが飲み水の確保あることは論を待ちません。現在のように、蛇口を捻れば水道水が手軽に利用できる時代ではありませんから、飲み水を如何にして確保するは都市経営にとって極めて重大な問題だったことは容易に理解できます。一般的には、井戸を掘って飲用水に充てることが多くございます。しかし、内海奧の臨海地に埋立によって新規造成した土地は、井戸を掘っても海水の混じった水しか得ることが出来ず、飲用水には不適であったのです。そこで、上水の確保と江戸の街場への導水路建設が急務となったのです。現在も地名に残り、後に江戸城建設が進むとその外堀に組み込まれる「溜池」も江戸南部方面の飲用水として利用されました。しかし、江戸の中心地にその水を引くことは出来ません。江戸の近郊から飲用水を引いて来ることが不可欠になりました。
そこで、徳川家康は江戸に入夫した天正18年(1590)に大久保藤五郎に命じて上水の調査をさせて上水道を開いております。この辺りのことは資料が殆ど残されず詳細は明らかではありませんが、これが「小石川上水」であり本上水がその後に整備・拡張されて発展したものが「神田上水」だと考えられているようです。何れにせよ、小石川とは現在の文京区内の地名でありますから、溜池ほどではありませんが江戸中心から極々至近の地の湧水が利用されたことは想像に難くありません。この功により、大久保藤五郎は家康から「主水」の名を賜ったとされます。「主水」は通常「もんど」と訓じるのですが、家康は「水が濁るのはよろしからず」との理由から「もんと」と唱えよ……と命じたとも。しかし、その後、家康が天下人となって江戸が「将軍のお膝元」となると、全国の大名家の江戸屋敷が林立し、多くの町人も蝟集するようになり、流石に江戸近郊の湧水で巨大な都市人口の生活を支えることは難しくなりました。そこで、これまでの「小石川上水」を基盤にして整備されたのが「神田上水」でした。この上水の水源として注目されたのが、「井の頭池」を水源にし、途中で善福寺池を水源とする善福寺川を併せて江戸に流れ下る、所謂「神田川」の存在でした。その流水を小石川「関口大洗堰」(有名な目白「椿山荘」の南にあたる場所)を設営して分水し、水戸藩江戸屋敷方面へと流し下し、その後は水道橋で神田川を越えて江戸城丸の内にある武家地と、日本橋方面の町人地へと導水される上水としたのです。従って、神田上水の水源地は井の頭池であることは間違いないのですが、小石川の分水堰までは自然の河川そのものであったことになります(勿論、幕府に拠る管理がなされていたので自然の河川であっても上水路の構成部分であったのですが)。その完成年は詳らかではありませんが、概ね寛永期(1624~1643年)と考えられております。上水の構造は、関口から水戸屋敷までは石垣で築かれた開渠であり、「水道橋」を越えて江戸城外郭内に入ってからは、地下に埋め込まれた導水管(「樋(ひ)」)で給水されたのです。主に幹線は石を用いた「石樋」が、分流する支線は主に「木樋」が用いられました。また、各支線の分岐点には木製の「枡(ます)」が置かれ、そこから各屋敷や町人地へと稠密に水路がひかれていたのです。しかし、江戸市中の拡大は、更なる飲用水の確保を要することになりました。
そのために、更に多くの水量確保の方策が検討され、承応2年(1653)に多摩川を羽村で分水して人工水路で江戸まで導水する「玉川上水」が建設されます。本上水は。羽村から四谷までの武蔵野台地の僅か高低差92.3メートルを全長42.74キロメートルで結ぶもので、大変な難工事であったと言われます。四谷までは開渠で、四谷御門からは、神田上水と同様に地下の導水路で江戸城内を始めとする主に江戸の南への水道として活用されます。また、水量の少なかった「神田上水」へ玉川上水の水を補填するための「神田上水助水堀」が内藤新宿近くの熊野社の辺りに掘られました。しかし、江戸城天守閣の焼失した明暦3年(1657)の大火後になると江戸市中の更なる拡大により、玉川上水を途中から分岐させて、江戸の南方面を広く導水するための「青山上水」「三田上水」が、更に江戸の北にあたる上野・浅草方面への上水確保のために「千川上水」が築かれます。また、江戸の町は隅田川を越えて本所・深川へと展開していきます。そのためには別系統の上水路が必要です。そのために中川から分水して開渠で隅田川以東の地へと飲用水を導く「亀有上水」が整備されます(小生が子供の頃に遊んだ曳舟川であります)。それら新規に造営された4つの上水は、従来の「神田上水」「玉川上水」と併せて「江戸の六上水」と総称されたのでした。ただ。「神田上水」「玉川上水」以外の上水は、享保7年(1722)に突如上水としての機能を一斉に廃止されることになります。その理由は、その維持管理に莫大な費用が掛かるためとされますが、儒学者の室鳩巣が徳川吉宗にその廃止を上申したためとも言われます。それは「上水の存在が江戸の大火の遠因である」と言う、今から思えば何とも不可解な理由であったのです。案ずるに、時あたかも「享保の改革」で新田開発が盛んに奨励された時期にあたるわけですから、それらの水路を上水としてではなく新田開発を助ける灌漑水路として積極的に転用する意図が背後にあったのではありますまいか(相当に早い段階で玉川上水から分水された「野火止用水」は初手から灌漑用水として利用されておりました)。当然、江戸の街場からはその復活の要望が強くあったのですが、幕末に到るまでそれは入れられることはありませんでした。江戸の町に「水売り」が多く存在して商売が成立した背景には、こうした一部地域の上水廃止という政策転換があったことを知っておくことも一興でございましょうか。
さてさて、ここまででも相当長くなりました。ホントウは、現在で言うところの水道料金が必要であったのか、維持管理はどのように行われたのか等々。興味深い話題が山積しておりますが、それは機会がありましたらとさせていただきましょう。文京と新宿の特別展は会期が若干残っております。御興味がございましたら未だ間に合いますので是非お出かけのほどを。余談ですが、昭和9年(1934)の爛熟した帝都東京を舞台とする大晦日一日の出来事を綴る、久生十蘭(1902~1957年)の傑作小説『魔都』は、江戸東京の地下迷宮としての水道網が重要なモチーフとしております。厳密な意味でそれではありませんが推理小説の形式をとっておりますが、本小説の真の眼目は犯人捜しにあらず、帝都東京という当時の都市空間の在り方を味わうことにこそあると存じます。読みやすい作品(文体)ではありませんが、読み進める内にその文体に引き込まれて不思議極まりない十蘭マジックの虜になっていきます。小説がお好きな方であれば、ご満足いただけるものと確信いたします。今では、創元社推理文庫でお手軽に入手することが可能であります。それではお後が宜しいようで。また一月後にお逢い致しましょう。
雲こほる 木末(こずえ)の空の 夕月夜(ゆふづくよ)
嵐にみがく 影もさむけし
(光厳院『光厳院御集』冬)
暮れやらぬ 庭の光は 雪にして
奥暗くなる 埋火のもと
(花園院『風雅集』冬)
令和6年も大詰めを迎えております。流石に師走となって冷え込みもきつくなってまいりました。そして、街々の様子にも日一日と歳末の気配が漂ってきたように感じます。我ながら何度も申し上げていて恐縮でございますが、斯様な時節となると、冬の詠歌として取り分けて心に染み入るのが、鎌倉後期から南北朝期にかけて彗星のように勃興して一世を風靡した、所謂「京極派」による透徹とした叙景歌の数々であります。本年最後の本稿でも斯様な趣を有する歌を2種、塚本邦雄氏によって撰びとられた、何時ものアンソロジー集から引かせていただきした。主として持明院統(北朝)に支持・継承された京極為兼の歌風が、この2首にも横溢しております。光厳院・花園院の時代は、既に為兼は物故して久しく、その後に継承された「後期京極派」の作ということになります。京極為兼による勅撰集『玉葉集』と並び立ち、京極派歌風の双璧とされる『風雅集』は、他ならぬ光厳院による親撰であり、花園院がそれを監修したとされております。小生は、その詠歌への興味から板倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』2002年(吉川弘文館歴史ライブラリー)、深津睦夫『光厳天皇:をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』2014年(ミネルヴァ日本評伝選)と為人を知りたいとの思いに発し、北朝についての知見を広めたく、石原比伊呂『北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」』2020年(中公新書)、最近の遠藤珠紀・水野智之編『北朝天皇 研究の最前線』2023年(山川出版社)等々へと進み、更に南北朝期の国内情勢全般に焦点を当てた諸々の書へと及ぶことで、自分自身にとって長らく“訳分からんちん”であった時代像が漸く焦点を結んできた感がございます。その意味でも光厳院の存在は、その和歌世界とともに小生にとって欠くべからざる重要な位置にございます。余談中の余談ですが、光厳院は小生が年間を通してほぼ欠かすことなく毎日食している「納豆」を世に広めた……との伝説があることも親近感の根っ子にあるのかもしれません(苦笑)。かて加えて、光厳院が二度の地獄を見たが故に惹起した、持明院統内における皇位継承の系統分裂による伏見宮家の成立と、光厳院曾孫にあたる『看聞日記』をものした伏見宮貞成(さだふさ)親王との嬉しい出会いもありました。貞成親王の悲喜交々については、精緻に日記を読み解き、温かな筆致でその為人に寄り添いながら書き進められる、横井清『室町時代の一皇族の生涯』2002年(講談社学術文庫)[原著は1979年(そしえて)]が極上の読書時間を与えてくれました。冒頭歌につきましては、何時ものように塚本氏の短評を鑑賞のお伴とされてください。
初句の「雲こほる」、第三句「嵐にみがく」。いづれも冱えた強勢表現で、寒夜の凄じい風景を活写してゐる。墨絵の樹々が、逆立つ髪さながらの木末を振り乱すさまが下句に尽されている。「散りまよふ 木の葉にもろき 音よりも 枯木吹きとほす 風ぞさびしき」が一連中に見え、同工異曲ながら、いづれも結句の直接表現が、余韻を失はぬ点を買はう。 六百番歌合の「余寒」に定家「霞みあへず なほ降る雪に 空閉ぢて 春ものふかき埋火のもと」あり、風雅・春上に入撰、同じ集の冬にこの本歌取りを見るのも興深い。薄墨色と黛(黛)色で丹念に仕上げた絵のやうに、じつと見つめてゐると惻々(測足)と迫るもののある歌だ。第三句「雪にして」のことわりも決して煩(うるさ)くはない。第四句の微妙な用法も効あり。
[塚本邦雄撰『清唱千首』1983(冨山房百科文庫)より(旧字体は現字体に変更)] |
もうじき新たな歳を迎えることとなりますが、それは本年元日午後に発生した能登半島における大地震から、もう直一年が経過したことでもあります。被災後の能登に出かけた訳でもない小生のようなものが、あれこれ申すのも「ふてほど」(本年の流行語大賞だそうです)かと存じますが、風の便りからもその復興は端緒についたばかり……との印象は拭えないように感じております。実際のところ、輪島市門前町に御実家があり、定年後に石川県にUターンした元同僚からは、被災地復興の歩みは遅々たるものであり、行政の支援も手厚いものではないことを伝え聞きます。同僚の口から出た言葉「行政の対応が冷淡で被災者に寄り添う温かみを感じない」との言葉は、恐らく被災地住民の言葉を代弁したものだと思われ、恰も我が身を切られるような思いにもなりました。勿論、行政担当者の中には熱心に活動される方は多かろうと思いますし、そうした方々の様子を取材した報道番組も拝見したことがございます。しかし、その姿からは孤軍奮闘で疲弊しきった痛々しさを感じたことも紛れもない現実でございました。被災した子供達の心のケアでも、今一つ支援体制がチグハグであり、せっかくの支援も有効に機能していない現実があると元同僚も指摘しております。能登半島は大地震による被災に止まらず、その後に日本全土を襲った集中豪雨被害が追い打ちをかけたことも忘れてはなりません。二重の自然災害に見舞われた能登の方々にしてみれば、戻らぬ生活に焦りを滲ませながらの、長き長き一年間に想われていることと推察いたします。一方で、屋敷がペチャンコに潰れてしまった文化財指定の「上時国家」の復興には今後15年程を要すると言います。費用も10億円程が見込まれるとも……。家屋の下敷きになった貴重な什器や古文書類3万点の状況も、未だにその安否すら確認できていないとも聞きます。勿論、優先すべきは人の生活であることは勿論でありますが、積雪の続くこれからの季節に被災資料が劣化しないよう、応急措置だけは施しておかねばなりますまい。国と石川県は何よりも被災地復興に我々の納める税金を優先的に投じるべきでありましょう。本稿執筆時(12月第二週)の状況では、自民党が野党からの強い要望を入れて能登半島の復興支援のための予算(一千億円)が、漸く衆議院に提出されることになる……との報道がございました。しかし、もう一年が経過しようとするのに、その見通しも明確ではないこと、その改善のあまりに牛の歩みであることにも焦燥が募る思いでありますが、実際のところは如何なのでしょうか。経済大国を自賛する日本の名が泣くのではありますまいか。
また、自然災害だけではなく、本年は夏から秋にかけての国内外における政局の地殻変動が起こったことも記憶に新しいところです。この後の世界情勢・国内情勢が如何なる推移を辿ることになるのか、主権者である我々はその動向を注意深く見定めていく必要があると思われます。集中豪雨の原因と目される地球環境の問題も含め、世界規模での協調によって解決していかねばならぬことが山積しております。新たな年がこれからを生きる世界の子供たちにとって、少しでも希望に満ちたものとなるようにするのは、我々大人に課せられた義務でありましょう。「今だけが良ければ後のことは知らんぷり」「自分だけ、自分たちの民族だけ、自分たちの国だけが良ければそれでよい」「金儲けさえできればその他のことは犠牲になっても構わない」といった精神性が跋扈するこの世界の風向きを変えない限り、世界の人々の求める安寧な社会は更に我々の手から遠ざかるでしょう。そして、それは地上に生きる生きとし生けるものにも同じように及んでいくのです。更には、何の責任もない将来を担う子孫たちに、余りにも思いツケの処理を丸投げすることになることを自覚しなければなりません。小生のようなものは遠からず、嫌がおうにも幕引きを迎えます。少しでも希望のあるバトンを子々孫々に渡していかねばと、年の瀬を迎えて自らに強く言い聞かせております。そしてできることから行動に移していかねばとも思います。
さて、標題に「展示リニューアル事業の進捗状況(その3)」と謳っておりますが、実のところ現状は未だ「その2」の際の状況が継続している状況です。前号では展示解説原稿について「次回にはほぼ目処がついたと言えるように尽力してまいります」と書いておきながら、よりよい方向に進みつつはあるものの、未だ道半ばの状況にあると申し上げざるを得ません。ただ、リニューアル事業そのものは当然“ケツかっちん”であります。それまでに現作業に残された時間は潤沢に残されている訳ではありません。しかし、最後のリミットまで悪あがきを続けていきたいと思っております。そこで、今回の内容は、小生がリニューアル事業の一環として、並行して取り組んでいる内容に関することを述べることで、中間報告に代えさせていただこうと存じます。何卒ご寛恕の程をお願いいたします。ただ一つだけ御報告すべきことがございます。それは、丹青社の方が来館して3日間に亘って行われた「展示物実測調査」となります。これは、展示ケース内に展示する予定となっている展示物(その選定はあらかた終わっております)を、実際に当該展示ケース内に仮置きし、紙の上では実態が掴みにくい展示状況を確認する作業であります。勿論、展示ケースを改修・新調するものもかなりの数となりますので、現段階ではケースが存在しない場合が生じます。この場合は展示ケース平面と同面積の用紙をあるべき展示ケース設置場所に置き、その上に展示物を並べます。正直なところ、斯様な作業が必要なのか疑問でありましたが、これは素人の浅はかさ以外の何物でもございませんでした。本調査によって我々も立体的な視点で展示状況が把握できました。展示物の寸法は我々で計測して既に丹青社に報告していたのですが、それだけで実情が把握できないことがよくよく理解できました。実際にその場に置いてみると、その大きさではケース内に収まり切らない、余りにも窮屈すぎる、逆にあまりにもスカスカで見栄えがしない……等々の問題点が、そこそこの頻度で発見されたのです(特に我々「近現代部会」ではそれが多かったと自省すること頻りであります)。現段階であれば、未だ未だ幾らでも展示品の追加や入れ替え等々が可能です。また、丹青社の側からしても、実物を見ることで初めてわかるのが展示物転倒防止等に必要な器具の有無であったり、来客が見易い展示の工夫などであります(ここは傾斜をつけて展示すべき等々)。我々としても、相当に体力を要するしんどい作業ではございましたが、本作業が極めて重要なものであることを認識させられました。正に“目から鱗”状態であるとともに、自身の不明を深く恥じた次第でございました。そして、専門業者としての丹青社の豊富な経験値に基づく進捗管理に、“恐れ入谷の鬼子母神”の思いが募りました。流石であります。それでは、漸く今回の主たる内容へと移っていきたいと存じます。
新たな「近現代」展示は、当該の時代を専攻される研究者の方が担当されておりますが、他の時代と異なり専門家はその方お一人であり、正に孤軍奮闘されている状況にあります。従って、小生が“助っ人”として加わっていることは以前にもお伝えした通りでございます。当然、小生固有の担当「プロローグ」「エピローグ」等の執筆以外に、近現代部会の展示構成検討と分担展示項目の執筆も行っております。そして、二人きりの「近現代史部会」で文案の検討と推敲とを数知れず続けて参りました。その結果、幸いに近現代史部会については、ほぼ解説文案の目処が付いたと自負しております(解決すべき大きな課題も一つ残っておりますが)。それに加え、小生は近現代史の“映像展示”に関する内容にも関わっております。近現代展示に明治期から大正期にかけての稲毛海岸の賑わいを紹介する項目があり、そちらに附属して「映像展示コーナー」を設けるからでございます。現在では広大な埋立地に住宅団地が広がっている稲毛海岸でありますが、昭和12年(1937)に千葉市と合併するまでは検見川村に属し、海岸も埋め立て前の広大な砂干潟でありました。そのような稲毛海岸が、かつて如何なる場として賑わいを見せていたのかを紹介する展示に付随して、展示ケース脇に明治中期から昭和戦前期に至るまでの稲毛海岸の景観を見ることのできるモニターを設置することになっているのです。その映像資料として用いるのが、当時描かれた絵画や絵葉書等であり、それらは戦後の埋立によって大きく変貌した、明治から戦前期にかけての稲毛海岸の姿とその賑わいを伝える貴重な資料群ともなっております。その資料の一つとなっているのが、本稿副題に掲げたジョルジュ・ビゴーという人物、及び彼の手になる作品群となります。
ビゴーと稲毛海岸とは如何なる関係があるのか、不思議に思われるかもしれませんが、意外や意外!!フランス人の画家であるビゴーは明治半ばに来日し、明治後半には故国へと戻るのですが、その最後の数年間を東京湾を臨む稲毛の海岸沿の松林中に構えた住居(アトリエ)で過ごしており、稲毛海岸の風景を描いた作品を残しているのです。その作品は油彩画であり、専らモノクロでしか確認できない明治期の稲毛海岸を、原色の世界としてイメージでできる貴重な歴史資料ともなっております。これらの作品の何点かは、現在千葉県立美術館と千葉市立美術館が所蔵しており、それらの内の数点をモニター展示の形で紹介することになります。こうした展示準備のために、小生も事前にビゴーという人物について調べている訳ですが、お恥ずかしきことながら初めて知ることばかりでありました。そして、実に興味深い人物であることに驚かされております。そこで、絵画調査の副産物として知り得たビゴーについて、皆様にも少々お裾分けを……と考えた次第でございます。本稿(と次稿)につきましては、ビゴーという人物と稲毛海岸に関する内容のご紹介をもって、「リニューアル進捗状況」に代えさせていただこうということであります。因みに、以下に記すビゴーの生涯につきましては、漫画・風刺画の研究者として知られ、ビゴーの再発見者でもあり、その作品のコレクションにも努めていらした清水勲(1939~2021年)氏の著作に多くを拠っております(清水氏の没後にそのコレクションは宇都宮美術館に寄贈されているようです)。ビゴーの存在と作品は、日本ではその一部の世界だけが知られるのみであり、祖国フランスでは殆ど忘れ去られた画家であったのです。その人と作品とを丹念に発掘されて、実像を明らかにされてきた清水氏の功績の大きさは計り知れないと存じます。その点で、清水氏は「ビゴー研究者」と申し上げることがより実像に近いのかもしれません。特に、その初期著作『明治の風刺画家・ビゴー』1978年(新潮選書)は、多くの資料を博捜されて数奇な歩みを的確に纏めており、大変に学ぶところの多い書物でございます(稲毛に居を構えた時期等について等、清水氏が後の調査研究によって修正された点もありますがビゴーの生涯の概要はほぼ本書で尽くされていると存じます)。これほどに面白い人物の生涯が、清水氏の研究がなされるまで殆ど闇の中であったことが不思議に思える程の人物であります。本書は既に半世紀弱も前に刊行されたものでありますが、古書で比較的安価に入手できるものと存じます。小生も明治の日本を生きたフランス人の生涯を大変に興味深く理解することができました。
ところで、ビゴーという名前を聞いて皆様が真っ先に思い浮かべられる作品は、社会科・日本史の教科書に掲載されていた明治期の日本と関係国の動向をシニカルに描いた「風刺画」の数々であるものと推察いたします。例えば、ギラついた目つきのサムライ(日本)と、おっとりした風情の辮髪姿の清国官人(中国)とが、我こそ水中に見える魚(朝鮮)を釣り上げようと川の両岸から釣り糸を垂らして競合しているなか、隙あらば我こそが……と葉巻を加えて悠然かつ虎視眈々と魚(朝鮮)の横取りを狙う西洋人(ロシア)が描かれている、恐らく小学生も知る『魚釣り遊び(漁夫の利)』(明治20年)でありましょう。他にも、よく教科書に取り上げられるのが、舞踏会で豪華な洋装を着用した日本人男女の鏡に映る姿が洋装猿のように描かれる、余りに洋化に傾斜しすぎた鹿鳴館時代を痛烈に皮肉った『社交界に出入りする紳士淑女(猿まね)』(同年)、明治19年に紀州沖で発生したノルマントン号遭難事件で、日本人乗員を救助しなかったイギリスの横暴を痛烈に批判した『メンザレ号事件(ノルマントン号事件)』(同年)、明治政府を風刺するビゴーの肩を持つ日本人新聞記者の言論を阻止するため、警官が彼らに猿轡を嵌めて取り締まっている(窓の外からその様子を伺うピエロはビゴーその人でしょう)『警視庁における「トバエ」』(明治21年:「トバエ」はビゴーが明治20年に横浜のフランス人居留地で発行した風刺漫画雑誌)、直接国税15円以上納入の25歳以上成人男性にのみ選挙権が与えられた、日本で最初の民選議員選挙の様子を描いた『選挙の日』(明治23年:投票箱を囲んで厳重に行動を監視する物々しい様子が皮肉を込めて描かれます)、恐らくフランス帰国後に描かれたと思われる日露を巡る国際情勢を風刺した、即ち葉巻を加えて余裕綽々で腕を後に組んで構えるロシア将校と、へっぴり腰で恐る恐る刀を突き付けている日本軍人を対置、そして日本軍人の背後には少し離れて日本人を嗾けるイギリス人、そしてパイプを加えて高みの見物を決め込むアメリカ人とを描くことで、当時の国際情勢を的確に風刺した無題の作品も思い浮かべることができましょうか。何れの作品も、ビゴーが世情・時世・国際情勢を驚くほど正確に把握し、実に的確かつウィットに富んだ風刺作品に仕上げていることに感心させられます。また、その漫画の画才の適正にも感銘を受けます。ただ、これらの作品から感じとれるビゴーの人物像とは、文明大国としての西洋人の目から、遅れた日本人を小馬鹿にする傲岸なるそれでございましょう。しかし、ビゴー自身は日本とその文化に憧れて来日した“日本大好き人間”であったことも事実でありますし、彼の画業の本領は決してこうした風刺画を中心とする「ポンチ絵(漫画)」にあったわけでもありません。また、日本人の妻をも娶り、一子も設けてもおります。確かに、後に帰国する一因が、欧風化して変わってしまう日本への絶望にあったことは事実ですが、残された日本のスケッチからは、日本とそ後で暮らす名も無き人々の生活に対する、限りない愛情を感じ取れることも紛れもない事実であります。まずは、その実像の定まらないビゴーの生涯について追ってみましょう。
ジョルジュ・ビゴーは、1860年(日本では江戸時代の万延元年)フランスのパリに生まれた、生粋のパリジャンです。そして、1927年(日本では昭和2年)にフランスのビエーヴルにて67歳で没しており、その間の明治15年(1882)から同32年(1899)の17年間を日本で過ごし、多くの作品を残した画家(漫画家・銅版画家・挿絵画家)であります。父は官吏、母はパリの名門出の画家であり、その影響で幼少期から絵を描き始めたと言います。10歳の時にパリで起こった所謂「パリ・コミューン」にも接しており、その様子をスケッチして廻ったと言いますから、単なる画家というだけではなく、そこに時世を観察して絵画として記録するという報道者としての片鱗を垣間見ることができます。その翌年には、難関で知られる官立の高等美術学校「エコール・デ・ボザール」(17世紀設立)に入学し、本格的に絵画を学ぶことになります(ポール・セザンヌ、オーギュスト・ロダンですら合格できなかったほどの名門美術学校だそうです)。1876年に美術学校卒業後は、家計を助けるため、新聞・雑誌へ風俗画・挿絵、また銅版画を寄稿しています(あのエミール・ゾラの小説『ナナ』の挿絵画家の一人にも選ばれてもいるのです)。その一方、パリの社交界にも出入りするなかで出会った日本美術愛好家たちとの交流を通じ、日本美術への知見と強い関心を持つようになったと言います。時あたかも「ジャポニズム」の旋風がヨーロッパを席巻しておりました。ビゴーも1878年「第3回パリ万国博覧会」に展示された浮世絵に強い感銘を受けたといいます(因みに、徳川慶喜の名代として弟の昭武が幕府使節として派遣され、渋沢栄一も同行したパリ万博は1867年開催の第2回)。その頃には既にパリでもそこそこに名の売れていた画家でしたが、日本への思い黙し難く渡航を決断します。陸軍大学校で教官を務める在日フランス人のプロスベール・フークの伝手を得て、1881年の暮にマルセイユを発つことになりました。そして、翌明治15年(1882)1月に横浜に到着し、念願であった日本の地に立つことになったのです。この時のビゴーは21歳。同年の誕生日に横浜で撮影された丁髷(?)・裃・帯刀の“サムライ姿”に扮した写真が残されております。しかも片仮名で「ビゴ」と自筆サインもフランス語に併記されて記すなど、どれだけ日本に憧れていたのかを窺い知ることのできる微笑ましい写真でもあります。余計なことですが、21歳のビゴーはナカナカの男前であります。ただ、身長は160㎝程と伝えられ、欧米人としては極めて小柄であったとも伝えられます。ただ、逆にそのことが日本人に溶け込みやすかった一因となったのではないかと推察いたします。是非ともその姿をネット等でご確認いただければと存じます(因みに、映像展示でも、その“侍姿”のビゴー肖像写真も見ていただけるようにいたします)。
日本でのビゴーでありますが、東京で陸軍にフランス兵法を教えていた、上述のフークが“使用人”の形で自身の官舎に下宿させ、日本語を教えるだけでなく、業務の伝手を用いて適当な明治政府関係の“お雇い”仕事を探し(一般の仕事と比較して労働対価は極めて高額でした)、更に本来の来日の目的であった日本の木版画技術を教授する師匠を世話するなど、多方面に亘っての支援を惜しまなかったと言います。その結果、陸軍士官学校での二年間の画学教室教師の仕事を見つけ出してもくれたのです。そこで、フークの官舎から新たな下宿先へと移ります。それが、市ケ谷本村町にある士族の佐野家の離れ座敷でした。気さくで子供達の遊び相手となったビゴーに佐野家の子どもたちも忽ちのうちに懐き、特に末子マスはビゴーによく懐いたといいます(後にビゴーと結婚し一子を設けることになるのがこのマスであります)。ここを拠点に浮世絵木版画技術を学んんだビゴーでしたが、当時は文明開化の時代であり近世浮世絵の黄金時代は既に過去のものになりつつありました。浮世絵師も錦絵を捨て新聞雑誌の挿絵画家に転向するものも多かったといいます。こうした低俗化した明治の木版画作品にビゴーは失望したといいます。それでも浮世絵師の門を叩いて入門を許され、都合三年間の木版画修行をしたのですが、その習得の難しさから自らの限界をも確信したようです。そうした中で、彼の興味は次第に日本の人々、特に庶民の生活そのものへと移っていったと言います。日本人にとっては余りにも普通のことであれば記録に残ることはありません。しかし、外国人であるビゴーにとっては見るもの聞くものすべてが珍しいものであり、広く西は京都から北は福島に至るまでを積極的に各地を訪ね歩いて、極めて多くの日本人の生活の様子をスケッチに残しております。これらの作品群は、今となっては明治日本人の風俗を知るための貴重な資料となっているといいます。一方、お雇い教師の仕事が二年間の期限付きであり、これ以降日本での生計を維持する必要がありました。そのためには収入を得る道を模索せねばならなかったのです。
繰り返しになりますが、ビゴーは、フランス時代にそうしていたように、通常は絵画の対象とはなりえないような、広範な階層に生きる庶民(遊郭・出前持・屑拾い・按摩等々)に目を向けた多くのスケッチに残しております。そこには、たくましく社会を生き抜こうとする名も無き人々への限りない哀惜が感じられます。そして、日頃書き溜めたスケッチを銅版画として、画集に纏めて売り出すことで収入を得ることにしました。その購買層として目を付けたのが、彼らにとって物珍しかった日本の風俗伝える絵画の需要の見込める、外国人居留地の人々、特にフランス人であったのです。因みに、フークは後にビゴーが離日するまで親密に交際を続けており、明治38年(1905)に日本で病死し、青山墓地に奥津城があるとのこと。また、その子孫も日本に永住し、現在も日本で生活されているそうです。一方でビゴーは、フランスやイギリスの新聞社から日本を題材とした報道画家としての職をも得ることになります。結果として日本で手掛け始めたのが、ビゴーの名を聴いて誰もが思い浮かる、あの風刺画の数々となります。彼は、これまでにこうした「ポンチ絵(漫画)」に当たる作品を描いたことはなく、報道画の職を得たことがそうした絵を描く契機となったのです。こうした仕事の基盤ができたことにより、ビゴーは明治20年(1887)居留フランス人に向けた風刺漫画雑誌を創刊し、主として日本の政治の在り方を風刺した多くの作品を世に出して好評を博するようになります。先にも述べたように、主たる読者は居留フランス人でありましたから、彼らの主張を汲んだ作品を仕上げていったのです(例えば、当時の日本で懸案となっていた不平等条約の改正は時期尚早であること)。しかし、それだけに留まらず、その背景には愛する日本の美術や風俗が、政府による性急な近代化という美名の下、無残にも破壊され失われていくことへの反発もあったのだと思われます。一方、ビゴーがあれほど痛烈に日本政府を扱き下ろすことができたことには、不平等条約により居留外国人には「治外法権」を認められていたからでもあります。だからこそ、雑誌は基本的に横浜の外国人居留地での発行としていることを押さえておくことも必要でしょう。ただ、ビゴー自身は居留地に住むことなく東京に居住し、頻繁に遊郭にも出入りしながら、市井の巷に身を埋めることで、日本に暮らす極々普通の人々を観察してスケッチに残すことを好んだようです。
また、東京を拠点にして、海外新聞社の通信員として日本各地へ自然災害(磐梯山噴火・濃尾地震・三陸津波等々)の取材にも足を運んで多くのスケッチ画を描いております。また、明治26年(1893)には半年ほど京都に滞在しますが、その間には京都生まれの“おます”という名の若い女性と同棲をしております。ビゴーは水商売上がりの落ち着いた“おます”を心底愛していたようですが、間もなく彼女が病死し失意のうちに東京に戻ったようです(この“おます”は後に稲毛との関連で再登場しますので記憶に留めていただけますと幸いです)。そして、翌年には、その心の穴を埋めるように、その昔に下宿をしていた佐野家の末子マスと所帯を持つことになるのです。幼かったマスも既に17歳、「今は知性を奥ゆかしい物腰でつつんだ見るからに初々しい乙女」(清水氏の著作より)に成長しておりました。両親はマスが外国人と結ばれることに反対したようですが、マス自身は幼い時に懐いていたビゴーとの結婚に違和感はなかったようで、最終的には両親も折れたようです。明治27年(1894)二人は神楽坂の料亭で華燭の典を挙げます(正式な東京府への婚姻届提出はフランスからの書類が届いた翌年になります)。この時、ビゴーは34歳でありました。ビゴーはマスをモデルにした銅版画も残しておりますし、マスの写真も残されております。御高祖頭巾を被ったマスは切れ長の目を持つ、如何にも聡明そうな顔だちのとても美しい女性だと小生は思います。
しかし、マスとの結婚による安定した生活も束の間、日本と大陸との関係をめぐる国際関係は風雲急を告げることとなります。明治27年(1894)朝鮮半島で「東学党の乱」が起こると、日本はその鎮圧を名目にして朝鮮へと出兵し、その地における権益をめぐる清との対立は避けがたいものとなったからであります。そして、それは両国間の戦争に発展します(日清戦争)。ビゴーは、イギリス新聞社からの依頼を受けて、新婚後間もない時期ではありましたが、日本軍に従軍し新聞のための多くの報道画を描いております(まだ写真にスケッチ以上の報道性が求められていなかったのでしょう)。そこで注目すべきことは、ビゴーの描く作品の多くが、意識的に戦争の“負”の側面に目を向けていることであります。朝鮮半島における日本軍の残虐行為や、国内における出兵する夫と妻の涙ながらの別離など、戦争というものが一市民に齎す“不都合な現実”に焦点をあてた作品郡であり、彼の作品中でも白眉と称すべきものであります(ただビゴーは当時高級品であったカメラも持参しており、スケッチだけではなく多くの戦争写真を撮影もしております)。大陸から戻った明治28年(1895)二人の間に男児が授かり、モーリス・ナポレオンと命名されております。
さて、令和6年最後の本稿は、ここまでとさせていただきます。まだまだビゴーのお話は先に続きますし、稲毛海岸のことにも全く筆が及んでおりません。何せ、何時ものことでございますが、折に触れて書き進めているうちに紙数が嵩んでしまいました。実はこの以降にも本稿とほゞほゞ同分量程の紙数を要しております。「前後編」に分けでアップをとも考えましたが、流石に今は歳末でございましてただでさえ皆様はご多忙の頃かと存じます。従いまして、毎年正月元日にも本稿をアップさせていただいている慣例に基づき、残りの続編は5日後の“新年の御挨拶”に回させていただこうと存じますので、ご寛恕の程賜りましたら幸いでございます。最後の最後になりますが、改めましてこの一年間、本館と本館主催諸行事に脚をお運びくださいました皆様、本館の運営にお力を寄せていただきましたボランティアの皆様、そして本館の活動に御理解と御支援とを賜りました皆様に、心より深甚の感謝を捧げたく存じます。誠にありがとうございました。また、未だ未だ続くリニューアルオープンまでの休館で、皆様には多大なご迷惑をおかけしておりますことを、改めましてこの場をお借りしてお詫びも申し上げたいとも存じます。これを持ちまして、年末の御挨拶とさせていただきます。
うつりにほふ 雪の梢の 朝日影(あさひかげ)
いまこそ花の 春はおぼゆれ
[光厳院『光厳院御集』冬]
さやかなる 日影も消(け)たず 春冴えて
こまかに薄き 庭の淡雪(あはゆき)
[正徹『草根集』二]
しめやかに、新たな歳である令和7年(2025)を迎えることとなりました。本年は、「十干十二支(じっかんじゅうにし)」[通常は略して「干支(えと)」と称します]で申しますと「乙巳(きのと・み)」となります。小生は斯様な「陰陽五行説」には全く明るくないのですが、ネットで調べたところ概ね以下のようなことが述べられておりました。つまり、十干のうちの「乙」は、十干のうち二番目に位置づき「軋(きし)む」ことを意味し、木の陰のエネルギーを表し、柔軟性や協調性を象徴するとのこと。また、十二支のうちの「巳(蛇)」は十二支の6番目であり、蛇は古来「竜巻や雷な金運や豊穣を司る」神聖な動物として崇められ、脱皮を繰り返して再生することから「逞しい生命力」の象徴とされるとのこと。そして、両者が「乙巳」として合わさると「これまでの努力・準備が実を結び始める時期を示唆する」ことに繋がるそうです。逆に、すぐに結果が出なくとも辛抱強く取り組む姿勢が求められるとも言います。一年前の本日午後に能登半島地震が発生したこと、その後の国内・国際秩序の混迷、そして年間を通じて日本の平均気温が過去最高を更新したこと等々、心穏やかではないことが多くあって明けた本年、それぞれの問題が直ぐ解決する内容ではないだけに、地道に辛抱強く解決に向けた取り組みが重要だということになりましょうか。皆様におかれましても、本館におきましても、本年が健やかな一年であり、更なる飛躍への雌伏の月日となることを心より祈念申し上げたいと存じます。初春の巻頭歌として、何時もの塚本邦雄氏のアンソロジーから二首を選ばせていただきました。内一首は年末に引き続いての登場となる光厳院でございます。更に後の時代となる正徹の詠歌共々、繊細かつ新鮮な感性によって初春の情景を切り取った迎春歌となっております。何時もの塚本氏の短評と併せて玩味いただけましたら幸いです。
後伏見天皇第一皇子。後醍醐天皇笠置行幸の時、北條高時に擁立され北朝初代天皇となるが在位は二年。三十六歳、名勅撰集の誉高い風雅集を親撰。監修は花園院。「朝雪」、陽に照り映える雪景色に一瞬花盛りの頃を眺めを幻覚する。三句切れから「花」にかかるあたり、一首が淡紅を刷(は)いたやうに匂ひ立つ。品位と陰翳を併せ持つ歌風は出色。 淡雪の積りを「こまかに薄き」とねんごろに表現したのが見どころ。水墨の密画を見るやうな冷えわびた景色だ。正徹は十五世紀前半の傑出した歌人だが、その時代に成った二十一代集最後の新続古今集には、嫌はれて一首も採られてゐない。だが家集、草根集には、かの歌聖定家を憧憬してやまぬ詩魂と歌才がただならぬ光を放つてゐる。
※旧字体漢字は現字体に置き換えています] |
さて、我々にとっては、本年は11月に本館「リニューアルオープン」という最重大事が控えております。我々といたしましては、残すところ10カ月内に館内の諸々を一つひとつ仕上げていかねばなりません。現在、各時代担当が進めている、展示解説グラフィック内に納める解説原稿検討、それに伴う写真・資料等々のデータ集約が最終段階を迎えております。これが一段落すると、共有部分の内容も詰めていくことになります、ラウンジ機能を有する1階展示内容の細かな