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更新日:2022年7月2日

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館長メッセージ

 目次

 


 

 

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 令和4年度の千葉市立郷土博物館 ―本年度も天野が館長を勤めさせていただきます―
―令和8年度『千葉開府900年』に向けての諸事業を推進して参ります―

4月1日(金曜日)

 

 

 昨年度から引き続き、本年度も館長の任を勤めることとなりました天野良介と申します。令和2年度に館長職を仰せつかってから、今年度で3年目に入らせていただくことになりました。昨年度最後の本稿でも申し上げましたとおり、過去からの懸案事項、この2年間の勤務で気づかされたこと、そして将来への見通し明確にし、それらの具現化・改善に向けて、本年度における本館の運営に邁進して参る所存でございます。令和4年度も何卒よろしくお願い申し上げます。

 去る3月21 日をもって本県でも「蔓延防止等重点措置」が全面的に解除されましたが、「コロナ禍」は決して終息したわけではありません。実際のところ、毎日少なからぬ数の新規罹患者と感染による死者とが報道されているのが現実であります。一方で経済を回さねばならないこともあるなど、現代社会における感染症対策に対する舵取りの難しさを改めて実感するところであります。従って、「蔓防」解除をもって全てを「コロナ禍」前にリセットできるかと申せば、それが不可能であることは明々白々でございましょう。特に、本館のような公共施設では、今後も「コロナ禍」の状況を勘案し乍ら、公共サービス提供と感染症拡大防止を両天秤に掛けながら、適宜処方箋を書き換えながらの対応を続けて参らなければならないと考えております。勿論、来館される皆様のご協力こそが肝要とはなりますが、不特定多数の方々が出入りする公共施設であるからこそクラスター発生源とならぬよう、今後ともお客様は勿論のこと、本館でご活動いただいているボランティアの皆様にも御協力いただかなければならないことを、御承知おきいただけましたら幸いです。今後のコロナ禍の状況が好転することを祈るのみでございますが、何時も申し挙げますように、大凡100年前における「スペイン風邪」終息にも長い月日を要しているのですから、人の交流がこれほど広範に行われる現代社会で、更なる年月を要することを覚悟せねばなりません。決して「解除=全て元通り」などというイージーゴーイングが許されるはずも御座いません。そのことは、誰もが御理解いただけるものと確信しております。我々が未曾有の事態に直面していることを忘れてはなりません。

 さて、そうは言いながらも季節は廻り、植樹から百年近くの歳月が経過し衰えたりとは言いながらも、猪鼻山の桜花もこれから盛りを迎えることとなりそうです。そして、それに祝福されるように千葉市立郷土博物館の新年度も幕を開けることとなりました。昨年度は、大正10年(1921)1月1日に千葉町が「千葉市」に衣替えして新たなスタートを切ってから100年目という記念すべき年度でございましたが、本年度は平成4年(1992)4月1日全国で12番目の指令指定都市となり6つの行政区を設置してから30年目という記念年度となります。しかし、郷土博物館と致しましては、「千葉開府900年に向けたロードマップ」に則り、令和8年(2026)度に迎える「千葉開府900年」に照準を合せて参ります。従って、当該年度までを「プレ年度」と位置づけ、毎年開催される特別展・企画展では、その内の1回を「千葉氏」、若しくは千葉氏との強い関係性を有する「中世」の内容に焦点を当ててまいります。つまり、「市制施行100周年」に関する「近現代」を題材とする過去2年の展示会から転じ、本年度につきましては「中世」に関する内容を中核に据えて特別展とし、別に「近世~近代」に関する内容を企画展とする、いわば“2本立”での展示会開催を致す所存でございます。併せて、関連事業も粛々と進めて参ります。

 まずは、その特別展ですが、今年度は千葉市域を舞台とした「中世(戦国期)」に焦点を当てます。具体的な内容は、ざっくり申し上げれば「小弓公方足利義明とその時代」ということになります。勿論、足利義明を紹介することだけが目的ではありません。足利義明という人物の動向を探ることを通じて、戦国時代における千葉市域の置かれていた政治状況、とりわけ当地の支配者であった千葉氏との関係性を把握できるようにしたいと考えます。更に、宗教・文化等を担った当時の幅広い人々の交流する地域の姿にも目配りを出来ればとも目論んでおります。つまり、当該時代のパースペクティブの中に千葉市域の「時代像」を描き出すことを目的としております。残された史料は決して多くはございませんが、政治的な状況は勿論のこと、広く同時代の社会・文化・宗教の在り方を見逃すことなく掬い採ることができれば、千葉市域における「中世(戦国期)」をより重層的に把握していただけるものと考えておりますし、併せて当時の千葉氏の置かれていた状況にも迫ることができるものと存じます。

 因みに、千葉市の歴史には左程に興味関心を惹かれない方、乃至は戦国フリークを自認される以外の方にとっては、「小弓公方って何?」「足利義明って一体誰?」「千葉市、千葉氏と何か関係あるの?」といった疑問を抱かれましょう。無理もありません。足利義明は高等学校の日本史教科書にすら載っていない人物でありますから。しかし、“足利”を名乗っていることからも明らかなように、室町幕府政権を打ち立てた足利尊氏後裔に連なる極めて貴種性の高い人物でございます。ここで、皆様に特別展に脚を運んでいただくためにも、当該人物について少々のご紹介をさせていただきたいと存じます。若干なりともご興味をお持ちいただけますれば、少しは出かけてみようかな……との思いを抱いていただけるかもしれませんから。皆様は、足利氏が京都に幕府を開いた時代(室町時代)、関東支配のため鎌倉に出張所的機関が置かれていたことを学んだ記憶がございましょう。それが「鎌倉府」であり、その長は初代征夷大将軍足利尊氏の後裔が引き継ぎ「鎌倉(関東)公方」を称しました。そして、その補佐役として置かれたのが「関東管領」であり、代々上杉氏がその地位を世襲しました(後に上杉氏は幾つかの家系に分れ山内上杉氏と扇谷上杉氏が有力となります)。ところが、鎌倉公方は次第に自立化の傾向を強めるようになり、室町将軍と対立するようになります。そのことは取りも直さず、幕府の意向を汲んで鎌倉公方を補佐する立場にあった上杉氏と、鎌倉公方との対立に直結していきました。

 その結果、関東では両者を対立軸とする大規模な戦乱が勃発することになります。これが「享徳の乱」に他なりません(本戦乱の名付け親は中世史研究者の峰岸純夫先生であり、かつてお会いした際、今では高校教科書にも掲載されるまでに周知されたことをお喜びでありました)。こうした中で、室町将軍に反旗を翻した鎌倉公方足利持氏は、室町将軍足利義教によって討たれます。しかし、持氏の子である成氏は、鎌倉を離れて下総の古河を拠点とし、その権威と勢力を維持しながら、上杉氏(幕府側)との対立を続けることになります(「古河公方」)。つまり、関東は「応仁・文明の乱」に10年以上も先立って戦乱の巷と化したのでした。しかし、古河公方家中も一枚岩ではなく、その主導権を巡って一族内の対立が生じます。それが成氏の孫で古河公方となる足利高基と、その弟で僧籍にあった空念(“こうねん”と訓ずる後の足利義明です)との対立に他なりませんでした。

 一方、古河公方足利氏と関東管領上杉氏の対立は、関東における有力武士一族内の対立や、混乱に乗じて勢力を伸ばそうとする新興武士の勃興をも促します。それは、千葉一族内でも、房総の地の勢力分布図においても例外ではありませんでした。即ち、千葉一族内での内部対立構造が、この古河公方と関東管領との対立にリンクして展開することになることになったのです。つまり、関東管領(室町幕府)支援勢力である千葉介本宗家と、古河公方の与力となる庶家とが衝突。その結果、庶家の馬加氏・原氏の連合軍に攻められた千葉介胤直は討たれ、本宗家は庶家にその地位を簒奪されることになりました(彼らは後に本佐倉城を築いて本拠を千葉から移すことになります)。また、房総の地では、上総武田氏・安房里見氏等の新興勢力が勃興し、下総における伝統的支配者としての千葉氏と対立関係となります。両者の攻防は一進一退でしたが、ついに上総武田氏は千葉氏領国に攻め込み、現在の千葉市南部にあった千葉氏重臣原氏の居城である小弓城を落城させます。そして、上総武田氏は起死回生の一手を打ちます。それが、対立関係にある古河公方家の一方を自らの旗頭として担ぐことで、劣勢の挽回を図ろうとすることでした。その人物こそが、古河公方足利高基と対立する弟の義明であり、奪った小弓城に彼を招き入れ本拠としたのです。その求心力は絶大なものでした。ここに、関東において古河公方と並び立つ、もう一つの政治権力の中心軸となる「小弓公方」が成立することになりました。

 特別展では、こうした「小弓公方」の成立と動向、及び滅亡に到るまでの過程について、千葉氏の動向と重ね合わせながら丁寧に読み解いて参ります。そして、その存在を千葉県内における戦国期の一動向として把握することに留まらず、関東における戦国時代にもたらした大きな意義について探り、明らかにいたします。つまり、「足利義明」が本拠とした千葉市域が、戦国の世における「台風の目」に位置づき、関東戦国時代を大きく揺るがす震源域ともなったことを御理解いただける展示とすべく目論むところでございます。千葉氏を理解するためには、戦国半ばに位置づく足利義明の動向との関係性は不可欠の要素であります。しかも、小弓公方の動向とその舞台である千葉市域が、如何なる意味においてその時代に重要な位置を占めたのかについて、是非ともご来館いただきご確認していただければと存じあげます。市民の皆様にもほとんど知られていない、小弓公方足利義明を通じて、千葉市域、房総半島、いや少なくとも関東戦国時代を広い視野から俯瞰していただく機会としたいと思います。そもそも、足利義明に関する特別展の開催は国内初となります。皆様、是非ともご期待ください。

 次に、開催時期は前後いたしますが、「近世~近現代」を題材とする企画展につきまして。タイトルは仮称の段階ではありますが、現段階で「甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のサツマイモ-」としております。サツマイモと言えば青木昆陽、青木昆陽と言えば幕張、幕張と言えばサツマイモ栽培発祥の地……と、連想が連なっていくほどに、千葉市と青木昆陽とは切っても切れない縁で結ばれているのではありますまいか。「千葉市で有名な歴史上の人物」を問われれば、必ずや三本の指にはランクインすることでございましょう。あまつさえ、幕張には「昆陽神社」があって、昆陽は「芋神さま」として祀られる存在でもございます。教科書的知識として周知されているのは、「江戸幕府8代将軍徳川吉宗が、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていたサツマイモ栽培を青木昆陽に命じた」こと。「その試作地となったのが小石川薬園、下総国千葉郡馬加村(幕張)、上総国山辺郡不動堂村(九十九里町)の三カ所である」こと。その結果「享保の大飢饉以降に関東地方でサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救った」こと等でございましょうか。更に詳しい方は、享保20年(1735)には『蕃薯考』(ばんしょこう)なる薩摩芋栽培法の研究書を著したことをご存知でもございましょう。

 しかし、実際のところ、昆陽という人物について、それ以外の何を知っているのかと問われれば、当方もたちまち口を噤まねばならなくなります。そもそも、青木昆陽とは一体何者かと調べると「蘭学者」とあり、てっきり宮崎安貞のような農業技術者だと思っていた当方としては意外の感に打たれました(「解体新書」で知られる前野良沢は最晩年の弟子の一人とのことです)。更に「書物奉行」として関東甲信越の幕府領における古文書調査を行ったとも。どうにも、人物像が焦点を結ぶことがありません。更には、もう少し調べてみると、何と言うことでございましょうか!!サツマイモ試作地である幕張の地にも極々短期間しか足を踏み入れてはいないようです。地元民にも殆ど印象を残していないと思われる昆陽が、何故「神」として祀られるまでに至ったのでしょうか??何時、誰が、何のために……??現在、サツマイモ生産量として、鹿児島県・茨城県に次ぐ国内第三位に位置付く千葉県ですが、それほどまでにサツマイモ生産が盛んになるのは何時からなのか??かつて市内にも多く存在した「サツマイモ澱粉工場」で造られた澱粉は如何に活用されたのか[かつて本千葉駅(現在京成電鉄の千葉中央駅)線路脇に存在した参松工業での水飴等の生産とも関係しましょう]??最近までJR稲毛駅近くの総武線路脇に存在した薩摩芋原料によるアルコール工場の起源は??……等々、次から次へとハテナマークが浮かんで参ります。つまりは、千葉市でも誰でも知られる人物のわりに、その実像も、サツマイモの成り行きについても、不透明なことだらけあります。しかし、千葉市の薩摩芋の出発点に青木昆陽が位置付いていることは確かであり、そこから如何なる過程をへて国内生産第3位の場にまで辿り着いたものなのか。それを「甘藷先生の置き土産」として跡づけてみようとする試みこそが、本年度開催の企画展の趣旨 に他なりません。未定ではございますが、江戸時代に食されていたサツマイモ料理なども昆陽らの著した著作のレシピを基に紹介できたらと考えるところですが果たして如何??知っているようで殆どその実態を知らない郷土の有名人を深く理解し、千葉のサツマイモの歩みを明らかにする企画展を是非ともお楽しみにしていてください。

 併せて、例年の如く千葉氏関連のパネル展を本年度も開催をいたします。こちらにつきましては、予て皆様さまにご案内をさせていただいておりますように、現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(脚本:三谷幸喜)と関連付けた内容となります。すなわち、千葉常胤に限ることなく、常胤と同時人として活動し、おそらく面識も交流もあったであろう坂東の御家人を紹介することを目的として開催をいたします。大河ドラマ放送が開始された、昨年度末となる本年当初の『千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)』続編として、6月末より『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』を開催いたします。取り上げる御家人は7名。武蔵国から畠山重忠・比企能員、上野国から新田義重、下野国から足利義兼・小山政光・宇都宮朝綱、常陸国から八田知家となります。併せて、オマケとしまして「千葉常胤をめぐる女性たち」項目を別にたて、常胤の母・室・息女について伝承の世界も含めてご紹介をさせていただきます。今回は、パネル展開催とオンタイムでブックレット刊行も可能とすべく準備を進めておりますので、こちらもお楽しみにされていてください。

 最後に、令和8年度「千葉開府900年」を目指し、本館展示内容をより良いものに改めるための検討を今年度から進めて参ります。皆様に、これまで以上に「千葉氏」についての理解を深めていただくために、従来の展示内容は不十分なものであり、その改善については何年も前から附属機関からの指摘を受け続けております。千葉氏の理解を深めるためには「中世展示」の在り方を大きく変えることが求められると同時に、千葉氏の勃興から滅亡、その前後の千葉市域の歩みを掴むことのできる展示とすることが求められます。そのことで、歴史の流れの中で千葉氏の果たした位置づけが明確に理解できるものと考えております。千葉氏だけを幾ら詳細にご紹介しても、千葉一族のもった意義の大きさを正しく理解することはできません。つまり通史展示の実現が不可欠なのです。その端緒となる一年としたいと考えております。

 以上、本年度の本館の事業につきまして、特別展をはじめとする展示会概要等を申し述べさせていただきました。そのほかにも、例年行っております市民講座、小中学生等を対象とする教育普及活動等々を着実に推進して参ります。今後も、公共機関としての本務を忘れることなく事業を推進して参りたいと考えております。本年度の千葉市立郷土博物館の活動につきまして、是非ともご支援を賜りますことをお願いいたしまして、年度当初のご挨拶とさせていただきます。本年度も何卒宜しくお願いいたします。

 

 

 

【令和4年度開催 特別展・企画展等 テーマ・会期(予定)】

 

(1)パネル展[会期:令和4年5月19日(木曜日)~令和4年7月12日(火曜日)]

『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』

(2)企 画 展[会期:令和4年8月30日(火曜日)~令和4年10月16日(日曜日)]

 

『甘藷先生の置き土産 -青木昆陽と千葉のさつまいも(仮称)』

(3)特 別 展[会期:令和4年10月18日(火曜日)~令和3年12月11日(日曜日)]

『戦国期千葉氏と周辺勢力 -小弓公方足利義明とその時代(仮称)』

 

 

 

 NHK主催「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』展」または千葉常胤を演じる岡本信人さんのこと ―令和4年4月23日(土曜日)~同年5月15日(日曜日)の会期にて本館1階展示室を会場に開催!!―

4月8日(金曜日)
つくばねの 高嶺のみゆき 霞みつつ

隅田河原に 春たちにけり
(村田春海『琴後集』より)
 


 新年度の二回目となる今回は、余り知られていないと思われる江戸時代を生きた歌人の詠歌から幕開けとさせていただきました。本来であれば、地元千葉町の作者の歌でもあれば宜しいのですが、管見の及ぶ範囲で見つけることが叶いませんでした。そこで、せめて坂東の地の歌人の作品を……との想いから、この度はお江戸日本橋小舟町の住人である村田春海(むらたはるみ)(1746~1811)のご出座を仰いだ次第でございます。もっとも、彼が我ら千葉と満更無縁というわけでもございません。何故ならば、彼はその地で干鰯問屋「村田屋」を営む豪商の御曹司であり(次男坊)、江戸に出回る干鰯の多くは房州からの産品となりますから、房総とは深い関わりのある人物ということになりましょう。しかも、村田家の本姓は「平」であり、千葉氏支流を称しております。そして、出自は上総国にあるとしているのです。本館外山研究員に確認をしたところ、千葉六党の一流である国分氏の庶流に村田氏があるとのことです。もしやして、その後裔の可能性がございましょう。

 皆様が春海の名を耳にされたことがあるとするならば、それは専ら国学者としての知名度に拠りましょう。国学の泰斗、かの賀茂真淵の門人でもありますが、同時に歌人としても広く知られる存在でもあったのです。歌集に『琴後集(ことじりしゅう)』があり、標記詠歌もそちらからの引用であります。彼は、請われて家業を継ぎますが、遊蕩三昧の挙句に家産を蕩尽して零落。晩年には“白河楽翁”松平定信から僅かな扶持を支給されて糊口を凌いだと言われます。本作は和歌としての出来映えを一先ず脇に置くとしても、江戸の風物を歌に盛り込んだところが味噌と申せましょうか。王朝文学の王道とも目される“三十一文字”の世界では、近世に到っても詠みこまれる風物は、概して歌枕として定まった定型的な場所がほとんどであり、必ずしも“御当地色”との親和性には乏しいものでありました。しかし、江戸後期の急激な諸産業の発展に伴う、庶民階級の生活環境の向上と都市としての成熟が、そうした“月並み”路線を突き破る力として働くようになるのです。標記詠歌などは定めしその典型的事例に当たろうかと存じます。一読されれば、王朝風とは随分と異なる印象を抱かれましょう。如何にも“江戸っ子”風であります。しかも、どこかしら軽妙洒脱を旨とする「俳諧」の味わいすら漂わせてはおりますまいか。実は、この時代には漢詩を詠むことこそが知識人の証でもありました。しかし、その漢詩の世界ですら、江戸時代後期には一瞬の風景や出来事を十七文字に閉じ込めたかのような、あたかも「俳諧」の世界観と通底する作風が多く現れるようになります(近世漢詩の豊穣の世界は何れ機会があればご紹介させていただきたいものと存じます)。江戸時代後期の巨大都市「江戸」を初めとする都市的文化の在り様が色濃く映し出されたものと思われます。何せ、黄表紙・洒落本、川柳・狂歌が持て囃され、歌舞伎や落語が庶民の娯楽として全盛を極めご時世だったのですから、本来の王朝路線にもその影響が及んだのも自然の成り行きであったことでしょう。春海の作品も、古典的な歌の器に盛りつけられた、筑波嶺や隅田川という目新しい坂東風物の酒肴が、到って面白く新鮮に感じられませんでしょうか。もっとも、筑波山が雪で真白に覆われる姿はあまり現実的とは言いかねますが。

 さて、ようやく本題に移ります。前回の本稿で本年度の本館の展示会について御紹介をさせていただいたところですが、今回の一件については触れておりませんでした。つい3日ほど前にプレスリリースがなされましたので、ようやくこの場でもご紹介できる運びとなりました。そもそも、本展示会の主催者は標題に掲げましたようにNHKであり、千葉市は飽くまでもこれを後援する立場にあります。従いまして、前回の扱いとは切り離してご紹介をさせていただいたとの側面もございます。かような立ち位置の展示会でありますから、基本的に、展示内容と広報の一切合切はNHKが行うものとなります。本市における本展の推進役は主に“都市アイデンティティ推進課”にあり、本館も意見を求められる機会はあったものの展示内容に関与する立場にはございません。基本的に、飽くまでも会場を提供するという立ち位置でございます。表題のとおり、現在放映中であり、本市にも関わる重要人物である千葉常胤が登場する大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を千葉市としても応援することで、市民の皆様にその世界観を楽しんでいただくための“展示イベント”であることを御承知おきいただければと存じます。

 会場では、番組に出演する4人の俳優の等身大パネルが皆様をお迎えします(それが誰かは来場してのお楽しみということで)。ただし、残念ながら千葉常胤を演じる岡本信人さんのパネルの準備はされていないそうです。その代わりに、千葉市向けに、モニターを用いて番組PR映像と千葉常胤役の岡本信人さんのコメント映像を御用意していただけることとなりました。他に、番組で用いられた衣装・小道具の数々や場面写真の数々の展示を通してドラマの世界観を感じていただけるとのことです。現状で、我々が申し上げることができるのは、申し訳ございませんがこれくらいです。正直なところ、実際の展示がどのように仕上がるのかは、我々ですら詳細は皆目見当が付かない状態です。ただ、NHK担当者との打合せにより、会場内には、併せて本館で開催いたしました「千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)」パネルを展示することで、「大河ドラマ展」の世界を補完することとなりましたのでご承知おきください。大河ドラマを興味深くご覧になっていらっしゃる皆様のご来館をお待ち申し上げております。因みに、本展終了後、矢継ぎ早に5月19日(木曜日)よりパネル展「千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)」が開幕いたします。こちらは本館主催の展示会です。どうぞ、そちらへのご来館もお待ち申し上げております。展示内容につきましては、開催が近くなりましたら本稿でもご紹介をさせていただきます。

 大河ドラマ序でに、もう一つの話題を。それは、千葉常胤を演じていらっしゃる岡本信人さんについての内容となります。最初に確認をさせていただきますが、岡本さんは昭和23年(1948)のお生まれでありますので、現在75前後のご年齢にいらっしゃいます。その岡本さんが何故常胤役に抜擢されたのかを、過日脚本家三谷幸喜氏自身が言及された証言に接し、大変に興味深い内容でもございましたので、是非ともこの場で御紹介させていただきたいと考えた次第でございます。それは、朝日新聞(夕刊)に定期連載される「三谷幸喜のありふれた生活」3月17日(木曜日)掲載記事でありました。タイトルもズバリ「老武将・岡本信人の凄み」でございます。朝日新聞を購読されていても見落とされた方もありましょうし、まして他社新聞をお読みの方はさらなり。しかも、昨今は新聞自体を購読しない方も増えました。御紹介する価値は皆無ではございますまい。そこで、三谷氏は、本作品には高齢の坂東武者が多数登場するものの、「老いても血気盛んな強者」を演じられる俳優のキャスティングが意外と難しいことを指摘されております。「日向ぼっこが似合ってはいけない」「鎧が様になって欲しい」「元気であることが最重要」。しかし、「元気過ぎても困る」。そこで例示されているのが舘ひろしさんです。舘さんは間もなく72歳になられるそうですが「全くお爺さんのイメージはない」と書かれます。ムム!確かに!!……と妙に頷かされるものがございます。更にこうも付け加えておられます。「今回必要なのは枯れた感じの人」「それでいてパワフル」……と。確かに条件に相応しい俳優が誰かと問われても、誰しも直ぐには返答できますまい。

 斯様な時、三谷氏は「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」で、芸人さんたちとのソフトボール企画に登場されている岡本信人さんを“見つけた”と書かれております。そこで活躍する「岡本さんは元気そのもの」「何よりも強い目力を感じた」と。そして「同時にいい具合にお爺さん」。そして、下総の大豪族である千葉常胤は是非ともこの人に演じてほしいと、プロヂューサーにすぐに連絡をされたとのことです。岡本さんと言えば、自分自身の記憶で申せば、京塚昌子主演『肝っ玉かあさん』(1968年)で、主人公が女手一つで切り盛りする蕎麦屋「大正庵」の出前持を演じていたのが若き日の岡本さんでした。調子が良くてそそっかしい人物ですが、誰からも憎まれない明るく素直な好青年を演じておられました。また、バラエティ番組では、はかま光緒が司会者のNHK『脱線問答』(1978~1984)の解答者としての姿が印象的でした。本番組は“大喜利”の現代版を目論んで制作されたものと思われますが、司会者から「早いのが取り柄、岡本信人くん!」と“イの一番”に指名されるものの、いつも冴えない解答で場を和ませる剽軽者のキャラクターを見事に演じておられました。調べてみると、その他にも膨大な数のテレビドラマ・映画等々に御出演されておられ、数多の作品で「確かに見たことがある!!」と気づかされた次第でございます。NHK大河ドラマだけでも、今回の「鎌倉殿」で11作目の過去作品に御出演でいらっしゃいます。まさに日本を代表する“名バイプレイヤー”のお一人と申しても過言ではありますまい。最近では、「野草を食べる人」としてテレビでも引っ張り蛸であり、調べてみたところ関連著作を2冊上梓されておられます。まさに、SDG’sを地でいかれる方かとも拝察いたしております。

 三谷氏は当該記事で、岡本さんに抱いていたイメージは「ホームドラマでビールの配達にやって来る人といえば、大抵は岡本さんであった」「あれほど前掛けが似合う人はいない」と書かれております。その一方で、大河ドラマファンの三谷氏は、過去10作品に登場された岡本さんの忘れ難き姿として以下のようにも述べていらっしゃいます。ますは、大村益次郎を主人公とした『花神』(1977年)で金子重輔を演じた岡本さんについて。「吉田松陰と共に黒船に乗り込もうとした人。小さくてひ弱だが、思いだけは決して松蔭に負けない、そんな熱血青年を岡本さんは全力で演じられていた」と。また、勝者として生きた者(薩摩)と敗者として生きた人物(會津)とを対照して明治を描いた『獅子の時代』(1980年)で、「一転して姑息な官僚役」を演じた姿も忘れられないとも。その前年に放映された、最新作とほぼ同じ時代を描いた永井路子原作『草燃える』(1979年)では、藤原定家を演じておられました(同作で北条義時を演じていたのが、本作で平清盛を演じている松平健です)。

 こうして、三谷氏からのラブコールを送られた岡本さんでしたが、NHKスタッフからは「岡本さんには武将のイメージがないのでは……」との不安が寄せられたそうです。しかし、三谷氏には“絶対大丈夫”との確信があったようです。何故ならば、岡本さんがかつてNHKで放映された『人形劇三国志』(1982~1984年)で「主人公たちの前に立ちはだかる曹操と周瑜という二大敵役の声を担当され」ており、「これがとてつもなく格好良かった。骨太で勇猛果敢な武将を声だけで表現」され、そこには「出入りの酒屋さんの姿は微塵もない」からであると書かれております。正に、ベタ褒めとも言うべき賛辞でございましょう。そして、今回の大河ドラマ内で、下総目代の首級を挙げて頼朝の下に参上した岡本さん演じる常胤像に「まさに思い描いていた通りの“血気盛ん”な老武将」の姿を確認されたと言います。「しかも、岡本さんはそれを荒々しさとは真逆の、淡々とした風情で演じて」おり、「だから底知れぬ恐ろしさがある」「敵将の首級をまるで、ビールを一本サービスしておきましたよ、みたいな感じで差し出した。あっけらかんとした凄みをそこに感じた」と書かれているのです。確かにしかり。当方は、それに対する頼朝と安達盛長の軽率なほどに薄っぺらな対応には憤りすら感じたことを、かつて本稿で指摘したことがあります。しかし、岡本さん演じる常胤の落ち着き払った居住まいには、大いに打たれるものがあったと述べおります。三谷氏と軌を一にする感慨に何とも嬉しい思いであります。

 そして、三谷氏は岡本さん演じる常胤の今後について、以下の如く述べて原稿を締め括られておられます。「この先も老将千葉常胤は、ドラマに登場する坂東武士たちと、時間の関係で割愛した登場しない坂東武士たちの代表として活躍する。鎌倉を震撼させたとある大事件の“首謀者”の一人でもある。全国の岡本ファンの皆さん、どうぞお楽しみに」……と。大河ドラマにおける岡本信人さん演じるところの常胤を大いに楽しみに拝見したいと存じます。

 今回、三谷幸喜氏による“岡本信人礼賛”記事を引用しつつ岡本さんのことを長々と御紹介させていただいた理由の一つに、過日岡本さんがとあるメディアの取材のために本館をご訪問下さり、その砌、“不肖”私めが「御館さま」の館内ご案内を相務めさせて頂いたこと。そして、その御人柄に大いに打たれたことがございます。子供の頃から親しんでいた岡本さんが、目の前にいらっしゃること。御髪は胡麻塩ではございますが、微塵もご高齢を感じさせない凛とした立ち姿、ご年齢を感じさせない若々しさと溌剌さ、画面から受ける印象と寸分違わぬ誠実さと謙虚さ、相手を包み込むような滲み出る暖かさ。そして、何よりも自らが演じておられる千葉常胤を理解しようと勤められる真摯な姿勢に、自らの怠惰を射貫かれるような思いと感銘とを受けたのでございます。たかが小一時間ほどではございましたが、当方のような朴念仁にでさえ、岡本さんの人として高潔さは充分に伝わって参りました。だからこそ、50年という月日を超えて、今でも多くの方々から尊重され、引く手数多なのでございましょう。そのことが痛いほど身に沁みました。そして、岡本さんを千葉常胤に抜擢された三谷幸喜氏の慧眼にも心からの合点がいった次第でございます。それに引き比べ、最初にキャスティングを耳にした時に「何故岡本さんなの!?」と思った自らの浅はかさと不明とに恥じ入るばかりです。これを機に、岡本さんの更なるご活躍を祈念申し上げたいと心に決めた次第でございます。

 

 「Gentle Breeze」そよぐ“よき季節”の到来に寄す(前編) ―英国ロマン派の詩人 ワーズワース『序曲』のこと― ―「千葉氏ゆかりの地」案内看板第2弾(令和3年度分)4カ所に設置(智光院・胤重寺・宗胤寺跡・紅嶽弁財天)のこと―

 

4月15日(金曜日)

 

 THE PRELUDE BOOK FIRST
INTRODUCTION CHILDHOOD AND SCHOOK-TIME

WILLIAM WORDSWORTH

 OH there is blessing in this gentle breeze
  That blows from the green fields and from the clouds
  And from the sky:it beats against my cheek ,
  And seems half-concious of the joy it gaves .
  O welcome Messenger ! O welcome Friend !
  A captive greets thee , coming from a house
  Of bondage , from yon City’s walls set free ,
  A prison where he hath been long immured .
  Now I am free , enfranchis’d and at large ,
  May fix my habitation where I will .
  What dwelling shall receive me ? In what Vale
  Shall be my harbor ? Underneath what grove
  Shall I take up my home , and what sweet stream
  Shall with its murmur lull me to my rest ?
  The earth is all before me : with a heart
  Joyous , nor scar’d at its own liberty ,
   I look about , and should the guide I chuse
  Be nothing better than a wandering cloud ,
   I cannot miss my way . I breathe again ;
  Trances of thought and mountings of the mind
   Come fast upon me : it is shaken off ,
   As by miraculous gift ‘tis shaken off ,
   That burthen of my own unnatural self ,
  The hesvy weight of many a weary day
  Not mine , and such as were not made for me .
  Long months of peace(if such bold word accord
   With any promises of humea life)
Long mouths of ease and undisturb’d delight
  Are mine in prospect ; whither shall I turn
  By road or pathway thought open field ,
   Or shall a twig or any floting thing
  Upon the river , point me out my couse ? 
(以下略)

 

 

  序 曲 第一巻 導入部 幼年時代と少年時代
ウィリアム・ワーズワース (岡 三郎 訳)



ああ、このやさしい風の 何というありがたさ!
緑の野から、たなびく雲から、そして大空のかなたから
吹き渡るこの風は、私の頬に吹きつけては
自分の与えるよろこびを なかば気づいているようだ。
おお ようこそ使者よ! 来たれ わが友よ!
おもえば久しい間 虜囚のように幽閉の日々を過ごしてきた
あの遥かな都会の城壁から解放され、束縛された住まいから
脱出してきた身の私は、思わずそなたにそう呼びかける。
いまこそ私は釈放され、解き放たれ、自由になったのだ。
自分の住まいを自分の好きなところに決めることができる。
いったい、どんな住まいが私を待っているのだろう。どんな谷間に
わたしの憩いの家があるのだろう。どんな森かげに
自分の住まいを定めたらよいのだろうか。またどんな清らかな小川のせせらぎが
私を優しい眠りにいざなうだろうか。
大地はひろびろと、いま私の眼前に横たわっている。喜びに
胸を躍らせ、限りない自由さにおびえもせずに、
私は周囲を見わたす。私が選ぶ案内人が

 たとえ流れる雲ほどに頼りなくとも、これからさき、もう
行く道を間違えることなどありえない。もう一度ふかく、私は息をすってみる。
すると突然、私はおもわず恍惚となり、精神の昂揚が
不意に私をおそう。いままでのわたしのゆがめられた
自己の重荷、本来私のものでもないし、私のためにつくられたものでもない、
ただ疲れ果てた日々の、積もり積もった重々しい感じが、
まるで天与の力に励まされたかのように、
ふりはらわれ、はらいのけられる。
そうして、幾月かの平和(もしこの世の契りに
平和などという大胆な言葉が許されるなら)
平穏無事な楽しい幾月かが、たしかに
自分に授かる見通しができた。さて、どちらに足を向けようか。
大通りか、それとも小道をたどって行こうか、それとも広い野原のまんなかを
横切ってゆこうか。いずれ、森の木立の小枝が、川面にただよう漂流物が、
私に行く道を教えてくれることだろう。
(以下略)


今回の冒頭は、英国における代表的なロマン派詩人として知られるウィリアム・ワーズワース(1770~1850)の手になる自伝的長編詩『ザ・プレリュード(序曲)』(1850年刊行)の冒頭部分です(原文+和訳)。ワーズワースは北西イングランドの風光明媚な土地柄として広く知られる「湖水地方」に生を受け、その自然美を高らかに詠いあげる作品を数多く作詩しました。その代表作が死の年に纏められて世に出た『序曲』に他なりません(この題名は、生前の作者が三部作の初編として構想していたことに因んで未亡人によって命名されたとされます)。しかし、それは単なる自然礼讃に留まるものではありません。研究者がその主題をワーズワース自身の「幼少時代の楽園喪失と想像力の展開によってその喪失せる楽園を回復すること」に求めているように(「『序曲』に見られる誌的想像力の展開」黒岩忠義)、幼年期の豊かな自然との交感を通じて、人の存在意義への省察を経ながら自己形成を成し遂げてゆく歩みを描いているように思います。その背景には、湖水地方における輝かしい幼年時代と、後に「少年ワーズワースがいまだ見ざるロンドンに寄せる素朴な希望と期待」(上記論文)を胸に滞在した大都会ロンドンで遭遇した“混乱と不調和の世界”への当惑とがあったものと考えられ、本作冒頭にからもその思いが読み取れましょう。その意味で、『序曲』の世界観とは、豊かな自然を通して内面形成を成したワーズワース自身の歩みを語る「ビルトゥングス・ロマン(教養小説)」ならぬ「ビルトゥングス・ポエム」(そんな用語があるのか存じませんが)なのだと思われます。従って、そこには市民革命や新たな産業勃興の動向を踏まえた、機械論的人間観への批判的な視座を見ることができます(同作の第七巻)。それは、世代はずれますが、産業革命の嵐吹き荒れる中、同国で「アーツ・アンド・クラフツ運動」を展開した、デザイナー・詩人であり社会主義思想家でもあったウィリアム・モリス(1834~1896)の内面世界とも通底するものかもしれません。大量生産される画一的な製品に飽き足らず、手仕事の価値を追求し続けた彼のデザインは、その可憐な草花の意匠によって今でも多くの人びとを魅了し続けておりますから。もっとも、彼の御国の詩人・芸術にも、ましてやワーズワースやモリスにも明るいわけではございません。馬脚を現わさぬうちにこのあたりで止めておくのが賢明でございましょう。

 ところで、当方は、偶々大学1年生の時分、語学授業のテクストが本作であったことからこの詩人と作品に邂逅したのでした。そして、忽ちのうちにその虜となりました。手元には原書と岡三郎(青山学院大学名誉教授)による翻訳書(国文社『序曲-詩人の魂の成長-』1968年)があり、上掲したものもこちらから引用をさせていただいたものであります。それらは、既に半世紀近くも前に購入した書籍でありますが、今でも時に紐解くことがございます。本稿を潤筆しているのは4月2日(土曜日)でありますが、これから5月にかけての風物に触れると不思議と本作のことを思い出すのです。『ザ・プレリュード』の舞台となった“湖水地方”への“憧れ”は、本作との出会い以来途切れることはありませんが、残念ながら未だ脚を運んだことはございません。勿論、お国柄も周囲の風景も吹く風の香りも全く異なりましょうが、この時節の本邦の自然に接すると、何時も若き自分に接したワーズワースの世界を思い浮かべます。とりわけ「風薫る五月」の薫風に、スコットランドに程近い北西イングランドに吹く「Gentle Breeze(ジェントル・ブリーズ)」とを勝手に重ね合わせては、未だ見ぬかの地への妄想を掻き立てているのです。英和辞典を紐解くと、「Gentle Breeze」とは「そよ風」「柔らかな風」「(気象)軟風~ヒューフォード風力階級3の秒速3.3~5.5mの風」とあります。まぁ、ワーズワースが三つ目の気象用語としてこの言葉を選んだ筈はございませんでしょうから、前二者の意味合いで用いたことは間違いありますまい。それにしましても、キングス(クィーンズ)・イングリッシュで発せられる「Gentle Breeze」の「音」は、あたかもその言葉が指し示す“そよ風”のように、小生の耳には途轍もなく心地よく響きわたるのです。

 ここで、北西イングランドから離れた昨今の本邦は坂東の地の風情に移ります。これは、昨年も書き記したように記憶しておりますが、通勤途中に常磐線車から見下ろす江戸川の風情に目一杯の春を感じております。鉄橋を渡る電車からは、河川敷ゴルフ練習場で春風にそよぐ「柳」の新緑と咲き誇る「染井吉野」、堰堤に延々と連なる「菜の花」のコントラスに毎年心を奪われます。目を挙げれば、最近は外環道の完成で全容を眺めることができなくなってしまった筑波山がその奥に、振り返れば富士の高嶺がそれぞれ遠望できます。少し前までは、透き通った空気の中でくっきりと屹立する姿が拝めましたが、今では潤いを含んだ春の空気が彼らにうっすらとヴェールをかけているようです。しかし、それはそれで美しいものです。感染症予防のために細く開けられた窓ガラスから吹き込む風は、流石に“ジェントル”なものとは言い難いものですが、それでもその香りや温度にはそれを感じさせられるのです。もっとも、常磐線江戸川橋梁からの眺望の美しさは季節を問いません。しかし、小生はその春景に取り分けて心惹かれるものを感じます。しばらくは、この景色と薫る風とを楽しむことができそうです。
(後編に続く)

 

 


 

 

 「Gentle Breeze」そよぐ“よき季節”の到来に寄す(後編) ―英国ロマン派の詩人 ワーズワース『序曲』のこと― ―「千葉氏ゆかりの地」案内看板第2弾(令和3年度分)4カ所に設置(智光院・胤重寺・宗胤寺跡・紅嶽弁財天)のこと―

 

4月16日(土曜日)

 

 

 さて、後編では一転して別の話題に移ります。令和8年度に迎える「千葉開府900年」に向け、一昨年度から行われている「千葉氏PR計画」の一環とする「千葉氏ゆかりの地」案内看板設置事業についてでございます(千葉市教育委員会生涯学習部文化財課と本館との取り組み)。一昨年度分の第一弾として設置いたしました“5カ所(猪鼻城跡・お茶の水・大日寺跡・本円寺・浜野城跡)”に引き続き、昨年度の第二弾として市内4カ所への設置が行われましたのでご紹介させていただきます。以下に、今回設置4か所の「看板解説文面」のみを掲載させていただきます。近々、現地の設置状況を撮影しツイッターにてご紹介させていただきます。実際の看板につきましては、以下の千葉市教育委員会生涯学習部文化財課アドレスでアクセスしていただけます。


 

千葉氏ゆかりの史跡・伝承スポット

 https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/chibauzishiseki.html

 

 

 

 

智光院(中央区市場町7−12)
千葉宗家を滅ぼした千葉(馬加)康胤が開いた寺


智光院は真言宗豊山派の寺院で、康正2年(1456)に千葉(馬加)康胤が開いたと伝えられています。康胤は千葉満胤の二男で、馬加(現在の花見川区幕張)を本拠としていました。鎌倉公方足利成氏と幕府方の関東管領上杉憲忠の対立から、関東で享徳の乱(1455~1483)が勃発すると、千葉胤直ら千葉宗家が関東管領側についたのに対し、康胤は庶家の原胤房らと鎌倉公方側につきました。康正元年(1455)、康胤らは千葉氏の館を攻め落とし宗家は滅亡、翌年康胤も、幕府の命を受け美濃国郡上郡から下向した千葉一族の東常縁に討たれました。
館の陥落後に、康胤が創建したといわれるのが智光院です。この時代、滅ぼされた者の霊引が災いを引き起こすと信じられており、鎮魂のため相手の館跡を寺とすることがありました。このため、この場所が千葉宗家にゆかりがある可能性がありますが、真相は不明です。
康胤は千葉氏を継承しましたが、後継ぎがいなかったため、当主の地位は千葉一族の輔胤が引き継ぎ、後に本拠を本佐倉(現在の酒々井町・佐倉市)に移すことになります。

 

 

胤重寺(千葉市中央区市場町10-11)
千葉常胤の孫、武石胤重を弔い開かれた寺

 

 胤重寺は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。本堂には千葉氏の家紋、月星紋が見えます。永禄元年(1558)、千葉常胤の孫、武石胤重の菩提を弔うため、その子孫である雲巌上人が開山したと伝わっています。常胤には千葉六党と呼ばれた6人の男子がおり、三男の胤盛は武石郷(現在の花見川区武石町)を与えられ、その地名から武石を名乗りました。この胤盛の子が胤重です。
『平家物語』の異本『源平闘諍録』(鎌倉時代末期~南北朝時代初期成立)には、常胤の孫千葉成胤が平家方の藤原親政を破った結城浜合戦に、胤重が参戦したことが記されています。また、嘉禄3年(1227)に鋳造された瑞巌寺五大堂(宮城県松島町)の鐘(現存せず)の銘文の写しから、当時、胤重が陸奥国亘理郡(現在の宮城県亘理町)へ進出していたことが分かっています。東北に移住した武石氏は、鎌倉時代末期に亘理を名乗るようになり、江戸時代には仙台藩主伊達家の一門涌谷伊達氏となりました。
武石氏の祖である胤盛でなく子の胤重を弔う胤重寺の存在は、武石氏にとって胤重が重要な存在であったからだと考えられます。境内には胤重のものと伝わる供養塔があります。

 

 

宗胤寺跡(千葉市中央区中央4-13付近 千葉県庁立体駐車場前)
肥前千葉氏の祖、宗胤が開いた寺

 

 かつてこの地には、千葉宗胤が父頼胤や一族家臣のために建立したと伝わる宗胤寺がありました。境内には15世紀中頃のものと考えられる伝千葉宗胤五輪塔(千葉市指定文化財)があり、そのかたわらには御廟の松と呼ばれた老木がありました。昭和20年(1945)の空襲でお堂などが焼失し、戦後、宗胤寺は五輪塔とともに中央区弁天へ移転しました。
宗胤は、肥前千葉氏の祖となった人物です。父の頼胤は、蒙古襲来に際しモンゴル軍と戦い、その時負った傷により建治元年(1275)に没しました。宗胤は跡を継ぎ、千葉常胤の時代から伝わった所領である、肥前国小城(現在の佐賀県小城市)で再度の襲来に備えました。永仁2年(1294)に没しましたが、子孫は下総に残った一族との対立を経て、肥前千葉氏として繁栄しました。
この場所の東隣、現在の千葉地方裁判所の地は、徳川家康の館があったことから御殿跡と呼ばれ、未だ所在が明らかになっていない千葉氏の館の候補地とされています。ここに宗胤寺があったことは、館の所在を考える上で注目されます。

 

 

紅嶽弁財天(千葉市若葉区みつわ台5-42)
千葉氏の本拠地を潤す湧水にまつられた常胤ゆかりの神社

 

 紅嶽弁財天は千葉常胤ゆかりの神社です。伝承によれば、常胤が子孫繁栄と福寿を祈願していたところ、夢枕に弁財天が現れたので、鎌倉の弁谷(現在の神奈川県鎌倉市材木座)にあった弁財天をここに移したといいます。
この地にはかつて湧き水があり、千葉のまちを流れて都川へ注ぐ葭川の水源の一つとなっていました。千葉氏の本領である千葉荘を潤す水源に、水の神でもある弁財天をまつったことからは、千葉荘の繁栄を願う常胤の思いがしのばれます。
古い記録によると、常胤と嫡男胤政(正)は「弁谷殿」と呼ばれていたとあり、鎌倉では弁谷に屋敷を構えていたと考えられています(『千学集抜粋』『鎌倉志』)。常胤の役職である「介」の中国風の呼び名「別駕」から、常胤が住む谷を「別駕谷」と呼び、これが転じて「弁谷」になったといわれています。
また、「弁谷」は「紅谷」とも書かれており、「紅嶽」という名前は「弁谷」に由来すると思われます。

 

 

 以上でございます。一昨年度と本年度の2年間で、本看板も9つとなりました。今後も、令和8年度「千葉開府900年」までに、毎年5つ前後の看板を継続して市内各所に設置してまいります。現在は主に中央区に偏る設置場所も徐々に広げていきますので、こちらも楽しみにされていてくださいませ。お天気の宜しき折に、春の薫風を胸いっぱい吸い込みながら、ご家族でサイクリング・ピクニックがてら、千葉氏関連史跡をお巡りされては如何でございましょうか。

 さて、最後になりますが、3月末に「蔓延等防止等重点措置」が全面的に解除となり、ホッといたのも束の間。昨今では再び感染者数がじりじりと増加の傾向をみせております。残念なことではございますが、案の状の推移となっているというのが正直な思いでございます。実際のところ観桜に相応しい場所はもっと他にもございましょうが、そこは古くからの名所であり、市の中心街からも至近であることから、この猪鼻山も予想を上回る花見のお客さまでごった返しておりました。序に博物館も……という方々も多いものですから、本館としては嬉しい反面、感染症の方は大丈夫なのかな……との懸念は払拭できない思いもございました。それは、何も猪鼻山に限ったことではありません。長引く巣ごもり生活の末の“蔓防”解除に春の気配が重なり、誰もが漫ろに外出したくなる思い止み難し……。何処も相当な人出であったと耳にしております。しかし、そのダメージはボディブローのように効いているように思われます。これからゴールデンウィークにかけての国民の行動が、第七波に到るか否かの分かれ道となりましょう。この感染症を甘く見てはなりません。専門家は5月上旬には、オミクロン株より更に強力な感染力を有する変異株“BA2”に置き換わる可能性が高いと指摘しております。連中も日進月歩で変異することで、生き残るための生存競争を繰り広げているのです。“奴さん”たちも必死なのだと思います。従って、我々人間だけが安穏としている場合ではございません。ウィルスを更に上回る対応をしかねば先を越されることは疑いありますまい。気を抜くことなく、コロナウィルスとは暫しのお付き合いをしていかざるをえないことを、改めて心に刻みたいと存じます。併せて、終息が見えないウクライナ情勢への想いと行動とを忘れてはならないと考える次第でございます。

 

 追伸 千葉市中央区役所のHPに、前中央区長の藤代真史さんと当方とが過日行った対談記事がアップされております(「知って中央区!ザ・インタビュー」)。これからの「千葉市の街づくり」について、千葉が歩んできた歴史との関係を大切にして進めることの意義を語り合っております。下にリンクを貼っておりますので、こちらもご拝読をいただけましたら幸いです。
 

 https://www.city.chiba.jp/chuo/chiikishinko/theinterview02.html
 

 

 昨今拝見した博物館展覧会につきまして(前編) ―国立歴史民俗博物館:企画展示「中世武士団―地域に生きた武家の領主―」現在開催中(令和4年3月15日~令和4年5月8日) ―足立区立郷土博物館『谷文晁の末裔―二世文一と谷派の絵師たち―』会期終了 ―土浦市立博物館:特別展「八田知家と名門常陸小田氏-鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史―」現在開催中(令和4年3月19日~令和4年5月8日)


 

4月22日(金曜日)

 

 「春眠暁をおぼえず」とは言ったもので、陽気がよくなると大いに眠たくなります。「腹の皮突っ張って眼の皮弛む」なる例えの通り、とりわけ昼食を食した後の午下がりが鬼門でございます。自宅ならばいざ知らず、流石に勤務中に午睡とは参りません。そこで、館内を巡回したり、目の覚める飲料を体内に注入したりしておりますが、眠気が覚めるまでには暫しの時間を要します。幸いに当方は花粉症にはございませんが、その薬を服用されている方に聞くと、ボーっとして何も考える気がしないか、堪えがたい程の睡魔に襲われるといいます。「酔生夢死」なる生き方も決して悪くはないと思いますが、チトやり残したこともございますので、発症せぬまま旅立ちたいものと願うばかりでございます。さて、ここに来て、これまでのコロナ禍の鬱憤解消をするかのように、各博物館にて注目すべき展覧会が矢継ぎ早に開催されておりますので、今回はその内の幾つかを御紹介させていただきましょう。

 まず、本命中の本命として、真っ先に御紹介させていただきたいのが、佐倉の国立歴史民俗博物館で開催中の企画展示「中世武士団 -地域に生きた武家の領主-」でございます。当館の展示につきましては、流石“歴博!!”と感心させられることが常々でありますが、今回の展示会は取り分けて瞠目すべき内容だと存じます。中世武士団の在り方を、往々にして有り勝ちな華々しい戦績や政策を並べ立てるのではなく、副題に明確に述べる「地域領主」としての姿から探るものであります。更に、その在り方の変容について、時代を追いながら太筆書きのようにその変遷を描いております。まさに、歴博のような国立の大規模博物館ならではの……気宇壮大な展示であることを確信いたしました。今後、「中世武士団とは何か?」への解答をする際には必ず引き合いにされるべき展示内容であると存じます。その意味において、昨年度末の千葉市博物館協議会の席上で、本委員をお務めくださっている同博物館小島道裕教授が、今回の展示会は「開館以来一度も行われていない“中世常設展示”リニューアルに繋げること」を意図して企画されたと仰せであったことに合点がいった次第でございます。

 その初期において、剥き出しの暴力装置としての“在り方”を色濃く有していた武士団が、中世という時代を通じて「地域領主」としての“在るべき”姿(「撫民」思想)に目覚め脱皮していく過程を、多くの地域資料を用いて描き出していきます(早い段階では鎌倉中期北条時頼の政策に「撫民」の考え方が明確に表れております)。その見事な展開に、当方は瞬く間に引き込まれ、時を忘れて手に汗握る思いで拝観をさせていただきました。ここでは、これまで中世武士団展示で中心軸となりがちであった“英雄的な姿”が描かれることはございません。一見地味とも言える、背景となる「地域領主」としての在り方を追うことで、中世武士団の在り方を裾野から総合的に捉えようとされているのです。一方で、中世武士団が本領にしがみつく「一所懸命」の領主では必ずしもなかったことが、最近の研究からは明らかになってきております。しかし、所領(土地)支配に限ることのない、広域な交易支配等をも含み込む「地域領主」としての中世武士団の在り方の変遷に目を向けることが、中世武士団の表立った“目につく姿“”の理解に決定的に重要であることを強く確信させていただいた次第でございます。

 歴史に関心を持たれる方、とりわけ中世武士団にご興味がございます皆様は、何を措いても本展示会にお出かけになるべきと存じます。更に、展示も然ることながら、展示図録も読み応えもある充実の完成度であり、中世史に興味のある方であれば必携だと存じます(一冊¥2,200)。因みに、地域領主の一例として、肥前国に西遷した千葉氏の在地領主としての姿が取り上げられている点も注目です(アニメキャラクター「ツネタネくん」の“狂言回し”的な登場も微笑ましいものです)。また、展示史料の中には、本館所蔵の国宝の復元甲冑、所蔵者から本館に寄託されている「千葉妙見大縁起絵巻」(栄福寺蔵)がございます。特に後者は、本館では複製展示に限っており実物展示はいたしておりません。従って、現品をご覧いただける貴重な機会ともなっております。是非とも脚をお運びください。以下に、本展の趣旨と展示構成を引用させていただきますが、更に、今回は、敢えて各章に付された田中大喜先生・荒木和憲先生の解説も併せて引用をいたします。これをお読みになれば会場に出掛けたくなること必定と存じます。幸いに、会期は未だ2週間と少し残されております。これを幸甚と言わずして何と申せましょうや!!

 

 中世武士は、世襲制の職業戦士であるとともに、地域の領主としても存在しました。中世武士の地域支配は、武士個人の力量によって実現したわけではなく、主に一族と家人によって構成された武士団という集団(組織)を形成することで実現しました。そのため本企画展では、武士団を戦闘集団ではなく「領主組織」という観点から捉えます。中世武士が武士団という領主組織を形成して遂行した地域支配の実態と展開について、13~15世紀を中心に、中世の文献・考古・美術資料のほか、近世~近代の絵図・土地台帳やフィールドワークに立脚して復元した本拠景観にもとづき、その具体的な様相を展開します。事例には、豊かな資料を今日に伝える、石見益田氏・肥前千葉氏・越後和田氏を主に取り上げます。

 

 

【展示構成】
1章:戦う武士団 -プロローグー

 世襲制の職業戦士であることを本質とした中世武士は、「戦う」ことを一義とした存在だった。中世武士は「弓箭取」や「弓馬の士」とも呼ばれたが、これは彼らの第一の武器が弓箭だったことを表している。実際、おおよそ13世紀までは、馬上から矢を射る騎射戦が合戦の基本形態であり、刀剣は騎射で矢を使い尽くした後や落馬時に使うのが一般的だった。14世紀になると、下馬して射る下馬射や徒歩で射る歩射に現れた。
  中世武士は優れた騎射の技術を持ち、合戦で発揮したのだが、平時にはそれは民衆にも向けられた。また、合戦の場では、武士は無抵抗な女性や幼児にも容赦なく襲いかかった。中世の武士団とは、職業戦士集団であるがゆえに、荒々しく残忍な性質を有した社会集団だったのである。果たして彼らは、圧倒的な武力を振るう残忍な戦士のまま、暴力と恐怖によって人々を支配したのだろうか。(田中大喜)

 

2章:列島を翔ける武士団 -移動と都市生活-

 長く中世の武士団は、草深い田舎に住み、先祖代々受け継いできた一か所の所領を懸命に維持するという、「一所懸命」の姿で語られてきた。中世の武士団が、先祖から代々受け継できた所領を持っていたのは事実であり、そうした所領は「本領」(俗に言う苗字の地)と認識された。ところが実際には、彼らは本領以外にも列島各地に複数の所領を持つのが一般的であり、どのような列島各地に散在する所領を一族や家人と分業する形で、必要に応じて本領と行き来しながら経営していたのである。
また、将軍や京都の貴族(荘園領主)と主従関係を結んだ中世の武士は、鎌倉や京都で主人に奉公する必要から、鎌倉や京都という都市にも屋敷を構え、都市生活を営んでいた。中世武士団は、草深い田舎で一か所とした所領の維持に汲々とした生活を送っていたわけではなく、列島規模に及ぶ広域的な移動を繰り返し、都市とも密接な関係を持つ存在だったのである。(田中大喜)

 

3章:武士団の支配拠点 -地域のなかの本拠-
1.武士の系譜認識 2.武士の屋敷 3.本拠の構成要素

 中世の武士団は所領を支配するにあたり、そのなかに支配拠点=本拠を形成した。本拠の中心的な構成要素は武士の屋敷である。武士の屋敷は、周囲に道や河川などの水陸交通網が発達した場所で、かつ水害の被害を受けにくい微高地や河岸段丘上に構えられた。そこは武士とその家族の日常生活の場であり、また所領支配の拠点として所領で起きたさまざまなトラブルを調停する場でもあった。
武士団の本拠は、武士の屋敷のほかに、田畠を灌漑する用水路、一族・祖先の極楽往生と民衆の暮らしの安穏を祈る寺社、そして物資・人の集散地(宿・湊・津など)とその活動を支えた交通路といった、多様な要素(施設)によって構成された。武士団は、所領=地域のなかにこれらの要素を整備・管理して本拠を形成することで、領主として存在することができたのである。したがって、武士団の本拠の様相は、その領主としての姿を映し出す「鏡」といえるだろう。(田中大喜)

 

4章:武士団の港湾支配 -地域の内と外をつなぐもの-
1.益田のミナトと西日本航路 2.和船の航海 3.大型外洋船の航海


地域の領の主である武士団は、積極的に交通・流通の掌握・保護を図った。沿海地域の場合、ミナト(港湾)と港町の掌握こそが重要だった。石見の益田川・高津川河口域では、いくつかの小さなミナトが連携し、内陸部の河川水運と日本海水運を結んでいた。ミナトは地域の「内」と「外」とを行き来する人・モノの結節点であった。
地域の「外」に目を向けると、地域間を往来する船舶が交通・流通のインフラとして機能していた。なかでも商品流通を支えたのは荷船だった。荷船はゆっくりとしたペースでの航海を特徴とするため、それを支えるために大小無数のミナトが列島各地で形成された。また、戦争の時代にあって、戦時の迅速な移動・輸送を行うための関船・小早も登場した。
地域の「外」の世界は、無限の広がりをみせた。とりわけ大型外洋船である唐船(ジャンク)が縦横無尽に往来したことで、東アジア・東南アジアの流通と列島がリンクした。異国・異域から運ばれてきたモノは、地域の「内」へと浸透して消費された。(荒木和憲)

 

5章:霊場を興隆する武士団 -治者意識の目覚め-
1.「撫民」との出会い 2.地域の安穏を祈る 3.鎌倉仏教の広がり


世襲制の職業戦士集団だった中世の武士団自体には、地域を支配する正当性が備わっていなかった。そこで、彼らが地域を支配するにあたって着目したのが、地域社会の救済を実践した宗教者集団だった。すなわち、武士団が彼らの活動の拠点となる寺社を創建・保護し、そこに安置された大般若経の書写や仏身像の造立を行うほか、寺社で挙行される地域の安穏を祈る祭礼や法会を整備・警固することで、宗教者集団による地域社会の救済事業を支援したのである。これにより武士団は、自らも地域社会の救済事業に参加している姿勢を地域の民衆に示し、地域支配の正当性の確保に努めたのだった。
宗教者集団との接触は、武士団に統治者としてのあるべき姿勢について自覚させる契機にもなった。すなわち武士団は、宗教者集団から民衆を憐れむことを心がける「撫民」の思想を学び、殺生と無縁ではいられない現実との狭間で苦悩しながらも、その体得を目指したのである。ここに武士団は、圧倒的な武力を振るう残忍な戦士集団からの脱却の一歩を踏み出したのだった。(田中大喜)

 

6章:変容する武士団 -エピローグ-
1.武装化する本拠 2.地域の核となる武士団 3.武士団の文化力

 南北朝内乱の勃発は、武士団の本拠の在り方を変容させる契機となった。すなわち、列島の各地で戦乱が増加したことにより、武士団の本拠には要塞化した屋敷や山城が築かれ、軍事的な要素が新たに加わったのである。
戦乱の増加は、武士団の本拠が形成された地域社会を戦場として巻き込んだ。そのため、そこで暮らす村落住人や寺社も、武士団の戦力となって否応なく戦争に加わっていった。こうしたなかで、村落の有力者や寺社は武士団に安堵(安全保障)を求めるようになり、前者のなかには被官(家人)となって武士団の正規の構成員になるものも現れた。戦乱の増加は圧倒的な武力を持つ武士団の存在感を増し、武士団の本拠が形成された地域社会は武士団を中心にまとまるようになったのである。こうして武士団は本格的に地域社会に定着し、そこを領域的に支配する権力へと変容していくことになる。(田中大喜) 

 

 以上でございます。未だ当該特別展へ出かけていらっしゃらない歴史好きの方であれば、必ずや居ても立ってもいられない思いに苛まれることでございましょう。本市から至近の博物館で、かような価値ある展示会に接することができる僥倖を逃す手はございません。斯様な特別展に出会える好機は稀であると存じます。もっとも、かようなことは小生が口角泡を飛ばして訴えるまでもなく、様々な媒体でも本展のことは取り上げられておりますから、皆様は先刻ご承知のことでありましょう。後編では、既に会期を終えておりますが、足立区立郷土博物館で昨年末に開催された特別展と、土浦市立博物館で現在開催中のそれについて御紹介をさせていただく所存でございます。
(後編に続く)

 

 昨今拝見した博物館展覧会につきまして(後編) ―国立歴史民俗博物館:企画展示「中世武士団―地域に生きた武家の領主―」現在開催中(令和4年3月15日~令和4年5月8日) ―足立区立郷土博物館『谷文晁の末裔―二世文一と谷派の絵師たち―』会期終了 ―土浦市立博物館:特別展「八田知家と名門常陸小田氏-鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史―」現在開催中(令和4年3月19日~令和4年5月8日)

 

4月23日(土曜日)

 

 後編にて、まずご紹介をさせていただきたいのが、会期を終えて既に久しくなりましたが、これまで取り上げる機会もなく今日に到ってしまった足立区立郷土博物館特別展『谷文晁の末裔-二世文一と谷派の絵師たち-』(令和3年10月1日~12月5日)でございます。自宅から極々至近に所在する博物館ですので、“蔓防”下にはございましたが脚を運ばせていただいた次第です。東京都足立区では、区政80周年を記念し平成24年度から継続して、区内「文化遺産調査」の成果を広く紹介することを目的にした展示会を開催しておりますが、本展は令和2年度開催の特別展『名家のかがやき -近郊郷士の美と文芸-』に続くものとなります(こちらも優れた内容でありかつて本稿で取り上げてご紹介をしております)。本展の会期は既に終了しましたが展示図録は未だ購入可能です(一冊¥1,200)。ご興味が沸きましたら是非とも御入手いただければと存じます。以下に図録から展示会趣旨と展示構成を引用させていただきますが、これまでの「文化遺産調査」シリーズ同様に勝るとも劣らぬ優れた内容です。

 個人的には近世絵画の世界には多大なる興味・関心を寄せるところでありますので、足立区の展示会の展開は大いに歓迎するものでありますが、その一方で、かつて学芸員でいらした加増啓二氏による充実の中世展示が影を潜めてしまったことを残念に思う人でもありました。かようなこともあり、面識のある館長に極々内々に「足立区博は最近“美術館”化してしまったようで少々残念」との軽口を叩いたことがございました。しかし、ここ数年の「文化遺産調査」成果の展示の数々に接するにつけ、如何に自らの目が濁りきっていたか、自らの感想がどれ程に浅はかなものであったことを痛感するところでございます。この場で謝罪の想いを込めて申し上げたいと存じます。足立区の展示は、「美術作品」の展示を主眼に置く「美術展」では全くありません。絵画の流派とその伝統とが、各時代の社会と如何に切り結んで系譜を紡いでいったのか、そのために如何なる戦略をもって臨んだのか、そして、それ動向が“足立”という地域社会に如何に位置付くのか等々、地域資料を丹念に掘り起こすことで明らかにしようとする「歴史展示」に他なりません。それは、心底瞠目すべき調査成果であると確信するところであります。これまた、全くもって自身の不明に恥じ入るばかりであります。そこには、自らの拠ってたつ地域社会の「調査・研究・展示」という、極めて重要な活動を継続的に展開されてきた足立区立郷土博物館と、それを支える足立区という行政主体の厚い理解と支援が存在するものと推察いたします。案ずるに、小生はそこに地域博物館と行政主体の“地域愛”と、行政が地域に何をなし残していくべきかという“矜持”とを見る思いがいたします。須らく、各地方行政が倣うべき在り方がここにあると存じ、心底羨ましく存じあげる次第でございます。以下、お決まりの展示の“趣旨”と“全体構成”とを図録より引用させていただきましょう。

 

 江戸時代後期、千住宿をはじめとする足立地域の人々と、江戸下谷の文人-絵師・書家・文芸者たち-が共に書画俳諧を通じた交友を楽しむ、豊かな文化が花開きます。足立区郷土博物館では、この足立の文人文化の基盤を作った人物として、江戸琳派の酒井抱一と並び、関東画壇の代表格として名を馳せた谷文晁と、その一門・門人にまつわる調査を続けてきました。
その成果は、「美と知性の宝庫 足立-酒井抱一・谷文晁とその弟子たち-」(平成27年度)や、「谷文晁と二人の文二」(平成29年度)などの展覧会で紹介してきました。本展はそれに続くものとして、谷文晁の孫であり、上沼田村(現足立区江北地域)の文晁門人、舩津文渕(1806~56)とも親しく交友を結んだ、二世文一(1814~77)に焦点を当て、また、二世文一と同時代を生きた文晁一門「谷派」の絵師たちの動向にも触れることを試みるものです。
二世文一は、文晁の後継者として期待された父、一世文一の早世後、祖父文晁の下で画を学び、やがて父の名を継いで「文一」を名乗りました。そして、丹後国宮津藩(現京都府宮津市)に出仕し、さらに日米就航通商条約批准のため派遣された万延元年遣米使節に随行してアメリカに渡るなど、幕末明治の動乱期を歩みます。しかし、宮津藩士となった後も、足立の舩津文渕はじめ、江戸の谷派絵師たちとの親交は途切れることはありませんでした。宮津と江戸を行き来して彼らと活動を共にし、特に文渕のもとには、祖父文晁以来の多くの作品・資料を伝えることとなりました。
今回の展示では、足立・宮津をはじめ各地に残る資料から、未だ謎の多い二世文一の経歴・活動に迫ります。また、文晁に師事し、幕末明治の同時代に活動していた舩津文渕をはじめとする「谷派」の絵師たちの、時代をまたいだ活動を俯瞰していきます。文晁一族の系譜を継いだ二世文一と、門人として文晁の画系を継承した谷派絵師たち、それぞれの「谷文晁の末裔」たちの姿をご覧ください。

 

 

 

第1章 足立に根差す「谷派」
第1節 千住にあそぶ文晁と谷派の絵師たち
第2節 文晁一族と舩津文渕 -足立に伝えられる写山楼の資料-
第2章 二世文一 -文晁の系譜と「文一」を継ぐ絵師-
第1節 絵師の一族、谷家の中の二世文一
第2節 宮津藩士、谷文一
第3節 二世文一と足立の縁
第4節 幕末・明治を歩む二世文一
第3章 幕末~明治へ続く「谷派」の絵師たち
第1節 「谷派」を形作るもの -続く学習の積み重ねと文人のつながり-
第2節 「谷派」絵師たちのゆく末
第3節 終わらない系譜 -文二以降の谷派絵師-

 

 最後に、土浦市立博物館で現在開催中の特別展『八田知家と名門常陸小田氏-鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史-』でございます。戦う“戦(いくさ)”の殆どに敗北したことから“最弱の戦国大名”として名を馳せる戦国大名小田氏治で夙に知られるようになった小田氏と、その始祖となる八田知家を取り上げた特別展であります。八田知家の名を冠した展示会は国内初だと思いますし、嫡流の後裔となる小田氏の歩みを取り上げる特別展も国内で初めてであると存じます。これも、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』効果でございましょう。八田知家は取りも直さず、「13人の合議制」の一員であってドラマにも登場いたしますから。加えて上述したように“小田氏治”人気も俄かに高まっております。土浦市とすれば、この追い風に乗らぬ手はございますまい。八田知家は、文治5年(1189)、奥州藤原氏攻めの際に千葉常胤と共に「東海道大将軍」に任じられ、太平洋岸を北上する将兵を率いて大いなる戦功をあげたことでも知られます。その点でも本市とも縁の深い武将でもあります。その兄弟姉妹には、同じく頼朝に従って戦功をあげる宇都宮朝綱と、源頼朝の乳母であり小山氏に嫁いだ寒川尼がいることでも知られます。

 本展で、まず驚かされたのが、冒頭展示されていた栃木県文化財指定の史料「鎌倉将軍家政所下文」(茂木町まちなか文化交流館ふみの森もてぎ所蔵)でした。これは、建久3年(1192)年8月22日、源頼朝が八田知家(資料中には藤原友家と記されます)を下野国本木郡(茂木保 現栃木県芳賀郡茂木町)の地頭に任じた補任状となります。同年7月20日に頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉に政所が開かれると、頼朝はそれまで発給していた頼朝の花押が添えられた下文(「袖判下文」)を回収し、政所衆が署名した「政所下文」の発給に切り替えますが、本資料もその一つと考えられます。政所衆五名の署名と花押があります。その内“前下総守朝臣(源邦業)”のみ花押が欠けておりますが、その際に頼朝の将軍就任に伴う業務で在京していたことが原因かと思われます。その他の有名どころでは大江広元と二階堂行政という文士の名が見られます(この二人も「13人の合議制」メンバーです)。このような凄い文書が残っていることを初めて知り感銘を受けたのです。筆頭御家人であった千葉氏には斯様な重要文書は一切残っておりませんから。元来は、小山氏と千葉氏にはこうした文書が多く残されていた筈ですが(「吾妻鏡」)、その後の本宗家の滅亡等の混乱ですっかり失われてしまったのでしょう。

また、実物展示はされておりませんが、市内の等覚寺に残る梵鐘は、健永年間(1206~7)に筑後入道尊念(知家)が極楽寺の鐘として鋳造させたことが銘文から判明いたします。この“極楽寺”とは「三村山極楽寺」のことと考えられており、子孫の小田氏の本拠である小田城の至近にかつて存在した寺院であります。後に忍性が入寺して、坂東における真言律宗の拠点となる寺院として知られるところです。その跡地に脚を運んだこともございますが、真言律宗寺院に特有の石造遺物が幾つか残されております。花崗岩製の地蔵菩薩立像石龕には檀那名が刻印され、これは知家の孫・曾孫世代の後裔当主と考えられております。他に惚れ惚れするほどに均整のとれた大きな五輪塔(忍性塔と言われることもあります)も残ります。ここは、真言律宗の活動の痕跡として、そして八田(小田)氏が宗教者とその活動を庇護していた遺跡として、是非とも皆様に訪れていただきたい史跡であります。土浦市内にも見所が数多くございますが、少し足を延ばしていただければ、近くに残る近年復元整備の進む小田城も見るべき史跡であります(この城は南北朝期に北畠親房が、かの『神皇正統記』を擱筆した場でもあります)。霊峰筑波山を仰ぎながら、春の散歩など如何でしょうか。是非ともお薦めいたしたい歴史の宝庫でございます。長くなりましたが、展示図録(一冊¥1,000)から、特別展の“趣旨”と“全体構成”とを紹介しておきます。図録も充実した内容でございます。

 

 

 令和4年(2022)は、源頼朝は征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府初代将軍となった建久3年(1192)から数えて830年の節目にあたります。この年には、常陸国守護を務めていた八田知家が、改めて下野国茂木保の地頭に任じられています。知家は「八田」から「筑後」に名乗りを改め、その後、子孫は「小田」を名乗るようになります。小田氏は筑波山麓の小田城を拠点に据えると、戦国時代の終わりまで常陸国南部で勢力を誇りました。戦国時代の終焉とともに常陸国における小田氏の支配も終わりを迎え、子孫は各地で新たな仕官先を見つけるために奔走します。江戸時代には小田氏の子孫が再び小田周辺へ足を運びはじめ、旧家臣たちとの交流をふかめました。
それでは、なぜ下野国の武士が常陸国の守護となり、同国で影響力を持つようになったのでしょうか。また、小田の地を離れた小田氏の子孫はなぜ再びこの地を訪れ、住人たちは彼らを迎え入れたのでしょうか。この展覧会は、常陸小田氏について、初代の八田知家から江戸時代の子孫にいたるまでの足跡を紹介する初の試みです。長い期間を扱うため、紹介しきれない事項もございますが、いまだ謎多き一族の歴史について、解明の契機となれば幸いです。

 

 

序章 「鎌倉殿」御家人八田知家と名門常陸小田氏
一章 常陸国守護八田知家と小田氏の誕生
二章 南北朝の動乱と小田氏の動向
三章 小田氏の発展と在地支配
四章 戦乱の世と小田氏の盛衰
五章 「御屋形様」小田氏のその後

 

 最後に、これまでにも度々申し上げていることの繰り返しになりますが、今回の訪問でも痛感させられた“地方都市の変貌”について、あえて触れさせていただきます。当方は、この土浦を過去に幾度となく訪れておりますが、昭和60年(1985)開催「国際科学技術博覧会(俗に言う“つくば万博”)」を機に、土浦市内に開通した無料高速道路「土浦ニューウェイ」が開通する前の土浦市も知っております。初めて訪れた際には、城下町の風情が色濃く残った、関東における稀なる素晴らしい街だと思ったものです(同じころに出掛けた川越に勝るとも劣らぬ街と確信しました)。特に、江戸時代の旧水戸街道に沿って広がる古い屋敷が、“点”としてではなく“面”として残ることに感銘をうけたのでした。その後に「土浦ニューウェイ」が開通してからでも、まだまだ城下町の風情は色濃く残されており、安堵に胸を撫でおろしたものです。

 しかし、今回久しぶりに再訪したところ、駅周辺中心街の在り様は、建物の高層化と道路幅員拡張により、その昔の風情をほぼ滅失しておりました。駅からトボトボと土浦城跡に向かうと、かつて予科練の青年が集った天婦羅の名店「ほたて食堂」あたりまで来て、ようやくかつての街の面影に出会えました。しかし、その脇を通う旧水戸街道に折れると、文化財指定を受けた屋敷は修復を受けて更に立派となって残っているものの、かつて“面”を構成していた多くの仕舞屋は滅失し、最早“櫛の歯”が欠けた状況にあります。そして、何にも増して、例に依って例の“小洒落た街路”風景に様変わりしており、日光の鉢石宿で受けたのと同じく「土浦よ、お前もか!?」との想いを禁じ得なかったのです。ここは土浦城下の一部をなす「水戸街道」という、紛うことなき“歴史の道”でございます。お洒落な洋服の似合う道路整備に如何なる意味があるのでしょうか??口幅ったい物言いばかりで恐縮でありますが、街づくりの発想が余りに短絡的であるように感じます。昨今の川越城下の“原宿竹下通り”化も如何なものかとは思わない訳ではありませんが、古きものを大切にした結果、あそこまでの賑わいを生み出したことは誰も否定できますまい。土浦旧市街もそれに劣らぬポテンシャルを有していたのに……と、残念な思いで一杯なのです。昨今の若者は、他にはない地方独自の「懐かしい街」に「新しさ」を見出しているのです。それが、川越や葛飾区柴又の人気に繋がっているのであり、“金太郎飴”のような街に魅力を感じてはいないのです。是非とも、そうした「思想」「理念」を重視して「街景観」を形成していただきたいものと切に願う次第でございます。小生は、そちらの方が地方の活性化に直結する近道だと確信するものでございます。

 かような次第で、最後には暗澹たる思いを胸に、かつての面影を全く消失した“優れてイマ風”の、まるで東京都内の主要駅と見紛うばかりに小洒落た店舗ひしめく土浦駅構内から、「常磐・品川ライン」に飛び乗って帰路についた次第でございます。それは、当方の下車した亀有駅が途轍もなく田舎駅に見えたほどの“凄み”を有しておりました。もっとも、何時も何の感慨も抱かずに利用している、何処にでもある“フツウ”の亀有駅に、妙に肯定的な有難味を感じる自分がいたのも正直なところでございます。“バカボンのパパ”が発する「これで、いいのだ……」という科白が、その時ほど胸に沁みたことはないかもしれません。
 

 

 三上 延『ビブリア古書堂の事件手帳』最新刊の上梓に寄す ―または古き良き「古書店」に漂う空気感の至福―

4月29日(金曜日)

 

 新年度が始まって瞬く間にひと月が経過し、何とかの一つ覚えのように用いております“風薫る五月”に入ります。先月中旬頃に俄かに沸いたような“初夏”の陽気も手伝って、「皐月」「躑躅」も、「藤」の花も、既に盛りを過ぎてしまったように感じます。そういえば、今春は、真っ先に春の訪れを告げる楚々とした「辛夷(こぶし)」に千葉の地で沢山接することができたことを嬉しく思っておりましたが、うっかり御紹介することなく本日に至ってしまいました。この樹木に出会うのは里山であることが多く、すっかり葉を落した楢・櫟を主体とする雑木林に混じって、その彼方此方に“真綿色”の一塊を臨むことで春を実感できる嬉しい花であります。しかし、都市部ではそもそも斯様な里山が最早存在しませんから、街の何れかの庭にでも植樹されていない限りは、なかなか出会うことができません。従って、気が付いたときには花の季節が過ごしてしまうことが多いのです。今年は、ちょうど辛夷の花咲く時節に、業務関連にて里山を間近にする機会があったことが幸いしたようです。そういえば、この花は、壇ノ浦で敗れた平家落人に関する悲しい伝説にも彩られております。九州の山奥に逃れた平家落武者が、ある朝目覚めると周囲を白旗に囲まれていることに観念し、最早これまでと挙って自刃に及んだこと。しかし、それは辛夷の一斉開花であったというものでございます。その他に、里山に自生する「山藤」も、淡い薄紫で初夏を彩る忘れ難き花であります。極々僅かではありますが、亥鼻山の「いのはな亭」脇にもその「山藤」がございます。今年も10日程前から花をつけておりますが、わずかではあっても、ハッとさせるような色彩でその場の在り様を華やかに転換するだけのインパクトを持っております。それだけに、昨今のように佳き季節が足早に過ぎ去ってしまうことが残念でなりません。

 さて、副題に掲げましたように、標記シリーズ最新刊が3月末に上梓されました。本シリーズは、平成23年(2011)、KADOKAWA「メディアワークス文庫」の一冊として初編が刊行されたのを嚆矢とし、第一シリーズ7冊、そして第二シリーズの本作が第3巻となり、現段階で合計10冊を数えております。最新刊もおそらく斯くなるものと推察致しますが、メディアワークス文庫で初のミリオンセラー作品だそうですから、多くの方々に親しまれる作品であることは間違いありますまい。初編刊行の2年後にはテレビドラマ化(主人公:剛力彩芽)、7年後には映画化(主人公:黒木華)もされたことからも人気の程が窺えます。小生は、本作も含め全作を購入・拝読し、テレビドラマも放映と同時に拝見しました(映画は未見)。タイトルからも類推できましょうが、本作は所謂「ビブリオミステリー」とも称すべき作品であり、古書店主人であるヒロインが、依頼主から持ち込まれる古書に纏わる“謎”を解き明かしていく……といったストーリー構成をとる作品であります。書物への遍く愛情と該博な知識を身に纏いつつ極度の人見知りである店主が、篠川栞子(しのかわしおりこ)なる美貌の女性と設定されており、その古書店が祖父の代から北鎌倉に古風な木造店舗を構える「ビブリア堂古書店」となります。そして、その母親である篠川智恵子も重要な登場人物となっております。智恵子は猟奇的と称することが可能なほどに、関心ある古書への執着を持つ女性であります。彼女は、栞子が幼い時分に家族を捨てて出奔した経緯を持つ人物であり、今でも神出鬼没で、彼女の力となったり壁として立ちはだかったりとするなど、母子の愛憎相半ばする感情が物語の縦糸になっております。更に、ひょんなことから古書をめぐるトラブルに巻き込まれたことから栞子と親しくなる、五浦大輔(ごうらだいすけ)が脇侍として登場。彼は、とある経験から活字恐怖症とも称すべきトラウマを抱える人物であり、読書と無縁な生活を送ってきたのですが、事件に関わる過程で栞子との関係性が深まっていきます。その大輔と栞子との関係性が物語の横糸となり、古書をめぐる関係者の人間模様が紡がれていきます。それはシリーズに一貫した基調をなしております。物語そのものは基本的に一話完結をとっておりますが、相互に緩く関連しあっております。それも続けて読み続けたくなる動機となります。従って、アニメ「サザエさん」のように時間軸を度外視した作品ではなく(何十年も年齢も学年も変わらず)、当然シリーズ刊行の経過+αが組み込まれて物語が展開されていきます。“ネタバレ”となり恐縮ではございますが、最新刊では二人は高校生の娘扉子(とびらこ)の親となっております。

 本作は、所謂「ラノベ(ライト・ノベル)」に分類される書籍なのだと思われます。そもそも、ラノベなるジャンルが如何なるものかも当方は関知しませんので、安直にも“ウィキペディア”で調べたところ、以下のようにありました。


 

 業界内でも明確な基準は確立されておらず、はっきりとした必要条件や十分条件がない。このため「ライトノベルの定義」については様々な説がある。いずれも客観的な定義にはなっていないが「ライトノベルを発行しているレーベルから出ている」「出版社がその旨を宣言した作品である」「マンガ、萌え絵のイラストレーション、挿絵を多用し、登場人物のキャラクターイメージや世界観設定を予め固定化している」「キャラクター描写を中心に据え、漫画のノベライズのように作られている」「青少年、あるいは若年層を読者層に想定して執筆されている」「作者が自称している」などが挙げられる
2004年に刊行された『ライトノベル完全読本』(日経BP社)では「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」とされていた。榎本秋は自著における定義として「中学生/高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説」と記している。あるいは「青年期の読者を対象とし、作中人物を漫画やアニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」とするものもある。森博嗣は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやすい小説」だとしている。又は「マンガ的あるいはアニメ的なイラストが添付された中高生を主要読者とするエンターテインメント小説」とするもの、「アニメ風の表紙や挿絵。改行や会話が多い文章」とするものもある。
作家側も発行レーベルや対象読者層など、ライトノベルとそれ以外の小説を必ずしも区別して執筆しているわけではない。また、出版社側も明確にライトノベルと謳っているレーベル以外では、ライトノベルとそれ以外の小説の線引きを行い、出版しているわけではない。

(以下略)

 

 

 以上からも判明するように、その定義は到って曖昧かつ広範であり、書いているご本人も恐らくその実像を掴み兼ねている感がございます。従って、本作がホントウに当該ジャンルの作品なのかは判然とはいたしません。“アニメ風”の装丁で“文庫版書きおろし”作品であること、かつ肩肘張らずに読める平易な作風という点では、“ラノベ”に該当するといってよさそうです。実際のところ、その書きっぷり(「文体」)も、至って“ライトな(軽い)”ものであります。しかし、決して軽すぎることはなく、当方のような還暦をすぎたロートルにとっても鼻白むことは一切ございません(むしろ現在放映中の大河ドラマで描かれる源義経の余りに軽々しい奔放さに全く感情移入ができません)。各巻ともに結構な厚さがありますが、のんびり構えてさえ一冊の読了には一日もあれば充分。小生などは、至って単純な人間ですので、ワクワク感に導かれ通勤電車往復で読み切ってしまうほどです。その意味では、かつて“ジュブナイル”と総称された青少年向け作品群の派生型なのかもしれません。しかし、内容は大人が読んでも充分に引き込まれる内容であることも確かであり、必ずしも“ラノベ”と言い切れないものも感じます。そもそも作品中で扱われる古書も青少年が読むような内容とは言いかねます。もっとも、自分で書いていて何をか況やでありますが、斯様なジャンル分けなどには意味がないのかもしれません。確かに、本作がミステリーとして秀作かと問われれば、もっと優れた作品は掃いて捨てるほどございましょう。つまり、本作の魅力は別なところにあると考えます。小生が本作の何処に惹かれるかを問われれば、月並みな物言いとなりますが、まずは、登場人物の人間造形が魅力的ということになります。登場人物の人間模様もなかなかに読ませるのです。しかし、本作の魅力と人気の要因はそれだけには留まりません。それは如何なるものでありましょうか。

 その第一は、事件に関わる形で小説中に採り上げられる書籍(作品)が、物語の筋立中に的確・適切に選択されており、何よりもそのことへの興味が尽きないことにあると思います。当方は、本作を通じて初めてその存在を知った書物が多々ございます。また、当該書籍を知ってはいても、作品(書籍)を巡る“物語”の奥深さに瞠目させられたことも一つや二つではございません。前者で申せば、アメリカの作家ロバート・F・ヤングのSF短編小説『タンポポ娘』、そして古書の“瀬取り(本来は海上にて船舶同士で荷物の遣り取りをすることを指しましょう)”なる転売の手法を扱う小説である梶山季之『せどり男爵数奇譚』(ちくま文庫)等々。これらの作品は、本作で出会なければ恐らく一生読むことのなかった作品に間違いがないと思っております。自分自身も早速に贖って一読に及びましたが、読書の時間を大いに楽しむことができました。それは、最新作においても例外にあらず。脇役として登場するだけですが、山田風太郎『人間臨終図鑑』にも大いに興味をそそられました。近々是非とも入手して一読に及びたいと思っております。

 一方、後者では、スタンリー・キューブリックの手による映画作品としても親しまれている、アメリカの作家アントニー・バージェスのディストピア小説『時計じかけのオレンジ』があげられます。本作には、本来あるべき最終章が削除されて刊行された経緯があったそうで、映画もその版を原典として制作されたこと、その後に完全版が改めて出版されたこと等々を初めて知り及びました。その完全版も翻訳されておりましたので一読に及びました(ハヤカワepi文庫)。そして、当たり前のことですが、最終章の有無で、作品の印象が相当に異なることに驚かされた次第であります。これも当方にとっては“ビブリア堂”効果の賜物です。また、我々のような世代の人間にとっては、角川文庫で大量に出版された文庫本(黒い表紙)作品群で馴れ親しんだ推理小説の大家横溝正史の手になる『雪割草』。本作は、戦時中にその本領である推理小説の執筆を止められたことから、糊口を凌ぐためもあって地方新聞に連作した“家族小説”であり、長く“幻”となっていた作品であります。同様に幻の作品発見のニュースとして、横溝と同じ推理小説家であった小栗虫太郎(怪作推理小説として名高き『黒死館殺人事件』の作者)が、同時代に地方新聞に家庭小説として『亜細亜の旗』を連載したことと軌を一にしております。そちらも近年実作が見いだされ、両作品とも目出度く書物に纏められ上梓の運びとなりました。このことを泉下の両巨頭もお喜びになられておりましょう。当方は未だ両書とも入手出来ておりませんが、是非とも贖いたいものと考えるところでございます。従って、これもまた、ビブリア堂のお陰であります。他にも自分だけでは絶対に広げることのできなかった多くの書物に目を開かせてくれた、感謝すべきシリーズでもあるのです。実際、長く品切れであったり絶版とされていた作品が、本作の人気故に復刊の運びに至ったものも多々あると耳にしております。

 二つ目に、これが、当方が本作を偏愛する最大の理由でありますが、その舞台が古ぼけた、昔乍らの「古書店」であることにこそあります。古書店を舞台にした事件簿ということでは、宮部みゆきの短編小説集『淋しい狩人』(新潮文庫)がビブリア堂に先立つ作品であり、もしやして三上氏は当作品に接してビブリア堂物語の着想を得たのかもしれません。しかし、昭和46年(1971年)に生まれの三上氏自身は、大学卒業後に中古レコード店と古書店で働いた経験があったとのことですから、実地でのご自身の経験から着想された側面も見逃せないと思われます。実際に、古書をめぐる事件簿ということの共通点を除けば、両者の読後感は相当に異なります。宮部氏の作品は、荒川土手近くの下町にある何でも手広く取り扱う小さな古書店。その主は60代半ばの頼まれ店主で、唯一の孫の手伝いを得て営業をしているという設定であります。そもそも、物語上、事件と古書との関係性は“ビブリア”程に濃密ではございません。落語の人情物を思わせるような“人懐こい”語り口に、何時もの宮部作品らしさが色濃く感じられますが、小生としては彼女の手になる“時代物”の魅力が勝るように思います。もっとも、両作の優劣つけることには意味がありません。それぞれの良さをこそ認めるべきでございましょう。

 さて、当方の最も心惹かれる要因として挙げさせていただいた、古書を扱う店舗が舞台となっていることに関する話題に戻りましょう。昨今「古書」を扱う店舗として多くの方が思い浮かべるのは、大手チェーン店の姿ではございますまいか。一般書籍からコミックス・雑誌まで、書籍に限らず音楽ソフトからゲームソフトまで、ガレージのような広い店舗内に雑多な商品が所狭しと配架されている在り様はナカナカに壮観でございます。しかも、価格設定は当該書籍・ソフト自体の価値にはなく、専らそれらの品質・状態によって決められるとのことでありますから、古書市場で何万円もの値札が付される古書が、数百円で売られているケースすら儘ではないなど、その存在はナカナカに侮れないものがございます。しかし、こうした店舗は、古物商としての「古書店」ではあることは間違いありませんが、小生の偏愛するところの「古本屋(ふるほんや)」の範疇には入りません。それは、間口が狭く奥行の長い、鰻の寝床のような平面構成をもち、その両脇に天井まで届く作り付けの書棚に加え、中央部に奥まで続く両面配架の書棚が続くような店舗を有する古書店に他なりません。その中央の奥まった部分には通常は帳場があり、眼鏡を鼻にかけた店主老が古書の品定めをしながら店番をしているような古書店。その逆側の店先には当該店舗の目玉商品が展示してあったりすることが多いものです。かような「古本屋」は、扉を開けて入店すると、店主が薄明の奥から上目遣いに客をギロリと一瞥するのがお約束でありましょう。両側を書棚で囲まれ、ただでさえ狭隘な通路の下にも平書棚があり、そこにも書籍が重ね置かれており、人一人がようやく歩けるほどしか通路が確保されていないケースが殆どです。店内には「古本屋」特有の匂いが満ちております。何でも、この匂いの正体を調査研究した奇特な御仁もいるそうです。その報告によれば、それは紙・インク・表紙に含まれる成分が変質したものだそうで、アーモンドやバニラビーンズに含まれる“薫成分”と同一だそうです。当方は、この匂いを嗅ぐだけでも心が満たされます。小生にとっては、斯様な古本屋こそ贔屓とすべき古本屋であります。良質の書籍に囲まれた空間は、恰も“揺り籠”に揺られるかのような至福の想いに誘います。そして、「ビブリア堂古書店」が斯様な店舗として造形されているのですから堪えられません。それだけでも、本作は当方にとって大切な書籍になり得るのであります。

 こうした古本屋は、東京では古くから古書店が蝟集してきた「古書街」と称される場、すなわち「神田神保町」、「早稲田通り」、「東大前通り(江戸時代の中山道)に措いて顕著な「古本屋」の在り方でありました。特に神保町は戦災を免れた店舗が多かった所為か、建築史家・建築家の藤森照信氏命名とされる「看板建築」と呼ばれる日本家屋の正面を意匠化された銅板によって囲った建物が沢山残っており、その殆どが上記のような体裁の店舗でした。こうした古書街では、各店舗毎に扱う書籍が専業化しており、国文学関係、歴史関係、美術書関係、音楽諸関係、和綴本等々の細分化した店舗経営をされております。しかし、それも近年立派な建物に置き換わってしまいました。因みに、神保町で古本屋が靖国通の南側にのみ展開しているのは、店舗を北向きにすることで書籍が日焼けすることを防ぐためです。ただ、日本最大の「古書街」としての神保町の在り方は未だに健在であります。しかし、一般的に価格設定が安価であるため当方の贔屓筋であった古書店街の一方の雄であった早稲田通りの古本屋街については、ここ20年内に約半数が閉店したそうです。東大赤門前の通りの古書店街は最早見る影もなくなっております。斯様な「古書街」を形成していなくとも、国内各地には良質の品揃えを誇る、魅力的な個人経営の古書店が必ずや存在しており、地方都市を訪問する際の大きな楽しみの一つでもあります。しかし、昨今は大手チェーン店に押されて次々と姿を消しているのが現実です。千葉市中心街で唯一マトモな商品展開をされていた「稲生書店」も、後継者がいらっしゃらなかったようで閉店されて久しくなりました。それでも、市川市「市川真間駅」近くの京成線路脇で永く店を続けていらっしゃる「智新堂」は健在です(永井荷風もよく脚を運んでいたそうです)。嬉しいことです。

 地元葛飾区では、亀有には小生が知る限りで元来そうした古本屋は存在しませんでした。敢えて挙げれば青砥駅から近くの「竹内書店」くらいでしょうか。こうした古本屋のある街は、小生の勝手な決め付けかもしれませんが、「教養ある街」と言えるのではありますまいか。何故かと申せば、良質の図書が地元客によって購入されることで、古本屋の経営が成立しているのですから。因みに、当方が「教養ある街」だと確信する「街」とは、マトモな古本屋が存在する街、伝統的な和菓子屋が成立している街、古くからの商店街と飲食店(酒場も含む)が元気な街といったところです。逆にそう感じさせない街とは、チェーン店ばかりが目立つ街、洋菓子屋しかない街、ラーメン屋ばかりが幅を利かせて居る街、大手スーパーマーケット・チェーン店ばかりが目立ち個人経営店が衰微している街といったところだと思っております。葛飾区では、当方の居住する亀有は問題外!!正に失格です。逆に、“呑兵衛の聖地”と称される立石は合格!!何故!?と思われるかもしれませんが、個人経営の店舗(商店街も酒場も)が到って元気!良質の古本屋も和菓子屋も健在です。歩いていて楽しい街なのです。しかし、ここも北口は再開発対象地となり、魅力的な個人店が撤去されてしまいました。未だ南口の聖地は健在ですが、余命は幾ばくもないと思われます。

 千葉市はどうかと申せば、本来良質の古本屋が櫛比していて不思議ではない千葉大学周辺でさえも良質の古本屋は皆無です(現在地が千葉大になったのは昭和36年のことでありますのでそれもあると思われますが)。残念ながら、千葉市の街は、書籍に関わらず古いものをあまり大切にしない地域性なのかもしれません。最後は『ビブリア堂古書店の事件手帳』からも外れて、話が「街」の在り方なる“明後日の方向”に進んでしまったようです。申し訳ございませんでした。しかし、改めて申しげたいと存じます。他の条件の適否はいざ知らず、良質の古本屋の存在は、「教養のある街」か否かを計る極めて重要なバロメータとなると小生は確信します。その意味で、「ビブリア堂古書店」が店舗を構える場として設定されているのが、「北鎌倉」とは何と絶妙な場でございましょうか。伝統のある歴史と自然の豊富に存在する風致地区に、古くから店を構える木造の古書店は、それだけで絵になりますし、魅力的な店舗であろうと想像できます。店主が「老眼鏡を鼻先でかける」老人ではなく、魅力的な女性であるギャップも結構な設定だと思います。それを度外視しても、店舗の中では時が止まったかのような静謐な空間が広がり、そこには古今東西の「知」が集積された萬巻の書物が詰まっているのです。斯様に魅力のある店が他にあるとは思われない程です。

 もし、本書を一冊もお読みになられていない方で、コロナ禍で外出の予定も特段に予定されていないのであれば、今日から始まる連休のお供に本シリーズなど如何でしょうか。この一週間が、過たず「ゴールデン・ウィーク」と化すこと必定……だと思われます。もっとも、そうではなかった場合の苦情については、一切申し受けかねますので悪しからず。


 

 

 「旅する音楽家」ヨハン・シュトラウス2.世にとってのロシア「パブロフスク音楽駅」(前編) ―または 鉄道がつなぐ19世紀の音楽文化の交流と伝播について―

5月3日(火曜日)

 

 世は挙げてゴールデンウィーク本番に突入いたしましたが、本年2月の末に勃発したロシアによるウクライナ侵攻も、既に3か月目に突入いたしております。そして、ウクライナ東部へ制圧に方向転換したように見えるロシア軍の攻撃は激しさを増しており、ウクライナ国民生活は理不尽にも蹂躙され続けております。更に、悲劇的なことには、数多の国際社会からの調停の働きかけも入れられることなく、未だに終息の端緒すら見いだせない状況にあることです。その報道に接するにつけ、幼子をも含むウクライナ国民が遭遇している物理的・精神的な被害の激しさに心が痛みます。しかし、どうにかできないものかと思いつつ、大したことも出来ずにいる自分にもどかしさで一杯ともなります(4月末日に、千葉市に避難していらしたウクライナの方々10名程がご来館されましたが、お伺いしたところマリウポリ近郊からとのことでした)。同時に、かつての「ファシスト」達と選ぶことなき理不尽な対応には怒りがこみ上げます。それでいて、相手をファシスト呼ばわりする自己撞着にも理解しがたきものを感じるところでございます。しかし、その一方で、本邦における本情勢への対応の中にも、違和感を禁じえないことが間々あることもこれまた事実であります。それが、在
日するロシアの方々に対するヘイト的な誹謗中傷、(無意識なのかもしれませんが)同胞によるロシアの方々への心無い行動であります。

 4月15日(金曜日)の朝日新聞に、山手線恵比寿駅構内のロシア語案内表示に紙を貼り文字を隠す状態にしていることが分かったとの報道がありました。JR東日本によれば「ロシアによるウクライナ侵攻を受け、利用者からロシア語の標記を疑問視する意見が相次いだため(利用者から“不快だ”との声が複数寄せられたとのこと)」とのこと。ところが、SNSでの本対応への批判の声の高まりをうけて、JR東日本は現状に復帰することが妥当と判断して紙を剥がしたとのことです。全く主体性の欠如した朝令暮改は、如何なる精神構造によるものなのか理解に苦しみます。更に、18日(月曜日)千葉日報には、滋賀県長浜市内の旅館で「ロシアとベラルーシの人たちの宿泊を拒否する」とホームページに記載したとの記事が。これに対しは、旅館業法に抵触する恐れがあるとの県からの行政指導があり、それを受け旅館は当該記載を削除したとの内容でした。こうした日本人の動向に対して、NPO法人「ワールド・オープン・ハート」代表の阿部恭子氏は「ロシア語の案内をなくすことは結果的に差別にあたり、消極的なヘイト行動に該当する。侵攻が始まってから、『ロシアに関係することは叩いてもよい』という同調圧力が強まり、企業もそれに過剰に反応してしまっている。日本に住むロシア人を差別しても戦争を止めることにはつながらないという理解を広げる必要がある」と指摘されています(「朝日新聞」)。一方、札幌で3月に計画されていたロシア文学関係パネル展が、嫌がらせを受けるリスクが大きいとの判断から延期されたことに対して、札幌大学の岩本和久教授が以下のように懸念を示されておられます(「千葉日報」記事より)。「日本が国として毅然とした態度を取ること、単にロシア人に憎しみを募らせることは全く別問題だ。民族差別につながるような動きを広めるべきではない」と。

 ご両人のご指摘は、議論の余地すらない、一点の曇りなき“自明の理”であると思われますが、なぜこうした動向に繋がるのか不思議でなりません。こうした個人攻撃は、問題解決に資することは全くなく、鯔の詰まり日本人に対する悪感情(怨恨)のみを後に残すことにありましょう。少なくとも、こうした日本人の言動が、両国民間の明るい未来に繋がることは皆無かと存じます。現状における我が国の同調圧力に基づく“自主規制”とは(実際のところ声のでかい僅かな人々の主張に流されているだけだと思われますが)、先の戦争で我が国に極々頻繁に生じた動向と、殆ど選ぶところが無い状況にあろうかと存じます。しかし、初期に極々僅かな声によって生じた“自主規制”の動向が、その内に社会全体の潮流となり、個人も企業も官公庁も率先して権力に追従するように自主規制を重ねていったことを思い浮かべねばなりません。その結果、冷静な思考に基づく個人の判断は抹殺され、社会が大きな「鬼畜米英」というスローガンの津波に飲み込まれていった経緯を、恐らくかつて戦争の時代を体験された方々であれば苦い思い出としてお持ちのことでありましょう。戦後生まれの当方は、勿論そうした経験をした訳ではありません。しかし、かの時代のことを知らなければ過ちを繰り返すとの思いから、及ばずながら学びを続けてまいりました。その意味でも、歴史に学ぶことが、どれほど重要なことかお分かりになると存じます。かようなこともあり、“天邪鬼”の当方としては、敢えてロシアに関する話題、とりわけ、周辺国との音楽文化交流について取り上げようと思った次第でございます。

 そこで、まず最初に皆様に以下のように問うてみたいと存じます。「『ロシア(ソ連)音楽』と聞いて何を思い浮かべましょうか」……と。勿論、その答えは十人十色でございましょう。もし、クラシック音楽好きな方であれば、チャイコフスキー(1840~1893)、リムスキー=コルサコフ(1844~1908)、ムソルグスキー(1839~1881)、ラフマニノフ(1873~1943)といった、帝政ロシア時代を活動の中心とする錚々たる一連の音楽家を想起されましょうか。また、何とも浪漫的で何処か哀愁に満ちた旋律を彷彿とされる方も多かろうと存じます。実のところ、今回本稿で触れてみたいと考える音楽の交流とは、主にこの時代の作曲家と重なるのです。更に、時代を下ったロシア革命を契機に誕生する社会主義国ソヴィエト連邦下で活躍した、プロコフィエフ(1891~1953)、ショスタコーヴィッチ(1906~1975)といった作曲家も忘れるわけには参りません。その作品は、一方において国家の在り方を反映した“モダニズム”的色彩を纏いつつ、他方で国家との軋轢により引き裂かれた個の苦悩を垣間見せるが故に(特に後者)、その音楽は現代人の心に痛切に刺さるように思います。何れにせよ、上記いたしましたロシア・ソ連人の作曲家の存在を抜きに世界各地の演奏会が成立しないことは自明であります。それほどに、音楽界において重要な位置を占める作品を生み出した国、それがロシア・ソ連であることは疑いありません。その他、俗に言う「唄声酒場」「唄声喫茶」なる場で仲間と歌った、哀愁に満ちた「ヴォルガの舟歌」「トロイカ」「カチューシャ」等々、ロシア民謡の数々を懐かしく想い出す年輩の方々も多かろうと存じます。何れにしましても、ロシア所縁の音楽が、どれほどに我々の生活とも切っても切れない縁によって結びついているかが偲ばれましょう。個人的にはドイツ・オーストリア音楽、イギリス音楽、フランス音楽も、昨今になって素晴らしさに気付き始めたイタリアオペラも大切ではありますが、ロシア音楽を欠いた音楽生活など想像だにできないほどであります。

 一方、一昨年の本稿でも取り上げたことのあるウィンナ・ワルツの泰斗「シュトラウス・ファミリー」[父ヨハン(1804~49)、子のヨハン2.世(1825~99)、ヨーゼフ(1827~70)・エドゥアルト(1835~1916)]の作品群もまた、クラシック音楽ファンに限ることなく本邦では大いに持て囃されております。優雅なワルツやポルカ、行進曲の数々は、作曲者名を知らずとも、そのメロディを一聴しただけで、誰でも直ぐに併せて口遊める作品ばかりです。バッハ(1685~1750)、モーツァルト(1756~91)、ベートーヴェン(1770~1827)、ブラームス(1833~97)等々の大作曲家と比べられ、あたかも“ライト・クラシック”的な扱いをされがちな作曲家ではございますが、作品の質はそれら大作曲家と遜色のないレヴェルに達したものが多いと認識しております。“ワルツ王”ヨハン2.世と同時代人であるブラームスは、個人的に深い親交を持つとともに、その作品に対しての賞賛を惜しむことがありませんでした。当方も、彼らの作品を心より愛する者でございます。彼らの音楽は、云うまでもなく爛熟した都市文化華やぐ19世紀末ウィーンを舞台に花開いたものであります。即ち、当時のハプスブルグ家によって支配される「オーストリア=ハンガリー二重帝国」を象徴する音楽とも申せましょう。この場で、ロマノフ王朝統治下ロシア帝国の音楽と、ハプスブルグ王朝統治下オーストリア=ハンガリー帝国におけるシュトラウス・ファミリーの音楽という、一見(一聴)して明後日の音楽を並列にして取り上げるのか、不可解の想いに思われる方もございましょう。しかし、実のところ両者には深いつながりが存在するのです。それについて、歴史的背景もふくめて解き明かして参ろうと存じます。

 ここでは、18世紀におけるロシアを中心とするヨーロッパの状況を簡略に確認しておきたいと存じます。当時のロシア帝国については、以下のように申しても大方は間違いではありますまい。つまり、西欧諸国に比べて圧倒的に遅れた社会構造を、如何にして改善して近代化を達成するかに邁進した時代であったことであります。その先鞭をきったのが、他ならぬあのピョートル大帝(1672~1725)でありましょう。彼は、バルト海に面したネヴァ川の河口デルタ地帯に、1703年より「西欧に開かれた窓」となる巨大都市の建設を始め、実質的に自身の名を冠した「サンクト・ペテルブルグ」(以後「ペテルブルグ」と略称)と名付けたのです(キリスト教の聖人名である“ペテロ”のロシア音が“ピョートル”~余計な話ですが、同様に英語で“ピーター”、ドイツ語で“ペーター”、フランス語で“ピエール”、イタリア語で“ピエトロ”、スペイン語で“ペドロ”が各国音であります)。そのモデルとなったのが、ロシアと同様、遅れて近代化に着手して近代化の成果をあげている国家「プロイセン」と、“新古典主義様式”に彩られたその王都「ベルリン」の姿であったとされます。そして、それと近似した趣を有する都市が荒野に忽然と姿を現したのです(ロシアの都市でありながら、都市名が“ロシア語”ではなく“ドイツ語”表記とされた所以であります)。都市ベルリンが第二次大戦末に完膚なきまでに破壊され、その都市景観が大きく損なわれてしまったのに対して、今ではペテルブルグこそが世界を代表する新古典主義洋式の都市景観を残す都市として評価され「世界遺産」にも指定されているのです(もっとも、史上最も凄惨な戦争と称される「独ソ戦」による被害をペテルブルグも相当に受けております)。あまつさえ、ピョートル大帝は、1712年に内陸奥深い地にある伝統あるモスクワの地からからの遷都を行い、以後ロシア革命でロマノフ王朝が滅びるまでペテルブルグが帝政ロシアの首都となるのです。ここでは、興味の尽きないピョートル大帝についても、都市ペテルブルグについても、これ以上述べることは致しません。
(中編に続く)

 

 

 「旅する音楽家」ヨハン・シュトラウス2.世にとってのロシア「パブロフスク音楽駅」(中編) ―または 鉄道がつなぐ19世紀の音楽文化の交流と伝播について―

5月4日(水曜日)

 

 ピョートル大帝によって着手された急速な近代化路線と、その下でのロマノフ王朝の在り方は、エカテリーナ女帝(1792~96)統治下での全盛期を経て、紆余曲折はありますが以降のロシア政策の基調となります。一方で、その後のニコライ1.世(1796~1855)は、対外的に“汎スラヴ主義”の土台を築き上げ、所謂「南下政策」を推進することになります。特にバルカン半島への影響力を扶植することを画策し、ギリシアやセルビアの独立運動を支援しています。そして、ギリシア正教会の保護を口実にオスマントルコへの干渉を行ったことから両者の対立が表面化。各国の目論見はそれぞれ異なるものの、基本的にロシア南下政策を恐れるイギリスとフランスがトルコを支援して、ロシアとの戦争が勃発します。これが「クリミア戦争」に他なりません(1853~56)。この時、オーストリアは中立的立場を採りながら外交的にロシアを圧迫するなど、基本的にロシアと敵対的な姿勢を採ります。しかし、結果として大きな影響力を発揮し得ず、戦後にはロシアとの関係を拗らせるとともに、ヨーロッパにおける政治的影響力を低下させていくことになります。クリミア戦争は最終的にロシアの大敗に終わりますが、この戦いは改めて大国ロシアの後進性を白日の下に晒すこととなり、その自覚の下にロシア国内での更なる近代化の動向を促進することに繋がります。戦争渦中ニコライ1.世の死により後継となったアレクサンドル2.世(1818~81)による「農奴解放令」(1861)はその象徴的な施策と申せましょう。つまりは、以降に述べるヨハン・シュトラウス2.世とロシアの音楽家とが交流を育んだ時代的背景とは、ロシア帝国とヨハン2.世の母国オーストリア=ハンガリー帝国との関係は好ましからざる状況にあったという訳です。

 ここで、今回の話題のもう一つの前提条件について押さえておきたいと存じます。それは、ロシア帝国首都ペテルブルグの南東30kmに位置する「パブロフスク」なる都市についであります。両者間の距離とは、お江戸日本橋から見ると、東海道を行けばざっと横浜のあたり、房総へ向かえば凡そ千葉市内幕張あたりとなりますから、ペテルブルグの衛星都市と申せばよろしいでしょうか。事実、ここは現在“世界遺産”にも指定される「パブロフスク宮殿」が残ることからも明々白々。ロマノフ家一族の夏の離宮が置かれた場であり、都市名もエカテリーナ女帝が息子パーヴェルに当地を与えたことに由来すると言います。それに倣い、当該宮殿を中心として、18世紀半ばからは首都に居住する貴族や富裕者の夏の別荘地がその周辺に形成されていきます。その結果、このパブロフスクは閑静かつ優美な田園都市として形成されることになるのです。そして、首都と当地とを結ぶ利便性を確保することを目的として、1837年両都市間でロシア国内初の鉄道が営業を開始しました。今回の話題でキーワードの「鉄道の開設」に他なりません。更に、終点のパブロフスク駅舎は「ヴィクソール・パビリオン(ヴァグザール)」と称される、一種のコンサートホール機能を有しておりました(この名称もイギリス由来であり、ロシアにおける西欧コンプレックスが見て取れます(因みに当名称は以降のロシアでは「駅」自体を指す言葉に転化し現ロシア語での第一義は鉄道「駅」を表す言葉です)。そして、ロシア上流階層の夏季の優雅な生活を彩ることを目的に、鉄道会社は、独墺圏から著名な音楽家を高額の報酬によって招くことになり、それが大当りすることになるのです。この「音楽駅」に招かれた音楽家には、ピアニストとしても著名なロベルト・シューマン(1810~56)、フランツ・リスト(1811~86)、そして本,稿での主役となるヨハン・シュトラウス2.世と弟ヨーゼフらが名を連ね、演奏会を聴くために首都からも多くの人々が、鉄道を用いてパブロフスクを訪れるようになります。そして、その聴衆の中にロシアを代表する音楽家たちも含まれたのです。 

 さて、本稿における主役である「シュトラウス・ファミリー」に踏み込んでまいりましょう。1854年の夏、シュトラウスはロシアの鉄道会社から「パブロフスク音楽駅」で夏シーズンを通しての演奏会・舞踏会の指揮を依頼されます。彼に提示された条件は破格のものでした。宿泊費は会社負担、報酬は180,000銀ルーブル(オーストリア通貨で36,000グルテン相当)。母国ウィーン宮廷舞踏会での報酬が9グルテンであったと言いますから、眼の玉が飛び出るほどの金額であったことは間違いありません。また、演奏会は、夕方7時から最終列車の出発する9時45分(木曜日は11時、日祭日は11時15分)まで。皇帝一族が近隣のツァールスコエ・セロに滞在する9月は昼の演奏も担うこととなりました。また、彼自身の作品の他に、聴衆の好みに応じて著名な作曲家の作品の演奏すること、オーケストラはウィーンの楽団員を含めた30人とすることも定められたと言います。ヨハンは、このコンサートを1856年(この年は、何とクリミア戦争でロシアが大敗した年に他なりません)から1865年までの10年間の毎年、その後1869年と1886年の2回、合計12年にわたって引き受けております。このロシアでの演奏会は、シュトラウス・ファミリーに莫大な財を残したと言われますが、上記報酬額を見ればそれが強ち噂ではないと推察できるというものでございます。

 因みに、シュトラウスは、若き頃に革命運動を支持した経緯があったことから、母国フランツ・ヨーゼフ皇帝からの覚えは必ずしも目出度いものではありませんでしたから、ロシア皇帝の近くでの演奏を可能とする、この申し出は正に渡りに舟でもあったのです。本来は、ロシアとオーストリアとはクリミア戦争での対応を巡って対立関係にありましたが、そこは機を見るに敏なヨハン2.世のこと。アレクサンドル2.世の即位に併せて『戴冠行進曲』を献呈して御機嫌を伺っております(この曲は後編最後で御紹介する音盤にも収録されております)。その効果は抜群であったようで、国家同士の対立関係を他所に、皇帝はヨハンらの招聘に積極的であり、彼らへの支援を惜しまなかったと言います。そればかりか、あまつさえ皇帝一族は「パブロフスク音楽駅」におけるシュトラウス・ファミリーの演奏会に度々脚を運ぶことになったといいます。

 つまり、この間ヨハンは、一年の演奏会シーズンにおける約半分はロシアのパブロフスクで生活し、その地で作曲活動も繰り広げていたことになるのです。更に、ヨハンの都合のつかない場合は、時に弟のヨーゼフが駆り出され、代役を務めることすらありました。そして、より重要なことは、ロシアでのヨハン2.世の創作活動の充実にこそ求められましょう。皇帝からの支援と周囲からの賞賛の声の中で、彼の創作者としての精神が研ぎ澄まされていったものと思われます。何よりも、舞踏会のためのその場限りの機会音楽といった、彼らの音楽が有する本来の在り方を脱皮し、“聴くため”の「シンフォニック・ワルツ」という音楽作品への傾倒を強めていくことに繋がったことが重要です。よく知られる『トリッチ・トラッチ・ポルカ』、『常動曲』、『ペルシャ行進曲』、正に鉄道を題材とした『ポルカ観光列車』、等々の名曲が、パブロフスクにおいて、または当地での演奏会のために作曲されているのです。弟ヨーゼフとの共作となる傑作『ピツィカート・ポルカ』もパブロフスク由来の楽曲です。更には、「マイスター・ワルツ(傑作ワルツ)」の代表と目される『美しき青きドナウ』は、前半10年というパブロフスク生活の2年後に産み落とされております。彼のロシア生活は、莫大な収入に留まらぬ何物かをヨハン2.世にもたらし、「ワルツ王」としての飛躍を促したことは疑いありません。

 これまでヨハン2.世が、この地で多くの果実を得たであろうことを述べて参りましたが、その影響関係は決して片務的なものには留まらず、双方向に亘るものであったことを述べておきましょう。先に、パブロフスク音楽駅には大勢のロシア人音楽家が屡々脚を運んだと述べましたが、それが「近代ロシア音楽の父」とも称されるグリンカ(1804~1857)であり、音楽好きならば知らぬものなど存在しないであろう、リムスキー=コルサコフであり、チャイコフスキーであったのです。この地で、シュトラウス・ファミリーは、契約にもあったように、自作は勿論ですが従来ロシアでは余り知られていなかったヴェルディ・ワーグナー・ベルリオーズ等のオーケストラ作品も盛んに取り上げております。それらは、ワルツ・ポルカ等々の作品への興味を掻き立てると同時に、「オーケストラ音楽」なるものをロシアの地にもたらすことにも繋がったのでした。音楽研究者の中には、チャイコフスキーの手になる、『弦楽セレナード』(1880作)、バレエ音楽『眠れる森の美女』(1888~89)、バレエ音楽『くるみ割り人形』(1891~92)に含まれる、あの典雅極まりないワルツ作品(「花のワルツ」!!)群こそ、「パブロフスク体験の果実」との推測をされる方々もおられるそうです。これまでロシア音楽の中心は「宮廷」と「ギリシア正教会」でありました。そこに、皇帝・貴族を始めとする幅広い富裕市民層に音楽を提供できる媒体として「オーケストラ音楽」を知らしめたという面において、このパブロフスク音楽駅とシュトラウス・ファミリーが果たしたロシア音楽文化への貢献は、途轍もなく大きな意味を有しているのです。

 更に付け加えるとすれば、その後のロシア音楽界の逸材を輩出することになる“音楽教育機関”の設立年に注目すれば、アントン・ルビンシュテイン(1829~1894)による「サンクト・ペテルブルグ音楽院」の設立が1862年であり、弟のニコライ・ルビンシュテイン(1835~1881)による「モスクワ音楽院」の設立が1866年であります。つまり、ヨハンらがパブロフスク音楽駅で夏のシーズンの演奏会を担っていた最初の10年間の中に、双方の設立がすっぽりと納まるのです。これが単なる偶然とは思えません。両音楽院からは、この後に世界を席巻する音楽家たちが巣立っていきます。また、ロシア最古の伝統を誇る名門オーケストラ「サンクト・ペテルブルグフィルハーモニー管弦楽団」の実質的創設は1882年となります(その前史としての淵源は1772年に遡り1824年ベートーヴェンの傑作「ミサ・ソレムニス」世界初演の栄に浴しております)。やはり、ヨハン2.世の最後の「パブロフスク音楽駅」訪問の4年前にあたり、両者との相関関係は無縁とは申せますまい。名指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903~1988)と本オーケストラとの戦慄すべき名演の数々は、オーケストラでの音楽表現としての“極北”に位置付けられる……と称して憚ることが無い程の高みに達していると当方は確信いたします(政治的な意図に基づく都市名の変更により、当時の名称はレニングラードフィルハーモニー管弦楽団)。当方は、同コンビの実演に接することが叶わなかったことを“生涯の悔い”とするほどでございます。
(後編へ続く)

 

 

 「旅する音楽家」ヨハン・シュトラウス2.世にとってのロシア「パブロフスク音楽駅」(後編) ―または 鉄道がつなぐ19世紀の音楽文化の交流と伝播について―

5月5日(木曜日)

 

 次に、このシュトラウス・ファミリーのパブロフスク音楽駅での演奏会に纏わる、我が国との知られざる関わりについて少々……間奏曲(インテルメッツォ)として。この間の演奏会では、ヨハンの都合がつかない場合、弟ヨーゼフが代理で指揮台に立ったことを先に述べました。今回、ヨーゼフがロシアで指揮台に立った機会の全容を調べることは叶いませんでした。全てを単独で担ったことがあったのか、兄弟で分け合って担当した年があったのかも判然とはしません。ただ、上述しましたように、兄との共作『ピツィカート・ポルカ』はロシアで初演されておりますから、共演の機会もあったものと思われます。ここでは、明らかにヨーゼフが指揮台に立ったことが明らかな1862年の演奏会について述べたいと存じます。この年は、日本では幕末の文久元年にあたり、江戸幕府が諸外国との通商条約を締結した直後の混乱期にあたっております。そして、開市・開港関係事項の交渉のために幕府が初めて西欧諸国に使節団を派遣した年でもあります(「文久遣欧使節」)。この時の使節団の使命は、オランダ・フランス・イギリス・プロイセン等との間に締結された「修好通商条約」で交わされた、新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市についての“延期交渉”、及びロシアとの“樺太国境画定交渉”にありました。正使は竹内保徳、副使は松平康直(後の松平康英)、目付は京極高朗であり、この他、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)らが加わる40名弱の使節団でした(余談ですが、正使となった旗本の竹内は、箱館奉行となった際、幕命に逆らって、アイヌの人々が頭髪を切ることを免除し、彼らの漁の発展に尽力するなどしたことで、アイヌ人々から尊敬の対象となったと伝わる興味深い人物でもあります。“ニシン奉行”と称されたともあります)。今回は、趣旨が異なりますので、使節団の交渉成果等については踏み込みません。ここで強調したいことは、使節がロシアの首都ペテルブルグを訪問した、ちょうどその時がシュトラウス・ファミリーによる「パブロフスク音楽駅」演奏会の期間に当たっており、その時に指揮台に立っていたのが、兄の代理として来露していたヨーゼフだったことです。シュトラウス・ファミリーの作品が、その折々の時事的な内容を即座に取り入れていたことは、その楽曲タイトルから明らかでありますが、丁髷姿の日本人の来露という極めて稀なる時事ネタをヨーゼフが等閑に付すことなどありえません。そして、やはりそれに纏わる作品が作曲されていたのです。日本からやってきた使節団を歓迎するために、ヨーゼフは東アジアの旋律をいくつか盛り込んだ行進曲を作曲しております。それが『日本行進曲』に他なりません。勿論、使節一行がパブロフスクまで脚を運んで、この曲を耳にすることはなかったものと思われますが、ここからは機を見るに敏な、彼ら一族の楽曲制作の一端を垣間見ることができましょう。それが、我等日本との関わるという点で忘れることのできない事例かと考え、御紹介させていただいた次第でございます。

 ただ、この『日本行進曲』なる作品は、ペテルブルクの出版社によって楽譜が出版されたものの、ロシア国内のみでの出版に留まり本拠地ウィーン等での発売はありませんでした。従って出版部数も極めて少なかったようです。そのため、長らく楽譜が発見されず“幻の作品”であったとのこと。しかし、10年程前に、フルスコアではないもののピアノ譜が発見され、作品の概要は辛うじて把握できるようになったそうです。ただ、未だオーケストラ曲の形に復元されてはいないようです。マルコポーロ・レーベルでは、ヨハン2.世全作品収録盤に引き続いて、ヨーゼフ全作品集が録音・発売されましたが、兄の作品集が兄弟レーベルのナクソス社から廉価BOX盤となって纏められたのに対して、ヨーゼフ全作品は未だに単発発売のみで、しかも現状では櫛の歯が欠けるように入手不能盤も多くなっております。ナクソス社には廉価BOX化を実現していただきたいものです。おそらく『日本行進曲』は収録されていないものと思われますが、それでも、必ずや購入をいたします。当方は、兄ヨハンを超える弟ヨーゼフの天才を確信し、その作品を偏愛する者でもあります。世の“ヨーゼフ・ファン”のためにも是非に!!

 さて、今回の話題を改めて「シュトラウス・ファミリーの演奏旅行」という観点から振り返ってみましょう。すると、そこには「鉄道」の存在が色濃く影を落としていることにお気づきになられることでありましょう。そもそも、パブロフスク音楽駅での演奏会そのものも、鉄道会社が仕掛けて開催したものに他なりません。「旅する音楽家」という点では、他でもなくW・A・モーツァルト(1756~1791)の名が浮かんで参りましょう。彼の35年の生涯は“旅に次ぐ旅”に明け暮れたといっても決して過言ではないほど、演奏旅行のためにヨーロッパ中の悪路を馬車で駆け抜けた日々でもありました。18世紀後半を生きた音楽家モーツァルトの苦労は、残された彼の手紙で手に取るように知ることができます[『モーツァルトの手紙』上・下(岩波文庫)]。その意味では、シュトラウス・ファミリーの在り方もまた、モーツァルト以上に広範な地域を演奏して巡る「旅する音楽家」の姿そのものでありました。それは、少なくとも父ヨハン1.世の時代には、芸能人などが地方を巡業して「営業」に明け暮れる、平たく申せば「ドサ廻り」とほぼ同義のものであったことでしょう。しかし、モーツァルトから100年も経ていない19世紀半ばを活躍の舞台とした、ヨハン2.世の時代における「旅する音楽家」の在り方は、モーツァルトの時代とは大きく様変わりをしておりました。それが、冒頭にも触れたように、ヨーロッパ中に張り巡らされるようになった鉄道と、海を行き交う蒸気船航路の開設に他なりませんでした。

 勿論、現在と比較すれば、国家間の国境管理は到って厳格なものであり、簡単に国境を越えることは難しかったものの、それでもそのことさえクリアーできれば、鉄道と蒸気船により千里の路も“ひとっ飛び”という時代に突入したのです。ヨハンらがこれほど頻繁にロシアとの行き来が可能となった背景には、こうした交通網の飛躍的発展があったことを見逃すわけにはまいりません。記録が不完全であり判明しない部分も多いのですが、1856年初めてのロシア訪問の際には、ウィーンから鉄道に乗車、ベルリンを経てバルト海沿岸のシュテッティン(現ポーランド領)に至り、そこから汽船に乗り換えてバルト海を東へ向かいました。そして、バルチック艦隊の軍港として知られるコトリン島のクロンシュタットで下船してロシア帝国に脚を踏み入れたのです。そこからペテルグルグまでの移動の記録がありませんが、当地までは東に30km程となりますので恐らく別の船に乗り継いだのでしょう。ペテルブルグからは上述したようにロシアで初めて開通した鉄道によりパブロフスクに到着と相成りました。ヨハン2.世の事例にみるように、半世紀強の時代の推移は、音楽家たちにとってモーツァルトの時代とは隔絶した環境を生み出したのです。そして、鉄道が各国間・各地域間の文化的交流を盛んにし、互いの文化の交換が活発に行われるように様変わりしていたのです。上述したようなワルツの影響関係等もこれに当たりましょう。彼らに『エジプト行進曲』『ペルシャ行進曲』といった作品がみられることからも、彼らの目が世界に広がっていることを窺うことができましょう。あまつさえ、ヨハン2.世は大西洋を越え、新大陸「アメリカ」への演奏旅行まで行っているのです。ボストンでの演奏会で、彼は10万の聴衆を前にして1,000人の楽員・合唱団を指揮して作品を披露しております。こうしたシュトラウス・ファミリーの音楽を通じての国際交流は、落日の帝国であったオーストリア=ハンガリー帝国における私設“文化使節団”としての機能すら有するようになり、若かりし時分に革命運動に加担して忌避されがちであったヨハン2.世が、自国の宣伝に資する功労者として、掌を返すようにパプスブルグ帝国からも歓迎されることにも繋がりました。一方で、世界各国も外交に資することを目論んで、シュトラウス・ファミリーを自国に招聘することを後押しした側面もございます。実現することはありませんでしたが、明治期の我が国では、あの伊藤博文がヨハン2.世とその楽団の招聘を真剣に検討していたことが知られております。これ以降のヨハン一族の物語も大いに興味深いものがありますが。今回はここまでとさせていただきます。シュトラウス一族の作品群、ウィンナ・ワルツがその時代に果たした役割について、更に深く知りたいと思われる方は以下の書物をお薦め致します。本稿も本作を大いに参考にさせていただいております。

 

・小宮正安『ヨハン・シュトラウス-ワルツ王と落日のウィーン-』2000年(中公新書)
・加藤雅彦『ウィンナ・ワルツ-ハプスブルグ帝国の遺産-』2003年(NHKブックス)


 

 

 最後に、1枚の音盤を紹介させていただきましょう。ヨハン・シュトラウス2.世の「ロシア時代」と「ロシアにまつわる作品」を集めた、有りそうで無かった作品集であります。この手の企画盤は当方の知る限りこの1枚のみです。残念ながら、ヨーゼフ関連の作品は兄との共作『ピッツィカート・ポルカ』のみであることが残念ですが、指揮者ネーメ・ヤルヴィ(その子のパーヴォとクリスチャン兄弟も優れた音楽家です)が、彼の生地であるエストニア国立管弦楽団を振った演奏はナカナカに精彩に富んでおります。国も民族も異なりますが、ペテルブルグに極々至近の地の演奏家に拠ることもありましょうか。最後に、収録作品を掲げておきますので宜しかったらどうぞ。イギリス「シャンドス」レーベルの音盤です。他に、かつて「オーパス111」レーベルから発売されていた『パブロフスク・ステーション-ロシアにおけるオーケストラの誕生-』なる優れた音盤もありますが(地元ペテルブルグの演奏家に拠ります)、かなり以前に廃盤となりレーベル自体も消滅しており現在は入手不能の状態にあります。本盤には同時代のロシア人の手になるオーケストラ(管弦楽)作品が数多含まれており(グリンカの「ワルツ・ファンタジア」が素敵な作品です)、両者の影響関係を耳で確かめられる極めて優れた企画盤です。大いにお薦めしたい音盤なのですが残念です。是非とも中古盤を漁っていただければと存じます。

 そして、典雅な楽曲に親しみながらも、ロシアとウクライナのこと、併せてそれぞれの国民の引き裂かれた心情にも思いを寄せていただければと存じる次第でございます。そうすれば、前編の冒頭で述べたような、軽はずみなヘイト的な言動など絶えて久しくなりにけり……となること必定かと存じます。何時もの如く、口幅ったい物言いで誠に恐縮ではございますが、大切なことは、どうすることが最も的確・適切であるかを、「自らの頭」で充分に吟味してから行動に移すことだと存じております。

 

 

『シュトラウス・イン・サンクト・ペテルブルク』
1.ヨハン・シュトラウス2世:ネヴァ川ポルカ 
2.同:ペルシャ行進曲
3.同:ロシア行進曲
4.同:アレクサンドラ大公妃のワルツ
5.同:オルガ・ポルカ
6.同:アレクサンドリーネのポルカ
7.同:ワルツ『サンクトペテルブルクとの別れ』
8.同:田舎のポルカ
9.ヨハン2世+ヨーゼフ・シュトラウス
:ピツィカート・ポルカ
10.ヨハン・シュトラウス2世:大公行進曲
11.オルガ・スミルニツカヤ:初恋
12.ヨハン・シュトラウス2世
:ポルカ・シェネル『観光列車』
13.同:ワルツ『酒、女、歌』
14.同:戴冠行進曲
15.同:宮廷舞踏会カドリーユ
16.同:ポルカ・マズルカ『ヴォルガのほとり』
17.同:ロシアの主題によるカドリーユ
『サンクトペテルブルク』
18.同:シュネル・ポルカ『さあ踊ろう!』
19.同:ロシア風行進幻想曲
20.同:アレクサンダー・カドリーユ

 


 


 

 

 新垣結衣さん演じる「八重」異聞 または令和4年度「千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』」開催のこと(前編)―NHK主催「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』展」[5月15日(日曜日)まで!!]― ―パネル展会期[令和4年5月19日(木曜日)~7月12日(火曜日)]― ―「北関東編」ブックレット同時発売(1冊100円)!―

5月13日(金曜日)

 

 5月も半ばを迎え、亥鼻山にも子育てに南から渡ってきた燕の姿を眼にするようになりました。6月に入れば鬱陶しい梅雨となり、猛暑の夏ももう直であります。こうした中、本館を会場にして開催して参りましたNHK主催「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』展」も、残すところ本日を入れて3日となりました。決して豊富な資料が揃っているわけではございませんが、特筆すべきことは、全国どこでも行っている内容ではなく、千葉市独自にカスタマイズされていることにあります。つまり、千葉常胤を演ずる岡本信人さんに焦点を当てた内容となっていることが注目点でございます。特別に収録していただいた「ビデオメッセージ」では、実際のドラマ映像とともに、岡本信人さんの千葉常胤役にかける思いを熱く語っておられます。それだけを拝見いただけるだけでも価値があると思います。衣装も実際にドラマで岡本さんが着用されていたもの、小道具もドラマで岡本さんが用いていたものとなります。岡本さんのサインも掲示されております。別に岡本さんが別のメディア取材で本館においでくださった際に、厚かましくも「旗指物」に頂戴いたしましたサインも、会場内のモニター両脇に立てさせていただいております。本当は、源平合戦の時代には戦国時代に一般的となる斯様な“幟旗(のぼりばた)”は存在せず“流れ旗”でありましたが、安全性確保の事情から時代に適合した旗指物ではございませんが、これにつきましてはご容赦くださいませ。何れにしましても、折角の機会でございますので、大河ドラマファンの皆様は是非ともご覧ください。脚を運んでいただいて損はないと存じます。しつこいようですが、本日を含めて残り3日間です。

 ここで、一つだけ本展についての話題から。会場に入った正面にドラマで登場する俳優4名の等身大パネルがございます(写真撮影スポット)。その4人については、既にツイッター等でも紹介しておりますが、北条義時役の主人公小栗旬さん、その姉で頼朝妻北条政子役の小池栄子さん、その源頼朝役の大泉洋さん、そして、伊東祐親娘で頼朝の最初の妻であり、ドラマでは後に義時と結ばれて、その子を産む八重役の新垣結衣さんとなります。そして、4名の背景となっているのが、ドラマで使われた伊豆「北条館」の屋外撮影セット写真となっております。こうした機会もなかなかにありませんので、是非とも左右に2名ずつ分かれる俳優の中心に立って記念撮影をされてください(女性陣も含め各々思った以上に上背があるのに驚かされました)。因みに、楽屋裏での話題となり恐縮ではございますが、NHK側で用意されている等身大パネルは、上記4名に加えて源義経役の菅田将輝さん、北条時政役の坂東彌十郎さん、三浦義村役の山本耕史さんの3名を含む、合計7パネルでありました。ところが、こちらの予算の都合上、その中から4枚を選ばなくてはならなくなったのです。

そこで生じるのが、誰を選び誰を落すか……の問題であります。3名は異論なく決定でした。即ち、主人公の北条義時、常胤とも深い関わりのある源頼朝、その妻である北条政子であります。全て所謂“歴史上”よく知られる人物でありますから。しかし……であります。残り1名を誰にするのか……これはナカナカに難題でありました。ジェンダーの観点から申せば、残り一人を女性にすることが望ましい。男2名、女2名で好都合であります。しかも、ドラマでは八重は義時の妻ともなるのですから、カップルとしてもぴったりです。しかし、「八重」は史実に照らしても専論として研究書が出される人物とは言えませんし、そもそも実像は殆ど明らかとはなっておりません。まぁ、4名を選ぶとすれば、その他の源義経、北条時政、三浦義村の選択の余地はないと思いますが、それでも3人とも圧倒的に“歴史上”著名なる人物ではあります。そもそも、千葉氏との関係から申して本館での展示に整合性があるのか……疑問なしとは言いかねます。それでも敢えて「八重」を選べば、「四の五の言おうが、単なるガッキー推しでしょ!?」との誹りは免れますまい。そうしたときに、ハタと閃きました!!この千葉の地で「八重」を選出することにも合理的な理由があることを。これは、我ながら名案であると自画自賛した次第でございます。そこで、今回は、よい機会でもございますので、まず「前編」では、そのことについて述べたいと存じます。

大河ドラマに登場する「八重」なる人物は、「平治の乱」後に伊豆に配流となった頼朝の監視役となった伊東祐親三女と言われており、祐親が京に上っている最中に、頼朝との間に「千鶴御前(千鶴丸)」という男子を成したとされる女性であります。つまり頼朝の最初の妻ということになりましょうか。しかし、平家の家人であった祐親はそれに激怒しその子を殺めた……というのが「平家物語」諸本に記される内容であります。『曽我物語(真名本)』には「三の妃(ひめ)は美女の聞えあり。兵衛佐殿(頼朝)忍びてこれを思し食(め)されける程に、年月久しく積もりて若君一人出て来たり給へり。佐殿大きに喜びて御名をば千鶴御前と呼ばれける。佐殿喜び思し食す事限りなし」とあるとのことです。つまり物語上のお話として記される内容であり、この記事からも判明するように「八重」という名は何処にも記されてはおりません(以後“名無しの権兵衛(権子!?)”ではあまりに収まりが悪いので「八重」で通します)。北条氏本拠近くの真珠院境内(伊豆の国市)に「八重姫御堂」と呼ばれる御堂が残ることから、今回の大河ドラマ監修を務められる坂井孝一氏(創価大学文学部教授)は「恐らく室町後期から江戸時代にかけて在地伝承として生まれた名なのであろう」とされております[坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏-義時はいかに朝廷を乗り越えたか-』2021年(NHK出版新書)]。諸本は、父に愛児を殺められたばかりか、頼朝との別れを強要され、更に江間次郎に再嫁させられたことで、「八重」が悲しみに沈んだと記しているとのこと(江間次郎は大河ドラマの設定では伊東の家人ということになっていますが、物語系の書物にしか見えず同時代史料では確認できない人物です)。因みに、祐親は平家の聞えを恐れ、頼朝をも殺めようと目論んだものの、そのことを注進された頼朝は夜陰に乗じて逃れ北条に向かったと記します。この辺りは、ドラマでも描かれたところでございますから、皆様もご承知のことでございましょう。もっとも、伊東から北条へ向かうには、伊豆の山々を東西に越えるわけですから、「ちょっくら出かけて来る」という距離ではございません。

さて、その後の「八重」についてであります。大河ドラマでは、幼馴染の北条義時が、その後も“初恋の人”である「八重」への思いを募らせ、遂にその心が八重に通じて紆余曲折の末に結ばれることとなったこと。そして、二人は「金剛」なる男児を授かったこと。それが後の北条泰時であるとの筋書きとなっていることは御承知のとおりです。記録に登場する泰時の母「阿波局」(勿論、政子妹で阿野全成の妻となった“阿波局”とは別人)は、かくも著名人の母でありながら出自等を含めてその実態が殆ど明らかではありません。長子相続が自明の理ではなかった当時、母の出自を考慮すれば義時後継として相応しいのは、義時正室「姫の前」(比企朝宗娘)産になる息子[朝時(名越流祖)、重時(極楽寺流祖)]、あるいは後妻(継室)「伊賀の方」(伊賀朝光娘)産の男子[政村(政村流祖)、実泰(金沢流祖)等]であることが一般的でありましょう。斯様な子息が数多あるなかで、敢えて泰時を後継にした理由を、「八重が母であった」ことに求めた着想はナカナカに素敵な解釈だとは思います。つまり、この「阿波局」こそが義時の初恋の人であり思いを募らせてきた、「八重」その人であったという設定です。

そして、坂井氏も「類推に類推を重ねたうえで」と断られながらも、状況証拠から義時は最終的に「八重」と結ばれ、生まれた子が泰時であるとされていらっしゃいます。そして、年齢的にもそのことに矛盾は生じないとされます。坂井さんが監修を務められる大河ドラマが斯様な展開となっている所以はここにございます。このように類推される傍証として挙げていらっしゃるのが、『吾妻鏡』治承5年(1181)の記事に義時が「江間四郎」の名で登場することです。つまり、頼朝挙兵の結果、滅びることとなる「八重」再嫁の相手であった江間次郎の所領を、義時その人が獲得してその地を苗字として名乗っていることです。「江間」は、狩野川を挟んで北条館対岸の指呼の地であります(大河ドラマでは、頼朝が旗揚げする際、伊豆目代山木兼隆が在館していることを報せようと、八重が対岸の北条館に矢文を放つシーンがありました)。更に、先に挙げた著書で坂井さんは、『曽我物語(真名本)』で、江間次郎が討たれたことを記した後に「子息の少(おさな)き者をば、北条小四郎義時申し預かりて免(ゆる)されぬ。則(やが)て義時が元服の子となして、後に江間小次郎と云うは則(すなわ)ちこれなり。」とあり、新たに江間の領主となった義時が、「八重」と江間次郎との間に生まれた子を預かり、頼朝に乞うてその罪を免じてもらったこと。そのうえ、その烏帽子親となって元服させ「江間小次郎」と名乗らせるなど、何かと「八重」のその後を気遣い支援までしていることを挙げておられます。

さて、ここまでお読みになって、多くの方は、4人目のパネルの一人に「八重」を選んだことの理由が未だ不明確であることにモヤモヤ感を募らせていらっしゃいましょう。お待たせいたしました!!漸く、このことについて触れるところにまで到達いたしました。「八重」のその後については、坂井氏の御説に止まらない“異聞”もまた存在しているのでございます。それが、『源平闘諍録』なる平家物語異本にある記事となります。これこそが、4人目のパネルとして、本館が「八重」を選んだ最大の理由となるのです。即ち、本書では、治承4年(1180)10月「富士川の合戦」後に、伊東祐親の自害を語り、伊東三女(つまり「八重」のこと)の説話を載せているのです。これを『千葉県史3 中世 通史編』より引用させていただきましょう。因みに、これを執筆されているのは、中世史の泰斗福田豊彦先生でいらっしゃいます。既に鬼籍に入られて久しくなりましたが、個人的に謦咳に接したこともある、尊敬すべき学者の方でございました。

因みに、この『源平闘諍録』なる史料について、先日刊行いたしました『千葉市歴史読本-史料でみる千葉の今むかし-』内に「源頼朝と千葉常胤-東国武家政権への道-」の玉稿をお寄せいただいた、京都女子大学名誉教授で鎌倉武士団研究の泰斗野口実先生は(千葉市中央区長洲の御産れでございます)、本稿冒頭で以下のように説明されておられます。即ち「『源平闘諍録』は『平家物語』の「読み本系」諸本の一つで、原『平家物語』のストーリーに13世紀半ば頃に成立した千葉氏嫡流家(「千葉介」家)の正統性を示すために作られた家伝を取り込んで14世紀前半の頃に成立したものと考えられます。後世に作られた軍記物語ですが、その材料には千葉氏に伝えられた記録も使われているようで、部分的には史料として高く評価される記述も含んでいます」と。まずは、その記述をお読みくださいませ。

 

 伊東入道祐親の三女は頼朝の本妻(もとつめ)である。父入道に引き去られたが互いに余波(なごり)を忘れられず、とはいえ北条の娘も去り難い。ある日頼朝は伊東の娘を簾中に呼び、「日ごろの情けは棄てがたく、貴女を迷い者とするわけにはいかない。この大勢の侍たちの中から夫にしようと思う者があれば指さしてご覧」と言うと、伊東の三女は恥ずかしながら満座を見回し、「あの左の一の座にいる人」と指さした。頼朝は「あれこそ、侍の数多い中で『日本(ひのもと)将軍』と号する千葉介常胤の次郎師常(もろつね)だ」と。師常の許に使者を送り、「かようの次第である、頼朝を舅(しゅうと)を思うべし、頼朝は聟(むこ)と思うぞ」と仰せたので、師常は早速承諾、彼女を迎え取って偕老同穴、末永く幸せな生活を送った。
(福田豊彦・服部幸造監修『全註釈 源平闘諍録 巻五 六段』2000年(講談社学術文庫)
(『千葉県史3 中世 通史編』2007年 千葉県)

 

 あたかも「御伽草紙」的な“ほのぼの”とさせる内容であり、最後に続けて思わず「めでたし、めでたし」と付加したくなるようです。つまり、ここでは、「八重」は千葉常胤の次男である相馬師常に嫁いだことになっているのです。先に、野口先生の御説明を引きあいに出させていただきましたように、本史料の性格上、千葉氏の立場に引き付けた記述となっていることは疑いございませんが、“物語”の世界の記述とは申せ、鎌倉時代末成立になる書物にある内容であり、あたら疎かにはできない記述ではありますまいか。「八重」の後日談として決して見逃すことができません。

ここでようやく、前編のオチがつきました。本館での等身大パネル展示の、最後の1枚に新垣結衣の「八重」を選択したのは何故か。その答えとは、彼女が千葉一族との婚姻という伝承を残しているからでございます。もっとも、「言い訳がましいことを長々と……、どの道、お前の好みを優先しただけだろう!?」との声が聞こえてくるようです。まぁ、全否定はいたしませんが、何事も“理屈”は大切でございましょう。長々と失礼をいたしました。お後が宜しいようで、前編はこれまでとさせていただきます。明日の後編では、今回の本命の話題、来週木曜日(5月19日)より開幕の令和4年度「千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』についての御紹介をさせていただきます。

(後編に続く)

 

 新垣結衣さん演じる「八重」異聞 または令和4年度「千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』」開催のこと(後編)―NHK主催「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』展」[5月15日(日曜日)まで!!]― ―パネル展会期[令和4年5月19日(木曜日)~7月12日(火曜日)]― ―「北関東編」ブックレット同時発売(1冊100円)!―

5月14日(土曜日)

 

 さて、後編は、来週より開催となる標記パネル展について御紹介をさせていただきます。昨年末に開催した『千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)』に引き続き、本年度は『北関東編』となります。以下に述べることは昨年度の『南関東編』を御紹介する際にも申し上げたことですが、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で言うところの“13人”とは、建久10年(1199)1月の頼朝急死後、「鎌倉殿」を継承した源頼家を支え、かつその独走を掣肘することを目的に選ばれた幕府内有力御家人13人のことを指します(選んだのは当時実質的な「鎌倉殿」であった頼朝後家の北条政子と父時政と考えられます)。具体的には、北条時政、北条義時、比企能員梶原景時、安達盛長、三浦義澄、和田義盛八田知家、足立遠元、三善康信、大江広元、中原親能、二階堂行政の13人のことになります。しかし、本館で開催する『千葉常胤と13人の御家人たち』で採り上る坂東武者のラインナップは、飽くまでも本館が任意で選出したものとなります。選出の基準は、治承4年(1180)源頼朝挙兵に従って決起し、ともに武家政権の端緒を切り開くことになった、千葉常胤と有力坂東武者13人の合計14人となります。従って、文筆官僚とも言うべき「文士」は含めておりません(上記13人中、三善康信以下の4名)。勿論「13人の合議制」構成員と本館展示で重なる面々もおりますが(上記13名中で下線を施した5名)、本パネル展で選出した御家人とは直接には関連しません。

 今回は、昨年度末開催の「南関東編」(千葉常胤・葛西清重・下河辺行平・上総広常・和田義盛・梶原景時・北条時政)の7人に引き続き、「北関東編」として、武蔵国・上野国・下野国・常陸国に盤踞した7名の有力御家人を取り上げます。南関東編に比べると、皆さまにとっては若干馴染みの薄い武者たちかもしれませんが、何れも比類なき坂東武者の兵たちであり、後裔からはその後の国内の歴史を形づくる一族も多々輩出しております。ご覧いただければ、「これほどの御家人であったとは……初めて知った」と、多くの皆様の認識を新たにしていただける、正に発見に満ち満ちた内容になっているものと自負するところでございます。加えて、付録として「千葉常胤をめぐる女性たち」の展示を行います。2回のパネル展を通して、千葉常胤に留まることなく、武家政権の草創期に常胤と轡を並べて戦った、坂東各地に盤踞した有力武士たちへの理解の裾野を広げていただければ幸いです。そして、併せて“武士時代の始まり”の息吹を感じていただければ……との願いを込めて企画いたしました。

 改めて、今回採り上げる御家人を御紹介させていただきます。畠山重忠、比企能員[以上:武蔵国]、新田義重[上野国]、足利義兼、小山政光、宇都宮朝綱[以上:下野国]、八田知家[常陸国]の、北関東に本拠を置く以上7名の有力武者でございます。それでは、以下、極々簡単にではございますが、それぞれにつきましての御紹介をさせていただきます。余計なお世話かもしれませんが、今回の大河ドラマにおける配役も添えております(各武士右手【〇〇〇〇】)。南関東編と比較してドラマで配役されている御家人が少ないのが残念ですが、だからと言って決して重要性が低い訳ではございません。これをお読みいただき、もし興味をもっていただけましたら、その答を探しに本館に脚をお運びくださいましたら幸いです。皆様のご来館をお待ちしております。

 

 

畠山 重忠(はたけやま しげただ) 【中川 大志】
[長寛2年(1164)~ 元久2年(1205)]


東国武者の在り方を一身に体現する者として一般に認知される畠山重忠です。大河ドラマでも勇猛果敢でありつつも、“がつがつ”したところを感じさせない、如何にも紳士的で冷静沈着な武者として描かれます。後に北条時政の命により滅ぼされる重忠ですが、そのことに納得できない義時により、乱後に父時政と後室“牧の方”とが追放されることに繋がるのですから、重忠が義時を始めとする御家人から厚い信望を寄せられていたことを窺わせます。一方、彼の所領があった武蔵国における架空の武士を主人公にした「男衾三郎絵詞」に描かれる武蔵国武者の姿は、単に勇猛果敢ということに止まらず、館前を過ぎる者を射殺したり「館に生首を絶やすな」と述べる等々、剥き出しの暴力装置としての側面も描かれております。“架空の武士”とはいえ「男衾」は実在する武蔵国地名であり、何より畠山重忠の所領でしたから、何処かしらイメージが重ねられている可能性が皆無とは言い切れぬものを感じます。もしかして、これが畠山重忠の一面を垣間見る縁となっているのかも!?。

 

 

比企 能員(ひき よしかず) 【佐藤 二朗】
[生年未詳 ~ 建仁3年(1203)]

 20年余りにも及ぶ源頼朝の伊豆での流人生活を、物心両面で献身的に支えた乳母“比企尼”。その甥で、後に養子となったのが能員です。その大恩人に報いるために、比企氏は頼朝に重用されていきます。そして、「鎌倉殿」後継となる子頼家の乳母夫にもなり、更に自らの娘を頼家に嫁がせるなど、幕府内での存在感を増していくことになるのです。恐らく、頼朝は、これからの幕府が北条氏と比企氏との協調関係の下に運営されることを期待していたのでしょう。その証拠に、比企朝宗娘「姫の前」に義時が懸想して何度も文を寄せますが靡かずにいたのを見兼ねた頼朝が仲を取り持ち、義時に「決して離縁しない」と起請文を書かせ、ようやく義時の「正室」に納めたことからも、そのことが分かるのではありますまいか。しかし、その頼朝の急逝後、早晩にその目論見は破綻することはご承知の通りでございましょう。ところで、先に御紹介した「姫の前」との起請文の行方や果たして如何!?

 

 

新田 義重(にった よししげ)    【配役無】
[永久2年(1114)~ 建仁2年(1202)]

 新田義重!?義貞じゃないの??と思われた方も多かろうと存じます。義貞は今回ご紹介する義重の子孫にあたります。次に取り上げる足利義兼とは叔父・甥の関係となる源氏の名門です。しかし、どちらかと言えば“不遇の一族”として鎌倉期を過ごしました。それもこれも、その始祖である義重の名門意識が強いこと等から、頼朝に従うのも遅れる等々、度々と頼朝の不興を買うことが多かったことがあります。かような次第からか、残念ながら今回の大河ドラマでは配役がありません。しかし、その鬱憤を晴らすが如く、子孫の義貞が鎌倉に攻め込み北条高時を自害に追い込むことになります。鎌倉時代も終盤となってからようやく大輪の花を咲かせた新田一族(ただし直ぐに散ることになるのですが)。その始祖は如何なる人物であったのでしょうか。ところで、千葉県内で著名なる戦国大名の一族とは??「応仁の乱」一方の将で知られる守護大名と言えば??実は、共に義重から分かれる新田一族です。それが誰なのか、是非会場でお確かめ下さい。当否はいざ知らず、かの東照大権現も新田後裔を称しております。

 

 

足利 義兼(あしかが よしかね)  【配役無】
[久寿元年(1159)~ 正治元年(1199)]

 足利氏と申せば、源氏の超名門一族であります。後に子孫である尊氏(最初は高氏)が鎌倉幕府に反旗を翻し、紆余曲折の末に室町幕府を開くことになる、あの足利氏の祖となる人物です。源義仲・源義経・源範頼等々……、源氏一族が次から次へと頼朝によって粛清されるなか、また有力御家人が北条氏によって滅ぼされるなか、正月元日の垸飯を勤めるなど、頼朝からは一貫して幕府内の重鎮として遇されております。紆余曲折はありましたが、子孫は北条氏との婚姻関係を取り結んで鎌倉時代を生き抜きます。これほどの重要人物でありながら大河ドラマでも配役されないのが大いに残念です。一方で、彼らの本願地である現在の栃木県の足利には、彼らの居館跡を寺院とした鑁阿寺、義兼が墓所として定めた樺崎寺跡、義兼創建とも伝わる足利学校遺跡等々、足利氏の文化力の高さを示す遺跡がたんとございます。特に、樺崎寺跡に発掘・復元された浄土庭園の偉容は壮観であります。パネル内の写真で是非ともご確認下さい。その他にも、この足利の地には義兼以降の歴代当主3人の建立した寺院に浄土庭園が造営されました。それらが全て発掘・復元されたら、おそらく足利市は「関東の“平泉”」となること間違いなしです。

 

 

小山 政光(おやま まさみつ)   【配役無】
[生没年未詳]

 

小山氏は、「平将門の乱」の平定に活躍した、藤原秀郷(俵藤太)後裔となる坂東の名門武士団であります。小山一族が頼朝の挙兵に従ったことには、キーパーソンとなる人物の存在があります。それが、小山政光妻の寒川尼であります。彼女は幾人か存在が確認されている頼朝の乳母の一人でありました(もっとも、乳母と申しても寒川尼は頼朝の8歳年長に過ぎませんので乳を与えた筈もなく、所謂“姉や”的な遊び相手であったことと思われます)。その結果、鎌倉時代を通じて一貫して守護職を務めたのは小山氏と我らが千葉氏のみであることから明らかなように、幕府内で有力御家人として遇されていたことが分かります。御家人達を前に、頼朝が西国での熊谷直実の活躍を褒めた際、それを聞いていた政光が如何なる返事を頼朝に返したのか!?ここにこそ、大武士団を率いた者の矜持を感じ取れましょう。結城氏・長沼氏も小山氏の庶流として続くことになります。

 

 


宇都宮 朝綱(うつのみや ともつな)   【無配役】
[保安3年(1122)~ 元久元年(1204)]

 宇都宮氏は、藤原道長の兄、関白道兼の流れを汲む一族を称しております。「前九年の役」の際、その祖となる宗円が安倍氏調伏のために関東に下向して土着。ここに宇都宮社(二荒山社)神職であると同時に、武士でもある宇都宮氏の歩みが始まります。その孫が朝綱であり、その出自もあってか、京に出仕する東国武士として当時例を見ないほどの高い地位にありました。かような中央での位もある朝綱が何故頼朝挙兵に従ったのでしょうか。ここにも、“あの”キーパーソン寒川尼の存在がありました。彼女は宇都宮一族を出自とし、朝綱と八田知家と兄弟関係にあったからです。しかし、頼朝挙兵時には朝綱は在京していており平家によって京に留め置かれます。その時に平家の中に朝綱が坂東に戻ることを後押ししてくれる人物がおりました(その人物と朝綱とのその後の友情物語もナカナカ感涙ものです)。その後は、頼朝の下で武士として大活躍します。また、源平の争乱で焼失した東大寺再建で大仏脇侍観音菩薩像の任を果たすなど、一族の経済力と文化力の大きさにも驚かされます。孫の頼綱は皆さんにも馴染み深い正月遊びと関連の深い人ですが、その遊びとは一体何でしょうか?

 

 

八田 知家(はった ともいえ)   【市原 隼人】
[康治元年(1142)~ 建保6年(1218)か]

 八田知家は、宇都宮朝綱の弟であり、姉妹に小山政光に嫁いだ寒川尼がおります。その後裔嫡流は筑波山麓に本拠を置いて小田氏を名乗ります。後の南北朝期に、南朝方の重鎮北畠親房が『神皇正統記』をこの地で擱筆したことも知られます。更に後の戦国時代には、戦う合戦に悉く敗れたことから「最弱の戦国大名」として昨今人気を誇る小田氏治のご先祖ということにもなります。子孫の氏治とは異なり強者としても知られ、奥州藤原氏攻めでは千葉常胤とともに東海道大将軍として大いに軍功を挙げております。一方、兄の宇都宮朝綱と同様、京のしきたりに詳しく、「京に慣れ親しんだ者」として頼朝からもその御前で重用され、頼朝死後には、あの「13人の御家人」の一人にも選ばれ、幕府の中枢として活躍することになりました……と書けば、完全無欠の人物のように思われましょうが、策略家としての側面もあって、一筋縄では括れない坂東武者でもございます。何をやらかしたのか??パネルにて是非ともご確認を!!

 

 

【付録】千葉常胤をめぐる女性たち

 今回は、北関東編ということで、下総国の地からは少々離れてしまいます。そこで、地元の千葉氏に関する一項を“付録”として採り上げることといたしました。ただし、正攻法ではなく、敢えて別の切り口から千葉常胤像に迫ってみようと考えました。それが、常胤と繋がりのある女性を採り上げることです。今日日、ジェンダーの観点も重要でございましょう。どうしても、中世武士の話は男の活躍ばかりの世界となりますが、後の時代と比べて当時の武家女性の地位は到って高いものでありました(北条政子を思い浮かべていただければ納得いただけましょう)。斯様な次第で、ここでは、常胤をめぐる女性について、母・正妻・側室・姉妹・娘といった項目ごとに探ってみました。史実・伝承を虚実ない交ぜにしながら、常胤と関わりのある女性を判明する限り網羅してみました。はてさて、如何なる女性像が浮かび上がりましょうか??どうぞお楽しみに!!

 

 

 以上でございます。大河ドラマ明後日第19話では、平家の滅亡後に浮き彫りになる頼朝と義経との対立が描かれることになります。そこで暗躍するのが「日本一の大天狗」こと後白河法皇であり、幕府内での狂言回しを演じるのが梶原景時となることでしょう。そして、第20回までに、奥州藤原氏の下に逃れた義経の最期が描かれることになります。5月に入ってからの大河ドラマでは、立て続けにダークな暗殺の世界が描かれ、息つく暇も与えないほどです。それも今月末に一つのクライマックスを迎えそうです。6月からの内乱終結にともなう幕府内での政治機構の整備、及びその中で生じる新たな権力闘争の世界が如何様に描かれるのか楽しみです。何より、腹を括って幕府運営と北条一族の権力掌握に舵を切っていく義時という人物の変容を見守りたいと存じております。

 

 成熟した企業活動の在り方とそれを支える政策哲学の在り様について痛感すること(前編) ―日本と西欧諸国とにおける製品アフターケア思想のあまりに大きな乖離に思うことども―

 

5月19日(木曜日)

 

 本日は、極々個人的な体験からお話を始めようと存じます。今から10年以上も前の、未だ学校職員として勤務をしていたときのことになります。中学校で教頭職を拝命していた小生が、ある時に校内巡回をしていると、粗大ゴミ置き場に左右セットのスピーカーが置かれているのを目にしました。そして、それが音楽室に設置されていた備品であることに気づいたのです。ざっと確認したところ、如何せん生徒が出入りする音楽室に永年置かれていたこともあり、筐体(エンクロージャー)には相当な疵が目に付いたものの、決定的な瑕疵は認められません。かような訳で、早速に音楽担当に確認したところ、現在ではマトモに音が出ず使い物にならないこと、更に備品耐用年数も超過していることもあり廃棄処分としたこと、更には既に廃棄手続きも済ませていること等の報告を受けました。後は“粗大ゴミ”として回収されるのを待つばかり(音楽室には新たなスピーカー購入も決めているとのこと)。そこで、上司の許可を得て、小生が引き取ることにいたしました。余りにも勿体ないですから。

 それが、かつて国内で名器として持て囃され、相当に売れて会社に大きな利益をもたらしたであろう、ヤマハ「NS1000モニター(以下M)」なるオーディオスピーカ-でした。低中高の各音を受け持つ3ユニット(ウーファー・スコーカー・ツィーター)構成で(これを俗に3ウェイスピーカーと称します)、更に筐体が完全に閉鎖された密閉型(ブックシェルフ型)のスピーカーであります。見た目も特徴的で、多くのスピーカーが表面を布(サランネット)で覆って各ユニットを直接には見えないようにするのに対して、全ユニットに金属製のグリルカバーがされているだけでサランネットは附属しない、ユニットが丸見え状態なのも、オーディオ機器として当時類例がなかったように思われます。つまり、ビジュアル的にもなかなかにインパクトのあるスピーカーだったのです。

 当方が日頃使用するスピーカーはバスレフ型といって、筐体に穴を開けることで、筐体内部で増幅させた低音をダクトから引き出す形式であったこともあり(クラシック音楽に向く音場感が得られるように思います)、こうした密閉型を活用してみたいとの思いも沸き起こったのです。つまり、放送局等で、より原音に忠実な再生を目指して開発された、所謂“モニタースピーカー”としての「音」にも興味関心があったことも、本機再生に取り組む意欲を掻き立てました。実のところ、本機は当方の友人が所有していたこともあって頻繁に耳にしていた関係もあり、その特性はある程度は知悉しておりました。そして、個人的にはモニタースピーカーの明晰な再現音は、当方の主たる鑑賞対象であるクラシック音楽再生には向かない……と思っておりました。しかも、密閉型で往々に有り勝ちな大きな駆動力を有するアンプで鳴らさないと低音が出辛いとも感じておりました。ただ、逆に、そのクリアーな音場感はポピュラー音楽再生には持って来いかも知れないとも考えました。即ち、ロック・ポップス用のスピーカーとして利用してみようとの希望がふくらんだことも再生の後押しとなりました。かような次第で、まずは、配線を繋げて状況を確認したところ、音楽担当の報告の通りユニットの半分(6個中の3個)が“死んで”いることが分かりました。次なる算段は、こいつを如何にして再生させるかです。

「NS1000M」は、昭和49年(1974)に発売が開始され、平成9年(1997)年に生産が中止されるまで、何と!23年もの長きに亘って販売されていたロングセラーでした。しかし、当方が粗大ゴミ置き場から救い出した段階で、既に販売終了から15年以上の歳月が経過するロートル機でもありました(“ヴィンテージ”とは言えない単なる中古品)。まずは、音の出ない原因を突き止めなければなりません。しかし、悲しいかな個人的に修理できる技能を有しているわけではございません。もしかしたら、ユニット自体の故障ではなく、内部ネットワーク(配線)の問題かもしれません。そこで、修理が可能かどうかについて、学校にも出入りしている製造メーカー(ヤマハ)に問い合わせてみることにしました。まぁ、最初の取っ掛かりとしては“本寸法”でございましょう。ところが、その返答は“けんもほろろ”なものでした。即ち「販売終了から相当な年限が経過しておりメーカーとしての対応はできない」とのこと。もっとも、こうした対応となることは十二分に予想されたことではあったのです。

何故ならば、国内の製造メーカーの殆ど全てで、販売製品の修理可能な年限を設定しているからであります(家電から自動車まで)。具体的には「補修用性能部品」の“最低保有期間”が定められているのです。ここでは“最低”と書いているものの、多くのメーカーではそれをもって修理には対応しなくなるのが極々一般的です(逆に最低保有期間であっても部品欠品となるやいなや当該時点で修繕不能とされます)。つまり、「修理しようにも部品そのものがないから無理」との理屈であります。詳細は知りませんが、そうした対応は法的にも保証されているのでありましょうから、こういた対応は何も「ヤハマ」に限ることではなく、恐らく何れの日本国内製造メーカーにも共通するものでございましょう。最近のことですが、キャノンのデジカメ(“EOS Kiss”なる一眼レフのベストセラーモデル)のデータ保存用メモリーがイカレてしまい、新たに純正品を購入しようとしたのですが既にキャノンでは生産終了であり入手不能とのこと。これには大いに困惑いたしました。カメラ本体はピンピンしているのに、昨今製造されている他のメモリーでは代用できないというのです。この際は、幸いにキャノンとは別企業が細々と生産していることが分かり、辛うじて代用品の購入で対応できました。しかし、購入店では「このメーカーも何時生産終了するかわからない」と脅かしつけられた次第であります。メモリーがなければそもそもカメラとしての使用自体が不可能となります。

 ヤマハのHPで確認すると(令和4年5月現在)、部品供給期限は「生産終了後8年」とされております。付加して、期限終了後も「代替パーツを含めて可能な限り修理対応を行う」と謳っておりますが、実際に15年以上を経過した「NS1000モニター」の修理依頼は問答無用で「不可能」との解答でした。序に、幾つかの国内オーディオ機器メーカーの状況を調べましたが、「デノン」(以前はソフト製品と同様「デンオン」読みでした)も8年、パイオニアが10年をもって“アフターサービス終了”としておりました。その際のことに戻りますが、メーカーが駄目なら残された方策としては個人経営オーディオ店頼みしかございません。従って、市内中央区に店を構える「オンケン」に、“駄目モトを覚悟で”重量級スピーカー2本を持参して相談をさせていただいたのです。ところが、ほぼ即断で修理の快諾をいただけたではありませんか。点検の結果、音の出ない3ユニットは完全に“お釈迦”ではありましたが、筐体とネットワークには全く問題がないこと。3つのユニットは全面交換となるが、山のように売れた機種であるため中古品は市場でダブついており、「オンケン」も部品を多数確保しているから心配御無用……との至って心強くも有難いお返事でした。費用も、な…なんと!!“4万円弱”で済むとのこと。「オンケン」さんの対応には、本当に手を合わせたくなるほど感謝の思いで一杯でした。

 そして、復活した「NS1000M」は、現在では父親遺品のセパレート型アンプ(プリとパワーとが別に分かれている)に繋いで大活躍しており、予定通りに主にロック・ポップスの鑑賞を楽しんでおります。例えば、「ザ・フー」の名盤『ライブ・アット・リーズ』(海賊盤を模した簡素なジャケットが印象的です)の再現に本機種の存在は欠かせません。既に故人となった2人のリズムセクション、ジョン・エントウィッスルの躍動する驚異的なベースラインと、一聴して乱れ打ちのように感じる重量級のグルーブ感を有するキース・ムーンのドラミングは、類例がないほどに唯一無二の存在感であり、正に手に汗握る思いで聞き入ることができます。あたかも会場の「リーズ大学講堂」に同席しているかのようです。少なくともポピュラー音楽において、斯様に優れた再現性を発揮する「ヤマハNS1000M」の性能には到って満足しております。すでに販売終了から25年以上も経過するロートル製品ですが……。今では、あの時に救出してホントウに良かったと思っております。
(中編に続く)

 

 

 成熟した企業活動の在り方とそれを支える政策哲学の在り様について痛感すること(中編) ―日本と西欧諸国とにおける製品アフターケア思想のあまりに大きな乖離に思うことども―

 

5月20日(金曜日)

 

 前編で述べた経験は、逆に、我が国におけるメーカー(企業)の製品アフターケアの在り方に大いなる疑問を感じることに繋がったのです。つまり、製造・販売した製品の維持修理を、メーカー自体が10年前後しか対応しないという、企業の在り方への疑問でございます。また、それを法的にも後押ししている我が国の政策的な在り方とは一体何なのでしょうか……??心底の疑念で一杯となったのです。中編では、そのことについて触れてみましょう。

 勿論、自社製品に対して永久に責任をもって修繕に対応できる体制など、営利企業としては決して簡単なことではないことは重々承知しております。そもそも、メーカーが責任をもって対応するためには、部品のストック等に多大なるコストを要し、その経営を圧迫する可能性は否定できなかろうと思うからです。しかし……であります。“個人経営店”の修理により復活したヤマハ「NS1000M」と同アンプに繋いで使用する、亡父遺品であるイギリス「タンノイ」社製品「レクタンギュラーヨーク」なるスピーカーが我が家に存在します。こちらは、我が家にやって来てから既に半世紀は経過する、ほぼ“ヴィンテージ級”といっても宜しい製品であります。しかし、「アルニコマグネット」使用の同軸スピーカーから再現される音は未だに健在であり、クラシック音楽の再現性は現役の他社製品に引けを取りません。取り分け弦楽器の音場感の再生では今以て一級品だと存じます。ただ、こうした電気製品がそのままで50年間維持できることなどありえません。それを可能にしているのが、「メーカー」である「タンノイ」社のアフターケア体制なのです。半世紀に亘り欠かさずにメインテナンスを受け入れる体制が存在し、如何なる不都合にも必ず対応できるシステム構築があったからこそ、本機は未だに現役で素晴らしい音を響かせてくれているのです。実際、つい10年程前も、生前の父親がパルプコーン張替修理を日本代理店に依頼しましたが、何の問題もなく数か月後に修理されて戻ってまいりました。我が家でのことではございませんが、同じイギリスの「クゥオード」社も50年前の同社製アンプの修理にフツウに応じてくれると聞きました。この彼我の格差とは一体何処に発するものなのでしょうか。また、如何なるメンタリズムの違いによるものなのでしょうか。たかが、10年やらそこいらで“個人経営店”に修理を依存しなければならない日本企業の在り方と、何時までもアフターケアに対応する西欧企業の在り方の彼我の格差は、エベレスト山より高く、マリアナ海溝よりも深いものに感じるのです。

 そもそも論として、我が国における在り方は、地球環境問題という観点に鑑みて大いに問題ではありますまいか。今日、SDGsなる用語を頻繁に耳にされましょう。それは、「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)」の略称であり、2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載されている、2030年までに“持続可能でよりよい世界”を目指すための国際目標のことであります。当然の如く日本もその具現化に向けた取り組みをすることになっております。こうした、今日的な課題が突き付けられている中で、我が国における上述したようなアフターケア体制の在り方は、根本的に矛盾するものではありますまいか。古いものを大切にして使い続けることが難しい社会システムが構築されているのですから。今日の日本での在り方とは、謂わば高度経済成長期に敷かれた路線を、根本的に見直すことなく後生大事に墨守しているのだと思われますが如何でしょうか。これは「ちょっとでも古くなった製品はどんどん廃棄」し「新製品の購入を促す」ことにより「企業利益の増大を図る」という、「経済成長モデル」と基本的に選ぶところがないと思います。そのために、かつて(今でも!?)企業は、数年後には古臭く見えるようになること、所有すること自体が嫌になることを織り込んで、新製品を開発するとも耳にしました。そこにあるのは、「永遠に使える素晴らしい製品」を開発するよりも、「暫く後には買い換えてもらえる一時的な製品」の開発が最優先とされることは言うまでもありません。その結果が、大量の廃棄物による地球資源の甚大なる浪費という地球規模の問題を人類に突き付けたのです。地球温暖化等々の地球環境問題も根っこは全て同じところに由来しましょう。

 しかし、我が国の伝統的な文化には、こうした資源の浪費などは存在しません。例えば、衣食住のうちの「衣」では、再利用に次ぐ再利用で、最後には雑巾になるまで使い廻しました。陶磁器ですら、割れた破片を「金継ぎ」という手法で接着して再利用してきました(あまつさえ、その継いだ姿を意匠として楽しみさえしたのです)。よく言われるように、都市生活で避けることのできない、「屎尿」ですら「廃棄物」としてではなく、「下肥」という「資源」として有効利用してきました。それらは、専門業者によって金銭で買い取られて、農村に商品流通し肥料となって利用され土に還りました。100万都市であった近世の「江戸」では上水道は整備されていましたが、下水道施設は構築されておりませんでした。しかし、そうした状況下であっても、水環境を含む衛生状態が維持できていたのは、こうした“循環型”の社会システムが成立していたからに他なりません。確かに、「下肥」は寄生虫の拡散といった問題点を有しておりましたが、真の意味で無駄を許さない「リサイクル社会」に位置づいていたことは瞠目すべきことでありました。誰もが、物を大切にして利用できる限り利用し尽したのです。それが、使用した物に対する感謝の念を育て、それを廃棄せざるを得ない際の「供養」すら行われてきたのです。

 そうした日本国民のメンタリズムは、基本的に高度経済成長期まで維持され我が国民性を形づくってきました。ところが、高度成長期以降にすっかりと鳴りを潜めてしまったのです。日本古来のメンタリズムや何処に!?しかし、現在の日本をはじめとする国際社会が突き付けられている課題とは、まさにこうした「高度経済成長モデル」を再考することによってしか解決できない段階に至っていると考えます。勿論、江戸時代の再現を目指すことは不可能です。しかし、高度成長期における成長モデルを引きずっていては、早晩地球環境が破綻するジレンマに陥ることは誰が考えても明らかでありましょう。その時代の成功体験から逃れられない経営の在り方を根っこから改めることなのだと思います。現段階ですら、様々な面においてSDGs関係の製品開発に日本は国際社会において圧倒的な遅れをとっております。そもそも、そうした青写真そのものが欧米諸国のシナリオに依拠したものであり、日本のイニシアチブなど存在するのかさえ当方には疑問であります。欧米の描いたストーリーである、自動車EV化やソーラーパネル発電が、SDGsに本当に繋がるのかも正直申し上げて疑問に感じるところが多々あります。安易に乗っかっていてよいのでしょうか。もっと、日本として在るべきシナリオを吟味し描く必要性がありますまいか。

 ここで、話を企業活動の在り方に戻し、西欧諸国と我が国における製品のアフターケア体制における彼我の格差の核心について、別の角度から検証してみましょう。西欧諸国と日本との彼我の格差の根幹を成しているものは何かについて考えてみると、それは、鯔の詰まり自社製造の製品に対して企業が有する意識の違いに起因することだと思います。即ち、自社製品を単なる利益を生む「商品」としてのみとらえているのか、商品の有する「文化的価値」に重きを置いているかの違いであると考えるのです。西欧諸国の企業には、自らが最良と思って創造した製品は「文化的な価値」を有するものであり、長く愛され使用されることを目途に開発して販売したものと考えてるのだと思うのです。企業自体が斯様な自覚と誇りを矜持としているからこそ、基本的には何時までもアフターケアに責任をもってあたるのです。企業は「モノ」を売っているのではなく、「文化」を販売しているとのメンタリズムなのだと考えるのです。これこそが、単なる利潤追求とは隔絶した企業家としての矜持であり、こうした在り方が“企業活動の成熟”なのだと思います。

 “不適切なる物言い”との謗りは免れないと存じますが、日本企業の論法とは、概ね以下のようなものとなりましょうか。「古くなりゃ故障しますからある程度は面倒見させてもらいます」→「でも何時までも面倒見切れません」→「修理するにしても相当な費用が掛かることを覚悟してください」→「それより新製品を購入した方が遥かにお得ですよ」→「今の機種は貴方のものより比較にならない程に優れていますよ」→「どうぞ新製品に買い替えてください」というものです。こうした理屈には、自社製品へのプライドなど微塵も存在しないことは自明の理です。平たく申せば「古いものなどに価値はない」「新しい商品にこそ最大の価値がある」ことしか意識されていないのではありますまいか。こうした意識そのものが、地球規模の課題の解決と明後日の方向を向いていることは間違いありますまい。そして、企業の在り方としての成熟とも、社会的な存在として在るべき姿の探究とも、我が国の企業活動は乖離しているようにしか感じられないのですが、皆様は如何お感じになられましょうか。
(後編に続く)


 

 成熟した企業活動の在り方とそれを支える政策哲学の在り様について痛感すること(後編) ―日本と西欧諸国とにおける製品アフターケア思想のあまりに大きな乖離に思うことども―

 

5月21日(土曜日)

 

 さて、前編で述べた古いオーディオスピーカー再生を通して実感したのと同様に、当方が常日頃苦々しく思っていたことについて後編で御紹介させていただきたいと存じます。それが、我が国における自家用車保有コスト負担の重さと、古い自動車を維持することの困難さについてでございます。それが、前中編で述べたことと、正に軌を一にしていることに思えるからに他なりません。そもそも、本稿にて、こうした工業製品のアフターケアと言った、メーカーの姿勢と政策哲学的な在り様の問題を取り上げようと思ったのは、偶々ネットニュースで、勝村大輔さんなる自動車ライターの記事に出会ったことを契機としております。そこで勝村氏は、日本における古い自動車(「旧車」「ヴィンテージカー」)の維持・保存の課題について、西欧諸国の在り方との比較を通じてその問題性を舌鋒鋭く指弾されております。当方も、その内容に大いに教えられるとともに、予て自らも考えていたことと共鳴する主張として共感する部分極めて多く、是非とも皆様にも御紹介をさせていただこうと考えた次第でございます。しかし、既に結論は見えておりましょう。日本という国は自動車にもまた「文化的価値」を全くといってよいほどに想定していないということが。以後、その実態を明らかにして参りましょう。

 昨今の日本では、所謂“旧車ブーム”なるムーブメントが盛んであり、古い自動車(クラシックカー)を修理しながら維持・保存することが羨望の的となっているように感じます。BS放送でも芸人コンビがMCを務める、古い自動車を取り上げて紹介する番組が人気と聞きます。しかし、このままでは、近い将来、古い価値ある日本製自動車の多くは日本に残ることなく、海外に流出するだろうと懸念されていることを御存じでしょうか。つい先日、我が家にも令和4年度分の「自動車税納付書」が届き支払いを済ませましたが、この税金は、新車登録から13年を経過して自家用車を所有しようとすると、いきなり税率が15%アップするシステム構築がなされていることを御存じでしょうか。前編でも申し上げたように、自動車製造企業が設定する「補修部品供給期限」があることで長期保有が難しくなることだけに留まらず、政府による施策としても税率アップという「増税」をもって、古い車を大切に利用する人々に追い打ちをかける制度設計になっております。つまり、早々に新車に買い替えざるを得なくさせる仕組みが官民あげて構築されているのです。昨今の国産自動車は、適切なメインテナンスを加えている限り13年でお釈迦になるような軟な工業製品ではございません。好みの自動車を手にいれて大事に維持したくとも、13年を経過すると格段に維持することが難しくなる税制を取っている国、それが我が日本国だということを知っておく必要がありましょう。

 そもそも、自家用車を維持するための金銭的負担は諸外国と比較して途轍もなく重たいのが日本という国であります。2~3年に一度訪れる所謂“車検”で支払う税金を見ると、「自動車など保有するな」と国が推奨しているようにさえ思えるほどに、様々な税金が課されていることに驚かれましょう。また、燃料のガソリンにも税が課せられます。また事故を起こした際の備えとして不可欠な保険も、“自賠責保険”では全く不充分であり、自動車保有者は“任意保険”に別途加入をせざるを得ないのが現実であり、その負担も馬鹿になりません。本来は建設費を償還したあとは無料となるはずであった高速道路は何時まで経っても有料道路のままです。更に、都会では車庫を確保できる持ち家に居住できる人は多くはありません。特に、東京都内都心部での駐車場月額料金は、地方における相当に快適な賃貸物件住居の家賃月額とほぼ拮抗します。それほどに、自動車を我が国で保有することの負担は重いものだと思われます。

 従って、小生も個人的に自動車は大好きであり所有もしておりますが、日常で使用することはございません。通勤には公共交通機関を使用します。自宅も職場もJR駅に至近にあり、困ることは一切ありません(逆に偶に使用する自家用車を運転することは至上の喜びとなるメリットがあります)。しかし、現在の愛車「フィアット500」も新車登録から10年となりました。従って、3年後からは税率アップの憂き目に会うことになります。このまま続けて所有したいと思っておりますが、なかなかに頭の痛い問題です。これまで所有してきたクルマも、度々のメインテナンスを加えて維持してまいりましたが、高齢車(!?)の税率アップと維持費用が嵩むことから手放さざるを得なかったものが幾つもございます。とりわけ、かつて泣く泣く手放したものの、叶うものであれば今でも所有したい国産車が2台あります。共に、今や乗用車生産から撤退してバストラックメーカーとなってしまった「いすゞ」社製の乗用車、「117クーペ」[販売期間:昭和43年(1968)~昭和56年(1981)]と「ピアッツァ」[販売期間:昭和56年(1981)~平成3年(1991):当方の言うモデルはここまで]であります。2台とも、イタリアの「カロッツェリア」(デザイン工房)で活躍するデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロ(1938~)の作品であり、ともに入手してから手放すまで、その美しさに見飽きることは一度たりともございませんでした。ジウジアーロは、現代に蘇ったミケランジェロではないかと思わせるに足る、彫刻作品とも言うべき非の打ち所のない立体造形を工業製品としての自動車にも与えたのだと確信いたします。彼が目指しているのは「数年後に飽きられて買い替えてもらえる」デザインではありません。間違いなく「永遠の美の創造」を意図してデザインをされております。イタリアにおけるデザイン工房としての「カロッツェリア」については何れ別稿にて取り上げてみたいテーマでありますが、ジウジアーロの経営する「イタルデザイン」、フェラーリの造形を長く担ってきた「ピニンファリーナ」、近年惜しまれつつ活動を終えた「ベルトーネ」、カウンタックのデザインで知られるマルチェロ・ガンディーニ(1938~)等々、多士済々であります。なぜイタリアでこうしたデザイン工房が興隆を極めたのか、追及する価値があると思っております。話を元に戻しますが、現在の日本の自動車税制と自動車保有に付帯して伸し掛かる種々雑多な負担を強いる社会的構造下では、古い自動車を所有することや複数台数を維持することなど、フツウのサラリーマンには到底困難な状況にあります。こうした趣味は、単なる贅沢に過ぎず、所詮「金持ちの道楽」でしか許されない世界なのでしょうか。そうであれば、我が国は精神的に極めて「貧困なる国家」なのだと感じます。

 ここで勝村大輔さんの記事から、旧車(ヴィンテージカー)に対する5つの国家(ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・アメリカ)の採る施策を解説する部分を引用させていただきましょう。以下をお読みくだされば、日本の置かれた状況が如何に理不尽なものか、政策として日本が採っている在り方が如何に不合理なものであり、今日的課題に直結していない時代錯誤なものであるかが御理解いただけましょう。皆様、とくと御覧じられますように。

 

 

クラシックカー保護の先進国ドイツ

 

ドイツでは製造から30年が経過したビンテージカーに対して大部分がオリジナル状態であることが認定されると、クラシックカーとして登録され、ナンバーの末尾にHがつく通称「Hナンバー」が交付される。Hナンバーが交付された車両は、法的に通常の自動車とは別の扱いとなり、通常は排気量や排出CO2の量で課税される自動車税が一律になるなど、ほとんどの排気量の車両が事実上の免税となる優遇処置がある。そのほか、排出ガスの量などに応じて発行される環境ステッカーの有無で、通行が規制される都市部においても通行の規制を免除される。また自動車保険も年間最大走行可能距離を制限したクラシックカー専用の保険が各社から発売されている。

 

古い車両に対する手厚い保護措置があるイギリス

 

イギリスでは2014年以来、製造から40年が経過したクラシックカーに対する自動車物品税が免除される法律が施行されている。これは「英国政府としてクラシックカーを国の重要な遺産ととらえ、免税措置によってクラシックカー産業を支援する」という指針に則ったもの。さらに2018年からは製造から40年経過かつ、直近30年以内に主要な部分の大幅な改造を受けていない車両を「歴史的に重要と認定された車両」とし、通常であれば購入から3年が経過したあとに毎年課される法定検査(MOT)の免除処置も導入されている。またロンドン市内など超低排出ゾーンへの侵入規制も免除となる。

 

そもそも自動車税自体が廃止されたフランス

 

 フランスでは、そもそも2001年に自動車税が廃止されたため、クラシックカーに対する自動車税の優遇制度は存在しない。ただし登録の際に支払う登録税はもともと新車の際の費用が一番高く、古くなるほど安くなるシステムとなっており、優遇措置ではないものの、古い車両ほど登録費用が安くなる仕組みとなっている。また2009年より、製造から30年以上経過した車両をクラシックカーと認定し、自動車登録証にもクラシックカー認定を受けた車両である旨が記載され、通常2年ごとの技術検査が5年ごとに緩和されるほか、1960年以前に製造された車両に関しては検査自体が免除される。またスポーツカーなどに課されている馬力に応じた追加税も免除となる。

 

クラシックカーを維持しやすい環境のイタリア

 

イタリアでは、かつて世間ではクラシックカーとなりつつある中古車両が税金を逃れるべく国外に大量に流出した背景がある。そこで2009年に、製造から少なくとも20年が経過した車両が、イタリアクラシックカー協会などの管理する名簿に登録されている場合クラシックカーと認定され、車両を登録する際に課される自動車登録税が減税されるほか、30年以上経過すると自動車税も免税となる。さらにトリノやフィレンツェなど、大都市で行われている車両の交通規制からも除外されている。またクラシックカーを対象とした自動車保険も発売されており、走行距離や地域によって異なるものの、おおむね通常の保険料と比べて大幅に安い設定となっており、所有者の負担を軽減している。

 

州によって異なるが税制優遇措置もあるアメリカ

 

 アメリカでは輸入車に関して連邦政府によって「連邦自動車安全基準(FMVSS)」と呼ばれる厳しい安全基準が制定されているが、製造から25年が経過した車両は免除される。これが有名な「25年ルール」と呼ばれる施策だ。同じく製造から21年が経過した車両に関しては連邦大気汚染の基準も免除される。クラシックカーに対する保護措置は州によって異なるが、デトロイトのあるミシガン州を例に見てみると、製造から26年が経過し、かつコレクターズアイテムとして所有されている車両で、8月を除いて通常の移動手段として使用しない(自動車ショーやパレード、自動車クラブの活動は除外)場合、クラシックカーとして認定され、希望者にはヒストリカルプレートが交付される。このプレートを交付された車両は登録料などの減免措置を受けることができる。

 

 

 如何だったでしょうか。欧米諸国における旧車(ヴィンテージカー・クラシックカー)保存への取り組みがどれ程に成熟したものか、逆に我が国の置かれた状況が如何に過酷なものかが御理解いただけたものと存じます。本記事をお纏めになられた勝村さんは、これら5カ国の他にも、「スウェーデン・オランダ・スイスなど多くの国で旧車に対する税制優遇措置が行われており、更には多くの国ではクラシックカー、とくに自国のクラシックカーは『リテージ』として保護する指針となっており、これが世界のスタンダートとなりつつある」と述べておられます。その一方で、相も変わらず、日本では旧車に重税を課し、新車に買い替えさせようとする施策が見直される気配はございません。そもそも、一度購入した自家用車を乗り潰すまで使いまわすのでなければ、一番お得なのは新車購入から3年目の初車検で新車に買い替えるのが最も経済的である現実があります(下取り価格との新車価格との相殺上、この対応が経済的に最もお得なのです)。これでは、限られた資源の有効活用の推進とは全面的に相反した動向に繋がるのが当然でありましょう。少なくとも、SDGsという国際的潮流とは全く矛盾した動向を助長する施策ではございますまいか。一方で、日本製クラシックカー価格が高騰している昨今、所有維持に対する保護措置を取らなければ、上記のイタリアがかつて経験したように、早晩貴重な日本車が日本から消えてしまうことにもなりかねないと、勝村さんはご指摘されていらっしゃいます。当方もその通りかと存じ大いに共感する者でございます。自動車もまた、単なる工業製品ではありません。「文化的価値」を有する貴重な自国の「産業遺産」に他ならないことを自覚すべきであります。イタリアでは当課題に政策対応し、その流れを阻止したことは上記引用文中、勝村氏がご指摘されている通りでございます。

 一方、最近になって、少数の国内メーカーでは、極々一部のスペシャリティーカーに限ってではありますが、「部品供給期限」を過ぎても部品提供を続けようとする動きが出てきており、それ自体は歓迎すべき動向だと思われます。しかし、ここで申し上げたいことは、旧車の維持にメーカーが責任をもって取り組むことは、メーカーにとってもマイナス投資には当たらないことでございます。古い車を維持することが経済的に手軽になれば、多くの国民はそちらにシフトしましょう。むしろ、そちらの市場の開拓を進めることこそが企業活動の成長とSDGsとの両立に繋がりましょうし、その市場は極めて莫大なものとなりましょう。そして、何よりも旧車(クラシックカー)が大切にされることは、限られた資源の有効利用に直結しますし、そもそも物を大切にして利用する、我が国に本来根付いていた国民性とも親和性が高いことだとも存じます。しかし、こうした動向は、未だ極々僅かな車種に限られておりますし、そもそも私企業が自発的に進めている段階にすぎません。

 何よりも重要なことは、政府の施策として、未だに高度経済成長期の再来を夢見るが如き、最早アナクロニズムとも称すべき自動車税制等々、自動車の維持に関する足枷の改革に早急に着手することだと考えますが、皆様は如何お考えでいらっしゃいましょうか。そのことは、国際社会で日本が果たすべき立ち位置の問題とも関わりましょう。勿論、これは何も、自動車に限ったことではございません。前編のスピーカーの一件を持ち出すまでなく、一事が萬事だと考える次第でございます。日本における工業生産品に対する政策哲学の構築と、企業意識の成熟は何時になったら実現されるものでしょうか。

 

 

 関東の地で造営された「浄土庭園」(前編) ―または 足利氏造営にかかる「鑁阿寺」と「樺崎寺跡」のこと―

5月27日(金曜日)

 

 先週より、令和4年度「千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』」が始まり、既に一週間が経過いたしました。幸いに、大河ドラマ人気にも肖り、昨年度末開催の「南関東編」に引き続いて多くのお客様に御出でいただいております。誠にありがとうございます。その証拠に1,000部印刷の「南関東編」ブックレットは3月末日には「完売」いたしました。今回の「北関東編」ブックレットは開幕と同時の販売となりましたが、「南関東編」と同じ1,000部印刷でございます。予算の関係で再販するにも時間を要しますので、品切れにならない裡にお早めにお買い求めくださいませ。併せて、完売後もお問い合わせの多かった「南関東編」ブックレット重刷も決定し、現在「北関東編」と併せて販売中でございます。もし未入手でございましたら「北関東編」と共にお買い求めください。2冊購入で特価販売という訳には参りませんが、2冊でも合計200円でございます。その内容に鑑みれば、破格なるコストパフォーマンスかと自負するところでございます。どうぞお手元に置かれて大河ドラマ理解のお供にお役立てくださいましたら幸いです。今回は、本パネル展開催に併せて、展示会にも登場する足利氏の造営した寺院、及びその関連として当該寺院に造営された「庭園」について述べさせていただこうと存じます。因みに、述べる順番は逆になることを御容赦くださいませ。

 まず、例によって極々私的なことから説き起こしたいと存じます。小生は学生時代4年間「古美術愛好会」なるサークルに所属しておりました(略称「古美愛」)。その名をお聞きになるやいなや、「ヤケに年寄臭いサークル名だな」「若いもんがやる活動じゃないな」「やっぱり館長は若い頃から変わりモンだったんだな」等々、“マイナスベクトル”満載の反応が耳に届くかのように感じます。確かに、その名称からは「渋茶を啜りながら骨董品を愛でている」……かのような、極々渋い趣味をもった所謂“若年寄”集団の姿が思い浮かべられても仕方がありますまい。自分が御世話になっていたサークルを腐すのは気が引けますが、そもそも論として、命名自体に“問題あり”でございましょう。しかし、その実態は、至って学際的色彩の濃い活動をしていた団体なのです。ここでは、3年を1サイクルとして、年度毎に「仏像」「古建築」「庭園」を“テーマ”として学ぶことが活動の中心でした。日常的の活動としては、週一回テーマに関する勉強会を開催し、それに関する知見を深めておりました。また、その成果をもとに、主に京都・奈良を舞台とする夏合宿で実地見学を行い、その理解を深めておりました。夏以降も、同様に実地見学に基づいた報告会を週一回のペースで繰り返し、学園祭での展示報告に繋げました。更に、日帰りが可能範囲でのミニ見学会も頻繁に行っていたのです。また、3つのテーマから外れる内容は、関心のある者が集うゼミ的活動により補完もしました。例えば、当方が主催したゼミとしては「古絵画」があり、参加希望の5人程での活動でした。このおかげで「狩野派」を始めとする近世絵画の知見が相当に深められたと自負するところでございます。全体テーマも同様ですが、部員は共通のテクストを購入し、毎週の報告者が分担箇所のレジュメを作成して解説。それを基に参加者との間に意見交換等を進める“ゼミ形式”での学習を進めておりました。従って、「仏像」「古建築」「庭園」に関しては、専門的な深さはいざ知らず、実地見聞を通した一通りの知見はあるつもりでおります。今回は、その中の「庭園」の話題が中心となります。もっとも、「庭園」をテーマとする年度のテクストが何であったのかすらすっかり失念しておりますから、その知見たるや相当に怪しいものであることが白日の下に晒されましょう(自身で選定に関わった「建築」のテクストが「太田博太郎『日本建築史序説』彰国社」であったことはハッキリと記憶しているのですが)。ただ、その場で学んだことは、そ・れ・な・り……には憶えております(汗)。

 その「古美愛」夏合宿では、京都・奈良を中心とする様々な形態の日本庭園を見て回りました。京都市中の禅寺古刹に数多く残る「枯山水」庭園の数々(「龍安寺」石庭は代表的存在)、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)等の茶道家にある「茶庭(露地)」、「二条城二の丸庭園」に代表される「池泉回遊式庭園」(東京には江戸の大名庭園遺構が幾つか残ります)、そして仏教信仰の在り方に由来する「浄土庭園」なる寺院庭園にも大変に興味を覚えました。その「浄土庭園」の代表的遺構としましては、京都南郊宇治の地に営まれた藤原頼道別業を寺院化した「平等院」が想起されましょうか。その他の「浄土庭園」として、京都と奈良の県境には堀辰雄『大和路・信濃路』に登場する「浄瑠璃寺」、南都仏師運慶初期作品の大日如来像(智拳印を結ぶ金剛界大日如来像)で知られる「円成寺」、関東では神奈川県横浜市内金沢の地に残る「称名寺」、何よりも東北の平泉の地に展開する毛越寺を始めとする幾つもの瞠目すべき浄土庭園遺構を想起される方も多かろうと存じます。ほとんど知られておりませんが、平泉では金色堂で知られる「中尊寺」にも「浄土庭園」遺構が存在しております。現在放送中の大河ドラマでも取り上げられるかもしれませんが、奥州藤原氏を攻め滅ぼした後、頼朝がその菩提を弔うために鎌倉に造営した「永福寺(ようふくじ)」も代表的な「浄土庭園」遺構であり、話題としては平泉とともに“旬”な存在かもしれません。この永福寺は、小生が学生時代には、跡地とされる一帯は荒れ果てた湿地帯であり、所々に庭園の立石と思しき遺構が眼にできる状態に過ぎませんでした。しかし、その後の発掘調査で諸堂の遺構と池庭の状況が明らかとなり、現在では諸堂跡が明示されるとともに「浄土庭園」の威容も蘇っております。何でも、推定復元された諸堂の状況もVRで眼にすることができるそうです。当方は整備後に脚を運んでおりません。是非とも再訪を期したいものであります。

 それらの寺院を思い浮かべていただければ、「浄土庭園」が如何なる特色を有する庭園か概ね想像がつかれようかと存じます。基本的に、寺院の中核となる堂宇と池泉とがセットとして構築された庭園でございます。そもそも「浄土」とは、仏教でいう「一切の煩悩や穢れのない仏や菩薩の住む清浄な世界」を言います。一方、それに対置されるのが「穢土(えど)」であり、こちらは煩悩に塗れる衆生の暮らす世界となります。従って、「仏の住む清浄な世界を諸堂とセットにして寺院空間に再現した庭園、それが「浄土庭園」ということになりましょう。もっとも、仏や菩薩に種々の面々が存在するのに比例して、「浄土」にも様々なものが想定されているのが実際です。もっとも著名な存在が阿弥陀如来の「極楽浄土」(西方にあるとされます)ですが、それ以外にも薬師如来の「浄瑠璃浄土」(東方にあるとされます)、観音菩薩の「補陀落浄土」(南方にあるとされます)等々、幾つもの浄土が想定されております。ただ、普通に「浄土」と称する場合、平安中期以降に広まる「末法思想」に強く規定された「浄土思想」を基軸とする「阿弥陀浄土」を指すことが一般的です。そして、かような思想的な背景として、平安時代中期(10~11世紀)以降に盛んに造営されるようになった「仏堂と一体となって阿弥陀浄土を荘厳するために仏堂前面に準備された園池」を伴った池庭の形式を、一般的には「浄土庭園」と称しております。

 従って、一般的に言う「浄土庭園」では、阿弥陀浄土が西方に存在するとされることから、阿弥陀仏を安置する金堂が東面して建立され(東から西方の阿弥陀浄土を拝むため)、その前面に池泉が築かれます。つまり、池泉の対岸(「彼岸」)が阿弥陀如来の居まします「阿弥陀浄土」であり、池の手前(「此岸」)が一般衆生の生きる「穢土」と“見立て”、寺地の空間構成がなされることになります。庭園には「中島」が設けられることが多く、場合によっては池の手前から中島を経て対岸へ向かう橋が掛けられているケースもあります。これは、穢土としての現世から、清浄な世界である阿弥陀浄土へ至る道筋を可視化したものでございましょう。池の水際には「州浜」と称される美しい曲線を描くように造園された部分や、景観を引き締める立石が据えられていることが間々みられます。鎌倉の永福寺造営では、怪力で知られる畠山重忠が巨石を軽々と運んだとの伝承が伝えられます。こうした状況を、今日最も典型的に残している浄土庭園が奥州平泉の「毛越寺跡」でございましょう。残念ながら、寺院としての伽藍は全て消失しておりますが、庭園遺構は見事なほどに明瞭に残存しており、京都鴨川東岸に造営された法勝寺を始めとする「六勝寺」の遺構が地下に埋もれている状況にあって、これほど「浄土庭園」の本格的な在り様を眼に見える形で伝える遺構もないと思います。

 もっとも、世に残る「浄土庭園」の全てが、上記の定石の如くに作庭されているかと申せば左にあらず。金堂が南面していたり、本尊が大日如来であったりします。先に挙げた浄瑠璃寺では、池泉西側に九体阿弥陀堂と、池泉東側に対面して薬師如来の安置される三重塔が配置されていることから、阿弥陀浄土と薬師浄土とを対置する形式をとっているのだと思われるなど、その実態は多種多様であります。また、浄土庭園の嚆矢とされる藤原道長が京に造営した法成寺から、後の院政期に鴨川左岸に造営された所謂「六勝寺」に典型的であるように、金堂の左右から前面の池泉に向けて左右に翼廊が建築される形式を持つ「浄土庭園」もあれば(これは貴族邸宅の建築様式である「寝殿造」と「庭園」の構成を、「本堂」と「浄土庭園」に置き換えた形式となります)、単立の本堂前に池泉を構築するだけの簡素な形式の「浄土庭園」まで、これまた実に多様な展開が見られております。ただ、「仏堂とその前面に構築される池泉とが一体化して浄土の世界を荘厳する」目的は一緒でございますので、ともに「浄土庭園」と称することに何の問題もございません。ただ、注意が必要なことは、後の鎌倉時代中期以降に開かれる、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗(一向宗)、一遍の時衆といった所謂「浄土」系の鎌倉新仏教では、基本的に斯様な浄土庭園が造営されることはございません。飽くまでも平安時代中期以降から鎌倉時代中期にかけての「浄土信仰」華やかなりし時代の「密教寺院」が造営主体の中心に位置づいていたのです。

 さて、こうした「浄土庭園」は、京都や鎌倉だけに留まらず、坂東の地にも瞬く間に広まり、多くの「浄土庭園」が関東の地にも造営されていくのです。坂東武士は、貴族に仕えるために上京する機会も多かったため、壮麗な浄土庭園を備える寺院の数々を眼にしていたことでしょう。つまり、関東における浄土庭園の造営主体の多くは坂東の地に割拠した武士団、つまり後に鎌倉幕府の御家人達の手によるものであります。しかし、鎌倉武士の手になる「浄土庭園」の実態は意外と知られていないように存じます。しかも、鎌倉とその周辺地域を除くと、その多くが今回パネル展で取り上げた北関東の御家人達によって造営されたものなのです。それが、今回本稿で「浄土庭園」を取り上げた理由であります。

 まず、北関東の「浄土庭園」を紹介させていただく前に、手始めに鎌倉の地に造営された東国を代表する「浄土庭園」を取り上げておきましょう。それが、先にも触れた源頼朝の下命によって造営された「永福寺」であります。寺地に選ばれたのが、「大倉幕府」鬼門にあたる北東の谷戸(鎌倉では谷津のことを斯様に称します)でありました。現在では、この奥で道は途絶えますが、恐らく造営当時は、鎌倉から奥州方面へと繋がる街道筋に当たっていたものと思われます。だからこそ、奥州藤原氏を攻め滅ぼした後に、奥州合戦の犠牲者の鎮魂(おそらく怨霊鎮魂)を目的に、鎌倉の鬼門に当たる当地が寺地に選ばれたものと思われます。しかも、そのモデルとされたのは、他でもない、頼朝自身が奥州藤原氏攻めの際に目にした、この世の浄土を思わせる平泉の荘厳なる精舎の威容であったのです。「永福寺」は、文治5年(1189)に建立が開始され、西の山を背景に東面して諸堂が建設されました。平泉中尊寺の「二階大堂」を模したとされる二階堂を中心に、その左右に複廊で結ばれた阿弥陀堂と薬師堂を並べ、更に園地に向けて翼廊を突き出させた伽藍配置をとっていることが発掘調査で確認されました(周辺地名が「二階堂」と称される所以です。またその近くに屋敷があった「文士」名字の由来ともなります)。園池は南北に長く、二階堂の正面には橋が架けられ、建物跡の南北方向に景石を寄せ集めた岩島が設けられております。実際の建物の復元はされてはおりませんが、基壇が復元されておりますので、伽藍配置と浄土庭園の関係性がよく理解できるようになっております。

 そして、永福寺が造営されたのと同時期には、御家人の中にも浄土庭園をもつ寺院をそれぞれの本願地に造営している者があらわれます。その一人が、本拠地の足利の地に「樺崎寺」を造営した足利義兼であり、もう一人が、本拠地の伊豆韮山に「願成就院」を造営した北条時政に他なりません。この2人はともに幕府の中枢を成す御家人であり、両方の寺院ともに南都仏師「運慶」の手になる仏像が安置されていたことでも共通しております(願成就院では今でも本堂内に安置され拝観可能です)。東国武士と南都(奈良)仏師との繋がりについても興味深いテーマであり、本パネル展の会期中に本稿で再度取り上げてみたいと考えているところでございますが、今回は「浄土庭園」、特に足利に焦点を当て、その地に造営された「樺崎寺」と「鑁阿寺」について後編で取り上げてみようと存じます。その前に、足利以外の関東で造営された「浄土庭園」の事例について簡単に紹介させていただきましょう。坂東武者によって造営された(または造営されたことが推測される)「浄土庭園」を伴う寺院遺構は足利氏・北条氏以外にも造営されており、しかも、頼朝による「永福寺」造営に先立つものも多々存在しているのです。つまり、東国武士が「浄土庭園」を伴う寺院を造営するのは、頼朝による「永福寺」造営に起因するものとは言えないのです。

 その早い時期の造営に掛かるものが、武蔵国(埼玉県嵐山町)の「旧平沢寺跡」となります。こちらは、「北関東編」で取り上げる畠山重忠の居館とされる「菅谷館」北西1.5kmに所在する寺院跡であり、発掘遺物から12世紀半ばに秩父氏によって造営された寺院であることが判明しております。発掘調査の結果、基壇・礎石を有する三間四方の堂宇と、東の谷津に造成された園池が確認されております。堂と園地とに段差があることが特色でありますが、堂の規模からすると、福島県いわき市に残る白水阿弥陀堂と前面に広がる浄土庭園とを彷彿とさせる遺構と申せましょうか。また、常陸国にある佐竹氏菩提寺であった茨城県常陸太田市の正宗寺にも、鎌倉時代以前の造営と推定される浄土庭園遺構が地表から確認されているとのことです。更に新田氏の本拠である上野国新田庄(現群馬県)にも新田一族の造営に掛かる浄土庭園として推定可能な寺院遺構が見られます。それが、旧来迎寺跡と現在臨済宗となっている長楽寺であります。長楽寺は東面する三仏堂前に池泉が広がる形態であることから、元来が浄土庭園を有する寺院として造営されたことが見て取れるとのことです。続いて、下野国の有力御家人である宇都宮氏にも、頼朝の挙兵に従って軍功を挙げた朝綱が隠居の地として選んだ尾羽(現益子市大羽)に残る地蔵院(室町期建築にかかる国重要文化財の阿弥陀堂が現存)に、浄土庭園遺構が造営されていたことが発掘から明らかになっております。現在判明して復元されているのは、地蔵院の麓に残る導水部分と考えられる極わずかな部分のみでありますが(「鶴亀の庭」としております)、本来はその下方に広がる谷津にかけて大きな池庭が構築されていたものと考えられているのです。

 さて、ここまできて、現在の千葉県域からの「浄土庭園」の紹介がないことにお気づきでしょう。そうなのです。旧下総国・上総国・安房国では、現段階で「浄土庭園」遺構の可能性が指摘されているのはいすみ市岩熊の法興寺跡のみであります。本寺は、元来古代寺院として造営されておりますが、「アーミダ」地名から阿弥陀堂と推定される大型基壇を持つ建物遺構、及び隣接して残る「池田」地名と地勢から判断される園地遺構から、12世紀後半から13世紀にかけて浄土庭園を有する寺院として再整備された可能性が大きいと考えられているようです(『千葉県の歴史 資料編 中世1(考古資料)』。しかし、それ以外に千葉県域で浄土庭園を伴う寺院が造営されたことは確認されておらず、関東における浄土庭園遺構空白地帯ともなっているように感じさせます。確かに、浄土信仰といった面からみれば、千葉常胤の子である東胤頼は浄土宗開祖である法然上人に帰依するなど熱心な念仏者ではございます。また、本館の外山統括主任研究員からのご教示によれば、念阿(ねんな)良忠の房総への進出には東氏が関係していることが想定されるとのことです。その良忠は、建長元年(1249年)に関東に下り利根川に沿って下総国を教化。その後は下総国匝瑳郡に住し、千葉一族の椎名八郎や荒見弥四郎の外護を受け、匝瑳南条荘を中心に常陸国・上総国・下総国の三国の教化活動を続けましたが、最終的には外護者椎名氏・荒見氏と衝突して当地を去ってしまうことになります。また、後の時代になりますが、時衆に帰依する千葉介貞胤があらわれたり、室町期の千葉介満胤子の酉誉が浄土宗八祖に数え上げられるなどの動向が見られるなど、千葉一族が決して浄土系の信仰と無縁という訳ではないのですが(酉誉は後に徳川家菩提寺となる増上寺を江戸の地に開いております)。勿論、同じ浄土信仰とは申しても、こちらは時代的に浄土庭園を造営する勢力ではございません。今話題としている時代に戻れば、千葉常胤やそれ以前の当主が浄土信仰へ傾倒としたという話は聞いたことがないように思います。千葉常胤は、奥州合戦の際に東海道大将軍として平泉に脚を踏み入れており、その目で平泉の精舎の荘厳をみているのですが……。その理由について納得できる回答は得られておりませんが、千葉一族初期の時代において、千葉と浄土信仰との相性は基本的に宜しくないのかもしれません。

 以後は、全くの勝手な思い付きに過ぎませんが、後に房総で生まれる日蓮の教えは、極楽浄土への往生という“来世”に重きを置くことなく、飽くまでも“現世”における人々の幸福実現に重きを置くものと考えますが(法華経に基づく仏国土の実現)、こうした思想が房総で発祥し広まることの土壌がそこに存するのかも知れない……と言ったら一笑に付されましょうか。何れにしましても、その本当のところは現段階では闇のなかであります。そもそも、その時代には千葉氏に浄土庭園を造営するだけの経済的基盤が整っていなかっただけかもしれませんし、常胤が質素な生活をしていると頼朝から賞されているように、それを浪費に過ぎないと考えていたのかもしれません。因みに、これまで述べた関東における「浄土庭園」に関しましては、足利市教育委員会大澤伸啓氏の論文「東国の浄土庭園」「寝殿造系庭園と浄土庭園」を大いに参考にさせていただいておりますのでご紹介をさせていただきます。

 さて、後編では、いよいよ足利氏の本願地である「足利」の地をクローズアップして、足利の地の“宗教世界”を中心にして、かの地の姿を覗き見てみましょう。
(後編に続く)

 

 

 関東の地で造営された「浄土庭園」(後編) ―または 足利氏造営にかかる「鑁阿寺(ばんなじ)」と「樺崎寺(かばさきでら)跡」のこと―

5月28日(土曜日)

 

 足利市は栃木県の南西部に立地する地方中核都市であり、西は群馬県桐生市に隣接しております。両市ともに古くから織物業が盛んであり、「足利銘仙」は大正から昭和にかけての時代を彩った衣装として広く知られておりましょう。また、市内南部には旧日光例幣使街道が東西を貫いております(「八木宿」が置かれました)。こうした近世以降の歴史に留まらず、古代・中世に遡る歴史的な背景を豊かに有する地であり「史跡」指定された場所も一つや二つに留まりません。市中心部には「足利氏館跡」や「足利学校」が厳然として立地しており、歴史の深さを実感させてくれます。更に、足利市立美術館・栗田美術館・草雲美術館等々の公立・私立美術館も多く存在するなど、文化レヴェルの極めて高い街であることを感じさせられます。斯様な街としての在り方から「北の鎌倉」とも称されることも多く、実際に「鎌倉市」とは姉妹都市の提携関係にございます。北に足利山地、南に関東平野を擁し、渡良瀬川が北西から南東に流れ下る風光明媚な土地柄でもあります。因みに、大正10年(1921)1月1日に、県都に引き続き県内2番目の「市制施行」を敷いた都市であります。従って、昨年が記念すべき「市制施行100周年」であったわけです。同じような都市を何処かで聞いたことがございましょう。他でもない、我らが「千葉市」と「市」としての歩みの同級生ということになります。 また、両市ともに鎌倉幕府創建に深く預かった坂東有力武士団の根拠であったことなど、大いに関連の深い土地であります。もっとも、その後の市としての方針の違いもあって、良し悪しの問題は一先ず措くとして、両市のその後の歩みは相当に異なったものであることは言うまでもありません。

 さて、この地は律令制下では下野国足利郡・梁田郡であり、概ね現在の渡良瀬川の左岸(北側)が足利郡、右岸(南側)が梁田郡となります。平安中期に坂東の地で武士団が割拠するようになると、下野国では「平将門の乱」鎮圧に功があった藤原秀郷(「俵藤太」)後裔たちが台頭することになります。即ち、坂東の名族として知られる「小山氏」「結城氏」「長沼氏」「下河辺氏」等々の「秀郷流藤原氏」であり、下野国からその周辺へと盤踞していくことになるのです。その「秀郷流藤原氏」の一流に、この足利の地を本拠とした一族もおり、彼らはその地を名字として「足利氏」を名乗っております(これ以降で話題とする「源姓足利氏」に対して、「藤姓足利氏」と称することで区別します)。この藤姓足利氏は、12世紀初頭の浅間山の大噴火で荒廃したこの地の復興に取り組むことで、この足利周辺に勢力を拡大していきました。

 同じ頃、奥州で勃発した「前九年の役」(1051~1062)と「後三年の役」(1084~1087)の鎮圧に活躍したのが源頼義とその子である源義家であり、その経過を通して従軍した坂東武士の衆望を集め、東国における源氏の基盤を不動のものとします。その源義家の子である源義国は、父から譲り受けた足利の地を鳥羽法皇の御願寺である安楽寿院に寄進して「足利庄」として立券することで、その地盤を確実なものにしようとします。ただ、義国は京を活動の舞台とする軍事貴族を基盤としたため、足利の地に居住することはほとんどなかったものと考えられております。つまり、在地支配は直接的なものではありませんでした。上述した通り、当時、足利庄を在地領主(開発領主)として実際に支配していたのは「藤姓足利氏」でしたから、一見して両者間の対立が勃発しそうです。しかし、そうはならなかった(両者間に大きな競合関係が生じなかった)のは、源姓足利氏が「領家」として、在地領主である「藤姓足利氏」を支配する立ち位置にあり、「本家」である法皇(上皇)との間をつなぐ存在であったことから、「領主としての役割分担」が明確に分かれていたためと考えられております。しかし、そのバランスが崩れる事態が惹起することになるのです。それが、久安6年(1150)京でのトラブルが基となり天皇の勅勘を被った源義国が、京から追われ足利庄に下向して土着したことであります。つまり、義国も現地で在地領主となる道を選ぶことになったことで、ここに足利庄の領主としての源義国(「源姓足利氏」)と足利俊綱・家綱(「藤姓足利氏」)父子との対立が先鋭化することになるのです。そして、その対立関係は、そのまま源平の対立構造に連動することとなり、その帰趨によって解消を迎えることとなるのです。つまり、「源姓足利氏」は、平家側に立って優位性を維持しようとする「藤姓足利氏」から圧迫を受けることとなり、そのことが頼朝陣営に加わる直接的な動機となるのです。因みに、義国の子義康は足利庄を継承し「足利氏」(「源姓足利氏」)を、義重は新田庄を受け継ぎ「新田氏」の初代となります。

 こうした北関東における「治承・寿永の内乱(源平の争い)」の具体的動向は、パネル展「千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)」の「足利義兼」の項目でお示しした通りでございます。つまり、寿永2年(1183)常陸国の源氏一族である志田義広が頼朝に反旗を翻し、恐らく源義仲勢力と合流するために下野国から上野国方面へと進んだ折、頼朝陣営として挙兵した小山朝光・下河辺行平ら小山一族と宇都宮一族の八田知家が「野木宮」にてこれを迎え撃ち撃破します。その結果、志田側に組みした藤姓足利氏の棟梁(足利俊綱・忠綱父子)は没落することになり(四国へ落ち延びたとも)、藤姓足利氏の現地支配は終焉を迎えることになります。源姓足利氏は労せずして足利庄の権益を一挙に掌握することになりました。そして、その前後に源姓足利氏初代の義康、乃至は二代足利義兼によって造営された居館が、今に残る「足利氏居館跡」となります。この居館は、所謂「方形居館」と称される東国の地方武士本拠の典型的な在り方を有しているとされております。それは、四周を土塁と堀によって囲まれた概ね方形の敷地として造営されているのです。そして、その内に館機能を持つ建物が数多築かれていたことでしょう(実際には北辺約223m・南辺約211m・東辺約175m・西辺約206mの不整台形の敷地です)。ただ、その後に敷地全体が寺院に改められて現在に至っているため、発掘調査が実施できてはおりません。従って、邸内に如何なる居館が如何なる配置で配されていたのかは判明しておりません。義兼は、建久6年(1195)出家し「鑁阿(ばんな)」を号し、理真という僧侶を招き、館内に持仏堂を建立しております。そして、文暦元年(1234)その子足利義氏が堂塔伽藍を建立し境内を整備することで、館内の持仏堂から寺院化を図ることに舵を切ったと考えられております。更に、天福2年(1234)には大御堂(本堂)を建立し、本寺を代々の足利氏の菩提寺としました。現在国宝に指定される本堂は、正安元年(1299)足利家時(尊氏祖父)が再建したものを、応永14年(1407)から永享4年(1432)にかけて大規模に改修した建物であり、関東における代表的な密教系本堂建築として高く評価されております。

 本寺が「鑁阿寺」と称したのが何時かは明確ではありませんが、建長3年(1251)に義氏の子である泰氏発給文書に「鑁阿寺共僧中」として見えるのを嚆矢とするようです。「鑁」は金剛界の、「阿」は胎蔵界の、それぞれの大日如来を表す梵字の音をとった語であり、足利氏の大日如来への篤い信仰を感じさせます。更に、室町時代に入って足利氏が幕府を開くと、将軍家や鎌倉公方からの手厚い庇護を受けて寺運が隆盛します。本寺は大きな火災が少なかったこともあり、本堂、鐘楼、経堂、多宝塔、楼門、太鼓橋、御霊屋、西門、東門、北門、宝庫(大黒堂)など古建築が数多く残り、寺宝も数多所蔵しております(初代将軍尊氏、3代将軍義満寄進の什物等々)。近接する足利学校と併せて、是非ご訪問されることをお薦めいたします。因みに、多宝塔は近世建築であり、5代将軍徳川綱吉生母の桂昌院の寄進に掛かるものです。全国の由緒ある寺社再建に取り組んだ桂昌院ですが、鑁阿寺との関係は恐らく実弟本庄宗資が、元禄元年(1688)初めて大名に取り立てられ(1万石)、下野国足利藩を立藩したことに由来するものと思われます。

 さて、ここで、もう一つの足利氏由緒の重要な寺院跡について取り上げてみましょう。前編で述べた「浄土庭園」との関連から申せば、こちらの話題こそが本稿の本丸となります。それが、「樺崎寺」と称する寺院であります。あまり広くは知られていない寺院かと存じますが、中世の足利にとって、足利氏にとって極めて重要な寺院として位置づけられておりました。もっとも、副題に「樺崎寺跡」とあるように、明治以降には廃絶しており、遺構の殆どは土に埋もれていたことが周知されていなかった大きな要因かと存じます。しかし、昭和58年(1983)から始まった学術調査(発掘)の成果により、壮大な「浄土庭園」を附属する中世寺院の全容が明らかとなりました。そして、歴史的価値に鑑みて平成13年(2001)「樺崎寺跡」として国史跡に指定されて今日に到っております。更に、足利市教育委員会の下、史跡整備計画が策定され、現在その整備が進行中です。余談ではございますが、小生が足利の地に脚を運んだのは今から25年程前の事になります。昨年物故された本保弘文先生との歴史探訪最中に「樺崎寺跡」に立寄っております。当時は発掘調査が開始されて間もなくであり、八幡山裾野に造営された堂塔遺構の発掘面には、全面にブルーシートが掛けられておりましたし、肝心要の池泉も整備されておらず単なる農業用水池のようであったことを記憶しております。現地に残る古建築としては、背後に聳える八幡山の裾野に造成された平坦地に建つ「樺崎八幡宮社殿」のみでした。こちらは、江戸時代の天和年間(1681~1683)に足利氏末裔の喜連川家によって再建されたものであり、近世の段階でも足利氏によって本寺が維持されていたことに感銘を受けました。

 それでは「樺崎寺」が如何なる寺院であるのかを、特別展図録『足利氏の歴史-尊氏を生んだ世界-』1991年(栃木県立博物館)に掲載される峰岸純夫先生の論考と、『日本の遺跡41 樺崎寺-足利一門を祀る下野の中世寺院-』2010年(同成社)を下敷きにして御説明させていただきましょう。この樺崎寺の立地は、先ほどご説明申し上げた鑁阿寺や足利学校のある市内中心地から北東に5km程離れた鄙びた山間部となります。北東であることから、足利館の鬼門に当たる地域が意図的に選地されたことが想定できます。しかも、本寺は、足利氏の菩提寺である鑁阿寺に先だって、おそらく文治5年(1189)の奥州攻めの際、戦勝祈願を目的に真言密教の「理真朗安」に当地を寄進して造営させたと考えられているようです。そして、義兼は、正治元年(1199)この地で没し、この地に廟(墓)が営まれました。その御堂は朱塗りで造られたことから「赤御堂」と称され、そこに葬られている人物に転じて、義兼のことを「赤御堂殿」と称するようになったと言います。ここからも判明するように、樺崎寺とは後裔の足利氏にとって先祖の廟所であり、同寺に併せて造営された「樺崎八幡宮」と一体化し、足利一族の守護神として位置づけられた寺院であるということになります。つまり、後に寺院化される「鑁阿寺」と「樺崎寺」とは、“対”となって機能する寺院であったということになります。峰岸先生はこのことを「鑁阿寺は宗教上の教理を極める学問的要素の深い寺院であるとすると、樺崎寺は墓所・陵所としての役割を持った菩提寺」と表現されていらっしゃいます。そして、それを高野山で言えば「中心部の檀上伽藍が鑁阿寺にあたり、奥の院にあたる空海廟所が樺崎寺にあたる」とも例えてもおられます。また、鑁阿寺と樺崎寺とを繋ぐ約5kmの道筋に37本の卒塔婆が建てられていたとの伝承が残ることは、それが単なる憶測に留まらぬことの傍証ともなりましょうか。何故ならば、高野山におけるかの「丁石」の存在を想起させましょうから。

 また、発掘調査の結果、樺崎寺には義兼以降の足利氏歴代石塔が建立された一角があったことが分かっております。その石塔群と樺崎寺堂宇に安置されてきた仏像の一部は、明治維新後に近くにある光得寺に移されて現存しますが、その「大日如来坐像」は南都仏師の運慶の手になる作品でございます。更に、平成20年(2008)ニューヨークでの美術品オークションにかけられた「大日如来坐像」も、かつて樺崎寺に安置されていた仏像であり、同じく運慶の手になる作品であることが判明したのです。幸いなことに国内のとある宗教法人が14億円で落札されたことで、国外流出しなかったことを吉とする次第でございます。因みに、東国御家人で、運慶による造仏活動が確認でき、現在も焼失等を免れて現存しているのは、足利義兼の樺崎寺の他に、北条時政が伊豆韮崎の地に造営した願成就院の阿弥陀三尊像等々、和田義盛が三浦半島(横須賀市芦名)浄楽寺に造営した丈六の薬師三尊像がございます。また、頼朝による鎌倉の「永福寺」の造仏活動にも運慶が関与しているのではないかとも想定されているようですが、残念ながら仏像は残りません。更に、南都仏師では快慶作と想定される仏像が、宇都宮朝綱所縁の尾羽地蔵院阿弥陀堂に残っており、南都(奈良)仏師と有力な東国御家人とが深く結びついていることが分かります。運慶・快慶ではありませんが、その時代に造仏された、この二人に極々近いことが想定される慶派仏師作品は、この千葉の地にも残されております。本館近くの東禅寺本尊薬師如来坐像がそれであります。仏像に対してこのように申し上げるのは不遜かとは存じますが、千葉の地に残るピカ一の優品であると考えます。本当に惚れ惚れする造型を有する仏さまです。この辺りのことは、別稿で述べる機会を持ちたいと存じます。

 そして、背後の八幡山の裾野に東面して建つ諸堂の一段下の南北長い平地に、「浄土庭園」が造営されていることが、発掘調査の結果明らかになったのです。八幡山の東側裾野と樺崎川の間の狭量な平坦地に、東西70m程、南北150m程と、南北に細長い園池が構築されております。園池は、南に流れ下る樺崎川等の水を北部から遣水で引き込み、それを南部に東西の堰堤を築いて堰き止めておりました。更に、北部は州浜敷として岬状に南に張り出し、東から南にも緩やかに湾曲する堤を築き、州浜敷きとしております。また、中央北に偏って中島が構築され、その北側に荒磯風石組遺構が残されているのも発見されております。つまり、明らかに、この庭園は「浄土庭園」として構築されたのです。そして、少なくとも4期にわたって改修が加えられており、最終段階は江戸から明治への移行期であることも分かりました。現在は、その内の第3期(南北朝期~江戸時代)の景観を復元してあるとのことです(それより下の遺構面を保護するため)。小生は、復元された園池をこの目では見てはおりません。本館の錦織主査が過日調査に出掛けたのですが、それは見事なものであったとのことです。

 更に、足利の地には、義兼による樺崎寺に留まらず、その後の歴代足利氏当主の手によって「浄土庭園」を伴う寺院が、連綿として造営されていることを忘れるわけには参りません。即ち、義兼の子義氏の造営に掛かる法楽寺、義氏の子泰氏による智光寺、そして泰氏の子頼氏による吉祥寺が、それぞれ本願地である足利の地に造営されているのです。残念ながら、いずれの寺院の庭園も旧状を全く留めませんが、樺崎寺のように発掘調査によって全貌が明らかになるはずです。もっとも、それらの寺院跡は既に宅地化が進んでおり、おいそれとは発掘ができなくなっているのだとは存じます。それでも、つい1ヶ月ほど前、発掘によって法楽寺「浄土庭園」遺構“州浜敷”が発見されたことが報道されておりました。もしも、それらが眼前に蘇れば、足利は、「北の鎌倉」に留まることなく、「関東の平泉」と称すべき唯一無二の威容を誇る都市となりえましょう。文化への意識が極めて高い足利市であれば、決して無理押しでなく多くの市民の支持の下で実現可能ではないかと存じ上げます。それが現実のものとなったらどれほど素晴らしいことでございましょうか。まさに「文化都市:足利」として未来永劫に語り伝えられ賞されることとなりましょう。そして、足利市に居住する子々孫々への「置き土産」として光を失うはございますまい。

 今回は前後編で、足利氏の故地である足利市内の寺院と、そこに残される浄土庭園の世界を御紹介させていただきました。東国御家人の世界は何れも奥深く興味が尽きません。久方ぶりに足利の地を踏みたくなりました。皆様も是非に!
 

 

 

 

 「修学旅行(校外学習)」の季節に思うこと(前編) ―または「旅行的行事」が教育活動として目指すべきことについて― 

 

6月3日(金曜日)

 

 つい先日、本稿を欠かさずにお読みくださり、有難いことに折に触れて心あたたまる感想をお寄せいただく、現在千葉市立中学校で校長をお勤めの方からメールが届きました。彼は、予て同じ社会科担当教師として交友のある、当方が心底敬愛する同僚の先生でいらっしゃいます。まぁ、そのことはさて置き、そのメールには5月半ばに京都・奈良を舞台とする「修学旅行」の引率でお出かけになったことが記されておりました。小生も学校教育現場を離れて2年を越え、すっかりお留守となっておりましたが、毎年5~6月は「修学旅行(校外学習)」のメッカの時節であり、千葉市内中学校では基本的に5~6月がシーズン真っ盛りとなります(高等学校は9~10月頃がメインとなりましょうか)。しかし、この2年間はコロナ禍渦中にて、宿泊を伴わない行事運営を余儀なくされておりましたから、恐らくフルスペックでの実施は3年振りでありましょう。校長として、さぞかし感無量であったことと拝察いたします。もっとも、それにも数倍増して生徒の喜びが如何ばかりであったかと存じます。メールには、「京都・奈良」という伝統文化色濃き古都で、生徒諸君が眼の色を変えて嬉々と活動する姿をみるにつけ、学校という場を離れて校外で学ぶことの意義の大きさを改めて痛感したともございました。小生も、その思いを大いなる共感をもって受け止めた次第でございます。当方も同じ立場であれば同様の感慨で胸が一杯となったことでありましょう。過去2年間に中学三年生であった諸君には、誠に気の毒としか申し上げようがございませんが、これ以降、感染予防をしたうえで「修学旅行(校外学習)」が確実に挙行できるようになることを祈念するばかりでございます。生徒諸君への教育的効果は計り知れないものがあるのですから。

 「修学旅行(校外学習)」と耳にすれば、多くの皆さんは某かの想い出と伴に、その行事とその時代とを懐かしく想い浮かべられることでございましょう。それは、それこそ十人十色でございましょうが、案ずるに楽しかった記憶を蘇らせる方々が多かろうと存じます。何といっても団体旅行でありますので、その多くは友達との交友を通じたものであることは疑いございますまい。先生方のパトロールを掻い潜って“貫徹”して他愛のないお喋りをしたこと、その煽りで移動の電車・バス内で爆睡する羽目になったこと、訪れた街で食した地元名産の食材のこと、道に迷って困惑したこと、地元の学校の生徒とトラブルになりそうになったこと等々、「修学旅行(校外学習)」の想い出の数々は尽きることがありますまい。同窓会の場でも、その話題でひとしきり盛り上がることが間々あることでありましょう。学校生活として決して欠くことのできない本行事は、法的にも「学習指導要領」内に「特別活動」中の「学校行事」として位置づけられており、初等教育を担う小学校では「遠足・集団宿泊的行事」、中等教育機関である中学校・高等学校では「旅行・集団宿泊的行事」とされております。ねらいとして「平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること」とあります。つまり、大きく分けて2つの目的が設定されていることになります。つまり、日常の生活空間を離れた場所での集団生活を通じて、“自然・文化への見聞を広め学ぶこと”であり、併せて“集団生活・公衆道徳の在り方を学ぶこと”に他なりません。本行事は、主に学年単位で実施され、その多くは最終学年に位置づきます。もっとも、「遠足・集団宿泊的行事」といったより広い範疇で申せば、一般的に1年生で実施される1日行事としての「校外学習」、千葉市では2年生で行われる3泊4日の「自然教室」[50年近く利用されてきた「千葉市高原千葉村」(群馬県新治村~現:みなかみ町)は老朽化のため平成30年度末で廃止され施設はみなかみ町に譲渡されましたが、行事自体は現在も継続されています]も該当しましょう。

 学校行事としての修学旅行の淵源は明治に遡り、実質的な歴史的起源は、明治19年(1886)東京師範学校(現:筑波大学)が実施した「長途遠足」にあるとされ、「修学旅行」という名称も、同校が独自に使用しはじめた造語とのことです。修学旅行の歴史的な経緯を辿ってみたいとは存じますし、本館の使命としてはそのことを御紹介するのが本筋とは存じますが、当方の知見がそれに及ばぬこともあって、もう少し追求してからにしたいと存じます。従って、今回はそのことには深入りせず、実際に学校で、如何様にして「修学旅行(校外学習)」を企画・運営しているのかという、裏方のことについて述べてみたいと存じます。よく、保護者の方から「良い季節に修学旅行の引率に出かけられて良いですね」と言われることが御座いました。しかし、天の邪鬼な小生はどうしても、その裏にある願意を感じ取ってしまったものです。それは、取りも直さず「生徒の引率という大義名分を旗印にロハ(註:隠語で“只”のイミ→漢字の上下を分割してカタカナ読みにした)で旅行に行けていいですねぇ」「仕事(授業)を放ぽっらかして旅行なんぞに現を抜かせしていい気なもんだねぇ」といった気配……としか申し上げようのない違和感でございます。そうした誤解を解いておくことも、教職を退いた身であるから可能かと存じ上げる次第でございます。現役の先生方は謙虚な方が多く、恩着せがましい言いようには口が重くなるものですから。このことについて、ここでハッキリと白黒つけて申しあげて置きたいものと存じます。

 第一に申しあげるべきは、修学旅行の引率は立派な「業務」であることです。その“重さ”とは、ある意味で日常の授業に比べて何百倍にもなります。つまり授業をしている方が遥かに気楽ということです。事故・怪我の無いように、旅行先でのトラブルが無いように、引率者は細心の注意を払わねばなりません。世に「おちおち寝ていられない」との云いようがございますが、「旅行的行事」の引率は正にその物言いが当てはまると思います。実際のところ、勤務時間外である夜間も勤務同様となります。昼間も生徒は活動で職員の手元を離れます。従って、常に何か問題が生じないように神経を張り巡らせ、何かあれば直ぐに出動できるようにしておく必要がございます。つまり、24時間の緊張を強いられることになるからです。その分の手当が支給されると思われましょう。確かに時間手当の支給はございますが、責任の重さに比べればホントウに微々たる金額にすぎません。特に4日間を要する自然教室は神経を使います。自然の中での活動は一つ間違えば生徒の生命に関わる問題に直結するからであります。行事が終わったときには、少なくとも身体的にはボロボロになるほどです。まぁ、生徒諸君の成長に接することで精神的にそれを遙かに増す喜びが得られるのでありますが、それがなければ到底「やってられん!!」と匙を投げ出したくなること必定でございます。もうひとつの“経費”の問題ですが“只”で出かけているなどとんでもございません。勿論、修学旅行引率は業務でありますから「出張」扱いとなります。従って、当たり前の事ですが旅費・素泊費(一泊二食)は公費から支給されます(もっとも上限が決まっており超過分は自弁となります)。当然、通常生活でも自弁となる昼食費は“自腹”です(上記の時間手当は殆ど昼食代として消える程度です(余談ですが給食費は全額教員の自己負担です。「毎日無料で給食が食べられていいですね」と言われたことは一度や二度ではございませんので申し添えておきます)。また、修学旅行中の教職員活動費に関しては、業務に関係する経費を除いて、各家庭から徴収した“修学旅行費”から支出することは100%あり得えなません。これについても、過去に保護者の方から聞いたことが御座いますが、まさに“濡れ衣”としか申しあげようのない誤解です。

 第二に申し上げたいことは、「修学旅行(校外学習)」は旅行会社の企画する「パック旅行」や生徒の「慰安旅行」ではないことです。つまり、お膳立てされたお仕着せの旅行に乗っかって、気晴らしの旅行をすれば済むものではないということです。平たく言えば「修学旅行」とは、校外へ出て行う「学習活動」に他ならないのです。勿論、「学び」は多様なものであり多くの「学び」があって当然ですが、学習指導要領が述べるような“より良い人間関係の涵養”だけに偏ってはなりません。当方は、地元を離れての「学習」という点に鑑みれば、それ以上に“地元とは異なる地域の自然・文化への見聞を広め学ぶこと”に重点があるものと考えております(その意味で、小生は「修学旅行」なる呼称には強い違和感を感じる者であり「校外学習」がより適切な命名であろうかと存じます。あえて両者を併記している所以でございます)。勿論、宿泊場所・交通手段(鉄道・バス)の確保等で大いに関わっていただく旅行会社の存在は必要不可欠であり、大いにお世話にはなります。しかし、何処を修学旅行の舞台に選ぶのか、3日間を如何に企画・運営するかは学校の意向となります。

 話題を元に戻しますが、「修学旅行(校外学習)」の学校教育における位置づけに鑑みれば、行先は限られた条件の下で、多様な「学習」活動が可能かどうかを基準に選び取ることになります。しかし、そうした条件に見合う場所は極めて限定されるのが実際です。当方が修学旅行担当をしていた頃には、千葉市では、校長会で行先の物理的範囲と生徒一人ひとりの修学旅行徴収金額の上限が厳格に定められており、最適な場所である「京都・奈良」は最初から除外せざるを得ませんでした。当時は、高校生の修学旅行先として「京都・奈良」が一般的であったからでありましょうが、昨今は高校でも其方へ行くことはめっきり少なくなりましたから、千葉市でも現在は範囲の制限は撤廃されておりますが。日程として2泊3日の行事でありますから、終日学習活動が可能なのは中日しかありません。初日と最終日については半日は移動に費やされますから、効率を考慮すれば遠方を選ぶことはできないのです。しかも、中日1日の学習活動を可能とする内容がある程度まとまって存在する場でなければなりません(生徒も移動ばかりで時間を費やすことになってしまいますから)。また、場所選びで「修学旅行(校外学習)」が完結する訳ではございません。それはほんの序の口にすぎず、その土地において生徒が如何なる「学習」活動が可能であるか開拓するのも我々の仕事です。旅行業者も沢山のアドヴァイスをしてくれますが、そうしたお仕着せの活動は、結果として無難な内容のものが多いのが実際です。勿論、場所決定以降の活動こそが「修学旅行」を「校外学習」として成立させるための本丸であり、その準備に多大なる労力を費やすことになります。これ以降で「お気軽に修学旅行に出掛けられていいですねぇ」なる認識がどれほど大いなる誤解であるかを解きほぐして参りたいと存じます。勿論、その苦労は決して「難行苦行」ではございません。教師が時間をかけて工夫を凝らす努力をすれば、漫然と行って帰ってくる行事とするよりも何千何万倍もの様々な力を育成することに繋がると確信するからであります。たった二泊三日の行事ですが、その行事を通じて生徒諸君が「手応え」を実感し、「学び発見する」ことの楽しさ面白さに出会って欲しい、そして一生の想い出として欲しい……との願いがあるからこそ、我々の「難行苦行」は「楽しさ(やりがい)」に変換されるのです。少なくとも、自分自身は全く苦になりませんでしたし、行事が終わった後の生徒の満足そうな表情に出会えれば全ての苦労が帳消しになったものです。

 さて、当方が若い頃、千葉市内の多くの中学校で「修学旅行(校外学習)」先に選ばれていたのが「会津」でした。宿泊地を会津若松(東山温泉等々)に選び、そこを拠点に市内、近郊の喜多方等々をも行動範囲に加えて班別学習を進めておりました。鶴ヶ城・戊辰戦争といった歴史的学習テーマを多様に立てることが可能ですし、会津木綿・会津駄菓子等々の産業をテーマに選ぶこともでき、それらがコンパクトに盆地のなかにまとまる優れた場所であったと思います。ただ、同じようなことを繰り返したくはありませんでしたので、当方が担当をしたときには、初日の活動としてハイキングを組み込みました。それは「峠を越えて盆地に足を踏み入れる」という体験をしてもらいたかったからに他なりません。昨今はバスに乗ってトンネルを抜ければ現地に到達してしまい、「峠を越える」ということを実感できることは皆無でございましょう。山がちな日本の国土で不可欠であった「峠こえ」体験をすることに大きな意義があると考えたのです。そこで、初日に会津西街道の宿場町で伝統的建造物群保存地区に指定される「大内宿」見学後に、そのまま会津西街道を北へ歩き、「大内峠」を越えて会津盆地に脚を踏み入れる企画を立てたのです。この街道は江戸時代の重要な街道であり、初期において会津藩の参勤交代経路でしたし、戊辰戦争の際には官軍による会津攻めの行軍ルートの一つでもありました。しかし、明治以降に殆ど活用されなくなって道路は相当に荒れていたのです。しかし、下見の結果、一部は雑草で覆われた状態でしたが歩行可能であることを確認。当日の朝、生徒諸君はジャージで集合となりました。生徒からは「自然教室じゃないのにジャージで集合って他の学校じゃ絶対ありえないね」と言われたことを記憶しております(移動手段はバスでしたので可能でした)。その時の担当旅行会社の方からは、他の学校では絶対に実施しない活動であること、修学旅行の可能性を広げようとチャレンジする内容であることを褒めてもいただきました(もっとも、その後当該コースが他校で採用されることはなかったようですが)。実際にこのコースを歩くと、山の稜線の最も低くなっている鞍部を、更に一段低く掘り下げて造営された峠が明確に見て取れます。その時に一緒に歩行した我が学級の男子生徒が(現在千葉市役所内勤務でそこそこの地位についております)、「修学旅行(校外学習)」後に書いた作文の内容を今でもよく覚えております。そこには、概ね以下のようなことが書かれておりました。これだけも、このコースを導入した意義があったと確信した次第でございます。

 

 「江戸時代に大名行列が通っていたままの道を、実際に歩いたことは本当に貴重な体験だった。何よりも山奥の峠道がこんなに細くて険しく寂しい道であったことに驚いた。峠が少しでも低いところを選んでつくられていることが分かったことも人の知恵だなと思った。でも、同時に、江戸時代の旅がこんなにも厳しいものであったこと、それを克服して今の便利さがもたらせていることを、現代人は忘れてはならないとも思った。一つ、雑草が茂る古い道にパンの包み紙が落ちていたことに気づいたときには何故かホッとさせられた。現代の誰かが最近この道を通ったことが分かったからだ。」

 

(後編につづく)

 

 

 「修学旅行(校外学習)」の季節に思うこと(後編) ―または「旅行的行事」が教育活動として目指すべきことについて― 

 

6月4日(土曜日)

 

 3年次に実施する「修学旅行(校外学習)」先の選択ですが、実は本作業は当該学年が未だ1年生の段階で行うこととなります。何故斯様な時期に決めなければならないかと申せば、大所帯の移動となる関係から“宿泊施設”と“往復列車(まとまった数のバス台数)”をおさえることが相当に早い段階で求められるからです(当然、担当旅行業者もこの段階で決定します)。そのためには、「修学旅行(校外学習)」の行先が先決事項となるのです。この決定は以後の変更は基本的にできませんので相当に慎重に行う必要があります。従って、1年生の学年主任を仰せつかった際には、3年後の卒業式までを想定し、3年間を見通した生徒の育成計画を念頭に学年経営を行う必要がありますが、その中で3年次「修学旅行(校外学習)」を3年間の「旅行的行事」のなかに如何に位置付け、生徒の如何なる力の育成につなげていくのかを想定して、場所選定と計画を進めることが最重要事項ともなるのです。つまり、各学年における「旅行的行事」を相互に関連付けて運営することを考える必要が生じるのです。千葉市内の公立中学校では入学後の5~6月に一日行事(日帰り)「校外学習」を設定する学校が殆どです。2年次には3泊4日の「自然教室」、そして3年次の「修学旅行(校外学習)」となります。その内の自然教室は、千葉市内の中学校で青春時代を過ごされた方であれば、かつて群馬県新治村(現:みなかみ町)にあった「千葉市高原千葉村」で過ごされた記憶をお持ちでございましょう。当該施設は、平成30年度末に千葉市からみなかみ市に譲渡され長きにわたる役割を終えましたが、外部施設を使用して現在も行事は継続されております。以下、当方が千葉市立葛城中学校で1~3年まで学年主任を仰せつかった経験をもとに「旅行的行事」の紹介させていただきます。

「旅行的行事」を学年経営のなかに如何に位置付けるのかについて、小生は「教科的な学習」の場として位置づけることを提案し、学年職員とも協議して了承を得ました。つまり生徒同士の「親睦」を計ることを優先させないということであります(勿論、それも「学習」には違いありませんが、優先順位として副次的な扱いとする謂いであります)。往々にして、中学校では入学直後に実施する「校外学習」の目的を「親睦」に置きがちです。幾つかの小学校から入学する中学校の場合、それを生徒相互の人間関係構築の機会とすることに大きな意味があることを認めることに吝かではありません。しかし、小学校6年生で、グループごとに電車で鎌倉へ出かけ、その地での調査活動を実施、再びグループごとに千葉に戻ってくる校外学習を行っているのに、中学校に入学して十年一日の如く「潮干狩り」や「フィールドアスレチック」では、余りにも芸がないと考えます。つまり“退行”に他ならないとの思いが強かったのでした。従って、教科的な「学習テーマ」をもって現地で調査活動を行い、その解明につなげる行事と位置付けたのです。このことは、3年次「修学旅行(校外学習)」における、より広範囲を舞台とする、より深い調査活動を展開するための前哨戦としての位置付を担うことを期したのです。何より、中学校での校外学習が小学校のそれよりも一段レヴェルアップした内容とすることが求められましょう。そして、見学先もなるべく千葉市から近距離に設定しました。何故ならば、生徒の移動時間を短くすることで、実質的な活動時間を最大限に確保できるからです。そして、そのための場に選んだのが近隣の「佐倉市」に他なりませんでした。千葉市から貸し切りバスで小一時間もあれば到着します。更に、最も重要なことは、佐倉市は豊富な学習テーマの設定が可能であるからです。

勿論、学級内の親睦を図ることも意図して、学習活動は学級内で構成された班単位としました。そして、事前に班で「学習テーマ」を話し合って決めること、それに見合った訪問先を選択すること(場合によっては相手とのアポ取りを行うこと)、そして移動計画を立案すること、「学習テーマ」についての事前調査を行うこと等々を行います。当日は、班毎に佐倉市内で調査活動を実施、以後は調査結果を報告書に纏めて学習成果の報告会を実施しました(確か保護者の方も参加できるようにしたと記憶しております)。現在当方の手元にある報告書を見返しますと、入学2か月後の実施という短い準備期間もあって、充分に満足のいく「学習テーマ」とはなり得ておりませんが、それにしては各班ともになかなかに立派な「学習テーマ」の立案と、調査追及活動の結果としての報告書を作成していることに感心させられます。是非とも皆さんに見せてさしあげたいほどの充実した内容です。勿論、小学校の段階から積み上げてきたものも大きいと思いますし、中学校で「学習テーマ」設定と、見学先の選択についての相当に手厚い指導の成果だと思っております。ここで一つ確認させていただきたい重要なことがございます。

往々に、生徒の“自主性”とは、生徒に“丸投げ”することで達成できると勘違いされている方がいらっしゃいますが、それは大いなる誤解であります。方法論も、何に興味があるのかも分かっていない生徒に、「自分で考て好きなことをやってみなさい」といっても、限りなく100%に近い確率で価値ある活動にはつながりません。そこには、大人(教師)の適切なアドヴァイスこそが求められるのです。今回の「修学旅行(校外学習)」での学習活動でも全く同じです。いや、むしろ、スポーツ等々の育成以上に必要です。追及可能な価値あるテーマの例示や、具体的な見学場所の紹介と調査手法の教示は不可欠です。大切なことは、最終的に生徒が自ら調べたという充実感と調査の方法論を学ぶことなのであります。そのモデルを体験することが、その後に自ら調べてみようとする「自主性」に繋がることを見逃してはなりません。小学校で往々にして行われる「夏休みの自由研究」ですが、あれこそが生徒への丸投げの典型に他なりません。千葉市はいざ知らず、我が子の御世話になっていた葛飾区の小学校では、(現状は知りませんが)かつてはその指導もまるでなされずに自由研究が夏休みの宿題として課されておりました。それならば、決まった活動を課題として与え、わかることを纏めさせる方が遥かに価値のある学習効果が見込めましょう(朝顔を育てて観察日誌をつけて考察する等々)。自由研究で何をするのか、如何なる手立てでアプローチしたら効果的なのか……等々、事前の極め細やかな個別指導こそが研究を価値あるものにブラッシュアップする最も重要な指導なのであり、これも無しに「何でも好きなことをやってきなさい」というのは、「教育」には到底値しないものです。鯔のつまり、小学校における自由研究の実態とは、自分自身の経験から判断しても、「親(保護者)の自由研究」と化しているのが実態ではありますまいか。誰のための教育活動なのか、自ら問い直し、もしそれを継続するのであれば抜本的な改善が求められましょう。

さて、当方の学年が「佐倉市」を舞台に展開した「校外学習」の「学習テーマ」の一部を御紹介いたしましょう。「佐倉城の構造を探る」「佐倉にある不思議な“坂”の名前の由来を探ろう」「佐倉新町にある町人の屋敷と武家屋敷の違いを探ろう」「佐倉城と武家屋敷の配置の意味を探ろう」「武家屋敷から武士の生活のようすを探ろう」「佐倉城と寺・神社の関連について探ろう」「佐倉の蘭学と佐藤泰然について探ろう」「江戸時代の医学について調べよう」等々です。実はその3年後に副担任(生徒指導主事)として所属した1年生でも同じ佐倉市での修学旅行をおこなったのですが、活動範囲を近隣の酒々井町にも拡大したこともあってテーマは更に拡大しております。「印旛沼の干拓の歩みを探る」「佐倉に伝わる民話を探ろう」「佐倉の味噌造の歴史と技術(ヤマニ味噌)」「佐倉に伝わる伝統工芸を探る(矢羽根)」「佐倉の酒造業を探る(甲子正宗・朝日鶴)」「本佐倉城の仕組みを探ろう」「本佐倉城と佐倉城の違いから時代の変化を探ろう(中世と近世の城の変化)」等々です。中学校一年生の考えたテーマとしてはナカナカに多彩なものと思います。

そして2年次「自然教室」を経た3年次での信州(長野県)を舞台とする「修学旅行(校外学習)」でも(「自然教室」にも沢山の拘りを施しましたが長くなるので割愛いたします)、1年次と同様の教科的「学習テーマ」を設定して信州を舞台に、広域に展開する班別活動を行いました。勿論、単純に同じことを繰り返した訳ではございません。成長段階に応じた改善を加えております。ひとつが、追及すべき「学習テーマ」を2つの性格を持つものに分け、2つのテーマを並列して立案することにしたことです。すなわち、教科学習的な追及テーマとしての「学習テーマ」と、学習テーマと関連させた現地の人との出会いを通じて受け止めるべき「出会いのテーマ」であります。前者は「頭を使って」学ぶこと、後者は「心を使って」学ぶことに繋がります。往々にして学習テーマに両者が混合していることが見られたからです。そもそも、調査活動にはそうした「知」・「情」を併せ持った収穫があるはずだと考えたことが最大の理由です。また、後者は「出会い」を通じて自らの「生き方」を振り返ることに直結することとなり(旅行先での人との出会いがその人の人生を変える!)、それを学ぶのが「総合的な学習の時間」の大きな目的となっているからであります。何故ならば、ただでさえ準備の時間が短い中で、「修学旅行(校外学習)」準備のための時間として「総合的な学習の時間」を、大手を振って計画的に活用できることに繋がるメリットも生じることになります。

また、1年次に学級内で班編成を行ったのに対して、3年次では何よりも追求したい「学習テーマ」を優先させ、「学級単位」での班編成には全くこだわらないこととしました。つまり、最低2人組~最大5名までの班編成をOKとし(ただし2名の場合は同姓に限定)、学級の枠を超えて追及したいテーマの共通性をもっての班編成といたしました。更に、体験的学習を希望する際には、その体験先を保護者の強力を得て自主開拓いたしました。何故ならば、旅行会社を通じて行う体験施設の多くは商業ベースで行っているところがほぼすべてであり、体験として得るところは決して多くはないと思っていたからでございます。準備と個々の生徒・学習班の「テーマ設定」とそれに伴う指導には相当な時間を要しましたが(3年生になってからでは間に合いませんので2年生の年明け1月頃から準備を始めました)。しかし、手をかけて指導を重ねたことで、充実した学習成果があがったものと自負するところでございます。以下に、その時各班が設定した「学習テーマ」「出会いのテーマ」を掲げさせていただきますが、それをご覧いただければ、自ずと、相当に充実した学習活動が展開されたであろうことを類推いただけることと存じます。因みに、本拠地となったのは、松本市近郊にある「美ヶ原温泉」の旅館となります。実施年度は平成12年(2000)度となります。学級は3学級で、生徒数は120名程となります。

 

 

【上田・菅平方面】
〇1班:3名(更埴市)
《学習》「信州アンズ農業の工夫や栽培方法を探る」
《出会》「アンズ農業に情熱を注ぐ人々の気持ちに出会う」
〇2班:2名(真田町)
《学習》「他産地に打ち勝つリンゴ栽培の工夫を探る」
《出会》「リンゴを愛する○○さんの生き方に触れる」
〇3班:3名(上田・松代)
《学習》「真田家の武勇伝と苦悩の歴史を探る」
《出会》「幸村VS伸之 兄弟で対立した両者の心にふれる」
〇4班:2名(菅平)
《学習》「高冷地農業の栽培の工夫と問題点を探ろう」
《出会》「美味しい高原野菜をつくろうとする情熱に触れる」
〇5班:4名(上田・松本・臼田)
《学習》「上田城・松本城・龍岡城の違いを探る」
《出会》「城をつくった人の様々な思いにふれる」

【長野・小布施方面】
〇6班:5名(長野市)
《学習》「信州のリンゴ・桃の栽培の工夫と問題点を探る」
《出会》「美味しいリンゴと桃をつくる農家の皆さんの愛情に触れる」
〇7班:3名(戸隠)
《学習》「信州そばの栽培の工夫と問題点を探る」
《出会》「信州そばに熱い想いを込める人たちの生き方に触れる」
〇8班:3名(戸隠)
《学習》「そばの栽培の工夫とポイントを探ろう」
《出会》「そば農家の篤い情熱と愛情に触れよう」
〇9班:3名(長野市)
《学習》「長野オリンピックの市民に与えた影響を探る」
《出会》「長野オリンピックを体験した人々に触れる」
〇10班:4名(小布施)
《学習》「小布施の栗はなぜ昔から有名なのかを探る」
《出会》「農家の方々との触れあいで交流を深める」
〇11班:3名(小布施)
《学習》「栗が小布施の町に与えた影響を探る」
《出会》「小布施の人々との出会い」
〇12班:2名(小布施)
《学習》「葛飾北斎の晩年と小布施との関わりを探る」
《出会》「葛飾北斎の芸術に触れて心行くまで鑑賞しよう」
〇13班:2名(松代)
《学習》「松代の城下町のしくみと武士のくらしを探る」
《出会》「城下町を大切に守る人々の暮らしにふれよう」

【諏訪・伊奈方面】
〇14班:3名(松本・高遠)
《学習》「高遠城はなぜ一日で落城したのかを探る」
《出会》「戦国時代の人々の想いに触れる」
〇15班:3名(霧ヶ峰)
《学習》「霧ヶ峰に生きる植物に迫る」
《出会》「都会では出会えない大自然とのふれあい」
〇16班:5名(茅野)
《学習》「茅野市の農業の工夫~農業体験を通して~」
《出会》「農家の人々と深くかかわり農業の大変さを実感する」
〇17班:5名(諏訪)
《学習》「諏訪大社の歴史に迫る」
《出会》「諏訪大社と周辺の人々との関わり~御柱祭の関わりを中心に~」
〇18班:3名(諏訪)
《学習》「アールヌーボー・アールデコの作品にはどのような特色があるのかを
探る~ガラス工芸を中心に~」
《出会》「諏訪でのガラス体験を通じてその技術に触れる」
〇19班:3名(諏訪)
《学習》「ガラス工芸のアールヌーヴォーとアールデコについて探る」
《出会》「美術館の方々とのガラスを通してのふれあい」
〇20班:4名(諏訪)
《学習》「オルゴールの歴史と技術に迫る」
《出会》「1台1台のオルゴールに込められた思いに触れる」
〇21班:5名(諏訪)
《学習》「諏訪の精密機械工業の技術とその問題点を探る」
《出会》「時計製造にかかわる現地の人々との出会い」
〇22班:5名(諏訪)
《学習》「時計を始めとする諏訪の精密機械工業の歴史と構造に迫る」
《出会》「現場で働く人々の想いに触れる」

【安曇野・大町方面】
〇23班:3名(黒部)
《学習》「ダムを造った人たちの苦労と情熱を探る」
《出会》「北アルプスの雄大な自然との出会い」
〇24班:4名(安曇野)
《学習》「安曇野のガラス工芸を体験し技法を学ぶ」
《出会》「ガラス職人のこだわりとの出会い」
〇25班:4名(安曇野)
《学習》「信州の草木染や織物の技術を学ぼう~体験学習を通じて~」
《出会》「信州の自然の色に出会う~伝統工芸を守る人達との出会い~」
〇26班:3名(安曇野)
《学習》「出荷できるワサビになるまでの過程を学ぶ」
《出会》「ワサビ農家のワサビ栽培にかける気配りについてふれよう」

【木曽方面】
〇27班:4名(馬籠)
《学習》「植物の生息の仕方は千葉とどのように異なるのか探る~気候と風土の違いから~」
《出会》「美しい植物にふれるとともに、植物園で働く人々の情熱に触れよう」
〇28班:5名(木曽馬の里)
《学習》「木曽馬の現在までの歴史と現状について探る」
《出会》「木曽馬とともに生活している人々の暮らしと心情にふれる~牧場での体験学習を通じて~」
〇29班:3名(藪原宿・鳥居峠・奈良井宿)
《学習》「宿場町のなりたちと特色ある建物を探る」
《出会》「中山道の旧道(鳥居峠)を歩き、今と異なる旅人の心に触れる」
〇30班:2名(馬籠宿)
《学習》「島崎藤村が綴った小説の舞台で彼の生き方と作品世界を探る」
《出会》「昔から伝わる藪原の民話・伝説に出会い、それらを伝える人々の想いにふれる」
〇31班:3名(平沢)
《学習》「木曽の漆工芸の歴史と技術について探る」
《出会》「漆工芸の伝統を守る職人魂に出会う」
〇32班:3名(藪原宿)
《学習》「お六櫛の伝統・歴史・製作について探ろう」
《出会》「お六櫛の製作に情熱を注ぎ続ける方々の心に触れよう」
〇33班:2名(藪原宿)
《学習》「お六櫛の体験学習を通して歴史と制作過程を探る」
《出会》「木曽の自然と体験学習を通して職人魂出会う」
〇34班:4名(藪原宿)
《学習》「お六櫛の歴史と製造手法についてしらべよう」
《出会》「お六櫛をつくる職人の気持ちにふれる」

 

 

 以上でございます。一人ひとりの生徒諸君に向き合って、彼らの希望を聞きながらテーマとしての磨きをかけていくこと。それに見合う見学先をアドヴァイスすること、現地での移動手段を構築して効率よく回れる手助けを事前に整えること、もちろん旅行会社の手助けを借りますが、学年職員が分担して数か月に亘って丁寧に対応していった結果でございます。それなくして、修学旅行が「学習」としては成立しえないのです。繰り返しますが、学校で行う「修学旅行(校外学習)」は決して慰安旅行ではありません。学習としての目的を掲げて、その具現化を図るために実施する学校行事であるのです。そのためには、恐らくはたから見ている分には信じがたい程の手間をかける必要があります。これを機会に、学校における「修学旅行(校外学習)」が、かほどに手間のかかる行事であること、決してお気軽な旅行の引率ではないことを、御知り頂く機会になればとの思いから、自身の体験を交えて申し上げました。勿論、日常の学年経営では、「修学旅行(校外学習)」だけの業務をしているわけではございません。その他にも山のような業務(指導事項)が目白押しなのです。その一つひとつもまた手を抜くことなどできない重要な内容ばかりであることを知っておいていただければ幸いです。今回は、現場教員の皆さんに成り代わりまして、そうした現実について「修学旅行(校外学習)」を切り口に、縷々語らせていただきました。多くの皆様に御知り置きいただけると幸いに存じます。勿論、私に限ってかもしれませんが、そうしたことを嫌だと思ったことは一度もございませんし、少なくとも小生の周囲の仲間は、嬉々として生徒諸君と一緒になって行事をつくっていたことを懐かしく思い出します。教師も行事を終えた後に「やり切った」喜びで胸が一杯となりました。教師としての最良の想い出の一つでもございます。

 

 

 

 「行く春を惜しむ」精神に見る国民性について ―または 日本の国民性を規定した!?“四季”のある「風土」―

 

6月10日(金曜日)

 

ゆく春や 水に雨降る 信濃川 (会津八一)
行春や ゆるむ鼻緒の 日和下駄 (永井荷風)
パンにバタ たつぷりつけて 春惜しむ (久保田万太郎)

 

 6月に入って10日程が経過することになりますが、気象庁は去る6月6日(月曜日)に「関東地方が梅雨入りした模様」と発表。例年と比べてどうなのか知りませんが、今年は5月のうちから愚図ついた空模様が多かった所為か、“何を今更”と感じるところ大でもございます。勿論、鬱陶しいこの季節も大切な役割を有することは重々承知しておりますが、今年は殆ど初夏らしい陽気に巡り会えませんでしたから、“佳き季節”を満喫できなかった喪失感は一際大きいように思われます。それに加えて、梅雨が開けた後は、気の重くなる季節の到来となります。少なくとも、小生にとってこれからの時節は、冬が終わりを告げて春を迎えるときのような“ワクワク”感とは一切無縁でございます。皆様は如何お感じでいらっしゃいましょうか。もっとも、梅雨ならではの美しさ、例えば紫陽花や菖蒲・杜若等々の雨にそぼった花々の風情の愉しみもございますから、一概に不満ばかりとは申せませんが。

 実は、これ以降、「春を惜しむ(惜春)」との切り口から日本人の季節感の有り様について話題としたいと考えておるのですが、入梅を迎えてしまった今日、正直なところ、そのお題は遅きに失した感がございます。その辺りにつきましては、掲載時期等の自己都合もございます関係上、本日までずれこんだ次第でございまして、その点何卒ご容赦の程を申しあげます。因みに、余談ではございますが、俗に旧暦と称される「太陽太陰暦」と現在用いられる「太陽暦」とには相当な季節のずれが生じます。例えば「6月」を今の感覚で捉えると、旧暦の季節感と相当に異なるということです。その換算は、「閏月」の問題もあったりしますので単純計算ができない憾みがございます。ただ、一般に当該時点から“4~6週間”前倒しすれば、概ね「旧暦」の季節と重なるものと考えておくと宜しいかと存じます。つまり、本稿が世に出る頃では、現在で申せば旧暦の5月前半頃の陽気となります。旧暦では「春」は1~3月、「夏」は4~6月、「秋」は7~9月、「冬」は10~12月にあたりますから、5月前半は夏真っ盛りということになりましょう。しかし、現代でも暦と実際の季節感とは相当にズレがあるように、旧暦でも同じようなことが生じております。和歌にはそうした“暦上は○○季節なのに△△”といった趣向の詠歌が多々見られるのもその所為でございましょう。

 さて、我が国の古典文学の世界では、この時節、“佳き季節”としての「春」が過ぎゆくことを惜しむ感情を託した詠歌が数多詠まれてまいりました。所謂「惜春歌」と称される一連の作品群でございます。“季節の百科事典”とも称すべき“季節の言葉”と“関連作品”とを纏めあげた『歳時記』を紐解けば、「春を惜しむ(惜春)」に関する類語が山のようであること、また関連作品の膨大さにも驚かれることでござまいましょう(因みに『歳時記』のような類書は我が国以外には存在するのでしょうか??)。つまり、そうした感情は、昨今沸いて出たものではなく、既に王朝文化華やかなりし頃から営々と引き継がれて来たものであることは疑いありません。事実、全部で21集にもなる各「勅撰和歌集」“春の部”末尾は「惜春歌」が正に“目白押し”状態でございます。そして、長き伝統ゆえに、心に残る名歌も多いように感じます。そういえば、昨年今頃の本稿では、寂連法師の手になる惜春歌を採り上げたことを想い出しました(「暮れてゆく 春のみなとは 知らねども 霞に落つる 宇治の柴舟」)。まるで、横山大観の“朦朧体”を思わせる幻想的な書き割りのなかから滲み出たかのような、“しみじみ”とした情感と余韻に心打たれます。「惜春歌」傑作中の傑作かと申しあげることに寸分の躊躇もございません。併せてこうした和歌で四季の移り変わりを表現した古人に感銘を深くします。こうした細やかな感情の発露は、四季を有する日本の「風土」が培った、我が国に固有の“麗しき伝統”である……との物言いが、金科玉条の如くに語られてきた所以でもございましょう。

 さて、この度、冒頭に掲げさせていただきました3つの俳句も「惜春の情」を読んだものとなります。ただし、古典和歌で馴染み深い「惜春歌」のイメージとは、相当にかけ離れた印象を与えられることでございましょう。作者をご覧いただけば明らかなように、何れも近現代を生きた著名な文学者の方でございます。一般に、永井荷風(1879~1959)は「文士」(この人に限っては「小説家」とは言うべきではないと存じます)、久保田万太郎(1889~1963)は「小説家・戯曲家」、会津八一(1881~1956)は「歌人」(「美術史研究家」、雅号“秋艸道人”を称する「書家」の顔も知られますが、意外なところでは小生の母校で嘗て「英語教師」を務めてもおられました)と認識されているものと存じます。もっとも、万太郎は今では小説家としてより「俳人」として広く知られているかもしれません。しかし、『鹿鳴集』をはじめとする数々の歌集を有する八一にも、例示する作品を挙げるのに苦慮するほど名作の多い「文士」の荷風にも、共に「俳人」のイメージは御座いますまい。実際に、残された数は決して多くはありません。しかし、特に荷風の俳句には近代人としての“孤愁”漂う忘れ難き作品が数多ございます。一読してお感じ頂けるように、何れの作品からも、古人の抱いた「惜春」とは相当にかけ離れた心情を感じ取れますまいか(新潟生まれの八一作品には近世俳諧の残り香が感じられます)。特に、浅草雷門に生まれ東京下町に育った万太郎作品には飄々とした現代的な感覚が横溢しており、古来の「惜春」とは隔絶しておりましょう(「パンにバターをたっぷり塗って惜春の想いを感じ取る」……なんと清新なる感覚と表現でしょうか)。しかし、平安の昔から営々と詠み継がれてきた「惜春の情」は、現代となってもなおその力を失うことなく、作品に生き続けているのです。

 さて、ここで、改めて「惜春の情」の在り方の考察を通じて、日本人の「季節感」について思いを致したいと存じます。そのことを検討するために、「四季」の全てに目を配ってするのは紙幅の関係で到底無理でございますので、今の季節に因んだ「春を惜しむ」心情を切り口に、それが醸成された要因は何処にありやを探ってまいりましょう。先ず、最初から結論めいたことから申し上げたいと存じますが、日本の地に居住する殆どの人々にとって、「惜春の情」の湧いて出る淵源が「四季のある日本という風土」にあること、またそれが「誰もに共有される心情である」とは決して言い切れないことでございます。つまり、往々に言及されるような、「これから迎える厳しい暑さ前に、“佳き季節”が過ぎ去ることへの限りない「哀惜」の情を募らせる繊細な国民性を育んだのであり、我が国の風土が日本の国民性の根幹に存在する……」なる物言いが、果たして適切なのかについて考えてみたいと存じます。まぁ、その主張は、ある意味で「当たり前」の主張に過ぎないとも思うのです。しかし、そんなに単純な紋切り型が適切かは甚だ疑問であります。確かに、昨今のご時世では取り分け過酷になっておりますが、その昔も夏の暑さは耐えがたきものであったことでしょう。暖房設備の儘ならなかった時代は、冬もまた厳しい季節であったことでしょうが、かの兼好法師が「家は夏を旨として建てるべし」(『徒然草』)と述べているように、我が国では、古くから冬よりも夏をより過酷な季節と認識していたように思えます。ニッポンの誇る“哲人”の一人兼好法師が「寒さ対策より優先すべきは暑さ対策だ」と言っているのですから。しかし、現実的には「夏」という季節は、「暑くて過ごしにくい季節」に留まらぬ、更に大きな災厄をもたらす季節であったことを忘れる訳には参りません。

 特に都市的な場では“伝染病”が猖獗を極める季節に他ならず、謂わば「死の季節」の到来に他ならなかった厳然たる現実であります。「平安京」由来の大都市“京都”でも、伝染病は度々猛威を振るい、数えきれない人々の生命を奪ったのですから。その京師に祀られる祇園社(八坂神社)とは、荒ぶる神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀る社であり、御霊信仰に基づく「疫病退散」の威力を期待されて信仰を集めました。従って、その祭礼としての「祇園祭」が、京の町衆の手によって、毎年夏に開催されることには、極めて大きな社会的意義があります。つまり、都市の民にとって、夏とは恐ろしい「死の季節」の謂いでもあったのです。全国各地に勧請された祇園社の多くもまた、人々の集住する都市的な場であることが多く、それらの都市における祇園祭もまた「夏祭り」となっております(収穫祭的な意味合いの強い「秋祭り」とは性格が異なります)。因みに、妙見を祀る千葉神社の祭礼も夏祭でありますが、それが千葉という都市的な場で開催されるのは、形態として祇園祭の系譜を受け継いでいる祭礼であるからに他なりません。その意味では夏の到来は都市でも歓迎されざることであったことは間違いありますまい。しかし、かれら町衆が夏の訪れを前にして「惜春」の情を抱いたのかと申せば、そうではないと思われます。何故ならば、以後に述べることとも関わり、後の季節に経済的に大きな福利をもたらす準備期間とも言うべき、有難き季節でもあったからであります。その意味でも、決して「惜春」などといった「風流」な感情を抱いていた訳ではないと思われます。

 その福利とは、農業生産を基盤とする近世以前の我が国においては「実りの秋」の豊穣を意味しましょう。つまり、「夏」とはそれを準備する極めて重要な季節に他ならないことは言うまでもございません。そして、その生産に従事するのが、古代から近世にかけ、我が国土の全域に居住し、国土の人口の大多数を占める「農民(耕作者)」に他なりません。彼らにとっての「春」から「夏」への移り変わりは、如何なる感情によって把握されていたのでしょうか。これは言うまでもございますまい。それは大きな不安を抱えながらも、作物の育ちを飛躍的に促す、一刻も早い「夏」の到来を待ちわびる心情に違いありますまい。その「大きな不安」とは、雨が少ないことに由来する渇水、台風等の気象現象によって生じる洪水・土砂崩れのような災害、あるいは大規模な害虫の発生等々に起因する虫害等々、大幅な「収穫減少」をもたらす恐ろしき「自然現象」への恐怖であったことでしょう。だからこそ、古来農民は「雨乞い」「虫送り」等の祭事を催したのです。しかし、それは、決して「夏が訪れてほしくない」「涼しき季節であってほしい」という感情とはイコールではありません。そもそも、炎天による「気温上昇」がなければ、米を中核とする農作物の収穫は覚束ないものとなるのですから。そのように考えれば、彼らにとって現在の時節の関心事が、少なくとも「惜春の情」にはなかったことは自明でございましょう。彼ら農民にとって「夏」は一義的には“待ち焦がれる歓迎すべき季節”であったはずです。ただし、その豊穣を迎えるためには、信じがたいほどの生命力で日に日に作物を覆い尽くそうとする「雑草」との過酷な戦いに費やすことが求められもしました。つまり、人口の殆どを締める庶民たちにとっては、春から夏への季節の移ろいは、二義的には歓迎されざるモノとの過酷な格闘をももたらしたことを忘れるわけには参りません。要するに、彼らのとっての自然とは「克服」すべき対象であったに違いないのであり、少なくとも「四季」の移り変わりは彼らにとって、“愛でるべき”対象ではあり得なかったことでしょう。

 ここまで来て、ある意味「紋切型」とも称すべき「惜春の情」とは、古典和歌を生み出した極々僅かな階級が、居住する極々狭い場所で創り出した「感情」であると理解できようかと存じます。それが「貴族階級」であり、その場が「京」における「宮中」や自らの「屋敷」であること、そして、その狭隘なる世界の中で研ぎ澄まされた感情に他ならないということなのです。それが、平安朝以降の勅撰和歌集の世界で一般化し、その和歌の世界では、この時節に「惜春」の情を詠むことの定例化(ルーティン)を生じさせたのだと思われます(つまりは「月並歌」の誕生)。そもそも、彼ら貴族が「惜春」の思いを抱く自然条件そのものも、手つかずの「大自然」であったり、農民たちの居住する「里山」であったりすることはあり得ないことと想像できます。何故なら、公卿となるような貴族階級は、地方に赴くことなど殆どなく、都の極々狭い範囲が生活圏であったからに他なりません。つまり、彼らが「惜春」の情を発した自然とは、屋敷内に造営された箱庭のような人工的なる庭園(寝殿造)や、屏風絵(やまと絵)に描かれたそれであったに違いありますまい。こうした人工的な小宇宙としての池泉・植栽や絵画をもって自然を感じ取っていたと思われる訳ですから、国内に居住する大多数の人々の季節感とは180度異なる、ある意味では極めて特殊な自然観を有していたのだと考えられます。つまり、彼らの詠った自然とは、最早本来的な「大自然」「里山」とは隔絶した、自分たちの美意識に拠って人工的に「再構築された自然」だと申し上げるべきだと考えます。

 しかし、『歳時記』を紐解けば一目瞭然。「惜春」に関する詩歌は、こうした貴族達が権力の第一線から転がり落ちた後も、武家や町人、近世後期からは農民にまでもその制作主体を拡大していき、今では誰もが興味さえあれば「俳人」「歌人」「詩人」となっているのです。古代以来の貴族の抱いた、ある意味で特殊な季節感を、その後の詩人たちが営々と引き継いでいるのであり、むしろ裾野は遙かに広がっております。引き継いだ現代社会に生きる彼らにとっても、決して身近な季節感とは言い難い感情が、何故営々と引き継がれているのでしょうか。農家の方々にとっては、農薬の普及した現在であっても、農作業に伴う雑草との格闘の方が遙かに身近な季節感でございましょう。おそらく、その理由は、以下のようなものだと推察できると考えます。それは、勅撰和歌集からして「春夏秋冬」の部建構成を採ること、それが後に生じた連歌・俳諧の世界にまで引き継がれ、近世には四季の季節感を表象する「季語」として定まったことが大きいと言うことです。そして、今や、それらは『歳時記』のなかに、各季節を表象する「用語」となって嫌と言うほどに細分化された形で集積されているのです。用語が集積されていることは、天才詩人でも無い限り、小生も含む殆どの一般人にとっては「季節を認識する感情」もまた「類型化」される現象に繋がったということではありますまいか。つまり、平たく申せば、これっぽっちの「惜春の情」も琴線に触れることが無くとも、あたかもオートマチックのように『歳時記』にある用語を用いて時季の作品が生み出されていくことに繋がっているのだと考えるのです。『歳時記』を埋め尽くす膨大なる無名俳人の作品群が、それを図らずも証明しているようにすら思えます。これが、日本人が「四季」の変化に敏感であり、繊細な感受性を有している……との論調の正体なのではありますまいか。つまり、それは「類型化された言語」から、逆に「類型化された自然観」が量産されている精神構造が出来上がっているように感じると言うことでもございます。現実の自然に触れて感じている部分は必ずしも大きなものとは言えないのではないでしょうか。そして、それが、現在の俳諧や和歌の世界を成立させている実態ではないかということであります。

 今回も、長々と駄弁を弄しました。当方が、斯様に考えた背景にあるのは学生時代に拝読した和辻哲郎『風土』に対する、如何ともしがたい違和感に由来しているように思います。元より、未熟な読解力に起因する読み違いが余りにも多いことは間違いありますまい。しかし、大筋は「各民族の国民性・文化とは、各地域の地理的・自然的条件によって大きく規定されたもの」との論旨でございましょう。当方の読後感は「そりゃそうだろう!当り前じゃないか!!」「そもそも、あまりにも大雑把な物言いではないか?」「理由はそれだけなのだろうか??」との違和感でありました。それ以来、その違和感を追及することもなく今日に到っていたのでした。昨今、斯様なことが職場で話題となり、それを契機として少し考えてみようと手に取った書物が、ハルオ・シラネ著『四季の創造-日本文化と自然観の系譜-』2020(角川選書)でした。本書に出会って、小生の永年に亘るモヤモヤ感が相当に払拭されたように感じましたので、皆様にも是非とも御紹介をさせていただきます。本書が「第26回 山片蟠桃賞」「第1回 日本研究国際賞」を受賞されたのも誠に宜なるかな。素晴らしい論考だと思わされました。

 改めて確認をいたしますが、我が国における、古典和歌を筆頭とする詩歌の世界を形成する「季節」の情景と述懐とは、「自然」そのものに由来するものではなく、王朝歌人たちが、自らの美学に叶わない夾雑物を捨象した結果として選び取られた、美的な要素のみによって再構築された極めて人工的な「季節像」であり、また相当に類型化された述懐に他ならないことを知っておく必要があるということでございます。ただ、誤解の無いように申し添えておきますが、小生はそれが“イケナイ”“程度の低いものだ”と主張したい訳ではございません。例えば、一昨年に御紹介した「はっぴいえんど」の名曲「夏なんです」(詞:松本 隆、曲:細野晴臣)の世界観もまた、所謂「大自然」を歌ったものではなく、都市的な視線から再構築された「夏の風景」なのであって、それが本作の価値を貶めることにはは全く繋がらないのです。それと同様に古典和歌の二次的に再構築された季節感にも高度な芸術性が認められるのであり(象徴主義的な動向)、我が国の文化を代表する作品群であることは申すまでもございません。何にも増して、当方は古典和歌の世界をこよなく愛する者でございます。しかし、その段階にとどまっていては、日本の文化の入口に立つだけに終わってしまいます。その奥の院に分け入ってこそ、奥深い我が国の文化世界に触れることができると考えるのです。

 最後になりますが、「小倉百人一首」にも採られる平安期和歌と、江戸時代末期の狂歌とを併記させていただき本稿を閉じたいと存じます。季節は「秋」となり「惜春」を詠ったものでは御座いません。そして、後者は、前者の紋切り型とも称することのできる作者の“感傷”を大いに茶化した作品でございます。優劣の問題ではなく、当方は王朝貴族の「感傷」にも、江戸後期の町人の「パロディ」の精神性にも、大いに感銘を受けるのです。つまり、我が国のご先祖さまの多様なる精神性を大いに楽しむものでございます。


月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ
わが身ひとつの 秋にはあらねど
[大江 千里(おおえ の ちさと)『古今和歌集』秋]

 

月みても さらに悲しく なかりけり
世界の人の 秋と思へば
[頭 光(つぶり の ひかる)『徳和歌後萬載集』秋]

 

 

 南都仏師「運慶」と造像活動から考える(前編) ―または「南都復興」と東国武士・幕府との関係性―

 

6月16日(木曜日)

 

 

 現在放映中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も、もうじき折り返し地点を迎えようとしております。本稿を執筆している時点で、先の日曜日では「曽我兄弟の仇討」に伴う陰謀計画が描かれておりましたので、12日放送では「富士の巻狩り」における当該事件が描かれることになりましょうか。最近では、本事件は単なる仇討事件の「美談」に留まるものではなく、幕府内部の権力闘争と密接に連動して惹起していたことが指摘されるようになっております。論より証拠、本事件に連座するように、頼朝の異母弟範頼が排除されておりますから。更に、自らの権力基盤を確固たるものとするかのように、頼朝係累の源氏血統が以後に軒並み粛清されていくことに繋がるのです。正に“スターリニズム”も斯くや……と思わせるほどの、陰惨な“血の粛清”に他なりません。頼朝の死に到るまでの史実とは、正に“血塗られた”歩みであると存じます。それらが、ドラマにて何処まで描かれるのかは知りませんが……。

 それにしましても、大河ドラマで昨今気になるのは、話の展開が聊かノンビリしすぎてはいまいかということです。他人事ながら心配になったりもいたします。後白河法皇の薨去が先日描かれましたが(未完成の東大寺大仏開眼供養を執行し、危険を省みず自ら聖武天皇所縁の筆で眼を書き入れていた執念には恐れ入るばかりです)、頼朝の急死もこれからです。ただ、主人公は北条義時ですから、番組としての本領はむしろこれからとなります。比企一族の粛清、源頼家の追放と殺害、源実朝の将軍就任、畠山重忠討伐とそれに伴う父時政と義母牧の方の追放、和田合戦、実朝暗殺、承久の乱……と、まだまだしっかり描かねばならぬ場面は目白押しです。現在のペースでいけば、令和5年分放送一年を用いてようやく描き切れるほどの分量かと推察いたします。来年放送『どうする家康』は既にクランクアップされているようですし、流石に先延ばしにするわけには参りますまい。「どうするNHK」と“ツッコミ”の一つも入れたくなります。恐らくは、重要人物の“物故シーン”も、昨今の大河ドラマ御馴染みの“ナレ死”とやらでサクサクと進捗させることが推察されます。“ナレ死”とは何ぞや……とお思いになる方もいらっしゃいましょうから、老婆心ながら御解説申しあげましょう。「現代用語の基礎知識」風に申せば「ドラマにおいて、登場人物の死を描くことなくナレーションで済ませる便利でお手軽な進行スタイル。当該シーンを描かなくて済むため経費節減に多大なる寄与をもたらす」となりましょうか。まぁ、少なくとも6月中に頼朝にはお引き取りいただく必要がございましょう。ところで『吾妻鏡』では当該年の記事が欠落しており、その死の状況は知ることができません(相模川の架橋供養に出かけた際の落馬云々……なる記事は何故かずっと後に記載されております)。度々不吉に登場する梶原善氏演じる「善児」の暗躍は果たして有りや無しや……気に掛かるところです。もっとも、夜も眠れぬほどに気に掛かっているわけではございません。むしろ、我らが千葉常胤の登場が何時までかの気がかりのほうが、それに数倍します。

 5月末日上梓「公式ガイドブック(後編)」(NHK出版)には、最早、常胤の“ツ”の字の登場もございませんでした。従って、老兵は静かに消え去るのみか……と思っていた矢先、6月に入ってからの2回放映分でまさかの御出座!!1回目は奥州平泉にて斯の地で没した九郎義経を偲びつつ酔って管巻く姿として、2回目は上洛の地で坂東よりも中央の朝廷に色目を使う頼朝への不満分子の一人としての登場でした。こちらでも常胤は飲んだくれておりました。まぁ、「飲んだくれ」は当該人物の素顔を描こうとされているのでしょうし、ドラマとしては決して悪いわけではありません。程度の問題ですが、あまりに謹厳実直で真面目一本槍の“立派”過ぎる人物像では視聴者の共感は得られますまい。当方も願い下げであります。むしろ、酔って愚痴の一つをこぼしたり、思わず失敗をやらかす方が、その人の多面性を垣間見ることができて結構でございます。もっとも、必要以上に“お茶らけ”すぎても鼻白らんでしまいますし、ナカナカ人物造形とは難しいものでございます。余談ですが、斯様なことと関連して、自分の贔屓筋を矢鱈と偉人に仕立てようとしたり、ひたすら神格化するような動向が間々見受けられますが如何なものでしょうか。こういう方々に限って、少しでもその御方を茶化したりすれば、たちまち烈火の如く怒ったりされます。人は様々な面があるのですし、その多様性が人としての深みに繋がると信ずる小生には、逆に、そうして持ち上げられている人物はさぞかし“こそばゆく”“息苦しかろう”と思うのですが……。きっと「俺りゃ、あんた等が思うほどに立派な人間じゃないよ。勘弁してくれや!!」と思うのが、極々常識的な“人”としての感じ方では無いかと思うからです。

 閑話休題。常胤の話に戻りますが、この時、常胤は奥州藤原氏攻めで八田知家とともに東海道大将軍として大いに軍功を施しました。つまり、そうした人であるにも関わらず、想いも欠けぬ姿が垣間見えるからその人物の魅力となるのであって、そのことは全く描かれず、飲んだくれて愚痴を零すだけの岡本信人さん……もとい!常胤では、場末の酒場で上司の悪口を並べたてる、卯建の上がらぬサラリーマン親父と最早選ぶところがございません。単なる“僻み根性”かもしれませんが、やはり両者のバランスを描くことこそ重要でございましょう。この後、史実の常胤は、頼朝死後の「梶原景時追放」でその急先鋒となるのですが、ガイド本で確認したところ常胤の名は発見できなかったように思います。常胤は、頼朝の死から2年後の建仁元年(1201)、齢84を一期に大往生を遂げるのですが、せめて“ナレ死”くらいの扱いはされるのでしょうか。ドラマと歴史とはイコールではないのは当然ですが、千葉市関係者としましては、最後のひと花を咲かせてほしい……と願う次第でございます。

 さて、ようやく本題に到達致しました。その大河ドラマで、先日「運慶」が登場いたしました。北条時政の依頼により、本願地伊豆の願成就院で造像した阿弥陀如来座像を披露する場面での登場でございます。少なくとも歴史上の人物として「運慶」の名前を聞いたことがないという日本人は極々稀でございましょう。ある意味で、源頼朝や徳川家康と肩を並べるほどの著名人の一人だとも思われます。所謂「為政者」でもない、仏像制作者(「技術者」)が斯くも周知されているのは何故かと申せば、偏に小中高の何れの教科書にもその名が登場し、繰り返して刷り込まれているからに他ならないと存じます。中学校社会科歴史的分野の教科書の多くでは、東大寺南大門とその左右で睨みを利かせる「金剛力士像」(口を開いた“阿形”と綴じた“吽形”の2体…“阿吽の呼吸”の由来)の写真とともに紹介されております。また、高等学校日本史教科書では、それに留まらず、その子である湛慶、同工房の快慶も採り上げられており、その作風として、新たな時代の精神を活かした力強い「写実性」、豊かな「人間味」等の記述がされているのではないかと存じます。しかし、名のみ著名であっても、上記「金剛力士像」以外の作を思い浮かべることのできる方は、そう多くないのではないでありますまいか。もっとも、女性の方々を中心に一時「仏像ブーム」が巻き起こり、当時は何処の運慶仏も多くの拝観者で賑わったと耳にしましたし、数年前に上野の東京国立博物館で開催された『運慶展』は相当な人出であったそうですから、関心を集める存在ではございましょう。

 北条氏所縁の伊豆国「願成就院」での運慶の造像活動に戻りますが、運慶が800年以上も前に制作した仏像の一部は国宝に指定されて今に伝わり、その地に赴き、“拝観料”を納めさえすれば、誰でもが間近に拝観することが可能でございます。その内の中尊“阿弥陀如来坐像”は、今では金箔も剥げ落ち、手指の欠損もある状態でございますし、顔面にも若干の補修の痕跡が認められもするそうです。つまり、必ずしも当初の儘の姿とは申せませんが、それが運慶仏であると知っての“ハロー効果”も相まって、目の当たりにすれば仏像から滲み出るその迫力に圧倒されることは必定でございます。大河ドラマ中ではCGによりキンピカな造立時の姿が再現されており、“つくりもの”とは知りながらもナカナカに感銘を受けました。ドラマでは伊豆の地に単身乗り込んでの造像と描かれていたようですが、実際には伊豆の地には足を運んでいないとの学説もございます。少なくとも、もし伊豆の地で造像に臨んだとしても、単身乗り込んでの造像はありえないと思われます。本稿では、そもそも伊豆の御家人と「南都仏師」(奈良に活動の拠点を置いた仏師集団なので「奈良仏師」とも)との関係が、何時如何なる状況で生じたものなのか。また、それは頼朝との関係を背景したものなのか、更には頼朝の「南都復興」事業への積極的関与と如何なる関係性を有するのか等々……、興味深い南都仏師集団と東国武士との関係性についても少しばかり追いかけてみようかと存じます。ところで、大河ドラマでの相島一之氏演じる運慶の人となりは、“一匹狼”的な相当に“ぞろっぺい”な人物像として描かれておりましたが、如何なものでしょうか。

 さてさて、今回のお題は相当に重い物で御座いますので、上手く纏まりますか自信はございません。どうかお付き合いくださいませ。なお、以下の内容は、塩澤寛樹『大仏師運慶-工房と発願主そして「写実」とは-』2020年(講談社選書メチエ)、同「建久期の東大寺復興造像と鎌倉幕府―」、山本勉「鎌倉時代初期の幕府関係の造像と仏師」に依拠していることを先に申し挙げておきたく存じます。特に、前澤氏の著作は有り勝ちな運慶仏礼賛の書ではなく、当時の社会的構造に運慶及び仏師による造像活動を位置づけた極めて説得力のある著書であると存じます。本稿を御読みになってご興味をもたれましたら、是非とも本書にお進み下さい。美術品として仏像を見ていらっしゃる方にこそお読み頂きたい書物だと存じます。

 運慶の生年は詳らかではありませんが、長子湛慶の承安3年(1173)誕生が確認できることに鑑み、12世紀半ばの生誕が推定されております。父は仏師工房を率いる康慶であり、運慶はその後継と目されております。弟に定覚が、康慶門下として快慶を始めとする数多の仏師がおりました(快慶は単なる弟子筋とは言えない部分もあります)。殆どの仏師名に“慶”の通字を有する者が多いことから一般に「慶派仏師」として括られます。その系譜は平安時代の摂関政治期にまで遡り、その始祖に位置付くのが「平等院鳳凰堂」本尊「阿弥陀如来座像」を手掛けた仏師「定朝(じょうちょう)」となります。こちらも、高等学校教科書「国風文化」の項目で必ずその名が挙がる歴史上の人物であります。これまでの仏像制作手法として一般的であった「一木造」から「寄木造」の手法への転換を果たした人物としても説明されましょう。その作仏は「仏像の理想」とまで讃えられ、その様式は「定朝様」と称されました。その影響下にある仏像は全国津々浦々にまで広がっていることからも、その影響力の大きさが偲ばれるのです。ところで、彼が確立したとされる「寄木造」とは仏像彫刻を行う際に、それを各パーツに分けて制作し、最後にパーツを組みあわせ完成に至る制作手法をいいます。従って、仏師定朝の実像とは、鑿を振るってひたすら木材と格闘しながら仏像を彫りだしていく“孤高の芸術家”の姿とはほど遠いものであったことでしょう。つまり、総合プランナーであり、制作統括者として製作工房を率いる総合エンジニアであったということです。定朝の特色とされる「寄木造」の完成者の功績とは正にそこにこそ存します。だからこそ、藤原道長による法成寺造営等々、摂関時代の大型仏像(俗に言う「丈六仏」)の大量注文に対応できたことを見逃してはなりません。

 最初に申しあげておきますが、運慶もまた定朝の後裔であり、同様に大規模な仏師集団の棟梁であったわけですから、夏目漱石が夢に見たとする、木の中に潜んでいる仏を鑿で削り出していく……といった“求道者”然とした姿は、全くの誤解であり近代人の思い込みにすぎません。これは、明治以降の近代社会になって、西欧の芸術家像に習って描いた幻想に過ぎないのです(夏目漱石『夢十夜』)。世に“漱石フリーク”は掃いて捨てうるほどいらっしゃいますので、急いで申し添えておきますが、これが漱石の作品価値とは全く無関係であることは申すまでもありません(この作品は当方の最も愛する漱石作品のひとつであります)。従って、これまで「運慶」作と度々記述してまいりましたが、それも本来は正しくはないのかもしれません。より正確には「運慶工房」作というのが適切な呼称だと思われます。もっとも、いくら実際の漫画にアシスタントの手が入っていようが「手塚治虫作」として認知されるように、棟梁(大仏師)が運慶であれば、弟子が制作した像仏であっても「運慶」作と称することにも左程問題もないと考え、以降も煩瑣を避けて「運慶」作で通したいと存じます(最後には運慶がOKを出して納品されるのですから)。逆に、実際には運慶が彫っていたとしても、大仏師である父康慶の下での制作であれば、本来「康慶」作とすべきものと思われます。これは、江戸時代の狩野派の絵画制作等々にも当てはまることであります。つまり、芸術家個人の独創性や意思を重視する西洋芸術論とは、必ずしも同列に論じることができないことを承知しておくことは重要であるということでございます。
(中編に続く)

 

 

 南都仏師「運慶」と造像活動から考える(中編) ―または「南都復興」と東国武士・幕府との関係性―

 

6月17日(金曜日)

 

 前編で申し上げましたように、運慶の属する「慶派」は、興福寺を活動の拠点とすることから「南都仏師」の一流であります。もっとも「南都仏師」は「慶派」に留まりません。他に、所謂「定朝」直系とされる一派が存在し、運慶と同時代には「成朝(せいちょう)」なる仏師が「定朝」の嫡流と目されておりました。この人物は、鎌倉の地で頼朝が初めて建立した本格的な寺院である「勝長寿院」とも深く関わることとなる人物であります。今は、成朝が定朝の嫡流にあたることを一先ずご記憶して置いて頂ければ幸いです。少し歴史に詳しい方であれば、当時の中央における仏師集団として、「慶派」をはじめとする「南都(奈良)仏師」の他に、「院派仏師」「円派仏師」の二流があり、それぞれ京都を活動の拠点としていたことをご存知でございましょう。実は、この2つの流派もその祖を辿れば「定朝」に行き当たるのです。定朝の子と目される覚助を始祖とする一派が「院派仏師」であり(その名に“院”を通字とするものが多い)、定朝の弟子長勢の後継者が引き継ぐ一派が「円派仏師」であります(同様に“円”を通字とする仏師が多い)。因みに、院派の始祖となる覚助の次代にあたる、子息の一人である頼助の系統を「南都仏師」と称し、先程の定朝嫡流と目される「成朝」はこの系譜の後裔にあたります。この流派は、その名称が示すように奈良を活動の舞台としますが、これは彼らが藤原氏の氏寺である「興福寺」との関係性を強く有し、その造像に深く関わったことからの呼称であるようです。

 つまり、これらの三派が定朝の系譜をひく正系の仏師集団として朝廷から認識されており、京と南都の主要な国家的造営に掛かる造像活動をほぼ独占的に担うことになるのです。本日の主人公である運慶は「南都仏師」康慶の子であります。康慶は成朝の祖父に当たる康助(頼助の子)の弟子筋にあたるようであり、「南都仏師」の中では傍流となります(塩澤氏は単なる傍流とは言い切れぬものがあるとご指摘ですが)。ただ、その中で次第に康慶の一派が「成朝」一派を圧倒するようになります。すなわち一般的に認識される「慶派の台頭」「他派の圧倒」でございます。しかし、これは飽くまでも「成朝」一派からの優越であって、「院派仏師」「円派仏師」からの優越では全くありません。当然の如く、“嫡流”でありながら成朝一派の退潮は「南都仏師」以外の二派からも覆うべくもない状況にあったようです。同時に、ここで確認をさせていただきますが、少なくとも中央における朝廷・摂関家に関わる像仏活動における仏師の活動では、これまでよく言われてきたような「慶派」優位の状況は全くなく、記録からは三派それぞれに造像の依頼がなされていることが判明いたします。それどころか、常に筆頭として多くの重要な像仏を依頼されているのは「院派仏師」であることも。つまり、明治以降に言われ始め、今も基本的に引き継がれる「鎌倉時代に運慶によって切り拓かれた慶派の造像によって他派は圧倒された」との認識が、実際の史実とは相当に乖離したものであることに注意が必要です。つまり、慶派もまた、京都・奈良を活動の中心に朝廷・摂関家の造像活動を担う一流としての位置づけられていたのです。そして、鎌倉時代以降に、慶派による造像が取り分けて高く評価されてきたわけでもありません。少なくとも、それが喧伝され、どれもこれもが運慶作に仮託されるようになるのは江戸時代に入ってからであり(日本国内には自称“運慶作”がどれ程あるか勘定できないほどです)、明治以降に更に特定の優れた芸術家として認定されることになったという経緯があると考えられます。

 確かに、個人的な経験から申しても、運慶と認定される仏像には、他派の仏像を大きく越える感銘を与えられて参りました。しかし、その要因として、上述したように、一つは、明治以降の西洋芸術論の伝播の影響で、芸術家の「個性」を重視する傾向が一般的になったことで「運慶」の個性的な作品への称揚がなされることになったことが背景にあろうかと思われます(逆に「院派」「円派」による工房製作の仏像は旧来スタイルを墨守するマンネリズムに陥ったとの評価として跳ね返ることになりました)。二つ目に、運慶一派が鎌倉幕府関係の造仏に深く関わったことがあると思います。かつて「腐れ切った中央の貴族社会を、草深い地方から起こった健全なる精神を宿した武士が駆逐して新たな社会を構築した」なるマルクス主義的“階級闘争史観”に基づいた歴史認識が一世を風靡した中で、少なくとも、その初期において新興勢力との関係を唯一有した中央仏師集団「慶派仏師」と、これまでとは異なる清新な「作風」との関連性が大きくクローズアップされたことも大きいものと思われます。つまり、そこに「慶派」と東国武士団との関係性と鎌倉幕府の依頼に基づく造像活動が、象徴的に「下部組織が上部組織を駆逐して」「新たな社会と芸術とを創造した」との物語構成に都合よく収まったことは疑いないと存じます。少なくとも、当時も主流であった「院派仏師」「円派仏師」の坂東政権からの依頼に基づいた造像活動は、「承久の乱」以前の段階では、ゼロではありませんが慶派の“馬鹿目立”と比較すれば極々僅かにすぎないのですから。

 そして、その最も早い段階での繋がりが、北条時政との関係性に基づく願成就院における造像活動に他なりません。まず、そのことと幕府(頼朝)関係の造像との関係を紐解いてまいりましょう。伊豆国韮山の地に今も残る願成就院は、文治5年(1189)北条時政がその氏寺として開いた寺院であることが『吾妻鏡』等の記事から明らかです。そこには、現在国宝に指定される5体の仏像が伝来しますが、中尊を除く4体に納入されている銘札に、文治2年(1186)の年紀と「時政・運慶」の名が銘記されております。つまり、寺院造営の3年前の段階で造像依頼がなされ、納入まで及んでいたことが分かります。恐らく、時政の仏師選定に、頼朝自身は関わっていなかったものと想像されますが、ただし、頼朝もまた「南都仏師」との関わりを模索していたことも見逃してはなりません。何故ならば、文治元年(1185)に平家が壇ノ浦に散った後、父源義朝の菩提を弔うことを目的に、本拠地鎌倉で初めての本格的寺院として頼朝が造営した「勝長寿院」(南御堂)で、仏師として招聘されたのが「南都仏師」の「成朝」であったからです。この当時の像仏の主流派と目される「院派」が招聘されなかった背景には、おそらく彼らが京を活動の舞台としており、院を筆頭とする朝廷権力との競合関係が生じることも背景となっていようかと想像されます。つまり、南都仏師であれば院派・円派よりは接近しやすい環境にあったとするものです。しかし、それにしても、「南都仏師」の中で台頭してきた「慶派」ではなく、当時「南都仏師」中で退潮著しかった「成朝」が選ばれた背景を何処に求めたら宜しいのでしょうか。それには、中央で冷や飯食いを強いられている成朝が、新たな活路を開拓するため、頼朝に積極的にロビー活動を展開したことが背景となっていることが一因ではあります。その甲斐もあり、父義朝の菩提を弔う幕府直営事業としての造像を勝ち得たわけです。しかし、それ以上に、頼朝にも、成朝である必要性があったことが推定されております。それが成朝の有する「定朝嫡流仏師」なる由緒に対する、頼朝自身の強い共振に他なりません。つまり、頼朝の有する強烈なる「源氏嫡流」意識に、成朝の有する仏師としての由緒がピタリとシンクロしたことが伺えるのです。

 逆に、それ故、頼朝への忖度をもって、北条時政は嫡流「成朝」を避け、傍流の慶派への造像依頼を掛けたとの憶測も可能となります(依頼は勝長寿院の翌年になりますから)。しかし、おさえておくべきは、北条時政と慶派(当時の棟梁は運慶父の康慶です)との接点が、何時、如何なる形で成立したのかということです。よく知られているように、慶派への像仏依頼の前年、時政は「京都守護」として上洛し、守護(国地頭)、荘園・公領への地頭の設置する権限と兵糧米を徴収する権限を朝廷に認めさせるなど、実質的に「鎌倉政権の誕生」と称される歴史的な画期ともなる果実を朝廷から勝ち取っておりますので、その余勢を駆って運慶への像仏依頼とも考えられます。しかし、それは、「何故、南都仏師なのか??」の直接的な理由にはなりますまい。そこで注目すべきが、野口実先生の昨今のご研究により明らかにされてきた以下の事実であります。つまり、それ以前から北条氏は婚姻関係・養子縁組を通じて、中央政権の周辺はもとより、更には南都興福寺との人脈を有していたことであります。これまで、伊豆時代の北条氏は、支配領域も広大とは言えず小規模な弱小武士団であると考えられることが多かったのですが(大河ドラマでの登場も決まって田舎武士として描かれて参りました)、それは事実に反していることが分かってきたのです。野口先生が述べておられる以下の御説は極めて刺激的でございます。つまり、「北条氏が中央の情報に通じていたことについては、伊豆が坂東諸国よりも京都に近く、幇助の地が国府に近接し、伊豆国の水陸交通の要衝を締めることを理由としてきたが」、時政の父(乃至は祖父)の「時家がもともと京武者的存在であったのだから当然のことと言える」「特に大和国の在地勢力や興福寺との関係は重要」とのご指摘でございます[野口実編著『図説鎌倉北条氏』2021年(戎光祥出版)]。北条氏館跡の発掘からも“威信財”としての中国製陶磁器の破片が数多出土していることがそれを裏付けます。これで、今まですっきりとしなかった「慶派」への造像依頼も、すんなりと腑に落ちることとなりました。そして、東国御家人との慶派との関係は、その後に侍所別当となった三浦一族の有力者和田義盛へと拡大し、その造像は現在横須賀市芦名(後の戦国大名芦名氏の名字の地)の浄楽寺に伝わります。阿弥陀三尊像他の5体であります。胎内銘からは、文治5年(1189)に大仏師運慶と小仏師10名で造像されたことが判明します。更に、年月日は不詳でありますが、その繋がりは幕府内の有力者である源氏一門の足利氏にまで及んだようであり、文献資料等での裏付けはとれないものの、その作風から樺崎寺にかつて伝わった大日如来2体が運慶の手になる蓋然性が極めて高いことが指摘されております。なお、野口実先生は、この14日に『北条時政-頼朝の妻の父、近日の珍物か-』2022年(ミネルヴァ人物評伝選233)を上梓されました。北条氏と京・奈良との関係性についてもより詳細に述べておられましょう。早々に購い拝読に及びたいものでございます。

 しかし、これらは、恐らく北条氏を介しての繋がりから拡大した有力御家人への運慶(慶派)との関係でございましょうが、いよいよその幕府による公的な像仏活動へと拡大する機会が訪れることになります。それが、頼朝を大檀越とする「南都復興」事業における、慶派による大々的な造像活動に他なりません。治承4年(1180)12月、平重衡による「南都焼き討ち」に起因する東大寺・興福寺といった、仏法による国家鎮護を担った寺院の炎上という未曾有の事件が発生。その結果、毘盧遮那仏(大仏)を安置する官寺東大寺と、藤原氏の氏寺ではあるものの官寺に列せられる興福寺が焼け落ちることになったことはよく知られておりましょう(天平創建の大仏・大仏殿も焼失)。これに対する「南都復興」事業は、早くも翌年から着手されることになります。ここでは、東大寺復興に焦点を当てて参ります。因みに、この後に源頼朝が関わっていくのは東大寺の復興のみであり興福寺の復興には全く関わっておりません。それは頼朝が、興福寺は実際には藤原氏の氏寺であって、“国家”の一大事業とは認識していなかったことを示すものでございましょう。逆に、国家の一大事業としての東大寺再建に前のめりに関わっていく背景には、自身が朝廷とともに国家運営の主体となったことへの強烈な自意識が存在したものと考えられます。何故ならば、中世においては、「王法・仏法相依」なる意識が支配的であったからに他なりません。つまり、政治と仏教とは互いに支え合って国家を守護し維持することが期待されていたからであります。東大寺は、元来「総国分寺」として全国の国分寺を統括する寺院であり、正に「鎮護国家」の思想を体現する象徴的存在でもあったのです。そうした寺院の復興に携わる意義を頼朝が自覚しないわけはございません。つまり、頼朝の個人的信仰心もさることながら、極めて政治的な意図をもったパフォーマンスであったことが重要だと申せましょう。

 先にも触れましたように、「南都復興」における東大寺の復興は「南都焼き討ち」の翌年から後白河法皇の下で着手されておりますが、よく知られているように勧進聖「重源上人」による精力的な勧進活動を背景に、その後の20年間に大仏鋳造、大仏殿を筆頭とする主要堂宇の再建が進められます。しかし、それでは広大な東大寺再建は完結せず、重源上人の死後も営々と続けられていき、その期間は大凡一世紀間にも亘ることになります。従って、後白河法皇の没後は後鳥羽天皇(上皇)へ、承久の乱での後鳥羽失脚の後にまで継続する一大事業であったわけです。つまり、頼朝が大檀越としてこの復興事業に関わったのは、初期における大仏殿再建を中心とする「建久期の復興事業」を中心とするのです。そこで、後編では、頼朝が如何なる支援を行ったのかを、慶派仏師との関係性を中心に見て参りましょう。
(後編に続く)

 

 南都仏師「運慶」と造像活動から考える(後編) ―または「南都復興」と東国武士・幕府との関係性―

 

6月18日(土曜日)

 

 後編では、まず頼朝が如何なる支援を行ったのかを、慶派仏師との関係性を中心に見て参りましょう。『吾妻鏡』の建久5年(1195)6月18日の記事を以下に引用してみます。

 

 

丁巳。東大寺造営の事について、将軍家(頼朝)はさまさまに助成されてきた。材木の事については、左衛門尉(佐々木)高綱に命じて周防国で特に伐採させた。また二菩薩や四天王像などは、御家人に割り当てて造立するという。すなわち観音菩薩は宇都宮左衛門尉朝綱法師が、虚空蔵菩薩は穀倉院別当(藤原親能)が、増長天は畠山次郎重忠が、持国天は武田太郎信義が、多聞天は小笠原次郎長清が、広目天は梶原平三景時が、また戒壇院の造営は同じく小山左衛門尉朝政・千葉介常胤以下に命じられた。しかし、その造営がたいそう遅れているので、今日催促された。ただしそれぞれがひたすらに結縁を思い、功を遂げよとの御下知が先に出されている。ただ公事に従わなくてはならないとの思いから、もし怠けているようであれば辞退するよう、厳しく仰せを伝えられたという。


[五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡 6』2009年(吉川弘文館)]

 

 この記事からは、頼朝が「東大寺復興」の一環として、大檀越として大仏殿内の2体の大仏脇侍[観音菩薩像(宇都宮朝綱)・虚空蔵菩薩像(中原親能)]、及び四天王像[増長天像(畠山重忠)・持国天像(武田信義)・多聞天(小笠原長清)・広目天(梶原景時)]の合計6体を、上記分担で各御家人に命じていることが分かり、これは他の資料からも裏付けられます。造仏活動とは直接関わりませんが、我らが千葉常胤及び小山朝政の2人が戒壇院の造営を命じられていることも知られます(ここには天平創建時の塑像彫刻である四天王像の傑作が伝来していることもご存知でございましょう)。そして、『東大寺縁起絵詞』から、6体を担当した仏師が判明します。そして、それが全て「康慶一門(慶派)」に依頼されていることが注目されるのです。すなわち、観音菩薩像が「定覚」「快慶」、虚空蔵菩薩像が「康慶」「運慶」、四天王像は史料によって異同がありますが両脇侍を担った4名の慶派仏師が担ったことが確実です。坐像である両脇侍の大きさは約9m、立像である四天王像は約12mという巨像を4名で請け負っているのです。ここからも、彼らがそれに耐え得る相当数の仏師集団を抱え込む大規模工房であったことが窺えましょう。ただ、『吾妻鏡』の建久5年の記事は、作業が遅れていることに対する頼朝の各御家人への督促が内容であることに留意する必要が御座いましょう。従って、各御家人への下命があった時期は、建久5年6月を遡ることは確実です。恐らく、建久5年に完成した「中門」金剛力士(仁王)(「定覚」「快慶」の担当)の発注と同時に行われたものと推察できましょう。因みに、本稿の目的とは外れますので詳述はいたしませんが、頼朝の仕切りによって執り行われた、翌建久6年(1195)「大仏殿供養」は、頼朝自身が数万の武士達を率いて上洛し、東大寺での供養にも御家人達とともに参列するという一大デモンストレーションとして執り行われております。併せて、東大寺には頼朝による巨額の財政支援が行われております。すなわち、馬千匹施入、米一万石、金千両、上絹千疋の奉加などであります。御家人への財政負荷に留まらず、自らも巨額の財政的な支援をも行って大檀越としての威勢を誇示しているのです。しかし、そもそも、鎌倉政権主導で行われたこの「建久期再興」で、「慶派」が大々的に引き立てられたのは何故なのでしょうか。それは頼朝の意向だったのでしょうか。そして、よく言われるように、これを契機に「慶派」が「院派」「円派」を圧倒して造仏界に君臨するようになる……との認識が果たして適切なのでしょうか。

 そのことを探るためにも、幕府による「東大寺復興」への支援がどのように行われてきたのかについて確認してみましょう。幕府による支援は、一大イベントとして「建久期」以前にも行われており、それは一貫して、費用調達に資する所領面での支援と、大仏鍍金用を含む大量の黄金奉加、重源による勧進活動の支援、御家人への資材等提供の下命等々であります(御家人ではない奥州の藤原秀衡へ黄金進上を命じるよう朝廷に求めたりもしています)。その中で、注目すべきは、廬舎那仏(大仏)光背制作への2度に亘る大量の黄金奉加であります。そして、塩澤氏は、建久5年に始まった大仏光背を担当した仏師が、これまで余り注目されて来なかったが「院尊」が率いる院派仏師集団であることに注目すべきことを指摘されております。その理由として、この院尊がかつて源氏調伏を目的とした毘沙門天像造像に関わっており、そのことに頼朝が不快感を露わにしていることが『吾妻鏡』に記されていることにあります(建久2年)。逆に、その3年後の大仏光背の制作が院尊に依頼されていることに(その主体は朝廷であります)、頼朝が何らの抗議も加えないばかりか大量の黄金をもって支援をしていることに鑑みれば、少なくとも頼朝が仏師選定に深い関心を抱いていなかった証拠となると塩澤氏は想定されております。このことは、それに続く「建久の復興」で御家人に大仏殿内の両脇侍造と四天王像を命じた際、何れの仏師集団に造像を依頼するかについて、頼朝自身が強い関心を抱いていたとは考えられないということを図らずも示していることになります。また、もう一つ確認できることがございます。それは、同じ造像事業ではありますが、慶派仏師が一手に依頼を受ける大仏脇侍と四天王像の制作よりも、大仏本体に付属する「光背制作」の“格”が格段に高いことであります。つまり、当時の“格付け”通り、「院派」仏師の優位がここでも明らかだということになります。そして、このことは、これ以降の朝廷による京・南都の造仏活動においても基本的に揺るがないのです。つまり、「院派」を中核として、「円派」「慶派」の三主体に振り分けて造像依頼がなされているということです。逆に言えば、よく言われるような「慶派がこれ以降の造像活動を席巻する」といった事態は生じていないということが、ここからも透けて見えて参ります。

 そうであるとすると、建久期の造像活動で慶派を引き立てた主体は一体如何なる勢力なのでしょうか。そこで、浮上してくるのが、南都に深い人脈を有し、その関係を有し、その所縁をもって所領伊豆国の願成就院に慶派仏師の手になる造像を行った北条時政の存在でございます。そう述べると、建久期の東大寺復興に関わる造像に北条氏が選出されていないことの説明がつかないではないかとの疑問が呈されるかもしれません。確かに、それ以前に慶派との接触のあった和田義盛の名も、足利義兼の名も見えていないことも怪訝ではございます。ただし、考えなければならないことは、これだけ大々的な造像活動を行わせるためには、統括責任者の存在が不可欠であることです。ただし、それは記録には表れていないようです。しかし、予て存在する慶派との深い関係に鑑みて、その奉行として北条時政がそれにあたった可能性が大きいことを塩澤氏は想定をされているのです。そうであれば、統括責任者として、具体的な造像分担に割り振られていないことも説明がつくのではありますまいか。そして、当方もそれは如何にも説得力のある推定であると考えます。これだけの一大事業の仏師選定と全般の活動統括に、頼朝自身が関わっていないとするならば、それが可能なのは、これまでの経緯から推定しても、北条時政以外に考えることができないからであります。もっとも、仏師選定には最終的に頼朝の裁可を仰いでおりましょう。その際に頼朝を納得させる理由として示されたことが、これまでの実績(関東御家人との関係性と造仏活動、そして頼朝の関心外ではありましたが興福寺復興における活動)、及び勝長寿院造営で頼朝が鎌倉に招聘した「成朝」と異なり、彼ら「慶派」が「南都仏師」中で傍流であったことに求められましょうか。ところで、建久5年における各御家人への恫喝にも近い督促にも関わらず、両脇侍像・四天王像はずれ込むことになり、頼朝にとっての“ハレの舞台”である建久6年「大仏殿供養」には間に合うことはなかったのですが。余談ではございますが、この段階で制作された中門像2体を含む8体は残念ながら現存しません。よく知られるように、戦国期の永禄10年(1567)、東大寺大仏殿の戦いの最中に焼失しているからに他なりません。その時に、幸いに焼失を免れた東大寺南大門と金剛力士像は今日に伝わり、教科書では運慶・快慶の代表作として取り上げられていることは申すまでもございません。因みに、南大門の再建と造像は、建久期の再建より更に遅れる建仁2年(1203)のこととなり、この時には既に頼朝は没しております[正治元年(1199)]。もうひとつ、定朝の嫡流を自称する成朝の動向は、建久5年「興福寺供養」を境にして記録等に登場することが無くなります。その後まもなく亡くなったのでしょう。その段階で既に退潮著しかった「定朝」嫡流の命運は尽きたものと想定されます。

 運慶(慶派)のその後でありますが、決して造仏界を席巻するようなことはなく、京・南都を中心とした造像活動を担っていたことを先に触れました。朝廷としても、基本的に院派を優位としながらも、三派の共存を図るような造仏依頼をしていたことが読み取れるということでございます。しかし、「慶派」には、他の二派と異なった際立った差異がございます。それが、西国での活動と並行して、幕府との関係性に基づく東国における造像活動への関与を建久期以降にも継続するという、顕著な動向が見られることです。健保年間から承久年間にかけて、運慶は、源実朝の持仏堂本尊釈迦如来像(現存せず:京都で造像され鎌倉に送られたことが分かります)、現在横浜市金沢区の称名寺につたわる大威徳明王坐像(現存:胎内銘から実朝養母の依頼で大日如来・愛染明王の2体とともに作仏されたことが判明)、北条義時発願の大蔵薬師堂(現:覚園寺)薬師如来像(現存せず)、北条政子発願の勝長寿院五大尊(現存せず)等々であります。これらは記録に残るもののみであり、実際にはより多くの造像が行われている可能性がありましょう。その意味でも、北条時政との関係を嚆矢とする東国武士との関係性が、慶派仏師に新た造像活動の世界を広げたことは間違いありますまい。

 貞応2年(1224)「慶派」総帥である「運慶」の没後にも、摂家将軍のための造像に「慶派仏師」が活躍したことが確認されるなど、慶派と東国政権との関係性が維持されます。しかし、鎌倉中期以降となると、幕府関係造像活動は次第に慶派としての造像はすっかりと影を潜めるようになるのです。そして、これまで鎌倉での造像活動が殆どみられなかった円派、特に院派の進出が顕著になります。例えば、金澤氏の造営になる称名寺の釈迦如来像には多くの院派仏師が関わっていることが分かりますし、その他にも院派の活動が記録に現れております。これには、六波羅探題を度々務めた金澤氏と京との繋がりが想定されます。また、禅宗・真言律宗といった新興仏教が鎌倉で勢力を拡大したことも要因と考えられましょう(中国からの影響をうけた「宋風」彫刻の流行)。一方で、鎌倉に拠点を置く仏師集団の活躍が見られるようにもなります。16世紀半ばになると「鎌倉大仏所」を名乗る仏師があらわれます。千葉県八千代市の正覚寺に残る木造釈迦如来立像(「正身」仏とされる所謂“清凉寺式釈迦如来像”)の修理を担当した長盛は「仏師鎌倉法眼大蔵長盛」と銘を記しております。鎌倉を拠点とする仏師集団が形成され、関東の各地で造像活動に関わっていたことが読み取れます。一方、「慶派」は南北朝期になると活動の拠点を京都に移すようになり、以後「七条仏所」を称するようになります。そして、その活動は近世末まで継続されますが、明治維新後には衰微することになったようです。

 ここで少し、我らが千葉市域における「慶派」の足跡についても少しばかり紹介をさせていただきます。残念ながら、千葉氏と運慶(慶派)との関係を示す文書等の史料については管見の限り残されておりません。ただ、以前に触れたことがありましたが、本館の至近にあります「東禅寺」(現:曹洞宗~前:臨済宗)に明らかに慶派の息のかかった尊像が残されております。それが木造薬師如来坐像であり、当寺の本尊としてお祀りされております。『千葉市の仏像』1992年(千葉市教育委員会)によれば、「本像は市内はもとより県内の中世彫刻の中でも抜群の作行を示し、のみならず印相、構造に特色があって、鎌倉時代の彫刻史上に重要な作例に挙げられる」と評価されるように、大変なる優品だと存じます。当方も何度も拝観におよんでおりますが、その度にその美しさと神々しさとに圧倒されております。本書によれば、鎌倉時代前期の慶派の作風に連なるものとみなされ、他の慶派作と比較しながら1240年代頃の作としております。また、最も近い作例として伊豆「北條寺」阿弥陀如来像坐像があるとも。当寺は、伊豆に残る「北条館」の狩野川を挟んだ対岸(つまり「江間」の地)にあり、北条義時の創建をつたえております。阿弥陀像も重要美術品・静岡県重要文化財に指定されております。願成就院にも程近く、何よりも運慶(慶派)との関係性の深い北条時政・義時との縁の深い寺院であることに鑑みて、運慶周辺の次世代仏師の手になるものと推測できましょう。東禅寺像につきましては、ご住職のお考えもあり文化財指定はされておりませんが、充分にそれに値する貴重な尊像でございます。ちなみに、東禅寺創建は、嘉暦2年(1327)千葉介貞胤によるとされておりますので、造仏の時期とはズレが生じます。恐らく、他寺院に安置されていた本尊が、何れかの時期に客仏として本寺にもたらされたものと思われます。しかし、本像以外に、市内に明らかに慶派との関係性を示唆する像は伝わりません。ここで細やかなる宣伝です。詳細をお知りになりたい向きは、是非とも上記調査報告資料をお求めくださいませ。1冊5,000円となりますが、300頁弱の冊子で写真図版も豊富であり、極めて価値ある一冊でございます。本館で販売中であります。

 今回の本稿では、相も変わらずに長々と、運慶を中心とする「慶派」仏師と東国(鎌倉幕府と東国御家人)との接点を中心に見てまいりました。そして、その結節点となる人物が北条時政であることが想定できることも何となく御理解いただけたでしょうか。最後に、改めまして、塩澤寛樹氏の著作『大仏師運慶-工房と発願主そして「写実とは-』2020年(講談社メチエ)を皆様にはお薦めいたします。斯様な優れた一般書に2,000円以下で接することができるなど何という仕合せでございましょう。当方が述べてきた内容以外にも、タイトルに御座いますように、慶派彫刻の特色とされる「写実的」という側面が如何なる意味を指し示すものかを、仏教思想等をも援用しながら解き明かしていかれます。それが「生身仏」(現世に姿を現した仏)への信仰の高まりと、密教界で興隆する「本覚思想」(現実が既に悟りの世界であるとの仏教思想)との強い関係性でございます。これにつきましては、この場で取り上げる余裕はございません。これまで運慶を始めとする慶派仏師の特色と称され、教科書でも説明される「写実的」という“分かったようでよく理解できない”内容について明快にご説明されており感嘆仕切りでございます。これが絶対ということであるかは当方も何とも言えませんが、これまでモヤモヤしていた思いが初めてすんなりと腑に落ちたことは事実です。少なくとも、塩澤氏以上の説得力のある説明にこれまで出会った記憶がございません。また、塩澤氏の論旨は、すべて信頼できる資料による実証に基づいております。つまり、確実に言えることと可能性に過ぎないことを峻別されており、学問的価値が極めて高いものであることも申し添えておきます。すなわち、大いにお薦めする所以でございます。少なくとも、鎌倉彫刻、慶派、そして運慶に関心をお持ちの方にとっては必読の書であると確信いたします。

最後の最後に上記話題を外れた追伸です。北条氏関係の内容ですので、ここで取り上げさせていただきました。お恥ずかしながら、山本みなみさんの最新刊『北条政子』(NHK出版新書)で初めて知ったことであります。伊豆の国市韮山の狩野川に面する北条氏館跡の史跡名称は、正しくは「北条氏邸跡(円成寺跡)」であります。「北条氏邸跡」はさておき、括弧内の「円成寺」とは如何なる寺院なのかを全く知ることなく今日にまで馬齢を重ねてきてしまいました。この円成寺とは、元弘2年(1333)鎌倉の東勝寺にて北条高時らが自刃して鎌倉幕府が滅亡した後、鎌倉から退いた北条一族の女性が先祖所縁の地に建立した寺院であり、一族中の円成尼(安達氏娘で北条時貞側室で北条高時母)が中心となり、北条館跡地の寺院にて一族の菩提を弔った寺院とのことです。つまり、この「北条館跡」の地は、鎌倉時代の最初と最後とを象徴する場所ということになります。更に申せば、円成寺は室町時代にも尼寺として続き、江戸時代まで維持されていたことが分かっているそうです。実際に発掘調査の結果、その遺構も発見されているとのこと。いやはや、歴史は誠に奥が深い。「無知の知」ということでご容赦ください。更なる研鑽を重ねて参る所存でございます。
(完)

 

 

 戦後に市川の住人となった永井荷風に思う(前編) ―または 「荷風散人」という奇跡の存在へのオマージュ―

 

6月24日(金曜日)

 

 

 過日、休館日に教育委員会での事業ヒアリングがありました関係で午前出勤。午後に時間ができましたので、帰りがてらに市川に寄ることにいたしました。目的は二つあって、一つは、予てから入手したいと思っていたものの、あっという間に品切れとなり、2年以上もの間“入手不能状態”であった『市川市史 歴史編3. -まつりごとの展開-』が晴れて増刷となったことで、是非とも購入したかったこと。二つに、新築なった市川市庁舎内に移築・復元されたという“永井荷風終焉の書斎”を一度この目で見てみたいと思ったことでございました。その二つの目的を同時に叶えてくれるのが市川市役所でありますから、IR総武線本八幡駅から徒歩で向かったのでした。初めて目にする新庁舎は、房総往還に面した前庁舎と同地所に装いも新たに建築されており、街道を挟んで斜め前に位置する「八幡の藪不知」の昔ながらの眺めとの対比も至って面白いと感じたのでした。本稿では、訪問の目的のうち、戦後市川に居住していた永井荷風のことについて述べてみようと存じます。『市川市史』につきましても讃頌したきこと山のようでありますが、これはまた別の機会に。

 永井荷風(本名“壮吉”)は、明治12年(1879)、父“久一郎”と母“恒”との間の長男として東京小石川に生を受けました。永井家の系譜は「小牧・長久手の戦い」[天正12(1584)]で戦功をあげ家康に仕えることとなる永井直勝に遡る名家です。荷風の父はアメリカ留学の経験も有するエリート官吏でしたし、母は儒者鷲津毅堂の二女であるなど、豊かな経済的・文化的な裏付けを有する家庭に育ちました。しかし、荷風自身は、終生その在り方に激しく抗った人生を送ることになるのです。もっとも、その支援によって、明治の世にアメリカ・フランスへの外遊を果たすこともできたのですし、その経験が瑞々しい散文の美麗さに心震える名作『あめりか物語』と『ふらんす物語』という豊かな果実をもたらしたのです。また、先祖伝来の豊かな個人資産(殆ど動産資産でありましょう)こそが、戦後の混乱期にも、困窮することなく長い「独身者」としての生活と、誰に媚びることもない精神の孤高とを許した要因とも申せましょう。その点ではご先祖様さまでございましょう。

 「世を斜めにみること」「大勢に流されることなく自己の内面世界を守り抜くこと」「曲学阿世を蛇蝎の如くに嫌うこと」「反骨精神を貫くこと」……といった荷風の生き様を考えるうえで、その原典とも、分岐点とも言える重要な出来事として、明治43年(1910)「大逆事件」への遭遇を抜きにすることはできません。随筆集『麻布襍記』内に掲載される一篇『花火』(1919年)に、荷風は以下のように記しております。

 

 「明治四十四年慶應義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六臺も引績いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかつた。わたしは文學者たる以上この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレフユー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文學者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文學者たることについて甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の藝術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来やうが櫻田門で大老が暗殺されやうがそんな事は下民の與り知ったことではない-否とやかく申すのは畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立つたのである。
 [永井荷風『花火』1919年 『荷風全集』第15巻(岩波書店)1972年より]

 

 

 このことと関連して、戦後になって国家からの栄典として「文化勲章」を断ることなく受け取ったことが[昭和27年(1952)]、恰も荷風らしからぬ行動として「晩節を汚した」と評さることに、荷風に成り変わって弁明をしておきたいと存じます。これは、決して“贔屓の引き倒し”にも“逃げ口上”や“我田引水”にもあたりますまい。荷風は、決して国家に屈したのでも、耄碌して名誉欲に駆られた訳でもないのです。まぁ、慎ましい生活であり、相当なる吝嗇家としても知られていたものの、実際には驚く程の個人資産を有していた荷風のことです。その点に拘る必要は無かったのではないかとの思いもございますが、受賞の根本的な要因には「文化勲章」に「年金」が付属していたことがあったと考えられております。つまり、頭の中で算盤勘定が優先したためであって、国家から与えられる名誉には一切無関心だったと思われます。その証拠に、晩年に毎日のように出掛けては、しけ込んだ浅草六区の小劇場楽屋裏で、若い踊り子達にチヤホヤされることを無上の喜びとしていた荷風でありましたが(「ニフウ先生」と呼ばれてもそれを修正することなくニコニコしていたとの証言が残ります)、勲章をもらった途端に「こんなに偉い先生とは知らなかった」……と、踊り子たちが掌を反すかのように他所他所しくなったことで、「年金」に絆されて受賞したことを後悔したとの、実に荷風らしい微笑ましい逸話が残っておるほどですから。

 さて、大逆事件後の荷風の小説作品は、『すみだ川』(1909年)、『腕くらべ』(1918年)、『おかめ笹』(1920年)、『つゆのあとさき』(1931年)、『墨東綺譚』(1937)に到るまで、荷風の思いを反映したように、いずれも花柳界・カフェー・私娼窟等々等の日陰に生きる市井の人間模様を、しみじみとした情感をもって描きだす名作が目白押しであります。何よりも、その散文の信じがたいほどの美しさは更に琢磨され、多少下卑た内容であったとしても、たちまちの内に美的な世界に絡め取ってしまうような荷風の散文の姿は唯一無二の世界のように思います。当時「耽美派」と称されたことも宜なるかなと思わせます。一方、母方の祖父鷲津毅堂やその周辺世界を、大きな共感をもって描く史伝作品の傑作『下谷叢話』(1926年)がございます。明治という時代の潮流から超然とした姿勢で生きぬく漢詩壇の人々(大沼枕山等)を描こうとする荷風には、別の意味で現実世界から敢えて目を背ける創作姿勢がみてとれるように感じさせます。そして、荷風と申せば『断腸亭日乗』を忘れるわけには参りません。大正6年(1917)から死の前日まで営々と書き継がれた日録に他なりません。荷風は、昭和34年(1959)4月29日に終の棲家となった自宅の至近にある、晩年の贔屓筋食事処「大黒家」で“最後の晩餐”を済ませた翌朝、通いの女中に書斎で独り息絶えている姿を発見されるのです。『日乗』の「四月廿九日。祭日。陰。」が絶筆となりました。

 藪から棒で面喰らわれるかも知れませんが、当方にとっての「永井荷風」とは(決してその生き様に倣うことも、またそうしようとも思いませんが)、「人の生き方のひとつの理想型」を体現する人物なのであります。誰にも媚びることなく、荷風の内なる美的世界の琢磨を貫き通した、孤高の高峰のような生き様は、誠に以て見事の一言に尽きると思うところでございます。勿論、個人資産が可能とした生き様ではございましょうが(そのクセ相当にケチであったようですが)、資産家の誰もが出来る芸当ではございません。確かに、道義・道徳に照らして如何なものか……と思わせることも多々ある「毀誉褒貶」多き人物でもございますが、正直申して“憧れの存在”でございます。当方は同年の4月11日生まれでして(余計なことですが前日は現上皇ご夫妻婚姻の日)、たったの“20日間弱”ではございますが、同じ世界の空気を吸って生きることができたことを誇りにすら思っております。こうした生き方を貫いた荷風は、自らを「荷風散人」を自称しておりました。「散人」を辞書で引いてみると、一つ目に、「役に立たない人、無用の人物、無能な人。」、二つ目に「俗世間を離れて気ままに暮らす人、官途につかない人」、三つ目に「文人などが雅号の下に添えて用いる語」とあります。「荷風」とは彼の雅号の一つでありますから、元来は三つ目の意味でありしょうが、言うまでもなく彼の思いは他の二つにこそございましょう。現世からは一歩も二歩も身を引いて生きてはおりますが、現世を見る鑑識眼には一点の曇りもなく、恐ろしいほど的確に社会の欺瞞を暴き出してもおります。その意味では、「無用な人」とは決して自虐でにあらず、荷風にとっての旺盛な知的好奇心とルサンチマンとを覆い隠すための「隠れ蓑」だったのかも知れないと思うこともございます。何れにしましても、荷風は当方の心底に敬愛する人物に他なりませんから、敬意を払って、以下「荷風散人」と記述させていただこうと存じます。

 さて、これ以上荷風散人の生涯を描くとキリがなくなりますから、以降、時期としては戦中・戦後、場所としては戦後に移り住んだ市川と周辺の生活圏とを主たる話題とさせていただきましょう。荷風散人が市川に移住する前に居住していたのは、生地である東京でございました。直近の住居は麻生市兵衛町(現:港区六本木)にあり、荷風散人自らが「偏奇館」と名付けた邸宅でありました。命名の由来は、その外壁が下見板張“ペンキ”塗装であったことに、自身の性癖である“偏奇”とを重ね併せたものと言われます。屋敷内には洋書(原書!!)を始めとする萬巻の書が溢れ、それらに囲まれる優雅な独身生活を送っていたのです。しかし、それも昭和20年(1945)年3月9日が最後となりました。当日と翌日の『断腸亭日乗』の記事の一部を引用してみましょう。文字を追っていくと、最初に向き合わされることが、焼け落ちる「偏奇館」を最後まで見届けようとする、荷風散人の執着心が一体何処から沸き起こっているのかという思いでございます。同時に、散人のものする日本語散文が斯様な悲劇を描くに際しても、如何に力強さと洗練された美しさに彩られていることへの驚嘆と畏怖の思いにも駆られます。

 

 三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。火は初長垂坂中ほどより起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目面通りに延焼す。余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革鞄を提げて庭に出でたり。谷町辺にも火の手の上るを見る。また遠く北方の空にも火光の反映するあり。火星は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ。余は四方を顧望し到底禍を免るること能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通に走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難かるべしと言ふ。道を転じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり。時に七、八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出て溜池の方へと逃しやりぬ。余は山谷町の横町より霊南坂上に出て西班牙公使館側の空地に憩ふ。下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る。荷物を背負ひて逃来る人々の中に平生顔を見知りたる近隣のひとも多く打ちまぢりたり。余は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもやや知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドスペルゲル氏褞袍にスリッパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ。崖下より飛来りし火にあふられてその家今まさに焼けつつあり、君と家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて来李先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てて逃来りし由を告ぐ。余は五、六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の木の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず。唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上少なからぬ蔵書の一時に燃るためと知られたり。 (後略)

 三月十日。(中略) 昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及霊廟も烏有に帰す。明治座に避難せしもの悉く焼死す、本所深川の街々、亀井戸天神、向嶋一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりといふ。午前二時に至り寝に就く。灯を消し眼を閉るに火星紛々として暗中に飛び、風声啾々として鳴りひびくを聞きしが、やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠におちぬ。

[永井荷風『摘録 断腸亭日乗(下)』1987年(岩波文庫)]

 

 如何でございましたでしょうか。極々一部分ではございますが、ご一読いただければ『断腸亭日乗』が単なる“日々の記録”ではないこと、荷風散人のもう一つの「作品」として屹立していること、いや、それどころか明治以降における“日記文学”の極北と称されることにご納得いただけるものと存じます。当方もそのことに一寸の疑いもございません。特に、以上に引用した部分など、まるで鴨長明『方丈記』も斯くや……と思わされるほどの迫真性に満ちております。描かれる内容もさることながら、それを力強く、しかし一面で美しさを損ねることなく描写していく、その文章の手腕に瞠目以外の言葉が見つかりません。勿論のこと、本作品は荷風散人の生前に世に出ることはなく(しかし荷風が膨大な日記をものしていることは周知の事実でありました)、当方の記憶に間違えがなければ、その全貌は、散人の死後に岩波書店にて編まれた『荷風全集』全29巻[昭和38年(1963)]で日の目を見ることとなったのだと存じます。当方は第2期配本[昭和47年(1972)]の全集を入手することが叶い、今でも生涯の宝とするものであります。その後、同じく岩波書店から『断腸亭日乗』のみが抜き出されて単行本化もされましたが、現在では岩波文庫で上下巻の摘録本が刊行されております。その全貌は膨大なものですから、ご興味がございましたら、まずはこちらからどうぞ。

(後編に続く)

 

 戦後に市川の住人となった永井荷風に思う(後編) ―または 「荷風散人」という奇跡の存在へのオマージュ―

 

6月25日(土曜日)

 

 前編後半で記した「焼け落ちる偏奇館を最後まで見届けようとする、荷風散人の執着心が一体何処から沸き起こっているのか」との思いでございますが、小生は、それが、荷風の中にあった“書物の中の仮想現実”とも言うべき「桃源郷」が脆くも崩れ去った「絶望」の瞬間でありながらも、それにも関わらずその現実を“しか”と自らの目に留めようとする「作家としての矜持」との、“麻の如く”に交錯する精神の葛藤から沸き起こっているように思えるのです。そのことが荷風の記す散文に、畳みかけてくるような切迫感と、それにも関わらずどこかしら「諦念」とも思えるような「冷静」との同居とをもたらす要因ではないかと推察するものでございますが、皆様は如何お感じになられましたでしょうか。自宅も愛する書物をも全て失った後、荷風散人はそれぞれの地での罹災を繰り返しながら、知人を頼って東中野、明石市、岡山市と転々とし、岡山では疎開していた盟友でもあった谷崎潤一郎の厄介にもなっております。そして、終戦後の9月に杵屋五痩(大島一雄)一家の疎開先であった熱海を経て、昭和21年(1946)1月16日に現JR市川駅に降り立ったのでした。

 市川での生活は京成菅野駅北側にあった、従弟で邦楽家の杵屋五痩(大島一雄)一家の借家での間借生活として始められました。しかし、同家のラジオ・三味線の音に耐え切れず、翌22年1月からは近くのフランス文学者小西茂也一家の一室を間借することになります。しかし、その部屋での荷風散人の傍若無人な自炊生活に小西一家は困惑することになります。結果として2年余りで共同生活は破綻します。そもそも、荷風散人の徹底した個人主義と協調性を強いられる生活との親和性とは、水と油の関係でしかありえないのだと思います。結果として昭和23年の年末からは市川市内に古家を借りての独居暮らしとなります。そして、凡そ9年余り後の昭和32年(1957)に、結果として終焉の地となる場を求めて新築し、3月27日から昭和34年4月30日までの約2年を、市川市「八幡」の地で過ごすことになります。従って、今回、市川市役所内に移築・保存されることとなった荷風散人の書斎とは、この家屋の一室に他なりません。

 市川市役所新庁舎内に移築・復元された件の「書斎」でございますが、新築物件の初々しい匂いも漂う、広々とした1階ロビー空間の奥まったところに小さく鎮座しておりました。もとより建物自体の移築ではなく家屋内の一間のみの移築でありますから、小さくて当然であります。説明文を読むと、柱や鴨居等の構造材、建具の襖やガラス窓、および建て付けのガラス戸付書棚等は実際に用いられていたモノのようです。畳敷の和室に、散人の生前の生活を示す、和机と座布団(机上には硯・筆、鉛筆等の筆記用具、開いた原稿用紙や書籍等々)、安っぽいアルミ製薬罐の載った火鉢、そして書棚内には近年刊行の荷風関連書籍が配架されておりました。また畳上にも図書が彼方此方に置かれております。ただ、それらの遺品は全てレプリカとのことであります。移築前の書棚の写真を見ると、この戸棚には荷風の尊敬していた「森鴎外全集」と「幸田露伴全集」が見えます。また自身の作品(戦前刊行された春陽堂版の荷風全集あり)も当然のように集積されております。更に、偏奇館と共に焼亡したであろうゾラやモーパッサン等のフランス語原書も三分の一ほどを占めているのも確認できます。戦後に改めて買い求めたモノで御座いましょう。因みに、散人は戦前までの作品は原稿用紙に筆を用いて潤筆(筆ならではの表現)、戦後になって鉛筆を使用するようになっております。また、荷風がこよなく敬愛して全集を読み込んでいた幸田露伴も戦後に、当時荷風が居住していた市川菅野に転居してきました。昭和22年(1947)物故の際には、散人はその邸宅前まで脚をはこび、門外から密やかに露伴への別れを告げております。

 この部屋での散人の生活の様子は、当時撮影された写真から判断するに、復元された書斎の雑然さを遙かに凌駕する猥雑さであります。畳上に直に置かれた七輪を用いて自炊をしていたこともあって、畳には焼け焦げや摺り切れが目立つなどの痛みが甚だしいものです。戦前にお洒落なダンディズムで知られた荷風散人でしたが、着衣にも頓着することもなくなったものか、特に室内では相当にだらしない格好であるように見えます。そうしたこともあってか、余程親しい人でもない限り室内に他者を招き入れることもありませんでした。気が向かなければ、原稿を取りに来た編集者にでさえ、自ら「荷風先生は今留守だ!」とどやしつけて追い返したとの伝説も残るほどです。しかし、この書斎に脚を踏み入れて生前の荷風散人と直接に対面したアメリカ人がおり、その記録が残されております。その人物が、日本文化にこよなき愛情を抱き、後に日本国籍をも取得されることになる日本文学研究者ドナルド・キーン(1922~2019)に他なりません。おそらく、当該文章にも記されているように、代表作の一つ『すみだ川』を英訳したキーン氏に、散人が興味をもったことが契機だと思われます。貴重な記録でありますので以下に引用させていただきます。最晩年の荷風散人の姿と書斎の様子とを彷彿とさせましょう。なお、この文章は市役所内の復元書斎にもパネルで紹介されておりました。因みに、移築復元書斎の脇には等身大の永井荷風像があり、少々趣味が悪いとは思いましたが、その偉丈夫な姿には驚かされました。身長175cmほどの当方が見上げる程ですのでざっと185cmはございましょうか。写真で見るより遙かにがっしりした体躯に感銘を受けた次第でございます。

 

 

 永井荷風とは一度だけ会ったが、それも一時間足らずだった。それに、その時、私はひどい二日酔いで、何か意味の通ったことを言うことはほとんど洲可能だった。私は彼がどんなに気難しい人か前もって知らされていた。つまり東京以外で生まれた人には話しかけないとか、門下の者にしか分からない、一種の暗号を使うとか、外国人を見ただけで姿をかくしてしまうこともあるとかいうたぐいである。で、車が東京を出て千葉に向かう途中、私は荷風先生に言おうと、面白い意見を考えようとしたが、あまり頭がぼんやりしていたので、大した成果はなかった。
私は少し前に「すみだ川」の翻訳を出していた。その前年、これでかなりの間日本ともお別れだという旅の飛行機の中で、文庫本で「すみだ川」を読み、その美しさに心を奪われ、涙が出て来た。その時の体験から翻訳へとかられたのだった。頭さえすっきりしていたら、荷風先生の文体が、いかに、日本で最も私をたのしませてくれたものの精髄と感じられたかを言って見せることができうのだがと、その時私は思った。
自動車が止まって、私たちは表札のない小さな家へと細い小道を歩いて行った。私の友人が前を歩いた。私たちは家に上がって荷風先生を待っていた。日本人はよく、きたない所ですがと自分の家をけなして言うが、荷風先生の家はこうした表現が適切でもあろううかと私が感じた最初の家だった。しばらくして荷風先生が現れた。着物をだらしなく着、前歯のかけたその顔は非常にみにくく見えた。ところが一度彼が語り出すや、こうしたほかの印象はすべて消えてしまった。私はあんな美しい日本語というものを聞いたことがない。彼の言ったことの内容を正確に思い出せないのが残念だが、私はあの言葉づかいと話ぶりを忘れることはないだろう。彼の、なにか古風な言葉づかいのために、その内容がすべて覚えられるように思えた。あれと比較できるほどの優雅さで英語を話すのは、私の経験ではバートランド・ラッセルだけだ。五官はぼんやりしていたが、私は強いよろこびを感じた。荷風先生に興味を抱かせるようなことが何も言えなくても、そんなことは全く問題ではないと思われてきた。耳を傾けているだけで十分だった。

[ドナルド・キーン『日本の作家』1972年(中央公論社)]

 

 戦後に、市川の人となった荷風散人でありますが、京成八幡駅から京成電車に乗って頻繁に浅草に脚をはこんでおります(当時は京成線の終点は未だ押上駅でしたが、散人が1年半ほどの命脈を保ち得たならば、都営地下鉄が浅草橋駅まで開通して京成線と乗り入れすることで浅草まで直行できることを喜んだことでありましょう)。事実、戦後の『日乗』には「午後浅草」の記事が頻出しております。食事は、殆ど贔屓の店舗で済ませております。洋食「アリゾナ・キッチン」(近年廃業されました)、「天健」(日乗には“天竹”と記されます。具沢山の掻き揚げ天丼が名物で、荷風の食事姿の写真が飾ってありましたが、あるときに近くを通りかかると既に更地になっており、近くの方に確認したところ閉店されたとのこと。残念です)、蕎麦の「尾張屋」(こちらは現役で、食事する荷風の写真もあります)等々であり、しかもその座席は常に同じだったとの証言が残ります。『日乗』を繰れば、戦後の散人の外出先は、浅草の他に銀座も頻出しております。そこでの荷風は、劇場に出入りして踊り子との束の間の会話を愉しんだり、映画もよく鑑賞しております。映画のほとんど全ては洋画であります。特にフランス映画を好み、国内での上映作品は殆どみているものと思われます。若き自分のフランス滞在を思い返す縁としていたのでございましょう。銀座で晩餐・飲酒に寄るお気に入りの店舗として名が挙がるのは、「萬茶亭」「フジアイス」「きゅうべる」「バー・マンハッタン」ですが、当方は銀座には全く暗いので、これらの店の消息については知るところがございません。

 荷風と云えば、『日和下駄』なる、古き良き江戸の風物を訪ね歩く散策記の名品を残していることでも知られます[大正4年(1915)]。これぞ、当方も偏愛する「ブラタモリ」の先駆とも称すべき作品でありましょう(斯様に書いて、改めて荷風散人とタモリとには何処かしら共通項が多いような気もしてきました)。その散策の範囲は、市川への転居によって、戦後は東京から千葉県内へも広がっていくことになります。とりわけ、市川市内の風景に、近代化によって東京から失われつつあった向島界隈等の墨東(隅田川左岸)風景を重ね合わせているように感じます。戦前の風情の残る真間川周辺の田園風景と日々移りゆく季節の花々を愛で(荷風「思はずも また見る真間の 桜ばな さすらひの日も 三年過ぎたり」)、国府台からのぞむ江戸川と東京低地の景色を「眺望絶佳」と記し、時には真間川をくだって行徳から浦安にまで脚を伸ばしております。また、京成電車や省線(現JR)を用いて船橋・千葉まで脚を伸ばしていたことが『日乗』の記事から判明いたします。そして、由緒ある神社仏閣(弘法寺・手児奈堂・妙行寺・中山法華経寺等々)を巡り、時には新たな史跡を見いだしたりもしております。現在は船橋市指定文化財となる「葛羅之井」なる名泉の旁らに建つ碑文がその一例です。本碑の存在は当時殆ど忘れ去られておりました。散人は、そこに敬愛する太田南畝の筆になる碑文を見出して驚喜しております[『葛飾土産』昭和25年(1950)]。当方など、散人のその心の動きに大いに共感致します。それらは、『断腸亭日乗』や戦後の作品にも写し取られておりますので、是非ともお手に採られることをオススメいたします。因みに、大した記事ではないので悩みましたが、我らが千葉市内に脚を踏み入れた『日乗』の記事が2カ所に御座いますので引用して御紹介致します。未だ戦災の余燼燻る千葉市内の様子を、僅か乍らではございますが感じ取れましょうし、埋立前の稲毛浅間神社からの東京湾の光景を荷風も目にしていたことに小生としましては感銘を受けた次第であります。

 

昭和二十一年十二月初六
快晴、微風あり、正午省線電車にて沿道の風景を見んがため千葉に至る、市街焼亡の後バラック多く建てられおでん汁粉を売る、京成電車にて海神に戻り凌霜庵にて執筆例の如し、帰途名月皎々たり、
昭和二十九年三月初三
陰、午後市川税務署に至る。国鉄沿線の梅花を見むとし電車にて千葉に至る。バスにて千葉郊外より稲毛の海岸に至る。海岸の岡に松林あり。林下に小祠あり。浅間神社なるが如し。房総の山影歴々たり。歩みて京成電車停留場に至るに来合わせたる電車押上行なりし故浅草後援に往き六区の天竹に飰(はん)す。


[永井荷風『断腸亭日乗』~『荷風全集 第24巻』1973年第二刷(岩波書店)]

 

 さて、市川市役所を後にした当方は、幸いに時間もあって、しかもお日様も高くにある初夏の陽気にも絆され、荷風散人を気取って荷風散人“終焉の地”にも脚をはこんでみることにいたしました。恐らく再訪するのは30年程振りであると思います。京成電鉄の京成八幡駅からほど近い、細い路地の奥に位置する荷風散人の邸宅跡には、現在もご遺族の方がお住まいです(荷風には実子はおりませんので、今お住まいになられていらっしゃるのは晩年にとった養子の後裔の方となります)。当方が以前に拝見したときの平屋とは異なり瀟洒な二階建の建物に変わり(書斎が移築されたのですから当たり前です)、その昔「永井」とあった表札も「NAGAI」と変わっておりました。しかし、敷地も門の場所も全く変わっておらず、その昔に初めて拝見した荷風散人終焉の地で感じた何とも表現しようもない感慨が蘇ってきて、歳の所為か目頭が熱くなりました。荷風が最後の晩餐をとった「大黒家」も閉店して久しくなりました。彼の大黒家での晩年の食事は、カツ丼・お新香、それにお銚子1本が定番だったそうであり、昭和34年4月29日に食した最後の晩餐もそれであったとのことです。

 30年ほど前の大黒家は、未だ荷風の時の儘の木造店舗であったと記憶しております。荷風の注文する定番メニューが「荷風セット」となっておりました。本来であれば、荷風に私淑する身としては、迷わずにそれを注文するのが本筋ではございましょうが、当方はカツ丼が余り好みではありません。斯様な次第で、その際には天丼でお茶を濁して荷風散人を偲んだものでした。もっとも、お銚子一本は忘れずにつけてもらいましたが。その後に、鉄筋の建物に新装した大黒家でしたが、残念ながら平成29年(2017)6月を以て店を閉じました。跡地と建物は大手学習塾が買い取り、現在「大黒家」の看板もそのままに地域学習施設として活用されております。荷風散人を気取って申せば、文化的価値になどまったく無関心な役人よりも、遙かにそのことを弁える私企業の英断に心からの喝采を送りたく存じます。しかも、荷風と大黒家との関係を説明する心温まる説明看板まで設置されております。何という行き届いた心配りでございましょうか……。勿論、ここで申し挙げているのは極々一般論に過ぎません。少なくとも、当の市川市には全く当てはまらぬ事は自明でございましょう。何故ならば、申すまでもなく、荷風の書斎を移築復元、『新編市川市史』刊行等々に傾注されるなど、ホントウに文化行政に厚い地域の歩みを大切にされる地方公共団体だと確信するからでございます。まぁ、シャワー室付市長室やら、高級電気自動車の公用車導入などのゴタツキはございましたが、このこと以外は「須く市川市を手本と仰ぐべし……」と当方は存じ上げる次第でございます。

 

 

 

 源頼朝挙兵時における北関東武士団の動向について(前編) ―または 「宇都宮朝綱と平貞能」外伝―

 

 

7月1日(金曜日)

 

 今日から7月に入ります。既に6月27日(月曜日)に関東では梅雨明けしたとの報道がありました。何でも観測史上「最短の梅雨」であるとか。もっとも、その代わりに5月には気持ちのよい初夏の陽気に出会うこともできず、連日のどんより天気続きでありましたから、差し引き相殺すればトントンというところなのでしょうか。しかし、未だ6月末だというのにも関わらず、真夏の陽射しが無遠慮に照り付け、街は途轍もない猛暑の巷と化しております。週間予報を拝見しても、この後の南関東では“雨マーク”は一つも発見できませんでした。「空梅雨」は、確かに通勤等での厄介は少なくて大いに助かりましたが、それでも国内全体のことを考えれば一概に「良かった」とは申せますまい。世界情勢による食糧流通の滞りと、それに伴う食糧価格の高騰に鑑みれば、今後の国内作物の収穫状況等々が懸念されるのが正直なところでございます。また、水不足も懸念されると報道されておりましたし、早々に訪れた猛暑で電力供給の逼迫も憂慮されるところでございます。しかし、それらの背景にある、長引くロシアによるウクライナ侵攻の問題、昨今世界的にじわじわと増加に転じるコロナウィルスやインフルエンザウィルスの存在など、世界情勢もまた不安定要素に溢れております。改めまして、自らの行動について引き締めて参らねばならないと深く感じております。特にコロナ禍につきましては、何時の間にやら「人類にとっての未曾有の危機」なる意識が社会全体から薄れているように感じます。明るい希望を抱くことは何よりも重要でありますが、それがイージーゴーイングにすり替えられることがあってはならないと存じます。拙速は思わぬリバウンドを産み出す危険性を内包することを忘れてはなりません。慎重を期することが求められましょう。

 こうしたなか、当方が本館への勤務を仰せつかってから3年目にして、初めてこの地で「鶯(ウグイス)」の聲を耳にすることになりました。そして、6月半ばに気付いてから、毎日ではございませんが、本日に到るまで頻繁に美しい囀りを屡々耳にいたします。政令指定都市の中心部であっても、この「亥鼻山」が少しは自然に恵まれているお陰でございましょう。しかし、これまで2年間には、全く出会うことはありませんでしたから、驚きと嬉しさとが同居する気分でございます。燕も子育てを終えて、ぼちぼち旅立を迎える砌となりましょうから、誠にもって“ウェルカム”の思いで一杯でございます。ちょうど初夏の頃が彼らの繁殖期にあたりましょうから、餌を追いながら森のある周辺部から木々を伝って行動範囲を広げてきたのかもしれません。彼らは雑食性でありますが、子育ての時期には主に昆虫や蜘蛛といった小動物を捕るそうです。余計な御世話でしょうが、広い「青葉の森」ならばいざ知らず、果たして「亥鼻山」が“育児環境”として適切なものか不安がないとは申せません。もっとも、「青葉の森」からここまでは、千葉大学医学部の木々を伝ってくれば、連中にとっては“お茶の子さいさい”の移動距離にすぎますまい。場合によっては行き来も可能な新天地となったのかもしれません。しかも、その囀りは、ナカナカに堂に入ったものです。俗に言うところの「谷渡り」も、通常の“ホーホケキョ”も(よく聞いていると幾つかの音程を使い分けているようです)も、幼鳥のような“たどたどしさ”とは無縁でございます。彼らも親や仲間の囀りを耳にして練習に励み、次第に上手に鳴けるようになるからです。鶯の寿命がどれ程のものか、寡聞にして知るところではございませんが、なかなかに「練達の士」であることは間違いありますまい(囀るのは雄のみだそうですから“士”で間違いないしょう)。

 当方の幼少期、東都の場末にあたる我家にも、餌を求めて幾種類かの鳥たちがやって参りました。もとよりごちゃついた街中ゆえに、やってくる鳥類の種類も多種多様ではありませんでしたが、亡母が小鳥好きであった関係もあり、見慣れぬ鳥が来ると、小林桂助『原色日本鳥類図鑑』(保育社)を紐解いては、如何なる種なのか特定するのが楽しみであったことを懐かしく想い出します(外函背表紙が真っ黒になった本書は今でも大切にしております)。小鳥で言えば、賑やかな「雀」たちの群れは勿論、凛とした囀りの「四十雀(シジュウカラ)」、鶯よりずっと濃い緑色で眼の廻りだけ白い「メジロ」(電線等で“押し合いへし合い”して群がることから「メジロ押し」の語源となりました)、また、ちょっと大きめの連中では、冬になると真っ赤なアオキの実を摘まみにやってくる「ピーッ」という鋭い聲を発する「鵯(ヒヨドリ)」、地中の虫でも狙っているものか、地面を用心深く歩む「鶫(ツグミ)」が、頻繁にやって来たものです[その聲を聞いた記憶がありませんが、何でも夏になると全く聲を発しなくなることが“つぐみ”の名の由来ともいわれます。そうなると当方のよく目にした冬には何等かの聲を発していたのかもしれません]。また、「烏(からす)」といっても「ハシブトカラス」と「ハシボソカラス」がいることも初めて知ったのもその頃のことでした(嘴の形状が異なりますからすぐに判別できます)。しかし、「鶯」は稀に目にするだけの珍鳥でありました。しかも、出会えても不思議にその囀りを耳にした記憶がございません。出会った季節の関係もあったのかもしれません(一年中“ホーホケキョ”と鳴き散らしている訳でもなさそうですから)。如何せん、その姿形は「名は体を表す」に反し、「ウグイス色」から思い浮かべる色合いとは相当に異なる地味な緑色で、しかも雀と同じくらいの大きさですから、木々に紛れて目につきにくい野鳥なのです。この「亥鼻山」でも「聲はすれども姿は見えずで……」でございます。

 かような小生が、鶯の聲に頻繁に接することになったのは、偏に就職で千葉市内に居住することとなり、自然豊かな学区を有する学校が初任校であったからに他なりません。それが千葉市立更科中学校でありました。そもそも、当時は、学区全域が「自然保護地区」かつ「市街化調整区域」であったこともあり、素晴らしい自然が息づいておりました。今ではどうなのか知りませんが、当時は学校の近くで野兎・鼬・狸などの野生動物をよく見掛けましたし、裏の小川には野生のメダカも棲んでおりました。もっとも、市街地とは無縁の環境でありますから、当時から千葉市内で最も生徒数の少ない学校でもありました。当時下宿先からバス通勤でしたが、交通の便は頗る悪く、一本乗り過ごすと次の便は1~2時間後となりました。今では路線そのものが廃止されてしまいましたが、京成千葉駅(現:千葉中央駅)から八街駅行の路線を利用し、「御殿前」(だったと記憶する)バス停で下車。畑と林の中を抜けて職場まで通いました。その途中の林で、姿はちっとも現さないのですが沢山の鶯が囀っておりました。当方は、その囀りが「求愛行動」であると思っておりましたので、ちょっとした悪戯心も手伝って、よく口笛で囀りを真似してお返しをしておりました。そうすると、かならず、鶯からも“返信”があるのが楽しくて、それ以降の日々の日課となりました。小生にとっては、若い頃の楽しい想い出のひとつでもあります。先日、こんな話題を職場で披露したところ、鶯の囀りとは「自身の縄張りに闖入した他者を威嚇する」ためのものであると指摘をうけたのです。当方にとっては正に「青天の霹靂」とも申すべき知見であったのです。そうであるとすれば、小生の行いとは鶯にとって全くの迷惑行為に他ならないことであったことでございましょう。いやはや、40年を遡る自らの姿が全くの「勘違い野郎」のそれであったことを知り、今更ながらに何とも気恥ずかしく、複雑な思いに駆られた次第でございます。

 さて、今回は、現在開催中の千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』からの話題とさせていただきます。本展も残すところ10日程となりました。今回取り上げている7名の御家人のうち、小生の担当は「宇都宮朝綱」でございましたが、如何せんパネル1枚という限られたスペースに説明文と資料とを収めねばならないこともあり、割愛せざるを得ない内容は数知れず、また記載しても充分に説明を尽くすことができない憾みが多々ございました。従って、今回は北関東における有力武士団の動向を、宇都宮朝綱を中心として改めて再検討をさせていただくとともに、朝綱との忘れ難き逸話を残す平家政権内の人物、平貞能(たいら の さだよし)との関係について少しばかり掘り下げてみようかと存じます。つまり、本展示の「外伝」なる内容となりましょうか。

 パネルにも記載いたしました通り、下野国を本拠とした有力武士である宇都宮朝綱は、関白藤原道兼の後裔という血脈を有し、度々上洛しては「鳥羽院武者所」「後白河院北面」として仕えるなど(『尊卑分脉』)、所謂「京武者」として当時の東国武士では類を見ない高い地位を誇っておりました。斯様な中、御存じの通り治承4年(1180)8月伊豆国で流人であった源頼朝が挙兵したのでした。この時、朝綱を始めとして畠山重能(重忠の父)、小山田有重らも上洛中であり、計らずも京の地で予期せぬ動乱の渦中に巻き込まれることとなるのです(小山政光も大番役として在京しておりました)。申すまでもなく、当時その地で政権を牛耳っていた平家一門にとって、彼らが坂東の地に戻ることは危険視されたことでありましょう。実際に、彼らは帰国することを許されず、京に留め置かれる処遇を受けることになります。その後の頼朝の動向を述べることは差し控えますが、坂東の地では頼朝に付き従う者と平家政権への忠義を尽くそうとするものとの衝突が、各地で展開することになることは申すまでもございますまい。

 そして、動乱は坂東から、平氏政権へ影響力の強い東海道へ、更に信州・越後・北陸道へと「燎原の火」の如くに拡大し、木曽義仲をはじめとする全国に散った源氏勢力をも巻き込んでいくことになります。何よりも、関東の北方にある奥州における藤原氏の動向も不気味でありました。従って、宇都宮朝綱にとっては、何を措いても坂東の地に取って返したい思いで一杯であったことと推察いたします。何せ、宇都宮は奥州への玄関口。奥州藤原氏が何等かの軍事行動を起こして南下すれば、真っ先に蹂躙されるのが、自らの本領である可能性が大きいからであります。按ずるに、朝綱にとって、少なくとも当該時点において最も大きな関心事は自らの本領と一族の行く末であり、一介の流人に過ぎない頼朝との関係は左程に大きな案件ではなかったのではないかと推察するものでございます。

 こうした中、寿永2年(1183)常陸国で兵を挙げたのが、頼朝の叔父にあたる志田義広であります。義広は、下野国の足利綱俊・忠綱父子(藤姓足利氏)と連合、約2万の兵を集めて頼朝討滅を掲げ常陸国より下野国へと進軍しました。その挙兵には、義広による鹿島社所領の押領を頼朝に諫められたことが動機となっていたとされます。また、義広が直接に鎌倉へ向かわず兵を西に進めた背景ですが、一つに藤姓足利氏と同族であるものの所領を巡って対立関係にあった小山氏への対処が必要であったこと、二つに上野国に勢力を伸ばしていた木曽義仲との連携を図る目的があることを想定すべきでございましょう。事実、この後に形勢が不利になると、義広は義仲の下に奔りその下に合流することになるのですから。この時に、下野国でこれを迎え撃ったのが小山一族や宇都宮一族等であり、所謂「野木宮合戦」で義広陣営を撃破することになります。その結果、同じ下野国の足利義兼が「漁夫の利」とも言える福利を得たことは数回目の本稿で述べたとおりでございます。まずは、以下『吾妻鏡』に記された当該記事を引用させていただきます。

 因みに、この志田義広の挙兵について、『吾妻鏡』では治承5年(1181)2月の出来事となっておりますが、故石井進氏の研究により、現在では寿永2年(1183)の出来事であることが確実視されております。従って、『吾妻鏡』の編集ミスであることを承知しておいていただければと存じます。

 

 

 二十日、丙寅。武衛(源頼朝)の叔父志田三郎先生(源)義広が一族の縁故を忘れ、突然、数万騎の逆党を率い鎌倉を落そうとしたことが発覚したため、常陸国を出て下野国に到ったという。平家の軍勢が襲来するとのことが、数日来噂になっていたので、武士を多く駿河国以西の要害等にすでに派遣しており、かれこれ重なって、(頼朝は)とてもお悩みになった。その時、下河辺庄司行平は下総国におり、小山小四郎朝政は下野国にいた。この二人は命令を下さなくても、きっと勲功をあげるだろうと、(頼朝は)たいへんその武勇を頼りにされていた。そうしたなかで朝政の弟(長沼)宗政・従父兄弟関次郎政平等が朝政に協力するため、それぞれ今日、下野国へ出陣した。 (後略)
二十三日、己巳。(源)義広が三万余騎の軍士を率い、鎌倉の方へ進んできた。(中略)義広は味方になるようにと小山小四郎朝政に伝えてきた。朝政の父政光は皇居警護のためにまだ在京しており、郎従も皆、政光に従っていた。そのため無勢ではあったが、朝政の志は武衛(源頼朝)にあり、義広を討ち取ろうと群議を行った。長老の武士たちは、「すぐに味方になると偽ってまず承知した後に、義広を襲うべきです。」といった。そこで、「お味方します。」と伝えた。義広は喜んで朝政の館の辺りにやってきた。これより先に朝政は本宅を出て野木宮に籠っており、義広が野木宮の前へ来た時、朝政は計略をめぐらして人を登々呂木沢・地獄谷等の林の梢に登らせて時の声をあげさせた。その声は谷に響き、多勢がいるようかのようであったので、義広がたいそう驚き慌てたところを、朝政の郎党(中略)が攻撃をかけた。朝政は緋縅の鎧を身に着け、鹿毛の馬に乗っていた。時に年は二十五歳、勇力はおおいに盛んで四方を駆けめぐり、多くの敵を滅ぼした。義広が放った矢が朝政に当たって落馬したが、落命には至らなかった。そこでその馬は主人と離れ、登々呂木沢でいなないていた。そこへ二十歳になる(長沼)五郎宗政が鎌倉から小山に向かっていたところに、この馬を見つけたので、合戦はすでに敗北となり、朝政が死んでしまったのではないかと思い、義広の陣の方へ馬を走らせた。(中略)朝政・宗政は東から攻め寄せた。その時、暴風が南東から吹き起こり、焼野の塵を巻き上げたので、義広方の人馬は共に視界を失い、散り散りになって多くの者がその死骸を地獄谷・登々呂木沢にさらすこととなった。また、下河辺行平・同弟四郎政義は(中略)逃走する兵士を討ち取ったという。(中略)この他、八田武者所知家・(中略)・小栗十郎重成・(中略)・宇都宮所信房・(中略)等が朝政に加勢し、蒲冠者(源)範頼が同じく馳せ加わった。朝政は(中略)久しく下野国を守護してきた一族の棟梁である。今、義広の謀計を聞き、忠義を思って命を惜しまず戦ったため、戦場に臨んで勝利を得たのである。

 

[五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』第1巻 2007年(吉川弘文館)]

 

 これが、所謂「野木宮合戦」に関する記述となります。記事によれば、この時の主力は小山朝政であり、宇都宮一族からは朝綱の弟八田知家と従兄弟宇都宮信房が小山陣営に加勢して参戦していることがわかります。小山氏では父の政光が、宇都宮氏では朝綱が在京中であったのですから、当主を欠いての戦闘となったのは致し方のないところであります。そして、『吾妻鏡』によれば、少なくともこの時点で頼朝が恃みにしていたのが「下河辺」・「小山」の軍勢であることが分かります。ここには「宇都宮」の名は加勢に来た“その他大勢”の中に記されるだけです。その意味で、ホントウにこの戦いが頼朝の下命によって行われたモノなのか、より正確に言えば頼朝の為に行われたものかは疑問無しとはしないものと考えますが、如何でしょうか。

 勿論、頼朝乳母であった「寒川尼」が宇都宮家から小山政光に嫁した人であり、小山朝政・宗政・朝光の母であったこと、従って宇都宮朝綱・八田知家とは兄弟関係にあったことが、北関東の二大名族が頼朝陣営に加勢する大きな理由に挙げられることは間違いないものでありましょう。しかし、少なくとも、この段階での戦闘は、頼朝への直接の忠節というよりも、本領の維持と権益の確保のために共闘したという側面が遙かに大きなものであったのではありますまいか。つまりは、まずは自己都合が優先されたということであり、必ずしも大挙して鎌倉陣営に馳せ参じた南関東の情勢とは相当に異なっていたものと考えることができましょう。

 この点で、注目されるのが、『吾妻鏡』で初見参となるとされる人物が「野木宮合戦」の場面に登場することです。すなわち、以後の平家追討戦で大将の一翼を担うこととなる源範頼に他なりません。実際のところ、この登場での仕方は余りに唐突に感じられませんでしょうか。従って、研究者の中には、この戦いの意義とは、義広を担いだ藤姓足利氏と、範頼を担いだ小山氏・宇都宮氏との下野国内の所領争いにあり、頼朝の挙兵とは必ずしも連動していたものではないと評価する方もいらっしゃると聞きます。そうだとすれば、北関東の有力武士達にとっては、頼朝を担いだ南関東武士団の動向は、その行く末ですら不確定であり、「暫しの様子見」を決め込んでいたのが実態ということになりましょう。何とはなしに、当時の北関東武士団の心の内が透けて見えてくるように存じますが、皆様は如何お感じになられましょうか。

(後編に続く)

 

 

 源頼朝挙兵時における北関東武士団の動向について(後編) ―または 「宇都宮朝綱と平貞能」外伝―

 

 

7月2日(土曜日)

 

 こうした中で、宇都宮朝綱(小山政光も)が京都から戻ることになります。しかし、それが何時の時点であったのかは、『吾妻鏡』編集の混乱(ミス)の問題もあってナカナカに確定しがたき面がございます。『平家物語』の記述によれば、それは寿永2年(1183)のこととなり、それに従えば4年間京に抑留されていたことになります。しかし、『吾妻鏡』には、その1年前の寿永元年(1182)には戻って頼朝に伺候していた記事を見ることができます。つまり、同年の記事に、頼家誕生の際に佳例によって祝刀を献じた筆頭に朝綱の名が記されており、既に在倉していることになっております。物語に過ぎない『平家物語』より『吾妻鏡』が優先だろうとの声も聞こえてくるようですが、志田義広の挙兵が寿永2年(1183)であることが明らかであることに鑑みれば、その1年前に関東に戻っている朝綱が関わっていないことの説明が付かなくなります(勿論、直接的な利害関係者である小山政光の参加も記されていないのもおかしな事になります)。つまり、『吾妻鏡』の編集ミスも相俟って、このあたりは明確にし難いのが実情のように思われます。実際のところは、「野木宮合戦」後に取るものもとりあえず坂東に帰国したというのが辻褄があうように思われますが如何でしょうか。

更に、『平家物語』では、平知盛の取り成しと平宗盛の承諾をもって朝綱が関東に戻ったとしますが、『吾妻鏡』では、別の平氏関係者による取り成しによって釈放されたことと記されます。そして、それが公然たる帰郷にあらず、監視の目を掠めた脱出によるものとされていることであります。これもまた、別資料からは確認できず正確なところは不明と言う他はありません。そして、この平氏の関係者こそが、今回の話題とする「平貞能」に他なりません。そのことについての『吾妻鏡』の記事は、更に下った元暦2年(1185)7月7日にございます。それは、同年3月に平家が壇ノ浦で滅亡した後、平貞能が朝綱に命乞いに訪れた際の内容となっているからです。少なくとも、清盛死後の平家政権の中枢にある宗盛・知盛がこうした危険を許容することはありえませんから、『吾妻鏡』の記事に拠ることが適切と考えて宜しいとは思います。本稿にとっては、重要な記事となりますので引用をさせていただきましょう。

 

 七日、戊子。前筑後守(平)貞能は、平家の一族で、故入道大相国(平清盛)から第一に信頼された者である。しかし、西海での合戦で平氏が敗北する前に逃亡し、行方をくらましていたところ、少し前に忽然と宇都宮左衛門尉朝綱もとにやってきた。平氏の運命が尽きようとする時、それが間もなくなったのを悟って出家を遂げ、平氏に与したことの難から遁れようとしたのである。「今は山林に隠棲し、往生したいというかねてからの願いを果たすつもりである。ただし隠棲したからと言っても、関東の許しをもらわないと願いはかないがたい。早くこの身を預かってほしい。」とひたすら望んでいるという。朝綱はすぐに事情を(頼朝に)申したところ、(貞能は)平氏の縁続きの家人である。降参人と認めることには疑いがないわけではあるまい、というのが頼朝のお考えで、したがって許すか否かのご命令はなかった。しかし、朝綱は、強く(頼朝に)願って言った。「(私が)平家に属し在京していた時、(頼朝が)義兵を集めて挙兵されると聞いて、参向しようとした時、前内府(平宗盛)はそれを許しませんでした。それなのに貞能は朝綱ならびに(畠山)重能、(小山田)有重らを許すように申してくれたので、それぞれ無事に味方に参り、怨敵平家を攻撃しました。これはただ私の(貞能の親切心を思う)志ばかりではなく、上(頼朝)にとってもまた功績のある者ではないでしょうか。後日もし貞能入道が反逆を企てることがあるならば、永く朝綱の子孫を断ってください」。そこで、今日、お許しの御裁断があって、(貞能)は朝綱に召し預けられたのである。

 

[五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』第2巻 2008年(吉川弘文館)]


 

 さて、それでは、京に抑留の身にあった宇都宮朝綱の坂東帰還に便宜を図ったと『吾妻鏡』に記される平貞能とは、一体如何なる人物であったのでしょうか。少なくとも何らかの好意、あるいは抜き差しならぬ深い関係性を前提としなければ行い得ないことで御座いましょう。つまり、平家政権下でこうした便宜を図ることは、取りも直さず反逆に繋がりましょう。「つい出来心で」といったレヴェル行う話ではございますまい。だからこその「監視の目を掠めての脱出劇」となったものと思われますが、それでも貞能の何らかの計らいがなければ難しいことであったことでありましょう。だからこそ、その恩義に報いるための一族の存亡を賭してまで、朝綱の頼朝への助命嘆願の敢行との筋書きがカタストロフィーを生み出すのでございましょう。

 そこで、まずは、この平貞能という人物と血脈が平家政権の中で如何なる位置を占めるものかを確認してみたいと存じます。髙橋昌明『平家の群像-物語から史実へ-』2009年(岩波新書)によれば、貞能の家は平家の「譜代相伝の家人」の家系であったとのことでございます。髙橋氏は、当時の家人には「家人(けにん)」と「家礼(けらい)」の二つのタイプがあったとされ、それを以下のように説明されております。何れにしましても、「平」を姓とはしておるものの、宗盛・知盛のような平家政権中枢にあるべき家系ではないということを知っておく必要がございましょう。

 

 後者(「家礼」)は、期限つきで決まった量の奉仕を行う、去就後背を権利として有する従者をいう。主従の結びつきがゆるやかで主人にたいする恩義の意識も相対的に希薄であるため、政治の風向きしだいで敵にも味方にもなる。数も多いから政治史の行方を左右する要因となる。これにたいして前者(「家人」)は、主従の強固な関係に縛られた従者で、その典型が「譜代相伝の家人」だった。譜代相伝と言う言葉は、中世社会でもっとも頻繁に使用された言葉の一つで、代々その家で受け継いで伝える、祖先から代々伝わっているの意味である。


[髙橋昌明『平家の群像-物語から史実へ-』2009年(岩波新書)]

 

 

 そして、平家にとって、「譜代相伝の家人」の代表が伊藤(藤原)氏であるとされております。彼らは、11世紀前期に活躍する伊勢平氏の祖である維衡以来の結びつきを有するといいます。頼朝挙兵前後に上総国で目代を務めていたとされる伊藤一族がそれにあたり、『平家物語』に登場する侍大将クラスの存在であるとされます。もう一つの類型が、伊勢平氏の構成員であった者の子孫で、早くに家人化した者であり、その代表が筑後守家貞とその子家継・貞能・家実の兄弟らであるとされております。そして、重要な点として、髙橋氏は、平家の家人は、全体を束ねる清盛に一元的に統率されているのではなく、平家一門を構成する各家と個別に主従関係を結んでいたことを指摘されております。その点が、一介の流人からの出発故に、個々の御家人と直接的に一から主従関係を構築して行かざるを得なかった頼朝との大きな違いでございましょう。これで、本稿のもう一人の主人公である平貞能の拠って立つ位置が、より明確にお掴みいただけたものと存じます。

 以下、その平貞能に焦点を当てて宇都宮朝綱へ助命嘆願に訪れるまでの動向を追ってみたいと存じます。ただし、生憎当方の手元には平家関係の書物・文献の持ち合わせが極僅かである関係もあり、上述いたしました髙橋昌明氏や、元木泰雄氏等の数少ない手持ちの書物や、ネット記事等を取り纏めてのアウトラインをお示しするだけとなります。その点を予めお断りをさせていただきます。

 平貞能の生没年は明らかではありません。九条兼実『玉葉』の治承4年(1180)4月20日の条には、平清盛の「家令」を務めていたことが、また前編で引用させて頂いた『吾妻鏡』の記事に清盛の「専一腹心の者」と記されるなど、「譜代累代の家人」として重用されている姿を窺わせます。そして、仁安2年(1167)年、清盛が太政大臣を辞し嫡男の重盛に家督を譲ると、中核的な平家家人集団も重盛に引き継がれることとなり、その家人は、伊藤忠清がその嫡男維盛に、平貞能は次男資盛の補佐役を任されたと云います。そして、その中で、伊藤忠清が東国に平家政権の勢力を扶植する役割を、平貞能は九州方面での同様の役割を担ったものとされているようです。そうした中で、同年10月維盛率いる頼朝追討軍が「富士川の合戦」で大敗を喫し、平家政権への反乱が全国に拡大するようになります。その後、劣勢の挽回を期した、同年12月に資盛を大将軍とする近江攻めでは、貞能は侍大将として随行し、その地の反平家勢力の鎮圧に大きな成果を挙げております。

 しかし、治承5年(1181)平清盛が没すると、その後継者としての地位を確たるものとしたのは、清盛の三男宗盛でした。これには、宗盛が清盛嫡妻「時子」の長子であったことが大きいと考えられるようです。本来、後白河院からの覚えも目出度く、人望にも恵まれ、後継のトップランナーであった清盛長子の重盛とその後裔(重盛の家を「小松家」と称します)が、次第に宗盛流に肉迫され、重盛死後にその傍流にまで追いやられることは、そうした事情を背景としていたようです。つまり、こうした点において、平家一門内には表立った争乱は惹起されなかったものの、内部には相当な軋轢や不満が渦巻いていたことと推察されるのです。「小松家」に仕える貞能には、平家政権主流派への微妙な感情が支配していたことは間違いありますまい。貞能が京で抑留状態にあった朝綱の東国帰還に便宜を図ったのであれば、そこには決して一枚岩ではない平家政権の内実が背景にあると推察することは、決して的外れとは申せますまい。


そうした中、養和元年(1181)年、貞能は九州で激化する反平家勢力の鎮圧に向かい、翌年4月にようやく肥後国の菊地隆直の反乱鎮圧に成功します。寿永2年(1183)6月に1000余騎の軍勢を率いて帰還しますが、息つく間もなく翌月に木曽義仲の都への大攻勢に遭遇することになります。貞能は資盛に従い宇治方面へと向かいます(宗盛ではなく後白河院の命による)。斯様な中で、劣勢におかれた宗盛は一門とともに、一時都を離れて西走する道を選びますが(平家都落)、貞能は賛同せずに都での決戦を主張します。しかし、それも入れられることなかったため、宗盛に従うことなく、主資盛とともに蓮華王院へ入ったとされます。これは後白河院の保護に期待した行動とされますが、結果として後白河院との接触が叶わずに断念。一説に、資盛と貞能は重盛の墓に詣で、遺骨を掘り起こして高野山に送り、それを見届けてから翌朝に都落する宗盛らに合流したとされます。その後、8月中旬に平家一門は九州に上陸し体制の建て直しを図ろうとしますが、後白河院の命を受けた豊後国の緒方惟栄がこれに頑強に抵抗します。そもそも惟栄は平重盛の家人であったこともあり、資盛・貞能がその説得に赴きますが交渉は決裂。結果として、10月に平氏一門の九州の地を追われ屋島への脱出することになります。

 しかし、この段階で貞能は平家本体から離脱し、九州に留まって出家したとされます。もしかすると、惟栄の説得に失敗した責めを負わされた可能性もございましょう。寿永3年(1184)2月19日の九条兼実『玉葉』には、主の資盛とともに豊後国で拘束されたとの風聞が記されるとのことです。何れにせよ、貞能に限らず、その長男である貞頼も、小松家の長子維盛に仕えた「譜代相伝の家人」筆頭とも云われる伊藤忠清もまた都落ちには従っておりません。貞能の主の資盛は、恋仲にあった建礼門院右京大夫の詠歌詞書によると“元暦2年春”に死去したとありますので、恐らく壇ノ浦まで一門と共にあって戦死したのでありましょう(『建礼門院右京大夫集』)。一方、本稿では詳述致しませんが、平清盛の継母である「池禅尼」(頼朝にとっては「平治の乱」後に死罪となるべき自身の命乞いをしてくれた生命の恩人)の子である平頼盛は、そうした関係もあり鎌倉との縁も浅からず、寿永2年(1183)に鎌倉に逐電しております。こうしたことからも、改めて平家一門が決して一枚岩ではなかったことが窺えましょう。

 さて、その後、貞能の消息は杳として知れませんでしたが、平家一門が壇ノ浦で“海の藻屑”と消えた3ヶ月後に、鎌倉御家人の宇都宮朝綱の下に忽然と姿を現して頼朝への取りなしを依頼することになります。これが、前編で引用いたしました文治元年(1185)7月7日『吾妻鏡』の記事に他なりません。しかし、何故貞能は宇都宮朝綱を頼ったのでしょうか。それは、同時に何故朝綱の東国帰還を取りなしたのかという疑問とも通底することでございます。これにつきましては、飽くまでも孫引きの状況でありご本人の著述に当たれたわけではないことを申し添えておきますが、野口実先生が以下のようにご指摘だとのことであります。つまり、貞能と宇都宮氏は外戚関係にあり、元暦元年(1184)頼朝から朝綱に新恩として与えられた「伊賀国壬生野郷地頭職」について、本郷の前支配者がこの地で反乱を起こした貞能の兄であったことから、現地在住の旧勢力との合意形成をしやすい外戚関係にあった朝綱に与えたものと考えておられるとのことがあります[下野新聞社編集局『中世の名門 宇都宮氏』2018年(下野新聞社)]。両者間に、予て斯様な関係性があるのであれば、貞能の一連の動向にも合点がいく思いでございます。逆に、こうしたことからは、東国武士が草深い坂東の地に根を下ろす無骨な存在などではなく、その出自も含めて京・南都との有力者との間に密接かつ稠密な関係性を築いていたことが理解できましょう。

 さて、最後に、平家一門軍から離脱後の貞能の動向について、上記書籍に依拠しつつ伝承も含めて御紹介しておきたく存じます。茨城県城里町にある平重盛所縁の小松寺に伝わる史料には、「貞能が北陸を廻ってまず宇都宮氏の所領であった塩原に隠れた」とあるとのこと。貞能は、ここに重盛の妹といわれる(重盛妻とも、妻女の妹とも)妙雲禅尼を残して、朝綱の下に出向いて命乞いをしたと伝わるとのことであります。そして、塩原の地に戻り仏道三昧の生活を送り、妙雲禅尼没後は当地に埋葬し石塔を建立したと伝わるとのこと。これが妙雲寺であり、現在も妙雲禅尼墓と伝わる石塔が残っておるとのことです。更に、貞能は、朝綱が地蔵院を建立して隠棲した尾羽の地に程近い、鶏足山麓に安善寺を建立し住持となったとされます(同じ益子町内でありますが“程近い”と申しても直線距離で8kmほどは離れてはおります)。言い伝えによれば、貞能はこの地で齢92を以って入寂したとされ、寺にはその100回忌に建立した石塔が残ると云います。また、上記伝承を伝える小松寺にも重盛、その妻、そして貞能とされる3基の墓石が残るそうです。他にも、茨城県行方市の万福寺、更には仙台市の作並温泉の近くにある西芳寺にも貞能の墓との伝承のある墓石が残るなど、北関東から東北南部にかけて貞能伝承が色濃く伝わっているようです。勿論、安善寺は一先ず置くとしても、その他の寺院の墓石が貞能をはじめとする「小松家」関係の遺跡であることは史実とは見なし難かろうと思われます。ただ、これらが、何時誰の手によって、如何なる契機、どのような目的を持って創作されたものかを探ることには、大いなる意義があるものと存じます。

 以上、本稿では、現在放映中の大河ドラマでは描かれることのない、頼朝挙兵前後における北関東武士団の動向と、平家政権内の人との交流と、敗者の戦後について触れてみましたが如何でしたでしょうか。今回は、あまり表立って描かれることの少ない歴史・人物を採り上げましたが、個人的には、大いなる興味・関心をもってアプローチをすることができました。その分、思いつきばかりの相当に粗雑な内容展開となってしまったことを自省してもおります。まぁ、論文として記載している訳ではございませんし、飽くまでも「歴史随想」に過ぎぬものとご寛恕いただけましたら幸いでございます。

そうでした、1冊の絵本を紹介するのを失念しておりました。それが、小板橋 武(絵・文)『安養寺物語-宇都宮朝綱と平貞能の友情-』2011年(随想舎)でございます。宇都宮の地方出版社からの上梓であり、近隣の書店に置かれていることはないかと存じますが、ネット等で検索いただければ購入可能かと存じます。因みに、現在開催中のパネル展で当該書籍を展示しておりますことを申し添えておきます。

 さて、現在開催中の千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人達(北関東編)』も、いよいよ12日(火曜日)で閉幕となります。残す会期は本日をいれて10日程です。未だご覧になっていらっしゃらない皆様は、是非とも脚をお運びくださいませ。なお、会期終了後でございますが、中央展示ケース以外の展示物は全て撤去いたしますが、北関東編のパネルはそのままに、前年度末開催の南関東編パネルと併せて展示を継続いたします。つまり、千葉常胤と坂東御家人13名の大集結となります。少なくとも、令和4年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の終了まで、つまり年内一杯は総論1枚と御家人14枚の、計15枚のパネルを本館1階で一堂に会して展示いたしますので、どうぞご覧いただければと存じます。

 

 

 

 

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