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更新日:2021年10月16日

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館長メッセージ

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 令和3年度の千葉市立郷土博物館 ―本年度も天野が館長を勤めさせていただきます― ―『市制施行100周年』記念の諸事業を推進致します―

4月1日(木曜日)

 本年度も、昨年から引き続いて館長を仰せつかりました天野良介と申します。令和3年度も何卒よろしくお願いいたします。「緊急事態宣言」解除後も、コロナ禍が終息する気配を見せないどころか、日々感染者が増加しつつある今日この頃であります。しかし、かような情勢下であっても、猪鼻山の満開の桜に祝福されるように、千葉市立郷土博物館の新年度が幕を開けました。表題にもお示ししましたように、本年は大正10年(1921)1月1日に千葉町が「千葉市」に衣替えして新たなスタートを切ってから100年目を迎えております。そして千葉市では、令和3年度をその記念年度と位置付け、様々な事業を推進して参ります。本館も、その一翼を担い、「プレ年度」としての昨年度に引き続き、本年度も千葉市の100年間に焦点を当てた特別展・企画展等々を執り行って参ります。

 始めに、桜の季節に因んだ話題から。古くから千葉市にお住いの方であれば、猪鼻山といえば昔からの「桜の名所」であることは自明のことかと思われます。しかし、明治44年に刊行された『千葉街案内』における「猪鼻山」の項目には、桜の「さ」の字も記されてはおりません。そこには「丘上十数株の老松亭々として天を摩す」「老松の間より皎月を仰げば頗る身の塵世に在るを忘る」とあることから、明治時代には老いた松樹が生い茂る場であったことがわかります。そうなると、何時から猪鼻山は「桜の名所」に転じたのでしょうか。調べてみると、昭和元年(1926)「千葉開府800年」を迎えたことを契機に、その3年後にあたる昭和4年(1929)、猪鼻山に今も残る「千葉開府800年」石碑建立と併せて、染井吉野(ソメイヨシノ)をこの猪鼻山に植樹したことが起源となっているようです。

 それから、凡そ100年弱の歳月が流れました。皆様も御存知のことでしょうが、染井吉野は近世後期に江戸に北方にある染井村で(現在の山手線駒込駅北)、品種改良の結果生み出された比較的新しい桜の品種であります。その優雅な命名は、村名と桜の名所である「吉野」とを結びつけことに由来しましょう。今では桜と言えば染井吉野を指すほどに、日本全国を席巻した最もポピュラーな桜だと思われます。ただ、この桜は自らの繁殖することが不可能な品種です。つまり、日本国中の数えきれないほどの染井吉野は、一つの樹木から複製され続けたクローンであり、すべての染井吉野を遡れば遺伝的に一本の原木にたどり着くということです。詳細は分かりませんが、データ複製にバグが生じるケースがあるためなのか、古来自然界に存在してきた桜樹と比べれば、一般的に樹命が短いことを特色としております。うろ覚えですが、凡そ100年前後の樹命と耳にしたことがあります。染井吉野ではヤマザクラのような樹齢300年を越える古木は存在し得ないということなのでしょう。従って、令和8年度に「千葉開府900年」を控えているのですから、猪鼻山の染井吉野もそろそろ寿命が尽きようとしている時期にあたるのだと思われます。確かに、当方が千葉にやって来た40年程前には、芭蕉の句ではありませんが、下から見上げた桜はまるで「花の雲」のようでしたし、現在の博物館最上階から見下ろせば「花の絨毯」ともいうべき見事な光景でありました。しかし、それも今や昔のお話です。昨今は樹勢が衰えてしまっており、どこか寂し気な気配の漂う「桜の名所」となっております。こうした状況を憂い、「千葉城さくら祭」実行委員会では、平成28年(2016)「千葉城さくら植樹基金」を設立し、「千葉開府900年」を迎える令和8年(2026)までの樹木更新を目指して募金活動を展開されております。本館内にも募金箱が設置され寄付を募っておりますが、資金は思うように集まっていないと聞き及びます。確かに、今の樹勢から判断すると、花見の名所としての命運は残すところ僅かのように感じさせられます。千葉市としても、今後どうするのかを含めた検討が求められましょう。最早待ったなしの状況にあるのは間違いありません。

 さて、令和3年度における本館事業に話を戻すことにいたしましょう。まずは、職員のことについてです。コロナ禍による財政状況逼迫の中ではありますが、本年度より「研究員」一名を増員していただけることとなりました。研究を推進するにも、事業を行うにも、何より重要なことは「人」の手当てをすることです。いくらハードとしての施設を充実させたところで、ソフトとしての中身を作り出すのは「人」に他なりません。その手当を欠いては博物館機能の向上は難しいとの、博物館からの切なる要望について理解を頂けたものと思っております。一般に自治体財政の硬直化が言われて久しい中ですが、千葉市行政が健全に機能していることを思い知らされた次第であります。ありがたいことであります。週3日の御勤務でありますが、昨年度の「千葉市・千葉大学公開市民講座」でも講師をお勤めいただきました、遠山成一先生をお迎えできることになったことを僥倖に存じます。今後、特別展・企画展等をはじめする本館研究体制の更なる充実が期待できるものと考えております。

 その特別展・企画展でありますが、本年度の中核となるのが「市制施行100周年」を記念する内容を予定してございます。千葉市100年間の歩みを振り返ってそのトピックとなる出来事の一つが戦争の歴史であることは論を待ちません。それについて扱ったのが昨年度の特別展『軍都千葉と千葉空襲』となります。それに引き続き、本年度特別展では、千葉市の様相が大きく変貌した「高度経済成長期」について取り上げようと考えております。千葉市にお住いの皆様にとっても身近な時代となりましょう。そして、今回その切り口とするのが、当時千葉市内の義務教育学校で学んでいた児童生徒の作文であります。大きく移りゆく千葉市の姿が、子供たちの瞳にどのように映っていたのか、その変化を彼らが如何にとらえていたのか。彼らの瞳を通して高度経済成長期の変わりゆく千葉市の姿に切り込むことを目論む特別展となります。海岸線の埋め立て、工業化の進展、内陸台地の大規模団地化、そして公害の発生等等々、大きく変わりゆく千葉市の姿が、そこから浮かび上がってくることと存じております。併せて、国語教育における「作文教育」の重要性にも焦点が当てられたらと願うところでございます。一般市民の皆様は勿論のこと、国語教育に携っていらっしゃる教職員の皆さん、また各学校で作文を書くことの多い小中学生の皆さんにも是非とも観覧いただきたい内容だと思います。夏季休業中から会期を始める意図もここにあります。

 また、引き続いて開催する企画展では、時代を遡って千葉市が市制を施行した100年前の時代を取り上げます。また、本企画展は『千葉市史 資料編10 近代編1』の刊行を記念する展示会としての位置づけも有しております。明治末からの千葉町の歩みを振り返りながら、主に大正から昭和初頭にかけての世相を御紹介することを目論むものです。100年前の市制への移行は、現在の新型コロナウィルス感染症流行を思わせる、「スペイン風邪」パンデミックの中で始まっております。また、京成電車が千葉にやって来たのもこの頃のことです(現在のJRは未だ非電化でした)。大正デモクラシーの風潮の中、千葉市内でも自由教育や大衆芸能としての映画・演劇が盛んになった時代であり、女学生のファッションとして「銘仙」が大流行した華やかな時代でもあります。当時の写真が白黒であるためモノクロームとしてその時代像を描き勝ちでありますが、実のところ、銘仙の華やかさ、都市を飾る電飾の煌びやかさ際立つ「総天然色」の時代であったものと思われます。そうした時代像を感じ取れる展示会とできますように尽力したいと考えております。

併せて、例年の如く特別展・企画展の前後には、小企画展・パネル展示の開催をいたします。新年度になって初めての展示会ともなる小企画展『陸軍気球連隊と第2格納庫』は、昨年惜しまれつつ解体された本市作草部に存在した陸軍気球連隊第2格納庫についての記憶を後世に伝えることを一義に、国内で唯一の部隊であった気球連隊のあゆみと、知られざる軍用気球の運用について紹介する内容となります。本展示では、「千葉市近現代を知る会」の全面的協力を仰ぎ、日本の軍用気球についての貴重な資料を数多ご所有でいらっしゃる伊藤奈津絵さんのコレクションの紹介をも兼ねる内容となります。軍用気球には如何なる機能が期待されていたのか?気球と飛行船の違いとは何なのか?千葉市に来る前の気球隊前史、そして、解体された第2格納庫に用いられた戦前の画期的建築技術としての「ダイヤモンドトラス」について、お分けいただいた実物部材と第2格納庫模型とを展示しながらご紹介いたします。このことにつきましては、本市在住で、上記「千葉市近現代を知る会」の代表でもいらっしゃる建築家市原徹さんの全面的協力を賜ります。本館1階を会場といたしますが、相当にてんこ盛りの内容となることが予想されます。皆様におかれましても、大いに期待をされていただいて結構でもある充実の内容と確信するところでございます。

 続いて、6年後に迫る「千葉開府900年」を踏まえて、一昨年度からスタートした「千葉氏パネル展」を本年度も継続開催いたします。本年度は、令和4年放映を予定するNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(脚本:三谷幸喜)を当て込んで、令和4年1月末から3月初旬までに設定をいたしました。前回のパネル展が千葉氏前史としての『将門と忠常』でありましたが、今回は千葉常胤とその後の鎌倉幕府初期の時代を取り上げ、主に同時代の千葉氏を中心とした有力鎌倉御家人の諸相を紹介する内容を考えております。ご覧になれば、大河ドラマをより深く理解できるようになること間違いなしの内容とする所存でございます。こちらにつきましても是非とも楽しみにお待ちいただければと存じます。

 以上、特別展・企画展につきましては何れも「展示図録」を、小企画展・パネル展につきましても何れも「ブックレット」の刊行を予定しております。後者につきましては、会期後の刊行となる可能性が大きいと思われますが、これにつきましてもご期待いただければと存じます。

 最後に、昨年度「館長メッセージ」最終号でもお知らせしましたように、『千葉市の歴史読本(仮称)』の刊行が本年末に予定されており、現在鋭意編集作業を進めているところです。千葉市として、一般の読者を対象とした初めての歴史読本であり、高校生以上の読者を想定した記述としております。これは、本市の公立小中学校に在籍している全児童・生徒には、それぞれ学習資料として『私たちの千葉市』『千葉常胤公ものがたり』(小学生対象)、『伸びゆく千葉市』(中学生対象)が配布されておりますが、義務教育を終えた後の高校生を含む一般市民の皆様を対象とした、郷土の歴史を学ぶための一般書籍が存在していないことに意を用いたからであります。その問題点については、予てから指摘されてきましたが、市制施行100周年を記念して本年の刊行が可能となったことは、我々にとっても本望であり、心の底からの喜びを覚えるしだいでございます。内容は、「原始・古代」「中世」「近世」「近現代」の時代毎に、「各時代のあらまし(総論)」、「様々なテーマを設定しての時代像の探究」、テーマと関連する「コラム」を適宜配置しております。また、各テーマは「見る」「読む」「学ぶ」の形をとり、「原史料」を読み解きながら郷土の歴史を理解できる構成としております。執筆陣も、各時代研究の一線でご活躍の豪華顔ぶれにお願いしておりますことを申し添えておきます。「乞うご期待」と自信をもって宣言できる内容と確信しております。

 以上、本年度の本館の事業につきまして、特別展をはじめとする展示会概要、歴史読本刊行、そして研究体制充実といった側面から、その概要を申し述べさせていただきました。そのほかにも、例年行っております市民講座等も行ってまいります。コロナ禍の状況につきまして、今後も予断を許さない状況にありますが、千葉市の方針に基づき、公共機関としての本務を忘れることなく、可能な限り事業を推進して参りたいと考えております(ただし、予防対策の徹底は継続して参りますので、ご来館の皆様もこれまで以上の感染予防意識と対策をとられた上でのご来館・ご参加をお願いいたします)。本年度の千葉市立郷土博物館の活動につきまして、是非ともご支援を賜りますことをお願いいたしまして、年度当初のご挨拶とさせていただきます。本年度も何卒宜しくお願いいたします。

 

 

【令和3年度開催 特別展・企画展等 テーマ・会期(予定)】

(1) 小企画展[会期:令和3年5月26日(水曜日)~令和3年7月11日(日曜日)]

『陸軍気球連隊と第2格納庫 ―知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス―』

(2) 特 別 展[会期:令和3年8月3日(火曜日)~令和3年10月17日(日曜日)]

『子供たちの瞳に映った高度経済成長期の千葉市 (仮称)』

 

(3) 企 画 展[会期:令和3年10月19日(火曜日)~令和3年12月12日(日曜日)]

『黎明期の千葉市 (仮称)』

 

(4)パネル展[会期:令和4年1月26日(水曜日)~令和4年3月6日(日曜日)]

『千葉常胤と鎌倉殿の13人 南関東編 (仮称)』

 

 

 うちなびき 春くる風の 色なれや ―『千葉市・千葉大学公開市民講座 講演録』配付開始― ―『研究紀要』第27号、『千葉いまむかし』第34号の刊行― ―『データで見る 千葉市100年の軌跡』の販売―

4月9日(金曜日)

 うちなびき 春くる風の いろなれや 日をへて染むる 青柳のいと(藤原定家)

 

 新年度の二回目となる今回は、広く知られた定家卿の歌からの幕開けとさせていただきました。我らが猪鼻山も、何時の間にやら桜から新緑の季節へと移ろう頃となりました。この周辺では見受けられませんが、水辺の光景と相性の宜しい柳の新緑が目に眩しい時節ともなっております。当方が毎日通勤経路として渡っている江戸川鉄橋から見下ろす河川敷にも、御多分に漏れず沢山の柳が植えられております。既に3月半ばから柳の糸が薄っすらと緑色に染められたように感じておりましたが、ここ2・3週間で見違えるほどの強い色合いへと移ろい、暖かな風にしなやかな糸を靡かせるようになりました。私も「春くる風」の移ろう彩を、走りゆく電車の窓越しに眺めることを日々楽しんでおります。

 柳の新緑は、春を表象する題材として『古今集』以来の数多歌人に詠み継がれてまいりました。素性法師(生年未詳~910年頃)による著名な「みわたせば 桜やなぎを こきまぜて 都ぞ春の 錦なりける」も、代表的な作品の一つとして挙げられましょう。藤原定家(1162~1241年)の手になる標記詠歌も王朝作品の本歌取りとなります。彼の詠歌としては格段に優れたものとは言いかねますが、さらりとした素直な流れが心地よく響く作品であると思います。それ故に人口に膾炙した作品となり得ているのでしょう。わが国で言う柳は、所謂シダレヤナギのことを指すことが多いと思われ、風にそよぐ枝の姿が「柳に風と受け流す」との例えにも用いられます。元来が、大陸原産の樹木のようで、仏教伝来の頃に本邦にもたらされたものと伝えられます。その堅固な根張り故に、治水に有効とのことから、河川堤に植えられることの多い樹木であります。しかし、そうした実用とは離れ、桜花と併せて春を告げる象徴として日本人に親しまれました。特に、平安期以降の王朝人に好まれ、古来多くの和歌や絵画にも取り上げられてまいりました。和歌についてはかくの如しであります。

 絵画の世界に目を転じれば、古来「淀の川瀬の水車」と謡われ、12世紀末成立『梁塵秘抄』にも採録される、淀の水車を描いた絵画作品にも「青柳の糸」が定番として描き込まれております。淀の地には古くから灌漑のための水車が設けられていたようですが、天正14年(1586)に淀水運支配河村与三右衛門(生年不詳~1615)の手により、淀城の北にあたる桂川・宇治川の合流点附近に大小二基の水車が設けられました。大は直径8間、小は6間の大きさを誇り、川の水を掬い上げて淀城内の泉水に引いておりました。それは江戸時代の淀城にも引き継がれ、近世になってからその意匠性が喜ばれ、数多の絵画に描かれることになったのです。それらの作品からは、大きな水車と水辺の柳をそよがせる爽やかな薫風を感じさせられます。しかし、「青柳の糸」を描いた優品と言えば、個人的に小村雪岱(1887~1940)の版画作品、その名もズバリ『青柳』を筆頭に挙げたいと存じます。過日出かけた三井記念美術館開催の企画展『小村雪岱スタイル』にも出品されておりました。当方も久方振りに再会し、改めてその素晴らしさに心打たれるものがありました。もし、当作品を御存知なきようでしたら、是非ともネット等で作品をご確認いただければと存じます。

 小村雪岱は武州川越の生まれ。幼くして父を失い、家庭的に恵まれぬ幼年時代を過ごしたようですが16歳の時に親戚を頼って上京。翌年に東京美術学校に入学し下村観山(1873~1930)の下で学んでおります。そして、20歳のときに予て敬愛していた小説家泉鏡花(1973~1939年)と出会い、鏡花より「雪岱」の画号を授かりました。27歳にして鏡花作の小説『日本橋』装丁を手掛け、これを機に鏡花をはじめとする作家作品装丁に数多取り組んでおります。数号前にも述べさせていただきましたが、『日本橋』は単なる書籍にはあらず、それ自体が優れた芸術作品であると思います。日本橋の花柳界を舞台にした当小説の表紙は、日本橋川両岸に立ち並ぶ土蔵と川を行き交う荷船とが、極めて意匠的に俯瞰され、その全面に色とりどりの蝶が無数に宙を乱舞する様が描かれます。そして表紙と裏表紙の見返しには、それぞれ春夏・秋冬の日本橋界隈の版画4枚が配され、粋な花柳界の四季が惚れ惚れとする構図で描写されます。思わず息を飲む絵画とは、このような作品を言うのだと思います。中でも、春を描いた一枚は白眉であります。

 本作は、俯瞰された構図で座敷が描かれておりますが、開け放たれた座敷の青々とした畳に三線と鼓が整然と置かれているだけで、そこには誰一人描かれておりません。しかし、そこには人の気配と温もりを強く感じさせます(人を描かずに気配を表現する「留守模様」という古典的な趣向でもあります)。そして、樹木本体を描くことなく、降り注ぐように画面全体に配される「青柳の糸」が、しなやかさを売りとする花柳界の小粋さを表象しているように感じさせます。また、鼓の調緒と半分開けた障子から覗く鳥籠と思しき調度に配された僅かな朱色が効いているのでしょう、そこが艶なる花柳界であるとの風情となっております。軒下に一株描かれる笹の新緑も効果的であります。おそらく、その何れも数ミリずれただけで、絵画世界の調和に破綻が生じましょう。それほどに、それぞれの舞台装置が絶妙に配置されていると思います。それだけにあらず、春のほの暖かい空気まで肌感覚として伝える秘密は何処にあるのか不思議でなりません。見る度に驚かされます。同じモチーフは、後に絹本彩色作品として残され、更に雪岱没後に木版画として上梓されております。その名も同じ『青柳』。小説『日本橋』の見返し画から、更に余計な描写を捨象し、これ以上ないほどに舞台装置を絞り込んでおり、もはやデザインと紙一重ともいえる作品になっております。しかし、そこに漂う凛とした静謐さと艶冶な空気の共存は、更に強められているようにすら感じられます。雪岱一世一代の作と申し上げて一向に差し支えなかろうかと存じますし、傑作の名に恥じない名作だと確信いたします。同時に刷られた、秋『落葉』、冬『雪の朝』は、鏡花『日本橋』の見返し絵とは大きく図柄が変えられており、より意匠性と抽象性が勝った作品となっておりますが、これらも名作だと思います。夏の作品は制作されなかったのでしょうか、それを想像するのも楽しいことです。

 また、雪岱は、女性の方にとっては極々身近な企業であろう「資生堂」の社員であったこともあり、今でも用いられている、あの独特な「資生堂書体」と称されるロゴデザインも雪岱の手になります。その意味では、雪岱は、画家・絵師というよりも、今で言うところのグラフィックデザイナーに近い作家であったとも申し上げることができようかと思われます。しかし、そこは名手下村観山に学び、日本画の基礎的技量を十二分に身に着けた雪岱だけあって、単なるデザインを超えた芸術作品となりえているのだと思います。現在三井記念美術館にて開催中の本展でありますが、会期は4月18日(日曜日)までとなっております。その後は、富山県水墨美術館(4月27日~6月13日)・山口県立美術館(7月8日~8月29日)と巡回いたしますが、流石に千葉から出かけるにはチト遠方に過ぎましょう。残す会期は10日程でありますが、ご興味がございましたら、三井越後屋の故地に建つ重要文化財「三井本館」7階にある当館へと是非脚をお運びくださいませ。強力にお薦めしたい美術展であります。たった一作『青柳』に出会うだけで、心の中が「春くる風の色」で染め上げられること必定かと存じます。


本稿の後半は、令和2年度の事業になりますが、これまで取り上げる機会がありませんでしたので、昨度末に本館で刊行いたしました冊子等について紹介させていただきます。まずは、無償配布の冊子についてです。一冊目は、既に「千葉氏ポータルサイト」で動画配信しております「千葉市・千葉大学公開市民講座」講演録であります。動画にてご覧いただいた方も多かろうと存じますが、予てご連絡させていただいたとおり、文字記録としての『講演録』も動画と併せて同ページ内にアップいたしました。併せて3月末に冊子として刊行もいたしております。こちらは、ネット環境が整っていない、冊子で読みたいとのご希望に応えたものです。二冊目は、同じく年度末刊行となった本館『研究紀要』(第27号)です。目次を以下にお示ししましたが、内容について簡単にご説明をさせていただきます。まずは、平成30年度から本館からの委託により実施していただいている「千葉氏関係史料調査」についての該報です。今回は、昨年度コロナウィルス感染症拡大により、県内石造遺物調査を除いた史料調査が実施できなかった関係で、宗胤寺(千葉市中央区)・勝胤寺(佐倉市)・妙光寺(多古町)・東福寺(多古町)石造遺物調査、及び中世後期の下総千葉氏の性質や権力構造を解明するための基礎作業として、千葉氏関係文書目録を掲載しております。また、地域に根付いた「うつし霊場」廻りの民俗についての本館白井千万子研究員による調査報告、そして令和2年度の本館特別展『軍都千葉と千葉空襲』関連歴史講座「戦争の惨禍を伝える」でご講演をいただきました先生2名のご講演要旨となります。何れも貴重な報告・ご提言となっているものと考えます。広く活用していただくことを期待するものであります。何れも、本館へご来館できる方にのみに、受付で無償にて進呈させていただいております。ご遠慮なく『講演録』冊子希望の旨をお申しつけください。ただ、部数に限りがこざいますので、お一人様一冊に限定させていただきます、

 

 

【 研 究 紀 要 第27号 】
〇千葉氏関係史料調査会概報(三)[千葉氏関係史料調査会]
・千葉市関連石造史料調査録(2)[早川正司] 
・中世後期における下総千葉氏関係文書について(後編)[石橋一展]

〇令和2年11月15日開催 歴史講座「戦争の惨禍を伝える」講演要旨
・東京大空襲 ―千葉県との関わり―[石橋星志(すみだ郷土文化資料館 学芸員)]
・千葉市の鉄道連隊遺跡の保存と活用について[小笠原永隆(帝京大学経済学部観光経営学科 准教授)]

〇千葉寺十善講調査報告 ―今も続くお大師まいり―[白井千万子(本館 研究員)]

 

 

 続いて、千葉市史編纂事業の一環として、年度末に刊行をしております『千葉いまむかし』最新号(第34号)が刊行となりましたので、ご紹介いたします。なお、こちらにつきましては明日10日より有償販売となります(¥400)。本館でのみの販売となりますので、ご希望がありましたら受付にてお求めください。こちらについても、以下に目次を掲載しております。主な内容につきましては下記の通りです。コロナウィルス感染症に翻弄されたこの一年を象徴するかのように、千葉町(千葉市)における、江戸時代のコレラ流行について、紙上古文書講座で取り上げております。更に大正期のスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)流行に関する論考が掲載されております。また、中央大学の宮間純一准教授による、江戸から明治にかけての政権交代期における高札の在り方の検討からは、政権移行期の社会的な混乱が理解できます。更に、「千葉市近現代を知る会」代表であり建築家でもいらっしゃる市原徹さんによる投稿していただいた論考を掲載しております。本稿は、昭和12年千葉市の熱心な誘致活動の結果、千葉市検見川に設営された「東京帝国大学総合運動場」と、周辺地区の住宅地を想定した土地区画整理事業(街路計画)について論じた極めて興味深い内容となっております。落ち着いた新検見川の街路と街の現況が如何に形成されたのかが理解できる論考であります。因みに、市原さんも触れておられますが、千葉市内には嘗て東京大学関連施設がもう一つ存在しました。それが、西千葉の地に昭和17年開学された「東京帝国大学第二工学部」であります。本学部は短命に終わり、戦後に大部分が千葉大学西千葉キャンパスとして譲渡され、一部が「東京大学生産技術研究所」実験場として残されました。しかし、それも平成29年に閉鎖され柏に移転となりました。跡地は売却され住宅地として再開発されるそうです(現存していた戦前の第二工学部時代の木造校舎が解体されるのは残念でありましたが)。併せて、最新の『ちば市史編さん便り』26号も無償配布中です。連載中の「千葉市の明治・大正・昭和が見える!!」、第5回「千葉郡の海でノリ養殖がはじまるまで」(森脇孝広)、第6回「土地を「有(も)つ」ということ」(大庭邦彦)が掲載されておりますので、是非ご覧ください(お二方とも千葉市史編集委員でいらっしゃいます)。

 

 

【 『 千葉いまむかし 』 第34号 】
〇紙上古文書講座 安政五年のコレラ流行と千葉市域の村々[遠藤真由美]

〇慶応四年の「政権交代」と「五榜の掲示」

 ―下総国における考察の掛け替え― [宮間 純一]

〇千葉市の弥生土器・石器
―房地遺跡・根崎遺跡・南台遺跡・大北遺跡・谷津遺跡―[小林 嵩]

〇【投稿論文】東大検見川グランドと検見川区画整理事業 [市原 徹]

〇新聞にみる千葉のむかし 大正千葉町に襲来したスペイン・インフルエンザ[小林 啓祐]

〇令和二年度千葉市史研究講座要旨

〇活動の記録

 

 最後に、本館で作成したものではありませんが、千葉市制100周年を記念して、千葉市総合政策局総合政策部都市アイデンティティ推進課が作成した冊子『データで見る千葉市100年の軌跡』を本館でも有償販売を開始いたしました(こちらについては、中央コミュニティセンター2階市政情報室でも販売しております)。一冊700円となります。内容は、千葉市の100年間について、「人口」「経済基盤・産業」「仕事・雇用」「子育て・教育」「健康・医療・福祉」「住まいと環境」「交通」「安心・安全」「暮らし」の項目毎に、様々なグラフを用いて推移を追い、分析を加えた内容となっております。「データから迫る千葉市史」とも言うべき、大変に使い勝手の良い編集になっております。様々な分野でご活用いただける冊子となっていようかと存じます。昨年度に刊行され、現在も継続販売中である『千葉市市制100周年記念誌』『百の歴史を千の未来へ―千葉市制100周年記念漫画―』(各200円)と併せて、是非お買い求めください。

 後半は、昨年度末から新年度にかけて、本館にて無償配布・有償販売をする幾つかの書籍・リーフレット等々のご紹介をさせていただきました。皆様にご活用いただけますことを祈念申し上げております。

 

 ブックレット『クローズアップ鎌倉武士-武士は如何に武装し、如何に戦ったか-』刊行!!(前編) ―令和8年「千葉開府900年」に向け、令和2年度に市内5か所に「千葉氏ゆかりの地案内看板」設置!!― 

4月16日(金曜日)

 

 新年度が始まりましたが、早いもので、もうじき「風薫る五月」を迎えます。これからは梅雨に入るまで、青空に映えた新緑が一年のうちで最も美しい季節となります。もっとも、草木の成長は著しく、猫の額の我が家の庭でも、既に緑色が日々濃くなり、各所から正に雨後の筍が如く様々なる草が繁茂しだしております。その生育疾きこと風の如し(お恥ずかしながら草木に用いる適切な表現を思いつきませんでしたので武田軍旗の援用でお茶を濁しております)。八重葎となるのも時間の問題です。1週間も目にしなければ、庭の呆れるほどの様変わりに正に茫然自失となります。かようなる次第で、ゴールデンウィークにおける我が家(正しくは私個人)の恒例行事が迫って参りました。2週間後の日のことを思うと少々気が重くなります。しかし、放置しておけば夏までには過たず「藪知らず」と化しましょう。その代償は途轍もなく大きなものになります。麻の如く乱れる我が心ここに在りですが、安穏なる家庭生活の維持のためには、山の神からの「愚痴言う暇があれば手を動かせ」との御下命に従うに如くはなしとのことに落ち着きましょう。因みに、あまりに牽強付会ではございますが、現在市川歴史博物館で企画展「葛飾八幡宮と八幡の藪知らず」が開催中ですので、この場でご紹介させていただきます。[会期5月9日(日曜日)まで]。図録も作成されているようです。当方も是非拝観することを願っております。

 さて、まずは表題の一件について御連絡をさせてください。実のところ、こちらも前回と同様、昨年度事業としての刊行物となります。本館では、毎秋、一般財団法人「千葉市馬術協会」様の全面的な御協力を賜り、イベント「鎌倉騎馬武者体験」を開催しております。公募後抽選で選ばれし50名前後の一般市民の方に、実際に甲冑を着用し馬に跨っていただきます。流石に走行することは素人には危険ですので、馬術協会の皆さんが引馬をしてくださり、猪鼻山を騎乗して歩くという貴重な体験をしていただいております(甲冑姿で疾駆する実演は馬術協会の方の披露を間近でご覧いただきます)。一昨年には、御年齢90を前にしたご老体が騎馬武者姿となり、あたかも源平合戦における三浦介義明(88歳)・斎藤実盛(72歳)もかくやと彷彿させる、凛々しき御姿であったと耳にしております。しかし、昨年度は、残念ながら新型コロナウィルス感染症の影響により実施を断念する他ありませんでした。また、本年度につきましても、現状「非常事態宣言」が解除されたとは申せ、コロナ禍が終息したとは到底言えない状況にあり、今後のことは全く五里霧中であります。千葉市が市制を施行した百年前に大流行して多く被害をもたらしたスペイン風邪(スパニッシュ・インフルエンザ)の終息にも足掛け3年を費やしていることに鑑みれば、今回の流行がそう簡単に収まることはなかろうというのが極めて全うなる認識でございましょう。本体験学習では、甲冑の着付け等において、どうしても甲冑の使いまわしをせざるを得ず、感染防止措置の徹底に大いなる不安を残す事業であります。更に、ご協力を頂く千葉市馬術協会の皆様への感染の危険も決して軽視できません。

 こうした状況下、何らかの代替措置ができないものかと本館でも検討を重ねました。しかも、今後数年間にわたる中止判断をも想定すべき状況にあります。そうした諸条件を勘案し、騎馬武者体験で獲得し得る学びを、長期間の中断にも耐え得る形で代替的に可能にするには、冊子の刊行をもってするしかないと結論づけた次第であります。それとは別に、馬術協会の皆さんの実演を映像収録して動画配信する案も検討いたしましたが、実演をしていただく皆様同士の密着状態を回避することには困難を伴い、協力していただく馬術協会の皆様を感染の危険に晒すことになると判断いたしました。申し上げるまでもなく、「騎馬武者体験」は、遊戯施設におけるアミューズメント体験として実施しているわけではありません。飽くまでも博物館における「教育普及活動」を目的としております。従って、これまでも体験と併せて必ず解説などの「学習」も実施してまいりました。「鎌倉武士」の「戦い」の在り方をしっかりと学んだうえでの体験としていた訳です。そこで、その「学習」の部分だけを取り出し、誰にでも読みやすい形で刊行することで、本事業の代替とすることに致しました。それが、今回刊行することとなった標記ブックレットであります。本館の受付にて1冊100円で販売をいたしております(4月10日より)。その目次を以下に掲げます。

 

 

『クローズアップ鎌倉武士-武士は如何に武装し、如何に戦ったか-』

 

 

1 武士とは その起源と成立
2 滋籐の弓 鎌倉武士のメインウェポン
3 軍馬とは 武士の機動兵器・ステータスシンボル
4 馬具とは 人馬一体のためのアイテム
5 大鎧とは 騎射のための鎧
6 源平合戦 様式化された先方と現実の戦場
7 一 騎 打 武門の誉れ・戦場の華
8 従者とは 武士の戦いを支えた者
エピローグ 鎌倉以降 変わりゆく戦法と装備

 

 


 本ブックレットは、上記の目次をご覧いただければ明々白々のように、千葉常胤が源頼朝に従って鎌倉幕府成立に大いに活躍した、平安後期から鎌倉時代初めにかけての時代における、武士の戦いの諸相について解説した内容となっております。一口に武士と言っても、鎌倉時代の武士と江戸時代の武士との違いは思いのほかに大きいものです。特に、戦いに用いる装備も、戦いの作法も大きく異なっております。また、実際の戦いの様子たるや、時代劇に見る合戦の光景とは大きく異なっているのです。その点で、本ブックレットは、鎌倉武士の戦いとその基本となる武具等々の在り方を実にコンパクトにまとめております。本館2階の常設展示「武具」を理解するのにも打ってつけの内容となっております(火縄銃については時代が下りますので本冊子では扱いません)。

 また、来年の1月から始まるNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の視聴にあたっても、その理解に大いに寄与する冊子だと存じます。更に「エピローグ」では、武具や戦闘方法が後の時代にどのように変わっていくのかにも触れており、鎌倉時代に限らず、時代を追った武士の戦いの変化についても知ることができるようにしております。執筆は本館の錦織和彦主査によります。決して身贔屓にあらず、大変に充実した記述内容となっております。残念ながら表紙以外はモノクロでありますが、写真・図版・イラスト等も数多く取り上げ、わかりやすさにも配慮しております。初心者には勿論のこと、ある程度のことを御存知の方にも知識を整理するのに役立つ内容になっていようかと確信するところです。何よりもお買い求めやすい価格設定であります。是非とも広く皆様にお求めいただきますようお薦めいたします。

 続いて、令和8年度「千葉開府900年」に向けた本市施策に則った「千葉氏PR計画」の一環として、千葉市教育委員会生涯学習部文化財課と本館との取り組みとして「千葉氏ゆかりの地」案内看板設置事業を昨年度より開始いたしました。その結果、第一弾として、3月末日に市内5か所に当該看板が設置されましたので、ご紹介をさせていただきます。前後編2回に分けて、今回設置された5か所の「看板解説文面」のみを掲載させていただきます。

 

猪鼻城跡(千葉市中央区亥鼻1丁目)

 猪鼻城跡はかつて鎌倉時代以来の千葉氏の城とされていました。平常兼(たいらのつねかね)の子常重(つねしげ)が大治元年(1126)、上総国大椎(千葉市緑区)から千葉に本拠を移し、千葉という地名を名字とし、千葉常重(ちばつねしげ)と称しました。常重の子・常胤(つねたね)は源頼朝を助け鎌倉幕府の創設に大きく貢献し、その功績で北は東北地方から南は九州地方まで多くの所領を得ました。

 ところが、これまで猪鼻城跡で行われた発掘調査では、鎌倉時代の城や館の跡は見つかっていません。ここにあった城は、室町時代後期(戦国時代)に千葉氏の有力家臣にあたる原氏により城郭として整備されたものという説が有力で、火葬骨を納めた13世紀の壺が発見されたことから、それ以前は墓域であったと考えられています。

 郷土博物館西側の公園内を見回すと周囲が少し高くなっています。これは土塁(どるい)の跡です。外からの攻撃をくい止めるために、城内部の平地周辺に土を盛り上げて高くしていました。その内側の郭(くるわ)と呼ばれた一画は城の中心で、江戸時代には本丸と呼ばれた場所にあたります。北にある神明社のあたりは物見台の跡だと言われています。そこからはかつて東京湾の海岸線や、足下にあった千葉の港を一望することができました。本丸と物見台の跡との間が低くなっていますが、これは防衛手段の一つとして設けられた空堀(水のない堀)の跡です。

 では、千葉氏が館としていた場所は実際にどこであったのでしょうか。かつて方形の堀・土塁に囲まれて「御殿跡(ごてんあと)」と呼ばれた現千葉地方裁判所の場所あたりではないかという説があります。康正元年(1455)、一族の馬加康胤(まくわりやすたね)・原胤房(はらたねふさ)が宗家の千葉胤直(ちばたねなお)を攻め滅ぼした後、千葉氏が本拠地を千葉から本佐倉(酒々井町・佐倉市)に移したことや、遺構や決定的な史料が見つかっていないこともあり、現在も千葉氏の館の場所は明確になっていません。
 

 

 

 

(後編に続く)

 

 

 

 ブックレット『クローズアップ鎌倉武士-武士は如何に武装し、如何に戦ったか-』刊行!!(後編) ―令和8年「千葉開府900年」に向け、令和2年度に市内5か所に「千葉氏ゆかりの地案内看板」設置!!― 

4月17日(土曜日)

 

 昨日の最後に「千葉氏ゆかりの地案内看板」の解説文面「猪鼻城」について御紹介をさせていただきましたが、本日は残る4件(「お茶の水」「大日寺跡」「本円寺」「浜野城跡」)の解説文をご紹介させていただきます。

 

 お茶の水(千葉市中央区亥鼻1丁目)

 この場所は「お茶の水」と呼ばれています。もともと湧水があり、泉の側には不動明王が祀られていることから、「不動の泉」という呼び名もあります。湧水はかなり前に枯れてしまいましたが、ここが「お茶の水」と呼ばれるようになった由来として、その名にちなんだ二つの伝説が伝えられています。

 一つ目は、源頼朝にまつわる伝説です。源頼朝は治承4年(1180)相模国石橋山(神奈川県小田原市)の合戦で敗れた後、舟で安房国にわたり、千葉氏を始めとする房総の武士団に支えられて勢力を盛り返し鎌倉に入りました。その道中、千葉(ちば)常(つね)胤(たね)の本拠地に足を止めた源頼朝に、ここの水でたてたお茶を差し上げたというものです。平安時代初期には国内でお茶の栽培が始まっていますが、まだ一般に普及していなかったため、後の時代に作られた話の可能性もあります。

 二つ目は徳川家康にまつわる伝説です。慶長19年(1614)、徳川家康が東金方面へ鷹狩りに向かう途中で千葉に泊まり、ここの水でたてたお茶を飲んだというものです。それから60年後の延宝2年(1674)にこの地を訪れた徳川光圀(みつくに)(家康の孫、水戸黄門として知られる)も「古城の山根に水あり、『東照宮(徳川家康の神号)お茶の水』と伝う。右の方松の森あり、『東照宮御旅館の跡なり』と云う。」と書き残しています。

 この湧き水は台地上の城を守る人には大事な水源であり、また街道をいく人や馬にとって喉を潤す場所でもありました。江戸時代の関東地方では広く不動尊に対する信仰が庶民に広まり、人にとって大切な水を守る水神信仰と結びつきました。不動尊信仰の場として、千葉県では成田山新勝寺(成田市)がよく知られていますが、ここに不動明王が祀られているのは、その大切な水を守るという考えからだと解釈されています。

 

 

 

 大日寺跡(千葉市中央区中央1丁目4)

 ここはかつて「千葉家累代の墓塔(ぼとう)」と伝えられる五輪塔群(千葉市指定文化財)を有する阿毘廬山密乗院大日寺(あびらさんみつじょういんだいにちじ)(真言宗)があった場所です。千葉氏の守護神「妙見」を祀る金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)と大日寺が軒を連ねたこの付近は、中世の千葉のまちの中心であり、聖なる空間として意識されていたことがうかがえます。大日寺は、昭和20年(1945)の空襲で焼失したため、戦後に稲毛区轟町へ移転し、跡地は戦災復興の都市計画によって公園となりました。

 称名寺(しょうみょうじ)(横浜市金沢区)に残る聖教(しょうぎょう)(僧侶の修学や宗教活動に用いられた仏教の典籍類)には「下州千葉之庄大日堂」などと記録があり、大日寺の前身とも考えられます。大日堂では称名寺長老の剱阿(けんあ)が聖教を書写するなど、関東における真言律宗の中心的な寺院であった称名寺との深い結びつきがありました。

 また、『鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)』には、大日寺は千葉頼胤(ちばよりたね)が鎌倉極楽寺の良観(りょうかん)(忍性(にんしょう))を開山として小金の馬橋(松戸市)に建立した千葉氏の代々の冥福を祈った寺で、孫貞胤(さだたね)の時に千葉へ移ったこと、康正元年(1455)、千葉胤直(たねなお)たちが多古城・島城(多古町)で滅んだ際、胤直らの遺骨が大日寺へ送られ、石造五輪塔が建てられたことが記されています。

 昭和38年(1963)、公園整備工事を行っていた際に、地下から康永3年(1344)に造られたという銘文のある梵鐘(ぼんしょう)(千葉市指定文化財)が出土しました。突然出土した南北朝時代の梵鐘は、都市化のため破壊し尽くされたと思われてきた中世の千葉のまちが、足元に眠っている可能性を示しています。

 

 

 

 本円寺(中央区本町1丁目6−14) 

 本円寺は日蓮宗の寺院です。顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)(妙満寺(みょうまんじ)派)の祖である日什(にちじゅう)と下総守護千葉満胤(ちばみつたね)によって弘和元年(1381)に開かれ、日什の弟子日義(にちぎ)に帰依した、千葉氏重臣の円城寺胤久(えんじょうじたねひさ)が道場を建立したと伝えられています。

 『門徒古事(もんとこじ)』には、日義が守護千葉介(ちばのすけ)(満胤と考えられます)の祈祷所に出向いたことや千葉介が日什を招いてその教えを聞きたがっていたことが記されており、日蓮宗が千葉に進出して千葉氏に信仰されたことがうかがえます。また、他宗派が千葉近郷の仏像の鼻を欠き落として日蓮宗の仕業と称したことなど、宗派同士の対立が生じていたことも記されています。日義が千葉氏の祈祷所に出向いたことや、千葉近郷でこのような事件が起きたことから、千葉氏の館が本円寺からさほど遠くない場所(千葉のまちのどこか)にあったと推測できます。

 本円寺の近くには本敬寺(ほんきょうじ)(日蓮宗)があり、かつては正妙寺(しょうみょうじ)(日蓮宗、明治期に本敬寺に合併)もありました。本敬寺は、日蓮の6人の高弟の一人日向(にこう)が開いた、藻原寺(そうげんじ)(茂原市)の十世をつとめた日伝(にちでん)が明応元年(1492)に開いたと伝えられます。また、正妙寺は法華経寺(ほけきょうじ)(市川市)の末寺で、日高(にちこう)が正和元年(1312)に開いたと伝えられます。

 中世・近世の千葉のメインストリートは、千葉氏の守護神「妙見」を祀る金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)から都川に架かる大和橋までの「本町通り」と、これに続いて寒川方面に至る「市場町通り」でした。まちの東側に位置する本町付近に、主に商工業者の信仰を集めた日蓮宗寺院が集まっていたことから、千葉の都市としての発展をうかがうことができます。

 

 

 

 浜野城跡(千葉市中央区浜野町)

 浜野は東京湾を臨む地で、北には浜野川(塩田川)が流れ、海岸沿いに南北に貫く街路に北・南・東の三つに分かれる宿町(しゅくまち)が形成されました。発掘調査の結果、古墳時代には、この地域が陸地化していたことが明らかとなり、海岸近くの安定した土地に湊が形成されたことがうかがえます。また、土気・東金両酒井氏の祖酒井定隆(さかいさだたか)と本行寺(ほんぎょうじ)の開祖日泰(にったい)にまつわる伝説(※)は、この地が中世から品川と航路で結びついた湊であったことを反映したものと考えられます。

 江戸時代にこの付近を治めた生実藩の米蔵「浜御蔵(はまおくら)」が町場の北側に置かれましたが、「浜野村地先澪絵図(はまのむらちさきみおえず)」(宝暦5年(1755))には御蔵東側の三日月型の土地に「城ノ内」と記載があり、中世にはここが城であったことを示しています。これを浜野城跡と呼びますが、その城域には隣接する本行寺を含んでいたと想定されます。この城跡で注目すべき点は、過去の資料や発掘調査の結果などから、北側の浜野川に開口する堀の復元が可能なことです(堀の推定復元箇所は『浜野城想定復元図』の黄緑色網掛け部分)。この部分は城の防御施設であったほか、船の係留や荷揚げ場を兼ねた可能性があります。出土遺物は15世紀後半から16世紀前半のものが主であることから、浜野城は、千葉氏の重臣である原氏が生実城(おゆみじょう)主であった時期に機能していた城であることが判明しました。

 浜野が内房の重要な湊として登場するのも、原氏が生実城に本拠を置いたことが影響していると考えられます。永正6年(1509)に原氏の館を訪ねた連歌師(れんがし)宗長(そうちょう)が本行寺を宿舎としていることからも、生実城と浜野との密接な関係をうかがい知ることができます。また、この地域は海上交通だけでなく、土気や茂原へ向かう街道の交通の結節点でもあったことから、陸海の交通の要衝である浜野の湊が浜野城として城郭化されたものと考えられています。

(※)海路で酒井定隆が品川から浜野に向かう途中に嵐にあった時、同船していた日泰が経を唱えて嵐を鎮めました。定隆は日泰に帰依し、「自分が城主となった時は、日泰を迎え、領内ことごとく日蓮宗とする。」と誓ったと伝えられています。

 

 

 

 

 以上、昨年度作成し、昨年度末の3月に設置いたしました「千葉氏ゆかりの地」案内看板5件について解説文面のみを取り上げ、ご紹介させていただきました。実物の看板には、説明文に加えて写真・地図・絵画等々も掲載されており、なかなかに素敵な出来栄えになっております。是非お近くにお寄りの際にご覧くださいませ。因みに、それぞれの看板にQRコードが掲示されており、スマホで読み込むと「案内看板ホームページ」にアクセスできます。そちらには、「英・中・韓」三か国語による解説文翻訳も掲載されております。国際都市千葉市のインバウンド対応ということになりましょう。是非、お知り合いに外国の方がいらっしゃいましたら、お伝えいただけましたら幸いでございます。

 「千葉氏ゆかりの地案内看板」は、令和8年度「千葉開府900年」に向けて、今後、毎年度継続して設置数を増やして参ります。昨年度は中央区に設置いたしましたが、今年度以降中央区以外の区へと設置の範囲を拡大していく予定でおります。なお、今回設置「看板」5枚と設置場所周辺の光景につきましては、本館ツイッターにてご紹介をさせていただいておりますので、こちらもご参照くださいますように。関西を中心に変異ウィルスの広がりが続き、関東でも飛び火も懸念される今日この頃ではございますが、看板文面をご覧になって興味を持たれましたら、是非とも現地へと足をお運びください。これら看板の建つあたりが「三密」状態となることは、まずございますまい。千葉市民として、足元の歴史である千葉氏の歩みについて少しでも関心をもたれ、更にその知見を深めていただく契機となることを祈念する次第でございます。

 

 

 

 本館エレベーター運転中止長期化のお詫び ―お客様の「生命」を最優先に考えた対応をさせていただきます―

4月18日(日曜日)

 本館エレベーターですが、4月6日(火曜日)より故障のために運転を中止させていただいております。5階開閉扉の不具合が発生し、利用されたお客様に大いに御心配をおかけしてしまったことを誠に申し訳なく存じております。それ以降、2週間にわたって運転中止を継続させていただいておりますので、毎日来館されるお客さまには多大なるご不便をおかけしております。まずは、そのことに心よりお詫び申し上げます。申し訳ございません。

 この間、保守点検業者による徹底した検査を実施した結果、5階扉の開閉に関するスイッチ部品の不具合が発見されました。本館のエレベーターに関しましては、平成12年(2000)年に本館リニューアルオープンの際に、全面新装して設置したものであり、今日に到るまで定期メンテナンスを欠かすことなく実施しております。そして、不具合についてはその都度修繕をして参りました。しかし、開設以来凡そ20年が経過しており、今回の故障も、経年による当該部品の劣化が主たる要因と考えられるということでした。
そこで、これを機に、扉開閉スイッチ部品の全てを交換することで、最大限の安全確保を担保する対応をとらせていただく判断をいたしました。従って、部品の到着・交換が完了するまでは、今後もエレベーター運行は継続して中止とさせていただきます。メーカーへの部品の発注に相当の時間を要する状況が続いております。今後も暫くはそのための時間を要するとの報告も受けておりますが、極力急いでくれるよう、今後とも働きかけを続けて参ります。

 長きにわたってお客さまにご迷惑をおかけすることとなり、本館としましても心苦しい次第ではございますが、「取り合えず運転する」とのスタンスは一切採りません。何故ならば、エレベーター事故が発生すれば、すなわち利用する皆様の生命に直結する可能性が極めて高いことが、これまで国内各地で発生したエレベーター事故事例から明らかだからです。「利便性の確保」と「生命の確保」とを天秤にかければ、後者が最優先であることは言うまでもございません。万が一にでも発生する危険を想定し、それを排除することこそが館長としての責務と考える次第であります。

 以上、何卒ご理解を頂けましたら幸いでございます。今後、運転再開の日程等につきましては本館ホームページ・ツイッター等でお知らせいたしますので、ご来館前に確認いただけますと幸いです。お手数をおかけいたしますが、何卒宜しくお願いいたします。

 

 鉄道趣味・房総鉄路の遠い記憶と京葉線全通30周年(前編) ―または、鉄道をめぐる3つの交響的断章―

4月23日(金曜日)

 私のように、高度経済成長期を迎える時分に生を受けた男子が、幼少期に鉄道趣味の洗礼と無縁に過ごすことは極めて稀であったように思います。ご多分に漏れず、私も中学1年生までは一端の鉄道マニアでした。小学生の頃から月刊鉄道3誌を定期購読しており、毎月隅から隅まで舐めるように読み漁っては(『鉄道ピクトリアル』『鉄道ファン』『鉄道ジャーナル』)、学校では鉄道好きの友人に、知り得たことを自慢げに吹聴したものです(客観的に自身を振り返れば嫌な子供であります)。何より、自宅の極々至近を常磐線が通っております。高架化される以前の地ベタをゆく列車を日がな一日眺めている裡に、「門前の小僧」宜しく、何時の間にやら鉄道の魅力に絡めとられておりました。“国電”の通称で通勤客を運ぶ葡萄色の73系旧型電車、上野から青森に向かう特急「はつかり」キハ81気動車。因みに、当初「はつかり」は常磐線経由でしたが、583系寝台電車に切り替わるのを機に東北線経由となり、常磐線経由は「ゆうづる」名称となりました。稀に配給電車クモル24・クル29の2両編成に出会った時は幸福感で満たされました。その他、路面電車にも心奪われました。生まれ育った葛飾区内には路面電車の路線は全く存在しませんでしたが、都内の到るところに「都電」路線が四通八達しておりました。都心へ出かける折があれば、多くの系統を行き来する、様々な形式の路面電車を眺めているだけで時を忘れました。一方で、Nゲージ(昔は「9ミリゲージ」と称したように記憶しております)など未だ存在しない時代、鉄道模型の王道は「HOゲージ」でありました。ただ、子どもには到底手を出すことなど叶わぬ代物であり、正に垂涎の的としか言う他ない「贅沢品」でありました。幼少時には街の彼方此方にあった「模型店」展示ケースを、恨めしそうに指をくわえて眺めることが専らであったことを思い出します。要するに、鉄道好きの子供達にとっては、雑誌類で未だ見ぬ鉄道について想いを馳せること、何よりも身近の実物を眺めることが喝を癒す唯一・最大の手段であったのです。

 その中でも、最高の御馳走は客車や貨車を重そうに引く蒸気機関車(以後SL)に接することでした。その走る姿はまるで生き物のようでした。D51・C57・C58が当時の常磐線で見ることのできたSLでしたが、昭和44年(1969)3月15日に、上野~成田間の客車を牽引するC57の最終運行により常磐線から鉄路の煙が絶えました。恐らく、貨物を牽引するSLを含めて、これが都内の常磐線におけるSL運行の最終便であったと思います。このC57は「貴婦人」の愛称で知られ、その優美な姿で私の一番大好きな蒸気機関車でもありました。しかし、未だ総武線はSLの牙城であり、常磐線での最終運行後も半年ほどは客車を引いて運行されておりましたし、貨物輸送にはその後一年程はSLが用いられておりました[調べたところ、昭和45年(1970)3月24日にD51ナメクジ型21号機牽引貨物列車が蘇我駅から越中島貨物駅まで運行されたのが、総武線エリア・都内23区内でのSL運転最終日とのことです]。当時私は小3から小4にかけての頃でしたが、鉄道好きの友人達と自転車を連ねて区内を南下、亀有から「新小岩機関区」まで度々遠征していたことをよく覚えております。そこにはナメクジ型という煙突を持つD51亜種が2台おり(21・50号機)、見つけると得をした気持ちになりました。機関区には転車台(ターンテーブル)もあり、その上を悠然と転換する機関車の勇姿、モクモクと吐き出される黒煙と蒸気、噎せ返るような石炭の匂いに陶然としたものです。当時、機関区敷地には外部からの侵入を防止する柵など一切存在せず、毎度機関区の奥まで侵入して見物しておりました。しかし、不思議なことに「小言幸兵衛」に一人として出会った記憶がありません。もっとも、子ども達も「絶対迷惑を掛けてはならない」との鉄の不文律を共有しておりました。今振り返れば、大人・子供の相互に自ずからなる信頼関係が醸成されていたのだと思います。何でもコンプライアンスがどうだと“目くじら”を立てる昨今の風潮とは隔世の感があります。思えばよき時代でした。総武線でのSL消滅後、近隣でSLに出会えた路線が八高線でした。そちらにC58とD51を見に出張ったことも懐かしい想い出です。今回調べてみると、八高線のSL運行も昭和45年(1970)年9月27日に最後を迎えたそうですから、何度か高麗川鉄橋あたりに脚を運んだのは、今思えば小学校5年生の夏のことだったのだと思います。その後、中学校2・3年生の頃には興味の対象が移り鉄道趣味は自然と消滅しました。しかし、昔取った杵柄か、今でも鉄道には無関心ではいられません。「雀百まで踊り忘れず」とはこのことでありましょう。

 自身の生活圏が都内にあったこともあり、房総の鉄道事情には詳しくないのですが、それでも何度か接した千葉の鉄道事情も瞼に焼き付いております。小学生低学年の頃、電車が通っていたのは千葉駅までで、そこから先は非電化区間でありました。蒸気機関車の消えゆく時代、千葉県は正に気動車王国。鉄路では赤・肌色ツートンカラーの様々な気動車が幅を利かせておりました。稲毛・西千葉駅間の線路際に中学校時代の友人宅があり、高架化前地上を走っていた線路越しに今は無き広大な「千葉気動車区」が見えたことも思い出されます。当時の房総半島に特急列車は存在せず、すべて気動車運行の急行・準急であり、その発着駅は総武鉄道以来房総方面へのターミナルであった「両国駅」でした。今も総武緩行線北に残る一段下の寂れた3番ホームと、隅田川方面に建つオールドファッションの駅舎がその名残です。当時は6番線まであり、夏になると海水浴客で殷賑を極めていたのをよく憶えています。総武線が錦糸町から新たな地下路線で東京駅に通じ、電車特急が運行開始されたのは昭和47年(1972)7月15日です。同時に総武本線の起点が東京駅に改められ、錦糸町駅からお茶の水駅までが枝線とされました。更に、従来の「房総東線」が「外房線」に、「房総西線」が「内房線」へと改称され、房総半島を一周する両線が全て電化されてつながったのも、その時のことになります。

 私自身が千葉駅より先の鉄路に初めて脚を踏み入れたのは、その昭和47年(1972)夏のことです。中学校に入学した1年生時に歴史研究部に所属した私は、夏休みに高校生の先輩達が泊まり込みでアルバイトをしていた遺跡発掘を手伝うために房総に向かいました。車両全体をカナリア色に塗装された101系電車に揺られた私が千葉駅で乗り継いだのが改称されたばかりの内房線でした。私の記憶では気動車に乗り換えたと永く思っておりましたが、調べてみたところ、房総東線の千葉駅~蘇我駅間、房総西線の蘇我駅~木更津駅間が電化されたのは昭和43年(1968)7月13日のことのようです。つまり、千葉駅から私が乗車したのは電車であった可能性が高いものと思われます。もう一つの記憶として、その時千葉駅プラットホームから昭和42年(1967)建築の本館(当時は「千葉市郷土館」)の建物が見えたことが鮮明なのですが、これも外房線車窓からの光景だったのかもしれません(千葉駅から蘇我駅までの区間は外房線になります)。つくづく、人の記憶の曖昧さを思い知らされます。その時に、降り立った内房線「八幡宿駅」は、記憶によれば前近代的ないでたちの店舗が数件立ち並ぶだけの駅前風景。埃っぽい風が吹き抜ける、絵に描いたような“田舎の駅”でした。駅まで迎えに来て下さった先輩の自転車荷台に乗り、単調な直線道路を内陸部に向かいました。到着した遺跡発掘現場には赤茶けた荒涼たる土地が広がっておりました。そもそも何も知らないズブの素人にも関わらず、一切説明も無い中での見様見真似の発掘作業であったのですから、当然の如く、担当の職員から「君!君!!そこを掘っちゃ駄目だよ!!」と厳しく叱責されました。場所は、現在の辰巳台団地か、手前の若宮団地となった辺りかと思いますが定かではありません。縄文遺跡だとばかり思っておりましたが、担当の職員が「あそこに見えるのは古墳だ」と言っていたことも耳に残っております。複合遺跡であったのでしょう。

 因みに、その時に八幡宿駅まで自転車で迎えに来てくれた先輩は、後に「永井画廊」を興し、テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」で長く洋画鑑定士を勤めた永井龍之介さん(当時高2)であったと記憶しております(ご本人に確認すれば「俺じゃないよ」とおっしゃるかも知れませんが)。夏休みに泊まり込みで発掘アルバイトをしていた歴史研究部のメンバー中に永井先輩がいらしたことは間違いありません。歴史研究部会誌等に寄せる文面等から判断して、高校生の頃から図抜けて文学的・芸術的センスに秀でた方であることは、13歳のヒヨッ子にも充分すぎるほどに伝わりましたので、後にテレビで拝見したときには、「栴檀は双葉より芳し……」だと合点がいった次第であります。

(後編に続く)

 

 

 鉄道趣味・房総鉄路の遠い記憶と京葉線全通30周年(後編) ―または、鉄道をめぐる3つの交響的断章―

4月24日(土曜日)

 前編で、当方の幼き頃の鉄道趣味と房総の鉄路の遠い記憶について述べさせていただきました。後編は、もそっと近い時代のお話です。具体的には、当方が毎日通勤でお世話になっている京葉線についての話題となります。申し上げるまでもなく、房総鉄路の中では圧倒的な新参者であります。現在は流石に熱心な鉄道ファンと申せませんので、あまり注意深く観察もしておりませんから、現状如何なる状況かよくわかりませんが、しばらく前までは「京葉線全通30周年」ヘッドマークを付けた電車が運行されておりました。もっとも、何をもって「全通」なのか、如何様に判断して「30周年」を設定されたのかはよく分かりません。新木場駅から蘇我駅までの開通は昭和63年(1988)12 月1日ですから、ざっと2年前「平成30年(2018)」がそれにあたります。別に、東京駅まで延伸された現況をもって全通とするならば、それは平成2年(1990)3月10日ですから、昨年「令和2年(2020)」が「30周年」になりましょう。もっとも、周年記念ヘッドマークを付けた電車は前職場で京葉線を利用していた2年前にも目にしておりますので、そのあたりは、JRとしても極々大雑把にとらえて設定していたのかと思われます。

 何れにしましても、現在の京葉線は極めて複雑な経緯を経て現在の運行形態となった鉄道路線であります。そもそもが、東京湾臨海部の工業地帯に関わる貨物を、ダイヤの建て込む都心部の旅客路線を回避して輸送する貨物専用路線として、昭和40年代終わり頃に計画されました。従って、それは昭和30年代から相次いで進められた千葉県沿岸の埋め立て事業と一体化した事業でもあったのです。当該時点での埋立地造成の目的は大規模工業用地利用に他なりませんでしたから(「京葉工業地域」と称されることとなります)、当初は現在のような「東京駅」発着の旅客営業運転は想定されておらず、現在の「新木場駅」から「東京臨海高速鉄道りんかい線」として再利用されている路線を経由し、「東京貨物ターミナル駅」へと接続する計画でありました(ここから東海道貨物線が更に先へと続いております)。これが、国鉄(現JR東日本)「京葉線」、国鉄(現JR貨物)と千葉県との出資による「京葉臨海鉄道」の設営目的でした。後者は、蘇我駅から内房線から分岐し臨海工業地帯を南下する貨物運搬専用鉄道として現在も運行されています。加えて「西船橋駅」で接続する「武蔵野線」と併せ、「東京外環状貨物路線」を構成する鉄道として位置づけられてもいたのです。つまりは、京葉工業地域と全国市場とをダイレクトに結びつける物資輸送路として計画されていたということになります。

 実際、現在、京葉線として利用されている路線中、最初に設営されたのは、昭和50年(1975)の蘇我駅から、新たに設置された「千葉貨物ターミナル駅」[平成12年(2000)廃止]までの区間でありました。外房線から分岐する完全な貨物専用支線としての開業でした。昭和39年(1964)から開始された千葉中央地区の埋め立て事業の結果、同年に発足した「千葉食品コンビナート」に関連する工場群が当該埋立地に進出し始め、千葉中央地区埋立地が京葉工業地域の一翼を担うこととなる時期と符合します。現在は跡形もなく消滅した千葉貨物ターミナル駅ですが、「千葉みなと駅」と「稲毛海岸駅」の間、現在退避路線として高架線が設営されている海側一帯に存在しておりました。京葉線と並行する形で何本もの操車用線路が引かれた広大な駅跡地区画には、現在は、イエローハット・洋服の青山・ちば県民保健予防財団医療センターをはじめとする諸施設が立ち並んでおり、遺構は全く残っていないのではないかと思われます。当該駅から食品コンビナートに向かう2本の引き込み線も設営され、それぞれに「食品北駅」「食品南駅」が存在しておりました。最近まで「山崎製パン」千葉工場前に鉄路が残っておりましたが、今ではそれも撤去されました。開業当初の路線は、蘇我駅から千葉貨物ターミナル駅までであり、そこで行き止まりとなっておりました。それは、黒砂水路より北側の埋め立て事業が、当時正に進行中であったからです。稲毛地区・検見川地区の埋め立てが昭和44年(1969)~同51年(1976)、その北の幕張地区は更に遅れて昭和48年(1973)~昭和55年(1980)でありますから、線路を敷設しようにも、当該地区は未だ海中であったり造成途中にあったりしたからです。

 もう一つ、当該区間においては、現京葉線と異なる部分があったことにも触れておきましょう。それは現在の「千葉みなと駅」と「蘇我駅」とを結ぶ経路にあります。開業時の路線は、現在の「千葉みなと」方面から進むと、都川を渡った先で高架線を下り、現在の寒川船溜の脇を抜けて川崎製鉄構内(現在アリオ蘇我の敷地)に入り、川崎製鉄専用線を利用して、交通量の極めて多い国道14号線を平面交差で横切って蘇我駅に到達するルートをとっておりました。現在でも、京葉線の車窓から都川橋梁付近の海側を見ていると、船溜まりに沿って下降していく高架線跡を発見できます。また、現在は道路となっておりますが、蘇我駅構内から福正寺の墓地北側をかすめるように海側に向かっていく軌道跡を明確に追うことができます。当該路線の国道14号線踏切は交通渋滞の大きな要因にもなっておりました。それでも、こうした企業専用線を間借りするという変則的路線形態を採用せざるをえなかった背景には、既に市街地化していた蘇我駅周辺での用地買収が難航し、現在使用している当初計画路線での開業が見込めなかったためと考えられます。当面の回避措置として止むを得ずとられた措置であったのです。おそらく、地域住民にとって貨物専用路線の建設は生活上の利点が存在しなかったことも、計画路線での開業に反対する市民感情となっていたものと推測できます。因みに、川崎製鉄は、将来的に京葉線が貨物路線として全国に繋がることを見越し、全通後に工業製品を当該路線で輸送することを目論んでいたのでしょう。見返りとして、川鉄工場への貨物列車出入構のための待機用線路を本線上に設けることを求めたものと思われます。都川橋梁付近には、現在も不必要な程のスペースが残され、上下線の間にレールが撤去された待機線路跡を相当の距離で見ることができます。川崎製鉄から出入する貨物列車がここで待機し、通過列車をやり過ごしてから、先の仮線路で工場敷地に入り込む計画であったものと思われます。飽くまで貨物専用路線としての京葉線像が浮かび上がります。

 これまで京葉線の濫觴について述べて参りましたが、それでは、現状の路線展開と旅客営業形態への方針転換は如何なる経緯を経たものなのでしょうか。最後に簡略にそのことに触れて、現在の在り様に繋げておきたいと存じます。詳述するまでもなく、それこそ、オイルショックを経た昭和50年代(1975年以降)に入ってからの国内経済状況の変化に求めることができましょう。実際のところ、千葉市沿岸の埋立地の土地利用を見れば、そのことは歴然と見て取れます。千葉貨物ターミナル駅から北へ延伸された路線が、至近にある黒砂水路を渡れば、そこに存在する稲毛・検見川埋立地(昭和51年完成)一帯は巨大住宅団地となっており、一切工場用地となってはおりません。黒砂水路以南には今でも一般住宅がほぼほぼ存在しないことと著しい対象をなしております。黒砂水路を隔てた南北の埋立地景観のあまりに大きな相違は、時代の移り変わりを見事なまでに表象していると思われます。併せて、当時の政治・社会情勢も垣間見えます。千葉県が、成田空港への航空燃料鉄道輸送の期間延長を認める見返りに、京葉線の旅客化と東京駅までの乗り入れの実現を要求した経緯があったこと。この間のモータリゼーションの爆発的普及により鉄道貨物需要が激減したことも方針転換を後押ししました。その結果、昭和61年(1986)3月に、第1期として、西船橋駅~千葉港駅(現:千葉みなと駅)旅客営業開始。翌62年(1987)12月に第2期として、新木場駅~南船橋駅、市川塩浜駅~西船橋駅、千葉港駅~蘇我駅の旅客営業が開始。同時に武蔵野線との相互乗り入れも始まりました。この時、懸案であった川崎製鉄専用線を用いる変則的な経路が解消され、当初の計画路線である現状の経路が建設されました。旅客営業であれば地元住民に限りないメリットが生じますから、とんとん拍子で用地買収が進むことになったのでしょう。そして、平成2年(1990)3月、第3期として東京駅~新木場駅間が開業し、現営業形態となったのです。因みに、当区間は貨物路線の転用ではなく、頓挫した成田新幹線用に買収していた敷地や計画等を一部援用しながら東京都心に新規設営した路線となりましたので、第2期開業から2年半程の歳月を要しております。そして、実質的に長く休止状態にあった千葉貨物ターミナル駅も、平成12年(2000)正式廃止となり、すべての線路が撤去されました。それからたかが20年程しか経過しておりませんが、今ではそこに貨物駅があった面影すら感じさせぬ変貌ぶりに驚かされます。京葉線による貨物輸送自体は現在も行われておりますが、現状貨物路線としての機能は大きく減退していると申し上げる他ありません。歌番組での文句ではありませんが「鉄路は世に連れ人に連れ」といったところでしょうか。

 こうしてみると、京葉線(そして武蔵野線)に期待された鉄道としての機能は、戦後の時代像を刻々と反映しながら、推移してきたことが理解できます。その意味で、昨今、東京貨物ターミナル駅から羽田空港地下を通って、川崎から更に南へと向かう東海道貨物線が、都心と羽田空港を結ぶアクセス路線として旅客路線利用する計画が浮上していることも興味深いことであります。ところで、利便性という点で、現時点での京葉線終着駅である東京における他路線への乗り継ぎの不便さは誰でも感じるところでしょう。京葉線東京駅地下ホームから地上に出ると、そこは東京国際フォーラム前となります。これでは有楽町駅であるといっても疑義は一切生じますまい。ただ、これには京葉線に関する将来的な青写真が深く影を落としていると思われます。それは、東京駅から新宿駅、更に三鷹駅までの路線延伸が見込まれているからです。京葉線東京駅が既存諸路線とは方向が唯一異なり、東西方向にクロスして建設されているのはそのためです。しかし、東京駅中心付近で交差させてしまえば、流石に延伸経路を江戸城跡(皇居)の真下を通すことはできなかろうと思いますので、それを避けるためには複数の急カーブを伴う迂回路線の建設を強いられることになりそうです。その不都合の回避も一因となり、大きく南に偏った路線計画となったのではありますまいか。その他、総武線の船橋駅と京葉線の新浦安駅とを繋ぐ、総武・京葉連絡線の計画も存在すると聞きます。京葉・総武線の相互の乗り入れ運行が行われれば、それはそれで大幅な利便性向上に繋がりましょう。それらの日は、果たして何時の日となりましょうか。千葉市に奉職するものとして大いに待ち遠しく思います。

 なお、最後になりますが、特に「後編」での話題は、本年度8月より開始となる、千葉市の高度経済成長期を扱った特別展とも極めて密接に関わっております。そのための誘い水になってくれることを期待するところでもあります。もっとも、自分自身が京葉線敷設当初の生活地盤が千葉にはなく、旅客営業開始から全線開通時までは千葉市に奉職していたものの、若葉区内の学校勤務であって京葉線との接点が一切なかったこともあり、事実と異なる部分があるかもしれません。その点、お気づきの段等ございましたら、是非とも館メール等にてご指摘いただけましたら幸いでございます。

 

 

 「国産ワクチン」の来し方・行く末と日本人の「ノーベル賞」受賞について(前編) ―または「昭和遺産」と「技術立国」の黄昏のこと―

4月30日(金曜日)

 4月も晦日となり、明日からは「風薫る」とも称される「五月(さつき)」に入ります。俗に言うゴールデン・ウィーク(大型連休)も目前です。そして、“復興五輪”を掲げてスタートし、コロナ禍の影響によって一年延期となった「東京オリパラ」の開催まで、既に100日を切っております。しかし、コロナ禍は一向に終息する気配が見られず、「緊急事態宣言」を発令せざるを得ない都府県も出ております。聖火リレーですら断念せざるを得ない地方公共団体すら表れております。かような状況下で果たして本当に開催するのか、よしんば開催したとしても、国内に留まらぬ我が国を訪れた外国人選手等の感染防止を果たして保障できるのか等々、個人的に疑問符ばかりが脳裏を行き来しております。ワクチン接種の実施状況も本来優先されるべき医療関係者ですら現段階で2度接種が完了しているのは2割弱にすぎないと耳にします。何れにせよ、変異株の増加が顕著な状態にあります。100年前のスペイン風邪でも第2波での死亡率が高くなっていることに鑑みれば、(飽くまでも素人考えにすぎませんが)現況は相当に危機的状況にあるといっても過言ではありますまい。しかし、かような事態に立ち至っても、「東京五輪は何が何でもやり遂げる」という政府のスタンスには変化が見られません。

 こうなると臍曲がりの当方としては、誰のための五輪なのかと問い返したくもなります。最早、国民の大多数の待ち望む五輪とはなっておりますまい。いつの間にか「復興五輪」のスローガンも何処へやら。昨今では、終息の道筋すら見えていない「コロナ禍に打ち勝った証としての五輪」などという、空虚極まりなき言葉まで流布する始末です。これでは災害被災者の皆さんも浮かばれますまい。かような状況に鑑みれば、週刊各誌で取りざたされているように、五輪強行の背景には何らか別の要因があるのではないかと邪推するのも極自然でありますし、実際に国民の多くも薄々そう感じているのではありますまいか。勿論、オリパラを目指してこれまで努力を重ねてきたアスリートの皆さんのことを思えば、中止の決断には多大なる断腸の念を伴うことは間違いありません。しかし、日本という国家の構成員である国民全体の福利を考えての判断になりえているのか、増してや、責任ある国際社会の構成員として全世界の人々への配慮ある判断となりえているのか、国民と世界全体に責務を負う政権を担う皆様には、是非とも冷徹に判断・決断をしていただきたいと考える次第であります。私には、かような現状分析を欠いて、希望的観測をもって開戦に及び、形成的評価による科学的根拠に基づく方針変更を加えることもなく、「自らが見たいと念願する」空想だけを頼りに破滅の道を突き進んだ、あの太平洋戦争の時代と今回のこととが重なって見えて仕方がありません。皆様は如何お考えでしょうか。戦後の行き過ぎた開発にも全く同じことが言えるわけですが、鯔の詰まり、あれだけの痛みを経験しても我々の精神構造は一向に変わっていないのではないかと、暗澹たる思いに駆られるのです(公平を期すために申し添えますが、かような状況は決して日本だけの問題に留まらず、英仏共同開発になる超音速旅客機コンコルド開発でも指摘されております。ただ、残念ながら本邦に於いて枚挙に暇なき程に顕著であることは否めますまい)。

 百歩譲って、東京オリパラの開会までに国産ワクチンでも開発され、直ちに全国民への2度接種が可能となるならいざ知らず、その可能性は殆ど黒と判別できない程の灰色でしょう。ところで、外国製ワクチンの届くのを今か今かと待ち詫びているのは何故でしょうか。コロナワクチンと申せば、アメリカのファイザー、イギリスのアストラゼネカ等の外国製品ばかりです。国産ワクチンは存在しないのかと疑問に思われるのも当然かと存じます。何せ、世界に「技術立国」を自称する日本です。実のところ、日本の製薬会社も新型コロナワクチン開発を行ってはおります。しかし、悲しいかな、全く追いついていないのが現状であります。感染症拡大からの月日は他国とさほど大きく異なっているとは言えず、開発期間にさほどの違いがないにも関わらずです。国産ワクチン開発がかくもその他先進諸国の後塵を拝しているのは何故でしょうか。かようなことを思い巡らしていたところ、過日当該事項を取り扱った新聞記事に出会いましたので、ご紹介しつつ、その背景について述べてみたいと存じます(「朝日新聞」2021年4月11日)。

 まず、前提として挙げられるのが、日本人の伝統的メンタリズムとして予防接種のように体内に異物注入されることへの根強い忌避感があると言います(如何なる民族にも多かれ少なかれ存在すると思いますが)。幕末に佐倉藩等で実施された「種痘」(牛痘を人体に植え付けて抗体を形成する)が、初期において広まらなかった背景にもこうした事情が働いておりましょう。更に、日本では1970年頃から、学校等で一斉摂取していた予防接種を原因とする死亡事故・後遺症事故が社会問題となり訴訟も相次いだこともあり(国が全面敗訴)、それ以降20年間は新しいワクチン開発が停滞する状況が続いたことも大きいと指摘されております(ワクチンギャップ)。加えて、近年におけるSARS(重症急性呼吸器症候群)、MERS(中東呼吸器症候群)、エボラ出血熱といった死亡率の高いウィルス性感染症への対応として、対応ワクチン開発が世界中で急がれた中、日本国内ではこれら感染症の大きな被害を受けることなく推移してしまったことも、今思えば逆風となったと考えざるを得ません。今回の感染症防止が極めて有効に機能した台湾での成功要因は、近い過去における感染症対策失敗の経験から徹底的に学んだことにあると言っても過言ではありません(現状、日本では死者一万人を数えておりますが、台湾は経済活動の抑制など行うことなく、人口が日本の1月5日とは申せ、本邦の1/200の死者11人に抑える圧倒的な成果をあげているので)。そして、何にも増して、人体に直接接種するワクチンには高度な安全性が求められます。従って、開発と安全性の治験を重ねるためには、相当に長い時間と莫大な開発費が必要となります。わが国では、従来から、政府が小規模企業の多い薬品会社に補助を行いワクチンの開発・製造を行ってきました。しかし、上記の如く、学校での一斉摂取が行われなくなったこと、少子化の進展等により、国からの支援は先細りしていく一方であったのです。つまり、私企業である薬品会社には開発意欲の著しい減衰が生じ、結果として国内においてワクチン開発自体が停滞する構造的問題が用意されてしまったことを指摘しております。

 こうした中で発生したのが今回の新型コロナウィルス感染症という訳です。詰まるところ、国産ワクチン開発は初手から躓いている状態にあったということです。その前提を一先ず置いたとしても、感染蔓延といった危機的状況において、一国の政府として迅速に対応せねばならないことは言うまでもありません。しかし、その段階においてすら、我が国の対応は緩慢極まりないものでした。コロナ禍の対応では、とかく世界中から非難を浴びたアメリカのトランプ政権でありますが、それでも「ワープスピード作戦」を掲げ有望なワクチン候補に1兆円規模の資金を投じているのです。かような中で、我らが政府はどうだったのかと申せば、この期に及んで開発支援のために割いた当初予算は100億円であったとのことです。勿論、単純な比較は慎むべきとは思いますが、日本のワクチン開発支援資金供給はアメリカのたった1/100に過ぎないことには、最大限の注意を払うべきかと存じます。この差が、ワクチン開発のスタートダッシュに決定的な遅れをもたらしたことが、結果として現在まで暗い影を落としていると報告されております。飽くまでも新聞記事の報告であり、実際に自分自身で確認した訳ではありませんが、「後編」で述べさせていただくことから類推して、決して的外れとは言えないのだろうと考えざるをえません。まさに「当たらずとも遠からじ」といったところでございましょう。

 更に、当該記事は、日本という国家の在り方を巡る重大な指摘で締めくくられております。それは、ワクチン開発は、決して日本という国家の国益と日本国民の福利にのみに収斂する話ではないとの指摘であります。国際社会の安定に大きな責務を負う国家であれば、当然にワクチン開発のノウハウを持たざる国家の人命にも十二分なる意を用いていることが求められましょう。換言すれば、ワクチン開発は、国民の安全保障上重大な意味を持つという極々内向きな問題に留まらず、周辺諸国の安全保障にも貢献する意味において国家としての在り方の問題に他ならないということです。国内が如何なる状況にあれ、日本という国家が日常的にワクチン開発を推し進めていれば、今回のような緊急事態に即座に対応し、世界に先駆けて周辺諸国へワクチン提供を開始することを通じて、広く国境を超えて人々の生命保障に貢献する重責を担えたのではないかとの指摘です。その点で、我が国のワクチン開発政策は、諸多に事情があるにせよ、国内にしか目を向けてこなかった帰結であるとの誹りは免れますまい(平たく言えばこれは一企業に丸投げすることではなく国家戦略上の問題だということです)。アメリカやイギリスのメーカーによる自国に限らない日本を含めた国家へのワクチン供給は、勿論メーカーの企業経営に帰すべきことでありながら、先進国としての国際社会への責任ある貢献といった側面が極めて大きいということです。それによる国家としての信頼感は、高まりこそすれ、決して低まることはありますまい。それが、世界に冠たるリーダーシップを発揮する国家の在るべき姿ではないか。かように私は考えますが如何でしょうか。後編は、日本人「ノーベル賞」受賞の話題を通じて、更に話を広げたいと存じます。
(後編に続く)


 

 「国産ワクチン」の来し方・行く末と日本人の「ノーベル賞」受賞について(後編) ―または「昭和遺産」と「技術立国」の黄昏のこと―

5月2日(日曜日)

 (株)旭化成名誉フェローである吉野彰が「ノーベル化学賞」を授与されたのは、今を遡ること2年前の平成31年(2019)のことでした。受賞を喜ぶ吉野氏の屈託のない満面の笑顔が新聞やテレビで大々的に報道されたことも記憶に新しいところです。受賞理由は「リチウムイオン電池」の開発が新たな生活様式を生み出すことに大きく寄与したことにあります。当方のような根っからの文系人間には皆目見当もつきませんが、新聞報道によればそれは以下のようなものだそうです。

 

「リチウムイオンが、充電時には正極(+)から負極(-)へ、放電時には負極から正極への移動することによって機能する電池。電極の劣化は少なく、繰り返し充電しても能力が落ちにくい。電圧は約4ボルトで、1.5ボルトのアルカリ乾電池の約2.7倍。溜め込む電気量も多いため、小型軽量化を可能とした。」(2019 10月10日「毎日新聞」)

 

 この電池は、申すまでもなく我々が日常使用するスマートフォンやパソコン等のモバイル機能に不可欠のものであり、正に現代社会を支える画期的な発明であることだけは容易に理解できます。日本人としては、1949年湯川秀樹博士による初の物理学賞受賞以来、平成30年の本庶祐受賞(医学生理学賞)に次いで27人目の快挙となります。そのうち自然科学3賞(医学生理学・物理学・化学)受賞は24人で世界6位(2001年以降に限定すれば18人となりアメリカに次ぐ2位を誇ります)。しかし、天邪鬼の私としては、「技術立国日本の精華」などと自惚れている場合ではないと強く思っております。周辺からは「中国は大国だと言っているがノーベル賞(自然科学3賞)受賞者は日本人に比べてずっと少ないではないか!」と嘯く声が耳に入って参りますが、そんな呑気な認識は早々に改めるべきでしょう。その理由について以下に述べてみたいと存じます。現在の優位が何時まで続くのかについて、私は大いに悲観的な認識に立っております。正直なところ、楽観的でいられる要因を見つけることが難しい状況にあると考えるのです。

 吉野氏は昭和24年(1948)生まれ。受賞時には71歳でいらっしゃいました。前年の本庶氏しかり、受賞者が軒並み高齢であることを不思議に思われませんでしょうか。ノーベル賞は老齢功労賞ではありません。それには明確な理由が存在します。研究の着手から相応の成果を導き出すまでに相応の時間が必要だからです。地道な「基礎研究」を通じた画期的な「発見」から、発見に基づく開発が行われ、その果実としての「受賞」に到るまでには、概ね30年近くの歳月を要するのが通常です。吉野さんの場合も1980年代の基礎研究への着手が実を結び受賞に至りました。つまり近年の日本人受賞研究のほぼ全ては、「基礎研究」に潤沢な資金が投じられていた時代の遺産、つまり「昭和の遺産」に他なりません。吉野さんの発見は、電気を通すプラスチックである「ポリアスチレン」と出会ったことが契機でした。常識外れの物質との出会いに好奇心をくすぐられ、後に電池の電極への利用に照準を絞った研究を進め、幾多のトライ&エラー連続といった紆余曲折の末の結実だったのです。決して一朝一夕の成果などではないのです。素材探究という地道な「基礎研究」の賜物であることに気づくべきかと存じます。

 これまで幾度となく用いた「基礎研究」とは如何なる研究なのでしょうか。それは、自然の原理の発見や全く新しい物質の創生などの「0から1を生む」研究を言います。そして、基礎研究こそが研究者の純粋な探求心に由来する研究なのであり、その成果にこそ「画期性」の有無が存在しているのです。その点で、端から事業化(金儲け)目的が明確な「応用研究」とは異なります。そして、結果的に大きな利潤に直結する応用研究の望ましい成果とは、「基礎研究」のそれを基盤とした独創性ある製品であるか否かにかかっているのです。つまり、金儲けに直接繋がらない「基礎研究」の充実こそが、これまでの「技術立国日本」の存立基盤でありました。しかし、我国の「お家芸」と言うべき「基礎研究」に危機が迫っています。朝日新聞(2019年10月18日)に、現代日本のお寒い研究事情が報道されておりましたので、ここでご紹介いたしましょう。

 それによれば、基礎研究の提出論文数が、平成7年(1995)、アメリカに次いで世界2位であった日本でしたが、10年後の平成17年(2005)に、その数で中国に抜かれ、更に10年を経過した平成27年(2015)に世界4位にまで落ち込んでいるとのことです。しかも、当該年度の日本の論文数5万件に対し、今や世界2位に浮上した中国論文数は日本の5倍にあたる25万件にまで達し、1位のアメリカに肉薄しているのです。皆様の中には「数じゃない!論文の中身の問題だ!!」とお考えの方が多いことでしょう。そこで、次に論文の中身(質)を問題にしてみましょう。論文の価値を計る指標となるのが、他研究者に当該論文が引用されている数であります。それによれば、日本の引用論文数は平成16~18年度(2004~06)平均で、世界4位であったのに対し(1位アメリカ・2位イギリス・3位ドイツ)、10年後の平成26~28年度(2014~16)平均では、何と9位にまで下落しております。今や中国はアメリカに次ぐ2位に達し、日本はイタリア・フランス・オーストラリア・カナダの後塵を拝している有様です。「平成の遺産」として令和の時代に花咲く基盤となるべき「基礎研究」。それが平成以降、我国では加速度的に衰退しているのです。今言えることは、恐らく30年後に日本人による自然科学分野におけるノーベル賞の受賞は、相当に難しい事態に立ち至るであろうということです。

 話題はノーベル賞から外れますが、私の敬愛する東北大学文学部教授の佐藤弘夫(日本中世宗教思想史)による著書『起請文の精神史』(講談社メチエ)「あとがき」は、自然科学における基礎研究衰退の予兆が、社会科学の分野では2006年に既に顕在化している実態を伝えます。2004年の国立大学の国立大学法人への衣替えを機に、大学内部では如何に社会貢献をすべきか、如何に産業界との連携を深めるかが日々議論されるようになったこと。こうした情勢の中で文系学部が肩身の狭い思いを強いられていること。元来金儲けとは無縁で伝統的に地味な基礎研究を重視してきた文学部はとりわけ冷たい視線に晒されていること等々(佐藤氏は文学部とはあたかも個性的な職人が寄り集まった中小企業とも言うべき性格をもっているとも述べています)。そして、こうした状況は私にとって身近な千葉県内総合大学にも、ひたひたと確実に押し寄せていることを「肌感覚」として実感します。人材育成を担う教授の多くが、人員削減と研究以前の雑務(研究費自己調達)に忙殺され疲弊されているのが偽らざる状況です。最も驚いたことは、昨年度のことになりますが、ゼミ授業で学生が提案する資料コピー代まで担当教授の個人研究費による自弁に変更されたと知ったことでした。正直なところ「果たしてここは教育機関なのか?」との思いを禁じ得ません。誰がかような方針を決めているのでしょうか?これでは、ただでさえ削られる研究費を護るために、ゼミの受け入れ学生を削減するか、レポート枚数を少なくするように学生に求めるかしかありますまい。本末転倒この上なきことが、教育界ですら現実に行われていることに驚愕いたします。

 問題の所在は、社会科学のおかれた状況にわかりやすい形で覿面に表出していますが、一事が万事であると思わざるをえません。魹のつまり目の前の「金儲け(資金獲得)に繋がるかどうか」だけが問題にされているのです。そうした価値だけが大手を振るい、それに直結しない研究・学問は価値の有無さえ問われることなく弾き出される精神構造ができあがりつつあります。佐藤氏は「人文科学を育む土嬢である学問的で根源的な思考よりも、即効性をもったノウハウのほうがはるかに重宝され重視される時代になってしまった」と述べています。「人文科学」を「自然科学の基礎研究」に置換すれば、今日の自然科学分野における基礎研究軽視の動向と軌を一にすることが理解できましょう。企業は競争に勝ち抜くための目先の製品開発に傾注し、金儲けには直結しない基礎研究の予算を大幅に削減しているのが現実です。それは大学でも大同小異。こうした動向こそが、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、そして日本における中曽根内閣あたりを端緒とし、1970年代後半から力強く推進されるようになる「新自由主義的(ネオリベラリズム)」思想に基づく諸政策推進の成れの果てに他ならないと考えるのです。確かに、こうした施策が当時の弛緩した社会へのカンフル剤として機能した面があることを否定しようとは思いません。しかし、昨今の状況は、負の側面、弊害の部分ばかりが露呈しているように思えて仕方がありません。今の在り様が、将来に渡たって更なる「じり貧」を惹起する、そんな行く末に気づかない企業など存在しないと信じたいところであります。ただ、百歩譲って、現状における企業・独立行政法人としての体力にも、それを許容せざるを得ない実情があるのかもしれません。

 こうした中で、日本の明るい未来を描けと言う方が正直難しいのではないでしょうか。事実、国内の研究体制に希望を見いだせない理系の優秀な研究者の多くが、日本を離れて国外の大学や企業へと流出しております。じっくり基礎研究に取り組みたいと願う志の高い研究者ほど、潤沢な資金と恵まれた研究環境にある国外の研究機関を嘱望するのが当然の道理でありましょう。諸外国もそのことを知って盛んに引き抜きを行っております。そこには国境などありはしないのです。そして、教育界においても、子ども達に明るい未来像を語ることが、これからの時代に果たして可能か否かを問い直してみる必要もあろうかと存じます。大人が自信をもって明るい未来への希望を語れない、そんな国家は決して健全とは申せますまい。初任校の離任式で生徒から告げられた「先生からは沢山の夢を分けてもらいました」という言葉を、自身の教職生活における最大の宝としてきたロートルとして、そのことに深く憂慮を覚えます。そう言ってくれた生徒も、今では50歳を過ぎました。そして日々元気に仕事をし、明るい家庭生活を営んでくれています。

 最後になりますが、こうした現実を踏まえ、危機感に基づく政策見直しに努めようとする政権の気概も残念ながら見えて参りません。しかし、改めて申し上げますが、その代償は甚大だと考えます。将来における独創性ある製品誕生の阻害要因として、未来の我が国の国際競争力大幅低下を惹起するのはほぼ確実でしょう。今回のコロナ禍における国産ワクチン開発の停滞に鑑みれば、既に現実化している問題とさえ申せましょう。今さえ良ければよいのか。「子孫に美田を残す」との美徳すら置き去りにする「精神の貧困」に暗然たる思いです。単なる取り越し苦労であれかしと心底願っておりますが、正直、還暦を過ぎて曰く言い難き憂鬱で心が晴れません。

 

 新年度からの本館の新たな活動御紹介(前編) ―本館エデュケーターによる「出張出前授業プログラム」が始動します!!(千葉市立小中学校 児童生徒対象)― ―本館ホームページ内「研究員の部屋」新シリーズがスタート!!遠山成一研究員「中世の城跡をめぐる」案内―

 
5月5日(水曜日)

 令和2年度のゴールデンウィークも一陣の風の如くに過ぎ去りました。関東での東京都を中心にした「緊急事態宣言」発令も、その期限までを残すところ4日ほどですが、どうなることでしょうか??宣言の延長となるか否かは本稿執筆中には未だ未確定でありますが、2週間かそこいらで納まるものなのか、正直懐疑的な思いばかりであります。何れにいたしましても、蔓延防止対策が広く行われたGW中、昨年に引き続いて遠出を御控えになられた皆様が殆どでございましょう。当方は、例年、人混みを見に行くようなこの時節は遠出しないことをモットーとしておりますので、以前に書いたように本年も恒例の庭木伐採と除草に費やすこととなりました。大いに草臥れましたが、お陰で庭がこざっぱりとして大いに気分が宜しいものです。体力は大いに費やしましたが、精神的には大いに潤った連休となりました。さて、今回は、本館において4月から新たに立ち上がった活動を2点ほどご紹介させていただき宣伝を兼ねたいと存じます。

 その一つ目です。本館は「本館の使命(ミッション)」として、幾つかの大きな柱を立てており、その何れも本館が事業を推し進めるうえでの指針といたしております。ホームページ内にも同名コンテンツを掲げておりますので、もし、宜しければ、是非一度ご覧になっていただければと存じます。何事に取り組みにも、何より重要なことは、その事業・活動を通じて何を目指すのか、十分に吟味してその中に据えて掛かることだと思っております。その中に、以下の項目も掲げております。

 

〇学校教育と強固な連携関係にある博物館

次代を担う子どもたちへの郷土史への理解を深めるために、館内学習機能の充実と出前授業などアウトリーチ活動の充実に努めます。

 

 私たちは、千葉市内にある公共施設としての博物館として、市民の皆さんに地域の来し方(歴史)や地域社会の在り方(民俗等々)について、広く親しみをもって理解を深めていただき、自身の生活空間である千葉市への誇りをもっていただきたいとの願いを込めて活動しております。そして、特に我々が大切にしたいのが、本市で生まれ育つこととなる「子供」達の存在です。その意味では、子供達が集い学ぶ教育機関としての「学校」との関係を深めることこそが肝要と考えております。端的に申せば「教育普及活動」の重視ということに他なりません。ところが、そう言いつつも、従来は、飽くまでも児童生徒の皆さんが本館へ来館されることを前提とした、基本的に内向きの活動を主としたものが中心でありました、また、本館での学習に供する「教材」も、必ずしも児童生徒の学習活動に則したものとはなり得てはおりませんでした。どちらかと言えば大人向に傾斜したシートであったのです。つまり、目指すところと実態との間に大きな乖離が存在することは否めない状況にありました。そこで、前朝生館長が課題解決に向けて永く地道に働きかけてこられた成果が実を結び、ようやく昨年度より本館でも「エデュケーター」の配置が決まりました(博物館に「教育普及活動」に専門的に携わるエデュケーターを配置することは極々一般的であり、配置されないことが稀であることを申し添えておきたいと存じます)。具体的には小学校担当1名(染谷一道)、中学校担当1名(平成司)の計2名であります。ともに、千葉市公立学校で社会科教育についてキャリアを積んでこられた教員OBであります(やはり「餅屋は餅屋」だと考えます)。共に、週2日の勤務であり、本館としましては未だ必要充分なる条件が満たされたと認識しておりませんが、それでも配置して頂けたことは、限りなく大きな一歩であると存じております。

 そこで、昨年度前半は「館内展示」「館周辺史跡」を題材とした学習機能の充実を最優先に取り組み、その学習活動に関わる「学習シート」の整備をすすめました。特に、小中学校の団体見学(社会科見学等)で来館される機会の多い本館では、その充実が不可欠です。以下、目次のみを一覧で挙げさせていただきました。具体的な内容につきましては、本館ホームぺージ内のコンテンツ「学習活動」に全てアップして御座います。そこには、「教師用解説」「解答」も付属してありますので、本館にご来館される先生方は、必要に応じて学校で印刷をされてご活用ください。プリントによっては、学校での事前・事後学習としての利用も可能かと存じます。目次中【公開終了】とあるのは、本館開催の特別展・企画展の内容に関しての学習シートでありますので、会期終了とともに終了としたものです。つまり、今後もそうした期間限定の学習シートも作成していきますし、これ以外の学習シートも加えていく等、更新を欠かさないようにして参ります。是非とも、学校の先生方や、児童生徒の皆さんからも「こんな学習シートがあったらよい」といったご意見をお寄せいただければ幸いです。双方向の遣り取りができることが望ましい在り方だと思っております。ご意見をお待ちしております。昨年後半に本館にいらした学校にも多数ご利用をいただいており、指導上に役になったと先生方からも大変にご好評をいただいております。ホントウは、児童生徒の皆さんからのご意見もお聞きしたいところではあります。今後とも、学校現場からの様々なご意見をお待ちしたいと存じております。

 さて、本来は明日の後編の最後に述べようと思っておりましたが、前編の内容が若干少なくなり、前後編のバランスに著しい不均衡が生じそうですので、お話しの途中ではございますが、「閑話休題」にて前編最後に「カットイン」の形で記載をさせていただきます。それは、先週の「館長メッセージ」宣伝ツイッターへコメントをいただいた「小太りじいさん」様への御礼であります。前回の内容は房総の鉄道に関するものでありましたが、そのことに関して当方の知り得なかったことをご教示いただきました。それは、「千葉気動車区」内の稲毛駅よりに蒸気機関車反転に使用する転車台(ターンテーブル)が存在しており、千葉駅まで到着した蒸気機関車がここまで牽引されて戻り(ディーゼル機関車が牽引していたのでしょうか?それとも自走してきたのでしょうか?)、反転して千葉駅に戻っていたとのことです。ご存知の通り、現在の千葉市民会館の位置に存在した千葉駅が現在位置に移転し、総武線と房総東線(後の外房線)とが千葉駅から二股に分かれる形式になったのが昭和38年(1963)のことであります。それ以前には、東京方面から外房・内房方面へと向かう列車は千葉駅で一度スイッチバックしなければならなかったのです。その不都合を解消するための路線付け替えと千葉駅の移転であったのでしょう。しかし、その反面で現在「千葉駅南口」あたりに存在した「千葉機関区」(京都の梅小路機関区のような大型の扇形機関車庫と転車台が存在しました)は、昭和36年(1961)には廃止され撤去されました。まぁ、蒸気機関車の時代の終焉を見越した対応でもあったのでしょうが、その後も昭和40年代半ばまでは旅客・貨物ともに蒸気機関車が活用されておりました。昭和38年の千葉駅移転と千葉機関区廃止後に、千葉駅周辺での蒸気機関車の反転を要する場合、何処で作業をしていたのか、長らく疑問でございましたが、ようやくその疑問が氷解いたしました。まさか、千葉気動車区内に転車台が存在していたなど知るよしもございませんでした。佐倉駅にも転車台があったそうですから、そこまで長い距離を移動していたのかと勘ぐってさえおりました。西千葉・稲毛駅間であれば、新設千葉駅からも極々至近でありますので納得でございます。この場をお借りして「小太りじいさん」様には御礼申しあげます。誠にありがとうございました。

 

《「学習シート」目次(令和3年4月現在)》

 ☆小学校3年生用 
(1)千葉市のとくちょうを調べよう   (5階 社会科)
(2)地図記号を使ってはくぶつかんのまわりの様子を考えよう(5階 社会科)
(3)道具とくらしのうつりかわり   (4階 社会科)
(4)いのはな公園を探検しよう  (館外)
(5)千葉市の海辺をしらべよう    (4階 社会科)
☆小学校4年生用
(1)千葉市のお祭りの妙見祭とは  (3階 社会科)
(2)いのはな公園を探検しよう   (館外)
☆小学校6年生用
(1)武士の世の中へ   (1階パネル・3階 社会科)

 ☆【公開終了】
〇令和2年度特別展「軍都千葉と千葉空襲」  (令和2年12月終了)
〇令和2年度小企画展「千葉市のお祭り」   (令和2年10月終了)


 ☆小学生用
(1)千葉市立きょうどはくぶつかんクイズラリー(3階・4階・5階 小学3年生以上)
☆小学生用地図
(1)千葉市立きょうどはくぶつかんのまわりの地図1  (近い場所)
(2)千葉市立きょうどはくぶつかんのまわりの地図2   (遠い場所)
(3)いのはな公園マップ
☆中学生用
(1)千葉市をぐるっとながめよう!  (5階)
(2)(近現代の)千葉市の移り変わりを見ていこう! (4階)
(3)博物館の周辺を散策しよう!(館外)
(4)考えながら「千葉氏」を知ろう!   (1階パネル・3階)
(5)クイズラリー  (3階~5階・博物館周辺)
(6)日本の武器・武具を知ろう!  (2階)


☆【公開終了】
〇令和2年度特別展「軍都千葉と千葉空襲」 (令和2年12月終了)

 

 

 

 

 新年度からの本館の新たな活動御紹介(後編) ―本館エデュケーターによる「出張出前授業プログラム」が始動します!!(千葉市立小中学校 児童生徒対象)― ―本館ホームページ内「研究員の部屋」新シリーズがスタート!!遠山成一研究員「中世の城跡をめぐる」案内―

 
5月6日(木曜日)

 前編で述べさせていただいたエデュケーターの活動について更に続きます。ある意味ではこれからが本丸のお話しになります。昨年度の館内外での学習シートの作成に一区切りを付け、令和3年度からより積極的なアウトリーチ活動を開始することを目途に定めました。そして、昨年度後半からはエデュケーターを中心に館内にプロジェクトチームを編成し、小中学校に向けての出張出前授業のプログラムの検討を進めて参りました。「何でもご依頼ください」と募集を掛けても、学校現場からしてみれば、実際には何をどのように依頼するべきか困惑しようかと想定し、小中学校向の「出前授業プログラム」幾つかを本館で作成し、学校現場に提示させていただけば利用もしやすかろうと考えました。勿論、「新学習指導要領」を踏まえた内容でありますし、一人一台タブレット配布(ギガスクール)も考慮した授業にも意を用いました。その結果として、小中学校用それぞれ9つのプログラムを作成。新年度になった4月中に「千葉市小中校長研修会」「千葉市教育研究会社会科部会総会」にてお時間を頂き、趣旨・内容についてご説明申し上げたところです。以下に各授業タイトル・授業内容概略を一覧にして掲載をさせていただきましたが、こちらにつきましても本館ホームページ内「教育活動」に、各授業プログラムの詳細についてアップしてございますので、是非ともご確認ください。授業プログラムは、歴史的な内容だけに留まらず、千葉市の社会科的な理解に繋がると考える内容をも含んで構成いたしました。従って、地理的・公民的な内容も一部含んでおります。また、小中学校で同じ題材を取り上げている場合もございますが、発達段階を考慮したアプローチをしております。特に中学校歴史的分野では、地域の題材を用いて日本史全般(各時代社会構造等の理解)への理解に到達できる構成としております。勿論、これら9つの学習プログラム以外の授業の要望にも、可能な限り応じて参りたいと考えております。ただ、如何せん、小中学校担当のエデュケーターは、それぞれ週2日の勤務であり、物理的にお受けできる数的な限度がございます。その点では本年度ご依頼いただいた全てのお応えできるか少々心許ない部分がございます。ご希望が多くて困るのはこちらとしても大いに望むところでございますので、次年度以降のエデュケーターの勤務日数増等への働きかけを漸次進めて参る所存でございます。

 実際のところ、本稿執筆の4月末日現在、1週間ほどの間に既に10校程からのご依頼を頂いております。誠にありがたいことと存じます。ただ、こちらからの説明不足の所為もあり、一点確認をさせていただきたいことがございましたので、ここで付記させていただきます。本出張出前授業の目的は、飽くまでも児童生徒の皆さんに、千葉市の歴史等についての「興味を持ってもらえること」「理解を深めてもらうこと」でございますので再度ご理解を下さますようお願いいたします。「若手の先生方の授業力を高めるためのお手本を示してほしい」「社会科教育の授業実践の指導をして欲しい」との御依頼がございましたが、結果的にかような目的に資することがあるにせよ、本館の出張出前授業の趣旨とは異なりますので、ご承知おき頂ければ幸いです。その役割は主に「教育委員会学校教育部指導課」の守備範囲となりましょう。または、初任教職員に配属される「初任者指導教員」へご依頼いただくのが筋であろうかと存じます。改めまして、その点のみご確認をさせていただきます。

 

《「小学校:出張出前授業」プログラム(目次)》

 

(1)3年 『わたしの学校はどんなところにあるのかな?友達に紹介しよう』
―くらべてみようよ千葉市の中で―
※千葉市の地図の中で自分の学校の位置や自分の学校と違う土地の様子を学習します。
(2)3年 『もっとわたしたちに近かった海』
―調べてみようよ埋め立てのこと―
※美浜区や中央区の一部がかつて海だったこと、埋立の理由などを人口増と関連させて学習します。
(3)3年 『もっと明るくもっと便利に』
―道具によって変わったわたしたちの生活―
※身近な道具の時代変遷から、その道具が生活にどのような影響を及ぼしたかを学習します。
(4)4年 『知っていますか すごかった千葉市の台風被害』
―考えよう 災害から自分の生活を守るために―
※日頃から自然災害への備えをどうすればよいか、令和元年度の台風被害の資料をもとに学習します。
(5)4年 『どうにかしてこの水を取り除くのだ』
―水害とたたかう染谷源右衛門―
  ※江戸時代に印旛沼の水害を防ぐための2つの川をつなぐ工事についての意義などを学習します。
(6)4年 『すごいぜ伊能忠敬 4万kmにわたる測量だ』
―伊能忠敬 千葉市を測る―
※伊能忠敬が千葉市内を測量した測量日誌を教材として、当時の測量について学習します。
(7) 4年 『いも神様 青木昆陽』
―飢饉を救ったさつまいも―
※青木昆陽がさつまいもを広げようとした理由や創意工夫などを学習します。
(8)6年 『千葉常胤を父のようにしたった源頼朝』
―漫画「千葉常胤公ものがたり」から見る「御恩と奉公」―
※千葉常胤が源頼朝と協力して平家と戦い鎌倉幕府の設立に大きく貢献した様子を学習します。
(9)3~6年 『地図ソフトでタイムスリップする100年前の私の学校』
―千葉市の100年を自分の学校で考えてみると―
※市制100周年を記念して、自分の学校の地域とその周辺の100年前の歴史を振り返り学習します。

 

 

《「中学校:出張出前授業」プログラム(目次)》


(1)1年 『坂東武者・将門は英雄か?反逆者か?』
―将門と千葉氏の関係をさぐる ―
※千葉氏にとって平将門は尊敬すべき先駆者なのか、伝説などから千葉氏との関係を学習します。
(2)1年 『源頼朝に賭けた!・・千葉常胤の思惑』
―頼朝と常胤から見る封建制度の内実―
※千葉常胤が鎌倉幕府の成立に大きく貢献した事実の裏にある封建制度の内実について学習します。
(3)3年 『モンゴル軍と戦った千葉氏』
―元寇がもたらした影響を千葉氏の動向から探る―
※鎌倉時代の元寇や幕府の衰退を千葉氏を例に学習します。
(4)3年 『千葉の街(まち)が燃えた日』
―千葉空襲の現実に目を向け、平和を願う―
※千葉市が空襲を受け多数の死傷者が出たことを知り、平和を考えていく学習をします。
(5)3年 『変わりゆく海辺の風景』
―高度経済成長期の千葉市から―
※千葉市の海が埋立てられて変容する様子を高度経済成長期の工業化を通して学習します。
(6)3年 『備えあれば憂いなし??』
―千葉市が災害に見舞われたら―
※千葉市で実際にあった災害被害の大きさを身近に感じ、日ごろの備えについて学習します。
(7)2年 『千葉県は農業県、千葉市はどうなの?』
―あまり知られていない千葉市内産の農産物たち―
※学校や自宅周辺にある農地の作物に関心を持たせ、千葉市の農業について学習します。
(8)2年 『人・モノ・情報が行き交う新たな千葉市の姿』
―幕張新都心の開発を通して―
※幕張新都心が千葉市で果たす役割を人・モノ・情報という視点から考察して学習します。
(9)2年 『千葉市、100年目の再発見!!』
―「姉妹都市選び」を通して知る千葉市の姿―
※千葉市がどういう都市かを把握したうえで、実際に姉妹 都市を選んでもらう学習を行います。

 

 

 ようやく二つめに入ります。本館ホームページ内のコンテンツ「活動日誌」中に「研究員の部屋」なる項目がございます。頻繁に更新しておりますので、大体トップページの「お知らせ」に掲示されておりますから、こちらからアクセスされる機会は少ないかも知れませんが、外山信司統括主任研究員、白井千万子研究員を主たる執筆陣としたコラム連載は大変にご好評をいただいております。特にシリーズ「千葉氏ゆかりの地をめぐり(千葉市内編)」、江戸時代の旅、市内開催の祭礼等々に関する民俗学的なアプローチには大いに学ぶところが多く、当方も毎回の新作登場を大いに心待ちにするところです。そして、今回、本年度より着任された遠山成一研究員による新シリーズ「中世の城跡をめぐる」がスタートいたしました。遠山研究員は、千葉県教育委員会による「千葉県城郭悉皆調査」の調査員でいらっしゃいましたし、「千葉県城郭研究会」の中心メンバー(事務局長でもいらっしゃいました)として県内各地の中世城郭についての論考を数多く発表されるなど、中世城郭研究者として夙に名高き方でございます。当然の如く研究者としての人脈も幅広くお持ちであり、昨今NHKに引っ張り蛸の奈良大学教授千田嘉博教授ともお親しく、城郭フリークの春風亭昇太師匠との対談もされております。それだけに留まらず、かつて当方も末席を汚させていただいた「千葉県の歴史の道調査」の調査員としてのご活用を契機に、交通史への造詣も深くされていらっしゃいます。その意味で、歴史地理学的な研究アプローチから中世の権力の在り方に肉迫する研究を自家薬籠中のもとされておられると申しても決して過言ではありません。それは、昨年度の千葉市・千葉大学公開市民講座「千葉氏の領域における交通と流通 -水と陸でつながる人・モノの中世-」にて講師をお勤めいただき、「内海を臨む都市 千葉 -中世水陸交通の視点から-」の御講演をいただきましたことからも夙に明らかでございます(御講演内容は「千葉氏ポータルサイト」に動画・講演録の形で公開しておりますので是非是非ご覧くださいませ)。

 今回の新連載の開始は、土気・東金を根城に戦国期に国衆として、両総の境目に覇をとなえた両酒井氏の濫觴の地となったと伝えられる、市内若葉区にある「中野城」を取り上げておられます。別に、その候補の地として市原「中野」の可能性にも触れられておりますが、そのことは上総国・下総国の境目の地を抑える酒井氏の在り方を踏まえたご指摘であり、その領国境を流れる村田川の水運等をも視野に入れた極めて興味深い内容となっております。現在「中野城」として比定される若葉区内の城跡につきましても、鹿島川とその最下流に位置する原氏の本城の一つとしての臼井城との地勢的関係を基に考察されるなど、正に歴史地理学的なアプローチが際だっております。凡百の所謂「お城案内」が、単なる縄張解説に終始していることと比較して、更に広範なる各中世城郭間の関連性へと思考を誘われるコラムともなっております。その点で深い知的好奇心を刺激される内容だと確信しております。今後の展開が大いに楽しみになって参りました。皆様も是非ともご期待いただければと存じます。

 今回は、新年度になってからの本館の活動に関しての新たな動きについて、前後編の2回にわたってご紹介をいたしました。今月末26日(水曜日)からは小企画展『陸軍気球連隊と第2格納庫 -知られざる軍用気球と技術遺産ダイヤモンドトラス-』が開催となります。本館1階を会場といたしますが、相当に濃い内容となります。昨年惜しまれつつ解体された川光倉庫の一部部材も展示致します。更に、近々に例年6月に実施しております『千葉氏公開市民講座』のご案内もさせていただけるものと存じます。『千葉市制施行100周年』を記念する年度としての令和3年度、コロナ禍で様々に厳しい状況下ではありますが、当館としてできることを粛々と着実に実施して参る所存でございます。是非ともご期待くださいますよう御願い申しあげます。

 

 

 

 「埼玉県立歴史と民俗の博物館」開催の特別展『青天を衝け』[会期:5月16日(日曜日)まで](前編) ―渋沢栄一による民間外交と「友情人形」について― 

5月13日(木曜日)

 現在、NHKで放映中の大河ドラマ『青天を衝け』は、「近代日本資本主義の父」と評され、また昨今はその著作『論語と算盤』を通じて広く企業経営者からも企業家としての在り方の指針ともされる、「渋沢栄一」という人物の歩みを描こうとする物語であります。本稿を執筆しているのは4月末ですが、5月半ばの時点での放映は、恐らく尊王攘夷思想にかぶれた過激な幕末志士から、平岡円四郎の誘いに乗って一橋家の家臣となり、更に仕える徳川慶喜が宗家を相続し後に征夷大将軍となったことから計らずも幕臣となり、自ら抱く理念と今在る自らの現実との相克に煩悶している頃かもしれません。物語展開が早いようですので、もしかしたら慶喜の異母弟にあたる徳川昭武を主とする訪欧使節団の随行員に選ばれ、その悩みを忘れるかの如く、嬉々として渡仏する頃でしょうか。

 当方も、正直なところ、渋沢栄一については「近代日本資本主義」の成立に多大なる貢献を為した人物、大部となる『徳川慶喜公伝』(平凡社:東洋文庫)や未完となった松平定信の評伝『楽翁公伝』(岩波書店)を編集した人物くらいの認識しかなく(松平定信は渋沢が心底尊敬した人でありました)、その人となりと業績についてはほとんど蒙昧のままに馬齢を重ねて参りました。その反省から、昨今はほとんどマトモに接して来なかったNHK大河ドラマ『青天を衝け』を、今年度は通しで視聴しようと決意したところであります(数年前の『真田丸』以来のことです)。併せて、時流に乗じて刊行される渋沢関係の書籍のうち、これはと思われるものには是非とも接してみようとも思っております。そして、時あたかも「埼玉県立歴史と民俗の博物館」と「NHK埼玉放送局」との共催にかかる標記特別展が、前者を会場に開催されておりますので、4月初めにこれ幸いと出かけて参りました。その全容をお伝えすることは到底当方の手に余りますので、その中で大いに感じ入ったことを簡単にご紹介したいと存じます。会期は5月16日(日曜日)までであり、本日の段階で会期は残すところ4日しかございません。もっと早くにご紹介できれば宜しかったのですが、諸々あって押せ押せになってしまいました。誠に申し訳ございません。先月に「緊急事態宣言」が発令された都府県につきましては、更に今月末までその期間延長がされました。我々の千葉市や埼玉県は「蔓延防止等重点措置」地域に入るため、一律閉館の対応はしておりません。従って、埼玉県でも会期終了まで開催されることと存じます。もっとも、こうしたご時世ゆえに是非にとお薦めするわけには参りませんが、少なくとも無知蒙昧な当方にとっては、極めて価値ある特別展であったことをご報告させていただきたいと存じます。以下に「図録」目次を引用させていただきましたので、特別展の概要をおつかみいただければと存じます。

 

 

プロローグ 原 点 血洗島
第1章 転 機 一橋家家臣から幕臣へ
第2章 改 革 明治維新政府官僚
第3章 経 済 資本主義の礎 
第1節 企業を起こす
第2節 企業を活かす
第4章 社 会 社会事業に生きる
第1節 福祉
第2節 文化
第3節 教育
第4節 美術
第5章 平 和 民間外交
エピローグ 遺 産 論語と算盤

 

 展示は、幕末の天保11年(1840)(翌年から老中水野忠邦による改革政治が行われます)武蔵国榛澤郡血洗島村の裕福な農民の家に生まれた渋沢が、如何にして資本主義経済の寵児となるのか、また、それに留まらない多彩な(ただし根っ子は一つの)生き方についても豊富な資料を用いて、時間の流れと各テーマとを織り交ぜながら追いかけ、渋沢という人物の全体像に迫ろうとする内容となっております。もとより、昭和6年(1931)11月11日鬼籍に入った、91年にも及ぶ生涯の全貌を描くことは流石に困難を伴います。しかし、本展では生涯に渡る活動を、それぞれテーマ毎に的確に要点を押さえて迫っていると考えます。当方は、最後まで拝見させていただき、大きな感銘を受けたことを白状せねばなりません。因みに、渋沢が息を引き取った11月11日は、彼が生涯希求して止むことのなかった「国際平和」を記念する日であるとのことです。物故した日付にすら、何事も投げ出すことなく粘り強く事を成し遂げていった渋沢栄一という人物の、執念ともいえる粘り腰を感じさせる、そのような人生の幕引きであるように思います。流石であります!!本稿では、その中で特に大きな印象を受けた第5章の内容について主に述べたいと存じますが、それと関連して「近代日本資本主義の父」としての側面に、まずは少しだけ触れておきたいと存じます。

 近代日本における資本主義経済の確立に貢献した経済人や企業等を挙げることは容易でありましょう。彼の盟友でもあり、時にライバルともなった益田孝(「鈍翁」と号した稀代の数寄者です)の関係する「三井財閥」(経営基盤は「三井同苗」呼ばれる江戸時代以来の同族集団)、岩崎弥太郎由縁の「三菱財閥」、安田善次郎由縁の「安田財閥」(余談ですがJR鶴見線「安善駅」は前身となる鶴見臨海鉄道を安田善次郎が支援したことに因んで命名されました。東大の「安田講堂」も彼の寄贈に掛かる建造物です)等々であります。それらの人物と渋沢とは明らかに同等、乃至は彼らを凌駕するほどの活動と貢献をした経済人であることは間違いありません。しかし、彼らと一線を画するのは、渋沢は自らの名を冠するような「財閥」を形成しなかったことです(現存する「渋沢」名を冠する企業は唯一「澁澤倉庫」のみ)。つまりは、自らの広範な企業活動を通じて、その莫大な利益を「私財化」することに邁進することがなかったことにあると考えます。渋沢の求めたものは、民間企業の活性化を通じた、国家経済の基盤となる農業経営の安定化をも広く包含する、国民生活の全体的な向上にこそあったと申せましょう。従って、渋沢は自らのよって立つ主義主張を「資本主義」にあらず、「合本主義」と唱えました。それは「公益を追及するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本とを集め、事業を推進するという在り方」(木村昌人『渋沢栄一-日本のインフラを創った民間経済の巨人-』2020年ちくま新書)を意味します。ただ、これだけでは、単なる株式会社組織の説明だろうと思われるかもしれませんが、渋沢の企業活動の根底には「公益に資する」ことが中核に厳然と据えられていることを見逃してはなりません。私的欲求の充足を一義とはしていなかったということです(ここに「資本主義」を称することのなかった所以があると思います)。そして、そのことが、特別展の4・5章に取り上げられる、そして当方が最も心打たれた、生涯に渡って取り組まれる「社会事業」、戦争を回避し平和を希求しようとする「民間外交」に一貫して尽力する、その「生き様」に最も端的に表出していると考えるのです。

 それにしましても、生涯に創立に関わった企業数が500にも及ぶという渋沢です。従って、明治以降の歴史を綴った書物を読んでいると、思いもよらぬところで渋沢の名に遭遇することがあります。しかも、極々頻繁に。直近では、武田尚子『ミルクと日本人-近代日本の「元気の源」-』2017年(中公新書)で出会ったばかりです。渋沢が、明治の牛乳・牛肉食の普及に牧畜業の振興を通じて深く関わっていたことであります。そして、さもありなんと深く合点の行く思いがいたしました。幕末の洋行の際に、横浜からマルセイユに向かうフランス郵船の洋上で、毎食のように供されるバターやミルクに大いに舌鼓を打った渋沢がいたことを知っていたからです。勿論、渋沢による起業の意図は「自分の好物で一儲け!」といった短絡的発想にはありません。滋味豊かな糧食を広めることにより「国民の健康の維持向上に寄与すべし」という「公益」の追及にこそ、その根源を求めるべきことを付記させていただきたいと存じます。因みに、余談ではございますが、この時に渋沢が支援した「牧場ビジネス」の中核を担った「耕牧舎」の経営を担ったのが新原敏三という人物であり、作家芥川龍之介の実父に他なりません(母方実家を継承したため「芥川」を名字とします)。彼の『点鬼簿』等の作品で回想される幼少期のことについては、「僕の父は牛乳屋」といった記述から既知のことでしたが、まさか渋沢とかくも昵懇の間柄にある人物であったとは!!お恥ずかしながら本書にて接するまで知ることがありませんでした。渋沢栄一、正に恐るべしであります。

 

 

 「埼玉県立歴史と民俗の博物館」開催の特別展『青天を衝け』[会期:5月16日(日曜日)まで](後編) ―渋沢栄一による民間外交と「友情人形」について― 

5月14日(金曜日)

 さて、本特別展で、もっとも当方が心打たれたのが、前編で記述したように第4・5章の内容でありますので、後編ではその点について触れてみたいと存じます。即ち、広範なる「社会事業」へ向ける眼差し(社会的弱者自立へ向けての救済システム構築)、平和を希求することを目的とした「民間外交」に関する内容です。以下、主に第5章「平和 民間外交」について述べさせていただきます。まず、「図録」第5章の扉に掲げられる「概説」をここに引用をいたします。

 

 

 晩年の栄一の活動では、国際平和活動が特筆されるが、実業化時代からすでに目を向けていた。
元アメリカ大統領であったグラント将軍やノーベル文学賞の詩人・タゴール、のちに中国国民党総裁となる蒋介石、イギリス救世軍創立者のブースなどを飛鳥山邸に招待して交流を深め、上野公演にグラント将軍夫妻の植樹碑、下田玉泉寺にはアメリカ総領事ハリス顕彰碑などを建立。交際連盟協会を設立し会長として、国際連盟精神の普及に努めた。
また、明治41年(1908)には、アメリカ太平洋沿岸の商工会議所の実業団を日本に招待した。これは前年、日本人移民排斥運動が起きたことから、日米の親善と相互理解が必要という栄一の考えであった。翌年には、アメリカから招待を受け、渡米実業団として全米各地を視察して親善交流を果たし、その後もサンフランシスコ万博、ワシントン軍縮会議に出席し、国際協調を図るためのロビー外交を行っている。
最晩年の昭和2年(1927)には、排日移民法の成立による関係悪化を危惧したシドニー・ルイス・ギューリックの求めに賛同し、日米人形交流事業を行い、アメリカから友情人形、いわゆる青い目の人形が、日本からは答礼人形が贈られた。
このような平和外交の活動により、ノーベル平和賞候補に2回推薦されるなど、栄一は平和を希求する民間外交官としての顔を持っていた。


 

 これをお読みいただければ、渋沢が、本来政府が行うべき役割を「一民間人」として広範に担っていたことが理解できましょう。そして、そのことは同時に、現在の我が国に、かような高邁なる精神の下に私財を投げ打ってまで「公益」に尽くそうとされる「企業人」がどれほど存在していようか、と思いにもつながることでもあります。勿論、渋沢は、それが日本の「公益」に資するとの思いから果敢に取り組んでいるのです。

 本展の最後の展示室では、所謂「青い目の人形」の数々に出会うことができます。そして、その解説に接して、過去における日米の間に横たわった暗い歴史を解決しようと、渋沢が取り組んだ活動が一筋の明るい光として、今を生きる我々を照らしてくれることに、深い感銘の念を覚えましたので、ここにご紹介をさせていただきます。皆様は先刻ご承知のことかと存じますが。展示される多くの「青い目の人形」こそがアメリカからやって来た「友情人形」であり、その答礼として我が国からアメリカに贈られた「答礼人形」であります。つまりは人形の交換を通した民間の国際親善交流事業の推進に他なりません。渋沢自身が、日本の安全保障上、通商をつうじた経済関係構築上、最も重要なパートナーとして位置付けていたアメリカとの関係が、日本人移民の問題からギクシャクしていたことを何とか打開すべく活動した一環としての事業となります。きっかけは、日本での生活経験のあるアメリカ人宣教師ギューリックから渋沢への呼びかけにありました(彼は以前に同志社での教師経験がありました)。日本に「雛祭り」や「五月人形」等の人形文化が根付いていることに着目したギューリックは、全米の子ども達に呼びかけて「友情人形」として「青い目の人形」を日本に贈る活動を行ったのです。勿論、渋沢もこの趣旨に賛同し、外務省・文部省の関与も得て「日本国際児童親善会」を設立し、自らその代表として受け入れに尽力するのでした。「友情人形」は日本全国の小学校・幼稚園等を中心に配付されることとなり、各地で盛大な人形歓迎式が挙行されました。この時アメリカから贈られた人形総数は約12.000体にも及びます。一体一体には名前が付けられ、その名を記したパスポートがそれぞれに添えられて日本にやって来たのです。

 特別展を行っている埼玉県には、その内の178体が割り当てられたことが分かっております。しかし、現在まで残っているのはたったの12体のみであります。何故、残存数がかくも少ないのかは申し上げるまでもありますまい。その後の日米開戦により、敵国の人形として廃棄や焼却の対象となるという不幸な歴史を経たからです。場合によっては竹槍で貫くような酷い処遇を受けた人形もあったと耳にします。そうした中で、何らかの事情で偶然に残された12体が今回一同に会して展示されております。もっとも、中には発見の状況から判断して、偶然ではなく人形をどうにかして護り抜こうとした日本の人々がいたことを推察させます。為政者の意図に反して、こうして今に残った人形たちがいることを私たちも知っておきたいと思います。この時に日本に到来した「友情人形」は、それ以前の大正10年(1921)に流行した童謡『青い目の人形』(詞:野口雨情・曲:本居長世)に因んで、先にもかような表記をしたように、その名で呼ばれることも多くあります。以下に述べることとも関連しますので、その歌詞を引いておきます。皆さんも幾度となく耳にした歌でありましょう。

 

 

青い目をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド
日本の港へ着いたとき
一杯涙をうかべてた
「わたしは言葉がわからない
迷ひ子になったらなんとせう」
やさしい日本の嬢ちゃんよ
仲よく遊んでやつてくれ

※太平洋戦争中には、「友情人形」の受けた

 不当とも言える扱いと同様、この童謡も、

 同作詞家・同作曲家の手になる童謡

 「赤い靴」と併せて、歌うことを禁じられた

 不幸な歴史を持ちます。

 

 

 

 上記したように「友情人形」のお返しとして、日本からは各都道府県等による「市松人形」58体が答礼人形としてアメリカに贈られております。こちらは、全米を巡回して歓迎会が開かれるなど、日米の親善関係の改善に明るい兆しをもたらすことになったとされております。ところで、余計なことかもしれませんが、当方が本展を拝見して思わず目頭が熱くなったのがこの場面となります。埼玉県に残される「友情人形」の中には、何故か日本の「市松人形」とセットになって残されているものが幾つかあり(中には手書きの両国旗を付けて箱の中にな大事に納められているものもあります)、しかし、何故アメリカからの「友情人形」と、本来アメリカに贈った「市松人形」とが一緒に残されているのかは長く不明のままであったそうです。しかし、その理由が今回の調査で判明したとのことです。その答が、上記『青い目の人形』の歌詞に隠されていたとの解説に接したことにあります。つまり、一人でやって来たアメリカの人形が可哀そうだということから、地元で日本のお友達として「答礼人形」とは別に市松人形が誂えられ、「青い目の人形」と一緒にして飾られたケースが多くあったということです。「やさしい日本の嬢ちゃん 仲よく遊んでやつてくれ」との歌詞内容をどうにか叶えたいと、強く思い実行した子供達の心根を思うと、一教育者の端くれであった身として涙を禁じえなかったのです。何という麗しきお話ではありましょうか。それは、まさに渋沢栄一自身の願いとも重なるものではありますまいか。そして、そうした感動の念とは別に、その願いも虚しく無残な扱いを受けた沢山の友情人形が存在したこと、子供達の心根を無残にも引き千切った当時の大人の無残な仕打ちがあったことに、今更乍ら慚愧の念に胸を掻きむしられる思いであったことを白状せねばなりません。

 因みに、この時に我らが千葉県には214体の友情人形が割り当てられております。ただ、やはり埼玉県と同様に現在までのところ11体が確認されているのみとのことです。残念ながら、千葉市への5体、千葉郡への10体は一体も残されていないようです。残存の内訳は、印旛郡1体、香取郡で3体、海上郡1体、山武郡1体、君津郡2体、安房郡3体とのことです。これらが残された経緯についても知りたいと思います。しかし、未だ未だ埋もれたままの人形があるかもしれません。我々がそのことを踏まえているかどうかで、新発見の可能性は高まると思います。『青天を衝け』放映の令和3年中にその報に接することができることを大いに期待したいところです。またとない「平和教育」の題材ともなりましょうし、泉下の渋沢も大いに喜ぶことでしょう。また、千葉県と渋沢との関係としては、彼が晩年に頻繁に千葉県を訪問していることです。一つ挙げれば、大正7年(1918)にハワイで知り合い懇意にしていた飯田佐治兵衛(1912年にハワイで醤油醸造を成功させた人物)に懇請されて千葉県旭町の町立尋常高等小学校での講演をおこなっているとのことです。その時に、渋沢は記念に楠木を植樹。それが、現在移植されて千葉県立東部図書館に堂々たる姿をとどめているそうです(前掲書)。

 本来は、第4章「社会事業」についても述べたいことが多くありますが、渋沢が生涯を通じて深く関わった、経済的困窮にある人々への救済事業の数々、女子高等教育機関設立への支援等々、その社会事業への貢献も創立企業数と比肩しうる程であることは申し添えておきたいと存じます。後者で一つ例示すれば、NHK朝の連続テレビ小説『朝が来る』で御馴染みの、女性実業家でもあった広岡浅子による日本女子大学設立への渋沢の支援も極めて大きなものでありました(ドラマでは大隈重信ばかりが協力者として取り上げられており三宅裕司演じる渋沢の役割は殆ど描かれませんでした)。 

 初代校長成瀬仁蔵の後に第三代目校長にも就任しております。何れにしましても、渋沢栄一というあまりにも巨大な人物像を描くことは簡単なことではありません。しかし、その一部分に触れるだけでも、その人としての器の大きさと根っ子にある精神の共通性には理解が及ぼうかと存じます。未だ、当方は先に挙げた書籍にしか触れ得ておりませんが、当該書籍は、渋沢栄一の生涯と事業とを時系列で追った内容になっております。渋沢に関する書籍は、彼の取り組んだ事業を中核としてテーマごとに記述されているものが多い中、珍しい内容構成かと思います。しかし、逆に、時系列に人生を追うからこそ見えてくることも多いと思われます。当方は、これ以後各テーマについて各論として深堀りしていこうと思っているところであります。

 臍曲がりを自認する当方としては、大河ドラマのブームに乗ったようで少々忸怩たる思いではありますが、今回は大河ドラマでの出会いを切っ掛けとして、新たに知見を広めることにしようと考えるところであります。聞くところによると、今回の所謂「渋沢ブーム」が地域の歴史・文化の交流に一役買っていることも多いようです。一例にすぎませんが、埼玉県入間市に今も残る旧「黒須銀行」本店についても当てはまります。明治42年(1909)建築となる土蔵造建造物は、入間市指定文化財となっているにも関わらず老朽化したままであったものが、昨年度に急転直下予算がついて今後の整備計画立案に到ったとのことです(当該計画書は入間市ホームページにアップされており手軽にご覧いただけます)。この方針転換の背景は、他でもない、養蚕・織物業で栄えた入間の産業を支えた黒須銀行の創立に渋沢栄一が深く関わっていたからではありますまいか。因みに、この銀行は別名『道徳銀行』と呼称されるほど倫理観高き経営でも知られていたようです。その創立理念の基盤になったのが、元佐倉藩士であり明治以降思想家として活躍した西村茂樹の思想であり、そのことに渋沢が強く共感したことが創立に対しての多大なる支援に繋がったとされております(渋沢は当該銀行の顧問となっております)。こうなると、大河ドラマ『青天を衝け』は一過性のブームに留まらぬ何物かを後世に残すことに繋がるかもしれません。そのことに大いに期待して、今回は当方もそいつに一丁乗ってみようかと思っているところであります。

 

 

 小企画展『陸軍気球連隊と第二格納庫 ―知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス―』開催[本館1階展示室](前編)
[会期 5月26日(水曜日)~7月11日(日曜日)] 

5月21日(金曜日)

 暮れてゆく 春の湊(みなと)は 知らねども 

霞(かすみ)におつる 宇治の柴舟

 (寂蓮法師)[新古今和歌集 春]

 本来ならば、この時節は、年間を通じて最も春らしい五月が暮れゆき、初夏の陽気へと移ろいゆく時節かと存じます。表題歌は、そうした「行く春」を詠んだ代表的な作品ではないでしょうか。しかし、昨今は、かような微妙な季節の移り変わりを感じさせる気候条件そのものが雲散霧消してしまったように感じます。季節が極端に展開していくことが多くなり、そのことが風流を感じさせる心を鈍麻させているようにすら感じます。王朝歌人から芭蕉等近世の俳人に到るまで、我が国の詩人たちは「過ぎ行く春」に、心動かされる何物かを感じたのでありましょう。忘れ難き名作が選り取り見取りのように思います。しかし、昨今「惜春」といった風流すら日本人からは失われてしまったようにも感じます。冒頭歌は世に名高い8番目となる勅撰集「新古今集」に納められております。一般にその特色とされる耽美性・象徴性・絵画性・技巧性・幻想性等々の条件の全てを満たす、正に“新古今風”を全身に纏っているかのような、シンボリックな詠歌ではないかと思います。当方にとっても取り分けて愛唱する和歌の一つでもあります。因みに、作者である「寂連」は平安末から鎌倉初期にかけて活躍した歌人であり、俗名は藤原定長といいます。叔父である藤原俊成(定家の父)猶子となりますが三十代半ばで出家しました。その後諸国行脚の旅に出たと言い、東国にも脚を運んだとされております。晩年に「新古今集」の寄人にも選ばれております。藤原良経、藤原定家、藤原家隆、式子内親王を始めとする、時代を代表する綺羅星の如き名歌人の一翼を担っている人物であることは間違いありません。

 さて、予てより予告しておりました標記小企画展が、いよいよ来週から開催となります。以下、企画展の「趣旨」(展示会冒頭「はじめに」をそのまま引用)と「展示構成」について掲載をさせていただきます。それによって、まずは本展のあらましをお掴み頂ければと存じます。

 

 

は じ め に

 
つい半年ほど前まで、稲毛区作草部に蒲鉾型をした巨大な倉庫が存在し、モノレール車窓からもその姿を確認できたものです。「川光倉庫」と称され、長く倉庫として活用されてきました。この倉庫が、太平洋戦争終結まで当地に存在した陸軍「気球連隊(昭和11年に気球隊から昇格)」に存在していた気球格納庫の一つであったことを知る人も多かったものと思われます。この「第二格納庫」も90歳近くとなる寄る年波に勝てず、惜しまれつつ昨年解体されました。「(株)川光倉庫」様のご厚意により市内で「平和教育」の教材としても活用させていただいてきた戦争の記憶が、そして昭和初期に開発された画期的な建築技術「ダイヤモンドトラス工法」を今に伝える名建築が、また一つ消えていくことを大変に残念に思っておりました。 
そこで、地域の博物館としてできることは何かと模索し、跡地を購入された「(株)積水化学工業」様と、解体業務を担われた「(株)幸信テクノ」様にお願いをし、その格別のご厚情を賜り部材の一部をお譲りいただけることとなりました。これを好機に、当部材を含め、陸軍で唯一の部隊であった「気球隊(気球連隊)」が、この千葉市に存在したことを市民の皆さんに広くお伝えすることには、大きな意義があるのではないかと考え、今回の小企画展を開催させていただく運びとなりました。恐らく気球部隊を扱う国内初の展示会ともなりましょう。
そもそも、気球が軍事的に如何なる役割を期待されていたのか、気球と飛行船にはどのような違いがあるのか、気球隊と気球連隊とは何が異なるのか等々、よくよく考えれば分からないことばかりであります。そこで、本展では、「軍用気球の機能」「陸軍気球隊(気球連隊)の歩み」「千葉市に移転した気球隊(気球連隊)」「風船爆弾」「戦後の跡地利用」、そして「技術遺産ダイヤモンドトラス」等の章立てにより、知られざる気球部隊の概要と、昨年解体された「第二格納庫」で用いられた昭和初期を代表する建築技術について、実際の部材、復元模型、そして数多くの資料から知っていただくことを、そして、何にも増してご観覧いただいた一人ひとりの皆様の不戦の思いへと繋がってくれることを、心より祈念するものでございます。
最後に、本展示は「千葉市近現代を知る会」代表の市原徹様の全面的なご協力とご支援、及び、気球隊に関するコレクションを所有される伊藤奈津絵様から、貴重な資料の拝借をご快諾いただいたことにより、開催が可能となったことを申し添えさせていただきます。この場をお借りして、関係各位に深甚なる感謝をお伝えしたく存じます。

千葉市立郷土博物館 館 長 天野 良介

 

 

 《 展 示 構 成 》


第 1 章:「軍隊において気球は何を期待されていたのか」
第 2 章:「日本のおける軍用気球の始まり」
第 3 章:「陸軍の気球隊 千葉移転まで」
トピック:「海軍の気球と飛行船」
第 4 章:「千葉に移転した気球隊」
・気球連隊の位置と建物
・平時における兵士の活動
第 5 章:「気球連隊のアジア太平洋戦争」
・気球連隊の海外派遣
・気球隊兵士の戦歴
第 6 章:「本土防衛と軍用気球」
・気球連隊で使用した軍用気球
・防空気球と役割
・子ども・婦人雑誌に見る軍用気球
第 7 章:「太平洋戦争末期の気球連隊 -風船爆弾-」
第 8 章:「気球連隊跡地の戦後」
第 9 章:「第二格納庫とダイヤモンドトラス」
1. 第二格納庫とダイヤモンドトラス
2. 第二格納庫の解体
3. 第二格納庫の復元

 

 

 

 本館では、本年度に迎えた「市制施行100周年」を記念すべく、関連した展示会を企画・運営して参りますが、その第一弾が昨年度開催の特別展『軍都千葉と千葉空襲』でありました。千葉市域は、戦前に多くの陸軍施設が置かれた軍都であり(研究者によっては戦闘部隊が存在していなかったことを理由に「軍郷」と称すことが適切ではないかとの主張もあり傾聴すべきご意見かと存じます)、その中に「気球連隊」が存在していたことはよく知られていることと存じます。日本陸軍において国内唯一の気球部隊であり、「所沢」に置かれていた「気球隊」が昭和2年(1927)に千葉市に移転してきました。その移転には千葉市からの熱烈なラブコール(誘致活動)があったこと、その割には大規模な部隊ではないことから千葉市民が落胆していることを伝える憲兵隊作成にかかる資料を、昨年度の特別展にて展示いたしました(地元経済振興に寄与しないとの謂いであります)。その後、昭和11年(1936)に「気球隊」は「気球連隊」に昇格。日中戦争・太平洋戦争と戦歴を重ね、最後には「風船爆弾」の実行部隊ともなり、昭和20年(1945)の終戦を迎えることとなります。千葉市内の陸軍施設は大戦末に米軍機の空爆を受け、気球連隊も本部・兵舎等が被災しております。しかし、気球を格納する巨大な「第一・第二格納庫」2棟は決定的な被害を受けることなく、戦後も稲毛区作草部の故地にそのままのかたちで生き残ることになったのです。「第一格納庫」は昭和30年代初頭に解体されましたが、「第二格納庫」は倉庫業者により活用され続け、千葉市における戦争の時代を忍ぶ縁ともなっておりました。更には、所有者(「川光倉庫」様)のご厚情により「平和教育」の教材として利用させてもいただいて参りました。その「第二格納庫」が、老朽化等を理由に、令和2年(2020)惜しまれつつ解体されることになりました。

 本年度、本館で小企画展「気球連隊」を開催する契機となったのが、その際に地域の博物館として「第二格納庫」部材をお譲りいただいたことにあったことを「はじめに」で記載いたしました。そのことに加えて、決定的な要因となったのが、そうした活動を通じて「第二格納庫」に用いられた建築技術について調査研究を重ね、その保存活動に熱心に取り組まれていた「千葉市の近現代を知る会」代表の市原徹さんとお知り合いになれたことです。市原さんは、建築技術の追求に留まることなく、「気球隊」の歴史やその知られざる活動の実態に迫る研究を重ねて来られました。「展示構成」につきましても、市原様と本館との度重なる意見交換の末に決定を見たものでございます。また、今回の展示の中核をなす第4~6章・第9章につきましては、展示内容作成も全面的にお願いもしております。併せて、同会の会員でもいらっしゃる伊藤奈津絵様との面識を得ることができたことも何にも増して幸運でございました。何故ならば、伊藤さんは本館でも所蔵していない「気球隊(気球連隊)」に関する膨大な資料を個人的に収集されておられるからであります。本展での展示資料(写真・絵葉書・雑誌類・同時代の新聞記事・除隊盃等々)の殆どは、「伊藤コレクション」に由来するものであるといっても過言ではありません。市原様と伊藤様の全面的なご理解とご協力を賜ったことが、今回の小企画展開催を可能とした決定的な要因となったことは、何度強調してもしすぎることはございません。

 前編の最後に、本稿の趣旨と外れる内容を、またまたカットインの形で挿入させてください。理由は、前回同様に前後編のバランスの問題であります。4月末日「館長メッセージ」房総の鉄道に関する内容に関して、「小太りジイサン」様への御礼を再びということでございます。先様におかれましてはかつて存在した「千葉気動車区」内の転車台につきましての情報をいただき誠にありがとうございました。本件につきまして、SLは千葉駅と千葉気動車区間は単体自走で往復していたとの再度のご教示をいただき、誠に有難とうございました。そういえば、後に山口線で「山口号」を牽引したC57 1号機が千葉気動車区内に停車している写真を見たことを思い出しました。飽くまでも気動車区でありますが、転車台も備えられていたことからSLにも用いられることもあったことがよくわかりました。当方もこれを機に調べてみたところ、当該時期には千葉駅まで客車を牽引してきたSLは、今回ご指摘を賜りましたように、西千葉駅・稲毛駅間にあった「千葉気動車区」に戻るか、蘇我駅を内房線沿いに進んだ右手に現在も存在する「千葉機関区」(現千葉駅の場所に存在した旧「千葉機関区」廃止後に蘇我駅先にある機関区が「千葉機関区」と呼称され現在に及んでいるそうです)にかつて存在した転車台まで進むかして、何れかの転車台で方向転換して千葉駅まで戻っていたようです。自ら実見に及んではおりませんが、後者の転車台は撤去されたものの、現在も何台もの電気機関車が繋留される機関区として機能しているとのことです。

 (後編に続く)

 

 

 小企画展『陸軍気球連隊と第二格納庫 ―知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス―』開催[本館1階展示室](後編)
[会期 5月26日(水曜日)~7月11日(日曜日)] 

5月22日(土曜日)

 今回取り扱う「気球」について、そのイメージを問われれば、多くの方が空中にふんわりと呑気に浮遊する平和の象徴のような姿でありましょうか。そこからは凡そ軍事的な機能を有していたことなど感じ取ることすらできますまい。しかし、日本に限らず気球はその誕生直後から軍事利用されるようになります。そもそも軍隊の中で、気球は如何なる役割を期待されていたのでしょうか。気球・飛行船等々様々な呼称があります。これらは同じものなのでしょうか。それとも違いがあるのでしょうか。本稿では、本展でのオープニングで説明される「第1章」の内容について御説明させていただき、まずは知られざる「軍用気球」の概要をおつかみいただければと存じます。

 フォークグループ「赤い鳥」が『翼をください』(1971年)で歌ったように、空を自由に飛んでみたいという人類の願いは、神話の昔から世の東西を問わず存在しておりました。そして、多くの開発者による試行錯誤を経て、そのことが具現化されるのが18世紀後半、ヨーロッパでのこととなります。それが、大気より軽量のガスを気密性のある気嚢(きのう)に注入し、その浮力で昇騰する「気球(軽気球とも)」に他なりませんでした。そして、その開発直後から軍事利用に対する期待がされるようになり、その活用法が種々考案されていくことになります。以後、20世紀初頭のライト兄弟による飛行の成功を契機に、急速に進歩することとなる「飛行機」と併せ、航空技術の軍事利用は相互に補完・代替しながら進んでいくことになります。ただし、大雑把に申せば、「気球」に期待される機能の多くが、次第に「飛行機」にとって代わられていくという経緯を辿ることとなります。それは、昭和11年(1936)に「気球隊」から「気球連隊」に昇格した段階で、本隊が創設以来の「航空兵科」から「砲兵科」部隊へと移行することになった事実からも見てとれましょう。ただ、海軍とは異なり、陸軍では戦争の終結に到るまで気球部隊が維持されることには留意すべきであります。

 「軍用気球」は、その機能上「自由気球」と「繋留気球」とに大きく二分されます。共に人が乗って活動するための「吊籠」が下げられて用いられました。前者は主に球状に成形され、風力を利用して空中を浮揚します(動力は附属しませんので単なる風任せの飛行となります)。それに対して、後者は繋留索(けいりゅうさく)と称されるロープで、地上や地上に置かれた牽引車に繋げられて使用されました。主に前後に長い紡錘型に成形されることが多く、空中での安定のために一方の先端部に鰭(ひれ)状の舵嚢(だのう)を伴います。こうした気球の主たる用途は、第一に、高度ある地点まで昇騰し、対峙する敵軍の動向を探る「偵察機能」にありました。飛行機の存在しない時代には、気球による偵察が、地上から把握し得ない敵軍の動向をつかむ唯一の方法であり、作戦の立案上極めて重要な情報源となったからです。二つ目に、自軍の放った砲弾の着弾地点を観測し、地上にその修正を伝達する機能が求められました(「射弾測定機能」)。今回の展示は陸軍における気球についてが中心となり、海軍における気球については「トピック」として簡単にしか扱いませんが、海軍でも気球は活用されました。艦船から昇騰し、敵艦船・敵潜水艦の動向の偵察、敵艦隊から発せられる魚雷の観測、更に自艦から発射された射弾の測定等に活用されたのです。従って、地上・艦上と電話線による情報伝達を行う必要があることから、主に「繋留気球」にこそに利用価値が求められ、コントロール機能のない「自由気球」の軍用的価値は少ないものでした。そして、その用途は「繋留気球」を地上と繋ぎとめる繋留索が何等かの事情で切断された場合、自力着陸をするための練習用に活用されることに止まるようになりました。ここまで説明した「偵察機能」「射弾機能」が気球に期待された基本的な機能となります。しかし、航空技術における飛行機の急速な発達、及び戦争末期における著しい攻撃資材の不足にともない、別途機能が気球に求められるようになるのです。それが、以下の第三・第四の機能です。

 その三つ目にあたる機能とは、皮肉なことに同じ航空技術としての敵航空機から国内への地上攻撃を防御する機能に他なりませんでした。つまり「防空(阻塞)機能」を果たすことが求められるようになったのです。具体的には、都市周辺に複数の繋留気球を昇騰することで(場合によっては網状の索を垂れ下げることもありました)、敵航空機の進路を妨害する機能が期待されたのです。こうした「繋留気球」の機能分化に伴い、「繋留気球」は昭和9年(1934)年から「偵察気球」と「防空気球」とに分けて制式制定されることとなりました。しかし、「防空気球」については、低空で地上に迫り機銃掃射を行う敵戦闘機に対しての有効性はある程度認められたものの、次第に高々度飛行が可能な爆撃機(B29)による爆弾・焼夷弾の投下に重点が移るとともに、その機能はほとんど実効性を伴わないものとなっていきました。

 そして、四つめの機能が、戦局の悪化と極端な国内の物資窮乏に追いこまれた太平洋戦争末期に行われた「風船爆弾」による「攻撃機能」に他なりません。これは、爆弾を搭載した「自由気球」を日本の太平洋岸から放球し、偏西風に乗せて北アメリカ大陸まで飛翔させて投下させる攻撃でした(飛行機も燃料も不要です)。物資窮乏の中で気嚢の材料とされたのが、蒟蒻糊で接着された和紙であり、その作業に従事したのが勤労動員の女学生や徴用され女子挺進隊員となった女性でありました。大本営の立案・計画になる本作戦でありますが、実行部隊は、気球に関しての知見・経験のある気球連隊を中心に編成され、昭和19年(1944)に気球連隊本部自体が千葉から茨城県大津に移されております。そして、大津・勿来(福島県)・一宮(千葉県)の三か所からアメリカに向け、最終的に合計約9000発強の「風船爆弾」が放球されることとなりました(実際に北アメリカに到達したのは300前後とされ、数は少ないとは言えアメリカではその爆発による死者も出しております)。偏西風の関係で昭和20年(1944)3月に放球を終了しておりますが、次の冬に向けた準備を進めるなかで終戦となりました。「防空気球」・「風船爆弾」には、ともに吊籠は未設置であり、無人で昇騰・放球されました。ただ、後者では、慣れぬ作業の中で誤爆も屡々おこり、多くの兵士が尊い生命を失っております。もっとも「風船爆弾」では有人飛行による所謂「特攻」も検討されましたが実現には至っておりません。そもそも気球は成層圏まで上昇することを想定しているのですから、生身の人間はアメリカに到達する前に絶命しましょう。海軍における「伏龍」計画と双璧をなす言語道断の攻撃案でありましょう。因みに「伏龍」攻撃とは潜水服を着用した人が浅瀬で待機し、上陸する敵揚陸船底に機雷を直接に装着して自爆する「特攻」に他なりません。あまりに非効率で実効性も伴わないとして実行に移されることはありませんでしたが、実験段階で多くの予科練所属の若者の尊い生命が失われていることを忘れてはなりません。

 「自由気球」「繋留気球」の他に、「気球」自体に動力・舵・客室を付属させ、有人による操縦飛行を可能とした気球も開発され、これを「飛行船(航空気球)」と称します。世界で最も広く知られた「飛行船」がドイツで開発された「ツェッペリン号」でありましょう。昭和4年(1929)「グラーフ・ツェッペリン号LZ-127」が、世界一周飛行(8月8日~29)の際に我が国にも立ち寄っております。8月19日に東京・横浜上空を飛行した後、茨城県の海軍「霞ケ浦飛行場」に着陸しました。ここには第一次世界大戦の際にドイツより戦利品として接収した巨大な気球格納庫があり、当日は当格納庫に納められました。しかし、「グラーフ・ツェッペリン号」があまりに巨大すぎ、全体を格納できず先端部がはみ出したそうです。それもその筈、飛行船の全長は何と236.6mにも及び、正に空飛ぶ巨鯨の名に相応しいものでした。因みに、巨艦として世に名高い戦艦「大和」より30m弱短いだけなのですから、如何に超弩級の大きさであったのか偲ばれましょう。もっとも、その割に旅客乗員は20名に過ぎませんでした。鯔の詰まり、飛行船の効率がどれ程に低いかが、ここに如実に露呈していると申せましょう。日本でも、陸軍・海軍ともに軍用「飛行船」の開発を行いましたが、飛行機技術の急速な発達に伴い、飛行船研究・開発の費用対効果に疑問が呈されるようになり、陸軍では「雄飛号」を最後として大正9年(1920)には開発を中止しております。ただ、海軍では飛行機より少ない燃料で長時間の飛行が可能となることから、飛行船による海上偵察上のメリットがあるとして、昭和10年(1935)前後までは利用・研究が継続されていることを申し添えておきます。もっとも、海軍では同時に気球自体の研究・活用も中止しており、陸軍よりも早くに気球から全面撤退を決めております。ところで、全くの余談ではございますが、上記したように飛行船を「鯨」に例えたのには訳がございます。大瀧詠一が「はっぴいえんど」解散前の1971年にリリースした、第2弾ソロシングル『空飛ぶくじら』がどうしても思い返されるからであります。クラリネット・バスクラリネット・アコーディオンを用いたなんとも懐古的なムード、鼻濁音の効いた心地よい大瀧の声色、そして耳に残るスキャット等々、私にとっても忘れ難き大切な一曲であります。詞は当方の偏愛する江戸門弾鉄(松本隆の変名)。歌詞冒頭を以下に引用しておきます。「空飛ぶくじら」が飛行船と重なるシュールな内容です。因みに作曲者も多羅尾伴内なる大瀧の変名クレジットになっております。

 

 

 街角にぼくはひとり
ぽつんと佇み
ビルとビルの隙間の
空を見てたら

 空飛ぶくじらが
ぼくを見ながら
灰色の街の空を
横切っていくんです

 (くじる ら くじる え ろれる られる な)
※松本の詞にはない大瀧によるスキャット:かように聞き取れますが果たして如何??

 

 

 寄り道が過ぎました。本展とは直接関係のない話題となりますが、「気球」は軍用だけではなく、民間でも活用されることがありました。これが所謂「アドバルーン」であります。気球の分類で申せば「広告気球」と称される利用法となります。大正末から都市で商店の宣伝に活用されるようになりました。しかし、1930年代に入ると気球の民間利用には軍部による制限が掛かるようになり、結果的に戦時中は全面禁止になりました。もっとも、例外があり、昭和11年(1936)に勃発した「二・二六事件」では、陸軍の手により西新橋にあった飛行館なる建物屋上から反乱軍に対して、「勅命下る軍旗に手向かうな」とアッピールする広告用アドバルーンが軍部の手により昇騰されております。このことは数々の写真資料で皆様にも御馴染みの光景でございましょう。従って、アドバルーンが盛んに活用されるのは専ら戦後、特に高度経済成長期になります。当時に幼少時代を過ごした当方などは、都心の百貨店やら街のスパーマーケットにアドバルーンが揚がると、ワクワク浮き浮きした思いを押さえることができませんでした。今ではすっかりその姿を拝むことが叶わなくなり、少々と寂しい気もします。これも当該時期に生まれ育った者特有の想いなのかもしれません。また、戦後は、スカイスポーツとして「熱気球」が広く親しまれているようで、昨今もテレビ等で取り上げられているのを目にします。今流行の「SDG’S」の趣旨にも叶うものかもしれません。気球は今の人々にとっては「古くて新しい」乗り物となりましょうか。

 以上、日本における「軍用気球」の活用法とその歩みにつきまして極々大雑把に述べて参りました。本企画展では、以上述べてきた概略について、前編に掲げた「展示構成」に従って、その詳細に迫ってまいります。また、「気球連隊」跡地の戦後についても扱っております。これまで、昭和30年代初頭に解体された「第一格納庫」の部材を再利用して「千葉公園体育館」が建造されたという、所謂「都市伝説」の是非にも迫っております。また、昨年解体された「第二格納庫」建設に用いられた、昭和初期に開発された画期的な建築技術である「ダイヤモンドトラス構造」にも迫る展示もございます。解体の際に、積水化学工業様にお譲りいただいた実際に利用されていた部材の一部、市原徹さん作成に掛かる1/100スケールのペーパークラフト模型(昨年度『軍都千葉と千葉空襲』展に会期途中から展示)、それに加えて、先日新たに「千葉実年大学校 歴史倶楽部一同」様より本館に御寄贈を頂いた同縮尺の「第二格納庫ダイヤモンドトラス構造模型」(市原様製作の模型が紙を材料としているがゆえに再現できなかったトラス構造を立体的に再現した模型となります)の展示もいたします。昭和初期につくられた「気球隊の歌」も、残された楽譜を用いて新たに収録した音源を展示会場で流す予定です。なかなかに素敵な歌であります。

 最後になりますが、今回の展示は「小企画展」であり、会場も本館の1階展示室という決して規模の大きな展示会では御座いませんが、内容は盛りだくさんと自負するところでございます。千葉市にかつて存在した「気球連隊(気球隊)」の歩みを知ることを通して、何よりも、ご覧いただいた皆様に、改めて不戦の誓いと平和への強い想いを抱いていただけることを心から祈念するところでございます。千葉市は現在「蔓延防止等重点措置」地区に指定される最中にありますので、本来それを抑えるべき公的機関が積極的にご来館を促すことはご法度かと存じますが、一方で公共サービス提供の要請もされているのが現状でございます。従って、もし可能であれば脚をお運びいただけますと幸いです……と、歯切れ悪く申し上げるしかないのかと存じます。

 そうでした。一つお伝えすることを失念しておりました。会期中の刊行にはなりませんが、本展の内容につきましては「ブックレット」の形に纏め、年度内のできるだけ早い時期に刊行する予定でおります。そちらも楽しみにお待ちいただけましたら幸いです。

 

 

 健全な「笑い」が息づく社会とは(前編) ―または「松元ヒロ」ソロライブと『憲法くん』のこと― ―「陸軍気球連隊と第二格納庫」展に新発見資料を追加しました!―

5月28日(金曜日)

 小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-」が始まって3日が経過いたしますが、かようなご時世の中ではございますが、思いのほか沢山の皆様にご来館をいただいております。この場をお借りして衷心よりの感謝を申しあげます。もっとも、入場制限をするほどの混雑状況にはござませんので、ご自身の体調とご都合とを勘案され、ご来館の場合は感染予防に充分に配慮されておいでください。会期は7月11日(日曜日)までとなります。比較的短めの設定となっておりますので、ご都合がつくようでしたら脚をお運びくださいましたら幸いです。

 一点、 本小企画展について、急遽追加の展示資料がございましたので、この場にて紹介をさせていただきます。それは、これまでその具体像が殆ど見えてこなかった、「気球隊」が「中野」に在った時代の実像を明らかにする資料となります。陸軍の「気球隊」は、明治40年(1907)年に東京「中野」の地で呱々の声をあげておりますが、大正2年(1913)に埼玉県「所沢」に移転しており、中野での活動は6年間に過ぎません。従って、中野での気球隊の実像については明確な焦点が結ばれていない現状にありました。ところが、この度、本館でも大変にお世話になっている航空史研究家の小暮達夫氏の精力的な調査活動により、中野における「気球格納庫」の写真が初めて日の目を見ることとなりました。当該資料は、千葉市稲毛海岸における民間航空事業に深く関わっていた、伊藤音二郎のアルバム中から発見されたとのことです。その写真には、おそらく伊藤自身の手になると思われる「中野気球隊ニテ」と「左 奈良原第一号機」「右 グラデ―式」「両機共全竹製」の文字が記載されており、格納庫とその前に佇む2機の飛行機が写り込んでおります。格納庫は、間違いなく気球の格納庫であり、これまで知られていた所沢の格納庫とも、海軍の霞ケ浦の格納庫とも、勿論のこと千葉における2棟の格納庫とも異なる建物であります。また、小暮様の研究によれば、この2機が同時に写り込む可能性があるのは、明治43年(1910)5月~明治44年(1911)5月あたりまでにほぼ絞り込めるとのことです。従って、正に中野に気球隊が置かれていた時期と一致します。大変に重要な発見だと存じます。今回、御子孫にあたる方のご厚意も賜り、本展に「新発見資料」として急遽展示してご紹介をさせていただくことが可能となりました。第3章「陸軍の気球隊 千葉移転まで」での展示となります。小暮様にも、衷心よりの感謝を申し上げる次第でございます。ありがとうございました。

 さて、話題は急転直下、今回は所謂「笑い」について少しばかり。人生にとって「笑い」ほど人生を豊かにしてくれるものはないとの思いを抱く皆様は多いことでしょう。当方も、全く同感でございます。「笑いの無い人生なんて、○○のないコーヒーのようだ」と、昔のCМを気取りたくなるほどであります。もっとも、一言で「笑い」と申しても様々な種類がございましょう。漢和辞典で「笑」という文字を引きてみれば、大笑・爆笑・微笑・笑顔といった、精神を高揚させるようなプラスのベクトルのものばかりとは限らず、失笑・冷笑・苦笑・艶笑・哄笑・媚笑・嬌笑・失笑といった、どちらかというとマイナスのベクトルを有する言葉も沢山出て参りますし、むしろそちらの方が多いようにすら見えます。また、誰にでも伝わる即物的な「笑い」もある一方で、知的な捻りを利かせた分かる人だけに伝わる「笑い」もあるように、「笑い」の質もまた多種多様でありましょう。そうした幅広い「笑い」の中で人々は暮らしております。そして、時に愉快にさせられ、時に不快にも寄与するものでもあることは誰でも納得されましょう。勿論、前者が多いことが望ましいことなのですが、後者のような「笑い」に存在する社会的な意味や機能を意識しておくことは重要でしょう。つまり、昨今は何から何までひっくるめて「お笑い」と称され、世の「笑い」を一手に引き受けているようにも見える芸能の世界においても、多様なる「笑い」の世界を守備範囲としてるのだと思います。

 しかし、何時もの「天の邪鬼」が働く所為か、当方としては昨今の「お笑いブーム」「落語ブーム」なる風潮には少々冷ややかな間合いをとっております。従って、最近テレビの「お笑い番組」や「寄席」の世界とも若干の距離ができております。勿論、誰もが苦虫を噛み潰したようなしかめ面をしている息苦しき社会と比べれば、結構な風潮であることは論を待ちません。また、こうした上げ潮に乗ってか、一時は絶滅を危惧された話芸のひとつ「講談」までに日の目が当たるようになったことには大いに慶賀に絶えない思いであります。しかし、昨今の「お笑い」が薄っぺらに思えることも一方ならずにございます。最も、これは、「笑い」を生み出す側ではなく、それを利用しようとする側(マスコミ)、受け取る我々にこそ原因があるように思いますが、そのことは追って述べようと存じます。まぁ、こうした認識は、山の神からよく指摘されるように「歳」をとった証であり、許容範囲が偏狭化していることに他なりますまい。そうなりたくと思っていた、「昨今の若いもんの風潮には困ったもんだ!」と言いがちな、頑迷固陋な老人になりつつあるのだと思います。大いに自省すべし。

 しかし、元来は当方にとって芸能としての「笑い」、特に「落語」は最高のご馳走であります。日本橋人形町にかつて存在した落語定席「末廣」華やかなりし時代に、寄席を賑わした綺羅星のような名人の高座の質の高さは、正に比肩するものを見出すことすら難しいものであると思います。勿論、それら名高き師匠の多くは、当方の幼き頃には既にあの世に召されており、残念ながらその謦咳に接することができた訳ではありません。しかし、幸いに残されている沢山の音源やら、実際にその高座に接した人々から(当方の母親もその一人でした)、その瞠目すべき芸の凄さと深さとを実感させられたのです。「黒門町の師匠」と呼ばれ、無駄のない謹厳なる名文のように一席を磨き上げた名人八代目桂文楽(1892~1971)、その人間性を象徴するような破天荒な話芸で死後も圧倒的な人気を誇る五代目古今亭志ん生(1980~1973)、江戸っ子らしい「鯔背」を体現したかような小粋な語りを持ち味とする三代目桂三木助(1902~1961)、地味で朴訥な語り口から登場人物像を飄々と描き出す八代目三笑亭可楽(1898~1964)、人情話を自家薬籠中のものとし、晩年には明治の名人三遊亭円朝(1839~1900)の長編演目(『牡丹灯籠』『真景累ケ淵』等)に果敢に取り組んだ六代目三遊亭円生(1900~1979)等々、枚挙に暇無き名人がおります。若い頃には好みではなかった三代目三遊亭金馬(1894~1964)、創作落語で売り出した柳亭痴楽(1921~1993:最後の20年間は脳卒中で活動できず)も、今聞いてみれば現存の落語家など足元にも及ばぬ話芸の持ち主と知れます。勿論、現在の落語家や漫才師にも優れた方々はおられます。しかし、必ずしも正当な扱いを受けているわけではないと思います。因みに、今残っていれば確実に文化財に指定されていたに違いない人形町「末廣」は、東京に最後まで残った畳敷の寄席でありました。テレビ等の普及による経営悪化から昭和45年(1970)に閉席、保存運動も虚しく翌年に解体されております。当時「江戸東京博物館建物園」があれば、間違いなく移築保存されたことでありましょう。残念至極であります。

 そして、今日日の「お笑い」の姿に目を転ずれば、それは一種の「社会現象」とも言うべきものになっているとさえ感じさせます。テレビ等のメディアで「芸人」と名の付く人物の姿を目にしない時間帯は皆無といってよい程です。寄りによって、今や公共放送としての役割を担うNHKとて例外ではありません。何時でも何処でも民放で顔を見る芸人ばかりが登場し、その番組内容も最早それらと選ぶところがありません。どこかの政治グループではありませんが、受信料により運営しているのですから、もっと気骨ある内容の番組制作、及び、人気ばかりを優先した安直極まりない出演者選びについて再考を願いたいものであります。勿論、現在でもNHKらしい実ある番組は数多ありますが(例えば『ブラタモリ』『NHK特集』『青天を衝け』等々)、以前に比較べればその数は遥かに減少しているように思いますし、アナウンサーが担っていてもまるで芸人か民放の女子アナと変わらぬヤケに軽い進行に失望させられることも間々あります(何も謹厳実直・重厚長大にすべしと申し上げているのではありません)。本題の「笑い」に戻れば、そうした芸人に期待されているのは、MCかコメンテイターとして、その場を当意即妙に盛り上げる役割に限定されているように感じます。それが一概に悪いとばかりは言えませんが、所謂「たいこもち」にしか見えないことは、否めぬ現実でございましょう(本当の「幇間」からはあんな芸と一緒にするなと叱られそうですが)。端的に申せば、番組制作者は、芸人をあまりにも一過性の笑いにだけに使いまわしているだけに思えて仕方がないのです。少なくとも、その持てる「芸」そのものを鍛えるような扱いをすべきでありましょうし、鍛えるようなプロデューサー自体の度量こそが求められましょう。こうした扱いばかりでは、芸人として息切れし早晩にお払い箱となりましょう。つまりは芸人の使い捨てに直結するものと思われます。制作者がかような意識でありますから、質の高い落語や漫才をじっくりと鑑賞する番組がほとんど姿を消したのも宜なるかなでありましょう。早朝にNHKで放映される「日本の話芸」くらいではありますまいか。「笑点」は長寿番組で人気もあるようですが、馴れ合い体質が露呈した昨今の質の低下は目を覆うばかりです。「大喜利」メンバーは、少なくとも実力ある落語家のローテーション出演に変更すべきでありましょう。鍛えられる場がないのですから、質の高い「笑い」は消滅し、一過性の刹那的な「笑い」ばかりが跋扈するのです。「グレシャムの法則」ではありませんが、正に「悪貨は良貨を駆逐する」的な状況に他なりません。
(後編に続く)

 

 

 健全な「笑い」が息づく社会とは(後編) ―または「松元ヒロ」ソロライブと『憲法くん』のこと― ―「陸軍気球連隊と第二格納庫」展に新発見資料を追加しました!―

5月29日(土曜日)

 かような思いを抱いていた数年前のこと、お世話になっている元校長先生からお誘いをいただき、千葉市民会館小ホールで開催された「松元ヒロ:ソロライブ」に足を運ぶ機会を得ました。松元ヒロといってもピンと来ない方ばかりでございましょう。知る人ぞ知る「お笑い」芸人であります。当日も「千葉中央親子劇場」主催による会場は、コアなファンで覆いつくされ、ほぼ満席の盛況であったことに吃驚でした。そして、そのステージに初めて接して、その内容の充実に更に驚かされることとなったのです。大凡2時間に及ぶステージに、腹の底から笑い、時に目頭を熱くし、同時に実に多くのことを考えさせられました。同じ空間にいた観客の多くも同じことを感じたと想像します。ヒロさんは昭和27年(1952)鹿児島県生まれ。パントマイマーとして活躍後(当日のアンコールでは天気予報のアナウンスにパントマイムを被せるという、奇想天外なパフォーマンスで会場を爆笑の渦に巻き込みました)、1985年「お笑いスター誕生」で優勝。昭和63年(1988)社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」結成。平成10年(1998)に独立し、以後は所謂「ピン芸人」として舞台を活動の中心とされています(「ザ・ニュースペーパー」もメンバーを変えて現在も活動を続けております)。

 「お笑い」の世界に限りませんが、昨今は知的刺激に満ちた番組の肩身が狭くなったように感じます。報道番組でもコメンテイターの言説はどこでも大同小異。その差たるやコカコーラとペプシコーラの差程度にしか感じられません。世間での炎上を避けようとするためでしょう、自主規制が働き内容も当たり障りのないことばかりです。世に「毒舌芸人」との異名を持つ者もおりますが、仲間同士の内輪の弄りあいや、立場の弱い者への攻撃(口撃?)で笑いをとるのは感心できません。そのような中、松元ヒロの芸風に、未だ奥深い「笑い」が健在であることを確認し安堵しました。それは風刺色が強く、知的な毒をたっぷりと含んだものです。決して「快活」なプラスのベクトルを志向する「笑い」とは異なります。しかし、その毒舌は決して弱き立場の者へは向きません。つまりは、常に世の中の強き立場の側に向かっていくのです。その意味で「政治権力者」こそ恰好なターゲットとなります。ご本人は「笑いは下剋上」だとも述べておられます。強き者の言説に声高に正面から否を訴えるのではなく、斜めの視線からその欺瞞や奢りを滑稽にすり替えて笑い飛ばす。その内容は、強い立場の者にとって、極めて痛烈かつ辛辣に響くことでしょう。恐らく、直言以上に耳に痛く感じられることと思います。逆に、庶民はそれで留飲を下げることになります。その知的操作に工夫があればあるほど、「にやり」とさせられます。そこには正に「深い笑い」の世界が展開されていたのです。

 私がその舞台に接したのはその一度きりでありますが、「非常事態宣言」下でありステージに登る機会は限られましょうが、昨今の政府要人や知事たちのコロナ対応をどれほどに風刺して笑いに変えているのか、考えるだけでもワクワク・ゾクゾクといたします。今ほど彼らを風刺するネタに事欠かない好機はございますまい。彼がテレビに全くと言ってよいほどに露出しないのはそのためでしょう(事後対応を恐れるプロデューサーの自主規制だと推察できます)。実際に、政権担当者に鋭い突っ込みを入れたために左遷されたと取り沙汰されるキャスターもおりますから。昨今、若者のテレビ離れが喧伝されますが、どれもこれも同じような内容なのですから、成るべくしてなった結末との感を強くいたします。大学生である倅の下宿にあるテレビも埃塗れで、ほとんど使用された形跡がありません。倅曰く「どのチャンネルでも似たり寄ったりの番組で飽き飽き」「くだらない内容ばかりで時間の無駄」「必要な情報はスマホで得ることができる」等々。還暦を過ぎた当方でも、キャスターの論評を視聴して白けること夥しい思いになります。今のままでは、テレビ業界の未来は極めて暗いものでありましょう。その点で、AМラジオ放送(除:NHK)における言説は相当に本音のオンパレードであり、辛辣な物言いが未だに健在であることを申し添えておきたいと存じます。

 松元ヒロの話題に戻ります。彼の持ちネタの一つに、生前の井上ひさし・立川談志・永六輔らから激賞された『憲法くん』があります。元来、平成9年(1997)「日本国憲法制定50周年」を機に創作したネタとのことです。「憲法」を話者に仕立て、周囲に自分自身(憲法)、とりわけ9条「平和主義」について語りかける一種の一人芝居です。その中にはいくつもの印象的な場面があります。「私を変えたいという人に、どうして私を変えようとするんですか?」と問いかけたときの反応「現実にあわないからだよ」に対しての反論、「理想と現実が違っていたら、むしろ現実を理想に近づけるように努力するものではないでしょうか」と訴える場面。「確かに私のからだにはアメリカの血が混じっているかもしれません。でも、そのことと、わたしの命の大切さとは、なにか関係があるのでしょうか?」と問い返す場面。「わたしのことを自虐的だとか、プライドがないとか、もっと誇りを持て」という人々に、「わたしは、この間、たった一度も戦争という名前の付いたおこないで、人を殺したことも、人に殺されたこともありません。そのことを誇りに思っています」と反論する場面等々。この『憲法くん』も当日の演目の一つでありました。勿論、日本国憲法については、松元が「笑い」のネタとしている理由だけではない、真摯な改憲の必要性の論拠をお持ちの方もございましょうし、そうした論拠の下に改憲の必要性説く主張もございましょう。そもそも憲法で「言論の自由」が保障されている我が国でありますので、特別な理由がない限り如何なる主張があっても宜しいと思いますし、相互の意見交換こそが重要なことであります。『憲法くん』も社会風刺としての「笑い」という機能を通しての松元自身の主張に他なりません。口角泡を飛ばしての声高な主張でないだけに、かえって「笑い」を通じて深く考えさせられる機会となるのではないかと考えるのです。平成28年(2016)にその内容は『憲法くん』と題して、武田美穂さんの素敵な絵画を添えた絵本として刊行されましたので(講談社)、どなたでも手軽に接することが出来るようになりました。しかし、その持つ説得力は松元さんの「話芸」には遠く及びません。迫真の舞台はYouTube等でも見ることが可能ですのでどうぞ。

 そもそも「笑い」とは如何なる現象なのか。その機能について大マジメに考えた人物がいます。ドイツの哲学者ベルグソンです。当方にはその著書『笑い』の詳細を説明する読解力も表現力もございませんが、その中で「人は、人との協調関係のなかで笑うのであることから、笑いには社会(人間間の結びつき)を形成する機能があり、社会の枠から突出した人を呼び戻す機能があること。機械的に硬直して見えるものに対する反応であること」等が論じられます。分かったようでチンプンカンプンの部分もあります。そこで百科事典で「笑い」を引いてみたところ、以下のように説明されておりました。「笑いが発生する機構には、優越感、緊張からの解放、期待と現実のズレ等が古くから指摘されており、そのもつ社会的機能についても、社会的緊張の緩和、苦痛からの防衛、愚行に対する拒絶行為、自由にして柔軟な生に対立した凝固状態に対する社会的罰としての役割がある」(『ブリタニカ国際大百科事典』より)。まぁ、こうした小難しい内容を極端に単純化すれば「笑いとは人間社会を円滑にする潤滑油」という極々当たり前のことになりましょうか。事実、笑いほど人生を豊かにする行為はないでしょう。「健全な笑い」で溢れる世の中にしたいものです。ここで申し上げたいことは、「健全な笑い」とは、必ずしも快活で明るい笑いばかりではないということです。勿論、弱き立場の者を見下したりする質の悪い「笑い」が許されてはなりません。しかし、強き者や不正を働く者を笑い飛ばす「知的な笑い」もまた「健全な笑い」に属するものなのだと思います。しかし、そうした「笑い」が生き延びるためには、まずは平和であること、自由・平等の保障される社会であることが不可欠です。それは取りも直さず松本ヒロが『憲法くん』で訴える、「日本国憲法」の謳う社会の姿に他なりません。それらが満たされなければ(戦争状態や格差社会等々)、猜疑心と偏狭とが幅を利かせる「不寛容」な世となることは歴史が証明しております。現在世界を席巻しつつある政治的状況「ポピュリズム」も、正にかような地平を出自とする動向だと申せましょう。

 我が国で、江戸から明治・大正、軍国主義の下で言論弾圧が蔓延る前まで数多存在していた健全な笑いが(江戸の川柳・狂歌から明治以降の大衆娯楽芸能まで)、権力からの抑圧を受けることなく輝く世で在り続けたいものです。目を世界に転じれば、欧米では知的な風刺芸が笑いの王道でありますし、その浮沈こそが社会の健全性を計るバロメーターだと考えます。そのことを「松元ヒロ:ソロライブ」に接して痛感したのでした。

 

 千葉市の戦前・戦中を筆に残した小説家「原民喜」(前編) ―作家の目に映った街・海・大学病院そして「気球」―

6月4日(金曜日)

 広島市内の爆心地から1kmもない地点で被爆し、その原体験をもとに執筆された原爆被災を内容とする傑作小説『夏の花』。その作者である「原民喜」が、昭和26年(1951)3月に吉祥寺駅と西荻窪駅間の中央線路上にて自死を選んで46年の生涯を終えてから、ちょうど70年の歳月が流れました(不謹慎ではございますが著作権が切れたこともあり、以下に作品を遠慮することなく引用させて頂こうと存じます)。その時、遅く起床した民喜は便所にいて一命を取り留めたのでした。その、民喜が私たちの千葉市とも深い関係があり、その地で目に映った光景やその折々の暮らしを筆に残していることは意外なほどに知られておりません。

 原民喜は、明治38年(1905)に広島市幟町(のぼりちょう)に生まれております。生家は陸海軍・官庁御用達の繊維商を営む裕福な家であり、その名は日露戦争勝利で民が喜んだことに因んで父親が付けたものと伝わります。その父親が小学校6年生の時に亡くなり、民喜の少年時代に聖書を伝えた姉の早世等もあり、内向的な性格になったと言われます(後に遭遇する妻の死、そして原爆による膨大な「死」と向き合う作風の根幹はここで形成されたものと思われます)。小学生の時分より作文を得意とし、他の兄弟と家庭内同人誌を編集して作品を掲載していたほどの早熟を示しており、中学生時分には将来の希望は作家以外の考えは一切なかったとのことです。大正13年(1924)年、慶応義塾大学文学部予科に入学するため上京。その在学中にも、同人誌に俳句・小説・随筆等々を寄せるなど文才を発揮しており、同時に左翼運動にも関心を深めていったのでした。地方から上京した純粋なインテリ学生によくみるパターンと言えましょう。大学を卒業した27歳の時には色恋沙汰から自殺未遂も起こしています。

 そして、翌年28歳にして、故郷広島県出身の永井貞恵と見合いの末に結婚(貞恵の実弟には文芸評論家として著名な佐々木基一がおります)。夫妻ともに、官憲からの社会主義運動の嫌疑を受けて検束されたことを経て(一晩で釈放)、昭和9年(1934)に千葉市大字寒川字羽根子(現在・千葉市中央区登戸二丁目)に転居しております。その家屋は京成電車「新千葉駅」に程近い台地上にあり、埋立前の東京湾とその上に果てなく広がる虚空とを、臨むことのできる場所であったようです(京成電車は、今から100年前の大正11年に市制施行と同時に津田沼から千葉まで延伸されており、成田までの本線より早期の開通となりました。また国鉄が非電化であったため「電車」が千葉に乗り入れたのは京成電車が初となります)。千葉で暮らしていた、その前半期は、決して長いとは言えない民喜の作家生活の中で、実り多い年月であったように思われます。妻の支えによって多くの作品をその地で物しているのですから。私自身が、胸を締め付けられるような思いで読んだ、夫婦間の美しくも切ない遣り取りが、戦後になって書かれた『苦く美しき夏』に留められておりますので、以下に引用をいたします。

 

 

「こんな小説はどう思う」彼は妻に話しかけた。
「子供がはじめて乗合馬車に乗せてもらって、川へ連れて行ってもらう。それから川で海
老を獲るのだが、瓶のなかから海老が跳ねて子供は泣き出す」
妻の目は大きく見ひらかれた。それは無心なものに視入ったり憧れたりするときの、一番
懐かしそうな眼だった。それから急に迸るような悦びが顔一面にひろがった。
「お書きなさい。それはきっといいものが書けます」
その祈るような眼は遙か遠くにあるものに対(むか)って、不思議な透視を働かせている
ようだった。彼もまた弾む心で殆ど妻の透視しているものを信じてもいいとおもえたの
だが……。

 

 
(『苦く美しき夏』より 昭和24年)

 

 これを書いたときに、妻の貞恵は既にこの世の人ではありませんでした。だから余計にその麗しさが切なさを伴って心に染みるのです。私は、目頭を熱くせずにこの部分を読むことができません。貞恵はこの地で、当時は不治の国民病とも称された死病に取り付かれたのです。肺結核でした(後に糖尿病を併発)。そして昭和14年(1939)に、官立千葉医科大学附属病院(現・千葉大学医学部附属病院)入院。それ以降、自宅療養を含めて5年間にわたる闘病生活を送ることになりました。しかし、献身的な民喜の看病の甲斐も実ることなく、昭和19年(1944)に登戸の家で息を引き取りました。その時に貞恵が入院し、民喜が毎日のように見舞いに通った病棟が、今に残る千葉大学医学部本館に他なりません(この建物につきましては後編で述べたいと存じます)。その間、民喜は、療養のための糧を得るために、昭和17年(1942)船橋市立船橋中学校(2年後に「県立」に移管。現・千葉県立船橋高等学校)に嘱託の英語講師として二年間にわたり週三回の勤務をしております。そうしたこともあって、千葉での生活の後半は作品発表が次第に少なくなっていくことにも繋がりました。しかし、この際の妻との親密な遣り取りと煩悶、そしてついには妻を失った際の募る思いの数々とが、戦後になって書かれることとなる、静かなこの世のものとも思われないほどの美しい文章による奇跡のような珠玉の作品として結晶することになるのです。前者については『苦しき美しき夏』『秋日和』『冬日和』として、後者につきましては『美しき死の岸に』『死のなかの風景』として。その余りにも静謐な美しさに打たれないのであれば、所詮は文学とは無縁の衆生であろうとさえ言い切ることができるほどの名作、そして名文に他ならないと私は確信いたします。民喜と申せば『夏の花』ばかりが喧伝されますが(その世界観を共有することを承知の上で)、私個人は上記の作品群にこそ最も心を惹かれます。標記作品が一同に介する「新潮文庫」末解説で、大江健三郎が「若い読者がめぐりあうべき、現代日本文学の、もっとも美しい散文家のひとりが原民喜であると僕が信じている……」と述べておりますが、自分自身の想いと正しく呼応いたします。

 妻を失って、民喜は千葉の家を畳み、昭和20年(1945)1月に故郷の広島市幟町にある実兄の下に身を寄せることになりました。しかし、そのことがこの作家に更なる不幸を呼び込むことになろうとは、その時の民喜は知る由もありませんでした。その「更なる不幸」とは、同年8月6日午前8時15分、「原爆」との遭遇に他なりません(皮肉なことにその体験を通じて、原民喜は作家として今日の名声を残すことになるのですが)。遅く起きた民喜は便所に入っていて被爆しました。爆心地から1.2kmで一命を取り留め得たのは、一重に裕福であったが故の頑丈な普請に起因します。もっとも、その後の火災で屋敷は全焼しました。

 『夏の花』は、被爆直後の日記「原爆被災時のノート」をもとに、その直後に疎開先の広島県佐伯郡八幡村で執筆されたと言います。GHQの検閲に鑑み、本人の承諾の下で、被爆者描写等の幾つかの箇所の削除がなされ、昭和22年(1947)に発表されています。そして、続いて発表された原爆投下の前後を描いた『壊滅の序曲』『廃墟から』とあわせて「夏の花三部作」と称され、現在入手しやすい文庫本等では、この三部作の形で収録されていることが殆どであります。しかし、あえて今回これら名作にはこれ以上立ち入ることはいたしません。何故ならば、その手の紹介は世に溢れているからに他なりません。本稿では、民喜が広島に戻って被災する以前の、千葉市における暮らしに焦点を当ててみようと思います。そして、現在本館で開催中の小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫 -知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-」と、多少は関連づけようとも目論んでおります。原民喜における、千葉市内で営まれた妻貞恵との幸福と絶望との間を大きな振幅で行き来した生活の時代が、正に「気球連隊」がこの千葉市内に置かれていた時代と重なるからであります。彼の作品に描かれている戦前の千葉市内の光景を、彼の作品の中から拾い上げてご紹介いたしましょう。

 実際に、今回本稿を執筆する契機となったのが、他でもない現在本館で開催されている小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫」と深く関わることとなります。それは、本展準備中に、今回の展示品の中核をなす資料群の所有者である伊藤奈津絵さん(「千葉市の近現代を知る会」会員)から、「原民喜の作品に千葉市内の気球について書かれているものがある」こと、そこには気球に描かれる「日の丸」を「赤い眼」と表現していること、それが確か彼の詩作品であったように思うと、ご教示いただいたことだったのです。民喜の作品はその昔に手に入れた『夏の花』しか所有しておりませんでしたので、早速岩波文庫『原民喜全詩集』を購入して最初から最後まで眼を皿のようにして調べました。しかし、残念ながら「気球」を詠んだ詩は以下の一点だけ。しかも、そこには、伊藤さんからお聞きした印象的な「赤い眼」の表現を見出すことは叶いませんでした。

 

師走
寒ざらしの空に
おころりおころりと軽気球が
たつた一つ浮かんでゐる
そこから何が見えるのですか

 

 

 本作品は、『断章』とのタイトルで一括りに纏められた20数篇の作品群のひとつでありますが、最後の「後期」に「ここに集めた詩は大正12年から昭和3年頃の頃のものであるが、……(中略)……昭和16年9月2日、空襲避難の貴重品を纏めんとして、取り急ぎ清書す。」と追記されております。従って、千葉市内で清書をしたことはほぼ間違いありませんが、当作品における「気球」は千葉市内の気球連隊のものである可能性は低いものと思われます(伊藤さんの申されていた作品につきましては後述いたします)。そこで、嘗て読んだ原民喜の小説集を書庫から探し出して再読することにいたしました(『夏の花・心願の国』新潮文庫)。しかし、そこにも「気球」への言及を見つけることができませんでした。ただし、嘗て読んだときには読み飛ばしていて、一切気づくことすらなかった戦前の千葉市の光景が、彼の小説には豊富に描き込まれていることに一驚いたしました。今と引き比べても、民喜が何処を歩き、何を見ているのかが手に取るように伝わります。もっとも、当方には埋め立て以前の海岸の情景と重ねることは叶いませんが、それを知る皆様には大いに共感できる記述ではありますまいか。「後編」では、その幾つかを紹介させていただきます。
(後編に続く)

 



 千葉市の戦前・戦中を筆に残した小説家「原民喜」(後編) ―作家の目に映った街・海・大学病院そして「気球」―

6月5日(土曜日)

 まず、彼らが居住した京成電鉄「新千葉駅」に程近い「登戸」周辺の様子について。埋め立て前は、国号の目前に遠浅の海が広がっており、現在とは似ても似つかない光景でありました。馴れぬ千葉の気象と相俟って、瀬戸内育ちの夫婦には心身に大きな負担になったこと等が伝わってまいります。

 

 

「彼等二人がはじめてその土地に居着いた年の夏……。その年は狂気の追憶のように彼に刻まれている。居着いた借家-それは今も彼の棲んでいる家だったが-は海の見える茫漠とした高台の一隅にあった。彼はその家のなかで傷ついた獣のように呻吟していた。狭い庭にある二本の黐(もち)の樹の燃え立つ青葉が油のような青空を支えていて、ほど遠からぬところにある野づらや海のいきれがくらくらと彼の額に感じられた。朝の陽光がじりじりと縁側の端を照りつけているのを見ただけでも彼は堪らない気持ちをそそられる。すべては烈しすぎて、すべては彼にとって強すぎたのだ。」

 

「陽が沈んで国道が薄鼠色に変わっていく頃、彼は妻と一緒によく外に出た。平屋建の黝(くろず)んだ家屋が広いアスファルトの両側に続いて、海岸から街の方へ通じる国道は古い絵はがきの景色か何かのようにおもえた。」

「妻は夜更けに彼を外に誘った。一歩外に出ると、白いと埃(ほこり)をかむったトタン屋根の四五軒の平屋が、その屋根の上に乾ききった星空があった。家並みが杜切れたところから、海岸へ降りる路が白く茫と浮かんでいる。伸びきった空地と叢(くさむら)と白っぽい埃の路は星明かりに悶え魘(うな)されているようだった。」

(以上『苦しく美しき夏』より 昭和24年)

 

 続いて、妻貞恵の入院することとなった、官立千葉医科大学附属病院(現・千葉大学医学部附属病院)と、そこから眺めた周辺風景、及び自宅から通う千葉の街の光景等について。この建物こそ、現在も千葉大学医学部本館として使用される建造物であります[昭和11年(1936)年完成]。現在も続く大林組の手になる当時東洋一を誇る病院建築として著名でした。妻貞恵が入院したのは完成後3年後になります。関東大震災後に普及した鉄筋コンクリート造の大規模建築であり、全面を覆うスクラッチタイル、水平線を強調した重苦しさを階段室の縦窓で緩和する破調も優れたデザインであります。更に玄関車寄と玄関内ホールの意匠にも優れたものがあります。間違いなく国の「登録有形文化財」指定に値する建造物であります。戦中の所謂「七夕空襲」では幾多焼夷弾を受けながらも持ちこたえました。そして、焼け跡から見上げた猪鼻山に屹立していた姿は、市民にとっての戦後復興の希望の象徴ともなりました。その意味で、文化財的価値に止まることのない、正に千葉市民の「記憶遺産」としての意味合いを重視せねばならない記念碑でもあるのです。千葉市にとって決して疎かにすべきではない建造物であります。それは、本館の側に建つ昭和2年(1927)建築「旧精神科病棟(現・千葉大学医学部サークル棟)」にも言えることです。この建物には当時欧米で流行したアールデコ装飾が到るところに見て取れます。その点において極めて美術史的価値のある歴史遺産でもあります。こちらも、間違いなく登録有形文化財への指定が穏当な建築物と言うことができます。空襲により千葉市の歴史を伝える建築物が残らない千葉市にとって、これほど重要な近代建築物が残っていることを我々は誇りとすべきかと存じます。以下に、原民喜の文章から幾つかを引いてみましょう。なお、以下の引用文中の「※文章」は当方による注釈となります。

 

 

「街は日の光でひどく眩しかった。それは忽ち喘ぐように彼を疲らせてしまった。だが、病院の玄関に辿り着くと、朝の廊下は水のように澄んでいた。」

 

「彼はそっと椅子を立ち上がって窓の外へ出る扉を押した。そのベランダに出ると、明るい灝気(こうき)がじかに押しよせて来るようだった。すぐ近くに見おろせる精神科の棟や、石炭貯蔵所から、裏門の垣をへだてて、その向うは広漠とした田野であった。人家や径(みち)が色づいた野づらを匐(は)っていたが、遮るもののない空は大きな弧を描いて目の前に垂れさがっていた。」
※「精神科の棟」→上記したように昭和2年に建築され現存している。


(以上『秋日和』より 昭和22年)

 

 

「彼はそっと窓の方の扉をあけて、いつものベランダに出てみた。冷たい空気が頬にあたり、すぐ真下に見え鈴懸の並木がはっと色づいていた。と、何かヒラヒラするものがうごき、無数の落葉が眼の奥で渦巻いた。いま建物の蔭から見習看護婦の群が現れると、つぎつぎに裏門の方へ消えて行くのだった。その宿舎へ帰っていくらしい少女たちの賑やかな足並は、次第にやさしい祈りを含んでいるように思えた。と、この大きな病院全体が、ふと彼には寺院の幻想となっていった。高台の上に建つこの大伽藍は、はてしない天にむかって、じっと祈りを捧げているのではないか。明るい空気のなかに、かすかに靄が顫(ふる)えながら立罩(こ)めてくるようだった。」

「冷え冷えとした内庭に面した病室の窓から向側の棟をのぞむと、夕ぐれに近い乳白色の空気が硬い建物のまわりにおりて来て、内庭の柱の鈴蘭灯に、ほっと吐息のような灯がついていた。あのもの云わぬ灯の色は今でも彼の眼に残っているのだったが……。」 

 
(以上『美しき死の岸から』より 昭和25年)

 

「停車場とその病院の間を往来するバスが、病院の玄関に横づけにされた。すると、折鞄を抱えた若い医師が二人、彼の座席のすぐ側に腰を下ろした。雨はバスの屋根を洗うように流れ、窓の隙間からしぶきが吹き込んだ。「よく降りますね、今年は雨の豊年でしょうか」と医師たちは身を縮めて話し合っていた。やがて、バスは揺れて、真っ暗な坂路を走っていった。銀行の角でバスを降りると、彼はずぶ濡れの舗道を電車駅の方へ歩いた。雨に痛めつけられた人々がホームにぼんやり立ち並んでいた。次の停留場で電車を降りると、袋路の方は真っ暗であった。彼は真っ暗な奥の方へとっとと歩いて行った。」 
※「坂道」→現在の通称「病院坂」のこと。
※「銀行」→三井ガーデンホテルが入るツインビルの地点にあった千葉銀行本店。
※「電車駅」→京成電鉄の「千葉駅」。当時は現在の中央公園の場所にあった。

「薄暗い病院の廊下から表玄関へ出ると、パッと向こうの空は明るかった。だが、そこの坂を下って、橋のところまでいくうちに、靄につつまれた街は刻々とうつろって行く。どこの店でも早くから戸を鎖し、人々は黙々と家路に急いでいた。たまに灯をつけた書店があると、彼は立寄って書棚を眺めた。彼ははじめて、この街を訪れた漂泊者のような気持ちで、ひとりゆっくりと歩いていた。」
※「橋」→おそらく「大和橋」のことであろう。
※「書店」→大和橋の袂にあった「多田屋」書店を指していると思われる。


(以上『秋日和』より 昭和22年)

 

 続いて、千葉市における「気球」についてです。前編の最後に申し上げた通り、当方の所有するたった2冊の文庫本からは、伊藤さんが仰せの記事を見つけ出すことができませんでした。ところが、思いもかけず、伊藤さんから関連資料をご教示いただき、関連作品の写しまで頂きましたので、ご厚意に甘えて、この場でご紹介をさせていただきたいと存じます。それらは、どうやら『原民喜全集』[彼の作品を最も網羅しているのは「定本原民喜全集3巻+別巻1巻の4冊本」1978年(青土社)かと思われます]でしか読むことの叶わないものであり、「随筆(エッセー)」「書簡」部門に納められているようです。せっかくの機会ですから、その前後にある「千葉市」の記述も併せて引用させていただきましょう。

 

 

 

「荒木山。私の家から荒木山まで二三十分で行ける。麓から上に登るには三分位である。山上には荒木大尉の銅像がある。今年の1月5日の午後、私は行つてみた。途中の畑道は固く凍ててゐたが、冬晴の空に魚型の気球が一つ浮いてゐて、麦は丘に煙つてゐた。藁を被せた畑があちこちのあつた。二人づれの子供がひそひそ笑つて向からやつて来たが、見ると、一人は生きてゐる鳩を両手で握つてゐた。山の麓の辺の畑と路とが紛らわしくなつてゐて、麦の芽が、下駄で踏み躙れてゐた。荒木山猟犬飼育所と立札がある空地の方へ這入つてみると、金網張の犬小屋があり、箱のなかにゐた黒い犬が急に飛出して金網に這い登つて来た。銅像のところから下を見下ろすと、小さな沼があって、枯尾花が白く光つてゐた。」
※「荒木山」→鉄道第一連隊の兵により建立された、殉職した荒木大尉を悼む銅像の建つ小山を「荒木山」と称する。銅像は戦時中供出され現存しない。「山に登るのに二三分」とあるのは不明。土盛りに近い小丘であり天辺までかような時間を要しない。

 


「海岸。海岸へは五分位で行ける。去年の9月3日の夜、私が外へ出ると、軒毎に御神燈が点されてゐて、暗いアスファルトの国号も少し人通りがあつた。登戸神社の祭なのだつた。海岸へ来てみると、海は曇つた夜空と溶け合つてゐて、茫とした闇だつた。その闇のなかに二つ三つ、微かに白い線が浮かんでゐるのは、捨小船であった。」

 

 
(以上『千葉寒川』より 昭和11年)

 

 「拝啓 シベリア鉄道は長い長い蛇体でしたか 日本では「忘れちゃいやよ」といふレコードが發賣禁止になり 男お定が出没して居ります。千葉は梅雨で眼の赤い気球がゆらゆら揺れて居ります 柳町の叔父さんはこの間下関まで君を見送り 帰りに秋吉の鍾乳洞を見物したさうです 善次郎君はこの夏は北海道旅行をする由です 北海道もビイルはうまいといふ話だがドイツのビイルはどんなにかうまいことかと想像します ドイツで飲むからうまいらしい さて代表軍の元氣は盛ですか この間東京出發の際は少し痩れて居たやうだが 長の旅路のこと故 勢と自愛が肝要ですぞ デエトリツヒのやうな女どもが右往左往して居る伯林 ナチスのナスビ鬚 それから柳町ではまた遠からず芽出度いことがあるさうです


草々

追伸 千葉の小犬は大分娘らしくなりました。今年の暮頃には子を産むかもしれないといふ噂です。」
※「忘れちゃいやよ」→渡邊はま子の歌 
※「男お定」→不明。著名な「阿部定事件」が同年に発生しているので関連か。
※「善次郎」→名字は永井。妻貞恵の弟で著名な文芸評論家。筆名は佐々木基一。
※「伯林」→ドイツの首都「ベルリン」のこと
※「デエトリツヒ」→マレーネ・デートリヒのこと。ワイマール共和国時代を代表するドイツ出身の女優・歌手。
※「ナチスのナスビ鬚」→不明。ヒトラーのナチス政権の下、同年8月に「ベルリンオリンピック」が開催されている。
※「村岡 敏」→原民喜の17歳下の末弟。村岡家に養子に入った。ホッケー代表選手としてベルリンオリンピック出場のために渡独中。


(千葉市登戸より ベルリン在 村岡敏宛 私信 昭和11年6月30日)

 

 

 その他、当時の作品には、当時勤務していた船橋市立中学校とその周囲の光景、その通勤に用いた京成電車の車窓から眺めた風景等々、戦前の千葉市とその近隣の風景が多く描き込まれております。今でも新刊本として入手可能な新潮文庫版が、代表作と戦前の千葉市について記した作品を網羅しており、便利だと思われます。当方も、是非ともいつか全集本を入手したいと思うようになりました。最後に、『原民喜全詩集』(岩波文庫)より、彼の居住した千葉の海岸を詠んだ詩「千葉海岸の詩」を全文引用して本稿を〆たいと存じます。鳥海宗一郎『房総文学散歩(上)』(1973年多田屋刊)によれば、本作は、千葉県立図書館の郷土資料室が、東京の古書即売会で民喜自筆原稿を発見し入手に到ったとのことです。そのまま埋もれることなく見出されたことを喜びたいと存じます。上記のように、今では岩波文庫本に活字となって納められております。

 最後の最後に、妻貞恵との美しい暮らしと、民喜に絶望をもたらした別離の故地である千葉市に、彼の文学碑の一つも建立されていないのは如何なる訳でしょうか。そういえば、多くの都道府県には所謂「文学館」なる施設がございますが、千葉県にはそうした施設がございません。決して文学との縁のない県ではないのですが。市町村レベルでは、県内市川市・我孫子市には存在し、優れた市川市関連作家・白樺派の展示をされております。市川市では、当方の偏愛する永井荷風の展示会も何度も行っております。新築された市役所1階には、荷風散人が終焉を迎えた市内八幡にあった自室が移築保存されております。未だ出かける機会に恵まれませんが、コロナ禍の塩梅を勘案の上、近いうちに日和下駄でもつっかけて、金阜山人の表敬訪問と散歩を洒落込むことを願っております。

 

 

千 葉 海 岸 の 詩

 a

我れ生存に行き暮れて
足どり鈍くたたずめど
満ち足らひたる人のごと
海を眺めて語るなり

 b

あはれそのかみののぞき眼鏡に
東京の海のあさき色を
今千葉(ここ)に来て憶ひだすかと
幼き日の記憶熱をもて妻に語りぬ

 c

ここに来て空気のにほひを感じる
うつとりと時間をかへりみるのだ
ひなげしの花は咲き
麦の穂に潮風が吹く

   d

青空に照りかがやく樹がある
かがやく緑に心かがやく
海の近いしるしには
空がとろりと潤んでゐる

 e

広い眺めは横につらなる
新しい眺めは茫としてゐる
遠浅の海は遠くて
黒ずんだ砂地ばかりだ

 f

暗い海には三日月が出てゐる
海にはほの明かりがある
茫として微かではあるが
あのあたりが東京らしい

 g

外に出てみると月がある
そこで海へ行つてみた
舟をやとつて乗出した
やがて暫くして帰つた

 h 

夜の海の霧は
海と空をかくし
眼の前に闇がたれさがる
闇が波音をたてて迫る

   i

日は丘にあるが
海はまだ明けやらぬ
潮の退いた海にむかつて
人影は一つ進んで行く

 


(岩波文庫『原民喜全詩集』2015年 より)

 

 

 最後の最後に追伸です。本稿執筆後に梯久美子『原民喜 -死と愛と孤独の肖像-』2018年(岩波新書)に接し、深い感銘とともに読了いたしました。本稿のネットアップまでには間がありましたので追記をさせていただきます。どの部分も読みごたえがあり、巻を措く能わずに読み終えました。本書の全ての頁から、原民喜という稀有なる人物が余すところなく立ち上がってくるように感じました。久しぶりに心を揺り動かされた読書体験となりました。最終章「孤独の章」の末尾、自死を決断してからの彼の行動と残した遺書の数々、原を心底敬愛していた遠藤周作や晩年に出会った人々との心の交流ともいえる遣り取りに、目頭を熱くさせられました。本作を類書なき「評伝」作品の名作と申し上げることに何の躊躇もありません。読了後に、序章に掲載される、原の葬儀における埴谷雄高による弔辞を読み返し、改めて原民喜という人物を知りえた幸福をしみじみと実感した次第でございます。是非とも皆様にお薦めしたい一冊です。ただ、本作は、彼の作品をある程度接してからお読みになった方が、感銘はより深くなろうかと存じます。まだ原民喜に接したことが無い方は、まずは新潮文庫から手にされては如何でしょうか。

 

 「梅雨」と季節の「匂い・香り」について(前編) ―または「発酵」の世界と世界遺産「和食の文化」― ―令和3年度 千葉氏公開市民講座「武家政権成立期の東国武士の心性」のご案内―

6月10日(木曜日)

 5月末に、ひとしきり雨模様の続く頃があり、関東地方も史上最速の「梅雨入」かと騒がれましたが、雨がちな週間と曇天の時期とを繰り返しつつ、最終的には、平年並みの入梅となりそうです。千葉市では「蔓延防止等重点措置」が先月末に延長され、現在もその措置下にありますし、暫くはこれまで以上に鬱陶しい毎日を過ごさねばなりますまい。しかし、文句を言っても始まりません。「集中豪雨」は困りものでありますが、「梅雨」そのものは稲作にとっては必要不可欠のものであって、まさに「恵みの雨」に他なりません。また、コロナの問題につきましても、大正の「スペイン風邪」ではその終息まで足掛け4年は掛かっております。その時代よりも社会自体がグローバル化し、遥かに複雑になっているのですから、そんなに早くに終息することは難しいのだと思います。本当に困ったことでありますが、現状のような我が国の政府対応であれば、より長期化する可能性すらありえましょう。そもそも、ウィルス自体は、人間よりも遥かに以前からの世界の先住民(!?)であって、その在り方は少しも変っておりません。その出自は、生命の誕生と軌を一にしているとさえ考えられているのですから、決して人間社会への闖入者ではないのです(ウィルスに言わせれば、人間こそが圧倒的に新参者であり闖入者以外の何者でもないと猛抗議をするに違いありません)。変わっているのは人間の生活環境であって、そのことでウィルスと人間との接触環境が劇的に変化したことが、パンデミックの生成要因に他ならないと考えます。現況を顧みる必要があるのは、我々人間に他なりません。そもそも「コロナウィルスに打ち勝つ」などと言うスローガンが的外れなのだと考えざるを得ません。人間が、まずはそのことを理解し、今後彼らと如何に共存していくしかを模索することしか手はないのだと思われます。

 まず初めに、例年この時期に開催しております「千葉氏公開市民講座」についてのご案内です。昨年度は、ちょうどコロナ禍下での閉館中であったこともあり、会場での公開講座については中止といたしました。その代替として、当日の講師をお願いしていたお二方の先生に、講演内容を論考形式で御執筆いただき、「講演録」の形で「千葉氏ポータルサイト」アップと冊子刊行との対応をいたしました。講演録は現在もネットでお読みいただけますし、冊子も在庫がございますので、本館に脚を運ばれた際に、受付にて「令和2年度 千葉氏公開市民講座 講演録(武家社会確立期の権力と権威-千葉氏をはじめとした東国武士の動向から読み解く-)」とご用命いただければ差し上げますので、お気軽にお声がけくださいませ。ただし、在庫限りとなりますので御理解ください。

 本年度につきましては、現状の「蔓延防止等重点措置」対応の下、大幅に定員を絞り盛り込んだ形で会場での実施をいたします(80名)。従って、ご希望が多い場合には抽選とさせていただきます。例年以上に狭き門となると存じますが、現状を鑑みてご理解を賜りますようお願いいたします。内容は、昨年の「武家社会成立期(鎌倉幕府の成立後)」を若干遡った「武家政権成立期」のことに焦点を当てております。東国で源頼朝が源氏再興の兵を挙げるにあたって、千葉一族を中心とする東国武士が如何なる考えを基に、それに加担していったのか、その「心性」にメスを入れてみようとの目論見であります。平たく言えば、東国武士の「ホンネ」と「タテマエ」に迫ろうとするものと言っても宜しいかと存じます。源頼朝が挙兵した際に、三浦義明が「我は源氏累代の家人で、幸いにその貴種再興のときに逢った」と述べたとされます。その際に義明の述べた「貴種」とは何を念頭に置いた発言なのか。また、そうした認識と並行して、東国において武士団が行っていた在地領主としての心性(伝統的権威との軋轢)との関係に迫る、大変に興味深い内容となるものと確信するところであります。申し込み方法等につきましては、各所で配布している「チラシ」及び本館のホームページでご確認ください。締め切りは6月11日(金曜日)です。明日になりますが、電子申請はまだ充分間に合いますので、ご関心があるようでしたらお申し込みください。

 

「武家政権成立期の東国武士の心性 ―「貴種」頼朝と千葉一族―」


日 時 6月26日(土曜日)13時30分~16時30分
会 場 千葉県文化会館小ホール
講演1 「国分胤通にみる鎌倉武士の在り方 ~香取社領・大戸庄の在地領主として~」
講師:外山 信司(千葉市立郷土博物館 総括主任研究員)
講演2 「『貴種再興』の時の千葉氏」
講師:金 玄耿(キム ヒョンギョン)(東京国立博物館 アソシエイトフェロー)

 

 さて、そろそろ本題に入らせていただきます。紫陽花や菖蒲・燕子花等々の花々が「眼」に嬉しい季節となりました。こうした目にする、「五感」でいえば「視覚」についての話題には枚挙に暇がありませんが、「嗅覚」、平たく言えば「匂い」に関してのそれが取り上げられる機会はさほど多くはありません。特に、現在のような「梅雨」の季節は、「鼻」に嬉しい(??)時節到来とは言い難いこともあります。毎日のじめじめした陽気の中、漂う「匂い」と言えば、専ら、食物が傷んでしまった「饐えた匂い」、この時季に猛威を振るう菌類に起因する「黴臭」、生乾きの洗濯物に発生する雑菌を原因とする「蒸臭」、蒸し暑さによる発汗等の活発な新陳代謝作用に由来するのであろう、人混みでの噎せ返るような「人いきれ」、雨の街をゆけば旺盛な生育の時季に由来する草木からの「草いきれ」、そして、何よりも家内から戸外に到るまで遍く漂う「水の匂い」等々。基本的に鼻に優しい「匂い」ではなく、むしろマイナスのベクトルをもつ「匂い」のオンパレードといっても宜しいほどでありましょう。従って、「匂い」が話題として取り上げられる機会もありません。この時節の花で麗しい「香り」を漂わせるのは、あえて挙げれば「クチナシ」「タイサンボク」位しか思いつきませんが、身の回りでそう容易く出会うことの叶わない花でありましょう。何れにせよ、まず少なき「芳香」にせよ、そこいら中で出会う所謂「悪臭」にせよ、濃密な湿度が、余計に「匂い」そのものを際立たせる季節でもあります。

 しかし、「良し悪し」を問わず、これらの「匂い」の総体こそが梅雨の季節を象徴するものに他ならないのも事実です。そして、我らが風土に暮らしてきた先人達は、これら「匂い」「香り」を受け入れ、楽しんできたのではないかと思われます。そして、古くから我々の食世界を豊かにしてきた発酵食品の数々もまた、「梅雨」の季節とは無縁ではありません。いやむしろ、この季節を象徴する「匂い」「薫り」のひとつとさえ考えます。この蒸し暑き時節にこそ「発酵」は大いに進み、結果として人間に有益な食糧を提供することになるのです。それらは、決して「芳香」と名乗るには程遠い「匂い」のものが多々ございます。「納豆」しかり、「糠漬」しかり、「味噌・醤油」しかり、日本人独特の「旨味」成分を生み出す「鰹節」しかり、開いた青魚を強烈な匂いを発する発酵液に漬け込み乾燥させた「クサヤ」しかり。余計なことですが、当方の曾祖母は出身地が伊豆大島の波浮港であったこともあり、よく「くさや」が送られてきました(魚は専らムロアジでした)。従って、幼いころから我が家では頻繁に食しておりました。その所為か自分では全く違和感なく美味しく頂きますが、出会った方々の殆どが強烈な発酵臭に一様に顔を背けます(なんでも集合住宅で焼く事はできないと聞きます)。これら「発酵」という現象は、「腐敗」と全く同様の微生物による分解活動に他なりません(「麹」は一種の黴です)。つまり、全く同じ微生物の活動について、人間にとって良い結果をもたらす作用を「発酵」と称し、悪い結果をもたらす作用を「腐敗」と定義したにすぎず、全面的に人間の都合による勝手な分類にすぎません(人間にとって必要のない草を「雑草」と総称するのと一緒)。従って、確かに腐敗と紙一重の部分もございましょう。当方も近江の「鮒寿司」は得意ではありません。こうした好悪の分かれる発酵臭ゆえに、文学作品(特に古典の世界)に描かれることは寡聞にして目にいたしません。「古典文学」の世界に見える嗅覚に関わる世界と申せば、もっぱら花々の「香り」であったり、貴人の放つ「残り香」であったりであり、「黴」や「腐臭」といった風流と無縁の「匂い」世界が描かれないのは当然でありましょう。しかし、こうした「匂い」を表現しなかった謂わば「風流人」たちも、強烈な発酵臭を「好ましき香り」と認識し、好んで食していた筈です。その意味で、「文学作品」だけの世界から「匂い」世界を考えることは難しいことでしょう。

 かように、多様に存在する「匂い」世界でありますが、昨今の世界は、総じて「匂い」、特にマイナスベクトルと認識されがちな「匂い」を徹底的に排除する方向に進みすぎているように思うのですが如何でしょうか。つまり、多様な「匂い」が抑え込まれてしまって、「匂い」そのものが単一化されており、人の嗅覚も逆に敏感では無くなっているようにさえ思われます。街々からも家の中からも、季節の移ろいを感じさせる春夏秋冬の「匂い」も、所謂「生活臭」と言われる「匂い」も、昨今はあまり感じることがありません。幼き頃には、まだ玄関を開けて外へ出たときに「あっ!!夏の匂いだ!!」「あっ、今日から秋だ!!」といった感覚を嗅覚で感じ取れたものです。また、秋になれば七輪で焼く「秋刀魚」の匂いが街を漂ってきたものです。今や、何処にも及ぶことになった空調設備の普及、自治体によるごみ収集の徹底等々もあり、季節の「匂い」をはじめとする街々の「匂い」が姿を消しております。そして、並行して人間もまた「匂い」への感性を鈍麻させているように感じます。勿論、それ自体は「衛生」観念の徹底といったプラスへの貢献が多大な訳でありますが、何もそこまで……といったことにまで「匂い」の抑制が進んでいるように思います。それは、食品、特に、上述した発酵食品に顕著であるように思われます。つまりは、「匂い」もまた、「文化」に他ならないことを深く自覚するべきかと考えるのです。

 世に「匂わ納豆」なる商品名の納豆があります。「納豆臭がしない」ことを売り物にした納豆に他なりません(もっとも実際に食すると納豆臭が抑えられているというのが正確です)。確かに、私が若い頃までは、納豆食文化のない関西の方には納豆は極めて不人気でした(関西人にとっての「納豆」とは、我々東国人の言う「甘納豆」を指すと何度も聞かされました)。「あんな豆の腐ったものをよく口にできるね」「あの匂いを嗅いだだけで吐き気を催す」等々、幾万の悪口三昧を耳にしました。従って、「匂わ納豆」の開発とは、納豆業者の皆さんによる「関西方面への市場開拓」に向けた涙ぐましい商品開発の賜物に他なりますまい。しかし、当方のような天邪鬼にとっては、納豆臭のしない納豆は、もはや納豆と称すべきではないと思います。今流行の表現で申せば「納豆風味覚食物」とでも言うべきでございましょう。あの「納豆臭」こそが、納豆を構成する必要不可欠な要素なのであります。例えば、コーヒーの香りが苦手という人のために「無臭コーヒー」なる商品を売り出すことなどありましましょうか!?恐らく「すこし酸味の利いた苦いだけの飲料」となりましょう。もはや、それがコーヒーとは似ても似つかぬ代物であることは納得していただけましょう。誰も、そこまでして珈琲を飲もうとは思いますまい。つまり、納豆は納豆としての特質をより打ち出すことこそが、正しい販売戦略ではありますまいか。そして、何よりも正しい意味における食文化の継承に繋がるのだと考える次第であります。


(後編に続く)

 

 

 「梅雨」と季節の「匂い・香り」について(後編) ―または「発酵」の世界と世界遺産「和食の文化」― ―令和3年度 千葉氏公開市民講座「武家政権成立期の東国武士の心性」のご案内―

6月11日(金曜日)

 前編最後に述べた「匂わ納豆」の話題に続いて発酵食品の話です。納豆以上に、当方にとって昨今における最大の不服の産物が「沢庵漬」に他なりません。現在スーパーマーケットや乾物屋で売っている「沢庵漬」なる商品は、もはや沢庵の名に値しない「まがい物」に他なりません。何故なら、発酵臭が殆ど感じられず、しかも甘すぎます。それもその筈です。砂糖を相当量添加しております。しかも、大規模な工場で、黄色の味付液につけてつくられる、発酵とは一切無縁の浅漬け的な「漬物」と化しております。「沢庵和尚」起源によるホンモノの「沢庵漬」とは、適度に寒干した大根を糠床に長期間漬け込んだものであり、漬け込むに従い発酵した糠の持つ旨味と香りとが強烈に発散される食品となります。暑い時期まで漬け込めば今度は乳酸発酵が進み酸味も加わります。しかし、この酸っぱくなるまで発酵した「沢庵漬」もまた別の味わいで美味なるものです。そもそもが、塩辛さを本来の持ち味とする漬物であり、甘みは大根自体が本来有するものだけに限られます(もっとも糠床に柿皮も入れたりしますのでその甘さも加わりましょうが)。これが、高僧「沢庵宗彭(1573~1646)に由来する「沢庵漬」の実像です。その昔は、流石に「沢庵漬」を公共交通機関へ持ち込むことは憚られたほどに、相当に強い発酵臭を撒き散らす食物でした。申すまでもなく、糠とは正しくは「米糠」であり、玄米を白米に精米する際に生ずる副産物です。つまり、弥生時代以来の稲作文化の伝統を引き継ぎます(もっとも、現在のような糠漬となったのは精米した白米を食することが一般的となった江戸時代初期からと考えられますが、それでも長い歴史を背景に持つことには違いありません)。こうした、正しく伝統を受け継ぐ食文化が今や衰退の一途を辿っております。今では、糠漬けの習慣すら一般家庭からは失われつつあり、農家でも精米後の糠の殆どは販売すらされず廃棄されると耳にいたしました。嘆かわしい限りであります。地元に古くからある乾物屋にきいてみても、「今の連中には本物の沢庵を出しても沢庵だと思ってもらえないし、そもそも臭いと言われて買ってもらえないんだよ」との回答が。爾後の日本では、あの似て非なる漬物が「沢庵漬」の定義となりましょう。まさに「まがい物」ばかりが跋扈する、薄っぺらな経済大国と化しつつあります。

 余談ではありますが、当方は東京の荒川区三ノ輪にある商店街「ジョイフル三ノ輪」にかつて存在した、八百屋「藤野商店」の親父が漬けていた「沢庵漬」が、子供の頃に自宅で食していたものに近似しており大好きでした。しかし、当方にとって「最大の悲劇」が起こりました。親父の老齢化を理由に数年前に廃業してしまったのです。心底嘆き悲しみました。また、名古屋方面に出掛けると、これも伝統の沢庵漬である「伊勢沢庵」を必ず購入して土産としておりました。しかし、数年前に名古屋駅近くの百貨店で購入しようと立寄ったところ、最近では作っている店がほとんどなくなり滅多に入荷しないとのこと。こちらも絶滅危惧種であることを知り驚愕いたしました。以前は、伊勢商人が全国に商に出掛ける時には決まって土産品として持参した、名物の「伊勢沢庵」ですらこの有様かと悲しくなりました。こうなったら、自作するしかありません。仕事を完全リタイア―してから取り組むべき第一は、「糠床」をつくって糠漬を楽しむこと。そして、その発展形として思い切り発酵が進んで、最早電車やバス内には持ち込めない程に発酵臭芬々たる「沢庵漬」を食することと心に決めております。ご存知の通り、糠床は毎日手を入れて攪拌しなければよい糠床にはなりません。完全リタイア―しない限り、実行はなかなかに難しいことなのです。山の神が一時挑戦しましたが、少し手入れを怠れば糠床自体がオジャンとなります。結局自然消滅とあいなりました。その際の捨台詞が「定年してから自分でやって!!」でありました。そこまで言われて尻込みしていては、男が廃るというべきでしょう。意地でも遂行したいと思っております。子どもの頃に、曾祖母や祖母、母親が漬けてくれた味の再現を目指して参ります。そして、昨今の「匂い」少なき、所謂「無臭」の世に物申す、胡散臭い偏屈爺さんと化すことを期しております。

 更に話題を敷衍すれば、日本人に欠かすことのできない「味噌」も発酵食品であります。当方は、これについても、昨今の当たり障りの無い大人しい味噌に飽き足らない思いでおります。子ども時分に食した味噌にはもっと個性がありました。従って、今でも発酵臭のキツい味噌が好みです。しかし、味噌に付いては、未だ未だ頑迷固陋に伝統を受け継ぐ味噌蔵が残っております。当方のお気に入りを2つご紹介させていただきます。一つ目は、ここ25年程欠かすことなく、飽きもせずに取り寄せて味わっている味噌になります。岐阜県は郡上地域で食される所謂「郡上味噌」であります。溜まり醤油と一緒くたになったような半液体状の味噌となります。あまり地域外にでることがないのでしょう、東京の味噌専門店でも全く見たことがありません(全国の味噌を幅広く渉猟する東京亀戸の「佐野味噌店」にも置いてありません)。近隣の名古屋でさえ親しまれていません。もっとも、尾張・三河は豆味噌である、かの「八丁味噌」の牙城でありますので(個人的にはこれも大好物であり欠かしたことがありません)、郡上味噌の出る幕はないのかもしれません。二つ目は、相当に癖の強い美味なる味噌であります。こちらは店名を出させていただきますが、長野県松本市にある天保年間創業の味噌蔵「萬年屋」であります。昔は一般的であったものの、手間がかかるために今ではほとんど行われない、味噌玉の状態で充分に発酵させてから樽に漬け込こむ二段熟成を行っていることもあり、香りはまるでブルーチーズのように相当に濃厚なものです。一度はまったら抜け出せない程の豊潤さは、外国人から人気というのも納得の味わいです。世にいう所謂「信州味噌」とは一味も二味も異なったものです。従って、両者ともに、通常スーパーマーケットで販売される味噌の味に慣れている方にはお薦めいたしません。しかし、これぞ発酵食品としての味噌の精髄であり、今ではすっかり牙を抜かれてしまった味噌本来の「匂い」に他ならないと存じます。年配の方であれば、子どもの頃に、目が覚めると台所から寝床まで、日本家屋の中を漂ってきた味噌汁の香りを思い出されましょう。まさに「手前味噌」として各家で味わっていた「匂い」の世界を思い出されることと存じます。

 ここで少々脱線し、「匂い」ではなく「味」の話をさせていただきます。まぁ、「味」と「匂い」とは混然一体となって、味覚を形成するものでもありますので、ご容赦頂ければと存じます。一つ目は、「梅干」です。昨今出回っている、ちっととも酸っぱくもなければ、塩辛くもない、まるでデザートの如き、「梅干」と称する「まがい物」の氾濫に苦言を呈しておきたいと存じます。少なくとも「梅干風食品」とでも明記すべきでありましょう。昨今の子供に本物の梅干を食させると「何これ!?」と吐き出すそうです。「何これ!?」とは片腹痛し!!「これが梅干というものなんじゃい!!」と説教のひとつも垂れたくなります。昨今の「はちみつ味」とかいう梅干もどきは、クエン酸を抜いて甘みを添加して製造するそうです。これを少なくとも「梅干」として売ることだけはやめていただきたい。我が家では、南高梅の産地である紀州は「みなべ町」の梅農家から梅干を取り寄せておりますが、何と!そこでも注文時に「無調整の素のままの梅干にしてくれ」と伝えない限り、食べやすく味を調整した商品となってしまうのです。嘆かわしい。もっとも、母親の生前には我が家でも自家製の梅干をつくっており、幼少時代からその作り方には精通しております。従って、これも完全リタイア―後に自作するつもりであります。

 二つ目は「甘酒」です。昨今は、美容に宜しいとかで女性に大人気と聞きます。「酒粕」を湯に溶いて砂糖を加えた簡易甘酒も大好きですが、やはり麹で発酵させる本当の甘酒は格別です。江戸の昔、甘酒はこれからの季節、つまりは水の悪くなりやすい気温湿度の高い夏に冷やして飲むものでした。お腹に優しい飲料として重宝されたのです。それは「歳時記」を紐解くと「甘酒」が夏の季語となっていることからも明らかです。しかし、店舗で購入しようと成分表を見ると「砂糖」と明記されているものが多いことに驚かされます。麹菌が米の澱粉成分を分解して糖を生成するのが甘酒ですが、それは驚くほどの濃度の甘さとなります(これに酵母菌を加え、彼ら微生物が糖分を食してアルコールに変換したものが所謂「日本酒」であります)。何故、それに敢えて砂糖を加えなければならないのか??全く以て不可解以外の何物でもありません。自然な発酵だけで十分すぎるほどに甘くなるのにも関わらず……。これまた、「自然発酵甘酒」と称して堂々と売られているのです。すくなくとも「砂糖添加」と大きく明記すべきです。勿論、当方はそのような「まがい物」は絶対に購入いたしません。日本酒も、戦後の米不足の中で、糖類・醸造アルコール・調味料を添加して増量した所謂「三増酒」が幅を利かせるようになったことで、結果としてその後の日本酒の不人気に繋がったことを思い出すべきでしょう。昨今の日本酒ブームは、本物の日本酒再生を目指して地道な取り組みをされた地方蔵元の功績を起源とし、それに大手酒造も追随していったことが大きいと思います。今から30年近く前に東海道新幹線の車内販売で購入した、その名もズバリ「山口の酒」なる山口県産の日本酒の味の酷さに閉口した経験から、不味い酒の集積地と個人的に認識していた山口県からも、今では「獺祭」なる世界に冠たる銘酒を生む蔵元が出てきたことを見逃してはなりません。じり貧の酒蔵が血の滲む努力を重ねて見事に再生(更正!?)した物語はテレビ番組でも取り上げられました。「まがい物」ではない、「ホンモノ」を追求していくことが、これからの成熟社会では何よりも重要であることを端無くも明らかにした事例とは申せますまいか。

 皆様は、2013年に「和食」の食文化が「世界無形文化遺産」に指定されたことをご存知でしょう。その指定理由とは以下のようなことにあります。つまり「自然を尊重する日本人の心を表現したものであり、伝統的な社会慣習として世代を越えて受け継がれ、伝統的な食の在り方を伝えること」。しかし、私にとっては、「えーっ!どこが??」との思いが正直なところです。何処を観てかような評価が下ったのでしょうか??一流の料亭文化からだけで判断した、まさにお門違いの指定ではないかと思うのです。実際のところを申せば、こと発酵食品一つとっても、かくもお寒い現状と言わざるをえません。困ったものです。かような「まがい物」食品だらけが出回っている、日本伝統の「和食」文化は実際には絶滅に瀕しているとさえ申せるのではないでしょうか。

 今回は、思いついたことを脈絡もなく申し募って参りました。「匂い」について最後に一言申しあげて、そろそろ当方の放言を〆たいと存じます。勿論、「匂い」への感じ方は人それぞれであり、当方の感じ方を押しつけようとは存じません。ところで、私事にわたりますが、我が家では、山の神から「加齢臭」について屡々指摘されることがあります。還暦も越えましたのでこれも致し方がないかと思ってはおります。当方も、周囲を気遣い何らかの対応をせねばならないかとも思うことがございます。しかし、余程の事情でも出来しない限り、日々の入浴を欠かしたことはなく清潔を保つようにしております(ただ、周囲から如何に思われるかとは無関係に、自分自身の気分が宜しいのでそうしているだけです)。それで「臭い」と言われても正直困ります。しかし、これは我が家だけに固有の問題ではなさそうです。テレビでもしばしば「デオドラント効果」を謳う商品のCMを目にすることからも明らかであると思われます。勿論、不潔に由来する「匂い」が宜しくないことは論をまちません。そもそも、欧米で香水が利用されるのは、白人は基本的に体臭がきつく出る傾向があるためと言われます。また、我が国における王朝文化華やかなりし頃の「残り香」に象徴される「香り」(「伽羅」「白檀」等の「香木」由来)は、偶にしか入浴できない当時の入浴事情に起因する「臭い消し」として用いる必要があったからです。殆どの人々が毎日入浴する習慣を持つようになった今日、さほどに「匂い」をとやかく言うこと自体、もはや「匂い」ファッショとでも申すべき悪習(悪臭にあらず!)に他ならないと思いますが、皆様は如何お感じでいらっしゃいましょうか(恐らく年配の男性からの共感がある程度得られるものと推察致します)。まして、「梅雨」時期に固有の、一般に歓迎されない「匂い」であっても、余程ひどい状況になければ季節の風物詩としてとらえる、人としての余裕が求められましょう。何でもかんでも「匂い」を消し去ろうとする方が不自然であり、異常なことだと思われて仕方がありません。

 そのくせ、現代は人工的な強烈な匂いには鈍感なのではありますまいか。我が家の至近にある大型ショッピングモール内に、店頭で石鹸を調合して販売している店舗がありますが、個人的にはその余りに強烈なる「匂い」に辟易しております。実際にこれをマトモに嗅ぐと嘘偽りなく気持ちが悪くなるので、当方は鼻を摘んで前を通り過ぎることにしております。まぁ、これを「いい匂い」と感じる方が多いから「匂い」を平然と垂れ流し続けているのでしょうが、過日当該店舗から50メートル以上も離れた食品売場にまで石鹸臭が強烈に漂っており、流石に堪忍袋の緒が切れました。そこで、モール全体を管理する会社にひとしきり苦言を呈して参りましたが、その後どうなったのかまでは確認はしておりません。かそけく「香る」ならまだしも、直径で100メートル四方にまで強烈にそれが及べば、それは立派な「匂い」暴力に他ならないと思います。今ありありと思い出しましたが、学校現場におりました際には、三者面接や謝恩会等での女性保護者の皆さんの発する強烈な香水臭にも相当に悩まされました。ホントウに具合が悪くなるのです。

 つまり、大切なことは不潔にしないことであり、それを越えてかそけく匂ってくることに、余りに目くじらをたてるべきにあらずということを申しあげたいのです。特に、「人」に関しては。とても人間らしいことの表現に「人間臭い」があります。逆に「匂い」のない人とは、無個性で、人間性を感じさせない人(情に欠ける機械的な判断しか下すことのできない人)と言い換えることすら可能ではありますまいか。つまりは、清濁併せのむ度量の大きな人、人情味のある判断を下すことのできる人等、プラスの人格を持つ人を「人間臭い」と申すのでありましょう。人にはそれぞれに固有の匂いがあって(実際の匂いに限らず「同じ匂いを感じる」等の表現にも用いられましょう)、「匂い」とは、その人の「人となり」をも示すものに他ならないとすら考える次第であります。そうした意味で、多様な季節の「匂い」「香り」を一概に消し去ろうとするのではなく、それぞれ個性を持ったものとして受け止め、それを楽しむ心の余裕が社会全体に広がることが重要かと存じます。これこそ多様性を許容する社会と申すのではありますまいか。勿論、それぞれの「季節」を味わうことでもあることは申すまでもありません。

 

 黒田直邦の墓 及び将軍家・大名家の奥津城について(その1) ―または飯能市でのハイキングにおける発見と雑感―

6月16日(水曜日)

 

 5月最後の日曜日。入梅前の束の間の好天をこれ幸いに、山の神と連れだって珍しくハイキングなるものに出かけて参りました。政策としての一貫性について全く合点のいかぬ政権・東京都判断による「非常事態宣言」継続の中、人混みの都心に出掛けることも叶いません。かような次第で、普段は山歩きなどとは一切無縁の当方でありますが、山の神の「巣籠もり」ストレス解消のためにでかけることになったのでした。山歩きであれば「密」なる状況に出会うこともあるまいとの思いもありました。もっとも、夫婦ともに今後ともに「登山」を趣味にもする気も更々にありませんので、近場でのハイキングと相成った訳であります。かような事情の下で、出掛先に選択されたのが埼玉県の飯能市でありました。数年前に近隣にある古代帰化人に縁ある「高麗神社」近隣を歩いたことがあり、曼珠沙華の群落で知られる「巾着田」あたりを散策した際の好印象があったからでもあります。もっとも、その折には彼岸花の季節は既に終わってしまっておりましたが、のんびりとした里山らしい低山の連なる優しげな景観が心に染みました。何より、自宅から1時間半もあれば到着できます。

 ハイキングコースは、西武線の飯能駅から徒歩20分程の禅寺「能仁寺」からスタート。明治天皇が明治16年(1883)に頂上から近衛兵の春季小演習を天覧されたことから命名された天覧山(てんらんざん)(標高197m)に登り、そこから整備された遊歩道を登ったり下ったり。頂上に近世の経塚(経文を記した12.000個もの石が埋納されていたそうです)の残る多峯主山(とうのすやま)(標高271m)までの往復となるハイキングでありました。後者は、このことからも判明するように地域における霊山と認識されていたのでありましょう。そして、今回の話題は、その霊山「多峯主山」山頂南麓直下の斜面に構えられた墓とその主についてであります。標高をご覧になれば一億瞭然。素人でも登ることのできる低山ではありますが、それでも相当に山深く、滅多に人も通わない場所であります(ハイキングを楽しむ人しか立ち入らないところです)。かような中に、忽然と現れる一基の大きな墓塔と墓域の違和感たるや、相当に半端ないものがありました。今でも自動車で山頂に到達することはできません。「ぽつんと一軒家」なる人気テレビ番組がありますが、正に「ぽつんと個人墓」の趣があります。御遺骸は兎も角として、重機など存在しない頃に、かくも大きな石材を山の天辺まで運び上げるだけでも大変な苦労があったことでしょう。埋葬地は石の玉垣で囲まれており、墓室の真上に大きな自然石を置いております。そしてその斜面下に三方を石垣に囲まれた平場を造成し、そこに立派な墓碑が建立されております。また、正面右手には江戸の儒学者・経世家である太宰春台(1680~1747)撰・筆になる頌徳碑が、周囲には家臣団による奉献灯籠までもが数基建立されており(奉献灯籠に名のある森氏は黒田家の家老職にあり、森蘭丸とも関係のある森氏の一末流家であります)、大名墓に相応しい堂々たる墓域を形成しておりました。そして、墓碑には以下のような文字が陰刻されております。

 

萬松院殿故中太夫拾遺兼前豊前州太守丹治真人関鉄直邦大居士


享保二十年乙卯三月二十六日

 

 この墓の主こそ、黒田直邦(1666~1735)なる大名に他なりません。かく申し上げても、「誰?その人?」「知らない!」とお思いの方が殆どでございましょう。生没年から判断して、江戸時代前半期を生きた人物であることが知れましょうが、余程の歴史マニアでもなければその人を知ることはありますまい。千葉県との関係で申せば、黒田直邦の次代となる直純(1705~1775)の時に、上総国に転封となり、それ以降は幕府瓦解まで久留里藩3万石として続く譜代の大名家であります。その点において、決して我々の地域と無縁の人物ではありません。参勤交代時には、千葉市域の房総往還を行き来さえしていたのですから。

黒田直邦は、寛文6年(1666)に旗本中山直張の三男に生まれ、徳川綱吉(1680~1709)を藩主に擁した舘林藩家老である外祖父黒田用綱(1616~1672)に養育され黒田氏を称します(黒田官兵衛由来の福岡藩黒田氏とは無関係です)。その後、徳川徳松(綱吉長男)の養育係となりますが、4代将軍家綱が子を設けずに亡くなったこともあり、綱吉が5代将軍となったことに伴い幕臣となりました。徳松早逝後は徳川綱吉の側近となり30人扶持を拝し側用人として重用されます。その点、著名な同時代人である柳沢吉保と近似し、同様に出世街道を邁進することになります。後に、常陸国下館で1万石の城主となり大名に列しました。そして、綱吉死後にも引き続いて重用され、享保8年(1723)には奏者番と寺社奉行とを兼任。更に、晩年に3万8千石に加増され上野国沼田城主となりますが、享保20年(1735)2月に病を得て3月末に没しております(同年は青木昆陽が馬加で甘藷栽培を開始した年でもあります)。享年70歳。飯能にある能仁寺に葬られました。直邦の後嗣となった養嗣子の直純(本田正矩次男)の手により、直邦墓所は後に現在の場所に移されておりますが、以後の黒田氏の歴代藩主も能仁寺を菩提寺とし、基本的に同寺に葬られることになるのです(最後の藩主だけは久留里に墓所があります)。その直純は、上記の通り、寛保2年(1742)に上州沼田から上総国久留里への転封を命じられます。下館、沼田、そして久留里と転封を繰り返した黒田家ですが、一見、縁もゆかりもなさそうな武蔵国南西部に位置する飯能の地に菩提寺が置かれ、しかもその葬地となったのは何故でしょうか。一つだけ申せば、3万石の所領の一部に飯能に領地があったのは間違いがありません。しかし、主要な領地でもなければ、本城のある場所でもありません。ましてや、その2で記述するように、殆どの大名家が菩提寺を構えた江戸御府内でもありません(黒田家は江戸府内に菩提寺を設けなかった極数少ない大名家の一つです)。これにつきましては、以下の「余談」の後に考えてみたいと存じます。

 その「余談」であります。黒田家が移る前の久留里藩主は土屋家であります。しかし、新井白石(1657~1725)とその父が仕えていた土屋家は、延宝7年(1679)藩主土屋直樹(1634~1681)の狂気を理由に改易され、久留里城も破却されました。従って、黒田直純が久留里城に入部するまでの63年間久留里城は廃城でありました。そこで、黒田直純には城の再興費用として5千両が幕府から特別に支給されております。因みに、改易後の土屋家は父祖の功績に免じて断絶を免れ、幕末に到るまで3000石の旗本として続きます。そして、その後の歴史上よく知られた事件との関係で、その名を残しておりますのでご紹介をいたしましょう。それは、改易の原因をつくった直樹の嫡男として家を継いだ土屋逵直(1659~1730)の時のことになります。「時は元禄15年(1703)12月14日。折しも雪の降りしきる江戸府内で……」とくれば、この事件が何を指すのか直ぐにお分かりになりましょう。本所吉良邸に赤穂浪士が討ち入ったその日。吉良邸と壁を接する隣屋敷の住人こそが、この旗本土屋家に他ならず、その時逵直が屋敷に在宅していたのです。映画や舞台で演じられる「元禄忠臣蔵」では、必ずと言ってよいほどに、土屋逵直が吉良家へ加勢しないことを赤穂浪士に約し、更には隣家との境を画する壁際に数多の高張提灯を挙げて浪士の活動を助けたこと。更には壁を乗り越え逃げくる吉良家臣がいれば成敗するよう家臣に命じたことが物語られます。しかし、これは儒学者の室鳩巣(1658~1734)から新井白石が聞き取った話を情報源としており、その他の資料からは一切読み取れない内容であることから、現在は史実ではなく「創作」であろうと考えられております。しかし、よくできた話なので、今後ともに「物語」として語り継がれていくことでしょう。最後になりますが、土浦城主の大名土屋家は、この旗本土屋家の分家にあたります。つまり、旗本になった土屋家こそが本家筋にあたります。

 さて、黒田直邦(黒田家)の話に戻ります。何故、彼らが「飯能」の地を奥津城に選んだのかに迫りましょう。その答は、墓碑の文字に求められます。そこには何処にも「黒田」の文字は記されておりません。しかし、そのこと自体は普通のことです。つまり、正しく自らを名乗る場合には「本姓」を記すことになるからです。「黒田」は本姓にあらず「名字」に他なりません。例えば、将軍家の名字は「徳川」ですが本姓は「源」であります。「徳川家康」の正式の名乗りは「源家康」(みなもとのいえやす)となります。我らが千葉常胤(ちばつねたね)の「千葉」は「名字」であり、本姓は「平」であります。従って、「平常胤(たいらのつねたね)」が正式の名乗りとなります(本姓と名前の間には「の」を入れて言うのが通例です。源頼朝は、「みなもとのよりとも」)。現在は「姓」と「名字」とは混合されており、ほぼ一緒くたにされておりますので、そのようなことは重要ではないと認識しがちですが、名門一族としては、朝廷から与えられた本姓が源氏なのか平氏なのか等々、「本姓」が何かが極めて重要なことであったのです。因みに、豊臣秀吉の「豊臣」は朝廷から与えられた「姓」ですので、本来は「とよとみのひでよし」と読むことが正しいと思います。彼の名字は「羽柴」であり亡くなるまでそうです。従って教科書等では、その他の将軍も大名も「名字」表記されているのに、なぜ秀吉だけが「本姓」表記をされるのか全く以て不可解です。本来は「羽柴秀吉」と表記するのが整合性のとれた記載だと考えます。

 最後の方に「丹治真人」とある部分にご注目ください。前半の「丹治」は「多治比」とイコールであり、古代豪族の一族のことです。28代の天皇と言われる「宣化天皇(467?~539?)」(越前国から入って大王を継承した継体天皇の子)の後裔が名乗った氏の名であります。その「多治比(丹治)」氏に天皇から賜姓されたのが「真人(まひと)」なる姓なのです(天皇は「姓」を与える立場なので、自らは「姓」を持たない存在なのです)。それが、後半部の「真人」の意味であります。つまり、黒田直邦は、「平」「源」といった姓より、圧倒的に古い6世紀にまで遡るような古代豪族の血統を引く由緒をここで示しているのです。これが事実か否かはわかりません。飽くまでも自らはそのように認識し、かように称していたのです。しかし、歴史を遡ると、先祖を「多治比(丹治)」と称する武士団が存在します。それと黒田直邦とは何等かの関係があるのでしょうか。

(その2に続く)

 

 

 黒田直邦の墓 及び将軍家・大名家の奥津城について(その2) ―または飯能市でのハイキングにおける発見と雑感―

6月17日(木曜日)

 

 その1では、黒田直邦と「多治比氏」との関係について述べましたが、その関係を追及すると以下のようなことが判明します。平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた武士団に俗に言う「武蔵七党」がありました[南北朝期頃成立とされる『武蔵七党系図』によれば、横山党・猪俣党・野与党・村山党・西(野)党・児玉党・丹(治)党の七つを指すとされます]。そのうちの「丹(治)党」が「多治比」氏後裔を称しており、武蔵国の南西部(入間郡・秩父郡・児玉郡西部)で勢力を張っていたことが分かります。丹党は多くの派生一族を生み出し、比較的狭い範囲を本拠としておりました(円子氏・丹氏・新里氏・榛沢氏・安保氏・長浜氏・勅使河原氏・中村氏・中山氏・大関氏・加治氏・横瀬氏・薄氏・小鹿野氏・大河原氏・青木氏・小串氏・志村氏等々)。その中で、特に注目していただきたいのが「中山氏」の存在です。先に、黒田直邦が、旗本の中山家から黒田家に入った人物であると述べました。そのことを思い出していただいた方は合点がいかれたことでしょう。この旗本中山氏こそ、戦国期に到るまで飯能周辺に勢力を張った中山氏の末裔に他ならないのです。

 中山氏は、高麗郡加治郷に定着した丹党の分流加治氏13代目にあたるとされる家勝が同郷中山村に移転し、「中山」を名字として名乗ったことに始まるとされます。家勝は山内上杉氏に仕えましたが、小田原北条氏の台頭により、後に北条氏康(1515~1571)に従うこととなりました。その子の家範(勝範)(1548~1590)は北条氏照(1542~1590)とともにあり、天正18年(1590)秀吉による小田原合戦の際に留守を守る八王子城で討死。そして、家範の嫡男である照守(家守)(1570~1634)は北条氏滅亡後に、関八州の支配者となる徳川家康に仕え旗本となるのです。因みに、飯能市の天覧山麓にある曹洞宗能仁寺は、文亀元年(1501)に家勝が創建。天正元年(1573)に子の家範が父の菩提を弔うために小庵を本格的な寺院としたとされます。そして宝永2年(1705)年に黒田直邦が下館藩主の時代に、七堂伽藍を備えた寺院として整備。以後黒田家の菩提寺とされました。今でも歴代藩主等の墓塔が建ち並んでおります(直邦のみ多峯主山頂直下)。また、黒田直邦の出自である旗本中山氏の菩提寺もここ「能仁寺」であり歴代・一族の墓塔がございます。一方、照守の弟の中山信吉(1577~1642)ですが、彼も徳川家康に近習として仕え、11男頼房(1603~1661)が常陸国下妻10万石に配されるに伴い、家老として附属。慶長14年(1609)頼房の水戸転封に伴い合計1万5000石を給されることとなります。以後は徳川御三家の一つ水戸藩附家老家として代々存続しました。附家老家は、幕府から御三家藩主のお目付け役的な機能を期待されており、単純に御三家の家臣であったわけではありませんでした(表向きは将軍の直属家臣)。しかし、万石以上の所領があっても、実質的には藩主の家臣の形をとりましたので、他の尾張・紀州の附家老家とともに近世を通じて大名昇格運動を展開します[尾張藩:成瀬家(犬山)・竹腰家(今尾)、紀州藩:安藤家(田辺)・水野家(新宮)]。そして維新後にようやく水戸藩から独立した「藩」として認められました(常陸松岡藩)。もっとも、あっという間に廃藩置県となりますが。実は、この水戸藩附家老中山氏の菩提寺も同じく飯能市内にあります。能仁寺から程近い智観寺には、初代中山信吉以下の歴代当主の墓塔が立ち並んでいるのです。

 その意味で、歴史ある武士団にとって、先祖の由緒、そして一族にとっての「名字の地」「根本所領の地(本願地)」に対する執着はかほどに強く深いものがあるのです。更に、譜代大名黒田氏にとっての藩祖である黒田直邦のみが、菩提寺ではなく、一族の故地である地域を見下ろす霊山「多峯主山」に葬られた理由にも思いが至ります(能仁寺から徒歩で小一時間は掛かります)。当方が私淑する東北大学教授佐藤弘夫の近著『日本人と神』2021年(講談社現代新書)で、原始から古代にかけての日本人の精神性について述べた、以下の記事と結びついたからでもあります。

 

 墓が巨大化するだけでなく、山に上ると言う現象の背景には、そこに葬られた人物を、一般人と次元を異にする特別の存在に祭り上げようとする指向性を読み取ることができる。埋葬された首長を、死後も特別の存在として遇しようとする動きが生じるのである。

 

 

 佐藤弘夫は、我が国に古来根付く人々の精神性について、従来のような「神」世界と「仏」世界の二元論や、その全てを「神仏習合」世界に帰着させようとする説明で、分かったつもりになっている認識を一度シャッフルすることが必要であること、従って、かようなステレオタイプの認識から零れ落ちてしまっている日本人の精神的世界を、総体として再構築すべきとの問題提起をされております。つまり、畏敬の念を抱く対象としての「カミ」とは、決して神道に集約される「神」、仏教に集約される「仏」、及び両者の習合した姿に止まらないのであり、人が畏敬を感じる「超越的な存在」の全てを「カミ」と把握したうえで一度同列において議論すべきではということにあります。その点で、藩祖を霊山の頂上に祀る行為こそ、上記した原始・古代の精神性の反映に他なりますまい。ある意味で、中山氏・黒田氏が、古代豪族「多治比(丹治)」氏を継承する一族であるという在り方を、忠実に反映した行動なのかもしれないということです。

 さて、本編の最後に、武士における「中世」と「近世」の違いについて言及し、そのことを踏まえて、改めて武士(大名)にとっての墓制の問題とその実に迫りたいと存じます。学生に、「中世」と「近世」の違いを問うと、なかなか適切に解答できません。どちらも「武士の支配する時代」となり、その違いが浮かび上がってこないことが多いのです。もっとも、それは教える側の認識の欠如にこそ責任があると教師が自省すべきことでもあります。「中世」までは武士(大名)の支配地は、彼ら自身の所有地に他ならず、多くの武士団はその土地の名を一族の「名字」として名乗ることになります。戦国時代には、戦国大名は他国に攻め入り、実力で領地(所有地)を獲得していったのです。しかし、秀吉による全国統一政権は、新たに「公権力」としての性格を明確に打ち出し、中世的な土地支配の在り方にメスを入れるのです。その基幹ともいえる重要施策が「太閤検地」による統一基準による全国の土地の把握と、それ基づく大名への支配地の配分に他なりません。これ以降、大名に配分された支配地は彼らの「所有地」ではなく、飽くまでも支配者(秀吉)から支配を委任された「領有地」にすぎないことが基本的スタンスとなります。つまり、「公権力」を行使する支配者は、配下の大名を鉢植のようにしてその領有地を変えることができ(転封)、かつ不首尾があれば公権力としての裁定の下で「改易」することすら可能な支配体制になったのです。このことは、大名の権力基盤となる土地所有と支配との関係を切り離すこととなり、結果として諸侯の権力基盤の弱体化を目途ともしていたのです。これが「近世」社会であり、同じ武士が支配していた「中世」と決定的に異なる点です。しかし、秀吉の支配体制を全面的に導入し継承することとなった江戸幕府の支配においては、次第にその理念自体が崩れ、特に有力外様大名の場合には転封によって「領有地」が変えられること自体が行われませんでしたから、実質的に「領有地」が固定化していくことになります。このことは、必然的に「領有地」=「所有地」との意識を生み出すことになるのです。これが、後に所謂「西南雄藩」を生み出す下地にもなるものと思われます。

 しかし、黒田氏の場合のような譜代大名の多くにとって転封は極々頻繁に実施されており、特定の土地と深い関係を有するような大名は殆ど存在しません。譜代大名の場合、元来が徳川氏の本願地であった三河国周辺の在地領主であったケースが多く、江戸幕府成立後に国内全土に配された城も所領も、彼らにとってはアウェー以外の何物でもありませんでした(一度も転封を経験していない譜代の大藩である彦根藩主井伊家ですら本願地は彦根ではありません。遠江国浜名湖裏にある井伊谷になります)。しかし、それだからこそ……と、いうべきなのかもしれせんが、先祖の由緒に繋がる名字の地(本願地)への想いは強烈に増幅されたのかもしれません。死後だけでも先祖の故地に戻って眠りたい、先祖と繋がりたいとの意識が強く働いたのではないでしょうか。例えば、徳川家康の家臣であり、関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城での戦いで討死した松平家忠の子孫である深溝松平家は、関ヶ原合戦後に家忠の子忠利が深溝1万石と旧領に復帰できたものの、その後は点々と転封を繰り返します[吉田藩(三河)→刈谷藩(三河)→福知山藩(丹波)→島原藩(肥前)→宇都宮藩(下野)→島原藩(肥前)]。最後は九州に所領があったのです。しかし、その墓所は、一貫して一族にとってかつて本願地であった深溝(三河)に置かれました。当主は、江戸で亡くなろうが、島原で物故しようが、必ず三河国の本願地まで運ばれて埋葬されたのです。愛知県内の深溝にある本光寺には「島原藩主深溝松平家墓所」として国指定史跡となった広大な墓域が残されております。外様の有力大名であっても、例えば米沢藩上杉氏が、戊辰戦争の際に「奥羽越列藩同盟」に参加したことの背景には、新政府への異議申し立てといった大義以上に、これを切っ掛けに上杉謙信由来の旧領越後国への復帰を果たせんかなとの動機があったともいわれます。それだけ、旧領・本願地への想いは根深く、強いものであったと考えざるを得ません。もっとも、生実藩1万石譜代大名の森川氏のように、本願地は尾張国と思われますが、歴代の墓域は陣屋のあった千葉市内生実にある重俊院に置かれました。従って、必ずしも本願地に拘った大名ばかりではないのでしょう。各大名家が如何なる思惑で墓所の地を選択したのか研究する価値はありそうです。

 港区立郷土資料館の特別展図録『江戸の大名菩提寺』(2012)によれば、一般的には、大名家は所領(基本的に城・陣屋の置かれた所謂「国元」)と江戸屋敷の置かれた江戸の、大きく2か所に菩提寺を設けていることが殆どであることが知れます。文化5年(1808)版『武鑑』によれば、大名264家中で江戸府内に菩提寺を設けていな大名家は3家のみです。その内、彦根藩井伊家の豪徳寺は江戸府内からは外れますが、現在は世田谷区になるのでさほど遠方とは申せません。しかし、久留里藩黒田家の飯能は相当に遠方に位置しているといえましょう。何故、江戸に菩提寺が必要かと申せば、大名にとっては江戸屋敷に妻子を置かざるを得なかったことが最も大きな理由かと思われます。江戸屋敷で物故した妻子の葬地が不可欠であり、かつ江戸屋敷に常駐するものにとっての先祖祭祀の場が必要であったからに他なりません。藩主であっても、江戸屋敷で亡くなった場合は江戸の菩提寺に、国元で薨去したばあいは国元の菩提寺にと、はっきりと分けて埋葬している大名家も多々あります。実際に、葬儀も江戸と国元と2度行うことが通常でした。何故ならば、大名同士の交流は江戸で行われておりましたので、江戸で葬儀を行うことが理に叶っていたからです。数か月前に述べた津藩藤堂家のケースもそれにあたります。そもそも、頻繁に転封を繰り返した譜代大名の場合、国元自体の永続性が担保できないのですから、深溝松平家のように本願地に菩提寺を固定しないのであれば、必然的に江戸菩提寺の存在意義が大きくなったことも理解できましょう。従って、江戸という都市には、膨大な大名一族の菩提寺と大名一族係累の墓所が存在することになりました。

 ただ、江戸の大名菩提寺は、度重なる災害(震災・戦災等々)、そして再開発計画等々によって墓所の整理が進んでおり、明治以降、特に高度成長期以降に貴重な大名墓所遺構が急速に消滅しつつあります。城・陣屋遺構が明治以降に旧権力の象徴として粗雑に扱われ、完全な形で残っている遺構が殆どない状況の下(姫路城ですら外郭遺構は殆ど破壊されています)、大名墓所は近世大名権力構造の研究に欠かすことのできない歴史資料に他ならないと考えるところであります。残念なことですが、昨今の状況は、子孫である大名家自体が墓所の管理を担いきれないことが最も大きな原因となっております。江戸の昔には大大名家であった墓所でも、目を覆うばかりの荒廃に瀕しているケースが多いものです。当方は機会に恵まれれば個人的に大名墓巡りを致しますが、多くの墓所では石塔が傾いたり、雑草に覆われてたり、酷いものでは墓室が露わになってしまっているものなど、荒廃の極みとすら言える状況にあります。史跡等に指定されていなければ補助金等は一切ありませんから、飽くまでも個人墓として扱われ子孫が維持管理をせねばなりません。まして、今や大名家の子孫であっても一介のサラリーマンにすぎないことが殆どでありましょう。幾十・幾百とある墓塔の管理し続けることは経済的に困難な状況にあるのが実態です。我が家のように、たった一つの墓地であってすら、その維持には相当な労力と経費を必要とするのですから。それは、今から150年程前まで我が国の統治者であった徳川将軍家であっても例外ではありません。

(その3に続く)

 

 

 黒田直邦の墓 及び将軍家・大名家の奥津城について(その3) ―または飯能市でのハイキングにおける発見と雑感―

6月18日(金曜日)

 これまでは、飯能市でのハイキングの最中、多峯主山の山頂直下で出会った黒田直邦の墓を切っ掛けにして考えたことを綴ってまいりました。しかし、実は、今回の散策ではもう一つ驚くべき発見がありましたので、以降の2編で述べさせていただき、その検証を加えてみたいと思います。これも、大名墓繋がりの話題、特にその2の最後で少し触れさせていただいた徳川将軍家とも関係する内容となりますのでお付き合いくださいませ。

その発見は、天覧山へのハイキングの前に立ち寄った黒田家菩提寺「能仁寺」でのことになります。山門前に、如何にも由緒ありげな、高4メートルにも及ぼうとする巨大な石塔が一基屹立しておりました。石塔の様式としては「宝筐五輪塔」という特殊な形態のものであり、一般的な宝篋印塔[方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起がある石塔]と五輪塔[下から地輪(立法体)・水輪(球形)・火輪(方形の笠)・空輪(宝珠)・風輪(半円形の受)の5つの輪を積み上げて構成されている石塔]の特色を併せ持った所謂“合いの子”の石塔であります。この立派な石塔については、周辺を見回しても何の解説板もなく由緒も分かりません。そこで、見上げると塔身軸部に文字が刻まれております。辛うじて以下の文字のみが読み取れました。もしかしたら読み取りミスがあるかもしれませんが、その点寛恕願いたく存じます。まず、以下に引用させていただきます。

 

(正面) 清揚院殿 正三位前参議 円誉天安永和 大居士神儀
( 右 ) 延宝六戌子年 ( 左 ) 九月十四日

 

 この「清揚院」なる法名をもつ人物でありますが、俗名をご存知でございましょうか。必ずしも広く知られる人物ではありませんが、幕府内の要人であることは間違いありません。それは、誰あろう甲府宰相徳川綱重(1644~1678)に他なりません。かように立派な石塔です。おそらくは、その埋葬地に建てられていた綱重の墓塔そのものであることは確実です。家光の三男であった綱重は(二男は早逝)、兄である4代将軍徳川家綱(1641~1680)が子をなすことなく没するよりも先に物故しておりました。従って、紆余曲折の末に5代将軍職を継いだのは館林宰相であった弟の徳川綱吉(1646~1709)でした。しかし、綱吉にも成人した男子はおらず、結果的に兄綱重の実子で甲府藩主徳川綱豊(1662~1712)を世子として迎え入れました。因みに、このことに尽力した人物こそ水戸徳川家2代藩主であった光圀(1628~1701)に他なりません。その結果、綱豊が、延宝6年(1709)、綱吉の死後に家宣と名を改めて6代将軍となります。この墓塔は、征夷大将軍となった人物の父親として、「前将軍」に準じた扱いを受けた人物に相応しい堂々たる石塔になっております。因みに、綱重と飯能の地、能仁寺とは何の縁もありません。後に述べますが、西武線沿線には徳川家に関わる墓所関係遺物(特に大名家から奉納された奉献灯籠)が数多く存在するのですが(この能仁寺にも御多分に漏れず数多の奉献灯籠があります)、まさか将軍家の中でも核をなす人物の墓塔までが、この地に移されていることに大いに驚かされたのです。その理由と、そこから浮かび上がった疑問について以下に綴らせていただきます。

 歴代徳川将軍の奥津城は、初代家康(東照宮)廟と3代家光(大猷院)廟が日光に造営されていること(家光廟は上野の寛永寺にも同時に造営されましたが享保期に焼失して再建されず)、大正時代に物故した15代慶喜が谷中霊園に造営されたことを別とすると、その他12人は綺麗に半分ずつ上野の東叡山寛永寺(天台宗)と芝の三縁山増上寺(浄土宗)に葬られており、それぞれに豪華な霊廟建築が造営されております。戦前までは、寛永寺には4代家綱(厳有院)廟・5代綱吉(常憲院)廟が、増上寺には2代秀忠(台徳院)廟と正室である江(崇源院)廟が本堂南側(南廟)に、6代家宣(文昭院)廟・7代家継(有章院)廟が本堂北側(北廟)に、それぞれ大々的に展開しており、写真で見るだけでもこの世の極楽とも称すべき壮観でありました。8代の吉宗以降の7人については、財政倹約の方針の下で新たな霊廟建築を建設しないこととなり、これまである霊廟に合祀されることになりました。その他に、徳川家康の生母である「於大の方(1528~1602)」や、かの「千姫(1597~1666)」が葬られる小石川の無量山傳通院(於大の戒名)(浄土宗)も徳川家縁の寺院となります。これら寺院、特に上野と芝に造営されていた豪華絢爛たる霊廟建築は、ともに先の大戦の空襲でほとんどが灰燼に帰し、残された建物はほんの一部の門・水盤舎等に過ぎません。更に、増上寺北廟の広大な墓域は、戦後徳川宗家が土地を西武鉄道グループに売却したため、南廟も併せて全ての墓所を発掘調査したうえで改葬されました[昭和33年(1958)~35年(1960)]。そのため、増上寺においては将軍家墓域の痕跡は全く地上から消滅してしまいました。そして、北廟跡地には、昭和39年(1964)開催の東京五輪を機に、東京プリンスホテルが建設され、現在もその地で営業が行われております。その際に、全国の大名家から薨去した将軍へ寄進された膨大な数の奉献灯籠は不要となり、これらはほとんど調査らしい調査も行われぬままに、跡地を購入した西武鉄道沿線の何の縁も関係もない寺院等々に譲られました。これが西武線沿線に大名による奉献灯籠が脈絡もなく存在している理由です。そして、今回出かけた飯能駅に程近い能仁寺境内にも相当数の増上寺大名奉献灯籠があったことの理由でもあります。しかし、門前に建っているのは、奉献灯籠ではなく、墓所の核心となる墓塔に違いありません。そこで、徳川綱重の死去と埋葬について、帰宅後に手持ちの諸資料にあたって調べてみました。因みに、大名による奉献灯籠の行方については、最近になって、港区教育委員会が地道に移設地の追跡調査をされております(文化財行政の鑑だと思います)。

 徳川綱重の話題に戻ります。綱重は、江戸藩邸での薨去後、「清揚院」との法名を与えられ小石川の傳通院に葬られました。しかし、その後に嫡子綱豊が将軍世子となることに伴い、その将軍宣下4年前に将軍家縁の寺院増上寺への改葬が行われました。次期将軍の父親として処遇をうけることとなったわけです。併せて、綱豊の生母「お保良の方」の改葬も行われております。彼女は、綱豊の同母弟清武が養子に入った、越智家(越智松平)菩提寺である下谷の善性寺に葬られておりましたが、徳川将軍家由緒の墓域である「寛永寺御裏方墓所」に改葬されています。その墓前には一際立派な柳沢吉保からの奉献灯籠がありましたがどうなったのでしょうか(後述)。改葬にあたって、綱重(清揚院)霊廟建築が新たに増上寺本堂の裏手に造営されました。それは、秀忠・江の霊廟の在る南廟でも、後に家宣・家継の霊廟が造営されることとなる北廟の場とも異なる場所となります。しかし、その霊廟は老朽化のため、明治半ばに解体されてしまったそうで写真もほとんど残っておりません。現在まで残る建造物は「水盤舎」のみとなっております。ただ、ここにひとつ疑問が浮かびます。増上寺徳川家墓所の改葬は学術調査もかねて行われたため、詳細な報告書が出版されておりますが[当方が所有するのは、後に出版された一般書である鈴木尚『骨は語る徳川将軍・大名の人々』1985年(東京大学出版会)]、それによれば綱重墳墓の地には石塔が存在せず、円墳状の土饅頭の下に墓室が構築されていたとされているのです。

 そうであるならば、この能仁寺に移設された綱重の墓塔は何処にあったものなのでしょうか。増上寺から能仁寺に移されたものであることは間違いありません。それにしても不可解なことではあります。当方の手元にある資料と自らの記憶の下で今推察していることを申せば、この宝篋印塔は当初の墓所であった伝通院に建立されたものではないかということです。何故ならば、傳通院に残る千姫や、家光の正室であった鷹司孝子等の墓塔が、まさにこの綱重のものとほぼ同形式の宝筐五輪塔として造営されているからです。つまり、綱重墓改葬時に墓塔も増上寺に運ばれているのでしょう。しかし、少なくとも墓所に建てられていなかったことは明らかですので、恐らく何処かに保管されていたものと思われます。ただ、そのことを確認することはできません。では、何故それが増上寺に建立されなかったのでしょうか。それは、案ずるに宝篋五輪塔は増上寺に葬られる徳川将軍家近親者の墓塔としては相応しくなかったからではありますまいか。何故ならば、増上寺に存在する墓塔は、将軍であれ、その正室・側室であれ、全てが「宝塔」形式(軸部が円筒・八角筒の形状でつくられ、その上に方形の笠と相輪が乗る形式の墓塔)で建立されており、それ以外の墓塔は一切存在しないからであります。ただ、それでは何故宝塔形式で新たに建造せずに土饅頭のままであったのかに対する解答にはなりません。これは不明と言うしかありません。改葬という特別な事情が関係しているのかもしれません。

 ここまで、もっともらしく述べてきた当方の仮設でありますが、注意深くお読みになった方はその破綻にお気づきでしょうか?この仮説が成立し得ない決定的な根拠があるのです。それは、石塔に刻印されている年であります。延宝6年(1709)は、綱重の薨去した年でもなければ、綱重墓が増上寺に改葬された年でもありません。5代綱吉が薨去し綱豊が家宣と改名して将軍宣下を受けた年に他ならないからです。つまり、刻印された年を信ずるとすれば、死の床でも「生類憐みの令」の継続を願ってやまなかった綱吉の死後、早々にそれを撤回した家宣が将軍となった、その時に造営されたことになります。しかし、再度申し上げますが、綱重墳墓の地にはこの石塔が建立されてはいなかったのです。こうして、当方の捜索は再び振り出しに戻ってしまいました。現状での当方の持ち駒資料からはこれ以上の追及は不可能です。そもそも、「清揚院霊廟」そのものが明治半ばに解体されてしまっていることから、元の霊廟の結構の詳細が判明しないことも足枷です。もっとも、この年号が「後刻(後になってから彫られる)」された可能性がないわけではありません。このあたりは、詳細な金石文字の分析検討が必要でしょうが、当方にはその力がないのが残念です。ただ、最終編では、この石塔自体が延宝6年段階に新規造立された可能性の適否について迫っておきたいと思います。結論から先に申せば、この「宝筐五輪塔」という墓塔の形式が、当該時期に新規につくられ、しかも増上寺に据えられる可能性は限りなくゼロに近かったことを明らかにしておきたいのです。 

 (その4に続く)

 

 黒田直邦の墓 及び将軍家・大名家の奥津城について(その4) ―または飯能市でのハイキングにおける発見と雑感―

6月19日(土曜日)

 増上寺に最初に造営された徳川家墓所は、寛永3年(1626)年9月15日に没した秀忠正室「江(ごう)」のものであります(崇源院)。その際には、彼女のためだけに立派な霊廟建築が造営されました[因みに、徳川歴代将軍の正室中、夫と同等の形式による独立の霊廟建築が造営されたのは唯一崇源院のみであります(ただ、将軍の霊廟ではないので正しくは「霊牌所」と称するそうですが)]。この崇源院霊廟は、「江」の死後間もなく建設されたことが資料から読み取れます。即ち「普請奉行八木勘十郎、棟梁鈴木遠江守長治之を承って、寛永3年10月その工に着手し、同5年9月竣成した」とあるからです。しかし、別に『正保録』によれば「正保4年3月15日、崇源院殿霊屋御造営依令出来、午刻増上寺に御参詣、同寅刻入佛卯刻読経始る、巳刻終る」とあり、更に3月17日に霊屋普請完了に付、奉行酒井下総守、八木勘十郎、白銀30枚と綿衣三つを拝領し、大工の木原木工允(義久)、鈴木修理(長恒)が黄金1枚宛と綿衣一宛を拝領したとの記録も残されているのです。寛永3年とは西暦1626年、正保4年とは西暦1647年になります。その間は21年。これら記事が正しいとすると崇源院廟は20年後に新築されたことになります。それは何故でしょうか。正史等の記録からはその理由は読み取れません。しかし、類推することはできましょう。

 それは、夫である2代将軍秀忠との関係であります。秀忠は「江」の死から遅れること6年、寛永9年(1632)正月24日に54歳にて薨去いたしました。台徳院の法名の下で増上寺に霊廟の造営が開始され、早くも同年7月には完成となったと記録されます。何と!6カ月の早業です。もっとも、出来上がった普請が後継者である家光の意に召さなかったため、その後に改築され寛永12年(1635)に成就したとの記録も残ります。かような短期間であの結構を完成させるのは到底無理です。これが正しき流れでございましょう。さて、増上寺の南廟ですが、空襲による焼失前には「秀忠・江」夫婦の霊廟建築が仲良く並んで存在していたのです。つまり、台徳院(秀忠)廟の完成後に、その正室であった崇源院(江)廟を寄り添う形で新規に建設したという解釈です(このことは建築様式の面からも証明されるそうです)。新規の崇源院廟完成の正保4年は、秀忠廟の完成後11年後になります。これならば、時系列上も無理がなく、新規に造営した意味も理解できます。

 それでは、最初に造営された崇源院廟はどうなったのでしょうか。まだまだ解体するには惜しい状態であったはずです。そもそも論として、境内中の何処に建っていたのかも不明です。その記録も残りません。しかし、これも類推することができます。それは、実際に葬られた崇源院の墓塔の在り処です。崇源院の火葬骨を埋葬した墓塔は、戦前まで存在した崇源院廟建築から、本堂を挟んで数百メートルも離れた、北廟の中に存在しました。つまり、寛永12年に最初に造営された崇源院廟は墓塔のあった、後に「北廟」が造営される場所に建てられていた可能性が高いものと考えられます。戦前に著された田辺泰『徳川家霊廟』1942(彰国社)も、かように推察しております。それでは、20年しかたっていない最初の建物はどうなったのでしょうか。それにも解答がございます。それは、鎌倉にある臨済宗の名刹建長寺の「仏殿」と方丈「唐門」に「崇源院霊廟を移築した建物」との伝承が残っているからです。そして、解体修理の結果、重要文化財に指定された建長寺仏殿が他の場所から移築された建築物であることが判明しました。おそらく、増上寺に最初に建築された崇源院霊廟建築であると考えて間違いありますまい。増上寺・寛永寺の霊廟建築が戦災で焼失した現在、もっとも古体を残す霊廟建築遺構が鎌倉に残っていることは僥倖以外の何物でもありません。続いて、その崇源院の墓塔についてです。

 北廟にあった崇源院の墓塔は、増上寺にある徳川家関連墓塔と共通の宝塔形式(石造)のものでした(八角筒)。しかし、第二次世界大戦後改葬のために発掘調査したところ、その下から廃棄された当初の崇源院墓塔が出現したのです。それは、高さ5mを越える超巨大な宝篋印塔でした。つまり、霊廟建築は秀忠廟の隣に新規に造営されたものの、墓塔はそのまま旧地に残され、後に造営される6代家宣廟・7代家継廟の敷地内に取り残されることになったのでしょう。そして、何時の段階かは不明ですが、その他の墓の形態に合わせて宝塔形式で造営しなおされたのではないかということです。そして、不要となった宝篋印塔は地中深く埋められることになったのでしょう。崇源院の墓塔の周辺には将軍の正室・側室の墓が多く存在しておりますが、増上寺において、正室・側室関連の墓塔で崇源院に引き続いて造営された墓塔は、5代徳川綱吉の生母「桂昌院」のものです。彼女は宝永2年(1705)年に没しておりますが、その墓塔の形式は宝塔(青銅製円筒)であり、崇源院と形状と材質は若干異なれど形式としては同じものとなります。つまり、増上寺においては、崇源院を除く、それより後に造営された墓塔は宝塔形式で統一されたということだと考えられます。因みに、高野山金剛峰寺の奥の院には、権力者から庶民に到るまでの膨大な墓塔が林立しておりますが、その中で最大の規模を誇るものが誰あろう、この崇源院の五輪塔です。その高さは何と!!6メートルを越えております!!本人の意思とは無関係でしょうが、巨大嗜好の持ち主だったのかもしれません。

 つまり、増上寺に限らず、徳川家においては、初期段階の墓塔は宝篋印塔・五輪塔等も併用されていたものの、徳川家宣が将軍となった延宝6年(1709)の段階で、将軍家菩提寺に宝塔形式以外の墓塔が造立される可能性は限りなくゼロに近かったことが分かります。宝塔以外の石塔は、徳川家関連の石塔では古体を示す形態なのです。因みに、増上寺で2番目に造営された秀忠(台徳院)廟の墓塔は木製の宝塔です。徳川将軍家歴代の墓塔のうち、覆屋建築で囲われた木製墓塔をもつのは秀忠廟のみです。その結構の素晴らしさは以後の将軍の比ではありません。三代家光廟も、父である神君家康公でさえも露天の青銅製宝塔であります。ところで、増上寺の徳川家霊廟に関しては、増上寺も、港区教育委員会でも実態を解明するための調査研究が積極的に推し進められております。平成21年度港区立港郷土資料館における特別展『徳川家霊廟』は現在における研究の集大成ともいえる充実の内容でしたし、展示図録も大変に優れた内容です。ただ、残念なことに現在品切れとなっております。是非とも新規の知見を増補した新版を刊行されることに期待したいところです。

 乗りかかった舟ですので、最後に寛永寺の徳川家墓所にも触れておきましょう。寛永寺の徳川将軍家墓域は、現在東京国立博物館の寛永寺本坊(正式には円頓院といいました)の裏手に造営されました。東博正門前の道路を挟んだ地にある竹の台の噴水の地点に巨大な本堂(根本中堂)がありましたが、幕末に新政府軍と彰義隊の戦争で焼失しました。ただ、霊廟のある場所は、彰義隊との闘いでも戦火は及ばず無事に生き延びたのです。しかし、先にも触れたように家綱廟・綱吉廟の建造物はともに空襲を免れることは叶わず焼失いたしました。ただし、幸いにして、埋葬地そのものは空襲被害をうけず6名の将軍と10代家治嫡子で後継者と目されていたものの急逝した家基の墓所は、改葬もされることなく今に到っております。現在は2か所の墓域は周囲を高い石垣の塀によって囲繞されておりますが、これは明治以降に造営されたものです(一説に勝海舟が墓域を護るために造営したと言われますが真相や如何!?)。しかし、その北裏に広大に存在していた「徳川家御裏方墓所」(主に各将軍の正室・側室24人が埋葬された墓域)の墓塔群は最近発掘調査の上で改葬され、全て撤去されてしまいました。当方は、荒れ果ててはおりましたが自由に出入りできたこの地が大好きで、上野に出掛けるたびに散策したものです。そのうちに柵が巡らされて侵入できなくなりました。先に述べた家宣生母「お保良の方(法名:浄昌院)」の改葬墓もここにありました。今では全面的に整地され、跡地は「寛永寺徳川浄園」として広く一般に墓所として分譲販売されているようです。寛永寺のHPによれば、最小「一区画1.32平方メートル498万円から」、最大「一区画6.63平方メートル2.062万円から」となっております。かくも由緒正しき霊園はまたとございません。寛永寺の回し者ではございませんが、お考えの向きが御座いましたら検討をされては如何でしょうか。しかし、古を知る私としては時の移り変わりに暗然たる思いではあります。これは、この改葬は今世紀に入ってから、平成の御代におけることに他なりません。発掘成果は2012年に吉川弘文館から『東叡山寛永寺 徳川将軍家御裏方霊廟』として刊行されております。一般販売もされておりますが、如何せんお値段が¥165.000となると流石に手が出せません。しっかりとした記録に残されただけ幸いでしたが、それでも貴重な「近世大名家墓所」の一つが失われたことを心底残念に思っております。しかし、増上寺・港区と異なり、寛永寺・台東区からは適当な徳川家霊廟についての一般向調査研究書が出版されておりません。寛永寺の関係者である浦井正明による『もうひとつの徳川物語-将軍家の霊廟-』1983年(誠文堂新光社)、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』2007年(吉川弘文館)がありますが、将軍の葬送儀礼については詳しいのですが、霊廟建築・墓制の問題に関しては隔靴掻痒の感拭い難き内容です。大いに残念、かつ不満であります。台東区・寛永寺ともに、是非、港区・増上寺の爪の垢を煎じて飲んでいただきたいものであります。

 今回は、たまたまハイキングで出会った黒田直邦の墓塔と徳川綱重の宝筐五輪塔から、将軍家墓所も含めた大名家の墓所の話題を連々と述べて参りました。あっちに飛び、こっちに飛びの妄想にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。最後まで御一緒してくださった方は本当に辛抱強いお方であると存じます。頭が下がります。ありがとうございました。もし大名墓所に興味が生じましたら、岡崎守恭『墓が語る江戸の真実』2018年(新潮新書)あたりからアプローチされてみては如何でしょうか。著者は歴史研究者では御座いませんが、それだけに読みやすいエッセイ集となっており、興味を惹かれる話題が多いものとなっていると思います。

(完)

 

 

 おのづから 心に秋も ありぬべし(前編) ―残り2週間の小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫」私的「見どころ20選」(7月11日閉幕)!!― ―小企画展を名乗っておりますが中身は正真正銘「特別展」級です!この機に是非ともお見逃しなく!!―

6月24日(木曜日)

おのづから 心に秋も ありぬべし 
卯の花月夜(うのはなづくよ) うちながめつつ
(藤原良経 『秋篠月淸集』夏)

 「卯の花」は「卯木(うつぎ)」に咲く花のこと。花期は5月~7月にかけてであり、その花は古から初夏を彩る風物詩とされて参りました。その名は「空木(うつぎ)」から来ており、茎が中空であることに由来するそうです。卯月(旧暦4月)に花を咲かせたことから「卯の花」と称されるようになったのでしょう。枝先に沢山の白い花を付けます。その色合い転じて豆腐の絞り粕(おから)の例えとしても用いられます(おからを使った料理名にも)。王朝物語・随筆にも数多登場する花の一つと申せましょう。また、当該時期を彩るもう一つの風物である時鳥(ホトトギス)の声とともに、古典和歌の題材として詠まれることの多い花でもあります。標題作は藤原(名字は「九条」)良経(1169~1206)の手になる作品ですが、一度も勅撰集に採られていないのが不可解なほどの名作、いや傑作かと存じます。良経は平安末から鎌倉初期に生きた公卿であり、この時代を学ぶ者にとって不可欠な史料『玉葉』を著した藤原(九条)兼実(1149~1207)の次男であります。官位従一位、摂政・太政大臣と世俗権力の頂点にも登りましたが、元久3年(1206)3月7日深夜に頓死いたしました。父兼実に先立つこと1年。齢38という若さでした。和歌・漢詩・書の何れにおいても天才の名をほしいままとしておりますが、特に和歌の世界においては、所謂「良経歌壇」なる存在こそが、後に編まれることとなる「新古今風」を醸成する母体となったと評されます。そして、自撰による歌集『秋篠月淸集(あきしのげっせいしゅう)』は名私家集として知られます。事実、残された作品の多くが胸を打つ傑作・名作揃いです。その作は、標題歌からもお分かりのように、どこか諦念を含んだ心情を宿し、更に申せば遙かに遠い彼方へ向けた眼差しすら感じさせる(それは彼岸的な超越世界ではありますまいか)、そんな極めて内省的なる精神を内包しております。人臣位を極めた者でありながら、常に醒めた視点で自身、そして現実を述懐するような歌が多く、現代人である私の胸をも打つのです。近代文学において顕著な「若くして死す」との主題を遥か昔に先取りするかのような、自らの運命を予感しているかのような詠歌の数々が心に響きます。藤原定家(1162~1241)の主筋にあたる人物でもあり、また定家卿とも相互に影響を受けあった人でもあろうかと存じます。標題歌の解説については、当方などがとやかく申すよりも、現代名歌人塚本邦雄(1920~2005)の「鑑賞文」をお読みいただければそれに勝るものはありません。以下に引用させていただきましょう。他にも忘れ難き作品が数多あります。またの機会が御座いましたらご紹介をさせていただきます。

 

 白い月光の下に幻のやうに咲き続く、その月光の色の花卯木、真夏も近い卯月とはいへ、人の心には、いつの間にか秋が忍び寄ってゐる。人生の秋は春も問はぬ。光溢れる日にさへ翳る反面に思ひを馳せずにゐられない。これこそ、不世出の詩人、良経の本領の一つであった。放心状態を示すような下句の調べもゆかしく、かつ忘れがたい。

[塚本邦雄『淸唱千首』1983年(冨山房百科文庫)]より

 

 因みに、『淸唱千首』は副題に「白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる一千年の歌から選りすぐった絶唱千首」とあるように、塚本の編んだ古典和歌のアンソロジー集であります。当方が所有する「冨山房百科文庫」初版が世に出たのが1983年のこと(冨山房は当方が初めて購入して愛用した国語辞典の出版社でした)。大学卒業後に一年間の就職浪人の末、夢に見た教員となることが叶い、千葉市立更科中学校に赴任した正にその4月の刊行になります(愛蔵版が一か月後に刊行されておりますがその名に値する美しい書籍です)。当方が入手したのはもう少し後になるかと記憶しておりますが、塚本の編んだ多くの古典和歌アンソロジー中で、憚ることなく最高傑作と申すことのできる一冊だと確信するところでございます。選ばれた千に及ぶ知られざる、そして瞠目すべき古典和歌の数々と、一作一作への愛情に溢れた的確な鑑賞文とにより、古典和歌の世界の豊穣への扉を開けてくれた、当方にとって記念碑とも言うべき最も大切な書籍の一つであります。今でも書斎の直ぐ手に届くところに配架しております。藤原(九条)良経という不世出の歌人に出会えたのも偏に塚本のお陰に他なりません。

 ここで、少しの脱線をお許しください。源義経(1159~1189)という人物について、日本人ならば誰でも耳にしたことがございましょう。因みに、上記の藤原(九条)良経とは正に同時代を生きた人であります。しかし、彼が兄源頼朝(1147~1199)に平泉で討たれた時、少なくとも公式上はその名前ではなかったことをご存知でしょうか。その時には「義顕(よしあき)」の名で呼ばれていたのです。従って、公式記録にも「義経」という名では記されておりません。実は、そのことと藤原(九条)良経とは大いに関係のあることなので、ここに記させていただこうと思うのです。義経の改名は、文治2年(1186)、後白河法皇から義経追捕の院宣が出されたときに、源頼朝によって行われています。何故ならば、「よしつね」の音が、京都朝廷の要人である藤原(九条)良経と同訓であるのは恐れ多いとして、(本人の意思とは無関係に)名を改めた上で追捕の対象とされたのです。ただし、その時の名は「義行(よしゆき)」でした。しかし、その後、「義行」は日本中を逃げ回りなかなか捕縛できなかったこともよく知られておりましょう。この原因は改名後の「義行」という名前にあると源頼朝は考えたようです。『吾妻鏡」』よれば、「義行」という名は「よくゆく」と読める(よく隠れるという意味でもある)。そこで、同年末に、「よく顕(あらわ)れる」という意味の名に改名することになったというのです。それが「義顕(よしあき)」に他なりません。嘘のようなホントウの話です。結果として義経、もとい義顕は平泉で討たれました。頼朝の立場からすれば「めでたし!めでたし!」のお話しでありましょうが、それでも改名から10年以上も経過しておりますので、その効果の程は疑わしい限りでありましょう。逃げ続ける義経本人の与り知らぬところで、今から考えればかような茶番劇が繰り広げられていたのです。もっとも、頼朝としては真剣に考えてこうしたことを行ったのでしょうが、何ともはやの思いであります。また、忖度された側の藤原(九条)良経は如何に思ったのかも知りたいところであります。

 さて、現在開催中の小企画展『陸軍気球連隊と第二格納庫 -知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-』の閉幕まで残すところ2週間余りとなりました。まず、申しあげるべきは、本展は、その企画、準備、そして運営まで全面的にご協力をいただきました「千葉市の近現代を知る会」代表である市原徹様、同会会員でもいらっしゃる伊藤奈津絵様の膨大な「気球関連コレクション」のご提供を快諾していただいたことで成立したものであります。それだけに留まらず、同会員の皆様には、展示場の装飾(入口上の気球や奉祝門等々)までのご尽力を賜っております。まずは、改めて同会の皆様には感謝を申し上げる次第でございます。ホントウに頭の下がる思いでございます。そして、そのお陰もあって、現在までにたくさんの皆様に御観覧をいただいていることに心より感謝を申し上げたく存じます。

 また、メディア関係でも、今週の月曜日(6月21日)には毎日新聞・東京新聞(千葉版)で取り上げていただきました。未だ放映には至っておりませんが、その他、NHK千葉放送局等のメディアからの取材、そして軍事関係の雑誌『丸』(潮光人新社)から記事掲載の要請も頂くなど、広く注目を集めている展示内容となっております。また、かつて親族の方が気球隊・気球連隊に入隊されていた関係された皆様のご来館も賜り、我々が掴んでいなかった新たな情報等も集まってきております。一方で、昨年惜しまれながらも解体された第2格納庫に用いられた技術の紹介をしている関係で、設計建築にあたった会社(巴コーポレーション)関係の方をはじめ、建築士の方々にも多数ご来館を賜っていることを嬉しく存じます。表題にもあるように、手前味噌ではございますが、今回の展示会は「小企画展」を名乗ってはいるものの、その内容は「特別展」にも匹敵する内容だと胸をはって申しあげることができます。これを好機に、これまた国内で初めての「軍用気球」に焦点をあてた本館の展示を是非ともご覧くださり、千葉市にかつて存在した日本陸軍唯一の部隊であった「気球隊・気球連隊」についての知見を深めていただくこと、昭和初期に日本人の手により発明され、今も用いられている画期的な建築技術について御理いただけることを願っております。併せて、こうした歴史を振り返ることを通じて、恒久平和への想いを強く心に持ちいただけることを心より期する想い出ございます。今回は、以下、改めて本展の「見どころ」について「20選」を申しあげたいと存じます。

 

小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫」
「見どころ20選」
☆その1:軍用気球の分類とその機能がわかります!!


軍用に利用された気球には、航空技術としていくつかの機能が求められましたが、歴史的にその期待される役割が変化することになります。そのことを簡単な年表に位置付けたイラストで分かりやすく解説しています。これで、貴方も「軍用気球」を語れることになりますよ。「自由気球」とは?「繋留気球とは?「飛行船」とは??その全てがわかります!!

☆その2:千葉市に移転してくる前の「陸軍気球隊」前史を概観できます!!


日本の陸軍における気球の活用計画は、西郷隆盛で知られる西南戦争まで遡ります。実際には戦争に間に合いませんでしたが、当時描かれた珍しい錦絵に気球が描かれています(複製展示)。その後の日露戦争での「旅順攻略戦」での大活躍をへて、明治末「中野」に気球隊が正式な部隊として設置されました。そして、大正初期の「所沢」への移転という気球隊前半期の歴史を、貴重な写真の数々で追うことができます!!当時はまだ「気球隊」でした。いつ「気球連隊」となったのか。両者の違いは何か等々の疑問も解決です!!

☆その3:海軍の気球活用にも焦点を当てています!!


今回の展示では、陸軍における気球について扱っておりますが、海軍でも気球は活用されております。そこは遺漏なく、「トピック」の扱いで「海軍の気球」もご紹介しております。戦艦から昇騰(しょうとう)される気球の姿、霞ケ浦海軍飛行場に建設された、俗に言う「ツェッペリン格納庫」の巨大な姿等々見どころ満載です。ところで、何故ツェッペリン格納庫なの??それも展示を見ていただければ氷解いたしますよ。

☆その4:各時代の気球格納庫の変遷を全てみることができます。


昨年惜しまれつつ解体された気球連隊「第二格納庫」ですが、千葉には「第一格納庫」もありました。千葉移転前の所沢における気球格納庫の写真を見ると、それ以上の巨大さに驚かれましょう。とにかく、海軍のツェッペリン格納庫同様、奥行きが千葉の2棟の格納庫よりも遥かに長いのです。それは何故でしょうか??ヒントは飛行船との関係となります。そのココロは、気球開発の歴史を辿ると判明します。そして今回、明治期の中野の気球格納庫の姿が写真で判明!!新発見資料の展示もしております。乞うご期待!!

☆その5:気球隊が所沢から千葉に移転したのは何故か??


広大な所沢飛行場から、気球隊のみが分離して千葉の地に移転したのは何故でしょうか。航空技術としての飛行機の急速な発展と、受け入れた千葉市の側の事情とを探ってみました。それらは、千葉への移転後の千葉市民による感想と併せて理解していただけましょう。納得の資料が展示されております。この移転について調査をしていた憲兵は、「期待していたのに……」といった市民の感想を報告しています。はてさて、それは何故でしょうか??

☆その6:千葉市に気球隊・気球連隊の建物の全体像をみることができます!!


日本唯一の陸軍の気球隊(昭和11年から気球連隊に昇格)は千葉市内の何処にあったのか?また、敷地にはどのような建物が、どのように建ち並んでいたのか等々、航空写真と地図、そして地上からそれぞれの建物を撮影した写真の数々から迫ります。きっと、目の前に気球連隊が再現されるように感じると思います。モダンな本部・兵舎の建物、西洋式庭園、そして正門前の不思議な敷地の形にも注目です。遠近法の利用??一方で、平時における気球隊員の生活の様子にも迫っています。「酒保」と呼ばれた売店で寛ぐ隊員の姿もみることができます。また、周辺の地図資料により、その他の陸軍施設や昭和17年開校の東京帝国大学第二工学部構内の状況も見て取れます(たった9年しか存在しなかった東大の学部ですが有能な科学者を数多輩出しております)。現在も跡地に残る貴重な創設時の木造校舎の姿も見て取れます。残念ながら、こちらも昨年の第二格納庫に引き続いて、今解体の危機に瀕しております。また、兵役を終えて満期除隊を迎えた兵士が記念に配った気球隊の「除隊盃」も数種類を今回展示しております。気球の絵が描かれたナカナカに素敵なデザインであります。特に、繋留気球が描かれた盃は、まさに「赤い眼の空飛ぶ鯨」の趣で愛嬌のあるものです。

☆その7:気球連隊に昇格した際の記念祭の門飾りを復元しています!!


昭和11年に気球隊は、晴れて気球連隊に昇格します。それを記念した門柱飾りを撮影した当時の写真が残っております。今回は、高校の文化祭のように、それを段ボール等の材料を用いて再現してくださいました(「千葉市の近現代を知る会」会員の方の力作です!!)。これは、昭和11年(1936)に、気球隊から気球連隊への昇格を記念して設置したもので、その雰囲気を演出しております。当時の実物を撮影した写真も展示してあります。展示室でも、所沢から千葉へ展示内容が切り替わる場所に展示しております。未だご来館されていないかたは、どうぞお楽しみに!!後編のその8で紹介する「部隊歌」とともに、少しでも当時の空気を感じていただければと願っての展示であります。

 

(後編に続く)

 

 おのづから 心に秋も ありぬべし(後編) ―残り2週間の小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫」私的「見どころ20選」(7月11日閉幕)!!― ―小企画展を名乗っておりますが中身は正真正銘「特別展」級です!この機に是非ともお見逃しなく!!―

6月25日(金曜日)

 

☆その8:隊員が歌った「気球隊の歌」を新録音で聞くことができます!!


軍隊の各部隊には、学校における「校歌」と同様、通常「部隊歌」がつくられております。そういうわけで、気球隊にも「隊歌」がありました。しかし、楽譜があったものの実際に如何なる歌だったのか、楽譜音痴の私には知りえませんでした。それが、今回音楽家でもある某校長先生の御協力を得て新録音が叶いました。会場内で繰り返して流しておりますので、是非とも耳にしてみてください。ただ勇ましいだけの所謂「軍歌」然とした曲ではありません。歌詞も気球隊の歴史と航空隊としての誇りをうたい上げた内容です。作詞家の寺師軍医という人物にもちょっぴり迫っております。調べてみると、軍医として兵隊の生命を守るための立派な活躍をされた方でビックリ!併せて、気球隊のラッパも収録し、併せて会場で流しております。

☆その9:千葉移転から終戦までの気球隊(連隊)の活動の全容を年表で整理!
外地での気球隊の活動を掲載した当時の新聞・雑誌記事を紹介!!


日本が、満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと日本が戦線を拡大するなかで、気球隊(連隊)が外地ではどのような活動に従事していたのか。また、内地においては如何なる機能を果たすことを期待されていたのか等、年表と地図を用いて、一覧として把握できるように展示してあります。この年表・地図は大変にわかりやすく、しかも詳細なもので、一目で気球隊の戦時体制下の活動が見渡せるようになっております。また、当時の中国での活動のようすは、新聞記者等の取材をつうじて、新聞記事や写真画報等の手段で広く国内でも報道されております。今回は、気球隊(連隊)の活動の様子を報道した当時の資料を数多展示しております。是非ともご覧ください。

☆その10:戦時の気球隊の大陸等での活動について隊員の手帳から復元!!


上記のような、大陸における気球隊の転戦の状況を、残された気球隊員の手帳から復元し、昭和12(1937)~15年(1940)の3年間の転戦の状況を地図に落とし込んでおります。単に「気球隊は」といった主語によってではなく、「気球隊の○○さんは」という個人の活動として、広範な大陸での転戦のようすを個人のレヴェルで復元した今回の展示は、戦争という国家の活動で個人が如何に翻弄されてきたかを如実に示す資料と考えます。勇ましさの裏にある、厳しくも悲惨な戦争の実態を感じ取ることができましょう。是非ともご覧ください。

☆その11:戦線の拡大と戦況の劣勢に伴って、気球隊(連隊)の活動が、国外から国内に移行し、期待される機能に変化が生じたことを知ることができます。

 
昭和14年(1938)に勃発した「満州国」とモンゴル人民共和国間の国境紛争である「ノモンハン事件」では、モンゴルを衛星国とするソ連との軍事衝突となりました。その際に、茫漠とした平原で敵の動向を掴むことを目的に登騰した気球が、ソ連戦闘機によって悉く撃ち落されました。このことから、制空権のない場面では気球の機能が殆ど果たせないことが端無くも白日の下に晒されることとなります。時代は、気球の時代から飛行機の時代へと移り変わっていくことを象徴する事件でありました。
もう一つの契機が昭和17年(1942)の所謂「ドゥーリットル空襲」と称される米軍機(B25)による初めての国内空襲でした。この空襲で、日本の防空体制が全く無防備であることが明らかになります。そこで、気球連隊には国内の防空機能が期待されるようになるのです。その結果として、「防空気球」なる機能が求められるようになるのです。はてさて、防空気球とは実際に如何なる機能を果たしたのか。当時、盛んに市民に対して宣伝され周知に努めた資料の数々を今回展示しております。是非ともご覧ください。
もっとも、全く海外での活動がなくなったわけではありません。石油の確保を目的に進出したオランダ領インドネシアでも、パレンバン防空本部に「第101要地気球連隊」が配属され、防空気球を昇騰しております[昭和18年(1943)]。その結果、イギリス戦闘機が絡まり墜落させる成果をあげましたが、戦局の好転に資することはありませんでした。

☆その12:戦中の婦人誌・子供誌で宣伝された気球隊と実態を知れます!!


上記したように、国内の防空対策(「軍隊はここまで考えて対策しているので国内は安全ですよ!!安心してください!!」)に関する宣伝活動は、国内で生活する女性・子ども向けに盛んに発信されました。今回の展示でお世話になっている伊藤奈津絵さんの気球コレクションの白眉は、こうした資料を数多く収集されていることにあります。当時発行された婦人雑誌・子ども誌の数々には、気球連隊の防空機能がこれでもかと豪華カラーイラストを用いて宣伝されています(こんなことできるのか??と疑問に思うほどです!!)。逆に、どれほど戦争遂行にあたって国民の不安を払拭しようと腐心していたのかが透けてみえるように思えます。そうした貴重な資料をご覧いただけるまたとない機会となっております。もちろん、それが正に「絵空事」であったことは、気球連隊のお膝元である千葉市内への空襲でも、ひとつの防空気球すら昇騰されなかったこと。そして、何よりもB29 による高高度からの爆撃等には全く無力であったことからも明らかでしょう。そのことを痛感できる展示となっております。戦時における政府(軍部)の在り方を知ることのできる部分であります。

☆その13:風船爆弾に関わった気球隊のようすを知れます(特に県内の一宮)!


 戦争最末期の軍需物資の極度な欠乏の中で立案され、実施に行われた「風船爆弾」によるアメリカ大陸への直接攻撃についてはよく知られておりましょう。しかし、作戦実行に気球連隊がどのように関わっていたのかついては意外と知られておりません。ざっくりと申し上げれば、風船爆弾の開発と爆弾製作については気球連隊が関わっておらず、実際にそれを放球するための実働部隊として気球昇騰の実績のある気球連隊が担当したということになります。放球は、国内の3か所から行われ、そのために気球連隊の本部も千葉から茨城県の大津(現:北茨城市)に移されております。今回は、特に、放球地の一つであった千葉県内の一宮での実態について迫っております。どこから放球されたのか、水素ガスを如何に運搬したのか、兵士はどこに駐留していたのか等々、知られざる風船爆弾の拠点の実像が浮かび上がって参りました。千葉県内で風船爆弾製作に動員された県立市原高等女学校の女学生への聞き取り調査記事も展示しております。これもよく知られておりましょうが、極端な物資不足の中で、直径10メートルにもなる気球の材料には「和紙」が使われ、貼り合わせる糊には「蒟蒻糊」が使用されております。それでも、3か所から昭和19年から20年3月にかけて、合計で約9千もの風船爆弾が放球され、300個ほどがアメリカに到達したとされ、実際にアメリカでの被害も報告されております。

☆その14:戦後の気球連隊跡地利用について知ることができます!!


昭和20年(1945)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏をしました。軍隊は解体され戦後の跡地利用が始まります。千葉市内の陸軍施設も御多分に漏れず、戦後に様々な利用がなされていきます。本展では、気球連隊の跡地利用について紹介しております。昭和30年に撮影された写真では、空襲で焼け残った第一格納庫前で遊ぶ子供たちの姿が写っております。そもそも、千葉市空襲後に、どの建物が焼け残ったのかすら明確ではありませんでした。今回の展示では、気球連隊に限定せず、周辺の陸軍施設や東京帝国大学第二工学部等の空襲被害状況を、個々の建物レベルまで検証して地図上に落とし込んでおります。公式資料でも空襲被災地図は相当に大雑把なもので、これほどに詳細な被災地図が公表されるのは初めてだと思われます。そして、巨大な気球格納庫は2棟ともに残りました。その戦後についても見ております。

☆その15:「千葉公園体育館」は解体された気球連隊「第一格納庫」の部材で建てられた」との言説は真実か否か、初めて明確に検証されました!!


これは、是非とも会場でご覧ください。単なる「都市伝説」に過ぎなかったことがハッキリと証明できました。誰もが納得できる証拠が展示されております。是非会場で「ガッテン!!!」していただきたいと思います。

 

 

※以下は、「見どころ案内」ではありませんが、その15に関しまして皆様に情報をご提供して頂きたいことが御座いますので、この場でお願いをさせてください。それは、「千葉市立本町小学校講堂(本町小では体育館ではなくかように称しております)」が、戦後になって、陸軍関係の格納庫の部材を再利用して建設されたとされていることについてです。この情報は、当時千葉市役所で勤務されていた方や、本町小OBの方等、複数の情報筋からのものですので、動かぬ事実だと思われます。当講堂は、昭和36年(1961)年10月23日から昭和38年(1963)年2月16日に新庁舎が完成するまで、千葉市役所の仮庁舎として利用されてもおりました(現在「千葉トヨペット本社屋」として使用され登録有形文化財に指定される市庁舎から、昭和45年に建設される現市庁舎屋に移転するまで使用されることになる市庁舎完成までの期間:立地は現在の千葉県警察本部の建つ場所)。そこで勤務されていた方もかように証言しておられます。ただ、それら証言には大きく2つの内容が混在しております。「気球連隊の第一格納庫の部材を用いて作られた」との話と、「何処かの飛行場の格納庫」であった」との話であります。第一格納庫が昭和30年過ぎまで現地に残っていたことは明確です。従って、正確に何時解体されたのか、本町小講堂建築が何時かを、それぞれ特定することが必要でしょう。「何処かの飛行場の格納庫」という説でいえば、近くで言えば「下志津飛行学校」であろうかと思います。確かに、そこにも格納庫が存在していたことは確かです(戦前の航空写真で確認すると本町小講堂の外観とよく似たが見て取れます。第二格納庫という建物です)。ただし、下志津飛行学校内に存在した建物の戦後の状況については、未だ調査が行き届いてはおりません。同時に、こうしたことを調べる必要がありましょう。かような訳で、今回の企画展ではこのことには触れておりません。飽くまでも「千葉公園体育館が第一格納庫の部材で建設されたことは明らかな誤り」ことを明らかにできたのみです。もし皆さんのなかで、本町小講堂の部材について確か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非とも本館までお寄せいただけましたら幸いです。

 

☆その16:第2格納庫に用いられた画期的な建築技術が理解できます!!


昨年惜しまれつつ解体された気球連隊「第二格納庫」に用いられていた建築技術が「ダイヤモンドトラス工法」であり、大正6年(1917)野澤一郎氏により創業された巴組鉄工所(現:巴コーポレーション)で、昭和7年(1932)に新たに開発された建築技術です。それは、航空機等を格納する大空間を低コスト・短期間で生み出すことのできる技術でした。その構造は、立体構造の基本形を三角形に求め、その組み合わせでの菱形として曲面を構成するものであり、ダイヤモンドのブリリアンカットのように美しく骨組みされることから、そのように命名されたものです。この工法の特色は、大空間を無柱・無梁で構成していくため、一般のトラス建築のような膨大な資材を必要とせず、しかも足場を組まずに構築できるという、大幅な経費節減と工期短縮につながる画期的な工法であり、特許も取得しております。
第2格納庫は、今回の調査で昭和9年に建築されたことも判明しました。つまり、ダイヤモンドトラス工法で建築された初期の建築物であり、しかも陸軍からの発注であることからも、その後の企業活動の試金石となるべく総力を結集して建築された建物であると思われます。そのことは、その後に建築されたダイヤモンドトラス構造による建造物と比較して構造に稠密性が感じられることからも分かります。構築された三角形の構造も後の二等辺三角形ではなく、細かな正三角形の組み合わせとなっているなど、もっとも「ダイヤモンドカット」の例えが明確に理解できる作例となっております。

☆その17:模型展示が充実しています!!

1.第二格納庫の立体復元模型


「千葉市の近現代を知る会」代表で建築家の市原徹さんが制作されたペーパークラフト模型であり、建築当初の第二格納庫の姿を忠実に再現したすばらしい模型となっております。ダイヤモンドトラス構造を立体的に紙で構築することは不可能であり、その再現にまでは到っておりませんが、気球のゴムを傷めないように紫外線をカットする黄色ガラスの再現や、巨大な扉構造の再現など、よく紙でここまで……と思うほどの再現性であります。昨年度本館特別展「軍都千葉と千葉空襲」での展示後、市原様から本館に御寄贈頂いた模型となります。


2.第二格納庫ダイヤモンドトラス構造立体模型

市原さんが復元された第二格納庫の設計図をもとに、3Dプリンターで第二格納庫のダイヤモンドトラス構造のみを同縮尺で立体的に再現した模型であり、精緻なダイヤモンドトラス構造の鉄骨構造を見事に再現しております。1.の模型と並べて展示してあり、同縮尺でありますので、両者を比較すると、第二格納庫の全貌を過たずに捉えることができます。これをご覧になったお客様の多くが「なんて美しいの!」と感想をお寄せくださっているのは嬉しい限りです。正に構造美の極致かと思います。本模型は、昨年閉校となった「千葉実年大学校」歴史倶楽部一同様から本館にご寄贈いただいたものとなります。兎も角、素晴らしい出来栄えです。


3.巴コーポレーション所蔵ダイヤモンドトラス構造模型


巴コーポレーションが所蔵するダイヤモンドトラス構造模型です。制作時期は不明ですが、会社では戦前の作として伝わっております。第二格納庫と比べて、ダイヤモンドを構成する三角形が二等辺三角形となっているなど、第二格納庫よりも若干簡略化された構造となっており、第二格納庫よりも後の状況を示す模型と想定できましょう。こちらも1/100縮尺ですので、1.~3.を比較するのにとても便利です。
※展示ケース内には、様々な気球模型が浮かんでおります。これも一興です。こちらも市原徹さんのお手製となります。力作です!!

☆その18:第二格納庫に用いられていた部材の一部を見ることができます!


第二格納庫の解体時に、跡地を購入された(株)積水化学工業様からご寄贈いただいた、ダイヤモンドトラス構造の部材の一部を展示してあります。また。屋根やその下に置かれていた目地板、使用されていた螺子・ボルト等々、実際に90年近くに渡って第二格納庫を支えた部材も併せて展示しております。画期的な建築技術の裏側を是非目前でご覧ください。

☆その19:第二格納庫の解体経過を写真でみることができます。


昨年、惜しまれつつ解体された第2格納庫の解体の経過を追った写真を展示しております。屋根を取り去った後に姿を現したダイヤモンドトラスの美しさに感銘をお受けになることと思います。逆に、どのようにして建築されていたのかを見て取ることもできます。解体から判明したことは、建築の構造体としては老朽化の兆候は全く見てとることはできなかったことです。改めて構造躯体としてのダイヤモンドトラスの堅牢さを証明することとなりました。この建物の保存が叶わなかったことを心底残念に思います。

☆その20:「千葉市近現代を知る会」代表:市原徹さんによる軍用気球研究、建築家としてのダイヤモンドトラス構造の研究成果、そして同会会員:伊藤奈津絵さんの貴重な「気球隊関係コレクション」を目のあたりにできる展示総数160点にも及ぶ日本初の軍用気球に関する画期的な展示会です。


改めて申すまでもありませんが、今回の企画展で展示する「伊藤コレクション」は、今後滅多に目にすることのできないであろう、掛け値なしに貴重な資料ばかりであります。それらを目の当たりにできるまたとない展示会でございます。市原徹さんと伊藤奈津絵さん、そしてご両人の所属する「千葉市の近現代を知る会」のご活動とお力添えの精華の展示会ともなっております。是非ともお見逃しなく。

 

 以上、本展の「見どころ20選」を2日間にわたって連載させていただきました。会期の終了まで2週間となします。どうか、この機会を逃さずにご来館くださいませ。館職員一同、皆様の御出でをお待ち申し上げております。本展をご覧いただき、改めて戦争の時代を振り返り、恒久平和への思いを新たにしていたける機会ともしていただきたいと存じております。勿論、未だに千葉市は「蔓延防止等重点措置」地区として継続中でございます。ご来館の際には、皆様お一人おひとりも、感染防止対策を充分にお願いいたします。

 

 最後の序でとして付け加えさせて頂きますが、そんなに簡単なことではないのは重々承知の上で、今回の第二格納庫のように、貴重な建築がいとも簡単に解体されて地上から消滅してしまうことを心の底から残念に思います。ダイヤモンドトラス構造体としては90年を越えて、殆ど老朽化の痕跡は見られなかったのです。私企業、公的機関(国・地方公共団体等)、そして一般市民の力を結集すれば、他の道もあり得たのではないでしょうか。今現在も、千葉市内だけに限っても、貴重な文化財級の建物が解体の危機に瀕しております。地道な保存活動が行われてもおりますが、「聞く耳持たぬ」的な対応で門前払いというケースが殆どです(まるでどこかの国のトップの方の答弁と選ぶところがありません)。申し訳ありませんが、その理由の大きな部分は経済効率に反することに帰結します。平たく申せば、金儲けに繋がらない建物は理由の如何を問わず、とやかく言われる前にさっさと壊してしまえというのが世間一般の趨勢であります。百歩譲って私企業であればまだしも、そうとは限らないのが現実であり、暗澹たる思いに駆られることが多いのです。今後、おそらく際限なく続くこうした文化遺産の破壊を如何にしてくい止めて豊かな未来へと繋いでいくのか、そんなことをも考える切っ掛けにして頂ければと心底願っております。

 

 

 會津と薩摩 または「教育」の機能について(前編) ―または「平常時」と「非常時」に活きる教育の機能について―

7月2日(金曜日)

 関東地方も梅雨に入り、10日ほどが経過しました。昨年もそうでしたが、コロナ禍に起因する感染予防対策下での生活は、この時節やはり相当に身体に応えます。梅雨寒や一日の中での寒暖差もかなりダメージをうけます。まぁ、大切な長雨の時期を心地よく過ごせるよう、せめてお互いに気配り心配りをしつつ、人間関係での波風を立てぬようにしたいものです。できる限り心穏やかに過ごすことがなによりでございましょう。館の外ではものすごいスピードで燕たちが飛び交っております。何処かで子育てをしているのでしょう。この姿が辛うじて心を和ませてくれております。

 さて、今回はここ何年かのNHK大河ドラマでは、江戸時代の教育の在り方が描かれることが多くなりました。今回は、コロナ禍という「非常事態」であり、そのこととも関連して教育の機能について考えたことが御座いましたので、そのことについて記させていただきます。江戸時代の教育機関については、高等学校の教科書で説明されている要点を纏めて掻い摘んでお示しすれば、以下のようになりましょうか。

 

1. 幕府は儒学による武士の教育を推奨し、中でも幕府体制を支える理論として朱子学が重んじられ、特に「寛政の改革」では朱子学を正学として、官立の学校としての「昌平坂学問所」が設立されたこと。

2. 諸藩でも藩士の子弟教育を目的とする「藩校」が設けられ、朱子学・武術を中心に、後には洋学・国学等も取り入れることもあったこと。


3. 城下町から地域にも、藩の援助により藩士や庶民の教育を目指す「郷校」がつくられるようになったこと。

4. 民間でも、武士・学者・町人によって「私塾」が開かれ、儒学や国学・洋学などが講義されたこと(大阪の懐徳堂、広瀬淡窓の咸宜園、吉田松陰の松下村塾等々)。


5. 一般庶民の初等教育機関として夥しい数の「寺子屋」が全国に開設され、「読み」「書き」「算盤」等の生活に役立つ実学教育を行ったこと。

 

 以上のことを整理すれば、まず、近世社会においては、近代国家において一般的に行われている国民国家の形成を目指した全国一律の教育システム(日本の学習指導要領・英国のナショナルカリキュラム等)は存在していなかったということであります。大名が藩の子弟教育のために設置した「藩校」においても、行われている学習カリキュラムは藩ごとに大きく異なっておりましたし、ましてや庶民に対する教育施策はほとんど無きに等しく(上記3.のようなケースは決して多くはありません)、主に私的な教育機関であった所謂「寺子屋」が「読み・書き・算盤」を中心とした実学教育を担っていたに過ぎませんでした。中身も統一されたテキストがあるわけではありませんので、寺子屋の師匠の考えによって内容も左右されがちであったことでしょう。もっとも、近世後期になって、日本全国に爆発的とも言える規模で広がった寺子屋のお陰をもって、当時の日本人の識字率は世界最高峰であったと考えられていますので、生活に必要とされる基礎学力の育成に確実に寄与したことは間違いありません。しかし、私は何となく幾つかの事例を挙げて簡単に扱われている「私塾」の存在こそが、江戸時代における日本人の知的レベルを飛躍的に向上させる機能を果たしたと考えるのですが、このことは寺子屋における教育の在り方と併せて、いつか別に論じてみたいと考えております。現在放映中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』でも、渋沢栄一が従妹である尾高惇忠の営む私塾で学問の基礎基本を身に着けたことが描かれておりました(あれは寺子屋ではありません)。以降では、基本的に藩毎に大きく異なる武士階級に対する教育理念やその姿について述べてみたいと思います。

 数年前にNHKの大河ドラマとして放映された『西郷どん』。言うまでもなく、主人公は薩摩藩の西郷隆盛であります。討幕運動の中核として活躍し、明治維新をもたらした最大の功労者の一人であり、また明治政府を去った後に新政府への不満分子に担がれ、兵を挙げたものの敗死した人物に他なりません(「西南の役」)。正直に申し上げますと、この大河ドラマについては、偶々初回のみ視聴に及んだだけで、その後は一切視聴することはありませんでした。因みに、当時「読売新聞」に連載されていた「古今をちこち」(磯田道史)によれば、初回視聴率は関東が15.4%と振るわなかったのに対し、関西では19.8%(地元鹿児島県は34.9%)に達したとのこと。磯田は、東西での視聴率差の要因を「西南日本の薩長史観と、東北日本のアンチ薩長=徳川評価史観の地域対立がいまなおある」ことに求めていますが、当方にも頷ける部分がございます。当方の友人に先祖代々浅草に住んでいる者がありますが、よく「薩長の連中がこの江戸の街を駄目にした」と嘆いていたのをよく覚えております。当方の山の神は会津に連なる人でありますが、やはり新政府軍には「いいようにやられた」との思いを何処かに抱いております。私も、大した出自では御座いませんが、天領の農民として、明治から東京に住むものとして、学べば学ぶほどに幕末における薩長の遣り口には納得のいかない思いを感じます。本当は脚を運んでみたくて仕方がないのですが、未だ鹿児島県には一歩も脚を踏み入れたことがない理由として(勿論冗談ですが)、「敵地だからね」ということを常としております。山口県にも数年前に必要があって初めて行きました。瀬戸内沿いの光市の学校へ視察に行かざるを得なくなったためです。しかし、周囲には「あそこは周防国であって長門国ではないからさ。敵の本丸には未だ脚を踏み入れていない」などと嘯いておりました(もっとも、両方とも毛利氏の所領でありますが)。以上は、勿論、話のネタであって、本心ではないことを急いで付け加えさせていただきます。両県出身の親しい方が何人もいらっしゃいます。しかし、今回は興味深いこの問題には立ち入らず、その初回で描かれた江戸期の藩士に対する子弟教育について述べることといたします。特にここでは、現在『青天を衝け』でも正に取り上げられている幕末における会津藩と薩摩藩とにおける藩士子弟への教育の在り方を取りあげてみましょう。申すまでもなく両藩は幕末に干戈を交えることとなり、会津藩が一敗地に塗れる結末を迎えます(「白虎隊」の悲劇等)。今回は磯田道史『歴史の読み解き方』(朝日新書)に導かれてのご案内となります、両藩の教育の哲学は両端といえるほどに異なっております。まずは、それが幕末の政治状況に如何に反映したのか探ってみましょう。
(後編に続く)

 

 會津と薩摩 または「教育」の機能について(後編) ―または「平常時」と「非常時」に活きる教育の機能について―

7月3日(土曜日)

 会津藩には「日新館」という優秀な藩校がありました。その故地にではありませんが、別の場所に全施設が木造復元されており、その結構は圧巻であります。甲冑を着ての水連をするための所謂「プール施設」まで復元する徹底ぶりです。会津藩では、一定身分以上の藩士には修学が義務づけられ、藩祖保科正之の考えに基づく朱子学の理念教育(「かくあるべし」)と武芸の鍛錬とが徹底して行われました。その眼目は藩士の「人の道」の育成であり、統治と教育との一体化が目指されました。その成果として、在籍者の文武両道の優秀さは際だっていたと言われます。当時の最高学府である幕府「昌平坂学問所」では各藩から優秀者を集め、その内の最優秀者を舎長にしましたが、同藩から四人もそれを輩出したのは会津藩だけであったことがその証となりましょう。更に、学校外でも「什の掟(じゅうのおきて)」による道徳教育が徹底されました。最後に記された「ならぬものはならぬものです」でよく知られておりましょう。

 対する薩摩藩の子弟教育は「郷中(ごじゅう)教育」と言われ、現在の少年団に近いものです。異年齢の青少年で構成される「郷中」という小集団で共に学び合う形式であり、読み書き等の実学以上に具体的な問題への対処法が重視されました。そもそも決まった学校が存在せず、学習するためにはまず場所を借りる実務的な交渉から始まるそうです。そこでの学びも、例えば先輩からの問「道の端を歩いていて、石垣の上から唾を吐きかけられたらどうする」に、各々が解答を用意して徹底的に議論し合うことが中心です。元より正解はありませんが、「道の端を歩くからそうした無礼にもあう。道の真ん中を歩くようにせよ」、つまり、日常から起こりうるあらゆる事態を想定して、自身の一挙手一投足を決めることを学びます。理念重視の会津藩と異なり、状況に応じた判断力を徹底的に鍛える教育の在り方がここにはあります。そこでは日本人の言い逃れの常套句「想定外」は通用しません(東日本大震災でもコロナ禍においても、嫌になるほどに「想定外」との言葉を耳にしたことには誰もが頷いていただけましょう)。薩摩藩士の精神的支柱となっている、戦国時代の当主島津忠良(1492~1568)[彼の孫が関ヶ原の合戦の頃の当事者島津義弘・義久兄弟であります]の作とされる『島津日新公(しまづじっしんこう)いろは歌』47首中の巻頭歌を以下に引用します。これこそ、薩摩教育の何たるかを物語っています。反面、薩摩藩士子弟の識字率は、他藩と比べて相当に低かったとされていることは申し添えておかねばなりません。

 

 いにしえの 道を聞きても 唱えても 我が行いに せずば かいなし
(当方による意訳:昔の賢者の立派な教えや学問も、口に唱えるだけで実行をしないのであれば無いのに等しい。実践・実行こそが何にも増して重要なことなのである。)

 

 

 二代将軍徳川秀忠の庶子を藩祖とし、徳川幕府の藩屛となることを運命づけられた会津藩と、外様の雄藩として元来独立独歩の気風の強い薩摩藩とは置かれた立場も異なり、その優劣を現代人が軽々に判定すべきではありますまい。ただ、「乱世」と「安定した世」に求められる教育とは自ずと異なりましょう。それは、現代社会で申せば、「緊急時」と「平常時」とに置き換えることもできましょう。いざ戦となれば、幾ら精鋭揃いの会津兵とて大いに分が悪かろうと思います。圧倒的に優勢な兵力を擁しながら「鳥羽伏見の戦い」に敗れたことは、幕府(会津)軍にとって、正に「想定外」の事態であったことでしょう。しかし、何千回もの思考訓練を繰り返してきた薩摩藩士にとっては、練り上げた戦略・戦術の在るべき帰結だったと思います。恐らく、場合分けした幾多の想定(シミュレーション)を経たうえで、それぞれの対応を練っていたことでしょう。これぞ、「郷中教育」の精華に他なりません。従って、目的達成のためなら「人の道」に反する悪辣な謀略やテロでも躊躇無く断行しております。そのことが当方にとっては途轍もなく癇に障り、どうしても好意的に捉えることができませんが、それが新たな歴史の扉を開ける原動力として働いたことは間違いありません。しかし、「在るべき人」となるべく指導を展開する会津藩の教育理念に大きな価値があることも疑いがありません。両藩の基本的な学びの在り方は、何れともに期待される教育の機能ではありますまいか。このことは、今後の教育の在り方を考える重要な指針となるように思うのです。まさに、「温故知新」であります。

 そうした意味において、今現在が如何なる状況下にあるのかは言うまでもございますまい。今の政権を担う皆さんが、コロナ禍で習うべきは薩摩の「郷中教育」に他なりません。平時であれば、ある意味、どのような人物がリーダーであっても、如何様にも乗り切ることができましょう。しかし、緊急事態時にはそうは参りません。的確な現状認識と決断力、そのことが将来如何なる結果をもたらすべきかのヴィジョン・シナリオを描くことのできる人物であること、そして腹を据えてそれを実践・実行に移すことのできる胆力ある人物こそが求められます。そして、何よりも、そのことを説得力ある人間味溢れる言葉で国民・住民に伝える言語能力が求められましょう。悲しいかな、「非常事態」は、そうした資質の有無を残酷なまでに暴き出しているのだと存じます。こうした非常時は、人としての度量・本領を冷酷なまでに白日の下に晒すことになりました。こうした方々にこそ、「郷中教育」の何たるべきかを学んでいただきたい。真摯に歴史に学んでいただきたいとの思いを禁じ得ません。しかし、何よりも、このような現実において、今後皆様国民の一人ひとりが現状を的確に認識して判断・行動することが求められていることを忘れてはなりません。ただ現状を冷笑しているだけでは、批判する対象と全く選ぶところがないと自省すべきでございます。それが、日本のよりよい未来への行動指針ともなりましょう。まさに、我々自身が「島津日新公」の教えを噛みしめる必要があるのだと存じます。

 最後になりますが、この場をお借りしまして、少し前に4回にも及ぶ長編メッセージを辛抱強く丁寧にお読みくださりコメントを賜りました「小太りじいさん」様に御礼を申し上げさせてください。日常のちょっとした疑問から、歴史を追求することができる、そんな面白さをお伝えしたかったのですが、そのことを的確に言い当ててくださったことに衷心よりの感謝を申し上げます。ありがとうございました。本メッセージを書き記すことへの勇気が湧いて参りました。

 


 

 小企画展『陸軍気球連隊と第二格納庫』のご観覧ありがとうございました! ―以後「市制施行100周年」記念の展示会を矢継ぎ早に開催いたします!! 特別展『高度長期の千葉―子どもたちが見たまちとくらしの変貌―』(8月3日~10月17日)、企画展『千葉市誕生―百年前の世相からみる街と人びと―』(10月19日~12月12日)―

7月9日(金曜日)

 7月に入ってからは梅雨も本番となったように感じられます。大雨、または鈍より天気続きであり、ここ1週間ほどお天道様の顔を拝むことも叶いません。そうは申しても、この時節ならではの愉しみもございます。そろそろ花の時季は仕舞いとなりますが、本館玄関前にある雨に濡れた紫陽花の青紫色が未だ美しさを保っております。また、本館の環境整備をして下さっているスタッフの方が植えてくださった向日葵の花も徐々に開き始めております。今でこそ遠慮がちに咲いておりますが、梅雨が明ければ夏そのものを謳歌するような立姿となりましょう。愛新覚羅溥傑と嵯峨浩夫妻由来の日中友好の朝顔もちらほらと開花を始めております。花と申せば、昨年植え付けたものの花をつけることが叶わなかった懸案の大賀蓮。2年目に開花する可能性が高いと聞いてはおりますが、今のところは浮葉・立葉ばかりで花芽は一向に出て参りません。千葉公園では既に沢山の花に出会えるそうですが、中々に気難しい御仁のようです。皆様も、散歩序でに亥鼻山での花見物でも如何でしょうか。

 さて、一昨日は「七夕」でした。皆様のお宅では七夕飾りをされたでしょうか。当日は生憎のお天気でしたので、御気の毒ではありますが、牽牛と織女の年一度の逢瀬は叶わなかったのかもしれません。学校で仕事をしている頃には、必ずこの時期には生徒が願い事を記すことのできるよう学年ごとに竹を立てておりました。そして、毎年、竹はあっという間に生徒諸君の願い事で一杯に。中にはホントウに微笑ましい内容のものもあり、毎年それを覗き見ることを楽しみにしていたものです。我が家でも、特に子供が小さな頃には、なるべく古くから伝わる風習を伝えようとの思いもあって、一般的な年中行事については欠かさずに執り行っておりましたが、流石に子供が家を出て夫婦2人の生活となると、どうしても怠け者の性分が顔を出してしまいます。必然的に、取捨選択の意識が働き、今年も節分の豆撒きは挙行しましたが、端午の節句は流石に鯉のぼりを出す気にもなれず、コロナ禍退散を祈念する意味から「鍾馗」さまを飾ったのみ。「七夕」に到ってはもう何年も無精を決め込んでおります。豆撒きも東京下町でも近所で行っているのは我が家のみとなりました。小さな子供でもいればなんでもないのですが、流石にいい初老夫婦世帯で「鬼は外!福は内!!」などと大声を出すのも気恥ずかしく、柄にもなく世間体を気にしたりしております(山の神は豆の仕入れ専門であり、汚れ役?は専ら当方の管轄となります)。元来は、裃でも纏って威勢良く行うのが筋でありましょうが、かような訳で昨今は極めて遠慮勝ちに行っております。かような心構えでは、そもそも邪気払いはもとより、招福の効果も期待できますまい。もう還暦も過ぎたことですし、そろそろ店仕舞といたそうかと、弱気な風に吹かれる仕儀に立ち至っております。

 その「七夕」ですが、今から76年前の7月7日未明、テニアン西飛行場を進発した129機のB29爆撃機が889.5トンもの焼夷弾を千葉市中心市街地に投下し、死傷者1,204人、被災戸数8,489戸という大きな被害をもたらしました。所謂「七夕空襲」です。昨年度の本館の特別展『軍都千葉と千葉空襲-軍と歩んだまち・戦時下のひとびと-』で取り上げておりますが、同年6月10日に日立航空千葉工場を標的にして蘇我周辺を焼き払った空襲とともに、千葉市制施行100周年を迎える今年、いや未来永劫に千葉市民が忘れてはならない日であります。現在、千葉市総合政策局総合政策部都市アイデンティティ推進課の行っている「千葉市制100周年 七夕平和プロジェクト」の一環として「短冊に平和の祈りと願いを込めて」とのスローガンの下、市内各所のショッピングセンターや公共施設に竹を立ててございます。本館もこれに協賛しており、正面玄関の受付奥に短冊を付ける竹を立ててあります。ご来館の際に、もしよろしければご活用くださいませ。当初7日(水曜日)までとしておりましたが、7月11日(日曜日)まで延長したいと存じます。飽くまでも趣旨は「平和への祈り願い」となります。「コロナ禍の終息」のお願いならいざ知らず、「お小遣いがアップしますように」といった個人的な内容ではありませんので、悪しからずご承知おきくださいませ(もっとも個人的には身につまされる重大な願い事ではありますが)。

 話は本題に移りますが、5月末から開催して参りました標記小企画展の会期も、残すところ明日と明後日の2日間となりました。戦前に日本で唯一陸軍の「気球隊(気球連隊)」の置かれていたこの千葉市に存在する博物館施設として、国内初の「軍用気球」を扱った展示会特に、毎日・東京新聞、NHKテレビ・ラジオで取り上げていただいてからは、毎日のようにたくさんの皆様にご来館いただきましたことに感謝申し上げます。最後の土日に、お見逃しなきようご来館いただけましたら幸いでございます。会期終了後になりますが、本小企画展のブックレットを作成して刊行する予定でおります。ただ、発行時期につきましては、現段階では何時と明言できません。申し訳ございません。観覧された皆様のアンケートには「図録が無いのが残念」「是非とも図録の刊行をしていただきたい」とのご意見を数多頂いております。そして、何にも増して、本展示の核となりご活躍を頂きました「千葉市の近現代を知る会」の皆様方のご協力とご支援に、とりわけ代表の市原徹様の八面六臂のご活躍と、数々の貴重な資料の拝借をお許しくださいました伊藤奈津絵様のご厚情とに、衷心よりの感謝を申しあげる次第でございます。また、本展を切っ掛けにして、御尊父が気球隊に所属されていた、叔父が気球隊としてノモンハンで戦い命からがらで逃げてきた、自宅で気球に関する資料が見つかったので寄贈したい等々、当事者の方々のお声も沢山耳にさせていただきましたこと。改めて、今この展示会を開催して本当に良かったと思っております。有難うございました。

 そして、8月3日(火曜日)から10月17日(日曜日)までの会期で、本年度の本館のメインイヴェントである特別展『高度成長期の千葉市-子どもたちが見たまちとくらしの-』の開催となります。そして、特別展の会期が終了後、10月19日(火曜日)から12月12日(日曜日)の会期で、特別展に次ぐ展示会として企画展『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』を矢継ぎ早に開催いたします(本館では「企画展」の上位展示が「特別企画展」、略して「特別展」と言う位置づけになります)。昨年度の特別展『軍都千葉と千葉空襲-軍と歩んだまち・戦時下のひとびと-』と併せ、「千葉市制施行100年」間を、トピックとなる3つの時期に切り取って振り返ることを目論むものでございます。本館では、これまで展示会としては、規模の大きな特別展を基本的に年度一回の開催として参りましたが、本年度以降は2回の開催を継続していくことを予定しております。それが、特別展を2回とするのか、企画展で2回なのか、はたまた本年度のように特別展・企画展とするのかは、時々の諸事情によると思われます。

 本年度は千葉市にとってのアニヴァーサリーイヤーでもあり、以前から2回の特別展として準備を進めて参りましたが、今日日このコロナ禍中で市財源の逼迫もあり、残念ながら2回分の特別展予算が認められませんでした。致し方のない仕儀ではありますが、そうかといって準備してきた展示会を今さら反故にすることもできません。今年度開催することに特別な意義があるのですから。従って、泣く泣くの対応でありますが、1回分の予算を切り裂いて2回の開催をさせていただきます。その結果として、一方は規模を若干縮小しての企画展とせざるを得なくなりました。何方かを中止するよりも、若干規模を縮小しても、市民の皆様にこの百年を振り返っていただける機会をご提供するべきとの判断であります。従って、今回は経費節減のためポスター・チラシに関しましても、特別展と企画展とを併せて一枚としてございます。ポスター・チラシに関しましては、そろそろ、あちらこちらでお目にされる機会も増えてくるかと存じます。是非とも皆様のご来館をお待ち申しあげております。

 さて、ようやく8月3日からの特別展に関してです。まずは、チラシに掲載された本展の案内を引用してみましょう。 

 本展では、現在の千葉市の姿を形作った1950年代半ば~1970年代初頭の「高度経済成長期」をテーマにしました。工業化の進展や大規模団地の造成、家電の普及や公害の克服等この時代の諸相を多感な心で見つめた小中学生たちの作文や詩を手掛かりにして、千葉市の街並みや人々の生活が大きく変貌していく様子を紹介していきます。本展を通して、喧騒と希望に満ちたあの懐かしい時代を振り返ってみてはいかがでしょうか。

 

 今回の特別展で特筆したいことが、上記文にもございますように、「子どもの目線」から高度経済成長期という日本社会が大きく変貌していった時代を切り取ってみようと試みることにあります。特別展の会期を本年度は小中学校の夏季休業中のスタートとしたのも、会期を10月半ばまでと長く設定したのも、児童生徒の皆さん、そして何よりも教職員の皆様に是非ともご覧頂きたかったからであります。夏休みにお出で頂きたいことと、9月・10月は年間で小中校生の団体見学の多い時期でもありますので、団体見学の場として本館を選んでいただけることに期待を寄せております。本特別展で活用させて頂く「作文・詩」は、昭和30年代から今日に至るまで、千葉市の国語教育部会の皆さんが営々と編集と刊行を継続していらっしゃる文集・詩集『ともしび』であります。そして、それら冊子の初期のものには、時代の変化を見つめる優れた作品が多くあることに気づかされます。近年のものと比較すればそれは歴然としております。昨今の作文に希薄となっているものこそが、児童生徒の「社会を見つめる視点」に他なりません。子供が現実の社会を如何にとらえ、それをどう思っているのか、そして自らが如何にそれに関わろうとしているのかといった児童生徒の姿が感じられないのです。しかし、そのことの原因を子供達に帰すことはできません。口幅ったい物言いで恐縮でありますが、国語教育のエキスパートであるべき教員の意識と指導の在り方に最も大きな要因が存する物と存じます。勿論、一概に国語科教員の問題ではなく、「言語活動」の在り方を問う観点から申せば、全教科における教師の指導の問題に敷衍できる問題でもありましょう。その点で、当方は教員の皆さんにこそ本特別展をご覧頂きたいのです。昨今の大人ですら驚くような鋭い視線を社会に向けております。当時の小中学生の記した作文が歴史史料としても優れていることは、延いては教員の指導の賜に他なりません。作文教育の在り方には、大正期の鈴木三重吉による「赤い鳥」運動、文学者の手から子供達を取り戻そうとの呼びかけの下で行われた「生活綴り方」運動(左翼的な指向性をもっておりましたので戦時下で徹底的に弾圧されます)等、様々な取り組みが行われて参りました。そのことを振り返る特別展でもあります。

 詳細は、追ってお知らせ致しますが(本館ホームページ等)、特別展関連講演会も、高度経済成長期を様々な視点から切り取っていただこうと、「歴史学(埋立による社会の変化)」「自然誌(埋立による生物環境への影響)」「教育(作文指導の在り方)」の専門性の異なる三分野から、それぞれの講師の先生にお話しを頂くことになっております。特別展の内容につきましては、これ以降「本館ツイッター」「館長メッセージ」等々でもご紹介してまいりますので、是非ともお楽しみにされてください。勿論、図録販売も8月3日から開始致します。今回は、企画展「千葉市誕生」については言及できませんでしたが、追々とご紹介をさせていただきたいと存じます。

 

 映画作品と詩作品の『生きる』について ―自然災害多発とコロナ禍中で想う「生きる」こと― 

7月16日(金曜日)

 過日、活発な梅雨前線の大雨のなか、関東近県でも大きな自然災害が引き起こされました。中でも温泉保養地として知られる伊豆半島の熱海での土石流被害は、誰もが忘れることのできない大きな記憶として残り続けることでしょう。何よりも自然災害によって生命を奪われた方とそのご家族・親類の皆様の悲しさと悔しさは想像に余りあります。それにしましても、以前にはそうではなかったかと思いますが、この時節に毎年のように繰り返される大雨・台風による大きな自然災害によって、尊い生命が失われていることに心を痛めることが多くなりました。一昨年の九州豪雨、房総の台風被害、長野県での千曲川の大規模な水害も忘れてはなりません。その前は広島市を中心とした瀬戸内での豪雨被害も発生しました。地震等の自然災害が発生することに我々人間は抗うことはできませんが、こうした自然災害は地球の温暖化等を含む人間の活動に由来する側面が大きいものと、素人ながらに思ったりもいたします。また、理不尽にも事故で生命を奪われた八街市の小学生の報道も遣り切れない思いで一杯でした。そして、就中、コロナ禍の現在も、日本に限らず世界中で驚くような数の生命が危機に晒されております。勿論、日本とて他山の石ではありません。デルタ株の流入を兎も角も水際で防止せねばなりますまい。希望をもって生きて来られた方の生命が突然に断ち切られることの理不尽さに思いを馳せれば、還暦を過ぎた自分自身の「生命」、そして人として「生きる」ことの何たるかに想いを及ぼさざるを得なくなります。今回は、このような話題とさせていただこうと存じます。

 20歳の頃に見て感動した『生きる』という映画作品があります。「世界のクロサワ」と称された黒沢明監督の作品で、昭和27年(1952)に公開されました。主人公は役所勤務の公務員。波風を立てずに日々を送れればよしとする、「事なかれ主義」の権化ともいえる役人でした。そんな人物が、ある時を境に、住民から訴えのあった困難な地域改善事業に邁進する人物に様変わりしたのですから周囲は驚きます。彼を変えたもの、それは余命宣告を受けるほどの重い病でした。主人公は余命宣告を受けた後、これまで脚を踏み入れたこともないようなところへも出かけ、現実逃避することで死の重圧から逃れようとするのです。しかし、かえって虚しさは増すばかりでした。そうした煩悶の中で、主人公が選び取ったことが、現実の社会問題から目を背けることなく、全身全霊を傾注して課題解決と向き合い、他人のために「生きよう」とすることでした。その藻掻き苦しみながら真剣に住民のために「生きよう」とする姿は、彼が死病に取りつかれたことなど知らない同僚からは奇異の目で迎えられます。しかし、主人公は住民達から心から慕われることとなのです。そして、雪の散る中、ついに重責を成し遂げた、地域改善事業の象徴である公園のブランコに一人揺られながら息を引き取ります。その時、主人公が呟くように歌う「ゴンドラの歌(♪命短し、恋せよ乙女・・・)」に、涙なしに接することができる人などおりますまい。定年退職を間近にした主人公が、死を目前にした短い時間、人として「真に価値ある生を送ろう」とした姿に、心底打たれたことが昨日のようです。主人公は如何なる気持ちで死を迎えたのでしょうか。おそらくは、大切な何かをこの世で成し遂げた充足感をもって逝かれたと信じたいところであります。決して「なんの価値のない一生だった」との想いはなかったのではないでしょうか。しかし、黒沢は、映画の最後で、主人公のいなくなった職場で、「事なかれ主義」が百年一日のように繰り返される冷酷なる現実を提示し、この物語を単なる“美談”として終わらせていません。流石にクロサワと思わされます。

 もう一つの『生きる』。それは天才詩人谷川俊太郎の詩作品です。教科書に掲載されていたと聞いたこともありますので、授業で眼にされた方も多いのではないでしょうか。谷川は昭和6年(1931)の御生まれですので、本年はおそらく卒寿(数えで90歳)を迎えるのではありますまいか。現在も極めてお元気で、旺盛な仕事を続けていらっしゃいます。著作権の問題もあり全文引用はできませんが、最初と最後のパラグラフを以下に引用させていただきます。是非とも全文に接していただきたいと思う次第でございます。

 

 

生 き る

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

 (以後4パラグラフ略)

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

谷川 俊太郎 

 

 

 作品は周囲にある何気ない存在の羅列のように見えますが、生命維持に関わる内容が注意深く選ばれているように思います。それら一つひとつから、生きることの慶びと掛け替えのない生命の存在とが、穏やかにしかし力強く湧き上がってくるようです。この感覚は、この作品に初めて接したときから変わることがありません。

 以上ご紹介した、2つの『生きる』の扱う世界は対照的でありながらも、その世界観は共通しています。価値ある生を生み出す源泉は、有限である人生とその不可逆性への自覚であり、外界の何物かを感じとり、それを内界における慶びや意思に変換する力に他ならないことだと、私は考えるのです。

 話題は一転しますが、上記と必ずしも無関係なことではございませんので、もう少しお付き合いくださいませ。21世紀も早いもので5分の1が経過しようとしておりますが、たかが20年間の社会の激変たるや驚くべきものです。私のようなロートルには到底ついていくこともできません。もっとも飽くまでも個人的な思いにすぎませんが、私自身は例えば現在も所謂“ガラケー”を用いておりますが、不便に思うことはサラサラございません。電話とメールができればその他の機能は何一つ必要ありませんので、現段階でスマホに乗り換える気もございません。自家用車もこれまで購入してきた自動車は全て3ペダルのマニュアルトランスミッションです。オートマだから高齢者の自動車事故も増えるのだと思いますし、そもそも状況を的確に判断して適切なギアを選択して操る楽しさを味わうことができるのはマニュアルしかできないことです。つまり、正確に申せば、新たな技術に何から何まで適応する必要性も感じておりません。しかし、この時代に生まれ育った子どもたちにとっては、当方のような呑気なことは言ってはおれません。そして、その激変は今後更に加速化するものと思われます。IT技術やAI技術の進歩と、それに伴う社会のグローバル化は、良きにつけ悪しきにつけ、人間社会そのものをドラスティックに変貌させていくことでしょう。そしてコロナ禍の現実もそれに拍車をかけることとなりましょう。近未来の社会について、欧米の学者達が示す変貌予測は正に衝撃的なものです。

 

 

・「近い将来、10人中9人は,今とは違う仕事をしている。」(米:ラリー・ペイジ)
・「20年以内に、今の仕事の47%は機械が行う。」(英:マイケル・オズボーン)
・「2011年入学児童の就職先の65%は、現在は存在しない職業」(米:キャシー・デビットソン)

 

 これは凡そ10年前の言説であり、今振り返れば、流石にここまでのスピード感はないかとも思われます。しかし、それほどまでの社会の変貌が着々と進行していることは認めざるを得ますまい。自動車メーカーですら近い将来にガソリン車を全廃する方向性をとろうとしております(ポルシェやフェラーリといったスポーツカーメーカーでもそうです)。自動車関連でもう一つ例示すれば、自動運転が軌道に乗れば、確かに「運転手」という職は必要性なくなることになりましょう。今の児童生徒がこれから「生きる」時代は、かくまでもドラスティックに変わってゆく可能性が大きいのです。

 このことは同時に、我々大人がこれまで集積してきた常識が通用しなくなることをも意味します。「御爺さん・御婆さんの頃は……」といった経験則は言うまでもなく、「お父さん・お母さんの頃は……」ですら通用しなくなる時代になるのだと考えておくべきかと存じます。進路選択で申せば、より偏差値の高い学校へ進学すれば将来は安泰という公式は過去のモノになる可能性が大きいのです。既存の知識・経験だけでは物事に対処できない時代。進学した学校よりも、そこでどのような力を身に付けたかが問われる時代が到来することは確実です。いや、現実の社会では、既にそうしたシフトになりつつありましょう。人生への明確なヴィジョンをもつこと、変わりゆく社会に対応できる柔軟な思考、新たなことを学ぼうとする能動的な姿勢、初対面の人とも適切に協働できるコミュニケーション力等々、より広範な「基礎的・汎用的能力」を身につけることが求められているのです。

 ただし、重要な前提を忘れてはならないと思います。その基礎となるべきは「人としての在り方」を重視することであろうかと存じます。人として如何にあることが望ましいのか、企業活動が社会と如何なる関係性を取り結ぶのか、といった理想・理念を欠いて機械的に行われてしまえば、それは単なる効率主義と利益第一主義と堕し、結果として貧富の差の拡大した分断社会を生み出すだけでしょう。その結果が、ポピュリズムの負の側面に端的に顕現していると思います(歴史的にはプラスの側面を有した事実があることを見落とすべきではありませんが)。それでは、未来を担う子どもを育む教育は如何にあるべきでしょうか。

 それこそが、所謂「キャリア教育」なのだと思います。単なる「学校選び」「仕事選び」のみに陥り勝ちであった「進路教育」からの脱却が急務になっているのです。これには、理想と現実とは違うという声が聞こえてきそうです。確かに,従来その指摘に頷かざるを得ない実態がありましたが、必ずしも順調に進んでいるとは言いかねますが、政府は高校授業改革・大学入試改革にメスを入れはじめております。所謂「出口改革」です。高校教育も必然的に変化せざるを得ますまい。高校に勤務する教え子からも対策に日々追われていると聞きます。こうした変貌する社会を生き抜く力としての「広範な基礎的・汎用的能力」は、何か特別な手立てにより獲得するものかと問われれば、私は左にあらずと思う次第でございます。極々一般的に行われている学校行事や生徒会活動や部活動といった日常の活動、日々の授業で充分に身につけることのできるものです。ただ、その場にいる「お客さん」意識からは決して習得できないこと。自ら主体的に参画する意識を持って行動することが決定的要件となりましょう。これらは、諸活動・学習に能動的に参画することで身につく力なのです。つまり、キャリア教育とは何も特別な教育ではなく、学校における教育活動そのものに他ならないと考えます。

 人生は一度きりです。大きく変貌するこれからの社会を、主体性をもって「生きる」ことによって、子どもたち一人ひとりが意義ある幸福な人生を獲得してくれることを願います。その実現のためには、我々大人が同じ土俵にたち、子ども達の「広範な基礎的・汎用的能力」を育成することが、重要になってきているのだと思います。我々のような博物館でもそのことを強く意識していかざるを得ませんし、教育普及事業の根幹に据えることだと考える次第でございます。そして、その前提は、予期せぬ病気や事故による生命の喪失、希望を持てずに自死を選択する人々を生み出さない、社会のシステム、セイフティーネットをつくりあげることだとも存じます。不慮の事故や疾病により、希望にあふれた「生きる」ことを中断させてはなりません。その大きな役割を担うのが我々のような公的機関なのだと思います。そうした理念をもった政府・自治体であることが今後更に強く求められて参りましょう。

 

 『鬼平外伝 正月四日の客』に想う(前編) ―または 素晴らしき「時代劇」とその衰退について―

7月23日(金曜日)

 過日、非番の日であることを幸い、本年2月にBSフジで放送され録画しておいた標記「時代劇」作品を視聴に及び大いに感銘を受けました。何よりも久方ぶりに接することのできた極めて良質の時代劇に、その世界が脈々と息づいていることに喜びを感じた次第であります。しかし、反面で、客観的に考えて決して明るいとは言えない「時代劇」の未来を思わざるを得なかったのも実際でございます。今回はかような「時代劇」について話題とさせていただきます。

 まず、今回視聴した表題作品について御紹介をさせていただきます。タイトルからもお分かりの通り、フジテレビで放映されていた時代劇シリーズ『鬼平犯科帳』の外伝という位置づけの作品となります(従って“鬼平”こと長谷川平蔵は登場しません)。平成25年(2013)に制作され、有料時代劇チャンネルにて単発で放送されたものです。監督は井上昭(1928年生、時代劇制作で最も王道路線として知られた「大映京都撮影所」で鍛えられた大ベテラン)、脚本は金子成人(1949年生、倉本聰の門下の脚本家)の手になる作品です。当年にギャラクシー賞テレビ部門11月月間賞、第3回衛星放送協会オリジナル番組アワード最優秀賞を受賞しております。当方はそれから8年後にBSフジで放送された本作を録画したものを最近になって視聴に及んだということになります。

 テレビ時代劇としての『鬼平犯科帳』は、申すまでもなく、池波正太郎(1923~1990)によって昭和51年(1968)から死による中断(未完の「誘拐」)まで、営々と描き継がれた合計135編(他に番外編あり)の同タイトルの作品群を原作として制作された「時代劇」に他なりません。原作は新潮文庫で容易に手に入ります(全24巻+別館1巻)。池波作品としては、『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』等と並ぶ大ベストセラー作であり、今更当方がこの場で言を弄する必要はございますまい。江戸中期に幕府の火付盗賊改を勤めた実在の旗本長谷川平蔵宣以(のぶため)(1745~1795)が、信頼関係のある密偵を使って暗躍する盗賊集団を捕縛する快刀乱麻の活躍を描く物語作品であります(勿論、物語そのものは史実ではありません)。当方も原作は全て読んでおりますが、時たま読み返したくなる作品であります。

 そして、原作を映像化したテレビ時代劇の話となりますが、何よりも驚くべきことは、その出来栄えが原作と遜色ないばかりか、それを遙かに凌駕する高みに達しているケースが間々みられることです。勿論、それは一重に原作の出来に由来することでありますが、プロデユーサーを筆頭とし、照明・小道具等の裏方まで含めた時代劇制作スタッフ陣の層の厚さ(「松竹京都撮影所」)、そして配役の妙によるものと考えます。私が改めて申しあげるまでもないと存じますが、そんじょそこらのお手軽時代劇とは格が違います。また、比較的に良質な時代劇の多いNHK作品をも凌駕する、力の入った作品群に仕上がっていると思います。『鬼平犯科帳』としてテレビ時代劇で長谷川平蔵を演じたのは、古い方から8代目松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之介となりますが、私にとっての“鬼平”とは、その後を引き継ぎ、平成元年(1989)から平成28年(2016)までの27年間にわたり9シリーズ合計138作、スペシャル版等含めれば150作を数える作品で主役を張った2代目中村吉右衛門以外には考えられません。何より歌舞伎俳優としての吉右衛門の存在感は他の追随を許しません。余人をもって代え難き存在です。因みに、彼は初代鬼平である幸四郎の子息でありますので、親子で鬼平を演じたことになります。その吉右衛門は今でも本職である歌舞伎の舞台には立ちますが、残念ながら平成という時代の終焉を間近にして、鬼平からきっぱりと脚を洗われました。

 テレビ時代劇『鬼平犯科帳』のドラマトゥルギーの核心となるのが、盗人や周辺の人々との間に描かれる、平蔵の酸いも甘いも噛分けた人間味あふれる遣り取りと、そして悪に立ち向かう鬼気迫る鬼平の凛々しさ、その太刀姿の美しさにあると言ってよいと思います。自分自身、本作を視て何度目頭を熱くしたか知れません。そして、背景となる江戸の街の描きこみも、他時代劇の追随を許しません。飽くまでも物語ですから、史実と照らしてすべて正しいわけではありませんし、そのことをとやかくいうべきではありません。しかし、本作は如何にも江戸時代らしく見せる「様式美」において他時代劇からは一頭地抜きんでていると思います。

 その後、シリーズとしての鬼平は作成されず、「外伝」の形でスペシャル版が偶さか制作されるのみとなりました。しかし、飽くまでも外伝でありますから、もう男が見ても惚れ惚れするようなあの吉右衛門演じる新作の鬼平を目にすることは叶いません。吉右衛門の脇を固めた練達の役者陣の多くも既に物故されております。最早あの総合芸術とも称すべき時代劇の傑作の再現は難しかろうと存じます。しかし、吉右衛門がおらずとも、鬼平スタッフの創り上げる時代劇は、感銘深き名作ばかりであります。今回取り上げる『正月四日の客』も例外ではありません。こちらの原作は、同じく池波の筆になる『にっぽん怪盗伝』(角川文庫)に収録された短編作品であります。粗筋は以下のようなものであります。

 

 

 本所・枕橋にある小さな蕎麦屋「さなだや」は、亭主のうつ蕎麦と、女房のおこうの客あしらいのうまさで客を呼んでいた。この店は、亭主の決めた習わしで正月四日には「さなだ蕎麦」だけを出していた。すりおろしたねずみ大根の汁を蕎麦つゆに入れて食べるのが「さなだ蕎麦」だった。亭主が育った信州の地元では冬のこの時期にはよく食べられているというが、ねずみ大根のあまりの辛さに常連客は閉口し、正月四日に「さなだや」を訪ねる客はもう何年もいなかった。

ある年の正月四日、外では小雪が舞うなか、大店の主人風の恰幅のよい男が現れた。その客は「さなだ蕎麦」を懐かし気に食べ、何度もお変わりをした。そして、正月四日にしか食べられないと知ると、来年また来るという。
「それでは、来年の正月四日、さなだ蕎麦に会いに江戸に出てきましょう。」
「江戸の方ではございませんので?」
若い頃に信州に関わりがあったという客は、それから毎年、正月四日にだけ現れ、「さなだ蕎麦」をおいしそうに食べていった。男は口数少なく、亭主に微笑んだ眼であいさつし、「さなだ蕎麦を」と食べていく。

 そんな男が来るのを亭主は心待ちするようになっていた。ある年の秋、おこうが病であっという間に亡くなった。気落ちした亭主は店じまいも考えたが、常連客から励まされ、なんとか店を続けることにした。

 正月に現れた男は、おこうの位牌に線香をあげていった。ある寒い日、亭主は亀の小五朗という大泥棒の話を耳にする。岡っ引きの清蔵によると、小五朗は腕に亀の小さな入れ墨を入れているのだとか。亭主はどきりとした。男が位牌に線香をあげてくれた時、その右腕に入れ墨があるのを眼にしていた。

 

 (ウィキペディアより引用させて頂きました)

 

 「亀の小五朗」演じる松平健と、「さなだや」店主演じる柄本明の重厚な演技は言うまでもなく、池波の原作以上に両者の人間ドラマに迫った金子成人の手になる脚本の素晴らしさ、かつて時代劇制作の正に王道を歩んだ大映京都撮影所で溝口健二らに鍛えられた老監督:井上昭(1928生)による緻密な映像美が本作の感銘を深くしております。原作と比べて、映像作品は「さなだや」亭主の生い立ちと過酷な運命(トラウマ)を相当に稠密に描き込んでおります。併せて、盗賊「亀の小五朗」のそれも。単純な勧善懲悪に堕することなく、如何ともし難い運命に翻弄されてきた二人の出会いと、心の交流、それがために真実を知った後の亭主の葛藤が、心憎いまでに美しい背景のなかで紡がれていくのです。そして、ドラマの末尾で火付盗賊改方に捕縛される「亀の小五朗」の描き方も映像作品の一日の長があります。原作における伝法な姿を廃し、盗賊自身の過去への向き合いと、亭主の心の迷いという、二者それぞれの揺れ動く情念を丹念に掬いあげて描き込んでおります。そのために、視聴後の余韻がいつまでも内面に響いて居る感じを持ちます。これぞ、時代劇を視る喜びでございましょう。同じ題材を現代劇で描こうとすれば、リアル感を出そうと、自ずと遙かに凄惨さを強調せざるを得なくなるでしょう。そして、こんなことはあり得ないとの違和感を抱かれることとなりましょう。しかし、時代劇ではそうは見えないのです。ずっと昔の世界を舞台にしていることにより、主題の純粋さ(それは一歩間違うと嘘臭さに転じる可能性の高いモノであります)を際だたせることができるからだと思うのです。従って、時代劇とは歴史的事実を表現するドラマではないのだと思います。よく「こんな事は、江戸時代には無かった」「歴史的考証に難あり」と論う向きがございますが、それをとやかく言っていてはドラマトゥルギーに心揺らすことは叶いません。江戸言葉であれば「野暮の骨頂」ということになりましょうか。ドラマは学問とイコールではありません。「時代劇・映画史研究家」の肩書きを持つ春日太一が、先日の千葉日報紙面で語っていた談話は、正に「時代劇とは何か」についての正鵠を射ていると内容かと存じますので、以下に引用しておきます。

 

 

 時代劇は「再現」(※舞台となる時代像の再現)ではなく、現代人が「こうならいいな」と創作したファンタジー。だから実際の江戸よりも背景の情感は豊かで、多彩な神社仏閣や山河を擁する京都で撮影されてきました。(※は当方に依ります)

 

 鬼平以外に、もうひとつ、当方が愛して止まない傑作時代劇シリーズがございます。それが、同じフジテレビ系列で放送されていた、時代劇制作の王道を行った大映京都撮影所閉鎖後に、その時代劇スタッフがつくった制作チーム「映像京都」制作にかかる『御家人斬九郎』(1995~2002)であります(原作は柴田錬三郎原作による)。残念ながら「映像京都」は後編でも述べますように、2010年に解散を余儀なくされております。貧乏御家人であるものの、血筋だけは由緒正しく(しかし決して「三葉葵」の紋所をひけらかすことはありません)、滅法剣の腕の立つ御家人「松平残九郎家正」演じる渡辺謙の硬軟を使い分ける人間性の表現、辰巳芸者の蔦吉を演じる若村麻由美の艶やかな姿。まずは、この2人の存在そのものが本作を極めて魅力的な作品としております。特に若村の芸者姿は本当に惚れ惚れする美しさで、ホンモノの芸者さんから日本舞踊の素晴らしさを誉め称えられた程の技量には、物語をついつい忘れて見とれてしまうほどです。兎にも角にも、蔦吉姐さんの美しさは際だっております。今では、ここまで着物を着こなして所作のできる女優はそうはおりますまい。おきゃんでありながら人情にも厚い、正に理想の辰巳芸者を体現させた役どころであります。その他の周囲を固める俳優陣もこれはと思う人ばかり。その代表が残九郎の老母を演じる岸田今日子であります。母親の旺盛な美食を支える必要からも、残九郎は内々の犯罪人の処理人(斬首担当者)という裏稼業(片手業)を持たざるを得ない境遇にあり(それが“斬九郎”と称される所以となっております)、そのことを巡る我儘な母親(麻佐女)と息子残九郎とのウィットに富んだ軽妙な遣り取りは秀逸であります。救いがたいほどに重たい内容を扱った作品であっても、その陰惨さを中和してくれております。他のレギュラー陣の配役もきっちりとキャラが立っており、決してユーモアのセンスも欠かすことなく、しみじみとした人間ドラマとしても成立する、時代劇の傑作だと考える次第でございます。同じ柴田錬三郎原作で無類の剣豪を描く『眠狂四郎』(円月殺法!!)と対比され、斬九郎が「陽気な狂四郎」とも称される由縁であります。しかし、再放送はされるものの、未だにDVD等のソフト化がされておりません。何らかの権利関係等で引っ掛かっているのかもしれませんが、本当に残念です。是非ともソフト化を切望いたします。是非とも手元に置いて繰り返し視たい作品群なのです。5シリーズ全50話であり、一つとしてハズレがないのも驚異的であります。何れの作品もハイレベルに仕上がり見応えがあります。こんな時代劇を制作したグループ「映像京都」が消滅の憂き目に逢うとは途轍もない損失に他なりません。まさに“時代劇文化”の消滅を象徴する出来事だと思います。

 

 『鬼平外伝 正月四日の客』に想う(後編) ―または 素晴らしき「時代劇」とその衰退について―

7月24日(土曜日)

 前編では、表題作について縷々述べて参りましたが、ここで何を今更の質問をさせていただきます。皆さんは所謂「時代劇」なるジャンルのテレビドラマにご興味がございましょうか。何をもって「時代劇」というのかと問われても正式な定義があるわけではありません。現代・未来を題材にしたドラマ以外は総じて「時代劇」と称するのが道理でありましょうが、一般には明治から遡った時代を描いた作品、云わば“お侍さん”の登場する、(シリーズ物であれ)基本的に一話完結となる作品が「時代劇」と認識されておりましょう。当方もそれでよろしいかと存じます。もっとも、戦国時代に自衛隊がタイムスリップして戦国大名と戦闘する作品は云わば「SF」であって、「時代劇」のジャンルからは外れましょう。

 まぁ、堅苦しいことは抜きにしても、今や「時代劇」と名が付く番組であれば必ず視聴に及ぶという方は極々稀であるように思われます。「絶対に善が勝って悪は滅びるというマンネリのドラマだろう!?」「どうせ中身のない“チャンバラ劇”なんだろう!?」といった冷めた見方をされる方も多かろうと存じます。まぁ、そういわれても致し方がない作品もありますので全否定は致しません。しかし、「時代劇」は前編で具体例をお示ししましたように、決して“痛快活劇”や“単純な勧善懲悪”に止まらぬ、現代ドラマでは描くことのできない、この世の奥深い人間ドラマを描くことのできるコンテンツだと思っております。しかし、そもそも論として、昨今のテレビ欄を見回してみても、地上波・衛星波ともに新作の時代劇枠など一向に見あたりません。あるのは、昔日の制作にかかる作品の再放送ばかりです。もっとも、質の高い時代劇が再放送の機会に恵まれますから、何度視ても感銘を受ける次第であります。しかし、NHKの「大河ドラマ」や偶に何回かのシリーズとしてNHKが制作される以外に、民放にて新作時代劇に接することのできない状況は、私の子供の頃には決してありえないことでした。

 自分自身を振り返ると、高度経済成長期に子供時代を過ごした子供の頃、布で覆われて茶の間に鎮座ましましていたテレビ受像器を前に、祖父母らが視聴する番組と申せば、それは専ら「時代劇」でありました。そして、その選択肢は多岐にわたり、何れのチャンネルでも時代劇は選り取り見取りの状態であったと記憶しております。従って、組織だった視聴の仕方は全くしておりませんし、時代劇について何か語ることのできるほどの知識も力量もありません。ただ、門前の小僧宜しく多少の知見はございますし、愛着は深いものがあります。以下は、「ミミズの戯言」と聞き流していただければと存じます。

 幼少期に最も接する機会の多かったのは、御多分に漏れず、当時は国民番組とも目されていた東野英治郎演ずる『水戸黄門』になりましょう。同局で同時間帯に放送されていた加藤剛演じる『大岡越前』、中村梅之介や松方弘樹で知られた『遠山の金さん』といった所謂江戸町奉行を主人公とした作品群。大川橋蔵の当たり役で、子供心にも格好いいなと思わせる粋で鯔背な十手持(岡っ引き)を描いた『銭形平次』のような所謂「捕物帖」等々、ざっくりジャンル分けすれば勧善懲悪をテーマとした、子供であってもわかりやすい時代劇定番の作品群には大いにお世話になりました。一方で、少し年嵩となると、流石に単純な勧善懲悪には飽き足らなくなります。少々年嵩になってからその魅力を知ったのが、所謂アウトロー世界を描いた数々の作品群でありました。勝新太郎以外に演じることなど想像できない盲目の剣豪を主人公とした『座頭市』(子供心にも太刀捌きのもの凄さが伝わりました)、「あっしには関わりないことでござんす」の名台詞でお馴染み、中村敦夫演じるニヒルな渡世人の飄々とした生き様と上條恒彦の唄う主題歌『誰かが風の中で』(小室等作)にて忘れ難き『木枯らし紋次郎』、藤田まことの当たり役『必殺』シリーズも、先日惜しまれつつご逝去された田村正和のイメージが強烈な『眠狂四郎』(片岡孝夫の方が長く演じておりますが)もこのジャンルに入りましょうか。もっとも、これらアウトロー路線の作品も「悪が栄える」ことを良しとする作品ではありませんので、広義には“勧善懲悪”モノといっても宜しいのかもしれません。

 何れにしましても、当方の少年期にはテレビの画面は、時代劇の花盛りであったと記憶しております。正直に申し上げて、自分自身としては、現代ドラマよりも圧倒的に好みでした。そもそも、当時の現代ドラマを挙げてみろと言われても、一つとして思い浮かばない程です。その他、NHK『大河ドラマ』を「時代劇」といって宜しいかはわかりませんが(「歴史ドラマ」というのが正確かと存じますが)、それにも大いにお世話になりました。幼少時代に見ていた大河ドラマを通じて、歴史好きになったと言っても過言ではありません。かような訳で、幼少時代のテレビ番組の記憶と言えば、時代劇を除けば、専ら特撮作品(「ウルトラマン」シリーズ・「サンダーバード」)、アニメ(「エイトマン」・「オバケのQ太郎」・「鉄腕アトム」・「ジャングル大帝レオ」等々)、子供向け人形劇・ドラマ(「ひょっこりひょうたん島」、「悪魔くん」等々)、あるいは、今でいうワイドショー的な「おはよう!こどもショー」(“ロバくん”・“ガマ親分”は忘れ難きキャラクターであります)等々の、所謂“子供向け番組”の他には殆ど記憶にすら残っておりません。

 その後、自分自身が青年期に入ると、自然に「時代劇」からは遠ざかっていきましたが、NHKの大河ドラマくらいは視ておりました。しかし、それも内容が時代衣装コスチュームによる“ホームドラマ”的作風になった時期に、その世界とのお付き合いも絶えてしまいました。しかし、時代劇に惹かれる意識はずっと底流を流れ続けており、前編で申しあげたような優れた作品群に触れることを喜びとして参りました。しかし、昨今は、こうした優れた作品ですら滅多に制作されることもありません。放送局もボランティアで経営している訳ではありませんので、人気がなければ制作されなくなるのも致し方がないのかもしれません。特に民放では、どちらかと言えば高齢者に人気のある時代劇をスポンサーが敬遠すると言った事情もございましょう。しかし、CS放送では時代劇専門チャンネルなどもあり、そこそこの人気を集めていると聞きます。つまりは、決して需要が途絶えたわけではないのです。そして、これまた前編で述べましたように、時代劇だからこそ表現できる表現世界というのがあると思うのです。これを絶やしてしまうのは如何にも残念であります。しかし、春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』2014年(新潮新書)に接し、時代劇制作の実態は思いの他に深刻であることを知ることになりました。本書は相当に売れたと耳にしましたので、皆様の中にもお読みになられたかたがいらっしゃいましょう。

 本書によれば、時代劇の全盛は1950年代であり、当方が盛んにテレビで接していた1960年代は下り坂に向かう時期に当たっていたとのことです。もっとも、1950年代は娯楽の殿堂は映画であったので、時代劇そのものも映画作品として人気を博していたのです。しかし、春日は、1960年に168本製作されていた時代劇が、2年後には77本に急減し、更に5年後の1967年には15本にまで落ち込んでいることを指摘されております。これがよく言われる、1964年の「東京五輪」を起爆剤としてテレビが急速に普及したこととリンクする動向であることは一目瞭然でありましょう。つまり、時代劇に限らず、映画産業自体が斜陽となる時代に当たっているものと思われます。当然、これまで銀幕でしか出会えなかった時代劇の大看板や、ゴジラ等の怪獣の主戦場がテレビ画面へと移行していく時期となるのです。1960年代後半から1970年代は、映画時代劇の製作システムが、テレビ時代劇制作システムに大々的に吸収されていく時代だったということのようです。それが、当方が子供の頃のことであり、テレビ時代劇が花盛りであった背景ともなっていたのでした。つまり、表面的には時代劇の衰退などは微塵も感じさせなかった訳であります。

 その後は、フジテレビ系列の『鬼平犯科帳』等のヒット作が出たこともあり、辛うじて「時代劇」はテレビで命脈を繋いでいましたが、21世紀に入ると、状況は一気に暗転していきます。制作コストが現代ドラマと比較にならない程の掛かるわりに、爆発的な視聴率を獲得できない時代劇がリストラの対象にされていきます。つまり、テレビの世界では、時代劇がコストパフォーマンスの低い「お荷物」とみなされて行くのです。平成14年(2003)、フジテレビでのレギュラー枠の消滅、唯一孤塁を護っていたTBS『水戸黄門』も平成23年(2011)終了。テレビ画面からレギュラー枠としての時代劇が絶滅する憂き目にあうのです。以降は、ジャニーズ等に所属する人気若手俳優を起用して視聴率を稼ごうとする、所謂スペシャル枠の時代劇が年に数度制作されるのみの状況となります。年に数カ月しか仕事が舞い込んでこなければ、そもそも、時代劇製作スタッフの生活が成り立たなくなります。大映撮影所の由緒を受け継ぐ時代劇制作の名門「映像京都」が平成22年(2010)に解散に追い込まれたことは、正に時代劇衰退を象徴する出来事であったと思われます。しかも人気若手俳優は、時代劇の中で揉まれてきたわけではありません。着物を着て歩く姿も全く様になっておらず、悲しいかな見るのが嫌になるほどです。

 春日氏の手になる『なぜ時代劇は滅びるのか』は、時代劇衰退の理由を事細かに分析されており、大変に納得のいく内容となっております。そして、その事情の深刻さに胸を締め付けられるように思います。問題は、時代劇という特別なジャンルを制作する「伝統芸能」の消滅といっても過言ではありますまい。例えば、歌舞伎や能楽の伝統が消滅する危機になれば、政府(文化庁)は血眼になってその育成を補助しましょう。しかし、時代劇にまではそのような配慮はなされぬままに、今貴重な伝統文化が絶えようとしているのだという冷厳なる現実を、少なくとも私たちは認識しておく必要があると思うのです。これ以降は、是非とも本書をお読みいただければと存じます。春日氏は、本書の他にも時代劇の素晴らしさを伝える諸々の書物を上梓されており、当方も大いに楽しみに拝読をさせていただいております。今真っ先にすべきことは、何にも増して、質の高い時代劇を視聴することを通じて支援することしかないと思われます。愛する時代劇存亡の危機に抗い、地道に応援をし続けていく所存であります。それが、子どもの頃からお世話になってきた多様なる表現を可能とするジャンルとしての「時代劇」への恩返しと心得ております。「時代劇よ 永遠なれ!!」

 

 8月3日(火曜日)から特別展『高度成長期の千葉 ―子どもたちが見たまちとくらしの変貌―』が始まります!(前編) ―昨年度開催『軍都千葉と千葉空襲』に続く「千葉市制施行100周年」を記念した展覧会の第2弾を開催!!(10月17日まで)―

7月30日(金曜日)

 熱海市における悲劇的な土石流被害等の傷跡を残し、本年の梅雨も過ぎ去りました。今では、梅雨であったことが嘘のようにギラギラとした陽光が地面を焦がしております。それにしましても、梅雨と言えば、専らしとしとと雨が続くといったイメージもどこへやら、昨今では驚くようなゲリラ豪雨襲来が恒例となったように思います。しかし、熱海市の場合をみれば明らかなように、被害をより甚大なものへと後押ししたのは、雨という自然現象の要因以上に、不適切な残土処理場の現実であり、これらは言ってみれば人災といっても過言ではありますまい。適切に処理されていれば、少なくとも、ここまでの被害には至らなかった可能性が高いものと思われます。

 今回の被害と直接に関連しているのかどうかは判然とはいたしませんが、熱海市の土石流の発端となった谷の両側の尾根に沿って、営々と「太陽光発電」用と思われるソーラーパネルが設置されていたことも気になりました。「脱炭素社会」へ向けて、化石燃料に頼らないエネルギー供給源としての太陽光発電が推奨されており、それに対する補助金や助成のためのシステムが構築されております。それ自体には何の問題もありません。しかし、現実にはその設置が、大規模な森林破壊につながっていることをご存知でしょうか。助成による収入を当て込んで、途轍もないペースでソーラーパネル設置が行われております。事業者側としては、発電すれば必ず買い取ってもらえること、更には一定程度の面積以内の設置であれば許認可を得ないで設置が可能となることから、小規模な開発が、あちらこちらと無秩序に行われている現状があります。つまり、里山に限らず、結構な山奥であってもが森林があっという間に伐採されて更地になり、そこにソーラーパネルが大々的に設置されるのですから、これが深刻な自然破壊に直結しているのです。森林が国土の土壌の確保と保水に果たす重大な機能を負っていることを改めて強く認識すべきです。それを軽んじたツケが大規模土石流等発生を助長していることは覚えておくべきかと存じます。都市にて家屋の屋根にソーラーパネルを設置するのとは訳が違うのです。私自身は、そうした方向性(今後新築される戸建や集合住宅の屋根にソーラーパネル設置を義務付ける)を模索すべきではないかと考えております。少なくとも自宅で利用する電力は自給するといった方向性こそが国民の当事者意識をも喚起することに繋がりましょう。皆様は如何お考えでしょうか。

 さて、閑話休題。本年度が「千葉市制施行100周年」であることに因んだ、令和3年度特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』が、いよいよ来週8月3日(火曜日)より幕を開けます。以前から何度かそのあらましについて触れて参りましたが、高度経済成長期の千葉市は、海岸部の埋立て、工業化の進展、大規模団地の造成などにより街の様子が大きく変貌しました。また、それに伴って家電の普及やレジャーの多様化等をつうじた生活スタイルの大幅な変化をもたらした時代でもあります。それは、「戦前と戦後」といった区分と比較にならないほどの、前後の国内社会のドラスティックな変化をも生み出したのです。そして、豊かな生活と引き換えに、公害の発生等の社会問題ももたらすことになりました。今回の特別展では、そのような「街と人々の生活の変化」について、当時の子どもたちが、その姿を最も大きく変えたこの時期をどのように見ていたのか、残されている作文や詩を手掛かりとして振り返ってみようという展示となります。現在の千葉市を形作った「高度経済成長期」の本市の様子を知ることのできる貴重な機会ですので、ぜひご覧いただきたいと存じます。

まず、以下に本特別展に寄せた館長の「はじめに」全文を以下に掲載させていただきましょう。上に記したことと被りますが、何事も趣旨が重要ですのでご拝読ください。

 

は じ め に


千葉市は本年に市制施行100周年を迎えました。本市100年の歴史を概観すると市がその姿を最も大きく変えた時期は、1950年代半ばから1970年代初頭までのいわゆる「高度経済成長期」でした。この時期は千葉市にとって本格的な工業化の幕開けの時代でもあり、蘇我の埋立地への川崎製鉄千葉製鉄所の進出、東京電力千葉火力発電所の操業などにより臨海部を中心に工業集積が進みました。また、工場進出に伴う人口増大や首都圏のベッドタウンとして、日本住宅公団などが海岸部の埋立地や内陸部に大規模団地の造成を行うとともに、周辺町村との合併を経て現在の市域が形成されていきました。 
この間、人口は急増し昭和46年(1971)には50万人を突破します。また家庭用電気器具の普及やレジャーの多様化など人々の暮らしも急速に豊かになる一方、発展の裏側では社会資本の整備が人口増加に追い付かず、交通渋滞や公害など生活環境の悪化が社会問題となりました。
本展では、現在の千葉市の姿を形作った「高度経済成長期」をテーマに、この変革期を生きた多感な子どもたちの視点に基づき、当時の本市の様子や人々の暮らしを映し出す展示事項を選び出しました。具体的には、本市小中学生の文詩集『ともしび』に同時代に掲載された作文や詩などから、臨海部の埋立て、工業化の進展、団地の造成、交通網の発展、変わる生活、公害の克服、東京オリンピックなどを抽出し、これらを当館所蔵資料に加えて、市民や、企業・教育機関などの各団体から提供された資料を通して紹介いたします。
これにより、本展が、少年期を高度経済成長期に過ごした中高年のみなさまや、現在、当時の彼らと同年代の小中学生はじめそれ以外の世代の方々にも、市制100周年を迎える本市の歴史に対する理解及び関心を深めていただける場となりましたら幸いです。さらには本展を『ともしび』を通して本市作文教育の在り方を振り返る場ともしながら、改めて「喧騒と希望に満ちた高度経済成長期の千葉」を見つめ返すことで、本市の発展に尽くした先人達への思いをいたす契機となることを願ってやみません。
最後になりましたが、本展の開催にあたり、多大なるご好意を賜り、貴重な史資料等の拝借にご快諾いただいた所蔵者及び関係者の皆様に、深甚なる感謝を申し上げます。

 

 

 本特別展で扱う時代は、正に現在を生きる皆様方にとっても記憶の範囲でございましょう。昭和34年(1959)この世に生を受けた当方にとっても、まさに幼少期から少年期にかけてが「高度成長期」と重なります。上記のような街や社会の変貌を、どちらかというと苦々しく思ってきた当方でありますが、当時の子供達の作文からも、私が子供であった時代に感じとった葛藤が色濃く表現されていることに驚かされます。思ってみれば、見慣れた目の前の景色がどんどんと変わっていくこと、子供達の遊び場が奪われていくこととが、自分たちの生活圏を大人たちに壊される危機として感じたことを、自分自身の経験からもよくよく理解できます。開発による正の側面よりも、どちらかというと負の側面に目が行くことも首肯できます。しかし、一方で、子供達の目は、変わりゆく未来へのかすかな希望とともに映っていることも見逃すことができません。さて、同時代を過ごされた皆さんは、その時代をどのようなものとして感じられたのでしょうか。恐らく、当時ご自分がどれ程の年齢であるかによって相当な違いがありましょう。今回の特別展は、高度成長期に小中学生であった子供達によって書かれた散文や詩を窓口にして時代像をとらえてみようとするものであります。今では、当方と同じ60代前後の世代が子供の頃のことになりましょう。「高度成長」によって千葉市が大きく様変わりしていった時代にタイムスリップすることで、再びご自分が当時抱いた思いを振り返ってみては如何でしょうか。

 併せて、その時代を終えて生まれた方々、そして現在小中学生である皆さん、そして教育に携われる教職員の方々にも是非ともご覧いただきたく存じます。当時の子供たちが、時代の姿を如何にとらえて文章表現をしていたのかを知っていただくことで、現在の作文の指導の在り方を振り返ってみる機会ともしていただければと存じます。また、校外学習等を活用され、児童生徒の皆さんに本特別展を是非とも観覧する機会を設けていただければ幸いです。本年度、特別展を夏季休業中から始め、10月半ばまでの期間として設定させていただいた理由もそこにあります。明日は、引き続いて、本特別展の各章の内容、そして関連行事としての「歴史講座」について御紹介させていただきたいと存じます。 (後編に続く)

 

 8月3日(火曜日)から特別展『高度成長期の千葉 ―子どもたちが見たまちとくらしの変貌―』が始まります!(後編) ―昨年度開催『軍都千葉と千葉空襲』に続く「千葉市制施行100周年」を記念した展覧会の第2弾を開催!!(10月17日まで)―

7月31日(土曜日)

 それでは、以下に、今回の特別展に関する全体構成、つまり「序章」と「1~4」各章の表題と内容概要について御紹介をさせていただきます。それぞれ、本特別展の担当である錦織和彦主査の執筆になります(展覧会場・図録の各章冒頭に掲載されている内容です)。極めて端的に各章毎の内容を纏めておりますので、事前にお読みいただいてから会場に脚をお運び頂けると、展示内容についてより深くご理解を頂けるものと存じます。

 

序 章 少年少女文詩集『ともしび』 ―子ども達がつづった千葉市の変貌―
 『ともしび』は、市内小中学校の児童生徒の文・詩・読書感想文集である。本誌は、各校の国語教諭などの関係者の不断の努力により発展を続け、昭和30年(1955)から発行された。また、特集号として創刊20周年を記念して昭和51年(1976)に『ともしびの子ら第1集』を、市制80周年を記念して平成14年(2002)『ともしびの子ら第2集』をそれぞれ発行している。
『ともしび』には、子ども達の感動や発見が収められている。高度経済成長下での様々な変化にさらされたこの時代の千葉市の様子と、そこに生きた人の姿を瑞々しい感性でとらえた作文や詩には、子ども達の日々の喜びや、悲しみ、希望、そして時には社会へのとまどいや反発などが活写されている。
このように、「子ども達の瞳を通して時代を写す鏡」となった本誌は、時代の貴重な資料集であるとともに、未来への遺産であるといえる。この意味で、『ともしび』は、本市の作文教育・国語教育の精華である。
本展はこの『ともしび』を基に高度経済成長期の本市の姿を紹介していくが、その序章として、『ともしび』と、発行当時の子ども達の姿を紹介するものとする。

 

 

第1章 広がる市域 ―町村合併と臨海部の埋立て― 

 戦後の千葉市はその市域を大きく拡大した、その背景として、昭和に入り千葉市は東京の近郊都市として次第に発展し、市域の拡大による都市形成の必要に迫られたことがあった。
市域の拡大は、昭和28年(1953)の町村合併促進法の施行に伴う「昭和の大合併」に代表される近隣町村との合併や、昭和30年代から本格化し、市域面積の8分の1に相当する土地を生み出した臨海部の埋立てにより実現された。

 『ともしび』には、海での遊びや埋立てに関する作文や詩が多い。戦前から観光地として愛された美しい海岸、海苔漁や貝漁など海と深く結びついた暮らしが失われつつあること、そのため海水浴や潮干狩りができないことへの悲しみをつづった作品が多いが、単純に喪失への悲哀を記録するのではなく、埋立地の発展にも言及した作文には、悲しみを相殺するため埋立後の未来へ向けた一抹の希望を感じることができる。また、千葉市との合併を経て開発が進む代償に破壊される自然を残したいとの思いも描かれている。
本章では、犢橋村から土気町までの戦後の町村合併の経過と、稲毛・検見川・幕張・蘇我などで行われた埋立てについて紹介する。
 

 

第2章 工業化の進展 ―市域に林立する工場群―
 戦後の千葉市は復興への足がかりを、海岸埋立地への工場誘致や内陸工業地帯の造成に求めた。京葉臨海工業地帯誕生のきっかけとなった昭和28年(1953)6月の川崎製鉄千葉製鉄所1号高炉の運転開始や、翌29年(1954)の国際貿易港としての千葉港の正式開港、昭和34年(1959)の東京電力千葉発電所の開設、昭和39年(1964)の千葉食品コンビナートの発足など、海岸部での大規模工業化が展開されるとともに、昭和38年(1963)の千葉鉄工業団地の造成に代表されるように、内陸部でも旧軍用地を中心とした工業化などが進められた。このように、高度経済成長期の本市は、消費都市から生産都市への大転換を図った時期であった。
子ども達にとって工業化の進展はどこか遠い話題なのであろうか。『ともしび』に掲載された作文や詩はあまり多くはなかったが、それでも何点かの子ども達の詩文からは、大小様々な船が行きかうなど、国際港として発展する千葉港の情景と、港内の船との取引で生計を立てる一家の姿や、昼夜を分かたず稼働する川崎製鉄千葉工場の様子を記した文章から、当時のまちの姿やそこに暮らす人の姿を垣間見ることができた。
本章では、臨海部と内陸部における工場などの諸施設の設置、工場の設置に伴い地方から本市への転入してきた人々の姿を紹介する。

 

第3章 急増する人口 ―臨海部と内陸部の団地造成と交通網の発展―
 日本経済が史上まれな高度経済成長を続けた結果、大都市への人口集中の問題が顕在化した。東京に近接する千葉市も人口急増への対策が市政の重要課題となり、ベッドタウンとして大規模な住宅団地が次々と造成された。また、昭和40年代ごろには、人口の都市集中や自動車の増加により市内での交通渋滞が慢性化したことから、鉄道や高速道路などの公共交通機関の整備が重要課題となった。現在のJR千葉駅や京成千葉中央駅の位置変更、京葉道路などの道路網の整備がこの時期に行われている。また、この時期は小中学校の整備が最も進められた時期でもあった。
『ともしび』には、団地に暮らす子ども達による発展を続ける団地の様子や友達が増えることへの喜び、拡張する道路や、通勤ラッシュの様子を一歩引いた視点から眺めた詩などが見られた。当時は学校の増設が進むなか、通学する子どもとその親にとっても大きな関心事である交通事故について言及した作品もあった。
本章では、内陸部などでの団地造成や、国鉄・京成両千葉駅の移転や高速道路の延伸などの発展する交通網などについて紹介する。

 

第4章 変わる生活 ―便利で多様化した暮らしとスポーツの祭典―
 高度経済成長期から人々の暮らしが急速に豊かになった。「三種の神器」と称されたテレビ・洗濯機・冷蔵庫などの電気器具の家庭への普及、マイカーブームに伴うレジャーの普及と多様化など、当時の日本人は生活面で大きな変化を経験した。一方、共働き家庭の増加と昭和40年代以降の核家族化の進行は社会問題としての「かぎっ子」を出現させた。
また、進展する工業化の弊害として、市民が光化学スモッグや工場排煙を原因とする喘息にかかるなどの公害に苦しむという発展の負の面を体験することとなり、その克服が市政の急務となった。一方、この時期は昭和39年(1964)の東京オリンピック、昭和48年(1973)の若潮国体といったスポーツの祭典が本市でも実施され、発展する千葉市を象徴する出来事として市民に記憶された。
子供達の身近な分野であるため、『ともしび』には当時の生活を記した文章を数多く見ることができる。ラジオのある生活、キャンプでカレーライスを楽しむ姿、当時数多くオープンした遊園地での一時、東京オリンピックの聖火リレーなどである。だが、『ともしび』にはこのような楽しい作品ばかりではない、「かぎっ子」の悲哀や、公害病の苦しみとその克服を信じる生徒の作品など、この時代の負の側面を記した作品にも目を向けなければならない。
本章では、高度経済成長期における日常生活に焦点を当て、当時の千葉市に暮らす人々の様子を紹介する。

 

 以上、序章から第4章までの表題と各章概要をご紹介させていただきました。最後の最後には、子どもたちの詩をいくつかご紹介しエピローグとさせていただいております。そこからは、変わりゆく風景を目の当たりにした希望と不安との入り混じった想いと、併せていつまでも変わらないこと願う家族の絆へ願いとを読み取ることができるように思います。

 併せて、特別展の関連行事として「歴史講座」を開催いたします。こちらにつきましては、過去20年近く千葉経済大学との共催イベントとして開催をさせていただいて参った事業でもございます。昨年度は、コロナ禍のために千葉経済大学での開催が叶わず、千葉県文化会館小ホールでの開催となりましたが、本年度は、少なくとも現状においては恒例の千葉経済大学での開催ができそうな気配であります。3回開催される講座の講師・講演タイトルにつきましては、以下の通りでございます。「高度成長期」を経済・社会史的にとらえるだけではなく、「東京湾の大規模な埋め立てが生物環境にもたらした影響」といった自然誌的な視点、これまで縷々述べて参りましたように「子供達の時代をとらえる目の育成」といった教育的側面から、それぞれ時代像に迫る内容として構成して御座います。

 講演会につきましては、3回連続講座としての応募が条件となりますのでご承知おきください(各回毎の申し込みはいたしません)。なお、こちらは「千葉経済大学地域経済博物館」で開催される特別展『房総と海』(11月12日~2月5日)とも共催した事業ともなっております。3回目の講演につきましては、その会期とも重なりますので、講演に脚を運ばれた際に、是非とも「千葉経済大学地域経済博物館」で開催中の特別展もご覧いただければと存じます。

 

 

歴史講座「高度成長期の千葉を伝える」(全3回)


【期日】10月2日(土曜日)、10月16日(土曜日)、11月20日(土曜日)
【時間】各回共通 14時30分~16時00分
【会場】千葉経済大学 2号館 大講義室
【演題タイトル・講師】
1. 10月 2日「時代をとらえる子供達の目-作文教育のありかたをめぐって-」
講師 髙橋 邦伯 氏(青山学院大学特任教授)

2. 10月16日「高度成長期の千葉市臨海開発」
講師 池田 順 氏(千葉市史編集委員長)

3. 11月20日「東京湾の埋めたてと自然環境-その変遷と再生の試み-」
講師 工藤 孝浩 氏(日本魚類学会)
【定員】
100人(申込多数の場合は抽選)
【応募方法】
要事前申込。申込方法など詳細は博物館ホームページをご参照ください。
【 URL 】https://www.city.chiba.jp/kyodo/tenji/kikakutenji/tokubetsu_2021.html


 

 

千葉経済大学地域経済博物館

【住 所】〒263-0021 千葉市稲毛区轟町3-59-5
【電 話】043-253-9843 【FAX】 043-253-9949
【E-mail】 museum@cku.ac.jp
【開館日】火曜日~土曜日 【休館日】日曜日・月曜日 【開館時間】9~16時

令和3年度 特別展『房総と海』
【会 期】令和3年11月13日(土曜日)~令和4年2月5日(土曜日)

 

 

 最後になりますが、「千葉市制施行100周年」を記念して開催いたします今回の本館での特別展に是非とも脚をお運び頂けますよう本館職員一同お待ち申し上げております。勿論、コロナウイルス感染症の状況は日々刻々と移り変わっておりますので、今後のことは予断を許しませんが、現状においては非常事態宣言下の東京都であっても博物館等公共施設閉館の措置はとられておりません。従いまして、皆様におかれましては、くれぐれも感染防止等の自衛に努められた上でご観覧をいただけますよう、改めてお願い申し上げる次第でございます。
なお、特別展図録は1冊600円にて初日の8月2日(火曜日)より受付にて販売いたします。奮ってお買い求めください。

 

 千葉寺と本寺に伝わった奇習『千葉笑』について(前編) ―岡本綺堂 戯曲『千葉笑』全文をご紹介します!―

8月6日(金曜日)

 梅雨明け後の連日の猛暑に流石に音を上げております。過日、現在開催中の特別展関係ポスター・チラシを添付等のお願いする、所謂“営業活動”のため、「溝板選挙」ならぬ「溝板勧誘」を敢行して参りました。午下がりに市内の百貨店・ショッピングモール等を経巡り歩きましたが、流石に夏の日差しの強烈さに一瞬意識が遠のく程でした。個人的には、早く嵐が過ぎ去って欲しいとしか思えなくなった五輪ではありますが、選手の皆さんが、かくも過酷なる環境の下で熱戦を繰り広げざるを得なくなっていることを、誠にもって心苦しく思う次第でございます。真夏の五輪開催にはアメリカ国内の諸都合が勘案されたことが要因と聞いております。しかし、1年延期したのですから、今更ながらではございますが、コロナの感染拡大の中での開催の是非はさておき、せめて実施時期を再検討すべきだったのではないかと改めて思います。鍛えられた選手ですら、この気温・湿度の下でベストを尽くせるとは到底思うことができません。実際に海外の選手達からのクレームも数多あると耳にします。宜なるかな。更には、専門家の予想通りの感染者の急増、そして東日本への台風上陸等々、まさに踏んだり蹴ったりの五輪の現況ではないかと思う次第であります。ここで、一言苦言を呈しておきたいと存じますが、テレビ等の公共放送において、コロナ感染状況や台風の情報が、五輪中継を優先する番組編成の影響で二の次にされているように感じます。流石に、この対応はいただけません。どちらも人命に関わる情報ですので、優先順位を逆さまにするのはご法度だと思いますが如何でしょうか。

 さて、令和3年度の本館特別展『高度成長期の千葉』幕開けから4日が経過いたしました。改めまして、これまでの「蔓延等重点措置」転じて、8月2日から再度の発出となった「非常事態宣言」下、たくさんの皆様にご来館を頂きましておりますことに、衷心よりの感謝を申し上げる次第でございます。今回の展示の内容が、ちょうど50~60歳代の皆様が子供時代と重なっていることもあり、ご来館の皆様からは「懐かしかった」「子供時代の忘れていた風景を思い出した」「我が家でもこれがあった」等々の、当事者感覚でのご意見を賜っております。特に、今回の展示の窓口として使っている、当時の児童生徒の作文・詩作品を書いた方々が、現在の年齢で振り返ることのできる高度経済成長期という時代を振り返ってみることで、改めて自身の歩んだ千葉市の歴史をとらえなおすことができるのではないかと考えます。現段階では、これまで東京都が「緊急事態宣言」下で行ってきた対応に右へ倣え。千葉県下におきましても博物館・美術館につきましては「感染予防対応を行いながら開館を続ける」との判断が下っております。ただ、今後の感染状況を鑑みて方針の転換がある可能性を残しております。従いまして、現段階では特別展も継続して開催するものの、今後は如何なることになるかわかりません。ご興味のおありになる皆様は、なるべく早めに脚をお運びいただけましたら幸いでございます。きっとお喜びいただけるものと自負するところであります。皆様のご来館をお待ちしております。その際、各自で充分なる感染対策をなさってくださいますようお願いを申し上げます。

 そろそろ本題に移らせていただきましょう。本館の近くに「千葉寺」という寺院があることはご存知のことでございましょう。一般には「ちばでら」と呼称されますが、正しくは海上山歓喜院青蓮千葉寺(かいじょうさんかんぎいんじょうれんせんようじ)と称します。千葉市内においても最も古い由緒を誇る名刹に他なりません。また、その起源を中世まで遡ることのできる「坂東33観音霊場」の29番目の札所として、現在も巡礼者が絶えることがありません[因みに、一つ前の28番札所は滑川観音龍正院(成田市)次の30番札所は高倉観音高蔵寺(木更津市)となります]。現在は真言宗豊山派に属する寺院であり、本尊は十一面観世音菩薩であります。太平洋戦争の際(所謂「七夕空襲」)に被災して本堂を焼失。現本堂は昭和51年(1976)建築の鉄筋コンクリート製となっておりますが、山門・鐘楼については焼夷弾を免れ、江戸後期天保年間の結構を今に伝えております。また、本堂前には高27m程、幹周10m程の銀杏の巨木が屹立しており、千葉県指定の天然記念物となっております。これまた余談ですが、昨年度の本館『研究紀要』第27号には、本館研究員白井千万子による「千葉寺十善講調査報告―今も続くお大師詣り―」が掲載されておりますので、ご参考にされていただけましたら幸いです。

 その大銀杏の足元に一枚の看板が立てられており、そこには以下のことが記載されております。かような次第で、今回は、「千葉寺」とかつて本寺を舞台として行われたという、この「千葉笑」という風習について述べてみようと存じます。併せて、後編では岡本綺堂がそれを小戯曲として創作した『千葉笑い』全文も掲載させていただきます。綺堂の作品は、傑作『半七捕物帳』をはじめとする「読み物」についてはかなり復権してきておりますが、その本領である「戯曲」世界の復権はほとんどなされないままであり、大いに残念であります。従って、本作も現況に於いて手軽に読むことのできない作品となっております。是非ともこれを機に接していただければと存じます。「千葉笑」の雰囲気を御理解いただけましょう。

 

 

 千葉笑


また千葉笑とて、としごと(歳毎)のしはす(師走)のつごもり(晦)の夜、里人この寺によりつどひ、各(おのおの)おもて(面)おおひ(覆い)して、地頭村長などの邪曲事(よこしまくせごと)よりはじめ、人のよからぬふるまひ(振る舞い)どもを、あげつらいひ(論い)ののしり(罵り)あふことありといへり、こは人々のおこだりをいさむる(諫むる)わざなれば、筑波嶺のかがひ(歌垣)などには、いといとまさる(勝る)風俗といふべし 。 

[『相馬日記』高田與清(文政元年)]

 千葉寺や 隅に子どもも むり笑い

   [小林一茶(文政6年)]

 

 

再び、千葉笑の舞台となる千葉寺に戻ります。先に簡単にその由緒を述べましたが、寺伝によれば、行基(668~749)が諸国巡錫中に、和銅2年(709)聖武天皇の勅願により、当地に丈六の十一面観音を安置して創建されたとしております。これは日本全国津々浦々に伝わる所謂“行基伝説”の一つであり、史実の可能性は限りなく低いものと申せましょうが、本寺の創建がほぼ伝承と見合っていることは間違いありません。何故ならば、戦後早い段階での発掘調査により境内から奈良時代の布目瓦が出土しており、西暦700年前後に創建された古代寺院であることが明らかになっております(710年が平城京遷都であります)。恐らく、郡名の「千葉」を冠していることから、下総国千葉郡を支配する千葉郡司(千葉国造の後裔)の造営にかかる、所謂「郡寺」にあたる寺院であると想定されます(「郡寺」は飽くまでも郡司が私的に造営した寺院であり、国分寺のような公的寺院ではありません)。因みに、千葉寺の谷を挟んだ青葉の森公園内に残る終末期古墳とされる「荒久古墳」(千葉市指定史跡)は、千葉寺を臨む台地の縁辺に造営された方墳であり、用いられている石室の造営技術等から判断して、千葉寺と同時期の造営であることが想定されております。つまり、荒久古墳の被葬者は千葉郡司の蓋然性が高いものと考えられます。このことは、日本土着の埋葬と仏教という外来思想とが混在していた実態を示した実例として興味深いものであります。ただ、今日に到るまで、千葉郡を支配した役所である郡家(ぐうけ)[郡衙(ぐんが)とも]の場所は特定されていません。千葉寺周辺の台地上の何処かに存在した筈です。将来的に遺構が発見されることを期待したいところです。

 

 千葉寺についてもう少し突っ込んでみたいと思います。今しばしお付き合いください。古代律令国家が解体する「中世」という時代になると、古代の権力者の庇護の下にあった寺社は、経済的支援母体の没落によって、自活の道を模索せざるを得ない状況に追い込まれることとなります。そして、その路を開拓できなかった寺社は、たとえ如何なる由緒をもっていても廃滅する運命が待っておりました。その典型的な存在が国分寺・国分尼寺に他なりません。これらは、全国60余州に国家プロジェクトして漏れなく造営された、現在で申せば「国立(官営)寺院」であります。日本の何処でも金堂・講堂・七重塔を備えた壮麗な伽藍を誇っていたはずですし、現在の千葉県域には上総・下総・安房に3つの壮麗なる国分寺・国分尼寺が建立されていたのです。しかし、一部なりとも奈良時代の結構を残したままで現在まで営々と存続しているそれは、ただの一つも存在しておりません。現状において、現在創建伽藍の残る国分寺・国分尼寺は皆無ですし、創建時の国分寺に安置されていた仏像ですら全て失われ一体も残っていないのです(以前、蟹満寺本尊となっている丈六の釈迦如来坐像が山城国分寺の本尊を移したものではないかと言われたこともありましたがどうやら違っているようです)。そもそも、寺院として廃滅したところが多々あります。当時の政府が主導して造営された国営寺院でさえこの有様なのです。それでは、今各地に残る国分寺と名のついた寺院は如何なる由緒をもつのかと申せば、それらは、名のみ残して中身は別個の寺院となっているのが実際の所であります。つまり、古代寺院とは直接的な系譜関係に連なることのない、中世以降に再興された姿に他なりません(叡尊・忍性よる真言律宗が国分寺復興運動に関与していることが分かっております)。つまりは、殆どの国分寺は律令国家による経済的庇護を失って自活できずに廃滅していったのです。それは、今日世界最古の木造建造物が残る法隆寺であれ、廬舎那仏のある東大寺であれ(大仏殿も大仏の大部分も江戸時代の再興になります)、鑑真縁の唐招提寺であれ、伊勢神宮等の天皇家との深い由緒を持つ神社であれ、例外ではなかったのです。

 逆に申せば、現在も奈良時代の創建伽藍や遺物を今に残している寺社や、創建伽藍は残っていなくても寺社経営が古代以来連綿と受け継がれている寺社は、律令国家の庇護を得られなくなった時代に、自ら寺社経営基盤を開拓し得た寺社に他ならないということです。先ほど千葉寺は古代寺院であると申し上げました。千葉郡司は、恐らく古代国家の解体と同時に没落したことでしょう。その後、千葉寺はどうなったのか。これも、上記したように自活の路を切り開くことを可能としたが故に、今日この日まで寺院として生き残っているのです。つまり、古代に創建されて今に残る寺社の殆どは、かような歴史を歩んできたことになります。千葉寺につきましては、新たな権力者である武士団との関係を取り結びます。つまりは千葉氏の祈願所として、その庇護をうけることになるのです。併せて、中世に次第に社会的な力をつけるようになる庶民層からの信仰も取り付けていくようになっていくのです。それこそが「坂東33観音霊場」としての位置づけに他なりません。当方は「地域歴史散策」の際に千葉寺を訪れた際に、必ず以下のような話をさせていただいております。つまり、今残る古代寺院とは、「決して古代の姿・在り方ではないこと」「中世から現代にかけて各時代の社会の変化に適応して柔軟に寺社経営を行ってきた」後の姿に他ならないということ。目の前の千葉寺も、そうした歴史的な経緯を経て今日があることを知っていただきたいとのことであります。

 例えば、奈良の「唐招提寺」で、戒律を我が国に伝えようと何度もの渡航に失敗の末に盲目となり、それにもめげることなく来朝した不屈の精神を有する「鑑真和上」へ想いを馳せることは大いに結構でありますし、そのこと自体を否定するものではありません。しかし、そこにとどまっていては歴史のダイナミズムを理解することとはできません。平安時代には唐招提寺は衰微して、天平建立の現在の国宝建造物の多くが倒壊の危機に追い込まれていたのです。そうした状況を見かねて、鎌倉時代に勃興する戒律復興と釈迦信仰の高まりを背景に唐招提寺復興に取り組んだのが、叡尊・忍性とも関係の深い戒律僧の覚盛(かくじょう)であり、真言律宗の活動に他なりません(廃滅の危機にさらされていた国分寺復興の動向も彼らによって主導されたものと考えられております)。また、寺院経営の組織も構築され、「斎戒衆」なる実働部隊の僧侶による経済基盤の安定化も図られていくのです。彼らの活動の拠点となった場所が、唐招提寺門前から西へ向かい、近鉄の踏切を越えたところにある「西方院」であります。現在、優美な快慶作の阿弥陀如来像を所蔵されております。ここは、いつ行っても観光客に出会うことすらありません。しかし、この場所で活動した人々の存在が無ければ、唐招提寺はとうの昔に廃滅していたことでしょう。更に、南北朝・戦国の時代に再び衰微した本寺では、江戸時代の半ばに5代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の帰依を取り付け、その寄進に寄り伽藍の修理がおこなわれました。こうした各時代の寺院経営の結果として、鑑真の時代に建立された現在国宝指定の建造物が今に伝わってきたことを見逃してはなりません。つまり、同じことは千葉寺にも言えるのです。そして、こうした重層的に歴史をとらえることが、歴史を知ること、歴史に学ぶことだと思います。

 この後、中編では、千葉寺を舞台に繰り広げられてきた「千葉笑」なる風習について迫ってみましょう。
(中編に続く)

 

 

 千葉寺と本寺に伝わった奇習『千葉笑』について(中編) ―岡本綺堂 戯曲『千葉笑』全文をご紹介します!―

8月7日(土曜日)

 中編では、千葉寺を舞台としてかつて行われていた「千葉笑」なる奇習について述べてみたいと存じます。以下の内容の多くは、小島貞二『千葉笑い』1988年(恒文社)に負っていることをまず最初に申し上げておきます。本書は、半分が「千葉笑」についての歴史的な検証に、半分が作者による現代版「千葉笑」の提唱の内容となっております。本書がユニークなのは、その2部を冊子の両側から読み始めることができるように構成されていることです。つまり、本書は、中央部で上下が入れ替わって製本されているのです。一方を読み終えたら、書籍をひっくり返して逆側からもう一編を読み始めるように製本されているユニークな書籍です。因みに、本稿に関係するのは前部分となります。著者の小島貞二(1919~2003)は、相撲・プロレス・演芸評論家として名高い方であり、稀代の名人である古今亭志ん生関係の書籍を多く出されております。愛知県豊橋市出身でありますが、戦後は一貫して市川市中山にお住まいでありました。そのご近所付き合いとして「千葉笑」のことが射程に入ったのだと思われます。

 さて、「千葉笑」につきましては、前編で千葉寺に掲げられている説明看板にて、その概要をお示しいたしたが、一年に一度、大晦日の夜から新年に到るまで、地元の人々が顔を覆い隠して千葉寺に集まり、権力者の不正や人の良くない行いなどを罵り合い、笑って年を越すという風習を言います。岩波書店刊行の国語辞典『広辞苑』にも項目だてられておりますし、平凡社刊行の『俳句歳時記』にも掲載されておりますので、以下にご紹介いたしましょう。ここからも明らかなように、広く知られた風習であることは間違いありませんが、現在には伝わっておらず、その実態については不明瞭であります。

 

 下総国千葉寺で、大晦日の夜、土地の人が集まって、顔を隠し頭を包み声を変えて、所の奉行・頭人・庄屋・年寄などのえこひいき、善悪などを言い立て、また行状の悪い人、不忠・不孝の輩に対して大いに笑い、褒貶したこと。

 
[『広辞苑』(岩波書店)]

 千葉にある海上観音寺で、昔大晦日の夜、人々が顔をかくして集り、奉行・頭人・庄屋などの善悪不正を大きに笑って褒貶した。また個人の行状についても数え上げて笑い合ったの
で、この笑いに逢うまいと、常に謹むので、悪事が後を絶ったともいう。


[『俳句歳時記』(平凡社)]

 

 

 その発祥(起源)についてはよくわかっておりませんが、近世に記された文献類や俳諧の中から辛うじて、その様子が伝わって参ります。少なくとも歳時記に冬の季語として項目立てられていることから、俳人には比較的知られていた風習と思われます。看板にある『相馬日記』の著者高田與清は、武蔵国多摩郡小山田村に生まれ、後に江戸の豪商高田家に養子に入った人であり、村田春海について国学を修めました。その人物が成田へ遊んだ時の記録が『相馬日記』となります[文化元年(1804)]。更に古い記録を遡ると、元文年間(1736~1740)頃の成立とされる作者不詳の『千葉伝考記』内の「千葉介親胤の事、ならびに武蔵野合戦。附、千葉笑という事」に同様の内容が記されております。つまり古記録から遡ることのできるのは江戸時代中期までとなります。因みに後者では、千葉笑を千葉介親胤[天文10年(1541)生]頃のこととして書き留めているのでしょう。それが事実であるとすれば、500年近い歴史を有する習俗となりますが、流石にそこまで遡れるとは思えません。看板には『相馬日記』の記事と併せて小林一茶の作品が掲げられております。他にも近世半ば以降の俳諧にも詠まれているので、おそらく江戸時代の半ばに始まった習俗なのではないかと想像します。しかし、実際にどのようなかたちで行われていたのかまで記録はされておりません。

 もうひとつ、十方庵大浄という江戸の僧侶(浄土真宗)の手になる著名な『遊歴雑記』にも千葉笑の記事が見えます。この作品は文化11年(1814)から文政11年(1828)まで、筆者が各地を歩き回って珍奇なる話を書き留めた作品であります。筆者は千葉郡須賀村の人から直に噺を聞き取ったまま書いたと言っていますので地元情報に由来しましょう。ここからは、この千葉笑の習俗が千葉寺の本堂(観音堂)内で行われること(外は寒い時期ですので)、元日の午前4時頃まで行われることが分かります。ここには引用しませんが、作者は返す刀で江戸の現状に思いをよせ、江戸の役人どもの腐敗を大いに批判し、それと引き比べて「千葉笑」の行われる当地の大らかさを称揚しております。そして、下総国千葉郡で行われるこの習俗が、決してローカルなものでなく、江戸でも広く知られる行事であったことを知ることができます。小島貞二の著作では、想像力を大いに飛翔させ、千葉笑の生みの親が千葉介常胤であると述べておりますが、流石にそれは贔屓の引き倒しでございましょう。よく見られる、何でもその淵源を有名人(偉人)に帰してしまいがちな、庶民の願望の現れであろうと存じます。

 

 

 下総の国千葉郡千葉寺には、毎年極月晦日の夜、諸人道内に集合し、顔面を隠し、頭をつつみ、声を替えて、思い思いに、所の奉行、代官、大庄屋、年寄の依怙贔屓のよしあし、我意、物欲等を大音に判談し、笑いて褒美するあり、謗るもありていいとめし時、またかたわらより行跡あしき人、主、親へ忠孝ならざるものを批判してどっと笑えば、また此方より不貞心の女房は勿論、下女小婢にいたるまで、身持ちのよしあしを吹聴してどっと笑いて、寅の刻まで誰いうとは知らざれど、交る交るに一村人を明細に評判し、各どっと笑って退散せり、これによって諸役人より下男下女まで、この笑いに逢わじと互いに自今をつつしみ、身を嗜むとなん。天人を以ていわしむるの戒、自然よき教訓也。これを千葉わらいといえり。


(『遊歴雑記』)

 


実のところ、「千葉笑」にみられる「所属を明かすことなく普段は言えない人への悪口を吐き出す」といった習俗は、全国各地に散見されるものであります。所謂“悪態祭(悪口祭)”と広く称される習俗に他なりません(他に、千葉笑には“年籠り”と関連する行事としての位置づけもありますが)。それは「祭の参詣者が互いに悪口を交え、その勝敗によって幸運を占う」行事の在り方に他なりません。こうした「悪態祭」には他に、伊勢神宮における「伊勢の除夜」、京都の八坂社における「おけら詣で」(現在の「おけら参り」からは悪態祭の要素が消失)、下野国足利の八幡宮に伝わる「悪態まつり」、陸前は塩竃、神社に伝わる「ざっとな」、常陸国笠間の飯綱神社に伝わる「悪態まつり」、近所で挙げれば千住宿にも存在したことが記録から知られており、我が国に広く存在した習俗であると考えられます。「千葉笑」もまた、こうした民間習俗を引き継ぐ「悪態祭」の一ヴァリエーションに他なりますまい。しかし、千葉寺での悪態祭は、明治の御代になって途絶してしまったようで、その伝統は今には伝えられてはいないのです。

 さて、最後に岡本綺堂作『千葉笑い』について。本作は、小説家であり劇作家でもある岡本綺堂(1872~1939)が、大正元年(1912)秋に雑誌『太陽』に発表した一幕物の短編史劇であります。後に戯曲集『夜雪集』1921(春陽堂)に納められております。綺堂が何故、千葉寺に伝わっていた奇習に目を付けたのかは判然としません。しかし、近世の刊本や古句にも精通していた綺堂のことですから、それらに接して興味を抱いたのではありますまいか。ただ、少なくとも大劇場で上演された記録は存在していないようです。ただ「千葉市開府800年祭」における記念行事の一環として、大正15年(1926)6月1日より3日間、亥鼻劇場(後に映画館)にて上演されているそうです。因みに、綺堂の養子となった岡本経一が後に興した出版社「青蛙房」から昭和63年(1988)に出版された『岡本綺堂日記』の大正15年4月の記事に、県立千葉高等女学校(現:千葉女子高校)の高野校長が綺堂家を訪問し、本戯曲の上演許可をもらった旨があるとのことですので、初演は千葉高女であった可能性もありましょう。本作品は綺堂41歳の時の作品であり、傑作戯曲『修禅寺物語』(後に本人が小説に仕立て直した版もあります)を物した明治42年(1909)、いつか本メッセージで取り上げてみたい傑作連作小説『半七捕物帳』の連載を始めた大正5年(1916)の間という、綺堂の脂の乗り切った頃の作品であり、単純な筋立てではありますが、名文家綺堂の面目躍如たる一品に仕上がっていると存じます。最後の最後に千葉之介の呟く台詞はなかなかに深いものであり、何時までも余韻が残ります。単なるお気軽な一編には終わらせていない文筆家綺堂の老連さを思わされます。後編にて、全文を一気に掲載をさせていただきますので、皆様、是非とも味わってくださいませ。 

(後編に続く)

 

 千葉寺と本寺に伝わった奇習『千葉笑』について(後編) ―岡本綺堂 戯曲『千葉笑』全文をご紹介します!―

8月8日(日曜日)

 

 

登場人物

 千葉之介(ちばのすけ) 妻 呉竹(くれたけ) 娘 小松(こまつ) 
家来 小藤太(ことうた) 家来 源二(げんじ) 
家来 橘内 (きつない) 家来 平六(へいろく) 他に男女大ぜい


 

 

 

(能舞台の模様にて、ほかに道具を要せず。幕徐(しずか)にあくと、千葉之介出ず。家来小藤太つづいて出ず。)

千葉之介

これは下総国に隠れもない大名。小藤太あるか。

小藤太

はあ。おん前に……。

千葉之介

一年も早や夢のように打過ぎて今宵は大晦日(おおつごもり)じゃ。

小藤太

 仰せの通り、一夜あくればめでたい初春にございまする。

千葉之介

 それがしは弓矢を取って向うに前なく、戦えばかならず勝ち、攻むれば必ず取るに因って、近国の大小名ことごとくそれがしの威勢になびき、四方より旗下(はたもと)に寄りあつまる。明日も元日の祝儀を申そうとて、おびただしき出仕であろうぞ。

小藤太

 お屋形の御門前は、人と馬とで埋まるほどでござりましょう。

千葉之介

 それがしも左様存ずる。就ては当屋形に於いても、それだけの設けをせね
ばならぬ。万事は整うて居るか。

小藤太

 御念には及びませぬ。わたくしは確かと心得まして、大庭には幔幕を張りまわし、御門前には駒をつなぐ杭などあまた打たせましたれば、何千人一度に出仕致しまそうとも、決して慌つるようなことはござりませぬ。

千葉之介

 流石にそちは賢いものじゃ。よい家来を有(も)って、それがしも仕合せに存ずる。さて、出仕の面々に対して、祝儀の酒を参らせねばなるまい。雑煮の餅をも喫(た)べさせねばなるまい。それもよかろうな。

小藤太

 よろしゅうござりまする。

千葉之介

 注連飾や門松もよかろうな。

小藤太 

 みな吉例の通りに仕りました。

千葉之介 

 おお、よい、よい。やれ、やれ、これで落着いた。大名になっても歳の暮は何とやら心忙しいものじゃ。

小藤太

 何かとお気疲れでござりましょう。大晦日の御祝儀傍々(かたがた)、上られては如何でござりまする。

千葉之介

 何さま一献めぐらして、めでたく越年(おつねん)いたそうか。さあ、さあ、仕度いたせ。

小藤太 かしこまってござる。 
  (小藤太一礼して去る。千葉之介はあとを見送る。)
千葉之介  彼もなかなかの忠義者じゃ。繰返して申そう。よい家来を持って、千葉之介も仕合せに存ずる。
   (千葉之介は悠々と座に着く。千葉之介の妻呉竹、娘小松出ず。その後につづきて小藤太をはじめ、源二、橘内、平六の家来どもは、銚子、土器(かわらけ)又は下物(さかな)などを三宝に乗せてささげ出ず。)
千葉之介  おお、奥も姫も打揃うてまいったか。今宵は大晦日じゃに因って、めでとう越年の酒宴(さかもり)を開こうと存ずる。
呉竹  それは宜しゅうござりましょう。
小松   わたくしも御祝儀もうしあげまする。
千葉之介  酌は小藤太一人でよかろう。余の者共は遠侍にて控えて居れ。
三人  はッ。
  (源二、橘内、平六は一礼して去る。)
千葉之介  扨(さて)ゆるゆると飲もうか喃(のう)。
   (千葉之介先ず土器を取れば、小藤太は酌に立つ。千葉之介はかたむけて妻に献(さ)し、呉竹はかたむけて返杯すれば、千葉之介は再び傾けて、更に娘に献す。小松もいただきて返杯す。)
千葉之介 さらば小藤太にも取らそうぞ。 
小藤太  お流れ頂戴いたしまする。
   (小藤太進んで土器をいただけば、小松は立寄って酌をする。)
小藤太   謹んで御返杯つかまつりまする。
呉竹  常とは違うて、今宵はめでたい折柄じゃ。そのような小さい器では興が薄い。小藤太、先頃鎌倉のお人から贈られた大杯(おおさかづき)を持って来やれ。
千葉之介  いや、それは迷惑なことじゃ。そち達も知っての通り、それがしは生来の下戸じゃに因って、大杯などでは迚(とて)も堪らぬ。無用におしやれ。
小藤太  何さま殿は下戸でおわしました。
小松  はて、吞込の悪い男じゃ。今宵は大晦日ではないか。
小藤太  それは心得て居りまするが……。
呉竹  まだ解せぬか、成ほど呑込の悪いことじゃ。今宵は大晦日じゃに因って……。千葉寺へ……。のう、判ったか、判ったか。
小藤太  判りました。判りました。いや、ずんと呑込ましてございまする(打笑む。)初春の御用意の忙しなさに取りまぎれて、その儀を頓と失念して居りました。
小松  じゃに因って、父の殿へ……。(眼で知らせる)大杯を早う、早う。
小藤太   はは、心得ましてございまする。では、しばらくお待ち下されませ。
千葉之介   いや、いや、それがしは一向の下戸じゃと申すに……。待て、待て。
小藤太   いや、わたくしよりもお前様こそ、しばらくお待ちくださりませ。
千葉之介  えい、待てと云うに……。
小藤太  お待ちくださりませ。
千葉之介  待たぬか。
小藤太  お待ち下さりませ。
   (小藤太早々に去る。)
千葉之介   他の詞(ことば)をも能く聞かいで、いつもながら粗忽な奴じゃ。
呉竹  若い者は皆あのようでござりまする。お前様も若い時には覚えがござろう。
千葉之介  はは、これはあやまった。時に今そちが云うた千葉寺のこと喃。それがしも礑(はた)と打忘れて居ったよ。
小松  そのようなことは、お忘れなされても苦しゅうござりませぬ。
千葉之介   いや、物忘れするというは良くないことじゃ。当所の千葉寺は阪東三十三観音の一つで、霊験あらたかなるは遍く人の知る所。年々の大晦日の夜には、遠近(おちこち)の里人この寺に参詣し、思い思いの仮面をつけて己が面を掩(おお)い、誰を誰とも見分かぬようにして、上は領主より下は商人百姓に到るまで、人の善からぬ事どもを憚りなく数え立てて罵り合い、果てはどっと笑いはやす。これが幾百年来の古きためしで、千葉笑いと云えば世にかくれもない不思議の習わしじゃ。今宵は恰(あたか)もその大晦日の夜であれば、それがしも忍びやかに千葉寺へ詣で、諸人の笑いを見物いたそうと存ずる。
呉竹  それはお止めになされたが宜しゅうござりまする。
千葉之介   なぜな。
呉竹  一年に一度の千葉笑いに、諸人が憚りもなく罵り興じて居るところへ、お前様がお越しなされたら、皆が口を噤(つぐ)んでしまいまする。
千葉之介  何さまそれも然(そ)うじゃ。
小松  じゃに因って、左様なところへは一切お立寄りなされず、諸人の云いたいままに云わせてお置きなされませ。のう、母上……。
呉竹  これは娘の申す通り、今宵の御参詣はお見あわせを願いまする。
千葉之介  とは云え、何やら行って見たいようにも存ずるが。
呉竹  いえ、いえ、お止めなされませ。
小松  お止めになされたが宜しゅうございまする。
   (呉竹と小松は頻りに遮る、小藤太は三宝に朱塗の大杯を載せてささげ出ず)
小藤太  お杯を持参いたしました。
呉竹  年のう早かった。殿にもお待兼じゃ。おん前にささげてまいれ。
千葉之介  何の待兼ねて居ろうぞ。そのような大杯は見るも嫌いじゃ。措け、措け。
小藤太  常の時とは違いまする。今宵は年越しの御祝儀にめでとうお過ごしなされませ。
   (小藤太は進んで大杯をささぐ。)
千葉之介  これで飲めとか。やれ、情けないことじゃ。
呉竹  御卑怯なことを云わせますな。
千葉之介  それがしも武士じゃ。卑怯者と云われては弓矢の恥辱とも相成ろうずるに因って、一生けんめいに飲うで見しょうわ。
小藤太  わたくしが御下物いたしまする。
千葉之介  下物に舞うか。
小藤太  舞いまする。
千葉之介  面白かろう。早う起(た)って見せい。
小藤太  はッ。
小松  わたくしも唄いまする。
千葉之介  これは一段と面白かろう。唄え、唄え。
小松  心得ました。(扇を取り直して唄う)めぐりて尽きぬ年の瀬や。流れ流れて今日もまた……。
   唄『年に一度の大晦日は、春の設けは忙しく、君が宮居は注連を張る。殿が屋形は松を積む。武士の馬には鞍を置く。賤が伏屋は餅をつく。めでたき御代こそ楽しけれ。』
   (小藤太は起って舞う。この間に呉竹は進んで酌に立つ。千葉之介は大杯を取って傾ける。小藤太やがて舞い終わる。)
千葉之介  いや、面白いことであったぞ。例(いつ)もながらそちの舞振の面白さに、これ見い。我知らずこの大杯をうかうかと飲み尽くしてしもうたわ。ははははは。
小藤太  御賞美恐れいりまする。
小松  小藤太の舞が御意にかのうたれば、今一盞(さん)お重ねなされませ。
千葉之介  まだ飲めと申すか。そち達がこれほどまでに心を尽くして欵待(もてな)して呉るるものを、無下に断るも興がない。よい、よい。今一盞重ねると致そうか。
呉竹  では、飲うで下さるか。嬉しや、嬉しや。それでほっといたしました。
千葉之介  それがしが酒を飲むのが、それほどに嬉しいか。
呉竹  大名と申すものは、うわべは不足のないように見えても、心の底には人知れぬ苦労が数々あるものでございまする。先ず第一には上への御奉公、次には近国の大小名の抑え方、領内の御政治向、家来どもの取締、それからそれへ心を配らせられては、ほんに夜の目も碌々に合わぬほどの御苦労と、わたくし共も常々お察し申して居りまする。そのお気疲れを休むるには、愁いを攘(はら)う玉箒(たまはばき)の酒に如(し)くものはございませぬ。
小松  父上がお杯を過ごされて、眼もとろとろと御機嫌の好い体を拝みますると、わたし共も心嬉しゅう存じまする。
小藤太  皆様もあのように仰せられますれば、さあ、さあ、お重ね遊ばしませ。
千葉之介  さらば、注いで呉りゃれ。
   (小藤太進んで酌をする。)
千葉之介  やあ、やあ、嗌(こぼ)るるほどになみなみと注ぎおったわ。が、まあ、よい、よい。酒に酔うて管巻くを、下世話では太平楽の巻物をひろげるとか申すそうじゃが、私も酔うて云うではなけれども、陸奥筑紫の果ては知らず、およそ関東八州を見渡したところでは、この千葉之介ほどの果報人は二人とあるまいぞ。(漸く酔の廻りし体。)はて、何故と云やれ。第一に上の覚えはめでたし、近国の大小名はみな帰服する。領分内の民百姓はありがたい御政治じゃと喜んで居る。又、おのれが住む屋形の内を見廻せば……。(呉竹と小松を見て。)二世の誓いをかためた妻は貞女、可愛の娘は孝行者、揃いも揃うてわしを大事にかけて、朝夕ねんごろに介抱して呉るる。いや、妻子ばかりではない。家来共もみなそうじゃ。この小藤太を始めとして、源二、橘内、平六、その余の者共も油断なく忠勤を励んでくるる。右を見ても、左を見ても、不足ということは露程も知らぬ千葉之介。なんと果報者ではあるまいか。ははははは。
小藤太  仰せの通り、憚りながら殿が日本一の御果報人に渡らせらるることは、世に隠れもない取沙汰。かばかりに好い御主君を持ちましたるは、我々どもの仕合せにございまする。
千葉之介  そち達も仕合せに存ずるか。いや、頼もしいことじゃ。
   (千葉之介は興に乗じて大杯をかたむく。)
呉竹  今宵のように御機嫌の麗しいは近頃に珍しいこと。わたくし共も嬉しゅうて嬉しゅうてなりませぬ。
   (云いつつ娘に目配せすれば、小松うなずく。)
小松  父上様。その御機嫌の麗しいところで、今一盞お過ぎしなされては如何でございまする。
千葉之介  いや、何と云うても此上は迚(とて)も堪らぬ。もう許してくりゃれ。
小藤太  ではござりますれど、一年一度の御祝儀でございますれば……。
千葉之介  はて、そち迄が其様なことを……。なんぼ快いと云うて、この上に飲うだら酔潰れてしまうわ。これ、見い。この通り足も腰もふらふらと、いやもう他愛のないことじゃ。
   (千葉之介はよろめきながら起き上がりて、つまずき倒れんとする。小藤太走り寄って支える。)
小藤太  お危うございまする。
千葉之介  ははははは。このように酔うた例はついぞ覚えぬ。小藤太の顔がちらちらと二つにも三つにも見えるわ。はは、面白い、面白い。(手にて拍子を取りつつ唄う。)……武夫(もののふ)矢並つくろう小手の上に……。
   唄『霰ふりしは昔のことよ。今は我等も厚衾(ふすま)、かさねて夜半の雨を聴く。さりとは目でたや、めでたやな。』
   (千葉之介は足も四度路に舞い唄いしが、果ては疲れて其場に倒れしまま正体無し。呉竹と小松とは顔を見合わせてささやき合い、小藤太は『この間に早く行け』と眼で知らすれば、二人はうなずきて呉竹先ず起ち上がり、隙を見て窃(そ)っと立去る。小松は起ち兼ねて躊躇せしが、これも小藤太に促されて窃っと立去る。小藤太も漸次(しだい)に後退りして、遂に立去る。千葉之介はやがて起き上がる。)
千葉之介  いのほかに酒を過した上に、舞いつ唄いつした程に、喉が渇いてならぬ。小藤太、水を汲んでまいれ。これ、小藤太……子藤……(四辺を見まわす。)や、小藤太は居らぬ。呉竹も……小松も見えぬ。揃いも揃うて何れへまいったぞ。ははあ、聞えた。わしが酔うて正体のない間に、次の間へ退って休息して居ると見えるな。それにしても水が欲しい。これ、誰そ居らぬか。早うまいれ。
   (呼び立つれば、源二と橘内と平六出ず。)
源二  召しましたか。
千葉之介  呼んだは他でもない。水を持て。
平六  心得てござりまする。
   (平六去る。)
源二  今宵は例になく御酩酊のように御見受け申しまする。
千葉之介  おお、酔うた。酔うた。正体もなく酔い倒れている中に、誰も彼も皆往んでしもうた。これ、小藤太は何れにある。
橘内  小藤太は唯今いずこへか罷り出ました。
千葉之介  左様か。して、奥や姫は如何いたした。
源二  奥方も姫君もお忍びの姿にて、これも何処かへお越しに成られました。
千葉之介  はて、合点が行かぬ。どれもこれも何処へ参ったのであろうな。(考える。)
むむ、読めた。彼らは私を出し抜いて、千葉寺へ参詣に行ったと相見える。
橘内  内。何さま今宵は大晦日で、千葉笑いの古例を行う夜でございまする。
千葉之介  それ、それ、その千葉笑いを見物にまいったに相違あるまい。わしには見に行くなと意見をしておきながら、おのれ等ばかり見物にまいるとは我儘な奴等じゃ。ははははは。よい、よい。私もあとから参ると致そう。
   (平六は水をささげて出ず、千葉之介は快く飲み干す。)
千葉之介  下戸でも酔醒の水の味は格別じゃ。さあ、千葉寺へ参るぞ。仕度いたせ。
源二  はあ。
千葉之介  そち達もまいれ。
二人  はあ。
   (千葉之介去る。家来三人はあたりに取散らしたる杯盤を片付けて去る。)

 

 

   (これより常磐津の浄瑠璃となる。)
   浄『常闇の、岩戸がくれの昔より、神が教えし故事を、あずまの果てに伝え来て、今も変わらぬ千葉寺の、師走の夜ぞ賑わしき。』
   (千葉之介再び出ず。源二、橘内、平六もつづいて出ず。)
千葉之介  屋形からは阪東道の一里に足らぬに因って、早や千葉寺に参り着いた。ははあ、おびただしい群集かな。来る人も、男も女もみな一様に仮面を着けて居るので、いずこの誰やら一向に判らぬ。面白いことじゃ。
源二  あれ、あれ、大勢がこなたを指して動揺(どよ)めいてまいりまする。
   浄『仮の面に色こそ見えね、香やは隠るる梅の花、松も柳もこき交ぜて、男女の一群れが、押しつ押されつ集い来る。』
   (男女大勢。思い思いの仮面を着けて出ず。その中に般若の仮面を着けたる呉竹と阿多福の仮面を着けたる小松、鬼の仮面を着けたる小藤太にまじりて出ず。千葉之介等はあとに退りて見物す。)
男一  さあ、さあ、今宵は一年に一度という千葉笑いの当日じゃ。天下晴れて悪口を云うでもたがよいぞ。
男二  そうじゃ、そうじゃ。今夜ばかりは遠慮なしに、誰の悪口でも列(なら)べた。列べた。
男三  したが、大勢が一度にがやがやと喚いては、なにが何やら判るまい。
男一  交わる交わるにこれへ出で、云いたいままに云うたがよかろう。
大勢  さあ、さあ、誰でも出さっしゃれ。
   浄『おっと合点の鬼が出る。』
   (小藤太先ず進み出ず。)
小藤太  先ず第一に云おうなら、御領主の千葉之介殿じゃ。彼の御仁は表(うわ)べは情深う、分別ありげに見ゆれども、裏と表は大きな相違で、おのれが家来に対しては、情けというもの微塵もござらぬ。
   浄『たとえば地獄の牛頭馬頭が、罪ある亡者を追うように、あけても暮れても責め使い、斃れるまでも追い立て追い立て、邪慳の笞(しもと)を振りかざす。さりとは無慈悲と思えども、仮にも主と名がつけば、われは我慢の胸を撫で、人目忍んで泣くばかり。』
   (小藤太は鬼の仮面の眼を拭いつつ泣く。小松走り寄る。)
小松  あ、もし……。(小藤太の手を把りて、口説模様になる。)
   浄『そなたばかりか妾(わたし)とて、年頃日ごろ頑拗(かたくな)な、父の教に縛られて、巣立の日から籠の鳥、うき世の春を知りながら、翼ひろげて面白う、飛ぶに飛ばれぬ悲しさよ。わたしの恨みばかりでも、父の最後は知れてある。』
小松  大方は名もない雑兵の手にかかって、首を取らるるか、生捕りか、世間に恥を晒さるるであろう。おお、笑止……。
   浄『笑えば母もうなずいて……。』
   (呉竹も仮面をつけしまま進み出ず。)
呉竹  おお、それ、それ、あの千葉之介殿という人は、裕福にも似ず物吝(ものおし)みする男で、天晴れ大名ともあろう身が……。
   浄『おのればかりが栄耀して、いとしの妻に綾錦、着せて見とうはないかいな。四季おりおりの衣更え、その度毎に着るものを、買うの買わぬの喧嘩(いさかい)に、たった一重の晴衣さえ、思うままには奈良の鹿、角目立つとは浅ましや。』
呉竹  こんな夫は古着も同様、捨ててしまおうと思えども。
   浄『うき世の義理がままならぬ。ええ、ままならぬ悔しさよ。』
呉竹  思えば思えば千葉之介殿は憎い人じゃ。
小松  恨めしい人じゃ。
小藤太  情けを知らぬ人じゃ。
男女一同  そうか喃。
小藤太  これで少しは胸も晴れた。さあ、古例に依って皆も笑うてくだされ。わはははは。
一同  はははははは。
   浄『千葉之介腹に据え兼ね、思わずつッと進み出で。』
   (先刻より千葉之介は立腹を堪えていたるが、余りのことに堪忍ならず、太刀に手をかけて進み出ず。)
千葉之介  やあ、喧しいおのれ等。千葉笑いは古き習わしと、胸を撫(さす)って聴いて居れば、云いたいままの悪口雑言。もはや堪忍相成らぬぞ。彼の三人を引捉えよ。
家来三人  はッ。
   浄『うけたまわると駆寄って、逃げんとするを引据ゆる。機(はずみ)に仮面は地に落ちて、初めて露わす顔と顔。』
   (家来三人駆寄って、呉竹と小松と小藤太とを引据えんとし、こなたは逃げんと争う中に、着けたる仮面落ちる。家来どもはその顔を見ておどろく。)
源二  や、奥方でござりましたか。
橘内  これは姫君……。
平六  これは小藤太。
家来三人  こりゃ何うじゃ。
   浄『惘(あき)れて詞もなかりけり。』
呉竹  斯(こ)う露見しては面目もござりませぬ。
小松  父上、お免(ゆる)しくださいませ。
小藤太  殿、ご免されい。
   (呉竹等三人逃げんとするを、千葉之介よび止める。)
千葉之介  いや、待て、待て。今まで貞女と思うた妻も、孝行者と思うた娘も、忠臣と思うた家来も……。(思案して)なまじいに面を見たが私のあやまりじゃ。もとのように仮面を着せて置け。
家来三人  はッ。
   (家来どもが落ちたる仮面を拾いて、呉竹等に旧のように着せる。)
千葉之介  はは、そうして置けば誰やら判らぬ。人には仮面をかぶせて置くものじゃ。
(謡のように。)ただ何事も烏羽玉の……。
   浄『ただ何事も烏羽玉の、闇こそ浮世の習いなれ。』
千葉之介  闇こそ浮世の習なれ。
   浄『悟りすまして千葉之介、屋形へこそは帰りけれ。』
   (千葉之介は徐(しずか)に歩み去る。家来どもは付き添いゆく。幕。)

 

 

 

 千葉市子ども詩集・文集『ともしび』に探る「時代を見る眼」について(前編) ―教育(国語科)における作文教育(指導)の位相を考える―

8月13日(金曜日)

 

 お暑うございます。皆様におかれましては、コロナ禍の中で概ね無観客開催となった東京五輪をご自宅のテレビ等でご観戦の方が多かろうと存じます。そろそろパラ五輪に移行する頃でしょうか。当方は、飽くまでも個人的な思いから「東京五輪」からは距離をとっております。幸いに、街に出ても五輪ムードは皆無でございます。何時も乍らの日常が淡々と流れていることに、むしろ爽快感すら感じる次第でございます。東京都の住民である当方でありますが、葛飾区からは7月当初にワクチン接種の案内が届いておりますが、未だにワクチンが確保できないそうで、予約すら中断しております。我が居住地以外では、当方よりずっと若い40代の方々でも2回の接種が終了しているのにも関わらず。昨今のデルタ株の拡大にともなう感染者の激増の中、何度目か(あまりに頻繁なので失念しました)の「緊急事態宣言」が千葉においても発出されましたが、今後は感染の広がる若年層に優先的に接種する方針であると耳にします。実際に社会を支えて日々通勤して「感染危機」の最前線にいる40代・50代の方々、我ら夫婦のように65歳に満たない中途半端な定年世代が、またまた「置いてけ堀」(本稿で取り上げる岡本綺堂作の優れた同タイトル読み物あり!!)状態となるのでしょうか。こうした世代が「ワクチン難民」、いや正に「ワクチン棄民」状態にされているようにすら感じてしまいます。被害妄想と言われようが正直不安で仕方がありません。その現状についての説明さえもが「五輪」狂騒曲の喧噪に紛れて有耶無耶にされているように感じてしまいます。

 さて、特別展が開幕して10日が経過いたしましたが、予想した以上に多くの皆様に御観覧をいただいております。千葉県・千葉市における新型コロナウィルス感染症の感染者数の増加とそれによる蔓延防止対策から「非常事態宣言」への移行等もあるなか、そしてこの猛暑の最中に脚をお運び頂いた方々には心の底より感謝申し上げます。ありがとうございました。特に、私と同年代の皆様にとっては懐かしい世界との再会となり、「懐かしい」といった感想が多々聞こえて参りました。幼少時代から千葉市にお住いの年配の方々からは、文集・詩集『ともしび』に自らの作品が掲載されたことを思い出される方もいらっしゃいました。特に夏休みからの開催ということで、児童生徒の皆さん、教職員の方々に是非ともご観覧を頂きたいと願っております。

 さて、改めまして、本年「千葉市制施行100周年」であることに因んだ、令和3年度特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』についてでございます。タイトルにございますように、本展は当時の児童生徒であった子どもが記述した作文・詩作品を窓口に、子ども達の眼に映った高度成長期の時代像を描き出そうとする内容となります。そのための前提として、まずは当時の作文が資料として残されていることが条件となります。次に、残っていても、その作品に「時代の変化」が記録されていなければ史料として活用することができません。従って、当該企画が成立した前提にあるのは、その条件が整っていたからに他なりません。これは、一重に当該時期における千葉市教育委員会と国語科指導教員の先達の方々の高い志と尽力があってこその果報であると申しあげねばなりません。何よりも志高き編集方針の下、児童生徒の作文集が継続的に編まれたこと、それが今日の日にまで営々と引き継がれてきたことに頭の下がる思いでございます。先日も外部から「子どもの作文から見るというが、どうせ国語の授業で描いたものだから大した内容じゃなかろう。そんな作文から社会が見えるはずないだろう」といった趣旨内容のご意見を賜りましたが、正直に申し上げて「こんなに内容のある作文を書けるものなら、是非貴方様がお書きになってみたら如何ですか?」「きっと当時の子どもより優れた作文は大人でもなかなか書けないと存じますよ」と出かけた言葉を呑み込んだほどでした。それほどに優れた作品が多々あります。子どもの視線や感じ方を侮ってはなりません。大人のような忖度もすることもなく、移り変わる社会の姿の本質に直感的に掬い上げて、その思いを飾らずに表現していると思います。少なくとも、そんじょそこらの自称“訳知り顔”の大人など足元にも及ばぬ、そうした御仁の顔色を無からしめるほどの作文が数多く存在していると認識しております。つまり、結果として選び残された作文作品は、計らずも当時の変貌する千葉市の姿を照らし出す、優れた「歴史史料」となっていると申しても決して過言ではありません。それが、千葉市教育委員会が毎年発行し続けている、文集(昭和30年創刊)・読書感想文集(昭和39年創刊)・詩集(昭和44年創刊)の『ともしび』に他なりません。

 その中でも、作品群を拝読させていただき、特に「高度成長期」に当たる初期の児童生徒の作品には心に残るものが極めて多いと感じます。そして、その行間からは、「子どもたちの優れた作文作品を後世の鑑とすべく」尽力される、当時の国語科教育を牽引された先生方の熱い思いと、志と見識の高さとが滲み出ているように感じさせられます。その姿勢に、同じ教育者としての経験値のある者として、心底から畏敬の念を覚える次第でございます。その間、2度にわたって、傑作選ともいうべき記念号が刊行されております。すなわち、昭和51年(1976)年に『ともしび』刊行20周年を記念して作成された『ともしびの子ら』(編集:「ともしびの子ら」編集委員会・千葉市教育委員会・千葉市教育研究会国語部会・千葉市国語主任会)、及び平成14年(2002)にその後の作品から選りすぐられた作品集成としての『ともしびの子ら 第二集』(編集:「ともしびの子ら」編集委員会・千葉市教育委員会)の二冊であります。それから既に20年が経過しようとしておりますので、是非とも近い将来に『ともしびの子ら 第三集』が編まれることに期待が高まります。

 こうしたアンソロジー集を編むことは、実のところ、編集作業を通じて教師が過去の児童生徒作品に接することが、現役の先生方に大きなメリットをもたらすものと思われます。作文指導を巡る国語教師としての自らの指導の在り方を再認識して頂くという、重大な意味と価値を併せ持つ重要な意味をもつと考えるからであります。先にも申しあげましたように、第一集に選ばれた作品の質の高さは際立っております。その作品群は、自身の回りのことだけに留まらず、社会全体への視野を踏まえて自らの想いを語るといった「綴り」の在り方が色濃く感じられます。しかも、内容だけに止まらず、作文能力といった技能的側面においても優れていると感じます。今ここで、現役の千葉市における国語の先生方に、『ともしびの子ら』2冊を熟読玩味された方がどれほどおられるかを問うてみたい思いに駆られます。失礼を承知で申しあげれば、それら冊子は、概ね図書室に死蔵されているのが関の山でございましょう。しかし、私としては「とんでもない!私は熟読の上で、今現在の作文指導に活用している」との国語科の現役教師からの反論が沢山寄せられることを期待しているのです。ただ、残念ながら、それが叶えられることにはありますまい。では、何故に初期の文集の質が高いのでしょうか。そのことを、後編では考えて見たいと思っております。

 その前に、今少し『ともしびの子ら 第一集』にお付き合いください。巻頭言「発行にあたって」は当時千葉市立新宿中学校校長であった山本清(国語科)によるものです。そこで、山本は千葉市で『ともしび』が20年以上継続して編まれてきたこと、国語科において作文教育が活発に行われてきたことを指摘されております。また、巻末に座談会形式による「『ともしび』を語る」があり、創刊から作成に取り組まれてきた先生方のご苦労が語られており、関係者による印象的な発言が見られます。その中で、かつて編集に携わってこられた安藤操は次のように述べております。

 

 

 千葉市の生徒諸君は、一人ひとりが、作文をすることによって、自分というものをしっかりととらえ、豊かにふくらませ、考え方を強く深く育ててきたのであります。言わば、千葉市の教育を大きく支えてきた一本の柱は作文なのだといっても過言ではありません。


(山本 清)

 

 

 千葉市の作文集を、どういうふうに編集するかという大問題ですが、編集のねらう所は、千葉市の子ども達に日本語による文章表現力をつけることでしょう。そしてその基底には、地域と生活に根ざした子どもなりのものの見方、感じ方、考え方などの認識諸能力を育てることがあるでしょう。この両者が統一された所に作文教育の真の意味があると思います。(中略)究極のねらいは、あくまでも書かせることによって、表現力・認識力を育てることですから形式技能的なものの指導にのみ走らないことが大切でしょう。

 作文教育というのは、教育の中でとてもだいじなものであるということですね。それが入試や、ワーク・ブックの点数にストレートに繋がらないとしても、逆説的にいえば、それだからこそ大切なんです。人間の教育、人間の思考力・認識諸能力の育成にとって、作文教育は独自の大きな役割をになっているわけです。そのことを「ともしび」の編集活動をとおして、千葉市のすべての先生方に訴えていきたいと思います。

 

 (安藤操の発言)

 

 

 一読して誠にしかり。正に至言であります。こうした先人の語る言葉こそ、後輩の我々は是非とも真摯に受け止める必要がございましょう。国語科における、実用的な文章作成技術の指導といった袋小路に留まることのない、作文指導を通じて他教科にも広く通底する表現力の育成、そして社会認識の涵養と育成といった、広範で深遠なる「教育」の機能を見据えていることが読み取れます。まさに、戦後教育の目指した姿がここに示されているとさえ申せましょう。改めて申しあげますが、これらは、昭和51年(1976)の発言です。是非とも「熟読玩味」されて頂きたく存じます。そこで、後編では、こうした国語教師の発言が如何なる背景をもって語られたものかを、作文指導(教育)というものが教育の中で如何に扱われてきたのかを中心に探ってみたいとおもいます。
(後編に続く)

 

 千葉市子ども詩集・文集『ともしび』に探る「時代を見る眼」について(後編) ―教育(国語科)における作文教育(指導)の位相を考える―

8月14日(土曜日)

 

 後編では、初期の文集『ともしび』掲載作品群に優れたものが多いのは何故かを、歴史を遡って探って参りたいと存じます。まず最初に確認しておきたいことは、当時の生徒の質が今と比較して優れていたからではないということです。放っておいて生徒が優れた作文を書いてくることは極めて稀でありましょう。そこには、教師を含む大人の指導助言が欠かせません。そして、作文指導(教育)の方向性として大雑把に申し上げれば、2つの指導の側面を意識することが必要であると思われます。それは、第一の「どのように書くのか」であり、二つ目には「何を書くのか」ということになりましょう。前者は、いわば「表現技能」を、後者は「表現内容」の問題と置換できましょうか。その両者の兼ね合いが無ければ、優れた作文としては成立しえないのだと存じます。

 しかし、「表現技術」、つまりどのように書くのかという、文章としての表現能力の向上といった技術的な側面の指導も然ることながら、その前提として「何に着眼して何を書くのか」「自分自身の想いをそれに乗せて表現する」ことは極めて重要であります。前者は、組織だって系統立てて指導することが可能でしょうが(ただし、最後に述べるように日本の作文技能指導は現状に於いても諸外国の指導と比較しても十分な状態とは言えないと考えます)、後者は系統的に指導することは決して簡単ではないと存じます。しかし、当時の先生方は、そのこともまたを子どもたちに丁寧に伝えたのに違いありません。出来上がった作品が論より証拠となります。まさに「内容」としても優れた作文になり得ております。

 それでは、基本的な確認作業から。明治以降の学校で、国語科指導の中で作文指導が如何に位置付けられていたのかを時系列でみてみましょう。併せて、民間における作文の在り方への考え方等にも目を向けて探りたいと思います。その際、申し上げておかねばならないことは、当方は社会科教師であり、国語科の指導の動向については全くの門外漢であります。作文指導が教育史のなかで如何なる位置付けとされてきたのかについても、詳らかにできる能力もございません。あくまでも俄か仕込みの聞きかじりを基に述べますので、誤りも多いかとも存じます。もしお気づきになることが御座いましたら、遠慮なく御教示を賜れればと存じております。

 そもそも、「作文」を学校で教えることが明確に定められたのは明治以降のことであります。近世の寺子屋では、文字の読み書き、あるいは定型となる書面の書き方等を学ぶことはあっても、自由に思いを連ねるような意味における作文を書かせることはありませんでした。明治以降の作文指導について、まずは「小学校令」(戦時下は「国民学校令」)に記載された当該指導について、政府が如何に位置付けていたかを時代を追って確認してみます。以下、菅原稔の論文「戦後作文・綴り方教育史研究―昭和22年度・昭和26年度「学習指導要領」公刊当時の状況を中心に-」2015年(岡山大学大学院研究科研究集録)を紹介する形でそれらについて述べてみたいと存じます。戦前における「小学校令」の文面におけるカタカナは平仮名に直し、適宜読みやすく文を整えております。

 

 

1. 小学校令[明治19年(1886)]
第十条 作文 尋常小学校においては仮名の単語 短句 簡易なる漢字交じりの短句漢字交じりの口上文 書類及日用書類 高等小学科においては漢字交じり文及日用書類
2. 小学校令[明治23年(1890)]
第三条 作文は読書又は他の教科目において授けたる事項、児童の日常見聞せる事項及処処世に必須なる事項を記述せしめ行文平易にして旨趣明瞭ならしめんことを要す
3. 小学校令[明治33年(1900)]
第三条 文章の綴り方は読み方又は……(※以後は明治23年令と同じ)
4. 国民学校令[昭和16年(1941)]
第四条 綴り方においては児童の生活を中心として事物現象の見方考え方に付訂適性なる指導を為し平明に表現するの能を得しむると共に創造力を養うべし

 

 ここからは、よく言われるように明治の作文教育は単なる範文を頭に入れるのみであったとの認識が、少なくとも法規上から見る限り正しくないことが分かります。むしろ、戦時下の国民学校令の内容からは、文言を整えて現代文にすれば、戦後の法令のようにも思えませんでしょうか。作文教育における「事物現象の見方考え方」の指導、「創造力」の育成等、戦後教育に連なる側面をもっていたこと(少なくとも理念上は)を看過してはならないと思います。また、「作文」なる用語が、明治末には「綴り方」と称されるようになっていたことも分かります。ただ、ここからは具体的に如何なる作文教育が実施されたか判然とは致しません。政府の方針としては、少なくとも、「表現技能」を高めることでも、「表現内容」に工夫を凝らすことでもなく、飽くまでも児童の「日用」「日常」に根差して(しかし「生活から必要以上に離れることなく」)「書く」ことが目指されていたと言うことでしょう。ただ、この後に触れる、大正期に民間から勃興する作文教育の改革の動きから判断すれば、明治期の作文教育では、相当に形式主義的な作文指導が行われて居た可能性が高いものと想像されます。

 続いて、大正デモクラシーを背景にしながら国内の様々な場面から作文指導に意味を付与する動きが勃興するようになります。その動向は様々な側面をもっておりますので、一概に定義し難い面もあります。その代表的な動向が、歴史的に最も大々的に取り組まれた児童作文運動としての「赤い鳥」の取り組みであり(小説『桑の実』で知られる鈴木三重吉が主導した児童文学運動)、後にその反動ともいうべき「作文教育を文学者の手から取り戻そう」といった教師達の手によって主に展開された所謂「生活綴方教育」であったものと考えられます。前者は、子どもの純真な感じ方を大切にして自由に表現させる、云わば「文学的作文」を推奨したことにその指向性があり、後者は、作文指導において、子どもに自らの置かれた厳しい生活実態(現実の社会)に目を向けさせることに向かっていくことになります。いわゆるプロレタリア運動としての側面を色濃く持っていました。つまり、後者の言う『綴り方』とは、純粋な「作文指導」というよりも、「生徒(生活)指導」的側面が強く意識された活動であると申せましょう。従って、昭和の戦時下においては弾圧の対象となっていくことになります。ここでは、広島大学名誉教授である大槻和夫による整理に従って、「生活綴方教育」が多様な意味合いを持って使われてきた概要についてお掴みいただければと存じます。方向性は異なれども、何れも子どもたちの「表現内容」に偏重した作文指導の在り方と言っても宜しいかと存じます。

 

 

 生活者としての子供や青年が、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで文章に表現すること、またはそのようにして生み出された作品を「生活綴方」といい、こうした作品を生み出す前提における指導、文章表現の過程における指導、作品を集団のなかで検討していく過程での指導、これらをまとめて「生活綴方の仕事」「生活綴方教育」あるいは単に「生活綴方」とよんでいる。この生活綴方の仕事を発展させ、その普及を図ろうとする民間の教育運動が「生活綴方運動」である。ただし、それについてはさまざまな考え方があり、まだ、一致をみるに至っていない。

生活綴方は、大正初期に芦田恵之助(あしだえのすけ)らが提唱し実践した「綴方科」における自由選題主義(子供たちに自由な題材で文を綴らせる考え方)、1918年(大正7)に鈴木三重吉(みえきち)が創刊した児童雑誌『赤い鳥』によって推進された「ありのまま綴方」の文章表現指導運動、自然主義文学系統の綴方やプロレタリア綴方の運動などを伏線として、29年(昭和4)に小砂丘忠義(ささおかただよし)(1897―1937)らによって創刊された雑誌『綴方生活』によって成立していった。小砂丘らは、30年10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方を示した。これは生活綴方の概念の最初の公的な表現であり、『綴方生活』の終刊までの編集方針でもあった。

 こうした動きのなかから、1934年前後に、東北地方の青年教師らによって「北方性教育運動」が開始された。これに刺激されて地方的な運動や中央的な運動[たとえば、35年に『工程』を創刊した百田宗治(ももたそうじ)らを中心とする運動や、『綴方生活』などの運動]もしだいに質的な転換をみせていくようになり、生活綴方運動の本格的な展開が始まった。これらの運動は、やがて日中戦争の拡大を迎え、40年国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断されるに至った(40~42年にかけての、いわゆる「生活綴方事件」による検挙者は約300人に及んだ)。第二次世界大戦後、生活綴方運動は復活し、50年(昭和25)「日本綴方の会」が誕生(翌年「日本作文の会」と改称)し、この会を中心に活発な活動を展開しながら今日に及んでいる。

 生活綴方運動は、その成立、展開の過程で深化と分化も進行した。たとえば、「綴方」という一教科にすぎなかったものが生活指導のための綴方指導に拡大されていった反面、それに対する批判も生まれた。また、東北地方の綴方教師たちの北方系または東北型と、北方性論批判派の、鳥取県の伯西(ほうせい)教育を中心とした南方系または西南型との分化も生じた。今日においても、生活指導と生活綴方との関係、生活綴方と教科指導との関係は、生活綴方によって子供たちの実感や欲求を引き出しながら、それをどのようにしてどこまで認識の世界へと踏み込ませていくことができるのかという実践と、教科指導において道徳や科学を子供たちの実感や欲求の世界へと踏み込ませていく実践との、両側からの接近が必要になってくるのである。

 

 次に、戦後のGHQの統治下で策定された「学習指導要領」において作文指導がどのように捉えられているのかを見てみましょう。昭和22年(1947)の「学習指導要領国語科編」で注目すべきは、戦前までの作文指導が「書き方」「綴り方」という「方法(技術)」論とされていたのに対して、戦後の学習指導要領では「書くこと」「綴ること」といった表現に変わっていることです。つまりは、技術論としての作文指導に偏することなく、子どもの生活経験を踏まえた表現活動としての方向性が示されていることだと考えられます。更に、発達段階を踏まえた表現力の育成についても触れるなど、現在においても示唆に富む内容となっております。さらに、昭和26年(1951)の「学習指導要領国語科編」では、作文指導について極めて具体的に明示していることが注目されます。それが、「国語能力表」の存在に他なりません。これは「国語の様々な能力を、児童の発達段階に応じて、学年別に、一つの表として、組織、配列したものである」と説明されております。そのうちの小学校における「書くことの能力(作文)」の部分を以下に引用してみましょう(1・4・6年生分)。更に、論者の菅原がこれを評した部分も引用させていただきます。まさに同感であり、当方が付加することは一切存在しないからであります。

 

 

 

 

1年 能 力 継続学年

1

文字で書くことに興味がわいてくる。 1-2
2 簡単な口頭作文ができる。 1-2
3 自分で描いた絵に、簡単な説明をつけることができる。 1-2
4 家庭への伝言など、簡単なメモを書くことができる。 1-2
5 自分自身の行動や身辺のできごとなどについて簡単な文をかくことができる。 1-2
4年 能 力 継続学年
1 読んだ本について、その荒筋や感想が書ける。 3-5
2 いろいろな行事についての標語や宣伝・広告の分が書ける。 3-5
3 見学、調査などの簡単な報告の文が書ける。 3-4
4 ゲームの解説や作業計画などについて、説明の文を書くことができる。 3-5
5 児童詩をつくることができる。 3-6
6 物語や脚本を書くことができる。 3-6
7 多角的に取材して、まとまりのある生活日記を書くことができる。 3-6
8 文の組み立てを考えて、段落のはっきりした文を書くことができる。 3-5
9 敬体と常体との使い分けをすることができる。 3-4
6年 能 力 継続学年
1 映画・演劇・放送などについて、感想や意見を書くことができる。 5-
2 自分の意見を効果的に発言するために、原稿を書くことができる。 5-
3 自分の生活を反省し、文を書くことによって思索することができる。 5-6
4 読んだ本について紹介、鑑賞、批評の文を書くことができる。 5-
5 学校の内外の諸活動に必要なきまりを書くことができる。 5-6
6 学校新聞を編集することができる。 6―

 

 

この「能力表」に示された項目は、ただ学習者の能力のありようをとらえるだけのものではない。どのような事柄を、どこまで指導すべきか、指導の範囲、幅、内容、活動とともに、「書くこと(作文)」指導としておこなうべき具体的な観点、方法、目標までを示すものであり、今もなお、新鮮な価値と意味を持つものと言える。作文指導が、いわゆる技能主義、活動主義、行事・出来事主義に陥りやすいのは、この「昭和26年学習指導要領国語科編」の当時だけではない。今もなお、日常の平凡な生活の中での事柄をただ時間の順に羅列して書くだけの生活作文、あるいは、日常の生活とは異なる行事や出来事、あるいは特異な事件を「珍しさ」「驚き」を中心に表現する事柄・出来事作文が、圧倒的に多い。そのような中にあって、昭和26年(1951)に、すでにこれだけの「国語能力表」が示されたことは注目に値する。この「国語能力表」は、単なる「能力表」ではない。教師にとっては、「指導事項表」「指導能力表」であり、同時に、「取材指導観点表」、「構成(構想)指導表」、また、「指導事項表」でもある。ここに示されて何時多様な観点や項目の持つ意義や価値に、改めて目を向けたいものである。

 

 そして、この4年後に千葉市の児童生徒作文集『ともしび』が刊行されたことに鑑みれば、この昭和26年に告示された「学習指導要領」との強い連関に想いを寄せざるを得ません。安藤操の語っていた作文指導の在り方・考え方とまさに通底するものが、ここに明示されておりましょう。更には、教師自身が戦前の教育で体験してきた「生活綴り方」からの影響もまた見逃すわけには参りますまい。つまり、千葉市における初期『ともしび』とは、大正デモクラシーにまで遡る「綴り方」と「戦後民主教育」として提示された理念、及び戦後教育の初期に目指された「学びの総合化」(例えば社会科が「コア・カリキュラム」とされたように)といった、教育の在り方のハイブリッドであるとも申すことができましょう。これら戦後の教育における息吹が具現化された作品そのものが、すなわち初期『ともしび』における基調を成しているのだと考えた次第であります。長い旅路の末に、初期の作品群から受け取る圧倒的な感銘にはこうした背景があることに辿り着きました。

 その後、現在における作文教育が如何様に実践されているかを詳らかにはしえませんが、少なくとも、我が倅が東京都葛飾区立小学校に在籍していた頃に担任教師から受けていた作文指導は、「なんでも好きなことを書きましょう」という、まさに「丸投げ」に他なりませんでした。少なくとも、昭和26年段階における理念は全く継承されずに断絶していると感じました。夏休みの「自由研究」も同じ。如何なることに取り組めば「研究」として成立するのか、といった指導は一切なしで「好きなことを研究してきましょう」でありました。これでは、子供の如何なる力も育成できません。「子供がやろうとしている研究内容」を一人ひとり面接することで、より良いものにブラッシュアップしなければ学習活動にはなり得ないと、三者面談等で学級担任に意見してまいりましたが、一切活かされた例がありませんでした。従って、多くの家庭では、「子供」」自由研究にあらずして、「子と親」の、いや有体に言えば「殆ど親の自由研究」と化している為体というのが実態に他なりますまい。

 最後に、作文の指導に関して、欧米の動向をお示しして稿を閉じたいと存じます。何故ならば、我が倅の実地体験を通じて、日本の教育界に於いて昭和26年学習指導要領の後に、組織だった計画的な作文指導が行われているのか疑問に思うことが多かったからであります。先にも申し上げたように、生徒の好きなように自由に書かせていて作文能力が向上することは、ほとんどあり得ません。慶松勝太郎の論文「我が国における作文教育の問題点」(LEC会計大学院紀要9号)によれば、アメリカでは、ハイスクール卒業までに正確・明晰・簡潔な文章を書く訓練が要求されており、「読むこと」よりも「書くこと」の授業に重点がおかれているとのことです。「アメリカの国語教育が目指すものは、様々な文章とその書き方を教え、それらを状況に応じて書き分けられるようにすること」であり、例えば小学校5年生の教科書には、「物語」「詩」「手紙(ビジネスレターと親密な手紙)」「説明文」「説得文」「写真エッセイ」「レポート」「インタビュー」「広告」「本の紹介」「自伝」「戯曲」の12の異なるジャンルの書き方が紹介されており、各ジャンルで特有の表現について繰り返し練習が行われるとのことです。また、フランスでは、初等教育では文法が学習の中心に据えられており、国語(フランス語)の内容は、「文法」「動詞の活用」「綴り方」「語彙」「文学活動(話す・読む・書く)」「詩」「演劇」の8項目に分けられ、書くための基本項目を徹底して身に着けることが目指されるとの事です。つまり、フランスでは小学校で文法的に「正しい」文を書くことが、中学校では「美しい文」を書くことが、高等学校では「論理的な構造」で書くとことといった、段階的な到達目標が掲げられ作文指導がされているとのことです。改めて、我が国が作文指導の在り方として学ぶべきことばかりであると考えますが如何でしょうか。

 その点で、日本における現状の作文指導の位相とは如何なるものにありましょうか。社会生活において必要とされる作文能力が如何なるものかという、一貫した思想的な背景を基に作文指導がされているのか疑問です。また、その育成のために成長段階に応じた体系的・階層的な一貫した指導計画が組まれているのでしょうか。その何れもが素人考えに過ぎないかも知れませんが、我が国では十分に機能しているのか不安にも思われます。アメリカやフランスの教育の在り方に鑑みれば、作文に限らず、語ることも含めて欧米における表現能力に日本よりも一日の長があることを認めざるをえません。こと為政者の発言風景一つをとっても、語る相手と目を合せ「自身の言葉」で堂々と訴える、切々と語りかけるという点において、また、誰にでも伝わる一般的な用語を用いて訴えかけるという点において(やたらと英単語を差し挟んで相手を煙に巻こうとする安直さに鼻白むことが屡々であります)、大いに見劣りがすることは否めません。

 今回は、生徒の眼がとらえた高度経済成長の展示となります。これを機に、作文指導(教育)の在り方、文章表現力についても思いを致すことを願ってやみません。関連講座で、青山学院大学特任教授の高橋邦伯先生から、作文教育の在り方についてのご講演を賜るようにお願い申しあげた背景に、かような思いがあったからに他なりません。是非とも関連講座も楽しみにされてください。ご参加には申し込みが必要です。現在応募期間であり、9月15日(水曜日)が申し込みの締め切りとなっております。お忘れなきように。お申込みの詳細等につきましては、本館ホームページにてご確認ください。

 

 追悼「那須正幹」児童文学者の矜恃と越境する精神について(前編) ―20年程前にお話しを伺った思い出に寄せて―

8月20日(金曜日)

 

 暦の上では季節は既に秋に移り、それから随分と経過しておりますが、現実にはその気配を微塵も感じることができません。しかし、あと1週間もすれば、夕暮れ時から鳴き始める蟲の声がかそけく聞こえてくることでしょう。「蝉しぐれ」も、けたたましいアブラゼミ・ミンミンゼミやチーという高い声のニイニイゼミから、夏の終わりを告げるツクツクボウシへと主役の座を空け渡す頃でもあります。もっとも、昨今は温暖化の影響により、本来は西日本を生息域とするクマゼミの関東への進出にも著しいものがあります(シャシャシャという暑苦しい鳴き声でそれと知れます)。先日もこの亥鼻山でも耳にいたしました。東国生まれ坂東育ちの当方としては、どこかしら豊臣勢力に圧迫されつつある小田原北条氏の感すら覚えて、正直あまりいい気持ちはいたしません。また、この辺りでは一切出会うことが叶いませんが、夕暮れ時のヒグラシの聲を耳にすれば、それが恰も行く夏への挽歌のように響きます。暑さはとことん苦手であり、秋冬が待ち遠しくはありますが、それでも季節の移り変わりは、どことなく寂し気な想いに誘われます。

 さて、寂しさ(悲しさ)ということでは、去る7月22日に児童文学者の那須正幹(なすまさもと)さんが、お住まいのある山口県防府市で逝去されたとの報道に接したことも、私自身にとっては大きなことでありました。享年79歳。肺気腫であったそうです。那須さんと言えば、子供たちにとって忘れ難きシリーズ作品「それいけズッコケ三人組」で広く愛されていた作家の御一人であることは疑いありません。本作の第一作「それいけずっこけ三人組」は、昭和53年(1978)に世に出ており、平成16年(2004)の最終巻『ズッコケ三人組の卒業』までの26年間で50巻が、その翌年から続編として書かれた「ズッコケ中年三人組」10巻と、平成27年(2015)「ズッコケ熟年三人組」1巻の合計11巻をもって惜しまれつつ筆を措かれるまで、営々37年間にわたって書き続けていらっしゃいました。総巻数61冊を数える児童文学の金字塔とも申しあげることができるのではないかと存じます(もっとも、中年編・熟年編の11冊は児童図書ではなく一般図書扱いでした)。何よりシリーズ累計で2500万部を超える大ヒットとなったことがその証となりましょう。おっちょこちょいですが実行力のある「ハチベイ」、理屈屋の「ハカセ」、そしてのんびり屋で心優しき「モーちゃん」という、小学校6年生の3人組が繰り広げる冒険譚や事件を解決していく姿が多くの子供達の心を引き付けて止まなかったのだと推察いたします。確か、テレビシリーズにもなって人気を博したのではありますまいか。

 当方の倅も子供の頃にお世話になっていたと記憶しておりますが、当方のような還暦前後の世代にとって、本シリーズに接する機会はございませんでした。個人的には初編刊行年は大学入学の年、最終編は中学校教員を定年退職する5年前となります。那須作品の読者のターゲットは主として小中学生であり、刊行期間の自分は最早ジュブナイルの読者層からは外れていたからです。勿論、その存在はよく存じ上げてはいたものの、残念ながら「ズッコケシリーズ」に接する機会はありませんでしたし、その他の作品についてもほとんど接して来なかったというのが正直なところでございます。そんな私が那須さんの御逝去の報に接して寂しさを感じたのには、他に大きな理由があるからに他なりません。

 その理由のひとつは、那須正幹さんが昭和17年(1942)に広島市に生まれ、3歳の時にその地で被爆されていることに由来します。そのこともあり、彼はとりわけて平和の大切さを次世代に伝えることを責務とされ、著作活動にも取り組まれていたのです。勿論、原爆を題材とした作品の執筆にも力をいれておられました。中でも綿密な取材に基づいた子供向けの絵本『絵で読む広島の原爆』の評価は極めて高いものがあります。決して忘れてはならない作品のひとつであります。二つ目は、たった一度の機会となりますが、私自身が直接に那須さん御本人とお会いして、お話をする機会に恵まれたことにあります。今から20年以上も前のことです。以下、その想い出を中心に、那須さんの児童文学者としての目を見張るべき在り方について述べてみたいと思っております。

 平成11年(1999)当時、私は千葉市立葛城中学校に奉職しており、第一学年の学年主任をしておりました。そして、地区内の学校が持ち回りにて担当する千葉市教職員組合執行委員として、たった一年間でありましたが勤務時間後の“組合活動”にも携わっておりました。その場で当方がその一員として関わった仕事が、教育実践情報誌「LEM」の編集であったのです。そして、偶々同年に特集記事として那須さんとの対談が企画されたのでした。勿論企画をされたのは上司にあたる方であり、当方は飽くまでも「その他大勢」の一人として参加したに過ぎませんでした。今思い出せば、“駄目元”で打診をさせていただいた那須さんと対談企画でしたが、正に「瓢箪から駒」の例えのごとく、とんとん拍子に話が進んで、それが実現することになったのでした。何でも、「ズッコケシリーズ」出版元ポプラ社の企画で、那須さんが市川市の公立小学校で児童たちとの交流会に出掛ける序でがあるので、その折に時間を割いて頂けることになったのだと記憶しております。編集者の方も同席することが条件でありました。

 お会いするのが、数が月後の同年11月19日。しかし、当方はその時に至るまで、お恥ずかしながら那須さんの著作に一冊たりとも接したことがありませんでした。そこで、書店に走って当時40数巻ほどのシリーズとして刊行されていた「ズッコケシリーズ」中から適宜選び取った2~3冊を貪るように拝読させていただいたのでした。その題名が何であったか、その筋立てすら粗方頭の中から消え去っております。書籍は書庫の奥深くに入ってしまっており、今回探し出すことも叶いませんでした。しかし、その時に感じた思いは明確に記憶しております。作品世界から浮かび上がってきたもの、それは私自身の子ども時代を彷彿とさせる限りない懐かしさでありました。なんだ、そんなことかと思われるでしょうが、当時でさえも子ども達は仲間同士で連れ立って遊ぶことが少なくなり、自宅に巣籠もりしてゲームに夢中……、そんな時代でありました。ところが、作品から色濃く漂ってくる世界は、当方が子どもであった頃(恐らくそれは那須さんの子ども時代とも共通する世界観であろうかと思いますが)に、仲間同士で一緒に秘密基地をつくったり、みんなで水元公園に魚を捕りにいったり、自転車で何処まで行けるか“冒険”に出かけたりした、斯様な世界であることにとてつもなく驚かされたのでした。何故ならば、上記したように当時の子ども達にとっては恐らく縁遠い世界であり、こうした作品の子ども達が惹かれていることを不思議に思ったからに他なりませんでした。併せて、数少ない読書から感じ獲ったもう一つのことは、作品には大人の都合や大人の論理の世界とは無縁の、子ども達の世界が描かれているのですが、それらが決して大人と子どもの世界の対立関係としては描かれていないことでした。子ども達にとっての大人という存在は、必ずしも味方ではないけれども、中に見守ってくれている信頼に値する大人の世界が背景あることを強く感じとれた点にありました。大人の存在は決して作品内で表立つことはありません、しかし、大人が陰となり日向になり、三人組をはじめとする子供達の世界を仄かに覆っていることを感じとったのでした。

実際に、お会いした当時の那須さんは、3年後に還暦をお迎えになる御歳であり、頭髪はほとんど白髪の勝る胡麻塩でありました。しかし、至って闊達なご様子であり、こちらからの質問にもはきはきと明確にお答えくださる方でありました。そして御聡明さが言葉の端々に感じ取れたことをよく記憶しております。それは、以下に引用させていただく「LEM」の文面からも実感していただけるものと存じます。対談にはこちらから7名が出張ったのでしたが、皆さん遠慮されてあまり質問をされないので、自然と当方と那須さんとの対談のようになってしまいました。那須さんは、私のような若造の質問にも実に御丁寧にお答えをくださり、改めてその真摯なお人柄に強く惹かれることとなったのです。対談の中身につきましては、翌年(2000)5月刊行の「LEM Vol.5」に掲載されております。しかし、本冊子も今では誰でもが手軽に手にとることの叶わない状況にあります(千葉市教育会館にある千葉市教職員組合書記局にはバックナンバーが保存されております)。明日は、その時に那須さんからお聞きしたお話しについて、この場でご紹介をさせていただこうと存じます。教職員にとっては勿論のこと、子育てをされている多くの皆さんにも響く内容があると思っております。ただし、今から20年を遡る時代の話であることをご承知おきくださいませ。
(中編に続く)

 

 追悼「那須正幹」児童文学者の矜恃と越境する精神について(中編) ―20年程前にお話しを伺った思い出に寄せて―

8月21日(土曜日)

 

 今回は、対談を通じて那須さんがお話しされた内容をご紹介いたしたく存じます。まずは、作品を通して私自身が感じた「懐かしさ」を感じる由縁について。

 

 皆さんには、現代の子どもを知っていると言われるのだけれども、僕としては、あの作品はかなり古典的な作品、いわゆる悪童物語というか、極めて古典的な腕白坊主たちの冒険物語ですから、それほど自分であの作品が現代の子どもたちにアピールするというものじゃないという気がするわけです。これは非常に傲慢な言い方になりますが30年前であってもおそらく子どもは読んでくれるであろうし、逆に言えば今から30年後経ってもあの子どもたち、主人公というのは、読者に受け入れられていると思っています。ですから、ことさら3人のキャラクターが今の子どもたちにアピールするものじゃないという気がするんですね。

 

 つまり、時代に迎合した物語とはせず、飽くまでも普遍的な人間というものを頭に置いた展開をお考えであるとのことでございましょう。しかし、漫然とノスタルジーに浸った作品を書かれているのではなく、子ども達の変化も見逃しておられませんでした。

 

 ズッコケを雑誌に座した最初の頃、例えば「文化祭事件」なんかを読んだ子どもたちは、自分たちの学校で自分たちだけで劇をしましたとか、「あやうしズッコケ探検隊」を読んで、イカダを作って海に出ましたとか秘密基地を作りましたとか、結構あの本が一種のアジテーションとなって、その本の通りをやったりと、現実社会でも様々な冒険をする子がいたんです。ところが、最近のファンレターには「三人組」は私のできないことをやってくれるから嬉しいとか書いてくるんですよ。今の子ども達は自主規制していて、せいぜい本を読んで、その中で「体験」しているんでしょうかね。その意味では、今の子はかわいそうだなという気がします。

 

 そして、那須さんが「ズッコケシリーズ」の執筆を通して、子ども達に何を託そうとされているのかとの質問には以下のように答えておられます。

 

 

 僕は主人公は最後に変わらなくちゃいけないという考えかたには疑問があります。確かに、人間というのは、劇的に変わることもあるし、勿論、肉体的に成長すれば大きく変わるのだけれども、変わらない部分もあるんじゃないかと思う。そこで、この主人公たちは肉体的にも精神的にも絶対成長をさせないという堅い決意をもって話を作ってきました。ずっと6年生のままでいこうと。また、ズッコケシリーズでは子どもの遊びの世界を物語にしようと考えたのです。僕は戦後小学校に入って、当時ですから物のない時代ですから、親は全く生活に追われていて、子どもの面倒はほとんど見なかったんですよ。学校だって56人クラスにいましたからね。先生も目が届きません。けど、子どもたちが自分たちで何でも決めて行動していった訳ですよ。そういう世界だったんですね。また、子どもの「時空間」の中には、学校の場と家庭の場と、もうひとつ子どもだけの遊びの場がありましたね。原っぱ、路地裏空間というのが僕たちの時代にはあったし、そこはもう子どもの論理の世界だった訳ですね。大人の論理は全く通用しない子どもだけの論理で、僕はその中で凄く成長したという思いがあったので、今はもう失われている子どもの遊びの世界だけで書こうと考えたんです。常に、子どもたちが自分で考えて、行動してそれが何らかの結果を出す。大人の介入しない世界を書こうと思ったんです。それとズッコケるって言葉を使ったのは、どんなに努力してもいい結果が出ない悲哀みたいなものを、結構今の子どもたちに感じるんですよね。僕らでも子ども時代、「あれだけ勉強したのにいい結果がでなかったなあ」という思いがありますよね。プロセスが評価されずに、全部結果だけで評価されるという、そんな見当外れのことをしている子どもたち。それをぼくはズッコケると表現したわけです。

 

 何事においても、結果が優先される中で、子ども達が躓いたり、失敗する体験の悲哀と、逆にそのことを通じて人間としての幅が広がっていくことへの期待を込めて那須さんが作品を作り続けていることに大いに感銘を受けた次第であります。続いて、「子どもが変わったといわれるようになって久しいが、那須さんはそれを如何にとらえていらっしゃるか」との質問には以下のようにお答えでした。そのお話の中で、国語教育の在り方についても言及されております。

 

 

 確かに変わった変わったというけれども、子どもの本質はそんなに変わっていないんじゃないかなと思う。もし変わったとするならば、いわゆる状況が変わっているんじゃないかと思う。子どもは素直なんですよ。戦前の軍国主義の華やかなりし頃には、押しなべて軍国主義少年少女であったろうし、我々は戦後の民主主義の中で、平和と民主主義を希求してきたんですよ。外側が変わってきている。そして大人がやっぱり変わったと言うことかな。つまり、昨日より明日が信じられなくなった時点がありますよね。60年安保の頃までは、昨日より明日が信じられましたね。明日は絶対良くなるんだと。そして、その60年代から70年代にかけて、日本の分岐点があったような気がします。そのへんから、僕は、もしも子どもが変わったということが言われるんだったら、その時代から大人も変わってきたし、大人が変われば子どもも変わって来たんじゃないかという気がします。子どもがキレるというけど、あれは大人がキレるんですね。大人が我慢できない。

 今の子はコミュニケーションが下手になってますね。結局、表現力が無いんだね。暴れるしか自己表現ができないんですね。本当は、もっとしゃべってやればいいんだけど、ディスカッションの仕方も今の子は知らないし、表現力は非常に乏しいんだな。これはやっぱり生活体験が乏しいことから来ていると思う。今の子どもの生活は単調で、決まり切ったことの繰り返しでなかなか新しい発見か新しい体験をしていない。例えば、「海」という言葉をひとつとっても、僕は瀬戸内育ちですからのんびりした海を想像したり、暑い夏に「あっちいあっちい」といって水際まで砂浜を走ったり、あるいはこう体にベタベタした塩のついたちょっと気持ちの悪い感触ですとかね。海という言葉を聞いただけでもいろいろなイメージが沸いてくる。本当に海で遊びほうけた事のない子どもたちは、「海」という言葉を聞いてもそれほど頭の中にシーンが浮かんでこないんですね。今の学校の国語教育では、言葉の意味は教えても言葉の持つイメージまでつっこんだ教育というのはなかなかされていないと思う。言葉の意味さえ分かれば文章は理解できるかというとそうじゃないと思う。生活体験が乏しくなると言葉に対する感性が鈍ってしまう。

 

 この後、那須さんは、このことが子どものコミュニケーションする言語の能力低下の原因であること、語彙の少なさ、言葉から広がるイメージの幅の狭さゆえに、子供同士の喧嘩のような場面ですら、「むかつく」やら「テメェ、締めたる」といったような、乱暴な決まり文句しか出てこないなど、言語感覚が鈍磨していることを指摘されております。また、当時は「総合的な学習の時間」導入の時期でもあり、子どもの生活体験の広がりを模索して子どもの「生きる力」を育成しようとする機運の高まりを意識されたご発言であったことと思われます。更に、教育現場での在り方に関して、学級人数を減らすことで教師によるきめ細かな指導を実現しようとする動向に対しての先生らしいご意見も伺いました。その中には、戦後初期にみられた教育動向としての「経験主義」と言われる「実際の経験の中から課題を見つけて真理に迫る」という教育思想の洗礼を那須さんもうけておられていることがわかり、興味深い物がございました。 

 

 僕は30人学級は本当によいのだろうかと考えてしまう。僕なんか56人学級でやってたから、先生はあてにならんという思いがある。数が少なけりゃいいってもんじゃない。とりあえず、ごった煮のおもしろさがある。30人学級によってゆきとどいた教育をということがよくいわれるけれど、教えやすい環境作りと学びやすい環境作りとは違うと思うんですよ。今やっている教育改革というのは、教えやすい環境作りであって、決して学びやすい環境作りではないんじゃないかと思うが、どうでしょう。学校の授業が分からないと子どもは学校がいやになりますよ。確かに、先生がマンツーマンでやればわかるようになるかもしれないけれど。学校というのはやっぱり子ども立ちが集団の中で共に学んでいくことが大事なんじゃないでしょうか。僕は1949年(昭和24年)に小学校に入学したんだけれども、そのころのカリキュラムでは漢字は648文字しか学んでいないですね。だから、ものすごいのんきにやっていたんですね。ゆっくり教えてもらえたし、ひとつずつ体験からイメージを作り、理解することができた。今の文部省が考えているゆとりというものが何をもってゆとりというのかがよくわかりませんね…。「中教審」に子どもが参加して、これは難しいから教えないでください、なんていうのはどうでしょうかね(笑い)。

 

 最後に、那須さんは、教師(大人)と子どもとの関係性において意識すべきことがあると以下のように語られています。この時から20年以上が経過しておりますが、今日でも通用する傾聴すべき御提言だと私は思っております。それが「よい子ども作るのではなく、よい大人を作ることが教育の重要な機能である」とのメッセージに他なりません。皆様は、中編を通じて如何なることをお考えになったでしょうか。私は、那須さんとの対談を通じて、彼の中に脈々と息づく、戦後の初期教育の理念である、人間(その中でも特に子ども)への基本的な信頼感の存在、人間としての自立へ向かう志向、そして水平思考を垣間見る思いが致しました。

 

 子どもに任せるところは任せるというスタンスが大切だと思うんですね。でも、それはすごく大変なことなんですよ。辛抱がいるんですね。大人の側に。そして、どこまで任せっきりにできるかというとこで大人が試されるところがあるんじゃないかって思うんですよ。僕は子どもの立場に立つという言葉が大嫌いでね。本当に子どもの立場に立てる訳じゃないと思うんです。教育という営みは、お互いの共有する立場を見つける作業じゃないのかという気がします。大人がわざわざ子どもの立場に立たんでもね。大人には大人の立場がありますからね。児童文学の世界でも、こっちの立場まで曲げて、子どもにサービスする必要ないし、僕はそこまでしないです。これは絶対難しい言葉で書かないといけないと思えば、難しい言葉で書くし、それは自分で意味を調べればいいことだし。

 もうひとつ、僕は子育てという言葉が大嫌いで、子どもは育つもんで育てるもんじゃないかと思うんです。子どもを産むと言うけれど、生まれる物であって産むものじゃない。子どもを産むという意識の中には、非常に親の傲慢さがあって、逆に言えば産まないこともありうると。今の教育というのは、よい子をつくろうとするけれど、よい教育とはよい大人を作るということであり、よい子どもを作ることではない。よい大人を親も目指さないといけないし、学校の先生もよい大人を育ててほしいんですね。先生の言うことを聞くのがよい子なんてとんでもない。先生がいない時でもちゃんと判断できるのがよい大人なんです。そんなこと言ってたら、耳のよい子ばっかりになってしまう(笑い)。よい大人をつくるというスタンスでやっていきたいとものですね。でもなかなか良い大人がおらんようになって、よい子はあるかもわからんが、よい大人はだんだん減ってるんですかね…。

 

 こうして、小一時間の那須さんとの対談は終了しました。終始にこやかに懇切丁寧にお話をされる姿に接して、正に至福の一刻を過ごすことができたことに感謝するとともに、何にも増してその誠実なお人柄に魅了されたのでした。その後も、那須さんの御活躍を傍目から注目をさせていただいておりましたが、だからと言って、その後に熱心に那須さんの近作を追ってみることもなく20幾余年が経過し、端無くも1か月前の訃報に接することとなったのです。人生でたった一度、しかもごく短い時間の邂逅ではありましたが、直接にお話を伺う機会を得て貴重なお話をいただきながら、その後の先生には不義理をしてしまったような、何とも後ろめたい思いに今更ながらに駆られたのです。その思いは、那須さんの死を悼む新聞記事に接する度に、自身の内部で大きくなるようにも感じたのです。後編では、新聞各紙に寄せられた心打つ那須さんへの追悼文をご紹介しながら、児童文学者としての那須さんのお姿、そしてその世界を越境されようとする果敢な精神の在り方をご紹介し、広い意味での「文学者」「教育者」としての那須さんの活動の裾野についても触れてみたいと存じます。 
(後編に続く)

 

 


 追悼「那須正幹」児童文学者の矜恃と越境する精神について(後編) ―20年程前にお話しを伺った思い出に寄せて―

8月22日(日曜日)

 

 中編の最後に申し上げましたように、後編では朝日新聞と千葉日報に掲載された那須さんへの追悼文が印象的でありましたので、その内容をご紹介したいと思うのです。那須さんの作家としての、いや広い意味での教育者としての人間性を余すところなく掬い上げた内容に、自分自身が心打たれる思いであったからに他なりません。当方としましては、この場で少しでも那須正幹という児童文学者について皆様に知っていただき、かつその作品に接していただけるようになることが、那須さんへの「恩返し」「罪滅ぼし(?)」になろうかとも考えるのであります。

 まずは、朝日新聞に掲載された追悼文から。7月30日に朝日新聞に掲載された、作家の辻村深月(つじむらみづき)さんの手になる追悼文です。辻村さんは、昭和55年(1980)に山梨県石和町に生まれ、千葉大学教育学部で学ばれた方でいらっしゃいますので、本市にも縁のある方でございます(なんでも千葉大に進学されたのは「ミステリ研究会」なるサークルがあったからと言いますが真実や如何)。平成24年(2012)に『鍵のない夢を見る』にて、第147回直木賞を受賞された気鋭の女流作家でございます。追悼文で取り上げていらっしゃるのは、代表作「それいけズッコケ三人組」シリーズから、最も辻村さんが愛してやまない『ズッコケ文化祭事件』なる作品です。辻村さんが本作に出会ったのは小学校5年生の時であったそうです。その時、「読み進めながら、子ども心に『ええっ?』と衝撃の連続だったこと」を今でも鮮明に覚えていらっしゃるとのこと。本作については、当方も拝読しておりませんので、辻村さんの御案内に従って、当作品から辻村さんが受けた感銘について御紹介をさせていただきましょう。

 

 ハチベエ、ハカセ、モーちゃん。いつもの三人組のクラスで文化祭に劇を上演することとなり、彼らはその脚本を近所の住む童話作家に依頼する。作家は自分が思う「子どもらしい」劇の脚本を仕上げて渡すが、受け取った子どもたちは勝手にあれこれアレンジしてしまう。主人公の三兄弟は「みんな男子なのは男女差別」と女の子も加わり、彼らの親を攫う悪い「大魔王」は、社会問題として二ユースを騒がせていた「地上げ屋」へ。クライマックスのなぞなぞ対決は「幼稚園の子どもがやるみたいでおもしろくない」と、中味を片栗粉に入れ替えた消火器を使っての乱闘シーンへ。

 作中、自分の脚本を勝手に変えられ、怒り狂う童話作家に向け、ハチベエたちの担任・宅和先生がこう告げる。「あんたは、じぶんの心のなかにある子ども像をこわされるのがこわい。そうじゃないですか。」子ども時代、誰しも皆、一度くらいは「子どもなんだから」「子どもらしくない」という言葉を聞かされて育つ。今ここにいる等身大の自分ではない、大人が思う「子ども」の枠にはめられ、そのようにふるまわなければならないと繰り返し言われることで、そういうものだと知り、ある種の諦めのようなものを抱くように、その時の私もなっていた。

 この本を読んだときの驚きと感動は、だからこそ凄まじかった。「大人」の中にも、自分たちの理解者がいる。那須先生の本はどれもそうで、「子ども」をあんなに描きながら、主人公たちのことも、読者の私たちのことも決して「子ども扱い」しない。だからみんな、大好きなのだ。


朝日新聞(2021年7月30日)より

 

 

 那須さんと直接対談される機会のあった辻村さんが、「ご自身ではどの本が一番印象に残っていますか」の問に対して、那須さんが挙げられたのが『ズッコケ家出大旅行』、だったとのこと。これを読んで、「那須正幹先生のところに行きます」と書置きして家出をした子どもがおり、警察からは、もし来たら保護してください」と頼まれたことがあったとお話になられたと言います(すぐに無事に見つかったそうですが)。そのことについて、辻村さんは続けてこう述べています。

 

 

 その子どもにどんな事情があったのかはわからない。だけど、その話を聞いて、私はその気持ちが痛いほど分かった。周りの大人がみんな敵だらけに見えて信頼できない気持ちでいた時、この本を書いた人のところへ行けば、きっと救ってもらえると思ったのだろう。那須先生は本を開けばいつでも出会える。私たちにとって、「信頼できる大人」の象徴のような存在だった。


朝日新聞(2021年7月30日)より

 

 辻村さんの追悼文は、自分自身が20年程前に那須さんとの対談を控え、採るものも取りあえずに拝読した「ズッコケ三人組」から感じ取った読後感と図らずも軌を一にしておりました。成長期の子どもにとって「信頼に値する大人」にたった一人でもいいから出会えることが、その子どもの成長にどれだけプラスに働くか、そして那須さんの作品は、子ども以上に、大人にそう在るべきことを指し示してくれているように思うのです。決して子供に迎合するのではなく、時に子供にとって耳に痛いことであっても、それを見て見ないふりをしたり、胡麻化して済まそうとせず、人として何が望ましいことかを理を尽くして伝えようとできる大人こそが、この時代には取り分けて求められるのではないかと思っております。こうした、三人組を遠巻きにして見守っている大人の存在、その安心感が那須さんの「ズッコケシリーズ」に通底していることを私自身も実感いたします。

 そして、自分自身も教育者の端くれとして、たとえ欠陥だらけであろうと、在るべき姿を目指して生きていくことを自らの矜持としてきたことを思いだして、深い感慨を覚えた次第であります。「信頼に値する大人」とは、何も真面目腐って持論を滔々と述べることでも、自らの信ずる正義を振りかざすことでもありません。人間としてのより良い在り方を模索し続ける大人なのだと思います。どんなに繕っても、そういう人か否かは子どもはすぐに嗅ぎつけます。その意味で、子どもたちほど、恐ろしい鑑定者はおりません。因みに、よく保護者の皆さんには、それはできれば両親以外に存在していることが望ましいと伝えてきました。身近にいる血のつながった者同士だと、どうしても水平な目線で子どもと対峙することが難しいからです。岡目八目で子どもと対することのできる、子どもが信頼できる大人であることが望ましいのです。それは、学校の先生でも、離れて田舎に住んでいる御爺さんや御婆さんでも、隣家の年嵩のお兄さんお姉さんでも、近所の叔父さんでもよいのです。勿論、子どもが一目置けたり、尊敬できる何かを持っている人であることが必要です。

 続いては、千葉日報に寄せられた宮川健郎(みやかわたけお)さんの追悼文から。宮川さんは、昭和30年(1955)に東京都生まれの児童文学研究者であります。武蔵野大学名誉教授であり、日本児童文学会の会長でもいらっしゃいます。共編著として『ズッコケ三人組の研究』全3巻1990・2000・2005年(ポプラ社)がございます。ここで宮川さんが取り上げていらっしゃる那須さんの作品の一つが、『ぼくらは海へ』1980年(偕成社)なる物語であります。当方も宮川さんの紹介で本作の存在を始めて知りました。そして大いに興味を惹かれ早速購入して一読に及んだのでした。本作品の主人公たちは、瀬戸内海沿岸の街に暮らす小学校6年生の仲間でありますから、あの「ズッコケシリーズ」と同学年の物語であり、物語の舞台もほぼ共通しております。しかし、そこで那須さんは紡ぐ子ども達の群像物語は、同じ作者のものとは思えない程に異質な世界となっています。少なくとも、その読後感は「爽やかさ」「晴れ晴れした思い」とは程遠いものであります。おそらく、「ズッコケシリーズ」の読後感を期待されて読まれた方は、いつまでも後味の悪さが残る作品だと思いますし、反発する思いすら抱かれるかもしれません。こうした作品を、「ズッコケシリーズ」開始の2年後に並行して書かれていることに驚かされました。しかし、同時に20年も前の対談で、那須さんが語っていらした「どんなに努力してもいい結果が出ない悲哀みたいなものを、結構今の子どもたちに感じるんですよね」というご発言に思い至ったのです。私自身は、決して子供達の生きている現実は夢物語でもないし、その未来が明るく開かれているとは限らないこと、それを描くことは児童文学の世界を越境することになるかもしれない。しかし、筆を執られたことに児童文学の新たな地平を切り開こうとされた、そのような精神の飛翔を感じて感動をさせられました。本作を世に問うことは、当時であれかなり勇気のいる構想ではかなったかと思うのです。そのことは、宮川さんが書かれている以下の文章から御理解いただけましょう。この作品の主人公たちは、誰もが表面に見えている世界とは異なる、満たされない心を抱いて悶々とする日常を生きています。それは、思春期を迎えようとする子供達が一様に抱える大人(親や教師)への不信感であり、大人の論理への反発に他なりません。そして、そこに濃厚な死の気配すら漂っているのです。しかし、子供の世界が美しく純真だけの世界であるとは、自らを振り返るだけで正しくないことは、誰でも思い至りましょう。こうした児童文学を越境しようとされた作品が那須さんには他にもあると言います。是非とも接してみようと思っております。

 

 那須正幹の長編児童文学『ぼくらは海へ』は、小学校6年生たちの夏の物語だ。彼らは、受験や家庭崩壊に直面している自分たちの心の中の何かを投げ込むように船づくりに熱中する。やがて、2人が、その小さないかだで海へ出てしまう。そして、ひと月たっても帰らない…。60年前後に出発した日本の現代児童文学は、子どもを巡る問題は必ず子どものエネルギーで克服できるという理想主義に基づいて書かれていた。那須は、困難な現実を逃れて船出する少年たちを描いて、問題は必ず乗り越えられるかどうか分からないという前提に立った。これは、子どもの読者を少し自由にしたのではないか。


千葉日報(2021年8月4日)より

 

 更に、宮川さんは、那須さんが「ズッコケシリーズ」の筆を措いたことの背景にも踏み込んでおられます。因みに、平成16年(2004)『ズッコケ三人組の卒業』でシリーズを50巻で終了させた際、那須さんは「私の作品と、現在の子どもたちとの間に溝を感じたから」と述べておられているそうです。そして、平成27年(2015)に『ズッコケ熟年三人組』をもって「それゆけズッコケシリーズ」の全幕を降ろされた那須さんへの想いを以下のように述べて追悼を締めくくっておられます。その話題は「熟年編」後期にある那須さんの言葉から始まっております。被爆者のお一人として、心から平和を希求されてきた那須さんの矜持を見る思いがして、背筋が伸びるように思わされた次第であります。遅ればせながら、私自身も先生の作品を紐解くことで、那須さんがこの世界に残した願いを噛みしめたいと思っております。そして、現実には二度と叶うことのない、あの時の先生と再会したいと願うものであります。先生、安らかにお休みください。

 

 「もしかすると、「戦前」となるかもしれない時代に、とても三人組の物語を書き続ける気にはなれない」とあった。この年、安全保障関連2法が成立している。後書きを読み直しながら、99年夏の広島を不意に思い出す。3歳で被爆した那須さんの生家の跡から平和公園まで、那須さんと一緒に何人かで歩いたのだ。児童文学研究者の石井直人と私が編集した『ズッコケ三人組の大研究2.』のグラビアの準備中だった。那須には『絵で読む広島の原爆』などの作品もある。7月22日、那須正幹さんが79歳で亡くなった。那須さん、「ズッコケワールド」で存分に遊び、三人組とさまざまなことを考えたたくさんの子どもたち、元読者の大人たちは、間もなく76年になる「戦後」をきっと終わらせない。だから、どうぞ、安らかにお休みください。合掌。


千葉日報(2021年8月4日)より



 

 

 子供の眼に映った高度成長期の海の変貌(1)(前編) ―臨海部「埋め立て」と消えゆく豊穣の海「東京湾」―

 

8月27日(金曜日)

 

 早いもので、来週からは9月の声を聴くことになります。猛暑続きであった夏も、流石に朝夕には秋の気配と匂いとを感じるようになりました。しかし、今年は梅雨の時期から大きなゲリラ豪雨があっただけでなく、8月の半ばにもまるで「戻り梅雨」のような雨続きの毎日で、日本各地に大きな被害の爪痕を残しました。しかし、本来であれば、これからが台風の季節の到来となります。まだまだ警戒を緩めることはできません。当方のような東京下町の住人にとって、河川洪水の危機は決して他人事ではありません。特に、近隣の増水以上に恐ろしいのが利根川中流域の堤防決壊です。終戦直後の昭和22年(1947)9月に発生した所謂“カスリ―ン台風”では、15日午前0時頃に埼玉県加須市あたりで決壊した利根川が、関東平野を流れ下り、4日目に東京東部下町を直撃しております。葛飾区一帯もまるで泥海の如くと化し、我が家もその時に床上浸水したと言います。ビルなど存在しない時代ですから、家族は近所の微高地にある見性寺境内に蚊帳を吊って水が引くまでの数日を過ごしたと聞きました。その際、当時18歳前後であった亡父は、上流から流れてきた陶器の壺を拾ったとのこと。今でも後生大事に実家の床の間に鎮座しておりますが、素人の自分が鑑定しても全く価値のない代物だと思います。

 地球温暖化に伴う気象変動に伴う、豪雨と内水面氾濫の危険性は今後数十年間で更に高まって行くことが予想されております。地球温暖化の抑制は、待ったなしの状況にあるとの国際機関の報告もありました。「脱炭素社会」への転換を推し進めながら、例年繰り返される豪雨被害に翻弄されるばかりではない、新たな河川整備計画を含む国土改造を推し進めるプロジェクトの推進が、今この時代にこそ求められているのではありますまいか。かつての田中角栄首相による「日本列島改造論」ではありませんが、防災国家の建設を目指すべく、「第二の日本列島改造」を提言するスケールの大きな政治家は最早現れないのでしょうか。もっとも、それは国土をコンクリートで覆い尽くす金儲けを主眼とする列島改造にあらず、自然保護・生物多様性との共存を図りながら、持続可能な国土計画をデザインする、壮大なる国家プロジェクトであることが求められましょう。

 さて、本題の入る前にもう一つ時事ネタにお付き合いの程を。本年度に入った4月30日・5月1日にアップいたしました「館長メッセージ」[「国産ワクチン」の来し方・行く末と日本人の「ノーベル賞」受賞について-または「昭和遺産」と「技術立国」の黄昏のこと-]にて、昨今の日本の科学者による「自然科学3賞(医学生理学・物理学・化学)」受賞は、「昭和の遺産」であり、平成・令和の遺産として将来的に日本人が受賞する可能性は大いに低いものと予測されると申し上げました。併せて、何故斯様に考えるのかの根拠についても縷々述べさせていただきました。過日、それが更に加速化していることを裏付ける記事が新聞各紙で報道されておりましたので、ご覧にならった方もいらっしゃいましょう。それは、世界において、「科学者に数多く引用される注目される論文数」ランキングに関する報道であります。その筋の専門家から引用される論文とは、それだけ「注目すべき価値ある内容」であることの証明となるのです。「科学技術指標2021」によると、これまで一位を独走してきたアメリカを中国が抜き去り一位となったこと(中国が、アメリカの37,124本を大きく凌駕する40,219本に)、イギリスが8,687本で三位、以下続けて四位ドイツ、五位イタリア、六位オーストラリア、七位カナダ、八位フランス、九位インド。我らが日本はどこに位置付いているかと申せば、3,787本で辛うじてトップ10の末席を汚すまでに降下しているとの報道でございます。僅か20年前には、我が国が4位に位置づいていたことに鑑みれば、国際的な自然科学分野における貢献度において、日本の凋落ぶりは著しいと言わざるを得ますまい。同時に中国の驚異的な躍進振りに驚かされます。様々なご意見はございましょうが、これはそのまま上昇気流に乗る中国の国家状況を反映している数値かと存じます。記者は、この原因を以下のように分析しておりますので、引用をさせていただきましょう。

 

 (日本の)低迷の要因の一つは研究者数の伸び悩み。年間の博士号取得者は米国が年約九万人、中国は年約六万人だが、日本は約一万五千人。右肩上がりの米中に対し、日本は2006年以降は減少傾向にある。また、日本では多くの大学が研究費不足に悩んでおり、教員がさまざまな業務に追われるため研究に打ち込む時間も削られると指摘されている。 


(2021年8月12日「千葉日報」)

 

 前稿では、あと20~30年後にノーベル賞自然科学分野での受賞者に日本人が名を連ねる可能性は大きく後退するだろうと書きましたが、その傾向は更に加速化している実態にあることが明らかになったと申せましょう。改めて申しあげますが、日本人の現在の受賞の殆どは、基礎研究に手厚い資金が投じられていた「昭和の遺産」によるものに他ならないのです。我が国の現状は、大学・企業共に、研究者が研究費の工面に汲々としている状況に陥っているのです。その体制を根本的に見直し、研究者が基礎研究に邁進できる環境を早急に整えなければ、日本の凋落は早晩訪れましょう。頻繁に申しあげますように、当方は、行きすぎた“ネオリベラリズム(新自由主義)”の当然の帰結であろうと思っております。研究者になっても就職先すら見つからず、立場の不安定な時間講師に甘んじざるを得ない環境下では、熱心に研究に取り組もうとする意欲すら湧いてきますまい。場合に拠っては日々の生活にすら事欠く“オーバードクター”がどれ程いるのかを思えば、誰一人研究者になろうとも思わないのが自明の理でありましょう。それがどれだけ我が国の将来に禍根をもたらすかを、政権も企業も危機意識を有して政策に反映することが求められましょう。最早相当に手遅れかもしれませんが、今手を打たなければ日本の黄昏はより早まることは間違いないと考えます。

 さて、ようやく本題に入ります。今回は高度成長期に変貌する千葉市域の海についての話題とさせていただきます。当時の子供たちは変わりゆく海の姿をどのように見ていたのでしょうか。また、千葉市域の埋め立ては如何なる目的で、どのような経緯で進められていったのかを追ってみたいと思います。まずは、幕張海岸の埋め立て当時の児童生徒の作文(文集『ともしび』掲載作品)を、それぞれ一遍ずつご紹介させていただきます(小学生のものは後編)。これら作文は、特別展の第一章冒頭で掲示もさせていただいております。図録も含めて抜粋としておりますが、会場で配布する別紙史料には、以下に引用するのと同様に全文をお示ししております。幕張中の一年生女子の手になる文章は、何度読んでも心の奥底にまで染み渡る名作だと、私は思います。正に当時の子どもの心を代弁するような揺れ動く心情が吐露されております。また、それを断ち切って、明るい未来へ目を向けようとする決然とした思いにも打たれます。

 

「うめたて」 幕張中1年 女子


私の家の前では今うめたてをしている。陸とうめたての間は3メートルくらいのどろ深い川になっていて、どろ水がうずをまいている。だれかがかけたのか30セントメートルくらいのはばの舟板は2まい、かけ橋のようになっている。うめたてへ行くにはそこか、そのむこうの橋をわたらなければいけない。
家の物干しからはなれてうめたてのようすが手に取るように見える。沖からはこばれてきた海水は、うめたての砂の上で小さな川となりあわをふいている。ところどころに白い貝がらが宝石のようにかがやいている。米つぶくらいの人間がシャベルで地ならしをしたり土管の上で話し合いをいている。その向こうには青い海が波うっている。時々うめたてのようすを見に行くが、まだもぐる所もある。このまえなど、いっぺんにひざのあたりまでもぐってしまった。犬をつれて貝がらをひろいに行くこともある。あっちに1つ。こっちに1つ。白い貝がらをみつけるたびにみんなで見せあってよろこぶ。こゆびの先くらいのかわいらしいさくら貝やこぶしよりも大きいまき貝のからもある。私はその貝のからにニスをぬり、はこにおさめてある。
巻き貝のからのもようを見ていると、なんとなくうめたてられる前の海が思い出された。はてしなく広く、どこまでも青く、いろいろな貝や魚も住んでいた海。風がふくと、潮の香がつうんとにおってきた海。体操ガニが青いつめを一生けんめいふりあげて体操していた海。夏は観光客でにぎわい、泳いだり、貝を取ったり…。つりもした。冬はまっさおなかわなが海岸に打ち上げられていて、そのかわなでよくままごとをしたものだ。また、幕張特産の、のりもとれ、農家では、それを干して大きなはこにまとめて、出荷していいた。
ところが、今はどうだろう。重油が流れ、ごみがぷかぷか浮いている。毎年たのしみにしていたハゼつりもできないし、潮干がりもできない。ドロ深くて、ドロの中にガラスのかけらやきたないゴミがまじっていてふんでしまうからだ。水泳もできない。沖に貝をとりに行くために使われていた船もどろ深いみぞにもぐってしまい、そのままのものもある。
私は、もとのすんだ海を思いだすと悲しくなる。今はそのおもかげもなく、あるのはどろとごみでよごれきった海だけだ。
でも、うめたてがかんせいしたら…。
ここに工場ができ、家がたち、木が植えられたらどうだろう。明るい水銀灯がともり、ハイウェーが走ったら…。そのゆめはあとどれくらいで完成するだろう。1年先、2年先、3年先でもそのゆめはきっと実現される。そうしたら私は、この広いうめたてを思いっきり走りぬけよう。そして今までの悲しみを、わすれよう。

 

(後編に続く)

 

 子供の眼に映った高度成長期の海の変貌(1)(後編) ―臨海部「埋め立て」と消えゆく豊穣の海「東京湾」―

 

8月28日(土曜日)

 

 前編に引き続き、文集『ともしび』から、もう一作をご紹介させていただきます。本作は当時千葉市立幕張小学校の5年生であった児童作品です。

 

 

「なくなる幕張海岸」 幕張小5年生 男子


今年の夏休みに、あさりとりにいった。海の水はくろっぽく、砂浜は竹やビニールの袋、ぶたの骨などでいっぱいだった。
しかし、今年限りで幕張海岸もなくなるので、何回かとりにいった。何だか、海がなくなると思うと、小さい時から行っていた海なので、悲しいような気持がした。むかし、ぼくの家から50メートル先は砂浜だったそうだ。それが、僕の生まれた昭和36年に、校庭の一周半まわるくらい先の方へ、うめたてられてしまったそうだ。それでもぼくが3つか4つの時、おかあさんとおにいさんにつれられて、あさりとりや、泳ぎにつれていってもらったことが、ずいぶんあったことをおぼえている。
「ビシャビシャ」海に入ると、しおからい水が、顔にかかってキャーキャーいったものだった。おにいさんとふたりで、どっちがたくさんとれるか競争したこともあった。ぼくが小さいので、おにいさんが勝つことが多かったが、それでも、ぼくは一度くらいは買ったことがあった。また、とった貝で、どちらが先の方へとぶか、貝合戦をしたこともあった。しおが満ちてくると泳いだ。泳ぐといってもまだ泳げなかったので、手足をバタバタさせて泳ぐまねをした。とった貝は、家に持ち帰って食べた。とりたてなので、フライパンで焼いたり、あさり汁にしたり、たくさんとれたのでつくだににして食べた。
しんせんだったのでおいしかった。3つ4つの時にから、楽しく貝とりをしたり、およいだりした海がなくなるのだ。
そう思うと、よけい行きたくなる。今年の海、きたなかった。PCBとかいう公害に海がおせんされて、あさりも、魚も、食べられなくなってしまった。だいすきな、はぜつりもできなきなってしまった。がっかりだ。だれがこんなにこんなにきたない海にしたのだろう。戦争がなくなって日本も平和になり、物がたくさん作られるようになったので、みんながむだにしすぎてゴミをいっぱいだすからだろうか。また、うめたてられたところに建った工場では、次ぎ次ぎに生産し、もくもくけむりは出るし、排水は垂れながし、それが海や川に流れて、海の貝や魚が死んでしまったり、海の色も黒っぽく変わってしまったのだろう。
交通事故もこわいが、海の公害も同じようにおそろしい。いったい、ぼくたちはどうしたらよいのだろうか。このままだと人間の命も、だんだんなくなってしまうだろう。この間、田中総理が中国にいったテレビニュースをみた。すみきった青空、緑のおいしげった広い土地がでてきたので、「あんな広い土地があれば、海を埋め立てなくたっていいだろうに。住宅だって、工場だって建てなくて済むだろうに。そうすれば、たくさんの貝や魚たちも死なずにすんだのに。広い広い海を泳げたのに。ああ、むかしの海で、思いっきり泳ぎたい。」
こんな願いは、むざむざとやぶられていくのだ。うめたて、うめたて、誰のためなのだろうか。うめる前は、工場をつくらないといっているけれど、ぼくには信じられない。公害のことでも、もうけむりは出さないといっているが、なん日かたつとめむりをだしているからだ。かいぞうあん
「美しい海を返してくれ。」
「PCBよなくなれ。」
日本は、しいく世界一だと聞いた。それと、日本列島かいぞうあんがだされているのだから、日本のまわりの海かいぞうあんとし、しいくとそのかいぞうあんをりようして人工海を造り、しおひがりをやらしてもいいのになあと思う(※引用者註:「しいく」は「飼育」、つまり「養殖」のことを指しているものと思われる)。
人口海の上には、ごみがはいらないようにかこいや、屋根を作り公害からまもればいい。幕張海岸は、ほんとうに今年で最後なのだと思うと、いろいろなことを考えてしまうけれど、海がなくなっても、ぼくの心の中には、幕張で遊んだ思い出は、しょうがいわすれないだろう。

 

 前編と上記の2作品の舞台となる幕張町は、昭和29年(1954)に町村合併により千葉市域に入ることになりました。2つめに挙げた作品中に、田中角栄総理大臣の「日本列島改造論」「中国訪問」のことが触れられておりますので、昭和47年(1972)の作品であることが分かります。その翌年、第四次中東戦争を契機にする「オイルショック」が惹起することで、経済成長に冷や水が差されることになりますから、まさに高度成長「イケイケどんどん」の最末期、未だ天井知らずの経済発展に社会が邁進していた、最後の輝き呈していた時期と申せましょう。千葉の象徴ともいうべき、東京湾東岸に広大に存在した遠浅の干潟は、臨海部に居住する市民にとっては漁業(貝・魚・海苔養殖等)をはじめとする生業の場であり、東京方面から潮干狩等々で脚を運ぶ名所でもありました。稲毛から千葉へ向かう海岸線には季節になると納涼や海水浴を目当てに来葉する保養地でもあったのです。文化人が別荘を営む正に“白砂青松”の地でした。

しかし、子供たちにとっては、何よりも格好の遊びの場に他なりませんでした。その海が日に日に消えて行くことを、子供達は一様に悲しいこととして綴っております。女子にとっての貝殻集めや海藻を用いてのままごと遊び。男子は貝殻遠投(!?)、そして男女ともに楽しんでいた魚介類の採取や海水浴等々、海こそが子供たちにとって無尽蔵の遊びを提供する場であったことが分かります。目の前にある宝の海を奪われることへの限りない哀惜の想いに心を打たれます。一方で、海を生活の舞台としている家庭の子供たちの中には、自分の家の生計が今後どうなっていくのかに不安を抱える内容も見ることができます。幼いながらに将来の家計に不安を致す姿も健気であります。しかし、その一方で埋め立て後の生活への希望や、子供らしい解決策の提案などを読み取ることができます。これを書いた児童生徒は、恐らく現在は当方と同じ60歳前後の年齢でございましょう。その後も更に大規模な変貌を遂げていった千葉市。その姿を今は如何にとらえていらっしゃるのかをご本人にお聞きしてみたいとの希望もございます。それにしましても、作文からは、子供たちと海との心理的な距離の至近さと親密さ、そして何よりも掛け替えのない場としての熱い愛情を実感します。当方は、教員生活最後の4年間を埋立地にある高浜中学校で過ごさせていただきましたが、生徒たちからも地域の方々からも、海と分かちがたく結びついて日々の生活が営なまれていること、また海の存在を身近なものとして意識していらっしゃることを、正直申し上げて微塵も感じることがありませんでした。勿論、作文で海のことを話題にする生徒もありませんでした。その意味において、現在では人と海とは全く疎遠になってしまった、いや、それ以上にほとんど意識の外の存在となってしまったことを、上記の作文を読むたびに思わざるをえないのです。縄文から一万年もの間連綿と続いてきた、千葉市のおける人と海との親密な関係性は、高度成長期を境にするたった数十年のうちに雲散霧消してしまいました。

 今更にはなりますが、埋め立て前の千葉市の海岸線は現在の国道14・16号線のラインとなります。タモリ(森田一義)も推薦される名著、貝塚爽平『東京の自然史(増補第二版)』1979年(紀伊國屋書店)によれば、東京湾東岸(千葉県側)の自然海岸線はほぼなめらかであり、その海岸線から1km~2kmは潮間帯と推進1~2mの浅海であり(俗に干潟と言われる場所です)、その場所は埋立前には浅蜊や蛤等の貝類の格好の漁場でありました。千葉市南方の市原市青柳の地で多く水揚げされたことに因んで、バカガイの足のことを寿司ネタで「アオヤギ」と、当地に因んだ一般名詞として呼称されていることはご存知でございましょう(同様に検見川が主産地であったことから、かつて東京の寿司店では赤貝を「ケミガワ」と呼びならわしていたとの書きものを目にした記憶があるのですがどうなのでしょうか)。それだけ魚介類の名産地であったのです。また、上でも触れたように、その地では東京湾西岸からは遅れて始まった海苔養殖が広範におこなわれる場でもありました。干潟に無数に立ち並ぶ「海苔ひび」や、冬季に収穫した海苔を刻み、漉いて板状にして天日干しにする光景は、正に千葉の海岸線の冬の風物詩でもあったのです。これも上記いたしましたように、千葉市の海岸線は、海を臨む景勝地として保養地、海水浴・潮干狩、釣人の集う場として、所謂“行楽地”として賑わってもいたのです。以前に述べたこともありますが、かつてはアオギス釣りのメッカであり、警戒心の強いアオギスに気づかれないように建てられた、太公望の脚立が潮間帯に林立する光景が夏の風物詩の一つであったと言います。埋立前の京成電鉄の広告にも「釣り案内」が頻繁に取り上げられておりました。残念ながらアオギスは東京湾では絶滅しております。また東京湾名産の天麩羅ネタであったマハゼも年々その数を激減させ、今では高級天婦羅ネタと化しております。その主たる要因が、埋立による砂地の浅瀬(干潟)の消失にあることは動かすことのできないところでございましょう。このあたりのことは、本展の関連講座第3回目にお話を賜る工藤孝浩先生(あの「サカナくん」の師匠であります)に是非ともおうかがいしたいところであります。因みにこの浅い海底は、水深5mの等深線を境として急な斜面となり、そこから水深10mまで下がっております。東京湾北部(本牧・富津ライン以北)では、この深度急変部斜面の下部以浅の底質が砂であり、以深は泥となっているのです。つまり、後に千葉市内の東京湾臨海部埋め立てが行われることとなる干潟は概ね砂質で構成される場所であったことになります。だからこそ、脚立を立てることができたり(泥質の海底であれば脚立は潜ってしまいます)、海岸線に日本初の民間飛行場の滑走路が立地可能となったのです。勿論、後に述べるように埋立にも最適な環境でした。

 何れにいたしましても、埋立以前の東京湾東岸の干潟・浅瀬が生命の揺り籠として、豊富な食糧の供給源として、縄文人以降のこの地に暮らす人々の生活をささえていたことは疑いありません。縄文期の日本の人口の約半数が東京湾岸に集中していたと考える研究者もいるほどです。それだけの食を支えるだけの豊穣なる海が東京湾であったと言っても決して過言ではありません。そして、そこに住む生き物たちの営みは、東京湾の水質浄化の機能をも担っておりました。子ども達の作文は、勿論こうしたことを意識して書かれたものではないと思われますが、それでも自分たち人間と分かちがたく結びついてきた大切な海へという存在への、そしてその海が人の手で消失させられていくことへの、無意識のオマージュとして捧げられた一文だと信じて疑いません。いや、もしかしたら失われゆく海へのレクイエムなのかもしれません。

 この豊かな海が埋め立てられていき、地域の姿が急速に変貌していった経緯については、本稿と同タイトル『子供の眼に映った高度成長期の海の変貌-臨海部「埋め立て」と消えゆく豊穣の海「東京湾」―』(2)として、次週に述べたいと存じます。

 

 子供の眼に映った高度成長期の海の変貌(2)(前編) ―臨海部「埋め立て」と消えゆく豊穣の海「東京湾」―

 

9月3日(金曜日)

 

 先週の(1)では主に埋め立てられる前の千葉の海を中心に述べて参りました。引き続き同タイトルとなる(2)では、本稿では千葉市域の埋立が、実際のところ如何なる目的で、如何なる経緯を経て行われていったのかについて述べて参りたいと存じます。以後は、千葉市史編纂委員でもいらっしゃる高林直樹「京葉臨海地域の開発 ―千葉市海岸の埋立と造成-」2020 年(『千葉いまむかし』33号)に多くを負いながらのご説明とさせていただきます。本稿は、その要約とも申しあげるべき内容となりますので、興味をお持ちになられましたら、是非とも『千葉いまむかし』33号をお求めになられてください。更なる深い御理解を頂けるものと存じます。

 まず、千葉市域の埋立・造成の基本的なアウトラインについて、高林氏が冒頭で簡潔に纏めていらっしゃいますので以下に引用させていただきます。こちらで主として戦後における千葉市域埋立の目的・経緯の概略を「総論」として御理解いただき、それに引き続いて、各局面における動向について「各論」として御理解いただけるようにして参りたいと存じます。

 

 東京湾の千葉県側は、対岸の京浜地区が明治のころから埋立が行われ工場が立地していたのと比べ、塩田開発のための小規模な干拓しか行われなかった。米と芋と鰯しかなかったところに、戦後は近代的な重工業がプラスされ、日本で五番目の工業地帯が出現することとなった。こうした急激な工業化は、一方で公害を引き起こし、非公害型の企業誘の誘致がおこなわれるようになった。さらに、経済の高度成長による急激な東京への人口集中を分散させるため、政府は千葉市を有力な住宅供給地の一つとして期待するようになり、加えて千葉市に衛星都市としての機能を持たせ、新都心の建設をになわせることとなった。こうして、住宅地として予定されていた幕張の埋立地に、新都心が建設されることになった。

 

 千葉市域の埋立は、上記引用史料中にありますように、実際には既に戦前に始まっております。都川河口の出州周辺の規模の小さなもの、及びその南岸にあたる蘇我地先の大規模なものとなります。後者は昭和15年(1940)年12月に千葉市が埋立を開始し、海軍の後ろ盾を得て60万坪が埋め立てられました。その地には日立航空機が進出し、昭和19年から機体とエンジンの製作が開始されました(複座の零戦練習機の製造)。しかし、昭和20年(1945)6月10日、本工場を標的にした米軍機の空襲(海風の影響で爆弾が陸側に逸れたため、工場自体への被害は軽微であった反面、住民の居住する蘇我地区に甚大な被害をもたらしました)を受け、その後間もなくの終戦により日立航空機千葉工場は撤退します(終戦後に農機具工場と製粉工場として一部を使用)。

 戦後のGHQ統治下、昭和24年(1949)税制に関するシャウプ勧告が出されました。これにより、地方税は市町村優先主義が採られ、県税は事業税、入場税、遊興飲食税等に限られることになります。その結果、現在の県民税が復活する昭和29年(1954)までは、県の税収不足は極めて深刻であったと言います。そこで、千葉県は事業税増収に力を入れざるを得なくなりました。それこそが、従来の軍都・消費都市から、生産都市への脱皮を図る根源的な要因となります(第一次産業から第二次産業を中核とする産業構造への転換)。その意図に基づき、千葉県・千葉市は上記した日立航空機跡地への企業誘致を画策することとなります。しかし、多くの企業に誘致を持ちかけたものの全て不調に終わります。大消費地である東京に至近、労働力も豊富に存在、なおかつ東京湾に面する広大な土地という輸送面でのメリットがあるにもかかわらず。その要因は、偏に港湾と電力不足にあったといいます。その時の千葉市長こそ、高度成長期市政の舵取りを担った宮内三朗に他なりませんでした。そうした苦境の中で、その誘致に関心を示す企業が現れました。その企業が西山弥太郎率いる「川崎製鉄(以後“川鉄”)」であったのです。この経緯については別稿にて述べようと思いますので本稿ではここまでと致しますが、千葉市制施行100周年記念漫画『百の歴史を千の未来へ』に収録される「日本の高度成長を支えた鉄人」(作画:アマットル・キナ)に平明に叙述されておりますので是非ともご覧いただければと存じます。漫画中には宮内市長も登場しており、川鉄進出前後の千葉市と川鉄の考え方等について御理解いただけると思います。本館・市政情報室にて1冊200円で販売しております。

 結果として、川鉄は日立航空機千葉工場跡地に進出することになり、昭和28年(1953)6月に第一高炉が完成。その後、更に埋立地を拡張し最終的に第六高炉までの建設が行われました。第一高炉に灯が入れられる直前、市民による大歓迎の下、未だ川鉄専用港の状態にあった千葉港に初めて1万トン級の貨物船「高栄丸」が接岸しました。その時、5.500トンの鉄鉱石が搬入されたことは「千葉の夜明け」と称され、千葉市の戦後復興を象徴する出来事ともなっております(特別展では「千葉ポートタワー」よりお借りした精巧な「高栄丸」模型を展示しております)。こうして、農業・水産業を中核とした千葉市の産業が、工業化によって大きく様代わりしていく幕が開くこととなったのです。併せて、川鉄の千葉進出の条件として示された電力の確保のために、東京電力の火力発電所誘致を要請し、川鉄の南側に12万坪の埋立を行い、その地への進出が決まります(その際に蘇我漁業組合との漁業権を巡る埋立反対闘争も発生しております)。この埋立・造成は千葉県がこれを行い、進捗状況に応じて東電が県に支払ったとのことです。「東京電力千葉発電所」は、昭和32年(1957)4月に1号機を運転開始、2年後に4号機の運転開始により、総出力は60万kwとなりました。

 こうした産業構造の大きな変化に伴い、千葉県・市の経済状況も好転していくなど、市民もその恩恵を受けるようになります。蘇我小学校[明治6年(1873)福正寺に今井小学校として開校。昭和22年(1947)年に蘇我小学校に改称して新校歌制定]、蘇我中学校[昭和27年(1952)開校、昭和31年(1956)年校歌制定]、そして千葉大学教育医学部附属小学校[昭和41年(1966)第一附属小と第二附属小が統合し現在ある西千葉に移転、同年新校歌制定]等の各校歌には、何れも「黒い煙」が栄える街の象徴であることを旨とする歌詞が歌い込まれていることに注目したいところです(以下に2校校歌の当該部分だけをお示ししましょう。特別展では全歌詞を展示しております)。正に高度成長期という時代像を反映している歌詞内容と申せましょう。しかし、一方で、このことが日本全国の工業地帯で「公害」という社会問題を引き起こすことに繋がったことも御存知の通りです。我らが千葉市も例外ではありませんでした。これにつきましても別稿にて述べたいと存じます。

 

蘇我中学校校歌(部分) 作詞 勝 承夫[昭和31年制定]


あがる煙は 大空染めて
昼は白銀 暮れれば黄金
鉄の響も 文化の調べ
新しい 意気の町
希望に燃えて
はてなく進む若人われら

 

 

 千葉大学教育学部附属小学校校歌(部分) 作詞 吉村比呂詩[昭和41年制定]

 富士が 見える 明るい丘に
小鳥たちの 歌も ひびくよ
黒い 煙に 町は 栄え
希望は ひろがる
みんな みんな ほがらかに
たのしく うたって 進もうよ
喜びは 海へ のびるよ
波に おどるよ

 

 

 さて、千葉県の台所事情が戦後の税制改革で極めて厳しい状況にあったこと、それ故に重工業化を計った企業誘致による事業税の確保を目指したことは先に申しあげたところです。しかし、そもそも、千葉の海岸線に工場用地の埋立・造成がされなければ企業は進出しようがありません。当時の千葉県は埋立事業を推進するための財政に事欠く状況にあったのです。そこで、この苦境を解決する方策として編み出されたのが、所謂「千葉方式」なる方法です。これは、公用水面埋立法に基づき、県が埋立免許を取得しますが、実際の埋立・造成・漁業保証等の費用は予め進出予定企業が県に納入し、完成後に各企業に工場用地を予約分譲するという、県にとっては到って都合の良い方法でした。この方式は昭和32年(1957)年から開始されます。この手法により、県財政を圧迫することなく、土地造成と企業誘致とを一体化して進めることが可能となったのです(江戸時代に幕府が江戸前の海を大名の屋敷地として配分、大名は自費でそこを埋立・造成することで屋敷地として確保するというパターンがあったとそうですが、その手法をヒントにしたのでしょうか)。先にも述べたように、千葉の海は遠浅の砂地でしたので、埋立工事は、事前に埋立予定地を枠で囲み込み、周囲の浅瀬を構成する砂地を浚渫船で掘り上げ、太いパイプを通して海水諸共埋立予定地枠内に流入させる方法が採られたのです(海水だけを排出すれば引き締まった砂地の地面ができあがります)。これにより、逆に砂地を掘り採られた海底の水深が深くなることで、大きな船の入港も可能になるという一石二鳥のメリットが生じることになったのです。その際に利用された浚渫船の模型も特別展では展示してございます。ただ、その代償に、干潟の砂地を生息域とする生物の生育環境が滅失したことは言うまでもありますまい。

 これまで述べて参りましたように、川鉄・東電の進出と併せて取り組まれたのが千葉港の整備に他なりません。何故ならば、中編でご説明したとおり、千葉の自然海岸は1~2km先まで水深は1~2mの砂地からなる浅瀬であり、到底重工業化に伴う喫水の大型船舶の入港など不可能な海岸環境にあったからに他なりません。近世の五大力船や押送船等の小型木造船ですら、引き潮の際には接岸することができず、満潮時に河川が干潟に形成した溝、あるいは人工に掘った溝[共に「澪(みお)」と称します]を用いて接岸せざるを得ない状況にありました。鉄鉱石等の搬入、製品の搬出には到底利用できるものではありません。そこで、上記の如く千葉港造成のために掘り取られる大量の砂を、同時に新たな埋立地の造成に利用することにしました。こうして、千葉港の拡張は「千葉港中央地区(出洲地区とも)」と呼称される埋立事業と併せて実施されることになったのです。しかし、新たに生み出された150万坪の埋立地は、千葉市中心地と至近であることから、商業地・住宅地・都市施設等の公共用地としての用途も期待されることになりました。そうなると、商・住宅地は工業用地と異なり細分化せねばならず、これまでの「千葉方式」での事業実施は難しいと判断されました。そこで、昭和38年(1963)、千葉県と三井不動産との協定が取り交わされ、埋立造成費の三分の二を三井不動産が、残り三分の一を千葉県が負担し、出資比率に応じて造成地の配分を受け、それぞれが売却することになったのです。この埋立・造成方法は出州海岸から始められたため、地名に因んで「出州方式」と呼称されます。因みに、現在に至るまで、千葉市に限らず東京湾岸の埋立とその後の開発事業に三井不動産が深く関わっている歴史的背景はここに存しております(東京ディズニーランド、ららぽーと、プレミアムアウトレット、海浜幕張地区の開発等々)。その結果、出州地区の埋立造成工事は、昭和39年(1964)から昭和46年(1971)にかけて行われ、併せて千葉港の拡張整備が進められました。既に昭和29年(1954)に関税法上の「開港」(外国船入港と実際の貨物輸出入が可能な貿易港)に指定されていた千葉港は、昭和40年(1965)年に国内における重要な国際港を意味する「特定重要港湾(2011年より国際拠点港湾に改称)」に格上となります。そして千葉市役所が昭和45年(1970)に現在ある埋立地に移転、新官庁街が形成されることになりました。更に、現在本館の入る所謂「千葉城」の建物もまた、こうした動向と無関係ではないことを付記させていただきましょう。本館は、千葉市観光課所管の「千葉市郷土館」として昭和42年(1967)に建造されました。本建築の建造に深く関わられた現在80歳を越える千葉市役所OBの先輩のお話によれば、宮内市長は、千葉の地形は平坦であって千葉港へ入港するための目印(近世で言えば「日和山」にあたるもの)が見あたらないことを問題視。特定重要港湾としての千葉港を象徴する記念碑的建造物の必要性に鑑み、決して見誤ることのない近世城郭風天守閣建築を建造することを意図されたとのことであります。

千葉港を挟んで、川鉄・東電の北にあたる当該埋立地には、日本住宅公団による計画戸数6.000戸に及ぶ幸町団地が建設され、昭和44年(1969)から入居が開始されました。また、川鉄公害の問題を受けて、非公害型企業の誘致が行われることとなりました。昭和39年(1964)に千葉県開発庁(昭和49年から千葉県企業庁)・三井不動産・食品会社11社での用地分譲協定書が締結され、その結果、この地には「千葉食品コンビナート」が形成されています。大型船が直接接岸して小麦の陸揚げを可能とする岸壁・サイロ(現在特別展会場に千葉共同サイロ株式会社からお借りした精巧な模型を見ることができます)、製粉工場、砂糖・油脂を製造する工場、それらを原料として製パン事業を行う「ヤマザキパン」が進出するなど、関連工場施設が一同に集結するコンビナートとなるのです。昭和44年(1966)には、京成電鉄の現「千葉中央駅」海側の線路沿いに存在して戦前から水飴や澱粉を製造していた「参松工業」もこの出州地区に移転しております[平成16年(2004年)をもって事業を停止し撤退しました]。

後編では、本日述べた埋立事業の後、千葉市海岸線を北へと伸びる埋立事業について、事業目的の変化を時代的な要請の変化に基づき述べて参ろうと存じます。
(後編に続く)

 

 子供の眼に映った高度成長期の海の変貌(2)(後編) ―臨海部「埋め立て」と消えゆく豊穣の海「東京湾」―

 

9月4日(土曜日)

 

 後編では、出洲地区(千葉港中央地区)の北西側に展開する「千葉市北部地区(稲毛地区・検見川地区・幕張A・B・C地区)」埋立事業について述べようと存じます。先に皆さんにご紹介をいたしました、幕張小・中の児童生徒の作文は、まさに当該地区の埋立についての思いを綴ったものに他なりません。後編は、高度成長期終焉以降の現在までの内容に及びますが、本市「埋立事業」全容をお示ししておきたいと存じます。

 この地域の埋立は、戦後早い時期に海岸地先の比較的狭い範囲で実施された、「旧稲毛地区」「旧幕張地区」がその嚆矢となりましたが、これらは、当初において戦後の厳しい食糧事情の改善に向けた「農地確保」が目的とされていたのです。しかし、その頃千葉県は京葉工業地域造成を計画しておりましたので、目的を農地開発から工場用地確保に転換して埋立を継続することとなりました。しかし、昭和40年(1965)代に入ると、経済成長にとともなって増加の一途を辿る、東京圏労働人口の受け皿(住宅事情問題解消)としての機能が求められるようになるのです。それに伴って、東京の周縁部にあたる千葉県内でも50万人規模を受け入れるための住宅が必要であるとされました。こうした社会的要請に基づき、千葉県(当時の知事は友納武人)は三度目となる埋立の目的変更に到ります。それこそが、昭和40年(1965)に発表された、臨海部埋立地と内陸部台地上への大規模ニュータウン造成事業に他なりません。一方、この計画は乱開発を未然に防ぎ計画的な都市計画を推し進める目論見を有しておりました。その方針の下、都市工学を専門とされる東京大学井上孝教授のまとめた「千葉海浜ニュータウン計画」が昭和42年(1967)に完成します。その内容は、貨物線として計画された京葉線の旅客併用化、駅周辺に高密度住宅(高層マンション)建設、その周辺部に中低層住宅(中層マンション・戸建)を配置するというものでした。この計画を基に、千葉県は昭和43年(1968)に「海浜ニュータウン計画」を立案し埋立事業を推進することになります。これにともない、稲毛・検見川・幕張にて漁業で生計を立てていた方々の漁業権は全面的に放棄となり補償が行われました。その結果、縄文時代以来の長い歴史を誇る、漁業なる生業は千葉市から姿を消すことになりました。まさに、児童生徒の作文の語るところに他なりません(ただ、子供の作文にはこうした漁業補償のことは触れられることはありません。流石にこうした生々しい金銭の遣り取りを大人は子供には伝えなかったのではありますまいか)。

 以下、「海浜ニュータウン」の埋立の経緯について、高林さんの論文に従って概略を追ってみたいと存じます。まず、黒砂水路以北の「稲毛地区」の埋立・造成について。この地は、昭和44年(1969)から千葉市が主体となって埋立が行われました。これは上記した戦争直後の「旧稲毛地区」埋立を千葉市が担った経緯に由来するとのことです(他地区の埋立主体は全て千葉県となっています)。全体の竣工は昭和51年(1976)となりますが、その間の昭和47年(1972)からは整備の進んだ高洲地区から入居が始まり、同年には当地季最初の高洲第一小学校と高洲中学校が開校。昭和48年(1973)には住宅公団高洲第一団地の入居が開始となっております。因みに、京葉線の西船橋駅と千葉港駅(現:千葉みなと駅)間の開通と「稲毛海岸駅」開業は遅れて昭和61年(1986)となります。従って、それまでの13年間は、当該地区から電車を利用するにはバスで総武線幕張駅まで出る必要がありました(もっとも至近となる稲毛駅は駅構内が狭くバス発着場所を確保できなかったため)。

次に、草野水路以北「検見川地区」「幕張地区」の埋立・造成についてとなります。「検見川地区」は昭和45年(1970)年から埋立が開始され、竣工は稲毛地区と同年の昭和51年(1976)でした。また、花見川以北となる「幕張地区」では、まず自然海岸に近い「幕張B地区」が昭和49年(1974)に竣工。両者ともに戸建を中心とした住宅地として造成が行われました。続く「幕張A地区」は昭和53年(1978)年から埋立開始、竣工は同55年(1980)年です。本地区も当初は計画人口95.000人の住宅地として開発の予定でした。しかし、昭和43年(1968)に政府が打ち出した、都心への一極集中を是正するための衛星都市の整備方針を受け、千葉県が昭和48年(1973)年に作成された「千葉県第四次総合五か年計画」により、新たなる「幕張新都心構想」が打ち出されることになります。浜田川以北となる「幕張C地区」は昭和48年(1973)から埋立が開始され、昭和56年(1981)の竣工。こちらも、最終的に「幕張新都心拡大地区」として新都心としての一体的な開発が目指されることになります。幕張C地区は、バブル経済崩壊等で企業の進出が進まない時期が続きましたが、平成24年(2013)にイオンモールが進出。新たな開発が進められております。当該地区の利便性向上を目的とした、京葉線の海浜幕張駅と新習志野駅間に現在新駅が建設中であることは周知のことでございましょう。

 以後は、高度経済成長期から外れた内容となりますが、埋立の全貌ということでお付き合いをいただければと存じます。「幕張A地区」における埋立地の活用として浮上した上記の「幕張新都心」建設について述べてまいりましょう。元来は海浜ニュータウンとして住宅地とする予定であったものが、社会的要請の変化に伴い如何様に変わり、その結果として現況に到っているかについて御理解いただければと存じます。「幕張新都心構想」が打ち出された昭和48年(1973)は、「石油ショック」により高度経済成長の時代が終焉を迎え時と重なります。このことは、必然的に新都心開発を巡る状況に大きな影響をもたらします。その結果、昭和51年(1976)、千葉県は新総合五か年計画を策定します。これは千葉県は幕張新都心整備計画について、これまでの中枢管理的業務機能誘致の再検討を進め、新たに教育文化機能の充実した新都心を目指す「学園のまちづくり」、市民に親しめる海岸線の利用を目指す「幕張の浜」構想が盛り込まれたものでした。こうした方向性の修正は、翌年の国土庁による第三次首都圏整備計画によっても後押しされます。そこでは、幕張地区を、事業業務に限らず教育文化・レクレーション・住宅機能をも有する都市として造成することが掲げられております。その結果、「幕張A地区」の開発は、まず文教地区の開発が先行して進められます。昭和55年(1980)から同62年(1987)にかけて、県立幕張三校、県立若葉看護学校(この四校は後に統合し幕張総合高校に)、渋谷学園幕張高等学校、昭和秀英高等学校、県立衛星短大、放送大学、神田外語大学、県立総合教育センターが開設されました。ただ、本地区の目玉とも目されていた、県議会が全会一致で決議した早稲田大学誘致は、競合関係にあった所沢市に軍配が上がり本地区への進出は実現することがありませんでした[昭和62年(1987)早稲田大学人間科学部として所沢市に開校しております]。

 昭和58年(1983)、沼田武県知事の提唱による「新産業三角構想」が発表されます。これは、幕張の新都心構想に加え「上総新研究都市開発構想」「成田国際空港都市構想」とを併せて進めるというものでありましたが、中でも「幕張新都心構想」をその中核に位置付ける内容でありました。何故ならば、幕張の地が、首都東京と成田空港との中間に位置し、高速道路によって両地を密接に結ぶ立地にあるとの経済面での要地であることに期待が寄せられたからに他なりません。その中核施設として「メッセ」の設置が検討され、昭和62年(1987)に起工、平成元年(1989)にオープンとなります。つまり、幕張新都心は国際見本市・会議・交流事業会場としての「コンヴェンション機能」が付与されることとなったのです。更に、千葉県企業庁による幕張新都心計画に基づき、無秩序な開発が抑制する集団規定が作成され、ブロック毎の都市機能が定められました。それに基づき業務研究地区に平成2年(1990)24階のツインタワーが完成し先端企業100社が入居。更に海浜幕張駅を中心としたタウンセンター地区にホテルや商業施設のプレナ幕張がオープン。更に同年、県立幕張海浜公園の整備が進められた公園緑地地区に千葉マリンスタジアムが開場(翌年に千葉ロッテマリーンズの本拠球場)。そして、住宅地区では、平成3年(1991)千葉県企業庁作成「幕張新都心住宅都市デザインガイドライン」に基づく造成が行われました。その結果、バランスの取れたマンション群の建設が推し進められ、「パティオ」と称するヨーロッパを思わせる統一された街並みの居住区が完成。この住宅地は「幕張ベイタウン」と名付けられます。現在、本来は文教地区として予定されたものの、早稲田大学誘致が頓挫した結果、空地であった地への高層タワーマンション6棟の建設が進んでいます。令和元年(2019)から、今後15年をかけて建設と入居が進められていく計画とのことです。これから、幕張A・C地区の景観は大きく変貌していくことになりましょう(こちらにも三井不動産が関わっていることは言うまでもありません)。

 最後は、高度成長期以降の動向を駆け足で見てまいりましたが、現状における「幕張新都心」として埋立・造成された本地区の機能は、県都千葉の中心街との関連性を殆ど持つことなく、東京都心と国内最大の物流拠点である成田国際空港との結びつきを核として、別個の歩みをしている地区ともなっております。そのことは、千葉市中心街と幕張新都心とを結びつけようとした過去の交通路線(バス等)が悉く頓挫していることからも明らかでしょう。つまり、千葉市中にあって、税収面での貢献は極めて大きいものがあることでしょうが、都市機能としては千葉市中心部との相関性は相対的に低く、別個に独立する中核都市となっている現状に他なりません。それが千葉市として望ましい都市としての在り方かどうかは議論の在る所でございましょうが、少なくとも埋立地として造成された「幕張地区」が、今や「新都心」として千葉市財政収入において、大きな比重を有する極めて重要地点となっていることは疑いのないところでございましょう。

 以上、先週から今週にかけ4回にわたり、千葉市域の前に広がる豊穣の海「東京湾」のこと、及び戦後にその地で大規模に執り行われた埋立・造成について、その経緯と目的の変遷等を述べて参りました。長々しき内容にお付き合いいただきありがとうございました。ざっくりではありますが、千葉市内の埋立に関するビフォー・アフターについて御理解頂けることと存じます。埋立推移地図をご覧頂きながらお読みいただけると理解しやすい内容かと存じます。本館のツイッターには「特別展シリーズ」の一つとして当該推移図がアップされておりますので、そちらもご参照くださいませ。そして、高度経済成長期以降に千葉市の在り方(景観・産業構造・社会構造等々)が劇的に変貌を遂げたことも、海岸部の移り変わりからお掴みいただけたことと存じます。

最後に、改めて当時の子ども達が綴った作文に立ち戻って、大きく変貌を遂げようとしている高度経済成長期における故郷の海の姿に、児童生徒が込めた想いに触れていただければと存じます。感慨もまた新たになるものと信じてやみません。このような「非常事態宣言」下ではございますが、本館の特別展に脚をお運びいただき、併せて「展示図録」(1冊600円)をご購入いただけますと更に理解が深まること必定かと存じます。充分なる感染予防策をされた上、お越しくださいましたら幸いでございます。

 

 

 

 「撮り鉄」「御朱印」ブームなる風潮に思うことども(前編) ―または「お客様は神様」自意識の暴走について―

 

9月10日(金曜日)

 世間一般では、大学などを除き各学校で夏季休業があけ、8月末あるいは9月当初から授業が再開される時期となりましたが、コロナ禍における「非常事態宣言」延長に伴い、本市においても授業時間短縮と下校時刻の繰り上げ(部活動中止も含む)等々の対応がとられております。また、本来であれば、これからの季節に開催されるであろう小中学校の体育祭・文化祭、高等学校における修学旅行等々、一生の想い出に残るであろう行事が、取りやめになったりするなど、子どもたちには気の毒としか言いようのない状況になっております。もっとも、コロナ禍は収まるどころか、更に猖獗を極めることにもなっており、これらも致し方のない判断かと存じます。誰かが言っていたように思いますが、「今は戦時だと思うしかない」のかもしれません。ただ、行政にも、国民にも、「どうにかなるのではないか」との不確かな根拠に基づく楽観的観測が蔓延しているように思えて仕方がありません。医療従事者・専門家の皆さんが強く訴える、その危機感が広く共有されないのは何故なのでしょうか。

 早速の道草で恐縮でございます。9月5日(日曜日)にパラリンピックが閉会となり、様々な考えのあるなか実施されたスポーツの祭典が幕を閉じました。障碍のある皆さんの熱戦の数々は、人間の意思と可能性の広がりを我々に突き付け、多くの感動と勇気を与えてくれたように思います。特に、8月30 日(月曜日)朝日新聞で紹介されていた柔道(視覚障害)男子100キロ級に出場され、初戦で一本負けされた松本義和(59歳)さんの記事に心打たれた思いでございました。高校一年生の発症した緑内障により20歳で全盲となられた松本さん。親戚から「恥ずかしいからうちの前を歩くな」と言われたこともあるなかで、「絶対負けへんぞ。自分の力で生きていく」と決意。鍼灸マッサージ師の資格を取得するために入学した学校で視覚障害者柔道に出会われたといいます。のめり込んで取り組んだ結果、国内での優勝を勝ち取りますが本人は素直に喜べなかったと言います。「1位なのは諸視覚障害だからだ、と。全てを障害に結びつけて、後ろ向きになっていた」。そんな自分を帰ったのが「パラリンピック」の舞台だったとのこと。本パラでは、その後の敗者復活戦でも豪快な内股で一本を取られ2連敗で終わったとのことです。試合の後、ご本人は「何度も何度もくじけても、夢のために挑戦してきた。まあね、子どもたちに何かを感じとってもらえたらいいと思います」と少し照れながら笑われたそうですが、この記事を拝読させていただき、何とも爽やかな風が心の中を吹き抜けたような思いにさせられました。何故ならば、健常者と言われ我々にも「全てを何か(誰か)に結び付けて後ろ向きに」なることが多いと思うからに他なりません。ある意味では、誰もが、様々な限られた条件の中で生きているわけであり、「誰々が悪いから幸せになれない」「親が悪いから成績が伸びない」「コーチが悪いから野球が上達しない」等々、原因を自分以外位のものに転嫁して逃げてしまうことが(自分自身もですが)、間々あると思うからです。自分以外に原因を求めることは、自身を傷つけない最も楽な解決法でありましょう。勿論、何から何までを自己責任に帰すことは問題でありますが、松本さんの発言から、改めて自分自身に向き合わされたように思いました。

 ただ、今回のオリパラでは、コロナ禍の下での開催といった問題の他に、報道でも殆ど言及されないことをも考えさせられたのでした。それは、以前に、ある五輪強化選手の後援会に参加して、当該選手を経済的に支援していた方からうかがった内容を思い出したからであります。つまり、五輪に出場するためには、国内外の大会に参加することが求められ、遠征費を含めて膨大な経費が必要であり、選手及びその家庭の負担だけでは到底賄いきれない金額であるとのことでした。そうかといって、外国のように公的資金による支援が乏しい日本では、周囲の人間が後援会組織を結成して、資金をかき集めて支援をしなければならない、一般人の厚意に支えられるお寒い状況にあるとのことでした。健常者によるオリンピックですらこの有様なのです。パラリンピックに参加するためには、競技にもよりましょうが、健常者を遥かに凌駕する経済的負担が求められることは論を待ちません。競技用具一つをとっても、一人ひとりの障碍に応じてカスタマイズされた特別な器具が必需品であり、当然のようにその負担は莫大なものになります。つまり、経済的弱者にとって、パラスポーツへの参加には高い障壁が厳然と立ちはだかっているのではないかとの思いを抑えること抱いた次第です。実際のところはどうなのか調査し尽くした訳では御座いませんが、五輪ですら上記のような厳しい状況にあるのです。突き詰めれば、パラリンピックに参加できる競技者は、障碍を持たれる方々中のほんの上澄みに過ぎなかろうと予想されます。実力の問題以前の「経済格差」の問題に大きく規定されていることを見逃してはならないかと存じます。その障壁を取り除き、参加を希望する全ての障碍者の皆さんが誰でもアプローチできる条件が整わなければ、経済的に恵まれた人たちだけのオリパラに他なりますまい。特に障碍のある方々に対しては、手厚い経済的支援という制度的構築こそが、本当の意味でのパラ競技の「バリアフリー化」に繋がるのではないかと考える次第であります。それこそが、オリパラ精神の具現化に他ならないと考えますが、皆様は如何お考えでしょうか。

 本題に移らせていただきます。昨今、鉄道趣味は、当方が少年期の頃を遥かに凌駕する規模で広がっているようです。しかも、当方が少年であった時代のように鉄道を総体として愛好するのではなく、特定のジャンルを愛好するファンが少なくないなど、鉄道趣味も多様化・細分化しているようにも思えます。当方もよく知りませんが、すべての路線に乗車することを趣味とする「乗り鉄」、駅弁を食することを専らとする「食い鉄」、風景中に鉄道を取り込んだ写真作品を制作することを無常の喜びとする「撮り鉄」、NHK-BSで放映される六角精児出演番組のように車窓風景を肴に地酒を味わう「呑み鉄」なる種族までもが跋扈する、多士済々の在り様を呈しております。当方のような50年前に鉄道趣味から脚を洗ったものからすると、最早想像すら叶わぬ地平にまで至っているようにすら思われます。更に、一昔前に「鉄道趣味」と言えば、専ら男性の趣味であったのですが、昨今では「鉄女」なる新規ファン層も誕生しております。当方は、結婚前の独身時代に「鉄道好き」「釣り好き」であることを決して女性に伝えてはならない……と、年配女性から諭された記憶がございます。これら趣味は女性からは決して理解されないとの謂いでありましょうから、それだけ女性には縁遠い趣味(モテない男性たる重点要件)と考えられていたわけです。その意味では、昨今の動向はジェンダーフリーとして到って好ましいものでありましょう。それを思えば今や隔世の感すらあります。

 一方、昨今は若い皆さんを中心に、所謂「御朱印」集めも人気だと耳にします。「御朱印」とは、元来「朱色の印」のことを言い、押印された公文書を「朱印状」と称することもあります(朱印状発行による幕府の認可状による江戸時代初期の貿易を「朱印船貿易」と称することもよく知られておりましょう)。しかし、昨今「御朱印」と言えば、寺社を訪れた参拝者が、幾ばくかを納付して発行してもらう一種の御札を思い浮かべるのが一般的でございましょう。多くの場合、朱印の上に寺社名や本尊・祭神等を筆書きすることから、斯様に呼称されるようになったものと思われます。各所で発行する御朱印を集める冊子が「朱印帳」で、昨今はそれを手に全国行脚するのが空前のブームともいえる状況であるそうです。「鉄女」のように御朱印集めに精出す「御朱印ガール」なる女性ファンの増加も著しいものと耳にします。

 勿論、「撮り鉄」趣味も、「御朱印」趣味も、昨今俄かに沸き起こった訳ではありません。私が中学1年生の頃まで出かけていた鉄路では、三脚を立てて列車を撮影されている叔父さんによく出会いましたし、積極的に寺社巡りを始めた学生時分にも、学生仲間にも御朱印を集めている方々はおりました。しかし、それは「篤い」とまでは言えなくとも「信仰心」に根ざしておりましたし、「趣味」と言っては失礼にあたるものと認識しておりました。その点、昨今のブームである「御城印」なる“ポッと出”の流行とは訳が違います(「御城印」集めを趣味とされる皆さんに水を差すつもりはありませんが、如何なる意味があるのかは個人的に共感し難きモノがあります)。そもそも、寺社による御朱印の由来は、佛教大学で民俗学を研究する八木透教授によると「室町時代に写経を寺に納めた証として授与された納経印」が起源であり、本来は仏に対して「功徳を積んだ人間の証明」として渡されるものであったとのことです。私自身は、その折から今に至るまでかような嗜好はございませんが、朱印帳を拝見させて頂ければ、なかなか素敵なものだと感じることはありますし、朱印帳を紐解くことで心の安寧をおぼえる心情も理解できないわけではありません。鉄道写真でも芸術的な素晴らしい作品を拝見すれば、心躍るものを感じる次第でございます。しかし、昨今、加熱するブームが様々な問題を引き起こしているとの報道に接して、首をかしげざるを得ないことも多くなりました。後編では、そのことについて述べてみたいと存じます。
(後編に続く)

 


 

 

 「撮り鉄」「御朱印」ブームなる風潮に思うことども(後編) ―または「お客様は神様」自意識の暴走について―

 

9月11日(土曜日)

 昨今、所謂“撮り鉄”なるジャンルの鉄道ファンを巡るトラブルを間々報道で接することがございます。入構を禁止されている構内や軌道内へ立ち入っての撮影、他人の敷地に立ち入るだけに止まらず、希望するアングルでの撮影のために私有地内樹木の恣意的伐採に及んだり、混乱を制止する駅員への暴言・暴力、撮影の邪魔となる一般人への罵詈雑言等々、枚挙に暇なきほどの過熱したファンの動向には、中一の頃まで鉄オタであった当方も呆れるばかりです。いい写真を撮りたい、他人などお構いなしに誰にも邪魔をされずに趣味に没入したいといった気持ちが分からないわけではありませんが、流石にかくも傍若無人な鉄道ファンに出会った記憶はございません。所謂“常識人”ばかりでありました。

 以下は、時代が平成から令和に移り変わった頃の話題であり旧聞に属することとなりますが、当方にとって忘れ難き出来事でありますので、ここで取り上げさせていただきましょう。それは、東京は浅草寺の隣に鎮座する浅草神社で(隅田川に沈んでいた観音像を祀った功労者3人を祭神とした神社なので俗に「三社様」を称し、祭礼を「三社祭」と呼び習わします)、平成・令和の新旧元号入りの御朱印を数量限定で配布したときのことです。その「御朱印」を入手するために、途轍もない行列ができ、入手できなかった者が神主や巫女に「こっちはお客さんだぞ」と罵声を浴びせ、現場は大いに混乱したことが新聞報道にありました。しかも、この朱印状がネットオークションで5千円を超えて出品されており、神社としては転売を看過できないとして、三社祭で毎年配布していた特別な御朱印を取りやめたとも。また、別件でありますが、会津で白虎隊の墓守を続けている土産物店「飯盛分店」で、5代目墓守に当たる女性が一人ひとりの墓参者にあわせた御朱印を書いて渡していたが(一人10分以上かかる事もある)、「手際が悪い、何分かけてるんだ」と責められることが多くなったため書くことをやめたとのこと。しかし、改元にあたり予約制で再開したところ、今度は御朱印帳を郵送してきて「書いて返送して」という人が。更に、並ぶのが嫌だったのでしょうか、女性から「朱印帳を置いていくから書けたらホテルまで届けて」と言われたことも。代金の数百円は慈善事業に寄付していたが、こんな状態に呆れ「当分書くつもりはない」との決断をされたとありました。また、元号がわりに明治天皇を祭神とする明治神宮が発行した数百円の「プレミアム御朱印」にも10時間待ちの行列が。そしてついにはこの御朱印がネットで27万円にて出品されるまでになったそうです。実際には、これが1万円ほどで盛んに取引が行われていたと報道にはありました。

 そもそも、前編に触れましたように寺社による御朱印の由来は、仏に対して「功徳を積んだ人間の証明」として渡されるものであったのです。ここからも最近の御朱印事情が本来の在り方から遠く隔たったものであることが分かりましょう。功徳とはほど遠い現代人の言動に、神仏もさぞかし目を丸くしていることでしょう。もっとも、江戸後期には既に宗教色が薄れ、参拝すれば誰もが手にできるようになっていたようです。しかし、先にも書きましたが40年前には今回の報道のような軽佻浮薄な状況は皆無であったと自信を持って言うことができます。

 先述の如く、朱印帳を見ると達筆の文字と意匠化された朱印とが寺社毎に多様であり、それ自体が美しい作品集のようです。魅力を感じる人が多いこともよく理解できます。また、発行者(宗教法人)の事情に鑑みれば、御朱印が昨今の檀家数の減少に伴う経営難の救世主になっていることも分かります。私も、好きで御朱印を集めることや、それで寺社が潤うことに冷や水を浴びせるつもりは毛頭ありませんし、そんな権利があろう筈もありません。しかし、平然と傍若無人な振る舞いに及ぶ手合いには大いに苦言を呈したいところです。それは、何も相手が宗教団体であるから畏敬の念を持てといった類の話ではありません。現状において、御朱印が立派な経済活動として取引されている以上、その他商品と同様、取引自体をとやかく言うべきではないと思います。ただ、強烈な違和感は「俺たちはお客様だ」意識を基盤とした顧客の言動にこそあります。その昔、三波春夫の「お客様は神様でございます」なる決め台詞が一世を風靡しましたが、これは売り手が持つべき心構えをいったものであり、これを真に受けて「俺たちは偉い」と買い手が思うのだとすれば勘違いも甚だしいことです。そもそも「俺様意識」に基づく横柄な態度での取引は、本来対等な関係性を基盤に成立する資本主義経済の基盤を蔑ろにするものです。

 江戸時代の「近江商人」が共有した商業訓に「三方よし」があります。三方とは「売り手」「買い手」「世間」を指し、商売は三者にとって「よい」ものであるべしという家訓です。売り手だけによい取引は、いずれ買い手からそっぽを向かれて永続しない。買い手だけによければ売り手を立ちゆかなくさせ買い手にも不利益となる。社会のためとの意識を忘れずに取引を行うことが世間の幸福に繋がる(江戸の街でも大商人は飢饉等で困窮する庶民救済に私財を投じました)。封建制の下でも斯様なる商取引のメンタリズムが存在しました。これに照らせば、上述の如き現代人の厚顔無恥はこうした倫理観の片鱗すら欠いていると考えますが如何でしょうか。お金を出せば何でも許されるという傲慢な消費者意識は、まさに天に唾する行為に他ならず、何れ自らに不利益をもたらすのです。後編では、「御朱印」が中心となり「撮り鉄」の件には殆ど言及できませんでしたが、ほぼ同様の精神構造に起因する問題かと存じます。ただでさえも、コロナ禍でぎすぎすした世界であるからこそ、こうしたことについて誰もが思いを致すことが円滑な社会生活に直結するものかと存じます。コロナ禍で、人々の怒りの沸点が低くなっている現況であるからこそ、極々当たり前であったはずの「倫理意識」が大切にされるべきであり、社会に求められる能力なのではありますまいか。

 最後の最後に、本題から離れた寄り道をさせてくださいませ。少々長くはなりますがお付き合いください。過日朝日新聞の「天声人語」を拝読して初めて知って驚いたことがございました。論評士自身も最近知ったとされておりますので、おそらく多くの方々にとっても広く知られてはいないものと推察いたします。そして、このことは、前々回にも述べさせていただいた、昨今の我国における自然科学研究の在り方の課題を端無くも顕現していることだと思わされたのです。それこそが、現在のコロナ禍の下で、これ無くして日々の治療はなし難い“とある機器”を発明された方の話題です。その機器が「パルスオキシメーター」であり、この原理を考案した方こそ青柳卓雄さんという日本人技術者であることです。本機は、人差し指の先端に挟むだけで血中酸素飽和度が表示される到って利便性に優れた機材であります。この機器のお陰で採血しなければ判明しなかった血中の酸素飽和度が瞬く間に明らかにされることとなったのです。これが、どれほど画期的で、どれほど有効かは火を見るより明らかなことです。青柳氏は「新潟に生まれ、発明家になる夢を抱き、1971年に日本光電工業に入社。麻酔科医との会話がきっかけで、動脈血の酸素濃度を簡単に測れる装置開発の研究に打ち込まれた」との経歴をお持ちだそうです。徹底的に文科系頭脳の当方にはその原理がよく理解できませんが、動脈血だけの信号を取り出すことに成功し連続測定を可能にした技術とのことです。

 しかし、「天声人語」によれば、この大発見にはすぐに光が当たったわけではなかったそうです。アメリカで麻酔中の酸欠事故が問題化した1980年代に有効性が理解され、企業によって相次いで製品化されることに繋がったと言います。つまりは、青柳さんの発見が極めて多くの人命を救ってきたことになります。青柳さんは、晩年までその改良に尽くされ、昨年4月に84歳でご逝去されたとのことです。そして、この功績を評価したアメリカの新聞各紙では長文の訃報が掲載されたそうです。そこには、その死を悼んだアメリカのエール大学名誉教授が、青柳さんをノーベル医学生理学賞の候補に推薦していたとの秘話までもが紹介されていたことも記されております。わが国では如何なる扱いであったのでしょうか。寡聞にして知ることがありませんが、それほど大きな記事として扱われていなかったと思われます。「天声人語」は、最後に「日本国内でももっと再評価されるべき発明であろう」とコラムを締めくくっていらっしゃいます。調べてみると、青柳さんは平成12年(2000)、パルスオキシメーター発明の功績により「科学技術庁長官賞」を受賞され、その2年後には「紫綬褒章」も受章もされていらっしゃるそうですが、これだけの方が国内ではさほどに広く知られておらず、一般の国民から、その功績に見合う敬意すら払われていなかったこと自体に逆に驚かされたのです。

 ここには、当方がこれまで折に触れて縷々述べて参った、我が国の科学技術研究の課題が歴然と表出されていることと存じます。まずは、青柳さんの優れた業績が日本国内よりも、むしろ海外で高く評価され手厚い敬意を払われていたことであります。青柳さんは、活動の拠点を海外へ移されることをされなかったのでしょうが、おそらくアメリカで当該研究をされていたならば、今頃は世界的な大きな評価と、それに見合う経済的福利を享受されていたことでしょう。さらに、ここで強調したいことが、彼の画期的な発明が「昭和の遺産」であることです。これらのことを、我々日本人としてよくよく省みるべきことと存じます。地道な研究の継続こそが、将来における豊かな実りをもたらす、そんな恰好の事例ではありますまいか。目の前の利潤追求だけに汲々としているだけでは、子々孫々に美田を残すことは叶わないと思います。そうした研究者が公的に支援され、誇りをもってもらえる環境の醸成こそが求められているのだと考えます。

 

 

 

 子どもの眼に映った高度成長期を生きる人々(前編) ―「千葉港」で働く人々と工場の風景―

 

9月17日(金曜日)

 9月に入って10日余りが経過しました。今年は戻り梅雨が早めなのか、今月はじとじと天気続きで、結構肌寒い日々が続いております。例年9月当初と言えば厳しい残暑が続くのですが、彼岸前にどことなく秋の気配となっております。この亥鼻山周辺でも、夏の終わりを象徴するツクツクボウシの鳴き声も殆ど耳にしなくなり、秋の蟲たちの聲が賑やかになってまいりました。本原稿は9月12日(日曜日)に物しておりますが、昨日の帰宅時に宵の入となった街を金木犀の薫りが何処からともなく漂って参りました。ちょうど本館から池田坂を下って、智光院と胤重寺との間にある石畳を歩んでいるときでありましたが、改めて暦を確認した程、今年は随分と急ぎ足であるように思われます。例年は早くても彼岸の前後、遅い年は10月の声を聞いてからではありますまいか。これも異常気象の為せる業というものでございましょうか。季節感がどうにもチグハグになっているように感じます。帰宅後に、山の神も金木犀の薫りに出会ったと言っておりましたので、千葉市だけが特別な訳ではないようです。今朝新聞を開いた所にも「天声人語」に、昨日金木犀の香に今年初めて接したことを論評士が筆にとどめておられました。その中には、我々にとっての芳香は蝶や蜂には好まれていないようだとありましたが、本当でしょうか。確かに開花期の金木犀に虫たちが集まっている風景を眼にした記憶はないように思いますが、通常の場合、花は戦略として派手な色彩・芳香を発して虫たちを寄せて受粉の手助けをしてもらうのではないのでしょうか。そのあたりはよくわかりませんが、調べてみるとモンシロチョウなどに忌避される香であることが記されております。それでは一体誰のためにあのような香を発しているのでしょうか。ちょっと不思議な思いが致します。これも本日の記事で知りましたが、金木犀は中国原産であり、日本にある金木犀は全て江戸時代に雄株が渡来し、これが挿し木で国内に広まったそうです。つまり日本には雌株が導入されていないため自然の分布はないとのこと。本来であれば雌株に枸杞のような果実が実るとのことです。

 さて、特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』の会期も残すところ1か月余りとなりました(10月17日まで)。その間に2回、特別展会期終了後に1回、合計3回開催となる特別展に関する歴史講座も開催されます。申し込みは一昨日(9月15日)に終了しておりますが、たくさんの皆様にお申し込みを頂きありがとうございました。1回目は10月2日(土曜日)に迫っておりますので、参加決定をされた方には早々にご連絡を差し上げますので、是非とも楽しみにされていてください。本館も歴史系博物館でありますから講演会の内容は、どうしても歴史関係の内容に偏ることは致し方がありませんが、歴史的な事象というのは、より複雑に様々な分野との関わりに置いて大きく規定されて生起しているものであります。とりわけ自然科学の知見はどうしても必要な視点であります。当方の偏愛する『ブラタモリ』の秀逸さは、対象を人文科学と自然科学との両面から切り取る点にありましょう。

 その顰に倣い、今回の講演会講師の方も、高度計長期を様々な分野からの視点で分析していただけるご講演を構成しております。まずは、本館で担っております『千葉市史史料編(近現代)』編集委員長をお勤めいただいております池田順先生から、高度経済成長期の東京湾埋立造成事業の経緯を歴史的側面から(10月16日)、児童生徒の作文を窓口にして高度経済成長を扱った今回の特別展に因み、高橋邦伯先生(青山学院大学特任教授)から時代をとらえる作文指導の在り方と過去の歩みを巡って教育分野からの視点から(10月2日)、そして、特別展会期後の設定となりますが、工藤孝浩先生(本魚類学会)から、埋立で失われた東京湾の自然環境の特色とその再生の取り組みについて御専門とされる魚類を軸に自然科学の分野から(11月20日)、それぞれ当該時代像を切り取っていただこうと目論んでおります。本講演会は3回ともに「千葉経済大学」との共催事業として開催いたします関係もございまして、何れも千葉経済大学を会場とさせていただきます。3回目のご講演を本特別展会期から外しておりますのは、工藤先生のご講演が当該時期に千葉経済大学地域経済博物館で開催中の『令和3年度特別展「房総と海」』[【会 期】令和3年11月13日(土曜日)~令和4年2月5日(土曜日)]とも深く関連しているためでございます。当日のご講演の際には、当博物館で開催中の特別展も併せてご見学されていただければと存じます。

 さて、今回は、高度経済成長を支えた働く人々の姿や在り様を記した子供たちの作文をご紹介させていただきます。章の冒頭に担当が述べているように、当時の人々の生業について記した作文は決して多くはありません。やはり、子どもは遊びの天才であり自らの日常の生活、特に保護者が収入を得ている仕事の分野へ向ける関心はさほど高くはなかったからだと思われます。特に、親御さんがサラリーマンであれば余計にそうでありましょう。しかし、自営業者の場合は、家族の仕事と子どもの生活圏とは相当にリンクしておりましょう。その数は決して多くはありませんが、親御さんの仕事を手伝っている印象的な作文がございました。更に、海辺から見た24時間体制で操業している工場群の風景から思ったこと等にも触れられた作品もございます。特に、過日述べさせていただいた海辺で働く人たち、そして海辺(埋立地)で展開される生産の在り様を記している作文が目につきます。それでは以下にご紹介をさせていただきます。是非とも子どもの想いに寄り添ってご拝読いただければ、高度成長期の伸びゆく日本の前向きな明るさに胸を打たれることと存じます。

 

 

『沖の配達』 末広中学校 2年 男子


僕の家は千葉港に入る船に食料を売る船舶食品店である。海の上の商売なので、家には船が一そうある。

 全長10メートル、あまり大きくないが、頑丈さは格別だ。陸から配送できない時、この船を使う。

 きょうは朝から忙しく、家族全員店の手伝いだ。夏休みで家にいた僕は、一番上の兄の助手として船に乗り込み、沖に停泊中の貨物船に荷を運ぶことになった。

 晴れ渡った空には、真夏の太陽が輝き、水面はまぶしい位だ。

 胸を躍らせて船に乗り込む。エンジンがかかった。10時30分。いよいよ出発だ。青い海の上をけたてて進む。実に気落ちが良い。エンジンは快調、一気に船だまりを出て千葉港にはいる。大きな船がゆったりと錨をおろしている。その間を通り抜けると赤燈台が見える。兄が「よし、スピードを出そう。」と言った。僕はエンジンのそばに行きレバーを引いた。すると、エンジンの音が、さっきより小刻みになり、スピードが加わった。「オーケー。」と、兄が満足そうに言う。右手にしゅんせつ船が見え、長いパイプが港の方まで尾を引いている。左手は正面岸壁で、レールの上の大きなクレーンが外国の荷を下ろしている。鉄の粉らしく、あげる度に黒い粉がたくさん落ちて、黒煙を挙げている。しばらくして赤燈台の堤防の上は釣りを楽しむひとでいっぱいだ。赤燈台を過ぎてからはブイをたよりに沖へ向かった。大きいだるま船が通ると、僕たちの乗った船はおもちゃのようにゆれる。赤燈台を離れて10分位たった頃、今まで見通しの良かった海上に、急にガスが発生しあたりが見えなくなった。どっちを見ても何も見えない。「どこかに千葉燈標は見えないか。」と兄が言う。千葉燈標を探すことにした。濃いガスが立ちこめているので、むずかしいと思ったが、わりあい簡単に見つかってほっとした。燈標は四本の支柱の上に立てられている。僕たちはここで、配達する船の位置を調べてもらう事にした。建物の下に入る階段の下は、カラス貝でまっ黒になっている。船をつけて建物のドアを開いた。中は思ったよりも広く、しかも2階になっているので驚いた。係りの人はひとりしかいなかった。兄はその人に船の位置を探してくれるように頼んだ。係りの人はさっそく信号所に問い合わせたところ、近くにいるということなので、灯標の望遠鏡を借りて探してみた。しかし、それらしいものは見えなかった。仕方がないので、しばらく灯標の中で休ませてもらうことにした。灯標の2階は円形になっていて、四方の見通しのきくガラス窓で囲まれている。室の中には大きな無線機や望遠鏡、探照灯がある。20分位たったころから、あたりのガスははれ始め、ぼんやりと目標の船が見えてきた。僕たちは係りの人に別れを告げて船に乗り込んだ。燈標をあとにして10分あまりたった頃だろうか、今まで静かだった海に風が出始め、海が荒れてきた。船が大きくゆれ始めた。僕はかじを握りしめた。エンジンはひるむ気配もなく快く回り続ける。「バッシャー、バッシャー」とたたきつける波の音と、エンジンの音がからみあってすさまじい。へさきが上下に大巾にゆれだした。波は、」グーと突き出たと見る間に、スーッとくぼみ、またすぐに突き上がる。

 30分ほど悪戦苦闘したあげく、やっと目的の船に近づいたが、波にもまれて船体がぶつかりあってしまう。兄は船底から縄をつかむと、向こうの船に投げ込みしっかりとしばりつけてもらった。そして思いっきり引っ張った。兄の顔から汗がにじみ出し、見る間に流れ出した。やっと向こうの船に横づけすることができた。荷をバケツに入れて運び上げた。ビールを一本流してしまったが仕事は順調に進み、またたく間に終わってしまった。ほっとして気が付いたら、汗びっしょりだった。いよいよ帰り道だ。つなを解いて走り出した。行きとうって変わって帰り道は楽だった。ちょうど波に乗ったかっこうで、いちだんとスピードが増した。波の上をすべるように進んでたちまち千葉港に着いた。港は、沖のことなど何も知らぬげに静まり返っている。スピードを落としながら舟だまりに入り、橋の下に船をつけた。陸に上がってからしばらく足もとがふらついて変な気落ちだった。家について時計を見たら3時10分過ぎだった。畳の上にすわりこんだとたん、今まで忘れていた空腹感が、いっぺんにこみあげてきた。

 

 一読して、何とも清々しい思いに駆られます。おそらく親御さんも配達で忙しかったのかもしれません。年上の兄と一緒に配達の仕事を頼まれて出かけた「沖の配達」。5時間にもわたる緊張感に満ちた仕事の体験と、それを成し遂げた喜びと満足感とが行間から滲みでてくるように生き生きと綴られております。中学2年生となった倅を信頼し、仕事を任せようとした親御さんの心情も垣間見えてくるような、高度成長期の夏休みの一齣に心打たれます。埋立前には、自然の海岸線には港湾施設は存在せず、漁をする舟は都川河口に舫っておかれておりました。過日の本館ツイッターにて都川河口でチャンバラをする高度成長期の子供達の写真をアップいたしましたが、対岸にたくさんの木造舟が写っていることにお気づきの方も多かったと存じます。埋立の際に整備されたこの「船溜まり」は、現在も京葉線の直下に存在しております。今ではその地に「T・ジョイ蘇我」なるシアターがありますが、電車からは、当時から続いていると思われる「(有)牧野船食」の店舗(この作文の主の店の可能性が高いと思われます)、「千葉船業協同組合」の建物を確認することができます。また、作文からは、「浚渫船」や長く尾を引くような「パイプ」の存在も見えており、埋立工事が正に進行中であったことにも気づかされます。正に、時代を写し取る極めて素晴らしい作品であると思います。後編でも高度経済成長期の子供達の作文を引き続きご紹介させていただき、併せて高度成長期の労働人口の移動がもたらしたであろう、社会の変化についても言及してみようと存じます。
(後編に続く)

 

 子どもの眼に映った高度成長期を生きる人々(後編) ―「千葉港」で働く人々と工場の風景―

 

9月18日(土曜日)

 前編に続いて、まずは高度経済成長期に書かれた生徒の作品(詩歌)をご紹介いたしましょう。ともに、昼夜を分かたず稼動し続ける埋立地に立地する工場の光景を描いたものです。本2作品はともに、昭和28年(1951)蘇我今井町の埋立地に進出した川崎製鉄(以後“川鉄”の略称で記載)の光景を描いた作品です。川鉄は、我が国で戦後初めて建設された「銑鋼一貫製鉄所」(原料となる鉄鉱石から鉄を取り出し鉄製品に到るまでを行程を一つの工場敷地内で連続して行うことのできる製鉄所のこと)です。同年に1号高炉への火入れ、そして昭和33年(1958)2号高炉への火入れと関連施設の設営により、一貫生産の体制を実現しております。最近では、海から工場夜景を鑑賞する船舶ツアーが流行りだそうですが、当時は夜中でも煌々と灯りをともして操業をする工場の光景は特異なものであったのだと思われます。誰もが日常の当たり前の光景は記録に残しませんから、それだけ珍しく印象的な光景であったものと思われます。

 

 

『川鉄工場』 蘇我小学校 4年 男子

 真っ赤なけむり
うす寒いけむり
夜空に今日ももえるようだ
でこぼこなえんとつのなみ
工場の人々は
あの炎の下で
今夜も大ぜいで
働いているのだろう

 

 短歌作品 緑町中学校 2年 男子

 

帰り道 橋の上から 遠く見ゆ 夕日に映える 工場の屋根 

 

 

 

 

 製鉄所が夜間も含めた24時間体制では操業を行うのは、何も注文がひっきりなしでフル操業しなければ生産が間に合わないからではありません。勿論、高度成長期のように輸出も堅調であったこの時期には、斯様な要因も大きかったでしょうが、「高炉」を用いて鉄鉱石から銑鉄を取り出す形式で行われる銑鋼一貫型製鉄所では、安定的に鉄を取り出すために、高炉を冷ますことが物理的にできないのです。つまり、一度火入れをしたら最後、本格的に改修するためか、役目を終えて火を落すまでは、延々と高炉を稼働し続けるしかないのです。従って、宿命的に製鉄所での労働は24時間勤務体制を組まなければなりません。当然、人間は寝ずに働き続けることは不可能ですから、三交代制での勤務シフトで勤務することになりました(8時間労働×3組)。一般的には、21日サイクルの三組三交代制を主体とした、各種の三交代制・二交代制が、作業工程の内容や繁忙期に対応して採用されておりました。恐らく川鉄も同様の勤務シフトを組んだものと思われます。しかし、それでも、製鉄に従事する労働は、真っ赤に熱せられた灼熱の鉄塊を目前にした肉体的に過酷な労働を続けることとなります。高度成長期には、イオン飲料などありませんでしたから、労働者は塩を嘗めながら水分を補給しながらの労働であったと言います。それだけ過酷な労働条件であったのす。そうした中で、三組三交代制では健康維持が難しいとのことから1970年からは、各製鉄メーカーで四組三交代制を採用することになったようです。

 上記作品で小学校4年生の子どもが詩に表現した「あの炎の下で 今夜もおおぜいで 働いているのだろう」との内容は、その作者が蘇我小学校という川鉄膝下にある学校の児童であったことに鑑みれば、その親御さんは川鉄で働いていらした可能性が大きいのではないかと推察されます。その工場を夜になって見ている小学4年生の子どもは、どのような思いを本作に託したのだろうかと考えます。そのことを「誇る」気持ちと、どこかに「寂しさ」のような思いとが、この児童の内面で複雑に交差しているようにも感じ取れるのです。皆様は如何お思いになられましょうか。さて、以下の内容は、これまで述べてきたことと深く関係することではございますが、児童生徒の作品からは外れますので、少々気持ちを切り替えてお読みいただければと存じます。

 川鉄が千葉市への進出を決めた条件の一つに、この地で豊富な労働力を得ることができることが存在しておりました。千葉市としても大企業誘致が成功すれば、結果として労働環境が整い、千葉市民の就業先となることで市民生活が潤い、延いては千葉市財政にも好影響をもたらすと皮算用したことは間違いありますまい。当然、川鉄も地元住民の雇用を推し進めました。これ以後の話は、当方が以前下宿していたアパートの大家さんからお聞きしたお話ですので、真偽の程は何とも申し上げられません。しかし、戦前から長く市内に住み続ける地元の方でありますので、当たらずとも遠からじではないかと推測されます。それは、千葉市地元から川鉄に就職した労働者の多くは、三校体制の厳しい労働条件に適応できず、その多くが幾年もしないうちに辞めてしまったとのことに他なりません。こうしたことは具体的なデータとしてはなかなか表には出てこないことです。しかし、この度川鉄の生みの親である「西山彌太郎」の著作を拝読して、それを思わせる発言を見出しましたので、ここに紹介をさせていただきます。お断りいたしておきますが、内容は一字一句に到るまで原文のままです。お読みになって不愉快な思いをされても、当方に怒りをぶつけられるのはお門違いですので悪しからず。

 

 


日本中どこへ行っても、戦後の変わり方のめざましいのには驚かされるが、なかでも、千葉の変貌にはびっくりする。

 われわれがはじめて千葉へ行ったころには、いい若いもんが、あっちに三人、こっちに五人と、いかれた格好をして真昼間に遊んでいた。それでは仕事がないのかというと、女の子は人一倍働いていた。海に出て貝を拾ったり、海苔をつくったり、また会社に来て手伝いをする。力も強く、真黒になってよく働いた。どういうわけだろうか、と不思議に思っていた。

 ところが、地元が出した誘致条件により、現地の若者を最優先的に採用しようとして、試験をしてみると、全部が全部、不合格なのである。からだも弱ければ頭もダメ、これでよく小学校が卒業できたな、と思うようなものばかりで、まったくお手あげであった。

 しかし、このごろは変わった。遊んでいる者は一人もいなくなった。海岸一帯が工業地になったので、青年たちは一生懸命に働いている。第一、顔つきまで変わった。きりりっと引きしまっている。入社試験をしても、合格率はずんとよくなって、他の地方に負けないよういなっている。女の子のほうも変わった。先ず容姿が変わった。東京の女の子と、少しも変わらない。そのうえに健康美が輝いている。

 町の様子も変わった。あのころは、五時か六時になると店はもう全部しまって夜は全然開かない。会社が終わってか買い物をしようと思っても、なに一つ買えない始末であった。それに、街灯がない。会社を一歩出るとまっくらであった。それが、最近に千葉の発展ぶりときたら驚くばかりである。このまえも「あのころ土地を買っていたら、いまごろ社長などやってやしないね」といって笑った。

 

『歴史をつくる人々 川崎製鉄社長 西山彌太郎 鉄づくり 会社づくり』1964年(ダイヤモンド社)

 

 

 おそらく、最初は「なんて失礼な!」と苦虫を噛み潰してお読みになったものが、後半では少し頬が緩むような文脈であろうかと存じます。勿論、西山の発言には、この地で工場を営むことに由来するリップサービス的側面もございましょうが、素直にそう言える部分があるからこその発言であろうかと存じます。しかし、ここで水を差すようで恐縮でございますが、ここで「この頃は変わった」と西山が言っている時期に注目し、西山の発言内容に若干の検討を加えてみるべきかと存じます。ここで言う「この頃」とは、本書発行年から推して昭和40年(1965)頃のことと思われますが、ここから如何なることを指摘できるのかを探ってみる必要があると思われます。この点について「千葉市人口における社会増減」グラフから読み取れることは(当該グラフは本展でも展示し、図録にも掲載しております)、昭和35年(1960)年から千葉市への転入人口が前年よりも一万人以上も増加しており、その後の10年間で倍増する時期に当たっていることです。そして、その後も一貫して転入人口が転出人口を大きく凌駕しているのです。つまり、西山が言う「千葉市の人が変わった」といっていることの背景にあるのは、それが「伝統的な千葉人」とは限らず、他所からの「転入者」が相当数含まれている可能性が大きいと考えられるのです。

 先に、以前下宿していた大家さんの証言をご紹介いたしましたが、大家さんはその後、以下のように付け加えてくれたのでした。それが「地元の人が大方川鉄を退社してしまった後、川鉄の発展を支えたのは、関西や東北から仕事を求めて千葉に異動してきた人たちなんだよ」とのことであります。その発言内容と「千葉市人口における社会増減」グラフのデータとは、期しくも符合するように思いますが如何でございましょう。これが正しければ、高度成長期の大規模な人の移動は、地域の人の在り様や地域社会の様子までをも大きく変えることになったということになりましょう。当方としましては、戦前から地元に住む方から聞き取った内容と、データとの突き合わせて可能性を述べたものでありますので、事実無根であると言われてしまえば、これ以上の反論はできません。御腹立ちの向きが御座いましたら、何卒ご容赦くださいませ。当方自身は、東京下町に生まれ育ったものであり、同時代をこの千葉市内で過ごしてはありませんので、飽くまでも可能性として述べたまででございます。

 もう一つ、本館のボランティア活動の中心としてご活躍されている方から伺ったお話も付加させていただきましょう。その方は、川鉄御勤務にはあらず、東京の企業にお勤めになるために高度成長期に広島県から千葉市に住居を求められた方です。そのお方が千葉市にお住まいになって困ったことは、当家伝統の宗派である浄土真宗寺院(本願寺派)が千葉市内にほぼ存在しないことにあったと申されておりました。確かに、政令指定都市として100万人弱の人口を抱えていながら、ホームページで調べると現在でも当該宗派寺院は僅か3カ寺にすぎません。実は、そのうちの1カ寺は、関西から千葉市に移り住まれた方々の多くが菩提寺のないことで困惑されておられていることから、その方のご尽力によって創設された寺院とお聞きしました。従って、現在はその方が檀家総代をお勤めとのことです。

 また、千葉市内からは外れますし、本市には同様な事例はないものと思われますが、同じ千葉県内の君津市にはより顕著な具体例が御座いますので御紹介をいたしましょう。昨今は知られるようになったことであり、ご存知の方も多かろうと思われます。君津市内の東京湾岸埋立地に昭和40年(1965)進出した八幡製鉄所(後に新日本製鉄)[昭和40年(1965)操業開始し3年後から銑鋼一貫の製鉄所に]では、1960年代を通じて「北九州」という八幡製鉄の本拠地から2万人余りの人々が集中して君津市に移住されました。そのことが、現在君津市に「九州ラーメン」「九州おでん」といった九州食文化等がが根深く位置づいている根源的要因であります。

 以上のように、高度成長期における日本国内の人口移動が、それぞれの地域社会に様々な影響をもたらしていることは、極めて興味深いことと当方は考えております。実のところ、明治以前の社会であっても規模はこれほど大きいものではなくとも、人の移動によって地域文化の移動が相当に生じていたものと考えるのであります。ある地域で、「地域の伝統文化」として把握されてきた民俗文化が、実際には全国を遍歴する芸能者によって齎されたものであること等も明らかになっているからです。「津軽じょんがら節」として知られるよく知られた音曲もまた、大坂で生まれ江戸に伝わった「ちょんがれ節」なる芸能が、各地に広まった末の変形であるとも指摘されておりますから。

 

 

 「川崎製鉄」の千葉進出と「西山彌太郎」(前編) ―または“鉄人”の為し遂げたことについて―

9月23日(木曜日)

 今年は、9月11日に金木犀の香に接することになり、例年になく秋の訪れが早いとお伝えしたところです。そして、それから数日もしないうちに、今度は本館へ向かう石畳の道と我が家の近所で、「曼殊沙華」が咲き誇っているのに出会うこととなりました。秋の彼岸の頃に花をつけることから別に「彼岸花」と称されるように、夏から秋への季節の移り変わりを象徴するような花となります。しかし、金木犀と同様に今年は少し開花が前倒しのように思います。この花もあっという間に盛り終えてしまいます。僅かな花の盛りを楽しみたいと思っております。昨年、花の終わった後の球根を譲り受け我が家の庭に植えました。暫くするうちに細長い独特の葉を出しておりましたが、暑くなると葉も枯れてしまいました。秋になればスルスルと長い茎を伸ばし、真っ赤な花を楽しめるものと首を長くして待っておりましたが、植えた場所が悪かった所為かウンともスンともでございます。残念でございますが今年はスカのままに終わるように思います。昔から墓地に植えられていることの多い花ゆえ「縁起が悪い」などと言われますが、当方は大好きな花であります(球根には毒がありますが)。来年こそはと思っております。

 さて、過日「千葉日報」紙(令和3年8月21日)で「生まれ変わるJFE高炉跡 川崎 シンボル失い 雇用不安も」なる記事を目にしました。飽くまでも「JFEスチール(2003年に川崎製鉄と日本鋼管が統合して成立した企業)」川崎工場(元来は日本鋼管の工場であったところです)の話題でありますが、海のこちら側にある川崎製鉄の本丸とも言うべき千葉工場とも無関係とは思えませんでした。記事には、「JFEスチールは2020年3月、京浜地区の第二高炉の休止を発表した。鉄鋼需要の低迷を受け、生産設備を合理化するためで、時期は2023年9月をめどとしている」とありました。我が千葉市中央区蘇我地先の広大な埋立地にも立地しているJFEスチールですが、東日本製鉄所で現存する高炉は、この「川崎工場第二高炉(もともとは日本鋼管の高炉)」と「千葉工場第六高炉(川崎製鉄由来の高炉)」の二基のみとなっており、現在改修中で火を落している千葉工場第六高炉の2023年火入れと入れ替わる形で、川崎工場第二高炉の役目を終えることとのことです。川崎製鉄時代の千葉工場には6機の高炉が存在していたことを考えると隔世の感があります(もっとも、同時期に稼働して高炉としては若干少なくなりましょうか)。本稿では、千葉市民にとって縁の深い製鉄という工業の在り方、川崎製鉄の千葉市への進出の経緯、そしてそれを推進した西山彌太郎という人物に焦点を当ててみようと思います。まさに、日本の高度成長期を体現するかのような、企業人の在り方、そして産業と企業の在り方に他ならないと存じます。

 その「JFEスチール」の大元となる前身の「川崎製鉄」とは、1950年(昭和25)「川崎重工業」から同社製鉄部門を分離独立させる形で設立された企業であり、初代社長となったのが西山彌太郎(1893~1966)であります。西山彌太郎は、明治26年(1893)神奈川県二宮町に生まれ、大正8年(1919)7月に東京帝国大学工学部鉄冶金科を卒業し、川崎重工業の前身である川崎造船所に入社。それ以降、専ら製鉄部門の拡充と発展に努めた人物であります。その川崎重工業の前身は、明治期に東京築地に創設された川崎造船所でありました。つまり、戦前は主に「造船部門」と「製鉄部門」とで構成されていた企業であったのです。製鉄事業も、もともとは造船用鋳鋼品を自給するため神戸市に工場を建設した明治39年(1906)に始まっておりますから、製鉄事業の端緒はその時点に求めることができましょう。戦後の分社化は製鉄部門の総帥であった西山彌太郎の予てからの宿願であったと著書の中で語っております。西山自身は、経営責任が不明確になる企業の多角経営には懐疑的であったと。ただ戦後のGHQ統治下で財閥解体等の大企業分割政策が推し進められていたことも要因として大きかったものと考えられます。

 しかし、戦前における我が国の製鉄事業は、お世辞にも世界レベルとは遠いモノでありました。その在り方とは、屑鉄(スクラップ)を熔解し、そこに若干の銑鉄を混ぜて鋼鉄にする方法が主流であり、鉄屑や銑鉄を海外から盛んに輸入しておりました(ABCD包囲網により、アメリカが日本への屑鉄輸出に制限を加える制裁が有効であった由縁です)。民間では、そうしたスクラップ製鉄法が経済的に圧倒的に有利であったからに他なりません。つまり、戦前の日本国内では、鉄鉱石から高炉で鉄をとりだし、その後も一貫して製品にまで同一の工場内で加工する製鉄所の数は僅かでした(これを「銑鋼一貫型製鉄」と称します)。本形式で製鉄事業を行えたのは、当初は、日清戦争による巨額の賠償金により北九州に官営工場として創立された「八幡製鉄所」のみだったのです。これは一朝有事の際に屑鉄や銑鉄の輸入が途絶えたことを考えて国策上建設された工場だからです。何よりも、高炉建設だけでも膨大な資金を要します。従って、「銑鋼一貫型」製鉄工場は国家予算を投入できる官営工場でないと建設・運営が難しかったのです。その後、昭和11年(1936)に神奈川県の扇町工場に溶鉱炉を完成させ、銑鉄の生産を成功させた日本鋼管のような民間企業の先駆者が現れますが、これは極々例外に過ぎませんでした。一般的に民間企業では巨額の資本を投じる「高炉」ではなく、「平炉」という小規模な施設での製鉄事業のレベルに留まっていたのが現実だったのです。平炉とは「反射炉」の一種のことです。つまり、斯様な屑鉄・銑鉄を溶解して新たな鋼鉄として再生する方法とは、近世末期になって我が国で導入された製鉄技術と、基本的には全く変わらぬ原理による製鉄法に他ならないものだったのです。

 戦前、海外での製鉄事情を見聞していた川崎重工業製鉄部門の西山彌太郎は、予て「銑鋼一貫型」の製鉄事業に深いこだわりをもち、戦後にそれを千葉の地で実現することになりますが、千葉への進出後も初期の経営不安定期には、屑鉄を「平炉」で溶解してつくった鉄を販売することで、危機的な経営状況を凌いだと証言しております。当時、焼け跡に無尽蔵に転がっている屑鉄を二束三文で仕入れることができましたそうです。それを、とりあえず山のように購入してストックしていたことが奏功したといいます。何故なら戦後復興が進むに連れて屑鉄の値段も何倍にも跳ね上がったからです。今ではかような人々を見かけることも無くなりましたが、当方が子どもの時分には「屑鉄屋」なる職業の人が屑鉄を回収して廻っているのをよく見かけたものです。相当に高い値段で買い取ってくれたと聞きましたので、市価はそれを遙かに上回ったのでしょう。事実、戦後の千葉市では陸軍演習場跡地に埋もれていた廃弾・薬莢を子ども達が集めて小遣い稼ぎをしていたこと、市内の陸軍施設跡地に放置されていた鉄製品がドサクサに紛れて持ち出されて売却されていたこと等々の話が伝わることとも繋がりましょう。こうして、戦後の最も資金繰りの厳しい時期を乗り越えることができたと西山は語っております。ある意味、彼が相当に鼻のきく経営者であったことも分かります。
(中編に続く)


 

 「川崎製鉄」の千葉進出と「西山彌太郎」(中編) ―または“鉄人”の為し遂げたことについて―

9月24日(金曜日)

 前編をお読み頂いていて、「鉄」「銑鉄」「鋼鉄」等々用語の頻出で、相当に混乱されていらっしゃる方もいらっしゃることかと存じます。「みんな鉄じゃいけないのか!!一体何が違うのだ??」と。もっともでございます。何れも「鉄(Fe)」であることは変わりませんが、あるモノの含有量によって「鉄」としての性格は極めて大きく変わってしまうので、こうして呼び分けているのです。そこで、ここで知っているようで意外と知られていない、「製鉄」が如何なる過程を経て製品となるのかを確認しながら、それらの違いも含めてご説明しておきたいと存じます。粗々申せば、製鉄の原理とは、地球に存在する資源としての酸化鉄に炭素を加え、還元反応によって酸素を分離して鉄だけを取り出す工程に他なりません。日本の中国地方等において古くから行われていた所謂「たたら製鉄」も同じ原理であり、原料の酸化鉄に「砂鉄」を、炭素に「木炭」を用います。それに対して、近代製鉄では、それに代わって原料には「鉄鉱石」と「石炭」が用いられることが一般的であります。近代製鉄には、大きく以下の4工程が存在します。

 

 1.準備工程:高炉に投入する原料・副原料を準備する工程


~主原料である「鉄鉱石」・「コークス(石炭を蒸し焼きにして製鉄に余計な成分の硫黄を除去したもの)」、及び副原料としての「石灰石[鉄鉱石に含まれる鉄以外の成分であるシリカやアルミナ等の余計な成分と結合してスラグ(鉄滓)を形成させ、鉄のみを取り出しやすくする働きをします]」を細かく粉砕して混合します。

 

2.製銑工程:1.の原料を溶鉱炉(高炉)に投入して溶解させ還元反応により銑鉄(せんてつ)を取り出す工程

~この段階でできあがる鉄は「銑鉄」[銑(づく)]なる炭素分を2~7%含んだ鉄です。鉄は炭素含有量によってその性質を大きく変化させます。銑鉄は硬度が高い反面、柔軟性には欠ける(脆い)ため加工が難しく、そのままの状態では鉄材としての利用価値は限られます。因みに、融解して鋳型に注いで成形する「鋳物」(代表的な製品が「鉄瓶」「茶釜」です)に用いられるのは銑鉄です。(鉄瓶に直接的な力を加えると割れたり折れたりするのは鋳物の原料が銑鉄だからです)。もっとも、日本の伝統的製鉄技法である「たたら製鉄」では、「銑押(づくおし)」といって、専ら銑鉄を取り出すことが盛んでした。近世以前に銑鉄が必要とされ盛んに流通していた背景には、第一に建築材のような形で鉄を使用する必要が無かったこと、第二に鉄を加工して製品化するためには、用途に応じた炭素含有量にする必要があったからです。つまり、炭素含有量の調節は鉄を加工する職人の領分であったからだと思われます。新たに鉄に炭素を加えることは困難ですが、除去することは鍛冶屋では通常に行う作業だからです。特に刀剣の制作には、刃となる鋼(はがね)を両側から様々な性質の鉄材を鍛造によって幾重にも重ねて挟み込むことで、折れることのない柔軟性を持ちながらも、頑丈な刀剣に鍛え上げていきます。こうして、世界最高とも言われる切れ味を誇り、かつ見た目にも優美な芸術性を併せ持った日本刀となるのです。その作成には職人が自在に炭素の含有量を調整できる「銑(づく)」が有用であったのだと思われます。

 

3.製鋼工程:2.で完成した銑鉄から炭素等の不純物を更に取り除き適切な炭素量に調節し、銑鉄から鋼鉄(鋼:はがね)とする工程 

 

~融解して真っ赤な液体状の銑鉄を「転炉」という回転する湯壺に移して酸素を吹き付け、銑鉄に含まれる余計な炭素や不純物を除去し、炭素含有量が0.3~2%の「鋼鉄」に仕上げます。鋼鉄は靭性が高く、折れにくく粘り強い性質をもっています。そのため強靭で加工のし易い鉄材となります。用途に応じて、炭素量を調整して、硬さと靭性のバランスを決めていきます。つまり、近現代において鉄材として通常構造材等の需要される鉄のほとんどは、この「鋼鉄」ということになります。
※炭素量が0.3%未満の鉄は「軟鋼(軟鉄)」といって柔らかくなりすぎ、構造材としては利用できません。従って使用法は限られます。

 

4.圧延工程:鋼鉄として調整した鉄を型に入れて成形した後に、徐々に薄く引き延ばして用途に応じた鋼板等に加工して製品化する工程


~転炉で炭素量を調節して鋼鉄となった液状に溶解した鉄を型に入れて適度に冷却し、30センチほどの厚さのスラブに成形した後、それに圧力を加えて次第に薄くすることで鋼板として引き延ばしていきます(この時に使用する機材を「ストリップ・ミル」といい、ホット・ミルという熱を加えて引き延ばす工程と、コールド・ミルという冷ました段階で圧力を加えて引き延ばす工程があるとのことです)。ここで注文に合わせた厚さの鋼板に仕上げていきます。この際に、製造機器と鉄材を徐々に冷却するために大量の水が必要とされます(現在は水を何度も遣い回すシステムが開発されています)。また、機材運転には安定した大量の電気供給が欠かせません。

 以上、製鉄の概要について御理解いただけたでしょうか。一般に「鉄」といっても様々な性質の鉄がありますし、それを効率よく「銑鋼一貫型」で生産するためには、様々な条件をクリアーしなくてはならないのです。海外のように地下資源に恵まれない日本では「原料立地型」工場建設可能地は限られます。従って、海岸縁に立地させる必要があります。言うまでもありませんが、原料の輸入や重厚長大な鉄製品の輸出・搬出をする必要性が極めて大きな条件であるからです。しかも、巨大な船舶が入港可能な港湾施設が必要です。また、「鉄は熱いうちに打て」と比喩に使われるように、原料から抽出した鉄が冷えてしまわないうちに、効率よく次の工程に移行して一気に製品化までもっていける工場レイアウト構築が何よりも肝心です。そのためには、広大で平坦、かつ地盤堅固な工場建設地が不可欠です。更に、大規模な機械群を間断なく稼働させるための大量で安定的な電力供給と、機材と製品を冷却するために大量の真水が確保できることも重要な条件となります。そして、24時間フル稼働をする生産体制を維持する豊富で優秀な労働資源も求められます。他にも、製品を大量に販売できる大規模市場が近隣にあればそれに越したことはありません。そして、何よりも、それだけのインフラを建設して維持し続けるためには膨大な資本が必要になります。ある意味で、資本の準備こそが最大の課題となることは言うまでもありません。

 西山彌太郎の戦後とは、これから大々的に鉄鋼需要の増大することに鑑みて、それに応じた国際競争力を強化できる、最新式の「銑鋼一貫型」工場で鉄生産を開始するための歩みであったと言っても過言ではありません。そのためには、上記した難しい条件を一つ一つクリアーする必要があったのです。それを西山という人物は果敢に乗り越えていきました。彼がいなければ、日本の戦後復興はざっと5年は遅れていただろうとの評価もあるほどに、西山彌太郎と川崎製鉄が戦後復興と高度経済成長に果たした役割は大きかったことだけは言えます(反面、公害問題を引き起こしたことは決して忘れてはならないことです)。後編では、千葉市に川鉄が進出することになる経緯とその後について、極々簡単にですがその概略を追ってみましょう。
(後編に続く)

 

 「川崎製鉄」の千葉進出と「西山彌太郎」(後編) ―または“鉄人”の為し遂げたことについて―

9月25日(土曜日)

 後編では、西山彌太郎と千葉との出会いについて述べて参ります。西山は大正時代から鉄一筋に企業人として関わり、戦前から製鉄技術の改良改善に向けて尽力。大正14年(1925)には「ルップマン式平炉製鉄法」を確立し、この功績によって昭和7年(1932)に授賞されております。それに留まることなく、「銑鋼一貫型製鉄所」製鉄の有効性を確信し、その実現を宿願としてきた人物であることを前中編で述べてまいりました。

 第二次世界大戦では、関西にあった工場の殆どを空襲で破壊され、戦後のスタートは青息吐息であったようですが、持ち前の果敢な経営戦略でそれを乗り切り、念願であった川崎重工からの分離し「川崎製鉄」として独立したのが、昭和25年(1950)8月のことです。資本金は5億円、本社は神戸に置かれました。初代社長は言うまでもなく西山彌太郎であります。そして、同年11月に、千葉市に「銑鋼一貫型工場」を建設する計画を発表しております。これについては、世間一般から(同業者からも)暴挙だと批判を浴びたと本人は語っております。しかし、我が国の製鉄の進むべき道はこれよりほかにないと確信しており、そのために数々の周到な準備をしてきたのであって、単なる思い付きではなかったと回想もしております。そもそも、一貫工場の建設を決意したのは昭和16年に遡ると言います。

 戦後の日本経済を立て直して、世界的な競争に耐え得る体力を持つためには、これまで日本で主流であったヨーロッパ式の小規模製鉄方式を改め、質の良い鉄を大量に生産できる工場を建設するしかない。それには、戦前からある工場を再利用して、それに継ぎ足しする程度の対応では生産効率に工場には期待ができない。従って、新たな土地を求め、新規に能率の良い生産レイアウトを持った工場を建設するしか方法はない。これが西山の基本的な考えとなります。そして、昭和25年夏頃に、その機が熟したと言います。そしてその進出先を選びが始まりました。先ず、戦前から進出していた愛知県の知多での建設を検討。しかし、敷地の制約による各工場施設レイアウト設計の難しさ、工業用水として期待した「愛知用水」建設の遅れから、当地での銑鋼一貫工場の建設を断念。次に山口県の光工廠跡地、更に徳山の燃料廠跡地の検討に移りましたが、土地が狭く(30万坪)、不便な上に土地の奥行きがなく、海が深くて埋立てができないことからここも断念。更に、同県の防府に100万坪の適地をみつけて調印寸前にまで漕ぎつけたところに、降って湧いたように舞い込んできたのが千葉市からの誘致の話であったと言います。西山はその時に「そんなバカなことがあるか、あんなところは、女の子がアサリ狩りをするところだ、製鉄所の建設なんて、とんでもない」と思ったと、後に語っております。ただ、信頼する筋からの話でもあり、千葉市が、企業に有利な条件を提示して熱心に誘致しているとの情報も得たこともあり、防府での調印を少し遅らせ、綿密に事前調査を行った上で現地視察に出掛けたといいます。

 千葉市が熱心に企業誘致を目論んでいた地所が、戦前に蘇我地前の海岸を埋立て「日立航空千葉工場」が進出していたものの、敗戦後に撤退して空となっていた土地に他なりませんでした。地元では、跡地に紡績工場を誘致しようと幾つもの企業に働きかけたものの、彼らは概ね関西方面への進出を目論んでいたことから何れも頓挫しております。その矢先に川崎製鉄の話が飛び込んできたので、当時の千葉市長「宮内三郎」も熱心にデータ等を提供したと言います。特に重工業化に必要な重厚長大な施設建設に資する地質の問題については、戦前の日立航空機が進出する際に地盤調査を充分に行っており、そのデータからも建設可能な土地の条件を満たしていたとのことです(西山は干潟の海で女性が大八車を引いている光景を見て建設地の有用性を確信したと語っております)。工場用水については、干潟からも地下水が豊富に自噴していること、更に印旛沼から検見川に導く運河(現在の花見川)建設が計画されており、将来的に充分な水量を分けてもらえそうだとの見込みがあったこと。浅瀬の海岸も充分に掘削が可能で港湾として整備することが可能であること(千葉県側には大きな川がほとんどないため掘削した港が砂で埋もれる可能性が少なく維持管理に都合がよい)。後に課題となる電力の問題も当初は十分に確保されるとのことでありました。何よりも、東京という大消費地に近いこと。それらの条件を総合すると、西山は、条件的に千葉市が圧倒的優位であると判断したのです。その結果、防府市に代わって千葉市への進出が決定したのが、昭和25年(1950)10月末のことでした。

 鉄鋼業界の反発や金融筋の警戒観が強いなか、西山は自己資本5億円で千葉製鉄所の建設に着手しました。しかし、前にも述べたように、溶鉱炉の建設だけでも莫大な資金を要する銑鋼一貫型工場の建設にはそれでも資金は充分ではありませんでした。先にも述べたように、大量に確保しておいたスクラップを原料とする「平炉」製鉄で生産した鉄材が思いのほかに大きな利益をもたらすなど、やりくり算段をして建設資金を捻出するなど苦しい経営時期を切り抜けております。しかも、建設工事に取り掛かると、電力供給量は圧倒的に不足し、建設機械を動かしても、夜間に大量の明かりを点灯するだけでも、停電して作業が中断することも屡々だったといいます。これについては、東京電力が直ぐに6万ボルトの電力を供給に応じて事なきを得ています(後に、工場南部の埋立地に東京電力の火力発電所が建設され15万ボルトが供給されるようになります)。ご難続きではありましたが、西山は諦めることなく、地道により良い鉄製品生産に邁進するとともに、それを各界にアピールすることで「銑鋼一貫」生産の有効性の周知を図っていきます。その結果、川崎製鉄の確固たる経営理念、経営環境の安定性、何よりもその将来性が高く評価され「日本開発銀行(現:日本政策投資銀行)」・「世界銀行」からの融資獲得に成功します。当初難色を示していた日本銀行も資金計画を承認。そして、建設開始から一年半後、昭和28年(1953)年に「第一高炉」に火が入り銑鋼一貫型工場が稼働し始めます。そして、昭和33(1958)には「第2高炉」、「ホット及びコールド・ストリップ・ミル工場施設」が完成し、千葉製鉄所の銑鋼一貫体制が確立しました。そして、昭和40年(1965)には東洋一の生産規模を誇る巨大工場にまで成長することになるのです。しかし、西山はそれも一里塚にすぎないとして、1960年代には千葉製鉄所の拡充を進める一方、岡山県水島地区に新製鉄所の建設を進め、昭和42(1967)「第1高炉」の完成をみています。両製鉄所の新増設と同時に、既存の工場の合理化・再編成を推進し、戦前からの知多工場は付加価値の高い製品の専門工場としての性格を強めるなど、生産体制の整備を推し進めていきました。千葉工場では、昭和52年(1977)に火入れされた「第6高炉」に到るまで、全6基の高炉が建設されました(現在残るのは「第6高炉」1基のみとなります)。

 以上、千葉市・千葉県の経済を支えるのみならず、日本の戦後復興から高度成長に繋がる国内経済の急成長に大きく貢献した、西山彌太郎と川崎製鉄の歩みの概略を述べて参りました。その反面で、1960代からは経済成長の負の側面としての「公害」問題を引き起こすことにもなりました。当問題とその改善への取り組みにつきましては別稿にて述べたいと存じます。また、現在では中国の急激な鉄鋼生産の進展等に起因した構造的鉄鋼不況のただなかにあり、前編冒頭でも述べましたように「JFEスチール」も御多分に漏れず生産規模の縮小等の対応を迫られているようです。しかし、現在でも千葉市を代表する中核的な企業であることは間違いありません。日本の戦後復興と高度経済成長の推進力となり、戦後千葉市の歩みと切っても切れない企業の歩み御理解頂けましたら幸いでございます。なお、本件につきましては、何度かお薦めさせていただいておりますように、『千葉市制100周年記念漫画 百の歴史を千の未来へ』(千葉市)内に、「日本の高度経済成長を支えた鉄人 西山弥太郎」として漫画化されております。併せてお読みくださることをお薦めいたします。

 

 補論:子どもの眼に映った高度成長期を生きる人々(その1) ―または市民性(県民性)を培ったものについて―

 

9月30日(木曜日)

 

 明日から10月に入り、早いもので年度の峠を越えることになります。本館では、今月半ばより「市制施行100周年記念」企画展として『千葉市誕生—百年前の世相からみる街と人々—』(図録刊行)、12月末日を予定している『(仮称)千葉市の歴史読本』の刊行、1月後半から例年開催しております「千葉氏関連パネル展」第3弾として『(仮称)千葉常胤と鎌倉殿の13人(南関東編)』の開催(ブックレット刊行予定)、3月末日の『千葉いまむかし』35号・『研究紀要』28号の刊行、そしてその間に開催される各種講演会と、本年度の下半期にも上半期を凌ぐような企画を次々に準備しております(予算的な都合が付き次第、可能な限り本年度初頭に開催した小企画展『陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-』関連のブックレット刊行も期するところでございます)。今後の本館の活動に是非ともご期待をいただければ幸いでございます。

 さて、今年は秋の訪れが前倒しのように感じると申し上げておりましたが、9月16日(日曜日)緑区内公民館での歴史講座から館に戻る際、風に靡く薄の穂を目にいたしました。青空の下で銀色の風を靡かせる薄が原の景色が大のお気に入りですが、今回のような夕陽に映えた赤銅色に輝く姿にも大いに心打たれた次第であります。その後の21日(火曜日)は十五夜、8年ぶりの邂逅が叶った今年の「中秋の名月」は、澄んだ秋の夜空に煌々と冴え渡りました。数日前に道端で目にした、あの尾花にさぞかし相性良く映えたことでありましょう。話題は変わって、またまた「天声人語」由来で恐縮ですが、この季節を古来代表する花は「萩」であり、「万葉集」で秋の花として詠まれる歌としては最多を数えるそうです。確かに、万葉集に限らず、その後の王朝国家編纂にかかる数多の勅撰和歌集でも、萩を詠みこんだ歌は目白押しです。花自体は小さなもので大目立ちはいたしませんが、そうしたかそけき在り方に古来の日本人は心惹かれたのかもしれません。そういえば、初夏の頃に藤原良経の歌をご紹介いたしましたが、そこで詠まれた「卯の花」も決して自己主張の強い花とは申せません。斯様な訳もございましょうが、今では季節の花として、さほどメジャーな花として認識されてはいないように思います。流石に「萩」はそこまでではありませんが、同じような位置づけの花であるような気もいたします。そして、面白いことに、「卯の花」が豆乳の搾り粕の名称に用いられるように、「萩」がこの時季を代表する菓子の名としても広く知られていることも共通しているように思います。秋の彼岸に墓前・仏前に供えることも多い「おはぎ」がそれです。団子状にしたご飯を小豆餡で包んだ菓子でありますが、どうやら粒餡の中に散在する小豆が萩の花に似ていることが命名の由来だそうです。果たしてそう見えるか、納得し難き思いは否めないところですが、近世の文化に顕著な「見立て」の世界観には感銘をうけます。

 因みに、同じような菓子に「牡丹餅(ぼたもち)」があります。こちらは、本来牡丹が大輪の花を咲かせる時期に食されるもので、春の彼岸あたりをその時季としておりましょう。小豆の収穫時期に近く外皮が柔らかいことから、粒餡に仕立てる「おはぎ」と異なり、歳を跨いだ春には外皮が乾燥して硬くなった小豆を使用するため、「牡丹餅」は基本的に外皮を漉しとった漉餡で包むことが一般的です。一見全く同じ菓子の別称のように思えますが。本来は少々異なるものであります。従って、昨今、春の彼岸に店先で「おはぎ」と銘打って販売されているのはチト違和感を拭えません。店舗の言い分としては「ウチでは粒餡でつくっているから『おはぎ』です」ということでありましょうが、季節感の演出という点では如何なものかと存じます。もっとも、物の本によれば、両者の在り様と名称とは地域によって千差万別であり、所に寄っては糯米と粳米との違いで呼び分けるそうです(因みに、米粒の形状を残して捏ねた状態の「おはぎ」を「半殺し」、完全に潰して餅状にした状態のものを「本(皆)殺し」なる物騒な呼称とする地域もあります。一夜の宿を借りた旅人が、家人が「半殺し」にしようか、それとも「手打ち(蕎麦)」にしてくれようかと相談しているのを聞いて、獲るモノもとりあえず慌てて逃げ出したという笑い話もありました)。何れにしましても、小豆の「赤」は邪気を払うといった意味合いを持ちますので、春に農作業が始まる時季と秋の収穫期という農業にとって重要な時節に、その安寧と豊穣を祈って食されたという民俗学的な解釈もできましょうか。これから何度食することができるかわかりませんが、その味覚に舌鼓を打つことで、それぞれの季節を味わいつくしたいものだと思っております。

 さて、前々回の本稿において、川鉄創始者の西山彌太郎の発言を引いて、千葉における労働者の地元と県外からの転入者との関係性について、当方の推測を述べさせていただきました。西山の「われわれがはじめて千葉へ行ったころには、いい若いもんが、あっちに三人、こっちに五人と、いかれた格好をして真昼間に遊んでいた。」との証言。あるいは当方がお世話になった下宿の大家さんからうかがった「当時の千葉市内で雇用された地元労働者の多くが昼夜三交代制に耐え切れずに辞めてしまった」との発言から見えてくる生え抜きの千葉人の「人となり」についてであります。しかし、これをお読みくださった「千葉市近現代を知る会」代表(建築家)でいらっしゃる市原徹さんから、斯様な「人となり」が、伝統的な県民性といった類の要因のみにあらず、戦後になって生じた社会的事情にも求められまいか……との貴重なご指摘を頂きました。それが、日本人の直面した「農地改革」と、千葉市臨海部で生じた埋立による「漁業補償」という戦後の状況に他なりません。市原さんが、古くから沿岸の半農半漁の生活をしていた市内「黒砂」地区の方からの聞き取りの際、この2つのことで地域の人心が一変してしまったとお話されていたからで、そのことをご教示くださったのです。

 従って、本稿では、前々稿の補論の形で、「県民性」といった伝統的な要因、及びそれに留まらない戦後の政策や地域の大きな変貌が「人心」に及ぼした影響について検討してみたいと考えた次第でございます。つまり、千葉市に居住している方々の持つ「人となり」とは、千葉という地に古来より伝統的に培われてきたものだけなのか否かについて若干の考察を加えでたいと思います。実のところ、今回の高度成長期の展示では、東京湾海岸線の埋立事業に伴う東京湾で生業を営む方々(漁師・海苔養殖業等)の補償問題について(勿論、戦後改革としての農地解放も)、基本的には扱っておりません。何故かと申せば、本特展で扱う高度成長期は児童生徒の作文を窓口にしているからであり、子ども達の作文には、金銭の遣り取りと言った、生々しい、俗に言う“大人の事情”が描かれることがないからであります。しかし、これも市域の高度経済成長期を象徴する出来事の一つに他なりません。展示では扱っておりませんが、ここでその概略を述べて、そのことが当時の市民性の在り方に影響を齎している可能性について考えてみたいと思います。もとより、浅学非才故に、先行研究の孫引きや研究者の皆様の成果物等からの受け売りばかりになろうかと存じます。目の覚めるような論考を期待された向きには、当方が全くその人にあらずということを御承知の上で、少々のお付き合いをお願い申しあげます。
(その2に続く)


 

 補論:子どもの眼に映った高度成長期を生きる人々(その2) ―または市民性(県民性)を培ったものについて―

 

10月1日(金曜日)

 

 まずは、千葉市域の伝統的な「人となり」についてであります。そうは申しても、「千葉市の人となり」といった狭い範囲での研究成果は目にしたことはありません。一般的に取り上げられるのは所謂「県民性」なるものでございましょう。何時も引き合いに出してしまいますが、『秘密のケンミンショー』なるバラエティ番組を楽しく拝見する機会があり、日本各地の食文化や「人となり」の多彩さに今更ながらに驚かされることが間々あります。この手の書物も雨後の竹の子の如くに出版されておりますが、余りにも粗雑な内容のものがほとんどで(「雪国ゆえに根暗の人が多い」「一年中暖かい地域なので開放的な性格」といった類の、安直極まりなきステレオタイプの書籍が目白押しです)、承知の上で面白がって読むのならいざ知らず、マトモにうけとることなど到底できません。日本でだけ重宝されている「血液型性格類型」もそうですが、第一に多種多様な「個人」を棚に上げにして、特定の集団を一つの基準で十把一絡に括ってしまうことなど、学問的には暴挙との誹りを免れますまい。ただ、現在のようにこれだけ大規模に人の移動が行われる時代ならばいざ知らず、近世以前のように、大きな規模での人の移動が多くはなかった時代は、自然環境や幕藩体制下での大名の所領支配の強弱等々に起因する、人の地域性と言ったものが今よりも濃厚に存在したことは間違いありますまい。そのことを、この手持ちの史料を渉猟し、千葉県域についてピックアップし、古いところからご紹介をさせていただきましょう。果たして千葉県の「県民性」とは如何!?

 まずは、16世紀に成立したとされる『人国記』は、房総三国の風俗・人となりについて以下のように記しております。房総は、まさに戦国時代であり、小田原北条氏と里見氏との攻防が猖獗を極めていた時代であり、そのことを象徴するような在り方に注目されます。しかし、逆に申せば、500年後から顧みると思いも寄らぬご当地の「人となり」に一驚するのではありますまいか。

 

 

安房の国の風俗は、人の気尖(するど)なること、譬(たと)へば、刃の如く和すること(すくのう)して、常の行作(ぎょうさ)もかたくへ(頑)なり。
上総の国の風俗、大体(たいてい)安房に替わることなし。(中略)別して気質偏屈にして、(中略)その健気(けなげ)なること、関東に二番と劣るべからず。下総の国の風俗、上総に同じ。

(『図説 千葉県の歴史』1989年 河出書房新社「序説」より引用)

 

 さて、時代は下って武士の時代が終わって千葉県が成立した後、大正時代初期に陸軍の佐倉連隊区司令官から山県有朋元帥への報告書に記された記述から。以下で報告されている内容が、大戦前、未だ余所から大規模な人流の影響を受ける以前における、一般的に見られたご当地の「県民性」といって宜しいのではありますまいか。前半部をひっくるめれば「土地が豊饒であるため、日々の暮らしに困ることもない。従って、あくせく働くことは好まず、長期的な備えにも無頓着(刹那的?)、高い目標や理想に向けて直向きに人生を切り拓こうという進取の気風は希薄である」ということでありましょう。我ながら、チト悪い方向に寄せすぎたかとは思いますが、明け透けに申せば斯様なことでございましょう。つまりは「現状肯定(非上昇志向)」「超安定志向」「のんびり」といった「県民性」が浮かび上がって参りましょう。後半に記される「人情が軽薄ではない」が「純朴でもない」を、平たく言い直せば「人柄は温厚でしっかり者だが、その実は結構に強かで計算高かく、こすっからいところもある……」というイメージでありましょうか。これらの報告内容からは、どことなく、川鉄に採用された地元労働者の気風と重なるところが透けて参ったように感じますが如何でしょうか。ただ、元に戻りますが、「人」とは千葉県民に限らず須く斯様な存在ではありますまいか。本心を申せば。これは「千葉県民」の特性だけではなく、一般的に言うところの「人とは如何なる存在か」といった問への解答のように思えて仕方がありません。当方が基本的にこの手の類型化をこの好まない由縁であります。

 

 

土地豊穣にして、産物多く、人口に比して面積多大、生活の為めには、さして困難にあらざるを以て、皆小成に安んずる気味あるが如し、(中略)帝都に接近しある割合には、まだ人情が左程に軽薄にもあらず、さりとて純朴と称する訳にも参らず候、(下略)

(『図説 千葉県の歴史』1989年 河出書房新社「序説」より引用)

 

 さて、引き続いて、戦後になってから。我々も若い頃に岩波新書等々で大変にお世話になった心理学者である宮城音弥の著作から。宮城は、ドイツの精神科医クレッチマー(1988~1964)による、体型による性格の違いから人間の特性を「分裂気質」・「循環(躁鬱)気質」・「粘着気質」の3つに分類した性格論を援用し、日本国内の県民性を主に「分裂質」か「躁鬱質」かを中心にして検討した著作を発表しております。それによりますと、千葉県は東北全域から関東沿岸部、東海・紀州、南四国、九州、沖縄と広く分布している「分裂質」タイプに属するとされ、そこがおそらく日本列島の先住民の系統を引く人々の多い地帯であると指摘しております。宮城の調査によれば、「生えぬき」の千葉県民を「日蓮」を事例にして以下のようい分析しておりますが、県民一般は弱気で神経質のタイプが意外に多いとしております。しかし、こうした心理学の分析を拝見しても、当方のような素人には今ひとつピンと来ないところがございます。

 

 

〇気質:「分裂質」
〇性格:「弱 気」
〇特性:「保守的」 「理想家はだ」 「悲観的」 「礼儀正しくない」 「がめつい」

[東書選書『日本人の性格-県民性と歴史的人物』(宮城音弥)1977年:東京書籍]

 

 

 その他にも、手元には、国立民族学博物館名誉館長でいらした祖父江孝男や、明治学院大の武光誠の県民性に関する著書もございます。様々な専門分野の研究者が分析をされているように、それだけ興味深い研究題材とされているのでありましょう。しかし、キリがありませんので、この辺りで店仕舞いとさせていただきます。これらを鵜呑みにするつもりも、逆に埒外に置くつもりもございませんが、多くの皆様にしてみれば、大雑把に「やはりそんな感じがする」と頷ける、何となくの千葉県民としての大まかな傾向は認められるかも知れません。後編では、戦後の社会状況や社会状況の視点から探って見ようと思います。
(その3に続く)

 

 

 補論:子どもの眼に映った高度成長期を生きる人々(その3) ―または市民性(県民性)を培ったものについて―

 

10月2日(土曜日)

 

 「その3」では、西山彌太郎等によって指摘された千葉の「人となり」を形成した可能性のある、市原さんからご教示いただいた、戦後の政治状況や社会状況のうち、「農地改革」について若干の検討を加えてみたいと存じます。

 まずは、戦後のGHQの間接統治下で挙行された「農地改革」であります。もっとも、これは千葉に限ったことではなく、日本国内において押し並べて推し進められた統治政策でありますから、千葉県の「人となり」の要因とばかりは申せません。しかし、この「農地改革」を実施するにあたっては、国内各地でも進捗状況の早遅、土地買い上げ状況の違い等が見られること、また、都道府県毎に農地の所有状況の違いがあり、そもそも論として前提条件が異なっていたこと等、実際には一律には論じきれない面もあるようです。教科書的に申せば、「農地改革」とは「不在地主の小作地全部と、在村地主の小作地のうち都府県で平均1町歩(約1ヘクタール)、北海道で4町歩を超える分を国が買い上げ、小作農民に売り渡した」というものです。まぁ、これが我々は極々一般的に把握している農地改革の説明の全てでございましょう。本政策による、農地の買収・譲渡については昭和22年(1947)から同25年(1950)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、大凡237万人の地主から買収され、約475万人の小作人に売り渡されたとされております。

 「農地改革」は、戦前の農村における封建的な土地所有関係を解体することに大きな役割を果たしたとして、「財閥解体」とともに戦後の経済改革として高く評価される政策でございましょう。しかし、戦後にはハイパーインフレが発生しており、斯様な状況下で、戦後日本政府による、地主への土地代支払いと小作農からの土地代金徴収とは、ほとんど機能不全に陥ることとなったのが現実です。従って、地主の土地は強制的に無償で没収されたと同義となったのが実際であったのです。斯様な経済状況の中で小作農から土地代金の徴収など覚束なく、実際にはほとんど無償配布に近い形で農地が分けられました。勿論、小作農からすれば有り難いことであったことでしょうが、一方で政府への恨みを生涯忘れぬままに一生を終えたり、絶望して自死を選ぶ旧地主階層の方々も多かったことを忘れてはなりません(千葉県でも同様)。さて、千葉県ではこの「農地改革」がどのように進められたのかを、『郷土千葉の歴史』1984年(ぎょうせい)における池田宏樹の論考に導かれながら極々簡単にその概略をご紹介致しましょう。

 それによれば、千葉県では、農地改革以前の小作地は全耕地の47%であり、市原・千葉・印旛・香取・東葛飾の五郡では50%を越えていたものの、安房郡のように28%を低い地域もあるなど、地域ごとの状況には相当なバラツキがあったと言います。また、田畑を小作農民に耕作に出していた地主層(不在地主+在地地主)の9割は、1町歩(約1ヘクタール)未満の土地を小作に出しているに過ぎず、日本海側のような大規模地主の農村支配といった状況とは相当に異なっていたと言えます。昭和21年12月末に県下一斉に行われた市町村「農地委員会」が選挙で選出され(地主3名・自作農2名・小作5名の委員構成)、更に翌22年には「部落補助委員」も選出され実務を担当しました。後者の委員は自小作農によって構成されているケースが多く、その後の運営に大きな影響をもたらすことになったと言います。政府への強制買い上げは、不在地主の小作地の全ての他に、千葉県では在村地主の平均1.2町歩を越える小作地、耕作農民で自己の所有地が平均3.6町歩を越える土地等が対象とされましたが、その後の進捗は遅々としていたと言います。結局、千葉県内での買収・売渡しともに98%を越えたのは昭和23年(1948)12月のことでした。この結果、県下での小作地率は47%から8%へと激減し、農村の封建的な土地支配体制が払拭されたとされております。しかし、当改革により、5反未満の零細農家は減少するどころか、逆に改革前よりも12%も増加したとのことです。池田は、そうした零細農民の増加が、改革前に指摘されていたような、高度経済成長期における零細農民の農業経営を破綻に老い込む要因となったことを指摘しております。しかし、ここでは、少なくとも、市内で半数を占めた戦前の小作農に土地が(実質的にほぼ無償で)配分され、市内農民のほとんどが土地所有者となったことを意味することをご確認頂ければと存じます。

 さて、ここで西山が、千葉に初めてやってきた時に感じた千葉市内の若者の状況と照らし合わせて見ましょう。西山が、銑鋼一貫型製鉄所の建設地の検討を始めて、実地見学の下で千葉市への進出を決定したのが昭和25年です。つまり、この2年前には千葉県では農地改革は終了していたということになります。千葉市内の経済状況が好転して、市内で宅地化が急速に進展するのは、未だ若干先のことになりましょう。その時期に、戦後に土地所有者となった市内中心部の農家が、地価の上昇による土地売却により、相当な現金収入を得たことは想像に難くありません。俄に手元に入った多額の現金が人の性根を揺るがすことは古来枚挙に暇がないほどに例証がございます。あくせく働かずとも暮らしていけるという気の持ちようが、堅実な生活基盤の醸成への阻害要因となることは容易に想像ができます。しかし、西山が初めて来葉した際には、時期的に斯様なる状況が生じていたとは想定され得ないように考えます。つまり、西山の観察に基づく千葉市の「人となり」に、「農地改革」が及ぼした影響は大きいものではないと思われます。しかし、川鉄の第一期工事が終了するのが昭和30年(1955)となり、本格的な人の採用に踏み切っていったとすれば全く無関係とは申せますまい。それ以降の話であれは、時期が特定されてはいない、当方のお世話になった大家さんの証言が大いに関連する可能性が生じましょうか。元々、小作農の皆さんにとっては、極々一般的に想像すれば、その土地そのものに深い執着があるとは言えないのではありますまいか。零細な農業経営よりも、土地を売却することで大きな現金収入が得られるのであれば、比較的に容易に土地の売却が進んだことでありましょう。その点で、戦後入植されてから、血の滲む努力を重ねて0から農地を切り開いていった三里塚の人々にとって、空港建設反対運動、所謂「成田闘争」が必然的な行動であったこととは、そもそも「農民」としての立ち位置が相当に異なると想像致しますが如何でございましょうか。
(その4に続く)

 

 補論:子どもの眼に映った高度成長期を生きる人々(その4) ―または市民性(県民性)を培ったものについて―

 

10月3日(日曜日)

 

 続いて、埋立による「漁業補償」の件について検討を加えてみましょう。こちらにつきましても、前掲書における池田宏樹の論考と、千葉市史編集委員をお勤めいただいております森脇孝広氏の研究成果等に導かれての内容となります。本件について述べる際、まず確認しておくべきことは、東京湾西岸において戦後に展開される京葉工業地域形成の歴史とは、遠浅海岸の埋立・造成事業とそれに伴う漁業補償の歴史と同時並行的に進んだことであります。東京湾という「豊穣の海」が数え切れないほどの「海の幸」を我々人間にもたらし、同時にそれを生業とする多くの人々の生活基盤となっていたことは、申しあげるまでもございません。一方、戦後に一貫して重工業化を推し進める国・県・市の重点施策の下で、その海が大規模に埋立造成されようとしていたことも前稿において縷々述べて参ったところです。当然、両者の利害は並び立つことはありませんから、対立関係が生じたことは言うまでもありません。

 昭和28年(1953)、船橋から五井までの内湾漁業組合の代表が千葉市内に結集。千葉県当局に、千葉・船橋両港建設に伴った16万坪埋立計画への反対を求めております。その2週間後に、2500名もの漁師を千葉県庁前に集めて「漁業権確保漁民大会」が開催され、警察隊が出動するほどの騒動となっております。当時の柴田県知事は、「一方的な埋立は行わない」と回答することでその場を納めたものの、実際には川鉄の工場建設は着々と進行しており、昭和29年(1954)には、東京電力が県に対して川鉄南の25万坪を埋め立て火力発電所を建設することを正式に申し入れています。発電所の候補地となった蘇我海岸の漁師二百数十名は、市役所と県庁に押しかけ反対陳情を行うことになりました。当該時期はちょうど千葉市長改選時期に当たっており、推進派と反対派の対立は政局の問題へ発展。県内では埋立を推し進めようとする保守政党の統一戦線が結成され、反対政党を破って推進派の宮内三朗市長が当選することとなったのです(千葉における保守政党の合同は国政に先だった動きであり、戦後政治史を語る上で重要な画期となるのですが、これ以上は踏み込みません)。県市は、その後に漁民への説得を協力に推し進め、絶対反対であった漁師に中にも条件付き受け入れに転換する者も現れ、運動は次第に条件闘争へと移行していきました。その結果、同年10月漁業組合員372名に漁業補償金1億7千万円が支払われることで漁業権の一部放棄に同意することで妥結しております(県には埋立地の外側に新たな漁場を造成する等の条件を呑ませております)。これ以降、昭和52年(1977)市川市行徳漁協が漁業権一部放棄するまでに、東京湾岸の37漁協が漁業権を手放しました(関係する組合員は2万人)。漁業補償総額は1.156億円をこえると言います(因みに、以前に申しあげた千葉県で埋立方式として編み出された「千葉方式」「出州方式」は、埋立地への進出企業・不動産会社に事前に漁業補償金を込みで納入させる手法でもあったのです)。

 さて、農地改革と同様、西山の発言と対比させてみると、実際に漁民達への巨額の漁業補償金が支払われるのは、西山の言う「初めて千葉に来たとき」よりも後のことになりますが、時期的に申しあげて「農地改革」で手に入れた土地の売却益を得るよりは相当に早い段階で、漁師達は巨額の現金を手にすることになったものと思われます。しかも、個々の漁師だけではなく、海岸部の集落に、面的に押し並べて巨額の金が落ちたことが地域社会に与えた影響は極めて甚大なものであったことでしょうし、到底「耕地改革」の比ではなかったのではないでしょうか。川鉄が本格操業に移行する昭和30年以前のことであり、こうした時期的なことを踏まえれば地元民の優先採用にあたって、思いも寄らぬ大金を手にした地元住民、及び川鉄に採用された労働者の心理状況にも大きな影を落とすことになったことは容易に想像できます。少なくとも「こんなキツイ三交代勤務なんかやってられん」「こんな仕事辞めてやる」といった精神の動きを抑止するための機能を果たすものとはなりえなかったでしょうし、逆に「理性的判断」の箍(たが)を外す方向に寄与したことは大いにあり得ることです。イメージで申しあげることは憚られますが、札ビラに物言わせるような殺伐とした刹那的な空気が街に蔓延する……、それが市原さんが聞き取った「人心の一変」という聞き取りの実態ではありますまいか。当方が美浜区内の中学校に勤務している際、市内の北部臨海地域埋立とそれに対する漁業補償とを知る関係者の方にお話しをうかがう機会が御座いましたが、それも、概ねそうした人と街の実態を伝えてくれる内容でありました。漁業権放棄と漁業補償後は、相当に集落の人心と街としての在り方に不安定な何物かを齎し、それが落ち着くまでにはその後何年も要したと。もっとも、市域北部の埋立・漁業補償は時期的にもう少し後のことになるのですが。

 ただ、埋立による漁業補償を受けた沿岸部の街場の全てがそうした状況であったとは言い切れないようです。実は、葛城中に奉職していた頃の教え子の御母堂が寒川出身の方で(四捨五入すると70歳となる方です)、幸いに今でも親しく連絡を取らせていただいていることもあり、これを機に当該時期の寒川湊の人心についてもお聞き致してみました。寒川ではその時期に、ちゃっかりと千葉信用金庫が進出し寒川支店が開店したといいます。少なくともその方の周辺の方々はそれを貯蓄に回され、漁業を離れた方も千葉市鮮魚市場へ転職されるなど、漁業権放棄後にも堅実に生活されていたとお話しされており、地域生活もまた平時とさほど変わらぬものであったと言います(その後に調べたところ、千葉信金の寒川支店開店は昭和25年12月であり、必ずしも漁業補償を当て込んでの出店とは言えないことが分かりましたが)。もっとも、その時期の寒川神社の祭礼は、前後と比較しても千葉神社を遙かに凌ぐほどに豪壮なものであったそうで、そこに漁業補償の影響を強く感じたと仰せでありました。これは寒川という街が純粋な漁村ではなく、江戸時代以来連綿と続く商業都市(「商業人」)としての伝統もまた根付いていたことに起因するように想像いたします。そのことが、俄(にわか)「成金」的・刹那的な金銭感覚を排除する抑止力として機能したのではないかと推察するのです。つまり、街場としての伝統的な在り方が、それぞれの街における漁業補償支給後の人・街の気風を左右していたのではないかと想像を巡らせるところでございます。もっとも、聞き取ったのは、極々少数の方に過ぎません。より広範な聞き取りを実施すれば、個々には様々な事象が惹起していた可能性がございましょう。

 以上、長々と書き連ねて参りましたが、その割には、その結論は至って当たり前で平板なモノとなってしまったかも知れません。つまり、伝統的に培われた県民性と、社会情勢とが分かち難く結びついて、戦後高度成長期の「生え抜きの千葉民」の「人となり」を醸成したということでございましょう。少なくとも、西山や地元の方が語っていた「生え抜きの千葉民」のもつ性行(「人となり」)というものが、当方が当初考えていた伝統的に形成された在り方にとどまることなく、市原さんがご指摘のような時々の社会的要因によって大きく左右されるものであった可能性を整理できたことは、当方にとっても大きな意義を持つものになりました。今回、書かせていただいた内容は、必ずしも表立って述べるようなことではないのかもしれませんし、昔のことを掘り返されたようで不愉快になった方もいらっしゃるかもしれません。もし、そうであったならば、心よりお詫びを申し上げます。しかし、これらもまた、我々の地元で生じた歴史的な出来事であることに違いはありません。ただ、衷心から申し上げたく存じますが、そうした動向を非難したり中傷したりする意図は全くございません。それらも含めたものが我々人間社会というものだと思うからに他なりません。
(完)

 

 

 

 

 子どもの眼に映った高度成長期の千葉市内陸部の情景(1)(前編) ―大規模住宅団地の開発に見る「野(原)」の変貌―

 

 

10月7日(木曜日)

 

 夏と秋と 行きかふ 空の通い路は 
かたへ涼しき 風やふくらむ

(凡河内躬恆『古今和歌集』夏)

 

 

 先週末に坂東の地で猛威をふるった「野分」を境に、空気もすっかりと秋に入れ替わったように感じます。日差しは未だ強いのですが、それでも空をゆく雲は、既に季節が移ろったことを教えてくれます。因みに、恐らく「タイフーン」という英語の音を日本語に置き換えただけの「台風」なる呼称は、如何にも安直な命名と思いますが皆様は如何お考えでしょうか。厳密な気象学の概念からは外れるでしょうし、何をアナクロニズムなことをと嘲笑されましょうが、当方は王朝物語に頻出する「野分」という本来の倭言葉に風情を感じます。「野分」とは関係はございませんが、今回人口に膾炙している古今集に載る歌を冒頭に掲げてみました。解説の必要がないほど平明な古歌でありますが、現在のような季節の境目をぴたりと言い当てた名品ではありますまいか。昨今では、あっという間に冬に移行してしまい、希少な季節と化しつつある「秋」となってしまったことを残念至極に思いますが、一年で最も美しく、過ごしやすいこの季節を堪能したいものであります 。

 そして、本館の特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』の会期も残すところ10日となりました[10月17日(日曜日)が最終日となります]。本稿も特別展と歩調を合わせながら、関連した内容を中心に据えた題材を扱って参りましたが、到底展示されている全章について触れることが叶わぬまま、もうじき会期を終えようとしております。実質的に、前回まで触れ得たのは、全4章中前半2章分まで内容に留まっており、本稿が初めて第3章に関係することとなります。特別展の終了後の翌々日である19日(火曜日)からは、企画展『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』が始まり、本欄でも「大正期」の内容を扱って参る所存であります。ただ、斯様な仕儀にて、併せて高度成長期の内容も織り交ぜながら進めて参ろうと存じます。折々の脱線もあろうかと存じますが、常日頃申しあげますように、所詮は“風来坊随想”に過ぎませんので、肩肘張らずにお付き合いくださいませ。何卒ご寛恕の程を。

 さて、高度成長期につきまして、これまで主に東京湾の埋立と、それに伴う東京湾岸の工業化・宅地化といった内容を中心に述べて参りました。しかし、特別展でも大きく扱っているように、千葉市内の変貌は、何も臨海部だけで生じていた訳ではありません。同時並行的に、内陸部においても進行していたのです。いや、むしろ「変貌」の主役は内陸にあると言っても決して過言ではないほどに、大きな変貌を遂げていると申しあげることすらできましょう。本稿ではそれらのことについて触れてみたいと存じます。まずは、当時の児童が物した作文の紹介からです。当時千城台北小学校に在籍していた小学校3年生女子の作文です(令和2年4月1日に千城台西小と統合し、現在は「千城台わかば小学校」となっております)。千葉県住宅供給公社を事業主体とした「小倉台団地」(開発面積:71ha、建設戸数:約2300戸)の造成が完成したのは昭和41年(1966)、引き続いて千葉県都市公社を事業主体とした「千城台団地」(開発面積:約208ha、建設戸数:約7千戸)の造成が完成したのは昭和45(1970)となります。実際にその場に住宅団地や公共施設が建設されて人居が始まるのはそれ以降となります。以下にお示しする作文は、その千城台団地に一年前に入居した児童の作品です。極々初期に千城台へ入居した一家の児童作品です(集合団地ではなく戸建分譲地のようです)。従って、おそらく1970年代初頭、高度成長最末期の風景がここには切り取られているものと思われます。

 

 

 「変わっていく千城台」 千葉市立千城台北小学校 3年 女子

 

「ずいぶん家がふえたなあ。」

 

 朝のさんぽから帰ってきたらしいおとうさんの声がする。おとうさんは、日曜日になると千城台をよく一周する。いつもなら、私も自転車でおともするのだが、けさは本にむちゅうだったので、いかなかった。

 「いままではおとなりだったYさんが、見えなくなってしまいましたね。」
台所で朝のしたくをしているおかあさんの声もする。
私は、本を読むのをやめていそいで台所へいった。おとうさんはお茶を飲みながら新聞を読んでいた。きくの花をかびんにさしていたおばあさんも、 
「ほんとうにべんりになったねえ。去年のいまごろは、どうなることかとしんぱいしていたのに…。」といいながら、テーブルについた。

わたしが、千城台にひっこしてきたのは、きょ年の文化の日だった。あれからもう1年半になろうとしている。1年前の千城台といまの千城台を比べてみると、いろいろなことが、変わってきている。けさも、家じゅうでお茶をのみながら、そのことについて話し合った。

 まず、家の数についてみると、ずいぶんいろいろな形の家がふえた。1ブロックには、16けんの家ができるのだが、去年ひっこしてきたときは、2けんしかたっていなかった。でも、わずか1年のうちに新しく6けんもできた。だから、今では、となりの家がとおかったのに、1か月ぐらい前、うらにMさんがひっこしてきてからは、となりがちかくなった。でも、今まで見えていた遠くのとなりのYさんの家が、Mさんの影で見えなくなってしまった。おばあさんが、
「学校へいくN子をまどから見送ってあげられたのに、それもできなくなってしまったね。」と、お茶をすすりながらいった。

 つぎは、おみせやさんについてである。1年前は、近くにT商店しかなかった。そこは、たばこ、ざっか、おかしぐらいしかうっていなかったので、魚、肉、野菜などは、遠くのKストアまで買いにいかなければいけなくてふべんだった。でも今は、近くにFストアができて、食べ物はそこでみんなまにあうようになった。また、酒をうる店、リビングセンター、本屋、薬屋ができたのでとてもべんりになったし、あたりがにぎやかになってきた、Hマーケットや食堂、おかしやさんも建てられていて、もうじき開店するらしい。
「あと、着る物を売る店ができればいいな。」というのが、家の人の意見である。

 そのつぎは、お医者さんのことだ。1年前には、東町には、お医者さんがぜんぜんいなかった。わたしは、かぜをひきやすいので、ひっこしてくる前から、このことが家中の心配のたねだった。でもことしの春、3げんの内科と小に科のお医者さん、それに歯医者さんができた。私は、夏休みに歯医者さんにむし歯をなおしてもらったし、この間は、つづけて2回も小に科のお医者さんにお世話になった。お医者さんができたことは、心づよいことだとみんなが、いつも話している。

 おしまいは、学校のことだ。わたしが転校してきたときは、2学年は2組しかなかった。朝礼にでたとき、こんな大きな学校にこれだけしかいないのかと思ってびっくりした。先生の数も、今までいた学校よりずっと少なかった。3年生になってからは、転入してくる友達が多くなり、2組だったクラスが3組になった。転校してきたときは、学校にいく友だちが、近所にいなくてとてもさびしかったが、2月にとなりにTさんが、3月には、道をはさんでむかいにMさんが引っ越してきたので、学校にかようことが楽しくなった。

 「らい年は、どんなにかわっていくかな。」と、私はときどき考えたり、いろいろとよそうするのが、なんだかおもしろくなってきた。

 

(引用者註:固有名詞はアルファベット標記にしております)

 

 

 何とも子どもらしい、未来への明るい希望に満ち溢れる、如何にも高度成長期を体現するような内容に、思わず“ほっこり”とさせられます。素朴ではありますが、琢磨ざる優れた作文ではないでしょうか。容易にこの味は出せません。この作文を選んだ当時の教師の思いに共感いたします。この地は、「千城台」なる名称から明らかなように、典型的な「下総台地」上に新たなに造成された住宅団地に他なりません。高度成長期には、膨れ上がる首都圏人口の受け皿として、千葉県内でも大規模住宅団地が造成されることとなったことは、以前に千葉市沿岸部の埋立を述べた際に取り上げました。また、その目的が、時代の要請によって、重工場から非公害型工業の立地へ、更には大規模住宅団地造成から第三次産業企業の立地へと推移していく過程も追いました。そうした動向は、内陸部でも例外なく連動していたのです。以下、昭和40年代を中心として、市内に開発造成された18の住宅団地を一覧表でお示しいたしました。その内、下線が引かれている5つの団地が新たに造成された埋立地に立地しております。逆に、残り13の団地は全て内陸部に造成されたことになります。入居戸数で比較すると、臨海埋立地に約31,000戸、内陸部に約57,000戸となり、内陸部が臨海部の凡そ2倍の戸数となっております(同時期開発の臨海部「稲毛海岸ニュータウン」と内陸部「東南部住宅団地」の超大規模団地が、事業主体は異なりますがほぼ同数の入所戸数として開発されたことは興味深いものがあります)。つまり、内陸部における住宅団地造成が大きな比重を占めていたことが御理解いただけましょう。そして、それらの立地は、名称に「台」の字が付されているか否かに関わらず、ほぼ内陸の台地上に造成されております。つまりは、高度成長期には、埋立地以上に、内陸部での住宅団地等の開発が、大規模、広範、そして急ピッチで進められたことを知ることができましょう。

 

 

昭和40年代の住宅団地(『写真集 千葉市のあゆみ』より)[※下線~埋立地に立地]

 

 

団地名

面積(ha)

建設戸数

完成年度(昭)

事業主体

1

園生

3.1

438

38

日本住宅公団

2

小仲台

2.5

310

38

日本住宅公団

3

宮野木

14.3

407

40

千葉市

4

あやめ台

15.5

1,538

41

日本住宅公団

5

千草台

23.0

2,098

41

日本住宅公団

6

稲毛第1

4.3

528

41

千葉県住宅供給公社

7

小倉台

71.1

2,293

41

千葉県住宅供給公社

8

稲毛公務員

14.9

1,240

41

大蔵省

9

稲毛海岸3丁目

8.4

768

42

日本住宅公団

10

花見川

81.6

7,081

43

日本住宅公団

11

大宮

64.7

2,040

43

千葉県住宅供給公社

12

幸町

52.9

5,914

45

日本住宅公団

13

千城台

208.3

7,100

45

千葉県都市公社

14

新検見川

79.3

4,000

47

日本住宅公団

15

東寺山

102.5

4,970

47

日本住宅公団

16

稲毛海浜NT

436.7

23,000

48

千葉県

17

こてはし

80.1

2,422

48

千葉県住宅供給公社

18

東南部住宅団地

607.0

22,640

51

日本住宅公団

※日本住宅公団は、現在「UR都市機構」と改称されています。

 

 さて、これら千葉市の内陸における台地上に、新たに造成された住宅団地の立地した場とは、果たして、それ以前には如何なる「場」であったのでしょうか。中編では、そのことをまず歴史的に追ってみたいと存じます。

 
(中編に続く)

 

 

 子どもの眼に映った高度成長期の千葉市内陸部の情景(1)(中編) ―大規模住宅団地の開発に見る「野(原)」の変貌―

 

 

10月8日(金曜日)

 
昨年、本館で小企画展『野のうつりかわり—六方野の場合-』を開催いたしました。本館の芦田副館長の企画で、どちらかと申せば「地味」な内容ではありましたが、当方にとっては掛け値なしに昨年度最も知的好奇心を喚起させられ、かつ刺激に満ちあふれた内容であったと確信するところであります。身贔屓が過ぎようとの誹りを免れぬとは存じますが、これが偽らざる正直な思いでございます。幸いに読売新聞にも取り上げていただきました。誰にでも注目される「特別展」ならいざ知らず、こうした地味な企画に興味を示してくださり記事にもしていただいた、読売新聞社千葉支局の記者様の慧眼と、実際の報道に「ゴーサイン」を出されたデスク様の度量とに、大いに感銘を受けた次第です。そのお陰もあってか、本小企画展を目的に来館された皆様からご好評を賜りました。有り難いことと存じております。

 「おい!藪から棒に何を言っているのだ!?この話題前編の内容と何の関係があるのか」……との思いを抱かれる向きがございましょう。しかし、これが関係大ありの話題なのです。まずは、内陸部の開発の舞台となった「野(原)」という存在の復習から始めさせて頂ければと存じます。千葉市を含めた周辺地には「〇〇野」という地名が数多存在します。千葉市内や近隣で言えば、「おゆみの野」や「習志野」といった地名がすぐに思い浮かびます。私の初任校である千葉市立更科中学区では、住所地名(小間子・下泉・富田・谷当等々)とは別に、周辺の台地を「宇津志野」と総称しておりました。つまり、「野(原)」とは、平たく言えば広大な台地上の平坦地をさしましょう。それらの地は、団地造成以前には如何なる土地であり、また如何なる利用をされて来たのかについて、まずは理解しておこうというのが中編での話題となります。そして、そのことと高度成長期の「野(原)」の開発とは密接に関わってくることを御理解頂きたいと願うものです。実は、このことについては、令和2年度8月中の「館長メッセージ」で粗々説明をさせていただきましたが、その復習に若干の内容を付加しつつ整理してみたいと存じます。因みに、当該原稿は本館HPでお読みいただけます。本年度「館長メッセージ」目次の最下部に「令和2年度の『館長メッセージ』はこちら」とございますので、そちらをクリックしますと、昨年度「館長メッセージ」目次に到ります。そちらをご確認ください。

 歴史的に見れば、水田耕作を生産の中心据えるようになってからの我が国では、それに適する耕地近くの低地に人は居住地を求めることが多くなり、必然的にそうした土地に集落が形成されていくことになりました。こうした集落形成には東国と西国では大きな違いも見られるようですが、今はそのことに踏み込まず、東国は千葉市域周辺の在り方に限って述べていこうと存じます。現千葉市域の地形的な特色からお考えになればお分かりになりましょうが、千葉市域は所謂「下総台地」という台地地形がその多くを占めており、標高の高い山が存在しない代わりに大きな河川も存在せず、総じて大きな起伏が無く平坦な土地柄であります。そのことに起因し、大規模に稲作を展開する広大な沖積低地は限られます。従って、多くの場合、台地を小河川が長い年月を経て開削した狭隘な低地である「谷津」を水田とする農耕を行なうことになったのです(谷津田)。そして、その谷津田に面する台地下縁辺に「集落」が形成され、それらが一体的に「村」として把握され、その機能を果たしてきたのです(領主の支配下に置かれ年貢等の負担を担う等々)。今でも市内では、少し郊外に足を運べばこうした谷津田の集落風景を見ることができます。谷津田と農村集落、そして台地境の斜面に形成される林地を含めた集合体は、昨今では所謂「里山」と称されるようになりました。そして、人と生物とが共生する身近な自然空間として、都会人の人気を集めていると耳にします。多くの市町村では里山巡りハイキングコースやガイド施設等が整備され、広く市民に活用されていると耳にしますが、千葉市ではどうなのでしょう。

 ここで、話を斯様な「里山」の上部に広がる台地上の平坦地に移しましょう。この地こそが本稿にとっての肝心要の話題となります。この地は歴史的に如何様に利用されてきたのでしょうか。「そりゃ畠に決まっているだろう」と半分呆れながら即答される方がほとんどでございましょう。確かに、それは間違いではありません。水利の面で不利な条件である台地上は、「村」の人々によって概ね「畠地」として利用されてきたのです。この畠としての台地利用については、あえてここで説明をする必要もございますまい(近世後期には「薩摩芋」生産の舞台ともなります)。しかし、近世の村絵絵図をみると、「村」とは屋敷地と谷津田のみにあらず、周辺の台地上も含めて、当該の村落領域として描いているものがほとんどです。そして、台地上は必ずしも「畠地」ばかりではなく、むしろ広大な「林野」あるいは「草地」と書き込まれている土地が思いのほかに多いことに気づかされます(先程掲げた昨年度の前稿にて、近世以前の農民にとって「ムラ」「ノラ」「ヤマ」といった同心円状の空間認識が存在したとの福田アジオの学説をご紹介しております)。こうした土地は単なる耕作放棄地かと申せば左にあらず。これら「草地」「林野」こそ、草・萱・柴や木の枝などの採集地として、むしろ積極的に活用される場であったのです。つまり、こうした台地上の土地が「野(原)」と総称される「場」に他ならないのです。こうした地は別に「秣場(まぐさば)」とも称されました。刈り取った草が牛馬(農耕や物資輸送に用いられました)の飼料とされたからです。草はまた、柴などとともに田畑に敷きこむ「刈敷」や、焼灰にして有用な肥料(「草木灰」)としても活用されたのです。つまり、こうした「野(原)」は、農村にとって極めて重要な機能を果たしていたのです。一方、萱は重要な建築資材(屋根葺)であり、灌木は薪炭として活用されるなど、「野」とは百姓にとっては無くてはならない場所であったことを忘れてはなりません。ガスや電気など存在しない時代なのです。こうした、「村」の領域に含まれた「野」を一般的に「内野(うちの)」と称することを覚えて置いてください。

 上述した内容で、勘働きの鋭い方はお気づきになられたことでしょう。「ということは、『村』の領域に含まれない『野』なんてものもあるのか」と。ご名算でございます。そうした「野」もまた相当数存在していたのです。集落の近隣に立地する「内野」であればともかく、標高の高い台地上の「野(原)」は、水利の面も覚束ない高燥な土地であり、畠作にも向かない地でありました。当然の如く生産地としての価値が乏しく、何れの「村」の領域にも属することがなかったのです。千葉市域では、近世初頭に徳川家康によって開かれた「東金御成街道」の道筋周辺がそうした土地にあたります。本道は、内房の船橋と外房の東金とをほぼ直線で結ぶ街道であり、その多くは太平洋と東京湾の分水嶺にあたる地点に造営されております。つまり、周辺部は市内では(旧上総国に含まれる土気地区を除けば)最も標高の高い地となっております。昨年の小企画展でご紹介した「六方野」が、まさに何処の「村」の領域にも属さない「野」でした。しかし、こうした耕作には適さない土地であっても、決して利用価値のない放棄地であったわけではありません。何故ならば、上述したように、草木を有効使用していた農民達にとっては、無くてはならない土地であったからです。

 「六方野」のような「野」は、周辺の「村」の住人にとって、村の境界も特段明確に定められておらず、特定の農村地主の所有にも帰属しない、周辺の村々が共同で利用しあう、村同士が緩やかに接している場でありました。欧米由来の近代的な土地所有観念・村落境界概念を持つ現代人からはなかなか理解できない実態だと存じます。こうした土地が所謂「入会地(いりあいち)」であり、特定の村に帰属する「内野」に対して、「入会野」とも称されました。ただし、こうした緩やかな関係性の下に存在していた「入会野」であっても、少なくとも近世の幕藩体制下では、決して無主の地であった訳ではなく、幕府支配下にある土地とされていました。従って、周辺の人々が好き勝手に利用できるわけではなく、「入会野」を利用する村々が幕府に「運上金」を納めることでその利用が認められていたのです。しかし、複数の村々の共同利用に起因する村同士の争いも屡々起こりました。因みに、近世後期になると、こうした「入会野」もまた「新田開発」対象地となり、幕府の許可を得た商人の資本が投下され開発が進むことになります(「六方野」でも一部で新田開発が行われています)。しかし、その結果として、「入会野」に肥料や薪炭を依存してきた周辺村落と「入会野」を新田開発しようとする主体との間に深刻な利害対立が生じ、入会野利用を求める訴訟が頻発するようになります。こうした、状況の下で迎えたのが「明治」という新しい世ということになります。

 さて、後編では、明治以降の高度成長期にまで至る「野」の移りかわりの概略を探って参りましょう。 
(後編に続く)

 

 

 子どもの眼に映った高度成長期の千葉市内陸部の情景(1)(後編) ―大規模住宅団地の開発に見る「野(原)」の変貌―

 

 

10月9日(土曜日)

 
明治になると、新政府は地方制度の整備に力を入れます。現在まで続く市町村の基盤が形作られた時期となります(もっとも、その後の町村合併、町から市への昇格等で明治期のままの町村であることは稀ですが)。この際、江戸時代の「村」にも大きな変革が訪れております。一般的に、多くの方々は(お恥ずかしながら以前の私自身も)、江戸時代以来の範囲を引き継いで現在の「村」が存在しているとお考えかと存じます。しかし、それは事実とは全く異なります。新政府が藩を廃止して府県制を取り入れたことは教科書を通じて誰でも学んでいることですが、その際に江戸時代の村を大きくまとめ(飛び地として散在していた地点も基本的には統合して)、新たな村に再編しているのです。また、一つの村に複数の領主の支配権が複雑に入り組んでいた近世の土地支配の在り方(相給支配)の解消も目指されました。つまりは、西洋近代の土地所有の在り方に根ざした土地支配の在り方を創造すべく改革が行われたのです(ただ、近世の在り方が劣っていたわけでは決してなく、農村から遺漏なく確実に租税を徴収するための機能としては優れた面があったと言います)。昨今、こうした近代における農村支配の在り方の変革について論じた、大変に優れた書籍が刊行されましたので、これを機に皆様にもご紹介させていただきます。しかも手軽で安価な新書です。しかし、中身はそれに反して重く、価値ある内容であることを保障致します。荒木田岳『村の日本近代史』2020年(筑摩新書)こそがその書物にほかなりません。

 さて、その結果として、江戸時代に全国で凡そ63,000あった村の数は、約16,000に激減しております。同時に、近代所有権概念の下で、これまで曖昧であった山林・林野等の「入会野」に境界線が確定され、何れかの村に属する土地とされました。更に、所有者が明確に区分されて登録されることとなったのです。もっとも、「入会野」の場合のように、元々公有地であった土地の多くは国有地化されています。ただ、面倒なことに、その上に存在していた入会の取り扱いは、民法上「入会権」として認められることが多かったのです。つまり、これまで「入会野」であった土地が、行政上で何れかの村の行政範囲に入り村境が明確になっでも、また所有権が国に移っても、その地が「野」の状態である限りは、近世以来の権利である草木等を入手できる「入会権」が継続して認められるケースが多かったのです(ただ、地域のよっても様々なケースがあるようで、全てが認められたかどうかは判然としないのが現状です)。

 これを明治以降の千葉市内の「六方野」で見てみましょう。ここもご多分に漏れず国有地に編入されましたが、特異なのは、ここが「軍用地」として利用されるようになることです(軍事演習地)。今回の特別展では、秀明大学清水克志研究室からご提供いただいた克明なる「千葉市域の新旧土地利用彩色図」を展示してございます。そのうちの大正10年(1921)年の地形図を見ていただければ、千葉市の内陸部にひときわ巨大なオレンジ色に着彩された「荒地」を見ることができます。その地こそが入会野であった「六方野」であり、明治以降は陸軍の演習地として利用された土地に他なりません。しかし、その地を利用する村々は「入会権」を盾に政府との切実な交渉を重ね、結果として軍事演習時以外には採草地としての利用を認められております。そして、昭和20年(1945)の敗戦後には、軍の解体に伴って軍用地は民間へ払い下げられていきました。「六方野」には、陸軍「近衛部隊」であった人々や、満蒙開拓団からの引き揚げ者等が入植して、農地や酪農の地として戦後の新たな歩みを始めることになったのです。

そして、時は巡って戦後の高度成長期に到ります。この時代に、都市人口の増大に伴う東京から溢れた人々の受け皿として、大規模な住宅団地造成地として着目されたのが、こうした台地上の広大な平坦地に他なりませんでした。そもそもが、内陸に偏った交通等の利便性の悪い土地であり、その段階においては都市化することもなく、畠作農地や草木の生い茂る土地が茫漠と広がっていたからであります。また、戦後に国内へ広く普及することになる電気ガス等や、化学肥料の普及、更には農耕に牛馬を用いる機会の減少は、農村における採草地・薪炭等供給地であった「野(原)」の重要性を大幅に低減させていた社会事情も大きかったことでしょう。従って、別稿で述べた「三里塚」の事例が語るような、戦後になって入植して酪農・牧畜・開墾による農業に従事された方々は別として、台地上の農地・草木地等の買収も、臨海部の漁業補償を巡る対立や莫大な費用負担と比較すれば、概ね支障なく円滑に進捗したものと考えられます。そして、何より台地上の平坦地は、住宅団地造成には持って来いの至って好都合な土地でした。その地に、巨大な住宅団地が次々に造成されていったことは、前編の一覧表からお分かりいただける通りです。集合団地のシステム化された現代的な各部屋の間取りは、多くの勤労所得者(サラリーマン)にとって理想的な居住環境と目され、世に「憧れの団地生活」なる言説も流布しました。当方も、子どもの頃に、叔母夫婦の住む武蔵小金井市にあった「公務員住宅」が羨ましくて仕方がなかった想い出を有します。

 しかし、こうした大規模な住宅団地は、元来が交通の利便性の悪い内陸部の立地であり、団地を少し外れれば、道路網も元の農村地帯であった時代と代わり映えしない状況にありました。例えば花見川団地であれば、戸数7,000強、人口26,000人強という全国有数の都市が突如できあがったわけですから、所謂「インフラ」整備が追いつかないことが当然のごとくに生じたのです。学校のマンモス化(プレハブ校舎の増設、当方が奉職した千城台南中のように各学年10学級=全30学級のマンモス校)、整備されない道路の交通渋滞、鉄道駅から離れているためのバス利用(車内大混雑)、これまで地方へ向かうローカル路線であった鉄道の乗車許容限度超過にともなう、通勤電車の信じがたいほどの寿司詰状態等々。更には、そうした住宅団地周辺に、民間業者による戸建て住宅の無秩序な開発が際限なく行われるなど、千葉市内でも所謂「スプロール現象」が急速に進行していきました。今でも、団地周辺では狭い道路の奥に犇めくように戸建て住宅が鮨折のように密集して立ち並ぶところが数え切れないほどにございます。こうした開発は、本来宅地には向かない低湿地であった土地を無理矢理に造成した住宅地も多く、欠陥住宅、地盤沈下による被害、上下水道等の都市インフラの整備の不完全さに起因する大雨時の冠水等、様々な社会問題をも生じさせました。

 また、学校現場では、その時期に所謂「荒れる学校」なる社会現象も頻発しました。教師も学年全体の生徒ですら把握することが困難な状態であり、一人ひとりの生徒に丁寧に対応することすら難しい状況も生じました。正に高度成長期の歪みとも言うべき社会現象が全国大都市圏、つまりは我々の住む千葉市内でも頻繁に社会問題化し、その都度新聞紙面を賑わしたことも記憶に新しいのではありますまいか。その後、解決に向けた努力は続けているのでしょうが、全ての面で解消されたとは到底申せないのが現実ではありますまいか。例えば、千葉市内陸部の住宅団地周辺と周辺市を結ぶ一般道路網は、到底令和の世とは思えないほどに未整備であり、幹線道路でさえもが渋滞の巣窟と化しております。20年ほど前、船橋市高根台団地に居住していた時分に、千葉市中央区の職場に自家用車で通うには、往復で大凡3時間弱の時間を要することも間々ありました。あまりの精神的苦痛故に、後半は電車通勤に切り替えましたが、津田沼駅での乗り換えの不便さにも難渋させられたことも度々でした。大都市圏と称しながら、何故かくも不便なのか、何時改善されるのか等々、内心で呪詛の言葉を唱えたことも、お恥ずかしながら一度や二度ではございません。そして、21世紀に突入した今日、高度成長期に建造された住宅団地施設の老朽化、住民高齢化にともなう地域社会の機能不全等々、新たな問題もまた生まれております。解決すべき課題は山積しているように思われます。

 最後に、この時代を、狭い住宅団地の住人として過ごした子どもの細やかな願いを吐露した詩、そしてどことなく大正時代『赤い鳥』の世界を彷彿とさせる、ちょっと文学的表現に傾いた「ラッシュアワー」に見舞われる駅の光景を描いた詩作品とを紹介させていただき、三回にわたった本稿を〆たいと存じます。

 

 

わたしの部屋 椿森中学校 2年生 女子

 

 たった二畳でいい。
わたしの部屋を持ちたいな。
部屋は机だけでいっぱいになるだろう。
それでもいい。
壁は白にしよう。
その壁に美しい風景の写真をはろう。
そして、
机のすぐ隣に箱を積んで
本と人形を入れよう。
そうだ!
天井からはびんをつるして花を生けよう。
できたらラジオがほしいな。

 たった二畳でいい。
わたしの部屋を持ちたいな。
その部屋で、
本を読み、歌を歌い、自分を見つめよう。
もちろん、勉強にもはげもう。
つかれた時、
そっとラジオのスイッチをひねる。
きっと、清らかな音楽が流れ出るだろう。
小窓のそばに細いもみじの木を植えよう。
ほら、写真の中に緑の風が渡っていったよ。

 ああ!
夢が空のようにひろがっていく。
果てしなく、
苦しいほどにふくらんでゆく。

たった二畳でいい。
地震におどろかされても、
台風におどかされても、
小さなわたしの部屋は、
じっとたえているだろう。
そんな私の部屋がほしい。 

 

 


電車 若松小学校 4年生 男子

 

 

 一本の長い電車
それは、一台一台が、一本のえんぴつだ
そのえんぴつが、一つ一つ、セメダインで くっついている。
電車がまがる時
くっついたえんぴつが
一本 一本 おれていく。
駅につくと
えんぴつの中から
人間がおし出されるように
あとから あとから 出てくる
またべつの人間が
まるで、まほうがかかったように
一本のえんぴつの中に
きえていく。

 

 

(完)

 

 

 「千葉市制施行100周年」を記念する企画展『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』が始まります!![会期:10月19日(火曜日)~12月12日(日曜日)](前編) ―昨年度の特別展『軍都千葉と千葉空襲』、本年度の特別展『高度成長期の千葉』に続く第3弾(最終回)として開催です!!―

 

 

10月15日(金曜日)
 
おしなべて 思ひしことの かずかずに
なほ色まさる 秋の夕暮

[藤原(九条)良経『新古今和歌集』秋]
 

 10月も半ばとなり、一段と秋の気配が色濃くなってまいりました。昨年もこの時期に「夕暮れ」の美しさについて書いたように記憶しておりますが、これから冬にかけては、透徹した空気の中、雲を多彩に染め上げながら沈みゆく夕景が一年を通じて最も美しい季節となります。古典和歌では「新古今和歌集」の秋の部に採られた所謂「三夕の歌」が広く世に知られておりましょう(三首ともに五句に「秋の夕暮」を配する西行・寂蓮・藤原定家の作品です)。しかし、当方は、同歌集に採られている冒頭歌が三首に取り上げられていないことが不思議でなりません。「三夕の歌」の淵源は16世紀初頭にまで遡れるようです。当然、その時代の和歌受容状況と評価基準とが、現代のそれとでは異なっていることは確実です(何をもって優れた作品とするのか)。例えそうであれ、良経の「秋の夕暮」歌が、「三夕の歌」を遥かに凌駕する作品であることは動かないと考えますが、皆様は如何お感じでしょうか。少なくとも当方にとって「別格本山」と申すことに何の躊躇もありません。本詠歌は、以前にご紹介させていただきました、塚本邦雄撰に掛かる名著『淸唱千首』にも採られております。正しく申せば、当方も塚本のお陰で、その歌人と本作の図抜けた素晴らしさに開眼させられたクチであります。前回同様、当方のような素人が四の五の申したところで、その素晴らしさをお伝えすること到底に能わず。塚本の鑑賞文を以下に引用させていただきます。良経作品に格別な思い入れのある塚本ですが、本詠歌へは珍しい程の賛辞を捧げているように思います。その所為もあって忘れ難き詠歌となっております。

 

正治二年院初度百首歌、秋二十首の第五首目にみえる極めつきの秀作。達観と言ふには若い三十一歳、その壮年の晩年に、獨り瞑目端座して過去の、四方(よも)の、永く廣く深い「時」の命を思ひかつ憶(おも)ふ。かつての憂ひも悲しみも、この秋の存在はなほ一入身に沁む、曰く言ひがたい思考であり感慨であらう。五句重く緩やかに連綿して類のない調べ。

(塚本邦雄撰『淸唱千首-白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年に歌から選りすぐった絶唱千首』-1983年 富山房百科文庫35 より)

 

 

 さて、本年度が「千葉市制施行100周年」であることに因んだ、令和3年度特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』が、明後日17日(日曜日)に大団円を迎えることになりました。千葉テレビを始め、新聞各紙にも取り上げていただくなど、大変にご好評をいただくなかで無事に閉幕を迎えることができそうです。館長といたしまして深い喜びに満たされる思いでございます。そして、矢継ぎ早に、来週19日(火曜日)からは企画展『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』が開幕となります。表題にもお示ししておりますように、昨年度から継続して開催する「市制施行100周年」を記念する展示会であり、3回目の本企画展を以って、「市制施行100周記念」を銘打った展示会は最終となります。

 本展示会につきましては、当初「特別展」として開催することを目論んでおりましたが、予算上の都合により規模を縮小して開催することになりました。即ち「企画展」としての開催とさせていただいた……ということです。その結果、記念講演会の開催はございません。図録も若干紙質を落し、モノクロ図版中心となります。しかも、総頁数の関係で全ての展示品を収録することは叶いませんでした(「展示資料一覧表」にて全展示史資料は明示)。その分、一冊¥300というお求めやすい価格での販売とさせていただきます。しかし、だからと申して、会場展示と展示図録の内容に、一切の手抜きはございません。この点は幾ら強調しすぎても、し過ぎることはないと申し上げたく存じます。昨今、多くの博物館で「予算確保が儘ならならない」ことを理由に展示図録を刊行しないケースが多くなりました。素晴らしい内容の展示会なのに……と、残念に思うことが間々あります。本館近く千葉県立中央博物館ですら事情は同様です。しかし、「展示図録」を刊行しなければ、会期終了をもって、その内容はご覧いただいた個々の記憶の中にしか残ることがないのです。これでは、後の検証に用いることもできませんし、遠方にお住まいで展覧会に足を運べない方が内容を知ることすらできません。私は、これでは、博物館としての責務を果たせていないと考えるのです。従いまして、後世に「記録」として残すことができる「展示図録刊行」は必要不可欠であるとの認識を持っております。勿論、小企画展のような展覧会では「ブックレット」のような小冊子でも構わないと思います。このことを本館としての基本スタンスと参りたいと存じます。そして、予算の逼迫する中でも、手前味噌とはなりますが、担当者の尽力により、本展でもどうにか図録刊行が叶ったことに安堵をしております。展示資料の「三分の二」程の収録にはなりましたが、ご覧いただければ千葉市が誕生した大正期から、戦争という暗雲に覆われる前の昭和初期に到る「時代像」「世相」を把握できるよう、掲載史料を厳選しております。是非お求めいただけましたら幸いでございます。

 まず、何時ものように、本展示会に館長として寄せた「はじめに」全文を以下に掲載させていただきます。千葉町が「市制」を施行。「千葉市」に衣替えをして、新たなスタートを切った「大正」という時代が、日本において如何なる時代であったのか。そして、それが紛れもなく世界的な動向とも連動していた時代であり、その時代の千葉市の街と人々の生活・世相にも色濃く反映していたことを、本展を通じて皆様に御理解を頂ければと願うものです。併せて、多くの皆様にとって、あまり深い印象を持たれているとは言い難い「大正」という時代が、現代社会の淵源となる極めて重要な時代であることにお気づきいただければと存じます。そして、斯様な展示になっているものと自負するところでございます。千葉市が市制を施行して100年という節目を迎えたことを好機会に、皆様もそのルーツとなる百年前の時代を振り返ってみては如何でしょうか。世に「初心忘れるべからず」「初心にかえれ」等々の価値ある箴言(警句?)がございます。誠にしかり。自らが居住する街が、「市」として歩み始めた第一歩を振り返ることは、自ずと現在ある「千葉市」の立ち位置を検証することを意味しましょう。それを蔑ろにすることは「未来」を蔑ろにすることと同義です。「歴史を学ぶ」ことは「歴史に学ぶ」ことでもあると思います。皆様、是非とも百年前の千葉市へお越しください。

 後編では、今回の企画展の全体構成、つまり「序章」と「1~5章」の各「表題」・「内容概要」の御紹介をさせていただきます。こちらは、本企画展担当である本館の前田聡主任主事と遠山成一研究員の執筆となります(展覧会場・図録の各章冒頭に掲載されて内容です)。端的に各章毎の内容を纏めておりますので、本稿をご一読の上でご来館をいただけることをお薦めいたします。本展の理解が深まること必定と存じます。

 

 

は じ め に

 
明治22(1889)年の町村制施行により誕生した「千葉町」が、「千葉市」に衣替えをしたのは大正10年(1921)1月1日のことです。そして、本年元日に100回目の誕生日を迎えました。本年度を『市制施行100周年』と位置づける千葉市ですが、本館においても昨年度から展示会等を通じ本市100年間の歩みを振り返っていただく取り組みを敢行して参りました。そのために、3つの時期に焦点を絞り込むことで、その特色を大観していただこうと考えました。すなわち、本市が軍都として歩んだ大戦前後の時代(昨年度特別展『軍都千葉と千葉空襲』)、そして千葉市の姿が劇的な変貌を遂げた高度成長期(本年度特別展『高度経済期の千葉市』)、そして掉尾を飾るのが、千葉市が呱々の声を上げた大正期前後を取り上げる本企画展『千葉市誕生』となります。それぞれが、現在の千葉市の姿を形作る画期となるべき時代であると考えるからに他なりません。

 本展で扱う「大正」から「昭和初期」に至る時代は、明治と昭和という大きな歴史に彩られた時代に挟まれた比較的影の薄い時代と考えられがちです。しかし、その実像は現代日本に直結する社会基盤が形成された、大きな「時代の転換期」に位置づけられる時代なのです。時代を象徴する「大正デモクラシー」「大正浪漫」等の歴史用語を耳にされたことがございましょう(両者とも同時代の史料用語ではなく戦後に生まれた学術用語です)。「デモクラシー」は「民主主義」の謂いであり、「浪漫」はロマンチックに由来する言葉で「 感情的・理想的に物事をとらえること」「夢や冒険等への強い憧れをもつこと」といった意味合いで用いられます。着目すべきは、その主体が「如何なる人々」であったかです。理想的な社会を志向し、その実現に憧れた人々、それはこの時代に歴史の表舞台に登場する「大衆」なる存在に他なりません。様々な社会的要因により明治末から勃興する名もなき一般人の集合体である「大衆」が、政治・社会で大きな存在感を示すことになる時代、それが「大正」という時代を特色付けます(諸々の社会改造運動の勃興)。そして、それら大衆によって牽引された文化的風潮が所謂「大正浪漫」であります。最早、時代は一部政治家だけの意思で動くものではなく、文化も一部富裕層ものではなくなるなど、大衆の躍動する空気が広く世相を覆う時代に移り変わっていくのです。勿論、それらは国内の動向に留まるものでなく、世界的潮流の中に位置付くことを見逃すことはできません。あまつさえ、市制施行前後に千葉市内でも吹き荒れた「スペイン風邪」なる、歓迎すべからざる疫病までもたらしております。一方、こうした巨大な大衆的奔流が、理性的志向への抑圧機能に転じ、昭和期に入って勃興する全体主義的動向を生み出す母体となったことも看過すべきではありますまい(軍部の台頭)。

 この様に、市制施行前後の本市状況も、例外なく世界・国内動向に大きく規定されておりますが、本市のおかれた地域性も見逃すわけには参りません。明治期に県庁所在地となった千葉町ですが、多くのそれが旧城下町という近世に統治機能を有していた主要都市を継承したのに対し、本市はそうした基盤を有してはおりませんでした(ただし、決して寒村であったわけではありません)。従って、他県都は初手から市制を施行しましたが、本市の悲願達成は大正末までずれ込むことになりました。それまでに立ちはだかる多くの課題を乗り越え、紆余曲折の末に成し遂げられたのが本市制施行であったのです。それは、時代の風が本市にも及び、街や人々の生活が大きく様変わりしていく時代でもありました。白黒写真で目にする大正期の千葉市は、総じてモノクロームの印象が強いものですが、その実は総天然色に彩られた華やかな時代ではなかったかと推察いたします。本企画展は、そうした当該期における本市の多様な街と人の世相に迫ろうとするものでもあります。

最後になりましたが、当展示の開催にあたり、多大なるご厚意を賜り、貴重な史資料等の拝借につきまして御快諾いただきました所蔵者及び関係機関の皆様に、深甚の感謝を申し上げます。 


 館 長 天 野 良 介

 

 

(後編に続く)

 

 

 

 「千葉市制施行100周年」を記念する企画展『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』が始まります!![会期:10月19日(火曜日)~12月12日(日曜日)](後編) ―昨年度の特別展『軍都千葉と千葉空襲』、本年度の特別展『高度成長期の千葉』に続く第3弾(最終回)として開催です!!―

 

 

10月16日(土曜日)
 

 前編に引き続き、後編では各章(序章・第1章~第5章)の概要について、この場でご紹介をさせていただきます。前編最後にも述べました通り、こちらをご一読の上でご来館されますと、本展に対する御理解も深まること間違いなしと存じます。

 

序 章 地図で見る市制施行前後の千葉のまち
 今から100年前の大正10年(1921)1月1日、千葉町に県内初の市制が施行され、千葉市が誕生した。
市制が施行された大正時代を通して、戦前までの千葉市には道路や街並みなど、近世以来のまちの骨格が色濃く残っていた。
中心市街地がその姿を大きく変え、現在のまちの形となったのは、昭和20年(1945)7月の七夕空襲による市街地の焼失と、戦後の復興土地区画整理事業によるものであった。
序章では、地図と写真により、姿を変える前の市制施行期における千葉のまちを紹介する。

 

第1章 逆境の中で ―相次ぐ経済危機―
 大正3年(1914)の第1次世界大戦の勃発は、日本にとって「大正新時代の天祐」とされ、空前の経済成長をもたらし、一時的には「大戦景気」とよばれる好景気に沸くことになった。大戦景気は、大正7年(1918)11月の大戦終結の影響による景気の落ち込みがあったものの、翌大正8年(1919)4以降回復し、ふたたび好景気になる。ところが、市制施行前年の大正9年(1920)3月に景気は大きく落ち込み、「戦後恐慌」となる。米価は同年が豊作であったことも裏目に出て、翌10年(1921)には半値まで下落した。
市制の施行から2年後の大正12(1923)年9月1日、関東大震災に見舞われ日本経済は大打撃を受けた。「震災恐慌」である。さらに、昭和2(1927)年3月には「金融恐慌」がおこり、政府のモラトリアム(支払猶予令)によってようやく事態を収拾した。しかし、それもつかの間、昭和4(1929)年10月にアメリカを発生源とする「世界恐慌」の影響が、昭和5年から6年にかけて日本を直撃し、戦前最大の不況「昭和恐慌」を引き起こした。
このように、戦後恐慌に始まる不景気が全国的に続く中、千葉のまちでもデフレーションと失業の波に襲われていた。この最中の大正10年(1921)1月1日、千葉のまちに市制が施行されたのである。
本章では、千葉のまちの職業構成や 物価、農業・漁業・商業に関する資料により、当時の千葉のまちの様子を紹介する。

 

 

第2章 大正デモクラシーと高まる教育熱 ―大正期の学校教育と自由教育―
 明治5年(1872)の学制の発布から始まる近代日本の教育制度は、明治12年(1879)の教育令による学制廃止を経て、明治19年(1886)の小学校令・中学校令・師範学校令の制定により成立した。これらの法律に基づき、千葉のまちにも初等教育機関である「尋常小学校」「高等小学校(のちに初期中等教育機関の位置づけとなる)」、中等教育機関である「中学校」「高等女学校」「師範学校」が設置された。
その後、第1次世界大戦[大正3年(1914)~大正7年(1918)]時の経済的好況により、有産階級の増加や都市化の進展が進み、「大正ロマン」「大正デモクラシー」といった風潮が生まれた。この影響で、一般市民への進学熱の拡大と、それによる中学校などの中等教育機関の不足が問題となった。
千葉においても例外ではなく、大正12年(1923)時点で、市内の中学校は3校であったが、財政難から私立の中学校新規開設を支援した結果、大正15年(1926)は6校に倍増した。
初等教育においては、児童の個性の尊重、西欧教育思想家の影響を受けた児童観の普及などが見られた。特に、本市においては、千葉県師範学校附属小学校(現在の千葉大学教育学部附属小学校)で、手塚岸衛らにより大正年8(1919)9月から大正15年(1926)頃まで「自由教育」が実践されたことは特筆すべきことである。
自由教育は、児童の自治活動を重視し、自教育あるいは自己教育という考えから始まったが、次第に個の尊重へと力点が置かれ、能力適応教育となっていった。
本章では、大正期の千葉町(千葉市)内の学校やその資料、千葉師範学校附属小学校で展開された自由教育について紹介する。

 

 

第3章 大正ロマンと千葉のまち ―花開く大衆文化―
 大正の新時代は、第1次世界大戦の大戦景気にも支えられ、義務教育就学率がほぼ100%になったことや、中等教育への進学熱もあいまって、大衆が文化を享受するようになった。その結果、彼らを対象とした出版・映画・ラジオ放送などの「マスメディア」産業が華々しく台頭してきた。
また、産業構造も第2次、第3次産業の比率が増し、商業や流通が盛んとなった。さらに、都市近郊の鉄道網、自動車や乗合バスの発達もあり、都市部へ人口が集まる傾向にあった。
物資の集散地として歴史的背景をもつ千葉のまちは、県庁が置かれたことに より行政の中核となり、房総各地からの鉄道便、近郊からのバスの便にも恵まれ、人口は増加の一途をたどっていった。
また、大正デモクラシーの影響下、自由と開放感、躍動感にあふれた新しい文芸・音楽・演劇などの芸術が流行し、都市を中心とした大衆文化・消費文化が栄えた。その一方、江戸時代以来の庶民の娯楽である寺社の祭礼・縁日は、千葉神社や千葉寺など千葉のまちでも賑わいを見せている。
こうした時代背景のなか、女性の社会進出がおこり、女性雑誌が次々と創刊され、隆盛をみることになる。「衣」の分野では、華やかな大正ロマンを代表した「銘仙」が流行をみせた。
本章では、経済変動に翻弄されながらも、千葉のまちに花開いた大正ロマンの世界を紹介する。また、大衆文化を支えた演芸場、映画館などのほか、折しも市制施行の1921年(大正10)7月、京成千葉線開通によりにぎわいをみせた海辺の情景を紹介する。

 

 

第4章 町から市へ ―千葉市の誕生―
 明治以降に県庁所在地であった都市の多くは「市」としてスタートしたのに対して、千葉は「町」であり市政の施行は悲願であった。しかし、千葉の町から市への昇格は、順調に進んだわけではなかった。
明治39年(1906)年に人口30,000人を突破し、市制施行に必要な人口25,000人を大きく上回っていたこともあり、明治42年(1909)以降、市制施行への調査が断続的に行われ機運も高まったが、大きく立ちはだかったのは 不足する税収であった。原因は、町収入の大きな割合を占める戸数割付加税に基づく徴税方法では未納者が多いことであった。そこで町は、都市部で比較的採用されている家屋税付加税へ変更しようとした。増税による不公平感から強硬に反対する勢力もあり難航したが、大正8年度(1919)には家屋税付加税を賦課できるようになり、税収問題はいちおう解決をみた。
町にとっての大きな懸案が解決したこともあり、再び市制施行への機運が高まった。大正9年(1920)3月、町議会で市制施行のための建議を可決し、5月に内務省へ意見書を提出したが、12月21日に内務省から市制施行に時期尚早との否定的な回答があり、行き詰ったかにみえた。
そこで、折原巳(み)一郎千葉県知事が上京し関係各所に掛け合った結果、状況が好転し、12月23日に市制施行の諮問が折原知事から町議会に示され、12月27日、町議会は同意する答申を決定した。そしてわずか4日間の準備期間を経て、翌大正10年(1921)1月1日、市制が施行された。
これにより千葉郡から独立し、郡への負担金の支払いがなくなる財政的メリットもあったが、何よりも当時の千葉町にとって、県庁所在地として市制施行に向けてのプライドもあったのだろう。本章では、戸数割付加税から家屋税付加税への変更、市制施行までの経緯、お祝いムードに沸いた市制施行祝賀会について紹介する。

 

第5章 市制施行前後の千葉市をめぐる世相とできごと
 現在、世界的に猛威を振るう新型コロナウイルスの流行は、今から約100年前にも世界的な広がりをみせた流行性感冒(「スペイン風邪」)によく例えられる。市制施行前の大正7年から9年(1918~1920)にかけて、千葉のまちでも猛威を振るっていた。
大正12年(1923)9月1日には関東 大震災が発生し、千葉県でも南房総を中心に甚大な被害が発生した。千葉市は大きな被害を受けなかったものの、一時、東京・横浜からの避難民の受け入れや救護物資の送り出しで騒然としていた。震災は経済に大きな打撃を与え、市制 施行後の千葉のまちに暗い影を落とした。
こうした沈滞的な雰囲気を打ち払うべく大々的に行われたのが「千葉開府八百年記念祭」であった。大正15年(1926)は、千葉氏が上総国大椎(緑区大椎町)から千葉へ本拠を移して八百年の節目の年に当たるとして、子どもから大人まで千葉のまちをあげての一大祝賀行事が 行われた。
本章では、本企画展のエピローグとして、当時の新聞記事や実物資料をもとに、ほどなく戦争という暗い影が忍びよることになる市制施行前後の千葉のまちの様子をみていきたい。

 

 以上となります。改めまして、10 月19日(火曜日)に開幕する本館企画展へのご来館を心よりお待ち申し上げております。

 最後に、本展の内容とは直接に関係しない話題となりますが、一点情報提供をさせてください。本館で本年度5月から7月にかけて開催いたしました、小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-」では、「千葉市近現代を知る会」の皆様に多大なるお力添えを賜りました。それどころか、同会の御力添えがなければ本展開催はかくも充実した内容とはなりえなかったことは確実です。特に、企画・展示等に到るまで全面的にご支援くださった、同会代表の市原徹さんの存在が我々の小企画展の原動力となったのです。その市原さんの手になる、気球連隊に関する論考が、現在発売中の雑誌『丸』11月号に掲載されております。四段組8ページにわたる論考は、掛け値なしに充実の内容でございます。今後の日本陸軍における「軍用気球」活用と気球隊(気球連隊)」の歩みを語るための基本文献として重用されることは必定だと思われます。また、本館展示でも山のような貴重な資料を御提供いただきました、同会員伊藤奈津絵さま所蔵の写真が、本誌中に数多く鮮明な形で収録されていることも特筆されます。以下、論考のタイトルと小見出しとを掲載させていただきます。一般書籍とは異なり、雑誌は品切れとなるのも早く、品切れると入手し難いものでもあります。御興味がございましたら、是非とも早めのご購入をお薦めいたします。「気球聯隊」に関しましては、本館でもブックレット刊行を期しておるところです。しかし、本稿を拝読させていただき、正直、市原さんの論考だけあれば充分ではないかと思わされるほどの素晴らしい内容であります。皆様にもご一読をお薦めいたしたく存じます。

 

 

「千葉にあった陸軍気球連隊クロニクル」市原 徹


●現在の千葉市稲毛区作草部に所在していた「気球聯隊」 陸軍のなかで軍用気球を扱う
唯一の聯隊であった気球聯隊の歴史を追っていく!


・はじめに
・明治・大正期の軍用気球と気球隊
・陸軍軍用気球研究会と所沢飛行場
・気球隊の中野から所沢への移転
・凧式気球から魚型気球へ
・気球隊の航空兵科への転科
・気球隊の千葉移転
・千葉市北部の軍事施設
・昭和の気球隊とアジア太平洋戦争
・満州事変と上海事変
・聯隊への昇格と砲兵科へ転科
・日中戦争
・ノモンハン事件
・太平洋戦争参加と偵察気球の終焉
・防空気球の制定
・ドーリットル空襲
・防空気球の役割
・風船爆弾と気球聯隊の任務
・気球連隊と第二格納庫の解体

[「雑誌『丸』2021年11月号 特集 日本の傑作軍艦 防空駆逐艦「秋月」型」(潮書房光人新社)]

 

 

 

 

 

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