ホーム > 郷土博物館について > 館長メッセージ

更新日:2020年9月25日

ここから本文です。

館長メッセージ

公共機関における戦争関連展示会の在り方 ―または、気になる風潮に対して極々私的に思うこと―

9月25日(金曜日)

 あと少しで10月となります。早いもので、本年も残すところ3ケ月余り、本年度も折り返しとなります。つい先日の通勤途中に、今年も香しき金木犀の香りに出会うことができました。ただ、通勤経路に彼岸花が存在しないせいでありましょうか。残念ながら、今年は路傍の真っ赤な彼岸花(曼殊沙華)に遭遇することは叶いませんでした。昨年までの4年間は、勤務校前の全ての街路樹の足元に曼殊沙華が一斉に開花。それは見事であったものですから大いに残念な思いであります。

その彼岸花ですが、その名称からも明らかなように、この時季に墓地に咲く花という印象が強い所為か、鮮血のような色合いが理由なのか、はたまた根に強い毒があるからなのか、一般的に忌避され勝ちの草花のように思います。実際、日本古来の詩歌の世界でもほとんど目にしません。調べてみると万葉集に見える柿本人麻呂歌にある「壱師(いちし)」呼称で詠みこまれたものが最古の事例だそうですが、案の定、それ以降の古典詩歌にはさっぱり取り上げられておらず、その作例のほとんどすべては明治期以降のものと言って宜しいようです。
しかし、学生時代に出かけた奈良盆地で頻繁に出会った草花として、私にとっては忘れ難くも大切な存在となっております。この時季に古都に足を運んだのは、学生時代に所属したサークル活動の夏合宿が、毎年この時期に設定されていたからでしたが、それは9月に入ると宿代がお安くなるという如何ともし難い現実があったからに他なりませんでした。当時の学生はバイトをする機会も今のように潤沢ではなく、誰もが「慢性手元不如意症患者」でありましたから、新幹線利用など夢のまた夢。往復ともに夜行鈍行電車の利用でした。
ロクに寝ることもできずにクラクラ状態で到着した古都でしたが、そこでは、大いに気取ってその地を闊歩していたように思います。当時の座右の書であった、和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』、はたまた堀辰雄『大和路・信濃路』あたりに触発されておりましたし、ポケットに會津八一『鹿鳴集』あたりを偲ばせているのがファッションでもあったように思います。そんな訳で、父親から借り出した「ニコンF2」を駆使して、当時一世を風靡した「入江泰吉」擬きの写真をものしては悦に入っておりました。その際のモチーフとして必ずと言っていいほどフレームに取り込んだのがこの花でした。とりわけ飛鳥の地では、9月の青空と収穫前後の田地を背景に、畔に陣取る曼殊沙華群落の深紅が本当に絵になったものです。遠景に古寺や水田に棚引く野焼きの煙をソフトフォーカス状態で映し込めば申し分のない「勘違い写真」となりました。今思い返せば、懐かしい想い出ではありますが、お恥ずかしい若気の至りだとも思います。スノビズムと紙一重、いやむしろそのものズバリかもしれません。
今思えば、モグラ等に穴を開けられないよう、根に強い毒性のあるこの花が畔に植えられたこと、飢饉の際には毒抜きをして澱粉を最終的な食用とする救荒作物としていたなど、その昔の百姓の知恵と苦労などには全く無頓着で呑気に写真を撮っていたことも、大いに恥ずべきことと思っております。いやはや、調子に乗って少々個人的なお話が過ぎたことをお詫び申し上げます。


さて、本日は、一ケ月半後に開催される本館特別展『軍都千葉と千葉空襲 ―軍と歩んだまち・戦時下のひとびと―』にも因み、戦争関連の展示に対して寄せられる、昨今よく耳にする大変に気になるご意見について、当方としての存念を一言申し上げたく、あえて筆を執った次第でございます。ただ、最初に申し上げておきますが、以下の内容につきましては、飽くまでも私個人の見解であり、本館の総意でも、まして千葉市としての公式見解でもございません。もっとも、ご一読頂ければ、物議を醸すようなことなど一切ない、誰にでもご理解いただけるお話だと確信する次第でございます。

我々のような公共機関でも、先の戦争に関する展示会を行うことが間々あることは言うまでもありません。そして、かような展示会に際して、戦争の実体験をお持ちの方々からの証言を取り上げることもしばしばであります。そうした証言においては、それが軍人であれ、一般市民であれ、国内外で戦争を体験して戦後まで生き延びた人々に共通するのが「こんな悲劇は二度と繰り返してはいけない」「人の生命をかくも軽く扱った戦争など二度とご免だ」との思いであります。「戦争の時代に戻りたい」「戦争は楽しかった」との声に触れることは寡聞にしてございません。祖国のために自己を犠牲にして戦ったことを誇りに思われる軍人の方には多く出会いますし、そのこと自体は何よりも尊いことだと存じます。ただし、そうした皆さんでも「戦争の時代に戻りたいか」と問われれば、大方の皆さんは「いや、戦争など二度とするものではない」とお答えになることを、我々は重く受け止める必要がありましょう

しかし、公共機関の展示会等において、かような戦争体験に対する証言を取り上げると、往々にして「これは個人的な意見にすぎない」と評されることがあるとよく耳にいたします。つまりは「全体の意見にはあらず」「戦争をプラスにとらえている人もいる」、延いては「戦争への負の印象操作をしている」「自虐史観だ」との謂でありましょう。確かに、個人の体験や意見であることには間違いありません。勿論、戦争の時代についてプラスのベクトルをお持ちの方はいらっしゃるでしょうし、「言論の自由」を保障する憲法下の民主国家において、そのこと自体を、第三者である当方がとやかく論う筋合いはございません。しかし、こうした言説に違和感を覚えるのは、果たして私だけでしょうか。天性の天邪鬼をもって任じる私は、こうした言説に「お言葉を返すようですが、貴方様のご意見も個人的なそれではございませんか??」と問い返したくなります。

広く戦争体験について渉猟されてきた研究者や博物館職員の皆さんの調査結果によれば、実際に戦場で死線を彷徨った一兵卒、そして空襲等で大切な人々や財産を失った体験をお持ちの民間人のうち、戦争を生き抜いた多くの方々が「個人的」にそう証言しております。それは最早「個人的意見の表明」というフレームを大きく逸脱しましょう。つまり、それこそを「公論」と称するのではありますまいか。私は、まずそのこと自体を真摯に、かつ謙虚に受け止めるべきだと考えますが、如何でありましょうか。

民間人という視点から更に申せば、日本では時の政府が打ち出した「国家総動員体制」の下、粉骨砕身して戦争に協力した民間人が、たとえ空襲等により自らの身体的損傷、親族の生命や全ての財産を失う等により、戦後の生活困難に陥っても、戦後補償の対象とはされておりません。その根拠とされた法理が「戦争被害受忍論」であります。小難しく聞こえますが、平たく申せば「戦争では皆がひどい目に遭った。だからみんなで我慢しなければならない」という理屈です。また、空襲等で親族の喪い天涯孤独となった戦災孤児の戦後は、調べれば調べるほどに目を覆いたくなるものです。何故何の落ち度も罪もない子供が、何故戦後にかくも社会全体から厄介者扱いされなければならなかったのか。どうして手厚い行政による保護の手が差し伸べられなかったのか。教育者の端くれであった身として暗澹たる思いを禁じえません。因みに、ドイツでも、財政状況的に日本とは比べるべくもないイタリアにおいても、民間人への戦後補償は(たとえそれがファシズム政権の責任であれ)戦後政権において担われていることを知っておく必要がありましょう。わが国では旧軍人・軍属とその遺族に対しての戦後補償はあります(勿論、そのこと自体はすばらしいことです)。ただ、問題は、その方々と戦争遂行を下支えした民間人との間に、一体如何なる本質的な差があるのかということです。このことは、民間人にとっての「国家総動員体制」とは如何なる意味を持った政策かを問い直す、価値ある問いにもなろうかと存じますが如何でしょうか。

つまり、戦後を生きる者、研究者、及び公共の博物館の役割は、綿密な考証を経た可能な限り多くの客観的歴史事実(何時、誰が、何処で、何を、如何に行ったのか等々)、そして当時を生きた多くの方々の証言(その時如何に感じ、何を思ったのか等々)を、たとえそれが不都合な真実を含んでいようが、可能な限り恣意を排して提示して、検証を加え、伝えていくことにこそ存するのだと考えます。そして、そのことが戦争を知らない世代が行うべき責務であり、二度とこうした戦争を繰り返さないことに直結する活動なのです。

ただ、展示する側が常に大切にすべき姿勢は、展示を基にした「価値的判断」は観覧された皆様に委ねられるものという矜持をもつことだと思います。勿論、展示を準備する側も人の子です。客観性を第一にしつつも、そもそも「意図」をもって展示企画を構成する以上、個人の意思が含まれるのは致し方がありませんし、それをすべて排除することはできません。しかし、我々(特に公共的な機関)が行うのは、史料の展示や調査研究を通して、可能な限りの客観的な事実を伝えることであり、意図して価値的な判断を提示することは慎まなければならないと考えます。しかし、再度繰り返しますが、適切な価値判断を行うための客観的な歴史的事実に蓋をして、覆い隠すことは避けなければなりません。後世を生きる人々は、どのような事実であっても、そこから目を背けてはなりません。本来、そこに如何なる忖度もあってはないのです(勿論、プライバシーや個人としての名誉への配慮もなく、何から何までを白日の下に晒すべしと言っているのではありません)。少なくとも、私自身はかように考えます。それは、私自身が、長きにわたった社会科教師として教育現場において生徒たちに対しても貫いて参った矜持でもあります。このことを、皆様は如何お考えでしょうか。

国家間や民族間、宗教に関わる対立はこれからも絶えることはありますまい。しかし、少なくとも、武力による問題の解決が、決して一人ひとりの人間の幸福には直結していないことだけは、まぎれもない明確な歴史的事実であろうかと存じます。秋の特別展では、ご来館いただいた皆様に、かようなことどもに思いを巡らせていただける機会としたいものと、私個人としては考えます。是非ともご期待ください。


最後に、偶々現在読んでいる木村陽二郎『江戸期のナチュラリスト』(朝日選書 1988年)にて出会った、貝原益軒の言葉が印象的でありましたので、ここに引用して本稿を閉じたいと思います。益軒は、ご存知の通り江戸時代中期を代表する朱子学者・本草学者であります。福岡藩黒田家に儒官として仕え、多くの著作をものしております。何より、よく知られる『養生訓』の著者らしく85歳の長命を保ちました(彼の死後2年後、徳川吉宗が8代将軍に就任し時代は「享保」となりました)。以下は、その主著『大和本草』にある文章の現代語訳です。文章にある「本草学」を「学問」に入れ替えれば、如何なる時代にも、如何なる学問に携わる人にも通じることと存じます。勿論、自分自身への強い自戒を込めての引用でございます。一読、今から300年以上も前に生きた益軒の真摯で謙虚な学問への姿勢に、背筋の伸びる思いを禁じ得なかったことを告白させていただきます。「須らく首を垂れて古人の金言に之倣うべし」。

 

 「およそこの学、本草学をする人は博学で広い知識を持ち、多く聞き多く見て疑わしくあやしいことを排することである。かれこれを参考し、是非を分かつこと精細でなくては実際の知識としてはならない。自分が見たり聞いたりしたことを妄りに是として、人が自分と異なることを言うのを非となして固執して誤りにおちいってはならない。おおよそ見聞が少ないことと、見聞を信じることと、ただただ自分の説をとって軽率に決定すること、以上の四つは必ず誤りがある。」

「本草および群書に書かれていることが互いに食い違っていることを知るべきである。その中の一つをとって妄りに信じてはならない。ことごとく書を信ぜば書なきにしかずと孟子はいう。自分の『大和本草』の記事のなかにも誤りが多いだろうから、その誤りを正して下されば幸いである。」

 

本館の重要な機能「千葉市史編纂事業」 ―「千葉市史 史料編10 近代」1月刊行予定― ―10月行事追加「2AW観戦無料プロレス 第2回ファイト!ファイト!千葉城」―

9月18日(金曜日)

 本館正面玄関下で、「日中友好のアサガオ」が栽培されております。さすがに時季のものにて、8月中は我が物顔に咲き誇っておりましたが、9月も半ばを過ぎるとすっかりその勢いは影を潜め、今では地面近くに申し訳程度に幾つかの花をつけるだけとなっております。9月はじめの本館ツイッターにも掲載いたしましたが、当方の偏愛する高浜虚子作品に「土近く 朝顔咲くや 今朝の秋」なる句がございます。毎朝の出勤時にまみえる今日この頃のアサガオに接するにつけ、この虚子の秀句が念頭をよぎります。

 さて、今回は本館の重要な機能の一つである標記事業について取り上げたいと存じます。本事業の目的は、端的に申し上げれば、市内外に残る本市に関係する史料(古文書・古い書類・絵図・地図・写真・刊本・新聞・民具など)を広く渉猟し、それに基づいて千葉市がこれまで歩んできた歴史を明らかにすること。そして、調査・研究の成果を市民に皆様に広く公表することを通じて、市民の皆様の郷土理解を深め、千葉市民としてのアイデンティティを涵養していただくことにあります。

 勿論、こうした各地方公共団体の手になる自治体史の編纂事業は、千葉市だけはなく、周辺市町村でも必ずといってよいほどに執り行われておりますし、千葉県としても千葉県史料研究財団の手により、平成3年度から18年計画での編集・刊行が進められました。その成果は『千葉県の歴史』(全39巻)と『千葉県の自然誌』(全12巻)という大変な労作となって纏まられ、既に刊行を終えております。何冊か品切の巻がございますが、千葉県文書館(千葉市中央区中央)にて今でもそのほとんどを購入することのできる貴重な資料集となっております。因みに、本館の総括主任研究員である外山信司氏も、当時は史料研究員のお一人として『中世史料編』の編集に深く関わっておられました。

 我が千葉市における「市史編集事業」に戻りますが、歴史を辿れば、昭和44年12月、当時の宮内三郎市長の企画により、市制施行50周年記念事業の一環として開始されたときにまで遡ります。それからこれまで何度かの中断を挟みながら『千葉市史』の形で成果を刊行し続けて参りました。この間、『通史編』を全3巻(昭和49年刊行)[絶版]、『史料編』につきましては、昭和51年刊行『史料編1 原始古代中世』[絶版]から、平成16年度刊行『史料編9 近世』までの合計9冊が刊行されております[史料編2~9の近世編は全巻販売中]。また、並行して『社寺よりみた千葉の歴史』(昭和59年)、『千葉市南部の歴史』(昭和61年)、『絵に見る図でよむ 千葉市図誌』上・下巻(平成5年)、『天保期の印旛沼掘割普請』(平成10年)といった書籍の刊行もいたしております[何れも現在購入可能]。

 別に、広く市民の皆様へ市史編纂事業の成果をお知らせすることを目的に、市史研究雑誌として『千葉いまむかし』(昭和63年度から年1回刊行:最新33号)を、より簡略なリーフレット形式の『ちば市史編さん便り』(平成20年度より年2回刊行:最新24号)を、それぞれ刊行しております(前者は有償頒布。後者は無償配布)。以上、現在でも購入可能な冊子等々につきましては、本館のホームページ内のコンテンツ「千葉市史」をご覧いただけますと、各冊子等の内容の詳細、在庫の有無、頒布価格等を確認することができますので、是非ともご確認ください。併せて、今年度も1週間後の9月26日(土曜日)に第1回が開催される「市史研究講座」のように、公開講座の形式で市民の皆様に市史編纂事業の成果をお伝えするための取り組みも行っているところでございます。

 さて、これまで縷々ご説明して参りましたことで不思議なことがございましょう。平成16年に『千葉市史 史料編9 近世』の刊行から既に15年程も経過しているが、その後の近現代史料編刊行はどうなっているのかということです。お待たせいたしました。「千葉市開府900年」を迎える令和8年度を目途に『千葉市史 史料編 近現代』(10~12巻:全3冊)の刊行ができることとなりました。そして、過去3年間にわたる編集委員の皆様のご尽力の成果が実り、本年度末に1巻目に当たる第10巻が刊行できることになりました(タイトルにありますように1月刊行を予定しております)。また、その後は各巻の編集作業を通じて、令和5年度に第2巻目を、「千葉開府900年」を迎える令和8年度に最終となる第3巻目の刊行により、完結の予定となります。

昭和49年の『市制施行50周年』を契機にスタートした本市の市史編纂事業も、令和3年の『市制施行100周年』を経た令和8年度『千葉開府900年』をもって、過去50数年にもわたる「市史編集事業」に、ようやく一区切りがつけることができる目途がつきました。しかし、私たちは、それで『市史編纂事業』が完結するとは考えておりません。すでに刊行から50年を経て最新の研究成果に鑑みて、内容的に既にその役割を終えている『通史編』(それが再販をせずに絶版としている理由です)を、この間の調査の結果として纏められた『史料編』を用いて新たに書き起こす事業を進める必要があります。本来であれば、通史編というものは、史料編の編纂を受けて行われるのが筋でありますが、千葉市では逆立ちした状態で市史の刊行が行われました。そもそも、市内に如何なる史資料があるのか未だ判明していない段階で、如何にして通史記述をしたのかが不思議でありますが。少なくとも令和8年度の史料編の完結をもって、ようやく本来の形で通史編の叙述が可能な前提条件が整うこととなる訳です。

その点で、現状において、我々千葉市が見倣うべき取り組みをされているのが県内の市川市であります。市川市では、過去『市川市史』(昭和40~50年)が歴史関係書籍の出版元である吉川弘文館から刊行されております(通史編・資料編併せて7巻構成全8冊)。自治体史が出版社から刊行されること自体が極めて稀なことであります(その他に思いつくのは『鎌倉市史』くらいでしょうか)。経緯は存じあげませんが、大変に質の高い内容と評判の市史でありますので、あえて出版社が引き受けての刊行となったのかもしれません。しかし、流石にその後の市川市の変貌著しく、さらに新たな調査・研究の知見も積み重なったこともあり、市川市としては、平成20年度から新編『市川市史』の編纂事業を開始いたしました。全7巻の刊行であり、構成は以下の通りであります[第1巻「地形と環境」、第2巻「ムラとマチ」、第3巻「まつりごとの展開」、第4巻「変貌する市川市域」、第5巻「民俗」、第6巻「自然とその変遷」、第7巻「通史」]。その他に別冊として『写真図録 この街に生きる、暮らす』の刊行もなされるようです。既に多くの巻の刊行が済んでおりますが、何よりも驚くべきことは、内容の平易さと装丁等の親しみ易さであります。一般市民の皆さんが気軽に手に取って、自ら居住する市川市の自然・歴史・民俗の特色を理解できるよう、徹底した編集方針が各巻で貫かれております。それでいて、記述内容は少しもレヴェルを下げておりません。オールカラーで誰にでも見やすく、図版や写真も多数取り込んでおります。各巻の頁数は概ね450頁を越える大分な冊子となっておりますが、専門家にも一般の読者にとっても満足できる充実の内容であります。更に驚くべきことは、1冊の頒布価格が全巻とも1冊1,000円という驚異の価格設定であることです!!この内容と装丁であれば1冊3,000円と言われても誰も疑問に思わないでしょう。刊行から1年もしないうちに第3巻は完売し、既に品切状態となりました。市史がたった1年で入手困難になるなど普通は考えられません。これも、内容の充実とお買い得価格の設定によるものでありましょう。勿論、費用の大部分を市川市が負っているのでしょうが、市民の皆さんにとってこれほど有難く、市の姿勢に誇りをもてることはありますまい。誰に聞いても「さすが!文化都市の市川市!!」と高く評します。市川市の見識の高さと英断は正に見上げたものだと存じます。千葉市として是非とも手本とすべき事例だと思います。市役所をはじめとする市川市内関連施設で入手可能でありますので、皆様も是非ともお手にとっていただければ、その素晴らしさとコストパフォーマンスとに感嘆されること間違いなしだと確信いたします。因みに、品切れた新編『市川市史』第3巻は私個人も未だ入手が叶わずにおります。未だ全巻完結前段階での既巻品切を避ける必要から、市川市には是非とも増刷をして頂きたいと熱望する次第であります。

本市の市史編纂事業に戻りますが、その他にも、同じく内容の古色蒼然が顕著な『史料編1 原始古代中世』(絶版)新編集への着手、近世編刊行後に新たに発見され続けている新史料に基づく『近世 補遺編』の編纂、テーマごとに編集された史料編作成(例えば『近世道中記集成』等々)、更には、一般市民の皆さんに向けての千葉市内の歴史・民俗を概観できる一般図書の編集と刊行等々、市史編纂事業として取り組むべきことは未だ未だ無尽蔵にあると言っても過言ではありません。国内に冠たる文化の薫り高い政令指定都市「千葉市」として、市民が誇りうる活動を千葉市として継続的に推進して参らねばならないと思っておりますし、本館もその一翼を担うべくその役割に邁進して参る所存でございます。是非とも、市民の皆様の応援を賜れれば幸いに存じます。

 

【10月行事の追加情報】 主催:2AW 後援:千葉市教育委員会

今年もプロレス団体「2AW」が観戦無料プロレス
「第2回ファイト!ファイト!千葉城」を開催します!!

[日時]令和2年10月3日(土曜日)12時00分~13時00分(2試合予定)
※雨天時は10月17日(土曜日)に順延します。
[会場]千葉市立郷土博物館前「いのはな公園」特設リング
[観覧]観戦無料(申し込み等は必要ありません)
※コロナ感染症防止のため、ご観戦の際にお願いしていることがございます。詳細につきましては、必ず「2AW」ホームページにてご確認の上でご来場くださいますようお願いいたします。→当館からのご案内 →2AWホームページ(外部サイトへリンク)

 

」ザクセンの古都ドレスデンとケストナーのこと―または 戦後復興における官民の在り方について―(後編)

9月12日(土曜日)

 私がドレスデンを訪問した当時、旅行者の目につくエルベ川沿いの記念碑的建造物群(ブリュールのテラス・カトリック宮廷教会・ゼンパー歌劇場・ツビンガー宮殿等々)は既に修復され復興しておりました。しかし、戦後50年経過しているにも関わらず、ザクセン王宮は復旧途上。ドレスデンの象徴たるプロテスタント聖母教会(フラウエン・キルヒェ)に至っては未だ瓦礫の山のままでした(広島の原爆ドーム同様に戦災遺物としていた側面も大きかったのでしょう)。

その時に垣間見た都市ドレスデンの姿は、第二次世界大戦後に成立した社会主義国家東ドイツの実情を彷彿とさせるに充分でありました。単純な比較は慎むべきとは思いますが、芸術文化面はいざ知らず、同じ民族が戦後つくりあげた工業製品を比較すれば一目瞭然。社会主義国東ドイツ唯一の国民車トラバントと、西ドイツ企業フォルクス・ワーゲン社(ドイツ語で国民車の意味)の自動車とを比較すれば、工業技術力(実質経済)の格差はもはや埋め難いものなっておりました。それでも、ドレスデンは未だマシな方。その際に歴訪した旧東ドイツの主要都市であった東ベルリンやライプチッヒは、それ以上に戦禍の跡が禍々しい程に放置されたままでした。東ベルリンでは、裏町に回れば街中の壁という壁は、ソ連軍によるベルリン陥落時に由来すると思われる弾痕で穴だらけでした。商業都市ライプチッヒにあるヨーロッパ最大の面積を誇る頭端式の中央駅。全部で24本ものプラットホームのある広大な駅構内で、使用可能なホームは中央2~3本のみであり、その他大部分が屋根から線路に到るまで空襲後に崩れ落ちた状態のままに放置されていました。高熱で曲がりくねった鉄骨が延々と連なる、未だ廃墟同然の構内風景に、東ドイツ時代の国内経済の実情を痛いほどに感じさせられたのでした。これらは、もはや「戦争遺産の保存」のレベルではありませんでした。因みに、私の訪問した2年後に当該駅舎は全面改修され、ようやく戦前の威容と賑わいとを取り戻したと聞きます。

再びドレスデンの話題に戻りますが、更なる驚きはケストナーの愛してやまなかった「プラーグ(プラハ)通り」の復興ぶりを目の当たりにしたときでした。ケストナーが、その賑わいと典雅さとを、溢れんばかりの哀惜とともに作品に描き込んだ目抜き通りの面影は、どこを探しても見当たりません。街としての復興はなされてはいたものの、そこは東ドイツ時代に再建された四角四面の建造物群の連なりと化しており、古都の面影は片鱗すら残っておりませんでした。そこは、もはや世界中のどこにもある新興都市の繁華街に他なりません。もしケストナーが、今の目抜き通りを見たら何と表現したでしょうか。変わり果てた最愛の故郷の姿をその目で見ることなく他界したことは、ある意味で幸せであったのかもしれません。もっとも、彼にとっての「ドレスデン」は、空襲の日を境に単なる都市名の「記号」と化していたことでしょう。因みに、彼は1974年に、かつてのバイエルン王国の都ミュンヘンにて75歳の生涯を閉じました。

 記録によれば、「ドレスデン爆撃」は1945年の2月13~15日にかけて、連合国軍(イギリス・アメリカ)によって波状的に4度に渡って行われたとのことです。のべ1300機の重爆撃機が投入され、合計3900トンもの爆弾が投下されたと言います。その結果、市街地の85%が瓦礫と化し、実数の確定は難しいようですが、2万5千人とも15万人とも言われる一般市民が犠牲となりました。ドレスデンへの空爆については、東から進撃するソ連軍を空から支援するという名目は存在したものの、その当時は既に大戦の帰趨はほぼ決着しておりました。しかも、軍事拠点のほとんど存在していなかった文化都市ドレスデンを爆撃し、戦闘員ではない一般市民を巻き込むことの戦略的な意味はほとんど存在していなかったと言われております。ロンドンへの空襲、ユダヤ民族に対する迫害等々に対するナチスドイツへの憎しみ拭い難き、連合国側の人々からですら「ドレスデン爆撃」を強行した自国や連合国へ多くの非難の声があげられたことも付記しておく必要がありましょう。戦後もその是非についての論争が延々と続けられたのでした。これについてもケストナーは憤慨を隠しません。

「ああ、いい争いがなんになるんだろう?いい争ったところで、ドレースデンを生き返らせはしない!美しさを、死人を生き返らせはしない!」

 何れにしましても、ドレスデンへの訪問を通じて、私の中でこの街は「憧憬の街」から「追憶の街」へと変容しました。美しいドレスデンは心の中で思い描く街となったのです。腹いせに、重さに耐えかねたスーツケースが変形したほど、古き良き戦災前のドレスデン(ベルリン・ライプチヒ)を撮影した写真集を何冊も現地で購入しました。しかし、その後、官民の手により瓦礫の破片を一つひとつ組みあげる途方もない作業の末に、2005年「聖母教会」の再建がなりました。いつの日にか、広範な市街地の復興に手が及び、再び典雅なプラハ通りが蘇り、「エルベ川の真珠」として不死鳥の如く甦らんことを祈る次第であります。それが、ケストナーに限ることなく、戦災で犠牲となったこの美しい街を愛した数多の人々の供養にも繋がると思うのです。もっとも、私が願うまでもなく、おそらくドレスデンは今後数百年にも渡る復興の時を刻み続けることでしょう。私自身は、あの世に旅立つ前に、更なる復興の進んだ街を再訪し、かのゼンパーオーパーでの「シュターツカペレ演奏会」に足を運ぶことが大きな夢です。

こうした戦後復興の在り方は、街(国家)の歴史と文化的伝統を誇りとし、自らのアイデンティティとして位置づけようとするヨーロッパ人の高い精神性を示す動向であると思います。特に、そうした動きが官民の双方に存在していることに大いに打たれるのです。つい最近の我が国での話題でありますが、広島市内で被爆を奇跡的に生き延びた、大正13(1913)年建造になる4棟の赤煉瓦造「旧陸軍被服支廠」について、管理する国・広島県は耐震性不足を理由に、1棟保存の上で3棟を解体する方針を固めたと報道されました。こうした動向には現在多くの市民(専門家も含む)の反対運動が起こっていると聞き及びます。奇跡的に残った「被爆の生き証人」としての大規模倉庫群を、たとえ一部を残すとは申せ、全容を地上から抹消してしまうことが果たして適切なのか大いに疑問です。無いものを新たに造ろうというのではありません。それとも被爆記念としては「原爆ドーム」だけあれば充分という判断でしょうか。飽くまでも個人的な見解ではありますが、世界に被爆という負の遺産をアピールできる、またとない歴史遺産として積極的な保存・活用に供することこそ、国際社会における我が国の責務と考えますが如何でしょうか。幸いに現在再検討が行われる可能性が浮上しているそうですが、予断は許しません。戦跡に限らず、文化遺産を比較的簡単に破壊する我が国の姿勢、保存の重い負担を所有者に課す姿勢、これらは我が国の歩んだ歴史そのものから目を背けることになりますまいか。そうしたことにこそ租税を費やすことが、文化国家としての在るべき姿に他ならないと考えます。少なくとも、私自身も含め多くの方々は、整備された「旧陸軍被服支廠」を拝見するためだけにでも広島に足を運ぶと思います。

最後に、我が国とは真逆の動きをとるドイツの動向をご紹介いたしましょう。かの国では、かつて東ベルリン地区に存在し戦災で破損、後に東ドイツ政権の下で解体撤去されたベルリン王宮を、統一後に復興する機運が高まりました。そして、東西ドイツ統一から30年を経過する本年10月の完成を目指し、シュプレー川中洲の旧地に昔日の外観を忠実に再現した建造物として再建工事が行われております。本王宮は、第一次世界大戦中までは、プロイセン国王でありドイツ帝国皇帝でもあったホーエンツォルレン家の居城でありました。旧東ドイツ社会主義政権が悪しき旧制の象徴として全面撤去したのです。その建造物を復興しようというのです。王宮跡地には旧東ドイツが建造した「文化宮殿」なる現代建築がありましたが、それを全面撤去し平地に戻し、一から王宮を建造しなおすことにしたのです。そのエネルギーと莫大な費用とは、とても政権の一存で決定できることではありません。広範なる議論の末のドイツ国民の総意に基づく事業に違いありません(実際に様々な観点からの反対意見も多くありました)。ドイツ民族の精神的支柱としての象徴的建造物再建を重視する官民の合意形成が執り行われた結果なのです。ただ、復元は外観のみとし(内装は再現せず)、「フンボルトフォーラム」という、広く市民が利用する複合文化施設とすることを落し処として合意形成に到ったと耳にしております。こうした動きにこそ、国家の文化的水準を計るバロメータが存すると思います。幾ら経済大国であると言っても、決してドイツの財政的状況が潤沢であったわけではありません。しかし、国家として何を大切にし、何に予算を優先的に配するのかのビジョンを国民に発し、議論を経たうえでの合意をとりつける姿勢と手続きの明確さに、私は議会制民主主義国家としてのドイツの矜持をみる思いがいたします。何でもかんでもドイツが素晴らしいと言うつもりはありませんが、同じ第二次世界大戦の敗戦国として我が国としても倣うべきことが多いと存じますが如何でしょう。 

今回は、前後編で、ドレスデンとケストナー、そして都市の戦後復興の在り方を巡る諸々について述べて参りました。勿論、建築に石材・煉瓦等を用いることの多いヨーロッパ諸都市と、木と紙で建築された建造物の多かった日本国内の諸都市とを同列に論ずることはできません。無くなった建物を一から再現することまで望むものでもありません。しかし、せめてせっかく生き残った建造物等を「戦争遺産」として保存・活用することこそ、「戦争の惨禍」を繰り返さない決意の表明となり、子々孫々へとそのバトンを引き継ぐ取り組みになるのだと信じてやみません。そして、これこそが、官民挙げての「戦後復興」の望ましき姿であり、二度と戦争を繰り返さないとの「平和教育」に直結するのではないかとも考えます。因みに、「軍都」であった千葉市内には、多くはありませんが今も貴重な戦争遺跡(建造物)が残されております。それらは、市民総務課主催の「戦跡散歩」等の活動を通じて平和教育に大きく貢献してくれていることも忘れてはなりません。

 

 

ザクセンの古都ドレスデンとケストナーのこと―または 戦後復興における官民の在り方について―(前編)

9月11日(金曜日)

 9月も半ばとなり、あと半月もすれば令和2年度も折り返しとなります。未だ未だ「秋たけなわ」とは程遠い現況にございますが、いのはな公園を歩んでいると降り注ぐ「蝉しぐれ」も、昨今ではツクツクボウシが主流派となりました。「暑さ寒さも彼岸まで」と申します。あと1~2週間の辛抱かと存じます。その時期になると、どこからともなく金木犀の芳香が街を漂うようになりましょう。私自身は、秋の訪れを最も身近に感じることが、金木犀の香りと彼岸花(曼殊沙華)の開花でありますが皆様は如何でしょうか。因みに、私の古くからの親友に毎年初めて金木犀の香った日を手帳に記録している風流士がおります。その顰に倣い、当方も見習おうといたしましたが、生来無粋の当方にはついぞ続けられた試しがありません。確か、昨年は例年より若干早かったように記憶しております。9月20日過ぎであったでしょうか。

さて、8月は6日・9日の広島・長崎への原爆投下、そして15日の終戦と、先の大戦を偲ぶための記念日が続きました。今回は、1か月半後に開催の特別展『軍都千葉と千葉空襲 -軍と歩んだまち・戦時下のひとびとー』に因んだ連載としまして、遠くヨーロッパを戦場とした「第二次世界大戦」の状況に目を転じてみようと存じます。先の大戦がヨーロッパにおいても大きな惨禍をもたらしたことは申し上げるまでもありません。ヨーロッパ諸国でも、我が国やアジア諸国にも匹敵する幾つもの惨劇が繰り返されました。ナチスドイツによるオランダ「ロッテルダム空襲」、同軍によるソ連「レニングラード包囲戦」、連合国軍によるドイツ諸都市への空襲、そして何よりもナチス政権がユダヤ人に加えたホロコースト等々。枚挙に暇がない事例をあげることができますが、今回は「東京大空襲」と並ぶ大規模空襲被害を受けた都市として世に名高いドレスデンと、そこに生まれ育った作家エーリッヒ・ケストナーに焦点をあてようと思います。


現在のドイツ(ドイツ連邦共和国)東部を流れる大河、エルベ川中流の河畔にザクセン州都ドレスデンがあります。川を遡れば国境を跨いでチェコ共和国の首都プラハまでは150km程、ドイツ国内を下ればハンブルグを経て北海に注ぐまで400km程となります。そのハンブルグ港湾部には、最近この川の名前に因んだ現代的な音楽ホール「エルプフィルハーモニー」が開館(音響設計は世界中の音楽堂を手掛ける日本の「永田音響設計事務所」によります)。その美しくも奇抜な外観と優れた音響とが相俟って、都市ハンブルグに新たな賑わいを生み出していると仄聞いたします。ちなみに「エルベ川」はドイツ国内での名称であり、同じ川が、上流のチェコボヘミア地方ではB・スメタナ作曲の連作交響詩『わが祖国』2曲目を飾る曲の名称として名高い「モルダウ川」と称されます。

今でこそ先進国を代表するドイツですが、歴史的に見ればヨーロッパでは後進国の一つでありました。諸侯が統治する小国家が分立し(領邦国家)、国家としての統一が遅れました。かつて、神聖ローマ帝国が存在し、特に中世以降はドイツ人国家としての性格を明確にしましたが、国家としての統一性は形骸化していき、分立する諸邦の形式的な連合体へと変質していったのでした。プロイセン王国を盟主とする「ドイツ帝国」として、端無くも統一国家の形態をとるのはようやく19世紀も末になってからのことです。そうした領邦体制の中で、ドレスデンを都とする王国がザクセンでありました。その他、ベルリンを都とするプロイセン王国、ミュンヘンを都とするバイエルン王国等々がある一方で、フランクフルトやケルンのような、中世以来神聖ローマ皇帝に直属し、周辺諸侯の領域に属さない帝国自由都市なる存在すら多々あるなど、多士済々の国内状況であったのです。その分、地域・都市毎の多様な文化が今でも色濃く残っていることがドイツの魅力ともなっております。その内のザクセン王国は、18世紀初頭フリードリヒ・アウグスト1世の治世下で最盛期を迎えます。今回話題とするドレスデンはバロック都市として整備され、「エルベ川の真珠」「エルベ川のフィレンツェ」とも讃えられました。その威容はイタリアの画家ベルナルト・ベッロット(カナレット)描く都市風景画に余すことなく描写されております。そのようなドレスデンについて、まずは個人的な想い入れから述べさせていただきます。

私自身のこの都市への想いは、間違いなく青年期に接したケストナー:高橋健二訳『わたしが子どもだったころ』(岩波書店)に負っています。ドレスデンに生まれ育ち、ナチズムが猛威を振るう中、ベルリンを活躍の舞台とした作家ケストナー。『二人のロッテ』『エミールと探偵』等の児童文学によっても親しまれておりますが、ナチス政権下で反ナチスの闘士として鳴らした硬骨漢でもありました。本作は戦後に自らの生い立ちを回想したいわゆる自叙伝ですが、一面で生まれ故郷ドレスデンへの頌歌ともなっております。作者をして以下の如く言わしめた街ドレスデン。ここまで讃えられた街に憧れを抱かずにいられることなどできましょうか。手軽にネット等で調べることもできない45年程も昔の話。ドレスデンへの淡い憧れは静かに培養されていきました。

 「ドレ―スデンは、芸術と歴史に満ちた、すばらしい都会だった。しかし、65万のドレ―スデン人がぐうぜん住んでいた博物館ではなかった。過去と現在とがたがいに一つのひびきをなして生きていた。じっさいは二つのひびきをなして、といわなければならないだろう。そしてエルベ川、橋、丘の斜面、森、地平線の山々などの風景とともに、三つのひびきをさえなしていた。歴史と芸術と自然が、マイセン寺院からグロースゼードリック王城公園にいたるまで、町と谷の上に、自分自身の声に魅せられた協和音のようにただよっていた。」

「よくない醜いものを知るだけでなく、美しいものをもわたしは知っている、ということが、ほんとうだとすれば、それは、ドレースデンに生まれた幸運の賜物である。何が美しいかを、わたしは書物によって初めて学ぶにおよばなかった。学校でも、大学でも、学ぶにおよばなかった。山林官の子が森の空気を呼吸するように、わたしは美を呼吸することができた。」

 その後、学生となってクラシック音楽に親しむようになった頃、彼の地のオーケストラ「シュターツカペレ・ドレスデン」(ドレスデン国立歌劇場の座付オーケストラが演奏会活動をするときに名乗る名称)に出会いました。今や懐かしいLPレコードによる邂逅でありました。NHK交響楽団への頻繁な客演で我が国でもよく知られるヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮するシューマンの交響曲を初めて耳にしたときの驚きを忘れることはできません。世界中の何れの名門楽団とも異なる自然な呼吸感、典雅なアンサンブルの妙、そして表面的キラキラ感とは無縁の天鵞絨のように底光りする音色に心底魅了されたのです。心中密かに醸成されていたドレスデンへの想いが、一気に「憧憬」へと昇華された瞬間でした。その後、同オーケストラの日本公演に足を運び、その実像を確認したことで、スタンダール『恋愛論』ではありませんが、「憧憬」は結晶作用を通じた「ザルツブルグの小枝」状態にまで到達したのでした。

そして、ついに、その街に降り立つ時がやってきました。それは、それから更に15年程も経過した36歳のこと[平成7(1995)年]。東西ベルリンの壁が開いてから瞬く間の東ドイツ政権の崩壊。そして、自分が生きている裡には決して目の当たりにすることなど叶うまいと思っていた劇的な東西ドイツ統一(1990年)から、既に5年が経過しておりました。しかし、未だドイツ国内には騒然たる空気が漂っていたように感じました。そうした中で足を踏み入れた、旧東ドイツ領域にあったドレスデンでしたが、「憧憬」は半ば叶えられ、半ば失望へと変わりました。ただ、そんなことはとうに分かってはいたのです。ケストナーが先の文に続けてこう書いていたことをよく知っていたからです。

 

 「ほんとうにドレ―スデンはすばらしい都市だった。みなさんはわたしのいうことを信じなくてはならないだろう!―(中略)―わたしのいうことが正しいかどうかをみるために、汽車に乗って行くことはできない。なぜならドレースデン市は、いくらか残ったところを除いて、地面から消えてしまったからだ。第二次世界大戦は、たった一夜で、たった一つの手の合図で、この町を消し去ってしまった。あの比類のない美しさを創造するのに数百年かかった。それを地面からスポッと無くしてしまうのには、たった数時間でことたりた。それは1945年2月13日のできごとだった。」

「わたしは、その2年後、このはてしない荒れ野原の真ん中に立って、自分がどこにいるのかわからなかった。粉砕されて飛散したレンガの間に、町名標がころがっていた。プラーグ通り、と、わたしはかろうじて判読した。わたしはプラーグ通りに立っていたのか。世界に名高いプラーグ通りに立っていたのか。わたしの幼年時代のもっとも華麗な通りに立っていたのか。もっとも美しいショーウィンドーのある通りに立っていたのか。クリスマス時のもっともきらびやかな通りに立っていたのか。わたしは縦横数キロにわたる空虚に中に立っていた。レンガの荒野の中に。ぜんぜん何もない中に。」

これこそが、世に名高い「ドレスデン爆撃(空襲)」に他なりません。

(後編に続く)

 

 

 

本年度9~10月本館事業の実施について―「千葉氏公開市民講座」中止代替措置、学校関係「団体見学利用」再開、「市史研究講座」開催、特別展「軍都千葉と千葉空襲」等々―

9月4日(金曜日)

 光陰矢の如し。8月も瞬く間に過ぎ去り、9月の声を聴くこととなりました。当方は雲の形態等々には全く不案内であり、的外れである可能性も大きいのですが、空を行く雲が高くなり、どことなく秋の空めいて見えるようになったと感じますが如何でしょうか。秋らしさの象徴である鱗状の雲(あれは鰯雲でしょうか、それとも羊雲というのでしょうか)も時に目にするようになりました。知らず知らずのうちに秋の足音が少しずつ大きくなってくるようです。

さて、一か月もすれば令和2年度も折り返しとなります。本年度は、年度当初からのコロナ禍による閉館。5月末からは再開となったものの、年度当初に予定しておりました様々な行事・活動の中には、止むを得ずに中止したものも多々ございます。また、縮減・代替措置としたものもございます。この点につきましては、我々としましても誠に忸怩たる思いでございますが、千葉氏パネル展『将門と忠常―千葉氏のルーツを探るー』をご好評のうちに開催できましたことを幸いに存じております。しかし、今後のコロナ禍の状況につきましても未だ不透明であり、現況においても終息に向かっている顕著な状況にあるとは申せない実態がございます。従って、今後の本館事業につきましても、状況を勘案しながら実施の有無、実施方法・内容等、臨機応変に対応せざるをえない状況にあることは是非ともご承知おきくださいますようお願い申し上げます。ただ、何でもかんでも安易に中止判断とするのは公共機関としての責務を充分に果たせないと考えております。従って、本館としましては、現状では以下の3段階での対応をとって参る所存でございます。まずは、そのことをご確認いただき、主に9月から10月にかけての本館事業を中心に、現状における見通しを述べさせていただきます。

第一段階
感染予防対策により実施可能であれば、規模縮小等の対策の上で基本的に予定行事を挙行する。

第二段階
予定通りの実施が不可能な場合は、日程変更による対応か、次善の策として何等かの代替措置によりそれに代える。

第三段階
日程変更でも状況が好転しない場合、代替措置も不可能な場合(飛沫感染・ソーシャルディスタンス確保等が困難な、対面を伴わざるを得ない行事等々)については中止判断とする。

 

【その1】「千葉氏関係公開市民講座」[代替措置で実施]
1 「和田合戦と千葉一族」
 山本 みなみ 氏(鎌倉歴史文化交流館 学芸員)
2 「鎌倉武士の身分秩序 -朝廷儀礼の影響を考える-」
 小出 麻友美 氏(千葉県立中央博物館 研究員)

  まず、例年6月前後に実施し、市民の皆様にもご好評をいただいておりました「千葉氏関係公開市民講座」であります。こちらは、2016年策定の「千葉市:都市アイデンティティ戦略プラン」に謳われる「本市固有の歴史やルーツに基づく4つの地域資源」の一つとして掲げられる「千葉氏」に関して、本館として市民の皆さんに広く深く理解していただくことを目指して開催しているものです。本年度につきましては、実施を8月に延期してその可能性を探りましたが感染拡大の終息が見られず、残念ながら早々に中止判断とさせていただきました。
ただ、代替措置として、ご講演をいただくこととなっておりました講師のお二方には、講演内容を文字の形にしていただき、本館ホームページにアップとする対応といたします。また、ネット環境にない皆様のことも考慮し、冊子の形で刊行もいたします(ご希望の方はご来館いただいた方に限り無償にて配付させていただきます)。予定ではホームページへのアップ・冊子刊行ともに10月下旬を予定しております。具体的な期日につきましては、本館ホームページ等にてお知らせをいたしますので、楽しみにお待ちくださいませ。因みに、内容につきましては上記の通りです。

【その2】「教育普及活動」[対策の下で実施]
1 「小中高等学校 団体見学」9月から再開します!
※ただ本館ボランティアによる展示解説は実施できません。
2 本館ホームページ内コンテンツ「教育活動」の充実
※幕張小学校「出張出前授業の概要報告」「同 指導計画」「同 指導案」、本館利用時「学習シート」をアップします。

 次に、本館事業の要でもある教育普及事業であります。特に市内外の小中高等学校の「団体見学」への対応について8月まではお断りをさせて頂いておりましたが、9月から再開をいたします。既に多くの学校からのご予約を頂いておりますことにつきまして、まずはこの場をお借りして御礼を申し上げます。
例年であれば、ご来館をいただいた児童生徒の皆さんに、館内解説ボランティアからの展示説明を実施しております。しかしながら、児童生徒の皆さんに例え小集団にしたとしても、密な状況をつくり飛沫感染を助長する可能性のある解説を行うことは避ける必要があります(児童生徒の皆さんに限らず、ご高齢の方の多いボランティアの方々の安全にも配慮しなければなりません)。かような状況に鑑み、今後暫くはボランティア・館職員による「館内展示解説」は実施いたしません。その代替措置として、本館エデュケーターによる「小学生用」・「中学生以上用」、それぞれの「学習シート」を作成しております。それぞれ、本館ホームページのコンテンツ「教育活動」内にアップいたします。従来本館で設置していた単なる「解説シート」とも、単に知識を確認するための「穴埋めプリント」とも異なり、「新学習指導要領」に準拠した「調べ・作業し・考える」に重点を置いた内容となっております。本館へのご来館をお考えの学校関係の皆様におかれましては、必要に応じてダウンロードをされてご活用いただければと存じます。
併せて、7月に教育普及活動の一環としてご協力をさせていただきました幕張小学校での出張授業につきまして同コンテンツ内にてご紹介しております。小野校長先生のご厚意により「総合的な学習の時間(幕張スイーツプロジェクト)」全体計画(幕張小学校作成)の公開も快諾いただきました。併せて出張授業略案・当日授業概要~含:児童感想(本館エデュケーター作成)をアップしております。今後、市内小中高等学校にて本館への「出前授業」依頼を御検討される際の格好の資料としてご活用できようかとも存じます。勿論、中・高等学校からの出前授業の御依頼も大歓迎です。本館には、小学校担当のエデュケーターだけではなく、中・高等学校社会科担当のエデュケーターもおります。是非とも遠慮なく本館へご連絡ください。ご相談の上で可能な限りご協力をさせていただきます。

 

【その3】「千葉市史研究講座」[対策の下で実施]
◎9月26日(土曜日) 第1回:原始古代・中世
1 「縄文人の狩り」
 西野 雅人 氏 (千葉市埋蔵文化財センター 所長)
2 「武田信玄の関東侵攻と房総」
 細田 大樹 氏 (千葉氏関係史料調査会)
◎10月11日(日曜日) 第2回:近世・近代
1 「下総の村から幕末維新期の社会状況を考える」
 久留島 浩 氏 (国立歴史民俗博物館特任教授)
2 「生実浜野村の成立と展開」 
 神山 知徳 氏 (昭和学院中学・高等学校教諭)

 ※「予約制」~申し込みは8月28日まで既に終了しております。

 3つ目ですが、こちらも例年開催を致しております「千葉市史研究講座」についてです。本館事業の要ともいえる「千葉市史編纂事業」の成果を、広く市民の皆様にお知らせすることを目的に毎年、恒例で開催している公開講座あります。こちらは、既にご案内を差し上げておりますとおり、ソーシャルディスタンスを確保するために募集人員を制限した形で募集を行い、先日〆切とさせていただきました。周辺の公共機関での公開講座の中止が相次ぐ中での実施ということもあり、定員を相当数上回る募集を頂きました。厳正なる抽選結果につきまして、本日(9月4日)までには発送・メール配信にてお知らいたします。郵送の場合若干到着までの時間が必要です。今しばしお持ちいただけましたら幸いです。また、今回抽選に漏れた皆様には誠に申し訳ございませんが、現況に鑑みての参加人数縮減でございますので、何卒ご寛恕いただきたく存じます。講義内容の概要につきましては、年度末に刊行予定『千葉いまむかし』に掲載させていただきますので、そちらをご参照くださいますようお願い申し上げます。
当日の飛び込みでの参加等は一切お断りさせていただきます。また、本講座は2日間開催での参加希望を承っております。どちらか一方での参加では御座いません。以上の点につきましても何卒ご承知おきください。既に申込期間は終了し、今からの参加申し込みはできませんが、本館の活動ということでご紹介をさせていただいました。

 

 

 

【その4】特別展『軍都千葉と千葉空襲 ―軍と歩んだまち・戦時下のひとびと―』[対策の下で実施]
[会 期]10月27日(火曜日)~12月13日(日曜日)
[会 場]本館2階・1階展示会場
※期間中に予定する「記念講演会」(郷土博物館主催)、「戦跡散歩」(共催の市民総務課主催)も実施となります。
※関連行事の申し込み方法等は、今月半ば掲示・配布のポスター・チラシ、本館ホームページにてご確認ください。

  今年度の標記特別展につきましては、10月27日予定通り開催いたします。また、特別展に関わる講演会・散策等も開催予定です。本特別展につきましての詳細は追ってご紹介をさせていただいます。

 最後になりますが、その他のこととして、教育普及事業の一環として例年実施させていただいております『騎馬武者体験』でありますが、こちらはソーシャルディスタンスの確保が困難と判断し、行事そのものは中止判断とさせていただきました。ただ、代替措置として、映像撮影を行い本館ホームページにて公開させていただく予定であります。また、毎年ご好評をいただいております「古文書講座」も現在のところ、参加人数を大幅に縮減の上で実施予定であります。


現状で申し上げることのできることは以上でございますが、今後のコロナ禍の状況によっては予定を変更せざるを得ない場合、及び新たに別途ご紹介すべき内容もあり得ると存じます。今後、「市政だより」等のツールを用いて情報提供に努めてまいりますが、直近の状況につきましては本館ホームページが最速のものとなろうかと存じます。できましたら、頻繁にご確認を賜りましたら幸いです。今後とも、本館としての責務を果たしていくことを第一にして、諸事業・諸活動を推し進めて参る所存ですので、御理解とご支援とを、伏してお願い申し上げる次第でございます。11月以降の本館事業につきましては、時期をみて追って連絡をさせていただきますので、ご承知おきください。

 

 

 

他館への視察訪問と貴重な学びについて―「東京大空襲・戦災資料センター」「すみだ郷土文化資料館」または 井上有一『噫(ああ)横川国民学校』のこと―(後編)

8月29日(土曜日)

 昨日に引き続き本日ご紹介いたしますのが、「すみだ郷土文化資料館」です。こちらは東京都墨田区が運営する公立公営の博物館であります。場所は墨田区向島。ここは、すぐ隣に江戸名所として名高い三囲稲荷神社が、そして今も昔も桜の名所である墨堤に接する景勝の地に立地しております。また、ここは先の早乙女勝元『東京大空襲』内で「言問橋の悲劇」として描かれる、大きな空襲被害をもたらした隅田川橋梁の袂でもあります。当館は、区立の総合博物館として、通史展示も充実しておりますが(個人的には中世「梅若伝説」展示に興味を引かれます)、特に力をいれておられるのが東京大空襲による甚大な被害への視座であります。その中でも通年を通しての展示として「東京空襲体験画展」を行っていることが注目されます。これは、空襲から50年近くたった2000年頃に、墨田区民に対して大々的に空襲の記憶についての絵画の制作を募集したことから始まった、いわば庶民の手になる絵画コレクションです。戦前・戦後の状況は写真資料から確認することができます。しかし、当たり前のことですが、命からがら逃げ惑っているときの記録が写真等に収められていることはありえません。その状況については、これまでは言葉を通じてしか語れることがありませんでした。それを、絵の得手不得手は問わずに、絵画にして提供して頂きたいとの呼びかけに、多くの区民の方が力を貸してくださり、最終的に区民の皆さんから300枚程の絵画が提供されたと聞きました。

それは、降り注ぐ焼夷弾、迫りくる猛火の中を逃げ惑った時に遭遇した決して消すことのできない景色、疎開先で東京の空が赤く燃えていた光景、疎開先の千葉県で大量の灰が降り注いだ情景等々、極めて多様な体験の記録でもありました。一つひとつの絵画は、専門の画家とは異なる拙いものながらも、かえってその時の強烈な体験を漏れなく表現していると感じた次第であります。そもそも、空襲体験者が未だ沢山ご健在の時期に、かような取り組みをなされた当館職員の皆さんの先見性に頭が下がる思いでもあります。担当の学芸員の方が「墨田区の誇る遺産」と自賛していらっしゃったことも宜なるかなと思った次第であります。少々遅きに失した感はありますが、本市でも是非とも見習いたい取り組みであります。
一方、現墨田区内(当時は本所区・向島区)の国民学校は、戦時中に主に千葉県内に学童疎開を行いました。その一環として千葉市内へも数校が疎開して来ております。その点でも本市との縁の深い区でもあります。10月から本館で開催する『軍都千葉と千葉空襲』では、市内でも風化しかけている本件についても取り上げたいと思っております。


因みに、当時の本所区内にあった横川国民学校(現墨田区立横川小学校)職員であり、当日宿直していて東京大空襲に遭遇することとなった教師井上有一は、奇跡的に階段下倉庫に隠れて九死に一生を得ました。しかし、教え子達を救うことができなかったことが大きな慚愧の念として戦後の彼を苛んだのです。戦後に書家として活躍し世界的な名声も得た井上。小学校の校長を勤め昭和51年に定年退職を迎えた2年後。1000人もの人々が犠牲となった横川国民学校での一刻でさえ忘れることのできなかった体験の全てを、一本の筆に込めて紙面に吐露したのでした。秘めてきた彼の想いが堰を切ったように一気に溢れ出たのだと想像いたします。それが書作品『噫横川国民学校』(群馬県立近代美術館所蔵)です。縦145cm横244cmの巨大な紙面に荒々しくぶちまけられた筆跡から伝わる井上が背負ってきた想い。そのあまりの重さに圧倒されます。

彼の死後、平成5(1994)年にニューヨークで本作が展示された際、「この作品は一見静かだが、同じ黒と白で描かれたピカソの『ゲルニカ』よりはげしく、戦争の残虐を指弾する迫力で見る人の心を打つ」と高く評されたとのことです。一見してただならぬ表現意欲に誰もが打ちのめされようかと思います。「アメリカB二九夜間東京空襲 闇黒東都忽化火海 江東一帯焦熱地獄」から始まり、「我前夜横川国民学校宿直にて奇跡生残 倉庫内にて聞きし親子の断末魔の声 終生忘るなし ゆういち」で締めくくられる作品に接すれば、井上の慟哭の激しさと底知れぬ深さとに言葉を失います。

本作品は、戦争前後1年間の学童疎開(君津市富岡)や戦後の様子を記した貴重な画文集資料と併せて、岩波書店から『東京大空襲』(井上有一)として刊行されております。現作品の持つ大迫力の足元にも及びませんが、とりあえず鬼気迫る『噫横川国民学校』の姿とその文面に接することができます。是非とも皆さんにもお薦めしたい一冊であります。井上有一は昭和60(1985)年、69歳を一期にその生涯を終えております。なお、本作品の縮小複製が「東京大空襲・戦災資料センター」1階に展示されておりますことを付記させていただきます。


昨日から本日にかけて、本館の特別展に向けて視察に出かけた2つの博物館の展示について、そして関連のある井上有一の書作品についてご紹介をさせていただきました。勿論、私に限らず、本特別展の担当職員は、資料を集めたり、聞き取り調査を進めたり、はたまた展示の在り方の参考にするために多くの博物館や関連施設を訪問しております。この10月からの本館『軍都千葉と千葉空襲』が少しでも意義深い展示会となりますよう、本館職員一同、準備に傾注して参りますので、是非ともご期待くださいますよう、お願いを申し上げる次第でございます。

 

 

他館への視察訪問と貴重な学びについて―「東京大空襲・戦災資料センター」「すみだ郷土文化資料館」または 井上有一『噫(ああ)横川国民学校』のこと―(前編)

8月28日(金曜日)

 梅雨明けからの猛暑が厳しかった今年の夏でありますが、ようやく朝夕にどことなく秋の気配を感じ取ることができるようになったように思いますが、皆様は如何お感じでしょうか。日が暮れれば、どこからともなく秋の蟲たちの聲もひとしきり聞こえて参ります。さて、今回は、秋の特別展『軍都千葉と千葉空襲』まで2か月前にちなみ、既に2か月ほども前のこととなりますが、私自身が視察を兼ねて訪れた、2つの博物館についてご紹介をさせていただきます。


最初に紹介いたしますのは、東京都江東区北砂にある「東京大空襲・戦災資料センター」です。この博物館は民間の学術研究機関である公益財団法人政治経済研究所の付属博物館、つまり「民立民営」の博物館であります。そもそもが、「東京大空襲を記録する会」が1970年代より広く収集を進めてきた空襲・戦災に関する資料や被災品等の展示施設として、民間募金の協力を得て2002年3月9日に開館となった施設であります。そして、最近、念願のリニューアルがなされ現在に至っております。初代館長は岩波新書『東京大空襲』の他、多くの空襲関連書籍の著者として知られる早乙女勝元さんでありました(現在は名誉館長)。

当館2階にある展示室の構成は、1.戦時下の日常、2.空襲の実相、3.証言映像、4.空襲後のあゆみの4構成となっております。東京は、戦時中に大小含め100回以上の米軍機の空襲を受けておりますが、特に大きなものが1945年3月10日未明(この日は日本における「陸軍記念日」でもありました)の2時間半にわたる東京東部への空襲、そして同年5月25日の山の手方面への空襲であります(この2日後が「海軍記念日」)。特に、前者の被害は甚大であり、東京の下町一帯が焼け野原となりました。その結果、凡そ10万人もの一般市民が一度に犠牲になったのでした。「東京大空襲」といえばこの3月10日の空襲を指すほどに、単一の空襲として史上最大の被害をもたらした惨劇として、世界中で周知される空襲被害でもあります。因みに山の手空襲では、3月10日に倍する爆弾が投下されましたが、死者は下町空襲の三十分の一ほどでした(この時皇居にも延焼して明治宮殿が全焼。消防にあたった20名ほどが亡くなっております)。

そのことを踏まえ、当館が今回のリニューアルで重点としたことが、「東京大空襲」の被災者である、市井に暮らした一般の「個人」に焦点を当てたことだと言います。つまり、統計資料では埋もれてしまいがちな、一人ひとりの思いの集積として「東京大空襲」という未曽有の惨事を描き出そうとしているのです。「空襲によって10万人が亡くなった」といった数値として空襲被害を伝えることは簡単であり、しかも統計的数値として正確なものであります。しかし、数値からは決して見えてこない空襲被害の経験者である当事者としての「想い」を伝承すべきとの方針を強く打ち出すこととされたのです。これには、これまで当館が大切にしていた空襲体験の「語り部」の皆さんの高齢化があると言います。終戦時に生を受けた方が75歳なのですから、語り部を担っていただいた方々も既に80歳を越えております。彼らが亡くなってしまわれれば、空襲被害は文字通りの統計数値としてしか認識されなくなるとの危機感があったものと推察されます。そして、その意図はリニューアル展示から説得力をもって伝わり、その重さに改めて打ちのめされる思いでありました。

そのため、こうしたヴィジュアル重視の時代でありながら、それに抗うかのように被害者の手になる文章を数多く展示し、観覧には読むことを通じて被害者の「想い」に触れてもらおうとされていることが印象的でした(但し文章の引用は一人200文字までとしたそうです)。また、QRコードを翳せば手持ちのスマートフォンで、当事者の肉声を聞くことができるように工夫されている展示方法も印象的でありました。ただ、体験談を記述できるのは空襲を生き抜いた方々に限られます。空襲で亡くなった方の思いを直接的には伝えることはできない。それを、焼け残った被害者の生前の写真や、生き残った方からの思いとして伝える取り組みもされております。今を平和裡に生きる後裔として、空襲に遭遇した一人ひとりが「人として生きた証」とその「思い」とを、如何に大切にされようとしているかを痛いほどに感じさせる展示構成となっていると受け止めました。更に、空襲後の仮埋葬や戦災孤児の問題への言及も抜かりなく、多種多様な被害の実態を、それぞれの視点からあぶり出そうとされている当館の取り組みに圧倒される思いでありました。一方で、被害者としての日本人だけではなく、墜落したB29 生存者へ加えた加害者としての日本人の姿にも触れるなど、多面的に空襲の諸相を伝えようとされていることにも細やかな配慮を感じます。戦争とは決して「一人相撲」ではなく、必ず戦う相手が存在しており、相手の立場や思いもまた同様であるからに他なりません。

因みに、当館名誉館長でいらっしゃる早乙女勝元さんの著書『東京大空襲』(岩波新書)を、私自身は中学2年生の時に読みました。しかし、それは決して主体的な選択などではなく、在学している中学校の夏季休業課題図書であったからに他なりませんでした。第一、自分自身は幼少の頃から空襲の体験者であった祖母からその恐ろしさを何度も聞かされていたこともあり(千住での空襲体験)、その確認に過ぎなかろうとの軽い気持ちで読み始めたのでした。ところが、読み進めるとともに、江東区・墨田区一帯を襲った東京大空襲のすさまじいまでの被害の実態を次から次へと畳みこまれ、書物を置くことも忘れて読了したのでした。そして、その驚きはとてつもなく大きなものでありました。それは、まるでハンマーで頭部を一撃されたかのようであったことを、読後半世紀近くを経た今日でもありありと記憶しております。それほどまでに、強烈な印象を与えてくれた読書体験でありました。1971(昭和46)年初版の本書は営々と版を重ね、今日でも現役であります。もし未読でしたら、千葉市内の空襲のことではありませんが、是非ともご一読されることをお薦めいたします。
(後編に続く)

 

8月26日(水曜日)より小企画展開催『野のうつりかわり―六方野の場合―』(後編)

8月22日(土曜日)

 後編では、こうした「野」という存在が江戸時代の村落社会の領域認識として、村人たちには如何に位置づけられていたのかについて、一般論として「民俗学」の手法によって押さえておきたいと思います。これについては、歴史・民俗学者であり国立歴史民俗博物館名誉教授でもある福田アジオさんが提唱する、著名な「村落の空間構成」概念図が有効かと思われますので、それに導かれつつご案内いたしましょう(『日本民俗文化体系8 村と村人―共同生活と儀礼-』1984年 小学館 第1章「民俗の母体としてのムラ」福田アジオ)。

それによれば、村落で生活する村人たちは、人々の居住の空間である「ムラ」(定住地としての領域)を中核に、その外側にムラの住人が一年をサイクルとし、土地を耕し生産物を手に入れるための生産空間である「ノラ」(生産地としての領域)が広がり、更にその外側には、より長いサイクルで様々なものを手に入れる空間としての「ヤマ(ハラ)」(肥料や燃料にする草木の採集領域)が存在するといった、同心円状の三重構造として村落の領域認識をしていたというものです。このうち今回話題としている「野」は、言うまでもなく福田の指摘する「ヤマ(ハラ)」にあたります。つまり、「野」とは直接的な耕作地ではないものの、草を刈ったり、木を伐ったり、様々な山の幸を入手したりする場として有効に機能する空間と言うことになります。ただ、「ノラ」が租税徴収対象として、領主により明確な領域として顕在化されて支配されているのに対して(「田畑」の面積・収穫高)、「ヤマ(ハラ)」=「野」に関しては、多くの場合、隣接する複数のムラの人々が互いに共用する中間的領域でもあり、少なくとも近世初期においては領主にとっても漠然たる把握しかなされていなかったのでした。そうした「野」の在り方に変化をもたらすのが、以下に述べる近世中期以降の開発の歴史であったのです。
因みに、よく耳にする「野良犬」「野良猫」にある「ノラ」という用語には、「ノラ」の位置づけがよく表れていると思います。家で飼っている動物であれば「家猫」「家犬」であるのに対して、おそらく「ヤマ(ハラ)」にいるのは野生状態の「野犬」「山猫」でありましょう。その中間部である「ノラ」に昔は人に飼われていた犬猫が今や誰の所有にもなく、しかし野生化もせず何となくムラの周辺に着かず離れずの状態で居着いている。これが「野良猫」「野良犬」と言われる言葉の正体ではありますまいか。別に、農民が畑地で農作業をすることを「野良仕事」というのもよく耳にいたします。居住空間としての「ムラ」、外縁部に広がる「ヤマ(ハラ)」。その中間に耕作地である人の開墾した「ノラ」が存在するという、三重構造の位置づけがイメージとして理解できると思いますが如何でしょうか。

さて、話を元に戻します。先にも若干触れたように、江戸時代は大規模開発の時代でもありした。大規模な河川改修等の大土木工事が推進され、その結果、耕地面積は爆発的に増大することとなりました。開幕の百年後には耕地面積は1.5倍にふくれあがり、それに伴い米の生産高も二百年後にはほぼ倍増することになるのです。石高制への移行に伴う米の生産向上にむけ、全国的な耕作可能な荒蕪地の開墾が強力に推し進められていったからです(新田開発)。それを推進した原動力は、領主層であることは言うまでもありませんが、商品作物の生産による現金収入の獲得を目論む百姓側の動機も色濃く存在しておりました(これに便乗する町人の思惑も当然の如くこれを後押し、商業資本が投入される場合も間々あったのです)。そして、こうした動向は、いわゆる農耕の不適地である「野」にも例外なく展開されることになったのです。よく教科書等でも取り上げられる武蔵野の大規模開発といった動向と符号を併せるように、江戸時代中期以降、この六方野にも開発の手が及ぶようになります。

六方野では、寛文12(1672)年、江戸の町人4名から畑地への新規開墾の願いが出され、六方野の西側半分が開墾予定地として認可を受けることとなりました(この西半分は後に「長沼新田」等の新たな村として取り立てとなります)。ただ、東半分は採草地として維持され、検見川村をはじめとする15ケ村で入会利用することとなりました。しかし、これまで野を入会野として利用してきた村々としては、「野」の半減によるパイの奪い合いという現実をもたらすことになったわけですから、以降六方野を利用する村同士の様々な争論が繰り返されることとなります。今回の企画展で展示される絵図もそうした争論の際に作成されたものです。そして、こうした村同士の争論が、その帰属を明らかにする過程を通じて、これまで緩やかに接していた、村と村の境界を「線」として確定すること、及びこれまで曖昧であった領主による「野」の支配領域の明確化にもつながることとなります。

ただ、一方で、近世を通じて展開された過剰ともいえる荒蕪地の開発はプラスの側面ばかりではなく、当然の如く副作用をもたらしたことを忘れてはなりません。つまり、自然環境破壊という深刻な問題をも置き土産として残していくことになりました。いわゆる病害虫・洪水の被害の頻発、入会野開墾にともなう深刻な肥料不足等々であります。つまり、農地の過剰開発行為が、皮肉なことに飢饉による農民の生活難をもたらす遠因ともなるのです(武井弘一『江戸日本の転換点―水田の激増は何をもたらしたか』NHK出版 2015年)。

 更に、明治になると「六方野」一帯は台地上の平坦地であることから、今度は軍用地として利用されるようになります(軍事演習地)。村々としては、これは自村の死活問題にも関わることですので、ここに到っても政府との切実な交渉が重ねられております(演習時以外には採草地としての利用を認めて欲しい等)。本企画展では江戸時代から明治にかけての「六方野のうつりかわり」を扱い、それ以降には踏み込みませんが、戦後の高度経済成長期になると、首都東京から近隣の地であることを背景に、台地上の広大な平坦地である「野」が住宅地として利用されることになります。千葉市内の内陸部に多く存在する大規模団地の開発です。これが、千葉市内に多く存在する団地名「○○野」「○○台」といった地名の由来ともなっていくのです。

以上、充分なるご説明にはなっていないことが懸念されますが、千葉市内における「野のうつりかわり」に着目することは、ミクロな動向の理解を通じて、よりマクロな時代の移り変わりを理解する有効な題材として機能するものと考えます。特に、「野」という存在が広域に存在していた現在の千葉市内においては、「野のうつりかわり」を追うことが、市域の在り方の歴史的意味の変化の理解につながるものと言えるのです。今回の小企画展を、単なる一地方における歴史的事象と矮小化してとらえることなく、是非ともそれぞれの時代における日本全体の動向を表象するものととらえていただけますと、歴史を見る目が更に広がることとなろうかと存じます。その意味で、今回の「小企画展」は極めて重大な視座を提供する展示となっているものと自負するところでございます。

最後に、本小企画展の会期は、標記日より10月25日(日曜日)までとなります(『ちばの夏祭り・秋祭り』終了と同日)。つまりは、8月26日から会期終了日までは、御来館いただけますと二つの展示の見学が可能となります。「一粒で二度美味しい」という好機となりますので、是非とも多くの皆様のご来館をお待ちしております。9月初旬に「祭展」の展示替えも予定しております。

8月26日(水曜日)より小企画展開催『野のうつりかわり―六方野の場合―』(前編)

8月21日(金曜日)

 お日様の顔を拝むことがほとんどなかった7月でしたが、梅雨明けとなった8月からは掌を返した如くお日様の顔を拝まない日がないほどです。連日の猛暑続きに、そろそろ秋の気配が恋しくなる今日この頃でありますが、長期予報によれば暫くはこの暑さが猛威を振るうようです。このような中、千葉市内の公立小中学校では、短かった夏季休業が終わり、来週からは授業再開となります。
本館におきましては、現在1階展示室を会場にミニ展示「ちばの夏祭り・秋祭り」を開催しております。そして、次週からは、同時並行で本館2階の通常天文展示を行っているコーナーを会場に、標記小企画展を開催させていただきます。今回は、このことについてご紹介いたしたく存じます。

まずは、表題「野のうつりかわり」にある「野」とは何かから始めたいと思います。「野原」という言葉はよく使われます。「特段に利用されずにある広い土地」といったイメージではないでしょうか。昔は私の住む葛飾区にも「野原」が数多散在していて、子供たちの格好の遊び場となっておりました。私自身も友達と誘い合ってはそのような「野っ原」(子供同士では撥音便の入るかような表現で言い交わしておりました)で「草野球」をしたものです。また、「〇〇野」という地名を目や耳にされる機会もありましょう。千葉市内や近隣で言えば、「おゆみ野」や「習志野」といった地名がすぐに思い浮かびます。更に、私の初任校である千葉市立更科中学区の方々は、自分の住まう住所地名(小間子・下泉・富田・谷当等々)とは別に、周辺地域を「宇津志野」と総称しておりました。これは今回の小企画展で取り上げる「六方野」とも共通する、いわば「広域地名」というものにあたると思われます。
つまり、「野原」とは、平たく言えば特段の用途もなく放置されている広い平坦地を、「○○野」といった広域地名は広大な平坦地をさしており、その地が耕作地であったり、後年開発された住宅団地の名称となっているのでありましょう。ただ、耕作地と言っても低地に一面に広がる水田地帯を「野」とは称することはないように思われます。同じ耕作地でも広大な台地上の畑地が「野」のイメージに近いのではないでしょうか。つまり、「野」に共通している要素とは、「大きな起伏の存在しない台地状の平坦地」といったところであろうかと存じます。

こうした「野」の代表選手と言えば、千葉から少し離れますが、国木田独歩の代表作品名ともなっている「武蔵野」ではありますまいか。古今歌枕としても名高く、古の都人による「武蔵野」を詠んだ多くの作品が残されております。また、そのイメージを絵画表現とした「武蔵野図屏風」なる作品も多々制作されました。こうした和歌や絵画をみれば、少なくとも彼らがイメージした「野」の在り方をつかむことも可能となりましょう。以下に、いくつかの作品を掲げてみましょう。また、絵画に描かれた図様もこうしたイメージの具象化に他ならず、屏風全体に描かれた草々の合間に、地平から顔を出す銀色の月が描かれております。また、ここが東国に存在する「武蔵野」であることを表象するアイコンとして、左隻と右隻の背景にそれぞれ富士と筑波の両峰を描くことがお約束となっております(『東京都の歴史1』2017年 吉川弘文館 第3節「古代中世の武蔵国府と府中」小野一之)。

行く末は空も一つの武蔵野に草の原よりいづる月影」(藤原良経)[新古今集]
武蔵野は月の入るべき峯もなし尾花が末にかかる白雲」(源通方)[続古今集]
武蔵野は月の入るべき山もなし草よりいでて草にこそ入れ(近世の俗謡)

 こうした荒漠たる原野としてイメージされる「武蔵野」の姿が、規模の大小こそあれ、概ね「野」のそれを表象しておりましょう。今回取り上げる「六方野」も、武蔵野とは比べるべくもない規模ではありますが、千葉市内に数多存在する「野」のひとつであります。現在の千葉市から四街道市にかけて広がる地域であり、現存地名としての「六方町」(千葉市稲毛区)・「鹿放ケ丘」(四街道市)にその名残を止めております。この地は、下総台地でも最も高燥な地域の一つであり、また当該台地を複数の谷津が刻んでおります。そのうち、北側に開く谷津は印旛沼へ、南側に開く谷津は現在の東京湾に連なっており、その分水界ともいえる中央部を東金御成街道が北西から南東へと貫いております(近世初期に徳川家康の命で造営された船橋と東金をほぼ直線で結ぶ街道)。容易に想像されるように、水利の面から考えて基本的に農業には不向きな場所であり、実際のところ江戸時代前期までは、この地に村は存在しませんでした(『絵に見る 図で読む 千葉市図誌 下巻』1993年 千葉市)

しかし、こうした「野」と呼ばれる土地は、都人たちの風流に基づく勝手な思い込みとは裏腹に、決して未踏の地であったわけではありませんでした。そこは周辺のムラの住人にとって、草や萱や柴などの採集地として、むしろ積極的に活用される場でもあったのです。「野」は別に「秣場(まぐさば)」とも呼ばれるように、草が牛馬の飼料となるほかに、柴などとともに田畑に敷きこむ「刈敷」や、焼いて灰にして有用な肥料(「草木灰」)としても利用されました。また、萱は重要な建築資材(屋根葺)であり、灌木は薪炭として活用されるなど、百姓にとっては無くてはならない場所でもあったのです。こうした場所は、近世の初期には、「野」の周辺に複数展開していた村を生活の基盤とする人々にとって、互いに共有すべき場所として、村の境界も特段明確に定めることなく利用しあう、村同士が緩やかに接している場所でもあったのです。こうした土地を一般に「入会地」といい、特にそれが「野」であれば「入会野」と称しました。
ただし、こうした緩やかな関係性の下に存在していた「野」であっても、少なくとも近世の幕藩体制下では、決して無主の地であった訳ではありません。「六方野」は、何れの藩領にも属しておりませんでしたので、結果的に幕府支配下にあった土地でありました。従って、周辺の人々が好き勝手に利用できるわけではなかったのです。「六方野」の場合、近世初期においては、谷田を中心に開けていた村々(宇那谷・園生。蕨・小名木の四か村)が「野元」となり、「六方野」を採草地として利用する他の周辺村落から利用料を徴収。自村の分と併せて、年2回幕府に「運上金」として納めることで、総体としてこの地を利用することが認められていたということになります。
(後編に続く)

テレビドラマ『波の盆』―「日系移民」の太平洋戦争―(後編)

8月15日(土曜日)

 さて、話題をテレビドラマ『波の盆』に戻します。真珠湾攻撃から始まる日米開戦がハワイ日系人の生活を一変させたことは前編でご説明いたしました。物語は、戦後38年が経過したマウイ島から始まります。明治末に移民としてハワイに渡り、太平洋戦争をどうにか乗り越え、戦争終結後に夫婦揃ってアメリカ国籍を取得した日系1世山波公作老人の下に、亡妻と同じ名を持つ若い娘がハネムーンついでに日本から訪ねて来ました。そして、娘の亡父が山波老人の息子作太郎であることを知ります。娘は3年前逝去した父の遺品に見つけた、投函されずに残されていた母ミサ宛の手紙を届けに来たのでした。しかし、山波老人の妻ミサも前年に泉下の人となっていました。ところが、山波老人はこの若い娘に素直に心を開けません。何故ならば、老人は過去に息子作太郎を勘当しており、長らく音信不通でいたからでした。日系2世の作太郎は、日米開戦以降日本人への迫害が強まる中、積極的にアメリカ軍に荷担することで日系人社会を守ろうとしました。しかし、それは日系1世を含む家族内における深刻な諍いを惹起せずにはおきませんでした。最終的に太平洋戦争はアメリカが日本へ投じた原爆を契機とし、日本の無条件降伏で終結しました。しかし広島に住むミサの実家家族は、作太郎も関わることとなった原爆によって全滅していたのでした。妻ミサの無念を思ん計り、息子作太郎と義絶する父。二つの祖国の間に挟まれ、引き裂かれていく家族の悲劇が紡がれていきます。
それから38年。前年妻ミサに先立たれ一人になった山波老人は、家族の来し方に思いを馳せます。茜さす海辺で交わした死を目前にした妻ミサとの回想。「ユーは、ワシがアメリカ国籍を取ったこと、作太郎を勘当したことを恨んでおるじゃろう」「本心は、ジャパンに戻りたかったんじゃないか」。無言の妻。しかし、暮れなずむ海の遠くを見ながらこう呟きます。「死んだら何処に行くんじゃろ。ここにこのまま眠るんじゃろか。それともジャパンに帰っていくんじゃろうか」と。ドラマを通じて感情を高ぶらせることの一切ないミサ。しかし、淡々とした言葉と穏やかな笑顔の中から滲む心象風景にハッとさせられます。『波の盆』の波とは、二つの祖国を隔てる太平洋の波であると同時に、夫婦・親子の心を隔てた荒波の表象に他なりますまい。

 また、この作品の価値をいや増しにしているのが、物語世界を彩る映像と音楽の力にあることは確実です。鬼才と呼ばれた実相寺昭雄。奇抜なカット割、逆光シルエット映像の多用等、独創的かつ耽美的な映像世界がここでも横溢しています。海辺の墓地越しに映し出されるハワイの海の夕景。廃棄され錆び付いた歯車越しに描かれる印象的なハワイの青空とゆく雲等々。その印象的な映像美は誰とも異なる独創的なものです。中でもハワイのラハイナ浄土院で行われる盂蘭盆会で、海に流される盆灯籠が遙かに列を成して漆黒の海を西へと揺られ流れゆくラストシーンは圧巻です。幻想的な映像美とともに、亡き妻ミサの魂の向かう奥津城(西方浄土)が、故郷日本であることを暗示する演出に心底打たれました。そこはまた、ミサにとっての愛息作太郎の眠る地でもあります。
山波老人は、妻ミサの新盆である盆踊りの人混みの中に作太郎の幻を見いだします。そしてこう語りかけるのです。「作太郎、ワシと一緒に釣りに行かんか」と。孫娘が持参した作太郎の手紙がそれに続きます。会いたくても会えなかった両親への思慕。アメリカ軍に協力して両親を悲しませたことに苛まれ続けたこと。そして「お父さまと一緒に釣りにいきたかった。あの戦争の前の日のように」と呼応します。父子がたとえ幻の中であっても和解に到ったようで、同じ人の親として目頭が熱くなりました。
作太郎は、戦後、罪滅ぼしのようにハワイを離れ、日本に渡り広島を居住地としました。そして被爆者の女性を妻に迎え、生まれてきた娘には母と同じ名を与えていたのでした。遙か海をゆく精霊流しを見つめる山波老人。それに重なって映し出される山波老人の刻々と移り変わる表情に、言葉にならぬ万感の思いの去来が映し出されます。名優笠智衆、一世一代渾身の名演技だと思います。これに心を揺さぶられずにおられぬ人などおりますまい。
そして、背後に流れる武満徹の音楽が、生きている内に交わることのなかった家族の思いに寄り添います。日本を代表する作曲家武満徹。その武満が『波の盆』に与えた音楽は、代表作『ノヴェンバー・ステップス』等の現代音楽作品とは無縁の、極めて優しくも美しい作品となっております。収録の際にオーケストラ団員の多くが目に一杯の涙をためながら演奏したと、指揮者岩城宏之が述懐しておりますが、さもありなんと想像できる名曲の数々だと思います。これまた作曲者畢生の名作だと思われます。フランス近代・ドイツ後期ロマン派音楽のエコーを感じる、儚くも穏やかな、波のようにたゆたう旋律。それはあたかも、引き裂かれた家族の思いが、山波老人の葛藤と悔恨そして諦念とが、太平洋に散った多くの御霊とともに癒され浄化されていくように響きます。その意味で、この曲は「鎮魂歌」として書かれているのだと思います。このサウンドトラック盤も既に廃盤となって久しく入手困難です。こちらの再販も望みたいところです。

戦争は国同士が行うものです。しかし、当たり前のことではありますが、戦いに携わるのは血の通った人間であり、それぞれに愛する家族もあり、それぞれに思い描いた幸せな人生があったはずです。断ち切られた祖国、断ち切られた家族、断ち切られた人生。『波の盆』は、計らずも我が家でもささやかに行われる先祖供養(盂蘭盆会)の時期に、改めて戦争のもたらす不条理と平和の尊さを噛みしめる契機を与えてくれたのです。併せて、人生の希望を断ち切られた多くの人々の冥福を祈る敬虔な思いに、戦争によって失われた幸福の積み重ねに、そして、10月27日から本館にて開催の特別展「軍都千葉と千葉空襲」の在り方等々に、それぞれ思いを馳せることとなりました。
因みに、上に名を記した制作スタッフのうち、倉本聰の他は指揮者の岩城も含めて鬼籍に入られております。かの戦争で失われた全ての尊い生命とともに、今日の日に深甚の冥福の想いを捧げたいと存じます。合掌。

 

テレビドラマ『波の盆』―「日系移民」の太平洋戦争―(前編)

8月14日(金曜日)

 暑い盛りでありますが、皆様におかれましては如何お過ごしでいらっしゃいましょうか。暦の上では8月7日「立秋」をもって既に秋に入っておりますが、未だ梅雨あけから二週間を経過したのみ。現実的には未だ未だ夏本番が続きましょう。秋の気配を感じるまでには未だ一か月半ほども間があることと存じます。本来ならば「残暑見舞い」の時節なのですが、実のところ「暑中見舞い」が穏当な陽気であります。

 この時季は毎年帰省ラッシュの報道がマスメディアを賑やかします。「〇〇高速道は〇〇インターを先頭に○○Km渋滞」「東京へ向かう新幹線は軒並み150%を越える乗車率」等々の報道です。今年はコロナ禍の影響もあってどうなることかわかりませんが、例年大規模な人の移動が生じる理由は、申すまでもなく当該時期が「お盆」に当たるからです。正しくは「盂蘭盆会」と言います。本来は旧暦(明治に至るまで用いられた太陰太陽暦)7月15日前後の時季を指しますが、明治以降に採用された太陽暦の下では8月15日前後にあたります(今ではこの新暦でお盆を執り行う地域が多いのではないでしょうか)。この時季は企業も俗に言う「お盆休み」となり、大都市圏から故郷である各地方へ、人の波が怒涛のように流れ出る一大ムーブメントが繰り広げられます。
「盂蘭盆会」とは、元来が中国での民間信仰と先祖祭祀が、仏教の追福思想と融合した習俗であると言われておりますが、我が国では祖霊を供養し亡き人を偲ぶための仏教行事として運営されているのが一般的ではないかと思われます。地域全体で「盆踊り」を行うところも多いことでしょう。春秋の「彼岸会」と異なり、年に一度「祖霊」を自宅に呼び寄せ、子孫が一同に会してご先祖様への「おもてなし」をする年中行事です。東京下町の我が家では、「迎え火・送り火」として焙烙に乗せた苧殻に火をつけ、生じた煙に乗って祖霊があの世と往来をすると教えられましたが、千葉県内の古くから習俗では、一家の主が提灯を下げて墓地まで直接に祖霊をお迎えに参上するのが一般的かと思われます。墓前で提灯に火を灯すことで祖霊が移り、それを自宅の仏壇に灯すことで、祖霊を自宅に迎え入れたことの表象といたします。仏壇にはたくさんのお供えをします。その中で、子供心にも印象的だったのが、割箸を4脚としたキュウリやナスの牛馬でした(ご先祖がお出かけする際の乗り物だと子供の頃に聞きましたが、実際にはお先祖様があの世とこの世の往来に用いる乗り物が本来の意味のようです)。お盆のあとに、今は亡き祖母と近所を流れる川にそれらを流しにいったことを記憶しておりますが、現在東京都では川にごみを投棄する行為として禁止されているとのことです。これらの「盂蘭盆会」の習俗も地域によって大きく異なりますが、その多様性を大切にすることこそが、地域の文化を守ることに繋がります。その他、年末年始・節分等々、今でも各ご家庭で様々しきたりに基づく年中行事が執り行われておりましょう。そうした古くからの習俗とその意味とを、是非次の世代に大切に伝承していただければと祈念するところです。
一方で、明日8月15日(土曜日)は「終戦記念日」でもあります。当日は、本館でも12時に館内にいらっしゃるお客様に黙祷のご協力をお願いたします。当日は日本が連合国軍から示されたポツダム宣言を受諾し無条件降伏することで、先の太平洋戦争が終結した日となります。国内に昭和天皇の音声による玉音放送が流れた日でもあります。本年の8月15日はその日から数えて75年。当日誕生日の方がその御歳ですから、実体験として戦争を知る方々が年々少なくなるのも宜なるかなと思います。本日は「太平洋戦争」と「盂蘭盆会」の双方に関わる映像作品についての話題を取り上げようと存じます。

皆様は、今から35年も前、昭和58(1983)年に製作・放映されたテレビドラマ『波の盆』という作品をご存知でしょうか。製作スタッフは[監督:実相寺昭雄、脚本:倉本聰、音楽:武満徹、出演:笠智衆・加藤治子・他]といった錚々たる陣容で固められております。一方、ハワイといったら皆様は如何なるイメージをお持ちでしょうか。勿論、世代によっても異なりましょうが、多くの芸能人が集う、マリンブルーの海に囲まれた常夏の一大リゾート地とのイメージが大方のところでありましょう。地学好きの方にとってはキラウエア山等、活発な火山活動のメッカとしての印象が大きいかもしれません。
当該作品は、ハワイを舞台に、太平洋戦争を挟んで戦前から戦後を生きた日系移民家族の物語ですが、テレビドラマとは信じ難いほどの完成度を誇っております。第38回文化庁芸術祭大賞、第1回ATP賞グランプリ、第16回テレビ大賞優秀番組賞と、各賞を総舐めしたのも納得の極めて優れた映像作品です。しかし、その割には知名度が低いのが残念です。私は、そもそもは所有する音盤で武満徹の音楽作品として親しんでおりましたが(組曲『波の盆』)、その当時見逃した者としては、テレビでの再放送も行われず、DVDはとうの昔に廃盤で入手も叶わず、もどかしい思いで一杯でありました(中古市場では4~5万円と高騰しております)。しかし、昨年のことになりますが、偶々本作がYouTubeに5分割でアップされているのを発見。ようやくその願いが叶えられたのです。その結果、名作の誉れ高い所以を確認するとともに、内容の重さに深く考えさせられることとなりました。そして、何よりも、物語・映像・音楽・俳優陣の何れもが渾然一体となった、正に総合芸術の名に値する作品の完成度に深い感銘を受けた次第であります。自分としては、この歳になって人生の大きな宝を得た思いです。今日日、単発2時間枠TVドラマでここまでの充実を期待することは叶いますまい。映画作品同等の入魂の一作だと思います。販売会社にはDVDの再販をしていただき、是非とも誰でもが容易く視聴できる環境をつくりだして下さるよう熱望するものであります。

脚本は人気ドラマシリーズ『北の国から』で知られる倉本聰。作者がここで紡いでいるのは、明治末に祖国を離れ、ハワイに移住した日系移民家族の引き裂かれた戦中・戦後史です。まず作品理解のために、日本人のハワイ移住の歴史について簡単にご説明申し上げたいと存じます。因みに、以下の内容は、佐倉にある国立歴史民俗博物館にて昨年度開催の企画展『ハワイ 日本人移民の150年と憧れの島のなりたち』展示図録を参照させていただきました。当該企画展も、学ぶことの多い優れた内容でありましたので、この場を借りてご紹介させていただきます。未だ図録も販売されております(¥1,440+税)。
現在こそハワイはアメリカ合衆国の一州をなしておりますが、これは19世紀末アメリカがハワイを併合した後、太平洋戦争後の1959年に独立州となってからのことで、州としての歴史は未だ60年程に過ぎません。また、アメリカに併合される以前は19世紀初頭にカメハメハ大王によってハワイ諸島の統一が行われ、それ以降の凡そ百年間はハワイ王朝の支配下にある独立国でした。今でも常夏の島のイメージがありますが、ハワイではその当時からプランテーションでのサトウキビ生産が国家の重要な収入源であり、そこでは多くの労働力を必要としていたのでした。それに応じて日本からの移民が始まったのが明治元年。その後、幾つかの段階を経て、最終的に20万人ほどの日本人がハワイの地に足を踏み入れたと考えられております。その後、彼らの多くは、1930年代までにプランテーションを去って島内の都市部等へ移動。独自に商店や農業生産を営みながらハワイ社会の一員として認知されていくようになっていきます。そして、彼ら移民一世の下には日系二世が生まれ、日系人のコミュニティーは更に大きく確固たるものとなっていきます。1936年には、有権者数の4分の1を日系人が占めるほどに、ハワイの中での社会的地位を高めていくこととなったのでした。 
しかし、それがある日の出来事を境に一気に暗転することになるのです。ご存知のとおり、それが日本軍の真珠湾(パールハーバー)への奇襲攻撃であり、それを起点とする太平洋戦争の勃発に他なりません。寄りによって、祖国日本と第二の祖国アメリカとが敵国同士になったのです。しかも、目の前の真珠湾で、予期せぬ奇襲攻撃によりアメリカ軍人の多く生命が奪われたのです。日系ハワイ移民の置かれた苦衷が如何ばかりであったか、慮ることに吝かではありますまい。
(続く)


 

 

「ぼくのなつやすみ」
―「自由」であることの「楽しさ」と「苦しさ」―

8月7日(金曜日)

 長かった今年の梅雨ようやくあけ、夏らしい炎天の続く今日この頃ですが、千葉市内公立小中学校では明日から「夏休み(夏季休業)」に入ることとなります。例年40日前後の期間となる夏休みも、コロナ禍の影響で本市では今年度2週間に短縮。8月24日から授業再開となると聞き及んでおります。これまで、3~4カ月近くも休校が続いていたのですから、ここぞとばかりに学習の遅れを取り戻さんとの措置でありましょう。幸いにも、昨年度中に市内全公立学校で全学級の教室にエアコン設置が完了しております。もっとも、理科室・図書室等々の特別教室と称される場所は未設置のままです。おそらく、各学校では教育課程を流動的に扱って暑さを乗り切る算段をしていることでありましょう。因みに、学校における夏季休業の根拠法令は以下の通りです。今回も夏季休業の扱いが各市町村で異なっている理由も御理解いただけましょう。

学校教育法施行令 第29条
「公立の学校(大学を除く)の学期及び夏季、冬季、学年末、農繁期等に おける休業日は、市町村又は都道府県の設置する学校にあっては当該市町村 又は都道府県の教育委員会が、-(中略)- 定める。」

 ところで、ふと疑問に思ったのですが、学校における夏季休業(長期休業)なる制度は、何時、如何なる意図をもって学校に取り入れられたのでしょうか。江戸時代にはそもそも庶民を対象とした公立学校は基本的に存在しておりませんから、そもそもの発祥自体が、明治5(1872)年の「学制」発布以降のこととなりましょう。ただ、「藪入り」といって商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中などの奉公人が、盆と小正月の年2回に限って実家へと帰ることのできる休みはありました。そこで、少しばかり調べたところ以下に当たりました。

 

小学校教則綱領 第7条
「小学校ニ於テハ日曜日、夏季冬季休業日及大祭日、祝日等ヲ除クノ外授業スヘキモノトス」

 これは明治14年(1881)年に出された法令です。どうやら明治10年前後から各学校では夏季に長目の休みをとっていたようですが、当年に正式に法令として定められたものと思われます。それでは、なぜ夏季休業が学校で必要とされたのでしょうか。解答として思いつくことは「日本の夏は暑くて勉強どころではないから」。それがおそらくは正解でありましょう。しかし、江戸時代には存在しなかった夏季休業の意義を明治の人たちは如何に捉えていたのでしょうか。この点についても若干調べてみましたが、意外にも夏季休業に関する先行研究はほぼ皆無です。誰もが散々にお世話になったにも関わらず、それが設けられた理由や意義について、多くの教育学者が関心を払っていないこと自体驚きでもありました。検索の結果、かろうじて見つけた論考が、渡辺貴裕さんの京都大学での博士論文「明治期における夏期休暇をめぐる言説の変遷」(2003年)でした。
これによれば、法令施行後に国内で「夏季休暇存廃」に関する論争があったようです。如何せん日本人が初めて出会う「長期休業」の実施でありますから、その是非についての議論が百出したことは想像に難くありません。しかし、その際の論調は長期休業が社会全体に及ぼす影響に限られており、実際に夏季休業を過ごす主体である子供についての意義は一顧だにされていません。こうした課題に積極的に目が向けられるようになるのは、明治後半の1900年頃になってからです。文部省による夏季休業中の子供の生活状況の調査が行われていることからも明らかな通り、休業中の子供の生活面に関心が向けられるようになります。この間、学校として子供の生活を如何に維持・管理するのか、加えて家庭への啓発の必要性が論じられております。更に、1910年代に入ると、長期休業中の学習内容補強や課外読物の推奨といった、学習面への関心が表れていることがわかります。興味深いことに、現在でも続いている夏季休業中の子供たちへの指導の原型は、明治期末にはほぼ出揃っていることが判明いたしました。

 ところで、20年程前に「ぼくのなつやすみ」なるCPゲームが流行しましたが、このゲームの主たる購買層が私と同年代以上の年嵩のお父さん世代であったことに興味深いものを感じたことを記憶しております。ゲームの内容は、田舎の親戚の家へ預けられた9歳の「ボク」が、夏休みの1ヶ月間、大きな自然環境の中で「昆虫採集」「魚釣り」「絵日記」「洞窟探検」等々、昔の子供達にとって身近な遊びや行事を体験するものとのことです。私自身はCPゲームの門外漢であり、本ゲームに触れたことは一度もありませんが、この設定を耳にして大いに共感を抱いたものです。自分自身にも思い当たる節が山のように想起されたからです。確かに、自分自身にとっての夏休みを振り返れば、小学生の頃の記憶といえば、ただひたすらに自然の中で遊んだこと以外にはありません。私を含めた多くの大人世代にとって、幼少時代の夏休みは、大いなる郷愁を惹起せずにはおかない、特別なものとして心に刻まれているのだと思われます。

私の生まれ育った葛飾区は、今でこそ柴又を舞台とする「寅さん」(映画『男はつらいよ』)、亀有を舞台とする「両さん」(漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』)を表看板に下町代表のような顔をしていますが、私が子供時分には町場を少し外れると田畑の点在する、いわゆる東京の「郊外」に他なりませんでした。夏休みと言えば日がな一日好き放題に時間を使えるのですから、毎日のように友達と連れだって、小学校の近くを流れる曳舟川(江戸へ飲用水を供給する目的で人工的に開削された葛西用水であることは大人になってから知りました)や、自転車で出かけた区内にある水元公園で、毎日のように朝から日の傾くまで小魚やザリガニ捕りをして過ごしました。記憶が定かではないのですが、夕方に家に戻っていたので、昼食も抜きで生き物を追っていたのでしょう。その点で、頻繁にお世話になった駄菓子屋の存在が子供の生命線でもありました。
その頃の水元公園と言えば公園とは名ばかり。鎮守の杜や社、水田跡が手つかずのまま残り、それらを巡って細い水路が網の目のように四通八達する「水郷」風景そのものでありました。そこに四つ手網を仕掛けて、水路の両側から石を投げて小魚を追い込み、タイミング良く網を上げれば小鮒・クチボソ等々の小魚が幾らでも捕れました。何よりも嬉しかったのが虹色に輝く様々な姿のタナゴたち。家に持ち帰って水槽で泳ぐ魚を見るのが何よりも嬉しかったことを思いだします。今では、曳舟川は埋め立てられて道路に変わりましたし、駅から離れた田畑もほとんどが住宅になりました。水元公園も小綺麗に整備された東京都立の「水元自然公園」となり、もはや野趣あふれる「里山」の面影はありません。しかし、何にも縛られず、泥んこ塗れとなって自然の中で好き勝手に遊んだこと、その時のワクワクした想いを今でも鮮明に思い出します。「三つ子の魂百まで」の例えではありませんが、今でも自分の中にあると自覚する、雑多な「好奇心」の源泉は、このあたりに存するのではないかと思うことがあります。

 年月が過ぎた思春期となってからの夏休みも、異なった意味で感慨深く思い出します。特に受験期のそれは初めて自分自身で時間をコントロールすることの難しさを知った機会でもありました。「夏を制する者は受験を制す」と今も昔もよく言われることです。勉強をしなくてはいけない。しかし、学校のように外から縛ってくれる枠はない。そこには自由に使える時間だけがある。その時間をどのように切り取って、必ずしもやりたくない「勉強」に充てたらよいのか。勿論、その時間を「勉強」に充てずに遊んでも構わない。第一そのことを誰からも咎められません。しかし、やらなければ駄目だとの葛藤に苦しめられました。
結局のところ、私が選択したのは、誘惑の多すぎる自宅から離れ、図書館等の自習室に籠もって勉強することでした。最初は友達と誘いあって出かけましたが、徐々に一人欠け二人欠けし、最後は孤独との戦いとなりました。そして、これは、とりもなおさず「楽をしたい!」「怠けたい!」という自分自身との戦いに他なりませんでした。友達との勉強ではどうしても甘えが出てしまい結局一人になって正解でしたが、正直しんどいものでした。ただ、歯を食いしばって夏休みをこのスタンスを崩すことなく乗り切れたことは、その後の自分に大きな自信となって残りました。本質的に「怠け者」を本性とする私ですが、「やればできる」と思えたことは、人生の中での大きな自信となりました。未だ夏休みの想い出はつきませんが、今回はこの2つに留めておきたいと思います。

「何者にも縛られずに自由でいたい」とは誰でも思うことですし、夏休みは比較的その願いを許してくれる時であります。しかし、自由とは「楽しさ」をもたらすだけではなく、その自由を自らの意志の力でコントロールしなければならないという「苦しさ」を同時にもたらすものでもあります。いずれにせよ、子供達にとって、夏休みは沢山の学びを発見できる絶好の機会であることに間違いはありません。私自身の経験から言えることは、「遊び」は「好奇心」の発露に他ならず、旺盛な「好奇心」こそ「学び」の源泉だということです。何より、こんなに長く休めるのは、一生の内でも社会に出るまでの極々限られた期間に過ぎません。青少年の皆さんには、今だけ与えられた「特権」とも言える時間を、是非とも有意義に過ごして欲しいものだと祈念する次第です。
本館はもとより、全国各地には多くの博物館施設があり、それぞれの館の方針により多様な展示がされております。また資料等も充実しております。例年に比べて短い夏季休業ですが、郷里にお戻りになられましたら、是非とも地元の博物館施設を積極的に活用いただければ嬉しく存じます。

 

博物館の役割:エデュケーターの活動について
幕張小「総合的な学習の時間」にて青木昆陽の授業を!

 7月31日(金曜日)

 明日より8月の声を聴こうというのに、未だに「梅雨明け宣言」が発表されずにおります。週間予報を見てもお天道様の図柄にとんと巡り合うことができません。それでも、当館周辺の木々ではニイニイゼミが甲高い聲で盛んに鳴き交わしておりますし、雨のやんだ束の間にはアブラゼミ・ミンミンゼミの聲も混じるようになりました。主役の入れ替わりも間近でありましょう。温暖化にともない、昨今は西国を領分としていたクマゼミ軍団が関東へと進出し始めております。「シャシャシャ」とのけたたましい鳴き聲の蝉であり、聞いていると暑さがいや増しになる気がいたします。そして、ツクツクボウシに主が移ろう頃ともなれば「夏休み」ももうじき終わり。そのころになると、夜になればコオロギ等の秋蟲たちの聲も耳に入りましょう。季節は確実に推移します。子供時分には、これらの聲を耳にすると、漠然とした寂しさにとらわれたことを思い出します。蝉で言えば、お日様が傾いたころから物悲しく泣き始めるヒグラシの聲こそ風流の極みですが、私の居住する東京下町でも、千葉の中心街でも耳にすることは叶いません。他の蝉とは異なり街場では生育が難しいのかもしれません。

さて、今回は、博物館の重要な機能の一つである「教育普及活動」について、「エデュケーター」の活躍と関わらせながらご紹介をいたします。本館のホームページの中に、「博物館の使命」というコンテンツが極々控えめに存在しております。皆様にとっては、積極的に開いてみようとの思いを起こさせないコンテンツかと存じますが、一度で結構ですのでご覧いただけましたら幸いです。ここに記されていることこそ、我々が本館として目指し、かつその実現に向けて尽力すべき在り方であり、我々にとってはまさに「バイブル」とも称すべき内容に他なりません。その中には、いくつもの項目がございますが、その中の一つに以下のことが謳われております。

学校教育と強固な連携関係にある博物館

次代を担う子どもたちへの郷土史への理解を深めるために、館内学習
機能の充実と出前授業などアウトリーチ活動の充実に努めます。

 ここに示されたことは、これまでの本館において極めて脆弱な部分であったと聞いております。その改善に向けた前館長さんの粘り強い要望が実り、本年度より教育普及活動を重点的に行う担当者(「エデュケーター」と称します)の配置が実現いたしました。本市では「千葉市動物公園」「千葉市科学館」に既に配置をされておりますが、本館でも永年の念願であった懸案事項の実現となったのです。採用にあたって広く公募を行い、面接の上で選考をさせていただきました。

その結果、数年前まで千葉市内の小・中学校で社会科授業を担当されていた教職員OBお二方に、各々週2日でご勤務いただくこととなりました。エデュケーターとして、特に学校関係への教育普及が脆弱であった本館にとって望ましい人材は、教育者としての経験値が豊富で、教科指導における実績のある方であろうと考えていただけに、最終的に教職員OBの方の採用が叶ったことは幸いでした。
そもそも、「知っていること」と「それを他者に教えること」とは、似て非なるものと容易にご理解いただけるでしょう。自省の念を込めて申し上げるので、何卒お気を悪くされずにいただきたいのですが、「知っている」ことの多くは実のところ「知っているつもり」の状態であることが多いのではありますまいか。つまりは、決して体系的に整合性をもって理解している状態にないということです。こうした状態は、普通に会話している分には困ることはありません。しかし、いざそのことを知らない他者に伝えようと思うと、なかなか相手に理解してもらえず、もどかしい思いをされた経験がどなたにもあることと存じます。これは、内容を自分自身が充分に把握できていないことに起因するのだと思います。本当に理解できていることは、自身が理解しているように、相手にも整然と説明して理解していただけるものです。もう一つは、相手に理解してもらえるよう、事実の提示の仕方や説明のプロセスの工夫も重要なことと申せましょう。更には、学校教育との連携を考えるのであれば、文部科学省から示されている「学習指導要領」の内容も理解していることが必要です。小学校・中学校・高等学校、それぞれの学校種において児童生徒に必要とされる学力を育成することに、博物館の教育普及活動も寄与すべきものと考えるからです。 
これからの本館では、館内での学習機能の充実(団体見学等々)、及びアウトリーチ活動(学校現場への出前授業等々)の充実にむけた、エデュケーターの役割への期待は極めて大きなものであり、事実、既に大いにご活躍をいただいております。以降は、6月中旬にご依頼を頂いてから、つい先日の実際の授業に至るまでの、千葉市立幕張小学校さんとの取り組みについて、極々簡単に紹介をさせていただきます。

まず、学校からの依頼から授業の実施に至るまでの大まかな流れをご説明いたします。これは、これ以降、市内小中高等学校が本館に対してエデュケーターの派遣等を依頼される場合のモデルケースとなると考えるからであります。具体的な御依頼内容は、千葉市立幕張小学校での「総合的な学習の時間」で、本館職員に関連授業を行ってほしいとのものでした。事前に、全体指導計画をお示しいただけたことにより、本館で担うべきことも明確となりました。御依頼をくださる場合に、一番困ることは「何でもいいので好きなことを語ってほしい」というものだからです。具体的なことは以後にお示しさせていただきますが、ある意味で学校と博物館との連携がうまく運んだ事例ではないかと考えます。因みに、幕張小学校さんのご厚意により、お届けいただいた全体指導計画や今回の出前授業の指導案・指導資料・当日の児童の感想等々、追って本館ホームページ内のコンテンツ「教育活動」にてご紹介をさせていただきます。また、当日の授業の様子については本館ツイッターに写真付きでアップする許可も賜りましたので、是非ともご覧ください。

幕張小学校から御依頼いただいた具体的な内容ですが、それは3年生で実施する合計で70時間にもなる総合的な学習の時間「 幕張スイーツプロジェクト~We Love さつまいも❤~」において、「青木昆陽及び幕張町での甘藷試作地に関する内容」について歴史的な視点から解説いただきたいとのことでした。上記の通り、事前に幕張小学校から綿密な全体指導計画もお届けいただきましたので、これをもとに本館エデュケーターも事前に授業計画を作成。それをもって幕張小に足を運び事前の打ち合わせを行うことができました。学校の意図・指導計画と齟齬が生じないようにするためにも、その後の学習活動にも活かせるようにするためにも、事前の細かな調整が重要です。更に、幕張小学校さんからは児童が「どんなことを知りたいのか」「どんな話を期待しているのか」等々、児童一人ひとりからの自筆のお手紙までお届けいただきました。担当者もそれを拝読し、希望内容を集計し、児童の期待に副うべく準備を進め、いよいよ7月28日(火曜日)の授業に臨むことになったのです。
当日は、絵図を用いての「享保大飢饉」の様子の把握、その中で将軍徳川吉宗の下での青木昆陽の登用、そして青木昆陽の人となり、そしてサツマイモの試作とそれが大きな成果をもたらし、以後有効な飢饉対策として機能したこと等の内容を扱いました。幕張小学校3年児童の皆さん熱心な参加により、とても素晴らしい授業が展開されました。最後に「もっと授業をしてほしかった」との感想がきかれ、エデュケーター冥利に尽きる時間となりました。これも、日頃の幕張小学校での丁寧なご指導の賜物と思っております。是非とも、次の機会があることを楽しみにしたいところです。

上記の取り組みの他に、現在エデュケーターは、9月から再開の予定である本館の団体見学における「学習シート」の見直しを進めております。新学習指導要領の趣旨を踏まえて(小学校:実施済、中学校:令和3年度より、高等学校:令和4年度より)、小中高等学校のそれぞれの皆さんに、本館と周辺地域で如何なる学習活動をしていただくことが適切なのか、従来のような、単なる時間つぶしの穴埋め問題のような学習シートではなく、より社会科の「学び」に迫ることのできる学習シートが必要だと考えます。更に、今回のような学校からの依頼によるアウトリーチ活動に留まらず、本館が複数の「出前授業プログラム」を小中学校に明示し、それに申し込みをいただければ各学校に出前授業に伺うことのできるよう、これ以降準備を進めて参ります。年度末には、そうした出前授業プログラムを市内小中学校にお示しできるようにする所存です。そして次年度からは、本格的に出前授業を推進していきたいと思っております。勿論、今年度も、次年度以降も、今回の幕張小学校のように、各学校における計画に基づき、我々がそれに沿う形で授業を行うことも継続してまいりますので、是非ともご相談ください。各学校における生徒の実態や、学校の狙いに適合するように、授業内容の検討を進めてまいります。

 今後とも、市内の学校にとって、博物館が身近で役に立つ施設であることを目指して業務を推進して参りますので、本館のエデュケーターを是非とも積極的にご活用いただきたいと存じます。本館の「教育普及活動」への御理解も併せてお願いをする次第でございます。

 

特別展『軍都千葉と千葉空襲』にむけて
―博物館業務の中での特別展準備について―

7月24日(金曜日)

 今年の梅雨は久方ぶりの本格派のようで、未だ「梅雨あけ宣言」がなされておりません。今週末かとも取り沙汰されておりますが如何でしょうか。もっとも、何年か前、気象庁も明確な梅雨明けを認めることができないとのことで宣言が出されず、何となく有耶無耶になったこともあったように記憶しております。こればかりは、自然相手ですから人知の及ばぬことがあるのは当然でしょうが、何とも言えないもやもや感が残ったことを思い出します。

さて、今年度の本館特別展『軍都千葉と千葉空襲』開催まで残すところ3か月となり、本館内では準備が正に佳境に入らんとしております。因みに、特別展とは「特別企画展」の略称です。多くの博物館では、年間を通しての基本展示である「常設展示」がございますが、別に年に数回、期間を区切ってテーマを定めて行う「企画展」を開催しております。今年度の本館で言えば、先々週までの「千葉氏パネル展」、現在開催中「ちばの夏祭り・秋祭り」、そして8月26日(水曜日)からの「野のうつりかわり ―六方野の場合―」がそれにあたります。
そうした企画展の中で、最も規模の大きな企画展を「特別企画展」と位置づけ、大々的な展示会とするのも、何処の博物館においても一般的なことかと存じます。本館で申せば、昨年度であれば『海と千葉―海とともに歩んだ歴史』が、今年度は10月27日(火曜日)から開催の『軍都千葉と千葉空襲』が、それぞれ特別展にあたります。多くの博物館では、年1~2回の頻度で特別展を開催しております。本館では、これまで年1回開催を基本としておりましたが、次年度「市制施行100周年」、令和8年度「千葉開府900年」といったアニヴァーサリーイヤーを契機に、次年度から特別展を年2回開催とすることを目論んでいるところであります。また、特別展・企画展の他に、何かの機会をとらえて、一寸した「ミニ展示」コーナーを設けることもあります。現在本館で展示中の『愛新覚羅溥傑と浩夫妻の愛したアサガオ』は正にそれです。本館玄関下で当該アサガオが開花したことに因んだミニ展示となります。今回は、「特別展」が如何なる経緯を踏んで開催にまで漕ぎつけるのか、極々一般的なお話をさせていただきます。何卒お付き合いのほどお願いいたします。

「特別展」にせよ「企画展」にせよ、まず重要なことは何を展示テーマとするかです。特に「特別展」は館の存在意義を計る規模の大きな展示となりますので、その検討には慎重さ、かつ大胆さが求められます。過去10年程を遡り、本館及び近隣博物館で開催の特別展のテーマと重複せず(切り口が変われば問題はありません)、歴史関係であれば特定の時代に偏らず(例えば中世の特別展ばかり)、更には開催時における必然性・適時性等々も勘案し(例えばオリパラ開催、市制施行100周年、コロナ禍関連等々)、加えて皆さんがテーマを見ただけで出かけてみようと思ってもらえる魅力的なテーマとすることにも意を用います。そして、特別展開催年度の2~3年前にはテーマが確定し準備に取り掛かれることが理想です。

テーマが固まったら担当者を決めます。可能な限り担当者の専門性と適合性のある職員を充てることが望ましいのですが必ずしもそうはいきません。何故ならば、市町村立の博物館では、そもそも職員数が限られているからです。可能であれば、歴史だけでも「原始・古代・中世・近世・近現代」の5名の専門家がいることが望ましいですし、その他「考古・民俗・自然・天文」等々、守備範囲毎の専門職員(学芸員)が配置されるのが理想です。しかし、国立・都道府県立の博物館ではいざしらず(1館で50名以上の学芸員を擁していることも珍しくありません)。市町村レベルの博物館の多くは、その10分の1程度の人員での運営が実際と推察いたします。従って、専門外の分野であろうと担当をせざるをえないのが実情です。必然的に一人ひとりのカバーする範囲は広くなります。
しかし、そのことは決してマイナスには働きません。自ら取り組んできた専門分野における方法論を活かして、専門外の新たな知見を広げていくことができる点で、職員としても大いに刺激的なことであり、こうした規模の博物館に勤務する醍醐味ともなりうるのです。専門外分野の探究が自らの専門分野にフィードバックされることすら稀ではありません。
勿論、職員の向くべき方向は市民の皆様、博物館を利用されている方々でありますから、自分自身の楽しみの追及が目的でないことは論を待ちません。しかし、担当者が嫌々準備した展示が、見ている方にワクワク感をもたらすことはありますまい。学校の授業と同じで、教師が関心を持っていない分野の授業は生徒に即座に伝わります。兎にも角にも、展示テーマについての愛情を感じ、自らも嬉々として準備を進めることが何よりも重要だと思います。

特別展の担当となった者は、その後、対象について事前に研究を進める必要があります。特に自らの専門分野でないのであれば猶更です。自らが、展示対象について理解を深めていかねば、他者に伝えることのできる展示とはなりえません。併せて、市民の皆様に何を、どのような構成で伝えるかを考えます(物語性・展示構成等々のグランドデザイン)。最終的に論文を一本書けるほどに内容を深めることが理想です。そこまで漕ぎつければ、担当者自身の中では展覧会の半分は終わったのも同然。全容を明確に思い描けているはずです。
残りの半分。それは、そのストーリーを理解していただくための展示物の選定と実際の展示の方法となります。できる限り具体的な内容を語る実物展示を用意することが重要となります。「目玉」という言葉は博物館として好ましいとは言えませんが、観覧者が「これを目にできてよかった」といっていただけるような価値ある展示物を用意したいところであります。それが自館所蔵品であれば簡単ですが、そうとは限りません。そのため、こちらの希望する所蔵品をお持ちの他博物館や個人に出品交渉を行う必要があります。この交渉及び物品の輸送等にもなかなかに神経をつかいます。

同時並行で、『特別展図録』の編集作業も行います。特別展が終了すれば展示内容は消えてしまいます。しかし、図録さえあれば、展示内容を後世に残すことができ、何時でも確認をとることもできます。その意味でも、図録の作成には極めて大きな意義があります。従って、図録の編集作業にも相当な熱量を使う必要があります。最近、素晴らしい特別展示であっても、残念なことに図録を刊行しない博物館もあります。その理由として耳にするのが、当該予算が確保できないことと、展示準備と図録編集作業との両立が難しいことです。特に職員数の少ない小規模の博物館ではこうした傾向が強いと思われます。併せて、会期の2か月ほど前からは、ポスター・チラシによる広報活動も欠かすことはできません。

そして、担当者は青息吐息で、どうにかこうにか開館の日を迎えるということになります。当たり前のことですが、その日までに全てが揃うようにスケジュール管理しなければなりません。私も仕事柄、多くの博物館での特別展を拝見させていただく機会がありますが、同業者として担当者の苦労が偲ばれることが多々あります。何気なくご覧いただいている特別展ではありますが、大きくとらえても、かような流れがあります。

ただし、以上述べたことは「かくあるべし」との理想論であります。実際には(特に規模の小さな市町村立博物館では)、なかなかその通りにはいかないのが現実でもあります。職員数が少ないことは、必然的に幾つもの特別展・企画展を特定の人間が重ねて担うことを意味します。従って、2~3年後に開催予定の特別展準備にその時点から取り掛かることは実質的には難しい状況にあります。それよりも、目の前の企画展・ミニ展示・特別展の開催準備が優先となるからです。悲しいかな、いわゆる自転車操業状態となることは市町村博物館の実情でもあります。研究体制の充実は、まず人員の手当てであろうかと思いますが、今日日何れの地方公共団体も財政的余裕のある状況にはありません。しかし、我々としては、弱音を吐いている場合ではありません。そうした状況下であっても、少しでも価値ある特別展を開催できるよう工夫を重ねて参る所存でおります。

最後にもう一度申し上げますが、令和2年度特別展『軍都千葉と千葉空襲』まで残り3か月。それまでに、ご来館の皆様に新たな知見や発見をもたらすことのできる展示となりますよう、最後まで精一杯準備を進めて参る所存です。今回は、言わずもがなの特別展準備の裏側についてご紹介をさせていただきました。

 

 

 

「土用の丑」に思う-鰻食文化と自然環境のこと-(後)

7月18日(土曜日)

 「鰻」の後編。前・中編をお読みいただければご理解いただけたことと存じますが、少なくとも現状においては、日本における鰻食文化の維持のために、何よりも優先されるべきは、天然鰻の保護だと思われます。そのために行うべきことは、鰻が自然環境で生命活動を維持でき、子孫を残すことを可能とする生息環境を確保することであることは言うまでもありません。

最終回は、そのことに尽力される研究者の方の取り組みをご紹介いたします。私自身とも個人的にお付き合いのある神奈川県水産技術センターの工藤孝浩主任研究員です。因みに、工藤孝浩さんは、東京湾をフィールドとする自らの研究活動を活かし、TOKIO出演のTV番組「The!鉄腕!DASH!!」における「DASH海岸」(工業地帯の中に古の東京湾の再生を目指すそうとする人気コーナー)をはじめとして、数多くのTV番組の企画等にも携われてもおられます。著名なタレント「さかなクン」が師匠として慕われる方でもありますし、私が在職した中学校2校での周年行事に講師としておいで頂き、生徒向けの記念講演をいただいたこともあります。
工藤さんの調査研究資料(全日本持続的養鰻機構・日鰻連総会報告記録)によると、河川における鰻の生態調査から鰻成魚の通常の生活圏は極めて限られた範囲であることが判明したそうです。従って生態系の頂点に立つ鰻がその狭い範囲で成育できる前提として、豊富な食物環境(水生昆虫や蝦・蟹や小魚)が必要にも関わらず、鰻自体と多様な生物が成育できる河川環境が破壊されていること(コンクリート護岸の存在)。鰻の河川遡上を阻む河口堰等の人工構築物が設置されていること等が、鰻の個体数激減の要因となっていることを指摘されています。水害防止のためにコンクリート護岸は必要であっても、その内側に植物・動物の成育できる余地を確保すること。河川に鰻が遡上できる魚道を設置することで、鰻の生息環境はより向上するのです。ある意味で、コンクリート護岸設置だけではない新たな公共事業となりえましょう。しかも、これは自然を破壊する公共事業ではなく、人間の必要を実現しつつ自然環境再生との両立を可能とする公共事業に他なりません。
さらに、未だ仮説の段階であるようですが、工藤さんから直接に伺ったお話によれば、「海ウナギ」の生息環境として想定されるのが内湾部に存在する「干潟」であり、戦後の大規模な内湾の埋め立てによる干潟環境の消滅が鰻個体数の激減の大きな原因ではないかとお考えです。確かに「江戸前」という言葉は、現在でこそ寿司ネタで用いられておりますが、元来は江戸の前海や浅草あたりまでの大川(隅田川)で採れた「良質の鰻」を由来とする言葉です。つまり、都市江戸の眼前に広がる遠浅の干潟環境こそが鰻の格好の生息環境であることを、計らずも示す言葉だったのです。千葉の縄文人の生命活動を支えたのが「千葉前(!?)」の干潟で採取される魚介類であったように。干潟は多様な生物の「揺り籠」であると同時に、人間にとっても生命維持の根幹として機能していたのです。同時に、そこに暮らす生物等の生命活動が海水の浄化作用をも担っていました。
また、浅瀬の干潟に広範に繁茂していた海草群(アマモ場)こそ、多くの魚類の産卵場であり、また鰻に限らず多くの魚介類の生育の場でありました(鰻の餌場でもありしょう)。いま、埋め立ての影響で、東京湾の広大な干潟(浅瀬)が消失し、遠浅の海を埋め立てたその先の海岸線から、すぐに深い海となってしまっています。こうした深い海には海草は生育できませんし、従って海水の浄化作用も働きません。以前、ラジオで「今日の東京湾は美しい青色でまるで南の海のようです!」とのアナウンスを耳にしたことがありますが、それは生物の生命維持にとって厳しい貧酸素水塊が沿岸に押し寄せている状況だと推察されます。いわゆる「青潮」という現象であり、干潟に生息し直ぐに移動のできない貝類等にとっては、生命活動を停止に追い込む恐ろしい海水なのです。決して「綺麗!!」などと呑気に喜んでいる状況ではありません。確かに東京湾の水質は一時と比較して改善され、生き物が戻ってきたと評されます。しかし、少し水深が深くなるだけで、そこには貧酸素水塊が広がり、そこには生物は生息できていないのです。それを改善するには、浅瀬である干潟が必要なのです。つまり、天然鰻の再生とは、河川であれ海であれ、多様な生物の生息環境の在り方を再生することにあるのです。これこそが、「海とともに歩んできた」日本人の担うべきことでありましょう。私は、その意味において、千葉市の臨海部にある埋め立て地の先に少しでも干潟環境を再生できないものかと夢見ることがあります。
余談ではありますが、東京湾にはかつて「アオギス」という魚がおり、千葉県内では、警戒心の強いアオギスを釣るための脚立が、浅瀬に立ち並ぶ光景は初夏を彩る風物詩でもありました。しかし、彼らは埋め立ての進行とともに生育圏を狭め、ついに東京湾内では絶滅しました。残念ながら昭和51(1976)年に稲毛海岸で捕獲された個体が東京湾内での最後の記録となっています。このことをもっとお知りになりたい方は、浦安市郷土博物館の開館記念特別展『アオギスのいた海』図録(2002年)を是非ともご覧ください(現在購入可能:税込¥1.000)。

そうした東京湾の再生のために、工藤さんは仕事の合間を使って自ら市民活動にも取り組んでおられます。金沢八景を中心にした「アマモ場再生計画」です。「DASH海岸」でも見られるとおり、海の再生にむけて何らかの取り組みをすれば、必ず生き物は戻ってきます。金沢八景でも、多くの魚介類が、再生されたアマモ場で産卵し成育していることが確認されました。他にも、定期的な海の清掃活動も推進されております。人と海の生物との共存のために、失われた海の環境を再生することは、「市民」としての我々が子孫のために行うべきこと……との信念の下で活動をされている姿に頭が下がりますし、是非とも見習いたいものだと思っております(自身は手を染めずに第三者にやるように訴えるだけの方なら掃いて捨てるほどいらっしゃいます)。同時に、「豊穣の海:東京湾」という素晴らしき自然環境をテリトリーとする千葉市内博物館に奉職する者として、「海」という自然環境と千葉の歴史・民俗との密接な連関を常に意識しながら博物館活動をして参らねば……との決意を新たにするところです。今回話取り上げた「ニホンウナギ」は、飽くまでも一例ではありますが、重大な象徴性を帯びた存在ではないかと思うのです。

最後になりますが、最後の晩餐のメニューに「鰻重」を挙げる日本人が多いそうです。庶民としてのささやかな夢が何時までも叶えられるために、我々日本人に課せられた責務は極めて重いことを皆様と共有できたらと願っております。誤解の無いように申し添えておきますが、決して土用の丑に鰻を食べないようにしよう……とのキャンペーンではありません。こんなに美味なる食材を是非とも召し上がってください。ただ、上記のことに無自覚であって頂きたくないとの思いで、あえて3回にもわたって長々書き連ねさせていただきました。不愉快の段これあれば、何卒ご容赦の程をお願い申しあげる次第でございます。

 

 

「土用の丑」に思う-鰻食文化と自然環境のこと-(中)

7月17日(金曜日)

 さて、今回の中編でようやく肝心要の「鰻」の話題となります。私たちが古来食してきた鰻は正式には「二ホンウナギ」と言い、広く東アジアに生息している種となります。皆さんも先刻御承知と存じますが、21世紀にもなっても鰻の生態については未だ分からないことだらけです。それはニホンウナギに限らず、大西洋周辺に生息するヨーロッパウナギやアメリカウナギでも同様です。ここ数十年間に分かって来たことは、川を遡ることなく、同目のアナゴと同様に一生を内湾等の海で暮らす個体が相当数存在していること(「海ウナギ」)。海ウナギであれ、我々のよく知る淡水域(河川・湖沼)を生息域とする個体であれ、産卵は日本から遙か2000kmに及ぶ旅の末に深海でおこなわれていることであります。産卵域もほぼ特定されています。ニホンウナギは太平洋マリアナ西方海域、ヨーロッパ・アメリカウナギは大西洋サルガッソー海とのことです(ただ当該海域で実際に産卵行動を行う鰻の目撃記録は未だありません)。孵化後に、柳の葉のようなレプトセファルスとなって海流に乗って大陸に近づき、さらに姿を変えて稚魚(シラスウナギ)の状態になって接岸します。そして、内湾の沿岸部等に居つくものと、川を遡って淡水域で生活するものとに分かれていくことになるのだと思われます。
そのシラスウナギの漁獲量が、毎年のように最低ラインを更新し続けていることは多くの報道でご存知のことと思います。具体的な数値は後述しますが、その激減ぶりは驚くほどであります。今年は昨年より持ち直して過去最低の更新を免れましたが、それでも最盛期とは月と鼈であり、依然として危機的な状況であることに変わりはありません。経済の基本のキでありますが、受給のバランスから取引価格は今や貴金属と比肩するほどです。でも、養殖で鰻を育てているではないかとの声が聞こえてきそうです。確かに、天然鰻の蒲焼きに出会える確率は皆無に近く、有名店で食する鰻でもほぼ100%が養殖鰻であります。しかし、そこには大きな問題があります。何故ならば、現状における養鰻は、卵から成魚までを一貫した「完全養殖」ではないからです。
実のところ、「完全養殖」は、ようやく実現段階に到達はしているのです。ただ、後に触れるように未だ採算度外視のレベルです。従って、現状では、海で孵化した天然鰻の稚魚が、沿岸部に近づいたシラスウナギの段階で捕獲したものを養殖池に「池入れ」して成魚に育てます。いわば「不完全養殖」とも言うべき状態が、かろうじて日本の鰻食を成立させているのです。
ます、完全養殖成立には雌に卵を持たせることが肝心ですが、過密な養殖池で育てた鰻の9割以上は雄となってしまい雌の確保が難しいのです(自然環境では当然の如く雄雌比率は半々です)。卵を持たせるにも高額な特別なホルモン剤を投与しなければならないそうです。しかも、辛うじて孵った幼魚が何を餌としているのかも分からない。試行錯誤の結果、深海鮫の卵を食することが分かったそうですが、自然環境でかような餌を食するわけはありません(皮肉なことにこの深海鮫も絶滅危惧種です)。水が少しでも汚れると死滅するし、途轍もない時間と労力と資金を投じた末に成魚になったのは極々僅かというのが、新聞報道「鰻の完全養殖成功」の実態とのことです。恐らく1匹数十万円で販売しても原価割れでしょう。つまり、ただでさえ個体数が減少し、絶滅が危惧される天然鰻の存在により、かろうじて我々の鰻食文化が維持されているという極めてお寒い現実があります。

シラスウナギの2020漁期(2019年12月~2020年4月:ただ今年度は規定量に達した3月末で打ち切り)での国内採捕量は17トンとなり、史上最低となった昨年度の4.6倍と若干持ち直しました。以下は、過去最低であった昨年度の数値をもとにお話しを進めます。2019漁期では国内養殖場への池入れ稚魚は15.2トンにすぎません。その内訳は、国内採捕が史上最低の3.7トンであり(これは最盛期の1%にも満たないそうですから、幾ら今年度4.6倍となったといっても喜べる現状ではありません)、池入れ総量との差額11.5トンは中国等からの輸入シラスウナギで賄われておりました。以下、国内採捕と輸入に分けて、その現状を見てみましょう。
まず、国内シラスウナギの採捕量については都道府県への申告が必要ですが、2019漁期3.7トン中で申告済は2.2トンのみ。残りの1.5トンは出所不明となっています。様々な要因が想定できましょうが、透けてくるのは密漁という闇ビジネスの存在です。毎年シラスウナギ漁の時季になると、密漁による検挙の報道を目にしますが、彼らが犯罪を承知で密漁に手を染める背景には、鰻ビジネスによる巨額の利益があるからに他なりません。激減して値段の高騰している現状が更に密漁に拍車をかけているのでしょう。
次に、輸入シラスウナギについてです。昨年7月26日新聞報道は驚くべき現状を明らかにしております。それによれば、同年に中国等アジア諸国へのヨーロッパウナギのシラスウナギ密輸が摘発され、稚魚1,500万匹が押収されたとのことです。その量たるやヨーロッパウナギの稚魚総数の2割にも及ぶと推定されるそうです。しかも、その闇ビジネス総額は日本円換算で3,600億円規模に及ぶとのこと。しかも、標記の11.5トンの多くが、それら諸国を介して日本に持ち込まれた可能性が高いようです。
つまりは、日本近海からのシラスウナギ激減が国内での密漁を助長し、それがヨーロッパ・アメリカウナギ稚魚の密輸にまで拡大している図式が描き出されましょう。価格は高騰しているとは言え、依然として日本市場に比較的安価な鰻が出回っていることと、密漁によるヨーロッパ・アメリカでの鰻個体数激減との因果関係にも思いを致すべきでありましょう。当然、欧米ではウナギは絶滅危惧種に指定。捕獲は厳しく制限されているうえ、ワシントン条約により国際取引にも厳しい規制が掛けられております。しかし、世界最大のウナギ市場である日本との取引が莫大な利益を生み出すのですから、あの手この手で売り込んでくることでしょう。何といっても、世界で捕獲される鰻の約7割は日本人が消費していることを我々は知っておくべきでしょう。だからこそ、密漁と密輸は後を絶たないのです。少なくとも、我々が無意識のうちにであれ、鰻絶滅への片棒を担いでいることは認識すべきです。

その意味で、世界最大の鰻消費国「日本」が鰻資源保護に如何なる対策を採っているのかが問われるのであり、それが国際社会で果たすべき日本の責務であることは間違いありません。しかし、その実情はお寒いもののようです。そもそも、鰻の生態研究や養殖研究に割かれている公的な予算措置は極々僅かであり、それぞれの研究団体の自助努力によって支えられているのが現実と聞き及びます。 (続く)

 

「土用の丑」に思う-鰻食文化と自然環境のこと-(前)

7月16日(木曜日)

 今年は例年になく本格的な梅雨となりましたが、特に九州地方をはじめとする各地で線状降水帯の発生による記録的集中豪雨がもたらされたことを忘れることができません。「50年に一度」「100年に一度」「経験したこともないような」と形容されるような集中豪雨がほぼ毎年のように発生しているような気もいたします。これも地球温暖化の為せる業なのでしょうか。これからは、猛暑の続く毎日がやって参ります。コロナ対策と並行しながら乗り越えなければならない時節です。今夏はいつも以上にしんどい夏になりそうです。

さて、ここ数年、毎年最高気温が更新されるような猛暑続きでありますが、これを如何に乗り越えるかに、日本人は古来様々な工夫を凝らして参りました。屋内の建具を風通しの良いものに入れ替えたり、夕刻に打ち水をするのは直接的な暑さ対策のひとつでありましょう。しかし、我が国では別に、視覚や聴覚に訴えて涼味を感じとろうとする独自の手法も存在します。軒先で涼しげな姿を見せる「釣忍」や、かそけき響きで涼味を喚起する風鈴も外すわけには参りますまい。ガラス製の粋な江戸風鈴も結構ですが、極めつけは播磨国姫路の地でつくられている伝統工芸「明珍火箸」でありましょう。その透明な金属の響きは「涼味を届ける」という一点において群を抜いております。なかなかのお値段で未だに入手が叶いませんが、個人的には伝統の甲冑・刀剣づくりの技法を転用した逸品を身近で耳にしたいと願っております。また、食の世界では、西瓜・かき氷・素麺等の冷たくさっぱりした食物や、熱くこってりとした食品で精を付けて暑さを乗り越える食習慣もあります。後者の代表選手こそが「鰻」ではないでしょうか。暑さの盛りとされる「土用丑」に挙って鰻を食するのは、もはや本邦における夏の歳時記ともなっておりましょう。今夏の土用丑は来週火曜日(7月21日)と8月2日(日曜日)の2日となります。両日は日本国中で鰻が飛ぶように販売され、日本人の胃袋を満たすことになりましょう。
もっとも、本来の鰻の旬は秋から冬にかけて産卵のために川を降る時期にあり、土用の鰻は決して最上とされません。味が落ちて需要の落ち込むこの時季の販売戦略として考案されたのが「土用丑」であり、その発案者は江戸後期のマルチタレント平賀源内だと言われております。私自身も鰻の蒲焼きは大好物ですし、最高のご馳走でもあります。我が家でも尻馬に乗って、恐らくは山の神がスーパーマーケットで購入した安価な鰻を食することになりましょうが、ここのところ若干の後ろめたい思いとともに口にしているのが実際です。

今回は、この鰻の話題をとりあげます。おそらく「何故、郷土博物館で生物の話?」「何故、食の話題?」等、この段階で皆様には「?」マークがいくつも浮かんでおられることと推察致します。最初にその点についてご説明いたします。本館の名称は「千葉市立郷土博物館」であり、もとより「歴史・民俗」の調査・研究・展示を活動の中核としております。しかし、一方「歴史博物館」を標榜しているわけでもありません。歴史・民俗を形成するもの、背景となるもの、それはそれぞれの地域における自然環境に他なりません。地域ごとに異なる自然条件に、それぞれ地域の歴史・民俗が大きく規定されているのです。もっとも、本館には自然誌系を専門とする職員はおりません。従って、現状で生物・地学等を中核とした特別展示を行うことは難しかろうと思われます。しかし、千葉市域は東京湾に面しており、縄文の昔から、この地に居住する人々は、海と深く関わって日々の生活を営んできました。当然、生業としてだけではなく、日々の糧の多くも海に依存してきたのです。それは国内随一の分布数を誇る貝塚の存在に明らかでありましょう。つまり、歴史・民俗の追及のためには、常に自然環境に意を用いること、視野に入れておくことが不可欠なのです。まして、「食」はそれぞれの地域における文化の在り方を強く反映しております。人気テレビ番組「秘密のケンミンSHOW」を見れば、狭い日本国内によくここまでと思うほどに、各地に多様な食文化が根付いていることを知ることができます。昨年度の本館特別展も『海と千葉―海とともに歩んだ歴史―』も、そのことに意を用いた内容でありました。
従って、今回ここで「鰻」と「自然環境」ついて話題に取り上げることも、決して本館の活動からして的外れなことではありません。皆様、ご納得いただけたでしょうか。これまたテレビ番組由来で恐縮ですが、皆様には「ガッテン!ガッテン!」と力強くスイッチを押していただけたと信じたいところでありますが如何でしょうか。

こうした食文化を軸とした極めて優れた特別展示が、3月から5月にかけて佐倉の「国立歴史民俗博物館」で開催される筈でしたが、コロナ禍により館の閉館を余儀なくされ、残念ながら一度の公開を見ることもなく中止となってしまいました。特別展の名称は『昆布とミヨク ―潮香るくらしの日韓比較文化誌―』。「ミヨク」とは韓国語で「わかめ」のことです。古来、日本列島と朝鮮半島に居住する者は、広く海藻を食材として利用する世界でも稀な人々です。また、「昆布」「わかめ」は両国で、それぞれ様々な儀礼や贈答においても重要な役割を果たしております。我々のような地域博物館で扱う内容を超え、更に国家を越えて世界の観点から対象をとらえようとした、正に国立博物館ならではのスケールの大きな「国際企画展」でありました。実際に、同展は「韓国国立民俗博物館」との共同研究の賜物であり、歴博の前には、韓国でも展示が行われ大変に好評を博したと聞いております。
内容は、隣国である韓国と我が国の文化について、海産物の利用、漁撈技術、漁民の信仰といった海を巡る生活文化を比較することで考えようとするものであり、多くの発見に満ちたものです。そして、日本国内においても、こうした食を扱った特別展として、その極北に位置する展示会になるはずでありました。
やむを得ない仕儀ではありますが、3年にもわたって調査研究と準備を重ね、会場展示すらすべて完了していたのにも関わらずの中止決定。館職員の皆さんの無念は如何ばかりかと推察するところであります。ただ、素晴らしい「展示図録」が出来上がっていることが僥倖でありました。300頁にもなりなんとする冊子の内容は、掛け値なしに深く豊穣なものであります。読み物としての充実という点においても瞠目すべきものだと存じます。図録は、歴史民俗博物館にて販売されております。一般図書と異なり博物館刊行展示図録は部数も限られ、よほどのことがないかぎり重版もいたしません。ご興味のある方は是非とも品切れにならないうちにお求めになられることをお薦めいたします(¥2.200+税)。
(続く)

 

ミニ展示「ちばの夏祭り・秋祭り」
7月15日(水曜日)より[1階展示室]

7月10日(金曜日)

 千葉市内各学校におきましては、例年であればそろそろ夏季休業に入る頃ですが、今年度はコロナ禍への対応のため夏休みも短縮になります。中学校教育現場では、本来であればこれから総合体育大会や各種コンクール等が開催される頃ですが、こちらも全国総合体育大会中止を受け、連動して下部大会もすべて中止となりました(関東・千葉県・千葉市の総合体育大会)。部活動自体の再開ですら、4段階のステップを踏んで行うとの方針が、6月末に千葉市教育委員会から示された段階です。3年生にとっては入学以来取り組んできた活動(運動系・文科系の何れも)の成果を問う最後の晴れ舞台。例年、各会場では丁々発止の熱戦が繰り広げられます。上位大会に進むことのできた歓喜あふれる生徒(チーム)、力及ばず涙する子どもたち。悲喜交々すべてが青春の一駒として生徒の記憶の印画紙に焼き付けられます。これらがすべて雲散霧消となりました。かようなご時世で致し方がありませんが、子どもの気持ちを勘案するにつけ、居たたまれぬ思いに駆られるのは、保護者をはじめ、学校現場に関わる全ての者が共有するところでありましょう。しかし、これに挫けることなく、生徒諸君には希望をもって未来を切り拓いてほしいと願わずにおれません。

 さて、5月末の本館再開以来継続して参りました千葉氏パネル展『将門と忠常―千葉氏のルーツを探る―』も明後日で会期を終えることとなります。これまで、本展に足をお運びくださった皆様には心より御礼を申し上げます。ありがとうございました。次年度も、今回の内容を引き継ぐ形で「千葉氏パネル展」を継続する予定であります。是非とも次年度も楽しみにしていただければと存じます。そして、入れ替わるように、標記日程より新たなミニ展示「ちばの夏祭り・秋祭り」を本館1階展示場にて開催いたします(会期は10月25日まで)。特別展『軍都千葉と千葉空襲』開始(10月27日)まで続く長い展示となります。お時間を見計らって是非ともご来館をいただけましたら幸いです。

 「祭り」と聞けば、人それぞれの想いがございましょう。当方の個人的なそれは、自身が生まれ育った東京下町における秋祭りと分かち固く結びついております。9月半ばに毎年開催される村社「香取神社」の祭礼です。母親に手を引かれて山車を引いて町内を練り歩いたこと、少し大きくなってから「子ども神輿」を担いだこと等々、幼少時代の大切な記憶です。もっとも、子ども心に嬉しかったのは、山車や神輿の合間に子供たちに配られる菓子や飲み物でしたし、更に数倍する楽しみは、御多分に漏れず境内に居並ぶ露天商の存在でした。「杏飴」「薄荷パイプ」「鼈甲飴」といった食物から、「吹き矢」「型抜き」「輪投げ」「射的」「ヨーヨー釣り」といったゲーム性の強いもの、「金魚すくい」「カラーひよこ」「ミドリガメ」(あの愛らしい亀が大きくなるとアカミミガメとなり、50年も後になって緊急対策外来種に指定されようとは知るも由もありませんでした)といった生物の販売をする店等が所狭しと軒を連ねておりました。
いつもは蝉取りに出かける伽藍とした境内が一変し、色とりどりの屋台が櫛比する非日常的異空間に様変わりするのです。それに魅了されない子どもなどおりますまい。灯点し頃ともなれば境内の様相はまるで万華鏡を覗いたようでした。それでも、今の電球とは異なりアセチレンランプの灯火は力強いものではなく、微かに揺らめく炎が境内の陰影を際立たせました。そのような、そぞろ歩く一足ごとにうつろう色彩の饗宴に、子供心にも陶然といたしました。昨今は小型発電機の稼働音に覆われて耳にすることが叶わなくなった風のかそけき音すら感じられたように覚えています。さんざめく雑踏と御囃子連による笛・太鼓・鉦の混然一体となった音世界。醤油やソースの焼ける芳香とアセチレンの燃える独特な匂い。こうした雑多で猥雑な要素の全てが「祭り」の世界を混然一体となって形成していたのだと思います。今でも、その頃の湧きたつ気持ちとともに、私の瞼・鼻孔・耳朶にしっかりと焼き付いております。そして、そんな一年に一度の「ハレの日」が待ち遠しく、指折り数えたことも懐かしく想い出します。
因みに、職場の同世代の同僚に聞くと、稲毛浅間神社では「桃売り」「風鈴売り」「バナナのたたき売り」が、姫路の農村では「お化け屋敷」等の見世物小屋が出ていたりするなど、東京下町では見たことも聞いたこともないものも多いことを知り、改めて地域性が強いことを実感しました。今でも、我が家は香取神社の氏子ではありますが、町内会の一員として祭りの運営に若干携わるくらいで、あまり熱心に関わっていないのが現実です。万事派手で、賑やかなばかりの昨今の祭りの在り方に飽き足らない思いがするからかもしれません。

長々と私自身のことを述べ失礼をいたしました。それはさて置き、皆様は「祭」と言う言葉から如何なることを思い浮かべましょうか。おそらく、多くの方にとっては、私が上に述べたことと大同小異ではないかと推察いたします。しかし、一口に「祭り」といっても、昨今は様々な様相が混在しております。夏の盆踊りも「祭り」として認識されていることが多いようですし(本来は先祖供養のための仏教行事を由来とし、時衆の踊念仏とも無関係ではありません)、「親子三代夏祭り」のようなフェスティヴァル化した市民イベントにも「祭り」という言葉が付されます。勿論、これらも「祭り」の一形態には違いありませんが、今回のミニ展示では、市内を代表する5つの神社において年に一度大々的に開催される「祭礼(例大祭)」(千葉神社・寒川神社・登渡神社・検見川神社・稲毛浅間神社)、及び、七年に一度9つの神社が関係しあって執り行われる特殊な形態の祭礼(「三山の七年祭り」)を取り上げご紹介いたします。

 ところで、「まつる」という和語には、「祭る」以外にも「祀る」「奉る」といった複数の漢字が当てられます。更に、政治を「政(まつりごと)」と称するように、「まつり」という言葉自体には様々な要素が包含されております。そもそも「まつる」という言葉も「まつろう」の転訛とされております。これは「御側にいる」という意味だそうで、「ご様子を伺い、何でも仰せごとがあれば皆承り、思し召しのままに勤仕しようという態度に他ならぬ」とのことです(『日本の祭』柳田国男)。古来、神を「祀る」ために、宮司や氏子がその傍らで慎ましやかに神を「奉る」行為が「祭り」であって、俗に言う「お祭り騒ぎ」が「祭り」の全てではないことはおさえておく必要がありましょう。逆に言えば、現在盛大に挙行される「祭り」における活気あふれる祝祭風景や、居並ぶ露天商の賑わいに覆い隠されてしまい勝ちな、「厳粛な神事としてのまつり」の姿や意味をもお知り頂けましたら幸いです。また、なぜ夏に祭りが行われるのか、なぜ秋なのか等、行われる時節による「祭り」の意味や、祭りの行われる場の違いにも注目していただけると、昨今の世情と併せてご納得いただけることがあるかもしれません。

本ミニ展示では、それぞれの祭礼の解説にあわせ、大正から戦後にかけての古い写真や、祭礼装束なども展示いたします。装束を身に纏うマネキンの容貌・肢体が純然たる洋風にて、その違和感たるや如何ともし難いものですが、そこは「祭り」に免じての「ご愛敬」とご寛恕くださいますよう願います(因みに当人形は千葉県立佐倉東高等学校のご厚意により拝借しております)。祭りの今昔を比較すれば、同神社の祭礼であっても、数十年で少なくとも表層としての在り様は随分と変化していることにもお気づきいただけましょう。昔から変わらずに続いていると思われ勝ちな祭礼も、その相貌は時代の移り変わりとともに刻々と変わっているのです。
また、会場では御囃子の音源も流し、少しでもお祭り気分を盛り上げようと目論んでおります。また、講座室を会場に「三山の七年祭り」記録映像の上映を行います(上映曜日・時間・注意事項等は以下をご参照ください)。本展示が千葉市内で行われる祭礼の諸相をご理解いただく契機となれば幸いに存じます。

 

「三山の七年祭り」記録映像の上映(約90分)

 

(昭和50年 千葉市教育委員会製作)
〇水曜日(10時30分~12時00分) 〇土曜日(13時30分~15時00分) 
〇日曜日(10時30分~12時00分) 〇祝祭日(13時30分~15時00分)
※感染症予防のため1回上映につき12名を定員とします。
※当日は定員となり次第締め切らせていただきます。定員をこえた入場は一切お断りいたします(事前予約は承りません)。
※講座室利用の関係で、水・土・日曜日、祝祭日でも上映できないことがございます。当館HP等でご確認のうえ来館くださいますようお願い申し上げます。
 

 

 

 

花のある風景―「大賀蓮」と「日中友好の朝顔」―

7月3日(金曜日)

 「梅雨」の名称からも明らかなように、この頃は初春に可憐な花と芳香とで私たちを楽しませてくれた梅樹が、たわわに実をつける季節となります。その昔に中国より伝わったという梅は、「花よし、香よし、味よし」と三拍子揃った実にありがたい樹木です。本館敷地内にも1本の梅樹があります。昨年は豊作であったそうですが、本年はほとんど実をつけておりません。剪定した時期の問題なのか、俗に言う「裏年」に当たるのかはわかりません。何れにしましても、皆様のお宅では、これから梅漬・梅干・梅酒・梅ジャムづくり等々が盛んに行われましょう。それらも含めて、梅実はこの季節を代表する食品であり、当該季節の風物誌の一つと申せましょう。その他、本館周辺には紫陽花もたくさんあり、この季節には青紫の花が雨に一際鮮やかに映えております。その所為か、撮影をされる方をよく目にいたします。花の序で結構です。是非本館にもお立ち寄りください。さて、今回は本館の花事情について二つほど申し上げます。

 一つ目は、本館玄関下にある「大賀蓮」についてです。これは前館長さんの肝煎で、土づくりから丹精込めて植え付けたものと聞き及んでおります。本市が推進する「千葉市らしさ」を象徴する柱の一つである大賀蓮。その「見える化」に向け、本館でも玄関下左右に阿吽の仁王像のごとく設営し、来館される皆様を蓮の花でお迎えしようと2樽を用意されたとのことです。しかし、4月以降に発芽はしたものの、残念ながら一樽は直に枯れてしまいました。大賀蓮の育成は思うほど簡単ではないようです。水飲みにやってきたカラスが水面から顔を出した新芽を突いていたとの目撃情報がありますので、もしかしたらそれが原因かもしれません。もっとも、確証はありませんし、カラスにしてみればとんだ濡れ衣かもしれません。
それでも、残されたもう一樽は「千葉公園」綿打池から大幅に遅れはしたものの、今では小さな水面一杯に幾つもの丸葉を浮かべております。ただ、連日のように市内各所で薄桃色の花を楽しませてくれている大賀蓮でありますが、本館では未だ花芽は出ておりません。本年度中の開花を期待しておりますがどうでしょうか。今年度に花をつけなくとも、後任として今後に次年度の開花に向けて手を打ちたいと思っております。是非とも前館長の悲願を達成したいものです。 
因みに、前館長にお聞きしたところ、このプラスチック製円形樽は、素人が使うものとしては最大の漬物樽だそうです。決して見栄えは宜しいとは申せませんが、少なくとも円形であることには深い意味があるそうですので、皆様にもこっそり「秘伝(?)」の伝授をいたしましょう。それによれば、大賀蓮の育成には四角い水槽は不適切だそうです。何故ならば、小さな空間で伸びようとする蓮根が壁に突き当たってしまうと、そこで成長がストップしてしまうとのこと。その代わり、円形のそれであれば、蓮根は曲がりながら先へ先へと伸びていけるので、成長が継続する可能性が大きくなるということです。これまで失敗をされている方は、是非ともご参考の程を。

 「古代蓮」の異名をもつ大賀蓮につきましては、ここで改めて説明するまでもございますまい。昭和26(1951)年、大賀一郎博士が東京大学検見川厚生農場内の青泥底層から発見した2000年前の蓮実から発芽した「古代蓮」のことです。因みに、実際に実を発見したのは発掘を手伝っていた花園中学校在籍の女子生徒でした。翌年、見事に開花した蓮がその後に分根され、その子孫たちが今では国内外に広がって、この季節に美しい花を咲かせております。まさに千葉市が世界に誇る「花」であると言っても過言ではありません。なお、本館4階に関連展示がされておりますので併せてご覧ください。

 

続けて、二つ目の花の話題です。上記「大賀蓮」の両脇に置かれた2台のプランターに植え付けられた「朝顔」についてです。プランター近くにはその由来についての説明板が付されておりますが、これは、そんじょそこらの朝顔ではありません。千葉市に縁のある二人の人物と深い関わりのある「特別な朝顔」なのです。現状では未だ花芽がみえませんが、近いうちに、この方々が心から愛したという大輪の花を咲かせることと思われます。その二人こそ、愛新覚羅溥傑さんとその妻の浩さんに他なりません。開花の暁には、本館ツイッターに写真をアップいたしますので、それをご確認いただけましたら、是非とも本館に足をお運びください。夏の間は毎日のように花を咲かせることでしょう。ただ、朝顔の名前の通り、花を楽しめるのは午前中一杯だと思われます。お休みの日にちょっと早起きをされ、散歩の途中にでもお寄りください。本館の正面玄関下にありますので、開館前であっても、どなたでもご覧いただけます。ただ、できましたら序にご入館いただければ嬉しく存じます(午前9時開館・入場無料)。
最後になりますが、その際には、是非ともこの朝顔の由来(お二人と如何なる関係があるのか)をお知りになった上で御出でくださることが宜しいかと存じます。何故ならば、同じ花がまるで違った花としてご覧いただけるかと考えるからです。以下に、本館外山統括主任研究員の手になる解説文を原文のまま掲載させていただきます。簡にして要を得た説明に私は付け加えることは何もありません。ご一読されれば、可憐に咲く朝顔に込められた歴史に心打たれることと存じます。併せて、この数奇な歴史を辿った朝顔の花を通じて、歴史に翻弄されたお二人の生涯と、未来永劫にわたる日中両国民同士の友好とに、深く思いを寄せていただければ幸いです。そのことを切に願わずにはおられません。

 

 

『愛新覚羅溥傑・浩夫妻が愛した「日中友好のアサガオ」』

 愛新覚羅溥傑は、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝になった溥儀の弟です。昭和12(1937)年、溥傑は侯爵嵯峨実勝の娘の浩と結婚して稲毛で新婚生活を過ごし、天台にあった陸軍歩兵学校に通いました。その時に住んだ家が「千葉市ゆかりの家・いなげ」です。
溥傑一家は、終戦によって別離と流浪の日々を送りましたが、昭和35(1960)年12月、溥傑は北京・北海公園で庭師として働くことになりました。浩は溥傑と暮らすため、北京へ旅立ちました。そのとき日本の思い出として携えていたのが、アサガオのタネでした。溥傑・浩夫妻が愛した、赤紫に白い縁どりの大輪のアサガオは、二人の願いを込めて「日中友好のアサガオ」と呼ばれています。
なお、このアサガオの種子は、溥傑・浩夫妻の資料を所蔵する関西学院大学図書館(兵庫県西宮市)から、昨年度の特別展「海と千葉-海とともに歩んだ歴史-」にちなんで寄贈されたものです。

 

 

 博物館の役割とは ―史資料の保存・活用・継承―
千葉氏パネル展「将門と常胤―千葉氏のルーツを探る―」7月1日(水曜日)「ブックレット」販売開始(税込¥100)」!

6月26日(金曜日)

  雨の季節ですから当たり前のことですが、ここのところ鬱陶しい空模様が続いております。梅雨は無くてはならない大切な季節であることは言うまでもなく、むしろ「恵の雨」として感謝すべきでありましょう。ただ、皆様におかれましては、コロナ禍に気遣いつつも、蒸し暑さで奪われる体力の維持、増殖しやすい雑菌による食中毒防止等々、多方面への気配りが求められる季節でもありましょう。

 実のところ、この季節は私たち博物館にとっても、一年の内でも気を遣う季節の一つでもあります(もう一つは異常乾燥の冬季)。展示品にとっての大敵は間違いなく「黴」の存在です。黴には何の悪気はありませんが、彼らは有機物からなる多くの展示物を格好の住処といたします。従って、その防止には湿度・温度管理が何より欠かせません。博物館によって状況は異なるとは思いますが、「展示室」の展示品はケースに納められている場合が多いのですが、それらとて機密空間ではありません。大きくとらえれば、展示室そのものが開放空間といっても過言でなく、多かれ少なかれ外気の影響を受けることになります。展示品には複製品も多くありますが、貴重な実物の原史資料もあります。特に、貴重な実物資料を、光線、過度な湿気・乾燥に晒しつづけることは極力控えねばなりません。かような環境に長く置かれれば置かれるほど史資料の劣化は進行していきます。当たり前ですが、それらは唯一無二の存在であり、他の何物をもっても代えることができないものです。一方、原史資料が破損していたり、劣化が酷い場合には、専門家の手をお借りして修理・修復することも必要となります。破損・劣化の状態によってはそのために多額の費用を要します。従って、費用対効果の面から考えても、能う限り劣化を防ぐ対応が求められます。そして、こうした地道な取り組みにより、貴重な史資料は未来へと継承されていくのです。つまり、私たち博物館の重要な役割として、世界に一つしか存在しない貴重な「史資料」の、維持・管理・継承があることを認識していただけると有難く存じます。

 そのための施設として、博物館には「展示室」の他に「収蔵庫」なる施設が付属しておりますが、皆様はご存知でしょうか。勿論、本館内にも存在し、多くの貴重な史資料が大切に保管されております。いわゆるバックヤードであり、一般公開はできませんが、ある意味で博物館の存在意義を計る中核施設に他なりません。貴重な史資料の維持・管理のための施設ですから、収蔵庫は火災にも耐える防火構造でつくられており、湿度・温度が厳重に管理された密閉の暗所空間となっております。古文書等につく「害虫」・「黴」の駆除も定期的に行われます。繰り返しますが、一度失われた史資料は二度と戻りません。過去の遺産をしっかりと未来に引き継ぐことは、我々博物館に課された使命なのです。

しかし、これだけでは博物館は単なる「倉庫業」と選ぶところがありません。こうした貴重な史資料を皆様にご覧いただき、我々の調査研究活動により明らかになった「意味」をお伝えしていくことこそ「博物館」の機能であります。このことは以前から度々申し上げる通りであります。しかし、先ほどから申しあげている史資料の「保存」という機能と「公開」というそれとは、実際のところ本来矛盾する(極端に申せば二律背反の)命題でもあるのです。そして、そのジレンマの落としどころが「複製品」の存在だと考えます。これにより、(代用品ではありますが)貴重な史資料を何時でも目にすることが可能になります。来館される皆様からしてみれば、「複製品」と聞くだけで「なんだ、本物じゃないのか!?」と思われることでしょうし、その気持ちが理解できないわけではありません。しかし、現代の技術を侮ってはなりません。今や実物と寸分違わぬ「複製品」を製作することができます。こうすることで、実物の史資料を守り、同時に日常的に皆様の観覧に供することも可能になります。貴重な原史資料は「特別展」等の場で、期間を区切って公開することによって、「保存」と「公開」の両立を図ることが可能となるのです。

しかし、本館では、何点か未だに貴重な文書史料の現物が常時展示されているものがあります(中には文化財指定を受けているものもあります)。これらは、早急な複製の作成と原史料との入れ替えが必要と考えております。たとえ複製品であっても複製の作成には多くの費用を要します。文書史料であればさほどではありませんが、立体史料や絵画史料は相当な予算が必要となります。従って、複製史資料であっても、原史料と同等に慎重に取り扱うべきです。特に絵巻などは同じ場面だけを展示し続ければ色褪せの原因になります。本館では、お陰様で昨年度に全展示室の空調施設整備がなされ、温度・湿度の管理という面では大きな一歩となりましたが、一方でコロナ禍のための換気も必要となりました。そこで現在は、定期的に時間を区切って窓を開放することで換気を行っております。管理上、止むを得ない措置ですので、何卒ご理解をいただきたく存じます。その他にも博物館施設としての課題は山積しております。一つひとつ解決していかなければなりません。

最後に、図々しく宣伝をさせていただきます。昨年のパネル展「千葉氏Q&A」の際にも刊行し、皆様にご好評をいただきましたミニ『ブックレット』を、今回のパネル展においても刊行し、7月1日(水曜日)から本館にて販売をすることにいたしました。残す会期が2週間弱となった時点での刊行となってしまいましたが、会期終了後も継続して販売をいたしております(昨年度刊行『千葉氏Q&A』も販売中です)。既に本年度のパネル展をご覧いただいた方でも、是非とも再訪された際にお買い求めいただければ幸いです。その機会として、今後本館での開催を予定しております「ミニ展示」、「特別展」、「埋蔵文化財センター巡回展」等の日程を以下にお示しいたします。何れかの機会にご来館いただいた折に、併せて本ブックレット等の本館刊行資料をご購入いただけましたら幸いです。ただ、今後の感染症の状況等により会期変更もあり得ますので、折々にHP等でご確認をお願いいたします。

1 ミニ展示 「ちばの夏祭り・秋祭り」[1階展示コーナー]
・展示期間   7月15日(水曜日)~10月25日(日曜日)
2 ミニ企画展「(仮称)六方野のうつりかわり」[2階天文コーナー]
・展示期間  8月26日(水曜日)~10月25日(日曜日)
3 特 別 展 「軍都千葉と千葉空襲」[主会場:2階展示場]
・展示期間  10月27日(火曜日)~12月13日(日曜日)
4 「千葉市埋蔵文化財センター巡回展」[1階展示コーナー]
・展示期間  11月18日(水曜日)~11月29日(日曜日)

今回の『ブックレット 将門と忠常 -千葉氏のルーツを探るー』の内容ですが、パネルにある写真等の資料をすべて掲載しております。また、解説につきましては、文字数の制約上でパネルに盛り込めなかった内容も加筆してございます。製作経費の関係でカラーは表紙・裏表紙のみで、中身はモノクロ印刷となっております。サイズこそ「ミニ」でありますが、中身は「マックス」と自負するところであります。何よりも、お手元に置いて何時でもご活用いただけるメリットは大きいものと考えます。お値段もお求めやすい一冊ワンコイン(¥100)です。「山椒は小粒でピリリと辛い」的冊子として、是非多くの皆様がお手にされ、ご活用いただけることを祈念する次第でございます。

 

将門伝説の世界―または「将門塚」のこと―

6月19日(金曜日)

 現在開催中の本館パネル展「将門と忠常―千葉氏のルーツを探る―」の会期も3週間を残すところとなりました。また、過日「千葉経済新聞」でも本展示についてお取り上げいただきました。その内容がヤフーニュース等のネット情報で流れ、多くの皆様方に周知いただいたお陰でありましょう。先の土・日曜日は生憎の空模様のなか、思いのほか多くの皆様にご来館をいただきました。荒天にも関わらずご来館くださった皆様に、この場をお借りして御礼を申し上げます。ありがとうございました。

今回のパネル展は、「史実」の将門と忠常に留まらず、「伝説」として生き続けた歴史にも迫っております。「伝説」の世界を扱うと、「史実にあらず」と一刀両断にされることがよくあります。歴史的に価値なきものとの言いでありましょう。一方で、「何千年前の出来事が地域の人々に消し難い印象を残した」ことを伝説伝来の由来とする言説を耳にすることも間々あります。果たしてそうなのでしょうか。少なくとも、後者のような認識はあまりに牧歌的に過ぎましょう。何故ならば、事例として不適切との誹りを免れないかもしれませんが、9年前の東日本大震災における大規模な津波被害に照らしてみれば明らかだと思うからです。地域住民にとって何にも増して重大な記憶でなければならない120年程前の大津波被害のそれすら、必ずしも充分な形で語り継がれていたと言い難かったのではないでしょうか。まして、1000年以上も昔のことが何十世代にもわたり営々と語り継がれることなど考えられません。つまり、「伝説」とは、決して過去の記憶がそのまま引き継がれたものではなく、後の時代の人々が何らかの意図をもって再生産し続けたものなのです。
従って、「何時」「誰が」「何の目的で」「如何なる筋立てにより」、「記憶の再生産」を図ったのかを探ることは、歴史学として追及すべき価値ある内容です。何故ならば、少なくとも伝説誕生時における「歴史的事実」を反映しているからに他なりません。特に、「将門伝説」の世界は、日本史上の何人とも比肩できないほどに豊穣であり、幾多のアプローチが可能となりましょう。しかも、反乱の地である関東を遥かに越え、北は青森から南は熊本まで広範に存在しております(私たちの千葉市にも色濃く残っております)。今回は、千葉市を少々離れた話題となりますが「将門伝説」の一端に触れてみましょう。

 東京都千代田区大手町といえば、スーツをビシッと着こなした内外のビジネスマンが闊歩する日本経済の中心地です。今から150年も遡れば、江戸城の正門として諸侯の登城で殷賑を極めた大手門のほど近く。幕府の要職を務める譜代大名の上屋敷の居並ぶ、今でいうところの官公庁街。この地に幕府が開設されてから、過去400年にわたり国内の中心地であり続けている場であります。そんな林立する高層ビルの谷間に異質な一画が今も残っています。これが未だ江戸が国内の中心となる以前、古代・中世における江戸の記憶を微かに伝える史跡に他なりません。その名称は都史跡「将門塚」。申すまでもなく、将門の乱鎮圧後に京で晒された首級が東国を目指して飛び去り、その首級が落下した地点で手厚く葬り祀られた場であるとの伝説の伝わる場です。江戸時代にはこの場所は酒井家上屋敷内であり、現状とは異なるマウンド状の塚でした(絵図が残っております)。内部には石室もあり、いわゆる「古墳」であったものと考えられております。また、特に明治以降になって、この場所に手をつけると必ず祟りを引き起こすと言われ続けた、いわゆる心霊スポット(パワースポット?)でもあります。勿論、首がこの地に飛んできたこと、ここが将門の墓所であること等を、史実とすることは難しかろうと思われます。明らかに何者かによって後世に創作された話であり、場でありましょう。そもそも、将門の首塚のある場が何故「江戸」なのでしょうか。百歩譲ってこの地が「東国」であることに異論はありませんが、将門の故地を言うのであれば、現在の茨城県坂東市に首級が祀られることこそ理に適っておりましょう。

 ここで考えなくてはならないことが、武蔵国江戸郷は、12世紀半ばに秩父系平氏の一流が進出。平将恒がこの地に拠点を置き「江戸氏」を称したことです。平将恒は平良文の孫にあたります。つまり、千葉氏と祖を同じくする一族なのです。後に千葉氏が将門を顕彰したこと(相馬氏が祖先と位置付けたように)と同様の構造をここに見てとることは、あながち見当外れとは申せますまい。秩父平氏にとって将門との縁を強調することは、一族の地域支配にとって有効と考えられていたことを思わされます。一族の故地である秩父地方は、今でも「将門伝説」の色濃く残る地域であり、現在の秩父神社が元来「秩父大宮妙見宮」であったように妙見信仰が盛んな土地柄であります。秩父平氏である江戸氏によりこの地に将門関連の諸々がもたらされた可能性が想定されます。つまり、江戸氏の手により、たまたまこの地にあった古墳が「もっともらしい施設」として、地域支配の精神的拠点「将門塚」として再整備された可能性が指摘できるのではないでしょうか。余談ではありますが、千葉常胤の室は秩父氏から迎えられているなど、良文流平氏としての秩父氏と千葉氏との強い紐帯も存在します。

そして、時代は下り治承・寿永の内乱期。反平氏の狼煙を上げて、房総から武蔵国を経て鎌倉に向かおうとしていた源頼朝に立ちはだかったのが、武蔵国江戸郷を拠点とする江戸重長でした。彼は「大福長者」と称され富裕をもって知られていました。結果的に頼朝への加勢を決めた後、石浜(浅草北の隅田川右岸の地)にあった「西国舟」数千艘を集め三日間のうちに浮橋を設営。頼朝の隅田川渡河を助けたとされることからも(『義経記』)、その富と権力の源泉が湊を拠点にした広域物流支配にあったことをうかがわせます(「戸」は「津」の転訛とされ湊であった痕跡を残す地名と考えられます。東京下町には今も「戸」地名が数多存在します)。こうした非農業民の集住地である江戸・石浜(両者の中間に地域の宗教的拠点となる浅草)という、正に都市的圏内に「将門塚」が存在することは非常に興味深いものがあります。何故ならば、江戸氏が室町時代半ばに当地から退転後の「将門塚」継承に関わる可能性が大きいと考えるからです(因みに、江戸氏退転後に当地を拠点とするのが扇谷上杉氏家宰の太田道灌です)。

その点で、こうした都市的な場を布教拠点として「道場(小規模な布教の拠点)」を営んだ時衆(時宗)の存在は注目されます。すでに宗祖「一遍上人」の段階で石浜を訪れていることが国宝『一遍聖絵』から明らかです(後に「石浜道場」に発展)。しかし、より重要なのは一遍の後継者として時衆教団化の基盤をつくったとされる二祖他阿弥陀仏「真教」の存在です。徳治2(1307)年に当地(江戸郷芝崎村)を布教に訪れた真教が、地域住民に祟りをなす将門霊位に法号「蓮阿弥陀仏」を授け、自ら揮毫した板碑を建立して鎮めたこと。また、傍らの天台宗寺院を時衆(時宗)に改め芝崎道場とし、以後「将門塚」の祭祀を司ることとなったことが伝えられているからです。芝崎道場は後に日輪寺を称し(江戸初期浅草に移転し現存)、傍らで将門を神霊として大黒・恵比寿とともに祀った神田明神ととともに(江戸初期に現在地へ移転、明治期の神仏分離で神田神社)、令和の現在も将門の祭祀を両寺社が継承し執り行っております。ここからは、将門塚の祭祀が、支配者層から庶民階層(商工業者層)のそれへと拡大していることがうかがえます。
そして、ここで注意すべきは、将門祭祀を担ったのが時衆(時宗)だということです。ご存知じのように、一遍上人の布教活動は「一所不住」を旨として全国を遊行するものであり、その基本形は二祖真教以降にも引き継がれました。また、時衆(時宗)の布教活動が踊念仏といった芸能的側面をもっており、中世における遍歴する芸能民との親和性が高いことも指摘されるところであります。国内に広範に存在する将門伝説には、こうした時衆(時宗)の遊行活動や、遍歴する芸能民の存在といった、社会的な背景も視野に入れることができましょう。

因みに、神田明神の祀る主神は申し上げるまでもなく平将門ですが、明治維新後にいわゆる祭神論争が勃発します。新政府から将門祭神廃止を申し渡されたからです。新政府は、天皇陛下の膝下で、朝廷に盾突いたのみならず日本史上唯一天皇にとって代わる新皇を僭称した者を神として祀る、「不都合な真実」に蓋をしようとしたのです。神社側も堂々の論陣をはって対抗しますが、最終的に主神から外し摂社として扱うことで調整が図られました。明治17(1884)年に、維新以来中断されていた山車祭が再開された際、折から暴風が襲い多くの山車が破損。この時、氏子連が「将門さま」が新政府の理不尽な処置に「ご立腹」と認識したとの記録も、江戸っ子にとって「江戸惣鎮守」としての高い格式への誇りと、将門と東京(江戸)の商工業者との強い紐帯を思わせます。余談ではありますが、氏子の悲願であった将門霊神の本殿復座が叶ったのは、それから100年も経過した昭和59(1984)年のことでした。また、江戸への出開帳で大いに持て囃された成田山新勝寺でありますが、神田明神の氏子に限っては旗色悪く、将門調伏を寺院成立の契機とする本寺への参詣をしない「習わし」を頑なに守っているとのことです。これも形を変えた「将門伝説」の一つと申せましょうか。

今回は、「将門伝説」、その中でも東京にある「将門塚」の存在に焦点を当ててみました。伝説の世界は奥が深く、史資料が残らない伝承の世界だけに検証は困難なことが多くあります。しかし、時代の精神史を探るうえでも極めて有用な題材かと思います。「将門伝説」はそのための豊穣な世界を提供してくれるものと確信いたします。ご興味がございましたら、村上春樹著『平将門伝説』(汲古書院)[著名な小説家と同姓同名ですが別人です]、樋口州男著『将門伝説の歴史』(吉川弘文館:歴史ライブラリー)をお薦めいたします。前者は、全国に散在する伝説を広範に渉猟した貴重な資料集として、後者は、それらを歴史的な流れに位置付けて意味を検討した論考として優れています。本稿も後者を大いに参考にさせていただきました。

 

漫画『坂東の風雲児 平将門』(坂東市刊行)

6月12日(金曜日)

 4月当初からの館長の長話にはもううんざり……との声が、そろそろ聞こえてきそうです。そこで今回は、現在開催中のパネル展に関しましての刊行物の紹介を、能う限り手短にさせていただきます。

さて、前回は福田豊彦先生の想い出とともに、『平将門の乱』(岩波新書)をご紹介させていただきました。しかし、さすがに子供には手強い内容かと思われます。そこで、今回は、お子さんたちにも味わっていただけるであろう歴史漫画をご紹介いたします。それが標記作品です。もともと、将門が拠点としていた石井営所旧跡や国王神社のある岩井市の刊行作品でしたが、平成17(2005)年に行われた猿島町との合併後、新たな「坂東市」として販売が継続されております(今も「岩井市」表記のままなのがご愛敬です)。
肝心要の内容ですが、お役所のつくった漫画と侮ってはなりません。大手出版社刊行の歴史漫画を遥かに凌駕する充実の内容です。後世の子供たちに価値ある資料を残そうとの、製作に関わられた皆さんの熱い息吹を一読して感じ取ることができます。これだけのものは生半可な取り組みでは決して出来上がりません。同業者として頭の下がる思いです。内容は勿論のこと、装丁・絵・画面構成の素晴らしさも、後世に語り継ぐべき作品と太鼓判を押したいところです(信憑性への疑義を差し挟まれる可能性無きにしもあらずですが、実際にお手に取っていただくことが何よりの証となりましょう)。
それもその筈。当漫画の内容は、間違いなく福田先生の『平将門の乱』を下敷きに作話されております。従って、単なる人物伝に終始することなく、時代背景や権力基盤等について切り込んだ描写も遺漏ありません。現在まで30年近く営々と地域で読み継がれているのも当然と納得いたします。
余談ではありますが、千葉市立葛城中学校に奉職しているとき、当漫画を学級人数分購入し社会科の授業で活用しておりました。「武士のおこり」の理解が進んだと生徒たちからも大いに好評でした。この40冊は現在も葛城中学校図書室に架蔵されております。きっと後輩達が十全に有効活用していることでしょう。

 この歴史漫画は、残念ながら一般の書店では販売されておらず、坂東市関連施設か通信販売でご購入いただくしかありません。申し遅れましたが、お子さんに限らず、大人の鑑賞にも十二分に耐え得る力作であります。全175頁にも及ぶ大作で一冊税込¥1,000のお買い得価格であります。
因みに、坂東市の複合文化施設「坂東郷土館ミューズ」内に「坂東市立資料館」が併設されており、将門関係の調査研究にも熱心に取り組まれ、関連する特別展も幾度か開催されております。また、近年『坂東市版 将門記 現代語訳』が刊行されましたので、併せてご紹介させてください。『将門記』は「平将門の乱」について記述された、いわゆる「軍記物」の嚆矢ともされる基本文献でありますが、如何せん簡単に読み込める代物とは申せません。その点、この資料集は、見開き2頁中、右頁上方に現代語訳文、下方に訓読文を。そして左頁に詳細な訳注と関連史資料(地図・系図等)を掲載しております。現在入手できる『将門記』のテキストとして、お値段(税込¥1,000)も含めて、最もお手頃で有意義な刊行物であると考えます。
これらの漫画・資料集はともに坂東市立資料館にて購入可能です。本館のパネル展を御観覧いただいた後に、当館を訪問されることをお薦めいたします。併せて、近隣の将門縁の地巡りをされては如何でしょうか。現在、本館ツイッターでは「パネル展 将門と忠常 紹介」を連載アップ中です。現地散策に少しでもお役立ていだけましたら幸いです。

最後に、念のために申し添えておきますが、当方は決して坂東市さんの回し者ではありませんし、当然一切の見返りもございません。その点、くれぐれも誤解無きようお願い申しあげる次第であります。

『平将門の乱』(岩波新書)と福田先生の横顔

6月5日(金曜日)

 今年も初夏らしい爽やかな陽気をほとんど味わう間もなく、梅雨入り前にすっかり真夏の様相を呈しております。地平から入道雲がすっくと立ち上がり、辺りを威圧的に睥睨する光景をよく目にしますし、ここ数日は蒸し蒸しとした雨の季節の到来まで感じさせる陽気です。昨今、冬から夏に、夏から冬へと、春秋を介することなく季節が極端に振れるようになったように感じます。これも人為的な要因による地球環境変動の為せる業なのかと思われます。古来日本人の感性を育んできた微妙な季節の移ろいが失われていくことは、文化の鑑賞、文化の創造の両面でも大きな影響をもたらすと懸念するところであります。『古今集』以来の「四季」を主たる部立てとした歴代勅撰和歌集でも、「季語」を必須とする俳諧においても、一際印象に残る秀歌・秀句は春秋に多いように思います。皆様は如何お感じでしょうか。

 さて、現在開催中の千葉氏パネル展「将門と忠常―千葉氏のルーツを探るー」も、開幕から2週間が経過しました。この間、特に土・日には予想を超えるたくさんの皆様においでいただきました。この場をお借りして御礼申し上げます。誠にありがとうございます。会期は7月12日(日曜日)までとなっております。閉幕まで一か月強ございますので、未だご観覧いただいていない皆様は、これを機に是非とも足をお運びください。お待ちしております。

 今回は展示資料中にある一冊の書籍に関する、極々個人的な想い出話となりますことをご容赦願います。その書籍は豪華本でも稀覯本でもない、どの書店にも置かれていたであろう新書にすぎません。書名は『平将門の乱』。著者は中世史研究者として夙に御高名な福田豊彦氏です。見開きには「天野良介様 恵存 福田豊彦」と、先生自筆の闊達な筆跡による献辞が残されており、ケース内に当該頁が開かれた状態で展示されております。かような個人的属性の明らかな展示物をお見せすること自体、博物館として本来ご法度かと存じますが、個人的な想いに免じてご寛恕くださいませ。

この福田先生の御高著に巡りあったのは、今や懐かしい岩波新書(黄版)の初版が書店に並んだ昭和56(1981)年のことと記憶しております。私は学生最後の年を迎えておりました。当時は卒業後の進路が定まらず悶々とする中でしたが、大学の生協で何気なく手に取ったこの書物に忽ち引き込まれてあっという間に読了したこと、読了後の知的好奇心の満たされた充足感、更には未知なる歴史への興味を大いに掻き立ててくれたワクワク感等、今でもありありと記憶しております。歴史に関する興味関心が人一倍に強かった私でしたが、故あって学生時代に歴史とは無関係な学問に携わっていました。そうした中で、この一冊が、少しでも「歴史」と関わることのできる仕事に就こうとの決意を固める契機の一つになったことは確実です。その結果、私は社会科教師としての道を選ぶことになり、以後は歴史的分野を中心とした教科研究に携わって参りました。
高校生時代に大河ドラマ『風と雲と虹と』(1976年)で親しんでいた平将門でしたが、その折には間違いなく単なる英雄物語としてしか歴史を見ておりませんでした。平将門の権力基盤を、牧・鉄・開発といった社会経済面から光をあて、更に現地の地形と関係づけて明快に論じた内容に、まさに「目から鱗」の思いでした。そして、「歴史を学ぶとは如何なることか」に改めて開眼させられたように思います。現在の中世史研究者からの評価はいざ知らず、私にとっては今でも古びることのない名著であります。また、何年か後に、友人と本書を片手に故地を経巡り廻ったことも懐かしい想い出です。本書も刊行以来40年近くとなります。品切れになった時期もありましたが、幸い現在は新本で購入できるようです。ご興味がおありになれば、是非ともご一読されることをお薦めいたします。今回の「パネル展」の理解を更に深めていただけるものと確信いたします。

そんな、福田先生の謦咳に接することができたのは、教職について20年以上経過した平成17(2005)、私が千葉大学教育学部附属中学校で教鞭をとっていた頃のことでした。平成17年に当館で開催された特別展『鉄をつくる』の共催として、勤務校での「総合的な学習の時間(「共生」と命名しておりました)」にて、実際に我が国に古くから伝わる製鉄技術(一般に「たたら」と呼称)よる鉄づくりを再現するという、博物館活動のお手伝いをしたことがきっかけでした。
鉄づくりの技術的指導は東京工業大学の永田和宏教授でしたが、製鉄と東国武士団の勃興との関連を歴史面から裏付けていただくことになったのが福田先生だったのです(福田先生も東京工業大学名誉教授でした)。当時すでに80 代も半ば。痩身白髪のお姿でしたが、背筋の通ったかくしゃくとした立ち姿が印象的であり、エレガントに被られたハットと足元の白い革靴がとてもお洒落でした。学会の重鎮でありながら、決して偉ぶることなく、立ち居振る舞いも言葉遣いも紳士然とされており、少々甲高いトーンの早口で中学生を相手に懇切丁寧に語り掛ける、教育者としての真摯な姿にもうたれました。何より、自分自身の将来を左右する契機ともなった一冊をものされた福田先生にお会いできたことに狂喜いたしました。その折に、ずうずうしくも先生に懇願し、ご署名いただいたのが今回の展示品に他なりません。初版は実家に置いてあり手元になかったため、とり急ぎ入手した書物にご署名頂いたと記憶しております[代表作の一つ『千葉常胤』(吉川弘文館)にご署名いただけなかったことが心残りであります]。
その時に、生徒たちと砂鉄と木炭からつくりあげた、いわゆる「和鉄」と鉄滓が本館での特別展会場にて展示されました。そして、15年を経過した今でも、本館収蔵庫にて保管されております。

それから先生とは年賀状の遣り取りのみのお付き合いとなりましたが、再びお目にかかることは叶わず、残念ながら、それから10年後の平成27(2015)年に泉下の人となられました。国木田独歩の作品ではありませんが、私の中では、今でも「忘れえぬ人々」のお一人として生き続けておられるのです。

道中記の世界―または博物館の役割について―(2)

5月30日(土曜日)

 今回は、前回からの道中記の話題を基に、更に敷衍して「博物館の役割とは何か」に展開をさせていただきます。歴史系博物館の役割の一つは、こうした地域に埋もれた史資料の発掘、及びその調査・研究を行うことにあります(地方公共団体によっては文書館がこうした機能を担っている場合があります)。本館も『千葉市史』編纂事業を継続展開しており、「道中記」に関しては、刊行済の『史料編9近世』に、南柏井村の小川金左衛門が、享和3(1803)年に房総半島から日光までに至る寺社巡りをした記録が翻刻(原史料を活字化)されております(『上総房州参り宿覚帳』)。また、園生町の旧家に数多の道中記資料が存在していることも記録されております。皆さんも是非こうした貴重な史料に接していただければ、更に地域の歴史に対する興味関心が深まることと存じます。全国には、こうした道中記に限りませんが貴重な翻刻刊行している博物館も多々ありますので、ホームページ等で検索してみては如何でしょうか。

因みに、私のお勧めは、東京の府中市郷土館(「府中市郷土の森博物館」前身施設)刊『猿渡盛章紀行文集』(1980年)と「世田谷区立郷土資料館」刊『伊勢道中記資料』(1984年)です。前者には、武蔵国総社である六所宮(大国魂神社)神主である猿渡盛章が、文政9(1826)年に位官申請のために上京した折の紀行史料等が集成されております。盛章は著名な国学者でもありました。道中記をもとに後に紀行文とした『山海日記』には、各所に和歌が散りばめられており、凡百の道中記とはレベルの異なる文学作品として読むことができると同時に、当時の社会情勢の一端を知ることのできる一級の歴史史料ともなっております。後者では、幾つか収められる史料中の『伊勢参宮覚』が注目されます。これは喜多見村の名主であった田中国三郎による弘化2(1845)年の道中記です。裕福な農民らしく、行先は更に広範となり、信仰以上に娯楽的な側面を色濃く感じられる内容となっております。東海道を通って伊勢参宮に向かい、その後に奈良見物。大坂では芝居見物をして四国に渡り、金毘羅詣の後に伊予国の道後温泉へ。再び舟で本州へ戻り、宮島・錦帯橋へ廻ってから山陽道を東に辿り京都へ。そこから中山道を通って善光寺参り。その後は江戸を経て喜多見村に戻るまでの、凡そ3か月にもわたる大旅行となっております。記述内容もとても豊富で、個人的感想や筆の遊びによる絵画描写が含まれるなど、いつ見ても楽しい読みものになっております。余談ですが、千葉大学教育学部附属中学校で教鞭をとっていた頃、選択社会の授業で当道中記を教材とし、生徒とともに一年間かけて読み込んだことが懐かしい想い出となっております。

話題を元に戻し、改めて強調させていただきますが、私たちのような地域博物館の役割として何よりも重要なことは、地域に埋もれた史資料を見出し、更にはその調査・研究を通じて、忘れられていた地域の歴史を明らかにしていくことに他なりません。そんな昔のことなど知っても「一文の価値もない」等の言説をしばしば耳にいたしますが、果たしてそうなのでしょうか。以下、飽くまでも個人的な考えではありますが、私はそうした言説には首を傾げざるを得ません。2015年物故された元ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ワイツゼッカーによる、1985年西ドイツ連邦議会での演説「過去に目を閉ざす者は、現在(未来)に対しても盲目となる」(過去のドイツにおけるナチスの歴史を踏まえた言説)を引くまでもなく、人類の歩んだ過去を明らかにし、その意味を探ることが今を生きる者の務めであり、延いては未来を生き抜く何らかの指標を見出すことにも繋がると考えるからです。特に、私たちのような地域博物館における地域の歴史調査・研究活動は、広い意味での歴史を、私たちの足元にかつて生きた人々の活動から、身近に掴むことができる可能性を秘めていると思います。
こうした博物館の地道な活動は、実際のところ市民の皆様には一番見えにくい部分でありますが、これこそが、博物館活動のコアとなる最も重要な機能であります。目立たないからと言って、決して疎かにしてはならないことです。ただ、幾ら重要だからと言って、その段階に留まっていては博物館の活動は「象牙の塔」にすぎません。調査研究と同列に重要なことは、その成果を、様々な形で広く一般の市民の皆様に還元することです(常設展・特別展、当館ホームページ上「研究員の部屋」コラムも一つの試みであります)。今回紹介いたしました江戸時代の旅で申せば、ご紹介した資料についての調査研究が、府中市で『伊勢へ奈良へー幕末の旅と社会―』(1990年)、世田谷区で『社寺参詣と代参講』(1992年)という、それぞれの博物館における「特別展示」として結実し、市民の皆さんへ調査研究内容が広く公表されております。ともに優れた展示図録が作成されていることも申し添えておきます。逆に、価値ある還元のために、不断の調査研究こそ決して欠かすことのできない活動なのです。

以上、皆様を長々とあちらこちら引き廻してしまったようで、誠に申し訳ありませんでした。再び「道中記」の世界に舞い戻りますが、千葉市内にも「道中記」は何冊も残されておりますし、今後新たに発見される可能性も大きいものと思われます。当館としましても「江戸時代の旅」を題材に、その時代や社会の在り方に切り込めるような、価値ある特別展示をいつか開催したいと願っております。また、皆様も、市内に残る東金御成街道・房総往還・佐倉道・土気東金往還等々の古道を辿り、道筋に残る寺社や石造物を巡りながら、併せて健康の維持増進を兼ねる歴史散策を楽しまれては如何でしょうか。幸いに、こうした古道はいわゆる「三密」とは無縁でありましょう。

博物館の担うべき役割は、これまで縷々述べて参ったことの他にも未だ未だ沢山ございます。是非とも皆様にもお知りおき頂ければ幸いに存じますが、それらは、またの機会にさせていただきます。今後とも、職員一同、矜持を新たに諸活動に取り組んで参ります。

道中記の世界―または博物館の役割について―(1)

5月29日(金曜日)

 今週より博物館を再開し、4日が経過いたしましたが、予想を上回る市民の皆様に足をお運びいただいており、嬉しい悲鳴をあげております。もっとも、たくさんの皆様においでいただいているということは、それだけ新型コロナウィルスの感染リスクが高まることを意味しますので、職員としては一段と気を引き締め、感染予防に余念なきよう取り組んで参る決意を新たにしております。
幸いに、今年度「千葉氏パネル展」もご好評を頂いております。本来ならば当館職員による「展示解説(ギャラリートーク)」を行うところでありますが、感染症拡大予防のために実施できず、職員としても大いに歯がゆい思いでおります。その代わりに「解説リーフレット」を別途配布しております。こちらには、パネルに掲載しきれなかった詳細な解説も盛り込んでおります。また、ご質問等がございましたらご遠慮せず受付にお申し出ください。当館職員が個別に対応をさせていただきます。以上、皆様には諸事万端ご面倒をおかけいたしますが、何卒ご容赦いただけますようお願い申し上げます。

 さて、今回も本館ホームページ「研究員の部屋」コラムからの話題です。本館が未だ臨時閉館中5月中旬にアップした、研究員による「卯兵衛さんの旅~江戸の旅と信仰」はお読みいただけたでしょうか。前半で、江戸時代の庶民の旅について概略が、後半では、江戸時代末に現千葉市若葉区中野町在住の高橋卯兵衛による伊勢参宮の旅が紹介されております。往復のルートマップ、道々で何を食べたのか、費用はいくらかかったのか等々、とても興味深い内容となっております。特に、コロナ禍の影響でステイホームを強いられていた多くの方々にとって、江戸時代へのバーチャル追体験旅行が、ほんの少しでも癒しの場のご提供になるのではないかと淡い期待をするところであります。

当コラムでは、時代劇でもよく見掛ける江戸時代の旅が、庶民にとっては決して簡単なものではなく、表向きは信仰・療養を目的としたものであったこと、様々な手続きが必要であったこと(「往来手形」等)、資力の乏しい庶民の工夫が必要であったこと(「代参講」)等々を知ることができると思います。また、在地社会と寺社参詣とを結びつける(つまり庶民を参詣の旅に誘う)、寺社における「御師」という存在も、今ではそれ自体が実感できない存在となっていることでありましょう。また、行先も伊勢参宮を目指す旅もあれば、千葉県内では東北地方にある出羽三山への参詣も今でも盛んです。更に、地元の房総半島の札所巡りなどの道中記もあります。何れにせよ、庶民にとっての旅は一生に幾度もない極めて稀な機会でした。だからこそ、必ずしも言葉の多くない記録からでさえ、生まれた地域外の世界に触れ大いなる好奇心を膨らませている、そのような彼らの息吹を行間から感じ取ることができるように思います。今回のコラムの主人公である高橋卯兵衛もそんな旅人の一人です。旅の途中で、御当地の名物を口にしたり、名所見物を楽しんでいる様子が垣間見えます。詳細は、是非とも当コラムでご確認ください。

 こうした江戸時代の庶民の旅の詳細がわかるのは、旅の記録として「道中記」と呼ばれる文書史料が各地に残されているからです。「代参講」は講員が積み立てた資金を元手として、選ばれた代表が旅に出る仕組みですので、旅の終了後に仲間に「出張報告」「会計報告」をする義務が生じます。これが「道中記」が作成された主たる動機です。従って、現在に残る多くの道中記は、基本的に宿泊場所と出費の記録のみが淡々と記されているものが多く、個人的な感想が記されることは稀です。この高橋卯兵衛の残した「伊勢参宮日記控帳」もそうしたものの一つです。しかし、「代参講」に頼ることのない、個人の資力でも旅が可能であった、裕福な農民や学者のようないわゆる知識人といわれる方々の道中記の中には、読んでも引き込まれる豊富な内容があるものも多々あります。

(つづく)

「5月26日(火曜日)より再開いたします」

5月23日(土曜日)

 新型コロナ禍の影響により、3月初旬から臨時休館を続けておりました本館でありますが、県市の感染者数の推移等を総合的に勘案した結果に基づく政策決定により、「県民の文化的・健康的な生活を維持するために必要であり、『3つの密』の発生抑制が比較的容易な施設」のカテゴリーに分類される博物館関係施設については、来週26日(火曜日)より「充分な感染防止対策」の下での開館となります。これまで3か月弱の長きにわたって(感染防止を目的とした致し方のない仕儀であったとは申せ)、皆様には多大なるご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。ようやく再開に漕ぎつけることができますことを、私たち「千葉市立郷土博物館」職員一同、心の底から嬉しく思っております。

必ずしも再開を記念してというわけではありませんが、タイミングよろしく、本年度「千葉氏パネル展」「将門と忠常-千葉氏のルーツを探るー」を、予定通りに翌27日(水曜日)より開催できることとなりました[会期の終了は7月12日(日曜日)まで延長いたします]。パネル展につきましては、先の「館長メッセージ」において内容等の宣伝を縷々述べさせていただいております。パネル8枚と若干の展示物によるミニ展示ではございますが、手前味噌を重々承知の上で、なかなかに充実した力作に仕上がっているものと申し上げることができます。当館 1階展示室を会場としております。皆様には、これを機に是非とも足をお運びいただき、ご観覧を賜りますれば幸いに存じます。

ただ、「充分な感染防止対策を講じての開館」となります。本館におきましても、通常以上に館内消毒を徹底する等々の予防対策をとって参りますが、ご来館の皆様におかれましても、マスク着用等々の様々なご協力をお願いせねばなりませんし、様々な制約の下で観覧いただかなければなりません。また、暫くは県境を跨いでの移動自粛等の制限もございます。もちろん、体調不良の方の来館につきましては厳にお慎みください。その他、皆様にはご不便をおかけすることが諸々あることと存じます。来館上の諸注意等、詳細につきましては当館HP上にて別途お知らせしております。誠に心苦しくはありますが、非常事態に鑑み、何卒ご一読の上で来館いただけますようお願い申しあげます。

晴れて開館の運びとはなりましたが、コロナ禍は完全に終息したわけではありません。しばらくは落ち着いた状況にあるものと推察いたしますが、夏をこえた秋から冬にかけて、ウィルスがより悪質に変異することもあり得ます。100年前のスペイン風邪のケースを見ても、1919年末からの第二波の流行では、感染者数は減少したものの、致死率はかえって大きくなっていることが見て取れます。マスコミ報道でも取り上げられる通り、現状は安心できる状況では全くないこと。そして、最早コロナ禍以前と同じ世界ではないこと。私たち一人ひとりが、それらのことを深く胸に刻んで行動することが求められましょう。

暫くは、社会全体・各々が感染症拡大防止策を充分に講じ、可能な範囲の中で楽しみを発見できる体制を構築することこそ何より肝要かと思われます。本館の活動が皆様にとって、その一助の役割を果たせますよう、これからも尽力して参ります。今後とも、何卒宜しくお願い申しあげます。

 

「千葉氏パネル展:将門と忠常―千葉氏のルーツを探る―」

5月14日(木曜日)

 新型コロナ禍の影響により、本館も現段階で3月初旬以来の臨時閉館を続けております。本来であれば5月27日(水曜日)から6月30日(火曜日)の会期にて、標記パネル展を開催する予定でありますが、現状未だ開館の日取りをお示しできない状況にあります。そのようなわけで、本パネル展に関しましては、6月初旬までに本館開館が可能であれば、その時点から会期をずらして実施をいたします(5月26日からの開館が可能となれば予定通り翌27日から実施します)。何れの場合も会期終了については7月12日(日曜日)まで延長とします。また、その時点での再開が叶わなければ、本館のHP上で6月中旬を目途にWeb展示にての公開をさせていただきます(その際も開館後に来館していただければパネル展示をご覧いただけるようにします)。現段階で具体的な開館日時とパネル展会期ともに明示できない状況にありますが、ここでは先立って今年度の「千葉氏パネル展」の宣伝をさせていただきたいと存じます。

ここ数年、毎年度開催しております「千葉氏パネル展」でありますが、私たち千葉市が令和8(2026)年に迎える「千葉開府900年」を見据えた連続シリーズとして企画しております。昨年度開催「千葉氏Q&A」に引き続き、令和2年度は、千葉氏の歩みをたどる第一弾。「千葉氏のルーツを探る」として、千葉氏の誕生以前の平安時代に、朝廷に反旗を翻した「平将門」と「平忠常」という坂東武者に焦点を当てます。

二人の名前は、おそらく誰もが目にしたり耳にしたりしたことがあると思われます。現に、平将門は千葉市採択の現行中学校歴史的分野教科書でも取り上げられ、平忠常も高等学校日本史教科書には必ず記述されます。両者とも平安時代における「武士のおこり」といった単元に登場し、貴族の世から武士の世への橋渡しするための大きな役割を果たした人物像として評されております。そこで、まずは名にし負う二人の人物に関する史実を追います。そして、こうした著名な人物と、後の世に活躍する武士である千葉氏と、如何なる関係があるのかを明らかにしたいと思います。

その際、「平安時代」という大きなスパンの中での時代像の変化について御理 解いただけるよう心がけました。今から約900年前に千葉の都市の礎を築いたとされる千葉常胤とその父常重も平安時代の人物です。しかし、一口に平安時代と言っても、桓武天皇が平安京に都を移してから武家政権の誕生まで、凡そ400年という長い期間を有しております。千葉常胤が活躍したのは12世紀後半であり、それは平安時代末期から鎌倉時代初め。院政・平氏政権の誕生から、源平の争乱を経て鎌倉幕府が成立する時期となります。 
それに対して、平将門の活躍は10世紀前半、平忠常は同後半から11世紀前半にかけてであり、中央は摂関政治の成立からその全盛期とほぼ重なります。従って、両者の間にはざっと100~200年もの開きがあるのです。今から200年を遡れば、黒船来航のずっと前、寛政の改革後の11代将軍徳川家斉の頃であることからもご理解いただけるように、社会の在り方自体にも大きな変化が生じており、将門・忠常と常胤とを、十羽一絡げに「武士」として括ることはできません。そうした武者の在り方の変化、ひいては社会全体の変化を探ることに留意いたしました。

最後に、「将門」「忠常」が今でも広くその名を知られているのかは何故かにも光を当てております(「反乱の記憶と再生」)。その原因が決して学校の社会科授業のみにはあらず……と考えるからです。特に平将門は近代文学にしばしば取り上げられ、その魅力的な人物像は広く人々の心をとらえております。古くは幸田露伴・真山青果から、戦後の吉川英治・海音寺潮五郎・大岡昇平を経て、新しいところでは童門冬二・高橋直樹まで、近代以降に限っても将門を主人公とした作品は営々と書き継がれ、多くのファンを獲得していることからもそれは明らかです。個人的には、何を措いても、高校生の時に視聴した海音寺潮五郎原作のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』(1976年)が忘れられません。加藤剛の演じる硬骨漢の将門が印象的でした。
しかし、将門の世界は、広く若者達の心をも捕らえているのです。平将門の怨霊を呼び起こすことで帝都破壊を企てる加藤保憲の跳梁を描く、荒俣宏のサイキック伝奇小説『帝都物語』(実相寺昭雄監督の手になる映画化作品での嶋田久作演じる加藤の人物像は見た者に忘れ難い強烈な印象を残します)、東京の守護神という重要なキャラクターとして平将門の登場する人気CPゲーム『女神転生』等々。その裾野の広がりはとても一千年以上も前の人物とは思えないほどです。さらに、北は青森から南は熊本まで、日本国内にも広く分布する「将門伝説」の存在も見逃すことはできません(千葉市内にも将門伝説は色濃く残っております)。関東で反乱を起こした人物の伝説が、何故時空を越えて国内に広く存在するのでしょうか。また人々の心を捉らえ続けるのでしょうか。不思議と言えば不思議です。こうした乱の記憶と後の時代に再生され続けた背景にも迫ることを目論んでおります。

以上、今回のパネル展では、様々な視点から平将門と平忠常に焦点をあて、史実と伝説の姿に迫ることを通じて、千葉氏のルーツとしての「将門と忠常」の位置づけを明らかにして参ります。併せて、会場には将門・忠常関連のグッズや書籍などを展示します。開館後の展示が可能な場合、感染症拡大予防対策により職員による展示解説が実施できないことから、内容を詳細に解説した「解説シート」を配布する所存であります。また、追って「解説ミニ冊子」の販売も考えております。

現段階では本パネル展の開催方法・時期について明言できませんが、皆様を目くるめく史実と伝説の世界へとご案内いたしたく存じますので、楽しみにお待ちください。そして開館の暁には是非とも本館へ足をお運びいただけましたら幸いです。

 

「終息の見えないコロナ禍に思う」

5月1日(金曜日)

 本日から5月となりました。3月当初からの本館の臨時休館も、既に2か月を経過しようとしております。残念ながら、国内外のコロナ禍終息は未だ見通せず、今しばらくの辛抱が必要のようです。開館を心待ちにされている方々には、誠に申し訳なく存じますが、何とぞ御理解のほどをお願い申し上げます。

さて、もはや旧聞に属することとなりますが、去る4月18日(土曜日)当館HP内「研究員の部屋」に、本館の研究員執筆「新聞にみる千葉のむかし『スペイン風邪の蔓延~大正7年パンデミックから何を学ぶ?~』」をアップいたしております。本コラムは「ちば市史編さん便り24号」(2020年3月31日発行)に掲載されている内容ですが、こうした時期であるからこそ、一人でも多くの皆様にお目通しをいただきたく、本館HPに転載いたしました。また、開館のあかつきには、本稿が掲載される当該リーフレットを実際にお手にとっていただければと存じます。

全世界で猛威を振るった、いわゆる「スペイン風邪」が大流行したのは1918年から1920年にかけて。当時の総人口の約4分の1にもあたる5億人が感染し、死者数は4~5千万とも1億とも言われております。わが国での感染が確認されるのは大正7(1918)年10月のこと。それ以降翌年3月には一端沈静化するものの、同年12月から翌年3月にかけて、更に大正9(1920)年12月から翌年3月にかけてと、流行は三波あったと言われております。

その中で最も大きな被害をもたらしたのが第一波でした。本コラムでは、当該時期における千葉県内での感染経過と講じられた対策等々、当時の新聞記事を追いながら紹介しております。現状と照らし合わせながらお読みいただけると、到底100年以上も前の出来事とは思えない臨場感です。当時は、未だ、原因が特定できない「謎の感染症」でしたが、暗中模索の中で今と変わらぬ対策がとられていることに驚かされたりもします(原因となるインフルエンザウィルスが特定されたのは1930年代に入ってからのことです)。

因みに、同年はシベリア出兵に伴う深刻な物資不足と価格高騰を直接的要因とした「米騒動」が、7月から9月にかけて全国に広がりました。騒然たる世情の中、寺内正毅内閣が総辞職。代わって政友会の原敬の下で、初めての本格的な政党内閣が組閣された直後となります(軽症で済みましたが首相自身も罹患したことは意外に知られておりません)。千葉においては、大きな被害をもたらしながらも、年末には急速に下火に向かったことを新聞記事から読み取ることができます。筆者が記す「そこに、ひとつの希望を見出す」は、今を生きる誰もが共有する願いでありましょう。ただ、当時の日本は、都市人口が2割弱の「農村社会」でありました。それに反して、凡そ9割が都市に集住している現代の社会構造は100年前とは根本的に異なっており、このことが防止対策を難しくしているのだと思われます。

一方、歴史を振り返れば、伝染病を原因とする人類の危機は、同時に新しい時代を切り開く扉でもあったことを見逃してはならないと思います。

ヨーロッパ中世末のペスト大流行は、人口の激減を通じて封建制度を根幹から突き崩し、中世から近代への道筋を付けました。また、この文章で取り上げているスペイン風邪は、最終局面を迎えていた第一次世界大戦による甚大な人的・物的被害とも相まって、労働力の深刻な不足を生じさせました。1918年は、11月にドイツでの君主制の崩壊後、新たなに成立した共和制政府が連合国と休戦協定を締結。ヨーロッパを主戦場として足掛け5年にもわたって甚大な被害をもたらした第一次世界大戦が終結を迎えた年でした。それと入れ替わるように、今度はスペイン風邪の大流行が、戦争を遥かに超える更なる人的被害の追い打ちをかけたのでした。そして、そのことが結果として、大戦後の福祉国家への転換や女性の社会進出を促したと言われています(近代から現代へ)。つまり、パンデミックという悲劇を乗り越えることを通じて、計らずも人類は大きな社会構造の変革を成し遂げてきたのです。

今回の新型コロナ禍でも、これまでの状況にかんがみれば、非常事態宣言の下、在宅勤務、テレワーク、自宅学習、外出自粛等々の対応を強いられております。こうした中で、これまで当たり前であった勤務や学校をはじめとする社会の在り方に、誰もが否応なく向き合わざるを得なくなっております。私は、これを契機に社会構造がドラスティックに変わる可能性が大きいと感じています。その意味で、私たちは歴史的画期ともいうべき重大局面に立ち会っているのだと思うのです。しかし、少なくとも現状は「見えない難敵との戦い」に勝利することが至上命題です。併せて、当館で今秋予定している特別展「軍都千葉と千葉空襲」では、歴史的事実の紹介にとどまらず、非常事態における社会の在り方等のご理解を深めていただけるよう、鋭意努める決意を新たにするところでもあります。

最後に、スペイン風邪が猛威を振るった2年の後。大正11(1921)年1月1日、我らが千葉市では県内初の「市政」が施行されることとなりました。令和3年は、その時から数えて100年目の記念すべき年となります。かの時と同様に、感染症克服の末の「アニヴァーサリーイヤー」となることを心の底から祈るばかりです。全ての人々の力を結集して、この難局を乗り越えて参りましょう。

※本稿は、千葉大学法経済学部:水島治郎教授[石橋湛山賞『ポピュリズムとは何か』(中公新書)著者]が、昨年度末の大学院人文公共学府学位伝達式でお話しされた祝辞を参考にさせて頂きました。

千葉市立郷土博物館ホームページへの誘い

 4月から館長として赴任して2週間が経過しました。この間、新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、当館も3月2日以降の「臨時休館」を余儀なくされており、いつ開館することができるのか未だに不透明な状況にあります。しかし、そうした中でも、自然の摂理には抗えず、当館のある「いのはな山」も桜から木々の新緑が目にまぶしい季節に移ろっております。「風薫る5月」ももうじきです。南から子育てにやってくる燕たちの訪問も待ち遠しい限りであります。
さて、「非常事態宣言」の下、いつものように出歩くこともできない皆様を思い、当館では本年度より大幅にリニューアルした当館ホームページを用いて、ささやかではありますが発信を続けております。当館公式ツイッターで「いのはな山紹介」(4月14日日現在17回)・「市史トッピクス」(同3回)を隔日ほどで、本館統括主任研究員による「研究員の部屋」を週1回のペースで、それぞれ更新しております。前者では、当館周辺に存在する寺社や歴史的な内容について、後者では、これまで3回にわたり千葉神社を取り上げております。従来千葉氏との関係でのみ注目されてきた妙見信仰が、実は千葉周辺に居住する商工業者等々と密接に結びついていたという、これまで等閑に付されていた事実について言及しております。また、ホームページ内には、新聞各紙でも紹介された「千葉氏ポータルサイト」が設けられており、手前味噌ではありますが内容的に充実したものと自負するところです。このようなときこそ、是非とも当館ホームページにお気軽にご訪問ください。そして、皆様のご意見等も賜れれば幸いです。
その他、5~6月開催「千葉氏パネル展」、10~12月開催特別展「軍都千葉と千葉空襲」に向けての準備を急ピッチで進めております。併せて、本年度末発行予定『千葉市史 史料編(近現代編1)』編集も行われています。開館時期が見通せないことに鑑み、パネル展については当館ホームページを活用したweb展示での公開も検討して参ります。本年度「千葉氏パネル展」は令和8年に迎える「千葉開府900年」(大治元年千葉常胤の父常重が大椎から本拠を千葉に移してから900年という記念すべき年です)に向けた連続展示の4回目。「千葉氏前史」として「平将門と平忠常」を取り上げます。近くになりましたら改めて「館長メッセージ」にてご案内をさせて頂く所存です。また、本館として本年度からの重点としている学校教育との関係強化に向けた「教育プログラム」の準備等も推し進めて参ります。コロナ禍が終息し、再度の開館を迎えた暁に大きく羽ばたけるよう、当館も雌伏の時を粛々と歩んで参ります。しばらくホームページ中心とした発信となりますが、少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。 
 

ごあいさつ

千葉市立郷土博物館へようこそ。

本年度着任致しました、館長の天野良介と申します。

当館は、前身の千葉市郷土館をリニューアルする形で、郷土史全般を取り扱う博物館として昭和58(1983)年に開館され、今年で38年目を迎えることとなりした。その間、平成4(1992)年に本市は政令指定都市となるなど、市政の在り方も市域の様子も大きく様変わりしております。

 そして、千葉市は、令和3(2021)年には、大正10(1921)年に県内初の市制が施行されてから「100周年」、そして6年後の令和8(2026)年には、大治元(1126)年に千葉常重が本拠を現在の千葉中心地に移してから「開府900年」という、それぞれ記念すべき時を迎えることとなります。

 こうした大きな時代の節目に、郷土の歴史を次代に継承していくことは、グローバル社会の進展という局面に鑑み、自らの存立基盤を確認する意味においても極めて肝要なことであります。そのために、私たち博物館が担うべき、史料収集・調査研究・展示・教育普及活動を日々展開しております。博物館は単なる展示施設ではなく、研究成果を利用者の皆様に還元し、社会に発信していく施設であることはもちろんのこと、更には地域の文化交流の拠点として市民の皆様の活力を取り込みながら、双方向的な在り方を模索する施設でもあらねばならないと考えるところでもあります。

 このことを肝に銘じ、来館者や教育普及活動の方々にご満足いただける事業を展開することに努めて参ります。本市の礎を築いた千葉氏を中心とした中世はもとより、古代から近現代にいたる通史全般、そして民俗等にも視野を広げた研究を深めることはもとより、成果の公表の広がりに努め、持続可能な博物館を構築致します。また、本年度から、学校教育との更なる連携を深め、次代を担う子どもたちへの郷土史への興味と理解を育むことに、これまで以上に注力する所存でございます。

 今後の千葉市郷土博物館の取り組みに、是非ともご期待を頂ければと存じます。

 

 

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?