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更新日:2021年4月17日

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館長メッセージ

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 令和3年度の千葉市立郷土博物館 ―本年度も天野が館長を勤めさせていただきます― ―『市制施行100周年』記念の諸事業を推進致します―

4月1日(木曜日)

 本年度も、昨年から引き続いて館長を仰せつかりました天野良介と申します。令和3年度も何卒よろしくお願いいたします。「緊急事態宣言」解除後も、コロナ禍が終息する気配を見せないどころか、日々感染者が増加しつつある今日この頃であります。しかし、かような情勢下であっても、猪鼻山の満開の桜に祝福されるように、千葉市立郷土博物館の新年度が幕を開けました。表題にもお示ししましたように、本年は大正10年(1921)1月1日に千葉町が「千葉市」に衣替えして新たなスタートを切ってから100年目を迎えております。そして千葉市では、令和3年度をその記念年度と位置付け、様々な事業を推進して参ります。本館も、その一翼を担い、「プレ年度」としての昨年度に引き続き、本年度も千葉市の100年間に焦点を当てた特別展・企画展等々を執り行って参ります。

 始めに、桜の季節に因んだ話題から。古くから千葉市にお住いの方であれば、猪鼻山といえば昔からの「桜の名所」であることは自明のことかと思われます。しかし、明治44年に刊行された『千葉街案内』における「猪鼻山」の項目には、桜の「さ」の字も記されてはおりません。そこには「丘上十数株の老松亭々として天を摩す」「老松の間より皎月を仰げば頗る身の塵世に在るを忘る」とあることから、明治時代には老いた松樹が生い茂る場であったことがわかります。そうなると、何時から猪鼻山は「桜の名所」に転じたのでしょうか。調べてみると、昭和元年(1926)「千葉開府800年」を迎えたことを契機に、その3年後にあたる昭和4年(1929)、猪鼻山に今も残る「千葉開府800年」石碑建立と併せて、染井吉野(ソメイヨシノ)をこの猪鼻山に植樹したことが起源となっているようです。

 それから、凡そ100年弱の歳月が流れました。皆様も御存知のことでしょうが、染井吉野は近世後期に江戸に北方にある染井村で(現在の山手線駒込駅北)、品種改良の結果生み出された比較的新しい桜の品種であります。その優雅な命名は、村名と桜の名所である「吉野」とを結びつけことに由来しましょう。今では桜と言えば染井吉野を指すほどに、日本全国を席巻した最もポピュラーな桜だと思われます。ただ、この桜は自らの繁殖することが不可能な品種です。つまり、日本国中の数えきれないほどの染井吉野は、一つの樹木から複製され続けたクローンであり、すべての染井吉野を遡れば遺伝的に一本の原木にたどり着くということです。詳細は分かりませんが、データ複製にバグが生じるケースがあるためなのか、古来自然界に存在してきた桜樹と比べれば、一般的に樹命が短いことを特色としております。うろ覚えですが、凡そ100年前後の樹命と耳にしたことがあります。染井吉野ではヤマザクラのような樹齢300年を越える古木は存在し得ないということなのでしょう。従って、令和8年度に「千葉開府900年」を控えているのですから、猪鼻山の染井吉野もそろそろ寿命が尽きようとしている時期にあたるのだと思われます。確かに、当方が千葉にやって来た40年程前には、芭蕉の句ではありませんが、下から見上げた桜はまるで「花の雲」のようでしたし、現在の博物館最上階から見下ろせば「花の絨毯」ともいうべき見事な光景でありました。しかし、それも今や昔のお話です。昨今は樹勢が衰えてしまっており、どこか寂し気な気配の漂う「桜の名所」となっております。こうした状況を憂い、「千葉城さくら祭」実行委員会では、平成28年(2016)「千葉城さくら植樹基金」を設立し、「千葉開府900年」を迎える令和8年(2026)までの樹木更新を目指して募金活動を展開されております。本館内にも募金箱が設置され寄付を募っておりますが、資金は思うように集まっていないと聞き及びます。確かに、今の樹勢から判断すると、花見の名所としての命運は残すところ僅かのように感じさせられます。千葉市としても、今後どうするのかを含めた検討が求められましょう。最早待ったなしの状況にあるのは間違いありません。

 さて、令和3年度における本館事業に話を戻すことにいたしましょう。まずは、職員のことについてです。コロナ禍による財政状況逼迫の中ではありますが、本年度より「研究員」一名を増員していただけることとなりました。研究を推進するにも、事業を行うにも、何より重要なことは「人」の手当てをすることです。いくらハードとしての施設を充実させたところで、ソフトとしての中身を作り出すのは「人」に他なりません。その手当を欠いては博物館機能の向上は難しいとの、博物館からの切なる要望について理解を頂けたものと思っております。一般に自治体財政の硬直化が言われて久しい中ですが、千葉市行政が健全に機能していることを思い知らされた次第であります。ありがたいことであります。週3日の御勤務でありますが、昨年度の「千葉市・千葉大学公開市民講座」でも講師をお勤めいただきました、遠山成一先生をお迎えできることになったことを僥倖に存じます。今後、特別展・企画展等をはじめする本館研究体制の更なる充実が期待できるものと考えております。

 その特別展・企画展でありますが、本年度の中核となるのが「市制施行100周年」を記念する内容を予定してございます。千葉市100年間の歩みを振り返ってそのトピックとなる出来事の一つが戦争の歴史であることは論を待ちません。それについて扱ったのが昨年度の特別展『軍都千葉と千葉空襲』となります。それに引き続き、本年度特別展では、千葉市の様相が大きく変貌した「高度経済成長期」について取り上げようと考えております。千葉市にお住いの皆様にとっても身近な時代となりましょう。そして、今回その切り口とするのが、当時千葉市内の義務教育学校で学んでいた児童生徒の作文であります。大きく移りゆく千葉市の姿が、子供たちの瞳にどのように映っていたのか、その変化を彼らが如何にとらえていたのか。彼らの瞳を通して高度経済成長期の変わりゆく千葉市の姿に切り込むことを目論む特別展となります。海岸線の埋め立て、工業化の進展、内陸台地の大規模団地化、そして公害の発生等等々、大きく変わりゆく千葉市の姿が、そこから浮かび上がってくることと存じております。併せて、国語教育における「作文教育」の重要性にも焦点が当てられたらと願うところでございます。一般市民の皆様は勿論のこと、国語教育に携っていらっしゃる教職員の皆さん、また各学校で作文を書くことの多い小中学生の皆さんにも是非とも観覧いただきたい内容だと思います。夏季休業中から会期を始める意図もここにあります。

 また、引き続いて開催する企画展では、時代を遡って千葉市が市制を施行した100年前の時代を取り上げます。また、本企画展は『千葉市史 資料編10 近代編1』の刊行を記念する展示会としての位置づけも有しております。明治末からの千葉町の歩みを振り返りながら、主に大正から昭和初頭にかけての世相を御紹介することを目論むものです。100年前の市制への移行は、現在の新型コロナウィルス感染症流行を思わせる、「スペイン風邪」パンデミックの中で始まっております。また、京成電車が千葉にやって来たのもこの頃のことです(現在のJRは未だ非電化でした)。大正デモクラシーの風潮の中、千葉市内でも自由教育や大衆芸能としての映画・演劇が盛んになった時代であり、女学生のファッションとして「銘仙」が大流行した華やかな時代でもあります。当時の写真が白黒であるためモノクロームとしてその時代像を描き勝ちでありますが、実のところ、銘仙の華やかさ、都市を飾る電飾の煌びやかさ際立つ「総天然色」の時代であったものと思われます。そうした時代像を感じ取れる展示会とできますように尽力したいと考えております。

併せて、例年の如く特別展・企画展の前後には、小企画展・パネル展示の開催をいたします。新年度になって初めての展示会ともなる小企画展『陸軍気球連隊と第2格納庫』は、昨年惜しまれつつ解体された本市作草部に存在した陸軍気球連隊第2格納庫についての記憶を後世に伝えることを一義に、国内で唯一の部隊であった気球連隊のあゆみと、知られざる軍用気球の運用について紹介する内容となります。本展示では、「千葉市近現代を知る会」の全面的協力を仰ぎ、日本の軍用気球についての貴重な資料を数多ご所有でいらっしゃる伊藤奈津絵さんのコレクションの紹介をも兼ねる内容となります。軍用気球には如何なる機能が期待されていたのか?気球と飛行船の違いとは何なのか?千葉市に来る前の気球隊前史、そして、解体された第2格納庫に用いられた戦前の画期的建築技術としての「ダイヤモンドトラス」について、お分けいただいた実物部材と第2格納庫模型とを展示しながらご紹介いたします。このことにつきましては、本市在住で、上記「千葉市近現代を知る会」の代表でもいらっしゃる建築家市原徹さんの全面的協力を賜ります。本館1階を会場といたしますが、相当にてんこ盛りの内容となることが予想されます。皆様におかれましても、大いに期待をされていただいて結構でもある充実の内容と確信するところでございます。

 続いて、6年後に迫る「千葉開府900年」を踏まえて、一昨年度からスタートした「千葉氏パネル展」を本年度も継続開催いたします。本年度は、令和4年放映を予定するNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(脚本:三谷幸喜)を当て込んで、令和4年1月末から3月初旬までに設定をいたしました。前回のパネル展が千葉氏前史としての『将門と忠常』でありましたが、今回は千葉常胤とその後の鎌倉幕府初期の時代を取り上げ、主に同時代の千葉氏を中心とした有力鎌倉御家人の諸相を紹介する内容を考えております。ご覧になれば、大河ドラマをより深く理解できるようになること間違いなしの内容とする所存でございます。こちらにつきましても是非とも楽しみにお待ちいただければと存じます。

 以上、特別展・企画展につきましては何れも「展示図録」を、小企画展・パネル展につきましても何れも「ブックレット」の刊行を予定しております。後者につきましては、会期後の刊行となる可能性が大きいと思われますが、これにつきましてもご期待いただければと存じます。

 最後に、昨年度「館長メッセージ」最終号でもお知らせしましたように、『千葉市の歴史読本(仮称)』の刊行が本年末に予定されており、現在鋭意編集作業を進めているところです。千葉市として、一般の読者を対象とした初めての歴史読本であり、高校生以上の読者を想定した記述としております。これは、本市の公立小中学校に在籍している全児童・生徒には、それぞれ学習資料として『私たちの千葉市』『千葉常胤公ものがたり』(小学生対象)、『伸びゆく千葉市』(中学生対象)が配布されておりますが、義務教育を終えた後の高校生を含む一般市民の皆様を対象とした、郷土の歴史を学ぶための一般書籍が存在していないことに意を用いたからであります。その問題点については、予てから指摘されてきましたが、市制施行100周年を記念して本年の刊行が可能となったことは、我々にとっても本望であり、心の底からの喜びを覚えるしだいでございます。内容は、「原始・古代」「中世」「近世」「近現代」の時代毎に、「各時代のあらまし(総論)」、「様々なテーマを設定しての時代像の探究」、テーマと関連する「コラム」を適宜配置しております。また、各テーマは「見る」「読む」「学ぶ」の形をとり、「原史料」を読み解きながら郷土の歴史を理解できる構成としております。執筆陣も、各時代研究の一線でご活躍の豪華顔ぶれにお願いしておりますことを申し添えておきます。「乞うご期待」と自信をもって宣言できる内容と確信しております。

 以上、本年度の本館の事業につきまして、特別展をはじめとする展示会概要、歴史読本刊行、そして研究体制充実といった側面から、その概要を申し述べさせていただきました。そのほかにも、例年行っております市民講座等も行ってまいります。コロナ禍の状況につきまして、今後も予断を許さない状況にありますが、千葉市の方針に基づき、公共機関としての本務を忘れることなく、可能な限り事業を推進して参りたいと考えております(ただし、予防対策の徹底は継続して参りますので、ご来館の皆様もこれまで以上の感染予防意識と対策をとられた上でのご来館・ご参加をお願いいたします)。本年度の千葉市立郷土博物館の活動につきまして、是非ともご支援を賜りますことをお願いいたしまして、年度当初のご挨拶とさせていただきます。本年度も何卒宜しくお願いいたします。

 

 

【令和3年度開催 特別展・企画展等 テーマ・会期(予定)】

(1) 小企画展[会期:令和3年5月26日(水曜日)~令和3年7月11日(日曜日)]

『陸軍気球連隊と第2格納庫 ―知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス―』

(2) 特 別 展[会期:令和3年8月3日(火曜日)~令和3年10月17日(日曜日)]

『子供たちの瞳に映った高度経済成長期の千葉市 (仮称)』

 

(3) 企 画 展[会期:令和3年10月19日(火曜日)~令和3年12月12日(日曜日)]

『黎明期の千葉市 (仮称)』

 

(4)パネル展[会期:令和4年1月26日(水曜日)~令和4年3月6日(日曜日)]

『千葉常胤と鎌倉殿の13人 南関東編 (仮称)』

 

 

 うちなびき 春くる風の 色なれや ―『千葉市・千葉大学公開市民講座 講演録』配付開始― ―『研究紀要』第27号、『千葉いまむかし』第34号の刊行― ―『データで見る 千葉市100年の軌跡』の販売―

4月9日(金曜日)

 うちなびき 春くる風の いろなれや 日をへて染むる 青柳のいと(藤原定家)

 

 新年度の二回目となる今回は、広く知られた定家卿の歌からの幕開けとさせていただきました。我らが猪鼻山も、何時の間にやら桜から新緑の季節へと移ろう頃となりました。この周辺では見受けられませんが、水辺の光景と相性の宜しい柳の新緑が目に眩しい時節ともなっております。当方が毎日通勤経路として渡っている江戸川鉄橋から見下ろす河川敷にも、御多分に漏れず沢山の柳が植えられております。既に3月半ばから柳の糸が薄っすらと緑色に染められたように感じておりましたが、ここ2・3週間で見違えるほどの強い色合いへと移ろい、暖かな風にしなやかな糸を靡かせるようになりました。私も「春くる風」の移ろう彩を、走りゆく電車の窓越しに眺めることを日々楽しんでおります。

 柳の新緑は、春を表象する題材として『古今集』以来の数多歌人に詠み継がれてまいりました。素性法師(生年未詳~910年頃)による著名な「みわたせば 桜やなぎを こきまぜて 都ぞ春の 錦なりける」も、代表的な作品の一つとして挙げられましょう。藤原定家(1162~1241年)の手になる標記詠歌も王朝作品の本歌取りとなります。彼の詠歌としては格段に優れたものとは言いかねますが、さらりとした素直な流れが心地よく響く作品であると思います。それ故に人口に膾炙した作品となり得ているのでしょう。わが国で言う柳は、所謂シダレヤナギのことを指すことが多いと思われ、風にそよぐ枝の姿が「柳に風と受け流す」との例えにも用いられます。元来が、大陸原産の樹木のようで、仏教伝来の頃に本邦にもたらされたものと伝えられます。その堅固な根張り故に、治水に有効とのことから、河川堤に植えられることの多い樹木であります。しかし、そうした実用とは離れ、桜花と併せて春を告げる象徴として日本人に親しまれました。特に、平安期以降の王朝人に好まれ、古来多くの和歌や絵画にも取り上げられてまいりました。和歌についてはかくの如しであります。

 絵画の世界に目を転じれば、古来「淀の川瀬の水車」と謡われ、12世紀末成立『梁塵秘抄』にも採録される、淀の水車を描いた絵画作品にも「青柳の糸」が定番として描き込まれております。淀の地には古くから灌漑のための水車が設けられていたようですが、天正14年(1586)に淀水運支配河村与三右衛門(生年不詳~1615)の手により、淀城の北にあたる桂川・宇治川の合流点附近に大小二基の水車が設けられました。大は直径8間、小は6間の大きさを誇り、川の水を掬い上げて淀城内の泉水に引いておりました。それは江戸時代の淀城にも引き継がれ、近世になってからその意匠性が喜ばれ、数多の絵画に描かれることになったのです。それらの作品からは、大きな水車と水辺の柳をそよがせる爽やかな薫風を感じさせられます。しかし、「青柳の糸」を描いた優品と言えば、個人的に小村雪岱(1887~1940)の版画作品、その名もズバリ『青柳』を筆頭に挙げたいと存じます。過日出かけた三井記念美術館開催の企画展『小村雪岱スタイル』にも出品されておりました。当方も久方振りに再会し、改めてその素晴らしさに心打たれるものがありました。もし、当作品を御存知なきようでしたら、是非ともネット等で作品をご確認いただければと存じます。

 小村雪岱は武州川越の生まれ。幼くして父を失い、家庭的に恵まれぬ幼年時代を過ごしたようですが16歳の時に親戚を頼って上京。翌年に東京美術学校に入学し下村観山(1873~1930)の下で学んでおります。そして、20歳のときに予て敬愛していた小説家泉鏡花(1973~1939年)と出会い、鏡花より「雪岱」の画号を授かりました。27歳にして鏡花作の小説『日本橋』装丁を手掛け、これを機に鏡花をはじめとする作家作品装丁に数多取り組んでおります。数号前にも述べさせていただきましたが、『日本橋』は単なる書籍にはあらず、それ自体が優れた芸術作品であると思います。日本橋の花柳界を舞台にした当小説の表紙は、日本橋川両岸に立ち並ぶ土蔵と川を行き交う荷船とが、極めて意匠的に俯瞰され、その全面に色とりどりの蝶が無数に宙を乱舞する様が描かれます。そして表紙と裏表紙の見返しには、それぞれ春夏・秋冬の日本橋界隈の版画4枚が配され、粋な花柳界の四季が惚れ惚れとする構図で描写されます。思わず息を飲む絵画とは、このような作品を言うのだと思います。中でも、春を描いた一枚は白眉であります。

 本作は、俯瞰された構図で座敷が描かれておりますが、開け放たれた座敷の青々とした畳に三線と鼓が整然と置かれているだけで、そこには誰一人描かれておりません。しかし、そこには人の気配と温もりを強く感じさせます(人を描かずに気配を表現する「留守模様」という古典的な趣向でもあります)。そして、樹木本体を描くことなく、降り注ぐように画面全体に配される「青柳の糸」が、しなやかさを売りとする花柳界の小粋さを表象しているように感じさせます。また、鼓の調緒と半分開けた障子から覗く鳥籠と思しき調度に配された僅かな朱色が効いているのでしょう、そこが艶なる花柳界であるとの風情となっております。軒下に一株描かれる笹の新緑も効果的であります。おそらく、その何れも数ミリずれただけで、絵画世界の調和に破綻が生じましょう。それほどに、それぞれの舞台装置が絶妙に配置されていると思います。それだけにあらず、春のほの暖かい空気まで肌感覚として伝える秘密は何処にあるのか不思議でなりません。見る度に驚かされます。同じモチーフは、後に絹本彩色作品として残され、更に雪岱没後に木版画として上梓されております。その名も同じ『青柳』。小説『日本橋』の見返し画から、更に余計な描写を捨象し、これ以上ないほどに舞台装置を絞り込んでおり、もはやデザインと紙一重ともいえる作品になっております。しかし、そこに漂う凛とした静謐さと艶冶な空気の共存は、更に強められているようにすら感じられます。雪岱一世一代の作と申し上げて一向に差し支えなかろうかと存じますし、傑作の名に恥じない名作だと確信いたします。同時に刷られた、秋『落葉』、冬『雪の朝』は、鏡花『日本橋』の見返し絵とは大きく図柄が変えられており、より意匠性と抽象性が勝った作品となっておりますが、これらも名作だと思います。夏の作品は制作されなかったのでしょうか、それを想像するのも楽しいことです。

 また、雪岱は、女性の方にとっては極々身近な企業であろう「資生堂」の社員であったこともあり、今でも用いられている、あの独特な「資生堂書体」と称されるロゴデザインも雪岱の手になります。その意味では、雪岱は、画家・絵師というよりも、今で言うところのグラフィックデザイナーに近い作家であったとも申し上げることができようかと思われます。しかし、そこは名手下村観山に学び、日本画の基礎的技量を十二分に身に着けた雪岱だけあって、単なるデザインを超えた芸術作品となりえているのだと思います。現在三井記念美術館にて開催中の本展でありますが、会期は4月18日(日曜日)までとなっております。その後は、富山県水墨美術館(4月27日~6月13日)・山口県立美術館(7月8日~8月29日)と巡回いたしますが、流石に千葉から出かけるにはチト遠方に過ぎましょう。残す会期は10日程でありますが、ご興味がございましたら、三井越後屋の故地に建つ重要文化財「三井本館」7階にある当館へと是非脚をお運びくださいませ。強力にお薦めしたい美術展であります。たった一作『青柳』に出会うだけで、心の中が「春くる風の色」で染め上げられること必定かと存じます。


本稿の後半は、令和2年度の事業になりますが、これまで取り上げる機会がありませんでしたので、昨度末に本館で刊行いたしました冊子等について紹介させていただきます。まずは、無償配布の冊子についてです。一冊目は、既に「千葉氏ポータルサイト」で動画配信しております「千葉市・千葉大学公開市民講座」講演録であります。動画にてご覧いただいた方も多かろうと存じますが、予てご連絡させていただいたとおり、文字記録としての『講演録』も動画と併せて同ページ内にアップいたしました。併せて3月末に冊子として刊行もいたしております。こちらは、ネット環境が整っていない、冊子で読みたいとのご希望に応えたものです。二冊目は、同じく年度末刊行となった本館『研究紀要』(第27号)です。目次を以下にお示ししましたが、内容について簡単にご説明をさせていただきます。まずは、平成30年度から本館からの委託により実施していただいている「千葉氏関係史料調査」についての該報です。今回は、昨年度コロナウィルス感染症拡大により、県内石造遺物調査を除いた史料調査が実施できなかった関係で、宗胤寺(千葉市中央区)・勝胤寺(佐倉市)・妙光寺(多古町)・東福寺(多古町)石造遺物調査、及び中世後期の下総千葉氏の性質や権力構造を解明するための基礎作業として、千葉氏関係文書目録を掲載しております。また、地域に根付いた「うつし霊場」廻りの民俗についての本館白井千万子研究員による調査報告、そして令和2年度の本館特別展『軍都千葉と千葉空襲』関連歴史講座「戦争の惨禍を伝える」でご講演をいただきました先生2名のご講演要旨となります。何れも貴重な報告・ご提言となっているものと考えます。広く活用していただくことを期待するものであります。何れも、本館へご来館できる方にのみに、受付で無償にて進呈させていただいております。ご遠慮なく『講演録』冊子希望の旨をお申しつけください。ただ、部数に限りがこざいますので、お一人様一冊に限定させていただきます、

 

 

【 研 究 紀 要 第27号 】
〇千葉氏関係史料調査会概報(三)[千葉氏関係史料調査会]
・千葉市関連石造史料調査録(2)[早川正司] 
・中世後期における下総千葉氏関係文書について(後編)[石橋一展]

〇令和2年11月15日開催 歴史講座「戦争の惨禍を伝える」講演要旨
・東京大空襲 ―千葉県との関わり―[石橋星志(すみだ郷土文化資料館 学芸員)]
・千葉市の鉄道連隊遺跡の保存と活用について[小笠原永隆(帝京大学経済学部観光経営学科 准教授)]

〇千葉寺十善講調査報告 ―今も続くお大師まいり―[白井千万子(本館 研究員)]

 

 

 続いて、千葉市史編纂事業の一環として、年度末に刊行をしております『千葉いまむかし』最新号(第34号)が刊行となりましたので、ご紹介いたします。なお、こちらにつきましては明日10日より有償販売となります(¥400)。本館でのみの販売となりますので、ご希望がありましたら受付にてお求めください。こちらについても、以下に目次を掲載しております。主な内容につきましては下記の通りです。コロナウィルス感染症に翻弄されたこの一年を象徴するかのように、千葉町(千葉市)における、江戸時代のコレラ流行について、紙上古文書講座で取り上げております。更に大正期のスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)流行に関する論考が掲載されております。また、中央大学の宮間純一准教授による、江戸から明治にかけての政権交代期における高札の在り方の検討からは、政権移行期の社会的な混乱が理解できます。更に、「千葉市近現代を知る会」代表であり建築家でもいらっしゃる市原徹さんによる投稿していただいた論考を掲載しております。本稿は、昭和12年千葉市の熱心な誘致活動の結果、千葉市検見川に設営された「東京帝国大学総合運動場」と、周辺地区の住宅地を想定した土地区画整理事業(街路計画)について論じた極めて興味深い内容となっております。落ち着いた新検見川の街路と街の現況が如何に形成されたのかが理解できる論考であります。因みに、市原さんも触れておられますが、千葉市内には嘗て東京大学関連施設がもう一つ存在しました。それが、西千葉の地に昭和17年開学された「東京帝国大学第二工学部」であります。本学部は短命に終わり、戦後に大部分が千葉大学西千葉キャンパスとして譲渡され、一部が「東京大学生産技術研究所」実験場として残されました。しかし、それも平成29年に閉鎖され柏に移転となりました。跡地は売却され住宅地として再開発されるそうです(現存していた戦前の第二工学部時代の木造校舎が解体されるのは残念でありましたが)。併せて、最新の『ちば市史編さん便り』26号も無償配布中です。連載中の「千葉市の明治・大正・昭和が見える!!」、第5回「千葉郡の海でノリ養殖がはじまるまで」(森脇孝広)、第6回「土地を「有(も)つ」ということ」(大庭邦彦)が掲載されておりますので、是非ご覧ください(お二方とも千葉市史編集委員でいらっしゃいます)。

 

 

【 『 千葉いまむかし 』 第34号 】
〇紙上古文書講座 安政五年のコレラ流行と千葉市域の村々[遠藤真由美]

〇慶応四年の「政権交代」と「五榜の掲示」

 ―下総国における考察の掛け替え― [宮間 純一]

〇千葉市の弥生土器・石器
―房地遺跡・根崎遺跡・南台遺跡・大北遺跡・谷津遺跡―[小林 嵩]

〇【投稿論文】東大検見川グランドと検見川区画整理事業 [市原 徹]

〇新聞にみる千葉のむかし 大正千葉町に襲来したスペイン・インフルエンザ[小林 啓祐]

〇令和二年度千葉市史研究講座要旨

〇活動の記録

 

 最後に、本館で作成したものではありませんが、千葉市制100周年を記念して、千葉市総合政策局総合政策部都市アイデンティティ推進課が作成した冊子『データで見る千葉市100年の軌跡』を本館でも有償販売を開始いたしました(こちらについては、中央コミュニティセンター2階市政情報室でも販売しております)。一冊700円となります。内容は、千葉市の100年間について、「人口」「経済基盤・産業」「仕事・雇用」「子育て・教育」「健康・医療・福祉」「住まいと環境」「交通」「安心・安全」「暮らし」の項目毎に、様々なグラフを用いて推移を追い、分析を加えた内容となっております。「データから迫る千葉市史」とも言うべき、大変に使い勝手の良い編集になっております。様々な分野でご活用いただける冊子となっていようかと存じます。昨年度に刊行され、現在も継続販売中である『千葉市市制100周年記念誌』『百の歴史を千の未来へ―千葉市制100周年記念漫画―』(各200円)と併せて、是非お買い求めください。

 後半は、昨年度末から新年度にかけて、本館にて無償配布・有償販売をする幾つかの書籍・リーフレット等々のご紹介をさせていただきました。皆様にご活用いただけますことを祈念申し上げております。

 

 ブックレット『クローズアップ鎌倉武士-武士は如何に武装し、如何に戦ったか-』刊行!!(前編) ―令和8年「千葉開府900年」に向け、令和2年度に市内5か所に「千葉氏ゆかりの地案内看板」設置!!― 

4月16日(金曜日)

 

 新年度が始まりましたが、早いもので、もうじき「風薫る五月」を迎えます。これからは梅雨に入るまで、青空に映えた新緑が一年のうちで最も美しい季節となります。もっとも、草木の成長は著しく、猫の額の我が家の庭でも、既に緑色が日々濃くなり、各所から正に雨後の筍が如く様々なる草が繁茂しだしております。その生育疾きこと風の如し(お恥ずかしながら草木に用いる適切な表現を思いつきませんでしたので武田軍旗の援用でお茶を濁しております)。八重葎となるのも時間の問題です。1週間も目にしなければ、庭の呆れるほどの様変わりに正に茫然自失となります。かようなる次第で、ゴールデンウィークにおける我が家(正しくは私個人)の恒例行事が迫って参りました。2週間後の日のことを思うと少々気が重くなります。しかし、放置しておけば夏までには過たず「藪知らず」と化しましょう。その代償は途轍もなく大きなものになります。麻の如く乱れる我が心ここに在りですが、安穏なる家庭生活の維持のためには、山の神からの「愚痴言う暇があれば手を動かせ」との御下命に従うに如くはなしとのことに落ち着きましょう。因みに、あまりに牽強付会ではございますが、現在市川歴史博物館で企画展「葛飾八幡宮と八幡の藪知らず」が開催中ですので、この場でご紹介させていただきます。[会期5月9日(日曜日)まで]。図録も作成されているようです。当方も是非拝観することを願っております。

 さて、まずは表題の一件について御連絡をさせてください。実のところ、こちらも前回と同様、昨年度事業としての刊行物となります。本館では、毎秋、一般財団法人「千葉市馬術協会」様の全面的な御協力を賜り、イベント「鎌倉騎馬武者体験」を開催しております。公募後抽選で選ばれし50名前後の一般市民の方に、実際に甲冑を着用し馬に跨っていただきます。流石に走行することは素人には危険ですので、馬術協会の皆さんが引馬をしてくださり、猪鼻山を騎乗して歩くという貴重な体験をしていただいております(甲冑姿で疾駆する実演は馬術協会の方の披露を間近でご覧いただきます)。一昨年には、御年齢90を前にしたご老体が騎馬武者姿となり、あたかも源平合戦における三浦介義明(88歳)・斎藤実盛(72歳)もかくやと彷彿させる、凛々しき御姿であったと耳にしております。しかし、昨年度は、残念ながら新型コロナウィルス感染症の影響により実施を断念する他ありませんでした。また、本年度につきましても、現状「非常事態宣言」が解除されたとは申せ、コロナ禍が終息したとは到底言えない状況にあり、今後のことは全く五里霧中であります。千葉市が市制を施行した百年前に大流行して多く被害をもたらしたスペイン風邪(スパニッシュ・インフルエンザ)の終息にも足掛け3年を費やしていることに鑑みれば、今回の流行がそう簡単に収まることはなかろうというのが極めて全うなる認識でございましょう。本体験学習では、甲冑の着付け等において、どうしても甲冑の使いまわしをせざるを得ず、感染防止措置の徹底に大いなる不安を残す事業であります。更に、ご協力を頂く千葉市馬術協会の皆様への感染の危険も決して軽視できません。

 こうした状況下、何らかの代替措置ができないものかと本館でも検討を重ねました。しかも、今後数年間にわたる中止判断をも想定すべき状況にあります。そうした諸条件を勘案し、騎馬武者体験で獲得し得る学びを、長期間の中断にも耐え得る形で代替的に可能にするには、冊子の刊行をもってするしかないと結論づけた次第であります。それとは別に、馬術協会の皆さんの実演を映像収録して動画配信する案も検討いたしましたが、実演をしていただく皆様同士の密着状態を回避することには困難を伴い、協力していただく馬術協会の皆様を感染の危険に晒すことになると判断いたしました。申し上げるまでもなく、「騎馬武者体験」は、遊戯施設におけるアミューズメント体験として実施しているわけではありません。飽くまでも博物館における「教育普及活動」を目的としております。従って、これまでも体験と併せて必ず解説などの「学習」も実施してまいりました。「鎌倉武士」の「戦い」の在り方をしっかりと学んだうえでの体験としていた訳です。そこで、その「学習」の部分だけを取り出し、誰にでも読みやすい形で刊行することで、本事業の代替とすることに致しました。それが、今回刊行することとなった標記ブックレットであります。本館の受付にて1冊100円で販売をいたしております(4月10日より)。その目次を以下に掲げます。

 

 

『クローズアップ鎌倉武士-武士は如何に武装し、如何に戦ったか-』

 

 

1 武士とは その起源と成立
2 滋籐の弓 鎌倉武士のメインウェポン
3 軍馬とは 武士の機動兵器・ステータスシンボル
4 馬具とは 人馬一体のためのアイテム
5 大鎧とは 騎射のための鎧
6 源平合戦 様式化された先方と現実の戦場
7 一 騎 打 武門の誉れ・戦場の華
8 従者とは 武士の戦いを支えた者
エピローグ 鎌倉以降 変わりゆく戦法と装備

 

 


 本ブックレットは、上記の目次をご覧いただければ明々白々のように、千葉常胤が源頼朝に従って鎌倉幕府成立に大いに活躍した、平安後期から鎌倉時代初めにかけての時代における、武士の戦いの諸相について解説した内容となっております。一口に武士と言っても、鎌倉時代の武士と江戸時代の武士との違いは思いのほかに大きいものです。特に、戦いに用いる装備も、戦いの作法も大きく異なっております。また、実際の戦いの様子たるや、時代劇に見る合戦の光景とは大きく異なっているのです。その点で、本ブックレットは、鎌倉武士の戦いとその基本となる武具等々の在り方を実にコンパクトにまとめております。本館2階の常設展示「武具」を理解するのにも打ってつけの内容となっております(火縄銃については時代が下りますので本冊子では扱いません)。

 また、来年の1月から始まるNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の視聴にあたっても、その理解に大いに寄与する冊子だと存じます。更に「エピローグ」では、武具や戦闘方法が後の時代にどのように変わっていくのかにも触れており、鎌倉時代に限らず、時代を追った武士の戦いの変化についても知ることができるようにしております。執筆は本館の錦織和彦主査によります。決して身贔屓にあらず、大変に充実した記述内容となっております。残念ながら表紙以外はモノクロでありますが、写真・図版・イラスト等も数多く取り上げ、わかりやすさにも配慮しております。初心者には勿論のこと、ある程度のことを御存知の方にも知識を整理するのに役立つ内容になっていようかと確信するところです。何よりもお買い求めやすい価格設定であります。是非とも広く皆様にお求めいただきますようお薦めいたします。

 続いて、令和8年度「千葉開府900年」に向けた本市施策に則った「千葉氏PR計画」の一環として、千葉市教育委員会生涯学習部文化財課と本館との取り組みとして「千葉氏ゆかりの地」案内看板設置事業を昨年度より開始いたしました。その結果、第一弾として、3月末日に市内5か所に当該看板が設置されましたので、ご紹介をさせていただきます。前後編2回に分けて、今回設置された5か所の「看板解説文面」のみを掲載させていただきます。

猪鼻城跡(千葉市中央区亥鼻1丁目)

 猪鼻城跡はかつて鎌倉時代以来の千葉氏の城とされていました。平常兼(たいらのつねかね)の子常重(つねしげ)が大治元年(1126)、上総国大椎(千葉市緑区)から千葉に本拠を移し、千葉という地名を名字とし、千葉常重(ちばつねしげ)と称しました。常重の子・常胤(つねたね)は源頼朝を助け鎌倉幕府の創設に大きく貢献し、その功績で北は東北地方から南は九州地方まで多くの所領を得ました。

 ところが、これまで猪鼻城跡で行われた発掘調査では、鎌倉時代の城や館の跡は見つかっていません。ここにあった城は、室町時代後期(戦国時代)に千葉氏の有力家臣にあたる原氏により城郭として整備されたものという説が有力で、火葬骨を納めた13世紀の壺が発見されたことから、それ以前は墓域であったと考えられています。

 郷土博物館西側の公園内を見回すと周囲が少し高くなっています。これは土塁(どるい)の跡です。外からの攻撃をくい止めるために、城内部の平地周辺に土を盛り上げて高くしていました。その内側の郭(くるわ)と呼ばれた一画は城の中心で、江戸時代には本丸と呼ばれた場所にあたります。北にある神明社のあたりは物見台の跡だと言われています。そこからはかつて東京湾の海岸線や、足下にあった千葉の港を一望することができました。本丸と物見台の跡との間が低くなっていますが、これは防衛手段の一つとして設けられた空堀(水のない堀)の跡です。

 では、千葉氏が館としていた場所は実際にどこであったのでしょうか。かつて方形の堀・土塁に囲まれて「御殿跡(ごてんあと)」と呼ばれた現千葉地方裁判所の場所あたりではないかという説があります。康正元年(1455)、一族の馬加康胤(まくわりやすたね)・原胤房(はらたねふさ)が宗家の千葉胤直(ちばたねなお)を攻め滅ぼした後、千葉氏が本拠地を千葉から本佐倉(酒々井町・佐倉市)に移したことや、遺構や決定的な史料が見つかっていないこともあり、現在も千葉氏の館の場所は明確になっていません。
 

(後編に続く)

 

 

 

 ブックレット『クローズアップ鎌倉武士-武士は如何に武装し、如何に戦ったか-』刊行!!(後編) ―令和8年「千葉開府900年」に向け、令和2年度に市内5か所に「千葉氏ゆかりの地案内看板」設置!!― 

4月17日(土曜日)

 

 昨日の最後に「千葉氏ゆかりの地案内看板」の解説文面「猪鼻城」について御紹介をさせていただきましたが、本日は残る4件(「お茶の水」「大日寺跡」「本円寺」「浜野城跡」)の解説文をご紹介させていただきます。

 

 

 

お茶の水(千葉市中央区亥鼻1丁目)

 この場所は「お茶の水」と呼ばれています。もともと湧水があり、泉の側には不動明王が祀られていることから、「不動の泉」という呼び名もあります。湧水はかなり前に枯れてしまいましたが、ここが「お茶の水」と呼ばれるようになった由来として、その名にちなんだ二つの伝説が伝えられています。

 一つ目は、源頼朝にまつわる伝説です。源頼朝は治承4年(1180)相模国石橋山(神奈川県小田原市)の合戦で敗れた後、舟で安房国にわたり、千葉氏を始めとする房総の武士団に支えられて勢力を盛り返し鎌倉に入りました。その道中、千葉(ちば)常(つね)胤(たね)の本拠地に足を止めた源頼朝に、ここの水でたてたお茶を差し上げたというものです。平安時代初期には国内でお茶の栽培が始まっていますが、まだ一般に普及していなかったため、後の時代に作られた話の可能性もあります。

 二つ目は徳川家康にまつわる伝説です。慶長19年(1614)、徳川家康が東金方面へ鷹狩りに向かう途中で千葉に泊まり、ここの水でたてたお茶を飲んだというものです。それから60年後の延宝2年(1674)にこの地を訪れた徳川光圀(みつくに)(家康の孫、水戸黄門として知られる)も「古城の山根に水あり、『東照宮(徳川家康の神号)お茶の水』と伝う。右の方松の森あり、『東照宮御旅館の跡なり』と云う。」と書き残しています。

 この湧き水は台地上の城を守る人には大事な水源であり、また街道をいく人や馬にとって喉を潤す場所でもありました。江戸時代の関東地方では広く不動尊に対する信仰が庶民に広まり、人にとって大切な水を守る水神信仰と結びつきました。不動尊信仰の場として、千葉県では成田山新勝寺(成田市)がよく知られていますが、ここに不動明王が祀られているのは、その大切な水を守るという考えからだと解釈されています。

 

 

 

 

大日寺跡(千葉市中央区中央1丁目4)


ここはかつて「千葉家累代の墓塔(ぼとう)」と伝えられる五輪塔群(千葉市指定文化財)を有する阿毘廬山密乗院大日寺(あびらさんみつじょういんだいにちじ)(真言宗)があった場所です。千葉氏の守護神「妙見」を祀る金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)と大日寺が軒を連ねたこの付近は、中世の千葉のまちの中心であり、聖なる空間として意識されていたことがうかがえます。大日寺は、昭和20年(1945)の空襲で焼失したため、戦後に稲毛区轟町へ移転し、跡地は戦災復興の都市計画によって公園となりました。

称名寺(しょうみょうじ)(横浜市金沢区)に残る聖教(しょうぎょう)(僧侶の修学や宗教活動に用いられた仏教の典籍類)には「下州千葉之庄大日堂」などと記録があり、大日寺の前身とも考えられます。大日堂では称名寺長老の剱阿(けんあ)が聖教を書写するなど、関東における真言律宗の中心的な寺院であった称名寺との深い結びつきがありました。

また、『鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)』には、大日寺は千葉頼胤(ちばよりたね)が鎌倉極楽寺の良観(りょうかん)(忍性(にんしょう))を開山として小金の馬橋(松戸市)に建立した千葉氏の代々の冥福を祈った寺で、孫貞胤(さだたね)の時に千葉へ移ったこと、康正元年(1455)、千葉胤直(たねなお)たちが多古城・島城(多古町)で滅んだ際、胤直らの遺骨が大日寺へ送られ、石造五輪塔が建てられたことが記されています。

 昭和38年(1963)、公園整備工事を行っていた際に、地下から康永3年(1344)に造られたという銘文のある梵鐘(ぼんしょう)(千葉市指定文化財)が出土しました。突然出土した南北朝時代の梵鐘は、都市化のため破壊し尽くされたと思われてきた中世の千葉のまちが、足元に眠っている可能性を示しています。

 

 

 

 

本円寺(中央区本町1丁目6−14)

 

 本円寺は日蓮宗の寺院です。顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)(妙満寺(みょうまんじ)派)の祖である日什(にちじゅう)と下総守護千葉満胤(ちばみつたね)によって弘和元年(1381)に開かれ、日什の弟子日義(にちぎ)に帰依した、千葉氏重臣の円城寺胤久(えんじょうじたねひさ)が道場を建立したと伝えられています。

 『門徒古事(もんとこじ)』には、日義が守護千葉介(ちばのすけ)(満胤と考えられます)の祈祷所に出向いたことや千葉介が日什を招いてその教えを聞きたがっていたことが記されており、日蓮宗が千葉に進出して千葉氏に信仰されたことがうかがえます。また、他宗派が千葉近郷の仏像の鼻を欠き落として日蓮宗の仕業と称したことなど、宗派同士の対立が生じていたことも記されています。日義が千葉氏の祈祷所に出向いたことや、千葉近郷でこのような事件が起きたことから、千葉氏の館が本円寺からさほど遠くない場所(千葉のまちのどこか)にあったと推測できます。

 本円寺の近くには本敬寺(ほんきょうじ)(日蓮宗)があり、かつては正妙寺(しょうみょうじ)(日蓮宗、明治期に本敬寺に合併)もありました。本敬寺は、日蓮の6人の高弟の一人日向(にこう)が開いた、藻原寺(そうげんじ)(茂原市)の十世をつとめた日伝(にちでん)が明応元年(1492)に開いたと伝えられます。また、正妙寺は法華経寺(ほけきょうじ)(市川市)の末寺で、日高(にちこう)が正和元年(1312)に開いたと伝えられます。

 中世・近世の千葉のメインストリートは、千葉氏の守護神「妙見」を祀る金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)から都川に架かる大和橋までの「本町通り」と、これに続いて寒川方面に至る「市場町通り」でした。まちの東側に位置する本町付近に、主に商工業者の信仰を集めた日蓮宗寺院が集まっていたことから、千葉の都市としての発展をうかがうことができます。

 

 

 

浜野城跡(千葉市中央区浜野町)

 浜野は東京湾を臨む地で、北には浜野川(塩田川)が流れ、海岸沿いに南北に貫く街路に北・南・東の三つに分かれる宿町(しゅくまち)が形成されました。発掘調査の結果、古墳時代には、この地域が陸地化していたことが明らかとなり、海岸近くの安定した土地に湊が形成されたことがうかがえます。また、土気・東金両酒井氏の祖酒井定隆(さかいさだたか)と本行寺(ほんぎょうじ)の開祖日泰(にったい)にまつわる伝説(※)は、この地が中世から品川と航路で結びついた湊であったことを反映したものと考えられます。

 江戸時代にこの付近を治めた生実藩の米蔵「浜御蔵(はまおくら)」が町場の北側に置かれましたが、「浜野村地先澪絵図(はまのむらちさきみおえず)」(宝暦5年(1755))には御蔵東側の三日月型の土地に「城ノ内」と記載があり、中世にはここが城であったことを示しています。これを浜野城跡と呼びますが、その城域には隣接する本行寺を含んでいたと想定されます。この城跡で注目すべき点は、過去の資料や発掘調査の結果などから、北側の浜野川に開口する堀の復元が可能なことです(堀の推定復元箇所は『浜野城想定復元図』の黄緑色網掛け部分)。この部分は城の防御施設であったほか、船の係留や荷揚げ場を兼ねた可能性があります。出土遺物は15世紀後半から16世紀前半のものが主であることから、浜野城は、千葉氏の重臣である原氏が生実城(おゆみじょう)主であった時期に機能していた城であることが判明しました。

 浜野が内房の重要な湊として登場するのも、原氏が生実城に本拠を置いたことが影響していると考えられます。永正6年(1509)に原氏の館を訪ねた連歌師(れんがし)宗長(そうちょう)が本行寺を宿舎としていることからも、生実城と浜野との密接な関係をうかがい知ることができます。また、この地域は海上交通だけでなく、土気や茂原へ向かう街道の交通の結節点でもあったことから、陸海の交通の要衝である浜野の湊が浜野城として城郭化されたものと考えられています。

(※)海路で酒井定隆が品川から浜野に向かう途中に嵐にあった時、同船していた日泰が経を唱えて嵐を鎮めました。定隆は日泰に帰依し、「自分が城主となった時は、日泰を迎え、領内ことごとく日蓮宗とする。」と誓ったと伝えられています。

 

 

 以上、昨年度作成し、昨年度末の3月に設置いたしました「千葉氏ゆかりの地」案内看板5件について解説文面のみを取り上げ、ご紹介させていただきました。実物の看板には、説明文に加えて写真・地図・絵画等々も掲載されており、なかなかに素敵な出来栄えになっております。是非お近くにお寄りの際にご覧くださいませ。因みに、それぞれの看板にQRコードが掲示されており、スマホで読み込むと「案内看板ホームページ」にアクセスできます。そちらには、「英・中・韓」三か国語による解説文翻訳も掲載されております。国際都市千葉市のインバウンド対応ということになりましょう。是非、お知り合いに外国の方がいらっしゃいましたら、お伝えいただけましたら幸いでございます。

 「千葉氏ゆかりの地案内看板」は、令和8年度「千葉開府900年」に向けて、今後、毎年度継続して設置数を増やして参ります。昨年度は中央区に設置いたしましたが、今年度以降中央区以外の区へと設置の範囲を拡大していく予定でおります。なお、今回設置「看板」5枚と設置場所周辺の光景につきましては、本館ツイッターにてご紹介をさせていただいておりますので、こちらもご参照くださいますように。関西を中心に変異ウィルスの広がりが続き、関東でも飛び火も懸念される今日この頃ではございますが、看板文面をご覧になって興味を持たれましたら、是非とも現地へと足をお運びください。これら看板の建つあたりが「三密」状態となることは、まずございますまい。千葉市民として、足元の歴史である千葉氏の歩みについて少しでも関心をもたれ、更にその知見を深めていただく契機となることを祈念する次第でございます。

 

 

 

 


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