ホーム > 郷土博物館について > 館長メッセージ(令和2年度)

更新日:2021年4月1日

ここから本文です。

館長メッセージ(令和2年度)

 目次

 

 ごあいさつ

千葉市立郷土博物館へようこそ。

本年度着任致しました、館長の天野良介と申します。

当館は、前身の千葉市郷土館をリニューアルする形で、郷土史全般を取り扱う博物館として昭和58(1983)年に開館され、今年で38年目を迎えることとなりした。その間、平成4(1992)年に本市は政令指定都市となるなど、市政の在り方も市域の様子も大きく様変わりしております。

 そして、千葉市は、令和3(2021)年には、大正10(1921)年に県内初の市制が施行されてから「100周年」、そして6年後の令和8(2026)年には、大治元(1126)年に千葉常重が本拠を現在の千葉中心地に移してから「開府900年」という、それぞれ記念すべき時を迎えることとなります。

 こうした大きな時代の節目に、郷土の歴史を次代に継承していくことは、グローバル社会の進展という局面に鑑み、自らの存立基盤を確認する意味においても極めて肝要なことであります。そのために、私たち博物館が担うべき、史料収集・調査研究・展示・教育普及活動を日々展開しております。博物館は単なる展示施設ではなく、研究成果を利用者の皆様に還元し、社会に発信していく施設であることはもちろんのこと、更には地域の文化交流の拠点として市民の皆様の活力を取り込みながら、双方向的な在り方を模索する施設でもあらねばならないと考えるところでもあります。

 このことを肝に銘じ、来館者や教育普及活動の方々にご満足いただける事業を展開することに努めて参ります。本市の礎を築いた千葉氏を中心とした中世はもとより、古代から近現代にいたる通史全般、そして民俗等にも視野を広げた研究を深めることはもとより、成果の公表の広がりに努め、持続可能な博物館を構築致します。また、本年度から、学校教育との更なる連携を深め、次代を担う子どもたちへの郷土史への興味と理解を育むことに、これまで以上に注力する所存でございます。

 今後の千葉市郷土博物館の取り組みに、是非ともご期待を頂ければと存じます。

 千葉市立郷土博物館ホームページへの誘い

 4月から館長として赴任して2週間が経過しました。この間、新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、当館も3月2日以降の「臨時休館」を余儀なくされており、いつ開館することができるのか未だに不透明な状況にあります。しかし、そうした中でも、自然の摂理には抗えず、当館のある「いのはな山」も桜から木々の新緑が目にまぶしい季節に移ろっております。「風薫る5月」ももうじきです。南から子育てにやってくる燕たちの訪問も待ち遠しい限りであります。
さて、「非常事態宣言」の下、いつものように出歩くこともできない皆様を思い、当館では本年度より大幅にリニューアルした当館ホームページを用いて、ささやかではありますが発信を続けております。当館公式ツイッターで「いのはな山紹介」(4月14日日現在17回)・「市史トッピクス」(同3回)を隔日ほどで、本館統括主任研究員による「研究員の部屋」を週1回のペースで、それぞれ更新しております。前者では、当館周辺に存在する寺社や歴史的な内容について、後者では、これまで3回にわたり千葉神社を取り上げております。従来千葉氏との関係でのみ注目されてきた妙見信仰が、実は千葉周辺に居住する商工業者等々と密接に結びついていたという、これまで等閑に付されていた事実について言及しております。また、ホームページ内には、新聞各紙でも紹介された「千葉氏ポータルサイト」が設けられており、手前味噌ではありますが内容的に充実したものと自負するところです。このようなときこそ、是非とも当館ホームページにお気軽にご訪問ください。そして、皆様のご意見等も賜れれば幸いです。
その他、5~6月開催「千葉氏パネル展」、10~12月開催特別展「軍都千葉と千葉空襲」に向けての準備を急ピッチで進めております。併せて、本年度末発行予定『千葉市史 史料編(近現代編1)』編集も行われています。開館時期が見通せないことに鑑み、パネル展については当館ホームページを活用したweb展示での公開も検討して参ります。本年度「千葉氏パネル展」は令和8年に迎える「千葉開府900年」(大治元年千葉常胤の父常重が大椎から本拠を千葉に移してから900年という記念すべき年です)に向けた連続展示の4回目。「千葉氏前史」として「平将門と平忠常」を取り上げます。近くになりましたら改めて「館長メッセージ」にてご案内をさせて頂く所存です。また、本館として本年度からの重点としている学校教育との関係強化に向けた「教育プログラム」の準備等も推し進めて参ります。コロナ禍が終息し、再度の開館を迎えた暁に大きく羽ばたけるよう、当館も雌伏の時を粛々と歩んで参ります。しばらくホームページ中心とした発信となりますが、少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。 
 

 

 「終息の見えないコロナ禍に思う」

5月1日(金曜日)

 本日から5月となりました。3月当初からの本館の臨時休館も、既に2か月を経過しようとしております。残念ながら、国内外のコロナ禍終息は未だ見通せず、今しばらくの辛抱が必要のようです。開館を心待ちにされている方々には、誠に申し訳なく存じますが、何とぞ御理解のほどをお願い申し上げます。

さて、もはや旧聞に属することとなりますが、去る4月18日(土曜日)当館HP内「研究員の部屋」に、本館の研究員執筆「新聞にみる千葉のむかし『スペイン風邪の蔓延~大正7年パンデミックから何を学ぶ?~』」をアップいたしております。本コラムは「ちば市史編さん便り24号」(2020年3月31日発行)に掲載されている内容ですが、こうした時期であるからこそ、一人でも多くの皆様にお目通しをいただきたく、本館HPに転載いたしました。また、開館のあかつきには、本稿が掲載される当該リーフレットを実際にお手にとっていただければと存じます。

全世界で猛威を振るった、いわゆる「スペイン風邪」が大流行したのは1918年から1920年にかけて。当時の総人口の約4分の1にもあたる5億人が感染し、死者数は4~5千万とも1億とも言われております。わが国での感染が確認されるのは大正7(1918)年10月のこと。それ以降翌年3月には一端沈静化するものの、同年12月から翌年3月にかけて、更に大正9(1920)年12月から翌年3月にかけてと、流行は三波あったと言われております。

その中で最も大きな被害をもたらしたのが第一波でした。本コラムでは、当該時期における千葉県内での感染経過と講じられた対策等々、当時の新聞記事を追いながら紹介しております。現状と照らし合わせながらお読みいただけると、到底100年以上も前の出来事とは思えない臨場感です。当時は、未だ、原因が特定できない「謎の感染症」でしたが、暗中模索の中で今と変わらぬ対策がとられていることに驚かされたりもします(原因となるインフルエンザウィルスが特定されたのは1930年代に入ってからのことです)。

因みに、同年はシベリア出兵に伴う深刻な物資不足と価格高騰を直接的要因とした「米騒動」が、7月から9月にかけて全国に広がりました。騒然たる世情の中、寺内正毅内閣が総辞職。代わって政友会の原敬の下で、初めての本格的な政党内閣が組閣された直後となります(軽症で済みましたが首相自身も罹患したことは意外に知られておりません)。千葉においては、大きな被害をもたらしながらも、年末には急速に下火に向かったことを新聞記事から読み取ることができます。筆者が記す「そこに、ひとつの希望を見出す」は、今を生きる誰もが共有する願いでありましょう。ただ、当時の日本は、都市人口が2割弱の「農村社会」でありました。それに反して、凡そ9割が都市に集住している現代の社会構造は100年前とは根本的に異なっており、このことが防止対策を難しくしているのだと思われます。

一方、歴史を振り返れば、伝染病を原因とする人類の危機は、同時に新しい時代を切り開く扉でもあったことを見逃してはならないと思います。

ヨーロッパ中世末のペスト大流行は、人口の激減を通じて封建制度を根幹から突き崩し、中世から近代への道筋を付けました。また、この文章で取り上げているスペイン風邪は、最終局面を迎えていた第一次世界大戦による甚大な人的・物的被害とも相まって、労働力の深刻な不足を生じさせました。1918年は、11月にドイツでの君主制の崩壊後、新たなに成立した共和制政府が連合国と休戦協定を締結。ヨーロッパを主戦場として足掛け5年にもわたって甚大な被害をもたらした第一次世界大戦が終結を迎えた年でした。それと入れ替わるように、今度はスペイン風邪の大流行が、戦争を遥かに超える更なる人的被害の追い打ちをかけたのでした。そして、そのことが結果として、大戦後の福祉国家への転換や女性の社会進出を促したと言われています(近代から現代へ)。つまり、パンデミックという悲劇を乗り越えることを通じて、計らずも人類は大きな社会構造の変革を成し遂げてきたのです。

今回の新型コロナ禍でも、これまでの状況にかんがみれば、非常事態宣言の下、在宅勤務、テレワーク、自宅学習、外出自粛等々の対応を強いられております。こうした中で、これまで当たり前であった勤務や学校をはじめとする社会の在り方に、誰もが否応なく向き合わざるを得なくなっております。私は、これを契機に社会構造がドラスティックに変わる可能性が大きいと感じています。その意味で、私たちは歴史的画期ともいうべき重大局面に立ち会っているのだと思うのです。しかし、少なくとも現状は「見えない難敵との戦い」に勝利することが至上命題です。併せて、当館で今秋予定している特別展「軍都千葉と千葉空襲」では、歴史的事実の紹介にとどまらず、非常事態における社会の在り方等のご理解を深めていただけるよう、鋭意努める決意を新たにするところでもあります。

最後に、スペイン風邪が猛威を振るった2年の後。大正11(1921)年1月1日、我らが千葉市では県内初の「市政」が施行されることとなりました。令和3年は、その時から数えて100年目の記念すべき年となります。かの時と同様に、感染症克服の末の「アニヴァーサリーイヤー」となることを心の底から祈るばかりです。全ての人々の力を結集して、この難局を乗り越えて参りましょう。

※本稿は、千葉大学法経済学部:水島治郎教授[石橋湛山賞『ポピュリズムとは何か』(中公新書)著者]が、昨年度末の大学院人文公共学府学位伝達式でお話しされた祝辞を参考にさせて頂きました。

 「千葉氏パネル展:将門と忠常―千葉氏のルーツを探る―」

5月14日(木曜日)

 新型コロナ禍の影響により、本館も現段階で3月初旬以来の臨時閉館を続けております。本来であれば5月27日(水曜日)から6月30日(火曜日)の会期にて、標記パネル展を開催する予定でありますが、現状未だ開館の日取りをお示しできない状況にあります。そのようなわけで、本パネル展に関しましては、6月初旬までに本館開館が可能であれば、その時点から会期をずらして実施をいたします(5月26日からの開館が可能となれば予定通り翌27日から実施します)。何れの場合も会期終了については7月12日(日曜日)まで延長とします。また、その時点での再開が叶わなければ、本館のHP上で6月中旬を目途にWeb展示にての公開をさせていただきます(その際も開館後に来館していただければパネル展示をご覧いただけるようにします)。現段階で具体的な開館日時とパネル展会期ともに明示できない状況にありますが、ここでは先立って今年度の「千葉氏パネル展」の宣伝をさせていただきたいと存じます。

ここ数年、毎年度開催しております「千葉氏パネル展」でありますが、私たち千葉市が令和8(2026)年に迎える「千葉開府900年」を見据えた連続シリーズとして企画しております。昨年度開催「千葉氏Q&A」に引き続き、令和2年度は、千葉氏の歩みをたどる第一弾。「千葉氏のルーツを探る」として、千葉氏の誕生以前の平安時代に、朝廷に反旗を翻した「平将門」と「平忠常」という坂東武者に焦点を当てます。

二人の名前は、おそらく誰もが目にしたり耳にしたりしたことがあると思われます。現に、平将門は千葉市採択の現行中学校歴史的分野教科書でも取り上げられ、平忠常も高等学校日本史教科書には必ず記述されます。両者とも平安時代における「武士のおこり」といった単元に登場し、貴族の世から武士の世への橋渡しするための大きな役割を果たした人物像として評されております。そこで、まずは名にし負う二人の人物に関する史実を追います。そして、こうした著名な人物と、後の世に活躍する武士である千葉氏と、如何なる関係があるのかを明らかにしたいと思います。

その際、「平安時代」という大きなスパンの中での時代像の変化について御理 解いただけるよう心がけました。今から約900年前に千葉の都市の礎を築いたとされる千葉常胤とその父常重も平安時代の人物です。しかし、一口に平安時代と言っても、桓武天皇が平安京に都を移してから武家政権の誕生まで、凡そ400年という長い期間を有しております。千葉常胤が活躍したのは12世紀後半であり、それは平安時代末期から鎌倉時代初め。院政・平氏政権の誕生から、源平の争乱を経て鎌倉幕府が成立する時期となります。 
それに対して、平将門の活躍は10世紀前半、平忠常は同後半から11世紀前半にかけてであり、中央は摂関政治の成立からその全盛期とほぼ重なります。従って、両者の間にはざっと100~200年もの開きがあるのです。今から200年を遡れば、黒船来航のずっと前、寛政の改革後の11代将軍徳川家斉の頃であることからもご理解いただけるように、社会の在り方自体にも大きな変化が生じており、将門・忠常と常胤とを、十羽一絡げに「武士」として括ることはできません。そうした武者の在り方の変化、ひいては社会全体の変化を探ることに留意いたしました。

最後に、「将門」「忠常」が今でも広くその名を知られているのかは何故かにも光を当てております(「反乱の記憶と再生」)。その原因が決して学校の社会科授業のみにはあらず……と考えるからです。特に平将門は近代文学にしばしば取り上げられ、その魅力的な人物像は広く人々の心をとらえております。古くは幸田露伴・真山青果から、戦後の吉川英治・海音寺潮五郎・大岡昇平を経て、新しいところでは童門冬二・高橋直樹まで、近代以降に限っても将門を主人公とした作品は営々と書き継がれ、多くのファンを獲得していることからもそれは明らかです。個人的には、何を措いても、高校生の時に視聴した海音寺潮五郎原作のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』(1976年)が忘れられません。加藤剛の演じる硬骨漢の将門が印象的でした。
しかし、将門の世界は、広く若者達の心をも捕らえているのです。平将門の怨霊を呼び起こすことで帝都破壊を企てる加藤保憲の跳梁を描く、荒俣宏のサイキック伝奇小説『帝都物語』(実相寺昭雄監督の手になる映画化作品での嶋田久作演じる加藤の人物像は見た者に忘れ難い強烈な印象を残します)、東京の守護神という重要なキャラクターとして平将門の登場する人気CPゲーム『女神転生』等々。その裾野の広がりはとても一千年以上も前の人物とは思えないほどです。さらに、北は青森から南は熊本まで、日本国内にも広く分布する「将門伝説」の存在も見逃すことはできません(千葉市内にも将門伝説は色濃く残っております)。関東で反乱を起こした人物の伝説が、何故時空を越えて国内に広く存在するのでしょうか。また人々の心を捉らえ続けるのでしょうか。不思議と言えば不思議です。こうした乱の記憶と後の時代に再生され続けた背景にも迫ることを目論んでおります。

以上、今回のパネル展では、様々な視点から平将門と平忠常に焦点をあて、史実と伝説の姿に迫ることを通じて、千葉氏のルーツとしての「将門と忠常」の位置づけを明らかにして参ります。併せて、会場には将門・忠常関連のグッズや書籍などを展示します。開館後の展示が可能な場合、感染症拡大予防対策により職員による展示解説が実施できないことから、内容を詳細に解説した「解説シート」を配布する所存であります。また、追って「解説ミニ冊子」の販売も考えております。

現段階では本パネル展の開催方法・時期について明言できませんが、皆様を目くるめく史実と伝説の世界へとご案内いたしたく存じますので、楽しみにお待ちください。そして開館の暁には是非とも本館へ足をお運びいただけましたら幸いです。

 

 「5月26日(火曜日)より再開いたします」

5月23日(土曜日)

 新型コロナ禍の影響により、3月初旬から臨時休館を続けておりました本館でありますが、県市の感染者数の推移等を総合的に勘案した結果に基づく政策決定により、「県民の文化的・健康的な生活を維持するために必要であり、『3つの密』の発生抑制が比較的容易な施設」のカテゴリーに分類される博物館関係施設については、来週26日(火曜日)より「充分な感染防止対策」の下での開館となります。これまで3か月弱の長きにわたって(感染防止を目的とした致し方のない仕儀であったとは申せ)、皆様には多大なるご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。ようやく再開に漕ぎつけることができますことを、私たち「千葉市立郷土博物館」職員一同、心の底から嬉しく思っております。

必ずしも再開を記念してというわけではありませんが、タイミングよろしく、本年度「千葉氏パネル展」「将門と忠常-千葉氏のルーツを探るー」を、予定通りに翌27日(水曜日)より開催できることとなりました[会期の終了は7月12日(日曜日)まで延長いたします]。パネル展につきましては、先の「館長メッセージ」において内容等の宣伝を縷々述べさせていただいております。パネル8枚と若干の展示物によるミニ展示ではございますが、手前味噌を重々承知の上で、なかなかに充実した力作に仕上がっているものと申し上げることができます。当館 1階展示室を会場としております。皆様には、これを機に是非とも足をお運びいただき、ご観覧を賜りますれば幸いに存じます。

ただ、「充分な感染防止対策を講じての開館」となります。本館におきましても、通常以上に館内消毒を徹底する等々の予防対策をとって参りますが、ご来館の皆様におかれましても、マスク着用等々の様々なご協力をお願いせねばなりませんし、様々な制約の下で観覧いただかなければなりません。また、暫くは県境を跨いでの移動自粛等の制限もございます。もちろん、体調不良の方の来館につきましては厳にお慎みください。その他、皆様にはご不便をおかけすることが諸々あることと存じます。来館上の諸注意等、詳細につきましては当館HP上にて別途お知らせしております。誠に心苦しくはありますが、非常事態に鑑み、何卒ご一読の上で来館いただけますようお願い申しあげます。

晴れて開館の運びとはなりましたが、コロナ禍は完全に終息したわけではありません。しばらくは落ち着いた状況にあるものと推察いたしますが、夏をこえた秋から冬にかけて、ウィルスがより悪質に変異することもあり得ます。100年前のスペイン風邪のケースを見ても、1919年末からの第二波の流行では、感染者数は減少したものの、致死率はかえって大きくなっていることが見て取れます。マスコミ報道でも取り上げられる通り、現状は安心できる状況では全くないこと。そして、最早コロナ禍以前と同じ世界ではないこと。私たち一人ひとりが、それらのことを深く胸に刻んで行動することが求められましょう。

暫くは、社会全体・各々が感染症拡大防止策を充分に講じ、可能な範囲の中で楽しみを発見できる体制を構築することこそ何より肝要かと思われます。本館の活動が皆様にとって、その一助の役割を果たせますよう、これからも尽力して参ります。今後とも、何卒宜しくお願い申しあげます。

 

 道中記の世界―または博物館の役割について―(1)

5月29日(金曜日)

 今週より博物館を再開し、4日が経過いたしましたが、予想を上回る市民の皆様に足をお運びいただいており、嬉しい悲鳴をあげております。もっとも、たくさんの皆様においでいただいているということは、それだけ新型コロナウィルスの感染リスクが高まることを意味しますので、職員としては一段と気を引き締め、感染予防に余念なきよう取り組んで参る決意を新たにしております。
幸いに、今年度「千葉氏パネル展」もご好評を頂いております。本来ならば当館職員による「展示解説(ギャラリートーク)」を行うところでありますが、感染症拡大予防のために実施できず、職員としても大いに歯がゆい思いでおります。その代わりに「解説リーフレット」を別途配布しております。こちらには、パネルに掲載しきれなかった詳細な解説も盛り込んでおります。また、ご質問等がございましたらご遠慮せず受付にお申し出ください。当館職員が個別に対応をさせていただきます。以上、皆様には諸事万端ご面倒をおかけいたしますが、何卒ご容赦いただけますようお願い申し上げます。

 さて、今回も本館ホームページ「研究員の部屋」コラムからの話題です。本館が未だ臨時閉館中5月中旬にアップした、研究員による「卯兵衛さんの旅~江戸の旅と信仰」はお読みいただけたでしょうか。前半で、江戸時代の庶民の旅について概略が、後半では、江戸時代末に現千葉市若葉区中野町在住の高橋卯兵衛による伊勢参宮の旅が紹介されております。往復のルートマップ、道々で何を食べたのか、費用はいくらかかったのか等々、とても興味深い内容となっております。特に、コロナ禍の影響でステイホームを強いられていた多くの方々にとって、江戸時代へのバーチャル追体験旅行が、ほんの少しでも癒しの場のご提供になるのではないかと淡い期待をするところであります。

当コラムでは、時代劇でもよく見掛ける江戸時代の旅が、庶民にとっては決して簡単なものではなく、表向きは信仰・療養を目的としたものであったこと、様々な手続きが必要であったこと(「往来手形」等)、資力の乏しい庶民の工夫が必要であったこと(「代参講」)等々を知ることができると思います。また、在地社会と寺社参詣とを結びつける(つまり庶民を参詣の旅に誘う)、寺社における「御師」という存在も、今ではそれ自体が実感できない存在となっていることでありましょう。また、行先も伊勢参宮を目指す旅もあれば、千葉県内では東北地方にある出羽三山への参詣も今でも盛んです。更に、地元の房総半島の札所巡りなどの道中記もあります。何れにせよ、庶民にとっての旅は一生に幾度もない極めて稀な機会でした。だからこそ、必ずしも言葉の多くない記録からでさえ、生まれた地域外の世界に触れ大いなる好奇心を膨らませている、そのような彼らの息吹を行間から感じ取ることができるように思います。今回のコラムの主人公である高橋卯兵衛もそんな旅人の一人です。旅の途中で、御当地の名物を口にしたり、名所見物を楽しんでいる様子が垣間見えます。詳細は、是非とも当コラムでご確認ください。

 こうした江戸時代の庶民の旅の詳細がわかるのは、旅の記録として「道中記」と呼ばれる文書史料が各地に残されているからです。「代参講」は講員が積み立てた資金を元手として、選ばれた代表が旅に出る仕組みですので、旅の終了後に仲間に「出張報告」「会計報告」をする義務が生じます。これが「道中記」が作成された主たる動機です。従って、現在に残る多くの道中記は、基本的に宿泊場所と出費の記録のみが淡々と記されているものが多く、個人的な感想が記されることは稀です。この高橋卯兵衛の残した「伊勢参宮日記控帳」もそうしたものの一つです。しかし、「代参講」に頼ることのない、個人の資力でも旅が可能であった、裕福な農民や学者のようないわゆる知識人といわれる方々の道中記の中には、読んでも引き込まれる豊富な内容があるものも多々あります。

(つづく)

 

 道中記の世界―または博物館の役割について―(2)

5月30日(土曜日)

 今回は、前回からの道中記の話題を基に、更に敷衍して「博物館の役割とは何か」に展開をさせていただきます。歴史系博物館の役割の一つは、こうした地域に埋もれた史資料の発掘、及びその調査・研究を行うことにあります(地方公共団体によっては文書館がこうした機能を担っている場合があります)。本館も『千葉市史』編纂事業を継続展開しており、「道中記」に関しては、刊行済の『史料編9近世』に、南柏井村の小川金左衛門が、享和3(1803)年に房総半島から日光までに至る寺社巡りをした記録が翻刻(原史料を活字化)されております(『上総房州参り宿覚帳』)。また、園生町の旧家に数多の道中記資料が存在していることも記録されております。皆さんも是非こうした貴重な史料に接していただければ、更に地域の歴史に対する興味関心が深まることと存じます。全国には、こうした道中記に限りませんが貴重な翻刻刊行している博物館も多々ありますので、ホームページ等で検索してみては如何でしょうか。

因みに、私のお勧めは、東京の府中市郷土館(「府中市郷土の森博物館」前身施設)刊『猿渡盛章紀行文集』(1980年)と「世田谷区立郷土資料館」刊『伊勢道中記資料』(1984年)です。前者には、武蔵国総社である六所宮(大国魂神社)神主である猿渡盛章が、文政9(1826)年に位官申請のために上京した折の紀行史料等が集成されております。盛章は著名な国学者でもありました。道中記をもとに後に紀行文とした『山海日記』には、各所に和歌が散りばめられており、凡百の道中記とはレベルの異なる文学作品として読むことができると同時に、当時の社会情勢の一端を知ることのできる一級の歴史史料ともなっております。後者では、幾つか収められる史料中の『伊勢参宮覚』が注目されます。これは喜多見村の名主であった田中国三郎による弘化2(1845)年の道中記です。裕福な農民らしく、行先は更に広範となり、信仰以上に娯楽的な側面を色濃く感じられる内容となっております。東海道を通って伊勢参宮に向かい、その後に奈良見物。大坂では芝居見物をして四国に渡り、金毘羅詣の後に伊予国の道後温泉へ。再び舟で本州へ戻り、宮島・錦帯橋へ廻ってから山陽道を東に辿り京都へ。そこから中山道を通って善光寺参り。その後は江戸を経て喜多見村に戻るまでの、凡そ3か月にもわたる大旅行となっております。記述内容もとても豊富で、個人的感想や筆の遊びによる絵画描写が含まれるなど、いつ見ても楽しい読みものになっております。余談ですが、千葉大学教育学部附属中学校で教鞭をとっていた頃、選択社会の授業で当道中記を教材とし、生徒とともに一年間かけて読み込んだことが懐かしい想い出となっております。

話題を元に戻し、改めて強調させていただきますが、私たちのような地域博物館の役割として何よりも重要なことは、地域に埋もれた史資料を見出し、更にはその調査・研究を通じて、忘れられていた地域の歴史を明らかにしていくことに他なりません。そんな昔のことなど知っても「一文の価値もない」等の言説をしばしば耳にいたしますが、果たしてそうなのでしょうか。以下、飽くまでも個人的な考えではありますが、私はそうした言説には首を傾げざるを得ません。2015年物故された元ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ワイツゼッカーによる、1985年西ドイツ連邦議会での演説「過去に目を閉ざす者は、現在(未来)に対しても盲目となる」(過去のドイツにおけるナチスの歴史を踏まえた言説)を引くまでもなく、人類の歩んだ過去を明らかにし、その意味を探ることが今を生きる者の務めであり、延いては未来を生き抜く何らかの指標を見出すことにも繋がると考えるからです。特に、私たちのような地域博物館における地域の歴史調査・研究活動は、広い意味での歴史を、私たちの足元にかつて生きた人々の活動から、身近に掴むことができる可能性を秘めていると思います。
こうした博物館の地道な活動は、実際のところ市民の皆様には一番見えにくい部分でありますが、これこそが、博物館活動のコアとなる最も重要な機能であります。目立たないからと言って、決して疎かにしてはならないことです。ただ、幾ら重要だからと言って、その段階に留まっていては博物館の活動は「象牙の塔」にすぎません。調査研究と同列に重要なことは、その成果を、様々な形で広く一般の市民の皆様に還元することです(常設展・特別展、当館ホームページ上「研究員の部屋」コラムも一つの試みであります)。今回紹介いたしました江戸時代の旅で申せば、ご紹介した資料についての調査研究が、府中市で『伊勢へ奈良へー幕末の旅と社会―』(1990年)、世田谷区で『社寺参詣と代参講』(1992年)という、それぞれの博物館における「特別展示」として結実し、市民の皆さんへ調査研究内容が広く公表されております。ともに優れた展示図録が作成されていることも申し添えておきます。逆に、価値ある還元のために、不断の調査研究こそ決して欠かすことのできない活動なのです。

以上、皆様を長々とあちらこちら引き廻してしまったようで、誠に申し訳ありませんでした。再び「道中記」の世界に舞い戻りますが、千葉市内にも「道中記」は何冊も残されておりますし、今後新たに発見される可能性も大きいものと思われます。当館としましても「江戸時代の旅」を題材に、その時代や社会の在り方に切り込めるような、価値ある特別展示をいつか開催したいと願っております。また、皆様も、市内に残る東金御成街道・房総往還・佐倉道・土気東金往還等々の古道を辿り、道筋に残る寺社や石造物を巡りながら、併せて健康の維持増進を兼ねる歴史散策を楽しまれては如何でしょうか。幸いに、こうした古道はいわゆる「三密」とは無縁でありましょう。

博物館の担うべき役割は、これまで縷々述べて参ったことの他にも未だ未だ沢山ございます。是非とも皆様にもお知りおき頂ければ幸いに存じますが、それらは、またの機会にさせていただきます。今後とも、職員一同、矜持を新たに諸活動に取り組んで参ります。

 

 

 『平将門の乱』(岩波新書)と福田先生の横顔

6月5日(金曜日)

 今年も初夏らしい爽やかな陽気をほとんど味わう間もなく、梅雨入り前にすっかり真夏の様相を呈しております。地平から入道雲がすっくと立ち上がり、辺りを威圧的に睥睨する光景をよく目にしますし、ここ数日は蒸し蒸しとした雨の季節の到来まで感じさせる陽気です。昨今、冬から夏に、夏から冬へと、春秋を介することなく季節が極端に振れるようになったように感じます。これも人為的な要因による地球環境変動の為せる業なのかと思われます。古来日本人の感性を育んできた微妙な季節の移ろいが失われていくことは、文化の鑑賞、文化の創造の両面でも大きな影響をもたらすと懸念するところであります。『古今集』以来の「四季」を主たる部立てとした歴代勅撰和歌集でも、「季語」を必須とする俳諧においても、一際印象に残る秀歌・秀句は春秋に多いように思います。皆様は如何お感じでしょうか。

 さて、現在開催中の千葉氏パネル展「将門と忠常―千葉氏のルーツを探るー」も、開幕から2週間が経過しました。この間、特に土・日には予想を超えるたくさんの皆様においでいただきました。この場をお借りして御礼申し上げます。誠にありがとうございます。会期は7月12日(日曜日)までとなっております。閉幕まで一か月強ございますので、未だご観覧いただいていない皆様は、これを機に是非とも足をお運びください。お待ちしております。

 今回は展示資料中にある一冊の書籍に関する、極々個人的な想い出話となりますことをご容赦願います。その書籍は豪華本でも稀覯本でもない、どの書店にも置かれていたであろう新書にすぎません。書名は『平将門の乱』。著者は中世史研究者として夙に御高名な福田豊彦氏です。見開きには「天野良介様 恵存 福田豊彦」と、先生自筆の闊達な筆跡による献辞が残されており、ケース内に当該頁が開かれた状態で展示されております。かような個人的属性の明らかな展示物をお見せすること自体、博物館として本来ご法度かと存じますが、個人的な想いに免じてご寛恕くださいませ。

この福田先生の御高著に巡りあったのは、今や懐かしい岩波新書(黄版)の初版が書店に並んだ昭和56(1981)年のことと記憶しております。私は学生最後の年を迎えておりました。当時は卒業後の進路が定まらず悶々とする中でしたが、大学の生協で何気なく手に取ったこの書物に忽ち引き込まれてあっという間に読了したこと、読了後の知的好奇心の満たされた充足感、更には未知なる歴史への興味を大いに掻き立ててくれたワクワク感等、今でもありありと記憶しております。歴史に関する興味関心が人一倍に強かった私でしたが、故あって学生時代に歴史とは無関係な学問に携わっていました。そうした中で、この一冊が、少しでも「歴史」と関わることのできる仕事に就こうとの決意を固める契機の一つになったことは確実です。その結果、私は社会科教師としての道を選ぶことになり、以後は歴史的分野を中心とした教科研究に携わって参りました。
高校生時代に大河ドラマ『風と雲と虹と』(1976年)で親しんでいた平将門でしたが、その折には間違いなく単なる英雄物語としてしか歴史を見ておりませんでした。平将門の権力基盤を、牧・鉄・開発といった社会経済面から光をあて、更に現地の地形と関係づけて明快に論じた内容に、まさに「目から鱗」の思いでした。そして、「歴史を学ぶとは如何なることか」に改めて開眼させられたように思います。現在の中世史研究者からの評価はいざ知らず、私にとっては今でも古びることのない名著であります。また、何年か後に、友人と本書を片手に故地を経巡り廻ったことも懐かしい想い出です。本書も刊行以来40年近くとなります。品切れになった時期もありましたが、幸い現在は新本で購入できるようです。ご興味がおありになれば、是非ともご一読されることをお薦めいたします。今回の「パネル展」の理解を更に深めていただけるものと確信いたします。

そんな、福田先生の謦咳に接することができたのは、教職について20年以上経過した平成17(2005)、私が千葉大学教育学部附属中学校で教鞭をとっていた頃のことでした。平成17年に当館で開催された特別展『鉄をつくる』の共催として、勤務校での「総合的な学習の時間(「共生」と命名しておりました)」にて、実際に我が国に古くから伝わる製鉄技術(一般に「たたら」と呼称)よる鉄づくりを再現するという、博物館活動のお手伝いをしたことがきっかけでした。
鉄づくりの技術的指導は東京工業大学の永田和宏教授でしたが、製鉄と東国武士団の勃興との関連を歴史面から裏付けていただくことになったのが福田先生だったのです(福田先生も東京工業大学名誉教授でした)。当時すでに80 代も半ば。痩身白髪のお姿でしたが、背筋の通ったかくしゃくとした立ち姿が印象的であり、エレガントに被られたハットと足元の白い革靴がとてもお洒落でした。学会の重鎮でありながら、決して偉ぶることなく、立ち居振る舞いも言葉遣いも紳士然とされており、少々甲高いトーンの早口で中学生を相手に懇切丁寧に語り掛ける、教育者としての真摯な姿にもうたれました。何より、自分自身の将来を左右する契機ともなった一冊をものされた福田先生にお会いできたことに狂喜いたしました。その折に、ずうずうしくも先生に懇願し、ご署名いただいたのが今回の展示品に他なりません。初版は実家に置いてあり手元になかったため、とり急ぎ入手した書物にご署名頂いたと記憶しております[代表作の一つ『千葉常胤』(吉川弘文館)にご署名いただけなかったことが心残りであります]。
その時に、生徒たちと砂鉄と木炭からつくりあげた、いわゆる「和鉄」と鉄滓が本館での特別展会場にて展示されました。そして、15年を経過した今でも、本館収蔵庫にて保管されております。

それから先生とは年賀状の遣り取りのみのお付き合いとなりましたが、再びお目にかかることは叶わず、残念ながら、それから10年後の平成27(2015)年に泉下の人となられました。国木田独歩の作品ではありませんが、私の中では、今でも「忘れえぬ人々」のお一人として生き続けておられるのです。

 

 漫画『坂東の風雲児 平将門』(坂東市刊行)

6月12日(金曜日)

 4月当初からの館長の長話にはもううんざり……との声が、そろそろ聞こえてきそうです。そこで今回は、現在開催中のパネル展に関しましての刊行物の紹介を、能う限り手短にさせていただきます。

さて、前回は福田豊彦先生の想い出とともに、『平将門の乱』(岩波新書)をご紹介させていただきました。しかし、さすがに子供には手強い内容かと思われます。そこで、今回は、お子さんたちにも味わっていただけるであろう歴史漫画をご紹介いたします。それが標記作品です。もともと、将門が拠点としていた石井営所旧跡や国王神社のある岩井市の刊行作品でしたが、平成17(2005)年に行われた猿島町との合併後、新たな「坂東市」として販売が継続されております(今も「岩井市」表記のままなのがご愛敬です)。
肝心要の内容ですが、お役所のつくった漫画と侮ってはなりません。大手出版社刊行の歴史漫画を遥かに凌駕する充実の内容です。後世の子供たちに価値ある資料を残そうとの、製作に関わられた皆さんの熱い息吹を一読して感じ取ることができます。これだけのものは生半可な取り組みでは決して出来上がりません。同業者として頭の下がる思いです。内容は勿論のこと、装丁・絵・画面構成の素晴らしさも、後世に語り継ぐべき作品と太鼓判を押したいところです(信憑性への疑義を差し挟まれる可能性無きにしもあらずですが、実際にお手に取っていただくことが何よりの証となりましょう)。
それもその筈。当漫画の内容は、間違いなく福田先生の『平将門の乱』を下敷きに作話されております。従って、単なる人物伝に終始することなく、時代背景や権力基盤等について切り込んだ描写も遺漏ありません。現在まで30年近く営々と地域で読み継がれているのも当然と納得いたします。
余談ではありますが、千葉市立葛城中学校に奉職しているとき、当漫画を学級人数分購入し社会科の授業で活用しておりました。「武士のおこり」の理解が進んだと生徒たちからも大いに好評でした。この40冊は現在も葛城中学校図書室に架蔵されております。きっと後輩達が十全に有効活用していることでしょう。

 この歴史漫画は、残念ながら一般の書店では販売されておらず、坂東市関連施設か通信販売でご購入いただくしかありません。申し遅れましたが、お子さんに限らず、大人の鑑賞にも十二分に耐え得る力作であります。全175頁にも及ぶ大作で一冊税込¥1,000のお買い得価格であります。
因みに、坂東市の複合文化施設「坂東郷土館ミューズ」内に「坂東市立資料館」が併設されており、将門関係の調査研究にも熱心に取り組まれ、関連する特別展も幾度か開催されております。また、近年『坂東市版 将門記 現代語訳』が刊行されましたので、併せてご紹介させてください。『将門記』は「平将門の乱」について記述された、いわゆる「軍記物」の嚆矢ともされる基本文献でありますが、如何せん簡単に読み込める代物とは申せません。その点、この資料集は、見開き2頁中、右頁上方に現代語訳文、下方に訓読文を。そして左頁に詳細な訳注と関連史資料(地図・系図等)を掲載しております。現在入手できる『将門記』のテキストとして、お値段(税込¥1,000)も含めて、最もお手頃で有意義な刊行物であると考えます。
これらの漫画・資料集はともに坂東市立資料館にて購入可能です。本館のパネル展を御観覧いただいた後に、当館を訪問されることをお薦めいたします。併せて、近隣の将門縁の地巡りをされては如何でしょうか。現在、本館ツイッターでは「パネル展 将門と忠常 紹介」を連載アップ中です。現地散策に少しでもお役立ていだけましたら幸いです。

最後に、念のために申し添えておきますが、当方は決して坂東市さんの回し者ではありませんし、当然一切の見返りもございません。その点、くれぐれも誤解無きようお願い申しあげる次第であります。

 将門伝説の世界―または「将門塚」のこと―

6月19日(金曜日)

 現在開催中の本館パネル展「将門と忠常―千葉氏のルーツを探る―」の会期も3週間を残すところとなりました。また、過日「千葉経済新聞」でも本展示についてお取り上げいただきました。その内容がヤフーニュース等のネット情報で流れ、多くの皆様方に周知いただいたお陰でありましょう。先の土・日曜日は生憎の空模様のなか、思いのほか多くの皆様にご来館をいただきました。荒天にも関わらずご来館くださった皆様に、この場をお借りして御礼を申し上げます。ありがとうございました。

今回のパネル展は、「史実」の将門と忠常に留まらず、「伝説」として生き続けた歴史にも迫っております。「伝説」の世界を扱うと、「史実にあらず」と一刀両断にされることがよくあります。歴史的に価値なきものとの言いでありましょう。一方で、「何千年前の出来事が地域の人々に消し難い印象を残した」ことを伝説伝来の由来とする言説を耳にすることも間々あります。果たしてそうなのでしょうか。少なくとも、後者のような認識はあまりに牧歌的に過ぎましょう。何故ならば、事例として不適切との誹りを免れないかもしれませんが、9年前の東日本大震災における大規模な津波被害に照らしてみれば明らかだと思うからです。地域住民にとって何にも増して重大な記憶でなければならない120年程前の大津波被害のそれすら、必ずしも充分な形で語り継がれていたと言い難かったのではないでしょうか。まして、1000年以上も昔のことが何十世代にもわたり営々と語り継がれることなど考えられません。つまり、「伝説」とは、決して過去の記憶がそのまま引き継がれたものではなく、後の時代の人々が何らかの意図をもって再生産し続けたものなのです。
従って、「何時」「誰が」「何の目的で」「如何なる筋立てにより」、「記憶の再生産」を図ったのかを探ることは、歴史学として追及すべき価値ある内容です。何故ならば、少なくとも伝説誕生時における「歴史的事実」を反映しているからに他なりません。特に、「将門伝説」の世界は、日本史上の何人とも比肩できないほどに豊穣であり、幾多のアプローチが可能となりましょう。しかも、反乱の地である関東を遥かに越え、北は青森から南は熊本まで広範に存在しております(私たちの千葉市にも色濃く残っております)。今回は、千葉市を少々離れた話題となりますが「将門伝説」の一端に触れてみましょう。

 東京都千代田区大手町といえば、スーツをビシッと着こなした内外のビジネスマンが闊歩する日本経済の中心地です。今から150年も遡れば、江戸城の正門として諸侯の登城で殷賑を極めた大手門のほど近く。幕府の要職を務める譜代大名の上屋敷の居並ぶ、今でいうところの官公庁街。この地に幕府が開設されてから、過去400年にわたり国内の中心地であり続けている場であります。そんな林立する高層ビルの谷間に異質な一画が今も残っています。これが未だ江戸が国内の中心となる以前、古代・中世における江戸の記憶を微かに伝える史跡に他なりません。その名称は都史跡「将門塚」。申すまでもなく、将門の乱鎮圧後に京で晒された首級が東国を目指して飛び去り、その首級が落下した地点で手厚く葬り祀られた場であるとの伝説の伝わる場です。江戸時代にはこの場所は酒井家上屋敷内であり、現状とは異なるマウンド状の塚でした(絵図が残っております)。内部には石室もあり、いわゆる「古墳」であったものと考えられております。また、特に明治以降になって、この場所に手をつけると必ず祟りを引き起こすと言われ続けた、いわゆる心霊スポット(パワースポット?)でもあります。勿論、首がこの地に飛んできたこと、ここが将門の墓所であること等を、史実とすることは難しかろうと思われます。明らかに何者かによって後世に創作された話であり、場でありましょう。そもそも、将門の首塚のある場が何故「江戸」なのでしょうか。百歩譲ってこの地が「東国」であることに異論はありませんが、将門の故地を言うのであれば、現在の茨城県坂東市に首級が祀られることこそ理に適っておりましょう。

 ここで考えなくてはならないことが、武蔵国江戸郷は、12世紀半ばに秩父系平氏の一流が進出。平将恒がこの地に拠点を置き「江戸氏」を称したことです。平将恒は平良文の孫にあたります。つまり、千葉氏と祖を同じくする一族なのです。後に千葉氏が将門を顕彰したこと(相馬氏が祖先と位置付けたように)と同様の構造をここに見てとることは、あながち見当外れとは申せますまい。秩父平氏にとって将門との縁を強調することは、一族の地域支配にとって有効と考えられていたことを思わされます。一族の故地である秩父地方は、今でも「将門伝説」の色濃く残る地域であり、現在の秩父神社が元来「秩父大宮妙見宮」であったように妙見信仰が盛んな土地柄であります。秩父平氏である江戸氏によりこの地に将門関連の諸々がもたらされた可能性が想定されます。つまり、江戸氏の手により、たまたまこの地にあった古墳が「もっともらしい施設」として、地域支配の精神的拠点「将門塚」として再整備された可能性が指摘できるのではないでしょうか。余談ではありますが、千葉常胤の室は秩父氏から迎えられているなど、良文流平氏としての秩父氏と千葉氏との強い紐帯も存在します。

そして、時代は下り治承・寿永の内乱期。反平氏の狼煙を上げて、房総から武蔵国を経て鎌倉に向かおうとしていた源頼朝に立ちはだかったのが、武蔵国江戸郷を拠点とする江戸重長でした。彼は「大福長者」と称され富裕をもって知られていました。結果的に頼朝への加勢を決めた後、石浜(浅草北の隅田川右岸の地)にあった「西国舟」数千艘を集め三日間のうちに浮橋を設営。頼朝の隅田川渡河を助けたとされることからも(『義経記』)、その富と権力の源泉が湊を拠点にした広域物流支配にあったことをうかがわせます(「戸」は「津」の転訛とされ湊であった痕跡を残す地名と考えられます。東京下町には今も「戸」地名が数多存在します)。こうした非農業民の集住地である江戸・石浜(両者の中間に地域の宗教的拠点となる浅草)という、正に都市的圏内に「将門塚」が存在することは非常に興味深いものがあります。何故ならば、江戸氏が室町時代半ばに当地から退転後の「将門塚」継承に関わる可能性が大きいと考えるからです(因みに、江戸氏退転後に当地を拠点とするのが扇谷上杉氏家宰の太田道灌です)。

その点で、こうした都市的な場を布教拠点として「道場(小規模な布教の拠点)」を営んだ時衆(時宗)の存在は注目されます。すでに宗祖「一遍上人」の段階で石浜を訪れていることが国宝『一遍聖絵』から明らかです(後に「石浜道場」に発展)。しかし、より重要なのは一遍の後継者として時衆教団化の基盤をつくったとされる二祖他阿弥陀仏「真教」の存在です。徳治2(1307)年に当地(江戸郷芝崎村)を布教に訪れた真教が、地域住民に祟りをなす将門霊位に法号「蓮阿弥陀仏」を授け、自ら揮毫した板碑を建立して鎮めたこと。また、傍らの天台宗寺院を時衆(時宗)に改め芝崎道場とし、以後「将門塚」の祭祀を司ることとなったことが伝えられているからです。芝崎道場は後に日輪寺を称し(江戸初期浅草に移転し現存)、傍らで将門を神霊として大黒・恵比寿とともに祀った神田明神ととともに(江戸初期に現在地へ移転、明治期の神仏分離で神田神社)、令和の現在も将門の祭祀を両寺社が継承し執り行っております。ここからは、将門塚の祭祀が、支配者層から庶民階層(商工業者層)のそれへと拡大していることがうかがえます。
そして、ここで注意すべきは、将門祭祀を担ったのが時衆(時宗)だということです。ご存知じのように、一遍上人の布教活動は「一所不住」を旨として全国を遊行するものであり、その基本形は二祖真教以降にも引き継がれました。また、時衆(時宗)の布教活動が踊念仏といった芸能的側面をもっており、中世における遍歴する芸能民との親和性が高いことも指摘されるところであります。国内に広範に存在する将門伝説には、こうした時衆(時宗)の遊行活動や、遍歴する芸能民の存在といった、社会的な背景も視野に入れることができましょう。

因みに、神田明神の祀る主神は申し上げるまでもなく平将門ですが、明治維新後にいわゆる祭神論争が勃発します。新政府から将門祭神廃止を申し渡されたからです。新政府は、天皇陛下の膝下で、朝廷に盾突いたのみならず日本史上唯一天皇にとって代わる新皇を僭称した者を神として祀る、「不都合な真実」に蓋をしようとしたのです。神社側も堂々の論陣をはって対抗しますが、最終的に主神から外し摂社として扱うことで調整が図られました。明治17(1884)年に、維新以来中断されていた山車祭が再開された際、折から暴風が襲い多くの山車が破損。この時、氏子連が「将門さま」が新政府の理不尽な処置に「ご立腹」と認識したとの記録も、江戸っ子にとって「江戸惣鎮守」としての高い格式への誇りと、将門と東京(江戸)の商工業者との強い紐帯を思わせます。余談ではありますが、氏子の悲願であった将門霊神の本殿復座が叶ったのは、それから100年も経過した昭和59(1984)年のことでした。また、江戸への出開帳で大いに持て囃された成田山新勝寺でありますが、神田明神の氏子に限っては旗色悪く、将門調伏を寺院成立の契機とする本寺への参詣をしない「習わし」を頑なに守っているとのことです。これも形を変えた「将門伝説」の一つと申せましょうか。

今回は、「将門伝説」、その中でも東京にある「将門塚」の存在に焦点を当ててみました。伝説の世界は奥が深く、史資料が残らない伝承の世界だけに検証は困難なことが多くあります。しかし、時代の精神史を探るうえでも極めて有用な題材かと思います。「将門伝説」はそのための豊穣な世界を提供してくれるものと確信いたします。ご興味がございましたら、村上春樹著『平将門伝説』(汲古書院)[著名な小説家と同姓同名ですが別人です]、樋口州男著『将門伝説の歴史』(吉川弘文館:歴史ライブラリー)をお薦めいたします。前者は、全国に散在する伝説を広範に渉猟した貴重な資料集として、後者は、それらを歴史的な流れに位置付けて意味を検討した論考として優れています。本稿も後者を大いに参考にさせていただきました。

 

 

 博物館の役割とは ―史資料の保存・活用・継承―
千葉氏パネル展「将門と常胤―千葉氏のルーツを探る―」7月1日(水曜日)「ブックレット」販売開始(税込¥100)」!

6月26日(金曜日)

  雨の季節ですから当たり前のことですが、ここのところ鬱陶しい空模様が続いております。梅雨は無くてはならない大切な季節であることは言うまでもなく、むしろ「恵の雨」として感謝すべきでありましょう。ただ、皆様におかれましては、コロナ禍に気遣いつつも、蒸し暑さで奪われる体力の維持、増殖しやすい雑菌による食中毒防止等々、多方面への気配りが求められる季節でもありましょう。

 実のところ、この季節は私たち博物館にとっても、一年の内でも気を遣う季節の一つでもあります(もう一つは異常乾燥の冬季)。展示品にとっての大敵は間違いなく「黴」の存在です。黴には何の悪気はありませんが、彼らは有機物からなる多くの展示物を格好の住処といたします。従って、その防止には湿度・温度管理が何より欠かせません。博物館によって状況は異なるとは思いますが、「展示室」の展示品はケースに納められている場合が多いのですが、それらとて機密空間ではありません。大きくとらえれば、展示室そのものが開放空間といっても過言でなく、多かれ少なかれ外気の影響を受けることになります。展示品には複製品も多くありますが、貴重な実物の原史資料もあります。特に、貴重な実物資料を、光線、過度な湿気・乾燥に晒しつづけることは極力控えねばなりません。かような環境に長く置かれれば置かれるほど史資料の劣化は進行していきます。当たり前ですが、それらは唯一無二の存在であり、他の何物をもっても代えることができないものです。一方、原史資料が破損していたり、劣化が酷い場合には、専門家の手をお借りして修理・修復することも必要となります。破損・劣化の状態によってはそのために多額の費用を要します。従って、費用対効果の面から考えても、能う限り劣化を防ぐ対応が求められます。そして、こうした地道な取り組みにより、貴重な史資料は未来へと継承されていくのです。つまり、私たち博物館の重要な役割として、世界に一つしか存在しない貴重な「史資料」の、維持・管理・継承があることを認識していただけると有難く存じます。

 そのための施設として、博物館には「展示室」の他に「収蔵庫」なる施設が付属しておりますが、皆様はご存知でしょうか。勿論、本館内にも存在し、多くの貴重な史資料が大切に保管されております。いわゆるバックヤードであり、一般公開はできませんが、ある意味で博物館の存在意義を計る中核施設に他なりません。貴重な史資料の維持・管理のための施設ですから、収蔵庫は火災にも耐える防火構造でつくられており、湿度・温度が厳重に管理された密閉の暗所空間となっております。古文書等につく「害虫」・「黴」の駆除も定期的に行われます。繰り返しますが、一度失われた史資料は二度と戻りません。過去の遺産をしっかりと未来に引き継ぐことは、我々博物館に課された使命なのです。

しかし、これだけでは博物館は単なる「倉庫業」と選ぶところがありません。こうした貴重な史資料を皆様にご覧いただき、我々の調査研究活動により明らかになった「意味」をお伝えしていくことこそ「博物館」の機能であります。このことは以前から度々申し上げる通りであります。しかし、先ほどから申しあげている史資料の「保存」という機能と「公開」というそれとは、実際のところ本来矛盾する(極端に申せば二律背反の)命題でもあるのです。そして、そのジレンマの落としどころが「複製品」の存在だと考えます。これにより、(代用品ではありますが)貴重な史資料を何時でも目にすることが可能になります。来館される皆様からしてみれば、「複製品」と聞くだけで「なんだ、本物じゃないのか!?」と思われることでしょうし、その気持ちが理解できないわけではありません。しかし、現代の技術を侮ってはなりません。今や実物と寸分違わぬ「複製品」を製作することができます。こうすることで、実物の史資料を守り、同時に日常的に皆様の観覧に供することも可能になります。貴重な原史資料は「特別展」等の場で、期間を区切って公開することによって、「保存」と「公開」の両立を図ることが可能となるのです。

しかし、本館では、何点か未だに貴重な文書史料の現物が常時展示されているものがあります(中には文化財指定を受けているものもあります)。これらは、早急な複製の作成と原史料との入れ替えが必要と考えております。たとえ複製品であっても複製の作成には多くの費用を要します。文書史料であればさほどではありませんが、立体史料や絵画史料は相当な予算が必要となります。従って、複製史資料であっても、原史料と同等に慎重に取り扱うべきです。特に絵巻などは同じ場面だけを展示し続ければ色褪せの原因になります。本館では、お陰様で昨年度に全展示室の空調施設整備がなされ、温度・湿度の管理という面では大きな一歩となりましたが、一方でコロナ禍のための換気も必要となりました。そこで現在は、定期的に時間を区切って窓を開放することで換気を行っております。管理上、止むを得ない措置ですので、何卒ご理解をいただきたく存じます。その他にも博物館施設としての課題は山積しております。一つひとつ解決していかなければなりません。

最後に、図々しく宣伝をさせていただきます。昨年のパネル展「千葉氏Q&A」の際にも刊行し、皆様にご好評をいただきましたミニ『ブックレット』を、今回のパネル展においても刊行し、7月1日(水曜日)から本館にて販売をすることにいたしました。残す会期が2週間弱となった時点での刊行となってしまいましたが、会期終了後も継続して販売をいたしております(昨年度刊行『千葉氏Q&A』も販売中です)。既に本年度のパネル展をご覧いただいた方でも、是非とも再訪された際にお買い求めいただければ幸いです。その機会として、今後本館での開催を予定しております「ミニ展示」、「特別展」、「埋蔵文化財センター巡回展」等の日程を以下にお示しいたします。何れかの機会にご来館いただいた折に、併せて本ブックレット等の本館刊行資料をご購入いただけましたら幸いです。ただ、今後の感染症の状況等により会期変更もあり得ますので、折々にHP等でご確認をお願いいたします。

1 ミニ展示 「ちばの夏祭り・秋祭り」[1階展示コーナー]
・展示期間   7月15日(水曜日)~10月25日(日曜日)
2 ミニ企画展「(仮称)六方野のうつりかわり」[2階天文コーナー]
・展示期間  8月26日(水曜日)~10月25日(日曜日)
3 特 別 展 「軍都千葉と千葉空襲」[主会場:2階展示場]
・展示期間  10月27日(火曜日)~12月13日(日曜日)
4 「千葉市埋蔵文化財センター巡回展」[1階展示コーナー]
・展示期間  11月18日(水曜日)~11月29日(日曜日)

今回の『ブックレット 将門と忠常 -千葉氏のルーツを探るー』の内容ですが、パネルにある写真等の資料をすべて掲載しております。また、解説につきましては、文字数の制約上でパネルに盛り込めなかった内容も加筆してございます。製作経費の関係でカラーは表紙・裏表紙のみで、中身はモノクロ印刷となっております。サイズこそ「ミニ」でありますが、中身は「マックス」と自負するところであります。何よりも、お手元に置いて何時でもご活用いただけるメリットは大きいものと考えます。お値段もお求めやすい一冊ワンコイン(¥100)です。「山椒は小粒でピリリと辛い」的冊子として、是非多くの皆様がお手にされ、ご活用いただけることを祈念する次第でございます。

 

 花のある風景―「大賀蓮」と「日中友好の朝顔」―

7月3日(金曜日)

 「梅雨」の名称からも明らかなように、この頃は初春に可憐な花と芳香とで私たちを楽しませてくれた梅樹が、たわわに実をつける季節となります。その昔に中国より伝わったという梅は、「花よし、香よし、味よし」と三拍子揃った実にありがたい樹木です。本館敷地内にも1本の梅樹があります。昨年は豊作であったそうですが、本年はほとんど実をつけておりません。剪定した時期の問題なのか、俗に言う「裏年」に当たるのかはわかりません。何れにしましても、皆様のお宅では、これから梅漬・梅干・梅酒・梅ジャムづくり等々が盛んに行われましょう。それらも含めて、梅実はこの季節を代表する食品であり、当該季節の風物誌の一つと申せましょう。その他、本館周辺には紫陽花もたくさんあり、この季節には青紫の花が雨に一際鮮やかに映えております。その所為か、撮影をされる方をよく目にいたします。花の序で結構です。是非本館にもお立ち寄りください。さて、今回は本館の花事情について二つほど申し上げます。

 一つ目は、本館玄関下にある「大賀蓮」についてです。これは前館長さんの肝煎で、土づくりから丹精込めて植え付けたものと聞き及んでおります。本市が推進する「千葉市らしさ」を象徴する柱の一つである大賀蓮。その「見える化」に向け、本館でも玄関下左右に阿吽の仁王像のごとく設営し、来館される皆様を蓮の花でお迎えしようと2樽を用意されたとのことです。しかし、4月以降に発芽はしたものの、残念ながら一樽は直に枯れてしまいました。大賀蓮の育成は思うほど簡単ではないようです。水飲みにやってきたカラスが水面から顔を出した新芽を突いていたとの目撃情報がありますので、もしかしたらそれが原因かもしれません。もっとも、確証はありませんし、カラスにしてみればとんだ濡れ衣かもしれません。
それでも、残されたもう一樽は「千葉公園」綿打池から大幅に遅れはしたものの、今では小さな水面一杯に幾つもの丸葉を浮かべております。ただ、連日のように市内各所で薄桃色の花を楽しませてくれている大賀蓮でありますが、本館では未だ花芽は出ておりません。本年度中の開花を期待しておりますがどうでしょうか。今年度に花をつけなくとも、後任として今後に次年度の開花に向けて手を打ちたいと思っております。是非とも前館長の悲願を達成したいものです。 
因みに、前館長にお聞きしたところ、このプラスチック製円形樽は、素人が使うものとしては最大の漬物樽だそうです。決して見栄えは宜しいとは申せませんが、少なくとも円形であることには深い意味があるそうですので、皆様にもこっそり「秘伝(?)」の伝授をいたしましょう。それによれば、大賀蓮の育成には四角い水槽は不適切だそうです。何故ならば、小さな空間で伸びようとする蓮根が壁に突き当たってしまうと、そこで成長がストップしてしまうとのこと。その代わり、円形のそれであれば、蓮根は曲がりながら先へ先へと伸びていけるので、成長が継続する可能性が大きくなるということです。これまで失敗をされている方は、是非ともご参考の程を。

 「古代蓮」の異名をもつ大賀蓮につきましては、ここで改めて説明するまでもございますまい。昭和26(1951)年、大賀一郎博士が東京大学検見川厚生農場内の青泥底層から発見した2000年前の蓮実から発芽した「古代蓮」のことです。因みに、実際に実を発見したのは発掘を手伝っていた花園中学校在籍の女子生徒でした。翌年、見事に開花した蓮がその後に分根され、その子孫たちが今では国内外に広がって、この季節に美しい花を咲かせております。まさに千葉市が世界に誇る「花」であると言っても過言ではありません。なお、本館4階に関連展示がされておりますので併せてご覧ください。

 

続けて、二つ目の花の話題です。上記「大賀蓮」の両脇に置かれた2台のプランターに植え付けられた「朝顔」についてです。プランター近くにはその由来についての説明板が付されておりますが、これは、そんじょそこらの朝顔ではありません。千葉市に縁のある二人の人物と深い関わりのある「特別な朝顔」なのです。現状では未だ花芽がみえませんが、近いうちに、この方々が心から愛したという大輪の花を咲かせることと思われます。その二人こそ、愛新覚羅溥傑さんとその妻の浩さんに他なりません。開花の暁には、本館ツイッターに写真をアップいたしますので、それをご確認いただけましたら、是非とも本館に足をお運びください。夏の間は毎日のように花を咲かせることでしょう。ただ、朝顔の名前の通り、花を楽しめるのは午前中一杯だと思われます。お休みの日にちょっと早起きをされ、散歩の途中にでもお寄りください。本館の正面玄関下にありますので、開館前であっても、どなたでもご覧いただけます。ただ、できましたら序にご入館いただければ嬉しく存じます(午前9時開館・入場無料)。
最後になりますが、その際には、是非ともこの朝顔の由来(お二人と如何なる関係があるのか)をお知りになった上で御出でくださることが宜しいかと存じます。何故ならば、同じ花がまるで違った花としてご覧いただけるかと考えるからです。以下に、本館外山統括主任研究員の手になる解説文を原文のまま掲載させていただきます。簡にして要を得た説明に私は付け加えることは何もありません。ご一読されれば、可憐に咲く朝顔に込められた歴史に心打たれることと存じます。併せて、この数奇な歴史を辿った朝顔の花を通じて、歴史に翻弄されたお二人の生涯と、未来永劫にわたる日中両国民同士の友好とに、深く思いを寄せていただければ幸いです。そのことを切に願わずにはおられません。

 

 

 

『愛新覚羅溥傑・浩夫妻が愛した「日中友好のアサガオ」』

 愛新覚羅溥傑は、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝になった溥儀の弟です。昭和12(1937)年、溥傑は侯爵嵯峨実勝の娘の浩と結婚して稲毛で新婚生活を過ごし、天台にあった陸軍歩兵学校に通いました。その時に住んだ家が「千葉市ゆかりの家・いなげ」です。
 溥傑一家は、終戦によって別離と流浪の日々を送りましたが、昭和35(1960)年12月、溥傑は北京・北海公園で庭師として働くことになりました。浩は溥傑と暮らすため、北京へ旅立ちました。そのとき日本の思い出として携えていたのが、アサガオのタネでした。溥傑・浩夫妻が愛した、赤紫に白い縁どりの大輪のアサガオは、二人の願いを込めて「日中友好のアサガオ」と呼ばれています。
なお、このアサガオの種子は、溥傑・浩夫妻の資料を所蔵する関西学院大学図書館(兵庫県西宮市)から、昨年度の特別展「海と千葉-海とともに歩んだ歴史-」にちなんで寄贈されたものです。

 

 

 

 ミニ展示「ちばの夏祭り・秋祭り」
7月15日(水曜日)より[1階展示室]

7月10日(金曜日)

 千葉市内各学校におきましては、例年であればそろそろ夏季休業に入る頃ですが、今年度はコロナ禍への対応のため夏休みも短縮になります。中学校教育現場では、本来であればこれから総合体育大会や各種コンクール等が開催される頃ですが、こちらも全国総合体育大会中止を受け、連動して下部大会もすべて中止となりました(関東・千葉県・千葉市の総合体育大会)。部活動自体の再開ですら、4段階のステップを踏んで行うとの方針が、6月末に千葉市教育委員会から示された段階です。3年生にとっては入学以来取り組んできた活動(運動系・文科系の何れも)の成果を問う最後の晴れ舞台。例年、各会場では丁々発止の熱戦が繰り広げられます。上位大会に進むことのできた歓喜あふれる生徒(チーム)、力及ばず涙する子どもたち。悲喜交々すべてが青春の一駒として生徒の記憶の印画紙に焼き付けられます。これらがすべて雲散霧消となりました。かようなご時世で致し方がありませんが、子どもの気持ちを勘案するにつけ、居たたまれぬ思いに駆られるのは、保護者をはじめ、学校現場に関わる全ての者が共有するところでありましょう。しかし、これに挫けることなく、生徒諸君には希望をもって未来を切り拓いてほしいと願わずにおれません。

 さて、5月末の本館再開以来継続して参りました千葉氏パネル展『将門と忠常―千葉氏のルーツを探る―』も明後日で会期を終えることとなります。これまで、本展に足をお運びくださった皆様には心より御礼を申し上げます。ありがとうございました。次年度も、今回の内容を引き継ぐ形で「千葉氏パネル展」を継続する予定であります。是非とも次年度も楽しみにしていただければと存じます。そして、入れ替わるように、標記日程より新たなミニ展示「ちばの夏祭り・秋祭り」を本館1階展示場にて開催いたします(会期は10月25日まで)。特別展『軍都千葉と千葉空襲』開始(10月27日)まで続く長い展示となります。お時間を見計らって是非ともご来館をいただけましたら幸いです。

 「祭り」と聞けば、人それぞれの想いがございましょう。当方の個人的なそれは、自身が生まれ育った東京下町における秋祭りと分かち固く結びついております。9月半ばに毎年開催される村社「香取神社」の祭礼です。母親に手を引かれて山車を引いて町内を練り歩いたこと、少し大きくなってから「子ども神輿」を担いだこと等々、幼少時代の大切な記憶です。もっとも、子ども心に嬉しかったのは、山車や神輿の合間に子供たちに配られる菓子や飲み物でしたし、更に数倍する楽しみは、御多分に漏れず境内に居並ぶ露天商の存在でした。「杏飴」「薄荷パイプ」「鼈甲飴」といった食物から、「吹き矢」「型抜き」「輪投げ」「射的」「ヨーヨー釣り」といったゲーム性の強いもの、「金魚すくい」「カラーひよこ」「ミドリガメ」(あの愛らしい亀が大きくなるとアカミミガメとなり、50年も後になって緊急対策外来種に指定されようとは知るも由もありませんでした)といった生物の販売をする店等が所狭しと軒を連ねておりました。
いつもは蝉取りに出かける伽藍とした境内が一変し、色とりどりの屋台が櫛比する非日常的異空間に様変わりするのです。それに魅了されない子どもなどおりますまい。灯点し頃ともなれば境内の様相はまるで万華鏡を覗いたようでした。それでも、今の電球とは異なりアセチレンランプの灯火は力強いものではなく、微かに揺らめく炎が境内の陰影を際立たせました。そのような、そぞろ歩く一足ごとにうつろう色彩の饗宴に、子供心にも陶然といたしました。昨今は小型発電機の稼働音に覆われて耳にすることが叶わなくなった風のかそけき音すら感じられたように覚えています。さんざめく雑踏と御囃子連による笛・太鼓・鉦の混然一体となった音世界。醤油やソースの焼ける芳香とアセチレンの燃える独特な匂い。こうした雑多で猥雑な要素の全てが「祭り」の世界を混然一体となって形成していたのだと思います。今でも、その頃の湧きたつ気持ちとともに、私の瞼・鼻孔・耳朶にしっかりと焼き付いております。そして、そんな一年に一度の「ハレの日」が待ち遠しく、指折り数えたことも懐かしく想い出します。
因みに、職場の同世代の同僚に聞くと、稲毛浅間神社では「桃売り」「風鈴売り」「バナナのたたき売り」が、姫路の農村では「お化け屋敷」等の見世物小屋が出ていたりするなど、東京下町では見たことも聞いたこともないものも多いことを知り、改めて地域性が強いことを実感しました。今でも、我が家は香取神社の氏子ではありますが、町内会の一員として祭りの運営に若干携わるくらいで、あまり熱心に関わっていないのが現実です。万事派手で、賑やかなばかりの昨今の祭りの在り方に飽き足らない思いがするからかもしれません。

長々と私自身のことを述べ失礼をいたしました。それはさて置き、皆様は「祭」と言う言葉から如何なることを思い浮かべましょうか。おそらく、多くの方にとっては、私が上に述べたことと大同小異ではないかと推察いたします。しかし、一口に「祭り」といっても、昨今は様々な様相が混在しております。夏の盆踊りも「祭り」として認識されていることが多いようですし(本来は先祖供養のための仏教行事を由来とし、時衆の踊念仏とも無関係ではありません)、「親子三代夏祭り」のようなフェスティヴァル化した市民イベントにも「祭り」という言葉が付されます。勿論、これらも「祭り」の一形態には違いありませんが、今回のミニ展示では、市内を代表する5つの神社において年に一度大々的に開催される「祭礼(例大祭)」(千葉神社・寒川神社・登渡神社・検見川神社・稲毛浅間神社)、及び、七年に一度9つの神社が関係しあって執り行われる特殊な形態の祭礼(「三山の七年祭り」)を取り上げご紹介いたします。

 ところで、「まつる」という和語には、「祭る」以外にも「祀る」「奉る」といった複数の漢字が当てられます。更に、政治を「政(まつりごと)」と称するように、「まつり」という言葉自体には様々な要素が包含されております。そもそも「まつる」という言葉も「まつろう」の転訛とされております。これは「御側にいる」という意味だそうで、「ご様子を伺い、何でも仰せごとがあれば皆承り、思し召しのままに勤仕しようという態度に他ならぬ」とのことです(『日本の祭』柳田国男)。古来、神を「祀る」ために、宮司や氏子がその傍らで慎ましやかに神を「奉る」行為が「祭り」であって、俗に言う「お祭り騒ぎ」が「祭り」の全てではないことはおさえておく必要がありましょう。逆に言えば、現在盛大に挙行される「祭り」における活気あふれる祝祭風景や、居並ぶ露天商の賑わいに覆い隠されてしまい勝ちな、「厳粛な神事としてのまつり」の姿や意味をもお知り頂けましたら幸いです。また、なぜ夏に祭りが行われるのか、なぜ秋なのか等、行われる時節による「祭り」の意味や、祭りの行われる場の違いにも注目していただけると、昨今の世情と併せてご納得いただけることがあるかもしれません。

本ミニ展示では、それぞれの祭礼の解説にあわせ、大正から戦後にかけての古い写真や、祭礼装束なども展示いたします。装束を身に纏うマネキンの容貌・肢体が純然たる洋風にて、その違和感たるや如何ともし難いものですが、そこは「祭り」に免じての「ご愛敬」とご寛恕くださいますよう願います(因みに当人形は千葉県立佐倉東高等学校のご厚意により拝借しております)。祭りの今昔を比較すれば、同神社の祭礼であっても、数十年で少なくとも表層としての在り様は随分と変化していることにもお気づきいただけましょう。昔から変わらずに続いていると思われ勝ちな祭礼も、その相貌は時代の移り変わりとともに刻々と変わっているのです。
また、会場では御囃子の音源も流し、少しでもお祭り気分を盛り上げようと目論んでおります。また、講座室を会場に「三山の七年祭り」記録映像の上映を行います(上映曜日・時間・注意事項等は以下をご参照ください)。本展示が千葉市内で行われる祭礼の諸相をご理解いただく契機となれば幸いに存じます。

 

 

「三山の七年祭り」記録映像の上映(約90分)

 

(昭和50年 千葉市教育委員会製作)
 〇水曜日(10時30分~12時00分) 〇土曜日(13時30分~15時00分) 
 〇日曜日(10時30分~12時00分) 〇祝祭日(13時30分~15時00分)
※感染症予防のため1回上映につき12名を定員とします。
※当日は定員となり次第締め切らせていただきます。定員をこえた入場は一切お断りいたします(事前予約は承りません)。
※講座室利用の関係で、水・土・日曜日、祝祭日でも上映できないことがございます。当館HP等でご確認のうえ来館くださいますようお願い申し上げます。
 

 

 

 

 

 「土用の丑」に思う-鰻食文化と自然環境のこと-(前)

7月16日(木曜日)

 今年は例年になく本格的な梅雨となりましたが、特に九州地方をはじめとする各地で線状降水帯の発生による記録的集中豪雨がもたらされたことを忘れることができません。「50年に一度」「100年に一度」「経験したこともないような」と形容されるような集中豪雨がほぼ毎年のように発生しているような気もいたします。これも地球温暖化の為せる業なのでしょうか。これからは、猛暑の続く毎日がやって参ります。コロナ対策と並行しながら乗り越えなければならない時節です。今夏はいつも以上にしんどい夏になりそうです。

さて、ここ数年、毎年最高気温が更新されるような猛暑続きでありますが、これを如何に乗り越えるかに、日本人は古来様々な工夫を凝らして参りました。屋内の建具を風通しの良いものに入れ替えたり、夕刻に打ち水をするのは直接的な暑さ対策のひとつでありましょう。しかし、我が国では別に、視覚や聴覚に訴えて涼味を感じとろうとする独自の手法も存在します。軒先で涼しげな姿を見せる「釣忍」や、かそけき響きで涼味を喚起する風鈴も外すわけには参りますまい。ガラス製の粋な江戸風鈴も結構ですが、極めつけは播磨国姫路の地でつくられている伝統工芸「明珍火箸」でありましょう。その透明な金属の響きは「涼味を届ける」という一点において群を抜いております。なかなかのお値段で未だに入手が叶いませんが、個人的には伝統の甲冑・刀剣づくりの技法を転用した逸品を身近で耳にしたいと願っております。また、食の世界では、西瓜・かき氷・素麺等の冷たくさっぱりした食物や、熱くこってりとした食品で精を付けて暑さを乗り越える食習慣もあります。後者の代表選手こそが「鰻」ではないでしょうか。暑さの盛りとされる「土用丑」に挙って鰻を食するのは、もはや本邦における夏の歳時記ともなっておりましょう。今夏の土用丑は来週火曜日(7月21日)と8月2日(日曜日)の2日となります。両日は日本国中で鰻が飛ぶように販売され、日本人の胃袋を満たすことになりましょう。
もっとも、本来の鰻の旬は秋から冬にかけて産卵のために川を降る時期にあり、土用の鰻は決して最上とされません。味が落ちて需要の落ち込むこの時季の販売戦略として考案されたのが「土用丑」であり、その発案者は江戸後期のマルチタレント平賀源内だと言われております。私自身も鰻の蒲焼きは大好物ですし、最高のご馳走でもあります。我が家でも尻馬に乗って、恐らくは山の神がスーパーマーケットで購入した安価な鰻を食することになりましょうが、ここのところ若干の後ろめたい思いとともに口にしているのが実際です。

今回は、この鰻の話題をとりあげます。おそらく「何故、郷土博物館で生物の話?」「何故、食の話題?」等、この段階で皆様には「?」マークがいくつも浮かんでおられることと推察致します。最初にその点についてご説明いたします。本館の名称は「千葉市立郷土博物館」であり、もとより「歴史・民俗」の調査・研究・展示を活動の中核としております。しかし、一方「歴史博物館」を標榜しているわけでもありません。歴史・民俗を形成するもの、背景となるもの、それはそれぞれの地域における自然環境に他なりません。地域ごとに異なる自然条件に、それぞれ地域の歴史・民俗が大きく規定されているのです。もっとも、本館には自然誌系を専門とする職員はおりません。従って、現状で生物・地学等を中核とした特別展示を行うことは難しかろうと思われます。しかし、千葉市域は東京湾に面しており、縄文の昔から、この地に居住する人々は、海と深く関わって日々の生活を営んできました。当然、生業としてだけではなく、日々の糧の多くも海に依存してきたのです。それは国内随一の分布数を誇る貝塚の存在に明らかでありましょう。つまり、歴史・民俗の追及のためには、常に自然環境に意を用いること、視野に入れておくことが不可欠なのです。まして、「食」はそれぞれの地域における文化の在り方を強く反映しております。人気テレビ番組「秘密のケンミンSHOW」を見れば、狭い日本国内によくここまでと思うほどに、各地に多様な食文化が根付いていることを知ることができます。昨年度の本館特別展も『海と千葉―海とともに歩んだ歴史―』も、そのことに意を用いた内容でありました。
従って、今回ここで「鰻」と「自然環境」ついて話題に取り上げることも、決して本館の活動からして的外れなことではありません。皆様、ご納得いただけたでしょうか。これまたテレビ番組由来で恐縮ですが、皆様には「ガッテン!ガッテン!」と力強くスイッチを押していただけたと信じたいところでありますが如何でしょうか。

こうした食文化を軸とした極めて優れた特別展示が、3月から5月にかけて佐倉の「国立歴史民俗博物館」で開催される筈でしたが、コロナ禍により館の閉館を余儀なくされ、残念ながら一度の公開を見ることもなく中止となってしまいました。特別展の名称は『昆布とミヨク ―潮香るくらしの日韓比較文化誌―』。「ミヨク」とは韓国語で「わかめ」のことです。古来、日本列島と朝鮮半島に居住する者は、広く海藻を食材として利用する世界でも稀な人々です。また、「昆布」「わかめ」は両国で、それぞれ様々な儀礼や贈答においても重要な役割を果たしております。我々のような地域博物館で扱う内容を超え、更に国家を越えて世界の観点から対象をとらえようとした、正に国立博物館ならではのスケールの大きな「国際企画展」でありました。実際に、同展は「韓国国立民俗博物館」との共同研究の賜物であり、歴博の前には、韓国でも展示が行われ大変に好評を博したと聞いております。
内容は、隣国である韓国と我が国の文化について、海産物の利用、漁撈技術、漁民の信仰といった海を巡る生活文化を比較することで考えようとするものであり、多くの発見に満ちたものです。そして、日本国内においても、こうした食を扱った特別展として、その極北に位置する展示会になるはずでありました。
やむを得ない仕儀ではありますが、3年にもわたって調査研究と準備を重ね、会場展示すらすべて完了していたのにも関わらずの中止決定。館職員の皆さんの無念は如何ばかりかと推察するところであります。ただ、素晴らしい「展示図録」が出来上がっていることが僥倖でありました。300頁にもなりなんとする冊子の内容は、掛け値なしに深く豊穣なものであります。読み物としての充実という点においても瞠目すべきものだと存じます。図録は、歴史民俗博物館にて販売されております。一般図書と異なり博物館刊行展示図録は部数も限られ、よほどのことがないかぎり重版もいたしません。ご興味のある方は是非とも品切れにならないうちにお求めになられることをお薦めいたします(¥2.200+税)。
(続く)

 

 

 「土用の丑」に思う-鰻食文化と自然環境のこと-(中)

7月17日(金曜日)

 さて、今回の中編でようやく肝心要の「鰻」の話題となります。私たちが古来食してきた鰻は正式には「二ホンウナギ」と言い、広く東アジアに生息している種となります。皆さんも先刻御承知と存じますが、21世紀にもなっても鰻の生態については未だ分からないことだらけです。それはニホンウナギに限らず、大西洋周辺に生息するヨーロッパウナギやアメリカウナギでも同様です。ここ数十年間に分かって来たことは、川を遡ることなく、同目のアナゴと同様に一生を内湾等の海で暮らす個体が相当数存在していること(「海ウナギ」)。海ウナギであれ、我々のよく知る淡水域(河川・湖沼)を生息域とする個体であれ、産卵は日本から遙か2000kmに及ぶ旅の末に深海でおこなわれていることであります。産卵域もほぼ特定されています。ニホンウナギは太平洋マリアナ西方海域、ヨーロッパ・アメリカウナギは大西洋サルガッソー海とのことです(ただ当該海域で実際に産卵行動を行う鰻の目撃記録は未だありません)。孵化後に、柳の葉のようなレプトセファルスとなって海流に乗って大陸に近づき、さらに姿を変えて稚魚(シラスウナギ)の状態になって接岸します。そして、内湾の沿岸部等に居つくものと、川を遡って淡水域で生活するものとに分かれていくことになるのだと思われます。
そのシラスウナギの漁獲量が、毎年のように最低ラインを更新し続けていることは多くの報道でご存知のことと思います。具体的な数値は後述しますが、その激減ぶりは驚くほどであります。今年は昨年より持ち直して過去最低の更新を免れましたが、それでも最盛期とは月と鼈であり、依然として危機的な状況であることに変わりはありません。経済の基本のキでありますが、受給のバランスから取引価格は今や貴金属と比肩するほどです。でも、養殖で鰻を育てているではないかとの声が聞こえてきそうです。確かに、天然鰻の蒲焼きに出会える確率は皆無に近く、有名店で食する鰻でもほぼ100%が養殖鰻であります。しかし、そこには大きな問題があります。何故ならば、現状における養鰻は、卵から成魚までを一貫した「完全養殖」ではないからです。
実のところ、「完全養殖」は、ようやく実現段階に到達はしているのです。ただ、後に触れるように未だ採算度外視のレベルです。従って、現状では、海で孵化した天然鰻の稚魚が、沿岸部に近づいたシラスウナギの段階で捕獲したものを養殖池に「池入れ」して成魚に育てます。いわば「不完全養殖」とも言うべき状態が、かろうじて日本の鰻食を成立させているのです。
ます、完全養殖成立には雌に卵を持たせることが肝心ですが、過密な養殖池で育てた鰻の9割以上は雄となってしまい雌の確保が難しいのです(自然環境では当然の如く雄雌比率は半々です)。卵を持たせるにも高額な特別なホルモン剤を投与しなければならないそうです。しかも、辛うじて孵った幼魚が何を餌としているのかも分からない。試行錯誤の結果、深海鮫の卵を食することが分かったそうですが、自然環境でかような餌を食するわけはありません(皮肉なことにこの深海鮫も絶滅危惧種です)。水が少しでも汚れると死滅するし、途轍もない時間と労力と資金を投じた末に成魚になったのは極々僅かというのが、新聞報道「鰻の完全養殖成功」の実態とのことです。恐らく1匹数十万円で販売しても原価割れでしょう。つまり、ただでさえ個体数が減少し、絶滅が危惧される天然鰻の存在により、かろうじて我々の鰻食文化が維持されているという極めてお寒い現実があります。

シラスウナギの2020漁期(2019年12月~2020年4月:ただ今年度は規定量に達した3月末で打ち切り)での国内採捕量は17トンとなり、史上最低となった昨年度の4.6倍と若干持ち直しました。以下は、過去最低であった昨年度の数値をもとにお話しを進めます。2019漁期では国内養殖場への池入れ稚魚は15.2トンにすぎません。その内訳は、国内採捕が史上最低の3.7トンであり(これは最盛期の1%にも満たないそうですから、幾ら今年度4.6倍となったといっても喜べる現状ではありません)、池入れ総量との差額11.5トンは中国等からの輸入シラスウナギで賄われておりました。以下、国内採捕と輸入に分けて、その現状を見てみましょう。
まず、国内シラスウナギの採捕量については都道府県への申告が必要ですが、2019漁期3.7トン中で申告済は2.2トンのみ。残りの1.5トンは出所不明となっています。様々な要因が想定できましょうが、透けてくるのは密漁という闇ビジネスの存在です。毎年シラスウナギ漁の時季になると、密漁による検挙の報道を目にしますが、彼らが犯罪を承知で密漁に手を染める背景には、鰻ビジネスによる巨額の利益があるからに他なりません。激減して値段の高騰している現状が更に密漁に拍車をかけているのでしょう。
次に、輸入シラスウナギについてです。昨年7月26日新聞報道は驚くべき現状を明らかにしております。それによれば、同年に中国等アジア諸国へのヨーロッパウナギのシラスウナギ密輸が摘発され、稚魚1,500万匹が押収されたとのことです。その量たるやヨーロッパウナギの稚魚総数の2割にも及ぶと推定されるそうです。しかも、その闇ビジネス総額は日本円換算で3,600億円規模に及ぶとのこと。しかも、標記の11.5トンの多くが、それら諸国を介して日本に持ち込まれた可能性が高いようです。
つまりは、日本近海からのシラスウナギ激減が国内での密漁を助長し、それがヨーロッパ・アメリカウナギ稚魚の密輸にまで拡大している図式が描き出されましょう。価格は高騰しているとは言え、依然として日本市場に比較的安価な鰻が出回っていることと、密漁によるヨーロッパ・アメリカでの鰻個体数激減との因果関係にも思いを致すべきでありましょう。当然、欧米ではウナギは絶滅危惧種に指定。捕獲は厳しく制限されているうえ、ワシントン条約により国際取引にも厳しい規制が掛けられております。しかし、世界最大のウナギ市場である日本との取引が莫大な利益を生み出すのですから、あの手この手で売り込んでくることでしょう。何といっても、世界で捕獲される鰻の約7割は日本人が消費していることを我々は知っておくべきでしょう。だからこそ、密漁と密輸は後を絶たないのです。少なくとも、我々が無意識のうちにであれ、鰻絶滅への片棒を担いでいることは認識すべきです。

その意味で、世界最大の鰻消費国「日本」が鰻資源保護に如何なる対策を採っているのかが問われるのであり、それが国際社会で果たすべき日本の責務であることは間違いありません。しかし、その実情はお寒いもののようです。そもそも、鰻の生態研究や養殖研究に割かれている公的な予算措置は極々僅かであり、それぞれの研究団体の自助努力によって支えられているのが現実と聞き及びます。 (続く)

 

 

 「土用の丑」に思う-鰻食文化と自然環境のこと-(後)

7月18日(土曜日)

 「鰻」の後編。前・中編をお読みいただければご理解いただけたことと存じますが、少なくとも現状においては、日本における鰻食文化の維持のために、何よりも優先されるべきは、天然鰻の保護だと思われます。そのために行うべきことは、鰻が自然環境で生命活動を維持でき、子孫を残すことを可能とする生息環境を確保することであることは言うまでもありません。

最終回は、そのことに尽力される研究者の方の取り組みをご紹介いたします。私自身とも個人的にお付き合いのある神奈川県水産技術センターの工藤孝浩主任研究員です。因みに、工藤孝浩さんは、東京湾をフィールドとする自らの研究活動を活かし、TOKIO出演のTV番組「The!鉄腕!DASH!!」における「DASH海岸」(工業地帯の中に古の東京湾の再生を目指すそうとする人気コーナー)をはじめとして、数多くのTV番組の企画等にも携われてもおられます。著名なタレント「さかなクン」が師匠として慕われる方でもありますし、私が在職した中学校2校での周年行事に講師としておいで頂き、生徒向けの記念講演をいただいたこともあります。
工藤さんの調査研究資料(全日本持続的養鰻機構・日鰻連総会報告記録)によると、河川における鰻の生態調査から鰻成魚の通常の生活圏は極めて限られた範囲であることが判明したそうです。従って生態系の頂点に立つ鰻がその狭い範囲で成育できる前提として、豊富な食物環境(水生昆虫や蝦・蟹や小魚)が必要にも関わらず、鰻自体と多様な生物が成育できる河川環境が破壊されていること(コンクリート護岸の存在)。鰻の河川遡上を阻む河口堰等の人工構築物が設置されていること等が、鰻の個体数激減の要因となっていることを指摘されています。水害防止のためにコンクリート護岸は必要であっても、その内側に植物・動物の成育できる余地を確保すること。河川に鰻が遡上できる魚道を設置することで、鰻の生息環境はより向上するのです。ある意味で、コンクリート護岸設置だけではない新たな公共事業となりえましょう。しかも、これは自然を破壊する公共事業ではなく、人間の必要を実現しつつ自然環境再生との両立を可能とする公共事業に他なりません。
さらに、未だ仮説の段階であるようですが、工藤さんから直接に伺ったお話によれば、「海ウナギ」の生息環境として想定されるのが内湾部に存在する「干潟」であり、戦後の大規模な内湾の埋め立てによる干潟環境の消滅が鰻個体数の激減の大きな原因ではないかとお考えです。確かに「江戸前」という言葉は、現在でこそ寿司ネタで用いられておりますが、元来は江戸の前海や浅草あたりまでの大川(隅田川)で採れた「良質の鰻」を由来とする言葉です。つまり、都市江戸の眼前に広がる遠浅の干潟環境こそが鰻の格好の生息環境であることを、計らずも示す言葉だったのです。千葉の縄文人の生命活動を支えたのが「千葉前(!?)」の干潟で採取される魚介類であったように。干潟は多様な生物の「揺り籠」であると同時に、人間にとっても生命維持の根幹として機能していたのです。同時に、そこに暮らす生物等の生命活動が海水の浄化作用をも担っていました。
また、浅瀬の干潟に広範に繁茂していた海草群(アマモ場)こそ、多くの魚類の産卵場であり、また鰻に限らず多くの魚介類の生育の場でありました(鰻の餌場でもありしょう)。いま、埋め立ての影響で、東京湾の広大な干潟(浅瀬)が消失し、遠浅の海を埋め立てたその先の海岸線から、すぐに深い海となってしまっています。こうした深い海には海草は生育できませんし、従って海水の浄化作用も働きません。以前、ラジオで「今日の東京湾は美しい青色でまるで南の海のようです!」とのアナウンスを耳にしたことがありますが、それは生物の生命維持にとって厳しい貧酸素水塊が沿岸に押し寄せている状況だと推察されます。いわゆる「青潮」という現象であり、干潟に生息し直ぐに移動のできない貝類等にとっては、生命活動を停止に追い込む恐ろしい海水なのです。決して「綺麗!!」などと呑気に喜んでいる状況ではありません。確かに東京湾の水質は一時と比較して改善され、生き物が戻ってきたと評されます。しかし、少し水深が深くなるだけで、そこには貧酸素水塊が広がり、そこには生物は生息できていないのです。それを改善するには、浅瀬である干潟が必要なのです。つまり、天然鰻の再生とは、河川であれ海であれ、多様な生物の生息環境の在り方を再生することにあるのです。これこそが、「海とともに歩んできた」日本人の担うべきことでありましょう。私は、その意味において、千葉市の臨海部にある埋め立て地の先に少しでも干潟環境を再生できないものかと夢見ることがあります。
余談ではありますが、東京湾にはかつて「アオギス」という魚がおり、千葉県内では、警戒心の強いアオギスを釣るための脚立が、浅瀬に立ち並ぶ光景は初夏を彩る風物詩でもありました。しかし、彼らは埋め立ての進行とともに生育圏を狭め、ついに東京湾内では絶滅しました。残念ながら昭和51(1976)年に稲毛海岸で捕獲された個体が東京湾内での最後の記録となっています。このことをもっとお知りになりたい方は、浦安市郷土博物館の開館記念特別展『アオギスのいた海』図録(2002年)を是非ともご覧ください(現在購入可能:税込¥1.000)。

そうした東京湾の再生のために、工藤さんは仕事の合間を使って自ら市民活動にも取り組んでおられます。金沢八景を中心にした「アマモ場再生計画」です。「DASH海岸」でも見られるとおり、海の再生にむけて何らかの取り組みをすれば、必ず生き物は戻ってきます。金沢八景でも、多くの魚介類が、再生されたアマモ場で産卵し成育していることが確認されました。他にも、定期的な海の清掃活動も推進されております。人と海の生物との共存のために、失われた海の環境を再生することは、「市民」としての我々が子孫のために行うべきこと……との信念の下で活動をされている姿に頭が下がりますし、是非とも見習いたいものだと思っております(自身は手を染めずに第三者にやるように訴えるだけの方なら掃いて捨てるほどいらっしゃいます)。同時に、「豊穣の海:東京湾」という素晴らしき自然環境をテリトリーとする千葉市内博物館に奉職する者として、「海」という自然環境と千葉の歴史・民俗との密接な連関を常に意識しながら博物館活動をして参らねば……との決意を新たにするところです。今回話取り上げた「ニホンウナギ」は、飽くまでも一例ではありますが、重大な象徴性を帯びた存在ではないかと思うのです。

最後になりますが、最後の晩餐のメニューに「鰻重」を挙げる日本人が多いそうです。庶民としてのささやかな夢が何時までも叶えられるために、我々日本人に課せられた責務は極めて重いことを皆様と共有できたらと願っております。誤解の無いように申し添えておきますが、決して土用の丑に鰻を食べないようにしよう……とのキャンペーンではありません。こんなに美味なる食材を是非とも召し上がってください。ただ、上記のことに無自覚であって頂きたくないとの思いで、あえて3回にもわたって長々書き連ねさせていただきました。不愉快の段これあれば、何卒ご容赦の程をお願い申しあげる次第でございます。

 

 

 特別展『軍都千葉と千葉空襲』にむけて
―博物館業務の中での特別展準備について―

7月24日(金曜日)

 今年の梅雨は久方ぶりの本格派のようで、未だ「梅雨あけ宣言」がなされておりません。今週末かとも取り沙汰されておりますが如何でしょうか。もっとも、何年か前、気象庁も明確な梅雨明けを認めることができないとのことで宣言が出されず、何となく有耶無耶になったこともあったように記憶しております。こればかりは、自然相手ですから人知の及ばぬことがあるのは当然でしょうが、何とも言えないもやもや感が残ったことを思い出します。

さて、今年度の本館特別展『軍都千葉と千葉空襲』開催まで残すところ3か月となり、本館内では準備が正に佳境に入らんとしております。因みに、特別展とは「特別企画展」の略称です。多くの博物館では、年間を通しての基本展示である「常設展示」がございますが、別に年に数回、期間を区切ってテーマを定めて行う「企画展」を開催しております。今年度の本館で言えば、先々週までの「千葉氏パネル展」、現在開催中「ちばの夏祭り・秋祭り」、そして8月26日(水曜日)からの「野のうつりかわり ―六方野の場合―」がそれにあたります。
そうした企画展の中で、最も規模の大きな企画展を「特別企画展」と位置づけ、大々的な展示会とするのも、何処の博物館においても一般的なことかと存じます。本館で申せば、昨年度であれば『海と千葉―海とともに歩んだ歴史』が、今年度は10月27日(火曜日)から開催の『軍都千葉と千葉空襲』が、それぞれ特別展にあたります。多くの博物館では、年1~2回の頻度で特別展を開催しております。本館では、これまで年1回開催を基本としておりましたが、次年度「市制施行100周年」、令和8年度「千葉開府900年」といったアニヴァーサリーイヤーを契機に、次年度から特別展を年2回開催とすることを目論んでいるところであります。また、特別展・企画展の他に、何かの機会をとらえて、一寸した「ミニ展示」コーナーを設けることもあります。現在本館で展示中の『愛新覚羅溥傑と浩夫妻の愛したアサガオ』は正にそれです。本館玄関下で当該アサガオが開花したことに因んだミニ展示となります。今回は、「特別展」が如何なる経緯を踏んで開催にまで漕ぎつけるのか、極々一般的なお話をさせていただきます。何卒お付き合いのほどお願いいたします。

「特別展」にせよ「企画展」にせよ、まず重要なことは何を展示テーマとするかです。特に「特別展」は館の存在意義を計る規模の大きな展示となりますので、その検討には慎重さ、かつ大胆さが求められます。過去10年程を遡り、本館及び近隣博物館で開催の特別展のテーマと重複せず(切り口が変われば問題はありません)、歴史関係であれば特定の時代に偏らず(例えば中世の特別展ばかり)、更には開催時における必然性・適時性等々も勘案し(例えばオリパラ開催、市制施行100周年、コロナ禍関連等々)、加えて皆さんがテーマを見ただけで出かけてみようと思ってもらえる魅力的なテーマとすることにも意を用います。そして、特別展開催年度の2~3年前にはテーマが確定し準備に取り掛かれることが理想です。

テーマが固まったら担当者を決めます。可能な限り担当者の専門性と適合性のある職員を充てることが望ましいのですが必ずしもそうはいきません。何故ならば、市町村立の博物館では、そもそも職員数が限られているからです。可能であれば、歴史だけでも「原始・古代・中世・近世・近現代」の5名の専門家がいることが望ましいですし、その他「考古・民俗・自然・天文」等々、守備範囲毎の専門職員(学芸員)が配置されるのが理想です。しかし、国立・都道府県立の博物館ではいざしらず(1館で50名以上の学芸員を擁していることも珍しくありません)。市町村レベルの博物館の多くは、その10分の1程度の人員での運営が実際と推察いたします。従って、専門外の分野であろうと担当をせざるをえないのが実情です。必然的に一人ひとりのカバーする範囲は広くなります。
しかし、そのことは決してマイナスには働きません。自ら取り組んできた専門分野における方法論を活かして、専門外の新たな知見を広げていくことができる点で、職員としても大いに刺激的なことであり、こうした規模の博物館に勤務する醍醐味ともなりうるのです。専門外分野の探究が自らの専門分野にフィードバックされることすら稀ではありません。
勿論、職員の向くべき方向は市民の皆様、博物館を利用されている方々でありますから、自分自身の楽しみの追及が目的でないことは論を待ちません。しかし、担当者が嫌々準備した展示が、見ている方にワクワク感をもたらすことはありますまい。学校の授業と同じで、教師が関心を持っていない分野の授業は生徒に即座に伝わります。兎にも角にも、展示テーマについての愛情を感じ、自らも嬉々として準備を進めることが何よりも重要だと思います。

特別展の担当となった者は、その後、対象について事前に研究を進める必要があります。特に自らの専門分野でないのであれば猶更です。自らが、展示対象について理解を深めていかねば、他者に伝えることのできる展示とはなりえません。併せて、市民の皆様に何を、どのような構成で伝えるかを考えます(物語性・展示構成等々のグランドデザイン)。最終的に論文を一本書けるほどに内容を深めることが理想です。そこまで漕ぎつければ、担当者自身の中では展覧会の半分は終わったのも同然。全容を明確に思い描けているはずです。
残りの半分。それは、そのストーリーを理解していただくための展示物の選定と実際の展示の方法となります。できる限り具体的な内容を語る実物展示を用意することが重要となります。「目玉」という言葉は博物館として好ましいとは言えませんが、観覧者が「これを目にできてよかった」といっていただけるような価値ある展示物を用意したいところであります。それが自館所蔵品であれば簡単ですが、そうとは限りません。そのため、こちらの希望する所蔵品をお持ちの他博物館や個人に出品交渉を行う必要があります。この交渉及び物品の輸送等にもなかなかに神経をつかいます。

同時並行で、『特別展図録』の編集作業も行います。特別展が終了すれば展示内容は消えてしまいます。しかし、図録さえあれば、展示内容を後世に残すことができ、何時でも確認をとることもできます。その意味でも、図録の作成には極めて大きな意義があります。従って、図録の編集作業にも相当な熱量を使う必要があります。最近、素晴らしい特別展示であっても、残念なことに図録を刊行しない博物館もあります。その理由として耳にするのが、当該予算が確保できないことと、展示準備と図録編集作業との両立が難しいことです。特に職員数の少ない小規模の博物館ではこうした傾向が強いと思われます。併せて、会期の2か月ほど前からは、ポスター・チラシによる広報活動も欠かすことはできません。

そして、担当者は青息吐息で、どうにかこうにか開館の日を迎えるということになります。当たり前のことですが、その日までに全てが揃うようにスケジュール管理しなければなりません。私も仕事柄、多くの博物館での特別展を拝見させていただく機会がありますが、同業者として担当者の苦労が偲ばれることが多々あります。何気なくご覧いただいている特別展ではありますが、大きくとらえても、かような流れがあります。

ただし、以上述べたことは「かくあるべし」との理想論であります。実際には(特に規模の小さな市町村立博物館では)、なかなかその通りにはいかないのが現実でもあります。職員数が少ないことは、必然的に幾つもの特別展・企画展を特定の人間が重ねて担うことを意味します。従って、2~3年後に開催予定の特別展準備にその時点から取り掛かることは実質的には難しい状況にあります。それよりも、目の前の企画展・ミニ展示・特別展の開催準備が優先となるからです。悲しいかな、いわゆる自転車操業状態となることは市町村博物館の実情でもあります。研究体制の充実は、まず人員の手当てであろうかと思いますが、今日日何れの地方公共団体も財政的余裕のある状況にはありません。しかし、我々としては、弱音を吐いている場合ではありません。そうした状況下であっても、少しでも価値ある特別展を開催できるよう工夫を重ねて参る所存でおります。

最後にもう一度申し上げますが、令和2年度特別展『軍都千葉と千葉空襲』まで残り3か月。それまでに、ご来館の皆様に新たな知見や発見をもたらすことのできる展示となりますよう、最後まで精一杯準備を進めて参る所存です。今回は、言わずもがなの特別展準備の裏側についてご紹介をさせていただきました。

 

 

 博物館の役割:エデュケーターの活動について
幕張小「総合的な学習の時間」にて青木昆陽の授業を!

 7月31日(金曜日)

 明日より8月の声を聴こうというのに、未だに「梅雨明け宣言」が発表されずにおります。週間予報を見てもお天道様の図柄にとんと巡り合うことができません。それでも、当館周辺の木々ではニイニイゼミが甲高い聲で盛んに鳴き交わしておりますし、雨のやんだ束の間にはアブラゼミ・ミンミンゼミの聲も混じるようになりました。主役の入れ替わりも間近でありましょう。温暖化にともない、昨今は西国を領分としていたクマゼミ軍団が関東へと進出し始めております。「シャシャシャ」とのけたたましい鳴き聲の蝉であり、聞いていると暑さがいや増しになる気がいたします。そして、ツクツクボウシに主が移ろう頃ともなれば「夏休み」ももうじき終わり。そのころになると、夜になればコオロギ等の秋蟲たちの聲も耳に入りましょう。季節は確実に推移します。子供時分には、これらの聲を耳にすると、漠然とした寂しさにとらわれたことを思い出します。蝉で言えば、お日様が傾いたころから物悲しく泣き始めるヒグラシの聲こそ風流の極みですが、私の居住する東京下町でも、千葉の中心街でも耳にすることは叶いません。他の蝉とは異なり街場では生育が難しいのかもしれません。

さて、今回は、博物館の重要な機能の一つである「教育普及活動」について、「エデュケーター」の活躍と関わらせながらご紹介をいたします。本館のホームページの中に、「博物館の使命」というコンテンツが極々控えめに存在しております。皆様にとっては、積極的に開いてみようとの思いを起こさせないコンテンツかと存じますが、一度で結構ですのでご覧いただけましたら幸いです。ここに記されていることこそ、我々が本館として目指し、かつその実現に向けて尽力すべき在り方であり、我々にとってはまさに「バイブル」とも称すべき内容に他なりません。その中には、いくつもの項目がございますが、その中の一つに以下のことが謳われております。

 

学校教育と強固な連携関係にある博物館

次代を担う子どもたちへの郷土史への理解を深めるために、館内学習
 機能の充実と出前授業などアウトリーチ活動の充実に努めます。

 

 ここに示されたことは、これまでの本館において極めて脆弱な部分であったと聞いております。その改善に向けた前館長さんの粘り強い要望が実り、本年度より教育普及活動を重点的に行う担当者(「エデュケーター」と称します)の配置が実現いたしました。本市では「千葉市動物公園」「千葉市科学館」に既に配置をされておりますが、本館でも永年の念願であった懸案事項の実現となったのです。採用にあたって広く公募を行い、面接の上で選考をさせていただきました。

その結果、数年前まで千葉市内の小・中学校で社会科授業を担当されていた教職員OBお二方に、各々週2日でご勤務いただくこととなりました。エデュケーターとして、特に学校関係への教育普及が脆弱であった本館にとって望ましい人材は、教育者としての経験値が豊富で、教科指導における実績のある方であろうと考えていただけに、最終的に教職員OBの方の採用が叶ったことは幸いでした。
そもそも、「知っていること」と「それを他者に教えること」とは、似て非なるものと容易にご理解いただけるでしょう。自省の念を込めて申し上げるので、何卒お気を悪くされずにいただきたいのですが、「知っている」ことの多くは実のところ「知っているつもり」の状態であることが多いのではありますまいか。つまりは、決して体系的に整合性をもって理解している状態にないということです。こうした状態は、普通に会話している分には困ることはありません。しかし、いざそのことを知らない他者に伝えようと思うと、なかなか相手に理解してもらえず、もどかしい思いをされた経験がどなたにもあることと存じます。これは、内容を自分自身が充分に把握できていないことに起因するのだと思います。本当に理解できていることは、自身が理解しているように、相手にも整然と説明して理解していただけるものです。もう一つは、相手に理解してもらえるよう、事実の提示の仕方や説明のプロセスの工夫も重要なことと申せましょう。更には、学校教育との連携を考えるのであれば、文部科学省から示されている「学習指導要領」の内容も理解していることが必要です。小学校・中学校・高等学校、それぞれの学校種において児童生徒に必要とされる学力を育成することに、博物館の教育普及活動も寄与すべきものと考えるからです。 
これからの本館では、館内での学習機能の充実(団体見学等々)、及びアウトリーチ活動(学校現場への出前授業等々)の充実にむけた、エデュケーターの役割への期待は極めて大きなものであり、事実、既に大いにご活躍をいただいております。以降は、6月中旬にご依頼を頂いてから、つい先日の実際の授業に至るまでの、千葉市立幕張小学校さんとの取り組みについて、極々簡単に紹介をさせていただきます。

まず、学校からの依頼から授業の実施に至るまでの大まかな流れをご説明いたします。これは、これ以降、市内小中高等学校が本館に対してエデュケーターの派遣等を依頼される場合のモデルケースとなると考えるからであります。具体的な御依頼内容は、千葉市立幕張小学校での「総合的な学習の時間」で、本館職員に関連授業を行ってほしいとのものでした。事前に、全体指導計画をお示しいただけたことにより、本館で担うべきことも明確となりました。御依頼をくださる場合に、一番困ることは「何でもいいので好きなことを語ってほしい」というものだからです。具体的なことは以後にお示しさせていただきますが、ある意味で学校と博物館との連携がうまく運んだ事例ではないかと考えます。因みに、幕張小学校さんのご厚意により、お届けいただいた全体指導計画や今回の出前授業の指導案・指導資料・当日の児童の感想等々、追って本館ホームページ内のコンテンツ「教育活動」にてご紹介をさせていただきます。また、当日の授業の様子については本館ツイッターに写真付きでアップする許可も賜りましたので、是非ともご覧ください。

幕張小学校から御依頼いただいた具体的な内容ですが、それは3年生で実施する合計で70時間にもなる総合的な学習の時間「 幕張スイーツプロジェクト~We Love さつまいも❤~」において、「青木昆陽及び幕張町での甘藷試作地に関する内容」について歴史的な視点から解説いただきたいとのことでした。上記の通り、事前に幕張小学校から綿密な全体指導計画もお届けいただきましたので、これをもとに本館エデュケーターも事前に授業計画を作成。それをもって幕張小に足を運び事前の打ち合わせを行うことができました。学校の意図・指導計画と齟齬が生じないようにするためにも、その後の学習活動にも活かせるようにするためにも、事前の細かな調整が重要です。更に、幕張小学校さんからは児童が「どんなことを知りたいのか」「どんな話を期待しているのか」等々、児童一人ひとりからの自筆のお手紙までお届けいただきました。担当者もそれを拝読し、希望内容を集計し、児童の期待に副うべく準備を進め、いよいよ7月28日(火曜日)の授業に臨むことになったのです。
当日は、絵図を用いての「享保大飢饉」の様子の把握、その中で将軍徳川吉宗の下での青木昆陽の登用、そして青木昆陽の人となり、そしてサツマイモの試作とそれが大きな成果をもたらし、以後有効な飢饉対策として機能したこと等の内容を扱いました。幕張小学校3年児童の皆さん熱心な参加により、とても素晴らしい授業が展開されました。最後に「もっと授業をしてほしかった」との感想がきかれ、エデュケーター冥利に尽きる時間となりました。これも、日頃の幕張小学校での丁寧なご指導の賜物と思っております。是非とも、次の機会があることを楽しみにしたいところです。

上記の取り組みの他に、現在エデュケーターは、9月から再開の予定である本館の団体見学における「学習シート」の見直しを進めております。新学習指導要領の趣旨を踏まえて(小学校:実施済、中学校:令和3年度より、高等学校:令和4年度より)、小中高等学校のそれぞれの皆さんに、本館と周辺地域で如何なる学習活動をしていただくことが適切なのか、従来のような、単なる時間つぶしの穴埋め問題のような学習シートではなく、より社会科の「学び」に迫ることのできる学習シートが必要だと考えます。更に、今回のような学校からの依頼によるアウトリーチ活動に留まらず、本館が複数の「出前授業プログラム」を小中学校に明示し、それに申し込みをいただければ各学校に出前授業に伺うことのできるよう、これ以降準備を進めて参ります。年度末には、そうした出前授業プログラムを市内小中学校にお示しできるようにする所存です。そして次年度からは、本格的に出前授業を推進していきたいと思っております。勿論、今年度も、次年度以降も、今回の幕張小学校のように、各学校における計画に基づき、我々がそれに沿う形で授業を行うことも継続してまいりますので、是非ともご相談ください。各学校における生徒の実態や、学校の狙いに適合するように、授業内容の検討を進めてまいります。

 今後とも、市内の学校にとって、博物館が身近で役に立つ施設であることを目指して業務を推進して参りますので、本館のエデュケーターを是非とも積極的にご活用いただきたいと存じます。本館の「教育普及活動」への御理解も併せてお願いをする次第でございます。

 

 「ぼくのなつやすみ」
―「自由」であることの「楽しさ」と「苦しさ」―

8月7日(金曜日)

 長かった今年の梅雨ようやくあけ、夏らしい炎天の続く今日この頃ですが、千葉市内公立小中学校では明日から「夏休み(夏季休業)」に入ることとなります。例年40日前後の期間となる夏休みも、コロナ禍の影響で本市では今年度2週間に短縮。8月24日から授業再開となると聞き及んでおります。これまで、3~4カ月近くも休校が続いていたのですから、ここぞとばかりに学習の遅れを取り戻さんとの措置でありましょう。幸いにも、昨年度中に市内全公立学校で全学級の教室にエアコン設置が完了しております。もっとも、理科室・図書室等々の特別教室と称される場所は未設置のままです。おそらく、各学校では教育課程を流動的に扱って暑さを乗り切る算段をしていることでありましょう。因みに、学校における夏季休業の根拠法令は以下の通りです。今回も夏季休業の扱いが各市町村で異なっている理由も御理解いただけましょう。

 

学校教育法施行令 第29条
 「公立の学校(大学を除く)の学期及び夏季、冬季、学年末、農繁期等に おける休業日は、市町村又は都道府県の設置する学校にあっては当該市町村 又は都道府県の教育委員会が、-(中略)- 定める。」

 

 ところで、ふと疑問に思ったのですが、学校における夏季休業(長期休業)なる制度は、何時、如何なる意図をもって学校に取り入れられたのでしょうか。江戸時代にはそもそも庶民を対象とした公立学校は基本的に存在しておりませんから、そもそもの発祥自体が、明治5(1872)年の「学制」発布以降のこととなりましょう。ただ、「藪入り」といって商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中などの奉公人が、盆と小正月の年2回に限って実家へと帰ることのできる休みはありました。そこで、少しばかり調べたところ以下に当たりました。

 

 

小学校教則綱領 第7条
 「小学校ニ於テハ日曜日、夏季冬季休業日及大祭日、祝日等ヲ除クノ外授業スヘキモノトス」

 

 これは明治14年(1881)年に出された法令です。どうやら明治10年前後から各学校では夏季に長目の休みをとっていたようですが、当年に正式に法令として定められたものと思われます。それでは、なぜ夏季休業が学校で必要とされたのでしょうか。解答として思いつくことは「日本の夏は暑くて勉強どころではないから」。それがおそらくは正解でありましょう。しかし、江戸時代には存在しなかった夏季休業の意義を明治の人たちは如何に捉えていたのでしょうか。この点についても若干調べてみましたが、意外にも夏季休業に関する先行研究はほぼ皆無です。誰もが散々にお世話になったにも関わらず、それが設けられた理由や意義について、多くの教育学者が関心を払っていないこと自体驚きでもありました。検索の結果、かろうじて見つけた論考が、渡辺貴裕さんの京都大学での博士論文「明治期における夏期休暇をめぐる言説の変遷」(2003年)でした。
これによれば、法令施行後に国内で「夏季休暇存廃」に関する論争があったようです。如何せん日本人が初めて出会う「長期休業」の実施でありますから、その是非についての議論が百出したことは想像に難くありません。しかし、その際の論調は長期休業が社会全体に及ぼす影響に限られており、実際に夏季休業を過ごす主体である子供についての意義は一顧だにされていません。こうした課題に積極的に目が向けられるようになるのは、明治後半の1900年頃になってからです。文部省による夏季休業中の子供の生活状況の調査が行われていることからも明らかな通り、休業中の子供の生活面に関心が向けられるようになります。この間、学校として子供の生活を如何に維持・管理するのか、加えて家庭への啓発の必要性が論じられております。更に、1910年代に入ると、長期休業中の学習内容補強や課外読物の推奨といった、学習面への関心が表れていることがわかります。興味深いことに、現在でも続いている夏季休業中の子供たちへの指導の原型は、明治期末にはほぼ出揃っていることが判明いたしました。

 ところで、20年程前に「ぼくのなつやすみ」なるCPゲームが流行しましたが、このゲームの主たる購買層が私と同年代以上の年嵩のお父さん世代であったことに興味深いものを感じたことを記憶しております。ゲームの内容は、田舎の親戚の家へ預けられた9歳の「ボク」が、夏休みの1ヶ月間、大きな自然環境の中で「昆虫採集」「魚釣り」「絵日記」「洞窟探検」等々、昔の子供達にとって身近な遊びや行事を体験するものとのことです。私自身はCPゲームの門外漢であり、本ゲームに触れたことは一度もありませんが、この設定を耳にして大いに共感を抱いたものです。自分自身にも思い当たる節が山のように想起されたからです。確かに、自分自身にとっての夏休みを振り返れば、小学生の頃の記憶といえば、ただひたすらに自然の中で遊んだこと以外にはありません。私を含めた多くの大人世代にとって、幼少時代の夏休みは、大いなる郷愁を惹起せずにはおかない、特別なものとして心に刻まれているのだと思われます。

私の生まれ育った葛飾区は、今でこそ柴又を舞台とする「寅さん」(映画『男はつらいよ』)、亀有を舞台とする「両さん」(漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』)を表看板に下町代表のような顔をしていますが、私が子供時分には町場を少し外れると田畑の点在する、いわゆる東京の「郊外」に他なりませんでした。夏休みと言えば日がな一日好き放題に時間を使えるのですから、毎日のように友達と連れだって、小学校の近くを流れる曳舟川(江戸へ飲用水を供給する目的で人工的に開削された葛西用水であることは大人になってから知りました)や、自転車で出かけた区内にある水元公園で、毎日のように朝から日の傾くまで小魚やザリガニ捕りをして過ごしました。記憶が定かではないのですが、夕方に家に戻っていたので、昼食も抜きで生き物を追っていたのでしょう。その点で、頻繁にお世話になった駄菓子屋の存在が子供の生命線でもありました。
その頃の水元公園と言えば公園とは名ばかり。鎮守の杜や社、水田跡が手つかずのまま残り、それらを巡って細い水路が網の目のように四通八達する「水郷」風景そのものでありました。そこに四つ手網を仕掛けて、水路の両側から石を投げて小魚を追い込み、タイミング良く網を上げれば小鮒・クチボソ等々の小魚が幾らでも捕れました。何よりも嬉しかったのが虹色に輝く様々な姿のタナゴたち。家に持ち帰って水槽で泳ぐ魚を見るのが何よりも嬉しかったことを思いだします。今では、曳舟川は埋め立てられて道路に変わりましたし、駅から離れた田畑もほとんどが住宅になりました。水元公園も小綺麗に整備された東京都立の「水元自然公園」となり、もはや野趣あふれる「里山」の面影はありません。しかし、何にも縛られず、泥んこ塗れとなって自然の中で好き勝手に遊んだこと、その時のワクワクした想いを今でも鮮明に思い出します。「三つ子の魂百まで」の例えではありませんが、今でも自分の中にあると自覚する、雑多な「好奇心」の源泉は、このあたりに存するのではないかと思うことがあります。

 年月が過ぎた思春期となってからの夏休みも、異なった意味で感慨深く思い出します。特に受験期のそれは初めて自分自身で時間をコントロールすることの難しさを知った機会でもありました。「夏を制する者は受験を制す」と今も昔もよく言われることです。勉強をしなくてはいけない。しかし、学校のように外から縛ってくれる枠はない。そこには自由に使える時間だけがある。その時間をどのように切り取って、必ずしもやりたくない「勉強」に充てたらよいのか。勿論、その時間を「勉強」に充てずに遊んでも構わない。第一そのことを誰からも咎められません。しかし、やらなければ駄目だとの葛藤に苦しめられました。
結局のところ、私が選択したのは、誘惑の多すぎる自宅から離れ、図書館等の自習室に籠もって勉強することでした。最初は友達と誘いあって出かけましたが、徐々に一人欠け二人欠けし、最後は孤独との戦いとなりました。そして、これは、とりもなおさず「楽をしたい!」「怠けたい!」という自分自身との戦いに他なりませんでした。友達との勉強ではどうしても甘えが出てしまい結局一人になって正解でしたが、正直しんどいものでした。ただ、歯を食いしばって夏休みをこのスタンスを崩すことなく乗り切れたことは、その後の自分に大きな自信となって残りました。本質的に「怠け者」を本性とする私ですが、「やればできる」と思えたことは、人生の中での大きな自信となりました。未だ夏休みの想い出はつきませんが、今回はこの2つに留めておきたいと思います。

「何者にも縛られずに自由でいたい」とは誰でも思うことですし、夏休みは比較的その願いを許してくれる時であります。しかし、自由とは「楽しさ」をもたらすだけではなく、その自由を自らの意志の力でコントロールしなければならないという「苦しさ」を同時にもたらすものでもあります。いずれにせよ、子供達にとって、夏休みは沢山の学びを発見できる絶好の機会であることに間違いはありません。私自身の経験から言えることは、「遊び」は「好奇心」の発露に他ならず、旺盛な「好奇心」こそ「学び」の源泉だということです。何より、こんなに長く休めるのは、一生の内でも社会に出るまでの極々限られた期間に過ぎません。青少年の皆さんには、今だけ与えられた「特権」とも言える時間を、是非とも有意義に過ごして欲しいものだと祈念する次第です。
本館はもとより、全国各地には多くの博物館施設があり、それぞれの館の方針により多様な展示がされております。また資料等も充実しております。例年に比べて短い夏季休業ですが、郷里にお戻りになられましたら、是非とも地元の博物館施設を積極的に活用いただければ嬉しく存じます。

 

 テレビドラマ『波の盆』―「日系移民」の太平洋戦争―(前編)

8月14日(金曜日)

 暑い盛りでありますが、皆様におかれましては如何お過ごしでいらっしゃいましょうか。暦の上では8月7日「立秋」をもって既に秋に入っておりますが、未だ梅雨あけから二週間を経過したのみ。現実的には未だ未だ夏本番が続きましょう。秋の気配を感じるまでには未だ一か月半ほども間があることと存じます。本来ならば「残暑見舞い」の時節なのですが、実のところ「暑中見舞い」が穏当な陽気であります。

 この時季は毎年帰省ラッシュの報道がマスメディアを賑やかします。「〇〇高速道は〇〇インターを先頭に○○Km渋滞」「東京へ向かう新幹線は軒並み150%を越える乗車率」等々の報道です。今年はコロナ禍の影響もあってどうなることかわかりませんが、例年大規模な人の移動が生じる理由は、申すまでもなく当該時期が「お盆」に当たるからです。正しくは「盂蘭盆会」と言います。本来は旧暦(明治に至るまで用いられた太陰太陽暦)7月15日前後の時季を指しますが、明治以降に採用された太陽暦の下では8月15日前後にあたります(今ではこの新暦でお盆を執り行う地域が多いのではないでしょうか)。この時季は企業も俗に言う「お盆休み」となり、大都市圏から故郷である各地方へ、人の波が怒涛のように流れ出る一大ムーブメントが繰り広げられます。
「盂蘭盆会」とは、元来が中国での民間信仰と先祖祭祀が、仏教の追福思想と融合した習俗であると言われておりますが、我が国では祖霊を供養し亡き人を偲ぶための仏教行事として運営されているのが一般的ではないかと思われます。地域全体で「盆踊り」を行うところも多いことでしょう。春秋の「彼岸会」と異なり、年に一度「祖霊」を自宅に呼び寄せ、子孫が一同に会してご先祖様への「おもてなし」をする年中行事です。東京下町の我が家では、「迎え火・送り火」として焙烙に乗せた苧殻に火をつけ、生じた煙に乗って祖霊があの世と往来をすると教えられましたが、千葉県内の古くから習俗では、一家の主が提灯を下げて墓地まで直接に祖霊をお迎えに参上するのが一般的かと思われます。墓前で提灯に火を灯すことで祖霊が移り、それを自宅の仏壇に灯すことで、祖霊を自宅に迎え入れたことの表象といたします。仏壇にはたくさんのお供えをします。その中で、子供心にも印象的だったのが、割箸を4脚としたキュウリやナスの牛馬でした(ご先祖がお出かけする際の乗り物だと子供の頃に聞きましたが、実際にはお先祖様があの世とこの世の往来に用いる乗り物が本来の意味のようです)。お盆のあとに、今は亡き祖母と近所を流れる川にそれらを流しにいったことを記憶しておりますが、現在東京都では川にごみを投棄する行為として禁止されているとのことです。これらの「盂蘭盆会」の習俗も地域によって大きく異なりますが、その多様性を大切にすることこそが、地域の文化を守ることに繋がります。その他、年末年始・節分等々、今でも各ご家庭で様々しきたりに基づく年中行事が執り行われておりましょう。そうした古くからの習俗とその意味とを、是非次の世代に大切に伝承していただければと祈念するところです。
一方で、明日8月15日(土曜日)は「終戦記念日」でもあります。当日は、本館でも12時に館内にいらっしゃるお客様に黙祷のご協力をお願いたします。当日は日本が連合国軍から示されたポツダム宣言を受諾し無条件降伏することで、先の太平洋戦争が終結した日となります。国内に昭和天皇の音声による玉音放送が流れた日でもあります。本年の8月15日はその日から数えて75年。当日誕生日の方がその御歳ですから、実体験として戦争を知る方々が年々少なくなるのも宜なるかなと思います。本日は「太平洋戦争」と「盂蘭盆会」の双方に関わる映像作品についての話題を取り上げようと存じます。

皆様は、今から35年も前、昭和58(1983)年に製作・放映されたテレビドラマ『波の盆』という作品をご存知でしょうか。製作スタッフは[監督:実相寺昭雄、脚本:倉本聰、音楽:武満徹、出演:笠智衆・加藤治子・他]といった錚々たる陣容で固められております。一方、ハワイといったら皆様は如何なるイメージをお持ちでしょうか。勿論、世代によっても異なりましょうが、多くの芸能人が集う、マリンブルーの海に囲まれた常夏の一大リゾート地とのイメージが大方のところでありましょう。地学好きの方にとってはキラウエア山等、活発な火山活動のメッカとしての印象が大きいかもしれません。
当該作品は、ハワイを舞台に、太平洋戦争を挟んで戦前から戦後を生きた日系移民家族の物語ですが、テレビドラマとは信じ難いほどの完成度を誇っております。第38回文化庁芸術祭大賞、第1回ATP賞グランプリ、第16回テレビ大賞優秀番組賞と、各賞を総舐めしたのも納得の極めて優れた映像作品です。しかし、その割には知名度が低いのが残念です。私は、そもそもは所有する音盤で武満徹の音楽作品として親しんでおりましたが(組曲『波の盆』)、その当時見逃した者としては、テレビでの再放送も行われず、DVDはとうの昔に廃盤で入手も叶わず、もどかしい思いで一杯でありました(中古市場では4~5万円と高騰しております)。しかし、昨年のことになりますが、偶々本作がYouTubeに5分割でアップされているのを発見。ようやくその願いが叶えられたのです。その結果、名作の誉れ高い所以を確認するとともに、内容の重さに深く考えさせられることとなりました。そして、何よりも、物語・映像・音楽・俳優陣の何れもが渾然一体となった、正に総合芸術の名に値する作品の完成度に深い感銘を受けた次第であります。自分としては、この歳になって人生の大きな宝を得た思いです。今日日、単発2時間枠TVドラマでここまでの充実を期待することは叶いますまい。映画作品同等の入魂の一作だと思います。販売会社にはDVDの再販をしていただき、是非とも誰でもが容易く視聴できる環境をつくりだして下さるよう熱望するものであります。

脚本は人気ドラマシリーズ『北の国から』で知られる倉本聰。作者がここで紡いでいるのは、明治末に祖国を離れ、ハワイに移住した日系移民家族の引き裂かれた戦中・戦後史です。まず作品理解のために、日本人のハワイ移住の歴史について簡単にご説明申し上げたいと存じます。因みに、以下の内容は、佐倉にある国立歴史民俗博物館にて昨年度開催の企画展『ハワイ 日本人移民の150年と憧れの島のなりたち』展示図録を参照させていただきました。当該企画展も、学ぶことの多い優れた内容でありましたので、この場を借りてご紹介させていただきます。未だ図録も販売されております(¥1,440+税)。
現在こそハワイはアメリカ合衆国の一州をなしておりますが、これは19世紀末アメリカがハワイを併合した後、太平洋戦争後の1959年に独立州となってからのことで、州としての歴史は未だ60年程に過ぎません。また、アメリカに併合される以前は19世紀初頭にカメハメハ大王によってハワイ諸島の統一が行われ、それ以降の凡そ百年間はハワイ王朝の支配下にある独立国でした。今でも常夏の島のイメージがありますが、ハワイではその当時からプランテーションでのサトウキビ生産が国家の重要な収入源であり、そこでは多くの労働力を必要としていたのでした。それに応じて日本からの移民が始まったのが明治元年。その後、幾つかの段階を経て、最終的に20万人ほどの日本人がハワイの地に足を踏み入れたと考えられております。その後、彼らの多くは、1930年代までにプランテーションを去って島内の都市部等へ移動。独自に商店や農業生産を営みながらハワイ社会の一員として認知されていくようになっていきます。そして、彼ら移民一世の下には日系二世が生まれ、日系人のコミュニティーは更に大きく確固たるものとなっていきます。1936年には、有権者数の4分の1を日系人が占めるほどに、ハワイの中での社会的地位を高めていくこととなったのでした。 
しかし、それがある日の出来事を境に一気に暗転することになるのです。ご存知のとおり、それが日本軍の真珠湾(パールハーバー)への奇襲攻撃であり、それを起点とする太平洋戦争の勃発に他なりません。寄りによって、祖国日本と第二の祖国アメリカとが敵国同士になったのです。しかも、目の前の真珠湾で、予期せぬ奇襲攻撃によりアメリカ軍人の多く生命が奪われたのです。日系ハワイ移民の置かれた苦衷が如何ばかりであったか、慮ることに吝かではありますまい。
(続く)

 テレビドラマ『波の盆』―「日系移民」の太平洋戦争―(後編)

8月15日(土曜日)

 さて、話題をテレビドラマ『波の盆』に戻します。真珠湾攻撃から始まる日米開戦がハワイ日系人の生活を一変させたことは前編でご説明いたしました。物語は、戦後38年が経過したマウイ島から始まります。明治末に移民としてハワイに渡り、太平洋戦争をどうにか乗り越え、戦争終結後に夫婦揃ってアメリカ国籍を取得した日系1世山波公作老人の下に、亡妻と同じ名を持つ若い娘がハネムーンついでに日本から訪ねて来ました。そして、娘の亡父が山波老人の息子作太郎であることを知ります。娘は3年前逝去した父の遺品に見つけた、投函されずに残されていた母ミサ宛の手紙を届けに来たのでした。しかし、山波老人の妻ミサも前年に泉下の人となっていました。ところが、山波老人はこの若い娘に素直に心を開けません。何故ならば、老人は過去に息子作太郎を勘当しており、長らく音信不通でいたからでした。日系2世の作太郎は、日米開戦以降日本人への迫害が強まる中、積極的にアメリカ軍に荷担することで日系人社会を守ろうとしました。しかし、それは日系1世を含む家族内における深刻な諍いを惹起せずにはおきませんでした。最終的に太平洋戦争はアメリカが日本へ投じた原爆を契機とし、日本の無条件降伏で終結しました。しかし広島に住むミサの実家家族は、作太郎も関わることとなった原爆によって全滅していたのでした。妻ミサの無念を思ん計り、息子作太郎と義絶する父。二つの祖国の間に挟まれ、引き裂かれていく家族の悲劇が紡がれていきます。
それから38年。前年妻ミサに先立たれ一人になった山波老人は、家族の来し方に思いを馳せます。茜さす海辺で交わした死を目前にした妻ミサとの回想。「ユーは、ワシがアメリカ国籍を取ったこと、作太郎を勘当したことを恨んでおるじゃろう」「本心は、ジャパンに戻りたかったんじゃないか」。無言の妻。しかし、暮れなずむ海の遠くを見ながらこう呟きます。「死んだら何処に行くんじゃろ。ここにこのまま眠るんじゃろか。それともジャパンに帰っていくんじゃろうか」と。ドラマを通じて感情を高ぶらせることの一切ないミサ。しかし、淡々とした言葉と穏やかな笑顔の中から滲む心象風景にハッとさせられます。『波の盆』の波とは、二つの祖国を隔てる太平洋の波であると同時に、夫婦・親子の心を隔てた荒波の表象に他なりますまい。

 また、この作品の価値をいや増しにしているのが、物語世界を彩る映像と音楽の力にあることは確実です。鬼才と呼ばれた実相寺昭雄。奇抜なカット割、逆光シルエット映像の多用等、独創的かつ耽美的な映像世界がここでも横溢しています。海辺の墓地越しに映し出されるハワイの海の夕景。廃棄され錆び付いた歯車越しに描かれる印象的なハワイの青空とゆく雲等々。その印象的な映像美は誰とも異なる独創的なものです。中でもハワイのラハイナ浄土院で行われる盂蘭盆会で、海に流される盆灯籠が遙かに列を成して漆黒の海を西へと揺られ流れゆくラストシーンは圧巻です。幻想的な映像美とともに、亡き妻ミサの魂の向かう奥津城(西方浄土)が、故郷日本であることを暗示する演出に心底打たれました。そこはまた、ミサにとっての愛息作太郎の眠る地でもあります。
山波老人は、妻ミサの新盆である盆踊りの人混みの中に作太郎の幻を見いだします。そしてこう語りかけるのです。「作太郎、ワシと一緒に釣りに行かんか」と。孫娘が持参した作太郎の手紙がそれに続きます。会いたくても会えなかった両親への思慕。アメリカ軍に協力して両親を悲しませたことに苛まれ続けたこと。そして「お父さまと一緒に釣りにいきたかった。あの戦争の前の日のように」と呼応します。父子がたとえ幻の中であっても和解に到ったようで、同じ人の親として目頭が熱くなりました。
作太郎は、戦後、罪滅ぼしのようにハワイを離れ、日本に渡り広島を居住地としました。そして被爆者の女性を妻に迎え、生まれてきた娘には母と同じ名を与えていたのでした。遙か海をゆく精霊流しを見つめる山波老人。それに重なって映し出される山波老人の刻々と移り変わる表情に、言葉にならぬ万感の思いの去来が映し出されます。名優笠智衆、一世一代渾身の名演技だと思います。これに心を揺さぶられずにおられぬ人などおりますまい。
そして、背後に流れる武満徹の音楽が、生きている内に交わることのなかった家族の思いに寄り添います。日本を代表する作曲家武満徹。その武満が『波の盆』に与えた音楽は、代表作『ノヴェンバー・ステップス』等の現代音楽作品とは無縁の、極めて優しくも美しい作品となっております。収録の際にオーケストラ団員の多くが目に一杯の涙をためながら演奏したと、指揮者岩城宏之が述懐しておりますが、さもありなんと想像できる名曲の数々だと思います。これまた作曲者畢生の名作だと思われます。フランス近代・ドイツ後期ロマン派音楽のエコーを感じる、儚くも穏やかな、波のようにたゆたう旋律。それはあたかも、引き裂かれた家族の思いが、山波老人の葛藤と悔恨そして諦念とが、太平洋に散った多くの御霊とともに癒され浄化されていくように響きます。その意味で、この曲は「鎮魂歌」として書かれているのだと思います。このサウンドトラック盤も既に廃盤となって久しく入手困難です。こちらの再販も望みたいところです。

戦争は国同士が行うものです。しかし、当たり前のことではありますが、戦いに携わるのは血の通った人間であり、それぞれに愛する家族もあり、それぞれに思い描いた幸せな人生があったはずです。断ち切られた祖国、断ち切られた家族、断ち切られた人生。『波の盆』は、計らずも我が家でもささやかに行われる先祖供養(盂蘭盆会)の時期に、改めて戦争のもたらす不条理と平和の尊さを噛みしめる契機を与えてくれたのです。併せて、人生の希望を断ち切られた多くの人々の冥福を祈る敬虔な思いに、戦争によって失われた幸福の積み重ねに、そして、10月27日から本館にて開催の特別展「軍都千葉と千葉空襲」の在り方等々に、それぞれ思いを馳せることとなりました。
因みに、上に名を記した制作スタッフのうち、倉本聰の他は指揮者の岩城も含めて鬼籍に入られております。かの戦争で失われた全ての尊い生命とともに、今日の日に深甚の冥福の想いを捧げたいと存じます。合掌。

 

 8月26日(水曜日)より小企画展開催『野のうつりかわり―六方野の場合―』(前編)

8月21日(金曜日)

 お日様の顔を拝むことがほとんどなかった7月でしたが、梅雨明けとなった8月からは掌を返した如くお日様の顔を拝まない日がないほどです。連日の猛暑続きに、そろそろ秋の気配が恋しくなる今日この頃でありますが、長期予報によれば暫くはこの暑さが猛威を振るうようです。このような中、千葉市内の公立小中学校では、短かった夏季休業が終わり、来週からは授業再開となります。
本館におきましては、現在1階展示室を会場にミニ展示「ちばの夏祭り・秋祭り」を開催しております。そして、次週からは、同時並行で本館2階の通常天文展示を行っているコーナーを会場に、標記小企画展を開催させていただきます。今回は、このことについてご紹介いたしたく存じます。

まずは、表題「野のうつりかわり」にある「野」とは何かから始めたいと思います。「野原」という言葉はよく使われます。「特段に利用されずにある広い土地」といったイメージではないでしょうか。昔は私の住む葛飾区にも「野原」が数多散在していて、子供たちの格好の遊び場となっておりました。私自身も友達と誘い合ってはそのような「野っ原」(子供同士では撥音便の入るかような表現で言い交わしておりました)で「草野球」をしたものです。また、「〇〇野」という地名を目や耳にされる機会もありましょう。千葉市内や近隣で言えば、「おゆみ野」や「習志野」といった地名がすぐに思い浮かびます。更に、私の初任校である千葉市立更科中学区の方々は、自分の住まう住所地名(小間子・下泉・富田・谷当等々)とは別に、周辺地域を「宇津志野」と総称しておりました。これは今回の小企画展で取り上げる「六方野」とも共通する、いわば「広域地名」というものにあたると思われます。
つまり、「野原」とは、平たく言えば特段の用途もなく放置されている広い平坦地を、「○○野」といった広域地名は広大な平坦地をさしており、その地が耕作地であったり、後年開発された住宅団地の名称となっているのでありましょう。ただ、耕作地と言っても低地に一面に広がる水田地帯を「野」とは称することはないように思われます。同じ耕作地でも広大な台地上の畑地が「野」のイメージに近いのではないでしょうか。つまり、「野」に共通している要素とは、「大きな起伏の存在しない台地状の平坦地」といったところであろうかと存じます。

こうした「野」の代表選手と言えば、千葉から少し離れますが、国木田独歩の代表作品名ともなっている「武蔵野」ではありますまいか。古今歌枕としても名高く、古の都人による「武蔵野」を詠んだ多くの作品が残されております。また、そのイメージを絵画表現とした「武蔵野図屏風」なる作品も多々制作されました。こうした和歌や絵画をみれば、少なくとも彼らがイメージした「野」の在り方をつかむことも可能となりましょう。以下に、いくつかの作品を掲げてみましょう。また、絵画に描かれた図様もこうしたイメージの具象化に他ならず、屏風全体に描かれた草々の合間に、地平から顔を出す銀色の月が描かれております。また、ここが東国に存在する「武蔵野」であることを表象するアイコンとして、左隻と右隻の背景にそれぞれ富士と筑波の両峰を描くことがお約束となっております(『東京都の歴史1』2017年 吉川弘文館 第3節「古代中世の武蔵国府と府中」小野一之)。

 

行く末は空も一つの武蔵野に草の原よりいづる月影」(藤原良経)[新古今集]
 武蔵野は月の入るべき峯もなし尾花が末にかかる白雲」(源通方)[続古今集]
 武蔵野は月の入るべき山もなし草よりいでて草にこそ入れ(近世の俗謡)

 

 こうした荒漠たる原野としてイメージされる「武蔵野」の姿が、規模の大小こそあれ、概ね「野」のそれを表象しておりましょう。今回取り上げる「六方野」も、武蔵野とは比べるべくもない規模ではありますが、千葉市内に数多存在する「野」のひとつであります。現在の千葉市から四街道市にかけて広がる地域であり、現存地名としての「六方町」(千葉市稲毛区)・「鹿放ケ丘」(四街道市)にその名残を止めております。この地は、下総台地でも最も高燥な地域の一つであり、また当該台地を複数の谷津が刻んでおります。そのうち、北側に開く谷津は印旛沼へ、南側に開く谷津は現在の東京湾に連なっており、その分水界ともいえる中央部を東金御成街道が北西から南東へと貫いております(近世初期に徳川家康の命で造営された船橋と東金をほぼ直線で結ぶ街道)。容易に想像されるように、水利の面から考えて基本的に農業には不向きな場所であり、実際のところ江戸時代前期までは、この地に村は存在しませんでした(『絵に見る 図で読む 千葉市図誌 下巻』1993年 千葉市)

しかし、こうした「野」と呼ばれる土地は、都人たちの風流に基づく勝手な思い込みとは裏腹に、決して未踏の地であったわけではありませんでした。そこは周辺のムラの住人にとって、草や萱や柴などの採集地として、むしろ積極的に活用される場でもあったのです。「野」は別に「秣場(まぐさば)」とも呼ばれるように、草が牛馬の飼料となるほかに、柴などとともに田畑に敷きこむ「刈敷」や、焼いて灰にして有用な肥料(「草木灰」)としても利用されました。また、萱は重要な建築資材(屋根葺)であり、灌木は薪炭として活用されるなど、百姓にとっては無くてはならない場所でもあったのです。こうした場所は、近世の初期には、「野」の周辺に複数展開していた村を生活の基盤とする人々にとって、互いに共有すべき場所として、村の境界も特段明確に定めることなく利用しあう、村同士が緩やかに接している場所でもあったのです。こうした土地を一般に「入会地」といい、特にそれが「野」であれば「入会野」と称しました。
ただし、こうした緩やかな関係性の下に存在していた「野」であっても、少なくとも近世の幕藩体制下では、決して無主の地であった訳ではありません。「六方野」は、何れの藩領にも属しておりませんでしたので、結果的に幕府支配下にあった土地でありました。従って、周辺の人々が好き勝手に利用できるわけではなかったのです。「六方野」の場合、近世初期においては、谷田を中心に開けていた村々(宇那谷・園生。蕨・小名木の四か村)が「野元」となり、「六方野」を採草地として利用する他の周辺村落から利用料を徴収。自村の分と併せて、年2回幕府に「運上金」として納めることで、総体としてこの地を利用することが認められていたということになります。
(後編に続く)

 

 8月26日(水曜日)より小企画展開催『野のうつりかわり―六方野の場合―』(後編)

8月22日(土曜日)

 後編では、こうした「野」という存在が江戸時代の村落社会の領域認識として、村人たちには如何に位置づけられていたのかについて、一般論として「民俗学」の手法によって押さえておきたいと思います。これについては、歴史・民俗学者であり国立歴史民俗博物館名誉教授でもある福田アジオさんが提唱する、著名な「村落の空間構成」概念図が有効かと思われますので、それに導かれつつご案内いたしましょう(『日本民俗文化体系8 村と村人―共同生活と儀礼-』1984年 小学館 第1章「民俗の母体としてのムラ」福田アジオ)。

それによれば、村落で生活する村人たちは、人々の居住の空間である「ムラ」(定住地としての領域)を中核に、その外側にムラの住人が一年をサイクルとし、土地を耕し生産物を手に入れるための生産空間である「ノラ」(生産地としての領域)が広がり、更にその外側には、より長いサイクルで様々なものを手に入れる空間としての「ヤマ(ハラ)」(肥料や燃料にする草木の採集領域)が存在するといった、同心円状の三重構造として村落の領域認識をしていたというものです。このうち今回話題としている「野」は、言うまでもなく福田の指摘する「ヤマ(ハラ)」にあたります。つまり、「野」とは直接的な耕作地ではないものの、草を刈ったり、木を伐ったり、様々な山の幸を入手したりする場として有効に機能する空間と言うことになります。ただ、「ノラ」が租税徴収対象として、領主により明確な領域として顕在化されて支配されているのに対して(「田畑」の面積・収穫高)、「ヤマ(ハラ)」=「野」に関しては、多くの場合、隣接する複数のムラの人々が互いに共用する中間的領域でもあり、少なくとも近世初期においては領主にとっても漠然たる把握しかなされていなかったのでした。そうした「野」の在り方に変化をもたらすのが、以下に述べる近世中期以降の開発の歴史であったのです。
因みに、よく耳にする「野良犬」「野良猫」にある「ノラ」という用語には、「ノラ」の位置づけがよく表れていると思います。家で飼っている動物であれば「家猫」「家犬」であるのに対して、おそらく「ヤマ(ハラ)」にいるのは野生状態の「野犬」「山猫」でありましょう。その中間部である「ノラ」に昔は人に飼われていた犬猫が今や誰の所有にもなく、しかし野生化もせず何となくムラの周辺に着かず離れずの状態で居着いている。これが「野良猫」「野良犬」と言われる言葉の正体ではありますまいか。別に、農民が畑地で農作業をすることを「野良仕事」というのもよく耳にいたします。居住空間としての「ムラ」、外縁部に広がる「ヤマ(ハラ)」。その中間に耕作地である人の開墾した「ノラ」が存在するという、三重構造の位置づけがイメージとして理解できると思いますが如何でしょうか。

さて、話を元に戻します。先にも若干触れたように、江戸時代は大規模開発の時代でもありした。大規模な河川改修等の大土木工事が推進され、その結果、耕地面積は爆発的に増大することとなりました。開幕の百年後には耕地面積は1.5倍にふくれあがり、それに伴い米の生産高も二百年後にはほぼ倍増することになるのです。石高制への移行に伴う米の生産向上にむけ、全国的な耕作可能な荒蕪地の開墾が強力に推し進められていったからです(新田開発)。それを推進した原動力は、領主層であることは言うまでもありませんが、商品作物の生産による現金収入の獲得を目論む百姓側の動機も色濃く存在しておりました(これに便乗する町人の思惑も当然の如くこれを後押し、商業資本が投入される場合も間々あったのです)。そして、こうした動向は、いわゆる農耕の不適地である「野」にも例外なく展開されることになったのです。よく教科書等でも取り上げられる武蔵野の大規模開発といった動向と符号を併せるように、江戸時代中期以降、この六方野にも開発の手が及ぶようになります。

六方野では、寛文12(1672)年、江戸の町人4名から畑地への新規開墾の願いが出され、六方野の西側半分が開墾予定地として認可を受けることとなりました(この西半分は後に「長沼新田」等の新たな村として取り立てとなります)。ただ、東半分は採草地として維持され、検見川村をはじめとする15ケ村で入会利用することとなりました。しかし、これまで野を入会野として利用してきた村々としては、「野」の半減によるパイの奪い合いという現実をもたらすことになったわけですから、以降六方野を利用する村同士の様々な争論が繰り返されることとなります。今回の企画展で展示される絵図もそうした争論の際に作成されたものです。そして、こうした村同士の争論が、その帰属を明らかにする過程を通じて、これまで緩やかに接していた、村と村の境界を「線」として確定すること、及びこれまで曖昧であった領主による「野」の支配領域の明確化にもつながることとなります。

ただ、一方で、近世を通じて展開された過剰ともいえる荒蕪地の開発はプラスの側面ばかりではなく、当然の如く副作用をもたらしたことを忘れてはなりません。つまり、自然環境破壊という深刻な問題をも置き土産として残していくことになりました。いわゆる病害虫・洪水の被害の頻発、入会野開墾にともなう深刻な肥料不足等々であります。つまり、農地の過剰開発行為が、皮肉なことに飢饉による農民の生活難をもたらす遠因ともなるのです(武井弘一『江戸日本の転換点―水田の激増は何をもたらしたか』NHK出版 2015年)。

 更に、明治になると「六方野」一帯は台地上の平坦地であることから、今度は軍用地として利用されるようになります(軍事演習地)。村々としては、これは自村の死活問題にも関わることですので、ここに到っても政府との切実な交渉が重ねられております(演習時以外には採草地としての利用を認めて欲しい等)。本企画展では江戸時代から明治にかけての「六方野のうつりかわり」を扱い、それ以降には踏み込みませんが、戦後の高度経済成長期になると、首都東京から近隣の地であることを背景に、台地上の広大な平坦地である「野」が住宅地として利用されることになります。千葉市内の内陸部に多く存在する大規模団地の開発です。これが、千葉市内に多く存在する団地名「○○野」「○○台」といった地名の由来ともなっていくのです。

以上、充分なるご説明にはなっていないことが懸念されますが、千葉市内における「野のうつりかわり」に着目することは、ミクロな動向の理解を通じて、よりマクロな時代の移り変わりを理解する有効な題材として機能するものと考えます。特に、「野」という存在が広域に存在していた現在の千葉市内においては、「野のうつりかわり」を追うことが、市域の在り方の歴史的意味の変化の理解につながるものと言えるのです。今回の小企画展を、単なる一地方における歴史的事象と矮小化してとらえることなく、是非ともそれぞれの時代における日本全体の動向を表象するものととらえていただけますと、歴史を見る目が更に広がることとなろうかと存じます。その意味で、今回の「小企画展」は極めて重大な視座を提供する展示となっているものと自負するところでございます。

最後に、本小企画展の会期は、標記日より10月25日(日曜日)までとなります(『ちばの夏祭り・秋祭り』終了と同日)。つまりは、8月26日から会期終了日までは、御来館いただけますと二つの展示の見学が可能となります。「一粒で二度美味しい」という好機となりますので、是非とも多くの皆様のご来館をお待ちしております。9月初旬に「祭展」の展示替えも予定しております。

 

 他館への視察訪問と貴重な学びについて―「東京大空襲・戦災資料センター」「すみだ郷土文化資料館」または 井上有一『噫(ああ)横川国民学校』のこと―(前編)

8月28日(金曜日)

 梅雨明けからの猛暑が厳しかった今年の夏でありますが、ようやく朝夕にどことなく秋の気配を感じ取ることができるようになったように思いますが、皆様は如何お感じでしょうか。日が暮れれば、どこからともなく秋の蟲たちの聲もひとしきり聞こえて参ります。さて、今回は、秋の特別展『軍都千葉と千葉空襲』まで2か月前にちなみ、既に2か月ほども前のこととなりますが、私自身が視察を兼ねて訪れた、2つの博物館についてご紹介をさせていただきます。


最初に紹介いたしますのは、東京都江東区北砂にある「東京大空襲・戦災資料センター」です。この博物館は民間の学術研究機関である公益財団法人政治経済研究所の付属博物館、つまり「民立民営」の博物館であります。そもそもが、「東京大空襲を記録する会」が1970年代より広く収集を進めてきた空襲・戦災に関する資料や被災品等の展示施設として、民間募金の協力を得て2002年3月9日に開館となった施設であります。そして、最近、念願のリニューアルがなされ現在に至っております。初代館長は岩波新書『東京大空襲』の他、多くの空襲関連書籍の著者として知られる早乙女勝元さんでありました(現在は名誉館長)。

当館2階にある展示室の構成は、1.戦時下の日常、2.空襲の実相、3.証言映像、4.空襲後のあゆみの4構成となっております。東京は、戦時中に大小含め100回以上の米軍機の空襲を受けておりますが、特に大きなものが1945年3月10日未明(この日は日本における「陸軍記念日」でもありました)の2時間半にわたる東京東部への空襲、そして同年5月25日の山の手方面への空襲であります(この2日後が「海軍記念日」)。特に、前者の被害は甚大であり、東京の下町一帯が焼け野原となりました。その結果、凡そ10万人もの一般市民が一度に犠牲になったのでした。「東京大空襲」といえばこの3月10日の空襲を指すほどに、単一の空襲として史上最大の被害をもたらした惨劇として、世界中で周知される空襲被害でもあります。因みに山の手空襲では、3月10日に倍する爆弾が投下されましたが、死者は下町空襲の三十分の一ほどでした(この時皇居にも延焼して明治宮殿が全焼。消防にあたった20名ほどが亡くなっております)。

そのことを踏まえ、当館が今回のリニューアルで重点としたことが、「東京大空襲」の被災者である、市井に暮らした一般の「個人」に焦点を当てたことだと言います。つまり、統計資料では埋もれてしまいがちな、一人ひとりの思いの集積として「東京大空襲」という未曽有の惨事を描き出そうとしているのです。「空襲によって10万人が亡くなった」といった数値として空襲被害を伝えることは簡単であり、しかも統計的数値として正確なものであります。しかし、数値からは決して見えてこない空襲被害の経験者である当事者としての「想い」を伝承すべきとの方針を強く打ち出すこととされたのです。これには、これまで当館が大切にしていた空襲体験の「語り部」の皆さんの高齢化があると言います。終戦時に生を受けた方が75歳なのですから、語り部を担っていただいた方々も既に80歳を越えております。彼らが亡くなってしまわれれば、空襲被害は文字通りの統計数値としてしか認識されなくなるとの危機感があったものと推察されます。そして、その意図はリニューアル展示から説得力をもって伝わり、その重さに改めて打ちのめされる思いでありました。

そのため、こうしたヴィジュアル重視の時代でありながら、それに抗うかのように被害者の手になる文章を数多く展示し、観覧には読むことを通じて被害者の「想い」に触れてもらおうとされていることが印象的でした(但し文章の引用は一人200文字までとしたそうです)。また、QRコードを翳せば手持ちのスマートフォンで、当事者の肉声を聞くことができるように工夫されている展示方法も印象的でありました。ただ、体験談を記述できるのは空襲を生き抜いた方々に限られます。空襲で亡くなった方の思いを直接的には伝えることはできない。それを、焼け残った被害者の生前の写真や、生き残った方からの思いとして伝える取り組みもされております。今を平和裡に生きる後裔として、空襲に遭遇した一人ひとりが「人として生きた証」とその「思い」とを、如何に大切にされようとしているかを痛いほどに感じさせる展示構成となっていると受け止めました。更に、空襲後の仮埋葬や戦災孤児の問題への言及も抜かりなく、多種多様な被害の実態を、それぞれの視点からあぶり出そうとされている当館の取り組みに圧倒される思いでありました。一方で、被害者としての日本人だけではなく、墜落したB29 生存者へ加えた加害者としての日本人の姿にも触れるなど、多面的に空襲の諸相を伝えようとされていることにも細やかな配慮を感じます。戦争とは決して「一人相撲」ではなく、必ず戦う相手が存在しており、相手の立場や思いもまた同様であるからに他なりません。

因みに、当館名誉館長でいらっしゃる早乙女勝元さんの著書『東京大空襲』(岩波新書)を、私自身は中学2年生の時に読みました。しかし、それは決して主体的な選択などではなく、在学している中学校の夏季休業課題図書であったからに他なりませんでした。第一、自分自身は幼少の頃から空襲の体験者であった祖母からその恐ろしさを何度も聞かされていたこともあり(千住での空襲体験)、その確認に過ぎなかろうとの軽い気持ちで読み始めたのでした。ところが、読み進めるとともに、江東区・墨田区一帯を襲った東京大空襲のすさまじいまでの被害の実態を次から次へと畳みこまれ、書物を置くことも忘れて読了したのでした。そして、その驚きはとてつもなく大きなものでありました。それは、まるでハンマーで頭部を一撃されたかのようであったことを、読後半世紀近くを経た今日でもありありと記憶しております。それほどまでに、強烈な印象を与えてくれた読書体験でありました。1971(昭和46)年初版の本書は営々と版を重ね、今日でも現役であります。もし未読でしたら、千葉市内の空襲のことではありませんが、是非ともご一読されることをお薦めいたします。
(後編に続く)

 

 

 他館への視察訪問と貴重な学びについて―「東京大空襲・戦災資料センター」「すみだ郷土文化資料館」または 井上有一『噫(ああ)横川国民学校』のこと―(後編)

8月29日(土曜日)

 昨日に引き続き本日ご紹介いたしますのが、「すみだ郷土文化資料館」です。こちらは東京都墨田区が運営する公立公営の博物館であります。場所は墨田区向島。ここは、すぐ隣に江戸名所として名高い三囲稲荷神社が、そして今も昔も桜の名所である墨堤に接する景勝の地に立地しております。また、ここは先の早乙女勝元『東京大空襲』内で「言問橋の悲劇」として描かれる、大きな空襲被害をもたらした隅田川橋梁の袂でもあります。当館は、区立の総合博物館として、通史展示も充実しておりますが(個人的には中世「梅若伝説」展示に興味を引かれます)、特に力をいれておられるのが東京大空襲による甚大な被害への視座であります。その中でも通年を通しての展示として「東京空襲体験画展」を行っていることが注目されます。これは、空襲から50年近くたった2000年頃に、墨田区民に対して大々的に空襲の記憶についての絵画の制作を募集したことから始まった、いわば庶民の手になる絵画コレクションです。戦前・戦後の状況は写真資料から確認することができます。しかし、当たり前のことですが、命からがら逃げ惑っているときの記録が写真等に収められていることはありえません。その状況については、これまでは言葉を通じてしか語れることがありませんでした。それを、絵の得手不得手は問わずに、絵画にして提供して頂きたいとの呼びかけに、多くの区民の方が力を貸してくださり、最終的に区民の皆さんから300枚程の絵画が提供されたと聞きました。

それは、降り注ぐ焼夷弾、迫りくる猛火の中を逃げ惑った時に遭遇した決して消すことのできない景色、疎開先で東京の空が赤く燃えていた光景、疎開先の千葉県で大量の灰が降り注いだ情景等々、極めて多様な体験の記録でもありました。一つひとつの絵画は、専門の画家とは異なる拙いものながらも、かえってその時の強烈な体験を漏れなく表現していると感じた次第であります。そもそも、空襲体験者が未だ沢山ご健在の時期に、かような取り組みをなされた当館職員の皆さんの先見性に頭が下がる思いでもあります。担当の学芸員の方が「墨田区の誇る遺産」と自賛していらっしゃったことも宜なるかなと思った次第であります。少々遅きに失した感はありますが、本市でも是非とも見習いたい取り組みであります。
一方、現墨田区内(当時は本所区・向島区)の国民学校は、戦時中に主に千葉県内に学童疎開を行いました。その一環として千葉市内へも数校が疎開して来ております。その点でも本市との縁の深い区でもあります。10月から本館で開催する『軍都千葉と千葉空襲』では、市内でも風化しかけている本件についても取り上げたいと思っております。


因みに、当時の本所区内にあった横川国民学校(現墨田区立横川小学校)職員であり、当日宿直していて東京大空襲に遭遇することとなった教師井上有一は、奇跡的に階段下倉庫に隠れて九死に一生を得ました。しかし、教え子達を救うことができなかったことが大きな慚愧の念として戦後の彼を苛んだのです。戦後に書家として活躍し世界的な名声も得た井上。小学校の校長を勤め昭和51年に定年退職を迎えた2年後。1000人もの人々が犠牲となった横川国民学校での一刻でさえ忘れることのできなかった体験の全てを、一本の筆に込めて紙面に吐露したのでした。秘めてきた彼の想いが堰を切ったように一気に溢れ出たのだと想像いたします。それが書作品『噫横川国民学校』(群馬県立近代美術館所蔵)です。縦145cm横244cmの巨大な紙面に荒々しくぶちまけられた筆跡から伝わる井上が背負ってきた想い。そのあまりの重さに圧倒されます。

彼の死後、平成5(1994)年にニューヨークで本作が展示された際、「この作品は一見静かだが、同じ黒と白で描かれたピカソの『ゲルニカ』よりはげしく、戦争の残虐を指弾する迫力で見る人の心を打つ」と高く評されたとのことです。一見してただならぬ表現意欲に誰もが打ちのめされようかと思います。「アメリカB二九夜間東京空襲 闇黒東都忽化火海 江東一帯焦熱地獄」から始まり、「我前夜横川国民学校宿直にて奇跡生残 倉庫内にて聞きし親子の断末魔の声 終生忘るなし ゆういち」で締めくくられる作品に接すれば、井上の慟哭の激しさと底知れぬ深さとに言葉を失います。

本作品は、戦争前後1年間の学童疎開(君津市富岡)や戦後の様子を記した貴重な画文集資料と併せて、岩波書店から『東京大空襲』(井上有一)として刊行されております。現作品の持つ大迫力の足元にも及びませんが、とりあえず鬼気迫る『噫横川国民学校』の姿とその文面に接することができます。是非とも皆さんにもお薦めしたい一冊であります。井上有一は昭和60(1985)年、69歳を一期にその生涯を終えております。なお、本作品の縮小複製が「東京大空襲・戦災資料センター」1階に展示されておりますことを付記させていただきます。


昨日から本日にかけて、本館の特別展に向けて視察に出かけた2つの博物館の展示について、そして関連のある井上有一の書作品についてご紹介をさせていただきました。勿論、私に限らず、本特別展の担当職員は、資料を集めたり、聞き取り調査を進めたり、はたまた展示の在り方の参考にするために多くの博物館や関連施設を訪問しております。この10月からの本館『軍都千葉と千葉空襲』が少しでも意義深い展示会となりますよう、本館職員一同、準備に傾注して参りますので、是非ともご期待くださいますよう、お願いを申し上げる次第でございます。

 

 

 

 本年度9~10月本館事業の実施について―「千葉氏公開市民講座」中止代替措置、学校関係「団体見学利用」再開、「市史研究講座」開催、特別展「軍都千葉と千葉空襲」等々―

9月4日(金曜日)

 光陰矢の如し。8月も瞬く間に過ぎ去り、9月の声を聴くこととなりました。当方は雲の形態等々には全く不案内であり、的外れである可能性も大きいのですが、空を行く雲が高くなり、どことなく秋の空めいて見えるようになったと感じますが如何でしょうか。秋らしさの象徴である鱗状の雲(あれは鰯雲でしょうか、それとも羊雲というのでしょうか)も時に目にするようになりました。知らず知らずのうちに秋の足音が少しずつ大きくなってくるようです。

さて、一か月もすれば令和2年度も折り返しとなります。本年度は、年度当初からのコロナ禍による閉館。5月末からは再開となったものの、年度当初に予定しておりました様々な行事・活動の中には、止むを得ずに中止したものも多々ございます。また、縮減・代替措置としたものもございます。この点につきましては、我々としましても誠に忸怩たる思いでございますが、千葉氏パネル展『将門と忠常―千葉氏のルーツを探るー』をご好評のうちに開催できましたことを幸いに存じております。しかし、今後のコロナ禍の状況につきましても未だ不透明であり、現況においても終息に向かっている顕著な状況にあるとは申せない実態がございます。従って、今後の本館事業につきましても、状況を勘案しながら実施の有無、実施方法・内容等、臨機応変に対応せざるをえない状況にあることは是非ともご承知おきくださいますようお願い申し上げます。ただ、何でもかんでも安易に中止判断とするのは公共機関としての責務を充分に果たせないと考えております。従って、本館としましては、現状では以下の3段階での対応をとって参る所存でございます。まずは、そのことをご確認いただき、主に9月から10月にかけての本館事業を中心に、現状における見通しを述べさせていただきます。

 

第一段階
 感染予防対策により実施可能であれば、規模縮小等の対策の上で基本的に予定行事を挙行する。

第二段階
 予定通りの実施が不可能な場合は、日程変更による対応か、次善の策として何等かの代替措置によりそれに代える。

第三段階
 日程変更でも状況が好転しない場合、代替措置も不可能な場合(飛沫感染・ソーシャルディスタンス確保等が困難な、対面を伴わざるを得ない行事等々)については中止判断とする。

 

 

 

【その1】「千葉氏関係公開市民講座」[代替措置で実施]
1 「和田合戦と千葉一族」
 山本 みなみ 氏(鎌倉歴史文化交流館 学芸員)
2 「鎌倉武士の身分秩序 -朝廷儀礼の影響を考える-」
 小出 麻友美 氏(千葉県立中央博物館 研究員)

 

  まず、例年6月前後に実施し、市民の皆様にもご好評をいただいておりました「千葉氏関係公開市民講座」であります。こちらは、2016年策定の「千葉市:都市アイデンティティ戦略プラン」に謳われる「本市固有の歴史やルーツに基づく4つの地域資源」の一つとして掲げられる「千葉氏」に関して、本館として市民の皆さんに広く深く理解していただくことを目指して開催しているものです。本年度につきましては、実施を8月に延期してその可能性を探りましたが感染拡大の終息が見られず、残念ながら早々に中止判断とさせていただきました。
ただ、代替措置として、ご講演をいただくこととなっておりました講師のお二方には、講演内容を文字の形にしていただき、本館ホームページにアップとする対応といたします。また、ネット環境にない皆様のことも考慮し、冊子の形で刊行もいたします(ご希望の方はご来館いただいた方に限り無償にて配付させていただきます)。予定ではホームページへのアップ・冊子刊行ともに10月下旬を予定しております。具体的な期日につきましては、本館ホームページ等にてお知らせをいたしますので、楽しみにお待ちくださいませ。因みに、内容につきましては上記の通りです。

 

【その2】「教育普及活動」[対策の下で実施]
1 「小中高等学校 団体見学」9月から再開します!
※ただ本館ボランティアによる展示解説は実施できません。
2 本館ホームページ内コンテンツ「教育活動」の充実
※幕張小学校「出張出前授業の概要報告」「同 指導計画」「同 指導案」、本館利用時「学習シート」をアップします。

 

 次に、本館事業の要でもある教育普及事業であります。特に市内外の小中高等学校の「団体見学」への対応について8月まではお断りをさせて頂いておりましたが、9月から再開をいたします。既に多くの学校からのご予約を頂いておりますことにつきまして、まずはこの場をお借りして御礼を申し上げます。
例年であれば、ご来館をいただいた児童生徒の皆さんに、館内解説ボランティアからの展示説明を実施しております。しかしながら、児童生徒の皆さんに例え小集団にしたとしても、密な状況をつくり飛沫感染を助長する可能性のある解説を行うことは避ける必要があります(児童生徒の皆さんに限らず、ご高齢の方の多いボランティアの方々の安全にも配慮しなければなりません)。かような状況に鑑み、今後暫くはボランティア・館職員による「館内展示解説」は実施いたしません。その代替措置として、本館エデュケーターによる「小学生用」・「中学生以上用」、それぞれの「学習シート」を作成しております。それぞれ、本館ホームページのコンテンツ「教育活動」内にアップいたします。従来本館で設置していた単なる「解説シート」とも、単に知識を確認するための「穴埋めプリント」とも異なり、「新学習指導要領」に準拠した「調べ・作業し・考える」に重点を置いた内容となっております。本館へのご来館をお考えの学校関係の皆様におかれましては、必要に応じてダウンロードをされてご活用いただければと存じます。
併せて、7月に教育普及活動の一環としてご協力をさせていただきました幕張小学校での出張授業につきまして同コンテンツ内にてご紹介しております。小野校長先生のご厚意により「総合的な学習の時間(幕張スイーツプロジェクト)」全体計画(幕張小学校作成)の公開も快諾いただきました。併せて出張授業略案・当日授業概要~含:児童感想(本館エデュケーター作成)をアップしております。今後、市内小中高等学校にて本館への「出前授業」依頼を御検討される際の格好の資料としてご活用できようかとも存じます。勿論、中・高等学校からの出前授業の御依頼も大歓迎です。本館には、小学校担当のエデュケーターだけではなく、中・高等学校社会科担当のエデュケーターもおります。是非とも遠慮なく本館へご連絡ください。ご相談の上で可能な限りご協力をさせていただきます。

 

 

【その3】「千葉市史研究講座」[対策の下で実施]
◎9月26日(土曜日) 第1回:原始古代・中世
1 「縄文人の狩り」
 西野 雅人 氏 (千葉市埋蔵文化財センター 所長)
2 「武田信玄の関東侵攻と房総」
 細田 大樹 氏 (千葉氏関係史料調査会)
◎10月11日(日曜日) 第2回:近世・近代
1 「下総の村から幕末維新期の社会状況を考える」
 久留島 浩 氏 (国立歴史民俗博物館特任教授)
2 「生実浜野村の成立と展開」 
 神山 知徳 氏 (昭和学院中学・高等学校教諭)

 ※「予約制」~申し込みは8月28日まで既に終了しております。

 

 3つ目ですが、こちらも例年開催を致しております「千葉市史研究講座」についてです。本館事業の要ともいえる「千葉市史編纂事業」の成果を、広く市民の皆様にお知らせすることを目的に毎年、恒例で開催している公開講座あります。こちらは、既にご案内を差し上げておりますとおり、ソーシャルディスタンスを確保するために募集人員を制限した形で募集を行い、先日〆切とさせていただきました。周辺の公共機関での公開講座の中止が相次ぐ中での実施ということもあり、定員を相当数上回る募集を頂きました。厳正なる抽選結果につきまして、本日(9月4日)までには発送・メール配信にてお知らいたします。郵送の場合若干到着までの時間が必要です。今しばしお持ちいただけましたら幸いです。また、今回抽選に漏れた皆様には誠に申し訳ございませんが、現況に鑑みての参加人数縮減でございますので、何卒ご寛恕いただきたく存じます。講義内容の概要につきましては、年度末に刊行予定『千葉いまむかし』に掲載させていただきますので、そちらをご参照くださいますようお願い申し上げます。
当日の飛び込みでの参加等は一切お断りさせていただきます。また、本講座は2日間開催での参加希望を承っております。どちらか一方での参加では御座いません。以上の点につきましても何卒ご承知おきください。既に申込期間は終了し、今からの参加申し込みはできませんが、本館の活動ということでご紹介をさせていただいました。

 

 

 

 

【その4】特別展『軍都千葉と千葉空襲 ―軍と歩んだまち・戦時下のひとびと―』[対策の下で実施]
 [会 期]10月27日(火曜日)~12月13日(日曜日)
 [会 場]本館2階・1階展示会場
※期間中に予定する「記念講演会」(郷土博物館主催)、「戦跡散歩」(共催の市民総務課主催)も実施となります。
※関連行事の申し込み方法等は、今月半ば掲示・配布のポスター・チラシ、本館ホームページにてご確認ください。

 

  今年度の標記特別展につきましては、10月27日予定通り開催いたします。また、特別展に関わる講演会・散策等も開催予定です。本特別展につきましての詳細は追ってご紹介をさせていただいます。

 最後になりますが、その他のこととして、教育普及事業の一環として例年実施させていただいております『騎馬武者体験』でありますが、こちらはソーシャルディスタンスの確保が困難と判断し、行事そのものは中止判断とさせていただきました。ただ、代替措置として、映像撮影を行い本館ホームページにて公開させていただく予定であります。また、毎年ご好評をいただいております「古文書講座」も現在のところ、参加人数を大幅に縮減の上で実施予定であります。


現状で申し上げることのできることは以上でございますが、今後のコロナ禍の状況によっては予定を変更せざるを得ない場合、及び新たに別途ご紹介すべき内容もあり得ると存じます。今後、「市政だより」等のツールを用いて情報提供に努めてまいりますが、直近の状況につきましては本館ホームページが最速のものとなろうかと存じます。できましたら、頻繁にご確認を賜りましたら幸いです。今後とも、本館としての責務を果たしていくことを第一にして、諸事業・諸活動を推し進めて参る所存ですので、御理解とご支援とを、伏してお願い申し上げる次第でございます。11月以降の本館事業につきましては、時期をみて追って連絡をさせていただきますので、ご承知おきください。

 

 

 

 

 ザクセンの古都ドレスデンとケストナーのこと―または 戦後復興における官民の在り方について―(前編)

9月11日(金曜日)

 9月も半ばとなり、あと半月もすれば令和2年度も折り返しとなります。未だ未だ「秋たけなわ」とは程遠い現況にございますが、いのはな公園を歩んでいると降り注ぐ「蝉しぐれ」も、昨今ではツクツクボウシが主流派となりました。「暑さ寒さも彼岸まで」と申します。あと1~2週間の辛抱かと存じます。その時期になると、どこからともなく金木犀の芳香が街を漂うようになりましょう。私自身は、秋の訪れを最も身近に感じることが、金木犀の香りと彼岸花(曼殊沙華)の開花でありますが皆様は如何でしょうか。因みに、私の古くからの親友に毎年初めて金木犀の香った日を手帳に記録している風流士がおります。その顰に倣い、当方も見習おうといたしましたが、生来無粋の当方にはついぞ続けられた試しがありません。確か、昨年は例年より若干早かったように記憶しております。9月20日過ぎであったでしょうか。

さて、8月は6日・9日の広島・長崎への原爆投下、そして15日の終戦と、先の大戦を偲ぶための記念日が続きました。今回は、1か月半後に開催の特別展『軍都千葉と千葉空襲 -軍と歩んだまち・戦時下のひとびとー』に因んだ連載としまして、遠くヨーロッパを戦場とした「第二次世界大戦」の状況に目を転じてみようと存じます。先の大戦がヨーロッパにおいても大きな惨禍をもたらしたことは申し上げるまでもありません。ヨーロッパ諸国でも、我が国やアジア諸国にも匹敵する幾つもの惨劇が繰り返されました。ナチスドイツによるオランダ「ロッテルダム空襲」、同軍によるソ連「レニングラード包囲戦」、連合国軍によるドイツ諸都市への空襲、そして何よりもナチス政権がユダヤ人に加えたホロコースト等々。枚挙に暇がない事例をあげることができますが、今回は「東京大空襲」と並ぶ大規模空襲被害を受けた都市として世に名高いドレスデンと、そこに生まれ育った作家エーリッヒ・ケストナーに焦点をあてようと思います。


現在のドイツ(ドイツ連邦共和国)東部を流れる大河、エルベ川中流の河畔にザクセン州都ドレスデンがあります。川を遡れば国境を跨いでチェコ共和国の首都プラハまでは150km程、ドイツ国内を下ればハンブルグを経て北海に注ぐまで400km程となります。そのハンブルグ港湾部には、最近この川の名前に因んだ現代的な音楽ホール「エルプフィルハーモニー」が開館(音響設計は世界中の音楽堂を手掛ける日本の「永田音響設計事務所」によります)。その美しくも奇抜な外観と優れた音響とが相俟って、都市ハンブルグに新たな賑わいを生み出していると仄聞いたします。ちなみに「エルベ川」はドイツ国内での名称であり、同じ川が、上流のチェコボヘミア地方ではB・スメタナ作曲の連作交響詩『わが祖国』2曲目を飾る曲の名称として名高い「モルダウ川」と称されます。

今でこそ先進国を代表するドイツですが、歴史的に見ればヨーロッパでは後進国の一つでありました。諸侯が統治する小国家が分立し(領邦国家)、国家としての統一が遅れました。かつて、神聖ローマ帝国が存在し、特に中世以降はドイツ人国家としての性格を明確にしましたが、国家としての統一性は形骸化していき、分立する諸邦の形式的な連合体へと変質していったのでした。プロイセン王国を盟主とする「ドイツ帝国」として、端無くも統一国家の形態をとるのはようやく19世紀も末になってからのことです。そうした領邦体制の中で、ドレスデンを都とする王国がザクセンでありました。その他、ベルリンを都とするプロイセン王国、ミュンヘンを都とするバイエルン王国等々がある一方で、フランクフルトやケルンのような、中世以来神聖ローマ皇帝に直属し、周辺諸侯の領域に属さない帝国自由都市なる存在すら多々あるなど、多士済々の国内状況であったのです。その分、地域・都市毎の多様な文化が今でも色濃く残っていることがドイツの魅力ともなっております。その内のザクセン王国は、18世紀初頭フリードリヒ・アウグスト1世の治世下で最盛期を迎えます。今回話題とするドレスデンはバロック都市として整備され、「エルベ川の真珠」「エルベ川のフィレンツェ」とも讃えられました。その威容はイタリアの画家ベルナルト・ベッロット(カナレット)描く都市風景画に余すことなく描写されております。そのようなドレスデンについて、まずは個人的な想い入れから述べさせていただきます。

私自身のこの都市への想いは、間違いなく青年期に接したケストナー:高橋健二訳『わたしが子どもだったころ』(岩波書店)に負っています。ドレスデンに生まれ育ち、ナチズムが猛威を振るう中、ベルリンを活躍の舞台とした作家ケストナー。『二人のロッテ』『エミールと探偵』等の児童文学によっても親しまれておりますが、ナチス政権下で反ナチスの闘士として鳴らした硬骨漢でもありました。本作は戦後に自らの生い立ちを回想したいわゆる自叙伝ですが、一面で生まれ故郷ドレスデンへの頌歌ともなっております。作者をして以下の如く言わしめた街ドレスデン。ここまで讃えられた街に憧れを抱かずにいられることなどできましょうか。手軽にネット等で調べることもできない45年程も昔の話。ドレスデンへの淡い憧れは静かに培養されていきました。

 

 「ドレ―スデンは、芸術と歴史に満ちた、すばらしい都会だった。しかし、65万のドレ―スデン人がぐうぜん住んでいた博物館ではなかった。過去と現在とがたがいに一つのひびきをなして生きていた。じっさいは二つのひびきをなして、といわなければならないだろう。そしてエルベ川、橋、丘の斜面、森、地平線の山々などの風景とともに、三つのひびきをさえなしていた。歴史と芸術と自然が、マイセン寺院からグロースゼードリック王城公園にいたるまで、町と谷の上に、自分自身の声に魅せられた協和音のようにただよっていた。」

「よくない醜いものを知るだけでなく、美しいものをもわたしは知っている、ということが、ほんとうだとすれば、それは、ドレースデンに生まれた幸運の賜物である。何が美しいかを、わたしは書物によって初めて学ぶにおよばなかった。学校でも、大学でも、学ぶにおよばなかった。山林官の子が森の空気を呼吸するように、わたしは美を呼吸することができた。」

 

 その後、学生となってクラシック音楽に親しむようになった頃、彼の地のオーケストラ「シュターツカペレ・ドレスデン」(ドレスデン国立歌劇場の座付オーケストラが演奏会活動をするときに名乗る名称)に出会いました。今や懐かしいLPレコードによる邂逅でありました。NHK交響楽団への頻繁な客演で我が国でもよく知られるヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮するシューマンの交響曲を初めて耳にしたときの驚きを忘れることはできません。世界中の何れの名門楽団とも異なる自然な呼吸感、典雅なアンサンブルの妙、そして表面的キラキラ感とは無縁の天鵞絨のように底光りする音色に心底魅了されたのです。心中密かに醸成されていたドレスデンへの想いが、一気に「憧憬」へと昇華された瞬間でした。その後、同オーケストラの日本公演に足を運び、その実像を確認したことで、スタンダール『恋愛論』ではありませんが、「憧憬」は結晶作用を通じた「ザルツブルグの小枝」状態にまで到達したのでした。

そして、ついに、その街に降り立つ時がやってきました。それは、それから更に15年程も経過した36歳のこと[平成7(1995)年]。東西ベルリンの壁が開いてから瞬く間の東ドイツ政権の崩壊。そして、自分が生きている裡には決して目の当たりにすることなど叶うまいと思っていた劇的な東西ドイツ統一(1990年)から、既に5年が経過しておりました。しかし、未だドイツ国内には騒然たる空気が漂っていたように感じました。そうした中で足を踏み入れた、旧東ドイツ領域にあったドレスデンでしたが、「憧憬」は半ば叶えられ、半ば失望へと変わりました。ただ、そんなことはとうに分かってはいたのです。ケストナーが先の文に続けてこう書いていたことをよく知っていたからです。

 

 

 「ほんとうにドレ―スデンはすばらしい都市だった。みなさんはわたしのいうことを信じなくてはならないだろう!―(中略)―わたしのいうことが正しいかどうかをみるために、汽車に乗って行くことはできない。なぜならドレースデン市は、いくらか残ったところを除いて、地面から消えてしまったからだ。第二次世界大戦は、たった一夜で、たった一つの手の合図で、この町を消し去ってしまった。あの比類のない美しさを創造するのに数百年かかった。それを地面からスポッと無くしてしまうのには、たった数時間でことたりた。それは1945年2月13日のできごとだった。」

「わたしは、その2年後、このはてしない荒れ野原の真ん中に立って、自分がどこにいるのかわからなかった。粉砕されて飛散したレンガの間に、町名標がころがっていた。プラーグ通り、と、わたしはかろうじて判読した。わたしはプラーグ通りに立っていたのか。世界に名高いプラーグ通りに立っていたのか。わたしの幼年時代のもっとも華麗な通りに立っていたのか。もっとも美しいショーウィンドーのある通りに立っていたのか。クリスマス時のもっともきらびやかな通りに立っていたのか。わたしは縦横数キロにわたる空虚に中に立っていた。レンガの荒野の中に。ぜんぜん何もない中に。」

 

これこそが、世に名高い「ドレスデン爆撃(空襲)」に他なりません。

(後編に続く)

 

 

 ザクセンの古都ドレスデンとケストナーのこと―または 戦後復興における官民の在り方について―(後編)

9月12日(土曜日)

 私がドレスデンを訪問した当時、旅行者の目につくエルベ川沿いの記念碑的建造物群(ブリュールのテラス・カトリック宮廷教会・ゼンパー歌劇場・ツビンガー宮殿等々)は既に修復され復興しておりました。しかし、戦後50年経過しているにも関わらず、ザクセン王宮は復旧途上。ドレスデンの象徴たるプロテスタント聖母教会(フラウエン・キルヒェ)に至っては未だ瓦礫の山のままでした(広島の原爆ドーム同様に戦災遺物としていた側面も大きかったのでしょう)。

その時に垣間見た都市ドレスデンの姿は、第二次世界大戦後に成立した社会主義国家東ドイツの実情を彷彿とさせるに充分でありました。単純な比較は慎むべきとは思いますが、芸術文化面はいざ知らず、同じ民族が戦後つくりあげた工業製品を比較すれば一目瞭然。社会主義国東ドイツ唯一の国民車トラバントと、西ドイツ企業フォルクス・ワーゲン社(ドイツ語で国民車の意味)の自動車とを比較すれば、工業技術力(実質経済)の格差はもはや埋め難いものなっておりました。それでも、ドレスデンは未だマシな方。その際に歴訪した旧東ドイツの主要都市であった東ベルリンやライプチッヒは、それ以上に戦禍の跡が禍々しい程に放置されたままでした。東ベルリンでは、裏町に回れば街中の壁という壁は、ソ連軍によるベルリン陥落時に由来すると思われる弾痕で穴だらけでした。商業都市ライプチッヒにあるヨーロッパ最大の面積を誇る頭端式の中央駅。全部で24本ものプラットホームのある広大な駅構内で、使用可能なホームは中央2~3本のみであり、その他大部分が屋根から線路に到るまで空襲後に崩れ落ちた状態のままに放置されていました。高熱で曲がりくねった鉄骨が延々と連なる、未だ廃墟同然の構内風景に、東ドイツ時代の国内経済の実情を痛いほどに感じさせられたのでした。これらは、もはや「戦争遺産の保存」のレベルではありませんでした。因みに、私の訪問した2年後に当該駅舎は全面改修され、ようやく戦前の威容と賑わいとを取り戻したと聞きます。

再びドレスデンの話題に戻りますが、更なる驚きはケストナーの愛してやまなかった「プラーグ(プラハ)通り」の復興ぶりを目の当たりにしたときでした。ケストナーが、その賑わいと典雅さとを、溢れんばかりの哀惜とともに作品に描き込んだ目抜き通りの面影は、どこを探しても見当たりません。街としての復興はなされてはいたものの、そこは東ドイツ時代に再建された四角四面の建造物群の連なりと化しており、古都の面影は片鱗すら残っておりませんでした。そこは、もはや世界中のどこにもある新興都市の繁華街に他なりません。もしケストナーが、今の目抜き通りを見たら何と表現したでしょうか。変わり果てた最愛の故郷の姿をその目で見ることなく他界したことは、ある意味で幸せであったのかもしれません。もっとも、彼にとっての「ドレスデン」は、空襲の日を境に単なる都市名の「記号」と化していたことでしょう。因みに、彼は1974年に、かつてのバイエルン王国の都ミュンヘンにて75歳の生涯を閉じました。

 記録によれば、「ドレスデン爆撃」は1945年の2月13~15日にかけて、連合国軍(イギリス・アメリカ)によって波状的に4度に渡って行われたとのことです。のべ1300機の重爆撃機が投入され、合計3900トンもの爆弾が投下されたと言います。その結果、市街地の85%が瓦礫と化し、実数の確定は難しいようですが、2万5千人とも15万人とも言われる一般市民が犠牲となりました。ドレスデンへの空爆については、東から進撃するソ連軍を空から支援するという名目は存在したものの、その当時は既に大戦の帰趨はほぼ決着しておりました。しかも、軍事拠点のほとんど存在していなかった文化都市ドレスデンを爆撃し、戦闘員ではない一般市民を巻き込むことの戦略的な意味はほとんど存在していなかったと言われております。ロンドンへの空襲、ユダヤ民族に対する迫害等々に対するナチスドイツへの憎しみ拭い難き、連合国側の人々からですら「ドレスデン爆撃」を強行した自国や連合国へ多くの非難の声があげられたことも付記しておく必要がありましょう。戦後もその是非についての論争が延々と続けられたのでした。これについてもケストナーは憤慨を隠しません。

 

「ああ、いい争いがなんになるんだろう?いい争ったところで、ドレースデンを生き返らせはしない!美しさを、死人を生き返らせはしない!」

 

 何れにしましても、ドレスデンへの訪問を通じて、私の中でこの街は「憧憬の街」から「追憶の街」へと変容しました。美しいドレスデンは心の中で思い描く街となったのです。腹いせに、重さに耐えかねたスーツケースが変形したほど、古き良き戦災前のドレスデン(ベルリン・ライプチヒ)を撮影した写真集を何冊も現地で購入しました。しかし、その後、官民の手により瓦礫の破片を一つひとつ組みあげる途方もない作業の末に、2005年「聖母教会」の再建がなりました。いつの日にか、広範な市街地の復興に手が及び、再び典雅なプラハ通りが蘇り、「エルベ川の真珠」として不死鳥の如く甦らんことを祈る次第であります。それが、ケストナーに限ることなく、戦災で犠牲となったこの美しい街を愛した数多の人々の供養にも繋がると思うのです。もっとも、私が願うまでもなく、おそらくドレスデンは今後数百年にも渡る復興の時を刻み続けることでしょう。私自身は、あの世に旅立つ前に、更なる復興の進んだ街を再訪し、かのゼンパーオーパーでの「シュターツカペレ演奏会」に足を運ぶことが大きな夢です。

こうした戦後復興の在り方は、街(国家)の歴史と文化的伝統を誇りとし、自らのアイデンティティとして位置づけようとするヨーロッパ人の高い精神性を示す動向であると思います。特に、そうした動きが官民の双方に存在していることに大いに打たれるのです。つい最近の我が国での話題でありますが、広島市内で被爆を奇跡的に生き延びた、大正13(1913)年建造になる4棟の赤煉瓦造「旧陸軍被服支廠」について、管理する国・広島県は耐震性不足を理由に、1棟保存の上で3棟を解体する方針を固めたと報道されました。こうした動向には現在多くの市民(専門家も含む)の反対運動が起こっていると聞き及びます。奇跡的に残った「被爆の生き証人」としての大規模倉庫群を、たとえ一部を残すとは申せ、全容を地上から抹消してしまうことが果たして適切なのか大いに疑問です。無いものを新たに造ろうというのではありません。それとも被爆記念としては「原爆ドーム」だけあれば充分という判断でしょうか。飽くまでも個人的な見解ではありますが、世界に被爆という負の遺産をアピールできる、またとない歴史遺産として積極的な保存・活用に供することこそ、国際社会における我が国の責務と考えますが如何でしょうか。幸いに現在再検討が行われる可能性が浮上しているそうですが、予断は許しません。戦跡に限らず、文化遺産を比較的簡単に破壊する我が国の姿勢、保存の重い負担を所有者に課す姿勢、これらは我が国の歩んだ歴史そのものから目を背けることになりますまいか。そうしたことにこそ租税を費やすことが、文化国家としての在るべき姿に他ならないと考えます。少なくとも、私自身も含め多くの方々は、整備された「旧陸軍被服支廠」を拝見するためだけにでも広島に足を運ぶと思います。

最後に、我が国とは真逆の動きをとるドイツの動向をご紹介いたしましょう。かの国では、かつて東ベルリン地区に存在し戦災で破損、後に東ドイツ政権の下で解体撤去されたベルリン王宮を、統一後に復興する機運が高まりました。そして、東西ドイツ統一から30年を経過する本年10月の完成を目指し、シュプレー川中洲の旧地に昔日の外観を忠実に再現した建造物として再建工事が行われております。本王宮は、第一次世界大戦中までは、プロイセン国王でありドイツ帝国皇帝でもあったホーエンツォルレン家の居城でありました。旧東ドイツ社会主義政権が悪しき旧制の象徴として全面撤去したのです。その建造物を復興しようというのです。王宮跡地には旧東ドイツが建造した「文化宮殿」なる現代建築がありましたが、それを全面撤去し平地に戻し、一から王宮を建造しなおすことにしたのです。そのエネルギーと莫大な費用とは、とても政権の一存で決定できることではありません。広範なる議論の末のドイツ国民の総意に基づく事業に違いありません(実際に様々な観点からの反対意見も多くありました)。ドイツ民族の精神的支柱としての象徴的建造物再建を重視する官民の合意形成が執り行われた結果なのです。ただ、復元は外観のみとし(内装は再現せず)、「フンボルトフォーラム」という、広く市民が利用する複合文化施設とすることを落し処として合意形成に到ったと耳にしております。こうした動きにこそ、国家の文化的水準を計るバロメータが存すると思います。幾ら経済大国であると言っても、決してドイツの財政的状況が潤沢であったわけではありません。しかし、国家として何を大切にし、何に予算を優先的に配するのかのビジョンを国民に発し、議論を経たうえでの合意をとりつける姿勢と手続きの明確さに、私は議会制民主主義国家としてのドイツの矜持をみる思いがいたします。何でもかんでもドイツが素晴らしいと言うつもりはありませんが、同じ第二次世界大戦の敗戦国として我が国としても倣うべきことが多いと存じますが如何でしょう。 

今回は、前後編で、ドレスデンとケストナー、そして都市の戦後復興の在り方を巡る諸々について述べて参りました。勿論、建築に石材・煉瓦等を用いることの多いヨーロッパ諸都市と、木と紙で建築された建造物の多かった日本国内の諸都市とを同列に論ずることはできません。無くなった建物を一から再現することまで望むものでもありません。しかし、せめてせっかく生き残った建造物等を「戦争遺産」として保存・活用することこそ、「戦争の惨禍」を繰り返さない決意の表明となり、子々孫々へとそのバトンを引き継ぐ取り組みになるのだと信じてやみません。そして、これこそが、官民挙げての「戦後復興」の望ましき姿であり、二度と戦争を繰り返さないとの「平和教育」に直結するのではないかとも考えます。因みに、「軍都」であった千葉市内には、多くはありませんが今も貴重な戦争遺跡(建造物)が残されております。それらは、市民総務課主催の「戦跡散歩」等の活動を通じて平和教育に大きく貢献してくれていることも忘れてはなりません。

 

 

 本館の重要な機能「千葉市史編纂事業」 ―「千葉市史 史料編10 近代」1月刊行予定― ―10月行事追加「2AW観戦無料プロレス 第2回ファイト!ファイト!千葉城」―

9月18日(金曜日)

 本館正面玄関下で、「日中友好のアサガオ」が栽培されております。さすがに時季のものにて、8月中は我が物顔に咲き誇っておりましたが、9月も半ばを過ぎるとすっかりその勢いは影を潜め、今では地面近くに申し訳程度に幾つかの花をつけるだけとなっております。9月はじめの本館ツイッターにも掲載いたしましたが、当方の偏愛する高浜虚子作品に「土近く 朝顔咲くや 今朝の秋」なる句がございます。毎朝の出勤時にまみえる今日この頃のアサガオに接するにつけ、この虚子の秀句が念頭をよぎります。

 さて、今回は本館の重要な機能の一つである標記事業について取り上げたいと存じます。本事業の目的は、端的に申し上げれば、市内外に残る本市に関係する史料(古文書・古い書類・絵図・地図・写真・刊本・新聞・民具など)を広く渉猟し、それに基づいて千葉市がこれまで歩んできた歴史を明らかにすること。そして、調査・研究の成果を市民に皆様に広く公表することを通じて、市民の皆様の郷土理解を深め、千葉市民としてのアイデンティティを涵養していただくことにあります。

 勿論、こうした各地方公共団体の手になる自治体史の編纂事業は、千葉市だけはなく、周辺市町村でも必ずといってよいほどに執り行われておりますし、千葉県としても千葉県史料研究財団の手により、平成3年度から18年計画での編集・刊行が進められました。その成果は『千葉県の歴史』(全39巻)と『千葉県の自然誌』(全12巻)という大変な労作となって纏まられ、既に刊行を終えております。何冊か品切の巻がございますが、千葉県文書館(千葉市中央区中央)にて今でもそのほとんどを購入することのできる貴重な資料集となっております。因みに、本館の総括主任研究員である外山信司氏も、当時は史料研究員のお一人として『中世史料編』の編集に深く関わっておられました。

 我が千葉市における「市史編集事業」に戻りますが、歴史を辿れば、昭和44年12月、当時の宮内三郎市長の企画により、市制施行50周年記念事業の一環として開始されたときにまで遡ります。それからこれまで何度かの中断を挟みながら『千葉市史』の形で成果を刊行し続けて参りました。この間、『通史編』を全3巻(昭和49年刊行)[絶版]、『史料編』につきましては、昭和51年刊行『史料編1 原始古代中世』[絶版]から、平成16年度刊行『史料編9 近世』までの合計9冊が刊行されております[史料編2~9の近世編は全巻販売中]。また、並行して『社寺よりみた千葉の歴史』(昭和59年)、『千葉市南部の歴史』(昭和61年)、『絵に見る図でよむ 千葉市図誌』上・下巻(平成5年)、『天保期の印旛沼掘割普請』(平成10年)といった書籍の刊行もいたしております[何れも現在購入可能]。

 別に、広く市民の皆様へ市史編纂事業の成果をお知らせすることを目的に、市史研究雑誌として『千葉いまむかし』(昭和63年度から年1回刊行:最新33号)を、より簡略なリーフレット形式の『ちば市史編さん便り』(平成20年度より年2回刊行:最新24号)を、それぞれ刊行しております(前者は有償頒布。後者は無償配布)。以上、現在でも購入可能な冊子等々につきましては、本館のホームページ内のコンテンツ「千葉市史」をご覧いただけますと、各冊子等の内容の詳細、在庫の有無、頒布価格等を確認することができますので、是非ともご確認ください。併せて、今年度も1週間後の9月26日(土曜日)に第1回が開催される「市史研究講座」のように、公開講座の形式で市民の皆様に市史編纂事業の成果をお伝えするための取り組みも行っているところでございます。

 さて、これまで縷々ご説明して参りましたことで不思議なことがございましょう。平成16年に『千葉市史 史料編9 近世』の刊行から既に15年程も経過しているが、その後の近現代史料編刊行はどうなっているのかということです。お待たせいたしました。「千葉市開府900年」を迎える令和8年度を目途に『千葉市史 史料編 近現代』(10~12巻:全3冊)の刊行ができることとなりました。そして、過去3年間にわたる編集委員の皆様のご尽力の成果が実り、本年度末に1巻目に当たる第10巻が刊行できることになりました(タイトルにありますように1月刊行を予定しております)。また、その後は各巻の編集作業を通じて、令和5年度に第2巻目を、「千葉開府900年」を迎える令和8年度に最終となる第3巻目の刊行により、完結の予定となります。

昭和49年の『市制施行50周年』を契機にスタートした本市の市史編纂事業も、令和3年の『市制施行100周年』を経た令和8年度『千葉開府900年』をもって、過去50数年にもわたる「市史編集事業」に、ようやく一区切りがつけることができる目途がつきました。しかし、私たちは、それで『市史編纂事業』が完結するとは考えておりません。すでに刊行から50年を経て最新の研究成果に鑑みて、内容的に既にその役割を終えている『通史編』(それが再販をせずに絶版としている理由です)を、この間の調査の結果として纏められた『史料編』を用いて新たに書き起こす事業を進める必要があります。本来であれば、通史編というものは、史料編の編纂を受けて行われるのが筋でありますが、千葉市では逆立ちした状態で市史の刊行が行われました。そもそも、市内に如何なる史資料があるのか未だ判明していない段階で、如何にして通史記述をしたのかが不思議でありますが。少なくとも令和8年度の史料編の完結をもって、ようやく本来の形で通史編の叙述が可能な前提条件が整うこととなる訳です。

その点で、現状において、我々千葉市が見倣うべき取り組みをされているのが県内の市川市であります。市川市では、過去『市川市史』(昭和40~50年)が歴史関係書籍の出版元である吉川弘文館から刊行されております(通史編・資料編併せて7巻構成全8冊)。自治体史が出版社から刊行されること自体が極めて稀なことであります(その他に思いつくのは『鎌倉市史』くらいでしょうか)。経緯は存じあげませんが、大変に質の高い内容と評判の市史でありますので、あえて出版社が引き受けての刊行となったのかもしれません。しかし、流石にその後の市川市の変貌著しく、さらに新たな調査・研究の知見も積み重なったこともあり、市川市としては、平成20年度から新編『市川市史』の編纂事業を開始いたしました。全7巻の刊行であり、構成は以下の通りであります[第1巻「地形と環境」、第2巻「ムラとマチ」、第3巻「まつりごとの展開」、第4巻「変貌する市川市域」、第5巻「民俗」、第6巻「自然とその変遷」、第7巻「通史」]。その他に別冊として『写真図録 この街に生きる、暮らす』の刊行もなされるようです。既に多くの巻の刊行が済んでおりますが、何よりも驚くべきことは、内容の平易さと装丁等の親しみ易さであります。一般市民の皆さんが気軽に手に取って、自ら居住する市川市の自然・歴史・民俗の特色を理解できるよう、徹底した編集方針が各巻で貫かれております。それでいて、記述内容は少しもレヴェルを下げておりません。オールカラーで誰にでも見やすく、図版や写真も多数取り込んでおります。各巻の頁数は概ね450頁を越える大分な冊子となっておりますが、専門家にも一般の読者にとっても満足できる充実の内容であります。更に驚くべきことは、1冊の頒布価格が全巻とも1冊1,000円という驚異の価格設定であることです!!この内容と装丁であれば1冊3,000円と言われても誰も疑問に思わないでしょう。刊行から1年もしないうちに第3巻は完売し、既に品切状態となりました。市史がたった1年で入手困難になるなど普通は考えられません。これも、内容の充実とお買い得価格の設定によるものでありましょう。勿論、費用の大部分を市川市が負っているのでしょうが、市民の皆さんにとってこれほど有難く、市の姿勢に誇りをもてることはありますまい。誰に聞いても「さすが!文化都市の市川市!!」と高く評します。市川市の見識の高さと英断は正に見上げたものだと存じます。千葉市として是非とも手本とすべき事例だと思います。市役所をはじめとする市川市内関連施設で入手可能でありますので、皆様も是非ともお手にとっていただければ、その素晴らしさとコストパフォーマンスとに感嘆されること間違いなしだと確信いたします。因みに、品切れた新編『市川市史』第3巻は私個人も未だ入手が叶わずにおります。未だ全巻完結前段階での既巻品切を避ける必要から、市川市には是非とも増刷をして頂きたいと熱望する次第であります。

本市の市史編纂事業に戻りますが、その他にも、同じく内容の古色蒼然が顕著な『史料編1 原始古代中世』(絶版)新編集への着手、近世編刊行後に新たに発見され続けている新史料に基づく『近世 補遺編』の編纂、テーマごとに編集された史料編作成(例えば『近世道中記集成』等々)、更には、一般市民の皆さんに向けての千葉市内の歴史・民俗を概観できる一般図書の編集と刊行等々、市史編纂事業として取り組むべきことは未だ未だ無尽蔵にあると言っても過言ではありません。国内に冠たる文化の薫り高い政令指定都市「千葉市」として、市民が誇りうる活動を千葉市として継続的に推進して参らねばならないと思っておりますし、本館もその一翼を担うべくその役割に邁進して参る所存でございます。是非とも、市民の皆様の応援を賜れれば幸いに存じます。

 

 

【10月行事の追加情報】 主催:2AW 後援:千葉市教育委員会

今年もプロレス団体「2AW」が観戦無料プロレス
「第2回ファイト!ファイト!千葉城」を開催します!!

[日時]令和2年10月3日(土曜日)12時00分~13時00分(2試合予定)
※雨天時は10月17日(土曜日)に順延します。
 [会場]千葉市立郷土博物館前「いのはな公園」特設リング
[観覧]観戦無料(申し込み等は必要ありません)
※コロナ感染症防止のため、ご観戦の際にお願いしていることがございます。詳細につきましては、必ず「2AW」ホームページにてご確認の上でご来場くださいますようお願いいたします。→当館からのご案内 →2AWホームページ(外部サイトへリンク)

 

 

 公共機関における戦争関連展示会の在り方 ―または、気になる風潮に対して極々私的に思うこと―

9月25日(金曜日)

 あと少しで10月となります。早いもので、本年も残すところ3ケ月余り、本年度も折り返しとなります。つい先日の通勤途中に、今年も香しき金木犀の香りに出会うことができました。ただ、通勤経路に彼岸花が存在しないせいでありましょうか。残念ながら、今年は路傍の真っ赤な彼岸花(曼殊沙華)に遭遇することは叶いませんでした。昨年までの4年間は、勤務校前の全ての街路樹の足元に曼殊沙華が一斉に開花。それは見事であったものですから大いに残念な思いであります。

その彼岸花ですが、その名称からも明らかなように、この時季に墓地に咲く花という印象が強い所為か、鮮血のような色合いが理由なのか、はたまた根に強い毒があるからなのか、一般的に忌避され勝ちの草花のように思います。実際、日本古来の詩歌の世界でもほとんど目にしません。調べてみると万葉集に見える柿本人麻呂歌にある「壱師(いちし)」呼称で詠みこまれたものが最古の事例だそうですが、案の定、それ以降の古典詩歌にはさっぱり取り上げられておらず、その作例のほとんどすべては明治期以降のものと言って宜しいようです。
しかし、学生時代に出かけた奈良盆地で頻繁に出会った草花として、私にとっては忘れ難くも大切な存在となっております。この時季に古都に足を運んだのは、学生時代に所属したサークル活動の夏合宿が、毎年この時期に設定されていたからでしたが、それは9月に入ると宿代がお安くなるという如何ともし難い現実があったからに他なりませんでした。当時の学生はバイトをする機会も今のように潤沢ではなく、誰もが「慢性手元不如意症患者」でありましたから、新幹線利用など夢のまた夢。往復ともに夜行鈍行電車の利用でした。
ロクに寝ることもできずにクラクラ状態で到着した古都でしたが、そこでは、大いに気取ってその地を闊歩していたように思います。当時の座右の書であった、和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』、はたまた堀辰雄『大和路・信濃路』あたりに触発されておりましたし、ポケットに會津八一『鹿鳴集』あたりを忍ばせているのがファッションでもあったように思います。そんな訳で、父親から借り出した「ニコンF2」を駆使して、当時一世を風靡した「入江泰吉」擬きの写真をものしては悦に入っておりました。その際のモチーフとして必ずと言っていいほどフレームに取り込んだのがこの花でした。とりわけ飛鳥の地では、9月の青空と収穫前後の田地を背景に、畔に陣取る曼殊沙華群落の深紅が本当に絵になったものです。遠景に古寺や水田に棚引く野焼きの煙をソフトフォーカス状態で映し込めば申し分のない「勘違い写真」となりました。今思い返せば、懐かしい想い出ではありますが、お恥ずかしい若気の至りだとも思います。スノビズムと紙一重、いやむしろそのものズバリかもしれません。
今思えば、モグラ等に穴を開けられないよう、根に強い毒性のあるこの花が畔に植えられたこと、飢饉の際には毒抜きをして澱粉を最終的な食用とする救荒作物としていたなど、その昔の百姓の知恵と苦労などには全く無頓着で呑気に写真を撮っていたことも、大いに恥ずべきことと思っております。いやはや、調子に乗って少々個人的なお話が過ぎたことをお詫び申し上げます。


さて、本日は、一ケ月半後に開催される本館特別展『軍都千葉と千葉空襲 ―軍と歩んだまち・戦時下のひとびと―』にも因み、戦争関連の展示に対して寄せられる、昨今よく耳にする大変に気になるご意見について、当方としての存念を一言申し上げたく、あえて筆を執った次第でございます。ただ、最初に申し上げておきますが、以下の内容につきましては、飽くまでも私個人の見解であり、本館の総意でも、まして千葉市としての公式見解でもございません。もっとも、ご一読頂ければ、物議を醸すようなことなど一切ない、誰にでもご理解いただけるお話だと確信する次第でございます。

我々のような公共機関でも、先の戦争に関する展示会を行うことが間々あることは言うまでもありません。そして、かような展示会に際して、戦争の実体験をお持ちの方々からの証言を取り上げることもしばしばであります。そうした証言においては、それが軍人であれ、一般市民であれ、国内外で戦争を体験して戦後まで生き延びた人々に共通するのが「こんな悲劇は二度と繰り返してはいけない」「人の生命をかくも軽く扱った戦争など二度とご免だ」との思いであります。「戦争の時代に戻りたい」「戦争は楽しかった」との声に触れることは寡聞にしてございません。祖国のために自己を犠牲にして戦ったことを誇りに思われる軍人の方には多く出会いますし、そのこと自体は何よりも尊いことだと存じます。ただし、そうした皆さんでも「戦争の時代に戻りたいか」と問われれば、大方の皆さんは「いや、戦争など二度とするものではない」とお答えになることを、我々は重く受け止める必要がありましょう。

しかし、公共機関の展示会等において、かような戦争体験に対する証言を取り上げると、往々にして「これは個人的な意見にすぎない」と評されることがあるとよく耳にいたします。つまりは「全体の意見にはあらず」「戦争をプラスにとらえている人もいる」、延いては「戦争への負の印象操作をしている」「自虐史観だ」との謂でありましょう。確かに、個人の体験や意見であることには間違いありません。勿論、戦争の時代についてプラスのベクトルをお持ちの方はいらっしゃるでしょうし、「言論の自由」を保障する憲法下の民主国家において、そのこと自体を、第三者である当方がとやかく論う筋合いはございません。しかし、こうした言説に違和感を覚えるのは、果たして私だけでしょうか。天性の天邪鬼をもって任じる私は、こうした言説に「お言葉を返すようですが、貴方様のご意見も個人的なそれではございませんか??」と問い返したくなります。

広く戦争体験について渉猟されてきた研究者や博物館職員の皆さんの調査結果によれば、実際に戦場で死線を彷徨った一兵卒、そして空襲等で大切な人々や財産を失った体験をお持ちの民間人のうち、戦争を生き抜いた多くの方々が「個人的」にそう証言しております。それは最早「個人的意見の表明」というフレームを大きく逸脱しましょう。つまり、それこそを「公論」と称するのではありますまいか。私は、まずそのこと自体を真摯に、かつ謙虚に受け止めるべきだと考えますが、如何でありましょうか。

民間人という視点から更に申せば、日本では時の政府が打ち出した「国家総動員体制」の下、粉骨砕身して戦争に協力した民間人が、たとえ空襲等により自らの身体的損傷、親族の生命や全ての財産を失う等により、戦後の生活困難に陥っても、戦後補償の対象とはされておりません。その根拠とされた法理が「戦争被害受忍論」であります。小難しく聞こえますが、平たく申せば「戦争では皆がひどい目に遭った。だからみんなで我慢しなければならない」という理屈です。また、空襲等で親族の喪い天涯孤独となった戦災孤児の戦後は、調べれば調べるほどに目を覆いたくなるものです。何故何の落ち度も罪もない子供が、何故戦後にかくも社会全体から厄介者扱いされなければならなかったのか。どうして手厚い行政による保護の手が差し伸べられなかったのか。教育者の端くれであった身として暗澹たる思いを禁じえません。因みに、ドイツでも、財政状況的に日本とは比べるべくもないイタリアにおいても、民間人への戦後補償は(たとえそれがファシズム政権の責任であれ)戦後政権において担われていることを知っておく必要がありましょう。わが国では旧軍人・軍属とその遺族に対しての戦後補償はあります(勿論、そのこと自体はすばらしいことです)。ただ、問題は、その方々と戦争遂行を下支えした民間人との間に、一体如何なる本質的な差があるのかということです。このことは、民間人にとっての「国家総動員体制」とは如何なる意味を持った政策かを問い直す、価値ある問いにもなろうかと存じますが如何でしょうか。

つまり、戦後を生きる者、研究者、及び公共の博物館の役割は、綿密な考証を経た可能な限り多くの客観的歴史事実(何時、誰が、何処で、何を、如何に行ったのか等々)、そして当時を生きた多くの方々の証言(その時如何に感じ、何を思ったのか等々)を、たとえそれが不都合な真実を含んでいようが、可能な限り恣意を排して提示して、検証を加え、伝えていくことにこそ存するのだと考えます。そして、そのことが戦争を知らない世代が行うべき責務であり、二度とこうした戦争を繰り返さないことに直結する活動なのです。

ただ、展示する側が常に大切にすべき姿勢は、展示を基にした「価値的判断」は観覧された皆様に委ねられるものという矜持をもつことだと思います。勿論、展示を準備する側も人の子です。客観性を第一にしつつも、そもそも「意図」をもって展示企画を構成する以上、個人の意思が含まれるのは致し方がありませんし、それをすべて排除することはできません。しかし、我々(特に公共的な機関)が行うのは、史料の展示や調査研究を通して、可能な限りの客観的な事実を伝えることであり、意図して価値的な判断を提示することは慎まなければならないと考えます。しかし、再度繰り返しますが、適切な価値判断を行うための客観的な歴史的事実に蓋をして、覆い隠すことは避けなければなりません。後世を生きる人々は、どのような事実であっても、そこから目を背けてはなりません。本来、そこに如何なる忖度もあってはならないのです(勿論、プライバシーや個人としての名誉への配慮もなく、何から何までを白日の下に晒すべしと言っているのではありません)。少なくとも、私自身はかように考えます。それは、私自身が、長きにわたった社会科教師として教育現場において生徒たちに対しても貫いて参った矜持でもあります。このことを、皆様は如何お考えでしょうか。

国家間や民族間、宗教に関わる対立はこれからも絶えることはありますまい。しかし、少なくとも、武力による問題の解決が、決して一人ひとりの人間の幸福には直結していないことだけは、まぎれもない明確な歴史的事実であろうかと存じます。秋の特別展では、ご来館いただいた皆様に、かようなことどもに思いを巡らせていただける機会としたいものと、私個人としては考えます。是非ともご期待ください。


最後に、偶々現在読んでいる木村陽二郎『江戸期のナチュラリスト』(朝日選書 1988年)にて出会った、貝原益軒の言葉が印象的でありましたので、ここに引用して本稿を閉じたいと思います。益軒は、ご存知の通り江戸時代中期を代表する朱子学者・本草学者であります。福岡藩黒田家に儒官として仕え、多くの著作をものしております。何より、よく知られる『養生訓』の著者らしく85歳の長命を保ちました(彼の死後2年後、徳川吉宗が8代将軍に就任し時代は「享保」となりました)。以下は、その主著『大和本草』にある文章の現代語訳です。文章にある「本草学」を「学問」に入れ替えれば、如何なる時代にも、如何なる学問に携わる人にも通じることと存じます。勿論、自分自身への強い自戒を込めての引用でございます。一読、今から300年以上も前に生きた益軒の真摯で謙虚な学問への姿勢に、背筋の伸びる思いを禁じ得なかったことを告白させていただきます。「須らく首を垂れて古人の金言に之倣うべし」。

 

 

 「およそこの学、本草学をする人は博学で広い知識を持ち、多く聞き多く見て疑わしくあやしいことを排することである。かれこれを参考し、是非を分かつこと精細でなくては実際の知識としてはならない。自分が見たり聞いたりしたことを妄りに是として、人が自分と異なることを言うのを非となして固執して誤りにおちいってはならない。おおよそ見聞が少ないことと、見聞を信じることと、ただただ自分の説をとって軽率に決定すること、以上の四つは必ず誤りがある。」

「本草および群書に書かれていることが互いに食い違っていることを知るべきである。その中の一つをとって妄りに信じてはならない。ことごとく書を信ぜば書なきにしかずと孟子はいう。自分の『大和本草』の記事のなかにも誤りが多いだろうから、その誤りを正して下されば幸いである。」

 

 

 大原幽学と「大原幽学記念館」―近世後期の地域社会の再興と教育の在り方について―(前編)

10月2日(金曜日)

 昨日より10月となり、世間はすっかりと秋めいて参りました。今年も過日昨年以上の規模ともいわれた台風が西国を襲い甚大な被害をもたらしました。今後のことは想定の範囲外でありますが、昨年9月から10月にかけての台風・局地的豪雨が、われらが千葉県内に甚大なる災いをもたらしたことは記憶に新しいところです。県内各所においては、現在でもその復興途上にあるといっても過言ではありますまい。私の周辺にいらっしゃる方から間々耳にするのが、「修理して維持しようと努めた実家だが、被害状況のあまりの深刻さゆえに解体することに決めた」とのお話であります。個人宅に限らず被害は寺社建築にも例外なく及んでおります。酒々井町本佐倉にある徳川家ゆかりの浄土宗寺院「清光寺」でも、近世初頭に建立された本堂が大破。貴重な文化財として修築を計画したそうですが、残念ながら資金難により建て替えへと方針転換したと耳にしました。解体に先立って行われた調査により、襖の下張りから徳川家関係古文書が多数発見されたとの朗報もある一方で(本寺には徳川家康の父である松平広忠「歯骨墓」が存在している関係でありましょう)、せっかくの文化財的価値があると思われる本堂建造物が消失することは大いに惜しまれるところです。

何れにしましても、地球の温暖化の進展に伴う昨今の台風・局地的豪雨の状況たるや、平安王朝文学に登場する「野分」のレベルを遥かに凌駕したものと化しております。「野」にすだく草々を「分ける」どころか、鉄塔や電柱までをも凪倒すほどの猛威なのですから。本市に限りませんが、今年は、昨年のような被害をもたらす大風大雨が襲来しないことを、ただただ祈るところであります。ただ、専門家によれば太平洋の水温が未だに高い状態にあり、今後も巨大台風が何時発生しても、いつ関東に襲来してもおかしくない状況にはあるそうです。用心しようにも限りがありましょうが、それに耐え得る備えを公私問わずに進めることが求められましょう。我々行政としましても、昨年のことを念頭において事前の対応を充分にして参る必要があります。


さて、話は180度変わります。現在本館の2階に千葉県内にある「大原幽学記念館」のポスターが掲示されております。そして、そこには「令和元年12月に大原幽学記念館は県内42番目の登録博物館となりました」と書かれてあります(記念館自体は平成8年に開館しています)。このことは「博物館」と称する施設が如何なるものかをご説明する格好の題材なのですが、今回はこのことには立ち入らず、当館が本館同様「登録博物館」となったことを寿ぐとともに、当方も昨年初めて当館を訪れ、その人となりに大いに興味を持つこととなった大原幽学なる人物について、是非ともご紹介をさせていただきたいと存じます。

現在の千葉県に縁のある思想家として著名な人物と申せば、中世における日蓮、近世では元禄期に柳沢吉保に仕え、後に8代将軍徳川吉宗からの諮問に応えて『政談』を著した荻生徂徠、同時代に父が当時の久留里藩主土屋家に仕えていた新井白石あたりに指を屈するところかと存じます。この3人は、千葉県の枠を遥かに凌駕し、日本思想史に屹立する巨人であることは言うまでもありません(ただ千葉で生まれ育ったのは日蓮のみです)。もう一人。日蓮・徂徠・白石と比べるとメジャーとは申せませんし、御多分に漏れず千葉の生まれ育ちではありませんが、その3人以上に深く房総の地に根差した活動を行った思想家を忘れるわけには参りません。その人物こそ大原幽学その人に他なりません。

大原幽学は、江戸時代末、天保から安政にかけての混乱を極めた世相の中、長部村(現旭市)を中心とする荒廃した農村に入り込み、下総国東部(東総)における農民の教化を通じた農村の改革復興運動を主導することで、地域に大きな足跡を残した人物であります。ほぼ同時期に、相模国小田原藩等で農村復興に取り組んだ二宮尊徳と並び称されることの多い人物です。しかし、尊徳は一昔前何処の小学校にもあった石像(薪を背負い読書をしながら歩行する少年期の姿)で、明治以降の日本人には「勤勉」の象徴として馴染み深い存在である一方、幽学は千葉県民にもあまり知られていない存在かと思われます。


東総は、銚子を要とすれば、北西に利根川下流域が、南西に九十九里浜沿岸が、扇状に広がる地域です。江戸時代に入ると、鰯の大漁に沸いた九十九里浜は干鰯・〆粕という金肥の一大産地となり、猫の手も借りたいほどの好景気が訪れることとなります。また、銚子ではヒゲタ・ヤマサを両巨頭とする濃口醤油醸造業が盛んとなり、下総国西部の一大生産地である野田(亀甲萬)と併せて、江戸後期には上方醤油を駆逐。江戸を中心とする関東地廻経済圏を席捲するまでに至りました。更に、幕府による東廻航路の整備により、海路銚子に運ばれた物資が高瀬舟に積み替えられ、利根川を溯り関宿から江戸川を経由して江戸へ運搬される物流ルートが確立。利根川は物流の一大動脈となり、流域の河岸場(川湊)も空前の賑わいを見せるようになったのです。

その結果、東総地域には利に敏い多くの流れ者が押し寄せるとともに、社会に貨幣経済が深く浸透することとなりました。そのことは魹のつまり、子どもまで遊興に耽り、身を持ち崩す者を多く生みだし、挙げ句は潰れ家が続出するなど、深刻な地域(農村)社会の荒廃と頽廃とをもたらすことにも繋がったのです。御存知のとおり、飯岡助五郎と笹川繁蔵との抗争を描いた近世の稗史『天保水滸伝』の舞台こそ当該地域に他なりません。彼らアウトロー達による大立ち回りが講釈や舞台で盛んに演じられ、その姿が浮世絵として出版されるなど巷間大いに持て囃されました(稗史だけに筋立ては史実とは相当異なっておりますが)。もっとも、助五郎は繁蔵と同じ博徒でありながら、一方で十手持ちを担い博徒を取り締まる立場でもありましたし、網元として漁業の振興や漁港の整備等を通じて飯岡の地の発展に尽力した側面も持っていたようです。何れにしましても、大原幽学と飯岡助五郎は、地域外からの流れ者としてこの地に辿り着いた者という点で共通しているのです。実は、そのことが最終的に幽学の命運を左右することに繋がります。恐らく2人に面識は無かったものと思われますが、同時代の東総の空気の中で生きた者同士でありました。

(後編に続く)

 

 

 大原幽学と「大原幽学記念館」―近世後期の地域社会の再興と教育の在り方について―(後編)

10月3日(土曜日)

 実のところ、自身が黙して語っていないことから、幽学の出自についてはよく分かってはいません。確かなことは、本来は武士であったこと、故あって家を離れ漂泊の人となったこと(尾張国の生まれと伝わります)、そして行く先々の有力者を頼り、俳諧・和歌の宗匠、寺子屋の師匠、武芸の指南等々を糧としたことくらいです。その間、各地でお大尽の食客となることを通じて、村や家の内部事情を悉に観察したのでしょう。村の荒廃と破綻する家の様子を目の当たりにして、いつしかその復興に関心を抱くようになったようです。そして、近江国の伊吹山松尾寺で師と仰ぐ提宗和尚と出会い、齢33にして自らの生きるべき道に覚醒したと言います。その後は、各地を巡りその考えを伝えました(天保年間に道徳と経済の調和を説く「性学」として結実したとのことです)。そして、偶々訪れた東総の地で教えを広めた折、その思想に感銘をうけた聴講者の一人、長部村名主、遠藤伊兵衛から懇願されたことを契機に、天保13(1842)年屋敷の提供を受け、46歳にして28年に及ぶ漂泊生活に終止符を打ちました。その後は、東総に腰を落ち着け、多くの門人を教え導き、彼らとともに荒廃した農村と家の再興を目指す実践を力強く推進していくのでした。その家屋と教化の跡が干潟の地に今も残り、昭和27(1952)年には国の史跡指定を受けております。そして、その傍らに「大原幽学記念館」が併設されております。展示内容も大変に充実した優れた博物館施設であります。


幽学が取り組んだことは、農民共同体の再構築でした。国内初とも言える農業協同組合組織の下、農作業の効率化を目的とした村ぐるみでの土地交換と耕地整理、住居の分散移転等々、先駆的な農村改革の取り組みが推進されました。その結果、農業生産は向上し、領主への年貢米も完済を実現できるようにまで回復。それと伴に農民の生活自体も上向いて来たのでした。同時に、幽学が熱心に取り組んだのが「教育」です。つまり、人を育てない限りはせっかくの成果も元の木阿弥に帰すと考えたのです。特に「甘ったれた子ども」と「子離れできない親」の関係性解消が目指されました。幽学は甘やかされた放蕩息子が家を破産させる事例を、漂泊生活を通じて数え切れないほど見てきたのでしょう。そこで、幼い頃に親子を切り離す期間を設け、子供に他人の家の飯を食わせることで、他者への感謝と協調性・忍耐力を育成し、親の有り難みを実感させることを推し進めました。そうした取り組みこそが、一人前の人間を育てることに不可欠であると考えたのです。それが「預り子・取替え子」の仕組みです。しかし、これは逆に考えれば、他人の子どもを責任持って一人前の人として育成する自覚を促すという意味において、「大人(親)への躾(教育)」に他なりません。私自身も、長らく教育に携わってきた経験から、子どもの自立とは実のところ親の自立と同義ではないかと考えざるを得ない事例に間々遭遇いたしました。大人・子供に関わりなく、人を一人前の人間とすることが「教育の機能」であることに気づき、果敢に実践に取り組んだ幽学の着眼には瞠目させられます。勿論、今日日これを実践することなど不可能に違いありません。しかし「子は地域で育つ」と言われるように、虐待事件・虐待死が相次ぐ今日こそ、子育てへの第三者関与の重要性を示唆する幽学の思想に、改めて学ぶべき点が多々あると考えますが如何でしょうか。

こうして、幽学の活動は地域社会からの大きな支持を受け、門人は村を越え、東総を越えて広域に拡大していきました。しかし、その「広域性」と「徒党性」とが幕府の嫌疑に繋がりました。関東取締出役に睨まれた幽学は江戸に召喚され、7年にもわたる詮議の末に有罪となりました。幽学の無実を証明するために多方面から手が差し伸べられましたが、結論は端からの既定路線だったと思われます。人別(戸籍)確かならぬ流れ者が地域の社会秩序を乱したとされたものと思われます。実のところ、東総には封建秩序の破壊者など掃いて捨てるほど存在していたのにも関わらず。

永きに渡った訴訟の疲労と性学を学んだはずの村の荒廃を嘆いた幽学は、安政5(1858)年3月8日、失意のうちに東総の地で武家作法に則り自害して果てました。62年の生涯でした。幕藩体制の維持に貢献こそあれ、反社会性など微塵も存在しなかった幽学の活動はこうして幕を閉じることとなったのです。志半ばの死はさぞかし無念であったに違いありません。自刃の地に幽学の墓所が設けられ、その地もまた国指定史跡となっております。因みに、同時代人である飯岡助五郎は侠客には珍しく天寿を全うしました。幽学の死の翌年に、齢68で飯岡浜川端にある自宅の畳で静かに息を引き取っております。


大原幽学が、これまで、広く知られてこなかったのは、恐らく彼が革命家ではなく、改良主義者であったからだと思います。庶民には到底理解しがたい高邁な思想を掲げたり、声高に社会的問題を論ったり、ましてや衆を頼んで一揆を先導した等の勇ましい側面は皆無であります。飽くまでも封建社会の在り方をより機能的に改良する方向をもって改革に取り組んだ点で、「英雄的人物像」からはほど遠い存在かと思います。少なくとも大河ドラマの主人公として適任者とは申せますまい。しかし、私は、飽くまでも、現実に目の前に生きる一人ひとりの人間に目を向け、その心の在り方・生き方を問い直すことを通じ、漸進的に地域社会の在り方を望ましい方向に振り向けようと尽力した、大原幽学という人物の地道で誠意に満ちた生き様に深く共感をおぼえます。また、こうした生き方をした人物が、往々にして高く評されないことを残念にも思うのです。

以上、ご紹介しました国史跡「大原幽学遺跡」(実際に幽学の生活した旧宅、耕地整理された田地なども残っており見学することもできます)、及び彼の思想と活動について詳しく展示している当館を、この秋に訪れてみては如何でしょうか。決して交通の便の宜しい立地ではありませんが、お出かけになる価値は十二分にあると存じます。この時季には、幽学縁の田地の畔に彼岸花(曼殊沙華)が咲き乱れているのではないかと想像いたします。それは、あたかも幽学の無念の血潮を思い起こさせることとなるかもしれません。 

 

 コロナ禍中における「東京五輪(オリパラ)」に思う―または、はっぴいえんど『風街ろまん』のこと―(前編)

10月8日(木曜日)

 秋の気配も深まりつつある先の土曜日(10月3日)、昨年度に引き続き2回目の開催となる地元団体「2AW」による観戦無料プロレス「ファイト!ファイト!千葉城」が、本館前庭にて賑々しく開催されました。コロナ禍の邪気を払うかのようなレスラーの皆さんの躍動感溢れる丁々発止の遣り取りに、観客の皆さんも大いに盛り上がりました。世情が世情だけに、ご覧になった皆様が少しでも元気を取り戻す機会になってくれればと願っておりましたが、夢中になって声援を送るファンの皆様の姿に接し、本館が価値ある興業の場をご提供できたことに、大いなる喜びを感じる次第でございます。因みに、私自身はプロレス興業を初めて拝見させていただきましたが、熱狂的なファンが多いのも宜なるかなと思った次第です。正しいかどうか分かりませんが、レスラーの方々もファンの皆様も、歌舞伎の世界にも通底する所謂「様式美」を追求されておられるのではないかと感じた次第であります。そうした意味から申せば、プロレス興業が日本人に支持される由縁にも合点がいくように思いました。ご来場頂いた皆様、そして市民の皆さんと少しでも元気を分かち合いたいとの想いを込めて、困難な状況を一つひとつクリアーされ、地域活性化のためにここまで漕ぎつけて頂きました「2AW」関係者の皆様に、心から感謝の思いを捧げたいと存じます。誠にありがとうございました。


さて、「2020オリパラ東京大会」についてであります。本来であれば、令和の時代の幕開けを言祝ぐお誂え向きの「平和の祭典」として7月に開会。9月半ばには会期を終え、今頃は余韻を噛みしめている頃であったことでしょう。勿論、一年延期しての開催とのことでありますので、2021年の開催を待ちたいところではあります。ただ、今後のコロナ禍の状況如何で、どのとうな規模で、どのような形で開催することになるのか等々、現状不透明としか言いようのない段階であります。ただ、いつまでも宙ぶらりんというわけにもいきません。実施の有無を含めた最終判断は、事前準備の関係から本年12月中がタイムリミットのようです。世界で待ち望まれている祭典が、たとえ規模を縮小するにせよ開催されることに期待を繋ぎたいところであります。

 オリンピックと申せば、当方のような老頭児(ロートル)にとっては、何を置いても、昭和39(1964)年開催の「東京五輪」の記憶が鮮明です。今から半世紀以上も前のことになります。その当時、私自身は満5歳であり、幼稚園でどこかの競技に応援に出かけたことを記憶しております。また、地元「光陽楼」という中華料理店の店先に設置された街頭TV受像機を前に、日本人選手の活躍に一喜一憂する大人達の姿を眩しく眺めていたことを忘れることができません。テレビはこの五輪を機に各家庭に普及したと言われておりますが、下町の一般的家庭にとっては未だ未だ高嶺の花だったのだと思います。今振り返れば、東京五輪は日本国民にとって、「戦後復興」を象徴する輝かしい希望でもあったのでしょう。そして、五輪を起爆剤にして、時代は高度経済成長への歩みを一層加速させていきました。それに伴い、東京の街の風景も刻々と変貌していくことになりました。私もそうした中で多感な時期を過ごした訳ですが、変化を誇らしく思う少年期から、そのことに「心の澱」のような違和感を感じる思春期・青年期を迎えたのでした。歴史的に申せば、昭和49(1974)年「オイルショック」を契機に、高度経済成長の時代が陰りを見せ始めた頃だったでしょうか。

小学生の頃、隅田川が近くになると直ぐに分かりました。何故ならば途轍もない悪臭が街中に漂い始めるからです。今でも、本所吾妻橋の欄干から見下ろした水面の風景をはっきりと思い出すことができます。流れる水が墨汁のような漆黒色でした。子ども心に「だから、すみ(墨)田川という名前なんだ」と信じていた程です。それが工場や各家庭から排出された汚水によるものであることを知ったのはもう少し後のこと。今思えば、「巨大な溝川」という表現が正鵠を射ていました。道路は車で溢れその間に路面電車が立ち往生していました。スモッグで街が霞んで見えました。街にある立派な家屋敷や風情のある仕舞屋が次々に取り壊され、次に出会った時には無味乾燥なビルに生まれ変わっていきました。それでも、小学校の頃までは、東京都心であっても季節の匂いや音がありました。今より海や里山がずっと近かった所為でしょう。夏になると何処からともなく潮の香が街を漂い、横丁からは金魚売や豆腐売や貝売りの声が聞こえました。夕立が通り過ぎると涼やかな風が路地を通り抜けました。秋になれば落ち葉やそれを焚く薫りが町を覆いました。蒸気機関車の汽笛や列車が鉄橋を渡る音が風に乗って遠くから響くのは決まって寒い冬でした。

そうこうしているうちに、自動車の通行に邪魔であるとの理由から街から路面電車が撤去され、土の道が姿を消し、次々に掘割が埋め立てられていきました。それと歩調をあわせるかのように、四季の薫りや音までもが消えていった東京の変貌に哀しさが募りました。当時の私は、お年頃特有の異性のことで悶々とするだけにとどまらず、かような思いにも捕らわれる、今思い返せば、さぞかし面倒臭い小生意気な青少年であったことと思います。
(中編に続く)

 

 コロナ禍中における「東京五輪(オリパラ)」に思う―または、はっぴいえんど『風街ろまん』のこと―(中編)

10月9日(金曜日)

 「はっぴいえんど」という名のバンドに出会ったのはそんな頃でした。アルバム名は『風街(かぜまち)ろまん』(1971年初発)。私は、忽ちその音楽と詞の世界に魅了されました。とりわけ心の襞にぴたりと寄り添う歌詞の世界観に惹きつけられたのです。中学校1年生から洋楽に夢中となり、中3の頃には一端のビートルマニアでもありましたが、当時は歌詞の世界には全く無頓着でした。この和製バンドとの出会いは、歌詞を意識して音楽に接することの喜びを知る初めての経験となったのです。楽曲の作詞を一手に担っていたのは、バンドの一員としてドラムを叩いていた松本隆。都会の青年の空想の中に描かれる、この世ならぬ浮遊感のある心象風景。今でも余り使われない古風な語彙や言い回による、ちょっぴりぺダンティックば雰囲気。擬態語や「です」「ます」を多用する新鮮な語感等々、日本語の美しさと面白さとにすっかり心を奪われました。ただ、その時分には「何故この歌詞に心惹かれるのか」に思いを致すことはありませんでした。

松本は、1972年大晦日のバンド正式解散後に歌謡曲の世界に身を転じ、松田聖子をはじめとする膨大なヒット曲の数々で作詞家としての名を不動のものとし、今も変わることなく旺盛な仕事をされております。そんな松本隆の若き日の姿がここにあります。もっとも、私はバンド解散後の松本の仕事に詳しくはありません。かつての戦友3人に提供した歌詞を知るくらいです。因みに、解散後の松本以外の3人の音楽家の活動も、松本に劣らずに目覚ましいことを申し添えておかなければなりません(傑作『ロング・ヴァケイション』を生み出し数年前に鬼籍に入られた大滝詠一。「イエロー・マジック・オーケストラ」でのテクノ音楽により、世界のミュージックシーンを席巻した細野晴臣。天才ギタリストの名を欲しいままにし、名作『バンド・ワゴン』をものした鈴木茂)。

当時は、日本語でロックを歌うことなど不可能と、まことしやかに囁かれていた時代でした。かような時代に、大瀧・細野・鈴木・松本の4人が、日本語の持つ多様な語感をロック音楽に如何に融合させるかという実験に果敢に取り組んでいたことを知ったのも、楽曲「風をあつめて」「花いちもんめ」「はいからはくち」等のポエジーが、高度経済成長と東京五輪を契機に失われゆく故郷東京への郷愁と、街を蔑ろにする者たちへのシニカルな思いの反映であったことを知ったのも、ずっと後になってメンバーの回想を目にしてからのことでした。松本は自らの喪失感を架空の「風街」として詞の世界に刻印したのです。その時、その昔自分の琴線に触れたものが何だったのか、初めて腑に落ちました。

今では彼らが残してくれたアルバム3枚を一層愛おしく感じます。楽曲から匂い立つ、大好きだった私にとっての東京原風景。生まれ育った故郷としての東京の「束の間の幻影」に胸を締め付けられる想いがいたします。そして、古き良き東京の街や風習の喪失の主たる要因が、米軍による空襲以上に、高度成長期以降の同胞の旺盛な経済活動に起因することに、痛烈な皮肉を感じたのです。勿論、自分自身が経済発展の利益の享受者であり、経済発展についてとやかく言うつもりも、それ自体を否定する傲慢が許される筈もありません。ただ、もはや言っても詮なきことでありますが、何故、それ以前の社会・文化との連続性を意識した街づくりができなかったのか。それを思うと残念でなりません。消え去ったものを取り戻すのは容易なことではありません。世界各国に目を転すれば、自国の伝統・文化を中核に据えた街づくりを誇りをもって進めているではありませんか。
(後編に続く)

 

 コロナ禍中における「東京五輪(オリパラ)」に思う―または、はっぴいえんど『風街ろまん』のこと―(後編)

10月10日(土曜日)

 以下、ファーストアルバム『はっぴいえんど』(通称「ゆでめん」)より「かくれんぼ」、セカンドアルバム『風街ろまん』より2作「風をあつめて」「夏なんです」、そして「松本隆 作詞活動四十五周年トリビュート『風街であひませう』」より、亡くなった大瀧詠一を除いた3名の「はっぴいえんど」が2015年に集って紡いだ「驟雨の街」のそれぞれ冒頭部分をご紹介いたしましょう(全文引用は著作権の問題に触れる可能性もありますので)。70歳を越えた松本の中に湧き出ずる詩魂が少しも枯渇することなく、半世紀にもわたって今も脈々と息づいていることに、私は深く感動いたします。皆様がどうお感じになるか皆目見当もつきませんが、古き良き東京とその郊外の肖像、及びその時代を生きた人々の内面世界について、皆様の心中密かに共鳴する何物かがございましたら嬉しく存じます。千葉の街にもきっと同じような移り変わりがあったことでしょうから。

 

 

風をあつめて

街のはずれの
背のびした路地を散歩してたら
汚点(しみ)だらけの靄ごしに
起きぬけの路面電車が
海を渡るのが見えたんです
 それで ぼくも
風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を

 (以下 略)

 

驟雨(しゅうう)の街

稲光り ストロボみたいに
闇に白い顔の静止画
 言いかけたこと呑みこんで
走る雨雲を君は目で追う

街は驟雨 通りは川
mm
夜空に光る糸
 巻き取る観覧車
 街は驟雨 通りは川
mm
ぼくらの日常は
壊れかけた幻灯機

 (以下 略)

 

夏なんです

田舎の白い畦道で
埃っぽい風が立ち止まる
地べたにペタンとしゃがみこみ
奴らがビー玉はじいてる
 ギンギンギラギラの
太陽なんです
 ギンギンギラギラの
夏なんです

鎮守の森はふかみどり
舞い降りてきた静けさが
古い茶屋の店先に
誰かさんとぶらさがる
 ホーシーツクツクの
蝉の声です
 ホーシーツクツクの
夏なんです

 (以下 略)

 

かくれんぼ

曇った空の浅い夕暮れ
雲を浮かべて煙草ふかす
風はすっかり凪いでしまった
私は熱いお茶を飲んでる

「君が欲しい」なんて言ってみて
裡でそっと摺り落とす
吐息のような嘘が一枚(ひとひら)
 私は熱いお茶を飲んでる

(以下 略) 

 

 

 そのような訳で、飽くまでも個人的な思いではありますが、今回の「東京オリパラ開催」には大いに懐疑的でした。これを機に、微かに残る古き良き「東京」も根刮ぎにされるのではないかとの危惧を払拭することができませんでした。実際、築地市場(私の父の代まで我が家業の場でありました)の豊洲移転や五輪道路建設も、遠い京都でのホテル建設ラッシュと伝統的町屋の急速な消失も、今回の五輪開催と連動しておりましょうから。しかし、コロナ禍で大会が延期となった今、是非とも世界に希望の灯火を点す意味で開催されることを望むようになりました。ただ。前の五輪が戦後復興の希望であったように、コロナ禍克服後への明るい展望を持てる大会である必要がありましょう。たとえ規模が縮小されることになっても、それは、決して「五輪」の美名の下での「スクラッシュ&ビルド」に終わることのない、そして二度と戻ることのない「日本の古き良き何ものか」を消し去ることのない、そのような「五輪」でなければならないと強く思うのです。換言すれば、それは大会後に人々の心に「風街」をつくることのない、「調和の時代」を表象する五輪に他ならないと考えます。

因みに、56年前の今日この日に「東京五輪」の開会式が行われました。それは、どこまでも澄み渡る青空の下、現在放映中NHK連続テレビ小説『エール』のモデル古関裕而畢生の名作とされる『オリンピックマーチ』が、希望に溢れた未来を約すかのように響き渡るなかでの出来事でした。

 

 令和2年度「市史研究講座」第1回―西野雅人氏のご講演「縄文人の狩り」から見えてきた新たな縄文社会の位相―(前編)

10月16日(金曜日)

 まず最初に訂正からです。9月25日付「館長メッセージ」の冒頭に、「本館周辺には曼殊沙華が無いようで、今年はその花を見ることなく終わりそうだ」と記載いたしましたが、実は、掲載日の前日24日に本館周辺で深紅の花をつけている彼岸花を発見いたしました。また、29日には池田坂の石段下に群落となって花をつけている曼殊沙華も発見。学生時代の夏合宿は大学の始まる10月直前には出かけません。ということは奈良県では9月半ばに既に満開となっていたのです。この花は気温が下がって初めて花芽が出てくるのでしょうか。つまりは温暖化で開花が遅くなっているということかもしれません。何れにしましても、原稿は早めに入稿いたしますので、どうしても季節の話題がちぐはぐになります。申し訳ありませんでした。そのお詫びと言っては何ですが、9月25日付本館ツイッターにて本館敷地内で咲く彼岸花をアップさせていただきました。もう一つ、これも同じ理屈でお詫びです。当該原稿で「金木犀」が既に香った旨を記述しておりますが、これも予定原稿。開花を確認できたのは、曼殊沙華に遅れること1週間。月が改まった2日のこと。研修に出かけた上野の山、東京国立博物館前を歩んでいたときのことでした。早朝の少しひんやりした空気のなかを漂う芳香に、秋の訪れを胸一杯で味わったところです。車中から見た谷中霊園の斜面には一面の彼岸花。翌日に出勤した朝の本館周辺でも金木犀の薫りで一杯でした。いよいよ、これから秋も更に深まりゆきましょう。そういえば、街が暮色に染まるのも日に日にその時間帯が前倒しとなっているようです。「釣瓶落としの秋の夕暮れ」といった昔ながらの慣用句も、井戸を用いることのない現在では肌感覚として理解し難くなっておりましょう。しかし、この時節を表現する美しい日本語が数多存在します。そんな言葉の数々を『歳時記』から拾って、一句捻ってみるのも一興かもしれません。


さて、過日、2回に渡った『千葉市史研究講座』が終了いたしました。本年度は、コロナ禍によるソーシャルディスタンス確保のため、定員を大幅に縮減しての開催となり、多くの方々の希望を叶えることができなかったことを心苦しく思っております。そうした皆様にはこの場をお借りして心よりお詫び申し上げる次第でございます。因みに、講演内容の要旨を、年度末刊行『千葉いまむかし』に掲載いたしますので、選外となられた皆様におかれましては、是非ともそちらで内容のご確認をいただけましたら幸いです。2回の講座中、私が足を運んだのは「原始・古代」「中世」を題材とした1回目でした。「中世」をお願いした気鋭の研究者、千葉氏関係史料調査会の細田大樹氏による『武田信玄の関東侵攻と房総』のご講演は、戦国期房総半島の覇権をめぐる小田原北条氏(千葉氏は一貫して当該陣営)と里見氏との複雑な対立構造を、越後上杉氏・甲斐武田氏等の周辺戦国大名との動向と関連づけて解説される内容でありました。複雑な戦国期の房総の動向について明快に整理された、大変に理解しやすいご講演であったと存じます。

今回、本稿で話題として取り上げたいのは、「原始・古代」を担われた西野雅人氏(千葉市埋蔵文化財調査センター所長)による『縄文人の狩り』のご講演についてとなります。原始時代には正直あまり深い興味を抱いて来なかった自らの不明を恥じたくなるほどの、極めて知的刺激に充ち満ちた内容でありました。考古学者の講演に往々にしてありがちな狭い蛸壺に閉じこもったような話とは異なる(勿論、基礎的な考古資料の蓄積という点で極めて重要な作業であるのですが、残念ながら私のようなズブの素人は「置いてけ堀」状態になりがちです)、より広範な時間軸や地域の広がりを視野に入れた、極めて見通しの良いパースペクティブから縄文時代の問題を捕らえようとする、極めて素晴らしいご講演に目から鱗の連続でありました。

 西野氏のご講演は、これまで研究の進んでこなかった縄文人の「狩り」の問題に鋭く切り込む内容でした。それによれば、縄文人の生業には3つの要素、つまり「採集」「漁撈」「狩猟」があるが、前二者に関する発掘調査と研究の進展には著しいものがある反面、「狩猟」に関する研究だけが取り残されてきたと指摘されております。そして、平成17年以来の西野氏の研究により、「下総台地がずっと野生動物の宝庫=狩猟好適地であったことや、千葉の発掘成果が狩りの研究の進展の鍵を握っていること、さらに、大型貝塚に象徴される繁栄にも、狩りが大きく関わっていたこと」(当日配布レジュメより)に改めて気づくことができたとのことであり、その視点から千葉の縄文時代像の再考を迫るものでありました。そして、そのことが私などの素人が知ることの少なかった、新たな縄文時代像の位相を提示する、大いに刺激に満ち満ちた内容であると考える次第であります。

 (後編に続く)

 

 令和2年度「市史研究講座」第1回―西野雅人氏のご講演「縄文人の狩り」から見えてきた新たな縄文社会の位相―(後編)

10月17日(土曜日)

 当日の西野氏のご講演では、まず、原始から近世に至るまで、房総半島が一貫して国内でも群を抜く野生動物の宝庫であったことを、歴史学の方法論から明らかになった客観的な数値データ等により明らかにされております。そして、そこに北総台地から房総丘陵へつながる「北総・南総回廊」、加えて同回廊の中程にあたる千葉市土気周辺部から分岐し、日光・足尾山麓へと遠く連なる「下野・北総回廊」という、山地・丘陵と台地とをつなぐ細尾根上の2つの自然道を想定され、そこが草食動物の移動ルートとなっていたことを指摘されているのです。そして、そのことは、近年に相次ぐ動物捕獲のための落とし穴遺構の数多くの発見が、上記2ルートをトレースするように分布していることからも補強されているとのことです。更に、近世から近現代に及ぶ台地等の大規模開発による上記「回廊」の分断が、人と動物との関係性をも劇的に変化・変容させていったことをも視野に入れておられます。その点において自然と人間との共生の問題までに立ち入る視野を獲得されていると思います。考古学の分野に閉じ籠ることのない壮大な歴史ヴィジョンのご提示に、正に瞠目させられる思いであります。考古学を通じた現代社会への提言にまで裾野が広がっているのです。そして、このことは、先に西野氏がご指摘される、加曽利貝塚等に見られる千葉市内に散在する大型貝塚の立地について、極めて説得力のある論拠を提供するものであると考えます。

自分自身、社会科教師として、中学生の疑問「加曽利貝塚が海から相当離れた内陸部にあるのは何故か」に対する明確な解答を持ち得ませんでした。どの本をもってしても納得のいく解答を得られず、「縄文海進により、今よりも海岸線はずっと近くにあったから」との理由で正直なところ誤魔化してきました。その疑問に初めて腑に落ちる解答を自分自身が得ることができたのが今回の講演内容だったのです。最も海進が進んだ縄文前期の海岸線ライン(満潮時)は、国道126号線(東金街道)で言えば、加曽利町にある「千葉トヨタ」のあたりですが(千葉方面から国道を進み、左折すると加曽利中学校下に向かう信号のある地点)、加曽利に大規模な貝層が形成されるのは縄文中期にあたります。しかし、その頃には海退が進み、満潮時の海岸線は東金街道で申せば旭町交差点(知事校舎のある台地下のライン)のあたりにまで後退していたとのことです。つまり、海岸線は加曽利貝塚から更に遠退いているのです。加曽利貝塚の主体は小さなイボキサゴであり(貝層全体の80%をも占めます)、この貝は遠浅の干潟の先端部でないと効率よく捕獲できないとのことです。つまり、加曽利人は、集落から更に遠方にある現在の県庁とポートサイドタワーを結んだ干潮時の海岸線付近まで、相当な距離を出張って漁撈をしていたことになります。因みに「千葉県知事公舎」の近隣に縄文前期の宝導寺台貝塚があります。それならば当時の海岸線に立地する貝塚として納得がいきます。しかし、加曽利の場合、坂月川と都川を下って満潮時海岸線に出るのに6km以上、干潮時における干潟の先端までは更に数kmの移動を要します。そうした、海から離れた内陸部に大規模集落として立地しているのです。何故なのか?しかし、そこに「北総・南総回廊」と「下野・北総回廊」を位置付ければ、自ずと千葉市内の内陸部を貫いて存在する草食動物の移動ルートがほぼ重なって参ります。つまり、海洋性の漁撈だけに依存するだけではない、大規模集落の人口を支える重要な生業としての台地上で展開される「狩猟」の重要性が俄然浮かび上がってくるのです。一方で、現在の千葉市内における当該ルートは、今本館で開催中の『野の移りかわり―六方野の場合―』で扱っている、内陸部の高燥地として近世半ばまでは開発が進んでいない「入会野」であったことに直結することにも興味を引かれました。

更に注目すべきが、西野氏が縄文後期から晩期にかけて「ムラとムラの間での分業・協業を前提としたネットワーク社会」が形成され始めていると指摘されておられることです。この点でも、加曽利貝塚の立地に関する新たな視点を獲得した思いであります。ここから、先の草食動物の移動ルートに加えて、別に人と物の移動ルートの存在が浮上してくるからです。西野氏からのご教示によれば、千葉市内の縄文中期貝塚は、一般的に縄文後期中頃には消滅し、残った貝塚でも貝層の形成は下火になります。しかし、加曽利貝塚の場合は縄文後期後葉まではかなり活発に貝層を形成しており、集落自体は縄文晩期の前半までかなりの規模で継続していたことが、この数年の発掘で証明されてきているとのことです。そうであるとすれば、加曽利貝塚が何故に後期・晩期まで維持されたのか、その条件とは何だったのかを考察する必要があります。このことに有効な説明を与えてくれるのが西野氏の上記指摘だと考えるのです。そこで浮上するのが加曽利貝塚の至近を通過している「国道51号線」の存在です。何故ならば、この道筋こそ、近世には内陸から現在の千葉市中心部まで広く分布する佐倉藩領を貫通し年貢米等の輸送に用いられた重要な街道筋であり(「南年貢道」と称されています)、中世には内海である現在の東京湾と内陸部に展開する広大な内海である「香取の海」(印旛沼もその一部にすぎませんでした)とを最短で結ぶ重要ルートであり、古代にまで遡れば東海道として中央と常陸国・奥州方面とを結ぶ主要官道にあたるからです。古代以降の何れの時代においても、人・物の移動に用いられた大動脈として機能し続けてきた道筋なのです。古代より前となる原始の時代に、「香取の海」南岸に存在したムラと加曾利とを結ぶ太いパイプが既に存在し、それが諸地域をより広域を結びつける、後の交通路の淵源になっているのではないか。国道51号線のルーツをそこまで遡って考えさせる誘惑を禁じ得ないのが正直な思いであります。そして、これは決して暴論とも言いきれない仮設だと思われます。今後の発掘により縄文後期・晩期における広域交流を証明できる遺物が出土することを大いに期待したいところです。

今回の西野氏のご講演は私にとって、極めて示唆に富む刺激的な内容であり、直接に拝聴できたことを何よりの僥倖と存じます。ただでさえ広がるばかりで収拾がつかないほどの好奇心が、更に膨れていくようで当方としては一面戦々恐々としておりますが、こればかりは致し方なしと諦める他ありますまい。是非とも今後の西野氏の研究成果の積み重ねを注視して参りたいと存じております。

最後になりますが、皆様には、西野氏が所長を務められる「千葉市埋蔵文化財調査センター」の活動にも大いに注目して頂ければと存じます。当館内には千葉市内で出土した各時代の主な出土遺物が展示されております。そのほか、「土気あすみが丘プラザ」内の展示室には、二つの回廊が交わる特別な場所である土気地区の旧石器時代から平安時代の歴史を物語る資料が展示されております。また、千葉市動物公園科学館に「動物園で考古学」という展示コーナーが今月中にオープンいたします。人と動物のかかわりの歴史などを展示することが決まっております。皆様、是非ともお出かけください。 

 

 

 令和2年度:特別展が始まります!!『軍都千葉と千葉空襲―軍と歩んだまち・戦時下のひとびとー』[10月27日(火曜日)~12月13日(日曜日)]

10月23日(金曜日)

 明治22年(1889)の町村制の施行とともに誕生した「千葉町」が、市制を施行し「千葉市」として心機一転スタートを切ったのが大正10年(1921)1月1日のことです。そして、令和3年元日に100回目の誕生日を迎えることとなります。そして、千葉市では令和3年度を記念すべき『市制施行100周年』と位置づけております。本館でも、本年度から次年度にかけた2年間に、それに因んだ様々な企画を予定しております。とりわけ、特別企画展のかたちで、本市100年間の歩みに焦点をあてたテーマを定め、それぞれの紹介する展示を企画しております。そして、本年度は『市制施行100周年』プレ企画としての特別展を1回、次年度には2回の特別展を開催いたします。都合3回の特別展で千葉市の100年間の歩みを振り返りたいと考えております。そして、来週から、その口切となる標記特別展が幕を開けます。

 この100年間の本市の歴史を振り返れば、幾つかの画期となる出来事をあげることができますが、その内で最大のものが先の大戦と、その間に行われた千葉空襲による甚大な被害のそれであることに異論はありますまい。大戦中、市内への米軍機空襲は大小併せて10回ほどを数え、それぞれ人的・物的な被害が報告されております。その中で、最初から千葉市を標的と定めた大規模な空襲が2度ありました。すなわち昭和20年(1945)6月10日早朝と同年7月7日未明(「七夕空襲」)のそれであります。この空襲で中心市街地の約7割が烏有に帰し、死傷者の数は1600名にも及びました。その背景には、千葉町・千葉市が、明治以降軍隊・軍需産業の拠点として繁栄をともにしてきた、「軍都」としての歴史があったことを忘れてはなりません。

昭和19(1944)年7~8月に、米軍がマリアナ諸島(サイパン・グアム・テニアン)を占領して以来、そこから飛び立つ米軍機(B29)による本土空襲が主要都市から始まることになりました。そして、それは次第に地方都市にまで拡大し千葉市もその射程に入ることとなったのでした。6月空襲の標的とされた、当時蘇我の海岸に存在した日立航空機千葉工場では、二人乗りの零式練習戦闘機(俗に言う「ゼロ戦」)の製造等がおこなわれていました。そうした軍需産業拠点の破壊が目指されたのです。また、「七夕空襲」の標的は、千葉市中心街に居住する一般市民と千葉市内に数多存在した陸軍施設でした。千葉市内には、鉄道第一連隊・気球連隊・陸軍歩兵学校・千葉陸軍戦車学校の他、多くの陸軍施設がありました。

千葉市にあった陸軍施設の特色は、佐倉にあった歩兵第57連隊のような戦闘部隊とは異なり、技術部隊や軍学校等の教育施設がほとんどであったことでしたが、疑いもなく軍関係施設でありましたから、その壊滅が目指されたのです。もっとも、こうした軍関係施設は地元の積極的誘致により設営された歴史があることを等閑に付す訳には参りません。戦後の企業誘致活動と同様に、地域の経済発展を熱望する市民の期待に応えるための軍誘致という側面も大きかったのです。平たく言えば、戦前の千葉市は軍事施設・軍人を重要な顧客として経済的に潤ってきました。それが、サブタイトルに「軍と歩んだ街」と掲げた理由です。一方、一般市民への攻撃は、第一次世界大戦以降の戦争が「総力戦」となっていたからです。それ以前の戦争は、基本的には戦場における将兵同士の闘いでした。それが、戦争規模の圧倒的な拡大にともない戦争は膠着して長期化していくことになりました。そして、その打開のために新たな兵器が開発されて次々に投入されていきます。当然のように次々に男性が兵士として召集されて戦線へと投入されたのです。それと並行して、一般市民も否応なく戦時体制に組み込まれていくこととなりました。その結果、女性や子供までが戦争遂行に動員され兵器生産等に従事することに繋がるのです(そのことは反面で、戦後の女性社会進出や社会保障体制拡充を促すことにも繋がりました)。このことは日本に限ったことではありませんが、特に日本の場合、アメリカは同年3月10日東京大空襲で一夜にして11万人以上の一般民の生命を奪う攻撃を行ったにも関わらず、それに対して日本政府が降伏は勿論のこと、連合国に対して何らの働きかけもして来ないこと、また国民の側からの戦争終結を求める声も全く上がって来ないことに驚きを隠さなかったと言います(日本の国内状況に鑑みれば戦争反対など噯にも出さないことが在るべき臣民像であったからですが)。このことから、アメリカは日本には「一般市民」なるものは存在せず「一般市民も戦闘員」と認識することで、この後の一般市民への攻撃正当化の強固な根拠としていったようです。それが、最終兵器としての広島・長崎への原爆投下に繋がってしまったと思うと、何れかの段階で回避できるチャンスがなかったものかと残念でなりません。勿論、理由がどうあれ、我が国への原爆投下の正当性をいうことには断固抗議し続けなければなりません。

さて、本特別展では、以下にお示しした5つの章立てにより、戦争前夜・戦時下における市内の姿、人々の営みと空襲の実像等々について、更に、戦争の惨禍を潜り抜け、戦後千葉市の復興に向けて明るく前向きに生き、平和国家日本の礎となった人々の姿も取り上げております。単に事実と統計的数値の羅列に終始することなく、可能な限り当事者・体験者の視点というパーソナルなそれをも大切にしながら、史資料を踏まえてご紹介しようとしております。また、召集された従軍看護婦、東京から市内に学童疎開してきた子どもたち等々、今では市内でも風化しかけている歴史的事実の掘り起こしにも意を用いております。また、戦禍を乗り越え、新たなる平和な時代を築いた戦後の歴史にも1章を割いております。二度と「戦争の惨禍」を繰り返さないとの思いを込めた、戦後復興の動向にもご注目ください。大戦を潜り抜けた人々の取り組みこそが、今の千葉市の確かな骨格となっていることに、改めてお気づきいただけることと存じます。

 

第1章 : 「軍都」としての千葉 ―市内軍事施設の諸相―
第2章 : 軍都に生きる人々 ―軍とともにあった市民生活―
第3章 : 6月空襲 ―標的となった日立航空機千葉工場―
第4章 : 7月空襲 ―七夕に襲った惨劇―
第5章 : 戦後の復興と平和都市宣言 ―戦禍を乗り越え平和の時代を築く―

 

 

 今世界は、コロナウィルスという目に見えない敵との戦いの渦中にあります。本特別展が、多大なる困難を乗り越えながら戦後本市の礎となった数多の先人の営為について御理解いただくことを通じて、世界の人々が手を携えて今ある難局を乗り越えるための「希望という名の光」を見出していただけることを、そして、何にも増して、今を生きる我々が「平和の意味」を問い直し、「不戦の決意」を新たにする契機となることを願ってやみません。この機会をお見逃しなく、ご来館を賜りますようお願い申し上げます。すべからく、千葉市に居住するお一人おひとりが、「戦争とは何か」という問いに、じっくり向き合っていただける展示となっているものと自負するところでございます。

 最後に、関連行事として「歴史講座」(本館主催)と「戦跡めぐりウォーキング」(市民総務課主催)を行いますが、申込先・申込方法が主催者毎で異なっております。詳細は本館ホームページ[10月16日(金曜日)アップ済]をご覧ください(市民総務課へのリンクも貼ってあります)。本館主催「歴史講座」に関しては「往復はがき」と「電子申請」の両者でお申し込みが可能です。ともに11月6日(金曜日)必着です。両者ともに申し込み多数の場合は抽選とさせていただきます(〆切以降の抽選となりますので申し込みの早遅は抽選に影響しません)。なお、ご案内は「市政だより11月号」にも掲載いたします。「歴史講座」「戦跡めぐりウォーキング」ともに参加は無料となっております。

 

 

 

【歴史講座】(本館主催)
 (1)日 時 11月15日(日曜日)13時00分~16時00分
 (2)会 場 千葉県立文化会館小ホール
(3)募集定員 80人(応募多数の場合は抽選)
 (4)主 題 「戦争の惨禍を伝える」
1.演 題:「東京大空襲 一千葉県との関わり―」
 講 師:石橋 星志 氏(すみだ郷土文化資料館 学芸員)
2.演 題:「千葉市の鉄道連隊関係遺跡の保存と活用について」

 講 師:小笠原永隆 氏(帝京大学経済学部観光学科 准教授)

 

【戦跡めぐりウォーキング】(市民総務課主催)
 (1)日 時 11月28日(土曜日) 9時00分~12時00分
 (2)見 学 地 市内に残る旧陸軍関係遺跡(徒歩にて約5km巡ります)
 (3)募集定員 20人(応募多数の場合は抽選)
 (4)講 師 萩原 司 氏(千葉市立博物館協議会 委員長)

 

 

 

 本館特別展へのご来館に感謝申し上げます!! ―岡本敏子(岡本太郎養女)さんの「七夕空襲」―

10月30日(金曜日)

 明日から11月となり、本年も残すところ2か月となりました。9月下旬の暑さが嘘のように、10月中旬より朝夕の冷え込みが急に強くなりました。12日に仕事で佐倉市に出かける機会があったのですが、印旛沼周辺の低地は一面の「浅茅が原」となっておりました。ただ、例年であれば、秋空の下でそよぐ薄(すすき)の穂が「銀色の風」を運んでくれるのですが、今年は10月も曇天続きでそうした爽やかな風には出会うことができておりません。せっかくの風も雨交じりのどんより天気で「鈍色の風」となっており、到底「爽やかな秋の気配」どころではありませんでした。「天高く馬肥ゆる秋」となったのは、ようやくここ1週間ほど前から。本館の周辺でも、ほんの少しですが薄が顔を出しているのを発見して狂喜いたしましたが、既にほぼほぼ「枯れ尾花」状態でした。自然相手ですからなかなか我々の思い通りには参りません。

さて、特別展『軍都千葉と千葉空襲 ―軍と歩んだまち・戦時下のひとびと―』が幕を開け数日が経過いたしました。有難いことに市内外から多くのお客様の来館をいただいております。併せて、オールカラー印刷で120頁弱となる『特別展図録』も沢山の皆様に御購入いただいており感謝申し上げます。多くの皆様に手に取っていただきやすい価格設定といたしております。手前味噌ではございますが、充実の内容で1冊600円です。千葉市100年を振り返る中で、決して忘れてはならない一つの時代を特別展の後にも振り返っていただくためにも、是非ともご購入をいただけましたら幸いでございます。また、ご観覧の際には、アンケートもお願いいたしております。ここ数日間のものを拝読させていただきましたが、有難いことに概ねご好評を賜っております。会期は、12月13日(日曜日)までとなっております。長いようで短い期間となりますので、これを機に、少しでも多くの皆様のご観覧を期待するところでございます。特に、101年目からの千葉市の未来を築く世代である、小・中・高校の生徒の皆さんをはじめとする戦争を知らない若い世代にこそ触れて頂きたい内容です。そして、これを機に「戦争とは如何なるものか」を知り、「戦争の惨禍を二度と繰り返すまじ」との決意を新たに、恒久平和を基調とする世界を切り拓いていっていただくことを切に祈念する次第であります。同時に、それぞれの学校で教育活動に従事される職員の皆様をはじめとする、少しでも多くの世代の方々に是非ともご覧いただきたく存じます。また、宜しければ、ご覧いただいた皆様も周囲の方々にお薦めいただけましたら幸いでございます。


さて、話題は一転いたします。「芸術は爆発だ!!」という言葉ともに、カッと目を見開いた個性際立つ人物がテレビ画面に登場。大きな身振り手振りで芸術を熱く語る姿に私の目が釘付けにされたのは、中学校の頃であったかと記憶しております。その人こそ岡本太郎(1911~1996)でした。もう少し後のことになりますが、日本テレビ放映の番組『鶴太郎のテレもんじゃ』(1986~1988)に岡本がレギュラー出演。スモークがたかれる中に登場して発したこの決め台詞は、岡本その人のキャラクターを広く強烈にお茶の間に刻み込んだのではありますまいか。当番組内には、子供をはじめとする所謂「素人」の作品を岡本が論評するコーナーがありました。その際、他ならぬ司会者である片岡鶴太郎の芸術的才能を見出したのも岡本とされているそうです。鶴太郎は今ではすっかり芸術家として認識されておりましょう。

何れにしましても、その奇々怪々な人物像からは、子供心に彼が国際的に知名度の高い芸術家とは思いもよりませんでしたし、単なる際物芸人・イロモノ芸術家くらいの認識しか抱いておりませんでした。私自身も小学校高学年の頃に足を運んだ経験を持つ「大阪万国博覧会」を象徴する建造物であり、現在は国登録有形文化財として故地に残る「太陽の塔」を制作した芸術家とも、イコールで結びついておりませんでした。余談ではありますが、「太陽の塔」地下に設営されていた展示「生命の樹」は、岡本の原案をもとに彫刻家の成田亨が制作しました(残念ながら遺構は残されていないようです)。成田は、円谷英二の率いる特撮会社「円谷プロダクション」制作にかかる「ウルトラマン」「ウルトラセブン」における、当該ヒーローはもとより、セブン半ばまでの怪獣・宇宙人・メカニズムの造形デザインの全てを担当した人物でもあります。現在、生誕地青森の県立美術館には成田の作品が多数収蔵されておりますが、芸術家の手になるバルタン星人・ゴモラ・レッドキング等々が、エヴァ―グリーンな怪獣・宇宙人として今でも若いファンに熱烈に支持されているのも宜なるかなと頷かされます(私自身はテレスドンとドラコにぞっこんであります)。その卓抜なる造形力に心底唸らされます。すみません、脱線が過ぎました。これ以上はまたの機会にいたします。

 そうした岡本の芸術家としての真価に私自身が目を開かされたのは、私が大学生の頃に美術展でその作品に接したことが契機でした(初期作品『傷ましき腕』から、まるで活火山が噴火したような後年のアヴァンギャルド芸術まで)。また、見た目とは全く異なる、極めて知的な人物だと気づいたのもその頃のこと。その著書で、縄文芸術について熱く、しかし明晰に論じる姿勢から、衝動的な芸術家のイメージとは180度異なる人物像の印象を受けました。父が高名な漫画家であった岡本一平、母が著名な小説家として名高い岡本かの子であり、その二人の遺伝子を受け継ぐ故かと妙に納得したものです。一平の作品に接した記憶はありませんが、かの子は今ではすっかり忘れられているのが惜しい、極めて優れた作家だと思います。品切れとなって久しい文庫版『岡本かの子全集』(筑摩文庫)が復刊されることを切に希望したいところです。

 前置きが長すぎました。今回話題とする岡本敏子さん(1926~2005)は、昭和23年(1948)年に岡本太郎の秘書となり、その後、生涯にわたるパートナーとして太郎の芸術活動を支えた方です。そして、後に太郎の養女(旧姓:平野)となり、岡本姓を名乗ることとなりました(太郎は婚姻関係という形式に捕らわれることを好まなかったと言います)。太郎没後は青山にある自宅兼アトリエを「岡本太郎記念館」として公開し、敏子さん没後も美術館として現在も運営が継続されております。生前にテレビ番組等で太郎の作品やその生き様について語る姿にしばしば接したものです。また、絶版となっていた太郎の著作の復刊にも熱心に取り組まれました。そして、今は太郎とともに多磨霊園にある奥津城で静かに眠っておられます。この敏子さんが、千葉市中心街に生まれ育ったこと、千葉高等女学校(現:千葉県立千葉女子高等学校)の卒業生であることは意外に知られておりません。彼女は19歳となった頃に、自宅で「七夕空襲」に遭遇しておられます。彼女には自身の著書も多いのですが、その1冊『いま、生きる力』2002年(青春出版社)には、その時に猛火のなかを逃げ、命からがら生き延びた体験が記されております。最後に、その部分を引用させて頂きます。広く世に知られた方の千葉空襲体験談として、ご一読いただけましたら幸いです。


最後になりますが、本特別展の図録には、従軍看護のために出征された看護婦の方、鉄道連隊で従軍されていた方の証言等を納めております。別に、岡本敏子さんのように千葉中心街で実際に空襲の体験をされた方々の証言を集めた「別紙史料」を会場にて配布させていただいております。戦争を実際に体験された方々のパーソナルな想いの集積から、戦争というものの実像が浮かび上がると考えるからであります。会期の終了までに、この「館長メッセージ」の場でも、それらには含まれない証言等もご紹介させていただく機会があるかと存じます。

 

 

 我が家のあった千葉市は終戦直前の昭和二十年七月、空襲でまる焼けになった。アメリカ軍は町の一番外れの田圃の中から、信じ難たいほどの数の焼夷弾を絨毯状に落として民家を焼いていき、それこそ一軒も残さないように焼き尽くす作戦。我が家の大して広くない敷地でも、焼け跡から五十七発の焼夷弾の殻が見つかったほどだ。

 その頃の戦時下の教育では、家を捨てて逃げるのは非国民だ、戦場の兵隊さんのことを思いなさい。最後まで踏みとどまって消火に当たるようにと教えこまれていた。我々も無邪気に消すつもり。(中略) 空を見上げていると、ばらばらと猛烈な勢いで降ってくる。大きな束が空中ではじけて、何十発も一ぺんにそこらに降りそそぐ。油脂焼夷弾というのが一番始末が悪い。落ちるとぱっと、油のようなゴムの粘液のようなものが飛び散って、すぐなら足で踏んでも消えるのだが、あちらこちらにも落ちるからとても対応できない。(中略) 近所の家の人たちはもうとっくに逃げてしまい、恐ろしいほどしんと静まって、まわり中燃え上がっている。空気がヒリヒリするほど熱い。

 「もう駄目だ、逃げよう」 弟はポンプで精いっぱい水を汲み上げ、下の弟の防空頭巾、私のにもザブザブとかけ、自分もかぶった。そして、空を見上げ、風向きを見て、「表の道は駄目だ。こっち!」 境の生け垣を押し破って、隣家へ出た。その横を走り抜け、裏手の路地へ。そのとき、私は思わず息を呑んでたちつくした。まるで人気もなく、しーんと静まった道。夢の中みたい。見馴れぬ家なみ。そこを、白いというのか、桃色、オレンジ、何ともいえぬ光がつむじ風となってさあっと渦を巻いて吹き過ぎていく。その美しさ。見たこともない、夢幻の中の色。超現実的な美しさだ。「怖がっちゃ駄目。突っきって!」 弟に先導されてそこを駆け抜け、ずっと裏手の学校の方まで逃げて助かった。あの美しさは忘れられない。死の、あの世の光だったのだが。

 でもこのとき、弟のあくまでも男性的な判断力、統率力がなかったら、私たち三人はあそこで焼け死んでいた。それは間違いのないことだ。その確率の方がはるかに、限りなく高かった。

 

 

 

 特別展『軍都千葉と千葉空襲』関連「歴史講座」のご案内(本日11月6日必着 申込〆切です!)―令和2年度千葉氏公開市民講座『武家社会確立期の権力と権威』講演録「千葉氏ポータルサイト」にて公開!―

11月6日(金曜日)

 11月に入りました。先週から始まった本館特別展も10日を過ぎようとしております。
「ジェイコム千葉」等の映像メディアでお取り上げいただいたお陰もあり、連日たくさんの皆様においでいただいております(ジェイコム千葉では11月9日18時30分からの情報番組でも「特別展の見所案内」の放映があります)。特に、土日祝祭日にはご来館の方が引きも切らずに御出でくださり、本館といたしましても嬉しい悲鳴をあげているところです。ご来館を頂いた皆様には、改めて衷心よりの御礼を申し上げます。ありがとうございました。また、小学生をはじめとする若い方々のご来館が多いことも特筆されます。内容が内容だけに、決してご覧になって心が晴れ晴れとするような展示ではありません。しかし、だからこそ、戦争を知らない世代の方々にこそ知っていただきたい内容だと考えます。決して忘れてはならない、本市における重要な歴史の一コマに他なりません。会期は12月13日(日曜日)までの残り1カ月少々となります。是非、多くの皆様にお運びいただけますことを祈念する次第でございます。

 併せて、本館主催の関連行事『歴史講座』[11月15日(日曜日)午後開催]申し込み〆切が、本日(11月 6日)となっております。本日中に本館必着でありますので、「往復はがき」での対応は既に難しいでしょうが(開館時間内に直接お届けくだされば可能です)、「電子申請」であれば充分に間に合います。ただし、定員を絞っての開催でありますので申込数が定員を越えた場合には、申し訳ありませんが抽選となります。世間では「GO TO キャンペーン」がお盛んでありますが、コロナウィルス感染者が10月以降も微増状態にある現況に鑑みての対応としております。「定員一杯の募集をしてくれ」とのご意見もありますが楽観は禁物だと考えております。100年前の「スペイン風邪(スパニッシュ・インフルエンザ)」流行における、日本国内での感染状況を検証すれば、流行は一度では終息せず足掛け3年にわたって3度の猛威を振るっていることがわかります。しかも、ウィルスがより強毒化して変異し、回を追うごとに死亡率を増加させております。これから寒さと乾燥の強まる季節がやって参ります。感染拡大抑止の観点からすれば、これからは更なる条件悪化を考慮せねばならないことは明らかです。我々は、過去の歴史を調査・研究し、それについて市民の皆様に広くご紹介することをその役割としております。そうした過去の歴史的事象を勘案しての判断でございます。「歴史」に学ぶことにはかくも大きな意味があります。ご不便をおかけいたしますが、非常事態であることに鑑み、何卒ご理解のほどをお願いする次第でございます。講演会開催日までは残り9日程しかありません。結果は明日以降、可能な限り早急に通知させていただきます。今暫く御待ちくださいませ。当日の講師は、東京大空襲最大の被災地の一つである墨田区立の「すみだ郷土文化資料館」学芸員:石橋星志さんと、「帝京大学経済学部観光学科」准教授:小笠原永隆さんのお二人にお願いしております。

石橋さんが専門とされているのは日本近現代史です。「東京大空襲・戦災資料センター」等での勤務を経て、2015年より現職として御勤務をされております。この間、墨田区をフィールドとした戦後史(闇市等)・関東大震災・近代産業・保育等の展示を企画・実施され、2017年度からは「空襲」主担当をされております。本土空襲被災都市の航空写真の分析を通じて空襲の全貌を明らかにする地道な研究を進めていらっしゃいます。言うまでもなく、当館のある現在の墨田区は東京大空襲最大の被災地の一つでありますので、東京大空襲は主たる研究フィールドでいらっしゃいます。今回は、その東京大空襲と千葉県・千葉市との関係についてご講演をいただきます。今では千葉市内でも風化しかけている、本所区・向島区(現墨田区)小学生の千葉への学童疎開、これまでベールに包まれていた大空襲後の陸軍の動向等々、新たな発見に満ちたご講演内容となるものと存じます。

また、小笠原さんは、観光資源開発論・産業考古学等々、幅広い分野の研究をされておられます。現在の観光において重要視される、地域における歴史文化資源を如何に見出し、如何に活用して地域づくりに繋げていくべきかについて、産業遺産・戦争遺産の保存と活用とを中核とする数々の御提言をされておられます。今回は、市内を中心に残る陸軍「鉄道連隊」の遺構を核とした「戦争遺跡」活用の問題を取り上げていただきます。時あたかも、本市内作草部に残っていた貴重な戦争遺産「気球連隊:第二格納庫(川光倉庫)」が残念ながら解体されることとなりました(現在既に解体作業が進行中であり、特色のあるダイヤモンドトラス構造が露わになっております)。こうした動向も含めて地域歴史文化資源活用について貴重なご提言がいただけるものと存じます。お二人のご講演に是非ともご期待ください。

併せて、このご講演を踏まえ、市民総務課主催「戦跡めぐりウォーキング」(11月28日)への申し込みもお薦めいたします。上述いたしましたように「気球連隊:第二格納庫」が残念ながら現在解体中でありますが、それでも未だ市内には陸軍関係施設遺構がたくさん残っております。それらを実際にご覧いただければ、更なる千葉の戦争の時代への深い理解に繋がろうかと存じます。こちらの申し込み〆切日は、本館主催「歴史講座」翌日の11月16日(月曜日)17時までとなっております。


続いて、別件となりますがお知らせをさせてください。本館は、本市発展の礎を築いた東国武士の一族である「千葉氏」についての調査・研究を主たる活動ともしております。時あたかも令和8年(2016)は、大治元年(1126)に千葉常胤の父常重が大椎から本拠地を千葉中心街に移し、千葉市の都市としての基盤を築いてから900年という記念すべき年を迎えます。その記念年に向けて千葉市をあげて「千葉開府900年に向けたロードマップ」に従って様々な取り組みを進めております。本館でも常日頃以上にその周知等に努めて参ります。

その一貫して、令和2年度千葉氏公開市民講座『武家社会確立期の権力と権威 ―千葉氏をはじめとした東国武士の動向から読み解く―』講演録を、10月末日「千葉氏ポータルサイト」にアップいたしました。本館ホームページにもリンクをはってございますので、こちらからもご覧いただけますので是非ご覧ください。本講演につきましては、例年同様、本来7月に会場を借りて講演会形式で実施予定でしたが、残念ながらコロナ禍の関係で中止といたしました。しかし、その代替措置として、ご講演をお願いしていたお二人ご了解の下、論考の形で内容をお纏めいただきました。何れも読み応えのある大変に充実した内容となっております。その趣旨につきましては『講演録』内に頁を割いて説明してございますが、同稿を以下にも掲載をいたします。執筆は本館統括主任研究員外山信司の手になりますが、2つの論考につきまして極めて明快に紹介されております。ご一読の上、ご興味を持たれましたら、どうぞ本編へアクセスくださいませ。

 また、講演内容はホームページ上にアップするだけに留まらず、『講演録』として冊子の形でも刊行いたしました。これについては、ご希望の方に無料にてご進呈いたします。既に11月1日(日曜日)に、配布方法等について本館ホームページにてご案内をしております。お渡しは基本的に本館に来館された方に限定させていただいております。ご希望される方は本館の受付にて申し受けますので、遠慮なくお申し付けください。また、配布部数は限られておりますので品切れ次第で終了とさせていただきます(本稿アップ11月6日に在庫切れの可能性もございますが、その折は何卒ご容赦くださいませ)。お一人様につき一冊の配付とさせていただきますので、ご理解のほどをお願いいたします。

 

全体テーマ
「武家社会確立期の権力と権威 -千葉氏をはじめとした東国武士の動向から読み解くー」
 講演内容・講演者
 (1)「和田合戦と千葉一族」
 山本みなみ 氏 (鎌倉歴史文化交流館 学芸員)
 (2)「東国武士と京都の文化 -官職・武芸・和歌―」
 小出麻友美 氏 (千葉県立中央博物館 研究員)

 

 

 

『武家社会確立期の権力と権威』講演録「趣旨説明」

 近年、中世武士像は大きく見方が変わっております。かつては武士、特に東国武士は朝廷や京都とは無縁で、「草深い片田舎に土着し、武芸に励む質実剛健な在地領主」というイメージで語られ、千葉氏はその代表として見なされてきました。

 従来の千葉氏研究は、郷土史的な視野で千葉氏の栄枯盛衰を語ったり、源頼朝と千葉常胤との人格的な結び付きを強調する傾向がありました。また、伝承や近世に成立した系図、軍記物類を主な題材に、千葉氏や千葉一族と地元との結びつきを称揚し、惣領のもとに一族が強く団結した姿を讃えてきたように思います。

 しかし、いわゆる「武士職能論」に基づく武士の理解が進展し、また交通・流通の研究成果によって、鎌倉時代の千葉氏当主や有力な一族は鎌倉に住み、京都に屋敷を持ち、北は東北から南は九州に広がる所領を支配し、これらを結ぶ日本列島規模のネットワークを持つ存在であることがわかってまいりました。このことからもわかるように、従来の千葉氏像は大きな修正が求められています。

 また、国文学、考古学、美術史、宗教史、交通史、建築史など、関連分野からの中世の研究も進んでおり、歴史学との協働によって多面的に中世が明らかにされようとしています。このような観点から、昨年度の千葉氏公開市民講座は「千葉氏と和歌千葉氏はなぜ歌を詠んだのか-」と題して、中世文学の面から千葉氏について考えました。

 本年度は、新しい研究の成果をふまえ、お二人の先生に千葉や房総に限らず、より広い視野から鎌倉時代の武家社会と千葉氏について探っていただきます。源頼朝の信任も厚かった有力御家人和田義盛が北条義時に敗れた「和田合戦」は、もっぱら『吾妻鏡』の記述によって語られてきました。しかし、山本先生は、同時代の一次史料を用いて合戦の経緯を見直し、千葉成胤の果たした役割に注目されます。北条氏は、和田氏のみならず比企氏、畠山氏、三浦氏、安達氏などの有力御家人を次々に滅ぼし、権力を確立していきますが、千葉氏は滅ぼされることはありませんでした。山本先生のお話には、激しい権力闘争が渦巻く鎌倉時代に、なぜ千葉氏は滅ぼされなかったのかという謎を考えるヒントがあるかもしれません。

 小出先生には、鎌倉で誕生した武家政権の中で、武士たちが朝廷の権威や京都の文化を受け入れることによって、どのような武士の社会を作っていったかを明らかにしていただきます。武士が武士であるためには武芸や武力が不可欠です。しかし、むき出しの武力だけでは権力を維持し、人々を支配していくことはできません。そのためには権威や文化の力が必要となります。武士は政権を樹立しましたが、官位や官職といった既存の朝廷のシステムを用いることによって武家社会の秩序を作っていきました。また、和歌をはじめとする京都の文化を受容することは、権力としての正当性と密接な関係がありました。このように考えると、鎌倉幕府と京都の朝廷を単純に対立するものと見なすことはできません。こうして形づくられた武家社会の中で生きた千葉氏の姿を知っていただけるものと存じます。

(本館 統括主任研究員 外山 信司)

 

 

 

 随筆・映画『日日是好日』にみる静謐な世界―または、曰く言い難き「お茶」の世界を伝えるということ―

11月13日(金曜日)

 11月半ばとなりました。本館特別展も残すところ1カ月となりました。まずは、連日たくさんの皆様においでいただいておりますことに、心より御礼を申し上げます。そして、未だご覧いただけていない皆様には、少しでもご興味がございましたら是非ともお時間を割いてご来館くださいませ。館員一同、諸手を挙げて歓迎をいたします。さて、本日は現在開催中の『軍都千葉と千葉空襲』から離れた「お茶(茶道)」の世界の話題となります。特別展の内容とは全く関連性はありませんが、食事で申せば「箸休め」、音楽であれば「インテルメッツォ(間奏曲)」として、お付き合い願えれば幸いです。

 「お茶(茶道)」の世界と申せば、良家のお嬢さまたちのお稽古事といった趣がありましょうし、私を含めた世の一般人にとっては縁遠い存在でありましょう。私自身は学生時代にその世界観に興味をもち、歴史的なことを含めて一通りのことについては調べもし、その概略については頭では理解しているつもりです。また、織田有楽斎縁の「如庵」(犬山市)、小堀遠州縁の「孤篷庵忘筌」(京都市)、松平不昧由の「菅田庵」(松江市)等々、全国に散在する茶室や茶庭(露地)も実見して参りましたし(残念ながら本丸とも言うべき千利休由縁の「妙喜庵待庵」には接しておりません)、陶磁器・掛軸・立花等々を包含した総合芸術としての「お茶(茶道)」の在り方にも強く惹かれました。また、庶民の用いる雑器(井戸茶碗)や、大きく歪められた造形の器(織部焼)に美を見出した茶人たちの審美眼についても興味を持ちました。何となく思い描くような、単なる立ち居振る舞い等のお作法の世界とは全く異なる、哲学的ともいえる深遠な世界観を背景としております。現に、本題にある「日日是好日」なる言葉は、「にちにちこれこうにち」と読み、所謂「禅語」の一つでもあります。元来は唐末の禅僧雲門文堰の言葉とされ、一般には『碧巌録』第6則に納められる公案(禅において修行僧が参究する課題)とのことです。文字通りで言えば「毎日毎日が素晴らしい」という極々ありふれたことですが、かような単純な意味合いで用いられているわけではありません。ただ、私個人としては「お茶(茶道)」の世界に入門までしてその世界に触れようとは思えませんでした(表・裏・武者小路の所謂「三千家」を筆頭に様々な流派が存在します)。そこは何より「女性の世界」であろうとの思いも正直ありましたし、ましてや「良家」の出身でもありません。興味津々ではありましたが、一歩踏み出すには心中躊躇する何物かがあったのが偽らざるところでした。

そうして40有余年が経過。敬して遠ざけてきた「お茶(茶道)」の世界でしたが、平成30年(2018)に当該世界を扱った日本映画が制作・公開されることを知りました。自分の中で時計の針が40年分巻き戻されたように感じたのは、どこかに「お茶(茶道)」の世界への想いが燻っていたからかもしれません。タイトルは『日日是好日』。しかも、これまで度々映画化されてきた千利休等の歴史的茶人を扱った「歴史物」ではなく、現代社会に息づく所謂「お茶(茶道)」の世界を扱った映画であります。更に、茶道の世界を出汁にして男女の恋愛模様を描く在り勝ちのラブロマンスにあらず、況やお茶の世界の確執から勃発する惨劇を扱う人気の刑事物でもありません。「お茶(茶道)とは如何なる世界か」に真正面から切り込んだ、極めて稀有なる作品だと思います。因みに、当方の妻は映画館の封切上映に出かけましたが、当方は都合で見逃してしまい残念に思っておりました。ところが、過日に日を接して異なる二つの放送局から同作が放送され、幸いにその一方を視聴する機会を得ることができたのでした。監督・脚本は大森立嗣さんです。実は、私は原作である書籍を既に読了して作品自体に大いに感銘を受けていたのですが、映画も負けず劣らずに素晴らしい内容でありました。もっとも、森下典子さんの手になる原作は小説ではありません。エッセイなどという軽いイメージとは段違いの優れた「随筆」文学であります(『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせー』新潮文庫)~「にちにちこれこうじつ」と読ませています。)

森下さんは、大学生の頃、母親の勧めで近所に住む“タダモノじゃない”「武田のおばさん」の営む茶道教室に通うようになります。それから週一回のお茶の稽古を繰り返すこと25年。様々な人生模様(就職、恋愛と失恋、父との死別等々)を経ながら、「茶道」で繰り返される作法やしきたりの意味に目を開かれていった経験を、一つひとつ丁寧に綴られております。原作は、近年希に見る清冽な文章と、名随筆が須くそうであるように、何気ない生の有り様への気づきや感動が、読者の心に静かに染み入るように語りかけられます。そのことを通じて、触れば消えてなくなってしまいそうな、静かに奥深く開かれる「お茶(茶道)」の精神世界の深淵さ、繊細さ、微妙さを、丁寧に掬いあげて読者に伝えていると思います。しかも、所謂「思想」とも言い換えることすら可能な世界観が、小難しくではなく、極めて平易に綴られていることに大いに感銘を受けました。ただ、それは「思想」というのとは、本当は少し異なっているのかもしれません。「考える」ことを通じて獲得したことではなく、25年間という永きに渡った日々の身体を通じた稽古を繰り返す中で、その持つ意味が「分かって」いく、云わば「心の軌跡」の集積であるからです。そして、ある日、初めてお茶のお稽古に通った日から武田のおばさんの茶室にいつも掲げられ、いつも目にしていた『日日是好日』という扁額に書かれた5文字の持つ意味が、あたかも啓示をうけたように「分かる」時がやってくるのでした。それは「豊かに生きる」とは何なのかを問う言葉であったのです。

 

 

「目を覚ましなさい。人間はどんな日だって楽しむことができる。そして、人間は、そのことに気づく絶好のチャンスの中で生きている。あなたが今、そのことに気づいたようにね。」
 「雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切 れるような寒さを味わう。……どんな日も、その日を思う存分に味わう。」 

 

  ここで、先日拝見した映画の話に戻ります。かような微妙で繊細な世界観を、映像として伝えることは決して簡単ではなかろうとの懸念がありました。ただ、それは杞憂にすぎませんでした。逆に、原作のもつ「静謐(せいひつ)さ」を、大森監督が上手に掬いあげ物語化されていることに感銘を受けました。何事においても万事慌ただしく過ぎ去っていく現代社会において、まるで別次元に迷い込んだように、静かで穏やかな時の流れを感じさせる、そんな「世界」を見事に映像化されております。音楽で言えばグスタフ・マーラーの交響曲中で嫋々と奏される「アダージョ」や「アダージェット」楽章のようにひたひたと心に染み入り、やがて気づかぬうちに心を豊かに満たしてくれる作品でした。そして、その世界観を成立させている要因は、“タダモノではない”武田のおばさんを演じている樹木希林さんの存在にあると感じました。まるで「茶の世界」と一心同体化したような、穏やかでありながら凛とした佇まい。他の誰もその代わりは勤まらないと思うほどの存在感でありました。改めて、この不世出の名女優の喪失を惜しまざるを得なかったことを告白せねばなりません。大森監督は当該作品で第43回報知映画監督賞を受賞されております。それも宜なるかなと納得の出来栄えです。因みに、同賞にて一票差で次席となったのが、同年カンヌ国際映画祭パルム・ドール『万引き家族』の監督:是枝裕和さんであったとのことです。

最後に、本随筆の白眉である「まえがき」をご紹介して本稿を閉じたいと思います。永くお茶の世界に関わり、人生の様々なときを悩みつつ過ごして来た作者は、こう語りかけます。「世の中には“すぐにわかるもの”と、“すぐにはわからないもの”の二種類がある。」後者については「何度か行ったり来たりしているうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、“別もの”に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったこと」に気づくことになったと。同時に「どんなにわかろうとあがいたところで、その時が来るまで、わからないものがある。」「しかし、ある日、わかってしまえば、それを覆(おお)い隠(かく)すことなどできない」とも。何事も放り出さずに続けることで見えてくることが多いこと等(同じ作品に年月がたって接した際に全く異なった感想をもつこと)、誰もが共感のできるところでありましょう。また、長く謎であったことが、ある日のある切っ掛けを境にして「なんだ!そういうことだったのか!!」と突然に「分かる」経験をされたこともございましょう。ただし、こうした経験を可能にするのは、そのことを心のどこかに課題として温めていることが前提となろうかと思います。その意味でも、これは「お茶(茶道)」の世界だけに限られることではありませんが、「じっくりと」「余裕をもって」「人生を通して」何かを思い(追及し)続けることの大切さを伝えてくれているようにも思うのです。万事、目の前のことで右往左往し、何かに追い回されているような、慌ただしくも世知辛い現代社会の中だからこそ、逆に、今「お茶(茶道)」の世界観が一服の清涼剤のように、価値ある世界観として光を放つように感じられるのではないでしょうか。森下さんのエッセイ、そして大森監督の映像作品は、そのことを我々現代人に問いかけているのだと思います。そして、森下さんは「まえがき」をこう締め括られております。

 

「生きにくい時代を生きる時、真っ暗な中で自信を失った時、お茶は教えてくれる。
“長い目で、今を生きろ”と。」

 

 

 戦争・産業遺産としての「気球連隊」第2格納庫―1階展示会場に1/100模型を追加しました!!― ―埋蔵文化財ロビー巡回展「石斧」(11月18日~同29日)―

11月20日(金曜日)

 11月も半ばを過ぎ、秋が深まり冬の足音も少しずつ大きくなっているように感じます。昨年は暖冬ゆえに余り出番の多くなかった冬支度も今年は大活躍をしそうな気配を感じます。そうした中、本館の特別展『軍都千葉と千葉空襲』も峠を越え、会期も残すところ3週間となりました。この間、千葉日報等での誌面、千葉テレビ、ジェイコム千葉での展示解説番組等々の映像メディアが取り上げてくださったこともあり、本当に多くの客様に御出でいただいております。毎度のことですが、この場をお借りして御礼を申し上げます。ありがとうございます。また、15日(日曜日)には関連行業として開催いたしました歴史講座において、お二人の講師の方から充実のご講演をいただきました。すみだ郷土文化資料館の石橋星志先生からは東京大空襲を題材に戦争を如何に後世に伝えるべきかが、帝京大学の小笠原永隆先生からは鉄道連隊戦跡を中心に戦争遺跡の保存・活用の意義が語られました。ご参加頂いた皆様にも学びの多い内容であったことと存じます。ご講演の内容につきましては、今後何らかの形で公開できればと考えております。

さて、小笠原先生のご講演にあった戦跡の保存・活用につきましては、当方が申しあげるまでもなく、現在まさに解体途上にある気球連隊「第2格納庫」(戦後も倉庫として使われてきました)にも直結する問題でもあります。因みに、汗顔の至りでありますが、ジェイコム千葉「千葉人図鑑」に不肖当方が出演。市内出身の芸人「小島よしお」さんと対談をさせていただき、過日放映の運びとなりました。その中で「第2格納庫」の話題に俎上にあがりました。小島さんは、千葉市立都賀小・中学校の卒業生でいらっしゃり、子供の頃から母校の至近にある「第2格納庫」を身近に感じてこられたとのことでした。この度の解体の一件もご存知であり、想い出深い貴重な戦跡の喪失を残念がられておられました。

今回は、その気球連隊「第2格納庫」について話題とさせていただきます。その前に、気球連隊について概観をしておきましょう。気球連隊は気球による戦況偵察を主たる任務として、最近の研究では明治40年(1907)に中野に「気球隊」として新設されたそうです。その後、大正3年(1913)に所沢に移転しましたが、飛行場混雑を理由として昭和2年(1927)10月に本市作草部の地に移転。翌年5月に「気球連隊」(以下当名称で統一)と改称されました。特別展中でも、当連隊を第1章(「軍都」としての千葉)で取り上げており、その移転にあたっては千葉市からの熱心な誘致活動があったこと、しかし期待した程の人員ではなく市民には落胆の声があったことなどが記された憲兵隊の報告書など、興味深い資料を展示しております。本連隊が、終戦間際に所謂「風船爆弾(当時の名称は気球爆弾)」攻撃に関わったことなど取り上げるべきことも多くありますが、今回は気球格納庫として利用された建築物が主題となりますので、このあたりにさせていただきます。何れにしましても、番号のついた連隊ではありません。つまり、国内で唯一の気球に関わる陸軍連隊が千葉市内に存在していたのです。

 気球はガスを注入すると相当な大きさになります。従って、気球連隊には2つの巨大な格納庫が存在しました。そのうち「第1格納庫」は空襲被害を受け戦後に解体されましたが、「第2格納庫」は無傷で残りました。そして、巨大な内部空間の利用価値を認めた倉庫業者に引き取られ、以後今日まで「川光倉庫」として活用されて参りましたが、この度土地とともに売却されることになりました。そして、本年中の解体が決定し、現在当該作業の途上にあります。因みに、「第1格納庫」に残された使用可能部材を転用して「千葉公園体育館」が建設されたと書かれたものがありますが、この点について確認できる一次資料に当たれておりません。千葉公園体育館も「千葉公園再生事業」一環で取り壊しが決まっております。もし、このあたりの事情をご存知の方がいらっしゃいましたら、是非とも本館までお知らせいただけましたら幸いです。

 さて、「第2格納庫」の話題に戻ります。以下の内容は、本建造物について調査研究を進められ、現在「戦争遺産」「産業遺産」といった側面から構造材の一部保存運動に取り組まれている市原徹さん[「千葉市近現代を知る会」代表・(株)建築設計「六葉社」代表取締役・一級建築士]の調査結果に全面的に依拠しながら、本建造物の歴史的価値について述べさせて頂きます。まず、市原さんの実地調査により、伝えられてきた「30m×30m×高15m」という規模が、実際には「38m×44m×高18.5m」と大きく異なる寸法であることが判明したそうです。また、格納庫内部は「ダイヤモンドトラス」という立体トラス構造によって構築されており、細い山型鋼と呼ばれる鉄骨財をアーチ型に組み上げた精緻な技術が駆使されていることが判明したとのことです。ダイヤモンドトラスは、当該建築の建設に当たった「巴組鉄工所(現:巴コーポレーション)」の創業者野澤一郎氏が昭和7年(1932)に発明した工法であり、足場を組むことなく堅牢な大空間を建築することを可能にする、昭和前期における著名な発明と評価される技術であるとのことです。何よりも、足場設営に要する巨額な費用、細い鉄材でも建設可能であることから資材費を抑制できる点、それに伴う工期の短縮を可能にする点等々、コストダウンを実現しながら堅牢性をも確保できる極めて画期的な工法であったことが分かります。それは、駆体自体はビクともせずに、今日まで90年近くを永らえて来たことから明らかでありましょう。

 また、「第2格納庫」建築年についても新たな発見があったとのことです。これまでは昭和12年(1937)と伝えられてきましたが、昭和9年発行『高等建築学18巻』に本建築物が取り上げられて紹介されていることが動かぬ証拠。伝承の誤りが証明されました。技術開発の昭和7年と書籍刊行昭和9年の間にあたる昭和8年(1933)頃建築と推定されましょう。因みに、調査研究の詳細につきましては令和3年度末本館刊行『千葉いまむかし35号』に、市原さんから寄稿いただけることになっております(本年度末刊行の34号ではありませんのでご注意のほどを)。詳細な図面等により、三角形のトラスが規則的に組み上げられた構造美と建築技術上の画期性、そして何よりも歴史的な意義について如何なく理解できる論考となるものと確信するところであります。是非ご期待ください。

 更に、市原さんは、残された文献資料の読み込みと、ご自身が現地調査をもとに起こされた図面を根拠に、ペーパークラフト製の1/100模型を自力で作成されました。流石にこのスケールでは、精緻なトラス構造を立体的に再現することまでは難しいのですが、それでも在りし日の本建築の姿と構造とを一目瞭然に理解できる極めて優れた作品となっております。今回、市原さんは本館特別展にお貸し出しいただくことに同意くださりました(同縮尺「自由気球」2機付属)。従って、会期途中からではありますが、市原さんが書き起こされた図面等とともに、特別展1階会場ガラスケース内に展示させていただいております。極めて価値ある展示資料と確信する優れた模型です。是非とも皆様にもご覧いただきたくご紹介をいたしました。因みに、本館ツイッターには11月11日付けで展示状況を写真4枚にてアップしてございますので、まずはその偉容をご確認ください。

 過日の小笠原先生のご講演にもありましたが、こうした所謂「戦争遺産(戦跡)」というものは、残そうと思って残ってきたものではなく、そのほとんどが何らかの事情で残ってきたものであり、余程の事情が奏功しない限り「文化財」指定されて保存されるケースは希であります。しかし、別に、戦争の記憶を伝える地域に残る「戦争遺産」として、更には日本の近代化を推し進めた技術を後世につたえる「産業遺産」として後世に伝えていく意義は決して小さなことではありません。今回のケースのような巨大な建造物そのものを全面保存することは難しくとも、その一部でも保存することは、今を生きる者の務めとして極めて重要であると私は考えますし、保存活動をされている市原さんをはじめとする市民の皆様の願いも同じだと思います。しかし、残された時間は長くはありません。

 千葉市内における戦争の記憶を伝え、更には画期的な産業遺産でもある「第2格納庫」の部材の一部でも残せないものかとの一念で、本館では教育委員会理解の下、跡地を購入された「積水化学工業」様と解体を担当される「幸信テクノ」様にお願いし、部材の極々一部をご寄贈頂くことになりました。両社のご厚意には重ねて感謝を申しあげたいと存じます。ただ、我々がいただくのは、展示ケース内に納まる範囲の分量でしかありません。戦争遺産であることは勿論、画期的な産業技術であるダイヤモンドトラス構造が理解できる範囲の部材保存にまでは至っていないのが現状です。「文化財保存」の観点から本館が対応できるのはそこまでです。今後、市民の願いが叶い、千葉市の記憶を伝える「戦争遺産」「産業遺産」(ダイヤモンドトラス構造が理解可能となる一定程度の部材構築物)として市内への部材保存が叶うことを祈念したいところです。

 せめても……との思いで、本館では次年度に小企画展『気球連隊』を開催し、お譲りいただく部材や今回の特別展では展示できなかった貴重な写真等を展示できればとも考えております。気球連隊関係の史資料を所蔵される皆様方の協力も広く求めたいとも考えます。次年度は「千葉市制施行100周年」という記念すべき年度であり、本館では2回の特別展開催を予定しておりますし(例年は1回です)、「千葉開府900年」に向けての継続事業「千葉氏パネル展」もあり、準備を考えると人的・時間的な制約が極めて大きいのが現実でありますが、「今やらなければならない」との思いに駆られるのも事実です。大きな規模での開催が難しいのは確実ですが、どのタイミングで開催するのが可能かを含めた判断をし、是非とも開催に漕ぎ着けたいと考えるところであります。

 最後に宣伝です。今週の水曜日(11月18日)より、本館1階展示室にて埋蔵文化財ロビー巡回展「石斧 ―生産・流通・保有・消費-」を開催しております。今回は、弥生時代に使用された実用の斧に焦点を当て、石斧の流通・保有・消費の在り方から、弥生時代の房総半島のムラの様子について迫る内容となっております。言うまでもなく千葉市内の縄文遺跡は全国区でありますが、一般に市域の弥生時代はこれまであまり知られて来なかった状況があります。その点でも大変に興味深い内容です。何よりも、担当する千葉市埋蔵文化財調査センターの西野雅人所長は、以前「縄文人の狩り」でご紹介しましたように「時」と「場」を縦横に越境する研究をされている方です。その手腕が光る展示内容になっております。見開きリーフレットも極めて充実した内容です。会期は11月29日(日曜日)までです。本館での展示は11日間という極めて短いものとなります。規模も展示ケース2つの極々小さな展示ではありますが、内容の充実はそれに数倍するものであります。是非本館の特別展と併せてご覧いただけましたら幸いです。 

 

 

 忘れられている現千葉市域への「学童集団疎開」―本所区(現:墨田区南部)国民学校児童たちの太平洋戦争―

11月27日(金曜日)

 早いもので、来週から今年も最後の月「師走」に入ります。例年であれば年の瀬として、一年で最も賑わうひと月となりましょうが、今年はコロナ禍の第3波とも受け取れる社会の情勢もあり、どのような年末となるのか予断を許さない状況でもあります。かような状況下、本特別展も残すところ2週間となっております。

さて、今回は、戦時中のこととして耳にされる機会の多い「学童疎開」について取り上げようと思います。現在、千葉市民の皆様には無関係のことと思われている節があるように感じますが、決して千葉市にとって無縁のことではなかったことを、本特別展では取り上げ紹介しております。まずは、知っているようで実のところあまり理解されていると言い難い「学童疎開」についての概略を述べておきたいと存じます。昭和16年(1941)年12月8日の真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争ですが、早くも翌17年(1942)年4月18日に、東京は初めての米軍機による空襲を受けています。これは米空母ホーネットから飛び立った16機のB25によるものでした(指揮官ジミー・ドゥーリットル中佐の名を冠して「ドゥーリットル空襲」と呼びならわされております)。16機中の13機は首都圏を狙ったものでした(3番機は九十九里から房総半島上空を飛んで葛飾区・足立区周辺に爆撃・機銃掃射を行っており葛飾区では水元国民学校の小学生が機銃掃射による犠牲となりました)。そして、更に、昭和19年(1944)年月6から7月にかけての戦闘でサイパンが陥落した前後には、B29による「本土空襲」が行われるようになります。そして、その対象は東京だけではなく主要都市にも拡大していくことになりました。こうしたことを受け急遽、同年に次代を担う子どもたちを地方へ疎開させる方針が打ち出されたのです。疎開は、地方の親類等に避難させる「縁故疎開」を原則とし、それが困難な場合に纏めて避難させる「集団疎開」とすることになりました。その対象とされたのが基本的に国民学校(現在の小学校)在籍の3年生から6年生までの児童です。以下に述べる学童疎開は後者の「集団疎開」に関してのこととなります。実施に先立って、地方では集団疎開受け入れに関する調査が進められています(この際に千葉市内で実施された「縁故疎開」に関する調査用紙も本展では展示しております)。結果的に多くの「集団疎開」児童の受け入れ先となったのが寺院や旅館でした(疎開先を「学寮」といいました)。東京都では、関東及びその近県が疎開先となり、当時の都内35区毎に割り振りをしております(1943年7月1日より東京府・東京市が廃止され東京都となっています)。昭和19年(1944)7月から疎開が開始され10月にはほぼ終了しました。そのうち、千葉県に割り振られたのが本所区でした(茨城県を疎開先とした向島区と併せて現在墨田区となっています。因みに私の居住する葛飾区は新潟県が疎開先でした)。現在の千葉市域にも本所区内の国民学校児童が集団疎開をしてくることになりました。疎開先の内訳は以下の通りです。

 

(1)「本所健康学園(千葉市)」:日進国民学校
 [4年男子34人・5年男子15人・6年男子41年]
 +[4年女子25人・5年女子19人・6年女子30人]=[合計164名]
 (2)「本満寺(生浜町)」:錦糸国民学校[4年女子27名]
 (3)「本行寺(生浜町)」:錦糸国民学校[4年男子51名]
 (4)「長徳寺(椎名村)」:錦糸国民学校[3年女子34名]
 (5)「上行寺(椎名村)」:錦糸国民学校[3年男子37名]
 (6)「本寿寺(土気町)」:菊川国民学校[4年男子61名]
 (7)「善勝寺(土気町)」:菊川国民学校[5年男子52名]
※千葉市との町村合併→生浜町・椎名村(昭和30年)、土気町(昭和44年)

 

 これらの内、「本所健康学園」は本所区が登戸に保有していた療養学校施設で、区内居住の身体が弱い子ども達の転地療養にあたっていました。その他は全て日蓮宗(日什を始祖とする顕本法華宗)寺院です。飽くまでも想像にすぎませんが、宗門として引き受けを決めた可能性が高いものと思われます。また、市街地を外れた郊外に疎開先が設定されている点に、空襲から子どもを守ろうとする意図が感じられます。結果として、本所区内3校合計426名の児童が現在の千葉市域に集団疎開を行ったことになります。しかし、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲等、戦局の更なる悪化に伴う本土決戦の可能性にも鑑み、千葉県・茨城県からの米軍上陸の可能性が考慮された結果、本所区は千葉県から岩手県へ2178名が再疎開をすることになったのでした(これを「第二次疎開」と称します)。因みに、学童の集団疎開は東京に限らず、関東では横浜市・川崎市・横須賀市、近畿では大阪市・尼崎市・神戸市、中部では名古屋市、九州では現在の北九州市にあたる地域といった人口の密集する重工業都市、真っ先に米軍との上陸戦が想定された沖縄県で実施されたことを申し添えておきます(那覇を出港し長崎に向かった対馬丸の悲劇はまさにこの際の出来事です)。

 疎開した児童たちはどのような生活を送っていたのでしょうか。基本的には以下のようであったようです。5時30分~6時30分起床・朝食。朝礼後8時から学習・洗濯。11時30分昼食。13時00分から学習・農耕・自然観察・戸外運動等。16時30分入浴。17時00分夕食。18時00分自由時間・読書・家庭通信・日記等。20時30分就寝点呼。21時00分消灯。しかし、地域の実情によって内容も大きく変わっていたようです。『まるごとおゆみ野』というホームページがありますが、そこに戦時中における当該地域の様子を内容とした歴史講座資料がアップされております(2018年実施)。様々な側面から地域の戦争について拾い上げた極めて優れた調査内容でありますが、その中に椎名小学校へ通うこととなった上行寺・長徳寺への疎開児童を受け入れた側の体験談が掲載されております。貴重な資料でもありますので、ここにその一部分を引用させていただきます(講師名は明記されておりませんが鈴木毅先生ではないかと推察いたします)。なお、この『まるごとおゆみ野』は紙版も発行されており、地域のことを幅広く多様な側面から紹介するなど、立派なお仕事をされている団体とお見受けいたします。是非とも皆様もアクセスされてみてください。

 

 

(学童疎開児童の)受け入れ日は昭和19年9月3日、歓迎式は椎名小学校[※当時の正式名称は椎名国民学校]の校庭で行われた。私の記憶では、到着が夕方になるというので当日はいったん下校し、再度登校して校庭に整列して式に臨んだという覚えがあります。ただし、せっかく疎開してきたものの、昭和20年4月以降はこの地域への空襲が激しくなってきたため、この地に身を寄せていた錦糸国民学校の児童は、昭和20年5月21日、岩手県へ再疎開することになりました。

 疎開児童の生活について、学習に関しては、椎名国民学校の校舎がそのまま当てられ、在村の小学生が下校したあと、入れ替わりに登校していました。私の下校時に、教師に引率され、きちんと整列して学校に向かう疎開児童とすれ違うことがよくありました。つらい思いをしているのだろうに毅然と歩いて行く姿に、子ども心に感心したことをいまでも覚えています。しかし、軍隊が駐屯するようになると教室が足りなくなり、在村の小学生でさえ午後から登校する学年があったくらいですから、疎開児童は宿舎の寺で学習しなければならなくなりました。

 疎開児童の日常生活の細かな記録はこの地域には残っていませんが、先の2寺院[※上行寺・長徳寺]によれば、「児童たちは、掃除や簡単な洗濯などは自分たちで行い、骨の折れる洗濯や繕いものは、近所の未婚女性が奉仕し、炊事のみ近所の婦人2人を専属でお願いした」とのことでした。そこでその2人に当時の様子を聞いてみようと訪ねてみましたが、すでに他界されていました。しかし、奉仕に当たられた当時の未婚女性(もうかなり高齢になっておられました)には話を聞くことができました。その方によると、便所の汲み取りは近所の農家が交替で担当し、その折には自宅で穫れた野菜を持参するなど、まわりも協力を惜しまなかったと言います。この女性には、いまでも当時の児童の5人くらいから毎年年賀状が届くそうです。

 

 次に、実際に学童疎開をした子供達は疎開を如何にとらえていたのかを探ってみましょう。幸い、墨田区は疎開体験者に聞き取り調査をされており、平成17年(2005)に『語りつごう平和への願い~学童疎開墨田体験記録集~』として刊行され現在も入手が可能です(¥1.000)。その中に現在の千葉市域に疎開した児童の手記も収められております。ここでは、当時錦糸国民学校3年生で椎名村の上行寺に疎開した男子児童と、菊川国民学校4年生で土気町の本壽寺に疎開した男子児童の手記の一部を紹介いたします。なお、引用文中の[※〇〇〇]は全て当方による補注になります。

 

 

 大東亜戦争が激しくなっていく昭和19年8月25日、集団疎開で千葉の浜野へ向かうことになった。当時は両国駅から千葉方面へ汽車が走っていた。「東京市錦糸国民学校」[※当時東京市は廃された後であり正しくは東京都錦糸国民学校]の一行は、錦糸町駅から省線電車で両国へ戻り「館山行」普通列車に乗車となった。学童たちは、まるで遠足や林間学校にでも行くように楽し気にはしゃいでいた。一方、親たちは、戦争でもう二度と我が子に会えないかと思うと、悲しさいっぱいで、いったん見送った子どもたちが両国からもう一度錦糸町駅を通って千葉に向かう姿を見ようと高架線の上に鈴なりとなって私たちを見送っていた。手に手に小旗を持って力の限り振り、夏の汗が額に落ちるのも忘れて。そんな暑い一日であった。《中略》 浜野の駅頭では、町長さん[※駅長の誤りか]、椎名村の村長さんの出迎えを受け、私たち3年生は意気揚々と一里の道をお寺へと向かった。私たちが着いた所は、千葉県千葉郡椎名村字茂呂「上行寺」というお寺で、本堂を囲んで墓地の点在する薄気味の悪いところであった。しばらくの間電灯もつかず、夜中に恐ろしくてトイレへ行けず寝小便をする子が毎日4、5人はいた。 《中略》 「上行寺」に着いたその晩は、小学校長をはじめとして、村長、区長(茂呂地区)さん、そして地区の御婦人方の手料理の歓迎を受け、たくさんのごちそうを前に大満足の一日であった。ところがところが、翌26日から「ガターン」と食糧事情が悪くなろうとは神のみぞしることであった。それからの毎日は、夏場のことでもあり、サツマイモ、カボチャ、ナス、キュウリ、トマトの連続であった。《中略》 朝は、5時起床、そして上半身(冬になっても続けられた)で神社まで駆け足で登り[※上半身裸の意味であろう]、そして6時のNHKラジオ体操、手ぬぐいによる「乾布摩擦」、そして元気に山を下り、本堂の周りを清掃して朝食となる。朝食後、村の小学校に通ったのである。 《中略》 この小学校で、午前中の授業を受けてみなそろって下校となる。 《以下略》

 
 土気駅は踏切手前にあり、線路左側の道沿いに学校、町役場があり、高等科の生徒と国民学校の児童が並び、高等科の生徒は木銃をもっていました。学校で歓迎会をしてくださいました。トウモロコシにサツマイモだったと思います。大変なごちそうです。当時東京では、家でのご飯にはが米にフスマやカボチャの種が混じり、レストランのご飯には米に乾めんが小さく折って入っていました。 《中略》 朝、太鼓の音で起床の声がかかり、各自が布団をたたみ布団部屋に班ごとに積み、天水おけのボウフラを分け柄杓一杯の水で洗顔し、井戸水一杯の水で歯を洗いました。 《中略》 幾日もしないうちに午後から学校に行き授業を受けるようになりました。 《中略》 9月の終わりか10月の始めに運動会がありました。 私たち疎開組の徒競走の番になり、一組目に私は並び先生の号令がかかり構えました。そのとき、隣の役場の半鐘が空襲警報を告げました。急いで逃げ帰りました。それ以来、夜に空襲がくるようになった気がします。空襲になると竹やぶの中の防空壕に逃げるのです。 《中略》 そのころから皆、体にかゆみを感じるようになりました。ある日、通学路の野原のところで裸になり、下着を見るとシラミがいっぱいいるのが分かり、全員が裸でつぶしました。 《中略》 先生や和尚さんにはいろいろと教えていただきました。毒をもった蛇の見分け方、ドングリとシイの実の違い、全員でリヤカー一杯の渋柿を買いに行き、皮をむき干し柿をつくり、畑に芋を作付けし下肥をまき、炭を焼き取り出すなどさまざまなことを教わりました。よいことばかりではありません。親が面会に来られない児童のなかには「帰る」と言い、線路を歩きだす人もいたのです。そのたびにみんなでひきとめるのに必死でした。また、面会に来た母親と別れるのがつらく、毎度泣く人もいます。12月になり、私は25日が祖父の一周忌のため24日に東京に帰りました。その夜、浅草に焼夷弾が落とされ、そのすさまじさは見た人でないと言い表せないと思います。 《以下略》

 

 

 

 これらの手記は、戦後になってから当時を回想したものでもあり、客観性をもって自らを振り返っていることもあると思われますが、総じて明るい内容でほっとさせられる部分もあります。しかし、実際には疎開中に東京の空襲で両親をはじめとする親族全てを失い天涯孤独となった子供も多くおりました(所謂「戦災孤児」)。彼らの戦後もまた重いものであったことは言うまでもありません。また、人の親の立場で考えれば健気な子どもの姿に胸が塞がれる思いに駆られます。そして、手記からは疎開先でも決して安全であった訳ではなく、絶えず米軍機襲来の危険に晒されていた状況も読み取れます。その後、岩手県への再疎開に踏み込まざるを得なかった事情がよく理解できる内容です。

 最後に、本特別展でもご紹介しておりますが、手記の舞台でもある上行寺には集団疎開した児童が疎開当時に植えた銀杏が、75年の歳月を経て立派に育っております。そして、その傍らに戦後になって先代住職様の手によって建立された石碑「疎開の銀杏」が今も残されていることを申し添えておきたいと存じます。疎開をした児童達の心にも、疎開を受け入れた側の心にも、決して消すことのできない戦時中の記憶として刻印されていることを、この戦跡は痛いほどに伝えているように思います。皆様は如何お感じでしょうか。我々千葉市民としても、決して忘れてはいけない歴史の記憶として語り継いでいくことが求められましょう(因みに石碑裏面に刻印された疎開期間記載に誤りがあり「昭和19年から昭和20年まで」が正しいと思われます)。なお、先日のご講演をいただいた「すみだ郷土文化資料館」学芸員の石橋星志さんも仰せであったように、学童疎開については疎開受け入れ先への調査、史資料の収集が未開拓の分野とのことです。本所区の集団疎開を受け入れた千葉県内の皆様で、学童疎開関係の聞き取り調査や子供達の使用した道具・作品等々の史資料が埋もれているのをご存知の方がいらっしゃいましたら、是非「すみだ郷土文化資料館」宛に情報提供をしていただけると宜しいかと存じます。記憶を保有している方々がお元気なうちに。残された時間は長くありません。 

 

 軍都千葉における「蓮池」の光景 ―「花街」の在り方と「千葉小唄」の世界について―

12月4日(金曜日)

 「師走」の声を聴くこととなり、コロナ禍に振り回され通しであった令和2年(2020)もあと僅かとなりました。そして、令和3年元日に、我が千葉市は100歳の誕生日を迎えます。百年前の市制施行元年が「スペイン風邪」流行下にあったことを思うと、100年目のこの既視感には何とも言えぬ思いを禁じ得ませんが、101年目からの新たなる旅立ちがコロナ禍克服をもっての幕開けとなることを祈念しつつ、残りの日々、この一年の歳月を総括して参りたいと考える所存であります。そうこうしているうちに、本館特別展も残すところ1週間強となりました。「気球連隊:第2格納庫」の部材保存に取り組まれている市原徹さんへの取材を通じてNHK「首都圏ニュース」でお取り上げていただいたせいか、会期終了も間際となって一段と多くの皆様にご来館を頂いております。

 さて、特別展『軍都千葉と千葉空襲』では、第2章「軍都に生きるひとびと」において、軍とともにあった戦前の市民生活について紹介をしております。現在千葉県内に広くベーカリーショップ「マロンド」を展開する川島屋が、大正5年(1916)稲毛浅間神社近くで川島岩松氏が創業した川島菓子舗を起源としており、小仲台に創設された陸軍防空学校の指定を受けてパンや餡製品を納入していたことを取り上げております。おそらく、軍との取引を基盤として経営の安定化を成し遂げ、戦後の飛躍へと繋げていったものと想像いたします。本日は賑わう軍都千葉の諸相から「花街」について話題とさせていただきます。

 千葉市の中心街にかつてあった吾妻町(現:中央区中央2~4丁目)界隈は、県下随一の「花街」として知られ、俗に「蓮池」と称されておりました。光明寺不動堂の裏に蓮池があったことに由来するそうですが、都川周辺低湿地を埋め立てて花街が造成されていったことから呼び習わされた通称地名でありましょう。明治28年(1895)刊の『千葉繁盛記』にはすでに「蓮池」の名称が用いられており、その地の芸妓の評判が記されています。別の調査でも当時「蓮池」に90名近い芸妓の存在が確認できるなど、明治半ば以降、三味の音さんざめく弦歌の巷として大いに賑わいを見せていたことが分かります。大正半ばの様子は小説『縮図』に徳田秋聲の筆によってとどめられておりますし、『タイムスリップちば』(平成30刊行)には当時を知る人々による述懐も豊富に採録されております。因みに、本書は「地域の歴史文化勉強会」(事務局長「刃物フルカワ」古川芳久さん)編集にかかる大冊であり、四百頁にわたり微に入り細を穿って近現代を中心とした千葉の街の諸相を調べ上げておられます。正直、本館の活動を顔色なからしめるほどの、全く持って立派なお仕事だと存じます。1冊1万円という決してお財布に優しくない価格設定ではございますが、その価値は十二分にあるものと確信する内容です。当方は粘り強い交渉の末、山の神から半額補助を勝ち取り購入に到りました。こうしたご時勢ですから、政府には是非とも「Go To Reading」キャンペーンでも敢行してもらいたいものです。販売は「フルカワ刃物」にて。店舗では懐かしき古の千葉街の写真絵はがき等も販売されております。地域の歴史を後世に伝えんと地道な活動をされていらっしゃる姿勢に頭の下がる思いであります。なお、『タイムスリップちば』の残部は僅少となっております(購入時点で残部30部弱と聞きました)。お求めはお早めにどうぞ。

 

 

「蓮池の埋立てだという蓮池の花街は、駅から二丁ばかり行った通りにあった(※当時の京成千葉駅からの距離であろう)。その辺りには洋食屋やカフェ、映画館などもあり、殷賑地帯で、芸者の数も今銀子(※牡丹の名で16歳の春に蓮池から初めて芸妓として出たとの設定)のいる東京の土地と乙甲で、旅館料理屋兼業の大きい出先に、料亭も幾つかあった。」(※は引用者補注)

 

 秋聲は、ヒロイン銀子が好意をよせる顧客である来栖を医専(千葉医学専門学校~後に千葉医科大学)の「医学士」として設定しております。そのことからも分かるように、「蓮池」の殷賑を成した客層は、街の旦那衆であるのは勿論のことでしょうが、至近にあった医専関係者(医師等)や官公庁関係職員(県庁・議員等)、そして陸軍関係者(軍人等)でもあったのです。特に、軍関係者は歓迎すべき大切なお客様であったことでしょう。市内に留まらず習志野・四街道・下志津からも若い将校たちが足繁く来葉していたとのことです。まさに「軍とともに歩んだ街」の面目躍如と申せましょう。一帯は七夕空襲で灰燼に帰しましたが、私が千葉へやってきた40年ほど前にも、歌の文句「粋な黒塀、見越しの松」さながらの立派な料亭が散見されましたし、小路を行き交う人々の出で立ちからも格式ある盛り場との印象を受けました。今では街もすっかり様変わりしてしまい、「花街」の面影も今や昔のことになってしまいました。大いに残念であります。

 書物紹介のついでに、もう一冊の書籍を御紹介いたしたく存じます。それが加藤政洋『花街―異空間の都市史』2005年(朝日選書)であります。一般に「花街」と言うと「生き続ける江戸文化」「江戸の面影を残す」という文脈で語られることが多いのですが、全国に分布する豊富な実例の検証作業を通じて、そうした認識には大きな誤謬があり、所謂「花街」という存在自体が極めて近代的な所産であることを明らかにされております。「花街」とは、俗に言う「色街」(娼妓の存在)とイコールではなく、所謂「芸妓」の所在する場と定義されています(ただし双方が混在しているケースも多々あります)。その営業を成立させる条件として、芸妓を抱える「置屋」、芸妓が芸を披露して宴を彩る場としての「待合茶屋」、そして宴会場に料理を提供する「料理屋」の存在が必須です(所謂「三業地」)。更に、場合によっては置屋と待合とを仲介する事務所「検番」が必要でもあり、そうした「花街」は昭和初期に全国で5百以上の都市に存在していたとのことです。そして、その成立・立地には、維新後の近世城下町衰退への歯止め、近代に整備された新興都市の興隆施策といった、地域振興的な意図が大きく働いていることを論じておられます(明地開発等の明治以降の政治的・経済的要請が大きな背景となっています)。この書籍に千葉「蓮池」は事例として取り上げてられておりませんが、上記のことを勘案すれば、千葉における「蓮池」の成立と在り方は、全国の「花街」のそれと、ほぼ軌を一にするものと容易に理解することができましょう。極めて興味深い論考に巻を措くこと能わず、あっという間に読了しました。皆様にもお薦めしたい書籍であります。

 最後に、この「蓮池」芸妓によって担われた管絃の世界の一端をご紹介して稿を閉じたいと存じます。それが「千葉小唄」(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平)であります。今回の特別展でも、第2章で昭和4年(1929)ビクター社から発売の同曲SPレコードを展示しております(レーベルには「唄 二三吉 合唱 蓮池芸妓連鳴物 入」とあります)。作曲者も一流ならば作詞家も超一流の布陣による作品ですが、ここでは作詞家である野口雨情(1882~1945)に注目したいと思います。雨情は北原白秋・西條八十とともに「童謡界の三大詩人」と並び称された人物でもありますが、大正から昭和戦前期に新民謡とも称される「地方小唄」の歌詞を、北は北海道から南は九州に到るまで全国津々浦々4百都市以上に提供しております。その一つがここで取り上げる「千葉小唄」(「蓮池小唄」「ドンと節」とも)であります。当該時期にはこうした所謂「ご当地歌謡」が盛んに創出されたのです。それは、土地の特色や名産を全国に広め、地域の経済振興に繋げたい地方側からの要請であるとともに、地方に販路を広げたいレコード会社側の経営戦略でもあり、双方向のベクトルを成立要因として展開されました。先月末をもって大団円を迎えたNHK連続テレビ小説『エール』のモデルとなった作曲家:古関裕而のコロンビア社レコードデビュー作品が、昭和6年(1931)『福島行進曲』(作詞は『エール』での役名“村野鉄男”のモデルである古関同郷で旧知の友“野村俊夫”)であることもそうした潮流と気脈を通じたものです[刑部芳則『古関裕而―流行作曲家と激動の昭和―』2019(中公新書)]。的外れかもしれませんが、個人的には雨情個人だけで4百曲以上にも及んだ「地方小唄」数が、全国に存在した「花街」所在都市数と近似していることに興味をそそられます。

 「千葉小唄」に戻りますが、その歌詞には千葉の如何なる内容が詠みこまれているのでしょうか。皆様自身でも是非とも御確認をいただきたく、最後に歌詞のすべてをご紹介いたします(雨情没後75年以上を経過しており著作権は消滅しております)。全曲の歌詞をご覧になる機会も稀と思われますのでよい機会になりましょう(『タイムスリップちば』にも1~5番までしか採録されておりません)。やはり、名所紹介に留まることなく、何処かしら艶なる趣を含んでいることをお感じになられましょう。是非とも曲と併せて聴いてみたいとの向きには、YouTubeに上記SPレコード後半(4番以降)がアップされており、容易に耳にすることができますのでアクセスされてみてください。中山晋平の手になる楽曲共々、一聴ローカル色溢れた素朴な作風を感じさせます。江戸の伝統を引き継ぐ、常磐津・清元・新内・小唄・端唄等々の高度に洗練された小粋な世界とは隔絶しておりますが、鄙びた情緒が魅力であると評することも可能かとも存じます。皆様は如何お感じになられましょうか。千葉が軍都であった時代に、花街をそよいだ艶冶な風を少しでもお感じいただけましたら幸いです。

 ただし、「花街」情緒に耽溺することに終始せず、常に「性差(ジェンダー)」への視座を持つことが現代社会において「花街」文化を味わう必要充分条件となろうかと存じます。因みに、国立歴史民俗博物館開催では現在『性差の日本史』なる特別展を開催しております。明後日(12月6日)が会期最終日です。ここのところの歴博の特別展は歴史を振り返ることを通じて、常に現代社会への視座を提示されている点で出色であります。ある意味で博物館の在るべき姿を理想的なかたちとして体現されていると思います。こうした高邁なる姿勢に格段の敬意を捧げたい思いで一杯です。未だの方は是非とも佐倉まで足をお運びください。

 

 

「千葉小唄」(作詞:野口雨情)

1

エー 千葉の妙見様 ヨイと ヨイと サ
祭りの太鼓ヨ 七日叩いて
七夜なるヨ サーさ ドンと ブテ
※ドンと ドンと ドンと ブテ
 サーさ ヨイと ヨイと ヨイと サノさ

2

エー 春の千葉寺 ヨイと ヨイと サ
観音様がヨ 屋根の上まで
花が咲くヨ サーさ ドンと ブテ
※繰り返し

3

エー 袖ヶ浦さえ ヨイと ヨイと サ
様にはならぬヨ 沖の遠浅
 汐次第ヨ サーさ ドンと ブテ
※繰り返し

4

エー 見るも床しや ヨイと ヨイと サ
羽衣松はヨ 昔ながらの
葉が茂るヨ サーさ ドンと ブテ
※繰り返し

5

エー お茶の水さえ ヨイと ヨイと サ
一人じゃ寝ないヨ 月に添い寝の
宿も貸すヨ サーさ ドンと ブテ
※繰り返し

6

エー 都川には ヨイと ヨイと サ
君待つ橋でヨ 水も流れて
川となるヨ サーさ ドンと ブテ
※繰り返し

7

エー 忘れられよか ヨイと ヨイと サ
千葉蓮池をヨ 花は五色に
 とりどりにヨ サーさ ドンと ブテ
※繰り返し

8

エー ただの人目に ヨイと ヨイと サ
猪の鼻山はヨ 千葉の見張りの
番とやらヨ サーさ ドンと ブテ
※繰り返し

 

 

 

 

 日本の戦争終結と「緑十字機」のこと(前編)―忘れてはならない秘められた最重要任務の歴史について― ―本館特別展の会期終了まで本日を含めて4日となりました―

12月10日(木曜日)

 副題にもありますように、本館特別展『軍都千葉と千葉空襲』の会期終了まで残すところ今日も含めて4日となり、12月13日(日曜日)をもって閉幕いたします。10月27日からの会期中、12月4日までに本館に足をお運び頂いた人数は6千人を超えています。勿論、特別展を目当てに来館された方ばかりではないとは存じますが、「読売新聞」(12月8日朝刊)千葉版にもお取り上げいただきましたので、残り1週間でどこまでこの数値が伸びていくのか楽しみにしております。数が多ければよいというわけではございませんが。

 さて、今回は先の大戦を扱った特別展が終了するにあたって、千葉市ということから離れ、日本という国にとっての先の大戦の終結について考えてみたいと存じます。いきなりで恐縮でありますが、ここで皆さんに質問をさせていただきます。

 

Q「日本と連合国との間で争われた先の戦争が終結したのは昭和20年の何月何日でしょうか。」

 

 おそらく、大多数の方々のご解答は以下のようなものだと思われます。

 

 

A「8月15日でしょう。その日は終戦記念日だしね。毎年の夏の全国高校野球大会では、甲子園球場で12時に試合を中断して黙祷を捧げているので間違いないよ。」

 

 

 この解答は、決して誤りではありませんし、ほとんどの日本人にとって疑問なき自明の理として認知されている内容かと存じます。しかし、この解答が果たして一点の曇りもない真実かと問われれば、「必ずしも適切とは言い切れないのでは?」との疑念を拭えないのも事実です。今回はそのことの検討を通じて、歴史の闇に埋もれていた戦争終結までの緊迫した歴史的事実について御紹介したいと存じます。 

 改めて、8月15日とは如何なる日かと申せば、それは昭和天皇による玉音放送が流れた日であります。この放送は有体に言えば「堪え難きを絶え、忍び難きを忍び」、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏することを「日本国民」に対して宣言したものです。前日に連合国には受け入れることを打電しており、マッカーサーは戦闘状態の中止を命じております。その意味では、国際的に日本が戦争終結を認めたのは8月14日ということになりましょう。ただ、それは飽くまでも「停戦」であり「終戦」ではありません。つまり、8月15日は、日本が全面降伏の意思表示を日本国民に示した日にすぎないのです。戦争は相手があって行われるものですから、対戦国であるアメリカを含む「連合国」が、正式に「日本の降伏を受け入れて戦争を終結する」ことを認めなければ戦争は終わったことにはなりません。そのためには、複雑な利害関係を持つ国家の集合体である連合国との間で「降伏文書」を調印することこそが必要十分条件となるのです。私たちが高校生までに習った歴史の教科書では、この後同年8月30日にマッカーサー司令官が厚木基地に到着。同年9月2日に連合国との間に「降伏文書」が調印されたことが記されます。その後に連合国軍総司令部(GHQ)の下での戦後改革が矢継ぎ早に実施されることが予定調和的に記述されるだけで、その間の動きが説明されることはありません。戦後への移行は極めて円滑に運んだように読み取れます。因みに、教科書には、厚木基地に到着したサングラス姿のマッカーサーがコーンパイプを咥えた姿でバターン号のタラップに現れた姿か、約1か月後の9月27日にアメリカ大使館内で撮影された昭和天皇とマッカーサーのツーショット写真の何れかが掲載されていることが多いと思います。

 上述のとおり、重要なことは9月2日をもって日本の降伏が正式に国際社会に認められ、戦争終結に至ったということです。従って、個人的に戦争終結は何時かという問への答として適切なのは「9月2日」であると思いますし、欧米で同じ質問をすれば全員が全員その日を答えるはずです。よく教科書に取り上げられる写真で知られる調印式は、東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズーリ甲板上で行われました(停泊位置は、ペリーが日米和親条約調印の際に旗艦ポーハタン号が停泊したのと同じ場所が選ばれたそうです)。日本側からは、天皇と大日本帝国を代表して外務大臣重光葵、大本営を代表して梅津美治郎参謀長が署名。連合国側からは、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが4連合国(米・英・ソ・中)を代表するとともに、日本と交戦状態にあった他連合国軍を代表して署名。その後、出席した各国代表が署名したのです(米・英・ソ・中・仏・蘭・豪・加・ニュージーランド)。ここまで来ても、「なんだ、そんなことか!?実際に日本は降伏して戦闘状態は終わっているのだから、8月15日でも9月2日でも実質的に同じことじゃないのか」との声が聞こえてきそうです。本当にそうでしょうか?

 ここで、ひとまず時計の針を巻き戻してみましょう。まずは、改めて日本にとっての昭和20年の8月15日と9月2日とが如何なる日かを探ってみます。連合国から日本へ無条件降伏を求める13か条からなる「ポツダム宣言」が発せられたのが昭和20年7月26日のことです。それまでに、日本国中の主要都市は焦土と化しておりました(千葉市中心街が焼野原となった七夕空襲は約20日程前のことです)。しかし、天皇制維持を核とした「国体の護持」を最大の命題としていた日本政府は、天皇の戦争責任回避の保障が得られていない無条件降伏など言語道断。黙殺を続けている中、広島(8月6日)と長崎(同9日)への原爆投下により一瞬にして20万を越える人命が奪われました。長崎に原爆の投下された同日、ヤルタ会談での密約に従い「日ソ中立条約」を一方的に破棄したソ連が対日戦争に参戦するなど、事態は風雲急を告げることになります。今でこそ、歴史的に原爆投下はこの2回のみということを知っておりますが、当時、次に何時・如何なる都市に3回目の投下があるのか予断を許さない状況にありました。事実、その後に日本の諸都市に飛来したB29から大規模に撒かれたな宣伝ビラからもそのことがわかります(戦時において敵国の民間人・兵士の戦意喪失を目的として配布する宣伝謀略用の印刷物を「伝単」と言いますが、この時の伝単を前編最後に全文引用しておきます)。ここには、いつまでもダンマリを決め込んでいる日本へ業を煮やしている連合国側の苛立ちが読み取れます。そして、意思表示を明確にしない日本に対して、同月14日から15日未明にかけて日本各所で空前の規模の空襲を行っています。あまり知られることがありませんが、玉音放送の前日から放送当日未明まで空襲は行われていたのです。大阪では14日に約150機のB29による大阪陸軍造兵廠への空襲があり、ここだけで700個の1トン爆弾が投下されました。日本は8月14日の御前会議で「ポツダム宣言」受諾已む無しとの聖断が下り連合国に打電しておりますが、各実働部隊に直ぐには伝わらなかったのでしょう(残っていた大坂城の隅櫓等5棟もこの時に焼失しています)。翌日にそれを国民に公に発表したのが8月15日正午からの玉音放送になります。そして、ここで再度問いたいと思います。これで日本の戦争は終結したのかと。

 その答は断じて否であると考えます。何故かと問われれば、それは戦史年表を繰れば明らかだからです。3日後の8月18日の記事にこうあります。「ソ連軍、千島列島への攻撃を開始」と。その日、ソ連軍が当時日本領であった千島列島最北の島「占守島(しゅむしゅとう)」へ侵攻を開始し日本陸軍との戦闘になっているのです。時計の針を先に進めれば、ソ連はこの島での戦いに時間を費やしますが、その後も千島列島を攻め下り9月2日には国後島・色丹島の実効支配にまで到ります。北海道への侵攻は目前に迫っいたのです(歯舞諸島の占領に至っては「降伏文書調印」の9月2日以降のどさくさに紛れて行われたとも言います)。スターリンは戦争終結後に北海道の留萌と釧路を結ぶライン北の分割統治を求めており、マッカーサーが断固拒否するという経緯もありました。しかし、日本と連合国との正式な降伏文書の調印がなされていない以上、その間に連合国軍の一翼を担うソ連が千島列島から北海道へ上陸。北海道北部の実効支配を成し遂げてしまう恐れがここで現実的になったのです。反ファシズム陣営として団結していた米ソでしたが、既にこの段階で両国の鞘当てが始まっていたのです(それが戦後の冷戦に直結することは言うまでもありません)。日本も、上記ソ連の動向を見れば明らかな通り、舵取りを誤ればドイツや朝鮮半島のように、分断国家としての戦後を歩むことになった可能性さえ現実問題であったのです。アメリカが原爆開発を急いだことと日本投下したことの背景には、戦後の日本占領政策へのソ連影響力を極力排除する意図が大きかったとも言われます。その意味でも、マッカーサーとしては一刻も早く進駐軍を日本国内に展開し、これ以上のソ連侵攻を抑え込み、アメリカ主導の下で日本の占領政策を実行することが急務であった訳です。つまりは、日本としても無条件降伏を受け入れた以上、一刻も早い降伏文書への調印が、戦後のソフトランディングにとって必要不可欠な状況にあったと申せましょう。

 マニラにあったマッカーサー司令部からは、玉音放送の翌日となる16日に大至急「降伏使節」を派遣するように求める指令が打電されてきました。しかし、日本国内は混乱を極め、降伏軍使のマニラ派遣についても紆余曲折を経ることになります。その顛末については中編以降にて述べたいと思います。ひとつ確かなことは、玉音放送から9月2日「降伏文書調印」までの2週間が教科書で知られるような平坦な道筋によるものでは決してなかったということです。

 

 

 

《表 面》

日本国民に告ぐ!! “即刻都市より避難せよ”

このビラに書いてあることは最も大切なことでありますからよく注意して読んでください。日本国民諸君は今や重大なときに直面してしまったのである。軍部首脳部の連中が三国共同宣言の十三か条よりなる寛大なる条項(※「ポツダム宣言」を指す)を以って此の無益な戦争を止めるべく機会を与えられたのであるが軍部は是を無視した。そのためにソ連は日本に対して宣戦を布告したのである。亦米国は今や何人もなし得なかった恐ろしい原子爆弾を発明し之を使用するに至った。之原子爆弾はただ一箇だけであの巨大なB29二千機一面に投下する爆弾に匹敵する。


 《裏 面》

この恐るべき事実は諸君が広島にただ1個だけ投下された際、いかなる状態を惹起したかはそれを見ればわかるはずである。この無益な戦争を長引かせている軍事上のすべてを、この恐るべき原子爆弾をもって破壊する。米国はこの原子爆弾が多く使用されないうち、諸君がこの戦争を止めるよう天皇陛下に請願されることを望むものである。米国大統領は裏に諸君に対して述べた13か条よりなる寛大なる条項を速やかに承諾し、よりよい平和を愛好する新日本の建設をなすよう米国は慫慂(※しょうよう)するものである。しからざれば米国は断固、この原子爆弾ならびに、その他あらゆる優秀なる武器を使用し、この戦争を迅速かつ強制的に終結せしむるであろう。

“即刻都市より避難せよ”

 

 

 

 

 

 日本の戦争終結と「緑十字機」のこと(中編)―忘れてはならない秘められた最重要任務の歴史について― ―本館特別展の会期終了まで本日を含めて3日となりました―

12月11日(金曜日)

 さて、中編以降は、岡部英一『緑十字機の記録-戦争を1日も早く終わらせるために-』(平成27年刊)に基づき、簡単にこの間の経緯を述べようと思います。戦争終結に向けた2週間こそ、まさに手に汗握るような緊迫した時間との闘いであり、こうした事実がこれまであまり表にされて来なかったことが不思議な程のドラマチックな歴史でもあります。この事実を根気強く調査・研究されたのが、静岡県磐田市にお住いの郷土史家岡部さんであり、本著作も出版社から上梓されたものではなく自費出版として世に出た書物であります(当方は翌年の第三刷版を直接に著者から購入させていただきました)。それが品切れとなり、価値を認めたのであろう静岡新聞社からようやく『緑十字機 決死の飛行』として公刊されましたがそれも既に品薄と聞きます。以下にご紹介することは岡部さんの調査・研究成果のホンの上澄みのご紹介にすぎません。実際の関係者への聞き取り調査等を基にした岡部さんの筆の迫真性の足元にも及びません。今回の記事で興味を持たれましたら、何よりも本著作を購入され一読されることを是非ともお薦め致します。掛け値なしに価値ある内容であることを保障いたします。

 さて、連合国軍司令官マッカーサーが、玉音放送の翌日となる16日に日本に「降伏軍使派遣」を命令しており、直ちに派遣することが求められたことを前編末尾で述べました。その内容は、日本の飛行機で伊江島(「沖縄美ら海水族館」の沖に見える平坦な島で、日本軍飛行場を占領後にアメリカ軍が拡張して使用)に至り、同地よりはアメリカ軍機によって連合国軍総司令部のあるマニラに輸送すること(帰還時も同様)、軍用機ではなく武装なき輸送機を使用すること、飛行機全体を白色に塗装し所定の場所に緑色の十字を付すものとすること(これが「緑十字機」の正体)、更には翌17日の8時から10時までの間に出発するようにとも指示されておりました。しかし、事態はそう簡単には運びませんでした。使用する飛行機も、沖縄の伊江島までの飛行で途中給油せずに飛行可能な機種は軍用機「海軍1式陸上攻撃機」しか存在しない状況にありました。当機種を使用するにも攻撃装備を除去し「緑十字機」仕様に改装する必要もありました。そうした条件から鑑みて、翌17日の出発は難しい状況にありました。更に、国民や兵士の多くが、天皇の突然の言葉に混乱しながらもその方針に従おうとしたのに対し、陸海軍の一部に徹底抗戦を叫び続ける強硬な勢力が暗躍しておりました。従って、途中で国内に着陸せずに直行できる脚の長い航空機の選定が不可欠でした(一度着陸してしまえば上記の勢力に襲われる可能性も高かったからです)。事実、国内には想定された本土決戦に備えた多くの兵力・兵器が温存されており、徹底抗戦派はそれを背景に至って意気軒昂でした。

 懸念は現実化します。本土決戦を叫び続けていた陸軍の若手将校は、「国体護持」の確証の得られないポツダム宣言の受諾に断固異を唱え、8月14日深夜から15日未明にかけて、宮城(皇居)を占拠し天皇を擁護の上で、陸軍大臣の上奏により天皇に戦争継続の決意をしていただくことを目指すクーデターを計画。最終的に鎮圧はされますが、相当な成果もあげておりました(所謂「宮城事件」)。また、海軍厚木飛行場では航空隊による反乱が勃発し頑強な抵抗が繰り広げられておりました(鎮圧されるのは先の21日のことです)。つまり、伊江島への飛行には、厚木航空隊という身内からの攻撃という最悪の事態も現実的な課題であったのです。しかし、兎にも角にも、日本としては一刻も早い降伏文書の調印に漕ぎつけること(そのために降伏軍使を安全に一刻も早くマニラに派遣すること)、そして、連合国軍の進駐までに国内の混乱を抑え込む必要に迫られていたのです。もし進駐軍に対して攻撃する勢力が表れ、連合国による統治が実施不可能と判断されれば、第3の原爆投下もありえましたし、更にはこの時点では不明確であった天皇を中心とする「国体の護持」の道筋さえも途絶える危険性すら高かったのです(天皇自身への戦争責任追及も含めて)。これだけは回避しなければなりませんでした。そのための時間が必要だったのです。

 そうした中、絶対に失敗の許されない交渉に臨むための全権を担う降伏軍使と随行員の人選を行う必要もありました。陸軍の最高責任者である梅田総長も、海軍の最高責任者である豊田軍令部総長もこれを頑なに拒否。結果としては次長クラスの人選でも構わないとの連合国の譲歩を得て、河辺虎四郎陸軍中将が全権として任命されました(本来海軍からも同格の大西瀧治郎中将が全権となるべきでしたが16日に自決したため海軍からは全権を出さずに横山一郎少将を首席随員としました)。随員も搭乗員も、限られた期間内に確実に任務を果たすべく人選が急がれました。そして、これ以上の遅れは許容できないとの最後通牒にも近い要請により19日の出発が決まったのです。万が一のことを考えて、伊江島に向かうのは2機とし、更には厚木航空隊からの攻撃に備え囮機も用意されました。降伏軍使派遣の件は、徹底した情報管理の下に進められ、前日夜一番機が横須賀飛行場を離陸。厚木航空隊の哨戒飛行のされていない東京湾対岸の木更津飛行場に向かいました。そして、快晴の下、19日午前7時18分木更津飛行場から2機が北へ向かって離陸。ここに、本人達にとっても、そして日本という国家にとっても「激動の3日間」の幕が開けることとなったのです。

 2機の「緑十字機」は離陸後にすぐに右旋回。鴨川上空からは厚木航空隊戦闘機からの攻撃を避けるべく低空飛行のまま南下。本土を大きく迂回しながら伊江島に向かいました(2機の囮機も目立つように電波を発しながら別方向に飛び立っています)。途中、都井岬上空で「緑十字機」護衛のために飛来した米軍戦闘機と合流します。その時の搭乗員の心情は「ホッとした」というものであったとのこと。友軍機からの攻撃にビクビクし、数日前まで敵機であった米軍機に守られ安堵しているのです。搭乗員の内面に分け入れば、その思いはさぞかし複雑なものであったと推察できましょう。

 こうして、米軍機に護衛された我が「緑十字機」2機は、12時30分伊江島上空に到達。着陸時に1番機は機体トラブルが発生し危険な状況がありましたが、どうにか2機ともに着陸に成功。帰還時の機体整備の人員を伊江島に残し、交渉に臨む全権以下16名は米軍機(C―54輸送機)に乗り換え、慌ただしく13時30分にマニラに向かって飛び立っています。そして、17時45分に無事にマニラのニコラス飛行場に到着後、20時30分から設定された会議に臨むことになりました。会議は、まず進駐軍の厚木飛行場使用についての協議から始まりました。相手側の要求は23日(会議終了の明20日から数えても3日後)に先遣隊到着、26日にマッカーサーの日本入が求められました。しかし、日本側としては混乱の渦中にある厚木飛行場へ進駐することを何とか阻止しようと、木更津・香取・神池の使用を申し入れましたが、これは一切受け入れられませんでした。そうであれば、余計に国内の混乱を納める必要がありました。そこで「受け入れ準備が整わない」ことを理由に進駐日程の先延ばしを申し入れています。その結果、先遣隊の厚木着26日、マッカーサー厚木着28日、そして降伏文書調印31日との代案が提示されました。更に執拗に数日の延期を求め執拗に食い下がりましたが「余地なし」と拒絶されたのでした。先遣隊の入国まで5日程という急な展開を一刻も早くに日本政府に知らせ、事前に準備を進めてもらうためにも、日本へ合意事項を打電することを依頼するも、これは相手側から断られています(ソ連に通信を傍受され交渉日程を事前に知られることを恐れたのだと推定されます)。

 翌20日10時30分からの会議は前日決定事項の確認のみ。変更の余地は一切ないままに昨日の日程で決定となりました。そして12時15分会議終了。追い立てられるように篠つく雨の中マニラを飛び立ちました。後は、一刻も早く東京に戻ってこの内容を伝達し、国内の陸海軍の解体を急ぎ、平穏に進駐軍を迎える態勢を整えなければなりませんでした。彼らが伊江島を経由して東京に戻れるのはどんなに早くても21日未明。それから先遣隊受け入れまでは5日しか残されていなかったのです。事態は一刻の猶予も許されない状況にありました。先回りして申し上げておきますが、8月23日に関東地方を襲った台風の影響で、後になって連合国軍側はすべての予定を2日ずつ繰り下げとすることを承認しました。その結果、現在歴史上に知られる交渉日程が確定することとなったのです。実際に、厚木航空隊の反乱鎮圧と彼らの妨害行為で荒れ果てた同飛行場の整備は、この2日間が無ければ到底不可能であったとも言えるものでした。日本にとってはこの台風こそが真の意味での「神風」と称すべき天啓であったのかもしれません。「神風」は戦闘の終結後に吹いて日本を救ったとも申せましょうか。
(後編に続く)

 

 日本の戦争終結と「緑十字機」のこと(後編)―忘れてはならない秘められた最重要任務の歴史について― ―本館特別展は明日[12月13日(日曜日)]を以て会期終了です―

12月12日(土曜日)

 この段階で「降伏軍使」に残された任務は、伊江島から一刻も早く日本に戻って交渉結果を伝え、5日後に迫る進駐軍の受け入れ体制を緊急体制で整える状況を作り出すことでした。伊江島でも当然の如く日本への交信は認められず、これら重大情報を伝える術は直接伝達しかありえなかったからです。しかし、事は簡単には進みませんでした。本任務遂行における最大の危機は伊江島離陸後に待っていたのです。正に「事実は小説より奇なり」であります。この後、更にドラマチックな展開が待ち受けていようとは誰が知りえたでしょう。

 伊江島からは往路と同様に2機の日本機で木更津に戻る手筈でしたが、まずはそれが頓挫します。2機中で機械面での状況が安定していた2番機が、出発直前の手違いでの損傷により当日の飛行が難しくなったからです。やむを得ず機械面で不安の残る1番機単機で、同日18時40分木更津に向け飛び立つこととなりました。ところが、その1番機が潮岬を通過する23時00分頃、搭乗整備員が機の異状に気付きます。伊江島で米軍から満タン補給してもらっていた筈の燃料が空近くになっているのでした。これでは、残り1時間程度しか飛行できないことが判明したのです。木更津に到達することは到底不可能です。結果的に1番機が選択したのが遠州灘沖の海岸線への不時着を試みることでした。月が煌々と照らす夜であったことが幸いしました。海と砂浜との境目が明確に区別できたからです。夜間の着水で最も危険な水没を避け、砂浜の汀線へ不時着することが可能でした。それでも砂浜は決して平坦ではありません。相当に困難なミッションでした。決死の操縦の結果、機体は大破し怪我人も出たものの、幸いに搭乗員全員大事には至らず、日本の将来を左右することとなる交渉関係文書も無事でした。そして、その場所は天竜川河口部に近い鮫島海岸であることが分かりました。何故燃料が満タンになっていなかったのかについては諸説があり岡部さんはそれぞれを詳細に検証されております。一般には日本側のリットル計算とアメリカ側のガロン計算とを取り違えて給油したことが原因だとされております。しかし、かくも重大な任務を任された彼らが何度も確認をしているなかで、かように重大な燃料補給ミスをするとは到底考えられません。真実は闇の中です。ただ、一つ「降伏軍使」派遣隊随員中にも「徹底抗戦派」一派の人物が紛れ込んでいたであろうことが推定できます。それが誰かを特定できませんが、全権河辺中将がマニラで交渉のテーブルに着く直前、控室でシャワーを浴びた後、部屋には何者かが置いていった扇子があったのです。それを開くと、そこには「君辱臣死(天皇が辱めを受けるようなことがあれば臣たるもの死して天皇の恥をそそがねばならない)」と書かれてあったことからも傍証されます。従って、燃料トラブルも、日本の「無条件降伏文書」調印を阻止するための、そうした一派の妨害工作であった可能性を否定することはできなかろうと思われます。

 さて、1番機の不時着は日付の変わる直前8月20日23時55分のことと言われています。この後の鬼気迫るドラマチックな展開は岡部さんの著書にあたっていただき、ここでは極々概略を述べたいと思います。一行は飛行機の落下らしい音を聞いて海岸線に現れた地元住民に導かれ電話機のある鮫島集落に向かいます(事件前後の鮫島集落の方々の献身的な協力に頭が下がる思いです)。しかし、空襲被害により村から東京への電話は通じません。幸いに近隣に所在した明野飛行場近くの袖裏郵便局の電話が通じ、就寝中であった当飛行場竹原中尉が袖裏郵便局に出向いて事実を把握。同時に浜松憲兵隊への連絡と自動車の手配を行っています(21日1時50分)。明野飛行場竹原中尉の軍用トラックと浜松憲兵隊上原大尉を乗せた自動車が鮫島集落に到着し、陸軍浜松飛行場へ移動開始したのが同日3時20分のことです。浜松飛行場到着が4時となりました。一方で数人が向かったのが浜松中央郵便局。ここで東京の海軍省にようやく電話が繋がります。最も重大な情報である進駐先が厚木飛行場であること、進駐日程が政府に伝達されることとなりました。ここでは詳述できませんが、この情報を得て海軍省は直ちに厚木航空隊の鎮圧に動きます。また、別に計画されていた一部陸軍兵士達によるクーデターも未然に防がれる等、国内での進駐軍受け入れ体制の整備が懸命に、そして急ピッチで進んで行くことになりました。

 当時の浜松市は30回近い空襲と米軍艦船からの艦砲射撃を受けて壊滅的な状況にあり、陸軍浜松飛行場の部隊も一部を残して航空機諸共すべて富山へ避難しておりました。しかし、幸運なことに修理の必要があって陸軍機1機が奇跡的に浜松に戻ってきていたのでした(キ67「四式重爆撃機」飛龍)。そこから突貫での修理が行われ、8月21日午前7時に浜松飛行場を離陸。8時頃に調布飛行場に着陸。全権の河辺中将以下4名が迎えに来た自動車で永田町にある総理官邸に向かうことになりました。河辺全権は、官邸に参集していた東久邇宮総理以下、重光外相、米内海軍大臣、近衛国務相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長らに携行した書類を提出。交渉経緯を説明し、復命報告を終えたのが同日11時頃でした。一方、修理を終えた2番機は21日に伊江島を離陸。同日14時00分木更津飛行場到着。二番機の到着を持って大本営は連合国軍最高司令官マッカーサー宛に二機の到着を打電しております。

 岡部さんは、「ここに日本海軍航空隊の、3日間にわたる最後のミッションが終了した」と書かれておりますが、同文に接した時、埋もれていた事実を掘り起こした岡部さん御自身のミッションの終了の感慨と重なる想いを読み取った次第であります。かようなドラマチックな歴史的事実があったこと、紙一重の薄氷を踏むがごとき人々の努力があったこと。その成果によって辛うじて我々の戦後日本が歩み始めることとなったことを忘れてはならないと思います。不時着という非常事態を乗り越え、予定時刻よりも8時間ほどしか遅れず任務を遂行した搭乗員を含む彼らの行動に心底打たれる想いを禁じ得ません。歴史に「もし」は禁物であることを承知の上で、もし1番機が墜落して全権以下全員が死亡、降伏関係文書の喪失と言った事態が起こっていたら、戦後の日本がこれだけ順風に再スタートが切れていたのか、大いに疑わしいと言わざるを得ません。もしかしたら、約束を履行しない日本に第3の原子爆弾が投下されていたかもしれません。もしかしたら、北海道北部がソ連の実効支配下に入り、朝鮮半島同様の分断国家として今に至っていたかもしれません(事実、その時にソ連が実効支配した北方領土は、ソ連崩壊後も日本に返還される見通しすら立っておりません)。更に、もしかしたら全面降伏を阻止しようとする勢力による内乱が勃発し、日本人同士の血が流れていた可能性さえありえたシナリオだと思います。恐らく天皇の戦争責任追及も必至の状況であったことでしょう。こうしたことを鑑みるにつけ、彼らの仕事はもっともっと賞賛されてしかるべきと考えますが如何でしょうか。岡部英一さんの研究と出版の動機もきっと同じだったと思います。繰り返しますが、岡部さんの著書を是非ともご一読ください。岡部さんは自費出版に相当な額の自腹を切られております。それを少しでも補填していただくためにも。いや、それ以上に本書をお読みいただければ、当方の下世話な御節介など雲散霧消の感銘を受けられること必定と存じます。

これ以降の歴史は多くの著作に記述されております。是非ともそうした書物にあたっていただければと存じます。本館における特別展『軍都千葉と千葉空襲 ―軍と歩んだ街・戦時下のひとびとー』も明日をもって会期を終了致します。これまで足をお運びいただいた皆様、そして本展開催にあたってお力添えを賜りました多くの関係団体・関係諸氏に、衷心よりの御礼を申しあげたく存じます。ありがとうございました。

 「歴史」は決して過ぎ去った過去の遺物にはあらず、常に現在との関わりの中で存在し、現在を生きる者と我々の歩む未来とを、過去から照らし続けているのだと思います。そのことを改めて実感させられるとともに、その矜持を保ち続けることを忘れてはならないと確信させられる今回の特別展でありました。その思いを館長として今しみじみと噛みしめております。そして、「千葉市制100周年」を記念する次年度の特別展企画を是非とも楽しみにお待ちいただけましたら幸いです。


 

 

 非常事態における「芸術・文化」支援の在り方(前編)―「世界恐慌」下で実施されたもう一つの「ニューディール政策」―

12月18日(金曜日)

 本年度の特別展『軍都千葉と千葉空襲』が去る12月13日(日曜日)に終了いたしました。最終的に会期中(48日)ご来館いただいた方々は合計7,500人程となりました(一日に割り返せば156名前後となります)。また千葉市外からのご来館も多く、広く関心をもって頂けたことにも感謝申し上げる次第でございます。また、会場内で実施させていただきましたアンケート調査の結果からは、ご協力いただきましたほぼ全員から好意的な評価を賜りました。勿論、耳に痛いご意見もございましたが、謙虚にお受けして改善に努めて参る所存でございます。これまでに、ご来館をいただきました全ての皆様に、衷心よりの感謝の思い捧げたいと存じます。誠にありがとうございました。

さて、旧聞に属することとなりますが、9月末~10月初旬、東京上野にある国立教育研究所主催による「博物館長研修」なる連続研修会に参加をして参りました。全国の博物館から40名弱が参加し、現状における博物館の課題を踏まえて、講義・演習・協議等を通じて博物館経営の在り方について考えを深める、大変に有意義な時間を過ごさせていただきました。本日は、その折の基調講演で京都国立近代美術館の柳原正樹館長からご教示いただいた内容の一端をご紹介させていただきます。少なくとも当方は、これまで全く知ることの無かった歴史的事実に目を開かされた思いでありました。それは、皆様も学校での歴史学習で必ずや学んだであろう、アメリカ合衆国第37代大統領フランクリン・ルーズヴェルトによる世に名高き「ニューディール政策」に関する内容です。「何故博物館で経済政策の話なの?」との疑問を持たれるのも御尤もだと思われます。従って、まずは手始めにニューディール政策の「イロハ」を高等学校の教科書で確認してみましょう。現在発行されている数社の記述内容を総合すれば、1929年米国ニューヨークのウォール街における株価大暴落に端を発した未曾有の経済混乱(「世界恐慌」)に対して、アメリカが自国で行った当該政策について、概ね以下のように整理できると思われます。実際のところ、当方の認識もこれを大きくはみ出るものではありませんでした。

 

 

  1. 農業調整法(AAA)によって農業物の生産調整と価格の安定化を図ったこと。
  2. 全国産業復興法(NIRA)に工業製品の価格協定を公認することで、企業間の競争の制限等を認め、産業の復興を促したこと。
  3. テネシー川流域開発公社(TVA)に代表される公共投資事業の大規模展開による雇用拡大と地域総合開発との複合的推進を行ったこと。
  4. ワグナー法により労働者の団結権と団体交渉権を認め労働組合結成を助長したこと[その後の産業別組織会議(CIO)の成立に繋がったこと]。
  5. 国家が積極的に経済活動に介入することを通じて景気回復を図る、ニューディール政策が、その後に一般的となる修正資本主義政策の端緒となったこと(イギリスの経済学者
    ケインズによって理論化された)。

 

 

 しかし、柳原館長からは、教科書の記述からは窺い知ることのできなかった(当方の周囲でも認知されている方はほぼ皆無であった)以下のような政策が実施されていたことを知り、その注目すべき内容に大いに目を開かされた思いでした。実のところ、教科書に記述されている「ニューディール政策」とは、主としてルーズヴェルトが大統領に就任した1933年に実施されたものであり、所謂「第一期ニューディール政策」と言われるものであるそうです。以下にご紹介する政策は、1935年に始まる「第二期ニューディール政策」での実施内容であり、それについては従来日本ではほとんど紹介されることがなく、等閑に付されて来たことも知りました。これは「芸術振興計画」と総称される政策であり、5つの国家プロジェクト(1.文学、2.歴史記録、3.劇場、4.音楽、5.美術)を立ち上げ、「芸術・文化」の各分野に関わる失業者の救済対策に果敢に取り組んだものなのです。研修会の後、当該政策についての詳細を知りたく思い調べたところ、国立民族博物館の企業メセナ協議会に提出された出口正之さんの論考『ニューディール時代の文化政策の現代的意義-社会資本から文化資本充実の政策への転換-』(2003年)に出会いましたので、以下当該論考を御紹介する形で政策の概略をお伝えしたく存じます。

 1935年にスタートした「第2次ニューディール政策」において設立されたWPA(The Work Progress Administration=雇用促進局)では、従来の失業者救済として一般的に行われていた失業者への生活保護的給付を停止し、彼らに公益事業的な「職」を提供することで、賃金の形で生活資金を支給する施作への一変を図ったのでした。このこと自体は我々のニューディール政策の認識とほぼ一致するものでありましょう。ただ、そのスタートに際して「フェデラル・ワン」という「芸術・文化プロジェクト」を開始したことに本政策の画期的な意義が存在します。これは上記したように5つのプロジェクトから構成され、まず、各分野における深い知見と理解とを有する部長(Director)を充てることにしました。結果として、この人選が各プロジェクトの大きな成果をもたらすことに繋がったと言います。そのうち「連邦劇場プロジェクト」部長となったハリー・フラナガンは以下のように述べているとのことです。本政策全体の基調をなす発言内容ですので、当該発言を念頭に以下の内容をお読みいただけましたら幸いです。

 

 

「演劇は単なる私企業以上のものであるばかりか、公の利益に資するものである。順調に発展すれば、社会の活力となり、教育上にも良い影響をあたえるであろう。」

 

  以下、出口さんが論考で取り上げていらっしゃる、幾つかの具体策の概略をご紹介させていただきます。まず、「連邦美術プロジェクト」では、5,300人もの美術家と関連専門職を雇用。その範疇は油絵・水彩画・銅板画・モザイク画・ステンドグラス・彫刻・工芸等、極めて広範囲に及びました。具体的な作業として、依頼により制作された作品を主に作品を学校・図書館・病院等に展示した他、2,500カ所の公共建築物への壁画制作、アートセンターを設置して広く美術鑑賞や美術教育を施すことで美術愛好家の裾野を拡大する機能を果たしていったとのことです。「連邦音楽プロジェクト」では、16,000人もの音楽家及び関連職を雇用。毎週300万人の聴衆を前に5,000もの公開演奏会を全米で実施。更に、創作の分野では1,500人の作曲家に作品が委嘱され5,500もの新作が作曲されました。「連邦劇場プロジェクト」では、最盛期には12,700人もの失業中の劇作家・俳優・照明等の劇場関係者を雇用。毎月1,000公演が開催され、実に百万人を越える観客を動員。併せて最初の4年間に1,200もの新作劇が誕生したとのことです。当活動はハリウッド映画の復興にも大いに貢献し、現在においてもハリウッド映画を象徴するカラー作品と目される『風とともに去りぬ』(1939年)が制作されたのも、まさに当該政策の成果の一つとされるとのことです。他に、「連邦作家プロジェクト」でも、6,686人の作家を雇用。6年で800もの新作が創作されたとのことです。 


(後編に続く)

 

 

 

 非常事態における「芸術・文化」支援の在り方(後編)―「世界恐慌」下で実施されたもう一つの「ニューディール政策」―

12月19日(土曜日)

 出口さんは、こうした「フェデラル・ワン」の活動について以下のように総括されていらっしゃいます。本政策には二つの側面があり、一義的に「雇用政策」でありながら、副次的に「芸術・文化政策」であったこと。そして、雇用の創出という意味においては、ニューディール政策における他のそれと比べれば遙かに規模の小さなものにすぎず、その効果の評価が難しい反面、「芸術・文化政策」的な意味合いにおいては、芸術・文化産業の供給を増加させ、無料公演等を通じた教育効果による人々の芸術・文化への興味・関心を喚起させ、結果としてその後の需要を高めることに繋がるなど、その意義は極めて大きなものであったされております。確かに、こうした政策では短期的・短絡的な効果を期待することが難しい反面、それだけでは評価しきれない側面が多いのも事実であります。百年・千年という長期的なスパンで政策の価値を計る必要があると考えます。その意味においても、緊急事態下での政策決定にあたって、政権の担当者は、短期・長期双方のヴィジョンを明確に持つことが重要であり、覚悟を以て果敢なる政策の舵取りをすべきではありますまいか。たかが2~3年で効果が出ないから中止するといった、近視眼的・短絡的な考課・政策判断を下すことは厳に慎むべきと考えます。現に、当時のアメリカを例に考えれば、芸術・文化に対しての趣味・嗜好は脇に置いても、ここで蒔かれた小さな種は着実に育ち、以後百年間でアメリカの演劇・映画等の文化的なヘゲモニーは決定的となったと言っても過言ではありますまい。それまでの芸術の都パリを大きく凌ぎ、アメリカに巨大な利益をもたらしたことは確実です。極々一般的な映画・ミュージカルのファンであれば、この間のハリウッド及びブロードウェーを除いたヨーロッパ制作にかかる映画作品・ミュージカル作品を幾つ数え上げることができましょうか。また、イギリス産で20世紀最大の音楽旋風を巻き起こしたビートルズも、アメリカ音楽産業の地盤上に咲いた花であると断言することに異論はありますまい。チャック・ベリーやエルヴィス・プレスリー等に代表されるロックロール、B・B・キングに代表されるブルース、ボブ・ディランに代表されるフォークソング等々、枚挙に暇がないほどに、世に名高いポピュラー音楽の旗手の多くはアメリカ産のアーチストであり、その地を起源とする音楽なのです。それ以前の、クラシック音楽の主たる産地がヨーロッパにあったことと著しい対照をなしております。この要因を、この混乱期における政権の舵取りに求めることは、あながち的外れとは言い難いと考えます。如何でしょうか。

 続いて出口さんは、この政策がアメリカ人だけではなく、アメリカ居住者を対象としたことの重要性について述べておられます。本政策は、大恐慌という世界を巻き込んだ経済的混乱とヨーロッパにおけるファシズム勃興の下、有能なユダヤ人までも抹殺乃至は国外追放に処したナチスドイツ政権施策の受け皿として機能したことです。「世界に冠たるドイツ文化」の担い手の多くが、実のところドイツ国内に居住するユダヤ人であったことが明確となるのが戦後です。そのことは、特に音楽の分野で顕著であり、戦後ドイツに優秀なドイツ人音楽家が払底していることからも一目瞭然です。現状で申せば、例えば優秀な独墺系オーケストラの首席指揮者で、戦後生まれ生粋のドイツ人として名前を挙げられるのは、シュターツカペレ・ドレスデンのクリスチャン・ティーレマンただ一人ではないかと思います。最早ドイツのオーケストラ構成員も多国籍軍状態です(今日日、日本のオーケストラ構成員がほぼほぼ日本人の独占状態であることにこそ、かえって異質感があるほどです)。

 最後に、地域社会と密接に結びついた点を挙げておられます。後に連邦政権として本政策が終結してからも、その精神が多くの地域(州)に継承され、地域の芸術・文化的資質を高めていったことです。今でもアメリカでは自らの住む街のオーケストラに誇りを持ち、多額の寄付金を納めて市民の力で維持していこうというメンタリティが強く存在します。こうした市民意識の形成にも一役買っているのかもしれません。

 これまで出口さんの論考を紹介する形でお示しいたしました「第二次ニューディール政策」(フェデラル・ワン)でありますが、皆様はご一読されて如何お感じになられたでしょうか。自ずと現在の全世界に蔓延している「コロナ禍」という危機的状況と重ね合わせてお考えになられた方が多いのではありますまいか。世界恐慌は未曾有の不景気をもたらし、街は失業者で溢れ、日々の生活にも困窮する人々が路上に充ち満ちました。しかし、このような苦境の時にこそ、人々は精神的な癒しを求めようとするのではありますまいか(「人はパンのみにて生きるにあらず」)。反面で、こうした時にいち早く切られていくのが経済的利益を直接的に生み出さない芸術・文化に携わる人々であるのも現実と申せましょう。そうした逼迫した状況の中、時のアメリカ政府(ルーズヴェルト)は、おそらくこう考えたのだと推察致します。このまま放置すれば、アメリカから芸術・文化を担う人材は遠からず失われ払底するだろう。それは経済混乱を終息させた後の社会に何をもたらすのだろうか。それこそ、利潤追求だけを第一にするだけの潤いを欠いた世界ではないか。だからこそ、芸術・文化を担う人々を、今守り育てなければならないと。その発想には「人間社会の豊かさとは何か」を問いかける人間的資質の根源の部分が表出しております。芸術・文化など「金喰い虫でたいした利益を生み出さない下らないこと」と見下し、目先の最大利潤をもたらすことのみにしか関心を示さない人間達にこそ、危機的な状況下でアメリカが下した政策の意味を反芻して頂きたいと思う次第であります。しかし、実際には、長いスパンで考えれば、アメリカでその際に蒔かれた小さな種子が百年という単位で大きく育ち、アメリカの表看板となり、国家に大きな利潤をもたらしていることを、決して看過すべきではないと考えるのです。

 翻って、現在の本邦の現況に鑑みれば、もうすぐ一年にも及ぶコロナ禍の下、演劇・音楽関係に従事されているフリーランスの方々の苦境について屡々耳にする機会があります(そうした人々への支援が講じられていないわけではありませんが)。芸術・文化に携わる仕事に限らず、生活苦の中で自死を選ばれる人の数も徐々に増え続けていることも屡々報道されます。勿論、感染症をともなった複合的な不況対策を講じなければならない現在と、当時の政策とを単純に比較することなどできませんし、ニューディール政策自体に負の側面があったことも承知しております。国家としての経済規模も当然異なります。上記の政策を今日なぞって見たところで効果が上がるかは疑問であります。しかし、私がここで問いたいのは、困った人に金銭的支援をして「事足れり」といった近視眼的・短絡的な政策ではない、長い先を見据えた長期的なヴィジョンある政策立案をしてきた、当時のアメリカという国家の在り方に大いに感動させられるということです。これこそ「国家力」と申すものではないかと思うのです。そして、国家的危機の下で一国の指導者である大統領が「誰一人見捨てない」との意図をもって下した果敢な決断と政治家としての矜恃とに胸を打たれる思いであります。同時に、博物館で仕事をするものとして、単に集客を考えるだけではなく、人々に明日の希望を届けることが可能な企画運営を工夫して参らねばならないとの思いを、肝に銘じて歩んでいかねばとの思いにも駆られる次第であります。

 最後になりますが、前回の「館長メッセージ」の末尾でも申しあげましたが、「歴史とは常に現在との関わりの中に存在する」ことを、今回の話題を通じても強く実感させられた次第であります。因みに、白状すると、この「寸鉄人を射る」言葉は千葉大学法経済学部の水島治郎教授(中公新書『ポピュリズムとは何か』著者)が、過日に本館特別展をご覧になった後、当方に宛てられたメールにあった御言葉に由来いたします。図々しくも先生にお許しをいただき、2度目の借用させていただいた次第であります。

 

 

 歳末に聴かれる『第9』について(前編) ―もうじき「生誕250周年記念」の年を終えるベートーヴェン― ―12月28日(月曜日)~1月3日(日曜日)年末年始休館 [1月4日(月曜日):特別開館・1月6日(水曜日):臨時休館]―

12月25日(金曜日)

 年の瀬も押し詰まり、コロナ禍に明け暮れた令和2年も直に幕を降ろそうとしております。かようなご時世の中で着任しスタートした本館の業務でありますが、中止の止むなきに至った事業もあるものの、主要なそれについては代替の形をとってでも、とりあえず展開できましたことに安堵いたしております。何よりも、市制100周年記念として開催した特別展『軍都千葉と千葉空襲』を成功裡に終えることができたことに、大きな充足感を抱いているところであります。ただ、種々の体験学習活動、特別展等でのギャラリートーク、博物館ボランティア活動にご登録いただいている皆様の活動等は、実施できないか大幅な制限をせざるを得なかったことを、致し方がないこととは申せ、残念に存じております。来年そして次年度の本館の活動につきましては、この年末・年始の休館期間を利用して、来し方行く末に想いを馳せながら、如何にあるべきかについて考えて参りたいと存じます。因みに、副題としてお示しいたしましたが、年末・年始の開館日程は通常とは大きく異なりますので、よくよくご確認の上でご来館くださいますようにお願いいたします。

 さて、「年末」というこの時節は、地域ごとに特色のある風習が見られるなど、民俗学的にみて大変に興味深い時期であり、取り上げるべき話題も多々あるように思いますが、今回は「クラシック音楽:年末編」とさせていただきます。我が国で年末に行われるクラシック音楽のコンサートの定番演目といえば、『メサイヤ』か『第9』でありましょう。前者は、ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)作曲によるオラトリオ(歌唱を伴う宗教的題材による音楽物語といえば粗々よろしいかと思います)作品であり、曲中に誰でも一度ならず耳にしたことがあるであろう「ハレルヤ」コーラスを含む、キリストの生涯を言祝ぐ音楽となっております。もっとも、ヘンデルはハレに生まれたドイツ人ではありますが、イギリスで成功し、後にかの国への帰化までしておりますので、本来は「ジョージ・フレデリック・ハンドル」と英語読みするのが適切かと思います。本作もロンドンで初演されており歌唱もすべて英語によっております。因みに、年末に『メサイヤ』を聴く慣行はアメリカに由来するとのことです。後者は、本年(2020)が「生誕250周年」アニヴァーサリーイヤーとなるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の手になる作品であります(先日12月16日が誕生日でした)。こちらは、ボンに生まれウィーンで活躍した所謂独墺圏の人でありますので、本来なら「ルートヴィヒ・ファン・ベートホフェン」と発音するのがより適切だと思います(外国語綴りを如何に日本語表記に置き換えるかは簡単ではありません)。そのベートーヴェンが9番目に書いた交響曲ということになります。ただ、世に第9交響曲をつくった作曲家は数多存在するにも関わらず、『第9』といえば一般にベートーヴェン作『交響曲第9番』を指します。それだけ誉れ高き偉大なる作品と広く認知されている証拠でありましょう。終楽章に有名な独唱・合唱「歓喜の歌」伴う、4つの楽章からなるオーケストラ作品です。今でこそ、不思議にも思われない本作も、作曲当時からすれば相当に異形な作品でもありました。演奏時間は概ね70分程となります(CDの収録時間が検討された際に『第9』が1枚に収まる時間が基準とされたこと。その提案者が著名な指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンであったことはよく知られた事実です)。何れにしましても、日本で年末に聴かれる両曲がともに独唱・合唱を含んだオーケストラ作品であることに興味を引かれますが、今回は『第9』についての話題とさせていただきます。

我が国では年末となると、まるで「年忘れ大感謝祭」の如くに、毎日のように『第9』演奏会が何処かで行われ、多くの聴衆を動員していると耳にします。自分自身は、若い頃に一度NHK交響楽団の演奏会に出かけたきりで、年末の『第9』演奏会とは無縁であります。「何も年末に挙って『第9』を聴く必然性も無かろう」という臍曲がりな理由でありますが、今や国民的年中行事と化していると言っても過言ではありますまい。コロナ禍の昨今でも、新聞には各オーケストラによる『第9』演奏会の広告が幾つも掲載されております。そもそも、世界中で年末にこれほど『第9』が演奏される国は他に何処にもありますまい。それにしても、何故、年末に『第9』が聴かれるのか不思議であります。この曲は「困難から勝利へ」という、この時代の交響曲に一般的であった構成原理に基づき作曲されており、4楽章の歌詞はフリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)『歓喜に寄す』によっております。その内容は「全人類が同胞となる」ことを基調とする、いわば汎世界的な平等理念を掲げたものです。ただ、「年末」という季節性とは全く無縁であります。そこで、まず『第9』成立の頃の話から始めたいと存じます。

 『第9』は1824年にウィーンで初演されておりますので、作曲者最晩年の作品であり最後の交響曲でもあります。それ以後のベートーヴェンの纏まった作品は、「弦楽四重奏曲の12~16番」と「大フーガ」くらいですし、作品の異形性からも作曲家としての集大成ともいうべき乾坤一擲の一作であったことと思われます(個人的には最後の完成作品と目される「弦楽四重奏曲第16番」の深さと振り切れたような終楽章の明るさに強く惹かれますが)。ヨーロッパでは、ベートーヴェンが生まれた9年後の1789年にフランス革命が勃発し絶対王政が崩壊。その後のナポレオン遠征とともに自由・平等の精神がヨーロッパに拡散していく時代でした。それは同時にフランス周辺君主国の多くがその思想の蔓延を警戒する時代でもあったのです。ベートーヴェン活躍の舞台はウィーンであり、その地は多民族国家「オーストリア=ハンガリー」二重帝国の首都でもありました。当然の如くハプスブルグ家の治世もまた保守反動を志向するものに他なりませんでした。そうした社会に吹く新たな時代の風を背景とし、共和制に共感しながら作曲されたのがベートーヴェンの作品群であり、シラーの詩句を取り込んだことからも分かるように、『第9』も正にその象徴とも目される一作と言えましょう。ハイドン・モーツァルトを経てベートーヴェンに代表される所謂「古典派音楽」を生み出した時代は、それ以前のバッハ・ヘンデルに代表される「バロック音楽」の時代と異なり、宮廷・教会に隷属するお抱え作曲家から、勃興する市民階級を依って立つ地盤としながら、作曲家が自立的傾向を持ち始める時代であり、その中でもベートーヴェンは実際に起こった市民革命と時を同じくした作曲家であったのです。彼らの作曲技法である「ソナタ形式」は、提示された第一主題に対して第二主題が対峙し、やがて調和に至るという音楽形式であり、それはとりもなおさず社会における対立する2つの階級が調和することを反映させた音楽形式でもあるとも言われております。従って、双方の階級の間を揺れ動く時代に生きたのが古典派の作曲家であったとも申せましょう。『第9』もウィーンの宮廷劇場の一つであるケルントナートーア劇場で初演され、楽譜は紆余曲折の末にプロイセン国王に献呈されております。しかし、その一方で、初演会場の貴族用ボックス席がガラ空き状態であったのに対し、平土間は市民階級の人々で埋め尽くされていたと言われます。諸説ありますが、初演は盛況のうちに終わったと伝えられます。因みに、初演時の本邦は文化7年、将軍徳川家斉の治世下にありました。「遊王」の下で江戸は爛熟した「化政文化」を謳歌していた時代です。

ただ、その後暫く『第9』は不遇の時代を過ごすことになります。終楽章に独唱・合唱を伴う長時間を要する交響曲は、やはり多くの人々にとっては異形の作品であり、難解な曲として忌避されていたと思われます。それは演奏する側にとっても同様で、拙い演奏でその真価が伝わらなかったという側面もあったようです。それが復権するのが、この曲の真価に気づいた後世の人たちであり、彼らによって『第9』は古今東西における屈指の名曲として認知されるようになるのでした。その役割を担うことになるのが、メンデスゾーン、リスト、ワーグナー、ベルリオーズ、マーラーといった大作曲家(彼らの多くは同時に指揮者でもありました)であり、ビューロー、二キッシュ・フルトヴェングラーといった大指揮者でありました。彼らの活躍によって、『第9』は多くの人々にとって、名曲であり、しかも特別な機会に演奏されることの相応しい「選ばれし作品」として広く認知されるようになります。確かに、祝祭ムード満載の曲であり、特別な式典のような場で演奏されることが似合う曲とも申せましょう。かような独墺圏生まれの『第9』が、何ゆえに我が国で年末に頻繁に演奏されるようになったのか、また、それは何時からなのでしょうか。年末を迎えることを好機に、かような歴史の一端に触れてみたいと思います。余談ではありますが、日本における初演は、第一次世界大戦で捕虜として連行されたドイツ人で編成された臨時オーケストラの手により、大正7年(1918)徳島にある板東俘虜収容所で演奏されたものがそれと目されるそうです。
(後編に続く)

 

 歳末に聴かれる『第9』について(後編) ―もうじき「生誕250周年記念」の年を終えるベートーヴェン― ―12月28日(月曜日)~1月3日(日曜日)年末年始休館 [1月4日(月曜日):特別開館・1月6日(水曜日):臨時休館]―

12月26日(土曜日)

 それでは本題に入りましょう。年末に「第9」が演奏される慣行は何時・何処で始まったのでしょうか。それは、期しくも日本の徳島で『第9』の国内初演が行われた同年(1918年)大晦日に、ドイツの商業都市ライプツィヒで行われた演奏会に由来するとのことです。演奏は、名指揮者として名高いアルトゥール・ニキッシュの下、名にし負う彼の地の名門ゲヴァントハウス管弦楽団によるものでした。足かけ5年にも及んだ第一次世界大戦で追い込まれたドイツが、2ヶ月程前に連合国と休戦をした直後にあたります(翌年のベルサイユ条約でドイツは敗戦国として過酷な制裁を課されます)。当演奏会の主催は労働者教養協会で、主導的な役割を演じたのがバーネット・リヒトという人物でありました。彼は音楽学者・指揮者であり、同時に労働運動の活動家でもあったそうです。この演奏会は「平和と自由の祝祭」と銘打たれており、『第9』を労働者のものとしようとの社会主義運動の一環でもありました。つまりは、ここにおいて『第9』は市民階級のものから労働者階級のものとして、裾野を広げていくことになったのです。

 一方で、この演奏会は第一次世界大戦での敗北を受けたドイツ国内混乱の渦中、ドイツ民族のアイデンティティを確認するナショナリズム的な意味あいが多分に含意されていたものとも思われます。演奏は夜11時に始まり第4楽章がちょうど越年と重なるように計算されました。演奏会は熱狂的に迎えられたそうです。以後、ライプツィヒでは大晦日に演奏されるのが慣例となりました。1922年に死去したニキッシュの後任となったヴィルヘルム・フルトヴェングラーも、その後のブルーノ・ワルターも伝統を引き継ぎました。そしてナチス政権下を経て、現在もライプチッヒでの大晦日『第9』演奏会は継続されております。ただし、演奏は大晦日の“一回だけ”です。調べたところ、他にウィーン交響楽団(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは別団体)にも大晦日『第9』演奏の慣習があるようですが起源は明らかではありません。その他の欧米諸都市では、年末に、しかも毎日のように『第9』を演奏するという伝統は一切ありません。特に本場のヨーロッパでは、やたらと演奏する曲ではなく、先にも述べたように時と場を選ぶ作品として認知されているように思われます。ワーグナー作品のみの公演を目的に本人が創始したバイロイト音楽祭で、過去に唯一演奏された例外が『第9』です(1954年にバイロイト祝祭劇場でライブ収録されたフルトヴェングラー指揮『第9』は、当曲の唯一無二の名盤として喧伝されております)。「ベルリンの壁」崩壊の際、かの地でレナード・バーンスタイン指揮により演奏された『第9』、東ドイツという国家最後の日の式典におけるクルト・マズア指揮による『第9』、チェコでのビロード革命成功後のヴァーツラフ・ノイマン指揮による『第9』等々、枚挙に暇がないほど、特別な機会に演奏される作品として扱われていることに間違いはないと思われます。湯水の如く、矢鱈と演奏されている日本とは随分状況が異なります。

 さて、いよいよ日本における年末の『第9』演奏の淵源にたどり着きました。それは、日中戦争渦中の昭和12年(1937)12月26日、東京の歌舞伎座を会場に、ユダヤ系指揮者ジョゼフ・ローゼンストックが新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を振ったのが嚆矢とされているとのことです。ローゼンストックはナチス政権誕生によりドイツ国内を追放され日本に招聘された指揮者です。3年後ドイツと軍事同盟を結ぶこととなる日本では、真性ドイツ音楽が演奏されることがこの段階でも歓迎されましたし、それまでにも日本人による『第9』演奏会が度々開催されて好評を博していた地盤があったようです。彼はベルリンで大晦日に『第9』を振ったことがあるそうで、その慣行を日本に持ち込んだものと思われます。更に、昭和15年(1940)大晦日に、同指揮者・同オーケストラの組み合わせによる『第9』演奏がNHKラジオを通じて全国に放送されております。因みに、ライプチッヒにおける大晦日『第9』演奏会関係者の二キッシュとフルトヴェングラーは、ともにベルリン・フィルハーニー管弦楽団の音楽監督を兼任しましたが、この慣行はベルリンにはもたらされてはいないようです。従って、ローゼンストックがベルリンの何れのオーケストラで『第9』を指揮したのかは明らかにできませんでした。恐らくベルリンフィルではない別のオーケストラであると推察しますが、何れにせよ、彼はライプチッヒでの慣行を日本に伝えたことは間違いありますまい。それにしても「全人類同胞」を主題とする作品を民族弾圧で祖国を追われた人が振るという運命の過酷に歴史の皮肉を感じさせられます。別に、年末『第9』の起源として、昭和18年(1943)12月上野奏楽堂での演奏会を数え上げる方もいらっしゃいます。これは学徒出陣で卒業を12月に繰り上げた学生たちの壮行会で演奏されたものです。また、戦後になって生還した学生たちが再び12月に「第九」を演奏し、帰らぬ仲間たちを追悼したといいます。ただ、これは特別な状況下における演奏会であり(たまたま12月であったことも含め)、日本におけるその後の年末『第9』の起源には当たらないと私は考えます。

 戦後に、国内でこれほどまでに広まった年末の『第9』演奏会は、やはり上述したローゼンストックからの系譜に連なるものと考えます。何故ならば、戦後初めての年末『第9』演奏会を担ったのも新交響楽団を改称した日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)に他ならないからです。ローゼンストックからの戦前の慣行を継承したのだと思われます。未だ戦後混乱の渦中にある昭和22年(1947)年末、日比谷公会堂で3回の演奏会が行われております。心身ともに飢餓状態にある国民に熱狂的に受け入れられたものと推察されます。多くの聴衆を引き付けた演奏会は、当然のことではありますが、楽団とその構成員である楽団員に多大な収益をもたらすことになりました。今はかようなことはないと想像いたしますが、その昔は何処の楽団運営も火の車で、楽士といえば生活苦と同義といってもよいほどでした。終戦後の混乱はそれに更に輪をかけたことでしょう。かような状況下での救世主こそが『第9』であったのだと思います。飽くまでも下種の勘繰りではありますが、「第9を演れば客が入る」とばかりに、年末の連続公演に形振り構わず飛び付いたのが真実ではないかと思います。NHK交響楽団の成功に引きずられるように他の国内楽団が相乗りしていくのが、昭和30年代「高度経済成長」の頃です。その意味で、楽団員の「餅代稼ぎ」にこそ、日本における年末『第9』盛行の一要因があると推察するところです。一方で、この時代は「一億総中流意識」が国民に広がり、クラシック音楽鑑賞、年末『第9』演奏会に脚を運ぶことが中流階級の教養主義と重なったことも、年末『第9』の広がりを後押したのではないでしょうか。これは云わば「第9のファッション化」とも言える現象でありましょう。しかし、如何にもスノビズムを絵に描いたように感じられるこの動向も、決してマイナス側面だけではないと考えます。ある意味では、我が国における『第9』受容環境は、一部の限られた階級から脱却し、究極の庶民化が進んだ状況に進んだと、積極的評価を与えることすら可能ではありますまいか。最早、特別な場で、特別に演奏される作品とは異なる、何時でも何処でも、誰にでも接することのできる作品となったのです。しかし、日本人のメンタリズムの何処かに、「『第9』は他のクラシック音楽とは異なる特別な作品」という、欧米における伝統的な意識が秘められているようにも感じるのです。それが「年末」という日本人にとって特別な時期に聴くことにあるように思うのですが、皆様は如何お考えでしょうか。我々にとって「年末・年始」は一年の中でも最も特別な時期として認識されておりましょう。欧米人の年末に重要なのはキリスト生誕にちなむ「クリスマス」であって、一年の終焉と新たな歳の到来はさほど重要視されないと聞きます。それが、楽団以外の日本人が、一年を通じた何時でもではなく、年末に『第9』を聴こうとする、もう一つのベクトル(深層心理)を生み出す要因ではないかと推察する次第であります。

 最後に、本稿でも大いに参考にさせていただいた書籍を紹介して本稿を閉じたいと存じます。それが、中川右介『第9-ベートーヴェン最大の交響曲の神話-』2011年(幻冬舎新書)です。本作は、作品解説にあらず、世に広く存在する名盤紹介にあらず、『第9』需要の社会史であり、演奏史であり、更に申せば『第9』にまつわる近現代史と言い換えることのできる好著であると思います。こうした角度から『第9』を切り取った書物はありそうでないものです。しかも新書というお手軽に入手可能なこともお薦めできる理由です。皆様「Go To キャンペーン」中止期間の年末・年始に如何でしょうか。『第9』をより深く楽しめること必定かと存じます。ベートーヴェンの作品に関心を寄せる方であれば更なる喜びをもたらしてくれるはずと信じます。

 皆様、コロナ感染症には十分ご留意され、良い御歳をお迎えくださいませ。本年中は誠にお世話になりました。ありがとうございました。来年も本館の活動へのご支援を賜りますようお願い申し上げて、本年最後の「館長メッセージ」とさせていただきます。

 

 

 令和3年(2021)元日「初春のご挨拶」 ―本日は千葉市百歳の誕生日です!!― ―1月3日(日曜日)まで年始休館 [1月4日(月曜日):特別開館・1月6日(水曜日):臨時休館]―

 1月1日(金曜日)

 しめやかに、新たな歳である令和3年(2021)を迎えることとなりました。皆様におかれましては、新年を如何お迎えでいらっしゃいましょうか。昨年は、コロナ禍に振り回された一年でありました。今年は如何でありましょうか。「十干十二支(じっかんじゅうにし)」で申せば、本年は「辛丑(かのとうし)」となります。十干のうちの「辛(かのと)」は「草木が枯れ、新しくなろうとしている状態」であり、十二支のうちの「丑(うし)」は「種から芽が出ようとする状態」を指すとのことです。つまりは「転換期」を表す干支(えと)ということではないかと思います。コロナ禍の終息と、コロナ禍を乗り越えた「よき歳」となることに期待したいところです。一年の延期後の夏に開催予定「東京オリンピック・パラリンピック」にも希望を繋げたいところです。

 ただ、まだ何とも言えない状況かと推察いたします。年末・年始の諸「Go To キャンペーン」は中止となったものの、これで簡単に感染症が根絶できるものでもありますまい。100年前の「スパニッシュインフルエンザ(スペイン風邪)」に照らせば、根絶までに3年の月日を要していることからも、長い目で正しく付き合っていくしかないかとも思われます。ヨーロッパでは悪質に変異したウィルス発生の報道もあります。その意味でも「ウィズ・コロナ」というキャッチフレーズは極めて適切かと存じます(もっとも何から何まで横文字表現とするのは如何なものかと苦言を呈したいところではあります)。ただ、ここのところ気の緩みから、日本の国民全体に当キャッチフレーズが「コロナウィルスと仲よくしよう」「コロナウィルスはお友達」的に、至って軽く捉えられている節があるように感じられて仕方がありません。当キャッチフレーズの真意は「コロナウィルスを正しく認識しよう」「コロナウィルスを軽く考えることなく、正しく恐れながら共存していこう」の謂いでありましょう。そのことを、政府・地方公共団体も口を酸っぱくして強調すべきでありますし、施策もそのことを基本として立案・実施すべきかと思います。そして、何よりも我々国民がそのことを強く意識して行動することこそが肝要かと存じます。この非常事態をズルズルと長引かせないためにも。

 最後になってしまいましたが、大切なことをお伝えしなければ。今日は大正10年(1921)1月1日に市制を施行し、千葉町から「千葉市」への衣替えをしてから100回目の誕生日となります。本市では、4月からの令和3年度を「市制施行100周年」記念度と定め、様々な行事を執り行いますが、本館においても昨年度の『軍都千葉と千葉空襲』に引き続き、本市の過去100年を振り返った歴史を題材とした特別展を企画しております。併せて、昨年末に残念ながら解体された気球連隊「第2格納庫」の部材を、跡地を購入された積水化学工業様からご寄贈いただいたこともあり、気球連隊を扱う小企画展を実施する予定です。更に、令和8年(2026)に迎える『千葉開府900年』年に向けた千葉氏パネル展の続編の開催も予定しております。そのほかにも、100周年を記念した刊行物の発行も予定しております。コロナ禍の続く中ではございますが、公共施設としての役割を忘れることなく、可能な限りでの工夫を凝らしながら業務の推進を図って参る所存でございます。具体的な内容等につきましては、決定を見次第、順次皆様にはお伝えをして参りますので、是非とも楽しみにお待ちいただければ幸いです。

言葉整いませんが、以上、初春のご挨拶とさせていただきます。本年も、何卒本館の活動をご支援いただけますようにお願いいたします。何卒よろしくお願い申し上げます。

 

 

副題にもありますように、本館は3日(日曜日)まで閉館。本来休館日である月曜日の4日は特別開館となります。その代わりに6日(水曜日)が臨時閉館日となりますので、ご確認の上でご来館くださいますようにお願いいたします。

 


 

 

 

 コロナ禍に響く「初春」の演奏会に想うこと(前編) ―ウィーンフィル「ニューイヤーコンサート」の視聴を通じて―

1月8日(金曜日)

 コロナ禍のなかでの新年があけて1週間が経過いたしました。昨年末における医師会からの悲鳴に近い「医療体制逼迫」の訴えに基づいて行われたのであろう、皆様におかれましては、政府・地方公共団体からの要請「静かな年末年始」を如何お過ごしになられたことでしょうか。ヨーロッパから全世界に拡大していく気配を感じさせる強力な感染力を有する変異ウィルスの状況に鑑み(100年前と全く状況は同じです)、検疫体制の強化も図られ、今後は「お願い」に留まらず「罰則」の導入も検討されると年末に首相は述べておりましたが実施は何時になるのでしょうか。スペイン風邪を引き合いに出すまでもなく、変異ウィルスで更に重篤化数、死亡率が増加に転じる危険性が懸念されます。その結果として、1都3県の知事からの要請もあり、遅まきながら急転直下、年明けになって「緊急事態宣言」発出の検討が進んでいるようです。ただ、本稿を記載している1月5日段階では未だ具体的な方策も揺れている状況にあり、千葉市としても本館としても如何なる対応をすべきか不透明であり、困惑を隠すことができません。全ての対応にはその後のことに事前に手を打つ必要もあります。何れにいたしましても対応は急を要すると思います。年末年始の「お願い」に期待した効果が認められないのですから、政権には腹を括っていただかなければなりません。そして、腹を括らねばならないのは我々国民とて同じです。自分や家族がコロナウィルスに罹患しなければよいのではありません。通常医療が提供できない状況に追い込まれてしまえば、自分や大切な家族に新型コロナと異なる危険な病の発症があっても対応していただけなくなるのです。そのことの危険性、重大性こそ強く意識した行動が求められてもいるのだと思います。政権と同様に、我々国民自身の覚悟が問われているのだと考えます。

 さて、かような中で、年明けもまたまた音楽の話題で失礼をいたします。今回は「クラシック音楽:年始編」とし年末編の『第9』と対として完結の運びとさせていただきます。しかし、中身は決して浮世離れしたお話に終始するわけではありませんので、最後までお付き合いを頂ければと存じます。音楽愛好家にとって、新年を寿ぐ演奏会と申せば、「音楽の都」ウィーンの「ムジークフェライン(楽友協会)」大ホールで開催されるウィーンフィルハーモニー管弦楽団(以下「ウィーンフィル」と略記)の「ニューイヤーコンサート」に指を屈するのではないでしょうか。音楽ファンならば一生に一度は会場に脚を運んでみたいと思う、正に垂涎の的とも言える演奏会でもあります。現地時間で元日正午にスタートする演奏会は、1959年からは音声中継が開始され、今では全世界90カ国以上でテレビ生中継放送もされる、押しも押されもせぬオーストリア国家の一大看板行事ともなっております(日本時間で午後8時前後)。演奏するウィーンフィルは、昨年末にロシア(グルジア)出身ヴァレリィー・ゲルギエフ指揮の下で来日公演を敢行し物議を醸したことも記憶に新しいところです。コロナ禍の下で、他の海外オーケストラ国内入国が厳しく制限されている中、何故ウィーンフィルだけが例外なのかという不満が生じたのは無理からぬところかと思います。

 そんなこんなで、今回のニューイヤーコンサートはイタリア人リッカルド・ムーティ指揮の下、史上初めて無観客での開催となりました。下世話な話で恐縮でありますが、ホールに入ることのできる凡そ二千人からのチケット収入を度外視しても(よく知りませんがプラチナチケットだと推察致します)、上記映像放映権やらCD発売権の収入たるや莫大なものと推定されますので、主催者としてはたとえ無観客でも実施する価値は計り知れないのだと想像いたします。当方も、この機に何年かぶりにコンサートの全てをTVにて視聴いたしましたが、諸々思うこともありましたので、以下に記してみたいと思います。因みに、ウィーンフィルという楽団の母体は、ウィーン国立歌劇場管弦楽団であり、通常はオペラハウスでの歌劇伴奏を“お仕事”とする公務員集団であります。従って、公務を離れることのできる休日等にオペラ以外の曲を演奏するために結成された自主団体がウィーンフィルの正体に他なりません。詳細は知りませんが、歌劇場管弦楽団に所属し各種条件を満たして初めて当自主団体への加入が認められるとのことです。ウィーンフィルは、つい最近まで女性団員を頑なに拒んでいたことでも知られておりますが、現在では国際人権団体の抗議をうけ当該慣行も改められつつあります。今回のコンサートでも女性団員がちらほらと散見されました。

 このコンサートで奏でられる中心が、ヨハン・シュトラウス2世(1925~1899)、その弟ヨゼフ(1827~1870)とエドゥアルト(1835~1916)、3人の父であるヨハン・シュトラウス1世(1809~1849)の作品であることは夙に知られていることでありましょう。最近でこそ、同じウィーンを活躍の舞台とした同時代作曲家(ヨゼフ・ランナー、フランツ・フォン・スッペ等々)や、少し後の世代となる音楽家(カール・ミヒャエル・ツィーラー、フランツ・レハール等々)の作品も相当数交えられるようにはなりましたが、何といっても彼ら4人の残した「シュトラウス一家」作品群こそが今以て王道であることは揺らいでおりません。その作品数は「ワルツ王」の異名をもつヨハン2世の作品だけで5百曲にも達します。そして、その作品こそが、典雅極まりない「ウィンナワルツ」(“ウィンナ”は“ウィーン風”の意)であり、底抜けに快活な「ウィンナポルカ」であり、勇ましくもどこか優美な「行進曲」であり、まるでシャンペンが弾けたようなオペレッタ序曲や作中曲の数々に他なりません(オペレッタとはハッピーエンドで終わるオペラより小規模な音楽劇です)。ワルツ「美しき青きドナウ」「ウィーンの森の物語」「皇帝円舞曲」「春の声」、ポルカ「アンネンポルカ」「雷鳴と電光」「ピチカートポルカ」(弟ヨゼフとの共作)、行進曲「ラディツキー行進曲」、オペレッタ「こうもり」序曲等々、誰でも一度ならず耳にしているはずです。これら有名曲に限らず、膨大な4人の作品群の何れもが、よくもこれだけの美しい旋律を次から次へと紡ぎだしたものだと感心するほどの名曲ぞろいであり、大作曲家であるブラームス、ワーグナー、リスト、マーラー等々を唸らせたのも宜なるかなと納得する作品群です。ヨハネス・ブラームスは同時代人としてヨハン2世と深い親交を結んでおりましたし、当時ウィーン国立歌劇場の総監督を勤めていたグスタフ・マーラーはオペレッタ『こうもり』を高く評価し、格式の高さ故に通常オペレッタ上演を認めないオペラハウスで、周囲の反対を押し切って同作品を舞台にかけております。更には、ヨハン2世に新作バレエ音楽の委嘱までしましたが、シンデレラの話を題材とした『灰かぶり娘』は、ヨハン2世の急逝により残念ながら未完成に終わりました。御多分に漏れず当方も彼らの作品を偏愛しており、そこそこ音盤も所蔵し、折に触れて楽興の時を過ごしております。なお、弟ヨゼフも兄に勝るとも劣らぬ才能に恵まれ、数々の傑作を生みだしております(「天体の音楽」「オーストリアの村つばめ」「鍛冶屋のポルカ」等々)。早逝したことが惜しまれる作曲家の一人です。

 そのような訳で、彼らの作品は音楽作品として鑑賞しても、大いに充実した体験を約束してくれることは間違いありません。ただ、彼らの作品は基本的に舞踏・会食等における伴奏として創作された機会音楽であります。つまりは、現在で言えば、シュトラウス一家は所謂「流行曲」作者であり、作品群も云わば一過性のものと目されていたものと思われます。とっかえひっかえ様々な機会に新作が求められた結果、膨大な数の作品が今に伝わっております。市民階級の革命運動が盛んになれば「革命行進曲」、皇帝が就任すれば「新帝フランツ・ヨーゼフ万歳!」、ウィーンを取り囲む城壁の撤去工事に当たって「取り壊しポルカ」、蒸気機関車の動きを模した「加速度ワルツ」、各国への演奏旅行にあたって「ロシア行進曲」、諸外国との交流を機に「エジプト行進曲」「イタリアワルツ」等々、この手の作例は枚挙に暇がありません。ある意味、全く以て節操なき制作態度とも言えますが、何れの作品もなかなかに忘れ難き優品なのが心憎いほどです。

 就中、「シュトラウス一家」の作品は、新年を寿ぐ作品としてものされた訳ではありません。こうした季節性とは全く無縁の機会音楽が何故初春に演奏されるのでしょうか。何故、何時から始まったのでしょうか。『第9』でも感じた疑問はここでも有効です。おまけに、本場オーストリアに限らず、我が国でも年始になると楽団名に“ウィーン”を冠した得体の知れないオーケストラが挙って来日し、2月位まで日本各地を「どさ廻り」していきます。言葉は悪いですが、あたかも「シュトラウス一家の楽曲をネタに荒稼ぎ」する季節労働者の感すらあります。私自身は、昨今こうした生演奏に接する機会もめっきりなくなりましたが、どの公演も盛況だと聞きます。それだけ日本人の需要があることに他なりません。
(後編に続く)

 

 コロナ禍に響く「初春」の演奏会に想うこと(後編) ―ウィーンフィル「ニューイヤーコンサート」の視聴を通じて―

1月9日(土曜日)

 調べてみると、シュトラウス一家の作品のみによるウィーンフィルの「ニューイヤーコンサート」の起源は、第二次世界大戦が勃発した1939年大晦日にまで遡ります(もっとも正確にはこの年はニューイヤーコンサートではありませんが)。折しも前年、ナチスドイツによる「オーストリア併合」がなされております。かような情勢下、現地住民間に燻っている不平・不満を逸らすことを目的に、ナチス政権の意向で始まったとされています。元来シュトラウス一家のワルツやポルカは人をウキウキさせ、楽しく踊らせるための楽曲です。ナチス政権がこれで支配民衆の「ガス抜き」を目論んだのも宜なるかなであります。そもそも、それより以前、ナポレオン戦争後の欧州秩序構築を議題とした「ウィーン会議」(1814~15)の際も「会議は踊る、されど進まず」と風刺された如く、「難航(なんこう)する会議よりもダンスを」といった享楽的都市風土で育まれた音楽です。指揮も生粋のウィーンっ子であるクレメンス・クラウスの手に委ねられました。以降、1回の中止を除き、元日の演奏が今日まで続けられております。1955年クラウス急死後は、ウィーンフィルの名コンサートマスタ―:ウィーリー・ボスコフスキーが指揮台でヴァイオリンを奏でながら指揮をする、かのヨハン1・2世を彷彿とさせる演奏スタイルで世界中を魅了しました。

 1980年ボスコフスキーの引退後は、7年連続でアメリカ人ロリン・マゼールが、1987年ヘルベルト・フォン・カラヤンが担当してからは、2年連続で同じ指揮者が担当することなく様々な指揮者が招かれて今日に至っております(ムーティは今回で6回目)。クラウスとボスコフスキーを除けば、個人的にはカラヤンが振った1987年の演奏会が最もお気に入りです。私自身は何方かと言えばアンチ・カラヤン派ですが、こうした小品を滅法聞かせてしまうのがこの人の凄いところです。個人的に「皇帝円舞曲」、「ジプシー男爵」序曲に関しては、これ以上の演奏には出会ったことはありません。また、カラヤンの手兵ベルリンフィルハーモニー管弦楽団と収録した『シュトラウス一族の音楽』CD3枚(ドイツ・グラムフォン盤)と比べれば、ベルリンフィルとの録音が如何にもプロイセン常備軍のような規律正しさで演奏されているのに対して、ウィーンフィルとの演奏は享楽都市を絵に描いたごとく、艶冶な音色と間合いで演奏されていることに驚かされます。ウィンナワルツを演奏するウィーンの音楽家は3拍を均等な長さにせず、2拍目をやや早めにずらすように演奏します。ダンスの間合いに適合させた演奏様式とされておりますが、このことが独特の流動感を生み出します。それにしても、こうした曲での名門ウィーンフィルの力量には端倪能わざるものを感じさせられます。

 余談ではありますが、私の偏愛するこの『皇帝円舞曲(カイザー・ワルツ)』の元タイトルは『手に手を取って』でした。晩年のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフが、恥を忍んで宿敵ドイツ帝国ヴィルヘルム2世と秘密軍事同盟を締結した際、新たにベルリンに誕生した演奏会場のためにヨハン2世に委嘱された曲です(1889年)。元タイトルはそのことに因んでおります。後に出版社の意見で『皇帝円舞曲』とタイトルを変更し、今流行の忖度によってフランツ・ヨーゼフ皇帝への献呈が印刷されました。しかし、本来「皇帝」とは曲の委嘱を受けた宿敵のドイツ皇帝(同時にプロイセン国王)のことであり、彼に献呈するために作られた作品なのです。後に触れたいと思いますが、かような話にもハプスブルグ帝国の黄昏を強く感じさせるエピソードです。その点では、カラヤンとベルリンフィルによる同曲演奏の冒頭が、まるで屈強で鳴らしたプロイセン常備軍の行進を思わせる、規律正しい無骨なリズムを刻んでいるのは、確かな計算に基づくものなのかもしれません。ただ、この曲の真の魅力は、後年ニューイヤーコンサートで演奏されたウィーンフィルとの演奏にこそ、余すところなく表出されていると思います。

 とまれ、ニューイヤーコンサートの淵源が、ナチスドイツ政権による「オーストリア併合」といった極めてキナ臭い社会状況の中にあったことに留意することは重要だと考えます(傑作ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』が題材とした事案と同時代・同国家内での出来事に他なりません)。つまりは、占領下の閉塞感を回避するために「シュトラウス一家」の明るく典雅な音楽が都合よく利用されたのです。ヒットラー自身も彼らの音楽をこよなく愛していたそうです。因みに、「都合よく」ということで申せば、そのためにシュトラウス一家がユダヤ系であった事実は隠蔽されることとなったことも申し添えておかねばなりません。ナチス政権下では、3M(メンデルスゾーン・マイアベーア・マーラー)と言われたユダヤ系作曲家の作品の演奏が禁止されていたにも関わらずです。何というご都合主義でありましょうか。ユダヤ人関連以外でもナチス政権の文化政策は、抽象的な現代美術・音楽等々まで「退廃芸術」「退廃音楽」の烙印の下、公衆の面前から抹消することに突き進んでいくことになります。

 しかし、そのことは「シュトラウス一家」の作品が生み出された時代のコンテクストに置き替えると、実のところ微妙に重なって見えるように思うのです。つまり、彼らの音楽が創造された時代は、先にその一端に触れたように、まさにオーストリア=ハンガリー二重帝国が黄昏を迎えていた時代なのです。確かに、フランツ・ヨーゼフ皇帝の近代化政策により、中世以来ウィーンを取り囲んでいた城壁が撤去され、今見るリングシュトラーセ(環状道路)が建設され、その周りにはモニュメンタルな多くの建造物が立ち並ぶなど、市民階級の勃興も大きく成金的な豊かさをも享受しました。しかし、その一方で、相次ぐ外交政策の失策も重なり、帝国の力は日を追って衰退し、ライバルのドイツ帝国との戦争(1866年:ケーニッヒグレッツの戦い)では壊滅的な敗北を迎え、その下風に晒されるようになっていたのです。その支配下にあったハンガリー、イタリア、ボヘミヤ地方での独立運動が勃興するなど内憂をも抱え込むようになります。その煽りもあって株価の大暴落を契機とした大規模な経済混乱が生じ、市民階級の経済的影響力にも陰りが見えてきていました。つまりは、国家全体に覆い難い暗い影が忍び寄っていた時代であったのです。国家の対策も必ずしも実を結ばず、市民階級、新興の労働者階級にも不満が渦巻くようにもなりました。しかし、有効な手立てはみつからない。そうした中、ウィーンで蔓延したメンタリズムこそが「そうした難しいことからは目を背ける」こと、「飲めや!歌えや!踊れや!」とばかりに現実逃避に逃げ込むことであったのです。そのための音楽として「シュトラウス一家」の作品群ほど打ってつけな曲はありませんでした。人々から彼ら一族の底抜けに明るく陽気な音楽が熱狂的に支持された背景にはかような社会情勢があったのです。勿論、彼らが、そうした社会状況を充分に踏まえてヒット作品を生み出し続けていたことは疑う余地がありません。

 しかし、適切な表現とは言えないかもしれませんが、鬱屈した閉塞感ある社会の中で創作された所謂「憂さ晴らし」のための作品が、結果として後になってナチスドイツ政権による過酷な支配下で、便利に利用されていったことは紛れもない事実です。そのことは、ここ20~30年間、日本でこれほどシュトラウス一家の音楽が広く持て囃されている背景とも、どこか通底するものがあるようにも感じるのです。そのことはとりもなおさず、日本人も時代の閉塞感を敏感に感じ取っているのではないかという点に換言できましょう。しかも、他でもない全世界を巻き込み続けるコロナ禍の下で、彼らの作品が生中継で世界中広く享受されていることに、何とも複雑な感慨を禁じ得なかったのです。その意味で、今年のニューイヤーコンサートを素直に楽しむことができない自分がおりました。「どうせ、何か言っても社会は変わりゃしないよ」といった「諦念」にも似たメンタリティの世界(国内)への蔓延こそが、シュトラウス一家の音楽受容の背景にあるとしたら由々しき事態だと思うからです。「気晴らしの序でに生きている」当方のような人間が言うのも何ですが、憂さ晴らしが人間にとってどれほど重要であり、その潤滑油として欠かすことのできない機能であることは論を待ちません。また、本年の「ニューイヤーコンサート」では、楽団長・指揮者のムーティから、かような状況の中における「音楽の持つ力」の重要性について言葉によって語りかけられました。まったく、異論はありませんし、その通りだと思います。しかし、音楽の持つ力が、今ある目の前の現実から目を背け、真剣に向き合うべきことに無自覚にさせることに働くこと、は決してあってはならないことです。そうこうしているうちに、ハプスブルグ帝国は崩壊し、ナチスによる支配が浸透し悲劇的な結末を迎えたことを忘れてはなりません。それは、決して過ぎ去った昔のことではないのです。現状において、政府が腹を括った政策に果敢に舵を切り、国民自らが自覚し行動すること。そして、黙って唯々諾々としているだけではなく、互いに発信しあわない限り、コロナ禍の終息も先延ばしとなり、国内及び世界の政治状況も更に悪化しましょう。それは、ハプスブルグ帝国やナチス政権の末路を見れば明らかであろうと思うのです。当たり前ですが、シュトラウス一家の音楽に罪はありません。それをどう受け止めていくかという我々の問題であります。当方の新年の妄言が単なる杞憂であることを切に願う次第であります。

 最後になりますが、ヨハン2世自身が、市民からの需要に応えるための同工異曲ともいえる作品の創作に、忸怩たる想いを抱えていたのではないかと想起させる作例をご紹介し、本稿を閉じたいと存じます。晩年になって、ヨハン2世は時流に便乗したワルツやポルカから、本格的オペラ作品の創作へ軸足を移そうとしています(『騎士パスマン』)。これまでの自らの在り方を根本から突き崩そうと格闘したのではないでしょうか。更に注目すべきことは、ヨハン2世死後の追悼演奏会で演奏された遺作、交響詩『夢の形(トラウムビルト)』なる作品の存在です。初めてこの事実を知っときには「えっ!ヨハン2世の交響詩??」と驚愕しました。何でも「ブラームスの流れをくみ、マーラーの先駆けとも言える、優れた曲」[小宮正安『ヨハン・シュトラウス-ワルツ王と落日のウィーン-』2000年(中公新書)〕とのことです。小宮さんもご指摘の通り、「夢」と言えば「夢の中にこそ人間の真実が表れ、逆に覚醒の世界は偽りに覆われている」と主張したジークムント・フロイト(1856~1939年)の精神分析を想起させます。実のところフロイトはウィーンを舞台に活動した精神科医であり、その主著『夢判断』は1900年に出版されております。それはヨハン2世の死の翌年であり、研究成果の提唱はヨハン2世の最晩年とピタリと一致するのです。この作品にこそ、最晩年のヨハン2世の魂の叫びが込められているのではありますまいか。しかし、この「優れた作品」も、皮肉なことに一度きりの演奏で忘れ去られました。誰もがヨハン・シュトラウスにかような深刻な作品など求めていなかったからでしょう。ここに、シュトラウスの置かれた芸術家としての悲劇を見ることは、あながち間違えではないと考えますが如何でしょうか。

 因みに、当方は20年この方『夢の形』を是非とも耳にしたいものと切望しているのですが、一枚の音盤にも遭遇できておりません。「ヨハン・シュトラウス全管弦楽作品集」なる52枚組CD集成(マルコポーロ原盤→現:ナクソス盤)にも何故か収録されておりません。これを「羊頭狗肉」と言わずして何と申せましょうか。もし収録されていたら、この1曲を聴くためだけに52枚組を購入することも吝かではなかったのですが。もし本作品の音盤の存在をご存知の方がいらっしゃいましたら、館長宛にご一報いただけましたら幸いです。

 申し訳ございませんが、結果的に「何故、新年にウィンナワルツなのか?」との疑問に、これといった解答は提示しえませんでした。彼らの音楽が、新年のもつ祝祭性に合致したということくらいでしょうか。ただ、「シュトラウス一家」音楽が持つ底抜けな明朗・典雅とは裏腹に、その作品成立と世間における受容が、時々の政治・社会の状況を強く反映したものであること、作品の具有する性格故に都合よく利用される危険性を孕んだ歴史について、少しはお伝えできたかと存じます。同時に、我々にとっての音楽との間合いの取り方について心にとめていただけましたら幸いです。

 

 

 麗しき夕景の季節到来に寄せて(前編) ―「緊急事態宣言」下での本館の対応(1月7日~2月7日)― ―茜さす「夕映えの中で」想うことども―

1月15日(金曜日)

 1月7日に、NHK放映「首都圏ネットワーク」内の人気コーナー「ちかさと」にあたる1都3県に発出された政府「緊急事態宣言」に基づき、千葉市の方針に従って本館も対応をしているところであります。医師会からの指摘がありましたように、年明けからの東京都での「感染爆発状態」に近似した現況に鑑みた、強い対策への舵取りが行われるものと身構えておりましたが、実際に1月7日(木曜日)に発出された「緊急事態宣言」の内容では夜間の飲食業の制限の強化といった側面が中心となりました。個人的には「泰山鳴動して鼠一匹」、正直なところ鼠ならぬ「狐」に摘ままれた感が拭えませんでしたが、本館での対応も感染防止と市民サービスの提供という両面睨みでの対応となります。

 千葉県や周辺市では、博物館・美術館の全面閉館とする方針を打ち出している公共団体もありますが、千葉市では基本的には期間中の閉館はせず、通常の業務形態による開館となります。ただし、これまで以上に感染予防を徹底する必要性があります。それらについて、本館での対応と来館をされる皆様へのお願いを、本稿の末尾に纏めてお示しさせていただいております。「緊急事態宣言」実施機関に館内で実施を予定していた講座等の中止判断の根拠は、参加される皆様がご高齢であること、併せて老朽化した本館の講座室の換気機能が充分な状況にはないことによります。改めて行事実施の有無等について巻末の一覧にてご確認ください。何卒ご理解をいただけますようお願い申し上げます。

 皆様もご承知の通り、新型コロナウィルス感染症の蔓延状況は、年度当初の「非常事態宣言」下よりも更に悪化しております。更には悪性変異ウィルスの危険性も考慮する必要もございます。皆様には、改めて、新型コロナウィルスの感染力が通常のインフルエンザウィルスとは比較にならないほどの強力な感染力を持つことを、強く意識して行動をしていただきたいと存じます。敢えて老婆心ながら申し添えさせていただきますが、昨今の状況に鑑みると、新型コロナウィルスの脅威を相当に軽くとらえている方が多いのではないかとの思いを正直禁じえません。専門家が口を酸っぱくして指摘されているように、人の移動の抑制こそ最大の予防策であり、そのための「非常事態宣言」です。ご来館いただけることは嬉しい反面、先の3連休は毎日100人を超える方々がお見えになりました(特別な催し物をしていない平常時と比較しても来館数は変わりがないか、むしろ増えていることに、若干の不安の念は拭えません。目に見えないウィルス対応には困難が付きまといますが、本館としましても可能な限りの対応をして参ります。しかし、責任回避の意図は寸分もございませんが、本館も医療機関ではございません。できることには自ずと限界があることも御理解頂きたいと存じます。つまりは、ご来館の皆様におかれましては応分の自覚をもたれ、充分な自衛をされた上でご来館いただけますようお願い申しあげる次第です。ご不便をおかけいたしますが、現在の状況に鑑み御理解をいただけますようお願い申し上げます。

 さて、令和3年(2021)、新たな歳の幕開けとともに北の国からの寒気団がやってきたようで、東北・北陸ではここ数年来という大雪に見舞われているとのことです。一方で、関東ではこの季節らしくカラリと晴れ渡った日が続いているものの、朝夕の通勤時には手袋やマフラーが必需品となるなど、冷え込みが例年以上に厳しく感じられます。その一方で、透き通った空気の中に映える夕景が一際印象的な季節ともなりました。コロナ禍の続く昨今、「静かな年末年始」、「非常事態宣言」下を過ごされる皆様におかれましては、普段は忙しい日常生活に追われて目を留めることが少ないであろう、周囲に風景に目を向ける機会も増えたのではありますまいか。とりわけ、偶にはしみじみと空を見上げるのも良いものです。特に、東京湾に面した海浜地区では、素晴らしい夕映えに出会うことができます。東京湾越しにシルエットとなって浮かぶ丹沢山系とそこから屹立する芙蓉(富士山の雅称)、茜色に棚引く横雲とそれを映しだす海の彩り、それらが刻々とその姿を変容させてゆく有り様は正に荘厳の一言に尽きます。そして、かくも神々しい富嶽を臨む稲毛の地に、富士山を御神体とする浅間神社が勧請されたこと、戦後の大規模な埋め立て前には、その眼下を横切る国道14号線こそが海岸線であったことにも思い至ります。

 その夕景は、様々な芸術分野で傑作を生み落としています。同じ富士山がらみで申せば、葛飾北斎(1760~1849)の手になる『富嶽三十六景』中の名作「御厩川岸より両国橋夕陽見」。暮れ滞む大川(隅田川)越しに臨む江戸の街。街と水面を静かに包みゆく暮色。近景の渡舟と遠景に配される優美な弓なりの両国橋、そして甍の彼方に遠望する群青の富士との対照が見事です。澄みきった空気感はちょうど今の時節を思わせます。色褪せのない保存状態の良いものであれば、かような世界に遊ぶことができましょう。ドイツ・ロマン派の巨匠カスパール・ダヴィート・フリードリヒ(1774~1840)『ドレスデンの狩猟場』の浅い夕暮、フランスはクロード・ロラン(1600年代~1682)の歴史画に描かれた残照の数々、そして、印象派クロード・モネ(1840~1926)のヴェネチアに没する、燃えるような夕日も忘れがたい。文学作品では、アントワーヌ・ド・サン=テグジュベリ(1900~1944)『星の王さま』。独りぼっちの王子様が44度も見たという悲しい入り日。遙か万葉の昔、滅び去った天智朝の都を偲んだとされる柿本人麻呂(660頃~724)の絶唱「近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ」。韻を踏んだリズミカルな調べは、湖国で今も変わることなく繰り返される、夕映えに煌めく小波を連想させます。

 そして、音楽では、リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)死の前年に書かれた『4つの最後の歌』(1948)最終曲「夕映えの中で」に指を屈しましょう。同じくドイツの人ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1788~1857)の詩につけられたオーケストラ伴奏による歌曲です。彼の色彩感溢れる管弦楽法はよく「オーロラのよう」と形容されますが、冒頭部分の繊細に綾なす弦楽器の分奏が表現する調べは、刻々と千変万化してゆく夕映えの色合いに他ならないと感じます。詩の世界では、流離いに疲れた旅人が茜さす静かな丘に佇み、仄かな死の予感にとらわれる姿が描かれます。しかし、そこには哀しみや暗黒は存在しません。むしろ、静かな夕闇の訪れを前にして、聴き手は底知れぬ安息感に包まれるのではありますまいか。その音響と詩の世界との調和に陶然とさせられます。もし、お聴きになりたいとの向きがございましたら、ちょっと古い録音になりますが、名匠ジョージ・セル指揮の下、名花エリザベート・シュヴァルツコップ(ソプラノ)による絶唱をどうぞ。ポピュラー音楽の世界では、ビートルズのTV映画『マジカル・ミステリー・ツアー』で、ポール・マッカートニー(1942~)がニースの丘に沈む夕日を前に一人歌う「ザ・フール・オン・ザ・ヒル」が直ぐに思い起こされます。素朴なリコーダーの音色と美しい旋律が、夕景の中に一人佇む、ガリレオ・ガリレイを思わせる世に理解されない主人公の孤独感に共鳴するように響きます。
(後編に続く)

 

 

 


 

「緊急事態宣言」(1月8日~2月7日)下の本館対応とお願い(1月8日現在)

 〇本館内での感染予防対策

・受付等でお客様と直接接触する職員はマスクに加え「フェイスシールド」着用。
・館内の消毒をこれまで以上に徹底。
※不特定多数の手に触れる「1・4階トイレ」「エレベーター押ボタン」「階段手摺」「販売書籍見本」の定期的消毒。 
・「3・4階の解説シート」撤去(希望される方には個別に配布いたします)。


 〇主催事業の実施の有無

・『初級古文書講座』(1月10日・1月31日・2月7日)
→全面中止とさせていただきます(2月7日以降の3回についてはその時点の状況による)。

※実施会場の状況に鑑み、感染リスクを排除することが難しいため。
・『歴史散歩』(1月30日・2月6日)
→予定通り実施いたします(戸外での実施であるため)。

※参加者につきましては、事前にお願いしてある「注意事項」に則ってのご参加をお願いいたします。

〇ボランティア活動(自主的行事も含みます)

・全面的に中止とさせていただきます。
※上記「初級古文書講座」中止と同じ理由によります。

〇団体見学の受付

・当該期間の団体見学は全面中止とさせていただきます。
※2月8日以後の受付→当該時期の感染状況による(「仮予約」とさせて頂きます)。

〇ご来館される方へのお願い

・特別な理由のない限り、館内では必ず「マスク着用」をお願いします。
・館内での会話については自粛をしてください。
・集団でのご来館はできる限りお控えください。
・入館時のアルコール消毒を徹底してください(消毒液は入口に設置済)
・館内の展示ケース等にはできる限り接触することを控えてください。 

 

 

 麗しき夕景の季節到来に寄せて(後編) ―「緊急事態宣言」下での本館の対応(1月7日~2月7日)― ―茜さす「夕映えの中で」想うことども―

1月16日(土曜日)

 多くの芸術家の心情を突き動かした夕陽について前編で触れましたが、芸術家たらずとも、誰にでも人生の中で出会った、忘れがたき夕景が存在するのではないでしょうか。個人的に思い返せば、多感な20歳前後の頃、大学構内で親しき輩と我を忘れて屡々見とれていた富嶽に沈みゆく夕日、同じ頃に明日香の地にある甘樫丘から、折口信夫『死者の書』に想いを巡らし乍ら眺めた二上山に落ちる夕陽、宇高連絡船でわたった四国の高松から乗車したディーゼル急行の車窓から眺めた、広大な塩田跡を染めた暮色、仲間と出かけた琵琶湖東岸の長命寺近くの宿から見た湖面を染めながら比良山系に落ちゆく日輪等々、幾つもあげることができます。余談ですが『万葉集』に心寄せるものであれば、大伯皇女と大津皇子姉弟所縁の「二上山」を地理的呼称である“にじょうさん”と読むことは余りに即物的に過ぎましょう。やはりここは“ふたかみやま”と訓じることが相応しいと思われます。

 しかし、一つだけと言うのであれば、30代の初めに自身を見つめ直そうと、夏に一人出かけた山陰への旅路で出会った夕景だと断言できます。山陰のそれと言えば、宍道湖に浮かぶ小島「嫁が島」に沈む夕陽が広く知られております。勿論、その地で出会った夕景にも大いに感銘を受けました。しかし、それを遙かに凌駕する感動を受けた場所、それが米子城跡でのことでした。1600年に豊臣大名の一人中村一氏嫡男の一忠によって近世城郭として整備された名城跡。無嗣改易後に一国一城令の下での破脚を免れ、鳥取藩池田氏の支城として特に存続の許された城郭であり、本丸に聳える大小二基の天守閣の偉容で名高い城郭でした。今は、建物一つ残ってはおりませんが、石垣に囲繞された各郭がよく残っております。特に本丸周辺のそれは、城下のあちらこちらから見上げることができ、その堅牢さに目を見張らされる思いがいたします。

 旅の途路、一夜の宿りをとることになった米子。夕暮れ時に何気なく宿から出て登った城山でしたが、人っ子一人いない天辺の天守閣跡から臨む絶景を今でも忘れることが出来ません。遮るもののない大パノラマの中で遭遇した唯一無二の夕景に圧倒されました。東は遠く鳥取砂丘へと連なる赤黒く暮れなずむ伯耆・因幡の海岸線、南は中国山地の山並みを背景にすっくと聳える赤く染まる雄大な大山(だいせん)、北に目をやれば境港まで連なる弓ヶ浜の美しい曲線、そして西の中海を煌めかせながら今正に没しようとする日輪。それらが全て掌の内です。あまりに荘厳なる落日の光景に動くことが出来ないほど打ちのめされたのです。そして、その時、自分の内の何かが浄化され、新たに甦ったような感覚に包まれました。他人様に口外するような話でなくお恥ずかしい限りですが、私にとっては人生の新たな一歩を踏み出すことへの啓示を受けた、決して忘れることのできない夕景なのです。幸い、ここは著名な観光地とは言えず、訪れる人も疎らです。雄大な自然を前に、一人夕日とじっくり向き合える得難い場所だと思います。

 因みに、米子では地方の名書店として夙に名高い今井書店にも立ち寄ることができました。旧城下町の古い町屋の連なる中に佇む、江戸時代の書肆から続く狭い店内には、厳選された文学書が整然と配架されており、凡百の書店とは一線を画す張り詰めた空気感に、襟を正されるような思いがしたことを今でも思い出します。おそらく、須く「書店たるものかくあるべし」と思われているのであろう、その矜恃に清々しさを感じさせられもした忘れ難い書店であります。その際には芝木好子の小説本2冊を購い、よき旅の友といたした次第であります。松江でも感じたことでしたが、山陰の街々に漂う旧城下町の洗練された文化の薫りには大いに感銘をうけました。これまた余談になりますが、3年ほど前に米子を再訪する機会に恵まれ、その昔訪れた書店を記憶頼りに探し歩きましたが見あたりません。ようやくたどり着いたそこは既に更地でした。かろうじて跡地に立つ「今井書店跡」の石碑がその縁を残しているだけでした。地元の方に確認したところ、今井書店そのものは新たに郊外型大型店舗展開に衣替えして、今でも経営を継続されているとのことでした。しかし、おそらく江戸の昔から引き継がれてきたのであろう、あの凛とした店舗の佇まいや薫りまでは引き継がれてはおりますまい。夕暮れ時に米子城趾にも登ってみましたが、10月後半という季節の違いにも依りましょうが、あの時のような美しい夕景に出会うことは叶いませんでした。想い出は心の中で美化されて変容していくことにも思い至る、そんなほろ苦い再訪ともなったのでした。

 作品紹介だか観光案内だか訳が分からなくなりました。迷走序でに今少し。暫しのお付き合いをください。先の人麻呂歌がそうであるように、夕景は、人を懐旧の念に誘ったり、感傷に耽らせたり、時に厳粛な思いにさせたりします。何故でしょうか。それは、美しさもさることながら、そこに神秘性(宗教性)を感じるからではありますまいか。芸術家の創作意欲を刺激し、多くの人々の心を捉える淵源はそこにこそ存するのだと思います。現代は不夜城の如く日没後も昼間と変わらぬ生活が営まれています。江戸時代も後半にはいり、菜種油の栽培による行灯等の明かりが広く普及し、人々の生活時間が日没後にも広がっていく以前。人類の歴史の大部分において日没はおそらく一日の生の終わりを意味しており、夜は人知の及ばない別世界であったはずです。中世には、「昼」と「夜」とは、掟や法の世界において全く異なった時間帯として認識されていたと指摘されています(笠松宏至「夜討ち」1983年)。まして、古代や原始の時代は更にそうした意識が強かったことでしょう。無事に過ごせた一日に思いを致し、新たな再生としての明日の訪れを祈るという、その「境目」にある落日に対する素朴で敬虔な思いを、人は失うことなく引き継いでいるのではないでしょうか。私を知らず知らずに来し方へと誘い、柄にもない厳粛な思いにもさせ、時に進むべき行く末への覚醒を呼び起こしてくれる夕陽。それは、あたかも過去と未来の狭間で日々「擬死再生」を司る「司祭」のような存在なのかも知れません。

 かような詮無き妄想は抜きに、透徹した大気に覆われる時期だけの麗しき夕映えを楽しまれては如何でしょうか。その日の雲の状態によって日々異なった相貌に出会うことのできる夕映えの光景は、毎日接しても飽きることがありません。きっと、この千葉市に居住している幸運を実感していただけること必定と存じます。このことは、『千葉市市制施行100周年記念誌』2021年(千葉市)の冒頭における熊谷市長と中学生との対談でも話題となっております。私たちの千葉市は東京湾を隔てて、西に夕陽が沈むという地理的好条件にも恵まれ、とりわけ美しい夕景を誇りにできる都市だと思います。「緊急事態宣言」下ではありますが、人気のない夕刻の海岸線に一人脚を運ぶくらいは十分に許容の範囲でありましょう。

 当該記念誌、及び千葉市制100周年記念漫画『百の歴史を千の未来へ』2021年(千葉市)については、本館においても販売中です。後者は、本市で活躍された先人達の活躍等を漫画の形式で知っていただくために制作されました。しかも、表紙画は千葉市ご出身のあの著名な漫画家「本宮ひろ志」さんの描きおろしになります(第一話「武田宗久-貝塚の守り人 悠久の宝を未来へ―」の監修もされております)。決して身内贔屓にあらず、両者ともにお値段以上の価値ある内容であると考えます。ともに1冊200円です。販売は、本館と市政情報室(中央コミュニティセンター2階)の2か所のみで行っております。お寄りの際に是非ともお買い求めください。なお、郵送を希望される場合は本館では対応できません。「市政情報室」へお問い合わせください。本館ホームページ内の両冊子販売のご案内に、市政情報室へのリンクを貼ってございますのでご確認をいただければと存じます。

 

 

 千葉市域を通る主要古道「房総往還」(前編) ―1月30日・2月6日実施「歴史散歩」に寄せて―

1月22日(金曜日)

 来週末と再来週末の2回、本館主催の行事「歴史散歩」が開催されます。昨年までは、当方が講師を務めて本館周辺の社寺等を巡る内容で10年程行ってまいりましたが、本年度から心機一転、「房総往還をゆく」と題した新たな内容で行うことと致しました。昨今、江戸時代の古道を何回かに分けて散策する旅が人気だそうですが(東海道・中山道等々)、我々も、かような動向に便乗して千葉市内の古道の一つである、安房・上総を結ぶ「房総往還」と称される旧街道を歩きながら、道筋に点在する歴史を探ろうと計画いたしました。勿論、時間的な制約がございますので、今回はJRの路線で言えば外房線の本千葉駅から蘇我駅までの一駅区間ほどの散策となります。コロナ禍の下、密集状態を避けるために定員を大幅に絞った分、少しでもたくさんの皆様にご参加いただきたく、今年度は、全く同じ内容で2回の開催とさせていただきましたが、それでも申し込みが多く、抽選によるお断りの方が多くなる結果となりました。誠に申し訳ございません。残念ながら「非常事態宣言」下での開催という状況に鑑み、何卒ご容赦の程お願い申し上げる次第です。なお、2月7日以降の本館ツイッターにて、シリーズ「房総往還をゆく」を順次アップし、散策経路の史跡紹介をして参ります。今回ご参加できなかった皆様におかれましては、是非ともそちらにてお楽しみいただければと存じます。「歴史散歩」における見所は当日及びツイッターでのお楽しみにしていただくとして、本稿では予習の意味を込めて、「房総往還」なる主要街道の概略について述べておきたいと存じます。

 所謂「道」と呼ばれるものは、元来は人や物の移動の必要から自然発生的に成立したものであったでしょうが、次第に日常的に用いる必要のある道筋が固定されていき、国家権力が成立する古代からは、統治機能にとって必要な「道」が選び取られ(あるいは新規に造営・整備され)、政権の目的の下で特定の道筋が主要道として利用され、そのことを通じて複数の交通路がより広域にネットワークされた所謂「道路網」として整備されていったものと思われます。勿論、「道」は、そうした広域的機能だけではなく、常に地域内での必要に応じた機能も大きなものであったことは言うまでもありません。そうした、様々な位相をもつ「道」の機能がその稠密性をさらに強め、相互に依存し合いながら機能しているのが実際に存在する「道」の有り様であると思われます。実際に、国道・県道・市道・私道等々、現在でも諸レベルの街道が存在しておりましょう。今回話題にするのは、そうした様々な位相にある「道」の中で、現在の「国道」にあたる主要道についてとなります。そして、後に述べるように、これらの道の多くが、時代によって道筋や形状の変遷を経ながらも、古代から現在に至るまで主要道として引き継がれてきていることも興味深いことであります。江戸時代の道は、現在でも所謂「旧道」として、その道筋を辿ることが可能である場合が多いですし、発掘調査で思いがけなく現主要道の近くから古代・中世の道が姿を現すこともあります。こうした主要道は、江戸時代に限らず、その持つ機能の同質性から、基本的に中世、古代と時代を遡っても頻繁に用いられる主要道であったことと思われます。ましてや、縄文時代にまで遡る可能性も想定されるのであり、現在ある国道51号線を事例に、10月16日・17の「館長メッセージ」にて述べさせていただいたこともあります。是非ともご参照いただければと存じます(「西野雅人氏のご講演「縄文人の狩り」から見えてきた新たな縄文社会の位相」)。

 千葉市内にも、その起源を明治より以前に遡ることのできる、現国道レベルの主要道が幾つも存在します。千葉中心街と外房九十九里方面とを東西に繋ぐ「土気往還」「東金往還」、印旛沼のある内陸部とを結ぶ「佐倉道」。千葉市の南部から分岐して茂原・大多喜方面へと導く「伊南房州通往還」。これらとは少し異なった成立起源となる、徳川家康が東金での鷹狩りを目的に(諸説あり)急遽直線状に造営された「東金御成街道」等々、直ぐに思い浮かぶところです。そして、今回そのほんの一部の歴史散歩を行う「房総往還」もそうした道筋の一つに他なりません。この道は、律令制の下では古代「東海道」の一部を形成しており、都から国司として下向する貴族の移動路であり、都へ税を納めに上る運脚の移動ルートでもありました。また、中世には、安房・上総・下総の各地に盤踞する武士団や戦国大名にとって、軍事・物資流通路として盛んに利用される主要道として機能しておりました。ただ、ここでは江戸時代以降の話題に絞りたいと存じます。

 この「房総往還」という名称に、「えっ?そんな名前の道ってあったっけ?」と疑問に思われた方も多かろうと存じます。その道筋は、船橋で「佐倉街道」から分岐し、内房の海岸沿いを南下、千葉・木更津等を経由して館山方面へと向かう、内房における南北の移動ルートとしてお馴染み、現国道14・16号線を中核とする街道に他なりません。そもそも論として、明治より以前には、基本的に道路の固有名称というものは存在しません。百歩譲って、俗に「五街道」と呼ばれる東海道・中山道・甲州道・奥州道・日光道については、少なくとも幕府政権内においては公称として存在したと思われますが、これらの道路に面して生活していた各地域の住民にとってさえ、江戸に向かうときには「江戸街道」でしょうし、京都方面に行くのであれば「京街道」として認識されていたことでしょうし、地域毎に実際に向かう先によって同じ道が異なって呼称されていた筈です。因みに、江戸時代においては、五街道とこれに附属する幾つかの街道のみが幕府「道中奉行」管理下にある直轄道路であり(現「国道」に相当)、公権力による公用通行の利便性を図るための施設が整備されました。それが、参勤交代の大名や家臣の宿泊するための「本陣」「脇本陣」「旅籠」であり、公用荷物運搬のための機関である「問屋」等でした[現在のように搬送先から目的地まで一貫して輸送するのではなく、宿場町(宿駅)毎にリレー方式で搬送されたのです(継送り)~これが「駅伝」の語源となります]。そして、それら施設の設置場所として凡そ一定距離ごとに設置された街場が「宿場町」ということになります。江戸と京とを結ぶ東海道には「東海道五十三次」と呼ばれる53の宿場町が置かれたことはよく知られておりましょう。その他にも距離の目安として設営された「一里塚」、陽光や風よけの「並木」の設営等々が行われました。しかし、その他の街道は「脇往還(脇街道)」として幕府の直接的な支配外にある道でした。

 ただ、大名の領地は五街道の範囲外に存在する場合が圧倒的に多いわけですから、参勤交代で通行する「脇往還」にも、幕府の仕組みに倣う形で大名の宿泊施設や休憩施設、荷物の運搬施設が彼ら領主の手によって整備されていくことになりました。こうした五街道で言えば宿場町に当たる町場は、「脇往還」では通常「継立場(つぎたてば)」「継場」などと呼称されました。因みに、千葉県内の街道は特殊な管理が行われており、「水戸街道」は江戸川を越えた最初の宿場である「松戸宿」まで、「佐倉街道」(江戸時代後期に庶民による成田参詣が盛んになると「成田街道」と一般に呼び習わされるようになります)は水戸街道から「新宿(にいじゅく)」(現葛飾区)で分岐し江戸川をこえた最初の宿場である「市川宿」までが、それぞれ道中奉行管轄下に措かれました。ということは、それより先は幕府の管轄を外れた「脇往還」扱いとなったのです。房総半島に限って何故このような中途半端な道路管理が行われたのかは、実のところよくわかっておりませんし、これまで合理的に理解できる説明に出会えたこともありません。

 さて、「房総往還」の話に戻ります。上述のように「房総往還」という名称も、一貫した一筋の道路としてとらえた場合の便宜的な名称であり、一般的にかように呼称されていたわけではありません。このことは、地元民にとって、この街道が安房と船橋とを結ぶ一貫した道筋という機能を有していなかった実態を表しております。今回の歴史散歩でも道端にある江戸時代の道標を見学致しますが、千葉市中央区寒川に立つ道標には南方面に「かつさみち」(上総道)とあるように、あくまでも「上総方面に行く道」という空間認識の下に建立されていることからも理解されましょう。本道標への記載はありませんが、船橋方面への表示は「えとみち(江戸へ向かう道)」というものが多く見られます。つまりは、それぞれの地元と周辺との相対的な関係性によって、その呼称はまちまちであったのです。因みに、明治より前には、公的機関の設置する交通標識は存在しません(行き先や行き先までの距離数等々)。現在、古道の傍らに残る道標は、すべて地元住民の善根(建立母体の信仰に由来)を建立動機に設営されたものです。(後編に続く)

 

 

 千葉市域を通る主要古道「房総往還」(後編) ―1月30日・2月6日実施「歴史散歩」に寄せて―

1月23日(土曜日)

 それでは、江戸時代における「房総往還」には如何なる機能があったのでしょうか。また、一貫した街道としての認識は誰が持っていたのでしょうか。それは、この道を公用で一貫して利用する人々以外には考えられません。言うまでもなく、房総に所領を持ちその地を支配していた大名がその人に他なりません。上総国に所領のあった大多喜藩や久留里藩等は、それぞれの領有していた支配地の中核的な場所に城郭(小藩であれば陣屋)を造営し、周囲に城下町を築いて所領の統治にあたっていました。そして、参勤交代の義務を負った彼らは、領地と江戸との定期的な行き来をする必要がありましたから、所領と江戸とを結ぶ街道を整備して利用することになったのです。あまり知られておりませんが、千葉市内の房総往還も、大多喜藩や久留里藩等が参勤交代による隊列を組んで通行しておりました(もっとも、現在の千葉市南部にあった生実藩森川氏や、一宮藩加納氏のように参勤交代を行わない「江戸定府」の大名もおりました)。

 加えて、房総往還には江戸時代にもう一つ重要な機能がもとめられました。それは、近世末になって外国船が頻繁に来港する所謂「外患の時代」が訪れたことに由来します。幕府によって房総半島(それと三浦半島)が、現在の東京湾の湾口を抑える、江戸の防衛ラインとして極めて重要な地勢として重視されるようになったからです。その結果、幕命を受けた諸藩が、上総・房総方面の海岸線防備の任務を果たすべく房総往還を南に下るようになります。つまり、参勤交代以外の公用通行が俄に多くなったのです。奥州白河藩、武蔵国忍藩、そして奥州会津藩の藩兵が房総往還を行き来するようになりました。因みに、千葉市中心地を領有していた佐倉藩でも、文政8年(1825)に、本館のある猪鼻山に小屋を建て、多くの家臣を常駐させて海防の任にあたっております。20年後にその任を解かれましたが、その後も佐倉藩には諸多な海防の任が課されていくこととなります。続いて、街道の持つもう一つの側面である、物資の輸送路としての機能から探ってみましょう。

 房総半島に所領を持つ大名や旗本等の領主は、所領からあがる年貢米を江戸へ搬送する必要もありました。何故ならば、その米を江戸で売却して換金することにより、江戸藩邸の経費を含めた藩としての消費生活を成立させていたからです。つまり、街道には公用荷物(主に「年貢米」)を運搬する機能が求められたのです。陸路では主に馬を用いての運搬が主流でしたが、馬1頭の背には米で言えば左右に振り分けて2俵しか積むことができません(これを「一駄」と称します)。従って、陸路は大量輸送には適しません。ここに、水運の重要性が浮上して参ります。鉄道や大型トラックなど存在しない時代に、一度に大量の物資を運搬できる手段は水運以外にはありませんでした。従って、この房総に所領を持つ領主達は、可能な条件さえ整えば、河川を用いて公用荷物を河口まで下し(吃水の浅い河川航行用に船底が平面につくられた「高瀬舟」が主に用いられました)、更に内海(現在の東京湾)から海上輸送用の舟に積み替えて江戸へ向けて送っていたのです。これを「津出し」と言います(「津」とは湊のことです)。現在の東京湾沿岸には数多くの湊が存在しており、主に大消費地であった江戸との物流を担っておりました(必要に応じて人の移動も担っておりました)。その際に頻繁に用いられた舟が「五大力舟(ごだいりきせん)」です。外洋航海用につくられた「弁才舟(べざいせん)」(幕府の鎖国政策下で帆を1枚に規制されており、外洋とはいっても遠洋航行は無理で沿岸航行にしか適さない構造でした)とは異なり、波の穏やかな内海とある程度の水深までは河川への乗り入れも可能な舟でありました。従って、荷物の積み替えが不用となるため内房と江戸府内の河岸との物資輸送に好都合であり、明治に至るまで大活躍したのです。舟底がV字型の大型船である「弁才舟」は河川には入り込めず、佃島周辺で停泊し海上で瀬取舟に荷を積み替え河岸に陸揚げする手間がかかったからです。余談となりますが、誤解されていることが多いので老婆心乍ら申し上げておきますが、教科書等で扱われる「菱垣廻船」「樽廻船」「北前船」で用いられる舟は、舟の形式としては全て「弁才舟」となります。

 以上、ざっくりと纏めれば、「房総往還」は一貫した街道の機能としては、公用としての参勤交代等に用いる領主のための道であり、少なくとも地元民にとっては、湊と湊、あるいは周辺地域との移動に用いるための道筋として存在し、一貫した街道としての利用価値はほとんど必要とはされない道筋であったとも言うことができると思われます。現在の千葉市内においても、今回の「歴史散歩」の区域に存在する「寒川湊」は、内陸部から陸送された佐倉藩年貢米津出しの御用湊として機能しておりましたし、その他にも登戸湊(葛飾北斎が「富嶽三十六景」「千絵の海」シリーズの双方で絵にしております)、生実藩が用いた浜野湊等々が存在していたのです。その点で、極めて大雑把に纏めれば、房総半島の東京湾岸を南北に結ぶ「房総往還」は、“政治の道”であって“経済の道”としての機能は低かったと思われます。そして、それは「房総往還」に限ったことではなく、房総半島を南北軸で結ぶ街道にほぼ共通する傾向ということができましょう(「東金御成街道」もそれにあたります)。それに対して、外房から内房へ房総半島を横断する東西路は、主に外房の物資を東京湾側に輸送する“経済の道”として機能していたのです。勿論、外房にも広大な海が広がっておりますが、九十九里は外洋に面しており荒波に晒されること、砂浜であるため大型の外洋舟は接岸できないこと、房総半島を大回りして東京湾に入り込むことが帆船の航海技術上難しく時間を要したこと等から、外房での生産物は陸送か河川を用いて内房へ運び、内房の湊から江戸へ津出しする輸送形態が主にとられていたわけです。房総を広くとらえれば、銚子という都市が近世に大都市として発展した要因は、東北から太平洋を下ってきた弁才舟が、その地で川舟に荷を積み替える必要があったことに求められると思います。川舟は利根川を遡り、関宿から江戸川を下って江戸へと物資を運搬したのです。今考えると至って迂遠な行程にも思えますが、房総半島を大きく迂回して東京湾に入り込むよりも、安全・確実に荷物を江戸に運ぶことができるルートとして重用されていたのです。その意味では、房総半島における最大の物資輸送路としての機能は、内海である現在の東京湾と利根川が担っており、内房においては「房総往還」ではなかったということになります。

 これまで、物資流通の機能として公用荷物(主に「年貢米」)に限定して述べて参りましたが、実際にはそれだけに限らず私的な荷物の運送にも頻繁に使用されていたことをご紹介しておきましょう。そもそも宿場町(継立場)は公用荷物輸送等を目的に、公権力によって整備されました。しかし、近世中期以降、各種産業の生産性が飛躍的に向上していくことに伴い、房総の街道を「商品」としての私的な荷物が運搬されるようになります。行程途上の継立場では、飽くまでも「役」として課せられた公用荷物の運搬よりも、私的な荷物の方が直接的な現金収入に直結するのですから、どちらを優先するようになるかは火を見るより明らかでありましょう。次第に私的荷物の輸送が公用荷物を圧倒するようになるのです。特に現千葉市内の街道と湊との関連で重要な物資が、「浜方荷物」と称された外房九十九里方面で生産され陸送されてくる荷物でした。その中心が「干鰯」「〆糟」といった魚肥です。これらは千葉市内の湊(寒川湊・登戸湊等々)から津出しされ、江戸と浦賀にあった「干鰯問屋」に運ばれ、更に全国へと売りさばかれ流通するようになります。そして、各地で金肥として盛んに利用され、更なる国内の農業生産の向上に寄与することになるのです。その意味で、房総往還とそこに色濃く分布する湊とは、陸運と水運との結節点として機能し、更には近世における産業の発展に大いに寄与した、極めて重要な交通遺産として高く評価される必要があるかと存じます。

 「道」には、これまで縷々述べてきたような“政治の道”“経済の道”といった機能の他に、庶民にとっての“信仰の道”といった側面も落とすわけにはいきませんが(「参詣路」「巡礼道」等々)、話題があまりに広範に及ぶため今回は触れないでおこうと思います。本館ホームページ内「研究員の部屋」に掲載される白井千万子研究員の手になるコラムを是非ともご参照くださいませ(「卯兵衛さんの旅-江戸の旅と信仰」「坂東巡礼-房総の札所めぐり-」)。

 最後に、千葉市内における江戸時代の道路網を実際に地図で確認してみたいと思われた方に朗報がございますので、ご紹介して本稿を閉じたいと思います。江戸時代以前にも所謂「地図」は存在しましたが、そのほとんどは「絵地図」であり、伊能忠敬による測量が行われる以前に、現在の国土地理院の発行するような精度の高い地図は日本には存在しませんでした。明治になり、そのことが各地でおこる士族の反乱鎮圧等の際に極めて不都合であるとの認識にもとづき、大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部の手により、明治初期から中期にかけて簡易測量に基づいた「2万分の一縮尺」地形図が急ぎで作成されました(山縣有朋の指示とのことです)。これが「迅速測図」といわれる地図群であり(取り急ぎつくった測量地図の意味でしょう)、これまでとは比較にならない精度を持った地形図でありました。更に、関東地方ではフランス式の彩色地図もつくられ、色の違いで土地利用を明瞭に読み取れることもできます。明治の中期頃までには測量が終わっておりますので、地図上の姿は、ほぼほぼ江戸時代末の地域の姿そのものと言ってよろしいでしょう。幸いに、「歴史的農業景観閲覧システムFAQ」なるサイトに、千葉県を含む関東各地のフランス式彩色「迅速測図」がアップされており、どなたでも簡単に接することができます。道筋に関しては御丁寧にも現在の道路を重ねて赤線で示してくれております。道の研究にこれほど寄与するサイトもないと思います。本当に便利な時代となりました。皆様も是非ともアクセスされてみてください。たかが150年ほどで、地域の姿が余りに遠く隔たった地平に至ってしまったことに、御一驚されること必定かと存じます。

 

 

 

 

 『イタリア紀行』と『ブラタモリ』 ―または「知的好奇心」の地平について―

1月29日(金曜日)

 新年が明けて既に一か月が経過しようとしております。新年になって発出された「非常事態宣言」の期限も残すところ1週間余りとなりましたが、大方の予想通り、未だ新型コロナウィルス感染症の終息は見通せていないどころか、専門家が指摘するように地域によっては「爆発的感染」が指摘される危機的現況にもあろうかと存じます。この後、更に宣言が延長されるか否か現時点では何とも申せませんが、飽くまでも素人考えに過ぎませんが、恐らく暫くはこの状態を維持するか、更なる制約をかけていく以外の術はないように思われます。政策決定には様々な思惑や利害関係等の調整等も必要でしょうが、国民の生命の保障という大前提に立脚した、適切かつ果敢なる政権の判断に期待するところ大であります。この間の感染拡大をほぼ抑え込んでいる台湾における迅速かつ血の通った政権担当者のコロナ対策と引き比べるにつけ、ともすれば我が愛する祖国への誇りが薄らぐことに気づいて、暗澹たる思いに駆られることが多くなりました。悲しいことです。さて、今回は、「何故この二人?」と不思議がられること必定の、時代もイメージも似ても似つかぬと思われているであろう人物を取り上げようと存じます。

 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(以下“ゲーテ”)は、1749年ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれ(広く“フランクフルト”と呼称される都市。ドイツ国内には別にフランクフルト・アム・オーデルという都市もあるので正確にはマイン川岸のフランクフルトという意味の当名称が正式)、1779年にカール・アウグスト公に請われ、ドイツ中部チューリンゲン地方にあった領邦国家「ザクセン=ヴァイマル=アイゼナッハ公国」(以下“ワイマール公国”)の閣僚に若くして就任。1832年にその首都ワイマールで没した人物です。『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、『同 遍歴時代』、何よりも畢生の大作戯曲『ファウスト』等の作者として、広く世界で知られる人物であります。『魔王』『野薔薇』等のシューベルト歌曲の多くも彼の詩につけられた楽曲です。従って、大方のイメージは18世紀半ばから19世紀初頭を生きたドイツの詩人・小説家・劇作家といったところでしょう。勿論、文学の世界でドイツ最大の巨人であることに異論はありますまい。しかし、その実態は到底かような範疇に納まるような人ではありません。理系・文系双方の各分野におけるスペシャリスト(科学者)であり、詩心溢れる文学者であり、はたまた冷徹なリアリストとしての顔を持つ政治家でもありました。謂わば、様々な顔を併せ持つ「マルチタレント(万能の天才)」であり、その何れにおいても破格の才能を発揮した人物です。残念なことに、現在の日本においても、世界に目を転じても、かような政治家は皆無でありましょう。

 因みに、彼の生きた時代に「ドイツ」という国家は存在しておりませんでした。所謂ドイツがプロイセン王国を盟主に「ドイツ帝国」として統一されるのは普仏戦争後の1871年のことです。それまでは王国・公国といった大小雑多に分裂した領邦が複雑に分立している時代でありました。一方、都市「フランクフルト」は1866年の普墺戦争の結果プロイセン王国に併合されるまでは、何処の支配にも属さない帝国自由都市であり、神聖ローマ皇帝選挙も行われる中核都市として独自に繁栄しました。ゲーテが仕官したワイマール公国は政治的に強大な領邦国家とは言えませんが、嘗てかの大バッハが宮廷楽長を勤め、ゲーテと同時代に大詩人フリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)を擁する等、抜きん出た文化力で一目置かれる領邦国家でした。その一方で、ゲーテの生きた時代は、アメリカ独立(1776)、フランス革命(1789)、ナポレオンによるヨーロッパ支配とその後の社会反動等々、一瞥して世界史上稀にみる激動の風が吹き荒れた時でもありました。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)、ルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770~1827)、マリー・アントワネット(1755~1793)、ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)も、ゲーテと同時代人であり、そのそれぞれがゲーテとの面識があった人物です。

 そんなゲーテが、故国から遠い南へと旅発つことになったのが1786年のこと。目指す地はイタリアでした(因みに、ドイツ同様に当時はイタリアという統一国家は存在しませんでした)。北部ドイツ育ちのゲーテにとって、陽光あふれる古代文明発祥の地は予て憧れの地でもあったのです。37歳となったゲーテは、カール・アウグスト公から長期休暇を取得し、ヴァカンスで訪れていた温泉地カールスバート(現チェコ領カルロヴィ・ヴァリ)から旅立つこととなりました。こうしたゲーテの行動は、一面において、当時イギリスの貴族や富裕層で勃興していた、修養の一環としてイタリア等へ長期旅行を敢行する、所謂「グランドツアー」なる社会的風潮とも多分に軌を一にしておりましょう。その後、ミュンヘン、インスブルックを経て、ブレンナー峠でアルプス山脈を南へ越えてイタリアへの一歩を踏み入れました。そして、ヴェローナ、ヴェネチア、ボローニャを経て最大の目的地であるローマへ。そこから更に南下してナポリ、そしてシチリア島へと渡っています。鉄道など存在しない時代。自らの脚力と馬車・舟を頼っての長旅でした。ワイマールへ戻るまでの1年と10ケ月間の見聞は、30年も後になってから回想され『イタリア紀行』として上梓されました。因みに、帰路はほぼその逆を辿りますが、何故か第2次ローマ滞在までで筆を置いており、その後の旅については黙して語りません。往路ではそそくさと通り過ぎたフィレンツェにも、復路では長く滞在しております。「美の都」で彼が何を見聞し、何を感じたのかを知ることができないのは残念至極です。

 私自身は、学生時代に岩波文庫3巻本でこの作品に接して大いに感銘を受けました。決して深く読み込んだわけではありませんが、それでも人生で大きな影響を受けた本として確実に10指にランクインする作品といっても過言ではありません。当紀行文のどこに私が惹かれたのかは、明確に述べることが出来ます。何よりもゲーテという人の旺盛な知的好奇心です。同じ対象に接して何を感じ取るのか、また何を考えるのかは、それぞれの人の知性と感性の質と分量によって、大きく左右されることは言うまでもありません。その意味で、ゲーテという一個の人間の中に広がる知性と感性の沃野の広大さと奥深さは、正に驚嘆に値します。旅で彼が見たもの。それは、地質であり、植生であり、歴史であり、都市であり、建築であり、民俗であり、言語であり、芸術であり……。枚挙に暇がないほどの視点で目の前の対象を切り取り、分析を加えていきます。しかし、それだけであれば単なる科学のレポートに過ぎません。瑞々しい感性によって受容された感銘は、研ぎ澄まされた知性によって変換され、まるで万華鏡のように眩くも変幻自在に彩られた「文章」となって綴られ表現されていくのです。『イタリア紀行』が単なる道中記に留まることなく、古今東西に冠たる「文学作品」として屹立し、世間からもかように受容されている所以がここにあります。清冽な泉の如く滾々と湧き出る知的好奇心と探究心、そして豊穣なる感受性に圧倒される思いでした。

 ここで舞台は急転換、当方の偏愛するNHK放送になる『ブラタモリ』についてです。突拍子もない言説と断罪されることを覚悟の上で、私は『ブラタモリ』におけるタモリ(森田和義)と『イタリア紀行』でのゲーテに、極めて類似した精神の地平を感じ取ります。当番組の初期シリーズは、毎昼放送されていた『笑っていいとも』の生中継でタモリが東京を空けられないという事情により、都内中心部で展開されておりました。しかし、現行シリーズは31年も継続した昼帯番組の終了をうけ、籠から放たれた鳥の如くにタモリが国内各地から海外にまで足を伸ばす内容へと大きく様変わりしました。訪問地で示される御題にタモリが喰らいつき、嬉々として追究する姿に視聴者も引き込まれます。メインとサブという、カルチャーとしての立ち位置は異なるかもしれませんが、この旺盛な知的好奇心こそ正にゲーテと通底する部分です。番組は、「地学」を基盤に土地の成り立ちを探り、それを背景にした産業・文化の在り方を多彩に追求する内容となっております。個人的に放映が待ち遠しい極々稀有なる番組であり、毎回大きな知的刺激を受けております。昨今のコロナ禍の影響でロケが難しいためでしょうか、最近はシリーズ展開が緩慢であるのが残念です。ただ、末永く楽しみたい大切な番組ですので、タモリの健康を何より最優先にしていただきたいと思っております。そのためには幾らでも待たせていただきます。タモリから降板の申し出でもない限り、NHKには是非とも永く当番組を続けていただきたいと祈念するところであります。そのためには、率先垂範して受信料をお支払いする所存です。

 タモリという人物については、デビューした頃のイグアナの物真似等から判断して、単なる際物芸人くらいに思っておりましたが、今では相当な教養と洞察力を有した「文化人」なのだと思っておりますし、心底尊敬の対象ともさせていただいております。今更ながらこれまでの自らの不明を恥じるばかりです。ただ、ご本人は十把一絡げに「文化人」呼ばわりされることを最も不名誉とされましょう。おそらく、彼自身は周囲の目など無頓着に、自らが面白いことを純粋に追究しているだけでしょう。その点で、その昔に一世を風靡した「ハナモゲラ語(四か国対抗麻雀が大いに傑作です)」「中洲産業大学」も、大学時代からの「ジャス」音楽への傾倒も、『ブラタモリ』『タモリ倶楽部』における博学才英ぶりも、タモリ自身の中では全く同じ地平にあるものだと思われます。その姿勢が何とも清々しく潔いと思います。「他人も自分も所詮は大した人間じゃない。だから他人に期待も攻撃もしない」とはタモリの言葉です。何物をも絶対視せず常に相対化して把握できること、何事にも楽しみを見出せる精神性の横溢、誰に対しても偉ぶらない飄々とした水平思考、希望的な観測に基づく予断を徹底的に排する現実的思考等々、自信に裏打ちされた決してぶれることのない人間性を実感します。この2人を同じ土俵で論評することなど言語道断とする向きもありましょう。しかし、熱烈なるゲーテファンから非難囂々を承知の上で、あえて私の中でこの二方は等しく釣り合っていると宣言させていただきます。二人が相容れないのは「政治」に関わるか否かくらいかもしれません。足元にも及ばないことは百も承知の上ですが、還暦を超えてもうすぐ2年目を迎える昨今、御両人の生き様こそ自らの行く末における「手本」「道標」ともさせて頂きたいと思う次第であります。

 最後に、もし関心が沸き、未だ手にしたことのないゲーテ『イタリア紀行』を読んでみたいとの向きがございましたら、今でも現役の相良守峰訳『岩波文庫』全3巻(1960年)より、『ゲーテ全集』第11巻1冊に収まる高木久雄翻訳による1979年版(潮出版社)をお薦め致します。相良さんによる半世紀以上前の格調高き翻訳文は、今読むと少々古臭く感じられる方が多いのではないかと思われます。更に一冊のご紹介をさせてください。それが牧野宣彦『ゲーテ『イタリア紀行』を旅する』2008年(集英社新書ヴィジュアル版)です。原作を読んでいて最大のもどかしさは、実際にゲーテが見ている景色や作品を目にできないことです。幸いに本書は、そのうちの一部にすぎませんが、牧野さんが豊富な写真によって、ゲーテが目にした風景・作品の数々を紹介してくれております。この喜びは他には代えがたいものです。併せてお求めになられることをお薦めいたします。

 タモリについては、昨今その人物像を広範に検証した優れた論考が世に出ましたのでご紹介いたしましょう。近藤正高『タモリと戦後ニッポン』2015年(講談社現代新書)がそれです。タモリの名を冠した書籍は幾つもありますが、この書籍は、タモリという人物をその生い立ちから時代のコンテクストに位置付けて考察した極めて出色の作品だと思います。今ある「タモリ」という人物が如何に形成されてきたのか、その過程に迫る力作です。当方の偏愛する『ブラタモリ』についても、定期シリーズになってからの放映分はKADOKAWAがシリーズとして全放送分を書籍化してくれており(桑子アナ・近江アナ担当分の18巻分)、何度も読み返しては放送の内容を反芻する楽しみを味わっております。順調に刊行が継続していれば今日現在、少なくとも30巻前後には到達している筈でした。しかし!しかしです!!林田理沙アナウンンサーがアシスタントになってからのシリーズは何故か書籍化されず中絶した状況にあります。19巻目が何時発売になるのか心待ちにしていただけに大いに落胆しております。個人的に何度か出版社に要望したのですが「予定にありません」の一点張り。悲しいかな個人の力では如何ともしがたいものがあります。私的に林田アナの大ファンであることも然ることながら、番組としての魅力も質も微塵も衰えていないのですから、是非とも価値ある内容の書籍化を継続してください、KADOKAWAさん!!この場をお借りして、切に要望させていただきます。『ブラタモリ』ファンの皆様は大勢いらっしゃるはずです。是非とも、大いに出版社にご意見を寄せていただき、書籍シリーズ継続を是非とも実現していただこうではありませんか。決して当方だけの身勝手な願望ではないと思うのですが如何でしょう。

 

 年明けに脚を運んだ博物館展示について(前編)―足立区立郷土博物館:特別展「名家のかがやき ―近郊郷士の美と文芸―」―(令和2年11月29日~令和3年2月23日)
―すみだ郷土文化資料館:企画展「東京大空襲 ―被害の詳細と痕跡―」―(令和2年12月19日~令和3年5月9日)

2月5日(金曜日)

 冬至からはや1ヶ月半弱が経過し、身にしみる寒さは変わらぬものの、日脚は日一日と伸びているように実感します。本館の敷地に植えられている梅の蕾も、心なしか膨らんできているように感じられます。また正面玄関下に昨年秋に球根を植え付けた和水仙も、愛らしくも香しい花をちらほらと咲かせております。春の訪れは間近であることを実感いたします。年明けに新型コロナウィルス感染症拡大防止を目途に11都府県に発令された「緊急事態宣言」も、結果として栃木県を除く都府県については1カ月間先送りされることが決まり、3月7(日曜日)まで継続となりました。本館における対応も1月段階の内容で継続いたします。「初級古文書講座」については、最終回のみ3月7日以降の設定でありましたが、1回のみの実施では所期の目的を叶えることは難しいことから、本年度は全面中止とさせていただきます。追って代替措置等のお知らせをさせていただきますのでお待ちいただければ幸いです。

 さて、かような状況下に外出するのも如何なものか迷いましたが、標記2館の展示会は是非とも拝観したいと思っておりましたし、本館同様に両館ともに閉館対応をしておりませんでしたので、これ幸いと脚を運んで参りました。2館とも昨年秋に開催の本館特別展『軍都千葉と千葉空襲』でお世話になった経緯もあり(足立区からはB29プロペラ等を拝借いたしましたし、墨田区からは当館学芸員石橋星志さんから記念講演を賜りました)、是非とも返礼を兼ねて表敬訪問をさせていただこうとも考えてもおりました。幸い2館とも自宅から自転車での移動圏内にありますので、平日休みを利用し密を避けつつ出掛けて参った次第であります。土日祝祭日でないため会場内も密に全くこれなく、見応えのある展示をじっくりと拝見することができました。本稿では、両館における極めて充実した展示内容につきましてご紹介をさせていただきます。

 まず、「足立区立郷土博物館」開催の特別展「名家のかがやき -近郊郷士の美と文芸-」です。本展は足立区が区政80周年を記念して平成24年度から現在まで継続されている、区内「文化遺産調査」の成果を広く紹介することを目的にして開催されております。その成果については、これまでに『美と知の宝庫 足立-酒井抱一・谷文晁とその弟子達』(平成27年度)、『髙橋廣湖 -千住に愛された日本画家-』(平成29年度)、『大千住 -美の系譜-』(平成30年度)、『初顔見世の役者絵』(令和元年)と、継続して定期的な特別展を開催されて参りました(平成30年度には平成27年度特別展の補遺編としての企画展『美と知性の宝庫 足立 2 谷文晁と二人の文一 -時代を超える絵師ファミリー 谷文一没後200年記念-』も開催されるなど遺漏がありません)。一方、本特別展は、足立区立郷土博物館が、当該調査以前から調査研究に取り組んでいらした成果である、特別展『千住の琳派 -村越其栄・向栄父子の画業』(平成22年度)、『浪人たちのフロンティア -村と町の開発と浪人由緒-』(平成23年度)の内容とも密接に関連した内容であることも見逃せません。つまり、10年間の当館における特別展が、単なる一過性の展示にあらずして、明確なストーリー性の下に一貫して開催されていることに気づかされましょう。何よりもそのことに瞠目させられる思いであります。

 上記特別展のタイトルからも判明するように、こうした現足立区内に色濃く残存する近世絵画を中核とした江戸の文化的遺産を継承する母体となったのが、江戸四宿の一つで日光街道宿場町として殷賑を極めた千住宿の存在であり、また近世初期には荒蕪地の広がっていた現足立区内の大地を開墾し新田としていった有力農民の存在であったのです。その正体こそが、戦国期において国衆家臣団を形成していた武士で、北条氏滅亡後に主家を離れ農民として土着した者たちでありました(郷士=H23特別展で“浪人”として提示された存在)。彼らこそが荒蕪地開発を主導し、近世には新田における名主となり、あるいは宿場町役人ともなって江戸周辺地域の名士(名家)的存在となるのです。そして、彼らは同時に、広範な農業・商業活動による経済的基盤と江戸周縁という地理的条件とを背景に、地域における文化活動の担い手ともなり、千住宿という街場に文人墨客を誘引。その地を媒介に更に農村地帯にも文化的な裾野を拡大していく主体となっていくことになります。そして、そのことを取り上げたのが今回の特別展となります。

 本特別展で取り上げられる近郊の郷士が、小右衛門新田(現梅島・平野周辺)開発人の日比谷家であり、掃部新田の開発人であった石出家であります。特に後者における初代の石出掃部介吉胤は千葉氏を出自としており、江戸時代初期に千住一帯の開発を主導し、千住大橋架橋への助力、掃部堤の築造による掃部新田の開発等に尽力し、その後に千住宿役人として名字帯刀を許されることとなる名家なのです。この千住を含む東京東部の低地一帯は、戦国期に下総を追われ、この武蔵の地に根をはることとなった千葉実胤・自胤兄弟を始祖とする「武蔵千葉氏」の地盤と重なることはご存知のことと存じます。足立区には千葉氏関係の伝承、関連遺跡も多々残っております。因みに、石出氏については、本館刊行『千葉いまむかし』13号(2000年)に石出猛史さん御寄稿「石出氏を訪ねて-石出・千葉中・千住-」が掲載されておりますので是非ともご参照ください。本特別展では、これら名家と江戸の文人墨客等々との交流を通じて残された数々の美術品、また一族の江戸狩野派(奥絵師筆頭の木挽町狩野家)への入門によりもたらされた狩野派作品と関連資料、更に名家としての経済力を背景とした優れた収集美術作品が、特別展示室に納まりきらず常設展示全室も用いて展示されており、正に圧巻の様相を呈しております。当方は、個人的に深い関心を抱いている江戸狩野派の優れた作品群に心惹かれました。特に鍛冶橋狩野家の探信守政(狩野探幽の三男)の手になる六曲一双の大作屏風「西王母・東方朔図屏風」、近世中後半期の名手である木挽町狩野家の晴川院養信による一幅「富士昇竜図」、そして木挽町狩野家の粉本関係資料に強く興味を引かれました。残された会期は2週間ほどです。もしお時間がありましたら是非ともお出かけください。各特別展・企画展の全てに優れた図録が刊行されていることも申し添えておきます(その人気故に過去の図録には既に完売のものが多々あると思われますので、各館ホームページにてご確認ください)。

 

 

 年明けに脚を運んだ博物館展示について(後編)―足立区立郷土博物館:特別展「名家のかがやき ―近郊郷士の美と文芸―」―(令和2年11月29日~令和3年2月23日)
―すみだ郷土文化資料館:企画展「東京大空襲 ―被害の詳細と痕跡―」―(令和2年12月19日~令和3年5月9日)

2月6日(土曜日)

 続いて、すみだ郷土文化資料館での企画展『東京大空襲 -被害の詳細と痕跡-』をご紹介いたします。当館の立地する東京都墨田区は、戦前の向島区・本所区を併せた区域にあたり、その何れも昭和20年3月10日の東京大空襲に遭遇し、壊滅的な被害を受けた地域となります。区内に設置された当館では、東京大空襲を展示の中核に据えて、継続した戦争関連展示を推し進めていらっしゃいます。その数は、当館が開館した2年後の平成12年(2000)から数えて関連展示は15回にも及んでいるほどです。そして、現在「空襲」関連を担当されている学芸員が石橋星志さんです。石橋さんの調査研究のスタンスは、空襲被害者一人ひとりの行動に寄り添って空襲被害のミクロを探りながら、最終的にマクロとしての空襲被災の全容を炙り出そうとされていることにあると思っております。一夜にして10万人を超える死者を生み出した甚大な被災であり、そこで生死を分けた人々の個々に寄り添うことなど、到底不可能と思われるかもしれません。しかし、それを可能な限り跡付けていくという途轍もなく地道な調査研究をされております。その執念とも言えるご活躍の在り方に心底尊敬の念を禁じ得ません。石橋さんは、そうして一人ひとりに寄り添うことがその生命を不本意に切断された死者へ敬意を表することであり、更には残された遺族の思いに寄り添うことだとの信念をお持ちなのです。それでなければ、あのような調査研究はできないでしょう。本企画展を拝見して、まずはそのことに深い感動の思いで一杯であります。

 今回の企画展について、石橋さんは「空襲体験者から聞き取った避難経路の図と体験談、被災地図の再検討など、将来に空襲の事実の重みを語り継ぐ上で不可欠な試みを紹介する」こととされております。生き残ることのできた罹災者一人ひとりの膨大な証言資料を読み込み、避難の経路を地図上に落とし込んでいく作業、そして不幸にして生命を奪われた一人ひとりの当日の行動までも、生存者からの聞き取りからできる限り復元していく、そんな地道な作業の結果が巨大地図上に落とし込まれ館内展示されております。避難を開始した地点から罹災者が最終的に到達した地までの軌跡。その最終地点は、人によって生存できた地点であったり死を迎えた地点であったりするのです。そして、その分かれ目には如何なる要因があったのか、そのことまでも視野に入れながら執念深く探っておられるのです。更に、本企画展の白眉として特筆されることが、徹底した「空襲被災地図」の検証をされていることです。私たちが何気なく資料集で接する被災地図でありますが、実際にいくつかの被災地図を比較すれば、明らかな違いが認められるのです。それは東京大空襲に限らず、私たち千葉市における被災地図でも同様です。本館で昨年開催いたしました特別展『軍都千葉と千葉空襲』展示と図録掲載をした被災地図は、昭和55年(1980)刊行『千葉戦災復興誌』(千葉県)からの引用史料です。しかし、当該地図では、空襲によって本堂が全焼した筈の千葉寺は被災地として描かれておりません。一体、千葉寺観音堂はどの時点で焼失することとなったのでしょうか。これを、昭和20年(1945)にかけて第一復員省(戦後に陸軍省が改組され復員等の残務整理を担った役所)が作成した『全国主要都市戦災概況図』で確認すれば、7月7日の所謂「七夕空襲」時に罹災していることが判明します。やはり、戦後直ぐに作成された資料の正確さが際だつと思われましょう。しかしです、両者を引き比べると、その異同は思いの他に大きいだけではなく、両者ともに空襲被災の実態とは異なった部分が相当数見られているのが実情なのです。戦前の日本地図と1945年1月から5月の空中写真に基づいてAMS(米国陸軍地図局)が作成した焼失地図が最も正確とされますが、小さな誤りは確認されており、実地調査を行っていない限界があります。正確で詳細な被災地図の作成には、証言などと突き合わせていくこと、様々な資料で検証を行うことが何より重要です。また、更にはその被災状況は都合100回にも及ぶ空襲被害の最終結果であり、罹災経過を追うことができない等の課題もあります。会場には、それら残された史資料の綿密な比較検証を通じて、できる限り空襲の実態を明らかにされた現時点での研究成果が展示されております。何故ここまでの調査をといぶかる向きもありましょう。それこそが、上述したように「罹災者に寄り添う」ことに起因する事に他ならないのです。「私の両親はいつ何処で無くなったのでしょうか?」との問いに、「よくわからない」と回答することの理不尽を極力排除したい、そうした問いに対して誠実な回答を提示したい、との一途な想いが顕在化した結果なのだと思います。何という志の高さでありましょう。再度申し上げますが、心底の畏敬の念すら覚える次第であります。

 本企画展で、当方が強く印象づけられた特筆すべきが他に2点あり、ともに「疎開」に関わる展示物でありました。ただし、2つの「疎開」は別種の内容に関するものであります。「疎開」と耳にすれば「学童疎開」を直ぐに思い浮かべることが普通ですが、一つ目は「建物」の疎開に関する史料となります。大戦末期になり米軍機の空襲が頻繁になるとともに、延焼防止を目的とした、一定の空間の建築物を事前に撤去する、所謂「建物疎開」なる施策が強行されることになったのです。しかし、それが実際にどの地区で如何なる規模で行われたのかは闇のままでおりました。そのことが実際に実施されていた史料に初めて接することができたのです。それが、本企画展で展示されている昭和19年(1944)5月に東京都防衛局建物疎開課が作成した「本所区建物疎開地区図」2枚になります。これは当方にとって貴重な知見となりました。二つ目は、「学童疎開」とも関連する資料であり、所謂「幻の卒業式の卒業証書」の展示であります。当時、集団疎開で千葉県内に疎開をし、卒業時期を迎え進学のために東京に戻った6年生が3月10日の東京大空襲に遭遇しております。幸いに生命を取り留めても「卒業式」が挙行されることはありませんでした。学校自体が焼失しているケースも多かったからです。本展で展示される史料は、その後に当該児童へ送られた「卒業証書」と、その経緯を綴った当時学級担任の先生(「訓導」が当時の呼称です)から送付されてきた私信であります。これは、コロナ禍の下で、不充分な形で卒業式を執り行わざるを得なかった私自身の経験とも重なり、重く胸を塞ぐ展示でもありました。逆に、今の児童生徒にとっても、極めて身に迫る展示ともなるのではないかと考えた次第でもあります。本企画展は、年度を跨いで5月GW明けまでとなります。陽気がよくなり、現状が少しでも好転するようでしたら、是非ともお出かけ頂きたい優れた展示であります。残念ながら展示図録は作成されておりませんが、幸いなことに、すみだ郷土文化資料館だより「みやこどり」第61号に企画展内容が特集されており、4頁にわたってその概要が示されております。そのリーフレットだけでも価値があると思っております。

 この度は、自身が脚を運んだ2つの博物館展示会についてご紹介をいたしました。併せて、次年度「市制施行100周年」にそれを記念して開催する本館における特別展についての思索を巡らせる機会ともなりました。展示テーマが異なれど、やはり他館の展示を拝見させていただくことは大いに刺激となります。現在のところ「埼玉県立歴史と民俗の博物館」開催の特別展『銘仙』を是非とも観覧したいと思っております。しかし、「非常事態宣言」を受けて2月7日までは閉館中でしたが、更に1カ月間延期となりました。本来の会期は2月14日までですから、今後如何なる対応をされるのか大いに気を揉んでおります。案内チラシには以下のようにあります。秩父・伊勢崎・八王子を主産地とする着物「銘仙」は、正に千葉市が市制施行となった前後頃に一世を風靡した着物であります。その大胆な図柄には、竹久夢二の美人画に代表される「大正浪漫」が体現されていると思います。会期の延長等のご対応に期待するところ大であります。 

 

 「大正から昭和にかけて流行した着物「銘仙」は、絹織物でありながら実用的、しかも色鮮やかで大胆な模様によって、当時の女性たちを魅了しました。本展では、着物を中心とした約170点の資料を展示し、歴史や技法をとおして銘仙の魅力を紹介します」

 

 『千葉市史 史料編10 近代1』が刊行されました!(前編)―「見どころ・特徴」紹介と市史編纂事業の意義について―

2月12日(金曜日)

 2月7日までとの期限付きで年明けに発出された「緊急事態宣言」も、大方の予想通りに一か月間の期間延長と相成りました。暫くは、私たち国民も我慢の時が続きます。政府の対応等については何かと首をひねることが多いのが本音でありますが、他者を批判するだけでは何も解決しないことも明らかです。重要なことは「誰かに何とかしてもらおう」ではなく、自ら最善を尽くすことだと思います。そして、今こそ国民全体が「コロナに討ち勝つ」ための決意を結集して行動する時なのだと考えます。そのうえで、それによって「国民」が生活に支障を来すのであれ、その生命・生活が維持できるよう政府・自治体は惜しみなく「公助」の手を差し伸べなければなりません。それこそが「公」の思想だと思います。そのために、我々国民は「政府」に政治を委託しているのであり、「租税」を預けているのですから。それこそが、「近代国家」の在るべき形態であり、我が「日本国憲法」の目指す国家の在り方であります。どうやら、近代国家の最も基本となる地平を履き違えているのではないか、首を傾げざるを得ない言説が罷り通っているように感じられることも多々あります。改めて「基本のキ」を確認する意味で。老婆心ながら申し添えておきたいと存じます。

 さて、以前の「館長メッセージ」(9月12日付)にて、本館の重要な機能としての「市史編纂」事業の意義・意味について述べさせていただいたことがあります。そして、その場で『千葉市史』刊行開始から現在に至るまでの刊行状況についても記述しております。まずは、それを以下に再掲させていただきます。ご一読されれば、改めて当該事業が如何に長期にわたっているのか、それにも関わらず未だ事業完結に到っていないことに、御一驚されること必定かと存じます。現時点で、事業開始から何と50年が経過しているのです。50年と申せば半世紀です。本市規模の地方公共団体における『自治体史』刊行が、かくも長きにわたって事業展開されているところを、当方は寡聞にして知りません。しかも、平成4年(1992)からは、国内12番目となる「政令指定都市」ともなっております。千葉市は、行政執行上において都道府県と同等の処遇を受けることのできる、国内でも冠たる主要都市となったのです。その日からこの4月で29年目ともなるのです。1冊ずつが相当な部厚さである、全39巻の『千葉県史・自然誌』ですら、18年間で完結しているのです。『千葉市史』の完結予定巻数はその半分にも満たぬ15冊です。

 

 (『千葉市史』編纂事業は)歴史を辿れば、昭和44年(1969)12月、当時の宮内三郎市長の企画により、市制施行50周年記念事業の一環として開始されたときにまで遡ります。それからこれまで何度かの中断を挟みながら『千葉市史』の形で成果を刊行し続けて参りました。この間、『通史編』を全3巻(昭和49年刊行)[絶版]、『史料編』につきましては、昭和51年刊行『史料編1 原始古代中世』[絶版]から、平成16年度刊行『史料編9 近世』までの合計9冊が刊行されております[史料編2~9の近世編は全巻販売中]。

 これまで縷々ご説明して参りましたことで不思議なことがございましょう。平成16年に『千葉市史 史料編9 近世』の刊行から既に15年程も経過しているが、その後の近現代史料編刊行はどうなっているのかということです。お待たせいたしました。「千葉市開府900年」を迎える令和8年度(2029)を目途に『千葉市史 史料編 近現代』(10~12巻:全3冊)の刊行ができることとなりました。そして、過去2年間にわたる編集委員の皆様のご尽力の成果が実り、本年度(2020)末に近現代1巻目に当たる第10巻を刊行いたします。また、その後は各巻の編集作業を通じて、令和5年度(2023)に第2巻目(第11巻)を、「千葉開府900年」を迎える令和8年度に最終となる第3巻目(第12巻)の刊行をもって完結の予定となります。

 

 その時々の千葉市財政状況等、諸多の事情により事業中断等があったのかと存じますが、如何せんこの期間はあまりに長きに過ぎましょう。そして、表題にお示ししたように、時代は令和に移り変わった本年度になって、前号『千葉市史 史料編9 近世』刊行から16年の歳月を経て、悲願であった『千葉市史 史料編10 近代1』が目出度く刊行の運びとなりました(¥3,000)。既に2月4日(木曜日)から「本館」及び中央コミュニティセンター2階「市政情報室」にて販売しております。何にも増して、本館といたしましては、本事業が途絶することなく継続できたこと、全巻完結を目指しての新たな一歩を踏み出せたことを嬉しく存じております。以後、令和8年度(2029)『史料編12』刊行によって60年間にわたる『市史編纂』事業に区切りがつけることができますよう尽力して参る所存でございます。市民の皆様のご支援を何卒よろしくお願い申し上げる次第でございます。以下、今回刊行された『千葉市史 史料編10 近代1』の「見どころ・特徴」を掲載させていただきます。作成は、市史編纂事業の中核を担う本館 土屋雅人 主任主事にお願いしました。


(後編に続く)

 

 

1 構 成
(1)「はじめに―明治期の千葉市域のようす」で、明治期の千葉市域を概観。
※慶応4年(1868)から明治22年(1889)4月までの行政区画の変遷を地図で掲載。
(2)「史料編」では、政治行政、産業経済、文明、社会など、多方面から明治時代における千葉市域の特徴を示す史料を330点収録。後半の史料解説で収録史料を丁寧に解説。
(3)明治時代における千葉市を深く調べる方法として、編章別に参考文献を掲載。
(4)千葉市の旧町村別に、掲載史料についての所蔵者・出典を掲載。掲載史料の大部分が、市内の自治会や旧家等に残されていた古文書で、当館の所蔵または寄託になっているものも多い。


2 トピック的な内容
(1)明治時代の町村合併に関する動き(掲載史料番号39~44)
~登戸村の独立の動き、生実浜野村の地名、土気本郷村成立までの経緯。
(2)日露戦争で出征した兵士からの書簡(軍事郵便:掲載史料番号58)
~奉天会戦の休戦時に、両軍の兵士が互いに談笑し銀貨や食料を交換する様子。
(3)繭の乾燥設備を持った千葉倉庫株式会社(掲載史料番号173)
 ~千葉県で広く行われた養蚕業を支える。比較的早い時期から鉄道駅に隣接。
(4)学校沿革誌(掲載史料番号214~218)
~明治時代の学校教育の基礎資料となる学校沿革誌を5点収録。
(5)医療と衛生(掲載史料番号219~268)
 ~県立病院の医学教育、伝染病予防対策、衛生知識の普及活動など、50点(全体の約15%)
の史料を収録。
(6)明治初期の千葉神社の動き(掲載史料番号269~274)
~神仏分離政策に伴い千葉神社としての道を選択。
(7)明治前期における県庁舎・県立千葉病院の建築関係史料(掲載史料番号294~296)
~県庁舎・県立千葉病院の工事に携わった千葉町で大工をしていた家の史料。
(8)野と水の近代化(掲載史料番号309~330)
 ~原野や農業用水の利活用などから地域の近代化の様子を探る。

 

 『千葉市史 史料編10 近代1』が刊行されました!(後編)―「見どころ・特徴」紹介と市史編纂事業の意義について―

2月13日(土曜日)

 前編での説明でご理解いただけたと存じますが、本冊は『史料編』であり市内に残されている明治期の古文書等々史料を集成した内容となっております。「読物資料」ではありませんので、決して親しみやすい内容とは言えないかもしれません。しかし、歴史を描き出すためには、こうした作業そのものが重要な意味をもつのです。旧家や寺社に伝来することの多い史料は、往々にして散逸する危険性を孕んでいるからです。貴重な古文書を伝えてきた旧家の代替わりの時、旧家の母屋や土蔵が解体される時等々、古くて汚らしい紙資料などが真っ先に廃棄されることが多いのです。それを散逸から救い出して保護の手を加えること。それを読み込んで活字化して誰もが活用できる形で刊行することで、歴史のバトンを後世に伝えていくことが我々今を生きるものの務めなのです。こうした史料集成がありさえすれば、それを基にして過去の千葉市の歩みを明らかにすることが可能となるのです。こうした史料がなければ、将来的に千葉市の歴史を描き出すことが難しくなります。

 そのことは、結果として千葉市のより的確な未来図を描き出すことをスポイルすることにもつながりましょう。何故ならば、「現在」とは過去の集積であり、「現在」の評価とは「過去」を問い直すことでしか明らかにできないからです。そうした「現在」への評価を基準に、その在り方に如何なる修正をかけるかによって、向かう「未来」の方向性の適性が左右されることになるのだと思われます。従って、本館が担う「市史編纂事業」とは、決して過ぎ去った過去を懐古趣味的に探ることではありません。「現在」を知り評価し、我々の進むべき「未来」への「道標」を刻む作業。それこそが、本館が進める「市史編纂事業」の意義に他ならないと考えております。そして、我々は常にかような確信と自負とを胸に本事業の推進をしております。是非とも、御皆様にもお手に取っていただけることを祈念しております。今後、本館ツイッター等を利用して、本巻の内容等を何回かに渡って連載することで、皆様に分かりやすくご紹介していきたいと目論んでおります。是非ともそちらも楽しみにして頂ければ幸いです。

 最後に、先ほどから令和8年『千葉市史 史料編12 現代』の刊行をもって「市史編纂事業の完結」ではなく、「一つの区切りを迎える」と申し上げた意味について述べさせていただき本稿を閉じたいと存じます。以下に述べることは、以前の「館長メッセージ」でも述べたことと重複いたしますが、何度も訴えるに値することと存じますので、再説させていただきます。そのことは、正に市史刊行事業が60年の長きに及ぶことに起因しております。つまり、初期に刊行された『千葉市史 通史編』(全3巻)と『千葉市史 史料編1 原始・古代・中世編』の計4冊については、現段階において、ほぼ利用価値の存しない古色蒼然とした内容と化しているのです。それゆえに「絶版」扱いとしております。そもそも、自治体史編纂事業は、史料編の編纂刊行が通史編に先立って行われるべきであり、集まった史料を基に通史編を記述するのが本来の形です。ところが、千葉市の場合はそれが逆立ちした「あべこべ状態」となってしまった経緯もあります。従って、史料編が出来上がった段階から遡って評価すれば、現段階においても到底的確とは言い難い記述が多々みられます。ここに『新編 千葉市史 通史編』を記述し直す必然性が存します。現状では、今ある『千葉市史 通史編』(全3巻)をもって「千葉市の歩みがここに記述されています」などと申し上げることすら憚られる、政令市としてお粗末極まりない内容なのです。勿論、通史編を執筆された当時の方々に責任を帰す訳には参りません。こうした逆立ち状態での執筆を推し進めた市側の姿勢こそが責任の大元に間違いありません。今後の推進を熱望するところの『新編 千葉市史 通史編』の編纂・刊行につきましては、市民のどなたもが手に取りやすい装丁・内容・価格設定であり、誰もが気軽に手に取って親しめる冊子として刊行する必要があると考えております。

 また、『史料編』につきましても、『資料編1 原始・古代・中世編』につきましては刊行後の発掘調査や古文書調査の進展に鑑み、現段階での知見が全く反映されておりません。当巻につきましては、一から編纂をし直す必要がございます。また、全8巻となる近世編でも、新たな貴重な資料の発見が相次いでおります。その意味では『近世 補遺編』編纂が必要です。更に申せば、テーマ別資料編の編集刊行も地域史研究に大いに資するものとなりましょう。例えば、『近世「道中記」史料集成』、近現代史編の補遺ともなるであろう『千葉町・千葉市の近現代(写真編)』のようなものです。前者は、現在の千葉市域に居住していた江戸時代の人々が盛んに行っていた旅の記録「道中記」を纏め、当該地域の人々と国内の諸地域との関係性を窺い知ることができる資料集となりましょう。後者は、目で見る近現代史とも言うべき資料集です。明治以降は「絵葉書」等により、街や人々の生活の様子を広く知らせることを目的とした写真資料が数多撮影されて残っております。これなどは、文字史料以上に近現代の千葉を伝えてくれるはずです。更に、これまでの千葉市史で欠けていたのが『民俗調査編』です。千葉市域にも海に面する地域、都市的な地域、内陸の農村地域等々の様々な相貌の地区があります。それぞれで、人々が如何なる生活を営んできたのかを記録しておくことが重要です。現在、本館でも民俗調査を徐々に実施しておりますが、それも市域全般に敷衍して実施することが必要です。

 以上に申し上げましたように、つまりは、令和8年の段階で市史編纂事業が完結することはあり得ないというのが実際のところでございます。それには、漏れ落ちが余りにも多すぎるのです。「そこまでやる必要があるのか??」との声も聞こえてきそうですが、どうか他政令市の自治体史刊行状況をご確認ください。いや、政令市に限らず、例えば県内で申せば、現在『新編 市川市史』を刊行中の市川市の事例をご覧ください。1冊毎の充実度もさることながら、これだけの内容で各巻千円という廉価で販売されているのです。政令市の顔色をなからしめる偉業です。本館としましても、以降の市史編纂事業が継続できるよう、誠心誠意働きかけて参りますが、これまた市民の皆様のご支援が必要です。是非とも応援をしていただければ幸いです。

 中国の王朝は、前王朝の歴史を纏めることを、半ば義務的な伝統としていたとのことです(修史事業)。日本でも、律令時代の『古事記』『日本書紀』から始まる所謂「六国史」の編纂、鎌倉幕府の編んだ『吾妻鏡』、江戸幕府が六国史の増補を目的に編んだ『本朝通鑑』、水戸藩による『大日本史』等、各時代の政権等による歴史書編纂が行われて参りました。各地方公共団体にも、全く同じことが課せられているのだと思います。常に、自らの地域が歩んできた歴史を踏まえて今の課題に立ち向かうためにも、過去の歴史編纂を進めることが極めて重要なのです。特に、政治権力を担う方々にとっては決して欠くことが許されない姿勢であると確信いたします。飽くまでも個人的な意見となりますが、少なくとも「過去の歴史など知っても一文の得にもならない」「だから、かような事業に租税を投じる意味がない」などと宣われるお方に、私たち国民・住民の未来を託すことだけはしたくありません。

 最後になりましたが、「非常事態宣言」延長により、本館でも、年明け以降の対応を継続していかざるを得なくなっております。すなわち、当該期間中の「古文書講座」「ボランティア活動」等については中止対応とせざるをえません。古色蒼然とした本館の施設では換気等によるコロナウィルス対応の環境を充分にできないからであります。その点、「非常事態」であるという現状に鑑み、皆さまにはご理解をくださいますようお願い申し上げる次第でございます。その分、本館ホームページ等での発信を強化して参りますので、是非ともお楽しみにしていていただければと存じます。


 

 杉本郁太郎と奈良屋のこと(前編)―または「他国店持京商人」の営業について―

2月18日(木曜日)

 お天守の 影の伸びゆく 夕さくら 北柿

 本館の建つ「亥鼻公園」にある神明社鳥居右手に、古びた句碑が佇み、そこに練達の筆になる上記俳句が認められております。裏面に「北柿(ほくし)」なる俳号をもつ人と、その略歴、句碑建立の経緯が記されておりますので、以下に引き写してみます。

 

 北柿 杉本郁太郎氏は 洛中に生まれ 後千葉に居を求め 株式会社奈良屋社長また千葉商工会議所会頭等 実業界に活躍 県美術会会長 房総文化懇話会会長 県俳句作家協会会長など 芸術文化活動に貢献 俳人としても幾多句集を編み 喜寿に当たり句集さく草を上梓した それを契機に句碑建立の議が起り 多数の賛同を得てここに実現した


昭和55年4月 句碑建立委員会 浅見喜舟 書

 これによれば、俳号「北柿」を名乗る人物が杉本郁太郎を実名とし、京都で生まれ千葉に移り住んだ人物であること、同時に地元経済界でも一角の大立者としてご活躍された方であることが知られます。特に、ここに記される「奈良屋」という店名から、古くから千葉にお住いの方であれば「あぁ、あの老舗百貨店の社長さんだった御方か!」と思い起こされたことでありましょう。また、実業人に留まることなく、どうやら社会人・文化人としても“只者”ではないお人でいらしたことも推し量れましょう。因みに、筆を執られた浅見喜舟は、千葉県の書道協会・美術会の創設に尽力をされた方です。千葉県文化功労者であり、千葉大・和洋女子大などの教授として著書・書作品も数多ものされた、高名な書家でいらっしゃいます。なお、浅見は本揮毫の4年後に齢89にて物故されております。

 明治以降の実業界で活躍した多くの経営者たちが、同時に文化の担い手であり、その庇護者であったことはよく知られておりましょう。三井財閥の総帥であった益田孝(1898~1938)が、鈍翁を号する稀代の数寄者であり茶道具をはじめとする美術品のコレクターとして文化財保存に尽力したこと、横浜の生糸貿易商であった原富太郎が、その財を持って全国の古建築を収集し本牧の地にある庭園内に配置し「三渓園」として広く市民に公開したこと(明治39年のことです)等々。所謂“資産家”は、同時に文化の保護にも莫大な私財を投じ、なおかつそれを死蔵させることなく広く公開にも供していたのです。彼らに留まらず、企業の名を冠した私営美術館収蔵品の多くは、経営者自身のコレクションを中核としております(出光美術館・サントリー美術館・ブリジストン美術館等々)。現在、かような企業経営者はめっきり少なくなりましたが、一昔前までは、一流の企業経営人は一流の文化人でもあり、利益を一般社会に還元することを矜持ともしていた方が数多いらっしゃったのです。「金のことしか頭にない、そんじょそこらの成金とは訳が違う」という誇りをお持ちであったのでしょう。私企業でありながら、公益性をも兼ね備えていることを一流企業の証とされていたのではありますまいか。かようなメンタリティは、古くから続く商家の主に営々と継承された、所謂「旦那気質」に由来するのではないかと推察いたします。句碑の裏面にある略歴から垣間見える杉本郁太郎の人となりからも、多分にこうした匂いを感じ取ることができます。ここに記された他にも、昭和33年(1958)には、千葉県医師会長とともに、全国に先駆けた民間の「千葉県対がん協会」の設立にも寄与されております(副会長に就任)。本石碑建立の機縁となった句集「さく草」の他、「好文木」「青丹」「寧楽」「匂ふが如く」「咲く花」といった句集も刊行されているようです。「蓮池」宴席では芸妓の歌舞音曲に親しみ、盃を重ねては興に任せての席画を楽しまれ、自宅ではピアノ演奏をも嗜まれたともいいます。ショパンの名作『24の前奏曲集』を闊達に弾かれたというのですから、相当な腕前でいらしたに相違ありますまい。自身が文化の創造者であり、社会への貢献にも余念のない、高邁なる人物像を想像させますが如何でありましょうか。是非とも生前にその謦咳に接したかったものであります。そして、それが叶わなかったことを頗る残念に思います。

 さて、その本業である「奈良屋」に関してですが、少し年嵩の方であれば、千葉近郷近在でお世話にならなかった者など存在しないであろう名門老舗百貨店であります。千葉で古くからの百貨店と申せば、他に「田畑屋」「扇屋」があり、戦後「十字屋」「緑屋」「千葉そごう(十合)」が参入しますが、最も格式高きは「奈良屋」であったことに異論はありますまい。「奈良屋」の歩みについては後に触れますが、千葉空襲からいち早く復興して徐々に店舗規模を拡張。昭和40年(1965)には、売場面積9.903平方メートル、年商35億円を数え、地元資本の「扇屋」を上回って県内トップの百貨展にまで成長します。その社長こそが杉本家8代当主の郁太郎に他なりません。その後、JR千葉駅前に進出した「千葉そごう」に対応するため、昭和47年(1972)に「三越」との合弁による「ニューナラヤ」を、千葉そごうの隣地に開業し会長に就任(郁太郎は提携関係にあった三越大阪店で若き頃に5年間勤務経験あり)。百貨店事業は当店が引継ぎます。そして、従来の「奈良屋」本店をファッションビル「セントラルプラザ」に改装。それにより本年をもって株式会社「奈良屋」としての百貨店事業は終了しました。そして、昭和59年(1984)10月社名を「千葉三越」と改称。経営権を三越に譲渡し、事実上経営から撤退することとなりました。ここに千葉の地から名店「奈良屋」の名は途絶えることになりました。

 因みに「奈良屋呉服店」から続く長い伝統を誇る「佐原店」閉店が何の時点なのか明記された資料には出会えておりません。タイミングとしては、ニューナラヤへ移行した昭和47年が妥当かと思われます。地元でも40年代後半であったとの口碑も多々耳にいたしますが、朝野正文『正文堂物語(第2巻)』1992(聚海書林)には「昭和50年(1975)に閉店した」と明記されております。この辺りの事情をご存知の方がいらっしゃいましたらご教示いただければ幸いです。郁太郎は昭和の終焉を見届け、平成元年(1989)年4月、87年を一期にその生涯を閉じております。因みに、平成15年(2003)「千葉三越」は直営の「三越 千葉店」となりますが、間もない平成29年(2017)惜しまれつつ閉店したことは、千葉に居住する多くの記憶に新しいところでしょう。それより以前、平成13年(2001)年に「セントラルプラザ」の営業も終了しており、この段階で株式会社「奈良屋」の事業も事実上の終焉を迎えておりました。何し負う「奈良屋」の伝統が千葉の地から消えてしまったことは、生まれも育ちも千葉ではない当方にとっても、一つの時代の終焉として強く記憶に残っております。

 前編では、杉本郁太郎という人物を中心に据えて、「奈良屋」終末期の歩みについて追って参りました。戦後から平成の時代にわたる最盛期の活気あふれる店舗の様子については、同時代を千葉で過ごしていない当方よりも、本稿をお読みくださった諸兄の瞼に焼き付いていることでありましょう。馬脚を現さない内に、この辺りで早々に店仕舞いとさせていただきます。しかし、「奈良屋」の事業展開の起源は、その閉店の日から大凡250年近くも遡ることになります。つまりは、江戸の時代から続く永きにわたるものであったのです。しかも、その営業形態は極めて興味深いものでもありました。こうしたことは、「奈良屋」に足繁く通われた古くからの御贔屓筋であっても、あまりご存知ではないかと拝察いたします。杉本郁太郎の「町衆」らしい「旦那気質」の淵源も、こうした商家としての歴史に由来するものでありましょう。また、「奈良屋」が地元発祥の企業だと誤解されている向きも多かろうと思われます。

 改めて「奈良屋」の店印(社章)を思い出してみてください。店舗に掲げられていたのが「○京」の店印であったことを思い出されましたか。そして、それが句碑にあった郁太郎の生地が洛中(本来「平安京域」を指しますが、大店が軒を連ねる京都の中心街をイメージしていただければ当たらずとも遠からじです)であったことを結びつけていただければ上出来でございます。続く「中編」は間奏曲として、ちょっとした道草にお付き合いいただき、そのことについては主に「後編」で取り上げてみたいと存じます。
(中編に続く)

 

 杉本郁太郎と奈良屋のこと(中編)―または「他国店持京商人」の営業について―

2月19日(金曜日)

 住所で申せば「京都市下京区綾小路通新町西入ル矢田町116番地」。京都駅から京都市営地下鉄烏丸線で北上し四条駅にて下車。洛中を東西に貫く綾小路通りを西に進むと、櫛の歯が欠けるように現代建築が街を蚕食する中に、まるで時が止まったかのような大きな間口の京町家が右手に現れます。まずは、大方その偉容に圧倒されましょう。小路に面して建つ「重要文化財」「名勝」指定の看板にも目が留まります。こちらが現在「財団法人奈良屋記念杉本家保存会」の手によって護られる、京町屋を代表する建築物「杉本家住宅」と「庭園」であります。現在、土日を中心に予約制で一般公開がされておりますが、残念ながら当方は未だ拝見させていただいたことはありません。当方が頻繁に京都を訪問していた頃には、こちらは杉本家の生活の場であり、当然の如く非公開でありました。その頃の御当主でいらしたのが「杉本秀太郎」であり、他ならぬ、かの郁太郎のご子息でいらっしゃいます。もっとも、郁太郎は事業運営上、千葉市稲毛(浅間神社近く)に居宅を構えておられましたが京都が本宅でありました。こうした事情もあり、京本宅はご子息の秀太郎が守っておられたのでしょう。杉本家は、京都を代表する町衆の一人であり、祇園祭の際には「伯牙山(はくがやま)」のお飾り場として、通りに面した「店の間」に「御神体」や懸装品が飾られる大店でありました。更には、西本願寺の檀徒総代でもあるそうですから、京師でも指折りの名家と申せましょう。

 更なる寄り道をお許しいただければ、杉本秀太郎(1931~2015)は、江戸時代から続く呉服商「奈良屋」杉本家第9代当主。もとより家業を継ぐことなく、フランス文学者の道を選ばれ、翻訳家・文芸評論家・随筆家としても大いに活躍されました。ある意味で、所謂“京都学派”の掉尾をかざる文人学者であったと思います。私自身は、学生の頃に出会った随筆集『洛中生息(正・続)』1976・1979(みすず書房)以来、その瑞々しい感受性に彩られた文章に大いに引き込まれ、その後も多くの著作に接して参りました。『太田垣蓮月』1975(淡光社)は、その人の魅力について教えられた忘れることのできない大切な書物であります。また、『徒然草 古典を読む』1987(岩波書店)、『パリの電球』1990(岩波書店)、『平家物語-無常を聴く-』1996(講談社)等の著作、メーテルランク『ペレアスとメリザンド』1978(岩波文庫)、ボードレール『悪の華』1998(彌生書房)等の翻訳書から大いに触発されました。当方が学生時代から鬼籍にお入りになるまで、変わることなく私にとって大切なお方であり続けました。いや、残された作品は今も変わらずに私にとっての宝物であります。

 せっかくですから、この二人の親子関係の一端を探ってみましょう。まずは、郁太郎と親交のあった小説家・俳人の安藤三佐夫HP内に残る、生前の郁太郎が語った子息秀太郎へのコメントを引用させていただきます。

 

 ご子息の杉本秀太郎氏が仏文学の新進気鋭として、マスコミに紹介されるようになったころのことです。「ご子息の秀太郎さんは、大活躍ですね。」と申し上げたら「まぁ、子供のころから土蔵の中で本に囲まれて育ったのですから当たり前ですよ」と、ちょっと上を向き、にこりともしないで、独特の柔らかな京都弁で答えられたのでした。

 次に、おそらく秀太郎が父親について記された数少ない回想から。秀太郎が京都大学文学部に入学した際に交わされた親子の対話(『奈良屋杉本家270年の歩み』「序」2013)。

 

 

「秀太郎、君は将来、フランス文学をやるというが、どうして食ってゆくつもりだ」
「筆で立ちたいと思ってます」
「口でいうのは簡単だが、君、それは大変だぜ……しかし、いいよ。君は君のやりたいことをやれ。但し、自分のやることに責任を持て」
しずかにこう言い切った父は、以後二度と、私の進路については触れなかった。そしてこの年(昭和24年)より3年後に出版した著書『奈良屋弐百年』の「自序」には「奈良屋を一族が継ぐのは、私をもって終わりとなるだろう」としるした。父は息子の退路を断つことによって息子を尊重したのである。

 皆様は、こうした親子の有り様を如何お感じになられましょうか。ここに、この親子が共有する、如何にも近代京都人らしい自由・闊達・開明といったメンタリティを嗅ぎ取るのは、おそらく私だけではありますまい。秀太郎は、上記文章に続け、父がその薫陶を受けたという京都府立一中校長森外三郎が、入学式で12歳の生徒に必ず投げかけた言葉「本日より、諸君を紳士として扱う」を大切にされていたことを思い起こされ、「父はあのとき、息子の私を『紳士』として、すなわち一人前の人として扱ったのである」と回想されております。何と清々しい親子関係でありましょう。一人の親として、心底羨望の念を禁じ得ないエピソードです。

 随分と長い道草となりました。再度「杉本家住宅」に戻ります。「財団法人奈良屋記念杉本家保存会」のホームページでは、本住宅について以下のように記されておりますので引用してご紹介いたします。秀太郎氏の没後は財団法人化され、お嬢様の節子さんと歌子さん姉妹を中心にした保存会の手によって住宅と史料等が護られております。また、京町家の姿とそこで暮らす町衆としての生活の在り様、そして洛中ならではの風習等々を学ぶことのできる、他に代え難い唯一無二の施設となっております。当方も是非とも一度はご訪問させていただきたいものと存じております。因みに、秀太郎氏の二女節子さんは料理研究家として著名で著作も多数に及びますし、三女歌子さんも大学講師としてご活躍され著書もございます。やはり名家の血は争えないということでございましょうか。当方とは個人的に何らの繋がりもない赤の他人に過ぎませんが、こうした文化人としての家族の在り方を何よりも嬉しく存じております。

 

 

 京都市中心地、綾小路通りに面する杉本家住宅は、京都の中心部にありながら、江戸以来の大店の構えと表屋造りの大規模な町家構成の典型を示し、江戸時代に熟成された京大工の技量が遺憾なく発揮され、技術性、意匠性共に高い評価を受けています。
現在の主屋は元治の大火後に再建され、棟札によれば明治3年(1870年)4月23日に上棟。この時の当主は、第六代新左衛門為賢、棟梁は菱屋利三郎と近江屋五良右衛門でした。間口30メートル、奥行52メートルの敷地に建つ主屋は、表通りに面する店舗部と裏の居室部を取合部でつなぐ「表屋造り」で、京格子に出格子、大戸、犬矢来、そして厨子二階に開けた土塗りのむしこ窓など、すべてが昔ながらの典型的な京町家のたたずまいです。町家としては市内最大規模で、各一間半の床と棚を装置した座敷、独立棟として西に張り出した仏間、大きな台所などに特色著しいものがあり、また主屋の北寄りには、元治の大火に焼け残ったと伝えられる大蔵・隅蔵・中蔵が鍵型に並びます。保存状況は良好で、下京における大店の建築遺構として、きわめて高い価値を有します。また、祇園祭に際しては、当町伯牙山のお飾り場になります。
平成2年(1990)2月に京都市有形文化財の指定を受けた同住宅は、平成22年(2010)6月に国の重要文化財に指定され、また新たに、主屋に付属する資料として棟札一枚(明治3年4月)、御本宅積り書一冊(明治3年2月)と旧米蔵一棟、旧漬物小屋、高塀六棟、宅地1049.89平方メートルが文化財指定に加えられました。平成23年(2011)2月には、この建物内外の「庭」が「京町家の庭」として国の名勝指定を受けました。当該の「庭」には座敷庭はもとより、玄関庭、店庭、露地庭、坪庭および屋内の走り庭が含まれています。いわゆる植栽されていない、屋内の通路兼作業場である「庭」が名勝指定されたのは杉本家住宅が初めてです。

 (後編に続く)

 

 

 杉本郁太郎と奈良屋のこと(後編)―または「他国店持京商人」の営業について―

2月20日(土曜日)

 後編では、京師の名家「奈良屋」と、千葉「奈良屋」とが如何なる関係にあったのか、また如何なる経営形態をとっていたのか等々、江戸時代以来の「奈良屋」の歴史を振り返りながらご紹介させていただきます。その下敷きとなるのが、杉本郁太郎ご自身が嘗て執筆された『奈良屋弐百弐拾年』(1962)[奈良屋:非売品]、公益財団法人奈良屋記念杉本家保存会編集『奈良屋杉本家270年のあゆみ』(2017)等の資料であります。後者につきましては同会から現在も入手可能ですので(¥2.000)、興味がございましたら是非ともご購入されることをお薦めいたします。それが、杉本家住宅保存と活用の一助にもなると存じます。当方も拝読させていただきましたが、「奈良屋」の多様な経営の在り方や、京町衆の生活の在り様等々に改めて目を開かされることの多い、極めて充実した内容の資料集であります。個人的には、先にその一部を引かせていただいた、私淑する杉本秀太郎の素晴らしい「序」を拝読できるだけでも値千金なる一冊であります。こうした書物が編纂されていることにも、「京町衆」としての心意気が感じます。

 さて、まずは百貨店経営となる以前、大正期「奈良屋」呉服店の「引札」(宣伝用チラシ)における店舗記載を確認してみましょう。そこには以下のように記されております。

 

京 奈良屋呉服店 仕入本店 京都 営業所 佐原町 佐倉町 千葉町

 

 ここから、「奈良屋」の営業形態が、京都本店で「京呉服」の仕入れを行い、それを地方展開する店舗にて販売するという形をとっていることが分かります。地方に住む人々にとって憧れの京呉服を「京ブランド」商品として位置づけ、地方都市を市場として利潤をあげようと目論む販売戦略でありましょう。こうした営業形態をとる商人のことを「他国店持京商人(たこくだなもちきょうあきんど)」と称します。こうした経営を行う商家は「奈良屋」に限りませんが、それぞれ地域をある程度限定した営業展開をしていることが多いようです。「奈良屋」杉本家は旧下総国(千葉県)を中心にして、一部旧常陸国(茨城県)までを商圏として営業活動を展開しておりました。京師には所謂「奈良屋一統」と言われる「奈良屋」を掲げる関連商家が存在しましたが、「奈良屋」樋口家は下総国古河に、「奈良屋」沢野井家は江戸の湯島一丁目に、それぞれ出店を設ける呉服商でありました。後者は「江戸店持京商人」の範疇に入りますが、その代表的な存在が「現金掛け値無し」商法で躍進した「越後屋呉服店」(現「三越」前身)でありましょう。創業者三井高利は伊勢国(三重県)松坂の人であり、江戸・大坂・京に出店して大々的に商売をしましたが、中核となるのは「京本店」でありました。ここに経営の中核を担う「大元方」が置かれ全店舗の経営方針等を決め、さらに京呉服の仕入をも担っていたのです(三井の場合は、呉服商と併せて後の銀行業務に繋がる金融事業も大々的に展開しておりました=「両替商」)。その他、京都に仕入店を設けて江戸に出店している大店は数多ありましたから(大丸呉服店・白木屋呉服店等々)、「奈良屋」杉本家は競合店の多い江戸(東京)への出店を避け、周縁地域をターゲットに定めたものかと思われます。

 「奈良屋」創業者の初代杉本新右衛門(初名:新八)は、宝暦元年(1704)年に松坂に程近い伊勢国飯高郡粥見村に生まれています。14歳で上京し京師四条高倉東入にあった呉服商奈良屋勘兵衛方で奉公を始め、更に奈良屋安兵衛の武蔵国騎西出店での勤めを経て、京師に戻って寛保3年(1743)年に独立し烏丸四条上ルで創業しました。これが「奈良屋」呉服店(以後の「奈良屋」は全て「奈良屋」杉本家のこと)の始まりとなります。当初は、年に2回程度、下総国佐原・佐倉・小見川・滑川、常陸国玉造・西連寺・江戸崎等、利根川流域の水郷地帯を中心に行商しておりましたが、二代目杉本新右衛門(養子:初代の実姉子)の明和元年(1764)、下総国佐原町下宿に店舗を開設しております。その場所は現在「重要伝統的建造物群保存地区」内の一等地です。残念ながら土蔵造で建てられた初期建物も、大正6年(1917)に清水組が施工した木造モルタル仕上げ・化粧煉瓦貼のルネサンス様式の洋風新店舗も現在は残されておりません。小野川に掛かる忠敬橋至近の県重要文化財建築「小堀屋」蕎麦店の道路向側となります。現在は更地となり「きめらパーキング」なる駐車場として利用されております。佐原の地は、近郷最大の人口を擁し、地域の経済的中核として大きく発展した街場であること(在郷町)、何よりも利根川水系を利用した水運で江戸と直結していたことが常設店舗開設の背景になっているものと思われます(古くからの戯唄「お江戸見たけりゃ佐原へござれ。佐原本町江戸まさり」があります)。もっとも、高級呉服の輸送に関しては京師にある本店から陸送をしていたそうです。高級品故、水難事故の損益の大きさが考慮されたものでありましょう。一方で、日常雑貨品等のその他商品に関しては海路で江戸へ、そこから佐原までは河川水運にて搬送されていたとのことです。

 また、二代目は明和元年(1764)に京師綾小路新町西入に居宅を購入して移転しています。これが今に残る杉本家住宅の地所に他なりません[現存の建物は幕末「禁門の変」による類焼(「どんどん焼け」)後の再建になります]。三代杉本新右衛門は、文化4年(1807)年に房総最大の城下町であった佐倉にも出店いたしました。場所は成田街道に面した町人居住区「新町」でした(現在佐倉市立美術館の建つ場所)。町方のみならず城下町に居住する武家への安定的な商売が展開されたのです。更に、呉服販売に留まることなく、江戸の十組問屋とも関係をもって漆器・陶磁器・和紙・木綿等の生活必需品をも販売するなど、手広く経営基盤を整えております。そして文化13年(1816)に名を新左衛門と改め、その後当主は代々「新左衛門」を襲名することとなります。一方で、店舗販売だけではなく、元来の旅商いからの発祥であることを引き継ぎ、下総・常陸方面へ出向いての「外商」も盛んに行っておりました。その起点として、水戸や常陸太田に出店を設けていた時期すらあったことも申し添えておきたいと思います。

 明治維新後には、6代目新左衛門が新政府に二千両を献上するなど、杉本家は明治・大正を通じて京都での高額納税者としても知られておりました。更に、明治政府による「殖産興業」の要請に応える形で事業の拡大をも図っております。即ち、茶園経営(三丘園)と製茶業の創業です。7代目新左衛門の明治42年(1909)に千葉町「横町」に新たに設けられた千葉店においても、呉服・太物(綿織物・麻織物)と併せて茶の販売も行っております。千葉町への新機出店は、明治に入り千葉町に県庁が置かれることとなり、将来的にこの地が県内中核都市として発展することを見越してのことと思われます。その後、千葉店は大正3年(1914)に吾妻町へ移転。昭和5年(1930)には新築の上で「百貨店」へと衣替えし、同時に三越百貨店との提携店となっております。そして翌年の株式会社化とともに、千葉店を本店と改め、佐原店を支店とし佐倉店は閉鎖しました。結果的に経営拠点としての京都店の機能はここで終了し、「他国店持京商人」の実態は消滅しました(以後、京都店には居宅機能のみが残ることとなりました)。そして、昭和10年(1935)7代目新左衛門が63歳で病没後に8代目を継いだのが郁太郎であります。それ以降の概要は「前編」に記載しましたので、ここでは省略いたします。

 最後に、「奈良屋」と文化人との交流について触れておきたいと存じます。日本全国を測量して「日本輿地図」を作成した伊能忠敬との交流が「佐原の街並みかわら版」第56号にありますので、最後に引用をさせていただきます。申すまでもなく、佐原町新宿にある「奈良屋」佐原店と、忠敬が養子に入った本宿にある伊能家とは、小野川を挟んだ極々至近の立地にあります。「奈良屋」杉本家と伊能忠敬とが、京都と佐原という「奈良屋」の経営の在り方を通じて、極々深い交流関係にあったことが窺える、極めて興味深い記録となっております。ホームページでもご覧いただけますのでご検索ください。

 最後の最後になりますが、近い将来、本館で是非とも「奈良屋」に関する特別展を開催いたしたいものと考えております。千葉市にとって「奈良屋」の存在は決して小さなものではありませんし、近世から現代まで及ぶ特色ある「商業史」の一齣でもあると考えます。個人的には、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画作品ではありませんが、何よりも「奈良屋」を経営された杉本家「家族の肖像」に強く心惹かれるものを感じております。是非ともご期待をいただければと存じます。

 

 伊能忠敬測量隊が、第5次測量の途中、紀伊半島測量を終えて京都に入ったのは文化2年(1805)閏8月5日のことである。京都の町奉行所や代官所との測量打ち合わせを終えた8月7日の『測量日記』には「永沢藤治郎を綾小路新町西入奈良屋新右衛門方へ遣す。(中略)午後奈良屋新十郎見舞いに来る」とある。市内測量を終えた同月11日には「奈良屋新右衛門へ見舞直に帰る」と記載されている。永沢藤治郎は佐原の人で第5次測量のみ参加した。新右衛門は第3代当主で、新十郎はその嫡男である。
実は、このとき奈良屋では先代の新右衛門が亡くなった直後(1805年9月15日没)。当主は服喪中のため、嫡男に忠敬翁の宿舎に挨拶に行かせ、それを受けて忠敬翁が杉本家を弔問し「直に帰る」ということになったのであろう。
伊能測量隊と奈良屋との関係はまだ続く。忠敬翁が第8次測量中の文化10年(1813)9月2日付で長崎から佐原の家族に出した手紙に、九州各地の大名からの贈答品を換金したところ相当な金額になったので京都で奈良屋に渡して為替にし、奈良屋佐原店から佐原の家族に渡すようにしたいと相談している。
また、第8次測量の帰路、忠敬翁が京都から出した手紙には、佐原に住む娘の妙薫たちが文化10年(1813)末に京都の奈良屋新右衛門方気付で出した手紙を、翌年1月26日に京都に到着して読むことができたとある。
西日本測量中の忠敬翁は、佐原の家族との手紙や金銭のやり取りに奈良屋をよく活用していたようである。

 

 

 「コロナ禍」の中で再考する「公」について(前編)―「公教育」と新自由主義(ネオリベラリズム)思想を中心に―

2月26日(金曜日)

 2月8日(火曜日)からの「緊急事態宣言」の延長から3週間が経過しようとしておりますが、毎日のように報道される関東周辺都県感染者数は激減とは言えないまでも、年末年始の頃と比較すれば低減しているように見えます。しかし、重症者数の推移、そして何よりも医療機関逼迫の状況には、依然として予断を許さない状況が続いております。ただ、一説によれば、あまりに業務が繁多となった保健所の業務改善のために、PCR検査実施対象者を絞り込んだ公共団体があることが、感染者数減少の一因とも耳にします。調査基準が変化している数値を前後で比較することは本来統計上の蓋然性を欠くことになりましょう。もし、それをもって政策立案がなされているのであれば、その信頼性すら揺らぐことになります。統計データの扱いにはとりわけ注意が必要です。数値データは一見して有無を言わせずに正しいこととして受け止められ勝ちですが、幾らでも恣意的な扱いが可能であることを知っておく必要はありましょう。私が学生時代に大いに持て囃された、ダレル・ハフ著『統計でウソをつく方法-数式を使わない統計学入門-』1968年(講談社ブルーバックス)で指摘された内容は未だ有効であると思います。何れにせよ、1週間後の3月7日(日曜日)の段階で如何なる状況となっているのか気を揉む毎日であります。未だ一人の死者もださない段階でロックダウンを敢行して大きな成果を挙げたニュージーランド首相の例を持ち出すまでもなく、是非とも抑え込みに成功した国・地域の実例に学んだ対応をとっていく必要があろうかと思われます。小出しの対応が後の禍根に繋がることのないよう、説得力かつ熱意ある血の通った語り掛けと対応が求められているのだと思います。こうした中で、2月13日(土曜日)の23時過ぎに福島県沖を震源とする東日本大震災の余震とされる地震が発生し、東日本では多くの住民が肝を冷やしました。コロナ禍終息前に「泣き面に蜂」のごとき大きな自然災害が起こることのないことを祈念するばかりであります。

 さて、かようなご時世の下、想いを巡らせることは諸々ございますが、「“公”とは何か」について思案させられる局面が屡々あったように思います。そこで、本日は「公教育」の在り方を論じた一冊の書物を御紹介し、併せて当方の思うところを述べてみようと存じます。その書物は鈴木大裕『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』2016 年(岩波書店)です。著者は16歳で合衆国ニューハンプシャーの全寮制高校に入学し、アメリカで大学院生活まで終えて帰国。その後、大変な御苦労の末に日本の教員免許状を取得され、2002年から千葉市内の公立中学校で勤務されましたが、学問への欲求黙しがたく6年後に同職を辞し、ご家族とともに再度アメリカに渡り教育哲学についての研究を修められました。その間、ニューヨークの公立学校にお子様を通わせたご経験から、アメリカにおいて大きな潮流となっている教育の問題点を、研究者の立場から舌鋒鋭く指摘されるとともに、翻って日本の教育の在り方についての警鐘を鳴らされております。私自身も昨年3月までは37年間、著者と同じく千葉市内公立中学校の教員であった関係もあり、自分にとって身近な場面であった教育における“公”の在り方について深く考えさせられる機会となりました。因みに、同じ千葉市教職員ではありましたが、同職場での勤務経験もなく教科も異なっていたため面識はございません。今になれば交流を持つことができなかったことを極めて残念に思います。鈴木さんは確か英語科の教員であったと思います。

 著書によれば、アメリカでは「新自由主義(ネオリベラリズム)」思想の台頭により、教育の効果が数値で図りうるものに特化されるようになっていること(教科の得点)。その結果として、その向上に躍起となる学校現場に、教育産業が深く関わることになり、もはや教育の市場化が無視し得ない状況にあること。具体的には、学力の低下を理由に公立学校が次々に閉鎖される代わりに、チャータースクール(公設民営学校)が新設され、公的資金が教育産業に流れ込むシステムが形成されてきていること。更には、成果をあげて勝ち残るために、チャータースクール同士が優秀な生徒を奪い合うことに血道をあげている現状を報告されております。申すまでもなく、数値的成果をあげるためには、数値を稼ぎ得る生徒だけを相手にすることが手っ取り早い方策だからです。このことは、同時並行的に成果を挙げることのできない生徒の切り捨てが行われていることをも意味します。そこには「失敗を成功(更生)に転換する」「成果を挙げえない生徒への配慮」といった発想は一顧だにされません。何故ならば、それらは「マイナスコスト」に過ぎないからです。これが「ノー・トレランス(不寛容)」という、今や現在のアメリカ社会の根底に蔓延る動向の正体に他なりません。犯行疑わしき黒人を比較的安易に射殺してしまう、屡々報道されるアメリカ国内警察の動向とも軌を一にしているのです。このことは、極論すれば「数値的価値を生み出し得ない人間には価値は存在しない」との主張と最早選ぶところがありません。「新自由主義」思想の極北は、ナチスによる優性思想を背景としたユダヤ人虐殺と紙一重の地平にあると考えますが、皆様は如何思われましょうか。当方の取り越し苦労にすぎないことを願う次第であります。

 更に、著者は、アメリカ国内の公立学校では、教育予算配分制度の不備に起因する、学校予算や教員配置の驚くほどの不均衡が生じていることを指摘しておられます。その結果、裕福な家庭ほど上記した公設民営学校に進学させるため、そこでは保護者の寄付等による潤沢な予算の下で更に充実した教育が展開され、一般の公立学校との格差がとてつもない勢いで拡大しているとのことです。そもそも、アメリカ合衆国では憲法で「教育を受ける権利」が基本的人権として保障されておりません。更に、国連加盟139カ国中「子どもの権利条約」を署名しながら批准していない唯一の国、それが他ならぬアメリカなのです(2020年現在)。「自由・平等」を標榜するアメリカでは、さぞかし理想的な教育が行われているのだろうと漠然と思っていたことが虚像にすぎなかったこと。その驚きが本書を一読しての偽らざる感想でありました。その理想像とは上流階級に属する極々一部の上澄みの姿にすぎず、実際には国民の誰もが公平に教育を享受できるという「公教育」の理念そのものが解体に瀕している現況にあるのです。ご自身、お子様をニューヨーク市内の公立学校に進学させ、かような逆境の改善に向け、保護者会代表として改善に向けて取り組まれた経験に基づく報告は極めて具体的で説得力ある内容です。

 さて、翻って本邦に目を向けてみましょう。我が国では流石にアメリカまでの状況にはございませんが、現職であった折、あちらこちらから同様の主張が耳に入ってきました。私個人の考えでは、そうした教育改革案には、尤もと頷かされる部分と首を傾げざるを得ない部分とが混在しているように思われました。数値評価による競争原理の導入、成果数値による学校予算・人員配置等の動向がそれです。これらを導入することによって日本の教育界における課題が解決できるとの主張に、一面の真理が含まれていることを否定するつもりはありません。しかし、何をもって成果とするのか?数値化しにくい成果についてはどうするのか?誰がその評価を担うのか、また学区毎の条件的不均衡について如何に判断していくのか等々、議論すべき課題は山積していると思われ、正直なところその導入には慎重にも慎重を期すべきではないかと考えております。例えば「○○高校(大学)合格〇〇%達成!」といった数値目標が(達成基準として極めて明確なものであれ)、果たして「公教育」の場として適切なものか?教育的な目標と言得るのか?……等々、日本人として諸手を挙げて首肯できる方は決して多くはないと推察いたします。少なからぬ違和感を覚える方がほとんどでありましょう。アメリカの現状は決して他山の石ではないのです。

 我々日本の公教育も、全てにおいて万全の状態にあるとは申せません。確かに、課題となることは幾つもあります。しかし、ほとんどの公立学校で「知・徳・体」を3本柱とした教育の実践が行われており、決して数値化できる学習成績のみの育成をしているわけではありません。学校での教育活動は、明治以降今日に至るまで一貫して基本的に上記3本柱のバランスの良い「全人教育」を志向して来たと考えます。しかも、個々の生徒において、例えその中の一つの習得が不十分であったとしても、当該生徒を切り捨てたりすることなく、その持てる良さを伸ばすことを最優先に取り組まれてきたのではないかとも思っておりますし、自分自身もそのように教育活動に取り組んできたつもりです。そして、それこそが「公教育」の目指すべき姿だと考えます。「知」のみに偏向した教育、限られた「エリート」の育成だけが目的化されてはならないと考えます。

 子供の頃に誰でも、自分では努力したつもりであっても、成果を挙げえなかった経験や失敗をしてしまった経験がございましょう。その時に周囲の教師や大人が何と言葉がけをしてくれましたか。おそらく「結果はともあれ、一生懸命に努力してきたことに価値がある」と励まされたことが一度ならずあるのではありますまいか。またご自身のお子さんにもそう励ますことが多いことでしょう。こうした「心の在り方(質)」を重視する思考が、大雑把に申せば石田梅岩による「石門心学」の主張に他なりません。こうした励ましによって、私自身もどれほど勇気づけられたかしれません。それは「成果が伴わなければ価値がない」とされる欧米社会で一般的に重視される発想とは、正に真逆の思考の在り方だろうと思います。そして、人と人とを数値によって計測することで生ずる「勝ち負け」という価値を相対化し、それに起因する「社会的分断」の抑制力として機能してきたのだと思います。それが、日本という社会の安定化に大きく寄与してきたのではないでしょうか。こうして近世後期以降に成立してきたのが、今の日本という「国のかたち」だと思います。「数値主義の最優先化」「教育への競争原理導入の強化」の行きつく先は、現在のアメリカの置かれている分断の姿に、限りなく近づいていくことに他ならないと、私は考えます。

 つまり、「公教育」とは、誰ひとり切り捨てることなく、一人ひとりを「人」として等しく尊重するという水平思考にこそ、その根源が求められるのだと考えます。そして、そのことは、「公教育」だけではなく、広くその他分野においても敷衍する国家の在り方に他ならないと考えます。それこそが「公の思想」なのだと考えますが、皆様は如何お考えでしょうか。


(後編に続く)

 

 「コロナ禍」の中で再考する「公」について(後編)―「公教育」と新自由主義(ネオリベラリズム)思想を中心に―

2月27日(土曜日)

 映画『武士の家計簿』『殿、利息でござる』(ともに歴とした史実に基づいています)の原作者でもある歴史学者の磯田道史は、著書『徳川がつくった先進国日本』2017年(文春文庫)で「歴史家として確信しますが、落とした財布が世界で一番戻ってくる日本、自動販売機が盗まれない日本、リテラシーの高い日本人、これは明らかに〈徳川の平和〉の中でできあがったものです。」と述べておられます。大震災の際に物資の配給に整然と並んで自分の順番を待つ日本人の姿が国際的に驚きを持って報道されたことも思い起こされましょう。「昔に比べて治安が悪化している」とも言われますが、現状においては、我が国は、諸外国と比較しても凶悪犯罪の発生件数が低い、安定した社会秩序を維持する国家であると思います。日本人に広く備わっている社会の安定を志向する力は、数値では充分には図り得ませんが、まさに重要な「学力」の一つであると考えます。そして、「テストでの得点こそが学力でありその他はどうでもよろしい」と言う教育観からは遙かに隔たった「学力」(国民性)育成の一翼を担ってきたのが、まさに明治以降営々と営まれる、各家庭における「躾」であり、「公教育」の場としての学校教育に他ならないと考えます(戦前の一時期に忠君愛国教育への著しい偏向という反省すべき歴史があることを忘却してはなりませんが)。両者が相互補完をしながら日本人の国民性を涵養してきたのだと思います。また、遡る江戸時代、特に後半期に大きな社会変動に伴って取り組まれた、幕府・諸藩による所謂“改革政治”が、民衆に対する「風俗強化」を基本理念としていたことも指摘されております[小関悠一郎『上杉鷹山―「富国安民」の政治-』2021年(岩波新書)]。因みに江戸時代における“風俗”という概念は、現在一般的に用いられる意味あいとは異なり、「生活・行動様式のそのモラル」を指すとのことです。これを「公教育の濫觴」とすることは決して言い過ぎではありますまい。

 かような国民性について、「古来日本人に備わった他民族には見られない優れた伝統である」と言い立てる言説を屡々耳にいたします。失礼の段をお許しいただければ、それこそ歴史について余りに蒙昧であると申し上げざるをえません。例えば、日本中世史を振り返れば、そこにあるのは実力こそが最優先の社会であり、油断すれば生命も財産も簡単に略奪される弱肉強食が蔓延る世界でもあったのです。「秩序を重んじる国民性」は、決して先天的に日本人に備わった美徳でも何でもありません。正に、磯田が指摘するように、江戸時代以降の社会道徳の浸透と、明治以降の国民皆学の中で、後天的に日本の人々が獲得した価値観といって間違いがありません。また、ここに歴史に学ぶことの極めて重大な意義が存するのです。過去の歴史を踏まえることなく政策決定をする国家は、少なくとも未来志向を持った先進国家とは申せますまい。過去の都合の悪い出来事から目を背け、希望的観測でしか未来を見ようとしない国家が、建設的な未来を築くことは困難だと思います。歴史を踏まえ、その意味を吟味することが「未来志向」なる言説の真意だと思います。今改めて、元ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー(1920~2015)による西ドイツ連邦議会での演説「過去に目を閉ざす者は、現在(未来)に対しても盲目となる」1985年を噛みしめることが求められましょう。かの国における「ナチス政権」の黒歴史を踏まえた言説であると思います。

 これまで、自分自身の経験値のある「教育」の分野を中心に述べて参りましたが、「新自由主義(ネオリベラリズム)」的な動向はその他の分野でも、我々の住む世界を徐々に蚕食しつつあると思われます。ここでは、昨今その逼迫が話題となる医療・衛生の話題をとりあげましょう。そもそも論としてですが、アメリカと日本とでは「公的健康保険制度」設計に大きな違いがあります。日本の「国民皆保険制度」(基本的に国民の誰もが加入)と異なり、アメリカでは、公的健康保険は受給資格ある人のみが加入可能な制度になっております。その資格とは、第一に65歳以上高齢者と障碍等のある方(「メディケア」)、そして低所得者層の方であります(「メディケイド」)。つまり、それ以外の国民は、公的保険の対象者とはなりません。従って、殆どの国民は民間保険に加入しない限り、医療費は全額自己負担となります。その結果、大きな医療費負担を忌避する傾向が強く、多くの国民が充分な医療の恩恵を受けることができていないといいます。そのことは病状悪化や、延いては伝染病蔓延の大きな背景にも繋がりましょう。そもそも、医療費・薬品代の一部しか自己負担せずに済んでいる我国とは状況が異なっているのです。

 そうした「世界に冠たる公的医療保険制度」を具備する我が国の医療・保健衛生の在り方にも、逆風が吹いていると思われます。例えば、我が日本でも、昭和末から平成にかけて、財政負担増の元凶とも批判された公的医療保険制度の改革、及び公立病院の縮減・統合・民営化等々が進められました(東京都立病院がその代表的な事例です)。前者については、自己負担割合・年齢の見直しといった政策に現れてきております。ここでは、特に後者について取り上げてみます。その背景にあるのは、「競争原理が働かない公共施設はコスト意識が低いため税金無駄遣いの温床である」「競争原理さえ導入すればコスト減に繋がるだろう」「コスト性の低い公立病院は閉鎖する」という、絵に描いたような「新自由主義」的な発想であります。また、地域の保健衛生行政を担う「保健所」は、平成30年間に国内からその半数が消え去りました。申すまでもなく、かようなことは公の機関が行うのではなく、できる限り各自でやれば済むことだとの発想がその背景にあると言えましょう。そこにあるのは「コストダウン」という、またもや効率化の話です。公的機関が湯水のように公的資金を垂れ流すことが望ましくないことは自明です。しかし、元来「財政」というものは、利潤追求に直結しないために私的経済活動が及ばない分野をフォローアップするための機能を負っているのではありますまいか。少なくとも私は、中高時代の公民・政治経済の授業でかく学びました。

 そして、保健所や公立病院の減少が、現在のコロナ禍の急激な拡大の下で如何なる問題を惹起しているかは周知の事実です。医療体制の逼迫の状況下、多くの患者が入院すら叶わずに、容態急変の恐怖と闘いながら「自宅療養」を強いられているのです。かような状況下で「コロナ患者を受け入れない私立病院があるのがけしからん」等の論調すら耳にします。勿論、大規模経営をしている私立病院の多くが受け入れをしてくださっていること、及び献身的にご対応頂いている医療関係者の皆様には頭が下がる思いです。しかし、受け入れに積極的でない私立病院を一概に非難することはできません。何故ならば、私たち日本人は資本主義経済の下で生きているからです。私立病院はボランティアで経営しているわけではありません。民間病院として利潤が必要なのです。コロナ患者を受け入れれば収益低下が明らかであり、もし経営危機となっても誰も助けてくれないのです。経営者は勤務している職員の生活を護る責務も負っております。赤字になっても税金で補填される公立病院とはそもそも立ち位置が異なります。だからこそ、逆に、公立病院はたとえ多少の赤字があろうと維持していく必要性は極めて大きいのです。そのために政権・公共団体に預けている「税金」が使われるのであれば文句はいいません。そのための租税ですし、何より自分自身の安全を保障してくれる保険ともなるのですから。世の中はいつもよい時ばかりではありません。今回のような非常事態になっても、人の生命・生活を等しく維持できるだけのインフラを維持していくことこそ、「公の思想」(国民の誰にとって公平であること)に叶う在り方なのではありますまいか。そして、それこそが「危機管理」の本来の在り方でありましょう。今日コロナ禍の下で惹起している医療関係のドタバタ劇は、鯔の詰り「新自由主義(ネオリベラリズム)」的発想に基づく施策のツケが、端無くも危機的な状況下で露呈したと言っても過言ではないと考えます。換言すれば、「公の思想」を二の次にし、何より「効率」に突き進んだ結末に他なりません。しかし、これは決して為政者だけの責任ではありません。その根本は「無関心」「無自覚」を決め込んだり、こうした考え方を支持した我々国民・住民にこそあると思うからです。そのことを、私を含めた一人ひとりが自覚しない限り問題は根治しますまい。勿論、「親方日の丸」的発想に胡坐をかく横柄極まりなき「公」の在り方や、赤字の垂れ流し財政を、懐古趣味的に擁護する意図は微塵もございません。ただ、「公」の思想を欠いた国家(社会)像とは、国民にかくも大きな犠牲を強いる、殺伐とした社会に堕しはしまいかと危惧するのです。

 コロナ禍の猛威と「巣籠り生活」は、自らが関わってきた公教育の在り方を通じて、改めて「公」の機能とは何かを巡る思索に私を誘うものとなりました。そして、かくなる未曽有の社会的危機が、「公的機関」が目指すべき「長期的国家ヴィジョン」と「その具現化のための方策の在り方」といった根源的な「国家像」への問いを、「公」を担う者たちに突き付けているように感じております。勿論、私自身もまたその構成員の一人に違いありません。その意味で、私は、今から2百年を遡った昔、幕府への藩領返上を考えざるを得ないほどの財政状況に追い込まれた、米沢藩を襲封した若き藩主「上杉治憲(鷹山)」の姿にこそ学ぶべきことが多いと考えます。しかし、藩財政再建は決して上杉家のためにあらず、飽くまでも領民の生活安定を目途として取り組まれました。そして、それが長いスパンを経て藩領全体に豊かな実りをもたらすことに繋がるのです。『富国安民』(領国を豊かにする政策を強力に推し進めることを通じて、安定した領民の生活を実現する)なるスローガンを掲げ、「公」を担う為政者の在り方を崇高なまでに追い求めた、上杉鷹山という人物の在り方に私は深く感動いたします。改めて、小関悠一郎『上杉鷹山』(岩波新書)を強力にお薦めいたします。恐らく、深い感銘の下に読了されることと存じます。ひとつ付け加えれば、起業家として日本の近代資本主義を生み育てた渋沢栄一という人物が、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で取り上げられる等、国民の支持を集めている背景は、昨今の社会的動向に「否」を突き付ける思想を、渋沢栄一の裡に感じ取るからではありますまいか。それは、くしくも主著『論語と算盤』の表題に表出されている如く、倫理性・道徳性を伴わない飽くなき利潤追求・効率追及を進める社会そのものに対する、痛烈なるアンチテーゼに他ならないと思っております。

 

 令和2年度 千葉市・千葉大学公開市民講座について『千葉氏の領域における交通と物流―水と陸でつながる人・モノの中世―』

3月4日(木曜日)

 

3月4日(木曜日)「講演映像」WEB公開「千葉氏ポータルサイト」
3月31日(水曜日)「講演録」WEB公開「千葉氏ポータルサイト」(同日「講演録」冊子刊行:希望者配布(本館にて)

 

 標題に掲げさせていただきました、千葉市と千葉大学との共催による「公開市民講座」も、今年度で4回目となりました。昨年度は千葉大学「けやき会館」を会場としてご提供いただき、大変に恵まれた環境の下での開催となりました。しかし、本年度は新型コロナウィルス感染症流行に鑑み、千葉大学さまとの協議の結果、講師による「講演映像」と講演内容を文字化した「講演録」とを、ともに「映像配信」にて公開するかたちでの開催とすることで合意を頂きました。単純に「中止」とすることもできましたが、公共機関として果たすべき責務を重視され、形を変えての公開にご賛同をくださり、あまつさえ大学入試準備で業務繁多な中で収録場を提供してくださった千葉大学さまと、かような慣れない環境での講演を快くお引き受けくださった講師の先生方には衷心よりの感謝を申し上げたいと存じます。本講座WEB映像は、本日3月4日(木曜日)から千葉氏ポータルサイトで視聴することが可能となります。詳細は、本館ホームページにてご案内しておりますのでご確認ください。是非ともアクセスされ、ご視聴いただけますようお願い申しあげる次第です。手前味噌ではございますが、御講演・クロストーク共々、大変に価値ある充実の内容であると自負するところでございます。

 今回の講師を勤めていただく遠山成一先生は、民間企業から教職の道に移られ、長く千葉県立高等学校で教鞭をとられ、定年退職後の現在は敬愛学園高校にて講師を勤められております。その傍ら、中世史、なかでも歴史地理学的な視野を踏まえた交通史・城郭の研究を意欲的に続けられ、房総における陸上交通史研究の第一者といっても過言ではございません。関連論文も数多ございます。また、その専門性を活かし、東金市文化財審議会の会長として、文化財の保護行政にも携わっておられます。

 続いて、道上 文先生でありますが、船橋市に奉職され30年の長きにわたり、文化財の保護・調査に取り組まれるとともに、専門とされる考古学の分野を縦横に駆使され、船橋市内の中世遺跡からの出土遺物に注目された意欲的な論文を多々発表されております。船橋市立郷土博物館御勤務の際に、特別展「中世の船橋―掘る・読む・訪ねる―」を担当され、考古資料・文献史料等々を幅広く渉猟され、広い視野から船橋地域の中世像を俯瞰して描き出されたことは、特筆される業績と存じております。

 今回の「千葉市・千葉大学公開市民講座」につきましては、以下、本館の統括主任研究員外山信司の手になる「趣旨説明」を掲載させていただきました。まずは、本講座の趣旨、全体テーマ設定の意図、更にはお二方の御講演とクロストークの概要等々について御理解いただいたうえで、ご視聴をくださいますと理解も深まるかと存じます。

 また、講演内容を文章化した『講演録』は、月の晦日3月31日(水曜日)よりWEB公開、及び冊子での刊行といたします。冊子につきましては、ご希望の方に無料にてご進呈いたします。ただ、お渡しは基本的に本館に来館された方に限定させていただきます。ご希望される方は本館の受付にて申し受けますので、遠慮なくお申し付けください。また、配布部数は限られておりますので品切れ次第終了となります。お一人様につき一冊の配付とさせていただきますので、ご理解のほどをお願いいたします。

 

《全体テーマ》
『千葉氏の領域における交通と流通 
 ―水と陸でつながる人・モノの中世―』

・講演1「内海に臨む都市 千葉  ―中世水陸交通の視点から―」
 講 師:遠山 成一 先生(東金市文化財審議会 会長)

・講演2「中世のムラ・城をめぐるモノの動き ―遺跡から見る北総地域の物流―」
  講 師:道上  文 先生(船橋市飛ノ台史跡公園博物館 学芸員)

・クロストーク「遠山先生 + 道上先生」
コーディネーター:久保  勇 先生(千葉大学大学院人文科学研究院 准教授)


千葉市は、本年2011年「市制100年」、2016年「千葉開府900年」を迎えます。「まち」としての大きな節目を、続けて迎えることとなります。千葉市には、「加曾利貝塚」「大賀ハス」「千葉氏」「海辺」という、千葉の歴史に根差した「4つの地域資源」がありますが、これらを活かして都市としてのアイデンティティ、つまり「千葉らしさ」を確立することが求められています。

 この4つの中で、千葉を名字の地とする武士団、千葉氏は千葉の歴史を語る上で欠くことのできない存在です。平安時代の終わり、大治元年(1126)に平常重が千葉を本拠とすることによって、都市としての千葉が始まったとされているからです。千葉氏は戦国時代の末、天正18年(1590)に小田原北条氏とともに滅亡するまで、中世という時代を通じ、約500年にわたって下総国を支配しました。また、その一族は、北は東北から南は九州まで、全国に広がり繁栄しました。

 千葉市では、「千葉開府900年」に向けて、市民の皆様に、千葉氏についてより深く知っていただき、これを通して郷土千葉に愛着を抱いていただくため、千葉大学との共催で公開市民講座を行って参りました。

 また、本講演を共催して企画・運営してくださっている千葉大学は、市内の西千葉地区、亥鼻地区にキャンパスを有し、「千葉」の名を冠する国立の総合大学としての長い伝統を持ち、文化・教育・科学・医療など、多くの分野で千葉の発展に大きく寄与されております。この講座も千葉大学の地域貢献の一環として行われるものでもあります。

 本来であれば、千葉大学内の会場に市民の皆様をお招きして、文字通り公開のかたちで講演会を開催する予定でしたが、新型コロナウィルス禍の第三波も懸念される状況のため、やむなく今年は御講演を収録のうえ、配信する形態を取らせていただくことになりました。事情を御理解いただきたく存じます。


本日は、「千葉氏の領域における交通と流通 ―水と陸でつながる人・モノの中世―」というテーマを掲げております。

 中世といえば、大名や武将が各地「群雄割拠」というイメージで語られることが多くありますが、村や町といった地域社会は「道」や海・湖沼・河川といった「水運」によって密接に結びついていました。千葉氏の権力や支配も交通や流通を掌握することによって支えられていました。また、中世の遺跡からは、国内のみならず中国産の陶磁器なども出土し、当時の生活のようすや流通状況がわかります。人々の暮らしは「自給自足」といった閉鎖的なものではなく、列島規模の交通や流通によって成り立っていたのです。

今回の講座は、交通や流通という視点から、政治史の中での千葉氏の位置付けや、近年急速に進展した中世考古学の成果を踏まえて、千葉氏の領域での暮らしについて考えます。

  本日は、遠山成一先生より「内海を臨む都市千葉-中世千葉の水陸交通の視点から-」、道上文先生より「中世のムラ・城をめぐるモノの動き-遺跡からみる北総地域の物流-」と題してお話しをいただきます。そして、お二人に千葉大学大学院人文科学研究院の久保 勇先生を加えてクロストークを行い、より理解を深めていただきたいと存じます。


(本館 統括主任研究員 外山 信司)

 

 

 

 最後に「おまけ」の形で付記させていただきます。年明けに発出され、期間延長を経て参りました「緊急事態宣言」ですが、一都三県に関しては明後日の3月7日(日曜日)を一区切りとしております。感染数は一時に比較すれば明らかな減少傾向を示してはおりますが、減少率は鈍化していると報道されております(特に千葉県での状況には不安を感じさせられます)。何よりも、首都圏における医療機関の逼迫状況には、顕著なる明るい兆しは見えておりません。従って、尾身会長を筆頭とする専門家委員会の皆さんの口からも、このまま全面解除とすることには懐疑的な意見が出されていると認識しております。あとは、政治判断ということになりましょうが、何にも増して、「希望的観測」をもって判断することだけは絶対に避けていただきたいところです。 最悪の状況をも想定しておくこと、考え得る如何なる状況をも想定すること、発生状況に応じた具体策を事前検討しておくこと、そして状況に応じた備えを進めておくこと、それが「危機管理のイロハ」でありましょう。そのシミュレーションを基に、各状況が現実化した場合に応じた対応が可能かどうかを検討することで、現段階における最善の判断をしていただくことこそが肝要であります。そして、想定される各状況と具体策の全容を国民に示すことが「アカウンタビリティ」だと考えます(「しっかり対応していきます」では、如何なる場面で如何に対応していくのかが全く理解できません)。それであれば、たとえ想定外のことが生じたとしても国民は納得ができましょう。これまでのことで申せば、勿論「Go To キャンペーン」だけが悪役ではありませんし、経済の浮揚政策に舵を切ることが重要であることを承知の上で、感染状況が大きく悪化した年末年始になって「こうした状況となることは予想していなかった」との発言があった時には耳を疑いました。関西の芸人であれば、必ずや「そんなことも想定してなかったんかい!?」と突っ込みを入れることでありましょう。国民の一人として、二度とかような状況を繰り返していただかないことを心底願っております。皆様は如何お考えでしょうか。

 一方で、世は挙げて花粉症の流行時期に入って参りました。花粉症が、コロナウィルスの感染拡大防止という点で大いにマイナス要因となりうることは、私のような素人にも容易に想像がつきます。「緊急事態宣言」解除・継続の如何を問わず、一人ひとりの国民として、未だ未だ油断は禁物です。我々国民の生活をコロナ前に戻すことは、暫くできそうにないことだけは自覚して、個々自衛の日々を続けることが肝要でございましょう。次年度ももうじき始まりますが、我々も様々な事態を想定したうえで、様々な状況を想定して今後の事業対応をして参る所存であります。その判断基準は、「人命に最大限の配慮をすること」と「市民の皆様への公的サービスの提供」という、何れも欠かすことのできない公的機関としての責務を、状況に応じた兼ね合いを計りつつ具現化することにあると考えております。今後の本館におけるコロナ対応につきましては、状況に応じて千葉市の決定事項に基づき判断し、皆様に説明責任を果たして参る所存でございます。今後ともに、ご理解とご協力とをお願い申しあげます。

 

 発見と妄想の街歩き「暁の散歩者」(前編)―または、津市と奈良市における市街地「散策の記」―

 3月11日(木曜日)

 37年に及ぶ社会科教師、現在の本館勤務という仕事柄、更にも増して個人的嗜好に起因して、国内の遠近に脚を運ぶ機会がそれなりにあります。そのような訳で、還暦を過ぎた今日まで未だ脚を踏み入れたことのない都道府県は、九州2県のみとなりました(鹿児島県・宮崎県)。もっとも、徳島県は勝手口にあたる祖谷地方に足を踏み入れただけで、表玄関の徳島・鳴門方面への訪問は果たしておりません。長崎県も諫早市とハウステンボスのみで肝心要の長崎市には行ったこともありません。45都道府県内にも訪れてみたい未踏の都市等々は山のようにあります。その昔「狭い日本、そんなに急いで何処(どこ)に行く」という交通安全標語がありましたが、どうしてどうして国内もそれほど狭くはありません。例えば、誰もが知るスイスやオランダは、ともに九州とほぼ同面積ですし、日本は世界196カ国中で上から数えて62番目の面積でありますから(ドイツとほぼ同じ面積です)、相対的に判断して必ずしも「狭い国家」とは申せますまい。

 そして、世は挙げて「不要不急の外出は避けましょう」の呼びかけの下、何処か旅行に出掛けることも気が引ける状況にありましょう(天邪鬼の当方としては、何をもって「不要不急」とするのかを問いたいところですが)。こうなってくると、私自身は一度の恩恵にも預かっておりませんが、辛うじて息のある「Go To Travel」キャンペーンが懐かしくも想い出されます。しかし、密となる時間帯と場所を避け、近隣を散策することには何らの問題もありますまい。そのような訳で、こうしたご時世、自らの足元となる地元をフィールドとされ、健康維持を兼ねて「歩む」ことに重点を移されることが何より肝要かと存じます。如何なる地域であれ、身近には多くの歴史の痕跡が存在し、それらの発見に導かれましょう。散策の範囲を少しずつ広げていければ、未知なる世界の広がりを実感できること必定かと存じます。永井荷風『日和下駄』を気取って、それらを文章に纏めてみるのは如何でしょうか。今回は、かようなことを踏まえて、「身近な地域」とは申せませんが、過去における私自身のテクテク歩き体験談を熟々と綴ってみようと存じます。

 私は、国内外を問わず各地を訪問する際は、街場に限らず可能な限り地図を片手に当該地域を歩いて回るようにしております。ただ、一人旅ならいざ知らず、家族旅行や仕事の一環としての研修旅行にはそれぞれの目的があります。勝手な行動は御法度です。他者に迷惑を掛けず、はたまた勤務時間外となる行動可能帯は、ほぼ早朝に限られます。従って、家族や仲間の寝ている時間帯に一人寝床を這い出し、夜明け前には宿を出立。朝食時間まで街を歩くことを常としております。夏の時分であれば午前4時半を過ぎれば空も白々と明けて参ります(ただ、西に行くほどに夜明けが遅くなるので要注意です)。従って、朝食時間まで悠に3~4時間は散歩を楽しめます。夜明け前の空気は澄んでおり清々しい気持ちとなれますし、夕陽とは異なる早暁の光景も心洗われる思いがいたします。何よりもほとんど人に出会うこともありません。寒い時分で雪が舞っていようと街場であれば出かけます。雪の積もった街は物音ひとつせず、森と静まりかえり、まるで異空間に迷い込んだように感じられるのも新鮮です。そして、何より街や地域の素顔に出会える気がします。そんなわけで、江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』を捩った「暁の散歩者」を自称し、欠かすことなく早暁の散歩を楽しんでおります。

そうは言っても闇雲に散歩しても発見できることは多くありません。ある程度の下準備が肝要です。明治以前に起源をもつ街であれば、古地図に照らし古くからの街が何処か事前に見当をつけます。例えば城下町であれば町人居住区に風情が残っていることが多いものです。武家屋敷街は明治以降に撤去され官庁街になっていることが多く地割の確認位しかできません。しかし、町人街は明治以降も古くからの家屋を用いて商業活動を継続していることが多く、古い街並みが残存する確率が高くなります。また、現在の道路が掘であることが分かったりすれば、眼前にある街の構造が重層的・立体的に想像できます。勿論、名立たる寺社や城郭、史跡等があれば言うことがありませんが、街をゆっくりと歩けば、知られざる歴史に出会えることも多いものです。ただ、あまり計画に縛られすぎず、気の向くままに(迷子にならない程度に)散策することが肝要だと思います。その方が、散策自体を楽しめますし、思わぬ発見に繋がる可能性が高くなると存じます。今回は、ここ数年中に行った2つの街の「暁の散歩」について。散策ついでの発見と妄想の記録に過ぎませんので、極々御気楽に読み流していただければ幸いです。

 まずは、研修で出かけた三重県の津であります。古代から中世にかけて安濃津(あのつ)を称し、日本三津の一つに数えあげられるほど、伊勢湾に面する重要な港湾都市として殷賑を極めましたが、明応7年(1498)に発生した大地震と津波による壊滅的ダメージを受けて衰退。近世には高虎を始祖とする津藩藤堂家27万石の城下として、また伊勢参宮街道の宿場として大いに賑わいを見せました。JR・近鉄の津駅は旧城下町から相当北に外れておりますので、駅前の宿所から午前4時には出立。江戸時代以来の伊勢参宮街道の道筋を辿って南下。未だ真っ暗な安濃川を渡り津城跡を目指します。到着した津城跡で空が白々としてきました。城跡は本丸を中心とした部分しか残存しておりませんが、残された石垣と水堀の威容は、流石に築城の名手藤堂高虎を彷彿とさせる見事なものでありました。城址を後に古地図を頼りに海の方角に。藤堂家菩提寺「寒松院」(藤堂高虎の法号です)を目指します。古地図で確認すると津城の最も海に近い外掘に面しているはずです。しかし、既に堀は埋め立てられ、巨大なフェニックスが中央分離帯に立ち並ぶ南国風な広幅員道路に直面した墓域を発見。そこは玉垣等も一切なく自由に出入可能な状態の墓所であり、歴代藩主の巨大五輪塔が無機的に立ち並んでいるだけの異様な空間でありました。これが津城主藤堂本家と支藩久居藤堂家の歴代藩主の墓所かと訝ってしまうほど殺風景なところです。強風でもあれば押しつぶされそうな、何本もの支え棒で辛うじて建っている仮本堂も痛々しく、境内も墓域を除き全面が舗装され駐車場として使用されているなど、凡そこれほど古刹の面影から遠い寺院も稀であります。巨大な墓石群の偉容と相反した、余りにあっけらかんとした様子に、しばし呆然と立ち尽くした程であります。全国の大名墓所にはできる限り脚を運んで来ましたが、これほど寒々しい大藩の墓所は記憶にありません。津市中心街は、第二次世界大戦中の空襲で完膚無きまでに破壊し尽くされ、寒松院もその時に全焼したとのことです。道理で墓石自体の破損も相当にある訳です。

 もっとも、藤堂家墓地は、別に東京「上野動物公園」内にも存在します。正門から入って右手直ぐの辺り、鬱蒼とした木々の中、玉垣に囲まれております。ほとんどお日様の当たらない極めて陰気くさい場所です。非公開で説明板等も一切これ無く、まさかここにあの藤堂家墓所があることに気づかない方がほとんどでしょう。何故かような場所に藤堂家の奥津城があるかと言えば、この地がかつて藤堂家の江戸菩提寺「寒松院」であったからです。新政府軍と旧幕府軍(彰義隊)との戦いによる寛永寺焼失後、明治時代に上野の山にあった寛永寺塔頭群が一掃されて公園化となった際に、何故か藤堂家の墓所のみがここに残されたのです(焼け残った重要文化財の旧寛永寺五重塔も動物園内にあります)。高虎は江戸屋敷で亡くなっておりますから亡骸は上野に葬られていることでしょう。津の同名寺院は2代高次創建にかかり、こちらの高虎墓は供養塔の可能性が高いと思われます。因みに、「上野」地名は一説に高虎の本拠地でもあった伊賀国「上野」(高虎の手になる伊賀上野城の高石垣がよく知られておりましょう)に由来するとも言われます。高虎没後に寒松院とされる以前、ここは藤堂家の江戸屋敷であり、そこに高虎が勧請したのが徳川家康を祭神として祭る「上野東照宮」(重要文化財)であります。幸いにも幕末の焼失を免れ現存します。何でも、祀られる家康像の左右に、天海像と高虎像とが脇侍となってお仕えしているそうです。高虎と申せば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、時々の権力者と次々に親密な信頼関係を取り結び、乱世を渡り歩いた武将として知られます。幕末「鳥羽伏見の戦い」では、本来幕府側であった末裔が突然に砲撃を加えて徳川陣営を混乱に陥れ、先祖伝来のお家芸と揶揄もされました。そして、結果的に高虎が葬られる寒松院を含む徳川将軍家菩提寺である寛永寺を、子孫の属する官軍が焼き払ったことを、泉下の高虎はどう思ったでしょうか。「天晴れ」と褒め称えたでしょうか、それとも「怪しからず」と叱責したでしょうか。当方は、おそらく無言で苦笑いしたのではないかと想像致しますが如何でありましょう。早暁の人気ない荒涼たる藤堂家墓所で、世と人の移りかわりの「無常」と「無情」とに思いを巡らせた次第でありました。

 米軍機による空襲被災に遭った津市街地は、戦後に根本的に都市計画事業が実施されたようです。その結果、広幅員道路の直交する現代的都市に変貌しており、江戸期とは隔絶した別の街に生まれ変わっておりました。戦後復興について地元の選択をとやかく言う資格も権限もありませんが、これによって津市中心街が過去との連続性を感じさせない、没個性の街となってしまったことは否めますまい。特段の用事が無い限り、私が観光で津市中心街に再度足を運ぶことはないでしょう。宿に戻る途中にあった著名な津観音にも古寺の面影はありませんでした。ただ、帰路に立ち寄った聖徳太子創建伝承のある四天王寺に、織田信長生母「土田御前」の墓があったのは発見でした。全く以て熱心な視聴者ではありませんでしたが、2月に大団円を迎えた大河ドラマ『麒麟がくる』では、確か女優「檀れい」が演じた役どころであったかと存じます。土田御前の墓が何故ここにあるのか。調べたところ、彼女が「本能寺の変」後は孫である信雄の庇護下にあり(「大方殿様」)、更に天正18年(1590)信雄改易後には、信長と同母弟と推定される安濃津にあった信包に引き取られ、文禄3年(1594)にこの地で薨去しているからです(その数ヶ月後に信包も改易されています)。かような次第で、本来あったであろう歴史の薫りをあまり感じること叶わずの、津城下「暁の散歩」報告となってしまいました。

 しかし、その折の再訪は叶いませんでしたが、市内郊外である一身田には国宝建造物の宝庫、浄土真宗高田派本山「専修寺(せんじゅじ)」があります。こちらは、東海道関宿と併せて一度はご訪問されることを是非とも御薦めいたします。本来の専修寺は、鎌倉時代に教化のため関東に入った親鸞が、下野国真岡の高田に建立した寺院でしたが、その後の戦乱等の理由で衰えたことから、後に伊勢国一身田の地に本拠を移したのです(「本山専修寺」)。一方の栃木県真岡市高田に残る“元祖”専修寺も江戸時代に再興され、「本寺専修寺」として今に栄えております。加えて津市内には、幼少時代以来変わることなくお世話となっている「ベビースターラーメン」製造会社があります。私が子供のころには「松田食品」を名乗っておりましたが、現在は今風の「おやつカンパニー」なる小洒落た社名となっております。しかし、多種多様な味の商品展開をしている昨今でも、伝統の「チキン味」だけは頑固一徹、昔から全く変わることのない駄菓子としての味を死守されております。企業の姿勢として誠に天晴と感謝の思いで一杯になります。これを食する度に、今でも楽しかった幼少時代に一度に戻れるように思えます。不思議なことに、幼少時代にお世話になった「駄菓子」の数々こそが自分自身のソールフードであり、決してその後に出会った所謂「高級菓子」ではありません。このことは、下町の駄菓子屋で頻繁に口にした「もんじゃ焼き」の世界と併せて、いずれ別稿にて述べてみたいと思います。津市縁の藤堂家には若干の皮肉を込めて、当方は棺桶に納まる日が来るまで、これまでお世話になった駄菓子に一筋に忠節を誓うことを固く心に決めておる次第であります。詰まるところ、津市には足を向けて眠れぬほどの深き恩顧があるということです。正に「津市さまさま」でございます。


(中編に続く)

 

 発見と妄想の街歩き「暁の散歩者」(中編)―または、津市と奈良市における市街地「散策の記」―

 3月12日(金曜日)

 次に、3年ほど前にやはり研修で出かけた奈良市です。宿はJR奈良駅近く。ご存知の通り、ここは現在の中心街からはだいぶ西に外れたところにあります。散歩先に選んだ東大寺境内や中世以来の奈良町はずっと東に所在します。そこで朝の4時には宿を出て、真っ暗な中を平城京以来の三条大路を東へと足を進めます。幸いに商店街となっている通りには街灯が整備されておりますので安心して歩を進めることができます。猿沢の池の前から興福寺境内にあがります(興福寺は藤原氏の氏寺です)。そこには創建時「天平の甍」を想定復元した落慶法要の済んだばかりの「中金堂」の偉容が姿を現しました。夜目にも丹色鮮やかな堂々たる伽藍であります。若い頃に出かけた頃には、ヤケに横長の江戸末期建立の不格好な仮本堂が、支え棒で軒の落下を辛うじて抑えているヨレヨレ状態で同じ場所に建っておりましたが、それを思うと正に隔世の感があります。興福寺の創建伽藍全面復元に向けての取り組みは今後も継続されましょう。大いに楽しみにしていたいと思います。

 少し寄り道をして、奈良国立博物館の敷地を抜け東大寺境内を目指します。奈良博の敷地には神仏習合の時代を彷彿とさせる春日大社東塔・西塔の基壇が残っております。春日大社へ向かう参道の北側に東西両塔が建っていたのですから、春日大社に向かう際には左手に並んで塔が2基建っていたことになります。そのバランス感覚にいつも不思議な思いがします。さて、東大寺境内へは、鎌倉建築の南大門からではなく、創建伽藍として今に残る転害門から入ろうと北へと向かいます。この頃には空は白々として参ります。向かう道筋は古来からの主要道であり、奈良坂を越えて山城(奈良時代は山背と表記)へ向かいました。都が平安京に移っても、南都との間を行き交う交通路として機能し続けたのです。余談ではありますが、奈良坂のあたりは都市周縁部の所謂「無縁の地」として、様々な階層の人々が屯する地でありました。この地にあった廃寺同然の古代寺院が、真言律宗の叡尊らによって再興され「般若寺」となり、中世には当地においてハンセン氏病患者等の救済に向けた宗教活動が展開されていたのです。高校日本史の教科書には必ず記載される「北山十八間戸」は正にここに立地しており、叡尊の後継者である忍性によって造営されました。因みに、現存する建物は戦国期に焼失し江戸時代に再建されたものになります。

 ここで、少々の寄り道をさせてください。堀辰雄・立原道造とも深い親交のあったロシア文学者神西清(じんざいきよし)の傑作短編小説『雪の宿り』は、この辺りの中世の光景を描き出して余すところがありません。当方はこの小説に限りない愛着を覚えております。序でにその冒頭を引いてみましょう。情景を表現する何たる筆力!!一切無駄のない清澄なる名文には何度接しても感銘を新たにします。それは、声に出してみると更に強く感じ取れます。言うも更なりでありますが、当方など到底足元にも及ぶことも叶いません。まさに脱帽です。作品は戦後直ぐ昭和21年(1946)の筆になります。

 

 

 文明元年の2月のなかばである。朝がたからちらつきだした粉雪は、いつの間にか水気の多い牡丹雪に変わって、午をまわる頃には奈良の町を、ふかぶかとうずめつくした。興福寺の七堂伽藍も、東大寺の仏殿楼塔も、早くからものの音をひそめて、しんしんと眠り入っているようである。人気はない。そういえば鐘の音さえも、今朝からずっととだえているような気がする。この中を、仮に南都の衆徒三千が物の具に身をかためて、町なかを奈良坂へ押し出したとしても、その足音に気のつく者はおそらくあるまい。
申の刻となっても一向に衰えを見せぬ雪は、まんべんなく緩やかな渦を描いてあとからあとから舞い下りるが、中ぞらには西風が吹いているらしい。塔という塔の綿帽子が、言い合わせたように西へかしいでいるのでそれが分かる。西向きの飛檐垂木は、まるで伎楽の面のようなおどけた丸い鼻さきを、ぶらりと宙に垂れている。
うっかり転害門を見過ごしそうになって、連歌師貞阿ははたと足をとめた。別にほかのこと考えていたのでもない。ただ、たそがれかけた空までも一面に雪にこめられているので、ちょっとこの門の見わけがつかなかったのである。入込んだ妻飾りのあたりが黒々と残っているだけである。少しでも早い道をと歌姫越えをして、思わぬ深い雪に却って手間どった貞阿は、単調な長い佐保路を急ぎながら、この門をくぐろうか、くぐらずに右へ折れようかと、道々決し兼ねていたのである。
ここまで来れば興福寺の宿坊はつい鼻の先だが、応仁の乱れに近ごろの山内は、まるで京を縮めて移してきたような有様で、連歌師風情にはゆるゆる腰をのばす片隅もない。いや矢張り、このまま真すぐ東大寺へ入って、連歌友達の玄浴主のところで一夜の宿を頼もうと、この門の形を雪の中に見わけた途端に貞阿は心を決めた。

(以下略)

 

 さて、私も「心を決め」て、転害門から東大寺境内に脚を踏み入れることにいたします。天平建築のこの門は、後の時代の建築とは異なり、シンプルな構造でありながらも少しも華奢にも貧弱にも流れることのない、堅牢さと骨太さの際立つ名建築であり、何度見てもその立ち姿に感動させられます。何故、1.200年も昔の建築がかくも力強く美しいのか!?その後の人類の進歩とは一体何なのかを考えさせられます。勿論のこと国宝建造物です。さて、入り込んだこのあたりの東大寺境内は少しも寺院らしくありません。どう見ても一般の民家のような建物もあります。これが、中世に成立することになった所謂「境内都市」なる存在の名残であります[歴史文化ライブラリー『日本の中世寺院-忘れられた自由都市-』2017年(吉川弘文館)等々における、伊藤正敏による目の覚めるような論考を是非ともご参照ください]。勿論、東大寺に出かけて「天平の甍」の時代に思いを馳せるのも結構ですが、そこから現在に至るまで千年を越える時間の流れがその境内には色濃く(いや天平の色合いを遙かに凌駕する形で)刻印されていることを知ると、古都はいくつもの相貌を見せてくれると思います。そのことが、歴史が幾重にも積み重なった土地を歩くことの大いなる楽しみに繋がります。

 その後、左手に講堂跡の礎石群を眺めながら、大仏殿の裏手を過ぎ、大湯屋の甍を右手に眺め細い坂道を登り切れば、きりりと引き締まった朝の空気の中、目の前に毎年3月1日に「お水取り」の儀式が執り行われる二月堂が忽然と姿を現します。その舞台からは、大仏殿越しに明けゆく生駒の山々と、広々とした奈良の盆地とが一望できます。観光ポスター等で余りに人口に膾炙し、余りにも通俗的に過ぎる光景ではありますが、実際に目の当たりにすれば壮大な眺望にすっかり魅了されます。人っ子一人いない静寂の中で景色を独り占めできるのも格別な思いであります。さて、そこから天平建築の三月堂の脇を抜けて春日大社を目指して南へ。途中、一面のノシバの原を介して左手に若草山を見上げることのできる広々と開けた空間があり、緑の薫りを胸一杯に吸い込みます。もっとも、実際には朝の眠りから覚めたばかりの、道路脇に跪いて屯する百頭は優に越える鹿たちの獣臭と糞尿臭が芬々としており、曰く言い難い空気を醸しております。かような次第で、決して「爽やな」との形容詞を冠することはできないのですが、日本在来種のノシバが古くから山一面に根付く麗しき光景は、鹿がこの草を食し排泄することと深い因果関係が存するとのことでありますから、文句は言いますまい。やはり、「神鹿さまさま」であります。


(後編に続く)

 

 発見と妄想の街歩き「暁の散歩者」(後編)―または、津市と奈良市における市街地「散策の記」―

 3月13日(土曜日)

 流石に春日大社回廊にある門扉は未だ閉じたままです。今回は拝観できませんが、回廊内には4つの社殿が並び立つ独特な形式の国宝本殿があります。ここからも明らかなように、「春日神」とは単一の神格にあらず4柱の神の総称となります。ここは藤原氏の氏神であり、その祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)が祀られるのは当然です。しかし、残りの二柱は武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)であります。そして、実際に最も存在感が大きかったのが武甕槌命でした。こちらは常陸国の鹿島神宮の祭神であり、もう1柱の経津主命は我らが下総国の香取神宮の祭神に他なりません。つまり、春日神4柱中半数は、坂東の地から勧請された神なのです。このことは、鹿島神と香取神がともに武神であり、当時の中央政府による蝦夷征討を目的とした東北地方への侵攻と深く関係していると想定されております。そうした関係もあって、両神が藤原氏の守護神として、祖神と併せて春日神とされているのでしょう。因みに、武甕槌命は大和の地に移る際に鹿島から白鹿に乗って出立され、一年ほどかけて御蓋山に至り鎮座されたとされております。つまり、春日大社(奈良)の象徴ともされる外国人に大人気の神鹿は、常陸国の鹿島神宮を出自としております。そのルーツが坂東にあることを我々も誇りといたしましょう。

 空も明るさを増し残された時間も少なくなって参りました。春日大社境内を後にして、飛火野を抜けて西へ向かいます。志賀直哉旧宅脇から史跡「頭塔」の前を抜け、右手に興福寺塔頭の有力門跡寺院「大乗院庭園」を眺めつつ、所謂「奈良町」へと足を踏みいれます。多少の起伏のある土地に路地が入り組み、そこに歴史ある小寺院や古くからの町屋が連なる、落ち着きのある魅力的な街です。今では開発によってすっかり以前のような魅力を滅失してしまった、京都中心街よりもお薦めしたい場所です。ここは、古代の平城京で東に突出した「外京」とよばれる地域とほぼ重なります。山城国への遷都により平城京は荒廃していきますが、東大寺・興福寺・元興寺・春日大社等の寺社は奈良に残されることになりました。従って、大寺社の集中する外京に、関係の仕事に従事する人々が集まり「まち」が形成されていくこととなりました。更に、平家による「南都焼き討ち」からの復興を機に、中世には商工業の発展が顕著となっていきます。そして、江戸時代に入ると、町域を画定する「町切り」が実施され、奈良の諸郷はそれぞれ「町」とされます。そうした町を総称して「奈良町」と呼びならわしたのです。町自体は基本的に平城京時代からの整然とした街路を踏襲しているのですが、それでも、複雑に入り組んだ路地が多く見られ、迷宮を彷徨しながら様々な街の表情に出会える喜びを満喫できます。実は、こうした複雑な街路形成にはある事情が存在します。それは、この場所には平城京の時代に元興寺等の官立大寺院が盤踞していたのです。しかし、国家の庇護を失った古代寺院のうち、中世的な寺院経営に転換しえなかった寺社は、如何なる大寺社であっても次第に衰微し廃絶していく運命にありました。その旧地に町屋が進出する際、旧境内地内の在り様を無視するわけにはいかず、結果として寺域と伽藍配置の在り方が路地のそれに踏襲されているのです。論より証拠、町屋の中には元興寺の堂舎礎石が、そのまま取り込まれて屋敷が建設されている事例もあるほどです。そうしたラビリンスの中に、僅かに古代寺院の縁を留める元興寺極楽坊、十輪院といった瀟洒な小寺院や、元興寺五重塔礎石等の遺跡が散在しているのも大いに魅力的な街である所以でありましょう。

 時間の限りが迫ってきました。名残惜しい奈良町の「暁の散歩」を切り上げ、JR奈良駅近くの宿所に戻るため西に向かいます。ところが、この帰路で私にとっては最大の発見が待っておりました。これぞ街歩きの醍醐味です。三条大路南の裏街を歩いて北向町に差し掛かった時でした。路地の北に優雅な甍の本堂が目に入りました。導かれるように門前に至った寺院には「仏生山常徳寺」とあります。奈良には珍しい日蓮宗寺院であることにまず驚かされました。そして、その説明板を見て再度驚かされたのです。何故ならば、千葉県市川市にある中山法華経寺の末寺であるからです(現在は直接的には京都の頂妙寺末のようですが、何れにせよ中山門流であることに違いありません)。寺伝によれば、常徳寺の前身は、南都遊学中に日蓮が起居していたと伝わる東大寺法性房であること。南北朝期となる暦応3年(1340)中山法華経寺の三祖日祐上人が四度目の上洛の折、南都に下向しこれを常徳寺と命名し開山したこと。後の慶長4年(1599)に現在地に移転。現在残る本堂が貞享3年(1686)に建立されていることが棟札から分かるとのことです(県重要文化財)。更に、門前には妙見堂があります。朝日妙見大菩薩と称しており、「将軍家剣術指南」を勤めた柳生藩一万石家老小山田氏が、享保年間に奉納したとされ堂内には七面大明神像と鬼子母神が安置もされております。

 申しあげるまでもなく、中山法華経寺は、千葉介頼胤に仕えた文筆官僚で、日蓮の庇護者でもあった富来常忍が、日蓮没後に出家して日常を名乗って建立した寺を源流としております。後に胤貞流千葉氏が大檀越となり、その所領支配を通じて教線を延ばしていった日蓮宗の一派であります。そもそも日祐上人は千葉胤貞の猶子として法華経寺に入っているのです(墓所は市川市中山にあります)。従って、下総から胤貞系千葉氏の所領である肥前国小城に至るルートに沿って中山門流寺院が色濃く分布していることがよく知られておりますし、同時に妙見信仰も導入されているのです。しかし、旧仏教の牙城である南都の地にまで中山門流の教線が延びていたことを知って驚愕したのでした。中山門流の研究成果は中尾堯『日蓮宗の成立と展開-中山法華経寺を中心として-』1973(吉川弘文堂)に集約されているように思いますが、ここにも南都における動向は触れられていないと思います。余談ですが、妙見堂を奉納した柳生藩家老小山田家は、甲斐武田氏に仕え、最終的に主家を裏切り天目山での主家滅亡の直接の引金を引いた小山田氏末裔を称しております(複数家系中の何れの系統かは不明)。奈良市郊外柳生の地には、立派な石垣を備えた家老小山田家住宅が残っており見学ができます。奈良県内に唯一残る武家住宅建築だそうで、後に小説家山岡荘八の所有ともなっておりました。

 さて、長々と「暁の散歩者」の発見と時々の妄想とを書き連ねて参りました。最後の最後に、当方の大切している浮世絵師初代歌川広重(1797~1858)辞世と伝わる歌を引いて〆としたいと存じます。私自身が、人生のモットーともするものです。私自身、常にかような精神を持って生きていけたらと考えております。人生は一度きりです。その間の生を如何に楽しみ充実させるか、更に死後にも至る広重の旺盛な好奇心に倣って、遠近を問わずに能う限り様々なところを経巡り回りたいものであります。もっとも、手元不如意故、当方は足元を含めた国内限定となります。それでも行ってみたい、見てみたいものだらけであります。このご時世、皆様もまずは身近な地元散策から発見の旅を始めてみるのは如何でしょうか。

 

 

東路(あずまじ)に 筆を残して 旅の空 
西の御国(みくに)の 名所(などころ)を見ん

 

《当方による意訳》
この江戸の地に暮らし、全国を歩き回って好きな絵を描いてきたが、そろそろ絵筆を納めて「あの世」とやらへ旅立つことにしよう。これからは西方浄土の名所見物と洒落込むこととしようか。大いに楽しみだわい。

 

 

 「奇想の系譜」と「ふつうの系譜」(前編)―または「学ぶこと」の意味と重さについて― ―「重要文化財 杉本家住宅 大屋根瓦15,000枚葺き替えクラウドファンディング」のご紹介―

 3月19日(金曜日)

 まず最初に、過日「館長メッセージ」でもご紹介させていただいた、我々千葉市民が昔からお世話になった「奈良屋」(呉服店・百貨店)、京都本宅「大屋根瓦葺き替え クラウドファンディング」に関するご紹介をさせてください。明治3年に建築され、国の重要文化財にも指定された貴重な京町屋「杉本家住宅」ですが、文化財保護上老朽化屋根瓦15,000枚の全面的葺き替えを要する状態となっているとのことです。かような中、「公益財団法人 奈良屋記念杉本家住宅保存会」では、今後150年の維持を目途に、莫大な改修費用の一部を協賛される皆様からのクラウドファンディングにて賄うことを計画されております。協賛金額につきましては、最小額3,000円から最高額1,000,000円まで多様に準備され、それに応じた「リターン品」等が用意されております。それらには、魅力的な「〇京印」入の絵葉書・ブックカバー・ポチ袋から、高額協賛の方には杉本家住宅での特別な行事への招待まで用意されております。不肖私も些少ではありますが個人的に協力をさせていただきました。「その昔奈良屋に大変にお世話になった」との思いから、「是非一肌脱ごう」とお考え奇特の士が、もしやこの千葉の地にもいらっしゃるかと、この場をもってご紹介をさせていただきました。ネットで「重要文化財杉本家住宅」検索。財団ホームページ内に案内項目がございます。まずは、是非ともご覧ください。本稿執筆時の残日数から判断して、5月末日までを期限とされているようです。

 さて、令和2年度も残すところ2週間弱となりました。思い返せば、4月から新型コロナウィルス感染症に振り回され通しの一年間であったように思います。それでも、千葉市「市制施行100周年」を記念して企画した特別展の第一弾『軍都千葉と千葉空襲』を中止することなく、遺漏なく開催することができたことを、不幸中の幸いであったことと存じます。4月以降の令和3年度こそ千葉市「市制施行100周年」を寿ぐ中核年度と位置づけられております。こうしたご時世の下で、何かと手枷足枷が多かろうとは存じますが、情勢をしっかりと見極めながら、実施可能な事業を粛々と推し進めて参る所存でございます。引き続いてのご支援を賜れればと存じております。 

 コロナ禍は、それによる国民個々の生命の危機をもたらしたのみならず、時短営業の要請や国民全般に対しての不要不急の外出「自粛」要請がもたらした、経済活動全般へ与えた「負」の側面は計り知れないものがあります。我々千葉市は勿論のこと、国・各地方公共団体での税収が大幅に減少していることも、そうした現実の証左となっております。しかし、極々僅かかも知れませんが、「正」の側面も皆無では無かったのではないかと思っているところです。自分自身に照らせば、例えば、自宅での「巣籠り生活」期間に、所謂「積ん読く」状態であった書籍の嵩が随分と低くなったように思えますし、これまでじっくりと見聞できなかった音盤や画集等の鑑賞も大いに捗ったようにも感じております。その意味で、これまで不景気風に吹かれていた書籍・音盤等の出版業界には多少の貢献はさせていただいたように思っております。実際に、この間の小売店における書籍販売額が増加した旨を新聞報道にて接し、多くの皆様も同じ状況にいらしたのだなと思ったところでもございます。また、久しぶりに会話をする時間が取れたご夫婦が多かったとの報道も目にしましたが、皆様のご家庭では如何だったでしょうか。

 さて、雑多な趣味を自分でも持て余している私ですが、その内で「絵画鑑賞」は比較的大き目の場を占めております。故人となった父親が「春陽会」なる絵画団体に所属する銅版画家であった関係もあり、幼少期から自宅に転がる数多の画集を手にする「門前の小僧」でありました。もっとも、父親は売画を生業にすること遥か及ばぬ「日曜画家」にすぎませんでしたし、私は父親の描く絵に心惹かれることは微塵もありませんでした。増してや画才を遺伝的に引き継ぐこともなく、非才故に画業をこととすることは勿論、作画を趣味とすることも之なく今日に至っております。父親の描くような「洋画」も嫌いではありませんし、若い頃には相当に付き合いましたが、今では積極的に展覧会に出掛けることもなくなりました。代わりに、本邦伝統絵画への関心は、明治以降の所謂「日本画」も含め、学生の頃から今に至るまで、バロック音楽における通奏低音が如く響き続けております。国内各所で興味深い展覧会があれば脚を運び、叶わずば展示図録を取り寄せたりする等、極めて多様な世界を楽しんでおります。つい先日も、三井記念美術館特別展『小村雪岱スタイル』、根津美術館企画展『狩野派と土佐派』に脚を運び、それぞれ美の世界を堪能して参りました。特に、雪岱の卓抜なるデザイン感覚には感嘆させられること仕切りでありました。特に、当方の愛する泉鏡花作品の装丁には惚れ惚れといたしました。『日本橋』が古書で70万円近くするのも宜なるかなと思わせる芸術性高き作品です。結果的に、今では父親由来の洋画集より、かような画集・図録が書棚で幅を利かせる状態です。屡々それらを紐解くことが叶ったのも「巣籠り生活」の賜かと思っております。今回は、そのような中で考えたことを記したいと思います。

 数年前に「伊藤若冲」ブームなるものがあり、東京都美術館開催の特別展には3時間待ちも当たり前という、観覧を待つ長蛇の列が報道されたことも記憶に新しいところです。伊藤若冲(1716~1800)は、江戸時代中後期に京都で活躍した絵師ですが、所謂「奇想の系譜」に連なる人物と目されております。動植物(特に印象的な鶏)をたくさん描いた人でもありますが、実際に眼前で作品を見れば、絢爛な色彩とその執拗なまでの表現性に圧倒されることは間違いありません。その色彩感覚は、墨のみで描いた作品にも横溢しております。若冲オリジナルとも評される「筋目描」なる技法によって描かれた、モノクロームの微妙なる濃淡の饗宴こそ、彼の真骨頂とも申せますまいか。そして、「伊藤若冲」ブームの火付け役とも言うべきが、初代の千葉市美術館長でもいらした辻惟雄であり、その主著『奇想の系譜』(1970)であろうことに異論はありますまい(今日では「ちくま学芸文庫」版で入手可能)。同著は、伊藤若冲に限らず、当時は広く知られているとは言い難かった「奇想の系譜」に連なる絵師達への理解をもたらした、正にベンチマークとも目される作品と申しあげてよろしかろうと存じます。かく言う私もそれに絆されたクチであります。何を隠そう、長澤蘆雪の作品に出会うために、交通の便至極宜しからぬ紀伊半島南端にまで「押っ取り刀」で馳せ参じたほどです。串本にある無量寺には円山応挙の高弟である蘆雪の傑作襖絵群が残りますが、その自由闊達な作風に出会った時の驚きを忘れることができません。大胆な躍動性をもちながら、案に反して人を喰ったような剽軽な表情で描かれる『龍虎図』がよく知られておりますが、個人的には『唐子遊図』が大のお気に入りです。中国において君子の嗜みとされる琴棋書画に興じる文人の描く画題を、子供達の学びの場である寺子屋を舞台として換骨奪胎した作品です。ところが、今でいう学級崩壊さながらに、唐子たちは好き放題に悪戯に打ち興じております。目の当たりにすれば自ずと顔の綻ぶ傑作だと思います。こんな愉快極まりない琴棋書画図は他に目にしたことがありません。何よりも、蘆雪は、あの謹厳な作風で知られる応挙の高弟であることが意外性に満ちております。当寺所蔵になる蘆雪作品群は無量寺HPで容易に拝観することができますので是非ともご覧ください。

 そして、昨今では、奇想の系譜に連なる他の絵師達も大いに持て囃されるようになりました。今や、若冲の後に続けとばかり、岩佐又兵衛(1578~1650)・曽我簫白(1730~1781)・歌川国芳(1789~1861)、そして上記の長澤蘆雪(1754~1799)等の絵師が引っ張り蛸であり、各地美術館でそれぞれの特別展が開催されるようになっております(もっとも、国芳は浮世絵の作家であり、“絵師”とするのは正確ではなく、職人としての“画工”とするのが適切かと思います)。そして、我らが千葉市美術館こそ、初代辻館長の薫陶の下「奇想の画家」達の紹介にいち早く取り組んで参った、云わば「トップランナー」と申し上げることに何らの躊躇もいりません。私自身、上記の絵師を取り上げた特別展には嬉々として脚を運びましたし、何よりもそれぞれが本当に感嘆に値する充実の展覧会でした。近世身分制社会の堅苦しさを突き破るが如き、爆発的な個性の発露を伴う画風には正直驚嘆させられましたし、何よりも同じ千葉市に奉職するものとして、近世絵画愛好家の沃野を広げてくださった千葉市美術館の存在を誇らしく思っております。しかし、彼らの作品に打たれる一方で、天邪鬼の当方としては、一抹の物足りなさに駆られるのも事実でした。そのことについては、後編にて述べてみたいと思います。
(後編に続く)

 

 「奇想の系譜」と「ふつうの系譜」(後編)―または「学ぶこと」の意味と重さについて― ―「重要文化財 杉本家住宅 大屋根瓦15,000枚葺き替えクラウドファンディング」のご紹介―

 3月20日(土曜日)

 「奇想の系譜」の画家達が広く持て囃されることに、一抹の物足りなさを感じている旨を前編の最後といたしました。後編では、そのことについて述べたいと思います。

 それは、かような美術展では「奇想」を生み出す母体となった「アカデミズム」に属する画派への視点・視座が決して充分とは言えないこと、延いては美術学の分野でも「アカデミズム」画派の研究・紹介が等閑に付されているように思えることに起因しております。実のところ、辻の著作にはこうした視点がしっかりと据えられているのです。問題の根源は、人気にあやかって「奇想」の特異性ばかりを喧伝しがちな、取り上げる側の姿勢にこそあると考えますが如何でしょうか。勿論、展覧会にも経済原理が働くことは当然であり、動員数を挙げるための戦略をあれこれと指弾するわけにはまいりません。しかし、上記「奇想の絵師」達の出発点は、土佐派・狩野派(京都では鶴沢派)・円山四条派等々の当時の主流画派(アカデミズム)での学習にあるのです。そこでの「学び」と「習得」の基盤こそが、後の独創的な「奇想」への飛躍に繋がったことだけは見落とすことなく、是非とも紹介していただきたいと願うものです。つまり、「アカデミズム」画派への視座を明示することが、逆に「奇想の系譜」の持つ意味をも明確に照らし出すことに繋がるのだと考えます。近世においては、狩野派・土佐派・円山四条派等々こそが本流に位置付く画派であり、幕府・各藩の下での御用絵師や宮中における絵所預職として、絵画の基準性を明確に保持する存在であったのです。云わば、「奇想の系譜」に対する「ふつうの系譜」に属する画家と言い換えても間違いではありますまい。鑑賞者もそのことを踏まえてアプローチすることが、近世絵画の理解に不可欠だと考えます。大切なことは、時代全体へ視野を広げ、相互の関係性の中に各派・絵師を位置付けることだと思うのです。

 その点で、東京の「府中市立美術館」開催『ふつうの系譜-「奇想」があるなら「ふつう」もあります-』(2020年)は、正に「我が意を得たり」と快哉を叫びたくなる内容でありました。本展は福井県の敦賀市立美術館の収蔵品を紹介する特別展でした。当館は、重要文化財「旧大和田銀行」本店建築を再利用した瀟洒な美術館であります(余談ですが、当銀行は俳優大和田伸也・獏兄弟の親族が嘗て経営していた銀行で、ご両人の父上も勤務しておりました)。京都に近い立地から、当時の主流派と目される流派の作品を地道に収集されてきた美術館であり、コレクションの中核は土佐派・狩野派・円山四条派・原派等々の「アカデミズム」一派の作品群であります。ある意味、こうした収集方針こそが当美術館最大の特色となっております。特に、近世土佐派コレクションとしては国内有数の規模かと思います。ただ、現状においては近世土佐派の研究は進んでいるとは言い難く、特に土佐光起以降の絵師と作品の全貌も未だ焦点を定めておりません。また、幕府御用絵師となった狩野派であっても状況はさほど変わりません。狩野派は、幕府御用を勤める奥絵師4家・表絵師15家の正に近世絵画の中枢となる流派を中核とし、そこで学んだ絵師達が各大名家御用絵師となるなど、国内全域に厳然たる影響力を及ぼしていたのです。更に、その下部には「町狩野」として町人階層の求めに応じた作画をこととする家々も数多存在しておりました。こうしたピラミッド状をなす巨大な画派集団として君臨した狩野派の全貌については、21世紀となった今日でも未だに明らかにされているとは言い難い状況にあります。先日ご紹介した足立区立郷土博物館開催『名家のかがやき』は、その数少ない試みの一つでもあります。

 よく「江戸時代最大の画派である狩野派、やまと絵の土佐派は、粉本主義(手本を真似て描くだけの創意工夫のない画風)に陥り、次第に精彩を欠くようになったことは否めない」と評され、特に近世後期の絵師など見る価値なしとまでの云われ方で切り捨てられることが多々あります。しかし、どれほどの方が実際に彼らの作品に接したうえでそう言っておられるのか大いに疑問です。当方は、奥絵師筆頭の木挽町狩野家9代当主である晴川院養信(せいせいいんおさのぶ)(1796~1846)を代表とする江戸時代後期狩野派作品群の瑞々しさに感銘を受けた経験を持ちます(板橋区立美術館・静岡県立美術館における特別展)。また、土佐光起(1617~1691)・光成(1647~1710)親子共作とされる勧修寺書院障壁画を見るためだけに夜行列車で京都に出掛け、それに心底感動したこともあります(作者については異説がありますが、「近江八景」を題材とする、湖水の群青が一際印象的な「やまと絵」の作品です)。つまり、実際に目の当たりにすれば、「奇想の画家」のような派手さこそありませんが、何れも瞠目に値する美しくも瀟洒な作品ばかりです。江戸時代に広く受け入れていた美しさの基準(「ふつうの系譜」)とは、正にこうした絵画の在り方にこそあったのです。逆に、「奇想の系譜」に連なる画家達の多くが、アカデミズム画派に入門し、若い時分にこうした精緻な世界を十全に学び取ったことをバックボーンとしていることに理解を致すことが重要です。逆に、アカデミズムの学びなくして奇想への飛躍はあり得なかったと断言することすら可能だと思います。因みに、本展図録は美術展では珍しく、見るだけにとどまらず「読み応えのある」ものです。会期は1年ほど前に終了しておりますが、当該図録の販売は継続されております(¥2,500)。是非お手にされてみてください。掛け値なしに充実の内容であることを保障させていただきます。また、少し古い特別展図録となりますが、本家本元の敦賀市立美術館1994年刊行図録『近世における大和絵の展開-土佐光起と狩野探幽を中心として-』も優れた内容ですのでご紹介させていただきます(¥3,000)。

 ここで、話題を世界に広げてみましょう。スペインに生まれフランスで活動した画家にパブロ・ピカソ(1881~1973)がおります。現代美術を切り開いた天才画家として誰もが名前と代表作を思い浮かべることができましょう。その不思議な抽象画は、よく「幼稚園生の絵みたい」と揶揄されます。確かに一見したところ、そう思えなくもありません。しかし、その内実は全く異なっております。ピカソのデッサン画を見たことがありますが、驚くほどの出来映えです。つまり、ピカソは具象画においても古今東西における大天才だと言っても宜しかろうと思います。つまり、抽象画の世界に脚を踏み入れる前に、ピカソは所謂「アカデミズム絵画」の基盤を徹底して身につけているのです。そこに表現の限界を感じ取って抽象的な作風へと移行していったピカソと、そうとしか描けない幼稚園生の絵とは本質的に別物だと言わなくてはなりません。そこから、ピカソの飽くなき追求が始まります。「青の時代」、「ばら色の時代」、「キュビズム」と、絵のスタイルは刻々と移り変わっていきますが、それは彼の気まぐれではありません。極めて自覚的な意思の表象としての作風変化なのです。そして、何よりも、その変化は確固たる伝統絵画を基盤に成立しています。そもそも何もないものを変えることはできません。

 次に取り上げるのはアメリカの絵画ジャクソン・ポロック(1912~1956)です。彼の芸術は「アクション・ペインティング」と言われるもので、気持ちの赴くままに筆をとり、様々な色の絵の具を激しくキャンバスにぶつけて描く抽象画です。その爆発的な迫力には確かに打たれるものがあるのは事実ですし、現代美術におけるひとつの時代を象徴する旗手であることは間違いありますまい。彼が全くアカデミズム教育を受けていなかったわけではありませんが、少なくとも「これこそが自由な絵画だ!」と考えていたことは容易に想像できます。極端な話、作品制作には基礎的な絵画技術の習得さえ不要です。ところが、作品を描けば描くほどに同工異曲の作品ばかりとなり、ポロックは次第に絵画制作に行き詰まっていくことになったのです。何故なら、自由だと信じた筆の動きは、実際には身体の骨格構造によって大きく制約されるからです。同じ身体的運動からは似たり寄ったりの作品しか生み出せません。一時持て囃されたポロック芸術でしたが、彼の作品が変化し発展することはありませんでした。言い過ぎかも知れませんが、ポロックが何にも制約されずに気持ちの赴くままに筆を振るい「自由」に描いたと思っていた作品は、実際には身体の骨格構造という「制約」に縛られた「不自由」な作品だったのです。自由は「精神」の中にしか存在せず、独創性は確固たる学びを基盤にした知的操作の連続により構築しうるものなのです。精神に異常を来したポロックは、自死とも受け取れる自動車事故で若くしてこの世を去りました。

 「学ぶ」ことの重要さ、かくのごとし。「学ぶ」は「真似ぶ」、つまりお手本を真似ることからできた言葉だと言われます。言うまでもなく、幼少の頃には周囲の大人同士が交わし合う言葉を少しずつ身につけていきます。学校で学んで喋れるようになったという日本人はおりますまい。周囲の環境の中で自然に身につけてきた筈です。しかし、それだけでは周囲の環境に大きく規定されてしまいます(極端な事例でありますが「オオカミ少女」の事例を挙げれば充分にご理解いただけましょう)。そこで、より普遍的な在り方(伝統的文化)を学ぶための機関として学校教育の存在意義があるのです。少なくとも義務教育は、一義的に「型(過去の知的文化体系)」を習得する場なのだと思います。特に学びはじめの段階では、基本のスタイルを真似て、それと同じようにできるように訓練を重ねることが極めて重要なことなのです。話は変わりますが、コロナ禍で昨年惜しまれつつ亡くなった不世出のコメディアン「志村けん」の事例でも、そのことは明らかだと思うのです。志村は、弟子が世間の常識をわきまえない言動をとったとき、「笑いは非常識から成り立つ世界だが、それは常識の範囲を充分にわきまえているから表現できることなんだ!笑いの前提には常識があることを見落としちゃいかん!」と厳しく叱ったそうです。一事が万事です。

 私を含めてですが、「自由」ということを「好き勝手にすること」と勘違いすることがあります。「個性尊重」の教育なども時にそれと混同されることがあるように感じます。小さな子どもが自由に絵を描いてピカソと同じような絵を描いても、それはその時だけの偶然であって、先への展開に大きな期待はできなかろうと思います。ピカソとポロックの対比からも明らかなように、個性は何もないところからは決して生まれてきません。すべては、基礎的な文化体系(知識技能)の習得から始まるのだと考えます。聞くところによれば、自由と個性を何より大切にするフランスの幼少期の公教育では、例えば「文字」の書き方の学習において、お手本と寸分違わずに書けるまで徹底的に訓練をするとのことです。最初から「自由に書いてみましょう」という、学びの本質を履き違えた教育でないことを知ることには大きな意義があると思います。「個性の発露とは基礎的な学びの上にこそあるもの」という、フランス教育の在り方に私は深く共感します。

 

 令和2年度の御礼を申し上げます(前編) ―または、「断捨離」なんて「糞くらえ!」の巻―

 3月26日(金曜日)

 新型コロナウィルス感染症に振り回された令和2年度も、残すところ一週間弱となりました。過日、首都圏4都県の緊急事態宣言が取り合えず解除されることとなりました。今後のことは全く闇の中ではありますが、本館としましては、年度末に実施する館内行事がないこともあり、これまでの感染予防対策を基本的に遵守しながら、4月より諸々の館内行事を徐々に再開をして参りたいと存じます。詳細は本館のホームページにてご確認をいただければ幸いです。

 こうした状況ではありますが、巡りゆく自然の姿は感染症とは関わりなく年々再々移り変わってゆきます。この猪鼻山もそろそろ桜花が咲き揃う頃となりました。しかし、一年の裡で最もお山の賑わう「さくら祭」は、残念乍ら昨年度に引き続き、本年度も中止となることが既に決定されております。本館でも、本年度を振り返れば、体験的行事(騎馬武者体験・着物や甲冑の着用体験等々)、外部会場や本館内で実施予定であった講演・講座の多くも中止せざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。更に、致し方がないこととは申せ、ボランティア活動もほぼ中止となり、やる気に満ちあふれたボランティアの方々には大いに申し訳なく存じております。しかし、こうした中であっても、「公」の機能を担う施設として、可能な範囲で実施できることを行って参りました。特別展『軍都千葉と千葉空襲-軍と歩んだまち・戦時下のひとびと-』、小企画展『千葉のまつり』、同『野のうつりかわり』、千葉氏パネル展『将門と忠常-千葉氏のルーツを探る-』につきましては、予定通り開催することができ、概ねご好評をいただきました。また、戸外で密を避けて実施できる「歴史散歩」、講演会代替として内容のウェブ公開・講義録の刊行の形で市民の皆様にご提供ができたことも一つの成果であったかと存じます(『武家社会確立期の権力と権威-千葉氏をはじめとした東国武士の動向から読み解く-』『千葉氏の領域における交通と物流-水と陸でつながる人・モノの中世-』)。これらは、「千葉氏ポータルサイト」でご覧いただけます。当ホームページからもアクセス可能ですので是非ご確認ください。何れも大変に充実した内容と自負するところです。

 その点、本館ではかようなご時世の下、ホームページを舞台とした日常における諸々の情報発信に極力努めて参りました。「ツイッター」では、館職員のアイデアを活かし日々更新程の頻度で、本館活動や日々の様子等について情報発信ができたものと存じております。また、本館研究員による「研究員の部屋」における発信は、手前味噌ではありますが、千葉市の歴史・民俗等々について様々な視点から切り込んだ興味深い内容ばかりであったと思います。そして、当方の「館長メッセージ」も末席を汚して参りましたが、それも本日分が本年度最終号となります。6月ころからは毎週末の更新として書き継いで参りましたが、かような内容に一年間お付き合いいただきました皆様に、衷心よりの御礼を申し上げます。

 「館長メッセージ」は、如何せん文章が長たらしく、ヴィジュアル的側面も皆無であり、難しそうな漢字や胡乱な表現が頻出する等々を要因として、決して多くの読者を獲得している状況にはないことを承知しております。そのことを反省しないわけではありませんが、当方なりの言い分もございます。それは「口当たりの良い食物」ばかりが求められる昨今の潮流に、若干の異議申し立てになりはしまいかとの思いであります。かような思いもあり、敢えてかようなスタンスを筆に託し続けて参りました。世が並べて「軽佻浮薄」「軽薄短小」「野暮低俗」「刹那」「直截」に流れているからこそ(テレビ番組がその象徴でありますがその他分野でも同様に感じます)、あえて「謹行慎重」「重厚長大」「軽妙洒脱」「熟考」「婉曲」等々、時代に抗った逆のベクトルをお示したかったのであります。「思いあがった物言い」とのご批判を甘んじてお受けしつつ、何から何まで「流動食」のようなものばかりが提供される昨今の現状を危惧するのです。中には、「硬骨」なる食物があってしかるべきと考えます。健康にも関わらず、かようなものばかり口にしていれば、人間は心身ともに退化していくことでしょう。要は「勇気をもって固い食べ物にチャレンジしてみてください」「かみ砕いて何度も噛みしめれば本当の美味しさに出会えるはずですよ」との問題提起の場でもあったということであります。

 当方は、かつて教職員をしておりましたが、子供にとっては難しい内容と、多くの教員が避けて通る教材をあえて扱ってまいりました。上手くいったことも失敗もありますが、概して子供たちは「難しい」ことを読み解き、深い理解に到達したときに、大きな達成感を味わっておりました(私は「手応えの発見」と称しておりました)。そのためには、教材の提示方法等に大いに工夫をしなければなりませんが、生徒たちの「そうだったのか!!」という喜びの表情に出会えることが楽しみで、労を厭う気にもなれずに授業の準備に精を出して参りました。だからこそ、私は申し上げたいのです。教師が「子供にはこんなことは理解できやしない」との姿勢でいることは、「端から子供を舐めて掛かっていることに他ならない」と。文中の「子供」を「市民」に入れ替えれば、それが私の姿勢であると申し上げて間違いがありません。もっとも、当方の雑文がそのレベルに達した、価値ある内容とは言いかねることは十二分に自覚しております。更なる研鑽を積まねばなりますまい。

 そして、本館の課題であった、学校教育との連携を中核とする「教育普及活動」に関しましても、本年度から配属となった「エデュケーター」の活躍により大きく前進しつつあります。本館内外で小中学生が実施可能と想定される多種多様な「学習シート」がアップされていることは、本館ホームページ内「教育活動」をお開きいただければ御理解いただけましょう。昨年と比較すれば、その充実は目を見張るほどかと存じます。実際に、団体見学で本館を訪問された小学校の先生方からも感謝の声を賜りました。今年度は小学校2校からの要請に基づき、出張出前授業を実施いたしましたが(上記コンテンツ内に指導案ともども報告済)、次年度は更なる充実を目指すべく、出張出前授業「授業プログラム」を鋭意作成しております。次年度4月当初には小・中学校児童生徒を対象とした各10講座程度の学習プログラムを御提示できるものと思っております。

 更に、本館の基盤をなす重要機能である「市史編纂事業」では、17年振りとなる『千葉市史 史料編10 近代1』の刊行ができたことは、何にも増して特筆すべきことかと存じます。令和8年度までに残る2冊の刊行を目指し、今後とも事業を粛々と実施して参ります。また、「市制施行100周年」を記念する次年度には、これまで一切存在していなかった一般市民の皆様に向けた『千葉市の歴史読本(仮称)』の刊行もいたします。原始・古代から現代にかけての千葉市の歴史について、ビジュアル資料をできる限りたくさん採用し、オールカラーで見やすい読み物としております。更に読者の皆様が、原史料を読み解きながら歴史を考える追体験ができるよう、本年度から編集作業を推し進めているところです。歴史ファンの皆様にも、千葉市の歴史に初めてアプローチしようとされる方にも御満足いただける内容とすべく、テーマ・内容と執筆者の人選にも特段の拘りをもってお願いをしていることころでございます。有償販売となりますが、お値段は誰でもがお求めやすい価格とするよう尽力して参ります。令和3年末の刊行を予定しておりますので、市民の皆様には是非とも期待してお待ちいただければと存じます。

 本年度の本館の事業としましては、例年、年度末に出している『研究紀要』と『千葉いまむかし』がもうじき刊行となります。前者第27号は希望者に無料で差し上げております。後者34号は有償販売となりますので、是非本館にてお求めいただければと存じます。3月31日販売・配布の開始を予定しております。また、これも過日にご連絡をしておりますが、千葉市・千葉大学共催公開市民講座『千葉氏の領域における交通と物流』
-水と陸でつながる人・モノの中世-』講演録の配付及びウェブへのアップも同日を予定しておりますので、是非お楽しみにしていてください。
(後編に続く)

 

 

 令和2年度の御礼を申し上げます(後編) ―または、「断捨離」なんて「糞くらえ!」の巻―

 3月27日(土曜日)

 最後に、一年の博物館勤務で強く思ったことを記し、今年度最後の「館長メッセージ」を締めくくりたいと存じます。それは、副題に記した「断捨離なんて糞くらえ!!」ということに他なりません。最後の最後にかような尾籠なる言葉を用いてしまい恐縮でございますが、本心からそう思えたことですので、あえて使用させていただいたことをどうかご容赦くださいませ。昨今、何時でも何処でも耳にする、この「断捨離」という言葉でありますが、どうやら最近になって生み出された用語であるそうで、大雑把に申せば「身の回りに溢れる不要物を極力削減し生活を身軽にすることで、人と社会(広くとらえれば“自然”と言い換えても宜しかろうと思います)との調和をもたらそうとする考え」のことでありましょうか。まぁ、「断捨離」という言葉に目新しさがあるものの、特段に新鮮な主張とは思えません。古来から如何なる宗教においても、同様の主張が説かれておりましょう。一時、中野孝次『清貧の思想』が持て囃されたのとどこか気脈を通ずるムーブメントかとも思います。確かに、物欲に塗れて必要としないものまで貯め込んだり、本当は縁を切りたい人と世間体上で仕方なく付き合いを続けて方も多々おりましょう。限りある人生の中で、本当に必要な人・物だけと最低限に関わることで自身の生を充実させ、その結果として資源の有効活用に寄与すること、そのこと自体を否定するつもりもありませんし、それが本当に可能であれば、美しくも潔い生き方であろうと私も思います。少なくとも、「貪らない生き方」という生き方のスタンスとして共感さえできることです。

 しかし、往々にして、昨今の「断捨離」とは、こうした本来の思想的な背景を捨象した、単なる「ごみ処理運動」といった趣に堕しておりますまいか。私は、身の回りの物を悉く廃棄すれば「清貧な思想」を獲得できるといったご都合主義に、断固否を突き付けたいと存じます。そもそも論として、本来の趣旨であろう「断捨離」の思想的基盤に遡れば、宗教者が参籠の上で日々厳しい修行を重ねても、生中かような境地の足元に到達することすら難しい極めてデリケートなことであります。況や古今東西の宗教的巨人たちにとってすら、おしなべて解決することの難しい問題でもあったのです。「身の回りの物を捨て去ればかような境地に到達できる」など、申し訳ありませんが笑止千万であります。もっとも、「断捨離」という主張には、かような哲学的な思惟など考慮されていないのかもしれません。もしそうであれば余計なお節介であったかもしれません。

 そのことについて、この一年間博物館に勤務させていただいて痛感したことは、物を捨てることなく、大切に保管してきた方がいらっしゃったからこそ、過去の歴史を紡ぐことができるという至極当たり前のことであります。そして、それがどれほど困難なことであり、何にも増して尊く気高い人の営みかに改めて気づかされたのです。『軍都千葉と千葉空襲』展の準備に際して、本館に寄贈されている史料群を拝見して驚かされたことがあります。それは「千葉の空襲を記録する会」の方が収集された史料を目前にしたときのことです。ファイルを拝見すると、戦時中に市内のある町内会で活動をされていた方が保管されてきた史料のようでした。当時、千葉市から託された調査依頼文書から、ちょっとした通知のようなものまで(紙不足の中でたった5cm四方の粗悪な紙切れに印刷された印刷物まで)、よくもここまでと感動させられるほどに整理され保管されておりました。これがあるおかげで、戦時中の実際の市民生活が手に取るように理解できたのです。私も含めてですが、例えば皆さんのご家庭には毎月配布される千葉市「市政だより」がどれくらい前まで保管してあるでしょうか。読み終われば古新聞キーパー行きとなるのが極々一般的であり、数か月前のものすら廃棄されているのが普通です。そうした中、50年前以上前のものが保管されていれば、それは単なる「市政だより」ではなく、正に歴史資料だと思います。また、特別展の最中に、古くから登戸にお住まいの方から太平洋戦争開戦時前後数か月分、および12月8日「太平洋戦争開戦」号外までの「新聞」をご寄贈いただきました。特に「号外」は貴重な資料として、会期途中から追加展示をさせていただいたほどです。

 何回か前の「館長メッセージ」で、千葉で営業をされていた「奈良屋」を取り上げ、何れ特別展を開催したいとの旨を書かせていただきました。しかし、博物館の展示で必要なのは「物」資料です。例えば、必ずあったであろう「奈良屋」の関連ポスター、広告チラシ(古くは「引札」と言いました)等々です。これは、恐らく新聞に挟まって各家庭に配布されたのではありますまいか。販売促進のためのグッズのようなもの(例えば〇京の店印が印刷された団扇)、商品包装用紙、手提袋等々、また「奈良屋」に御勤務されていた方が身につけていたであろう品々(例えば、制服や社員証等々)、店内を飾っていた「奈良屋」を示す看板のようなもの、店内の写真等々。挙げればきりがありません。こうしたものは、よほどの偶然がなければ保管されている方などおるまいと端から諦めておりました。ところが、それらを相当数大切に保管されている方がいらっしゃることが偶々わかったのです。「奈良屋」千葉店に関する資料は、七夕空襲での焼失を経ておりますので、戦前のものは殆ど存在しないことはわかっておりましたが、戦後のものであっても難しかろうと思っておりました。ですから、それを知ったときには正直狂喜乱舞いたしました。その場で、特別展開催の際には是非とも拝借させていただきたいとお願いをさせていただいたことは言うまでもありません。恐らく、これだけでも千葉における「奈良屋」の姿が具体的に我々の前に立ち現れることと存じます。

 以上の事例からも御理解をいただけたと存じますが、一般には塵と変わらずに廃棄される物を「断捨離」などとは無縁に、大切に保管されている方がいらっしゃることで、過去の在り様が明確な輪郭をもって紡ぎだすことができるのです。こうした方は、明確な意図をもって物を大切にされ保管されてきたのであって、決してだらしなくて捨てられずにいて物が残ったのではありません。こうした心性を心の底から素晴らしくも尊いことと存じます。「断捨離など糞くらえ!!」などという尾籠な言葉を使ってしまいましたが、当方のお伝えしたい趣旨はご理解いただけたかと存じます。一つひとつの「物」には、大切な歴史史料となりうる資質があることを自覚され、邪見に破棄などせず、よくよく吟味の上で大切に扱っていただきたいと、心よりお願いを申し上げる次第です。

 何れにしましても、一年間、本館の活動にご理解とご支援とを賜りましたこと、皆様方には心より感謝申し上げます。4月からの新年度も何卒宜しくお願いいたします。


「追伸」の形で、皆様にお知らせをさせていただきます。おそらく千葉市内にお住まいで歴史にご興味がある方であれば、本保弘文先生のお名前を耳にされたことは一度や二度ではございますまい。また、実際にその御講義に立ち会われた方も数多いらっしゃいましょう。郷土史家として研究された守備範囲は大変に広範なものでありましたが、特に「東金御成街道」の研究者として多くの書籍をものされていることをご存知でございましょう。その本保先生が、去る3月14日に満77歳にてご逝去されましたので、この場をお借りしてお知らせをさせていただきます。本館としても心よりの哀悼を捧げたいと存じます。また、私事に渡ることで恐縮でございますが、同じ千葉市社会科教員の大先輩として、個人的に35年の長きにわたり公私ともに間断なくお世話になりました。社交辞令や忖度など一切必要とせず、本当にリベラルで飾ることのないお人柄でした。私にとって敬愛の念を一時も忘れることできない素晴らしいお方でありました。それだけに、親族との死別以上の悲しさで一杯であります。奥様によれば、80歳までの研究計画を御建てであったそうです。中断された研究のことを思えば、先生ご自身もさぞかしご無念であったことでありましょう。本当に残念で仕方がありません。

 

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?