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更新日:2023年10月6日

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館長メッセージ 令和5年度 その1

 目次

 

 

令和4年度 4月から12月の館長メッセージは →こちらへ 

1月から3月の館長メッセージは →こちらへ

令和3年度の館長メッセージは →こちらへ

令和2年度の館長メッセージは →こちらへ

 

 

令和5年度の千葉市立郷土博物館 ―引き続き天野が館長を勤めさせていただきます― ―令和8年度『千葉開府900年』に向けての諸事業を推進して参ります―

4月1日(土曜日)
 

 昨年度から引き続き、本年度も館長の任を勤めさせていただくこととなりました天野良介と申します。令和2年度に館長職を仰せつかってから、今年度で4年目に突入することになります。代り映えのない続投に失望される向きもございましょうが、皆様の期待に応えることのできる企画展等の開催と、本館の抱える課題の解決に向け、粛々と取り組んでまいりたいと存じます。本年度も何卒よろしくお願い申し上げます。

 本館の博物館機能の現状につきましては、「政令市」における歴史・民俗系の博物館としての機能の脆弱、及び改善の必要性につきまして、折に触れて述べて参りました。そのことにつきましては、附属機関としての「千葉市立博物館協議会」からの答申をいただいており、早急な改善の必要性が指摘されているところでもございます。例えば、人口が8万人程の埼玉県行田市の博物館は、人口98万人の本市に数倍する展示施設と充実の展示内容を有する博物館を有しております。また、お隣の市原市には、昨年度「市原歴史博物館」が開館し、その充実した展示内容により、市外から多数の観覧者を誘引しております。嫌が負うにも近隣市同士で比較の対象とされてしまうのは如何ともし難いものがございます。自ら勤務する公共団体を“ディスる”ようで心苦しいものがありますが、正直なところ博物館施設の機能から申せば、本市は全く太刀打ちすらできない状況にあります。残念ながら、現状において、市民の皆様に地域の歴史に誇りを持っていただける展示内容とはなりえてはいないものと憂慮しておりました。

 こうした中、令和8年(2026)に、大治元年(1126)千葉常胤の父常重が本拠地を内陸の大椎(現市内緑区)から、現在の千葉市中央区の中心部に移して千葉市の礎を築いてから九百年を迎えること節目を、千葉市が「千葉開府900年」の記念年として祝祭事業を展開しようとすることを契機に、本館改修へ向けての機運が高まって参りました。その第一弾として、昨年度末の5階眺望の改善が行われましたし、本年度は老朽化したエレベーターを新たな施設に代替することが決まっております(工期:9月から12月までの期間で実施予定)。更に、予てより我々職員も訴え続け、「千葉市立博物館協議会」からも改善を強く要請されておりました、「通史展示」の実現を含む、館内展示状況改善の機運も醸成されてまいりました。その結果、ようやくその必要性が理解され、昨年度から展示リニューアルについての調査検討がスタート。有難いことに、本年度からは千葉市の「計画事業」に位置付けられることとなりました。既に本館ホームページをご覧になっていらっしゃる皆様はご承知のことと存じますが、現在「展示リニューアル設計業務」への参加業者募集を行っております。博物館の展示内容につきましては専門性を有する業者が不可欠ですし、何よりも「安かろう悪かろう」では折角の改修費用を無駄にすることになります。従いまして、我々の示した改修の方向性と、示された予算の内で如何に具現化するか……、博物館設計の経験値を持つ業者から提案をしていただき、それを我々で精査・検討をすることで業者を決定することになります(プロポーザル方式)。

 業者が決定すると、本年度は、業者と伴に具体的な館内改修の実施設計を検討立案していくことになります。勿論、具体的な展示内容と展示構成につきましては、我々博物館職員が主導して構築していくことになります。その「改修コンセプト」として我々が掲げているのが、『「郷土千葉のあゆみ、そのダイナミズム(躍動感ある変遷)がわかる」博物館への再生』であります。その事例の一つとて御紹介したいのが以下のような展示でございます。「通史展示」の実現でありますから、各時代(「原始・古代」「中世」「近世」「近現代」)の展示を実現するのは勿論であります。しかし、それに留まることなく、各時代が次の時代に移り変わる「時代の転換期」の展示を各時代間に設けることで、各時代末に現れた次なる時代の“胎動”を感じ取れるようにしたいと考えております。本地域で見て取れる、象徴的な歴史的動向を採り上げることで、歴史の転換がその時点で惹起していることに気付いて頂くためでございます。それが、本市の歩みが「ダイナミズムがわかる」ことに繋がると考えております。

 また、「原始・古代」から「現代」に到る「通史展示(常設展示)」を貫く「展示テーマ」を『陸と海・人とモノを結ぶ「千葉」』と設定し、本テーマを縦軸に各時代を貫いた展示構成としたいと存じます。アラカルト的に歴史的なトピックを並べたてるだけはなく、歴史的に一貫して千葉市域の在り方を規定してきた要素である、「海と陸」との結節点としての立地と、だからこそ生じた多様な「人とモノ」の移動がこの地に何を齎してきたのかを、原始から現代にかけて展示内容に貫くものとしたいと考えております。勿論、全ての展示をテーマと結びつけることが出来る訳ではございませんが、飽くまでも基本のラインをそこに置くものとお考えいただけましたら宜しいかと存じます。

 もっとも、元より本館の展示面積は左程に広いものではございません。従いまして、現実的に何でもかんでも詰め込んで展示することは叶わないという状況もございます。しかし、だからこそ、限られた内容の中で、テーマとしての一貫性を貫くことでストーリー性を生み出すことが重要と考えております。実際のところ、最上階は展望室であり展示室としては利用できません。また、予て懸案であった「特別展示室」を1階に設けることも予定しております。つまり「通史展示」は2~4階までで展開せざるを得ません。本格的なリニューアルを考えるのであれば、本来新規に建築をすることがベストであるのは申すまでもございません。しかし、本市は令和10年度の開館を目指している「特別史跡加曽利貝塚新博物館」の建設を控えておりますから、本館に割くことのできる予算は現況では決して多くはございません。ただ、折角頂いたチャンスを無駄にすることなく、その範囲内で実現できる、最上の内容を求めて参りたいと考えるものでございます。

 実際の館内展示改修工期は、概ね令和6年度中半から令和7年度半ばにかけてを想定しております。その間は、臨時閉館とさせていただくことになろうかと存じます(従って令和6・7年度の企画展等は例年よりも開催回数等を縮減することになると存じます)。そして、令和7年度後半に「開府900年記念プレ特別展」の開催をもって再開し、令和8年度「千葉開府900年」を迎えるとの流れになりましょう。勿論、令和8年度は、千葉の町の礎を築いた「千葉氏」に因んだ、『記念展示会』を開催すべく、現在職員で構想を練っております。“異次元の展示”にはできませんが、記念年らしい価値ある内容をお示しできるようにしたいものと存じます。つまり、令和8年に向け、本館の施設・展示内容の改善を段階的に進めて参ること、特に展示内容の具現化に向けた取り組みの出発点となるのが本年度となります。本館職員も本年度開催の企画展に関する準備と同時並行で、展示内容構想の検討と実際の展示解説の執筆、担当者同士の内容の調整会議、展示資料の選定等で他機関等への出張、また担当業者との調整等々で、おそらく本年度は多忙を極めることとなることと存じます。例年、本館職員が市内等の多くの歴史講座講師を仰せつかっておりますが、本年度以降は、その数を絞り込んで参らねばならないかもしれません。その点で、皆様にはご迷惑をおかけすることもあると存じますが、如何せん県立博物館と比較すれば圧倒的に実働人数の少ない市立博物館でございますから、これから数年間は本務を最優先とさせて頂くことになることと存じます。その点御寛恕いただけましたら幸いでございます。

 さて、本年度開催の展示会の御案内に移らせていただきます。先に申し上げました通り、本年度は秋口にエレベーター工事が入る関係で、秋には展示会を開催しない変則的な開催日程となります。まずは、開催内容と会期をお示しさせていただきます。

 

【令和5年度開催 特別展・企画展等 テーマ・会期】

(1)千葉氏パネル展 
『京(みやこ)と千葉氏』
※会期:令和5年5月25日(木曜日)~令和5年11月19日(日曜日)
※会場:本館1階展示室

(2)企 画 展
『商人(あきんど)たちの選択 -千葉を生きた商家の近世・近現代』
※会期:令和5年7月11日(火曜日)~令和5年9月3日(日曜日)
※会場:本館2階展示室

(3)特 別 展
『千葉城落城 -「享徳の乱」と千葉本宗家の交代-(仮称)』
※会期:令和6年1月16日(火曜日)~令和6年3月3日(日曜日)
※会場:本館2階展示室

 

 

 順を追って、展示会のあらましをお伝えさせていただきます。まずは、例年開催しております「千葉氏パネル展」でございます。本年度のテーマは千葉氏と京(みやこ)との関係性に焦点を当てた内容といたしました。何故かと申せば、令和の世になってからの『鎌倉殿の13人』でも、十年一日のような東国武士の描かれ方がされており、「未だにこの有様か……」と途轍もない違和感を感じさせられたからでございます。それは、京から伊豆国に下向してきた国衙の役人に、北条時政が野菜を手土産にしたことに都人が怒って足蹴にするシーンでございました。こうした東国武士の描かれ方は、今から半世紀ほど前『草燃える』のそれと基本的に選ぶところがございません。記憶によれば、その時にも北条時政の初登場シーンは鍬と大根を担いだ農民姿でありました。まぁ、それ自体は当時の研究レベルを示したものと許容することもできましょう。しかし、今日の中世史研究の目覚ましい発展を経て、未だに斯様な描写がされていることに驚かされたのです。これは、東国武士とは都の慣習や礼儀も知らない文化レベルの低い田舎者であり、文化のレベルは「西高東低」であるといった認識が未だに根強いことを示しております。しかし、今では、必ずしも武士が地方で生まれたとは言えず、京との深い関係の中で誕生し、京で育まれた存在であることが明らかになっております。従って、都の慣例も知らない質実剛健だけが取柄の人たちとは言えないのです。そして、我らが千葉氏もまた、京との深い関わりを有する武士団であり、それに相応しい文化水準を身に着けた存在であったことを知っていただく、そのような構成の展示とすることを目論んでおります。当初の仮題は「シン・千葉氏」としていたのでしたが、流石に調子に乗り過ぎだとの自己規制が働き、最終的に無難なタイトルに落ち着きましたが、新たな千葉氏の姿にお気づき頂きたいとの願いが込められております。是非とも御期待されておいてくださいませ。これまた例年のように、1冊100円の「ブックレット」の販売もさせていただきます。

 続いて、企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代』でございます。昨年の企画展『甘藷先生の置き土産』が地域の農業生産を中心としたものでありましたので、本年度は商業活動に焦点をあてることにいたしました。江戸時代から近現代にかけての、千葉における商業のあらましを掴むことから始め、主に3軒の商家を中心的にご紹介いたします。その何れもが淵源を近世にまで遡り、近代・現代まで営業を続けて来られた商家でありますから、古くからこの地に居住されている方であれば、誰もがその店名をご存知でありましょう。また実際に店内に脚を踏み入れた方々も懐かしく思い出されようかと存じます。その3軒が、「多田屋」、「岩田屋(和田紙店)」、そして「奈良屋」でございます。

多田屋は、文化2年(1805)に上総国東金町で創業した、書籍・文具の販売を家業とする「多田屋書肆」にまで遡ります。県下で最も古い由緒を有する書店であり、明治6年(1873)からは県中の教科書特約店となり、徐々に県下に店舗展開をするようになりました。小生が教職員として本市に着任したのは昭和58年(1983)でしたが、当時の千葉市内でも一二を争う充実の品揃えを誇る書店が多田屋でございました。東京に生まれ育った小生は、神保町に出掛ければ少なくとも新館本でも古書でも、必要な書籍は必ず入手できる環境におりましたから、縁も所縁も無かった千葉市での就職にあたって、何が不安だったかと申せば、マトモな本屋があるかどうかでした。しかし、それは間もなく杞憂に過ぎないことがわかったのです。それが、個人全集・専門書から文庫本・新書まで豊富な品揃えを誇る多田屋の存在だったのです。正に「何とかに仏」の思いでございました。当時「セントラルプラザ」内に構える多田屋書店には個人的に大変にお世話になりました。一方で出版業にも進出。かの「アララギ」(1~3巻)の刊行から、地域史関係の書籍等々、当方の書棚にも多田屋出版の書籍が何冊もございます。現在は、実際の書店展開は縮小されておりますが、手広く教科書卸・外商等を展開されており、地道な経営を継続していらっしゃいます。

 また、二つ目が、近世末の天保年間に創業し、現在も都川に掛かる「大和橋」際に立地して営業を続けていらっしゃる、生粋の千葉生え抜き商家「岩田屋(和田紙店)」であります。そして、三つ目が、永く千葉市にお住まいであれば、必ずお世話になったことがあるであろう、市内の百貨店「奈良屋」でございます。こちらは、千葉県内・千葉市内で最も格の高い百貨店として夙に知られておりました。最後の社長は杉本郁太郎であり、俳人としても名高い方でありました。「奈良屋」は長く千葉市にお住まいの方でも、地元企業として認識されている節がございますが、本店は京都にあり、郁太郎氏も京育ちで流暢な京言葉を話されていたそうです。その商標が「丸に京」であることも上方由来の店舗であることの表象に他なりません。京都には、かつて本店機能を担っていた巨大町屋としての「杉本家住宅」が今に残され、今でも御子孫の方々がお住まいです。あまつさえ、建物は国重要文化財に、庭園は国名勝にも指定されております。創業は近世に遡る「呉服店」であり、最初は県内の佐原に出店し、かの伊能忠敬とも深い親交を有しておりました。続いて佐倉に、明治以降に千葉が県庁所在地となるに及び千葉にも出店。その後、中心機能を千葉市に移し百貨店に衣替えし、多様な品揃えで市民にも親しまれました。その意味で、伊勢国出身で江戸の地で商売を続けた呉服商「三井越後屋」と類似した商業活動を、この千葉の地で展開された商業形態であったのです(杉本家の出自も伊勢国にございます)。こうした経営形態を「他国店持京商人(たこくだなもちきょうあきんど)」と称します。その後、「奈良屋」は県内でトップの業績を誇る百貫店へと成長しますが、ライバル店の進出に対応するため、昭和47年(1972)三越と合弁の「ニューナラヤ」を開業して百貨店機能を引継ぎ、これまでの店舗を複合商業施設「セントラルプラザ」に改装します。更に、昭和59年(1984)「千葉三越」に改称し、経営権を三越に譲渡しますが、平成29年(2017)年にそれも閉店となりました。既に平成13年(2001)の段階で旧店舗の「セントラルプラザ」も営業を終えており、この時点で(株)奈良屋の営業も事実上終焉し、約260年に及ぶ歴史に幕を引いております。企画展では、斯様な経営形態を選択された杉本家の歴史とその商業活動の在り方を紹介いたします。因みに、郁太郎のご子息がフランス文学者の秀太郎氏であります。俳人としての郁太郎氏と併せて、商人の文化活動の側面にも迫ってみたいと考えます。

 最後に、特別展『千葉城落城-「享徳の乱」と千葉本宗家の交代-(仮称)』について。こちらは、令和8年(1026)度「千葉開府900年」にむけ「千葉氏」の諸相に迫る、所謂“プレ展示”と位置付けた展示内容となります。今年度も昨年度同様、千葉市域から関東を舞台とした「中世(室町時代)」に焦点を当てますが、扱う年代は昨年度の特別展『我、関東の将軍にならん-小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏-』を少々先立つことになります。つまり、京を中心として世情を混乱の巷に追い込んだ「応仁の乱」に先だち、関東で発生した「享徳の(大)乱」の時代を採り上げ、千葉氏一族が本戦乱に如何に関わったのか、またその結果として如何なる状況に到ったのか、その動向を探る展示会といたします。現在では、「応仁の乱」自体が、関東における戦乱である「享徳の乱」の波及によって惹起された戦乱であるとも言われるようにもなりました。すなわち、「享徳の乱」は関東で勃発した大乱ではあるものの、国内の政治状況にも甚大なる影響をもたらした出来事だということであります。そして、我らが千葉氏にとっても、その在り方に甚大な変化を生じさせる重大な戦乱でもあったのです。

 すなわち、千葉一族内の混乱を発端として、本宗家(千葉介胤直)が滅亡し本宗家の交代が惹起したこと(「佐倉千葉氏」の成立)、新たな千葉介は本拠を本佐倉に移したこと(「本佐倉城」の造営)、これまでの本宗家の一流が武蔵国に移って家系を繋いだこと(「武蔵千葉氏」の成立)、その後武蔵千葉氏と佐倉千葉氏との抗争が京都の幕府と関東の動向とを反映しながら展開すること(古河公方と上杉氏の対立)、幕府の意向を受けて千葉六党の東常縁が美濃国から関東に下向したこと等々、下総の地も混乱の巷と化すこととなるのです。近世に上田秋成がものした『雨月物語』内の一篇「浅茅が宿」も、この時代の下総国市川の辺りを舞台とした説話であることは皆様もご存知でございましょう。こうした複雑な流れを整理しながら、千葉一族の動向を当該時代の中に位置付け、それぞれの持った意味を探って参りたいと存じます。タイトルは未だ仮称であり開催時までには大きく変わることになると存じます。単なる動向の整理に終わることなく、当該時代の下総国における動向を関東・全国の視点から俯瞰的に捉えることを通して、当該時代像を御理解頂けるように構成する考えでございます。是非とも期待されてお待ち頂けるようお願いを申しあげます。

 以上、本年度の本館の事業につきまして、これから数年をかけて実現することとなる“館内リニューアル”に向けての取り組みが本格的にスタートすること、特別展をはじめとする展示会概要等について申し述べさせていただきました。そのほかにも、例年行っております市民講座、小中学生等を対象とする教育普及活動等々を着実に推進して参ります。今後も、公共機関としての本務を忘れることなく各事業を推進する所存でございます。本年度の千葉市立郷土博物館の活動につきまして、今後ともご支援を賜りますことをお願いいたしまして、年度当初のご挨拶とさせていただきます。本年度も何卒宜しくお願いいたします。
 

 

令和4年度分「千葉氏ゆかりの地」案内看板を新たに設置しました!! ―高品城跡・高徳寺・大巌寺・小弓城跡・南小弓城跡の5カ所に―

4月7日(金曜日)
 
西大寺のほとりの柳をよめる
あさみどり いとよりかけて 白露を
珠にもぬける 春の柳か
(遍照『古今和歌集』春上)
 
花さかりに京を見やりてよめる
見わたせば 柳櫻を こきまぜて
都ぞ春の 錦なりける
(素性『古今和歌集』春上)
 

 

 

 令和5年度の幕があがって早一週間が経過いたしました。昨年もこの時期に述べさせていただいたと記憶しておりますが、通勤途中に車窓から開ける、江戸川の河川敷と堰堤に咲き誇る菜の花と櫻花、そして輝く柳の糸に新緑のコントラストには心底癒されます。そういえば、現在、小生の住む東京都では「神宮外苑」再開発を巡って、緑地を保護するか否かに関して一悶着が起こっております。ミュージシャンの坂本龍一氏らによる嘆願書が東京都に提出されたと先日の報道で知りました。そこで坂本氏は、一部の富裕層と大企業の利益に資することが大きく、当該地に長く居住する一般市民には必ずしも好影響をもたらさない再開発の在り方、また再開発で貴重な緑地が滅失することの問題を訴えていらっしゃいました。その趣旨を勘案すれば、小生が「呑兵衛の聖地:立石」再開発で指摘した問題といみじくも通底していると感じた次第でございます。まぁ、そのことの当否はさておくとして、そこに決定的に欠けているのが、当該地に「居住する住民」の視点だということには概ね異存はございますまい。江戸川の自然に心和む小生としては、少なくとも保護を訴える方々の想いに親近感を感じてしまいます。幸いに、江戸川流域の景観は治水上の要請からも、今後も長く維持されるものと思われます。どこもかしこも高層マンションの林立する、都市の個性を感じさせない景観とすること、また長く居住する極々普通の人達が当地を追われるようなことがあるとすれば、「故郷創生」(チト古いですね)に繋がるとは到底思えません。何れにせよ、江戸川の春景をあと幾度目にすることが叶うかわかりませんが、今の麗しい景色をじっくりと目に焼き付けておきたいと思う次第でございます。

 今回の冒頭歌は、父子の手になる古今集からの2首となります。特に後者は広く人口に膾炙している詠歌かと存じます。柳樹は中国で愛され、漢詩にも頻繁に登場します。おそらく仏教の伝来とともに我が国にも齎らされたのではありますまいか。万葉集にも柳を歌い込んだ詠歌が20種ほどございますが、柳と櫻のコラボレーションに接すると何時も古今集の本作を思い出します。何時もの塚本邦雄のアンソロジーからの引用となります。以下に、これまた塚本氏の短評を掲げさせていただきます。どうぞ御堪能あれかし。

 

 和漢朗詠集にも「青絲縿出陶門柳(せいしくりいだすたうもんのやなぎ)」などが見え、遍昭はこの絲に露の眞珠をつないで、新趣の美を創つた。遍昭集ではこの歌を二首目に置き、冒頭は「花の色は 霞にこめて 見えずとも 香をだにぬすめ 春の山風」古今集序に「うたのさまは得たれどもまこと少なし。繪にかける女を見ていたづらに心をうごかすがごとし」の評あり。貫之自身はいかが。

 紅葉を秋の錦繡に見立てるのは最早常道、和漢朗詠集の「花飛如錦幾濃化粧(はなとんでにしきのごとしいくばくのぢようそうぞ)」に見るやうにば、桃李も錦、柳櫻もまたその光耀と精彩を誇ると感じたのだ。新しい美の發見に繋がる。詞書の通り「京を見やりて」、すなはち都から離れて、高みから見渡し見下ろす、パノラミックな大景である點も、この歌のめでたさ。作者は遍昭在俗時代の子。

 [塚本邦雄撰『淸唱千首』1983年(冨山房百科文庫)より]
 

 

 さて、コロナ禍の影響により中止となっておりました「千葉城さくら祭り」が4年振りに開催となり、去る4月2日(日曜日)に閉幕となりました。前半は雨と冷え込み(「花冷え」)で人の出も思わしくありませんでしたが、会期後半にはお天気も持ち直し春日和が続いたお蔭か、相当の賑わいでございました。その余沢をもって特別展開催時でも斯様な数値は見たことのない、千人越えの来館を頂いた日が幾日もございました。御出でいただきました皆様には、この場をお借りして御礼を申しあげたいと存じます。ありがとうございました。そんなこんなで、ようやく亥鼻山も普段の落ち着きを取り戻しました。今では、本館から眺める亥鼻山も葉桜の若緑となり、これはこれで美しいものでございます。桜花は終わりましたが、暑くなる前に新緑を全身に浴びに、どうぞ亥鼻山に脚を御運びになってくださいませ。序に、本館にもたち寄っていただけますと幸いでございます。

 因みに、明治期の記録によれば、亥鼻山は松樹の生い茂る地であったようです。それを、大正15年(1926)に開催された「千葉開府800年祭」を機に桜樹(ソメイヨシノ)を植えたことが、亥鼻山が桜の名所となった嚆矢となります。そうであれば、令和8年(2026)に迎えることとなる「千葉開府900年祭」で百年を迎える訳です。そもそも、“クローン植物”であるソメイヨシノが花の盛りを迎えるのは植樹から50~60年ほどだそうです。その後は徐々に衰え、樹齢自体も概ね100年程度とされているとのことです。ということは、亥鼻山の桜は寿命を迎えているということです。ここ数年、その再生を目的に世代交代を進めておりますが、チト取り組みが遅きに失した感は否めません。老樹の多くが伐採されて、植樹された桜樹が若木ばかりなのですから、到底「花の雲」といった状況には至らないのは当然でございます。小生が初めて亥鼻山で桜花に接した日は既に40年も昔のことになります。それは、それは、見事な花の宴でございました。要するに、あの時と同様の様子になるには、半世紀後になるということです。もしかしたら、それまでは、余り人の足で根が踏みつけられぬよう、保護を加えた方が宜しいのかもしれません。

 さて、今回は、昨年度中に触れることができなかった事業報告をさせていただきます。それが、標題にも掲げさせていただきました、令和4年度「千葉氏ゆかりの地」案内看板でございます。本事業は、千葉市教育委員会生涯学習部文化財課が主管として行っておりますが、看板の内容は本館が担っております。令和8年度に迎える「千葉開府900年」に向け、令和2年度からスタートした「千葉氏PR計画」の一環事業に他なりません。令和2度分「第一弾」として設置の“5カ所(猪鼻城跡・お茶の水・大日寺跡・本円寺・浜野城跡)”翌3年度の第二弾として“4カ所(智光院・胤重院・宗胤寺跡・紅嶽弁財天)”への設置が既に行われました。そして3年目となる令和4年度に5カ所の案内看板が完成し、3月末日までに各場所に設営されております。そこで、本稿でも案内看板の文言のみでありますが、以下に紹介をさせていただきます。近々、現地の設置状況を撮影し、現地の状況をツイッターにてご紹介もさせていただきます。また、写真等も含まれる実際の看板につきましては、以下の千葉市教育委員会生涯学習部文化財課アドレスにアクセスしていただけるか、現地で看板にあるQRコードをスマホで読み込むと、「案内看板ホームページ」にアクセスいただけますので、全容につきましてはそちらをご覧ください。また、当該HPには「英・中・韓」三か国語による解説文翻訳も掲載されることとなっております。お知り合いに外国の方がいらっしゃいましたら、是非ともお伝えいただけましたら幸いでございます。

 

千葉氏ゆかりの史跡・伝承スポット
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/chibauzishiseki.html

 

 

高品城跡(千葉市若葉区高品町948-2 )
 戦国時代の本拠・本佐倉城と千葉のまちを結ぶ街道上の城

 高品城は、台地を利用した戦国時代の城郭です。この時代、千葉氏の本拠は本佐倉城(佐倉市・酒々井町)に移っていました。しかし、厚く信仰する千葉妙見宮(現在の千葉神社)がある千葉は変わらず重要な地で、千葉と本佐倉を結ぶ街道上にある高品は、千葉の出入り口をおさえる軍事的要衝でした。
 千葉妙見宮に伝わった『千学集抜粋』に、戦国時代の千葉氏嫡男の元服(成人の儀式)の記事があります。これによると、永正2年(1505)に行われた千葉昌胤の元服では、本佐倉城から500騎の騎馬行列を組み、まず高品城に入ります。ここで、重臣が諱(元服後の名前)の候補を三つ受け取り、妙見宮へ赴き。神前でくじを引いて一つを選びました。昌胤はこれを待って、家臣たちと妙見宮に参り、宴を開いたと記されています。高品城はこうした儀式でも大切な機能を担っていたのです。
 隣接する等覚寺の薬師如来坐像は、胎内の銘文から、千葉邦胤の元服が行われた元亀2年(1571)に、高品城主の安藤氏らが造立したことがわかっています。

 

高徳寺(中央区亥鼻町2年10月5日) 
千葉氏胤を弔い原胤高が開いた寺

 
 高徳寺は曹洞宗の寺院で、南北朝時代に活躍した千葉氏胤の四男、原胤高が開いたとつたえられています。氏胤は、足利尊氏に従って南朝との戦いで活躍する一方、和歌を得意とし、歴代当主の中で唯一、その歌が勅撰和歌集『新千載和歌集』に掲載されました。貞治4年(1365)に32歳の若さで死去しましたが、高徳寺も同じ年に建てられたと伝わります。しかし、胤高は当時まだ幼く、実際には成人後に父の供養のために建てたと考えられます。
 原氏は、現在の中央区生実町にあった小弓(生実)城を本拠としました。康正元年(1455)、原胤房(胤高の孫)は千葉一族の長老、馬加康胤とともに千葉家当主、胤直(氏胤のひ孫)を滅ぼします。康胤が千葉氏の新たな当主になるのを助けたことから、原氏は重臣筆頭である「家宰」となりました。
 境内の閻魔堂には、明応4年(1495)作の閻魔王坐像が安置されています。本尊の地蔵菩薩が死者を救済する一方ぼ、閻魔王は死者の生前の罪を裁くものとして信仰され、当時両者は同体とも考えられていました。背後の亥鼻台地は、中世には墓所であるとともに聖域でもあったと考えられます。この地蔵菩薩坐像と閻魔王坐像は、中世都市千葉における亥鼻台地周辺の位置づけを示す貴重な文化財です。

 

 

大巌寺(千葉市中央区大巌寺町184-4)
千葉氏家宰・原胤栄夫妻によって開かれた学問所
 

 大巌寺は浄土宗の寺で、戦国時代の天文年間(1532~1555)、千葉氏家宰(重臣筆頭)で小弓(生実)城主の原胤栄夫妻が、道誉貞把を開山として創建しました。胤栄の妻の病を癒したことから、妻が貞把への信仰を深め、城の北方にこの寺を建てたと伝わっています。
 この頃、本佐倉城(佐倉市・酒々井町)に本拠を移した千葉氏に代わり、原氏がこの辺りを含む小弓地域を治めていました。天正5年(1577)に、胤栄が大巌寺に対して領地と屋敷を安堵(保証)する古文書が残っています。小弓地域は、湊に近く主要な街道も通る水陸交通の要地だったため、しばしば奪い合いの対象となりました。この7年前には安房国(千葉県南部)の里見氏に奪われましたが、この古文書から、胤栄が小弓地域を取り戻したことがわかります。
 天正18年(1590)の小田原合戦で北条氏が敗れると、北条氏に味方した原氏も豊臣秀吉に滅ぼされました。しかし、大巌寺は徳川家康の保護を受け、江戸時代には関東十八檀林(浄土宗の僧侶育成所)の一つとして栄えました。本堂とともに国登録有形文化財となっている書院は、浄土宗の学問と教育の場としての雰囲気を今に伝えます。
 


 小弓城跡(千葉市中央区生実町)
 千葉一族が諸勢力と奪い合った城


 15世紀後半、千葉氏が本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に本拠を移すと、千葉一族で家宰(重臣筆頭)の原氏が小弓(生実)城に入り、原愛の千葉市周辺を支配下に置きました。
 小弓(生実)地域は、上総国と下総国の国境付近に位置し、水陸交通の要衝でもあり、房総半島中部の政治・経済上の重要地域でした。そのため激しい争奪の対象となります。
 永正14年(1517)、小弓城は下総への勢力拡大を図る真里谷武田氏に奪われ、翌年、武田氏が支援する足利義明が入りました。後に小弓公方と呼ばれた義明は南関東に勢力を広げ、その本拠となる小弓地域は、戦国時代前期の関東における政治的中心地の一つとなりました。天文7年(1538)、第一次国府台合戦で義明が討たれると、原氏は小弓城を取り戻しますが、今度は東京湾沿岸の支配を狙う里見氏の攻撃を受けます。北条氏の支援を得て対抗しましたが、元亀元年(1570)、里見軍に小弓地域を占領され、原氏は臼井城(佐倉市)に本拠を移しました。
 天正5年(1577)、北条氏と里見氏の和睦により、ようやく原氏は小弓地域を完全に取り戻しました。しかし、天正18年(1590)、原氏が従っていた北条氏が豊臣秀吉に敗北すると、原氏も滅びることになりました。

 

 

南小弓城跡(千葉市中央区南生実町)
 千葉氏家宰・原氏が小弓城を守るために築いた支城
 

 戦国時代、小弓(生実)地域には南北に二つの小弓城が存在しました。これまで、のこの南小弓城の方が、北の小弓(生実)城(中央区生実町)よりも古くから存在し、小弓公方足利義明の御所もこちらにあったと考えられていました。しかし、発掘調査等により、小弓城は15世紀後半頃から存在しており、義明が拠点としたのも小弓城であったことなどが判明しました。
 南小弓城は発掘調査が行われていないため成立時期は不明ですが、本丸に当たる主郭(「古城」のあたり)の、周りにかつて存在していた堀や土塁の形態、中鼻(原)地区にある出入口を守るための施設(馬出状曲輪)の配置などから考えると、16世紀半ば以降に築かれた可能性があります。
 戦国時代後期、本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に本拠を移した千葉氏に代わって、小弓地域は千葉氏の家宰(重臣筆頭)・原氏が治めていました。しかし、東京湾沿岸の制圧を目指す安房国の里見氏もこの地域への進出を狙っており、激しい戦いが繰り返されました。水陸交通の要衝である小弓地域は千葉氏にとって重要で、なんとしても守りたい領地でした。南小弓城は、小弓城を守るため、上総方面へのおさえとして、この時期に原氏によって築かれたと考えられます。
 原氏は、里見氏に対抗するため、同じく里見氏と敵対する小田原の北条氏と結んでいましたが、その結果、千葉氏と並ぶ房総における北条側の有力勢力になっていきました。
結局、里見氏との戦いが終結し、原氏が小弓地域の支配を完全に取り戻すには、天正5年(1577)の北条氏と里見氏の和睦を待たなければなりませんでした。

 

 


 以上でございます。「千葉氏ゆかりの地」案内看板も3年間で合計14カ所に設置されることとなりました。今後も、令和8年度「千葉開府900年」までに、毎年5つ前後の看板を継続して市内各所に設置してまいります。現在は主に中央区に偏る設置場所も徐々に広げて参りますので、こちらも楽しみにされていてくださいませ。お天気の宜しき折に、春の薫風を胸いっぱい吸い込みながら、ご家族でサイクリングやピクニックがてら、千葉氏関連史跡をお巡りされては如何でございましょうか。 

さて、最後になりますが、昨年度末の本稿にて、御紹介をさせていただきました本館発行の印刷物でございますが、販売・頒布を既に開始しております。『千葉いまむかし』第36号(定価500円)、『研究紀要』第29号(ご希望の方に無料頒布)、『ちば市史編さん便り』第30号(ご希望の方に無料頒布)、そして『令和4年度千葉市・千葉大学公開市民講座「酒天童子の物語と千葉氏-逸翁本『大江山絵詞』をめぐって-講演録』(ご希望の方に無料頒布)の以上4品でございます。

何れも、本館のみでの販売と頒布となります。受付で御所望の冊子等を係員にお伝えくださりましたら御手渡しをさせていただきます。ただ、「ちば市史編さん便り」のみは、受付近くの販売図書展示場所と、1階展示室で開催中のミニ展示「きてたの!?家康」会場に設置してございますのでご自由にお取りください。お一人様1冊でのお渡しでお願いいたします。なお、何れも品切れ次第、販売・頒布を終了させていただきます。その点、何卒ご理解のほどをお願い申し上げます。印刷数も左程に多いものではございません。ご希望の方はなるべくお早目に御出でくださいませ。


 

徳川将軍家の上洛について(前編)―上洛のための御殿造営と伏見城・二条城の機能―

4月14日(金曜日)

 

 現在、本館の1階展示室では、恒例の「千葉市の遺跡-中世の城館-」を開催しておりますが、以前にもご紹介いたしましたように、併せてミニ展示「来てたの!?家康」の展示も行っております。それは、現在の千葉市域に家康が実際に来葉していたこと、それに伴う所縁の「御殿(城館)」が市内に2か所存在することを機縁としております。即ち、家康が造営した「東金御成街道」と、家康が宿泊・休憩に用いた「千葉御殿」と「御茶屋御殿」であり、それらを採り上げた展示内容となっております。勿論、恥も外聞もかなぐり捨てた“大河ドラマ当て込み”企画であることは申すまでもございません。その展示に併せて、東金御成街道の研究者でいらっしゃった故本保弘文先生の追悼展示(御高著が中心です)、及び関東から関西にかけて広く造営された、いわゆる「徳川御殿」に関する関連書籍の展示もさせていただいてもおります。

 こうした「徳川将軍家」所縁の御殿は、家康死後にも必要に応じて造営されておりますが(例えば日光に改葬された東照宮に詣でるために造営された御殿、将軍家の静養のために設けられた御殿等々)、家康の在世中だけでも駿府から江戸の近郊にかけて60か所ほどに及ぶ御殿・御茶屋が造営されております。造営目的も様々ですが、主な目的は、一つに、大御所時代の居城である駿府(現在の静岡市中心地)と江戸との経路上に宿泊・休憩のために造営されたものであり、二つに、家康の好んだ鷹狩を目的に関東各地に出張った際の宿泊・休憩施設として築かれたものと申せましょう。前者としては、東海道平塚宿から分かれ、東海道の西側を江戸に向かう中原街道に造営された「中原御殿」と「小杉御殿」(武蔵小杉は今ではタワーマンションの林立する憧れの居住地の一つと耳にします)がそれに当たりましょう。また、後者では、現千葉市域近隣では「船橋御殿」「東金御殿」「土気の茶亭」、そして上述の2つの御殿が該当します(小生は、以前にも述べたように単に鷹狩だけを目的としたものではないと考えておりますが)。勿論、両者を明確には線引きすることはできず、双方を兼ねた御殿等も多々ございます。そして、基本的には、宿泊施設として造営されたものを「御殿」、休憩施設を「御茶屋(茶亭)」と分類しているようです(ただ、こちらも明確に分別されているわけではございません)。

 宿泊施設としての「御殿」には「賄屋敷」(調理施設)が付属しますが、「御茶屋」にはそれがございません。千葉市若葉区御殿町に残る「御茶屋御殿」にはその双方が混在しておりますが、こちらの実態は、休憩のための「御茶屋」となります。後に、両者の区別を意識しないままに呼称されたことが混乱の原因かと存じます。千葉市中央区の中心街に立地した「千葉御殿」には実際に家康が宿泊した記録が残りますから、周辺には「賄屋敷」が存在したものと思われます。ただし、その「千葉御殿」を含む「船橋御殿」や「東金御殿」は、跡地が市街地に変じたり、裁判所や学校等の施設になったりしており、発掘調査が行えてはおりません。「東金御殿」には簡単な屋敷平面図が残っておりますが、それを現地での発掘調査で確認できない憾みがございます。その点、市域に残る「御茶屋御殿」では内部が全面的に発掘され、休憩施設としての建物配置等が判明したことに大きな意義がございます(逆に、こちらには図面等の資料がございませんが)。

 しかし、所謂「徳川御殿」は東国にのみ造営された訳ではございません。先月中旬に、発掘調査により徳川将軍家の利用した御殿跡から「隅櫓の石列が見つかった」との新聞報道がございましたので、ご記憶の方も多かろうと存じます。それが、滋賀県野洲市内に立地する「永原御殿」跡でございます。これまで継続した発掘調査が行われており、その成果から国史跡に指定されてもおります。そこで、現在開催中のミニ展示に併せて「永原御殿」のことも御紹介させていただこうと、野洲市教育委員会にお願いして関係資料をお譲り頂き、現在会場に展示をさせて頂いております。資料によれば、こちらは家康から家光まで継続的に利用された「徳川御殿」であり、家康が6回、秀忠が4回、家光は2回の利用が記録から見て取れるといいます。そして、「御茶屋御殿」「中原御殿」のような単郭方形館ではなく、水堀に囲繞された本丸・二の丸を有する複郭を有する堂々たる城館遺構であったことが分かります。更に、家光時代に三の丸が造成されており、これが今に残る遺構となっております。内部には壮麗なる御殿建築や茶室等の施設まで造営されております。その結構につきましては、是非とも本館の展示資料にてご覧頂ければと存じます(野洲市のHPでも大々的に公開されておりますのでそちらでご確認いただくこともできます)。しかし、なぜかような場所に「徳川御殿」が存在するのでしょうか。実のところ、近江国(現:滋賀県)には「永原御殿」の他に「伊庭御殿」「柏原御殿」「水口御殿」が造営されてもいるのです。

 歴史を紐解くと、徳川家康は、慶長5年(1600)「関ケ原の合戦」に勝利した後、関ヶ原から西に向かい、所謂「朝鮮人街道」(後述)を通って京・大坂に赴き、そこで「関ヶ原の合戦」の論功行賞を行っております。そして、慶長7年(1602)には、京における宿所として「二条城」を築城しました[現在見る二条城は後に3代将軍家光(大御所の秀忠)によって拡張された姿であり家康時のものではありません]。これら近江国の御殿は、その間にあたる慶長6年(1601)前後に、徳川家康の江戸と上方との行き来で宿泊として用いることを目的に整備されたものと思われます。つまりは、「上洛」のための御殿と位置付けることができましょう。宿泊を伴う将軍(造営時には家康は未だ将軍ではありませんが)の外出では、防衛上の理由から基本的に専用の施設を必要とします。一般的には所縁の大名の居城を用いるのですが、行程上に利用できる城郭が常に存在するわけではございません。こうした場合、新たに宿泊のための「御殿」施設が造営されたのです。元来、この「永原」の地は、天正19年(1591)年に、上洛時の“在京賄領”として秀吉から宛がわれた徳川領でありましたから(当時は徳川家にとって最西端の領土でした)、御殿の造営には願ったり叶ったりの立地でもありました。家康は、翌年に征夷大将軍に任じられ幕府を開くことになりますが、当時の政局は未だ上方を中心に動いておりましたから、後に触れますように上方に拠点を有する必要がありました。それが、一つに「二条城」の造営であり、更に江戸と上方との往復経路上の御殿施設建設の必要に繋がったというわけでございます。

 さて、近江国における「徳川御殿」は、江戸から京への移動経路によって2系党に分かれて整備されました。一つは、東海道を辿って鈴鹿峠を越えて近江国に到る経路上に造営された「水口御殿」であり、二つに、東海道から美濃路(中山道のルート)に合流して関ヶ原を通過して入る近江国のルート上に設けられた、北側から順に「柏原御殿」「伊庭御殿」「永原御殿」となります。因みに、この中で「柏原御殿」と「伊庭御殿」は、「永原御殿」よりも遅れて造営されたようです。前者は秀忠により、後者は家光によって造営されたと伝わります。特に、「伊庭御殿」は方形ではなく南北に細長い敷地として造営されており、徳川御殿では珍しい形状だと思われます。また、「永原御殿」造営時には、名古屋城は未だこの世に存在せず[ほぼ完成して徳川義直が移徒するのが元和2年(1616)あたりと言われます]、尾張国の政治拠点は清州城でした。ところで、後者の経路では「柏原御殿」は中山道上に立地しますが、残りの2つの御殿は摺針峠を下った中山道の鳥居本宿から分岐して中山道と並行するように琵琶湖側を南下する「朝鮮人街道」上に造営されております。本道は、その先の野洲宿で再び中山道と合流し、その南の草津宿にて第一の経路である東海道と合流することになります。

 ここで、所謂「朝鮮人街道」なる少々異なる呼称の街道について簡単にご説明しておきましょう。本道は、上述のように中山道と並行して存在する街道でございますが、近世になって「朝鮮通信士」の通行に用いられたために、斯様な通称で呼ばれるようになったのです。中山道の西の琵琶湖沿いを、彦根・安土・(近江)八幡と経由するルートとなります。経由地をご覧になればお分かりになりましょうが、この街道は、織田政権下では岐阜城と安土城との往復のために、豊臣政権下では八幡城と京・大坂とを繋ぐために、更に、徳川政権では中山道と彦根城下とを繋ぐ経路として重要視されたのです。なお、譜代筆頭となる井伊家の居城となる彦根城は、慶長8年(1603)から天下普請によって造営が開始されており、完成まで井伊直継は石田三成居城であった佐和山城を本拠としております。因みに“徳川四天王の一人として知られる直継父の井伊直政は関ヶ原合戦で受けた傷がもとで前年の慶長7年(1602)に没しております。そして、本街道は、徳川家康にとっては、何にも増して関ヶ原の合戦に勝利後に通行した“吉例の道”であり、その後も秀忠・家光も上洛時には本道の通行することが慣例となりました。しかし、その後、幕末に14代将軍徳川家茂の上洛までは将軍上洛は行われることが無くなり、少なくとも「永原御殿」は宝永2年(1705)には建物が撤去されて役割を終えたとされております。おそらくその他の御殿も同様であったと推定されます。ただ、近江国における例外として、東海道に設けられた「水口御殿」が挙げられます。

 家康が造営したと考えられる東海道筋の「水口御殿」は、寛永11年(1634)徳川家光の上洛に当たって廃され、場所も移されて新規の施設として造営し直されております。これが現在に残る水口城となります。造営奉行を小堀遠州が務めた本御殿内には、豪壮な御殿建築が造営されたとのことです。しかし、家光の利用はこの時限りであり、天和2年(1682)に加藤明友が2万石で本御殿に入ることとなります。つまり水口藩の成立であります。この時点で「徳川御殿」が加藤氏の居城に転じた珍しい事例であります。こうした経緯もあって、歴代藩主は「徳川御殿」を預かっているとの意識を有し、本丸御殿を一切利用することなく大切に管理し続けたとのことです。因みに、この時の、家光の上洛では、往路では既に完成していた名古屋城に2泊しております。そのために尾張藩が本丸に新規造営した建築が「上洛御殿」であり、空襲で焼失するまで現存しておりました。もっとも、近年木造で古の儘に再建されており、その威容を実際に見ることができます。尾張藩も、以降は本丸御殿は将軍家の施設として藩主が利用する事はありませんでした。その後の往路で家光は佐屋路を通行して近江国に入り「永原御殿」を利用しております。ということは、たった一度となる新造「水口御殿」の利用は江戸へ向かう復路でのことであったことになりましょう。家光は、その後東海道を東へと向かい、桑名から船で佐屋に移動。そこからは陸路をとり、名古屋城に寄ることなく尾張藩の「熱田東浜御殿」に宿泊し、その後は東海道を下って江戸に向かいました。

 さて、前編はここまでといたします。後編では徳川将軍が何故上洛したのか。上方での拠点は何処なのか等々、徳川将軍が利用した城郭の位置づけについて考えてみたいと存じます。
(後編へ続く)

 

 

徳川将軍家の上洛について(後編)―上洛のための御殿造営と伏見城・二条城の機能―

4月15日(土曜日)

 

 後編では、そもそも何のために徳川将軍が上洛する必要があったのか。また、上洛後の徳川家(将軍家)の京での拠点は何処であったのかについて確認してみたいと存じます。もっとも、天正18年(1590)に豊臣大名として江戸へ入府した後も、家康はその地に腰を落ち着ける間もなく、秀吉の命による「奥州仕置」に駆り出されたり、「朝鮮出兵」のための肥前名護屋城への滞陣をしたり、国内の彼方此方に駆り出されております。また、秀吉の存命中は政権の中枢として上方に足繁く脚を運んでおり、江戸に足を留めている期間は思うほどに多くはないのです。しかも、そうした実態は、秀吉死後の「関ヶ原の合戦」、及び慶長8年(1603)2月に「征夷大将軍」宣下を受けて所謂「江戸幕府」を開設し、国内統治の実権を掌握した後も、大きくは変わっていないのです。そして、そのための上方における将軍の本拠として機能したのは、慶長7年(1602)家康が洛中に造営した「二条城」であるとお考えの向きが多かろうと存じます。しかし、現実は大きく異なっております。以下、『京都学・歴彩館紀要 第6号』(2023年3月刊)に掲載される若林正博氏「伏見における黎明期の徳川政権-家康はどこに居たのか-」なる実に興味深い論文に導かれて、このあたりの実情を探ってみましょう。

 若林氏の調査によれば、天正18年(1590)小田原北条氏滅亡後に、秀吉から関東への転封を申し渡され江戸に入府してから、元和2年(1616)に駿府城で没するまでの間、家康が最も長く拠点としたのは「伏見城」であり、その日数は2,786日に及ぶそうです。続いて大御所として隠居した「駿府城」が2,483日であり、「江戸城」に至っては1,799日に過ぎないと分析しておられます。つまり、江戸幕府黎明期において、徳川家康政権の拠点とは「伏見城」であったといっても、決して過言ではない状況にあったということです。そもそも論として、慶長8年(1603)の徳川家康への征夷大将軍宣下は、江戸城にあらず、「伏見城」で執り行われているのです(勅使は洛中の御所から伏見城に下ったのです)。それは、既に前年に造営されている、御所に間近に造営された「二条城」ですらありません。家康は宣下から約一ヶ月強も経過してから上洛して「二条城」に入り一ヶ月弱を過ごしているようですが。

 その後、家康は慶長12年(1607)に将軍職を秀忠に譲って駿府城に移り、以後はこちらを拠点として大御所として実権を振るっております。しかし、慶長16年(1611)後水尾天皇即位の際には上洛し、まず二条城に入っております。よく知られる豊臣秀頼との対面もこの時の二条城での出来事となります。その翌日に家康は伏見城に移りますが、記録上では家康が伏見城を利用した最後の機会がこの時であるようです。この時期になると上方での徳川将軍の本拠機能が次第に「二条城」へと移っていることが見て取れましょうか。ただ、それは家康にとっての伏見城の位置付の低下にすぎず、2代将軍となる秀忠との関係からみると、未だにその機能は健在であることを知ることができます。それについても追ってみたいと存じます。

 話は少々前後致しますが、上述のように、家康は早々に将軍職を2代秀忠に譲り、徳川家による政権の継承を天下に知らしめるわけですが、その秀忠の将軍宣下も慶長12年(1607)4月に同じく「伏見城」で執り行なわれているのです。その際の家康と秀忠の動向を確認してみましょう。秀忠は、将軍宣下の翌日に上洛し二条城に入りました。その折は、先だって家康が上洛して二条城に入っており、伏見城で将軍宣言を受けた秀忠が上洛して二条城に入るのと入れ替わって、家康は伏見城に戻っております。その後、秀忠も二条城から伏見城に戻り、そこで諸大名からの祝賀を受けるなど、将軍宣下の関連行事も概ね伏見城で執り行われているのです。そして、一連の行事の終了をもって秀忠は江戸に戻っております。この際には、伏見城に家康と秀忠が同時に滞在していることになります(恐らく曲輪は別にしていたものと思われます)。この段階では、明らかに伏見城が上方における徳川将軍家の拠点城郭として機能していたことが明らかです。今日、京都市の南に位置する伏見区にあり、京都の一部と認識されがちですが、当時は伏見と京とは別の都市であり、伏見城から洛中にある二条城に入ることが「上洛」と考えられていたのです。

 さて、慶長19年(1614)11月、秀忠は江戸から上方に向かい伏見城に入っております。これは、「大坂冬の陣」に伴うものであり、先に二条城に入っていた大御所家康とともに大坂表へと出陣しております。そして大坂方との和議が整うと、家康は二条城に戻り、7日後には駿府に発向しております。一方の秀忠は伏見城に戻っております。しかし、その後に和議が崩れると、翌元和元年(1615)徳川家は再び上方へと兵を進め、家康は二条城に、秀忠は伏見城に入っております。そして「大坂夏の陣」の決着がついた後、秀忠は伏見城に戻り、ここに集められた大名に対して、かの「武家諸法度」を公布しているのです。翌元和2年(1616)に家康は駿府城で没します。秀忠は既に将軍職を継承してはいるものの、家康の死をもって実質的な天下人となることを契機として、翌元和3年(1617)に上洛し、やはり伏見城に入っております。伏見城から京へ上って参内もしておりますが、二条城に寄ることなく伏見に戻り、政治的日程の全てを伏見城にて執り行いました。

 次に秀忠が伏見城に入るのは、元和5年(1619)となります。この際は4か月間を伏見城で過ごしております。この時に伏見城にて挙行されたことが、福島正則の実質的な改易、浅野氏の和歌山から広島への転封、代わって弟の駿府城主徳川頼宣を和歌山へ移封など、大規模な大名の国替えの発令であります。こうしたことからも、伏見城は幕府にとって江戸城と並び立つ政権の中枢として位置づけられていたことが明らかでございましょう。この時には、翌元和6年(1620)に行われる、徳川和子の御水尾天皇への女御入内に関する朝廷との調整も行われたものと思われます。入内の際には二条城が和子の宿舎となり行列が内裏へと発向しました。また、この滞在中に注目すべきは、秀忠が豊臣氏滅亡後の大坂城を視察していることであります。これは、その後に大々的に行われる「徳川の大坂城」再建の第一歩であり、畿内における幕府拠点を伏見城から大坂城へと移す動向の起点ともなったのです[徳川大坂城の築城期間:元和6年(1620)~宝永6年(1629)]。さらに、儀礼の場としての二条城の拡充が行われ、洛南に淀城が整備されるに及んで、伏見城の持つ役割はほぼ終焉を迎えることになります。

 元和9年(1623)、秀忠は将軍職を家光に譲ることとなりますが、その際にも家光の将軍宣下は伏見城にて執り行われております(4代家綱の将軍宣下は勅使が下向して江戸城で執り行われ、以後はこれが慣例となります)。この時には、秀忠が二条城に入り、家光が伏見城に入っており、家光への諸大名との謁見等関連行事も全て伏見城で行われました。しかし、それが伏見城利用の最後の機会となりました。その後、伏見城は破却されることになります。その結果、城内の建物の多くが大名等に下賜されております。現存するものとしては、備後国の福山城に現存する「伏見櫓」が相当致します。解体修理の際に発見された部材の墨書銘から伏見城からの移築であることが明らかになり、伝承の正しさが証明されました。もっとも、江戸城と再建大坂城にある「伏見櫓」にはそうした伝承はございませんが。そして、3年後の寛永3年(1626)に行われることとなる後水尾天皇の二条城行幸を控え、二条城がこれまでの単廓城館から、本丸を伴う大規模城郭に拡充され面目を一新いたします。これが現在に残る二条城の姿になります。この時、秀忠は二条城に入りますが、家光は淀城に入っており、将軍の居館は最早伏見城ではなくなっております(破却されたのですから当然でありますが)。ところで、二条城に新たに築かれた5層の天守閣は、徳川氏によって再建された伏見城天守の移築であるとされております。こうして、伏見城の有していた徳川幕府の上方の拠点機能は、新たな二条城と当時造成中であった徳川大坂城に吸収されることになったと考えて宜しかろうと存じます。

 以上に鑑みれば、江戸幕府開設の当初においては、家康から家光までの3代に亘って将軍宣下が伏見城で行われていること、家康が実質的に江戸より伏見において幕政を差配していたこと等々、徳川家の上方での本拠機能を伏見城が担っていたばかりか、ある意味で「伏見幕府」の様相すら呈していることにお気づきになられましょう。さらに、洛中に造営された二条城は、少なくとも幕政初期においては、基本的に伏見城から上洛する際の宿館としての機能が主たるものであったこと、ただ将軍と大御所といった権力主体が共に上方にあった際には、両城に機能分担らしきものがあったことも見て取れるかと存じます。

 さてさて、これまで徳川将軍家にとっての伏見城について当たり前のように述べてまいりましたが、お読みいただいた方には釈然としないものをお感じかもしれません。何故ならば、そもそも伏見城が「徳川の城」であるという認識はほとんどの方がお持ちではないと考えるからでございます。確かに、伏見城は、大坂城と並ぶ豊臣政権の本拠の一つであることは紛れもない事実であります。そこで、最後に伏見城の歩みについて纏めることで本稿を〆させていただきましょう。若林氏によれば、それは江戸時代においても同様であり、伏見城を「徳川の城」として扱っている文献はほとんど見当たらず、それが共通認識にもなっていると言います。しかも、皆様もご存じの通り、「関ヶ原の合戦」の前哨戦の一つが、家康が上杉景勝を討つために出陣した隙をついて、家康の家臣である鳥居元忠らの守る伏見城は、石田三成ら西軍に攻め落とされ城内は粗方灰燼に帰しておりますから、城としての機能はほぼ喪失しているものと認識されるのが当然とも申せましょう。

 改めて、伏見城の歴史を紐解けば、豊臣秀吉が関白職と聚楽第を甥の秀次に譲った後、文禄元年(1592)伏見指月に築いた隠居城に始まるとされます。ところが、翌年後継者として秀頼が生まれると、秀吉はここを本格的な城郭として拡充整備することになります。完成した指月伏見城に秀吉が移徙したのが文禄3年(1594)であり、翌年に秀次が粛清されると、洛中にあった聚楽第は破却され、その建物を伏見に移築して更に拡充が進みます。その時点で、天下人としての城郭機能は聚楽第から伏見城に移ったと申してよろしいかと思われます。その際に、宇治川の流路を巨椋池と分離させて伏見に導いて外堀とするとともに大坂への港とすること。巨椋池を縦断する小倉堤を造営するなどの大規模な土木工事を敢行し、堤を奈良街道として奈良と伏見を直結させるようにするなど、人と物の流れをすべて伏見に集結させようとしたことなどが意図されたと考えられます。つまり、当初の隠居城から、豊臣政権の政治上・経済上の重要な拠点とすべく拠点城郭都市の建設が目指されたものと思われます。

 しかし、この指月伏見城は文禄5年(1596)に発生した大地震で壊滅的な打撃を受けます(因みに、指月伏見城遺構は発掘調査で断片的には発見されておりますが、図面等も存在せず如何なる城郭であったのかは殆ど闇の中であります)。そこで、秀吉は指月伏見城の北東に位置する木幡山に、新たな伏見城を築くことにしました。これが木幡伏見城であり、慶長2年(1597)に完成し秀吉・秀頼が移徙しますが、その翌年に秀吉はここで没しました。その後、秀頼は大坂城に移り、この城には五大老筆頭である徳川家康が入って政務をとることになるのです。そして、慶長5年(1600)東西両軍の前哨戦が、この伏見城を舞台に火蓋が切られることになったことは先に記した通りです。上述の如く、本城は留守を務める鳥居元忠らの善戦空しく西軍によって落城し、その戦闘により建物の大半は灰燼に帰したと記録されております。

 しかし、関ヶ原での勝利を受けて家康は伏見城を再建し、ここを徳川家の上方での拠点としていくのです。この時、同時に洛中に二条城も造営していますが、これまでの経緯からも明らかなように、二条城は飽くまでも上洛時の宿館であり、伏見城こそ徳川家の上方の本拠とする意識を、家康は明確に有していたことがわかりましょう。この時の再建では、新たに石垣を築き直すとともに、天守閣の位置も本丸内西から同北に変えているそうです。また、北西部の曲輪と堀は放棄されてもいるようです。つまり、この段階での伏見城は、現在目に見える大坂城の遺構に豊臣時代の遺構が皆無であるのと同様、新たなる「徳川の伏見城」として生まれ変わっていることになります。

 その後、伏見城の機能が二条城や大坂城に移り、結果として伏見城は廃城とされますが、江戸時代を通して城跡は伏見奉行所の管理下に置かれ、幕末まで城跡への立ち入りが禁じられていたようです。しかも、本丸などの主要部分は後に明治天皇と皇后の陵墓(伏見桃山陵)とされたため、現在でも無許可での立ち入りは禁じられております。要するに、その遺構は相当明瞭に残ってはいると想定されるものの、発掘を伴うような本格的な調査は実施できてはいないようです。本丸の推定地には航空写真から家康造営の独立した天守台が見て取れるようですが、これも調査はできてはいないようです。残念なことであります。因みに、伏見城の「花畑跡曲輪」跡にはコンクリート製の模擬天守が建てられ、かつては観光施設として賑わっておりました。しかし、この建物は空想にすぎません。そもそもここは「本丸」跡でもありませんし、史実との関連性は皆無であることに注意が必要でございます(現在は営業終了)。

 最後になりますが、さらなる詳細をお知りになりたい向きには、後編の冒頭でもご紹介いたしました、『京都学・歴彩館紀要 第6号』(2023年3月刊)に掲載される若林正博氏「伏見における黎明期の徳川政権-家康はどこに居たのか-」を是非ともお読みください。論文の末尾には、天正18年(1590)から慶長4年(1599)までの家康の滞在地、慶長5年(1600)から元和2年(1616)までの家康と秀忠の滞在地、元和3年(1617)から同8年(1622)までの秀忠の滞在地、最後に元和9年(1623)の秀忠と家光の滞在地を、総計26ページにも亘るカレンダーに日割で落とし込む、執念ともいうべき資料が付属しております。すざまじいまでの労作だと申しても過言ではございません。
 

 

 

追悼する資格に値しない者の独言(前編) ― 御本人の周辺ばかりを彽徊する坂本龍一氏への追悼 またはその自由奔放なる精神世界について―

4月21日(金曜日)

 

つひにゆく 道とはかねて ききしかど
きのふ今日とは 思はざりしを
(在原業平 『伊勢物語』・『古今和歌集』哀傷歌)
 

 令和5年度に移って間もないある日、国際的に著名な音楽家であり、気骨在る文化人としても知られた、かの坂本龍一氏の訃報が世界を駆け巡りました。予て癌による闘病を続けていらしたことを聞き及んでおりましたから、小生としましては、“来るべき時が来たのか……”と比較的冷静に受け止めることができました。ただ、冒頭に掲げました『伊勢物語』最終段の歌のような想いにもとらわれたこともまた事実でございました。その報に接する前に脱稿した前々回の本メッセージで記しましたように、神宮外苑の再開発見直しを求める書簡を東京都(都知事)に提出されている……との報道に接したばかりであったからでございます。そして、何よりも享年71は今日において流石に早すぎはしまいかとの思いを抑えることはできませんでした。

 その後、坂本氏への想いを整理する時間が必要であったかのように、徐々にその死を悼むメッセージが親しかった人々から発せられるようになりました。著名人が逝去された場合によく見られるような、各界から一斉に追悼メッセージが発せられるのとは一線を画すような動向に、返ってそれぞれの方々の坂本龍一氏を悼む想いの深さが伝わるようで、心打たれることにもなりました。若かりし時分、同棲関係にあったことが知られ(坂本氏ご自身が語られております)、その後はアーティスト同士として深い信頼関係で結ばれていた大貫妙子さんによる、しみじみと浸み入るような心尽くしの追悼メッセージに、そして、他の方々よりも遅れて発せられた、ニューヨーク在住の元妻矢野顕子さんからの英文による呟きにも似た哀悼の言葉に、それぞれ目頭を熱くさせられたのでした。

 そして、小生もまた日一日と「坂本龍一」という存在がこの世から旅立ったことを、何かにつけて思うことが多くなったように思うのです。当方が、坂本龍一という名前に初めて出会ったのは、昭和51年(1976)に購求したLPレコード『ナイアガラ・トライアングル Vol.1』においてであったと記憶しております(時に高校2年生でした)。洋楽一筋であった小生が山下達郎と大貫妙子の主導する“シュガー・ベイブ”の音楽に感銘をうけたことから、邦楽の素晴らしさに開眼。時代を遡るように“荒井由実”や“はっぴいえんど”に辿り着いたことは、これまで何度か述べております。勿論、時代を遡るだけに留まらず、それらの音楽家達のその後にも注目をして参ったことは言うまでもございません。そのシュガー・ベイブがアルバム『ソングス』(1975年4月)1枚を残して同年末に解散した後、大瀧詠一・伊藤銀次・山下達郎の3人が、それぞれ曲を持ち寄って競演したアルバムが上記のアルバムでありました。本盤の存在は、さほど知られていないように存じますが、三人三様の個性がおもちゃ箱をひっくり返してアマルガム化したかのような、極めて極上のポップスアルバムに仕上がっております。小生にとっては忘れ難きアルバムであり、後にCD化されてからも購入して長く愛聴して参りました(勿論LP盤も大切にしております)。

 この話のどこが坂本龍一と関係しているのか……と、もどかしさ一杯でいらっしゃる方々もいらっしゃいましょうから、そろそろ種明かしに移らせて頂きましょう。実は、当盤にて一際印象的なキーボード(特にピアノ)演奏によって楽曲に花を添えているのが坂本龍一その人でありました。一聴して「このピアノは誰が奏でているのだろう?」と、直ぐ様クレジットを確認したので明瞭に記憶しております。山下達郎は、その後にソロとしての活動を開始することになりますが、そこにも坂本龍一の名前がクレジットされており、達郎氏の楽曲とともに、坂本氏が如何なる演奏を展開しているのかワクワクしながらレコード盤に針を落とした記憶も鮮明です。それが、山下達郎2枚目の傑作ソロアルバム『スペイシー』でありました。その終曲「ソリッド・スライダー」終結部における坂本によって奏でられるエレクトリック・ピアノ(おそらく“フェンダー・ローズ”だと思われます)ソロのセンスのよい個性的なメロディ構成は印象深いものであり、何度も繰り返し聴いてその全ては耳朶に残っております。直ぐにでも口ずさめるほどです。そして、坂本龍一の名はその破格の才能とともに確実に小生の胸に刻まれたのです。「栴檀は双葉より芳し」……、後に、坂本がピアノによる忘れ難い楽曲を提供し続けた原点がここに明瞭に現れていると言っても過言ではないと存じます。つまり、小生にとっての坂本龍一との出会いとは、優れたセッションミュージシャンとしてのそれに他なりませんでした。余談ではございますが、山下達郎のソロデビユーアルバム『サーカス・タウン』は、アメリカでの収録でありますから(A面:ニューヨーク収録、B面:ロサンゼルス収録)、坂本はここには参加しておりません。本作も山下のRCA時代を代表する傑作の一枚だと存じます。ともに、当時購入したLP盤は小生にとっての宝物となっております。

 しかし、その後に音楽家としての坂本龍一と小生との付き合いが深まる機会は殆どないままでした。その大きな理由が、その後に坂本が細野晴臣と髙橋幸宏の三人がタッグを組み、国内に留まることなく世界でも広く支持されることとなる、音楽集団“イエロー・マジック・オーケストラ(Y.M.O)”の音楽に、当初は共感を覚えることができなかったからでもあります。彼らの活動の全盛期とは、何かにつけてアナログからデジタルへと移りゆく過渡期であり、音楽の分野ではアナログ(テープ)収録からデジタル収録への転換が進んでゆく時期であったのです。そして、「音盤」の形態においても、レコード盤からコンパクトディスク(CD)盤へと転換していったのです[CDの発売開始は昭和57年(1982)であり、小生がちょうど大学卒業後に教員を目指して就職浪人をしていた時代でありました]。発売当初のデジタル収録CDの音質は潤いに欠けた、絶望的にカスカスに乾いた音質であり、父親が購入してきたドイツグラムフォン社製のモーツァルト弦楽四重奏曲CDの音に唖然としたことを今でもハッキリと憶えております。今では考えられないことのようですが、小生は今後もレコード盤は永遠に不滅だと確信した程でありました。ところが、今やそのCDですら音源配信にとって変わられようとしているのですから、正に隔世の感がございます。勿論、当時は斯様な時代の趨勢を予測することなど出来よう筈もございませんでした。

 そのYMOの音楽も、コンピュータによる打ち込みを中核とする電子音によって楽曲を構成する、所謂「テクノミュージック」と称されていた楽曲であり、その無機的な音楽にはついて行けないとの想いが強かったのです(今思えば実に浅はかでありました)。また、当時は、自分自身の音楽の趣向もポピュラー音楽から、「生音」勝負のクラシック音楽に移行していたことも大きな要因であったように思います。特に大ブレイクしたアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年)の楽曲は、初任の千葉市立更科中学校での体育祭で、放送委員会の生徒によって延々と流され続けており、流石に食傷した感もありました。当時は何処でも「テクノポリス」(曲:坂本龍一)、「アブソリュート・エゴ・ダンス」(曲:細野晴臣)、「ライディーン」(曲:髙橋幸宏)の三連発を耳にしており、最早うんざり……というのが正直な思いでもあったのです。その後の、坂本龍一氏による、映画音楽や実験的な音楽の仕事、更には他者との競演作品等々に興味を引かれないわけではありませんでしたが、今更その全貌に接するには遅きに失した感もあり、「敬して遠ざける」存在で在り続けてきたように思います。かような訳で、因縁の(!?)アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』をCD盤で入手したのも今から15年ほど前となる、小生が50歳前後の頃でした。購入動機も坂本氏というより、“はっぴいえんど”出の細野晴臣氏の活動を振り返ってみようとのものからでした。そして、令和の世に坂本氏の訃報に接した今日でも、坂本メインの作品で小生が所有する音盤は本作が唯一でございます。標題で自身を「追悼する資格に値しない者」と称する由縁がここにございます。
(後編に続く)

 

追悼する資格に値しない者の独言(後編) ― 御本人の周辺ばかりを彽徊する坂本龍一氏への追悼 またはその自由奔放なる精神世界について―

4月22日(土曜日)

 

 前編の末尾で縷々述べましたように、彼の音楽に親しんできとは到底言えないのですが、小生が坂本氏の存在を忘れたことは一度もありませんでした。それが彼の社会へ向けた発言によっていることは間違いございません。反原発・自然破壊・人権問題等々への積極的な問題提起、政権による改憲や集団的自衛権への抗議を訴える発言やデモへの参加等々、その社会的運動を厭わない姿勢への共感がございました。今日、個人の発言・行動に対するSNSにおける誹謗中傷が傍若無人に拡散される中で、往々にしてそうした発言を自粛する文化人ばかりが蔓延るなか、名のある者だからこそ斯様な発言をすべきとの想いから、一貫して発信を続ける潔さに、実に薄っぺらな表現で気恥ずかしくなりますが、「格好良さ」を感じておりました。「こんな重要な問題を黙って見過ごすことなどしてはいけない」との、戦後世代の矜恃を実感するのです。昭和27年(1952)生まれの坂本にしてみれば、東京芸術大学での学生時代とは「学生運動」華やかなりし頃でもあり、それに身を投じたこともあったようです。人として、極めて自身に正直に生きた人生であったのだと思います。もしかして、それには生まれた時節だけではなく、父親譲りのDNAがあったことも間違いないと思うのです。

 龍一の父親である坂本一亀(かずき)(1921~2002年)は、愛称「ワンカメさん」として親しまれた名編集者として鳴らした人物であります。福岡県に生まれた一亀は、文学少年であり小さな同人誌を製作するなどの活動をしておりました。それが河出書房の社員の目にとまったことを契機に、河出書房に入社します。伊藤整・三島由紀夫・髙橋和巳等々の戦後文学者の編集担当者として、彼らの創作活動に深く関わった名編集者であったのです。そのことを、小生はYMOが一世を風靡していた頃、大岡昇平のエッセイ集『成城だより』の記述によって知りました。すなわち、編集者の仕事とは、単なる原稿の依頼人・受取人に堕することなく、如何に著名な作家であっても作品に納得できなければ徹底的に議論をして、作品を更なる高みに到らせることであるとの信念を一貫して貫かれた方であることです。その激烈な編集者魂でどれほどの名作が生み出されたことか。つまり、ある意味では、戦後文学の共作者とでも言うべき存在であったのです。龍一も折に触れて父親に対するリスペクトを捧げております。その妥協なきアルチザン(職人)気質に、自身と繋がるDNAを感じ取られているのではありますまいか。因みに、坂本一亀を描いた田邊園子作『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』2003年(作品社)は、龍一の提案で書かれた作品であると言います。本作は気にはなっておりますが、あれやこれやと読む書物が「積ん読」状態であり、残念ながら未だ入手すら出来ておりません。今では、一亀がその昔在職した河出書房で文庫化されておりますので小生も近々手にしたいものと思っております。

 令和5年3月28日に逝去された坂本龍一氏、そして坂本に僅かに先立ち同年1月11日に旅立たれた髙橋幸宏氏を偲んで、15年ほど前に入手した唯一のYMO作品『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を虚心坦懐に何度か繰り返して拝聴をいたしました。そして、浅はかにも思い込んでいた、軽薄で温もりの感じられないデジタル音楽とは大きく異なることに驚かされたというのが正直な感想でございます。元々、3人はそれぞれの楽器の演奏において他者の追随を許さぬ名手ばかりでありますし、その楽曲のすべては電子音で埋め尽くされている訳ではないこと、芸大で音楽理論を学んだことを背景とする、各電子音と生楽器演奏とのポリフォニックな楽曲構成が施されていること、芸大でその教えに反抗的であったという武満徹の作風を思わせる作品があること、そして何よりも各楽曲のメロディラインが美しいことに、大きな驚きと感銘とを受けております。よく考えれば、デジタル音とは言っても、当時のシンセサイザーはアナログシンセサイザーであり、生き物のように条件によって音色も変わったそうですし、誰が扱っても同じ音にはならなかったと言います。つまりは、演奏者の扱い次第で音色すらも変わったのです。加えて、本盤はそもそもがアナログ収録でありますから、想いの他に無機的音質ではありません。数回の試聴の結果、辿り着いた結論は、これまで自分は何を聞いてきたのかとの忸怩たる想いでございました。また、これまた、本年1月に逝去された“シーナ&ロケッツ”のギタリスト鮎川誠氏がセッション参加しており、小気味の良いギターを聞かせてくれていることにも初めて気づいたという為体(ていたらく)で、大いに恥じ入る次第でございました。

 如何せん、YMOの1枚以外に彼の音盤を所有しておりませんから、追悼の想いを込めて、同時に、坂本がセッション参加した作品(山下達郎)や、大貫妙子、そして元妻である矢野顕子の作品をターンテーブルに乗せる機会が多くありました(申すまでもなくミュージシャンの坂本美雨は坂本と矢野の間に生まれた子であります)。大貫妙子の楽曲では、何よりも坂本と同棲関係を解消するときの思いを綴ったとされる名曲「新しいシャツ」に自然と手が伸びました。それも、バンド演奏をバックにした通常版ではなく、彼女が現在も屡々その形式でのコンサートを開催されている、所謂“アンプラグド”による演奏会の記録であります。サントリーホールで収録されたそのアルバムは『ピュア・アコースティック』と言います(初出1987年)。弦楽四重奏編成とピアノを中核にして、コントラバス・クラリネット・アルトサックスを適宜加えたアコースティック伴奏のみをバックに歌われる、彼女の呟くような透き通った唯一無二の歌唱が、しみじみと心に染み入るような忘れ難き一枚でございます。改めて本盤を耳にして、小生は未だ所有すらしておりませんが、10年程前に世に出たお二人の競演盤(坂本のピアノ伴奏のみで大貫が歌唱した音盤『UTAU(歌う)』(2010年)を、是非とも聴いてみたいと……今思っております。二人だけで紡がれるインティメットな音と詞の世界を、夜の静寂(しじま)のなかで拝聴することに想いを馳せております。

 矢野顕子の作品は、お二人がご夫婦であった頃の作品は手元にはなく、デビュー盤である『ジャパニーズ・ガール』しか所有しておりません。斯様なことは百も承知でありますが、久しぶりに拝聴して、改めて矢野のとんでもない才能に圧倒されました。これぞ、天才の手になる傑作アルバムであることに何の疑いもございません。そして、こうした天才と、妥協を許さぬアルチザンとしての坂本龍一が互いに惹かれあったことにも合点がいった次第でございます。昭和51年(1976)世に出た本作は、LP時代にはA面が「アメリカンサイド」(米収録)、B面が「日本面」(国内収録)と分けられております。当初、A面も国内での収録が成されたものの、その仕上がりに納得できなかった矢野がアメリカでの収録を望んだと記憶しております。

 その収録に招集されたのが、あろう事か、当時アメリカでも超一流の人気バンド「リトル・フィート」の面々でありますから、今聞いてもリズムセクションの強靱さは類を見ないほどです。しかし、東京生まれの青森育ちである矢野の繰り出す、津軽民謡をも包含する日本の音階と変拍子の連続に、名ギタリスト“ローウェル・ジョージ(スライドギターの名手)”らも悪戦苦闘。その才能に驚嘆すると同時に、収録後には泣きながら自らの力不足を詫び、矢野の求める音世界の創造に寄与できなかったとしてギャラを受け取らなかったと言われております。「日本面」でも、今では人間国宝となった鼓の名手“堅田喜三郎”氏が間の手を入れる「ヘコリプター」(曲中では正しく「ヘリコプター」と歌われますがタイトルはこの通りです)、箏の合奏が印象的な「風太」(当時夫であったプロデューサー矢野誠との間に生まれた長男の名)、独特の撓めを利かせた歌唱が忘れ難い古賀政男の名作『丘を越えて』の歌唱等々、その才能の傑出振りは破格だと思わされます。こうしたアーチストを他に想い浮かべることすら出来ません。そうしたことに鑑みても、両者の結婚生活が如何にスリリングなものであったのかを想像もさせられた次第でございました。余談でありますが、若き頃に坂本と同棲されていた大貫と、その後にその妻となって今ではお別れになっている矢野のお二人は、大の親友でありよく競演をされているようです。小生は矢野が大貫の作品を良く採り上げていらっしゃることを知るのみですが。こうした所にも、坂本龍一という人間が、女性との関係に於いてもスマートさを失わないでいたことを感じさせます。ここにも“坂本らしさ”が見て取れるように考えますが、皆様は如何お感じになられましょうか。

 最後になりますが、改めて坂本龍一の生涯を振り返ってみて、その死が惜しまれることは当然として、またご本人としてもやり残したことへの悔いが皆無であったことなどあり得ないとは存じますが、様々のことに自由奔放に飛翔し続け、存外満ち足りた想いで生涯を終えられたのではないかと空想するものであります。癌の苦痛はその身体を蝕み、さぞかしお辛かったものと推察いたしますが、精神的な世界では恐らく平安の思いで旅立たれたのではないかと思うのでございます。そうだとしたら、冒頭に掲げた在原業平の詠歌は、彼に捧げるのには相応しくないのかもしれません。何故ならば、こちらは死に臨む王朝人の、ある意味では“紋切り型”の感傷を詠った辞世でありますから。斯様な場で不適切との誹りを免れないかもしれませんが、こうした王朝人の感傷を笑い飛ばすのが近世流。江戸時代初期に成る作者不詳の、『伊勢物語』を全編にわたってパロディ化した作品仮名草子『仁勢(ニセ)物語』最終段での辞世を坂本氏の捧げさせて頂きたいと存じます。

 飄々としたクールな生き方を貫かれた坂本さんであれば、上述もいたしましたように、むしろ吹っ切れたような想いで旅立たれたのではないかと、今は勝手な推察をしたりもするのです。因みに、かつて本作は公卿の烏丸光廣作とも言われてもおりましたが、現在は明確に否定されております。自身の死ですら相対化して笑いに転化してしまう、近世人の精神性には大いに共感するものがございます。これは、かつて評されたような「自暴自棄のニヒリズム」とは異質なものであります。むしろ、全ての世界を楽しみ尽くそうという極めて人生謳歌の精神の発露に他ならないと考えるものでございます。本作の全編をお読みになりたい向きがございましたら、旧版の日本古典文学大系90『仮名草子』1965年(岩波書店)に収録されております。加えて鑑賞の手助けとなる作品が、冨士正晴『パロディの精神』1974年(平凡社選書)でございます。恐らく両書とも古書でしか入手が叶わないと思われますが、比較的安価で購入が可能と存じますので、お探しなっては如何でしょうか。その際には、是非とも『伊勢物語』と対比させながらお読み頂ければ楽しさが倍増だと存じます。

 「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」……なる諺がございますが、定めし「坂本龍一死して“作品”と“生き様”とを残す」……ということとなりましょうか。小生もそんなに長くはない残された時間で、少しづつ彼の作品等々に触れていきたいものと……今思っております。

 

つひに行く 道には金も いらじかと 
きのふ経よむ 僧に呉れしを
(作者不詳『仁勢物語』より)
 

 

“アラ新古今集”時代の天才歌人を扱う小説 ―塚本邦雄が『藤原定家-火宅玲瓏-』で描いた定家の心の深淵について―

4月28日(金曜日)

 

影ひたす 水さへ色ぞ 緑なる
四方の木ずゑの おなじ若葉に
(藤原定家「六百番歌合」より)
 
ゆく春を 慕ひかねてぞ 聞こゆなり
青葉のなかの 鶯のこえ
(永福門院「百首御自歌合」より)

 

 

 「光陰矢の如し」とはよく言ったもので、令和5年度も瞬きをしている裡に、ひと月が過ぎ去ったように感じます。皐月五月はもう目の前でございます。今年は、例年にない暖かな冬であったようで、なんでも弥生三月の平均気温が観測史上最高値であったとか。その所為もあって、花の便りが相当に前倒しとなったことが記憶に新しいところでございます。桜前線は、今なお我が国の国土を北上しつつありますが、数日前には北海道での開花が報じられておりましたが、そちらも記録に残る範囲内で史上最速の開花であるとのことでした。また、上野東照宮や茂原にある牡丹園でも、今年の開花はすべてが前倒しであるようです。我が家のある東都場末の陋屋とその周辺でも、千葉の中心にある本館の周辺でも、本稿の執筆時である卯月四月の二十日前後には、藤も躑躅も盛りを迎えております。このまま推移すれば、ゴールデンウィーク頃には既に見頃は仕舞を迎えておりましょう。花の名所も折角のかき入れ時を逸して打撃が大きいことと存じます。

 さて、櫻花の賑わいも去り、静けさを取り戻した亥鼻山では、今新緑が目にも彩な時季を迎えております。そして過日(4月18日)仕事をしていた折、この亥鼻山で今年初めて鶯の聲を耳にしました。ちょっぴりぎこちない歌声のように聞こえましたから、昨年の個体とは異なる鳥の可能性が大きいのかもしれませんが、今年も再会が叶って何より嬉しい思いで一杯でございます。しかし、斯様な清々しい思いとなる季節は、今日日あっという間に過ぎ去り、早晩ムシムシとした陽気に移りましょう。今回の冒頭歌は、藤原定家(1162~1241年)と永福門院(1271~1342年)の詠歌で幕開とさせていただきました。定家卿の作品では、水辺にある木々の新緑が水面に「影ひたす」とする表現が、流石に定家卿との感銘を新たにいたしますし、門院の作は正に過日の小生の思いと重なります。鶯の聲が「行く春を慕って鳴くように聞こえる」とする女性らしい感じ方に感銘を受けます。

 さて、今回は、過日に塚本邦雄『菊帝悲歌』[初出:1978年(集英社):昨年11月に目出度く河出書房新社から文庫化なる!!]をご紹介させていただいた折に再販を切望いたしました、同作者の手になる『藤原定家-火宅玲瓏』[初出:1973年(人文書院)]についての話題とさせていただきたく存じます。こちらは、初出後に何度か刷りを重ねたのでしょうが(小生の入手した書籍は翌年の2刷となっております)、追って品切れとなり書店の棚から消え去ったものと思われます。おそらく、その後に文庫化等がなされることもなかったものと存じます。小生としましては、本書の5年後に世に出た『菊帝悲歌』に大いに感銘を受けたものですから、その主人公と因縁の深い“あの”定家卿を、塚本氏が如何に描いていらっしゃるのか、この3か月間ほどずっと気になっておりました。そうは申しても何処かの書肆から再販される可能性の在りや無しやも不透明であります。そこで、思い切って古書にて仕入れて拝読に及んだのでした。

 因みに、購入先は、JR常磐線「北松戸駅」から至近の、線路脇に店舗を構える国文学を専門とする古書店「万葉書房」でございます。開店直後の20年程前に一度脚を運んで一本を購入したことがございますが、嬉しいことに今でも営業を続けていらっしゃいます。しかし、久方ぶりに再訪すると、狭隘な店内に辛うじて行き交うことのできる通路以外は、足の踏み場がないほどに古書が平積み……。あたかも「古書倉庫」の様相を呈しておりました。聞くところによると、コロナ禍以降店舗への来客が激減し、今ではネット販売が中心で店自体を開けないこともあるそうです。お仲間の古書店の多くも来店する顧客はちらほらで、ネット販売に活路を見出すか、閉店するかを思案している経営者が多いといいます。永井荷風も脚を運んだ、市川真間駅近くの京成線沿いに陣取る名古書店「智新堂書店」さんも、京成八幡駅前の「山本書店」さんも、左程事情は変わらないと教えてくださいました。そういえば、斯く言う小生も、昨今はその智新堂・山本書店にも足を踏み入れておりません。GWには葛飾からサイクリングがてら店主の顔を見に行ってみようかとも思っております。もっとも、例年話題に致しますが、この時季は春の訪れとともに、猫の額”の庭に繁茂する樹木の剪定と除草が手ぐすねを引いておりますので、実現できるかどうかは体調次第ございますが。

 余談はここまでとし、塚本邦雄『藤原定家-火宅玲瓏-』につきまして極々簡単にご紹介をさせていただきましょう。現代歌人の塚本が、第八勅撰和歌集『新古今和歌集』と、その歌風を代表する作者である藤原定家を心底大切にされていることは、これまでにご自身の歌集の他に上梓された作品群を見れば一目瞭然であります。定家の名を冠したアンソロジー集が何冊もございます。塚本が定家をどれほど高く買っていらっしゃるかは、その内の『定家百首-良夜爛漫-』(1977年)[河出文芸選書]内に納められる「藤原定家論」を一読されれば容易に理解いただけると存じます。まずは冒頭部分を引用をさせていただきます。

 

 藤原定家は王朝末期の詩歌の輝きを一心に鍾(あつ)めて聳え立つ天才である。千載和歌集、新古今和歌集、新勅撰和歌集等、治承、寿永以後の貞永の頃までに活躍し、その秀作を後世に傳へる著名歌人は夥しい。たとへば定家の父俊成をはじめとして、西行、後鳥羽院、式子内親王、藤原義経、慈圓、寂蓮、藤原家隆、藤原雅経、俊成卿女、宮内卿、二條院讃岐、あるひはまた源實朝といづれも甲乙を判じがたい歌の上手であり、眩ゆいばかりの個性の持主である。實朝以外はすべて前述三勅撰集の白眉、新古今の中に網羅されて姙を競ひ、我が國の詩歌の最初にして最後の爛熟期を代表する人人であつた。しかし定家の存在は一頭地を抜き、群星の中の明星といふべきであらう。 

(塚本邦雄『定家百首-良夜爛漫-』1977年(河出学芸選書)

 

 藤原定家その人は、勅撰集『千載和歌集』撰者でもある、名家人として夙に知られた藤原俊成を父として、応保2年(1162)に生を受け、仁治2年(1241)に享年80で没した人でございます。従って、その生涯は、平氏政権成立から隠岐での後鳥羽院崩御後にまで及んでおります。つまり、その間の源頼朝挙兵と平家の滅亡、鎌倉武家政権の成立と後鳥羽天皇の即位、幕府と朝廷との対立、後鳥羽院主導による「新古今和歌集」成立、源氏三代で絶えた後に勃発した「承久の乱」と後鳥羽院の隠岐配流、北条氏による武家政権の確立等々、正に平安末から鎌倉半ばに至る“激動の時代”を、その目で見届けてきた貴族歌人となるのです。その革新性に満ちた詠歌の世界だけではなく、治承4年(1180)19歳から最晩年まで書き連ねられた日録『明月記』の筆者としても知られます(すべてが現存しているわけではなく欠巻がございます)。

 しかし、名高い歌名に比して、朝廷内での彼の家(御子左家)の位置づけは決して高いものではございませんでした。実際、『明月記』には除目に外れたことへの「恨み節」を書き連ねております。後のこととなりますが、その当て擦りとして詠んだ歌が、次第に募った両者の不信感の着火剤となり、後鳥羽院の逆鱗に触れて閉門処罰とされるなどもしております。しかし、和歌の才を恃んだ定家卿の堅牢で不屈の自意識は、一歩間違えば偏屈かつ狷介に通じるものであり、ことに和歌に関することになると、たとえ帝であっても言を曲げないことも多々あったのも事実でございます。何かの切っ掛けさえあれば、上述のような両者の決裂が生じることもまた、宜なるかなと申せましょうか。しかし、そうした両者の確執と心の綾は、必ずしも定家の作品と日記からだけでは見えてこないものです。だからこそ、塚本氏は定家の為人に迫る意欲を抱いたのではありますまいか。記録からは読み取れない定家の心の襞に分け入って、天才歌人の生身の人間としての精神性を露わにしてみたいとの欲望が募ったのだと想像するのです。そのためには、定家と対置するカウンターキャラがあればさらに良いでしょう。それが、定家の最大の理解者であり、同時に良きにつけ悪しきにつけ強烈なライバル関係にあり、次第に確執を膨らませていくことになる後鳥羽院の存在に他なりません。両者の火花を散らすような鬼気迫る関係性にも迫ってみたいと思われたのではないでしょうか。それが、本作と5年後に書かれた後鳥羽院を中心に据えて描いた『菊帝悲歌』の2作なのだと思われます。そして、その2作は、「合わせ鏡」のように、『新古今集』周辺の時代を照射した作品となっているのだと確信いたします。それを小生は安直にも、本稿表題で『アラ新古今集』(「アラフォー」等に因んだ「アラウンド新古今集」略称)と称したところでございます。

 以上のことを踏まえて、小説『藤原定家-火宅玲瓏-』について確認させていただきます。本作は、定家の長い生涯を網羅的に描いているわけではありません。定家にとって画期となるであろう6つの年月に焦点を当てた構成となっております。その舞台となる年月と冒頭歌・巻末歌(こちらは塚本氏の自作でしょう)・各章タイトル、そして本書の外箱に巻かれた「帯」に記された文言を以下に引用をさせていただきます。帯の文句は、単なる宣伝文句と思われましょうが、表帯の文言はともかく(確かにこちらは明らかなる編集部のそれでしょう)、裏帯の文言は塚本氏ご自身の書かれた(語られた?)言葉でございますから、紛れもなく塚本氏が如何なる意図をもって本書を紡がれたのか、また本作執筆にあたっての彼自身のスタンスを知るための格好の材料となるものと存じます。ただ、こちらは本冊内には納められておりません。

 

【帯表】
美に賭け、絶妙なる天上の詩歌、玲瓏たる幻の華をみつづけた天才歌人、その内面の凄惨な修羅と苦毒を、火宅の如き中世を舞台に、後鳥羽院との確執、良經、實朝の孤影を配して描く話題の最新小説

【帯裏】
著者の言葉-中世の黄昏から深夜にいたる漆闇を背景として、藝術と人生の雙面を火宅の焰に照らされた天才藤原定家像が浮び上がる。しかもその像の虚實はさだかではない。明月記、玉葉、愚管抄、吾妻鏡其他の夥しい歴史書の合せ鏡の中に置いても、結ばれた定家像は所詮假象にすぎず、また四面の鏡がことごとく虚妄を寫し出すこともあらう。まして公表を豫想した日記に誰が危險な眞實を剰さず告白するだらう。私は虚實いづれの面をも一應は探り、最終的にはこれを捨てた。定家の魂の煉獄の苦患は歌人である私によつて初めて類推可能であり、「花も紅葉もなかりけり」なる凄じい呪詛に應ずるには、現代なる末世に生きる者の呪禁の辭以外にはあるまい。この一篇は私と定家で發止と切結んだ狂言綺語の火花である。

 

紅葉は 瞼のうらに 緑金の翳 とどむるを 「無かりけり」とぞ

第一章 夭桃 一二〇六年 彌生

第二章 空橘 一二〇九年 水無月

第三章 散萩 一二一三年 臘月

 

第四章 暗梅 一二二〇年 如月

第五章 亂菊 一二三三年 文月

第六章 敗荷 一二三九年 卯月
 

月は鬱金のうつろことばはこときれつ「みちにふけるおもひふかくして」

 

 以上をお読みになり、皆様は如何お感じになられましょうか。「定家の魂の煉獄の苦患は歌人である私によつて初めて類推可能」であると高らかに宣言され、末尾に本作が「私と定家で発止と切り結んだ狂言綺語の火花である」とまで言い切る、同じ歌人としての比類無き自負に圧倒される思いになりませんでしょうか。なかなか、ここまで言い切ることは出来ないと存じます。ある意味、定家と塚本との間に共鳴しあう近親性をも嗅ぎ取ることができるのではありますまいか。その丁々発止の火花は、主君であり天才歌人でもあった、後鳥羽院と藤原良経との微妙な関係性から生じ、さらに師として定家を慕う鎌倉右大将実朝、式子内親王の作歌への恋心にも通じる思い、そして不甲斐なき嫡男為家との関係とにもつながっているようです。しかし、本当の意味での本作の核醍醐味は、ご自分でもお書きになるように、塚本氏の定家との丁々発止の斬り結ぶ有様にあるのだと存じます。決して『明月記』等の諸資料には記されることのない、定家の心の奥底まで渉猟された塚本氏が、ご自身の肉体を依り代にして定家の内面を語っているようにすら思えて参ります。おそらく、本作執筆中の塚本氏はあたかも定家卿が憑依しているとすら見えたことでしょう。その意味で、本作は、歌にかける定家の粘着した壮絶なまで精神の在り様を描き切った、塚本邦雄の比類無き力作に他ならないと存じます。

 ここで、本小説の各章の月日の持つ意味を一通り浚ってみましょう。第1章「建永元年(1206)彌生」とは、定家の仕えていた先の後京極摂政藤原(九条)良経が就寝中に頓死した歳月でございます。「頓死」と急死を意味しますが、塚本は就寝中に天井から槍で突かれて殺害されたとの説をとっております。まぁ、槍が武具として用いられるのは室町期、特に戦国の世だと思われますので、道具立ての問題はひとまず置いても、今日では一般に“良経暗殺説”は採られていないようです。次の第2章「承元3年(1209)水無月」とは、「近代秀歌」を執筆して鎌倉の源実朝に贈った頃であり、一度は終わった筈の新古今集が後鳥羽院の意向で果てしもない切り継ぎが行われていた時期にあたります(定家は切り接ぎ未了の新古今集を書写しております)、第3章「健保元年(1213)臘月」とは、嫡男為家の和歌に向かわぬ不甲斐なさを憂いつつ、鎌倉との歌の添削を通じて実朝の異形の歌才に驚き、実朝に手を差し伸べようとする頃を(その行く末の無惨を想いつつその家集を「金槐和歌集」と命名)、第4章「承久2年(1220)如月」とは、長らく続いた後鳥羽院と定家との確執が遂に破綻を迎え、後鳥羽院の勅勘により定家が閉門を仰せつかった年月を(翌年に後鳥羽院は北条義時を追討すべく挙兵したものの敗れて隠岐へと配流)、第5章「貞永2年(1233)文月」とは、その前年に齢71にて後堀河天皇より勅撰集『新勅撰和歌集』の独撰を仰せつかり葛藤を抱えながら邁進する頃を、そして、最終章となる第6章「延応元年(1239)卯月」とは、因縁の後鳥羽院が隠岐にて齢60にて崩御した月日に当たります。その何れにも、後鳥羽院の影が定家に色濃く落ちており、影日向に定家の日々を呪縛し続けます。天才歌人としての後鳥羽院へ寄せる共感と、その権力者としての奔放さへの強烈な反感とが濃密に書き込まれていきます。その美文調で綴られる絢爛豪華な日本語の世界に心底幻惑される思いでございました。

 ところで、19歳になった定家が日録である『明月記』を始めた、治承4年9月の記事に「世上乱逆追討、耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ、紅旗征戎、吾ガ事ニ非ズ」とあるのは広く知られておりましょう。その年は、以仁王の令旨が全国の源氏に齎されたことから「治承・寿永の戦乱」の火蓋が開いた年でもざいます。「そんなことは自分には関わりのないことだ」と嘯く定家の唯美主義的な生き様を象徴する発言と理解されておりますが、物の本によると定家70歳の頃になってから清書する際に書き直された形跡もあるといいます。そうなると「世上乱逆追討、耳ニ満ツ」という言葉には、定家にとって因縁の人「後鳥羽院」による義時追討と後鳥羽院の配流という至近に起こった事件も重ねられている可能性が大きいものと思われます。それをも「吾ガ事ニ非ズ」と認識していたとすれば、後鳥羽院と定家卿の確執の深淵に背筋も凍りつくかのごとき思いにもなりませんでしょうか。

 最後に、改めまして本書をこのまま埋もれさせるのは何とも惜しまれます。現状、入手は古書でしか叶いませんが、何処かの心ある書肆から復刊されることを願います。それが、京都伏見に本社のある初出の人文書院であれ、別社であっても結構で一向に構いません。ただ、塚本邦雄作品を数多く文庫化される河出書房新社さんが、最も相応しいのではないかと勝手に思っております。「ワンカメさん」所縁の出版社に是非とも一肌脱いでいただきたいものと、大いに期待して待たせていただきたく存じます。
 


 

 

江戸後期を生きた文化人の闊達なる精神性 ―「たばこと塩の博物館」で開催中の展示会『没後200年 江戸の知の巨星 大田南畝の世界』を拝見して―

5月5日(金曜日)

 

 

 冒頭から藪から棒のご質問で失礼をいたします。日本を代表する古典文学を問われたするならば、皆様は如何なる作品を“イの一番”に挙げられましょうか。「いづれの御時にか 女御更衣あまたさぶらひたまひける中に いとやむごとなき際にはあらぬが すぐれて時めきたまふありけり……」で幕を開ける、名にし負う『源氏物語』等々の王朝物語でありましょうか、それとも「祇園精舍の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす……」で語り起こされる『平家物語』をはじめとする軍記物でございましょうか、はたまた「つれづれなるままに 日暮らし 硯にむかひて 心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくれば あやしうこそものぐるほしけれ……」と筆をおろす兼好法師『徒然草』等々の随筆でしょうか、はたまた「この世の名残り 夜よも名残り 死に行く身をたとふれば あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそ哀れなれ……」との“道行”の名調子で忘れがたき近松門左衛門の人形浄瑠璃でありましょうか、いやいや散文にあらず『万葉集』から今日に至る豊穣なる和歌の世界、『懐風藻』から明治初期にいたるまで営々と詠まれてきた漢詩等々の韻文こそに精華ありと申される方もございましょう。何れにいたしましても、我が国には誇るべき、鬱蒼とした古典文学の奥深き森が広がっております。しかし、ここに江戸時代後期を中心に一世を風靡した、所謂「戯作文学(草双紙の類)」「川柳・狂歌」が挙がってくることは、まずは皆無かと推察するところでございます。

 小生にとっても、「戯作文学」の世界とは極めて身近で親しみを有する世界であることは間違いございませんが、確かにそれらの作品群から哲学的な自省を促されたことも、しみじみとした情感に浸って感銘を受けたことも、ましてや新たな発見に至ったことは一切ございません。そこでは、痛快な笑いであったり、にやりとさせる捻ねた笑いであったり、シニカルな微笑であったり等々、様々なレヴェルでの「笑い」こそが主役でございます。まぁ時には「こんな馬鹿馬鹿しい作品を読むだけ時間の無駄」と言われても仕方がないと思ったりもいたします。しかし、人生苦虫を噛みつぶしたような顔をして不平不満ばかりを連ねていてもよいことはございません。一度きりの人生でありますから、面白可笑しく生きるに越したことはございますまい。もしかしたら、こんな不真面目な作品など恥ずかしくて他人に進めることすら恥ずかしいと思われる方々もおられましょうか。しかし、最初に申し上げておきたいと存じますが、近世に於いて、こうした作品をモノした人々は、極々真面目な人物であり、仕事にも極めて熱心であり、上司からの覚えも目出度く、人付き合いも宜しく、人心を集めるに相応しい立派な方々が往々にして多いと言うことであります。狂歌や川柳や黄表紙などを書き連ねる人々は、不真面目で、いい加減、適当で、無責任、碌でなしで、唐変木……では決して無いことを知っていただきたいと存じます。現在でも、第一線で活躍されている一流の「お笑い芸人」と目される方々は、おそらくそれぞれ極めて真面目で几帳面で、仕事に対して誠実である方々ばかりであろうと推察するものです。如何なる社会であれ、何時の時代であれ、いい加減でテキトーで無責任極まりない人物が持て囃されることなどありません。ホンの一時持ち上げられても直ぐに消え去っていきます。今回の本稿では、近世戯作者を代表する第一人者であるといっても宜しい大田南畝(おおたなんぽ)について採り上げ、戯作者は単なるいい加減な連中ではないことの証とさせていただければと存じます。

 折よく、標題にもお示ししましたとおり、現在東京の「たばこと塩の博物館」にて『没後200年 江戸の知の巨星 大田南畝の世界』展が開催されており、小生も開幕早々に脚を運んで参りました。彼の75年に亘る生涯の活躍を幾つかの視点から照射することで、その希有なる為人を照らし出す、極めて見応えのある優れた展示会でございました。管見の限り、平成23年度に新宿歴史博物館で開催された『「蜀山人」大田南畝と江戸のまち』展以来の南畝関連の展示会かと存じます。当館は昭和53年(1978)、当時の「日本専売公社」[中曽根内閣の際に民営化され「(株)日本たばこ産業」]によって、渋谷の公園通りに開館した博物館であり、当時専売品であった「たばこ」「塩」の歴史・文化をテーマとした展示を行っております。そして、平成27年(2015)に現在の墨田区横川に移転してリニューアルオープンいたしました。中には、「たばこ」「塩」と南畝とは如何なる関係があるのかとの疑問も抱かれる向きもございましょうが、これにつきましては、南畝と深い親交を結んでいた平秩東作(へずつとうさく)と蘭奢亭薫(らんじゃていかおる)が、江戸で「たばこ屋」を営んでいたこととの関連であるとのことです。従って、本展でも南畝とお二人との交友に関する展示がされております。一方、当館は平成7年(1995)『200年前が面白い!寛政の出版界と山東京伝』展を開催され優れた図録も上梓していらっしゃいます。その意味で、江戸末期の大都市江戸と国内との間で広域に繰り広げられた、知識人たちの交流と文苑の豊かさについての関心の高い博物館であることが背景となっておりましょう。実は、京伝もまた「たばこ入れ」を扱う店舗経営をしていたのです。

 さて、今回の本稿にて話題といたします大田南畝とは如何なる人物なのでしょうか。おそらく、皆様も名前くらいはお耳にされたことがございましょう。しかし、その実像はなかなか焦点を結ばないのではございますまいか。比較的知られているのが「狂歌」作者としての姿でございましょうが、実際には到底その範疇になど納まらない多彩な顔をもった存在でもあるのです。その南畝は、寛延2年(1749)年、牛込の御徒組屋敷内(現:新宿区北町・中町・南町)にて、父大田吉左衛門正智と母利世の長男として生を受けております。名は覃(ふかし)、通称は直次郎であり、南畝は号となります。別に狂名(狂歌作者としての所謂ペンネーム)四方赤良(よものあから)・蜀山人(しょくさんじん)、狂詩(所謂、漢詩の狂歌版)名の寝惚先生(ねぼけせんせい)を号し、様々な名を看板にして幾多の分野で名声を博しました。文政6年(1823)神田川を挟んで対岸の湯島聖堂を臨む、神田駿河台の住居にて享年75で没し、菩提寺である日蓮宗本念寺(文京区白山)に葬られました。小生も『断腸亭日乗』に記されるように、永井荷風の顰に倣い掃苔に訪れたことがございます。本堂裏の狭隘な墓地に南畝の墓石が現存しており、「南畝大田先生之墓」と大きく刻印されておりました。

 生没年からも明白のように、その生涯は、前半生を“天明期”の所謂「田沼時代」から、後半生を田沼失脚後の老中松平定信による“寛政の改革期”、及びその後の徳川家斉の所謂「大御所時代」となる“文化・文政期”にまで及んでおります。そして、そのことは時々の政治状況による影響を色濃く受けることにもつながりました。皆様もご存知のように、「田沼時代」と「寛政の改革」の頃とは、天と地のような社会の変化が惹起したのですから当然でもございましょう。その生誕地からも類推できますように、大田家は南畝の5代前に幕府に召し抱えられた幕臣(将軍へのお目見えを許されない御家人身分)でありますから、その影響もより直接的であったことになります。南畝自身も17歳の時に「御徒(おかち)」に登用されております。御徒とは、戦時に徒歩で従軍する歩卒のことでありますが、平時には交代で江戸城の勤番や、将軍が江戸城外への御成の際に先陣を務めること等が主たる任務でありました[安永5年(1776)10代将軍家治の日光社参にも供奉し御徒としての役を果たしております]。ただ、天下泰平の近世において、幕臣は慢性的な人余り状態にあり、実際の勤務は通常5日に1回のペース、つまり時間的な余裕だけはたっぷりとある生活であったようです。

 その南畝は、幼少時から学問と文筆に秀でていたこともあり、貧しい家でありながら国学や漢学の他に、漢詩や和歌の世界へも学びを広げております。それは、17歳での出仕後も時間的余裕のあることにも促され継続することができたのです。そして、19歳の時にその文才を平秩東作(たばこ屋を営む町人であり戯作者)に見いだされ、その援助を得て狂詩集『寝惚先生文集』を上梓し、一躍江戸での評判をとることになります。時あたかも恋川春町(こいかわはるまち:駿河国小島藩に仕える武士であり戯作者)の登場により、大人も楽しめる戯作絵本『黄表紙』の流行が起こります。南畝もその時流に乗った戯作にも手を染めてもおります(南畝は恋川春町とも親交を結んでおります)。さらに、明和年間からは四方赤良(よものあから)を名乗り、その後の安永・天明期に狂歌の世界で大々的な名声を博する存在となるのです。世は正に「田沼時代」であり、豊かな商人の経済的な支援の下で、「町人文化」が花開いた時代でもありました。豊かな教養を背景にした南畝の知的な作風は、身分の垣根を越えて教養ある人々から歓迎され、一躍人気作家のスターダムにのし上がったのです。連日のように「狂歌会」が開催され、江戸の町に身分を超えた文芸の輪が広がっていくことになりました。そして、天明3年(1783)に朱楽菅江(あけらかんこう:幕臣で狂歌師)とともに狂歌集『万載狂歌集』を上梓します。命名の由来は「万歳」と掛け合わせた「千載和歌集」の捩りであることは申すまでもございますまい。因みに、本作の版元は「蔦屋」ではございませんが、令和7年のNHK大河ドラマの主人公となることが決定した蔦屋重三郎とも当然の如く深い関係を有しており、“蔦重”もまた南畝の別作品の版元にもなっております(南畝もドラマ中に出演することでしょう)。こうして、南畝は一躍江戸文壇の「寵児」となったのです。

 しかし、天明6年(1786)に田沼意次が失脚します。そして、その翌年に反田沼派の総帥である松平定信が老中筆頭として政権の中心人物となるに及び、これまでの江戸の文壇は一転して逆風に晒されることとなります。これが、南畝の後半生に直接的な影を落とします。そもそも、南畝の周辺でも親しくしていた人々が処罰の対象となっていきます。狂歌師の宿屋飯盛(やどやのめしもり:国学者で狂歌師)が「江戸払い」、南畝が見出したともいえる戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)が「手鎖50日」の刑を受けることになりました。更に、先に記した恋川春町もまた黄表紙『鸚鵡返文武二道』が文武奨励策を風刺した内容であるとの疑いをもたれ、定信に呼び出しを受けることになります。しかし、春町は病気として出頭せず隠居し、間もなく死去しております。小島藩への連座を避けた自死であったとも伝えられます。それぞれと親しく交友関係にあった南畝としても、生きた心地のしない日々であったことと想像されます。幸い南畝には何の咎めもありませんでしたが、こうした時流に鑑みて、狂歌・戯作の世界と絶縁することになったと言われます。しかし、事実は、そこまで単純ではないことを申し上げておきたいと存じます。狂名「蜀山人」の由来は後に述べるように「銅」との関係に由来するからです(後に南畝が銅関連の幕府職務に係ることから)。つまり、それ以降にも狂歌に手を染めております。

 こうして、南畝は幕臣として生きる道を希求し、「寛政の改革」の一環として始められた人材登用試験である「学問吟味」にチャレンジすることになります。そして一度の失敗を経て、寛政4年(1792)の2度目となる吟味に挑みました。この時は237人の幕臣が受験。上位者から甲科(5名)・乙科(14名)・丙科(28名)の及第者が、それぞれ御目見以上、御目見以下に分けて発表されました。その結果、南畝は御目見以下で唯一の甲科及第者となったのです。時に46歳、これによって南畝には御徒とは異なる「幕臣」としての新たな道が開けたのです。そして、彼は勘定書勤務の「支配勘定」に採用されました。勤務は毎日であり御徒に比べて多忙となったものの、ようやく自身の能力を活かせる職務に就くことができ、収入もアップすることになりました。その後の職務は多岐にわたりますが、その何れにも誠実に取り組み成果を挙げていきます。その一つが、竹橋にあった勘定書の書物蔵に所蔵される幕府開闢以来の雑然と保管される文書を、根気強く整理分類することで、初めて体系化を成し遂げたことでした。そのことは、自作の狂歌「五月雨や 日の竹橋の ほぐしらべ 今日もふる帳 あすも古帳」から判明するように、実に地道な古証文との格闘であったようです。

 もう一つ特筆すべき職務として、寛政13年(1801)南畝が53歳の時に「大坂銅座御用」を仰せつかったことです。この銅座は、全国の銅鉱石を買い上げて精錬し、輸出向けや国内向けに棹銅の製造販売を支配統制する機関であり、幕府にとっては長崎貿易に関わる極めて重要な役職であったのです。同年大坂入りした南畝の任務は、銅の生産量や、中国船による輸出入品の把握、船荷の検分など多岐にわたったようです。因みに、彼のよく知られる狂名「蜀山人」は、この赴任時に、銅の異名である「蜀山居士」に因んで用い始めた号とされております。しかし、好奇心旺盛な南畝は、多忙な公務の日々の中、その間隙を突くように、大坂の史跡を訪ねたり、晩年の上田秋成(うえだあきなり:『雨月物語』『春雨物語』等の著者)や木村蒹葭堂(きむらけんかどう:文人・蔵書家・コレクター)を訪問して親交を結ぶなど寸暇を惜しむように精力的に活動しております。更に、当該業務と関連して、文化元年(1804)に「長崎表御用」を拝命し同年長崎に下向しております。時あたかも、ロシア使節レザノフが長崎に来航しており、南畝は通常業務に加えてロシア人の対応まで行うことになり、その際の貴重な記録も残してもおります。その一つをご紹介いたしましょう(南畝の書簡より)。南畝が西洋における儀礼を初めて知ることになった記録となります。

 

 使節レサノット(※レザノフのこと)逢い申し候。通詞、大田直次郎さまと申し候らへば、使節も大田直次郎を申してうなづき、右の手を出し、此の方の右の手を握り申し候。是れ初見の礼也。それより部屋へ通り、椅子によりかかり、此の方の手付山田吉左衛門と同じく椅子により椅子により居り候へば、通詞を以て対談、幸大夫事よく覚へ居り候。

 

 もうひとつの興味深い記録が、同年にオランダ貿易船に乗せてもらった際に船上で御馳走になったある飲み物の感想が、同年に書かれ翌年上梓された『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』に記されています。少なくとも、日本人による本飲料の最古の記録になると思われます。初めての感想が斯様なものであろうことは納得のいく思いであります。小生は南畝を身近に感じる所以でございます。

 

 紅毛船にて「カウヒイ」といふものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。

 

 その他、南畝の業績として忘れることができないことが、公務から離れた個人的好奇心から記された、数多くの随筆をものしたことであります。そこで南畝は、世に残る古典籍を可能な限り渉猟し、筆写し、併せて記述内容の考証を加えているのです。それが、後の世に歴史・地理を伝えることに大いに寄与していることであります。更に特筆すべきことは、同時代の情報をも小まめに収集し、記録に残したことであります。その飽くなき知的好奇心に導かれた記録の数々が、現代において江戸時代後期の社会と文化を読み解くことにどれだけ寄与しているか、計り知れないほどでございます。その姿勢こそが当展覧会に「江戸の知の巨星」と名付けられている所以に他なりません。彼の幅広い交友については上述した通りでございますが、こうした南畝の活動との親和性が強い交友関係を取り結んだ人物に、塙保己一(はなわほきいち)が存在することは決して偶然ではございますまい。保己一の業績として古今に輝く『群書類従』編纂の偉業には、盲目であった保己一との交友によって、彼に協力を惜しまなかった南畝の存在があったことを忘れてはなりません。その点で、二人の精神性は軌を一にしていると考えられるように存じます。

 以上、脈絡もなく縷々綴ってまいりましたが、大田南畝の多彩で多様な業績と交友関係に迫った展示会が、現在「たばこと塩の博物館」にて開催中の標記特別展でございます。ここで、本展のチラシに掲げられる展示会の概要を述べた文と、本展の展示図録(1冊税込¥1980-)から、展示構成を以下に引用させていただきましょう。過去に新宿歴史博物館で開催された展示会は、主として交友関係の広がりと、南畝のかかわった土地との関係性に焦点を当てた極めて優れた展示会でありましたが、当館での今回の展示の中心は彼の多様な活動、及び成し遂げた成果の全貌に迫る内容となっております。もし、江戸文化にご興味がございましたら、是非とも脚をお運びになられることをお勧めいたします。昨今、公立博物館・美術館が独立行政法人化されたことにより、特別展の入場料はどんどんと跳ね上がっており、拝観料が¥2.000-越える例も決して珍しくはなくなりました。しかし、当館における入場料は、何と!!その“二十分の一”となる¥100であります。今日日、斯くも安価で優れた展示会を拝観することができる幸福を痛感いたします。同時に「塩」等に関する常設展示もご覧いただけるのです。経済的に豊かな一部の人たちだけを対象とすることなく、「公共性」を強く意識され、誰にでも広く門戸を開いていらっしゃる高邁な志に、小生は心底共感をいたします。因みに、本館(千葉市立郷土博物館)は特別展であっても常に入場は無料であることを申し添えておきたいと存じます。展示会は幕を開けたばかりです。会期等は末尾にてお知らせさせていただきます。お薦めでございます。

 大田南畝をはじめとする江戸時代後期の戯作文学や狂歌・川柳の世界は、必ずしも芸術性高き作品群とは言い難いものがございます。しかし、こうしたパロディ作品や世を茶化したりする作品が成立する背景には、制作する側もそれを受け入れる側にも、必要十分な教養を前提としていることであります。何故ならば、元となる教養が共有されていなければ、何を題材に、如何なる仕掛けで捩っているのか理解できませんから。つまり、斯様な文学が花開く江戸時代後期の社会とは、文化的教養の裾野が広がった、成熟した社会が成立していたことの証であると申すことができましょう。現代人である我々が、江戸後期の戯作がそうした教養の沃野に花開いた作品群であることを知る意義は極めて大きいと存じます。果たして、現在の日本にそれだけの教養の裾野が広がっているのか、教養高き社会となりえているのか、また自身はどうなのか、一度自問自答することくらいしても損にはなりますまい。少なくとも、以下の南畝の狂歌のような作品が持て囃される社会こそが、健全で幸福な社会、人生ではないかと信じて止みません。

もし南畝の為人の全貌をお知りになりたければ、かの岩波書店から『大田南畝全集 全20巻+別巻1冊』が刊行されております。小生も別巻以外は所有しております。到底全部を拝読などできてはおりませんが、「知の巨星」の残した孤高の山脈が身近にあるだけでも、不思議にも南畝から心の喜びと勇気とを分けていただけるようにすら感じるのでございます。「愛すべし!!」「掬すべし!!」「いざ旅立たん!大田南畝の沃野へ!!」

 

寝て待てど 暮らせど 更に何事も
なきこそ人の 果報なりけれ [四方赤良(大田南畝)]
世をすてて 山に入るとも 味噌醤油
酒のかよひぢ なくて叶はじ  [蜀山人(大田南畝)]
 
『没後200年 江戸の知の巨星 大田南畝の世界』宣伝チラシより


 狂歌の名人「蜀山人」こと大田南畝(1749~1823年)の名は、江戸文化に関心をもつ方なら一度は耳にしたことがあるかもしれません。平賀源内や山東京伝、版元の蔦屋重三郎や浮世絵師の喜多川歌麿などに彩られた、華やかな江戸の出版界の中心人物であり、当意即妙な狂歌の名手として、現代でも落語や時代小説などで知られる人物です。
幕臣としても有能で、御家人という低い身分ながら幼少の頃から積み重ねた知識と能力によって登用され、職務においても高く評価されていきます。
何より同時代の事件、風聞から歴史的な典籍まで、目にしたあらゆる事物を書き残した功績ははかり知れません。浮世絵や江戸文学の歴史ひとつをとっても、南畝の記録なしには多くの事物が埋もれてしまったことでしょう。塙保己一が散逸しそうな書物を集めて『群書類聚』刊行を成し遂げたのと同時代、その青年期以来の友人であり、典籍の保存のために歩調をともにしたのも南畝でした。
南畝没後200年記念となる本展は、生涯の節目ごとに彼を支えた知友で、たばこ屋の平秩東作と蘭奢亭薫の紹介もまじえながら、江戸の知の巨人の姿を見つめる企画です。情報が氾濫し、知識の価値が問われている今日、知とは何か、あらためて考える契機となれば幸いです。


展 示 構 成

 

第1章 南畝の文芸 

第2章 情報編集者としての貌 

第3章 典籍を記録・保存する 

第4章 歴史・地理を考証する 

第5章 公務に勤しむ 

第6章 時代の記録・証言者として

第7章 雅俗の交友圏

付録1 南畝とたばこ屋 平秩東作

付録2 南畝とたばこや 蘭奢亭薫

付録3 南畝の家族

 

『没後200年 江戸の知の巨星 大田南畝の世界』

 

開催場所 「たばこと塩の博物館」
 〒130-0003 東京都墨田区横川1年16月3日
 Tel 03-3622-8801

会 期 2023年4月19日(土曜日)~6月25日(日曜日)[休館:毎週月曜日]
 ※前期展示 4月29日(土曜日)~5月28日(日曜日) 
※後期展示 5月30日(火曜日)~6月25日(金曜日)

 開館時間 10時00分~17時00分(入館は16時30分まで)

入 館 料 一般・大学生 ¥100- 小・中・高校生・65歳以上の方 ¥50―
 

 

 

 

近世から明治・大正・昭和へと繋がる「木版画」の伝統継承とその変貌について(前編) ―「浮世絵(錦絵)」の興隆・衰退から「新版画」「創作版画」勃興まで―

5月12日(金曜日)

 

 

 五月も半ばとなりました。これを執筆しているのはGW半ばでございますので未だ目にしておりませんが、この亥鼻山でもそろそろ燕たちが飛び交う季節を迎えましょう。今年も南国から遥々と渡ってきた彼らに再会できることを楽しみにしているところでございます。この期間は、例年我が家の樹木伐採・除草に明け暮れることを“馬鹿の一つ覚え”のように記しておりますが、今年は除草の最中に久ぶりにある生き物に出会いました。作業途中に当方の視界の端にチョロチョロとする姿があって気づいたのです。多くの皆様にとっては特段珍しくもない生き物なのかもしれませんが、小生が自宅の庭で出会ったのは何年かぶりになります。それが蜥蜴(トカゲ)の仲間「カナヘビ」でございます。子供の頃には幾らでも目にした懐かしくも愛嬌のある爬虫類でございますが、東京下町の街場では久しく目にすることもなくなっておりました。ですから、その再会は大いに嬉しいものであったのです。もっとも、小生が顔を近づけた途端、その下に様々な物が置いてある“濡縁”下へと脱兎のごとく隠れてしまい、その後は姿を現しませんでした。今回目にしたカナヘビは、恐らく小生の幼少期から繋がる面々ではなく、倅が小さい頃、葛飾区内にある「東京都立水元公園」で捕まえて来ては、我が家の小庭に放した連中の末裔にあたると思われます。20年近くに亘って血脈を繋いでいってくれていることにも、大いなる喜びを感じた次第でございます。

 ところで、千葉県内では、カナヘビのことを「カマンチョロ」と称する地域があるようです。上述の如くチョロチョロと素早く動き回ることからの命名なのでしょう。小生は、近世以来市内の小倉に居住していた御宅の同僚からその名称を聞き知ったのですが、市内でも東京湾沿いの方はそんな言い方は聞いたことがないと仰せでありましたから、もしかしたら、相当に地域的な偏りがある呼称なのかもしれません。それにしましても後半の“チョロ”は納得できますが、前半の“カマ(ン)”の由緒は何処から来たものなのでしょうか。そういえば、千葉県の旧下総国近隣では、方言でカマキリ(昆虫)を「トカゲ」、逆にトカゲ(爬虫類)のことを「カマキリ」と言う地域があると聞いたことがありますから、そうしたことと関係がある可能性が大きいのでしょう。それに致しましても、カナヘビは愛嬌があってナカナカに可愛らしいのですが、如何せん見た目はチト地味でございます。トカゲの仲間では、カナヘビと大きさはそんなに変わらず、何よりも“青メタリックの”美しく輝く体躯を有するニホントカゲ(ヒガシニホントカゲ)が美しいと思っておりましたから、我が家の庭にも住み着いて欲しいな……と昔から思っておりました。しかし、小生が子供の頃から自宅の周辺でも、度々遊びに出かけた水元公園でも、目にすることがございませんでした。もしかしたら、生育環境が異なるのかもしれませんが、詳細は知るところではございません。何れにいたしましても、カナヘビもニホントカゲも(ヤモリもですが)、蠅・蚊・ゴキブリ等々の迷惑昆虫の捕食者でありますから、是非とも大切にしたいと思っております。窓ガラス等にペッタリ貼りつくヤモリも「家(や)を守(も)る」爬虫類であることから、あたら疎かにしてはならないと、幼少期から祖父母から諭されておりました(因みに両生類のイモリも「井(い)を守(も)る」に由来するようです)。その点では、室内でよく見かけるピョンピョンを跳ねる、あのハエトリグモすら、我が家では決して成敗をせず大切にいたしております。何せ、あのゴキブリの幼体を捕食してくれる有難い存在でございます。もっとも、流石に食卓などを跳ねているのは願い下げですから、そうした際には捕獲して、丁重に外にご退出してもらっておりますが。

 さてさて、今回は近世の浮世絵の勃興から衰退の過程、及び明治・大正期に生まれ出ずる新たな「木版画」の動向について取り上げてみたいと存じます。実は、我が千葉市の誇る「千葉市美術館」において、昨年度、当館所蔵品による『進化系UKIYO-Eの美 新版画』展(9月14日~11月3日)が開催されました。その折に、是非とも展覧会の紹介と併せて、「新版画」(明治末から昭和に興隆を迎えた多色刷木版画:詳細は後述)を話題としようと考え、原稿も途中まで執筆もしていたのです。ところが、優先すべき話題が他にあったこと、本展後に『没後200年 亜欧堂田善-江戸の洋風画家・創造の軌跡』展(1月13日~2月26日)という大注目の展覧会開催がされたことで、そちらを採り上げることとなり時宜を逸してしまったのです。しかし、この時節の新緑の美しさに、「新版画」に描かれる懐かしい日本の風景を思い起こすことが屡々であったものですから、これも何かの縁とお蔵入りしていた旧稿に手を入れ、この場にて採り上げさせていただくことにしました。

 皆様もよくご存じの通り、千葉市美術館は「近世絵画」をコレクションの柱の一つとされており、その開館から今日に至るまで目を見張るような優れた展示会を開催されてまいりました。勿論、その中には木版画作品としての「浮世絵(錦絵)」も含まれ、これまで『岩佐又兵衛』展、『菱川師宣』展、『鈴木春信』展、『鳥居清長』展、『喜多川歌麿』展、そして『渓斎英泉』展と、開館以来、間髪を入れずに充実の回顧展を開催されて参りました。そして、その一環としてでもございましょう、その後裔とも評すべき明治・大正期に及ぶ作品群にも裾野を広げ、多くの作品をもコレクションされてもおられます。過去に、「新版画」を代表する作家である、川瀬巴水(かわせはすい)や吉田博(よしだひろし)の大規模な回顧展も開催されております。こうした中で、昨年度開催された標記展覧会は、より広く「新版画」なるカテゴリーに入る、選りすぐりの作品群を広く展示する内容でございました。一人ひとりの作者を深く掘り下げる回顧展が価値あるものであることは申すまでもございません。しかし、そのことによって、周辺作家として採り上げられずに漏れ落ちてしまう作家が出てしまうのも問題です。そうした意味で、時代の流れの中に多くの作家の位置付けることで、「新版画」の全体像に焦点を当てる今回のような企画も極めて重要でございます。多彩な作者の作品群を系統的に収集されている、千葉市美術館ならではの価値ある展覧会であると存じます(本展図録は絶賛販売中です!!:税込¥2.500-)。

 ところで、昨今の「新版画」(特に代表的な存在である川瀬巴水)再評価の動きには著しいものがあり、国内のあちこちでひっきりなしに展覧会が開催されているほどです。その証拠に、今も本館内にポスター掲示がされておりますが、現在「広島県立美術館」で『川瀬巴水 旅と郷愁の風景』展(会期:4月11日~6月11日)が開催されております。小生が川瀬巴水と新版画に興味を惹かれる切っ掛けとなったのは、忘れもしない平成2年(1990)「大田区立博物館」で開催された『旅情詩人 大正・昭和の風景版画家 川瀬巴水』展でございますから、ざっと30年以上も前のことになります。その頃には巴水の「新版画」でも、作品さえ選ばなければ未だ手の届くところにございましたが、今日日そのお値段は途方もなく跳ね上がっており最早「高嶺の花」となり果てました。それに預かって余りあるのが、千葉市美術館による優れた展示会であることは間違いないものと存じます。今では、川瀬巴水に限らず、その周辺の作家にも注目が集まり、千葉市美術館で回顧展が開催された吉田博(1876~1950年)[吉田は単純に新版画の作者とは言い切れ無い側面もございますが]、太田記念美術館における「最後の新版画」作者との評される笠松紫浪(かさまつしろう)(1898~1991年)等々の回顧展も開催されたように、巴水周辺への関心も高まっているように感じます。正に隔世の感があるとはこのことでございます。

 さて、今回取り上げる「新版画」を理解するためには、それが如何なる歴史的な背景の中で生まれ育まれてきたものか、歴史的に把握する必要がございましょう。まず前編では、その前史にあたる近世における「木版画」のことから極々簡略に説き起こしてみたいと存じます。「新版画」と言われる明治・大正期に勃興する版画作品の制作技法は、申すまでもなく多色刷「木版画」ということになります。その点で、近世に興隆した「浮世絵(錦絵)」の流れを直接的に汲んだ作品群ということになります。画題としても、鈴木春信・喜多川歌麿に代表される美人絵、東洲斎写楽に見る役者絵、そして葛飾北斎・歌川広重によって開拓された風景絵の流れをそのままに継承しております(中でも風景絵の比重が大きいですが)。つまり、やまと絵や水墨画、はたまた狩野派の絵師たちがほとんど描くことのなかった、“浮世の人や風景”を描く「風俗絵」にあたる作品となりましょう。しかも、当初は版画ではなく一点物の「肉筆画」として描かれておりました。その嚆矢とも称すべき絵師が、岩佐又兵衛(1578~1650年)というのは動かぬところではありますまいか(信長に背いたことで知られる有岡城主の荒木村重の子と伝えられ、「大坂の陣」後に絵師として松平忠直に迎えられ福井に移っています)。その後、江戸時代になって房州出身の菱川師宣らをはじめとする肉筆美人画が制作されます。

 我々が、極々一般的にそう理解するところの「浮世絵=木版画」なる図式は、明和年間(1764~1771年)前後以降に始まります。田沼時代における町人の経済的発展を基盤とし、彼らの需要を満たすために開発された多色刷の目にも彩なる木版画による浮世絵に始まります(これを「錦絵」と言います)。その中心的な画工として活躍したのが鈴木春信(1725~1770年)であることは夙に知られましょう。その理解に高い教養を必要とする、上品で落ち着いた作風は豊かな町人達に大きな支持を受けることになります。その後、鳥居清長(1752~1815年)による所謂八頭身美人絵、版元蔦屋重三郎(1750~1797年)とタッグを組んだ喜多川歌麿(1753~1806年)による「大首絵」の大ヒットにより、我々がそう感じる浮世絵(錦絵)が確立することになるのです。更に寛政期(1789~1800年)に“蔦重”は無名の東州齋写楽(生没年不詳)を起用して、極端にデフォルメして役者の上半身を描いた役者絵を大当たりさせます。因みに、写楽の実像については長く不明とされて参りましたが、『江戸名所図絵』で知られる斎藤月岑が『増補浮世絵類考』に記したように、阿波徳島藩(蜂須賀家)お抱えの能役者である斎藤十郎兵衛であるというのがほぼ確定しております。

 更に、その後、文化・文政期(1804~1830年)から、引き続く天保期(1830~1843年)にかけて、これまで中心的なジャンルであった美人絵・役者絵(謂わばブロマイド)に加え「風景絵」が現れ、葛飾北斎(1760~1849年)・歌川広重(1797~1858年)らが立役者としてその世界を確立いたします。シリーズ作としての『富嶽三十六景』、『東海道五十三次(保永堂版)』、『名所江戸百景』等々は国内でも大変な人気を博するとともに、長崎貿易における輸出品の緩衝材としてヨーロッパに渡り、欧州において近代絵画を生み出す大きな契機となることも良く知られておりましょう(このことからも錦絵が当時の国内では芸術作品とはみなされていなかったことがわかります)。錦絵の“中抜(中間の景色を抜いた近景・遠景のみ)”の画面構成、物理的には正しくない不合理な表現でありながら自然の有り様を的確に伝える描写(例えば斜め線として描かれる雨の表現)等々の表現は、西欧で驚きを以て迎えられ、ジャポニズムの動向をも惹起いたします。

 また、制作技法につきましては、一点物の肉筆から木版画に移り変わっていた主たる要因は、大量印刷による価格の低廉化を求める、飽くまでも経済的な理由であったのでしょう。しかし、副次的な結果ではありましょうが、木版画とすることで、肉筆とは異なる絵画表現が獲得できたことが寧ろ大きな成果であったのではないかと思われます。無論、その表現の革新性は、「画工」のみに帰すべき事ではなく、驚くべき微細な線を彫り残す「彫師」の毛彫の超絶技巧、版木段階では具現化できない「摺師」による暈かし摺りの開発など、職人の技倆の卓越あっての成果でもあります。要するに、浮世絵(錦絵)制作とは職人同士の協業によって初めて成立する作品なのです。また、そこには市場のニーズを読み取り、各職人の技倆を結集して企画立案をし、その具現化に漕ぎ着ける版元のプロデュース力が何にも増して重要でありました。その意味で、平成7年のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~』となり、版元として著名なる蔦屋重三郎が主人公に据えられることになったのは、大いに欣喜雀躍の思いでございます。近世江戸を舞台とするのであれば、昨今の大河ドラマで主流のお寒いばかりのCG画面とは無縁でございましょうし……。

 ここで少々寄り道となりますが、「美人絵」「役者絵」「風景絵」の他のジャンルとして忘れてはならないのが「春画」(所謂ポルノグラフィー)であります。ここで、当該作品群について触れることはいたしませんが、当該ジャンルの作品は、殆ど全ての浮世絵師が描いておることは知っておく必要がございましょう。往々にして、公立美術館における浮世絵展では斯様なる作品が紹介されることは極々稀でございます(触れられてもほんの少しです)。しかし、小生はこうした扱いは浮世絵師の活動の重要な側面を覆い隠してしまい、浮世絵の正しい評価を妨げる点で大問題であると考える者であります。かつてイギリスの大英博物館で開催され、欧州で大好評を博した『春画展』でありますが、日本では(そうした作品を生み出した母国でもあるにも関わらず)、公立の博物館・美術館の何処でも巡回展として受け入れる施設がなく、大名細川家に伝わった物品・文書の類を保存展示する私設美術・博物館「永青文庫」が義侠心(!?)に駆られて開催を引き受けた経緯がございます。これらの作品もまた浮世絵師の全貌を理解する必要不可欠のジャンルであります。都合の悪い現実から目を背けてはいつまでたっても浮世絵の全貌を理解できることには繋がりません。見たくなければ、個人的に当該展示の部分をスルーされれば済むことでございましょうし、展示する側も当該展示部分について年齢制限をかける等、展示方法の工夫をすることで実現可能と存じます。皆様は如何お考えでしょうか。

 さて、錦絵の制作過程でありますが、上述いたしましたように、大元が出版機能を有する「版元」であり、彼らがプロデューサーとして企画・販売機能を果たします。版元は、当該企画に最も適合する「画工」(これが俗に言う浮世絵師と称される人々です)に依頼します。しかし、錦絵は一点物の肉筆画ではございませんから、これ以降の工程が重要となります。それが、画工の描いた下絵を元に、版木を製作する専門職である「彫師」であり(錦絵は多色刷でありますから用いる絵の具に応じた版木が必要となります)、更に完成した版木を用いて絵の具を乗せて和紙に摺りあげる専門職「摺師」の存在が不可欠であります。つまり、繰り返しになりますが、江戸時代の錦絵製作とは、そうした高度なる専門性を有する職人の共同作業の産物ということになるのです。しかし、少なくとも近世後期における錦絵とは、今で言う「ブロマイド」(今ではこの用語も死語に近いかも知れません)や「絵葉書」感覚の商品でありました。実際に錦絵1枚の価格は20文程という大いに安価な製品であり、狩野派等の「絵師」が描く格調高い「絵画」としては認識されておりませんでした。それが現在で言うと如何ほどかは単純には申し挙げられないのですが、当時蕎麦一杯の値段が16文でありましたから、大体がそれぐらいと見当をつけて頂ければ当たらずしも遠からじ……でございましょう。従って、原画を描く北斎や広重といった浮世絵師も、そう書かれることが多いのですが、「絵師」ではなく職人としての「画工」であったと考えるべきかと存じます。少なくとも高尚なる芸術作品ではなかったことは確かです。

 明治維新を迎え、欧化政策の下で都市の景観にも大きな変化が生まれ、浮世絵師たちの描く画題にも大きな変化が生じて参ります。その第一人者として知られる人物が小林清親(1847~1915年)でございます。清親は、元々幕臣であり鳥羽伏見の戦いにも加わり、敗北後には静岡まで徳川慶喜に従っております。その後、明治7年(1874)に東京に戻り、絵の道を選ぶことになります。彼の手になる錦絵で忘れ難きは、瓦斯燈の揺らめく洋風建築立ち並ぶ都市の変わりゆく都市の肖像であります。そこには、旧世界への限りない愛惜と、変貌する都市に吹く新たな風への畏怖に通じる、心の交錯が感じ取れるように思われます。清親による淡い光の魅力は他の誰とも異なる独特の魅力を感じさせます(「光線画」)。「最後の浮世絵師」と称されることも多い清親ですが、錦絵の掉尾を飾る優れた画工ではないかと存じます。しかし、日清・日露戦争を経て、日本の社会には新聞等の出版業が盛んとなるのに伴い、これまで、世相を表現するツールであった浮世絵(錦絵)の世界は、次第に写真や石版画(リトグラフ)といった新たなものに置き換わっていくことになりました。そうした需要逼迫の中で浮世絵師の仕事は激減。これまでのような錦絵から脚を洗い、挿絵画家として細々と生計を立てるものが増加。少なくとも国内では、浮世絵の伝統は必然として衰退に向かうことになるのです。

 しかし、江戸時代の後期から西洋に渡って、その優れた絵画表現と芸術性を高く評価されていた錦絵は、明治になっても海外では引っ張り蛸の人気を博しておりました。そして、その価値が、逆輸入される形で日本国内に入り込むことで、国内でも明治後期になると、「芸術作品」として浮世絵を再評価する機運が次第に醸成されてくることになります(悲しいかな、我が国でよく見られる、海外からの評価で国内での価値が定まるという例のパターンであります)。その結果、明治末から大正にかけて木版画の新たな動向として生まれてきたのが、所謂「新版画」と総称される新たなる木版画制作の動向となるのです。それにつきましては、後編で述べてみたいと存じます。
(後編に続く)
 

 

近世から明治・大正・昭和へと繋がる「木版画」の伝統継承とその変貌について(後編) ―「浮世絵(錦絵)」の興隆・衰退から「新版画」「創作版画」勃興まで―

5月13日(土曜日)

 

 

 前編では主に木版画としての浮世絵(錦絵)が、田沼時代頃に制作され初め、その後近世を通じて幾多の版元によって、多彩な画工が発掘されて興隆を極めたこと、しかしながら明治維新を経て「西洋に追いつけ追い越せ」と推し進められた、外来技術と生活様式の積極的な導入の中で、最後の光芒を放ってから衰退の道を辿ったことを述べました。しかし、一方で明治以降の石版画・写真や絵葉書等々の新技術による絵画製品では表現しきれない、木版画であることに由来する表現可能性に興味を抱く人々が現れます。そのパイオニアとなるのが、近世以来の錦絵作品の流入により、その表現性に魅了され欧米で所謂「ジャポニズム」を推し進めた外国人の存在に他なりませんでした。

 また、我が国内でも、明治以降も近世以来の錦絵作品の海外流出が続き、相当に状態の悪い作品でも高額で取引されていたこと、海外でこの状況を見知った日本人画家が「かような粗悪な状態の木版画で錦絵を評価されては困る」との危機意識を醸成したこと、更には明治以降も辛うじて錦絵制作を続けていた版元の中には、目聡く海外への販売に商業的活路を見出したこと等々、そうした複合的な状況が総合されることで、新たなる木版画の制作を推進する原動力が明治の末頃に俄かに勃興することになるのです。そうした幾多の条件を結集して近代の木版画制作に取り組んだ版元が、渡辺庄三郎(1885~1962年)その人であったのです。因みに、彼の興した「渡辺美術木版画舗」は、現在もお孫さんに引き継がれ営業を継続されております。テレビ東京の人気番組「何でも鑑定団」に鑑定士として登場される渡辺章一郎氏がその人でございます。

 その渡辺庄三郎でありますが、当初は海外への輸出用として近世錦絵の復刻版制作を行っておりました。しかし、明治末期になると、近世にそうであったように、版元を中心として従来の伝統的な錦絵の制作過程を踏むことで、新たな木版画の世界を創造できないか模索することになります。つまり、近世以来の「画工」・「彫師」・「摺師」という伝統的な制作の流れに沿って、それぞれの熟練技術をフルに活用した木版画こそが、良質の作品を生み出せるのであり、引いては今後も広く海外にも販路を求めることに繋がると考えたからに他なりません。こうした庄三郎の考えに賛同して原画を制作し、大正4年(1915)に庄三郎の想いを初めて形にしたのがたのが、他ならぬオーストリア人フリッツ・カペラリ(1884~1950年)であったことは、上述した木版画再興の由来を証明いたしましょう。そして翌年には橋口五葉(1881~1921年)・伊東深水(1898~1972年)、イギリス人のチャールズ・バーレット(1860~1940年)の作品も出版することになります。外国人の手になる和洋折衷の木版画は、当たり前ですがどこかエキゾチックでとても魅力的な世界が描かれております。本展にも展示された「ベナレス」をご覧いただければ御納得いただけましょう。ところで、全くの余談ですが、数年前にお亡くなりになった女優の朝丘雪路さんは伊東深水のお嬢さんであります。

 これまで、ずっと「新版画」と用いて参りましたが、ようやくきちんとした定義をさせていただきますが、近世以来の伝統的な錦絵の制作過程を経てつくられた、清新な作風の木版画を「新版画」と称しております。そして、そこに川瀬巴水が加わり、吉田博との関わりも生じるなどして、途中大正12年(1923)の関東大震災による中断を経るものの、その再建から戦後にまで到る「新版画」の実り多い世界が繰り広げられるようになるのです。この辺りの事情につきましては、『新版画 進化形UKIYO-Eの美』展図録の「第二章各論」を引用させて頂きましょう。ここには、新版画が、これまでの浮世絵(錦絵)を単純に模倣制作したものでは無いことにも触れられており、極めてわかりやすい解説となっておりますから、小生が胡乱な説明をするよりも宜しいかと存じます。要は、海外への販路を拡大するために、近世の錦絵以上に“日本らしさ”を色濃く強調した作品が世にでることになったのです。その点が、少々鼻につくという方もいらっしゃることも理解できますが、現代を生きる日本人にとっても、新版画に描かれた“The!日本らしさ”とは、高度経済成長期を経て既にその大半が失われつつありましたから、ある意味、現代の日本人にとっても「失われし時を求めて」的な「郷愁」を強く感じさせるのではありますまいか。それが「平成」と言う時代を通じて、我が国でも「新版画」が再評価されていく素地になっているものと思われます。

 

第2章 渡邊版の精華


 新版画を順調に始動させた渡邊は、まず若き伊東深水との仕事に没頭し、大正7年(1918)『近江八景』を完成。この連作には、渡邊が新版画で目ざしたものがよく反映されている。深水は伝統的な画題である「近江八景」を自由に解釈し、あくまでも現地を訪れて得た実感をもとに、時に主観的に、時に図案的に画面を構成している。それを渡邊は、簡潔な彫りとニュアンスに富んだ摺りにより見事な版の絵に仕上げた。新版画に於いて重んじられたのは、画家の感興と個性であり、肉筆画の複製に陥らないことであった。この斬新な『近江八景』に感銘を受けて新版画に道を定めたのが川瀬巴水である。大正7年の『塩原三部作』を皮切りに、風景の専門家として渡邊のもとで長く制作を続け、新版画を代表する作家となってゆく。渡邊はさらに名取春仙と山村耕花を迎え、美人画、風景画、役者絵の作家を揃えた。大正10年には日本橋白木屋呉服店で「新作版画展覧会」を開催、既刊作150点を一同に並べ、世に好評をもって迎えられた。その後、大正12年の関東大震災で作品や版木のほとんどを失い、実験的な作品の出版を断念することになるが、戦後まで長く、良質な仕事を続けてゆくのである。

(『新版画 進化形UKIYO-Eの美』展 展示図録より)

 

 ここに記されるように、今日「新版画」をほぼ一身に体現する作者として受け止められているのが、「昭和の広重」「旅情の詩人」等々として評される「近代風景版画」の第一人者「川瀬巴水」であることは衆目の一致するところでございましょう。巴水は、明治16年(1883)に東京府芝区(現:港区新橋)の組紐職人の家に生まれますが、絵師を志し10代半ばから画を学び始めます。そして、明治41年(1908)25歳の時、日本画家鏑木清方(1878~1972年)に入門、紆余曲折はあったものの師匠から「巴水」の画号を与えられて日本画家としての歩みを始めます。しかし、師匠の得意とする美人画に対する適性に限界を感じたようで、前述の伊東深水による「新版画」作品『近江八景』に感銘を受けたことから、風景木版画への興味を持ち、そこに自身の活路を見出したとされております。以後、渡邊庄三郎の下で風景画を担当し、日本各地を旅することで、各地の風景をベースにした情緒纏綿たる作品を制作し、特に海外で人気を博していくことになります。巴水の作品を一度でも目にされれば、それが如何に外国人に持て囃されたかが理解できましょう。余計な事かもしれませんが、アップルCP創業者であるスティーブ・ジョブズ(1955~2011年)も熱心な巴水作品のコレクターであったことが知られます。勿論、現在を生きる小生にとっても、郷愁の琴線に触れる作品に深く心惹かれるものを感じます。

 皆様も是非とも触れてみていただければ、大切な作家となることと存じます。『川瀬巴水 木版画集』(2009年)[阿部出版]、下絵やスケッチ等を含む多くの作品を網羅した『川瀬巴水-生誕130年記念-』展の図録(2013年)[大田区立郷土博物館]あたりが宜しいかと存じます。前者は¥6.000+税とお高いのですが、図版の美しさで際だっておりますし、後者は公立博物館の刊行物ですので安価で入手可能かと存じます。後者は、展覧会後に直ぐに品切れになりましたが再版されましたので、現在でも入手出来るのではないかと存じます。もしくは、千葉市美術館1階のミュージアムショップで多くの関連本が販売されておりますから、実際にお手にとられて、お気に入りの一冊を仕入れてみては如何でしょうか。小生も、草臥れた時などに、巴水の季節感を感じさせる作品を目にすると、爽やかな風であったり、ジトっと湿った風であったり、また肌を刺すような冷たい風であったりが、四季それぞれの海の香りや木々の息遣いすら運んでくるように感じさせられます。日本人に生まれたことの倖せを身に染みて実感する、ゆったりした時を過ごすことができるのです。

 一方、一度は渡邊の下での新版画の制作に携わりながら、後に渡邊と袂を分かち、自身で彫師・刷師を雇い、思うままの木版画制作を目指すべく独自の制作に移る作家も現れます(こうした作品を「私家版」と称します)。その代表的存在が橋口五葉(1881~1921年)と吉田博(1876~1950年)となります。ここでは後者の吉田について簡単に触れておきましょう。吉田は久留米藩家臣の家に生まれ、洋画家を目指して自費で海外へ赴いては技倆を高めていき、風景画の第一人者となっていきます。その延長線に風景木版画の世界が開けたと申せましょうか。その転身の切っ掛けが、大正末の渡米で日本の浮世絵版画の人気を目の当たりにしたこととされております。そして帰国後、浮世絵についての研究を深め、より精緻な木版画表現を開拓することになります。そのために、自身でも彫師・刷師を凌ぐ、彫り・刷りの技術を身につけていったといいます。吉田の狙いは、作画・彫り・刷りの三者は対等の関係ではなく、彫師・刷師は飽くまでも画家としての作品制作意図に従ずる立場であるとのスタンスであります。吉田が得意とした山岳風景や海面に反射する光線の揺らめきを表現する、彼の木版画の精緻な美しさは、10以上の版を重ねることで生まれる微妙な色彩の階調に由来しております。吉田の作品にも是非とも触れて頂ければと存じます。千葉市美術館で平成28年(2016)に開催された『生誕140年 吉田博展』図録は、版画はもちろんのこと、多様・多彩な吉田の業績を網羅して採り上げた極めて優れた内容です。ただ、残念ながら完売となっており新刊としては入手不能のようです。こちらも、千葉市美術館のミュージアムショップで適当な書籍が入手できましょう。こちらでご確認くださいませ。

 最後に、明治以降の木版画制作に、「新版画」とは異なるスタンスで歩んだ一流について簡単に説明をさせて頂き、本稿を閉じようと存じます。それが、浮世絵から新版画に脈々と受け継がれる、画工・彫師・摺師による協業体制としての木版画制作から離れ、全ての工程を作家一人が担うことで成立する木版画制作の在り方であり、こうして生み出された作品群を「創作版画」と称します。協業体制による工業製品的な制作体制から、より作家個人による芸術性を前面に打ち出した木版画制作であり、そのために全ての工程に作家が関わることをモットーといたしました。そして、その動向は「新版画」と軌を一にするように、明治末期から大正期にかけて勃興してまいります。ある意味で、日本の伝統から離れ、西洋における芸術家(作家)としての「個性」に立脚した在り方を求めた動向であると申せましょう。

 その嚆矢となる作品が、明治37年(1904)に雑誌『明星』に掲載された山本鼎(やまもとかなえ)(1882~1946年)による『漁夫』であることは衆目の一致するところかと存じます。荒々しい鑿跡を残すモノクロで描かれた側面から捉えられた漁夫の姿からは、その生活感が滲むようであります。少なくとも浮世絵版画とは隔絶した清新なる作品であります。そして、その後の「創作版画」を山本と共に牽引するのが恩地孝四郎(おんちこうしろう)(1891~1955年)であり、カンディンスキーらのドイツ表現主義からの影響を色濃く受けた、木版画による抽象表現の創始者とされます。大正期には山本鼎らとともに「日本創作版画協会」設立に尽力しますが、これが現在も「日本版画協会」として営々と継続運営されていることは注目されます。恩地は単独作品以外に、書物の装丁としての版画にも手広く手を染めており、北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星らとの交友関係に基づく装丁にも携わっております。

 こうした「創作版画」の有する方向性こそが、戦後の川上澄夫(かわかみすみお)(1895~1972年)や棟方志功(むなかたしこう)(1903~1975年)の木版画世界、更には池田満寿夫(いけだますお)(1934~1997年)らの銅版画のような、独創的な作品の開拓をもたらし、今日における版画芸術の興隆をもたらすことにつながったのだと思われます。逆に、「新版画」は戦後にそれを担った作家の高齢化と、高度成長期の社会変化の中で、その推進力を滅失していくことになりました。現代に至って「新版画」が再び見出され、ここまで広く人気を博するとは、流石の渡邊庄三郎でも考えなかったかもしれません。

 最後の最後に、千葉市美術館には、是非とも同時代を駆け抜けた「新版画」と「創作版画」とを対比することで、明治・大正・昭和の時代像を照射する展示会の開催を企画していただきたいとお願いしたいところでございます。大いに期待しております。

 

 

令和5年度「千葉氏パネル展」が始まります!『京(みやこ)と千葉氏』 ―会場[本館1階展示室]、会期[令和5年5月25日(木)~11月19日(日)]―

5月19日(金曜日)

 

 5月も半ばとなり、流石に陽気も爽やかさとは無縁の様子と転じて参りました。この5月は、月初めから(4月の後半からと申すべきかもしれませんが)、矢鱈と強風の吹き荒ぶ日が多かったように思いますし、後半は雨模様の日が多くて寒暖の差の大きさにも往生いたしました。それに、日本各地での不気味な地震の頻発もありました。ここ房総の地でも、例年の5月ひと月分の降水量を一日二日で越えるような大雨、能登半島先端での「震度6強」地震による被害とまではいかなかったものの、直後の「震度5弱」を測定する地震が発生する等々、何かと御難続きでございました。6月に入れば、早々に今度は梅雨の季節へと突入することになりましょうが、ここ数年続けざまに発生している局地的な豪雨被害が繰り返えされないことを祈るばかりでございます。

 さて、斯様なる5月でございますが、来週25日(木)から、本年度展示会の第一弾となる『京(みやこ)と千葉氏』が本館1階展示室を会場に開幕されます。そこで、今回はそのご紹介をさせていただきたく存じます。本展は、例年開催しております「千葉氏パネル展」の一環に位置づくものとなります。つまり、本パネル展は令和8年(2026)度に迎えることとなる「千葉開府900年」に照準を合わせ、本市の都市としての礎を築いた中世武士団である「千葉氏」について、様々な視点からご理解をいただこうと継続して開催をしている展示会となります。その起点となるのが、大治元年(1126)に千葉常胤の父常重が「大椎(おおじい)」(現在の千葉市緑区内)から、現在の本市中心地に移し、土地の名を冠する「千葉」を名字としたことにございます。これまでも、本市では、昭和元年(1926)に「千葉開府800年」、昭和51年(1976)には「千葉開府850年」と、節目節目に周年行事を開催して参りました(本館のある亥鼻公園にはそれぞれ記念碑が建立されております)。前者では、それまで松林の生い茂る地であった亥鼻山に桜が植樹され、以後こちらが桜の名所となる契機ともなりました。それから、太平洋戦争と高度成長という大きな出来事を経て迎える「開府900年」となります。千葉市として如何なるレガシーを残していくのか様々な計画があると存じますが、その一環として本館でも「千葉氏」についての理解を深めていただくことを目的に、様々な角度から一族の歴史に焦点を当て、その実像に迫ってまいりたいと考えておりますし、当該年度に向けて館内展示リニューアルも予定していることは、年度当初の本メッセージでもお伝えいたしました。

 さて、本年度の「千葉氏パネル展」に話題を戻させていただきましょう。これまで東国武士といえば、地方のことなど顧みずに京(みやこ)で豪華な暮らしをする貴族と対比されるように、所領に土着して武芸に励む質実剛健なる存在であり、貴族に代わる新たな社会を切り拓いた存在と評されて参りました。そして、われらが千葉常胤こそ、東国武士の典型とされてきたのです。しかし、近年の進展著しい中世武士団の研究は、こうしたステレオタイプの東国武士像を大きく塗り替える成果を生み出しております。その一つが、東国武士が実際には京(みやこ)と深く関わっていたことであり、千葉氏もその例外ではないことでございます。こうした新たな千葉氏の姿を、幾つかの視点から光を当てたのが今回のパネル展ということでございます。つまり、これまで広く理解されていた千葉氏のイメージを覆すことを目論むものであります。本展のタイトルの当初の仮題を『シン・千葉氏』としていた所以がここにございます。本展は、「総論」一枚と「各論」6枚の計7枚のパネルで構成しておりますが、以下、本展趣旨の概要をご理解いただくため、パネル①「はじめに(総論)」については全文を、パネル②から⑦までは各パネル標題と概要とをお示しさせていただきます。
 

パネル① はじめに(総論)


 鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(1147~1199)が、治承4年(1180)の挙兵以来仕えてきた千葉常胤(1118~1201)や土肥実平(生没年不詳)について「善悪をわきまえぬ武士であるが、衣服などは美麗を好まず、多くの所領と家臣を持ち、忠勤を励んでいる」(『吾妻鏡』元暦元年(1184)11月21日条)と述べたように、これまで東国武士といえば、「草深い坂東」の地に土着し、荒れ地を開発して所領とするかたわら、弓術や馬術をはじめとする武芸の鍛錬に励む「質実剛健な在地領主」というイメージで語られてきました。武士はまた、教養に乏しく粗野な面をもつものの、地方の乱れを顧みず京都で華やかな生活を送る貴族たちと対比され、「武士の世」としての「中世」という新しい時代を切り開く原動力として位置付けられてきました。そして千葉氏もまた坂東武士の典型と評価されてきたのです。
 しかし、近年の急速な研究の進展によって、このような領主として在地に根付いた中世武士像の見直しが迫られています。武士のルーツは、京都の王朝社会の中に位置付けられ、軍事や警察、治安維持を担う「軍事貴族」であることが明らかになっています。「弓馬の道」と言われたように、馬上で弓を扱う「騎射(うまゆみ)」は武士の証とされましたが、騎射をはじめとする武芸も貴族社会で育まれ、伝えられてきたのです。さらに武士が交通や流通と深い結び付きを持ち、その本拠も陸上交通や水上交通の要所に構えられていたこともわかってきました。質の良い武器・武具を蓄え、強い武力を備えるためには、豊かな経済力と高い技術が必要とされるからです。
 すなわち、中世前期の武士は地方に土着するだけの存在ではなく、交通や文化といった日本列島全体にわたるネットワークに立脚し、王朝政府の所在地であった京都と深い結び付きを持った存在であることが注目されています。東国武士の典型とされ、鎌倉幕府の創設に大きく貢献した千葉氏についても、このネットワークを通して、京都をはじめ各地で活躍する新たな姿が示されています。
 その結びつきを維持・強化するために、武士たちは地方の所領と京都との間を頻繁に行き来し、皇族や有力な貴族に仕えたり、所領を寄進したりして、中央の有力者とも密接な関係を築いていました。このため、京都の政治情勢やさまざまな情報にもいち早く接することができたのです。千葉常胤が源頼朝の挙兵に応じたのは、京都との結び付きを通して得られた、中央の政治情勢に関する情報の分析に基づく計算された行動であったはずです。
 本展では、武士と貴族、東国と京都とを対立するものと捉えてきた従来の中世史の見方から離れ、今まであまり注目されることのなかった「千葉氏と京都との結び付き」に注目し、関連資料や京都周辺の千葉氏ゆかりの史跡の紹介を通して、新たな千葉氏像を示したいと考えます。

 

パネル② 桓武平氏の登場 ―武士は貴族(軍事貴族)から発生した―

 

 これまで、武士とは、草深い地方に居住する在地領主が武装することで成立したと説明されることが多かったのですが、近年の研究成果により、京都の王朝社会で天皇や有力貴族を守り、軍事や警察、治安維持を担う『軍事貴族』が武士の起源であり、平安時代から鎌倉時代にかけて、武士として世に認められるためには、馬上からの『騎射(うまゆみ)』の技術を習得し、その技術を子孫に継承する家であることを、朝廷から認定されることが必要とされた存在であることが分かって参りました。つまり、武士とは、そもそも京(みやこ)と切っても切れない関係性を有する存在であったのです。そして、そうした事実を、血統の面でも天皇の後裔である「桓武平氏」の在り方から説明しております。国司として上総国に下向した平高望とその末裔である両総平氏が、坂東へ土着して所領経営を推し進めながら、自らの地域勢力としての地位を高め、利益の伸張を図るためにも、京都との関係が必要不可欠であり、京(みやこ)の有力貴族との密接な関係性を築いていたこと。また、朝廷の地方行政機関である国府における現地採用の役人(在庁官人)としてコミットメントしていたことを、平安時代末期の状況から述べております。その点で、千葉氏もその例外ではあり得なかったのです。

 

 
パネル③ 中央権門との関係 ―頼朝の挙兵と常胤の参陣を支えたもの―

 

 平安時代末期における千葉氏の所領経営が、京(みやこ)における有力者との深い関係性を構築することで成り立っていたこと、そして当該時期に於いて、京の中枢にある有力者や、当時巨大な所領と武力を有していた寺社勢力との深い繋がりを有していたことを千葉氏の事例から探っていきます。つまり、千葉常胤の源頼朝挙兵への参加は、決してイチかバチかの大博打ではなく、中央政局に関する情報を的確に収集し、冷厳な判断の下で決せられた可能性が大きいのです。そのために、伊豆に流されていた源頼朝との関係性を以仁王の挙兵以前から構築していたことは、常胤の六男東胤頼が伊豆の頼朝と直接に会って会談していたことからも判明します。また、胤頼は京において政権の中枢にある人物に仕えるなど、京を活動の舞台としてその情報を頼朝や父の常胤に齎してもいたのです。それに加えて、本パネルで注目しているのが、これまで余り注目されてこなかった千葉常胤の子である日胤(にちいん)の存在であります。彼は、有力なる寺社権門であった園城寺に常胤が送り込んだ人物であります。日胤は、平家政権打倒の令旨を発出した以仁王との関係を有すると同時に、頼朝の護持僧でもあったのです。つまり、以仁王と頼朝、そして常胤とを結びつけるキーマンであったことは極めて重要です。以上のように、パネル③では千葉氏もまたに京との深い関係性を媒介として自らの進退について判断を下していたことが知れるのです。

 

 

パネル④ 御家人役と京 ―京都大番役と関東御公事―


  東国に開かれた鎌倉幕府政権とは、必ずしも武士による東国独立政権というわけではなく、飽くまでも表向きには朝廷の警察権を公に担う機関として成立したことに他なりませんでした。従って、幕府は天皇・上皇の住まいである、京(みやこ)の内裏や院御所を警固することを大きな任務としました。従って、鎌倉将軍と主従関係を取り結んだ御家人は、幕府の命令によって定期的に京に赴き、そうした警固の任務を果たす義務を負うことになりました。これを「京都大番役」と言い、そのこと自体が幕府への奉公となりました。従って、家臣を引き連れての上洛に要する費用も、京での滞在費も各御家人の自弁となったのです。また、幕府が諸国に設置した「守護」の任務の一つに、この管轄内の御家人への「大番催促」がありましたから、下総国の守護であった千葉氏は、自ら大番を務めるのみならず、管轄内の武士がその義務を果たすことを監督することも職務としていました。パネルでは、実際に千葉氏が京都大番役の費用を借金によって調達していることを示す文書や、その資金を返済に追われるなど経済的負担に苦しむ姿を示す資料を紹介しております。一方、幕府は内裏や京の寺社修造を請け負うことになりましたから、幕府からの命令により有力御家人には経済力を期待され、その費用を負荷されることにもなりました。これを「関東御公事」といい、パネルでは鎌倉幕府が行った「六条八幡宮」造営に千葉氏が関わり費用を負担している史料が紹介されております。度々千葉氏に課されるこうした「関東御公事」の負担は千葉氏の財政状況を悪化させることになります。何れにせよ、東国武士にとって、京とは、御家人としての義務を果たすために切っても切れない場であったことが分かります。

 

 

パネル⑤ 千葉氏の西国所領経営と京 ―所領支配ネットワークの核としての京―


  本パネルでは、千葉氏にとっての京(みやこ)が、パネル④で示した幕府御家人の義務を果たすためだけではなく、北は東北から南は九州まで全国に散在する所領経営の拠点としても、極めて重要な意味をもっていたことを紹介しております。そのために、千葉氏は鎌倉時代末期頃には京都東山の清水坂に「京屋敷」を構えてもいたのです。京屋敷は、「京都大番役」として在京する際の拠点となることは勿論ですが、その他にも「関東御公事」として京で課せられた役を果たすための雑多な事務や、西国所領経営に関する訴訟対応事務等々を処理するための機能をも有していたのです。そのために、多くの有能な現地スタッフを常駐させてもおりました。こうした事務スタッフとして知られる人物として、文書官僚として千葉氏に仕えた冨木常忍(ときじょうにん)がおります。彼は因幡国(現在の鳥取県の一部)出身であり、元来は国衙での職務に当たっていたようですが、その有能さ故に千葉氏にスカウトされたのだと思われます。京は、そうした人的ネットワークのハブともなっていたのでしょう。常忍は、下総国八幡庄(現在の市川市)にあって、千葉介の所領経営の中心となって活動したり、幕府から課される負荷の調整等々、渉外関係の事務処理を果たしていたことが残された記録からも判明します。因みに、常忍は日蓮の熱烈な信者であり、庇護者でもありました。日蓮の死後に出家して日常を名乗り、後にその屋敷跡が今日も市川市内に続く中山法華経寺に発展しました。

 

 

パネル⑥ 千葉氏と京文化 ―和歌の交流を中心に―

 

  華やかで高度な文化を有する京(みやこ)の朝廷文化人に対する、草深い坂東に土着する無教養で粗暴なる武士……といった、文化における「西高東低」ともいうべき認識が、これまで「ステレオタイプ」のように喧伝されて参りました。しかし、これまでのパネルでも述べて参りましたように、坂東武者たちと京(みやこ)とは長く深い関係を有して来ていたのです。都における高い身分の人達との交流を果たす重要なツールとして、武士にとっても和歌や蹴鞠等の宮廷文化の素養は不可欠なものであったのです。従って、必然的に武士の中にも高い文化的素養を誇る者達が現れてくることになります。千葉氏にとっても、それは例外ではありませんでした。特に、京の有力者との交流に由来して、父常胤を凌ぐ官位を得ていた東胤頼と、後裔の東氏では和歌で後世に名を残す人物が頻出するようになります。また、東氏を凌ぐ大規模な「宇都宮歌壇」を形成する宇都宮氏と併せて、三代将軍源実朝、その後の摂家将軍・親王将軍を囲む「鎌倉歌壇」の構成者として活躍している姿も記録から読み取れるのです。取り分け、天皇・上皇の命で編纂される「勅撰和歌集」[10番目『続後撰和歌集』(1235年)から最後の21番目の『新続古今和歌集』(1439年)まで]、東氏歴代当主及び関係者の和歌が72首も選ばれているのです。胤頼の孫である胤行(素暹)は、必ずしも円満とは言えなかったものの、天才歌人藤原定家との接点を有し、定家の日記『明月記』にもその名を残しております。また、東常縁が、連歌師宗祇に『古今和歌集』解釈の秘伝を伝えた、所謂「古今伝授」で知られるなど、東氏が「和歌の家」として広く認識されてもいたのです。また、千葉氏本宗家でも南北朝期の当主千葉氏胤の詠歌が『新千載和歌集』に採られております。朝廷による勅撰和歌集の編纂は、政権の正当性を内外にアピールするための政治的ツールでもあり、同時に勅撰歌人に選ばれることは自らの地位を公的に承認されることにもつながりました。その意味でも、本宗家が美濃国郡上郡に移った東一族を除けば、氏胤が下総国の武士として唯一の勅撰歌人となったことは、千葉一族の本宗としての地位を巡って一族の胤貞流と争っていた氏胤にとって、極めて重要な価値を有する出来事に他ならなかったのです。

 

 

パネル⑦ 京から関東へ ―下総の大名として―

 

  パネル⑥の末尾でも触れたように、鎌倉期の「元寇」は千葉一族内にも大きな影響をもたらし、その後継を巡る一族内の深刻な対立を引き起こしました。その対立構造は、鎌倉幕府の崩壊から、「建武の新政」期を経て、「南北朝期」にまで尾を引いていきます。胤貞流が足利尊氏についたことから、対立する千葉貞胤は南朝側となります。しかし、胤貞が急死し貞胤も尊氏に従ったことで、貞胤が下総国守護職を安堵されることになったのです。つまり、ここに両者は別の家として把握されるようになります。足利尊氏が京に幕府を開設したことから、当初は貞胤らも在京して幕府に仕える形を採っておりました。しかし、その後幕府は東国統治のために「鎌倉府」を設置することになり、関東の武士たちは基本的に鎌倉府の支配下に入ることになります。その結果、千葉氏も鎌倉府内で侍所の所司(長官)として鎌倉府に出仕することになるのです。一方で、一族を京(みやこ)に残して継続して幕府に仕えさせてもおりますが、ここに千葉本宗家はその活動のエリアを東日本にシフトさせることになりました。このことが、結果として平安時代以来の千葉氏を含む関東武士と京との関係性を希薄化することになり、以後は東国の地域勢力としての色彩を強めていくことになるのです。

 以上、パネル展の概要を説明させていただきました。例年の本展と同様、各パネル内には文章だけに留まらず、豊富な写真・資料を散りばめております。手前味噌ではございますが、大いに見応えのある展示内容となっているものと存じます。今回は、「京(みやこ)と千葉氏」という、従来あまり注目されてこなかった東国の有力武士と京との深い関係性、及びそれが希薄化する機縁をも含め、千葉氏の実像を紹介しながらその推移を追っております。皆様も「新たなる千葉氏の実像」に触れていただける、またとない機会を提示できたものと自負するところでございます。少しでも多くの皆様にご覧頂ければと祈念するところでございます。会期を長く設定しておりますし、現在放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』絡みでの当て込み企画である、ミニ展示『来てたの!?家康』と併せての展示となります。是非とも御来館をお待ち申しあげております。

 最後に、本パネル展につきまして、一点お詫びを申しあげなければならないことがございます。4月当初の本稿にて「展示会開催と同時にブックレット(1冊¥100)を販売いたします」と大々的に宣伝しましたが、予算の都合がございまして、同時刊行をすることが出来ないばかりか、後に開催される特別展・企画展の費用が嵩んでいる関係で(京都からの資料の借り入れ等もございます)、もしかしたら刊行が叶わないかも知れない状況にございます。何れにいたしましても、結果としては「大法螺吹き」となってしまいまして、誠に申し訳なく存じます。可能であれば、昨年度の企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽千葉のさつまいも』関係資料のように、年度末になって刊行することを期したいものと考えておりますが、現状では確約できないのが実情でございます。悲しいことですが、残念ながらこれが現実でございます。皆様、何卒ご寛恕くださいませ。
 

 

ルパン三世と映画『カリオストロの城』について(前編) ―素晴らしき日本アニメーションの精華―

5月26日(金曜日)

 

 過日のGW中のテレビ放送で、標記アニメーション映画の再放送がございましたので、ご覧になられた方も多かろうと存じます。その前週にもルパン三世の映画第一弾となった『ルパン三世 ルパンVS複製人間』(1978年公開)が放映されておりましたが、本作はそれに続く「ルパン三世」アニメ映画作第2弾となります(1979年公開)。正直なところ、そもそも、漫画やアニメーションに詳しい訳でも、長く親しんで参ったわけでもございませんし、その世界で大活躍する怪盗ルパン三世についても漫画作品からテレビアニメーション、更に銀幕での華々しい活躍についても体系的に把握もできてはおりません。そのような人間が、何故ここで本作を採り上げるのかと申せば、偏に初めて出会ったその日から今日に至るまで、『カリオストロの城』で描かれる世界に心底魅了されて参ったから他なりません。その思いは少しの減衰すらなく、今も小生の心に脈々と息づいております。

 小生が、標題作品に出会ったのは、ひょんな切っ掛けでありました。それも、本作が劇場公開されてから6年程も経過した頃となります。当時千葉市の教職員となって赴任した勤務校でのこと、昭和60年(1985)であったと記憶しております。それも、担任をしていた学年の宿泊を伴う「校外学習」の折のことでした。偶々レクレーション係の生徒が、往復バス内で鑑賞するレクレーションの一環としてVHSビデオテープ盤を用意していたことによって邂逅が叶ったのです。今となって思えば、これは「個人での楽しみ」の範囲を逸脱した視聴に当たりましょう。要は著作権に抵触する行為であろうと存じます。誠にもって申し訳ない行為でございましたが、今から半世紀程も遡る当時は、そうした権利意識は社会全体においても希薄であったように存じます。兎にも角にも、生徒引率のバス内で、特段の興味関心も無いままに、漠然とした思いで拝見したのが本作でありました。確か、復路でのことと記憶しております。通常なら疲労で居眠りに誘われるのが普通でございます。ところが、その物語と画像に釘づけとなり、睡魔も何処へやら、最後まで目を逸らすことすらできませんでした。そして、その大団円にも大いに感銘を受けたのです。そこで描かれる、美しいアニメーション描写、スリリングで痛快なるストーリー展開、何よりもルパン三世を筆頭とする登場人物一人ひとりの個性際立つキャラクターとに、瞬く間に魅了されたのでした。下手な実写映画など足元にも及ばぬほどのアニメーション作品の表現力の大きさに心底震撼させられたのでした。

 従って、当該行事が終わってからは居ても立ってもいられず、直ぐに映像ソフトを購入してじっくりと拝見に及んだのでした(個人的に正規にソフト購入をいたしましたのでバス内での視聴につきましては御目溢しくださいませ)。当時は、未だDVDソフトなど存在しない時代であり、VHS等のビデオテープか、非接触ソフトとしてはLPレコード盤と同サイズの「レーザーディスク(LD)」盤しかございませんでした。小生が購入したのは後者で、今でも再生可能な機材とともに当該LDも大切にしております。その結果、バス内で感じた第一印象に寸分の狂いもなく、正に「非の打ちどころの見つからない」傑作アニメーションであることを確認したのでした。正に、ワクワク、ソワソワ、ドキドキ、ゲラゲラ、そしてシミジミとさせられる場面が、息つく間もなく入れ替わり立ち代わり登場する、余計な場面など微塵も存在しない痛快エンターテーメント娯楽作品に仕上がっていると思いました。その後に何度も繰り返して本作を視聴しておりますが、見返すごとに映像・物語等々の全ての面に於いて感銘を受け続けております。

 そもそも「ルパン三世」なる忘れがたきキャラクターを生み出した原作者は、晩年は佐倉市に居住し、その地で数年前に鬼籍にお入りになられた、漫画家のモンキー・パンチ氏(1937~2019年)でございます。勿論、こちらはペンネームであり、本名は加藤一彦、北海道は厚岸郡産の歴とした日本人であります。この世代の例外に漏れず、手塚治虫の影響を受けて漫画を描くようになり、初期には貸本専門の出版社で活躍、昭和42年(1967)から青年漫画誌『漫画アクション』創刊号から「ルパン三世」の連載を開始、同44年(1969)の連載終了までに描いた全94話がその出世作となりました。更に、昭和46年(1971)に、アニメ化され大ヒットしたことを契機に、一躍国民的な人気作にのし上がったのです。それが、劇場映画の製作に繋がり、更には今日にまで続く後継作品制作にまで及んでおります。それだけ、国民的なキャラクターとして根付いているのだと思われます。いや、今では世界中にそのファンがいらっしゃるといいます。

 小生は『カリオストロの城』に出会ってから、遡って原作漫画とテレビアニメ作品を知ることになりました。しかも、人気を博していたテレビアニメの前期の3つのシリーズも昭和60年に終了しております。要するに、小生は後追いで原作漫画とテレビアニメ作品に接したことになります。更に、今日に至るまでその中で、実際に接したのは極々一握りの作品にすぎません。それでも、極端な物言いかも知れませんが、「ルパン三世」としての骨格は蹈襲されているものの、原作漫画とアニメ作品とでは、物語の世界観や登場人物のキャラクター設定、そして描かれる登場人物達の絵としてのタッチも随分と異なっていることに驚かされたのです。つまり、飽くまでも漫画原作は掲載誌が明らかにするように成人向の作品であって、アニメ作品は当時の主たるアニメ視聴者であった未成年者を対象にした作品であるということだと存じます。アニメでは、特に後半になるにつれて原作から外れていき、原作にある色濃い「悪党」としての盗賊のイメージや、「エロチック」な性的表現が相当に薄められ、あたかも「鼠小僧」のような「義賊」的なキャラに変じております。アニメは人気を博しシリーズ化され、更には映画化までされて行きますから、次第にパンチ氏の手から離れて一人歩きするようになったということでございましょう。いや、今ではルパン三世として思い浮かぶイメージはアニメにこそございましょう。

 つまり、アニメ制作に当たっては、パンチ氏の許諾は必要としたでしょうが、次第にご本人は「原作者」的な立ち位置に退くことになったものと思われます。実に皮肉なことに、後にパンチ氏が直接に映像作品制作に関わる機会があったそうですが、制作主体からは「これではルパンのキャラから外れる」との苦情が寄せられたという笑えないエピソードもあったとのことです。勿論、映画『カリオストロの城』におけるルパン三世は映画制作者によって再構築された人物像になっており、最早パンチ氏のルパンとは同じ盗賊であることを除けば、その人物像は必ずしも直結しないものとなっております。その点で、適切では無いかも知れませんが、作者の手から全く離れて、その死後も延々と制作放映されている長谷川町子『サザエさん』の原作(4コマ漫画ですが)とアニメ作品との関係性に似ているのかも知れません。まぁ、それでも『ルパン三世』(『サザエさん』)、全て一貫した作品群として認識されているのは、それだけ揺るぎない“確固たる原作の骨格”の存在があったからこそと思われます。

 その“確固たる原作の骨格”とは、全てのジャンルに一貫して登場する人物の魅力的なキャラクターにこそあると思われます。主人公の「ルパン三世」はフランスの小説家モーリス・ルブラン(1964~1941年)が『アルセーヌ・ルパン』シリーズで創造した、怪盗紳士ルパン(原音に近いのはリュパンのようです)に由来し、その孫にあたる人物として設定されました。祖父の遺伝子を引き継ぎ、狙った獲物は決して逃すことのない、神出鬼没の大泥棒としてのキャラクターがルパン三世であります。しかも、単に価値ある物を盗むテクニックを誇るのではなく、それを「芸術まで高めた」ことを自負する人物でもあります。一方、それと引き換えにその人柄は到って軽薄なお調子者であり、美しい女性には滅法弱い、憎めない人物像として描かれます。何より、物は盗むものの決して無益な殺生はしないなど、子ども達にとっても感情移入しやすいキャラであると思われます。テレビアニメや映画でも、そのアテレコはその死に到るまで声優の山田康雄(1932~1995年)が担当。正に填り役であり、後任の栗田貫一(1958年~)も「物真似芸人」としてルパン三世の声帯模写をしていたことによる起用となっております。

 ルパン一味として、時に対立することも有りながら基本的にはルパンと連(つる)んで行動する仲間として、次元大介(じげんだいすけ)石川五右エ門(いしかわごえもん)がおります。両者ともに、ルパンの仕事遂行に不可欠の仲間であります。前者、次元の性格はクールで義理堅く頼りとなる良き相棒として造形され、何より凄腕の拳銃使いとして描かれております。アニメ・映画の声優は小林清志(1922~2022年)が一貫して務めておりましたが、昨年惜しまれつつ鬼籍にはいられました。後者の石川五右エ門は、豊臣秀吉に処刑された大泥棒の石川五右衛門を先祖に持つ剣豪との設定。武士道を重んじ、常に古風な口調で話するニヒルでストイックな人物として描かれ、美人に弱いルパンに呆れて仕事への協力を断ることもある硬派でもございます。また、その所有する「斬鉄剣」は斬れぬ物はない名刀として設定されております。2代目声優は井上真樹夫(1938~2019年)が担当し、本映画でも小林が声を当てております。

 また、ルパン一味中の紅一点として峰不二子(みねふじこ)がおります。ただ、自分の欲望に忠実でルパン一味とは着かず離れず、時に味方に時に敵と猫の目のようにその立ち位置を豹変する人物であり、美貌と姿態とを併せ持つ女性盗賊として描かれております。その正体は謎に包まれ、常にルパンを煙に巻く迷惑な存在でもありながら、その持つ魅力故にルパン三世からもあたら疎かにされない、憎めないキャラクターの人物として設定されております。やはり、長く声を担当された増山江威子(1938年~)は正に填り役であります。最後に、ルパン一味のカウンターキャラクターとして描かれるのが、銭形幸一(ぜにがたこういち:銭形警部)となります。野村胡堂(1882~1963年)作の名捕物帳『銭形平次捕物控』の主人公である、十手持ちの銭形平次親分の子孫との設定であります。ルパン一味逮捕に血道を上げる警視庁所属の敏腕警部であり、ルパン逮捕に携わる「専任捜査官」としてインターポールにも出向いたりもします。当然のことながら、ルパンとは宿命のライバル関係ではありますが、ルパンからは「父っつぁん」と呼ばれるなど、不思議と両者の間には人間として惹かれあう紐帯があり、一味からも憎まれることなく、時には共同して巨悪に立ち向かうこともあります(本作は正にそのケース)。また、愛ある手痛い報復を浴びて翻弄される、コミカルな得難き愛されキャラでもございます。声優は長く納谷吾朗(1929~2013年)が務め、唯一無二のキャラを万全に演じられたと申せましょう。それがあまりに決定的な印象的であるが故に、引退後2代目声優には如何なる声にも対応できると自負される山寺宏一により、納谷のキャラを完コピのアテレコで対応されております。見事であります。

 ルパン三世を含む、この5人が登場すれば、誰が制作に関わろうが、間違いなく「ルパン三世」の物語世界が立ち上がってくるのだと存じます。それほどに、特筆すべき強烈なキャラクター達であります。後編ではその5人の活躍が遺憾なく発揮される表題作『ルパン三世 カリオストロの城』について採り上げさせていただきましょう。
(後編に続く)

 

ルパン三世と映画『カリオストロの城』について(後編) ―素晴らしき日本アニメーションの精華―

5月27日(土曜日)

 

 後編では、ようやく映画作品としての『ルパン三世 カリオストロの城』について御紹介させていただきます。勿論、「ルパン三世」素人の小生などが紹介をするなど烏滸がましさ極まりないことは百も承知でございます。もっともっと、お詳しい方が山のようにおられましょう。しかし、本稿の主たる読者層であると思しきご高齢の皆様にとっては、恐らく未知の作品である可能性が高いものと存じます。しかも、アニメ作品などとは無縁の方々も多いのではありますまいか。しかし、本作を知らずに過ごされるのは如何にも勿体ないと存じる次第でございます。少しでも「見てみようかな」と思っていただけますように……との切なる願いを込めて、あえて小生が御紹介をさせていただくことを御寛恕いただけましたら幸甚でございます。

さて、本作の監督につきましては、お恥ずかしきことに、本作に邂逅した当初は如何なる方かすら認知しておりませんでした。その人こそ、本作上映の頃に設立されたアニメ制作会社「スタジオジブリ」(1985年)を通じて、その後アニメーション世界の豊穣に多大なる寄与を齎すこととなる、泣く子も黙る巨星「宮崎駿(みやざきはやお)」氏であり、その初映画監督作品にあたるアニメ作品が本作なのでした(脚本は宮崎氏御本人と山崎晴哉氏の共同名義)。本作以前にも、テレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)、『未来少年コナン』(1978年)を手掛けて人気を博しており、ルパン三世のテレビシリーズにも参画されていらしたとのことです。まぁ、それら先行作品での傑出した仕事ぶりを買われて、映画版の監督に抜擢されたのでしょう。本作の舞台もヨーロッパの架空の小国として設定されており、周囲を山々に囲まれた如何にもアルプス山脈かピレネー山脈周辺の立地を思わせます。その後の宮崎氏と申せば、数多くのアニメーション映画作品制作に携わり、その何れをも大ヒットに繋げ、アニメーションによる表現世界に革新的な足跡を残されていることは、改めて小生が申すまでもございませんでしょう。その作品は国内のみならず、広く世界でも高い評価を受けていらっしゃいます。その後の作品として、思いつくままに挙げてみても、『風の谷のナウシカ』(1984年)、『天空の城ラピュタ』(1986年)、『隣のトトロ』(1988年)、『魔女の宅急便』(1989年)、『もののけ姫』(1997年)等々、枚挙に暇がないほどの作品が思い浮かびます。小生は劇場で拝見したり、ソフトを購入するほどの熱烈なるファンではございませんが、これまでにテレビで何度も放映された機会に拝見し、その優れた出来に感銘を受けております。勿論、何気なく作品に接しても楽しめることは請け合いでございますが、我が国の歴史・民俗を背景にした奥深いテーマ性の在る奥深い作品も多く、それについて様々に考えを巡らすことの楽しさをも感じさせる作品群でもございます。

それらに比べれば、初映画監督作品である本作には、決して深遠なテーマ性が盛り込まれているわけではございません。しかし、それは元来が「ルパン三世」作品群が有するキャラクター性に拠ることでしょうし、隠されたテーマ性といったものは、本作に限っては返って余計な夾雑物になろうかと存じます。上述しましたとおり、それほどに痛快娯楽に徹した、突き抜けたエンタメ作品に仕上がっております。よく、作者の処女作にはその後に花開く彼のエッセンスの全ての萌芽が詰め込まれていると耳にしますが、斯くも腑に落ちる作品も滅多にないものと思われます。小生が、宮崎作品に感じる特色とは、一つに突出したキャラクター設定であり(主だった人物に限らず、登場する人物の誰もに意味を持たせており無駄な配役は一切ありません)、二つに、登場人物の狂言回しの舞台設定の「枠組み」が極めて明瞭に設定され、濃密に描きこまれていることにあると考える者でございます。つまり、どんなに優れた絵画でも額縁が貧弱であれば、その価値も下がります。それと同様に、何れの作品も舞台設定が素晴らしい。そして、その舞台設定として、必ず美しく豊かな自然環境が選び取られていること、また背景には作品の舞台に相応しい、長く続く豊かな歴史と文化の背景が存在していることであります。主要キャラもまたそれらを纏って造形されていることが、既に本作にも明瞭に表出しております。

因みに、『あれから4年…クラリス回想』1983年(徳間文庫)でのインタビューで、宮崎氏は本作ストーリーのアイデアを、モーリス・ルブラン『緑の目の令嬢』と黒岩涙香『幽霊等』から得たことを語っていらっしゃいます。前者は、申すまでもなく「アルセーヌ・ルパン」シリーズ「産みの親」の手になる作品であります。宮崎氏は本作を中学校の時に貸本屋(小生が子供の頃には亀有にもありましたが今や何処でも絶滅しておりましょう)で借りて読んで以来、何度も読み返したそうです。彼の言葉を引用すれば「ジョバンニ水というミネラル・ウォーター泉をめぐる話」であり、「そこに湖があって〇〇〇が沈んでいるというのがあって…」(〇〇〇はネタバレになるので伏字とさせていただきました)とのことになります。また、涙香の『幽霊塔』は、元来がイギリスの無名の作家によるものを涙香が翻案し、後に江戸川乱歩が手を入れたものを読んだと語っておられ、本作には「“秘密の宝”とか“時計塔の謎”“肖像画に覗き穴があいている”“地下室の落とし穴”とか、“主人公になつくイヌ”とかがでてきまして、ひょっとしたらと思っていたんです」と、作品へのヒントをもらったことも述べておられます。そもそも、『カリオストロの城』というネーミングもルブランの「アルセーヌ・ルパン」シリーズの中にある『カリオストロ伯爵夫人』から取られているとも、ヒロインであるクラリスの名もまた、本作でルパンと結ばれるクラリス・デティーグ嬢の名前から取られているとも言われます。また、作品の小道具もまた絶妙であり、本作における主人公らの利用する自動車が、大衆車として知られる「フィアット500(アバルト的な魔改造車でありますが)」や「シトロエン2CV」であることも心憎い配置だと存じます。たかがアニメと侮ることなかれ!!相当に文化的なバックグラウンドは広大で奥深いものでもあるのです。

さてさて、余談が長くなりました。それでは、本作の粗筋については、『ルパン三世 アニメ全歴史 完全版』2012年(双葉社)より引用をさせていただきましょう。因みに、引用文中の(※○△□……)は小生による補注となりますので悪しからず。ただし、最後の大団円についての記述は、あえて省略させて頂きたく存じます。なかなかにスケールの大きなクライマックスは必見であります。是非ともご自分の目でご確認いただけますように。もっとも、それ以前の部分でも、これだけの文面では物語の全容を全く伝え切れてはおりません。実際に作品をご覧下されば、これ以外の発見が遙かに山盛りであることにお気づきになられましょう。つまりは、「ネタバレ」には殆どなっておりませんので、是非ともご安心してお読み下さいませ。

 

 某国国営カジノの大金庫から、大量の札束を頂戴したルパンと次元(※札束を詰め込んだ彼らの愛車フィアット500の後部座席には五右エ門の後ろ姿と斬鉄剣がさりげなく描き込まれておりますし、そもそも国営カジノで自動車が前後に真っ二つに切り割かれております。間違いなく五右エ門の斬鉄剣によるものでありますから彼も参加していることは間違いありません)。ところがその紙幣はすべて「ゴート札」、ホンモノ以上の精巧さと賞賛された幻のニセ札だった。次の獲物をゴート札の秘密に決めたルパンは、ニセ札の製造元という噂が絶えないヨーロッパの小国・カリオストロ公国に向かった(※最初に向かったのはルパンと次元の2名のみ。五右エ門は後に合流することになる。不二子は一味とは別に既に別口でカリオストロ城に潜入している)。
 入国直後、悪漢たちに追われるウエディングドレス姿の少女(※クラリス)を助け出すルパン(※と次元。この時にクラリスが逃走に使用していたのがシトロエン2CV)。その娘の名はクラリス、今は亡き大公家直系の皇女だった。彼女は公国の支配を目論む摂政カリオストロ伯爵から、政略結婚を迫られていたのだ。再び伯爵の部下に捕らえられ、カリオストロ城内に幽閉されてしまうクラリス。ルパンは場内の厳重な警備をかいくぐり、クラリスとの再会を果たす。
 しかし喜びも束の間、ルパンは伯爵の差し向けた追っ手に包囲され、地下迷宮へ送り込まれてしまった。ルパンは迷宮内で先客の銭形と遭遇。休戦協定を結んだ二人は、協力してゴート札の地下工房を発見する。工房に火を放ち、混乱に乗じて脱出を図るルパンたち。これを好機とクラリスを連れ出そうとするルパンだったが、伯爵の執事ジョドーの妨害で、クラリス救出に失敗してしまうのだった(※拳銃で胸板を撃ち抜かれてしまうが、辛うじて不二子に救われて一命を取り留める)。
 重傷を負ったルパンは、旧大公邸に匿われていた。そこは若き日のルパンが、今回と同様に逃げ込んだ場所だった(※……とあるが実際にはこの時点での大公邸は焼け落ちた廃墟であり、この時に逃げ込んだ先は大公邸庭師である老人の自宅だと思われる。因みに峰不二子が伯爵とクラリスとが結ばれる結婚にバチカンの大司教が出席することをルパン等に知らせに届けた「ル・モンド」紙の端切に発行日の、日付があり、そこには「1968年9月12日」とある。因みに、ルパンが100円ライターを使用するなど設定時代と齟齬が生じているのは御愛嬌!)。ゴート札の秘密を追って傷ついたルパン。その彼を介抱したのが、幼いクラリスだった(※10年程前に売り出し中のイキがったルパンが、若気の至りでカリオストロ城に侵入して拳銃で撃たれ目的を達することが出来なかった過去の出来事を指す)。ルパンとともに地下工房を脱出した銭形は、公国の闇が抱える犯罪の摘発を訴えていた(※国連を思わせる国際組織の場で)。だが伯爵からの圧力が銭形の行動を封じてしまう。悔しさのあまり歯がみする銭形だったが、不二子の助言で復活(※「ルパン逮捕専属捜査官」の立場でカリオストロの城に乗り込むことが可能!)。彼はルパン逮捕の名目で、公国への突入を決意する。
 そして迎えた婚礼の日。ルパンは儀式を執り行う大司教に変装して、礼拝堂に潜入。囚われの身のクラリスを奪還する。一方の銭形は、ルパン追跡を口実に城内に突入。ゴート札の地下工房を全世界にテレビ中継し、公国が携わってきたニセ札流通の証拠を白日の下にさらけ出した。
 この一件で伯爵の野望は潰えたかにみえたが、彼の真の狙いは公国の隠し財産の独占にあった。追われるクラリスの身の安全と引き替えに、伯爵へ財宝の謎を教えるルパン。最後まで財宝の独占にこだわる伯爵だったが、突如起動した時計塔の仕掛けに巻き込まれ、あえなく命を落としてしまう。時計塔の崩壊に伴い、放出される大量の湖水。やがて湖底から姿を表したのは……。       (以下省略)


『ルパン三世 アニメ全歴史 完全版』2012年(双葉社)より

 

 

 如何でございましょうか。これをお読みいただけただけでも、もっともっと作品の詳細が知りたいと思われませんでしょうか。勿論、アニメーションでありますから、荒唐無稽な描写は沢山ございますし、物理化学の原則からはあり得ない場面も目白押しでございます。しかし、そんなことに目くじらを立てていては作品が描こうとしている世界観を読み取ることは出来ません。余談になりますが、小生は、かつて千葉大学教育学部附属中学校で教鞭をとっていた頃、「総合的学習の時間『共生』」にて「ウルトラの精神史・ウルトラの社会史」ゼミを開講し、円谷プロダクションの手になる「ウルトラシリーズ」の物語研究に生徒と伴に取り組んだことがございます。その際に拝読した参考文献の一つに、若手研究者がウルトラシリーズを各専門分野から分析するとの宣伝文句で売られた『ウルトラマン研究序説』1991年(中経出版)がございました。しかし、その中身とは、ウルトラマンによって破壊された町の修復に誰がどのように補償するのか法規的に解明する、あるいはウルトラマンや巨大怪獣が果たして地球の重力の下で戦うことが可能か等々の内容であり心底失望した記憶がございます。確かに科学的な考察が加えられておりますが、こうした、所謂「ツッコミ本」の類は、物語を読むこととは全く無関係の内容ではありませんでしょうか。斯様なことに関心を向けることが不必要であるとは決して申しませんが、どうせ研究をするならば、制作者がそこに込めた意味を読み解くことの方が遙かに建設的でございましょう。本作においても全く同様だと存じます。案の定、本作にも「こんなシーンは科学的にありえない」等と言った非難があるようです。そうした方々は、所詮は人間世界の精神性の豊穣に寄与している文学等々の物語世界とは無縁の衆生ということなのでございましょう。しかし、余りにも偏狭極まる発言に物悲しくなるのも現実でございます。

 専門的な観点からのコメントは出来ませんが、兎にも角にも宮崎氏の手になる本作のアニメーション世界の美しさは比類がありません。それだけでも見て損をすることはございません。世界で高く評価されるのも宜なるかな。ここにこそ、我が国のアニメ技術の精華があると存じます。もし、未だ目にしたことがない方がいらっしゃりましたら、騙されたと思って一度ご覧頂ければと存じます。勿論、人の趣味は千差万別でございますから、心動かされぬ方がいらしても不思議ではございません。ただ、虚心坦懐に作品に接してくだされば、その素晴らしさに、その美しさに心動かされるものと信じて止みません。若し宜しければどうぞ一見に及んでいただければと祈念いたす次第でございます。 
 

 

「和歌の家」東氏と「古今伝授」のこと(前編) ―東常縁から宗祇に伝えられた古今和歌集の奥義 または唐木順三が小説で描いた「古今伝授」の様相―

6月2日(金曜日)

 

 6月「水無月(みなづき)」に入りました。梅雨入の時節に何故「水無しの月」なのかと思ってちょっと調べたところ、この「無」は「の」を意味するそうであり、要するに「田に水を引く月」の意味を有するとされているそうです。寄りによって、大いに紛らわしい文字の用例でございます。先日、本年は梅雨入が少々遅くなるだろうとの見通しが報道されておりましたが、果たして如何なものでございましょうか。この一週間は台風の影響で前線が刺激された模様であり、ここ関東ではずっと雨天か曇天続き。早々に入梅したかのような空模様でございましたから、本当に入梅が遅くなるのか半信半疑であります。それでも嬉しきことに、我が家では、冬眠から覚めた「糠床」で微生物たちが活発に活動するようになりました。未だ未だ、冬眠期間中の塩気が抜けきらず、“佳い塩梅”に戻ってはおりませんが、これからは気温・湿度の上昇とともに発酵も進み、至って薫り高き糠漬に仕上がって参りましょう。今は、その日の到来を大いに待ち遠しく思っております。何れは自家製「沢庵漬」にも挑戦したいものと目論んでおりますから、それまで、今の糠床を丹精込めて育てていきたいと思っております。

 さて、千葉氏パネル展『京(みやこ)と千葉氏』でありますが、開幕から2週間が経過いたしました。未だ未だ皆様への周知が足りていない所為でしょう、土日はともかくも、平日にお出でいただくお客さまの数は決して多くはございません。開催期間を長く定めておりますので、その内に……とお考えの向きも多かろうと存じます。しかし、逆に今ならじっくりと観覧いただけます。梅雨に入る前のお天気の宜しい日に、是非とも「思い立ったら吉日」と、前のめりでお出かけくださることを祈念申し上げます。中身は新たな発見に満ちた内容であり、いらしたお客様には決して失望させないだけの展示と自負するところでございます。職員一同、皆様のご来館をお待ち申し上げております。そこで、今回の本稿では、本年度の千葉氏パネル展の展示内容(パネル⑥)に関連する内容、即ち「和歌の家」として知られる千葉一族である東氏の歩みについて、及び室町期の東氏当主である東常縁から宗祇への「古今伝授」について扱いたいと存じます。

 室町時代中期の当主であった東常縁(生没年不詳:室町中期~戦国期初頭)が連歌師として知られる宗祇(1421~1502年)に「古今伝授」を授けたことは、皆様もよくご存じのことでございましょう。それにしても、「古今伝授」とは一体何なのでしょうか。正直なところ、小生も最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の解釈の奥義について伝えること……といった、極々大雑把なこと以外に知ることはございません。ましてや、それが具体的に如何なるものであったのかも分かっておりません。もっとも、物の本によれば「秘伝」として師匠から弟子へと個人的に伝えられると説明されておりますから、具体的な内容や方法は口伝として伝えられたのでしょう。従いまして、「文字記録」の形では残されていないのかもしれません。それに加えて、何故、斯様に重要な秘伝の伝授を東氏当主である東常縁が担っていたのかも、よく考えれば不思議でもございましょう。本稿では、以下そうした諸々を探って参りたいと存じます。

 まず最初に常縁に連なる「東氏」について押さえておきましょう。東氏の初代は、千葉常胤の六男胤頼が、父から東庄(現:千葉県東庄町ほか)・三崎庄(海上庄とも)(現:千葉県銚子市)等を分与され、東庄の地名を名字としたことに始まります。その後、「承久の乱」(1221年)、あるいは三浦一族が北条氏によって粛清された「宝治合戦」(1247年)を契機に、その嫡流は美濃国山田庄(現:岐阜県郡上市)へと移ることとなります(現地にも庶流が残ることになりますが)。東氏は、今回のパネル展で御紹介させていただいているように、千葉一族の中でも、取り分けて京(みやこ)との繋がりが深いことで知られております。その東胤頼(1155~1228年)は、源頼朝挙兵を遡る若年の頃から、京で鳥羽天皇皇女の上西門院に仕え、その推挙によって父常胤を越える「従五位下」に叙任されるなど、京における地位を築いております。ここで注目すべき点は、頼朝もかつて上西門院に仕えて密接な関係性を有していたことであります。そして、頼朝の挙兵直前、京から下総に戻る途中の胤頼が、伊豆の頼朝配流先に三浦義澄(1127~1200年)とともに訪れ閑談に及んでいることが知られるなど、京との繋がりを通して得た重要な情報を頼朝にもたらすとともに、常胤の挙兵の決断にも重要な役割を果たしたキーマンとなったであろうことは、ほぼ確実でございましょう。つまり、東胤頼は、京との深い関係性と、それに基づく貴族に列する高い地位によって、東国の幕府内でも重く用いられることになったのだと考えることができます。また、晩年には、「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を主導する、浄土宗の開祖法然(1133~1212年)に深く帰依し、法号「法阿」を称する高弟となっておりました。建暦2年(1212)に法然が入滅した際、延暦寺宗徒による法然廟所破脚の警護にあたった武将の中に、同じく法然の高弟であった蓮生(宇都宮頼綱)とその弟である信生(塩谷朝業)と伴に、法阿(東胤頼)がいたことが知られ、国宝『法然上人絵伝』(知恩院蔵)にもその姿が描かれております(もっとも、何れが法阿なのかは特定し難いものがございます。頭を丸めた法体の騎馬武者が幾人も描かれておりますから)。ここで、注意を払って頂きたい重要な点は、晩年の胤頼が在京していたこと、そして宇都宮一族と行動を共にしていたことでございます。ただ、未だ「和歌の家」としての東氏の姿を見て取ることはできません。何れの時点で「和歌の家」としての東氏の基盤が築かれたのでしょうか。

 それは、胤頼の嫡子である東重胤(生没年未詳:1177~1247年か)と、重胤の嫡子である東胤行(生年未詳~1263年)という、2代に亘る当主の在り方に拠っていると申せましょう。重胤は、武芸の面でも優れた技倆を有し、その面でも重用されております。しかし、その一方で源実朝が建永元年(1206)に北条義時の名越邸で催した歌会に伺候していることが『吾妻鏡』に見えております。この時に同席した内藤朝親は藤原定家の門弟であり、撰進を終えたばかりの『新古今和歌集』を京から鎌倉の実朝にもたらした人物でもございます。つまり、この朝親は、実朝と定家とを結びつけた人物であり、その朝親と重胤との間に直接的な面識があったことは注目されてしかるべきでありましょう。ここに、東氏と和歌の世界との接点が生じたことは大きな意味があるものと思われます。『吾妻鏡』建保6年(1218)の記事には、重胤が実朝の「無双の近侍」とあり、あるときに実朝の不興を買った際、和歌を実朝に披露することで機嫌を取り持ったとも記されており、その信頼関係が単に身辺警護に留まらず、和歌を通じての結びつきにも拠っていたことが伺えます。その後も、和歌だけに留まらず、実朝の催す風雅の会には身近に侍っており(蹴鞠や花見等々)、父胤頼以来の京との深い結びつきに由来するであろう高い教養によって、重く用いられたことが推察できます。ただ、残念乍ら重胤の詠歌は今日ただの一首も伝わっていないようです。

 続いて、重胤の子である東胤行についてであります。胤行は「素暹(そせん)」の法号でも知られますが、『吾妻鏡』には父重胤を実朝の「無双の近侍」と記すのに続け、胤行を「夙夜君に有り」と記しております。これは胤行が昼となく夜となく常に実朝近くに侍る存在であることを意味しましょう。更に続けて、胤行がしばらく所領である下総国海上庄に下向していた際、実朝が早く鎌倉に戻ってくるようにと歌を遣わしたことが記されております。そして、互いに交わしあった和歌が、実朝の私家集である『金塊和歌集』にも納められております(つまり実朝の私家集に素暹の詠歌も納められているということであります)。

 

素暹法師物へまかり侍りけるにつかはしける


奥津波 八十島かけて すむ千鳥 心ひとつと いかがたのまむ  (源実朝)

 

  返し

濱千鳥 八十島かけて かよふとも すみこし浦を いかが忘れむ (東胤行)

 

[斎藤茂吉校訂『金塊和歌集』1963年改訂版(岩波文庫)]
 

 

 ここからは、何とも申し難きほどに、互いを思い合う近しい君臣の在り方が浮かび上がってまいりましょう。こうした胤行の和歌を通じての幕府中枢との交流は、実朝横死後の摂家将軍の時代にも引き継がれ、一方で北条氏との関係性も深められていくことになります。そして、両者の参加する鎌倉での歌会にも屡々伺候しております。その意味で胤行は「鎌倉歌壇」の重要な構成員であったと申せましょう。

 胤行の場合は、そうした歌会に参加した記録に留まることなく、実際の詠歌が多く今に伝えられております。何にも増して、第10番目の勅撰和歌集『続後撰集』から、21番目となる最後の勅撰和歌集『新続古今集』に到るまでの、勅撰和歌集10集に合計22首の和歌が撰じ採られてもおります。そのことからも、東氏の「和歌の家」としての在り方を事実上決定づけた存在が、東氏三代目となる胤行(素暹)に他ならないこととお分かりになりましょう。因みに、藤原定家の日記『明月記』天福元年(1232)の記事にも、素暹の名を見出すことができます。そこには、大番役のために上洛していた胤行が、歌人の源家長の紹介状を持参して定家の屋敷を訪問し、面会を求めたことが記されております。定家はその時9番目の勅撰集『新勅撰和歌集』を独撰しておりましたから、胤行の訪問の目的は本集への入撰を願って定家に自作の供覧を願うためのものと推察されます。しかし、定家は腰痛を理由に面会を断る旨を告げたため、胤行は引き取ったとあります。更には従者から報告された牛車での来訪としては不適切な服装であったことを非難してもおります。胤行の詠歌が勅撰集に撰ばれるのは10番目『続後撰集』(撰者は定家の嫡子である藤原為家)からとなりますから、素暹の詠歌は少なくとも定家のお眼鏡には叶わなかったのでございましょう。

 因みに、“東氏家伝”では「胤行の妻は定家の子である為家の娘」とされ、「為家の門弟第一として為家から『古今集』の秘伝を伝授された」としております。勿論、これは事実とは申せません。もしそれが事実であれば、孫娘の嫁ぎ先の人物を、顔も会わすこともなく“けんもほろろ”に門前払いすることなどありえませんでしょう。実際に、この両家の婚姻に関する記録は、“東氏家伝”以外で確認することはできません。「千葉氏推し」の本市といたしましては、誠に残念至極ではございますが、こちらは“でっち上げ”の眉唾であることは間違いありますまい。しかし、こうした藤原定家との由緒を東氏が創作した背景については考えておく必要がございましょう。そのことが、後に胤行の後裔である東常縁による宗祇へ「古今伝授」の正統性を由緒づけるものとなるからでございます。しかし、こうした「創作」が何もないところからでっち上げられた訳ではないことは、知っておくべきことでございましょう。つまり、東胤行の周辺には、実際に藤原定家との深い関係性を有した東国御家人が存在しており、実は胤行もその一族との深い関係性を有していたからでございます。つまり、その一族を介して東氏と定家一流とは接点があったことになります。要するに、そこから援用して東氏と天才歌人藤原定家の関係性を創作したであろうこと、更には当該一族との交流を通じて、東氏一族は定家の歌風の積極的な導入を可能としたことを想定出来ると思うものでございます。その東国御家人こそが、下野国の名門御家人である宇都宮氏であります。上述いたしましたように、法然上人の教えに帰依して高弟となった宇都宮頼綱(蓮生)と実弟の塩谷朝業(信生)とが、法然上人が没した際には胤行(法阿)と共に在京し、その遺骸を一緒に守護していた事実を思う浮かべられた方も多かろうと存じます。

 摂関政治の全盛期を担った藤原道長の兄道兼の後裔を称する有力御家人宇都宮氏は、一族を通じて和歌の才に秀でており、所謂「宇都宮歌壇」を形成していたことは広く知られております。更には、宇都宮頼綱(蓮生)の娘は定家の子である為家に嫁し、二条家の祖となる為氏と、京極家の祖となる為教を産み、その為氏は宇都宮に下向して宇都宮歌壇の隆盛を後押ししたことは、紛れもない歴史的事実でございます(因みに、為家と阿仏尼との間に産まれた為相が今日まで続く冷泉家の祖となります)。定家自身も宇都宮一族(頼綱は勿論のこと、弟の塩谷朝業とその子の笠間時朝ら)とも深く交流し、頼綱が隠棲した京郊外の小倉山荘の障子歌選定の依頼に応えたのが「小倉百人一首」の原型であると言われていることは、昨年の千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』での「宇都宮朝綱」の項目で触れたとおりでございます。そして、この「宇都宮歌壇」を代表する精華のひとつが、その地で編纂された、正元元年(1259)年前後の成立と目される『新和歌集』であり、そこには頼綱59首、泰綱42首、景綱42首と宇都宮一族を中心に186人の875首が並んでおります。しかし、この中に、たった7首ではありますが東胤行の詠歌が採られているのです。宇都宮氏関係者を除く歌が撰じられていることも異例でございますが、それが千葉一族の東胤行の作品であることに驚かされます。しかし、そのことは、一過性ではない、両一族の間に和歌を通じての深い交流があった事実をあぶり出すように思われます。しかも、注目すべきことは、「新和歌集」における胤行詠歌中の3首が「宇都宮神宮寺(下野国一宮である二荒山神社の別当寺ですが現存しません)」にて詠まれていることです。つまり、東胤行も「宇都宮歌壇」の文化圏内に取り込まれており、その場を通じて藤原定家の作風にも色濃く触れる機会があったことになりましょう。東氏が、後に「我々もまた御子左家との婚姻関係がある」と、ついついでっち上げてしまった淵源は、ここら辺りに求められましょうか。

 さて、こうして千葉一族の中で、特筆すべき「和歌の家」の基盤を創り上げた重胤・胤行でありますが、以降の後裔もまた和歌の才に恵まれ、胤行の子である東行氏(生年不詳~1325年)も勅撰集に22首、後裔の東時常(生没年不詳)から東氏数(生年不詳~1471年)までの当主と、当時としては極めて稀である一族の女性「胤行の女(娘)」の歌で合計28首、胤行の22首と合わせて総計72首が勅撰集に撰ばれていることになります。東氏を除く千葉一族では、南北朝期の千葉介である千葉氏胤(1337~1365年)が18番目の勅撰集『新千載和歌集』に1首採られているのみです(もっとも、下総国の武士で勅撰歌人となったのは東氏を除けば氏胤のみですので、これはこれで大変な名誉であったのですが)。ここからも、「宇都宮花壇」の存在を別にすれば、東氏が群を抜いた「和歌の家」であったこと、当時もそうした家として広く認知されていたことが知れましょう。そして、最後の勅撰和歌集となった『新続古今集』に選出された東益之(1376~1441年)の子として産まれ、兄氏数の跡を継いだのが、後編の主人公となる東常縁(生没年不詳:1401~1484年か)となります。それでは、前編はお後が宜しいようですので、ここらあたりで仕舞とさせていただきます。

 そうでした。本年度の「千葉氏パネル展」⑥の文面は小生の執筆に拠りますが、本稿(前編)も含め、本館の外山信司総括主任研究員執筆になる論文「鎌倉時代の東氏-東国武士の歌の家-」平成15年(2003)3月『千葉県史研究』第11号別冊「中世特集号」に全面的に依拠させていただいております。更に詳細をお知りになりたい向きは、是非とも本論考に当たっていただければ幸いでございます。未だ千葉県文書館にてお求めになることができるのではありますまいか。絶対のお薦めの優れた論考でございます。
(後編に続く)
 

 

「和歌の家」東氏と「古今伝授」のこと(後編) ―東常縁から宗祇に伝えられた古今和歌集の奥義 または唐木順三が小説で描いた「古今伝授」の様相―

6月3日(土曜日)

 

 前編の最後に記しましたように、後編では室町時代中期から戦国初期の東氏の当主である東常縁と、彼が深く関わることとなる「古今伝授」について極々簡単ではございますが述べてみようと存じます。東常縁の生没年は未詳でありますが、15世紀の極々初頭に生まれ、当該世紀の末に恐らく85歳前後で没した人であることは確かであります。父は勅撰歌人でもある益之であり、兄氏数の跡を追って、文安2年(1445)前後には家督を継いだものと考えられるようです。

 「和歌の家」である東氏に生まれた人として、当初は父益之とも交友のあった、藤原定家の後裔「冷泉派」の歌僧である正徹(1381~1459年)に学んでおりましたが、その歌風には批判的な意見を抱いていたようであり、宝徳2年(1450)に同じく定家一流である「二条派」歌僧の尭孝(1391~1455年)に正式に入門しております。尭孝は、二条派の中興の祖として著名な歌僧の頓阿(1289~1372年)の後裔にあたり、血脈の断絶した二条派の歌風を専ら引き継いだ一流となります。そして、二条派こそが歌道の根幹として古今絵和歌集を重視し、その読み方や解釈を巡る「古今伝授」の原型を形づくった歌の流派であったのです。つまり、常縁もまたその一流に連なる存在であったということです。

 ここで、「古今伝授」を行った前後における、東常縁の動向について確認しておきたいと存じます。当時の関東では、古河公方の足利成氏(1438~1497年)と、その補佐役である関東管領上杉氏との対立を契機として、足掛け30年にも及ぶ「享徳の大乱」(1455~1483年)が勃発いたします。これにより、関東の武家も一族内で両派に分裂して激しく対立することになるのです。千葉一族もその例外ではございませんでした。この辺りの詳細は本年度の特別展『千葉城落城-「享徳の大乱」と千葉本宗家の交代-(仮称)』(会期:1/16~3/3)にて採り上げますから、この場では簡単にあらましのみを述べておくことにいたしましょう。この時、下総国の地では、上杉方についた千葉本宗家の千葉胤直(1419~1455年)と、古河公方(足利成氏)側に就いた一族の馬加康胤(生年未詳~1456年)と原胤房(生年未詳~1471年)とが激しく対立。その結果、千葉館を急襲された胤直は千田庄(現在の多古町)に逃れ、その地で討たれ千葉本宗家は滅亡することになりました。幕府将軍足利義政(1436~1490年)は、上杉方を支援し同族の古河公方を討つことを目的にしておりましたから、下総国における不利な形勢を好転させるため、室町幕府の奉公衆で郡上郡篠脇城(現:岐阜県郡上市)を本拠としていた千葉一族の東常縁を、康正元年(1455)幕命をもって東国に下向させ、本宗家関係の生き残りである千葉実胤(さねたね)(1442年~没年未詳)・千葉自胤(これたね)(1446~1494年)兄弟を支援させ、対立する馬加康胤と原胤房とを討ちとらせようと目論んだのでした。下総国に下った常縁は、まず自らの名字の地である香取郡東庄に入り東大社に参詣し、献歌して戦勝を祈願しました。その後、千葉一族の国分五郎と大須賀相馬と合力して原胤房を攻め、これを打ち破っております。しかし、翌康正2年(1456)千葉実胤・自胤の拠っていた市川城が古河公方勢によって攻略され、彼らは武蔵国に落ちていくことになります(これが「武蔵千葉氏」の濫觴となります)。しかし、常縁は反転攻勢を仕掛け、同年11月に馬加康胤を上総・下総の国境である村田川にて討ち取っております。

 しかし、関東では古河公方(足利成氏)を支援する勢力が大きく戦線は膠着していきます。室町将軍足利義政は、こうした関東の形勢不利な状況の改善のために、長禄2年(1458)古河公方に代わる新たな公方を関東に送り込むべく、足利政知(1435~1491年)を下向させましたが、箱根の山を越えることができず、結局のところその手前の伊豆堀越に御所を構えることになります。これが世に知られる「堀越公方(ほりごえくぼう)」の成立となります。常縁は、これ以降も関東各地を転戦し、また堀越公方の守護のためでもありましょう、伊豆国の三島にも滞在しているこることも知られます[文明3年(1471)に三島大社に子の病気平癒を祈願して奉納した『三島千句』が残されております]。それより以前のこととなりますが、関東への長期滞在が続いた中で、本拠の郡上で本拠篠脇城が斎藤妙椿(1411~1480年)に奪われる出来事が発生。和歌の遣り取りによって所領の返還が叶ったエピソードがございますが、これにつきましてはよく知られた話題ですので省略させていただきます。そして、重要なことは、この関東での滞在中に、それ以前から面識があったであろう、旅する連歌師「宗祇(1421~1502年)」との交流が深まり、それが三島大社における宗祇への最初の『古今伝授』が行われることになったのでしょう。その後、更に郡上の篠脇城下にある美濃妙見宮(現:明建神社)での本格的な「古今伝授」へと繋がったのだと思われます(宗祇が何処の地で常縁から「古今伝授」を授けられたのかには諸説があるようですが)。これ以上、詳述するといつまでたっても「古今伝授」の話題に入れないだけなく、「享徳の乱」における東常縁の動向を延々の述べることになりましょうから、この辺りまでとさせていただき、以後は「古今伝授」について述べたいと存じます。

 そもそも「古今伝授」とは如何なるものなのでしょうか。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』は、醍醐天皇の勅命によって編纂され、延喜5年(905)奏上とされております。当然、時代が進むごとにその読み方や解釈が揺れていくことになるのは当然のことでございましょう。そのため、その奥義を師から弟子へと伝えていったのが「古今伝授」となります。更に絞り込むとすれば、藤原俊成と藤原定家の嫡系子孫である二条家に伝えられた奥義ということになります。つまり、平安末から鎌倉初期にかけて、各公家の家系が特定の家職によって定まっていく動向に位置づくのであり、藤原姓を有する定家の嫡孫である為氏の名乗った名字「二条家」が、以後代々歌学を家職とする家として古今和歌集の秘伝を代々継承することになったのです。しかし、二条為衡の死によって二条家血脈が断絶した後は、その衣鉢を継いだ者が後進へと奥義を秘伝として継承していくことになったという訳でございます。そして、先にも述べましたように、東常縁もその師弟関係(二条為世→頓阿→(2代略)→尭孝→東常縁)から二条派の流れに位置づくことで「古今伝授」を受け継いだ一人であり、その奥義が連歌師の宗祇へと伝えられたということになります。三島大社での前段階の伝授もございましょうが、上述いたしましたように、その主要な伝授は文明3年(1471)に美濃妙見宮(現在の郡上市にある明建神社)の神前にて行われたものとされております。ここで、宗祇とは如何なる人物かということを述べたいところですが、話題が餘りに拡散してしまいますのでやめておきます。「連歌とは何か」も含めて、宗祇につきましては別の機会に述べたいものと存じます。

 何れに致しましても、秘伝であることから「古今伝授」の具体像については断片的にしか伝わらないようであり、そのことが「古今伝授とは一体全体如何なるものなのか」といった“モヤモヤ感”を抱かせるものでした。しかし、文芸評論家・哲学者・思想家である唐木順三(1904~1980年)の数少ない小説作品『応仁四話』1966年(筑摩書房)に納められる「宗祇私語」に接して、その実態がある程度具体的にイメージできるようになったのです。その中の「古今伝授」に当たる描写を以下に引用させていただきましょう。唐木は京都大学哲学科で西田幾多郎に師事しており、その類稀なる資料読解と考察によって、中世から近現代に至る文学者の精神世界に脈々と流れる思考の血脈を探り当てた、極めて優れた幾多の論考を発表されていらっしゃいます。しかし、昨今はすっかり忘れ去られたように取り上げられないのが不思議なほどでございます。自身もその設立に深く関わられた筑摩書房から刊行されている、『中世の文學』(1954年)・『無用者の系譜』(1960年)・『無常』(1964年)・『日本人の心の歴史-季節美感の変遷を中心に-』上・下(1970・1972年)等々、今でも再読すればその分析力に瞠目させられます。だからこそ、そのお方のものされた小説作品にも全幅の信頼を寄せることができるのです。

 

小説に描かれた「古今伝授」
―東常縁から宗祇へ伝えられた古今和歌集の奥義― 


《前 略》
  
 私(※引用者註:宗祇)はなんとしても常縁どのから古今傳授を受けたかつた。この機をはづしてはまたと機會はないと思つた。定家卿嫡系の二條派の口傳が、いま從五位下東下野守常縁どのに正統に傳はつてゐる。宮廷の殿上人には近づきがたい身分の私だが、武人の常縁どのには近づきうる。いや既にそくばくの交はりもあり、その好意をえてもゐる。この機を、と私は決心して、常縁どののあとを追つて関東から美濃へと志した。
 私は文明三年(※引用者註:一四七一年)正月二十八日から四月八日まで、常縁どのから古今集の傳授をうけた。さらにその年の六月十二日から七月に及んで第二回の講義を受けた。ときに常縁どの七十一歳、私は五十一であつた。私は斎戒沐浴して師の前に坐り、師もまた威儀を正して傳来の覚書によつて講じ来り講じ去つた。私はこのときの感激を忘れることができない。卑賎の出の私が、いまや定家卿正傳の秘儀をまともに受けることができる。まことに面々授受、嫡々相承の歌の根源、大和歌の精神を此身に受けつぐことができる。私の前に坐つて、私一人のために講じて倦むことを知らない東常縁どのの姿が、常光院堯孝法師にも、また頓阿法師の御姿にも見えた。さらに遡つて為世卿にも定家卿にも見え申した。常縁どのの言葉の奥に定家卿の聲が重なつてゐるやうに感じられた。私は一語も聞きもらすまいとして緊張し、聞きそんじてはならぬと戒めて覚書を取つた。その覚書を常縁どののもとに呈出して一覧を乞ひ、訂正添削して戴いたのち、古今集兩度聞書として整理したが、大判の用紙に細字で書いて三百四十枚に及ぶ大冊となつた。
 講義は古今集仮名序の逐條逐字の解釋から始められた。やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける、といふ一段だけにも、數葉を費やすといふほど詳細を極めたものであつた。まづやまとといふ國名の語原の究明があり、ひとの心をたねとしては毛詩の、詩は志のゆくところ、心に在るを志となし、言に發するを詩となすに由来してゐること、内にある心と、外の世界との交歓によつて歌が生れるといふ風に説かれた。世界の中にすでに歌のたねがあり、それに心が感じ働くことにおいて歌が生ずるといふ説き方に、私は思ひまうけぬ啓發をうけた。ひとの心といふのは、決して歌よむ人の胸の中にある心、小さい主観や我意ではなく、その心に流れこんでゐる宇宙の創造的精神ともいふべきもの、たとへば古事記に述べられてゐる天地開闢のときに初めて生じた葦の芽の如きもので、歌心もその葦の芽を根源としてゐること、即ち宇宙の創造意志が歌人の心にやどつて、それがたねとなり、言葉となって發するのがまことの歌であると説かれた。やまと歌が天竺の真言、陀羅尼、漢字の詩の経に比較される所以もそこにあるといはれた。總じて仮名序の講義は、やまと歌の根本精神と歴史を述べ、今日における歌よむ人人の覺悟と自覺を促すといふ壮大な構えのものであつた。
 講義はやがて春の歌、夏の歌とすすみ、離別、羇旅、戀と移つて、古今集千百餘首の全部にわたつた。そのひとつひとつの歌に註解を加へてゆくのだが、その立場は空想、感傷、趣向にわたらず、概ね實證的、具體的であつた。世人のなかには往往古今傳授をもつて、単にみづからを重んずるための秘儀秘教の如きもの、また神がかり風の断片にすぎぬと思つてゐる者もあるから、念のため、二三の例を示してみよう。
 世の中にたえて櫻のなかりせば、春の心はのどけからまし、といふ在原業平朝臣の歌の註解は下の如きものであつた。心は、あるは咲くをまち、うつろふを慕ひ、散るをなげき、散りはてはてぬれば、なほもおもかげを忍ぶ心もあれば、春の間のどかになければ、かくいへるなり。
 また、奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の、聲きく時ぞ秋は悲しき、といふよみ人しらずの歌は次の如く説かれた。外山のもみぢなど散り過ぎては、鹿も山ふかくこもるものなり。深山のもみぢさへ散りはつるをふみわけて、鹿のものがなしくなく頃、秋はことにかなしきといふ心なり、何事も物のきはまりゆくを歎くなり。
 さらに讀人しらずの戀の歌をひとつ。ほととぎすなくやさ月のあやめ草、あやめもしらぬ戀をするかな。御抄にあやめ草は、あやめもしらずといはんため、あやめ草といはれしなり。杜鵑鳴くや五月とは慣用句なり。此類此集にかぎりなし。あやめもしらずといふは、至りて始なり。いまだ身に一向知らぬことは分別もなきことなり。戀といふことを身に知る始なり。まことの始なれば、いかなる事とも、またいかやうならんこととも知られぬ由也。
 講義は總じて右の如きものであつた。歌それぞれによつて或いは簡に、或いは念をいれて、毎日十数首、ときに二十首がとりあげられ、千百餘首全部に及んだことは、私自身も豫想しなかつたことであり、望外の仕合せであつた。私はこの傳授をまともに受けることによつて、一首一首の註解に俊成卿、定家卿、また頓阿法師、堯孝法師のいぶきを感じ、また學問といふものがどういふものであるかを知りえた。やまと歌の中にしみこんでゐる民族の心、情緒を知りえた。歌が餘戯逸興でないどころではなく、わが國の真言陀羅尼であるといふことを、心にいつはりなく受入れることができた。そして東常縁どのに面々相對することによつて、古典を傳承する態度方法がどういふものでなければならぬかを教はることができた。これは私の生涯の仕合せであつた。
 私が聞書を整理し、常縁どのの校閲を得るために一覧を懇望したところ、師はその奥書に次の如き證を誌し、印を捺して返して下さつた。此集傳授之後、宗祇禅師被註此一帖、常縁披見之、少々加筆者也。尤為門弟之随一、仍為後證加此詞畢。文明四年三月三日。そしてその四月十八日に重ねて次の如き印可の證を戴くことができた。古今集之説、悉以僧宗祇於授申了、心於堅横仁懸天、此文於可守者也。

 さきにも言つたやうに、常縁どのを師として古今の傳授をうけたいといふ私の念願は、決して純粋な動機から發したものとはいひかねる。傳授をうけ、正統を授かり、さうすることによつてみづからを権威にたかめ、出自の卑賎を庇はうとしたのである。そして、私のその念願は達せられた。だが、私が文明三の年の正月から七月まで、兩度にわたつて常縁どのの講義を聴聞してゐるうちに、私の私意我慾は次第に消えていつた。古典といふものがどういふものであるか、古典を傳承するといふことがどういふことであるか、古典學とはなにか、といふさういふことが、常縁どのの口を通して、いやそのからだ、姿、全體を通して私に傳はつてきた。常縁どのが實に偉大にみえた。白状すれば、私は従五位下の下総出身の一領主に、さほどの尊敬と敬意を拂つてはゐなかつた。常縁どのに血脈が継がれてゐるといふ二條派の秘傳口傳もさほどのものとは思つてゐなかつた。ところが正月の末、桐火桶の一つおいてあるばかりの寒々とした部屋で、常縁どのに對坐して以来、いや對坐ではない低頭して坐つて以来、常縁どのにはほとほと頭がさがり、通常の野州常縁どのとはまるで違う雰圍氣を感じた。古典の精神が生身の師にのりうつり、常縁どのの背後に定家卿がゐるやうに思へた。血脈の相承とは凡そさういふものであらう。私は私意私心を拂つて、その世界へはまりこんでいつた。古典への没入において、兩度の聞書を誌しえたことは私の生涯の仕合せであつたことは既に述べた。

《後 略》

 

[唐木順三『応仁四話』1966年(筑摩書房) 収録「宗祇私語」より]
 

 

 以上でございますが如何でございましょうか。唐木が上の文中で宗祇に言わしめておりますように、常縁による「古今伝授」が「空想、感傷、趣向にわたらず、概ね實證的、具體的であつた」こと。つまり「世人のなかには往往古今傳授をもつて、単にみづからを重んずるための秘儀秘教の如きもの、また神がかり風の断片にすぎぬと思つてゐる者もある」と思われ勝ちであろうが、実際には断じてそのような曖昧模糊とした内容ではなかった……と述べさせていることに、正直目から鱗が落ちる思いでございました。「中世の文學」に詳細な考察を加える唐木の手になる小説ゆえに、大いなる説得力を有するように思われるのでございます。皆様は如何お考えになられましょうか。

 最後に、それ以降の「古今伝授」の流れについて簡単にご説明して本稿を閉じたいと存じます。常縁から伝授を受けた宗祇は、その後公家の三条西実隆(1455~1537年)と連歌師の肖柏(1443~1527年)に伝授を行い、肖柏が商人の林宗二(1498~1581年)に伝えたことで、「古今伝授」は三流に分かれたといいます。このうち、三条西家に伝わったものが後の「御所伝授」に繋がり、肖柏が堺の町人に伝えたものが「堺伝授」、宗二の系統は「奈良伝授」と称されたといいます。この中の「御所伝授」は三条西家が代々一家で相伝していましたが、三条西実枝(1511~1579年)は実子が幼いことから、後にその子に伝授することを条件に細川幽斎(1534~1610年)に伝授することになります。ご存じのように、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の一環として東軍側に就いた幽斎の居城「田辺城」が西軍に囲まれた際、幽斎が「古今伝授」を行わないうちに死亡することで、それが絶えてしまうことを危惧した朝廷が、勅使を派遣して幽斎の身柄を保護し開城させております。まぁ、それだけの価値のある奥義の伝授であると認識されていたことを偲ばせる歴史的事実でございます。その後、幽斎は、公家の三条西実条(1575~1640年)と烏丸光広(1579~1638年)に、皇族の八条宮智仁親王(1579~1629年)に伝授を行い、後水尾天皇(1596~1680年)が智仁親王から伝授をうけているとのことであります。そして、これが近世に続くこととなる「御所伝授」ということになります。つまり、歌道における東氏の権威は「古今伝授」を媒介に近世にまで引き継がれていくことになったのです。しかし、その他の「堺伝授」「奈良伝授」については、次第に形式化が進行していったとされます。

 そして、近世に和歌に代わって俳諧が流行したこと、更には国学の発展により『古今和歌集』の研究が進捗することによって、次第に「古今伝授」そのものの影響力は価値を失っていくことに繋がったのでした。そこに、中世における精神世界の終焉を見るべきなのかもしれません。

 

 

 

「はつなつ の かぜ と なり たや」 ―関東を襲った大雨翌日 初夏の風を全身に浴びて思った川上澄生のこと または「創作版画」の世界―

6月9日(金曜日)

 

かぜ と なり たや
はつなつ の かぜ と なり たや
かのひとの まへに はだかり
かのひと の うしろより ふく
はつなつ の はつなつ の
かぜ と なりたや

    [川上澄生『初夏の風』大正15年(1926)木版画]


 
 水無月六月の聲を聴いた途端の、台風2号に刺激された梅雨前線の活性化。その影響によって、我が太平洋岸の国土は東西に長く延びた、所謂“線状降水帯”の直撃を受ることになりました。過去、主に西日本を襲ったそれについては、ニュース報道によって見聞きしておりましたから、斯様なモノかとの想像はしておりました。しかし、実際に遭遇してみればその実際は想像を遙かに超えるものでございました。激しい雨が衰えることもなく、あたかも延々と続くかのよう陋屋に吹き付ける有様に、流石に恐怖心に駆られた……というのが本心でございました。東京東部低地に位置する我が家の周囲には、大きな河川が蝟集しており、余りの雨音にまんじりとも出来ない夜中に、近所を流れ下る中川の水位が危険な状況にあるとの連絡が携帯電話に着信。生れて初めてのことに驚かされも致しました。「すわ一大事!戦後直ぐのキャスリン台風での中川堤防決壊による水害の再来か……」との緊張感が走りました。幸いに、そうしたことは惹起せずに済みましたが、それにしましても、昨今かほどに肝を冷やしたこともございませんでした。梅雨末期の大雨どころか、入梅したのかもハッキリしない内の、超巨大台風の襲来と大雨とは、やはり地球環境が壊れていることをヒシヒシと感じさせる現実でございました。皆様の御宅は如何だったでしょうか。

 さて、台風の直撃を受けたわけではありませんでしたが、翌朝は「台風一過」のように良く晴れ渡り、朝の内には爽やかな風が街を吹き抜ける、打って変わって気持ちのよい天気となりました(もっとも、キャスリン台風後の洪水も翌日の晴天時に襲ったそうですが)。斯様な風の中に佇んでおりましたら、ふと冒頭の詩句が浮かんで参ったのです。川上澄生(かわかみすみお)(1895~1972年)初期の木版画作品『初夏の風』に刻み込まれた詩でございます。本作は、画面全体を支配する淡いエメラルドグリーンの色彩を基調とし、中央に古風なピンク色のドレスを召した、如何にも品の良さそうな妙齢の女性が描かれております。そして、彼女の一方の手は畳んだ日傘を、もう一方は被った青い帽子に伸びております。スカートが大きく左に翻っておりますから、初夏の風が女性に吹き付けて居ることが分かります。空には、何とも得体の知れぬ、雲のような、はたまたちっとも恐ろし気ではない陽気な“物の怪”のようにも見える姿が描かれております。一方、地面からはびっしりと生い茂る夏草らしき存在が、複雑に渦を巻くように描かれており、それが目には見えない「初夏の風」の有り様を示すアイテムとなっております。

 そこで、今回の本稿では、過日の本稿で「新版画」(近世の錦絵制作と同様に、画工・彫師・摺師の協業によって作品を仕上げる明治末以降の木版画)について述べた際、少しだけしか触れ得なかった「創作版画」(錦絵風の作風から離れ、彫りと刷りまでの全ての過程を画家自身で行う、明治末から勃興する版画制作のスタイル)について採り上げてみようと存じます。そこには、前回にも若干採り上げました恩地孝四郎(1891~1955年)、次世代の棟方志功(1903~1975年)といった破格の天才が名を連ねますが、今回主に採り上げますのは、巻頭作品の制作者である川上澄生その人になります。恩地や川上のような天才画家とは異なる(棟方の図抜けた才能はまさに“鬼才”との評こそ相応しいと思いますが)、まるで薫風(「初夏の風」)匂い立つかのような、穏やかな世界を逍遙させていただくことにいたしましょう。天才・鬼才から受け取る「衝撃波」も結構でございますが、流石に毎度毎度は願い下げです。そうした癒しへの誘いをもたらしてくれる画家が、小生にとっての川上澄生の存在なのでございます。皆様におかれましては、「インテルメッツォ(間奏曲)」を聞き流すように、お気軽に読み飛ばし下さいましたら幸甚でございます。

 ところで、この『初夏の風』が大正15年(1926)「国画創作協会」展覧会に展示された時のこと。それを目にした人に棟方志功がおりました。そして、その時に本作から受けた思いを、その著[棟方志功『わだばゴッホになる』1975年(日本経済新聞社)]に残しております。それが以下の記述でございます。「わたしは、呆然と見とれました。『ああ、いいなァ、ああ、いいなァ』と心も体も伸びていくような気持になっていました」と。本作との出会と感動とが「木版画家」を志す契機になったと棟方御自身述べておられます。その意味で、本作は日本の「創作版画」の世界における、正に記念碑的な作品の一つだと申しても決して過言ではないと存じます。また、本作で注目すべきことは、その後に川上澄生が「木版画の詩人」との異名を冠される所以となる、木版画中に文で詩を織り込むことで、絵と詩の世界との融合を図る手法が既に明確に表れていることであります。この方法論は、取りも直さず棟方志功にも明らかに引き継がれていきます。皆様は、鬼才棟方が影響を受けた作品であることから、本作もさぞかしエキセントリックな作品なのかとお考えになられるかもしれません。しかし、いみじくも棟方自身が「心と体が伸びていくような気持ちに」させられたと語っているように、刺激臭など微塵も感じさせない、むしろ春風駘蕩を思わせる穏やかな作品でございます。恐らく、詩の文面から想像されるように、描かれた女性への川上の仄かな憧憬と淡い恋心をも感じさせますが、決して情熱的なものではなく穏やかさが支配しております。見ていて呼吸が楽になるような作品と換言することもできましょうか。小生も、そうした川上の作風を心から愛するものでございます。因みに、本作の版木は既に失われており、現存作品はたった2枚のみとのことです(「鹿沼市立川上澄生美術館」蔵品・「栃木県立美術館」蔵品?)。

 その川上は、明治28年(1895)横浜市に生まれております。父英一郎は、当時「国際都市」であった横浜で貿易新聞社の主筆を務めたり、アメリカ合衆国に渡って農地開墾に取り組んだりする、謂わば「進取の気風」にあふれた人物であったようです。後にその子たる澄生が、「横浜絵」「長崎絵」等の異国情緒紛々たる南蛮風俗に取材した作品をものする淵源はこのあたりにございましょうか。3歳の時に東京の青山に転居した澄生は、その幼少期を帝都東京の周縁部にて、「大正浪漫」の真っ直中を過ごすことになります。この時代には、鈴木三重吉主催『赤い鳥』が刊行されたように、少年少女の投稿(詩歌や絵画等々)による雑誌が発刊されておりました。澄生も頻繁に作品の投稿をしていたようであり、彼の作品は詩人の北原白秋から讃辞を寄せられたこともあったといいます。言語(詩歌)と絵画作品の融合という彼の作風は、こうした大正期の風潮を基盤として育まれた……と申しても差支えなかろうと存じます。青山学院高等科を卒業しても職にも就かなかった澄生は、父の薦めで共にカナダにも渡り、その放浪生活の中で美術を学びたいとの思いも生まれたと言います。そして、大正10年(1921)26歳のときに帰国した澄生に転機が訪れます。それは栃木県宇都宮にある旧制中学校「宇都宮中学校(現:宇都宮高校)」に英語教師として赴任することでした。ここに、澄生と栃木県との縁が生じたことになります。

 宇都宮の地で、生徒たちに英語を教えることを生業とする澄生の生活が始まります。同時に、野球部顧問として指導にも熱心に取り組み、チームを栃木県野球大会で優勝までさせております。版画の片手間で指導するようでは、到底斯様な成果をもたらすことなど不可能です。余程熱心な指導をされたことでしょう。当然、好きな詩や版画の制作に打ち込めるのは夜の時間だけでしたが、そちらでも手を抜くことなく邁進し、大正11年(1922)年に第4回「日本創作版画協会展」初入選を果たし、版画家としての一歩を踏み出しております。そして、大正15年(1926)に発表した作品が『初夏の風』と言うことになります。本作で高く評価された澄生の版画は、瞬く間に引く手数多となり、当時の「創作木版」画家によく見られたように、文学作品の書物装丁などでも活躍をすることになります。しかし、教師としての仕事にも生真面目に取り組み、生徒達を大切にしていたことが、当時の教え子達の声から知ることが出来ます。つまり、芸術家に有り勝ち“破滅的”な生涯を送った人ではありません。見事に「二足の草鞋」を履きながら、着実に歩んできた常識人でもあったことが知られましょう。戦後には、定年退職されるまで栃木県立宇都宮女子高等学校で奉職されたとのことです。

 その人柄は、異国情緒や南蛮風俗を織り込んだ数多くの木版画作品をご覧になれば、一目瞭然にして偲ぶことができるものと存じます。我が家にも父親の遺品である川上の木版画『南蛮人図』があり、長く玄関ニッチで小生の帰宅を出迎えてくれております。何とも巧まざる彫りと多色刷りによる、素朴な南蛮人の群像であり、仕事で多少なりとも愉快でないことがあったとしても、ささくれた心を癒してくれるように思います。実は、父親の遺品には棟方志功の同サイズの木版画作品がございました。恐らくこちらの方が鑑定額も張るものと存じますが、「形見分け」の際には棟方は我が妹に譲り、小生は迷うことなく澄生の作品を撰び採りました。その選択には今でも一縷の悔いもございません。その作品に接すると不思議とほっとさせられるのです。生前の川上に接した小説家の福永武彦(1918~1979年)の随筆には、個展で出会った澄生が版画作品そのままの、素朴な「村夫子」然とした人であり、気むずかしい芸術家の姿など寸分も感じさせない、作品そのままのお人であったと記しております。余計なことかもしれませんが、今では福永武彦を愛読する方もほとんどおりますまい。それどころか、小説家の池澤夏樹(1975年~)の父……、あるいは声優・エッセイストの池澤春菜(1975年~)の祖父……と言った方が、遥かに通りが良いのが悲しいところです。川上澄生は自ら「へっぽこ先生」を自称してもいらしたそうです。なんとも愛すべき人物像ではありませんか。だからこそ、生徒からの親愛の念も極めて厚かったのでございましょう。当方も、一度でもよいからその謦咳に接してみたかったおひとりでございます。

 続いて、川上澄生が、如何なる経緯で「創作版画」の世界に脚を踏み入れることになったのかを、御本人の回想によって辿ってみましょう。彼の版画家としての濫觴が、決して職人的な志向からではなく、素人の興味・関心(何とかの横好き!?)から出発していることを知ることができましょう。また、訥々と回想している何気ない文章ではございますが、その版画作品と同様、その琢磨ざる筆致からは、あたかも明治の世の風情が薫り高く匂い立ってくるように感じます。その点でも価値ある文章かと存じます。皆様も、明治半ばの市井を思い浮かべながら熟読玩味されてみてください。
 

 私は一八九五年生まれです。私などの子供の頃は、町を歩けば、上手下手は別として専門的摺り師でない人が版木を摺っている姿があちこちの店で見られました。
 私は大体東京の山の手育ちですが、まだ市街電車のない時分は町の中に藁葺屋根も見られ、すだれを織っている店や鍛冶屋の仕事場もあり、縄のれんのかかっている米屋では店先で足踏みの臼で米をついていました。裸の男が臼を踏んで、長い竿みたいなものではみ出したお米をちょいちょいとかき寄せたりするのを、縄のれんの縄をいたずらに三つ組に編んだりして見物しました。
 紙屋の店先をのぞくと小僧さんが版木で罫紙を刷っていました。刷毛で版木を撫で、紙を当ててバレンで刷ると、忽ち藍色の線の罫紙が出来上がりました。私は父の使う原稿用紙を刷って貰う為に、その版木を持って紙屋へお使いに行ったことがありました。その原稿用紙は行間が一行の細いのではなくて二行になっていました。せんべい屋の前を通ると、小僧さんがせんべいの袋の紙に、屋号だのせんべいという文字を刷っていました。薬屋の前を通ればこれも同様、薬を入れる袋を刷って居りました。だから私どもは木版とはどういう様にして刷るかは、やってみたことはなくても眼で見て知っていました。
 木版刷りのものは至る所で私どもの眼にふれました。私の家では貼らなかったけれど、よく入口の鴨居の所に三峯山のお犬様のお札や、柴又の帝釈様のお札という様なものが貼ってありました。団扇の絵は勿論木版、菓子折のかけ紙の絵も木版という具合でした、本屋には児島高徳が蓑を着て桜の木の幹を削った所に「天勾践を空しうする勿れ」と筆で書いている絵紙が吊してありました。
 私どもは本やのことを絵草子屋とも申しました。それは多分おばあさんなどの呼び方の影響だったでしょう。なお夏になれば走馬燈が廻り、組立絵の忠臣蔵や武者絵が展等にあったのです。日露戦争の頃は「日本海々戦之図」といった様な石版色刷の絵が掲げられ、無駄だまがいくつも白い水の柱をたてて居り、軍艦の煙筒はやたらに黒煙を吐き、艦砲も赤い火を吐いて居りました。
 私は国技館以前の、即ち回向院の小屋がけの大相撲を覚えて居りますが、常陸山とか梅ケ谷とか国見山とかいうお角力さんの絵姿を買って貰ったことがありました。勿論これは木版の色刷りでありました。然しやがては木版でなくて石版刷りの双六がお正月には登場して来ました。形の小さな紙のメンコは未だ木版画の海軍大将や陸軍大将の絵姿であったようです。私は只今そのような紙メンコも数枚持っています。木版刷りの武者絵かるたを持ってはいますが、これは後年古本屋から仕入れたものであって私などのもてあそんだものではないのです。私などより一時代古い少年のおもちゃであったのです。
(中略)
 私が始めて木版を彫ったのは中学を出た頃でした。私の家には所謂錦絵類は一枚もありませんでしたが、木版はどういう様にして刷るかという予備知識はあったわけです。何がきっかけになるものかわかりません・私は木下杢太郎氏の「和泉屋染物店」の口絵を見て、似て非なる銀杏返しに結った女が、たたんだ唐傘を持って川端らしい所を歩いている絵を彫りました。版木については忘れましたが、うちには切り出しの細い様な彫刻刀が四本程ありました。父の兄に、絵を画いたり彫刻をやった人があって-そのおじさんは若い時になくなったそうで-その人の使ったものだろうと思います。とにかく版面に凹凸を作ればよいわけで、いいかげんに絵を画いて彫りました。不用の部分を削りとることは、細い彫刻刀ではなかなか大仕事です。掘りとる部分が必要以上に深くなったりしました。
 さてバレンはありませんから、煙草盆の吐月峰の蓋を布で包んで、洋紙に刷ってみました。これが私の作った最初の木版画でした。それから時々彫ってみましたが、板は下駄屋から朴歯の足駄の歯にする朴の板を売って貰いました。その頃小学生の時に遣った石盤に、彫刻刀で彫ってみたことがありました。これは線を彫っただけですから陰刻です。
勿論私の木版は独り勉強ですし、道具類も揃っては居りません。大正九年の第二回創作版画協会の展覧会に、細長い小さな二度刷りの猫が椅子の上にいる絵を持って言って陳べて貰いました。売値をいくらにつけようかと思いまどいました。刷れば何枚も出来るのだから五銭位にしようかと思いましたが、あまり安くてもいけないだろうと考えて、五十銭という売値をつけましたが、勿論売れもしませんでした。
(後  略)

 

[川上澄生「版画」1959年(東峰書院)より]
 

 

 その後に一世を風靡することになる「創作版画」の世界が、そもそも職人芸としての「錦絵」制作の伝統とは全く異なった、極々素朴な素人芸からスタートしたことが浮かびあがってまいりましょう。勿論、「創作版画」に携わった画家の全てがこのような道筋を辿ったわけではないとは存じますが、「新版画」作品の如何にも隙なく整えられた職人芸の発露たる作風とは大きく異なる、「創作版画」の朴訥とした魅力の一端を、逆に照射しているように思われます。「創作版画」の草創期を思わせる貴重な証言と思い、この場で長々と引用をさせていただきましたが、皆様は如何お感じになられましたでしょうか。

 余談ではございますが、以下に引用をさせて頂く、川上澄生の人柄を如実に示すと思われる詩作品ともども、上記文面を直接的に引用いたしました書籍は、川上澄生『四季の楽しみ 西洋骨牌(とらむぷ)』1974年(二見書房)に添えられた「川上澄生の世界」と名付けられて小冊子からとなります。小生にとって思い出の深い本冊は、中学校から高等学校へと進学する合間の「春休み」(本書刊行翌年にあたる1975年春のことです)に、版元である「二見書房」にて生まれて初めてのアルバイトをした際、最終日に社員のお一人から「欲しい本があったらあげよう」と申しでていただき、当時当社で刊行されていた「刑事コロンボ」シリーズとともに頂戴した忘れ難き書物となります。特に本書の主役である川上澄生の版画が画かれたトランプカードは、「七並べ」をすると絵柄の全容が実に美しく映えます。頂いてから半世紀も経過する書物を今も大切にして、直ぐに取り出せる書棚に配架している由縁でございます。本稿の潤筆をしていて、端本としては何冊か所有している、中央公論社刊行『川上澄生全集』(全14巻)を手元に置いてじっくりと澄生の作品と向き合いたくなりました。

 台風の去った後の気持ちの良い「初夏の風」は、斯様な諸々へと小生の想いをを運んでくれたのでした。皆様も、もしご存知でなければ本作を是非ともご覧下さいませ。何とも甘酸っぱいような多幸感に誘われることを請け負わせて頂きます。ネットに「川上澄生」「初夏の風」とキーワードを入れて検索されれば、たちどころに作品を目にすることができましょう。上述いたしましたように、最後に川上澄生の「我は」と名付けられた詩作品を引用させて頂きます。如何にも川上澄生その人を思わせる作品であります。しみじみとさせられますし、何にも増してそのお人柄に強く惹かれます。そして、自身も斯く在りたいものと共感の想いに駆られるのです。

 

 
我 は            
我は市井の陋巷に住ひして人工を愛す
人工は愛しき哉
人工は悲しき哉
人工は寂しき哉
我は永遠を信ぜず
人工も亦亡ぶべし
亡ぶるものは命を持てり
命あるものは老いて朽つるなり
我は俗の俗
俗極まれば仙となるべし
我は我が人工の芸術に羽化登仙し
忽ち堕落して俗に入る
またよき哉
斯くして我が頭髪に霜を置き
眉毛長く延び行く也
 

 

講演「千葉氏と浄土信仰」の充実 ―6月10日開催「令和5年度千葉氏公開市民講座」における植野英夫氏の講話の一端を御紹介!!―

6月16日(金曜日)

 

 

紫陽花や  はなだにかはる  きのふけふ    正岡子規
あじさゐの  藍のやうやく  濃かりけり    久保田万太郎

 

 関東でも梅雨に入り、毎日のようにどんよりとした空模様と、鬱陶しい雨続きでございます。もっとも反面で、この時節は濡れそぼる紫陽花や菖蒲・杜若、そして花菖蒲の花々が、眼にも綾なる姿を見せてくれる嬉しき頃でもございます。古くからの諺に、両者の区別をつけがたいことの例えとして「何れ菖蒲か杜若」がございますが、勿論これは美しさの優劣をつけがたきことの例えでございましょう。もっとも、冒頭での話題は、本館の周囲で今を盛りとして彩りを添えている紫陽花となります。冒頭の近代俳句2つも紫陽花を詠み込んだ作品となります。広く知られておりますように、紫陽花の「花ことば」には「移り気」「浮気」「無常」等がございます。これらは、紫陽花が刻々と花色を変化させることに由来することは申すまでもございますまい。別に、少々毛色の異なる「辛抱強さ」もあるそうですが、これは紫陽花の花期が長きに亘ることから来たものとのこと。申すまでもなく、冒頭句は前者の刻々と変わる色彩を詠んだものでございましょうが、それに留まることなく、日々の歩みを通じて、微妙に移ろいゆく作者の心情をも感じさせる作品かと存じますが、これは深読みに過ぎましょうか。

 因みに、子規の句にある「はなだ」は漢字で「縹」と表記いたしますが、ざっくり申せば“うすい藍色”と言うしかない、色彩を表現する用語でございます。我が国には微妙な色合の違いを表現する言語が数多存在いたしますが、昨今は殆ど死語と化しているように感じます。例えば「青」と表現しても、本当は事実を正しく伝えたことにはなりません。勿論、実際に見て貰わねば微妙な色彩の違いを正確に他者に伝達することなど、不可能であることは申すまでもございません。そこで、少しでも正確に伝えるための手法として、一つに「青」に様々なる形容詞を冠すること、二つに微妙に異なる「青」にそれぞれ固有の色彩名詞を当てるかを選択せざるをえません。まぁ、実際にはその双方を組み合わせていることが多いのかも知れませんが、日本人は主にその後者を選択したのだと思われます。それは、日本語には後者の手法、つまり微妙な違いを表す色彩語が目白押しであることからも推定されましょう。試しに、一度「着物」等の「色彩見本帳」をご覧頂ければ、如何に多くの色彩を表す用語があるのかに呆然とされましょう。聞いたこともない色彩語の数々に途方に暮れること間違いなし……かと存じます。

 例えば、皆様は、参勤で地方から江戸に登った武士が着用した衣類に多かった「浅葱(あさぎ)」と称する色を思い浮かべることが可能でしょうか。江戸文学を紐解けば「浅葱」は田舎武士を揶揄する言葉ともなっております。その浅葱色とはよく「緑がかった薄い藍色」などと言われますが、斯様な説明では先の「縹色」とどう異なるのか殆ど理解不能でございましょう。実際に見比べれば、浅葱は若干緑も入った相当に明るい色合いであり、「薄い藍」と言われる縹の方がずっと藍味が強く出ております。要は、「縹」「浅葱」と表現することが遙かにその実態を理解しやすくなります。まぁ、今回は斯様なお話しではございませんので、この辺で止めておきますが、紫陽花の色彩の変化を正しく伝えるにも、少なくとも「青(ブルー)」「紫(バイオレット)「桃(ピンク)」の3つの言語では到底不可能であることには、何方も御納得頂けましょう。その間に無数の微妙な色彩の違いが存在するのですから。古来の日本人は、それを表現するコトバを無数に用意していたのです。しかし、逆に申せば、それらが社会全体である程度まで共有できていたことが、多彩な色彩語の存在を許容した絶対条件であったことになります。

 果たして、現代社会において国民にこうした「文化的共有」が在りや無しや……と問われれば、残念ながら「否」と答えざるを得ますまい。余談となるかもしれませんが一言。ここには、往々にして現代社会に蔓延する意識、つまり「人間社会は、昔は遅れていたが、人々の取り組みによりそれを克服し、現在は大きな進歩を遂げた……」なる、単純な「進歩史観」は、少なくとも科学技術の分野を除いては必ずしも当てはまらない、一つの確かなる例証になろうかと存じております。一時盛んに喧伝された「江戸時代はパラダイス」といった論調には、全く組する者ではございません。しかし、それでも精神性の面で、古の人々が現代人より遥かに優れた感性や言語感覚を有していたことは、どなたも首肯せざるを得ますまい。また、小生が社会科教師であった時分には、歴史の授業で生徒が単純な進歩史観の理解に陥らぬよう気を付けておりました。

 さて、ようやくのこと本題に移らせていただきます。今回の本稿の趣旨でございます、去る6月10日(土)午後に開催されました標記講演会につきましてご紹介をさせて頂こうと存じます。毎年この時期に開催をしております「千葉氏公開市民講座」でございますが、3年後の令和8年(2026)6月1日「千葉開府900年」というアニヴァーサリーの時を迎える千葉氏につきまして、より深く市民の皆様にご理解をいただくべく、これまでに多面的・多角的にその姿を掘り下げ得るテーマを選択しながら実施して参ったつもりでございます。こうした武士団についての講演内容は、往々にして武士団の権力構造や栄枯盛衰を採り上げ勝ちで、実際にそうした内容の人気が高いのも現実であります。勇壮な合戦絵巻や舞台となる城館の在り方に人気が集まり、多くの方々の心を捕らえて離さないことも宜なるかな。それは小生とて同様でございますし、千葉氏の理解にとっても不可欠の視点であることは申すまでもございません。事実、我々も過去の特別展・企画展等々でこうした内容を扱って参りました。

 しかし、そうした側面だけが武士団としての千葉氏の全貌ではないことは、改めて申すまでもございますまい。特に、武士団の有する文化(文学・芸術・宗教等々)との関わり、それら同士の関わりや他地域間との結びつき等々につきましては、その理解にとって必要不可欠な視点に他ならず、これまでも様々な機会をとらえて本館でも採り上げてまいりました。多様な千葉氏の姿を多面的・多角的に照射することを通じて、皆様の千葉氏の理解が深まり、結果として本市域の歩んだ歴史・文化への深い理解を促し、市民としての誇りの醸成に繋がるであろうと考えるからに他なりません。具体的に、過去の講演会では、戦国期における千葉氏と文芸(和歌)との関わり、下総国という一地域に留まらない東アジアへと繋がる広域な文化的交流の可能性等々の追求にも、果敢にアプローチして参りました。また、現在開催中の千葉氏パネル展で「千葉氏と京(みやこ)」との関わりに焦点を当てたのも、同様な願いを背景とします。

 そこで、本年度は、千葉氏と宗教との関わり、特に「浄土信仰」との関係性をテーマとして設定いたしました。平安末期「末法思想」の広まりに伴い、極楽往生を願う人々の思いが裾野を広げ、「阿弥陀如来」に縋る広範な「浄土信仰」へと繋がっていったことは皆様も中高生の歴史の授業で学ばれたことでしょう。それは、最高権力者である藤原摂関家であっても同じこと。かの藤原道長による「法成寺」の創建、その子息である賴通の造営にかかる宇治「平等院」を想起いただければ、最早それ以上の説明を要しますまい。しかし、こうした人々の不安は、貴族のように豪壮なる寺院を建立することの叶わない庶民や、実際に合戦で人を殺める機会を多く有した武士達にとって、より切実であったのです。斯様なる社会的な状況は、必然的に武士達に広く「浄土信仰」を浸透させることになり、それは千葉氏もまた例外ではございませんでした。つまり、千葉一族と浄土信仰との関係性の追求が、本講演における主要なテーマに他なりません。

 その為に、満を持して招聘をさせていただきましたのが、この3月末日まで「千葉県立中央博物館」館長をお務めになり、4月からは「財団法人千葉県文化財振興財団」理事長に転じられました植野英夫様でございます。先生は、茨城大学に在学中から「浄土信仰」の研究に携わられ、その権威である今井雅晴氏(1942年~)に師事されております。そして、現在も継続的に県内を中心とする浄土宗・浄土真宗関連の調査研究に邁進されていらっしゃいます。その意味で、本館における本年度講演会の講師として、先生を措いて適任の方が他にいらっしゃるとは思えませんでした。多忙を極められた前職を退かれることを好機として、不躾にも先生にその思いをお伝えしたところ(現職もその御双肩に重責を担われるお立場であるにも関わらず)、今回の講演会講師を快くお引き受けいただきました。この場をお借り致しまして、先生には衷心よりの感謝を申しあげたく存じます。以下に御講演の内容構成につきまして、植野先生御作成のレジュメからご紹介をさせていただきましょう。

 

1 浄土信仰について        5 然阿良忠の房総伝道
(1)    浄土の種類          (1)然阿良忠(1199~1287)
(2)    末法思想(末代観)      (2)千葉県内の良忠開山寺院
(3)    浄土教            (3)良忠と千葉氏
2 浄土宗と鎌倉武士           ①千葉氏の願いと良忠の教え
(1)    法然(1133~1212)        ②良忠と千葉氏との不和
(2)    法然帰依の鎌倉武士     6 酉誉聖聰
3 法然の門弟となった千葉氏       ~千葉氏からの浄土宗高僧
(1)    相馬師常          7 浄土信仰の文化遺産
(2)東 胤頼           (1)善行寺信仰
(3)帰依の理由          (2)仏画と法会
 4 作善への結縁             ①十王図
  (1)当麻曼荼羅厨子修理        ②行道面
(2)浄智発願阿弥陀如来像
 

 

 御講演内容の詳細をこの場で紹介する紙数も能力も小生にはございませんから、以下はその概要のみの紹介とさせていただきます。千葉氏の宗教との関係性と聞くと、第一に「妙見信仰」が、更に「日蓮宗」との関係を思い浮かべられる向きが多かろうと存じます。しかし、千葉一族もまた阿弥陀如来の存在に由来する「浄土信仰」を積極的に受け入れているのです。先生は、その事実を実際の史資料による根拠を丁寧にお示しくださりながら論証されてくださいました。特に、千葉常胤の子息である東胤頼・相馬師常が、専修念仏を主導する「浄土宗」開祖である法然の門弟となっていたことは重要でございます。中でも、東胤頼(法阿)が晩年に在京しており、延暦2年(1212)に没した法然を葬った廟所が、嘉禄2年(1227)に延暦寺宗徒によって破却された際(「嘉禄の法難」)、その遺骸を宇都宮頼綱(蓮生)とその弟である塩谷朝業(信生)とともに守護したことを、国宝『法然上人絵伝』(知恩院蔵)をお示しされながら解説されました。また、「作善への結縁」として、奈良県の古代寺院「當麻寺」にある中将姫伝説に彩られた「當麻曼荼羅」を納める厨子の修理に結縁した、2150名もの人々の中に千葉一族が見られること[仁治3年(1242)]、更に、滋賀県甲賀郡の玉林寺に安置されていた阿弥陀如来立像に残る、法然の一周忌に法然の弟子勢観房源智の自筆願文、及び4万6千人もの交名中の11名が千葉一族と認められること(その中には、常胤の嫡子胤正と相馬師常、常胤孫の上総介常秀と千葉介成胤等々、当時の千葉氏要人中の要人が名を連ねております)等々、「作善」を通じて法然(浄土宗)への結縁を希求する千葉一族の姿が見て取れることをお示しくださいました。

 更に、千葉一族と浄土宗との関係で注目すべき点として、法然の孫弟子にあたる岩見国(現島根県)出身の然阿良忠(ねんなりょうちゅう)(1199~1287年)が、宝治3年(1249)に信州の名刹「善光寺」(本尊は絶対秘仏の所謂“善光寺式”「阿弥陀如来」でございます)を経由して房総に入り、その後10年以上に亘って当地に留まり伝道にあたったことを挙げておられます。良忠はまた、この地で「浄土宗」の信仰に関する多くの著述も残しております。その活動の中心となったのが利根川流域から九十九里沿岸にかけての地であり、当該地域の千葉一族にその教えが受容されていることが示されております。不幸なことにその後に両者には不和が生じ、良忠はこの地を後にしておりますが、現在でも良忠を開山とする14ケ寺が残るとされます。しかも、その遺産とも称すべき「浄土信仰」由来の文化遺産が今なお多く残されていることも指摘されております。小生にとって、今回のご講演で最も大きな学びがこのことでございました。それが、良忠の伝道の足跡に色濃く分布する「善光寺式阿弥陀如来像」と「十王図」(人が死後に赴く冥土で生前の罪業を閻魔大王など十人の王に裁かれ六道の何れに生まれ変わるかを決せられる様子を描いた絵図)の存在、国指定重要無形民俗文化財に指定された横芝光町の広済寺に伝わる「鬼来迎」を代表とする浄土信仰を演劇化した「迎講」の存在に示されることを指摘されております。偉そうな物言いで恐縮でございますが、まさに慧眼ここにありの想いで拝聴させていただきました。小生は、先生が映像でご紹介くださった、鎌倉期に遡る建暦寺(こちらは良忠の活動から外れる君津市域になりますが)の「菩薩面」4枚に大いに感銘を受けました。慶派にも連なる仏師の作であることを想起させる、極めて優美かつ力強い作風を有しております。

 更には、時代を下って、後に徳川将軍家の菩提寺となる「増上寺」開山となる浄土宗高僧の酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)が、南北朝期の千葉介氏胤(満胤とも)子息の千葉一族であること、戦国期の生実城主である千葉氏家宰の原胤栄開基となる浄土宗大巌寺(こちらも徳川将軍家からの保護を受け関東十八檀林の一つとして近世に栄えます)、元来は原氏の家臣でありますが、次第に自立化を遂げて小田原北条氏下で有力国衆となる小金城主高城が開基となる東漸寺等々、千葉一族とその周辺では「浄土信仰」との繋がりが脈々と継続していることもご指摘されました。お時間の関係で、ご講演の内容は千葉一族と時衆(時宗)との関係にまで及ばなかったのは残念でしたが、会場からの質問に答える形で、その概略のご説明をいただきましたことは僥倖でございました。

 以下は、植野先生の御講演内容から外れた小生による付加となりますが、千葉一族では鎌倉末から南北朝期にかけての千葉介貞胤が帰依することで、「阿弥陀信仰」を基盤に置く時衆(時宗)との関係が生まれたことも重要でございます。また、戦国期に本佐倉城を本拠とした千葉介もまた、時宗に帰依しており、佐倉市内に残る時宗寺院「海隣寺」には千葉介歴代の墓石が林立することが知られておりましょう。ここで千葉介が帰依した時宗は、清浄光寺(遊行寺)(神奈川県藤沢市)を本山とする一派(「遊行派」)と対立する一派である、当麻山無量光寺(神奈川県相模原市)を拠点とする「当麻派」であることは注目されましょう。空襲での罹災により戦後中央区轟町に移転した千葉介貞胤開基「来迎寺」は、江戸時代初期に浄土宗に改宗するまでは当麻派に属する時宗寺院であり、寺域には現在も千葉介氏胤を含む7基の追善供養五輪塔が残ります。そして、その旧地が市内中央区にある「道場」地名の由来となっております(時宗「千葉道場」)。更に、当麻派本山である「無量光寺」住持の多くが千葉道場(来迎寺)から入山していることからも、千葉道場が時宗当麻派で有した地位の高さ、つまり重要な拠点寺院であったことを証明しております。それは、来迎寺がその庇護者としての千葉介と深い関係性を有した寺院であったことと、決して無関係でなかったものと推察するものでございます。

 何れにいたしましても、今回の植野先生の御講演は「千葉氏と浄土信仰」につきまして、特に「浄土宗」との関係性において網羅的にご説明をくださったのみならず、現在まで継承されるその影響にも言及していただけた、極めて意義深い内容であったものと存じます。改めまして、研究者としての植野先生の力量に敬服させていただいた次第でございます。ここまでお読みくださった皆様には、是非とも参加したかった……と、後悔される向きもございましょう。最後に、どこかの国で再ブレークした芸人の科白ではございませんが「安心してください!!植野先生の御講演の全容につきましては文字起こしをさせていただき、レジュメと関係資料(除:映像資料)ともども上半期をめどに「千葉氏ポータルサイト」にアップをさせていただく予定です……」と付け加えさせていただきます。それまで、今暫しお待ちくださいますようお願い申し上げます。アップの日時は、確定次第本館ホームページにてお知らせをさせていただきます。ご出席の叶わなかった皆様は、是非とも楽しみにされていてください。
 

 

故郷「長野」に戻った『友情人形』の可能性を有する「青い目の人形」その後について(前編) ―長野市立博物館における現段階における調査結果の紹介 または調査担当の方の研究者としての矜持への感銘―

6月23日(金曜日)

 

 昨年(令和4年)7月29日付の「館長メッセージ」にて「千葉市以内で新たな『友情人形』の発見か!? ―アメリカ生まれ「青い目の人形」の来し方と行く末―」と題する文章を発信いたしましたが、皆様におかれましては、その内容が御記憶の片隅にでも残っておりましょうか(本館ホームページでお読み頂けます)。勿論、お読み下さっておられない方々が殆どだと思われますから、最初に、そもそも『友情人形』とは一体何かと言うことを、続いて新たな『友情人形』発見か……と言うところの「青い目の人形」(西洋人形)に関わる経緯の概要を述べ、更に、現段階までにおける当該の「青い目の人形」調査の顛末について御紹介をさせていただきます。前稿では「発見か!?」と疑問符を付けて発信しておりますから、そのままスルーしていては余りにも無責任に過ぎましょう。当然、当該人形が、紛れもない新たな「発見」であったのか否か、少なくともその経過をご報告する責任が小生にはあるものと考えます。もし、ご関心を持たれた方がいらっしゃったのであれば、「一体、あの人形はどうなったの!?」と気にされているのが、当然のことと存じますから。

 事の発端は、令和4年を迎えて程なき頃にまで遡ります。千葉市内に在住の方の御宅に『フレンドシップ・ドール(友情人形)』と思われる人形があるので一度確認していただきたい」との連絡が本館に入ったことで、稲毛区小中台町に在住の所有者(以後Aさんといたします)に当該人形を拝見させていただくとともに、所有の経緯について聴き取り調査を行わせていただいたのが契機となったのです。そのことについて触れる前に、ご存知ない方の為に、そもそもここで言うところの『友情人形』とは何かについてご説明をさせていただきましょう。それは、明治末から大正期にかけてアメリカ国内で高まった大規模な日本人移民排斥運動の結果、大正13年(1924)日本人移民を排斥する法案が可決され、日米関係が悪化の一途を辿っていったことを歴史的背景として登場した人形であります。そうした社会的動向を憂えたアメリカ人宣教師シドニー・ギューリック(1860~1945)が、子供同士の交流を通じて両国の親善を始めることを契機に両国の関係改善を図ろうと、親交のあった渋沢栄一(1840~1931)に提唱して始まった、大規模な民間同士による「日米国際親交」事業が展開された結果、アメリカの子供たちから日本の子どもたちへ贈られたのが、『フレンドシップ・ドール(友情人形)』と称される人形に他なりません。

 その結果、ギューリックから昭和2年(1927)、約12.700体もの『友情人形』が日本に贈られたのでした。アメリカでは、男子はバザーや野外劇などを開いて資金を集めて人形を購入し、日本へ送るための旅券(パスポート)の手配等の事務仕事を担い、女子と母親は人形の衣装や付属品を手作りしています。一方、学校でもその意義と日本文化を児童に理解させる授業が、教育の一環として実施されました。一体毎に付随するパスポートには子供たちによって命名された「名前」が記され手紙も添えられました。本プロジェクトに関わったアメリカの子どもと保護者・教師・関連団体等の総数は、凡そ260~270万人にものぼると言われます。そして、人形を受け取った日本では、東京・大阪で盛大な歓迎会が催された後に、国内各道府県へと配布されることになりました。その結果、我が千葉県でも、選ばれた尋常小学校・幼稚園等に214体が寄贈されました。そして、各学校で盛大に歓迎され大切にされたようです。しかし、今日まで県内に残っている友情人形は、その内のたった11体に過ぎません(全国的にみても残存数は350体弱です)。その原因は、昭和16年(1941)日米開戦が『友情人形』の措かれた状況を一変させることになったからに他なりません。因みに、この時『友情人形』の返礼として、日本からは市松人形58体がアメリカに送られました。それらは今も50体が現存しております。何とも複雑な想いを禁じえません。

 日米開戦を境として、友情人形は一転して敵視の対象となりました。国策により、あるいはそれへの忖度により、殆どの『友情人形』は戦意高揚と敵愾心を煽る目的で廃棄・焼却される一方、場合によっては竹槍で突かれるなどの無残な扱いを受けることにもなったと伝えられております。それでも、アメリカの子供たちの好意を踏みにじることは出来ないと心を痛める、僅かな“心ある”校長先生の判断が『友情人形』を救ったのです。これが今日全国で350体弱残存する『友情人形』に他なりません。つまり、今回発見された「青い目の人形」が、確かな『友情人形』であれば、極めて貴重な発見となることを御理解いただけましょう。本館としましても、もたらされた情報に色めき立ったことは申すまでもございません。そして、逸る気持ちを抑えつつ、Aさんのご自宅にうかがい当該の人形との対面を果たしたのでした。

 少し色あせた洋服を身に纏った人形の体高は40㎝程。まず、その姿形から直感的に紛れもなく昭和2年にアメリカからやって来た『友情人形』に違いないと感じました。仔細に拝見させていただくと、当時のアメリカの人形メーカーの社名が刻まれるメダルが付属します。この時日本に送られた人形には、ドイツ製等々のビスクドール(素焼きの人形)は極めて少なく、その殆どがメーカー既製品のコンポジションドール(パルプや大鋸屑等を練った材で成形され、乾燥させ仕上げ塗りをして完成させる人形)であります。また、本人形にはスリーピングアイ機能(瞼が開閉する)があり、現在音は出ないようですが、かつては「ママ―」との声を発したとAさんが証言されました。保存状態によっては罅割れが出てしまう個体も多いようですが、殆ど傷一つない素晴らしい保存状態であることも確認できました。ただ、布製着衣・靴の劣化が激しかったため、Aさんが修繕したり、新調をされたとのことでありました。

 もう一つの重要な情報がその来歴でございます。本人形はAさんの出身地である現在長野市内のご実家に伝わったものであり(旧塩崎村で近世から医業を営んでおられた旧家とのこと)、「国民学校」[昭和16年(1941)に皇民化教育推進を目的に「尋常小学校」から移行した義務教育学校で昭和22年(1947)まで存続]の訓導(教師)を務めていらした御母堂が、当時奉職されていた学校の校長先生から、くれぐれも内密にと因果を含まされて保管を託されたと、年齢の離れた姉上から聞き及んでいるとのことでした[Aさんは昭和16年(1941)の産まれで、直接に母親から話を聞いてはおられないようでした]。戦後になっても御母堂は家の外では勿論、子ども達にもそのことについてほとんど語ることなく物故され、家族にもその学校名については明らかにはされなかったようです。

 従いまして、『友情人形』の可能性がある本人形は、千葉県・千葉市に由来する資料ではございませんでした。そのことは残念至極ではございましたが、もし新たなる『友情人形』であれば、先に述べたように何にも増して大きな発見に他なりませんから、対応には慎重を期さなければなりません。この時、Aさんはその調査も含めて本館への御寄贈を望まれましたが、その由来が現長野市であることから、第二の故郷に還してあげることが人形にとってもよいことであると判断いたしました。そもそも、本人形が本当に『友情人形』に当たるのかの調査を進める必要もございます。その点で、長野県は国内における『友情人形』残存率が極めて高い地域にあたり、長野市では過去の早い時期に『友情人形』の展示会も開催されていらっしゃるなど、調査の経験とノウハウもお持ちであると考えられること、地元に残る資料から本人形の来歴も明らかにできる可能性が高いことを御説明させていただきました。その結果、Aさんにも御理解をいただくことができたのでした。

 後日、本館から長野市立博物館に連絡し御意向を確認したところ、是非とも長野市でお引き受けしたいとの返答をいただくことができたことは幸いでございました。そして、昨年5月末日に長野市立博物館から2名の学芸員が来葉され、当該人形は“第二の故郷”である信州へと旅立っていったのでした。その後、長野市立博物館では大凡一年間をかけて調査活動を実施され、この度、現段階での結果が担当学芸員の手によって論考として纏められ『長野市立博物館紀要』第24号に掲載されました。本館にも一本の献呈をいただき、早速一読に及びましたので、先にも記しましたとおり、皆様への義務を果たすべく本稿では論考の内容の御紹介をさせていただこうと存じます。

 論考を纏められたのが、本市への人形引き取りにも同行され、その後も継続的に調査に当たられた、同市博学芸員の樋口明里さんであり、論考の名称は「長野市立博物館に寄贈された人形について-日米親善人形の資料性を考えながら-」でございます。因みに、ここでいう『日米親善人形』とは、本稿で用いる『友情人形』のことを指しますが、煩瑣になりますので本稿では後者で統一して記述させていただきます。最初に樋口さんの結論から申しあげたいと存じます。それは以下のようなものでございます。即ち、「寄贈された人形は、現状において、昭和2年にギューリックによってアメリカからもたらされた『友情人形』の一体とは断定できない……」とのものでございます。後編では、樋口さんによる調査と検証の結果、彼女が上記結論に至った経緯につきまして御紹介させていただきます。
(後編に続く)

 

故郷「長野」に戻った『友情人形』の可能性を有する「青い目の人形」その後について(後編) ―長野市立博物館における現段階における調査結果の紹介 または調査担当の方の研究者としての矜持への感銘―

6月24日(土曜日)

 

 まず、人形本体の形態調査から、樋口さんは、本人形の長高は帽子と靴を含めて42㎝であり、アメリカの「アヴェリル・マニュファクチャーリング社」製「マダム・ヘンドレンドール」と推定されるとされます。そして、それは昭和2年に『友情人形』として日本に贈られた、他の「マダム・ヘンドレンドール」と一致するとのことであります(コンポジション製・ショルダーヘッドタイプ・スリーピングアイ)。ただ、本体に刻印が見られないことと、服が新しい糸で縫い付けられているためスコープカメラで人形表面を確認した結果、『友情人形』によく見られる型番や「Genuine」の文字が見られないことをご指摘されております。衣服には「Madame Hendoren DOLLS “Everybody Loves Then”」と書かれたタグがつき、更に胸元には「MADAME HENDOREN DOLLS EVERYBODY LOVES THEN」「GOOD LUCK KEEP THIS COIN AND GOOD LUCK WILL FOLLOW YOU」との文字の入った金属製のコインがつき、その中央には大きな「スワスティカ(まんじ)」が刻印されていると報告されております。この「スワスティカ」は1930年代にアドルフ・ヒトラーに率いられるナチスがそのシンボル「ハーケンクロイツ」として使用することになるものです。ただ、それまではアメリカでもジュエリーや玩具に使われていたとのことであります。そのことから、樋口さんは当該コインが1920~30年代頃のものと推定され、コインと衣服がオリジナルのものであれば、本人形の製作年代は『友情人形』とほぼ同時期である可能性は高くなると述べておられます。しかし、残存する確かな『友情人形』には、こうしたコインの類例が確認されていないとのことであり、「衣服・コインもオリジナルであるとは限らないことから、『友情人形』と断定することはできない」と結論づけております。更に、論考では触れられてはおりませんが、専門の人形鑑定士にも確認をとられており、保存状態が当時の人形として余りにも良好に過ぎると指摘されたそうでございます。

 続いて樋口さんの論考は、Aさんの御母堂が当時勤務していた学校長から託されたとの来歴についての調査に及んでいらっしゃいます。その結果、『長野県学事関係職員録』、『学校日誌』、『周年記念誌』等々の資料調査により、Aさんの母親が「大正10(1921)~13年(1924)に埴科郡豊栄尋常高等小学校(現:長野市立豊栄小学校)、大正15年(1926)~昭和6年(1924)に更級郡塩崎尋常高等小学校(現:長尾市立塩崎小学校)に赴任していたこと」ことが判明したとされております。ただ、それら資料からは母親と人形との接点は不明瞭であったとされております(もちろん、小生も学校職員であったことからよく分かりますが、資料の性格上公式の行事等以外の記録が記されることはありません)。更に、樋口さんは、Aさんの母親が人形の保管を託されたと思われる更級郡塩崎尋常高等小学校(現:長尾市立塩崎小学校)に保管されている戦前の『学校日誌』を確認されております。その結果、大正15年度(大正15年4月1日~昭和2年3月31日)3月15日の条に「校長午后出懸北米合衆國世界児童親善会ヨリ寄贈ノ人形ヲ受領帰校ス 本懸内ニ二百十五個本郡ニ十参個来ル」とあり、本校には確かに『友情人形』が配付されたこと、また同年度にAさんの母親が本校に勤務されていたことも確認できたといいます。ただ、当時の写真は一切存在しないために、その『友情人形』が今回の人形と同個体か否かも確認のしようがありません。また、Aさんの御母堂は昭和6年度末には訓導を退職されております。勿論、その後も塩崎村にお住まいでありましたから、それ以降に本校と交流を持たれた可能性は否定できないものの、それは飽くまでも想像の域を出ない……と樋口さんは述べられます。確かに、密かに人形が託されたとすれば、それは日米開戦後の昭和16年12月以降のことになりましょうし、実際には翌17年から20年にかけてのこととなりましょう。従って、同校を離れて10年以上も後のことになります。絶対あり得ないとは申せないまでも、その可能性は相対的に低いと考えざるを得ないと判断されるの宜なるかなでございます。

 そうは申しても、以上の状況証拠から、当該人形が限りなくホンモノの『友情人形』の可能性が高いのではないかとお考えになられる向きもございましょう。しかし、樋口さんは、本人形が少なくとも現状においては『友情人形』とは断定できないと結論づけられたのです。最終的に斯様な判断に至った資料を最後に御紹介させていただきましょう。それが、昭和2年3月24日発行『信濃毎日新聞』に掲載された以下の記事とされております。樋口さんの調査が、ここにまで及んでいたことに正直感銘を受けました。
 

「雛人形 二割安
  長野付近もそろそろ一月おくれの雛の節句が近づいて来たので各商店は美々しくお雛さんを飾り立てて顧客をよんで居る。
  市内後町中越屋について聞くに今年はアメリカから人形の渡来したため幾分人気をあほつたらしい…(中略)…アメリカみやげの眠り人形も一個一圓位から」


 (『信濃毎日新聞』昭和2年3月24日発行)

 

 確かに、この資料に接すれば、俄かに本人形が『友情人形』であることを断定できないと判断せざるをますまい。樋口さんの根気強い調査に脱帽でございます。樋口さんは、ここで記される「アメリカみやげの眠り人形」の形態などについての詳細はわからないとされつつ、正に同時代に『友情人形』と同様のアメリカ製人形が長野市内で一般に販売されていた事実を無視できないこと、つまりAさん寄贈の人形がそうした経緯で入手された可能性を否定する証拠が見出だせない現状においては、本人形を『友情人形』と断定できないとされていらっしゃるのです。小生は、樋口さんの研究者としての在り方、つまり希望や予断に左右されない、極めて潔い実証的な調査の結論に強く共感するものでございます。これぞ、研究者としての在るべき矜恃以外の何ものでございません。誠に立派な「研究者魂」の保持者でいらっしゃると存じます。

 最後に樋口さんは本論考で、今回の報告が飽くまでも現状における形成的なものであり、今後の調査による新たな資料の発掘、および研究の進展に伴って結論が改められる可能性があることを指摘されており、またそのことへの期待を語られていることも申し添えておきたいと存じます。加えて、これまで関係者の証言に大きく頼ってきた『友情人形』調査の在り方に、自ずと限界が内在していたことの問題点を指摘もされております。戦後の「平和教育」推進の文脈の中で、必ずしも歴史的な事実の冷徹な検証を経ることなく、『友情人形』の辿ったストーリーが、劇的に語られてきた可能性があることのご指摘でございます。「平和教育」の在り方を貶める意図は一切ございませんが、歴史的な事実の究明とは、実証性に基づいて言えことを明らかにする作業に他なりません。物語とは一線を画すべきものであるのです。従いまして、樋口さんのご指摘が極めて重要な示唆に富んでいることも紛れもない事実だと存じあげる次第でございます。しかも、そうした歴史を実体験された方々が物故されて消失している中で、今後の検証作業は更に困難を極めて参りましょう。小生が初めてAさんのご自宅で人形に出会った強い印象とAさんの証言から「友情人形に間違いなかろう」と、無意識のうちに「そうであってほしい」「そうに違いない」といったストーリーが組み立てられ、すべての事実が結論ありきで構築されていく可能性の危険についても深く反省もさせられました。この度の一件では、歴史を綴るべき博物館職員の一人として、自省を促される意義深い時間を持てたことを正直に白状せざるをえませんし、そうした機会を与えてくださった、お若い樋口さんに感謝の気持ちで一杯でございます。

 最後に、御礼のために差し上げた小生からのメールに対して返信をくださった樋口さんは、本論考が、飽くまでも現状で判明したことの報告である一方で、人形に思い入れのある方々のご期待にそえない部分もあることに恐縮されておられました。いやいや、そのようなことはございません。それこそが研究者の矜恃として在るべき姿だと存じます。そうでなければ何時ぞやの我が国のように「曲学阿世」横行する学問世界に堕することになりましょう。繰り返しになりますが、今回樋口さんが本論考で伝えようとされたことは、飽くまでも「現状において本人形が『友情人形』として断定できるだけの資料に恵まれなかったこと」であり、同時に「新たな資料の発見による研究の深まりへの期待」に他ならないことでございます。そして、そこには、長野市立博物館で近い将来、Aさんから御寄贈された人形の活用を視野に入れた、『友情人形』に関する展示をされることを模索されていらっしゃるともありました。大いに期待もさせて頂きますし、是非実現されることを心の底より祈念申し上げております。小生は万難を排して長野市立博物館に馳せ参ずる所存でございます。

 最後の最後に、昨年の本稿で紹介させていただきましたが、特段の反応もなく一年が過ぎ去ったものですから、改めて、現在の千葉市内小学校等で昭和2年に『友情人形』を受けとった13校の一覧を掲げさせていただきましょう。各学校の関係者の皆様には、何らかの情報、記録、口碑等が残っていないものか、是非とも調査をしていただき、本館に情報をお寄せいただければと存じます。それは、各学校の「平和教育」にも大いに資することになりましょう。

 

『友情人形』が配布された現千葉市域の13校園

 

【千葉市】
  ◎千葉県師範学校附属幼稚園(現:千葉大学教育学部附属幼稚園)
  ◎自由幼稚園(現存せず)

※千葉寺町(町名変更により後に葛城町)にあった大正15年創園の私立幼稚園だが、戦時中から戦後すぐの間に廃園した模様であり、昭和24年の戦後資料では確認できない。昭和初期の中心街を描いた松井天山の鳥観図に、旧制千葉中学校(現:県立千葉高校)に接して描かれる「自由幼稚園」を見ることができる。

  ◎二部(現:本町小学校)
  ◎三部(現:寒川小学校)
  ◎四部(現:登戸小学校)

【千葉郡の内:現千葉市域】
  ◎幕張小学校
  ◎検見川小学校
  ◎都賀小学校
  ◎白井小学校
  ◎蘇我小学校
  ◎生浜小学校
  ◎誉田小学校

【山武郡(内:現千葉市域)】
  ◎土気小学校
 

 


 

頭脳と心情とにしみじみと響く 原 武史著『歴史のダイヤグラム』の豊潤なる味わい(前編) ―ほぼ同世代として青少年期を過ごした“鉄道アラカルト” またはトロリーバスについての付け足り―

6月29日(木曜日)

 

 

明けばまた 越ゆべき 山のみねなれや
空行く月の すゑの白雲
(藤原家隆『新古今和歌集』覉旅歌)
 

 今回の巻頭歌は、新古今和歌集撰者の一人であるとともに、代表的な新古今歌人でもございます藤原家隆(1158~1237年)の詠歌となります。。その歌風は平明で、心に穏やかに染み入るかのような“たおやかさ”を特色としているように存じます。その点で藤原定家とは好対照であり、その人と目に見えぬ火花を散らした定家とは異なり、承久の乱での敗北により隠岐へと配流となった、後鳥羽院とも生涯に亘って書簡を通し、詠歌の遣り取りを欠かさなかった人でもございます。その事実からも明らかなように、その詠歌と通底する温厚な人柄を感じさせます。それは狷介な定家卿にも行き届いているようで、定家独撰『新勅撰和歌集』の最多収録歌人が家隆であることからも明らかでございましょう。鬼才定家とは違った“よさ”を実感させる忘れ難き歌人でございます。

 ところで、何故この歌を引用させていただいたのかにつきましては、若干の補足が必要かも知れません。何故ならば、何時ものように当該季節に適合した詠歌として掲げた訳ではないからでございます。そもそも小生は本歌を1週間前ほどに初めて知ることになったのです。それは、ある要件で生涯の畏友と小生が任じて止まない旧友とメールを交換した際、序でのように最近読んだ書籍の話題が出たことに由来いたします。そこで偶々標題書籍について遣り取りすることになり、その過程で旧友が本歌を教示してくれたのでした。旧友が示してくれた家隆による巻頭歌と、本著に納められているある掌編の内容との親和性が、余りにも強いのとに大いに感銘を受けたのです。大学のサークル(古美術愛好会)で出会って以来かれこれ45年弱となる旧友ですが、今日に至るまでその研ぎ澄まされた感性には、屡々瞠目させられて参りました。そして、今回も心のど真ん中を射貫かれたような作品に出合うことができたことに感謝でございます。そんなこんなで、せっかく知りえた本作を皆様にも是非とも……と、この場で引用させて頂いた次第であります。その掌編の中身につきましては、本著内の幾つかをアラカルト的に採り上げる中で、最初に紹介をさせていただきます。なるほど、そう繋がる歌なのかと思っていただけると存じます。

 因みに、その畏友とは、これまで本稿で屡々「旧友」として登場する人物でありまして、ある時には、毎年「金木犀」の薫りの漂った日を手帳に記録し続けている人として、またある時には、共に飛鳥の地を歩き回り彼岸花(曼珠沙華)を愛でた人として御出座を願っております。これまでは個人を特定できぬようにして参りましたが、旧友も公職を退かれたこともありますので、そろそろ種明かしをしても許しくれましょう。その人こそ、古代・中世宗教史をご専門とされる研究者であり、博物館学にも通暁される「府中郷土の森博物館」前館長の小野一之氏でございます。昨年3月末日で定年退職され、現在は、大東文化大学・中央大学・桜美林大学にて非常勤講師を務め、後身の育成に邁進されております。小生が心底敬愛する得難き生涯の畏友だと存じております。

 さて、ようやく本題に移行させていただこうと存じますが、本日はそもそも一貫した内容ではなく、標記書籍掌編の数々中で小生と何等かの接点があったり、印象深かった内容について、アラカルト的に脈絡なく述べることを意図しております。従いまして、最初に、話題があちこちと移ったり脱線することもあろうかと存じます。そのことを何卒ご寛恕下さいますようにお願い申し上げます。まず最初に、標題に掲げた書籍『歴史のダイヤグラム』について確認をさせていただきます。朝日新聞を定期購読されている方にはご説明を要しませんでしょうが、本書は、令和元年(2019)9月から今日に至るまで、同紙土曜版「Be」に連載されている原武史氏によるコラムを纏めて書籍化したものとなります。コラムは4年間に亘って連載されておりますが、6月初めに〈2号車〉と題される2冊目が上梓されたばかりです。ただ、書籍では単純に発表順に並べてはおらず、テーマごとに再編集して章立構成をしております。今回は、主に本書の内容から題材を拾わせていただこうと存じます。

 本コラム欄は、原氏が担当される前は、半藤一利氏による『歴史探偵おぼえ書き』が連載されておりましたが、著者体調不良のため終了することとなり、それに代わって急遽の登板となられたのでした。新書化された一冊目もすぐに拝読させていただきましたが、2冊目も早速に購入して一読に及びました。新聞連載中に毎週拝読することを楽しみにしておりますので、正確には「再読」にあたりましょうが、初めて接する内容も何点かございました。これは、休みを取得しない限り土曜日は勤務日にあたる関係で、「Be」は帰宅後に接することもございます。他人の所為にするつもりは毛頭ございませんが、かようなこともあって、時に本別紙が山の神による「生ゴミ処理」の犠牲と化すことが、片手いや両手の回数近くあったからでございます。カラスに突かれたりしても大丈夫なようにと新聞紙で塵芥袋を厚くくるむために使用されるのですが、この「Be」はそれにピッタリの枚数なのだそうです。まぁ、書籍化されるまで待つ楽しみもありますから特段文句を言う筋合もございませんが、ちょっぴり悲しくもなります。

 さて、著者の原武史氏は、「日本政治思想史」を専攻される研究者であり、現在は放送大学教授・明治学院大学名誉教授の御立場でいらっしゃいます。昭和37年(1962)東京に生まれ、青少年期を主に西東京地域でお過ごしになられました。小生は昭和34年(1959)に東東京地域の生まれ育ちでありますから、東西の違いはあれ、ほぼ同時代を生きてきたこととなります。従いまして、本コラムの内容には取り分けて親近感を感じます。本作は書籍の副題に、第一作に「鉄道に見る日本近現代史」、今回の2作目には「鉄道に刻まれた、この国のドラマ」とありますように、著者ご自身の青少年期以来の長き鉄道趣味に基づく体験、及び研究者として触れていらした研究対象としての鉄道に因んだ内容となっております。その点で、そんじょそこいらにあるような“鉄オタ”による凡百の鉄道書籍とは一線を画しております。勿論、原氏は筋金入りの「鉄道マニア」であることは間違いありませんが、鉄道を題材に語ること通して、常にその先にある政治・社会の在り方や、その裏に隠れる人々の思索へと誘ってくださる奥深さに唸らせること請け合いでございます。

 ただ、それだけに留まることなく、時に鉄道体験を通じたご自身の懐かしい思い出や感傷にも及ぶ点が心に沁みるのです。極短い原稿でありますが値は千金!一読に及べば、必ず幾つもの発見や気づきが得られます。限られた時数という制約故に内容は何時も吟味されており、無駄と隙のない琢磨された文章にも感銘をうけます。小生は、決してその著作の多くに接して参ったとは申せませんが、多くの著作の中で、かつて尊敬する校長先生からお薦め頂いた『滝山コミューン1974』2007年(講談社)[著者の通った西東京の滝山団地にあった小学校での教育の在り方を論じた著作で、東京下町ではここまでではなかったものの、何処かしら同じ匂いを感じさせる教育に接した記憶が蘇りました]、千葉大学法経済学部教授水島治郎先生が「何時か自分もこんな著作をものしてみたい」と心底のリスペクトを捧げていらした『「民都」大阪 対 「帝都」東京-思想としての関西私鉄-』1998年(講談社選書メチエ)[宝塚歌劇団の創設者で阪急鉄道の経営者であった小林一三の企業経営思想を「大阪=民都]の視点から「東京=帝都」と比較対照しながら捕らえようとされた名著でございます!!]の2冊からは、大いなる感銘をいただいております。

 それでは、最初は「しみじみ」編から(!?)。巻頭歌との関係で「壁のように見えた山並み」を採り上げさせていただきます。こちらの肝は、印象深いコラムに添えられた1枚の写真にこそございます。連載時の写真を在り在りと記憶しておりました。その写真は、著者が高校2年生であった昭和55年(1980)2月26日、山形県の今泉駅の跨線橋から撮影されたものとのことであります。今泉駅は、米坂線(山形県の米沢駅と新潟県の坂町駅とを結ぶ路線)と長井線(現:山形鉄道フラワー長井線)との乗換駅であります。その光景をご本人の文章から引用させていただければ「雪に覆われた盆地のなかに単線の線路がまっすぐに延びている。二両編成の列車がポイントで右に折れて分岐線に入り、駅構内に近づこうとしている」となります。この写真を忘れ難くしているのが、まっすぐに延びた線路の遙か先に「雪の濃淡によって幾重にも見える飯豊山地の稜線が、まるで下界の盆地を睥睨するかのように、くっきりと浮かんでいる」光景に他なりません。写真の出来としても傑作ではありますまいか。

 その時に同行していた友人が「どうやってあの山並みを越えてゆくんだろう」と語ったことに、著者は「確かに飯豊山地を越えなければ日本海側にでることはできない。私には山並みが、これからの人生に立ちはだかる壁のように見えたものだった」と思ったことを回想されるのです。更に、作家の宮脇俊三が昭和20年(1945)8月15日に、ここ今泉駅で玉音放送を聞いたこと、その後に宮脇が乗車した飯豊連峰を越える蒸気機関車が途中で力尽き、釜を焚きなおしたことを宮脇作品から紹介しております。そして、自分たちが乗った列車は難なく勾配を上っていつの間にか峠を越えたことから、「壁だと思い込んだあの山並みは、蜃気楼だったのかと思った」と本編を締めくくっております。何となく読み飛ばしてしまい勝ちですがが、敗戦直後の我が国の措かれた苦難と、それを乗り越えて現代社会が築かれていくこと。それに加えて、ご自身の来し方・行く末をもそこに投影させる心憎いまでの構成ではないかと存じます。何より、そのことを印象的に彩る雪に覆われた飯豊連峰の光景、そして畏友小野君に教えていただいた、藤原家隆の巻頭歌とを忘れることは終生ありますまい。皆様も、宜しければ再度家隆詠歌を口ずさんでみては如何でしょうか。しみじみと心に水の輪が広がるような名歌に感じませんでしょうか。  
(中編に続く)

    

 

頭脳と心情とにしみじみと響く 原 武史著『歴史のダイヤグラム』の豊潤なる味わい(中編) ―ほぼ同世代として青少年期を過ごした“鉄道アラカルト” またはトロリーバスについての付け足り―

6月30日(金曜日)

 

 中編の最初は、ちょっぴり軽い内容からの幕開けといたしましょう。ただ、こちらが書籍として上梓されるのは早くて2年後となりましょう。即ち、先の土曜日に「Be」掲載の最新作「小淵沢 駅そばとの再会」(令和5年6月24日)からとなります。そこでは、テレビドキュメンタリー番組での取材で、大学3年生であった時分に小淵沢駅で食した“駅そば”「観音生そば」との再会をリクエストし、それを果たした喜びを述べておられます。小淵沢駅では今でも「観音生そば」が営業されており、かつて食したのと同じ“天麩羅蕎麦”を迷わずに注文された原氏は、変わることのないその味わいに、過たず記憶の中にある「かつての美味であったそれを呼び起こした」と書かれております。「思わず「おお」と声を上げた」とあることからもその感銘が伝わりましょう。さそかし、感無量であったことでございましょう。ただ、今では店舗は駅舎の2階に移っており、40年程以前の状況「小淵沢駅の標高は886.7㍍。南アルプスをバックに、高原の涼風が吹くなかで食べるそばの味は格別だった。車内で食べる駅弁とは異なり、ホームで食べる駅そばならではの醍醐味」とは随分異なっていたとされております。そして、返す刀で「当時の中央本線には、『観音生そば』のほかにも、立川駅の『奥多摩そば』、八王子駅の『陣馬そば』、塩山の『大菩薩そば』、甲府駅の『みたけそば』など、地元にちなんだ名前の駅そばが主要駅ごとにあった。老舗の業者が営業するそばの味は、それぞれの駅でしか味わえないものだった」「だが今やほとんどがなくなり、JR東日本の系列下の駅そば業者に代わってしまった。大資本による味の画一化が進んだのだ」と一刀両断にされております。

 原氏のこのご指摘には、一から十まで誠にしかりと、心の底からの賛同の思いを捧げたく存じます。何よりも図らずも、今や無き、かつて千葉駅にあった駅そばの名店「万葉軒」の“天麩羅蕎麦”の味わいを思い起こしたからでございます。濃い醤油味と上品とは言い難いもののガツンと来る出汁の旨みと、どう揚げたら斯くも薄っぺらになるのかと訝しく思える「掻揚天婦羅」、麺は本来の蕎麦店であればご法度の“ゆで麺”ではございますが、それらが混然一体となった味わいは、毎日のように食しても飽きが来ない、正に「関東(房州)ならでは」の味覚でございました。「昔の名前」で出ていたものの、経営者が変わった頃から何処にでもあるような味に転じていき、次第に脚が遠のいていくこととなりました。案の定、その内に駅そばからは撤退されてしまい、今ではこじんまりとした千葉駅構内の店舗で、駅弁のみ販売されるだけとなりました。また、東千葉駅前にあった本社ビルも何時の間にやら解体されておりました。昨今の千葉駅周辺の駅蕎麦店は値段が高いし、小生には出汁が全く物足りなくて、最早余程の事でもない限り入店することはありません。斯様なことを申し上げることは、正直申し上げて失礼であることは承知でございますが、敢えて申し上げさせていただきましょう。昨今の千葉駅周辺の駅そばは、かつての「万葉軒」蕎麦の足元にも及ばないと。まぁ、味の好みは十人十色でございますから、小生の意見が正しいとは限りません。飽くまでも「個人的見解」でありますが、原氏の感慨には心からの共感を覚えます。

 ここで、大きなお世話かと存じますが、何処も彼処も個性のない店ばかりが跋扈する中、(残念ながら千葉ではございませんが)一件だけ小生が今でも偏愛して止まない「駅そば」がございますので、是非とも紹介させてください。それが、京成電鉄「高砂駅」下りホーム階段下の狭隘な店舗で営業される「都そば」さんでございます。こちらの出汁は小生の記憶にある万葉軒の味わいに通じるモノを感じさせます。濃い醤油味とガツンと来る出汁の香り(駅の2階コンコースにまで出汁の芳香が漂い、自ずと下りホームまで誘われる寸法となります)、そして天麩羅が次第に解れて出汁と渾然一体となる感じも共通するように思います(ゆで麺であるのも同様)。もっとも、こちらは地元企業でもなんでもなく、意外なことに大阪を本店とする食品会社が展開する「駅蕎麦チェーン店」とのことです。大阪では最大規模の店舗数を誇っているそうですが、関東での展開は今や3軒のみ。その一つが高砂駅内の店舗に他なりません。本企業では、セントラルキッチン方式は採らず(工場で製造した同じ味を各店舗へ届ける)、出汁は毎日各店舗で引くスタイルを堅持されております。この世知辛いご時世に誠に天晴れでございます。だからこそ、関西の企業でありながら、関東人に適合させた味の展開が可能となりますし、何よりも出汁の味わいと薫りに劣化がなく、生き生きとした活力が漲っております。小生が京成電鉄で通勤して居れば頻繁に立ち寄ること間違いなしですが、現在はJRのみの利用でありますので、時たまにしか立ち寄れないのが残念至極でございます。もし、京成を用いて通勤をされていらっしゃる方でございましたら、是非ともお寄りになって頂き、この店舗を皆様の協力の下で維持していただければと願い上げる次第でございます。本店に撤退されるのは余りに悲しすぎますから。「駅そば」フリークであれば、きっと御満足いただけるものと存じます。駅そばの話題はこのあたりで……、次のアラカルトへ移らせていただきます。

 中編の二題目は、標題書籍に戻って「亡き父と乗った下河原線」についてとさせていただきましょう。この路線は明治43年(1910)に中央線の国分寺駅から分岐し南下し、多摩川の河川敷(下河原)にまで敷設された「東京砂利鉄道」を起源とします。その後、大正9年(1920)鉄道省が鉄道会社を買収したことで国有となります。当時は帝都東京を近代都市とすべく盛んに土木工事が行われ、砂利が大量に必要とされたのです。大きな河川敷では彼方此方に砂利採取場ができ、鉄道でそれらが運ばれることになりました。本線の他にも、かつては現JR相模線の寒川駅から分岐し、相模川脇の西寒川駅までの一区間あった支線も(現在廃線)、本川越駅の手前で分岐し入間川脇まで伸びていた西武鉄道の安比奈線も(50年近く休止路線でありましたが昨今正式に廃線)、恐らく同じ目的で設営された路線でございましょう。

 下河原線に戻りますが、本線は昭和8年(1933)に「東京競馬場」が開設されたことから、そのアクセス線として南下する下河原線の中途から東に分岐する「東京競馬場前駅」を新設。国分寺駅→北府中駅→東京競馬場前駅」の中央線支線としての旅客営業が開始されました。ただ、当初は多摩川河川敷までの貨物線としての営業も併せて続けられておりました。しかし、武蔵野線の建設が進められるのに当たって、その経路がほぼ同線と重なることから昭和47年(1972)3月31日をもって旅客営業は廃止とされました。原氏はその最終日に、今は亡き御尊父とともに一度だけ本線に乗車されたことを書かれているのです。そして、「最後の日に別れを惜しむ鉄道ファンや競馬ファンらしき客で、車内はとても混んでいた」橙色の101系電車が、北府中駅に着いた記憶から、その時には知る由もなかった父親と本線との浅からぬ縁について筆を進めております。それは、後になって、御尊父が大学の最寄駅であった北府中駅(当時は仮乗降場の富士見)にまで自宅から通っていたことを知ったことでございます。そして、昨年鬼籍に入られた御尊父に連れられて多くの鉄道に乗ったことを回想されております。そして、本稿を「それらの思い出は、忘れようとしても忘れることはできない。私は父のようなウイルス学者にはならなかったけれど、『鉄学者』にはなったのである」と、ウィットに富んだ一文で締め括られておられます。因みに、原氏の父の稔さんは、国立予防衛生研究所(現:国立感染症研究所)職員でいらしたとのことです。ところで、下河原線には、小学校時代に根っからの鉄道ファンであった小生も、忘れがたき想い出があるのです。

 下河原線の旅客営業廃止のニュースは、廃止日の翌日から中学生になる、当時小学校6年生であった小生にとっても、実に晴天の霹靂の出来事でありました。当時の小生は常磐線でも当時現役であった、葡萄色をした旧型国電が大好きでした(73系)。取り分けて下河原線で平日昼間に単行運行(両側に運転席があり一両で運行可能な車両)されていた「クモハ40型」旧型国電に限りなき愛着を覚えておりましたから、その路線の消滅に限りなく大きな衝撃を受けたのです。偏愛の末に、当時は浅草と南千住の途中で営業され、今は閉店してしまった鉄道模型店「ロコモデル」で下河原線仕様のクモハ40(前後が曲面造形される半流線形)HOゲージ模型を特注制作してもらった程でございしたから、その衝撃の大きさのほどがご想像いただけましょう。土日祝祭日・競馬開催日(廃止日も同様であったことは本コラムで知りました)には、5両編成の101系電車運行でありましたから、小学生の小生は廃線近くの押し詰まった時期よりも、早い段階で静かに「クモハ40」とお別れしようと下河原線を訪れたのでした。ただ、その正確な日時は記憶から抜けております。当日「東京競馬場前駅」で最短料金切符と入場券の2枚の硬券切符を購入しましたから、手元にあれば確認が取れますが、先にも登場いただいた小野一之氏が「府中郷土の森博物館」に勤務されていたこともあって、「府中市」とも深い縁を有する下河原線関連資料となるかと思い、ずっと後になってからですが、「クモハ40型電車模型」「両切符」共々当館に寄贈してしまいました。小野君によればこれまでに何度か展示もされているそうですので寄贈してよかったと思っております。また、メールの遣り取りで、「東京都公文書館」にて企画展示『武蔵野線の前身 東京砂利鉄道-下河原線-』(会期:令和5年4/20~6/20)が開催されていたことをご教示いただきました。小野くんは脚を運ばれたそうですが、小生が聞き及んだ時には既に会期を数日過ぎておりました。拝見したかったものでございます。

 アラカルト「下河原線」の最後に、当時東京都内では下河原線以外にもクモハ40型電車が単行運行されていた区間があったことも触れておきたいと存じます。それが、下河原線旅客営業廃止の前年となる昭和46年(1971)に廃線となった、五日市線の終点「武蔵五日市駅」から「武蔵岩井駅」まで続く、所謂「五日市支線」でございました。本支線も「武蔵五日市駅→大久野駅→武蔵岩井駅」間を結ぶ極々短区間の路線でありました。そもそも拝島方面からの直通運転はなく、「武蔵五日市駅」からは本線からスイッチバックする形で武蔵岩井にまで向かう路線となっておりました。小生には、本支線が廃止される2年ほど前に、母親と武蔵小金井に居住していた親戚の叔母一家と、青梅線の「御岳駅」から御岳神社に参詣してから奥多摩の山々をハイキングをした忘れ難き楽しい想い出がございます。途中養澤鍾乳洞を見学したりして、へとへとになって武蔵五日市駅に到着した頃には、日も山の稜線に隠れて暮色が濃くなっておりました。当時は地べたにあった如何にも田舎然とした「武蔵五日市駅」ホームに、ポツンと一両だけの単行クモハ40型電車が停まっているのを発見したときには、ハイキングの疲れも吹き飛ぶほどに感動したものです。殆ど乗客のいない儘に寂しげに出発していき、やがて山間に消えていく美しい光景をじっと眺めていたことを一生忘れることはないでしょう。このクモハ40型は、下河原線の半流型とは異なる、平面の貌であったこともはっきり憶えております。他にも、鶴見線大川支線を単行運転する17m旧型国電「クモハ12」型国電に乗りに出かけたこともございます。ざっと、半世紀以上も前の出来事ですが、中学生の中途には廃してしまった鉄道趣味の想い出が次から次へと湧き出してくるのは不思議な程でございます。
(後編に続く)

 

 

頭脳と心情とにしみじみと響く 原 武史著『歴史のダイヤグラム』の豊潤なる味わい(後編) ―ほぼ同世代として青少年期を過ごした“鉄道アラカルト” またはトロリーバスについての付け足り―

7月1日(土曜日)

 

 『歴史のダイヤグラム』アラカルトの最終便は、「路面電車から地下鉄へ」となります。ここで、原氏は「1962年(昭和37)生まれの私は、都内で育ちながら路面に線路が敷かれた都電に乗ったことがほとんどない」と筆を起こされます。確かに、原氏の生活圏の多くは西東京にございましたし、そもそも昭和47年(1972)までに、路線の殆どが専用軌道であった都電荒川線を除いて全廃された都電と原氏との縁が薄かったのかもしれません。これまで原氏と小生とは同世代としてまいりましたが、少年期の3~4年の年齢差とは意外に大きな体験の差を齎すのかもしれません。何ともうしても、全盛期の都電路線系統は全41系統にものぼり、国内主要都市の路面電車網としては圧倒的に稠密さを誇っておりましたから、少なくとも山手線エリアを含む東側を生活圏としていれば、何処にいても目にされることがあったと存じます。小生にとっても、東京二十三区内を縦横無尽に走る都電ほど親しみをもてる鉄道はございませんでした。とりわけ下町の交差点をあちらこちらにと振り分けて行き来する、様々な相貌を有する路面電車は終日眺めていても飽きることがございませんでした。もっとも、23区内で大田区・世田谷区・練馬区、そして小生の居住する葛飾区の4区だけは都電路線は一切ありませんでした。葛飾区の場合、「本所吾妻橋」停留所から分岐し国道6号線を行く26系統が「東向島三丁目」まで至っておりました[現在の東武電鉄スカイツリー線の「東向島駅(旧:玉ノ井駅)近くの交差点]。ゆくゆくはそのまま延伸され、荒川(当時「荒川放水路」)を四つ木橋で越えて葛飾区に到達する予定がありましたが、残念ながらそれ以前に全廃の方針が決まってしまい、実現することがなかったのです。それでも、家業が築地魚市場の仲卸商でしたから、都電との接点は幼少期から思いのほかに深いものだったのです。

 この「路面電車から地下鉄へ」で、原氏は極めて重い指摘をされており、その内容は小生が予て考えていたことピタリと符合するものでございました。是非ともここでご紹介をさせていただきたかったこともあり、最後に本コラムを採り上げさせていただいたのです。それが以下の文章でございます。

 

 私より上の世代であれば、都電はなじみ深い交通手段だったに違いない。地上を走るから、どこに何があるかが手にとるようにわかった。戦時中には、馬場先門の電停にさしかかると車内で宮城遥拝をさせられた。二重橋や皇居の森は、都電の窓からもよく見えたのだ。東京が「帝都」であることは、戦後もなお自明と言ってよかった。
 反対に私より下の世代であれば、都電の代わりに地下鉄での移動が日常化する。景色が見えなくなるから、どこを走っているのかわからなくなる。二重橋前という駅を通りながら、「二重橋」が何を指すのか知らなくてもおかしくはないわけだ。 
 地下鉄が交通手段の主役になったことで、都心の空間認識は大きく変わった。いまや東京にいるからと言って、桜田門や国会議事堂を見たことがあるとは限らない。それらはすべて駅名という記号になり、空間としての意味を失ってしまったのだ。
 

 

 本コラムで原さんは指摘されておられませんが、路面電車に置き換わったのは地下鉄だけではなく、もう一つ「バス路線」の存在がございます。一見したところ、路線バスであれば地上を走行するのであるから、十分に路面電車の代替を果し得たと考え勝ちかもしれません。だから、原氏はここで「路線バス」を話題としなかったのだと……。しかし、恐らくそうではないと存じます。「地上」と「地下」という対比が論旨上理解しやすいことからそのような構図で論じられたのだと存じます。何故ならば、バス路線は路面電車とは同じ地上を走行しても、その機能の代替を果たしているかは疑問符が付くと考えるからでございます。その違いは、地上に線路が存在するか否かに起因するものだと存じます。

 個人的には、バス路線系統が如何なる経路を経由して目的地にまで至るのかイメージし辛くて常々往生させられるのです。線路があればそれを頭の中で追って行きさえすれば周囲の土地や建物との関係性(立体構成)がつかみやすいのです。しかし、バスの場合、地元の良く乗車する路線であればまだしも、慣れない土地であるともうお手上げです。バスはある程度の道路幅がありさえすれば入り込むことが可能です。その結果、複雑・稠密に路線経路網が敷かれているため横行中に右折左折を繰り返します。その結果、どの方向に進んでいるのか一向にわからなくなることもございます。つまり一度位置関係を失うと修正し辛いのです。都市空間の構成を認識しやすいのは、原氏の御指摘されるように地下鉄より路面電車が圧勝です。そしてバスよりも路面電車が圧倒的に優れていると思います。勿論、モノレールのような高架を走行する交通機関と比較しても、バリアフリー上のメリットも大きなものです。少なくとも、小生は都市部では能う限りバスの利用は控えます。小一時間くらいなら歩いて移動した方が街の姿を味わえます。地方都市に出かけた折には歩くことが必須です。しかし、都電のことも、路面電車のことも述べるべきことはまだまだ山のようにございますから、それはまた別の機会といたしましょう。

 最後の最後に、原氏の著作の趣旨とは通底するのですが、未だ原氏が採り上げていらっしゃらない話題をひとつ。それが、路面電車の親戚とも称すべき「トロリーバス」のこととなります。その中でも東京都にあったそれについて述べて、久方ぶりの前・中・後編の本稿を閉じたいと存じます。そう書くと、忽ちトロリーバスが「路面電車の親戚って……どういうこと!?そもそもバスなんだから自動車なんじゃないのか!?」との声が聞こえてきそうです。いやいや、道路上に張られた架線から集電して動力とするバスである「トロリーバス」は、法規上「無軌条(無軌道)電車」と位置付けられておりますから、歴とした鉄道に位置づく公共交通機関なのです。その証拠に「道路交通法」上自動車の公道走行に必要不可欠な「ナンバープレート」を取得する必要がございません。電車にナンバープレートが不要なのと同じ扱いとなるからです。

 東京都では、戦後の燃料不足によりバス事業の拡張が難しかったこと、また、軌道事業(線路を設営して電車を運行する)よりも架線を設営するだけで済む「トロリーバス」は、建設費用が路面電車の三分の一で済むなど、圧倒的低廉コストの新時代交通機関としての期待を一身に集め、昭和25年(1950)に登場したのでした(その前史はあるそうですが)。そして、昭和33年(1958)に4系統の路線が完成しますが、モータリゼーションの爆発的な進展に伴い、都電ともども地下鉄・バスへの置き換えが進むこととなります。そして開業から僅か16年後の昭和43年(1968)に全廃されることになりました。トロリーバスなど見たことも聞いたこともない方も多かろうと存じますし、そもそも都内の何処を走っていたのかとの疑問もございましょう。そこで、各系統の路線概略を以下にお示しさせていただきましょう。その4系統とは、昭和27年(1952)に真っ先に廃止された都電26系統(どの路線との接続がなかった系統)を概ね引き継ぎ、更に東京東部を東西に横断し亀戸駅を経由して上野公園に至る101系統、加えて基本的に明治通りをなぞるように亀戸駅から池袋駅を経由して品川駅までを繋ぐ102・103系統、その103系統の三ノ輪三丁目から分岐して日本堤を経て浅草に至る104系統の、以上4系統ということになります。全廃されたのは小生が小学校3年生の時でございましたが、どの系統かは全く記憶しておりませんが、父親に連れられて何度か乗車した記憶がございます。集電ポールが架線から外れることもあるため、その作業をなしうる男性車掌が常に同乗していたこと、屋根から集電ポールの振動音が伝わると父親が話してくれたことを覚えているくらいですが、電気で走行するためエンジン音はせず走行音は静かであったことは印象的でした。いまから思えばエコを先取りした交通機関であったものと思いますが、成熟を迎えぬままに自動車に置き換えられてしまったことが(都電)ともども残念であります。ただ、子供心に緑色をした車体が矢鱈と野暮ったく見えたものです。

 トロリーバスは、かつては東京都以外にも、川崎市・横浜市・名古屋市・京都市・大阪市等の大都市に設営されておりましたが、概ね1970年代初頭までには撤去され、都市交通としての命脈は尽きてしまいました。白土貞夫『ちばの鉄道一世紀』1996年(崙書房)によると、千葉市にもかつてトロリーバス計画があったことが記されております。勿論、計画倒れに終わり、実現はされなかったのですが、それでも何処に計画されたのか興味が湧きます。以下に、その部分を引用させていただきますが、「トロリーバス路線」建設の頓挫が、現在のモノレール建設の遠因になっているとの指摘は、実に興味深いものがございます。
 

 空襲で市街地が丸焼けになった千葉では、昭和24年(1949)11月8日付『千葉新聞』が「県都にトロリーバス」の見出しを掲げ「千葉市は都市計画によって広げられた市内主要道路に約40人乗りのトロリーバスを運行することを計画中、路線延長25キロ程度で20台を運転する」旨報じている。

 (中略)

 しかしこのプランは具現化せず、千葉市内の交通はその後バスに依存することが長く続き、人口増加と自動車の激増によって近年はマヒ状態に陥ってしまう。


[白土貞夫『ちばの鉄道一世紀』1996年(崙書房)]

 

 現在、国内では「立山黒部アルペンルート」として長野県大町市と富山県立山市とを結ぶ「関電トンネルトロリーバス」が唯一のトロリーバス路線となっております。しかし、こちらも近い将来には燃料電池バスへの置き換えが決まっていると耳にしております。ハンドル操作をするゴムタイヤを履いた、外見は“バス”法的には“電車”であるトロリーバスの国内絶滅は間近でございます。黒四ダムの絶景を未だ見たことのない方は、お早めにお出かけくださいませ。ただ、ヨーロッパでは、路面電車と同様、都市の主要交通手段として命脈を保っております。

「トロリーバス」につきまして、原氏には今後の『歴史のダイヤグラム』で是非ともお採り上げいただけることを祈念しております。トロリーバスも立派な電車の仲間ですから、題材としてムジュンすることはございますまい。もっとも、本作では文学作品に描かれたり、政治家の手記等に記された鉄路の存在が引用されることが多いのですが、トロリーバスは何れかの作品や記録に描かれておりましょうか。小生は寡聞にして知ることがございません。もし、漫画でも許されるのであれば「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に『トロバス物語の巻』[ジャンプ・コミックス114巻「両さん京都訪問記の巻」1999年(集英社)]がございます。「こち亀」ならではのハチャメチャさはございますが、両津勘吉の幼少期を題材にした、秋元治氏の得意とする所謂「人情物」でございます。なかなか良い話でございます。原さん、こちらの引用では如何でございましょうか??

 原武史先生には、千葉市美浜区にございます放送大学教授でいらっしゃる内に、本館で開催する鉄道関係の展示会でご講演をいただければと念じておりますが、果たして先生におかれましてはお引き受けくださいましょうか。今回採り上げさせていただきました『歴史のダイヤグラム<2号車>』にも納められております「夢の房総半島一周列車」などのご提案も実に素敵だと存じます。小生は、それに「いすみ鉄道」と「小湊鉄道」も協賛していただき、両私鉄とJRの相互の入りいれを含み、かつての房総半島への拠点駅「両国」発、夢の「JR・私鉄」共同運行による「ディーゼル急行」の運行などの提案も結構宜しいのではないかと存じますが、原先生の評価は如何でございましょうか。これからも、土曜日の連載を大いに楽しませていただく所存でございます。
 

令和5年度企画展『商人(あきんど)たちの選択―千葉を生きた商家の近世・近現代―』が始まります!!(前編) ―会期:7月11日(火)~9月3日(日)― ―会場:本館2階展示室― ―入場領:無料―

7月7日(金曜日)

 

 昨年度の企画展では、『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』を開催いたしました。千葉と深い関わりを有し、市内の小中学校でもそのように教えられている青木昆陽でありますが、その実態については必ずしも明らかなものではありませんでした。そこで、展示コンセプトを、青木昆陽と千葉の関係を能う限り白日の下に晒すこと、及びその後の千葉にとって薩摩芋が如何なる意味をもつことになったのかを探ることと定め、展示ストリーを構成して皆様にお示しすることに致しました。その結果、青木昆陽と千葉との関係性が意外な程に淡泊であったこと、それにも関わらず薩摩芋が千葉の農業生産を支え、江戸を主要市場と定める商品作物として成長を遂げたこと等を明らかにすることができたと存じます。その過程で、青木昆陽の“神格化”という動向が産地間競争激化の過程を背景にして生成したこともご提示できものと存じます。

 更に、薩摩芋が、「甘藷澱粉」製造とその加工品製造という「食品工業」を盛行させ、戦後に重工業化に大きく舵を切ることとなる以前の本市工業を、明治から昭和戦前期に至るまで支えたこと、更には「専売アルコール製造」原料として戦時体制を支えたことにも関連づけることができました。その意味で、薩摩芋を採り上げた本展示会とは、千葉市の農業史であり、流通経済史であり、工業史、はたまた軍事史にも繋がる広範な裾野を有することが明らかになったものと自負するところでございます。加えて、地域における偉人として奉られてきた青木昆陽という人物の実像と、千葉市域の農民たちの“農業販売戦略”の“したたかさ”まで肉薄できたのではないか、その点ではそれぞれの精神史にも迫れたのではなかろうかとも感じているところでもございます。青木昆陽と彼のもたらした薩摩芋が「甘藷先生の置き土産」として、千葉市・千葉県内に計り知れないほどのレガシーを残したことの全貌に近づけたことは、大きな成果であったものと存じております。幸い、ご観覧をいただいた皆様からも大変にご好評をいただきました。その結果、予算の関係で開催期間中には刊行の叶わなかった展示図録も、ご観覧を賜りました方々からの強い要望と刊行にむけての応援を頂きましたことを追い風に、会期中ではなく年度末になってからではございましたが、「企画展関連資料集」の形で刊行することも叶いました。現在も絶賛販売中でございます(1冊700円)。改めまして、皆様には心よりの感謝を捧げたく存じます。

 さて、本年度企画展の御紹介の前に、昨年度企画展について長々と触れさせて頂いたことには大きな意味がございます。本年度採り上げさせていただく内容もまた、これまで市内・県内でも焦点が当てられることの少なかった、チャレンジングな展示であるからでございます。それが、千葉市域における「商業史」であり、それに従事する「商家史」ということになります。また、その扱う時代も、近世(江戸時代)から近現代(大雑把に明治以降)に及びます。これまで、県内では「流通史」の一環として商業活動が採り上げられることはございましたが、直接に商業活動に従事する個別の「商家」や、その「経営」の在り方について真正面から光を照射した展示は、恐らく開催されたことないのではないでしょうか。少なくとも、小生は寡聞にして知ることがございません。

 農家にも農業経営に栄枯盛衰があることは勿論でございましょうが、それでも土地を媒介にして作物を生産する業態そのものに大きな変化は生じることはございますまい。しかし、商業活動の在り方は、その時々の国内及び国際的な政治経済に大きく左右されますし、何よりも社会の在り方に決定的な影響を受けます。商家の主、つまり経営者はその潮目を的確に読み解き、それに機敏に対応する必要がございます。つまり、本企画展の標題に掲げた「商人(あきんど)たちの選択」の連続こそが、商業活動の本質でもあると存じます。ただ、商人も決して神仏ではなく「人間」でございますから、熟考の結果下した判断が何時でも的確・適切であるとは限らないことでございます。つまり、「読み違い」に起因する浮き沈みがあることが商家にとっては日常茶飯事であります。その結果、場合によっては店を閉じる「判断」をせざるを得なくなることも極々普通のことです。皆様の周囲の見回しても、江戸時代から続く「老舗」がどれほどございましょう。百万都市江戸を引き継ぐ現在の東京ですら、江戸時代から続く老舗などそんなに多くはございません。千葉市も、江戸時代にはその中心は「千葉町」として商業活動の盛んな地でございましたが、創業を江戸時代にまで遡ることのできる商家というのは何軒ありましょうか。たかが150年程前でしかないにも関わらずであります。

 ここからは余談となりますが、我が家の家業は築地魚市場「仲買商」でございましたから、紛れもない「商家」でございました。小生の曾祖父が日本橋市場の仲買株を買って、千住市場から移ったのが大正半ばのことであります(関東大震災復興事業により昭和初頭に魚市場自体が築地に移転)。しかし、その後に祖父・父と続いた商売も、小生が嗣ぐ意思が無かったことを理由に廃業しました(商家は4代目が鬼門であると言いますが正にそれであります)。まぁ、小生が成人した頃には、実家の商売も大した状況には無かったことは明らかではありましたが、それでも小生が家業を継承してさえいれば、豊洲に移転して細々と商売をしていた可能性はゼロではありません。つまり、商家とは、経営難という条件だけに留まることなく、こうした家の都合によってもその在り方が左右される不安定な事業でもあるのです。これは、昭和の時代に亡父から聞いた話ですから真偽の程は定かではございませんが、当時の築地魚河岸で仲買商は到底千軒に納まるような数ではありませんでしたが、江戸日本橋の魚市場以来創業家に経営が引き継がれている店は10軒にも満たないのではないかとのことでした。まぁ、「看板」だけが引き継がれている(つまり屋号だけが引き継がれている)ケースを勘定に入れればもう少し増える可能性がございましょうが、既に創業一族は経営に全く関与されていないケースが殆どだということです。世界に冠たる「築地魚市場」ですらその有様です。逆に申せば、百年にも満たない経営者が大多数と言うことでございます。もっとも、京都などの戦災にも遭わなかった伝統ある古都であれば話は別でしょうが、それくらいに栄枯盛衰の激しい業態であるのです。恐らく我らが千葉市の状況も推して知るべしでございましょう。商売を辞めてしまえば、各家にとって過去の関連資料など価値を失いましょうから、早々に廃棄される運命にございます。従いまして、商家の経営関係資料というのは思いの他に残存する確率が低いのです。

 しかし、千葉にも極めて稀なる例外の商家がございます。何れの商家もその淵源を近世に遡り、千葉市域を商業活動の場として選択し、現代に至るまで華々しく商業活動を繰り広げて参りました。それが、和田家の「岩田屋(和田商店)」、能勢家の「多田屋」、そして杉本家の「奈良屋」の3家でございます。「岩田屋」は正真正銘、近世の創業からから今日に至るまで一貫して千葉町・千葉市を舞台に商業活動を展開されてきた商家であります。明治以降は県庁等の役所を相手に、紙類を始めとする文具を提供する商売をされております。次の「多田屋」は、同じ千葉県内でも近世に上総国東金町で呱々の声を上げた県内最古の書肆であります。そして明治以降に県庁所在地となった千葉町にも進出されます。経営を担われた能勢家一族の方々は驚くほどに多士済々多彩であり、一族で様々な業態を担われながら、中には政治の世界にも進出し地域の発展に大きな功績を残された方もいらっしゃいます。多くの市民の方々には、千葉県内(千葉市内)で最も充実した書籍在庫によって、抜群の信頼を誇った書店として認知されておりましょう。その点、就職して千葉市住民となった小生にとって「セントラルプラザ」(「奈良屋」百貨店後身の建物)内にあった「多田屋」書店以上にお世話になった商家はございません。今でも脚を向けて眠れないほどに感謝しております。同時に、同店の利益にも相当に貢献したと思っております。もっとも、現在その多くの事業は他者の手に渡っており、創業一族の手によって唯一営まれているのは、本館至近にございます「いのはな多田屋」書店一軒のみとなりました。

 そして、最後の「奈良屋」でございます。小生が就職で千葉に住居を定めた頃には、既に「ニューナラヤ」店名となっており店舗も千葉駅の近くに移っておりました。当時の千葉中心街には多くの百貨店(デパート)が鎬を削っておりましたが、その中で随一の格式を誇る高級百貨店が「奈良屋」であることは衆目の一致するところであったと存じます。小生と千葉市との縁が出来たころには、本来「奈良屋」であった旧店舗はファッションプラザ「セントラルプラザ」と転じており(その中に出店していた「多田屋」書店に大層お世話なったことは上述したとおりです)、小生はその全盛期を知ることができなかったのは頗る残念でございます。そもそも、「奈良屋」営業展開は、近世からの歴史を振り返っても基本的に千葉県内でありましたから、多くの地方都市に固有の地元百貨店が存在するように、多くの千葉市民の方々にも“地元企業”であると認知されていたようです。小生より年配の本館職員の認識ですら斯様なものでしたから、恐らく多くの千葉市民にとっても状況は変わらないことでございましょう。もっとも、“地元企業”を如何に定義するかによっても解答は異なってまいりましょうが、少なくとも「奈良屋」としての250年にも及ぶ商家としての歩みの殆どはその基盤を京都に置いていたことは間違いありません。その商標が丸に京の文字であったことを思い出される方が多かろうと存じますが、あの商標は京商人(きょうあきんど)の証に他ならないのであります。江戸時代に呉服屋として京都洛中で創業したのが「奈良屋」であり、最後の社長杉本郁太郎氏は、その8代目当主にあたります。

 杉本家は、江戸時代に現千葉県香取市の商都「佐原」に常設店舗を構え、その後に城下町「佐倉」にも出店いたします。更に、明治になって千葉が県都となって発展を遂げたことを商機に、千葉町への進出を選択されたのです。つまり、江戸時代以来、京都の店舗は「仕入本店」として機能させ、高級な京呉服(絹織物)や太物(綿織物)等を仕入れて東国に搬送。販売は下総国で展開する……という、特色ある形態を有していた商家であったのです。こうした商家を「他国店持京商人(たこくだなもちきょうあきんど)」と称します。もっとも、大江戸で呉服店として展開した、かの「越後屋」呉服店も同様の経営形態をとっており、「江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)」と称されます。因みに、「越後屋」初代の三井高利も「奈良屋」初代の杉本新右衛門も、その出自は共に伊勢国(現:三重県)であることも興味深いものがございます。なお「奈良屋」の後身である「ニューナラヤ」は、平成の半ばに経営権を三越に譲渡しており、その段階で創業家である杉本家は経営から離れております。その後、同店舗は「千葉三越」を経て、最終的には「三越千葉店」と移り、平成末に惜しまれつつ閉店されたことは記憶に新しいところでございましょう。

 ところで「仕入本店」として機能した京都市内の屋敷でございますが、現在も御子孫の方がお住まいになられ、その住居は「杉本家住宅」として国重要文化財に、その庭園は国名勝にそれぞれ指定されております。杉本郁太郎氏は俳人としても名高い多芸多才の文化人としても知られる一方、千葉市内の様々な公職も歴任されるなど、社会貢献の労を厭わない有識者でもございました。そうした血統は御子孫にも引き継がれたようです。郁太郎氏のご長男で9代目に当たる秀太郎氏は、「京都学派」の系譜に連なる“最後の文人”と称されもする文化人でございます。ボードレール『悪の華』、メーテルランク『ペレアスとメリザンド』の翻訳者でも知られるフランス文学者であり、『洛中生息』等々の数多の名随筆で知られる文学者でもございました。小生も学生時代以来、秀太郎氏の作品にどれほどの恩恵を頂いたのか図り知れないほどです。小生の実家とは正に「月と鼈」ではございますが、奈良屋でも秀太郎氏が後継者とならなかったことは、郁太郎氏が経営権を手放す一つの要因となったことは疑いないことでございます。『奈良屋杉本家二百七十年の歩み 近世から近代への京商家-商い・生活・信仰』2013年(公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会)(杉本家にて1冊¥2.000で販売)の「序」は子息秀太郎氏が認めております。そこでは、秀太郎氏が家業を継がないことを潔く受け入れた父の姿を描いており、その闊達な精神性に感銘を与えられます。残念ながら敬愛を捧げる秀太郎氏は平成27年(2015)に鬼籍に入られましたが、杉本家は御令嬢(郁太郎氏の孫)である節子さん(京料理研究家)と歌子さんが守られております。お二方にもたくさんの著作がございます。やはり文化人としての血は争えないということかと存じます。

 本展のような展示会が開催できました背景には、これまで縷々述べて参りましたように、江戸時代から現在まで、または極々最近まで企業活動が継続した結果、各家での商業活動の在り方を比較的詳細に知ることのできる資料群が伝来していたことがございます。勿論、それだけで展示会ができるとは限りません。それを可能としたのが、各家に伝来した資料を後裔の皆様が御厚意をもって快く御貸与くださったこと、また各資料館に寄贈されて残存している貴重な資料群をご提供くださったことが大きな理由でございます。改めまして、関係各位に衷心よりの感謝を捧げたいと存じます。ありがとうございました。

 本展では、千葉市域で特色ある営業を展開された3家の肖像を御紹介させていただくとともに、それぞれの時代の中で経営者として彼らが行った様々な「選択」とその意味合いとを探ることとなります。これまでの内容をお読みくだされば、この千葉市(当時は千葉町)で創業し、その経営戦略により商売の在り方を変化させながら、令和5年現在で創業一族が経営を脈々と担われていらっしゃるのは「岩田屋」のみということになります。しかし、「多田屋」も「奈良屋」も、その出は異なるものの両家ともに近世に創業され、千葉県内を商業の舞台とされてきたのです。両家に限れば現在の「千葉市域」での活動は明治以降とはなりますが、県都での商業活動の在り方は、今でも千葉市民の記憶に強く焼き付けられておりましょう。冠たる「千葉市の商家」といっても何ら疑問を感じないほどでしょうし、何の齟齬も生じますまい。また、本展準備の過程を通じて、小生はこれら3家に共通する、近世以来の伝統を誇る商家ならではの精神性(メンタリズム)にも感銘を受けております。その想いについては、後編で引用いたします「エピローグ」の中にも認めさせていただきましたので、是非ともお読みいただけましたら幸甚でございます。

 そうでした、過日本館に一本の電話が入りました。ご年配の女性の方でございましたが、「ちば市政だより」で本展開催の知らせを目にされたこと、ご自身が若かりし頃に千葉市に出かけて「奈良屋」で過ごすことが何にもましての喜びであったこと、その後も「奈良屋」には閉店に至るまで大変にお世話になったこと、何にも増して「奈良屋」とともに過ごされた時間が本当に忘れられないこと、そして、この度の千葉市立郷土博物館での展示で、あの「奈良屋」に再会できるかと思うと涙が出るほど嬉しいのです……と語られたと報告をうけました。そうしたお言葉を賜ったことだけでも、今回の展示会を開催できたことを我々職員一同、心より誇りに存じます。果たして、皆様のご期待に添える内容となり得ているのかは少々心元ないものがございますが、是非とも脚をお運びくださいませ。お待ち申しあげております。

 以下に、前編の最後に本展に関する「ごあいさつ」を、明日にアップされます後編で、展示の「全体構成」及び各章「概論」、章内各節の「概説」等々を御紹介させていただきます。因みに、執筆者は本展を担当しました土屋雅人、遠山成一、白井千万子の3名、そして不肖小生の計4名の分担なることを申し添えておきたいと存じます。 
 

ごあいさつ
 

 「千葉市は商業都市である」「千葉市は商都である」と耳にされ、「全くその通りだ」と首肯される方が如何程いらっしゃりましょうか。もっとも、直ちに、そこで言うところの「千葉市」が何れの時代を指すのか、また本展が標題に掲げる「千葉」とは何処を指すのかによって、その解答は異なる……とのご指摘もいただきそうです。
 そこで、本展で言う「千葉」についての諸々を確定しておかねばなりますまい。行政的な意味での確定ではございませんが、“区域的”に現在の千葉市中央区の中心市街地、つまり概ね近世以降の旧千葉町周辺を指すこと、“時代的”には近世から現代に至るまでとさせていただきます。こう言うと、江戸時代の本市中心部など寒村にすぎず商業都市とは言えなかろう……と、お考えの向きもございましょう。しかし、歴史的な認識としてそれは正しくはありません。既に千葉氏の本拠であった中世にも、現在の千葉市中心部は、地域の政治・経済・文化の中核として、各地からの物資が集積し流通する地でありました。しかも、それは千葉氏本拠が本佐倉城に移った後の戦国期でも同様で、都市としての在り方はそのまま近世にも引き継がれたのです。更に、江戸が政治経済の中核都市として急成長するに伴い、江戸地廻経済の拠点的機能も果たしながら、中世同様に「陸と海との結節点」として大いに繁栄していくことになります。現に、本展で中心として採り上げる3家の創業はすべて江戸時代に遡り、その内の2家は令和の世まで営々と営業を継続されてもおります。

 勿論、この地の商業都市としての在り方が飛躍的に発展する大きな契機は、明治6年に(1873)に千葉県が成立し県庁がこの地に置かれたことに由来し、本展で扱う時代もこちらが中心となります。しかし、それが決して中世から近世の千葉の町としての在り方から断絶したものでないことに最大限の注意が必要だと考えるものでございます。そして、大正期に市制が施行され、昭和に入って空襲の被害をうけたものの、戦後復興による千葉市の重工業化政策へのシフトと、東京のベッドタウン化も奏功して人口も急増するなど、高度成長期に大きな繁栄を遂げることになります。
 令和5年(2023)は、折しも千葉県が成立してから150年の節目の年に当たります。本展は、その激動する町の歩みを「商業活動」に焦点を当ててとらえてみようとするものでございます。千葉の町の繁栄を支えた多くの商家があるなかで、今回は特徴ある3家を中心にとして採り上げます。即ち、近世の天保11年(1840)頃千葉町で創業し現在は文具店として知られる「岩田屋(和田商店)」、文化2年(1805)上総国東金町で創業し県下各所に展開した県下最古の 「多田屋」、そして、寛保3年(1743)に京都で呉服店として創業し、近世に下総国佐原・佐倉に出店。更に明治期に県庁所在地千葉町に進出し、戦後には県下随一の百貨店となった「奈良屋」の3家となります。彼らの事業展開の様子や、それぞれの時代の激動を商家として如何に乗り越えてきたのか、商人(あきんど)としての「選択」三者三様を紹介いたします。
 最後になりましたが、当展示の開催にあたり多大なるご厚意を賜り、貴重な史資料等の拝借につきまして御快諾いただきました所蔵者及び関係機関の皆様に、深甚の感謝を申し上げます。 


千葉市立郷土博物館長  天 野  良 介
 

 

(後編へ続く)

 

 

令和5年度企画展『商人(あきんど)たちの選択―千葉を生きた商家の近世・近現代―』が始まります!!(後編) ―会期:7月11日(火)~9月3日(日)― ―会場:本館2階展示室― ―入場領:無料―

7月8日(土曜日)

 後編では、前編最後でご紹介いたしました、小生による企画展「ごさいさつ」に続く、実際の展示についてご紹介をさせていただきます。展示全体構造は、以下の通りとなります。今回は、各章の総論と各節の概説とを採り上げましたので、それだけで相当な文字数となりますゆえ、各章・各節内での展示内容を採り上げることはいたしておりません。是非とも会場にて直接にご覧くださいますようお願い申し上げます。

 

本企画展の展示構成
◎プロローグ:「絵にみる図でよむ千葉のまち」
◎第1章:総論「岩田屋(和田商店)の選択」
・第1節:概説「近世の岩田屋」
・第2節:概説「近現代の和田商店」
◎第2章:総論「多田屋(能勢家)の選択)
・第1節:概説「東金での書店経営開始」
・第2節:概説「能勢家の多田屋ネットワーク」
・第3節:概説「多田屋千葉支店の能勢鼎三の手腕」
◎第3章:総論「奈良屋(杉本家)の選択」
 ・第1節:概説「杉本家の奈良屋創業と京都本店」
 ・第2節:概説「佐原店・佐倉店の開業」
 ・第3節:概説「千葉店の開業」
◎第4章:総論「奈良屋8代目杉本郁太郎の選択」
 ・第1節:概説「戦後の奈良屋百貨店」
 ・第2節:概説「ニューナラヤ・セントラルプラザ」
◎エピローグ:「千葉を駆け抜けた商人(あきんど)たちの肖像」
 

 

プロローグ 絵にみる図でよむ千葉のまち
 江戸時代の千葉町は物流の拠点として繁栄し、明治6年(1873)に千葉県が誕生すると県都となる。大正時代に市制を施行し、昭和時代になると周辺町村を合併して市域は拡大する。戦時中の空襲で焼失した中心市街地は戦後急速な復興を遂げ、高度成長期に千葉市は大きく発展する。
江戸時代創業の「岩田屋(和田商店)」・「多田屋」・「奈良屋」は、千葉のまちの繁栄を支えた特徴的な商家である。「岩田屋(和田商店)」は、千葉で創業の老舗であるが、時代のニーズに合わせた経営を行った。「多田屋」「奈良屋」は、他地域の本店から千葉に出店、特に「奈良屋」は昭和時代初期に千葉を本店とし、戦後は中心市街地を代表する百貨店となった。
 プロローグでは、本展の主役である商家の活躍の舞台となった、千葉の市街地の歩みを絵図・地図などにより紹介していく。
 

 

第1章    岩田屋(和田商店)の選択

 岩田屋(和田商店)は、天保11年(1840)に千葉町の本家から分家し、同町の市場町に屋敷を構えた後に商売を始めた。幕末の岩田屋円治は、寒川村船主や登戸村商人を援助し、また、炭仲買仲間のリーダーとして佐倉炭(佐倉藩の「御国産炭」)の販路拡充を目指し、江戸の薪炭市場へ積極的に進出した。
 近代に入って千葉町が県都となると、岩田屋(和田商店)は、新たなニーズに対応するため、紙類や文房具などを主力とする経営に転換した。明治10年代には第九十八国立銀行(現千葉銀行)の創立に携わり、明治20年代には量器(物の分量を測る器具)の製作と販売に着手し、千葉量器製作株式会社を設立した。
 第1章では、近世から千葉町に店を構えた、岩田屋(和田商店)の事業経営を紹介する。これは、近世と近代の転換期に違う道を選択した商家の物語である。
(注記)岩田屋(和田商店)の初代~4代目当主 ※家名は和田家
〔初代〕円治 〔2代目〕円治 〔3代目〕円作 〔4代目〕叡一

 

第1節 近世の岩田屋


 千葉町の人々にとって、寒川村・登戸村の湊は、江戸に荷物を運ぶ上で重要な場所だった。
幕末期の岩田屋円治は、寒川村船主が船や諸道具を購入する際、積極的に援助していた。また、船や道具類の貸与も行っていた。一方で、寒川村船主にとって、岩田屋は海運業を援助して生活を支えくれる地域の盟主的な存在だった。さらに、岩田屋は、融資によって、登戸村商人の事業展開もサポートしていた。
 岩田屋円治は、炭仲買仲間のリーダーとして活躍し、佐倉藩の「御国産炭」であった佐倉炭を江戸に出荷する舵取りを担った。岩田屋は、佐倉炭の販路拡充を目指して、寒川村船主の茶船(荷足船)を利用し、江戸へ次々と炭荷物を運送するなど、江戸の薪炭市場へ積極的に進出していった。そのため、江戸での佐倉炭の取引をめぐり、江戸薪炭問屋と争論も起こった。
 第1節では、「寒川村・登戸村」「佐倉炭」をキーワードに、江戸時代の岩田屋の活動を紹介する。

 

第2節 近現代の和田商店


 明治6年(1873)に千葉町は県都となったことにより、公吏・病院関係者・学生などの消費が生み出されていった。岩田屋は、県都千葉の新たなニーズに対応するため、和田紙店・和田商会・和田商店などの店舗名で、紙類や文房具などを主な販売商品とする経営に転換する選択を行い、それは現在まで継続している。
 また、2代目の和田円治は、明治11年に千葉町の人々と共に、第九十八国立銀行(千葉銀行の前身)の発起人となって創立に携わり、その功績が表彰された。さらに、量器の製作と販売にも力を入れ、明治29年には千葉量器製作株式会社を立ち上げた。
こうした和田商店の出来事は、帳簿や文書などの 記録として保存された。その記録は現在まで伝来し、千葉町の商家の歩みを解明する手掛りとなっている。
 第2節では、近現代の和田商店について、経営に大きな影響を与えた出来事を取り上げていく。さらに、商家の記録を保存し伝える方法も紹介する。
 

 

第2章 多田屋(能勢家)の選択

 能勢家は、上総国東金町(現東金市)において、5代目の儀喬(後に隆昌と改名)から4代の間は医師を家業としていた。幕末に出た9代目嘉左衛門尚貞は、医業を辞めて書道塾を営み、医学書や四書五経、さらには筆墨などの文房具販売を行う多角的な書店経営へと発展させた(この頃、多田屋は盛松館と名乗る)。
 幕末から明治時代中期を生き、「能勢」と名乗った 10代目嘉左衛門賢貞は、「七福神」と称された六男一女に恵まれた。長男の土岐太郎は、明治5年(1872)に学制が発布されると、いちはやく千葉県の小学校への教科書販売の権利を得て、県下全域に供給し、東北3県にも手を広げた。
土岐太郎は、酒井家に養子に出ていた弟の甲子次郎(次男)が支援し、福岡町(現匝瑳市)に書籍・文房具・洋品および印刷部をもつ八日市場支店を開いた。同店はその後、鉄三郎、その長男の剛、次いで次男の潔が経営に参画することになる。さらに、東金本店に隣接して多田屋洋物店を弟鉄三郎に開かせた。
 同じく県庁が置かれていた千葉町に、弟の鼎三(五男)が書店を、欽之助(六男)が洋物店をそれぞれ開いた。特に、鼎三は、三省堂の経営に参画したり、4階建てのデパート建設も計画したりするなど、商才抜群でアイディアマンでもあった。
こうして土岐太郎の代に、一族が力を合わせて多田屋を発展させていった。その後も戦前、戦後を通じて土岐太郎の代に分派した能勢一族は、商売のみならず、それぞれの地元の県会議員・町長・市長になるなど政治の分野でも尽力した。また、鉄三郎の長男の剛は、東金市長を務めるかたわら、両総用水完成という大事業に心血を注いだ。
 第2章では、県都千葉に進出した多田屋(能勢家)の事業経営を追っていく。能勢一族の選択は、書店として地域の文化形成に大きく寄与するとともに、更に地域の発展に貢献する形で、今日までその足をとどめている。

 

第1節 東金町での書店経営開始


 上総国東金町の能勢家では、9代目野瀬尚貞が文化期に書道塾を開く。塾の子弟は書籍や文房具を必要としたので、その調達から書店経営へと発展していった。

 尚貞は、江戸の問屋から書籍などを仕入れ、周辺の者へ販売し、幕末期になると九十九里一帯における書籍 流通の拠点にまで発展した。
幕末から明治時代かけて、多田屋は「盛松館」という店名を名乗るようになっていた。東京の書肆に出向いて書籍等を調達していたが、明治16年(1883)に、中国の歴史書である『十八史略』シリーズの版権免許を取得した。関係の深い東京京橋区(現東京都中央区)の書肆の和泉屋孝之助の協力もあって、書籍の出版も 行うようになり、千葉県域での書店営業を飛躍させた。
 第1節では、能勢家が東金町で書店経営を開始した背景や、書籍の出版を行うようになった経緯を探る。
(注記)能勢家は、江戸時代に「野瀬」と名乗っているので、第2章第1節の解説もそれに準じて、一部「野瀬」を使用する。

 

第2節 能勢家の多田屋ネットワーク


 東金町で書籍販売を営んでいた能勢家は、10代目 嘉左衛門賢貞の6人の子息が、長男の土岐太郎を中心に団結し、販路を拡大していく。
次男の甲子次郎は、酒井家の養嗣子になったが、八日市場支店を開き、やがて三男の鉄三郎に同支店の経営を委ねた。鉄三郎には後に子息の剛と潔が出て、剛は政治に進出した父に代わり八日市場店を経営していく。潔は、東金本店の土岐太郎の跡を継いだ子息鬼一の末妹と結婚して、東金本店を任された。五男の鼎三は、県都として発展の見込める千葉に進出し、千葉支店を経営、六男の欽之助は千葉支店洋物部を開いた。
 また、東金本店洋品部は八日市場支店が経営したり、後に本千葉多田屋店が負債を負った時、東金本店がこれを解決したりしたこともあり、能勢一族の団結力が発揮されて各店の経営が維持されていることがわかる。
 本節では、土岐太郎の代に分派したそれぞれの能勢家の多田屋ネットワークを見ていく。

 

第3節 多田屋千葉支店能勢鼎三の手腕


 明治21年(1888)、多田屋は千葉町本町3丁目(現千葉市中央区中央4丁目)に千葉支店を開店した。同支店を任されたのは、五男の能勢鼎三であった。三男の鉄三郎のサポートを受けながら、鼎三は店主として成長し、千葉活版所や教育品部などを立ち上げた。
 明治44年5月開催の千葉県共進会等で、鼎三は記念絵葉書や実測図、書籍などを刊行して地域文化の活性化をもたらし、店主として多田屋の知名度を上げた。
 さらに、三省堂が大正元年(1912)に破綻した後、鼎三は株式会社三省堂(三省堂書店から出版部門が 独立)の経営に参画し、同社の再建に尽力した。
 その後、鼎三は三省堂での経験を活かし、千葉支店で新刊書籍等の発行、会社の設立などを展開、昭和4年(1929)に4階建てデパートの建設を計画したが、道半ばで挫折、計画は幻となった。
 第3節では、商才抜群でアイディアマンでもあった、千葉支店能勢鼎三の手腕を、数々の事績から紹介する。
 

 

第3章 奈良屋(杉本家)の選択

 杉本家は、初代新右衛門が寛保3年(1743)に京都で呉服商として創業し、京都本店で出店先の商品や帳簿などを管理した。また、明治時代初期から昭和時代戦前に、京都で三丘園茶園を経営し、製茶業も営んだ。
 奈良屋は関東地方を中心に「他国店持京商人」として活動した。江戸時代後期には佐原や佐倉に出店して、佐倉藩主や伊能忠敬などとも交流した。
その後、明治42年(1909)に千葉町に出店して順調に売り上げを伸ばし、昭和5年(1930)に千葉店を本店にして本格的な百貨店形態の経営に移行する。翌年に株式会社化し、京都本店と佐倉店の機能を千葉店に吸収した。
 第3章では杉本家による京都での創業、「他国店持京商人」としての佐原店・佐倉店出店、奈良屋千葉店での百貨店形態の経営に焦点をあてる。創業・出店を経て県都千葉に辿り着いた、奈良屋(杉本家)のストーリー、その中で行ってきた数々の選択にせまる。

 

第1節 杉本家の奈良屋創業と京都本店


 杉本家の初代新右衛門は伊勢国飯高郡粥見村(現三重県松坂市)に生まれ、14歳となった享保2年(1717)京都の「奈良屋勘兵衛」(後に「奈良屋安兵衛」)の店へ奉公に出る。この時に粥見村と京都とをつないだのが浄土真宗寺院とのつながりであり、杉本家が後に 西本願寺と深く関わる基盤がここに存在した。その後、新右衛門は寛保3年(1743)8月5日に烏丸通四条上ルに借家し独立。更に明和元年(1764)綾小路通新町西入(矢田町)に家屋敷を購入し移転する(現杉本家住宅)。このように、初代は先行して京都で活動していた「奈良屋」屋号を有する呉服商店で奉公し、「奈良屋安兵衛」を引き継ぐ形で「奈良屋一統」の一員となり、その助力によって京都での地歩を固めていく。
 「奈良屋一統」の商売は京都でのみ完結するものでなく、奈良屋沢野井家が江戸に、奈良屋樋口家が古河に出店を持つ点に共通性が見出され(「江戸店持京商人」「他国店持京商人」)、奈良屋杉本家も当初、京都店を根城としながら、「関東下り」をし、店舗を構えず各所で開催される市に併せて京都から運んだ呉服を販売する商業形態をとった。霞ヶ浦の東岸にある常陸国玉造(茨城県行方市)での浜市を中心に、北浦周辺、下総国の佐原・小見川(現香取市)周辺の地域にまで販路を拡大した。中でも、利根川の交通の要地である佐原に目をつけ腰を据えたのが2代目新右衛門であり、明和元年同地に出店した。加えて文化4年(1807)に出店した佐倉店との2店舗が、近世における奈良屋 杉本家の販売活動の拠点となり、京都本店は下総の店舗へ京呉服(絹織物)・太物(綿織物)を送る、主に「仕入本店」機能に移行することとなった。
 また、京都の事業展開として注目すべきが、明治時代初期からの茶園経営と製茶事業である。「三丘園」ブランドとして主に高級茶「碾茶」「玉露」販売に力を入れ、千葉でも盛んに販売され大きな利益をもたらした。
 第1節では、杉本家の奈良屋創業、さらに京都本店での活動について紹介する。

 

第2節 佐原店・佐倉店の開業


 杉本家の2代目新右衛門は、明和元年(1764)に佐原店を開いて呉服を商い、「現金掛値なし」の商売方法を取り入れる。
 3代目新右衛門は、正札制度による商品取替の自由を提唱し、文化4年(1807)佐倉に出店する。同13年には新左衛門と改名し、長男が新右衛門、二男が重太郎を名乗り、京本店を新左衛門名義、佐原店を長男名義、佐倉店を次男名義と使い分けていった。
 7代目新左衛門は、明治41年(1908)佐原店に陳列場を増設して、呉服・洋品雑貨を扱う百貨店形態とする。翌年佐倉店も同様の陳列場を設置し、両店は陳列場開設記念の売出しを行う。
 その後、昭和5年(1930)に千葉店を本店とすると、佐倉店を千葉店に吸収した。佐原店は支店となり、昭和50年(1975)まで営業していた。
 第2節では奈良屋の佐原店・佐倉店の開業とその後の営業展開に焦点をあてる。

 

第3節 千葉店の開業


 杉本家の7代目新左衛門は、江戸時代からの商業の町で、県庁所在地として発展する千葉町の横町(現千葉市中央区本町1丁目1番地)に、明治42年(1909)9月佐倉店の千葉出張所を開設した。
 大正3年(1914)4月に千葉店を支店として新築し、折からの「大戦景気」(第1次世界大戦による好況)で、売上高は前年の3倍強となっている。さらに千葉市となって3年後の大正13年には、関東大震災後の東京からの避難民で人口が増加したため、同3年の20倍もの売り上げを記録している。そして、昭和5年(1930)11月に百貨店形態に移行、同6年8月に株式会社奈良屋となり、近代的経営へ舵をきる道を選んだ。
 このように、江戸時代の佐原・佐倉への出店のみならず、明治時代末期の県都千葉への出店という大きな選択は、歴代杉本家当主の先見の明と決断力を物語る。
 第3節では、奈良屋の千葉店が、出張店から支店、本店へと成長していった過程を追っていく。
 

 

第4章 奈良屋8代目杉本郁太郎の選択

 奈良屋8代目杉本郁太郎は、戦災によりゼロからの再出発を余儀なくされたが、すぐに復興にあたり昭和26年(1951)には近代的な百貨店ビルを建設した。
 その後、千葉市の発展とともに、高度成長の波にのって順調に店舗を拡張していった。銀座通りを中心とした地域には、扇屋をはじめ多くの百貨店が林立していくなか、ついに昭和40年には、売上高が扇屋を抜いて千葉市内で1位を占めるまでになった。
 しかし、昭和42年に国鉄新駅(現JR千葉駅)前に千葉そごうがオープンすると、商圏の移動もあり、銀座通りのデパートは奈良屋をはじめ、苦戦を強いられた。こうした状況下、郁太郎は若い時分に勤めたこともある三越との提携を選び、千葉そごうの隣にニューナラヤを開店させた。
 第4章では、戦後の復興期からニューナラヤ開店に至る経緯、さらには杉本郁太郎が経営権を手放した千葉三越開店までを追っていく。 

 

第1節 戦後の奈良屋百貨店

 戦前には順調に百貨店として営業成績を伸ばしてきた奈良屋であるが、昭和20年(1945)7月7日の「七夕空襲」をうけ、店舗は焼失してしまった。しかし、同年11月1日には、寄宿舎のあった吾妻町(現千葉市中央区中央3丁目)の焼け跡に仮店舗を開き、さらに同地で翌21年4月1日に120坪(約396㎡)の新店舗を完成し、戦後期の混乱を乗り越えた。     
 昭和26年、国鉄千葉駅(現千葉市民会館の場所)に通ずる銀座通りに面した吾妻町2丁目に3階建てのビルを竣工、その後同27年にかけて、4階・5階・6階と建て増し、総面積約2800㎡の東館を完成させた。大きな選択であった。
 昭和33年6月の京成千葉駅の移転に伴い、新しい京成千葉駅(現京成千葉中央駅)の駅ビルに、京成との共同出資の京成丸京を開設。さらに翌34年11月には、エレベーター・エスカレーターを備えた中央館が、東館に隣接し完成した。
 この間、高度成長期の波の中、千葉市にも大工場が建設され、市内には大小ビルが建ち並ぶ近代的都市へと変貌するようになった。奈良屋は、地元の理解も得ながら、さらに増築を計画し、昭和37年に東館・中央館・増設された西館と合わせて総面積1万㎡の大店舗へと移行し、千葉の名門百貨店と評価の高い店舗経営を選択することになる。
 昭和38年4月、国鉄千葉駅が現在地に移転し、同42年3月に同駅前に千葉そごうが開店すると、同年11月に北館を完成させ、総面積21,000㎡の最終的な奈良屋百貨店ビルとなった。しかし、駅の移転に伴い、買い物客の動線が変化した。これまでの銀座通りや中央2・3丁目を中心としたものから、千葉駅前周辺へと移った。こうした状況下、郁太郎は次第に選択に迫られることになっていく。
 第1節では、戦後の奈良屋百貨店を取り上げつつ、杉本郁太郎の文化活動・社会活動にも踏み込んでいく。

 

第2節 ニューナラヤ・セントラルプラザ

 昭和38年(1963)4月、国鉄千葉駅が千葉市要町(現千葉市中央区要町)から新町の機関庫跡地へ移転した。さらに昭和42年3月、千葉そごうが新駅間近にオープンした。そのため、これまでの旧千葉駅に通ずる銀座通りから、新駅周辺へと商圏の移動が次第に明確となっていった。
 杉本郁太郎は、こうした状況を鑑み、昭和47年10月、三越と業務提携したニューナラヤを千葉そごうの隣に開店させ、これまでの奈良屋百貨店をファッションビル「セントラルプラザ」とした。
 そのニューナラヤも昭和59年10月には経営権を三越に譲渡して千葉三越となり、セントラルプラザも平成13年(2001)には営業を停止した。奈良屋は、260年近い歴史に幕を閉じることになったのである。                  
 第2節では、国鉄千葉駅の移転、千葉そごう開店に伴って、郁太郎が開店させたニューナラヤとセントラルプラザについて紹介する。
 

 

エピローグ 千葉を駆け抜けた商人(あきんど)たちの肖像
 本展では、近世に創業し、近代以降県都千葉の繁栄を支えた商家の中から、「岩田屋(和田商店)」・「多田屋」・「奈良屋」の3家を取り上げ紹介した。各商家は、長い歴史を歩んで来たが故に、時代や社会の転換という荒波を受けることになった。商業環境の激変の中、歴代の当主は、時々の大波小波を的確に読み取り、新たな時代に向けて果敢なる「選択」を繰り返すことで経営を継続してきた。しかし、「選択」が必ずしも適切であるとは限らず、結果として浮沈が生じるのも止むを得ないことであろう。3家の中で、現在も創業一族が経営を継続しているのは「岩田屋(和田商店)」と「多田屋」の中では「いのはな多田屋」のみとなっている(他に経営権が既に人手に渡っている「多田屋」もある)。また、「奈良屋」が8代目杉本郁太郎の代に事業自体から手を引くことになったことは第3章で述べた通りである。しかし、この3家を始めとする多くの商家が、県都千葉の発展の歴史を彩ってきたことに間違いはなく、これらの店を訪れた想い出を大切にされている方々も、決して少なくないものと思われる。本館の力量不足でその実像を十分に描き出せたか心許ないものがあるが、その掛け替えのない存在と功績を少しでもお伝えできたのであれば、本展を開催した意義があったものと考えている。
 最後に今回対象とした3家の在り方に感銘を受けたことを述べておきたい。それは、何れの家も「利潤の追求」に留まらない、「社会への貢献」、「社会への利益還元」、「地域社会の向上」といった眼差しを常に有していることである。それが、企業経営者でありながらも政治へ関与し地域灌漑事業に邁進する活動や、幾つもの社会団体の長を担うなど、地域社会の向上に寄与しようとする姿勢に表れていると考える。その根底には、各家に近世以来伝わる儒学、心学、浄土真宗等に基づく「人生(経営)哲学」があるように感じられる。我々は、世界経済を席巻する「今だけ、金だけ、自分だけ」といった社会風潮が、果たして誰を幸福にするためのものか、彼らの商業活動が無言の内に問いかけているように感じた次第である。本展をご覧いただいた皆様は如何お感じになられただろうか。
 

 

 最後になりますが、今回の企画展につきましては、昨年度企画展と同様、予算的な都合から少なくとも開催時点での展示図録の作成・刊行が叶いませんでした。ただ、昨年の青木昆陽展のように、条件が整い次第、何時でも刊行ができるように準備を進めて参る所存でございます。同時開催される千葉氏パネル展『京(みやこ)と千葉氏』でも、残念なことに同様な理由にてブックレットが未刊行の状況にございます。こちらもツイッターでのコメントで「とてもよい内容であった」ものの、「是非ともブックレット刊行を希望する」とのお言葉を賜っております。何時も申し上げますが、展示会が終了してしまえば手元には何の資料も残らないという状況は、博物館としては極力避けたいと思っております。手元に史料さえ残れば、それが後に更に深い追及に発展する足掛かりとなるのです。現状では何時刊行とは申し上げることができませんが、我々としましても、諦めることなく虎視眈々とその刊行を目指して雌伏の時を送って参る所存でございます。

 最後の最後になりますが、皆様方のご来館を職員一同心よりお待ち申し上げております。最後の最後に、本企画展担当者によるギャラリートークを2回開催させていただきますので、お時間が許すようでしたら振るってご参加くださいませ。
 

会期中「ギャラリートーク」を開催いたします!!

第1回目 8月13日(日)13:00~   

第2回目 8月26日(土)11:00~

 

※両日とも1時間程度を目安に開催させていただきます。当日は2階展示会場正面「千葉介常胤像」前にご集合くださいますようお願いいたします。費用等は一切かかりません。

 

 

佐藤弘夫『死者のゆくえ』に思うこと(前編)―歴史・民俗の全体像を見通す提案性ある研究の価値 または 本館常設展示リニューアル方針との関連性について―

7月14日(金曜日)
柿本朝臣人麻呂、妻の死りし後、泣血哀慟(なきかなし)みて作れる歌二首ならびに短歌
 天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の路(みち)は 吾妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さねかずら 後もあはむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 岩垣淵(いわがきふち)の 隠(こも)りのみ 戀ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠(がく)るごと 沖つ藻の なびきし妹(いも)は もみち葉の 過ぎてい(去)にきと 玉づさの 使(つかい)の言へば あづさ弓 聲(おと)に聞きて 言はむすべ せむすべ知らに 聲(おと)のみを 聞きてあり得ねば わが戀ふる 千重(ちえ)の一重(ひとえ)も 慰むる 情(こころ)もありやと 吾妹子が やまず出(い)で見し 軽の市に わが立ち聞けば 玉だすき 畝火(うねび)の山になく鳥の 音(こゑ)も聞えず 玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てしいかねば すべをなみ 妹が名をよびて 袖を振りつる

 

   短歌二首(反歌)

 

   秋山の もみちを茂み 迷ひぬる 
妹を求めむ 山道(やまぢ)知らずも
 もみち葉の ちりぬるなへに 玉づさの 
使を見れば あひし日思ほゆ
[柿本人麻呂 佐佐木信綱編 新訂『新訓 万葉集』上巻より 1954年(岩波文庫)]
 

 今回の本稿では、冒頭から長々とした柿本人麻呂の万葉歌から始めさせていただきました。皆様もよくご存知のことでありましょうから、改めて説明の要もございますまいが、柿本人麻呂は生没年未詳の飛鳥時代の宮廷歌人であり、概ね斉明朝(660年頃)から奈良時代初期(720年代)頃まで活躍した人でございます。後に山部赤人と共に「歌聖」と称えられ、信仰の対象にすらなっております。その作品は、古今集以降の勅撰和歌集にも採られておりますが、その生涯からも明らかなように、主要なる作品は『万葉集』に収められ、今日でも広く愛好されております。和歌という文学ジャンルにおける「長歌」の大成者であると同時に、当該形式における“最後の大歌人”であります。因みに、「長歌」とは「5・7」を繰り返し、末尾を「7・7」で締める形式の和歌であり、その末尾に「反歌」として「短歌」を添える形式を確立したのも人麻呂と言われております。つまり、長歌と反歌(短歌)とはユニットとして成立する詩歌の表現形態であると言うことが出来るかもしれません。何れにせよ、万葉集の後には殆ど用いられなくなるのです。

 人麻呂の人と経歴については、主として和歌でしか知ることができず、その実像は明らかではありません。しかし、その作品の傑出ぶりは図抜けており、その作品を声に出して朗じてみれば明らかになるように、その圧倒的なリズム感のすばらしさ、共鳴しあう言語としての強靭さと物語世界の迫真性とに、正に打ちのめされるほどでございます。「和歌」が元来文字通り「歌謡」を出自としていたことを、人麻呂詠歌ほどに実感させられる作品はございません。後に「歌聖」として信仰の対象にすらなったことも宜なるかなと存じます。空前絶後の大歌人だと確信いたします。

 冒頭歌は、亡くなった人を悼む、所謂「挽歌」のジャンルに分類される作品でございます。しかも、その最愛の「妻」(といっても何らかの事情で「隠妻(こもりつま)」としていた人のようです)を失った哀しみを歌った作品であり、その慟哭は、我々現代人の心にも痛切に突き刺さります。詞書に「泣血(血の涙を流した)」とあることからもその大きさと深さが如何ほどのものであるかを想像できましょう。その舞台である「軽(かる)」は、現在の奈良県中央部にある「橿原神宮」東方の地であり、人々の集まる市がたつ地でもありました。この地にいる「隠妻」に逢いに出かけたときに、その突然の死を伝える報に接したのです。その遣いに出会ってからのドラマチックなる転調の見事さは他に類例が見つからないほどでございます。激しい動顚と喪失感という、如何ともし難い想いに突き動かされるように「軽の市」に立ってはみたけれど、そこでは畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず、妻によく似た人すら通わない。人麻呂は、当時の呪術的な行為である、袖を振って恋しい人の魂を引き寄せようと、妻の名を呼びながら袖を振り続けるのです。

 妻といっても「隠妻」であり、人の集まる市でその名を呼ぶことは本来避けるべき行為でございましょう。居ても立ってもいられない切羽詰まった心情をここに読み取るべきかと存じます。もう一度、最初から声にして朗読してみてください。畳みかけるように連ねられている「枕詞」の数々が、そうした迫りくる情感の高まりをいや増しにするように感じさせます。そして、あたかもそうした激情を鎮めるかのように「反歌」が添えられます。亡き妻を想って、知ることの無い山中を彷徨う人麻呂。そして在りし日を静かに回想して亡き妻のことを想うのです。そこには、最早帰ってはこない「隠妻」への思いが静かに滲み出るような、長歌の激情とは異なる哀しみが表現されており、その想いの深さを実感いたします。因みに人麻呂には妻が幾人か存在していたことが知られます。その数は3人とも5人とも言われます。以前の本稿で「曼珠沙華(彼岸花)」のことを採り上げました際(現在放送中の“朝ドラ”のモデルである牧野富太郎も登場します)で、人麻呂が岩見国(現島根県)国府に下っていた時の短歌を御紹介したことがございます。それは、その地で娶った現地妻とのことを詠んだ内容でした。その妻との別れに際しても、人麻呂はあたかも挽歌と見紛うばかりの相聞歌の傑作をものしております。「岩見の海 津の浦を無み……」で始まり、「……角の里みむ なびけこの山」で締められる長歌でございます。流石に、ここではその全貌を御紹介致しませんが、『万葉集』巻2「相聞」に納められております。こちらも感動的な作品であると存じます。

 さて、何故今回の当初に人麻呂挽歌を引用させて頂き、しかも胡乱なる解説までさせて頂いたのかと申せば、本歌で画かれる古代人である柿本人麻呂の精神世界が、標題に掲げさせていただいた書籍の理解の一助となるものと考えたからに他なりません。つまり「死者のゆくえ」に関わることになります。小生もこれまでの生涯に曾祖父母・祖父母・両親と送ってまいりましたが、親しく大切な人との死別ほど悲しいことはございません。そして人は亡くなったら何処へ行くのだろうか……と、誰もが一度や二度ならず考えさせられたこともございましょう。それは自身の問題でもありますし、古来の日本に住む人々、いや地球上で人として生まれた誰にも共有される想いでもございましょう。還暦を過ぎて4年も経過する今では斯様なことはございませんが、幼少期には「死」ほど恐ろしいことはございませんでした。意気地の無い子供であった小生は、何らかの事情により、自身や両親が死んでしまったらどうしよう……と考えただけで悲しくて涙が流れました。申すまでもなく、「死」とは人間にとって斯くも重たいことでございましょう。そこで、今回の本稿では、佐藤弘夫『死者のゆくえ』を拝読したことを契機に、歴史的に日本人が人の死を如何にとらえてきたのかを話題にしてみたいと存じます。

 ところで、選りに選って今回何故「死」の話題を採り上げるかと申せば、明日7月15日が旧暦の「盂蘭盆(俗にいう“御盆”)」であり、我が国では亡くなった御先祖と向き合う時とされているからでもございます(東京では新暦によって8月に行われますが)。一方で、先週7月7日(金)は、今から78年を遡る昭和20年(1945)同日未明に千葉市を襲った所謂「七夕空襲」で多くの方々が死傷された、決して忘れてはならない日でもございました。本館の建つ「亥鼻公園」には、「ちば・戦争体験を伝える会」と「千葉市空襲と戦争を語る会」が平成27年(2015)に設置された「祈念碑」がございますが、本年もその慰霊碑前で「慰霊の集い」が開催され、その後も熱心に祈りを捧げに訪れる方々を目に致しました。そして、そこには「本町小学校」児童たちによる“七夕飾り”も捧げられております。竹に撓わに添えられた色とりどりの「平和への願い」が記された短冊がたてる、サヤサヤと風にそよぐ“かそけき”音色が、小生にはあたかも死者への「鎮魂」の歌に聞こえました。先の大戦で大切な親族や友人を亡くされた方々の深い心の傷を痛感させられる大切な機会であり、この日を忘れてはならないとの思いにも繋がったのでした。はたまた、この亥鼻山は少なくとも中世前期には都市千葉の墓域であったものと考えられ、公共施設の建設に当たって数えきれぬほどの人骨が出土した地でもあるのです。現代社会とは、名もなき過去の膨大な死者たちと共にあることも忘れてはならないと存じます。

 さて、本書の著者である佐藤弘夫(1953年~)氏につきましては、これまでに何度かその名前を紹介させていただいております。面識は全くございませんが小生が心底敬愛の念を捧げさせていただいている研究者でございます。宮城県の産であり、現在東北大学名誉教授の立場でいらっしゃいます。小生がこれまで大きな影響を受けてきた以下にご紹介させていただく著作の数々の標題から明らかなように、歴史学者であり、宗教学者であり、はたまた広く思想史家といってもよろしいほどの、多彩かつ広範なる視野に基く「日本人の精神性」を深く追及された著作をものされる先生でございます。『日本中世の国家と仏教』1987年(吉川弘文館)、『鎌倉仏教』1994年(第三文明社)[現在は“ちくま学芸文庫”で拝読できます!!]、『神・仏・王権の中世』1998年(法蔵館)、1998『アマテラスの変貌 中世神仏交渉史の視座』2000年(法蔵館)、『偽書の精神史 神仏・異界と交感する中世』2000年(講談社選書メチエ)、『日蓮 われ日本の柱とならむ』2003年(ミネルヴァ書房)、『霊場の思想』2003年(吉川弘文館)、『起請文の精神史 中世世界の神と仏』2006年(講談社選書メチエ)、『神国日本』2006年(ちくま新書)、そして今回採り上げさせていただく『死者のゆくえ』2008年(岩田書院)と連なる一連の書物から、小生は “目から鱗が落ちる”ほどの数限りない知見を頂いております。

 佐藤氏の著書は、五百頁にもなりなんとする『神・仏・王権の中世』を除く、その殆どを入手し拝読もさせていただいております。ただ、『死者のゆくえ』につきましては、刊行当時に畏友小野一之氏から“充実の内容”と推薦もされていたのですが、何故か未入手のままでございました。当時の小生には少々お値段が張ったのだと存じます(独身時代なら寸分の躊躇もなく購入した筈ですから)。恒例のパターンで「その内に余裕ができたら」と呑気に構えたのが命取りとなり、新本はあっという間に品切れとなり、古書の価格は瞬く間に高騰の一途を辿ることになりました。流石に縁に恵まれなかったのか……と諦めかけていた時、大学研究室「除籍本」として驚異的安価で出品されている本書を発見!!基本的にはしっかりと読めることが第一であり、必ずしも美本である必要はございませんから迷わずに飛びつきました。届いてみれば、図書館除籍本ではないため見苦しいブックシールが貼りついていることもなく、内扉に除籍印が押されるだけの、読まれた形跡の全くない新本同様の状態でありました。そして、この度ようやく読書の順番が回ってきて、無事に読了することが叶ったのです。そして、期待通りの大いなる感銘をいただきました。佐藤氏の著作には本当に裏切られたことがございません。
(後編へ続く)
 

 

佐藤弘夫『死者のゆくえ』に思うこと(後編)―歴史・民俗の全体像を見通す提案性ある研究の価値 または 本館常設展示リニューアル方針との関連性について―

7月15日(土曜日)

 

 『死者のゆくえ』冒頭で、佐藤氏は民俗学者の柳田國男(1875~1962年)『遠野物語』[明治43年(1910)]の舞台「遠野」の風景から筆を起こされます(現:岩手県遠野市)。その地に佇み、佐藤氏は「座敷童」や「河童」といった異界の住人たちに対する柔らかな眼差しが満ちあふれた印象的な物語の数々の一方で、本作には通奏低音のように一貫して響く一つの重要なモチーフがあること、それが色濃く纏わりつくような「死の影」であるとされております。そして、遠野で死に近づいた老人が人生最後の時を過ごす“彼岸との境界”とされる「蓮台野(デンデラ野)」、及びそれと相対する共同墓地「ダンノハナ」の地に足を運び、その光景を描写されております。そして、「デンデラ野」と埋葬の地である「ダンノハナ」とが、彼らが日々の生活を営んだ集落を見下ろす山麓の斜面にあることを確認し、その光景と御自身の故郷にある墓地の風景と重ねておられます。

 佐藤氏は、そこから柳田が晩年になって日本人における「死」や「霊魂」の問題を体系的に捉えようと試みた『先祖の話』(1945年)の話題に移られ、我が国土に住まって来た先祖が、「死」というものを如何にとらえて来たのかの考察に入っていかれるのです。因みに、『先祖の話』は、太平洋戦争の敗色が色濃くなるなか、国民の誰もが自身の死に向き合わなければならない時勢を受け、渾身の力を振り絞って執筆した作品であり、その背景には「家」の崩壊に対する柳田の強い危機感があったとされております。本書は80編からなる掌編集でありますが、ありがたいことに今日「角川ソフィア文庫」本で手軽に読むことが出来ます。その内の一節「64 死の親しさ」で、柳田は、日本人が死後の世界を身近なものと捉えており、その背景に死をめぐる日本人特有の4つの観念があると述べております。佐藤氏も本著でそれを引用されております。
 

 第一に死してもこの国の中に、霊は留まって遠くへはいかぬと思ったこと、第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけで無しに、いずれか一方のみの心ざしによって、招き招かれることがさまで困難ではないように思っていたこと、第三には生人の今はの時の念願が、死後には必ず達成するとものと思っていたことで、これによって子孫のために色々の計画をたてたのみか、さらにふたたび三たび生まれ代わって、同じ事業を続けられるもののごとく、思った者の多かったというのが第四である。


[柳田國男『先祖の話』2013年(角川ソフィア文庫)より]

 

 これをお読みになって、皆様はどのようにお感じになられましょうか。天邪鬼な小生には、日本の民俗学を確立された泰斗である柳田の指摘に、なるほどを納得させられる部分と、「えっ!?本当にそうだろうか??」とすんなりとは嚥下できそうもない部分とが混在しているように感じられます。確かに、冒頭歌として掲げさせて頂いた人麻呂挽歌に照らせば、古代の我が国の人々の認識として、死後の霊魂の行き着く先は山中であると考えていたように思わされます。つまり死者の霊魂はこの世に留まるということに他なりませんでしょう(これが柳田の唱える所謂「山中(山上)他界観」だと思われます)。だからこそ、反歌には、亡妻への再会を果たすことを願って、道に迷いながら山中を彷徨う人麻呂自身の姿が歌われます。しかし、後の平安期に熱烈に志向された「浄土信仰」とは、死者の「極楽浄土」への往生を願う信仰ではなかったのでしょうか。少なくとも、それは、阿弥陀如来のおわす西方浄土が「この世」の近くに存在するという認識とは異なりましょう。そもそもその距離とは「十万億土」とされているのですから。

 更に、本著で佐藤氏が指摘されるように、柳田がここで述べる死の問題が飽くまでも「霊魂」に限っての話であり、同時に発生する骨を含む死者のフィジカル(肉体)の問題が等閑に付されているのではないかとの疑問も残されます。現在では、何らかの自然災害等で生命を落とされ、不幸にも遺体が発見されないような状況が出来したケースでは、遺族が「せめて骨の一片でも拾ってあげたい」と切実に願われることが極めて一般的でございましょう。それは、太平洋戦争戦没者の遺骨収集が戦後80年経過しても営々と継続されているメンタリズムとも通底することを思わせます。また、中世に盛んであったフィジカルな「納骨」信仰と、並行する彼岸的世界を求める「浄土信仰」というメンタル世界とは如何なる精神的な関係性を有するのでしょうか。ちょっと考えただけでも、ストンと腑に落ちないことばかりであり、そうした視座が柳田の議論から抜け落ちているようにすら感じさせられもするのです。一方で、古代の巨大な古墳に葬られる権力者が特定できない状況があります。それが権力の象徴であるとすれば誰の墓なのかを特定する墓誌のような存在が何故存在しないのでしょうか。それは、それから下った平安期の摂関家についても似たり寄ったりのように思われます。藤原氏の墓域は判明しておりますが(京都宇治にある木幡地区)、その塚の内の何れが藤原道長の奥津城なのかは特定できておりません。そのことは、墓石に物故者の氏名が書き連ねられているごく一般的な現代墓地の在り方と古代中世の精神性との、途轍もない乖離を思わせるに充分であろうかと存じますが如何でしょうか。つまり、「死」に対する本邦の人々の精神性とは、決して柳田が指摘するような、一括りにして説明できるようなものではないと思われます。地域性・歴史的過程に大きく規定され、そこで大きく変化・変容・変貌を遂げているのが実際なのではありますまいか。

 勿論、佐藤氏の問題意識もこの点にございます。本来であれば、実に刺激に満ち溢れる本書の内容を詳細に御紹介いたしたいところです。しかし、ここでは差し控えようと存じます。その理由の大半は偏に小生の力量不足に起因いたしますが(端的に纏める自信がなく確実に4~5回連載になってしまいそうです)、もう一つの理由として、皆様に是非とも本書を手にとって味わい尽くして頂きたい……との思いを拭い去れないことがございます。幸い、古書市場を調べてみれば何時ぞやのような高騰は収まりを見せつつあり、お値段は比較的こなれております。佐藤氏による本書は、日本民俗学の権威として屹立する柳田による「日本人の死生観」が必ずしも十全なるものではなく、歴史的変遷に沿った変化・変容があることを指摘されております。そして、考古学・文献史学・古典文学・民俗調査等々に基づく史資料を豊富に引き合いにしながら「死」を巡る諸相を描き出しているのです。何よりも、その変遷を一筆書きのようなダイナミズムをもって描き出していることに瞠目させられます。そのスリリングさは正に手に汗を握るようであり、正に特筆すべき論考であると確信いたします。ここで「論考」などという用語を用いると、如何にも堅苦しく小難しい書籍かと思われるかもしれません。しかし、その様相とは、(佐藤氏にはお叱りを受けるかもしれませんが)時に御自身が脚を運んだ「霊場紀行」のようであったり、ある時には優れた「小説」のようなワクワク感に満ちあふれており、あたかも魅力的な「読み物」に接するが如き感銘をいただけるものと存じます。もし、この手の書籍に触れたことのない方であっても、先が早く知りたくて一気に読み通されることは間違いございますまい。日本人の死生観がかくもダイナミックに移り変わって今日までに至ったのかを、本当に息つく間もなくお示しくださる、実に魅力に満ち溢れる書物であり、絶対のお薦めの一冊でございます。

 小生は、斯様なる「精神史」を長い時代のスパンを通じて描きだす作業とは、個々の史資料から読み解ける事実を歴史の流れに沿って抽出して並べるだけでは十分ではないと存じます。それは「必要条件」ではございましょうが、それだけで読者が納得のできる叙述になることは難しいと考える者でございます。つまり、それに加えた「十分条件」が求められましょう。それが、個々の研究成果・調査成果によって明らかにされた事実が、歴史的に如何に変化・変貌・変容したのか、またその背景に如何なる力学が働いたのか、説得力のある推論をもって紡ぐことにあると考えます。そうした「必要・十分条件」が整ったときに、初めて「大河」のような滔々とした流れのよう「歴史の全体像」を示しうるのではないか……、つまり、それが「歴史的な見通しを示すこと」に他ならないのではないかと考えるのです。

 個々の歴史事象については、専門的な相当に密度の濃い研究が進んでおりましょう。しかし、歴史研究が余りにも細分化した個別的実証研究だけに留まってしまうと、必然として、大きな「歴史のうねり」、「新たな時代の胎動」といった所謂「歴史のダイナミズム」を描き出すことは難しくなるのではないかと思えるのです。確かに、長い歴史を守備範囲としようとすれば、当然手薄な部分も多々出て参りましょうから誤謬が生じる確率も高まりましょうし、専門的な実証研究の側からの疑義を呈される可能性も生じましょう。勿論、それでも構わない……などと申すつもりは毛頭ございませんし、個々の精緻な実証性こそが歴史研究の“基本のキ”であることに一縷の疑問もございません。ただ、無責任な放言に堕すことは決してあってはなりませんが、説得力のある推論の積み重ねをすることで、大きな歴史の推移を描き出してくれることを、小生を含む“一般の方々”は請い求めているのではありますまいか。

 飽くまでも素人考えに過ぎないのかもしれませんが、小生は、そのような意味で、昨今、かつての網野善彦(1928~2004年)氏のようなスケールの大きな歴史家が払底しているように思えて仕方がないのですが、皆様は如何お感じでございましょうか。勿論、所謂「網野史学」が個別の点において、破綻している部分があることも承知しておりますし、何よりも批判的に受容することが求められましょう。しかし、それは網野氏の研究に限らず、何方の研究成果にも当てはまることでございましょう。「網野史学」のスケールが余りにも大きいからこそ、逆に突っ込みどころも多くなることにも繋がっているだけだとも感じます。こうした現状を、泉下の網野氏は如何にお考えになっておられましょうか。小生は網野氏に直接お会いしたことはございませんので、そのお人柄を知るものではございませんが、「困ったものですねぇ……」と呆れていらっしゃいましょうか、それとも「悔しかったら貴方がそれに代わる壮大な歴史像を提示して見せてみろ!!」と嘯いていらっしゃいましょうか。そして、佐藤氏は心外に思われるかもしれませんが、佐藤弘夫氏の御研究(著作)にも、網野氏と同様のスケールの大きさを感じるのです。

 ここで、上述の内容と関連させ、一度本館常設展示のリニューアルについての話題に転じさせていただきましょう。本館リニューアル事業で、我々が目指すべき「大志」とは、通史展示の実現を通じて皆様に本市における「歴史のダイナミズム」を実感していただくことと考えており、実際に「リニューアル・コンセプト」にもその言葉を掲げております。そのために、千葉市域における大きな時代の移り変わりを、ストーリー性をもって構築し、皆様にドラマトゥルギーとしての歴史像をご提示することを目指しております。そのためには、限られたスペースの中に、各時代(原始・古代・中世・近世・近代・現代)のストーリーを構成するパーツとして、如何なる地域事象を採り上げることが有効なのかを精選する必要がございます。更に、これまでの研究で未だ明らかになっていないことであっても、時代の変遷を示す可能性の大きな歴史事象であれば、(そのことを断った上で)我々博物館としての「見通し」を示すことも必要ではないかとも考えるものでございます。何故ならば、博物館の展示とは、歴史についての実証研究の成果を基盤として製作されるものであることは当然でありますが、単なる研究成果発表の場ではないからでございます。ご覧くださるのは極々一般的な市民であり子供たちであります。言葉は悪いかもしれませんが、所謂「素人」の皆さんが、地域史の流れについて興味を持っていただき、更にはその移り変わりの必然性を把握していただけることを目指すべきと考えるところでございます。その具現化が図れますよう、我々も精一杯尽力して参る所存でございます。その力と勇気を与えてくださるのが、大きく歴史を紡ごうとされていらっしゃる、佐藤弘夫氏のような優れた先達の存在に他ならないのです。

 最後に、佐藤弘夫『死者のゆくえ』に戻り、終章冒頭における印象的な記述を紹介させていただいて本稿を閉じたいと存じます。本稿の冒頭近くで、佐藤氏が柳田國男の『遠野物語』の舞台で考えたことについて触れさせて頂きましたが、終章では御自身のご先祖が眠る宮城県の墓地でぼんやりと故郷の村を見下ろしながら考えたことを以下のように記されていらっしゃいます。本書の「序章」で抱いた疑問への解答が、こうして「終章」で円環を閉じるように構成されているのです。何とも心憎いまでの演出だと存じます。恐らく、佐藤氏は小説家として世に出られても後世に残る名作をものされたのではありますまいか。また、本書は終章において、単なる日本の歴史に留まらず、世界各地の民族における「死」に向かう人々の精神性との「比較」へと目を向けていらっしゃいます。ただ、単純な類似性と相違点の比較に終始する傾向が強いことへ注意を促され、「目に見える儀礼とそれを支える目にみえない精神文化が一体となって把握されて初めて、死の観念をその全体性において理解することができる。その段階を経て、私たちははじめて時空を超えた、死をめぐる本格的な比較文化論的研究に足を踏み入れることができるのではなかろうか」と釘を刺されてもおります。慧眼、正に従うべきでございましょう。

 

 ダンノハナからの眺めは、いつしか私のなかで、ふるさとの墓地から見た景色と重なっていた。私の故郷は、宮城県南部の山村である。私が小学生のころ、父の転勤を機に仙台に移住した。旧家は跡形もなくなったが、村の墓地には江戸時代のはじめから続く先祖代々の墓が残されているため、毎年お盆には欠かさず墓参りを続けている。
 ふるさとの墓地は村を見下ろす景色のよい丘の中腹にある。墓の掃除を終え、先祖に挨拶を済ませた私は、いつも墓地の一角の木陰に腰を下ろし、しばらくぼんやりと村を眺めることにしている。
 人家との適度な距離が保たれているために、生者の呻吟する声や、泣き声や、誰かを罵倒する声も、墓地までは届かない。村の日常の騒音から隔てられたこの地に眠る人は、残された縁者の日々の暮らしぶりを目の前にして、一喜一憂する必要は無い。だが、逆にもし村との距離がこれ以上離れてしまえば、どうであろうか。懐かしい家々のたたずまいも村人たちの表情も見分けることができなくなって、寂しい思いをするにちがいない。
 ここにいれば、きまぐれな風の向きによって、聞き覚えのある声が届くことがあるかもしれない。ときには子どもたちが歓声をあげて墓地を走り抜け、そのなかに自分の子孫の声を聞き分けることができるかもしれない。そうしたことをひそかな楽しみにしながら、かつて自分が暮らしたふるさとの光景と、残された人々が生活にいそしむ様子を静かに見守り続ける。――ふと気がつくと、いつもそこには、墓に眠る死者の側から村を見ている自分の眼差しがあった。
 ダンノハナも故郷の墓地も、柳田國男が『先祖の話』で、「無難に一生を経過した人々の行き処は、これよりももっと静かで清らかで、この世の常のざわめきから遠ざかり、かつ具体的にあのあたりかと、おおよそ望み見られるような場所でなければならぬ」と記した、まさにこうした地だったのである。
 このことに思い至ったとき、私はなぜ柳田が死者の行くべき地としてこうした場所を想定しなければならなかったのか、その理由の一端を理解できたような気がした。私は、この列島に生きる一人の現代人として、柳田の説くところに深く共感する自分を発見すると同時に、それが歴史的な事実を踏まえたものではなく、柳田の願望であり思想であることを改めて強く実感した。
 

 

 本著終章の末尾は「記憶に棲む死者」と題されております。その中で佐藤氏は、「葬儀の方法は時代と地域によって千差万別であり、常に変化していくものであって、これでなければならないといった約束事は存在しない。時が流れ舞台が移っても、変わることがないのはただ一つ、縁者の死を悲しみ故人を偲ぶ心である」とされた上で、「東北では、まだ迎え火・送り火の習慣を残す地域も珍しくない。日が落ちて涼やかな風が吹き始める頃、夕暮れのなかで門ごとに焚かれる小さな火が点々と続く光景は、私が日本の風景でもっとも美しいと考えているものの一つである」こと、そして「このささやかな焚き火の明かりが消えたとき、亡き人を想う気持ちは、どのような形をとって未来の人々の胸に受け継がれていくのであろうか」と投げかけて本書を締めくくっておられます。我が家には幸い「焙烙」は現存しておりますから、小生も8月の新暦「盂蘭盆会」を機に、久しく絶えている苧殻を焚いてご先祖を送り迎えする「迎え火」「送り火」、及び仏壇の盆飾りくらいは復活させてみようか……とも考えております。そして、何よりも忙しい日々に紛れて思い出すことの少ない、顔も見たこともないご先祖のことを偲んでみようか……などと、柄にもないちょっぴり殊勝な気持ちにもなっているのです。

杉本郁太郎の語る奈良屋のこと または杉本秀太郎の語る父と奈良屋のこと ―フランス文学者・文芸評論家・随筆家である杉本秀太郎の目に映った洒脱かつ闊達なる父の肖像―

7月21日(金曜日)

 

 於天守之 影の伸び来ぬ 夕佐久羅
[お天守の 影の伸び来ぬ 夕さくら]
(杉本 北柿 春)

 

 

 冒頭に掲げた句は、「奈良屋(ニューナラヤ)」最後の社長で、俳号「北柿(ほくし)」として俳人としても名を馳せた杉本郁太郎氏の作品でございます(初代千葉県俳句作家協会会長もお務めでした)。本作は、郁太郎氏が喜寿を前にして4冊目の句集「さく花」を上梓したのを機に、この千葉市で句碑建立の声が方々より上がった際に選ばれた一句でもあります。揮毫は県内でも高名な書家として知られた浅見喜舟氏の手になり、昭和55年(1980)年に本館の建つ「亥鼻公園」内に建立され、現在もその地に現存しております。句中の「於天守」が本館を指すことは申すまでもございません。句碑は猪鼻城の曲輪跡の一つで、現在は神明社が建つ場所の虎口右手にございます。実際に句集に当たった訳ではございませんので、俳諧に暗い小生にははっきりしたことはわかりかねますが、「夕櫻」が春の季語であるそうですから「春」の句としました。ただ、少々気になるのは、季語としては認められてはいないようですが「影が伸びる」はどちらかと言うと「秋」の気配を表すようです。お日様との関連で申せば「日脚伸ぶ」であれば明らかに「春」となりましょうが、「天守の影が伸びる」となれば小生は何方かと言うと秋色を感じます。当然、「夕さくら」とは花盛りの姿ではなく冬木立に近いそれでございましょう。皆様は如何読み取られましょうか。何れにしましても、この炎天下で採り上げるのはお門違いの句かと存じます。申し訳ございませんが、これにはちょっとした事情もございます。

 本展開催に当たっては、本稿で俳人としての杉本郁太郎の足跡も紹介させていただくべく、郁太郎氏の初句集『好文木(こうぶんぼく)』[昭和30年(1955)]を古書店で見つけ早速個人的に購入に及んだのです(昨今は資料購入予算は一切認められておりませんから自費購入をすることも間々あります)。因みに、この「好文木」とは中国の故事に由来する「梅樹」の別称であり、徳川斉昭が水戸「偕楽園」内に建てた「好文亭」も庭園が梅の名所であることに由来した命名であります。さて、古書店から届いた句集を実際に手に取ってみれば、瀟洒な和綴本であり、その作者を彷彿とさせるような如何にも教養溢れる装丁でございました。勿論、企画展展示品として活用する目的も併せての購入でありましたが、流石に展示の前に一読したいと願うのが人情でございましょう。ところが……であります。企画展担当者に一度手渡したところ、間髪を入れぬ「ありがとうございます!!」の一言と伴に、そのまま展示物品として集約されることに相成ったのでございます。そのあまりにも電光石火の対応に「ちょっと待って」と言い辛くなりました。つまり、パラパラと捲っただけで中身は全く読めず仕舞となって企画展へ突入となったのでした(涙)。現在は、展示ケース内に鎮座しており、取り出すことも叶いませんから、実際に作品に接することができるのは企画展終了後になります。9月4日(月)の展示替作業日までお預け状態でございます。もっとも、楽しみが先に持ち越された訳で、待ち遠しい思いでもあるのですが少々釈然としないモヤモヤ感は拭えません。要するに、時節柄として相応しい句をご紹介したくとも、句集が手元にございませんので如何ともしがたいのでございます。従いまして、本館近くに建つ句碑にある春の句のご出座となったという顛末でございます。

 さて、その後の郁太郎は、北柿名義で『寧羅(なら)』・『青丹(あおに)』・『さく花』・『匂ふがごとく』といった句集も編まれていらっしゃいます。『好文木』も限定300部の出版でございましたが、その他の句集も市販することを目的とされず、概ね発行部数も少ない非売品として親しい方々だけに頒布されたものと存じます。従いまして、なかなか古書市場にも顔を出してくれません。もっとも、千葉市内の図書館にも所蔵されているようですから、一度借りだしてみようかとも存じております。

 一方、杉本郁太郎氏は、昭和27年(1952)個人的に『奈良屋弐百年』を著し刊行もされております。こちらは、タイトルからも自明のように「奈良屋の“社史”」にあたる書物でございます。巻頭の「自序」で刊行の動機を以下のように述べられておりますので、引用をさせていただきましょう。こちらには、郁太郎氏が何故本書を著すことになったのかの経緯と、その発心の理由とが記されている点が貴重かと存じます。こちらも郁太郎氏の句集と同様、一般販売された訳ではなく関係諸機関に配付された書籍であります。従いまして、今日誰でもが手軽に手に取ることは叶わないものと存じます。よって、ここでご紹介することも決して無駄となることはありますまい。郁太郎氏の為人が偲ばれる文章でもあると存じます。また、併せて、本書の目次を掲げさせていただきましょう。

 

自  序


 父祖の業を継いで奈良屋入店以来、玆に二〇余年、齢また知命に達した。如何した事か頃日切りに温古の情の動くのを覚える。千葉本店は一応所期の建築計画を完成したし、重役幹部の陣容も一新強化した。世襲財産的に同族が奈良屋を経営するのも筆者が最後であらう。この秋に当たり奈良屋二〇〇年の歴史を回顧し、その淵源を探求して、一は以て自奮自戒の具とし一は以て役員一同の奉公愛店の資とすべくこの小冊子を発心した次第である。
  戦災で予て千葉店に整へて置いた資料を焼失したとは言へ、何さま二〇〇年八代に亘る文献は京都の本宅に数多く蔵されてゐるし、佐原店の土蔵には古文書が山をなしてゐる。そこで縁遠い奥向きの旧い考証や、枝葉に分れる傍系事業の詮索は他の機会に譲り、興味本位に奈良屋一本に纏めて見た。代々の事績に付いては本宅の仏間に納められた過去帖と代々の手記になる「相続記」との依る所が多い。明治大正年間の奈良屋に関しては主として先代の筆になる「内帖場覚簿」から抄録した。株式会社以降は筆者の記憶と会社の記録に俟つた。それでも旧い事で如何にも腑に落ちない節にぶっつかると、墓を叩いて先代新左衛門や別家林彦兵衛の教を請ひ度いと思つた事も一再ならずあつた。勿論別家の竹村熊二郎、川勝喜五郎老相手の茶のみ話も大いに参考になつた。
 本書は初め山田丑之助老に委嘱して編纂していただく心算だつたが、同氏もなかなか多忙な体なので思ひ切つて自ら筆を起した。同氏の助力を謝すると共に、将来「余禄」と言つたものをお願いして本書の缼を補ひ矯していただければ幸甚である。
   昭和二十七年四月三日   

 株式会社 奈良屋   取締役社長 杉本郁太郎

 

目  次

 

第一章 緒言

第二章 杉本家の先祖  一、「市」行商期 二、店舗創設期 三、商権拡張期

第三章 往時の奈良屋  一、佐原店 二、佐倉店 三、千葉店 四、京本店

第四章 往時の店則   一、教文記 二、定例書  三、為仕着定 四、年給分定

第五章 株式会社奈良屋 一、個人より会社へ  二、結社より戦災まで 三、戦災より復興まで

第六章 千葉店の復興

第七章 むすび       一、顧客の協力 二、店員役員の協力 三、取引先の協力

 

[杉本郁太郎『奈良屋弐百年』昭和27年(1952)【非売品 限定200部】]   
 

 

 

 更に、郁太郎は、『奈良屋弐百年』刊行の10年後となる昭和37年(1962)になって、本書の改定版とも称すべき『奈良屋弐百二拾年』を上梓されます。その際に郁太郎氏によって記された「改訂に当たって」を続けて引用させていただきます。再刊の動機について、図書館や大学研究室等から寄贈の申し込みが相次いだことにより旧著の頒布が終了したことを挙げ、千葉店西館増設完成が間近であることに鑑み、旧著改訂とその後10年の歩みを補足したとしております。新たな目次は引用いたしませんが、旧著の第6章に「二、株式会社丸京の誕生」と「三、千葉店の拡張」の2項目が増補されております。

 

改訂に当たって


 去る昭和二十奈々然に刊行した「奈良屋弐百年」二〇〇部は店役員、幹部店員、主なる取引先、株主の方々に頒つて笑覧に供した。これを読んで、初めて屋号「奈良屋」の謂はれを知り、商標「丸京」の意味が分り、千葉に古る「のれん」の因縁が明かになつた、と告白する役員さへあつた。
 其後各地の図書館や大学の研究室(日本商業史)から、本書の寄贈の申込が数多く来たのには驚かされた。因より喜んでその需めに応じたのだが、日ならずして全部出切つて了つて、手元に自分の書込用の一冊を残すのみとはなつた。研究家の中には、態々京都の本宅を訪ねて、古文書を一々写真に収めて行く熱心家のあつた。
 偶々今秋には、宿願の西館の大増築も完成するし、来年は創業寛保三年(一七四三)から数へて、丁度二百二拾年に相当するので玆に多少の改訂を加へて版を重ねると共に、旧著以来拾年間の出来事を補足し、題して「奈良屋弐百弐拾年」と称して本書を上梓する事とした。
 旧著の自序に出て来る竹村熊二郎、川勝喜五郎の両翁は既に幽明境を異にしてゐるし、元老山田丑之助氏亦一昨夏鬼籍に入るに至つた。謹んで本書をその霊前に捧げる次第である。


  昭和三十七年八月十六日   

株式会社 奈良屋   取締役社長 杉本郁太郎

 

[杉本郁太郎『奈良屋弐百弐拾年』昭和37年(1962)【非売品】]
 

 

 以上の2冊は、奈良屋の創業以来の歴史の概要を掴むための基本文献となろうかと存じますし、郁太郎氏の文才にも関心をさせられる書物となっております。社史を株式会社組織の社長自身が認めるなど聞いたことがございません。それだけ、先祖から引き継いできた家業としての自負が強かったのでしょう。極めて立派なお仕事だと存じます。ただ、当然のこと乍ら、昭和37年以降の千葉三越へと移行するまでの歩みはここには含まれません。また、紙数の関係で経営の詳細にまでは内容が及ばない憾みがございます。それを補う資料が、千葉敬愛経済大学経済研究所が、昭和42年(1967)に刊行された『千葉県商業史談 第一集 杉本郁太郎氏商業回顧談』となります。こちらは、インタビューに郁太郎氏が答える形式をとっており、相当にざっくばらんに経営の詳細について言及されております。こちらも今では入手困難であり、公共図書館にも所蔵されていないところが多いようですので、追って本稿にてもその内容をご紹介させていただく所存でございます。また、後に紹介させていただきます『奈良屋杉本家二百奈々十年の歩み 近世から近代への京商家-商い・生活・信仰ー』2013年(公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会)は、「奈良屋」終焉までをも含む歩みを、第三者である研究者の立場から検証された極めて優れた図録となっております。今回の企画展でもその研究成果に大いに参考資料として依拠させていただきました。奈良屋のことを知るための基本文献となると存じます。

 さて、『奈良屋弐百年』に戻ります。その「自序」で郁太郎氏が「世襲財産的に同族が奈良屋を経営するのも筆者が最後であらう」と記していらっしゃいます。つまり、家業を継ぐことのなかった9代目当主に当たる人が、郁太郎氏長男である杉本秀太郎(1931~2015年)となります。秀太郎氏は、新制京都大学文学部仏文科に進学。同大学院を経て京都女子大学文学部に職を得て助教授・教授に。更に日本文化研究センター教授に就任され、平成8年(1996)に定年退職をされていらっしゃいます。フランス文学者として、メーテルランク『ペレアスとメリザンド』1978年(岩波文庫)、アラン『音楽家訪問-ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ-』1980年(岩波文庫)、ボードレール『悪の華』1998年(彌生書店)等々の数多の作品の翻訳家として、『太田垣蓮月』1975年(淡交社)、『伊東静雄』1985年(筑摩書房)、『徒然草 古典を読む』1987(岩波書店)、『平家物語-無常を聴く-』1996年(講談社)等々の文芸評論家として、そして何よりも無類の文章力が魅力の数々の随筆をものされた随筆家として知られます。その随筆集として、『洛中生息(正・続)』1976・1979年(みすず書房)、『パリの電球』1990年(岩波書店)、『青い兎』2004年(岩波書店)等、数々の名作が犇いてございます。小生も学生時代より、その卓抜なる文章表現の世界に引き込まれ、今日に至るまでその作品群に魅了され続けております。その秀太郎氏が極めて稀なることに、父郁太郎について述べた随筆が残されております。以下で引用をさせていただきます文中にもございますように、秀太郎氏は「これまで父については、実記にせよ、追憶にせよ、ほとんどしるしたことがない」が、平成元年(1989)に父が87歳で鬼籍に入り24年が経過したことで「父も『家』の歴史のなかに入ったと思うので、人としての八代目について、この機会に少々書きとめておきたい」と記していらっしゃいます。
 
 勿論、身内のことなど殆ど記したことのない秀太郎氏が、それを破って父の肖像を描かれたのには、そのほかにも理由がございます。その随筆は、当時秀太郎氏が代表理事を務めていた「公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会」によって刊行された、先に紹介をいたしました『奈良屋杉本家二百奈々十年の歩み 近世から近代への京商家-商い・生活・信仰ー』の「序文」として認められたからに他なりません(秀太郎氏没後は奥方千代子さまが本財団の代表理事をお務めでいらっしゃいます)。公の記録等からは知ることのできない、身内の視点から見た郁太郎氏の、闊達な京町衆としての人間性が垣間見える貴重な証言となっております。是非とも熟読玩味されていただけましたら幸いでございます。なお、本図録は京都洛中に残る「杉本家住宅」にて1冊¥2.000で販売されております(こちらの目次も併せてご紹介をさせていただきます)。因みに、かつて「奈良屋」の京都本店であり、同時に杉本家本邸でもあった広大な本建築は、京町屋を代表する名建築として国重要文化財に指定されており、併せてその庭園は国指定の名勝ともなっており、現在も御子孫の手により大切に保存活用がなされております。何れ、杉本家住宅につきましても採り上げてみたいものと存じます。何はさておき、名随筆家でいらっしゃった秀太郎氏の綴る、奈良屋と父の肖像とを味わってくださいませ。
 

「序」            
 代表理事 杉本秀太郎


 「家」の歴史にとってもっとも大切なものは、代から代に言い継がれてきた伝承である。それは小さな物語あるいは片々たるエピソードであっても、その「家」にしか通用しない調子(トーン)をおび、匂いに染まり、波紋にいろどられているはずである。
 例えば、私どもの「家」の初代は、伊勢国飯高郡粥見村に生まれ、十四歳のとき京に出て奉公し、齢四十をすぎてのち、独立して一家を構えた人だが、商いに熱心なあまり、二度まで嫁に逃げられたと伝えている。子も儲けなかった。跡継ぎには粥見村から甥を迎えた。二代目の次男で三代目を継いだ秀明という人は闊達聡明、商いを大きく伸ばしたが、すでにして利他の心映えがあり、また、日常生活において粗略を嫌い、床飾り、家具調度、食器に意を用いていたことが、二百年昔の人なのに、今も私どもの肌身に感じられるのは、これが「家」の歴史の生きている証拠と言えば、手前勝手に過ぎるであろうか。秀明は文政十三年(一八三〇)五十九歳で没した。
 三代目の長男の四代目、その弟五代目は、文化、文政、天保の世に生きた京都人らしく文雅の方面に趣味多く、馬勇と号した五代目にいたっては、蕪村風の自筆挿絵を添えた『夢の記』という遊里めぐりの巧みな戯文さえ残している。明治維新を挟んで生きた六代目は、七代目の嫁を迎えるにあたって、大晦日というのに、大木丸平人形店に足を運び、吹抜けの御殿の雛人形一式を注文したという。大旦那振りが察せられる。
 私の父郁太郎は八代目だが、これまで父については、実記にせよ、追憶にせよ、ほとんどしるしたことがない。父は平成元年(一九八九)、満八十七歳で没した。死後二十四年が過ぎて、父も「家」の歴史のなかに入ったと思うので、人としての八代目について、この機会に少々書きとめておきたい。
 郁太郎は、分家杉本米三郎の長男として明治三十五(一九〇二)年一月七日出生。姉四人があった(のちに弟五人、妹一人)。米三郎は本家の家業奈良屋の経営改善に苦心する進取の人だったが、郁太郎の小学校卒業にさいして、秘蔵の長男をあえて東京に送り込むことを考えた。折しも郁太郎の姉の一人が安田海上火災社員と結婚して東京にあったので、その許から通学させればよい。郁太郎は高倍率の東京府立四中を受験し合格した。三学年の秋、父米三郎が重い神経衰弱に陥り、療養生活を余儀なくされたため、大正七(一九一八)年三月、郁太郎は京都に呼び戻された。転校願いを提出した京都府立一中の森外三郎校長は成績簿を見て直ちに四学年転入学を許可した。
 一中在学中の二年間、父は講堂で式典のあるごとに合唱のピアノを担当した(先生方にこの楽器を扱える人はいなかった)。父のピアノは姉たちに手ほどきを受けたのちは独習だったが、のち、大正十四年六月、日本放送協会大阪放送局が開設されたとき、大阪のヴァイオリニスト矢野八重子の伴奏者としてサラサーテ《ツィゴイネルヴァイゼン》を放送したくらいの腕前は持っていた(このときの録音盤が残っていたが、只今所在不明)。父は生涯ピアノを愛好していた。私の幼少年期、千葉から京都に帰った日には、生家の分家から移したピアノ(日本楽器製造株式会社【現ヤマハ】初期の製品、小型アップライト)でショパン《二十四の前奏曲》中の六、七、十五番をよく弾いていた。子供向きには《エリーゼのために》《乙女の祈り》《月光の曲》《クシコス・ポスト》など。また、晩年におよんでも、親類の男女の集るときには自在に移調して唱歌を伴奏、ご機嫌この上なかった。
 大正九(一九二○)年三月、府立一中を卒業。同級百五名のうち、のちに知名となった人には今西錦司、西堀栄三郎、猪熊兼繁、千覚二郎(宗左)、下村寅太郎、長尾正人、三雲祥之助などが見られる。
 同年四月、郁太郎は大阪高等商業学校に進み、大正十三年三月卒業、三越大阪支店に就職した。念願の職先であった。五年間務めて昭和四年二月、三越を退社。本家に婿養子として入籍して奈良屋入店、結婚。このとき、本家店の間の一部を改造して洋室としたが、改造は大阪三越の家具部に委嘱した。この年、郁太郎の父米三郎没、六十歳。
 昭和四年より六年にかけて一年半のあいだ、郁太郎は奈良屋の佐原店、佐倉店、千葉店の実態を見てまわり、経営改善に備えたのち、昭和六年八月、奈良屋千葉店を本店として株式会社奈良屋を設立。三越をモデルとする百貨店形式の経営に着手。この年一月、秀太郎出生。
 以後の父の生活は千葉と京都に二分される。奈良屋は次第に大きくなって、父は千葉に別宅を設けた。
 昭和二十年七月六日夜、アメリカ空軍による千葉空襲により全店焼失。焼け落ちる直前に脱出して無事。翌二十一年、新展開業。これ以降、奈良屋は千葉市の人口増大に相即して店舗増築拡大をつづけ、父は繁忙を極める一方、昭和二十九年、五十二歳で千葉商工会議所会頭に推され、三期半、七年間、この要職にあった。父は経済人としての面目をこの期間にほどこしたと見てよいだろう。
 奈良屋百貨店のその後については、今は省略して別稿に委ねたいが、父は奈良屋の経営に文字通り尽瘁する晩年を送った。
 父は多趣味な人であった。趣味というより嗜み、あるいは心の用意とでもいうほうがふさわしいのだが、ピアノについてはすでにしるした。その他に、嗜んだものに俳句と俳画と書があった。二十五、六歳から虚子の主催する「ホトトギス」誌に投稿を始め、ときに選に入っていた。四十歳の頃より一日一句の句日記に取りかかり生涯つづけていたので、数限りもない句を残し、自選句集六冊を世に出した。俳号は北柿。俳画にも巧みで、墨書して俳句をしるした便りの葉書には俳画を添えるのを忘れなかった。
 書は楷、行、草ともに能書であった。小学校時代には書家東南帰一郎(下京区綾小路寺町在)の塾にかよった(府立一中の同級西堀栄三郎とはこの塾ですでに旧知の間柄だった)。三十四歳のとき、湖東道人小林健吉に師事して書をまなんでより、父の書体は成熟に達した。
 父は文人気質の人ではあったが几帳面で、万事に煩を厭うことはなかった。また、孤独癖を蔵していながら賑やかな集りを好んでいた。千葉市中の料亭に気の合う仲間を呼び集め、芸妓の歌舞音曲を愉しみ、盃をかさね、席画に時を忘れた。
 このように外向きには派手なことをする一面、父は内向きには質素をむねとし、息子の私に対しても、無心をねだられたりするような隙は決して見せなかった。それにつけても思い出されるのは、私が京都大学文学部に入学したとき、父と交わした対話――

 「秀太郎、君は将来、フランス文学をやるというが、どうして食っていくつもりだ」
 「筆で立ちたいと思ってます」
 「口でいうのは簡単だが、君、それは大変だぜ……しかし、いいよ。君は君のやりたいことをやれ。但し、自分のやることに責任を持て」

 しずかにこう言い切った父は、以後二度と、私の進路については触れなかった。そしてこの年(昭和二十四年)より三年後に出版した著書『奈良屋弐百年』の「自序」には「奈良屋を一族が継ぐのは、私をもって終わりとなるだろう」としるした。父は息子の退路を断つことによって息子を尊重したのである。
 これについて思い起こすことがある。それは京都府立一中の森外三郎校長のことなのだが、森校長は毎年、入学式の式辞には、満十二歳の少年たちにむかって、「本日より、諸君を紳士として扱う」と、ただそれだけを告げて降壇するのを常とした。父は転入学決定後、森校長に呼び出されたとき、同じ一言を聞いたと言っていた。父はあのとき、息子の私を「紳士」として、すなわち一人前の人として扱ったのである。
 私を決して甘やかさなかったのはこの通りだが、一度だけ例外があった。昭和四十二(一九六七)年七月より翌年七月まで、私は当時勤めていた京都女子大学の在外研究員としてパリに留学したが、年が改まったのち、支給の研究費百二十万円に欠乏を来たし、思い切って父に六十万円の無心を言った。当時は外貨持ち出しに制限額があった。父は折しも百貨店協会の海外視察団に加わった奈良屋社員を介して、即刻、だまって金を届けてくれた。この救援のおかげで、三月から五月にかけて、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、再度イタリアに、美術巡歴の旅をかさねることができた。このときの経験の日々は、私の尽きざる資源となって今も活きている。

 さて、こうして父祖のことを思い付くまましるしてみると、三代目以降、私にいたるまで代々、余裕のある生活を享受してきたことがよく分かる。それが可能だったのは、一にも二にも家業の奈良屋があったからである。生活を支える経済方面がどういう仕組になっていて、仕組みどのように機能していたか。これについて何ら知るところがないのでは、人としてあるまじき愚か者というべきだろう。ところが私はその愚か者の条件をのみ充たして生きてきたうつけものにひとしいのである。土蔵の中には、奈良屋関係の帳簿や古文書、本家と分家の生活様態を伝える書類、矢田町と南膏薬図子(現新釜座町)の町組、家作の文書などが山積している。この古文書類の山を掘り崩して分類整理し、正確に読み解く仕事が、是非とも実行されなければ、私の無知はいつまでもほどけないであろう。
 幸いにも、鈴木栄樹さんを中心とする古文書調査員が、春夏秋冬、折あるごとに参集して研鑽された多年の結果が、その一部にせよ、ここに公表の運びとなった。これの恩恵に浴する最初の一人が私であることに新たな感慨をおぼえつつ、調査会の皆さまに厚く御礼を申し上げる。そして本書が一軒の京町屋の内実を客観的に捕らえる資料となるのを期待すること切なるものがある。


(平成二十五年十月八日記)

 

『奈良屋杉本家二百奈々十年の歩み 近世から近代への京商家-商い・生活・信仰ー』2013年(公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会)

 

目  次

序     杉本秀太郎

    杉本家系図

    凡例

第1章    奈良屋杉本家の当主たち(鈴木栄樹)

第2章    杉本家の歩んできた地域(牧 知宏)

    ふるさと粥見…京都への定着…他国店持京商人として…【コラム 二つの祇園】

第3章    呉服商奈良屋の経営(鈴木敦子)

    商いと経営…行商と出店…【コラム 呉服物を扱った江戸時代の商人】

第4章    杉本家の製茶業三丘園(宇佐美尚穂)

    杉本家と製茶業…三丘園の茶園と製茶場…三丘園の経営と販売

                    【コラム 六代目新左衛門と茶の湯】

第5章    奈良屋杉本家の奉公人(寺嶋一根)

    奈良屋杉本家で働く人々…奉公人の昇進と別家…奉公人の生活

第6章    杉本家における人生儀礼(佐竹朋子)

    杉本家における生育儀礼…杉本家における婚礼…奉公人の別家と婚礼…杉本家における年忌法要

第7章 杉本家と西本願寺(上野大輔)

    真宗への帰依…門主との交流…勘定方としての活動…直門徒への取り立て

第8章    幕末維新期の奈良屋杉本家(鈴木栄樹)

    天保期・嘉永期の施行…幕末動乱のなかで…明治初年の奈良屋杉本家…

                    【コラム 安政三年の鴨川土砂浚】

むすびにかえて  杉本歌子

参考文献

写真・図・表一覧

略年表


 

 

 

 企画展も開幕以来一週間が経過しようとしておりますが、毎日のように数時間かけて熱心に展示物をご覧いただいている方に出会っております。また先日、「10冊でも20冊でも纏め買いするから、是非とも図録を刊行してほしい」と熱心に訴えるお客さまもいらっしゃいました。来館表から判明するのですが、驚いたことに千葉市内だけでなく、県内はもとより神奈川県・東京都・茨城県から本展目当てにお出でくださったお客様も沢山いらっしゃいます。また多田屋関係の皆様や、奈良屋と深い所縁を有する関係の方々にも多数ご来館いただき、懐かしい話に花が咲いているようでもございます。大変にご好評をいただいていることを館員一同、心より嬉しく存じあげます。そういえば、これまでに東京新聞・千葉日報の取材をお受けしております。また千葉テレビニュースでも既に報道されております。改めまして、皆様のご来館を心よりお待ち申しあげております。

 

 

資料紹介「杉本郁太郎かく語りき」(その1) ―千葉敬愛経済大学経済研究所『千葉県商業史談』第一集 「杉本郁太郎氏商業回顧談」より―

7月28日(金曜日)

 

 

 今回の本稿は、前稿内で予告させていただきましたとおり、副題に掲げました標記書籍の内容を紹介させていただきます。本書は、昭和41年(1966)に開学した千葉敬愛経済大学[昭和63年(1988)現在の「敬愛大学」に改称]に初年度から設置されておりました「経済研究所」において、千葉県の産業・経史の研究と現状分析に資するための史資料の収集と、経済・産業界長老の回顧談を集めることの一環として、昭和42年(1967)9月30日に刊行された書籍となります。本書刊行の前年には銀行界長老の方々の回顧談を『千葉県銀行史談』全5冊を刊行されており、本書はそれに続く『千葉県商業史談』の第一集として刊行されたものとなります。

 本調査資料集の編集代表者でいらしたのが、当時本研究所の所長をお務めであった土屋喬雄(つちやたかお)氏(1896~1988年)でございます。土屋氏は東京大学名誉教授の経済学者であり、日本経済史を専攻されていらっしゃいました。土屋氏のよく知られたご功績は、昭和11年(1936)から28年間に亘って『渋沢栄一伝記資料』の編纂に関わられたことにございましょう(1965年度「朝日賞文化賞」受賞)。本書を拝読させていただいても、その質問はまさに「痒いところに手の届く」の例えが相応しい極めて的を射たものであり、他の書籍では知り得ない近世以来の商家経営の在り方等々を、郁太郎氏から適格に引き出していらっしゃいます。小生は、本書のお蔭で御本人の著書等々からは知り得なかった、「奈良屋」経営の詳細を知り得た部分が極めて大でございます。勿論、本書の価値をいや増しにしているのは、杉本郁太郎氏の明晰で客観性に富んだ御証言にあることに異論はございますまい。いみじくも本書「まえがき」で土屋氏がそのことを述べておいでであり、それも以下に引用させていただきます。土屋氏の仰せには誠に以て同感でございます。かほどに貴重な資料であるにも関わらず、本書は現在入手困難であり、古書としても出品されて居らず、県内図書館でも所蔵されているところはあまりございません(県立中央図書館にも)。小生は、本企画展担当の遠山成一研究員が、本家本元の敬愛大学図書館所蔵品を発見されて借り出してくださったものを幸運にも拝読することが叶ったのです。その結果、これだけ貴重な証言に多くの皆様がアクセスできないことは、きわめて大きな損失だとの確信に至り、この場で内容を御紹介させていただくことを決意致した次第でございます。如何せん200頁になりなんとする内容を一度や二度で紹介することは不可能であります。従いまして、不定期になりますが、郁太郎氏の発言は全て御紹介をさせて頂く所存でございますので、是非ともお楽しみにされていてください。現在小生はリニューアルを含む業務が建て込んでおり、あれこれと書籍を読んだり、他へと脚を運ぶこともできておりません。本書の引用であれば、文字打ちをする手間は半端ないものの、さほどに頭脳を駆使せずに実行可能であります。従って、余計なことでありますが、この続きが掲載されたときには、きっと奴も多忙を極めているんだな……と思っていただけましたら幸いでございます。

 

まえがき(部分)


 (前略) 杉本社長は、非常に多忙のところ、差繰られて、われわれのため毎回二時間ほどづつ回顧談をして下さった。本集をお読み下さる方は直ちに気付かれると思うが、杉本社長は、頭脳明晰、視野も広く、かつ優れた記憶力をもっておられ、千葉県商業誌研究上はもちろん、わが国の商業史研究上にもきわめて有益な、内容豊かなお話をしてくださった。とくに私として、感謝したいのは、社長が社会科学者にもふさわしいような、率直で、客観的で、主観を多くまじえない淡々たる態度で、回顧談をして下さったことである。かくて杉本社長の回顧談は、商業経営史のみならず、商家の家族社会学的研究にも、貴重な資料を提供するものとなったのである。私としては、杉本社長に深謝すると同時に、商業史研究者にも、家族社会学研究者にも本書を精読されんことを期待するものである。


昭和42年9月23日

            千葉敬愛経済大学経済研究所 所長 土屋 喬雄

 

 因みに、本書の著作権について確認をさせていただきます。著作権保護期間につきましては、2018年12月30日をもって新たな保護期間が発効しており、従来の50年から原則として著作権者死後、団体名義発行の場合は刊行後、それぞれ70年に延長されております。ただ、その施行日時点で50年の保護期間が消滅している著作権については当該法規が適用されません(保護の不遡及)。本書の場合、土屋喬雄を編集代表者としておりますが、飽くまでも研究団体名義での発行でございますから刊行日からの保護期間で計算されます(個人名義での刊行の場合は死後からの保護期間となります)。従いまして、本書につきましては、昭和42年(1967)12月31日まで以前に刊行された団体名義による発行書籍に該当しますので、現行法施行以前に既に保護期間が失効しております。つまり、著作権保護期間が遡って70年となることがございません。保護期間満了の作品は「パブリックドメイン(著作権をはじめとする知的所有権が発生せず誰でも利用できる状態)」となりますから、引用をさせていただくことに権利関係が発生することはございませんので一言申し上げておきたいと存じます。

 まず、「本調査 概要」と「本書 目次」とを以下に引用をさせて頂きます。昭和42年(1967)の段階での聴き取り調査ということになります。同年3月には、昭和38年(1963)に現在の場所に移転した国鉄「千葉駅」前に「千葉そごう」がオープンしており、千葉市中心における商業圏に大きな地殻変動が起ころうとしていた頃でございます。同年11月には、奈良屋でも巻き返しを図るかのような一手が打たれており、それが北館の建設による店舗規模の拡大でございます(総売場面籍21.000㎡)。しかし、その僅か4年後の昭和46年(1971)には、これまでの本店を「セントラルプラザ」とし、駅前に移転した「ニューナラヤ」を開店していることからも、この地殻変動が如何に大きなものであったかを想像することができましょう。「目次」以降の引用文は今回「第Ⅰ章 第一節」のみとなります。因みに、「本調査 概要」には氏名が無く、今回分には登場いたしませんが、同研究所研究員である前田和利氏も質問者として追って登場しておりますので、事前にこの場で御紹介をさせていただきます。
 

語り手  杉本郁太郎 氏(株式会社 奈良屋 社 長)
     矢田利三郎 氏(株式会社 奈良屋 相談役)

聴き手  土屋 喬雄  (千葉敬愛経済大学 経済研究所 所 長)

日 時  第1回 昭和42年(1967)5月11日(木曜日)
     第2回 昭和42年(1967)5月25日(木曜日) 
     第3回 昭和42年(1967)6月 1日(木曜日)
     第4回 昭和42年(1967)6月29日(木曜日)
     第5回 昭和42年(1967)7月 6日(木曜日)

場 所  株式会社 奈良屋 千葉本店内 
 

 

目  次


Ⅰ 奈良屋の沿革と社長杉本郁太郎氏の経歴
 一、氏の経歴と杉本家の家系およびその経営の在り方
  二、三越大阪支店への入社と百貨店経営法
 三、奈良屋経営の引受
 四、株式会社への改組とその後の発展過程

Ⅱ 呉服商時代における経営の推移
   一、行商期における経営の諸問題
  二、店舗商期における経営の諸問題
   (1)「あきない」の方法
     (2)別家制度の成立・消滅とその影響
    (3)経営諸制度の成立諸点
    (4)商業の方式と仕入れ
    (5)取り扱い商品の種類と販売方式
    (6)店員数とその出身地
    (7)店員制度の改革
    (8)佐原商人仲間との関係
    (9)詩本蓄積とその運用方法

 Ⅲ 百貨店奈良屋の歩み
   一、百貨店の生成・発展過程とその経営精神
   二、百貨店の生成・発展過程に伴う経営の改善
   三、戦前における千葉商業会の動向と戦時の経営
   四、経営規模の推移
    (1)資本金と配当の推移
    (2)売上高の推移
    (3)店員数の推移
   五、百貨店法と日本百貨店協会への加入
   六、戦後における経営の革新と百貨店経営法の根本
   七、千葉県経済の発展に伴う諸影響
    (1)消費人口の増加に伴う影響と千葉商業界の諸問題
    (2)仕入関係について
   八、氏の経営理念と人間性
   九、件居合い経済界等における諸活動
 

 

Ⅰ 奈良屋の沿革と社長杉本郁太郎氏の経歴
一、氏の経歴と杉本家の家系およびその経営の在り方
 
土屋 どうもたいへんおいそがしいところ時間をおさき下さいましてありがとうございます。社長が奈良屋さんの経営にタッチされました以後のことを主にしまして、多少それ以前のこともお話し願いたいのです。

まず戸籍調べみたいになりまして恐縮でございますが、やはり社長のだいたいの略歴をうけたまわっておいたほうが、いろいろなお話しをする上に都合がよろしいものですから、概略の御履歴を伺いたいのです。

杉本 私、八代目ということになっているんですが、七代目[杉本新左衛門 明治5年(1872)~昭和10年(1935)]には子供がございませんでしてね。男も女も一人もないんです。私は分家の出なんです。やはり杉本と申しますが、分家の私、総領なんです。兄弟は大勢おりますんですが、11人兄弟で、私の上に姉が四人おりまして、私、私の下には弟が5人と妹が1人、しめて11人おりますけれども、ともかく私が長男なんです。本家に子供がないときには、前々から分家から後をつぐことになっているので、またそのための分家でして、そのため私が長男でございますが、おかしな話ですが、一応隠居しまして本家へ籍を入れましたわけなんです。家内もまた外から貰ってまいりました。両養子というわけです。私は先代から申しますと先代の従兄の息子です。家内は先代の連れ合い、つまり私の養母の姪になるんです。そういうのを持ってきて養子、養女にして八代目を継がせたと言うかっこうです。
 そういうわけで、私は分家の杉本家の長男としてずっと小学校は京都。京都の町の真中です。それから中学校に入りまして、どういうわけか姉が東京に片付いておりましてそれのところへ遊びに行っておりました時に、いっぺん東京の中学校に入ってみるかということで、東京の四中をうけまして入っちゃったんです。それでも、当時は非常に競争率は激しかったらしいです。四中を三年までやりました。そうしたところが、私の実家の実父が病気になりまして、その後10年間病院生活をしたんですが、こまるから京都へ引き上げてこいというので、四年から京都の府立一中へ転校致しました。したがいまして、一応中学校は京都の一中出ということになっております。それから大阪商大(現・大阪市立大学)の前身の大阪高等商業学校を出ました。大阪を選びましたのは、当時は神戸の高商もあったんですが、京都の本宅からずっと通学していたんです。大阪の高等商業を出ますと、三越のそれも大阪の支店へ入れて貰ったんです。
土屋 大阪の高等商業をご卒業になったのは何年ですか。
杉本 大正13年。
土屋 お生まれは明治35年でございますね。
杉本 はい。35年です。
土屋 御卒業になってすぐに三越の大阪支店にお入りになったんですね。
杉本 ずっと昭和4年まで大阪の三越におりました。京都から通っておりましたわけです。丸5年です。たまたまその頃に、私が本家へ跡継ぎに籍を入れるという話が起こりまして、それと前後して正式に本家の八代目を継ぐことになったんです。
 そうしまして、昭和4年になりまして、三越生活も丸5年になるからこの辺りで家業をやれということで、当時は佐原が本店でしたので最初に佐原の店へまいりまして、しばらくはまだその頃は女房を貰って降りませんので佐原にいたり、当時は佐倉に支店がまだありまして、私が株式会社に改組してから閉鎖しましたが、佐倉にいたり、あるいは千葉へ行ったり、また京都へ戻ったりなんていうようなことを一年半ぐらいやっておりました。そして家内を貰いましたのが昭和4年です。正式に貰いましたと言うか両方入籍しましたんです。以来ずっと昭和6年に一応自店の組織を個人から株式会社に改めて、株式会社に改めると同時に、京都のほうはもう会社とは切り離して私の居宅だけにしました。こちらの方はいままで佐原が本店格だったのを千葉店を本店にし、佐原を支店、佐倉の店がどうももう一つ成績があがらないので、会社にします時を機会に閉鎖したんです。それが昭和6年です。
土屋 いままでのお話のことでなおちょっと伺っておきたいことがあるんですが、これ(社史『奈良屋弐百年廿年』)にもありますように、御本家とおっしゃいますのは杉本新左衛門とおっしゃるお家でございますね。初めは新右衛門とおっしゃいましたが。
杉本 三代目から新左衛門に変わります。
土屋 新左衛門に変わられたのですね。あの昨年の夏私共がお伺いさせていただきました京都の下京区綾小路のお家が御本家ですか。
杉本 そうです。私の実家はその向かいにあります。お気付きだったと思いますが。

土屋 分家と仰る社長のご実父は何とおっしゃいましたか。
杉本 米三郎と申します。
土屋 それで杉本家は奈良屋ともうこの時分からおっしゃっていたわけですか。
杉本 奈良屋というのはもう古くからです。
土屋 それで御本家に対する米三郎家はどういうご関係ですか。
杉本 それは上から申し挙げましょう。初代[杉本新右衛門・宝永元年(1704)~安永5年(1778)]は終生妻取らなかったんです。これは笑い話ですけど、妻取らなかったんじゃない、非常に創業型の人ですから貰った女房が居着かなかったんだなあ。女房何かはどうでもいい、もう商売一方だったんだと僕は思うんだ。明けても暮れても算盤はじいていた。くる女房くる女房みんな逃げて帰ったんじゃないかと思うんです。古文書というものは、昔の人は出鱈目な字を使うんで、「どこそこの何の何某の娘を妻取られたけれども、縁が無くて離縁された」、その離縁が利益の利と書いてあるんだが、それで生涯妻取らずと書いてあるがどうもそうじゃないらしいんだ。その後も貰ったんだけど居着かなかたらしい。まあ創業型の人ですからねえ。そういう遠い東海道をさらに江戸を下りつくして下総くんだりまで行ったんだから、そんな留守を守っている女房というのは偉いもんですよね。
 それで初代は子供無し。したがって二代[杉本新右衛門・享保20年(1735)~文化2年(1805)]は初代の甥です。これは自分の郷里の伊勢松坂在の粥見から自分の兄弟の子供を連れてきたんだ。二代は初めて子供さんがありまして割合たくさんあるんです。あるんですがみんな夭折している。だいたい疱瘡ですね。昔は疱瘡というのは命取りだったらしい。こちらでも「七五三」なんてやりますが、京都じゃ七五三という習慣は昔なくて十三になって初めて「十三参り」というのをやるんですが、だいたいそれまでに整理されちゃうんだなあ。だいたいみな疱瘡のようです。疱瘡は命取りのようでした。
 それから三代[杉本新左衛門・安永元年(1772)~文政13年(1830)]。この人は二代の次男でして、この人の時代に正礼制度ですとか品取替の自由、店の諸制度なんていうものが作られるようになったんです。
 四代[杉本新左衛門・寛政9年(1797)~天保8年(1837)]は三代の長男ですが、四代には子供がありませんで、弟がありまして、それが初めて分家して南となったんだ。ところが分家しますと間もなく兄さんが死んじゃった。また追いかけて本家へ戻り五代目[杉本新左衛門・寛政10年(1798)~嘉永5年(1852)]を継いだんだ。四代・五代は兄弟で、年代がそれぞれを通じて短いです。ですから、四代目の弟が五代目を継ぐ前に初めて分家南杉本家を始めたんだけども、とたんにまた本家へ戻らざるを得なくなりました。
 それから五代目は四代目の弟ですが、これも割合たくさん子供がありましたけれど、やはり次男が六代目[杉本新左衛門・天保8年(1837)~明治30年(1897)]を継ぎましたね。男の兄弟で残りましたのはこの次男だけです。
土屋 その他はやはり夭折ですか。
杉本 夭折が多いです。男女共に夭折が多いようです。
土屋 昔は衛生状態も悪いでしょうし、また医学の未発達のせいでしょうかね。
杉本 その六代目に子供がなくて七代目の新左衛門もまた養子です。八代目はさきほど申し上げたように私です。六代目、七代目と二代続いて私共には子供がなかったんですね。
 それで本家に対する私の実家の関係ですが、さきほど申し上げましたように、奈良屋の分家は四代目の弟が初めて分家して南杉本家となったんだが、すぐに本家へ戻っちゃったわけです。ですから、これは南の初代と勘定しないことにします。そうすると南の初代は誰かとなりますが、五代目には娘がありまして、それと杉本治郎兵衛というこれちょっとわけがある人ですけれど、この人を妻合わせまして南杉本家というものを改めて造っているんです。南側に家がありますので南と呼んでいます。南の分家は五代目の実の娘から始まったわけです。この南の初代には男の子が二人あったんだけれど早くに無くなったので、娘の子供つまり南の初代から申しますと孫になるのが南の養子として南の養子として南二代目を継いだんです。これが私の父米三郎です。その総領が私となるわけです。南杉本を継ぐ私が本家へ入りまして、したがって南杉本は私の次の弟が継いでおります。
土屋 南の杉本さんが分家なさいましたのは何年頃ですか。
杉本 明治のごく初年だと記憶しております。きわめて初年でしょう。あるいは慶応年間くらいであったかもわかりません。
土屋 奈良屋さんの分家は南の杉本さんだけでしょうか。
杉本 もう一つ、中杉本家があります。本家は北側にあるので、これを北杉本といい、私共の実家の南は南側にあるので南、その間にもう一軒あるんです・中杉本家と申します。
土屋 そのお家はいつ頃出来た分家ですか。
杉本 これはちょっと年代は南より新しいのですが、明治20年頃でしょうか。
 中杉本というのは、南の初代の娘を南から分家させて創めているんです。それにできました長男、幼名為一というのが七代目を継いでいるんです。ですから、六代目を継ぎました七代目は中杉本から来ており、八代目の私は南杉本からきているかっこうになっているわけです。本家に種が絶えた時は分家から補給したわけですが、分家からいうと南杉本が中杉本より上だったんです。
土屋 そうしますと分家は二軒ですね。
杉本 そうです。あとは老年の別家、長年勤務していた番頭さんに「角杉」のマークをくれてやっておりますが、これはいわゆる別家です。
土屋 別家は何軒ありましたか。
杉本 別家は一番多いときで十軒くらいありましたですか。といいますのは、本宅の横にずらっと軒を並べて住まわせております。それがこの間の戦争を機会になくしましたけれども、それと私がやるようになってからみんな千葉に引き上げてまいりましたでしょう。
 昔は参勤交代制が取られていたんです。本宅はどこまでも京都においといて、本家の横にずらっと軒を並べて住まわせておき、本人だけが昔でいうと佐原店へ下って来たり、佐倉店へ下ってきたりしていたんです。そして半期づつ勤めるんです。一年を半年だけしか勤めないんです。上半季だけ勤めますと、下半季は京都へ帰るんです。それで京都の仕入店を面倒みているといいますかね。その時にまた下半季だけこちらへ下る人があるんです。上半季やる人と下半季やる人は別になっておった。ですから、人物経済からいいますともったいない話ですよね。それで私がやるようになってからそれはやめようということでやめました。
 理由のもう一つとしましては、もう京都で仕入れする必要がなくなってきたんです。京都の呉服屋さんがみんな東京の掘留界隈に支店を持つようになりましたので、わざわざ京都で仕入れしなくても東京の堀留で仕入れが出来るということからそんなこともありまして、京都仕入店を丁度私が会社に改組致しますときに閉鎖しました。さっき会社を改組する時に京都は切り離したと申しましたのはそれなんです。京都の仕入店をやめちゃったんです。
 したがいまして、今までのような人物の使い方もできなくなりましたし、またその必要もなくなったので、引き上げる者は全部こちらの千葉へ世帯を私が移させました。
土屋 別家の人達全部ですか。
杉本 はい。でもやはり老人達はなかなか土地を離れたがらないので、じゃ若いのだけこっちへ来いといったようなこともありまして、結局だんだん別家はこちらへ引き上げて来るし、また京都に残っていた別家も歳いってなくなりなんかしまいて、戦争頃にはずっと減って五軒ぐらいに半減しておりました。それも戦争を機会に例の少しおかしな話になりますが、非戦災税なんかの問題がありました時にみんなそれぞれにそれを売りました。住んでいる別家にその持家を売ってあげまして、そうしているうちに京都はあまり住みいい所じゃないもんですから、その別家がまたその不動産を他人に譲ったりなんかしましたので、いまでもうちの昔の別家のおりました建物は本宅の横にづらっとありますが、住んでいる人はもうすっかり変わってしまいました。
 どうも少し話が時代な話でちょっとこう先生なんかのお耳に直ぐには入らないかもしれませんが、昔はそんなわけで本家があって、向か側に二軒の分家があり、本家の横にはずらっと棟割長屋に別家衆がいるという形だったんです。
土屋 別家衆は一応独立して商売をさせるようになすったんですか。
杉本 それも両方ありまして、独立します場合は昔のことですから同土地同商売はいけないことになっていたんです。これはまあ世間狭い話ですが昔はそうだったんですね。ですから他の商売をやらすという式です。でも私のほうの場合は割合独立して暖簾を分けて貰って商売を始めたというのは少ないです。独立して別商売した別家として佐原に岡田というのがあるんですが、これなんかも箪笥やお茶っ葉なんかを売っておりましたね。あれなんかもやっぱり同じ商売をやらさなかったわけだな。
土屋 別家には別の商売をやらせるというのは、あらゆる商業の種類について同じ仕来りがあったんでしょうか。
杉本 と僕は思っております。私共が暖簾を分けて貰いました主家の奈良屋ですね、これ(社史『奈良屋二百廿年』)にも書きましたかわかりませんが、その主家の所在地を今でも奈良屋町(下京区四条麩屋町東入る)という名前で呼んでいるんです。京都の四条の麩屋町という所です。今でも奈良屋町という。昔そこに奈良屋があったんだそうです。この主家の奈良屋は呉服商の行商をやっていたんです。
 それで私共の幼時の記憶を辿りますと、その奈良屋町に「奈良忠」という大きな金物問屋さんがありました。金物小売りもやっていましたし、卸もやっていたと思いますが、その金物屋の「奈良忠」というのは奈良屋の別家だと聞いております。ですから同じ町内で別家して、糸偏とは関係のない金偏を扱っていたということですね。それは私の小さい時の記憶のなかにはあります。大きな金物屋さんでした。「奈良忠」さん、「奈良忠」さんといって呼んでおりました。
 その一事でもわかりますように、だいたいそういう方針だったんじゃないでしょうか。
土屋 そうしますと、本家と分家の脇に別家がずらっと大体十軒あるというわけですね。それはそれぞれ別の商売を皆さんそこでして居らっしゃたのですか。
杉本 独立して商売致します場合は同商売はいけなかったんですが、私共の別家の場合は、さっき申し上げた岡田というのはこれはもう特別でして、あとはだいたいずっと今とは違って停年がありませんから最後まで店を勤めておりましたね。
土屋 そうしますと、別になったのは、住まいだけですね。
杉本 そうです。さきほど申し上げたように半年こちらに来ているわけで、後の半年は京都の実家にいて京都の仕入店に勤める形です。
土屋 すると、別家といいましても独立して商売をするのではなく、住まいだけが御本家とは本家と分家の脇にずらっとあって、そして本家の御商売を勤めとしてやるのですね。
杉本 本家に勤めているわけです。
 分家と申しますのはどちらかというと商売向きでない奥向きのことですが、別家となりますとこれは商売上の存在でしょうね。今の言葉でいいますと、やはり別家というのは重役でしょうな。なにかと店のことは勿論ですが、内輪の杉本家の大きな問題の時でも、やはり一応別家衆には相談するという形をとっているようでした。
土屋 この南と中の分家のおうちはそれぞれ独自の商売をなすったわけですか、
杉本 それが当時はみんな本家の仕事、つまり奈良屋の仕事をお手伝いしておりますんですが、これ(社史『奈良屋二百廿年』)にも書いてありますように、だいたい私共は昔から主人筋が直接商売するというんじゃなしに、別家さんなり番頭さんなりに任すという営業方針をとっておりました、それで主家は年に二回しか佐原や佐倉へは来ておりませんね。年に二回と申しましても、道中で片道半月かかるんですから、年に二回往復しますと道中だけでも二カ月かかるんですからね。だからこちら二カ月滞在しておりますと、もうだいたいそれでごちゃごちゃしているうちに一年たっちゃうということになるわけです。
 どこまでも自分では商売はしない。別家、番頭に任せて商売さすというやり方をとっておりましたんです。したがいまして、分家のほうの主人も本家の主人がこちらへ参ります時にやはり一緒にまいります。帰りますときもやはり一緒に帰っております。時によりまして本家の主人が病気だとかなにかで来れない時は、分家の主人が代わりに代理してこちらのほうへ来ているというかっこうを持っておったと思います。
 それで分家の主人も同じ商売をしていたのかという先生のお尋ねなんですが、たまたま先々代、六代目の連れ合いが宇治の製茶をやっております松尾というところから来ておりました。その宇治の松尾家が製茶をやっていたところが挫折をきたしまして、救援を求めてきたわけです。それでそのほうに救援の手を差し伸べまして、つまり出資しまして、そんな関係から分家の中杉本は製茶業を手伝うことになり、現在も「松北園」といい、三越や山本山へ宇治の上等の御茶を納めているんです。今は株式会社にしまして、社長は杉本良吉といい私の従弟になります。そういう関係がありまして分家の主人が全然別商売をやりましたが、これはさっき申し上げましたのとは違うわけです。
土屋 わかりました。はなはだ細かいことまで伺って恐縮ですが、こうしたことは商慣習や商家の家族構造の歴史の研究の資料にもなるわけです。
 それからちょっと伺いたいことは、大阪の高等商業学校へお入りになった時分の先生はどういう方がいらっしゃいましたか。有名な方もおられたでしょう。
杉本 (笑い)いまでもおります。今でも元気でやっておられるのは村本福松先生ですよ。村本福松先生というのが当時の科学的経営法という講座を設けましたが、テーラー・システムなんていって、これはまああの期の新学問でしょうね。私もわけわからずにその講義が好きでして、初めてなるほどと科学的経営法なるもののイロハを教わったのはその先生ですね。今でも大阪の商大におります。当時は平井泰太郎さんというのが神戸の高商(現・神戸大学)におりました。その人と並び称せられた人です。だから、ああいうほうでは早かったんですね。サイエンティフィック・マネジメントといいまして、流れ作業なんていうのを初めてその時教わったんです。
土屋 テーラー・システムができた少し後になりますね。
杉本 ですから考えてみれば馬鹿みたいに古い話ですよねえ。
土屋 その他記憶に残っていらっしゃる先生はございませんか。
杉本 先生ですか。なにしろあんまり学問しないでよく遊びまたよく遊んだお蔭で。(笑い)私の健康はそのお蔭であるんだとは思っているんですが。そうですねえ、あとは棗田藤吉といって、商業通論の先生でした。これは商業通論の冒頭が気に入って今でも覚えているんです。「朝に夕べを計るべからざるは商業の常なり」という言出しなんです。「平家物語」みたいで面白いというわけです。しかし、毎年その先生同じことをいっているんですなあ。
土屋 高等商業学校時代に特に深い印象を受けられて、それが将来商業界にお入りになってお役に立った。そういうことはございますか。
杉本 先生、その点は誠に申しわけないのですが、学校で学んだことは一つも役に立たない。(笑い)私の今日ある元手は、その後三越五年間の見習い奉公というか丁稚生活、これが私のすべてだ。今日ある元手のすべてだ。情けないことです。むしろ学校で得たものといえば、さっき申し上げたように、よく学ばないでよく遊んだお蔭の健康だ。(笑い)
土屋 スポーツをおやりになったわけですか。
杉本 私はボートを漕いでおりました。ボートも一人漕ぎのスカールというのがあるでしょう。あれを堂島川に浮かべたのは僕らが一番最初じゃないですか。

 

[『千葉県商業史談』第一集「杉本郁太郎氏商業回顧談」1967年9月30日
(千葉敬愛経済大学経済研究所)より 「第Ⅰ章 第一節」]
 

 

 今回は、ここまで。分家と別家との関係や、それぞれの機能などの説明は、近世から現代に至るまでの商家経営の在り方を照射する極めて貴重なる証言かと存じます。再度申し上げますが、これ以降の連載は不定期となりますが、是非ともお楽しみにされていてください。もっとも、舌の根が乾かぬうちに申し上げますが、次回の本稿は同内容(つまり「続き」)となろうかと存じます(汗)。チト仕事が建て込んでいるものですから……。

 

 

資料紹介「杉本郁太郎かく語りき」(不定期連載:その2) ―千葉敬愛経済大学経済研究所『千葉県商業史談』第一集 「杉本郁太郎氏商業回顧談」より― ―映像作品『未来(あす)への歩み―奈良屋杉本家の慣らいと暮らし―』放映につきまして―

8月4日(金曜日)

 

 先週に引き続き杉本郁太郎氏の商業回顧談の第二弾と参りたいと存じます。今回は「第Ⅰ章:奈良屋の沿革と社長杉本郁太郎氏の経歴」の内、先週に紹介させて頂いた「第一節:氏の経歴と杉本家の家系およびその経営の在り方」に引き続く「第Ⅰ章」の残り全て、つまり「第二節:三越大阪支店への入社と百貨店経営法」、「第三節:奈良屋経営の引受」、そして「第四節:株式会社奈良屋への改組とその後の発展過程」となります。分量としましては前後編2回に分けてとも考えましたが、史料紹介でありますのでできる限り中断を避けることを優先し、キリの良い所まで一気に紹介をさせて頂こうと存じます。いつも以上に長丁場となりますことをご容赦くださいませ。さて、郁太郎氏はこの回で如何なるお話をされましょうか、是非楽しみながらお読みくださいますように。

 その前に、既にツイッターにてお知らせをさせて頂いておりますが、本題への露払いとして、この場でも宣伝をさせて頂きたく存じます。それが、本館にて開催中の企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』の関連企画といたしまして、過日より2階会場の一画にて映像作品『未来(あす)への歩み-奈良屋杉本家の慣らいと暮らし-』を放映させていただいておることでございます。本作は「公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会」制作にかかり、奈良屋を経営されてきた京都に残る杉本家住宅における京商人としての伝統的な年中行事との関わり、そして日々の暮らしの在り方を記録した映像作品でございます。本作はブルーレイディスクに記録されており、国重要文化財指定の本宅と国名勝に指定される庭園の美しさ、季節ごとに彩なす京における雅な伝統的生活、深い信仰心にささえられた西本願寺直門徒としての謹厳なる杉本家歴代の生き様等々が、本当に溜息のでるほどの精彩なる映像で拝見することができます。余談ではございますが、本ディスクは不肖小生が杉本家屋根瓦修築のためのクラウドファンディングに個人的にご協力をさせていただきました際のお返えしとして頂戴したものでございます。この度、当財団及び郁太郎氏の御孫さんにあたります節子さま・歌子さまから上映許諾をいただきました。座席数は5席と少のうございますが、これを機会に是非ともご覧いただけましたら幸甚でございます。

 

BR『未来(あす)への歩み-奈良屋杉本家の慣らいと暮らし-』


1 放映時刻 開館日「11時~」・「14時~」(2回上映)
2 放映時間 約50分(途中退席可)  

 

Ⅰ 奈良屋の沿革と社長杉本郁太郎氏の経歴
二、三越大阪支店への入社と百貨店経営法
 

土屋 大阪の高等商業学校を御卒業になって、すぐ三越の大阪支店にお勤めとなり五年お勤めになったというわけですね。
杉本 そうです。この生活丸五年は身につきました。えらかったですが(※引用者註:「キツかった」を表現する京言葉)。ともかく、あの間に百貨店生活、百貨店人の生活というのはこういったもんだということがわかりましたからね。
土屋 その当時は、大正末年から昭和の初めですから、今とは百貨店の経営方式も随分違いますでしょう。
杉本 丁度勤めております頃に、例の関東の大震災(大正一二年)がありましてあれでがらっと変わったんです。私の三越へ入りました時はやっぱり靴の人には靴カバーを玄関ではめ、下駄草履の方は下足札で預ける。店内は全部畳表が敷いてあるという仕掛けでした。ところが関東の大震災を機会に例の全部土足のままでということになったでしょう。
 私が三越に入ったのは大正一三年ですから、関東の波がおくれて関西にも及んできたわけですね。
 これはもう「下足を取る」というのは旧式なんだというわけで、各店争ってもう土足のままで歩ける仕掛けに床の改装を始めましてねえ。丁度その時に私三越でぶつかりまして、一日も営業を休まないで、全部床を改装しちゃったんですよ。一部分ずつ囲いまして突貫工事をかけ、全館土足で歩けるように、つまり今までの畳表を剥しちゃって寄木のモザイクの床張りに変えたんです。丁度、その切換えの頃に私いたわけです。    
土屋 そのほか今の百貨店経営と違ったことで御記憶になっていらっしゃることはありませんか。
杉本 変りませんなあ。私はうちの社の人達にも言うのですが、私が大阪の三越さんへ勤めたのは今から四〇年ほど前だけれど、その頃の大阪の三越さんとうちの今の店とを比べて優れている施設というのは、まあ店員食堂はうちの方がいいなあと、それから医務室もうちの方がいいぞと、あとはもうそんなに変わっていませんよ。変ってる、変った変ったと言いますが、私達は一つも変わっていないと思いますね。あの店は百貨店経営の本当の典型的な方式を持っておられまして、百貨店の理想図というものを当時から三越さんは描いていたらしいですね。ですから人をふんだんに使っていましたよ。組織が非常に緻密にできておりましたから。うちでは未だに組織じゃ三越の本店ではなく大阪の三越にさえ及ばないくらいまだ組織なんか粗雑なもんですよ。
 五年間の店員生活を振返ってみますと、当時は組合はもちろんないし、定期健康診断なんていうものももちろんない。とにかく人間はもう有り使いに多く、安く使うことばかり考えていましたから、店員食堂なんていうものは、もう落着いて飯が食えないようにしてあるんだ。地下室の空気の混濁した、なんかへんな臭いのするところで、そんなところでゆっくり食事できないですよ。なんでも早く、商人(あきうど)は“早飯、早糞”といいまして、飯なんかに時間を費すもんじゃないということになっていたんだかどうかは知りませんけれども、そうも解釈されるくらい不行届のもんだった。百貨店人、売り子なんていうものは飯食う時間だけが自分の時間なんですよ。あとはいつなんどきお客様の声がかかってくるやら、御用を仰せ付けられるやらわかりませんし、飯を食っている間でさえ、杉本さんお客さんですと呼出されるんです。
 それで私はせめて飯食う時間だけでも気持よく食べれるような設備をし、好い場所を与えなければいかんと思っていたもんですから、自分が店をやる段になって店員の食堂だけは店中でいちばん好い所へ持って行こうと思っていました。
 それから医務室。当時は今と違ってやっぱり百貨店人につきものは胸の病気、結核でした。それもそのはずなんです。あの畳表を敷いた所ですからどうしても綿埃が多くて、今のように空気を浄める装置もなくひどいもんでした。そこで医務室はあるんですが、その医務室が実に粗末な医務室でして、ほんのちょっとした外傷ぐらいの手当しかできない。店員の健康診断なんかできるようなものじゃなかった。これをなんとかして自分が店をやる時には、医務室というものは、店員の健康相談ができるほどのもう少し完備したものにしなけりゃいかんと思っていましたが、偖(※引用者註:「さて」)自分の店をやってみるとなるほど店員の福祉施設なんてどうしても後廻しになる。やはり算盤にすぐ現れることばかりが考えますから、そんなに三越の五年間の生活で店員の食堂と店員の医務室とは立派なものにしなけりゃならんということをしみじみ体験してきながら、自分の経営になりますとそれができない。やっとそれが最近できたんです。今から五・六年前かな。店員食堂もいちばん上の明るい所へ持って行きました。まあセルフ・サービス式ですけれど、安くて気持ちの好い、栄養士の栄養計算、カロリー計算した食堂になりました。医務室も四階に兼巻先生という老齢で病院をやめられた外科のお医者さんを室長にしまして、看護婦を二人置き、あと内科の先生が交代でつめております。店員なんかちょっと具合が悪いというとすぐそこへ飛んで行って早期手当ができますし、健康管理もしょっちゅうやっております。
 やっとそれが出来ましたのは五・六年前ですよ。ですから、やっぱり立場立場が変わりますと、経営者となりますと算盤をはじきますので、そういう目に見えない売り上げにすぐぴんと響かない施設に金をかけるということはできんもんです。最近の僕の勤めました三越の大阪のお店は知りませんけれど、昔のような店員食堂、医務室ではないと思いますが、まず今の僕んとこと比べて、僕んところがもう遜色ないと思いますよ。
土屋 その他何か三越に勤めていらっしゃったとき感ぜられたことがございましょうか。
杉本 それはいちばん最初に私が三越に勤めましてびっくりしましたのは、話には今まで聞いてはいたんですけれど、いろいろの各売場や経理のほうも廻りましたが、売場で取引先から電話がかかってくると、受話機をとるなり「儲かりまっか」と聞くんですよ。「今日は」という替わりの挨拶が「儲かりまっか」なんですね。話には聞いてましたが、けれども僕は最初びっくりしましたねえ。なるほど大阪商人(あきうど)というのはすごいものだ。ともかく「儲かりまっか」って受話機からいちばんに飛び込んでくる。「今日は」という替わりなんですね。それに答える言葉がこれまた決まってまして、「さっぱりわやです」というんだなあ。「どうにもこうにもならんです」「良くない」ということです。商人(あきうど)の言葉にいいということはないんですが、何でも良くない、良くないというんですね。「儲かりまっか」と向こうから電話がかかってくるんですよ。そうするとこっちは「はい。さっぱりわやです」というんだなあ。それから商談が始まるんです。(笑い)これにはびっくりしましたね。時々咄にはね、咄家なんかよくいいましたけどねえ。
土屋 そうでしたねえ。(笑い)
杉本 実際大阪という所はそういう所です。さすがに東京はそんなことはないと思いますがね。
土屋 東京にはありませんでしょうね。
杉本 大阪商人(あきうど)はそうです。
土屋 それはおもしろいですねえ。(笑い)京都はそんなことはありませんでしょうね。
杉本 京都は駄目です。京都の人は、これはもう非常に前置きが長いです。時候の挨拶がねえ。「だいぶ夏らしゅうなりました。御機嫌よろしゅうございますか」から始まりますよ。もう、いったい何の用事だったのか忘れた頃に用事がでる。
 京都はもう全然逆です。わずか一〇里、四〇キロくらいしか離れていないのですから、こんな違う所はありません。
土屋 しかし、おもしろいですなあ。近江商人はやっぱり大阪式の挨拶をするんでしょうか。
杉本 いやそうじゃないでしょうな。まあ、大阪商人(あきうど)というのは、だいたい船場の生え抜きの多くが江州(滋賀県)あたりから出たのもありますがねえ。いわゆる「江商」なんかの連中もあるが、近江商人(あきうど)の本来は、そういうことではないでしょうなあ。もっとなんていうか、こう律儀な堅実なものがあったんじゃないでしょうかね。大阪のはともかくまず算盤ですよ。それこそ山崎豊子の「のれん」がいろいろ物語っている、大阪の船場の商人(あきうど)の根性、土根性ですか、確かにああいうもんです。
土屋 その他三越にお勤めになっていらっしゃった間に、これはたいへん良いことだということや、あるいはこれは改善しなければならんとお考えになったようなことは何かまだございますか。
杉本 そうですね。学校の教育なるものが実際とはなはだ遠のいたものだったから、三越へ入りまして、実際の商業生活といいますか、百貨店生活というものが批判を許さないくらい目新しく、珍しく、初めて聞くという感じでしたね。「こういうものはこうあるべきだ」という手本を示しているなというようなつもりで一から一〇まで勤めましたんでね。「これはどうかな」と思った批判なんかなかったですねえ。批判をする基礎さえ学校教育は与えてくれなかったんじゃないかな。(笑い)    
土屋 (笑い)ただ、今の福利厚生という点では、やはりこれは改めなければいけないと思われたわけですね。
杉本 なに、これは私が、やはりいくらか新しい時代の空気を当時すでに吸っていたからそんなことがいえたんでしょうね。それと割合おおらかに、貧乏知らずに育ったもんですから、かえってそういう気持ちになったんじゃないでしょうか。
 

三、奈良屋経営の引受


土屋 昭和四年から奈良屋さんの経営にタッチなされたというわけですね。

杉本 それで、正直な話、奈良屋はごらんのように老舗でして、一応地方の小売り界では名の通った店でしたけれども、さっき申し上げました参勤交代の一例でもわかりますように、なんと時代後れの店かとびっくりしましたねえ。自分で自分の店へ入ってみて、どこから手をつけたらいいのか本当に手のつけようもないくらい後れておりましたね。帳面は御存知のようになんだか込入った大福帳でしょう。奈良屋の決算書なんかも本当にまあよせたりひいたりしてね。もちろん、大福帳式でしょう。やっと単式簿記みたいなものを進んでいた千葉店がやり、やがて複式簿記らしきものにはなっておりました。まあ、帳簿がそうでした。
 それから、だいいち店員さんのお行儀というか、まあ今と違って佐原も千葉ももっと田舎だったからそれでもよかったのかもわからんが、まあ実に客を客とも思わない仕草なんですねえ。今考えるとそれでよかったんだな。「それにしときなよ。おつかちゃん喜ぶぜ」なんてやってるんですからね。あれをお客さんにいう言葉かしらと思って僕はびっくりしましたねえ。それから、お客さんの前で平気で頬づえついたり、ぽんぽん煙草をすったりしているんですからねえ。ああいうことは都会の百貨店には許されんことでした。けれども、これを考えてみますと、やっぱり田舎の店は田舎なりである程度はよかったんでしょうね。あまりスマートな応待をされるよりも、かえってそのほうがお客さんとしては親しみを感じたのかもわかりません。
 そういう店員の接客態度とか、もういちいち三越さんにいた時とまるで違うんですよ。傳票制度なんていうものはありゃしませんよ。悪いことをしようと思えばいくらでもできるなと思った。それも、これ(社史「奈良屋二百廿年」)を読んでいただくと、昔はそうじゃない、きちんとできていたんだが、やっぱりだんだん乱れてきているんですねえ。こんな伝票整理では、いくらでも悪いことはできるなあなんて思ったこともありました。
土屋 奈良屋さんの経営にタッチされた時の社長の地位はどういう地位でございましたか。
杉本 それを申し上げますと、だいたい私は間違っているんですよ。私どもは、さきほど申し上げましたように、主家は経営にはタッチしないと、いわゆる資本と経営の分離という建前だったんですね。代々ね。それであまり細かい指図がしないと。根本方針、大方針を示して、それを任せてやれというだけで、主人自身が陣頭にたってということはなかったんですよ。ただ、私が自分で先祖代々と違った方針で、自分が乗り込んでその土地へ居を移し、しまいには土地の数ある公職まで持つようになったんですが、これはやはり時代だと思います。私共の経営があまりにも後れ過ぎていたんですね。私共の呉服店、呉服業があまりに昔の形態で、これではきっともう時代の波に押し流されるということを感じたんです。
 それとまた、その当時の上のほうの店員が、こんな経営ではいかん、いかにも古いと。それで私の出馬を要請したというか、幸い三越にもだいぶ長いようだから、このへんで帰って頂いて自分の店を一つやっていただいたらといった店員の要請もありまして、それではからずも自分が御維新でいう御親政をとらざるをえなくなったんですね。さて、やってみますと、さきほども申し上げましたように、これはひどい、いかに老舗といえども、こんな古風な大時代的なことでは長続きしない、近代的な息吹を吹き込まなければいかんとつくづく思ったんです。
土屋 その時、御先代の七代目新左衛門さんは。
杉本 新左衛門はおりました。おりましたが、親父は堅実な人でしたけれど、非常に消極的な人でして、商売のことはわかりもしなかったし、かまいもしませんでした。資本は出してやってあると。ただ、それに対する「果実」だけはちゃんと納めろと。業績の如何にかかわらず、これだけの資本に対して、これだけのものは京都に登せねばいかんぞという仕掛けになっていたんですよね。ですから、京都の主家側にしてみますと、千葉表の業績が上がろうが上がるまいがたいして問題ではない。いつも、出資した資本に対する決まった利子だけは、きちんきちんと送ってさえくればよかったわけだ。それが、いわゆる「蛸配」のような形で、もとでを食込んだ配当であろうと、そんなことは意に介しなかったみたいでしたね。これでは店が痩せますよ。たまたま不景気の時代がありましたからね。店の業績が上がらないのに、相変わらずの出資に対する配当をしなけりゃならんとなると辛いですよ。
 しかし、そんなことはおかまいないんだ。そんなことに対する批判も店員の中にはやっぱりありましたね。これでは店が細る一方だというわけです。それで私がやるようになりましてから、親父に店をもっと繁盛させなくて何の配当ぞと、親父と喧嘩したこともありましたよ。これは当たり前だというわけです。しかし、親父に言わせますと、これは昔からの仕来りで、奥向きの生活はそれで支えているんだからといいました。私は赤字の場合にそんな「蛸配当」貰って何がうれしいんだと、これはやはり業績によってその分け前が多いときも少ない時も、あるいは無い時もあってしかるべきなんだと、こっちも若いからそんなことで一戦交えたこともありました。それでまあ僕の言分が通ると、こっちの若い店員が喜ぶんですよ。別家衆は渋い顔をしておりましたよ。譜代の別家衆は一時は僕を少し邪魔者扱いにしておったなあ。その頃はね。
 また、例えば千葉の店を建直すというと、それじゃお前の千葉の店でちゃんと金を工面しろという。そんな余分な金はない、毎年毎年業績の如何にかかわらず京都へ吸い取られていて、そんな貯えがあるはずがないというと、それがために金を出すわけにはいかんという。それじゃせめて親父の持っている株を貸してくれと、それで俺金借りるからといって、それはさすがに親父もそれならよかろうというわけで、親父から株を、当時のことですから日本銀行とか、第一銀行、日本勧業銀行だのとかの銀行株をたくさん持ってましたので、それを借りました。それでこっちの銀行、日本勧業銀行などへ持って行って、担保に入れて店として金を借りてそれでやったのです。
土屋 そうしますと、資本と経営の分離ですね。
杉本 はい。完全に分離です。非常に新しかったとも言えます。
土屋 御先代も代々のご主人と同じように、年に二回こちらの店を監督に来られたということでしたが、その監督は相当厳しくおやりになったわけですか。
杉本 参勤交代でまいっております別家が監督はしょっちゅうやっております。
土屋 別家の人達が。
杉本 はい。それでそのまた別家の監督は主人がするわけです。ともかく、横にずっと住まわせておりますから監督しやすいですよ。なんて言いますか、別家さんにしてみれば,悪いことでもしたとしますとすぐもう筒抜けになっちゃうでしょう。本家が横にありますからね。ですから、そういう面からなかなか別家衆も監督されていたようですな。
土屋 御先代はただ旦那様として大様に構えていらっしゃったというわけではなく、相当厳しく監督なすったわけですね。
杉本 ええ、なかなかやっぱり厳しかったですよ。でも、近代的な経営ということについては全然でしたね。無理でもありましょうけれどもねえ。年輩が年輩でしたから。
土屋 最初に奈良屋さんの経営にタッチされた時、御先代からどういうふうに、どういう役目をしてくれと申し渡されたんですか。
杉本 それはやはり今までの分家、南なんかの分家の当主と同じ扱いでしたな、親父に言わせますと、自分の代理に店へ行って監督してこいという程度のことでした。それで親父の存命中は、やはり一応私の資格は南杉本の当主という形の扱いのようでしたね。
土屋 しかし、もう養子として籍は入っておられたわけでございましょう。
杉本 はい。入っておりましたけれども、扱いはやはりそういうかっこうでしたね。そのへんがやっぱりなんと言うんですかな、今のようにまだ株式会社でもありませんでしてね。会社にしましたのは昭和六年です。
 昭和六年に会社にしました時、それではあんまり資格、身分がはっきりしないというので、親父を社長にしまして、私が常務ということでした。社長の次が常務で、代表権は社長にあるということで私には代表権はなかった。親父はこないけれども、名前だけは杉本新左衛門でした。私は自分の名前を書く時よりは杉本新左衛門と書くことが多かったくらいだ。ちなみに、新左衛門も本来は親父が亡くなると襲名するべきであったんだけれども、いま頃では新左衛門の方が似合うようになりましたけど、どうもなんだか親からせっかく貰って長い間使い慣れた郁太郎のほうがいいような気がしまして、とうとう私だけ強情にそのことを突撥ねてきました。
土屋 しかし、社長は戸籍上は杉本新左衛門さんでございましょう。
杉本 いや、とうとう戸籍も直さずに過ごしてきました。
 でも、しばらく杉本新左衛門で文書がまいりましたねえ。というのは、もう何代もそれでやってるから個人というよりか通り名になっちゃたんですなあ。さすがにもうこの頃は杉本新左衛門という文書はこなくなりました。けれども、そう一O年ぐらいはきましたな。なんでもみんな杉本新左衛門だから、みんな自分の名みたいなつもりで開いておりました。(笑い)
土屋 この昭和四年に奈良屋さんの経営にタッチされることになられた時、御先代はおいくつくらいだったんでございますか。
杉本 先代は五Oくらいじゃないかな。
土屋 それでは、まだそれほどのお歳ではなかったわけでございますね。
杉本 ええ。でも、亡くなりましたのは早かったですからね。六一か二で亡くなったんじゃないですか。もう私の年輩の時にはおりませんでした。実父はさらにそれよりも早く亡くなりました。

 

 

四、株式会社への改組とその後の発展過程

土屋 昭和六年に株式会社になさったわけですが、これはどなたの総意で、イニシアティブで株式会社になすったわけですか。
杉本 それは私が言出したんです。すべて経理面をはっきりさせるためには、これはどうしても会社にしなけりゃいかんと。経理面、特に奥向きと店との会計をはっきりとするためには、店だけを会社にしなけりゃいかんということで、私が主唱してやりました。その当時、資本金一一万円、公称資本二二万。
土屋 それに対して抵抗はございませんでしたか。
杉本 べつに抵抗はございませんでした。まあいくらかその持株の分けよう、つまり当時の別家にどれだけ持たせてやるかについて、多少の異論はあったようですが、もうその頃になりますと、別家の聯中も、ともかく今度の若主人は三越で新しい経験を踏んできたんだから勝てまいということで、案外僕のいうことには従ってくれましたねえ。(笑い)株を分けるときなんかたいして問題でなかったようでした。
土屋 しかし、昭和四年から六年の株式会社になさるまでは、やはりいろいろ意見の相違とか対立とかいうことはございましたか。
杉本 ありましたね。私がなんでも新しいことを言うと例の年寄の別家は、みんな苦り切っていました。しかし、第一線にたっている若い番頭はみな喜びました。なんでも僕に賛成だ。僕の言いなりになってくれましたねえ。
 やっぱり、これで二Oから三O頃までにいわゆる改革をやったんだが、その頃の世間知らずのぼんち(※引用者註:関西弁で「坊ちゃん・若旦那」の意)だったから出来たんじゃないでしょうか。今みたいにいろんなことがわかってくると思い切ったことはできませんなあ。だから、やっぱり改革なんてものは二O代にやることですなあ。
土屋 ある程度向こうみずが必要なんですね。
杉本 ええ、向こうみず。それでなけりゃできるもんじゃありません。まあ、幸いそれで失敗がなかったからようござんすが、そういうもんですねえ。あまり思慮分別があっちゃ思い切ったことできませんなあ。
 しかし、今この歳で事に当たらせたら、あるいはもっとうまくやったかもわからんな。もっと別家なんかにも上手に喜ばせておいてやったかもわからんな。
土屋 それで昭和六年に株式会社に改組なさった時、お父さんが社長で、社長は常務取締役というわけでございますね。取締役は何人くらいその時できましたか。
杉本 それ(社史「奈良屋二百廿年」)に書いてありますが、なんでも同族だけですよ。
土屋 株式会社でも実質は同族会社のようなものなんですね。
杉本 そうです。重役は三人です。つまり取締役が親父と私ともう一軒の分家、中杉本の当主、それだけです。それから別家衆二人を監査役にして,最年長の別家を相談役にしています。
土屋 この時はちゃんともう百貨店になさいましたのですか。
杉本 百貨店にはなっていないですなあ。まだ三O貨点ぐらいかな。いまでもなんか一つ足らんから「白貨店」だっていつも僕は言ってるんですよ。(笑い)当時は今言ったように三O貨店くらいじゃないですか。衣食住のうち衣だけですものね。糸偏が主ですから。住関係、食関係というのは、全然手をつけていませんでしたから、二O貨店から三O貨物店ぐらいのところじゃないですか。
土屋 小間物はお扱いになっていらっしゃいましたか。
杉本 これはやっていました。
土屋 この時にはもう本店は千葉になさったわけですが、佐原、佐倉のお店は。
杉本 佐倉は会社に改組すると同時にもう閉店しましたから、本店が千葉、支店は佐原だけです。
土屋 やはり、この時には佐原よりも千葉のほうがずっと売上高もずっと多いわけでございますか。
杉本 はい。それ(社史「奈良屋二百廿年」)にも書いてございますが、だいたい関東大震災を機会に千葉がぐんと伸びましたね。
土屋 どういうわけで千葉が伸びたんですか。
杉本 やはり、千葉へ随分あの時東京から逃げてきた人があるんじゃないですか。人口もあのへんから千葉はぐんと増えましたね。大正一二年からですね。
土屋 もっと前に県庁所在地になってからだんだん開けたということも関係していますか。
杉本 それもありましょう。昔はなんか三つぐらいに千葉は県庁がわかれていたんですからね。県庁所在地になったことは、相当千葉市の膨張に役立っていたと思いますが、はっきり言えることは関東大震災ですな。
土屋 昭和六年以来だんだん商品の種類も増えて、だんだん今のような百貨店の実質を整備してこられたというわけですね。
杉本 というのは、ともかく三越さんというお手本が目標にあるものですから、あれに近づければいいんだというわけですね。
土屋 社長におなりになりましたのはいつでございますか。
杉本 親父が亡くなりましてですから、昭和一二年でしょう。
土屋 しかし、それまで御先代はほとんどもう社長にまかせていらっしゃったのでしょう。
杉本 ええ、結社以来。京都のほうも改組しますと同時に縁がなくなりましたので、全然会社のことには親父は口出ししませんでしたよ。
土屋 京都のほう、縁がなくなったとおっしゃいますのはどういうことですか。
杉本 ようするに、今まで京都で仕入れしておりました仕入店も閉鎖しましたので、商売とはもう全然京都は関係なくなりましたからね。
土屋 御先代はその後もだいたい京都にいらっしゃったわけですか。
杉本 私共は代々もうずっと京都におります。さきほど申しましたように、年二回ほどこちらにくるだけでして、交通が便利になりましてからでも、親父は年に三回もきたことがたまにありましたかな。まだ今のように新幹線ではありませんのでねえ。便利になったもんだと思いますよ。
土屋 昭和六年に株式会社になりましても、御先代は京都にいらっしゃったわけですか。
杉本 はい。
土屋 社長はこちらにいらっしゃるわけでしょう。
杉本 私はこちらにおりました。それ以来だいたいこちらです。
 しかし、私が本当に千葉に土着しましたのはやはり戦後です。これは少し話がとんで恐縮ですが、先輩がパージでみんな引っ込んでしまわれたんです。私はこういう百貨店商売をやっておりまして、兵隊には全然ご縁がなかったんです。当時、第一乙の籤逃れというんですが、よくまあ逃れたと思います。また、戦争中は繊維の統制組合の理事長なんかやっておりましたので、徴兵はもちろん何もありませんでした。ですから、戦争が済みまして、あのパージでもって先輩の方々が、古荘(四郎彦氏・元千葉銀行頭取)さんはじめみんなひっかかちゃったんですが、私は今申し上げたような経歴からその点は無傷でしたので拠ろなく押し出されましたんです。それで商工会議所の会頭なんかも上がいなくなったのでしかたなく僕になったんですな。その点は非常に運がよかったと申しますかね。そんなことから、今の商工会議所の会頭はじめそのままいろいろな公職を、だいたい古荘さんの持っていた公職のいくつかが僕のところへきたんですよ。僕が良くてじゃなく、先輩がパージでもって当時引っ込んじゃいましたからねえ。これという方みなパージでしたからなあ。もっともパージになるくらいの人でなければ有為の人じゃなかったんだ。そんなことから土地にいつかざるをえなくなったようなかっこうです。
土屋 それまでは京都にも時々お出でになったわけですか。
杉本 はい。今でも京都には本宅がありますし、月に1回はまいります。今はもう便利ですから、月に二回の時もあれば、行かない月もありますが、今言っていけるもんですからね。もっとも、京都の本宅には御存知のように倅もおりますしね。
 結局、本当にもう土地から足が抜けなくなってしまったのはやっぱり戦後だろうなあ。逆に少し公職を外しにかかっているんですが、なかなか…。一つ外すと、また一つ他のものを持ってこられるんでね。(笑い)しかし、戦後のあのパージというやつは罪なことをしましたよ。あれで有為の人をみなさん働かさんことにしてしまいましたからねえ。あの損失は大きいですよ。お蔭で僕たちが拠ろなく引っぱり出されることになったんですが。
 それで威張らせて貰えることは、千葉の商人(あきうど)さんの地位を高めるということについては、僕は多少貢献したつもりです。ご承知のように、昔はそらあ千葉という町は、まず医大の関係でお医者さんが威張る、県庁所在地で役人が威張る、その後カーキ色時代になって軍人が威張るといったことで、商人(あきうど)なんて本当に虫けらみたいに隅っこへおっぽり出されていた。それで僕が商工会議所なんか引き受けるようようになりましてから、もちろんこれは古庄さんなんかの後楯もありますが、商人(あきうど)といったって必ずしも算盤ばかりはじいている奴ばかりでもないぞと、物もわかるし、義理も知っとると、何ぞ必ずしも利を言わんや。商人だって大いに見拠があるんだといったようなことになったについては、僕は多少お手伝をしていると思うんです。
土屋 百貨店を昭和六年にお始めになったわけですが、この時の名前は「奈良屋百貨店」と言うのですか。
杉本 いえ、「株式会社奈良屋」と言うんです。百貨店は使いませんでした。以来ずっと正式には百貨店というのは使っておりません。
土屋 初めは商品の種類も少なく、だいたい衣類、つまり糸偏が多かったわけですね。
杉本 もともと呉服屋ですからね。衣関係から住関係、それから食関係へ伸ばしてまいりました。どうしたって食糧品というのが一番われわれには縁が遠いもんですからね。衣、住、食という具合に三O貨店、六O貨店、九九貨店というところへ持ってきたんじゃないかな。すなわち、「白貨店」くらいまで。だいたいおおまかに申しますと、こういう形で商品の扱いは広げてまいりました。
土屋 昭和六年から現在までかれこれ四O年近いわけですが、その間の段階はいつといつで区切ることができますか。
杉本 まず、やっぱりなんといったって戦災でしょう。戦争から戦災、これで大きく一つ区切れる。戦災ということで新しい時代に切替わったくらいの変わりかたでしょうね。それでまた、あの戦争で小さいながらも店を焼かれまして、今から考えれば小さな木造の三階建ですが、あの戦災にぶつからなければ本建築に思い切りがつかなかったんじゃないでしょうか。まさか次の戦争を予想したわけでもないけれど、あの戦災に会いまして、やっぱりこれからは本建築でなければ駄目だと思いましたねえ。昔は本建築なんていうのは,大資本を擁していなければできないものかと思っていたが、思い切って本建築に踏みきり、こうしてここまできたんです。これはやっぱり戦災のお蔭ですね。
土屋 戦災ではもう完全に焼けましたか。
杉本 きれいに焼けました。紙一枚、筆一本なくなりました。私はその最後を見届けたのですが、もうこれはいかんからというわけで逃げたんです。
 その後、時代で区切るとすれば、昭和二六年から二七年にかけて、総面積五五O坪の店舗を建築したんです。これが戦後の第一期なんです。それもこの建物は最初は三階建で地下室がないんです。本建築で三階建を建てておけばもういいじゃないかというくらいの規模の小ささなんです。
土屋 終戦後でも……。
杉本 ええ、昭和二六年からかかったんですからね。その後、三階では狭いので、昭和二九年に四階・一八O坪をたして、昭和三一年には五階・六O坪をまし、さらに六階・五O坪を重ねて、総面積八五O坪になったんです。しかし、基礎の地下室がないから、もうこれ以上どうにもならないんですよ。ですから、こんどやり直す時はこれを壊すしかないんです。それがまず戦後の第一期でしょうねえ。
 それから次に区切るとしますと、昭和三四年でまた一時代です。今度は地下室が一階あり、地上六階です。最初のよりはだいぶ今度は規模が大きくなったわけです。丁度その頃、千葉もいわゆる京葉工業地帯の旗印を掲げて躍進しだした頃ですよね。この中央館は総面積二,七四三平方メートルで、一応ここに近代的百貨店としての設備を持つようになったんですよ。それが戦後の第二期です。
 その次が昭和三七年です。この西館は地下二階、地上六階で、総面積が八,六一四平方メートルです。これはいわゆる京葉工業地帯の本格的に始まった頃ですね。
 個々に総面積約一五,OOO平方㍍、売場面積約一O,OOO平方メートルになったわけです。
土屋 戦前は木造だったわけですが、何階でしたか。
杉本 三階でした。ですから、B29の爆撃にあってはひとたまりもありません。
土屋 佐原のお店はどうだったんですか。
杉本 佐原店は幸いなことに戦禍を被らなかったんです。佐原の店は大正六年に建てたんですが、今もまだ残っておりまして、これで商いをしております。

 

(〈引用者註〉「第Ⅰ章:奈良屋の沿革と社長杉本郁太郎氏の経歴」以上で了)

[『千葉県商業史談』第一集「杉本郁太郎氏商業回顧談」1967年9月30日
(千葉敬愛経済大学経済研究所)より 「第Ⅰ章 第二節・第三節・第四節」]
 

 

 今回は、ここまで。郁太郎氏が、学校を卒業してからの大阪三越での修業時代と大阪の商慣習との出会い、そして杉本家の商売を継いでからの経営の改革と株式会社化への決断、戦災からの復興と経営規模の拡大、そして商人(郁太郎氏は“あきんど”ではなく、“あきびと”のウ音便である“あきうど”と一貫して述べておられます)の地位向上に向けた社会活動への参画など、実に興味深い知見が満載でございました。不定期連載ではございますが、続いて「第Ⅱ章:呉服商時代における経営の推移」に入って参ります。近世商人の経営の在り方に興味・関心の深い小生にとっては得がたき証言の数々となっております。皆様もお楽しみにしていてくださいませ。

 

夏に聴くフレデリック・ディーリアス(前編) ―19世紀末から20世紀初頭を生きたコスモポリタンとしての音楽家に捧ぐ― ―【告知】多くの千葉市民が中高時代にお世話になった「旧千葉公園体育館解体前見学会」(「下志津陸軍飛行学校」格納庫の部材転用)が開催されます(8/15)―

8月11日(金曜日)

 

晴るる夜の 星か川べの 蛍かも 
わが住むかたに 海女の焚く火か
(在原業平『新古今和歌集』雑)
 
ものおもへば 澤の蛍も わが身より
あくがれ出づる 魂かとぞ見る
(和泉式部『後拾遺和歌集』雑 神祇)

 

 

 かつての名人咄家、「志ん生」だったか「文楽」だったか失念いたしましたが、「“四万六千日”を過ぎましてお暑い盛りでございます」と振り出した枕が印象的な咄がございました。「四万六千日(しまんろくせんにち)」と申しましても、今の若い方々には何のことやらさっぱりだと存じますが、浅草寺に「酸漿(ほおずき)市」の立つ日と申せばお分かりいただけましょうか。社寺の縁日の一つで、この日に参詣すると4万6千日お参りしただけの功徳があるとされている日とされております。どうやら元禄年間(1688~1704年)前後に始まったものとされており、取り分けて知られるのが、毎年7月10日(現在は9日から開催される「酸漿市」を含む2日間)の浅草観音さまでのそれを指しましょう。もっとも、酸漿を売るようになったのは明和年間(1764~1772年)以降のことであるようです。何故酸漿なのかと申せば、それに子供の癪封じ等に効能があると信じられていたことが背景にあるようです。しかし、それまでは赤玉蜀黍(赤トウモロコシ)が売られていたとも。共に橙・赤系統の色であることから想像されるのは、夏に猖獗を極める流行病「疱瘡」のイメージでございましょう。その起源には「疱瘡除」の意味合いがあったのではなかろうかと勝手な想像を巡らせておりますが、実際は如何なのでしょうか。何れにしましても、浅草寺近所となる「入谷鬼子母神(真源寺)」で七夕前後に開催される「朝顔市」と合わせて、今でも東京の夏の風物詩ともなっております。元来が夏に跋扈する伝染病除けを意図していたと考えられる洛中の「祇園会」も、コロナ禍の猛威のために中止を余儀なくされておりましたが、本年は無事に再開され7月中には古式ゆかしい「山鉾巡行」の盛儀も無事に執り行われました(奈良屋杉本家由縁の「伯我山」も無事巡行を終えられたことでしょう)。

 我らが「妙見大祭」もその点では、祇園会の系譜を引く意味合いを併せ持つ夏の祭礼だと考えられます。こちらは、本来は寒川神社の祭礼と一体として開催されていたのが本来の形でありますが、戦後に分離開催となり今に至っております。何らかの事情があるのでしょうが、千葉の町の礎を築いた千葉一族との関係深い本祭を、令和8年に迎える「千葉開府900年」を期に古の形で復活開催させることは不可能なのでしょうか。関係の皆様には衷心より具現化をお願いしたいところでございます。未だ千葉神社と寒川神社とによって妙見大祭が執行されていた時代を知る方がいらっしゃいます。今が最後のチャンスなのかも知れません。百年後の「千葉開府千年」に至って「あの時に……」と後悔しないためにも、関係者の皆様には一肌も二肌も脱いでいただけないものかと、祈念すること頻りでございます。古い千葉の伝統を未来永劫子々孫々に伝えていくためにも。

 さて、今回の冒頭歌は、久方ぶりに塚本邦雄氏のアンソロジー集からの引用とさせていただきました。何時ものように各歌の短評も以下に掲載させて頂いております。2人ともに「色好み」で知られる、平安朝における恋多き宮廷人でございます。そのことは、塚本氏の評を拝読するまでもなくお感じとりいただけましょう。特に、和泉式部の詠歌は人口に膾炙しておりますからご存知の方も多かろうと存じます。そもそも蛍を詠み込んだ夏の歌としての御紹介としては、少々時宜を失した感は否めませんが、若干でも涼味を感じて頂けようかと敢えてこの場に掲げさせていただいたのですが、歌の中身から申してどうやらそれは目論み違いであったようです。取り分け、和泉式部の作は噎せ返るかのような情念が渦巻いておりますから。せめて業平の歌でちょっとばかりの涼味をお味わいくださいましたら幸いでございます。余談ではございますが、王朝文学期の「色好み」とは,決して人を貶める言葉としては用いられてはおらず、むしろ褒め言葉でございます。それが、何処かしら後ろめたい感覚を身に纏うことになったのは、偏に近世以降の儒学の影響であろうかと存じます。つまり「色好み」が人としての「倫理道徳に反する行為」であるとの中傷の対象となったからに他なりません。早い話、世界に冠たる文学作品『源氏物語』ですら、“淫乱の書”と評されることになったのですから。この辺りに御関心のある方は、歴史に対する見方考え方に新たな視点と視野とを与えて頂ける、小生の偏愛する野口武彦氏による著作『「源氏物語」を江戸から読む』1995年(講談社学術文庫)をどうぞ。

 

 伊勢物語第八十七段、「昔、男」が布引の瀧を見に行く挿話に現れる歌。第二句「星か」で切れて句跨りを生みつつ三区切れとなるあたり、例外的な文體で、まことに歯切れの良い調べをなし、光の點綴(てんてい)をパノラミックに描き出す趣向と表裏一體。「わが住むかた」は蘆屋の里。漁火と承知してゐて、星・蛍をきらめかすあたりに才氣が横溢する。

 あまた愛の遍歴の後、藤原保昌と結ばれ、またその仲も疎くなる頃、貴船神社に詣でて、「みたらし河に蛍の飛び侍りけるを見てよめる」とある。魂が蛍火となって闇に燃えるのだ。貴船明神の返歌が並んで撰入され、「奥山に たぎりて落つる 瀧つ瀬の たまちるばかり ものな思ひそ」とある。男の聲で作者の耳には聞えたと傳へる。凄まじ霊感だ。

[塚本邦雄撰『清唱千首』1983年(冨山房百科文庫)より]
 

 

 前段が長くなって誠に申し訳ございませんでした。ようやく今回の本稿の主たる話題に移行させていただきます。少しでも、日々繰り返される例年からも遥かに隔たる酷暑の中、少しは気分も“転調”して爽快になってくださいますことを祈念いたしまして、ある音楽家とその作品について採り上げてみたいと存じます。もっとも、昨年も書いたように記憶しておりますが、夏には耳にしたくない音楽もございます。個人的には大規模なオーケストラ曲やオペラ作品は基本的には願い下げです。必然的に室内楽や器楽曲に親しむ事が多くなりますが、ここでは敢えて夏に相応しい音楽を書いた作曲家と、夏でも大丈夫(!?)な管弦楽作品の世界を中心にご紹介したいと存じます。それが、小生が若い時分から親しんで参りましたフレデリック・ディーリアスとその音楽世界に他なりません。

 ディーリアスと申しても、恐らく多くのクラシック音楽愛好家にも余り親しまれる存在ではございますまい。その名を耳にすることはあっても、代表作を挙げるほどに重要な作曲家とは看做されてはいないのではないかと拝察いたすところでございます。しかし、決して軽々に扱ってよい音楽家ではございません。小生は若い頃からその音楽世界に魅了されつづけておりますし、世には俗に「ディーリアン」と称される少なからぬ熱烈なファンが存在しております。もちろん、小生の愛好する音楽世界は、「グレゴリア聖歌」から「ルネサンス音楽」「バロック音楽」から、「ロマン派」「後期ロマン派」、そして「国民学派」から「近現代音楽」にまで及びます。偏愛する作曲家やその中でも偏愛する作品も星の数ほどございます。確かに、そうした偉大な作曲家の森の中に置けば目立たぬ存在かもしれませんが、道野辺に咲く可憐な花のようなこの人の作品に接すれば忽ちに魅了されると思うのです。

 その作品の多くは、何といえぬ淡い色彩を纏った夢見るような楽想により、限りないノスタルジーに誘われる音楽であり、自身の肌感覚に限りなく寄り添うものでございます。勿論、趣味嗜好は十人十色でありますから、その音楽に親近感を感じない向きがあろうことも頷けない訳ではございません。ディーリアスの場合は、その原因が「ぼんやりして節度感に欠ける音楽」「どことなく掴みどころのない音楽」といった感覚にあろうかと推察いたします。また、その晩年に親しく接した弟子のエリック・フェンビーによる伝記作品に描かれた、とても付き合いきれないような偏屈極まりない頑固老人の姿を知るとちょっと嫌いになりそうにもなります。しかし、その音楽には決して斯様な趣は感じられませんし、そもそも芸術家という存在はそうした強烈な個性を有してしかるべき存在でございましょう。少なくとも作品自体に罪はございません。小生のようなそもそも人としての節度感に欠け、どことなく斜に構えて生きてきた者にとっては、しみじみと身に沁み入るような音楽なのであります。

 因みに、小生はその昔フェンビーの手になる原著『Delius as I Knew Him』を購入しており、今でも手元にあると思います(何処かに仕舞い込んでしまい現状で所在場所が特定できません)。悲しいかな10年間にも及ぶ学校英語の実力では、途中で挫折してしまい読み切ることができなかったのです。しかし、嬉しいことに平成29年(2017)に、小町碧さんによる邦訳がクラウドファンディングによる資金を元に出版されたのです。何という僥倖でございましょうか。逆に申せば資金が集まる程,ファンの裾野が広いことに感銘を受けもいたしました。それが『ソングオブサマー 真実のディーリアス』(ARTESパブリッシング)に他なりません(「私の知るディーリアス」が原題に近い邦題でしょうが)。早速購入して一読に及んだことは申すまでもございません。そして、最晩年の姿は世に言われている以上の偏屈爺さんであることも確認できました。しかし、彼の曲を愛する思いに一片の暗雲すら萌すことはございませんでした。もっとも、その音楽にこれから接してみようとされているのであれば、最初に読まれることはお薦めいたしません。音楽に相当に親しんだ後にどうぞ。

 余り知られることの多くはないディーリアスでありましょうから、まずその生涯を概観してみようかと存じます。彼は、1862年にイングランド北部の炭坑町ブラッドフォードの豊かな商人の家に生を受け、1934年にパリ近郊のグレで没した人でございます。同年の生まれの音楽家にフランスのクロード・ドビュッシー(1962~1918年)が、相前後する生まれの同年代の音楽家としては、独墺系ではリヒャルト・シュトラウス(1964~1949年)・グスタフ・マーラー(1860~1911年)が、そしてロシアではアレクサンドル・グラズノフ(1965~1936年)がいると申せば、大凡の時代的位置づけがご理解いただけましょうか。こうした出自から、ディーリアスは専らイギリスの音楽家として扱われております。しかし、実は両親ともにドイツからの移民であり、その活動の舞台は殆どイギリスにはございませんでした。実際にその生涯の大半を送ったのは死を迎えた場所でもあるフランスでありました。また、若年の頃には、商売の道に進みたがらなかった息子を1884年にオレンジのプランテーションを運営させるため、父親は彼をアメリカのフロリダ州に送り出しております。22歳の時となります。しかし、かの地でも商売などはそっちのけ……。黒人霊歌の収集に勤しむ等々の音楽三昧の日々を送ります。その成果は、初期作品である『アパラチア』や『フロリダ組曲』に結実いたしました(本稿後編で“夏に相応しい”ディーリアスの管弦楽作品としてご紹介させていただく作品の一つが後者になります)。

 そして、24歳の時に運命が開けます。両親が、息子の音楽家を目指す熱意を認め、ドイツの「ライプチィヒ音楽院」に入学し専門教育を受けることができるようになったのです。そして、何よりもその地で生涯の尊敬を捧げることとなるノルウェーの音楽家エドゥアルト・グリーク(1843~1907年)に出会い、その音楽の才を認められたことが大きな契機をなったのでした(グリーグには『フロリダ組曲』の初演を直接に聴いてもらってもおります)。そのグリーグが父親を説得してくれ、ようやく26歳で音楽家として自立することができ、パリに居を構えることになりました。そして、その地で多くの芸術家との交友を持ったといいます。その中には、画家のポール・ゴーギャン(1848~1903年)、アルフォンス・ミュシャ(1860~1939年)、エドヴァルド・ムンク(1963~1944年)、詩人のポール・ヴェルレーヌ(1844~1896年)といった誰でも知る人々もおり、多大なる感化をうけることにもなったようです。また、その生活も相当に奔放なものであったようで、後年に彼を苦しめることとなる病の原因もこの時代にその淵源が萌したと言われます。一方で、音楽家との交流はさほどに深まることはなく、フランスでその作品が広く知られることはなかったようです。ただ、次第に作品の理解者と支援者が表れてドイツを中心に作品が取り上げられることになり、19世紀末から20世紀初頭にかけての時代の中で実り多い時代を生き、またそうした世紀末の風潮を反映したかのような充実した作品群が生まれます。

 そして、20世紀という時代になり、1907 年にディーリアスと親交を結んで以来、何よりも彼の作品を深く愛し、広くイギリスでの音楽会で採り上げるばかりか、「録音」というによる音盤という新たな媒体を活用して彼の作品を更に後半に知らしめた、正にエヴァンゲリスト(伝道者)が表れたのでした。その人が、イギリス人の指揮者トーマス・ビーチャム(1879~1961年)に他なりません。「ビーチャム製薬」の御曹司として裕福な家庭に生まれたトーマスは、自前でオーケストラを創設までし(現在は独立団体ですが、ロンドンで現在まで続くロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団はともにビーチャム創設になります!!)、ディーリアス作品の普及と定着に尽力しました。更には、その生活を支援までしていたといいます。

 ただ、若い頃の放蕩の報いでしょうか、1928年には全身麻痺で歩行が困難となり失明まですることになったのです。そこに、表れたのがディーリアス作品のファンであった、イギリスの青年エリック・フェンビー(1906~1997年)であり、同年から5年間、自らの意思によってディーリアスに付き添い、献身的に新作の口頭筆記や、旧作の改訂作業に尽力したのです。彼のおかげで晩年の優れた作品が残された功績は計り知れません。ディーリアスの死後に、その間の出来事を回想したのが先にも記した書籍となります(原作1936年刊行)。偏屈な頑固爺さんに翻弄されて辟易させられながらも、そこには作曲者に対する敬愛の念が見え隠れしており感銘を受ける記録となっております。そして、ディーリアス本人とその伝道者であるビーチャムの没後、主に録音を通じて師の作品の普及に努めております。イギリスの「ユニコーン・カンチャナ」レーベルに録音されたフェンビーによるディーリアス作品集の数々は(指揮・ピアノ)、現在でも作曲者お墨付きとも言える第一級の名盤として持て囃やされております。

 一方、特筆すべき事として、ディーリアスが当該時代においては珍しく、一貫した無神論者として生涯を貫いたことです。その生き様は、後編で紹介する作品にも如実に反映されており、特に歌詞を伴う声楽作品に顕著であります。また、御本人はイギリスの作曲家として扱われることに強い反発がありました。特段にイギリスが嫌いであったわけではなく、一貫した特定の国家に拘束されることを嫌うコスモポリタンとしての人生を送ったのであります。フェンビー青年に「イギリス音楽?そんなものはあるわけがないだろう」と悪態をついたことも知られております。しかし、現在ディーリアスが最も愛聴されているのはイギリスに他ならず、現にその音盤の殆どはイギリス人指揮者と同国オーケストラによっております。小生も多くの彼の作品音盤を聴いてまいりましたが、寡聞にしてイギリス以外のオーケストラによるものは記憶にございません。勿論、ここでいうイギリスとは、イングランドに限らない、スコットランド・ウェールズ・北アイルランドを含む正式な国名「大ブリテン島と北部アイルランドからなる連合王国」を指しております。ご本人は没後に一度グレの墓地に仮埋葬された後、イギリスに改葬され今ではその地で眠っております。コスモポリタンを自認したご本人でございましたが、今では生誕の国土の土に返っていることに、何とも歴史の皮肉を感じさせられますが、ご本人の意思はどのようなものであったのでしょうか。                  
 (後編に続く)

 


 

 

夏に聴くフレデリック・ディーリアス(後編) ―19世紀末から20世紀初頭を生きたコスモポリタンとしての音楽家に捧ぐ― ―【告知】多くの千葉市民が中高時代にお世話になった「旧千葉公園体育館解体前見学会」(「下志津陸軍飛行学校」格納庫の部材転用)が開催されます(8/15)―

8月12日(土曜日)

 後編では、小生が「夏に相応しい」と勝手に思っているディーリアス作品の幾つかと、小生がお薦めの音盤とをご紹介したいと存じます。更に、ディーリアスという音楽家を紹介する機会も二度とないでしょうから、この機会にその「コスモポリタン」振りを象徴するような作品も序でに紹介させていただこうと思っております。これを機に、少しでもディーリアスなる不世出の作曲家の作品に、少しでも親しんでいただける皆様が増えてくれますことを祈念する次第です。
 
 最初に、これぞ「夏に相応しい」と小生が考える『フロリダ組曲』でございます。前編でも作品名のみは掲げさせていただきましたが、本作は彼の最初期の作品であり、アメリカのフロリダにおけるプランテーションでの生活経験を基にしております。両親から音楽家の進路を断固反対されたディーリアスは、ビジネスマンとしての武者修行のために大西洋を越えた新大陸の地に送り込まれたのでした。従って、故郷から遥かに離れた地での生活は、孤独でありながらも恐らく晴れ晴れとした解放感に満ちたものであったろうと想像いたします。その両方の相反するような気持ちが本作からは匂いたってくるように思われます。実際に、その地でのディーリアスは、ビジネスなどそっちのけで黒人霊歌等の現地音楽の収集等に没頭し、広大で茫洋たる新大陸の自然とその風景への親しんだと言います。本作は、その地を流れ下るセントジョンズ川のほとりで一人で過ごす寂寥と雄大な自然への感動が匂いたってくるような名作だと思います。作品は、その後に音楽を学ぶために赴いた、ドイツのライプツィヒで纏め上げられ、初演は1888年にその地で行われております。その時のオーケストラは、かのゲヴァントハウス管弦楽団だとされておりますが、公開の演奏会ではなかったようで団員には報酬の代わりにビールがふるまわれたとのことです。しかも、本人以外の聴衆は、グリーグとシンディング(1856~1941年)[後者もノルウェーの音楽家です]合計3人だけだったとも。それでも、グリーグは本作で彼の才能を認めることになったのですから、決して初心者の習作などではございません。4つの楽章[1、夜明け-踊り 2、河畔にて 3、夕暮れ-農場の側で 4、夜に]からなる40分弱の大作となっており、「管弦楽のための南国の風景」との副題が添えられております。弦楽器の扱いの爽やかさと、オーボエ・イングリッシュホルン・フルート等の木管楽器による美しい旋律が印象的であり、一度耳にしたら忘れがたき楽曲に仕上がっていると思います。それはあたかも茫洋たる景色のなかを爽やかに吹き抜ける心地よい風を思わせるようです。そうです!正に夏に相応しい音楽だと存じます。

 本作の音盤としては、本作の再発見者と申すべきビーチャムによるHMV盤(1960年収録)が流石と思わせる演奏です。しかし、最晩年のステレオ収録ですが、残念なことに音質は芳しいものではございません。そこで、小生の圧倒的にお薦めの音盤を御紹介させていただきましょう。それがヴァーノン・ハンドレー指揮・アルスター交響楽団によるシャンドス盤(1985年収録)でございます。ベルファストのオケの実力も十全であります。田舎町のオケと侮ることなかれ!!本市は英国内の北アイルランド首府であり、造船業を中核とする大工業都市であります(あの「タイタニック号」が建造されたのも本市においてです)。また、音質のすばらしさと、古典的なオーケストラ配置によって示される広がりのある音場空間に圧倒的な感銘をうけると存じます。ハンドレーは、英国の大指揮者エイドリアン・ボールトの弟子で、師と同様に第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンとを指揮者の左右に振り分ける古典的オケ配置を採ります(俗に「両翼配置」と言います)。本配置の利点はヴァイオリンの音場が左右に大きく広がることにあり、楽曲の本来あるべき姿を示すことになると思います。また、ディーリアスの作品ほど演奏者を選ぶ曲もありません。ディーリアスの音楽に左程共感と愛情を有していないだろう(つまりお仕事で振っているだろう)という演奏者は覿面に知れます。小生も本作のCDを何枚も所有しておりますが、ハンドレー盤がもっとも感動的な演奏だと存じます。本盤では、本作に加えて題材として対象的な管弦楽曲『北国のスケッチ風景』~[1 秋-秋風が木立に鳴る 2 冬景色 3 舞曲 4 春の訪れ-森と牧場と静かな荒野](1913~14年)がカップリングされるのも心憎いところでございます。
  
  次にご紹介したいのは、一曲目「春初めてのカッコウの声を聴いて」、二曲目「川面の夏の夜」で構成される『小オーケストラのための2つの小品』となります。前者が1912年、後者は1911年の作品であり、小品とあるように両作ともに7分弱の演奏時間となり、暑苦しいこの季節にも有り難い楽曲です。特に前者はディーリアスの作品中でも最も人口に膾炙した作品の一つかと存じます。クラリネットの奏でるカッコウの聲が如何にも春風駘蕩な長閑な田園風景を思わせます。それに対する後者は、夏の夜の川面の風景を描写した作品であり、各楽器の演奏には技術的な難しさ以上に微妙な表現技術が要求される相当な難曲のように感じます。夜に怪しく揺れる水面の様子を描写する弦楽5部に、木管による水面を飛びかう昆虫や靄を思わせる情景描写にうならされます。静かで涼し気な夏の夜の情景が粛々とした小オケによる音場空間で表現される、正に夏にピタリの楽曲だと思わされます。これも、個人的には、古くはビーチャムやバルビローリ盤(ともにHMV盤)、新しくはハンドレー盤が好みです。後者はイギリスのラルフ・ボーン=ウィリアムス作品とカップリングされる英:シャンドス盤(1984年収録)でどうぞ。本盤には、お誂え向きに1908年に完成させた幻想曲『夏の庭で』も収録されており、夏には最適な一枚となっております。何れもディーリアスが最も精力的に作品を制作していたころの充実した内容であります。

 次に、ディーリアスが晩年に失明・半身不随となった1928年に、作曲者の口述筆記をフェンビーが筆耕して完成させた忘れがたき“夏”を題材とした『夏の歌(ソング・オブ・サマー)』なる交響詩であります。本作のことを知るにはディーリアスがフェンビーに語ったことをお読みいただくのが手っ取り早いのではありますまいか。もし、本人自らがペンを走らせて作曲しているのでしたら決して残ることはなかった作曲者の頭の中に描かれた曲想が、口述筆耕であったが故にフェンビーの手によって記録されたことを僥倖とせねばなりますまい。小生はバルビローリ・ロンドン交響楽団とのHMV盤(1968収録)が好みです。

 

 想像してくれたまえ。ヒースの生い茂る崖に腰かけて海を見渡しているところを。弦楽器の高音域で保たれた(冒頭の)和音は、雲ひとつない青空と、静かで穏やかな景色を示しているんだ。……曲に動きが出てきたときにヴァイオリンに現れる音型を憶えておくがいい。そこで私がそれを取り入れたのは、波の静かなうねりを示したかったからなのさ。フルートが示しているのは、滑空するカモメだ。

 

[三浦淳史『英国音楽大全 「イギリス音楽」エッセイ・評論&楽曲解説集』2022年(音楽の友社)]
 

 

 続いて、「夏に聴くべき作品」から離れ、彼の「コスモポリタン」面目躍如たる2つの作品をご紹介させていただきたいと存じます。その一つ目は、100分にも及ぶ管弦楽伴奏を伴う声楽(独唱4人・合唱)作品『人生のミサ』であり、1909年にロンドンの地でビーチャムによって初演されました。ここで、これまで本稿をお読みいただいた方であれば不思議に思われるかと存じます。「ディーリアスって無神論者なのに何故ミサ曲があるのか……」との思いでございます。至ってご尤もなる疑問でございましょう。ミサ曲とは、カトリックの典礼の際に演奏される曲であり、一般的に典礼文をテクストに『キリエ』(求憐誦)・『グローリア』(栄光頌)・『クレド』(信仰宣言)・『サンクトゥス』(三聖頌)、『アニュス・デイ』(神羔頌)の5曲で構成される楽曲であります。しかし、本作のテクストとして用いられているのは、あの「神は死んだ」で知られるフリードリッヒ・ニーチェ(1844~1900年)の作品『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883~1885年発表)に他なりません(ドイツ語)。つまりキリスト教を否定したニーチェの作品を題材とした作品であり、ここで言う「人生」とは超人ツァラトゥストラの辿った人生の遍歴を指しているのであります。それに「ミサ」とつけているのは、強烈な皮肉か、はたまた明らかなる挑発行為か……以外の何物でもございますまい。そう、そうした痛烈なるアイロニーを好むのもディーリアスらしい一面でございます。しかし、テクストに付けられた音楽は、至って壮麗でありながらも、なおかつ切なくも美しさに満ちている比類のない楽曲となり得ております。小生は、マーラー『第8交響曲』(千人の交響曲)や、シェーンベルク『グレの歌』といった大作合唱曲と比肩すべき名曲だと存じます。にも拘わらず、イギリス以外で殆ど取り上げられないのは、カトリック教会との軋轢等がその背景にございましょうか。以下にテクストの構成をお示しておきます。因みに、小生はチャールズ・グローブズ指揮によるHMV盤(1971年収録)を愛徴しております

 

第1部
 (1)「祈りの意思への呼びかけ」 (2)「笑いの歌」 (3)「人生の歌」  (4)「夜の歌」
第2部
 (1)「山上にて」    (2)「竪琴の歌」   (3)「舞踏歌」
 (4)「牧場の真昼に」 (5)「歓喜の歌」   (6)「喜びへの感謝の歌」
 

 

 そして、更に極めつけの作品が『レクイエム』でございます。レクイエム(鎮魂歌)とはカトリック教会で死者を悼むために執り行われる典礼で用いられる音楽であります。本作も上記『人生のミサ』と同様に管弦楽伴奏による声楽作品であり、1922年に「大戦(第一次世界大戦)に倒れた全ての若き芸術家の記憶」に捧げられて初演をされており、演奏時間は概ね30分程の短い作品でございます。ディーリアスの主要作品の一つと目されながら、盟友ビーチャムも取り上げておらず、音盤の録音ですら1968年まで行われておりません。これには訳があって、このレクイエムのテクストは、旧約聖書や、シェイクスピア、ニーチェの書から採られただけではなく、第一部の後半では、女声が「ハレルヤ」を、男声は「アッラー」を唱えているのです。つまり、ここで男声が歌わっているのは紛れもないイスラームの神であるという、唯一無二の異形の「鎮魂歌」なのであります。そして、第2部は哀しみをともなった抒情的な田園ラプソディーとなります。この場面こそが、本作の白眉であり静謐な美しさと輝きあふれた音楽となります。そして、雪の残る山や木、冬の眠りから目覚める自然を歌い、やがて来る春の芽吹きを表出して静かに曲が閉じられております。知らずに聞いていれば普通に過ぎていきましょうが、ここにディーリアスが込めた汎神論的な仕掛けを知れば正に驚愕だと存じます。一つの価値から自由なコスモポリタンとしてのディールアスの在り方をここまで明示した楽曲もないと存じます。小生は、その世界初録音であるメレディス・デイヴィス指揮のHMV盤(1968年収録)で聴いております。

 最後の最後に、「夏に相応しい」訳でも、「コスモポリタン」振りを象徴する作品でもないのですが、小生の偏愛するディーリアス作品を一曲。それが、『人生のミサ』の前年に作曲された『日没の歌』でございます。32歳で夭折したイギリス世紀末を象徴する退廃詩人アーネスト・ダウスン(1867~1900年)の詩8編に付けたオーケストラ伴奏の合唱曲であります。イギリス音楽を愛しその作品の紹介に熱心でいらした音楽評論家の三浦淳史氏は「愛の幻滅に寄せる恋する者のレクイエムである。全曲がエレジー風で物思いに沈んでいる。」と評しておられます。その楽曲は、密接に絡みあうことなく続く独唱・混声合唱の各声部が、半音階風の管弦楽伴奏とともに、憂愁を帯びた感傷のように茫洋かつ連綿と響きつづけます。こうした節度感の感じられない音楽が苦手な人はきっと願い下げでございましょう。小生も毎日のように聞くことはございません。しかし、年に一度は必ずターンテーブルに乗せます。それが大晦日でございます。小生のようなディレッタントにとって、一年の来し方を振り返るのにこれほど相応しい楽曲はないと思っております。若い頃ならいざ知らず、この歳になって年末に『第九』を聴くこともなくなりました。以下に冒頭の混声合唱で歌われる詩を引用させていただきます。ネットで「梅丘歌曲会館『詩と音楽』」を開き、本HP内の「ディーリアス」を検索すると、本作で用いられたダウスンの原文・邦訳テクスト全文が掲載されておりますので是非ご覧下さいませ。チャールズ・グローブズ指揮のHMV盤(1968年収録)は、ジャネット・ベイカー(ソプラノ)とジョン・シャーリー-カーク(バリトン)の歌唱も素晴らしく優れた演奏です。しかし、小生は、ディーリアス所縁のエリック・フェンビーが最晩年に棒を振った、師への切々とした静謐なる愛惜の支配する、ユニコーン・カンチャナ盤(1986年収録)の共感に満ちた演奏がより心の襞に寄り添います。

 

A song of the setting sun

 

A song of the setting sun!

The sky in the west is red,

And the day is all but done:

While yonder up overhead,

All too soon,

There rises so cold the cynic moon.

A Song of a Winter day!

The wind of the north doth blow,

From a sky that's chill and gray,

On fields where no crops now grow,

Fields long shorn

Of bearded barley and golden corn.

A song of a faded flower!

'Twas plucked in the tender bud,

And fair and fresh for an hour,

In a Lady's hair it stood.

Now, ah! now,

Faded it lies in the dust and low.

 

 

 ここからは全くの別件として、去る8月7日(月)に千葉市として記者発表がなされた、副題で掲げさせていただきました一件についての告知をさせていただきます。それが「旧:千葉公園体育館」の“解体前見学会”のご案内でございます(日時等は以下掲載)。本体育館は、千葉市で中学校生活を、また近隣の高等学校でその生活を送られた方々にとっては、忘れることのできない施設であろうかと存じます。体育館を用いるスポーツ(バレーボール・バスケットボール・バドミントン・卓球・剣道等々)の春季・秋季大会や夏の総合体育大会のメイン会場として、これまでに何千・何万、いや、ことによると数十万にも及ぶ人々の汗と涙の記憶とともにある体育館だと思われます。しかし、千葉公園整備事業の一環として新体育館の建築が進み、本体育館も解体されることが決定いたしました。本体育館につきましては諸団体の調査研究により、千葉市から四街道市にかけて存在した「陸軍・下志津飛行学校」(現・自衛隊下志津駐屯地)で戦前に建設されたれ飛行機格納庫を、戦後に移築再利用し昭和31年(1956)1月14日に「千葉県立体育館」として開館した建物であることが明らかにされました。その後、昭和47年(1973)に千葉市に移管され、その後は「千葉公園体育館」として長く市民に親しまれてまいりました。また、市民の皆様にはプロレスの聖地として愛されてきた施設でもございました(最晩年の「力道山」も訪れこの場で熱戦を繰り広げたとのことです)。つまり、元来が戦争のための建築物が、戦後に平和利用され今日に至るまで活用されてきた建物でもあるのです。当日は、これまで本体育館の歴史等について調査をされてきました、「千葉市近現代を知る会」と「日本戦跡協会」の制作にかかるパネル展示も会場内で開催されます。また、体育館の床にマジックペンでメッセージを記入することもできるとのことです。多くの市民の皆さんに愛されてきた「千葉公園体育館」との最後のお別れの機会となります。万障をお繰り合わせの上、是非とも足をお運びになられてくださいませ。なお、体育館の内部には冷房施設等はございません。冷たい飲料等を持参される等の防暑対策をされた上でご参加ください。また、当日は下足のままフロアーに入ることになりますので上履・スリッパ等の準備は不要です。

 

「旧千葉公園体育館解体前見学会」の開催

 

開催日時  令和5年(2023)8月15 日(火)10:00~15:00

予 約 等    不要(当日は上記時間内に直接会場へお出でください)

現地住所  千葉市中央区弁天3-1-1

注意事項  問 合 先 千葉市都市局公園緑地部緑政課(043-245-5774)

 

 

 

資料紹介「杉本郁太郎かく語りき」(不定期連載:その3) ―千葉敬愛経済大学経済研究所『千葉県商業史談』第一集 「杉本郁太郎氏商業回顧談」より―

8月18日(金曜日)

 観測史上「最暑」であったという文月七月を終えたばかりと思っておりましたが、いつの間にやら葉月八月も後半戦へと突入する時節となりました。子供の頃を思い出せば、そろそろ遊び惚けたツケが回り、宿題に追われ始めていた頃のように思います。特に困ったのが小学校時代の絵日記でして、さぼった日数の多さに大いに難渋した悪夢が甦ります。今の子供たちは斯様なことに悩むこともないのでしょうか。それに致しましても、本月も7月に引き続いて酷暑続きで往生いたします。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、それまでピタリ一か月間も残されております。考えただけでもぞっといたしませんでしょうか。何事においても暑いときには暑く、寒いときには寒く……が鉄則でありましょうが、暑すぎるのは決して望ましい結果には繋がりますまい。

 さて、8月4日(金)に引き続きまして、杉本郁太郎氏の商業回顧談の第三弾と参りたいと存じます。今回から「第Ⅱ章:呉服商時代における経営の推移」に入ります。同章は全2節から構成されておりますが、併せて85頁ほどになります。今回は、「第一節:行商期における経営の諸問題」18頁の全てを紹介させて頂きます。要するに第Ⅱ章は、その残りの67頁にもなりますから、そちらは3回に分散させてのご紹介となると存じます。今回は、第一弾でご紹介させていただいたように、同研究所研究員の前田和利氏も登場しますのでご承知おきください。今回は、郁太郎氏はこの回で如何なるお話をされましょうか、是非とも楽しみながらお読みいただけましたら幸いでございます。この時代は郁太郎氏の誕生から大いに遡る頃のことであり、しかも行商時代ということであまり史資料も良好に残存していないようで、郁太郎氏も憶測でお答えになっている部分が散見されます。つまり、思いのほか証言には精彩に欠ける面があるように感じさせるのです(まぁ仕方がないことですが)。ただ、一方で常陸国行方郡玉造で立つ「市」への進出等、興味深い証言も多々あるようにも存じます。それでは、「杉本郁太郎かく語りき」第三弾にお付き合いくださいませ。

 

Ⅱ 呉服商時代における経営の推移
一、行商期における経営の諸問題
 

土屋 本日は少し古いことにさかのぼってお話を伺いたいのです。社長は御自身でこの『奈良屋弐百廿年』史をお作りになられましたわけですから、古いことについても随分いろいろとお調べになって御承知のことが多いと思いますので、お伺いしたいわけです。
 百貨店時代に入る前の呉服商時代における経営のいろいろな問題点についてお伺いしたいのですが、この呉服商時代を二つの時期に仮に分けたんです。第一は行商期、それから第二は店舗商の時期です。寛保三年(一七四三)から明和元年(一七六四)までの約二O年の間を行商期とみたわけです。それから、明和元年(一七六四)から百貨店をお作りになるまでですから相当長い一六O年ほどの期間が店舗商期の時期とみられるわけなんです。そして各々の時期のいろいろな問題についてお伺いしたいのです。
 まず第一は、「鋸り商内」ということが昔から言われておりますね。つまり上方の商品を持ち下って関東で売り、関東の品物を仕入れて上方へのぼせて、上方で売るという商いをしていらっしゃったかどうか、という問題なんですが。
杉本 「鋸り商内」というのは、いちばん無駄のない合理的な商いなんでして、私共の場合は京呉服、太物、綿-京綿と申します-、それを京都から千葉のほうへ運んでいたのですが、逆の場合は考えられないし、また記録もないですからねえ。
土屋 記録はございませんか。
杉本 はい。それに当時は、今でこそ桐生だの伊勢崎だのといっていわゆる関東物の特殊な絹織物がありますが、ああいう機業地が今のように盛んなものではなかったんではないでしょうか。ですから、関東から関西へ運ぶというものはなかったように記憶しておりますね。    
土屋 そうしますと、一方的な商いをなすったというわけですね。
杉本 どうもそのように記憶致しております。
土屋 前田君にききますが、この「鋸り商内」については、君が調べた「仕切帳」やその他でなかったですか。
前田 行商期については資料が少ないものですから、そうした商いがあったかどうかはっきりしません。
土屋 そうしますと、社長がおっしゃるように、一方的と考えていいわけでょうね。
杉本 どうもそう私は考えております。
土屋 第二に伺いたいことは、「市廻り」の商い、「市」から「市」へと廻って商いをなさったということはございましたでしょうね。
杉本 それはこの記録にもありますようにね。例えば、八日市場市(千葉県八日市場市)なんか、あれは昔は町だったんですが、あれなんかも毎「八の日」に「市」が立ったんじゃないでしょうか。それは千葉県だけでなく他にもありますが、やっぱりあの辺にはそういう具合に定期的な「市」があったと思いますね。それで佐原の「市日」というと、きっと伊能茂左衛門さんのお店先を借りて店を出したんでしょうね。また今度は、鉾田(茨城県鹿島郡鉾田町)とか玉造(茨城県行方郡玉造町)とかいった辺でやっぱり日を決めて「市」が立っていたと思います。記録によりますと、鉾田、玉造、それから鹿島(茨城県鹿島郡鹿島町)ですか。鹿島と言わんで大船津と書いてあったかな。大船津と出ていると思いましたが。その辺が記録に出ておりますねえ。
前田 それから、文化年間(一八O四~一八一七)の記録に、玉造に近い西連寺(茨城県行方郡玉造町)とか、江戸崎(茨城県稲敷郡江戸崎町)、滑河(千葉県香取郡下総町)、東之庄(千葉県香取郡東庄町)、成田(千葉県成田市)、佐倉(千葉県佐倉市)などが「外商い」の場所としてみられますが、西連寺なんかには「市」があったようですから、そんな所へは出ていたんじゃないでしょうか。
杉本 佐倉は文化四年(一八O七)に店を出していますね。
    今でいうとそれはだいたい茨城県の行方郡、稲敷郡が多いな。この場合、一口で言えば利根川沿岸地帯です。
土屋 むしろ茨城県のほうですね。 
杉本 佐原の町というのは、利根川唯一の川港でして、鉄橋がかかっているわけじゃなし、当時は水運の便しかなかったので、むしろ今の千葉県側よりも茨城県側、今申し上げた行方郡、稲敷郡、これが地盤だったんじゃないでしょうか。商圏であったんでしょうね。
土屋 千葉県側にももちろんマーケットはあったわけでしょうね。
杉本 これはやはり今のお話だとか、多古(千葉県香取郡多古町)、それから八日市場、栗源(千葉県香取郡栗源町)、その辺はうちの商圏内にあったでしょうな。
 行商の記録にはもうこれくらいの名前しか残っていないのですが、お話のように二O年間、今申し上げたような所の「市日」を狙っては転々と店を出しているうちに、佐原というところが特別商いがよくできるので、じゃあひとつここへ店を構えようということになったんではないでしょうか。
 この佐原に店舗を出しました時は、初代と二代が一緒になって働いていたようですね。初代、二代は叔父、甥のなかですから割合近寄っておりますので、二代目の時代に佐原を開いた形になっているけれども、初代はまだ元気でしたね。どうでしたか。
前田 「相続記」にも、「過去帳」にも佐原店は二代が開いたというふうに書かれております。と申しますのは、もうその時代には初代は直接商売にタッチされたというよりは、法儀につくされたということじゃないでしょうか。
杉本 では、初代はもう隠居の身か。そうかもわかりません。二代が店を開いて、二代、三代が親子で協力して佐原の店を発展させたということが言えますかな。
土屋 そうしますと、二代、三代が一緒にこられるというわけでしょうか。
杉本 それは少し後程になりまして、五代目が子供の六代目を一六才になって初めて帯同して下総の佐原へ下る途中、三島の宿でなくなっておりますわね。ですから、だいたい昔でいう元服、一五才になりますと初めて息子を帯同して東海道を上り下りしたんじゃないでしょうか。二代、三代も同じだろうと思います。
土屋 「市」の数は今のお話でわかりました。それで、茨城県側と千葉県側とでは、茨城県側が多かったというお話ですけれど、「市」の性質、「市」の在り方は、茨城県側と千葉県側とではいくらか違うんでしょうか。
杉本 まず、便、船の便が茨城県のほうが便利ですよね。いわゆる水郷地帯で、随分いくつもの水脈があるから、船を下駄代わりに非常に行ききが楽でしたからね。
 千葉県側は山間になりますから、どうしても茨城県側のほうが「市」に出向きます数も多かったと思います。千葉県側と申しますと、千葉県の山の中に入るわけですが、これというはっきりした記録が残っていないんですよね。
 今でこそ茨城県なんていいますけれど、昔はそんな名前はありませんから、私は水郷地帯、利根川の流域地帯と言っております。やっぱりその辺が主な商圏であったんでしょうな。
土屋 むしろ茨城県側のほうが主要なマーケットであったわけですね。
 その次にお伺いしたいことは、店借り、宿借りによって商売をするということが行商期にはありますが、その店借り、あるいは宿借りでどういうふうにその地域のマーケットを開拓されたものかということです。
 店借りというのは他の商人の店先を借りたということでしょうが、宿借りは…。
杉本 宿借りというのは、これはお宿を借りたんで、宿はだいたい宿屋を使って宿をとり、「市」の日にはその「市」の繁華なところのお店先を借りて商いをしているということじゃないでしょうか。佐原の場合には、田宿金田清左衛門方に宿を借り、「市日」には伊能茂左衛門さんの門前を借りて商いをしたとありましたね。
前田 その場合、宿屋あるいは農業兼宿屋であったかもわかりませんが、玉造の例なんかみますと、農清兵衛方に宿泊しなんていうふうに書いてありますので、
 農家を宿にすることもあったんじゃないでしょうか。
杉本 農清兵衛という名前はありますね。おそらくそれはなにしろ毎年、毎月のことなので、きっともう農家でも仕舞屋(しもたや)でも結構泊めてくれたんじゃないでしょうか。なるほど、商人(あきうど)宿ばかりではなかったかもわかりませんね。
土屋 しかし、この宿借りということは必ずしも農家とばかりはいえないんじゃないでしょうか。やっぱり、社長がおっしゃったように旅宿に泊まって、そして旅宿の前かなんかで店を開き、バザー式に商売をされたということもあるんじゃないでしょうか。
 つまり、旅宿を建てる場合は、立地的にみれば、大体やはり繁華な所なんじゃないですか。そうすればマーケットとして適当なんじゃないかな。だから、宿借りは農家とばかりは言えないんじゃないかと思いますね。
杉本 まあ、だいたいそうだと思いますね。農家の場合もあったと思いますが。
土屋 もあるでしょう。やっぱり、村へ行って農家へ宿泊させて貰い、そこで何か引札(ひきふだ~※引用者註:現在の広告チラシ)でも出して農家の連中にきてもらうとか、あるいはお寺やお社の境内とかいうこともありませんでしょうか。
杉本 お社やお寺の縁日なんていうのは記録がないんですねえ。今の佐原の場合は田宿金田清左衛門と書いてありましたが、これは旅館じゃないかなあ。
 佐原の町はあれだけの町ですからやはり宿屋じゃなかったのかな。それ全然今わからないんですよ。亡くなった古老にも田宿の金田清左衛門かなんかあるかと聞いたら、わからんですなあといっていましたね。
土屋 次にお聞きしたいことは、「市」の商人仲間に御先祖が加入していらっしゃったようですが、その加入の方法というようなことについて何かお聞きになったり、あるいは資料をご覧になったということはありませんか。
杉本 もちろん、それは組合があります。それで、ちゃんとやっぱり今でいう組合費を払うわけですね。もっと俗に言うと場代ですね。それを売り上げの割合で払ったか、決めた額だったかわかりませんが、そういうことはあったと想像できます。しかし、残念ながらそれらしい資料は残っていないようです。
土屋 前田君、奈良屋さんの御先祖がその「市」の商人仲間に入っておられたことは資料でわかるわけですよね。
前田 玉造の「市」の場合には、一三組のうち呉服奈良屋新右衛門という名がみられますので、出ていたことははっきりしております。しかし、加入方法そのものについてはちょっとわかりません。
杉本 ですから、みんなそのような形だったんでしょう。みんな組合はあります。今の露天商組合みたいもんですね。
前田 ところが、玉造の「市」についてみますと、他の「市」には出てはいけないという規則があるんですが、奈良屋さんの場合は、お話のようにいくつも出ているわけですね。
 これを考えると、どなたかの名前を借りて名義をそれぞれ異にしたんじゃないかと思います。
杉本 それは当然考えられます。佐倉だって当初名前を変えてやってましたからね。これは記録にはっきり出ておりますから、そういう手を使っていたかもしれません。
 また、きっとそういうことになっていたんだろうな。場所を変るごとに別名を使うということは、当時みんなやっていたんじゃないですか。
土屋 この「市」へ集まる人々というものは近村等の人が来るわけなんでしょう。お百姓さんが農作物の残りを、それから川や海のほうの産物も持って来るというような「市」なんじゃないですか。だから、多くは「市」の近辺の人が来るわけででしょう。
杉本 極めて限られたものだと思いますね。
土屋 そこへ遠くからこられた奈良屋さんの御先祖がやっぱり「市」で商売をされ
るわけじゃないですか。
杉本 おそらくそういう中で京呉服なんかを持ってきている人間だから、やっぱり「市」の花形だったかもわかりませんね。(笑い)
土屋 そうでしょうね。(笑い)
 もっと他から、桐生とかなんとかからきた人もあったかもしれまいが、奈良屋さんの御先祖のように遠く上方からきて、この地方の「市」で商売をなすったという人は少ないでしょうね。
前田 どちらかと言えば、行方郡玉造の「市」の場合は、近辺の水戸とか土浦とかという所からきているように思われます。上方表ということも書かれておりますが、やはりおっしゃいますように少なかったんではないでしょうか。
杉本 それは珍しかったと思いますね。
土屋 次に、「市廻り」の商売の方法は、現金売りであったものか、掛売りであったものかということですね。それから、商品の輸送方法ですね。これらについて何かお聞きになったり、資料をご覧なすったことはありませんか。
杉本 「市」の商いだから、恐らく大半は現金取引でしょうね。
 ただ、なにしろ場所も日も決まって出るんだから、そのうちにはこの次までお貸ししましょうくらいのことは多少あったかもわかりませんね。しかし、それはやっぱり例外的なもので、ほとんどは現金商いだとこの場合は思います。
土屋 「市」ではおそらく現金商いじゃないかと思いますね。ただ、農家を個々に廻って商いなさる場合は掛ということが考えられるんではないでしょうか。
杉本 行商時代は知りませんが、店舗を構えてましてからは相当掛売というのはありました。ですから、行商時代でも、長い間の顔見知りの御馴染みで、その資産内容もだいたいわかるというようなところがやはりあったと思います。
 これはついでながら申しますと、昔は半年掛ですからね。ですから、行商時代でも、多少それはあったと思います。なにしろあの辺は豪農がたくさんありますからね。びっくりするような大きな農家がね。
土屋 そういう所へはやはり品物を置いてって次にきたときに支払って貰うと。
杉本 その品物だって、あるいはこの次にこういうものを捜しておいて下さいよといったこともあったでしょう。
土屋 注文をとって、それを今度は持って行き、そして前に納めた品物の代金をそこで貰って帰るという具合でしょうね。
 個々の農家等を訪問しての商いの場合はそういうことがあったでしょうけれど、「市」での商いは現金でしょうね。
杉本 輸送の問題はだいたい水郷地帯ですから水運だと思います。船いっぽんです。みんな船の着く場所ですね。北浦、霞ケ浦、利根川の沿岸地帯ですから、これはもちろん船だったでしょう。
土屋 それは船でしょう。銚子から利根川を上がるわけですか。
杉本 それは逆でしょう。やっぱり江戸川の運河を通って上から下った。
土屋 関宿へ出たわけですね。
杉本 そうです。銚子からは銚子へつけるまでが大変ですからね。ですから、やっぱり全部江戸川から今の関宿を通って利根川へ出たわけでしょう。
土屋 行商期における商業の性質は、小売りだけをなさったのか、あるいは卸もなさったのかという点は、どうでしょうか。
杉本 行商期はちょっとそういうことはないんじゃないでしょうか。こちらにもそれだけの力がなかったんじゃないですか。
土屋 おそらく小売り専門だったわけですね。
杉本 もちろん、店舗を構えましてからは卸もやってました。私が知っております時代になりましてもやっぱりありました。だいたい田舎のちょっとした小さな背負呉服家さんが仕入れにきました。現金で払っていかれましたが、そういう場合は一割ぐらい引いてあげていましたね。これは私、現実にそういう場面をみております。
土屋 それから、個々の農家なりなんなりのお得意さんを廻っての商いを行商の時代になすったのか、なさらなかったのかの問題ですが。
杉本 行商時代にはそこまで手が廻らないんじゃないないでしょうか。
土屋 やはり、「市廻り」の商売が主であり、あるいは店先をかりたり、宿屋の前で売ったりされたのでしょうか。
杉本 それが主だったと思います。
土屋 一戸、一戸訪ねて売られたということはないでしょうか。
杉本 それは店を構えてからだと思います。店舗を構えますと、今度は商売の暇な時に店員が持って商いに出かけますね。
土屋 その商いに出かけるのは、“背負子(しょいこ)”とかなんとか申しますか。小見川農商銀行(注・昭和一八年三月、千葉合同銀行・第九十八銀行そして小見川農商銀行の三行が合併し千葉銀行となる。)の元頭取穴沢廉之亮さんのお話には、小見川の商人でその“背負子(しょいこ)”に商品を背負わせて売らせたのもあったし、店によっては一O数名というような“背負子(しょいこ)”を使っていたということを言っておられたんですがね。
杉本 「外商い」と言っておりまして、今の「外売」とか、「外商」とかということになります。それは相当ありましたね。あの方面は少し奥へ入りますと大きな農家がたくさんありましたので、そういうところへはこちらから番頭さんが小僧に背負わせて出向くという「出商い」、「外商い」はありました。
土屋 行商期には、奈良屋さんの店主、つまり初代、二代は年に何回ぐらい京都と佐原の間を往復されたものなんですか。
杉本 これはいつかも申し上げましたように、京都から佐原まで片道でだいたい一四日ぐらいかかっておりますので、往復で一カ月の日数を要するわけです。また、京都で仕入れする時期も考えなければなりませんしね。
 店舗を構えましてからは、お話しましたように少なくとも年に二回はきておりました。ですから行商期には年に四回が精一杯じゃないでしょうか。四回と言いますと、四カ月は道中で潰れるわけです。あと仕入れに期間を要しますね。
土屋 御主人が京都に帰っておられる間は、使用人が代わって商いをなさるわけですか。
杉本 行商時代にはそういうことはなかったと思います。まだそんなに大勢使ってというところまでは行っておりませんから、これは主人が主体です。もちろん、手代は連れて行ったと思いますが。
土屋 社史(『奈良屋二百廿年』)の九ページから一Oページのところに、「毎年十一月一日より十五日まで常陸国行方郡玉造の市には必ず出張して、農清兵衛方に宿泊し亦右衛門方店にて商いするを例とした」と書かれていらっしゃいますが、これはご覧になった資料ではいつ頃のことですか。
杉本 いつ頃だったですかね。「過去帳」かなんかの資料に書いてあったと思いました。それで今ふと思ったんですけれど、一一月一日から一五というのは、要するに秋の出来秋ですね。丁度、お米の取れた時期、その時期を狙っているわけですね。そこできっと大きな「市」が立つんでしょうね。農家の人がみんなお米を取り入れまして…。
 他になんか資料はありますか。
前田 天保四年(一八三三)の「大宝恵」という資料に「玉造市帳面及写」しがありまして、それによればこの「市」を薬師市といっているようで、延享三年(一七四六)頃は一一月中に「市」がたっていたようです。
杉本 これは本当は玉造へ行けば、あの辺は昔は名字なんか言いませんから、清兵衛と言えば何処そこの何の何某、亦右衛門と言えば何処の何某だとわかっているはずなんですがね。今でも古老に聞けば分かると思うんだが…。
土屋 わかるかもしれませんね。やっぱり近年まで先祖以来襲名しつづけて、清兵衛とか亦右衛門を名乗っていたんでしょうからね。
杉本 ええ。代々決まってそれを襲名しますからね。
前田 その清兵衛というのは、浜清兵衛という風に書いてある資料もあるんですよ。また、「仕切帳」中には“浜方売”という名称があるんです。
杉本 浜というのは玉造の近くの土地でしょうね。霞ヶ浦沿いです。浜清兵衛と農清兵衛は同じでしょう。あの辺は半農半漁です。
土屋 それから、社史(『奈良屋二百廿年』)の九ぺージに、「独立以来、資金は利息付にて借受けて呉服物木綿類を仕入れ……」と書いていらっしゃいますが、この借受けというのは、必ずしも現金のみではなく、商品その他の借入れということもあったでしょうね。
杉本 それはありましょうね。昨日、今日始めた呉服商売ではないからそれは貸してくれたでしょう。しかし、それだけというのもいかないのでしょうから、金ももちろん借りたと思います。運転資金がいりますからね。
土屋 また、独立以後は主家・奈良屋の別家と思われる久兵衛・作右衛門の援助を受けたと思われるのですが、それはどのくらいその後続いたかということなんですが。
杉本 初代は、最初奈良屋勘兵衛方に奉公したんですが、その後主家にごたごたがありまして、一族の奈良屋安兵衛方に転じ、四O才の時に勤め上げて暖簾を分けて貰って独立したんです。
 その久兵衛とか作右衛門というのは、みんな奈良屋の主家に繋がる一族だと思います。
前田 初代が独立されました時に、その家を久兵衛さんの裏に借りて、少なからず行商の間はそれらの人に面倒をみて貰ったようですが。
杉本 もちろん、その方々に資金面や商品面で助けていただいているわけでしょうな。なにしろまだ駆出しですものね。 

 

[『千葉県商業史談』第一集「杉本郁太郎氏商業回顧談」1967年9月30日
(千葉敬愛経済大学経済研究所)より 「第Ⅱ章 第一節」]
 

 

 今回は、ここまでとさせていただきます。今回の話題に採り上げられている内容の中には、「奈良屋」杉本家行商期の主であった初代・二代新右衛門が度々訪れた市の立つ場として、常陸国行方郡玉造(現:茨城県行方市玉造)「浜」について語られております。本館の遠山研究員からご教示いただいた市村高男氏の論考「中世東国における宿の風景」[中世の風景を読む第二巻『都市鎌倉と坂東の海に暮らす』1994年(新人物往来社)所収]を拝見いたしますと、玉造には、常陸平氏一族の玉造氏の居館が存在し、それが戦国期に城郭化を遂げて「玉造城」となっていたこと、そして天正19年(1591)2月に玉造氏が佐竹氏に滅ぼされ廃城となった後には、城郭の基本構造と城下の町場に大きな改造が加えられていないことを指摘されております。そのことを前提に明治の「迅速測図」を読み解くと、城郭のある台地の南麓に「根小屋」「内宿」等の玉造氏家臣団の居住地と判断できる集落と地割が残存していること、更にその外縁部に地域の所要道路と思われる街道に沿って成立したと考えられる「上宿」「下宿」「横町」と称する町場が存在し、更にそこから「今宿」の集落を経て霞ヶ浦に面する「浜村」の町場が見て取れると言います。そして、それが戦国期に成立した町場の基本構造であると指摘されていらっしゃいます。特に「浜村」について、以下のように述べておいでです。

浜村(浜と呼び慣わされる)は、中世以来の霞ヶ浦の津・裏の再編・統合の中から台頭し、すでに近世前期に霞ヶ浦四十八つの北津頭となっていたところであり、戦国期には玉造城の外港としての機能を果たしていたと考えるのが自然であろう。

 

(市村高男「中世東国における宿の風景」より[中世の風景を読む 第二巻『都市鎌倉と坂東の海に暮らす』1994年(新人物往来社)所収)
 

 

 また、近世には水戸藩領となり、藩領南部の支配の拠点ともなったおりました。現在もその由緒を有する県指定有形文化財指定を受ける「大場家住宅」が残り公開されてもいるようです。写真で拝見すると「御殿」の異名が理解できるほどの立派な屋敷でございます。以下に、茨城県教育委員会による本屋敷の説明をホームページより引用をさせていただきます。10年ほど前に、今は亡き本保弘文先生と近くの「麻生」の地までは足を運び、麻生藩新庄家の陣屋跡や残存する武家屋敷等を拝見したのですが、今更乍ら北上して玉造まで足を伸ばすべきであったと反省しきりでございます。またの機会があれば是非とも!!

 

大場家住宅 主屋1棟・表門1棟・通用門1棟(附家相図等2枚)敷地2,485.29m2

 

 この住宅は、水戸藩主の領内巡視の際の宿舎兼水戸藩南部の藩政事務所として、寛文年間(1661~73)に建てられたものといわれ、御殿ともよばれました。
 主屋は、茅葺、寄棟造で、座敷部・居室部・取合部(とりあいぶ)の3つからなっています。表門は、茅葺寄棟造の長屋門形式で、藩主来訪時と元日以外は開けないことから「あかずの門」といわれています。通用門は、茅葺切妻造の薬医門形式です。


(茨城県教育委員会 文化財指定文化財紹介ホームページより)
 

 

 以上からも明らかなように、「奈良屋」新右衛門が近世半ば以降になって行商に訪れた玉造「浜市」とは、その起源を中世にまで遡る可能性が大きい「市」であり、玉造という地が、中世において地域支配の要衝であり、また中世以来の当該地域における広域な物資流通の拠点であることをも示すご指摘でございましょう。そして、近世に至ってもその形質が継承されていたことが明らかでございます。京の地で開業しながら、こうした遠隔地である東国における一地域に進出していく「奈良屋」の情報網の在りどころにも興味が引かれます。「奈良屋杉本家」の先駆としての、京の「奈良屋一統」諸家もまた「他国店持京商人」として関東各地に進出していた実績のあることが判明しておりますから、そうした相互の関係性に基づく広域なネットワークを通じて、斯様な各地の情報が共有されていたのかもしれません。このあたりについての究明がなされることにも期待したいところでございます。

 最後に、7月11日(火)からスタートしました本企画展も残すところ2週間余りとなりました。手前味噌ではございますが、大変に充実した展示となっているものと自負する内容でございます。毎日酷暑続きではございますが、是非とも閉幕を迎える9月3日(日)までに脚をお運びくださいますようよろしくお願いを申しあげます。因みに、会期終了後も本連載は杉本郁太郎氏の全談話終了まで続けさせていただきます。
 

今夏訪れた飯坂温泉と外湯「鯖湖湯(さばこのゆ)」について ―由緒ある奥州の名湯と名宿の世界 または共同浴場の不思議な名称―

8月25日(金曜日)

 8月も残すところ1週間弱となりましたが、相変わらずの猛暑続きでございます。コロナ禍も新型変異株も拡大しているようで、前職の際に同僚であった方の御宅ではお子さんが持ち帰ったウィルスが家庭内で蔓延し、老人を含むご家族6名が満遍なく罹患され、ご家族皆さんが入れ代わり立ち代わりで相当に大変な思いをされたとのことでございます。つまり、「インフルエンザ」並みとは言いながら、決して侮れない状況にあることは身辺の状況から伺い知ることができます。未だ未だ、十分なる注意を払う必要があるということでございます。
 
 かような状況の中ではございますが、今夏は5年ぶりに極々細やかな家族旅行に出かけて参りました。その間に倅は独立して自宅を出ており、誘いをかけたものの夏季の週末は既に昆虫採集の計画で一杯だから無理……と一刀両断の下に断られ、結果的に夫婦でのしがない二人旅となりました。この酷暑もあり西国はやめにして、近隣である東北の温泉地にしようとのことで意見が一致。その結果、これまで出かけたいと思いつつ果たせずにいた、福島の名湯「飯坂温泉」でお世話になることに決しました。東北新幹線で福島駅まで一本。そこからは福島交通飯坂線に乗り換えて終点まで行けば到着ですから、交通も至って至便でございます。しかも、予て一度は宿泊してみたかった登録有形文化財の宿「なかむらや旅館」のある温泉でもございます。勿論、一夜の宿りをそちらにお願いをすることにいたしたのは申すまでもございません。斯様な次第で、今回の話題は、本年の2月末本稿にアップさせていただきました「熱海温泉」に引き続き、温泉シリーズ第二弾(!?)として、東北における名湯についての話題とさせていただこうと存じます。

 当日は、暑い盛りの中での福島市内散策を終えて(地方中枢都市のご多分に漏れず寂れた感の否めない町に感じました)、JR福島駅北東端に張り付くように存在する「福島交通飯坂線」の電車にトコトコと揺られ30 分弱で終点「飯坂温泉駅」に到着しました。正に県庁所在地福島市の「奥座敷」の呼称が相応しい立地でございます。宮城県の秋保温泉・鳴子温泉と並ぶ「奥州三名湯」の一つに数えられる温泉地であると聞いておりましたが、摺上川(すりかみがわ)の渓谷両岸斜面に居並ぶホテル旅館の多くは既に廃業しているように見受けられ、土産物屋の賑わいも感じさせない、どちらかと言えば“寂れた温泉地”の雰囲気を漂わせております。しかし、関東における斯様な風景の代名詞とも言われる鬼怒川温泉と比すれば遙かに好感がもてました。何故ならば、落ち着いた温泉地の情緒を感じさせてくれる温泉地であるからでございます。それは、小さな個人経営の湯宿の存在、建て替えられて間もないと思われる駅近くの木造共同浴場「波来湯(はこゆ)」の賑わいからも実感させられます。摺上川から離れ、その右岸にあたる古くからの温泉街に向かえば、その趣はいや増しに高まります。温泉街のメインストリートとも言うべき落ち着いた緩やかに右手へと曲がる坂を登り切ると、右手に土蔵造三階建「なかむらや旅館」の偉容が目に飛び込んで参りました。そして、その正面先にこれまた古風な造作の共同浴場「鯖湖湯(さばこゆ)」の風情ある建物が眼に入ることで、一気に温泉場の臨場感が高まります。季節が異なれば、共同浴場から湯煙があがり、温泉情緒は満点に限りなく近づきましょう。本温泉のクライマックスとも言うべき光景でございますが、是非とも冬季の再訪を決意させるほどの眼の至福でございました。

 そもそも、世に名高き「鯖湖湯」は、元来「なかむらや旅館」の眼前、現在「足湯」のある場所にありました。明治22年(1889)再建されたその「鯖湖湯」は、現存する国内最古の共同温泉浴場建築であったそうですが、老朽化により平成5年(1993)に明治の姿そのままに、場所を平成4年に廃湯となった共同浴場「透達湯」の跡地に移して再建されたとのことです。「なかむらや旅館」前の旧地は,上述のように現在足湯を伴う寛ぎ空間として整備されております。再建「鯖湖湯」は距離としてはたかが旧地から30メートル程奥まっただけでありますが、古写真でみる、「なかむらや」旅館と「鯖湖湯」とが道を挟んで居並ぶ光景は、現状を遙かに凌駕するインパクトであります。そもそも「なかむらや」に内湯が設けられたのは、昭和33年(1958)からであり、温泉旅館としましては「鯖湖湯」と一体となっての営業であったものと思われます。若女将からは、その頃には旅館玄関から「鯖湖湯」まで(といっても目の前だったのですが)飛び石が配置されて下足に履き替えずに入湯できるようになっていたとお聞き致しましたが、その状況は大正期から昭和前期頃の撮影になる絵葉書でも確認できます。しかも、建物自体はその儘の結構で再建されてはおりますが、現在の「鯖湖湯」入口は棟入となっており、中央から左右に分かれて男女湯が設営されております。ところが、古写真でみると妻入になっており、入口上部の妻部分に巨大な「鯖湖湯」の扁額が掲げられていたことが知れます(おそらく棟が長い形状から見てその昔は混浴ではなかったかと思われます)。坂を登って眼前に忽然と現れる温泉情緒の炸裂感は到底現状の比ではなかったことでありましょう。その頃に訪問できなかったことを、心底悔やむ思いに駆られました。因みに、旧鯖湖湯で用いられて居た湯船の石材でございますが、そのまま廃棄されると耳にされた「なかむらや」の大女将の断っての願いを受けて譲られることとなり、現在は旅館内湯の石材として再利用されております。なんという志の高さでございましょうか。

 我らもお世話になりました歴史の宿「なかむらや」は、元禄年間に当地で創業した「花菱屋(現:花水館の前身)」を、明治初年に土湯温泉から飯坂温泉に進出した初代阿部與右衛門が買い受け営業を開始して以来の温泉旅館であり、買い取った当初から存在した近世末期建築の海鼠壁を腰巻きにした土蔵造三階建(「江戸館」と呼称)に、明治期増築の三階建土蔵造(「明治館」と呼称)とで営業を続けていらっしゃいます。御手洗等の建築意匠も素晴らしく、登録有形文化財の宿に宿泊できる喜びを満喫できること請け合いでございます。決して豪華とは言えないものの、心のこもった地の食材を連ねた食事も得難き内容であり(料理の美味もさることながら、「水」の際だった旨さにも驚かされました)、家族経営のこじんまりした宿の心尽くしに、夫婦共々大いに満たされた次第でございました。当館では、そのためにも一日に三組のみの予約営業とされておられるそうです。幾度の地震等での建築被害に遭われる中で、何度も「廃業」が脳裏をよぎったそうですが、その度に古建築の維持に掛ける熱き情熱で乗り切ってこられたとの大女将のお言葉が身に沁みました。心底の尊敬の念を捧げることのできる名旅館であると存じます。次回は是非とも良い季節に再訪したいと願っております。格安温泉旅館の旅が悪い訳ではございませんが、コロナ明けの真の温泉旅館の緩やかな時間の流れに心底の癒しをいただきました。有難きことでございます。

 さて、その飯坂温泉であります。その歴史は古く、ヤマトタケル(日本武尊)が東征にあたって上述の「鯖湖湯」で躰を癒したとの伝説が残ります。まぁ、これは温泉の由緒を飾るための創作の可能性が高かろうと存じますが、12世紀に奥州藤原氏に仕えて当地を治めた佐藤庄司基治が「湯の庄司」といわれたことからも、この時期には既に温泉の利用がなされていたことを偲ばせましょう。因みに、この基治の子が源義経に従った佐藤継信・忠信兄弟となります(歌舞伎の登場人物として人気を博する人物でもあります)。今回は足を運べませんでしたが、近くの医王寺には義経逃避行の砌に討たれた、彼らの墓所があると言います。また、源平の争乱によって焼失した大仏殿再建のための助力を仰ぐためもあって、上方から鎌倉を経て平泉に向かった西行法師(1118~1190年)も飯坂温泉に立ち寄ったとされておりますが、これにつきましてはその作とされる和歌と共に、この後に触れさせていただきます。ここで一端伝承から離れ、記録上で飯坂温泉の湯を利用した確かな人物は誰かと申しますと、それはかの俳聖松尾芭蕉となるようです。時は元禄2年(1689)。そうです、あの不朽の名作『奥の細道』として纏められる、弟子の曾良を伴っての“奥州の旅”の際のこととなります。飯坂へは、現在の福島市の北にあたる「月の輪の渡し」で阿武隈川を渡り、佐藤庄司の遺跡を訪ねてから訪れたと記されております、以下に『奥の細道』から該当部分を引用させて頂きますのでお読み頂ければお分かりになろうかと存じますが、相当に粗末な宿に伏したこと、外湯につかったことが記されることから、近世の半ばには共同浴場である「外湯」を中心に、周辺に簡易な宿泊宿が存在する鄙びた湯治場の如き様相であったことが窺えます(おまけに曾良の日記の該当部分も掲載させていただきます。彼は飯坂の湯に殆ど言及しておりません)。『福島市史』第8巻(1968年)[福島市教育委員会]に掲載される、享保14年(1729)の「上飯坂村絵図」によれば、「波来湯」、「滝の湯」、「鯖湖湯」、「透達湯」の4つの温泉場(外湯)があることが分かるとのことです。後ろの2つは、先にも触れたように共に湯沢地区にあって隣接して存在していたので、芭蕉と曾良がつかった湯も、その何れか乃至は双方である可能性は高かろうと推察されます。もっとも、芭蕉はこの温泉地をあまり好くは書いておりませんが、それが事実かどうかは何とも申しがたいものがございます。つまり、本作は飽くまでも“創作”としての文學作品であることを踏まえておく必要がございます。現に、その必要のない曾良の“記録”には否定的なことは書かれておりませんから。実のところ、両者を比較すると、そうした異同は大変に多く存在するのです(当たり前でしょうが)。一行が飯坂を訪れた日付も芭蕉は「5月朔日(1日)」としておりますが、曾良の随行記録を見ると同月2日のことでございます。区切りの良い印象的な日付として芭蕉に採用されたのでありましょう。

 

五月朔日のことにや

 その夜、飯塚(※飯坂のこと)に泊まる。温泉(いでゆ)あれば湯に入りて宿を借りるに、土座に筵(むしろ)を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、囲炉裏の火かげに寝所設けて臥す。夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊にせせられて眠らず、持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短夜の空もやうやう明くれば、また旅立ちぬ。なほ夜のなごり、心進まず。(後略)

 

[穎原退蔵・尾形 仂 訳注 松尾芭蕉 新版『おくのほそ道』2004年(角川ソフィア文庫)より]

 

 一 瀬の上ヨリ佐野場へ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門へ不入。西ノ方へ行。堂有。

堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟の石塔有。ソノワキニ、

兄弟ノハタザホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年、弐本づつ同ジ様ニ生ズ。

寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。福島ゟ(※「より」)弐

里、こほりゟモ弐里、瀬ノウエゟ壱リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。

湯有。村ノ上ニ庄司の館跡有。下リニハ福嶋より佐波野・飯坂・桑折ト可行。

上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福嶋ト出タル由。昼ゟ曇、夕方ゟ雨降、夜ニ入、

強。飯坂ニ宿、湯ニ入。 

    
(同書内所収『曾良随行日記』より)
 

 

 さて、ここで時計の針を巻き戻して西行の時代に戻りましょう。飯坂温泉について書かれた様々なる解説紙等では、その由来について語る際に日本武尊の名と共に引き合いに出されるのが西行の存在であるからに他なりません。そして、次の2首が西行の詠歌として紹介されるものもございます。

陸奥(みちのく)の さはこの御湯に 仮寝して 
明日は勿来の 関を越えてん
あかずして 別れし人の すむ里は 沢子の見ゆる 山のあなたか
 

 

 両首にそれぞれ「さはこ」「沢子」とあるのが「鯖湖湯」ということでございましょう。ただ、前者はその歌集『山家集』に見ることができませんし、後者は勅撰集『拾遺和歌集』(1005年前後の成立)に「さはこのみゆ」の詞書を伴って撰じられておりますが、作者は「「読み人知れず」とされております。勿論、和歌集の成立年からは、これが西行ではありえないことは申すまでもございません。もっとも、平安時代の半ばに「さはこの御湯」と称される温泉が存在したことは明らかになりましょう。何れにせよ、両者とも後になって西行作として仮託されたのでしょう。西行が鎌倉から如何なる道筋を辿って奥州平泉に至ったのかの詳細につきましては全く詳しくはございませんが、一般に“奥の大道”であるとされているのではありますまいか。つまり具体的な道筋は異りましょうが、近世の奥州街道をなぞった「白河の関」を通過するルートでございます。『山家集』にもその折のことが長い詞書と共に納められておりますから、これも以下に引用をさせていただきます。

 

 みちの国へ修行してまかりけるに、白川の関に留まり手、所からにや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が「秋風ぞ吹く」と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける

白川の 関屋を月の 洩る影は 人の心を 留むるなりけり

 

 関に入りて、信夫と申すわたり、あらぬ世のことにおぼえてあはれなり。都出でし日数思ひ続けけられて、「霞とともに」と侍ることの跡、辿りまで来にける心一つに思ひ知られて詠みける

都出でて 逢坂越えし 折までは 心かすめし 白川の関

 

[宇津木言行校注 西行『山家集』2018年(角川ソフィア文庫)]
 

 

 しかし、上の引用歌には「勿来の関」が歌い込まれております。本関所は奥州三関の一つとされますが、実在の有無も含め比定地も諸説ございます。ただ、一般に言われるようにその場所が「いわき市」にあったとすれば、飯坂温泉の「鯖湖湯」とはみなせなくなりましょう。ここで厄介なことは、「さはこ」「さわこ」と称する、古い伝承を伝える湯の存在するのは飯坂温泉だけに限らないことでございます。そうです、同じ福島県いわき市の「湯本温泉」にも、「佐波古の湯」と称する奈良時代の由緒を語る共同浴場が存在するのでございます(本館でお仕事をして頂いております坂井法曄氏からお聞きしたところによれば湯本温泉「さはこ」は『日蓮遺文紙背文書』中にも現れると言いますから少なくともその起源は13世紀に遡るでしょう)。そうであるとすれば、この歌は、飯坂温泉よりも湯本温泉にこそ相応しいと申せましょうし、いわき湯本温泉では地元温泉の由来を語る材料として喧伝されてもいるようです。一方、宮城県の鳴子温泉にも「沢子の湯」が存在します。文字から申せば後者の歌は鳴子温泉を詠み込んだ可能性もあるということでございます。もっとも、西行は2度奥州に脚を運んでいるともいいますから、もう一度は別ルートを辿った可能性が無いとは申せませんが。

 実は、拾遺和歌集に撰じられた後者の歌は、かの「楽翁」松平定信(1759~1829年)が白河藩主の砌に飯坂温泉「鯖湖湯」に入湯した際、日本武尊が東征際に飯坂温泉に立ち寄ったことから詠まれた詠歌であると比定し、文化13年(1813)になって本歌を刻ませた「鯖湖の碑」を「鯖湖湯」傍らに建立させております。本石碑は飯坂八幡神社境内に移設され現存します。因みに、天明3年(1783)藩主となった定信が、領内巡見と湯治を兼ねて飛地藩領であった飯坂の地を訪問したのは、石碑建立を13年も遡る寛政12年(1800)8月のことになります。そして、大庄屋である堀切家に4泊5日で滞在しております。堀切邸の極々至近に「鯖湖湯」と「透達湯」がありますから、その際に間違いなく「鯖湖湯」の利用もしておりましょう。そして、そのことが後の歌碑建立の契機となったものと思われます。恐らく藩領内にある飯坂温泉の由緒を飾るため、拾遺和歌集の「詠み人知れず」の歌を、本温泉の最も古くからの伝説としてある日本武尊に結び付け、更には「さはこのみゆ」が、鳴子温泉でも湯本温泉でもなく、ここ飯坂の地にある「鯖湖湯」に比定したものと推測することができましょう。この時、定信は摺上川で舟遊びをしたり、地域の老人を集めて茶会を催したり、医王寺で佐藤氏関係石碑の拓本を取らせたりしたといいます。また、逗留した大庄屋堀切善兵衛宅の茶室を「詠帰庵」と命名し、自身の筆になる扁額を与えたのもこの時のこととなります。因みに、一般公開されている堀切邸内でその複製を見ることができます(現品は福島県立博物館に寄託)。因みに、堀切氏は、天正6年(1578)梅山太郎左右衛門菅原治善が若狭国からこの地に移住したとの由緒を有する旧家であります。当地の治水事業や開墾を推し進め農業と養蚕を推進したとされ、後に治水の功に由来する「堀切」名字に改めたとのことです。邸内は無料で公開されており、安永4年(1775)建築となる県内最古で最大規模を誇る土蔵建築が残ることでも知られます(福島市有形文化財指定)。

 最後になりますが、東北地方の温泉地に幾つも見ることのできる、おそらく共通の意味合いから名付けられたと思われる「さはこ」という、不思議な温泉名は何処に由来するものでありましょうか。「なかむらや旅館」の若女将にお訊きしたところ、諸説あるなか「アイヌ語」に由来する説が有力で、「安らぐ」といった意味合いがあるらしいとのご説明を受けました。恐らく「サ」と「ハコ」の組み合わせだろうと推測し、帰宅してからアイヌ語関連の言語表を拝見しましたが、それに当たるような言葉は発見できませんでした。よくよく考えれば、律令時代に東北地方に居住した「まつろわぬ民」としての存在「蝦夷(えみし)」と、後に蝦夷地(北海道)を生活の舞台としたアイヌ民族とは、必ずしも等号では結びつかないことが明らかになっております。東北の古代遺跡の発掘調査からは、馬の利用や広範な農業の広がりなど、アイヌの人々との大きな違いが指摘されているのです。小生が予て不思議に思っているのは、これだけ古代以来蝦夷の人々との交流が盛んであったにもかかわらず、異民族とされる蝦夷と大和言葉との比較を示すような「辞典」的な記録が大和政権側に見られないことでございます。正直なところ、小生が知らないだけなのかも知れません。しかし、「蝦夷語(!?)」について触れた書籍は寡聞にして知ることがございません。逆に申せば、蝦夷の人々は大和民族と殆ど変わらぬ言語を用いていたのではありますまいか。一方のアイヌ語は日本語とは全く異なる由来を有する言語であります。学生の頃からアイヌ文化には興味があって調べておりましたが(昨今のアイヌ研究の進捗は凄まじきものがあり学生の時代とは最早位相が異なります)、「蝦夷(えみし)」のことはさっぱりでしたので、これを機に新たに学ぶ必要がありそうです。まずは、髙橋崇『蝦夷(えみし)』1986年(中公新書)辺りからとっかかってみようと考えておりますが、もっと最新の研究成果を示す論考がございましょうか。是非ともご教示頂けましたら幸いでございます。つまり、残念ながら今回は「さはこ」の由来に肉迫することは叶わなかったという為体に終わりました。悪しからず。

 何れにしましても、一寸した旅行でも沢山の興味の尽きない事どもに出会えることは何にも増す喜びでございます。世の中には何と沢山の面白きことが転がっていることでしょうか。それを知ることが出来ることに限っても、人として生きる価値は十二分にあると存じます。しかし、現在のウクライナやロシアの人々には、そうした喜びばかりを満喫することはできますまい。また、この時節に放送されるNHK特集等を拝見すれば、今から80年近く前には斯様な思いを抱きながらも空しく露と消えた膨大な生命があったことがあることに胸を痛めます。今の平和あってこそ「生きる喜びの追求」が可能なのです。そのためにも、平和を維持し、拠りよく発展させていくための、日本に暮らす全ての人々の心胆の在処こそが我々に突きつけられているのだと思えて仕方がございません。
 

 

 

資料紹介「杉本郁太郎かく語りき」(不定期連載:その4) ―千葉敬愛経済大学経済研究所『千葉県商業史談』第一集 「杉本郁太郎氏商業回顧談」より― ―明後日(9月3日)で企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』は閉幕です!―

9月1日(金曜日)

 

 本日より、「長月」9月になります。早いもので令和5年度の上半期が過ぎ、後半戦に突入するまで残すところあと一月。また、本年も残り三分の一を残すのみとなりました。長期予報によれば、今年の秋は“気温が高め”、“雨も多め”で推移するとのことでありますが、兎にも角にも今現在の酷暑がどうにかこうには納まりを見せてほしいものと切に願う次第でございます。もっとも、昨今は夕刻の空の色合いや行き交う雲の姿に、ほんの僅かではございますが何処となく“秋の気配”を感じます。そして、現在開催中の企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』も、明後日9月3日(日)が最終日となります。だんだん良くなる何とやらではございませんが、口コミに拠るものでしょうか、後半になるほどにご来館になられる方が増えてまいりまして、我々も嬉しい想いで一杯でございます。今後、何十年もの間、「岩田屋」・「多田屋」・「奈良屋」を採り上げる展示会が、少なくとも本館において開催されることはないものと思われます。この機会を是非ともお見逃しなきよう、未だご覧いただいていらっしゃいませんでしたら、本日を含めた3日間に、是非とも足をお運びいただけますようお願いを申し上げます。

 さて、8月18日(金)に引き続きまして、杉本郁太郎氏の商業回顧談の第四弾と参りたいと存じます。今回は前回から入りました「第Ⅱ章:呉服商時代における経営の推移」の「第二節:店舗商時代における経営の推移」に入ります。本章は併せて85頁ほどになります関係で、本書では同節を(1)~(9)の9つに分けて項目建てしております。今回は、その内、最初の2項目「(1)「あきない」の方法」「(2)別家制度の成立・消滅とその影響」を御紹介させていただきます。この後の不定期連載にて、次回(3)~(5)を、次々回(6)~(9)と、三回に分けて「第Ⅱ章:第2節」を採り上げることになりますので、ご承知おきくださいませ。今回は、郁太郎氏はこの回で如何なるお話をされましょうか、是非とも楽しみながらお読みいただけましたら幸いでございます。
 

Ⅱ 呉服商時代における経営の推移
二、店舗商時代における経営の推移
(1)「あきない」の方法
 

土屋 次に、明和元年(一七六四)、今から約二〇○年前ですが、それ以降の店舗商の時期における問題について伺いたいのです。
 まず最初に、店の規模がある程度大きくなった時、「産物廻し」という方法がとられていたかどうかという問題です。つまり、上方の品物をこちらへ持ってこられてお売りになり、それから関東の品物を上方へ持ち上られて売るということですが、そういうことはありましたでしょうか。
杉本 これはさきほどもちょっと申しましたように、ほとんど記録がないし、また聞いてもいないんですよ。
土屋 前田君、資料に何かその片鱗でも出てますか。関東の織物とか。
前田 関東の織物生産地、例えば桐生ですとか、秩父、熊谷、高崎などの織物の生産が高まってきた時に京都へ持って行ったことがあったかなかったかということなんです。
杉本 当然考えられることなんだけれども、しかしそういうことは聞いたことがないんですね。    
土屋 その必要があったのかないのか…。まあ上方のほうは織物の歴史が古いし、いちばん立派なものがありますから、関東の織物を上方の人が買うということはおそらくあんまりないんじゃありませんか。
杉本 ないと思います。今はそうでもありませんが、昔は関東物というと一段落ちる、一級下の品物になっていましたからね。上方は、“着倒れ”だと言うんだが、割合着ることには贅沢だったから、関東物というとなんか下級品といったような感じがありました。おそらく、関東物を逆に仕入れて京都へ送り、京都で販売するということはなかったと思います。
土屋 前田君、奈良屋さんの江戸時代の資料には、京都へ品物を“登せる”というようなことがありましたか。
前田 京都へ代呂物を登すときは一割引にして送れということがみられるんです。
土屋 それは店舗商期に入ってからで、それ以前にはないわけですか。
前田 はい。資料によれば、その規則というものが寛政九年巳正月(一七九七)よりとされているんです。
 また、品物については関東物のほかに、「佐倉地買物」という名前がみられるのですが、これはどういう物なんでしょうか。
杉本 そういうものはあるんですね。例えばお百姓さんが野良着に使います紺の無無地のもの、織紺と言っておりましたが、あれは千葉県の特産なんですよ。東金辺りが産地だ。もんぺいにしたりします野良着のあれはこちらの特産でして、ああいうものはもちろん地買いしてたでしょう。これは私共今でも記憶があります。これはお百姓さんの作業着に作るものですから、案外またよく売れるもんですよ。
土屋 そういうものは上方のほうにも農家があるから、あるいは上方のほうへ輸送されたかもしれませんね。そういうことはありませんでしょうか。
杉本 いわゆる地買いはしていたことは確かにあるんだけれど、それを関西まで送ったかということについてはねえ…。
土屋 関東物を上方へ登せたということは資料に書いてあるんでしょう。
前田 「仕切帳」に、何の品をどれだけ登したということが書いてあります。
杉本 それではやっぱりあったんでしょうかね。
土屋 上方からは高級品をこちらへ持ってきて、そういう野良着みたいなものはこちらから上方に登せたと、そういうふうに想像できないかというわけなんでしょう。
前田 はい。必ずしも木綿類ばかりではなかったでしょうが、そういうものを登せたんじゃないかと考えます。
杉本 しかし、上方だってやはり、木綿類は出来るからね。ちょっとその点が。
土屋 そうですね。むしろ河内木綿とか、伊勢木綿とか、なんとかいって木綿は向こうが多い。三河だって近いし、三河なんかも木綿が多いわけでしょう。備中あたりだって木綿がありますからね。
杉本 紀州だって晒は本場だしね。
土屋 伊勢も伊勢木綿、松坂木綿とかいってね。かえって伊勢辺りから江戸へ木綿がきましたね。
杉本 ですから、糸偏に関する限りは、どうも向こうからこっちへ持って来るものがあっても、こっちから向こうへ持って行くものは当時では少ないと思うんです。服飾文化ということがあるが、服飾文化は向こうが上ですからね。

 

(2)別家制度の成立・消滅とその影響
 

土屋 次に、御主人が直接商務にタッチしていた時代はいつ頃までかということなんですが、逆に言えば、番頭または別家衆に商務を任せるようになったのはいつ頃からということです。
杉本 やはり店舗を構えてからでしょう。三代からですね。
 行商と違って店舗を構えますと、三六五日商いするんですから、京都に本宅、仕入店を置いている以上は三六五日、店主がそこにいるわけにはいきませんので、留守を守る番頭がいるということになるんじゃないでしょうか。
 行商時代はさきほど申し上げたように、自分の体で行ったりきたりやっていたんでしょうけれど、ところが店舗を構えますともう三六五日のことですから、京都に本宅もあれば、仕入店もしなければならんということで、どうも番頭任せということにならざるを得ないんじゃないでしょうか。
 その京都の仕入店さえも、やがて奥とか店とかだんだんに分離してまいりますと、その仕事をこれまた番頭あるいは別家衆に任すことにだんだんなってくるんです。ですから、そう考えますと、やはり店舗を構えます頃からその形が出てきたものと思われます。
土屋 そうしますと、相当古くから、つまり佐原のお店ができたあとにそういう番頭または別家衆に任せるというということが始まったわけですね。
 それがなくなったのはいつ頃からですか。
杉本 私がやるまでそうだったんです。おかしな話ですが、私が王政復古をやったわけです。今の言葉でいう資本と経営の分離もいいんですが、前に申し上げましたようにやはり弊害が出てまいりましたんです。
 どちらも悪いんですが、随分家憲で喧しくそういうことは言ってあるんだけれど、番頭さんにたまに不心得者ができたりして、私商いと称しておりますが、自分勝手の商売あるいは取引をしたりするんですね。というのは、店の営業成績が良かろうと悪かろうと、主家へはもう投下資本に対する何分という具合に決まった配当、つまり“登せ金”を送ればいいんだと、それ以上はこちらの勝手だといったようなことで、だんだんそういったような悪い面が出てきたんです。それと一方、主人のほうも直接店の商いをみておりませんとついやはり商売に疎くなりまして、ただ送ってくるものさえ受取っておけばいいといった気持ちからやはりだんだん業績が落ちてまいりましたね。また、だんだん世の中が変わってまいりました。少し話がさきほどのことに戻りますが、今とは事情が違うとは申せ、私がこちらにまいります頃は、内部からもうこんなことでは駄目だといって若い店員がやめるようになりました。経営が古いといいますか、こんなお店は長くいても見込みがないと言うことですか、そんなことからともかくもこのへんで新しい空気を注入しなければいかんという気分が醸し出されてきたところで、私が出てまいったわけなんです。
 それでも、資本と経営の分離といったことがはっきりとしたのは、明治の御維新、つまり明治の初年頃からでしょう。それ以前は番頭政治ではあったけれど、ともかく少なくとも年に二回は主家が片道半月の道中を遠しとせずに行っておりますからね。ところが、明治の御維新に経済の組織なんかもすっかり変っちゃったが、変動が激しいものですから、その頃にはっきりそういう具合に経営と資本とを切っちゃったようですね。それで、明治もだんだん四五年、大正になりまして、さきほどお話したような悪い面がそろそろ出てきたわけです。資本と経営の分離と言うと体裁がいいけれども、なにもかにも番頭任せで、番頭はしたいことをし、本家はそんなことに構わず送るもの、うちで言う“登せ金”か、配当というか、そういう配当さえ取ればいいといったようなことで非常に悪い面が出てきまして、そんなことから経営の近代化といったようなことも全然考えらなくなっていたんですね。そのどうにもならなくなったというのが私が入った理由です。
 私が子供の時に随分中堅どころの店員が、別家さんは駄目だ、古いといったようなことを耳に入れました。
土屋 なぜそういう弊害がその時分になって出てきたんでしょうか。以前からもそういう弊害が起こる可能性はあったわけでしょうね。
杉本 それは例えば、家の規則には親元との直接の文通は許さなかったんです。全部番頭さんが目を通して、月に一回は親元へ出させる。だいたい京、江州が多いのですが、月一回は必ず親の所へ手紙を出せと言っておきながら、その手紙は番頭さん、支配人さんが目を通すんです。親元からきた手紙もまたそうなんです。すぐにはみせない。だから、若い店員さんにとっては、「親書」の秘密も侵すもんだというわけです。今でいう人権蹂躙だ。
 それから、私書箱、鍵のかかるものを持ってはいけないことになっていました。昔はよく“志那鞄”といって鍵がかかるようになっていた鞄がありましたが、そういう鍵のかかるものを店員は持ってはいけないし、また店員の私物は絶えず点検するわけです。というのは、ああいう商売ですからつい心得違いする人もありますので、私物の点検は自由でした。そんなことが若い連中には耐えられない。それも上手に行われればいいんだけれども、時代もだんだん明治から大正と進んできますと、まあ今でいう個人の自由を侵すもんだとか、基本的人権を侵すもんだといったようなことで、だんだん若い店員が去るといったことがありました。
 それともう一つは、胸を冒される店員が非常に多かった。呉服屋の番頭の病気といったらすなわち結核。結核に対する療法も今のようではなかった。だいいち綿埃を吸って、それでこれはあとで申し上げますが粗食でしょう。それは胸を冒されますよ。それでどんどんどんどん若い衆が倒れていきました。私がきましてからも随分倒れました。
 そんなことから店の衰微というか、衰微はしなかったけれど、衰微の徴があったんですね。その頃になりますとやはり都会の商店というのはだんだん近代的になっていました。丁度、ああいう離れた千葉県は下総くんだり、草深いと言っては今ではおかしいが、田舎だけにそういったことは遅れていました。そんなことがだんだん店員、特に中堅店員を店にいたたまらなくしたんですね。若い連中がよくそういうことを私の耳に入れました。学生時代からですよ。
土屋 つまり社長はその時分、インテリで新知識をもっている近代的な、新鋭の人だというわけで期待を持ったわけでしょうね。
杉本 そういうわけです。早く店に来てくれ、早く店にきてくれと、私が三越に勤めている時でも、若い連中から喧しく言われました。しかし、いつかも申し上げました通り、別家衆は僕のくるのをあまりいい顔をしなかったな。
土屋 つまり、若い人達、中堅以下の人達は、やっぱり商業経営を近代的なものに改革しなければならないという要求をもち、新しい空気、新しい指導者を欲しがっていたわけなんですね。
杉本 そうなんですね。その辺のことになりますと私自身が体験したことだからいくらでもお話しできるんです。
 やはり、いずれにしても「定例」をご覧になるとわかりますが、実に細かいところまで、痒いところに手の届くようなことが規定してあります。しかし、あれをあの通りやられたらたまりませんよ。
 それからついでながら申し上げますと、さきほど粗食と申しましたのは、だいたい私が佐原へまいりました時でも、朝は味噌汁とタクワンだけです。お昼はなにかちょいとしたもの一菜つくんです。それも魚なんてめったにつきません。野菜の煮たの、芋の煮ころがしとかそんなものが一品お昼につくんです。夜はまたおみおつけとお漬物だけです。それで、当時は五・一O(ごとう)といいまして、五の日と一〇の日、五日、一〇日、一五日、二〇日、二五日、三O日、その日は魚がつきました。その日だけお昼に芋の煮ころがしの代わりにお刺身とか魚がつくんです。まあそのくらいです。私、びっくりしましたね。私にはさすがにそれでは可哀相と思ったんでしょうか、朝飯の時に卵が一つついていましたね。
土屋 ご主人だって相当粗食ですね。卵が一つ加わるだけですか。
杉本 そういうことで事実私は嫌いなものがなくなりましたけれど、それは粗食でしたよ。
 ついでながら申しあげますと、お酒なんていうのはもちろん御法度でしたが、ところが支配人級になりますと、夜寝しなに一杯やってたらしいな。これは支配人級の特権だったようだ。“晩天(ばんてん)”と称していました。“天”というのは「天の微禄」で、うちでは隠し言葉でお酒のことを“天”といったんです。いよいよ店を戸締りしてみんな寝るという前に支配人級の連中が“晩天”をやる。すると、そこで一日のいろいろなことを話し合うのはいいが、それがつい下の店員をお説教する場に変わってくるわけだ。何々をちょっと呼んでこいというわけで吊るし上げをくうんだな。(笑い)もっともみんな、申し上げましたように、寝泊まりしての独身の身ですから二四時間勤務ですし、当時別家衆の所帯持でも女房、子供は京都へおいてあるわけだから独身生活です。だからやっぱり寝しなに一杯くらいは飲みたくなったでしょうな。
土屋 今のお話は佐原のお店でのことですか。
杉本 はい。それで当時、佐原、佐倉、千葉と店が三つありましたので、私がこちらへまいりましてしばらくの間は、三つの間をくるくると廻っていたんですが、千葉になりますとよほど佐原とは違って御馳走が出るんです。やはりそれだけ千葉は都会だったということでしょう。そうしなければならないように、やはりまわりの商店もみんなそういうことになっていたんでしょうね。佐原はさすがにああいう草深い所だけにそういったような点でも後れていましたね。当時、千葉へまいりますと、朝はおみおつけだけだったが、お昼は今の五・一O(ごとう)に限らず普段の日でもなんか御馳走がついていました。夜なんかもついてきたと思います。だから、千葉は御馳走が出るなと思って食べましたが、なかなかおいしかったですよ。
土屋 三店を廻って歩かれて、千葉と他の店と格差があったというお話ですが、これは平均化しなければいかんということをお感じになられたわけでしょうね。
杉本 それは思いました。
土屋 お感じになって、やはりそういうふうに変えて行かれたわけですか。
杉本 中央集権といいますか、三店目と鼻のさきにあって、根本は違いませんがみんなそれぞれ違うことをやっているんで、これを共同でやったらよさそうになと思っていろいろやりました。共同必ずしも良くないこともありましたけれど、番頭任せだけにそのお店の上の考え方で三店三様でした。もちろん、店卸し勘定なんていうのは込入った手でやっておりましたけれど、さすがに千葉店はあの複雑な複雑な奈良屋独特の店卸しをやりまして、それから数字を拾って単式簿記ながら一応普通の考課状を作っていました。それだけ千葉店はやはり東京に近いだけに近代化されていたわけだ。だから、私がこの店へ入りまして、店卸し帳なんかうちの独特のやつかはわからないが、千葉店のだけはわかりました。それだけはともかくも単式ながら近代的様式になっていました。
土屋 社長が御関係になってから、この三店の売上高はだんだん千葉のほうが多くなったわけですね。
杉本 それはもうだんだん目にみえて千葉が殖えてまいりました。千葉の伸び方は激しかったです。私が参りました頃は、千葉が三、佐原が二、佐倉が一くらいの割合でしたね。それでだんだん千葉が引離して増えてまいりましたので、昭和六年に会社にしますと同時に、千葉を本店にしちゃったわけです。
土屋 千葉の発展の主な原因はどこにあるわけですか。
杉本 それはまず県庁が置かれたということが第一でしょう。それから大正一二年の関東大震災。これはやはり千葉市における一つのエポック、区切りでしょうね。随分東京の人が千葉へ逃込んできまして、千葉の人口が急激に殖えました。これはちょっと最近の様相に似ているんですが、それが第二でしょう。その次がいわゆる軍国調の激しい時ですから昭和に入ってからですね。志那事変頃です。志那事変に始まる頃から今度はカーキ色氾濫時代で、いわゆる鉄道はじめ気球隊、飛行隊というのが千葉にできたんです。これが三番目の千葉の膨張の大きな原因でしょう。四番目が戦後のいわゆる京葉工業地帯の時代でしょうか。大雑ざっぱに申しますとこうなります。私の知っておりますのは関東大震災頃からですがね。
土屋 この変化は売上げが多くなると同時に、千葉と佐原、佐倉ではよく売れる商品の種類も変わってきたわけですか。
杉本 私が関知する限りにおいてはやはり当時からいちばん文化的なものを売ったのは千葉でした。やはり勤め人さん、県庁の人ですね。それからお医者さん、軍人さんと、いわゆるインテリ層が千葉は多かったですから、特にいちばん文化的なものは千葉で売れておりました。
土屋 例えばどういう品物ですか。
杉本 それは品物というよりか、同じ品物でも、例えば銘仙なら銘仙でも少し手の込んだ高級なものは、千葉でなければ売れなかったということです。佐原辺りでは本当のもう単純な縞物とか、値ごろでいうとずっと裾物で、上物はやはり千葉がいちばんよく売れました。まだ当時は百貨店ではありませんから、売っているものはだいたい呉服が主でしたからね。
土屋 呉服のほかにはどんなものを売られましたか。
杉本 呉服にちょっと洋品店を兼ねている程度でした。
土屋 千葉ではメリヤスとかそういうものも取扱っておられたんですか。
杉本 私がやるようになりましてから千葉ではそういうものも始めました。
 佐原ではもっと早く大正六年に土蔵店を今の様式に改めて、その時に突走って呉服屋から急に一応五O貨店ぐらいまでやったんですよ。ところが時期尚早で売れないんです。貴金属までやったんですからね。それから、結局五O貨店ぐらいのやつを四O貨店に減少し、二O貨店に退歩し、最後は一O貨店ぐらいのところまで逆戻りしたんですから、時期尚早だったといえましょう。
土屋 大正六年といいますと随分早く…。
杉本 早いです。しかし、それは完全に失敗でした。いわゆる東京の三越なんかを皮相的にみただけで、土地柄なんていうことをよく掴んでいなかったということでしょう。ですから、私がまいりました頃は、奈良屋は呉服にプラス洋品の一部分で糸偏以外のものは扱っていませんでしたから、まあ一O貨店くらいのところでした。
土屋 しかし、千葉ではだんだんその洋品的なものもより多く要求されるようになってきたわけでょうね。
杉本 ええ。私が入りました頃では千葉は一O貨店でしょうね。店員も七・八O人ぐらいではなかったでしょうか。
土屋 もう随分店員は殖えておられたんですね。
杉本 それが五O貨店くらいまできたところで例の戦争です。大東亜戦争。昭和一六年・それでだんだん物資がなくなったからしょうがなく、五O貨店がまた四O貨店、三O貨店と逆戻りです。二O貨店くらいのところで焼けました。
 本式に百貨店として踏出しましたのは昭和二六年です。この建物の千葉銀座よりの一角を建てたのが昭和二六年で、あれから本格的な百貨店を志したんです。その時でもスタートが三O貨店ぐらいのところでした。それから、五O貨店、八O貨店、現在はいつも申し上げるんですが九九貨店なんです。「奈良屋百貨店」じゃない、「奈良屋白貨店」だ、一つ足らんぞと僕は言っているんです。しかし、今度は百貨店にしたいと思っていますがね。
土屋 デパートにしなければならんということをお感じになったのは、およそ何年頃ですか。
杉本 これは私がまだ子供の時だが、さきほど申し上げましたように、佐原の店を大正六年に土蔵店を壊し、木造ながら洋風の二階も売場に使うというような近代的店舗にしました。それで一応百貨店を目指して五O貨店ぐらいのところまで進ませたわけですが、ところがうまく行かないということを親父からもいろいろ聞いておりましたので、子供ながらこれはやはり百貨店というものにしなければならんのだということを朧気ながら感じたのはその頃からでしょう。大正六年と申しますと、私が大正三年に中学へ入ったんですから中学三、四年ですね。
土屋 そうしますと、相当早くからデパートに変わらなければならんと考えられたわけですね。
杉本 大正六年は早すぎたんですね。また、だんだん五O貨店ぐらいのやつが逆戻りに、三O貨店、二O貨店、一O貨店ぐらいになったところで僕が入ったんです。それが昭和四年。それからまた今度は逆にだんだん積重ねていったんです。
 百貨店というものについての僕の興味というか、関心というものは、やはり佐原の店が大正六年に店舗を一応近代的なものにし、その時皮相ながらも五O貨店といったようにした、その頃からでしょうな。
土屋 その時に御先代がそういう考えを持たれたわけなんですね。
杉本 まあそういうことでしょう。先代ないし、当時は商売については別家政治ですから、別家がこれを百貨店にしたんでしょうね。
土屋 それを中学生の社長がお聞きになって、これはなるほどそうしなければならんもんだと感じられ、それで学校を卒業されてから三越へ行こうという考えを起こされたのはそのためなんですね。
杉本 はい。高等商業時代には、もうはっきり自分の志望というのは決まっていました。自分のところの店を継いで、あれを百貨店にするんだというわけです。ですから、高等商業時代も暇があるとよく大阪のデパートを片っ端から見て歩いたもんです。
 私の場合は、それからまた非常に宿命的にこの呉服店を百貨店にしようという具合に運命づけられていたんですね。若い人がよく苦しむように、何になろうかなんていった苦しみは知らなかったです。馬車馬みたいにとにかくおれのところの家業を継いで、あれを百貨店にするんだということだけしか考えませんでした。それと申しますのは、少し余談になりますが、実父は頭はよかったんでしょうが病弱でして、いろいろ本家に対して献策をしていたようですけれど、なかなかうまく行かなかったようでした。最後は神経衰弱みたいになって病院生活を送ったんですが、その苦心を目の前にみておりましたから、ちょっと大袈裟だけれども、これをやりおおせて親父の弔い合戦をやるんだぐらいのつもりで、百貨店経営というものをみておりました。
土屋 少し話を遡らせていただいて、別家制度の問題ですが、別家の人がいちばん多いときには一〇軒くらいあったというお話でしたけれど、これは何年頃でしたか。
杉本 私の幼時でしたから、明治の末期から大正期の初めの頃でしょう。私共の本家の横に軒を並べておりましたのだけでも、大下藤次郎、竹村熊二郎、杉来吉、林彦兵衛、林彦七、川勝徳兵衛、丹羽茂吉と、あれで七・八軒はおりましたでしょう。 

 

[『千葉県商業史談』第一集「杉本郁太郎氏商業回顧談」1967年9月30日
(千葉敬愛経済大学経済研究所)より 「第Ⅱ章 第二節 (1)(2)」]
 

 

 今回は、ここまでとさせていただきます。本連載は企画展終了後も継続させていただきます。不定期連載となりますが、次回は「第Ⅱ章:呉服商時代における経営の推移」「第2節:店舗商期における経営の諸問題」の続きとして、「(3)経営諸制度の成立諸点」「(4)商業の方法と仕入れ」「(5)取扱い商品の種類と販売方法」の3項目のご紹介となります。その後の2回で「呉服商時代」の奈良屋が終了し、その後はお待ちかねの「百貨店奈良屋の歩み」に入ってまいります。ここからは、郁太郎氏の同時代の内容となりますので、お話の内容も頗る精彩を帯びて参ります。お楽しみにされていてください。

 

 

人と建物とが織りなす旧家の風景(前編) ―京洛の商家を描く杉本秀太郎の随筆「玄関番」 または東都のそれを描く芝木好子の小説「下町の空」に思うことども― ―企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉の近世・近現代をいきた商家-』閉幕と御礼につきまして―

9月7日(木曜日)

 

  去る9月3日(日)を持ちまして、令和5年度企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉の近世・近現代をいきた商家-』が大団円を迎え、1ヶ月半余りの会期を終えることとなりました。この間、多くの皆様方にお出で頂きましたことに、改めまして衷心よりの御礼を申しあげます。ありがとうございました。その間に、アンケート等を通じて皆様より賜りました沢山のご意見等々を真摯に受け止め、今後に活動に活かして参りたいと存じます。もっとも、お手数のかかるアンケートをお書きくださる皆様のご意見でございますので、その殆どは大変に好意的な内容でございました。その多くの文面には、千葉における伝統ある商家の肖像とその消長について、初めて紹介する展示会を開催したことへの感謝のお気持ちが綴られておりました。我々と致しましても、決して十全な紹介まで実現できたとは思ってはおりません。しかし、これまでこうした商家自体の経営について焦点をあてた展示会が、少なくとも県内ではほとんど皆無であったことから、是非とも開催したいとの我々の思いが、関係者の皆様のご協力の下で開催が実現し、無事に閉幕にまで漕ぎ着けることができましたことは誠に僥倖であったものと存じております。そのことが、皆様の温かなる思いに満ちたご意見に繋がりましたものでありますれば、我々と致しましても何よりの喜びでございます。本当にありがとうございました。今後、これまた殆どの皆様がご指摘くださいました「是非とも展示図録を刊行して展示内容を後世に伝えて欲しい」との願いを受け止め、その刊行を目指して参りたいと存じております。

 さて、本稿で不定期連載をさせていただいております『杉本郁太郎かく語りき』につきましては未だ完結には至っておりませんので、企画展の終了後もその完結まで連載を続けさせて頂きたく存じますが、それを除きましては今回の本稿をもちまして、企画展関連の内容はひとまず終了とさせていただきます。もっとも、本稿につきましても、奈良屋杉本家の商業活動に関する内容ではなく、京都市に残る国指定重要文化財「杉本家住宅」についてとなります。しかも、それに関する内容は前編のみで、中・後編では杉本家からは離れることになります。企画展開催中には(開催途中からとなりましたが)、杉本節子さま、杉本歌子さま、そして財団法人奈良屋杉本家保存会のご厚意を賜り、「奈良屋杉本家」京都本宅の四季を通じての暮らし向きにつきましての記録映像を上映させていただきました。ブルーレイディスクに記録されたその映像の美しさは際だっており、拝見する度に溜息が洩れるほどでございます。そして、ご先祖から継承されてきた「ならい」にしたがって、四季それぞれに歩んでこられた旧家の暮らし向きに、心底の感銘を与えられたのです。京都には何度も脚を運んでおります小生ではございますが、残念乍ら今日に至るまで「杉本家」住宅に脚を運ぶ機会に恵まれておりません。しかし、副題にも掲げさせて頂きました、9代目当主の故秀太郎氏の手になる名随筆等を通じて旧家の有り様に接し、個人的に杉本家歴代……取り分け郁太郎氏と秀太郎氏のお暮らしに成られた、その旧家に親しみと憧憬の念を募らせております。因みに、その「杉本家住宅」について知ることの出来る書物として是非ともお薦めしたき書物が『京の町屋 杉本家』でございます。平成30年(2018)に京都の書肆である淡交社から刊行された書物でございますが、平成4年(1992)同社刊『京の町屋』の改訂版にあたる内容となります。写真家西川孟氏による限りなく美しい和風住宅の写真映像と、国重要文化財に指定された「杉本家住宅」の結構について丁寧にご説明された中村利則氏の解説、それに加えて本住宅に暮らされた故秀太郎氏の随筆とを添えてなる、本当に贅沢かつ麗しき書籍でございます。にも関わらずお値段も手頃でございます。

 さて、上記書籍において本建築について解説される、京都造形芸術大学大学院客員教授で奈良屋記念杉本家保存会理事をお務めでいらっしゃる中邨俊則氏の説明を要約する形で、まずは本建築の概略について簡単に御紹介をさせていただきましょう。奈良屋杉本家初代の杉本新右衛門が、奈良屋一統の下での奉公の末に独立したのが寛保3年(1743)8月5日であり、この日を以て創業年月日とされていることは本展でも御紹介をさせていただきました。そして、京都市下京区綾小路通新町西入矢田町である現在地に屋敷を求め、店舗を構えたのが明和4年(1767)のこととなります。しかし、この屋敷は元治元年(1864)「禁門の変」に伴う所謂“どんどん焼け”によって類焼。その後に東隣等の地所を買い足して敷地を拡張、その地に明治3年(1870)再建されたのが現在残る杉本家住宅の骨格となります。綾小路通北側の敷地は間口が約30メートル、奥行きは大凡50メートル強に及び、南面する杉本家住宅の表構えは桁行11間半を有するとももに、西側には前庭と通りとを画する高塀を連ねております。現存する京町屋中でも最大規模を誇る町屋の一つと言われます。店舗にあたる長大な表構えも、中央部の棟を高くとるものの、左右の棟高を少々低く建てるなど、建築意匠の面でも工夫を凝らし、長大な店構えに絶妙な階調を与えることで単調に堕することのないようにされております。また、その正面の意匠も「京格子」に「出格子」、「大戸」に「犬矢来」、二階に開けた土塗の「むしこ窓」等々、昔ながらの典型的な京町屋の意匠を纏った佇まいとなっております。更に、通りからは見えない裏手に広大な居住部が存在し、店舗部と生活空間が玄関にとって結ばれる,所謂「表屋造(おもてやづくり)」の形式となり、居住部の裏手には三棟の土蔵が建てられております(四棟の内の一棟は明治以降に解体)。大規模な町屋建築としての歴史的価値が認められて平成22年(2010)に国重要文化財に指定され、更に翌年「坪庭」や「通り庭」を含めた庭園部の全てが国名勝に指定されることになったのです。これ以上の建物細部のご説明はきりがなくなりますのでこの辺りまでとさせて頂きます。是非御紹介させて頂いた上述の書物をお求め下さい。素晴らしい写真とともに本住宅の素晴らしさをご堪能できます。

 現在でも、杉本家住宅はご家族がお住まいになられており、単なる貴重な建築物であることに留まらず、建物と一体として継承されてきた「京商家」としての経営の在り方を残す資史料群を伝える場として、また先祖から脈々と継承されてこられた京町衆の暮らしを継承する「京文化」を伝える場として、極めて貴重な建物となっております。こうした伝統を後世に継承することを目的として、9代目当主で、最後の「京都学派」の流れをくむ文學者でいらした故秀太郎氏の肝煎により、平成2年(1990)に設立されたのが「財団法人 奈良屋記念杉本家保存会」であり、優秀なスタッフの皆様の手により、建物の維持管理を含めた、調査・研究が進められております。それは平成27年(2015)秀太郎氏が物故された後も、奥様の千代子さまを理事長として、お二人の御令嬢である節子さまと歌子さまによって営々と引き継がれております。そして、季節の移ろいとともに暮らしに彩りの変化を添えた京商家の年中行事等との関連させる形で特別公開を実施されております(週末の公開が多いようです)。

こうした文化財住宅の公開は、往々にして生活臭を全く排除ししてしまった、生活什器なども一切ない伽藍とした空間のみの公開がなされることが多いものです(そもそも既に当該住宅には居住していないことが多いのです)。しかし、杉本家ではそこで暮らした人の生活と密接に関わった建物空間としての公開を意図されていらっしゃることが極めて重要です。その志の高さに感銘を与えられます。その音頭取りをなさったのが、小生が学生時代以来敬愛の念を捧げて参りました故秀太郎氏であることは間違いございますまいが、秀太郎氏の後を継いで理事長となられた千代子さまも、京料理研究者で多くの著作をものされる保存会事務局長をお務めの節子さまも、保存会学芸部長をお務めで各企画展等の立案運営に携われる歌子さまも、その遺訓を引き継がれ更なる事業の発展につなげておられます。貴重な文化財としての建物は、維持保存して後世に継承されることが第一ではございますが、より大切なことは建物と人の営みが連結されて活用されていることが、より望ましい姿なのではありますまいか。特に、顔の見える形で人の存在が透けて見えることこそが、その建物の価値をいや増しにするように感じます。

 前編では、杉本家住宅における御家族以外の“人の営み”を採り上げた秀太郎氏の手になる随筆をご紹介させていただきます。彼の随筆中では決して名編とは言えないかもしれませんが、上に述べたことを実感させられる、小生が偏愛する文章でございます。それが「玄関番」という題を与えられた、単行本で僅か6頁ほどの掌編でございます。初出は何処かわかりませんが、先に紹介させていただきました『京の町屋 杉本家』所収されております。以後、内容を要約して紹介させていただきながら、秀太郎氏の手になる名文も部分的に引用をさせていただこうと存じます。その内容は奈良屋が未だ商売をされている時分、既に本店機能を失って本宅機能しか有しなくなっていた、戦後の「杉本家住宅」における記憶の一駒を綴った内容となります。随筆は以下のように書き起こされます。
 

 玄関番、とそう呼んでいた老人が私の家にいたのは、思えばもう古いことである。昭和三十四年の春、その老人が亡くなった。以来、玄関番はいない。
 くまはんとか、くまじろはんとか、家ではその人を呼んでいた。熊二郎という名前なのだった。姓は竹村といった。
 

 

 84歳を一期として亡くなった、杉本家で「熊はん」と呼ばれるこの人は、毎朝8時半に、直ぐ近くにある家からやって来て、昼時にいったん帰宅し、程なく現れて夕方まで玄関番をしていた人物であり、秀太郎氏はその熊はんの行動を以下のように書かれております。現在不定期連載中の「杉本郁太郎かく語りき」にもその名が郁太郎自身の口からも語られる、所謂「別家衆」のうちの一人でいらした方でございます。

 

 朝来ると内玄関の庭を掃き、あとは小机に座り、大きな虫眼鏡をかざして新聞を読み、手習いをし、朝日グラフなどを眺め、折々咳払いをしながら、うつらうつらと日を過ごすのだった。帰りぎわに、いつも座っている部屋、玄関脇の六畳の間の雨戸を立てる。

 

 そして、こう続けておられます。この「玄関番の時代」は、秀太郎氏が小学生になった年恰好の昭和12年(1837)あたりから、秀太郎氏の結婚の翌年にまで及んでいたのですが、実のところその頃の杉本家にとっては「玄関番」などは必要とはしていなかったと。この「熊はん」は、数えで十二歳の時に奈良屋へ丁稚奉公に来て、のちに番頭になった人であるとのこと。関東でのお店(たな)に勤めた後、京都の仕入店(これが「杉本家住宅」)に戻っていたそうですが、昭和6年(1931)に関東の店は株式会社組織となるとともに、京都本店の仕入れ機能を全く廃してしまったことから、本住宅には杉本家の本宅機能のみ残ることになります。しかし、表の仕入店としての機能が失われても、裏手にある所謂「奥」が家人の住いとなる別棟の母屋である構造から、「熊はん」は両者の境にあたる部分に設えてある「内玄関」に陣取り、母屋の日常の用事を手伝う役柄を担うことになったということになったとのことです。しかし、実際には殆ど表と裏とを繋ぐ用務などはなく、「熊はん」は来ぬ客のために来る日も来る日も玄関脇の座っている時間が長かったわけであります。しかし、ただ徒に無為な時間を費やしていたわけではなかったと秀太郎氏は書き添えるのです。「熊はん」にはその有する二つの特技があり、家族に欠くべからざる人であったとされます。尤も、それを紹介する前に、秀太郎氏は「屋の内に鳴りとどろく大きな放屁をすることを特技にいれるなら、それは三つをかぞえたというべきかもしれない」と、「熊はん」の実に人間らしい為人について添えることも忘れておりません。

 

 特技の一は、能筆である。書というものには、手筋の良し悪しがある。手筋が良かった。そしてこれは血筋で伝わるものらしく、熊はんの息子、娘、そして、内孫、外孫の男女がみな揃いも揃って字がうまい。熊はんは、さわやかな字を書いた。構えたところの少しもない、伸びやかな、厭味のない字だ。江戸後期の書家に、巻菱湖(まきりょうこ)という人がある。明治八年生まれの熊はんが手習いを始めた頃は、ちょうど菱湖の書体お家流を圧してもてはやされた時代である。熊はんの字には、素地に菱湖流があったように思われる。

 

 そして、秀太郎氏のために「熊はん」がその能筆を振るってくれた遠い記憶について記されるのです。それが、小学校卒業の際に総代で答辞を読むことになった秀太郎氏の書いた文面を、「熊はん」が奉書の巻紙に浄書してくれたことだと言います。その時に、「熊はん」は秀太郎の下書きを受取ると、普段の退去より早くに「御免」といって自宅に引き上げたとのこと。自宅で「精進潔斎」するほどの気の入れようで、恐らく夜遅くまで、「燈芯をかき立てかき立てしながら」浄書してくれたに違いない……と記されます。続いて特技の二つ目が続きます。

 

 特技の二は、生家が京都寺町六角下ル式部町の油屋、のちに転じて紙屋だったので、紙の手捌きがあざやかだったことである。和紙を折り綴じて大福帳、帳簿の類を作るのは、お手のものの仕事だった。熊はんのこより(※引用者註:紙縒り)は、銀線のように強くてしなやかで、何かにつけ便利重宝なものだった。
 熊はんの手が殊に重宝がられたときが、またもう一つ、紙に関してあった。毎年秋のお彼岸前にする障子の張り替えである。畳の四分の一の大きさの断ち板と、長さ二尺の樫の角棒、それに広刃の裁断刀を使って、何枚も重ねた障子紙を切り揃える。紙の扱いを心得切った熊はんが裁断してくれると、張り替えた障子が格別にぴんとして気持ちが良かった。
 大柄で、顔も大きく、眉毛が濃く、鼻の下が長く(長寿の相である)、頬が広かった。熊という名が、どことなく似合っている。障子の張り替えをする熊はんは、たっつけ袴をはき、襷がけで、常になく活発に立ち働いた。家じゅうの障子、ふすまは、梅雨明けに取り外して土蔵の一隅に収め、夏向きの葭戸というものを代わりに運び出して立てたのである。
 

 

 この後に、秀太郎氏は、熊はんの障子の張り替えの見事な「手捌き」の様子を、その姿を目前に彷彿とさせるほどの「筆捌き」によって写し取っておられますが、それにつきましては是非とも本書をお手に取っていただき、実際にその文面に接していただきたく存じます。そして、広大な屋敷の全ての作業を終えた後の光景を以下のように記されます。

 

 張り替えたばかりの障子に、秋めいた陽が射す。
 「熊じろはん、ご苦労さん。ま、一服おしやす」
 と母が声をかけ、台所で抹茶を点てる。二服を所望し、喫し終えると、熊はんは例によって短く、
 「御免」
 とだけ言って一礼し、座を立ってゆく。
 玄関の障子もきれいになってる。日暮れには、玄関の舞良戸を閉ざすが、来客のあるときは、無論お客を見送ってからだ。
 

 

 随筆は、この後「熊はん」のことから離れます。この「内玄関」で春の月夜に言葉を交わして別れたきり、二度と秀太郎氏がこの世で見えることが叶わなくなった友人との印象的な一駒を綴って締めくくられております。ただ、それも「熊はん」が寸分の狂いもなく張り替えた障子のある「玄関」という舞台があってこそ、印象的な今生の別れの演出になっているものと想像をするものでございます。恐らく、旧家の中で外には知られることなく、実直にその役割を果たしていた「熊はん」の存在は、秀太郎氏が随筆に書き残さねば、この世からすっかりと忘れ去られてしまったことでしょう。しかし、その忘れがたき肖像に出会えたことで、この家屋に沁みついた人の営みと共に本住宅への理解もまた深まるというものと思うものでございます。旧家の歩みとは、主や御家族だけに限らぬ、こうした人知れぬ方々の営みが幾層も積み重なって彩られているものなのだと思います。私は、そうした人知れずに生きた人の姿を、我が家を舞台として活写された秀太郎氏の心の在り様に感動するとともに、様々な人の暮らしが集積した「旧家」の在り方に感銘を受けるのです。今、改めて是非とも「杉本家住宅」へご訪問させていただきますことへの渇望が沸々と湧き上がっております。

(中編に続く)

 

 

人と建物とが織りなす旧家の風景(中編) ―京洛の商家を描く杉本秀太郎の随筆「玄関番」 または東都のそれを描く芝木好子の小説「下町の空」に思うことども― ―企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉の近世・近現代をいきた商家-』閉幕と御礼につきまして―

9月8日(金曜日)

 

 中・後編では、京洛の旧家である商家「奈良屋杉本家」から離れ、東京下町の商家を舞台とする小説を数多く創作された女流作家、芝木好子(しばきよしこ)(1914~1991年)の作品をご紹介させていただきましょう。そもそも論として、ジェンダー意識の高揚した現在において、こうした「女流作家」なるジャンルそのものが意味をなさなくなっておりましょうが、芝木さんの世代まではこうした呼称が極々一般的でございました。その意味では正に隔世の感がございます。もっとも、今日において芝木好子の作品は、「小説」であっても、小粋な「随筆」であっても、決して皆様にとって身近な存在ではございますまい。かつては、新潮社・講談社・集英社等々で多くの作品が文庫化されており、一時は40冊前後になりなんとする作品群に手軽に接することができました。小生も文庫本に関してはその全てを拝読いたしております。しかし、残念なことに今では殆ど全てが絶版となり、新本で入手可能な作品は極々僅かです。尤も、文庫化されていない作品も多くありますから、小生も作品の全貌に触れ得た訳ではございません。没後に“断簡零墨”まで納める個人全集本の刊行がなされることを、これほど待ち望んだ作家もおりませんでした。しかし、残念ながら出版界では個人全集の刊行などといった“重厚長大路線”が歓迎されなくなった時期と重なったためか、没後30年を経過した今日でもその気配は皆無であります。まぁ、文庫本ですらこの有様ですから全集の刊行など“夢のまた夢”でございましょう。しかし、斯くも優れた作家の作品が忘れ去られるのは如何にも惜しいと思います。そこで、その魅力の一端でも知っていただきたく、今回の本稿で極短い短編の名品をご紹介させていただこうと存じます。また本作は「人と建物とが織りなす旧家と街の風景」という主題とピタリと符合するような内容であると考えますから。

 作品の紹介に移る前に、まず多くの皆様にとって縁遠いと思われる、芝木好子という作家について述べることから始めたいと存じます。芝木氏は、大正3年(1914)に東京府王子町(現:東京都北区王子)に生まれ、7歳となった大正10年(1922)から浅草区浅草東仲町(現:東京都台東区雷門)に転居。その後は江戸東京の面影を色濃く残す浅草の地で育ち、東京府立第一高等女学校(現:東京都立白鷗高等学校)、YMCAの駿河台女学院を御卒業されております。ご実家の芝木家は岩見国浜田藩士でありますが、明治以降は彼女の小説に良く描かれるような、裕福な商家を営んでいらしたそうです。昭和16年(1941)に経済学者の大島清(1913~1984年)[晩年は筑波大学名誉教授]と結婚され、同年『青果の市』で第14回「芥川賞」を受賞されております。芝木氏の作品は、大雑把に3つの分類ができそうです。第一に、東京になってからの花街として栄えた洲崎遊郭を舞台とする『洲崎パラダイス』(1955年)に代表される、自立して強かに生きていく女性を主人公にした作品群。第二に、明治以降の東京下町の商家を舞台とする芝木一族(取り分け祖母から母を通じてご自身に至る女系)の歩みをモデルとして描いた、彼女を代表する『湯葉・隅田川』(1961年)[『湯葉』で「女流文学者賞」]、『丸の内八号館』(1946年)といった自伝的な作品群(俗に「三部作」と称されますが、個人的には単行本『丸の内八号館』にに収められる結婚を扱った作品『華燭』を含む「四部作」とすべきかと考えます)、そして第三が、恋や家族、そして時代に翻弄されながらも芸術・芸事に「憑かれたように」生きる女性の姿、または自らの職に拘って生きる商人・職人の生き様、そうした一つの世界に拘りをもって生きる人々を描いた作品群となろうかと存じます。三つ目のジャンルでは、ざっと思いつくだけでも『火の山て飛ぶ鳥』(1975年)、『光琳の櫛』(1979年)、『隅田川暮色』(1984 年)[日本文学大賞]、『雪舞い』(1987年)[毎日芸術賞]、最後の大作となった『群青の湖』(1990年)まで、枚挙に暇がないほどの傑作が目白押しであります。勿論、彼女の作品群を単純に3種に分類できるわけではございません。それぞれのエッセンスが互いに混然一体となっているのが正確なのかもしれません。しかし、何れの作品群からも共通して匂い立って来る世界があるように感じます。それが、作品の背景に通奏低音のように共通して響いている、作者の生きた「昭和」という“時代の空気”であり、その中で直向きに生きる気高くも清々しいまでの人間像であると思います。上に採り上げました長編小説に限らず、それは短編であっても寸分も変わることがございません。東京の人らしい小気味よい、丹念に選び取られた語彙に基く琢磨され尽くした文章構成にはうならされます。彼女の作品を拝読して落胆したことは一度もございません。これほどの作家が、今日忘れ去られようとしていることがむしろ驚きでありますし、残念至極でございます。

 本稿の中・後編でご紹介させて頂く、表題「人と建物とが織りなす旧家の風景」に関わると小生が感じている芝木作品が、昭和43年(1968)に講談社から刊行された短編集『下町の空』に収められる表題作「下町の空」でございます。正直なところ傑作揃いの長編小説をご紹介したいのは山々でありますが、如何せん小生の力量ではその魅力の一端すらお伝え出来ないと思います。そもそも粗筋を追うだけでも相当な紙数も費やしましょう。そこで、小生の偏愛する短編作品である本作を選択させていただきます。用いるテクストは平成元年(1989)初版の講談社文庫版でございますが、30頁強の作品にも関わらず全く物足りなさを感じさせないばかりか読了後に受ける感銘の深さは、下手な作家の長編作品を遥かに凌駕するものでございます。皆様には、表題を広くとらえていただき「古くからの商家の人と店の織りなす風景」としてお読みくだされば幸いでございます。作品の舞台は東京下町にある「やっちゃ場」(青果市場)で、古くから野菜果物の仲買商を営む「吉長(よしちょう)」なる商家であります。芝木氏は作品中に「『吉長』は東京の青果市場がまだ神田淡路町にあった頃からの店であった」と記しておりますから、作品中に明記はされておりませんが、近世初期に成立し昭和3年(1928)に周辺の幾つかの「やっちゃ場」が移転して、現在の秋葉原駅近くに成立した、東京を代表するそれとして君臨した所謂「神田青果市場」を舞台とすることになります。その点でも「旧家」の名に相応しい舞台と存じます(旧地である神田淡路町には現在「神田青果市場発祥の地」の石碑が建立されております)。小生も築地魚河岸の仲買商でございましたので、芝木氏の文から匂い立つ市場の音や匂いを含む情景の描写は、個人的に知るそれとピタリと符合します。同時に、小生も幼き頃から知る秋葉原駅脇に存在し平成2年(1990)に大田区に移転、今ではビル群と化した「やっちゃ場」の風景が走馬灯のように蘇るのです。何よりも、その活気と混沌とが混然一体となる「やっちゃば」を舞台に生きる人々と、その周辺の人々の個性的な人物像が、クッキリと立ち上がる描写に感嘆させられます。なんという力量!何という筆力!……と、ため息が出るほどです。因みに、彼女の芥川賞受賞作『青果の市』(1941年)も「青果市場」仲買商を描く作品ですが、こちらは築地「魚市場」に併設されていたそれであり、江戸東京で「やっちゃ場」と言えば、それは神田のそれ以外に考えられません。

 兎にも角にも、小生がとやかく能書きを申し上げるより「論より証拠」、まずは、東京下町育ちの芝木氏による、筆力際立つ凛とした文章に触れてみてください。そしてその世界を是非ともご堪能くださいませ。もっとも、芝木氏の没後30年強しか経過しておりませんので、著作権の関係上、4つの章からなる作品のうち「1・4章」は全文を、中に挟まる「2・3章」に関しましては、小生による極々拙い要約によるご紹介とさせていただきます。「1・4章」に関しましても、その全文を引くのは若干躊躇しない訳ではなかったのですが、細切れの文章紹介では、芝木氏の筆の冴えは極々僅かしかお伝え出来ないと考えを改め、あえて斯様の対応とさせていただきました。これも、皆様に芝木作品の魅力に触れていただき、その復権の一翼を担うことができれば……との切なる想い故でございます。何卒小生の意中をお汲み取りいただけますれば幸いです。
 

「下町の空」 1章 (全文)
 

 「吉長」の吉村清太郎は顔の色艶が良く、身体つきもしゃんとして、耳も少しも衰えていない。バスや国電の中で、他人が席を譲ってくれても、めったに掛けたことがない。
「おじいさん、席があきましたよ」
 と隣の人が教えてくれると、
「あたしはこの次降りるから」
 と断ったりする。いつかバスが揺れた拍子に肘を打って、一ヵ月も治療に通った。
「間が悪かった」
 本人はそう口惜しがったが、身体にそろそろいうことを聞かない部分が出来ている。洋服を着ると、どことなく窮屈そうで肩が張るようだが、着物になると見違えるほど板についてみえる。凝り性で藍微塵の大島などを着ると、中肉中背のからだに粋なところがあった。七十九歳であった。
 肘を打った時から、
「もうあんまり一人で歩かせない方がいいわ」
 長女の浜子は二人の弟に言った。長男の愛一郎は冷凍食品会社の専務で、自動車の送り迎えがあるし、次男の俊次は青果市場に仲買店を持っていて、いろんな種類の車を三台持っている。浜子にしても出入りのハイヤーを呼べないことはないが、おとなしく車に乗ったり、お供をつけたりする父親ではなかった。人は彼を吉長と屋号で呼んだ。
 本来なら長男の家に暮すのだが、仕事の都合もあって次男の四谷の家に泊まることが多い。それに場所が便利なので時々は浜子の新富町の家にもくる。戦災に焼けなかったのは新富町の家だけで、今だに補修しながら住んでいる。築地川の流れを背にした古い町通りの一画で、木造三階建ての旅館「富川(とみかわ)」である。戦災前の古い東京には三階建ての家がかなりあった。大きな商家などは三階を奉公人の寝部屋にしていた。
 「富川」は昭和の初めに建てた家で、木口は古いけれど、それなりに古い東京の面影を宿している。浜子は独り者の父親のためにいつ来てもよい部屋をこしらえてある。戦争で良人を亡くして、赤ん坊だった娘と今日まで二人暮らしをしているので、父親のきてくれた方が賑やかでよかった。
 朝は市場が休みでない限り、吉長はパッと起きて、冬ならまだ仄明りの六時は出かけてゆく。次男の店を監督にゆくのだった。市場は早い糶(せり)から始まって、落ちた品物が軽子(かるこ)の手で仲買店へ運ばれてくる、仲買店は市場の大きな鉄骨の屋根の下に軒を並べて、屋号が一目でわかるように明記してある。「吉長」は若い衆が十人ほどに、帳面の女事務員が一人いる。良い品物を買い付けなければ商売にならないから、主人の俊次を先頭に、目利きの出来る店の者と二人で手分けして、競買で青果と果実を買付ける。店の前に幾十箱のみかんや、バナナの大籠が積まれてゆく。
 吉長は品物の目利きは鋭いけれど、商売は必ずしもうまくない。良い品物だと見境もなく仕込む方である。商売を駆引き一つに考えて、相手の出方がきれいだと、つい気前よくやってしまう。古い市場気質が一生身についている。俊次はそんなことはしない。合理的に処理して、堅実に店を運営しているし、客層も確り摑んでいて、破綻をきたさない、吉長はこの頃細かいことには口出ししなくなったが、それでも店に入ってくると、
「俊次や、沖印の大箱は痛むから、早く出しちまいな」
 と注意する。客の中にはバナナの大籠を一籠注文してゆくのもあれば、一房を値切って買って、新聞紙にくるんで持ってゆくものもあった。朝の八時から九時は仲買人のかき入れ時で、仕込んだ荷は並べる端しから、小売商の客に買われていった。伝票が切られて、若い衆が威勢よく客と対応している空気の中で、吉長はいきいきと店先へ目を配っている。仲買店二百軒のうち、古い伝統をもつ店は、そうたんとはない。
 俊次がこの店を継いだのは、父親の意気に負けたのである。「吉長」は東京の青果市場がまだ神田淡路町にあった頃からの店であった。当時は荷受会社がなかったので、仲買店は産地と直接取引した。近郷の農家から荷車で運ばれてくる大根や人参の山を片っ端から売っていった。吉長は売り買いに小気味よい迫力があって、店先は活気があり、品物が新鮮にみえた。どこよりも早く捌けた。帳面は不得手で、勘定の方は杜撰であった。仕事がすむと、ひと風呂浴びて遊びにゆく。きっぷがよいので、女たちに騒がれた。彼の妻は堅気の商家の娘であった。おっとりして、美しかった。良人が出かける時には、仕立下しの着物を着せるような心掛けを忘れなかった。そんなように下町の商家は娘に教えた。
 有る時はぱっぱと使うのを、吉長は生得の癖にしていた。無い時と有る時とが、波のように引いたり、寄せたりする。三人の子供はこういう不安定な環境に育った。戦時中、青果市場も統制になったので、愛一郎は見切りをつけて親に内緒で大学に行った。俊次は機会をいじるのが好きなので、その方へ進みたかった。しかし奉公人の得難くなった戦争前後に、父一人を残して、息子二人市場の外へ出ることは出来なかった。戦争後は市場の内部にも革命があって、いくつかの荷受会社が生まれた。吉長はその一つの創設に尽力して、役員になった。彼がモーニングを着て発会式に演説したのは、一世一代の出来事であった。
「これからは誰でも人前で喋れなくちゃいけないよ、民主主義だあね」
 と吉長は機嫌がよかった。
 戦争の統制が外れて、仲買制度が復活したのは昭和二十四年四月である。旧仲買店が優先的にその権利を確保出来たが、戻ってきたのは三分の一に充たなかった。戦争中疎開したまま戻れない人や、戦死者や、転業者のあるせいであった。会社の役員になると、仲買店を出すことは許可されなかった。吉長は青果市場の重役のままか、吉長を復活するかの岐路に立った。すでに愛一郎は勤め人になっていた。俊次も工業会社に就職していたのである。「吉長」の暖簾のために、彼は俊次を説得してかかった。
「役員は一代だが、店は末代もんだ。人間は平場で働くに限る。まだおれは六十にしかなっちゃいない。東京のみなさんの食べ物はお任せ願おうじゃないか」
 吉長の情熱と意気が、俊次を攫っていったのである。元々、子供の頃からやっちゃ場で育っている。ある時期は人並のサラリーマンになって、郊外に小綺麗な家を建て、美しい細君との文化的な生活を夢みたが、そのささやかな望みも、充分に遂げられるとは思えなかった。いっそ野育ちのままに市場の中に埋もれてみる決心をした。六十歳の老人を独りにすることも出来なかった。爾来十数年の時が流れた。
「吉長」に、朝のうち浜子が寄ることもあった。子供の時分から市場の呼吸を知っているので、へたな板前より買出しは上手い、魚河岸をまわって、「吉長」へくる時は、彼女もズボンをはいている。いつか純白のレザーのコートを娘の陽子から借りてきて、仲々イカスと評判になったが、あとで魚臭いといって陽子に叱られた。彼女はなんでも娘のものが着たくて仕様がない。「富川」にいる時は和服だが、買出しには細いズボンに、小粋なコートで、イタリー製のマフラーを首に巻きつけている。
「ねえさんよオ」
 と「吉長」の店先へきた客が呼ぶと、さっと立ってゆく。客の対応は馴れている。
「サンキストがえらい高いねえ」
「きっとカリフォルニアに戦争があるんですよ」
「世界情勢に精しいじゃないか」
「これでもアメリカの女子大出ですよ」
「女子台所出だと?そんならうちのかみさんと同じだ」
 客と浜子が真顔でへらず口を叩きながら、商いをしている。店の者は売れた品を茶屋に出すので、戦場の騒ぎである。吉長は荷出しの箱を摘み出すのに、若い者に負けていない。重たい荷に手をかけるのは気が短いからでもあった。
「お父さん、危ないからお止めなさい」
 浜子が声をかけると、機嫌が悪い。
 正午の市場は、大勢の人間と、夥しい野菜や果実の山が大半運び去られて、市場の中も屋外もがらんとしてくる。本人は七十九歳を忘れているようだが、もう活動的なこの世界で働くのは無理な年齢であろう。
「お父さんどうしたかしら」
「帰ったんでしょう。あれで疲れがこたえるらしいから」
 俊次は言った。
「何処へ帰ったの」
「さあね、時々行方不明になるから」
 姉と弟は顔を見合わせた。
 

 

 以上で「1章」が終了となります。続いての「2・3章」は著作権の関係から要約とさせていただきますのでご容赦くださいますように。本稿中編の最後は「2章」を採り上げさせていただきますが、ここでは「1章」末尾に記されている吉長が「時々行方不明になる」理由が明かされることになります。吉長が先代から贔屓筋にしている歌舞伎役者の一門の番頭が、吉長の長男愛一郎宅に祝儀を取りに来た際に発した一言から、端無くも吉長の行き先が知れることとなります。たまたま、吉長が留守の際に訪れた番頭が家人に「湯島の別宅でいらっしゃいましょうか」と口を滑らせたことに端を発したのでした。もっとも浜子も俊次も薄々感づいてはいたことではあったようですが、その本郷湯島の別宅の場所を実際に突き止めたのは孫の陽子でした。陽子は上野にある大学の邦楽科の学生で、大学から新富町の自宅へ帰る際に、友人と広小路でお茶をして外に出た時、偶然に松坂屋前から向い側へと道を渡る祖父の姿を目にします。陽子は一切の悪気もなく、美食家の祖父からご馳走になれるかもしれないと用心深く祖父の後をつけていったのでした。「そのうちにわっと驚かせよう」と無邪気に思いながら。ところが、湯島天神の参道を性急に登り、そそくさと歩く祖父は住宅地の中に入っていき、もはや料理屋とは無縁に思われてきたのでした。坂の途中を折れた横通りの仕舞屋の並んだ小路で、陽子は「おじいさん」と呼びかけたのです。そして、そこに振り返った祖父の狼狽しきった顔に出会うことになります。それは正に吉長がこれから訪れる家の真ん前であったのです。流石の吉長もここまで来て逃げ切れないと覚悟を決めました。その家とそこに住まう女性の描写は、さすがに小生には荷が重すぎます。ここは原文を引かせていただきましょう。

 

 格子門の家は、坂の傾斜に沿っていて、後ろほど高上りになっていた。出迎えたのは 六十五六の面長な、顔立ちの優しい婦人であった。六十五六とみたのは、相手のひさし髪の黒さや、着物の好みの佳さや、物腰のきちんと馴れた感じからきているので、あるいは七十歳に近いのかもしれなかった。綺麗な老女だ、と陽子は眺めた。こうした身嗜みのよい婦人は、一芸を持ったひとによく見かける。邦楽の世界を知っているので、異質な世界の人という気がしなかった。
 

 

 吉長が慌てているのとは正反対に、この家の女主人は微塵も動じることなく、どことなく嬉しそうな表情で「陽子さんでいらっしゃいますか」と、その名を告げたのでした。そして、陽子は、この古風な明治の美人画から抜け出したような女性が、もう少数しか残らない古曲の節を弾き唄う芸を保持する一人で、宇和園と言う人であったことを知ります。自身が三線で長唄を弾く陽子にとっても満更無縁の人ではなかったこと、祖母を持たない境遇の陽子にどこか懐かしさを感じさせる人であったことに、内心密かな喜びを感じるのでした。ひとしきり、邦楽について語り合った二人は、お暇を告げる際に女主人から必ず近いうちに遊びに来てほしいと念をおされるのでした。陽子は祖父からまんまと〝口止め料〟をせしめたばかりか、以後大学の帰りに祖父がいとうといなかろうと湯島の家に立ち寄ることになります。ただ、その時に、大学院へ通う先輩の久保春之を誘うことを忘れませんでした。彼が大学卒業時に弾いた三弦の表現の多様さと深さに完全に魅せられ、密なる恋心を抱いていたからでした。祖父の妾宅というより、宇和園の寓に稽古に来た吉長が気に入って入り浸っている感じの湯島の家は、陽子にとっても居心地のよい、静かな貸席(!?)ともなったでした。無料だし、お茶・菓子のサーヴィスまでついており、何にも増して宇和園は三弦の稽古をつけてくれる古曲の伝統の保持者なのですから。陽子の憧れる久保との関係と、恋敵となる新進女優の小早川るり子との恋の鞘当ても興味深く描かれるのですが、ここではそのことには触れません。ただ、本作の登場人物の中で描かれる、小早川の存在はその他全ての人物像とかけ離れた異質な人物像、つまり蓮っ葉で無粋な人物像として描かれており、カウンターキャラクターとして、逆に東京下町の小粋な世界を際立たせているように感じさせます。面白いのは、宇和園を通じて小早川との三角関係から春之と距離を置こうとする陽子のことを耳にした吉長が、このことを面白がって陽子に自身の過去の女性との付き合いの自慢話を孫にしたりしたことであります。ただ、その中で、四十六歳で亡くなった妻への思いを白状していることが印象的であります。

明日の後編では、芝木好子「下町の空」から、小生による「3章」の要約と、芝木好子渾身の、しみじみと深く心に染みとおるような、最後の一行に収斂することとなる最後の「4章」全文をご紹介させていただきます。


                (後編に続く)
 

 

人と建物とが織りなす旧家の風景(後編) ―京洛の商家を描く杉本秀太郎の随筆「玄関番」 または東都のそれを描く芝木好子の小説「下町の空」に思うことども― ―企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉の近世・近現代をいきた商家-』閉幕と御礼につきまして―

9月9日(土曜日)

 

 続く「3章」では、湯島の家の消息がいつとなく息子と娘のところにも届くようになったこと、その宇和園が病みついて息を引き取るまでの経緯が、吉長家族との関わりのなかで描かれていきます。小早川の遠慮を知らないあからさまな春之への猛アタックに心底に腸の煮えかえった陽子は、一日六時間以上の三味線稽古を重ねることで、春之を見返してやると宣言。三味線に勝つことで春之の魅力を消し去ろうと算段する孫に祖父は感嘆、「うちの家系に、お前さんのような肝のすわったのが出たのは、結構なことだ」とお茶目なことを口にしたりします。ところが、「湯島の小母さんのうちで弾かしてもらう」と決意を披歴する陽子の言葉に、吉長の額には人知れぬ翳が走るのです。それは、ここのところ宇和園の健康が思わしくなかったから。一芸に徹して生きてきた女性ゆえ痩せても芯は確りしていること、声がかかれば舞台に出て声細りはしていたものの、節回しも味わいも無類の唄い手として活動していたのですが、その後には決まって反動がきました。吉長も罷めるよう勧めても、芸が彼女の生きてゆく支えであったのですから、断乎罷めさせることができませんでした。

宇和園は芸事に身を入れる陽子が好きでした。稽古が終わってお茶になったとき、女主人は二つの箱を持ち出します。その布地をひらくとそこからは象牙の撥が現れます。そして、それは陽子と春之への贈りものだと語るのです。今は事情があって春之には渡せないと返す陽子に、「いつでも結構ですよ。私は当分お目にかかれませんから、よろしく」と語り、その理由について「不景気な引っ越しですよ」と口に出すのでした。ハッとした陽子は、宇和園の顔が尋常ではないことに初めて気づくのでした。病院に赴く人から物を与えられるのは不吉で陽子はうろたえます。そして、彼女の腸に腫物が出来て治療のため大學病院に入院することを知るのです。同時に、宇和園からは、陽子のお年ごろから言って、一生自分の芸に生きるか、あっさり捨ててしまうのかこの二三年で決まるとおもうこと、芸を持っているのは佳いものであること、そして大切にしてほしいことを告げられるのです。その遺言のような重い言葉に、陽子は胸を搏(う)たれるのです。そして、芸に自信はなかったが、やってみたいと心に誓うのでした。しかし、流石の陽子も一人で胸に畳んでいることはできませんでした。帰宅後にその事実を母に告げ、その知らせは家族にも広がることになります。吉長との関係もそれなりの事情でもあり、陽子と母の浜子だけで見舞いにゆくことになります。そして、吉長と宇和園と同じ古曲の仲間が見舞う、術後の病室で初めて宇和園と見えた浜子は、退出後に陽子にこう語りかけます。「不思議な気がする」「あのご婦人は、亡くなった私の母に似ている」と。「四十六歳で亡くなった母が、そのまま老けて、寝ている気持ち」になったこと。それが「そばにおじいさんがいたせいかしら」とも。そして、お嬢さん育ちで、一度も市場の中に足を入れたこともなかった物静かで、一度も苦情など口にすることなく、ひっそりと息を引き取った祖母の晩年について、陽子に語って聞かせるのでした。その後、大学で春之から宇和園が入院しているそうだね……と語りかけられた陽子は、宇和園から春之に渡してほしいと象牙の撥を預かっていることを告げながら、自分たちが冷戦状態にあるので、全快するまでに決裂するかもわからないから先にくださったのだと語ります。それに対して春之は、「もっと深い意味があったと思う。撥をお揃いで呉れるのは、雛の一対をもらうような気分にならないか」と、婉曲な仲直りの申し出をするのでした。陽子は宇和園から授けてもらった撥に免じて、和解しなければならないと心を決めるのです。しかし、宇和園は術後、一ヵ月余り後に息を引き取ります。深夜枕頭にいたのは、吉長と彼女の甥に当たる男性の二人きりでした。

 

芝木好子「下町の空」 4章 (全文)

 

 吉長が老人らしく感じられるようになったのは、そのあとであった。すっきりと姿勢がよいのが自慢であったが、背中にいくらか湾曲が出てきて、前かがみの姿になった。朝の寒さがこたえるのか、そんなに早く床を離れることはなくなった。吉長が現れなければ、店が支障をきたすわけではなかったが、やはり一度は見廻りにきた。朝のうちぐずぐずしていても、市場の喧騒と活気の中にくると、気が晴れて、元気になるからであった。
 彼の顔を見て、入ってくる古い客もあった。吉長のすすめる林檎を、大箱に何杯も買った客は、店の奥の坊主椅子に掛けて、お茶をふるまわれた。軽子の荷車がやっと通る道幅を残して、両側から仲買店が軒並に商品を並べていた。野菜や果実の山を見ながら、飾り気のない客たち通っていた。昔から今日までさして変わらない市場風景であった。鉄骨の屋根の内外では、まだ野菜の場が立っていた。人参の山の前で糶が立ち、塩から声の糶人のあおるような声に合せて、仲買人の手の符帳が動いた。次は牛蒡の山に移動していった。わああんと、なんともしれない人いきれが谺(こだま)した。生き生きと動いている人達は、鮮度を惜しんで次から次と荷を運び出していた。
 こんな生きた世界のまん中で、吉長はあたりを見廻した。自分が黒い一点になって、ぽつんと座っている。いつか全く動かなくなっても、市場はやはりあわただしい空気に包まれ、買った売ったが繰返され、そして荷が積み込まれたり、運び出されたりするのだろう。夥しい青果は巨大な都民の胃袋を充たすために、逃げ足早く消え去ってゆくのだった。吉長は一握りのレモンや一株のセロリを届けてやる人間を失っていた。ここに来れるうちが花だ、と彼は呟いた。
「しかし、昔はおもしろかったねえ」
 古い客は嘗ての日に荷の買占めをやった味を忘れられなかった。あの頃の商売は大きかった。どの店に荷が入って、ほかの店に入らないことの面白さがあった。今はどの店も一律に、満遍なく同じ品物が並べられてあった。古い馴染客が昔の気焔をあげて帰って行っても、吉長には息子に隠れて、息抜きにゆく場もなくなっていた。十年前までは女を連れて旅行もしたし、芸人を招んで一席聴くのも愉しみだった。酉の市で大熊手を買って、しゃんしゃんと手を締めるのも生甲斐の一つであった。彼はこのごろ新富町へ行って、炬燵に入っていることが多くなった。動かずにいると、肩や腰がかえって痛みはじめた。身体の衰えは目立ったが、口はまだ達者であった。
「浜子の着物はぼてぼてして不可(いけ)ないね」
「これはウールの着物ですから」
「ウールとはなんのこった。セルだろう」
「まあそうですよ」
「セルは五六月に着るもんだ」
 絹地の綿入れ丹前も、すっきりした縞お召かなにかでないと、彼の気にいらなかった。炬燵の中で丹念に電気カミソリをあてて、むさくるしくしなかった。陽子の大学から帰ってくるのが楽しみであった。
「その後、色男はどうしている?」
 と春之のことを訊いた。
「元気で弾いているわ。今度の祥月命日に、あたしたちと湯島のおばさんのお墓まいりにゆかない?」
「お墓を知ってんのか」
「知っていますよ。この前一緒だったじゃないの。おじいさん耄碌……」
 言いかけて、口を噤んだ。こういう言葉は禁句であった。
「帰りに注文があるわ」
「何処へゆく」
「六本木の中華料理はいかがです」
「ごめんだな。浅草のどじょう屋なら行ってもいい」
 吉長は陽子のどじょう嫌いを知っていた。
「どじょうなら、やめた」
「鞘当ての鮨屋にするか」
「あそこもやめた」
「そんなら蕎麦だ」
「安いものは意味ない」
 陽子は強硬だった。
「宇和園さんに古曲を習っておけばよかったと、あたしたち話しているの」
「止しな。あれで稽古は強(きつ)いんだ」
「おじいさん絞られた?」
 吉長は宇和園にきつく教えられた話をした。稽古で向き合っている限り、彼女は強い人間だった。他の時間は物静かで世間知らずでもあった。吉長の持前の我儘を、楽しんで許してくれた。宇和園は七十一歳であった。亡くなった人の話になると、吉長の力のある陽気な声にもかかわらず、眼許に潤みが見えた。陽子は妙な気がした。祖父の泣くのを想像できなかった。
 母に告げた。
「おじいさん、病気じゃないかしら」
「気が弱っているから逆らわないように」
 浜子は言った。
 宇和園の墓まいりを実現しないうちに、吉長は寝込んだ。芝公園にある愛一郎の家であった。彼から電話がきて、どうもいつもと違うから、病院に入れてみたいと言ってきた。浜子も俊次も賛成であった。日頃元気にまかせて年を忘れているものの、気がついてみると彼も八十歳になっていた。この年まで病気らしい病気もしたこともなく、病院の世話になったこともなかった。
 大学病院に入って精密検査を受けてみたが、内臓に特に悪い個処はなく、全体に年齢より若々しい肉体であることが保証された。しかし軀の筋肉のあちこちが激しく痛んだ。長年の肉体の労働や酷使のあと、それらがある限界にきて老化していく現象であった。入院したとたん、あらゆる筋肉が緊張を解いて、骨が軋みはじめたようにみえた。病気に馴れない吉長は痛みの激しさに呻いた。
「注射でもなんでもして、この痛みが止められないのか。へっぽこ医者ども!」
 彼は子供のようにわめいた。附添婦は制した。
「少し我慢なさって下さい」
「お前さんが痛いんじゃない、俺が痛いんだ」
 彼の悪態は隣室まで聞こえた。附添婦の希望もあって、三人姉弟の家庭は交代で詰めることになった。
「親爺も堪え性がなくなったね」
「強情我慢のあった人なのに」
 愛一郎と浜子は語りあった。ある晩、浜子は河豚の刺身を作らせて、車で病院まで届けた。寄席の芸人が見舞いに来ていた。附添婦は食事中で、彼等はひそひそと語らっていたが、浜子を見ると、俄かに黙った。どことなく様子がおかしいので、浜子は芸人を誘って一緒に帰途についた。話を聞くと、病人に頼まれて病院を脱出する計画を立てていたと白状した。
「一体何処へ脱出するはずでした」
「湯島のお宅ということでした」
 浜子は驚いた。湯島の宇和園の家はとうに無くなっていた。吉長の心の中にはなお存在しているとみえる。ひさし髪の宇和園そのひとも存在しているかもしれなかった。この脱出は運よく未然に防ぐことが出来たが、一本気な彼のことだから、ほんとうに病院の外まで出たかもしれなかった。
 この時を境にして、吉長の病状は悪化した。激しい痛みから、全身の衰弱を招く結果になった。陽子は母と交代で病院に寝泊まりをした。足の甲に浮腫のきた祖父をみると、もうお小遣をもらう人もいなくなるかとさびしかった。父のいない娘に、いろんな形で、勇気を与えてくれた存在であった。
 危篤の迫った日は、肉親の全部が病室に詰めた。吉長は夜半に眼を明けた。我儘を言うことを期待したが、
「まだ夜か」
 とだけ言った。朝の早い職業だから、そんな処に寝ている時も、目覚めはよかった。寝過ごしては生きてゆけなかった。朝の気配を感じることに敏感であった、しかし今は、夜が果てしなく続く重たい世界に閉ざされていた。
「もうすぐ朝ですよ」
 浜子は死の眠りに誘い込まれた病人を引き戻すように大きな声で呼びかけた。病人はまた眠りはじめた。糶の声に似たざわめきを枕辺に聞きながら、死の中を歩いていたのだった。朝を待たずに亡くなった。我儘を尽くして亡くなった人間を、附添婦はお倖せな方です。と言った。喧嘩をしながら看取った患者は、あとまで心に残りますとも言った。お洒落な老人のために、俊次はまばらな髭をあたってやった。八十歳の年に不足はなかった。
「お茶漬が食べたいと言えば、立所にお茶漬が出ないと機嫌が悪かったわね」
「人使いが荒くて、二言目に浜子を呼べ、俊次を呼べでしたからね」
「婦長を呼べ、と呶鳴ったこともあったじゃないの。それもお医者に向かってですよ」
「病気に馴れなかったせいですよ。しかし八十年を終わりまで働きましたね」
「極楽往生ですわ」
「晩年まで艶聞もあったし」
 通夜をしながら、姉や弟たち慰めを言い合った。
 八十年の長い生涯には関りを持った人の数も多い。葬儀は芝公園の自宅で行われた。夥しい花輪が広い表通りまで埋め尽くした。倖い晴れた日であった。市場らの会葬者が多いので、交通巡査が整理にあたった。もし許可されるものなら市場の「吉長」の店先に遺体を祭れば、もっと今日の仏にふさわしいものであった。生まれた時から、一生のすべてをその町のざわめきの中においた。もっと他の人生を夢みたとしても、還るところはそこしかなかったであろう。
 しめやかな焼香の列が続いた。葬列はその人の一生の断片を次々と語りかけていた。病院から脱出の手助けをしようとした芸人もきたし、宇和園の甥に当たる人も来た。陽子の友達は久保春之をはじめ、同級生十数人が揃ってきてくれた。
 焼香の列がほぼ終わった時、町内の頭が揃いの半纏を着て、勢揃いした。葬式の名残りに木遣が入った。一人の頭が声を張って音頭をとった。一節の終わりから男たちは声を合わせた、歌詞は死を悼んで送るものであった。人はみな、あとになり、先になりして逝くものよ、という意味を、エー、エーと、語尾を引いた、さびて、哀調に充ちた響きの歌であった。長い男の一生を送るにふさわしい情趣に充ちていた。浜子がハンカチを眼頭にあてると、陽子も人間の死をいま深い手応えで受けとめた。出棺の時、春之が陽子のそばへきた。
「僕も焼場へ行こうか」
「来てちょうだい、さびしいから」
「年をとれば人間は死ぬのさ、江戸っ子一代も終わりか」
 彼はいくらかの感慨をこめて言った。吉長は明日から暖簾だけの「吉長」になるのであった。


(完)
 

 

 以上で、芝木好子「下町の空」の紹介は終わります。短編小説ではありますが、じっくりと彼女の文章に接していただけましたならば、枚数以上の深い感銘を受け取られることでございましょう。最後の「吉長は明日から暖簾だけの「吉長」になるのであった」を読了した小生は、初めて読了してから30年以上も経過しての再読でしたが、とうに還暦を過ぎた今でも深い感銘に目頭が熱くなりました。なんという充実の短編でございましょうか。そして、「家」、その「商売」、日々暮らす「建物」、そしてその旧家の存在する「街」そのものが、“一人ひとりの顔をもった「人」”によって出来上がっているという、当たり前のようでいて昨今さっぱり大切にされることのない、厳然たる事実を突きつけられているように感じるのです。そうです。家を構成する、引いてはその集合体である地域社会(「街」と言い換えてもよいでしょう)を形づくるのは、そこで長く生きて暮らす人に他なりません。人の存在を消し去った家・街は、例え見た目が変わらずとも、それは血の通った家・街ではございません(ゴーストタウン!)。過去に論じたことありますが、立石を始めとする昨今盛んな「防災都市建設」を標榜する都市の再開発が(木密地域の一掃)、決してこれまで街の在り様や文化を形作ってきた、長く地域に居住する住民目線から発想されたものではなく、まぁ行政主導であるのは致し方がない部分はありましょうが、むしろ地権者・不動産業者の立場を基本にして企画立案されている状況に、考えさせられることが多々ございます。改めて申し上げますが、「家や店は地域に長く暮らす人がその彩を決める」のであり、その集合体としての「街の顔」は街の人がつくるものであります。結果としてかもしれませんが、営々と家や街を育んだ人々が最早当該地域で暮らせなくなる「地域再開発」とは、「地域共同体破壊」と同義ではないのかと小生は考えるものでございますが、皆様は如何お感じになられましょうか。あたかも「金太郎飴」のような街づくりからは、市民文化も個性ある地域文化も育つはずもないのではないかと思います。どこにもない、個性ある街であるからこそ、人は魅力を感じてその場に集うのです。
 
 そもそも、地域再開発で往々にして掲げられる「防災対策のため」なる金科玉条のスローガンも再考する余地があるように常々小生は感じております。東京下町では、それが「木密地区の解消」として大々的に推進されようとしております。しかし、その「木密地区」の歴文文化を活かした形での防災対策を構築する必要があるものと思うのです。従来の街をすべて一掃して、その後に整然とした高層住宅を建設すれば「災害に強い町になる」という、所謂“ステレオタイプ”の防災対策に小生は必ずしも首肯できないものがございます。高層ビルが林立すれば当然「ビル風」が吹き荒れます。火災が発生した場合には更に暴風となって周囲に火災を拡散しないのか??電源・水道・ガス等々ライフラインの焼失は高層階に居住する住民を直撃しないのか??高層住宅に火災が飛び火した場合の消火体制・人命確保等の安全対策は万全なものなのか??……等々、“はてなマーク”が次から次へと脳裏に浮かんで参ります。畢竟、防災だけではない地域再開発という名の下で展開される「経済の活性化」が大きなものと感じるのは、果たして小生の思い過ごしに過ぎないのでしょうか。先日まで開催していた本館の企画展からは、それとは異なる江戸時代創業の商人(あきんど)たちの企業家精神が色濃く立ち上って参りました。改めて「人類の進歩とは一体何なのか」を考えさせられる次第でございます。今回は、前・中・後編の3回に分け、「人と建物とが織りなす旧家の風景」と題して、杉本秀太郎の随筆と芝木好子の小説を採り上げ、内容をご紹介しながらそれが有する意味についてつらつらと述べてまいりました。皆様は如何お感じになられたでしょうか。

 最後に、小説家「芝木好子」作品と出会うこととなった切っ掛けについて、極々個人的な想い出を記させて頂き本稿を閉じさせていただきます。小生が、そもそも芝木好子という作家を知り、その作品世界に魅了され、今日に至るまで能う限りの作品に接する恩恵に浴することができたのは、偏にある人との出会いに拠っております。その方こそ、歴史学者の山中裕(やまなかゆたか)先生(1921~2014年)に他なりません。先生は平安王朝時代を専門分野とされ、『栄花物語』等の平安期の物語等の追求を通して、歴史と文学とを横断される研究を推し進められた方でございます。著書として『歴史物語成立序説ー源氏物語・栄花物語を中心とてー』1962年(東京大学出版会)、『平安時代の年中行事』1972年(塙書店)、『和泉式部』1984年(吉川弘文館)、『藤原道長』2008年(吉川弘文館)、『栄花物語・大鏡の研究』2012年(思文閣出版)等がございます。そもそも先生と小生とは個人的な接点は全くなく、畏友小野一之くんと歴史研究を通じた接点があったことからお誘いいただき、金沢称名寺門前にあった瀟洒な平屋のご自宅に、不躾にもお邪魔をさせていただいたことがお付き合いの契機となったのです。そして、以後もお親しく接してくださったのでした。ご専門が王朝文学と関わることもありましょうが、先生はそれ以外の日本文学にも広く通じていらっしゃることに驚かされました。その時の三人の話題も、歴史の内容そっちのけで、これまでに感銘を受けた文学作品のことが中心となりました。そして、その際に山中先生が偏愛される作家として、我ら二人にご紹介くださったのが芝木好子だったのです。先生が熱く語られるその作品世界に興味を惹かれ、手に取ったことが芝木作品とのお付き合いの始まりでした。最初に読んだ作品ははっきりとは憶えておりませんが、確か『湯葉・隅田川』であったと思います。そこに描かれる明治から昭和にかけての東京下町の商家に生きる女系三代それぞれの生き様に瞬く間に魅了されました。

 ところで、この最初の山中先生宅への訪問が何時の事であったのか、不精な小生の下には記録が存在せず、思い出す縁すらありませんでした。そこで今回当事者の一人である小野氏に確認しました。以前にも申し上げたことがありましたが、彼は何十年もの間のその日その日の詳細な記録をメモ帳に残されているからでございます。その結果、最初のご訪問は昭和60年(1985)5月5日のことと判明しました。それは、今からざっと40年も前のこと。小生が千葉市中学校教員になって3年目となる26歳になったばかりのことでした(当時小野氏は大学院生で、後に職を得ることとなる府中市で歴史関係の仕事にも携わっておられたと記憶しております)。小野氏によれば、2度目の訪問は翌年、3度目は先生が奥様に先立たれた後の平成4年(1992)12月12日とのことであるとのことでした。小生の記憶からはすっかりと消え失せているのですが、3度目のご訪問の際は先生の御宅に泊めてもいただいたようです。奥様を亡くされて意気消沈している先生を励まそうと、文学のお話をさせていただいたことはよく覚えております。(翌朝のことであったようですが)三人で称名寺境内を散策したことも忘れることができません。それ以来、賀状の遣り取りのみのお付き合いでございましたが、残念ながら先生は平成26年(2014)鬼籍に入られました。一度墓参に訪れなければと……と、小野氏と多磨霊園に掃苔に訪れたのが、翌27年(2015)8月末日でありました(これも小野氏からのご教示です)。先生のご実家は東京の古い商家であったとお聞きしておりましたが、大きな歴代の墓石が居並ぶ広い山中家墓地の中の一つが先生の奥津城でございました。今では大切にされていらした奥様とその地で眠っていらっしゃいます。芝木好子という不世出の作家との出会いをくださった、あたかも菩薩天子のような在りし日の先生の温厚な笑顔とそのお声は、今でも目の奥と耳朶にありありと残っております。そういえば、先生は、ご自身のお住いになっていらっしゃる「金沢八景」に関する著作をものされたいと語っていらしたことを想いだしました。それが永遠に叶うことがなくなったことが悔やまれてなりません。
 

 

資料紹介「杉本郁太郎かく語りき」(不定期連載:その5) ―千葉敬愛経済大学経済研究所『千葉県商業史談』第一集 「杉本郁太郎氏商業回顧談」より―

9月15日(金曜日)

 

 眠たる 目をあらはばや 秋の水    向井去来

 

 あっという間に9月も半分がすぎ、あと一週間もすれば「彼岸」に入ります。現実の陽気が「暑さ寒さも彼岸まで」の文句通りになってくれることを只管祈るばかりでございますが、実際にところは如何なものでしょうか。そろそろ、我が家の庭にございます新参者の曼殊沙華が真っ赤な花を開きましょうし、街に金木犀の薫りが漂うことにもなりましょう。今年は何時頃になりましょうか。何れも季節の移ろいを実感させてくれる象徴的な存在でございますが、皆様は何をもって秋を実感されるでしょうか。冒頭の発句は、俗に「芭蕉十哲」の一人に数えられる、有力門人の一人である向井去来(1651~1704)の作となります。野沢凡兆とともにかの句集『猿蓑』を編集したことでも知られる去来は、肥前国長崎の産でありますが、貞享2~3年(1685~1686)頃に京都の嵯峨野に草庵を求め「落柿舎(らくししゃ)」と名付け居住しました。元禄年間に師の芭蕉が3回に亘って本草庵に滞在し『嵯峨日記』をものした場でもございますが、当時の「落柿舎」の正確な場所は明らかではないとのことです。本句は、早朝に眠たい目を擦りながら顔を洗った際、その水の冷たさに秋を感じ取った……という趣向でございましょう。皆様は如何なることで秋の訪れに気が付かれるのでしょうか。そこに、他の方とは異なる独創的なる“詩魂”生まれいずる契機がございましょうか。

 さて、9月1日(金)に引き続きまして、杉本郁太郎氏の商業回顧談の第四弾と参りたいと存じます。本連載は全9回で完結いたしますから、今回を以て道程もようやく峠を越えることとなります。今回は3回に分けてご紹介をいたします「第Ⅱ章:呉服商時代における経営の推移」「第二節:店舗商時代における経営の推移」全9項目のうち、前回の(1))(2)に続く「(3)経営諸制度の成立諸点」、「(4)商業の方法と仕入れ」、「(5)取扱い商品の種類と販売方式」以上3項目の御紹介となります。店舗商としての営業形態に入ってからの人員構成の在り方や、商品の仕入れや地域での販売の様子等に関わる興味深い内容となっております。どうぞ楽しみながらお読みくださいませ。
 

 

Ⅱ 呉服商時代における経営の推移
二、店舗商時代における経営の推移[※(1)(2)は既に紹介済]
(3)経営諸制度の成立諸点

 

土屋 お店としての制度、つまり経営上の諸制度がはっきりでき上ったのは三代の時と考えられるんですが、そのはっきりと整ったということは具体的にみますとどういう点でしょうか。
杉本 別家制度がいちばん大きな問題でしょう。別家を必要とした最大の原因、理由は、やはり京都に本家を構えて仕入店を置き、遠隔の下総佐原に店舗を構えて商いをするという形をとったことにいちばん大きな理由があるんじゃないでしょうか。いわゆる心の許せる番頭というものを何人か持たなければいかんということが別家制度を創設させたんでしょうね。また、前にも申しましたように、割合子供が少ない、それゆえに親類も非常に少ないです。ですから、やはり奥向きのこと、あるいは商いのことについて相談するのには、相談相手としてそういうものに頼らなければならなかったんでしょうね。それには分家がまずあり、その次に別家があるというわけです。当時は別家衆というのは単なる親戚よりも重さが置かれていまして、なんでも心配事、相談事があるといいますと分家と別家を呼ぶんです。また、別家衆は本家の相続問題、その他重大な問題については相当発言力を持っておりまして、直言や諫言さえできるようになっていました。
 私が先代の後を継ぎます時も他に一人候補者があったんです。中杉本家の総領で私には従兄になるんですが、歳も私より二つ上でして、それという話があったんです。ところが、別家衆がなんか難癖をつけて、それでお鉢がこっちへ廻ってきたんです。その僕の前に本家の跡取りに入るべく予定せられていた人は、その後三Oいくつかで胸を悪くして亡くなりましたが、ちょっと芸術家肌の男で商人には向かなかったかもわかりません。しかし、籍も入れんばかりになっていたんですが、結局取りやめになったんです。私の時は別家衆が支持したんだそうです。その別家衆を今度は僕が逆におまえら古いといって首切りにかかったんだからおかしなもんです。(笑い)首は切らなかったですがね。
 別家制度というのは、三代目の頃にできたんですが、やはり根本の原因は遠隔の地に店舗を構え、本家は京都においていたという、つまり番頭政治を強化するためにどうしてもそういう制度が必要だったんではないでしょうか。
 三代の時代には、別家制度のほかに組織や販売の面においてもいろいろな規定が作られましたし、また、帳簿の組織もこの頃に整えられたようです。これらは「定例」を通してなされていたようですね。
土屋 それから、「仕着定め」、「給金定め」、「在所登り」等というようなことを定められたわけですが、この「仕着定め」についてはちゃんとした記録になっているんですか。
杉本 なっております。今の言葉でいう「現物給与」ですね。昔は金を持たせると良くないからということで、金を与えないでなんでも「現物給与」で行こうとう方針のようでした。
土屋 給金のほうはなるべく現物で安くするということでしょうか。
杉本 安いもんでしょう。その給金さえも紙切に金高を書いて渡し、それを全部預り置くという式です。もっとも、二四時間勤務で、寝泊りしているんですからお金なんかいりませんよ。また、今みたいに八時間労働じゃなし、定休日もありませんから金もいらなかったでしょう。ですから、「仕着せ」というのは、要するに「現物給与」ということです。
土屋 「在所登り」というのは、自分の親元へ帰ることですね。
杉本 最初のを「初登り」といっています。一五だと思いました。小学校制度ができてからのことを申しますと、だいたいみんな一二・三で小学校を卒業しますと奉公に出たんですね。だいたいうちは京都か江州-滋賀県-で募集しました。というのは、別家さんなんかもあの辺の出が多いもんですから、別家の在所なんかから別家の縁故を辿って奈良屋に奉公させたんです。こちらへまいりますと、京都の本店でしばらく一カ月か二カ月の間、見習いさせて、そのまますぐ当時の言葉でいう佐原なり佐倉なりへ下すんです。そうしますと、今度は一五までは一ぺんも帰れないわけです。一五、つまり元服しますと、初めて「初登り」と称して京都の本宅に挨拶にまいり、それで自分の在所へ帰るわけです。帰郷休暇だ。一週間か一O日ぐらいじゃないでしょうか。その時の旅費の規定まであります。そういえば今でも覚えているが、「もうあんた初登り、大きゅうおなりやな」なんていって母親が挨拶したのを知っていますよ。はな垂小僧がちょっと一人前の番頭さんらしい恰好になって挨拶にきているのを記憶しております。「在所登り」になっているのは、昔は京都が登りになっているからですね。
土屋 一五の時のを「初登り」と申しますと、その後の二度目、三度目もあるわけですね。
杉本 「二度登り」はあります。これはだいたい適齢の時です。昔のことですから、伏見の連隊とか、大津の連隊とかへ入りますね。「三度登り」はこれを過ぎますと一応支配人級になったんですね。こうした「在所登り」の間の期間はめったに帰さないです。国許へ帰すということは、もうよくよくの親の死目に会えるか、会えないかくらいの時でないと帰さない。もっとも、今のように便利でもなかったですが。
土屋 相当厳しいものですね。そういう「初登り」、「二度登り」等というのは、やはり店員の職制、階層という段階に関係があるわけですか。
杉本 昔のことですから、だいたい年齢ですね。今でも“年功序例型”なんてあるが、だいたい年功です。
土屋 店員に採用なさる時はだいたい一O歳をちょっと越えたところですか。
杉本 一二・三才でしょう。もっと極端なのは、家庭が貧困で小学校へ通いきれなくて店へ引取り、店から小学校へやったのさえあります。名前ははばかりますが、今それでうちの部長になっているのがおります。これなんか滋賀県の出身ですが、佐原で小学校へ行っていた。ともかく、小学校を出るとすぐ奉公にやられます。一五才まではもうひたすら丁稚奉公で、一五才になって初めて国許へ帰れるわけです。
土屋 名称を一五才までは「丁稚」と言うんですか。
杉本 社史(『奈良屋弐百廿年』)にも書いておきましたように、明治三九年で「子供」、「小若衆」、「若衆」、「上役」という具合にあるんです。「丁稚」という言葉は普通の名詞で、うちでは使わなかったです。うちでは「子供」ないしは「子供衆」と呼んでいました。「子供」というのは一三才から一五才、「小若衆」は一六才から一七才、「若衆」は一八才から二二才、二三才以上二七才までは「上役」と呼んでいました。
 ですから、そういう「丁稚」とか、「手代」とか、「番頭」とかという言葉はうちでは使いませんでした。お客さんが「丁稚」とか、「番頭」とかと言うんで、私共の職分ではそういうのはなかったわけだ。
土屋 これは京都が一般にそんな具合なんですか。
杉本 だいたいそうだと思います。もちろん名字なんていいませんで名前だけです。だから、「どん」つきで、「さん」つきは「若衆」から上だ。(笑い)
 今の言葉で言えば、「小若衆」が「手代」で、「若衆」が「番頭」、「上役」となりますと「支配人」級でしょう。「子供」というのは「見習い」ないしは「小僧」というところでしょう。これはその後明治四四年になりますと、「普通店員」と「上席店員」というふうになっております。私がやるようになりましてからは、一等店員から七等店員までに分けたんです。昭和六年頃です。
土屋 「後見」という言葉が古い資料にはみられるということですが、これには「別家衆」が当たるわけですか。
杉本 佐原の場合には支配人に全権を任せてあるんですが、ちょっと不安な面があるので、後盾の相談相手、あるいはお目付役という意味から「別家衆」を「後見」に当てたんでしょうね。

 

(4)商業の方法と仕入れ

 

土屋 店舗商になりました後における商業方式というものは、小売りのみをなさったのか、卸売りも兼ねてなさったのか、あるいは卸売を主となさったのかという問題を伺いたいのです。
杉本 それははっきりしておりまして、どこまでも小売りいっぽんなんです。卸というのは、前にも申しましたように、仲間売りに近い卸、つまり佐原から少し在深く入りました所の背負い呉服屋さん、いわゆる半農半商みたいな商人(あきうど)さんが店に仕入れにくるんです。それには一割くらい引いて卸していたようでした。そういう在の、店舗は特別に構えないで荷物を持ってあちこち廻っている背負い呉服屋さんが仕入れにこられたのは記憶しております。こういう半農半商の人というのは、だいたい店を持っていないで、農もやっているが、片手間に呉服物を背負って近くを廻っている人ですね。だから、こういうことは小資本でできますし、またある程度のお馴染みがついて信用ができますと奈良屋に仕入れに行きましても、奈良屋では品物を貸してくれますので、売ったお金をお客さんから貰ってそれを奈良屋へ払えばいいんですね。全部が全部そういうようではなく、もちろん現金で仕入れて行かれる場合もありますが、いずれにしてもそういう商いは、ほとんど元手なしの非常に小さい資本でやれる商売ですから、そういう方が私共を利用していたということはあります。
矢田 田舎のほうでちょっとした小商いをやっているおばさんとかがよくこられていました。出切れとか端切れとができると、それを集めて農家のほうで販売するんですね。当時はみなさん前掛けをしましたから、そんなことで一尺五寸か二尺の切れが必要なんです。もっとも前掛けというのは冬は暖かいし、汚れを防ぎますからね。
土屋 それは佐原のお店だけですか。
杉本 佐倉にもありました。千葉はさすがにありませんでした。もっとも、佐原・佐倉は古い店ですからそういうようなことがありましたが、千葉は明治四二年に開いたので店も新しいし、東京にも近いということで、私共を卸問屋に利用しなければならないような業者がいなかったということでしょう。だいたい昔から千葉というのは、東京から近いから地方問屋というのはなかったんじゃないでしょうか。千葉と言わず東京に近いところには、割合地方問屋というものは発生しないですね。そういう必要性がないということでしょうか。
土屋 そうしますと、千葉の小売商は東京まで出かけて仕入れてくるわけですか。
杉本 そういうことです。私共もまたしかりです。もっとも、明治から大正期は、東京の問屋さんの番頭さんが人力に大きな柳行李をのせて、われわれ小売屋へ売込みにもきました。それからまた、私共小売屋も東京の堀留、洋品類になると横山町ですが、あの辺へはしょっちゅう仕入れに出かけておりました。
 結局、京呉服問屋さんがだいたい東京の堀留にほとんどみな支店を出すようになりましたので、今までのように全部品物を京都から送らなくてもよくなってきたわけです。堀留にはずらっと呉服問屋が軒を並べておりますが、一〇中七・八までみんな本店は京都でしょう。
土屋 いつ頃京都から堀留へ支店を出したんですか。
杉本 早いお店、遅いお店ありますが、私共が会社に改組しました昭和六年頃には、ほとんど京都で仕入れする必要を認めなかったくらい京呉服の問屋さんというものが全部東京に進出していました。東京に支店を設けたというより、やがては東京が本店になり、京都が支店になっているお店さえもあるんじゃないですか。そうしたことから、私が会社に改組しますと同時に京都の仕入店も閉鎖し、京都というものを株式会社奈良屋からは抹殺したわけです。
土屋 社長も最初千葉のお店を経営なさった時、やはり東京の問屋まで仕入れにおいでになったわけですか。
杉本 売り買いにつきましては、私は素人ですから仕入れをしたことはありません。しかし、例えば、お正月の問屋さんの初売りだとか、秋の“恵比夷講”という秋、冬物の店開きの大きな売出しなんかの時には、主人として呼ばれて行ったことはあります。それは儀礼的なもので、問屋さんの偉い人達にお目にかかり、御馳走になって帰ってくるだけです。売り買いは昔から私共では全部番頭任せでした。主人は直接商売はしておりませんで、“政治”をしていたわけですね。
土屋 番頭さんがしょっちゅう東京へ行かれたわけですね。
杉本 私が千葉へまいりました時にはすでに佐原まで汽車が通っておりました。ただ、成田と佐原の間が大正九年(一九二O)に国有鉄道に買収されたんですが、それまでは私鉄でして、乗換えなければならなかったというだけです。時間はもちろん随分かかりました。当時は東京の両国から佐原まで三時間くらいかかたんじゃないですか。
土屋 佐原のお店、佐倉のお店では、背負って歩くような人達に卸されたというお話ですが、そういう人は相当ありましたんですか。
杉本 そんなに数はありません。あれで七・八人はあったと思います。それは佐原なり佐倉なりからさらに奥へ入った在の人でして、町内(まちうち)にはそういう人はおりませんからね。町内には佐原といわず佐倉といわず、ともかくどちらも商店がたくさんありましたので、そういう人の存在するゆとりがないわけでしょう。
土屋 そういう人達のことを一口でいうとなんといったんでしょうか。
杉本 “背負(しょい)呉服屋”さんともいっておりましたが、特殊ななんか呼び方があったと思います。それについては、ちょっと私、記憶しておりません。もっとも、これは今でもありますね。
土屋 範囲はどのくらいの所からきましたか。
矢田 だいたい笹川(香取郡東庄町)とか、下総豊里(銚子市)辺です。それから山のほうになります。
杉本 大須賀(香取郡大栄町)辺りになりますね。
土屋 この範囲は、佐原から里程でどのくらいのところですか。
杉本 一二キロから一五・六キロというところですね。
土屋 さきほど前掛けのお話をされていらっしゃいましたが、商売する人が買いにきた品物の種類は、その他どんなものがありましたか。
矢田 あまり纏まったものは少なかったと思います。手拭とか前掛け、それから紐にして襷(たすき)にするとかいった程度じゃないですか。ですから、本当の小切れを買いにみえた程度で、別に反物を持って行ってどんどん売るというようなことは少なかったです。反物というと、御近所の方から柄のいいのがなんかあったら見つけてきてくれ、と頼まれて買っていくくらいじゃないでしょうか。それで商売をするという方と違いますからね。
土屋 そうしますと、小売りが主で、多少卸を特殊な人にされていたというわけですね。
杉本 はい。そういうことです。
土屋 京呉服のお店がたいがい東京の堀留に支店を設けたというお話でしたが、その京呉服というのはどういう種類のものですか。
杉本 正確に京呉服といいますと、いわゆる「西陣の御召」ですね。これは絹織物なんです。それからまた「縮緬」。これは生地物です。これに染めるんです。
 染める技術というのが、いわゆる「京染」と申しまして、東京ではできなかったんです。まあ、最近ではそうでもありませんが、昔は「京染」といって、それは京都でなければできなかったもんです。「友禅」なんかそうですが、いわゆる白生地に染めるんですね。
 服飾のイロハですが、織物と染物があるんです。織物というのは、糸を最初から染めておき、それを織成して織るのをいうんです。染物というのは生地なんです。生地に描いたり、プリントしたりするわけです。一番原始的なのは手で描くんですが、あるいは「型置」するんですね。ですから、京呉服と申しますなかには織物と染物の二つがあるんです。
土屋 「西陣」には帯もありますね。
杉本 はい。帯もあります。また、着物もあります。これは「着尺」といって着物用のものもあれば、「羽尺」という羽織用のようなものがあります。それから帯地もあるわけです。
土屋 「丹後縮緬」なんかもありますね。
杉本 それも白生地です。また、志賀県の「長浜縮緬」なんかもありますが、縮緬はそのままではどうしようもないんで、染めてはじめて着物にもなれば羽織にもなるんです。縮緬というのはご覧のように真白なもんですからね。
土屋 京呉服というのはそういうものを総称していうわけですね。
杉本 そういうことです。そんなことから、もっと大ざっぱにいいますと、呉服物というのは木綿物でなく絹物です。呉服・太物と並べていったわけですから、呉服というのは絹物と解釈していいんです。
土屋 太物と申しますのは…。
杉本 太物というのは木綿のことです。呉服・太物商とよく昔の看板に書いてありますが、その呉服は絹物をさし、太物というのは木綿物をさしているんです。糸が木綿は太いですからね。
土屋 つまり、京呉服というのは絹物で、日本で最高のものという意味でしょうね。
杉本 まあ、そういうふうに考えていいでしょうね。
土屋 あとは特殊なもの、例えば大島紬だとか、八丈だとか、甲斐絹だとか、そういったものがあるわけでしょうね。
杉本 いろいろありますが、これらは地方的なものですね。その他、結城紬だとか、久留米絣とか、絹物と木綿物があるわけです。

 

(5)取扱い商品の種類と販売方式
 

土屋 店舗商の時期の主な商品は、どういうものを商いなさったんですか。やはり、京呉服が主だったわけでしょうね。
杉本 もっとも大ざっぱに申しますと、呉服・太物でしょう。いわゆる絹織物・綿織物です。それに綿類もあります。これは「京綿」と申しまして、こちらで特に珍重されたんですね。
土屋 産地はどの辺ですか。
杉本 あの辺でたくさんとれるというのは、やはり紀州でしょうね。京都の町内(まちうち)の綿屋さんで綿を繰っているのを記憶しております。京都の郊外でそんなに綿をみたことはありませんから、やはり紀州辺りではないでしょうか。
土屋 河内も昔から綿作は有名ですね。綿は布団綿ですか。
杉本 いえ、小袖綿と申しまして綿入れに入れる綿です。「京綿」というのはその方なんです。
土屋 布団綿はお扱にならないで、綿屋さんが取扱っていたんでしょうか。
杉本 いいえ、扱ってはいましたが、京都から下したものではなかったようです。
土屋 布団綿の方は青梅辺りのものも取扱われたんでしょうか。
杉本 おそらくこちらで仕入れていたんでしょうね。お話のように産地は青梅辺りではなかったでしょうか。
土屋 そうしますと、大ざっぱにいえば、呉服・太物・綿というものをお扱いになったわけですね。初めは小間物類は扱われなかったのですか。
杉本 これはお嫁入りの仕度がありますからね。小間物と申しましても、昔のことですから、半襟だとか、腰紐だとか、それからお嫁さんの時の、今ではもうあんまり使いませんが、綿帽子、それから角隠し、そういったようなものはもちろん付属した商品ですから売っておりました。
 今でも記憶がありますが、随分綿帽子というものが売れていました。今はそんなものはお嫁さんの必需品ではないが、昔はお嫁入りといいますと必ず使いました。今はもう角隠しだけですね。よく京都の仕入店から綿帽子をこちらの店へ送っているのを記憶しております。これなんか風俗的に考えると随分変わり方が激しいですね。
土屋 今のお話のものは呉服の中に入るわけですか。
杉本 普通はこれを小間物と言っているんです。
土屋 呉服とは申さないわけですね。
杉本 呉服というよりは、それに付随したものです。
土屋 あと、例えば簪(※かんざし)とか、櫛(※くし)とか、笄(※こうがい)とか、そんなものはお取扱いにはならなかったんですか。
杉本 そのようなものは呉服屋時代には売っておりませんでした。そういうものにだんだん手が伸びてまいりますと、私のいう一〇店貨店、二O貨店になった時です。
土屋 呉服・太物・綿についてはわかりますが、百貨店以前に佐原、佐倉、千葉のお店で取扱われた呉服の種類はどんなものでしょうか。
杉本 それはなんといっても「西陣御召」、「西陣織」帯地、それから御婚礼の式服ですね。振袖とか。
土屋 裾模様もそうですね。
杉本 はい。それから江戸褄とか、留袖とかいって、婚礼の時に母親なんかが着ますね。振袖に対して留袖というんです。
 それから「友禅」ですね。長襦袢に仕立てたりなんかします。また、羽二重や「縮緬」の白生地類といったようなものです。
土屋 だいたい京都付近で生産されたものですね。
杉本 ですから、当時はもうだいたい品種というのは決まっておりました。極めて限られた品種で、それも今のように流行があるわけではなし、今年は黒っぽいものがはやったから来年は白っぽいものだとか、今年は馬鹿に色の濃いものがはやったが来年は薄い色だなんていうことがありませんから、年々歳々同じものを繰り返して売っておりました。考えてみると、昔の商いというのは楽だったんですな、流行遅れで見切らなければならないということがまずなかったから、年々歳々相似たりですね。
土屋 お葬式用の黒紋付きもお取扱いなさったでしょうね。
杉本 もちろん喪服もお願いしていました。それも夏物、冬物という具合に。
土屋 商売はし易かったわけですね。だいたい文字通り京呉服を商われたわけですか。銘仙とか、結城とかいうものはどうでしたでしょうか。
杉本 それは先にも申しましたように、あとになってだんだん東京の堀留にああいう問屋街ができますと、京都の呉服屋さんが東京の堀留へ支店を出したのと同じように、桐生にしろ、伊勢崎にしろ、秩父にしろ、みんな東京の問屋さんへその品物を卸ますから、東京の問屋さんで用が足りたんです。したがって、必ずしも京呉服、いわゆる上方でできたものだけではなく、銘仙なんかの関東物もやがてはだんだん扱うことになったと思います。
 けれども、私共の店舗を構えた初期というものは、そういうものは私の記憶ではあまり扱っていなかったように思います。ただ、資料には茨城県の太田(常陸太田市)になんか出張所のようなものが文化六年(一八O九)頃まであったというから、あるいはその辺から多少そういうものが入ってきたのかもわかりませんね。そうでなければそんな所に出張所なんか置く必要はありませんからね。また、主家奈良屋の仕入方を支配していた時に、武州騎西(埼玉県北埼玉郡騎西町)の出店で初代が商いをしたというのもそうでしょうね。しかし、それは極めて数量的にも、金高からいっても大したものではなかったと思います。
 それに、佐原も佐倉もそうですが、当時からやはり相当の呉服屋さんもありましたでしょうから、うちはそういう他のお店と違って京呉服が中心だということで珍重もされ、また相当多くの売り上げもあげたんじゃないでしょうか。
 おそらく町内(まちうち)の他の呉服屋さんは関東物をお扱になったんじゃないですか。
土屋 この京呉服というのは、高級品であるわけでしょうが、これを買う購買者のほうはどういう人ですか。
杉本 それは佐原・佐倉のことですから、やはりだいたい町内(まちうち)の商家、つまり商人(あきうど)さんです。ないしは、在方の農家でしょうね。
土屋 農家の人がお店に買いにくるわけですね。それから、外商もなさるわけでしょう。
杉本 もちろんさきに申し上げましたように農閑期に外商をしております。店の暇な時にも出向いておりました。
    しかし、これも私共の特徴としてどこまでも“店売り”が主なんです。それも“現金売り”です。だから長く続いたんじゃないですか。
土屋 それは江戸時代からずっとですか。
杉本 はい。「現金掛値なし」です。それだからむやみに大きくならなかったともいえるし、それだから続いたとも言えるんじゃないですか。
土屋 やはり、佐原なり佐倉なり千葉なりの商人たち、その他中産者あるいは農家でも相当の資産のある方々がお宅さんのお得意さんであるわけですね。
杉本 はい。ですから、現金売りばかりでもないわけで、そういう相当の所にはさすがに掛売りをしております。そういうのは信用調査が十分に行き届いておりますからね。
 しかし、やはり売上高から申しましたら、現金売りというのが主で、掛売りというのは極めて限られた信用度の高いお客さんに限られていました。
 したがって、外売、つまり外へ持ってこちらから売込みに行きますのは、これは掛売になるんです。それはそういうものなんです。こちらから押しかけて行って売るんですから、貸さなければ相手も貰ってくれません。「お代金はのちほどで結構です」と言わなければ、こちらから売込みに行くんですからね。ですから、それからいっても、外へ出かけて売り込んでくることはやりましたが、それは全体からみれば少なかったと思います。
土屋 その掛売りの場合は、月末に代金を受取るわけですか、それとも盆・暮二期というわけですか。
杉本 町内(まちうち)はみんな盆・暮でした。
土屋 いつ頃までそうだったんですか。
杉本 私が参りました頃もまだそうでした。これはしょうがないんです。こっちが買うものがまたそんなんですからね。相殺するわけです。お米屋さんやその他いろいろなものを買うとみんな盆・暮でした.
土屋 月末というのもあるわけですか。
杉本 ありました。しかし、それはせせっこましくなるにつれてそういうことになってきたんだと思います。
 私がまいりました時には、半期の決裁勘定というのがありましたが、私がまいりましてからはやめました。
土屋 しかし、お宅さんではすでに江戸時代から現金売りをなさったわけですね。
杉本 「正札付現金売り」というやつです。これは三代の“引札”[注・享和元年(一八O一)のものと推定される「改正札付大安売]なる一種の広告]にある通りです。これが鉄則です。
土屋 そうしますと、この現金売りと、月末と、それから盆・暮二期の支払いと、この三つを比べてみまして、盆・暮二期の支払いを受けるという商売は、よほど売値が高くなければならないわけでしょう。
杉本 つまり、儲がたくさんなければならないわけですね。金利をみなければならないわけですからね。
土屋 金利と、それから掛倒れがいくらかあるわけでしょう。
杉本 しかし、私共は早くから「正札制度」をやっておりますから、この人は現金だ、この人は一カ月だ、この人は半季だからと言って値段を高くできませんので、結局やはりどこまでも正札いっぽんでやります。ですから、現金売りを奨励し、現金売りに集中するということにならざるをえないわけです。
土屋 現金売りと掛と、値段の差別は、まったくおつけにならないわけですか。
杉本 はい。全然。これは三代の“引札”にあるように「現金掛値なし」なんです。
 “改正札附”で、“現金”なんです。例外はありますが、だいたいは原則としては“正札”で“現金”、それから“店売り”です。
土屋 盆・暮の掛やなんかはみんなこれは例外ですね。
杉本 例外です。町内(まちうち)の場合、米屋や油屋さんなんかの場合は、払う方もそういう習慣になっていますから、仕方がないということでしょう。
土屋 それから太物のほうは種類はどんなものがありましたか。
杉本 それは丁稚さんの着ております木綿ですね。昔は丁稚さんばかりではなく、番頭さんでもみんな縞の織物、木綿縞と申しますが、それを着ておりましたからね。別の名前というと、その後いろいろ出てまいりましたが、ガス糸なんていうのも出てまいりました。
土屋 その他にお百姓さんが着る仕事着のようなものは売られませんでしたか。
杉本 そういうようなものは町内(まちうち)の呉服屋さん、いわゆる太物・木綿屋さんへ行かれたんではないでしょうか。私のほうは、いつも申しますように、京呉服を主にやっておりましたので、太物といってもそんな野良着のような大衆品はやっていなかったように思います。
 昔の服飾生活というものはお嫁入りが中心なんです。うちの商いの大きな部分が御婚礼の仕度です。今のように服飾生活が複雑で多様ではなかったですから、普段の消費というものは決まっていたんですね。
 丁稚・小僧の仕着せをご覧になってもわかるように、袷(※あわせ)が一枚に、単(※ひとえ)物が一枚でしょう。それに手拭が何本に、下帯が何本というような。こういう単純な生活ですから、そんなものを商っていたんではとても商売にならないので、私共の商売の大きなものというのは、ほとんどが御婚礼が主です。今と違って昔は御婚礼の仕度となると、春・夏・秋・冬、身の回りのもの一通り全部揃えて持たせてやったもんですからね。
土屋 太物の方は実際上あまりたくさんはお取扱いにならないというわけですね。
杉本 太物専用というよりも、普通の町内(まちうち)の商人(あきうど)さんは、だいたいあまり京呉服なんていうものはその当時お扱になっていらっしゃらなかったんじゃないでしょうか。
 なにしろ交通の不便な時ですから、奈良屋へ行けば京呉服が揃っているということだったんじゃないでしょうか。それはそうでしょう。年に何回か東海道五十三次をやって下総へ運んでいたんですからね。
土屋 奈良屋さんは佐原でも、佐倉でも、最高級呉服店というわけですね。
 それから、例えば「近江の蚊帳(※かや)」とか、ああいうものはお取扱いになりませんでしたか。
杉本 これはありました。今でこそ蚊帳なんていうのは問題じゃないですが、当時はこれは必需品ですからね。ことに田舎では半年以上蚊帳を吊っています。はっきりこれは記憶がありますが、京都の店で扱っていました。
 蚊帳と同時に麻の着尺。これはありました。江州が産地なもんですから。
土屋 つまり夏の衣類ですね。その他はあまりありませんか。
杉本 今のように合成繊維なんてないから、昔は絹物か、木綿物か、麻物だけだったんですね。せいぜいその後になって人絹なんていうものが出来た。たいだい織物、繊維品というのは、この四つにわけられたんです。今はもうわけがわからない。
土屋 麻の裃(※かみしも)なんていうものもお取扱いになりましたね。
杉本 これは扱っておりましたが、もう極めて特殊な品物です。
土屋 需要は少ないでしょうね。
杉本 京都でも今裃を作れる所というのは、確か文化財かなんかになっているくらいでしょう。
土屋 そうしますと、だいたいお取扱いになった商品はそんなものですか。
杉本 だから今から考えますと極めて範囲の狭い品数の少ないものです。というよりも、その頃の服飾生活というのは随分今で考えれば簡単に単一化されたものだったと思います。

 

[『千葉県商業史談』第一集「杉本郁太郎氏商業回顧談」1967年9月30日(千葉敬愛経済大学経済研究所)より 「第Ⅱ章 第二節 (3)~(5)」]
 

 

 今回は、ここまでとさせていただきます。次回は、この後に続く同章・同節の(6)~(9)項となり、これにて同章の第2節が終了となります。本連載も残すところ4回となります。不定期連載でありますが、基本的に隔週で掲載をさせていただこうと考えておりますので、残り2カ月ほどとなりますがお付き合いの程をよろしくお願いを申し上げます。

 最後に少々。本稿中で郁太郎氏は、商品の輸送について「年に何回か東海道五十三次をやって下総へ運んでいた」と語られておりますが、この辺りの詳細については他の資料を拝読しても詳細については明確ではなく、特に近世の段階で、具体的に京呉服をいかように陸送していたのか知ることができないのがもどかしい思いでございます。「京呉服」は高額商品でございますので、海損を避けて陸送したことは充分に理解できますが、その他の太物等まで東海道を陸送したのでしょうか。当時の陸送は馬の背に振り分けにした荷を運搬する、到って輸送量に限界のある運送手段でありましたから、何頭もの馬を連ねて継ぎ送らねばならなかった筈です。安価な商品であれば水運を使用しての大量輸送が経費を低廉に抑えることができます。商品の中には、大坂まで一度商品を下してそこから「南海路」と称される海運で江戸まで廻送し、その後は江戸から河川水運(江戸川→関宿→利根川→佐原)で商品を輸送したことはなかったのか。その他、江戸からは高級な「京呉服」は陸送で佐原まで送ったものか??そうであれば、江戸から佐原までの陸送ルート・手段は如何なるものであったのか等々、未だ未解明のことがあります。そのあたりの事情につきまして、杉本家に資史料が残っていない者か、一度「杉本家保存会」の皆様にお尋ねしたいものと思っているところでございます。

 

兵藤裕己編注『説教節 俊徳丸・小栗判官 他三篇』(岩波文庫)上梓に快哉を叫ぶ! ―口承芸能の奥深き世界 または梅若伝説を語る『隅田川』に垣間見る中世的世界の片鱗について―

9月22日(金曜日)

 

 まずは、落語で申せば噺の枕も振らずに、藪から棒に本題に入らせていただきたいと存じます。この度、天下の岩波文庫から標題作品が刊行されました。このことに、小生と致しましては心の底から快哉を叫びたい思いで一杯でございます。これまで、『説教節(せっきょうぶし)』作品群につきましては、分厚なる「古典文学大系」のような専門的なシリーズ本の一冊として刊行されるか、全く真逆な子供向き「おはなし」として専ら絵本作品のような形態で親しまれるかが多かったように思います。恐らく、表題書籍にも収められる「山椒大夫(さんしょうだゆう)」の話には、多くの皆様は子供の頃に接していると思われます。そのタイトルには馴染みがなくとも、「安寿と厨子王」の話と申せば「あぁ~、あれか!」と、ピンと来るものと存じます。ただ、斯程に著名な物語でも、原作に近い形で接することは、これまで容易ではありませんでした。この七月に到るまで、文庫本のような手軽に読むことができる形態で『説教節』集が刊行されてはおりませんでしたから。その意味では、本著の刊行は誠にもって出版事業の快挙と申す他ないと存じます。しかも、その編注者は日本中世文学・芸能研究の泰斗として知られる兵藤裕己氏でございます。本稿の末尾に触れさせていただこうと存じますが、本書の編註者として兵藤氏ほどの適任者が他にあろうとは思えません。小生は、その情報に接して以来、一日千秋の想いで刊行日を待ちわび、刊行後に直ぐに入手し一読に及びました。そして、その期待が充分に満たされたことは言うに及ばず、現代語訳「説教節」本等で接していた同じ作品とは思えないほどの、途轍もなく大きな感銘を受けたことを白状せねばなりません。

 本書には、『説教節』作品を代表する、「俊徳丸(しゅんとくまる)」、「小栗判官(おぐりはんがん)」、「山椒大夫」、「愛護の若」、「隅田川」の5編が収められております。皆様におかれましては、何れも、「説教節」の形態ではない他の形で接したことのある御話ばかりでございましょう。今日でも子供向け絵本や映像作品として量産され続ける「山椒大夫」については上述いたしましたが、「小栗判官」に到っては、過日物故された三代目市川猿之助(没時は市川猿翁)(1939~2023年)によって平成3年(1991)に初演された、梅原武(1925~2019年)『小栗判官』(1989年)を原作とするスーパー歌舞伎「オグリ-小栗判官-」として、また平成21年(2009)宝塚歌劇団花組公演『オグリ-小栗判官物語より-』として……等々、多くの翻案作品を生み出すなど、今日なお創作者たちに大きな創作エネルギーを提供していることからも、その作品が時空を超えて聴衆に訴えかける普遍性を有していることが想像できるというものでございましょう。まず、そもそも『説教節』とは何か(なかなか説明が厄介なシロモノなのですが)、また兵藤氏の下で本書が如何なる編集方針で編まれたものか、極々簡略にご説明いたしたいと存じます。最初にご説明する必要がございます。

 「説教節」とは、中世に勃興して近世初頭に全盛期を迎えることとなる「口承による文学・芸能」であり、初期には細く割った竹を繋げた楽器「ささら」を摺って拍子をとったり、後には琵琶や三味線の伴奏を伴って物語を語る、所謂「語りもの」芸能の一種となります。こうした「口承文学・芸能」といったジャンルには、種々雑多な形態のものが存在しており、しかも録音技術など存在しない時代でありますから、歴史の闇に埋没したジャンルも作品も相当に多いと思われます。説教節の場合、近世の初頭に「語り」が筆記されて「説教正本(しょうほん)」として出版され、読み物としても広く受容されたことから、それなりの作品が残されることになったのです。勿論、文字からは説教節が具体的にどのように語られていたかは知る由もございませんが、正本文中には「コトバ(詞)」、「フシ(節)」、「クドキ(口説)」、「フシクドキ(節口説)」、「ツメ(詰)」、「フシツメ(節詰)」といった記載があり、物語を冷静に連ねて語る部分と、幾つかのパターンで歌うようにして感情を込めて語る部分とを織り交ぜながら、情感豊かに語られたことが想像できます。また、その名称からもご理解いただけますように、その原点は、庶民に対して神仏の御利益を分かりやすく説き伝える「説教」を出発点としておりましょう。そこから、芸能的な方面へと専門化する唱導師が現れ、次第にして分離して成立したものとされます。しかし、その名称には出自となる「説教節」という呼称が引き継がれたのでございましょう。確かに、現在に伝わる諸作品の全体的な構成は神仏による利生譚の形態を有しており、その点に「説教」としての出自の片鱗がうかがわせます。更に先行する「平家物語(平曲)」「太平記」を語る琵琶法師の影響を受けながら展開していき、当時は、各地を遍歴しながら町辻で「語り」を披露して収入を得る「説教語り」として、広く民衆に受け入れられて人気を博したようです。また、「説教節」は近世以来日本海の面する北陸を中心に各地を遍歴した、盲目の女性芸能者「瞽女(ごぜ)」にも素材の多くを提供したことも知られます。一方、都市的な場では、操り人形と連携して小屋掛けで演じられるなどもされたようで、相互に影響を齎しながら次第に「浄瑠璃」と一体化していったようです。

 さて、兵藤氏の編註になる本書では、こうした「語り」芸能としての説教節の在り方を可能な限り文章でも彷彿とできるよう、信頼に値する「説教正本」を相互に比較検討され、注意深く語彙を選び採られながら校訂がなされております。更に、それに懇切丁寧な註釈を施されております。岩波文庫の常として「現代語訳」付ではございません。しかし、註釈が書籍後方に纏められるのではなく、各頁の下部に附されておりますので原文と照らし合わせながら読むことが可能ですから、読んでいて理解に不都合が生じることはほとんどございますまい。むしろ、「語り」のテクストでありますから逡巡することなく、流れに任せて最後まで到達していただくことを最優先とされているように思えます。その意味でも「説教節」という「オーラル文芸」の現在望みうる最も信頼に値するテクストを提示されていらっしゃるものと存じます。そもそも、説教節は「語り」によって唱導された作品群でございますから、その正しい理解にはリズム感をもって読むこそが真骨頂になりましょう(本来は聴き取る)。下手に口語訳してしまえば、ストーリーは追えても本来の物語としてのダイナミズムが雲散霧消してしまいがちであります。その点で、兵藤氏による編注の効用は例えようもなく大きなものだと存じます。「説教節」の各作品は、基本的にはワンパターン的な物語構成であるものですが、小生はかくも大きな感銘をうけるとは思いも寄りませんでした。特に、困難をものともせずに行動に移す、女性たちの力強さには心底打たれて、不覚にも何度も目頭を押さえたほどでございます。それは加齢の所為だけではございますまい。それだけ、語りのリズムが直接的に心に訴えかける力が大きいことに由来いたしましょう。今回の読書で、この発見をさせていただいたことは、小生にとって何にも代えがたいことでありました。「唱導(オーラル)文學(芸能)」の世界を主たる研究の分野とされ、これまで目を見張るような発見を小生に与え続けてくださる、兵藤氏を代表するお仕事の一つであると確信するものでございます。因みに、我が家で定期購読する朝日新聞に毎土曜日に掲載される、お堅いことで知られる書評欄にも本作が採り上げられたことにも驚かされました。何故ならば、古典文学(芸能)原作がここで採り上げられたことは記憶にございませんでしたから。本作の価値につきまして、朝日新聞の書評士(福嶋亮大氏)がいみじくも以下の如くに記されていらっしゃいます。正に我が意を得たりの思いでございます。一部を引用させていただきます。余談ではございますが、小生は未だ手に出来ておりませんが、同じ岩波文庫の『太平記』(全6巻)編注者も兵藤裕己氏であることを申し添えておきたく存じます。

 

 (前略) その綿密な校訂作業のおかげで、世界そのものが低い地声で語りかけてくるような説教節特有の文体は、いっそう濃密に感じられるようになった。前世の呪い、過酷な人身売買、病故の差別-これらの重いテーマは<善悪の彼岸>で響く声となり、読み手に迫ってくるだろう。 (後略)

 

     [令和5年8月19日『朝日新聞』書評欄より 執筆:福島亮大(批評家)]
 

 

 続いて、本書にも収められる『隅田川』を採り上げることで、単なる「おはなし」賭して愉しむだけではない、その素材の源流が中世に遡る「説教節」の“歴史的”な世界についても少しばかり述べてみたいと存じます。その舞台は、我らが関東の地、しかも下総国でございますから(もっとも現在は東京都内となっている東京東部低地ですが)、本市の皆様にとっても物語世界を少しは具体的に思い浮かべていただけるかと存じます。「山椒大夫」が安寿と厨子王という姉弟の物語であるように、「隅田川」は梅若という京生まれの貴公子とその母との悲しい物語として語られます。東京都心を流れ下る隅田川には名の知れた多くの橋がございますが、東流していた流路が大きく南へと方向を変えた下流に現れるのが、墨田区と台東区・荒川区との間に架けられた「白髭橋(しらひげばし)」となります。その左岸(東岸)となる墨田区側には隅田川に寄り沿って、まるで要塞のような13階建の高層住宅団地「白髭東アパート」が連なっております。その全長は1.2キロメートルにも及ぶ長大な擁壁ともなっており、自然災害に伴う大規模火災をここで食い止める、防災機能を兼ねた住宅団地として昭和57年(1982)に完成しました。これ自体も興味深いことですが、ここでは、当該団地の足元にある、周囲の余りにも近代的な風景と似つかわしくない「梅柳山木母寺(ばいりゅうざんもくぼじ)」なる寺院について採り上げたく存じます。

 本寺は住宅団地建設に伴って本来の場所からは若干移転しておりますが、境内に入ると建物全体をガラスで覆って保護された、震災・戦災を免れて今に残る「梅若堂」なる御堂が目に入ります。そうなのです、ここは本人の意に反して京から東国に下ることになったものの、隅田川畔で病みついて没した「梅若」を葬った地(梅若塚)であり、その土饅頭には柳樹が植えられました。これが、木母寺の山号の由来であり、寺号も「梅」の“偏(へん)”と“旁(つくり)”とを分解したものに由来いたします。また、隅田川の対岸の現在の台東区橋場には、梅若を追って京から下った母が、この地で我が子が身罷ったことを知り、悲嘆して池に身を投じて後を追ったことに因んだ「妙亀塚」がございます。この母を祀る寺院として当該地に創建されたのが「妙亀山総泉寺(みょうきざんそうせんじ)」であり、関東大震災による罹災により昭和初めに板橋区に移転後、旧寺地跡に塚のみが残されているのです。因みに、この総泉寺は「享徳の乱」で下総を追われた千葉本宗家の一流「武蔵千葉氏」との関連の深い寺院であり、総泉寺の南が浅草寺のある「浅草」と「今津(現:今戸)」の地となります。またその北側一帯が「石浜」と比定されており、武蔵千葉氏が重要な拠点とした場でもございます[『本土寺過去帳』によれば、千葉自胤は石浜対岸に立地する、隅田川に綾瀬川が注ぐ場である“三又(みつまた)”の地で没している事が知られます]。これらの事実から、ご聡明な皆様には、既に、この地が古代から中世に及ぶ壮大な歴史の舞台として浮かび上がっていらっしゃるのではないかと存じます。さてさて、その前に、以下に説教節「隅田川」の粗筋をご紹介させていただきます。

 

 吉田少将之是定には、七歳の嫡男「梅若」と、五歳の次男「松若」の二人の子があった。「松若」は比叡山に上り学問に励むが、七歳の折に天狗に攫われてゆき方知れずとなった。それを悲嘆して病の床に伏した是定は、梅若の元服後に家を譲ることを約させ弟の松井定景に家を預けて没した。しかし、定景は家の乗っ取りを企てて、仲間を募るが加わるものとこれを拒絶する者とに分かれた。梅若の乳父である粟津俊兼は、御台所を西坂本に逃がすが、その夜定景らに攻められ多勢は無勢で味方は悉く打たれた。俊兼は梅若を母の元に逃がした後に、館に火をかけ切腹したことを装って逃れた。西坂本に逃れた梅若は道に迷って人商人(ひとあきうど)に騙されて東国に向かうこととなった。梅若は、道中でそのことに気づくが、人商人に打擲されて隅田川にまで来て動けなくなる。人商人は仕方なく梅若をその地に捨てて去る。村人に介抱された梅若は素性を明かして息絶えた。村人は塚を築いて梅若を葬り、塚の傍らに柳樹を植える。一方、俊兼は西坂本で御台所から梅若が来ていないことを聞き梅若を尋ね歩く。俊兼からの朗報が齎されぬなか、母御台所も梅若探索の旅に出かける。その途中、旅人から梅若らしき子が人商人に連れられて東国に向かったことを知り、狂乱の姿でその後を追う。隅田川にまで至り渡し船に乗った母は、船頭から折しも対岸で行われる大念仏が吉田某の子の供養だと聞くことになる。舟からあがった狂女は村人に自分が墓の主の母だと告げ、塚の前で嘆き悲しむ。母が村人とともに念仏を唱えると、塚の中から念仏に唱和する声が聞こえ、塚の柳の陰から梅若の霊が表れる。母は、その地で出家して妙亀(みょうき)比丘尼(比丘尼)と名乗り、塚近くに庵を結んで梅若を供養するが、まもなく世をはかなんで池に身を投げる。他方、俊兼は梅若を探し当てられず、出家して蓮心と名乗り、東国を尋ね歩き、相模大山不動で断食祈祷をすると脇侍の二童子が示現。梅若と御台所が既にこの世の人ではないこと、弟の松若は健在であることを蓮心に告げる。やがて天狗が供をして松若を連れてくる。蓮心と松若は、隅田川畔の母と兄の墓に参って供養し、その後京に向かって比叡山の僧に頼んで内裏に事の次第を奏聞する。その結果、帝から定景誅伐の宣旨が下り、松若は四位の大将是定に任じられる。彼は定景を捕らえて斬り、下総国の国司に任じられ、母と梅若の供養のため妙亀山総泉寺と木母寺を建立した。

 

[兵藤裕己編注『説教節 俊徳丸・小栗判官 他三篇』2023年(岩波文庫)より抜粋]
 

 

 お読み頂いた内容は本文庫によるそれとなります。「あれ?自分の知っている話とちょっと違う」とお思いになられた方は、別のテクストによって伝来した内容となります。例えば、「能楽」の台本となる謡曲『隅田川』には「松若」なる弟の存在は語られることはなく、母子の再会に収斂される筋立てとなっております。かの能楽の大成者である世阿弥の嫡子観世元雅(1394 or 1401~1432年)の作となりますから、「梅若伝説」そのものが、中世半ばには存在したことが分かります。また、太田道灌に招かれ、文明17年(1485)から3年間に亘り江戸に滞在した万里集九(1428年~没年不詳)が残した漢文による紀行『梅花無尽蔵』には、「都鳥は隅田の故事なり。河辺に柳樹有り。蓋し吉田の子梅若丸の墓処なり。其の母は北白川の人」との記載がございます[久保田淳『隅田川の文学』1996年(岩波新書)]。従って、その段階で「梅若塚」そのものも既にその地に存在していたことも知れるのです。つまり、中世末以降に成立したと想定される、説教節「隅田川」にも“中世”という時代の在り様が色濃く刻印されているものと考えるべきでございましょう。その一つは、「拐かし(人攫い)」「人身売買」の横行にあると存じます。勿論、人身売買は債務不履行による借財のカタとしても大々的に行われましたし、これら説教節にも頻繁に表れる「拐わかし」によっても行われていたのです。その背景には中世に頻発した「飢饉」があったとも考えられます。だからこそ、中世の民衆にとってこれらの話が切実なる共感をもって受容されたのだと考えるものでございます。

 もう一つが、説教節の舞台となった「土地」が何故選び取られたのかについてでございます。ここには、「中世」という時代像を探る重要な要素が織り込まれております。例えば、「山椒大夫」で安寿と厨子王の姉弟、その母と侍女が拐わかしに遭うのが越後国直江津であります。日本海に面するこの地は、古代以来水陸交通の要衝として殷賑を極めた“都市的な場”であったことが知られます。つまり、多くの人が集い、物資の取引が活況を呈する場であったのです。中世においては取引の重要な品目として「人」も含まれていたということです。つまり人身売買の舞台として「直江津」が選択される理由がそこにございます。それでは,話題を「隅田川」に戻し、「梅若塚」の所在する隅田川左岸及びその対岸の地が、如何なる“磁場”を有する地であったのかを探って参りましょう。尤も、このことについては、小生がとやかく申すまでもなく、優れた先行研究がございますので、その紹介をさせていただくこととなるます。すなわち、「すみだ郷土文化資料館」が主導して刊行された書籍『隅田川の伝説と歴史』2000年(東京堂出版)を嚆矢とする研究成果の蓄積に他なりません(本書中「梅若伝説」の項目を執筆されているのが樋口州男氏です)。本書に続けて、その翌年に、優れた中世史研究者である加増啓二氏が在職中の「足立区立郷土博物館」で開催された特別展『隅田川流域の古代・中世世界-水辺から見る江戸・東京前史-』(2001年)展示図録が、更に「すみだ郷土文化資料館」開館十周年記念特別展として開催された『隅田川文化の誕生―梅若伝説と幻の町・隅田宿-』(2008年)展示図
録という、極めて優れた二つの労作が世に出ております。小生も、それらの業績に導かれて記述となりますので悪しからず。その成果によれば、この地は武蔵国府(現:東京都府中市)と下総国府(現:千葉県市川市)とを結び,東京東部低地を東西に貫く古代官道が隅田川を越える渡河点であったと考えられ(特にここから東側にはその道筋の痕跡が明瞭に見て取れます)、記述の在り方は異なるものの、『吾妻鏡』と『義経記』には源頼朝の房総から武蔵への進出の際、隅田川を渡河するに当たっての逸話が書き留められております(千葉常胤・葛西清重と江戸重長の逸話でございます)。また、それから170年程を経た南北朝「観応の擾乱」における戦いの過程で、足利尊氏がこの地(石浜)を拠点として戦ったこと、更に後の「享徳の乱」では下総を追われた千葉本宗家の一流である実胤(さねたね)・自胤(これたね)兄弟が石浜を拠点の一つとし、江戸城に拠点を置く太田道灌の支援を受けて下総奪還を計ったこと等々、この地が下総と武蔵の国境である隅田川の渡河点として、極めて重要な軍事上の要衝であったことを知ることができましょう。

 更に、隅田川下流域右岸に位置する石浜や、その南の今津(現:今戸)は現東京湾の最奥地に位置する港湾として、海上輸送の拠点であると同時に、隅田川上流との物資運搬の結節点として極めて重要な位置づけを有していたことが知られます。近接する古代寺院「浅草寺」は地域を代表する大寺院として、隅田川を通じて遠隔地と関東内陸部との広域な流通機能を集約する、富裕な商業者層(「有徳人」)によって支えられる存在でもあったものと考えられております。飽くまでも物語上の誇張ではございましょうが、先の『義経記』には数千艘の西国船が着岸していたと記されております。また、鎌倉期後半から室町期に掛けて、石浜の地には時衆や日蓮宗の道場(布教の拠点)が設けられていたことが残された同時代資料から判明しております。彼らが都市的な場を重要な布教の拠点としたしたこと、特に日蓮宗が富裕な町衆(有徳人)の信仰を集めたことに鑑みれば、この地が軍事上の拠点のみならず、地域における一大流通拠点であることは確実であります。また、上述致しましたように、ここが古代官道の渡河地点であったことから、この地は水上交通と陸上交通の結節点でもあったのです。この地点の地勢上の重要性に目を開かれる思いとなりませんでしょうか。後に徳川家康が秀吉の命によって三河の地から関東の地へと移され、江戸を本拠としたときのこととして、そこが寂れた一漁村に過ぎなかったこと、それを家康が先見の明をもって都市として開発した偉業が語られます。しかし、これは飽くまでも「家康神格化」を目的とした創作の側面が大きいものであり、江戸とその周辺地が寂れた一漁村であったなど、歴史認識として正しいものとは到底申し上げることはできません(勿論、その後の百万都市とは似ても似つかない状況であったことは申すまでもございませんが)。

 また、もう一つ注目すべき事は、石浜の対岸となる隅田川左岸は、古代官道に沿って立地する「隅田宿(すだのしゅく)」なる交通集落の比定地となっていることでございます。ここで隅田川の渡河機会を伺っていた源頼朝一行のもとに、かつて頼朝の乳母であり現在は下野国の有力武者である小山政光の妻となっていた寒河尼が、当時14歳の末子(後の結城朝光)を伴って訪れ、末子を側近として奉公させたいと願い、頼朝が自ら烏帽子親となってこれを元服させたことはよく知られておりましょう。梅若の埋葬地に建立された寺院(木母寺)の立地とは、正に隅田宿の比定地に重なるのであります。つまり、この地は対岸の石浜・今津と一体化し、河川交通と陸上交通の結節点として、物資流通で賑わいを見せる“都市的な場”であったことは疑いございません。恐らく「市」の立つ場であったことでしょう。だからこそ、奥州に向かう人商人が立ち寄る場として,この地が物語の舞台に撰ばれることにもなったということでございます。つまり、「物」の流通拠点としてだけではなく「人」の流通拠点としても機能していたことが想定できるのです。因みに、奥州に向かう商人がこの地を踏んだと言うことは、この地点が武蔵と下総を結ぶ東西交通路の宿であっただけではなく、南と北とを結ぶ交通路の通過も想定されるわけであり、事実先の特別展ではこの地を南北に貫く鎌倉街道の通過点と想定されております。つまり、この地は、陸上交通の極めて重要なる結節点でもあったことになります。中世にその原型が成立した「梅若伝説」を語る説話にもまた、「中世」という時代における地域の歴史的実像が相当に色濃く反映されているものと考えられるのです。

 最後に、本著の編注者でいらっしゃる兵藤裕己氏について少々述べて本稿を閉じたいと存じます。兵藤氏のご研究は、口承文学・口承芸能といったオーラルな手段で伝えられる作品の成立から、後世それらが社会に如何なる影響をもたらすことになるのかにまで視野を広げたものであり、その大胆な仮説には大いに唸らせると同時に、大きな刺激を受けもし、また納得もさせられてまいりました。その研究の対象となるのは、申すまでもなく『平家物語』や『太平記』であり、専門書までは手が届かないものの、『太平記〈よみ〉の可能性:歴史という物語』1995年(講談社選書メチエ)、『平家物語〈語り〉のテクスト』1988年(ちくま新書)、『琵琶法師〈異界〉を語る人びと』2009年(岩波新書)[最後の琵琶法師と言われた山鹿良之氏の演唱する「俊徳丸」の映像記録を納めたミニDVD付録付!]等々を拝読して参りました。しかし、小生にとってそれ以上に刺激満載であった著作がございます。それこそが、その視野を近現代のオーラル文学・芸能にまで広げ、日本に「国民国家」の理念をもたらしたものは、国家主導による諸政策によるもの以上に、大衆が圧倒的に支持した浪花節芸人の熱く語る、“忠君”思想に裏付けられた「忠臣蔵」のような“滅私奉公”の物語であり、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)(1873~1916年)等の魅力的な“声”の世界に他ならなかったことを論じた『〈声〉の国民国家・日本』2000年(NHKブックス)でありました。中学校社会科教師であった小生は、予て明治の文化についての授業を行う際に、夏目漱石や森鴎外を当該時代の代表事例として扱うことが果たして適切なのか釈然としない思いを抱いていたのです。斯様な文学作品を好んでいたのは極々少数の上流階級・知的な素養を有する者だけであろうと漠然と感じていたからであります。事実、明治18年伊豆大島で生まれ育った小生の曾祖母は、文字の読み書きすらできない所謂“文盲”でした。漱石・鴎外など、おそらくその名すら知らなかったと思われます。つまり、大多数の一般大衆が親しんでいたのはこうした口承芸能の世界であったはずでありましょうから、本書を拝読したときに心底腑に落ちる思いとなったのです。今回編注者として携わられた説教節の世界からも、庶民の心に直接訴えかけてくるような「語り」の様子を彷彿とさせる文体に、心底情感を揺すぶられる思いであったのです。これまで読んだ、翻訳本等では一度も感じなかった感情が知らず知らずに沸々と胸に迫り、涙が零れたことが一度ならずあったことは上述したとおりです。もし、実際に「語り」で接したならば、感動で止めどもなく落涙したことは確実だと思います。兵藤氏には何時も代表作ばかりが世に出ることの多い説教節の他作品の御紹介を是非とも期待したいところでございます。本書の「続編」、「続々編」が続けて上梓されることを、岩波書店も含めてお願いを申し上げたいところでございます。

 因みに、兵藤氏は、愛知県のお産まれだそうですが(1950年10月)、本館の外山統括主任研究員よりのご教示によれば、小中高校時代は千葉市にお住まいであり、本館の至近にある学校に通われていたこと、更に小中学校時代は千葉市の生んだ中世武士団研究の泰斗でいらっしゃる野口実(1951年2月)先生と御同窓でいらっしゃり、御親交も深いものがあられると伺いました。いやはや、世間は狭いものと驚かされた次第でございます。

    
 

 

資料紹介「杉本郁太郎かく語りき」(不定期連載:その6) ―千葉敬愛経済大学経済研究所『千葉県商業史談』第一集 「杉本郁太郎氏商業回顧談」より―

9月29日(金曜日)

 

まど際(ぎは)に 移す鏡や 今朝の秋  (年次未詳)
夜ごと聞く 蟲もいつしか 枕もと    (昭和18年)
永井 荷風        
[加藤郁乎編『荷風俳句集』2022年(岩波文庫)より]

 

 明後日には十月を迎えることとなります。今年の夏は何処も観測史上最高を更新したと報道もされておりますが、小生の居住する東京東部低地でも、職場であるこの千葉市内であっても、「残暑」厳しき9月……といった趣は皆無でありました。少なくとも昼間から夜間に到っても、8月から「夏本番」をそのままに引きずって推移し、9月末から言葉通りの「残暑」に相応しい陽気になって参ったように感じております。要するに未だ秋めいた陽気には程遠いように感じておりますが、皆様は如何でございましょうか。しかし、そうは申しても、自然界の摂理によって彼岸の中日を過ぎれば昼夜の時間は逆転となり、白々とした夜明けも遅くなり、日の入りはすっかりと早まって参りました。冒頭に掲げさせていただきました荷風山人の発句もまた、この辺りの季節の移り変わりを詠み込んだものでございましょう。当節ではすっかり早くなった日没後にすだく蟲の聲も一際喧しくなって参りました。もっとも、小生は現在自宅一階では寝起きしておりません。しかし、荷風の句境をしみじみと実感するのです。何故かと申せば、子供の頃に暮らした昭和初期建造の平屋建の記憶と繋がるからに他なりません。外からは施錠のできない、常に家族誰か在宅していることが前提の家屋であり、夏から秋にかけては部屋の四隅の鴨居に設置した金具に緑色の「蚊帳(かや)」を吊り下げ、それを虫除けにして就寝しておりました。子供心にいそいそと「蚊帳」に入り込むことは夏の楽しみの一つでございました。その特別感にワクワクした想い出が甦ります。純和風の家屋ですから、秋が深まるにつれて秋の蟲たちの活動も縁下から床下へと広がってくるのでしょうか。蟲の聲を枕元で耳にした記憶もこの季節の蚊帳の中でだったように思います。

 さて、9月15日(金)に引き続きまして、杉本郁太郎氏の商業回顧談の第六弾と参りたいと存じます。今回は三回に分けてご紹介いたします「第Ⅱ章:呉服商時代における経営の推移」「第二節:店舗商時代における経営の推移」の最後となる4項目を採り上げます。即ち「(6)店員数とその出身地」「(7)店員制度の改革」「(8)佐原商人仲間との関係」「(9)資本蓄積とその運用方法」となります。個人的には、幕末・維新期の京における身の処し方の苦労を偲ばせる内容を含み込む(9)の述懐には、特に引きこまれました。それでは「杉本郁太郎かく語りき」(その6)を大いにお楽しみくださいませ。

 

Ⅱ 呉服商時代における経営の推移
二、店舗商時代における経営の推移[※(1)~(5)は既に紹介済]
 
(6)店員数とその出身地
 

土屋 次に店員の出身地についてうかがいたいのですが、それは主にどういうところからまいりましたか。
杉本 当初は伊勢です。初代が伊勢から出ております関係で、また二代目も伊勢から養子しておりますので、やはり伊勢からというのが相当ありますね。例えば、前にお話した佐原にある岡田という別家なんかも伊勢の出です。
 それから江州-滋賀県-に多いですね。これは御承知のように江州商人(あきうど)というのはみんな他の地方へ進出する。今でいえば農家の次男坊、三男坊対策というのか、みんなだいたい農家は商家へ奉公に出すということになっていましたからね。江州で奉公にだすということになると、やっぱり京・大阪ということになります。
 伊勢の人が初代から二代の頃にかけて別家なり手代なりにいることは、これは今申し上げたように、こちらが伊勢の出身ですからわかります。その後はだいたい江州が非常に多い。これは今申し上げました江州商人(あきうど)というのは、だいたいそういう具合に京・大阪の商家へ勤めに出るという一つの習慣があったんじゃないでしょうか。百姓の次男坊対策で。それと江州人は由来辛抱はいいと。商人には適格だということになっていたようですからね。
土屋 お店の店員数ですが、明治一四年で二七人という記録があるわけですね。
前田 これは京都でなんか特別の祝儀を用意した時に総計二七名と書いてあるんです。
杉本 当時は京都、佐原、佐倉と三店あったんですが、この二七人というのはおそらく佐原店でしょう。
土屋 佐原で二七人として、佐倉はいくらか少ないですか。
杉本 佐倉は当時の規模からいいましたらその半数でしょうか。
土屋 十三・四人ですね。京都のほうはどのくらいですか。
杉本 京都はいつか申し上げたように、別家衆なんていうのだけでも一〇人ほどおりますから、その割合から行きますと、やっぱり二〇人やそこいらはいたでしょうな。
土屋 京都のお店の店員はあちこちから品物を仕入れることだけをやっているわけですか。
杉本 そうです。
土屋 卸はしておりましたか。
杉本 卸は多少しておりました。これは仲間取引です。京都には呉服屋はたくさんありますから、お客さんがこういうものを買いに、仕入れにこられたが、ここのお店になかった場合に、他の店へ連絡して品物を廻して貰うというようなことはしょっちゅうやっていました。仲間取引と申します。小売りはもちろん致しておりません。
土屋 小売りはしないわけですね。
杉本 ああいう商業の中心地ですから多少仲間取引はあったと思います。それでも全体から見れば小さなもんで、京都はもう純然たる仕入店で、仕入れたものは全部こちらへ送っていたと思っていいでしょう。
土屋 こちらへ送るのには運送屋さんを依頼されるわけなんでしょうね。
杉本 運送屋がしょっちゅう出張して、庭先で荷造っておりました。
土屋 京都のお店の人達がついてくるわけですか。
杉本 そういうことはなかったようですね。もう新しいことになりますが、私の記憶に関する限りはなかったようです。
土屋 そうしますと、京都のお店の店員は主として品物の仕入れをし、多少卸もするというわけですね。
 京都には何人ぐらい番頭さんはいたんでしょうか。
杉本 これは時代がいろいろ違いますのでわかりませんが、私の幼少の記憶では、いつかも申しましたように、一〇人ほどの別家衆が参勤交代で半季半季に入れ代わりますから、半数として五人の別家衆がいます。それから番頭さんがやっぱり五人くらいいました。手代というのもやっぱり五人くらいいたな。そんなもんでしょう。
土屋 いちばん小さい丁稚さんは。
杉本 これは二・三人いました。これは仕立てるとすぐ店の方へ送っちゃうわけです。でも絶えず二・三人はいました。
土屋 佐原、佐倉のお店はどうだったのですか。
杉本 だいたい今の一〇人の別家衆のうち五人はこちらへきて、番頭さんもだいたいしょっちゅう上期と下期に代わるのが多かったんですからね。ですから佐原の店は京都の店と同じくらいの所帯と思っていただいていいと思います。佐倉はだいたいその半数でした。
土屋 明治四二年に千葉のお店ができた時はどのくらいでしたか。
杉本 明治四二年に千葉の横町に出張所として出しました時は極めて少なかったです。支配人のほかにあとほんの三人くらいしかいませんでした。
土屋 ちいさかったんですね。しかし、千葉のお店はほかに比べてぐんぐん規模は拡大されたわけなんでしょうね。
杉本 それは千葉の町が非常に大きくなったものですから、いつかももうしましたように、明治四二年に横町-千葉神社の少し先のところを横町と申します。当時俗に「梅屋敷」といっておりました。今の千葉神社の前のロータリーを刑務所のほうへ入ったところです-へ「丸京 奈良屋佐倉店出張所」として佐倉から出店したかっこうで出たわけです。それが大正三年に吾妻町二丁目、今の千葉劇場の向い側になりますが、あそこへ移りました。その頃で二〇人くらいはいたでしょうね。
土屋 もう相当のお店になっているわけですね。
杉本 それで昭和六年に会社にして、私のいう二〇貨店から三〇貨店くらいにしたんだが、その頃で一〇〇人くらいなもんだと記憶しております。

 

 

(7)店員制度の改革
 

土屋 店員の職階と申しますか、階層と申しますか、それは支配人が最高で、それに別家の人達がいるわけですか。
杉本 別家というのはもう一つ上で、これは主人に代わって総監督しているわけです。
土屋 支配人は番頭の中の特に優れた人がなるわけですか。
杉本 いちばん番頭さんを支配人というわけですな。
土屋 それからあとは、番頭が数名、そしてさきほどのお話のようにやはり手代が数名ですね。
杉本 そうです。それで私がこちらにまいりましてから初めて女店員というものを千葉のお店で使ったんです。昭和四年頃ですか。
土屋 それ以降はだんだん女店員というものは殖えるわけでしょうね。
杉本 その頃で一〇名ぐらい使ったかな。最初はそれでもなかなか危なっかしくてしょうがないというわけで、お客さんなんかの応対なんかさせられないから、みんな仕入れのほうで事務をとらせたり、反対に値札をつけさせたりなんていうことばかりやらせておきました。売場にたたすなんていうことはそれからずっとのちの話ですよ。
土屋 昭和になってからは、お宅さんでは別家、番頭、手代、それから小僧とか丁稚、という名称も随分変わったわけでしょうね。
杉本 前に申し上げたように、私共ではそういう言葉は内輪では使わなかったようです。私が入りました頃には、丁稚なんていわないで、少年店員ということになっていました。もう「丁稚募集」なんていったってきっこないというわけで、「少年店員募集」なんてやっていました。
土屋 だいぶ近代化したわけですね。
 その条件、つまり給料とか、仕着せであるとかという条件はどんなふうだったんでしょうか。それから労働時間・勤務時間ですね。
杉本 勤務時間は二四時間勤務です。休憩時間なんていうのはありません。給与は一応もちろん食べさせていくらということですから、極めて少額ではないでしょうか。そのかわり、着る物一切いわゆるお仕着せで、着る物から消耗品、消耗品といっても筆・墨の類だが、それをみんな官給するんだから給料は安いものだったと思います。
 私のきますまでは、あんまりかんばしい話ではないけれど、貧困な家庭で、さきほどお話したように、農家の次男坊対策なんていうのがあったようですよ。丁稚に出すからいくら貸してくれなんていうのさえあったようでしたね。今考えるとひどい話です。
 その後、私がやるようになりましてから、住込んでいくらだ、食べていくらだというのはおかしいといって、給料はこうこうだと、その代わり食費がこれだけだと、それで差引いていくらだということにしました。それでもまだ月給日に実際にお金を本人に渡すということはしないで、みんなそれは店で預かりおくと、それで帳面だけ渡しておくというような形をとっておりました。また、いらないんです。今と違って、食べるものは店で食べさせてくれるし、筆墨類は店からあてがってくれるし、また風呂は店でいれてくれるし、床屋は店へきてやってましたな。暢気な話だ。店へ床屋が出張してやっていました。ですから、もうなにもいらないわけです。
土屋 休日制度はどういうふうになっておりましたか、社長が経営なさる前はどんなふうだったんでしょうか。それをどう改革されましたか。
杉本 私がまいりました頃でも月一回だったでしょう。町内(まちうち)の同業者で申し合わせていましたね。
 私が大正一三年に三越へ勤めました時に月に二日でした。一日から一五日の前半に一日、一六日から三〇日の後半に一日でした。それもお互いに籤引きです。ですから、月の真中辺りに固まっちゃたりなんかすると困りましたよ。それで仲間内で交換したりなんかして、等間隔にもっていく苦心をしたもんです。基準法もなにもありませんからね。だいたいその当時、三越でさえ一〇時間勤務に月二日の休日でした。半期皆勤しますと、半期間に六日の休暇をくれましたので、やっとそれを入れて月に三回の休みになります。厳しいもんです。
土屋 社長が経営なさるようになってから、その点はずっと改善なすったわけでしょうね。
杉本 少なくとも三越さんなみにはしました。私がきました時はそれよりもさらに後れていたんです。後れていたというか、手厳しかったというか。
土屋 店員が病気でもしました時は、御主人のほうではどういうふうなお取扱いをなすったのですか。
杉本 前にも申し上げましたように、当時の病気といいますと、長期の療養を要する胸の病気でした。その場合には、だいたい昔は親元へ帰したようでしたね。
 私のまいりましてからも、結核は多かったですね。よく病院へ入れてました。
 その他のちょっとした病気というのはあったんでしょうが、あまり店員がどこかで寝ているなんていう姿は見ませんでしたね。昔の人は辛抱強かったんですかな。
土屋 やっぱり風邪をひいたりということもあったでしょう。
杉本 多少そんなことはあったでしょう。なんかしらんが、やっぱり当時は二四時間勤務ですから、二階のどこかに寝ていたんでしょうな。でもあまりそんな風景は見ませんでしたね。それでも病院へはちょいちょい入れていました。というのは、だいたい結核が多かったようですが。

 

 

(8)佐原商人仲間との関係
 

土屋 次に、佐原商人仲間とお店とのいろいろな関係について伺いたいのです。
 「口上書」というものによると、一七五一年から一七六三年の宝暦年中に商人仲間というものができたということなんです。また、宝暦七年(一七五七)の「仲間帳」、これは「小間物・太物・荒物仲間帳」といって、この中に御先祖の奈良屋新右衛門を含めて四二名が出ているというわけです。それで、明治二四年までの間に五〇名を越えたことはないだろうということです。
 この佐原の商人仲間の性格というものは、いわゆる「株仲間」であって、その株をもった人だけが商売ができるという、つまり江戸時代にあったアウトサイダーを許さないという「株仲間」であったわけでしょうか。
杉本 それはこれ(社史『奈良屋弐百廿年』)にも全然触れてないのです。
土屋 記録には「株仲間」としての規約はありませんか。
杉本 今までのところでは、はっきりと「株仲間」として書かれているものがないのです。一応機能としては仲間的、組合的要素を持っておりますが、それが公認されていたかどうかということはわかりません。
土屋 佐原は天領ですね。
杉本 そうです。この辺りはかなり天領が多いと思います。
前田 佐原は旗本の知行地として支配されていたこともあるようです。
土屋 ある時代には天領、ある時代には旗本領というわけですね。
 それは別として、社長が『奈良屋弐百廿年』という御家の歴史あるいは社史をお書きになる時にご覧になった資料の中にも、この商人仲間が「株仲間」であったのかどうかということは書いてありませんでしたか。
杉本 なかったです。そういったことの附合についても僕らの子供の頃にはあまり聞かなかったな。
土屋 月行事をどうしたとか、歳行事をどうしたとかということは全然ありませんか。
杉本 そういう「組」については、全然お附合はなかったようです。よほど最近まであったものなら、盆・暮の贈答とかなんとかっていうことがあると思うんですが、それが全然ない。しかし、明治の中頃までは続いていた訳ですね。
前田 はい。それで結局最後に商人仲間のいろいろな文書類が奈良屋さんのところに残されたわけです。
土屋 これは太物とか、小間物とか、いろいろな商売が一緒になってできているものですね。
杉本 そうでしょう。きっと今の豪商というとおかしいが、いわゆるがっちりした商人(あきうど)さん、お米屋さんもあれば、呉服屋さんもあり、肥料屋さんもあるといった、そのような人でもって作っているのではないですか。どうもそういう感じです。あの町は割合商人(あきうど)さんの強い町ですからね。そういう土地のしっかりした商人(あきうど)さんなんかでそういうものを作っていたと思われます。そしてなにかの冥加金を仰せ付けられた場合はそれで出していたということなんじゃないですか。あるいは、水が出た場合に、救恤金のうちのこれくらいだそうといったようなことではないでしょうか。
土屋 そうしますと、この組合は地元の商人の人達が多いわけなんでしょうね。でも奈良屋さんの場合は京からきていらっしゃるわけですね。
杉本 私共の場合は古いですから、もう土地の人と同じ扱いを受けていたようでしたな。
 

(9)資本蓄積とその運用方法
 

土屋 百貨店時代に入ってお伺いする前に、ちょっとなお伺いしたいことがあるのです。
 その一つは、昨年の夏に京都の御本宅をお尋ねしまして、御子息さんからいろいろ資料をみせていただきました中に、お宅さんの何代か前の方がいろいろの書画等について書きとめられたものがございましたね。
杉本 「蔵帳」と称するものですね。
土屋 あれを拝見しますと、非常に立派なものをたくさんお求めになっておられたわけで、相当の資産を持っておられたということがあれでわかるのです。つまり、資本の蓄積は千葉県の佐原を中心に商売をなすって相当利潤をえ、これを蓄積されたということがわかりますが、奈良屋さんの御先祖のもっとも資産の多い時はどのくらいと言われていたのですか。
杉本 やっぱり明治時代の“百万長者”ということになっていたようでしたね。
土屋 なにか明治時代の長者番付にのっておられたということですが。
杉本 ええ。日銀が持っている明治一七年の番付にはのっておりましたね。
土屋 つまりこちらの御商売が相当儲かったということになるわけですね。
杉本 そういうことです。言葉が悪いけれど、長い間かかって千葉県から吸い上げましたからね。
土屋 しかし、千葉県に随分サービスもなすったわけでしょうね。
杉本 さきほどのお話ではないけれど、それはいろいろなことでサービスもしているんですが、しかし、京都へ随分長い間、いわゆる“登せ”てもいますね。
 今のお話の書画骨董の類なんですが、それは商人(あきうど)のことですから、あまり馬鹿げた金を書画骨董類に費やすということは、家憲でしてはならないことになっていたようです。諸事倹約のことという鉄則がありますからね。ただ、みてますと、形(かた)(抵当)に持ってきたものがあるんです。金を貸してくれといったような、例えば京都の御公卿さんだとか、御公卿さんに出入りしている用人なんかがお使いして、金がいるというのでその形(かた)に置いていったものに割合とんでもないものがあるんですね。さすがに天皇様の御真筆はないけれども、それに近いところのものがあったり、その他探幽(狩野)だとか、応挙(円山)だとかというのもありますが、これらは買ったものもありますけれど、やはりそういうどこかの御所の御出入りとかなんとかいう人が金を借りるお使いに持ってきたものが多いようです。形に置いていったものはどうせ返しっこないんだから、そのままうちのものになってしまったようです。
土屋 文晁(谷)も竹田(田能村)もありましたね。
杉本 はい。それぞれあります。
 それから、先々代の六代目が勘定役を勤めておりました関係で、西本願寺の整理をやりました時に、売立てを西本願寺がやったんですが、その時に西本願寺の所蔵品にいいものの一部分をうちへ入札で落としています。御承知のように、西本願寺はああいう由緒のある寺ですからいいものがあった。そこからそこから入ってきたものもありますね。
 それと六代目が非常にああいうものが好きだったんですね。そんなにむやみな高い金は出さなかったけれども、好きで出入りの道具屋から買ったりなんかしたものが、今になるとたいへんなものになっているというのもあります。
土屋 やっぱり六代目の方、御先祖の時にお求めになったものが相当多いですか。
杉本 それもあると思います。しかし、今申し上げたように、それ以前に形にとったもので割合いいものがあるんです。形にとったんだと思うんです。その中に入っている書付をみますとね。
 それとよく京都の美術博物館からなんか、今度は「文晁展」をやるんだとか、いや「応挙展」をやるんだとかいって、うちになんでもいいものがあるそうだからというので借りにくるんです。うちの先代、七代目は人にみせることは嫌いでして、そういう財を誇るようなことはいやだといって出さないんですよ。それだけに一層世間では、杉本さんのお蔵の中には品物が初(うぶ)だと、いくらいくらで高いから他所に売ったり買ったりという品物ではないんだという、好きで深く蔵しておられるものだといって、実際以上にいいものがあるように思っているわけです。案外そうでもないんですが、深く蔵しているもんだから実際以上にいいものがあるように、また所蔵品でも実際他所にみせていない品物だから、たまに親父のみせて貰った人が吹聴するんだな。博物館なんかに行ったってあれだけのものはないとかなんとかいいましてね。
 そういったようなことでいよいよ逸品があるかのように思われていたんですが、これも本当の逸品はもうないです。というのは、これは私が売ったんだから知っているんです。前に申し上げましたように、京都の宇治で「松北園」という名の製茶業を傍系会社としてやらせているんですが、これがあることで破綻をきたしまして、私共の分家、中杉本の先代がその経営に当たっていた関係から、私のところで助けてやらなければならなくなったんです。その時に家族会議をやって、蔵のものをもっていればまたそれもいいけれど、別に利子が付くわけではなし、ではそれを売って整理しようではないかというわけで、大阪の美術倶楽部を借りまして売立をやったんです。当時で三〇万円ほどの金ですが、今で言うと三億くらいの金になりましょうか。それも「某家御所蔵品」ということで、その売立の目録写真は今でも残っています。その時にいいものは持ちだしました。それでだいたい予想以上の入札ができまして、今の「松北園」という製茶業を助けることができたんですが、これはお蔭で立派に更生しました。その時にだいぶ逸品は人手に渡り、私共の京都の宅に蔵が四つあったんですが、そのうちの蔵一つが空っぽになったので潰しました。東蔵、中蔵、大蔵、角蔵とあったそのうちの東蔵というのを一つ潰したんです。
土屋 おしいことですね。
杉本 おしいですが、それで一つの事業が立派に生返って、更生しておりますからよかったと思っております。
 そんなことをやりましてから急にまた書画骨董の目が肥えて、それから好きになってしまいました。売ってしまうと好きになるもんですよ。(笑い)
土屋 そのように相当の資産を江戸時代にすでにお持ちになったんですが、その金というものは、今のような銀行がないわけですし、どういうふうに保管をなすったんですか。何万両というようなお金でしょうかれども、両替商にでもお預けになったんですか。
杉本 それはやはり現金で蓄えていたんではないでしょうか。もうありませんが、昔蔵の一つの地下室みたいな所から、縄で綴じた一文銭がたくさん出てきました。当時一文銭なんかもうどうにもならなかったんでしょうが、そういうことから考えますと、やはり当時は現金で蓄えていたんではないでしょうか。ですから、蔵だって随分がんじょうな蔵ですし、仏間の下には立派な地下室がありますね。昔の漆喰で固めて、天井は畳くらいの大きさの御影石三枚でたたんであります。
土屋 そういう所へ保管なすったんですかね。
杉本 と思います。
 しかし、丁度明治の御維新、あの頃は非常に大きな変動期ですが、あの後に日本銀行だとか、第一銀行だとか、勧業銀行なんてできましたが、みんなうちは大株主でした。その株は今ではもうありませんが、みんなそういうものに代えたんですね。
 それと同時に、西本願寺と同じように明治の御維新の時には、幕府へつくか、京都の御所につくかということで、やっぱり相当あの頃はむづかしかったらしいですね。あんまり旗色を鮮明にしていいやら悪いやらでね。だいたい本願寺はどちらかというと割合徳川さんの方に縁があったのではないですか。そんな関係であの頃の去就は非常にむづかしかったようです。これはもちろん御所のほうにつくんだということで、やっぱりあの頃は鳥羽・伏見の戦いの頃から相当献金しているんじゃないですか。
土屋 そういう書状とか受領書みたいなものはありませんか。
杉本 全然ありません。
 本願寺もあの頃は確か薩長軍から睨まれたはずです。火をつけて燃やしちゃえなんていうことまでいわれたんです。というのは、石山合戦、これは信長時代ですが、門徒と信長は必ずしも良くなかったんですけれど、徳川家康なんかとは門徒は割合濃かったんです。そんなことからあの時代の東本願寺なり、西本願寺なり、またそれに連なる門徒、うちは御直門徒だったんだが、それらの去就というのは相当むづかしかったらしいな。だから、あの時に相当官軍、あるいは本山を通じて官軍へ献金していますね。
土屋 そうでしょうね。そういうことについて、お宅さんの何代か前のお方が日記にでもお書きになったものはありませんか。
杉本 あるといいんですが、ありません。
前田 今の先生の御質問に関連して伺いしたいのです。京都に登せたお金は、そういう書画骨董類といったようなものにかえていくという形が一つの蓄積の仕方としてありますが、その他土地ですとかそういった方面にはありませんでしょうか。
杉本 土地もありました。これは西山に大きな土地を持っておりましたが、戦争中にいわゆる不在地主の問題が喧しくなった時に処分してしまいました。これも本山の関係の西山別院というのがあるのですが、それに続いた土地でした。
土屋 相当広いものでしたか。
杉本 はい。といっても知れていますが、五町歩だったかな。
 それともう一つ京都の西の御室(おむろ)という所にあります。双ヶ岡の麓で、仁和寺があるところです。これは三町歩ぐらいのお茶園でした。
土屋 それはいつ頃手に入れられたものですか。
杉本 もちろん僕たち生まれる前ですが、明治の初年じゃないでしょうか。明治の初年の変動期でしょうな。たびたびのなんだかいつ兵乱の巷になるやらわからんという時代にきっと安く買ったんじゃないでしょうか。
 今申し上げた京都の西山のほうは、だいたいお米のとれる田地でしたが、御室のほうは茶園でした。
 みんなそういう所へ投資していたと思います。
前田 佐原なんかの場合には、佐原の店から出すというふうに決められていたようですね。
杉本 だいたいそのようです。独立採算制というか、佐原には佐原の利益の一部が留保してあるはずですから、佐原の店のことはそれで賄えということです。
前田 その佐原のお店では、前にお話をお聞きいたしましたが、為替業をなさっておられたのですか。
杉本 これも決まった古文書がないんですが、いつか申しましたように、三菱銀行さんが佐原へ支店を出す前までは、うちが為替の役をやっていたというんですね。
前田 三菱銀行佐原支店は川崎第百銀行年佐原支店(注・明治一三年・川崎銀行佐原出張所、明治三一年・川崎銀行佐原支店、昭和二年・川崎第百銀行佐原支店)を継承しているのですが。
杉本 そうしますと、川崎銀行の前まででしょう。
 佐原には米問屋がたくさんありますが、この人達は東京の兜町か日本橋界隈に米を売るわけです。一方私共は日本橋か堀留の問屋さんからいろいろ仕入れるわけです。一方は東京から金を貰い、われわれは東京へ金を払うというわけで、その為替を奈良屋が組んでくれということから、その役を奈良屋でやっていたようです。直接うちが東京の問屋さんへ払わないで、佐原の米屋へうちが払ってやるというような勘定です。なんでも銀行が初めて佐原にできた時に、今まで私のところで為替を組んでやっていたものですから、「おい、だいじょうぶか」といって、うちへ問合わせがあったという話は聞いております。よく銀行よりもうちは信用があったといって、店の者が威張っていました。それは頷かれますわね。なにしろうちは何百年やっているんだから。(笑い)
土屋 それに関連してちょっと疑問が起こったんですが、お宅さんは百貨店以前は佐原、佐倉、千葉にお店をもっていらっしゃったわけですけれど、その時に銀行との関係というものはやはりありましたか。
杉本 銀行から金を借りるということは大きな罪悪みたいに思ってましたね。また、そんなにしなくても、なにしろ現金売りが主ですから、金がゆうに廻ったということなんでしょう。本当に借金はほとんどありませんでした。
土屋 銀行へ預金はなすったわけでしょうね。
杉本 それは銀行へ預けました。
土屋 佐原、佐倉、千葉ともそれぞれ銀行へ売り上げは預金されたわけですか。
杉本 つまり、儲がたくさんなければならないわけですね。金利をみなければならないわけですからね。
土屋 金利と、それから掛倒れがいくらかあるわけでしょう。
杉本 現送ということはありませんでした。銀行ができてからは銀行へ預けておりました。
土屋 佐原ではどこの銀行に預けていらっしゃいましたか。
杉本 最初は萩原甲太郎のやっていた三協銀行でしょう。
 それから千葉はもう川崎銀行も本町のところにありました。千葉は川崎銀行でした。
 佐倉もやっぱり川崎です。佐倉は川崎銀行と隣同士でしたからね。
土屋 そうしますと、銀行へ預金はお入れにはなるけれども、営業資金は別に銀行から借りるようなことはなさらなかったわけですね。つまり、預金を引出してそれで運転資金を賄っていたわけですね。
杉本 はい。ゆとりがあるといえばゆとりがあったし、幼稚といえば幼稚な話ですが、だいたい自分の資金で賄っていたようです。
 それでいつかも申し上げましたように、私がやるようになりましてから、千葉の店ですが、もうこんな店では駄目だから、もっと近代的な店舗にしなければならんといって金がいると言ったら、親父は金を出さなかったです。店でその金を賄えといってね。それではしかたがないから、担保を貸してくれといって、日本銀行とか第一銀行の株を親父から借りまして、それをこちらに持ってきて銀行に担保に入れて店として金を借りたんです。
 本家は堅いですよ。株は担保に貸したっては配当は本家へ入りますし、それからどうかするとその担保の借料を出すんです。拝借料ですね。いいですよねえ。(笑い)
土屋 しかし、百貨店を経営なさるようになってからは銀行との密接な関係ができましたのでしょうね。
杉本 むしろ、銀行の金で拡張したようなものです。
 今のお話に関連して、千葉の店は今こんないい場所になっておりますが、これは昭和一〇年だと記憶しますけれど、ここに「梅松別荘」という大きな料理屋の宴会場があったんです。これは千葉の蓮池の歴史にものっておりますが、三輪という人の経営で、それがたまたま全部ではないけれど、そのうちの一部分、四〇〇坪が売りにでたんです。その上に立派な宴会場がありまして、それを買ったんです。あの頃で一一六円五〇銭だから四〇〇坪で五万円ほどです。それが最近拡張するのに隣接地を坪二〇〇万円以上で買っていますね。そうしますと、坪一〇〇円ちょっとで買ったのは昭和一〇年ですから、結局この間三〇年ほどの間に、約二万倍です。世の中変わったもんです。
前田 それから昭和六年、株式会社にされる以前に、合資とか合名とかの会社形態をとったというようなことはありませんでしょうか。
杉本 それは似たような形に申し合わせでやっていたことはありましたが、法的なものではなかったです。
前田 明治四四年に本店より出された「改定要項」というものによれば、営業資本金を一五万円に定めるというようなことが決められておりますね。
杉本 同族の申し合わせでそういう形をとったことはあったようでしたが、それは結局申し合わせだけで履行されなかったんではないですか。
土屋 要するに合名でも、合資でも、なんでもないわけですね。
杉本 ええ。一足飛びに株式会社になったんです。昔はなんかそういう私で作った合名会社みたいな形式を一応とったこともありますが、結局それはその通りにはできなかったんではないでしょうか。

 

[『千葉県商業史談』第一集「杉本郁太郎氏商業回顧談」1967年9月30日
(千葉敬愛経済大学経済研究所)より 「第Ⅱ章 第二節 (6)~(9)」]
 


 今回は、ここまでとさせていただきます。不定期連載でございますが、次回の「杉本郁太郎かく語りき」(その7)は「第Ⅲ章:百貨店奈良屋の歩み」に入ります。いよいよ、現代に近づいてまいります。是非ともお楽しみにされてください。因みに、次回を含め残り3回(「その9」が最終回)で本資料のご紹介の方は終了となります。今暫しお付き合いのほどをお願い申し上げます。

 

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