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更新日:2024年2月16日

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館長メッセージ 令和4年度 その1

 目次

 

 

 

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令和2年度の館長メッセージは →こちらへ

 

 令和4年度の千葉市立郷土博物館 ―本年度も天野が館長を勤めさせていただきます―
―令和8年度『千葉開府900年』に向けての諸事業を推進して参ります―

4月1日(金曜日)

 

 

 昨年度から引き続き、本年度も館長の任を勤めることとなりました天野良介と申します。令和2年度に館長職を仰せつかってから、今年度で3年目に入らせていただくことになりました。昨年度最後の本稿でも申し上げましたとおり、過去からの懸案事項、この2年間の勤務で気づかされたこと、そして将来への見通し明確にし、それらの具現化・改善に向けて、本年度における本館の運営に邁進して参る所存でございます。令和4年度も何卒よろしくお願い申し上げます。

 去る3月21 日をもって本県でも「蔓延防止等重点措置」が全面的に解除されましたが、「コロナ禍」は決して終息したわけではありません。実際のところ、毎日少なからぬ数の新規罹患者と感染による死者とが報道されているのが現実であります。一方で経済を回さねばならないこともあるなど、現代社会における感染症対策に対する舵取りの難しさを改めて実感するところであります。従って、「蔓防」解除をもって全てを「コロナ禍」前にリセットできるかと申せば、それが不可能であることは明々白々でございましょう。特に、本館のような公共施設では、今後も「コロナ禍」の状況を勘案し乍ら、公共サービス提供と感染症拡大防止を両天秤に掛けながら、適宜処方箋を書き換えながらの対応を続けて参らなければならないと考えております。勿論、来館される皆様のご協力こそが肝要とはなりますが、不特定多数の方々が出入りする公共施設であるからこそクラスター発生源とならぬよう、今後ともお客様は勿論のこと、本館でご活動いただいているボランティアの皆様にも御協力いただかなければならないことを、御承知おきいただけましたら幸いです。今後のコロナ禍の状況が好転することを祈るのみでございますが、何時も申し挙げますように、大凡100年前における「スペイン風邪」終息にも長い月日を要しているのですから、人の交流がこれほど広範に行われる現代社会で、更なる年月を要することを覚悟せねばなりません。決して「解除=全て元通り」などというイージーゴーイングが許されるはずも御座いません。そのことは、誰もが御理解いただけるものと確信しております。我々が未曾有の事態に直面していることを忘れてはなりません。

 さて、そうは言いながらも季節は廻り、植樹から百年近くの歳月が経過し衰えたりとは言いながらも、猪鼻山の桜花もこれから盛りを迎えることとなりそうです。そして、それに祝福されるように千葉市立郷土博物館の新年度も幕を開けることとなりました。昨年度は、大正10年(1921)1月1日に千葉町が「千葉市」に衣替えして新たなスタートを切ってから100年目という記念すべき年度でございましたが、本年度は平成4年(1992)4月1日全国で12番目の指令指定都市となり6つの行政区を設置してから30年目という記念年度となります。しかし、郷土博物館と致しましては、「千葉開府900年に向けたロードマップ」に則り、令和8年(2026)度に迎える「千葉開府900年」に照準を合せて参ります。従って、当該年度までを「プレ年度」と位置づけ、毎年開催される特別展・企画展では、その内の1回を「千葉氏」、若しくは千葉氏との強い関係性を有する「中世」の内容に焦点を当ててまいります。つまり、「市制施行100周年」に関する「近現代」を題材とする過去2年の展示会から転じ、本年度につきましては「中世」に関する内容を中核に据えて特別展とし、別に「近世~近代」に関する内容を企画展とする、いわば“2本立”での展示会開催を致す所存でございます。併せて、関連事業も粛々と進めて参ります。

 まずは、その特別展ですが、今年度は千葉市域を舞台とした「中世(戦国期)」に焦点を当てます。具体的な内容は、ざっくり申し上げれば「小弓公方足利義明とその時代」ということになります。勿論、足利義明を紹介することだけが目的ではありません。足利義明という人物の動向を探ることを通じて、戦国時代における千葉市域の置かれていた政治状況、とりわけ当地の支配者であった千葉氏との関係性を把握できるようにしたいと考えます。更に、宗教・文化等を担った当時の幅広い人々の交流する地域の姿にも目配りを出来ればとも目論んでおります。つまり、当該時代のパースペクティブの中に千葉市域の「時代像」を描き出すことを目的としております。残された史料は決して多くはございませんが、政治的な状況は勿論のこと、広く同時代の社会・文化・宗教の在り方を見逃すことなく掬い採ることができれば、千葉市域における「中世(戦国期)」をより重層的に把握していただけるものと考えておりますし、併せて当時の千葉氏の置かれていた状況にも迫ることができるものと存じます。

 因みに、千葉市の歴史には左程に興味関心を惹かれない方、乃至は戦国フリークを自認される以外の方にとっては、「小弓公方って何?」「足利義明って一体誰?」「千葉市、千葉氏と何か関係あるの?」といった疑問を抱かれましょう。無理もありません。足利義明は高等学校の日本史教科書にすら載っていない人物でありますから。しかし、“足利”を名乗っていることからも明らかなように、室町幕府政権を打ち立てた足利尊氏後裔に連なる極めて貴種性の高い人物でございます。ここで、皆様に特別展に脚を運んでいただくためにも、当該人物について少々のご紹介をさせていただきたいと存じます。若干なりともご興味をお持ちいただけますれば、少しは出かけてみようかな……との思いを抱いていただけるかもしれませんから。皆様は、足利氏が京都に幕府を開いた時代(室町時代)、関東支配のため鎌倉に出張所的機関が置かれていたことを学んだ記憶がございましょう。それが「鎌倉府」であり、その長は初代征夷大将軍足利尊氏の後裔が引き継ぎ「鎌倉(関東)公方」を称しました。そして、その補佐役として置かれたのが「関東管領」であり、代々上杉氏がその地位を世襲しました(後に上杉氏は幾つかの家系に分れ山内上杉氏と扇谷上杉氏が有力となります)。ところが、鎌倉公方は次第に自立化の傾向を強めるようになり、室町将軍と対立するようになります。そのことは取りも直さず、幕府の意向を汲んで鎌倉公方を補佐する立場にあった上杉氏と、鎌倉公方との対立に直結していきました。

 その結果、関東では両者を対立軸とする大規模な戦乱が勃発することになります。これが「享徳の乱」に他なりません(本戦乱の名付け親は中世史研究者の峰岸純夫先生であり、かつてお会いした際、今では高校教科書にも掲載されるまでに周知されたことをお喜びでありました)。こうした中で、室町将軍に反旗を翻した鎌倉公方足利持氏は、室町将軍足利義教によって討たれます。しかし、持氏の子である成氏は、鎌倉を離れて下総の古河を拠点とし、その権威と勢力を維持しながら、上杉氏(幕府側)との対立を続けることになります(「古河公方」)。つまり、関東は「応仁・文明の乱」に10年以上も先立って戦乱の巷と化したのでした。しかし、古河公方家中も一枚岩ではなく、その主導権を巡って一族内の対立が生じます。それが成氏の孫で古河公方となる足利高基と、その弟で僧籍にあった空念(“こうねん”と訓ずる後の足利義明です)との対立に他なりませんでした。

 一方、古河公方足利氏と関東管領上杉氏の対立は、関東における有力武士一族内の対立や、混乱に乗じて勢力を伸ばそうとする新興武士の勃興をも促します。それは、千葉一族内でも、房総の地の勢力分布図においても例外ではありませんでした。即ち、千葉一族内での内部対立構造が、この古河公方と関東管領との対立にリンクして展開することになることになったのです。つまり、関東管領(室町幕府)支援勢力である千葉介本宗家と、古河公方の与力となる庶家とが衝突。その結果、庶家の馬加氏・原氏の連合軍に攻められた千葉介胤直は討たれ、本宗家は庶家にその地位を簒奪されることになりました(彼らは後に本佐倉城を築いて本拠を千葉から移すことになります)。また、房総の地では、上総武田氏・安房里見氏等の新興勢力が勃興し、下総における伝統的支配者としての千葉氏と対立関係となります。両者の攻防は一進一退でしたが、ついに上総武田氏は千葉氏領国に攻め込み、現在の千葉市南部にあった千葉氏重臣原氏の居城である小弓城を落城させます。そして、上総武田氏は起死回生の一手を打ちます。それが、対立関係にある古河公方家の一方を自らの旗頭として担ぐことで、劣勢の挽回を図ろうとすることでした。その人物こそが、古河公方足利高基と対立する弟の義明であり、奪った小弓城に彼を招き入れ本拠としたのです。その求心力は絶大なものでした。ここに、関東において古河公方と並び立つ、もう一つの政治権力の中心軸となる「小弓公方」が成立することになりました。

 特別展では、こうした「小弓公方」の成立と動向、及び滅亡に到るまでの過程について、千葉氏の動向と重ね合わせながら丁寧に読み解いて参ります。そして、その存在を千葉県内における戦国期の一動向として把握することに留まらず、関東における戦国時代にもたらした大きな意義について探り、明らかにいたします。つまり、「足利義明」が本拠とした千葉市域が、戦国の世における「台風の目」に位置づき、関東戦国時代を大きく揺るがす震源域ともなったことを御理解いただける展示とすべく目論むところでございます。千葉氏を理解するためには、戦国半ばに位置づく足利義明の動向との関係性は不可欠の要素であります。しかも、小弓公方の動向とその舞台である千葉市域が、如何なる意味においてその時代に重要な位置を占めたのかについて、是非ともご来館いただきご確認していただければと存じあげます。市民の皆様にもほとんど知られていない、小弓公方足利義明を通じて、千葉市域、房総半島、いや少なくとも関東戦国時代を広い視野から俯瞰していただく機会としたいと思います。そもそも、足利義明に関する特別展の開催は国内初となります。皆様、是非ともご期待ください。

 次に、開催時期は前後いたしますが、「近世~近現代」を題材とする企画展につきまして。タイトルは仮称の段階ではありますが、現段階で「甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のサツマイモ-」としております。サツマイモと言えば青木昆陽、青木昆陽と言えば幕張、幕張と言えばサツマイモ栽培発祥の地……と、連想が連なっていくほどに、千葉市と青木昆陽とは切っても切れない縁で結ばれているのではありますまいか。「千葉市で有名な歴史上の人物」を問われれば、必ずや三本の指にはランクインすることでございましょう。あまつさえ、幕張には「昆陽神社」があって、昆陽は「芋神さま」として祀られる存在でもございます。教科書的知識として周知されているのは、「江戸幕府8代将軍徳川吉宗が、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていたサツマイモ栽培を青木昆陽に命じた」こと。「その試作地となったのが小石川薬園、下総国千葉郡馬加村(幕張)、上総国山辺郡不動堂村(九十九里町)の三カ所である」こと。その結果「享保の大飢饉以降に関東地方でサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救った」こと等でございましょうか。更に詳しい方は、享保20年(1735)には『蕃薯考』(ばんしょこう)なる薩摩芋栽培法の研究書を著したことをご存知でもございましょう。

 しかし、実際のところ、昆陽という人物について、それ以外の何を知っているのかと問われれば、当方もたちまち口を噤まねばならなくなります。そもそも、青木昆陽とは一体何者かと調べると「蘭学者」とあり、てっきり宮崎安貞のような農業技術者だと思っていた当方としては意外の感に打たれました(「解体新書」で知られる前野良沢は最晩年の弟子の一人とのことです)。更に「書物奉行」として関東甲信越の幕府領における古文書調査を行ったとも。どうにも、人物像が焦点を結ぶことがありません。更には、もう少し調べてみると、何と言うことでございましょうか!!サツマイモ試作地である幕張の地にも極々短期間しか足を踏み入れてはいないようです。地元民にも殆ど印象を残していないと思われる昆陽が、何故「神」として祀られるまでに至ったのでしょうか??何時、誰が、何のために……??現在、サツマイモ生産量として、鹿児島県・茨城県に次ぐ国内第三位に位置付く千葉県ですが、それほどまでにサツマイモ生産が盛んになるのは何時からなのか??かつて市内にも多く存在した「サツマイモ澱粉工場」で造られた澱粉は如何に活用されたのか[かつて本千葉駅(現在京成電鉄の千葉中央駅)線路脇に存在した参松工業での水飴等の生産とも関係しましょう]??最近までJR稲毛駅近くの総武線路脇に存在した薩摩芋原料によるアルコール工場の起源は??……等々、次から次へとハテナマークが浮かんで参ります。つまりは、千葉市でも誰でも知られる人物のわりに、その実像も、サツマイモの成り行きについても、不透明なことだらけあります。しかし、千葉市の薩摩芋の出発点に青木昆陽が位置付いていることは確かであり、そこから如何なる過程をへて国内生産第3位の場にまで辿り着いたものなのか。それを「甘藷先生の置き土産」として跡づけてみようとする試みこそが、本年度開催の企画展の趣旨 に他なりません。未定ではございますが、江戸時代に食されていたサツマイモ料理なども昆陽らの著した著作のレシピを基に紹介できたらと考えるところですが果たして如何??知っているようで殆どその実態を知らない郷土の有名人を深く理解し、千葉のサツマイモの歩みを明らかにする企画展を是非ともお楽しみにしていてください。

 併せて、例年の如く千葉氏関連のパネル展を本年度も開催をいたします。こちらにつきましては、予て皆様さまにご案内をさせていただいておりますように、現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(脚本:三谷幸喜)と関連付けた内容となります。すなわち、千葉常胤に限ることなく、常胤と同時人として活動し、おそらく面識も交流もあったであろう坂東の御家人を紹介することを目的として開催をいたします。大河ドラマ放送が開始された、昨年度末となる本年当初の『千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)』続編として、6月末より『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』を開催いたします。取り上げる御家人は7名。武蔵国から畠山重忠・比企能員、上野国から新田義重、下野国から足利義兼・小山政光・宇都宮朝綱、常陸国から八田知家となります。併せて、オマケとしまして「千葉常胤をめぐる女性たち」項目を別にたて、常胤の母・室・息女について伝承の世界も含めてご紹介をさせていただきます。今回は、パネル展開催とオンタイムでブックレット刊行も可能とすべく準備を進めておりますので、こちらもお楽しみにされていてください。

 最後に、令和8年度「千葉開府900年」を目指し、本館展示内容をより良いものに改めるための検討を今年度から進めて参ります。皆様に、これまで以上に「千葉氏」についての理解を深めていただくために、従来の展示内容は不十分なものであり、その改善については何年も前から附属機関からの指摘を受け続けております。千葉氏の理解を深めるためには「中世展示」の在り方を大きく変えることが求められると同時に、千葉氏の勃興から滅亡、その前後の千葉市域の歩みを掴むことのできる展示とすることが求められます。そのことで、歴史の流れの中で千葉氏の果たした位置づけが明確に理解できるものと考えております。千葉氏だけを幾ら詳細にご紹介しても、千葉一族のもった意義の大きさを正しく理解することはできません。つまり通史展示の実現が不可欠なのです。その端緒となる一年としたいと考えております。

 以上、本年度の本館の事業につきまして、特別展をはじめとする展示会概要等を申し述べさせていただきました。そのほかにも、例年行っております市民講座、小中学生等を対象とする教育普及活動等々を着実に推進して参ります。今後も、公共機関としての本務を忘れることなく事業を推進して参りたいと考えております。本年度の千葉市立郷土博物館の活動につきまして、是非ともご支援を賜りますことをお願いいたしまして、年度当初のご挨拶とさせていただきます。本年度も何卒宜しくお願いいたします。

 

 

 

【令和4年度開催 特別展・企画展等 テーマ・会期(予定)】

 

 

(1)パネル展[会期:令和4年5月19日(木曜日)~令和4年7月12日(火曜日)]

『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』

(2)企 画 展[会期:令和4年8月30日(火曜日)~令和4年10月16日(日曜日)]

 

『甘藷先生の置き土産 -青木昆陽と千葉のさつまいも(仮称)』

(3)特 別 展[会期:令和4年10月18日(火曜日)~令和3年12月11日(日曜日)]

『戦国期千葉氏と周辺勢力 -小弓公方足利義明とその時代(仮称)』

 

 

 

 NHK主催「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』展」または千葉常胤を演じる岡本信人さんのこと ―令和4年4月23日(土曜日)~同年5月15日(日曜日)の会期にて本館1階展示室を会場に開催!!―

4月8日(金曜日)
つくばねの 高嶺のみゆき 霞みつつ

隅田河原に 春たちにけり
(村田春海『琴後集』より)
 

 

 新年度の二回目となる今回は、余り知られていないと思われる江戸時代を生きた歌人の詠歌から幕開けとさせていただきました。本来であれば、地元千葉町の作者の歌でもあれば宜しいのですが、管見の及ぶ範囲で見つけることが叶いませんでした。そこで、せめて坂東の地の歌人の作品を……との想いから、この度はお江戸日本橋小舟町の住人である村田春海(むらたはるみ)(1746~1811)のご出座を仰いだ次第でございます。もっとも、彼が我ら千葉と満更無縁というわけでもございません。何故ならば、彼はその地で干鰯問屋「村田屋」を営む豪商の御曹司であり(次男坊)、江戸に出回る干鰯の多くは房州からの産品となりますから、房総とは深い関わりのある人物ということになりましょう。しかも、村田家の本姓は「平」であり、千葉氏支流を称しております。そして、出自は上総国にあるとしているのです。本館外山研究員に確認をしたところ、千葉六党の一流である国分氏の庶流に村田氏があるとのことです。もしやして、その後裔の可能性がございましょう。

 皆様が春海の名を耳にされたことがあるとするならば、それは専ら国学者としての知名度に拠りましょう。国学の泰斗、かの賀茂真淵の門人でもありますが、同時に歌人としても広く知られる存在でもあったのです。歌集に『琴後集(ことじりしゅう)』があり、標記詠歌もそちらからの引用であります。彼は、請われて家業を継ぎますが、遊蕩三昧の挙句に家産を蕩尽して零落。晩年には“白河楽翁”松平定信から僅かな扶持を支給されて糊口を凌いだと言われます。本作は和歌としての出来映えを一先ず脇に置くとしても、江戸の風物を歌に盛り込んだところが味噌と申せましょうか。王朝文学の王道とも目される“三十一文字”の世界では、近世に到っても詠みこまれる風物は、概して歌枕として定まった定型的な場所がほとんどであり、必ずしも“御当地色”との親和性には乏しいものでありました。しかし、江戸後期の急激な諸産業の発展に伴う、庶民階級の生活環境の向上と都市としての成熟が、そうした“月並み”路線を突き破る力として働くようになるのです。標記詠歌などは定めしその典型的事例に当たろうかと存じます。一読されれば、王朝風とは随分と異なる印象を抱かれましょう。如何にも“江戸っ子”風であります。しかも、どこかしら軽妙洒脱を旨とする「俳諧」の味わいすら漂わせてはおりますまいか。実は、この時代には漢詩を詠むことこそが知識人の証でもありました。しかし、その漢詩の世界ですら、江戸時代後期には一瞬の風景や出来事を十七文字に閉じ込めたかのような、あたかも「俳諧」の世界観と通底する作風が多く現れるようになります(近世漢詩の豊穣の世界は何れ機会があればご紹介させていただきたいものと存じます)。江戸時代後期の巨大都市「江戸」を初めとする都市的文化の在り様が色濃く映し出されたものと思われます。何せ、黄表紙・洒落本、川柳・狂歌が持て囃され、歌舞伎や落語が庶民の娯楽として全盛を極めご時世だったのですから、本来の王朝路線にもその影響が及んだのも自然の成り行きであったことでしょう。春海の作品も、古典的な歌の器に盛りつけられた、筑波嶺や隅田川という目新しい坂東風物の酒肴が、到って面白く新鮮に感じられませんでしょうか。もっとも、筑波山が雪で真白に覆われる姿はあまり現実的とは言いかねますが。

 さて、ようやく本題に移ります。前回の本稿で本年度の本館の展示会について御紹介をさせていただいたところですが、今回の一件については触れておりませんでした。つい3日ほど前にプレスリリースがなされましたので、ようやくこの場でもご紹介できる運びとなりました。そもそも、本展示会の主催者は標題に掲げましたようにNHKであり、千葉市は飽くまでもこれを後援する立場にあります。従いまして、前回の扱いとは切り離してご紹介をさせていただいたとの側面もございます。かような立ち位置の展示会でありますから、基本的に、展示内容と広報の一切合切はNHKが行うものとなります。本市における本展の推進役は主に“都市アイデンティティ推進課”にあり、本館も意見を求められる機会はあったものの展示内容に関与する立場にはございません。基本的に、飽くまでも会場を提供するという立ち位置でございます。表題のとおり、現在放映中であり、本市にも関わる重要人物である千葉常胤が登場する大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を千葉市としても応援することで、市民の皆様にその世界観を楽しんでいただくための“展示イベント”であることを御承知おきいただければと存じます。

 会場では、番組に出演する4人の俳優の等身大パネルが皆様をお迎えします(それが誰かは来場してのお楽しみということで)。ただし、残念ながら千葉常胤を演じる岡本信人さんのパネルの準備はされていないそうです。その代わりに、千葉市向けに、モニターを用いて番組PR映像と千葉常胤役の岡本信人さんのコメント映像を御用意していただけることとなりました。他に、番組で用いられた衣装・小道具の数々や場面写真の数々の展示を通してドラマの世界観を感じていただけるとのことです。現状で、我々が申し上げることができるのは、申し訳ございませんがこれくらいです。正直なところ、実際の展示がどのように仕上がるのかは、我々ですら詳細は皆目見当が付かない状態です。ただ、NHK担当者との打合せにより、会場内には、併せて本館で開催いたしました「千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)」パネルを展示することで、「大河ドラマ展」の世界を補完することとなりましたのでご承知おきください。大河ドラマを興味深くご覧になっていらっしゃる皆様のご来館をお待ち申し上げております。因みに、本展終了後、矢継ぎ早に5月19日(木曜日)よりパネル展「千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)」が開幕いたします。こちらは本館主催の展示会です。どうぞ、そちらへのご来館もお待ち申し上げております。展示内容につきましては、開催が近くなりましたら本稿でもご紹介をさせていただきます。

 大河ドラマ序でに、もう一つの話題を。それは、千葉常胤を演じていらっしゃる岡本信人さんについての内容となります。最初に確認をさせていただきますが、岡本さんは昭和23年(1948)のお生まれでありますので、現在75前後のご年齢にいらっしゃいます。その岡本さんが何故常胤役に抜擢されたのかを、過日脚本家三谷幸喜氏自身が言及された証言に接し、大変に興味深い内容でもございましたので、是非ともこの場で御紹介させていただきたいと考えた次第でございます。それは、朝日新聞(夕刊)に定期連載される「三谷幸喜のありふれた生活」3月17日(木曜日)掲載記事でありました。タイトルもズバリ「老武将・岡本信人の凄み」でございます。朝日新聞を購読されていても見落とされた方もありましょうし、まして他社新聞をお読みの方はさらなり。しかも、昨今は新聞自体を購読しない方も増えました。御紹介する価値は皆無ではございますまい。そこで、三谷氏は、本作品には高齢の坂東武者が多数登場するものの、「老いても血気盛んな強者」を演じられる俳優のキャスティングが意外と難しいことを指摘されております。「日向ぼっこが似合ってはいけない」「鎧が様になって欲しい」「元気であることが最重要」。しかし、「元気過ぎても困る」。そこで例示されているのが舘ひろしさんです。舘さんは間もなく72歳になられるそうですが「全くお爺さんのイメージはない」と書かれます。ムム!確かに!!……と妙に頷かされるものがございます。更にこうも付け加えておられます。「今回必要なのは枯れた感じの人」「それでいてパワフル」……と。確かに条件に相応しい俳優が誰かと問われても、誰しも直ぐには返答できますまい。

 斯様な時、三谷氏は「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」で、芸人さんたちとのソフトボール企画に登場されている岡本信人さんを“見つけた”と書かれております。そこで活躍する「岡本さんは元気そのもの」「何よりも強い目力を感じた」と。そして「同時にいい具合にお爺さん」。そして、下総の大豪族である千葉常胤は是非ともこの人に演じてほしいと、プロヂューサーにすぐに連絡をされたとのことです。岡本さんと言えば、自分自身の記憶で申せば、京塚昌子主演『肝っ玉かあさん』(1968年)で、主人公が女手一つで切り盛りする蕎麦屋「大正庵」の出前持を演じていたのが若き日の岡本さんでした。調子が良くてそそっかしい人物ですが、誰からも憎まれない明るく素直な好青年を演じておられました。また、バラエティ番組では、はかま光緒が司会者のNHK『脱線問答』(1978~1984)の解答者としての姿が印象的でした。本番組は“大喜利”の現代版を目論んで制作されたものと思われますが、司会者から「早いのが取り柄、岡本信人くん!」と“イの一番”に指名されるものの、いつも冴えない解答で場を和ませる剽軽者のキャラクターを見事に演じておられました。調べてみると、その他にも膨大な数のテレビドラマ・映画等々に御出演されておられ、数多の作品で「確かに見たことがある!!」と気づかされた次第でございます。NHK大河ドラマだけでも、今回の「鎌倉殿」で11作目の過去作品に御出演でいらっしゃいます。まさに日本を代表する“名バイプレイヤー”のお一人と申しても過言ではありますまい。最近では、「野草を食べる人」としてテレビでも引っ張り蛸であり、調べてみたところ関連著作を2冊上梓されておられます。まさに、SDG’sを地でいかれる方かとも拝察いたしております。

 三谷氏は当該記事で、岡本さんに抱いていたイメージは「ホームドラマでビールの配達にやって来る人といえば、大抵は岡本さんであった」「あれほど前掛けが似合う人はいない」と書かれております。その一方で、大河ドラマファンの三谷氏は、過去10作品に登場された岡本さんの忘れ難き姿として以下のようにも述べていらっしゃいます。ますは、大村益次郎を主人公とした『花神』(1977年)で金子重輔を演じた岡本さんについて。「吉田松陰と共に黒船に乗り込もうとした人。小さくてひ弱だが、思いだけは決して松蔭に負けない、そんな熱血青年を岡本さんは全力で演じられていた」と。また、勝者として生きた者(薩摩)と敗者として生きた人物(會津)とを対照して明治を描いた『獅子の時代』(1980年)で、「一転して姑息な官僚役」を演じた姿も忘れられないとも。その前年に放映された、最新作とほぼ同じ時代を描いた永井路子原作『草燃える』(1979年)では、藤原定家を演じておられました(同作で北条義時を演じていたのが、本作で平清盛を演じている松平健です)。

 こうして、三谷氏からのラブコールを送られた岡本さんでしたが、NHKスタッフからは「岡本さんには武将のイメージがないのでは……」との不安が寄せられたそうです。しかし、三谷氏には“絶対大丈夫”との確信があったようです。何故ならば、岡本さんがかつてNHKで放映された『人形劇三国志』(1982~1984年)で「主人公たちの前に立ちはだかる曹操と周瑜という二大敵役の声を担当され」ており、「これがとてつもなく格好良かった。骨太で勇猛果敢な武将を声だけで表現」され、そこには「出入りの酒屋さんの姿は微塵もない」からであると書かれております。正に、ベタ褒めとも言うべき賛辞でございましょう。そして、今回の大河ドラマ内で、下総目代の首級を挙げて頼朝の下に参上した岡本さん演じる常胤像に「まさに思い描いていた通りの“血気盛ん”な老武将」の姿を確認されたと言います。「しかも、岡本さんはそれを荒々しさとは真逆の、淡々とした風情で演じて」おり、「だから底知れぬ恐ろしさがある」「敵将の首級をまるで、ビールを一本サービスしておきましたよ、みたいな感じで差し出した。あっけらかんとした凄みをそこに感じた」と書かれているのです。確かにしかり。当方は、それに対する頼朝と安達盛長の軽率なほどに薄っぺらな対応には憤りすら感じたことを、かつて本稿で指摘したことがあります。しかし、岡本さん演じる常胤の落ち着き払った居住まいには、大いに打たれるものがあったと述べおります。三谷氏と軌を一にする感慨に何とも嬉しい思いであります。

 そして、三谷氏は岡本さん演じる常胤の今後について、以下の如く述べて原稿を締め括られておられます。「この先も老将千葉常胤は、ドラマに登場する坂東武士たちと、時間の関係で割愛した登場しない坂東武士たちの代表として活躍する。鎌倉を震撼させたとある大事件の“首謀者”の一人でもある。全国の岡本ファンの皆さん、どうぞお楽しみに」……と。大河ドラマにおける岡本信人さん演じるところの常胤を大いに楽しみに拝見したいと存じます。

 今回、三谷幸喜氏による“岡本信人礼賛”記事を引用しつつ岡本さんのことを長々と御紹介させていただいた理由の一つに、過日岡本さんがとあるメディアの取材のために本館をご訪問下さり、その砌、“不肖”私めが「御館さま」の館内ご案内を相務めさせて頂いたこと。そして、その御人柄に大いに打たれたことがございます。子供の頃から親しんでいた岡本さんが、目の前にいらっしゃること。御髪は胡麻塩ではございますが、微塵もご高齢を感じさせない凛とした立ち姿、ご年齢を感じさせない若々しさと溌剌さ、画面から受ける印象と寸分違わぬ誠実さと謙虚さ、相手を包み込むような滲み出る暖かさ。そして、何よりも自らが演じておられる千葉常胤を理解しようと勤められる真摯な姿勢に、自らの怠惰を射貫かれるような思いと感銘とを受けたのでございます。たかが小一時間ほどではございましたが、当方のような朴念仁にでさえ、岡本さんの人として高潔さは充分に伝わって参りました。だからこそ、50年という月日を超えて、今でも多くの方々から尊重され、引く手数多なのでございましょう。そのことが痛いほど身に沁みました。そして、岡本さんを千葉常胤に抜擢された三谷幸喜氏の慧眼にも心からの合点がいった次第でございます。それに引き比べ、最初にキャスティングを耳にした時に「何故岡本さんなの!?」と思った自らの浅はかさと不明とに恥じ入るばかりです。これを機に、岡本さんの更なるご活躍を祈念申し上げたいと心に決めた次第でございます。

 

 「Gentle Breeze」そよぐ“よき季節”の到来に寄す(前編) ―英国ロマン派の詩人 ワーズワース『序曲』のこと― ―「千葉氏ゆかりの地」案内看板第2弾(令和3年度分)4カ所に設置(智光院・胤重寺・宗胤寺跡・紅嶽弁財天)のこと―

 

4月15日(金曜日)

 

 THE PRELUDE BOOK FIRST
INTRODUCTION CHILDHOOD AND SCHOOK-TIME

WILLIAM WORDSWORTH

 OH there is blessing in this gentle breeze
  That blows from the green fields and from the clouds
  And from the sky:it beats against my cheek ,
  And seems half-concious of the joy it gaves .
  O welcome Messenger ! O welcome Friend !
  A captive greets thee , coming from a house
  Of bondage , from yon City’s walls set free ,
  A prison where he hath been long immured .
  Now I am free , enfranchis’d and at large ,
  May fix my habitation where I will .
  What dwelling shall receive me ? In what Vale
  Shall be my harbor ? Underneath what grove
  Shall I take up my home , and what sweet stream
  Shall with its murmur lull me to my rest ?
  The earth is all before me : with a heart
  Joyous , nor scar’d at its own liberty ,
   I look about , and should the guide I chuse
  Be nothing better than a wandering cloud ,
   I cannot miss my way . I breathe again ;
  Trances of thought and mountings of the mind
   Come fast upon me : it is shaken off ,
   As by miraculous gift ‘tis shaken off ,
   That burthen of my own unnatural self ,
  The hesvy weight of many a weary day
  Not mine , and such as were not made for me .
  Long months of peace(if such bold word accord
   With any promises of humea life)
Long mouths of ease and undisturb’d delight
  Are mine in prospect ; whither shall I turn
  By road or pathway thought open field ,
   Or shall a twig or any floting thing
  Upon the river , point me out my couse ? 
(以下略)

 

 

  序 曲 第一巻 導入部 幼年時代と少年時代
ウィリアム・ワーズワース (岡 三郎 訳)



ああ、このやさしい風の 何というありがたさ!
緑の野から、たなびく雲から、そして大空のかなたから
吹き渡るこの風は、私の頬に吹きつけては
自分の与えるよろこびを なかば気づいているようだ。
おお ようこそ使者よ! 来たれ わが友よ!
おもえば久しい間 虜囚のように幽閉の日々を過ごしてきた
あの遥かな都会の城壁から解放され、束縛された住まいから
脱出してきた身の私は、思わずそなたにそう呼びかける。
いまこそ私は釈放され、解き放たれ、自由になったのだ。
自分の住まいを自分の好きなところに決めることができる。
いったい、どんな住まいが私を待っているのだろう。どんな谷間に
わたしの憩いの家があるのだろう。どんな森かげに
自分の住まいを定めたらよいのだろうか。またどんな清らかな小川のせせらぎが
私を優しい眠りにいざなうだろうか。
大地はひろびろと、いま私の眼前に横たわっている。喜びに
胸を躍らせ、限りない自由さにおびえもせずに、
私は周囲を見わたす。私が選ぶ案内人が

 たとえ流れる雲ほどに頼りなくとも、これからさき、もう
行く道を間違えることなどありえない。もう一度ふかく、私は息をすってみる。
すると突然、私はおもわず恍惚となり、精神の昂揚が
不意に私をおそう。いままでのわたしのゆがめられた
自己の重荷、本来私のものでもないし、私のためにつくられたものでもない、
ただ疲れ果てた日々の、積もり積もった重々しい感じが、
まるで天与の力に励まされたかのように、
ふりはらわれ、はらいのけられる。
そうして、幾月かの平和(もしこの世の契りに
平和などという大胆な言葉が許されるなら)
平穏無事な楽しい幾月かが、たしかに
自分に授かる見通しができた。さて、どちらに足を向けようか。
大通りか、それとも小道をたどって行こうか、それとも広い野原のまんなかを
横切ってゆこうか。いずれ、森の木立の小枝が、川面にただよう漂流物が、
私に行く道を教えてくれることだろう。
(以下略)


今回の冒頭は、英国における代表的なロマン派詩人として知られるウィリアム・ワーズワース(1770~1850)の手になる自伝的長編詩『ザ・プレリュード(序曲)』(1850年刊行)の冒頭部分です(原文+和訳)。ワーズワースは北西イングランドの風光明媚な土地柄として広く知られる「湖水地方」に生を受け、その自然美を高らかに詠いあげる作品を数多く作詩しました。その代表作が死の年に纏められて世に出た『序曲』に他なりません(この題名は、生前の作者が三部作の初編として構想していたことに因んで未亡人によって命名されたとされます)。しかし、それは単なる自然礼讃に留まるものではありません。研究者がその主題をワーズワース自身の「幼少時代の楽園喪失と想像力の展開によってその喪失せる楽園を回復すること」に求めているように(「『序曲』に見られる誌的想像力の展開」黒岩忠義)、幼年期の豊かな自然との交感を通じて、人の存在意義への省察を経ながら自己形成を成し遂げてゆく歩みを描いているように思います。その背景には、湖水地方における輝かしい幼年時代と、後に「少年ワーズワースがいまだ見ざるロンドンに寄せる素朴な希望と期待」(上記論文)を胸に滞在した大都会ロンドンで遭遇した“混乱と不調和の世界”への当惑とがあったものと考えられ、本作冒頭にからもその思いが読み取れましょう。その意味で、『序曲』の世界観とは、豊かな自然を通して内面形成を成したワーズワース自身の歩みを語る「ビルトゥングス・ロマン(教養小説)」ならぬ「ビルトゥングス・ポエム」(そんな用語があるのか存じませんが)なのだと思われます。従って、そこには市民革命や新たな産業勃興の動向を踏まえた、機械論的人間観への批判的な視座を見ることができます(同作の第七巻)。それは、世代はずれますが、産業革命の嵐吹き荒れる中、同国で「アーツ・アンド・クラフツ運動」を展開した、デザイナー・詩人であり社会主義思想家でもあったウィリアム・モリス(1834~1896)の内面世界とも通底するものかもしれません。大量生産される画一的な製品に飽き足らず、手仕事の価値を追求し続けた彼のデザインは、その可憐な草花の意匠によって今でも多くの人びとを魅了し続けておりますから。もっとも、彼の御国の詩人・芸術にも、ましてやワーズワースやモリスにも明るいわけではございません。馬脚を現わさぬうちにこのあたりで止めておくのが賢明でございましょう。

 ところで、当方は、偶々大学1年生の時分、語学授業のテクストが本作であったことからこの詩人と作品に邂逅したのでした。そして、忽ちのうちにその虜となりました。手元には原書と岡三郎(青山学院大学名誉教授)による翻訳書(国文社『序曲-詩人の魂の成長-』1968年)があり、上掲したものもこちらから引用をさせていただいたものであります。それらは、既に半世紀近くも前に購入した書籍でありますが、今でも時に紐解くことがございます。本稿を潤筆しているのは4月2日(土曜日)でありますが、これから5月にかけての風物に触れると不思議と本作のことを思い出すのです。『ザ・プレリュード』の舞台となった“湖水地方”への“憧れ”は、本作との出会い以来途切れることはありませんが、残念ながら未だ脚を運んだことはございません。勿論、お国柄も周囲の風景も吹く風の香りも全く異なりましょうが、この時節の本邦の自然に接すると、何時も若き自分に接したワーズワースの世界を思い浮かべます。とりわけ「風薫る五月」の薫風に、スコットランドに程近い北西イングランドに吹く「Gentle Breeze(ジェントル・ブリーズ)」とを勝手に重ね合わせては、未だ見ぬかの地への妄想を掻き立てているのです。英和辞典を紐解くと、「Gentle Breeze」とは「そよ風」「柔らかな風」「(気象)軟風~ヒューフォード風力階級3の秒速3.3~5.5mの風」とあります。まぁ、ワーズワースが三つ目の気象用語としてこの言葉を選んだ筈はございませんでしょうから、前二者の意味合いで用いたことは間違いありますまい。それにしましても、キングス(クィーンズ)・イングリッシュで発せられる「Gentle Breeze」の「音」は、あたかもその言葉が指し示す“そよ風”のように、小生の耳には途轍もなく心地よく響きわたるのです。

 ここで、北西イングランドから離れた昨今の本邦は坂東の地の風情に移ります。これは、昨年も書き記したように記憶しておりますが、通勤途中に常磐線車から見下ろす江戸川の風情に目一杯の春を感じております。鉄橋を渡る電車からは、河川敷ゴルフ練習場で春風にそよぐ「柳」の新緑と咲き誇る「染井吉野」、堰堤に延々と連なる「菜の花」のコントラスに毎年心を奪われます。目を挙げれば、最近は外環道の完成で全容を眺めることができなくなってしまった筑波山がその奥に、振り返れば富士の高嶺がそれぞれ遠望できます。少し前までは、透き通った空気の中でくっきりと屹立する姿が拝めましたが、今では潤いを含んだ春の空気が彼らにうっすらとヴェールをかけているようです。しかし、それはそれで美しいものです。感染症予防のために細く開けられた窓ガラスから吹き込む風は、流石に“ジェントル”なものとは言い難いものですが、それでもその香りや温度にはそれを感じさせられるのです。もっとも、常磐線江戸川橋梁からの眺望の美しさは季節を問いません。しかし、小生はその春景に取り分けて心惹かれるものを感じます。しばらくは、この景色と薫る風とを楽しむことができそうです。
(後編に続く)

 

 


 

 

 「Gentle Breeze」そよぐ“よき季節”の到来に寄す(後編) ―英国ロマン派の詩人 ワーズワース『序曲』のこと― ―「千葉氏ゆかりの地」案内看板第2弾(令和3年度分)4カ所に設置(智光院・胤重寺・宗胤寺跡・紅嶽弁財天)のこと―

 

4月16日(土曜日)

 

 

 さて、後編では一転して別の話題に移ります。令和8年度に迎える「千葉開府900年」に向け、一昨年度から行われている「千葉氏PR計画」の一環とする「千葉氏ゆかりの地」案内看板設置事業についてでございます(千葉市教育委員会生涯学習部文化財課と本館との取り組み)。一昨年度分の第一弾として設置いたしました“5カ所(猪鼻城跡・お茶の水・大日寺跡・本円寺・浜野城跡)”に引き続き、昨年度の第二弾として市内4カ所への設置が行われましたのでご紹介させていただきます。以下に、今回設置4か所の「看板解説文面」のみを掲載させていただきます。近々、現地の設置状況を撮影しツイッターにてご紹介させていただきます。実際の看板につきましては、以下の千葉市教育委員会生涯学習部文化財課アドレスでアクセスしていただけます。


 

千葉氏ゆかりの史跡・伝承スポット

 https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/chibauzishiseki.html

 

 

 

 

智光院(中央区市場町7−12)
千葉宗家を滅ぼした千葉(馬加)康胤が開いた寺


智光院は真言宗豊山派の寺院で、康正2年(1456)に千葉(馬加)康胤が開いたと伝えられています。康胤は千葉満胤の二男で、馬加(現在の花見川区幕張)を本拠としていました。鎌倉公方足利成氏と幕府方の関東管領上杉憲忠の対立から、関東で享徳の乱(1455~1483)が勃発すると、千葉胤直ら千葉宗家が関東管領側についたのに対し、康胤は庶家の原胤房らと鎌倉公方側につきました。康正元年(1455)、康胤らは千葉氏の館を攻め落とし宗家は滅亡、翌年康胤も、幕府の命を受け美濃国郡上郡から下向した千葉一族の東常縁に討たれました。
館の陥落後に、康胤が創建したといわれるのが智光院です。この時代、滅ぼされた者の霊引が災いを引き起こすと信じられており、鎮魂のため相手の館跡を寺とすることがありました。このため、この場所が千葉宗家にゆかりがある可能性がありますが、真相は不明です。
康胤は千葉氏を継承しましたが、後継ぎがいなかったため、当主の地位は千葉一族の輔胤が引き継ぎ、後に本拠を本佐倉(現在の酒々井町・佐倉市)に移すことになります。

 

 

胤重寺(千葉市中央区市場町10-11)
千葉常胤の孫、武石胤重を弔い開かれた寺

 

 胤重寺は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。本堂には千葉氏の家紋、月星紋が見えます。永禄元年(1558)、千葉常胤の孫、武石胤重の菩提を弔うため、その子孫である雲巌上人が開山したと伝わっています。常胤には千葉六党と呼ばれた6人の男子がおり、三男の胤盛は武石郷(現在の花見川区武石町)を与えられ、その地名から武石を名乗りました。この胤盛の子が胤重です。
『平家物語』の異本『源平闘諍録』(鎌倉時代末期~南北朝時代初期成立)には、常胤の孫千葉成胤が平家方の藤原親政を破った結城浜合戦に、胤重が参戦したことが記されています。また、嘉禄3年(1227)に鋳造された瑞巌寺五大堂(宮城県松島町)の鐘(現存せず)の銘文の写しから、当時、胤重が陸奥国亘理郡(現在の宮城県亘理町)へ進出していたことが分かっています。東北に移住した武石氏は、鎌倉時代末期に亘理を名乗るようになり、江戸時代には仙台藩主伊達家の一門涌谷伊達氏となりました。
武石氏の祖である胤盛でなく子の胤重を弔う胤重寺の存在は、武石氏にとって胤重が重要な存在であったからだと考えられます。境内には胤重のものと伝わる供養塔があります。

 

 

宗胤寺跡(千葉市中央区中央4-13付近 千葉県庁立体駐車場前)
肥前千葉氏の祖、宗胤が開いた寺

 

 かつてこの地には、千葉宗胤が父頼胤や一族家臣のために建立したと伝わる宗胤寺がありました。境内には15世紀中頃のものと考えられる伝千葉宗胤五輪塔(千葉市指定文化財)があり、そのかたわらには御廟の松と呼ばれた老木がありました。昭和20年(1945)の空襲でお堂などが焼失し、戦後、宗胤寺は五輪塔とともに中央区弁天へ移転しました。
宗胤は、肥前千葉氏の祖となった人物です。父の頼胤は、蒙古襲来に際しモンゴル軍と戦い、その時負った傷により建治元年(1275)に没しました。宗胤は跡を継ぎ、千葉常胤の時代から伝わった所領である、肥前国小城(現在の佐賀県小城市)で再度の襲来に備えました。永仁2年(1294)に没しましたが、子孫は下総に残った一族との対立を経て、肥前千葉氏として繁栄しました。
この場所の東隣、現在の千葉地方裁判所の地は、徳川家康の館があったことから御殿跡と呼ばれ、未だ所在が明らかになっていない千葉氏の館の候補地とされています。ここに宗胤寺があったことは、館の所在を考える上で注目されます。

 

 

紅嶽弁財天(千葉市若葉区みつわ台5-42)
千葉氏の本拠地を潤す湧水にまつられた常胤ゆかりの神社

 

 紅嶽弁財天は千葉常胤ゆかりの神社です。伝承によれば、常胤が子孫繁栄と福寿を祈願していたところ、夢枕に弁財天が現れたので、鎌倉の弁谷(現在の神奈川県鎌倉市材木座)にあった弁財天をここに移したといいます。
この地にはかつて湧き水があり、千葉のまちを流れて都川へ注ぐ葭川の水源の一つとなっていました。千葉氏の本領である千葉荘を潤す水源に、水の神でもある弁財天をまつったことからは、千葉荘の繁栄を願う常胤の思いがしのばれます。
古い記録によると、常胤と嫡男胤政(正)は「弁谷殿」と呼ばれていたとあり、鎌倉では弁谷に屋敷を構えていたと考えられています(『千学集抜粋』『鎌倉志』)。常胤の役職である「介」の中国風の呼び名「別駕」から、常胤が住む谷を「別駕谷」と呼び、これが転じて「弁谷」になったといわれています。
また、「弁谷」は「紅谷」とも書かれており、「紅嶽」という名前は「弁谷」に由来すると思われます。

 

 

 以上でございます。一昨年度と本年度の2年間で、本看板も9つとなりました。今後も、令和8年度「千葉開府900年」までに、毎年5つ前後の看板を継続して市内各所に設置してまいります。現在は主に中央区に偏る設置場所も徐々に広げていきますので、こちらも楽しみにされていてくださいませ。お天気の宜しき折に、春の薫風を胸いっぱい吸い込みながら、ご家族でサイクリング・ピクニックがてら、千葉氏関連史跡をお巡りされては如何でございましょうか。

 さて、最後になりますが、3月末に「蔓延等防止等重点措置」が全面的に解除となり、ホッといたのも束の間。昨今では再び感染者数がじりじりと増加の傾向をみせております。残念なことではございますが、案の状の推移となっているというのが正直な思いでございます。実際のところ観桜に相応しい場所はもっと他にもございましょうが、そこは古くからの名所であり、市の中心街からも至近であることから、この猪鼻山も予想を上回る花見のお客さまでごった返しておりました。序に博物館も……という方々も多いものですから、本館としては嬉しい反面、感染症の方は大丈夫なのかな……との懸念は払拭できない思いもございました。それは、何も猪鼻山に限ったことではありません。長引く巣ごもり生活の末の“蔓防”解除に春の気配が重なり、誰もが漫ろに外出したくなる思い止み難し……。何処も相当な人出であったと耳にしております。しかし、そのダメージはボディブローのように効いているように思われます。これからゴールデンウィークにかけての国民の行動が、第七波に到るか否かの分かれ道となりましょう。この感染症を甘く見てはなりません。専門家は5月上旬には、オミクロン株より更に強力な感染力を有する変異株“BA2”に置き換わる可能性が高いと指摘しております。連中も日進月歩で変異することで、生き残るための生存競争を繰り広げているのです。“奴さん”たちも必死なのだと思います。従って、我々人間だけが安穏としている場合ではございません。ウィルスを更に上回る対応をしかねば先を越されることは疑いありますまい。気を抜くことなく、コロナウィルスとは暫しのお付き合いをしていかざるをえないことを、改めて心に刻みたいと存じます。併せて、終息が見えないウクライナ情勢への想いと行動とを忘れてはならないと考える次第でございます。

 

 

 追伸 千葉市中央区役所のHPに、前中央区長の藤代真史さんと当方とが過日行った対談記事がアップされております(「知って中央区!ザ・インタビュー」)。これからの「千葉市の街づくり」について、千葉が歩んできた歴史との関係を大切にして進めることの意義を語り合っております。下にリンクを貼っておりますので、こちらもご拝読をいただけましたら幸いです。
 

 

 https://www.city.chiba.jp/chuo/chiikishinko/theinterview02.html
 

 

 昨今拝見した博物館展覧会につきまして(前編) ―国立歴史民俗博物館:企画展示「中世武士団―地域に生きた武家の領主―」現在開催中(令和4年3月15日~令和4年5月8日) ―足立区立郷土博物館『谷文晁の末裔―二世文一と谷派の絵師たち―』会期終了 ―土浦市立博物館:特別展「八田知家と名門常陸小田氏-鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史―」現在開催中(令和4年3月19日~令和4年5月8日)

 

 

4月22日(金曜日)

 

 「春眠暁をおぼえず」とは言ったもので、陽気がよくなると大いに眠たくなります。「腹の皮突っ張って眼の皮弛む」なる例えの通り、とりわけ昼食を食した後の午下がりが鬼門でございます。自宅ならばいざ知らず、流石に勤務中に午睡とは参りません。そこで、館内を巡回したり、目の覚める飲料を体内に注入したりしておりますが、眠気が覚めるまでには暫しの時間を要します。幸いに当方は花粉症にはございませんが、その薬を服用されている方に聞くと、ボーっとして何も考える気がしないか、堪えがたい程の睡魔に襲われるといいます。「酔生夢死」なる生き方も決して悪くはないと思いますが、チトやり残したこともございますので、発症せぬまま旅立ちたいものと願うばかりでございます。さて、ここに来て、これまでのコロナ禍の鬱憤解消をするかのように、各博物館にて注目すべき展覧会が矢継ぎ早に開催されておりますので、今回はその内の幾つかを御紹介させていただきましょう。

 まず、本命中の本命として、真っ先に御紹介させていただきたいのが、佐倉の国立歴史民俗博物館で開催中の企画展示「中世武士団 -地域に生きた武家の領主-」でございます。当館の展示につきましては、流石“歴博!!”と感心させられることが常々でありますが、今回の展示会は取り分けて瞠目すべき内容だと存じます。中世武士団の在り方を、往々にして有り勝ちな華々しい戦績や政策を並べ立てるのではなく、副題に明確に述べる「地域領主」としての姿から探るものであります。更に、その在り方の変容について、時代を追いながら太筆書きのようにその変遷を描いております。まさに、歴博のような国立の大規模博物館ならではの……気宇壮大な展示であることを確信いたしました。今後、「中世武士団とは何か?」への解答をする際には必ず引き合いにされるべき展示内容であると存じます。その意味において、昨年度末の千葉市博物館協議会の席上で、本委員をお務めくださっている同博物館小島道裕教授が、今回の展示会は「開館以来一度も行われていない“中世常設展示”リニューアルに繋げること」を意図して企画されたと仰せであったことに合点がいった次第でございます。

 その初期において、剥き出しの暴力装置としての“在り方”を色濃く有していた武士団が、中世という時代を通じて「地域領主」としての“在るべき”姿(「撫民」思想)に目覚め脱皮していく過程を、多くの地域資料を用いて描き出していきます(早い段階では鎌倉中期北条時頼の政策に「撫民」の考え方が明確に表れております)。その見事な展開に、当方は瞬く間に引き込まれ、時を忘れて手に汗握る思いで拝観をさせていただきました。ここでは、これまで中世武士団展示で中心軸となりがちであった“英雄的な姿”が描かれることはございません。一見地味とも言える、背景となる「地域領主」としての在り方を追うことで、中世武士団の在り方を裾野から総合的に捉えようとされているのです。一方で、中世武士団が本領にしがみつく「一所懸命」の領主では必ずしもなかったことが、最近の研究からは明らかになってきております。しかし、所領(土地)支配に限ることのない、広域な交易支配等をも含み込む「地域領主」としての中世武士団の在り方の変遷に目を向けることが、中世武士団の表立った“目につく姿“”の理解に決定的に重要であることを強く確信させていただいた次第でございます。

 歴史に関心を持たれる方、とりわけ中世武士団にご興味がございます皆様は、何を措いても本展示会にお出かけになるべきと存じます。更に、展示も然ることながら、展示図録も読み応えもある充実の完成度であり、中世史に興味のある方であれば必携だと存じます(一冊¥2,200)。因みに、地域領主の一例として、肥前国に西遷した千葉氏の在地領主としての姿が取り上げられている点も注目です(アニメキャラクター「ツネタネくん」の“狂言回し”的な登場も微笑ましいものです)。また、展示史料の中には、本館所蔵の国宝の復元甲冑、所蔵者から本館に寄託されている「千葉妙見大縁起絵巻」(栄福寺蔵)がございます。特に後者は、本館では複製展示に限っており実物展示はいたしておりません。従って、現品をご覧いただける貴重な機会ともなっております。是非とも脚をお運びください。以下に、本展の趣旨と展示構成を引用させていただきますが、更に、今回は、敢えて各章に付された田中大喜先生・荒木和憲先生の解説も併せて引用をいたします。これをお読みになれば会場に出掛けたくなること必定と存じます。幸いに、会期は未だ2週間と少し残されております。これを幸甚と言わずして何と申せましょうや!!

 

 中世武士は、世襲制の職業戦士であるとともに、地域の領主としても存在しました。中世武士の地域支配は、武士個人の力量によって実現したわけではなく、主に一族と家人によって構成された武士団という集団(組織)を形成することで実現しました。そのため本企画展では、武士団を戦闘集団ではなく「領主組織」という観点から捉えます。中世武士が武士団という領主組織を形成して遂行した地域支配の実態と展開について、13~15世紀を中心に、中世の文献・考古・美術資料のほか、近世~近代の絵図・土地台帳やフィールドワークに立脚して復元した本拠景観にもとづき、その具体的な様相を展開します。事例には、豊かな資料を今日に伝える、石見益田氏・肥前千葉氏・越後和田氏を主に取り上げます。

 

 

【展示構成】
1章:戦う武士団 -プロローグー

 世襲制の職業戦士であることを本質とした中世武士は、「戦う」ことを一義とした存在だった。中世武士は「弓箭取」や「弓馬の士」とも呼ばれたが、これは彼らの第一の武器が弓箭だったことを表している。実際、おおよそ13世紀までは、馬上から矢を射る騎射戦が合戦の基本形態であり、刀剣は騎射で矢を使い尽くした後や落馬時に使うのが一般的だった。14世紀になると、下馬して射る下馬射や徒歩で射る歩射に現れた。
  中世武士は優れた騎射の技術を持ち、合戦で発揮したのだが、平時にはそれは民衆にも向けられた。また、合戦の場では、武士は無抵抗な女性や幼児にも容赦なく襲いかかった。中世の武士団とは、職業戦士集団であるがゆえに、荒々しく残忍な性質を有した社会集団だったのである。果たして彼らは、圧倒的な武力を振るう残忍な戦士のまま、暴力と恐怖によって人々を支配したのだろうか。(田中大喜)

 

2章:列島を翔ける武士団 -移動と都市生活-

 長く中世の武士団は、草深い田舎に住み、先祖代々受け継いできた一か所の所領を懸命に維持するという、「一所懸命」の姿で語られてきた。中世の武士団が、先祖から代々受け継できた所領を持っていたのは事実であり、そうした所領は「本領」(俗に言う苗字の地)と認識された。ところが実際には、彼らは本領以外にも列島各地に複数の所領を持つのが一般的であり、どのような列島各地に散在する所領を一族や家人と分業する形で、必要に応じて本領と行き来しながら経営していたのである。
また、将軍や京都の貴族(荘園領主)と主従関係を結んだ中世の武士は、鎌倉や京都で主人に奉公する必要から、鎌倉や京都という都市にも屋敷を構え、都市生活を営んでいた。中世武士団は、草深い田舎で一か所とした所領の維持に汲々とした生活を送っていたわけではなく、列島規模に及ぶ広域的な移動を繰り返し、都市とも密接な関係を持つ存在だったのである。(田中大喜)

 

3章:武士団の支配拠点 -地域のなかの本拠-
1.武士の系譜認識 2.武士の屋敷 3.本拠の構成要素

 中世の武士団は所領を支配するにあたり、そのなかに支配拠点=本拠を形成した。本拠の中心的な構成要素は武士の屋敷である。武士の屋敷は、周囲に道や河川などの水陸交通網が発達した場所で、かつ水害の被害を受けにくい微高地や河岸段丘上に構えられた。そこは武士とその家族の日常生活の場であり、また所領支配の拠点として所領で起きたさまざまなトラブルを調停する場でもあった。
武士団の本拠は、武士の屋敷のほかに、田畠を灌漑する用水路、一族・祖先の極楽往生と民衆の暮らしの安穏を祈る寺社、そして物資・人の集散地(宿・湊・津など)とその活動を支えた交通路といった、多様な要素(施設)によって構成された。武士団は、所領=地域のなかにこれらの要素を整備・管理して本拠を形成することで、領主として存在することができたのである。したがって、武士団の本拠の様相は、その領主としての姿を映し出す「鏡」といえるだろう。(田中大喜)

 

4章:武士団の港湾支配 -地域の内と外をつなぐもの-
1.益田のミナトと西日本航路 2.和船の航海 3.大型外洋船の航海


地域の領の主である武士団は、積極的に交通・流通の掌握・保護を図った。沿海地域の場合、ミナト(港湾)と港町の掌握こそが重要だった。石見の益田川・高津川河口域では、いくつかの小さなミナトが連携し、内陸部の河川水運と日本海水運を結んでいた。ミナトは地域の「内」と「外」とを行き来する人・モノの結節点であった。
地域の「外」に目を向けると、地域間を往来する船舶が交通・流通のインフラとして機能していた。なかでも商品流通を支えたのは荷船だった。荷船はゆっくりとしたペースでの航海を特徴とするため、それを支えるために大小無数のミナトが列島各地で形成された。また、戦争の時代にあって、戦時の迅速な移動・輸送を行うための関船・小早も登場した。
地域の「外」の世界は、無限の広がりをみせた。とりわけ大型外洋船である唐船(ジャンク)が縦横無尽に往来したことで、東アジア・東南アジアの流通と列島がリンクした。異国・異域から運ばれてきたモノは、地域の「内」へと浸透して消費された。(荒木和憲)

 

5章:霊場を興隆する武士団 -治者意識の目覚め-
1.「撫民」との出会い 2.地域の安穏を祈る 3.鎌倉仏教の広がり


世襲制の職業戦士集団だった中世の武士団自体には、地域を支配する正当性が備わっていなかった。そこで、彼らが地域を支配するにあたって着目したのが、地域社会の救済を実践した宗教者集団だった。すなわち、武士団が彼らの活動の拠点となる寺社を創建・保護し、そこに安置された大般若経の書写や仏身像の造立を行うほか、寺社で挙行される地域の安穏を祈る祭礼や法会を整備・警固することで、宗教者集団による地域社会の救済事業を支援したのである。これにより武士団は、自らも地域社会の救済事業に参加している姿勢を地域の民衆に示し、地域支配の正当性の確保に努めたのだった。
宗教者集団との接触は、武士団に統治者としてのあるべき姿勢について自覚させる契機にもなった。すなわち武士団は、宗教者集団から民衆を憐れむことを心がける「撫民」の思想を学び、殺生と無縁ではいられない現実との狭間で苦悩しながらも、その体得を目指したのである。ここに武士団は、圧倒的な武力を振るう残忍な戦士集団からの脱却の一歩を踏み出したのだった。(田中大喜)

 

6章:変容する武士団 -エピローグ-
1.武装化する本拠 2.地域の核となる武士団 3.武士団の文化力

 南北朝内乱の勃発は、武士団の本拠の在り方を変容させる契機となった。すなわち、列島の各地で戦乱が増加したことにより、武士団の本拠には要塞化した屋敷や山城が築かれ、軍事的な要素が新たに加わったのである。
戦乱の増加は、武士団の本拠が形成された地域社会を戦場として巻き込んだ。そのため、そこで暮らす村落住人や寺社も、武士団の戦力となって否応なく戦争に加わっていった。こうしたなかで、村落の有力者や寺社は武士団に安堵(安全保障)を求めるようになり、前者のなかには被官(家人)となって武士団の正規の構成員になるものも現れた。戦乱の増加は圧倒的な武力を持つ武士団の存在感を増し、武士団の本拠が形成された地域社会は武士団を中心にまとまるようになったのである。こうして武士団は本格的に地域社会に定着し、そこを領域的に支配する権力へと変容していくことになる。(田中大喜) 

 

 以上でございます。未だ当該特別展へ出かけていらっしゃらない歴史好きの方であれば、必ずや居ても立ってもいられない思いに苛まれることでございましょう。本市から至近の博物館で、かような価値ある展示会に接することができる僥倖を逃す手はございません。斯様な特別展に出会える好機は稀であると存じます。もっとも、かようなことは小生が口角泡を飛ばして訴えるまでもなく、様々な媒体でも本展のことは取り上げられておりますから、皆様は先刻ご承知のことでありましょう。後編では、既に会期を終えておりますが、足立区立郷土博物館で昨年末に開催された特別展と、土浦市立博物館で現在開催中のそれについて御紹介をさせていただく所存でございます。
(後編に続く)

 

 昨今拝見した博物館展覧会につきまして(後編) ―国立歴史民俗博物館:企画展示「中世武士団―地域に生きた武家の領主―」現在開催中(令和4年3月15日~令和4年5月8日) ―足立区立郷土博物館『谷文晁の末裔―二世文一と谷派の絵師たち―』会期終了 ―土浦市立博物館:特別展「八田知家と名門常陸小田氏-鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史―」現在開催中(令和4年3月19日~令和4年5月8日)

 

4月23日(土曜日)

 

 後編にて、まずご紹介をさせていただきたいのが、会期を終えて既に久しくなりましたが、これまで取り上げる機会もなく今日に到ってしまった足立区立郷土博物館特別展『谷文晁の末裔-二世文一と谷派の絵師たち-』(令和3年10月1日~12月5日)でございます。自宅から極々至近に所在する博物館ですので、“蔓防”下にはございましたが脚を運ばせていただいた次第です。東京都足立区では、区政80周年を記念し平成24年度から継続して、区内「文化遺産調査」の成果を広く紹介することを目的にした展示会を開催しておりますが、本展は令和2年度開催の特別展『名家のかがやき -近郊郷士の美と文芸-』に続くものとなります(こちらも優れた内容でありかつて本稿で取り上げてご紹介をしております)。本展の会期は既に終了しましたが展示図録は未だ購入可能です(一冊¥1,200)。ご興味が沸きましたら是非とも御入手いただければと存じます。以下に図録から展示会趣旨と展示構成を引用させていただきますが、これまでの「文化遺産調査」シリーズ同様に勝るとも劣らぬ優れた内容です。

 個人的には近世絵画の世界には多大なる興味・関心を寄せるところでありますので、足立区の展示会の展開は大いに歓迎するものでありますが、その一方で、かつて学芸員でいらした加増啓二氏による充実の中世展示が影を潜めてしまったことを残念に思う人でもありました。かようなこともあり、面識のある館長に極々内々に「足立区博は最近“美術館”化してしまったようで少々残念」との軽口を叩いたことがございました。しかし、ここ数年の「文化遺産調査」成果の展示の数々に接するにつけ、如何に自らの目が濁りきっていたか、自らの感想がどれ程に浅はかなものであったことを痛感するところでございます。この場で謝罪の想いを込めて申し上げたいと存じます。足立区の展示は、「美術作品」の展示を主眼に置く「美術展」では全くありません。絵画の流派とその伝統とが、各時代の社会と如何に切り結んで系譜を紡いでいったのか、そのために如何なる戦略をもって臨んだのか、そして、それ動向が“足立”という地域社会に如何に位置付くのか等々、地域資料を丹念に掘り起こすことで明らかにしようとする「歴史展示」に他なりません。それは、心底瞠目すべき調査成果であると確信するところであります。これまた、全くもって自身の不明に恥じ入るばかりであります。そこには、自らの拠ってたつ地域社会の「調査・研究・展示」という、極めて重要な活動を継続的に展開されてきた足立区立郷土博物館と、それを支える足立区という行政主体の厚い理解と支援が存在するものと推察いたします。案ずるに、小生はそこに地域博物館と行政主体の“地域愛”と、行政が地域に何をなし残していくべきかという“矜持”とを見る思いがいたします。須らく、各地方行政が倣うべき在り方がここにあると存じ、心底羨ましく存じあげる次第でございます。以下、お決まりの展示の“趣旨”と“全体構成”とを図録より引用させていただきましょう。

 

 江戸時代後期、千住宿をはじめとする足立地域の人々と、江戸下谷の文人-絵師・書家・文芸者たち-が共に書画俳諧を通じた交友を楽しむ、豊かな文化が花開きます。足立区郷土博物館では、この足立の文人文化の基盤を作った人物として、江戸琳派の酒井抱一と並び、関東画壇の代表格として名を馳せた谷文晁と、その一門・門人にまつわる調査を続けてきました。
その成果は、「美と知性の宝庫 足立-酒井抱一・谷文晁とその弟子たち-」(平成27年度)や、「谷文晁と二人の文二」(平成29年度)などの展覧会で紹介してきました。本展はそれに続くものとして、谷文晁の孫であり、上沼田村(現足立区江北地域)の文晁門人、舩津文渕(1806~56)とも親しく交友を結んだ、二世文一(1814~77)に焦点を当て、また、二世文一と同時代を生きた文晁一門「谷派」の絵師たちの動向にも触れることを試みるものです。
二世文一は、文晁の後継者として期待された父、一世文一の早世後、祖父文晁の下で画を学び、やがて父の名を継いで「文一」を名乗りました。そして、丹後国宮津藩(現京都府宮津市)に出仕し、さらに日米就航通商条約批准のため派遣された万延元年遣米使節に随行してアメリカに渡るなど、幕末明治の動乱期を歩みます。しかし、宮津藩士となった後も、足立の舩津文渕はじめ、江戸の谷派絵師たちとの親交は途切れることはありませんでした。宮津と江戸を行き来して彼らと活動を共にし、特に文渕のもとには、祖父文晁以来の多くの作品・資料を伝えることとなりました。
今回の展示では、足立・宮津をはじめ各地に残る資料から、未だ謎の多い二世文一の経歴・活動に迫ります。また、文晁に師事し、幕末明治の同時代に活動していた舩津文渕をはじめとする「谷派」の絵師たちの、時代をまたいだ活動を俯瞰していきます。文晁一族の系譜を継いだ二世文一と、門人として文晁の画系を継承した谷派絵師たち、それぞれの「谷文晁の末裔」たちの姿をご覧ください。

 

 

 

第1章 足立に根差す「谷派」
第1節 千住にあそぶ文晁と谷派の絵師たち
第2節 文晁一族と舩津文渕 -足立に伝えられる写山楼の資料-
第2章 二世文一 -文晁の系譜と「文一」を継ぐ絵師-
第1節 絵師の一族、谷家の中の二世文一
第2節 宮津藩士、谷文一
第3節 二世文一と足立の縁
第4節 幕末・明治を歩む二世文一
第3章 幕末~明治へ続く「谷派」の絵師たち
第1節 「谷派」を形作るもの -続く学習の積み重ねと文人のつながり-
第2節 「谷派」絵師たちのゆく末
第3節 終わらない系譜 -文二以降の谷派絵師-

 

 最後に、土浦市立博物館で現在開催中の特別展『八田知家と名門常陸小田氏-鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史-』でございます。戦う“戦(いくさ)”の殆どに敗北したことから“最弱の戦国大名”として名を馳せる戦国大名小田氏治で夙に知られるようになった小田氏と、その始祖となる八田知家を取り上げた特別展であります。八田知家の名を冠した展示会は国内初だと思いますし、嫡流の後裔となる小田氏の歩みを取り上げる特別展も国内で初めてであると存じます。これも、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』効果でございましょう。八田知家は取りも直さず、「13人の合議制」の一員であってドラマにも登場いたしますから。加えて上述したように“小田氏治”人気も俄かに高まっております。土浦市とすれば、この追い風に乗らぬ手はございますまい。八田知家は、文治5年(1189)、奥州藤原氏攻めの際に千葉常胤と共に「東海道大将軍」に任じられ、太平洋岸を北上する将兵を率いて大いなる戦功をあげたことでも知られます。その点でも本市とも縁の深い武将でもあります。その兄弟姉妹には、同じく頼朝に従って戦功をあげる宇都宮朝綱と、源頼朝の乳母であり小山氏に嫁いだ寒川尼がいることでも知られます。

 本展で、まず驚かされたのが、冒頭展示されていた栃木県文化財指定の史料「鎌倉将軍家政所下文」(茂木町まちなか文化交流館ふみの森もてぎ所蔵)でした。これは、建久3年(1192)年8月22日、源頼朝が八田知家(資料中には藤原友家と記されます)を下野国本木郡(茂木保 現栃木県芳賀郡茂木町)の地頭に任じた補任状となります。同年7月20日に頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉に政所が開かれると、頼朝はそれまで発給していた頼朝の花押が添えられた下文(「袖判下文」)を回収し、政所衆が署名した「政所下文」の発給に切り替えますが、本資料もその一つと考えられます。政所衆五名の署名と花押があります。その内“前下総守朝臣(源邦業)”のみ花押が欠けておりますが、その際に頼朝の将軍就任に伴う業務で在京していたことが原因かと思われます。その他の有名どころでは大江広元と二階堂行政という文士の名が見られます(この二人も「13人の合議制」メンバーです)。このような凄い文書が残っていることを初めて知り感銘を受けたのです。筆頭御家人であった千葉氏には斯様な重要文書は一切残っておりませんから。元来は、小山氏と千葉氏にはこうした文書が多く残されていた筈ですが(「吾妻鏡」)、その後の本宗家の滅亡等の混乱ですっかり失われてしまったのでしょう。

また、実物展示はされておりませんが、市内の等覚寺に残る梵鐘は、健永年間(1206~7)に筑後入道尊念(知家)が極楽寺の鐘として鋳造させたことが銘文から判明いたします。この“極楽寺”とは「三村山極楽寺」のことと考えられており、子孫の小田氏の本拠である小田城の至近にかつて存在した寺院であります。後に忍性が入寺して、坂東における真言律宗の拠点となる寺院として知られるところです。その跡地に脚を運んだこともございますが、真言律宗寺院に特有の石造遺物が幾つか残されております。花崗岩製の地蔵菩薩立像石龕には檀那名が刻印され、これは知家の孫・曾孫世代の後裔当主と考えられております。他に惚れ惚れするほどに均整のとれた大きな五輪塔(忍性塔と言われることもあります)も残ります。ここは、真言律宗の活動の痕跡として、そして八田(小田)氏が宗教者とその活動を庇護していた遺跡として、是非とも皆様に訪れていただきたい史跡であります。土浦市内にも見所が数多くございますが、少し足を延ばしていただければ、近くに残る近年復元整備の進む小田城も見るべき史跡であります(この城は南北朝期に北畠親房が、かの『神皇正統記』を擱筆した場でもあります)。霊峰筑波山を仰ぎながら、春の散歩など如何でしょうか。是非ともお薦めいたしたい歴史の宝庫でございます。長くなりましたが、展示図録(一冊¥1,000)から、特別展の“趣旨”と“全体構成”とを紹介しておきます。図録も充実した内容でございます。

 

 

 令和4年(2022)は、源頼朝は征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府初代将軍となった建久3年(1192)から数えて830年の節目にあたります。この年には、常陸国守護を務めていた八田知家が、改めて下野国茂木保の地頭に任じられています。知家は「八田」から「筑後」に名乗りを改め、その後、子孫は「小田」を名乗るようになります。小田氏は筑波山麓の小田城を拠点に据えると、戦国時代の終わりまで常陸国南部で勢力を誇りました。戦国時代の終焉とともに常陸国における小田氏の支配も終わりを迎え、子孫は各地で新たな仕官先を見つけるために奔走します。江戸時代には小田氏の子孫が再び小田周辺へ足を運びはじめ、旧家臣たちとの交流をふかめました。
それでは、なぜ下野国の武士が常陸国の守護となり、同国で影響力を持つようになったのでしょうか。また、小田の地を離れた小田氏の子孫はなぜ再びこの地を訪れ、住人たちは彼らを迎え入れたのでしょうか。この展覧会は、常陸小田氏について、初代の八田知家から江戸時代の子孫にいたるまでの足跡を紹介する初の試みです。長い期間を扱うため、紹介しきれない事項もございますが、いまだ謎多き一族の歴史について、解明の契機となれば幸いです。

 

 

序章 「鎌倉殿」御家人八田知家と名門常陸小田氏
一章 常陸国守護八田知家と小田氏の誕生
二章 南北朝の動乱と小田氏の動向
三章 小田氏の発展と在地支配
四章 戦乱の世と小田氏の盛衰
五章 「御屋形様」小田氏のその後

 

 最後に、これまでにも度々申し上げていることの繰り返しになりますが、今回の訪問でも痛感させられた“地方都市の変貌”について、あえて触れさせていただきます。当方は、この土浦を過去に幾度となく訪れておりますが、昭和60年(1985)開催「国際科学技術博覧会(俗に言う“つくば万博”)」を機に、土浦市内に開通した無料高速道路「土浦ニューウェイ」が開通する前の土浦市も知っております。初めて訪れた際には、城下町の風情が色濃く残った、関東における稀なる素晴らしい街だと思ったものです(同じころに出掛けた川越に勝るとも劣らぬ街と確信しました)。特に、江戸時代の旧水戸街道に沿って広がる古い屋敷が、“点”としてではなく“面”として残ることに感銘をうけたのでした。その後に「土浦ニューウェイ」が開通してからでも、まだまだ城下町の風情は色濃く残されており、安堵に胸を撫でおろしたものです。

 しかし、今回久しぶりに再訪したところ、駅周辺中心街の在り様は、建物の高層化と道路幅員拡張により、その昔の風情をほぼ滅失しておりました。駅からトボトボと土浦城跡に向かうと、かつて予科練の青年が集った天婦羅の名店「ほたて食堂」あたりまで来て、ようやくかつての街の面影に出会えました。しかし、その脇を通う旧水戸街道に折れると、文化財指定を受けた屋敷は修復を受けて更に立派となって残っているものの、かつて“面”を構成していた多くの仕舞屋は滅失し、最早“櫛の歯”が欠けた状況にあります。そして、何にも増して、例に依って例の“小洒落た街路”風景に様変わりしており、日光の鉢石宿で受けたのと同じく「土浦よ、お前もか!?」との想いを禁じ得なかったのです。ここは土浦城下の一部をなす「水戸街道」という、紛うことなき“歴史の道”でございます。お洒落な洋服の似合う道路整備に如何なる意味があるのでしょうか??口幅ったい物言いばかりで恐縮でありますが、街づくりの発想が余りに短絡的であるように感じます。昨今の川越城下の“原宿竹下通り”化も如何なものかとは思わない訳ではありませんが、古きものを大切にした結果、あそこまでの賑わいを生み出したことは誰も否定できますまい。土浦旧市街もそれに劣らぬポテンシャルを有していたのに……と、残念な思いで一杯なのです。昨今の若者は、他にはない地方独自の「懐かしい街」に「新しさ」を見出しているのです。それが、川越や葛飾区柴又の人気に繋がっているのであり、“金太郎飴”のような街に魅力を感じてはいないのです。是非とも、そうした「思想」「理念」を重視して「街景観」を形成していただきたいものと切に願う次第でございます。小生は、そちらの方が地方の活性化に直結する近道だと確信するものでございます。

 かような次第で、最後には暗澹たる思いを胸に、かつての面影を全く消失した“優れてイマ風”の、まるで東京都内の主要駅と見紛うばかりに小洒落た店舗ひしめく土浦駅構内から、「常磐・品川ライン」に飛び乗って帰路についた次第でございます。それは、当方の下車した亀有駅が途轍もなく田舎駅に見えたほどの“凄み”を有しておりました。もっとも、何時も何の感慨も抱かずに利用している、何処にでもある“フツウ”の亀有駅に、妙に肯定的な有難味を感じる自分がいたのも正直なところでございます。“バカボンのパパ”が発する「これで、いいのだ……」という科白が、その時ほど胸に沁みたことはないかもしれません。
 

 

 三上 延『ビブリア古書堂の事件手帳』最新刊の上梓に寄す ―または古き良き「古書店」に漂う空気感の至福―

4月29日(金曜日)

 

 新年度が始まって瞬く間にひと月が経過し、何とかの一つ覚えのように用いております“風薫る五月”に入ります。先月中旬頃に俄かに沸いたような“初夏”の陽気も手伝って、「皐月」「躑躅」も、「藤」の花も、既に盛りを過ぎてしまったように感じます。そういえば、今春は、真っ先に春の訪れを告げる楚々とした「辛夷(こぶし)」に千葉の地で沢山接することができたことを嬉しく思っておりましたが、うっかり御紹介することなく本日に至ってしまいました。この樹木に出会うのは里山であることが多く、すっかり葉を落した楢・櫟を主体とする雑木林に混じって、その彼方此方に“真綿色”の一塊を臨むことで春を実感できる嬉しい花であります。しかし、都市部ではそもそも斯様な里山が最早存在しませんから、街の何れかの庭にでも植樹されていない限りは、なかなか出会うことができません。従って、気が付いたときには花の季節が過ごしてしまうことが多いのです。今年は、ちょうど辛夷の花咲く時節に、業務関連にて里山を間近にする機会があったことが幸いしたようです。そういえば、この花は、壇ノ浦で敗れた平家落人に関する悲しい伝説にも彩られております。九州の山奥に逃れた平家落武者が、ある朝目覚めると周囲を白旗に囲まれていることに観念し、最早これまでと挙って自刃に及んだこと。しかし、それは辛夷の一斉開花であったというものでございます。その他に、里山に自生する「山藤」も、淡い薄紫で初夏を彩る忘れ難き花であります。極々僅かではありますが、亥鼻山の「いのはな亭」脇にもその「山藤」がございます。今年も10日程前から花をつけておりますが、わずかではあっても、ハッとさせるような色彩でその場の在り様を華やかに転換するだけのインパクトを持っております。それだけに、昨今のように佳き季節が足早に過ぎ去ってしまうことが残念でなりません。

 さて、副題に掲げましたように、標記シリーズ最新刊が3月末に上梓されました。本シリーズは、平成23年(2011)、KADOKAWA「メディアワークス文庫」の一冊として初編が刊行されたのを嚆矢とし、第一シリーズ7冊、そして第二シリーズの本作が第3巻となり、現段階で合計10冊を数えております。最新刊もおそらく斯くなるものと推察致しますが、メディアワークス文庫で初のミリオンセラー作品だそうですから、多くの方々に親しまれる作品であることは間違いありますまい。初編刊行の2年後にはテレビドラマ化(主人公:剛力彩芽)、7年後には映画化(主人公:黒木華)もされたことからも人気の程が窺えます。小生は、本作も含め全作を購入・拝読し、テレビドラマも放映と同時に拝見しました(映画は未見)。タイトルからも類推できましょうが、本作は所謂「ビブリオミステリー」とも称すべき作品であり、古書店主人であるヒロインが、依頼主から持ち込まれる古書に纏わる“謎”を解き明かしていく……といったストーリー構成をとる作品であります。書物への遍く愛情と該博な知識を身に纏いつつ極度の人見知りである店主が、篠川栞子(しのかわしおりこ)なる美貌の女性と設定されており、その古書店が祖父の代から北鎌倉に古風な木造店舗を構える「ビブリア堂古書店」となります。そして、その母親である篠川智恵子も重要な登場人物となっております。智恵子は猟奇的と称することが可能なほどに、関心ある古書への執着を持つ女性であります。彼女は、栞子が幼い時分に家族を捨てて出奔した経緯を持つ人物であり、今でも神出鬼没で、彼女の力となったり壁として立ちはだかったりとするなど、母子の愛憎相半ばする感情が物語の縦糸になっております。更に、ひょんなことから古書をめぐるトラブルに巻き込まれたことから栞子と親しくなる、五浦大輔(ごうらだいすけ)が脇侍として登場。彼は、とある経験から活字恐怖症とも称すべきトラウマを抱える人物であり、読書と無縁な生活を送ってきたのですが、事件に関わる過程で栞子との関係性が深まっていきます。その大輔と栞子との関係性が物語の横糸となり、古書をめぐる関係者の人間模様が紡がれていきます。それはシリーズに一貫した基調をなしております。物語そのものは基本的に一話完結をとっておりますが、相互に緩く関連しあっております。それも続けて読み続けたくなる動機となります。従って、アニメ「サザエさん」のように時間軸を度外視した作品ではなく(何十年も年齢も学年も変わらず)、当然シリーズ刊行の経過+αが組み込まれて物語が展開されていきます。“ネタバレ”となり恐縮ではございますが、最新刊では二人は高校生の娘扉子(とびらこ)の親となっております。

 本作は、所謂「ラノベ(ライト・ノベル)」に分類される書籍なのだと思われます。そもそも、ラノベなるジャンルが如何なるものかも当方は関知しませんので、安直にも“ウィキペディア”で調べたところ、以下のようにありました。


 

 業界内でも明確な基準は確立されておらず、はっきりとした必要条件や十分条件がない。このため「ライトノベルの定義」については様々な説がある。いずれも客観的な定義にはなっていないが「ライトノベルを発行しているレーベルから出ている」「出版社がその旨を宣言した作品である」「マンガ、萌え絵のイラストレーション、挿絵を多用し、登場人物のキャラクターイメージや世界観設定を予め固定化している」「キャラクター描写を中心に据え、漫画のノベライズのように作られている」「青少年、あるいは若年層を読者層に想定して執筆されている」「作者が自称している」などが挙げられる
2004年に刊行された『ライトノベル完全読本』(日経BP社)では「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」とされていた。榎本秋は自著における定義として「中学生/高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説」と記している。あるいは「青年期の読者を対象とし、作中人物を漫画やアニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」とするものもある。森博嗣は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやすい小説」だとしている。又は「マンガ的あるいはアニメ的なイラストが添付された中高生を主要読者とするエンターテインメント小説」とするもの、「アニメ風の表紙や挿絵。改行や会話が多い文章」とするものもある。
作家側も発行レーベルや対象読者層など、ライトノベルとそれ以外の小説を必ずしも区別して執筆しているわけではない。また、出版社側も明確にライトノベルと謳っているレーベル以外では、ライトノベルとそれ以外の小説の線引きを行い、出版しているわけではない。

(以下略)

 

 

 以上からも判明するように、その定義は到って曖昧かつ広範であり、書いているご本人も恐らくその実像を掴み兼ねている感がございます。従って、本作がホントウに当該ジャンルの作品なのかは判然とはいたしません。“アニメ風”の装丁で“文庫版書きおろし”作品であること、かつ肩肘張らずに読める平易な作風という点では、“ラノベ”に該当するといってよさそうです。実際のところ、その書きっぷり(「文体」)も、至って“ライトな(軽い)”ものであります。しかし、決して軽すぎることはなく、当方のような還暦をすぎたロートルにとっても鼻白むことは一切ございません(むしろ現在放映中の大河ドラマで描かれる源義経の余りに軽々しい奔放さに全く感情移入ができません)。各巻ともに結構な厚さがありますが、のんびり構えてさえ一冊の読了には一日もあれば充分。小生などは、至って単純な人間ですので、ワクワク感に導かれ通勤電車往復で読み切ってしまうほどです。その意味では、かつて“ジュブナイル”と総称された青少年向け作品群の派生型なのかもしれません。しかし、内容は大人が読んでも充分に引き込まれる内容であることも確かであり、必ずしも“ラノベ”と言い切れないものも感じます。そもそも作品中で扱われる古書も青少年が読むような内容とは言いかねます。もっとも、自分で書いていて何をか況やでありますが、斯様なジャンル分けなどには意味がないのかもしれません。確かに、本作がミステリーとして秀作かと問われれば、もっと優れた作品は掃いて捨てるほどございましょう。つまり、本作の魅力は別なところにあると考えます。小生が本作の何処に惹かれるかを問われれば、月並みな物言いとなりますが、まずは、登場人物の人間造形が魅力的ということになります。登場人物の人間模様もなかなかに読ませるのです。しかし、本作の魅力と人気の要因はそれだけには留まりません。それは如何なるものでありましょうか。

 その第一は、事件に関わる形で小説中に採り上げられる書籍(作品)が、物語の筋立中に的確・適切に選択されており、何よりもそのことへの興味が尽きないことにあると思います。当方は、本作を通じて初めてその存在を知った書物が多々ございます。また、当該書籍を知ってはいても、作品(書籍)を巡る“物語”の奥深さに瞠目させられたことも一つや二つではございません。前者で申せば、アメリカの作家ロバート・F・ヤングのSF短編小説『タンポポ娘』、そして古書の“瀬取り(本来は海上にて船舶同士で荷物の遣り取りをすることを指しましょう)”なる転売の手法を扱う小説である梶山季之『せどり男爵数奇譚』(ちくま文庫)等々。これらの作品は、本作で出会なければ恐らく一生読むことのなかった作品に間違いがないと思っております。自分自身も早速に贖って一読に及びましたが、読書の時間を大いに楽しむことができました。それは、最新作においても例外にあらず。脇役として登場するだけですが、山田風太郎『人間臨終図鑑』にも大いに興味をそそられました。近々是非とも入手して一読に及びたいと思っております。

 一方、後者では、スタンリー・キューブリックの手による映画作品としても親しまれている、アメリカの作家アントニー・バージェスのディストピア小説『時計じかけのオレンジ』があげられます。本作には、本来あるべき最終章が削除されて刊行された経緯があったそうで、映画もその版を原典として制作されたこと、その後に完全版が改めて出版されたこと等々を初めて知り及びました。その完全版も翻訳されておりましたので一読に及びました(ハヤカワepi文庫)。そして、当たり前のことですが、最終章の有無で、作品の印象が相当に異なることに驚かされた次第であります。これも当方にとっては“ビブリア堂”効果の賜物です。また、我々のような世代の人間にとっては、角川文庫で大量に出版された文庫本(黒い表紙)作品群で馴れ親しんだ推理小説の大家横溝正史の手になる『雪割草』。本作は、戦時中にその本領である推理小説の執筆を止められたことから、糊口を凌ぐためもあって地方新聞に連作した“家族小説”であり、長く“幻”となっていた作品であります。同様に幻の作品発見のニュースとして、横溝と同じ推理小説家であった小栗虫太郎(怪作推理小説として名高き『黒死館殺人事件』の作者)が、同時代に地方新聞に家庭小説として『亜細亜の旗』を連載したことと軌を一にしております。そちらも近年実作が見いだされ、両作品とも目出度く書物に纏められ上梓の運びとなりました。このことを泉下の両巨頭もお喜びになられておりましょう。当方は未だ両書とも入手出来ておりませんが、是非とも贖いたいものと考えるところでございます。従って、これもまた、ビブリア堂のお陰であります。他にも自分だけでは絶対に広げることのできなかった多くの書物に目を開かせてくれた、感謝すべきシリーズでもあるのです。実際、長く品切れであったり絶版とされていた作品が、本作の人気故に復刊の運びに至ったものも多々あると耳にしております。

 二つ目に、これが、当方が本作を偏愛する最大の理由でありますが、その舞台が古ぼけた、昔乍らの「古書店」であることにこそあります。古書店を舞台にした事件簿ということでは、宮部みゆきの短編小説集『淋しい狩人』(新潮文庫)がビブリア堂に先立つ作品であり、もしやして三上氏は当作品に接してビブリア堂物語の着想を得たのかもしれません。しかし、昭和46年(1971年)に生まれの三上氏自身は、大学卒業後に中古レコード店と古書店で働いた経験があったとのことですから、実地でのご自身の経験から着想された側面も見逃せないと思われます。実際に、古書をめぐる事件簿ということの共通点を除けば、両者の読後感は相当に異なります。宮部氏の作品は、荒川土手近くの下町にある何でも手広く取り扱う小さな古書店。その主は60代半ばの頼まれ店主で、唯一の孫の手伝いを得て営業をしているという設定であります。そもそも、物語上、事件と古書との関係性は“ビブリア”程に濃密ではございません。落語の人情物を思わせるような“人懐こい”語り口に、何時もの宮部作品らしさが色濃く感じられますが、小生としては彼女の手になる“時代物”の魅力が勝るように思います。もっとも、両作の優劣つけることには意味がありません。それぞれの良さをこそ認めるべきでございましょう。

 さて、当方の最も心惹かれる要因として挙げさせていただいた、古書を扱う店舗が舞台となっていることに関する話題に戻りましょう。昨今「古書」を扱う店舗として多くの方が思い浮かべるのは、大手チェーン店の姿ではございますまいか。一般書籍からコミックス・雑誌まで、書籍に限らず音楽ソフトからゲームソフトまで、ガレージのような広い店舗内に雑多な商品が所狭しと配架されている在り様はナカナカに壮観でございます。しかも、価格設定は当該書籍・ソフト自体の価値にはなく、専らそれらの品質・状態によって決められるとのことでありますから、古書市場で何万円もの値札が付される古書が、数百円で売られているケースすら儘ではないなど、その存在はナカナカに侮れないものがございます。しかし、こうした店舗は、古物商としての「古書店」ではあることは間違いありませんが、小生の偏愛するところの「古本屋(ふるほんや)」の範疇には入りません。それは、間口が狭く奥行の長い、鰻の寝床のような平面構成をもち、その両脇に天井まで届く作り付けの書棚に加え、中央部に奥まで続く両面配架の書棚が続くような店舗を有する古書店に他なりません。その中央の奥まった部分には通常は帳場があり、眼鏡を鼻にかけた店主老が古書の品定めをしながら店番をしているような古書店。その逆側の店先には当該店舗の目玉商品が展示してあったりすることが多いものです。かような「古本屋」は、扉を開けて入店すると、店主が薄明の奥から上目遣いに客をギロリと一瞥するのがお約束でありましょう。両側を書棚で囲まれ、ただでさえ狭隘な通路の下にも平書棚があり、そこにも書籍が重ね置かれており、人一人がようやく歩けるほどしか通路が確保されていないケースが殆どです。店内には「古本屋」特有の匂いが満ちております。何でも、この匂いの正体を調査研究した奇特な御仁もいるそうです。その報告によれば、それは紙・インク・表紙に含まれる成分が変質したものだそうで、アーモンドやバニラビーンズに含まれる“薫成分”と同一だそうです。当方は、この匂いを嗅ぐだけでも心が満たされます。小生にとっては、斯様な古本屋こそ贔屓とすべき古本屋であります。良質の書籍に囲まれた空間は、恰も“揺り籠”に揺られるかのような至福の想いに誘います。そして、「ビブリア堂古書店」が斯様な店舗として造形されているのですから堪えられません。それだけでも、本作は当方にとって大切な書籍になり得るのであります。

 こうした古本屋は、東京では古くから古書店が蝟集してきた「古書街」と称される場、すなわち「神田神保町」、「早稲田通り」、「東大前通り(江戸時代の中山道)に措いて顕著な「古本屋」の在り方でありました。特に神保町は戦災を免れた店舗が多かった所為か、建築史家・建築家の藤森照信氏命名とされる「看板建築」と呼ばれる日本家屋の正面を意匠化された銅板によって囲った建物が沢山残っており、その殆どが上記のような体裁の店舗でした。こうした古書街では、各店舗毎に扱う書籍が専業化しており、国文学関係、歴史関係、美術書関係、音楽諸関係、和綴本等々の細分化した店舗経営をされております。しかし、それも近年立派な建物に置き換わってしまいました。因みに、神保町で古本屋が靖国通の南側にのみ展開しているのは、店舗を北向きにすることで書籍が日焼けすることを防ぐためです。ただ、日本最大の「古書街」としての神保町の在り方は未だに健在であります。しかし、一般的に価格設定が安価であるため当方の贔屓筋であった古書店街の一方の雄であった早稲田通りの古本屋街については、ここ20年内に約半数が閉店したそうです。東大赤門前の通りの古書店街は最早見る影もなくなっております。斯様な「古書街」を形成していなくとも、国内各地には良質の品揃えを誇る、魅力的な個人経営の古書店が必ずや存在しており、地方都市を訪問する際の大きな楽しみの一つでもあります。しかし、昨今は大手チェーン店に押されて次々と姿を消しているのが現実です。千葉市中心街で唯一マトモな商品展開をされていた「稲生書店」も、後継者がいらっしゃらなかったようで閉店されて久しくなりました。それでも、市川市「市川真間駅」近くの京成線路脇で永く店を続けていらっしゃる「智新堂」は健在です(永井荷風もよく脚を運んでいたそうです)。嬉しいことです。

 地元葛飾区では、亀有には小生が知る限りで元来そうした古本屋は存在しませんでした。敢えて挙げれば青砥駅から近くの「竹内書店」くらいでしょうか。こうした古本屋のある街は、小生の勝手な決め付けかもしれませんが、「教養ある街」と言えるのではありますまいか。何故かと申せば、良質の図書が地元客によって購入されることで、古本屋の経営が成立しているのですから。因みに、当方が「教養ある街」だと確信する「街」とは、マトモな古本屋が存在する街、伝統的な和菓子屋が成立している街、古くからの商店街と飲食店(酒場も含む)が元気な街といったところです。逆にそう感じさせない街とは、チェーン店ばかりが目立つ街、洋菓子屋しかない街、ラーメン屋ばかりが幅を利かせて居る街、大手スーパーマーケット・チェーン店ばかりが目立ち個人経営店が衰微している街といったところだと思っております。葛飾区では、当方の居住する亀有は問題外!!正に失格です。逆に、“呑兵衛の聖地”と称される立石は合格!!何故!?と思われるかもしれませんが、個人経営の店舗(商店街も酒場も)が到って元気!良質の古本屋も和菓子屋も健在です。歩いていて楽しい街なのです。しかし、ここも北口は再開発対象地となり、魅力的な個人店が撤去されてしまいました。未だ南口の聖地は健在ですが、余命は幾ばくもないと思われます。

 千葉市はどうかと申せば、本来良質の古本屋が櫛比していて不思議ではない千葉大学周辺でさえも良質の古本屋は皆無です(現在地が千葉大になったのは昭和36年のことでありますのでそれもあると思われますが)。残念ながら、千葉市の街は、書籍に関わらず古いものをあまり大切にしない地域性なのかもしれません。最後は『ビブリア堂古書店の事件手帳』からも外れて、話が「街」の在り方なる“明後日の方向”に進んでしまったようです。申し訳ございませんでした。しかし、改めて申しげたいと存じます。他の条件の適否はいざ知らず、良質の古本屋の存在は、「教養のある街」か否かを計る極めて重要なバロメータとなると小生は確信します。その意味で、「ビブリア堂古書店」が店舗を構える場として設定されているのが、「北鎌倉」とは何と絶妙な場でございましょうか。伝統のある歴史と自然の豊富に存在する風致地区に、古くから店を構える木造の古書店は、それだけで絵になりますし、魅力的な店舗であろうと想像できます。店主が「老眼鏡を鼻先でかける」老人ではなく、魅力的な女性であるギャップも結構な設定だと思います。それを度外視しても、店舗の中では時が止まったかのような静謐な空間が広がり、そこには古今東西の「知」が集積された萬巻の書物が詰まっているのです。斯様に魅力のある店が他にあるとは思われない程です。

 もし、本書を一冊もお読みになられていない方で、コロナ禍で外出の予定も特段に予定されていないのであれば、今日から始まる連休のお供に本シリーズなど如何でしょうか。この一週間が、過たず「ゴールデン・ウィーク」と化すこと必定……だと思われます。もっとも、そうではなかった場合の苦情については、一切申し受けかねますので悪しからず。


 

 

 「旅する音楽家」ヨハン・シュトラウス2.世にとってのロシア「パブロフスク音楽駅」(前編) ―または 鉄道がつなぐ19世紀の音楽文化の交流と伝播について―

5月3日(火曜日)

 

 世は挙げてゴールデンウィーク本番に突入いたしましたが、本年2月の末に勃発したロシアによるウクライナ侵攻も、既に3か月目に突入いたしております。そして、ウクライナ東部へ制圧に方向転換したように見えるロシア軍の攻撃は激しさを増しており、ウクライナ国民生活は理不尽にも蹂躙され続けております。更に、悲劇的なことには、数多の国際社会からの調停の働きかけも入れられることなく、未だに終息の端緒すら見いだせない状況にあることです。その報道に接するにつけ、幼子をも含むウクライナ国民が遭遇している物理的・精神的な被害の激しさに心が痛みます。しかし、どうにかできないものかと思いつつ、大したことも出来ずにいる自分にもどかしさで一杯ともなります(4月末日に、千葉市に避難していらしたウクライナの方々10名程がご来館されましたが、お伺いしたところマリウポリ近郊からとのことでした)。同時に、かつての「ファシスト」達と選ぶことなき理不尽な対応には怒りがこみ上げます。それでいて、相手をファシスト呼ばわりする自己撞着にも理解しがたきものを感じるところでございます。しかし、その一方で、本邦における本情勢への対応の中にも、違和感を禁じえないことが間々あることもこれまた事実であります。それが、在
日するロシアの方々に対するヘイト的な誹謗中傷、(無意識なのかもしれませんが)同胞によるロシアの方々への心無い行動であります。

 4月15日(金曜日)の朝日新聞に、山手線恵比寿駅構内のロシア語案内表示に紙を貼り文字を隠す状態にしていることが分かったとの報道がありました。JR東日本によれば「ロシアによるウクライナ侵攻を受け、利用者からロシア語の標記を疑問視する意見が相次いだため(利用者から“不快だ”との声が複数寄せられたとのこと)」とのこと。ところが、SNSでの本対応への批判の声の高まりをうけて、JR東日本は現状に復帰することが妥当と判断して紙を剥がしたとのことです。全く主体性の欠如した朝令暮改は、如何なる精神構造によるものなのか理解に苦しみます。更に、18日(月曜日)千葉日報には、滋賀県長浜市内の旅館で「ロシアとベラルーシの人たちの宿泊を拒否する」とホームページに記載したとの記事が。これに対しは、旅館業法に抵触する恐れがあるとの県からの行政指導があり、それを受け旅館は当該記載を削除したとの内容でした。こうした日本人の動向に対して、NPO法人「ワールド・オープン・ハート」代表の阿部恭子氏は「ロシア語の案内をなくすことは結果的に差別にあたり、消極的なヘイト行動に該当する。侵攻が始まってから、『ロシアに関係することは叩いてもよい』という同調圧力が強まり、企業もそれに過剰に反応してしまっている。日本に住むロシア人を差別しても戦争を止めることにはつながらないという理解を広げる必要がある」と指摘されています(「朝日新聞」)。一方、札幌で3月に計画されていたロシア文学関係パネル展が、嫌がらせを受けるリスクが大きいとの判断から延期されたことに対して、札幌大学の岩本和久教授が以下のように懸念を示されておられます(「千葉日報」記事より)。「日本が国として毅然とした態度を取ること、単にロシア人に憎しみを募らせることは全く別問題だ。民族差別につながるような動きを広めるべきではない」と。

 ご両人のご指摘は、議論の余地すらない、一点の曇りなき“自明の理”であると思われますが、なぜこうした動向に繋がるのか不思議でなりません。こうした個人攻撃は、問題解決に資することは全くなく、鯔の詰まり日本人に対する悪感情(怨恨)のみを後に残すことにありましょう。少なくとも、こうした日本人の言動が、両国民間の明るい未来に繋がることは皆無かと存じます。現状における我が国の同調圧力に基づく“自主規制”とは(実際のところ声のでかい僅かな人々の主張に流されているだけだと思われますが)、先の戦争で我が国に極々頻繁に生じた動向と、殆ど選ぶところが無い状況にあろうかと存じます。しかし、初期に極々僅かな声によって生じた“自主規制”の動向が、その内に社会全体の潮流となり、個人も企業も官公庁も率先して権力に追従するように自主規制を重ねていったことを思い浮かべねばなりません。その結果、冷静な思考に基づく個人の判断は抹殺され、社会が大きな「鬼畜米英」というスローガンの津波に飲み込まれていった経緯を、恐らくかつて戦争の時代を体験された方々であれば苦い思い出としてお持ちのことでありましょう。戦後生まれの当方は、勿論そうした経験をした訳ではありません。しかし、かの時代のことを知らなければ過ちを繰り返すとの思いから、及ばずながら学びを続けてまいりました。その意味でも、歴史に学ぶことが、どれほど重要なことかお分かりになると存じます。かようなこともあり、“天邪鬼”の当方としては、敢えてロシアに関する話題、とりわけ、周辺国との音楽文化交流について取り上げようと思った次第でございます。

 そこで、まず最初に皆様に以下のように問うてみたいと存じます。「『ロシア(ソ連)音楽』と聞いて何を思い浮かべましょうか」……と。勿論、その答えは十人十色でございましょう。もし、クラシック音楽好きな方であれば、チャイコフスキー(1840~1893)、リムスキー=コルサコフ(1844~1908)、ムソルグスキー(1839~1881)、ラフマニノフ(1873~1943)といった、帝政ロシア時代を活動の中心とする錚々たる一連の音楽家を想起されましょうか。また、何とも浪漫的で何処か哀愁に満ちた旋律を彷彿とされる方も多かろうと存じます。実のところ、今回本稿で触れてみたいと考える音楽の交流とは、主にこの時代の作曲家と重なるのです。更に、時代を下ったロシア革命を契機に誕生する社会主義国ソヴィエト連邦下で活躍した、プロコフィエフ(1891~1953)、ショスタコーヴィッチ(1906~1975)といった作曲家も忘れるわけには参りません。その作品は、一方において国家の在り方を反映した“モダニズム”的色彩を纏いつつ、他方で国家との軋轢により引き裂かれた個の苦悩を垣間見せるが故に(特に後者)、その音楽は現代人の心に痛切に刺さるように思います。何れにせよ、上記いたしましたロシア・ソ連人の作曲家の存在を抜きに世界各地の演奏会が成立しないことは自明であります。それほどに、音楽界において重要な位置を占める作品を生み出した国、それがロシア・ソ連であることは疑いありません。その他、俗に言う「唄声酒場」「唄声喫茶」なる場で仲間と歌った、哀愁に満ちた「ヴォルガの舟歌」「トロイカ」「カチューシャ」等々、ロシア民謡の数々を懐かしく想い出す年輩の方々も多かろうと存じます。何れにしましても、ロシア所縁の音楽が、どれほどに我々の生活とも切っても切れない縁によって結びついているかが偲ばれましょう。個人的にはドイツ・オーストリア音楽、イギリス音楽、フランス音楽も、昨今になって素晴らしさに気付き始めたイタリアオペラも大切ではありますが、ロシア音楽を欠いた音楽生活など想像だにできないほどであります。

 一方、一昨年の本稿でも取り上げたことのあるウィンナ・ワルツの泰斗「シュトラウス・ファミリー」[父ヨハン(1804~49)、子のヨハン2.世(1825~99)、ヨーゼフ(1827~70)・エドゥアルト(1835~1916)]の作品群もまた、クラシック音楽ファンに限ることなく本邦では大いに持て囃されております。優雅なワルツやポルカ、行進曲の数々は、作曲者名を知らずとも、そのメロディを一聴しただけで、誰でも直ぐに併せて口遊める作品ばかりです。バッハ(1685~1750)、モーツァルト(1756~91)、ベートーヴェン(1770~1827)、ブラームス(1833~97)等々の大作曲家と比べられ、あたかも“ライト・クラシック”的な扱いをされがちな作曲家ではございますが、作品の質はそれら大作曲家と遜色のないレヴェルに達したものが多いと認識しております。“ワルツ王”ヨハン2.世と同時代人であるブラームスは、個人的に深い親交を持つとともに、その作品に対しての賞賛を惜しむことがありませんでした。当方も、彼らの作品を心より愛する者でございます。彼らの音楽は、云うまでもなく爛熟した都市文化華やぐ19世紀末ウィーンを舞台に花開いたものであります。即ち、当時のハプスブルグ家によって支配される「オーストリア=ハンガリー二重帝国」を象徴する音楽とも申せましょう。この場で、ロマノフ王朝統治下ロシア帝国の音楽と、ハプスブルグ王朝統治下オーストリア=ハンガリー帝国におけるシュトラウス・ファミリーの音楽という、一見(一聴)して明後日の音楽を並列にして取り上げるのか、不可解の想いに思われる方もございましょう。しかし、実のところ両者には深いつながりが存在するのです。それについて、歴史的背景もふくめて解き明かして参ろうと存じます。

 ここでは、18世紀におけるロシアを中心とするヨーロッパの状況を簡略に確認しておきたいと存じます。当時のロシア帝国については、以下のように申しても大方は間違いではありますまい。つまり、西欧諸国に比べて圧倒的に遅れた社会構造を、如何にして改善して近代化を達成するかに邁進した時代であったことであります。その先鞭をきったのが、他ならぬあのピョートル大帝(1672~1725)でありましょう。彼は、バルト海に面したネヴァ川の河口デルタ地帯に、1703年より「西欧に開かれた窓」となる巨大都市の建設を始め、実質的に自身の名を冠した「サンクト・ペテルブルグ」(以後「ペテルブルグ」と略称)と名付けたのです(キリスト教の聖人名である“ペテロ”のロシア音が“ピョートル”~余計な話ですが、同様に英語で“ピーター”、ドイツ語で“ペーター”、フランス語で“ピエール”、イタリア語で“ピエトロ”、スペイン語で“ペドロ”が各国音であります)。そのモデルとなったのが、ロシアと同様、遅れて近代化に着手して近代化の成果をあげている国家「プロイセン」と、“新古典主義様式”に彩られたその王都「ベルリン」の姿であったとされます。そして、それと近似した趣を有する都市が荒野に忽然と姿を現したのです(ロシアの都市でありながら、都市名が“ロシア語”ではなく“ドイツ語”表記とされた所以であります)。都市ベルリンが第二次大戦末に完膚なきまでに破壊され、その都市景観が大きく損なわれてしまったのに対して、今ではペテルブルグこそが世界を代表する新古典主義洋式の都市景観を残す都市として評価され「世界遺産」にも指定されているのです(もっとも、史上最も凄惨な戦争と称される「独ソ戦」による被害をペテルブルグも相当に受けております)。あまつさえ、ピョートル大帝は、1712年に内陸奥深い地にある伝統あるモスクワの地からからの遷都を行い、以後ロシア革命でロマノフ王朝が滅びるまでペテルブルグが帝政ロシアの首都となるのです。ここでは、興味の尽きないピョートル大帝についても、都市ペテルブルグについても、これ以上述べることは致しません。
(中編に続く)

 

 

 「旅する音楽家」ヨハン・シュトラウス2.世にとってのロシア「パブロフスク音楽駅」(中編) ―または 鉄道がつなぐ19世紀の音楽文化の交流と伝播について―

5月4日(水曜日)

 

 ピョートル大帝によって着手された急速な近代化路線と、その下でのロマノフ王朝の在り方は、エカテリーナ女帝(1792~96)統治下での全盛期を経て、紆余曲折はありますが以降のロシア政策の基調となります。一方で、その後のニコライ1.世(1796~1855)は、対外的に“汎スラヴ主義”の土台を築き上げ、所謂「南下政策」を推進することになります。特にバルカン半島への影響力を扶植することを画策し、ギリシアやセルビアの独立運動を支援しています。そして、ギリシア正教会の保護を口実にオスマントルコへの干渉を行ったことから両者の対立が表面化。各国の目論見はそれぞれ異なるものの、基本的にロシア南下政策を恐れるイギリスとフランスがトルコを支援して、ロシアとの戦争が勃発します。これが「クリミア戦争」に他なりません(1853~56)。この時、オーストリアは中立的立場を採りながら外交的にロシアを圧迫するなど、基本的にロシアと敵対的な姿勢を採ります。しかし、結果として大きな影響力を発揮し得ず、戦後にはロシアとの関係を拗らせるとともに、ヨーロッパにおける政治的影響力を低下させていくことになります。クリミア戦争は最終的にロシアの大敗に終わりますが、この戦いは改めて大国ロシアの後進性を白日の下に晒すこととなり、その自覚の下にロシア国内での更なる近代化の動向を促進することに繋がります。戦争渦中ニコライ1.世の死により後継となったアレクサンドル2.世(1818~81)による「農奴解放令」(1861)はその象徴的な施策と申せましょう。つまりは、以降に述べるヨハン・シュトラウス2.世とロシアの音楽家とが交流を育んだ時代的背景とは、ロシア帝国とヨハン2.世の母国オーストリア=ハンガリー帝国との関係は好ましからざる状況にあったという訳です。

 ここで、今回の話題のもう一つの前提条件について押さえておきたいと存じます。それは、ロシア帝国首都ペテルブルグの南東30kmに位置する「パブロフスク」なる都市についであります。両者間の距離とは、お江戸日本橋から見ると、東海道を行けばざっと横浜のあたり、房総へ向かえば凡そ千葉市内幕張あたりとなりますから、ペテルブルグの衛星都市と申せばよろしいでしょうか。事実、ここは現在“世界遺産”にも指定される「パブロフスク宮殿」が残ることからも明々白々。ロマノフ家一族の夏の離宮が置かれた場であり、都市名もエカテリーナ女帝が息子パーヴェルに当地を与えたことに由来すると言います。それに倣い、当該宮殿を中心として、18世紀半ばからは首都に居住する貴族や富裕者の夏の別荘地がその周辺に形成されていきます。その結果、このパブロフスクは閑静かつ優美な田園都市として形成されることになるのです。そして、首都と当地とを結ぶ利便性を確保することを目的として、1837年両都市間でロシア国内初の鉄道が営業を開始しました。今回の話題でキーワードの「鉄道の開設」に他なりません。更に、終点のパブロフスク駅舎は「ヴィクソール・パビリオン(ヴァグザール)」と称される、一種のコンサートホール機能を有しておりました(この名称もイギリス由来であり、ロシアにおける西欧コンプレックスが見て取れます(因みに当名称は以降のロシアでは「駅」自体を指す言葉に転化し現ロシア語での第一義は鉄道「駅」を表す言葉です)。そして、ロシア上流階層の夏季の優雅な生活を彩ることを目的に、鉄道会社は、独墺圏から著名な音楽家を高額の報酬によって招くことになり、それが大当りすることになるのです。この「音楽駅」に招かれた音楽家には、ピアニストとしても著名なロベルト・シューマン(1810~56)、フランツ・リスト(1811~86)、そして本,稿での主役となるヨハン・シュトラウス2.世と弟ヨーゼフらが名を連ね、演奏会を聴くために首都からも多くの人々が、鉄道を用いてパブロフスクを訪れるようになります。そして、その聴衆の中にロシアを代表する音楽家たちも含まれたのです。 

 さて、本稿における主役である「シュトラウス・ファミリー」に踏み込んでまいりましょう。1854年の夏、シュトラウスはロシアの鉄道会社から「パブロフスク音楽駅」で夏シーズンを通しての演奏会・舞踏会の指揮を依頼されます。彼に提示された条件は破格のものでした。宿泊費は会社負担、報酬は180,000銀ルーブル(オーストリア通貨で36,000グルテン相当)。母国ウィーン宮廷舞踏会での報酬が9グルテンであったと言いますから、眼の玉が飛び出るほどの金額であったことは間違いありません。また、演奏会は、夕方7時から最終列車の出発する9時45分(木曜日は11時、日祭日は11時15分)まで。皇帝一族が近隣のツァールスコエ・セロに滞在する9月は昼の演奏も担うこととなりました。また、彼自身の作品の他に、聴衆の好みに応じて著名な作曲家の作品の演奏すること、オーケストラはウィーンの楽団員を含めた30人とすることも定められたと言います。ヨハンは、このコンサートを1856年(この年は、何とクリミア戦争でロシアが大敗した年に他なりません)から1865年までの10年間の毎年、その後1869年と1886年の2回、合計12年にわたって引き受けております。このロシアでの演奏会は、シュトラウス・ファミリーに莫大な財を残したと言われますが、上記報酬額を見ればそれが強ち噂ではないと推察できるというものでございます。

 因みに、シュトラウスは、若き頃に革命運動を支持した経緯があったことから、母国フランツ・ヨーゼフ皇帝からの覚えは必ずしも目出度いものではありませんでしたから、ロシア皇帝の近くでの演奏を可能とする、この申し出は正に渡りに舟でもあったのです。本来は、ロシアとオーストリアとはクリミア戦争での対応を巡って対立関係にありましたが、そこは機を見るに敏なヨハン2.世のこと。アレクサンドル2.世の即位に併せて『戴冠行進曲』を献呈して御機嫌を伺っております(この曲は後編最後で御紹介する音盤にも収録されております)。その効果は抜群であったようで、国家同士の対立関係を他所に、皇帝はヨハンらの招聘に積極的であり、彼らへの支援を惜しまなかったと言います。そればかりか、あまつさえ皇帝一族は「パブロフスク音楽駅」におけるシュトラウス・ファミリーの演奏会に度々脚を運ぶことになったといいます。

 つまり、この間ヨハンは、一年の演奏会シーズンにおける約半分はロシアのパブロフスクで生活し、その地で作曲活動も繰り広げていたことになるのです。更に、ヨハンの都合のつかない場合は、時に弟のヨーゼフが駆り出され、代役を務めることすらありました。そして、より重要なことは、ロシアでのヨハン2.世の創作活動の充実にこそ求められましょう。皇帝からの支援と周囲からの賞賛の声の中で、彼の創作者としての精神が研ぎ澄まされていったものと思われます。何よりも、舞踏会のためのその場限りの機会音楽といった、彼らの音楽が有する本来の在り方を脱皮し、“聴くため”の「シンフォニック・ワルツ」という音楽作品への傾倒を強めていくことに繋がったことが重要です。よく知られる『トリッチ・トラッチ・ポルカ』、『常動曲』、『ペルシャ行進曲』、正に鉄道を題材とした『ポルカ観光列車』、等々の名曲が、パブロフスクにおいて、または当地での演奏会のために作曲されているのです。弟ヨーゼフとの共作となる傑作『ピツィカート・ポルカ』もパブロフスク由来の楽曲です。更には、「マイスター・ワルツ(傑作ワルツ)」の代表と目される『美しき青きドナウ』は、前半10年というパブロフスク生活の2年後に産み落とされております。彼のロシア生活は、莫大な収入に留まらぬ何物かをヨハン2.世にもたらし、「ワルツ王」としての飛躍を促したことは疑いありません。

 これまでヨハン2.世が、この地で多くの果実を得たであろうことを述べて参りましたが、その影響関係は決して片務的なものには留まらず、双方向に亘るものであったことを述べておきましょう。先に、パブロフスク音楽駅には大勢のロシア人音楽家が屡々脚を運んだと述べましたが、それが「近代ロシア音楽の父」とも称されるグリンカ(1804~1857)であり、音楽好きならば知らぬものなど存在しないであろう、リムスキー=コルサコフであり、チャイコフスキーであったのです。この地で、シュトラウス・ファミリーは、契約にもあったように、自作は勿論ですが従来ロシアでは余り知られていなかったヴェルディ・ワーグナー・ベルリオーズ等のオーケストラ作品も盛んに取り上げております。それらは、ワルツ・ポルカ等々の作品への興味を掻き立てると同時に、「オーケストラ音楽」なるものをロシアの地にもたらすことにも繋がったのでした。音楽研究者の中には、チャイコフスキーの手になる、『弦楽セレナード』(1880作)、バレエ音楽『眠れる森の美女』(1888~89)、バレエ音楽『くるみ割り人形』(1891~92)に含まれる、あの典雅極まりないワルツ作品(「花のワルツ」!!)群こそ、「パブロフスク体験の果実」との推測をされる方々もおられるそうです。これまでロシア音楽の中心は「宮廷」と「ギリシア正教会」でありました。そこに、皇帝・貴族を始めとする幅広い富裕市民層に音楽を提供できる媒体として「オーケストラ音楽」を知らしめたという面において、このパブロフスク音楽駅とシュトラウス・ファミリーが果たしたロシア音楽文化への貢献は、途轍もなく大きな意味を有しているのです。

 更に付け加えるとすれば、その後のロシア音楽界の逸材を輩出することになる“音楽教育機関”の設立年に注目すれば、アントン・ルビンシュテイン(1829~1894)による「サンクト・ペテルブルグ音楽院」の設立が1862年であり、弟のニコライ・ルビンシュテイン(1835~1881)による「モスクワ音楽院」の設立が1866年であります。つまり、ヨハンらがパブロフスク音楽駅で夏のシーズンの演奏会を担っていた最初の10年間の中に、双方の設立がすっぽりと納まるのです。これが単なる偶然とは思えません。両音楽院からは、この後に世界を席巻する音楽家たちが巣立っていきます。また、ロシア最古の伝統を誇る名門オーケストラ「サンクト・ペテルブルグフィルハーモニー管弦楽団」の実質的創設は1882年となります(その前史としての淵源は1772年に遡り1824年ベートーヴェンの傑作「ミサ・ソレムニス」世界初演の栄に浴しております)。やはり、ヨハン2.世の最後の「パブロフスク音楽駅」訪問の4年前にあたり、両者との相関関係は無縁とは申せますまい。名指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903~1988)と本オーケストラとの戦慄すべき名演の数々は、オーケストラでの音楽表現としての“極北”に位置付けられる……と称して憚ることが無い程の高みに達していると当方は確信いたします(政治的な意図に基づく都市名の変更により、当時の名称はレニングラードフィルハーモニー管弦楽団)。当方は、同コンビの実演に接することが叶わなかったことを“生涯の悔い”とするほどでございます。
(後編へ続く)

 

 

 「旅する音楽家」ヨハン・シュトラウス2.世にとってのロシア「パブロフスク音楽駅」(後編) ―または 鉄道がつなぐ19世紀の音楽文化の交流と伝播について―

5月5日(木曜日)

 

 次に、このシュトラウス・ファミリーのパブロフスク音楽駅での演奏会に纏わる、我が国との知られざる関わりについて少々……間奏曲(インテルメッツォ)として。この間の演奏会では、ヨハンの都合がつかない場合、弟ヨーゼフが代理で指揮台に立ったことを先に述べました。今回、ヨーゼフがロシアで指揮台に立った機会の全容を調べることは叶いませんでした。全てを単独で担ったことがあったのか、兄弟で分け合って担当した年があったのかも判然とはしません。ただ、上述しましたように、兄との共作『ピツィカート・ポルカ』はロシアで初演されておりますから、共演の機会もあったものと思われます。ここでは、明らかにヨーゼフが指揮台に立ったことが明らかな1862年の演奏会について述べたいと存じます。この年は、日本では幕末の文久元年にあたり、江戸幕府が諸外国との通商条約を締結した直後の混乱期にあたっております。そして、開市・開港関係事項の交渉のために幕府が初めて西欧諸国に使節団を派遣した年でもあります(「文久遣欧使節」)。この時の使節団の使命は、オランダ・フランス・イギリス・プロイセン等との間に締結された「修好通商条約」で交わされた、新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市についての“延期交渉”、及びロシアとの“樺太国境画定交渉”にありました。正使は竹内保徳、副使は松平康直(後の松平康英)、目付は京極高朗であり、この他、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)らが加わる40名弱の使節団でした(余談ですが、正使となった旗本の竹内は、箱館奉行となった際、幕命に逆らって、アイヌの人々が頭髪を切ることを免除し、彼らの漁の発展に尽力するなどしたことで、アイヌ人々から尊敬の対象となったと伝わる興味深い人物でもあります。“ニシン奉行”と称されたともあります)。今回は、趣旨が異なりますので、使節団の交渉成果等については踏み込みません。ここで強調したいことは、使節がロシアの首都ペテルブルグを訪問した、ちょうどその時がシュトラウス・ファミリーによる「パブロフスク音楽駅」演奏会の期間に当たっており、その時に指揮台に立っていたのが、兄の代理として来露していたヨーゼフだったことです。シュトラウス・ファミリーの作品が、その折々の時事的な内容を即座に取り入れていたことは、その楽曲タイトルから明らかでありますが、丁髷姿の日本人の来露という極めて稀なる時事ネタをヨーゼフが等閑に付すことなどありえません。そして、やはりそれに纏わる作品が作曲されていたのです。日本からやってきた使節団を歓迎するために、ヨーゼフは東アジアの旋律をいくつか盛り込んだ行進曲を作曲しております。それが『日本行進曲』に他なりません。勿論、使節一行がパブロフスクまで脚を運んで、この曲を耳にすることはなかったものと思われますが、ここからは機を見るに敏な、彼ら一族の楽曲制作の一端を垣間見ることができましょう。それが、我等日本との関わるという点で忘れることのできない事例かと考え、御紹介させていただいた次第でございます。

 ただ、この『日本行進曲』なる作品は、ペテルブルクの出版社によって楽譜が出版されたものの、ロシア国内のみでの出版に留まり本拠地ウィーン等での発売はありませんでした。従って出版部数も極めて少なかったようです。そのため、長らく楽譜が発見されず“幻の作品”であったとのこと。しかし、10年程前に、フルスコアではないもののピアノ譜が発見され、作品の概要は辛うじて把握できるようになったそうです。ただ、未だオーケストラ曲の形に復元されてはいないようです。マルコポーロ・レーベルでは、ヨハン2.世全作品収録盤に引き続いて、ヨーゼフ全作品集が録音・発売されましたが、兄の作品集が兄弟レーベルのナクソス社から廉価BOX盤となって纏められたのに対して、ヨーゼフ全作品は未だに単発発売のみで、しかも現状では櫛の歯が欠けるように入手不能盤も多くなっております。ナクソス社には廉価BOX化を実現していただきたいものです。おそらく『日本行進曲』は収録されていないものと思われますが、それでも、必ずや購入をいたします。当方は、兄ヨハンを超える弟ヨーゼフの天才を確信し、その作品を偏愛する者でもあります。世の“ヨーゼフ・ファン”のためにも是非に!!

 さて、今回の話題を改めて「シュトラウス・ファミリーの演奏旅行」という観点から振り返ってみましょう。すると、そこには「鉄道」の存在が色濃く影を落としていることにお気づきになられることでありましょう。そもそも、パブロフスク音楽駅での演奏会そのものも、鉄道会社が仕掛けて開催したものに他なりません。「旅する音楽家」という点では、他でもなくW・A・モーツァルト(1756~1791)の名が浮かんで参りましょう。彼の35年の生涯は“旅に次ぐ旅”に明け暮れたといっても決して過言ではないほど、演奏旅行のためにヨーロッパ中の悪路を馬車で駆け抜けた日々でもありました。18世紀後半を生きた音楽家モーツァルトの苦労は、残された彼の手紙で手に取るように知ることができます[『モーツァルトの手紙』上・下(岩波文庫)]。その意味では、シュトラウス・ファミリーの在り方もまた、モーツァルト以上に広範な地域を演奏して巡る「旅する音楽家」の姿そのものでありました。それは、少なくとも父ヨハン1.世の時代には、芸能人などが地方を巡業して「営業」に明け暮れる、平たく申せば「ドサ廻り」とほぼ同義のものであったことでしょう。しかし、モーツァルトから100年も経ていない19世紀半ばを活躍の舞台とした、ヨハン2.世の時代における「旅する音楽家」の在り方は、モーツァルトの時代とは大きく様変わりをしておりました。それが、冒頭にも触れたように、ヨーロッパ中に張り巡らされるようになった鉄道と、海を行き交う蒸気船航路の開設に他なりませんでした。

 勿論、現在と比較すれば、国家間の国境管理は到って厳格なものであり、簡単に国境を越えることは難しかったものの、それでもそのことさえクリアーできれば、鉄道と蒸気船により千里の路も“ひとっ飛び”という時代に突入したのです。ヨハンらがこれほど頻繁にロシアとの行き来が可能となった背景には、こうした交通網の飛躍的発展があったことを見逃すわけにはまいりません。記録が不完全であり判明しない部分も多いのですが、1856年初めてのロシア訪問の際には、ウィーンから鉄道に乗車、ベルリンを経てバルト海沿岸のシュテッティン(現ポーランド領)に至り、そこから汽船に乗り換えてバルト海を東へ向かいました。そして、バルチック艦隊の軍港として知られるコトリン島のクロンシュタットで下船してロシア帝国に脚を踏み入れたのです。そこからペテルグルグまでの移動の記録がありませんが、当地までは東に30km程となりますので恐らく別の船に乗り継いだのでしょう。ペテルブルグからは上述したようにロシアで初めて開通した鉄道によりパブロフスクに到着と相成りました。ヨハン2.世の事例にみるように、半世紀強の時代の推移は、音楽家たちにとってモーツァルトの時代とは隔絶した環境を生み出したのです。そして、鉄道が各国間・各地域間の文化的交流を盛んにし、互いの文化の交換が活発に行われるように様変わりしていたのです。上述したようなワルツの影響関係等もこれに当たりましょう。彼らに『エジプト行進曲』『ペルシャ行進曲』といった作品がみられることからも、彼らの目が世界に広がっていることを窺うことができましょう。あまつさえ、ヨハン2.世は大西洋を越え、新大陸「アメリカ」への演奏旅行まで行っているのです。ボストンでの演奏会で、彼は10万の聴衆を前にして1,000人の楽員・合唱団を指揮して作品を披露しております。こうしたシュトラウス・ファミリーの音楽を通じての国際交流は、落日の帝国であったオーストリア=ハンガリー帝国における私設“文化使節団”としての機能すら有するようになり、若かりし時分に革命運動に加担して忌避されがちであったヨハン2.世が、自国の宣伝に資する功労者として、掌を返すようにパプスブルグ帝国からも歓迎されることにも繋がりました。一方で、世界各国も外交に資することを目論んで、シュトラウス・ファミリーを自国に招聘することを後押しした側面もございます。実現することはありませんでしたが、明治期の我が国では、あの伊藤博文がヨハン2.世とその楽団の招聘を真剣に検討していたことが知られております。これ以降のヨハン一族の物語も大いに興味深いものがありますが。今回はここまでとさせていただきます。シュトラウス一族の作品群、ウィンナ・ワルツがその時代に果たした役割について、更に深く知りたいと思われる方は以下の書物をお薦め致します。本稿も本作を大いに参考にさせていただいております。

 

・小宮正安『ヨハン・シュトラウス-ワルツ王と落日のウィーン-』2000年(中公新書)
・加藤雅彦『ウィンナ・ワルツ-ハプスブルグ帝国の遺産-』2003年(NHKブックス)


 

 

 最後に、1枚の音盤を紹介させていただきましょう。ヨハン・シュトラウス2.世の「ロシア時代」と「ロシアにまつわる作品」を集めた、有りそうで無かった作品集であります。この手の企画盤は当方の知る限りこの1枚のみです。残念ながら、ヨーゼフ関連の作品は兄との共作『ピッツィカート・ポルカ』のみであることが残念ですが、指揮者ネーメ・ヤルヴィ(その子のパーヴォとクリスチャン兄弟も優れた音楽家です)が、彼の生地であるエストニア国立管弦楽団を振った演奏はナカナカに精彩に富んでおります。国も民族も異なりますが、ペテルブルグに極々至近の地の演奏家に拠ることもありましょうか。最後に、収録作品を掲げておきますので宜しかったらどうぞ。イギリス「シャンドス」レーベルの音盤です。他に、かつて「オーパス111」レーベルから発売されていた『パブロフスク・ステーション-ロシアにおけるオーケストラの誕生-』なる優れた音盤もありますが(地元ペテルブルグの演奏家に拠ります)、かなり以前に廃盤となりレーベル自体も消滅しており現在は入手不能の状態にあります。本盤には同時代のロシア人の手になるオーケストラ(管弦楽)作品が数多含まれており(グリンカの「ワルツ・ファンタジア」が素敵な作品です)、両者の影響関係を耳で確かめられる極めて優れた企画盤です。大いにお薦めしたい音盤なのですが残念です。是非とも中古盤を漁っていただければと存じます。

 そして、典雅な楽曲に親しみながらも、ロシアとウクライナのこと、併せてそれぞれの国民の引き裂かれた心情にも思いを寄せていただければと存じる次第でございます。そうすれば、前編の冒頭で述べたような、軽はずみなヘイト的な言動など絶えて久しくなりにけり……となること必定かと存じます。何時もの如く、口幅ったい物言いで誠に恐縮ではございますが、大切なことは、どうすることが最も的確・適切であるかを、「自らの頭」で充分に吟味してから行動に移すことだと存じております。

 

 

『シュトラウス・イン・サンクト・ペテルブルク』
1.ヨハン・シュトラウス2世:ネヴァ川ポルカ 
2.同:ペルシャ行進曲
3.同:ロシア行進曲
4.同:アレクサンドラ大公妃のワルツ
5.同:オルガ・ポルカ
6.同:アレクサンドリーネのポルカ
7.同:ワルツ『サンクトペテルブルクとの別れ』
8.同:田舎のポルカ
9.ヨハン2世+ヨーゼフ・シュトラウス
:ピツィカート・ポルカ
10.ヨハン・シュトラウス2世:大公行進曲
11.オルガ・スミルニツカヤ:初恋
12.ヨハン・シュトラウス2世
:ポルカ・シェネル『観光列車』
13.同:ワルツ『酒、女、歌』
14.同:戴冠行進曲
15.同:宮廷舞踏会カドリーユ
16.同:ポルカ・マズルカ『ヴォルガのほとり』
17.同:ロシアの主題によるカドリーユ
『サンクトペテルブルク』
18.同:シュネル・ポルカ『さあ踊ろう!』
19.同:ロシア風行進幻想曲
20.同:アレクサンダー・カドリーユ

 


 


 

 

 新垣結衣さん演じる「八重」異聞 または令和4年度「千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』」開催のこと(前編)―NHK主催「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』展」[5月15日(日曜日)まで!!]― ―パネル展会期[令和4年5月19日(木曜日)~7月12日(火曜日)]― ―「北関東編」ブックレット同時発売(1冊100円)!―

5月13日(金曜日)

 

 5月も半ばを迎え、亥鼻山にも子育てに南から渡ってきた燕の姿を眼にするようになりました。6月に入れば鬱陶しい梅雨となり、猛暑の夏ももう直であります。こうした中、本館を会場にして開催して参りましたNHK主催「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』展」も、残すところ本日を入れて3日となりました。決して豊富な資料が揃っているわけではございませんが、特筆すべきことは、全国どこでも行っている内容ではなく、千葉市独自にカスタマイズされていることにあります。つまり、千葉常胤を演ずる岡本信人さんに焦点を当てた内容となっていることが注目点でございます。特別に収録していただいた「ビデオメッセージ」では、実際のドラマ映像とともに、岡本信人さんの千葉常胤役にかける思いを熱く語っておられます。それだけを拝見いただけるだけでも価値があると思います。衣装も実際にドラマで岡本さんが着用されていたもの、小道具もドラマで岡本さんが用いていたものとなります。岡本さんのサインも掲示されております。別に岡本さんが別のメディア取材で本館においでくださった際に、厚かましくも「旗指物」に頂戴いたしましたサインも、会場内のモニター両脇に立てさせていただいております。本当は、源平合戦の時代には戦国時代に一般的となる斯様な“幟旗(のぼりばた)”は存在せず“流れ旗”でありましたが、安全性確保の事情から時代に適合した旗指物ではございませんが、これにつきましてはご容赦くださいませ。何れにしましても、折角の機会でございますので、大河ドラマファンの皆様は是非ともご覧ください。脚を運んでいただいて損はないと存じます。しつこいようですが、本日を含めて残り3日間です。

 ここで、一つだけ本展についての話題から。会場に入った正面にドラマで登場する俳優4名の等身大パネルがございます(写真撮影スポット)。その4人については、既にツイッター等でも紹介しておりますが、北条義時役の主人公小栗旬さん、その姉で頼朝妻北条政子役の小池栄子さん、その源頼朝役の大泉洋さん、そして、伊東祐親娘で頼朝の最初の妻であり、ドラマでは後に義時と結ばれて、その子を産む八重役の新垣結衣さんとなります。そして、4名の背景となっているのが、ドラマで使われた伊豆「北条館」の屋外撮影セット写真となっております。こうした機会もなかなかにありませんので、是非とも左右に2名ずつ分かれる俳優の中心に立って記念撮影をされてください(女性陣も含め各々思った以上に上背があるのに驚かされました)。因みに、楽屋裏での話題となり恐縮ではございますが、NHK側で用意されている等身大パネルは、上記4名に加えて源義経役の菅田将輝さん、北条時政役の坂東彌十郎さん、三浦義村役の山本耕史さんの3名を含む、合計7パネルでありました。ところが、こちらの予算の都合上、その中から4枚を選ばなくてはならなくなったのです。

そこで生じるのが、誰を選び誰を落すか……の問題であります。3名は異論なく決定でした。即ち、主人公の北条義時、常胤とも深い関わりのある源頼朝、その妻である北条政子であります。全て所謂“歴史上”よく知られる人物でありますから。しかし……であります。残り1名を誰にするのか……これはナカナカに難題でありました。ジェンダーの観点から申せば、残り一人を女性にすることが望ましい。男2名、女2名で好都合であります。しかも、ドラマでは八重は義時の妻ともなるのですから、カップルとしてもぴったりです。しかし、「八重」は史実に照らしても専論として研究書が出される人物とは言えませんし、そもそも実像は殆ど明らかとはなっておりません。まぁ、4名を選ぶとすれば、その他の源義経、北条時政、三浦義村の選択の余地はないと思いますが、それでも3人とも圧倒的に“歴史上”著名なる人物ではあります。そもそも、千葉氏との関係から申して本館での展示に整合性があるのか……疑問なしとは言いかねます。それでも敢えて「八重」を選べば、「四の五の言おうが、単なるガッキー推しでしょ!?」との誹りは免れますまい。そうしたときに、ハタと閃きました!!この千葉の地で「八重」を選出することにも合理的な理由があることを。これは、我ながら名案であると自画自賛した次第でございます。そこで、今回は、よい機会でもございますので、まず「前編」では、そのことについて述べたいと存じます。

大河ドラマに登場する「八重」なる人物は、「平治の乱」後に伊豆に配流となった頼朝の監視役となった伊東祐親三女と言われており、祐親が京に上っている最中に、頼朝との間に「千鶴御前(千鶴丸)」という男子を成したとされる女性であります。つまり頼朝の最初の妻ということになりましょうか。しかし、平家の家人であった祐親はそれに激怒しその子を殺めた……というのが「平家物語」諸本に記される内容であります。『曽我物語(真名本)』には「三の妃(ひめ)は美女の聞えあり。兵衛佐殿(頼朝)忍びてこれを思し食(め)されける程に、年月久しく積もりて若君一人出て来たり給へり。佐殿大きに喜びて御名をば千鶴御前と呼ばれける。佐殿喜び思し食す事限りなし」とあるとのことです。つまり物語上のお話として記される内容であり、この記事からも判明するように「八重」という名は何処にも記されてはおりません(以後“名無しの権兵衛(権子!?)”ではあまりに収まりが悪いので「八重」で通します)。北条氏本拠近くの真珠院境内(伊豆の国市)に「八重姫御堂」と呼ばれる御堂が残ることから、今回の大河ドラマ監修を務められる坂井孝一氏(創価大学文学部教授)は「恐らく室町後期から江戸時代にかけて在地伝承として生まれた名なのであろう」とされております[坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏-義時はいかに朝廷を乗り越えたか-』2021年(NHK出版新書)]。諸本は、父に愛児を殺められたばかりか、頼朝との別れを強要され、更に江間次郎に再嫁させられたことで、「八重」が悲しみに沈んだと記しているとのこと(江間次郎は大河ドラマの設定では伊東の家人ということになっていますが、物語系の書物にしか見えず同時代史料では確認できない人物です)。因みに、祐親は平家の聞えを恐れ、頼朝をも殺めようと目論んだものの、そのことを注進された頼朝は夜陰に乗じて逃れ北条に向かったと記します。この辺りは、ドラマでも描かれたところでございますから、皆様もご承知のことでございましょう。もっとも、伊東から北条へ向かうには、伊豆の山々を東西に越えるわけですから、「ちょっくら出かけて来る」という距離ではございません。

さて、その後の「八重」についてであります。大河ドラマでは、幼馴染の北条義時が、その後も“初恋の人”である「八重」への思いを募らせ、遂にその心が八重に通じて紆余曲折の末に結ばれることとなったこと。そして、二人は「金剛」なる男児を授かったこと。それが後の北条泰時であるとの筋書きとなっていることは御承知のとおりです。記録に登場する泰時の母「阿波局」(勿論、政子妹で阿野全成の妻となった“阿波局”とは別人)は、かくも著名人の母でありながら出自等を含めてその実態が殆ど明らかではありません。長子相続が自明の理ではなかった当時、母の出自を考慮すれば義時後継として相応しいのは、義時正室「姫の前」(比企朝宗娘)産になる息子[朝時(名越流祖)、重時(極楽寺流祖)]、あるいは後妻(継室)「伊賀の方」(伊賀朝光娘)産の男子[政村(政村流祖)、実泰(金沢流祖)等]であることが一般的でありましょう。斯様な子息が数多あるなかで、敢えて泰時を後継にした理由を、「八重が母であった」ことに求めた着想はナカナカに素敵な解釈だとは思います。つまり、この「阿波局」こそが義時の初恋の人であり思いを募らせてきた、「八重」その人であったという設定です。

そして、坂井氏も「類推に類推を重ねたうえで」と断られながらも、状況証拠から義時は最終的に「八重」と結ばれ、生まれた子が泰時であるとされていらっしゃいます。そして、年齢的にもそのことに矛盾は生じないとされます。坂井さんが監修を務められる大河ドラマが斯様な展開となっている所以はここにございます。このように類推される傍証として挙げていらっしゃるのが、『吾妻鏡』治承5年(1181)の記事に義時が「江間四郎」の名で登場することです。つまり、頼朝挙兵の結果、滅びることとなる「八重」再嫁の相手であった江間次郎の所領を、義時その人が獲得してその地を苗字として名乗っていることです。「江間」は、狩野川を挟んで北条館対岸の指呼の地であります(大河ドラマでは、頼朝が旗揚げする際、伊豆目代山木兼隆が在館していることを報せようと、八重が対岸の北条館に矢文を放つシーンがありました)。更に、先に挙げた著書で坂井さんは、『曽我物語(真名本)』で、江間次郎が討たれたことを記した後に「子息の少(おさな)き者をば、北条小四郎義時申し預かりて免(ゆる)されぬ。則(やが)て義時が元服の子となして、後に江間小次郎と云うは則(すなわ)ちこれなり。」とあり、新たに江間の領主となった義時が、「八重」と江間次郎との間に生まれた子を預かり、頼朝に乞うてその罪を免じてもらったこと。そのうえ、その烏帽子親となって元服させ「江間小次郎」と名乗らせるなど、何かと「八重」のその後を気遣い支援までしていることを挙げておられます。

さて、ここまでお読みになって、多くの方は、4人目のパネルの一人に「八重」を選んだことの理由が未だ不明確であることにモヤモヤ感を募らせていらっしゃいましょう。お待たせいたしました!!漸く、このことについて触れるところにまで到達いたしました。「八重」のその後については、坂井氏の御説に止まらない“異聞”もまた存在しているのでございます。それが、『源平闘諍録』なる平家物語異本にある記事となります。これこそが、4人目のパネルとして、本館が「八重」を選んだ最大の理由となるのです。即ち、本書では、治承4年(1180)10月「富士川の合戦」後に、伊東祐親の自害を語り、伊東三女(つまり「八重」のこと)の説話を載せているのです。これを『千葉県史3 中世 通史編』より引用させていただきましょう。因みに、これを執筆されているのは、中世史の泰斗福田豊彦先生でいらっしゃいます。既に鬼籍に入られて久しくなりましたが、個人的に謦咳に接したこともある、尊敬すべき学者の方でございました。

因みに、この『源平闘諍録』なる史料について、先日刊行いたしました『千葉市歴史読本-史料でみる千葉の今むかし-』内に「源頼朝と千葉常胤-東国武家政権への道-」の玉稿をお寄せいただいた、京都女子大学名誉教授で鎌倉武士団研究の泰斗野口実先生は(千葉市中央区長洲の御産れでございます)、本稿冒頭で以下のように説明されておられます。即ち「『源平闘諍録』は『平家物語』の「読み本系」諸本の一つで、原『平家物語』のストーリーに13世紀半ば頃に成立した千葉氏嫡流家(「千葉介」家)の正統性を示すために作られた家伝を取り込んで14世紀前半の頃に成立したものと考えられます。後世に作られた軍記物語ですが、その材料には千葉氏に伝えられた記録も使われているようで、部分的には史料として高く評価される記述も含んでいます」と。まずは、その記述をお読みくださいませ。

 

 伊東入道祐親の三女は頼朝の本妻(もとつめ)である。父入道に引き去られたが互いに余波(なごり)を忘れられず、とはいえ北条の娘も去り難い。ある日頼朝は伊東の娘を簾中に呼び、「日ごろの情けは棄てがたく、貴女を迷い者とするわけにはいかない。この大勢の侍たちの中から夫にしようと思う者があれば指さしてご覧」と言うと、伊東の三女は恥ずかしながら満座を見回し、「あの左の一の座にいる人」と指さした。頼朝は「あれこそ、侍の数多い中で『日本(ひのもと)将軍』と号する千葉介常胤の次郎師常(もろつね)だ」と。師常の許に使者を送り、「かようの次第である、頼朝を舅(しゅうと)を思うべし、頼朝は聟(むこ)と思うぞ」と仰せたので、師常は早速承諾、彼女を迎え取って偕老同穴、末永く幸せな生活を送った。
(福田豊彦・服部幸造監修『全註釈 源平闘諍録 巻五 六段』2000年(講談社学術文庫)
(『千葉県史3 中世 通史編』2007年 千葉県)

 

 あたかも「御伽草紙」的な“ほのぼの”とさせる内容であり、最後に続けて思わず「めでたし、めでたし」と付加したくなるようです。つまり、ここでは、「八重」は千葉常胤の次男である相馬師常に嫁いだことになっているのです。先に、野口先生の御説明を引きあいに出させていただきましたように、本史料の性格上、千葉氏の立場に引き付けた記述となっていることは疑いございませんが、“物語”の世界の記述とは申せ、鎌倉時代末成立になる書物にある内容であり、あたら疎かにはできない記述ではありますまいか。「八重」の後日談として決して見逃すことができません。

ここでようやく、前編のオチがつきました。本館での等身大パネル展示の、最後の1枚に新垣結衣の「八重」を選択したのは何故か。その答えとは、彼女が千葉一族との婚姻という伝承を残しているからでございます。もっとも、「言い訳がましいことを長々と……、どの道、お前の好みを優先しただけだろう!?」との声が聞こえてくるようです。まぁ、全否定はいたしませんが、何事も“理屈”は大切でございましょう。長々と失礼をいたしました。お後が宜しいようで、前編はこれまでとさせていただきます。明日の後編では、今回の本命の話題、来週木曜日(5月19日)より開幕の令和4年度「千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』についての御紹介をさせていただきます。

(後編に続く)

 

 新垣結衣さん演じる「八重」異聞 または令和4年度「千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』」開催のこと(後編)―NHK主催「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』展」[5月15日(日曜日)まで!!]― ―パネル展会期[令和4年5月19日(木曜日)~7月12日(火曜日)]― ―「北関東編」ブックレット同時発売(1冊100円)!―

5月14日(土曜日)

 

 さて、後編は、来週より開催となる標記パネル展について御紹介をさせていただきます。昨年末に開催した『千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)』に引き続き、本年度は『北関東編』となります。以下に述べることは昨年度の『南関東編』を御紹介する際にも申し上げたことですが、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で言うところの“13人”とは、建久10年(1199)1月の頼朝急死後、「鎌倉殿」を継承した源頼家を支え、かつその独走を掣肘することを目的に選ばれた幕府内有力御家人13人のことを指します(選んだのは当時実質的な「鎌倉殿」であった頼朝後家の北条政子と父時政と考えられます)。具体的には、北条時政、北条義時、比企能員梶原景時、安達盛長、三浦義澄、和田義盛八田知家、足立遠元、三善康信、大江広元、中原親能、二階堂行政の13人のことになります。しかし、本館で開催する『千葉常胤と13人の御家人たち』で採り上る坂東武者のラインナップは、飽くまでも本館が任意で選出したものとなります。選出の基準は、治承4年(1180)源頼朝挙兵に従って決起し、ともに武家政権の端緒を切り開くことになった、千葉常胤と有力坂東武者13人の合計14人となります。従って、文筆官僚とも言うべき「文士」は含めておりません(上記13人中、三善康信以下の4名)。勿論「13人の合議制」構成員と本館展示で重なる面々もおりますが(上記13名中で下線を施した5名)、本パネル展で選出した御家人とは直接には関連しません。

 今回は、昨年度末開催の「南関東編」(千葉常胤・葛西清重・下河辺行平・上総広常・和田義盛・梶原景時・北条時政)の7人に引き続き、「北関東編」として、武蔵国・上野国・下野国・常陸国に盤踞した7名の有力御家人を取り上げます。南関東編に比べると、皆さまにとっては若干馴染みの薄い武者たちかもしれませんが、何れも比類なき坂東武者の兵たちであり、後裔からはその後の国内の歴史を形づくる一族も多々輩出しております。ご覧いただければ、「これほどの御家人であったとは……初めて知った」と、多くの皆様の認識を新たにしていただける、正に発見に満ち満ちた内容になっているものと自負するところでございます。加えて、付録として「千葉常胤をめぐる女性たち」の展示を行います。2回のパネル展を通して、千葉常胤に留まることなく、武家政権の草創期に常胤と轡を並べて戦った、坂東各地に盤踞した有力武士たちへの理解の裾野を広げていただければ幸いです。そして、併せて“武士時代の始まり”の息吹を感じていただければ……との願いを込めて企画いたしました。

 改めて、今回採り上げる御家人を御紹介させていただきます。畠山重忠、比企能員[以上:武蔵国]、新田義重[上野国]、足利義兼、小山政光、宇都宮朝綱[以上:下野国]、八田知家[常陸国]の、北関東に本拠を置く以上7名の有力武者でございます。それでは、以下、極々簡単にではございますが、それぞれにつきましての御紹介をさせていただきます。余計なお世話かもしれませんが、今回の大河ドラマにおける配役も添えております(各武士右手【〇〇〇〇】)。南関東編と比較してドラマで配役されている御家人が少ないのが残念ですが、だからと言って決して重要性が低い訳ではございません。これをお読みいただき、もし興味をもっていただけましたら、その答を探しに本館に脚をお運びくださいましたら幸いです。皆様のご来館をお待ちしております。

 

 

畠山 重忠(はたけやま しげただ) 【中川 大志】
[長寛2年(1164)~ 元久2年(1205)]


東国武者の在り方を一身に体現する者として一般に認知される畠山重忠です。大河ドラマでも勇猛果敢でありつつも、“がつがつ”したところを感じさせない、如何にも紳士的で冷静沈着な武者として描かれます。後に北条時政の命により滅ぼされる重忠ですが、そのことに納得できない義時により、乱後に父時政と後室“牧の方”とが追放されることに繋がるのですから、重忠が義時を始めとする御家人から厚い信望を寄せられていたことを窺わせます。一方、彼の所領があった武蔵国における架空の武士を主人公にした「男衾三郎絵詞」に描かれる武蔵国武者の姿は、単に勇猛果敢ということに止まらず、館前を過ぎる者を射殺したり「館に生首を絶やすな」と述べる等々、剥き出しの暴力装置としての側面も描かれております。“架空の武士”とはいえ「男衾」は実在する武蔵国地名であり、何より畠山重忠の所領でしたから、何処かしらイメージが重ねられている可能性が皆無とは言い切れぬものを感じます。もしかして、これが畠山重忠の一面を垣間見る縁となっているのかも!?。

 

 

比企 能員(ひき よしかず) 【佐藤 二朗】
[生年未詳 ~ 建仁3年(1203)]

 20年余りにも及ぶ源頼朝の伊豆での流人生活を、物心両面で献身的に支えた乳母“比企尼”。その甥で、後に養子となったのが能員です。その大恩人に報いるために、比企氏は頼朝に重用されていきます。そして、「鎌倉殿」後継となる子頼家の乳母夫にもなり、更に自らの娘を頼家に嫁がせるなど、幕府内での存在感を増していくことになるのです。恐らく、頼朝は、これからの幕府が北条氏と比企氏との協調関係の下に運営されることを期待していたのでしょう。その証拠に、比企朝宗娘「姫の前」に義時が懸想して何度も文を寄せますが靡かずにいたのを見兼ねた頼朝が仲を取り持ち、義時に「決して離縁しない」と起請文を書かせ、ようやく義時の「正室」に納めたことからも、そのことが分かるのではありますまいか。しかし、その頼朝の急逝後、早晩にその目論見は破綻することはご承知の通りでございましょう。ところで、先に御紹介した「姫の前」との起請文の行方や果たして如何!?

 

 

新田 義重(にった よししげ)    【配役無】
[永久2年(1114)~ 建仁2年(1202)]

 新田義重!?義貞じゃないの??と思われた方も多かろうと存じます。義貞は今回ご紹介する義重の子孫にあたります。次に取り上げる足利義兼とは叔父・甥の関係となる源氏の名門です。しかし、どちらかと言えば“不遇の一族”として鎌倉期を過ごしました。それもこれも、その始祖である義重の名門意識が強いこと等から、頼朝に従うのも遅れる等々、度々と頼朝の不興を買うことが多かったことがあります。かような次第からか、残念ながら今回の大河ドラマでは配役がありません。しかし、その鬱憤を晴らすが如く、子孫の義貞が鎌倉に攻め込み北条高時を自害に追い込むことになります。鎌倉時代も終盤となってからようやく大輪の花を咲かせた新田一族(ただし直ぐに散ることになるのですが)。その始祖は如何なる人物であったのでしょうか。ところで、千葉県内で著名なる戦国大名の一族とは??「応仁の乱」一方の将で知られる守護大名と言えば??実は、共に義重から分かれる新田一族です。それが誰なのか、是非会場でお確かめ下さい。当否はいざ知らず、かの東照大権現も新田後裔を称しております。

 

 

足利 義兼(あしかが よしかね)  【配役無】
[久寿元年(1159)~ 正治元年(1199)]

 足利氏と申せば、源氏の超名門一族であります。後に子孫である尊氏(最初は高氏)が鎌倉幕府に反旗を翻し、紆余曲折の末に室町幕府を開くことになる、あの足利氏の祖となる人物です。源義仲・源義経・源範頼等々……、源氏一族が次から次へと頼朝によって粛清されるなか、また有力御家人が北条氏によって滅ぼされるなか、正月元日の垸飯を勤めるなど、頼朝からは一貫して幕府内の重鎮として遇されております。紆余曲折はありましたが、子孫は北条氏との婚姻関係を取り結んで鎌倉時代を生き抜きます。これほどの重要人物でありながら大河ドラマでも配役されないのが大いに残念です。一方で、彼らの本願地である現在の栃木県の足利には、彼らの居館跡を寺院とした鑁阿寺、義兼が墓所として定めた樺崎寺跡、義兼創建とも伝わる足利学校遺跡等々、足利氏の文化力の高さを示す遺跡がたんとございます。特に、樺崎寺跡に発掘・復元された浄土庭園の偉容は壮観であります。パネル内の写真で是非ともご確認下さい。その他にも、この足利の地には義兼以降の歴代当主3人の建立した寺院に浄土庭園が造営されました。それらが全て発掘・復元されたら、おそらく足利市は「関東の“平泉”」となること間違いなしです。

 

 

小山 政光(おやま まさみつ)   【配役無】
[生没年未詳]

 

 

小山氏は、「平将門の乱」の平定に活躍した、藤原秀郷(俵藤太)後裔となる坂東の名門武士団であります。小山一族が頼朝の挙兵に従ったことには、キーパーソンとなる人物の存在があります。それが、小山政光妻の寒川尼であります。彼女は幾人か存在が確認されている頼朝の乳母の一人でありました(もっとも、乳母と申しても寒川尼は頼朝の8歳年長に過ぎませんので乳を与えた筈もなく、所謂“姉や”的な遊び相手であったことと思われます)。その結果、鎌倉時代を通じて一貫して守護職を務めたのは小山氏と我らが千葉氏のみであることから明らかなように、幕府内で有力御家人として遇されていたことが分かります。御家人達を前に、頼朝が西国での熊谷直実の活躍を褒めた際、それを聞いていた政光が如何なる返事を頼朝に返したのか!?ここにこそ、大武士団を率いた者の矜持を感じ取れましょう。結城氏・長沼氏も小山氏の庶流として続くことになります。

 

 


宇都宮 朝綱(うつのみや ともつな)   【無配役】
[保安3年(1122)~ 元久元年(1204)]

 宇都宮氏は、藤原道長の兄、関白道兼の流れを汲む一族を称しております。「前九年の役」の際、その祖となる宗円が安倍氏調伏のために関東に下向して土着。ここに宇都宮社(二荒山社)神職であると同時に、武士でもある宇都宮氏の歩みが始まります。その孫が朝綱であり、その出自もあってか、京に出仕する東国武士として当時例を見ないほどの高い地位にありました。かような中央での位もある朝綱が何故頼朝挙兵に従ったのでしょうか。ここにも、“あの”キーパーソン寒川尼の存在がありました。彼女は宇都宮一族を出自とし、朝綱と八田知家と兄弟関係にあったからです。しかし、頼朝挙兵時には朝綱は在京していており平家によって京に留め置かれます。その時に平家の中に朝綱が坂東に戻ることを後押ししてくれる人物がおりました(その人物と朝綱とのその後の友情物語もナカナカ感涙ものです)。その後は、頼朝の下で武士として大活躍します。また、源平の争乱で焼失した東大寺再建で大仏脇侍観音菩薩像の任を果たすなど、一族の経済力と文化力の大きさにも驚かされます。孫の頼綱は皆さんにも馴染み深い正月遊びと関連の深い人ですが、その遊びとは一体何でしょうか?

 

 

八田 知家(はった ともいえ)   【市原 隼人】
[康治元年(1142)~ 建保6年(1218)か]

 八田知家は、宇都宮朝綱の弟であり、姉妹に小山政光に嫁いだ寒川尼がおります。その後裔嫡流は筑波山麓に本拠を置いて小田氏を名乗ります。後の南北朝期に、南朝方の重鎮北畠親房が『神皇正統記』をこの地で擱筆したことも知られます。更に後の戦国時代には、戦う合戦に悉く敗れたことから「最弱の戦国大名」として昨今人気を誇る小田氏治のご先祖ということにもなります。子孫の氏治とは異なり強者としても知られ、奥州藤原氏攻めでは千葉常胤とともに東海道大将軍として大いに軍功を挙げております。一方、兄の宇都宮朝綱と同様、京のしきたりに詳しく、「京に慣れ親しんだ者」として頼朝からもその御前で重用され、頼朝死後には、あの「13人の御家人」の一人にも選ばれ、幕府の中枢として活躍することになりました……と書けば、完全無欠の人物のように思われましょうが、策略家としての側面もあって、一筋縄では括れない坂東武者でもございます。何をやらかしたのか??パネルにて是非ともご確認を!!

 

 

【付録】千葉常胤をめぐる女性たち

 今回は、北関東編ということで、下総国の地からは少々離れてしまいます。そこで、地元の千葉氏に関する一項を“付録”として採り上げることといたしました。ただし、正攻法ではなく、敢えて別の切り口から千葉常胤像に迫ってみようと考えました。それが、常胤と繋がりのある女性を採り上げることです。今日日、ジェンダーの観点も重要でございましょう。どうしても、中世武士の話は男の活躍ばかりの世界となりますが、後の時代と比べて当時の武家女性の地位は到って高いものでありました(北条政子を思い浮かべていただければ納得いただけましょう)。斯様な次第で、ここでは、常胤をめぐる女性について、母・正妻・側室・姉妹・娘といった項目ごとに探ってみました。史実・伝承を虚実ない交ぜにしながら、常胤と関わりのある女性を判明する限り網羅してみました。はてさて、如何なる女性像が浮かび上がりましょうか??どうぞお楽しみに!!

 

 

 以上でございます。大河ドラマ明後日第19話では、平家の滅亡後に浮き彫りになる頼朝と義経との対立が描かれることになります。そこで暗躍するのが「日本一の大天狗」こと後白河法皇であり、幕府内での狂言回しを演じるのが梶原景時となることでしょう。そして、第20回までに、奥州藤原氏の下に逃れた義経の最期が描かれることになります。5月に入ってからの大河ドラマでは、立て続けにダークな暗殺の世界が描かれ、息つく暇も与えないほどです。それも今月末に一つのクライマックスを迎えそうです。6月からの内乱終結にともなう幕府内での政治機構の整備、及びその中で生じる新たな権力闘争の世界が如何様に描かれるのか楽しみです。何より、腹を括って幕府運営と北条一族の権力掌握に舵を切っていく義時という人物の変容を見守りたいと存じております。

 

 成熟した企業活動の在り方とそれを支える政策哲学の在り様について痛感すること(前編) ―日本と西欧諸国とにおける製品アフターケア思想のあまりに大きな乖離に思うことども―

 

5月19日(木曜日)

 

 本日は、極々個人的な体験からお話を始めようと存じます。今から10年以上も前の、未だ学校職員として勤務をしていたときのことになります。中学校で教頭職を拝命していた小生が、ある時に校内巡回をしていると、粗大ゴミ置き場に左右セットのスピーカーが置かれているのを目にしました。そして、それが音楽室に設置されていた備品であることに気づいたのです。ざっと確認したところ、如何せん生徒が出入りする音楽室に永年置かれていたこともあり、筐体(エンクロージャー)には相当な疵が目に付いたものの、決定的な瑕疵は認められません。かような訳で、早速に音楽担当に確認したところ、現在ではマトモに音が出ず使い物にならないこと、更に備品耐用年数も超過していることもあり廃棄処分としたこと、更には既に廃棄手続きも済ませていること等の報告を受けました。後は“粗大ゴミ”として回収されるのを待つばかり(音楽室には新たなスピーカー購入も決めているとのこと)。そこで、上司の許可を得て、小生が引き取ることにいたしました。余りにも勿体ないですから。

 それが、かつて国内で名器として持て囃され、相当に売れて会社に大きな利益をもたらしたであろう、ヤマハ「NS1000モニター(以下M)」なるオーディオスピーカ-でした。低中高の各音を受け持つ3ユニット(ウーファー・スコーカー・ツィーター)構成で(これを俗に3ウェイスピーカーと称します)、更に筐体が完全に閉鎖された密閉型(ブックシェルフ型)のスピーカーであります。見た目も特徴的で、多くのスピーカーが表面を布(サランネット)で覆って各ユニットを直接には見えないようにするのに対して、全ユニットに金属製のグリルカバーがされているだけでサランネットは附属しない、ユニットが丸見え状態なのも、オーディオ機器として当時類例がなかったように思われます。つまり、ビジュアル的にもなかなかにインパクトのあるスピーカーだったのです。

 当方が日頃使用するスピーカーはバスレフ型といって、筐体に穴を開けることで、筐体内部で増幅させた低音をダクトから引き出す形式であったこともあり(クラシック音楽に向く音場感が得られるように思います)、こうした密閉型を活用してみたいとの思いも沸き起こったのです。つまり、放送局等で、より原音に忠実な再生を目指して開発された、所謂“モニタースピーカー”としての「音」にも興味関心があったことも、本機再生に取り組む意欲を掻き立てました。実のところ、本機は当方の友人が所有していたこともあって頻繁に耳にしていた関係もあり、その特性はある程度は知悉しておりました。そして、個人的にはモニタースピーカーの明晰な再現音は、当方の主たる鑑賞対象であるクラシック音楽再生には向かない……と思っておりました。しかも、密閉型で往々に有り勝ちな大きな駆動力を有するアンプで鳴らさないと低音が出辛いとも感じておりました。ただ、逆に、そのクリアーな音場感はポピュラー音楽再生には持って来いかも知れないとも考えました。即ち、ロック・ポップス用のスピーカーとして利用してみようとの希望がふくらんだことも再生の後押しとなりました。かような次第で、まずは、配線を繋げて状況を確認したところ、音楽担当の報告の通りユニットの半分(6個中の3個)が“死んで”いることが分かりました。次なる算段は、こいつを如何にして再生させるかです。

「NS1000M」は、昭和49年(1974)に発売が開始され、平成9年(1997)年に生産が中止されるまで、何と!23年もの長きに亘って販売されていたロングセラーでした。しかし、当方が粗大ゴミ置き場から救い出した段階で、既に販売終了から15年以上の歳月が経過するロートル機でもありました(“ヴィンテージ”とは言えない単なる中古品)。まずは、音の出ない原因を突き止めなければなりません。しかし、悲しいかな個人的に修理できる技能を有しているわけではございません。もしかしたら、ユニット自体の故障ではなく、内部ネットワーク(配線)の問題かもしれません。そこで、修理が可能かどうかについて、学校にも出入りしている製造メーカー(ヤマハ)に問い合わせてみることにしました。まぁ、最初の取っ掛かりとしては“本寸法”でございましょう。ところが、その返答は“けんもほろろ”なものでした。即ち「販売終了から相当な年限が経過しておりメーカーとしての対応はできない」とのこと。もっとも、こうした対応となることは十二分に予想されたことではあったのです。

何故ならば、国内の製造メーカーの殆ど全てで、販売製品の修理可能な年限を設定しているからであります(家電から自動車まで)。具体的には「補修用性能部品」の“最低保有期間”が定められているのです。ここでは“最低”と書いているものの、多くのメーカーではそれをもって修理には対応しなくなるのが極々一般的です(逆に最低保有期間であっても部品欠品となるやいなや当該時点で修繕不能とされます)。つまり、「修理しようにも部品そのものがないから無理」との理屈であります。詳細は知りませんが、そうした対応は法的にも保証されているのでありましょうから、こういた対応は何も「ヤハマ」に限ることではなく、恐らく何れの日本国内製造メーカーにも共通するものでございましょう。最近のことですが、キャノンのデジカメ(“EOS Kiss”なる一眼レフのベストセラーモデル)のデータ保存用メモリーがイカレてしまい、新たに純正品を購入しようとしたのですが既にキャノンでは生産終了であり入手不能とのこと。これには大いに困惑いたしました。カメラ本体はピンピンしているのに、昨今製造されている他のメモリーでは代用できないというのです。この際は、幸いにキャノンとは別企業が細々と生産していることが分かり、辛うじて代用品の購入で対応できました。しかし、購入店では「このメーカーも何時生産終了するかわからない」と脅かしつけられた次第であります。メモリーがなければそもそもカメラとしての使用自体が不可能となります。

 ヤマハのHPで確認すると(令和4年5月現在)、部品供給期限は「生産終了後8年」とされております。付加して、期限終了後も「代替パーツを含めて可能な限り修理対応を行う」と謳っておりますが、実際に15年以上を経過した「NS1000モニター」の修理依頼は問答無用で「不可能」との解答でした。序に、幾つかの国内オーディオ機器メーカーの状況を調べましたが、「デノン」(以前はソフト製品と同様「デンオン」読みでした)も8年、パイオニアが10年をもって“アフターサービス終了”としておりました。その際のことに戻りますが、メーカーが駄目なら残された方策としては個人経営オーディオ店頼みしかございません。従って、市内中央区に店を構える「オンケン」に、“駄目モトを覚悟で”重量級スピーカー2本を持参して相談をさせていただいたのです。ところが、ほぼ即断で修理の快諾をいただけたではありませんか。点検の結果、音の出ない3ユニットは完全に“お釈迦”ではありましたが、筐体とネットワークには全く問題がないこと。3つのユニットは全面交換となるが、山のように売れた機種であるため中古品は市場でダブついており、「オンケン」も部品を多数確保しているから心配御無用……との至って心強くも有難いお返事でした。費用も、な…なんと!!“4万円弱”で済むとのこと。「オンケン」さんの対応には、本当に手を合わせたくなるほど感謝の思いで一杯でした。

 そして、復活した「NS1000M」は、現在では父親遺品のセパレート型アンプ(プリとパワーとが別に分かれている)に繋いで大活躍しており、予定通りに主にロック・ポップスの鑑賞を楽しんでおります。例えば、「ザ・フー」の名盤『ライブ・アット・リーズ』(海賊盤を模した簡素なジャケットが印象的です)の再現に本機種の存在は欠かせません。既に故人となった2人のリズムセクション、ジョン・エントウィッスルの躍動する驚異的なベースラインと、一聴して乱れ打ちのように感じる重量級のグルーブ感を有するキース・ムーンのドラミングは、類例がないほどに唯一無二の存在感であり、正に手に汗握る思いで聞き入ることができます。あたかも会場の「リーズ大学講堂」に同席しているかのようです。少なくともポピュラー音楽において、斯様に優れた再現性を発揮する「ヤマハNS1000M」の性能には到って満足しております。すでに販売終了から25年以上も経過するロートル製品ですが……。今では、あの時に救出してホントウに良かったと思っております。
(中編に続く)

 

 

 成熟した企業活動の在り方とそれを支える政策哲学の在り様について痛感すること(中編) ―日本と西欧諸国とにおける製品アフターケア思想のあまりに大きな乖離に思うことども―

 

5月20日(金曜日)

 

 前編で述べた経験は、逆に、我が国におけるメーカー(企業)の製品アフターケアの在り方に大いなる疑問を感じることに繋がったのです。つまり、製造・販売した製品の維持修理を、メーカー自体が10年前後しか対応しないという、企業の在り方への疑問でございます。また、それを法的にも後押ししている我が国の政策的な在り方とは一体何なのでしょうか……??心底の疑念で一杯となったのです。中編では、そのことについて触れてみましょう。

 勿論、自社製品に対して永久に責任をもって修繕に対応できる体制など、営利企業としては決して簡単なことではないことは重々承知しております。そもそも、メーカーが責任をもって対応するためには、部品のストック等に多大なるコストを要し、その経営を圧迫する可能性は否定できなかろうと思うからです。しかし……であります。“個人経営店”の修理により復活したヤマハ「NS1000M」と同アンプに繋いで使用する、亡父遺品であるイギリス「タンノイ」社製品「レクタンギュラーヨーク」なるスピーカーが我が家に存在します。こちらは、我が家にやって来てから既に半世紀は経過する、ほぼ“ヴィンテージ級”といっても宜しい製品であります。しかし、「アルニコマグネット」使用の同軸スピーカーから再現される音は未だに健在であり、クラシック音楽の再現性は現役の他社製品に引けを取りません。取り分け弦楽器の音場感の再生では今以て一級品だと存じます。ただ、こうした電気製品がそのままで50年間維持できることなどありえません。それを可能にしているのが、「メーカー」である「タンノイ」社のアフターケア体制なのです。半世紀に亘り欠かさずにメインテナンスを受け入れる体制が存在し、如何なる不都合にも必ず対応できるシステム構築があったからこそ、本機は未だに現役で素晴らしい音を響かせてくれているのです。実際、つい10年程前も、生前の父親がパルプコーン張替修理を日本代理店に依頼しましたが、何の問題もなく数か月後に修理されて戻ってまいりました。我が家でのことではございませんが、同じイギリスの「クゥオード」社も50年前の同社製アンプの修理にフツウに応じてくれると聞きました。この彼我の格差とは一体何処に発するものなのでしょうか。また、如何なるメンタリズムの違いによるものなのでしょうか。たかが、10年やらそこいらで“個人経営店”に修理を依存しなければならない日本企業の在り方と、何時までもアフターケアに対応する西欧企業の在り方の彼我の格差は、エベレスト山より高く、マリアナ海溝よりも深いものに感じるのです。

 そもそも論として、我が国における在り方は、地球環境問題という観点に鑑みて大いに問題ではありますまいか。今日、SDGsなる用語を頻繁に耳にされましょう。それは、「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)」の略称であり、2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載されている、2030年までに“持続可能でよりよい世界”を目指すための国際目標のことであります。当然の如く日本もその具現化に向けた取り組みをすることになっております。こうした、今日的な課題が突き付けられている中で、我が国における上述したようなアフターケア体制の在り方は、根本的に矛盾するものではありますまいか。古いものを大切にして使い続けることが難しい社会システムが構築されているのですから。今日の日本での在り方とは、謂わば高度経済成長期に敷かれた路線を、根本的に見直すことなく後生大事に墨守しているのだと思われますが如何でしょうか。これは「ちょっとでも古くなった製品はどんどん廃棄」し「新製品の購入を促す」ことにより「企業利益の増大を図る」という、「経済成長モデル」と基本的に選ぶところがないと思います。そのために、かつて(今でも!?)企業は、数年後には古臭く見えるようになること、所有すること自体が嫌になることを織り込んで、新製品を開発するとも耳にしました。そこにあるのは、「永遠に使える素晴らしい製品」を開発するよりも、「暫く後には買い換えてもらえる一時的な製品」の開発が最優先とされることは言うまでもありません。その結果が、大量の廃棄物による地球資源の甚大なる浪費という地球規模の問題を人類に突き付けたのです。地球温暖化等々の地球環境問題も根っこは全て同じところに由来しましょう。

 しかし、我が国の伝統的な文化には、こうした資源の浪費などは存在しません。例えば、衣食住のうちの「衣」では、再利用に次ぐ再利用で、最後には雑巾になるまで使い廻しました。陶磁器ですら、割れた破片を「金継ぎ」という手法で接着して再利用してきました(あまつさえ、その継いだ姿を意匠として楽しみさえしたのです)。よく言われるように、都市生活で避けることのできない、「屎尿」ですら「廃棄物」としてではなく、「下肥」という「資源」として有効利用してきました。それらは、専門業者によって金銭で買い取られて、農村に商品流通し肥料となって利用され土に還りました。100万都市であった近世の「江戸」では上水道は整備されていましたが、下水道施設は構築されておりませんでした。しかし、そうした状況下であっても、水環境を含む衛生状態が維持できていたのは、こうした“循環型”の社会システムが成立していたからに他なりません。確かに、「下肥」は寄生虫の拡散といった問題点を有しておりましたが、真の意味で無駄を許さない「リサイクル社会」に位置づいていたことは瞠目すべきことでありました。誰もが、物を大切にして利用できる限り利用し尽したのです。それが、使用した物に対する感謝の念を育て、それを廃棄せざるを得ない際の「供養」すら行われてきたのです。

 そうした日本国民のメンタリズムは、基本的に高度経済成長期まで維持され我が国民性を形づくってきました。ところが、高度成長期以降にすっかりと鳴りを潜めてしまったのです。日本古来のメンタリズムや何処に!?しかし、現在の日本をはじめとする国際社会が突き付けられている課題とは、まさにこうした「高度経済成長モデル」を再考することによってしか解決できない段階に至っていると考えます。勿論、江戸時代の再現を目指すことは不可能です。しかし、高度成長期における成長モデルを引きずっていては、早晩地球環境が破綻するジレンマに陥ることは誰が考えても明らかでありましょう。その時代の成功体験から逃れられない経営の在り方を根っこから改めることなのだと思います。現段階ですら、様々な面においてSDGs関係の製品開発に日本は国際社会において圧倒的な遅れをとっております。そもそも、そうした青写真そのものが欧米諸国のシナリオに依拠したものであり、日本のイニシアチブなど存在するのかさえ当方には疑問であります。欧米の描いたストーリーである、自動車EV化やソーラーパネル発電が、SDGsに本当に繋がるのかも正直申し上げて疑問に感じるところが多々あります。安易に乗っかっていてよいのでしょうか。もっと、日本として在るべきシナリオを吟味し描く必要性がありますまいか。

 ここで、話を企業活動の在り方に戻し、西欧諸国と我が国における製品のアフターケア体制における彼我の格差の核心について、別の角度から検証してみましょう。西欧諸国と日本との彼我の格差の根幹を成しているものは何かについて考えてみると、それは、鯔の詰まり自社製造の製品に対して企業が有する意識の違いに起因することだと思います。即ち、自社製品を単なる利益を生む「商品」としてのみとらえているのか、商品の有する「文化的価値」に重きを置いているかの違いであると考えるのです。西欧諸国の企業には、自らが最良と思って創造した製品は「文化的な価値」を有するものであり、長く愛され使用されることを目途に開発して販売したものと考えてるのだと思うのです。企業自体が斯様な自覚と誇りを矜持としているからこそ、基本的には何時までもアフターケアに責任をもってあたるのです。企業は「モノ」を売っているのではなく、「文化」を販売しているとのメンタリズムなのだと考えるのです。これこそが、単なる利潤追求とは隔絶した企業家としての矜持であり、こうした在り方が“企業活動の成熟”なのだと思います。

 “不適切なる物言い”との謗りは免れないと存じますが、日本企業の論法とは、概ね以下のようなものとなりましょうか。「古くなりゃ故障しますからある程度は面倒見させてもらいます」→「でも何時までも面倒見切れません」→「修理するにしても相当な費用が掛かることを覚悟してください」→「それより新製品を購入した方が遥かにお得ですよ」→「今の機種は貴方のものより比較にならない程に優れていますよ」→「どうぞ新製品に買い替えてください」というものです。こうした理屈には、自社製品へのプライドなど微塵も存在しないことは自明の理です。平たく申せば「古いものなどに価値はない」「新しい商品にこそ最大の価値がある」ことしか意識されていないのではありますまいか。こうした意識そのものが、地球規模の課題の解決と明後日の方向を向いていることは間違いありますまい。そして、企業の在り方としての成熟とも、社会的な存在として在るべき姿の探究とも、我が国の企業活動は乖離しているようにしか感じられないのですが、皆様は如何お感じになられましょうか。
(後編に続く)


 

 成熟した企業活動の在り方とそれを支える政策哲学の在り様について痛感すること(後編) ―日本と西欧諸国とにおける製品アフターケア思想のあまりに大きな乖離に思うことども―

 

5月21日(土曜日)

 

 さて、前編で述べた古いオーディオスピーカー再生を通して実感したのと同様に、当方が常日頃苦々しく思っていたことについて後編で御紹介させていただきたいと存じます。それが、我が国における自家用車保有コスト負担の重さと、古い自動車を維持することの困難さについてでございます。それが、前中編で述べたことと、正に軌を一にしていることに思えるからに他なりません。そもそも、本稿にて、こうした工業製品のアフターケアと言った、メーカーの姿勢と政策哲学的な在り様の問題を取り上げようと思ったのは、偶々ネットニュースで、勝村大輔さんなる自動車ライターの記事に出会ったことを契機としております。そこで勝村氏は、日本における古い自動車(「旧車」「ヴィンテージカー」)の維持・保存の課題について、西欧諸国の在り方との比較を通じてその問題性を舌鋒鋭く指弾されております。当方も、その内容に大いに教えられるとともに、予て自らも考えていたことと共鳴する主張として共感する部分極めて多く、是非とも皆様にも御紹介をさせていただこうと考えた次第でございます。しかし、既に結論は見えておりましょう。日本という国は自動車にもまた「文化的価値」を全くといってよいほどに想定していないということが。以後、その実態を明らかにして参りましょう。

 昨今の日本では、所謂“旧車ブーム”なるムーブメントが盛んであり、古い自動車(クラシックカー)を修理しながら維持・保存することが羨望の的となっているように感じます。BS放送でも芸人コンビがMCを務める、古い自動車を取り上げて紹介する番組が人気と聞きます。しかし、このままでは、近い将来、古い価値ある日本製自動車の多くは日本に残ることなく、海外に流出するだろうと懸念されていることを御存じでしょうか。つい先日、我が家にも令和4年度分の「自動車税納付書」が届き支払いを済ませましたが、この税金は、新車登録から13年を経過して自家用車を所有しようとすると、いきなり税率が15%アップするシステム構築がなされていることを御存じでしょうか。前編でも申し上げたように、自動車製造企業が設定する「補修部品供給期限」があることで長期保有が難しくなることだけに留まらず、政府による施策としても税率アップという「増税」をもって、古い車を大切に利用する人々に追い打ちをかける制度設計になっております。つまり、早々に新車に買い替えざるを得なくさせる仕組みが官民あげて構築されているのです。昨今の国産自動車は、適切なメインテナンスを加えている限り13年でお釈迦になるような軟な工業製品ではございません。好みの自動車を手にいれて大事に維持したくとも、13年を経過すると格段に維持することが難しくなる税制を取っている国、それが我が日本国だということを知っておく必要がありましょう。

 そもそも、自家用車を維持するための金銭的負担は諸外国と比較して途轍もなく重たいのが日本という国であります。2~3年に一度訪れる所謂“車検”で支払う税金を見ると、「自動車など保有するな」と国が推奨しているようにさえ思えるほどに、様々な税金が課されていることに驚かれましょう。また、燃料のガソリンにも税が課せられます。また事故を起こした際の備えとして不可欠な保険も、“自賠責保険”では全く不充分であり、自動車保有者は“任意保険”に別途加入をせざるを得ないのが現実であり、その負担も馬鹿になりません。本来は建設費を償還したあとは無料となるはずであった高速道路は何時まで経っても有料道路のままです。更に、都会では車庫を確保できる持ち家に居住できる人は多くはありません。特に、東京都内都心部での駐車場月額料金は、地方における相当に快適な賃貸物件住居の家賃月額とほぼ拮抗します。それほどに、自動車を我が国で保有することの負担は重いものだと思われます。

 従って、小生も個人的に自動車は大好きであり所有もしておりますが、日常で使用することはございません。通勤には公共交通機関を使用します。自宅も職場もJR駅に至近にあり、困ることは一切ありません(逆に偶に使用する自家用車を運転することは至上の喜びとなるメリットがあります)。しかし、現在の愛車「フィアット500」も新車登録から10年となりました。従って、3年後からは税率アップの憂き目に会うことになります。このまま続けて所有したいと思っておりますが、なかなかに頭の痛い問題です。これまで所有してきたクルマも、度々のメインテナンスを加えて維持してまいりましたが、高齢車(!?)の税率アップと維持費用が嵩むことから手放さざるを得なかったものが幾つもございます。とりわけ、かつて泣く泣く手放したものの、叶うものであれば今でも所有したい国産車が2台あります。共に、今や乗用車生産から撤退してバストラックメーカーとなってしまった「いすゞ」社製の乗用車、「117クーペ」[販売期間:昭和43年(1968)~昭和56年(1981)]と「ピアッツァ」[販売期間:昭和56年(1981)~平成3年(1991):当方の言うモデルはここまで]であります。2台とも、イタリアの「カロッツェリア」(デザイン工房)で活躍するデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロ(1938~)の作品であり、ともに入手してから手放すまで、その美しさに見飽きることは一度たりともございませんでした。ジウジアーロは、現代に蘇ったミケランジェロではないかと思わせるに足る、彫刻作品とも言うべき非の打ち所のない立体造形を工業製品としての自動車にも与えたのだと確信いたします。彼が目指しているのは「数年後に飽きられて買い替えてもらえる」デザインではありません。間違いなく「永遠の美の創造」を意図してデザインをされております。イタリアにおけるデザイン工房としての「カロッツェリア」については何れ別稿にて取り上げてみたいテーマでありますが、ジウジアーロの経営する「イタルデザイン」、フェラーリの造形を長く担ってきた「ピニンファリーナ」、近年惜しまれつつ活動を終えた「ベルトーネ」、カウンタックのデザインで知られるマルチェロ・ガンディーニ(1938~)等々、多士済々であります。なぜイタリアでこうしたデザイン工房が興隆を極めたのか、追及する価値があると思っております。話を元に戻しますが、現在の日本の自動車税制と自動車保有に付帯して伸し掛かる種々雑多な負担を強いる社会的構造下では、古い自動車を所有することや複数台数を維持することなど、フツウのサラリーマンには到底困難な状況にあります。こうした趣味は、単なる贅沢に過ぎず、所詮「金持ちの道楽」でしか許されない世界なのでしょうか。そうであれば、我が国は精神的に極めて「貧困なる国家」なのだと感じます。

 ここで勝村大輔さんの記事から、旧車(ヴィンテージカー)に対する5つの国家(ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・アメリカ)の採る施策を解説する部分を引用させていただきましょう。以下をお読みくだされば、日本の置かれた状況が如何に理不尽なものか、政策として日本が採っている在り方が如何に不合理なものであり、今日的課題に直結していない時代錯誤なものであるかが御理解いただけましょう。皆様、とくと御覧じられますように。

 

 

クラシックカー保護の先進国ドイツ

 

ドイツでは製造から30年が経過したビンテージカーに対して大部分がオリジナル状態であることが認定されると、クラシックカーとして登録され、ナンバーの末尾にHがつく通称「Hナンバー」が交付される。Hナンバーが交付された車両は、法的に通常の自動車とは別の扱いとなり、通常は排気量や排出CO2の量で課税される自動車税が一律になるなど、ほとんどの排気量の車両が事実上の免税となる優遇処置がある。そのほか、排出ガスの量などに応じて発行される環境ステッカーの有無で、通行が規制される都市部においても通行の規制を免除される。また自動車保険も年間最大走行可能距離を制限したクラシックカー専用の保険が各社から発売されている。

 

古い車両に対する手厚い保護措置があるイギリス

 

イギリスでは2014年以来、製造から40年が経過したクラシックカーに対する自動車物品税が免除される法律が施行されている。これは「英国政府としてクラシックカーを国の重要な遺産ととらえ、免税措置によってクラシックカー産業を支援する」という指針に則ったもの。さらに2018年からは製造から40年経過かつ、直近30年以内に主要な部分の大幅な改造を受けていない車両を「歴史的に重要と認定された車両」とし、通常であれば購入から3年が経過したあとに毎年課される法定検査(MOT)の免除処置も導入されている。またロンドン市内など超低排出ゾーンへの侵入規制も免除となる。

 

そもそも自動車税自体が廃止されたフランス

 

 フランスでは、そもそも2001年に自動車税が廃止されたため、クラシックカーに対する自動車税の優遇制度は存在しない。ただし登録の際に支払う登録税はもともと新車の際の費用が一番高く、古くなるほど安くなるシステムとなっており、優遇措置ではないものの、古い車両ほど登録費用が安くなる仕組みとなっている。また2009年より、製造から30年以上経過した車両をクラシックカーと認定し、自動車登録証にもクラシックカー認定を受けた車両である旨が記載され、通常2年ごとの技術検査が5年ごとに緩和されるほか、1960年以前に製造された車両に関しては検査自体が免除される。またスポーツカーなどに課されている馬力に応じた追加税も免除となる。

 

クラシックカーを維持しやすい環境のイタリア

 

イタリアでは、かつて世間ではクラシックカーとなりつつある中古車両が税金を逃れるべく国外に大量に流出した背景がある。そこで2009年に、製造から少なくとも20年が経過した車両が、イタリアクラシックカー協会などの管理する名簿に登録されている場合クラシックカーと認定され、車両を登録する際に課される自動車登録税が減税されるほか、30年以上経過すると自動車税も免税となる。さらにトリノやフィレンツェなど、大都市で行われている車両の交通規制からも除外されている。またクラシックカーを対象とした自動車保険も発売されており、走行距離や地域によって異なるものの、おおむね通常の保険料と比べて大幅に安い設定となっており、所有者の負担を軽減している。

 

州によって異なるが税制優遇措置もあるアメリカ

 

 アメリカでは輸入車に関して連邦政府によって「連邦自動車安全基準(FMVSS)」と呼ばれる厳しい安全基準が制定されているが、製造から25年が経過した車両は免除される。これが有名な「25年ルール」と呼ばれる施策だ。同じく製造から21年が経過した車両に関しては連邦大気汚染の基準も免除される。クラシックカーに対する保護措置は州によって異なるが、デトロイトのあるミシガン州を例に見てみると、製造から26年が経過し、かつコレクターズアイテムとして所有されている車両で、8月を除いて通常の移動手段として使用しない(自動車ショーやパレード、自動車クラブの活動は除外)場合、クラシックカーとして認定され、希望者にはヒストリカルプレートが交付される。このプレートを交付された車両は登録料などの減免措置を受けることができる。

 

 

 如何だったでしょうか。欧米諸国における旧車(ヴィンテージカー・クラシックカー)保存への取り組みがどれ程に成熟したものか、逆に我が国の置かれた状況が如何に過酷なものかが御理解いただけたものと存じます。本記事をお纏めになられた勝村さんは、これら5カ国の他にも、「スウェーデン・オランダ・スイスなど多くの国で旧車に対する税制優遇措置が行われており、更には多くの国ではクラシックカー、とくに自国のクラシックカーは『リテージ』として保護する指針となっており、これが世界のスタンダートとなりつつある」と述べておられます。その一方で、相も変わらず、日本では旧車に重税を課し、新車に買い替えさせようとする施策が見直される気配はございません。そもそも、一度購入した自家用車を乗り潰すまで使いまわすのでなければ、一番お得なのは新車購入から3年目の初車検で新車に買い替えるのが最も経済的である現実があります(下取り価格との新車価格との相殺上、この対応が経済的に最もお得なのです)。これでは、限られた資源の有効活用の推進とは全面的に相反した動向に繋がるのが当然でありましょう。少なくとも、SDGsという国際的潮流とは全く矛盾した動向を助長する施策ではございますまいか。一方で、日本製クラシックカー価格が高騰している昨今、所有維持に対する保護措置を取らなければ、上記のイタリアがかつて経験したように、早晩貴重な日本車が日本から消えてしまうことにもなりかねないと、勝村さんはご指摘されていらっしゃいます。当方もその通りかと存じ大いに共感する者でございます。自動車もまた、単なる工業製品ではありません。「文化的価値」を有する貴重な自国の「産業遺産」に他ならないことを自覚すべきであります。イタリアでは当課題に政策対応し、その流れを阻止したことは上記引用文中、勝村氏がご指摘されている通りでございます。

 一方、最近になって、少数の国内メーカーでは、極々一部のスペシャリティーカーに限ってではありますが、「部品供給期限」を過ぎても部品提供を続けようとする動きが出てきており、それ自体は歓迎すべき動向だと思われます。しかし、ここで申し上げたいことは、旧車の維持にメーカーが責任をもって取り組むことは、メーカーにとってもマイナス投資には当たらないことでございます。古い車を維持することが経済的に手軽になれば、多くの国民はそちらにシフトしましょう。むしろ、そちらの市場の開拓を進めることこそが企業活動の成長とSDGsとの両立に繋がりましょうし、その市場は極めて莫大なものとなりましょう。そして、何よりも旧車(クラシックカー)が大切にされることは、限られた資源の有効利用に直結しますし、そもそも物を大切にして利用する、我が国に本来根付いていた国民性とも親和性が高いことだとも存じます。しかし、こうした動向は、未だ極々僅かな車種に限られておりますし、そもそも私企業が自発的に進めている段階にすぎません。

 何よりも重要なことは、政府の施策として、未だに高度経済成長期の再来を夢見るが如き、最早アナクロニズムとも称すべき自動車税制等々、自動車の維持に関する足枷の改革に早急に着手することだと考えますが、皆様は如何お考えでいらっしゃいましょうか。そのことは、国際社会で日本が果たすべき立ち位置の問題とも関わりましょう。勿論、これは何も、自動車に限ったことではございません。前編のスピーカーの一件を持ち出すまでなく、一事が萬事だと考える次第でございます。日本における工業生産品に対する政策哲学の構築と、企業意識の成熟は何時になったら実現されるものでしょうか。

 

 

 関東の地で造営された「浄土庭園」(前編) ―または 足利氏造営にかかる「鑁阿寺」と「樺崎寺跡」のこと―

5月27日(金曜日)

 

 先週より、令和4年度「千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』」が始まり、既に一週間が経過いたしました。幸いに、大河ドラマ人気にも肖り、昨年度末開催の「南関東編」に引き続いて多くのお客様に御出でいただいております。誠にありがとうございます。その証拠に1,000部印刷の「南関東編」ブックレットは3月末日には「完売」いたしました。今回の「北関東編」ブックレットは開幕と同時の販売となりましたが、「南関東編」と同じ1,000部印刷でございます。予算の関係で再販するにも時間を要しますので、品切れにならない裡にお早めにお買い求めくださいませ。併せて、完売後もお問い合わせの多かった「南関東編」ブックレット重刷も決定し、現在「北関東編」と併せて販売中でございます。もし未入手でございましたら「北関東編」と共にお買い求めください。2冊購入で特価販売という訳には参りませんが、2冊でも合計200円でございます。その内容に鑑みれば、破格なるコストパフォーマンスかと自負するところでございます。どうぞお手元に置かれて大河ドラマ理解のお供にお役立てくださいましたら幸いです。今回は、本パネル展開催に併せて、展示会にも登場する足利氏の造営した寺院、及びその関連として当該寺院に造営された「庭園」について述べさせていただこうと存じます。因みに、述べる順番は逆になることを御容赦くださいませ。

 まず、例によって極々私的なことから説き起こしたいと存じます。小生は学生時代4年間「古美術愛好会」なるサークルに所属しておりました(略称「古美愛」)。その名をお聞きになるやいなや、「ヤケに年寄臭いサークル名だな」「若いもんがやる活動じゃないな」「やっぱり館長は若い頃から変わりモンだったんだな」等々、“マイナスベクトル”満載の反応が耳に届くかのように感じます。確かに、その名称からは「渋茶を啜りながら骨董品を愛でている」……かのような、極々渋い趣味をもった所謂“若年寄”集団の姿が思い浮かべられても仕方がありますまい。自分が御世話になっていたサークルを腐すのは気が引けますが、そもそも論として、命名自体に“問題あり”でございましょう。しかし、その実態は、至って学際的色彩の濃い活動をしていた団体なのです。ここでは、3年を1サイクルとして、年度毎に「仏像」「古建築」「庭園」を“テーマ”として学ぶことが活動の中心でした。日常的の活動としては、週一回テーマに関する勉強会を開催し、それに関する知見を深めておりました。また、その成果をもとに、主に京都・奈良を舞台とする夏合宿で実地見学を行い、その理解を深めておりました。夏以降も、同様に実地見学に基づいた報告会を週一回のペースで繰り返し、学園祭での展示報告に繋げました。更に、日帰りが可能範囲でのミニ見学会も頻繁に行っていたのです。また、3つのテーマから外れる内容は、関心のある者が集うゼミ的活動により補完もしました。例えば、当方が主催したゼミとしては「古絵画」があり、参加希望の5人程での活動でした。このおかげで「狩野派」を始めとする近世絵画の知見が相当に深められたと自負するところでございます。全体テーマも同様ですが、部員は共通のテクストを購入し、毎週の報告者が分担箇所のレジュメを作成して解説。それを基に参加者との間に意見交換等を進める“ゼミ形式”での学習を進めておりました。従って、「仏像」「古建築」「庭園」に関しては、専門的な深さはいざ知らず、実地見聞を通した一通りの知見はあるつもりでおります。今回は、その中の「庭園」の話題が中心となります。もっとも、「庭園」をテーマとする年度のテクストが何であったのかすらすっかり失念しておりますから、その知見たるや相当に怪しいものであることが白日の下に晒されましょう(自身で選定に関わった「建築」のテクストが「太田博太郎『日本建築史序説』彰国社」であったことはハッキリと記憶しているのですが)。ただ、その場で学んだことは、そ・れ・な・り……には憶えております(汗)。

 その「古美愛」夏合宿では、京都・奈良を中心とする様々な形態の日本庭園を見て回りました。京都市中の禅寺古刹に数多く残る「枯山水」庭園の数々(「龍安寺」石庭は代表的存在)、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)等の茶道家にある「茶庭(露地)」、「二条城二の丸庭園」に代表される「池泉回遊式庭園」(東京には江戸の大名庭園遺構が幾つか残ります)、そして仏教信仰の在り方に由来する「浄土庭園」なる寺院庭園にも大変に興味を覚えました。その「浄土庭園」の代表的遺構としましては、京都南郊宇治の地に営まれた藤原頼道別業を寺院化した「平等院」が想起されましょうか。その他の「浄土庭園」として、京都と奈良の県境には堀辰雄『大和路・信濃路』に登場する「浄瑠璃寺」、南都仏師運慶初期作品の大日如来像(智拳印を結ぶ金剛界大日如来像)で知られる「円成寺」、関東では神奈川県横浜市内金沢の地に残る「称名寺」、何よりも東北の平泉の地に展開する毛越寺を始めとする幾つもの瞠目すべき浄土庭園遺構を想起される方も多かろうと存じます。ほとんど知られておりませんが、平泉では金色堂で知られる「中尊寺」にも「浄土庭園」遺構が存在しております。現在放送中の大河ドラマでも取り上げられるかもしれませんが、奥州藤原氏を攻め滅ぼした後、頼朝がその菩提を弔うために鎌倉に造営した「永福寺(ようふくじ)」も代表的な「浄土庭園」遺構であり、話題としては平泉とともに“旬”な存在かもしれません。この永福寺は、小生が学生時代には、跡地とされる一帯は荒れ果てた湿地帯であり、所々に庭園の立石と思しき遺構が眼にできる状態に過ぎませんでした。しかし、その後の発掘調査で諸堂の遺構と池庭の状況が明らかとなり、現在では諸堂跡が明示されるとともに「浄土庭園」の威容も蘇っております。何でも、推定復元された諸堂の状況もVRで眼にすることができるそうです。当方は整備後に脚を運んでおりません。是非とも再訪を期したいものであります。

 それらの寺院を思い浮かべていただければ、「浄土庭園」が如何なる特色を有する庭園か概ね想像がつかれようかと存じます。基本的に、寺院の中核となる堂宇と池泉とがセットとして構築された庭園でございます。そもそも「浄土」とは、仏教でいう「一切の煩悩や穢れのない仏や菩薩の住む清浄な世界」を言います。一方、それに対置されるのが「穢土(えど)」であり、こちらは煩悩に塗れる衆生の暮らす世界となります。従って、「仏の住む清浄な世界を諸堂とセットにして寺院空間に再現した庭園、それが「浄土庭園」ということになりましょう。もっとも、仏や菩薩に種々の面々が存在するのに比例して、「浄土」にも様々なものが想定されているのが実際です。もっとも著名な存在が阿弥陀如来の「極楽浄土」(西方にあるとされます)ですが、それ以外にも薬師如来の「浄瑠璃浄土」(東方にあるとされます)、観音菩薩の「補陀落浄土」(南方にあるとされます)等々、幾つもの浄土が想定されております。ただ、普通に「浄土」と称する場合、平安中期以降に広まる「末法思想」に強く規定された「浄土思想」を基軸とする「阿弥陀浄土」を指すことが一般的です。そして、かような思想的な背景として、平安時代中期(10~11世紀)以降に盛んに造営されるようになった「仏堂と一体となって阿弥陀浄土を荘厳するために仏堂前面に準備された園池」を伴った池庭の形式を、一般的には「浄土庭園」と称しております。

 従って、一般的に言う「浄土庭園」では、阿弥陀浄土が西方に存在するとされることから、阿弥陀仏を安置する金堂が東面して建立され(東から西方の阿弥陀浄土を拝むため)、その前面に池泉が築かれます。つまり、池泉の対岸(「彼岸」)が阿弥陀如来の居まします「阿弥陀浄土」であり、池の手前(「此岸」)が一般衆生の生きる「穢土」と“見立て”、寺地の空間構成がなされることになります。庭園には「中島」が設けられることが多く、場合によっては池の手前から中島を経て対岸へ向かう橋が掛けられているケースもあります。これは、穢土としての現世から、清浄な世界である阿弥陀浄土へ至る道筋を可視化したものでございましょう。池の水際には「州浜」と称される美しい曲線を描くように造園された部分や、景観を引き締める立石が据えられていることが間々みられます。鎌倉の永福寺造営では、怪力で知られる畠山重忠が巨石を軽々と運んだとの伝承が伝えられます。こうした状況を、今日最も典型的に残している浄土庭園が奥州平泉の「毛越寺跡」でございましょう。残念ながら、寺院としての伽藍は全て消失しておりますが、庭園遺構は見事なほどに明瞭に残存しており、京都鴨川東岸に造営された法勝寺を始めとする「六勝寺」の遺構が地下に埋もれている状況にあって、これほど「浄土庭園」の本格的な在り様を眼に見える形で伝える遺構もないと思います。

 もっとも、世に残る「浄土庭園」の全てが、上記の定石の如くに作庭されているかと申せば左にあらず。金堂が南面していたり、本尊が大日如来であったりします。先に挙げた浄瑠璃寺では、池泉西側に九体阿弥陀堂と、池泉東側に対面して薬師如来の安置される三重塔が配置されていることから、阿弥陀浄土と薬師浄土とを対置する形式をとっているのだと思われるなど、その実態は多種多様であります。また、浄土庭園の嚆矢とされる藤原道長が京に造営した法成寺から、後の院政期に鴨川左岸に造営された所謂「六勝寺」に典型的であるように、金堂の左右から前面の池泉に向けて左右に翼廊が建築される形式を持つ「浄土庭園」もあれば(これは貴族邸宅の建築様式である「寝殿造」と「庭園」の構成を、「本堂」と「浄土庭園」に置き換えた形式となります)、単立の本堂前に池泉を構築するだけの簡素な形式の「浄土庭園」まで、これまた実に多様な展開が見られております。ただ、「仏堂とその前面に構築される池泉とが一体化して浄土の世界を荘厳する」目的は一緒でございますので、ともに「浄土庭園」と称することに何の問題もございません。ただ、注意が必要なことは、後の鎌倉時代中期以降に開かれる、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗(一向宗)、一遍の時衆といった所謂「浄土」系の鎌倉新仏教では、基本的に斯様な浄土庭園が造営されることはございません。飽くまでも平安時代中期以降から鎌倉時代中期にかけての「浄土信仰」華やかなりし時代の「密教寺院」が造営主体の中心に位置づいていたのです。

 さて、こうした「浄土庭園」は、京都や鎌倉だけに留まらず、坂東の地にも瞬く間に広まり、多くの「浄土庭園」が関東の地にも造営されていくのです。坂東武士は、貴族に仕えるために上京する機会も多かったため、壮麗な浄土庭園を備える寺院の数々を眼にしていたことでしょう。つまり、関東における浄土庭園の造営主体の多くは坂東の地に割拠した武士団、つまり後に鎌倉幕府の御家人達の手によるものであります。しかし、鎌倉武士の手になる「浄土庭園」の実態は意外と知られていないように存じます。しかも、鎌倉とその周辺地域を除くと、その多くが今回パネル展で取り上げた北関東の御家人達によって造営されたものなのです。それが、今回本稿で「浄土庭園」を取り上げた理由であります。

 まず、北関東の「浄土庭園」を紹介させていただく前に、手始めに鎌倉の地に造営された東国を代表する「浄土庭園」を取り上げておきましょう。それが、先にも触れた源頼朝の下命によって造営された「永福寺」であります。寺地に選ばれたのが、「大倉幕府」鬼門にあたる北東の谷戸(鎌倉では谷津のことを斯様に称します)でありました。現在では、この奥で道は途絶えますが、恐らく造営当時は、鎌倉から奥州方面へと繋がる街道筋に当たっていたものと思われます。だからこそ、奥州藤原氏を攻め滅ぼした後に、奥州合戦の犠牲者の鎮魂(おそらく怨霊鎮魂)を目的に、鎌倉の鬼門に当たる当地が寺地に選ばれたものと思われます。しかも、そのモデルとされたのは、他でもない、頼朝自身が奥州藤原氏攻めの際に目にした、この世の浄土を思わせる平泉の荘厳なる精舎の威容であったのです。「永福寺」は、文治5年(1189)に建立が開始され、西の山を背景に東面して諸堂が建設されました。平泉中尊寺の「二階大堂」を模したとされる二階堂を中心に、その左右に複廊で結ばれた阿弥陀堂と薬師堂を並べ、更に園地に向けて翼廊を突き出させた伽藍配置をとっていることが発掘調査で確認されました(周辺地名が「二階堂」と称される所以です。またその近くに屋敷があった「文士」名字の由来ともなります)。園池は南北に長く、二階堂の正面には橋が架けられ、建物跡の南北方向に景石を寄せ集めた岩島が設けられております。実際の建物の復元はされてはおりませんが、基壇が復元されておりますので、伽藍配置と浄土庭園の関係性がよく理解できるようになっております。

 そして、永福寺が造営されたのと同時期には、御家人の中にも浄土庭園をもつ寺院をそれぞれの本願地に造営している者があらわれます。その一人が、本拠地の足利の地に「樺崎寺」を造営した足利義兼であり、もう一人が、本拠地の伊豆韮山に「願成就院」を造営した北条時政に他なりません。この2人はともに幕府の中枢を成す御家人であり、両方の寺院ともに南都仏師「運慶」の手になる仏像が安置されていたことでも共通しております(願成就院では今でも本堂内に安置され拝観可能です)。東国武士と南都(奈良)仏師との繋がりについても興味深いテーマであり、本パネル展の会期中に本稿で再度取り上げてみたいと考えているところでございますが、今回は「浄土庭園」、特に足利に焦点を当て、その地に造営された「樺崎寺」と「鑁阿寺」について後編で取り上げてみようと存じます。その前に、足利以外の関東で造営された「浄土庭園」の事例について簡単に紹介させていただきましょう。坂東武者によって造営された(または造営されたことが推測される)「浄土庭園」を伴う寺院遺構は足利氏・北条氏以外にも造営されており、しかも、頼朝による「永福寺」造営に先立つものも多々存在しているのです。つまり、東国武士が「浄土庭園」を伴う寺院を造営するのは、頼朝による「永福寺」造営に起因するものとは言えないのです。

 その早い時期の造営に掛かるものが、武蔵国(埼玉県嵐山町)の「旧平沢寺跡」となります。こちらは、「北関東編」で取り上げる畠山重忠の居館とされる「菅谷館」北西1.5kmに所在する寺院跡であり、発掘遺物から12世紀半ばに秩父氏によって造営された寺院であることが判明しております。発掘調査の結果、基壇・礎石を有する三間四方の堂宇と、東の谷津に造成された園池が確認されております。堂と園地とに段差があることが特色でありますが、堂の規模からすると、福島県いわき市に残る白水阿弥陀堂と前面に広がる浄土庭園とを彷彿とさせる遺構と申せましょうか。また、常陸国にある佐竹氏菩提寺であった茨城県常陸太田市の正宗寺にも、鎌倉時代以前の造営と推定される浄土庭園遺構が地表から確認されているとのことです。更に新田氏の本拠である上野国新田庄(現群馬県)にも新田一族の造営に掛かる浄土庭園として推定可能な寺院遺構が見られます。それが、旧来迎寺跡と現在臨済宗となっている長楽寺であります。長楽寺は東面する三仏堂前に池泉が広がる形態であることから、元来が浄土庭園を有する寺院として造営されたことが見て取れるとのことです。続いて、下野国の有力御家人である宇都宮氏にも、頼朝の挙兵に従って軍功を挙げた朝綱が隠居の地として選んだ尾羽(現益子市大羽)に残る地蔵院(室町期建築にかかる国重要文化財の阿弥陀堂が現存)に、浄土庭園遺構が造営されていたことが発掘から明らかになっております。現在判明して復元されているのは、地蔵院の麓に残る導水部分と考えられる極わずかな部分のみでありますが(「鶴亀の庭」としております)、本来はその下方に広がる谷津にかけて大きな池庭が構築されていたものと考えられているのです。

 さて、ここまできて、現在の千葉県域からの「浄土庭園」の紹介がないことにお気づきでしょう。そうなのです。旧下総国・上総国・安房国では、現段階で「浄土庭園」遺構の可能性が指摘されているのはいすみ市岩熊の法興寺跡のみであります。本寺は、元来古代寺院として造営されておりますが、「アーミダ」地名から阿弥陀堂と推定される大型基壇を持つ建物遺構、及び隣接して残る「池田」地名と地勢から判断される園地遺構から、12世紀後半から13世紀にかけて浄土庭園を有する寺院として再整備された可能性が大きいと考えられているようです(『千葉県の歴史 資料編 中世1(考古資料)』。しかし、それ以外に千葉県域で浄土庭園を伴う寺院が造営されたことは確認されておらず、関東における浄土庭園遺構空白地帯ともなっているように感じさせます。確かに、浄土信仰といった面からみれば、千葉常胤の子である東胤頼は浄土宗開祖である法然上人に帰依するなど熱心な念仏者ではございます。また、本館の外山統括主任研究員からのご教示によれば、念阿(ねんな)良忠の房総への進出には東氏が関係していることが想定されるとのことです。その良忠は、建長元年(1249年)に関東に下り利根川に沿って下総国を教化。その後は下総国匝瑳郡に住し、千葉一族の椎名八郎や荒見弥四郎の外護を受け、匝瑳南条荘を中心に常陸国・上総国・下総国の三国の教化活動を続けましたが、最終的には外護者椎名氏・荒見氏と衝突して当地を去ってしまうことになります。また、後の時代になりますが、時衆に帰依する千葉介貞胤があらわれたり、室町期の千葉介満胤子の酉誉が浄土宗八祖に数え上げられるなどの動向が見られるなど、千葉一族が決して浄土系の信仰と無縁という訳ではないのですが(酉誉は後に徳川家菩提寺となる増上寺を江戸の地に開いております)。勿論、同じ浄土信仰とは申しても、こちらは時代的に浄土庭園を造営する勢力ではございません。今話題としている時代に戻れば、千葉常胤やそれ以前の当主が浄土信仰へ傾倒としたという話は聞いたことがないように思います。千葉常胤は、奥州合戦の際に東海道大将軍として平泉に脚を踏み入れており、その目で平泉の精舎の荘厳をみているのですが……。その理由について納得できる回答は得られておりませんが、千葉一族初期の時代において、千葉と浄土信仰との相性は基本的に宜しくないのかもしれません。

 以後は、全くの勝手な思い付きに過ぎませんが、後に房総で生まれる日蓮の教えは、極楽浄土への往生という“来世”に重きを置くことなく、飽くまでも“現世”における人々の幸福実現に重きを置くものと考えますが(法華経に基づく仏国土の実現)、こうした思想が房総で発祥し広まることの土壌がそこに存するのかも知れない……と言ったら一笑に付されましょうか。何れにしましても、その本当のところは現段階では闇のなかであります。そもそも、その時代には千葉氏に浄土庭園を造営するだけの経済的基盤が整っていなかっただけかもしれませんし、常胤が質素な生活をしていると頼朝から賞されているように、それを浪費に過ぎないと考えていたのかもしれません。因みに、これまで述べた関東における「浄土庭園」に関しましては、足利市教育委員会大澤伸啓氏の論文「東国の浄土庭園」「寝殿造系庭園と浄土庭園」を大いに参考にさせていただいておりますのでご紹介をさせていただきます。

 さて、後編では、いよいよ足利氏の本願地である「足利」の地をクローズアップして、足利の地の“宗教世界”を中心にして、かの地の姿を覗き見てみましょう。
(後編に続く)

 

 

 関東の地で造営された「浄土庭園」(後編) ―または 足利氏造営にかかる「鑁阿寺(ばんなじ)」と「樺崎寺(かばさきでら)跡」のこと―

5月28日(土曜日)

 

 足利市は栃木県の南西部に立地する地方中核都市であり、西は群馬県桐生市に隣接しております。両市ともに古くから織物業が盛んであり、「足利銘仙」は大正から昭和にかけての時代を彩った衣装として広く知られておりましょう。また、市内南部には旧日光例幣使街道が東西を貫いております(「八木宿」が置かれました)。こうした近世以降の歴史に留まらず、古代・中世に遡る歴史的な背景を豊かに有する地であり「史跡」指定された場所も一つや二つに留まりません。市中心部には「足利氏館跡」や「足利学校」が厳然として立地しており、歴史の深さを実感させてくれます。更に、足利市立美術館・栗田美術館・草雲美術館等々の公立・私立美術館も多く存在するなど、文化レヴェルの極めて高い街であることを感じさせられます。斯様な街としての在り方から「北の鎌倉」とも称されることも多く、実際に「鎌倉市」とは姉妹都市の提携関係にございます。北に足利山地、南に関東平野を擁し、渡良瀬川が北西から南東に流れ下る風光明媚な土地柄でもあります。因みに、大正10年(1921)1月1日に、県都に引き続き県内2番目の「市制施行」を敷いた都市であります。従って、昨年が記念すべき「市制施行100周年」であったわけです。同じような都市を何処かで聞いたことがございましょう。他でもない、我らが「千葉市」と「市」としての歩みの同級生ということになります。 また、両市ともに鎌倉幕府創建に深く預かった坂東有力武士団の根拠であったことなど、大いに関連の深い土地であります。もっとも、その後の市としての方針の違いもあって、良し悪しの問題は一先ず措くとして、両市のその後の歩みは相当に異なったものであることは言うまでもありません。

 さて、この地は律令制下では下野国足利郡・梁田郡であり、概ね現在の渡良瀬川の左岸(北側)が足利郡、右岸(南側)が梁田郡となります。平安中期に坂東の地で武士団が割拠するようになると、下野国では「平将門の乱」鎮圧に功があった藤原秀郷(「俵藤太」)後裔たちが台頭することになります。即ち、坂東の名族として知られる「小山氏」「結城氏」「長沼氏」「下河辺氏」等々の「秀郷流藤原氏」であり、下野国からその周辺へと盤踞していくことになるのです。その「秀郷流藤原氏」の一流に、この足利の地を本拠とした一族もおり、彼らはその地を名字として「足利氏」を名乗っております(これ以降で話題とする「源姓足利氏」に対して、「藤姓足利氏」と称することで区別します)。この藤姓足利氏は、12世紀初頭の浅間山の大噴火で荒廃したこの地の復興に取り組むことで、この足利周辺に勢力を拡大していきました。

 同じ頃、奥州で勃発した「前九年の役」(1051~1062)と「後三年の役」(1084~1087)の鎮圧に活躍したのが源頼義とその子である源義家であり、その経過を通して従軍した坂東武士の衆望を集め、東国における源氏の基盤を不動のものとします。その源義家の子である源義国は、父から譲り受けた足利の地を鳥羽法皇の御願寺である安楽寿院に寄進して「足利庄」として立券することで、その地盤を確実なものにしようとします。ただ、義国は京を活動の舞台とする軍事貴族を基盤としたため、足利の地に居住することはほとんどなかったものと考えられております。つまり、在地支配は直接的なものではありませんでした。上述した通り、当時、足利庄を在地領主(開発領主)として実際に支配していたのは「藤姓足利氏」でしたから、一見して両者間の対立が勃発しそうです。しかし、そうはならなかった(両者間に大きな競合関係が生じなかった)のは、源姓足利氏が「領家」として、在地領主である「藤姓足利氏」を支配する立ち位置にあり、「本家」である法皇(上皇)との間をつなぐ存在であったことから、「領主としての役割分担」が明確に分かれていたためと考えられております。しかし、そのバランスが崩れる事態が惹起することになるのです。それが、久安6年(1150)京でのトラブルが基となり天皇の勅勘を被った源義国が、京から追われ足利庄に下向して土着したことであります。つまり、義国も現地で在地領主となる道を選ぶことになったことで、ここに足利庄の領主としての源義国(「源姓足利氏」)と足利俊綱・家綱(「藤姓足利氏」)父子との対立が先鋭化することになるのです。そして、その対立関係は、そのまま源平の対立構造に連動することとなり、その帰趨によって解消を迎えることとなるのです。つまり、「源姓足利氏」は、平家側に立って優位性を維持しようとする「藤姓足利氏」から圧迫を受けることとなり、そのことが頼朝陣営に加わる直接的な動機となるのです。因みに、義国の子義康は足利庄を継承し「足利氏」(「源姓足利氏」)を、義重は新田庄を受け継ぎ「新田氏」の初代となります。

 こうした北関東における「治承・寿永の内乱(源平の争い)」の具体的動向は、パネル展「千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)」の「足利義兼」の項目でお示しした通りでございます。つまり、寿永2年(1183)常陸国の源氏一族である志田義広が頼朝に反旗を翻し、恐らく源義仲勢力と合流するために下野国から上野国方面へと進んだ折、頼朝陣営として挙兵した小山朝光・下河辺行平ら小山一族と宇都宮一族の八田知家が「野木宮」にてこれを迎え撃ち撃破します。その結果、志田側に組みした藤姓足利氏の棟梁(足利俊綱・忠綱父子)は没落することになり(四国へ落ち延びたとも)、藤姓足利氏の現地支配は終焉を迎えることになります。源姓足利氏は労せずして足利庄の権益を一挙に掌握することになりました。そして、その前後に源姓足利氏初代の義康、乃至は二代足利義兼によって造営された居館が、今に残る「足利氏居館跡」となります。この居館は、所謂「方形居館」と称される東国の地方武士本拠の典型的な在り方を有しているとされております。それは、四周を土塁と堀によって囲まれた概ね方形の敷地として造営されているのです。そして、その内に館機能を持つ建物が数多築かれていたことでしょう(実際には北辺約223m・南辺約211m・東辺約175m・西辺約206mの不整台形の敷地です)。ただ、その後に敷地全体が寺院に改められて現在に至っているため、発掘調査が実施できてはおりません。従って、邸内に如何なる居館が如何なる配置で配されていたのかは判明しておりません。義兼は、建久6年(1195)出家し「鑁阿(ばんな)」を号し、理真という僧侶を招き、館内に持仏堂を建立しております。そして、文暦元年(1234)その子足利義氏が堂塔伽藍を建立し境内を整備することで、館内の持仏堂から寺院化を図ることに舵を切ったと考えられております。更に、天福2年(1234)には大御堂(本堂)を建立し、本寺を代々の足利氏の菩提寺としました。現在国宝に指定される本堂は、正安元年(1299)足利家時(尊氏祖父)が再建したものを、応永14年(1407)から永享4年(1432)にかけて大規模に改修した建物であり、関東における代表的な密教系本堂建築として高く評価されております。

 本寺が「鑁阿寺」と称したのが何時かは明確ではありませんが、建長3年(1251)に義氏の子である泰氏発給文書に「鑁阿寺共僧中」として見えるのを嚆矢とするようです。「鑁」は金剛界の、「阿」は胎蔵界の、それぞれの大日如来を表す梵字の音をとった語であり、足利氏の大日如来への篤い信仰を感じさせます。更に、室町時代に入って足利氏が幕府を開くと、将軍家や鎌倉公方からの手厚い庇護を受けて寺運が隆盛します。本寺は大きな火災が少なかったこともあり、本堂、鐘楼、経堂、多宝塔、楼門、太鼓橋、御霊屋、西門、東門、北門、宝庫(大黒堂)など古建築が数多く残り、寺宝も数多所蔵しております(初代将軍尊氏、3代将軍義満寄進の什物等々)。近接する足利学校と併せて、是非ご訪問されることをお薦めいたします。因みに、多宝塔は近世建築であり、5代将軍徳川綱吉生母の桂昌院の寄進に掛かるものです。全国の由緒ある寺社再建に取り組んだ桂昌院ですが、鑁阿寺との関係は恐らく実弟本庄宗資が、元禄元年(1688)初めて大名に取り立てられ(1万石)、下野国足利藩を立藩したことに由来するものと思われます。

 さて、ここで、もう一つの足利氏由緒の重要な寺院跡について取り上げてみましょう。前編で述べた「浄土庭園」との関連から申せば、こちらの話題こそが本稿の本丸となります。それが、「樺崎寺」と称する寺院であります。あまり広くは知られていない寺院かと存じますが、中世の足利にとって、足利氏にとって極めて重要な寺院として位置づけられておりました。もっとも、副題に「樺崎寺跡」とあるように、明治以降には廃絶しており、遺構の殆どは土に埋もれていたことが周知されていなかった大きな要因かと存じます。しかし、昭和58年(1983)から始まった学術調査(発掘)の成果により、壮大な「浄土庭園」を附属する中世寺院の全容が明らかとなりました。そして、歴史的価値に鑑みて平成13年(2001)「樺崎寺跡」として国史跡に指定されて今日に到っております。更に、足利市教育委員会の下、史跡整備計画が策定され、現在その整備が進行中です。余談ではございますが、小生が足利の地に脚を運んだのは今から25年程前の事になります。昨年物故された本保弘文先生との歴史探訪最中に「樺崎寺跡」に立寄っております。当時は発掘調査が開始されて間もなくであり、八幡山裾野に造営された堂塔遺構の発掘面には、全面にブルーシートが掛けられておりましたし、肝心要の池泉も整備されておらず単なる農業用水池のようであったことを記憶しております。現地に残る古建築としては、背後に聳える八幡山の裾野に造成された平坦地に建つ「樺崎八幡宮社殿」のみでした。こちらは、江戸時代の天和年間(1681~1683)に足利氏末裔の喜連川家によって再建されたものであり、近世の段階でも足利氏によって本寺が維持されていたことに感銘を受けました。

 それでは「樺崎寺」が如何なる寺院であるのかを、特別展図録『足利氏の歴史-尊氏を生んだ世界-』1991年(栃木県立博物館)に掲載される峰岸純夫先生の論考と、『日本の遺跡41 樺崎寺-足利一門を祀る下野の中世寺院-』2010年(同成社)を下敷きにして御説明させていただきましょう。この樺崎寺の立地は、先ほどご説明申し上げた鑁阿寺や足利学校のある市内中心地から北東に5km程離れた鄙びた山間部となります。北東であることから、足利館の鬼門に当たる地域が意図的に選地されたことが想定できます。しかも、本寺は、足利氏の菩提寺である鑁阿寺に先だって、おそらく文治5年(1189)の奥州攻めの際、戦勝祈願を目的に真言密教の「理真朗安」に当地を寄進して造営させたと考えられているようです。そして、義兼は、正治元年(1199)この地で没し、この地に廟(墓)が営まれました。その御堂は朱塗りで造られたことから「赤御堂」と称され、そこに葬られている人物に転じて、義兼のことを「赤御堂殿」と称するようになったと言います。ここからも判明するように、樺崎寺とは後裔の足利氏にとって先祖の廟所であり、同寺に併せて造営された「樺崎八幡宮」と一体化し、足利一族の守護神として位置づけられた寺院であるということになります。つまり、後に寺院化される「鑁阿寺」と「樺崎寺」とは、“対”となって機能する寺院であったということになります。峰岸先生はこのことを「鑁阿寺は宗教上の教理を極める学問的要素の深い寺院であるとすると、樺崎寺は墓所・陵所としての役割を持った菩提寺」と表現されていらっしゃいます。そして、それを高野山で言えば「中心部の檀上伽藍が鑁阿寺にあたり、奥の院にあたる空海廟所が樺崎寺にあたる」とも例えてもおられます。また、鑁阿寺と樺崎寺とを繋ぐ約5kmの道筋に37本の卒塔婆が建てられていたとの伝承が残ることは、それが単なる憶測に留まらぬことの傍証ともなりましょうか。何故ならば、高野山におけるかの「丁石」の存在を想起させましょうから。

 また、発掘調査の結果、樺崎寺には義兼以降の足利氏歴代石塔が建立された一角があったことが分かっております。その石塔群と樺崎寺堂宇に安置されてきた仏像の一部は、明治維新後に近くにある光得寺に移されて現存しますが、その「大日如来坐像」は南都仏師の運慶の手になる作品でございます。更に、平成20年(2008)ニューヨークでの美術品オークションにかけられた「大日如来坐像」も、かつて樺崎寺に安置されていた仏像であり、同じく運慶の手になる作品であることが判明したのです。幸いなことに国内のとある宗教法人が14億円で落札されたことで、国外流出しなかったことを吉とする次第でございます。因みに、東国御家人で、運慶による造仏活動が確認でき、現在も焼失等を免れて現存しているのは、足利義兼の樺崎寺の他に、北条時政が伊豆韮崎の地に造営した願成就院の阿弥陀三尊像等々、和田義盛が三浦半島(横須賀市芦名)浄楽寺に造営した丈六の薬師三尊像がございます。また、頼朝による鎌倉の「永福寺」の造仏活動にも運慶が関与しているのではないかとも想定されているようですが、残念ながら仏像は残りません。更に、南都仏師では快慶作と想定される仏像が、宇都宮朝綱所縁の尾羽地蔵院阿弥陀堂に残っており、南都(奈良)仏師と有力な東国御家人とが深く結びついていることが分かります。運慶・快慶ではありませんが、その時代に造仏された、この二人に極々近いことが想定される慶派仏師作品は、この千葉の地にも残されております。本館近くの東禅寺本尊薬師如来坐像がそれであります。仏像に対してこのように申し上げるのは不遜かとは存じますが、千葉の地に残るピカ一の優品であると考えます。本当に惚れ惚れする造型を有する仏さまです。この辺りのことは、別稿で述べる機会を持ちたいと存じます。

 そして、背後の八幡山の裾野に東面して建つ諸堂の一段下の南北長い平地に、「浄土庭園」が造営されていることが、発掘調査の結果明らかになったのです。八幡山の東側裾野と樺崎川の間の狭量な平坦地に、東西70m程、南北150m程と、南北に細長い園池が構築されております。園池は、南に流れ下る樺崎川等の水を北部から遣水で引き込み、それを南部に東西の堰堤を築いて堰き止めておりました。更に、北部は州浜敷として岬状に南に張り出し、東から南にも緩やかに湾曲する堤を築き、州浜敷きとしております。また、中央北に偏って中島が構築され、その北側に荒磯風石組遺構が残されているのも発見されております。つまり、明らかに、この庭園は「浄土庭園」として構築されたのです。そして、少なくとも4期にわたって改修が加えられており、最終段階は江戸から明治への移行期であることも分かりました。現在は、その内の第3期(南北朝期~江戸時代)の景観を復元してあるとのことです(それより下の遺構面を保護するため)。小生は、復元された園池をこの目では見てはおりません。本館の錦織主査が過日調査に出掛けたのですが、それは見事なものであったとのことです。

 更に、足利の地には、義兼による樺崎寺に留まらず、その後の歴代足利氏当主の手によって「浄土庭園」を伴う寺院が、連綿として造営されていることを忘れるわけには参りません。即ち、義兼の子義氏の造営に掛かる法楽寺、義氏の子泰氏による智光寺、そして泰氏の子頼氏による吉祥寺が、それぞれ本願地である足利の地に造営されているのです。残念ながら、いずれの寺院の庭園も旧状を全く留めませんが、樺崎寺のように発掘調査によって全貌が明らかになるはずです。もっとも、それらの寺院跡は既に宅地化が進んでおり、おいそれとは発掘ができなくなっているのだとは存じます。それでも、つい1ヶ月ほど前、発掘によって法楽寺「浄土庭園」遺構“州浜敷”が発見されたことが報道されておりました。もしも、それらが眼前に蘇れば、足利は、「北の鎌倉」に留まることなく、「関東の平泉」と称すべき唯一無二の威容を誇る都市となりえましょう。文化への意識が極めて高い足利市であれば、決して無理押しでなく多くの市民の支持の下で実現可能ではないかと存じ上げます。それが現実のものとなったらどれほど素晴らしいことでございましょうか。まさに「文化都市:足利」として未来永劫に語り伝えられ賞されることとなりましょう。そして、足利市に居住する子々孫々への「置き土産」として光を失うはございますまい。

 今回は前後編で、足利氏の故地である足利市内の寺院と、そこに残される浄土庭園の世界を御紹介させていただきました。東国御家人の世界は何れも奥深く興味が尽きません。久方ぶりに足利の地を踏みたくなりました。皆様も是非に!
 

 

 

 

 「修学旅行(校外学習)」の季節に思うこと(前編) ―または「旅行的行事」が教育活動として目指すべきことについて― 

 

6月3日(金曜日)

 

 つい先日、本稿を欠かさずにお読みくださり、有難いことに折に触れて心あたたまる感想をお寄せいただく、現在千葉市立中学校で校長をお勤めの方からメールが届きました。彼は、予て同じ社会科担当教師として交友のある、当方が心底敬愛する同僚の先生でいらっしゃいます。まぁ、そのことはさて置き、そのメールには5月半ばに京都・奈良を舞台とする「修学旅行」の引率でお出かけになったことが記されておりました。小生も学校教育現場を離れて2年を越え、すっかりお留守となっておりましたが、毎年5~6月は「修学旅行(校外学習)」のメッカの時節であり、千葉市内中学校では基本的に5~6月がシーズン真っ盛りとなります(高等学校は9~10月頃がメインとなりましょうか)。しかし、この2年間はコロナ禍渦中にて、宿泊を伴わない行事運営を余儀なくされておりましたから、恐らくフルスペックでの実施は3年振りでありましょう。校長として、さぞかし感無量であったことと拝察いたします。もっとも、それにも数倍増して生徒の喜びが如何ばかりであったかと存じます。メールには、「京都・奈良」という伝統文化色濃き古都で、生徒諸君が眼の色を変えて嬉々と活動する姿をみるにつけ、学校という場を離れて校外で学ぶことの意義の大きさを改めて痛感したともございました。小生も、その思いを大いなる共感をもって受け止めた次第でございます。当方も同じ立場であれば同様の感慨で胸が一杯となったことでありましょう。過去2年間に中学三年生であった諸君には、誠に気の毒としか申し上げようがございませんが、これ以降、感染予防をしたうえで「修学旅行(校外学習)」が確実に挙行できるようになることを祈念するばかりでございます。生徒諸君への教育的効果は計り知れないものがあるのですから。

 「修学旅行(校外学習)」と耳にすれば、多くの皆さんは某かの想い出と伴に、その行事とその時代とを懐かしく想い浮かべられることでございましょう。それは、それこそ十人十色でございましょうが、案ずるに楽しかった記憶を蘇らせる方々が多かろうと存じます。何といっても団体旅行でありますので、その多くは友達との交友を通じたものであることは疑いございますまい。先生方のパトロールを掻い潜って“貫徹”して他愛のないお喋りをしたこと、その煽りで移動の電車・バス内で爆睡する羽目になったこと、訪れた街で食した地元名産の食材のこと、道に迷って困惑したこと、地元の学校の生徒とトラブルになりそうになったこと等々、「修学旅行(校外学習)」の想い出の数々は尽きることがありますまい。同窓会の場でも、その話題でひとしきり盛り上がることが間々あることでありましょう。学校生活として決して欠くことのできない本行事は、法的にも「学習指導要領」内に「特別活動」中の「学校行事」として位置づけられており、初等教育を担う小学校では「遠足・集団宿泊的行事」、中等教育機関である中学校・高等学校では「旅行・集団宿泊的行事」とされております。ねらいとして「平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること」とあります。つまり、大きく分けて2つの目的が設定されていることになります。つまり、日常の生活空間を離れた場所での集団生活を通じて、“自然・文化への見聞を広め学ぶこと”であり、併せて“集団生活・公衆道徳の在り方を学ぶこと”に他なりません。本行事は、主に学年単位で実施され、その多くは最終学年に位置づきます。もっとも、「遠足・集団宿泊的行事」といったより広い範疇で申せば、一般的に1年生で実施される1日行事としての「校外学習」、千葉市では2年生で行われる3泊4日の「自然教室」[50年近く利用されてきた「千葉市高原千葉村」(群馬県新治村~現:みなかみ町)は老朽化のため平成30年度末で廃止され施設はみなかみ町に譲渡されましたが、行事自体は現在も継続されています]も該当しましょう。

 学校行事としての修学旅行の淵源は明治に遡り、実質的な歴史的起源は、明治19年(1886)東京師範学校(現:筑波大学)が実施した「長途遠足」にあるとされ、「修学旅行」という名称も、同校が独自に使用しはじめた造語とのことです。修学旅行の歴史的な経緯を辿ってみたいとは存じますし、本館の使命としてはそのことを御紹介するのが本筋とは存じますが、当方の知見がそれに及ばぬこともあって、もう少し追求してからにしたいと存じます。従って、今回はそのことには深入りせず、実際に学校で、如何様にして「修学旅行(校外学習)」を企画・運営しているのかという、裏方のことについて述べてみたいと存じます。よく、保護者の方から「良い季節に修学旅行の引率に出かけられて良いですね」と言われることが御座いました。しかし、天の邪鬼な小生はどうしても、その裏にある願意を感じ取ってしまったものです。それは、取りも直さず「生徒の引率という大義名分を旗印にロハ(註:隠語で“只”のイミ→漢字の上下を分割してカタカナ読みにした)で旅行に行けていいですねぇ」「仕事(授業)を放ぽっらかして旅行なんぞに現を抜かせしていい気なもんだねぇ」といった気配……としか申し上げようのない違和感でございます。そうした誤解を解いておくことも、教職を退いた身であるから可能かと存じ上げる次第でございます。現役の先生方は謙虚な方が多く、恩着せがましい言いようには口が重くなるものですから。このことについて、ここでハッキリと白黒つけて申しあげて置きたいものと存じます。

 第一に申しあげるべきは、修学旅行の引率は立派な「業務」であることです。その“重さ”とは、ある意味で日常の授業に比べて何百倍にもなります。つまり授業をしている方が遥かに気楽ということです。事故・怪我の無いように、旅行先でのトラブルが無いように、引率者は細心の注意を払わねばなりません。世に「おちおち寝ていられない」との云いようがございますが、「旅行的行事」の引率は正にその物言いが当てはまると思います。実際のところ、勤務時間外である夜間も勤務同様となります。昼間も生徒は活動で職員の手元を離れます。従って、常に何か問題が生じないように神経を張り巡らせ、何かあれば直ぐに出動できるようにしておく必要がございます。つまり、24時間の緊張を強いられることになるからです。その分の手当が支給されると思われましょう。確かに時間手当の支給はございますが、責任の重さに比べればホントウに微々たる金額にすぎません。特に4日間を要する自然教室は神経を使います。自然の中での活動は一つ間違えば生徒の生命に関わる問題に直結するからであります。行事が終わったときには、少なくとも身体的にはボロボロになるほどです。まぁ、生徒諸君の成長に接することで精神的にそれを遙かに増す喜びが得られるのでありますが、それがなければ到底「やってられん!!」と匙を投げ出したくなること必定でございます。もうひとつの“経費”の問題ですが“只”で出かけているなどとんでもございません。勿論、修学旅行引率は業務でありますから「出張」扱いとなります。従って、当たり前の事ですが旅費・素泊費(一泊二食)は公費から支給されます(もっとも上限が決まっており超過分は自弁となります)。当然、通常生活でも自弁となる昼食費は“自腹”です(上記の時間手当は殆ど昼食代として消える程度です(余談ですが給食費は全額教員の自己負担です。「毎日無料で給食が食べられていいですね」と言われたことは一度や二度ではございませんので申し添えておきます)。また、修学旅行中の教職員活動費に関しては、業務に関係する経費を除いて、各家庭から徴収した“修学旅行費”から支出することは100%あり得えなません。これについても、過去に保護者の方から聞いたことが御座いますが、まさに“濡れ衣”としか申しあげようのない誤解です。

 第二に申し上げたいことは、「修学旅行(校外学習)」は旅行会社の企画する「パック旅行」や生徒の「慰安旅行」ではないことです。つまり、お膳立てされたお仕着せの旅行に乗っかって、気晴らしの旅行をすれば済むものではないということです。平たく言えば「修学旅行」とは、校外へ出て行う「学習活動」に他ならないのです。勿論、「学び」は多様なものであり多くの「学び」があって当然ですが、学習指導要領が述べるような“より良い人間関係の涵養”だけに偏ってはなりません。当方は、地元を離れての「学習」という点に鑑みれば、それ以上に“地元とは異なる地域の自然・文化への見聞を広め学ぶこと”に重点があるものと考えております(その意味で、小生は「修学旅行」なる呼称には強い違和感を感じる者であり「校外学習」がより適切な命名であろうかと存じます。あえて両者を併記している所以でございます)。勿論、宿泊場所・交通手段(鉄道・バス)の確保等で大いに関わっていただく旅行会社の存在は必要不可欠であり、大いにお世話にはなります。しかし、何処を修学旅行の舞台に選ぶのか、3日間を如何に企画・運営するかは学校の意向となります。

 話題を元に戻しますが、「修学旅行(校外学習)」の学校教育における位置づけに鑑みれば、行先は限られた条件の下で、多様な「学習」活動が可能かどうかを基準に選び取ることになります。しかし、そうした条件に見合う場所は極めて限定されるのが実際です。当方が修学旅行担当をしていた頃には、千葉市では、校長会で行先の物理的範囲と生徒一人ひとりの修学旅行徴収金額の上限が厳格に定められており、最適な場所である「京都・奈良」は最初から除外せざるを得ませんでした。当時は、高校生の修学旅行先として「京都・奈良」が一般的であったからでありましょうが、昨今は高校でも其方へ行くことはめっきり少なくなりましたから、千葉市でも現在は範囲の制限は撤廃されておりますが。日程として2泊3日の行事でありますから、終日学習活動が可能なのは中日しかありません。初日と最終日については半日は移動に費やされますから、効率を考慮すれば遠方を選ぶことはできないのです。しかも、中日1日の学習活動を可能とする内容がある程度まとまって存在する場でなければなりません(生徒も移動ばかりで時間を費やすことになってしまいますから)。また、場所選びで「修学旅行(校外学習)」が完結する訳ではございません。それはほんの序の口にすぎず、その土地において生徒が如何なる「学習」活動が可能であるか開拓するのも我々の仕事です。旅行業者も沢山のアドヴァイスをしてくれますが、そうしたお仕着せの活動は、結果として無難な内容のものが多いのが実際です。勿論、場所決定以降の活動こそが「修学旅行」を「校外学習」として成立させるための本丸であり、その準備に多大なる労力を費やすことになります。これ以降で「お気軽に修学旅行に出掛けられていいですねぇ」なる認識がどれほど大いなる誤解であるかを解きほぐして参りたいと存じます。勿論、その苦労は決して「難行苦行」ではございません。教師が時間をかけて工夫を凝らす努力をすれば、漫然と行って帰ってくる行事とするよりも何千何万倍もの様々な力を育成することに繋がると確信するからであります。たった二泊三日の行事ですが、その行事を通じて生徒諸君が「手応え」を実感し、「学び発見する」ことの楽しさ面白さに出会って欲しい、そして一生の想い出として欲しい……との願いがあるからこそ、我々の「難行苦行」は「楽しさ(やりがい)」に変換されるのです。少なくとも、自分自身は全く苦になりませんでしたし、行事が終わった後の生徒の満足そうな表情に出会えれば全ての苦労が帳消しになったものです。

 さて、当方が若い頃、千葉市内の多くの中学校で「修学旅行(校外学習)」先に選ばれていたのが「会津」でした。宿泊地を会津若松(東山温泉等々)に選び、そこを拠点に市内、近郊の喜多方等々をも行動範囲に加えて班別学習を進めておりました。鶴ヶ城・戊辰戦争といった歴史的学習テーマを多様に立てることが可能ですし、会津木綿・会津駄菓子等々の産業をテーマに選ぶこともでき、それらがコンパクトに盆地のなかにまとまる優れた場所であったと思います。ただ、同じようなことを繰り返したくはありませんでしたので、当方が担当をしたときには、初日の活動としてハイキングを組み込みました。それは「峠を越えて盆地に足を踏み入れる」という体験をしてもらいたかったからに他なりません。昨今はバスに乗ってトンネルを抜ければ現地に到達してしまい、「峠を越える」ということを実感できることは皆無でございましょう。山がちな日本の国土で不可欠であった「峠こえ」体験をすることに大きな意義があると考えたのです。そこで、初日に会津西街道の宿場町で伝統的建造物群保存地区に指定される「大内宿」見学後に、そのまま会津西街道を北へ歩き、「大内峠」を越えて会津盆地に脚を踏み入れる企画を立てたのです。この街道は江戸時代の重要な街道であり、初期において会津藩の参勤交代経路でしたし、戊辰戦争の際には官軍による会津攻めの行軍ルートの一つでもありました。しかし、明治以降に殆ど活用されなくなって道路は相当に荒れていたのです。しかし、下見の結果、一部は雑草で覆われた状態でしたが歩行可能であることを確認。当日の朝、生徒諸君はジャージで集合となりました。生徒からは「自然教室じゃないのにジャージで集合って他の学校じゃ絶対ありえないね」と言われたことを記憶しております(移動手段はバスでしたので可能でした)。その時の担当旅行会社の方からは、他の学校では絶対に実施しない活動であること、修学旅行の可能性を広げようとチャレンジする内容であることを褒めてもいただきました(もっとも、その後当該コースが他校で採用されることはなかったようですが)。実際にこのコースを歩くと、山の稜線の最も低くなっている鞍部を、更に一段低く掘り下げて造営された峠が明確に見て取れます。その時に一緒に歩行した我が学級の男子生徒が(現在千葉市役所内勤務でそこそこの地位についております)、「修学旅行(校外学習)」後に書いた作文の内容を今でもよく覚えております。そこには、概ね以下のようなことが書かれておりました。これだけも、このコースを導入した意義があったと確信した次第でございます。

 

 「江戸時代に大名行列が通っていたままの道を、実際に歩いたことは本当に貴重な体験だった。何よりも山奥の峠道がこんなに細くて険しく寂しい道であったことに驚いた。峠が少しでも低いところを選んでつくられていることが分かったことも人の知恵だなと思った。でも、同時に、江戸時代の旅がこんなにも厳しいものであったこと、それを克服して今の便利さがもたらせていることを、現代人は忘れてはならないとも思った。一つ、雑草が茂る古い道にパンの包み紙が落ちていたことに気づいたときには何故かホッとさせられた。現代の誰かが最近この道を通ったことが分かったからだ。」


 

(後編につづく)

 

 

 「修学旅行(校外学習)」の季節に思うこと(後編) ―または「旅行的行事」が教育活動として目指すべきことについて― 

 

6月4日(土曜日)

 

 3年次に実施する「修学旅行(校外学習)」先の選択ですが、実は本作業は当該学年が未だ1年生の段階で行うこととなります。何故斯様な時期に決めなければならないかと申せば、大所帯の移動となる関係から“宿泊施設”と“往復列車(まとまった数のバス台数)”をおさえることが相当に早い段階で求められるからです(当然、担当旅行業者もこの段階で決定します)。そのためには、「修学旅行(校外学習)」の行先が先決事項となるのです。この決定は以後の変更は基本的にできませんので相当に慎重に行う必要があります。従って、1年生の学年主任を仰せつかった際には、3年後の卒業式までを想定し、3年間を見通した生徒の育成計画を念頭に学年経営を行う必要がありますが、その中で3年次「修学旅行(校外学習)」を3年間の「旅行的行事」のなかに如何に位置付け、生徒の如何なる力の育成につなげていくのかを想定して、場所選定と計画を進めることが最重要事項ともなるのです。つまり、各学年における「旅行的行事」を相互に関連付けて運営することを考える必要が生じるのです。千葉市内の公立中学校では入学後の5~6月に一日行事(日帰り)「校外学習」を設定する学校が殆どです。2年次には3泊4日の「自然教室」、そして3年次の「修学旅行(校外学習)」となります。その内の自然教室は、千葉市内の中学校で青春時代を過ごされた方であれば、かつて群馬県新治村(現:みなかみ町)にあった「千葉市高原千葉村」で過ごされた記憶をお持ちでございましょう。当該施設は、平成30年度末に千葉市からみなかみ市に譲渡され長きにわたる役割を終えましたが、外部施設を使用して現在も行事は継続されております。以下、当方が千葉市立葛城中学校で1~3年まで学年主任を仰せつかった経験をもとに「旅行的行事」の紹介させていただきます。

「旅行的行事」を学年経営のなかに如何に位置付けるのかについて、小生は「教科的な学習」の場として位置づけることを提案し、学年職員とも協議して了承を得ました。つまり生徒同士の「親睦」を計ることを優先させないということであります(勿論、それも「学習」には違いありませんが、優先順位として副次的な扱いとする謂いであります)。往々にして、中学校では入学直後に実施する「校外学習」の目的を「親睦」に置きがちです。幾つかの小学校から入学する中学校の場合、それを生徒相互の人間関係構築の機会とすることに大きな意味があることを認めることに吝かではありません。しかし、小学校6年生で、グループごとに電車で鎌倉へ出かけ、その地での調査活動を実施、再びグループごとに千葉に戻ってくる校外学習を行っているのに、中学校に入学して十年一日の如く「潮干狩り」や「フィールドアスレチック」では、余りにも芸がないと考えます。つまり“退行”に他ならないとの思いが強かったのでした。従って、教科的な「学習テーマ」をもって現地で調査活動を行い、その解明につなげる行事と位置付けたのです。このことは、3年次「修学旅行(校外学習)」における、より広範囲を舞台とする、より深い調査活動を展開するための前哨戦としての位置付を担うことを期したのです。何より、中学校での校外学習が小学校のそれよりも一段レヴェルアップした内容とすることが求められましょう。そして、見学先もなるべく千葉市から近距離に設定しました。何故ならば、生徒の移動時間を短くすることで、実質的な活動時間を最大限に確保できるからです。そして、そのための場に選んだのが近隣の「佐倉市」に他なりませんでした。千葉市から貸し切りバスで小一時間もあれば到着します。更に、最も重要なことは、佐倉市は豊富な学習テーマの設定が可能であるからです。

勿論、学級内の親睦を図ることも意図して、学習活動は学級内で構成された班単位としました。そして、事前に班で「学習テーマ」を話し合って決めること、それに見合った訪問先を選択すること(場合によっては相手とのアポ取りを行うこと)、そして移動計画を立案すること、「学習テーマ」についての事前調査を行うこと等々を行います。当日は、班毎に佐倉市内で調査活動を実施、以後は調査結果を報告書に纏めて学習成果の報告会を実施しました(確か保護者の方も参加できるようにしたと記憶しております)。現在当方の手元にある報告書を見返しますと、入学2か月後の実施という短い準備期間もあって、充分に満足のいく「学習テーマ」とはなり得ておりませんが、それにしては各班ともになかなかに立派な「学習テーマ」の立案と、調査追及活動の結果としての報告書を作成していることに感心させられます。是非とも皆さんに見せてさしあげたいほどの充実した内容です。勿論、小学校の段階から積み上げてきたものも大きいと思いますし、中学校で「学習テーマ」設定と、見学先の選択についての相当に手厚い指導の成果だと思っております。ここで一つ確認させていただきたい重要なことがございます。

往々に、生徒の“自主性”とは、生徒に“丸投げ”することで達成できると勘違いされている方がいらっしゃいますが、それは大いなる誤解であります。方法論も、何に興味があるのかも分かっていない生徒に、「自分で考て好きなことをやってみなさい」といっても、限りなく100%に近い確率で価値ある活動にはつながりません。そこには、大人(教師)の適切なアドヴァイスこそが求められるのです。今回の「修学旅行(校外学習)」での学習活動でも全く同じです。いや、むしろ、スポーツ等々の育成以上に必要です。追及可能な価値あるテーマの例示や、具体的な見学場所の紹介と調査手法の教示は不可欠です。大切なことは、最終的に生徒が自ら調べたという充実感と調査の方法論を学ぶことなのであります。そのモデルを体験することが、その後に自ら調べてみようとする「自主性」に繋がることを見逃してはなりません。小学校で往々にして行われる「夏休みの自由研究」ですが、あれこそが生徒への丸投げの典型に他なりません。千葉市はいざ知らず、我が子の御世話になっていた葛飾区の小学校では、(現状は知りませんが)かつてはその指導もまるでなされずに自由研究が夏休みの宿題として課されておりました。それならば、決まった活動を課題として与え、わかることを纏めさせる方が遥かに価値のある学習効果が見込めましょう(朝顔を育てて観察日誌をつけて考察する等々)。自由研究で何をするのか、如何なる手立てでアプローチしたら効果的なのか……等々、事前の極め細やかな個別指導こそが研究を価値あるものにブラッシュアップする最も重要な指導なのであり、これも無しに「何でも好きなことをやってきなさい」というのは、「教育」には到底値しないものです。鯔のつまり、小学校における自由研究の実態とは、自分自身の経験から判断しても、「親(保護者)の自由研究」と化しているのが実態ではありますまいか。誰のための教育活動なのか、自ら問い直し、もしそれを継続するのであれば抜本的な改善が求められましょう。

さて、当方の学年が「佐倉市」を舞台に展開した「校外学習」の「学習テーマ」の一部を御紹介いたしましょう。「佐倉城の構造を探る」「佐倉にある不思議な“坂”の名前の由来を探ろう」「佐倉新町にある町人の屋敷と武家屋敷の違いを探ろう」「佐倉城と武家屋敷の配置の意味を探ろう」「武家屋敷から武士の生活のようすを探ろう」「佐倉城と寺・神社の関連について探ろう」「佐倉の蘭学と佐藤泰然について探ろう」「江戸時代の医学について調べよう」等々です。実はその3年後に副担任(生徒指導主事)として所属した1年生でも同じ佐倉市での修学旅行をおこなったのですが、活動範囲を近隣の酒々井町にも拡大したこともあってテーマは更に拡大しております。「印旛沼の干拓の歩みを探る」「佐倉に伝わる民話を探ろう」「佐倉の味噌造の歴史と技術(ヤマニ味噌)」「佐倉に伝わる伝統工芸を探る(矢羽根)」「佐倉の酒造業を探る(甲子正宗・朝日鶴)」「本佐倉城の仕組みを探ろう」「本佐倉城と佐倉城の違いから時代の変化を探ろう(中世と近世の城の変化)」等々です。中学校一年生の考えたテーマとしてはナカナカに多彩なものと思います。

そして2年次「自然教室」を経た3年次での信州(長野県)を舞台とする「修学旅行(校外学習)」でも(「自然教室」にも沢山の拘りを施しましたが長くなるので割愛いたします)、1年次と同様の教科的「学習テーマ」を設定して信州を舞台に、広域に展開する班別活動を行いました。勿論、単純に同じことを繰り返した訳ではございません。成長段階に応じた改善を加えております。ひとつが、追及すべき「学習テーマ」を2つの性格を持つものに分け、2つのテーマを並列して立案することにしたことです。すなわち、教科学習的な追及テーマとしての「学習テーマ」と、学習テーマと関連させた現地の人との出会いを通じて受け止めるべき「出会いのテーマ」であります。前者は「頭を使って」学ぶこと、後者は「心を使って」学ぶことに繋がります。往々にして学習テーマに両者が混合していることが見られたからです。そもそも、調査活動にはそうした「知」・「情」を併せ持った収穫があるはずだと考えたことが最大の理由です。また、後者は「出会い」を通じて自らの「生き方」を振り返ることに直結することとなり(旅行先での人との出会いがその人の人生を変える!)、それを学ぶのが「総合的な学習の時間」の大きな目的となっているからであります。何故ならば、ただでさえ準備の時間が短い中で、「修学旅行(校外学習)」準備のための時間として「総合的な学習の時間」を、大手を振って計画的に活用できることに繋がるメリットも生じることになります。

また、1年次に学級内で班編成を行ったのに対して、3年次では何よりも追求したい「学習テーマ」を優先させ、「学級単位」での班編成には全くこだわらないこととしました。つまり、最低2人組~最大5名までの班編成をOKとし(ただし2名の場合は同姓に限定)、学級の枠を超えて追及したいテーマの共通性をもっての班編成といたしました。更に、体験的学習を希望する際には、その体験先を保護者の強力を得て自主開拓いたしました。何故ならば、旅行会社を通じて行う体験施設の多くは商業ベースで行っているところがほぼすべてであり、体験として得るところは決して多くはないと思っていたからでございます。準備と個々の生徒・学習班の「テーマ設定」とそれに伴う指導には相当な時間を要しましたが(3年生になってからでは間に合いませんので2年生の年明け1月頃から準備を始めました)。しかし、手をかけて指導を重ねたことで、充実した学習成果があがったものと自負するところでございます。以下に、その時各班が設定した「学習テーマ」「出会いのテーマ」を掲げさせていただきますが、それをご覧いただければ、自ずと、相当に充実した学習活動が展開されたであろうことを類推いただけることと存じます。因みに、本拠地となったのは、松本市近郊にある「美ヶ原温泉」の旅館となります。実施年度は平成12年(2000)度となります。学級は3学級で、生徒数は120名程となります。

 

 

【上田・菅平方面】
〇1班:3名(更埴市)
《学習》「信州アンズ農業の工夫や栽培方法を探る」
《出会》「アンズ農業に情熱を注ぐ人々の気持ちに出会う」
〇2班:2名(真田町)
《学習》「他産地に打ち勝つリンゴ栽培の工夫を探る」
《出会》「リンゴを愛する○○さんの生き方に触れる」
〇3班:3名(上田・松代)
《学習》「真田家の武勇伝と苦悩の歴史を探る」
《出会》「幸村VS伸之 兄弟で対立した両者の心にふれる」
〇4班:2名(菅平)
《学習》「高冷地農業の栽培の工夫と問題点を探ろう」
《出会》「美味しい高原野菜をつくろうとする情熱に触れる」
〇5班:4名(上田・松本・臼田)
《学習》「上田城・松本城・龍岡城の違いを探る」
《出会》「城をつくった人の様々な思いにふれる」

【長野・小布施方面】
〇6班:5名(長野市)
《学習》「信州のリンゴ・桃の栽培の工夫と問題点を探る」
《出会》「美味しいリンゴと桃をつくる農家の皆さんの愛情に触れる」
〇7班:3名(戸隠)
《学習》「信州そばの栽培の工夫と問題点を探る」
《出会》「信州そばに熱い想いを込める人たちの生き方に触れる」
〇8班:3名(戸隠)
《学習》「そばの栽培の工夫とポイントを探ろう」
《出会》「そば農家の篤い情熱と愛情に触れよう」
〇9班:3名(長野市)
《学習》「長野オリンピックの市民に与えた影響を探る」
《出会》「長野オリンピックを体験した人々に触れる」
〇10班:4名(小布施)
《学習》「小布施の栗はなぜ昔から有名なのかを探る」
《出会》「農家の方々との触れあいで交流を深める」
〇11班:3名(小布施)
《学習》「栗が小布施の町に与えた影響を探る」
《出会》「小布施の人々との出会い」
〇12班:2名(小布施)
《学習》「葛飾北斎の晩年と小布施との関わりを探る」
《出会》「葛飾北斎の芸術に触れて心行くまで鑑賞しよう」
〇13班:2名(松代)
《学習》「松代の城下町のしくみと武士のくらしを探る」
《出会》「城下町を大切に守る人々の暮らしにふれよう」

【諏訪・伊奈方面】
〇14班:3名(松本・高遠)
《学習》「高遠城はなぜ一日で落城したのかを探る」
《出会》「戦国時代の人々の想いに触れる」
〇15班:3名(霧ヶ峰)
《学習》「霧ヶ峰に生きる植物に迫る」
《出会》「都会では出会えない大自然とのふれあい」
〇16班:5名(茅野)
《学習》「茅野市の農業の工夫~農業体験を通して~」
《出会》「農家の人々と深くかかわり農業の大変さを実感する」
〇17班:5名(諏訪)
《学習》「諏訪大社の歴史に迫る」
《出会》「諏訪大社と周辺の人々との関わり~御柱祭の関わりを中心に~」
〇18班:3名(諏訪)
《学習》「アールヌーボー・アールデコの作品にはどのような特色があるのかを
探る~ガラス工芸を中心に~」
《出会》「諏訪でのガラス体験を通じてその技術に触れる」
〇19班:3名(諏訪)
《学習》「ガラス工芸のアールヌーヴォーとアールデコについて探る」
《出会》「美術館の方々とのガラスを通してのふれあい」
〇20班:4名(諏訪)
《学習》「オルゴールの歴史と技術に迫る」
《出会》「1台1台のオルゴールに込められた思いに触れる」
〇21班:5名(諏訪)
《学習》「諏訪の精密機械工業の技術とその問題点を探る」
《出会》「時計製造にかかわる現地の人々との出会い」
〇22班:5名(諏訪)
《学習》「時計を始めとする諏訪の精密機械工業の歴史と構造に迫る」
《出会》「現場で働く人々の想いに触れる」

【安曇野・大町方面】
〇23班:3名(黒部)
《学習》「ダムを造った人たちの苦労と情熱を探る」
《出会》「北アルプスの雄大な自然との出会い」
〇24班:4名(安曇野)
《学習》「安曇野のガラス工芸を体験し技法を学ぶ」
《出会》「ガラス職人のこだわりとの出会い」
〇25班:4名(安曇野)
《学習》「信州の草木染や織物の技術を学ぼう~体験学習を通じて~」
《出会》「信州の自然の色に出会う~伝統工芸を守る人達との出会い~」
〇26班:3名(安曇野)
《学習》「出荷できるワサビになるまでの過程を学ぶ」
《出会》「ワサビ農家のワサビ栽培にかける気配りについてふれよう」

【木曽方面】
〇27班:4名(馬籠)
《学習》「植物の生息の仕方は千葉とどのように異なるのか探る~気候と風土の違いから~」
《出会》「美しい植物にふれるとともに、植物園で働く人々の情熱に触れよう」
〇28班:5名(木曽馬の里)
《学習》「木曽馬の現在までの歴史と現状について探る」
《出会》「木曽馬とともに生活している人々の暮らしと心情にふれる~牧場での体験学習を通じて~」
〇29班:3名(藪原宿・鳥居峠・奈良井宿)
《学習》「宿場町のなりたちと特色ある建物を探る」
《出会》「中山道の旧道(鳥居峠)を歩き、今と異なる旅人の心に触れる」
〇30班:2名(馬籠宿)
《学習》「島崎藤村が綴った小説の舞台で彼の生き方と作品世界を探る」
《出会》「昔から伝わる藪原の民話・伝説に出会い、それらを伝える人々の想いにふれる」
〇31班:3名(平沢)
《学習》「木曽の漆工芸の歴史と技術について探る」
《出会》「漆工芸の伝統を守る職人魂に出会う」
〇32班:3名(藪原宿)
《学習》「お六櫛の伝統・歴史・製作について探ろう」
《出会》「お六櫛の製作に情熱を注ぎ続ける方々の心に触れよう」
〇33班:2名(藪原宿)
《学習》「お六櫛の体験学習を通して歴史と制作過程を探る」
《出会》「木曽の自然と体験学習を通して職人魂出会う」
〇34班:4名(藪原宿)
《学習》「お六櫛の歴史と製造手法についてしらべよう」
《出会》「お六櫛をつくる職人の気持ちにふれる」

 

 

 以上でございます。一人ひとりの生徒諸君に向き合って、彼らの希望を聞きながらテーマとしての磨きをかけていくこと。それに見合う見学先をアドヴァイスすること、現地での移動手段を構築して効率よく回れる手助けを事前に整えること、もちろん旅行会社の手助けを借りますが、学年職員が分担して数か月に亘って丁寧に対応していった結果でございます。それなくして、修学旅行が「学習」としては成立しえないのです。繰り返しますが、学校で行う「修学旅行(校外学習)」は決して慰安旅行ではありません。学習としての目的を掲げて、その具現化を図るために実施する学校行事であるのです。そのためには、恐らくはたから見ている分には信じがたい程の手間をかける必要があります。これを機会に、学校における「修学旅行(校外学習)」が、かほどに手間のかかる行事であること、決してお気軽な旅行の引率ではないことを、御知り頂く機会になればとの思いから、自身の体験を交えて申し上げました。勿論、日常の学年経営では、「修学旅行(校外学習)」だけの業務をしているわけではございません。その他にも山のような業務(指導事項)が目白押しなのです。その一つひとつもまた手を抜くことなどできない重要な内容ばかりであることを知っておいていただければ幸いです。今回は、現場教員の皆さんに成り代わりまして、そうした現実について「修学旅行(校外学習)」を切り口に、縷々語らせていただきました。多くの皆様に御知り置きいただけると幸いに存じます。勿論、私に限ってかもしれませんが、そうしたことを嫌だと思ったことは一度もございませんし、少なくとも小生の周囲の仲間は、嬉々として生徒諸君と一緒になって行事をつくっていたことを懐かしく思い出します。教師も行事を終えた後に「やり切った」喜びで胸が一杯となりました。教師としての最良の想い出の一つでもございます。

 

 

 

 「行く春を惜しむ」精神に見る国民性について ―または 日本の国民性を規定した!?“四季”のある「風土」―

 

6月10日(金曜日)

 

ゆく春や 水に雨降る 信濃川 (会津八一)
行春や ゆるむ鼻緒の 日和下駄 (永井荷風)
パンにバタ たつぷりつけて 春惜しむ (久保田万太郎)

 

 6月に入って10日程が経過することになりますが、気象庁は去る6月6日(月曜日)に「関東地方が梅雨入りした模様」と発表。例年と比べてどうなのか知りませんが、今年は5月のうちから愚図ついた空模様が多かった所為か、“何を今更”と感じるところ大でもございます。勿論、鬱陶しいこの季節も大切な役割を有することは重々承知しておりますが、今年は殆ど初夏らしい陽気に巡り会えませんでしたから、“佳き季節”を満喫できなかった喪失感は一際大きいように思われます。それに加えて、梅雨が開けた後は、気の重くなる季節の到来となります。少なくとも、小生にとってこれからの時節は、冬が終わりを告げて春を迎えるときのような“ワクワク”感とは一切無縁でございます。皆様は如何お感じでいらっしゃいましょうか。もっとも、梅雨ならではの美しさ、例えば紫陽花や菖蒲・杜若等々の雨にそぼった花々の風情の愉しみもございますから、一概に不満ばかりとは申せませんが。

 実は、これ以降、「春を惜しむ(惜春)」との切り口から日本人の季節感の有り様について話題としたいと考えておるのですが、入梅を迎えてしまった今日、正直なところ、そのお題は遅きに失した感がございます。その辺りにつきましては、掲載時期等の自己都合もございます関係上、本日までずれこんだ次第でございまして、その点何卒ご容赦の程を申しあげます。因みに、余談ではございますが、俗に旧暦と称される「太陽太陰暦」と現在用いられる「太陽暦」とには相当な季節のずれが生じます。例えば「6月」を今の感覚で捉えると、旧暦の季節感と相当に異なるということです。その換算は、「閏月」の問題もあったりしますので単純計算ができない憾みがございます。ただ、一般に当該時点から“4~6週間”前倒しすれば、概ね「旧暦」の季節と重なるものと考えておくと宜しいかと存じます。つまり、本稿が世に出る頃では、現在で申せば旧暦の5月前半頃の陽気となります。旧暦では「春」は1~3月、「夏」は4~6月、「秋」は7~9月、「冬」は10~12月にあたりますから、5月前半は夏真っ盛りということになりましょう。しかし、現代でも暦と実際の季節感とは相当にズレがあるように、旧暦でも同じようなことが生じております。和歌にはそうした“暦上は○○季節なのに△△”といった趣向の詠歌が多々見られるのもその所為でございましょう。

 さて、我が国の古典文学の世界では、この時節、“佳き季節”としての「春」が過ぎゆくことを惜しむ感情を託した詠歌が数多詠まれてまいりました。所謂「惜春歌」と称される一連の作品群でございます。“季節の百科事典”とも称すべき“季節の言葉”と“関連作品”とを纏めあげた『歳時記』を紐解けば、「春を惜しむ(惜春)」に関する類語が山のようであること、また関連作品の膨大さにも驚かれることでござまいましょう(因みに『歳時記』のような類書は我が国以外には存在するのでしょうか??)。つまり、そうした感情は、昨今沸いて出たものではなく、既に王朝文化華やかなりし頃から営々と引き継がれて来たものであることは疑いありません。事実、全部で21集にもなる各「勅撰和歌集」“春の部”末尾は「惜春歌」が正に“目白押し”状態でございます。そして、長き伝統ゆえに、心に残る名歌も多いように感じます。そういえば、昨年今頃の本稿では、寂連法師の手になる惜春歌を採り上げたことを想い出しました(「暮れてゆく 春のみなとは 知らねども 霞に落つる 宇治の柴舟」)。まるで、横山大観の“朦朧体”を思わせる幻想的な書き割りのなかから滲み出たかのような、“しみじみ”とした情感と余韻に心打たれます。「惜春歌」傑作中の傑作かと申しあげることに寸分の躊躇もございません。併せてこうした和歌で四季の移り変わりを表現した古人に感銘を深くします。こうした細やかな感情の発露は、四季を有する日本の「風土」が培った、我が国に固有の“麗しき伝統”である……との物言いが、金科玉条の如くに語られてきた所以でもございましょう。

 さて、この度、冒頭に掲げさせていただきました3つの俳句も「惜春の情」を読んだものとなります。ただし、古典和歌で馴染み深い「惜春歌」のイメージとは、相当にかけ離れた印象を与えられることでございましょう。作者をご覧いただけば明らかなように、何れも近現代を生きた著名な文学者の方でございます。一般に、永井荷風(1879~1959)は「文士」(この人に限っては「小説家」とは言うべきではないと存じます)、久保田万太郎(1889~1963)は「小説家・戯曲家」、会津八一(1881~1956)は「歌人」(「美術史研究家」、雅号“秋艸道人”を称する「書家」の顔も知られますが、意外なところでは小生の母校で嘗て「英語教師」を務めてもおられました)と認識されているものと存じます。もっとも、万太郎は今では小説家としてより「俳人」として広く知られているかもしれません。しかし、『鹿鳴集』をはじめとする数々の歌集を有する八一にも、例示する作品を挙げるのに苦慮するほど名作の多い「文士」の荷風にも、共に「俳人」のイメージは御座いますまい。実際に、残された数は決して多くはありません。しかし、特に荷風の俳句には近代人としての“孤愁”漂う忘れ難き作品が数多ございます。一読してお感じ頂けるように、何れの作品からも、古人の抱いた「惜春」とは相当にかけ離れた心情を感じ取れますまいか(新潟生まれの八一作品には近世俳諧の残り香が感じられます)。特に、浅草雷門に生まれ東京下町に育った万太郎作品には飄々とした現代的な感覚が横溢しており、古来の「惜春」とは隔絶しておりましょう(「パンにバターをたっぷり塗って惜春の想いを感じ取る」……なんと清新なる感覚と表現でしょうか)。しかし、平安の昔から営々と詠み継がれてきた「惜春の情」は、現代となってもなおその力を失うことなく、作品に生き続けているのです。

 さて、ここで、改めて「惜春の情」の在り方の考察を通じて、日本人の「季節感」について思いを致したいと存じます。そのことを検討するために、「四季」の全てに目を配ってするのは紙幅の関係で到底無理でございますので、今の季節に因んだ「春を惜しむ」心情を切り口に、それが醸成された要因は何処にありやを探ってまいりましょう。先ず、最初から結論めいたことから申し上げたいと存じますが、日本の地に居住する殆どの人々にとって、「惜春の情」の湧いて出る淵源が「四季のある日本という風土」にあること、またそれが「誰もに共有される心情である」とは決して言い切れないことでございます。つまり、往々に言及されるような、「これから迎える厳しい暑さ前に、“佳き季節”が過ぎ去ることへの限りない「哀惜」の情を募らせる繊細な国民性を育んだのであり、我が国の風土が日本の国民性の根幹に存在する……」なる物言いが、果たして適切なのかについて考えてみたいと存じます。まぁ、その主張は、ある意味で「当たり前」の主張に過ぎないとも思うのです。しかし、そんなに単純な紋切り型が適切かは甚だ疑問であります。確かに、昨今のご時世では取り分け過酷になっておりますが、その昔も夏の暑さは耐えがたきものであったことでしょう。暖房設備の儘ならなかった時代は、冬もまた厳しい季節であったことでしょうが、かの兼好法師が「家は夏を旨として建てるべし」(『徒然草』)と述べているように、我が国では、古くから冬よりも夏をより過酷な季節と認識していたように思えます。ニッポンの誇る“哲人”の一人兼好法師が「寒さ対策より優先すべきは暑さ対策だ」と言っているのですから。しかし、現実的には「夏」という季節は、「暑くて過ごしにくい季節」に留まらぬ、更に大きな災厄をもたらす季節であったことを忘れる訳には参りません。

 特に都市的な場では“伝染病”が猖獗を極める季節に他ならず、謂わば「死の季節」の到来に他ならなかった厳然たる現実であります。「平安京」由来の大都市“京都”でも、伝染病は度々猛威を振るい、数えきれない人々の生命を奪ったのですから。その京師に祀られる祇園社(八坂神社)とは、荒ぶる神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀る社であり、御霊信仰に基づく「疫病退散」の威力を期待されて信仰を集めました。従って、その祭礼としての「祇園祭」が、京の町衆の手によって、毎年夏に開催されることには、極めて大きな社会的意義があります。つまり、都市の民にとって、夏とは恐ろしい「死の季節」の謂いでもあったのです。全国各地に勧請された祇園社の多くもまた、人々の集住する都市的な場であることが多く、それらの都市における祇園祭もまた「夏祭り」となっております(収穫祭的な意味合いの強い「秋祭り」とは性格が異なります)。因みに、妙見を祀る千葉神社の祭礼も夏祭でありますが、それが千葉という都市的な場で開催されるのは、形態として祇園祭の系譜を受け継いでいる祭礼であるからに他なりません。その意味では夏の到来は都市でも歓迎されざることであったことは間違いありますまい。しかし、かれら町衆が夏の訪れを前にして「惜春」の情を抱いたのかと申せば、そうではないと思われます。何故ならば、以後に述べることとも関わり、後の季節に経済的に大きな福利をもたらす準備期間とも言うべき、有難き季節でもあったからであります。その意味でも、決して「惜春」などといった「風流」な感情を抱いていた訳ではないと思われます。

 その福利とは、農業生産を基盤とする近世以前の我が国においては「実りの秋」の豊穣を意味しましょう。つまり、「夏」とはそれを準備する極めて重要な季節に他ならないことは言うまでもございません。そして、その生産に従事するのが、古代から近世にかけ、我が国土の全域に居住し、国土の人口の大多数を占める「農民(耕作者)」に他なりません。彼らにとっての「春」から「夏」への移り変わりは、如何なる感情によって把握されていたのでしょうか。これは言うまでもございますまい。それは大きな不安を抱えながらも、作物の育ちを飛躍的に促す、一刻も早い「夏」の到来を待ちわびる心情に違いありますまい。その「大きな不安」とは、雨が少ないことに由来する渇水、台風等の気象現象によって生じる洪水・土砂崩れのような災害、あるいは大規模な害虫の発生等々に起因する虫害等々、大幅な「収穫減少」をもたらす恐ろしき「自然現象」への恐怖であったことでしょう。だからこそ、古来農民は「雨乞い」「虫送り」等の祭事を催したのです。しかし、それは、決して「夏が訪れてほしくない」「涼しき季節であってほしい」という感情とはイコールではありません。そもそも、炎天による「気温上昇」がなければ、米を中核とする農作物の収穫は覚束ないものとなるのですから。そのように考えれば、彼らにとって現在の時節の関心事が、少なくとも「惜春の情」にはなかったことは自明でございましょう。彼ら農民にとって「夏」は一義的には“待ち焦がれる歓迎すべき季節”であったはずです。ただし、その豊穣を迎えるためには、信じがたいほどの生命力で日に日に作物を覆い尽くそうとする「雑草」との過酷な戦いに費やすことが求められもしました。つまり、人口の殆どを締める庶民たちにとっては、春から夏への季節の移ろいは、二義的には歓迎されざるモノとの過酷な格闘をももたらしたことを忘れるわけには参りません。要するに、彼らのとっての自然とは「克服」すべき対象であったに違いないのであり、少なくとも「四季」の移り変わりは彼らにとって、“愛でるべき”対象ではあり得なかったことでしょう。

 ここまで来て、ある意味「紋切型」とも称すべき「惜春の情」とは、古典和歌を生み出した極々僅かな階級が、居住する極々狭い場所で創り出した「感情」であると理解できようかと存じます。それが「貴族階級」であり、その場が「京」における「宮中」や自らの「屋敷」であること、そして、その狭隘なる世界の中で研ぎ澄まされた感情に他ならないということなのです。それが、平安朝以降の勅撰和歌集の世界で一般化し、その和歌の世界では、この時節に「惜春」の情を詠むことの定例化(ルーティン)を生じさせたのだと思われます(つまりは「月並歌」の誕生)。そもそも、彼ら貴族が「惜春」の思いを抱く自然条件そのものも、手つかずの「大自然」であったり、農民たちの居住する「里山」であったりすることはあり得ないことと想像できます。何故なら、公卿となるような貴族階級は、地方に赴くことなど殆どなく、都の極々狭い範囲が生活圏であったからに他なりません。つまり、彼らが「惜春」の情を発した自然とは、屋敷内に造営された箱庭のような人工的なる庭園(寝殿造)や、屏風絵(やまと絵)に描かれたそれであったに違いありますまい。こうした人工的な小宇宙としての池泉・植栽や絵画をもって自然を感じ取っていたと思われる訳ですから、国内に居住する大多数の人々の季節感とは180度異なる、ある意味では極めて特殊な自然観を有していたのだと考えられます。つまり、彼らの詠った自然とは、最早本来的な「大自然」「里山」とは隔絶した、自分たちの美意識に拠って人工的に「再構築された自然」だと申し上げるべきだと考えます。

 しかし、『歳時記』を紐解けば一目瞭然。「惜春」に関する詩歌は、こうした貴族達が権力の第一線から転がり落ちた後も、武家や町人、近世後期からは農民にまでもその制作主体を拡大していき、今では誰もが興味さえあれば「俳人」「歌人」「詩人」となっているのです。古代以来の貴族の抱いた、ある意味で特殊な季節感を、その後の詩人たちが営々と引き継いでいるのであり、むしろ裾野は遙かに広がっております。引き継いだ現代社会に生きる彼らにとっても、決して身近な季節感とは言い難い感情が、何故営々と引き継がれているのでしょうか。農家の方々にとっては、農薬の普及した現在であっても、農作業に伴う雑草との格闘の方が遙かに身近な季節感でございましょう。おそらく、その理由は、以下のようなものだと推察できると考えます。それは、勅撰和歌集からして「春夏秋冬」の部建構成を採ること、それが後に生じた連歌・俳諧の世界にまで引き継がれ、近世には四季の季節感を表象する「季語」として定まったことが大きいと言うことです。そして、今や、それらは『歳時記』のなかに、各季節を表象する「用語」となって嫌と言うほどに細分化された形で集積されているのです。用語が集積されていることは、天才詩人でも無い限り、小生も含む殆どの一般人にとっては「季節を認識する感情」もまた「類型化」される現象に繋がったということではありますまいか。つまり、平たく申せば、これっぽっちの「惜春の情」も琴線に触れることが無くとも、あたかもオートマチックのように『歳時記』にある用語を用いて時季の作品が生み出されていくことに繋がっているのだと考えるのです。『歳時記』を埋め尽くす膨大なる無名俳人の作品群が、それを図らずも証明しているようにすら思えます。これが、日本人が「四季」の変化に敏感であり、繊細な感受性を有している……との論調の正体なのではありますまいか。つまり、それは「類型化された言語」から、逆に「類型化された自然観」が量産されている精神構造が出来上がっているように感じると言うことでもございます。現実の自然に触れて感じている部分は必ずしも大きなものとは言えないのではないでしょうか。そして、それが、現在の俳諧や和歌の世界を成立させている実態ではないかということであります。

 今回も、長々と駄弁を弄しました。当方が、斯様に考えた背景にあるのは学生時代に拝読した和辻哲郎『風土』に対する、如何ともしがたい違和感に由来しているように思います。元より、未熟な読解力に起因する読み違いが余りにも多いことは間違いありますまい。しかし、大筋は「各民族の国民性・文化とは、各地域の地理的・自然的条件によって大きく規定されたもの」との論旨でございましょう。当方の読後感は「そりゃそうだろう!当り前じゃないか!!」「そもそも、あまりにも大雑把な物言いではないか?」「理由はそれだけなのだろうか??」との違和感でありました。それ以来、その違和感を追及することもなく今日に到っていたのでした。昨今、斯様なことが職場で話題となり、それを契機として少し考えてみようと手に取った書物が、ハルオ・シラネ著『四季の創造-日本文化と自然観の系譜-』2020(角川選書)でした。本書に出会って、小生の永年に亘るモヤモヤ感が相当に払拭されたように感じましたので、皆様にも是非とも御紹介をさせていただきます。本書が「第26回 山片蟠桃賞」「第1回 日本研究国際賞」を受賞されたのも誠に宜なるかな。素晴らしい論考だと思わされました。

 改めて確認をいたしますが、我が国における、古典和歌を筆頭とする詩歌の世界を形成する「季節」の情景と述懐とは、「自然」そのものに由来するものではなく、王朝歌人たちが、自らの美学に叶わない夾雑物を捨象した結果として選び取られた、美的な要素のみによって再構築された極めて人工的な「季節像」であり、また相当に類型化された述懐に他ならないことを知っておく必要があるということでございます。ただ、誤解の無いように申し添えておきますが、小生はそれが“イケナイ”“程度の低いものだ”と主張したい訳ではございません。例えば、一昨年に御紹介した「はっぴいえんど」の名曲「夏なんです」(詞:松本 隆、曲:細野晴臣)の世界観もまた、所謂「大自然」を歌ったものではなく、都市的な視線から再構築された「夏の風景」なのであって、それが本作の価値を貶めることにはは全く繋がらないのです。それと同様に古典和歌の二次的に再構築された季節感にも高度な芸術性が認められるのであり(象徴主義的な動向)、我が国の文化を代表する作品群であることは申すまでもございません。何にも増して、当方は古典和歌の世界をこよなく愛する者でございます。しかし、その段階にとどまっていては、日本の文化の入口に立つだけに終わってしまいます。その奥の院に分け入ってこそ、奥深い我が国の文化世界に触れることができると考えるのです。

 最後になりますが、「小倉百人一首」にも採られる平安期和歌と、江戸時代末期の狂歌とを併記させていただき本稿を閉じたいと存じます。季節は「秋」となり「惜春」を詠ったものでは御座いません。そして、後者は、前者の紋切り型とも称することのできる作者の“感傷”を大いに茶化した作品でございます。優劣の問題ではなく、当方は王朝貴族の「感傷」にも、江戸後期の町人の「パロディ」の精神性にも、大いに感銘を受けるのです。つまり、我が国のご先祖さまの多様なる精神性を大いに楽しむものでございます。

 

月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ
わが身ひとつの 秋にはあらねど
[大江 千里(おおえ の ちさと)『古今和歌集』秋]

 

月みても さらに悲しく なかりけり
世界の人の 秋と思へば
[頭 光(つぶり の ひかる)『徳和歌後萬載集』秋]

 

 

 南都仏師「運慶」と造像活動から考える(前編) ―または「南都復興」と東国武士・幕府との関係性―

 

6月16日(木曜日)

 

 

 現在放映中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も、もうじき折り返し地点を迎えようとしております。本稿を執筆している時点で、先の日曜日では「曽我兄弟の仇討」に伴う陰謀計画が描かれておりましたので、12日放送では「富士の巻狩り」における当該事件が描かれることになりましょうか。最近では、本事件は単なる仇討事件の「美談」に留まるものではなく、幕府内部の権力闘争と密接に連動して惹起していたことが指摘されるようになっております。論より証拠、本事件に連座するように、頼朝の異母弟範頼が排除されておりますから。更に、自らの権力基盤を確固たるものとするかのように、頼朝係累の源氏血統が以後に軒並み粛清されていくことに繋がるのです。正に“スターリニズム”も斯くや……と思わせるほどの、陰惨な“血の粛清”に他なりません。頼朝の死に到るまでの史実とは、正に“血塗られた”歩みであると存じます。それらが、ドラマにて何処まで描かれるのかは知りませんが……。

 それにしましても、大河ドラマで昨今気になるのは、話の展開が聊かノンビリしすぎてはいまいかということです。他人事ながら心配になったりもいたします。後白河法皇の薨去が先日描かれましたが(未完成の東大寺大仏開眼供養を執行し、危険を省みず自ら聖武天皇所縁の筆で眼を書き入れていた執念には恐れ入るばかりです)、頼朝の急死もこれからです。ただ、主人公は北条義時ですから、番組としての本領はむしろこれからとなります。比企一族の粛清、源頼家の追放と殺害、源実朝の将軍就任、畠山重忠討伐とそれに伴う父時政と義母牧の方の追放、和田合戦、実朝暗殺、承久の乱……と、まだまだしっかり描かねばならぬ場面は目白押しです。現在のペースでいけば、令和5年分放送一年を用いてようやく描き切れるほどの分量かと推察いたします。来年放送『どうする家康』は既にクランクアップされているようですし、流石に先延ばしにするわけには参りますまい。「どうするNHK」と“ツッコミ”の一つも入れたくなります。恐らくは、重要人物の“物故シーン”も、昨今の大河ドラマ御馴染みの“ナレ死”とやらでサクサクと進捗させることが推察されます。“ナレ死”とは何ぞや……とお思いになる方もいらっしゃいましょうから、老婆心ながら御解説申しあげましょう。「現代用語の基礎知識」風に申せば「ドラマにおいて、登場人物の死を描くことなくナレーションで済ませる便利でお手軽な進行スタイル。当該シーンを描かなくて済むため経費節減に多大なる寄与をもたらす」となりましょうか。まぁ、少なくとも6月中に頼朝にはお引き取りいただく必要がございましょう。ところで『吾妻鏡』では当該年の記事が欠落しており、その死の状況は知ることができません(相模川の架橋供養に出かけた際の落馬云々……なる記事は何故かずっと後に記載されております)。度々不吉に登場する梶原善氏演じる「善児」の暗躍は果たして有りや無しや……気に掛かるところです。もっとも、夜も眠れぬほどに気に掛かっているわけではございません。むしろ、我らが千葉常胤の登場が何時までかの気がかりのほうが、それに数倍します。

 5月末日上梓「公式ガイドブック(後編)」(NHK出版)には、最早、常胤の“ツ”の字の登場もございませんでした。従って、老兵は静かに消え去るのみか……と思っていた矢先、6月に入ってからの2回放映分でまさかの御出座!!1回目は奥州平泉にて斯の地で没した九郎義経を偲びつつ酔って管巻く姿として、2回目は上洛の地で坂東よりも中央の朝廷に色目を使う頼朝への不満分子の一人としての登場でした。こちらでも常胤は飲んだくれておりました。まぁ、「飲んだくれ」は当該人物の素顔を描こうとされているのでしょうし、ドラマとしては決して悪いわけではありません。程度の問題ですが、あまりに謹厳実直で真面目一本槍の“立派”過ぎる人物像では視聴者の共感は得られますまい。当方も願い下げであります。むしろ、酔って愚痴の一つをこぼしたり、思わず失敗をやらかす方が、その人の多面性を垣間見ることができて結構でございます。もっとも、必要以上に“お茶らけ”すぎても鼻白らんでしまいますし、ナカナカ人物造形とは難しいものでございます。余談ですが、斯様なことと関連して、自分の贔屓筋を矢鱈と偉人に仕立てようとしたり、ひたすら神格化するような動向が間々見受けられますが如何なものでしょうか。こういう方々に限って、少しでもその御方を茶化したりすれば、たちまち烈火の如く怒ったりされます。人は様々な面があるのですし、その多様性が人としての深みに繋がると信ずる小生には、逆に、そうして持ち上げられている人物はさぞかし“こそばゆく”“息苦しかろう”と思うのですが……。きっと「俺りゃ、あんた等が思うほどに立派な人間じゃないよ。勘弁してくれや!!」と思うのが、極々常識的な“人”としての感じ方では無いかと思うからです。

 閑話休題。常胤の話に戻りますが、この時、常胤は奥州藤原氏攻めで八田知家とともに東海道大将軍として大いに軍功を施しました。つまり、そうした人であるにも関わらず、想いも欠けぬ姿が垣間見えるからその人物の魅力となるのであって、そのことは全く描かれず、飲んだくれて愚痴を零すだけの岡本信人さん……もとい!常胤では、場末の酒場で上司の悪口を並べたてる、卯建の上がらぬサラリーマン親父と最早選ぶところがございません。単なる“僻み根性”かもしれませんが、やはり両者のバランスを描くことこそ重要でございましょう。この後、史実の常胤は、頼朝死後の「梶原景時追放」でその急先鋒となるのですが、ガイド本で確認したところ常胤の名は発見できなかったように思います。常胤は、頼朝の死から2年後の建仁元年(1201)、齢84を一期に大往生を遂げるのですが、せめて“ナレ死”くらいの扱いはされるのでしょうか。ドラマと歴史とはイコールではないのは当然ですが、千葉市関係者としましては、最後のひと花を咲かせてほしい……と願う次第でございます。

 さて、ようやく本題に到達致しました。その大河ドラマで、先日「運慶」が登場いたしました。北条時政の依頼により、本願地伊豆の願成就院で造像した阿弥陀如来座像を披露する場面での登場でございます。少なくとも歴史上の人物として「運慶」の名前を聞いたことがないという日本人は極々稀でございましょう。ある意味で、源頼朝や徳川家康と肩を並べるほどの著名人の一人だとも思われます。所謂「為政者」でもない、仏像制作者(「技術者」)が斯くも周知されているのは何故かと申せば、偏に小中高の何れの教科書にもその名が登場し、繰り返して刷り込まれているからに他ならないと存じます。中学校社会科歴史的分野の教科書の多くでは、東大寺南大門とその左右で睨みを利かせる「金剛力士像」(口を開いた“阿形”と綴じた“吽形”の2体…“阿吽の呼吸”の由来)の写真とともに紹介されております。また、高等学校日本史教科書では、それに留まらず、その子である湛慶、同工房の快慶も採り上げられており、その作風として、新たな時代の精神を活かした力強い「写実性」、豊かな「人間味」等の記述がされているのではないかと存じます。しかし、名のみ著名であっても、上記「金剛力士像」以外の作を思い浮かべることのできる方は、そう多くないのではないでありますまいか。もっとも、女性の方々を中心に一時「仏像ブーム」が巻き起こり、当時は何処の運慶仏も多くの拝観者で賑わったと耳にしましたし、数年前に上野の東京国立博物館で開催された『運慶展』は相当な人出であったそうですから、関心を集める存在ではございましょう。

 北条氏所縁の伊豆国「願成就院」での運慶の造像活動に戻りますが、運慶が800年以上も前に制作した仏像の一部は国宝に指定されて今に伝わり、その地に赴き、“拝観料”を納めさえすれば、誰でもが間近に拝観することが可能でございます。その内の中尊“阿弥陀如来坐像”は、今では金箔も剥げ落ち、手指の欠損もある状態でございますし、顔面にも若干の補修の痕跡が認められもするそうです。つまり、必ずしも当初の儘の姿とは申せませんが、それが運慶仏であると知っての“ハロー効果”も相まって、目の当たりにすれば仏像から滲み出るその迫力に圧倒されることは必定でございます。大河ドラマ中ではCGによりキンピカな造立時の姿が再現されており、“つくりもの”とは知りながらもナカナカに感銘を受けました。ドラマでは伊豆の地に単身乗り込んでの造像と描かれていたようですが、実際には伊豆の地には足を運んでいないとの学説もございます。少なくとも、もし伊豆の地で造像に臨んだとしても、単身乗り込んでの造像はありえないと思われます。本稿では、そもそも伊豆の御家人と「南都仏師」(奈良に活動の拠点を置いた仏師集団なので「奈良仏師」とも)との関係が、何時如何なる状況で生じたものなのか。また、それは頼朝との関係を背景したものなのか、更には頼朝の「南都復興」事業への積極的関与と如何なる関係性を有するのか等々……、興味深い南都仏師集団と東国武士との関係性についても少しばかり追いかけてみようかと存じます。ところで、大河ドラマでの相島一之氏演じる運慶の人となりは、“一匹狼”的な相当に“ぞろっぺい”な人物像として描かれておりましたが、如何なものでしょうか。

 さてさて、今回のお題は相当に重い物で御座いますので、上手く纏まりますか自信はございません。どうかお付き合いくださいませ。なお、以下の内容は、塩澤寛樹『大仏師運慶-工房と発願主そして「写実」とは-』2020年(講談社選書メチエ)、同「建久期の東大寺復興造像と鎌倉幕府―」、山本勉「鎌倉時代初期の幕府関係の造像と仏師」に依拠していることを先に申し挙げておきたく存じます。特に、前澤氏の著作は有り勝ちな運慶仏礼賛の書ではなく、当時の社会的構造に運慶及び仏師による造像活動を位置づけた極めて説得力のある著書であると存じます。本稿を御読みになってご興味をもたれましたら、是非とも本書にお進み下さい。美術品として仏像を見ていらっしゃる方にこそお読み頂きたい書物だと存じます。

 運慶の生年は詳らかではありませんが、長子湛慶の承安3年(1173)誕生が確認できることに鑑み、12世紀半ばの生誕が推定されております。父は仏師工房を率いる康慶であり、運慶はその後継と目されております。弟に定覚が、康慶門下として快慶を始めとする数多の仏師がおりました(快慶は単なる弟子筋とは言えない部分もあります)。殆どの仏師名に“慶”の通字を有する者が多いことから一般に「慶派仏師」として括られます。その系譜は平安時代の摂関政治期にまで遡り、その始祖に位置付くのが「平等院鳳凰堂」本尊「阿弥陀如来座像」を手掛けた仏師「定朝(じょうちょう)」となります。こちらも、高等学校教科書「国風文化」の項目で必ずその名が挙がる歴史上の人物であります。これまでの仏像制作手法として一般的であった「一木造」から「寄木造」の手法への転換を果たした人物としても説明されましょう。その作仏は「仏像の理想」とまで讃えられ、その様式は「定朝様」と称されました。その影響下にある仏像は全国津々浦々にまで広がっていることからも、その影響力の大きさが偲ばれるのです。ところで、彼が確立したとされる「寄木造」とは仏像彫刻を行う際に、それを各パーツに分けて制作し、最後にパーツを組みあわせ完成に至る制作手法をいいます。従って、仏師定朝の実像とは、鑿を振るってひたすら木材と格闘しながら仏像を彫りだしていく“孤高の芸術家”の姿とはほど遠いものであったことでしょう。つまり、総合プランナーであり、制作統括者として製作工房を率いる総合エンジニアであったということです。定朝の特色とされる「寄木造」の完成者の功績とは正にそこにこそ存します。だからこそ、藤原道長による法成寺造営等々、摂関時代の大型仏像(俗に言う「丈六仏」)の大量注文に対応できたことを見逃してはなりません。

 最初に申しあげておきますが、運慶もまた定朝の後裔であり、同様に大規模な仏師集団の棟梁であったわけですから、夏目漱石が夢に見たとする、木の中に潜んでいる仏を鑿で削り出していく……といった“求道者”然とした姿は、全くの誤解であり近代人の思い込みにすぎません。これは、明治以降の近代社会になって、西欧の芸術家像に習って描いた幻想に過ぎないのです(夏目漱石『夢十夜』)。世に“漱石フリーク”は掃いて捨てうるほどいらっしゃいますので、急いで申し添えておきますが、これが漱石の作品価値とは全く無関係であることは申すまでもありません(この作品は当方の最も愛する漱石作品のひとつであります)。従って、これまで「運慶」作と度々記述してまいりましたが、それも本来は正しくはないのかもしれません。より正確には「運慶工房」作というのが適切な呼称だと思われます。もっとも、いくら実際の漫画にアシスタントの手が入っていようが「手塚治虫作」として認知されるように、棟梁(大仏師)が運慶であれば、弟子が制作した像仏であっても「運慶」作と称することにも左程問題もないと考え、以降も煩瑣を避けて「運慶」作で通したいと存じます(最後には運慶がOKを出して納品されるのですから)。逆に、実際には運慶が彫っていたとしても、大仏師である父康慶の下での制作であれば、本来「康慶」作とすべきものと思われます。これは、江戸時代の狩野派の絵画制作等々にも当てはまることであります。つまり、芸術家個人の独創性や意思を重視する西洋芸術論とは、必ずしも同列に論じることができないことを承知しておくことは重要であるということでございます。
(中編に続く)

 

 

 南都仏師「運慶」と造像活動から考える(中編) ―または「南都復興」と東国武士・幕府との関係性―

 

6月17日(金曜日)

 

 前編で申し上げましたように、運慶の属する「慶派」は、興福寺を活動の拠点とすることから「南都仏師」の一流であります。もっとも「南都仏師」は「慶派」に留まりません。他に、所謂「定朝」直系とされる一派が存在し、運慶と同時代には「成朝(せいちょう)」なる仏師が「定朝」の嫡流と目されておりました。この人物は、鎌倉の地で頼朝が初めて建立した本格的な寺院である「勝長寿院」とも深く関わることとなる人物であります。今は、成朝が定朝の嫡流にあたることを一先ずご記憶して置いて頂ければ幸いです。少し歴史に詳しい方であれば、当時の中央における仏師集団として、「慶派」をはじめとする「南都(奈良)仏師」の他に、「院派仏師」「円派仏師」の二流があり、それぞれ京都を活動の拠点としていたことをご存知でございましょう。実は、この2つの流派もその祖を辿れば「定朝」に行き当たるのです。定朝の子と目される覚助を始祖とする一派が「院派仏師」であり(その名に“院”を通字とするものが多い)、定朝の弟子長勢の後継者が引き継ぐ一派が「円派仏師」であります(同様に“円”を通字とする仏師が多い)。因みに、院派の始祖となる覚助の次代にあたる、子息の一人である頼助の系統を「南都仏師」と称し、先程の定朝嫡流と目される「成朝」はこの系譜の後裔にあたります。この流派は、その名称が示すように奈良を活動の舞台としますが、これは彼らが藤原氏の氏寺である「興福寺」との関係性を強く有し、その造像に深く関わったことからの呼称であるようです。

 つまり、これらの三派が定朝の系譜をひく正系の仏師集団として朝廷から認識されており、京と南都の主要な国家的造営に掛かる造像活動をほぼ独占的に担うことになるのです。本日の主人公である運慶は「南都仏師」康慶の子であります。康慶は成朝の祖父に当たる康助(頼助の子)の弟子筋にあたるようであり、「南都仏師」の中では傍流となります(塩澤氏は単なる傍流とは言い切れぬものがあるとご指摘ですが)。ただ、その中で次第に康慶の一派が「成朝」一派を圧倒するようになります。すなわち一般的に認識される「慶派の台頭」「他派の圧倒」でございます。しかし、これは飽くまでも「成朝」一派からの優越であって、「院派仏師」「円派仏師」からの優越では全くありません。当然の如く、“嫡流”でありながら成朝一派の退潮は「南都仏師」以外の二派からも覆うべくもない状況にあったようです。同時に、ここで確認をさせていただきますが、少なくとも中央における朝廷・摂関家に関わる像仏活動における仏師の活動では、これまでよく言われてきたような「慶派」優位の状況は全くなく、記録からは三派それぞれに造像の依頼がなされていることが判明いたします。それどころか、常に筆頭として多くの重要な像仏を依頼されているのは「院派仏師」であることも。つまり、明治以降に言われ始め、今も基本的に引き継がれる「鎌倉時代に運慶によって切り拓かれた慶派の造像によって他派は圧倒された」との認識が、実際の史実とは相当に乖離したものであることに注意が必要です。つまり、慶派もまた、京都・奈良を活動の中心に朝廷・摂関家の造像活動を担う一流としての位置づけられていたのです。そして、鎌倉時代以降に、慶派による造像が取り分けて高く評価されてきたわけでもありません。少なくとも、それが喧伝され、どれもこれもが運慶作に仮託されるようになるのは江戸時代に入ってからであり(日本国内には自称“運慶作”がどれ程あるか勘定できないほどです)、明治以降に更に特定の優れた芸術家として認定されることになったという経緯があると考えられます。

 確かに、個人的な経験から申しても、運慶と認定される仏像には、他派の仏像を大きく越える感銘を与えられて参りました。しかし、その要因として、上述したように、一つは、明治以降の西洋芸術論の伝播の影響で、芸術家の「個性」を重視する傾向が一般的になったことで「運慶」の個性的な作品への称揚がなされることになったことが背景にあろうかと思われます(逆に「院派」「円派」による工房製作の仏像は旧来スタイルを墨守するマンネリズムに陥ったとの評価として跳ね返ることになりました)。二つ目に、運慶一派が鎌倉幕府関係の造仏に深く関わったことがあると思います。かつて「腐れ切った中央の貴族社会を、草深い地方から起こった健全なる精神を宿した武士が駆逐して新たな社会を構築した」なるマルクス主義的“階級闘争史観”に基づいた歴史認識が一世を風靡した中で、少なくとも、その初期において新興勢力との関係を唯一有した中央仏師集団「慶派仏師」と、これまでとは異なる清新な「作風」との関連性が大きくクローズアップされたことも大きいものと思われます。つまり、そこに「慶派」と東国武士団との関係性と鎌倉幕府の依頼に基づく造像活動が、象徴的に「下部組織が上部組織を駆逐して」「新たな社会と芸術とを創造した」との物語構成に都合よく収まったことは疑いないと存じます。少なくとも、当時も主流であった「院派仏師」「円派仏師」の坂東政権からの依頼に基づいた造像活動は、「承久の乱」以前の段階では、ゼロではありませんが慶派の“馬鹿目立”と比較すれば極々僅かにすぎないのですから。

 そして、その最も早い段階での繋がりが、北条時政との関係性に基づく願成就院における造像活動に他なりません。まず、そのことと幕府(頼朝)関係の造像との関係を紐解いてまいりましょう。伊豆国韮山の地に今も残る願成就院は、文治5年(1189)北条時政がその氏寺として開いた寺院であることが『吾妻鏡』等の記事から明らかです。そこには、現在国宝に指定される5体の仏像が伝来しますが、中尊を除く4体に納入されている銘札に、文治2年(1186)の年紀と「時政・運慶」の名が銘記されております。つまり、寺院造営の3年前の段階で造像依頼がなされ、納入まで及んでいたことが分かります。恐らく、時政の仏師選定に、頼朝自身は関わっていなかったものと想像されますが、ただし、頼朝もまた「南都仏師」との関わりを模索していたことも見逃してはなりません。何故ならば、文治元年(1185)に平家が壇ノ浦に散った後、父源義朝の菩提を弔うことを目的に、本拠地鎌倉で初めての本格的寺院として頼朝が造営した「勝長寿院」(南御堂)で、仏師として招聘されたのが「南都仏師」の「成朝」であったからです。この当時の像仏の主流派と目される「院派」が招聘されなかった背景には、おそらく彼らが京を活動の舞台としており、院を筆頭とする朝廷権力との競合関係が生じることも背景となっていようかと想像されます。つまり、南都仏師であれば院派・円派よりは接近しやすい環境にあったとするものです。しかし、それにしても、「南都仏師」の中で台頭してきた「慶派」ではなく、当時「南都仏師」中で退潮著しかった「成朝」が選ばれた背景を何処に求めたら宜しいのでしょうか。それには、中央で冷や飯食いを強いられている成朝が、新たな活路を開拓するため、頼朝に積極的にロビー活動を展開したことが背景となっていることが一因ではあります。その甲斐もあり、父義朝の菩提を弔う幕府直営事業としての造像を勝ち得たわけです。しかし、それ以上に、頼朝にも、成朝である必要性があったことが推定されております。それが成朝の有する「定朝嫡流仏師」なる由緒に対する、頼朝自身の強い共振に他なりません。つまり、頼朝の有する強烈なる「源氏嫡流」意識に、成朝の有する仏師としての由緒がピタリとシンクロしたことが伺えるのです。

 逆に、それ故、頼朝への忖度をもって、北条時政は嫡流「成朝」を避け、傍流の慶派への造像依頼を掛けたとの憶測も可能となります(依頼は勝長寿院の翌年になりますから)。しかし、おさえておくべきは、北条時政と慶派(当時の棟梁は運慶父の康慶です)との接点が、何時、如何なる形で成立したのかということです。よく知られているように、慶派への像仏依頼の前年、時政は「京都守護」として上洛し、守護(国地頭)、荘園・公領への地頭の設置する権限と兵糧米を徴収する権限を朝廷に認めさせるなど、実質的に「鎌倉政権の誕生」と称される歴史的な画期ともなる果実を朝廷から勝ち取っておりますので、その余勢を駆って運慶への像仏依頼とも考えられます。しかし、それは、「何故、南都仏師なのか??」の直接的な理由にはなりますまい。そこで注目すべきが、野口実先生の昨今のご研究により明らかにされてきた以下の事実であります。つまり、それ以前から北条氏は婚姻関係・養子縁組を通じて、中央政権の周辺はもとより、更には南都興福寺との人脈を有していたことであります。これまで、伊豆時代の北条氏は、支配領域も広大とは言えず小規模な弱小武士団であると考えられることが多かったのですが(大河ドラマでの登場も決まって田舎武士として描かれて参りました)、それは事実に反していることが分かってきたのです。野口先生が述べておられる以下の御説は極めて刺激的でございます。つまり、「北条氏が中央の情報に通じていたことについては、伊豆が坂東諸国よりも京都に近く、幇助の地が国府に近接し、伊豆国の水陸交通の要衝を締めることを理由としてきたが」、時政の父(乃至は祖父)の「時家がもともと京武者的存在であったのだから当然のことと言える」「特に大和国の在地勢力や興福寺との関係は重要」とのご指摘でございます[野口実編著『図説鎌倉北条氏』2021年(戎光祥出版)]。北条氏館跡の発掘からも“威信財”としての中国製陶磁器の破片が数多出土していることがそれを裏付けます。これで、今まですっきりとしなかった「慶派」への造像依頼も、すんなりと腑に落ちることとなりました。そして、東国御家人との慶派との関係は、その後に侍所別当となった三浦一族の有力者和田義盛へと拡大し、その造像は現在横須賀市芦名(後の戦国大名芦名氏の名字の地)の浄楽寺に伝わります。阿弥陀三尊像他の5体であります。胎内銘からは、文治5年(1189)に大仏師運慶と小仏師10名で造像されたことが判明します。更に、年月日は不詳でありますが、その繋がりは幕府内の有力者である源氏一門の足利氏にまで及んだようであり、文献資料等での裏付けはとれないものの、その作風から樺崎寺にかつて伝わった大日如来2体が運慶の手になる蓋然性が極めて高いことが指摘されております。なお、野口実先生は、この14日に『北条時政-頼朝の妻の父、近日の珍物か-』2022年(ミネルヴァ人物評伝選233)を上梓されました。北条氏と京・奈良との関係性についてもより詳細に述べておられましょう。早々に購い拝読に及びたいものでございます。

 しかし、これらは、恐らく北条氏を介しての繋がりから拡大した有力御家人への運慶(慶派)との関係でございましょうが、いよいよその幕府による公的な像仏活動へと拡大する機会が訪れることになります。それが、頼朝を大檀越とする「南都復興」事業における、慶派による大々的な造像活動に他なりません。治承4年(1180)12月、平重衡による「南都焼き討ち」に起因する東大寺・興福寺といった、仏法による国家鎮護を担った寺院の炎上という未曾有の事件が発生。その結果、毘盧遮那仏(大仏)を安置する官寺東大寺と、藤原氏の氏寺ではあるものの官寺に列せられる興福寺が焼け落ちることになったことはよく知られておりましょう(天平創建の大仏・大仏殿も焼失)。これに対する「南都復興」事業は、早くも翌年から着手されることになります。ここでは、東大寺復興に焦点を当てて参ります。因みに、この後に源頼朝が関わっていくのは東大寺の復興のみであり興福寺の復興には全く関わっておりません。それは頼朝が、興福寺は実際には藤原氏の氏寺であって、“国家”の一大事業とは認識していなかったことを示すものでございましょう。逆に、国家の一大事業としての東大寺再建に前のめりに関わっていく背景には、自身が朝廷とともに国家運営の主体となったことへの強烈な自意識が存在したものと考えられます。何故ならば、中世においては、「王法・仏法相依」なる意識が支配的であったからに他なりません。つまり、政治と仏教とは互いに支え合って国家を守護し維持することが期待されていたからであります。東大寺は、元来「総国分寺」として全国の国分寺を統括する寺院であり、正に「鎮護国家」の思想を体現する象徴的存在でもあったのです。そうした寺院の復興に携わる意義を頼朝が自覚しないわけはございません。つまり、頼朝の個人的信仰心もさることながら、極めて政治的な意図をもったパフォーマンスであったことが重要だと申せましょう。

 先にも触れましたように、「南都復興」における東大寺の復興は「南都焼き討ち」の翌年から後白河法皇の下で着手されておりますが、よく知られているように勧進聖「重源上人」による精力的な勧進活動を背景に、その後の20年間に大仏鋳造、大仏殿を筆頭とする主要堂宇の再建が進められます。しかし、それでは広大な東大寺再建は完結せず、重源上人の死後も営々と続けられていき、その期間は大凡一世紀間にも亘ることになります。従って、後白河法皇の没後は後鳥羽天皇(上皇)へ、承久の乱での後鳥羽失脚の後にまで継続する一大事業であったわけです。つまり、頼朝が大檀越としてこの復興事業に関わったのは、初期における大仏殿再建を中心とする「建久期の復興事業」を中心とするのです。そこで、後編では、頼朝が如何なる支援を行ったのかを、慶派仏師との関係性を中心に見て参りましょう。
(後編に続く)

 

 南都仏師「運慶」と造像活動から考える(後編) ―または「南都復興」と東国武士・幕府との関係性―

 

6月18日(土曜日)

 

 後編では、まず頼朝が如何なる支援を行ったのかを、慶派仏師との関係性を中心に見て参りましょう。『吾妻鏡』の建久5年(1195)6月18日の記事を以下に引用してみます。

 

 

丁巳。東大寺造営の事について、将軍家(頼朝)はさまさまに助成されてきた。材木の事については、左衛門尉(佐々木)高綱に命じて周防国で特に伐採させた。また二菩薩や四天王像などは、御家人に割り当てて造立するという。すなわち観音菩薩は宇都宮左衛門尉朝綱法師が、虚空蔵菩薩は穀倉院別当(藤原親能)が、増長天は畠山次郎重忠が、持国天は武田太郎信義が、多聞天は小笠原次郎長清が、広目天は梶原平三景時が、また戒壇院の造営は同じく小山左衛門尉朝政・千葉介常胤以下に命じられた。しかし、その造営がたいそう遅れているので、今日催促された。ただしそれぞれがひたすらに結縁を思い、功を遂げよとの御下知が先に出されている。ただ公事に従わなくてはならないとの思いから、もし怠けているようであれば辞退するよう、厳しく仰せを伝えられたという。


[五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡 6』2009年(吉川弘文館)]

 

 この記事からは、頼朝が「東大寺復興」の一環として、大檀越として大仏殿内の2体の大仏脇侍[観音菩薩像(宇都宮朝綱)・虚空蔵菩薩像(中原親能)]、及び四天王像[増長天像(畠山重忠)・持国天像(武田信義)・多聞天(小笠原長清)・広目天(梶原景時)]の合計6体を、上記分担で各御家人に命じていることが分かり、これは他の資料からも裏付けられます。造仏活動とは直接関わりませんが、我らが千葉常胤及び小山朝政の2人が戒壇院の造営を命じられていることも知られます(ここには天平創建時の塑像彫刻である四天王像の傑作が伝来していることもご存知でございましょう)。そして、『東大寺縁起絵詞』から、6体を担当した仏師が判明します。そして、それが全て「康慶一門(慶派)」に依頼されていることが注目されるのです。すなわち、観音菩薩像が「定覚」「快慶」、虚空蔵菩薩像が「康慶」「運慶」、四天王像は史料によって異同がありますが両脇侍を担った4名の慶派仏師が担ったことが確実です。坐像である両脇侍の大きさは約9m、立像である四天王像は約12mという巨像を4名で請け負っているのです。ここからも、彼らがそれに耐え得る相当数の仏師集団を抱え込む大規模工房であったことが窺えましょう。ただ、『吾妻鏡』の建久5年の記事は、作業が遅れていることに対する頼朝の各御家人への督促が内容であることに留意する必要が御座いましょう。従って、各御家人への下命があった時期は、建久5年6月を遡ることは確実です。恐らく、建久5年に完成した「中門」金剛力士(仁王)(「定覚」「快慶」の担当)の発注と同時に行われたものと推察できましょう。因みに、本稿の目的とは外れますので詳述はいたしませんが、頼朝の仕切りによって執り行われた、翌建久6年(1195)「大仏殿供養」は、頼朝自身が数万の武士達を率いて上洛し、東大寺での供養にも御家人達とともに参列するという一大デモンストレーションとして執り行われております。併せて、東大寺には頼朝による巨額の財政支援が行われております。すなわち、馬千匹施入、米一万石、金千両、上絹千疋の奉加などであります。御家人への財政負荷に留まらず、自らも巨額の財政的な支援をも行って大檀越としての威勢を誇示しているのです。しかし、そもそも、鎌倉政権主導で行われたこの「建久期再興」で、「慶派」が大々的に引き立てられたのは何故なのでしょうか。それは頼朝の意向だったのでしょうか。そして、よく言われるように、これを契機に「慶派」が「院派」「円派」を圧倒して造仏界に君臨するようになる……との認識が果たして適切なのでしょうか。

 そのことを探るためにも、幕府による「東大寺復興」への支援がどのように行われてきたのかについて確認してみましょう。幕府による支援は、一大イベントとして「建久期」以前にも行われており、それは一貫して、費用調達に資する所領面での支援と、大仏鍍金用を含む大量の黄金奉加、重源による勧進活動の支援、御家人への資材等提供の下命等々であります(御家人ではない奥州の藤原秀衡へ黄金進上を命じるよう朝廷に求めたりもしています)。その中で、注目すべきは、廬舎那仏(大仏)光背制作への2度に亘る大量の黄金奉加であります。そして、塩澤氏は、建久5年に始まった大仏光背を担当した仏師が、これまで余り注目されて来なかったが「院尊」が率いる院派仏師集団であることに注目すべきことを指摘されております。その理由として、この院尊がかつて源氏調伏を目的とした毘沙門天像造像に関わっており、そのことに頼朝が不快感を露わにしていることが『吾妻鏡』に記されていることにあります(建久2年)。逆に、その3年後の大仏光背の制作が院尊に依頼されていることに(その主体は朝廷であります)、頼朝が何らの抗議も加えないばかりか大量の黄金をもって支援をしていることに鑑みれば、少なくとも頼朝が仏師選定に深い関心を抱いていなかった証拠となると塩澤氏は想定されております。このことは、それに続く「建久の復興」で御家人に大仏殿内の両脇侍造と四天王像を命じた際、何れの仏師集団に造像を依頼するかについて、頼朝自身が強い関心を抱いていたとは考えられないということを図らずも示していることになります。また、もう一つ確認できることがございます。それは、同じ造像事業ではありますが、慶派仏師が一手に依頼を受ける大仏脇侍と四天王像の制作よりも、大仏本体に付属する「光背制作」の“格”が格段に高いことであります。つまり、当時の“格付け”通り、「院派」仏師の優位がここでも明らかだということになります。そして、このことは、これ以降の朝廷による京・南都の造仏活動においても基本的に揺るがないのです。つまり、「院派」を中核として、「円派」「慶派」の三主体に振り分けて造像依頼がなされているということです。逆に言えば、よく言われるような「慶派がこれ以降の造像活動を席巻する」といった事態は生じていないということが、ここからも透けて見えて参ります。

 そうであるとすると、建久期の造像活動で慶派を引き立てた主体は一体如何なる勢力なのでしょうか。そこで、浮上してくるのが、南都に深い人脈を有し、その関係を有し、その所縁をもって所領伊豆国の願成就院に慶派仏師の手になる造像を行った北条時政の存在でございます。そう述べると、建久期の東大寺復興に関わる造像に北条氏が選出されていないことの説明がつかないではないかとの疑問が呈されるかもしれません。確かに、それ以前に慶派との接触のあった和田義盛の名も、足利義兼の名も見えていないことも怪訝ではございます。ただし、考えなければならないことは、これだけ大々的な造像活動を行わせるためには、統括責任者の存在が不可欠であることです。ただし、それは記録には表れていないようです。しかし、予て存在する慶派との深い関係に鑑みて、その奉行として北条時政がそれにあたった可能性が大きいことを塩澤氏は想定をされているのです。そうであれば、統括責任者として、具体的な造像分担に割り振られていないことも説明がつくのではありますまいか。そして、当方もそれは如何にも説得力のある推定であると考えます。これだけの一大事業の仏師選定と全般の活動統括に、頼朝自身が関わっていないとするならば、それが可能なのは、これまでの経緯から推定しても、北条時政以外に考えることができないからであります。もっとも、仏師選定には最終的に頼朝の裁可を仰いでおりましょう。その際に頼朝を納得させる理由として示されたことが、これまでの実績(関東御家人との関係性と造仏活動、そして頼朝の関心外ではありましたが興福寺復興における活動)、及び勝長寿院造営で頼朝が鎌倉に招聘した「成朝」と異なり、彼ら「慶派」が「南都仏師」中で傍流であったことに求められましょうか。ところで、建久5年における各御家人への恫喝にも近い督促にも関わらず、両脇侍像・四天王像はずれ込むことになり、頼朝にとっての“ハレの舞台”である建久6年「大仏殿供養」には間に合うことはなかったのですが。余談ではございますが、この段階で制作された中門像2体を含む8体は残念ながら現存しません。よく知られるように、戦国期の永禄10年(1567)、東大寺大仏殿の戦いの最中に焼失しているからに他なりません。その時に、幸いに焼失を免れた東大寺南大門と金剛力士像は今日に伝わり、教科書では運慶・快慶の代表作として取り上げられていることは申すまでもございません。因みに、南大門の再建と造像は、建久期の再建より更に遅れる建仁2年(1203)のこととなり、この時には既に頼朝は没しております[正治元年(1199)]。もうひとつ、定朝の嫡流を自称する成朝の動向は、建久5年「興福寺供養」を境にして記録等に登場することが無くなります。その後まもなく亡くなったのでしょう。その段階で既に退潮著しかった「定朝」嫡流の命運は尽きたものと想定されます。

 運慶(慶派)のその後でありますが、決して造仏界を席巻するようなことはなく、京・南都を中心とした造像活動を担っていたことを先に触れました。朝廷としても、基本的に院派を優位としながらも、三派の共存を図るような造仏依頼をしていたことが読み取れるということでございます。しかし、「慶派」には、他の二派と異なった際立った差異がございます。それが、西国での活動と並行して、幕府との関係性に基づく東国における造像活動への関与を建久期以降にも継続するという、顕著な動向が見られることです。健保年間から承久年間にかけて、運慶は、源実朝の持仏堂本尊釈迦如来像(現存せず:京都で造像され鎌倉に送られたことが分かります)、現在横浜市金沢区の称名寺につたわる大威徳明王坐像(現存:胎内銘から実朝養母の依頼で大日如来・愛染明王の2体とともに作仏されたことが判明)、北条義時発願の大蔵薬師堂(現:覚園寺)薬師如来像(現存せず)、北条政子発願の勝長寿院五大尊(現存せず)等々であります。これらは記録に残るもののみであり、実際にはより多くの造像が行われている可能性がありましょう。その意味でも、北条時政との関係を嚆矢とする東国武士との関係性が、慶派仏師に新た造像活動の世界を広げたことは間違いありますまい。

 貞応2年(1224)「慶派」総帥である「運慶」の没後にも、摂家将軍のための造像に「慶派仏師」が活躍したことが確認されるなど、慶派と東国政権との関係性が維持されます。しかし、鎌倉中期以降となると、幕府関係造像活動は次第に慶派としての造像はすっかりと影を潜めるようになるのです。そして、これまで鎌倉での造像活動が殆どみられなかった円派、特に院派の進出が顕著になります。例えば、金澤氏の造営になる称名寺の釈迦如来像には多くの院派仏師が関わっていることが分かりますし、その他にも院派の活動が記録に現れております。これには、六波羅探題を度々務めた金澤氏と京との繋がりが想定されます。また、禅宗・真言律宗といった新興仏教が鎌倉で勢力を拡大したことも要因と考えられましょう(中国からの影響をうけた「宋風」彫刻の流行)。一方で、鎌倉に拠点を置く仏師集団の活躍が見られるようにもなります。16世紀半ばになると「鎌倉大仏所」を名乗る仏師があらわれます。千葉県八千代市の正覚寺に残る木造釈迦如来立像(「正身」仏とされる所謂“清凉寺式釈迦如来像”)の修理を担当した長盛は「仏師鎌倉法眼大蔵長盛」と銘を記しております。鎌倉を拠点とする仏師集団が形成され、関東の各地で造像活動に関わっていたことが読み取れます。一方、「慶派」は南北朝期になると活動の拠点を京都に移すようになり、以後「七条仏所」を称するようになります。そして、その活動は近世末まで継続されますが、明治維新後には衰微することになったようです。

 ここで少し、我らが千葉市域における「慶派」の足跡についても少しばかり紹介をさせていただきます。残念ながら、千葉氏と運慶(慶派)との関係を示す文書等の史料については管見の限り残されておりません。ただ、以前に触れたことがありましたが、本館の至近にあります「東禅寺」(現:曹洞宗~前:臨済宗)に明らかに慶派の息のかかった尊像が残されております。それが木造薬師如来坐像であり、当寺の本尊としてお祀りされております。『千葉市の仏像』1992年(千葉市教育委員会)によれば、「本像は市内はもとより県内の中世彫刻の中でも抜群の作行を示し、のみならず印相、構造に特色があって、鎌倉時代の彫刻史上に重要な作例に挙げられる」と評価されるように、大変なる優品だと存じます。当方も何度も拝観におよんでおりますが、その度にその美しさと神々しさとに圧倒されております。本書によれば、鎌倉時代前期の慶派の作風に連なるものとみなされ、他の慶派作と比較しながら1240年代頃の作としております。また、最も近い作例として伊豆「北條寺」阿弥陀如来像坐像があるとも。当寺は、伊豆に残る「北条館」の狩野川を挟んだ対岸(つまり「江間」の地)にあり、北条義時の創建をつたえております。阿弥陀像も重要美術品・静岡県重要文化財に指定されております。願成就院にも程近く、何よりも運慶(慶派)との関係性の深い北条時政・義時との縁の深い寺院であることに鑑みて、運慶周辺の次世代仏師の手になるものと推測できましょう。東禅寺像につきましては、ご住職のお考えもあり文化財指定はされておりませんが、充分にそれに値する貴重な尊像でございます。ちなみに、東禅寺創建は、嘉暦2年(1327)千葉介貞胤によるとされておりますので、造仏の時期とはズレが生じます。恐らく、他寺院に安置されていた本尊が、何れかの時期に客仏として本寺にもたらされたものと思われます。しかし、本像以外に、市内に明らかに慶派との関係性を示唆する像は伝わりません。ここで細やかなる宣伝です。詳細をお知りになりたい向きは、是非とも上記調査報告資料をお求めくださいませ。1冊5,000円となりますが、300頁弱の冊子で写真図版も豊富であり、極めて価値ある一冊でございます。本館で販売中であります。

 今回の本稿では、相も変わらずに長々と、運慶を中心とする「慶派」仏師と東国(鎌倉幕府と東国御家人)との接点を中心に見てまいりました。そして、その結節点となる人物が北条時政であることが想定できることも何となく御理解いただけたでしょうか。最後に、改めまして、塩澤寛樹氏の著作『大仏師運慶-工房と発願主そして「写実とは-』2020年(講談社メチエ)を皆様にはお薦めいたします。斯様な優れた一般書に2,000円以下で接することができるなど何という仕合せでございましょう。当方が述べてきた内容以外にも、タイトルに御座いますように、慶派彫刻の特色とされる「写実的」という側面が如何なる意味を指し示すものかを、仏教思想等をも援用しながら解き明かしていかれます。それが「生身仏」(現世に姿を現した仏)への信仰の高まりと、密教界で興隆する「本覚思想」(現実が既に悟りの世界であるとの仏教思想)との強い関係性でございます。これにつきましては、この場で取り上げる余裕はございません。これまで運慶を始めとする慶派仏師の特色と称され、教科書でも説明される「写実的」という“分かったようでよく理解できない”内容について明快にご説明されており感嘆仕切りでございます。これが絶対ということであるかは当方も何とも言えませんが、これまでモヤモヤしていた思いが初めてすんなりと腑に落ちたことは事実です。少なくとも、塩澤氏以上の説得力のある説明にこれまで出会った記憶がございません。また、塩澤氏の論旨は、すべて信頼できる資料による実証に基づいております。つまり、確実に言えることと可能性に過ぎないことを峻別されており、学問的価値が極めて高いものであることも申し添えておきます。すなわち、大いにお薦めする所以でございます。少なくとも、鎌倉彫刻、慶派、そして運慶に関心をお持ちの方にとっては必読の書であると確信いたします。

最後の最後に上記話題を外れた追伸です。北条氏関係の内容ですので、ここで取り上げさせていただきました。お恥ずかしながら、山本みなみさんの最新刊『北条政子』(NHK出版新書)で初めて知ったことであります。伊豆の国市韮山の狩野川に面する北条氏館跡の史跡名称は、正しくは「北条氏邸跡(円成寺跡)」であります。「北条氏邸跡」はさておき、括弧内の「円成寺」とは如何なる寺院なのかを全く知ることなく今日にまで馬齢を重ねてきてしまいました。この円成寺とは、元弘2年(1333)鎌倉の東勝寺にて北条高時らが自刃して鎌倉幕府が滅亡した後、鎌倉から退いた北条一族の女性が先祖所縁の地に建立した寺院であり、一族中の円成尼(安達氏娘で北条時貞側室で北条高時母)が中心となり、北条館跡地の寺院にて一族の菩提を弔った寺院とのことです。つまり、この「北条館跡」の地は、鎌倉時代の最初と最後とを象徴する場所ということになります。更に申せば、円成寺は室町時代にも尼寺として続き、江戸時代まで維持されていたことが分かっているそうです。実際に発掘調査の結果、その遺構も発見されているとのこと。いやはや、歴史は誠に奥が深い。「無知の知」ということでご容赦ください。更なる研鑽を重ねて参る所存でございます。
(完)

 

 

 戦後に市川の住人となった永井荷風に思う(前編) ―または 「荷風散人」という奇跡の存在へのオマージュ―

 

6月24日(金曜日)

 

 

 過日、休館日に教育委員会での事業ヒアリングがありました関係で午前出勤。午後に時間ができましたので、帰りがてらに市川に寄ることにいたしました。目的は二つあって、一つは、予てから入手したいと思っていたものの、あっという間に品切れとなり、2年以上もの間“入手不能状態”であった『市川市史 歴史編3. -まつりごとの展開-』が晴れて増刷となったことで、是非とも購入したかったこと。二つに、新築なった市川市庁舎内に移築・復元されたという“永井荷風終焉の書斎”を一度この目で見てみたいと思ったことでございました。その二つの目的を同時に叶えてくれるのが市川市役所でありますから、IR総武線本八幡駅から徒歩で向かったのでした。初めて目にする新庁舎は、房総往還に面した前庁舎と同地所に装いも新たに建築されており、街道を挟んで斜め前に位置する「八幡の藪不知」の昔ながらの眺めとの対比も至って面白いと感じたのでした。本稿では、訪問の目的のうち、戦後市川に居住していた永井荷風のことについて述べてみようと存じます。『市川市史』につきましても讃頌したきこと山のようでありますが、これはまた別の機会に。

 永井荷風(本名“壮吉”)は、明治12年(1879)、父“久一郎”と母“恒”との間の長男として東京小石川に生を受けました。永井家の系譜は「小牧・長久手の戦い」[天正12(1584)]で戦功をあげ家康に仕えることとなる永井直勝に遡る名家です。荷風の父はアメリカ留学の経験も有するエリート官吏でしたし、母は儒者鷲津毅堂の二女であるなど、豊かな経済的・文化的な裏付けを有する家庭に育ちました。しかし、荷風自身は、終生その在り方に激しく抗った人生を送ることになるのです。もっとも、その支援によって、明治の世にアメリカ・フランスへの外遊を果たすこともできたのですし、その経験が瑞々しい散文の美麗さに心震える名作『あめりか物語』と『ふらんす物語』という豊かな果実をもたらしたのです。また、先祖伝来の豊かな個人資産(殆ど動産資産でありましょう)こそが、戦後の混乱期にも、困窮することなく長い「独身者」としての生活と、誰に媚びることもない精神の孤高とを許した要因とも申せましょう。その点ではご先祖様さまでございましょう。

 「世を斜めにみること」「大勢に流されることなく自己の内面世界を守り抜くこと」「曲学阿世を蛇蝎の如くに嫌うこと」「反骨精神を貫くこと」……といった荷風の生き様を考えるうえで、その原典とも、分岐点とも言える重要な出来事として、明治43年(1910)「大逆事件」への遭遇を抜きにすることはできません。随筆集『麻布襍記』内に掲載される一篇『花火』(1919年)に、荷風は以下のように記しております。

 

 「明治四十四年慶應義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六臺も引績いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかつた。わたしは文學者たる以上この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレフユー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文學者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文學者たることについて甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の藝術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来やうが櫻田門で大老が暗殺されやうがそんな事は下民の與り知ったことではない-否とやかく申すのは畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立つたのである。
 [永井荷風『花火』1919年 『荷風全集』第15巻(岩波書店)1972年より]

 

 

 このことと関連して、戦後になって国家からの栄典として「文化勲章」を断ることなく受け取ったことが[昭和27年(1952)]、恰も荷風らしからぬ行動として「晩節を汚した」と評さることに、荷風に成り変わって弁明をしておきたいと存じます。これは、決して“贔屓の引き倒し”にも“逃げ口上”や“我田引水”にもあたりますまい。荷風は、決して国家に屈したのでも、耄碌して名誉欲に駆られた訳でもないのです。まぁ、慎ましい生活であり、相当なる吝嗇家としても知られていたものの、実際には驚く程の個人資産を有していた荷風のことです。その点に拘る必要は無かったのではないかとの思いもございますが、受賞の根本的な要因には「文化勲章」に「年金」が付属していたことがあったと考えられております。つまり、頭の中で算盤勘定が優先したためであって、国家から与えられる名誉には一切無関心だったと思われます。その証拠に、晩年に毎日のように出掛けては、しけ込んだ浅草六区の小劇場楽屋裏で、若い踊り子達にチヤホヤされることを無上の喜びとしていた荷風でありましたが(「ニフウ先生」と呼ばれてもそれを修正することなくニコニコしていたとの証言が残ります)、勲章をもらった途端に「こんなに偉い先生とは知らなかった」……と、踊り子たちが掌を反すかのように他所他所しくなったことで、「年金」に絆されて受賞したことを後悔したとの、実に荷風らしい微笑ましい逸話が残っておるほどですから。

 さて、大逆事件後の荷風の小説作品は、『すみだ川』(1909年)、『腕くらべ』(1918年)、『おかめ笹』(1920年)、『つゆのあとさき』(1931年)、『墨東綺譚』(1937)に到るまで、荷風の思いを反映したように、いずれも花柳界・カフェー・私娼窟等々等の日陰に生きる市井の人間模様を、しみじみとした情感をもって描きだす名作が目白押しであります。何よりも、その散文の信じがたいほどの美しさは更に琢磨され、多少下卑た内容であったとしても、たちまちの内に美的な世界に絡め取ってしまうような荷風の散文の姿は唯一無二の世界のように思います。当時「耽美派」と称されたことも宜なるかなと思わせます。一方、母方の祖父鷲津毅堂やその周辺世界を、大きな共感をもって描く史伝作品の傑作『下谷叢話』(1926年)がございます。明治という時代の潮流から超然とした姿勢で生きぬく漢詩壇の人々(大沼枕山等)を描こうとする荷風には、別の意味で現実世界から敢えて目を背ける創作姿勢がみてとれるように感じさせます。そして、荷風と申せば『断腸亭日乗』を忘れるわけには参りません。大正6年(1917)から死の前日まで営々と書き継がれた日録に他なりません。荷風は、昭和34年(1959)4月29日に終の棲家となった自宅の至近にある、晩年の贔屓筋食事処「大黒家」で“最後の晩餐”を済ませた翌朝、通いの女中に書斎で独り息絶えている姿を発見されるのです。『日乗』の「四月廿九日。祭日。陰。」が絶筆となりました。

 藪から棒で面喰らわれるかも知れませんが、当方にとっての「永井荷風」とは(決してその生き様に倣うことも、またそうしようとも思いませんが)、「人の生き方のひとつの理想型」を体現する人物なのであります。誰にも媚びることなく、荷風の内なる美的世界の琢磨を貫き通した、孤高の高峰のような生き様は、誠に以て見事の一言に尽きると思うところでございます。勿論、個人資産が可能とした生き様ではございましょうが(そのクセ相当にケチであったようですが)、資産家の誰もが出来る芸当ではございません。確かに、道義・道徳に照らして如何なものか……と思わせることも多々ある「毀誉褒貶」多き人物でもございますが、正直申して“憧れの存在”でございます。当方は同年の4月11日生まれでして(余計なことですが前日は現上皇ご夫妻婚姻の日)、たったの“20日間弱”ではございますが、同じ世界の空気を吸って生きることができたことを誇りにすら思っております。こうした生き方を貫いた荷風は、自らを「荷風散人」を自称しておりました。「散人」を辞書で引いてみると、一つ目に、「役に立たない人、無用の人物、無能な人。」、二つ目に「俗世間を離れて気ままに暮らす人、官途につかない人」、三つ目に「文人などが雅号の下に添えて用いる語」とあります。「荷風」とは彼の雅号の一つでありますから、元来は三つ目の意味でありしょうが、言うまでもなく彼の思いは他の二つにこそございましょう。現世からは一歩も二歩も身を引いて生きてはおりますが、現世を見る鑑識眼には一点の曇りもなく、恐ろしいほど的確に社会の欺瞞を暴き出してもおります。その意味では、「無用な人」とは決して自虐でにあらず、荷風にとっての旺盛な知的好奇心とルサンチマンとを覆い隠すための「隠れ蓑」だったのかも知れないと思うこともございます。何れにしましても、荷風は当方の心底に敬愛する人物に他なりませんから、敬意を払って、以下「荷風散人」と記述させていただこうと存じます。

 さて、これ以上荷風散人の生涯を描くとキリがなくなりますから、以降、時期としては戦中・戦後、場所としては戦後に移り住んだ市川と周辺の生活圏とを主たる話題とさせていただきましょう。荷風散人が市川に移住する前に居住していたのは、生地である東京でございました。直近の住居は麻生市兵衛町(現:港区六本木)にあり、荷風散人自らが「偏奇館」と名付けた邸宅でありました。命名の由来は、その外壁が下見板張“ペンキ”塗装であったことに、自身の性癖である“偏奇”とを重ね併せたものと言われます。屋敷内には洋書(原書!!)を始めとする萬巻の書が溢れ、それらに囲まれる優雅な独身生活を送っていたのです。しかし、それも昭和20年(1945)年3月9日が最後となりました。当日と翌日の『断腸亭日乗』の記事の一部を引用してみましょう。文字を追っていくと、最初に向き合わされることが、焼け落ちる「偏奇館」を最後まで見届けようとする、荷風散人の執着心が一体何処から沸き起こっているのかという思いでございます。同時に、散人のものする日本語散文が斯様な悲劇を描くに際しても、如何に力強さと洗練された美しさに彩られていることへの驚嘆と畏怖の思いにも駆られます。

 

 三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。火は初長垂坂中ほどより起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目面通りに延焼す。余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革鞄を提げて庭に出でたり。谷町辺にも火の手の上るを見る。また遠く北方の空にも火光の反映するあり。火星は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ。余は四方を顧望し到底禍を免るること能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通に走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難かるべしと言ふ。道を転じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり。時に七、八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出て溜池の方へと逃しやりぬ。余は山谷町の横町より霊南坂上に出て西班牙公使館側の空地に憩ふ。下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る。荷物を背負ひて逃来る人々の中に平生顔を見知りたる近隣のひとも多く打ちまぢりたり。余は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもやや知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドスペルゲル氏褞袍にスリッパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ。崖下より飛来りし火にあふられてその家今まさに焼けつつあり、君と家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて来李先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てて逃来りし由を告ぐ。余は五、六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の木の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず。唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上少なからぬ蔵書の一時に燃るためと知られたり。 (後略)

 三月十日。(中略) 昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及霊廟も烏有に帰す。明治座に避難せしもの悉く焼死す、本所深川の街々、亀井戸天神、向嶋一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりといふ。午前二時に至り寝に就く。灯を消し眼を閉るに火星紛々として暗中に飛び、風声啾々として鳴りひびくを聞きしが、やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠におちぬ。

[永井荷風『摘録 断腸亭日乗(下)』1987年(岩波文庫)]

 

 如何でございましたでしょうか。極々一部分ではございますが、ご一読いただければ『断腸亭日乗』が単なる“日々の記録”ではないこと、荷風散人のもう一つの「作品」として屹立していること、いや、それどころか明治以降における“日記文学”の極北と称されることにご納得いただけるものと存じます。当方もそのことに一寸の疑いもございません。特に、以上に引用した部分など、まるで鴨長明『方丈記』も斯くや……と思わされるほどの迫真性に満ちております。描かれる内容もさることながら、それを力強く、しかし一面で美しさを損ねることなく描写していく、その文章の手腕に瞠目以外の言葉が見つかりません。勿論のこと、本作品は荷風散人の生前に世に出ることはなく(しかし荷風が膨大な日記をものしていることは周知の事実でありました)、当方の記憶に間違えがなければ、その全貌は、散人の死後に岩波書店にて編まれた『荷風全集』全29巻[昭和38年(1963)]で日の目を見ることとなったのだと存じます。当方は第2期配本[昭和47年(1972)]の全集を入手することが叶い、今でも生涯の宝とするものであります。その後、同じく岩波書店から『断腸亭日乗』のみが抜き出されて単行本化もされましたが、現在では岩波文庫で上下巻の摘録本が刊行されております。その全貌は膨大なものですから、ご興味がございましたら、まずはこちらからどうぞ。

(後編に続く)

 

 戦後に市川の住人となった永井荷風に思う(後編) ―または 「荷風散人」という奇跡の存在へのオマージュ―

 

6月25日(土曜日)

 

 前編後半で記した「焼け落ちる偏奇館を最後まで見届けようとする、荷風散人の執着心が一体何処から沸き起こっているのか」との思いでございますが、小生は、それが、荷風の中にあった“書物の中の仮想現実”とも言うべき「桃源郷」が脆くも崩れ去った「絶望」の瞬間でありながらも、それにも関わらずその現実を“しか”と自らの目に留めようとする「作家としての矜持」との、“麻の如く”に交錯する精神の葛藤から沸き起こっているように思えるのです。そのことが荷風の記す散文に、畳みかけてくるような切迫感と、それにも関わらずどこかしら「諦念」とも思えるような「冷静」との同居とをもたらす要因ではないかと推察するものでございますが、皆様は如何お感じになられましたでしょうか。自宅も愛する書物をも全て失った後、荷風散人はそれぞれの地での罹災を繰り返しながら、知人を頼って東中野、明石市、岡山市と転々とし、岡山では疎開していた盟友でもあった谷崎潤一郎の厄介にもなっております。そして、終戦後の9月に杵屋五痩(大島一雄)一家の疎開先であった熱海を経て、昭和21年(1946)1月16日に現JR市川駅に降り立ったのでした。

 市川での生活は京成菅野駅北側にあった、従弟で邦楽家の杵屋五痩(大島一雄)一家の借家での間借生活として始められました。しかし、同家のラジオ・三味線の音に耐え切れず、翌22年1月からは近くのフランス文学者小西茂也一家の一室を間借することになります。しかし、その部屋での荷風散人の傍若無人な自炊生活に小西一家は困惑することになります。結果として2年余りで共同生活は破綻します。そもそも、荷風散人の徹底した個人主義と協調性を強いられる生活との親和性とは、水と油の関係でしかありえないのだと思います。結果として昭和23年の年末からは市川市内に古家を借りての独居暮らしとなります。そして、凡そ9年余り後の昭和32年(1957)に、結果として終焉の地となる場を求めて新築し、3月27日から昭和34年4月30日までの約2年を、市川市「八幡」の地で過ごすことになります。従って、今回、市川市役所内に移築・保存されることとなった荷風散人の書斎とは、この家屋の一室に他なりません。

 市川市役所新庁舎内に移築・復元された件の「書斎」でございますが、新築物件の初々しい匂いも漂う、広々とした1階ロビー空間の奥まったところに小さく鎮座しておりました。もとより建物自体の移築ではなく家屋内の一間のみの移築でありますから、小さくて当然であります。説明文を読むと、柱や鴨居等の構造材、建具の襖やガラス窓、および建て付けのガラス戸付書棚等は実際に用いられていたモノのようです。畳敷の和室に、散人の生前の生活を示す、和机と座布団(机上には硯・筆、鉛筆等の筆記用具、開いた原稿用紙や書籍等々)、安っぽいアルミ製薬罐の載った火鉢、そして書棚内には近年刊行の荷風関連書籍が配架されておりました。また畳上にも図書が彼方此方に置かれております。ただ、それらの遺品は全てレプリカとのことであります。移築前の書棚の写真を見ると、この戸棚には荷風の尊敬していた「森鴎外全集」と「幸田露伴全集」が見えます。また自身の作品(戦前刊行された春陽堂版の荷風全集あり)も当然のように集積されております。更に、偏奇館と共に焼亡したであろうゾラやモーパッサン等のフランス語原書も三分の一ほどを占めているのも確認できます。戦後に改めて買い求めたモノで御座いましょう。因みに、散人は戦前までの作品は原稿用紙に筆を用いて潤筆(筆ならではの表現)、戦後になって鉛筆を使用するようになっております。また、荷風がこよなく敬愛して全集を読み込んでいた幸田露伴も戦後に、当時荷風が居住していた市川菅野に転居してきました。昭和22年(1947)物故の際には、散人はその邸宅前まで脚をはこび、門外から密やかに露伴への別れを告げております。

 この部屋での散人の生活の様子は、当時撮影された写真から判断するに、復元された書斎の雑然さを遙かに凌駕する猥雑さであります。畳上に直に置かれた七輪を用いて自炊をしていたこともあって、畳には焼け焦げや摺り切れが目立つなどの痛みが甚だしいものです。戦前にお洒落なダンディズムで知られた荷風散人でしたが、着衣にも頓着することもなくなったものか、特に室内では相当にだらしない格好であるように見えます。そうしたこともあってか、余程親しい人でもない限り室内に他者を招き入れることもありませんでした。気が向かなければ、原稿を取りに来た編集者にでさえ、自ら「荷風先生は今留守だ!」とどやしつけて追い返したとの伝説も残るほどです。しかし、この書斎に脚を踏み入れて生前の荷風散人と直接に対面したアメリカ人がおり、その記録が残されております。その人物が、日本文化にこよなき愛情を抱き、後に日本国籍をも取得されることになる日本文学研究者ドナルド・キーン(1922~2019)に他なりません。おそらく、当該文章にも記されているように、代表作の一つ『すみだ川』を英訳したキーン氏に、散人が興味をもったことが契機だと思われます。貴重な記録でありますので以下に引用させていただきます。最晩年の荷風散人の姿と書斎の様子とを彷彿とさせましょう。なお、この文章は市役所内の復元書斎にもパネルで紹介されておりました。因みに、移築復元書斎の脇には等身大の永井荷風像があり、少々趣味が悪いとは思いましたが、その偉丈夫な姿には驚かされました。身長175cmほどの当方が見上げる程ですのでざっと185cmはございましょうか。写真で見るより遙かにがっしりした体躯に感銘を受けた次第でございます。

 

 

 永井荷風とは一度だけ会ったが、それも一時間足らずだった。それに、その時、私はひどい二日酔いで、何か意味の通ったことを言うことはほとんど洲可能だった。私は彼がどんなに気難しい人か前もって知らされていた。つまり東京以外で生まれた人には話しかけないとか、門下の者にしか分からない、一種の暗号を使うとか、外国人を見ただけで姿をかくしてしまうこともあるとかいうたぐいである。で、車が東京を出て千葉に向かう途中、私は荷風先生に言おうと、面白い意見を考えようとしたが、あまり頭がぼんやりしていたので、大した成果はなかった。
私は少し前に「すみだ川」の翻訳を出していた。その前年、これでかなりの間日本ともお別れだという旅の飛行機の中で、文庫本で「すみだ川」を読み、その美しさに心を奪われ、涙が出て来た。その時の体験から翻訳へとかられたのだった。頭さえすっきりしていたら、荷風先生の文体が、いかに、日本で最も私をたのしませてくれたものの精髄と感じられたかを言って見せることができうのだがと、その時私は思った。
自動車が止まって、私たちは表札のない小さな家へと細い小道を歩いて行った。私の友人が前を歩いた。私たちは家に上がって荷風先生を待っていた。日本人はよく、きたない所ですがと自分の家をけなして言うが、荷風先生の家はこうした表現が適切でもあろううかと私が感じた最初の家だった。しばらくして荷風先生が現れた。着物をだらしなく着、前歯のかけたその顔は非常にみにくく見えた。ところが一度彼が語り出すや、こうしたほかの印象はすべて消えてしまった。私はあんな美しい日本語というものを聞いたことがない。彼の言ったことの内容を正確に思い出せないのが残念だが、私はあの言葉づかいと話ぶりを忘れることはないだろう。彼の、なにか古風な言葉づかいのために、その内容がすべて覚えられるように思えた。あれと比較できるほどの優雅さで英語を話すのは、私の経験ではバートランド・ラッセルだけだ。五官はぼんやりしていたが、私は強いよろこびを感じた。荷風先生に興味を抱かせるようなことが何も言えなくても、そんなことは全く問題ではないと思われてきた。耳を傾けているだけで十分だった。

[ドナルド・キーン『日本の作家』1972年(中央公論社)]

 

 戦後に、市川の人となった荷風散人でありますが、京成八幡駅から京成電車に乗って頻繁に浅草に脚をはこんでおります(当時は京成線の終点は未だ押上駅でしたが、散人が1年半ほどの命脈を保ち得たならば、都営地下鉄が浅草橋駅まで開通して京成線と乗り入れすることで浅草まで直行できることを喜んだことでありましょう)。事実、戦後の『日乗』には「午後浅草」の記事が頻出しております。食事は、殆ど贔屓の店舗で済ませております。洋食「アリゾナ・キッチン」(近年廃業されました)、「天健」(日乗には“天竹”と記されます。具沢山の掻き揚げ天丼が名物で、荷風の食事姿の写真が飾ってありましたが、あるときに近くを通りかかると既に更地になっており、近くの方に確認したところ閉店されたとのこと。残念です)、蕎麦の「尾張屋」(こちらは現役で、食事する荷風の写真もあります)等々であり、しかもその座席は常に同じだったとの証言が残ります。『日乗』を繰れば、戦後の散人の外出先は、浅草の他に銀座も頻出しております。そこでの荷風は、劇場に出入りして踊り子との束の間の会話を愉しんだり、映画もよく鑑賞しております。映画のほとんど全ては洋画であります。特にフランス映画を好み、国内での上映作品は殆どみているものと思われます。若き自分のフランス滞在を思い返す縁としていたのでございましょう。銀座で晩餐・飲酒に寄るお気に入りの店舗として名が挙がるのは、「萬茶亭」「フジアイス」「きゅうべる」「バー・マンハッタン」ですが、当方は銀座には全く暗いので、これらの店の消息については知るところがございません。

 荷風と云えば、『日和下駄』なる、古き良き江戸の風物を訪ね歩く散策記の名品を残していることでも知られます[大正4年(1915)]。これぞ、当方も偏愛する「ブラタモリ」の先駆とも称すべき作品でありましょう(斯様に書いて、改めて荷風散人とタモリとには何処かしら共通項が多いような気もしてきました)。その散策の範囲は、市川への転居によって、戦後は東京から千葉県内へも広がっていくことになります。とりわけ、市川市内の風景に、近代化によって東京から失われつつあった向島界隈等の墨東(隅田川左岸)風景を重ね合わせているように感じます。戦前の風情の残る真間川周辺の田園風景と日々移りゆく季節の花々を愛で(荷風「思はずも また見る真間の 桜ばな さすらひの日も 三年過ぎたり」)、国府台からのぞむ江戸川と東京低地の景色を「眺望絶佳」と記し、時には真間川をくだって行徳から浦安にまで脚を伸ばしております。また、京成電車や省線(現JR)を用いて船橋・千葉まで脚を伸ばしていたことが『日乗』の記事から判明いたします。そして、由緒ある神社仏閣(弘法寺・手児奈堂・妙行寺・中山法華経寺等々)を巡り、時には新たな史跡を見いだしたりもしております。現在は船橋市指定文化財となる「葛羅之井」なる名泉の旁らに建つ碑文がその一例です。本碑の存在は当時殆ど忘れ去られておりました。散人は、そこに敬愛する太田南畝の筆になる碑文を見出して驚喜しております[『葛飾土産』昭和25年(1950)]。当方など、散人のその心の動きに大いに共感致します。それらは、『断腸亭日乗』や戦後の作品にも写し取られておりますので、是非ともお手に採られることをオススメいたします。因みに、大した記事ではないので悩みましたが、我らが千葉市内に脚を踏み入れた『日乗』の記事が2カ所に御座いますので引用して御紹介致します。未だ戦災の余燼燻る千葉市内の様子を、僅か乍らではございますが感じ取れましょうし、埋立前の稲毛浅間神社からの東京湾の光景を荷風も目にしていたことに小生としましては感銘を受けた次第であります。

 

昭和二十一年十二月初六
快晴、微風あり、正午省線電車にて沿道の風景を見んがため千葉に至る、市街焼亡の後バラック多く建てられおでん汁粉を売る、京成電車にて海神に戻り凌霜庵にて執筆例の如し、帰途名月皎々たり、
昭和二十九年三月初三
陰、午後市川税務署に至る。国鉄沿線の梅花を見むとし電車にて千葉に至る。バスにて千葉郊外より稲毛の海岸に至る。海岸の岡に松林あり。林下に小祠あり。浅間神社なるが如し。房総の山影歴々たり。歩みて京成電車停留場に至るに来合わせたる電車押上行なりし故浅草後援に往き六区の天竹に飰(はん)す。


[永井荷風『断腸亭日乗』~『荷風全集 第24巻』1973年第二刷(岩波書店)]

 

 さて、市川市役所を後にした当方は、幸いに時間もあって、しかもお日様も高くにある初夏の陽気にも絆され、荷風散人を気取って荷風散人“終焉の地”にも脚をはこんでみることにいたしました。恐らく再訪するのは30年程振りであると思います。京成電鉄の京成八幡駅からほど近い、細い路地の奥に位置する荷風散人の邸宅跡には、現在もご遺族の方がお住まいです(荷風には実子はおりませんので、今お住まいになられていらっしゃるのは晩年にとった養子の後裔の方となります)。当方が以前に拝見したときの平屋とは異なり瀟洒な二階建の建物に変わり(書斎が移築されたのですから当たり前です)、その昔「永井」とあった表札も「NAGAI」と変わっておりました。しかし、敷地も門の場所も全く変わっておらず、その昔に初めて拝見した荷風散人終焉の地で感じた何とも表現しようもない感慨が蘇ってきて、歳の所為か目頭が熱くなりました。荷風が最後の晩餐をとった「大黒家」も閉店して久しくなりました。彼の大黒家での晩年の食事は、カツ丼・お新香、それにお銚子1本が定番だったそうであり、昭和34年4月29日に食した最後の晩餐もそれであったとのことです。

 30年ほど前の大黒家は、未だ荷風の時の儘の木造店舗であったと記憶しております。荷風の注文する定番メニューが「荷風セット」となっておりました。本来であれば、荷風に私淑する身としては、迷わずにそれを注文するのが本筋ではございましょうが、当方はカツ丼が余り好みではありません。斯様な次第で、その際には天丼でお茶を濁して荷風散人を偲んだものでした。もっとも、お銚子一本は忘れずにつけてもらいましたが。その後に、鉄筋の建物に新装した大黒家でしたが、残念ながら平成29年(2017)6月を以て店を閉じました。跡地と建物は大手学習塾が買い取り、現在「大黒家」の看板もそのままに地域学習施設として活用されております。荷風散人を気取って申せば、文化的価値になどまったく無関心な役人よりも、遙かにそのことを弁える私企業の英断に心からの喝采を送りたく存じます。しかも、荷風と大黒家との関係を説明する心温まる説明看板まで設置されております。何という行き届いた心配りでございましょうか……。勿論、ここで申し挙げているのは極々一般論に過ぎません。少なくとも、当の市川市には全く当てはまらぬ事は自明でございましょう。何故ならば、申すまでもなく、荷風の書斎を移築復元、『新編市川市史』刊行等々に傾注されるなど、ホントウに文化行政に厚い地域の歩みを大切にされる地方公共団体だと確信するからでございます。まぁ、シャワー室付市長室やら、高級電気自動車の公用車導入などのゴタツキはございましたが、このこと以外は「須く市川市を手本と仰ぐべし……」と当方は存じ上げる次第でございます。

 

 

 

 源頼朝挙兵時における北関東武士団の動向について(前編) ―または 「宇都宮朝綱と平貞能」外伝―

 

 

7月1日(金曜日)

 

 今日から7月に入ります。既に6月27日(月曜日)に関東では梅雨明けしたとの報道がありました。何でも観測史上「最短の梅雨」であるとか。もっとも、その代わりに5月には気持ちのよい初夏の陽気に出会うこともできず、連日のどんより天気続きでありましたから、差し引き相殺すればトントンというところなのでしょうか。しかし、未だ6月末だというのにも関わらず、真夏の陽射しが無遠慮に照り付け、街は途轍もない猛暑の巷と化しております。週間予報を拝見しても、この後の南関東では“雨マーク”は一つも発見できませんでした。「空梅雨」は、確かに通勤等での厄介は少なくて大いに助かりましたが、それでも国内全体のことを考えれば一概に「良かった」とは申せますまい。世界情勢による食糧流通の滞りと、それに伴う食糧価格の高騰に鑑みれば、今後の国内作物の収穫状況等々が懸念されるのが正直なところでございます。また、水不足も懸念されると報道されておりましたし、早々に訪れた猛暑で電力供給の逼迫も憂慮されるところでございます。しかし、それらの背景にある、長引くロシアによるウクライナ侵攻の問題、昨今世界的にじわじわと増加に転じるコロナウィルスやインフルエンザウィルスの存在など、世界情勢もまた不安定要素に溢れております。改めまして、自らの行動について引き締めて参らねばならないと深く感じております。特にコロナ禍につきましては、何時の間にやら「人類にとっての未曾有の危機」なる意識が社会全体から薄れているように感じます。明るい希望を抱くことは何よりも重要でありますが、それがイージーゴーイングにすり替えられることがあってはならないと存じます。拙速は思わぬリバウンドを産み出す危険性を内包することを忘れてはなりません。慎重を期することが求められましょう。

 こうしたなか、当方が本館への勤務を仰せつかってから3年目にして、初めてこの地で「鶯(ウグイス)」の聲を耳にすることになりました。そして、6月半ばに気付いてから、毎日ではございませんが、本日に到るまで頻繁に美しい囀りを屡々耳にいたします。政令指定都市の中心部であっても、この「亥鼻山」が少しは自然に恵まれているお陰でございましょう。しかし、これまで2年間には、全く出会うことはありませんでしたから、驚きと嬉しさとが同居する気分でございます。燕も子育てを終えて、ぼちぼち旅立を迎える砌となりましょうから、誠にもって“ウェルカム”の思いで一杯でございます。ちょうど初夏の頃が彼らの繁殖期にあたりましょうから、餌を追いながら森のある周辺部から木々を伝って行動範囲を広げてきたのかもしれません。彼らは雑食性でありますが、子育ての時期には主に昆虫や蜘蛛といった小動物を捕るそうです。余計な御世話でしょうが、広い「青葉の森」ならばいざ知らず、果たして「亥鼻山」が“育児環境”として適切なものか不安がないとは申せません。もっとも、「青葉の森」からここまでは、千葉大学医学部の木々を伝ってくれば、連中にとっては“お茶の子さいさい”の移動距離にすぎますまい。場合によっては行き来も可能な新天地となったのかもしれません。しかも、その囀りは、ナカナカに堂に入ったものです。俗に言うところの「谷渡り」も、通常の“ホーホケキョ”も(よく聞いていると幾つかの音程を使い分けているようです)も、幼鳥のような“たどたどしさ”とは無縁でございます。彼らも親や仲間の囀りを耳にして練習に励み、次第に上手に鳴けるようになるからです。鶯の寿命がどれ程のものか、寡聞にして知るところではございませんが、なかなかに「練達の士」であることは間違いありますまい(囀るのは雄のみだそうですから“士”で間違いないしょう)。

 当方の幼少期、東都の場末にあたる我家にも、餌を求めて幾種類かの鳥たちがやって参りました。もとよりごちゃついた街中ゆえに、やってくる鳥類の種類も多種多様ではありませんでしたが、亡母が小鳥好きであった関係もあり、見慣れぬ鳥が来ると、小林桂助『原色日本鳥類図鑑』(保育社)を紐解いては、如何なる種なのか特定するのが楽しみであったことを懐かしく想い出します(外函背表紙が真っ黒になった本書は今でも大切にしております)。小鳥で言えば、賑やかな「雀」たちの群れは勿論、凛とした囀りの「四十雀(シジュウカラ)」、鶯よりずっと濃い緑色で眼の廻りだけ白い「メジロ」(電線等で“押し合いへし合い”して群がることから「メジロ押し」の語源となりました)、また、ちょっと大きめの連中では、冬になると真っ赤なアオキの実を摘まみにやってくる「ピーッ」という鋭い聲を発する「鵯(ヒヨドリ)」、地中の虫でも狙っているものか、地面を用心深く歩む「鶫(ツグミ)」が、頻繁にやって来たものです[その聲を聞いた記憶がありませんが、何でも夏になると全く聲を発しなくなることが“つぐみ”の名の由来ともいわれます。そうなると当方のよく目にした冬には何等かの聲を発していたのかもしれません]。また、「烏(からす)」といっても「ハシブトカラス」と「ハシボソカラス」がいることも初めて知ったのもその頃のことでした(嘴の形状が異なりますからすぐに判別できます)。しかし、「鶯」は稀に目にするだけの珍鳥でありました。しかも、出会えても不思議にその囀りを耳にした記憶がございません。出会った季節の関係もあったのかもしれません(一年中“ホーホケキョ”と鳴き散らしている訳でもなさそうですから)。如何せん、その姿形は「名は体を表す」に反し、「ウグイス色」から思い浮かべる色合いとは相当に異なる地味な緑色で、しかも雀と同じくらいの大きさですから、木々に紛れて目につきにくい野鳥なのです。この「亥鼻山」でも「聲はすれども姿は見えずで……」でございます。

 かような小生が、鶯の聲に頻繁に接することになったのは、偏に就職で千葉市内に居住することとなり、自然豊かな学区を有する学校が初任校であったからに他なりません。それが千葉市立更科中学校でありました。そもそも、当時は、学区全域が「自然保護地区」かつ「市街化調整区域」であったこともあり、素晴らしい自然が息づいておりました。今ではどうなのか知りませんが、当時は学校の近くで野兎・鼬・狸などの野生動物をよく見掛けましたし、裏の小川には野生のメダカも棲んでおりました。もっとも、市街地とは無縁の環境でありますから、当時から千葉市内で最も生徒数の少ない学校でもありました。当時下宿先からバス通勤でしたが、交通の便は頗る悪く、一本乗り過ごすと次の便は1~2時間後となりました。今では路線そのものが廃止されてしまいましたが、京成千葉駅(現:千葉中央駅)から八街駅行の路線を利用し、「御殿前」(だったと記憶する)バス停で下車。畑と林の中を抜けて職場まで通いました。その途中の林で、姿はちっとも現さないのですが沢山の鶯が囀っておりました。当方は、その囀りが「求愛行動」であると思っておりましたので、ちょっとした悪戯心も手伝って、よく口笛で囀りを真似してお返しをしておりました。そうすると、かならず、鶯からも“返信”があるのが楽しくて、それ以降の日々の日課となりました。小生にとっては、若い頃の楽しい想い出のひとつでもあります。先日、こんな話題を職場で披露したところ、鶯の囀りとは「自身の縄張りに闖入した他者を威嚇する」ためのものであると指摘をうけたのです。当方にとっては正に「青天の霹靂」とも申すべき知見であったのです。そうであるとすれば、小生の行いとは鶯にとって全くの迷惑行為に他ならないことであったことでございましょう。いやはや、40年を遡る自らの姿が全くの「勘違い野郎」のそれであったことを知り、今更ながらに何とも気恥ずかしく、複雑な思いに駆られた次第でございます。

 さて、今回は、現在開催中の千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』からの話題とさせていただきます。本展も残すところ10日程となりました。今回取り上げている7名の御家人のうち、小生の担当は「宇都宮朝綱」でございましたが、如何せんパネル1枚という限られたスペースに説明文と資料とを収めねばならないこともあり、割愛せざるを得ない内容は数知れず、また記載しても充分に説明を尽くすことができない憾みが多々ございました。従って、今回は北関東における有力武士団の動向を、宇都宮朝綱を中心として改めて再検討をさせていただくとともに、朝綱との忘れ難き逸話を残す平家政権内の人物、平貞能(たいら の さだよし)との関係について少しばかり掘り下げてみようかと存じます。つまり、本展示の「外伝」なる内容となりましょうか。

 パネルにも記載いたしました通り、下野国を本拠とした有力武士である宇都宮朝綱は、関白藤原道兼の後裔という血脈を有し、度々上洛しては「鳥羽院武者所」「後白河院北面」として仕えるなど(『尊卑分脉』)、所謂「京武者」として当時の東国武士では類を見ない高い地位を誇っておりました。斯様な中、御存じの通り治承4年(1180)8月伊豆国で流人であった源頼朝が挙兵したのでした。この時、朝綱を始めとして畠山重能(重忠の父)、小山田有重らも上洛中であり、計らずも京の地で予期せぬ動乱の渦中に巻き込まれることとなるのです(小山政光も大番役として在京しておりました)。申すまでもなく、当時その地で政権を牛耳っていた平家一門にとって、彼らが坂東の地に戻ることは危険視されたことでありましょう。実際に、彼らは帰国することを許されず、京に留め置かれる処遇を受けることになります。その後の頼朝の動向を述べることは差し控えますが、坂東の地では頼朝に付き従う者と平家政権への忠義を尽くそうとするものとの衝突が、各地で展開することになることは申すまでもございますまい。

 そして、動乱は坂東から、平氏政権へ影響力の強い東海道へ、更に信州・越後・北陸道へと「燎原の火」の如くに拡大し、木曽義仲をはじめとする全国に散った源氏勢力をも巻き込んでいくことになります。何よりも、関東の北方にある奥州における藤原氏の動向も不気味でありました。従って、宇都宮朝綱にとっては、何を措いても坂東の地に取って返したい思いで一杯であったことと推察いたします。何せ、宇都宮は奥州への玄関口。奥州藤原氏が何等かの軍事行動を起こして南下すれば、真っ先に蹂躙されるのが、自らの本領である可能性が大きいからであります。按ずるに、朝綱にとって、少なくとも当該時点において最も大きな関心事は自らの本領と一族の行く末であり、一介の流人に過ぎない頼朝との関係は左程に大きな案件ではなかったのではないかと推察するものでございます。

 こうした中、寿永2年(1183)常陸国で兵を挙げたのが、頼朝の叔父にあたる志田義広であります。義広は、下野国の足利綱俊・忠綱父子(藤姓足利氏)と連合、約2万の兵を集めて頼朝討滅を掲げ常陸国より下野国へと進軍しました。その挙兵には、義広による鹿島社所領の押領を頼朝に諫められたことが動機となっていたとされます。また、義広が直接に鎌倉へ向かわず兵を西に進めた背景ですが、一つに藤姓足利氏と同族であるものの所領を巡って対立関係にあった小山氏への対処が必要であったこと、二つに上野国に勢力を伸ばしていた木曽義仲との連携を図る目的があることを想定すべきでございましょう。事実、この後に形勢が不利になると、義広は義仲の下に奔りその下に合流することになるのですから。この時に、下野国でこれを迎え撃ったのが小山一族や宇都宮一族等であり、所謂「野木宮合戦」で義広陣営を撃破することになります。その結果、同じ下野国の足利義兼が「漁夫の利」とも言える福利を得たことは数回目の本稿で述べたとおりでございます。まずは、以下『吾妻鏡』に記された当該記事を引用させていただきます。

 因みに、この志田義広の挙兵について、『吾妻鏡』では治承5年(1181)2月の出来事となっておりますが、故石井進氏の研究により、現在では寿永2年(1183)の出来事であることが確実視されております。従って、『吾妻鏡』の編集ミスであることを承知しておいていただければと存じます。

 

 

 二十日、丙寅。武衛(源頼朝)の叔父志田三郎先生(源)義広が一族の縁故を忘れ、突然、数万騎の逆党を率い鎌倉を落そうとしたことが発覚したため、常陸国を出て下野国に到ったという。平家の軍勢が襲来するとのことが、数日来噂になっていたので、武士を多く駿河国以西の要害等にすでに派遣しており、かれこれ重なって、(頼朝は)とてもお悩みになった。その時、下河辺庄司行平は下総国におり、小山小四郎朝政は下野国にいた。この二人は命令を下さなくても、きっと勲功をあげるだろうと、(頼朝は)たいへんその武勇を頼りにされていた。そうしたなかで朝政の弟(長沼)宗政・従父兄弟関次郎政平等が朝政に協力するため、それぞれ今日、下野国へ出陣した。 (後略)
二十三日、己巳。(源)義広が三万余騎の軍士を率い、鎌倉の方へ進んできた。(中略)義広は味方になるようにと小山小四郎朝政に伝えてきた。朝政の父政光は皇居警護のためにまだ在京しており、郎従も皆、政光に従っていた。そのため無勢ではあったが、朝政の志は武衛(源頼朝)にあり、義広を討ち取ろうと群議を行った。長老の武士たちは、「すぐに味方になると偽ってまず承知した後に、義広を襲うべきです。」といった。そこで、「お味方します。」と伝えた。義広は喜んで朝政の館の辺りにやってきた。これより先に朝政は本宅を出て野木宮に籠っており、義広が野木宮の前へ来た時、朝政は計略をめぐらして人を登々呂木沢・地獄谷等の林の梢に登らせて時の声をあげさせた。その声は谷に響き、多勢がいるようかのようであったので、義広がたいそう驚き慌てたところを、朝政の郎党(中略)が攻撃をかけた。朝政は緋縅の鎧を身に着け、鹿毛の馬に乗っていた。時に年は二十五歳、勇力はおおいに盛んで四方を駆けめぐり、多くの敵を滅ぼした。義広が放った矢が朝政に当たって落馬したが、落命には至らなかった。そこでその馬は主人と離れ、登々呂木沢でいなないていた。そこへ二十歳になる(長沼)五郎宗政が鎌倉から小山に向かっていたところに、この馬を見つけたので、合戦はすでに敗北となり、朝政が死んでしまったのではないかと思い、義広の陣の方へ馬を走らせた。(中略)朝政・宗政は東から攻め寄せた。その時、暴風が南東から吹き起こり、焼野の塵を巻き上げたので、義広方の人馬は共に視界を失い、散り散りになって多くの者がその死骸を地獄谷・登々呂木沢にさらすこととなった。また、下河辺行平・同弟四郎政義は(中略)逃走する兵士を討ち取ったという。(中略)この他、八田武者所知家・(中略)・小栗十郎重成・(中略)・宇都宮所信房・(中略)等が朝政に加勢し、蒲冠者(源)範頼が同じく馳せ加わった。朝政は(中略)久しく下野国を守護してきた一族の棟梁である。今、義広の謀計を聞き、忠義を思って命を惜しまず戦ったため、戦場に臨んで勝利を得たのである。

 

[五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』第1巻 2007年(吉川弘文館)]

 

 これが、所謂「野木宮合戦」に関する記述となります。記事によれば、この時の主力は小山朝政であり、宇都宮一族からは朝綱の弟八田知家と従兄弟宇都宮信房が小山陣営に加勢して参戦していることがわかります。小山氏では父の政光が、宇都宮氏では朝綱が在京中であったのですから、当主を欠いての戦闘となったのは致し方のないところであります。そして、『吾妻鏡』によれば、少なくともこの時点で頼朝が恃みにしていたのが「下河辺」・「小山」の軍勢であることが分かります。ここには「宇都宮」の名は加勢に来た“その他大勢”の中に記されるだけです。その意味で、ホントウにこの戦いが頼朝の下命によって行われたモノなのか、より正確に言えば頼朝の為に行われたものかは疑問無しとはしないものと考えますが、如何でしょうか。

 勿論、頼朝乳母であった「寒川尼」が宇都宮家から小山政光に嫁した人であり、小山朝政・宗政・朝光の母であったこと、従って宇都宮朝綱・八田知家とは兄弟関係にあったことが、北関東の二大名族が頼朝陣営に加勢する大きな理由に挙げられることは間違いないものでありましょう。しかし、少なくとも、この段階での戦闘は、頼朝への直接の忠節というよりも、本領の維持と権益の確保のために共闘したという側面が遙かに大きなものであったのではありますまいか。つまりは、まずは自己都合が優先されたということであり、必ずしも大挙して鎌倉陣営に馳せ参じた南関東の情勢とは相当に異なっていたものと考えることができましょう。

 この点で、注目されるのが、『吾妻鏡』で初見参となるとされる人物が「野木宮合戦」の場面に登場することです。すなわち、以後の平家追討戦で大将の一翼を担うこととなる源範頼に他なりません。実際のところ、この登場での仕方は余りに唐突に感じられませんでしょうか。従って、研究者の中には、この戦いの意義とは、義広を担いだ藤姓足利氏と、範頼を担いだ小山氏・宇都宮氏との下野国内の所領争いにあり、頼朝の挙兵とは必ずしも連動していたものではないと評価する方もいらっしゃると聞きます。そうだとすれば、北関東の有力武士達にとっては、頼朝を担いだ南関東武士団の動向は、その行く末ですら不確定であり、「暫しの様子見」を決め込んでいたのが実態ということになりましょう。何とはなしに、当時の北関東武士団の心の内が透けて見えてくるように存じますが、皆様は如何お感じになられましょうか。

(後編に続く)

 

 

 源頼朝挙兵時における北関東武士団の動向について(後編) ―または 「宇都宮朝綱と平貞能」外伝―

 

 

7月2日(土曜日)

 

 こうした中で、宇都宮朝綱(小山政光も)が京都から戻ることになります。しかし、それが何時の時点であったのかは、『吾妻鏡』編集の混乱(ミス)の問題もあってナカナカに確定しがたき面がございます。『平家物語』の記述によれば、それは寿永2年(1183)のこととなり、それに従えば4年間京に抑留されていたことになります。しかし、『吾妻鏡』には、その1年前の寿永元年(1182)には戻って頼朝に伺候していた記事を見ることができます。つまり、同年の記事に、頼家誕生の際に佳例によって祝刀を献じた筆頭に朝綱の名が記されており、既に在倉していることになっております。物語に過ぎない『平家物語』より『吾妻鏡』が優先だろうとの声も聞こえてくるようですが、志田義広の挙兵が寿永2年(1183)であることが明らかであることに鑑みれば、その1年前に関東に戻っている朝綱が関わっていないことの説明が付かなくなります(勿論、直接的な利害関係者である小山政光の参加も記されていないのもおかしな事になります)。つまり、『吾妻鏡』の編集ミスも相俟って、このあたりは明確にし難いのが実情のように思われます。実際のところは、「野木宮合戦」後に取るものもとりあえず坂東に帰国したというのが辻褄があうように思われますが如何でしょうか。

更に、『平家物語』では、平知盛の取り成しと平宗盛の承諾をもって朝綱が関東に戻ったとしますが、『吾妻鏡』では、別の平氏関係者による取り成しによって釈放されたことと記されます。そして、それが公然たる帰郷にあらず、監視の目を掠めた脱出によるものとされていることであります。これもまた、別資料からは確認できず正確なところは不明と言う他はありません。そして、この平氏の関係者こそが、今回の話題とする「平貞能」に他なりません。そのことについての『吾妻鏡』の記事は、更に下った元暦2年(1185)7月7日にございます。それは、同年3月に平家が壇ノ浦で滅亡した後、平貞能が朝綱に命乞いに訪れた際の内容となっているからです。少なくとも、清盛死後の平家政権の中枢にある宗盛・知盛がこうした危険を許容することはありえませんから、『吾妻鏡』の記事に拠ることが適切と考えて宜しいとは思います。本稿にとっては、重要な記事となりますので引用をさせていただきましょう。

 

 七日、戊子。前筑後守(平)貞能は、平家の一族で、故入道大相国(平清盛)から第一に信頼された者である。しかし、西海での合戦で平氏が敗北する前に逃亡し、行方をくらましていたところ、少し前に忽然と宇都宮左衛門尉朝綱もとにやってきた。平氏の運命が尽きようとする時、それが間もなくなったのを悟って出家を遂げ、平氏に与したことの難から遁れようとしたのである。「今は山林に隠棲し、往生したいというかねてからの願いを果たすつもりである。ただし隠棲したからと言っても、関東の許しをもらわないと願いはかないがたい。早くこの身を預かってほしい。」とひたすら望んでいるという。朝綱はすぐに事情を(頼朝に)申したところ、(貞能は)平氏の縁続きの家人である。降参人と認めることには疑いがないわけではあるまい、というのが頼朝のお考えで、したがって許すか否かのご命令はなかった。しかし、朝綱は、強く(頼朝に)願って言った。「(私が)平家に属し在京していた時、(頼朝が)義兵を集めて挙兵されると聞いて、参向しようとした時、前内府(平宗盛)はそれを許しませんでした。それなのに貞能は朝綱ならびに(畠山)重能、(小山田)有重らを許すように申してくれたので、それぞれ無事に味方に参り、怨敵平家を攻撃しました。これはただ私の(貞能の親切心を思う)志ばかりではなく、上(頼朝)にとってもまた功績のある者ではないでしょうか。後日もし貞能入道が反逆を企てることがあるならば、永く朝綱の子孫を断ってください」。そこで、今日、お許しの御裁断があって、(貞能)は朝綱に召し預けられたのである。

 

[五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』第2巻 2008年(吉川弘文館)]


 

 さて、それでは、京に抑留の身にあった宇都宮朝綱の坂東帰還に便宜を図ったと『吾妻鏡』に記される平貞能とは、一体如何なる人物であったのでしょうか。少なくとも何らかの好意、あるいは抜き差しならぬ深い関係性を前提としなければ行い得ないことで御座いましょう。つまり、平家政権下でこうした便宜を図ることは、取りも直さず反逆に繋がりますから、「つい出来心で」といったレヴェル行う話ではございますまい。だからこその「監視の目を掠めての脱出劇」となったものと思われますが、それでも貞能の何らかの計らいがなければ難しいことであったことでありましょう。だからこそ、その恩義に報いるための一族の存亡を賭してまで、朝綱の頼朝への助命嘆願の敢行との筋書きがカタストロフィーを生み出す構成とされているのだと思われます。

 そこで、まずは、この平貞能という人物と血脈が平家政権の中で如何なる位置を占めるものかを確認してみたいと存じます。髙橋昌明『平家の群像-物語から史実へ-』2009年(岩波新書)によれば、貞能の家は平家の「譜代相伝の家人」の家系であったとのことでございます。髙橋氏は、当時の家人には「家人(けにん)」と「家礼(けらい)」の二つのタイプがあったとされ、それを以下のように説明されております。何れにしましても、「平」を姓とはしておるものの、宗盛・知盛のような平家政権中枢にあるべき家系ではないということを知っておく必要がございましょう。

 

 後者(「家礼」)は、期限つきで決まった量の奉仕を行う、去就後背を権利として有する従者をいう。主従の結びつきがゆるやかで主人にたいする恩義の意識も相対的に希薄であるため、政治の風向きしだいで敵にも味方にもなる。数も多いから政治史の行方を左右する要因となる。これにたいして前者(「家人」)は、主従の強固な関係に縛られた従者で、その典型が「譜代相伝の家人」だった。譜代相伝と言う言葉は、中世社会でもっとも頻繁に使用された言葉の一つで、代々その家で受け継いで伝える、祖先から代々伝わっているの意味である。


[髙橋昌明『平家の群像-物語から史実へ-』2009年(岩波新書)]

 

 

 そして、平家にとって、「譜代相伝の家人」の代表が伊藤(藤原)氏であるとされております。彼らは、11世紀前期に活躍する伊勢平氏の祖である維衡以来の結びつきを有するといいます。頼朝挙兵前後に上総国で目代を務めていたとされる伊藤一族がそれにあたり、『平家物語』に登場する侍大将クラスの存在であるとされます。もう一つの類型が、伊勢平氏の構成員であった者の子孫で、早くに家人化した者であり、その代表が筑後守家貞とその子家継・貞能・家実の兄弟らであるとされております。そして、重要な点として、髙橋氏は、平家の家人は、全体を束ねる清盛に一元的に統率されているのではなく、平家一門を構成する各家と個別に主従関係を結んでいたことを指摘されております。その点が、一介の流人からの出発故に、個々の御家人と直接的に一から主従関係を構築して行かざるを得なかった頼朝との大きな違いでございましょう。これで、本稿のもう一人の主人公である平貞能の拠って立つ位置が、より明確にお掴みいただけたものと存じます。

 以下、その平貞能に焦点を当てて宇都宮朝綱へ助命嘆願に訪れるまでの動向を追ってみたいと存じます。ただし、生憎当方の手元には平家関係の書物・文献の持ち合わせが極僅かである関係もあり、上述いたしました髙橋昌明氏や、元木泰雄氏等の数少ない手持ちの書物や、ネット記事等を取り纏めてのアウトラインをお示しするだけとなります。その点を予めお断りをさせていただきます。

 平貞能の生没年は明らかではありません。九条兼実『玉葉』の治承4年(1180)4月20日の条には、平清盛の「家令」を務めていたことが、また前編で引用させて頂いた『吾妻鏡』の記事に清盛の「専一腹心の者」と記されるなど、「譜代累代の家人」として重用されている姿を窺わせます。そして、仁安2年(1167)年、清盛が太政大臣を辞し嫡男の重盛に家督を譲ると、中核的な平家家人集団も重盛に引き継がれることとなり、その家人は、伊藤忠清がその嫡男維盛に、平貞能は次男資盛の補佐役を任されたと云います。そして、その中で、伊藤忠清が東国に平家政権の勢力を扶植する役割を、平貞能は九州方面での同様の役割を担ったものとされているようです。そうした中で、同年10月維盛率いる頼朝追討軍が「富士川の合戦」で大敗を喫し、平家政権への反乱が全国に拡大するようになります。その後、劣勢の挽回を期した、同年12月に資盛を大将軍とする近江攻めでは、貞能は侍大将として随行し、その地の反平家勢力の鎮圧に大きな成果を挙げております。

 しかし、治承5年(1181)平清盛が没すると、その後継者としての地位を確たるものとしたのは、清盛の三男宗盛でした。これには、宗盛が清盛嫡妻「時子」の長子であったことが大きいと考えられるようです。本来、後白河院からの覚えも目出度く、人望にも恵まれ、後継のトップランナーであった清盛長子の重盛とその後裔(重盛の家を「小松家」と称します)が、次第に宗盛流に肉迫され、重盛死後にその傍流にまで追いやられることは、そうした事情を背景としていたようです。つまり、こうした点において、平家一門内には表立った争乱は惹起されなかったものの、内部には相当な軋轢や不満が渦巻いていたことと推察されるのです。「小松家」に仕える貞能には、平家政権主流派への微妙な感情が支配していたことは間違いありますまい。貞能が京で抑留状態にあった朝綱の東国帰還に便宜を図ったのであれば、そこには決して一枚岩ではない平家政権の内実が背景にあると推察することは、決して的外れとは申せますまい。


そうした中、養和元年(1181)年、貞能は九州で激化する反平家勢力の鎮圧に向かい、翌年4月にようやく肥後国の菊地隆直の反乱鎮圧に成功します。寿永2年(1183)6月に1000余騎の軍勢を率いて帰還しますが、息つく間もなく翌月に木曽義仲の都への大攻勢に遭遇することになります。貞能は資盛に従い宇治方面へと向かいます(宗盛ではなく後白河院の命による)。斯様な中で、劣勢におかれた宗盛は一門とともに、一時都を離れて西走する道を選びますが(平家都落)、貞能は賛同せずに都での決戦を主張します。しかし、それも入れられることなかったため、宗盛に従うことなく、主資盛とともに蓮華王院へ入ったとされます。これは後白河院の保護に期待した行動とされますが、結果として後白河院との接触が叶わずに断念。一説に、資盛と貞能は重盛の墓に詣で、遺骨を掘り起こして高野山に送り、それを見届けてから翌朝に都落する宗盛らに合流したとされます。その後、8月中旬に平家一門は九州に上陸し体制の建て直しを図ろうとしますが、後白河院の命を受けた豊後国の緒方惟栄がこれに頑強に抵抗します。そもそも惟栄は平重盛の家人であったこともあり、資盛・貞能がその説得に赴きますが交渉は決裂。結果として、10月に平氏一門は九州の地を追われ屋島への脱出することになります。

 しかし、この段階で貞能は平家本体から離脱し、九州に留まって出家したとされます。もしかすると、惟栄の説得に失敗した責めを負わされた可能性もございましょう。寿永3年(1184)2月19日の九条兼実『玉葉』には、主の資盛とともに豊後国で拘束されたとの風聞が記されるとのことです。何れにせよ、貞能に限らず、その長男である貞頼も、小松家の長子維盛に仕えた「譜代相伝の家人」筆頭とも云われる伊藤忠清もまた都落ちには従っておりません。貞能の主の資盛は、恋仲にあった建礼門院右京大夫の詠歌詞書によると“元暦2年春”に死去したとありますので、恐らく壇ノ浦まで一門と共にあって戦死したのでありましょう(『建礼門院右京大夫集』)。一方、本稿では詳述致しませんが、平清盛の継母である「池禅尼」(頼朝にとっては「平治の乱」後に死罪となるべき自身の命乞いをしてくれた生命の恩人)の子である平頼盛は、そうした関係もあり鎌倉との縁も浅からず、寿永2年(1183)に鎌倉に逐電しております。こうしたことからも、改めて平家一門が決して一枚岩ではなかったことが窺えましょう。

 さて、その後、貞能の消息は杳として知れませんでしたが、平家一門が壇ノ浦で“海の藻屑”と消えた3ヶ月後に、鎌倉御家人の宇都宮朝綱の下に忽然と姿を現して頼朝への取りなしを依頼することになります。これが、前編で引用いたしました文治元年(1185)7月7日『吾妻鏡』の記事に他なりません。しかし、何故貞能は宇都宮朝綱を頼ったのでしょうか。それは、同時に何故朝綱の東国帰還を取りなしたのかという疑問とも通底することでございます。これにつきましては、飽くまでも孫引きの状況でありご本人の著述に当たれたわけではないことを申し添えておきますが、野口実先生が以下のようにご指摘だとのことであります。つまり、貞能と宇都宮氏は外戚関係にあり、元暦元年(1184)頼朝から朝綱に新恩として与えられた「伊賀国壬生野郷地頭職」について、本郷の前支配者がこの地で反乱を起こした貞能の兄であったことから、現地在住の旧勢力との合意形成をしやすい外戚関係にあった朝綱に与えたものと考えておられるとのことがあります[下野新聞社編集局『中世の名門 宇都宮氏』2018年(下野新聞社)]。両者間に、予て斯様な関係性があるのであれば、貞能の一連の動向にも合点がいく思いでございます。逆に、こうしたことからは、東国武士が草深い坂東の地に根を下ろす無骨な存在などではなく、その出自も含めて京・南都との有力者との間に密接かつ稠密な関係性を築いていたことが理解できましょう。

 さて、最後に、平家一門軍から離脱後の貞能の動向について、上記書籍に依拠しつつ伝承も含めて御紹介しておきたく存じます。茨城県城里町にある平重盛所縁の小松寺に伝わる史料には、「貞能が北陸を廻ってまず宇都宮氏の所領であった塩原に隠れた」とあるとのこと。貞能は、ここに重盛の妹といわれる(重盛妻とも、妻女の妹とも)妙雲禅尼を残して、朝綱の下に出向いて命乞いをしたと伝わるとのことであります。そして、塩原の地に戻り仏道三昧の生活を送り、妙雲禅尼没後は当地に埋葬し石塔を建立したと伝わるとのこと。これが妙雲寺であり、現在も妙雲禅尼墓と伝わる石塔が残っておるとのことです。更に、貞能は、朝綱が地蔵院を建立して隠棲した尾羽の地に程近い、鶏足山麓に安善寺を建立し住持となったとされます(同じ益子町内でありますが“程近い”と申しても直線距離で8kmほどは離れてはおります)。言い伝えによれば、貞能はこの地で齢92を以って入寂したとされ、寺にはその100回忌に建立した石塔が残ると云います。また、上記伝承を伝える小松寺にも重盛、その妻、そして貞能とされる3基の墓石が残るそうです。他にも、茨城県行方市の万福寺、更には仙台市の作並温泉の近くにある西芳寺にも貞能の墓との伝承のある墓石が残るなど、北関東から東北南部にかけて貞能伝承が色濃く伝わっているようです。勿論、安善寺は一先ず置くとしても、その他の寺院の墓石が貞能をはじめとする「小松家」関係の遺跡であることは史実とは見なし難かろうと思われます。ただ、これらが、何時誰の手によって、如何なる契機、どのような目的を持って創作されたものかを探ることには、大いなる意義があるものと存じます。

 以上、本稿では、現在放映中の大河ドラマでは描かれることのない、頼朝挙兵前後における北関東武士団の動向と、平家政権内の人との交流と、敗者の戦後について触れてみましたが如何でしたでしょうか。今回は、あまり表立って描かれることの少ない歴史・人物を採り上げましたが、個人的には、大いなる興味・関心をもってアプローチをすることができました。その分、思いつきばかりの相当に粗雑な内容展開となってしまったことを自省してもおります。まぁ、論文として記載している訳ではございませんし、飽くまでも「歴史随想」に過ぎぬものとご寛恕いただけましたら幸いでございます。

そうでした、1冊の絵本を紹介するのを失念しておりました。それが、小板橋 武(絵・文)『安養寺物語-宇都宮朝綱と平貞能の友情-』2011年(随想舎)でございます。宇都宮の地方出版社からの上梓であり、近隣の書店に置かれていることはないかと存じますが、ネット等で検索いただければ購入可能かと存じます。因みに、現在開催中のパネル展で当該書籍を展示しておりますことを申し添えておきます。

 さて、現在開催中の千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人達(北関東編)』も、いよいよ12日(火曜日)で閉幕となります。残す会期は本日をいれて10日程です。未だご覧になっていらっしゃらない皆様は、是非とも脚をお運びくださいませ。なお、会期終了後でございますが、中央展示ケース以外の展示物は全て撤去いたしますが、北関東編のパネルはそのままに、前年度末開催の南関東編パネルと併せて展示を継続いたします。つまり、千葉常胤と坂東御家人13名の大集結となります。少なくとも、令和4年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の終了まで、つまり年内一杯は総論1枚と御家人14枚の、計15枚のパネルを本館1階で一堂に会して展示いたしますので、どうぞご覧いただければと存じます。

 

 

 円谷プロダクション制作「ウルトラシリーズ」に思うことども(前編) ―または庵野秀明が「シン・ウルトラマン」で捧げたオマージュとひとつの解答―

 

7月8日(金曜日)

 

 今回は特撮映像企業「円谷プロダクション」(以後円谷プロ)制作に掛かる『ウルトラマン』および、その後継番組についての話題とさせていただきます(後継番組を一括して「ウルトラシリーズ」と総称させて頂きます)。その直接的な動機は、個人的に現在上映中の新作映画作品『シン・ウルトラマン』を劇場で接して大いに楽しみ、かつ考えさせられたからに他なりません。しかし、それに留まりません。何よりも、本シリーズには個人的に幼少期に接して以来の大いなる恩寵がございます。また、人の親となり倅との視聴を通じてシリーズの持つ作品としての価値に瞠目させられたことも大きなものです。更には、そのことを通じて、教職員として千葉大学教育学部附属中在職中に同校「総合的な学習の時間(「共生」)」にて、講座「ウルトラの社会史・ウルトラの精神史」を開設。2年間に亘り生徒と伴に同シリーズについての追及活動をしたこと等々。途中に中断があるものの同シリーズとは、永く、かつ浅からぬ縁を有していたことが背景となっております。

 本作は、当方が申し上げるのも烏滸がましきことですが、『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズで広く知られる映像作家、庵野秀明氏(1960年~)制作にかかる、前作『シン・ゴジラ』(2016年)に続く(原作シリーズは東宝による制作)「特撮怪獣」映画作品でございます(新作で「怪獣」は正確には「禍威獣」と表記されます)。基本的に、昭和41年(1966)放送『ウルトラマン』(全39話)に、庵野氏ご自身のオマージュを捧げた新作と一般化して宜しいかと存じます。因みに、第3弾として、来年に『シン・カメンライダー』上映が控えているとのことであり(原作は東映による制作)、日本を代表する特撮映像3作品に対する庵野氏のオマージュが捧げられることになります。小生は『シン・ゴジラ』も拝見いたしましたが、次作にも大いに期待が高まります。しかし、人間とは貪欲な生き物ですので、大映制作の『ガメラ』『大魔神』を庵野氏が手掛けたら如何なる意味を付与してくれるだろう……との“ない物ねだり”をしたくもなります。『シン・ガメラ』『シン・ダイマジン』……、是非とも拝見したいものでございます。特に、長引くロシアによるウクライナ侵攻やコロナ禍といった不安定なる世界情勢の中、「大魔神」を庵野氏が如何に料理するのかを是非とも拝見したいものでございます。

 ここまで述べてきて、按ずるに「還暦を過ぎたいい大人が何をやってるんだ!?」「博物館のコラムとしてかような低レベルな“おこちゃま”向け作品を取り上げるなど不適切・不謹慎ではないか!?」等々のご感想をお持ちになる方もさぞかし多かろうと推察いたします。最初に申し上げておきますが、当方は斯様なご意見には寸分たりとも与する者ではございません。一般論として申し上げますが、作品の価値は、当該作品の“制作意図”、“内容”、“表現方法”にのみに帰せられるべきものであり、表現媒体や誰を対象に制作されたものかとは、全く関係がないと考えるからに他なりません。「純文学」作品の価値が高く「漫画・アニメ・特撮」作品は劣っている、「クラシック音楽」が優れており「ポピュラー音楽(ロック・演歌等々)」は劣悪である、などとは全く言えないということです。勿論、“好き嫌い”はございましょうし、それはあってしかるべきものでございます。例えば、音楽で申せば個人的には、「演歌」は大の苦手です。ただ、それと演歌は劣っているとは全く繋がらない問題です。むしろ、その価値を理解できない自分自身こそが“劣っている”と自覚すべきでしょう。つまり、「俺の嫌いなものには価値がない」と考えには全く同意できないということでございます。それは単なる“傲慢”以外の何物でもございますまい。また、「メインカルチャー」「サブカルチャー」といった、どこかしら「上から目線」的なステレオタイプの分類にも鼻白みます。何がメインで何がサブなのかは、それを受け入れる者個々に帰せられるべき問題であり、「これはメインでこちらはサブ」と誰かが一般化するべきことではございますまい。そうした方々が分類する“上下”に分断された作品群にも、それぞれに価値の在りや無しやが存在するのであり、価値判断は「メイン」か「サブ」かの分類に依拠するものではありえません。

 そして、今回話題とする「ウルトラシリーズ」もまた、決して「サブカル」作品などとの扱いが適切とはいいがたい作品群であること、「子供向けの低レベル作品(ジャリ番)」などと貶められるような作品群でもないということを申し上げておきたいと存じます。いや、逆に言えば、子どもには「適当に制作された、いい加減な作品」など通用しないことに理解を致すことが重要でございましょう。子どもは“つまらない”と思えば、すぐにチャンネルを変えてしまいますし、同じようなことを毎回提示していても飽きてしまいます。つまり大人のような「忖度」などは一切ございません。そこには、最大限の面白さ、最高のエンタメがこれでもかと投入されておりますし、そうした外面的な表現に留まらぬ何時までも心に残るテーマ性も惜しげもなく組み込まれてもいるのです。だからこそ、飽きることなく次回も見たい……との動機が生まれるのであり、50年以上もの長いシリーズの歴史を誇っているのだと考えるものであります。改めて、確認させていただきますが、今日まで生き延びている作品群は、「ウルトラシリーズ」に限らず、こうした点で秀でた価値を内包しているからであって、そこには「メイン」も「サブ」も存在しなければ、「大人向け」か「子供向け」かといった対象による区別もありません。当時「メインカルチャー」を謳って登場した作品でも、価値ある内容が内在しない“上っ面”な作品であれば、今日まで伝わることなく、既に忘却の彼方へと追いやられていることでございましょう。

 さて、その「ウルトラシリーズ」でございます。その制作主体である「円谷プロ」は、東宝映画のドル箱映画で夙に知られる「ゴジラシリーズ」[初上映は昭和29年(1954):制作:田中友幸、脚本:香山滋、監督:本多猪四郎、特殊技術:円谷英二]における初期の特殊撮影で名を馳せ、「特撮の神様」の異名を恣にした円谷英二(1901~70年)が立ち上げた特撮映像の企業であります。その手になる初の映像作品『ウルトラQ』『ウルトラマン』が放映されたのが昭和41年(1966)のこと。そして、自宅で毎週怪獣を見ることができると、瞬く間に子供たちの心を鷲掴みにいたしました。その後、半年間の「キャプテンウルトラ」(東映制作)を挟み、放映された『ウルトラセブン』(1967~68年)は今でも“傑作特撮番組”との世評高き作品でございます。この3大名作から始まった所謂「ウルトラシリーズ」は、それから幾度かの中断を経ながら、現在も新シリーズが制作・放映され続ける息の長い作品群であります。個人的には、ウルトラセブン後継の円谷作品である『怪奇大作戦』(1968~69年)を経て(子供の頃にはよく理解できなかったものの不思議と惹かれる作品でしたが、今になれば円谷プロ屈指の傑作だと思います)、次作の『帰ってきたウルトラマン』(1971~72年)までが同時代作品として接した作品でございます。同プロ作品としては「ウルトラシリーズ」の他に、以下の作品も拝見しておりましたが、何れも忘れ難きものばかりです。『快獣ブースカ』(1966~67年)・『チビラくん』(1970~71年)の“ほのぼの”とする作品群、『ミラーマン』(1971~72年)のSF色濃厚なる作品でございます。斯様な次第で、当方にとって幼少期に円谷プロ作品以上にお世話になったものはありません(唯一匹敵するのはイギリス製の「サンダーバード」くらいでしょうか)。そして、小生より後の世代の方々にも、それぞれの世代毎に「フェイヴァリット・ウルトラマン」が存在しておりましょう。そして、その後に行われた「ウルトラ兄弟」の設定によって、世代を超えて同じヒーローを共有できる稀有なるシリーズとなっていくのです。当方も人の親となって、親子で夢中になる方々が多いことに合点がいきました。平たく申せば、家族円満にも大きく寄与した作品群ということでもございましょう。正に“表彰もの”だと思います。

 『ウルトラQ』から『ウルトラマン』の初放映時に、小生は幼稚園から小学校へと入学する頃でしたから、ご多分に漏れず強烈な洗礼をうけました。『ウルトラQ』は恐ろしさ半分でしたが、『ウルトラマン』のカラッとした明るい作風には「ド嵌り」して、毎週の放送が待ち遠しかったことを昨日のように想いだします。当時「録画機器」などは存在しませんでしたから、何らかの事情で放送を見逃してしまうと二度と接することができませんでした(再放送が行われるようになるのはずっと後になってから)。当然、翌日の学校での話題と言えばウルトラマンの事ばかりでしたから、その輪に加わることもできないことで大いなる疎外感を感じたものです。従って、当時は少年漫画雑誌で実写作品のコミカライズが必要不可欠でもあったのです(実際に当方が拝読できたのはずっと後になってから)。因みに、当時のコミカライズには数多くの著名漫画家が関わっており、現在読み返んでみても各作家の特色が色濃く、ウルトラシリーズの別世界を満喫できる得難い作品群でございます(楳図かずお、桑田次郎、内山まもる等々)。『シン・ウルトラマン』制作の庵野氏もまた、当方と全く同世代でありますから、当時の少年達と同様に強烈な洗礼を受けたクチでございましょう。彼は、大学時代に自主製作でウルトラ作品の制作もされていたと聞いたことがあります。従って、今回の作品は、一義的には永年愛し続けてきたウルトラマン(ウルトラシリーズ)へ捧げたオマージュなのだと存じます。余談ですが、当時はマルサンやブルマァク製の怪獣ソフビ人形が大流行しておりましたが、我が家ではほとんど購入してもらえず、何時もたくさんのソフビに囲まれている「カーテン屋」倅である友人宅で遊ばせてもらうという、到って悲しい想い出がございます。その反動でございましょう。いい大人になってから倅と共に怪獣ソフビ収集に邁進するハメに陥りました。今ではコレクション数は1万体を優に超えましょう。自宅の一室がコレクションルームとなっており、そちらでゴジラ・ガメラ等々の怪獣たちとともにウルトラヒーロー・怪獣たちに囲まれる至福の時を過ごしております。

 さて、改めて、「ウルトラマン(ウルトラシリーズ)」が決して単なる「ジャリ番」とは言えないことについて述べてみましょう。勿論、こうしたことに気づいたのはシリーズを同時代人として見ていた幼き頃のことではございません。人の親となってから、倅とともに、かつて自身が見ていたシリーズから、その後継シリーズ作品までに接することを通じて、円谷作品群の全貌を俯瞰できたことが大きな契機となっております。それを通じて、当該シリーズが持つ諸相が「作品」として充分追及に値する価値を有していることを見出したのです。子ども達の娯楽のために制作された作品でありますので、そもそも何かを訴えることを目的に創作された訳ではありません。しかし、制作しているのは人間である以上、制作者の置かれた社会状況を反映することはむしろ当然のことでありましょう。しかも、作品単体として追及するだけではなく、作品を制作された時代の文脈に位置づけてみれば、その時代像を明瞭に刻印していることが明らかです。斯様な視点でウルトラ作品を見てみれば、様々なことが見えてくることが分かって参りました。逆に、子供向けの作品であるからこそ、無垢な形でその時代の社会や生活等々の諸相が無垢のまま浮かび上がってくるのはないかとも思われます。だからこそ、冒頭に触れましたように、千葉大教育学部附属中での「総合的な学習の時間(「共生」)で本シリーズを学びの対象として取り上げることにしたのです。学年を取り払って集まった生徒諸君(男子生徒ばかり!!)とともに作品論を戦わせたことは、教師としても何にも代えがたい経験でしたし、貴重な想い出ともなっております。更に、「円谷プロ」の格段のご配慮を賜り、ゼミ生たちと伴に、ウルトラセブンメイン監督のお一人満田かずほ(手入力でも漢字変換できませんので平仮名で記載をさせていただきます)さんに直接にお話を窺う得難き機会を2度も御用意していただくなど、様々な御支援を賜りましたことも忘れ難きことでございます。満田監督は今もお元気でいらっしゃいます。

 現在手元に当時の資料が存在しないため、個々の生徒の研究テーマを全て採り上げることができないのが残念ですが、「金城・上原の脚本作品からみる返還前の沖縄の置かれた状況について」、「ウルトラマンAに観られるキリスト教の思想について-市川森一の脚本を中心に-」、「女性脚本家太田愛作品にあらわれるファンタジーの系譜について」等々の脚本家と作品に現れた時代像との関連に焦点を当てた追究、「ウルトラマンネクサスとウルトラマンマックスで唱えられた“原点回帰”についてーウルトラシリーズの“原典”とは何か?-」、「平成ウルトラ三部作(ティガ・ダイナ・ガイヤ)にみる正義感の変遷について」等々のウルトラシリーズのコンセプトの変遷についての考察、「ウルトラマン登場怪獣・宇宙人の造形の永遠性の考察」と言った怪獣造形への興味、「実相寺昭雄監督作品にみる脚本を具現化する映像美の在り方の追求」といった映像技術に関する追及等々、生徒諸君は多種多様な視点から作品に迫っていきました。当方にとっても大変にスリリングな教師体験の一つとなったのです。

 そうしたスタッフの要となるのは、脚本家(ライター)の存在に他なりません。映像作品の成否は「脚本」の出来によって左右されることは言うまでもございません。勿論、それだけでは作品は成立せず、映像としての出来栄え、登場する人物や怪獣の実在感、その他諸々の条件が相俟ってこその作品として仕上がる、総合的な力が試される表現現場であるのです。その点で、一般的なホームドラマ制作を遥かに超える時間と予算と労力を要するのです。長いシリーズ中には脚本家としては数多の優れた人材がおりますが、『ウルトラマン』・『ウルトラセブン』のメインライター(シリーズ全体のストーリ構成を取り仕切る中軸となる脚本家)は金城哲夫、『帰って来たウルトラマン』のそれは上原正三、『ウルトラマンA』は市川森一、その3人は決して落とすことのできない面々でございます。前二者は、第二次大戦後に占領下におかれ、昭和47年(1972)5月15日に「日本返還」が実現する以前に、沖縄から出て来て活動した作家でありますし(金城の母親は沖縄戦の際に大怪我を負っております)、市川はキリスト教信者でありました。怪獣・ヒーローのデザイン・造形を担ったのは成田亨と高山良策。二人とも彫刻家と画家という一流の芸術家であり、成田に関しては現在出身地である青森県立美術館に、多くの作品が所蔵・展示されております(お二人の手にかかるシリーズ初期作品怪獣が現在でも一線で活躍するエヴァーグリーンな造形であるのも宜なるかなと思わされます)。監督としてメガホンを握ったのが、円谷英二の長男である円谷一や実相寺昭雄といった当時の俊才でありました。つまり、名伯楽円谷英二の下に、当時鬼才・俊英と言われた若手が集った、まさに「梁山泊」であったのです。恐らく、制作スタッフの平均年齢は20歳代であったのではないかと思います。様々なる出自や精神性を背景とする若者達が、それをバックボーンとして如何なる物語を紡いでいったのでしょうか。後編ではその一例を掲げ、更に、庵野氏の新作『シン・ウルトラマン』へと繋げてまいろうと存じます。

(後編に続く)

 

 

 円谷プロダクション制作「ウルトラシリーズ」に思うことども(後編) ―または庵野秀明が「シン・ウルトラマン」で捧げたオマージュとひとつの解答―

 

7月9日(土曜日)

 

 50年越えとなる「ウルトラシリーズ」中には忘れ難き作品が山のようにあります。地球を襲った怪獣ジャミラが、政治の都合で宇宙に見捨てられた飛行士が変わり果てた姿であり、本来は犠牲者である怪獣との余儀なき戦いに苦悩する科学特捜隊とウルトラマンを描いた『故郷は地球』(監督はシュールな実験的映像世界で知られる実相寺昭雄、脚本は“松竹ヌーヴェル・ヴァーグ”旗手の佐々木守)。実は人類の敵とみなされる海中人が地球の先住民であり、地上の地球人こそが彼らを海に追いやった侵略者である真実を知ったことで、地球人のために戦うことに思い悩むダン(実はウルトラセブン)を描いた『ノンマルトの使者』[監督は満田かずほ、脚本は占領下の沖縄出身(!!)の金城哲夫]等が思い浮かびます。シリーズ中には、何の目的で、誰のために怪獣と戦うのかを問い掛ける作品が多々存在します。しかし、ここでは紙面の関係でシリーズ史上最大の問題作とされる『帰って来たウルトラマン』第33話「怪獣使いと少年」(1971年放映)を取り上げてみましょう。本作の監督は東條昭平、脚本は金城に誘われて沖縄から上京して脚本家となった上原正三であることを確認しておきましょう。

 ある日、地上に現れた怪獣ムルチに追われた少年は、地球に降り立ったメイツ星人に命を救われます。そして、怪獣ムルチはメイツ星人の特殊能力によって封印されることになりました。その日から一年。人々から宇宙人と噂されて敬遠されるようになった少年は、毎日河原で穴を掘り続けています。それが何のためなのか誰も知りません。そして、その光景を廃墟からじっと見つめる老人(実は人間に扮するメイツ星人)。こうした中、その廃墟に不良グループがやってきて、宇宙人との噂の絶えない少年を穴に埋めて泥水をかける等の暴行を加えます。そこに、郷秀樹(MAT隊員:実はウルトラマン)がやって来て少年を救います。その後、再びやって来た不良達はお粥を炊いている少年に「宇宙人も飯を食うのかよ」と難癖を付けそれを蹴り飛ばすのです。怒った少年は不良達に立ち向かいますが、彼らは凶暴な犬に少年を襲わせようとします。ところが犬は突然爆発して散ります。驚いて逃げ去る不良少年。老人が特殊能力で少年を守ったのです。その後、郷はメイツ星人と話し合い、全ての事情を理解しました。メイツ星人は、侵略ではなく地球風土の調査に訪れたのですが、悪化する地球環境に身体を蝕まれ故郷の星への帰還が叶わず、地球への滞在を余儀なくされていたのです。そして、偶々両親と離れ離れになった孤独な少年とその廃墟で静かに暮らすことになったのす。少年が穴を掘っていたのは、メイツ星人が地中に隠した宇宙船を掘り出し、一緒にメイツ星人故郷の星に行くためでした。それだけ少年は世間から疎外される存在であったのです。しかし、廃墟に怪しい宇宙人が住んでいるという噂が街中に広がります。ついに、警察官・竹槍をもった群衆が大挙して廃墟を襲い、「お前が宇宙人か」と少年を引きずり出します。その時、老人が立ちはだかり「待ってくれ!宇宙人は私だ!」と訴えます。おののく群衆。郷が必死で止めたにもかかわらず、混乱の中で警察官の放った弾丸が老人の胸を貫くのです。メイツ星人の死と共に、封印されたムルチがあらわれて街を襲います。この期に及んで助けを求めて逃げ惑う大衆。「なんだ、自分たちが困った時だけ助けを求めて!!」と、人間の身勝手さに怒り戦意を喪失する郷。しかし、MAT隊長に促され空しい気持ちで戦い、ウルトラマンとしてムルチを葬り去るのでした。平穏を取り戻したように見える街。煙突からは変わること無く黒煙が吐き出されます。そして、老人の死を受け入れることのできない少年は、今日も河原であてどなく穴を掘っています。それを見て郷は思うのです。「少年は地球にさよならが言いたいのだ」と。

 観終わった後、何とも申し上げることのできない重苦しさを残す作品です。当時の衝撃的な映像は還暦を過ぎても忘れることができません。作品には、昭和48年(1973)石油危機直前の高度成長期が見事に捉えられております。高度経済成長は、人々の生活を豊かにしたのと引き替えに所謂「公害」という生活環境の極度の悪化をもたらしました。そして、「日本人」のマイノリティに対する差別意識の根深さと、それが群衆意識に高まって暴発する姿が“えぐい”ほどに描き込まれます。俄かに、これが子供番組だとは信じられない程に、日本人の醜さ、人間心理の恐ろしさが表現されております。ここには、太平洋戦争末に国内唯一の地上戦を経験し甚大な被害を被った、沖縄生まれの脚本家上原正三と日本本土との距離感とが明瞭に反映されていると存じます。それは、今日の沖縄県での米軍基地問題(辺野古)を巡る本土と沖縄県の対立にも直結する問題でもございましょう。少年向けの作品ではありますが、このように時代像や社会が明確に刻印されているのです。これは、「ウルトラシリーズ」が単なる「子供向け番組(ジャリ番)」ではない一例にすぎません。正義の使者が暴れる怪獣・宇宙人と闘って地球を守備する「単なる怪獣プロレス」でも、チャンバラ劇のように必ず正義の使者が勝利する「単なる勧善懲悪」ドラマでもありません。その制作スタッフのバックグラウンドや製作意図等々を仔細に検討すると、下手な大人向の番組などを遥かに凌駕する、様々なる仕掛けや発見に満ち満ちていることが分かってまいります。

 ここまで述べてきて、ようやく現在放映中の『シン・ウルトラマン』についての話題に移ろうと存じます。現在上映中の作品に対してあれこれと触れることはご法度であります。それはできる限り避けるようにいたしますが、それでも話の都合で若干の“ネタバレ”に繋がる可能性は無きにしも非ず……であります。その点は何卒ご容赦の程を。本作が、庵野氏の長きにわたるウルトラ作品、取り分け初代『ウルトラマン』へのオマージュであることは申すまでもございません。原作全39話中エピソードの幾つかを繋ぎ合わせ、それを換骨奪胎しながら、全く新たな物語と価値とを創造していく手腕には心底唸らされました。その意味では、旧シリーズを良く知る人間にはより深い感銘を齎すことは言うまでもございません。しかし、初めてウルトラマンに接する方々にも、過去の作品群への知見がなくとも作品自体の理解に全く齟齬は生じませんし、大いに楽しみ、かつ考えさせられる極上の作品となっていることを保証いたします。ただ、庵野氏が旧作の二番煎じに甘んじたり、単なるリメイクに過ぎない作品を世に問うことなどありえません。そこには、初代『ウルトラマン』でこれまでも度々指摘されてきた“弱点”への、庵野氏としての解答が提示されていることに注目すべきかと存じます。原作における“弱点”とは、すなわち「初代のウルトラマンは何を動機として地球人のために戦っているのか?」という根源的問題が不明確であることに他なりません。

 昭和41年(1966)放映のウルトラマンでは、宇宙の犯罪者である怪獣ベムラーを追ってきたウルトラマンが、地球上で科学特捜隊ハヤタ隊員の操縦する航空機と誤って衝突。その結果、ハヤタの生命を奪ってしまったためハヤタの身体を借りて地球に居残り、その後に現れる怪獣や宇宙からの侵略者と闘うという設定となっております。ここから類推するに、その動機は「ハヤタへの償い(贖罪)」であると読み取れましょうか。しかし、これは、飽くまでも個人への償いであって、地球人のために生命を賭して戦う動機として極めて薄弱でございましょう。そもそも、ウルトラマンの故郷である「光の国」では生命は自由に再生できることになってもおります。事実、最終回ではゼットンとの戦いで生命を失ったウルトラマンは、「命」をもって救出にきた同星人ゾフィーの申し出を断って、その「命」を地球人であるハヤタに与えることを申し出ます。しかし、あろうことかゾフィーはそんなこともあろうかと2つの「命」を持参してきたというのです。結果として、ウルトラマンもハヤタも甦ることになります。かようなご都合主義が成立するのならば、そもそも最初の段階で生命をハヤタに与えれば済むだけの話であります。そもそも、「ハヤタの生命を償うために戦う」という前提が崩壊しているのです。金城自身も、おそらくその点の弱さを自覚していたのだと思われ、シリーズ中に動機と思しきことを語らせたりしております。しかし、何れも視聴者を納得させるものとは成り得ておりません。

 その点で、こうした動機が明確なのが、アメリカのヒーロー『スーパーマン』であります。比較をすれば、その違いは一目瞭然となりましょう。佐藤健志の論考から引用をさせていただきましょう。

 

 スーパーマンは、もともとクリプトンという星の人間であり、カル・エルというのが本名である。ところがクリプトン星は彼が赤ん坊のときに爆発してしまい、カル・エルは両親によって脱出用ロケットに乗せられ、地球(=アメリカ)へとたどりつくのだ。このロケットは、アメリカのどこにでもありそうな田舎町スモールヴィル郊外に不時着しているところを、平凡な農夫ジョナサン・ケントによって発見される。そしてたまたま夫婦に子どもがいなかったことから、カル・エルは夫婦に引き取られ、養子クラーク・ケントとして育てられることになるのだ。つまりスーパーマンは宇宙から来たという点を除けば、実のところ新天地を求めてアメリカにやって来た無数の移民たちと何ら変わることがないのである。
そして少年時代からその超能力を利用してスモールヴィルで人助けをしていたクラーク・ケントは、高校卒業の前後に養父が死んだことをきっかけにして、自分を受け入れてくれたアメリカ社会に「恩返し」をすべく、スーパーマンとして本格的に活躍することを決意するのだ。したがって、正確に言えばスーパーマンは地球を守っているのではなくアメリカを守っているのであり、「鳥だ!飛行機だ!いや、スーパーマンだ!」というフレーズで知られる有名な口上が最後に述べているとおり、「真実と正義とアメリカの理念」のために日夜戦っているのである。そしてそれは彼自身が、移民を寛大に受け入れるという「アメリカの理念」によって恩恵を被っていたことに起因しているのだ。


(佐藤健志「ウルトラマンはなぜ人類を守るのか-<ウルトラマン>の甘えと矛盾」 『怪獣学・入門!』1992年(宝島社)収録)

 

 

 それに対して、ウルトラマンは人類から何らの恩恵も受けていないし、人類(日本)社会の一員として認められているわけでもありません。彼の行動はある意味で全くの「無償奉仕(ボランティア活動)」に他ならないのです。上述しましたように、そもそも動機として初手から弱さを抱えていた贖罪意識との設定が崩壊しておりますから、何よりもその後の活動の動機が何に由来するのかが更に不明確となっていきます。恐らく、金城の胸中にあったのは、「大きな力を持つ者は弱者を守る道義的責任(義務)を有する」という、博愛主義的な「理想」「願望」であったのだと想像いたします。そして、その想いは当時の日本が置かれていた社会的・政治的な情勢ともリンクしていることも理解できましょう。すなわち、「日米安全保障体制」の在り方にも「日本が沖縄を庇護すべし」との想いにも通底するということです。いや、むしろ、それらは全て「同心円上」に位置づく思考であるとさえ言うことができましょう。しかし、現実的問題はさて措き、「正義の宇宙人」(つまり相手の良心)に地球(日本)の安全を全面的に委任して“良し”とする精神構造に、少なくとも、すっきりしない居心地の悪さ、後味の悪さを感じてしまうのは如何ともし難いものでございましょう。皆様は如何お感じになられましょうか。

 今回の『シン・ウルトラマン』で、そうした原作に内包される弱点に対し庵野氏が用意した解答と思しきことが、映画中に描き込まれておりましたので、御紹介をさせていただきます。これこそが、本作の肝とも言える部分だと思いますが、現在上映中の作品であることに鑑み詳細に述べることは差し控えます。是非とも映画をご覧になって各自でお考えになられることだと存じ上げます。ここで述べることは考えるためのヒントとなる程度に留めたいと存じます。原作同様に新作でもウルトラマンは、「禍特隊」隊員の神永新二が「禍威獣」から子供を救うために生命を落したことに感じて、その身体と一体化いたします。そもそも、ウルトラマンの住む星(「光の国」)は、地球よりも遥かに優れた“科学・技術”を有する「光の国」なる星であり、彼もまた宇宙空間の秩序を保つ「宇宙警備隊」としての任務を要して派遣されて来た異星人であります。自らの星よりも科学・技術力の圧倒的に遅れた「未開の星」地球と、圧倒的に遅れた文明しか有していない(とされる)「地球人」なる生き物の在り方とに、おそらくウルトラマンは「イコール(等号)」で結ぶことのできない「何ものか」を感じ取ったのでしょう。それを“理解しよう”と努める主人公(実はウルトラマン)が、資料室で一心不乱に読みふける書物が、クロード・レヴィ=ストロース(1908~2009年)の代表作『野生の思考』に他ならないのです。そう、小生の学生時代に大いに持て囃された、表紙に三色菫の絵が描かれたみすず書房刊行になる、“あの”翻訳書であります。この場面を拝見した途端に、当方は椅子から転げ落ちるくらいに驚嘆いたしました。まさか、ウルトラシリーズで、レヴィ=ストロースに邂逅する日が来るなんて!!同時に、庵野氏が本作に込めた肝心要な主張が、朧気ながら見えてきたように思ったのです。

 レヴィ=ストロースは、当方が申すまでもなく、フランスの社会人類学者であり民族学者でもあり構造主義の提唱者でもございます。彼の主張をここで要約することなど、到底当方の任にはございませんし、まして正しく読み込めてもおりませんでしょうから、最初に「細かな点はご容赦いただきたい」とお願いをしておきたいと存じます。彼の業績の最たるものは、平たく申せば、先進諸国からは原始的な人々として見下されてきた未開部落の比較調査を通じて、欧米社会に支配的であった「進化論的・発展論的な史観」を相対化したことにあるのではないかと考えるものです。つまり、「未開部族」と称される人々の社会にこそ、人間の根源的思考が存在しているのであり、決して優劣関係として把握されるべきにあらずとの、画期的な論考であると把握するものでございます。つまり、庵野氏が、ウルトラマンが地球人のために戦う動機をここに求めることが大いに腑に落ちたのです。と同時に大いなる感銘を受けました。詰まるところ、ウルトラマンの住む「光の国」と地球人の住む「地球」とが、「先進諸国」と「未開部族」の在り方に準えられているということに他ならない……との小生の愚考でございます。是非ご覧になって、皆様のご意見を聞かせていただければと存じます、映画の最後に、ゼットンが現れてウルトラマンと闘いその生命を落すことも、ウルトラマンの同星人であるゾフィーがウルトラマンを救いに登場するのも、原作をなぞっております。しかし、そこで描かれる世界は原作とは真逆のものとなっております。ゾフィー(光の国)が地球に対して下した最終判断も、ゼットンという存在の位置づけも、原作とは180度異なっております。ここでは、そのことを述べることはいたしません。なかなかに衝撃的な設定であります。是非ともご覧いただければと存じます。一つだけ述べれば、ウルトラマンは母星の決定に抗う存在として描かれるのです。

 最後に、映画で描かれはしませんでしたし、下種の勘繰りに過ぎないかもしれませんが、庵野氏の胸中にはレヴィ=ストロースに大きな影響を与えた、フランスの社会学者・文化人類学者マルセル・モース(1872~1950)の論考も念頭にあったのではないかと推察いたしたところでございます。モースは、主著『贈与論』で、未開部族の比較調査を通じて、彼らが共通して有する習俗である「物の遣り取り(贈与)」を見出し、その分析をしております。そこでは、「物を与え」、「それを受け取り」、「お返えしする」という一連の相互行為が、互いに敬意を与え合うための行為であり、贈与が部族間の双方向の繋がりを取り結ぶことで他者を受け入れる行為となっていること、その結果として集団間の戦いを防ぐ機能を有していることを見出しております。つまり、所謂先進諸国で一般的な、金銭を通じた経済的な利益追求が往々にして、利害対立から争乱へと発展する社会性と比較することで、彼ら未開部族と称される人々の活動が、決して劣ったものではないことを主張しているのだと当方は考えるのです。正に、何でも金銭的対価に置き換えてしまう経済性優先の現代社会へのアンチテーゼとも申せましょう。ウルトラマンもまた、それを理解したとは申せませんでしょうか。実際に、ウルトラマンの残したデータを基にして、地球人はゼットンを倒すための手段を見出していくのですから。

 最後になりますが、如何せん多くのことを描くのには映画の上映時間は短かったのが残念であったことは申しておきたいと存じます。生命を失ったウルトラマンはゾフィーからこう問われます。「ウルトラマン、君はそんな地球人が好きになったのか」と。その解答は言うまでもなく「そのとおり」であります。しかし、「人を好きになる」ための場面は充分には描き切れていなかったかなと思った次第であります。つまりウルトラマンは「理屈」として地球人を滅ぼすべきではないと「理解」したことには充分に納得がいったのですが。まぁ、そうだからと言って、地球人との恋愛を描くことで、それを表現すれば途轍もなく薄っぺらな作品になりそうですし、なかなか難しいのかもしれません。何れにしましても、大変に優れた特撮映画であることは間違いがありません。流石に庵野秀明氏の手になる作品と感銘を受けました。皆様も宜しければ是非!!因みに、当方が映画館に出掛けたのは平日でありましたが、観客の殆どは小生と同じような年齢の方々でした(そもそもシニア料金でお安いですし!!)。子どもの頃に夢中になったウルトラシリーズに映画館で是非とも再会してみては如何でしょうか。「いい大人が……」などと恥ずかしがる必要など一切ご無用でございます。充実の100分強の時間を過ごせるか否かの分かれ道。迷うことなく映画館への道をお選びくださることをお薦めいたします。

 

 

 

 東京湾内に唯一残された自然の干潟「盤洲干潟」とイボキサゴについて ―または 採取会に参加して考えた「縄文人」の“食の世界”―

 

7月15日(金曜日)

 

 つい3日ほど前の12日をもって、無事に本年度の千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人達(北関東編)』が閉幕を迎えることとができました。本年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』放映にあやかって開催足しました本パネル展でありましたが、昨年度末開催いたしました「南関東編」と併せて脚をお運びいただいた皆様も数多いらっしゃいました。本館においでくださった全ての皆様に、この場をお借りして、厚く御礼を申し上げたく存じます。誠にありがとうございました。

 その大河ドラマも残すところ半年を切りました。過日、頼朝が死を迎える少し前、土肥実平と伴に御所での面会を求めた千葉常胤が、それどころではない頼朝に“けんもほろろ”にあしらわれる、ユーモラスな場面が描かれておりました。本稿を執筆する10日は参院選特別番組編成で大河ドラマは無し。今後の可能性としては、梶原景時追放において、(本来は主役級の動きを示したと考えられますが)“ちょい役”程度で登場するかどうかでございましょう。そのしばらく後に常胤は没しますから、是非とも「老いて益々盛ん」な雄姿を拝見させていただきたいものでございます。この後、史実では子胤政・孫成胤が様々な場面で活躍するのですが、千葉一族の配役と登場シーンは恐らくございますまい。しかし、ドラマは残り半年弱も続きます。これまで以上にダークで陰惨な血で血を洗う権力闘争が展開いたしましょう。斯様な次第でございますので、北関東編終了以降も引き続いて、パネルのみは南関東編と併せて展示を継続させていただくことといたしました(ただし、中央ケース以外の展示物はすべて撤去いたします)。もし、これまでご覧いただいていらっしゃらないのであれば、どうぞお運びくださいませ。ブックレット2冊も継続して販売中でございます(各100円)。因みに、外部機関への「パネル貸出」と本館同展示室での「埋文調査センター巡回展開催」の関係で、展示は10月末日までとなろうかと考えております。

 さて、過日、千葉県木更津市に「潮干狩り」に出掛けてきました。「呑気なもんだな」との声も聞こえて来るようですが、遊びで出かけたわけではございません。千葉市埋蔵文化財調査センター西野雅人所長の肝入りで、この時期に毎年開催されている「イボキサゴ」採集会へお誘いを頂いたものですから、参加させていただいたのです。予て是非とも一度は実態を知りたいと思っておりましたので、ようやく念願が叶った訳でございます。「イボキサゴ」とは東京湾に生息する巻貝の一種でありますが、今日は利用価値なしとされており、漁師に捕獲されることもなく、当然の如く市場に出回ることも一切ございません。かつては、東京湾の特に千葉県側の砂干潟全域に生息していた貝なのですが、戦後の埋立事業の急速な進展に伴い、一時は東京湾では絶滅の危機に瀕しているとされておりました。今回は、この「イボキサゴ」なる巻貝の話題とさせていただきたいと存じます。まず初めにお断りしておきますが、以下の内容は、西野所長の論文『イボキサゴ-大型貝塚を形成した小さな貝-』に全面的に依拠しております。西野氏は、当方の心より尊敬する考古学者でございます。千葉県・千葉市の貝塚等の発掘調査によって判明した知見を総合的に構築して、千葉県域に留まらぬ縄文時代の「新たなる世界」を提示されていらっしゃいます。当方はその成果に日頃より瞠目させられ続けております。西野氏のお陰で知り得た本県と周辺地域の縄文時代に関する新たな発見は数えきれないほどであります。その御研究の一つの切り口がこの「イボキサゴ」の存在なのです。西野氏が、何故かような無名な貝に注目をされるのかには大きな理由がございます。それは、国特別史跡「加曽利貝塚」を始めとする千葉市域の縄文巨大貝塚に堆積する膨大な貝層分析の結果、その約9割は「イボキサゴ」によって占められていることが明らかになったからであります。残りの1割の内、多いのがハマグリ(2位)、続いて「オキアサリ」(3位)とのことです。つまり、「イボキサゴ」が“ぶっちぎり”のトップランナーなのです。逆に申せば、今日の「潮干狩り」でのメインターゲットである「アサリ」に縄文人は殆ど見向きもしていないということになります(当時東京湾にアサリが生息していなかったわけではありません!!)。これはどういうことでありましょうか??

さて、その「イボキサゴ」なる小さな巻貝でありますが、本種はニシキウズガイ科に属するそうです。本科で国内に存在するのは4種であり、房総半島周辺に生息するのは、その内のダンベイキサゴ、キサゴ、イボキサゴの3種とのことです。それぞれ、ダンベイキサゴは外洋に、キサゴは内湾の湾口から外洋に、そしてイボキサゴは内湾に生息をしております。そのうち、ダンベイキサゴは九十九里浜で多産し、外房では俗に「ながらみ」と称されて重要な食材となっていることはご存知でございましょう。3種中で最も大型で、径4cm程となります。それに対して、キサゴは3cm、イボキサゴに到っては2cmほどの極々小さな巻貝であります。内湾の満潮時3m以下、干潮時50cm以下の浅瀬に多く生息しており、ハマグリやアサリよりも沖に多く見られるとのことです。潮通しのよい砂質の海岸を好みますから、湾奥部の泥干潟には生息していないといいます。また、砂地に深く潜りこまず表面近くに生息するので、とても採取しやすい貝種でもあります。そうしたところで、まさに「湧いて出る」との表現が適切な程に大量に生息するとのことです。従って、かつて千葉市地先に広がっていた砂質干潟の干潮帯先端でも大量に採集できた貝種ということになります。しかし、「湧いて出る」ように存在した「イボキサゴ」も埋め立てによる生育域の激減により東京湾では壊滅状態と言われる状態になっていたといいます。1980年後頃から発掘に携わっていた西野氏ですら、「“生きた”イボキサゴ」には出会えなかったとお書きになっていらっしゃるほどです。

 ところが、1990年代後半になって、東京湾にその「イボキサゴ」が復活したと言います。その場所が、今回の採取場所となった木更津市の小櫃川河口域に広がる、「盤洲干潟」に他なりません。その面積は最大1400ヘクタール程にも及ぶ、東京湾に唯一現存する広大な自然干潟です。小櫃川河口付近のアシ原から、東京湾にかけ干潮時に露出する広大な塩性湿地でございます。倅の小さな頃に毎年のように富津海岸に潮干狩りに出かけておりましたが、盤洲干潟はたった一度キリ、アクアラインの影も形もなかった教員になりたて頃に、中学一年生「校外学習」引率で金田海岸に脚を運んだことがあるだけでした。その時には、アサリよりもバカガイばかりがたくさん採れたことをはっきりと記憶しております。その折はわかりませんでしたが、バカガイはそうした干潟に生息せず、内湾の沖合のそれなりの深さのある海底に生息している貝でありますので(漁師は潜水服を着用し母船から空気を送って採取)、生徒到着前に潮干狩り場を運営する漁師の皆さんが蒔いたのではないかと想像致します。

 そして、それから大凡40年弱ぶりに再訪した金田海岸でしたが、今では、盤洲干潟を分断するようにアクアアインが海へ向かっており、その先には「海ほたる」を望むことができました。景色は相当に変わってしまいましたが、その昔と変わらぬ、潮の退き切った干潟の広大さに目を奪われ、そして干潟をわたる潮の香には目と鼻孔とをくすぐられるようでワクワクした想いに駆られました。イボキサゴの生息域は、海岸から200~300m内で行う一般的なアサリの潮干狩とは異なり、更に沖の干潮帯先端となります。海岸線から干潟を小一時間近くもかけて歩いていくことになります。その途中の砂地には“海の草原”とも言うべき「アマモ場」が広がっておりました。今回は、昨年度の本館特別展でご講演をいただいた(「東京湾の埋立にともなう環境変化と再生の試みについて」)、西野氏とも予て親交のある工藤孝浩さんもご参加くださったのですが、工藤さんによれば、盤洲干潟の「アマモ場」も以前にはすっかり消失してしまっていたそうです。ところが、地元の方々の熱心な干潟保全活動等が功を奏し、ここまで広大な範囲でアマモ場が再生してきたとのことです。こうした干潟環境の好転は本当に嬉しい思いでございます。

 工藤氏は対岸の神奈川県金沢八景干潟でのアマモ場再生に長く取り組んでおられます。アマモ場が復活すれば、多くの生き物がここを揺籃の場として利用するようになり、東京湾の生物多様性も大いに拡大していくと言います。工藤氏からは、砂干潟全面に観られる、砂地に潜むゴカイの排泄物が砂製モンブランケーキのように点在する状況が、健全な砂干潟の証であることのお話も窺いました。そして、漁場に到着すれば、そこは海岸の家並が遥か彼方に小さく見えるほどの沖であります。そこで、砂地の表面を籠で一掻きするだけで、まさにザクザクとイボキサゴが採取できます。2cm程のものを残し、小さなものは海に返す……の作業を繰り返せば、ものの30分もあれば相当な量のイボキサゴが採取できました。干潮帯の先端まで進むのには時間を要するものの、漁自体はアサリ漁と比べても呆れるほどにお手軽でございます。縄文人たちにとっても、これほど簡単に食料が確保できるイボキサゴの存在は極めて有難いものであったことでございましょう。貝塚の殆どがイボキサゴで占められているのも宜なるかなと思った次第でございます。そして、手にしたイボキサゴの一つひとつは、アサリと同じようにすべて模様も色合いも多種多様であり、何よりもとても美しいものだと感じました。その昔、小さな円い巻貝の殻を、子供たちは“おはじき”として重宝したことが腑に落ちる愛らしい姿でありました。

 しかし、直径で2cmにも及ばない貝は、実を取り出しても極々僅かな分量にしかならず、決して食べ応えのある食材とは申せません。それを、縄文人は如何にして利用していたのかは、実のところ明らかにはなってはいないのです。その身はナカナカに美味ではありますが、如何せん巻貝から楊枝で取り出すだけでも一苦労です。あの膨大な分量をかような手間をかけて食していたとは到底考えられません。従って、かつて“実しやか”に言われていたような「大型貝塚=干貝製造工場説」も、今日では現実的な学説とは成りえていないのです(海辺で生産された干貝を、山間部で採取される黒曜石等との物々交換に用いた……との如何にも尤もらしい学説でしたが)。それでは、膨大に採取したイボキサゴを縄文人は如何に利用としていたのでしょうか。西野氏は、恐らく出汁を取るのに用いたのだとお考えでいらっしゃいます。勿論、イボキサゴだけではなく、魚類・獣も獲っていたでしょうから、それらを煮だすことで出汁をとり、そこに魚肉や獣肉、食用可能な青物、ドングリ等から抽出した澱粉で作成した団子を浮かべれば、至って栄養バランスに優れた「団子汁」の完成となりましょう。ある意味で、出汁をすべての料理の基本とする「和食」のルーツとも申せましょう。また、世界の諸文明と比較しても相当早い時期に、縄文人が「土器」を発明して盛んに使用したことも腑に落ちます。

 というわけで、当方も帰宅後に早速「イボキサゴ出汁」に挑戦してみました。真水でよく洗ったイボキサゴを大量に鍋に投入。灰汁を散りながらじっくりと温めていくと、次第に湯が黄金色に変わり始めます。それを掬って味見をするとアサリ・シジミのような個性はないものの、到って上品な味わいの出汁となりました。しかし、少々物足りなくも思っていたところ、採集に同行してくださっていた地元漁師の方がおしゃっていた「イボキサゴと昆布の愛称は抜群」との発言を思い出したのです。そこで、昆布を投入し、ここまで来たらと日本酒も投入。すると、確かに出汁の質感が格段に向上するように思えました。山の神にも倅にも好評でありましたが、昆布と日本酒の味わいが強まり、どの部分がイボキサゴの特性なのか訳が分からなくなってしまったというのが正直な感想でありました。来年の採集会にも是非とも出席させていただき、次回はもう少しイボキサゴのポテンシャルを十二分に引きだす出汁の抽出方法を模索したいものだと、今から手薬煉を引いておる次第でございます。そして、改めて今回イボキサゴを食する機会をもつことで、西野氏がご指摘されている「イボキサゴは他の食材の“出汁”として活用されたのではないか」との仮説に納得のいく思いでございました。この身を取り出すには膨大な手間暇を要する割に、獲得される対価は極々わずかなものに過ぎないからであります。縄文人は長閑に暮らしていたのではないかとの反論もございましょうが、それは現代人による妄想に過ぎません。季節毎に行うべきことは山積していたはずです。その証拠こそ、実入りが少ないにも関わらず、採集に手間暇を要しないイボキサゴを重宝して活発に利用したことに表象していると推察するところでございますが、皆様は如何お考えでしょうか。こうした様々なことを実体験として知ることができた、極めて有意義な会でございました。斯様な機会を与えてくださった、西野氏には感謝の言葉しかございません。

 最後になりますが、現在の千葉県域にかつて居住した縄文時代に大いに活用された「イボキサゴ」でありますが、その後の時代にも活用をされてきたのでしょうか。少なくとも、埋め立てによってその数を減らしてしまったことも大きな要因ではございましょうが、盤洲干潟のある地元においても現在はほとんど利用をされてはおりません。アサリ漁を生業とする漁師たちからも海の養分を横取りしてしまう厄介者とすら思われているフシもございます。こうした後の時代のイボキサゴの利用状況についても、西野氏は先の論文で考古学的に追っていらっしゃいます。ここでは、そのすべてを紹介できませんが、現千葉県域での近世から近代にかけてのイボキサゴ活用状況についてのみご紹介して本稿を閉じたいと存じます。その利用状況につきましては、近世に惹起した「イボキサゴ」採集に関する利権争いが度々発生していることから、その利用状況が判明しているようです。現在まで伝わった文書史料から、享保年間(1716~1735)現市原市の松ヶ島地区と青柳村、五井村との争論で、水田耕作の肥料としてイボキサゴが活発に利用されていたことが確認できるそうです。史料は重要な肥料である「イボキサゴ」の漁業権を巡っての浦方の争論に関するものです。そして、それは明治以降になってからも引き続いていたことが判明し、市原市椎津地先では戦後に化学肥料が出回るまで、毎年4月初めの大潮の際に漁師村総出(漁協の組合員限定)で「キシャゴカキ」が行われたとのことです。イボキサゴはコメ作りには欠かせぬ優秀な肥料であったのです。西野氏によれば、実際に市原市内の海岸平野の遺跡を発掘すると、各地で水田下に貝肥層が確認され、その貝種としては、やはりイボキサゴが多いそうです。その総量は想像もつかないほどでございましょう。江戸時代以降は、食料としての利用はほとんど確認できず、多くは肥料として利用するための取引に限られたようすが(明治になると“おはじき”としての利用のためにも採取され流通したとのことです)、何れにせよ、地元の人々にとっては極めて有用なる貝種であったことがしのばれます。それも、戦後の干潟の埋め立てによるイボキサゴ生育環境の壊滅が決定的な要因となり、人々からは縁遠い貝種の一つとなり果てたということでございましょう。

 今回は、千葉市埋蔵文化財調査センター西野雅人所長、及び加曽利貝塚博物館関係のボランティアの皆様方のお導きにより、大変に貴重なる体験をさせていただきました。そして、多くの知見を得ることができたことを心底の喜びとするものです。また、神奈川県職員で本魚類学会会員でもいらっしゃり、東京湾をご研究の主たる研究フィールドとされる工藤孝浩氏によるご案内も頂き、改めて東京湾という「豊穣の海」の存在が、古来どれほどの恩寵を人々に齎してくれてきたのかを実感することができました。失われた環境を元に戻すことはできません。しかし、これ以上の破壊は生物の多様性を壊滅に導き、引いては人間の生きる環境の崩壊をもたらしましょう。奇跡的に東京湾に残された盤洲干潟の在り方をこの目で見て、せめてこの地を未来永劫に引き継ぐためにひと肌も二肌も脱ぐ覚悟を新たにした次第でございます。

 最後の最後に、本館における次の展示会は、8月30日(火曜日)から開幕となる、企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』となります。青木昆陽とサツマイモについてとりあげる本館初の企画展となります。青木昆陽と申せば、本市における偉人の一人として予て喧伝してきた人物に他なりませんが、本市に何をもたらしたのか、そもそも如何なる人物なのか等々、知っているようで知らないことだらけの人物であると考えます。本企画展では、そうした焦点を結びにくい青木昆陽と千葉との関係性を解きほぐしながら、彼の「置き土産」とも称すべき、本市におけるサツマイモのその後について追って参ります。手前味噌にはなりますが、内容もなかなかに充実したものとなるものと自負するところでもございます。皆様、是非ともお楽しみにされていてくださいませ。

 

 

 「唱歌」「童謡」 または“子供の歌”について ―ケント・ナガノ指揮『SHOKA-Japanese Children Songs』を聴いて想ったこと― 

7月22日(金曜日)

 

 過日、当方のお気に入りの指揮者ケント・ナガノ(1951~)が、現在音楽監督を務めるカナダのモントリオール交響楽団と競演した標記音盤を聞き及びました。指揮者はアメリカに生まれ育った日系米国人であり、見た目は“ロン毛”の日本人そのものであります(ただ日本語は全く駄目とのことです)。因みに、奥さまは日本人ピアニスト児玉麻里です。その優れた音楽的才能により世界各国のオーケストラやオペラハウスから引っ張り蛸の指揮者であり、これまでも幾つもの実力派のオケと歌劇場の音楽監督の要職を歴任[サンフランシスコオペラ(アメリカ)、リヨン国立オペラ(フランス)、ベルリン・ドイツ交響楽団(ドイツ)、エーテボリ交響楽団(スウェーデン)、バイエルン州立歌劇場(ドイツ)等々]。2022年現在は上記モントリオールと並行してハンブルグ州立歌劇場(ドイツ)の音楽総監督の重責も担っております。今回の音盤は、カナダ“フランス語圏”主要都市のひとつ「モントリオール」での収録であり、「ANALEKTA」なるカナダのレーベルからの発売となっております(2010~11年録音)。

 本盤は、奥方が愛児に歌って聞かせていた“日本の子供の歌”の情緒あふれる旋律とその歴史に感銘を受けたナガノが、長年に亘って温め続けてきた企画であるとのこと。元来オーケストラ伴奏による楽曲ではありませんから、オーケストレーションのアレンジは、フランスのトゥールーズ出身でグラミー賞受賞作曲家のジャン=パスカル・バンテュス(1966年~)に依頼されました。そして、実際の日本語歌唱を担うのが邦人にあらず、ドイツが誇る“コロラトゥーラ・ソプラノ”ディアナ・ダムラウ、及びモントリオール児童合唱団となります。まずは、ざっと本盤収録の全22曲のタイトルのみを以下に掲げてみましょう。

 

1.七つの子 2.雨降りお月さん 3.早春賦 4.青い目の人形 5.月見草の花6.十五夜お月さん 7.花かげ 8.夕焼け小焼け 9.春よ来い 10.隅田川(インストルメンタル) 11.赤とんぼ 12.赤い靴 13.朧月夜 14.夏は来ぬ 15.花嫁人形 16.『ちんちん千鳥』による管弦楽幻想曲(インストルメンタル) 17.浜千鳥 18.どこかで春が 19.ちんちん千鳥 20.砂山 21.さくら 22.あの町この町

 

 

 さて、ここで、本音盤のタイトル「SHOKA(唱歌)」について確認をさせていただきます。つまり「“唱歌とは何ぞや??」という定義に関わることでございます。堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』1958年(岩波文庫)解説によれば、「唱歌」とは明治5年(1872)8月の「学制」頒布以来、用いられている用語であり、主に以下の2つの意味を有しているとのことです。

 

1.楽器に合せて歌曲を正しく歌い、徳性の涵養、情操の陶冶を目的とする教科目のこと。(※昭和16年に「音楽科」と改められた)
2.教科目「唱歌」で用いられる歌曲のこと。

 

つまり、いみじくも2.で示されるように、教育用の歌曲を総称して「唱歌」ということになります。むしろ、英語で言った方が分かりやすいのですが「School Song」=「唱歌」ということです。そうであれば、「国歌」「校歌」「寮歌」「応援歌」もまた、学校で歌われているという点から申せば、広義の「唱歌」と申せましょう。ただ、辞書的に申せば前掲書に記された以下の記述に要約されましょう。

 

 

 「明治以来の伝統を有する「唱歌」とは、初等・中等の学校で教科用にもちいられ、日本語で歌われる、主として洋楽系の短い曲」であり、歌詞は、「徳性の涵養と情操の陶冶」に資するような教訓的および(あるいは)美的な内容をもち、曲は欧米の民謡・讃美歌。学校唱歌および平易な芸術的声楽曲からそのままとり、それらの型によって邦人が創作した小歌曲、および少数の日本民謡やわらべうたを含む」

 

 こうした「唱歌」の存在は、これまで日本人が慣れ親しんでいなかった、洋楽のリズムや音階を日本人に普及させるのに大きな功績を担うことになります。しかし、一方で、無伴奏・単音の形で普及した唱歌は、和声を普及させることはできなかったとも言います。しかし、当たり前のことではございますが、当初は、教科目「唱歌」があっても、何をどのように教えたらよいのかは全く知られておらず、教える教師も存在してはおりませんでした。それに形をつけて「唱歌」指導を可能にするまでにしたのが伊沢修二(1851~1917)であります。文部省音楽取締掛の設置による、音楽教師養成と唱歌教材集の編集とに伊沢は邁進することになります。そして、明治14年から17年に掛けて「小学唱歌集」3編が編集されます。更に、明治18年(1885)に森有礼が文部大臣となると、翌年「小学校令」を公布して小学校教育の大改革が行われることになり、その結果「教科書検定制度」が明確に確立することになるのです。その下で、明治21年から23年までに6集の『明治唱歌』が刊行されます。その後、日清戦争の時期には“戦意高揚”を意図して「軍歌」の流行の影響もあるなど、政治社会情勢の動向をも反映しながら推移しする「唱歌」ですが、明治35年(1902)、第1次桂太郎内閣の下で所謂“教科書大疑獄”事件が発生したことが一つの転機となります。この出来事は、教科書検定を巡る競争激化に伴う大規模な収賄が発覚し多くの有罪者を出した事件であります。その結果、翌年には教科書は「検定」から「国定」へと変更されることになるのです。ただ、全ての教科で国定が徹底された訳ではなく、「唱歌」の教科書については専ら民間出版の検定教科書から選定されました。しかし、それら民間の教科書に見える「言文一致唱歌」に対する識者からの批判に応える形で、より「気品の高い唱歌」とすべく、文部省が新たに「唱歌」の作成を専門家に依頼して教科書に掲載することになります。これが、よく耳にする「文部省唱歌」に他なりません。初めて発行された文部省唱歌掲載の教科書が明治43年(1910)『尋常小学読本唱歌』として刊行されます。本教科書には、現在でもよく知られる「カラス」「ツキ」「ふじの山」「春が来た」「虫のこえ」「われは海の子」等々が納められ、ほぼ全ての作品が邦人の作詞・作曲になっていることも大きな特色になっております。これ以降の「唱歌」の歴史も興味深いものですが、今回はここまでと致します。その点で申せば、ケント・ナガノの「SHOKA」に納められた22作品中(内2曲は演奏だけのインストルメンタル編曲ですのでそれを除けば20曲中)、上記「唱歌」の定義に該当する曲は、たった3曲に過ぎないことが判明致します。すなわち以下の曲でございます。

 

 3.「早春賦」 (作詞:吉丸一昌 作曲:中田 章) [大正期]
13.「朧月夜」 (作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一)文部省唱歌[大正期]
14.「夏は来ぬ」(作詞:佐々木信綱 作曲:小山作之助) [明治期]

 

 

3曲とも現在でもよく知られる楽曲でございましょう。誰でも直ぐにでも口ずさめる作品ですし、何れも名曲の部類に属するものと存じます。それでは、残りの曲は一体如何なるジャンルに含まれる楽曲なのでしょうか。それは、数曲の例外を除くと、全てが「童謡」に含まれる作品群なのです。直ちに「えっ!?唱歌と童謡って何が違うんだ??」との疑問が湧いて参りましょう(もっとも、そんなことはどうでも宜しい…と言う方が圧倒的でございましょうが、学問の“基本のキ”は「分類」にございますので、あたら疎かにはできませません)。共に「子供の歌」であることは一緒であります。しかし、「童謡」とは、以下のように定義されます。前掲書から引用をさせていただきます。

 

 

「文部省編纂の『尋常小学唱歌』が刊行し終わった大正の初期から、わが教育界全般に自由主義の主張が著しく出てくるようになり、自学教育とか自由教育ということが問題になった。
一方、20世紀のはじめ頃、ドイツを中心に起こった芸術教育思潮が、紹介されて以来、わが国小学校の文芸・絵画・音楽等芸術教育方面にも活発な運動が展開されてきた。
その一つとして現れたのが童謡の流行である。文部省唱歌にあきたらぬ自由な思想と審美眼とをもつ詩的な童謡を盛んに発表し始めた。大正7年(1918)6月、鈴木三重吉の編集による童話童謡雑誌「赤い鳥」が発行されたのが契機となり、この一派の人々の活動に最も顕著なものが見られた。

 

 

この観点から、本音盤に収録されている「童謡」に該当する楽曲を紹介すると以下のようになります。ただ、時代を「大正期」「昭和期(戦前)」「昭和期(戦後)」に分けておきたいと存じます。唱歌の時と童謡に作詞・作曲者を併記致します。その名前には誰もが覚えのある文学者・作曲家として心当たりのある方ばかりでございましょう。

 

【大正期】
1.「七つの子」  (作詞:野口雨情 作曲:本居長世)
2.「雨降りお月さん」 (作詞:野口雨情 作曲:中山晋平)
4.「青い目の人形」 (作詞:野口雨情 作曲:本居長世) 
6.「十五夜お月さん」 (作詞:野口雨情 作曲:本居長世) 
8.「夕焼け 小焼け」 (作詞:中村雨紅 作曲:草川信作)
9.「春よ来い」 (作詞:相馬御風 作曲:弘田龍太郎)
11.「赤とんぼ」 (作詞:三木露風 作曲:山田耕筰)
12.「赤い靴」 (作詞:野口雨情 作曲:本居長世)
15.「花嫁人形」 (作詞:蕗谷虹児 作曲:杉山長谷夫)
17.「浜千鳥」 (作詞:鹿島鳴秋 作曲:弘田龍太郎)
18.「どこかで春が」 (作詞:百田宗治 作曲:草川信作)
19.「ちんちん千鳥」 (作詞:北原白秋 作曲:近衛秀麿)
20.「砂山」 (作詞:北原白秋 作曲:中山晋平)
22.「あの町 この町」 (作詞:北原白秋 作曲:中山晋平)
【昭和期(戦前)】
7.「花かげ」 (作詞:大村主計 作曲:豊田義一)
【昭和期(戦後)】
5.「月見草の花」 (作詞:山川 清 作曲:山本雅之)

 

 以上で御座います。こちらも、直ぐにでも口ずさめる歌ばかりではありますまいか。何れも、日本人の心に郷愁の念を惹起させる名作ばかりであります。流石、超一流の文学者と作曲家の手になる「芸術性」豊かな作品ばかりであります。昨年度に本館で「千葉市制施行100周年」記念企画展として開催いたしました『千葉市誕生-百年前の世相から見る街と人びと-』で御紹介した、大正の時代像とその世相を想起させる歌ばかりだと申せましょう。企画展では、千葉県師範学校附属小学校で手塚岸衛によって推進された自由教育、市内中心街に観られた大正浪漫と大衆文化の広がり等々、千葉町から千葉市へと移り変わる“時代の息吹”を御紹介致しました。特に、今回の話題と直接関連することとしては、9.「春代来い」と17.「浜千鳥」を作曲した弘田龍太郎を忘れるわけには参りません。龍太郎は、明治31年(1898)千葉県師範学校校長として着任した父正郎(せいろう)とともに幼少期の4年間、この千葉市を生活の場とし、師範学校附属小学校に通っていたからでございます。彼の作曲にかかる童謡は、この他にも「鯉のぼり」「雀の学校」「叱られて」等々が知られ、その生涯に千数百曲の作品を残しております。企画展では関係資料も展示をいたしましたが、『研究紀要 第28号』(2022年3月刊)には本館研修員遠山成一による父弘田正郎に関する論考が掲載されておりますので、是非ご一読いただければと存じます。

 つまり、今回採り上げました本盤のタイトル「SHOKA」は、厳密な意味で用いられておるわけではないということで御座います。いや、むしろ、純粋に音楽を愉しむ上で、斯様なジャンル分けなどは必要ないというのが正しいと思います。しかし、それを知って聞くのと、そうでないのとでは自ずと鑑賞の深みが異なって参りましょう。そうそう、その“ジャンル分け”について、舌の根の乾かぬ裡に付け加えるにもナンでございますが、“子供の歌”としては、他に「童歌(わらべうた)」なるジャンルもございます。こちらは子供が遊びながら歌う、昔から歌い継がれてきた歌を指し、伝承童謡や自然童謡とも称されるとのことです。また、中には民謡の一種ととらえられるものもあるといいます「かごめかごめ」「あんたがたどこさ」「ずいずいずっころばし」「はないちもんめ」「ちゃちゃつぼ」等々の曲が瞬く間に口遊めましょうか。

因みに、21.「さくら」は、江戸末期に成立した作者不詳の古謡であります。元々は箏の手解きのためにつくられた楽曲とのことです。また、インストルメンタル曲に編曲された10.「隅田川」については今回の調査では出展を明らかに出来ませんでした。もしご存知の方がいらっしゃいましたらご教示いただけましたら幸いで御座います。申し添えて置きますが、「春のうららの隅田川……」で始まる楽曲ではございません。こちらのタイトルは「花」で、作詞は武島羽衣、作曲はかの滝廉太郎でありまして、立派な「唱歌」のジャンルに含まれる名曲中の名曲でございます。明治36年(1903)6月29日に満23歳にて夭折した滝についても述べたきことは多々あれど今回は止めておきます。ただ、死の4ヶ月前に発表された最後の作品であるピアノ独奏曲『憾(うら)み』は、暗き情念の渦巻く感情を表出する、何処かショパンを思わせる佳曲であると思いますので、是非とも接していただければと存じます。若くして死すことは、“天才”滝にとってさぞかし無念であったことでしょう。話題を本道に戻しますが、文部省による「唱歌」では、昭和前期になると戦争の影が色濃く滲んだ作品が採用されていくこととなりますが、ナガノの音盤には斯様な曲は勿論の如く選曲されておりません。一方、「童謡」は戦時下においては無用な存在とみなされていくことになります。そうでした!以下の書籍を紹介するのを失念しておりました。童謡につきましても、岩波文庫から、与田準一編『日本童謡集』(1957年)が刊行されておりますので、同文庫『日本唱歌集』と併せてお楽しみ下さいませ。読むだけならば、芸術性の高い「童謡集」に軍配が挙がることは必定でございます。

 さて、本音盤についての感想を全く述べて参りませんでしたので、最後に少しばかり述べて本稿を締めたいと存じます。本音盤を入手したのは、偏に指揮者であるケント・ナガノへの興味に他ならず、正直なところ「唱歌」「童謡」への興味が深かった訳でも、これまで愛聴してきた訳でもございませんでした。しかし、フランス近現代音楽への造詣深いナガノが、よく知る本邦に伝わる歌を如何に料理するのか興味が湧いたのも正直なところでございました。要するに、原曲の有するイメージを壊すことなく、それでいて新たな装いを如何に纏わせて表現するのか……への興味でございます。ありがちなのは、素朴な民謡にゴージャスな厚化粧を施して、原曲の有する素朴さをぶち壊してしまうことであります。その点で、拝聴しての印象としては、ジャン=パスカル・バンテュスによる編曲は原曲に就かず離れずの絶妙なオケ伴をつけており、違和感を一切抱かせない優れた仕事であると申してあげることができりと存じます。それどころか、日本の歌の持つ、どこか哀愁を内包する持ち味を理解して編曲されていることを感じさせます。その力量に大いなる感銘を受けた次第でございます。実際のところは随分と異なるのでしょうが、一聴しての第一印象としては、フランスの作曲家ジョゼフ・カントルーブ(1879~1957)が、フランスのオーヴェルニュ地方の民謡にフランス近代音楽のオーケストレーションを施した名作中の名作『オーヴェルニュの歌』に近い世界観でございます。

もっとも、当方の愛聴してやまない『オーヴェルニュの歌』の音盤は、ソプラノがドーン・アップショー、伴奏をケント・ナガノ指揮リヨン国立歌劇場管弦楽団が担当したものであることも(エラート原盤)、斯様な印象と大いに関係しておりましょう。おそらく、ナガノは大いにカントルーブを意識した音づくりを心がけたのではないかと推察するものでございます。従って、『オーヴェルニュの歌』に親近感を感じることのできる方であれば、本盤も是非に……とお薦めをさせていただきます。また、カントルーブを未だお聞きになったことがない方であれば、それは何と幸福なことかと存じます。何故ならば、あの素晴らしくもリリックな世界を知る喜びが残されているのですから。ただ、この作品は歌い手を選びます。一寸でも表現過多となれば、忽ちの裡に可憐なる世界観が崩壊してしまうからです。それほどにデリケートな表現性が求められる作品であると確信いたします。その点、ナガノとアップショーの競演盤は絶対的なお薦め盤でございます。素朴な民謡の旋律を支えるのが、クロード・ドビュッシー(1862~1918)やモーリス・ラヴェル(1875~1937)を思わせる近代フランス音楽の和声なのですから、想像するだけもその世界の美しさを偲ぶことができましょう。「パイレロ」「向こうの谷間へ」「一人のきれいな羊飼い娘」「牧歌」「3つのブーレ」「アントゥエノ」等々……、耳にする度に、未だ一度も脚を運んだこともない、フランスの中南部の中央山塊(マシフ・サントラル)の中心を占めるというオーヴェルニュ地方の風物・光景が、イメージとして目に浮かんで参ります。

もう一枚、アップショーに比べると少々素朴に傾きますが、もとより原曲は民謡でありますから、そのことが寧ろ美点ともなるネタニア・ダブラツがソプラノを務める音盤も当方のお薦めでございます。因みに、アップショーは、こうした素朴な味わい有する歌の表現において、右に出る者がいない名手だと存じます。もしご興味があられましたら、名作『弦楽のためのアダージョ』で知られる(ハリウッド映画『プラトーン』で虚しき戦争のシーンで印象的に用いられました)、アメリカの作曲家サミュエル・バーバー(1910~1981)の『ノックスヴィル1915年の夏』をお聴きくださいませ。本作は、ジェイムズ・エイジーの散文詩をテキストに作曲されたソプラノと管弦楽のための作品であります。テネシー州の小都市ノックスヴィルで子供時代を過ごした、幸福な家族との想い出、古き良きアメリカの情景・音・薫りの数々を、あたかも衣擦れのような肌触りを思わせるオーケストラ伴奏によって歌い上げる作品です。幼少期の、素朴ではありながら、何処か明るい願いと将来への漠たる不安がない交ぜになった揺れ動く心情を、余すところなく掬い上げて歌いきるアップショーのソプラノは圧巻です。目の前に古きよきアメリカの夕暮れの風景が広がるかのような、限りなく美しくも繊細なる織物を目にする思いとなります[デイヴィット・ジンマン指揮セント・ルカス管弦楽団(ノンサッチ原盤)]。その意味でも、アップショーほどに曲の有する世界観との親和性を有する歌姫はいないと確信するものでございます。

そうでした、最後にもう一つ追加させてください。それは、『SHOKA』はカナダで収録された音盤でございますが、歌唱は全て日本語によっております。何よりも驚嘆させられるのは、ドイツが誇るコロラトゥーラ・ソプラノであるディアナ・ダムラウ、及びモントリオール児童合唱団の日本語発音が、ほぼほぼ完璧に近いことでございます。往々にしてありがちな、余りにも英語っぽい日本語発音で歌われることに鼻白らむことなく、瞬く間に「唱歌・童謡」の世界に引き込まれること間違いなしでございます。多少「タチツテト」音で怪しくなるところはございますが、全く気にならないほどのレヴェルでございます。いや、むしろ内容を理解して、日常的に全く用いることもない日本語での表現をここまで成し遂げたソプラノとカナダの子供たちに、心底の喝采を捧げたいと存じます。これには大いに感銘を受けたことを付加させていただきます。

 

 

 千葉市以内で新たな「友情人形」の発見か!? ―アメリカ生まれ「青い目の人形」の来し方と行く末―

 

7月29日(金曜日)

 

 数日後には8月の声を聞こうという時季となりました。本来であれば真夏の陽射しがジリジリと照り付けているころでしょうが、今年は執筆時の7月末段階で申せば、まるで梅雨末期の状況という趣であります。滝のような降雨が断続的に続き、雨がやめば途轍もないムシムシした陽気に心底嫌な思いとなります。「戻り梅雨」とは本来“夏から秋にかけて”、つまり9月後半からの時節にこそ用いる用語なのでしょうが、こういうのを如何に称するのでしょうか。関東での観測史上最短の「梅雨」といい、梅雨明けになってからの長引くジメジメ陽気といい、それに当て嵌る用語が追い付かない程の、驚くような気候変動が生じているのでございましょう。

 いやはや、小生の残された余生などは極々僅かにすぎませんが、子々孫々の時代における地球についての危機感を改めて目の当たりにする想いでございます。できる限りのことはしているつもりではございますが、更に個人的に工夫をしていく必要がありましょうし、何よりもその場限りではない、将来的な地球環境保全を目指した戦略を構築していかねばなりますまい。最早手遅れなのかもしれませんが、目の前の環境対策が果たして適切なものであるのかも含めて再検討し、もし誤っているのであれば「改めるにしくはなし」の覚悟を決めることだと思います。「巨大プロジェクトの中断には大きな損失が生じる」「だからとりあえずは遂行する」などと言った余裕は最早存在しないのではありますまいか。個人的に実感することを一つ申し上げるとすれば、倅が小さな頃は、東京の下町にある自宅の小庭でも、夢中になって虫取りをできるほどの昆虫がおりました。しかし、たったの20年後の現在では、そうした昆虫の中には最早全く目にすること無くなった種が多々ございます。その急速なる激減振りは、むしろ驚異的なほどであります。「虫がいなくなって結構じゃないか」とのご意見もございましょう。しかし、生態系の底辺に位置づく昆虫の滅失は、その上位に位置づく動物の食物の消失を意味します。食物連鎖の理屈から申せば、近い将来の“人間様”の食糧難に直結するであろう大問題でもあることに気付くべきでしょう。勿論、気候変動による陸上・海中の植物の減少も全く同じ結果をもたらします。

 さて、本題へと移ってまいりましょう。歳の改まった約半年程前のことです。とある筋から「千葉市内に在住の方の御宅に『友情人形(「青い目の人形」と称されることが多いのですが「フレンドシップ・ドール」が元来の呼称ですのでこちら正式名称です)』と思われる人形があるので一度確認していただきたい」との連絡が本館に入りました。その連絡を受けた時の当方の想いは、正に「心臓が飛び出る」と言って過言ではないほどの驚きに包まれたようでした。「とうとう、この千葉市からも『友情人形』が見いだされたのか!!」との感慨に胸が熱くなりました。ただ、実際にその人形をこの目で見て、果たしてホントウに『友情人形』であるか否かを見極めねばなりません。しかも、その由来を所有者の方から聞き取り来歴を明らかにせねば、早とちりの「糠喜び」に終わります。そこで、早速に御教示いただいた所有者の方と連絡を取り日程を調整、3月末日に稲毛区小中台町のご自宅にご訪問をさせていただくことになりました。そのことにつきましては、追ってお話をいたすこととして、ご存知の方も多かろうとは存じますが、この『友情人形』の概要をご説明しておきたいと存じます。そのためには、まず時計の針を百年以上も巻き戻すことから始めねばなりません。

 明治末期の日清・日露戦争以後の日本による大陸進出は、同じく中国への進出を目論んでいたアメリカとの権益を巡る緊張を高めることになります。同時に、北米大陸への日本人移民の増加により、アメリカ本国では白人の雇用状況が脅かされていることへの反発が高まっておりました。こうした情勢下、アメリカ国内では、人種的偏見も背景とした大規模な日本人移民排斥運動が発生することになります。そして、大正13年(1924)日本からの移民を排斥する法案が可決されたことから、日米関係は更に悪化の一途を辿ることになりました。それを憂えたのが、かつて20数年にも亘って日本に滞在し、英語教師を務めた経験を持つ、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック(1860~1945)という人物でありました。彼は、子供同士の交流から両国の民間親善を始めることで両国の関係改善を図ろうと、予て親交のあった日本の渋沢栄一(1840~1931)に提唱しました。日米関係の悪化を何にも増して憂えていた渋沢も、これに心よりの共感を示し、日本の文部省や外務省にも働きかけて本事業への協力を取り付けることになるのです。また、経費については渋沢関係の財団が大部分を負担する形をとったのです。ここには、国家間の公式ルートではない、所謂「民間外交」の在るべき姿を見ることができましょう。如何にも渋沢らしい活動と思わされます。「日本資本主義の父」は、決して自己利益のみに血道を挙げる守銭奴ではありませんでした。以前にも申し上げましたが、かれは決して「財閥」を形成することもありませんでした。常に「公共」を意識した大資本家だったのです。

 その事業が、アメリカの子供たちから日本の子どもたちへ『友情人形』を送る活動だったのです。ギューリックは、日本人が3月の「雛祭り」に人形を飾ることを良く知っており、3月3日「雛祭り」に間に合うよう、昭和2年(1927)約12.700体もの「フレンドシップ・ドール(友情人形)」をアメリカの子ども達から日本に送ることになりました。アメリカでは、男子はバザーや野外劇などを開いて資金を集めて人形を購入し、日本へ送るための旅券(パスポート)の手配等の事務仕事を担い、女子と母親は人形の衣装や付属品を手作りしています。また、学校では人形交流の意味を児童たちに理解してもらうために、日本へ行き着くまでの道のりや日本の文化などを紹介することを教育の一環として実施までしております。上述の如く、人形には一体一体にパスポートが作成されました。そこにはアメリカの子供たちによって命名された「名前」や、友情の手紙や手荷物が添えられてもいたのです。このプロジェクトに関わったアメリカの子どもと保護者、教師、関連団体等は、凡そ260~270万人にものぼると言われます。

 さて、日本の雛祭りに間に合うように船便で送られた人形ですが、東京・大阪での盛大な歓迎会を終え、日本各地へと配布されることになりました。ここでは、詳細については触れませんが、逆に、日本からお返しとして市松人形58体がアメリカに送られております。アメリカでも盛大な歓迎会が行われており、日米関係の好転に寄与したといいます。各県へ配布された「友情人形」でありますが、その内、千葉県には214体が寄贈されております。千葉女子師範学校講堂での歓迎会を経て、選ばれた小学校・幼稚園に引き渡されました。それぞれの学校でも大いに歓迎され大切にされたようです。しかし、今日まで残っている友情人形はたった11体に過ぎません(全国的にみても残存数は350体弱です)。何故でしょうか。それは、昭和16年(1941)の日米開戦が、『友情人形』の存在意義を一変させることになったからに他なりません。友情人形はアメリカから送られたことで、一転して敵視の対象となり、戦意高揚のために廃棄されたり、敵愾心を煽ることを目的に、子ども達の前で焼却されたり、竹槍で突かれるなどの無残な扱いを受けることになったのです(学校によっては処分方法を児童に話合わせて決めさせた学校すらあったのです)。同じ条件にあったアメリカでは、58体の市松人形のうち、今でも50体近くが現存していることに鑑みても、この日本の状況は余りにも哀しい教育の「黒歴史」の一つに他ならないと思う次第でございます。それでも、極々僅かな例外に過ぎませんが、アメリカの子供たちからの好意を無にして人形を処分することは、到底忍び難いと思われた“心ある先生(管理職である校長先生)”の存在が、何体かの『友情人形』を救い、今日に至っていることを、私たちは決して忘れてはならないと思います。因みに、千葉県内での各郡市への配布総数と現存数の状況を以下に御紹介させていただきます(2022年現在)。因みに、一覧表中の( )内はパスポートが現存する等によって明らかとなる『友情人形』の名前となります。

 

千葉県内への合計配付数214体(その内の合計現存数11体)


◎葛飾郡:配付総数30体【現存なし】
◎印旛郡:配付総数23体
【現存数1体】
・「佐倉幼稚園」(ナンシー・メリー)
◎香取郡:配付総数25体
【現存数3体】
・「香取小学校」(メリー)[当時の学校日誌には「エリザベス」とある]
・「小見川小学校」(ドロシー・ヘレン)
・「小見川幼稚園」(メーイ・ホース)
◎千葉郡:配付総数10体【現存なし】
◎千葉市:配付総数5体【現存なし】
◎市原郡:配付総数13体【現存なし】
◎海上郡:配付総数12体
【現存数1体】
・「旭幼稚園」(イロエズ)
◎長生郡:配付総数11体【現存なし】
◎山武郡:配付総数17体
【現存数1体】
・「成東小学校」(アリス・プレーブル)[山武市有形文化財指定]
◎匝瑳郡:配付総数7体【現存なし】
◎君津郡:配付総数:21体
【現存数2体】
・「松丘小学校」(アンヌ・ノーブル・ラメルサンガール)
・「佐貫小学校」~発見された場所は同小学校跡地に建てられた佐貫中学校
◎安房郡:配付総数24体
【現存数3体】
・「館山小学校」(メリー)~現在個人所有。
・「東条小学校」(ベッティ)
・「富浦小学校」(メリー)
◎夷隅郡:配付総数16体【現存なし】

 

 

 さて、時計の針を再び本年3月末日に戻しましょう。小中台町にある瀟洒なご自宅に訪問させていただき、ご挨拶もそこそこに、逸る気持ちを抑えつつ早速に「青い目の人形」を拝見をさせていただきました。少し色あせた洋服を身に纏った人形の背丈は30cm程。まず、その姿形から直感的に紛れもなく昭和2年にアメリカからやって来た『友情人形』に間違いないと思いました。仔細に拝見させていただくと、当時のアメリカの人形メーカーの社名の刻まれるメダルがあります。この時日本に送られた人形は、ドイツ製等々のビスクドール(素焼きの人形)は極めて少なく、その殆どがメーカー既製品のコンポジションドール(パルプや大鋸屑等を練った材で成形され、乾燥させた上で仕上げ塗りをして完成させる人形)であります。また、本人形は、スリーピングアイ(瞼の開閉機能)があり、現在音は出ないようでしたが、かつては「ママ―」と泣いたとの所有者の証言がございました。保存状態によっては罅割れが出てしまう個体も多いようですが、傷一つない宜しく素晴らしい保存状態であることを確認いたしました。ただ、布製靴の劣化が激しかったため、所有者が新たに製作したとのことです。

 そして、肝心要の来歴であります。聞き取り調査によれば、人形は所有者の出身地である長野市内のご実家に伝わったものであり(篠ノ井町で近世から医業を営んでおられた旧家)、当時国民学校の訓導(教師)を務めていらした御母堂が、当時奉職されていた国民学校の校長先生から、くれぐれも内密にと因果を含まされて保管を託されたとのことでした。戦後になっても御母堂は家の外でそのことを一切話すことはなく物故されたといいます。また、家族にもその学校名については明らかされなかったようです。また、付属していたパスポートもあったかもしれないが、数年前の集中豪雨被害でご実家の水没に逢われ、古い資料の全てが壊滅的な損傷をうけたため処分してしまったことから、その折に廃棄された可能性が高いとも。本人形は、その直前に偶々実家から千葉へと引き取ってきたため無事であったことも分かりました。千葉市に由来する『友情人形』ではなかったことは、少々残念ではございましたが、新たなる『友情人形』が発見されたことは何にも増して喜ばしいことと申すべきでございます。所有者の方は、永く千葉市にお住まいになられていらっしゃることもあり、本館への御寄贈を望まれましたが、本来が現長野市の学校に配付された『友情人形』であり、アメリカに続く第二の故郷に還してあげることが人形にとってもよいことであり、地元に残る資料から本『友情人形』の来歴も明らかにできる可能性が高いことも御説明させていただきました。その結果、幸いに所有者の方にも御理解をいただくことができました。その後、本館から長野市立博物館に連絡し意向を確認させていただいたところ、是非とも長野市でお引き受けしたいとのお考えでございました。そして、去る5月末日に長野市立博物館から2名の学芸員が来葉され、新発見の『友情人形』はその日のうちに、第二の故郷である信濃の地へと旅立っていきました。風の噂ではございますが、長野市博では鋭意調査を継続されておられるとのことですが、現状では本人形の来歴について史料と証言とが一致しない点もあり、継続調査を進めておられている状況にあるようです。つまり、現状では未だ『友情人形』であると100%確定できるだけの証拠を見いだせていない段階ということでございましょう。実際の人形を実見した範囲では、その可能性は極めて高いものと思われますので、今度に確たる証拠が見いだされることを大いに祈念するものでございます。

 また、当日は千葉テレビによる取材が入り、当日夕刻の報道番組でその模様が放送されておりますので、その様子をご覧になった方もいらっしゃいましょう。当日は小生も同席をさせていただき取材もうけました。これらの内容は、8月の「終戦記念日」前後放送予定の報道番組で改めて取り上げるとの事でしたので是非ともご覧いただければと存じます[今回千葉テレビに確認したところ、8月16日(火曜日)21時30分~の「newsチバ9時30分」にて放送予定とのことでした。※放送後ネット展開あり]。因みに、昭和2年の段階で、長野県の学校・幼稚園に配付された『友情人形』は全部で286体。その内の29体が現存しているとのことです。つまり今回の里帰りで、残存数は30体へと変更されるかもしれないのです。千葉県よりも配付された数が多いとは申せ、長野県の残存率はナカナカに高いものがございましょう。ここに「信濃教育」に基づく県民性の精髄を見るように思うのは当方だけでしょうか。公務員とは、公務に忠実であることが求められるのですから、『友情人形』を処分したことを一概に指弾されるべきことではないことは重々承知しております。例えば、外務省の命令に従わず、当時リトアニアでユダヤ人にビザを発行した杉原千畝への非難もその点にこそございましょう。しかし、それにも関わらず、職務に抗ってまでも、“教師”として、更には“人間”として如何にあるべきかを最も重要な物差しに、果敢なる決断を下された管理職が多く存在したことに、小生は大いなる勇気を与えられるのです。そのことを誰も非難することなどできますまい。勿論、その判断には多大なる苦衷が伴ったことでしょう。同じ教職にあった身として、戦時下の「信濃教育」の在り方に頭が下がる思いでございます。「天晴れ!!」以外の言葉が見つかりません。

 ここでそのことへの賞賛の想いを込めて、明治33年(1900)に成立した「県民歌」、かの名高き『信濃の国』を掲げさせていただきましょう。到って格調高き歌詞に心打たれます。長野県民では、全ての学校でこの歌を学びます。従って、基本的に長野で生まれ育った県民で、この歌を知らぬ者は存在しません。是非皆様も心して歌詞を熟読玩味されていただければと存じます。この曲は、元来が長野県師範学校附属小学校の郷土唱歌としてつくられ、後身に当たる信州大学教育学部附属長野小学校校歌としても歌い継がれてはおりますが、同時に戦後も実質的な「長野県歌」として歌い継がれて来たといいます。そのことを前提に、昭和43年(1968)の県告示で正式に長野県歌として制定されたとのことです。その点でも、本歌が「信濃教育の精華」と称することも強ち的外れとは言えないものと存じます。なお、余談では御座いますが、昭和39年(1964)に作られた千葉県民歌もありますが、皆様はご存知でしょうか。千葉県のホームページでもその推奨をされておりますが、如何せん長野県とはその年季とその普及に掛ける意気込みが異なりましょう(両県の「県民歌」ホームページを比較されんことを!)。残念ながら「千葉県歌」は、県民にも殆ど知られることがないのではございますまいか。少なくとも当方にとっては、全くの初見であったことを申し添えておきたいと存じます。
 

 

県歌「信濃の国」

作詩 浅井 洌
作曲 北村 季晴


1 信濃国は十州に 境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに 万足らわぬ事ぞなき

2 四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳
浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川
南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり

3 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて 蚕飼の業の打ちひらけ
細きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり

4 尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床
木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋
くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ姨捨山
しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる

5 旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆此国の人ひとにして 文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず

6 吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山
穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

 

 

 最後に、現在の千葉市域内にて『友情人形』が配布された学校名を御紹介させていただきましょう。人形が配布された昭和2年(1927)に、千葉市は「一町一小制」を敷いておりましたので、現在とは小学校名が異なりますが現在の学校名も並記させていただきます。また、当時は千葉郡・山武郡内にあった学校も、後の町村合併によって現在の千葉市立小学校となっているところは一覧表に加えてございます。現段階では全ての学校・幼稚園において「現存せず」と報告されている『友情人形』が、今回のような経緯によって新たに見いだされることを心の底より祈念するものでございます。また、本体が発見されずとも、当時の「学校沿革史」「学校日誌」等々に、関連記録が残ってはおりませんでしょうか。該当の学校には是非ともご確認をお願いできればと存じ上げます。また、当時在籍されていた児童(現在95歳程でしょうか)で、お元気な方がいらっしゃいましたら、是非とも聞き取り調査を敢行していただければと期待するものです。

 

 

『友情人形』が配布された現千葉市域の13校園


【千葉市】
◎千葉県師範学校附属幼稚園(現:千葉大学教育学部附属幼稚園)
◎自由幼稚園(現存せず)
※千葉寺町(町名変更により後に葛城町)にあった大正15年創園の
私立幼稚園だが、戦時中から戦後すぐの間に廃園した模様であり、
昭和24年の戦後資料では確認できない。昭和初期の中心街を描い
た松井天山の鳥観図に、旧制千葉中学校(現:県立千葉高校)に接
して描かれる「自由幼稚園」を見ることができる。
◎二部(現:本町小学校)
◎三部(現:寒川小学校)
◎四部(現:登戸小学校)

【千葉郡(内:現千葉市域)】
◎幕張小学校
◎検見川小学校
◎都賀小学校
◎白井小学校
◎蘇我小学校
◎生浜小学校
◎誉田小学校

【山武郡(内:現千葉市域)】
◎土気小学校

 

 

 

 我が国の「ツバメ(燕)」と歴史・民俗から見る接遇の在り方(前編) ―または 人と動物との距離感と共生について―

 

8月5日(金曜日)

 

 

【詠題:海上夕立】(「武州江戸歌合」より)

 二番左  しほをふく 沖の鯨の わざならで
一筋くもる 夕立の空 [木戸高範] 

 


 二番右  海原や 水まく龍の 雲の波
はやくもかへす 夕立のあめ [太田道灌]
 

 

 夏真っ盛りの8月を迎えました。今回は、それらしき詠歌から始めてみました。戦国期の江戸城を舞台に繰り広げられた「歌合」から2首。引用は原典ではなく、小川剛生『武士はなぜ歌を詠むのか-鎌倉将軍から戦国大名まで-』2016年(角川選書)からとなります。道灌太田資長(1432~1486)は申すまでもなく戦国前期に関東を舞台に活躍した武将であり、これまで山内上杉氏の風下にあった扇谷上杉氏に興隆をもたらすことになる、当家「家宰」の立場にあった人物でございます。また、後に徳川家康が本城と定め、“天下城”ともなる「江戸城」を初めて築いた人物としても知られましょう。実際のところ道灌の江戸城が如何なる結構であったのかはよく分かっておりません[近著では斎藤慎一『江戸-平安時代から家康の建設へ-』2021年(中央新書)が、中世の江戸と江戸城に迫った手頃な論考であろうかと存じます]。それにも関わらず、道灌築くところの本城が夙に“名城”とされる理由は、名のある五山僧がその偉容を讃えた漢詩が今に伝わり、江戸の繁栄と城の威容とが具体的に知られることが大きいからだと考えます。これについて御紹介することは今回の目的ではございませんので、差し控えさせていただきますが、それら詩中には、江戸が関東における「要衝」の地であることに加え、西に武蔵野と富嶽を、東南に隅田川を、北に筑波を、そして南には広大なる内海を眺む「景勝」の地であることが讃えられます。一方で、道灌は決して武威一辺倒の“キン肉マン”的存在にあらず、「山吹伝説」で知られるように、和歌の道で名を成す教養高き一流の“文化人”でもあったのです。 

 従って、道灌の江戸城内には、防御に優れるだけに留まらない、風流を愉しむための機能を併せ持つ、幾つもの楼閣建築が存在しました。因みに、その内の一棟「静勝軒」は、江戸初期に下賜された土井利勝によって佐倉城内に移築されております。幸いに明治初期に撮影された解体工事中の写真が現存しており、佐倉城内の他の櫓・城門建築様式とは大きく異なる、下見板張の古風な楼閣建築であったことが判明致します。また、元来は三重櫓であったものを二重に減築したようにも見えます。こうした楼閣で、道灌は屡々歌会を催していたことが知られ、標記和歌2首は、文明6年(1474)6月17日に行われた「武州江戸歌合」からのものとなります。

 「歌合」とは、平安期から続く、同題に拠る詠歌を左右対として競う一種の遊戯であり、判者によって勝敗がつけられます。因みに、本「歌合」の判者は心敬(1406~1475)でありましたが、場合によっては勝敗を参加者の入札(投票)で決めることもありました。これは都では見られない東国的な在り方で、しかも如何にも室町時代の社会性を象徴するものであると小川氏は述べておられます。誠にしかり。「歌合」二番で道灌と対となった木戸高範(1434~1502?)の出自である木戸氏は、鎌倉公方に歴代仕えた奉公衆で下野国足利庄木戸郷を本拠とします。父が足利持氏の短慮を諫めて自害したことから、将軍の命により上洛し、冷泉持為(1401~1454門下に入って和歌の道を深めたとのことです。そして、再び関東へ下り堀越公方足利政知(1435~1491)に仕えております。心敬・太田道灌とともに当時の関東歌壇を主導した人物でもあるのです。それにいたしましても、両者の詠歌に接すれば、江戸城内楼閣からの眺望と思われる、極めて雄大な光景が詠み込まれていることに驚かされましょう。木戸孝範の、内海に落ちる一筋の夕立を潮吹き上げる鯨に見立てた趣向、対する道灌の「夕立の空」を水まく龍の雲の波と捉えた瑞々しい感性!!「歌枕」など“何処吹く風”の、都人には決して思いもつかぬ「三十一文字」の世界に感銘をお受けになりませんでしょうか。当方は、何とも壮大なるランドスケイプを備える清新かつ雄渾な作風に、心底晴れ晴れとした思いにさせられます。これをお読み下さった皆様が、少しでも“涼味”をお感じ取りいただけましたら幸いでございます。

 さて、今回は、我が国の夏を彩る鳥である「ツバメ(燕)」(以下、一文字で済みますので基本的に「燕」で通します)について採り上げてみようと存じます。一口に「燕」と申しても様々な種類がおりますが(イワツバメ等々)、ここで採り上げるのは、我々が街々で目にする種である「燕」に限定をさせていただきます。そんなこんなで、今回もまた「なんで燕なんだ!?」との声が聞こえてきそうです。その答えは、過日たまたま拝読に及んだ、千葉県生物学会監事の成田篤彦氏執筆に掛かる『千葉日報』連載記事「房総の草木虫魚」378回「ツバメ」(令和4年7月17日)で、この鳥について初めて知ることが余りにも多いことに大いに驚かされたからでございます。そのことは、追々記させていただくこととして、これほど日本人にとって親しまれ、自身も毎年その姿に出会えることを楽しみに、幼少期から今日まで過ごしてきた大好きな鳥にもかかわらず、ほとんど何も知ってはいなかったことに愕然といたしました。おそらく、こうした状況は当方に限らず、「日本野鳥の会」会員の方でもない限り、多くの皆さんにとっても共通するものではありますまいか。そこで、小生としましても、長い付き合いである“燕くん”への贖罪の想いも手伝って、書籍を仕入れ若干の知識も補完いたしました[大田眞也『ツバメのくらし百科』 2005年(弦書房)]。「大きなお世話だ……」との声も聞こえてきそうですが、一寸ばかり皆さんにもお裾分けを……。仮にも「そうなの!?」との発見が一つでもございましたら、当方のお節介にも少しばかりは意味があったということになりましょうか。

 我が国で生活を営む人々にとって、古来最も深い関わりを有してきた鳥の一種が「燕」だと言っても、決して過言ではございますまい。その証拠に、燕に関する多くの言葉等々を幾つも想い浮かべることができましょう。“急に反転する”ことを表す「燕がえし」は、高速飛行中鮮やかに方向転換する燕の姿が由来でしょうし、「燕尾服」は文字通り二股に分かれる燕の尾の形状に由来しましょう(二股の尾が長く立派な雄が雌燕にはモテるそうです)。また、あまり好ましき用いられ方をいたしませんが、「若き燕」なる女性から見た年下の恋人を指すコトバもございます。これは明治時代の女性解放運動で有名な平塚雷鳥が若き恋人と付き合ったことに端を発しているそうです。雄が頻繁に雌の巣に通うことからの例えだそうですが、燕は子育てで餌を運ぶために頻繁に巣に戻るのであって、燕にしてみればとんだ濡れ衣でございましょう。一寸した口直しですが、秋の季語には「燕去月」なる旧暦8月を指し示す風流な用語すらございます(これについては後述)。そう言えば、“気象言葉あるある”として「燕が低く飛ぶと雨が降る」なる言い習わしもございます。これば、湿度が高くなると燕の餌となる虫たちの羽が重くなり、低空飛行する傾向があることからの命名とのことです。

 その他、九州新幹線の列車愛称として用いられる「つばめ」がございます。これは、前身としての九州における特急の愛称を引き継いだものでありますが、特急名称としての「つばめ」の歴史は昭和5年(1930)まで遡ります。当時、東海道線の東京と神戸を結ぶ花形特急列車に採用された愛称を嚆矢といたします。そして、その列車を牽引した花形蒸気機関車こそC62型2号機であり、その左右の除煙板に配置された「スワロー・エンジェル」の雄姿は、鉄道ファンなら誰一人知らぬ者はおりますまい。戦後はそのままの姿で北海道函館本線を長く活躍の舞台とした2号機でしたが、現在は「京都鉄道博物館」(旧梅小路機関区)にて動態保存されております。従って、実際にその雄姿をご覧になられた方も多かろうと存じます。戦後も、151系特急電車にその名は引き継がれ、東海道・山陽新幹線開通後は、九州にその舞台を移して活躍、九州新幹線開通後にその伝統が継承されたというわけです。従って、その歴史は100年近くにも及ぶことになるます。別に、かつての“国鉄バス”も「燕」マークをエンブレムとしており、それは民営化後の“JRバス”にも引き継がれております。それほどに「燕マーク」は国民に親しまれている存在なのでございましょう。初夏に街の目抜き通りをスイスイと、俊敏を絵に描いたように飛び交っている姿は、公共交通機関の象徴とも目され、“国越(JR)特急列車”の愛称として相応しきものとして営々と引き継がれて参ったのでございましょう。少なくとも「すずめ」「からす」などの特急愛称は思いもつきません(他には「はくたか」「とき」「雷鳥」等の鳥名を冠した特急列車がございます)。もっとも、実際に我々が眼にする燕の平均的飛行速度は時速50km程のようです。かの雀ですら40km程では飛行するそうですから、さほどの高速とは申せますまい。しかし、危険が迫った時の瞬発速度は時速200km程にも達するとのことです。こりゃ、確かに“新幹線級”と申して間違いではありますまい。つまり、機敏な動きこそが“素早さ”を実感させる所以でございましょう。燕は、単に愛くるしいばかりではなく、あの小さな身体に途轍もない運動能力を秘めているのです。

 因みに、当方の応援する野球球団である「東京ヤクルトスワローズ」にも、横文字ではございますが「燕」の名が冠せられております。この名称は、前身の「国鉄スワローズ」(1950年)以来の伝統でございます(もっとも、その間にサンケイ新聞が経営母体の時代に一時「アトムズ」を名乗ったことがあります)。ここまで説明して、上述した特急の愛称としての「つばめ」と繋げて理解された方は“カン働き”の鋭い方でございます。そう、国鉄は伝統ある花形特急「つばめ」の愛称を、“縦のモノを横にして”球団名にも採用したのです。それだけ、当時の日本国有鉄道にとって、「つばめ」の愛称は「国鉄の象徴」とも言うべき重要なものであったと推察するものです。なお、球団マスコット名は、云わずと知れた「つば九郎」であります。この由来についてでありますが、王朝物語の濫觴と称すべき『竹取物語』に登場する燕は「ツバクラメ」と称されます。歴史的に申せば、それが後に「ツバクラ」と短縮され、更に「ツバクロ」と音変換され、今日の「ツバメ」に到っております。今日でも、地方では「ツバクロ」と称している年配の方に出会うこともございます。その点からしても、「つば九郎」名称とは、なかなかに教養ある方による命名と拝察いたすところでございます(しかも「九郎」はスタメン9名を表しておりましょう)。実にウィットに富んだマスコット名と、感心仕切りでございます。ファンならでは「贔屓の引き倒し」かもしれませんが。

 その「東京ヤクルトスワローズ」ですが、今シーズンも珍しく快進撃を続けており「こりゃホンモノだわい」とほくそ笑んでいたところ、コロナウィルスの猛威が襲い掛かりました。まさか、真の難敵がウィルスであったとは!?ところで、スワローズは、2試合ほどは対戦を休みましたが、その後は、2軍選手を動員して試合を続行しております。そして、それから確か6連敗したのではなかったかと記憶しております。しかし、同様に大量感染が発生した読売巨人軍(ジャイアンツ)が、未だにお休み状態なのは如何なることなのでしょうか。大相撲であれば、休んだ力士は「不戦敗」となります。勿論、ヤクルトの休みも同様に扱うべきであると存じますが、相撲と異なり身一つで戦っているわけではないのですから、2・3軍を動員して試合を行うべきでございましょう。雨天順延とは全く意味が異なる、単なる自己都合に他ならないと思われます。それでも試合が出来ないというのなら「不戦敗」とするのが適切だと存じます。何のために控え選手をこれほど抱えているのでしょうか。何らかの正式ルールが存在するのか寡聞にして知りませんが、少なくとも、小生は「大相撲の在り方」が理に叶っているものと考えます。皆様は如何お考えでございましょうか。最後は、話題が燕から明後日の方向に外れましたことを深くお詫び申し上げます。
(後編に続く)

 

 

 我が国の「ツバメ(燕)」と歴史・民俗から見る接遇の在り方(後編) ―または 人と動物との距離感と共生について―

 

8月6日(土曜日)

 

 燕来る 時になりぬと 雁(かり)かねは

国偲(しの)ひつつ 雲隠り鳴く

(大伴家持『万葉集』巻19)

 

 前編は、肝心要の本丸に到達できず、只管と周辺雑事ばかりに終始してしまいました。誠に申し訳ございませんでした。後編では心を入れ替えて、真面目に「燕」という生き物と日本人との関係性について迫ってまいります。燕とは、スズメ科ツバメ属に分類される鳥類で、北半球に広く分布しております。小さく見えますが、全長約17cm、翼開長は約32cmにもなります。体型は飛行に特化したもので、脚部は短く歩行には不向きであり、巣材を集める時以外に地上に降りたつことは殆どみられないとのことです。そして、我々が日本で燕を眼にするのは、繁殖のために市街地や集落に営巣する頃、つまり春から夏の終わりにかけてとなりましょう。それ以外の時期に燕はどうしているのかへの解答が、後編最初に掲げた家持作「万葉歌」に歌い込まれております。歌意は「燕が来る季節になったなと、雁は自分の故郷をしのびつつ、雲の上で鳴いている」となります。万葉集で「燕」を詠み込んだ唯一の詠歌であり、しかも主役は飽くまでも雁となっております。しかし、冬から春への季節の移ろいの情景が詠みこまれ、いみじくも燕と雁がそれぞれ夏と冬とを象徴する「渡り鳥」であることを伝える内容となっております。つまり、冬季に燕は他に渡ってしまっており、基本的に日本にはいないからであります。そして、雁と入れ替わるように春になって再び日本に戻ってくるのです。ここで“基本的に”としているのは例外があるからで、日本で越冬する一部の群れがおります(こうした個体を「越冬燕」と称します)。この「越冬燕」が見られるのは関東を北限とする西日本であり、これらには、何らかの事情で冬季にも日本に留まる「留鳥」となったものもおりますが、その主体はシベリア等の日本より北方を繁殖の地としていた比較的寒冷に強いグループが、温暖な日本南西部で越冬するために南下してきた群れと考えられるようです。つまり、これらも、「留鳥」としての形態をとっているのではなく、「渡り鳥」としての本質を有しているケースが殆どということです。

 つまり、我が国で眼にする燕とは、晩春から初夏にかけて、何れの地から海を渡って日本の地にやってきた「渡り鳥」ということになります。しかし、それを知ってはいても、燕は何処との間を行き来しているのでしょうか。渡っていく先は何処なのでしょうか??そして、毎年やってくる燕は同じ燕「番(つがい)」なのでしょうか??また、子育てを終えて雛が巣立った後に街で燕を見かけなくなりますが、「渡り」までは何処で生活しているのでしょうか(渡りに移行するまでには相当な期間があります)??改めて考えてみれば、小生のような素人にはわからないことだらけでありました。こうしたことに、見通しをつけていただけたのが、前編の最初で紹介をさせていただいた千葉日報の記事というわけです。それらを、一つひとつ解き明かしてまいりましょう。

 そもそも、日本人にとって、燕ほど身近に感じる鳥類はおりますまい。商店や人家、駅の構内を始め、歩道橋やガレージなどの人工構造物に営巣しております。伝統的な日本民家のような密閉性の強くない建築では、農家の内部に営巣することすら決して稀ではございません。こうなると最早人との同居状態となります。人が巣の直下を行き来するような、人との距離が極々至近の場所で野生動物が子育てするなど、本来はあり得ないことです。同じように人の至近で生活する鳥に雀(すずめ)がおります。彼らも野鳥には違いありませんが、大自然の中で出会うことはありません。中高時代に先輩から、山歩きをしていて雀に出会ったら集落が近いと思えと教えられたことを思い出します。つまり雀もまた、人と共生関係にある野鳥なのです。従って、雀も人家に営巣はいたしますが、燕のように人の目につくところで子育てすることは絶対にありません。人家でも屋根裏や垂木の隙間などの人目の届かないところで営巣いたします。しかし、燕は流石に地面から手の届くところには営巣しませんが、雛の姿が手に取るように見えるところで平然と子育てをしております。人に対する無防備さ、言い換えれば人との信頼関係とは、一体如何なることに由来するのでしょうか。しかも、驚いたことに、こうした状況は国外では必ずしも一般的ではないとのことです。つまり、欧米での燕の営巣場所が、人の日常生活空間の中に営まれることはないといいます。基本的には農作業小屋(納屋)等の軒下を中心とし、例外的に人類と出会う以前の記憶に由来しましょうが、例外的に木の洞や洞窟内に営まれることがあるといいます。それに対して、日本では人間のつくった構造物以外への営巣報告例はゼロだそうです。本邦を訪問された欧米の方々は、斯くも燕と人との距離が近いことに一様に驚きを隠さないと言います。

 しかし、日本人が如何なる動物との間にもこうした親密な関係性を有しているわけではないことは申すまでもございません。何故燕だけは例外なのでしょか。それには、弥生時代以来の水田耕作の在り方があると考えられるのです。例えば、雀が人間近くで共生するのは、餌となる作物の実る水田が広がっているからでございましょう。しかし、収穫量確保のために、農民は「鳴子」や「案山子」によってそれを避けようとします。つまり、その点で雀は歓迎されざる生き物となるのです。しかし、それは燕を対象とはしません。何故ならば、燕は穀物を餌とはせず、専ら昆虫を食しているからに他なりません。しかも、高速飛行しながら空中の虫を捕獲しているのです(水も水面すれすれに飛行しながら口にしています)。その昆虫の中には、人への健康衛生に有害な蚊・蠅は勿論、稲の食害虫であるセジロウンカや、稲の病気を媒介するツマグロヨコバイなども多数含まれております。その点で、燕とは、有害虫駆除によって稲の豊作を齎すという、極めて重要な役割を担う存在であることになります。現在でも、田植えの際に虫除けの呪いとして紙に燕をかたどったものを畔に立てる民俗を有している地域があったり、田の神祭を行う神輿に燕の装飾を有する神社が存在するなど、燕は豊作を齎す神の使いとして日本人に大切にされてきたのです。それだけに、燕を捕獲したり、虐めたり、巣を壊したりすると罰があたる(火事になる、眼がつぶれる)との口碑が広く伝わります。また、燕が毎年営巣する家は繁栄するとの言い伝えは、おそらく日本人の共有する民俗であり、燕が巣をつくると赤飯を炊いて祝う地域すらあると聞きます。だからこそ、日本における燕は、人を天敵とみなすことなく人家内に営巣するまでに至ったのでしょう。少なくとも、2千年を越える永い信頼関係が、遺伝情報として燕のDNAに組み込まれてきたのだと考えることができます。逆に、燕からしてみれば、人家への営巣とは、危険な天敵であるカラスや猛禽類と言った存在から大切な雛を守るため、またよく見られる雀などに巣を乗っ取られることを防止する、最も効果的な戦略であったということでもございましょう。日本人と燕との深い「共生関係」が、世界に稀なる燕の繁殖行動を生み出すことになったのです。

 さて、我が国において、燕は一夏に1~2回(稀に3回)の子育てを行いますが、南北に長い日本列島ではその期間には相当な時間差があります。概ね、関東南部で3月下旬から9月上旬、温暖な九州では3月上旬から9月下旬というのが一般的であるようです。それは、各地方における田植えから稲刈りの時期に重なることも分かりましょう。燕は、昼行性の鳥ですから、日の長いこの時期は餌の確保時間も長く、雛を短期間で育成するに最も適切な時期でもあるのです。しかし、夏の終わりの頃には燕の子育ても終わりを迎えます。我々も、これまで毎日のように目にしていた燕の姿が、ある日を境にパタっと目にしなくなることに思い至りましょう。泥と草とを唾液で固めてつくった巣から燕の姿が消え去ってしまうのです[巣を撤去しさえしなければ、翌年に戻ってきた燕が修繕を加えて使い続けられるそうですし、基本的には同じ番(つがい)が戻ってくることが多いようです]。消え去った燕は、一体何処に行ってしまうのでしょうか??直ぐに南へ渡ってしまう訳ではありません。そのことは、その年最初に巣立った幼鳥たちとも関わることです。何故ならば、巣立ち後の幼鳥は、親鳥が2度目・3度目の子育てを終えるまでは、巣立った後に何処かで「渡り」までの時間を過ごす必要があるからです。しかし、繁殖期から渡りに到るまでの「燕」たちの生活場所については長らく明確に知られることはなかったようです。それは日本に限らず欧米でも事情は似たり寄ったりで、例えば古代ギリシアの哲人アリストテレス(前384~前322)でさえ、「北國の燕は南国へ渡らず、その国で穴の中で丸裸で越冬する」(『動物誌』)などと、訳の分らぬ記述をしているほどであります。

 実のところ、所謂「繁殖期」を終えた親燕や早めに巣立った幼鳥たちが暮らしているのは、ユスリカやトンボなどの餌となる水生昆虫の豊富な河川や湖沼、更には水田といった水辺であり、しかも特定の場所に集まっていることが分かってきました。日中は、餌をとり、水浴びし、更に日光浴や羽繕い等で時間を過ごし、夜になると、水辺の葦原に多数で集まり、葦の茎に泊まって睡眠をとります。その塒(ぬぐら)入は、日没後20~40分経過してからとなり、暗い中を低空飛行してきて一気になされるそうです。また、翌朝の飛び立ちは小群に分かれて行なわれ、日の出前には完了する周到さであるため、数が多い割に人目につきにくいと言います(勿論他の天敵の動物にも)。道理で、巣立ち後の燕が街中から消えていなくなり、全く目にできなくなる筈です。こうして、渡りに移るまでの期間に、集団生活をしながら2,000kmをも越える飛行に必要な栄養分を、あの小さな身体に蓄えているのです。千葉日報記事でも、県内では市川市新浜、利根川沿い、印旛沼周辺などの葦原で100羽から数万羽の燕が塒をつくっていることが報告されております。

 そして、いよいよ南の越冬地への「渡り」の時がやって参ります。北は北海道から南は九州までの南北に長い我が国では、その時期がばらけるのは当然ですが、基本的に9月末から10月末までの凡そ1カ月間に集中するようです。
日本へ渡ってくる際の時期的なバラツキに比較すれば、“帰り”は相当に集中して行われることにお気づきになられましょう。冬季の気候を避けて早々に越冬体制に移る必要があるからだと考えられます。また、季節による風の影響も勘案しているものと考えられます。向かい風よりも追い風で飛行する方がエネルギー消費量は圧倒的に少なくて済むからです。そして、彼らは、日本列島の各地にある集住地を塒とし、転々としながら南へと移動していくものと考えられております。海上に移ってからは、海面近くを飛行し南西諸島、そして台湾等の島々を渡って移動していくようです。如何せん、北へ向かう雁のような大型の鳥類と異なり、小型である燕はできる限り飛行距離を短くし、体力を温存しながら移動をするのだと思われます。それでも、調査結果をみると、翌年には番の相手が前年と異なっている場合も儘見られると言います。要因は様々でしょうが長距離の移動で生命を落す個体も多いものと考えられるそうです。あの身体での「渡り」の負担は相当に大きいのだと想像されます。ところで、彼らの向かう先、つまり「越冬地」は何処なのでしょうか?日本では大正13年(1824)から足輪による標識調査が始められており、越冬地が何処かはかなりの程度で明確になって参りました。その結果、台湾、フィリピン、カリマンタン(ボルネオ)島北部、マレー半島南部、ジャワ島、ベトナム南部などの東南アジアであることが知られております。中でも、もっとも回収率が高いのがフィリピンとのことです。

 以上、千葉日報の記事から始まり、知っているようで知らなかった燕のあれこれについて、分かったことをざっくり纏めてみました。東京葛飾でも子供の頃に頻繁に見かけた、商店街の目貫通りをすいすいと飛び交う燕の姿も、軒下でよく見た御椀型の泥製の巣も、滅多に目にしなくなりました。町自体が舗装・コンクリート化されてしまい営巣材料を確保できなくなったこと、家屋の高気密化により日本の民家が営巣に適さなくなってしまったこと、更には、前稿でも御指摘しましたように街から昆虫が激減していること等々、彼らの生息環境は日に日に悪化していることも大きな要因であろうかと推察するところでございます。それでも、山の神によれば、江戸川に接する古い家並の残る同区内の柴又では、まだまだ燕は健在と言います。そういえば、2年ほど前まで勤務していた千葉市立高浜中学校にも沢山の燕がやってきました。市内随一の面積を誇る校庭を飛び交う燕の姿を毎年楽しみにしておりましたが、何よりも生徒用昇降口軒下に幾つかの巣を造り子育てもしておりました。これからも高浜の地に毎年燕が来訪してくれることを心の底から祈りたいものであります。また、同時期にはJR京葉線「稲毛海岸駅」構内にも営巣しており、通勤の際に構内を飛び交う燕を愛でることができました。巣の直下には毎年のように駅長さんによる「糞」への注意看板が掲げられておりました。駅長さんのお心遣いと、それを許容されている稲毛海岸駅周辺住民の皆さんの御気持ちには、毎年大いに心打たれておりました。稲毛海岸から離れて2年と4カ月強。今でも同じ光景が見られるのであれば嬉しいのですが、実際のところは如何なものなのでしょうか。

 昨今、市街地への野生動物の進出が社会問題化しておりますが、そもそも、彼らも好き好んで都市部に進出するわけではありません。人間による開発等により生活範囲が狭められて生活が立ち行かない等、止むに止まれぬ事情があって人里へ出てきての接触が頻繁に生じている可能性が高いのではありますまいか。そうした自覚を人間が忘れてはなりますまい。元来、野生動物の生活エリアにずけずけと踏み込んできたのが我々人間の方なのですから。勿論、例えば燕と熊の出没とを同列に扱うことができないことは論を待ちませんが、最早対処療法では早立ち行かなくなっているのだと存じます。彼らの生育環境の維持こそが必要なのでありますまいか。当方は、何でもかんでも動物中心主義に発言される、所謂「動物愛護家」と称される方々の発言には屡々鼻白む思いにさせられますし、正直なところ苦々しい想いで一杯であります。しかし、それだからと言って、生物多様性を確保することが人間の生存に欠かさざるべき条件であることも事実なのです。昨今、人と動物との間に頻発する様々な不幸を眼にするにつけ、燕と日本人の幸福な関係性の構築と、両者の望ましき共生の歴史に思いを馳せざるを得ません。その関係性構築の歴史に、解決へ向けての何らかのヒントがあるとよいのですが。


 

 夏に跳梁跋扈する「魑魅魍魎」の世界(前編) ―または 多彩なる本邦「妖怪」の面々について―

 

 

8月12日(金曜日)

 

 本稿が世に出るのは12・13日となります。東京等一部地域では明治以降の太陽暦への移行に適合させて7月15日前後での実施となりましたが、国内の殆どの地域では明日から4世間が、一年でも最も重要な先祖祖養のための「盂蘭盆会(お盆)」の時節となります。コロナ禍流行の拡大もあって、ここ数年間は「生まれ故郷」への里帰りを控えて来たご家庭が多かったと思われます。本年も、昨今の流行急拡大のまっただ中でありますが、政府は特段の行動制限も行わないとのことであります。個人的には、都会から地方へウィルスが拡散することを大いに懸念するものでありますが、久しぶりに大規模なる人流の移動が見られるかも知れません。これが、当該季節に所謂「盆休み」の設定される理由であることは云うまでもございません。もっとも、今日では、本来の目的以上に年末年始と併せ、年に2度故郷に戻って爺・婆と孫との顔合わせの機会とすることが大きなモノになっておりましょう。しかし、必ず先祖供養の為の墓参りだけは欠かすことはありますまい。

 こうして、今日でも地域毎に多様な形態で執り行われる「盂蘭盆会」の習俗は、「民俗調査研究」の分野でとりわけ重要なテーマでもあります。千葉県内でも本市の南隣にあたる市原市は、「盂蘭盆会」は勿論のこと、古くからの生活習慣を大切に残そうとされている地域として県内でもよく知られております。市原市ではこの10月に新博物館が開館致しますが、おそらく「民俗」関係展示の充実には目を見張るモノがございましょう。昭和の初めから東京の東部に居住する我が家では、今も残る「焙烙」で「麻幹(おがら)」を焚いて先祖の送り迎えをいたしました。胡瓜や茄子の馬牛を仏壇に供えること、盆が終わってそれらの盆道具一色を近くの中川に流すことも(ある時期から河川へのゴミ投棄に当たるとされ禁止となったようですが)、祖母が元気であった頃まで行っておりました。斯様な仕事をしながらも、こうした習俗を大切にせず、これまで無精を決め込んで来たことに反省仕切りでございます。

 さて、この「盂蘭盆会」を含み込む「夏」とは、先祖供養は勿論のことでありますが、様々なる場面で「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」達が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する時節でもございます(それにしましてもムツカシイ漢字ばかりの連続で実際に書いてみろと云われたらお手上げであります)。当方が子供時分の頃のこととなりますが、夜になって一人で自宅から外出するのには相当な勇気が必要でした。まぁ、東京都は申しても場末の葛飾の地ではありますが、第一に店舗とは夕刻には店を閉じるものでした。当然24時間営業のコンビニなどは1軒たりとも存在せず、街灯でさえも充分に整備などされておりませんでしたから、雲のない満月の夜でも無ければ、夜間の街は一面の暗闇が支配する時間帯でありました。親からも頻繁に「人攫い」の噺で脅かしつけられておりました(国内何処でも言われているであろう「サーカスに売られちゃうぞ」は耳に蛸ができるほど聞いたものです)。従って、黄昏時になると心細さが募って、一目山に自宅にとって返したものです。古来、「黄昏」を「逢魔時(おうまがとき)」と称してきたことは後に知りましたが、「魔物に遭遇する時間帯」とは言い得て妙だと思ったモノです。しかし、その後に訪れる「暗闇」の世界に対する恐怖は格別でありました。

 今では笑い話ですが、その恐怖心は高校生の頃まで続きました。大学受験勉強をしていた時、冬の冷えた夜半にチャルメラを吹きながら流してくるラーメン屋台がおりました。夜遅くまでの勉強での空腹を満たさんと、チャルメラの音が近くなると鍋を持参して購入に行くのでさえ大層な勇気が要りました。自宅からたった20~30メートルの距離であっても、そのくらいの恐怖心が支配していたのです。なんと臆病な……と思われましょうが、大人になるまでは闇夜への恐ろしさを拭い去ることは出来なかったのです。そして、昭和30年代から40年代に欠けての少年にとっては、斯様な感覚は大人になるまでには極々一般的なものではなかったかと存じます。闇に潜む「もののけ」の気配を振り切るように、一目山に走ってラーメン屋台まで行き来したことを忘れることができません。冬であってもその有様でしたから、夏の生ぬるい空気の闇になど到底一人で闇夜に足を踏みいれる無鉄砲など考えもつきませんでした。何しろ夏とは「妖怪・物の怪」の旬の季節に他ならないのですから。つまり、暗闇の時間帯とは、人類の世界ではなく「異類のモノ」達が跳梁跋扈する世界であり、特に夏こそがその最盛期であるとの認識が未だ色濃く人々の心を支配していたのだと思います。場末とは申せ、当方の暮らす亀有は街中であり、人家が建て込んでおりました。それでも恐怖心は大層なものであったのですから、農村地帯であれば想像も出来ないほどの恐ろしさに充ち満ちていたことでございましょう……。想像を絶する程の恐怖の支配する世界であったことと推察するものでございます。

 「魑魅魍魎」以外にも、斯様な異類の者達を指し示す用語には、「化け物」「妖怪」「物の怪」「幽霊」「怨霊」「あやかし」等々の幾つもの呼称がございます。ただ、それをきちんと定義しようとすると、至って小難しい分類の話をせねばなりません。文字数も大部になりましょう。恐らくこの議論は皆様を「置いてけ堀」とすると思われます。そもそも、彼らは、必ずしも人に“徒なす存在”としてばかりではなく、時には神として祀られることすらあります。つまり、人知を越えた能力を保有する存在として恐れ敬われた存在なのだと思われます。従って、ここではこうした存在を一緒くたに「妖怪」と称したいと存じます。似たもの同士と云うこととして把握されていただければ有り難く存じます。詳細をお知りにになりたき向きがございましたら、妖怪研究の第一人者である国際日本文化センター所長の小松和彦氏の著作に当たられることをお薦めいたします。最初に手に取られるのであれば『妖怪学新考-妖怪からみる日本人の心-』2015年(講談社学術文庫)あたりからどうぞ。また、元「川崎市民ミュージアム」学芸員であり、その膨大な妖怪関係資料の個人コレクションを展示する博物館の設立にまで関与することとなった湯本豪一氏の著作もまた、興味深い妖怪に出会える機会を与えてくださいます。この博物館が、広島県三次町にある「三次もののけミュージアム」でございます(2019年開館)。三次は近世に浅野家の統治下にある城下町でありましたが、同時に江戸時代で最も広く知られた妖怪譚である『稲生物怪録』の舞台となった地でございますから、そうした縁でのコレクション寄贈であったのでございましょう(湯本氏は墨田区のご出身です)。この話は、江戸時代中期に、三次藩家臣である稲生平太郎の屋敷に、一ヶ月にわたって連日のように頻発した怪異現象を、その目撃談をもとに描いた作品となります。角川ソフィア文庫で手軽にお読みいただけますので御興味の向きはどうぞ。

 さてさて、我が国における「妖怪」の歴史が何処まで遡れるのかまでは詳らかにしません。しかし、「妖怪」との呼称は兎も角も、人がこの地球上で生活し始めると歩調を合わせるように、“目に見えざる恐ろしき存在”として認識されていたことでございましょう。多くの場合、疫病であったり、噴火や地震といった自然災害であったり、また、不幸にして亡くなった者達の怒りや祟りによって引き起こされる怪奇現象と考えられていたことでしょう。従って、そうした怨霊を鎮めるために祭祀の対象とされ、あるときからは神として崇められる存在となる物も現れたのだと思われます。しかし、それらの姿形については多くの場合、明確にはなっていなかったものと思われます。それがあるときから明確な姿形を持った存在として造形され、私たちの目の前に現れることになります。それが古代から中世へと移り変わっていく時代なのだと思われます。皆様もよくご存知の、渡邊綱・源頼光らによる『酒呑童子』退治の物語、源頼政の『鵺退治』伝説とその絵画化等々でございます。真っ赤な鬼として描かれる酒呑童子は、都の人々を恐怖のどん底に陥れた伝染病「疱瘡」による赤い発疹の象徴であるとも云われます。また、当方も愛する『百鬼夜行図』の多くもまたその淵源を中世に遡ることが分かって参りました。平安京の北の果てにあたる一条通に夜な夜な現れては練り歩く妖怪達の姿は、鬼であったり、狐狸の変化であったり、あるときに使い込まれた道具類であったりしました(付喪神)。そして夜が明けると共に何処かに消えていく妖怪達の存在。そうした目にすることの出来ない魑魅魍魎に形を与えることで可視化し、その正体を認識しやすくする動向が現れてきたものと思われます。その淵源を中世にまで遡ることの出来る『百鬼夜行図』につきましては、室町時代に土佐光信が模写したと伝わる大徳寺真珠庵蔵本が優れたものですが(重要文化財)、新たに見出された異界の恐ろしさがより強調された、国際日本文化研究センター所蔵の『百鬼の図』の存在感が圧倒的であります。その画面の左の多くを占める渦巻く闇の描写とその中に蠢く魑魅魍魎の姿に圧倒される思いであります。小松和彦『百鬼夜行絵巻の謎』2008年(集英社新書ヴィジアル版)で確認す ることが出来ますのでどうぞ。一度その目でご確認される価値はあるものと存じます。
(後編に続く)

 

 

 夏に跳梁跋扈する「魑魅魍魎」の世界(後編) ―または 多彩なる本邦「妖怪」の面々について―

 

 

8月13日(土曜日)

 

 前編最後には、主に中世を淵源とする『百鬼夜行絵巻』の世界を御紹介させていただきました。後編では、具体的な姿形を持った「妖怪」が、より庶民階層にも幅広く親しまれるようになる江戸時代の状況について述べてみることにいたしましょう。それは、近世における出版事業の伸展に伴って、妖怪もまた版本の形で広く庶民階級にまで、具体像をもって認識されるようになったという社会情勢の変化が背景となっております。その中で、最も広く知られるのが鳥山石燕による『画図百鬼夜行』をはじめとする一連の作品群に他なりません。これらは、現在角川ソフィア文庫で『画図百鬼夜行全画集』として纏めて刊行されており、どなたでもお手軽に妖怪達の姿に接することが出来ます。本作だけでも大凡三百種程の妖怪が描かれており、それぞれどこかしら愛嬌ある姿を愛でることができます。勿論、近世において日本で人々が生み出した妖怪の数は、これを数倍、いや場合に拠っては数十倍することかと存じます。人知の及ばぬ不思議な出来事は、常に妖怪の働きとして把握されてきたからでございます。これほどの「妖怪」の数の多さ、姿形の多様性を有する国は日本以外には極めて稀であると、欧米の方が語っているのを聴いたことがございます。「妖怪」多様性は外国人の心をもとらえて止まないようです。皆さんもよく知る妖怪も石燕が形を与えております。石燕は、正徳2年(1712)代々幕府で御坊主を務める家系に生まれ、天明8年(1788)に77歳で物故しました。狩野派に入門して絵を学んでおります。水木しげるさんの妖怪図も素晴らしいモノですが、その淵源となるこちらも是非に。

 また、こうした妖怪関係の刊行物に限らず、爛熟した都市のなかでは怪談も芝居や寄席等の舞台にも掛けられ大いに持て囃されました。近世から明治にかけての噺家、三遊亭円朝の手になる『牡丹灯籠』『真景累ケ淵』はとりわけ著名でございましょう。それだけではなく、各家に集まって怪談話を披露し合うような催しまで頻繁に開催されました。それが『百物語』なる風潮であり、江戸時代に大いに流行したのです。これは、何人もの人が集まって、一人ずつ怪談噺を披露し、一つの噺が終わると蝋燭の明かりを一つずつ消していき、最後の一本が消えるときに怪異が起こるという言い伝えを実践する遊びでありました。それらは、同時に書籍としても刊行され、江戸っ子にも大いに持て囃されました。その裡で、知られる作品を二つばかり御紹介いたしましょう。一つは、天保12年(1841)刊行の5巻からなる妖怪本で『絵本百物語(桃山人夜話)』であります。石燕の作品が単色の刷り物であるのに対して、こちらは多色刷であり妖怪の名前と解説が施されているのが特色です。また、江戸は両国薬研堀の人梅亭錦鵞(1821~1893)の手になる滑稽本『妙竹林話 七偏人』5編15冊(初編1857年)であります。勿論、「七偏人」は竹林の「七賢人」を捩ったもので、江戸の遊民生活を描いた内容です。従って、こちらは妖怪噺に限らないのですが、秋の夜長の慰めにと怪談話と併せて「百物語」として取り挙げられ人気を博しました。

 当方の心の底より愛する岡本綺堂『半七捕物帳』シリーズ中の『津の国屋』の冒頭にも本作の名が登場しておりますので以下に引用してみましょう。本作は、明治になって、若い新聞記者である「わたし」が、江戸時代に“十手(じって)”を預かっていた半七老人に、当時の事件簿を聞いて書き記すという体裁をとった日本捕物帳の嚆矢であり、しかもその最高峰でもございます。まずはお読み下さい。ともかく、そこから漂う近世の薫りに幻惑されましょう。登場人物が舗装されていない泥道を歩んでいることがよく分かります。実際に江戸を生きた綺堂の観察眼と、それを記述する文体の素晴らしさは圧倒的でございます。本作も、これ以降に「津の国屋」で何が起こったのかを期待させるに充分なプロローグとなり得ておりましょう。当方は、その昔に今は無き旺文社文庫で読みましたが、現在でも光文社文庫6冊で全作品を手軽に読むことが出来ます。読了されましたら、その続編とも称すべき『三浦老人昔話』へお進み下さいませ。

 

 秋の宵であった。どこかで題目太鼓の音がきこえる。この場合、月並の鳴ものだとは想いながらも、じっと耳をすまして聴いていると、やはり一種のさびしさを誘いだされた。
「七偏人が百物語をしたのは、こんな晩でしょうね」と、わたしは云いだした。
「そうでしょうよ」と、半七老人は笑っていた。「あれは勿論つくり話ですけれど、百物語なんていうものは、昔はほんとうにやったもんですよ。なにしろ江戸時代には馬鹿に怪談が流行りましたからね。芝居にでも草双紙にでも無暗にお化けがでたもんです」
「あなたの御商売の畑にもずいぶん怪談がありましょうね」
「ずいぶんありますが、わたくし共の方の怪談にはどうもほんとうの怪談が少なくって、しまいへ行くとだんだんに種の割れるのが多くて困りますよ。あなたにはまだ 津の国屋のお話はしませんでしたっけね」
「いいえ、伺いません。怪談ですか」
「怪談です」と、老人はまじめにうなずいた。「しかもこの赤坂にあったことなんんです。これはわたくしが正面から掛り合った事件じゃありません。桐畑の常吉という若い奴が働いた仕事で、わたくしはその親父の幸右衛門という男の世話になったことがあった関係上、蔭へまわって若い者の片棒をかついでやったわけですから、いくらか聞き落としがあるかもしれません。なにしろ随分入り組んでいる話で、ちょいと聴くとなんだか嘘らしいようですが、まがいなしの実録、そのつもりで聴いてください。昔と云っても、たった三四十年前ですけれども、それでも世界がまるで違っていて、今の人には思いも付かないようなことがときどきありました」


(岡本綺堂『半七捕物帳』より『津の国屋』冒頭 光文社文庫)

 

さて、ここまで本邦における「妖怪」について述べて参りましたが、何故斯様な非科学的な「妖怪」などを採り上げて面白がっているのか……との苦虫を噛み潰す皆様の表情が目に浮かぶようですから、そのことについて若干の釈明をさせていただきます。勿論、当方は「妖怪」をオカルトとして受容して愉しんでいるわけでも、超常現象として信望しているわけでも全くございません。それは、「妖怪」について知ることとは、一つに、日本人の精神世界をポジとネガ(妖怪はこちらです)から探ることに通じると考えるからでございます。第二に、「妖怪」の存在とは、この世に存在する「不思議な現象」を如何にして説明するかの試みに他ならないと思うからでもあります。その点で、時代的な制約の中で「合理的な思考」を重ねた結論と考えるものです。当方などが申し上げるよりも、以下に一文を引用致しますので是非ともご一読あれ。
 

 人間文化の進歩の過程において発明され創作されたいろいろの作品の中でも「化け物」などはもっとも優れた傑作と言わなければなるまい。化け物もやはり人間と自然の接触から生まれた正嫡子であって、その出入りする世界は一面には宗教の世界であり、また一面には科学の世界である。同時にまた芸術の世界ででもある。(中略)
昔の人は多くの自然界の不可解な現象を化け物の所業として説明した。やはり一種の作業仮説である。雷電の現象は虎の皮の褌を着けた鬼の悪ふざけとして説明されたが、今日では空中電気というわかったような顔をする人は多いがしかし雨滴の生成分裂によっていかに電気の分離蓄積が起こり、いかにして放電が起こるかは専門家にもまだよくはわからない。(中略)結局はただの昔の化け物が名前と姿を変えただけの事である。
自然界の不思議さは原始人類にとっても、二十世紀の科学者にとっても同じくらいに不思議である。その不思議を昔われらの先祖が化け物へ帰納したしたのを、今の科学者は分子原子電子へ持って行くだけの事である。(中略)如何なる科学者でもまだ天秤や試験管を「見る」ように原子や電子を見た人はいないのである。それで、もし昔の化け物が実在でないとすれば今の電子や原子も実在ではなくて結局一種の化け物であると言われる。原子電子の存在を仮定する事によって物理界の現象が遺憾なく説明し得られるからこれらが物理的実在であると主張するならば、雷神の存在を仮定することによって雷電風雨の現象を説明するのとどこが違うかという疑問がでるであろう。(中略)ともかくもこの二つのものの比較はわれわれの科学なるものの本質に関する省察の一つの方面を示唆する。(以下略)


1929[『寺田寅彦全集 第4巻』1961年(岩波書店)より『化け物の進化』(部分)]

 

 寺田寅彦(1878~1935年)は「漱石山房」の人としては異色の存在であり、科学者(「物理学者」)でありながら、同時に名随筆家として夙に知られるお方で、もあるのです。上記引用文は昭和4年(1929)に発表された『化け物の進化』なる随筆からとなります。単なる四角四面の科学者にあらず、漱石門下のお人らしい“明晰”と“洒脱とを併せ持った希有なる文学者でもあります。もはや、ここで寅彦以上の説明を加える必要はございますまい。

 以上、縷々「妖怪(化け物)」について述べて参りました。ホントウは、多くの具体的な妖怪を採り上げて、日本人の心性と関わらせて述べたりもしたかったのですが、どうやら「妖怪」関連書物の紹介となってしまい、我ながら深みに欠ける力不足の内容となってしまったことを反省しております。まぁ、ムツカシきことは抜きにして、「妖怪」なる存在を目にすることは、「よく斯様なる姿を生み出した物だな」と創作者の造形力に感心させられるとともに、還暦を過ぎた今となっては、恐ろしさよりも寧ろ愛玩動物のような愛嬌を強く感じさせられてもおります。10年程前に「妖怪ウォッチ」などと云うアニメが子ども達に人気を呼んでおりました。我々が幼少期にも「妖怪ブーム」なるものがありましたので、こうした潮流は繰り返すものなのかと思ったりもしたものでございますが、現在の子ども達にとっても、斯様な存在として受け止められているのでしょうか。面白いことだと思ったりもいたします。小生の幼少期の“火付け役”と申せば、それは取りも直さず水木しげる(1922~2015年)の漫画作品でございました。その映像化による『悪魔くん(実写版)』(1966年)、『墓場の鬼太郎』改め『ゲゲゲの鬼太郎』放映(1967年)には大いにお世話になったクチでございます。またブームに乗っかるように大映による所謂「妖怪三部作[『妖怪百物語』(1968年)、『妖怪大戦争』(1968年)、『東海道お化け道中』(1969年)]は亀有の映画館に見に行きました。確か、夏休みにガメラとの抱き合わせで上映されたと記憶しております。怪獣モノとは異なり、どこか愛嬌のある妖怪達の姿とヤケに人間くさい遣り取りが描かれており、「恐怖心」は微塵も感じさせられず、むしろ“ほっこり”とした思いとなったことを懐かしく想い出します。また、かつては、江戸時代以来の伝統でしょうか、この時節には「寄席」やテレビ等のメディアでも「怪談噺」は花形の出し物でありました。何処でも幽霊や妖怪は“引っ張り蛸”の繁忙期であり、引きも切らない出演依頼を裁き切れない程であったかと存じます。その節には、流石の魑魅魍魎達もさぞかし“青息吐息”状態となったことでございましょう。もしその折に「働き方改革化け物委員会」なるモノがあったれば、間違いなく最低賃金引き上げやら労働時間制限などが提言されたことでございましょう。しかし、時は移り変わりました。昨今では斯様な「怪談噺」などは非科学的な内容として、一刀両断とされてしまったようです。妖怪(化け物)達も今では商売あがったりでございましょう。

 もっとも、魑魅魍魎の跋扈と申せば、既に足掛け4年目ともなる「コロナウィルス」の跳梁などは、伝統的に正にそれに当たりましょう。しかし、それ以上に、自身の理屈はともあれ傍目には領土的野心としか思い難き侵略行為を続ける政権担当者の傲慢や、自身の関わったことを説明すらせずに黙りを決め込んだり、言い逃ればかりする、俗に言う政治家(政治屋!?)の見苦しい醜態を目の当たりにするにつけ、そうした面々もその“仲間”に違いないと実感させられる次第でございます。いや、通常に言うところの「魑魅魍魎」と異なり、人に実害を与えるそうした輩の方が、“遙かにタチの悪い”「魑魅魍魎」であるようにすら思えて仕方がありません。それに比べれば、本邦の「妖怪」達は何と愛嬌に満ちた存在ではございますまいか。これからも、当方としましては、時代遅れとも目される「異形の者」達を大いに愛玩し、大切にしていきたいものと考えるものであります。


 

 

 遠い日々へと続く回廊(コリドー)(前編) ―『失われた時を求めて』または 『新日本紀行』テーマ曲のこと― ―コロナ感染者急増のためボランティア活動を暫し休止―

 

8月19日(金曜日)

 

 7月初旬の頃には一時鳴りを潜めていたコロナウィルスでございますが、行動制限等の手綱が緩められると同時に、またぞろ鎌首を擡げて来たようです。特に7月半ば以降に、感染力の極めて大きいとされる「BA.5」株への置き換わりもあって徐々に勢いを増し、7月末からはまさに“猛威を振るう”状況と化している感がございます。千葉県でも連日1万人を超えるなど、所謂「医療崩壊」段階にまで脚を踏み入れつつある状況にありました。医療機関・医療従事者からの猛烈なバッシングを受け政府もようやく重い腰をあげ、各都道府県が状況に応じて自主判断し「BA.5対策強化宣言」を発信できると発表いたしました(7月29日)。そして、千葉県内での厳しい医療状況に鑑み、県知事が5日(金曜日)に当該宣言を発出いたしましたが(~8月31日)、内容につきましてはこれまでの内容をちょっぴり強めにお願いしているだけのように見えます。実質的に、発熱しても「発熱外来」の予約が取れない。信憑性の高くはない市販品の抗原キットによる不確かな診断、たとえそれで陽性であっても「発熱外来」の予約は殆ど取れずに受診が叶わず投薬すら受けられない息も絶え絶えの患者の増大、おまけに病院も夏季休暇に入ってしまって数少ない受け入れ病院の更なる逼迫が続く、体調不良者の増大による病院を含む社会インフラの機能不全……等々、それ以前から専門家から指摘されていた事態が、そのままに目の前に現出しているのだと思わざるを得ません。何故、専門家の意見がまともに受け止められないのか不思議で仕方がありません。政治を担う方々は、決して「その道の専門家」ではありません!!極論を申せば「素人」に過ぎないのですから、専門家の意見には真摯に耳を傾けなければなりません。それを最大限に尊重した上での「政治判断」が求められているのでありますまいか。現状に照らせば、本対策にどれだけの効果が期待できるのかには疑問符を付けざるを得ません。如何なる成果を期されているのか素人ながらに問うてみたいものです。まずは、「生命の危機回避」を第一の政治目標に掲げて邁進すべきではないでしょうか。それが、政権を担う方々が取り組むべき最優先の政治的課題に他ならないと考えますが。

 こうした状況をうけ、6月18日から再開していた本館におけるボランティア活動(接触の多い「昔遊び」等の活動以外となる「展示解説」「古文書整理」)について、7月31日より「休止」との判断をさせていただいております。そもそも、ボランティア登録をされている皆さんは高齢者に当たる方が殆どであり、そうした皆様の感染防止を第一に考えなければならないとの判断でございます。もし感染されても、現在発熱外来ですら掛かることができていないのが実態なのですから。先々を想定して先手を打つことこそが求められるのです。かような事情からの判断であることを是非ともご理解を頂きたいと存じ上げます。そして、これ以降本館に脚を運ぼうとされている皆様にもお願いをさせてください。本館が「クラスター発生」の現場とならぬよう、発熱等の症状のある方は何卒ご来館をご遠慮くださいますようお願い申しあげます。また、受付にてお願いしておりますように、観覧の際のディスタンスの確保、声を発しての会話等々を極力お控えください。統計的にみると、不特定の100人集まればそのうちの一人は感染者との勘定となるのが現況とのことです。だからこそ、行動の自粛が求められるのです。それが、大切な家族や友人達の生命を守ることに直結することを忘れることなく、行動原理としたいものでございます。常日頃、申し上げておりますが、現状は「通常モード」ではありません。何百年に一度の「未曽有の緊急事態モード」にあるのです。そのことを肝に銘ずることが何にも増して求められております。そして、それは、私自身であれ、貴方(貴女)であれ、措かれた状況は全く変わることがないのです。

 さて、ようやく本稿の中身に入ってまいりましょう。副題にも掲げた『失われた時を求めて』は、小生などが申すに及ばず、20世紀文学の金字塔とも評される小説作品であり、アイルランドの“ダブリン市民”であったジェイムス・ジョイス(1882~1941)による『ユリシーズ』、プラハに生まれたフランツ・カフカ(1883~1924)による諸作品と居並ぶ傑作として広く知られておりましょう。作者はパリの人マルセル・プルースト(1871~1922)。本作は1913年に初編が世に出てから、彼の死後にも5編以降の刊行が続けられました。そして1927年に全7編で完結することとなる作者畢生の大作であります。どうでもよい情報ですが、何でも「最も長い小説」として“ギネス登録”されているとか。本作の概要については、当方などがあれこれ生半可な事を書いても直ちの裡に馬脚を現しましょう(その理由は以下に記す通りです)。斯様な次第ですので、たまたま確認いたしました“ウィキペディア”の解説が、簡にして要を得ておりましたので、以下に当該部分を引用させていただきます。

 

 眠りと覚醒の間の曖昧な夢想状態の感覚、紅茶に浸った一片のプティット・マドレーヌの味覚から不意に蘇った幼少時代のあざやかな記憶、2つの散歩道の先の2家族との思い出から繰り広げられる挿話と社交界の人間模様、祖母の死、複雑な恋愛心理、芸術をめぐる思索など、難解で重層的なテーマが一人称で語られ、語り手自身の生き19世紀末からベル・エポック時代のフランス社会の諸相も同時に活写されている作品である。社交に明け暮れ無駄事のように見えた何の変哲もない自分の生涯の時間を、自身の中の「無意志的記憶」に導かれるまま、その埋もれていた感覚や観念を文体に定着して芸術作品を創造し、小説の素材とすればよいことを、最後に語り手が自覚する作家的な方法論の発見で終るため、この『失われた時を求めて』自体がどのようにして可能になったかの創作動機を小説の形で語っている作品でもあり、文学の根拠を探求する旅といった様相が末尾で明らかになる構造となっている。

 

 

 本作について、小生が自信を持って語り、かつ「傑作です!!」と断じ切ることが出来ないのは、取りも直さず当方が本作を読破できていないことに拠ります。学生時代に本作のことを知ってから、お恥ずかしきことながら、自らに「夏休みの課題」等として、何度も挑戦を自らに課して参りましたが、中途挫折を繰り返しているからに他なりません。もっとも、学生時代にフランス語も履修してもいない当方としましては原文に当たることは不可能です(もっとも中学時代からの英語も、学生時代に履修ドイツ語も似たり寄ったりです)。従って、とりあえずは翻訳に頼るしかありません。しかし、当方の学生時代(1978~1982)には、7人分担翻訳の新潮社版しか存在せず(生島遼一・中村真一郎・井上究一郎ら7名)、しかも入手は難しい状態でありました。ようやく、井上究一郎による個人訳が世に出たのは、就職後の昭和59年(1984)のこと。しかも、筑摩書店『プルースト全集』刊行の一貫としての刊行であり、その1~10巻が当該作品に当てられておりました。「全集の筑摩書房」を標榜する当該書肆の全集は、須らく素晴らしき編集でありますから(「選集」にも関わらず「全集」を名乗ったりせず、断簡零墨まで網羅するのが筑摩書房の志の高さです)、「これを機に!!」と意気込んで配本に臨んだものの、流石に1冊5千円弱の価格設定には難儀いたしました。如何せん教員に成り立ての薄給では、続けての購入はナカナカに厳しく、3巻までで挫折したのでした。

 それ以降、平成8年(1996)から5年間で集英社から鈴木道彦の個人訳が(全13巻)、更に平成22年(2010)から9年をかけて岩波文庫で吉川一義の個人訳が全14巻で刊行され、今では手軽に文庫本で入手出来るようになりました。思えば“佳き時代”になったものです。もっとも、ナカナカに読了できないのは、そうした作品の入手環境だけが理由ではありません。上述のウィキペディアでの作品解説にもありますが、本作は記憶をめぐる物語であり、長大なる作品全体が、一人称である「語り手」が回想しつつ記述する形式で書かれております。我々もそうだと思いますが、記憶とは必ずしも理路整然と秩序だって回想されるわけはありません。記憶が新たな記憶をよんで、時系列も空間も関わりなく拡大していくものでありましょう。また、そうした徒然なる回想の結果、すっかり意識の奥に沈んでいて思い出すことすらなかった、思いも寄らぬ過去の出来事が鮮明に蘇る事も多いものです。そうした重層的な回想の世界を、所詮は他者に過ぎない読者が克明に追うこと自体、ナカナカに困難を伴うのです。とても心地よい瞬間が間々訪れるのですが、何ともモヤモヤとする読書時間も少なくありません。そして、その双方の時間とも「睡魔」との親和性が強いものであります。従って、なかなか読み進められず、何時の間にやら「積ん読」状態となりがちなのです。少なくとも仕事から帰ってきて、気晴らしに読み飛ばせる内容ではありません。斯様なわけで、その後も岩波文庫版すら購入せぬまま今日に至っております。哀しいかな、日暮れて道遠しでございます。まぁ、完全リタイア-してからでも遅くはありません。目標を高く掲げ、本作にじっくりと向き合ってみようと思っております。おそらく、本作にチャレンジされた方は多かろうと存じますが、最後まで読み切ったと言える方は極々稀であるかと推察致すところでございます。

 さてさて、本稿の目的は、本来プルーストについて述べることでも、増してや『失われた時を求めて』作品論を展開することでもございません(そもそも読破もしていない作品を論じるほど厚顔無恥ではないつもりです)。それでは、何故縷々駄弁を弄して参ったかと申せば、それは、誰にでも過去の記憶へ通じる「鍵」のようなもの(こと)があるのではないか……ということを述べたかったからに他なりません。つまり、プルーストにとっての「マドレーヌ」に当たる「何か」が誰にでもありはしまいかということであります。勿論、その中には思い出したくもない記憶もあるには違いありませんが、ふと思いだして胸が締め付けられるような「美しい遠い日々」の記憶もまた、誰にでも一つや二つはございましょう。本稿の標題もまた、斯様な目論見から付けさせていただいたものであります。一見され、ファンの方であれば山下達郎(1953年~)のアルバム『Poket Music』(1986年)の終曲『風の回廊(コリドー)』に因んだものであることにお気づきになられましょう。本作の歌詞もまた、遙か遠い日に失われた美しい記憶へと繋がる「懐旧の情」を綴ったものと思われますから、本稿の趣旨に適合するものと考えて標題への拝借とさせていただきました。本作は失われた“過去の恋愛”に対する追憶をテーマにしておりますが、勿論、その追憶の対象は恋愛感情ばかりではないことは言うまでもございません。本作で山下は「つむじ風」が遠い記憶に繋がる「風の回廊(コリドー)」を開ける鍵となっていることを歌っているのかと存じます。当方は、この作品に某かの個人的な感傷を持たずに拝聴することができません(作曲・作詞ともに紛れもない名曲だと思います)。皆様にとっての、「美しい記憶」へ続く扉を開ける鍵とは一体何なのでしょうか。

 前編の最期に、山下達郎について少しばかり。去る6月、前作『Ray Of Hope』(2011年)から11年を隔て新譜『Softly』をリリースした山下でありますが、思えば彼の主催するバンド「シュガー・ベイブ」が残した唯一のアルバム『Songs』(1975年)以来の長い付き合いとなります。本作がリリースされたのは、当方が高校一年生になったばかりの頃でした。既にビートルズをはじめとするブリティッシュロックにのめり込み、不遜にも「日本人の楽曲などは聴くに値せず」と全くの勘違いをしていた頃に出会ったのが、『ダウン・タウン』なる楽曲でありました。そして、忽ちの裡に、その清心なメロディラインと、全くバタ臭さを感じさせない洗練された楽曲の虜となりました。どうにか虎の子を遣り繰りして購入したLPレコードは、今でも手元で大切にしております。山下は、翌年1月からニッポン放送の深夜番組「オールナイト・ニッポン」(第二部)を担当し、当方はそこでビーチボーイズの素晴らしさに開眼させられたことを以前に述べたことがございます。学生時代以来、クラシック音楽が主要な音楽鑑賞のテリトリーとなった当方にとって、一時期に疎遠になった時期はありましたが、現在も変わらずに新譜に付き合う唯一の邦人アーチストでございます。そして、彼の曲と歌唱の素晴らしさは言うに及ばずでありますが、何とも古風な言葉が多用され、何故か不思議と「懐旧の情」に誘われる「詞」世界にも大いに惹かれるのです。その昔、ブライアン・ウィルソンが、ヴァン・ダイク・パークスを作詞家として招聘して『スマイル』制作に邁進したように、当方の偏愛する作詞家松本隆と作曲家山下達郎とのコンビネーションによる、夢のコンセプトアルバムを企画していただけないものか期待しているのでありますが。ミニアルバムでもよいので……。お二人とも拘りが相当にお強いでしょうから、その当時の『スマイル』のように頓挫してしまう可能性は無きしもあらずでしょうが。

(後編に続く)

 

 

 遠い日々へと続く回廊(コリドー)(後編) ―『失われた時を求めて』または 『新日本紀行』テーマ曲のこと― ―コロナ感染者急増のためボランティア活動を暫し休止―

 

8月20日(土曜日)

 

 前編の最後に、皆様にとって「遠い日々の美しき記憶」へ繋がる鍵である「マドレーヌ」「つむじ風」に当たる何物かとは??……と、問いかけをさせていただきました。しかし、それをこの場で御紹介することは叶いません、そこで、当方にとってのそれについて述べてみようかと存じます。それを自問自答すれば、その答は一つや二つには留まりませんが、その一つに間違いなく“ある音楽”が位置づいていることに思い至ります。それが、副題に掲げた、かつてNHKで放映されていた番組『新日本紀行』テーマ曲に他なりません。正確に申せば、本番組テーマ曲は2種類あり、当方の申す楽曲は、昭和44年(1969)4月から変更され、当番組が惜しまれつつ幕を下ろすことになる昭和57年(1982)まで用いられた後期の作品に当たります。当方にとって、小学校4年生から大学4年生までの多感な時期と重なります。毎週放送されていた番組テーマ曲の作者者は富田勲(1932~2016)であります。因みに、同番組前期テーマ曲も富田作品ですが、現在聞き比べてみてもその作品の出来映えは段違いであり、当テーマ曲は富田畢生の代表作と言っても過言ではないと存じます。たった1分にも満たない短い楽曲を耳にする度に、遠い郷愁に誘われるような、それでいて悠久の時の流れに漂うような、何とも言えぬ感情が沸き起こって胸が締め付けられるように思うのです。そして、それは、自身の「遠い日々」の記憶へと直結していく大切な「鍵」の一つともなるのです。

 楽曲の冒頭は、ホルンの重厚な雄叫びから幕を開けますが、それは直ぐに流れるような物憂げな弦楽器のメロディーに引き取られます。後に富田は、蒸気機関車の汽笛と、それに牽引される夜行列車のイメージを三拍子で描こうとしたと語っております。そして、その歩みを引き締めるように、心地よい「カーン、カーン」と響く拍子木の音が音楽にアクセントを与えます(シンセサイザーなどない当時、NHK内の非常階段に録音機材を持ち込み、実際に拍子木を打つことで音の空間性を感じ取れる響きを収録したそうです)。また、途中で入る情感豊かな木管楽器(特にフルート)の音は、これまで我が国で歩んできた人々の、哀感に満ちた様々なる想いを表象するように聞えます。繰り返しますが、たった57秒の音楽作品に描き込まれた、日本の原風景とそこに暮らす人々の様々な想いの集積は、全く短さを感じさせないばかりか、有無を言わさぬ充足感に満ち溢れております。まるで、長大なる交響曲を聴き終えたかのような思いさえ感じるほどです。それだけ、一音たりとも無駄な音が存在しない、凝縮された質的な高さが確保されているからに違いありますまい。それ以来、現在に至るまで、この曲を耳にしての感じ方には微塵も変化はございません。DENON社から発売された『TOMITA ON NHK』なる音盤には、本作もオリジナル音源で収録されておりますが、耳にする度に懐旧の情が湧いて止まることがなくなるのです。当方にとって、まさに「別格大本山」級の大切な楽曲でございます。

 富田勲は、作曲家としての年代から申せば、世界的にもその名を知られる、『涅槃交響曲』で著名な黛俊郎(1929~1997年)や『ノヴェンバー・ステップス』を代表作とする武満徹(1930~1996)と同世代の人であります。しかし、その2人に比べれば、これだけ著名な作曲家にも関わらず音盤の数が多いわけでもありませんし、現代音楽作曲家として、世界を股にかけて華々しく活躍しているといった印象もございません。それには、富田は音楽を学ぶための保守本流であった東京芸術大学をあえて避けたことが要因となっているように思います(武満も異色の経歴の持ち主ですが)。富田は、慶應義塾大学美学美術史科に進み、音楽は並行して独学で学んでおります。そして、注目すべきは、この時期、富田が音楽理論を学ぶために師事していたのが、YMCA芸術園で個人指導をしていた弘田龍太郎であったことです。弘田と申せば、前々回にも採り上げたように、明治の千葉町での生活経験を有し、大正期に童謡運動で大いに活躍した作曲家に他なりません(「千葉開府800年」に当たっての式典楽曲で、北原白秋の詞に曲をつけたのが弘田でございます)。つまり、アカデミズムの世界からあえて遠ざかったこと、『叱られて』『浜千鳥』等々で広く知られる童謡作曲家に就いたことが、あの『新日本紀行』の郷愁に満ちたどこか懐かしい想いを感じさせる楽曲に繋がったものと、大いに得心した次第でございます。

 確かに、戦後の富田は現代音楽大作で世界的音楽賞を総ナメにした……といった華々しい受賞歴を有する訳ではございませんが、調べてみれば作品数は途轍もなく膨大であり、主にテレビ・映画等のメディア関係での親しみやすい忘れ難き作品が目白押しでございます。作品名を見れば、作曲者の名前を知らなくとも、誰もが直ぐにメロディを思う浮かべることが可能な作品ばかりです。NHK『きょうの料理』テーマ曲、『70年代われらの世界』で謳われる「青い地球は誰のもの」等々が、また手塚治虫作品『ジャングル大帝』アニメ化に際してのオ-ケストラによる壮大なる交響絵巻が、昨今では映画『たそがれ清兵衛』の音楽で日本アカデミー賞最優秀音楽賞受賞等々が、すぐさま思い起こされます。また、当方が若い頃に親しんだ富田作品として忘れ難いのが、早い段階にモーグ・シンセサイザーを導入して取り組まれた、ドビュッシー、ラヴェル、ムソルグスキー、ホルスト等のクラシック音楽作品の電子音による編曲作品でありました。クラシック音楽を電子音で再現するなど邪道との大方の予想に反して、斯様な違和感など微塵も与えることなく、端からシンセサイザーのために作曲されたかのような自然で極めて美しい作品となり得ております。特に、ドビュッシーのピアノ原曲を豊かなイジネーションによって広大な広がりをもったファンタジーに仕上げたアルバム『月の光』は、未来永劫に聴き継がれる優れた御仕事でございましょう。素晴らしい作品集だと思います。

 最後の最後に、本傑作テーマ曲を冠して放映されてきたNHK『新日本紀行』についても少しだけ触れておきたいと存じます。本番組は、昭和38年(1963)10月7日に放送開始され、昭和57年(1982)3月10日にその幕を閉じるまでの18年間半に亘って放映された長寿番組であり、その制作総数は何と794本にものぼります。しかも、特筆すべきことに、1970年以前には放送関係者に番組保存の意識が希薄で、往々にして消去・廃棄されてしまった作品が多い中で、本シリーズはNHKに全編の映像が残されているのです。本作は、日本初の「旅番組」の形態をとりながら、その内容は単なる「旅行番組」に堕しておりません。従って、各地の名所を紹介する案内ではないことは勿論、況や「グルメ紀行」でもありません。飽くまでも、戦後の高度成長期に失われゆく「古き日本の姿」「古き日本人の暮らし」に焦点をあてた「ドキュメンタリー番組」に他なりません。テーマ曲の変わる昭和44年(1969)3月までは、アナウンサーが取材をすることがメインであり、今日の旅番組に通じるような体裁をとっておりましたが、重厚なテーマ曲に代わってからの内容は、曲のイメージともあいまった、より格調の高い“ドキュメンタリー調”が強まったように思われます。上述しましたように、本番組のお陰で、今ではすっかり見ることができなくなってしまった、当時各地に辛うじて残されていた我が国の原風景、そしてその中で生きる人々の営みが、映像としてふんだんに記録されております。その意義は計り知れないと思います。その意味でも、当方は、本シリーズがドキュメンタリー番組の「傑作中の傑作」であると申し上げることに何の躊躇もございません。こうした優れた作品を制作されてきたNHKスタッフには心底頭が下がる思いでありますし、それだけでも「受信料」をNHKに支払う動機となります。そして、「放送開始80周年記念」となった平成17年(2005)からは、『新日本紀行ふたたび-NHKアーカイブス-』がBSにて放送されるようになりました。これは、本放送に併せ、最後に現況を取材した映像を加えることで、放送から半世紀を経過した地域の変化を取り上げております(勿論794作の全てが再放送されているわけでございません)。更に、映像技術の進歩に合せるように、現在は『4Kでよみがえる「新日本紀行」』(リマスター版)としてBSプレミアムにて放送されております。そして、この間に日本の地域社会がどれ程に大きく様変わりしてしまったのかにも、深い感慨を持たずに拝見することができません。猥雑でありながらも、人々が志を高く侍してひそやかに地に脚をつけて暮らしていた、当時の日本社会と人びとの姿に「万感の哀惜」を想いつつ、毎週の放送を拝見しております。

 自分自身が、同時代人として熱心に本番組を拝見するようになったのは、やはり高校生の頃からとなります。高度成長期とその後のオイルショックによる日本社会の極端な変化の中で、そうした風潮にどこか批判的な目をもちはじめた時期に、本番組の存在は宝石の如くに輝いて見えたものです。「新日本紀行全放映作品データ一覧」なる資料を拝見して各放送のタイトルを追うと、昭和50年(1975)年頃から「これは見たかもしれないな……」と記憶の片隅に引っ掛かる作品が現れはじめます。もっとも、明確な記憶が残るのは昭和53年(1978)に当方が学生になってからとなります。つまり18年半続いた本番組の最期の4年間ということです。その中から2作品を御紹介して本稿を〆たいと存じます。一つ目は、昭和53年(1978)11月1日放送『小江戸残照-蔵造の街・川越-』であります。現在のような「伝統的建造物群保存地区」指定制度など影も形もない時代でしたので、道路側の店先は相当に現代風な装いに改修されておりましたが、当時番組を見て重厚な蔵造の商家が甍を連ねる街並みに圧倒されました。そして、そこで暮らす、城下町を由来とする商人の暮らしと心意気とが情感豊かにレポートされておりました。また江戸(東京)からは耐えて久しくなっていた豪華な山車が繰り出す秋祭に集う人々が印象深く描かれていたことを忘れることができません。当方は、ちょうど大学一年生であり、教養学科「技術史」での提出レポートとして「蔵造店舗」を取り上げることにし、実際に川越に足を運んで資料収集、聞き取り調査等々を行ったことを、今でも楽しく忘れ難き想い出としております。これも本番組のお陰と今でも感謝をしております。

 二つ目が、雪深い飛騨の地を採り上げた、昭和55年(1980)2月20日放送『飛騨古川-一之町-』であります。そこでは古川の地で近世以来「和蝋燭」を製造販売する「三嶋屋」が取り上げられておりました。明治以降に導入された我々の良く知る西洋蝋燭ではなく、伝統的な櫨の実から抽出する「櫨蝋」で造る和蝋燭づくりに拘り続ける職人の一図な姿に感銘を受けました。当時ですら国内で伝統的な和蝋燭造りを担っている人々は極々僅かであったのです。その職人が、今では故人となられた6代目の三嶋武雄さんでした。番組では、毎年1月15日に古川で毎年行われる「三寺参り」(親鸞聖人の遺徳を偲ぶことを目的に、雪深い中を圓光寺・真宗寺・本光寺三ケ寺を巡礼する風習)に奉納する巨大蝋燭を、正に自身の生命をかけるかのように数か月に亘って黙々とつくり続ける老職人の姿が描かれており感動させられたのです(12kg・高70cm・径25cmの巨大蝋燭です)。斯様なこともあり、翌年「三寺参り」の時期に合せて雪深く観光客も全くいない飛騨古川の地を訪れたことを思い出します。そして、三島武雄さんとも実際にお会いしてお話を窺うとともに、当時は地元の人の手によりしめやかに執り行われていた「三寺参り」に触れることができたのです。一面の銀世界に生える和蝋燭の仄かに揺らぐ炎の美しさに心底の感銘をうけました。何よりも、日本の古き美しき民俗の生きた姿に触れたことが何にも代えがたい経験となりました。こうした機会を知る切っ掛けを与えてくれた『新日本紀行』には、しつこいようですが感謝の言葉以外ございません。幸いに、三嶋屋は武雄さんが物故された後も、御子息の順二さんが7代目を継ぎ、現在お孫さんの大助さんが8代目を継ぐべく修行中とのことです。それには、平成14年上半期のNHK「連続テレビ小説」『さくら』に登場する、ハワイ在住日系4世の女性主人公が、ALTとして飛騨の地に赴任。その下宿先が古川の和蝋燭店との設定であったこと。これで、飛騨古川と「三嶋屋」和蝋燭店の認知度が一気に高まり、観光客が引きも切らずに訪れるようになったことも大きいと思われます。現在、国内には10軒程の和蝋燭の製造販売を行う店が御座いますが、全ての工程を昔乍らの手作業で行っているのは、ここ「三嶋屋」のみと聞いております。何れにせよ、今日に到るまで「三嶋屋」が無事に引き継がれ、伝統が保持されていること心の底から嬉しく思う次第でございます。

 今回は、人を「懐旧の情」に誘う鍵となる何物かについての話題でございましたが、宣なき当方の雑談に終始してしまったようです。誠に申し訳ございませんでした。まだまだ残暑厳しき陽気が続くことと存じますが、たまには「遠き美しき記憶の日々」への旅を楽しむのも一興かもしれません。


 


 

 

 政令市移行30周年記念の企画展『甘藷先生の置き土産―青木昆陽と千葉のさつまいも―』が始まります!!(前編) ―会期:8月30日(火曜日)~10月16日(日曜日) 会場:本館2階展示室―

 

8月26日(金曜日)

 

 

夏と秋と 行きかふ空の 通ひ路は

かたへ涼しき 風や吹くらむ

[凡河内躬恆『古今和歌集』夏]

 松風の 音のみならず 石走る

水にも秋は ありけるものを

[西行『山家集』夏]
 

 

 暦の上では既に秋に移って久しいのですが、相も変らぬ残暑厳しき毎日が続いております。それでも、朝夕の空気には秋の気配を色濃く感じさせられますし、亥鼻山でも夏の終わりを告げるツクツクボウシが盛んに鳴き交わしております。冒頭歌は、こうした夏から秋への季節の移ろいの気配を詠み込んだものとなります。特に前者は広く人口に膾炙した作品であり、特段に目新しさをお感じになられないことと存じますが、それでも解説を要しない程に簡明なすっきりした詠みぶりの中に、移ろう季節の姿をかそけく含めた忘れ難き秀作であると思います。また、後者は、千葉常胤と同年生まれの西行(因みに平清盛も同年齢)の作品となります。共に、何時もご紹介させていただいております塚本邦雄撰『清唱千首』からの引用となります。当方の駄弁などはさて置き、稀代の審美眼の保有者故塚本氏の短評をお読みくださることが一番かと存じます。

 

 夏の初めの貫之の傑作「花鳥も みな行きかひて むばたまの夜の間に今日の夏は来にけり」と鮮やかな照応をなす発想だ。縹渺(ひょうびょう)たる大虚(おおぞら)のどこかで、衣の袖を翻しつつ、夏と秋とが擦れちがふさまを幻想する。下句の理(ことわり)めくのは、作者のかけがへのない発見・創意の證(あかし)ととるべきだらう。この歌、古今集夏歌の巻軸。「かたへ」は片一方の意。今一方は熱風鈍色(にびいろ)に澱んでゐると見るべきか。
 
山家集の夏の終りに近く「松風如秋といふことを、北白河なる所にて人々よみし、また水聲ありといふことを重ねけるに」の詞書を添へて、この歌が見える。「水にも秋は」が、まさに水際立った秀句表現に感じられて、ふと西行らしからぬ趣を呈するのは、この句題の影響による。それにしても、両句を含みつつ冱(さ)えた一首にする技巧は抜群。

 

 

 さて、正直なところ、あまり市民の皆様には意識されていないようには感じますが、本年度は千葉市が政令指定都市に移行してから、ちょうど30周年を迎える記念すべき年度でございます。昨年が「市制施行100周年」、4年後には「千葉開府900年」と、本市では前後数年間に所謂「周年行事」が縦続くことになります。当方が申し上げるまでもないことではございましょうが、「政令指定都市」とは、法定人口が50万人以上で、なおかつ政令で指定された市のことです。分かったようでよくわからない説明でありましょう。要は、「政令指定都市」になると、都道府県からの権限の移譲等によって都道府県に準じた権限を行使することが可能となります。つまり、都道府県との間の手続き等を経ることなく、直接に国と交渉し市独自の施策を実施することも可能となるのです。その意味で、一般の市町村と比べると、都道府県からの独立性が相当に強くなります。もっとも、市民の皆様にとっては、恐らく住所記載の際に「市」と「町」の間に「区」名称を付加せねばならなくなったこと、及び様々な役所関係の手続きが区役所で済むようになったことくらいしか「政令市」を実感することはないのかもしれません。「政令市30周年」が今一つ盛り上がりに欠ける最大の要因も、そのあたりに存しましょう。

 斯様な次第で、本年度の本館での特別展・企画展には、「政令市30周年」を冠として掲げており、来週より第一弾として標記「企画展」を開催させていただきます。また、本展終了後の10月18日(火曜日)から、第二弾として特別展『我、関東の将軍にならん-小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏-』を引き続いて開催いたします。この2つの展示会をもって、「政令市30周年」を寿ぐ展示会とさせていただきます。ただ、一昨年度・昨年度に3回に分けて実施いたしました「市制施行100周年」記念展示会とは異なり、本年度の展示内容と政令市移行30年との関連は、基本的には存在しないものとお心得ください。

 さて、ようやく来週8月30日(火曜日)から会期に入る企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』に移りたいと存じます。本市で生まれ育った方にとって、青木昆陽と千葉とは、切っても切れない程の深い縁によって結び付けられているものと思われます。勿論、青木昆陽は相当に広く知られる歴史的人物でございましょう。つまり、徳川吉宗による所謂「享保の改革」において、飢饉対策の一環として青木昆陽によるさつまいも(甘藷)の試作が行われたこと、その結果「救荒作物」として作付けが広まり後の飢饉で多くの生命を救うこととなったこと等々を、「教科書」で学んできたからであります。つまりは、多くの日本人と青木昆陽とは所詮はこの程度の関係性であって、決して「深い縁で結ばれている」訳ではございますまい。当方の認識も千葉市に奉職する前にはその程度でございました。

 しかし、千葉市で小中学生時代を送った方にとって、青木昆陽と千葉市との繋がりは、少なくとも他都道府県に出自を持つ者にとっては思いもつかないほどに深いものがございます。何故ならば、千葉市内の学校では「青木昆陽が幕張(馬加)の地でさつまいもの試作を行った」という厳然たる史実を学ぶからに他なりません。あまつさえ、「神」に祀られてまでおります(「昆陽神社」)。それだけ、千葉におけるさつまいも生産に多大なる功績をした人物として顕彰されてきたのであります。事実、令和元年(2019)度の農林水産省「都道府県作物統計」によれば、千葉県のさつまいも収穫量は、鹿児島県、茨城県に続いて全国3位に位置づいております。4~5位は、宮崎県、徳島県、熊本県と続きますので、関東の中では茨城・千葉は突出した生産量を誇っていることが分かります。さつまいも栽培の先鞭を千葉市域幕張の地でつけた昆陽の功績は誠に大きなものであることが知れましょう。つまり、青木昆陽とは、「さつまいも栽培の普及に一生を捧げ」、その結果「飢饉で多くの人命を救うことに貢献し」、更に「今に繋がる千葉市・千葉県の産業の基盤をつくった」“大功労者”であるから、地域社会で「神として祀られる」のも誠にもってもっともな人物……と、当方も単純に信じておりました。少し前までは……。

 しかしながら、本展企画を構想した頃から実際に調べてみると、そうした認識は相当に「牧歌的」に過ぎないことが次第に明らかになって参りました。勿論、当方がここで申し上げたいことは、青木昆陽が、千葉市にとっての功労者でもなければ、神として祀られるのは不適切だ……ということでも全く御座いません。青木昆陽は「甘藷先生」と言われるように(墓石にも斯様に書かれております)、「さつまいも」と切っても切れない関係を有する人物であることは間違いないのですが、実際にその生涯を見れば「さつまいも」との関わりは思いのほかに大きなものではないことに気付かされます。そうであれば、そもそも青木昆陽とは如何なる人物であったのかとの疑問が浮かんで参りましょう。冷静に考えてみれば、斯くも著名な人物について教科書的知識以外に知ることは殆どないことに気付かされたのです。また、昆陽が幕張の地に脚を留めて「さつまいも」の試作に携わったのは、どうやら1週間程度の極々短い時間に過ぎないことも分かってまいりました。地元の人にとって決して強い印象を残したとは考え難き人物が、何故「神」として祀られているのか、神格化に動いた人達とは誰であり、その意図とはいったい何処にあったのか??その後の千葉市域・千葉県域で「さつまいも」栽培が如何に広がり、どのような形で活用されていったのか??……等々、不思議に思うことは限りなく浮かんで参りました。

 従いまして、今回の企画展示とは、知っているようで殆どその実像を掴めていない青木昆陽と言う人物の「実像」に少しでも肉薄してみようとする“試み”であり、こうした昆陽に関する素朴な疑問への解答を導き出す“アプローチ”であることになります。そして、こうした“??”の想いは、おそらく多くの市民の皆さんにとっても共有されるものでございましょう。是非とも、本企画展に脚をお運びください。「へぇ、そうだったのか!?」という発見に満ちた展示内容となっているものと自負するところでございますから。また、千葉県立佐倉東高等学校調理国際科の先生・生徒の皆さんの全面的な協力を頂き、江戸時代刊行の書籍に記された薩摩芋料理のレシピ復元の記録も御紹介をいたします。実物販売はできませんが、ご希望の皆様には「レシピ集」を配布させていただきますので、是非ともご自宅での調理にチャレンジしていただければと存じます。本市で初めて正面から青木昆陽を採り上げることとなる展示会ですが、様々な角度から千葉とサツマイモの関係性に迫る内容を大いにお楽しみください。

 後編では、企画展の「まえがき」と各章の構成と各章概要等について御紹介をさせていただきますので、それらで全体像をお知りになられて企画展に脚をお運びいただけると理解も深まるものと存じます。
(後編に続く)
 

 

 政令市移行30周年記念の企画展『甘藷先生の置き土産―青木昆陽と千葉のさつまいも―』が始まります!!(後編) ―会期:8月30日(火曜日)~10月16日(日曜日) 会場:本館2階展示室―

 

8月27日(土曜日)

 

 

 

 前編末尾で申し上げましたとおり、後編では企画展「まえがき」と全体構成、つまり「プロローグ」「1~3章」「エピローグ」の表題と内容概要等の御紹介をさせていただきます。こちらは、本企画展担当であると土屋雅人学芸員、外山信司総括主任研究員の執筆となります(展覧会場各章冒頭に掲載されて内容です)。端的に各章毎の内容を纏めておりますので、本稿をご一読の上でご来館をいただけることをお薦めいたします。本展の理解が深まること必定と存じます。

 

 

は じ め に

 
私は、昭和58年(1983)これまで縁も所縁も無かった千葉市に奉職することとなりましたが、幕張駅付近で総武線車窓から目にする塚上の小社に目を奪われることが間々ありました。今では線路に交差するアンダーパス道路建設に伴う周辺地域の改修で、全く旧状を留めてはおりませんが、当時は古色蒼然たる社殿が建っており如何にも由緒正しき姿に感じられたからです。そして、それが日本史授業「享保の改革」で学んだ青木昆陽を祀る「昆陽神社」であることを知るのにさしたる時間を要しませんでした。職場で先輩方に尋ねれば直ちに判明したからです。同時に、昆陽が飢饉対策を目的に甘藷(さつまいも)を試作した地の一つが幕張であること、つまり本市と昆陽とが深い縁で繋がっていたことを知ることになったのです。逆に申せば、当時から千葉市民の誰にとっても昆陽が身近な存在であったことに思い至ったということにもなります。そして、そのこと自体は今でも基本的に同様だと存じます。「千葉市勢要覧」のような冊子でも、江戸時代の本市域におけるトピックとして「昆陽による幕張での薩摩芋試作」が特筆大書されることが何よりの証拠となりましょう。

 しかし、千葉市の誇るべき偉人としてかくも高名なる「甘藷先生」青木昆陽について、我々はそれ以上に何を知ることがございましょうか。また、昆陽と所縁深い本市域におけるさつまいもの歩みについて何を語ることができましょう。かく申す自分自身にもこれまで全く自信がございませんでした。今日の研究成果によれば、昆陽が幕張の地に脚を留めたのは極々僅かな期間に過ぎないことが分かってまいりました。つまり、地元の人々に忘れ難き印象を残したとは申し上げにくい人物なのです。それにも関わらず、昆陽は何故「芋神様」として祀られる存在なのでしょうか。「薩摩芋」によって飢饉から救われたことに対する報恩なのでしょうか、それとも、他に大きな背景が隠されているのでしょうか……。頭の中には幾つものハテナマークが沸いて参ります。

 そうしたことを少しでも明らかにするため、本企画展では、千葉市民に知られているようで、必ずしも実像の定まらぬ青木昆陽の人物像に焦点を当てながら、昆陽の「置き土産」とも称すべき千葉市域におけるさつまいもの「近世・近現代史」を採り上げます。その解明を通じて、「名のみ知られる」昆陽と千葉市域のさつまいもの歩みを明らかにし、できましたら両者の関係性を「白日の下に晒す」ことを目途といたしたいと思っております。その過程で、近世から近現代にかけて千葉市域から各地へとさつまいも栽培が拡大していったこと、そのことで産地間競争が激化することになったこと、その中でさつまいもが広く食品加工工業の原材料として活用され、千葉市域の経済を支えたこと等々が明らかになって参りましょう。それらを通じて、何時、何故に、昆陽が「芋神様」として祭祀の対象となったのかについての疑問への解答も見いだせることともなりましょう。それが、千葉市域にとって甘藷先生の「置き土産」に他ならないのだと考えます。本市初の企画展示である本展を通じて、本市所縁の人物である青木昆陽と、日々お世話になっている縁の食材であるさつまいもへの想いを新たにする契機としていただけますことを、心より祈念する次第でございます。

 最後になりましたが、本企画展の開催にあたり、多大なるご厚情を賜り、貴重な資料等の拝借にあたり御快諾をいただきました所蔵者及び関係機関の皆様に、深甚の感謝を申し上げます。


 館 長 天 野 良 介

 

 

 

プロローグ 幕張とさつまいも

 幕張とさつまいもは切っても切れない結び付きがあります。幕張地区を歩けば、いたる所にさつまいもに関連したものを目にすることができます。
京成幕張駅の目の前には、さつまいもを広めた青木昆陽を「芋神様」として祀る昆陽神社があり、その近くには昆陽がさつまいも栽培した、千葉県指定史跡「甘藷試作の地」があって大きな石碑が建っています。
さらに、京成・JRの線路をくぐる地下道は「昆陽地下道」と名付けられ、幕張公民館に設置されているステンドグラスには、さつまいもの花と葉が描かれています。近くの保育所は「いもっこ保育園」で、幕張小学校・幕張中学校の校章はさつまいもの葉がかたどられています。また、秋には「昆陽まつり」が行われています。
このように、さつまいもを抜きにして幕張の歴史を語ることはできませんが、それはなぜでしょうか。さらに、青木昆陽と幕張を糸口に、千葉市域とさつまいもとの関係について考えていくことにしましょう。

 1.さつまいもと千葉市(青木昆陽肖像画)

 

 

第1章 「芋神様」青木昆陽の実像

 青木昆陽は、名が「敦書(あつのり)」、通称が「文蔵(ぶんぞう)」です。江戸日本橋小田原町の魚問屋「佃屋(つくだや)」に生まれています。享保4年(1719)に京都堀川(京都市上京区)の古義堂(こぎどう)に入門し、伊藤東涯(いとうとうがい)の門人となりました。
享保18年、昆陽は、江戸町奉行所の与力加藤枝直(かとうえなお)に推挙され、奉行大岡忠相(おおおかただすけ)にさつまいもの効用と栽培法を説いた『蕃藷考(ばんしょこう)』を提出しました。さらに将軍徳川吉宗の命令で、同19年に江戸城(東京都千代田区)の吹上御苑、同20年に小石川薬園・九十九里・幕張でさつまいもの試作を行い一定の成果を収めています。
吉宗による享保の改革の中、昆陽は救荒(飢饉への備えと対策)政策として、幕府の公認の下、さつまいもの栽培に取り組みます。その功績は高く評価され、幕府の記録や後世の書物等に書き留められていくことになります。こうして、昆陽はさつまいもとリンクする形で、歴史上にその名を残すことになりました。
その後、昆陽は古文書探訪や蘭学の研究を行い、評定所勤役儒者などを経て、明和4年(1767)に書物奉行となります。
第1章では、青木昆陽の生涯、及びさつまいもとの関わりについて、史跡や書物などから浮き彫りにします。

 

1.生い立ちと学問(日本橋の魚河岸で育つ 伊藤東涯への入門)
2.徳川吉宗の「享保の改革」を支えた江戸町奉行大岡忠相との出会い
(『蕃藷考』執筆 国学者加藤枝直の推挙 幕臣への取り立て)
3.蘭学の先駆者として(オランダ語を学ぶ 前野良沢の育成)
4.昆陽とさつまいも
(江戸時代の飢饉 徳川吉宗に認められる さつまいも試作と広がり)
5.さつまいもの栽培方法の発展(昆陽の栽培法とその後)
6.昆陽の墓所を訪ねて(「甘藷先生」として目黒の滝泉寺に葬られる)

 

 

 

第2章 江戸時代のさつまいもと千葉

 青木昆陽の試作を契機に、さつまいもは日常食として江戸庶民のくらしを支える作物となっていきました。江戸では、あらゆる場所で焼きいも屋が見かけられるようになり、また、さつまいもを使用した料理本も出版されました。
さつまいもは、商品作物としての価値も高く、千葉市域北西部のさつまいも産地村落と、江戸のさつまいも商人は、流通の独占をめぐり争論を引き起こすことにも繋がりました。
千葉市域北西部では、柏井村(千葉市花見川区柏井町)や犢橋村(同区犢橋町)といった内陸部の村落で、さつまいも生産が主要な生業となっていきました。一方で、馬加村(千葉市花見川区幕張町)は、青木昆陽による試作地だったこと、さつまいも「起立根元」の村という特別な意識をもっていました。
第2章では、江戸時代のさつまいもについて、消費・流通・生産という過程に注目します。また、江戸時代のさつまいも料理の再現も試みました。


1.江戸の庶民の暮らしを支えたさつまいも -消費-
(『甘藷百珍』掲載のさつまいも料理レシピ紹介 江戸で売られる「焼き芋」)
2.さつまいもをめぐる争い -流通-
(さつまいも取引を巡る生産地と江戸商人との争論)
3.さつまいも「起立根元」の馬加村(馬加村の特徴 昆陽神社設立の経緯を探る)
4.さつまいも生産地の村々 -生産-
(さつまいも栽培の千葉市内の村々とその実情 印旛沼掘割普請とさつまいもの輸送)

 

 

第3章 千葉における近代のさつまいも栽培とでんぷん製造業の展開

 

 千葉における近代のさつまいもは、品種や栽培の改良、及び製造業の興隆と、まさに発展の時代でした。
千葉県農事試験場(千葉県農林総合研究センター)や千葉県農会は、甘藷の品種を改良して、全国各地へ普及させていきました。また、穴澤式甘藷栽培法など、栽培の改良に関する事例も多く紹介されました。
そして、デンプンを原料とする製造業も発展して、千葉を代表する産業となっていきました。参松工業は千葉工場で、水あめやブドウ糖などに加工しました。また、国の専売となるアルコール製造の工場が、稲毛に設置されております。
第3章は、品種・栽培改良⇒デンプン製造⇒食品・アルコール製造という発展のストーリーを紹介します。

 

1.近代におけるさつまいも栽培(品種改善のための取り組みの数々 苗育方法の工夫) 
2.甘藷でんぷん製造業の発展
(甘藷でんぷん製造発祥の地「千葉市」 花沢紋十と五田保稲荷の顕彰碑 幕張のでんぷん製造工場のようす)
3.甘藷でんぷんを原料とした工業の発展(参松工業とアルコール専売工場)

 

 

エピローグ 甘藷先生の置き土産 -青木昆陽が千葉に残したもの-

 戦中・戦後の食糧難を救ったのはさつまいもでした。「代用食」とも言われましたが、飢えをしのぐために大いに役立ったため、さつまいもの栽培を広めた青木昆陽の評価はさらに高まっていくこととなりました。昭和29年(1954)に幕張の試作地が千葉県指定史跡となったのも、そのような背景があると考えられます。
食糧事情が改善されると、甘藷デンプンの生産も復活し、これを原材料とする工業も再び盛んになっていきました。昆陽の200回忌を迎えた昭和43年(1968)には、幕張の試作地に県知事の揮毫による「顕彰碑」が建てられ、『千葉県甘しょ発展史』が刊行されるなど、農業関係者・デンプン工業関係者によって記念顕彰事業が行われました。これらのさつまいも関連産業は、まさに「甘藷先生の置き土産」として発展したのです。
現在も千葉県は全国有数の産地であり、ブランドとして知られる千葉のさつまいもを用いた商品も数多くあります。

 

1.戦後の昆陽の顕彰(「青木昆陽先生顕彰碑」)
2.各種さつまいも関連製品の展示(菓子 レトルトカレー 焼酎 水飴 ブドウ糖 等)

 

 最後になりますが、今回の企画展につきましては、予算的な都合から展示図録の作成・刊行が叶いませんでした(特別展については刊行致します)。ただ、状況が整い次第、たとえ図録形式ではなくとも(つまりブックレットのような形式であっても)何時でも刊行できるように準備を進めておきます。何時も申し上げますが、展示会が終了してしまえば手元には何の資料も残らないという状況は極力避けたいと思っております。手元に史料さえ残れば、それが後に更に深い追及に発展する足掛かりとなるのです。本年度中になるか、その後になるかは現状では何とも申し上げることができませんが、我々としましても、諦めることなく虎視眈々とその刊行を目指して参る所存でございます。

 

 

 

 「地域再開発事業」における彼我の深い溝に思うこと(前編) ―または “呑兵衛の聖地”葛飾区「立石」とアムステルダム「デ・ペイプ地区」との比較に見る市民文化の地平―

 

 

9月1日(木曜日)

 

 9月の声を聞き、社会全体も夏休みの気配から一気に“通常モード”に戻ったかのように感じます。毎朝の通勤の電車の中にも高校生の姿が戻り、下車後に職場に徒歩で向かう最中にも、小中学生の元気な声が交わされる様を目に致します。まぁ、比較的ゆとりのあった過去1ヶ月強の電車通勤が元通りとなるのはチト残念な思いもございますが、若い方々の息吹を感じることで当方のようなロートルも元気をもらえるようにも感じております。これぞあるべき社会の姿でございましょう。須く喜ぶべし……と納得することにいたします。

 さて、8月30日(火曜日)に開幕いたしました本年度企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』も、本日で4日目を迎えます。8月末の小学生・中学生と指導に当たられる先生方のご来館を期待していたのですが、よくよく考えれば千葉市では8月29日(月曜日)が夏季休業開けの授業再開日でありました。何とも間の抜けた当て外れでございましたが、今週末には、是非とも小中学生の皆さんも親子で挙っておいで下さることを期待するものでございます。千葉市民にとって、切っても切れない深い縁によって結ばれる青木昆陽と、彼が千葉に「置き土産」として残した遺産とは一体何なのか……。今週末は無理であっても、10月16日(日曜日)までの会期中には、是非一度は脚をお運びいただき、知っているようでその実像についてはほとんど知られていない、青木昆陽と千葉のサツマイモについての理解を深める機会として頂きたくことを祈念いたす次第でございます。因みに、以後、企画展タイトル表記の“さつまいも”ではなく“サツマイモ乃至は薩摩芋”表記とさせていただくことを御容赦ください。平仮名ですと文中に埋もれて目立ちませんので。

 サツマイモ序での余談ではございますが、本館では本企画展に併せて、「騎馬武者像」下でサツマイモの栽培をしております(品種については未詳)。5月初旬に植えつけた10cm足らずの芋蔓5本が、今では園地一杯に生い茂っており、我が物顔に地面を覆い尽くしております。芋の収穫は未だ先の11月になってからとなりますが、その強靭なる生命力には大いなる感銘を受けております。同時に、改めて飢饉に強い「救荒作物」であることを再認識させられた次第でございます。実は、過日(8月20日)本市で行われた「鎌倉殿の13人“トークショー”」前に本館を再訪された岡本信人さんも、目聡くサツマイモ畠を発見されて「この芋蔓をキンピラにすると美味しいんですよ」と御教示くださいました。当方と致しましては、「御屋形千葉常胤」さまにあらず、「野草研究家岡本信人」さんの素顔に接することが出来たことを大いに嬉しく存じました。当方も機会があれば是非とも試してみたいものだと思ったところですが、収穫直前でも利用可能なのか等々、その際に岡本さんにはもう少しご教示いただいておけばよかったと後悔しております。ただ、岡本さんは野草関係の書籍を2冊上梓されておりますので確認してみようと思っております[「道草を喰う-素朴で美味しい野草の話」1998年(法研)→2010年(ぶんか社文庫)、「岡本信人の野草の楽しみ方」2000年(ブティック社)]。

 さて、ようやくの本題でございます。当方はこの場で、国内各地における歴史ある街の再開発の在り方について度々苦言を呈してまいりましたが、今回は当方の居住する地元葛飾区における再開発について述べてみようと存じます。東京都の最東端に位置ずる葛飾区は、北部の水元周辺に農地が残る以外は、区域の殆どを宅地が覆い尽くしております。今でこそ東部低地に位置する所謂「下町」の扱いを受けることが多いのですが、戦前に遡ればその殆どを農地が占めておりました。加えて、隅田川方面から移転してきた町工場の点在するくらいの「在地」でございました。お隣の現墨田区(旧本所区・向島区)と境を隔てる荒川は、東京中核部の洪水被害回避を目的として、隅田川下流域の迂回水路として昭和5年(1930)に完成させた人工の河川「荒川放水路」であります[昭和40年(1965)に荒川に名称変更]。特に火災発生確率の高いセルロイド工場などが、火除地としても機能する広幅員の荒川放水路東岸閑散地である本区域へと移動してきた経緯がございます。現在も葛飾区内に本社を有する“モンチッチ”で知られる「セキグチ」は移転組にあらず、大正期にこの地で創業した人形メーカーでありますが、当初はセルロイド人形製造を中核とする企業であったことが本区域を生産拠点とした理由となっております。

 そして、戦争による東京大空襲による壊滅的な被害が主に荒川放水路の右岸であったこともあり、戦後に葛飾への町工場移転が加速し、更に高度成長期に新たな町工場が本区域に展開することになります。そして、都心に至近の地の利から、急速に宅地化が進んだ経緯がございます。鉄道で申せば、区の北部を東京から東北地方の太平洋岸を北上する常磐線、南部を東京から房総へ向かう総武線、そして中央部をやはり東京から房総へ向かう私鉄の京成電鉄、それぞれの沿線に設置された駅が中核となり、その周辺に住宅と商店街そして盛り場が形成されて行くことになりました。こうして、戦後の混乱期から高度成長期に掛かけて無秩序に拡大して行った市街地は、おそらくその昔の田畑の区画や灌漑水路の形状を継承しながら形成された町場は、曲がりくねった路地の両側に木造住宅が処狭しと連なる、どことなく「迷宮(ラビリンス)」を思わせる町場となっていったのであります。その姿は、今日的な整然と区画された人工的な街の姿とは似ても似つかぬ、猥雑さを内包したどちらかと申せば合理性に欠ける地域を形成することになりました。しかし、それこそが本区域ならではの地域性に他ならないのだと思われます。

 当方は、この地に昭和34年(1959)に生を受け、多感な幼少期から青年期までをこの地で過ごし、25年程前に実家のあるこの地に戻って生活しておりますが、この間の区内の大きな変化に大いなる憤りを感じることが多くございます。特に、昨今では「狭幅員道路と木密地帯が災害に弱い街である」として、東京下町全域で行政と大手不動産業者の手による再開発事業が彼方此方で盛んに展開されております。その所為で、例えば墨田区曳舟地区の趣のある街区が一掃されてしまいました。過日出かけてみたところ、整然とした街路に高層マンション、大手スーパーマーケットの建ち並ぶ別の街に変貌を遂げておりました。よくお世話になった美しい銭湯「曳舟湯」の旧地が何処かも判明しませんでした。そして、我が葛飾区もまた例外ではございません。常磐線沿線の金町駅南口に存在した、子供の頃からよく知る風情ある商店街は全て撤去され、現在その跡地には高層マンションが建ち並び、その下層階には大手資本のレストランやスーパーマーケットが占有しております。つまり、地元の商店や食堂も一掃されてしまいました。盛り場は周辺には未だ辛うじて残っておりますが、当方にとって金町は脚を運ぶ魅力ある街ではなくなりました。今では、路地で細々営業される「重盛」に用事がある際に金町に脚を運ぶ唯一の理由です(水天宮前にある「重盛永信堂」の暖簾分店の一つで「ゼイタク煎餅」は祖母の大好物でした)。当方の居住する隣駅亀有も、正直に申し挙げれば、今や自宅があるから居住しているだけに過ぎません。南口の魅力的な街の殆どは一掃され、その跡地は大規模な商業施設とマンションに変貌し、当方は街としての魅力を寸分も実感することが御座いません。自身の生まれ育った街を腐したくはありませんが、これが偽らざる想いあります。

 ここで、申し挙げて置きたいことは、再開発を推進する行政側にも、事業を担う大手不動産・建設業界の担当者にも、恐らく当該再開発地の「歴史・文化」「地域性」に関心を寄せる者も、そのことを知る者も、もっと言えば愛着を感じる者も、須く存在していないのではないかということでございます。もし、そうした方が存在していれば、斯様な再開発など絶対にしないだろうと思うことばかりだからです。只単に、行政的に申せば「安全で清潔な整然とした再開発を成し遂げること」、業者的に申せば「最大限の利潤が挙げること」、それぞれそのことだけが目指されているのだと思われます。そこから抜け落ちているのが、その土地・街に固有の歴史と文化であり、その地で永く暮らし地域の在り方を生み出してきた居住者の意思・意向だと思われます。当方は、地元住民の意向が重く用いられていない実態は、日本における再開発事業の重大欠陥であると考える者であります。それが言い過ぎであるならば、少なくとも地権者の意識が最優先にされている事実を否定することは出来なかろうと存じますが、如何でしょう。「そんなこと当たり前だろう!!」との声が聞こえてきそうです。後編で述べますが、それは全く当たり前ではありません。そもそも、再開発地から立ち退いた住民の全てが新たに完成した高層マンションに優先的に入居できるのでしょうか。場合に拠って家賃は数十倍にも跳ね上がり、彼らの多く、いや殆どはその地を後にせざるをえますまい。そうであれば、猶更に問うことが出来ましょう。一体誰のための再開発なのかということを。それは最早地域住民のための再開発ではありえません。 (中編に続く)

 

 「地域再開発事業」における彼我の深い溝に思うこと(中編) ―または “呑兵衛の聖地”葛飾区「立石」とアムステルダム「デ・ペイプ地区」との比較に見る市民文化の地平―

 

 

9月2日(金曜日)

 

 さて、そのような葛飾区でありますが、区内の中央部を東西に貫く京成電鉄の各駅には、未だ当方が幼少期から慣れ親しんできた街の風情が色濃く残されております。その代表的な街の一つが「立石駅」周辺でございます。地べたの上を走る京成押上線の駅であり、昨今は「呑兵衛の聖地」あるいは「千ベロの街」などと持て囃され、その強力な磁力で多くのドランカー達を引きも切らずに誘引しております。「もつ焼き」にガブリと喰らいつき「焼酎ハイボール」で一気に流し込める幸福な街、千円札一枚もあればベロベロに酔える有難い街、決して上品とは言い難いけれど個性的な魅力ある“個人経営”の名酒場が櫛比する街、それが「立石」だと思われます。何処の駅前にも判で押したように存在する“チェーン店”居酒屋などは、少なくとも駅の周辺には一切ございません。誤解無きように申し挙げておきますが、「立石」は酒場ばかりが林立する所謂「盛り場」ではございません。京成線に接して大手スーパーマーケットがございますが、昔ながらの平屋建であり“街スーパー”の体裁を逸脱しておりません(何でも昨今撤退したと耳にしました)。昔ながらのアーケード商店街には総菜屋が立ち並び、立喰寿司店、甘味・焼きそば店、たこ焼きの名店等々も数多存在しております。そこには、外から酒を求めてやってくる訪問者だけではなく、地元民に根付いた地域社会を体現する街の姿がございます。

 もっとも、こうした“安酒場(当方はこの言葉を最高の褒め言葉として用いていることを申し添えておきます)”の主たる客層は元来が町工場で働く方々であり、彼らの憩いの場として機能していたのです。開店時間が15時前後と相当に早いのはそのためです(土曜日は昼前から営業する店舗もあります)。要するに、町工場は日の出とともに仕事を開始しますので、その時間帯になれば店仕舞いをします。職人・工場労働者達は銭湯で汗を流し、その帰りに一杯引っかけにやってくるのです。その分、“由緒正しき”立石の酒場は20時前後には店仕舞いをするところが多くございます。そこには、「早く帰って家族と一緒に野球中継でも見なさい(団欒を大切に)」「早寝早起でしっかり仕事に励みなさい」「呑み過ぎで正体をなくす野暮な飲み方をするな」と言った、「下町酒場の矜恃」があるのだと当方は思っております。従って、酒場によっては、明らかに酔っぱらっている客が酒の注文をしてもきっぱりと断られます。また、長っ尻は下町酒場では最大の御法度であります。さっと呑んで気持ちよい程度で済ませる「自制の文化」が立石の酒場にはございます。

 ただ、昨今はこうした酒場がメディアに採り上げられるようになり、立石の酒場にも来訪者が引きも切らずに訪れるようになりました。そのこと自体は地域活性化のためにも喜ぶべきことでありましょうが、その代わりに地元の工場労働者の皆さんはナカナカ利用する事が出来なくなったと一様に愚痴をこぼしておられます。これまでも入店するには外で待つことも稀ではありませんでしたが、上述のように回転が速いので直ぐに入れたのですが、酒場の掟もなかなか守られなくなりました。流石に、顔見知りでもない外来の御客に「早く帰れ」とは言い難いところもございましょう。自然と地元民の足が遠のいているように思います。当方も、地元外の方に下町酒場文化を紹介するような際にしか訪れなくなりました。開店の2~3時間前の行列待ちが当たり前では行く気も失せるというものでしょう。

 さて、こうした「木密」地区である「立石地区」にも再開発の波が押し寄せようとしております。手始めに対象となるのが立石駅北口地区です。現在、地上を走る京成線の高架化のために北口の線路際施設が幅20メートルほどに亘って全て撤去された状況を呈しております。既に10年程前に閉店した当方の愛してやまなかった「大林酒場」の建物も、「呑兵衛横町」の風情ある路地風景の殆ども消滅しました。葛飾区の資料に拠れば、立石地区の再開発は、3期に亘って実施され、その手始めが「立石駅北口地区第一種市街地再開発事業」となります。本事業は、令和3年(2021)度に東京都よりの組合設立認可がなされ、同年に総会が執り行われております。当組合員としては、東京建物、旭化成不動産レジデンス、首都圏不燃建物公社が参画、実施設計・施工、保留床処分を担当する特定業務代業者に鹿島・三井住友建設JVを選定、令和5年(2023)度着工、令和10年(2028)度の竣工を目指すとあります。青写真を見ると、北口2.2ha区域の既存住居・店舗を全撤去後、新たな街区を設定したうえ「西街区」に地上35階・地下2階、高120メートルのタワーマンション[650戸]と店舗を建設、「東街区」に地上13階・地下3階、高62メートルの「事務所・店舗・公益」を建設するとあります。その内の「公益」とは「葛飾区役所」を指すのだと思われます。つまりよく言う「老朽化」した区役所の移転先と言うことになりましょう。まぁ、ざっくり申し上げれば、当方にとって既視感のある金町駅南口の再開発後の姿が立石にも出来上がるということであります。何処にでもある金太郎飴のような街が、よりによって立石にもできあがるのです。何と嘆かわしいことでしょうか!!何よりも、もつ焼きの名店であり登録有形文化財指定の価値ありとも考える「江戸っ子」、鳥料理「鳥房」、辛うじて残った「呑兵衛横町」が消滅いたします。魅力的な商店街や家屋の数々もすべて地上から消え去ることになるのです。

 更に、立石駅南口でも「立石駅南口東地区第一種市街地再開発事業」が引き続いて行われる計画です。こちらでも同様に既存地区全移転・撤去の後に、地上34階・地下1階、高さ125メートルのタワーマンション[450戸]の建設が予定されております。参加組合員予定者は野村不動産と阪急不動産、事業コンサルタントは佐藤総合研究計画、再開発ビル施工の優先交渉権者に長谷工コーポレーションを選定しているとのこと。更に更に、その西側に接した地区には「立石駅南口西地区第一種市街地再開発計画事業」が計画されており、同じく地上34階の共同住宅・商業施設が建設が想定されております。参画組合員他は省略しますが、その周辺でも恐らく大手企業の手が入って複数の再開発事業が活発化するのではないかと想定されます。立石駅南口には、国内有数のモツ焼の名店「うちだ」、上述した立ち食い寿司の名店「栄寿司」、甘味・焼きそばの「松廼屋」、浅草の芋羊羹店の暖簾分店であり、その芋羊羹をツマミに抹茶ハイを傾ける(おとなセット)、正に呑兵衛の「奥の院」とも申すべき強烈なる洗礼の待つ「舟和」、朝の8時から一杯やれる「えびす屋食堂」等々、まさに国宝級の酒場が蝟集し、更に地元民の買い物の場である賑わいのある商店街が息づく地元民の生活の舞台なのです。それらを一掃されてしまうなど、正気の沙汰ではないと私は考えます。

 今日日、この立石に多くの人々が脚を運ぶのは、おそらく、ここがテーマパーク然とした「歓楽街」であるからでも(例えば新宿の歌舞伎町のような)、名建築が残る伝統的建造物保存地区であるからでもなく、戦後から連綿と続いてきた葛飾の地域性を色濃く残した、「近隣志向」を有する地元居住者の生活の息遣いが、その街から感じとれるからに他ならないと私は信じてやみません。だからこそ、外からやってくる人々は一杯引っかけてから、街を漫ろ歩きして地元商店街でコロッケ等のお総菜を購入したり、「大ちゃん」のたこ焼きを手土産にしていくのです。これがタワーマンションの林立する街になったら、この街からは生活臭はまるで消え去りましょう。そもそも、そこに居住する人々は葛飾区の歩みを創り上げてきた人々ではなくなります。「いや、そうした居酒屋をタワーマンションの商業地区に入るようにする」との反論があるかもしれません。しかし、例えば築地の場内食堂が、移転先の豊洲の食堂街に移ったとたんに、かつての勢いを失ったことに鑑みれば、もしそうしたところで再開発以前とは180度異なった店舗となり果てましょう。同じものを食しに人はその場を訪れるのではありません。食とその場の在り方を体験したいのです。立石という居住者の「生活の場」が失われ、そこで永く生きていた人々が立ち去ってしまえば、その地域の「文化的な在り方」もまた失われるのです。歴史とは……、文化とは……、そして文化財とは……、馬鹿目立ちするような「偉人」の歴史でもなければ、「目玉」となるような国宝級の遺物や重要無形文化財になるようなものでも無いと思うのです。名を残すこともなく消えていった極々普通の人々の日常の積み重ねによって形成され、今日まで脈々と伝えられてきた地域の社会の在り方そのものこそが、他に代え難き歴史であり文化であり、文化財なのだと思われます。これらのことは、千葉市博物館協議会委員で長く副委員長をお務め頂いている元国立歴史民俗博物館教授の小島道裕先生も常日頃仰せであることです。当方も全く意を同じくする者でございます。

 その意味で、現状における「立石地区再開発事業」とは、「葛飾という地域の歴史と文化」を地上から抹殺する暴挙に他ならず、同時に「葛飾の文化財」を根刮ぎ破壊する愚行以外の何物でもないと、個人的に確信するものでございます。皆様は如何お考えでしょうか。本再開発事業には立石でも異を唱える地域の居住者の方々が多くいらっしゃいます。その意向が充分に反映されることなく「再開発事業」がなし崩し的に行われようとしていること自体、事業推進者の中に誰一人として本地域の在り方を理解する者が存在せぬばかりか、この地域を愛している者が皆無であることを痛感させられます。何たる精神の貧困哉!!
(後編に続く)

 

 

 「地域再開発事業」における彼我の深い溝に思うこと(後編) ―または “呑兵衛の聖地”葛飾区「立石」とアムステルダム「デ・ペイプ地区」との比較に見る市民文化の地平―

 

 

9月3日(土曜日)

 

 後編では、先に予告をさせて頂きましたように、地域住民の手により古き良き地域性が維持され、しかもその結果として現在大いに賑わいをもたらしている事例を御紹介いたしましょう。それが、標題にもあるオランダの首都アムステルダムにある「デ・ペイプ」地区を巡る再開発の動向であります。これ以降は、千葉大学大学院社会科学研究院・法政経学部教授水島治郎先生の論考「近隣志向のまちづくり-アムステルダムの都市再開発計画をめぐる攻防-」2019年(千葉大学法学論集)に全面的に依拠していることを最初に申し挙げておきたいと存じます。水島先生は、当方の現役教職員時代最終年に実行委員長を務めた「関東地区中学校社会科教育研究大会」千葉大会が千葉市で開催された折、記念講演の御依頼を快くお受けいただいた関係から今日まで多少なりともお付き合いを頂いております。

 水島先生の御著書である、ベストセラー『ポピュリズムとは何か-民主主義の敵か 改革の希望か-』2016年(中公新書)は、「日本でも既存政治への不信が募るなか、ポピュリズム的現象と直面しつつあり、本書のもつ価値はきわめて高いものがある」と評され、翌年に第38回「石橋湛山賞」を受賞されております。本研究大会でのご講演もそのことに関する内容でございましたが、本書の副題にもありますように、ポピュリズムの動向を単なるマイナス要因としてのみ捉えることなく、歴史的な検証を通じて民主主義に果たした積極的な意義についても評価されるなど、極めて明快にその意義を御解説いただきました。因みに、先生の御専門は「オランダ政治史」でございます。本論考もそうした御専門から派生した内容でございましょうが、我が国の都市再開発の在り方、特に我が葛飾区の立石地区における再開発事業とオランダのそれとの間に、あまりに深き埋め難き文化レベルの溝があること、更に市民社会の底力の違いをも痛感させられる内容となっております。小生はオランダに足を運んだことが無いので実感を元に述べることができませんが、水島先生の論考を引用しながらご説明をさせていただきたいと存じます。

 さて、アムステルダムの「デ・ペイプ地区」は、現在は所謂「庶民的な街」として大いに人気を集めている地域であるそうです。その北部には「アルバート・カイプ通り」がありますが、そこには食料品・日用品は元より様々な特産品等々が売買される露店が軒を連ねる青空市場として世界的に知られる「アルパート・カイプ市場」があり、今や国際的観光名所として多くの観光客をひきつけているとのことです。しかし、重要なことはここが同時に、現在でも地元住民達の生活の場であり、彼らが生活必需品を日常的に調達する場であることだと、水島先生はご指摘されていらっしゃいます。そして、周辺の「デ・ペイプ地区」とは以下のような地域性を有する街場であることを述べておられますので、早速引用をさせていただきます。

 

 

 アルバート・カイプ通りや周辺地区には、やや狭い街路を挟んで低中層の住宅が立ち並び、いまも多くの住民が生活を送っている。デ・ペイプはそんな下町的な雰囲気が漂う街、いわば「界隈」であり、それを好んで多くの人が住み、集まってくる空間なのである。デ・ペイプにはカフェやレストランも多いが、アムステルダム中心部の観光客向けの店とは異なり、外国人の訪問者にとって、やや入りづらい店もある。そのような店に夜集うのは、多くがアムステルダムの地元民たちである。その意味でデ・ペイプは、グローバル都市・アムステルダムの足元にも広がる、やや異質なローカル空間といえるかもしれない。
実は、アムステルダムには、そのような下町風情が残り、独特の魅力を発信する「界隈」的な空間が他にもある。中央駅の西側に広がるヨルダーン地区、中央駅のすぐ南側のニューマルクト地区もその典型だろう。近年、美術館や教会、モニュメントなどの名所をとびとびに訪れる観光ではなく、その町に息づく人々の生活を身近に感じながら、歴史や文化に彩られた町の雰囲気を味わう「まち歩き」が人気を集めているが、これらの地区はそのような「まち歩き」にこそふさわしい。
日本で言えば、東京の「谷根千」(谷中・根津・千駄木の略称)に近いだろうか。谷中から根津に至る地域は、昔ながらの江戸の雰囲気を残しつつ、住んでいる人々の息遣いの聞えるような細い街路、結束の固い地域のつながり、各所にオープンした個性的な店などが魅力であり、近年注目を集めている。地域の魅力とは、人気観光スポットの有無とは別に、その地域のもつ歴史性、人々のつながり、愛着といったコミュニティ感覚の存在によるところが大きいといえるだろう。

 

 以上、ご一読されれば、水島先生が仰せのアムステルダム「デ・ペイプ」地区の在り方とは、葛飾区「立石」の在り方とほぼほぼ重なるのではありますまいか。一つ申しあげることがあるとすれば、「谷根千」にはその後に商業資本が入り込み、例えば日暮里駅から西に向かう「夕焼けだんだん」下の谷中商店街からは昔日のような生活臭が希薄化の一途をたどっております(川越の一番街も今ではそんな街になり果てております)。つまり、観光客相手の店ばかりが櫛比するようになり、地元民の商店街としての色合いは滅失しつつあるということです(曾祖父の代から我が店の顧客であった、昭和の初めから当商店街で営業をされていた鮮魚店「魚亀」さんが店を閉じてから20年近くが経過しましょうか)。その意味では、ここで水島先生がご指摘の「デ・ペイプ地区」の在り方とは、現在では葛飾区「立石」にこそ色濃く重なるものがあるものと当方は思っております。しかも、その地元居住者の生活感が今でも大いに横溢しているのが立石の色合いでございますから。

 しかし、水島先生の論考によると、アムステルダムにおけるこうした庶民的な街場は1960年代に住環境の悪化に伴い衰退を極めており、市当局としては、これら地区を跡形もなく一掃して、大規模に再開発することを計画していたといいます。もし、それが実行されていれば、現在多くの人を惹きつけてやむことが無い街は地上から永遠に失われ、そこからは「界隈」と呼べる空間は消えていたことでしょう。事実、市はその地に高層ビルの立ち並ぶ整然とした人工都市を計画していたのですから。まさに、令和になってから葛飾区が立石で行おうとしている再開発と全く軌を一にした危機が、60年も前にアムステルダムにも惹起していたのです。しかし、こうした人の顔の見えない街の再開発に、居住者たちが反対して立ち上がったのです。その動向について水島先生の論考からっ再び引用をさせていただきましょう。

 

 

 キーワードは「近隣志向のまちづくり」である。アムステルダム市当局の推進する巨大な再開発計画に抗し、住民本位の都市再生を進めていくうえで、住民や若者、文化人たちは「近隣志向のまちづくり」というコンセプトを旗頭として集結した。そして当局と住民たちの激しい衝突、1975年の有名なニューマルクトの「市街戦」を経て、両者の力関係が逆転する。つい1978年、「近隣志向のまちづくり」を明示的に掲げる副市長の登場を経て、住民本位の都市再生の方向が固まる。大規模再開発計画は撤回され、住民の積極的な参加を得て再生事業が本格化したのである。
取り壊しではなくリノベーションを基本とし、地域の雰囲気や人間関係を残したまま漸進的に改修を進めていく手法をとったことで、デ・ペイプなどの下町は、その特色を保ったまま、「界隈」のある町として再生を果たすことができた。そして今、その地元色の濃い下町の存在が、アルパート・カイプ市場のように、アムステルダムというグローバル都市に独特の魅力を与え、世界から観光客を呼び込んでいる。

 

 具体的な市民運動の展開については、ここでは述べることは致しません。是非とも水島先生の論考に当たっていただければと存じます。上記引用中にある「近隣志向のまちづくり」を明示的に掲げる副市長こそ、アムステルダムに生まれ育ち、この街をこよなく愛する“地元っ子”ヤン・スハーフェルその人であります(町のパン職人でした)。庶民の街を愛し、それを守りながらも、より良い方向に改善していこうとする「熱」と、実際にそれを実現させたスハーフェルの行動力には心底の感銘をあたえられます。逆に、前中編でも述べたように、「立石」の再開発を推進される方々からは、そうした街への地元愛を受けることがないこと……、その溝に愕然とせざるをえません。スハーフェルによる以下に引用させていただいた発言を、再開発事業の舵取りを担う行政、事業執行者である業者の方々ともども、是非とも肝に銘じるべきでございましょう。当時のアムステルダムでは、荒廃する街の周辺部だけではなく、本来の中核部での空洞化も併せて進行していたとのことです。しかし、こうした居住者意識を重視した再開発を推進した結果、今では、街の中核部に企業も居住者も戻りつつあると言います。そして、アムステルダムはオランダ国内で「住みたいまち」として人気を回復しているといいます。そうなのです。町とは、決してそこにある建物の集積ではなく、そこに長く住む「人」の営みの集合体として成り立っているという当たり前のことが、現在の日本の再開発事業からはすっぽりと抜け落ちているのではありますまいか。当方が幾らほざいたこところで、動き出した「立石」の再開発は現時点で止めることはできますまい。結局、長く町に住む人々が街から追い出され、町の歴史文化との関係性を有しない新興住民だけの根無し草の街となっていくのでございましょう。改めて、我が国の「精神の貧困」を思わざるを得ません。今は、あの魅惑の街が地上から永遠に消え去る哀しさで一杯です。

 

 

「(劣悪な住宅地域においても)、そこに人々が住んでいるのだ、彼らには彼らの生活がある。彼らなりの物事に対するこだわりがある、それを尊重しなくてはいけない。」 

(ヤン・スハーフェル)

 

 

 最後に、何時もの通り、関連書籍の御紹介とさせていただきましょう。本稿に関わることでは、谷口榮『千ベロの聖地「立石」物語-もつ焼きと下町ハイボール-』2021年(新泉社)であります。実のところ、当方も未だに本書を入手できておりませんが、著者は葛飾区立石に生まれた地元住民であり、永く「葛飾区郷土と天文の博物館」で学芸員を勤め、東京低地の中世遺跡の研究レベルを飛躍的に高めた功労者でございます。そんな谷口氏の手になる本書が通り一遍の内容である訳がございません。「立石」が地上から消え失せる前には拝読を致す所存であります。続いて、当方が心底大切にしている書籍を2冊。正しくは同シリーズの正続2冊であります。大川渉・平岡海人・宮前栄『下町酒場巡礼』2001年(ちくま文庫)、同『下町酒場巡礼 もう一杯』2003年(ちくま文庫)でございます。当方はこうした“酒場もの”が大好きでして、太田和彦氏の著作等も相当に親しんでおりますが、その手の書籍の白眉がお三方の分担執筆になる下町酒場巡礼2冊であります。前世紀末に「四谷ラウンド」から上梓された名著の文庫化であり、今では手軽に手に取ることができます。こうした書籍は単なる酒場案内記であることが多いのですが、本作は正しい意味での「ドキュメンタリー作品」として立派に成立する、優れたルポルタージュです。優れたルポルタージュが須らくそうであるように、酒場を営む者、そこで働く者、そこに憩う者、そして記事をものする筆者の人生そのものが、東京下町酒場を舞台にして濃密に描きこまれており、大いに感銘を受けるのです。酒場を通して東京下町の人間模様を描く「名作」だと当方は考えております。もっとも、本書が世に出てから20年以上が経過し、採り上げられた酒場の三分の一程は、残念ながら既にこの世から消え去っております。立石からは「うちだ」「江戸っ子」「大林酒場」が登場しておりますが、当方の御贔屓であった大林酒場は10年程前に閉店してしまいました。我が亀有の「なるこや」も既に10年程前に閉店いたしました。しかし、こうして文章の中に哀惜を込めて留められた東京の下町酒場の姿は永遠に残り続けます。もしよろしければ、御手にとってみてください。絶対のオススメでございます。
(完)

 

 

 

 

 「甘藷の花」または「十三里」のこと(前編) ―極私的な「薩摩芋」に関する断章―

 

9月9日(金曜日)

 

 「政令市移行30周年」を記念する本年度第一弾の展示会となる、企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』でありますが、開幕から凡そ2週間が経過いたしました。こちらで予想を致しました通り、例年の展示会と比較して小中学生を含むご家族連れの観覧者が多いように感じております。何よりも誰もが親しむ食材である「さつまいも」と、学校で学習した千葉市との深い縁のある青木昆陽が主役の展示会となります。ちょっと見てみたいな……と思われるお子さんから誘われて、ご家族揃ってご来館いただいたお客さまが多いのだろうと推察するところでございます。因みに、図録制作が現時点で叶わなかった代わりにはなりませんが、ワンペーパー両面摺りの簡単な「概説シート」、エデュケーター制作にかかる小学校低中学年向け「学習シート」、千葉県立佐倉東高校調理国際科の皆さんが取り組んで下さった、江戸時代刊行『甘藷百珍』に基づく「薩摩芋料理レシピ解説シート」(復元+現代的アレンジレシピ)を配布致しております。勿論「展示作品目録一覧」もご用意してございます。会期は10月16日(日曜日)までとなります。既に残り一か月と少しでありまして、その内にヒマがあったら寄ってみようかな……と呑気に構えていらっしゃると、気が付いたときには会期終了となっておること必定でございます。「光陰矢の如し、一寸の光陰軽んずべからず」……。館職員一同、皆様のご来館を鶴首いたしております。さて、前稿では当方にとって思い入れの深い葛飾区「立石地区」再開発事業について、ついつい口角泡を飛ばすが如くの力瘤隆々の内容となってしまいました。従いまして、今回は少々肩の力を抜いて、極々軽い形にて薩摩芋についての脈絡なきあれこれを、思いつくままに記してみたいと存じます。お付き合いの程を。何だか訳の分からなさそうな標題の意味もそのうちに御理解いただけるようになろうかと存じます。

 まず皮切りとなりますのが標題にもございますように、「甘藷の花」に関する話題でございます。「甘藷」とは申すまでもなく「薩摩芋」の別称でございますが、皆様は、その薩摩芋の「花」を実際にその眼で御覧になられたことがございましょうか。小生は、こうした立場上(教職員時代も同じでしたが)市内各所で歴史講座講師を依頼されることが多くありますが、その際に訪れた幕張公民館で初めてその存在を目にすることとなりました。ただし、実物ではなく、ステンドグラス内に描かれた絵姿として。同公民館は地域の中核館なのか、施設の結構は他館の及ぶところではございません。講堂も6角平面をとり、ステージのある一辺の逆正面に、床面から天井に至る立派なステンドグラスが設えられております。その上部には海をゆく帆掛舟が、その下部には一面に描かれる緑色に生い茂る葉の中、沢山の薄紫色をした愛らしい丸花が散りばめられる素敵なステンドグラスであります。講義をしていれば嫌がおうにも真正面に描かれるガラス絵に目がとまります。しかし、それが何の植物を描いたものなのかは正直申して分かりませんでした。上部の海と舟の絵柄から、この幕張の地をモチーフにしたことが推察できます。そうだとすれば、これは「薩摩芋の花」なのか……!?確かに葉の形はそれっぽく見えますが、当方は、薩摩芋の花など目にしたこともございません。一見した花の形状は、朝顔か昼顔のようです。従って勝手に朝顔なのだろうと思って講義を進めておりました。

 しかし、どうにも気になります。休憩時間に館職員の方にお尋ねしたところ、それが「薩摩芋の花」だということが知れたのです。当該ステンドグラスの姿は現在開催中の本館企画展のオープニングパネルにも写真で掲示してございますから、是非ともご確認下さいませ。おそらく、多くの皆さんも朝顔か昼顔と勘違いされることと存じます。しかし、それ以上に当方と同様の感想、すなわち「えっ!?薩摩芋に花なんて咲くの!?」という感想をお持ちになられるのではありますまいか。その時の当方としては「へぇ、花が咲くのか!」くらいにしか思いませんでした。しかし、よくよく考えてみれば、定年退職前の2年間、奉職していた千葉市立高浜中にある荒れ果てた畑を開墾し、生徒会行事として苗の植え付けから学級毎で薩摩芋栽培を行い、最後には全校生徒で芋掘りをし、収穫物を落葉で焼いて全校生徒と伴に食した経験に照らしても、薩摩芋の花を見た記憶は一切ございませんでした。少々狐に摘ままれた感がございましたが、その時はそのままとなってしまいました。ただ、何ともモヤモヤした気持ちは胸中にそのままに沈潜していたようです。

 斯様な疑問が、今回の企画展に当たってふと頭をもたげて来たのです。「そう言えば……」というヤツでございます。そこで改めて調べてみたところ様々なる発見がございました。一つ目は、薩摩芋が「ヒルガオ科」の植物であったことです。その花を朝顔・昼顔と勘違いしたのも宜なるかな。しかし、もっと驚くべき発見は以下のようなことでした。つまり薩摩芋の花は「日本では沖縄県を除いて通常の条件では開花しない」とあったことです。調べてみると、薩摩芋は「短日性植物」なのだそうです。これは、一日の日照時間がある程度短くならないと開花反応を起こさないことを言います。つまり、さつまいもは日が出ている時間が短くならないと花を咲かせないのです。本来が亜熱帯性植物である薩摩芋の場合、日照時間と気温との相関関係により、沖縄以外の温帯に属する我が国土では、開花する条件が整わないということでございましょう。しかしです、当該文中には気になる文言がございます。それが「通常の条件では」なる“限定表現”であります。逆に申せば「特定の条件」があれば沖縄以外の国内でも開花することがあるということに他なりません。読み進めると案の定こうありました。その条件とは「地下の芋が肥大化できない条件下におかれた場合」とのことであります。

 つまり、芋を太らせることができない悪条件が存在する場合、回避的な手段として薩摩芋は花をつけ、結実させた果実によって子孫を残そうとするということです。そうした具体的な悪条件として、「干魃」「土壌に余りに栄養分が少ない」「疫病」「ネズミ等の動物の食害に遭う」等が想定されるそうです。従って、花が咲いた場合は、その後に薩摩芋を掘り出そうとしても収穫できないケースが多いともあります。そりゃそうでしょう。その代わりとして実をつけるようにするのですから。そうであるならば、我々が「甘藷の花」を目にしたことがないことは極々当たり前であるということです。逆に、幕張公民館ステンドグラスに地域の誇る象徴として描かれた美しい薩摩芋の花でございますが、こうなるとチト微妙なことになりはしまいか他人事ながら心配にもなりました。何故ならば、幕張が甘藷栽培にとって悪条件の地であることを白日の下に晒すことになりかねないからであります。按ずるに、下絵を描いた方が薩摩芋に愛らしい花が咲くことを知り、「折角だから美しい花も盛り込んでみよう」と、深く考えずに描き込んだ可能性が大きいのではありますまいか。確かに、葉と芋蔓だけの絵では「画龍点睛を欠く」と思うのも人情でございましょう。その想いは十二分に理解出来ます……。飢饉の際の悪条件下での様子を敢えて描いたのだという深謀遠慮が隠されているのだとすれば、それはそれで「天晴れ」でありますが、おそらくそうではありますまい。飽くまでも絵面上の都合によるものと思われます。

 次に、標題に掲げた「十三里」についての話題とさせていただきましょう。
本企画展でもその複製パネルを掲げておりますが、歌川広重晩年の傑作リーズ『名所江戸百景』全118図中の一枚「びくにはし雪中」(シリーズ中では世評の低い作品で二代広重の手になるものではないかと推定する学者もおります)に、江戸府内の京橋川に掛かる「比丘尼橋」手前の雪中夜景が描かれます。雪に埋もれた道の両側に喰い物店が描かれており、それぞれの店先看板には、左に「山くじら」、右手には「○やき」「十三里」の文字が読み取れます。ここでは、右手の店舗についての話題となるのですが、余談として左手の「山くじら」にも触れて置きたいと思います。「山くじら」とは、獣肉の隠語であります。江戸時代には仏教の影響下、一般に獣肉食への禁忌がありましたが、実際には支配者層でも庶民層でも広く食されており、特に幕末に及ぶに従って広がりを見せておりました。具体的には猪・熊・猿・狸・狐・鹿等々の獣肉でございますが、流石に大っぴらに標榜するわけにもいかず、「山くじら」との隠語で誤魔化していたのです(もっとも、鯨は哺乳類でありますが“四つ足”ではないから良しとしていたのでしょうか?)。現在でも両国橋の袂に「ももんじや」という江戸時代以来のジビエ料理店がございます。

 余談はこれくらいとして、右手の店舗の看板にある「○やき」とは一体何のことでしょうか。これが、皆様も大好きな「焼芋」のことでございます。芋を丸ごと一本焼いたものを「○焼」と言い(「まるやき」と読みます)、半分に切ってから焼いたものを「切焼」と称したようです。それまで「蒸かし芋」が主流であった中、芋を焼いて食する習俗が幕末に広まったということです。もう一つの「十三里」もまた「焼芋」を指す江戸言葉であります。「栗(九里)より(四里)旨い」(九里+四里=十三里)との、江戸人らしい洒落の利いた命名でございます。また、江戸から薩摩芋の産地として名高かった川越と江戸の距離が十三里(約50km)であったことにも掛けられていると言われております(陸路では九里ほど。もしかしたら新河岸川利用での距離数かも)。別に「八里半」との呼称もございました。これは「九里(栗)に近い」との謂いでございます。ここにも才気走った「江戸地口」の精神が横溢しております。更に、“生焼け”の薩摩芋を「十里」と称したそうです。これは食べると「ゴリ(五里)ゴリ(五里)する」(五里×2=十里)ことから来たものです。いやはや、江戸の人々の精神の闊達をここに見る思いで心底愉快でございます。

 それにしましても、『名所江戸百景』の出版された安政年間ともなると、江戸市中でも、今で謂うところのスイーツとして薩摩芋が広く食されていたことが分かります。何よりも、焼芋は甘味と香りが食欲を刺激するだけではなく、当時は極めて安価であることが魅力でした。10文(今の百円程)もあれば食べ盛りの者でも十分一食分を満たせたことも人気の背景となりました。そして、武蔵野台地を擁する産地は川越から新河岸川の水運で、下総台地を擁する馬加等々の房総の村々からは海運によって、多くの薩摩芋が江戸へと流入することになっていきます。つまり、産地間競争が激化していたことを伺わせます。勿論、房総半島内での産地間競争も激しさを増しておりました(薩摩芋を梱包する俵・縄がそのまま燃料として利用されたと言います)。実は、こうした競争の激化と、幕張において青木昆陽が神格化されていく動向とは軌を一にするのです。これにつきましては、是非とも企画展に脚をお運び頂きご確認下さいませ。後編では、江戸の人々の大好物であり、また自分自身も同好の士である「焼芋」について記そうと思っております。 
(後編に続く)

 

 

 「甘藷の花」または「十三里」のこと(後編) ―極私的な「薩摩芋」に関する断章―

 

9月10日(土曜日)

 

 前編末尾に記述いたしましたように、後編では極私的な「薩摩芋」との付き合い、特に「焼芋」のことについて書き記そうと存じます。勿論、皆様も世代毎にそれぞれの「さつまいも」への想いがございましょう。昭和30年代半ばに東京の東部低地に生まれ育ち、昭和末期に千葉市の教職員として奉職して今日に及んだ極々平々凡々なる人士を送ってきた一市民にとっての想い出も含めての話題となりますことを御容赦ください。もしかしたら、同世代の方くらいには少しは共感できる何物かがあるかも知れません。どうぞお気楽にお付き合いくださいませ。

 子どもの頃には、誰にでも食卓に並ぶ料理の裡、苦手な食べ物というものがあったことと存じます。もっとも、大人になっても引き続いて苦手な食材もあれば、今となっては好物に転じているものもまた多くありましょう。以下に示す3つの料理(!?)は、自分自身としては後者に当たるものでして、現在は何れも大好物に転じております。しかし、子供の頃には何故斯様なものを口にしなければならないのか到底理解の及ばぬものばかりでした。個人的な記憶によれば、そのトップ3は、第一に鰹を蒸しただけの「なまり節」(“なまり”は“生”から来ているのでしょうが名称の金属的な響きも嫌でした)、第二に茹でた大豆に醤油をかけて食する「味噌豆」(子供心には何故にこれに“味噌”と名が付くのかも不可解でした)、そして第三に茹でたり蒸したりした「薩摩芋」でありました。何れも、その食感が苦手の最大原因でありました。

 今回は、その内の「薩摩芋」に話を絞らせていただきます。母親・祖母・曾祖母が好物であった所為もあってか、子供の時分に薩摩芋は昼食に副食として頻繁に登場した食材でした。女性陣が美味しそうに頬張っていたことを懐かしく思い出します。築地魚河岸の仲買商を営んでいた我が家では、昼食は自宅で家族揃って食すことが多くありましたが、逆に父親と祖父は、文句こそ言いませんでしたが殆ど手を付けることが無かったように記憶しております。戦時中に陸軍に召集され中国戦線に出向き、鹿児島で終戦を迎えた祖父は、戦争に関することを一切語ろうとしませんでした。今思えば、ポツダム宣言の受諾が申し遅れていたら、アメリカ軍の「オリンピック作戦」が展開され、ほぼ間違いなく祖父は復員することは無かったものと思われます。按ずるに、鹿児島での軍隊生活の苦い記憶と薩摩芋とが分かち難く結びついているのではないかと想像しておりました。また、昭和4年生まれの父親は兵隊に行くことはなかったものの、学校での授業などは全くなく毎日動員されて勤労奉仕ばかり。戦中と戦後混乱期の食料と言えば、好むと好まざるに関わらず薩摩芋ばかりだったようで、本当はその姿も見たくもなかったのかもしれません。こうした方は他にも意外と多くいらっしゃいましょう。

 当方も、正直なところ、口腔内の唾液を全て絡め取ってしまうボソボソした食感と、仄かに甘いだけのボケた味わいがどうにも苦手で、何故女性陣が斯くも美味しそうに食べているのが理解できませんでした(バターを塗って食すると途端に美味くなることを知るのは小学校も卒業間近でありました)。一方、結構な値段でありましたから滅多に購入してもらえませんでしたが、時々街を流して売りにやってくる「石焼芋」屋台で購入した薩摩芋は、ホクホクしていながらもネットリ感も併せ持ち、甘さと香ばしさの際立った味わいにより、子供心にも日常的に自宅で食する薩摩芋とは異次元の食物に思えたものでした。勿論、屋台で売るための芋と八百屋購入の安価な芋との品質差が大きいのでしょうが、今思えば、これは我が家の調理法、つまり「茹でる」「蒸す」ことと、「焼く」ことの差に最大要因があるのであることが理解できます。近世に江戸でスィーツとして薩摩芋が大流行した背景には「〇焼き」、つまり従来の「茹でる」「蒸す」といった調理法から「焼く」調理法への変化が大きかったものと考えることができます。そもそも、生の状態では硬く甘味も全く感じることもなく、ゴリゴリした食感のサツマイモは、加熱することで、何故あのような良好なる食感と甘味と香りとが生じるのでしょうか。まずは、「焼く」「茹でる・蒸す」という調理法によって、如何なる違いが生じるのかを探ってみましょう。以下は、要領を得た説明に思えましたので「ウィキペディア」からの引用とさせていただきました(一部省略)。

 

 焼芋の甘みは、サツマイモ中のデンプンがβ-アミラーゼの作用により分解(糖化)された麦芽糖に主に由来する。β-アミラーゼは70度Cを超えると変性してしまうが、一方で生のデンプンには作用できず糊化して粒が崩れた状態のデンプンのみを分解する。多くのサツマイモでは糊化が約70度Cで起きるため、その付近の狭い温度領域でのみでβ-アミラーゼが失活せずに麦芽糖を生成できる。このため、70度C付近の温度で長時間加熱できる石焼き芋などでは甘みがよく引き出されるが、急速に加熱する電子レンジでは甘みが重運に生まれない。加熱後の焼き芋には15.4%の麦芽糖が含まれ、蒸し芋の12.6%より含有率が高い。また、焼き芋は加熱時に15~30%の水分が減少するため、より強く甘さを感じる。

 

 子どもの頃に、釜を炊く薪の匂いを煙突から蒔き散らしながら、チンリンチンリンと鐘の音と、売り子の「い~しやぁ~きぃ~もぉ~、やぁきたてぇ~の やぁ~きぃ~もぉ~」との粋な声色を添えて、街々を売り歩く風情ある姿は印象的でしたし、その訪れは自身を「パブロフの犬」状態にもしたものです。そこそこの値段で購入してもらえる機会は滅多にありませんでしたから、結局のところ生唾を飲み込むしかありませんでしたが。その代わり、一年に一回の子供会で新京成線「新初富駅」ホーム脇畑での「芋掘り行事」は待ち遠しいものでした(今では駅周辺の光景に昔日の面影は全く残っておりません)。当時は道路も舗装されておらず、自宅周辺の道路上で焚火をして直接芋を放り込んで食したものです(アルミホイルなどありませんから)。焼き上がった芋の表面は丸焦げ!!しかし、それを剥して黄色くなった甘い芋を食するのは一年に一度の贅沢に思えました。何れにしましても、焼芋にした薩摩芋の美味しさには確たる合理的な科学的(!?)根拠が存在していたことが知れました。味覚に五月蠅い江戸っ子に「〇焼き」が爆発的なる人気を博したことも納得でごさいます。ただし、江戸っ子の食した「〇焼き」は、「石焼芋」ではありませんでした。次に、そのことを確認しておきましょう。

 我々にとって馴染み深い「石焼芋」でございますが、その歴史は左程に古くまでは遡りません。明治以降にも東京をはじめとする地域で人気を博していた「焼芋」でありますが、戦時中の昭和17年(1942)に「食料管理法」の制定されると薩摩芋も統制品となり、ほとんどの焼芋屋が廃業・休業に追い込まれました。そして、その復活は、終戦後の昭和25年(1950)に薩摩芋が統制対象外となる時を待たねばなりませんでした。翌26年(1951)リヤカーに鉄製の箱型釜と焼石を搭載して移動販売するスタイルを導入したのが墨田区向島の三野輪万蔵で、これが「石焼芋」の発祥であるとされております。鉄製釜と焼石と薪を相当量に搭載するため重量が嵩むこと、更に火器を使用することから、リアカーは特注品である必要があったようですが、「大磯三分」と呼ばれる建材用の小石による間接加熱をすることで、遠赤外線効果による抜群の甘さを引き出すことに繋がったのです。1960年代の最盛期には東京下町を中心に出稼労働を含む千を超える人々がこの仕事に携わったと言われます。ただ、当方も子供の頃になかなか購入してもらえなかったように、戦後の石焼芋は比較的高価な食物となっていったことは否めません。リヤカーでの販売は、その後に軽トラックでの移動販売に取って代わられ、今では殆ど街々からその姿を消していまいました。

 これは、昨今スーパーマーケット等での「焼芋」販売が主流となっているからだと思われます。大型店舗で「焼芋」販売が行われるようになった背景には、電熱で焼芋にすることを可能とする「焼芋製造機」が開発されたことが最大の要因のようです。何故ならば、店舗内で火気を取り扱うには防火上の制限が多く、これまでは店内で焼芋をつくることができなかったのです。だからこそ、電熱による焼芋製造機の発明は小売店にとって画期的であったといいます。薩摩芋単体の原価はどんなに特別な品種であっても左程に高額ではございません。それが焼芋となればその価格は数倍にもなります。これが小売店の利益率のアップに大きく繋がったようです。それでも、移動販売による「石焼芋」販売に比べれば低コストであり安価に提供できます。その分、消費者にとっても有難いことであり、いきおい「石焼芋」移動販売を駆逐してしまったのでしょう。自宅で焼芋を造ることは簡単ではありません。実際に、電熱器で焼いた芋の売れ行きは大変に宜しいとのことです。勿論、電熱では「石焼芋」の域には到達できないのかもしれませんが、それでも十分に満足できる味と食感を生み出していると思います。時計の針を再度巻き戻すようで恐縮ですが、「石焼芋」が普及する以前の焼芋は如何に焼かれていたのでしょうか。

 江戸時代の「焼芋」事情でございますが、寛政5年(1793)年の冬、本郷四丁目の木戸番が木戸番屋で竈の上に乗せた焙烙に芋を並べて焼いて販売したことを嚆矢とするとのことです。その後、江戸の街で焼芋の人気が高まるとともに、素焼きの焙烙では割れやすいこと、焙烙自体の大型化が難しかったことから、鋳物製の浅い平鍋で焼かれるようになったようです。天保3年(1832)刊行『江戸繁盛記』には「木戸番屋では早朝から深夜に到るまで焼芋が売られ、裕福な人も貧しい人も好んで食べるため、一冬で番屋一軒の売上が20~100両にも達する」とあるとのこと。どれだけ人気を博していたかが知れましょう。大正期に入ると、低価格の菓子が売られるようになり、相対的に焼芋の需要は低下傾向を見せ、特に関東大震災以降の廃業が相次いだといいます。しかし、中国東北部から伝わった「壺焼」が伝わったことで、従来の竈を用いるより遥かに手軽に焼芋がつくれるようになったといいます。特に、駄菓子屋のようなところでは、冬のみの販売での負担が小さい「壺焼」が急速に普及したと言います。この「壺焼」とは、底に木炭を入れて加熱した壺に、先端を曲げた針金に薩摩芋を引かっけて壺上部から内に吊るし、壺口を鉄製の蓋で覆い蒸し焼きにする方法を取ります。別に、針金で吊るさず壺の内に金網を敷き、その上にのせて焼くことも行われました。今でも川越には「壺焼」を謳って製造販売している店舗がございます。因みに、我が家の至近にあるアリオ亀有店にも「壺焼」と称して焼芋を販売している店舗がございます。もっとも、店舗内で火気厳禁ですから、巨大な壺内には電熱器が設置されているのでしょう。しかし、陶器製釜内で蒸し焼きにされた当該店舗の焼芋は中々捨てたものではございません。時に「安納芋」、時に「紅あずま」等々、とっかえひっかえ様々な薩摩芋の品種を楽しめるのも宜しい趣向であると存じます。

 最後に、この2週間の会期中に、当方にとって嬉しいこともございました。小生の良く知る千葉市立小学校教諭(社会科専門)が来館し熱心に展示を見てくれたことです。彼は、未だ30歳そこそこの若手でありますが、郷土の歴史に関しても、社会科指導についても、大変に研究熱心な将来を嘱望される教師だと思います。実は、以前から本企画展のことを聞き及び、大いに楽しみにしていると述べておりました。その理由を確認すると、相当昔に廃業されたとのことですが、彼のご実家は市内蘇我の地で「サツマイモ澱粉製造工場」を経営されていたそうで、何らかの形で千葉市とさつまいもとの関係性を教材化できないものか思案を巡らしていたものの、如何せん適当な資料が手に入らない状況にあり頓挫していたとのこと。ようやく「青木昆陽」「千葉のサツマイモ」に関する展示会が開催の運びとなり、関連資料が網羅されることを何よりも喜んでおりました。それだけの熱意があるからでしょう。だからこそ、今回の企画展で図録刊行がなされないことが何にも増しての痛恨事であると語っておりました。彼に限らず、多くのお客様がそのことを残念だと仰せでいらっしゃいます。特に、授業化は手元に資料があってこそ成し遂げられます。改めて、会期中は無理としても、ブックレット形式であっても、どうにか勧告できるように尽力したいと考えますので暫しお待ちください。因みに、彼は、昨年度の本館特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』の展示資料を用いた社会科実践をしております。千葉市内に、こうした熱意ある志の高い若手の社会科教師がいてくれることを本当に頼もしく思っております。彼のような人材が少しでも増えてくれることを切に祈念する次第でございます。勿論、小学校だけではなく中学校においても……。小生は、彼には是非とも中学校で実力を発揮して貰いたいと願っているのですが……。まぁ、それはともあれ、今回の企画展からも、児童生徒に「えっ??そうなの!!」と驚きと感銘を生み出すことのできる授業計画を作り出すことは充分に可能です。そうしたチャレンジャーの多からんことを。社会科教師として教科書に書かれた内容を一歩も出ない授業ばかり……、そんな教師にはなって貰いたくないと心より願うロートル社会科教師OBであります。


 

 “ほのぼの” やがて“しみじみ”「江戸漢詩」逍遙(前編) ―または 揖斐 高『江戸漢詩の情景―風雅と日常―』礼讃―

 

9月16日(金曜日)

 

 9月も半ばとなりました。今年は梅雨明けが観測史上最速であったように、秋雨前線の訪れもヤケに早くなったように思われます。9~10月頃は「戻り梅雨」とも称される愚図ついた空模様となることが多いのは致し方なしでございます。しかし、いくら何でもお天道様の御出座が余りに少なすぎはありますまいか。気分の問題も大きいのですが、日常生活において布団干が叶わぬ事に大いに難儀しております。たでさえ毎日蒸し暑い夜が続いております。寝具も相当に汗を吸収して「煎餅布団」……どころか、「“濡れ煎餅”布団」と化しているようにすら思えるほどです。銚子名物ならいざ知らず、布団がそれでは歓迎すべからざる実情に歩なりません。昨今質の良い睡眠に恵まれないのは恐らくそれが原因でありましょう。カラッとした秋晴れが待ち遠しい日々を過ごしております。

 さて、現在開催中の企画展「甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-」の会期も残すところピタリ一ヶ月となりました。幸いに過日「千葉テレビ」の取材が入りニュースで報道されたこともあってか、連日(特に土日祝日)沢山の来館の皆様方で賑わいを見せております。有り難いことでございます。また、他県の薩摩芋関連施設でご活躍の“その道の専門家”の皆様にも脚をお運び頂いており、有り難くも展示につきましてお褒めの言葉を賜り、大いに恐縮しているところでもございます。ただ、そうした専門家の皆様から“判で押したように”苦情を頂くことが一つございます。それが「展示図録」の刊行がなされていないことに関するご意見に他なりません。これにつきましては、何度も申し挙げておりますように予算上の問題でありまして、我々としましても今すぐにでも刊行したいのが山々なのでございます。でき得る限り、年度末までに“拡大ブックレット”のような形態で刊行できるよう、“遣り繰り”に相務めて参る所存でございます。暫しご辛抱くださいますよう、改めましてお願い申し上げます。

 それでは、本日の話題に移りたいと存じます。先月、岩波新書の新刊として副題に掲げた書籍が上梓されました。刊行予告から一日千秋の思いで刊行日を待ちわびておりましたが、幸いに当日の入手が叶い早速一読に及びました。そして、江戸期知識人達の人間模様を様々なる切り口で描かれた面白さに、正に“時を忘れる”思いで読み耽りました。読書の楽しさを心底に堪能する、至って有り難き時を過ごすことができました。その内容につきましては、追って触れたいと存じます。今回の本稿の趣旨とは、予て機会があればと思っておりました江戸漢詩の世界について、簡単にではございますが御紹介をさせていただくことであります。多くの方々にとって、漢字ばかりが並んでいて、古典和歌にも増して縁遠き世界であろうかと推察するところでございますが、これを機に接する機会を少しでも増やして頂けたら嬉しく存じます。名伯楽に出会えれば必ずやその魅力に引き込まれるものと確信いたします。その点で、作品もさることながら、幾つもの優れた書籍を御紹介させて頂く所存でございます。

 日本の知識人達にとって、漢文の素養(文章を綴ったり作詩をしたり)は、古代以来変わることなく基本的かつ最重要のスキルでありました。平安時代に「仮名文字」が用いられるようになっても、それは文字通り“仮の文字”にすぎず、漢字こそが正式かつ公式な文字「真名文字」であり、その地位は少なくとも明治に至るまで揺らぐことありませんでした。更に、明治に入ってさえ、例えば夏目漱石は優れた漢詩を残しておりますし、名の知れた文学者たちにとっては漢文を読み書きすることは極々普通のことでありました。それにも関わらず、明治以降に綴られた「日本文学史」からは、漢文による文学(特に漢詩)が何故かすっぽりと抜け落ちて叙述されて参りました。少なくとも、当方が中高時代に学んだ「日本文学史」では、辛うじて奈良時代に編纂された『懐風藻』、中世の五山文学くらいが記されるのみであり、日本文学とは『万葉集』以来の和歌の歩み、『源氏物語』を代表とする仮名文字で綴られた作品群こそが“王道”であるかのように綴られて来たのです。特に、近世文学ではその状況はあからさまで、高等日本史教科書の「元禄文化」「化政文化」の項目で採り上げられるのは、今日でもほぼほぼ定番の作者・作品でございます。すなわち、散文では、仮名草紙から西鶴の浮世草子、近松の浄瑠璃、後期の洒落本・黄表紙等の所謂「戯作」、韻文では芭蕉・蕪村・一茶等の俳諧、そして川柳・狂歌くらいではありますまいか。ここには、漢文による作品の“か”の字も採り上げられてはいないのです。そう言えば、高等学校の漢文教科書には、朧気乍らの記憶でありますが、申し訳程度に「日本の漢詩」として広瀬淡窓が掲載されていたように思います。ただし、当然の如く授業では李白・杜甫・王維等々の「唐詩」ばかりが扱われ、淡窓はスルーでありました。もっとも、授業を通じて、唐詩の素晴らしさに開眼させて頂きましたので、漢文の先生(フルネームは失念いたしましたが当時既に相当ご高齢であった講師の神谷先生)には心から感謝しております。その基盤が江戸漢詩への扉を開ける鍵となりましたから。

 話を元に戻します。小生は、こうした「日本文学史」のスタンスが、当時の社会的状況を一顧だにしない、本末転倒の“偏向文学史”だと指弾する者ございます。これには、近世後期に勃興する国学とその思想を引き継ぐ輩による、「日本の優越」を説くための「不都合な真実」として、あるいは「脱亜入欧」を目指す明治国家にとって中国に淵源を有する文学作品は問題外として、政府によって意図的に隠蔽されてきた事情があるのではないかと邪推したくなるほどの、徹底した無視振りでありました。もっとも、国学の動向は押し並べて本居宣長から平田篤胤へと流れる超国家主義的政治イデオロギーを志向する潮流だけに止まらず、加藤千蔭(青木昆陽を大岡忠相に推薦した加藤枝直の子息)・村田春海らが江戸の地で展開する「みやび」の生活的実践に重きをおく一派が存在していることを見逃すべきではないことを一言申し添えておきます(「江戸派国学」)。少なくとも江戸時代までの儒学者を中心とする知識人の憧れの世界とは、一様に中国であり、中には少しでも中国に近いところに住むことを誇りとした事実さえありました。勿論、戯れの表現ではありましょうが、江戸より中国に近い大坂に居住することを誇った作品すらあるほどです。

 もっとも、「日本文学史」なる書物を紐解いて首を傾げることはこれだけに止まらず、例えば明治時代の文学を夏目漱石や森鴎外に代表させることも果たして適切なのかとの疑問も沸いて参ります。決して彼らを低く見るわけではありません。当方も二人の全集(共に岩波書店刊)を個人的に所有している程、彼らが明治日本を代表する文学者であることは間違いありません。しかし、彼らが明治の文学者として、当時国内の人々に如何ほどに影響力を有していたのかは疑問です。勿論、当時如何に低評価で、人々に広く受け入れられていなかったとしても、そのことが直接的に「時代を代表すべき文学者」に当たらない根拠とはなり得ないことは承知しております。しかし、恐らくはその数百倍も国民大衆へ希求力を有していたオーラルな表現形態、例えば桃中軒雲右衛門による「浪曲」世界を完全に黙殺して「明治文学史」語ることは方手落ち……どころか暴挙とすら考えるものです。こうした思いは、同時期に拝読した中村の盟友である加藤周一『日本文学史序説(上・下)』1975・1980年(筑摩書房)[今では筑摩学芸文庫で簡単に読めます]によって確信へと変わりました。しかし、その後も状況は基本的に改まってはいないように感じます。数回前に「ウルトラマン」シリーズを話題にした際に、所謂「サブカル」の位置づけに苦言を呈したことと同様の思考形態が、そのまま「日本文学史」の叙述にも繰り返されているように思えます。これは、果たして当方だけの被害妄想に過ぎないのでございましょうか。

 こうした状況を実感する契機となったのは、学生時代に出会った一冊の書物との邂逅であったことは間違いありません。それが、古今東西の文学に博覧強記とも言うべく精通する稀代の文学者、中村真一郎(1918~1997)の評伝作品『頼山陽とその時代』1971年(中央公論社)でございました(正確には1977年に同社で文庫化されたものを拝読に及びました)。後半生を主に京師で過ごした頼山陽(1781~1832)を中心とする近世後期の、驚く程に広範なる知識人間の人的ネットワークと、漢詩を核とする文学的交流の多彩さ、そして高校時代までに抱いていた閉塞感に満ちているように思えた近世社会が、それとは全く異なる開かれた闊達なる社会であったことに開眼させられたのでした。同時に、その際に強く実感したことは、当時自分自身が「封建的」であると認識していた江戸時代像の多くは、実は明治時代になってから新たに生み出された実態に他ならないと思ったことにありました。例えば、江戸時代後期には、少なくとも男女の間は明治の時代よりも遙かに平等の精神を基盤としていることを実感する部分が多くあったことです。勿論、「離婚」の一事を全てに敷衍させるべきではないことは承知の上で、江戸時代の庶民階級も含めた『離婚』が、これまで言われて来たように、夫から一方的に突きつけられる「三下半」によって成立するのではなく、殆どは所謂「協議離婚」であり「三下半」は単なる“離婚要件”の文書に過ぎなかった実態が、高木侃の縁切寺研究に拠って明らかになってきております。

 他にも、大名もヒラの武士も町人も農民が、身分を問わず漢詩文を通じて、知識人同士の水平で親密な人間関係を構築していることも大いなる驚きでした。何にも増して、彼らの交流を支えた漢詩文に魅了させられました。そのことを契機に、遡ってドイツ文学者でリルケの翻訳者として著名な富士川英郎(1909~2003)『江戸後期の詩人達-鴟鵂庵詩話-』1966年(麥書房)[実際に手にしたのは筑摩選書版]に親しみ、そして晩年の大著『管茶山』1990年(福武書店)へと及びました。更に、江戸漢詩への関心の高まりと符丁を合わせるように刊行された、『江戸詩人選集』全10巻(1「石川丈山・元政」、2「梁田蛻巌・秋山玉山」、3「服部南郭・祇園南海」、4「菅茶山・六如」、5「市河寛斎・大窪詩仏」、6「葛子琴・中島棕隠」、7「野村篁園・館柳湾」8、「頼山陽・梁川星巌」、9「広瀬淡窓・広瀬旭荘」、10「成島柳北・大沼枕山」)1990年(岩波書店)、『江戸漢詩選』全5巻(1「文人」、2「儒者」、3「女流」、4「志士」、5「僧門」)1995~96年(岩波書店)の刊行が更に興味を後押ししてくれました。それらは当方にとっての宝物以外の何物でもありません。これら著書によって、江戸漢詩の世界が包含する豊穣にどれほどの恩恵を受けたか計り知れないほどです。

 そして、その後に続く、江戸漢詩への名伯楽こそが、揖斐高(1946~)氏であると存じます。『遊人の叙情 柏木如亭』2000年(岩波書店)、『江戸の詩壇ジャーナリズム「五山堂詩話」の世界』2009年(角川叢書)、『江戸の文人サロン 知識人と芸術家たり』(吉川弘文館:歴史ライブラリー)の御高著には大変にお世話になりました。また、柏木如亭『詩本草』2006年、同『訳注聯珠詩格』2008年、『頼山陽詩選』2012年、そして『江戸漢詩選(上・下)』2021年(何れも岩波文庫)の編纂(訳注・解説)と、価値あるお仕事を建て続けて世に問うていらっしゃいます。特に、最後の上下2冊からなる江戸漢詩のアンソロジーは入手もしやすい手頃な書籍であり、江戸漢詩に少しでも興味を湧かれましたら是非とも口切りに如何かと存じます。ただ、いきなり本丸に攻め込むより周辺世界を耕すことも大切と考え、前編末では先月刊行の揖斐氏の最新作で、副題にも掲げた『江戸漢詩の情景-風雅と日常-』の御紹介を“取っ掛かり”といたしましょう。こちらで、それぞれの漢詩人への親しみをもとに実作に触れた方が、おそらく彼らの実作の理解の近道となろうかと思うからであります。それだけ、我々の歴史・文学への興味を歓喜してくれる名随筆だと思います。つまり、出来上がった作品を提示するのではなく、彼ら漢詩人たちの創作の源泉に迫る随筆となっております。しかし、その迫り方は「鋭く切り込む」といったアプローチにあらず、飽くまでも「同じ人間としての心の動きに応じた共感」に基づいており、読んで心が温まる想いともなります。実際、本書の「帯」にはこうありますので以下に引用し、引き続いて目次を掲げさせていただきます(※括弧内は、各項で主に採り上げられる漢詩人等でありますが、こちらは飽くまでも小生による追加となりますので悪しからず……)。

 

江戸の詩が生まれる現場に立ち会う
詩の中に打ち明けられた想い、悩み、人生の悲喜こもごもを照らし出す詩話集

1. 風雅のありか

山紫水明(頼山陽)
凧の揚がる空(六如・柏木如亭・与謝蕪村 等)
もう一つの詩仙堂(石川丈山・林羅山)
和文漢訳のメソッド(西山拙齋)

2. 文人の日常


十七世紀日本のジキル博士とハイド氏(村上冬嶺)
ある聖堂儒者の生活(平沢旭山)
漢詩人の経済(頼山陽)

3. 生老病死


寿命と歎老(村上仏山・館柳湾・村瀬栲亭 等々) 
妻を悼む(大窪詩仏・林読耕齋)
夫と妻の交換日記(川路聖謨・高子)

4. 人生のいろどり


犬派猫派(皆川淇園・大田南畝・菅茶山・服部南郭・夏目漱石 等)
虫めづる殿様(増山雪齋)
西施乳と太真乳(柏木如亭・秋山玉山・梁川星巌 等)
牛鍋以前(寺門静軒・林鵞峰・頼春水・葛子琴・大窪詩仏 等)

 

 

 時代は江戸初期から幕末まで、身分は大名から庶民に至るまで、漢詩人を中心にはしておりますが俳人から文士まで、更に舞台は江戸・京師・大坂はもとより地方に到るまで、広範な人材と、広域を舞台として、江戸の人々の「風雅と日常」の話題を採り上げておられます。個人的には、後編でも触れることになる「凧」を巡る俳諧作品との親和性の問題、そして個人的には取り分けて第3.章の内容にしみじみとした感銘を誘われたことを白状せねばなりません。特に、幕末の人として広く知られる川路聖謨と4人目の奥方にあたる高子との心温まる交流の在り方に打たれました。幕府瓦解の日にピストル自殺を遂げた川路の最期と、その後の高子の日々に思わず目頭が熱くなった次第でございます。そして、最終第4.章における、ほのぼのした、しかし何処か哀愁感のある内容にも感銘を受けた次第でございます。何れの掌編も、漢詩人などと言った堅苦しいイメージを払拭する、人間味溢れるそれぞれの詩人の素顔に触れる想いが致します。本作を心から「礼讃」し、皆様にお薦め致す次第でございます。後編では、揖斐氏の手になる漢詩アンソロジー集から、6名の漢詩人と作品を一篇ずつ御紹介させていただこうと存じます。 

(後編に続く)

 

 

 “ほのぼの” やがて“しみじみ”「江戸漢詩」逍遙(後編) ―または 揖斐 高『江戸漢詩の情景―風雅と日常―』礼讃―

 

9月17日(土曜日)

 

 後編では、具体的に江戸漢詩の作者と作品とを御紹介させていただくことにいたしましょう。もっとも、一口に江戸時代と申しても凡そ三百年弱の歴史を有し、押し並べて作者・作品を採り上げることは難しいものがございます。従いまして、前期・中期においても取り上げるべき作者と作品は数あれど泣く泣く諦め、主に「寛政期」を中心とした前後の作者とその作品とを採り上げさせていただきます。この時期から江戸漢詩はがらりとその作風を転じ、如何にも清新な息吹を伝えるものとなっていきます。その意味でもこの時期の作品に絞って御紹介することは、江戸漢詩の特色を御理解頂く上で有効と考えるものであります。因みに、当方は近世刊行になる「和綴本」を所有しているわけではございません。従いまして、作品の引用・読下文・現代語訳等につきましては、全て前編にて御紹介致しました揖斐高編訳『江戸漢詩選』上・下(岩波文庫)からの引用となりますことを初めに申し挙げておきたいと存じます。特に、揖斐詩による「現代語訳」は、言葉を補うことで原詩の持つ世界の理解を助けるのみならず、その味わいを更に深いものにしているものと確信いたします。昨年刊行の書籍であり、よもや品切になっていることはありますまい。しかも、安価な文庫本でもあり、ご興味をもたれましたら直ぐにでも入手可能であると存じます。ただ、長編の古詩にも見るべき作品は数多ありますが、スペースの関係上、主に七言絶句を中心とする短めの作品のみの引用といたしましたので(山陽の作品は七言古詩)、御理解くださいますように。

 まずは、当方の説明などよりも、碩学の“褌を借りて”当該時期の作風の変化について簡単に御理解いただければと存じます。その内容を踏まえて以下6人の作品に接して頂ければ有り難く存じます。その碩学こそ、美のエピキュリアンと称すべき文学者中村真一郎その人でございます。加藤周一・福永武彦とともに、戦後「マチネ・ポエチック」の旗手として、また3人分担執筆『1946年文学的考察』により戦後文学の新たな出発を高らかに宣言した一人であります。小生が学生以来、この御三方から受けた恩恵はエベレストより高いものがございます。

 

 

 寛政期のころを境として、江戸の詩学は一変しようとしていた。それまでは明朝の文壇の影響で盛唐詩の模倣を行う「格調派」が支配的であったのが、この頃から清朝の袁隨園などの唱える「性霊派」の詩風に転じた。
格調派の詩は古典への仄にめかしに満ちた典拠のある語句を用いて構成されて堂々たる風格を示すように見えたが、実は千篇一律で個性に乏しかった。それに対して新たに興った性霊派は近代的な個性の表現を尊重し、詩風としては宋朝の知的風潮や中晩唐期の官能的傾向に学んだ、今日、私たちの考える「ポエジー」に極めて近い作品を数多く生んだ。

 

[中村真一郎「江戸後期の知識人社会に見られる新しい道徳と感覚-寛政以降の巻学者たち-」~『中村真一郎評論集成3「私の古典」』より 1984年(岩波書店)]

 

 

◎六如(りくにょ)(1734~1801)


医者の子として近江八幡に生まれ、延享元年(1744)11歳で比叡山に登り江戸の寛永寺や川越の喜多院に住み、宝暦7年(1757)に京都の善光院住職となる。彦根の野村東皐に詩を学び、南宋の陸游に私淑し宋詩を鼓吹した。
 

春寒 
花信猶寒淰淰風
老年情味火籠中
搘頤乍憶童時楽
何処鳶筝鳴遠空
春寒(しゅんかん)
花信(かしん) 猶(な)ほ寒し 淰淰(だんだん)の風
老年の情味 火籠(かろう)の中
頤(あご)を搘(ささ)へて乍(たちま)ち憶(おも)ふ 童時の楽しみ
何れの処の鳶筝(えんそう)か 遠空に鳴る

 

 開花を潤にもたらたすはずの風が不安定で、春になってもまだ寒い。そんな日
に炬燵に入っていると、老年のしみじみとした情懐にとらわれる。頬杖をつき
ながら、ふと幼い頃の楽しかった事を思い出した。子どもたちはどこで凧揚げ
に興じているのだろうか、どこか遠くの空で凧の唸りが鳴っている。

 

 

 ここで詩に登場する「凧」でありますが(「峠」と同じく日本で造られた国字であります)、揖斐氏の近著でも触れられているように、同時代の和歌には殆ど詠み込まれておらず、実のところ俳諧と漢詩の中でのみ頻繁に見ることのできる題材であります。流石に十七文字の俳諧とは比較にならぬほどの情報量になりますが、江戸後期の漢詩が、日常のふとした光景を切り取り、その時の想いをそこはかとなく伝える……俳諧の世界に近似していることを感じ取れるように思いますが如何でしょう。小生としましては、偏愛する与謝蕪村の名作「几巾(いかのぼり)きのふの空の 有り処」に何処か通底する世界観を実感いたします。

 

◎菅 茶山(かん ちゃざん)(1748~1827)


備後国の神辺(かんなべ)で農業と酒造業を営む家に生まれ、その後に上洛して朱子学・医学を学び、大坂では「混沌社」の詩人と交遊した。34歳の頃に郷里に戻り神辺に家塾を開き、福山藩から郷塾として認められ「廉塾(れんじゅく)」と称した。「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)」と号した自邸の書斎には、山陽道を往来する詩人の来訪が絶えず、頼山陽・北条霞亭(森鴎外の史伝で知られます)が廉塾の都講を務めたこともある。
 

 

冬日雑詩十首
寒星爛爛帯林扉
杉頂孤雲凍不飛
隣舎喧嘩緑底事
村人獲鹿鼎堈帰
冬日雑詩十首(その6)
寒星(かんせい) 爛爛として林扉(りんぴ)を帯(たい)し
杉頂(さんちょう)の孤雲(こうん) 凍(こご)えて飛ばず
隣舎(りんしゃ)の喧嘩(けんか) 底事(なにごと)にか縁(よ)る
村人 鹿を獲て鼎堈(ていこう)して帰る

 

 冬の星がキラキラと冷たく輝いて、山林の中の茅屋を取り巻き、杉の木の上に浮
かぶ一片の雲は、凍りついたようにじっとしている。隣家が騒々しくなったのは
何かあったのだろうかと思っていたら、村人が鹿を捕獲して、鼎(かなえ)を運
ぶかのように重そうに担いで帰ってきた。



菅茶山の詩には中国地方・瀬戸内の穏やかな文物を詠み込んだ詩が多く、古の日本の光景を彷彿とさせられます。そんな茶山の見た光景を自身も接してみたいと思い、福山・鞆の浦に出掛けた折、序でに山陽道神辺宿に今も残る国史跡「廉塾」に足を運んだことがございます。今から40年近くも前のことになります。しかし、実際には何処にでもあるごくありふれた風景の場所でありました。廉塾で教師を務めた頼山陽が、備後のごくありふれた平凡な風景も、茶山先生の手に掛かれば忽ち風光明媚な山水に様変わりすると述べているのも、誠にしかりと感じさせる体験でありました。何れにしましても、茶山の所縁の地に脚を運べたことは忘れ難き想い出の一つとなっております。

 

◎柏木 如亭(かしわぎ じょてい)(1763~1819)

 幕府小普請方大工棟梁の家に生まれ家職を継いだ。市川寛斎の江湖社に参加し、同門の詩人たちとともに江戸詩檀に新風をもたらした。32歳で大工棟梁を辞し、後半生は国内各地を転々とする遊歴詩人として生涯を過ごした。その間放逸の限りを尽くし、最後は京師の廃寺で雪の降る冬日に窮死した。
 

木母寺
隔柳香羅雑沓過
醒人来哭酔人歌
黄昏一片麋蕪雨
偏傍王孫墓上多

木母寺(もくぼじ)
柳を隔つる香羅(こうら) 雑沓(ざっとう)として過ぐ
醒人(せいじん)は来たり哭(こく)し 酔人(すいじん)は歌う
黄昏(こうこん) 一片(いっぺん) 麋蕪(びぶ)の雨 
偏(ひと)へに王孫墓上に傍(そ)ひて多し


※「麋」には本来「くさかんむり」が附属するが文字変換できず。

 

 柳の向こうを晴着姿の女たちが賑やかに通り過ぎる。素面(しらふ)の人はここにやって来て大声をあげて泣き、酔っ払いは歌い騒ぐ。黄昏の光の中、春草に雨が降っている。梅若丸に悲運に涙を流すかのように、その雨は梅若塚の上により多く降り注いでいる。

 

 日夏耿之介(1890~1971)が「江戸のボードレール」と讃えた如亭山人の作らしい、爛熟した都市的情景と何処か厭世的気分を漂わせる作品に思います。確かにフランス象徴主義の詩人に例えられるのも宜なるかな。「梅若塚」は、中世伝説の世界の主人公である梅若丸が葬られた塚とされ、梅若を祀る木母寺が墨田区内の隅田川沿いに今も残ります。梅若を追って京から下った母が、梅若がこの地で虚しくなったことを悲嘆して、身を投げたことに因んだことが伝えられる「妙亀塚」が大川対岸に残ります。ここは、古代官道・鎌倉街道が隅田川を渡河する交通の要衝にあたり、古代・中世における「隅田宿(すだのしゅく)」の比定地でもあります。如亭の詩魂は時空を超えて幻想的な世界を紡ぎます。

 

◎大窪 詩仏(おおくぼ しぶつ)(1767~1837)


常陸国多賀郡の医師の子として生まれ、父に従って江戸に出て市川寛斎等に師事。柏木如亭とともに江戸詩檀に革新の風を吹かせた。文化3年(1806)江戸の神田お玉が池に詩聖堂を営み、化政期の江戸詩檀を牽引した。清新平易な詩風は時代の風潮に叶い、地方にも多くの門人を獲得した。房総にも遊歴しており、現在の佐倉市内にある馬渡で詠んだ詩も残る。
 

春寒
寒食従今無幾日
梅花零落杏花開
春寒醸雪力不足
却向黄昏作雨来
春寒(しゅんかん)
寒食(かんしょく) 今従(いまよ)り幾日も無し
梅花零落し 杏花(きょうか)開く
春寒(しゅんかん) 雪を醸(かも)して力足らず
却(かえ)って黄昏に向(お)いて雨と作(な)り来(きた)る

 幾日もしないうちに寒食の日がやってくる。梅の花はすっかり散り、今は杏の花が咲いている。春の寒さは雪をちらつかせたものの力不足で、夕暮れ時には雨に変わった。

 

 詩仏の作品は当時大変に持て囃されましたが、上記の3名に比べると平明さに傾きすぎて閃きに欠けるようには思いますが、如何でしょうか。ただ、長尺故にここには採れませんでしたが、細君に先立たれた時の作品「亡き妻を夢む」などはしみじみと心打つ名作だと思いますが。

 

 

 

 

◎頼 山陽(らい さんよう)(1780~1832)

 

 

 

 朱子学者頼春水の長男として大坂に生まれたが、父の広島藩儒登用によって広島に移住。叔父に春風・杏坪という著名な詩人を持つ。神経症の病により脱藩したが捕えられ廃嫡とされた。幽閉中に歴史著述を志し、20年の後に『日本外史』を完成させた。自由の身になってからは、一時茶山の廉塾での都講を務めるが、32歳で上洛し以後京師の住人として詩人・文人として国内の知識人と広く交遊し、彼の地で生涯を終えている。「安政の大獄」で刑死する頼三樹三郎は山陽の三男にあたる。
 

 

泊天草洋

雲耶山耶呉耶越
水天髣髴青一髪
万里泊舟天草洋 
烟横篷窓日漸没
瞥見大魚波間跳
太白当船明似月

天草洋(あまくさなだ)に泊す

雲か山か呉か越か
水天髣髴(すいてんほうふつ) 青一髪(せいいっぱつ)
万里(ばんり) 舟を泊す 天草洋(あまくさなだ) 
姻(もや)は篷窓(ほうそう)に横たはり 日は漸(ようや)く没す
瞥見(べっけん)す 大魚の波間(はかん)に跳(おど)るを
太白(たいはく) 船に当りて 明らかなること月に似たり

 

 雲であろうか、山であろうか、それとも中国大陸の呉の地であろうか、越の地であろうか。海と空とが接する辺り、かすかに一本の青い髪の毛のように見えているものは。はるか万里の旅の果て、いま私は天草灘に船泊りをしている。篷船(とまぶね)の窓のあたりには夕もやが漂い、日は次第に翳ってゆく。すると一瞬、波間に大きな魚の跳躍するのが見えた。折しも夕空に船と向かい合うかのように金星が現れ、月のように明るく輝き始めた。

 

 漱石の山陽嫌いはよく知られます。俗に傾き過ぎることを理由にしていたように記憶しておりますが、確かに本作の表現についていえば大言壮語の感は否めますまい。しかし、口遊んでみれば、ダイナミックな言葉の畳掛けが躍動感を醸し出していることを感じ取れましょう。いみじくも山陽作品の特色を良く示したものと申せましょうし、当時持て囃された理由ともなっておりましょう。彼の終の棲み家となった東山を一望する鴨川縁に卜する「水西荘」の跡地には、書斎「山紫水明処」が現存します。今は知りませんが昔は頼家に予約をすれば拝観をさせていただけました。開け放たれた窓から眺望する、真下の鴨水を隔てと鴨東の甍の波の向こうに聳える東山三十六峰の美麗は言葉を失うほどであり、一瞬にして山陽の感銘が蘇るように感じたものです。それも40年以上も前のことでありますが。揖斐氏の最新作の初編「山紫水明」は山陽の名付けたこの言葉の真の意味について述べておられます。

 

◎江馬 細香(えま さいこう)(1787~1861)


美濃大垣藩蘭方医の江馬蘭斎の長女として大垣に生まれた。幼児より画を好み、浦上春琴(玉堂の子)に南宋画を学んだ。美濃に来歴する頼山陽と出会って師事するようになり。しばしば京の地に赴いて詩を学んでいる。山陽は師であるとともに、自由恋愛の相手であったことは広く知られるところであった(互いにとって、俗に言う“愛人”などといった対象ではなかったことは知っておくべき)。近世後期を代表する女流詩人であることは間違いない。

 

 

冬日遇題
流光倏忽箭離紘
小姪過腰大姪肩
看裡看他両児長
儂身更覚減芳年
冬日遇題(とうじつぐうだい)
流光(りゅうこう)は倏忽(しゅくこつ)として 箭 紘(つる)を離る
小姪(しょうてつ)は腰を過ぎ 大姪(だいてつ)は肩
閨裡(けいり)に看他(み)る 両児(りょうじ)の長ずるを
儂(わ)が身 更に覚(おぼ)ゆ 芳年(ほうねん)を減ずるを


弓の紘(つる)を離れた矢のように、歳月は瞬く間に過ぎ去ってしまう。年少の甥の背丈は私の腰よりも高くなり、年長の甥の背丈は私の肩にまで届いた。私の部屋に遊びに来る二人の甥の成長ぶりをみていると、我が身が若さを失ないつつあることに、あらためて気づかされる。

 

 細香晩年の作と思いきや、本作が詠まれたのは文化11年(1814)、驚くべきことにこの時の細香は齢28とのことです。就中、思い人である山陽から「風情凄惋にして真に是れ閨秀の語なり」との評が残されているとのこと。申すまでもないことでありますが、同年齢の男性には決して詠まれることのない感慨でございましょう。因みに、細香女史は生涯何処へとも嫁ぐことなく、山陽の没後も生涯女流詩人としての人生を全うしました。


以上、6名の漢詩人とその作品を一篇ずつ紹介させて頂きました。短い“江戸漢詩への逍遙”は如何でございましたでしょうか。道端で花をつける名も無き花の美しさを見出すことが出来ましたでしょうか。かつて松尾芭蕉が岐阜の地で詠んだ「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」を捩ってつけた標題に、少しばかりは共感頂けたのではないかと勝手に思っております。若し宜しければ、揖斐高氏の近作、そして同じく揖斐氏編纂にかかる岩波文庫の江戸漢詩アンソロジーにお進み頂けますと、筆者望外の喜びでございます。江戸漢詩は、もっと気軽に広く知られ愉しまれてしかるべき文学ジャンルだと信じて止みません。

 


 

 「サツマイモ」の来た道 ―サツマイモの故郷 または旅するサツマイモ―

9月23日(金曜日)

 

 現在開催中の企画展は、多くの方々のご協力を賜って初めて成立したものであることは申すまでもございません。過日、その中でも本丸中の本丸にあたる昆陽ゆかりの地「幕張地区」の皆様が、挙って拝観に脚をお運び頂きました。その際に、参加者の方から本企画展につきましての大変に貴重なご意見を賜りました。それは、本展が青木昆陽と彼が試作した「薩摩芋ありき」で開始されているが、元来日本原産ではない薩摩芋が如何にして日本にやって来たかを少しでも触れておく必要がありはしまいか……とのご指摘でございました。誠にしかり……。こちらとしては、青木昆陽と千葉のさつまいもに関する展示会であるとして、端からそうしたルーツ関係については捨象して準備を進めてまいりました。しかし、考えてみれば、少なくとも千葉に薩摩芋がやって来るまでの経緯についても、冒頭部分で触れておくべきだったかと反省しきりでございます。追って刊行を期するところのブックレットには、若干でもルーツに関わることに触れる項目を設けたいと館内でも確認をしたところです。貴重なるご意見に心より感謝申し上げる次第でございます。そのようなこともあり、今回の本稿では千葉にやって来るまでの薩摩芋の「長い旅路」について、「近所の散歩」程度に留め、極簡単に纏めてみたいと存じます。以下の内容につきましては、坂井健吉『ものと人間の文化史90 さつまいも』1999年(法政大学出版局)に全面的に依拠しておりますことを最初に申し述べておきたいと存じます。なお、以下の記述では、「薩摩芋」を敢えて「サツマイモ」とさせていただきます。何故ならば、これ以降の記述は相当にワールドワイドな内容となりますから、流石に「薩摩」の文字は鹿児島県西部をイメージさせてしまいます。当方は個人的に斯様なナンセンスは大好物でありますが、流石に「有史以前のペルー産薩摩芋」なる言い回しは如何にも“ちぐはぐ”に感じます。従いまして、片仮名表記とすることで地域性を捨象することにいたします。その点を何卒御承知くださいますように。

 さて、サツマイモの故郷とその栽培の起源については、長らくアジア説・アフリカ説・ポリネシア説等が入り乱れる時代が続いたようですが、その後の“ゲノム分析”等の発達に伴う遺伝子的研究の成果から、現在では新大陸農耕文化(南北アメリカ大陸)から発達してきたことが確実視されるようになっております。実際に、サツマイモの考古学的資料の出土は南米ペルーにおける遺跡からであり、紀元前1300年頃の乾燥した根・葉や、サツマイモをモチーフとした土器が多数出土しております。その中で、報告されている最も古い事例は紀元前8千~1万年と推定されているとのことで、古くからサツマイモが食用とされていたことが分かります。そして、ペルーに限らずに中南アメリカ大陸での発掘調査等を総合すると、紀元前3千年頃には熱帯アメリカでサツマイモが広く作付けされ食されていたことが確実だと見なせるようです。ここで、サツマイモの育った自然環境という面から探ってみると、熱帯ではあっても一年中雨の多い「熱帯雨林気候」は適しておらず、雨季と乾季が明確に分かれる「サバナ気候」に適した作物であることです。これには、サツマイモが強い太陽光を好むという性質があることが背景であり、熱帯雨林のジャングルでは光そのものが遮られてしまうからと考えられます。つまり、その生育地は、サバナ気候の熱帯低地から標高2000mの高地までとなります。高地は、赤道直下であっても比較的安定した気候であることもあり、人の生活にも適しております。人が住めば、そこには人家が建ち、空閑地も生まれるわけで、サツマイモはこうした土地に雑草の如く生い茂ったことでありましょう。そして、その地下茎に食用になる塊根が生じることを人が発見する機会も増すことになったことは、サツマイモが作物化される重要な契機となったと想定されるようです(これを「人間への随伴的性質」と言う)。余談ではございますが、同じ南米大陸由来の「ジャガイモ」は、ペルーとボリビアに跨るチチカカ湖周辺の標高3000~4000mの大地を発祥とするそうで、サツマイモとは生育域が異なるとのことです。つまりは、サツマイモの自然的な分布はメキシコから南米北部のコロンビア・ベネズエラに及ぶ広い範囲となります。発掘調査の成果が多くある反面、ペルーやエクアドルの太平洋岸とアマゾンでの分布密度はかなり低いようです。

 こうして、南アメリカ大陸において広く農耕作物として定着し、人々の生命維持に貢献したサツマイモ(それ以外にもキャッサバやジャガイモのような根菜)が、中南アメリカ大陸から「旅発」ち、結果として我らが「馬加(幕張)」の地に到達するまでには、如何なる契機があり、如何なる道筋を辿ってきたのでありましょうか。南米と言えば、正に日本からすれば地球の真裏にあたります。そこは少なくとも人類の歴史の於いては地続きではありませんでした。つまりは「七つの海を越えて」やってきたのです。当たり前ですが植物でありますから自らやってくることはありえません。しかし、こうした疑問については、実像が相当に明らかになってきた現代におきても、未だ未だ未解明の部分も多く百家争鳴の状況にあるようです。しかし、この場は研究成果の提案の場ではございませんから、当方としましては、1974年にニュージーランド作物研究所のエン博士が提唱された、「サツマイモ」が3つのルートで世界に伝播したという「三方向伝播説」として纏められた内容を御紹介することにいたします。

 

第1説「バタータス・ルート」
~1492年のコロンブスによる新大陸発見以降、バタータスの名称で西インド諸島からヨーロッパを経て、アフリカからインドへと伝播し、更にインドネシア、そして中国へと達したルート。

第2説「カモテ・ルート」
~16世紀以降にスペイン人によってメキシコからカモテの名称でハワイ、グアムを経てフィリピンに達したルート。

第3説「クマラ・ルート」
~有史以前にクマラの名称で、南米のペルーからマルケサス島を経て、そこから分岐してイースター島・ニュージーランド・ハワイに伝播。更に各所からポリネシア・メラネシア・ニューギニアに達したルート。

 

 

 これまで、当方が極々漠然と認識していた伝播ルートとは上記の第1説でありました。つまり、コロンブスがスペインに持ち帰りイザベラ女王に献上し、その後に世界各地に伝播したというものであります。あまりにも有名なこの話は、19世紀末にフランスの著名な植物学者が形態分類学的比較や分布に関する研究を元に唱えた説を起源とするようです。上記の第2説も含め、サツマイモの旧大陸への伝播を、ヨーロッパ人に拠る過去5百年間の活動に帰着させた学説であり、歴史的に見れば大航海時代以降の比較的新しい時期の出来事ということになりましょう。しかし、別に、第1・2説とは比較にならないほど古い時期(有史以前!)に全くの別ルートから旧大陸に到達していたとの学説が提唱されました。これが上述の第3説「クマラ・ルート」に他なりません。そして、当初は荒唐無稽な学説して退けられていた当該ルートの可能性も、今では確実視されるようになっております。つまり、南米大陸の人々の太平洋横断による移動に伴ってサツマイモも旧大陸へと移動したという推定であります。先に本学説が荒唐無稽とされたと述べましたが、それは有史以前に太平洋の絶海を人の手で渡ることなど不可能であると考えられたからであります(もっとも、実物が海流に運ばれて漂着する可能性はゼロではありません)。しかし、これを実際に証明した人物が現れました。これが、ノルウェーの人トール・ヘイエルダール(1914~2002)であります。ご存知の方も多かろうと思われますが、彼はバルサ材で拵えた筏「コン・ティキ号」で、1947年ペルーから南太平洋のトゥアモトゥ諸島で座礁するまでの約8千kmもの航海を大凡100日間の裡に成し遂げたからです。

 もっとも、彼の問題意識はサツマイモの伝播にあったのではなく、ボリネシア人の起源が南米大陸にあることを提唱したことへの学会からの反論を、実際の行動で証明することにあったのです。しかし、そのことが図らずもサツマイモが人の手によって直接に太平洋を通じて伝播したことの傍証にもなったのです。当方は還暦を過ぎて未だに拝読できておりませんが、『コン・ティキ号探検記』は滅法面白き冒険譚でもあるようですので、これを機に手にとって、少年時代のような血湧き肉躍る読書体験をしてみようかとも思っております。筑摩文庫や河出文庫で手に取ることができますし。考古学的知見に拠れば、サツマイモは紀元前1000年頃にはポリネシアの島々に伝わっていたことが確かめられたことであります。また、ポリネシア人の祖先は言語学上の考察から、従来はインドネシアから移動したものとみられていたのが、近年の血液型の遺伝的研究からインドネシアだけに留まらず、南米古代人との関係も有していることまで明らかになったことも、ヘイエルダールの実験を科学的に証明することになりました。つまり、南米大陸の冒険者達が、有史以前にサツマイモを太平洋の航海を通して運んだ可能性はほぼ確実といえるのです。この後、サツマイモはハワイ・ニュージーランド・イースター島を結ぶ広大なトライアングルの海域の人々に伝播し、やがてメラネシア・ニューギニアへと広がったと推定されているようです。そして、それには十数世紀という時間を要したものと考えられているとも。そこから、更にマライ・フィリピンにも伝来したことも推察されております。本書によれば、フィリピンでのサツマイモ在来品種の遺伝変異は、その他諸国のサツマイモと比べて特異的に幅が広いそうであり、その背景にはフィリピンへのサツマイモの伝播が、上記3ルートから複雑な伝わり方をしたことと関係しているのではないか……との推定もされているとのことであります。いやはや、実に興味深い問題でありますが、この段階では中国・日本の登場はございません。つまり、未だこれら地域への伝播はなかったものと考えられているようです。

 続いて、サツマイモが日本の地にもたらされるために重要な役割を果たした地、中国への伝播の問題を確認いたしましょう。それは、上記伝播ルートの第1説「バタータス・ルート」を主とするものであるとされております。スペインにもたらされたサツマイモは、その後にヨーロッパ各地と伝えられていたようですが、ジャガイモと比較して当地では余り広まりを見せなかったようです。一方で、新大陸にアフリカから黒人奴隷を大量に運んだ際に、サツマイモが黒人の食料とされたこともあって、まずはアフリカ西海岸に伝わることになります。つまり、スペイン人の手に拠ってではありますが、本国経由ではなく新大陸から直接にアフリカ大陸へと伝播したと言うことです。その後、ヨーロッパ諸国の植民地獲得競争の動向を背景にして、彼らの手によって世界中に伝播することになりました。この辺りは、その昔に学校で学んだ「大航海時代」の学習を想い出して頂ければ、それ以上の説明は要しますまい。その折、スペインが当時領有していたフィリピンに、メキシコから導入されたサツマイモ(第2説「カモテ・ルート」)と併せて、新大陸発見から80年後の1570年頃には中国南部に到達したものと考えられているようです。その流出先が、上述しましたようにフィリピンであります。スペインはルソンに交易基地を有しており、一説に交易のためにやってきた中国人がサツマイモの苗を求めて帰国後に広めたとされているのです。その結果、サツマイモはその後に中国で発生する飢饉の救世主となります。中国ではサツマイモの外皮が紫紅色であることから「朱薯(しゅいも)」、または外国から伝来したことから「蕃薯(ばんしょ)」と称され、その優れた特性から瞬く間に中国南部を中心に広まったようです。これが16世紀後半から17世紀にかけてのこととなります。そして、こうした中国の動向が日本伝播への端緒となるのです。因みに、現在でも中国は世界最大のサツマイモ生産国とのことです。

 さて、いよいよ我が国への伝播の話題となります。そのルートには恐らく幾つもの窓口があったことと思われますが、今でも九州でサツマイモのことを「琉球薯(リュウキュウイモ)」と称する地域があることからも明らかなように、その重要な窓の一つが琉球(沖縄)にあったことは間違いありますまい。一説に拠れば、慶長2年(1597)沖縄本島南にある宮古島へ伝来したことが伝わるとのこと。これは、宮古島役人の砂川旨屋(すながわしんや)が沖縄本島からの帰途、風に流され中国に漂着した際、そこからサツマイモの蔓を持ち帰って島内に広めたとするものです。これが後の飢饉で島民を救ったことを機縁として、島民は旨屋を祀る「イモ神社」を建立。それが現在に伝わっております。ただ、ここから他へと伝播したことは明らかにはならないとのことです。ここで、琉球でのサツマイモ文化史上で最も重視されている人物が現れます。それが野国(ぬぐん)総管と儀間真常の二人とされております。野国総管は、万暦年間(明朝元号)に命を受けて中国に渡った際、サツマイモが補助食糧として有効であることを知り、五穀の実りに難儀することの多い琉球列島の食糧事情を改善する切り札となりうると確信。万暦33年(1605)公務を終えて帰国するに際して、栽培法とサツマイモとを持ち帰り、領有地と周辺で栽培を始めたと言います。そのことを耳にし、野国から苗と栽培法を授けられたのが儀間真常であり、自身の領有地に広め増殖に務めた結果、直後の大飢饉にも餓死者を出すことがなかったと伝えられます。そこで真常は王府に建言して大増産を図ったため、僅か15年にしてサツマイモは琉球国内に広まったとのことです。儀間真常は、サツマイモだけではなく、中国から精糖技術を伝えたこと。更に、尚寧王が捕虜となって薩摩へ連行されたのにも同行し、慶長16年(1611)に帰国を許された際、棉の種子を入手して琉球に広め後世の「琉球絣」の基を開くなど、琉球の産業振興に多大なる貢献を果たした人物であったと言います。

 琉球に伝わったサツマイモは南西諸島の島々を伝わって北上を重ね、やがて九州に伝播することになります。しかし、これ以降何時如何なる経緯で国内各地に広がって行ったのか、またそのことに関わった人物が誰であったのか等々については、ご多分に漏れず伝承や顕彰の色彩が色濃く、何処までが真実で、何処までが脚色によるものなのか、俄には断じがたいことばかりとなります。それを一先ず置いて、とりあえず伝承を繋いでいくと、野国総管が琉球にサツマイモをもたらした28年後には既に奄美大島で主食的な地位にあったことは確実です。また、その北にあたる吐喝喇列島には18世紀のはじめに長浜平吉が琉球から持ち帰って伝えたとの記録が残るようです。また、更に北の、現在では安納芋の名産地となった種子島では、吐喝喇列島への伝播より半世紀も早い元禄10年(1697)にサツマイモが伝わったとされております。『種子島島主久基家譜』には、この年琉球王国の尚貞王が島津家家臣である種子島久基にサツマイモ一籠を贈り、久基がこれを島内で栽培するよう命じたとあるとのこと。今では、その功績を讃えるために、久基は島民から「芋殿様」としての楢林神社に祀られているとのことです。そして現在、種子島には「日本甘藷栽培初地之碑」が建立されていると言います。

 さて、種子島までやってきたのですから、海を越えて薩摩の地は目と鼻の先です。種子島から直ぐに本土上陸と考えるのが当然です。しかし、記録からは単純には繋がっていかないことが分かります。サツマイモに限りませんが、文物の伝播とは、相当に複雑な要因によって成されるものとの厳然たる現実に出会うことになります。薩摩藩島津家は、慶長14年(1609)に琉球に派兵して尚寧王を降伏させ、琉球王国を半服属状態に置き、琉球国の検地・刀狩等を実施したうえ、通商交易権をも掌握しております。世に言う薩摩藩による「琉球侵攻」でございます。そうした歴史的事実に照らせば、薩摩と琉球との間の人的・物的往来は相当に活発化していたはずですから、サツマイモも薩摩に流入していることはほぼ確実でございましょう。種子島伝播の元禄期より相当以前に薩摩藩に伝わっていたことはほぼ疑う余地がございません。山田尚二『さつまいも-伝来と文化』によれば、慶長16年(1611)琉球に駐留していた薩摩将兵が帰国するにあたって、鹿児島から戻った尚寧王が帰国の土産としてサツマイモを贈呈したことが記されていることもそうした推察を助けます。しかし、一方で、薩摩の地では以下のような伝承も伝わります。それは、南薩摩頴娃群山川郷の住人である前田利右衛門が、船乗りとして宝暦2年(1705)琉球に渡った際にサツマイモを持ち帰ったこと。それを近所で栽培したところ忽ちに近隣に広がり、やがて薩摩全域にまで拡大したと伝わることです。就中、利右衛門は「徳光神社」に神として祀られてまでおり、今日に至るまで薩摩の地では前田利右衛門がサツマイモ栽培の始祖として広く敬われているとのことです。しかし、これを真に受ければ、慶長16年の伝来から80年の間、何故サツマイモが薩摩の地で広まることがなかったのか疑問であります。想定される可能性は、島津家では琉球土産のサツマイモを飽くまでも食糧としてしか意識しなかったということでございましょう。まぁ、少なくとも、幾つかの複雑なルートを経て現在の鹿児島県へと伝来したのが実際のところでございましょう。

 別に、記録に残る史料としては、日本に初めてサツマイモをもたらしたのは、誰でも耳にしたことのあるイギリスの人ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)とするものがあるとのこと。幕府の許可の下、慶長18年(1613)に平戸に商館を開いたイギリス商館長の命により、翌年シャムに向かったアダムスが暴風に遭遇、難を避けるために寄った那覇湊でサツマイモを買い置き、それを帰国後に商館のリチャード・コックスに寄贈。コックスは早速平戸で栽培して普及に努めたという内容であります。従って、長崎県ではサツマイモ畑跡を「本邦初の甘藷栽培地」として県史跡に指定しているそうです。本地域で今でもサツマイモを「リュウキュウイモ」と呼び習わすのは、この由緒に由来すると言います。先の種子島の碑は、これから遅れること83年。逆に、近世初頭の庶民階級を中心とする人々にとって、幕藩体制下における各藩を越えた情報伝達が必ずしも円滑ではなかった実情を知ることになりましょうか。何れが「日本初」なのかは今日では確かめようもございますまい。

 続いて、サツマイモの北上、そして東遷について探ってみましょう。これまた情報の錯綜著しく、到底どれが真実に近いのかは皆目検討がつかないほどです。まぁ、これまで同様に「元祖」「日本初」といった意識を一端外して、その全体像を摘んでみる必要がありそうです。「ハッキリと白黒つけてくれ」との願いがあることも理解できますが、事はそう簡単ではございません。そこは、国内の名物・名産には、現在でも起源を標榜する店舗が掃いて捨てるほどに林立していることに鑑みれば明らかでございましょう。隣同士の店舗が「元祖」「始祖」を名乗り合っていることすら珍しくありません。それを詳らかに証明できることは至難の業であることと同様であるとお察しくださいませ。多くのサツマイモは恐らく薩摩藩から外部へと流出したものを起源としましょう。ただ、薩摩藩としては国外への持ち出しを禁止していたようですから(国禁)、そうした事実を記録に残す事はなされなかったものと思われます。勢い、伝承の形で伝わった話が殆どでありますから、内容については相当に地元都合で大幅なる改変を経ている可能性が高いことは否めますまい。そうした言い伝えの一つに、他の地域でも敷衍できそうな伝承が残っておりますので御紹介いたしましょう。それが、瀬戸内海の島々にサツマイモをもたらしたとされる下見(あさみ)吉十郎の伝承に他なりません。彼は、正徳元年(1711)に薩摩から密かに種芋を持ち帰ったと伝えられるのです。この事情とは以下のようなものであります。

 下見吉十郎は僧として全国行脚をしていた砌、薩摩国伊集院村で百姓土兵衛宅に脚を留めた際、土兵衛からサツマイモの由来と栽培法を聞き取ったことで、これを故郷に広めたらどれほどの人々を救うことができるかを確信。そこで、土兵衛に種芋を譲ってくれるように所望しましたが、藩法により藩外への持ち出しは厳禁されておりました。そこで吉十郎は着衣の裏に深く隠匿し、早暁に伊集院村を発って薩摩藩領を脱して肥後国に到ったと言います。彼によってもたらされたサツマイモは、大三島等の穀物栽培の難しい瀬戸内の島々に忽ちの裡に広がり、飢饉発生時の人命維持に大いに寄与したとされます。現在は、その多くが温州蜜柑畑となっている四国や瀬戸内島嶼部の西南斜面に見られる、美しい石垣積みの幾重にも重なる日当たりの良い段々畑の光景とは、元来はサツマイモ栽培を目的に営々と造成され続けた姿を今に伝えているのです。それが、栽培種の転換によって戦後に温州蜜柑畑に大々的に転用されたのです。そのことを知るだけでも、過去の名も知れぬ人々による“生の確たる歩み”を今に伝える遺構としての重みを感じ取っていただけましょう。吉十郎は宝暦5年(1755)に82歳を一期に生を終えておりますが、当該地方ではその遺徳を偲び「芋地蔵」として祀っているといいます。ただ、吉十郎の事例は一例に過ぎないと思われます。西日本を中心に、断続的、波状的、あるいは同時多発的に、名も無き篤志家等々によってサツマイモの栽培が広がっていくことになるのです。それは、飢饉による餓死を免れ生き抜くための絶え間のない百姓達の強かな戦略に他ならなかったのだと思います。

 ここで翻って、江戸時代の中期の国内状況を鑑みると、近世初頭以来の急激な乱開発の反動が、農村の疲弊をもたらすこととなり、それが大きな社会問題として表面化した時代でもありました。そこに気象的な変動等による自然災害が追い打ちを掛ければ、容易に「飢饉」にも繋がる状況を生み出したのです。特に、徳川吉宗の治世下で惹起した所謂「享保の大飢饉」は、全国的に甚大な被害をもたらし、一説では餓死者は100万人弱にものぼったとされております。しかし、この時期に、サツマイモが既に普及していた地域と、そうではない地域との様相は大幅に異なっていたとされます。この大飢饉を契機に、幕府にとって封建経済の基盤崩壊に直結する、飢饉にともなう農村社会の崩壊阻止策が、極めて現実的かつ重大な政治課題として浮上することになるのです。ここに、青木昆陽や、再来週に採り上げたいと考えている井戸正明らが活躍する、時代的な背景と社会的要請とが存することになるのです。

 さて、今回は、幕張の皆様から頂いたご意見にお答えする形で、サツマイモの故郷から青木昆陽の生きた江戸時代半ばまでに到る、長い長いサツマイモの旅路を追ってみました。当たり前でありますが、これだけで書籍が何冊にもなるほどの内容でありますので、本稿が極々表面的なアウトラインに過ぎぬことは申すまでもございません。御興味を持たれましたら、是非とも途中にも採り上げた山田尚二『さつまいも-伝来と文化』1994年(かごしま文庫)、瀬戸内に浮かぶ周防大島を生誕の地とし、サツマイモの有する大きな恩恵を肌身で知る民俗学者宮本常一による『日本民衆史7 甘藷の歴史』1962年(未来社)にお進み下さいませ。後者は、次々回の本稿でも大いに活用をさせていただきます。本作もまた、消えゆく古き日本社会への限りない愛惜が紡ぎこまれたかのような、宮本の手になる名著『忘れられた日本人』『家郷の訓』(共に岩波文庫)の感銘さながらの、しみじみとした読後感をもたらしてくれること必定と、太鼓判を押させていただきます。

 

 

曼珠沙華(彼岸花)の季節に寄せて(前編) ―日本人との古くて長い付き合い または曼殊沙華を詠んだ詩歌のこと―

 
9月30日(金曜日)

 

 9月「長月」も今日で晦日を迎え、明日からは10月「神無月」に入ることになります。2週間前ほどには、かつての伊勢湾台風にも匹敵すると喧伝された巨大台風14号が日本列島を縦断、九州をはじめとする西日本に甚大な被害をもたらしました。我らが坂東での被害は極々限定的ではございましたが、大河川の下流域に位置する東京東部沖積低地に居住する当方にとって、従来経験することのなかった破壊的自然災害が毎年のように発生することは、決して他人事ではなく脅威以外の何物でもございません。こうした超巨大台風の頻繁な発生要因には、恐らく地球環境破壊、特に温暖化のもたらす影響があることは間違いありますまい。便利で豊かな生活を享受している我ら現代人のツケが、こうした想いも及ばぬ自然からの竹篦返しとなっているのでしょう。10月も所謂「台風シーズン」でございます。未だ未だ台風に対する警戒を緩めるわけには参りません。暫くは用心を怠ることのなきようにせねばなりますまい。

 さて、今回は秋を感じさせる曼殊沙華(彼岸花)の話題となります。先週本館ツイッターで、今年も本館の廻りで開花したことを呟きましたが、我が家の猫の額の庭でも初めて曼殊沙華が花を開いたのです。実は一昨年、小さな鱗茎(球根)を6つほど分けて頂いたものを2カ所に分けて植え付けたのですが、残念ながら昨年は葉だけの繁茂に終わってしまい花芽が出ることはありませんでした。てっきり自宅の土には合わなかったのかな……と思っておりましたが、9月の末日、二カ所のうち日当たりの宜しい方に植えた球根から3つの茎があっという間に伸び、先端に蕾をつけているのを発見したのです。そして、上述した台風14号が関東を掠めた翌日、美しい深紅の花が開いたのです。台風一過とは程遠い愚図ついた空模様であり、カラッとした秋空の下での開花ではなかったことが残念でした。また、曼珠沙華の美しさを一層に引き立てる“群落”とは程遠いささやかなる開花でありました。しかし、自宅の庭で曼珠沙華の花を咲かせることは、実に40年来の「夢」でありましたから、嬉しさも一入でございました。これを機に鱗茎が増えて、群落と化してくれることに大いに期待したいと思っております。

 2年程前の本稿で触れたことの繰り返しとなりますが、個人的にこの華への憧憬の念を抱いた契機は、学生時代に「古美術愛好会」夏合宿で頻繁に出かけた奈良盆地で出会って、その妖艶なる美しさにすっかり魅了されたことにありました。飛鳥や斑鳩の地で、あちらこちらの水田の畦に真っ赤な群落となっている曼珠沙華はホントウに絵になりました。この花を近景として、背景に斑鳩の古塔を写し込んだり、暮れゆく二上山をシルエットにしてみたりと、入江泰吉を丸パクリしたような素人写真を撮影しては悦にいっていたものです。それも曼殊沙華あってのことでありました。余計なことかもしれませんが、上記二上山は、地理用語として「にじょうさん」と称するのでしょうが、如何にも無粋な呼称のように感じます。ここは、悲運の皇子である大津皇子(おおつのみこ)と大伯皇女(おおくのひめみこ)姉弟との間で交わされた感動的な万葉歌に因み、「ふたかみやま」と訓じる方が圧倒的に「雅」でございましょう。

 ところで、小生の熱烈なるラブコールとは裏腹に、この植物(花)についての一般的な位置づけは決して芳しいものではございません。すなわち「不吉な華」との言い伝えが人口に膾炙しているのが実情です。確かに、子供の頃から今の時季に目にした曼珠沙華とは、大体が家族での墓参の折に目にする花としての姿であったように思います。もっとも、彼らは好き好んで墓地を生育場所に選んだわけではなく、これは人間の側の都合に拠りましょう。ご存知の如くこの植物は全体に強い毒性を保持しており、特に球根への含有率が高いと言います。従って、その昔“土葬”が主たる埋葬方法であった頃には、埋葬された遺体を荒らす可能性のある動物等(例えばモグラ?)を寄せ付けない機能を期待されたとの口碑もございます。そのことが、この時期に鮮血のような見事に赤い花を咲かせることと結びつけられ、「不吉」の象徴とされたことは想像に難くありません。彼岸花との命名は、秋の彼岸の時季に開花することからの命名でしょうが、確かに墓地との親和性が高い植物との印象はございます。

 調べてみれば曼珠沙華には多くの異名がございますが、その何れも余り縁起のよいイメージを有さないものばかりのようです。幾つかを例示すると「葬式花」「幽霊花」「死人花」「地獄花」「捨て子花」等々となります。いやはや、あんなに印象深い花にも関わらず、想像以上の罵詈雑言のオンパレードに気の毒にすらなるほどです。他に、名称そのものが“縁起でもない”ものではございませんが、「天蓋花」「灯籠花」といった如何にも“抹香臭い”名称も伝わり、こちらも“お寺さん”との縁は切れないようです。まぁ、あの長い睫毛のように円形に広がる花弁を「天蓋」と称したセンスには脱帽ではありますが。そもそも、「曼珠沙華」との呼称も如何にも仏教を思わせましょう。事実、「マンジュシャゲ」の語源はサンスクリット語の「manjusaka」の音写であるとのことであり、原語では『法華経』等の「仏典」を意味するそうです。転じて「天上の華」の意味にも用いられるとも。その意味でも、「不吉な華」との悪評は相当にお門違いであることがお分かり頂けましょう。

 しかし、地方に出かけてこの時期に曼珠沙華の群落を目にするのは、決して墓地ばかりではありません。学生時代の奈良盆地がそうであったように、主たる生育場所とは、水田の畦や用水の土手等の農地周辺にこそあります。それら構造物は「水を外に漏らさない」ことを目的に造営されるものでありますから、そのことからも容易に想像できるように、先に埋葬のところでも述べたことと同様、それらに穴を開けてしまう動物等をその毒性を以て寄せ付けないことを目的としていたことが考えられましょう。モグラの食性は動物であるので関係ないとの物言いもありましょうが、餌となる蚯蚓等は曼珠沙華の根近くには寄りつきませんので、間接的な効果が期待できるのではありますまいか。

 元来、曼珠沙華は日本の在来種ではなく、中国大陸から伝わった外来植物であると言います。ただ、その伝来時季は相当に古いものであり、稲作の伝来とともに、土中に曼珠沙華の鱗茎が混入して伝わった可能性が高いと言います。そうであれば、既に2千年を越えて我等の国土に根付いていることとなります。そして、稲作の広がりと歩調を合わせて国内に広く分布域を拡大したということでございましょう。その結果、現在では北は北海道から南は南西諸島まで、国内のほぼ全域で見ることが出来る花となっております。つまり、そもそも水田耕作との親和性の強い植物であったことになりましょう。山林の中で目にすることも多くありますが、これも以前にはその地で人による水田農耕の営みがあった可能性を示唆するとも言います。それだけ、人の生活と密接に関わりあって分布域を広げたことは間違いなく、今では在来種と認識されている方すら多いのではありますまいか。それだけ“古株”の外来種なのです。

 さてさて、当方は電車通勤をしておりますので、この時節は何処の駅にも「曼珠沙華」鑑賞のための観光案内ポスターが目白押しであります。それらの中でも盛んに宣伝に努めているのが埼玉県日高市にある「巾着田(きんちゃくだ)曼珠沙華公園」でございます。今や関東地方における曼珠沙華の一大名所となりましたので、皆様の中にもお出かけになった方も多かろうと存じます。本年度も9月半ばから「曼珠沙華まつり」を開催しており、明後日(10月2日)をもって終了となるようです。この間は大変な人出となり、周辺道路も連日の交通渋滞となって、地元の皆様も大いに難渋されたことでございましょう。当方も、平成末となる5年前に夫婦で高麗神社に出かけた折、「巾着田」まで脚を伸ばしましたが、10月末でありましたので“時既に遅し”でございました。その分、周辺地域のゆったりと周辺の里山の秋を満喫できましたが。

 「巾着田」は、大きく湾曲して蛇行する高麗川に囲繞された、直径500m程の大凡22haに及ぶ、あたかも“巾着”のような形状の土地となっていることが命名の由来となっております。もっとも、地元では元来「川原田」と呼ばれていたそうで、もともと田地として利用されてきた土地とのことです。ところで、この地を含む一帯の歴史は到って興味深いものです。すなわち、古代朝鮮半島で唐と結んだ新羅の勢力が強まり、百済・高句麗が新羅によって滅ぼされるに及んで、本朝には半島の多くの人々が渡来して列島各地に分散して居住したことは歴史の授業で学んだことでございましょう(渡来人・帰化人)。そして、彼らは我が国へ大陸・半島の優れた技術・文化を伝えることに大きく貢献することになります。この地にも、668年に滅ぼされた高句麗の人々が移住しました。そして、大宝3年(703)高句麗の亡命王族である高麗若光(こまのじゃっこう)に、朝廷から「王」の姓が下賜されております。更に、奈良時代に入った霊亀2年(716)には、朝廷は関東各地に散在していた高麗(高句麗)人の約1800名を武蔵国内に新たに設置した「高麗郡」に定住させ、高麗若光を首長としております。同郡の総鎮守として崇められてきた高麗神社(古来の名称は大宮大明神社)は、高麗若光を主神として祀っており、その子孫である高麗家が代々修験者(山伏)として別当を勤めてきました(神仏混交)。そして、現在は神職として営々と血脈を繋いでおられます。また、近くの聖天院は、高麗若光の菩提寺として伝わります。つまり、「川原田(巾着田)」は、高句麗系渡来人によって切り拓かれて水田化されたとの言い伝えが残ることも、恐らく史実に近いものがあると推定できましょう。曼珠沙華との親和性の強い土地柄であることがここからも頷けます。

 帰化人の由緒を有する「巾着田」でございますが、その後に耕作放棄された跡地を、昭和40年代に当時の日高町が取得。昭和50~60年代にかけて草藪となっていた土地の草刈を行ったところ、大規模な曼珠沙華の群生が見られるようになったといいます。従って、この地が全国的に知られる「曼殊沙華の名所」として生まれ変わったのでは、平成に入ってからの30年間程のことに過ぎません。また、500万本の曼殊沙華を標榜する日本一の群生地として、開花時期に「巾着田曼殊沙華公園」が入場料を徴収するようになったのも平成17(2005年)から。たった17年前のことです。先に「山林のような土地に曼珠沙華があるのは、その地に以前の人の農耕の営みがあったことの可能性を示唆する」と記述いたしましたが、その典型的な事例とも申せましょうか。もっとも、巾着田の場合は、水田利用されていたことはそれほど昔のことではなく、地元でもよく知られてはいたことのようですが……。むしろ、我ら千葉市として参考とすべきは、一寸した工夫さえあれば我ら千葉市であっても、関東の一大名所を創出することも可能なのではないかとのことでございます。もっとも、日高市と同じことをしても新味に欠けましょうから、曼珠沙華以外で……となりましょう。皆さん、ここで一丁頭を絞ってみては如何でしょうか。一攫千金も夢ではないかもしれません。

 前編の最後で、曼珠沙華について触れて置きたいことがもう1点ございます。そのことにつきましては、一昨年の本稿でも触れたことがございますが、長い歴史の中で農家の方々は、水田の水漏れ防止を意図すること、また美観をも目的にして、水田の畦に曼珠沙華を植えて来ただけではありません。別の重要な目的が存在しました。それは、有毒性の強い曼珠沙華に救荒作物としての役割が期待されていたことです。つまり、曼珠沙華の鱗茎には澱粉が豊富に含まれており、いざというときの食糧としての機能が期待されてきた過去が存在しているのです。しかし、食用にする鱗茎(球根)には強い毒性があり、そのまま経口接種した場合、重症中毒化して死に至ることすらあります。正に死の危険と隣り合わせの危険な食物でもあったのです。その主成分は「リコリン」なるものだそうですが(名称自体が曼珠沙華の学名「リコリス」に由来)、それは水溶性であることから摺り潰して水で長時間晒すことで毒抜きすることが可能です。ただ、科学的検証が不可能な時代には、極めて大きな危険をともなうことは疑いありません。その意味では、途轍もなく酷い飢餓状態に陥り、生きるか死ぬかの瀬戸際の緊急避難的な利用が主であったことかも知れません。それでも、曼殊沙華に頼らざるを得なかった飢饉発生時の過酷を思わせます。逆に、主に近世に入ってから救荒作物として「サツマイモ」が普及したことが、農民たちにとってどれほどの「福音」であったかを痛感させられます。

さて、明日から10月に入りますが、後編では曼珠沙華に関する詩歌等の紹介をさせていただこうと存じます。お気楽におつきあいくださいませ。
(後編に続く)

 

 

 曼珠沙華(彼岸花)の季節に寄せて(前編) ―日本人との古くて長い付き合い または曼殊沙華を詠んだ詩歌のこと―

 
10月1日(土曜日)
路の辺の 壱師(いちし)の花の いちしろく
人皆知りぬ 我が恋妻(こひづま)を

柿本人麻呂(『万葉集』巻11)

 

 後編では、前編末尾で予告させていただきましたように、曼殊沙華(彼岸花)を含む詩歌を御紹介致したいと存じます。ただ、先週の本館職員による
ツイッターにあったように、曼殊沙華関連の詩歌は決して多くないはありません。少なくとも古典の世界においては、殆ど皆無と申しても過言ではないと思われます。管見に拠れば、後編冒頭に引用させていただいた柿本人麻呂(660頃~724)の作品が最古、かつ唯一無二の和歌作例ではありますまいか。以降の勅撰集等々でも、曼殊沙華(彼岸花)を詠み込んだ作品に遭遇した記憶は、寡聞にして御座いません。近世の俳諧には幾つか見ることができますが、その数は決して多くはないと思われます。むしろ、その数を増すのは明治以降、特に俳句や自由詩の世界に於いてとなります。もっとも、上記作品も「曼殊沙華(彼岸花)」という名では出て参りません。「壱師の花」がそれに当たります。

 なお、本作は、人麻呂が官人として赴任した石見国庁(現:島根県)での作とされ、お読みいただければ明らかなように、現地で結ばれることになった恋する妻に関する詠歌でございます。敢えて現代語訳にすれば「路のほとりの壱師の花のように はっきりと人はみんな知ってしまった 私の恋しい妻を」(中西進による)との内容であります。確かに、今でもこの時期に極短い期間に咲き誇る曼殊沙華の深紅はバカ目立ちします。そんな感じで周囲に知れてしまった(バレちゃった)との謂いでございましょう。ところで、「壱師の花=曼殊沙華」と、両者を等号で繋いだ方は本邦博物学の祖と称すべき“誰あろう”牧野富太郎でございます。「雑草と言う名の植物はない」との名言で知られ、「日本の植物学の父」の異名を恣にする、あの「牧野博士」であります。従って、実のところたかが60年にも満たぬ歴史しか有しません。しかも、牧野自身が語るところをみれば、誰もが“えっ!?”と驚かれると存じます。

 

(前略)ヒガンバナが咲く深秋の季節に野辺、山辺、路の辺、河の畔りの土堤、山畑の縁などを見渡すと、いたるところに群集し、高く茎を立て並びアノ赫灼(かくしゃく)たる真紅の花を咲かせて、そこかしこを装飾している光景は誰の目にも気がつかぬはずがない。そしてその群をなして咲き誇っているところ、まるで火事でも起こったようだ。だからこの草には狐のタイマツ、火焔ソウ、野ダイマツなどの名がある。すなわちこの草の花ならその歌中にある「灼然(いちしろく)」の語もよく利くのである。また、「人皆知りぬ」も適切な言葉であると受け取れる。ゆえに私はこの万葉歌の壱師すなわちイチシは多分疑いもなくこのヒガンバナすなわちマンジュシャゲの古名であったろうときめている。が、ただし現在何十もあるヒガンバナの諸国方言中にイチシに彷彿たる名が見つからぬのが残念である。どこからか出てこい、イチシの方言!


[牧野富太郎『植物1日1題』2008年(ちくま学芸文庫)より「万葉歌のイチシ」]
※原著は昭和28年(1953)刊『随筆 植物1日1題』(東洋書館)

 

 しかし、しかしです!!その後の研究の成果として、山口県に「イチシバナ」、北九州の小倉地方に「イチジバナ」等の方言があることが分かり、計らずも牧野博士の「多分」が見事に“ビンゴ”であったことが裏付けられたのです。従って、今では先程の“等号関係”は学会でも概ね認められるところとなっているようです。牧野博士、やはり只者ではござません。優れた学者の着眼点、仮説の立て方、更にその検証方法の目の付け処等、「流石!!」と感心させられます。もっとも、原文の「多分疑いもなく」の“多分”は余計だったのではないでしょうか。余りにペシミスティックに過ぎましょう(笑)。

 しかし、素朴な疑問ではありますが、人麻呂の時代から近代に移行するまでの長きに亘って、何故あれほどに目につく花が詩歌に詠み込まれることが無かったのか……不思議ではあります。まぁ、単なる随想でございますので、思い切りの暴論を承知で申し上げますが、按ずるに明治よりも前の人にはあの不思議な花は、そもそも「花」として認識されていなかったのではないでしょうか。突然の如くにスルスルと地面から伸びて来た茎の先に、マスカラを付けた睫のように反り返った毒々しい真っ赤な花を咲かせたかと思うと、あっという間に花とともに茎も一端枯れてしまいます。ところが、暫くするとひょろひょろとした細長い葉が地面から顔を出すのです。現在でも葉だけを見た多くの方は、それが曼殊沙華(彼岸花)と同植物と気づくことはないと思います。例として適切か否か迷いますが、昨今巷で相当に増殖しているという猛毒キノコの「カエン茸」のような存在と認識していたのではありますまいか。もっとも、平安期以降の勅撰歌人達にとって、水田の畔にごく短期間だけ花をつける曼殊沙華は、殆ど目にする機会もなかったのかもしれません。それに致しましても、和歌に詠まれる題材の偏在の問題は、誠に興味深いものがございます。他にも全く詠み込まれることのない題材は意外と多いものです。

 次に御紹介させていただくのが、日本人の手になる歌曲『曼殊沙華』であります。北原白秋(1885~1942)の第一詩集『邪宗門』に続く第二詩集『思ひ出』(1911年)内の詩に、山田耕筰(1886~1965)が大正11年(1921)に曲を付けた、5曲からなる連作歌曲集『AIYANの歌』(1922)の第4曲となります。二人のタッグによる童謡・歌曲は大変に多く、誰もが知る名作も数多ございます。歌曲の『からたちの花』『この道』、童謡の『砂山』『ペチカ』『待ちぼうけ』等々、タイトルを耳にしただけで直ちに口遊める、親しみ易い歌が思い浮かびましょう。それに対して、白秋の『曼殊沙華』は「死」を題材とし、その舞台も「墓地」となっております。それに併せる耕筰の楽曲も暗く悲哀に満ちたものです。その意味で曼殊沙華の有する一般的な「負」のイメージに基づいており、決して清々しい思いにさせてくれる楽曲とは申せませんが、印象深い感銘を残す作品です。ここでは「楽曲」として御紹介はできませんが、「You Tube」で簡単に視聴できますから皆様も是非とも接してみてください。個人的には、詩・曲ともに近代日本歌曲の傑作の一つではないかと思います。以下に、白秋による詩のみを引用させていただきます。なお、白秋は詩中の「曼殊沙華」を「ヒガンバナ」と訓じております。何時もの余計なお節介でありますが、これを機に「AIYANの歌」全5曲を纏めて聴いてみたいとお考えの方は、藍川由美歌唱(ソプラノ)『この道-山田耕筰歌曲集-』(カメラータ・トウキョウ)CD音盤をお求めくださいませ。それ以外にも良く知られる耕筰歌曲が纏まっております。因みに「AIYAN」は柳川方言で「下婢・児守女」を指すそうで、全5曲の構成は[1「NOSAKI」、2「かきつばた」、3「AIYANの歌」、4「曼殊沙華」、5「気まぐれ」]となります。

 

曼殊沙華  北原白秋


GONSHAN GONSHAN 何處へゆく
赤い, 御墓の曼殊沙華
曼殊沙華
けふも手折りに来たわいな
GONSHAN, GONSHAN, 何本か
地には七本, 血のやうに
血のやうに
ちやうど, あの児の年の数,
GONSHAN, GONSHAN, 気をつけな,
ひとつ摘んでも, 日は眞畫(まひる), 
日は眞畫,
ひとつあとからまたひらく.
GONSHAN, GONSHAN, 何故(なし)泣くろ.
何時まで取つても, 曼殊沙華,
曼殊沙華,
恐(こは)や,赤しや,まだ七つ.

※「GONSHAN(ごんしゃん)」とは、白秋の故郷である福岡県柳河(現柳川市)の御国言葉で「良家のお嬢さん(令嬢)」を意味します。

 

 本詩の解釈には様々ものがあるようですが、素直に読めば「子供を亡くした母親」の歌と捉えるのが極々一般的なものでしょう。「七つ」とは幼くして亡くした子供の年齢を思わせ、その子の齢を未だに数える母親の姿を連想させます。しかし、他にも解釈があって、次に紹介するものなどは到って痛々しくも哀しいものであります。それが「堕胎を余儀なくされた女性」を詠んだものとの解釈でございます。その根拠として、曼殊沙華の毒がかつて堕胎薬として用いられていたことを挙げます。そうであれば「七つ」とは、この世に生を受けていたと仮定しての年齢を数えていることになります。しかし、曼殊沙華の毒は母体にもダメージを齎しましょう。それでも生き残った母の悔恨の歌となり、如何ともし難き重苦しい思いとさせられます。個人的にはこの解釈は採りたくはありません。最後に、「白秋の初恋の記憶」とする解釈もあるそうです。自身は読んだことはありませんが、白秋の『思ひ出』序文には、七つの齢に初めて出会った可愛らしい女の子に抱いた仄かな恋心が記されているそうです。つまり、七歳の折の初恋の記憶によるとの解釈とのことです。もっとも、そのことが何故に死・曼殊沙華のイメージに重なるのかが釈然とはいたしません。ただ、幼い頃に白秋の乳母はチフスに罹患し、真っ赤な鮮血を吐いて亡くなった事実があり、そのイメージが混然一体となって創作されたとの解釈のようです。しかし、これは相当に牽強付会に近いものではございますまいか。素直な一般的解釈で宜しいのではないかと思われますが如何でしょう。それにいたしましても、曼殊沙華を詠んだ本作が、大変に印象深い作品ではありながら、やはり「負」のイメージを纏っているのが一寸残念ではあります。

 最後に、幾つか気になった「曼殊沙華(彼岸花)」関連の詩歌を御紹介して本稿を〆たいと存じます。やはり、どうしても「死」「墓」といった負のイメージを引きずる内容が多いようです。新趣向の作品にもこれといったものは多くは無いように思えます。逆に、皆様から他の目の覚めるような傑作を御教示いただけましたら幸いでございます。因みに、以下の6作品中では、個人的に姫路の人森澄雄と山頭火の句、そして塚本邦雄の歌が御気に入りであります。塚本は名鑑賞家でありますが、実作においても如何にも前衛歌人らしい鋭敏な感覚が横溢。如何にも才気走った作者であることを実感します。今回は、人麻呂序でに「石見相聞歌」の紹介、及び山田耕筰序でに日本人初の交響曲『勝どきと平和』と同期時期の交響詩『暗い扉』『曼荼羅の花』の比較紹介も目論んでおりましたが、流石にてんこ盛に過ぎ見送りとさせていただきました。

 

夏目 漱石(1867~1916)

曼殊沙華 あっけらかんと 道の端

 

種田山頭火(1882~1940)

悔いるこころの 曼殊沙華 燃ゆる

 

森 澄雄(1919~2010)

西国の畔 曼殊沙華 曼殊沙華

斎藤 茂吉(1882~1953)

まんじゆ沙華 さけるを見つつ 心さへ

つかれてをかの 畑こへにけり

 

若山 牧水(1885~1928)

鰯煮る 大釜の火に 曼殊沙華

あふり揺られつ 昼の浪聞ゆ


塚本 邦雄(1920~2005)

いたみても 世界の外に 佇(た)つわれと

紅き逆睫毛(さかまつげ)の 曼殊沙華

 

 

 『芋神』として祀られた享保期の幕臣たち(前編) ―または 井戸平左衛門・青木昆陽・その他のこと―

 
10月6日(木曜日)

 

 吹く風は 涼しくもあるか おのづから
山の蝉鳴きて 秋は来にけり
(源実朝『金槐和歌集』秋)
 
 

 10 月に入っても残暑厳しい日々が続きましたが、流石に秋の気配が濃くなって参りました。金木犀も亥鼻山では9月28日(水曜日)になって薫り始めました。昨年よりも一週間ほど遅い出足となりましたが、これも猛暑の影響なのでしょうか。古来“釣瓶落とし”と例えられた「秋の夕暮」も、これからは益々その濃さを増して参りましょう。佳い季節に入ったことを素直に喜びたいと存じます。もっとも、当方にとっては、火灯し頃から灯りを点す赤提灯の誘惑に、心穏やかならぬ想いとなる季節に入ることでもあります。盛り場のそれも結構でございますが、地方に出かけた折等に暗闇にポッと浮かぶような赤提灯に邂逅したときほど安堵感に満たされことはございますまい。それは、やはり秋から冬にかけての時節において一層に心に浸みるものでございましょう。熱燗を静かに独酌するほど至福の刻はございません。親しい者同士数人で囲む小間座敷での宴席は別として、大勢での宴会は正直ご免被りたいものです。酒は様々な想いを巡らしながら一人じっくりと愉しむのが一番です。コロナ禍中、宴会文化の消滅を嘆く声を耳にいたしますが、小生は斯様に感じることは滅多にございません。歳を重ねるごとに益々その思いが強くなっております。

 今回冒頭歌は、現在放映中の大河ドラマに因んだ人物による、この時節らしい詠歌を採り上げさせていただきました。その『鎌倉殿の13人』もいよいよ佳境に突入し、残すところ10回ほどとなりましょうか。勿論、ドラマでありますから史実と異なるところは多々ありますが、頼朝死後の義時が狂言回しをするようになってからの展開はナカナカにスリリングであり、毎回手に汗握る想いで拝見させていただいております。常胤死後の一族が登場しないのが残念ではございますが、御家人同士・親子間のエグイまでの権力闘争は、ドラマに緊迫感もたらすと同時に、何とも言えない虚無感とを心に残していきます。正直なところ、頼朝が中核となっていた前半よりも、ドラマとしての求心力は遙かに増しておりましょう。毎週大いに愉しませていただいております。流石、三谷幸喜脚本と思わせますし、主役の小栗旬と周囲を固める俳優陣の重厚な演技にも唸らされます。頼朝を演じた大泉洋が悪いわけではございませんが、彼の軽妙さは時と場を選ぶように思います。しかし、小栗の重厚さ、そして時政役坂東弥十郎の千変万化する表情の色づけは、最早歌舞伎の世界を彷彿とさせ、「流石……」との思いを新たにいたします。その時政に翻弄され、最後は短い生涯を悲劇的な形で閉じる実朝作の冒頭歌。短評は何時もの如く、塚本邦雄の御出座を願うことといたしましょう。
 

 金塊集秋の部の第十首目に、この破調二句切れの、萬葉寫しの歌が見える。やや肩肘を張つた歌の姿が、かへつていたいたしいほどの、かすかな悲調が一首を貫いてゐる。二十歳をいくらも出てゐないであろう作者の、悟り、観念したかの語調が、細くかすれた直線をなす。秋歌の第一首目は、「昨日こそ 夏は暮れしか  朝戸出の 衣手寒し 秋の初風」。

[塚本邦雄撰『清唱千首』1983年(冨山房百科文庫35)より]

 

 

 さて、本館にて開催中の企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも』の会期も残すところ1週間余りとなりました。今回の本稿では、展示会の主役「さつまいも」を国内に広めたことで、今の世に「神」として祀られる享保期の人物を採り上げてみようと存じます。それが、今回の企画展で採り上げた青木昆陽(1698~1769)であり、それに加えて井戸平左衛門(1672~1733)となります。この二人以外にも、薩摩芋の普及に力を尽くしたことにより「芋殿様」「芋地蔵」等として神格化されている人物が何人もおります。つまり、昆陽がサツマイモを広めた第一人者というわけではございませんし、「国内初」としての栄冠に輝いているわけでもございません。ただし、今回採り挙げる二人に共通するのは、ともに徳川吉宗の治世下における幕臣として「享保の大飢饉」という未曾有の社会問題に立ち向かった同時代人であることです(もっとも、ご両人に面識があったとは思われません)。しかし、その二人の薩摩芋との関わりには、立場上による明確な違いもございますし、また神格化に到る意味づけも大きく異なっております。今回は、その対照的な二人の「神格化」された享保期の幕臣を二人採り上げます。まずは、千葉から遠く離れた岩見国(現:島根県)のことから始めようと存じます。なお、以下は宮本常一『日本民衆史 甘藷の歴史』に依拠していることを申し上げておきます。

 その石見国と関係の深い幕臣が、井戸平左衛門、諱は正明(まさあきら)に他なりません[史料によっては「正朋」とありますが、これは崩し文字の“明”と“朋”とが判別しがたいことから来る混乱でしょう]。井戸家系譜によれば、その始祖を藤原忠文としております。この人物を何処かで耳にされたことがあるとすれば、それは、10世紀半ばに関東と瀬戸内で勃発した「承平・天慶の乱」において、朝廷から始めに“平将門追討使”、後に“藤原純友追討使”に任じられながら、共に忠文の到着前に現地勢力によって鎮圧されたことから、褒章に預からなかった御仁であります。そのため恨みを抱いて亡くなり、死後に怨霊と化した伝承を伝える人物でもあります。その忠文から18代目にあたる与助が大和国(現:奈良県)で郷士として井戸村(現:御所市)に土着して「井戸」を名字としたとされます。その子平左衛門正時は織田信孝に仕えて戦功をたてますが、信孝の死により藤堂家に仕官代えします。そして、その子新左衛門正盛が藤堂家を去って江戸に出て幕臣に取り立てられたとのこと。その後裔は、幕府内の下級官吏の家として続く家系となりました。

 今回の主人公である正明は、元禄5年(1692)21歳で井戸家の養子となり同年に小普請組入。旗本北条安房守(玉縄北条氏の後裔)の配下に属し、5年後の元禄10年(1697)に表大番の番士に、元禄15年(1702)には御勘定(勘定方の下吏)に上っています。そして60歳で石見銀山代官に任ぜられるまでの30年間を同職として過ごしております。ここから浮かんでくるのは、上司に取り入ることもなく、才気走ったアピールをすることもなく、与えられた自身の職責を誠実・着実に黙々として果たしていく、典型的な“良吏”としての人物像でございましょう。50歳の時、精勤ゆえ時の将軍から黄金2枚を下賜されたことからも、その人物像を彷彿とさせます。光栄ある大森銀山代官への昇進も、本来なら隠居が当然の60歳のことです。この人事は、その能吏振りを大岡忠相に見込まれての抜擢人事であったと伝わりますが、別に永年の功労に報いるための褒章的な意味合いもあったことを宮本は推察しておりますが、正鵠を射ておりましょう。

 享保16年(1731)、平左衛門は大森銀山に留まらず石見国・備後国(現:広島県)・備中国(現:岡山県)の幕府直轄領(天領)の支配を行う大森代官所へと赴任することになりました。出雲国(現:島根県)と石見国との国境の酒谷村に平左衛門を出迎えた庄屋百姓惣代らは、この数年来不作によって農民たちが疲弊している実情を訴え、その統治の寛大であることを哀訴したと言います。平左衛門は彼らに対し、領内の民と苦楽を伴にしたいこと、農村の疲弊を切り抜けるために領民と協力して取り組むべきこと、頭となる者が中心となり軽々な行動を慎むべきこと、救済の道も共々考えていきたいこと等々を伝え、農民たちの心を掴んだと言います。しかし、赴任早々に実施した領内巡検で、農民の生活が想像以上に窮迫していることを目の当たりにします。そこで、領内の富裕層に救済金の手を指し伸べてほしい旨を訴え、集まった献金で周辺諸国より米を買い集め困窮する民へ配付する対応をとりますが、焼け石に水であったといいます。このような情勢下の翌春、九州から諸国行脚の途次に大森の栄泉寺に暫し逗留した旅の僧から甘藷の話を耳にし、平左衛門はこの話に強く引き付けられたのです。薩摩では各地でこの芋を作付けており、収穫量も多く味もよいため多くの民が米・麦の代わりとすること、更に一年の半分は甘藷で済ましている事実が、石見国の飢饉に有効であることを確信したのです。

 そこで、薩摩へ人をやって種芋を求めさせたものの、薩摩藩では藩外への持ち出しを禁止しており(国禁)、止むを得ず幕府に願い出て幕府を通して種芋を薩摩から取り寄せたと言います。そして、村高100石毎に芋8頭を与え、管内全域で試作させたものの、栽培法を伝授しなかったため殆どで失敗に終わったといいます。しかし、唯一邇摩(にま)郡“釜の浦(現:出雲市釜浦町)”で、その秋に多くの芋が収穫できたのでした。そして、正にその享保17年(1732)は、冷夏と秋に大発生したウンカが稲作に壊滅的な打撃を与え、特に冬にかけて西日本を中心に農村での深刻な飢餓を齎したのです。これが、世に名高い「享保の大飢饉」です。村を捨てて流浪する多くの者、相次ぐ食料の盗難、そして路傍に野垂れる数多の餓死者を生み出しました。『徳川実紀』によると死者は100万人弱とされておりますが、流石に多く見積もりすぎであるとも言われております。しかし、各藩ともに被害の実際を低く見積もって公儀に報告していると考えられますから、実数に近い可能性も一概には否定できません(統計的に申せば現在の千葉市民全員餓死した勘定となりますからその惨劇の大きさが想像できましょう)。しかし、石見国における釜の浦での薩摩芋栽培の成功は、その後の栽培技術の周知とともに、薩摩芋を石見地方全域へ普及させることの端緒となり、後の飢饉で多くの人命を救うことに繋がるのです。ただ、平左衛門がこの輝かしい結果を見届けることは叶いませんでした。何故なら自ら生命を断つことになったからであります(病死との説も有力です)。

 「享保の大飢饉」に対して、幕府は諸侯に飢餓を救うための拝借金の貸付を申し渡しています。要は、領主が拝借金で食料を有する地方から買い取って、飢人に施しをすることを可能にする対応であります。その他、出雲・岩見の天領では、大坂の蔵米を浜田湊へ回漕し、管内の村々へと広く配布することもしたようです。一方、平左衛門も次々に非常手段を打ち出しました。安濃郡鳥井村に残る享保17年11月付井戸平左衛門署名文書によると、田祖318石3斗6合を破免して米の取り立ては一切しないことにし、別に銀691匁2分8厘を村中の百姓出作に到るまで立会の上で高下なく割り当て、12月20日までに銀で納めよと命じております。一見して銀であろうと納税せよとのことであるから変わりはないと思いがちですが、691匁の銀で購入できる米は10石に過ぎないことから、思い切った大幅な減税となっているのです。しかし、それでも飢えて苦しむ眼前の百姓を見るに忍ぶことができず、幕府の許可を待っては手遅れになると判断。周囲からは許可を待つべしと意見されましたが、自己責任の下で代官所の蔵にある米や金も引き出して窮民の救済に当てたのです。これは、明らかな越権行為であります。しかし、平左衛門の時宜を得た判断が功を奏し、代官所管内では餓死者を出すことがほとんどなかったことが伝わります。

 享保18年(1733)4月、平左衛門は官命を待たずに独断で振舞った責を問われ、大森代官を罷免されます。そして、備中国の笠岡陣屋に移されることになりました。宮本は出典を明らかにしておりませんが、大森を去るにあたって「私は私の思うままにやったのだから思い残すことはない。みなさんもその本分に努力してほしい」と言い残したとされます。更に、笠岡で幕府の沙汰をまつことになりましたが、「死を決してことを行ったのだから、いまさら沙汰を待つのは命乞いをするようで恥ずかしい」と、養子正武への遺書を残し5月27日に自刃して果てたのでした。こうして赴任先で生涯を終えた平左衛門は、笠原の威徳寺に葬られ墓石が今に伝わります(法号:泰雲姻義岳居士)。その死の報は瞬く間に石見の村々に伝わり、農民たちは限りない悲しみと追慕の念に駆られたと言います。平左衛門の死は、昆陽が幕張で薩摩芋の試作をする3年前のこととなります。

そして、誰言うともなく、石見国では平左衛門のために碑を奉っていったということです。宮本は、初期の供養塔が何れも小さな自然石であることから、そのことが確認されると言います。村の何処にでも転がっていそうな石に「正明碑」と刻まれている石碑は、今でも大森に近い村々の村辻や村はずれで頻繁に目にすることができるそうです。それどころか、粗末で細やかな碑には何時も野の草花が手向けられていることからも、農民たちが代々語り伝えてきた平左衛門への感謝が極めて根強いものであることを実感させられましょう。小生も15年程前に大森に出掛けましたが、このことを知っていたらその時に是非とも目にしたかったものと後悔すること頻りでございます。平左衛門への顕彰は、更に大森代官所管外の他藩領まで広がっております。宮本によれば、総じて大森代官所を離れるに従って平左衛門を祀る碑は大きく立派になっていくことに着目しながら、平左衛門のお膝元にさり気なく設けられた粗末な顕彰碑にこそ、民衆の本当の追慕の情を読み取ることができると述べております。全く以て同感以外の言葉が見つかりません。極々一般に、金をかけた派手な葬儀を営むことが個人を偲び顕彰することと履き違えている方々が多いように思います。そうした方々にこそ、玩味していただきたい歴史的事実がここにございます。心から慕われている為政者の扱いが如何なるものかを知る、またとない動かぬ証拠になろうかと存じます。井戸平左衛門正明は、凡そ300年の時を隔て、今でも「芋代官」として多くの人々から親しまれ、神として厚く祀られております。
(中編に続く)
 

 

 『芋神』として祀られた享保期の幕臣たち(中編) ―または 井戸平左衛門・青木昆陽・その他のこと―

 
10月7日(金曜日)

 

 中編では、井戸平左衛門と同時代人であり、同じく神として祀られる幕臣の青木昆陽について採り上げてみようと思います。青木昆陽は、江戸日本橋小田原町(現:東京都中央区)で、日本橋魚河岸の佃屋半右衛門の1人息子として生まれております。実名は敦書(あつのり)、通称は文蔵、昆陽はその号であります。幼少期から書物を読むことを好み、父の許しを得て京師に上がり、儒学者である伊藤東涯の古義堂に入門して儒学を学んでおります。そこで、同門であった松岡清章との交流を通じて、松岡が享保2年(1717)に執筆した『蕃藷録』に出会ったと伝えられております。本書には「この書物は早くに書いていたのだが、年々その(甘藷の)種をつたえて方々にだんだん広がっていき、京都の南郊・山城の村々・おなじく山城の木津付近・大和・大坂天王寺あたり・紀州・讃州・肥前長崎にはとくに多くつくっている」「(蕃藷は)民間にあること五穀の次で、救荒作物としては必須のものである」とあるとのことです。つまり、宝永・正徳年間の頃には薩摩芋栽培が近畿各地で広く行われており、救荒作物として重宝されていたことが窺えます。もっとも、前編で触れた近畿より西の石見国では、これ以降に発生した「享保の大飢饉」の際にも普及が見られなかったのですから、その普及には地方毎に相当な濃淡があったことが分かります。昆陽は、こうした書物から薩摩芋の有用性を学び、救荒作物としての薩摩芋の有用性について思うところがあったものと思われます。

 そして、江戸に戻った昆陽を、江戸町奉行与力であった加藤枝直が有能な人材として大岡忠相に推挙したことから、昆陽の人生は急展開をすることになります。昆陽は、加藤を通じて「何か心得ていることがあれば文章にして提出するように」と大岡忠相から命じられため、予て思うことを『蕃藷考』として書き記し提出しました。その結果、本書は徳川吉宗に閲覧に供され、吉宗は大いに関心を寄せることになったと言います。そして、吉宗の命により、漢文で書かれた『蕃藷考』を誰でも読める簡易化した内容に改め、享保19年(1734)に木版本として印刷刊行することになったのです。併せて、大岡忠相を通じて、昆陽に江戸での薩摩芋試植を下命したと伝わります。因みに、後に昆陽は正式に幕臣に取り立てられるのですが、それは、元文4年(1739)に月俸10口を賜り御留守居に属し、御書物御用達になった頃のこととされております。

 試作地として定められた小石川薬園と養生所で、享保20年(1735)正月12日、昆陽は小石川橋下町の宇兵衛店に住む源八に請け負わせて畑の造成から始め、前者183坪・後者150坪の合計333坪を成しております。そして、善兵衛という百姓を作人として雇い、この地に種芋を植付けたのです。その結果、小石川で5651本の苗を得ております。この時に用いた種芋は、薩摩から取り寄せたものと、別に以前に吹上御所で収穫されていたものを合わせた600個を用いたとのことであります。つまり、吉宗は「享保の大飢饉」時に西国において薩摩芋が救荒作物として果たした役割を重視し、昆陽が関わる以前から関東での栽培を目論んでいたことになります。その際には、近臣で長崎出身の深見新兵衛に可能性を打診しております。折しも偶々江戸に上って来ていた長崎の平野良右衛門が薩摩芋に詳しいことを聞きつけた新兵衛は、これを吉宗に推挙。その結果、良右衛門が江戸城内の吹上御所での試植をすることになったのです。要するに、昆陽は吹上御所での収穫物を利用しているのだと思われます。恐らく、吉宗が昆陽に期待したのは、彼を幕臣に取り立てることで、その下で薩摩芋栽培のノウハウを確立し、関東における薩摩芋生産を軌道に乗せる基盤を整えることにあったのだと想定できます。面白い話として、「薩摩芋反対派」であった新井白石らの一派を黙らせるため……との臆説もあるそうです。少なくとも、幕府内でも抵抗勢力があったことは間違いありますまい。

 また、小石川での試作と併せて、享保20年5月に下総国千葉郡馬加村(現:千葉市花見川区幕張町)と上総国山辺郡不動堂村(現:九十九里町)への試植も行われました。この2村への試植は、ここが江戸町奉行与力給地であったからです。そして、ここでの試植に昆陽が立ち会ったことは確かであります。ただし、昆陽がこの地に脚を留めたのは、両村を合わせてたったの7日間ほどであったことが現在では判明しております。不動堂村での収穫は思わしくなかったようですが、馬加村では順調に生育し収穫に及んだようです。そして、この種芋が、この後に薩摩芋の栽培は内陸部へと拡大し、下総国の北西部が薩摩芋の一大産地として発展する基盤となったことは間違いありません。更に、これを契機にして、薩摩芋栽培は『蕃藷考』とともに、下総だけに留まることなく関東各地(含:伊豆諸島)に急速に広がっていくことになります。

 因みに、昆陽のその後でありますが、早々に薩摩芋関連の役目から離れて蘭学を学んでおり、むしろ『蘭学者』として知られるようになります(『解体新書』翻訳で知られる前野良沢は昆陽の弟子にあたります)。また、書物奉行にあげられて活躍し、明和6年(1769)72歳を一期に生涯を終えております。その遺骸は目黒瀧泉寺(目黒不動)に葬られました。墓碑には「甘藷先生之墓」とあります、これは東京の薩摩芋問屋仲間が整備したものであり、ここからも「薩摩芋」と「昆陽」との関係が深く意識されていったことが分かります。ただし、上述のように、思いの他に昆陽と薩摩芋との関係は深いものではないことも事実です。更に、我ら千葉市が、昆陽との関係性を喧伝する「馬加(幕張)」との直接的な関係が、極めて薄いものであることは明らかであります。

 しかし、幕張では、青木昆陽との深い由緒を根拠とし、「昆陽神社」にて昆陽を「芋神」として祀っていることは、多くの千葉市民にとって周知の事実でもございましょう。この辺りの経緯とは如何なるものなのでしょうか。前編で解説いたしました井戸平左衛門正明と比較して何が言えるのでしょうか。この場で少々探っておきたいと存じます。史資料を総合すると、昆陽神社の創建は弘化3年(1846)12月のことであり、馬加村内の秋葉社境内地に“初めて”建立されたことが判明しております。隣村に当たる鷺沼村(現:習志野市)の医師渡辺東淵が文政年間から36年間記述した『渡辺東淵雑録』弘化3年の記事に、「午十二月下旬 芋大明神建 馬加村 神躰ハ青木文蔵ト云リ」とあることからもこれを裏付けることができます(『習志野市史 第3巻 史料編(2.)』1993年(習志野市教育委員会)。これは、昆陽の没後80年弱後ともなりますから、既に神格化の動機が、井戸平左衛門のケースとは異なっているであろうことが想像されます。これを主導したのは、幕張の地で幕府との繋ぎをとる「給知役」である、中台与十郎なる人物であり(馬加村中で上層に位置する百姓で名字帯刀を許されていた)、寺社奉行へ建立願を提出し許可を得ての創建でありました。ただ、恐らくこの段階での社殿建立は広く地元民たちの総意に基づくものとは思えません。先にも触れたように、昆陽がこの地に逗留したのは僅か数日であったことに鑑みれば、このことはよくよく納得がいくように思います。少なくとも地元の農民に、昆陽を神として祀るだけの動機が薄弱であることは、火を見るより明らかだと考えるからに他なりません。

 ところが、弘化3年の昆陽神社創建から僅か11年後にあたる安政4年(1857)になってから、以下のような事実が判明するのです。それは、弘化3年の昆陽神社創建に当たって、北町奉行与力給知役[こちらは江戸におり地元の給知役(上記の中台与十郎が当たります)との連絡をとって諸事調整をする役職]豊田伊十郎の父を通じて、弘化3年前後に青木昆陽の書を御神体として手に入れ、既に馬加村に送っていたことです。それにも関わらず、中台与十郎はこれを10年近く放置していたことが判明したのです。そこで、既存の社殿に「御神体」を納め、改めて遷宮式を行う必要が生じたのだと思われます[『芋の記』(年不詳)~『千葉市史 史料編9 近世』2004年(千葉市)]。ただ、ここでの遷宮式では、馬加村住民が相当に関わっていることが注目されます。按ずるに、その背景には、遷宮式を大々的に執り行う機運が馬加村全体に広がったことがあるものと考えられます。そうした昆陽を神格化しての顕彰に対する裾野の広がりの背景には一体何があるのでしょうか。第一に、それは、井戸平左衛門のような昆陽の功績で飢饉を乗り越えることができたことへの報恩にはないと思われます。何故ならば、そうであるとすれば、平左衛門が石見国天領域を越えて多くの土地で祀られている状況が、下総国においても生じているはずだと考えるからであります。つまり、様々な形で広く昆陽が神として祀られている状況が惹起している筈でございましょうが、幕張の昆陽神社は単立の神社であり、他に末社と呼べるようなものは一切存在しないのです。ここからは、昆陽の業績に対する報謝の意識は希薄であることが浮彫りとなりましょう。恐らく、安政期の遷宮式挙行はそれ以外の要因を背景にしており、それは馬加村と少なくともその周辺の村落の事情に拠っている可能性が大であると推察できましょう。それでは、如何なる動機が契機となっているのでしょうか。後編ではそのことについて探ってみたいと思います。 

(後編に続く)
 

 

 『芋神』として祀られた享保期の幕臣たち(後編) ―または 井戸平左衛門・青木昆陽・その他のこと―

 
10月8日(土曜日)

 

 江戸時代の末期になると、薩摩芋は救荒作物としてのみならず、江戸の街では安価で美味なる食材として広く需要されるようになります。特に冬季に販売される焼芋は江戸のファストフードとして庶民に絶大なる人気を博します。つまり「商品作物」として売買されるようになるのです。馬加村周辺で収穫された薩摩芋は、馬加村や検見川村に集荷され、馬加湊や検見川湊から五大力船で現在の東京湾を通じて江戸に搬入されて売りさばかれました。特に馬加村の薩摩芋は品質・風味ともに優れるとの評判から、「納人」を通じて「幕府御用薩摩芋」として柳営に納められもしたのです。しかし、多大な利益を齎す薩摩芋の流通を巡って、そうした特定の商人以外の販売ルートを拡大しようとする馬加村を中核とする下総国産地側の思惑と、それらの村々から江戸市場へと流入する薩摩芋を一手に掌握することで、最大限の利益を挙げようと目論む江戸商人側との間で、争論が相次ぐようになります(こうした争論は既に文政年間から度々繰り返されております)。ここに、江戸商人に対して産地としての馬加村の優位性を何らかの形で標榜する必要性があったものと考えるのです。その一方で、江戸時代末期に江戸の地で刷られた「諸国銘物番付」を見ると、そこで薩摩芋の名産地として番付に掲載される産地は武蔵国の「川越」に限られ、馬加村等の下総国の村落名は一切出ていないことに注目すべきかと存じます。つまり、少なくとも江戸の庶民からすれば旨い薩摩芋は川越産との認識が一般的であったことが推察されます。実際に川越と江戸との距離を示すという「十三里」が焼芋の代名詞となったほどであります。つまり、平たく申せば他産地との激しい鍔迫り合いが生じていた可能性が大きいものと考えられます。やはり、ここでも「馬加村」産の薩摩芋の優位性をアッピールするための何等かの手段が必要になったのではありますまいか。

 つまるところ、幕末期の江戸における産地間競争に勝ち抜くための、馬加村の優位性を強調する手段として、薩摩芋を広めた功労者であると広く認識されていた「青木昆陽」と馬加村との関係性を強調する戦略がとられたものと推定するのです。それが、馬加村における(特に安政期)昆陽神社遷宮の経緯であると考えられないでしょうか。その際、馬加村が強調するのが、青木昆陽が初めて薩摩芋を試植えた地としての馬加村の由緒であり、薩摩芋栽培の「起立根元」の村であるとの主張に他なりません。つまり、今で言えば「昆陽ブランド」を標榜したということになりましょう。馬加村の人々が、自身の村の薩摩芋と他産地のそれとを、昆陽との関係性によって差別化を図る有効な戦略として大いに理解できます。それが、村民を巻き込んでの昆陽神社の造替に繋がったのではないでしょうか。ただし、そのことが後の販売戦略にどれほど奏功をもたらしたのかは判然としませんし、おそらく左程の劇的なる好転を齎すことには繋がらなかったのではないかと想像致します。何故ならば江戸の地で昆陽の名を冠した焼芋ブランドが生まれたことは寡聞にして耳にしたことはございませんし、これ以降、馬加村で昆陽への顕彰が大きな盛り上がりを見せてはいないこともその証左になりましょう。そのことは以下に述べる昆陽神社社殿のその後の扱いに現れていると思われます。

 以上から、馬加(幕張)の昆陽神社創建の背景が、昆陽への素朴な報謝の想いや追慕から生じたものではなく、その点で同時代の井戸平左衛門の神格化の動機とは全く異なることを御理解頂けたのではないかと存じます。もっとも、戦後に大々的に行われるようになる昆陽の顕彰では、昆陽の功績により飢饉の際に多くの人が生命を救われたことが謳われます。しかし、少なくとも現在残る資料から「天明の大飢饉」「天保の大飢饉」において、馬加村周辺にて多くの餓死者を出したとの事実を裏付けることはできません。そもそも両飢饉で甚大なる人命被害を被ったのは、主として奥羽(東北)地方に他なりません。按ずるに、顕彰碑の文言を記述した方の念頭にあったのは、江戸期のおける飢饉ではなく、恐らく戦時中と戦後の食糧難を支えた薩摩芋の記憶であり、それが遠い過去の馬加の地における昆陽の薩摩芋試植と直結したのではないかと推察するものでありますが如何でしょう。当方は斯様に考えております。

 因みに、安政年間に新たなる御神体を納めて遷宮式を行った社殿でありますが、それから10年も経過していない慶応年間には既に朽ち果てた状態となっていたことが分かっております。このピンチを救ったのが「青木昆陽の徳を慕った幕張の人びと」とされておりますが、それは慶応年間から40年強も後のこととなります。新社殿は大正6年(1918)9月に再建され、同年8年に盛大な遷宮式が行われておりますから。当社殿が、JR総武線を横断するアンダーパス道路建設まで幕張駅海側小丘上に鎮座していた旧社殿に他なりません。この背景には、明治末から大正にかけて地元の偉人を掘り起こし顕彰しようとする社会的趨勢があると思われます。また、この時期とは、千葉町とその周辺で薩摩芋澱粉産業が興隆を迎えた時期にあたっていたことも、昆陽の顕彰を後押しした要因ともなっておりましょう。これもまた、素朴な「報恩」とは異なった意識を背景とする、新たな昆陽の顕彰活動と捉えることができましょう。少なくとも、安政期に遷宮式を以って再出発した社殿が、数年後には見るも無残に朽ち果て、更に明治の約40年間そのままに放置されていたことからも、地元で昆陽を祀る意識は必ずしも大きくなかったことが推察できるのです。ここで、誤解の無いように付け加えておきますが、当方は、馬加(幕張)における昆陽の神格化と、石見における平左衛門のそれとを比較して、何れかの優劣を決めようとするものではございません。一見して似た者同士に見えても、その動機にはそれぞれの事情があることを知ることが歴史の面白さだと感じるだけです。むしろ、幕張の在り方に他の地域では見られない特色があると思っており、個人的に大いなる興味を惹かれるのです。

 もっとも、たった数日間とは申せ、昆陽が馬加村での薩摩芋試植を契機にして千葉北西部一帯が薩摩芋の大産地として成長し、それらの村落がそれなりの権益を保持しながら江戸の市場と直結するようになったこと。また近代になっからも千葉町から千葉市へ、そして県域全体へと薩摩芋澱粉製造の主要生産地として発展し、更にそれを原料とする「参松工業」が大正期に千葉町へと進出したこと。そして、昭和期には、国策に基づく「アルコール専売工場」(薩摩芋を発酵させアルコールを精製)が進出することになるなど、千葉における薩摩芋を核とする諸産業の大いなる発展を齎すことになるのです。そのことに鑑みれば、青木昆陽の後世にもたらした遺産とは、思いの他に巨大なものと考えるべきでございましょう。正に本企画展のメインタイトルとして掲げた「甘藷先生の置き土産」に他なりません。また、現在も毎年10月12日に昆陽神社で地元の人々による例大祭が挙行されていることからも、地元では昆陽への崇敬は続いておることを申し添えておきたいと存じます。

 今回話題と致しました、馬加村(幕張村→幕張町→千葉市)における昆陽の神格化の過程につきましては、現段階では史料不足もあって明確に跡付けることはできておりません。これまで縷々申し上げてきたことも、状況証拠からの推論であり、可能性の一つであることはご承知おきください。ただ、博物館の展示として「見通し」を示すことは極めて重要なる機能の一つだと考え、あえて御呈示をさせていただいた次第です。事実だけを示して、結論は煙に巻いてしまうのは如何なものかと思いますので。ただ、この後に史資料の捜索を継続して、「見通し」の是非を顕彰していかねばなりません。もちろん「仮説検証」の作業は皆さまにも投げかけられたものとお考えいただいて結構でございます。逆に、皆様から新たな「仮説」が提唱されることを心から期待をするものでございます。それもまた、博物館における展示活動の重要な意義であると考える次第でございます。

 さて、ここで薩摩芋から離れて、序でといっては失礼にあたりましょうが、同じ芋仲間のジャガイモに関する幕臣の顕彰の動向に少しばかり触れておきましょう。薩摩芋と同じ南米を原産地とするジャガイモの本邦への流入は、(諸説ありますが)慶長3年(1598)オランダ人によって持ち込まれたとされております。ジャワ島のジャガタラを経由して長崎へ伝来したため、ジャガタライモと呼称され、後に短縮したジャガイモとなったとの話はよく知られておりましょう。元来が高地性の冷涼な気候を好むため、江戸時代後期に東北地方に移入され飢饉対策として栽培されるようになります。そうした動向の中、時代は享保から下りますが、甲斐国の天領代官であった幕臣中井清太夫九敬(1760~1795)がジャガイモ栽培を奨励したとされております。清太夫は安永3年(1774)上飯田代官となり、同6年(1777)には甲府代官に転じており、更に天明4年(1784)には谷村代官も兼務し、甲斐国内の天領合計7万石を管轄することになりました。そうした中、安永9年(1780)の洪水と天明の大飢饉で疲弊した領民救済のため、幕府の許可を得て九州からジャガイモを取り寄せ、八代郡九一色郷14ケ村での試作に成功すると、「甲州芋」と喧伝されて領内に普及していきました。それ以来、甲州でジャガイモは「清太夫芋」「清太芋」の名で通じるようになったとのこと。更に、上野原市の竜泉寺には「芋大明神」として清太夫を祀る碑が建立され、他にも近世の建立になる顕彰碑や石祠が甲府盆地内に散在するなど、領民から感謝を捧げられる存在であったことが知られます。また、現在上野原市一帯に伝わる、出荷できない小さなジャガイモを味噌と砂糖で甘辛く煮た郷土料理「せいだのたまじ」の「せいだ」とは、清太夫の名から採られたと伝わるとのことです。清太夫は、その後、諸事情から代官を罷免されるなど毀誉褒貶の多い御仁ではあったようですが、少なくとも甲州の領民にとって恩人として顕彰されてきたことは間違いありません。

 最後に、昆陽と平左衛門を採り上げた文学作品を御紹介させていただき、本稿を閉じようと存じます。まず、青木昆陽を主人公として採り上げた小説であります。実際、青木昆陽を題材とした小説作品は極めて珍しく、管見の限り本企画展の展示物である羽太雄平(1944年~)作『芋奉行 青木昆陽』1997年(光文社)位ではないかと思われます。本作は、青木昆陽を主人公に据えた歴史ミステリーでありますが、表題に「芋奉行」を冠しているものの、物語の殆どは、昆陽が薩摩芋関連の業務から離れた後の「幕府書物方」としての活動となっております。しかも甲州を舞台とする内容は殆どが創作だと思われます。しかし、幕臣としての昆陽の知られざる姿を扱い、昆陽の新鮮な視点を提示しているのは事実かと思われます。2冊目は、井戸平左衛門を主人公とする杉本苑子(1925~2017)作の『終焉』1977年(毎日新聞社)[当方は1981年刊行の中公文庫版で拝読]となります。最初に申し上げますが、こちらは自信を以ってお薦めできる優れた作品です。薩摩藩が国外への流出を禁止する国禁品である薩摩芋を取り寄せる方策は創作であると思いますが、その他は基本的に史実に則り、小説ならではの登場人物の息遣いを細やかに描き込んであり、流石に女流作家ならではの筆致と敬服致しました。通勤途中の読書で不覚にも涙ぐんでしまうことが何度もあったほどです。素晴らしい。新本では入手できませんが、古本で容易く入手できましょう。余り接して来なかった杉本の歴史小説ですが、濃やかな文章表現と吟味された語彙の多彩さに、改めて昨今の歴史小説家との段違いの水準の差を思わされた次第です(流行語なのかどうかも知りませんが「レベチ」というヤツでしょうか)。小生は同世代の女流作家では圧倒的に芝木好子(1914~1991)の大々ファンなのですが、杉本作品にものめり込んでしまいそうです。因みに、映画にもなった『超高速!!参勤交代』で知られる土橋章宏(1969~)にも、平左衛門を主人公とする『いも殿さま』2019年(KADOKAWA)がありますが、残念ながら未読でございます。


 

政令市移行30周年記念 令和4年度特別展『我、関東の将軍にならん―小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏―』いよいよ開幕!!(前編)―戦国関東の“激震地”・“台風の目”となった千葉市域の実像に肉迫する国内初の特別展!!―

10月14日(金曜日)

 

会期:10月18日(火曜日)~12月11日(日曜日)
会場:本館2階展示室

 

釣瓶落とし  といへど光芒   しづかなり   水原 秋櫻子

 

 10月の声を聴いてから、忽ちの裡に既に一週間が過ぎ去りましたが(本稿執筆時点)、この短い期間で陽の暮れるのが格段に早まったことを実感いたします。冒頭に掲げさせて頂いた秋櫻子の句にもありますように、「秋の日は釣瓶落とし」という慣用表現が今でも用いられて居るほどに、この時節の黄昏時は“あれよあれよ”という間に闇夜へと変貌を遂げていきます。そして、ビルの間に落ち行く夕陽の最後の柔らかな光芒と、茜色に染まる横雲の虚空が、一年で最も印象的に映える季節に移って参ります。水原秋櫻子(1892~1981)の作品もこうした想いを破調の17文字に込めたものと思わせます。それにしても「光芒しづかなり」との表現で、秋の日没の夕陽の荘厳さを感じさせる、秋櫻子の言語センスにただ頭を垂れるばかりでございます。もっとも、こうした秋の夕陽の荘厳さや美しさが詩歌に詠まれるようになるのは相当に新しいものであり、少なくとも明治より前の古典の世界での夕陽は、どちらかというと「あはれ」の象徴的のようにして、やがて作者の置かれた心情へと落とし込まれることが殆どかと思われます。まぁ、それはそれで素晴らしい作品のオンパレードですが、今回の「釣瓶落とし」も俳句の季語として定着したのは文芸評論家山本健吉(1907~1988)の提唱によるものと耳にしたことがございます。それは兎も角、当方が幼少期にも井戸は東京低地の彼方此方にありましたが、最早全て手押ポンプの姿に置き換わっておりました。従って、井戸枠から釣瓶を落として直接に井戸水を汲み上げる生活体験は全くございません。還暦過ぎの者ですらそうなのですから、未だにこの言葉が用いられているのは、何時ぞや申し挙げましたとおり、「歳時記」に掲載されたことが大きな要因だと思われます。既に「秋の夕暮れの早さ」を表現するための“言語ツール”と化しているということでございましょう。だからでしょうか、この「釣瓶落とし」を盛り込んだ俳句ではピンと来るものは殆ど見つかりません。秋櫻子の句が奇跡的な例外のように輝いておりました。一言申し添えておきますが、個人的には「秋の日は釣瓶落とし」との表現は大いに好みでありますが。

 さて、標題の内容に入る前に、現在開催中の企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』につきまして少々。本企画展も明後日10月16日(日曜日)を以って大団円を迎えることとなります。会期中、本展に脚をお運びくださいました皆様に、この場をお借りして心よりの感謝を申しあげたく存じます。また、御出でいただいた方々から頂きましたアンケート調査では、大変に好意的な御意見の数々を賜りましたことも、有難きことと存じ上げる次第でございます。青木昆陽の実像、千葉市と昆陽との関係、及びその後の千葉市域と江戸を中心とする大消費地との関係、そして近世末から近現代に到る薩摩芋を原料とした千葉市域の産業、更には昆陽の神格化と顕彰活動の歩み等々、相当に広範な史資料を集めての展示会が開催できましたことは、我々としましても大きな成果であったと思っております。これを機に、多く地域史資料を掘り起こすことができたことも、我々にとっての収穫でございました。ただ、未だ未だ千葉市域の薩摩芋のことについては明らかではないことも多々ございます。今後とも、広く資料を博捜しながら調査研究を進めて参りたいと存じております。未だ、本展においでになられておりませんでしたら、是非ともこの土・日にご来館くださいますように。また、アンケートにて山のように寄せられました「図録が刊行されていないのが残念です」のお声に必ずやお応えすべく、追っての刊行を目論み「ブックレット」制作の算段をして参る所存でございますので、今暫しお待ち下さいますようにお願い申しあげる次第でございます。

 それでは、本題に入って参りましょう。来週の火曜日から、いよいよ標記特別展が開催となります。本展の主人公である足利義明については、恐らく千葉市民であってもご存じない方が多いことでしょう。本展のポスター・チラシを庁内各課に配付した際にも、「“よしあき”の“あき”は明治の“明”ではなく、昭和の“昭”じゃないの!?」との疑問が呈されたことからも自明のように、お膝元の市役所内の方々でさえ御存知ない方が多い印象でした。因みに、明治の「明」が正しく、昭和の「昭」“義昭”は、室町幕府最後の15代将軍となる足利義昭でありまして全くの別人でございます。ここのところ、出る機会の多い公民館講座で講師を務める際にも特別展・企画展の宣伝をしておりますが、やはり出てくるのは「高校の教科書にも載っていない」「初めて知った」のオンパレードでございました。更に、、御親切にも「そんなマイナーな人物を採り上げてもお客さんは来ないよ」とご心配まで頂く始末でありました。

 まぁ、我々と致しましては、市民の皆さんの斯様な認識が極々一般的であろうことは端から織込み済みでありまして、そうした認識を根底から覆したいとの想いが源泉となっておりました。「それほどの人物が千葉市内にいた」こと、それ以上に「斯くも歴史的に重大な動向が千葉市内の小弓(生実)の地を舞台にして惹起していた」こと、詰まるところ千葉市域が「大震源地」「台風の目」となって、関東の戦国時代を次のフェイズへと移行させる中核として機能していたことを知って頂く機会にして頂きたく、本特別展の企画を立案し、今日に至るまでの準備を推し進めて参ったのです。別に、令和8年度が「千葉開府900年」を記念する時を前に、千葉氏以外をテーマにすることは如何なものかとのご意見も一部にあったことも耳にしております。しかし、戦国時代の足利義明の動向は我らが千葉氏にも大きな影響をもたらしているのであり、足利義明を理解せずして、千葉氏の理解も、関東の戦国時代の認識も儘ならないとも確信をするものでございます。そこまで言うのなら、何故斯様に重要な人物をこれまでお前の博物館では扱わなかったのかとの疑問も呈されましょう。それは、義明についての残された史資料が必ずしも多くはなく、正直なところ展示会として成立するのか危惧があったからだと思われます。本館以外でも足利義明を正面から採り上げた展示会が、これまで一度も開催されてこなかったのも恐らく同様の理由によりましょう。しかし、尻込みばかりしていては、何時までたっても、千葉市域が如何に戦国時代の関東全体への影響を齎す極めて重要な位置づけにあったことを、市民の皆さんに知らしめることが叶わないままとなってしまう……との危機感すら抱いた次第でございます。

 そして、手前味噌、身内贔屓を承知で敢えて申し挙げますが、その主担当の中核として獅子奮迅の活躍をしてくれたのが、本館学芸員錦織和彦主査であります。彼は正に身を削る想いで本展のストーリーを構成し、関東各地を飛び回り出来うる限りの史資料を集めて参りました。そして、彼を両翼で支えてくれたのが、中世史研究者である本館の誇る職員、遠山成一研究員(主担当)と外山信司総括主任研究員(副担当)の二人でございます。そのような次第で、今回の特別展は万全の布陣で取り組んで参りました。現段階で本特別展は、多くの戦国時代研究者の皆さんからの注目を集め問い合わせが相次いでおります。そして、それだけの展示会となり得たものと自負するものでございます。皆さんお見逃し無きよう、是非とも会期中に本館に脚をお運び下さいませ。展示図録も特別展開催の初日より販売いたします。1冊800円でございます。昨年度開催の特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌―』もご好評を頂き、昨年度中早々に既に完売しております。その関係から、今日に至るまで図録再販の要望も多々寄せられております。しかし、出版社とは異なり展示図録の重刷というのはなかなかにハードルが高いのが実情です。従いまして、売り切れた段階で入手不能となってしまいますので、どうぞお早めにお買い求め下さい(入館料は無料です)。

 本館における展示会直前の本稿では、いつも当該展示会の「まえがき」「各章構成」「各章の概説」を掲げさせて頂いております。これ以上当方が御託を並べるよりも、以下を是非ともお読み頂き、「出かけてみようかな」との意欲を高めていただけることを祈念する次第でございます。「各章概説」につきましては明日の「後編」で御紹介をさせていただきます。概説の筆者は他でもない上記の3名の分担執筆となります。
 

はじめに

 戦国時代の永正15年(1518)、室町時代から「関東の将軍」である鎌倉・古河公方を世襲してきた関東足利氏に生まれた「足利義明」が、本市の小弓(現在の中央区生実町)に御所を置き、もう1人の公方=関東の将軍となりました。世にいう「小弓公方」です。
小弓公方足利義明は、真里谷武田氏や安房里見氏、扇谷上杉氏などの周辺勢力の支持を受けて房総半島や常陸南部に勢力を広げました。そのため、下総国(現在の千葉県北部など)を勢力圏としていた大名千葉氏はその動向に強い影響を受けることとなりました。
 
 当時の東国では、公方が御所をおいた地域が政治的中心地でありましたから、わずか20年間程とはいえ、戦国時代の千葉市域は、古河(現在の茨城県古河市)と並ぶ関東の政治的中心地であったのです。

 天文7年(1538)に起こった有名な第1次国府台合戦において、義明は北条氏綱に討たれ小弓公方は実質的に滅亡します。ですが、この戦いは小弓公方の滅亡に留まらず、北条氏の政治的地位の上昇や同氏の房総半島や北関東への本格的な進出、千葉氏の北条氏への従属化などのきっかけともなる、関東戦国史における一大画期となる事件でした。このように足利義明とは、戦国時代の千葉市及び千葉氏の歴史を明らかにするうえで欠かせない人物であるとともに、関東の戦国社会の枠組みを変える重要な存在だったのです。

 残念ながらこれまで、戦国時代の市域に足利義明という将軍がいたこと、そしてこの地域が戦国の一時期関東を揺るがす台風の目・ホットスポットであったという史実は、市民の間に十分に周知されているとはいえません。ですが、これまで申し上げてきたように小弓公方の歴史は、地域史のレベルを超えて関東戦国史全体を大局的に捉え、そこから同時代史における千葉氏と本市の位置づけを理解する一つの契機となりうる点で、非常に重要なテーマであることは間違いありません。

 本展では、「千葉市の知られざる歴史」である小弓公方足利義明をテーマに、関東戦国史の全体的な流れに沿って、小弓公方の盛衰、千葉氏をはじめ武田氏、北条氏などの周辺勢力の動向や義明との関り、豊臣秀吉による家名復活と近世を生きた子孫等を紹介します。 

 足利義明は資料が少なく残った文書も発給年が未詳なものが多いなど資料上の制約に苦しみましたが、関連資料や先行研究に基づき本可能な限り義明の活動の実態と歴史的意義が示せるよう努力したと考えております。本展が、千葉市が本年に政令指定都市移行30周年を、そして令和8年(2026)に千葉開府900年を迎えるこの時期に、戦国期の本市に君臨した「関東の将軍」と、本市の地域資源である千葉氏に対する市民の理解・関心を高める契機となることを願ってやみません。

 最後になりますが、本展の開催にあたり、多大なるご好意を賜り、貴重な史資料の拝借にご快諾いただいた所蔵者及び関係者の皆様に、深甚なる感謝を申し上げます。

館長 天野 良介

 

(後編へ続く)

 

 

政令市移行30周年記念 令和4年度特別展『我、関東の将軍にならん―小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏―』いよいよ開幕!!(後編)―戦国関東の“激震地”・“台風の目”となった千葉市域の実像に肉迫する国内初の特別展!!―

10月15日(土曜日)

 

 

 後編では、今回の特別展の「各章構成」(序章・第1~第6章・終章)と「各章概説」とを御紹介いたします。各担当者の「是非とも足利義明についてお知り頂きたい」との“熱い息吹”と、「千葉市域の小弓を本拠とした足利義明が関東の戦国にもたらしたものの大きさを伝えたい」という“烈火のごとき口吻”とに当てられていただければ……と、存じ上げる次第でございます。まずは、篤と御一読下さいませ。
 

序章 知られざる関東の将軍 ―「小弓公方足利義明」とは―

 

 足利義明[生年未詳~天文7年(1538)]、幼名愛松王丸は、古河公方足利政氏の子。はじめは、関東の宗教界の頂点に立つ鶴岡八幡宮若宮別当「雪下殿」空然(こうねん)として、関東の政治・宗教の支配体制「公方-社家体制」の一翼を担っていた。
 しかし、政氏と兄の足利高基による抗争「永正の乱」において、空然も自立を志して挙兵、父政氏、兄高基そして空然の三つ巴の争いが発生した、空然は還俗して「義明」を名乗る。一時は高基と連携した義明だが、高基が政氏を古河(現在の茨城県古河市)から追って公方の座を確保すると、今度は政氏に味方し兄と対立する。
 永正15年(1518)7月、房総の諸勢力をまとめる旗印として、義明は真理谷(まりやつ)武田氏により、同氏が前年に千葉氏の家宰原氏から奪った小弓城(現在の千葉市中央区生実町)に迎えられた。「小弓公方」の成立である。
 小弓に御所を構えた義明は道哲(どうてつ)と称し(以後も便宜的に「義明」を用いる)、真里谷武田氏や安房里見氏などの諸勢力の支援の下、南関東を覆う勢力圏を築き上げ、兄の古河公方高基や甥の足利晴氏と対立した。義明の目的は兄や甥を倒し、唯一の公方(関東の将軍)となることであった。そのため義明は、里見氏などの傘下の諸勢力を動員して、高基や高基に味方する千葉氏などと各地で戦いを繰り広げた。このように義明が関東に及ぼす影響は大きく、義明の本拠となった当時の千葉は、古河と並ぶ関東の政治的中心地となったといえる。
 当時の関東では、小田原(現在の神奈川県小田原市)を本拠とする北条氏が次第に台頭してきた。当初、義明と北条氏は協力関係にあったが、北条氏が義明側の勢力である扇谷上杉氏の領国を制圧し、本格的に房総に手を伸ばす情勢となると、義明と北条氏との争いは避けられなくなった。天文7年(1538)、古河公方晴氏は北条氏当主の北条氏綱に義明退治を命じた。義明と氏綱は同年10月7日、下総相模台(現在の松戸市)で激突した。有名な第1次国府台合戦である。この戦いで義明は、弟の足利基頼や長男の義淳(よしあつ)たちとともに討たれ、小弓公方は事実上滅亡した。
 義明は死んだが、全てが義明登場前の状況に復帰したのではなかった。義明打倒の功績により関東管領の地位を得た北条氏は、古河公方を傀儡として北関東や房総への進出を本格化させる。千葉氏は小弓を奪還したが、房総の支配をめぐる里見氏との抗争の中で北条氏の支援を頼った結果、北条氏への従属の道を歩むことになるなど、関東戦国史は大きな変化を見せるようになった。
 このように小弓公方足利義明は、関東の戦国社会の枠組みを変える重要な存在だったのである。
 

 

 

第1章 東国の武王 ―「関東足利氏」の誕生―
 

 室町幕府初代将軍足利尊氏は、貞和5年(1349)9月、4男の足利基氏を鎌倉公方として鎌倉へ送った。その後、基氏の子孫である関東足利氏が代々鎌倉公方に就任した。鎌倉公方は代を重ねるにつれて、西国の王である京都将軍家と並ぶ「東国の王」として、その権威と地位を東国の武家社会において確立していった。鎌倉公方は、補佐役の関東管領とともに関東と伊豆国(現在の伊豆半島周辺)・甲斐国(現在の山梨県)の10か国を治めたが、次第に公方と京都将軍家及び関東管領上杉氏との関係が悪化、第4代鎌倉公方足利持氏の永享10年(1438)に「永享の乱」が勃発し、幕府軍の前に持氏が自害、鎌倉公方は廃されてしまった。
 その後、持氏の遺児足利成氏が鎌倉公方に復活するが、関東管領上杉憲忠の殺害をきっかけに勃発した「享徳の乱」[享徳3年(1455)~文明14年(1483)]のなかで、成氏は鎌倉を追われ下総国古河(現在の茨城県古河市)に移ることになった。その後も成氏は古河に留まり、関東を統治することになる(古河公方)。なお、享徳の乱は関東の諸大名にも波及し、千葉氏もまた当主千葉胤直が一族の馬加康胤・原胤房に滅ぼされ、やがて本拠が千葉から本佐倉(現在の酒々井市・佐倉市)に移るという事態が生じている。
 本章では、小弓公方のルーツともいうべき鎌倉・古河公方に焦点を当てて関東足利氏の動向を紹介する。
 

 

第2章 父と子と・・ 
―小弓公方前史:永正の乱の勃発と分裂する関東足利氏―

 

 越後国(現在の新潟県)の守護上杉氏と守護代長尾氏の対立からはじまり、千葉氏をはじめとする関東の諸勢力を巻き込んだ「永正の乱」[永正3年(1506)~永正15年(1518)]は、古河公方第2代足利政氏と子の足利高基との関東足利氏内部の政治的対立に移行した。
 当時、古河公方政氏は、高基の弟空然(こうねん)を関東の宗教界の中心である鶴岡八幡宮寺の管理者である雪下殿(ゆきのしたどの)[鶴岡八幡若宮別当・社家様]に据えて、関東の聖俗を掌握していた。いわゆる「公方-社家体制」である。しかし、父と兄が対立する中、当初は雪下殿として父を支えていた空然は、還俗して「足利義明」と名乗り、第三の政治勢力として活動することになった。
 抗争の過程で支持勢力を失った公方政氏は高基に屈服し、久喜の館(現在の埼玉県久喜市)への隠棲を余儀なくされた。その頃、下総国高柳(現在の埼玉県久喜市)にいた義明は、雪下殿としての権威に加えて、父政氏の政治権力を引き継ぎ、兄の高基と対立を深めていった。
 本章では、小弓(現在の中央区生実町)へ入る前の義明の前半生について、父政氏と高基・義明兄弟の三者鼎立状態から、高基と義明の兄弟対立へ移行する過程を紹介する。
 

 

第3章 義明小弓に立つ!! 
―小弓公方の成立、真里谷武田氏の思惑・千葉氏の動向―

 

 永正年間(1504~1512)の両総では、真里谷(まりやつ)[現在の木更津市]の武田氏と、真名(まんな)[現在の茂原市]の三上氏、そして、本佐倉(現在の酒々井市・佐倉市)の千葉氏及び同氏家宰(筆頭家臣)の小弓(現在の中央区生実町)の原氏が覇権を争っていた。
 真里谷武田氏は、永正14年(1517)10月に小弓城を奪うと、翌15年(1518)7月、高柳(現在の埼玉県久喜市)にいた足利義明を当地に招いた。真理谷武田氏の義明擁立の意図は、「東国の王」関東足利氏一族という「貴種」である義明を旗頭に、武田氏主導のもとに諸勢力の結集を図り、千葉氏や原氏と対抗するためであったと考えられる。こうして小弓に御所を置いた義明は、もう一人の関東の将軍として活動を開始した(小弓公方)。義明の意思が関東の諸勢力の動向を大きく左右することとなり、古河と並ぶ関東の政治的中心が小弓地域に成立したのである。一方、この時期の千葉氏は一般に古河公方側と説明されることが多い。だが実際には、義明側に付く時期もあるなど、状況によりその立場を使い分けていたことがわかっている。
 本章では、小弓に入部した義明の権力構造や活動、兄の古河公方高基との抗争や千葉氏との関係、さらには、義明が本拠を置いた小弓地域の中世における重要性などを紹介する。
 

 

第4章 下総国相模台に散る 
―第1次国府台合戦と足利義明の戦死―
 

 足利義明を支えた里見氏と真里谷武田氏は、天文2年(1533)~天文6年(1537)に一族間で大きな権力闘争を経験した。一方、古河公方足利高基と子の足利晴氏は、小弓公方義明との「公方としての正当性」をめぐる争いを激化させていった。こうしたなか、小田原(現在の神奈川県小田原市)を本拠とする伊勢氏綱は「北条」に改姓し、対立する扇谷上杉氏の支配する武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)東部へ進出した。下総国葛西城(現在の東京都葛飾区)を奪取した北条氏は、小弓公方勢力圏を脅かす存在となった。
 天文7年(1538)、晴氏から義明の「退治」の命令を受けた北条氏綱は、国府台城(現在の市川市)に出陣していた義明率いる小弓公方軍と激突した(第1次国府台合戦)。小弓公方・北条両軍の激戦の結果、義明は長男の足利義淳や弟の足利基頼たちとともに討死した。
 この戦いの結果、晴氏は、義明の死により唯一の公方の座を回復した。北条氏綱は。晴氏から事実上の関東管領に補任されるなどその地位を大きく向上させた。これ以降北条氏は、傀儡とした古河公方の権威の下で、関東の制圧を進めていくこととなる。
 本章では、義明の討死による小弓公方の滅亡、そして北条氏の北関東や房総への本格的な進出の始点となるなど、関東戦国史のなかでも重要な意味を有する第1次国府台合戦について、最新の研究成果に基づきその実態にせまってく。
 

 

第5章 復活の公方家 
―その後の小弓公方家と喜連川藩の成立―
 

 「第1次国府台合戦」で足利義明や長男の足利義淳などが討たれたため、小弓公方家は事実上滅亡した。里見氏は足利頼淳(よりあつ)をはじめとする義明の遺児を小弓城(現在の千葉市中央区)から連れ出し、安房国(現在の千葉県南部)で保護した。石堂寺へ預けたと考えられている。その後、頼潤は亡命先の里見氏領国において小弓公方の権威を継承した。
 千葉氏は第1次国府台合戦後に小弓城と「名字の地」である千葉荘(現在の中央区など)の領有を回復し、以前のとおり家宰原氏が同城に本拠を置くこととなった。しかし、当主千葉昌胤が、北条氏康からの援軍要請を受けて真里谷武田氏への軍事行動に参戦するなど、義明の滅亡の結果、千葉氏は北条氏に実質的に従属していくこととなった。
 天下人豊臣秀吉に仕えた頼淳の娘足利島子は、北条氏の滅亡後、弟の足利国朝(くにとも)と古河公方足利義氏の娘足利氏姫との婚姻を秀吉に願い許される。そして、古河公方と小弓公方の両足利氏の血を引く「喜連川家(きつれがわけ)」が成立した。国朝の病没後、弟の足利頼氏(よりうじ)が跡を継いだ。そして、小弓公方の子孫たちは喜連川藩として江戸時代も存続した。

 

第6章 現代(いま)を駆ける 
―連綿と続く足利氏の血脈―

 

 明治維新により江戸幕府は倒れ、武士の時代は終焉を迎えた。喜連川氏は足利氏に復姓、華族「足利子爵家」として存続した。なお、初代子爵の足利於莵丸(おとまる)は水戸徳川家の血を引き、最後の将軍徳川慶喜の甥にあたる。また、同家からは東洋史学者として名高い足利惇氏(あつうじ)が出ている。本章では明治時代以降の小弓公方の末裔たちを紹介する。また、コラムとして、小弓公方に関わる女性たちや足利義明に関わる伝承を紹介する。

 

終 章 総括
―「小弓公方足利義明」が千葉市域と関東にもたらしたもの―

 

 戦国時代の関東の風雲児とも言うべき小弓公方足利義明。その重要性に比べて一般に周知されているとは言えない。この知られざる「関東の将軍」をもっと多くの方々に知ってもらいたい。そして郷土千葉の持つ興味深い歴史の一コマに触れていただきたい。当館のこの想いが、小弓公方を今年の特別展のテーマに選ばせました。
 足利義明が「小弓公方」として歴史の表舞台で活躍したのはわずか20年に過ぎません。雪下殿からの自立からでもせいぜい28年ほどでしかありません。確かに第1次国府台合戦後も子の足利頼淳以下がその命脈を細々とつなげますが、小弓公方は、実質的に第1次国府台合戦での義明の死により滅亡したといって過言ではないでしょう。

 決して長期間とは言えない義明の活動期間ですが、本展を準備していく過程で、改めて東国の戦国史における義明の存在と、その意義の大きさを感じることができました。
 義明の自立の動機は、彼の意図を直接うかがえる資料がないため、憶測にしかなりませんが、雪下殿空然から「義明」と名乗った実名にその片鱗を伺うことができるかもしれません。
 義明が対立した(実家でもある)古河公方は、原則、京都将軍の実名の「義」以外の一字を拝領、その下に関東足利氏の通字「氏」を合わせた実名を名乗りました。しかし義明は京都の将軍家が代々受け継いだ「義」の字を名乗り、「明」の字を用いています。この「明」の字には、一般的な「明るい」のほか、「夜があける」という意味もあります。戦国の世の光として、暗黒の戦乱の夜を終わらせる存在たるという自負、そして義明の意図・野心が表れているかもしれません。

 義明の大いなる野心と高い行動力をみても、義明は飾り物の公方ではなく、その権威や権限を積極的に行使しました。また、諸大名も義明の存在を認めて彼の命令を受け入れました。義明の戦略目的は古河を制圧し自分が唯一の「関東の将軍」になること。そして、そのために房総や南関東の諸勢力を糾合し、兄の足利高基や甥の足利晴氏と公方としての正当性をめぐって争いました。その余波は関東の諸所に及びました。
 ご覧いただいたように、千葉氏をはじめ真里谷武田氏、里見氏、さらには山内・扇谷両上杉氏や北条氏、小田氏などの大名や国衆が、義明の行動に様々な影響を受けることとなったのです。

 義明が志半ばで斃れた第1次国府台合戦での敗戦は、後代の軍記物などでは作戦ミスと虚しい討死として語られました。そのため、小弓公方自体の低い評価につながっていると思われます。前述のように小弓公方足利義明が活躍した時期はけっして長期間ではありません。また、義明の統治者としての才能や行動に疑義を呈することは可能です。ですが、関東戦国史という大きなスケールで、足利義明の存在を見ていくならば、戦国時代の千葉市及び千葉氏の歴史を明らかにするうえで欠かせない人物であるとともに、関東の戦国社会の枠組みを変える重要な存在だったといえるでしょう。
 近年、従来は無力な存在とされてきた戦国時代の足利将軍家が見直され、その実像が明らかになっています。「今足利氏が熱い」なか、改めて、千葉市にも足利氏の「将軍」が存在し、その興亡が関東戦国史に大きな位置を占めていたことを、本展を通じて知っていただきたくぞ存じます。

 資料の制約が多いこと、そして何よりも担当者の力不足から、果たしてこの想いがどれだけ見学者の皆様にお伝えできたか心もとないところです。展示をご覧の皆様が、小弓公方足利義明とその時代について、また戦国時代に千葉市域の果たした大きな位置づけについて御理解頂けますよう心より祈念する次第でございます。

 

 

乞うご期待!!会場で皆様をお待ち申しあげております!!

 

 

薩摩芋を原料とする千葉市近代工業の盛衰(前編) ―または「甘藷澱粉」と「参松工業」、「国営千葉アルコール工場」のこと―

10月21日(金曜日)

 

 

 去る10月18日(火曜日)より、特別展『我、関東の将軍とならん-小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏-』が開幕となりました。国内初の足利義明をメインストリームに引き釣り出した展示会の開催でございますので、予想以上のお客様に御出でいただいております。満を持しての企画・準備を進めて来た我々にとって、誠にもって嬉しい限りです。また、展示に際して貴重な史資料の借用をお許しくださいました所蔵者・関連施設の方々、中世戦国期を研究される専門家の皆様にもお出で頂きました。更に、関連地の皆様(例えば旧喜連川町~町村合併により現在はさくら市の一部)がバスをチャーターされて大挙して来館されることになっております。有難いことでございます。会期は12月11日(日曜日)まででございますが、是非ともおいで下さいますようお願い申しあげます。

 従いまして、標題をご覧になられて、今更閉幕となった企画展『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』の話題でもなかろう……とのお声も聞こえて来そうです。しかし、行き掛かりと言うこともございますし、何よりもこれまで千葉の薩摩芋の近現代について殆ど話題として参りませんでしたので、敢えて取り挙げさせていただきます。もっとも、今回を以って一先ずは企画展関係の話題は切りあげとさせていただきますので、ご安心くださいませ。もっとも、今回の足利義明に関しては、今後小生が生半可なことを書き散らかすまでもなく、特別展担当職員があれやこれやと申し上げることでしょう。当方の出る幕は殆どございますまい。「研究員の部屋」では遠山研究員が,特別展特設コーナー(タイトル未定)を新規開設!!展示図録には盛り込めなかった小弓公方足利義明周辺の雑多な話題について、会期中に“週一”のペースで御呈示することになっております。また、錦織主査の日々の「ツイッター」の更新等々もございます。皆様、何卒楽しみにされていてください。

 さて、皆さんも地元の寺社の祭礼の際には、幼少の頃から現在に至るまで、出店(的屋)で様々なものを食してきたことでしょう。それこそ、売られる品々も年々歳々移り変わっておりましょう。今年はどんな店が出ているのかな……など、物色しながら境内を歩き回るのも楽しみの一つでもありました。ただ、逆に毎年変わることなく出店する所謂“ド定番”の出店もございました。自分自身にとってお気に入りの食物を売る店を見つけると嬉しくなったものです。そのうちで、小生が決して外すことのできなかった定番が「あんず飴」に他なりませんでした。割箸の先に刺した果物に、箆で掬った「水飴」を器用にクルクルっと巻き付けたシンプルな駄菓子であります。その昔も現在も主役なのは、真っ赤に染まった酢漬の李(スモモ)を水飴で巻いたものですが、小生の場合は何はさて置き「店名(商標?)」でもある「杏(アンズ)」の甘露煮を「水飴」で巻いたものでした。その甘酸っぱさと、しつこさのない甘さ、そして他にはない食感の「水飴」のマッチングが抜群でありました。そういえば、親父さんから手渡しされた「アンズ飴」を、店先に置いてある不思議な液体にドボンと浸すことができるようになっておりましたが(当たり前ですが二度漬は禁止でした!)、あれは何だったのでしょうか。甘酸っぱい謎の液体で、本体に到達する前の「水飴」に絡まるその味わいが絶妙でございました。流石に勇気がなくて実行できませんでしたが、親父さんが眼を離した隙を突いて、口にいれたアンズ飴を再度漬け込みたい……との誘惑に、何度駆られたか知れないほどでした。子供心にも、それほど魅惑の液体であったのです。今思えば幾つかのフルーツ缶詰溶液を混合したものではないかと想像するものですが、果たして如何!?

 勿論、杏菓子(「蜜アンズ」・「アンズ棒」等々)と真っ赤に染められた「スモモ」菓子は駄菓子屋でも売っており、自身にとっては東西横綱に位置付く駄菓子中の王者でありましたが、「水飴」とともに食すると、また異なった美味しさがありました。祭礼の屋台で購入するのは年に一度の愉しみでありましたが、「水飴」菓子は自転車を引いて時折“下町”にやってくる「紙芝居屋」で食することもできました。その親爺がその場で拵えてくれる、「水飴」を挟み込んだオレンジ色の薄煎餅は、子供心に素朴な味に過ぎる……とは思いつつも、これまた必ずや購入したものです(「水飴」の代わりに刷毛でソースを塗った塩辛い煎餅もありました)。肝心の紙芝居を見たことも覚えておりますが、「黄金バット」以外はすっかりと記憶から抜け落ちております。恐らく、話の筋など上の空で、親爺さんから購入した「水飴」菓子を食するのに夢中であったからだと思います。今でも、山の神から「私の話したことは思えていないのに、何処で何を食べたのかはよく憶えている」と皮肉を言われることが度々ですが、改めて“三つ子の魂百まで”とはよく言ったものだと思います。何れにしましても、子供の時分に口にした「水飴」と言う不思議な食物は、こうした特別の場でしか食せない御馳走であったことは間違いありません。

 さて、そもそも何気なく食して来た「水飴」とは如何なる食材なのでしょうか。そして、如何にして製造されているのでしょうか。斯様なことすら知りませんでしたので、まずはそのことから探ってみました。すると、その最も古い形態は、米の澱粉質を麦芽中に含まれる糖化酵素を利用して糖化させた、所謂「麦芽水飴」であるとのことです。今でも、金沢市内にある「俵屋」で製造販売されている、あの金沢定番土産でもあります。琥珀色の水飴はあっさりとした素朴な甘さが特色で、如何にも自然食品を思わせる味わいです(“飴色”の語源は麦芽水飴の色合いを由来とするとのことです)。自分自身はスプーンで掬って舐めることしかしておりませんでしたが、砂糖が日本に伝わる以前には、甘味料として調理に広範に利用されたものであります。砂糖の結晶化を阻害する性質を有するため、艶出や保湿に有効であり、滑らかな口当たりを保持できることから、和菓子の材料として現在も広く用いられるとのことです。ただ、子供の頃から通常に接する水飴は無色透明でありました。それを二本の割箸でクルクルと攪拌して空気を含ませ、白濁させて食した経験をお持ちの方も多かろうと存じます。これも、理屈は麦芽水飴と同様の過程を経て製造されており、「澱粉」をジアスターゼ(タカジアスターゼ)酵素によって加水分解して糖化させたものです(「酵素糖化水飴」)。「水飴」とは、砂糖を用いることなく酵素の働きで澱粉質を分解することで「糖」を生み出した食品であり、小生もその昔に勘違いしていたように砂糖水を煮詰めてトロミを出したものでは全くありません。別に、澱粉にシュウ酸を加えて加水分解して水飴を製造する方法もあるそうです(「酸糖化水飴」)。ただ、シュウ酸は有毒で酸味が強いため、炭酸カルシウムを加え非水溶性のシュウ酸カルシウムとしてから濾過にて除去する方法をとる必要があるとのことです。両者ともに無色透明な水飴となるそうですが、酵素糖化水飴の方がブドウ糖を多く含み甘味が強くなるようです。

 その水飴・異性化糖(後述)の製造を行っていた国内におけるトップランナー企業が、かつて本市に工場を有していた「参松工業」であります。当社は、創業者の横山長次郎により、大正5年(1916)「参松合資会社」として東京市深川区東平井町(現:江東区東陽町)に設立されております。横山は異色の経歴を有する人で、元来が大学で理財学を学び銀行に勤務した後、父の営む製鉄所に入所。ハーバード大学に留学して採鉱冶金学・機械学を学んでおります。しかし、日欧の技術力の格差を目の当たりにして製鉄所を退所。東京に戻ってから東京帝国大学の鈴木梅太郎と出会い、酸糖化法に惹かれて生涯の仕事とすることを決意したと言います。社名は、横山家の家紋である「三階松」から採られたといいます。しかし、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災によって、深川地区は壊滅し、工場も全滅することになります。工場の再建に当たって考慮されたことは、「水飴」製造にとって最重要な原料である、澱粉の集荷に都合の良い地区への工場を再建でありました。そうした時に白羽の矢が立ったのが、当時「薩摩芋澱粉」工業が盛んになっていた千葉市であったのです。千葉市は、その2年前に町から市へと衣替えをして再スタートを切っていたものの、財政難に喘いでおりました。従って、有望企業の進出は渡りに舟であったのです。初代千葉市長の神田清治からも熱烈な誘致活動が行われた結果、千葉市寒川町(現:中央区新宿)に新工場を建設。翌年5月から操業を開始することになります。工場用地は、国鉄外房線(現:JR外房線)本千葉駅(現:京成電鉄千葉中央駅)の海側に隣接した土地であり、国鉄路線からの引き込み線を有する製品輸送の利便性にも優れた立地でした。高い煙突が幾つも聳え立つ参松工業は、長く千葉市のランドマークでもありました。

 本社機能は東京にあり、神田区東龍閑町(現:千代田区岩本町3丁目)に本社屋が建設されております(神田川を背にする洒落た本社ビルは、残っていれば登録有形文化財に指定されるほどの結構な建築でしたが、残念ながら解体されました)。その後、福岡市の西尾製飴所を傘下に入れ、昭和11年(1936)には合併して参松福岡工場とします。更に澱粉工業助成株式会社を設立し、千葉県・茨城県・埼玉県・神奈川県・静岡県・宮崎県・長崎県等に澱粉工場を設けるなど、手広く事業を拡大しております。千葉工場は昭和20年(1945)7月7日「七夕空襲」で被災し、木造工場は全焼しましたが、関東大震災の教訓から鉄筋コンクリート造とした水飴工場・ボイラー棟・変電設備等の焼失は免れました。斯様な次第で、戦後は翌46年末から操業の再開が可能となったのです。しかし、昭和40年代に入ると千葉工場周辺の市街地化が進んだこと、加えて千葉港「新港地区」埋立地に食品コンビナート建設計画が進み、進出企業の募集が行われたことからこれに応募。昭和42年(1967)から新工場建設に着手し2年後に竣工。心機一転操業を開始いたしました。

 その後は、戦後の食糧事情の変化の中で「異性化糖」の研究と工業化に成功し(1969年に毎日技術奨励賞受賞)、それが山崎パンやヤクルト等に一早く採用されます。異性化糖とは、ブドウ糖を酵素かアルカリにより異性化した、果糖とブドウ糖を主成分とする糖のことで、複数のブドウ糖が結合した澱粉を甘味の強い果糖に異性化させ、甘味を砂糖の1.3~1.5倍とすることが可能となります。これは、戦後に広まるパン食や清涼飲料水の製造に欠かすことができない技術となるなど、正に業界のトップランナーにある企業であったのです。しかし、平成16年(2004)に130億円の負債を抱え民事再生法を申請。その結果、90年近くに及ぶ会社の歴史に幕を閉じることになりました。因みに、現在の千葉中央駅に隣接する旧工場跡地は、移転後にスーパーマーケット「ダイエー」が進出し、その撤退後はマンションが建設されて現在に至っております。また移転先の新港工場跡地には、現在「不二製油」(植物性油脂等の食料原料を手掛ける企業)が進出しております。国内のトップメーカーであった参松工業倒産後、県内で今日も伝統ある水飴製造を行っているのは、旭市に工場を有する「向後スターチ」と、市原市にもう一社の合計二社のみとなりました。因みに、「向後スターチ」様には企画展で多くの資料を御提供頂きました。その際にお聞きしたお話として、参松工業は数多くの製糖技術特許を有する企業であったこともあり、他社では代替が難しい製品も多々あったそうです。従って、その倒産による国内諸産業への影響は極めて大きなものであったとのことでした。千葉市の誕生以来、千葉の地を象徴する企業であった参松工業の消滅は、時代の移り変わりと諸産業の消長とを如実に反映する出来事ともなったのです。

 さて、ここからは、参松工業の千葉進出が、原料入手に好適な地であったことを一大要因としていたことに遡って参ります。「水飴」製造の原料は「澱粉」でありますから、千葉の地で入手する「澱粉」とは、千葉名産であった薩摩芋を原料とする「甘藷澱粉」であったことになります。本館企画展でも御紹介した通り、日本における「甘藷澱粉」製造発祥は「千葉」の地においてであります。その地こそが、寒川から蘇我に到る房総往還の途次に当たる「五田保(ごたっぽ)」の地であります(現:中央区稲荷町)。その地には、特に明治以降に多くの甘藷澱粉製造業者が櫛比する状況が生まれます。そのことは、昭和9年(1934)刊行『千葉市年鑑』巻末付録「千葉市商工人名録」に記される、市内における澱粉製造業19店舗中、18店舗の所在地が五田保であることからも明らかです(例外は西院内の1店舗のみです)。澱粉製造業は幕張の地でも行われておりましたが、幕張町が千葉市と合併するのは戦後の昭和29年(1954)のことになりますので、この数には含まれてはおりません。現在も五田保に鎮座する稲荷神社(『千学集(抜粋)』に中世都市“千葉”の南限と記される古社であります)境内には、「甘藷澱粉製造発祥之地記念碑」が建立されております。まずは、それを引用させていただきましょう。

 

 青木昆陽先生が幕府の命によって下総国馬加村すなわち現在の千葉市幕張町に甘藷を試作したのは享保二十年のことである。その後百円を経た天保七年に下総国五田保すなわち現在の千葉市稲荷町の地に於いて花沢紋十氏は下野の人北里新兵衛氏の指導の下に甘藷澱粉の製造を創めたと記録に伝えている。以来この地を中心に甘藷澱粉の製造は年々盛んになりその製造法は漸次全国に広まって行ったのである。一方澱粉業者の団体は明治年間に創設され以後名称は時代とともに幾度か改変したが第2次大戦後は千葉澱粉公暁協同組合に統一されその組合活動は全国に冠たるものがあった。顧みるに甘藷および甘藷澱粉は備荒食料として過去幾多の食糧危機を救い特に第二次大戦の食糧難に際し県組合、組合は代換配給甘藷の供出によって食糧難を打開し食糧政策に多大の貢献をなしたがその後の食糧事情の好転につれて昭和四十年代には原料甘藷の作付も全国的に激減し甘藷澱粉製造は衰微の一途をたどることとなり伝統ある千葉澱粉工業協同組合も終に昭和四十六年八月解散した。しかして往年の盛業をしのび先人の遺業を思う時感懐まことに切なるものがある。ここに旧組合有史相はかり甘藷澱粉創始の地に碑を立て録して先覚の偉業を永世に伝えようとするものである。

 昭和四十九年二月八日 

 有志一同
 

 

 『千葉県甘しょ発展誌』1968年(千葉県農林部農産課)によれば、甘藷澱粉製造は上記記念碑に記載されているよりも若干早い、天保5年(1834)蘇我町の大塚十右衛門による創業としておりますが、その3年後の天保8年(1837)に上州の人北里新兵衛なるものが、「手摺法(おろし金で芋を摺りおろす)」を五田保に在住する花沢紋十に伝え、更に改良を加えて弘化2年(1845)年に白玉粉の製造を発明したとします(千葉市営霊園には昭和10年に花沢家が北里新兵衛を供養した墓塔が残されております)。ただし、嘉永年間までの甘藷澱粉の品質は必ずしも上質とは言い難く、単に機織の糊材としての利用に留まっていたのです。ところが、万延元年(1860)に十右衛門の案出による「絹篩(きぬぶるい)」を用いることで、上等な晒粉となり“食用”として用いることが可能となったといいます。更に、明治3年(1870)には「陰干法」が発明されて、甘藷澱粉は「甘澱(かんでん)」との名称で名声を博し、市場からも好評をもって迎えられるようになったそうであります。これが甘藷澱粉工業の原型であり、明治以降の近代化の過程とは、薩摩芋の水洗・摺潰・回転篩、火力乾燥機の利用といった、いわば機械化による製造工程の効率化にあったと言っても過言ではありません。因みに、こうした澱粉製造工場には、澱粉を沈殿させるための大きな水槽がありました。企画展では、かつて幕張町で澱粉製造を行ってきた「鈴木商店」伝来の貴重な史資料をお借りして展示をさせて頂きましたが、薩摩芋収穫前に当たる夏季の沈殿槽は、子ども達にとって格好の遊び場(プール)と化していた状況を伝える、懐かしくもホノボノとした写真が残っておりました。鈴木商店では甘藷澱粉製造閑期には「麦」の製粉業を営んでいたのです。

 千葉市を発祥の地とする甘藷澱粉製造は、そこから千葉県内は元より薩摩芋栽培が行われる国内に広く拡大していきました。特に千葉県内では、夷隅郡・長生郡・山武郡・海上郡の各地に甘藷澱粉工業が広まっていくことになります。そのうちの千葉県東部地域では、明治27年(1894)に海上郡銚子町で、蘇我町から講師を招いて普及を図ったことを契機に周辺地域に広がりを見せたといい、大正期には旧海上群内にも70近い工場が林立したといいます。しかし、この地域の甘藷澱粉工業を更に後押ししたのは、戦時中の昭和19年(1944)に政府の命令によって千葉市周辺の甘藷澱粉工場の疎開が進められたことで、当時約65近くあった千葉市域の澱粉工場が3工場を残して千葉県内各地へと移転したことに由来すると考えられます。その時に県東部地域に多くの工場が移転しているのです。その結果、逆に一大産地であった、伝統ある千葉市域の甘藷澱粉製造業は終戦を契機に衰退を迎えることになります。それでも、昭和21年(1946)度の統計資料によれば(『甘しょ澱粉百年の歩み』)、千葉県全体の甘藷澱粉工場数は194軒で生産量は、13.286トンと記録されております。この数値は生産量2位の鹿児島県121軒で6.161トンの生産量を2倍も越えて上回っており、打っ千切りで引き離しての首位であることが分かります。戦後直ぐの段階で、千葉県域が甘藷澱粉の一大供給地であったことは間違いありませんし、千葉市域からの供給が戦争により減少したとは申せ、参松工業が千葉市域に工場を構えるメリットは、戦後に到っても極めて大きな要因となっていたものと思われます。

 敗戦後の混乱からの復興と、その後の高度成長を契機とする日本国内における食糧事情の好転と西洋化は、農業にも食品工業にも大きな影響をもたらすことになります。また、戦後の食糧政策や食品工業原料の輸入政策も陰に日向に、薩摩芋生産農家、澱粉製造工場、更にはそれらを原料とする参松工業をはじめとする食品工業に舵取りを迫ることになるのです。特に国内での戦後の薩摩芋の消費量の大幅な減少と、昭和38年(1963)の外国産澱粉の輸入実施による安価な原料流入は、千葉県域における薩摩芋農業と澱粉製造業者、そして参松工業のような食品工業を直撃することになります。水飴製造は澱粉が不可欠でありますが、必ずしも甘藷