更新日:2025年3月24日
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本館の最上階の展望回廊に立って北から東を眺めると、都川の流れに沿って低地に展開する千葉市街を臨む亥鼻台地上に、千葉大学医学部・薬学部・看護学部、及び同附属病院等々の千葉大学施設が林立していることが見て取れます。都川から南に折れて台地上に登る坂道も、その場所柄ゆえに地元では今でも「病院坂」と呼び習わされております。因みに、この道は近世における「土気・東金往還」そのものでありますが、明治以降そのルート先に「千葉県畜産試験場」が設置されたことにより、現在ではそこで道路が寸断されております。ただ、試験場の廃止後に同地が「青葉の森公園」(園内に県立中央博物館等がございます)に整備され一般に開放されたことで、園内に今でも「土気・東金往還」の道筋が残存していることが広く知られるようになりました。現在では園内街路として整備されその由来を解説する標示がされております。その道筋の病院坂を上がった北側台地上に医療機関が設営されたのは、後に述べますように明治期のことでございますから、「病院坂」の名称も間違いなくそれ以降の命名によることは疑いありません。しかし、それ以前にはこの坂道を何と称していたのか、残される文献史料からも判明せず、小生が40年近く前に行った地元での聞き取り調査でも、古老の口からその名が語られることもありませんでした。所謂「時既に遅し……」の状況にありました。残念です。
ところで、病院坂を上がると、道を挟んだ病院とは反対側に何軒もの旅館・ホテル、医学書を専門とする書店がございました。書店があることは大学医学部の門前でありますから至極当然に理解できましょう。しかし、宿泊施設が多かっの理由は那辺にございましょうか。実はこれも病院との関係性が大きな背景でございます。県下随一の医療機関である本病院には、県内各所から通院する方々が引きも切らなかったのです。しかし、その昔は交通の便が今ほどに至便な状況にはございませんでしたから、遠方からの患者さんは、通院だけに限っても前泊・後泊が不可避であり、大学病院の至近にある宿泊施設の需要が高かったのです。しかし、ネットでの購入が普通となった現代では医学書店も数軒を残すのみ。多くの宿泊施設も、一部が体育大会に参加するために県都千葉に集まる生徒の受け入れで命脈を繋いでおりましたが、それも高速道路網の整備により需要も激減したようで、今では全てが廃業いたしました。残念ながら伝統ある大病院の周辺らしい伝統ある街の風情もほぼ消え去ってしまいました。
しかし、今でも本館周辺には医療・医学関係の施設、千葉大学医学部・同附属病院、同薬学部、同看護学部が存在しておりますように、千葉市が県都として政治の中心であるとともに、県内における近代医療の中心としての機能を有してきたことを今に伝えております。そして、その起源は明治初頭にまで遡るのです。何よりも、この亥鼻台の地には「千葉医療」の歴史を象徴する一際重厚な建築が今も残っていることは、古くから市内で暮らす皆様はよく御存知でございましょう。茶色のタイルで全体を覆われた鉄筋コンクリート造の巨大な建物でございます。これが「旧千葉大学医学部本館」に他なりません。以前にも本稿でも採り上げたこともございますが、本稿の副題にも掲げましたように、過日『千葉日報』に本建築の価値や保存についての記事が大々的に掲載されました。本稿でも、これを機に「千葉大学医学部ゐのはな同窓会」に手により制作されたDVD『千葉大学医学部旧本館 85年の記憶』(令和5年9月)の内容の紹介を兼ね、千葉における「医療・医学」の歩みと本建築について簡略に述べさせていただきたいと存じます。本建築について述べる前提として、まず千葉市(千葉町)における「医療・医学」の歴史について押さえておきましょう。
千葉における「近代医学」前史としては、その地の多くが佐倉藩領であったことからもお分かりのように、幕末に佐倉城下町に開設された佐藤泰然(1804~1872年)による「佐倉順天堂」の存在を等閑に付すことはできません。事実、その息のかかった医師やその子孫に当たる方々が稲毛や寒川で開業していることからも、千葉では明治初期の段階から蘭方による医療が行われていたことが想定されます。ただ、千葉が西洋医療に基づく「医療・医学の町」となる直接的な起源は、明治7年(1874)に千葉町・登戸村・寒川村の有志によって「共立病院」が設立されたことにあると目されております。同病院は同9年(1876)に千葉町吾妻町3丁目に移転して「公立千葉病院」と改称。ここに同13年(1880)東京大学医学部を卒業した医学博士長尾精一(1851~1902年)が着任。院長兼医学教頭としてドイツ医学に基づく医療教育が始まっております。同15年(1882)に同院は廃止され、新たなに「県立千葉医学校+同附属病院」が設立。翌年には長尾が校長兼附属病院長となって、千葉における医者の育成も本格的なものとなります。そして、今日にまで続く猪鼻の地と「医療・医学」との関係が始まるのが同20年(1887)のこと。激しい誘致合戦の末に長尾の尽力によって、同年「第一高等中学校医学部」が千葉に設置されることが決まり、同医学部と「附属千葉病院」がこの亥鼻台に建設されることになったのでした。ここに、千葉医学と亥鼻の地との結び付きが始まるともに、千葉における本格的な西洋医学を中心とした医学教育の幕が切って落とされることになるのです。
本医学部は同27年(1894)に「第一高等学校医学部」と改称され、更に同34年(1901)に「千葉医学専門学校」(医学及び薬学の専門学科を修する学校)となり、長尾が校長となっております。続く大正12年(1923)には「千葉医科大学」として新たに発足。今でも千葉大学医学部生に引き継がれる「千葉医学」のモットーとされる箴言「獅膽鷹目行以女手(したんようもくを行うに女手を以てす)」(後述)を残した三輪徳寛(みわよしひろ)が初代校長に就任しました。本校は、第二次世界大戦を経た昭和24年(1949)に「千葉大学医学部」となり現在に到っております。つまり、この亥鼻台だけでも既に136年に亘る「医療・医学」の歴史が刻まれているのです。因みに、それとは別に、現在の千葉市内には明治41年(1908)に「千葉陸軍病院(現:国立千葉病院)」が、昭和14年(1939)に「市立葛城病院(現:市立青葉病院の前身)」が、それぞれ建設されており、千葉市は「医療・医学の町」としての特色を色濃く有するようになっていきます。明治以降の千葉の花街と言えば「蓮池」に止めを刺しますが、その主たる顧客層とは、「県都千葉」の役人、「軍都千葉」の軍人、そして「医療のまち」の医師であったといいますから、当時の千葉における医学隆盛の程を窺い知ることができましょう。こうした、千葉における医療と医学の歩みにつきましては、本館で平成20年度に特別展『千葉市の医学と医療-千葉大学附属図書館亥鼻分館の古医書コレクションを中心として-』を開催しており、その際の展示図録は現在も在庫がございます。より詳細をお知りになりたい方は是非ともお求めくださいませ(400円)。たかが20頁足らずの小冊子ではございますが、(手前味噌にはなりますが)千葉における医療・医学の歩みが過不足なく簡潔に纏められた内容になっております。
さて、ようやく「旧千葉大学医学部本館」の話題に移らせていただきますが、本建築に「旧」の文字が付されることとなったのは極々最近のことであります。それは、新たな医学部本館が建設されて全ての機能が新館に移った令和3年(2021)10月のこととなりますから、きっちり2年前からのことであり、それまでは現役の「千葉大学医学部本館」でございました。更に遡れば、昭和53年(1978)に新たな「千葉大学医学部附属病院」が建設されて現在地に移るまでは、本建物が「千葉大学医学部附属病院」でありましたから、そもそも本建築は医師の育成と医学の研究を重要な目的とする、医学部附属の病院施設として建設されたものとなります。その時期は、上述した「千葉医科大学」となった頃となります。建設されたのは昭和初頭であることからもご理解いただけましょうが、その直接的な契機となったのは大正12年(1923)に発生した関東大震災にあったと考えられております。千葉市内は壊滅的な被害は免れましたが、東京・横浜、そして震源地に近い県南部の安房地方では、建物の倒壊と火災による甚大な被害が発生。巨大地震に耐えうる建築としての鉄筋コンクリート造の建物の建設が求められました(震災後の東京都内における所謂「復興小学校」建設と軌を一にする動向でありましょう)。新たな「千葉医科大学附属病院」は、昭和6年(1931)着工され同11年(1936)に竣工、翌12年(1937)に開院いたしました。足掛け7年にもわたる大工事となったのです。当時「東洋一」と讃えられた本病院の偉容は、爾来85年と言う歳月を重ね、基本的に誰もが立ち入ることの叶わない“空き館”となってから2年が経過した今も、神々しいまでの偉容を誇って猪鼻台に屹立しております。本来は、新医学部校舎の建設とともに解体される方針であったのでありましょうが、ここへ来て「千葉大学医学部ゐのはな同窓会」の方々を中心に、輝かしき「千葉医学」の伝統を生成し続けた、その象徴的とも言うべき本建物をこの世から消滅させてしまって良いのかという意識が醸成されているように感じる次第でございます。
今回御紹介する同窓会によるDVD映像の制作も、本来は消滅する本建物の記憶を映像として記録することを目的に開始されたものと思われます。しかし、この9月に世に出たDVD映像を拝見させていただくと、今なお国内の医学界の最前線でご活躍されるお歴々が口を揃えて、「千葉医学」の伝統を未来永劫に伝えるシンボリックな建造物として、本建築を保存・活用できる道を探れないかとの熱い思いを語っておられます。このことからも、千葉大学医学部卒業OB・OGの皆さんの意識の変容が汲み取れるように思うのです。『千葉日報』の記事として9月末に、本稿の副題に掲げた見出しで大々的に採り上げられたのも、本DVDの完成と頒布、及びその中でお歴々が語られる内容に因んでのことと思われます。ただ、千葉大学広報室は本紙の取材に対して、「現在,今後の取り扱いについて多方面から検討を重ねている最中であり、現時点で大学としての方針を示すことはできない」と回答していると記事には書かれております。まぁ、これだけ堅牢で巨大な建物は保存するにせよ解体するにせよ、恐らく莫大な費用を要しましょう。従って、下衆の勘繰りではございますが、所有者としても進むことも退くも叶わず、いつの間にやら2年が経過した……というのが事実に近いように邪推いたします。因みに、本DVDは一般販売されておらず、「旧千葉大学医学部本館」の維持・活用を支援するために、同窓会に3千円以上の寄付をされた方に寄贈される返礼品となっております。小生も趣旨に賛同の上で個人的に幾ばくかの寄付をさせて頂きDVDを拝受いたしました。「千葉大学医学部ゐのはな同窓会」のホームページをご覧頂けますと方法が判明します。勿論、直接に同窓会事務局で寄付をすれば直接に受け取ることもできます(「千葉大学医学部附属図書館」横にある白亜の建物がそれです)。
改めて、本DVD等からの情報に導かれて本建築について簡単に纏めてみましょう。旧本館建設の検討についてはどうやら大正末年辺りから始まっていたようですが、実際には昭和4年(1924)から設計が始まったようです。その時に設計技官の一人であった落合宗治(おちあいむねひろ)氏から寄贈された本館建設に関わる資料群、今回の引っ越しに当たっての調査で発見された建設に纏わる関係資料からは、当時の様子と携わった人々の熱い息吹を感じ取ることができます(これらの貴重な資料群は引っ越しの際に危うく廃棄される直前に救出されたそうです)。それによれば、建設主体は文部省、設計に当たった技師は落合を含む22名にも上り、実際にその建物で医療にあたる千葉医科大学の医師たちからの要望をも受けて計画立案をされているとのことです。記録によれば、医師からは「ナースコールの設置」「患者の混雑を避けるためにエレベーター至近への階段の設置」「立派さよりも温かみを感じる建物であることを要する」等々の要望が寄せられていたことが読み取れます。建設工事は大林組の手により昭和6年(1931)に着工されました。巨大病院の建設に当たって、基礎工事の際には馬を持つ近隣農家の助力も願って工事が進められたそうです。そして、昭和11年(1936)竣工、翌12年(1937)8月30日に開院の運びとなりました。本建築は上空から見ると“田の字型(上階は日の字型)”の平面構成をとっており(つまり外からは見えない4つの広大な中庭が存在)、鉄筋コンクリート造で表面タイル仕上、地上4階(一部5階)・地下1階、建築面積8192平方メートル、部屋数823・病床数509という巨大な病院建築がここに誕生したのでした。当時の新聞の見出しには「東洋一」「建築美の粋」等々の文句が踊っておりますが、今でも本建物を前にすれば、それが単なる美辞麗句ではないことが理解できましょう。
DVDに登場される千葉大学大学院工学研究院名誉教授で病院建築の歴史にお詳しい中山茂樹先生によれば、本病院建築の画期性とは当時珍しかった「集約型」の建築であったことにあると評されております。つまり、現在の看護学部の地に当時存在していた「千葉医科大学附属病院」がそうであったように(現存せず)、当時の病院建築の殆どは木造の「パビリオン(分棟)型」が主であったとのことであります。つまり独立した各病棟を廊下で接続する形式ということになります。それに対し、本建築は堅牢なRC構造の各階中央通路の左右に、すべての治療科が整然とシンメトリーに配置され(以下の一覧を参照)、更に正面玄関から奥にかけての病院機能の配置にも各階で統一性が図られたことにあると言います(各階ともに、正面玄関に臨む表面に「外来機能」、中間に「管理機能」、奥手に「病室機能」を配置しております)。また、堅牢でありながら中庭を確保したことにより、採光・通風といった病院に欠くべからざる“衛生”面での条件確保が図られたことも、病院建築としてエポックメーキングな点であるとおっしゃられております。
中央通路 左手 中央通路 右手 |
4階 歯口科 小児科・放射線科・眼科 3階 産婦人科 泌尿器科・皮膚科 2階 第二内科 第一内科 1階 第一外科 第二外科 地階 神経科 整形外科 |
※5階は屋上の一部に「階段教室」、「サンルーム」等が設営されている。 ※「精神科」は別棟(昭和2年建設)~現サークル棟として現存 |
また、同じくDVDに登場される千葉大学大学院工学研究院准教授で建築保存を専門とされる穎原澄子先生は、本建築が比例と調和を旨とする「近世・ルネサンス様式」の影響下に造形され、シンプルな直線と曲線によるデザインに優れる建造物であるとともに、建物各所に高価な資材を配していることを指摘されております。例えば、正面玄関を入った1階ロビーの床面に敷きつけられるタイルは大量生産品ではなく、大正9年(1920)に池田泰山(1891~1950年)が京都市東九条で開いた製陶所で焼かれた特注品の「泰山タイル」をふんだんに利用していること(「泰山タイル」はロビーの他にも要所要所に効果的に用いられているとのことです)。また、そのロビーは4階天井までの広大な吹き抜け空間であり、その天井にはステンドグラスが設置され、優しい自然光が1階まで届く構造となっていること等々をご指摘されております。小生は正面玄関の手前に設けられた庇をささえる4本の列柱が、何れも上部から下方に向かって次第に細くなるように造形されていることに感心させられます。如何せん重厚さを旨とする建築でありますから、こうした軽妙なデザインが建物の重苦しさを軽減させる機能を有すると思います。また、各階の水平線が強調される側面のデザインに、階段部分だけが地上から4階までを貫く縦窓で構成されているのも、デザインの単調さを防ぐ絶妙なデザイン的な要素になっていると考えます。
また、4階の小児科の各病室には、動物や乗物等の子供が喜ぶようなデザインタイル画が設置されていることも、建設に当たって「親しみやすさ」を旨とした建築であることを望んだ医師たちの心の反映に違いありますまい。DVDでは「旧院長室」(閉館時には教授会議室)内部も紹介されており、寄木細工の床面、格天井、市松模様の壁面、そして建築以来そのままに利用されるデザイン性と機能性とを兼ね備えた照明器具の優れた造形を見ることができます。小生とも若干の面識がございます穎原先生が感銘深くその様子を説明される姿に、こちらも心から共感させられた次第でございます。また、病院機能の移転以降は医学部として利用されて来たとは申せ、85年の長きに亘って利用され続けたのは、取りも直さず、それだけのキャパシティを当初から見込んで設計された先進性があったこと、それに加え、古いから壊してしまえという短絡的な発想とは真逆の、使用する側(つまり歴代の医学部に関わった職員の皆さん)の優れた感性こそが、この建物を今日まで長きに亘って維持してきたのではないか……との穎原先生の御指摘に大いに感銘をいただいた次第でございます。何れにいたしましても、本建築が建設された昭和初期とは、戦争の時代を目前にした国威発揚の意識の高まりに伴う、世界に冠たる唯一無二の建築を創造しようとする精神が、良きにつけ悪しきにつけ横溢した時代であったことも大きいことと思われます(DVDには同時代の建物には国会議事堂や東京国立博物館本館があることが紹介されております)。
DVDでは、最後に座談会に参加された方々が「千葉医学」の伝統について意見を交わされており、それが極めて印象的な内容でございましたのでご紹介させていただきたいと存じます。ある方は、それが「臨床を重視する立場」にあると語り、ある方はそれを補完するようにして、上述しました千葉医科大学の初代学長であった三輪徳寛氏の残された「獅膽鷹目行以女手」という医療に携わる人としての在り方にその精神が表象されていると言います。つまり、患者の医療に当たる者には「獅子のような膽力を持って病に立ち向かうこと、鷹のような鋭い眼力をもってあたること、治療に当たっては女性のような優しさを持つこと」が求められる……との箴言に他なりません。それらを受けて、現学長が、現在の千葉大学医学部及び附属病院の目指すところは「治療学」、すなわち「基礎から臨床まで患者の治療につながる研究医療を進めていくこと」であることが述べられます。対談の最後に、千葉大学医学部ゐのはな同窓会の会長である吉原俊雄先生は「千葉大学医学部では臨床と基礎研究の関係性についての交流が自然に行われていることが他大学医学部にはない特色なのではないか」との発言され、別の方が「臨床の教室を基礎研究が支える」体制こそが「千葉医学」の伝統であると締めくくっておられたのが印象的でございました。ここに発言されている内容が「千葉医学」の神髄であるのであれば、医学の世界に限らず、現代社会に蔓延する社会情勢に対するアンチテーゼともなりうることではないかと感じた次第でございます。何故ならば、基礎研究と臨床(実践)との両立こそが科学技術の正しい発展の在り方に他ならず、ともすれば応用研究・実務に傾き勝ちであることへの警鐘に他ならないとうにも考えられるからでございます。「千葉医学」の伝統への敬意を深くした次第でございます。そして、対談へ参加されたお歴々の先生方が一様に「千葉医学の伝統のシンボルがこの建物であり、後世に引き継いでいきたい」と熱く語られておられていることを心底頼もしく感じました。
もっとも、小生のオツムのメモリー機能の容量は極めて小さいものでして、先生方のご発言を正しく要約できているものか若干心許ないところもございますが、概ね大意はそのようなことでございました。皆様におかれましては、是非ともDVDを入手されてご確認いただければと願いあげる次第でございます。ただ、何れに致しましても、本建築の保存の問題は巨大な建物であるだけに莫大な修復・維持管理費を要することは必定でございましょう。「保存すべし」と口にするのは簡単ですが、それを所有者の千葉大学のみに押し付けることはできますまいし、国や地方公共団体が多くを負担することも今の財政状況では極めて難しいものと存じます。そのために求められることは、本建築が県市の財産であるとの、県民・市民及び県内の企業、各種団体の意識の醸成にこそあり、それに基づく一般市民や企業等々からの基金を募ったファンド資金を、修復や維持管理に当てる体制を構築することではありますまいか。そして、その前提として、その有効な利活用の在り方を模索することにあろうかと存じます。これだけの素晴らしい建築物を有効利用するアイデアは幾らでも湧き出て来ようかと存じますし、また条件に応じて寄付をされる方も多いものと存じます。また、少額の寄付を行ったファンド協力者の優先的な利用に供する体制の構築も必要でございましょう。勿論、小生も薄給の一部を献じることに吝かではございません。飽くまでも個人的な意見ではございますが、これほど千葉の歴史を刻印した(市民にとっては、戦災を生き延び、数多の被災者の生命を救った平和の象徴でもございます)、斯程に優れた中心街のランドマークとなっている建造物を、千葉はむざむざ破壊して地上から消失させてはならないと考えます。
本建築につきましては、閉鎖される直前に、「千葉市近現代を知る会」の代表を務める市原徹さんの肝煎で行われた小規模な館内見学会に参加をさせていただきました。ただ、引っ越しの最中であったためか、千葉大学の意向により旧院長室や小児科病室のデザインタイル等のある室内への立ち入りは一切許可されませんでしたから、通路・階段からのみの見学となりました。ただ、それだけでも本建築の威容には心底圧倒される思いでございました。しかし、本DVDの映像により本建物の価値はその折の印象を遥かに上回るものであることを確信いたしました。誠に有り難い記録を制作して頂いたものと、同窓会の皆様には感謝の気持ちで一杯でございます(ナレーターの一人に草刈正雄氏を起用されていることからも、その熱量の程が感じられます)。DVDには、4階から5階までの空間を利用して設営される「階段教室」の内部映像が収められていないのが残念でしたが、後でお聞きしたところ研究室が足りずに内部は解体されて遺構は残っていないとのことでした。もっとも、本丸はこの後の建物の保存修復とその活用方法の問題となりましょう。飽くまでも個人的な願いでございますが、良い方向で検討されることに心底の想いを捧げたいと存じます。
最後になりましたが、令和3年に本館で開催いたしました小企画展『陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-』に併せて執筆しました館長メッセージに、「千葉市の戦前・戦中を筆に残した小説家『原民喜』-作家の目に映った街・海・大学病院、そして『気球』-」がございます。記念碑の一つも存在しないので余り知られておりませんが、原民喜は昭和9年(1934)から昭和20年(1945)1月まで千葉市登戸に居住しておりました。その折、病に冒された奥様が入院した「千葉大学病院」(今に残る「旧千葉大学医学部本館」のことです)の姿を幾つもの作品に書き残しており、本稿ではその他諸々とともにそれを紹介しております。令和3年6月4日・5日にアップされたもので、本館ホームページにてお読みいただけます。原民喜は昭和19年(1944)に妻の他界に伴って、翌1月に千葉を引き払い、故郷の広島市中心街の実家に戻っております。そして、その7カ月後に原子爆弾による被爆に遭遇したのです。爆心地から1キロ強であったにもかかわらず、裕福であった実家が堅牢であったこともあって一命をとり止めます。そして、その前後の体験を書き記したのが名作小説『夏の花』となります。岩波文庫その他でお手軽にお読みになることができますのでどうぞ。この機会に、原民喜という不世出の作家の更なる復権につながってくれることも祈念したいところです。
観測史上「最高平均気温」が更新された酷暑の9月が終わって2週間を経過しようとしております。その昔より「秋の陽は釣瓶落とし」と申しますが、昨今では街の暮色が濃くなるのもめっきり早まりました。小生にとりましては、取りも直さず麦酒に代わって日本酒が恋しい時節の到来を告げることでもございます。「秋の夜長」にじっくりと月でも愛でながら、日本酒をしんみりと独酌……と洒落込みたいとようやく思える頃になったということです。慶賀の念に堪えません。冒頭に頼山陽(1781~1832年)の作の一部を引用いたしましたのも、そんな小生の思いの表れに他なりません。
本作は、文政7年(1824)の冬、生れ故郷である広島から帰京する途次に摂津国で詠んだ詩とされております。初句が六言で残りは七言で詠まれていることからも判明いたしますように、漢詩の定石から外れた戯作として詠まれた作であります。ひょっとしたら酒豪として夙に名高い山陽が酔った勢いでものした作品ではありますまいか。所謂「酒」の旨さを賞揚したものでございますが、如何なる酒でも佳いという訳ではなく、山陽お気に入りの銘酒「剣菱(詩中では剣稜と記されます)」を詠み込んでおります。「剣菱」は伊丹の地で永正2年(1505)に創業したことを謳っており、経営者は何度も入れ替わっているようですが、500年を越えた今も銘柄が酒屋に並ぶ老舗酒造でございます。小生が学生の頃には、仲間内で最高峰の日本酒と言えば「剣菱」というのが動かないところでございました。特に、その高級品である「黒松」の一升瓶を包む上質紙に、闊達な墨書体で印刷された頼山陽「摂州歌」に痺れました。今から思えばミーハー極まりない軽薄さに赤面するほど頻りでございますが、今でも「極上黒松」の化粧箱に記される本作を目にする度に当時の“憧憬の念”が甦ります。如何せん4千円近くいたしますので滅多に咽喉を下すことは叶いません。そのお味と申せば、昨今流行りの吟醸酒のような淡麗芳香を“売り”とするものとは異なる、ずっしりとしたもので、混然一体となった複雑な旨味を特色とする酒であると存じます。そもそも、日本酒の楽しみとは“二重発酵”故の、酒蔵毎、杜氏毎に生まれる微妙な味わいの多彩さにこそあり、このフルボディの味わいも小生は大いに好むこものでございます。
因みに、頼山陽の父の春水(1746~1816年)は広島藩儒で、松平定信(1759~1829年)による「寛政異学の禁」に一役買うこととなる生粋の朱子学者であり、幕府「昌平坂学問所」設立にも関わり、自身も本校での講義も行っております。しかし、子の山陽はそうした堅苦しい宮仕えを嫌って生家を出奔。菅茶山(1748~1827年)の下で「廉塾」の塾頭を勤め、最終的には何処の藩や塾に属することなく、フリーランスの文人として京で暮らしました(鴨川西岸に書斎として用いた「山紫水明処」が現存します)。根っからの“自由人”ということでございましょうか。さてさて、少々話が横道に外れすぎました。昨今のような季節の巡りでは瞬くうちに佳き頃は過ぎ去り、峻厳なる季節へと移ろいましょう。極々短い季節となってしまった麗しき秋を大切に味わなければ……と思うものでございます。まぁ、贅沢は申しますまい……普通のカップ酒でも構いません……。でも、可能であれば久しぶりに山陽所縁の「剣菱」“極上黒松”で一献傾けたいものと願うものでございます。何より「摂州歌」墨書の踊る化粧箱が極上の肴となりましょう。
さて、長丁場でご紹介して参りました杉本郁太郎氏の商業回顧談ですが、本稿を含め、残すところ3回となりました。今回から最終章となる「第Ⅲ章:百貨店奈良屋の歩み」に入ります。同章は全9節で構成されており、今回は「第一節:百貨店の生成・発展過程とその経営精神」、「第二節:百貨店の生成・発展過程に伴う経営の改善」という、二つの節の御紹介となります。今回からは、我らの良く知る「百貨店」としての奈良屋の内容になりますが、今回は百貨店としての黎明期における従来の呉服商経営からの訣別、七夕空襲による店舗の焼失と再建、そして戦後の急速な店舗の拡張、そして呉服店から百貨店に移行する切っ掛けを与えてくれた郁太郎氏のご実家のこと(進取の気風に溢れていた御実父や祖父の為人や思想的な背景)等々、実に興味深い話に接することができます。今回も郁太郎氏の巧みな話術に絡めとられ、あっという間に最後まで到達されることと推察いたします。皆様、今回も自由闊達なる“郁太郎ワールド”を充分に御堪能いただければと存じます。
Ⅲ 百貨店奈良屋の歩み
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今回は、ここまでとさせていただきます。皆様今回の内容は如何だったでしょうか。店内の食堂や医務室のことなど以前と重複した内容もございますが、株式会社化して従来の伝統的な近世的経営から訣別したこと、それを可能にした御実父や祖父の血脈を引き継ぐ郁太郎氏の清新の気質、そして戦争前後の経営の実態等々、興味深い証言のオンパレードであったと存じます。不定期連載の次回は、今回の第1・節に引き続く「第Ⅲ章:百貨店奈良屋の歩み」「第3節:戦前における千葉商業界の動向と戦時の経営」から、「第4節:経営規模の推移」(「第1項:資本金と配当の推移」・「第2項:売上高の推移」・「第3項:店員数の推移」)、「第5節:百貨店法と日本百貨店協会への加入」、「第6節:戦後における経営の革新と百貨店経営法の根本」までの内容となります。この資料紹介も残すところあと2回となります。今や入手不可能な、千葉における「奈良屋」の歩みを内部の経営者が語り下ろす貴重な記録をご紹介できることは、皆様のご興味に大いに資するものと信じて止みません。取り分け百貨店時代を語る「第Ⅲ章」につきましては、皆様お一人おひとりの千葉のおける成長の記憶と併せてお読みいただけるものと存じます。次回も是非お楽しみにされていてくださいませ。
過日、本稿で今夏に訪れた福島県の名湯「飯坂温泉」と名宿「なかむら屋旅館」について採り上げました。そしてその地を代表する共同浴場「鯖湖湯」という不思議な名前について触れさせていただきました。残念ながら、その後「蝦夷(えみし)」に関する書籍は2冊読了してその理解は深まったものの、その名称の由来については今以て解明できておりません。因みに、冒頭に引用をさせていただいた句は、明治26年(1893)7月から翌27年8月にかけての約1か月間、正岡子規が松尾芭蕉の足跡を訪ね、東北旅行を挙行した際の紀行文「はて知らずの記」に納められたものでございます。本書によれば、子規は盛夏の最中、福島から人力車で飯坂に向かい、同月25・26日に旅館に投宿(湯宿が何処であったかは明確ではないそうです)、翌27日に桑折に向かっております。子規は本句に先立って「帰路殆んど炎熱に堪へず。福島より人車を騙りて飯坂温泉に赴く。天稍々曇りて野風衣を吹く。涼極つて冷。肌膚粟を生ず。湯あみせんとて立ち出れば雨はらゝゝと降り出でたり。浴場は二箇所あり雑沓芋洗ふに異ならず」と記します。おそらく、この二箇所の浴場とは、かつて並ぶようにして建っていた「鯖湖湯(さばこゆ)」と「透達湯(とうたゆ)」のことと推察できましょう。
実のところ、子規の訪問から5年を遡る明治21年(1888)4月5日に、飯坂温泉は大火に見舞われ、歴史ある温泉地の中心である湯澤・湯町・十綱町一体の270戸が焼失。その際に由緒ある浴場である「鯖湖湯」と「透達湯」も共に焼失しているのです。その後、地元の名家である堀切家(前稿でも触れました)の主導の下、区画整理による町の造成が行われ新たな町場も造られるなど、大火後に温泉街として以前にも増した繁栄を迎えることとなるのです。勿論、「鯖湖湯」と「透達湯」も明治22年(1889)には再建が叶い、子規が浸かったであろう「鯖湖湯?」「透達湯?」「双方??」も、木の香床しき新築であったことになります。この建物こそが、日本最古の木造共同浴場建築物として知られていた建物でありましたが、老朽化に伴い解体され、平成4年(1992)年廃湯となり既に解体されていた「透達湯」跡地に、同5年以前の結構のままに新築されて移動。その結果、“最古の木造共同浴場建築”は消滅しました。旧地(とはいっても現在地から30mほどの至近でありますが)は、現在“足湯”のある公共スペースとなっていることは、前稿でも述べたとおりでございます。従って、今では国重要文化財に指定される明治27年(1894)建設「道後温泉本館」が国内最古のそれとなります。
余談ではございますが、解体された「透達湯」も明治22年建築の建物であったはずでありますが、何故か「鯖湖湯」とは異なり残された記録が極めて少ないのです。平成の初めに解体されたにもかかわらず、ネット等で検索しても写真ですら殆ど目にすることができません。旧「鯖湖湯」建物の一部に若干映り込んでいる写真はありますが、全貌はわかりません。絵画として描かれたものがありますが、その姿は「鯖湖湯」の建物とほぼ同形式の建物のように見えます。もっとも、旧「鯖湖湯」が妻入の形式であったのに対して、「透達湯」は平入の形式であったようで、その点において現在の「鯖湖湯」は「透達湯」様式を引き継いでいるとすら言えそうです。かつて入湯された方の数少ない証言によれば、「鯖湖湯」が有料であったのに対し「透達湯」は無料で利用できたこと、前者の湯温が高かったのに対して後者は温目であったこと、後者の方が湯舟が広かったこと、また前者が無色透明であったが後者は若干色味のある湯であったと見えます。また、「透達湯」の読み「とうたゆ」は「藤原秀郷(俵藤太)」伝説に由来することを帰宅後に知りました。しかも、この飯坂でも近江国三上山と同様の「百足退治」伝説であることに興味を惹かれます。日本武尊に彩られる「鯖湖湯」といい、俵藤太に由来する「透達湯」といい、飯坂温泉が歴史的伝説に色濃く紐付けられて存在することに驚かされます。それにしましても、それほどの共同浴場の一つが何故30年程前に消滅する羽目に陥ったのかも不思議と言えば不思議です。入湯料が無料であったのなら、地元の方々は「透達湯」を利用されることが多かったのではありますまいか。そもそも、湯質が異なっていたとは申せ、何故似たような共同温泉浴場が隣り合って並立していたのかも疑問であります。なんともモヤモヤ感で一杯となります。謎だらけの「透達湯」について、気にしていれば逗留の際にもっと聴き取りもできたのに……と後悔すること頻りであります。まぁ、山の神も飯坂の湯質を絶賛しておりましたし、もちろん温泉地としての魅力も抜群でありますので、是非とも再訪することを目指したいと存じます。個人的には、幻の「透達湯」の謎に少しでも迫りたいことが大きいのですが、そのことを言うと家内からは「じゃ、一人で行けば」と返されそうですから内緒にしておこうと思っております。
さて、前稿を本館HPにアップした後、外山総括主任研究員から、平成10年(1998)8月22日付『福島民友』(福嶋県の地元紙)記事のコピーを頂きました。当該記事は、標題にも掲げておりますように、最後の幕府奥医師であった松本良順(明治4年に良順から「順」に改名)と飯坂温泉との関係にかかわる内容でございました。そこには、明治22年(1899)に松本順が「鯖湖湯」の扁額を揮毫したことが書かれているではありませんか(正確には隣にあった「透達湯」の看板も揮毫しております)。2枚の扁額は現存しており福島市が別に保管していること、また、再建された現「鯖湖湯」に掲げられる扁額は複製であることもありました。扁額は過日の逗留の折に小生も眼にしておりますが、署名があったのですが、迂闊にも揮毫者の氏名まで確認しておりませんでした。自身の目の節穴振りに情けない思いでしたが、何より意外なる事実に「晴天の霹靂」でもございました。何故ならば、それを知った時に、松本良順(順)と飯坂温泉の接点が全く思い浮かばなかったからに他なりません。その時点で小生にとって松本良順(順)について知ることは極々僅かでありました。即ち、千葉県に所縁のある佐倉藩蘭方医として「佐倉順天堂」を開設した佐藤泰然実子で、幕府御典医松本家に養子に入った人物であること、徳川将軍最後の二代から信任を受け奥医師となり、「第二次長州征討」出陣中に大坂城で病みついた徳川家茂の最期を看取った人物であること、はたまた明治以降に「海水浴」の医療的効果を述べ「大磯海岸」が適地であると喧伝したこと……、それ位に過ぎません。従って、「飯坂温泉に松本順……何故!?」との思いが強かったのです。
勿論、その記事を拝読することで、その理由について合点がいくことになりましたが、改めて、千葉県とも関わりのある人物について自身が何も知りえていないことに忸怩たる思いとなりましたし、逆に松本良順(順)なる人物に俄然興味も湧いてまいりました。早速学ぼうとしましたが手頃な書籍が見当たりません。平凡社東洋文庫の一冊に『松本順自伝、長與專齋自伝』(1980年)がございますが、最初に手にする書籍とは申せますまい(結局は外山氏から借用致しました)。因みに、松本順自伝の正式名は『蘭疇自伝』といいます(長与專齋自伝の正式名称は『松香私志』)。そこで、手にしたのが、当該記事が書かれる契機となった、佐倉市教育委員会が義務教育児童生徒向けに作成された副読本“佐倉市郷土の先覚者”全25巻のうちの一巻、『松本順』(1999年3月)でございました(つまり「福島民友」は本冊冒頭が飯坂温泉と松本順との関係から説き起こしていることから記事とされたのでしょう)。因みに、本冊は佐倉市内義務教育学校・関係機関にのみに配付され、一般販売はなく増刷もされておらず現在は入手不能でございます。ただ、幸いに本館至近の千葉県立中央図書館に架蔵されており拝読することが叶いました。そして、飯坂温泉との関わりも含め、彼の生涯を簡潔に纏める得難き冊子であることを確認いたしました。更に、その歴史記述に専門家からも厚い信頼を寄せられる小説家吉村昭(1927~2006年)に、良順を主人公とする小説『暁の旅人』2005年(講談社)があることを知り、早速入手し一読に及びました。そして今更ながらに、吉村の小説家としての類稀なる力量と、主人公の為人に大いなる感銘を受けたのです。以下では、そうした書籍に導かれ松本良順(順)という不世出の人物の生涯を概略し、飯坂温泉との関係にも迫ろうと思いますが、それは別に、吉村作品の紹介とも重なろうかと存じます。
最初に小説などを題材にして人物紹介をすることに疑問を感じる方もございましょうから、一言申し添えておきたいと存じます。小生はこれまで吉村昭の熱心な読者ではございませんでしたが、数少ない読書経験からも知れる吉村作品の特色がございます。それは、決して面白くしようと想像を膨らませすぎることなく、可能な限り史実をもとにした実に禁欲的な筆致による創作をされてきた小説家であること、諸資史料を博捜され当日の天候までを可能な限り確認の上で場面設定に正確を期すなど、極めて自己批評精神の横溢する作家であることでございます。歴史を題材とした小説家に往々にして見られる「血湧き肉躍る」ような扇情的な作風は取られません。一見して地味にも思わされる作風からは、強さと弱さを兼ね持つ等身大の主人公の姿が浮かび上がります。その点で、執筆する対象に誠実に向き合う小説家でいらっしゃるとも申せましょう。そのためには、主人公が歩いて移動した道であれば、必ず自らも同じ道を辿って調査をされた上で執筆されるといいます(本作でも良順の逃避行の旧道筋を実際に確認されてから執筆に臨まれたと言います)。資料が存在しない場合には、例えば、脛に傷を抱えた主人公が故郷の駅に降り立つことはあり得ない……との確信に基づき、一つ前の駅から人目につかぬ夜間に歩んだだろうと想定し、実際に夜道を御自身の足で歩かれた体験をもとに記述をされるほどです。因みに、この話は外山氏が千葉県立佐倉高校に奉職されていた砌、同校での講演会に吉村氏を招聘された際、ご本人の口から語られた内容であるとうかがいました。小生の手にした講談社文庫版『暁の旅人』(2008年)「あとがき」を担当される文芸評論家の末國善己(1968年~)氏は、そこで以下のように述べていらっしゃいます。「歴史を題材にした小説は、時代小説と歴史小説に大別され」「一般的には、史実の隙間にフィクションを織り込むのは時代小説、史料に基いて歴史を語るのが歴史小説とされているが、もう一つ、歴史小説より史実を正確に表現する史伝というジャンルがある」と記され、明治期の森鴎外以来の史伝の流れを語った上で「徹底した資料収集と取材で歴史の“真実”に迫った吉村昭も、歴史小説家ではなく、史伝作家といえるだろう」と評していらっしゃいます。誠にしかり!流石だと思わされます。
ここで、ようやく松本良順(順)の話題へと移らせていただきましょう。良順(順)は、天保3年(1832)蘭方医である佐藤泰然(1804~1872年)の次男として江戸に生まれております。嘉永元年(1948)、佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父の元へ赴き、その助手を務めることになります。そして、翌同2年、父の無二の親友であった幕府御典医である松本良甫(1806~1877年)の養子に入り江戸に戻ることになりました。そして、安政4年(1857)26歳の時、幕府から長崎に派遣され、本国から軍医として幕府に招かれていたオランダ人ヨハネス・ポンぺ(1829~1908年)に直接指導を受けます。そして、幕府からの経済的支援と長崎奉行からの深い理解の下、通常許されることのない罪人の腑分けの実現に果敢に取り組んで実現させるなど、良順は数多い門弟内でポンペからの厚い信頼を受けることになります。そして、ポンぺと力を併せ長崎に日本で初めての西洋式病院である「養生所」「医学所」の開設を果たしました。ポンぺは、午前は「養生所」で外来患者と入院患者の診療活動に、午後は「医学所」にて蘭方医を学ぶために長崎に集った日本人の育成に当たるなど、精力的に活動し良順もその片腕となって活躍するのでした。その地に全国から学びにやってきて良順と交友関係を結んだ人の名を挙げれば、明治以降に医学だけに留まらず各界で活躍するお歴々が勢揃いすると言っても過言ではないほどであります。長崎時代のポンペと良順の活躍、そして多くの交友の詳細につきましては、是非とも吉村昭『暁の旅人』に当たっていただければと存じます。必ずや、若き日の希望に満ちた医家たちの肖像に心打たれるものと存じます。因みに、長崎で良順(順)の門弟となった医家の一人に南部精一(1834~1911年)なる人物がいたことを、記憶の片隅に留めておいてくださいませ。本稿にとって重要な人物となりますから。
さて、文久3年(1863)に江戸に呼び戻された良順は、幕府御典医として隠然たる影響力を有していた漢方医や、同じ蘭方医として幕府奥医師まで昇りつめ権勢を誇っていた伊東玄朴らからの様々な妨害をうけながらも、それに屈することなく、幕府内における自身の学んだ医術の優位性を浸透させることを通じて幕府重役達からも信頼を勝ち取り、「奥医師」の地位得ることになりました。同時に「医学書頭取」(東京大学医学部の前身)をも兼ねることにもなるのです。つまり、医療活動は勿論のこと医学教授を通じた人材の育成という、双方の重責を担う立場に抜擢されたことになります。ここに、幕府における医術の方向性は名実ともに良順の牽引の下で蘭方医重視の方向へ舵を切ることとなっていくこととなりました。その結果、幕末混乱を極めた京の政情を切り盛りする過程で神経衰弱になっていた「将軍後見職」徳川慶喜の治療にも当たり、これまで殆ど好転しなかった症状を快方に導くとともに、第二次長州征伐の際に上洛して大坂城に陣取った将軍徳川家茂の体調が悪化した際も、良順が呼ばれ直接治療に当たることにもなるなど絶大な信頼を勝ち取ることとなりました。
特に良順に厚い信頼を寄せたのが第14代将軍徳川家茂であり、片時も離れず傍らに侍ることを命じられる存在にまでになります。必死の治療も叶わず家茂が大坂城にて若干21歳で薨去した瞬間に、その最期を看取ったのも良順でした。晩年にその際のことを自伝で回想しておりますから以下に引用をさせていただきます。流石に表向きの歴史書の類には出てこない内容だと思いますので、是非ともお読みいただければと存じます。彼がどれだけ家茂から信頼されていたかが御理解いただけましょう。本自伝は、松本順が鬼籍に入る5年前の明治35年(1902)に未定稿のまま配付されたとされますので、凡そ40年を遡る出来事の記憶となります。従って、正確性に疑問を持つ方もおられるようですが、これだけの直接体験を本人が忘れることも潤色することもございますまい。紛れもない事実かと存じます。小生は、征夷大将軍からのかほどの心遣いを受け、将軍と同じ布団に同衾して休息せよと命じられた、奥医師松本良順という奇跡の人物像の一端をここに垣間見て感銘を受けました。また、幕末に過ごした上方で、良順は新選組の局長近藤勇・副長土方歳三とも親しく厚誼を重ねており互いに信頼関係を結んでおります。そして、尊攘派との斬りあいで傷ついた隊士の治療にもあたっております。彼らとは、この後の戊辰戦争の最中にも交流しており彼らの動向にも何かと注意を払っております。この新撰組との関係性の詳細につきましても吉村昭の小説に当たっていただければと存じます。因みに、京で新選組を直接的に支配する立場にあった会津藩との関係性から、「京都守護職」に任じられて上京していた藩主松平容保に同行していた会津藩医の南部精一と再び京で見え、その居宅に投宿させてもらい旧交を温めあうことになるのです(南部は洛中の木屋町に一時の居をもとめ医業も営んでいたと言います)。南部精一の登場は二度目となります。しつこいようですが、その名を失念無きようお願いする次第でございます。
予は将軍家茂公に仕え、恩遇を蒙り、最も心を尽くしければ、そのことおのずから内殿に伝わり聞こえ、ことに天璋院殿(将軍の養母君なり)大いに世を信ぜられたり。公の病辱に就かるるや、医師一人ずつ近侍するを常とし、各二時間ごとに交代す。然るにその薨ぜらるる三週日前より、他は交代するも予はこれを許されず。因って慎んで請うて曰く、臣今日に至り尊体の側に侍すること三週日に及べり、昼夜眠らず。ために神思恍惚、眼目もまた明を欠くが如し。願わくは一、二時間の休息を賜え、と。公指を屈せられて曰く、すでに三週に達せり。汝は常に睡眠を好み、平生無事の日には座眠するを常とすと聞く。然るに眠らざること二十余日に至れるは、真に憐れむべし。然れども吾汝を放つことを欲せず、汝ただ我が蓐中に入りて共に寝よ、と。恩命の重き、辞することあたわず、仮にその命に従うも、何ぞ眠ることを得んや。しばらく睡眠の状をなして、ひそかに蓐を出でければ、公大いに喜ばれたり。君上と同衾するの苦は、百日眠らざるより苦しかりし。これより二、三日を経てついに薨ぜられたり。その薨去の際も側に侍し、左手に脈を候し、右手に心動を案ず。事すでに終わるや、遠く列座の人々に目示して退きたり。これ順が終天無窮の恨事にして、公に尽くせし最後の事なりし。 [小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝、長與專齋自伝』1980年(平凡社東洋文庫386)] |
その後、幕末の政局は風雲急を告げ、「大政奉還」、「王政復古の大号令」、そして「戊辰戦争」へと移っていくことになります。「鳥羽伏見の戦い」で幕府軍を圧倒した所謂「新政府軍」は、錦旗をかざし乍ら大軍を率いて東海道を下ることになります。只管恭順する徳川慶喜に対して、薩長のやり方に承服しがたき思いを抱く幕府恩顧の勢力は、京都守護職でもあった会津藩主松平容保を中核にした「奥羽越列藩同盟」を旗印に、徹底抗戦の構えを見せます。このような動向の中で、江戸に戻った良順は、自らの身の処し方を思案することになります。吉村は良順の心情を以下のように描き出します。
自分は幕府なくしてはあり得ない身である、と思った。漢方医の迫害をうけることの多い時分に、終始援助の手をさしのべてくれた幕府の高官たち。それによって長崎伝習生の名目でオランダ医師ポンぺについて西欧の最新医術をみにつけることができた。その五年間にわたる長崎遊学の間、幕府は費用のすべてをあたえてくれた。 [吉村 昭『暁の旅人』2008年(講談社文庫)より] |
そう決断した良順は、北へ向かうことを密かに門人たちに伝えると、5人が同行したいと申し出ました。そして良順は妻女にそのことを告げ、密かに房州の佐倉に向かい、そこから会津への道を選ぶことを決し、江戸の地を後にしたのでした。何故佐倉かと申せば、そこに実父である佐藤泰然所縁の佐倉順天堂が存在するからに他なりませんでした。既に父はその地を去っているものの、養子として実家を継いでいた佐藤尚中(1827~1882年)が病院を守っていたのです。行徳までは舟で移動し、そこから陸路佐倉を目指してひたすら成田街道を辿りました。そして、佐倉城下に入る手前で、良順は思わぬ人物と偶然に再会することになります。それが3度目の登場となる会津藩医の南部精一であったのです。二人は正に奇跡のような再会を喜び合ったのでした。南部によれば、容保は既に会津に入り徹底抗戦の準備の最中にあるが、自身は江戸会津藩邸で負傷者の治療に当たっていたため、これから会津に向かうところであると良順に告げました。南部は何故斯様な迂遠な経路を辿ろうとしたのでしょうか。按ずるに、それには既に主要街道には新政府軍の手が回っている可能性が高く迂回路を選択する必要があったこと、加えて少々ロマンチックな想像が過ぎるかもしれませんが、最後に佐藤泰然の下で学んだ青春の日々の象徴である「佐倉順天堂」を眼に焼き付けておくための房総路の選択ではなかったかと想像するものであります。逆に、南部から行き先を問われた良順は、佐倉順天堂で準備を整えてから会津に赴き医療の面で力になる考えだと告げ、何という幸福かと南部を狂喜させたのでした。因みに、何時までも焦らしていると嫌われますので、前編の最後にこれだけは種明かしをしておきたいと存じます。是から20年以上も後のことになりますが、この南部精一こそが良順と飯坂温泉とを結びつけた人物に他なりません。
(後編に続く)
佐倉順天堂で、医療器具や薬品の整理をして荷造りを終えた一行は、腰を落ち着ける間もなく、三日後には南部を先導に佐倉城下を後にして会津へ向かいました。それには、新政府軍の奥州方面への進行が思いのほかに早く、一刻の猶予もならないとの判断があったからです。実際に既に主要街道での移動は難しく、一行は常に周囲に警戒を払いながら、譜代井上家一万石の高岡藩領にある源太河岸から利根川を船で下って銚子に至り、更に銚子から平潟(茨城県)に向かう船に乗り換えております。無事に到着した平潟からは、山間部の間道を選んで北に向かい白河に出ましたが、既に新政府軍の先鋒が白河近くに接近していることを知ります。町の者に会津へ向かう間道を教えてもらい、地元の地理に明るい南部の先導もあって、ようやく会津藩の守る勢至堂の宿場に到着することができたのでした。その後、良順一向が会津城下に入ったことは、南部を通じて忽ち若松城内に伝わります。日本屈指の医家が来会したことに、藩士の多くが勢い立ったと言います。藩主松平容保も早々に彼らを城内に招き、眼を潤ませながら満面に喜びを湛えて感謝の意を伝えました。そして、会津藩校「日新館」を治療所に当てることに決しますが、その開所の翌日から戸板や大八車に乗せられた戦傷者が日新館に数多運ばれるようになり、日を追ってその数は増すばかりとなります。日新館病院長南部精一の下、実質的に良順と門弟たちを中核とする医家たちは、日夜寸暇を惜しんで獅子奮迅の治療にあたります。しかし、戦傷者の多くは誤った初期対応が原因となり返って状況の悪化をもたらし、日新館に運ばれた時には既に手遅れであることが多く、良順たちには苛立ちが募っていくのです。そこで、良順は容保に直談判し早急な対応を求めました。それが、藩領内の村医師達を呼び集め、初期の応急手当の手法を講義することでした。それさえ可能となれば、後は日新館で我々が責任をもって戦傷者の生命を救うと……。勿論、容保は良順の要請を受け、すぐさまにそれを実現させております。その後も、良順から銃創・刀槍創の治療について教えを乞う近隣諸藩の医師や町医者が引きも切らずに来会。日新館での治療を門人達に任せ、自らは彼らに懇切丁寧に教授することに追われます。また、負傷者の数は日増しになっていくのに対し、栄養価の高い食糧が足りず、戦傷者の回復が思わしくないことから、良順は牛を入手し、肉食を忌避する収容者にその正体を偽って食させもしております。しかし、戦局は益々不利に傾き、肝心の医療器具・薬品も払底していくことになります。
このような時、藩主容保からの急使が日新館を訪れ良順に面会を求め、藩主からの口上を告げたのです。容保のそれには概ね以下のような内容がございました。つまり、良順達が会津藩のために尽力してくれたことに言い尽くせぬほどに感謝しているとし、事ここに至り成すべき手立てもない事態に陥っていること、我々は武士として奮戦して死すことも望むところであること、しかし、医師という存在は医の道に仕える身であり長く生きながらえ、病んだ者や傷ついた者を救う使命を追っていること。従って、戦乱で生命を危うくさせることは忍びないこと……等々であります。そして、吉村は、使者が最後に威儀を正して伝えた容保からの言葉をこう記します。「願わくは、意のままに他の地に避難されることを。懇篤なる御指導、御教授によって傷の手当てもやりとげられましょう。なにとぞ後事を気遣われることなく、避難なさっていただきたい」と。良順は、容保が立派な殿様であることか感動しつつ、決して自身の意に沿った下命ではないが、ここは容保の意向に素直に従うべきだと判断するのです。
その時、城に戻る使者と入れ替えに訪問してきたのが、会津藩に加勢するために庄内藩から派遣されていた本間友之助ら庄内藩士達でありました。本間は、会津藩からの口上を確認した上、良順一向に是非とも庄内に来て頂けないか強い口調で懇願したのでした。勿論、会津から庄内までの道案内は自分たちが先導するとも。庄内藩酒井家は、徳川四天王の一人で現在の大河ドラマで大森南朋演じる酒井忠次直系の後裔であり、取り分け佐幕意識の高い家でありました。実際、戊辰戦争では会津藩同様に最後まで徹底的に新政府に抗戦し続けた気骨ある藩でした。会津から避難すると言っても、良順一行には特段の宛所などなかったところでしたから、これは願ったり叶ったりの提案でした。行先が庄内藩酒井家であれば何の迷いもありませんでしたから、その要請をすぐさまに受諾しました。そして敵兵の眼を眩ましながら慌ただしく会津城下を抜けだし、庄内は鶴岡の地へと一路向かうことになるのです。会津盆地の塩川村から道を北にとり、秋色の濃い榧峠を越え、上杉家の家臣が守備する米澤藩領の綱木に到着。翌日には米沢城下に入りましたが、ここで一悶着が出来します。それは藩主上杉茂憲からの使者が宿所を訪れ、「是非とも米澤藩に留まって蘭学と医学とを伝授して欲しい」との口上を伝えたからです。しかし、新政府軍に積極的に抗おうとすることなく、様子見を決め込んでいるようにしか見えない米澤藩に力を貸す気持ちは、良順には一切ありませんでした。庄内藩に行くことを決めていると断固拒否しますが、兵を動かしても良順一行を米澤に止めると、一触即発の様相を呈します。その時、同行していた門人二人が機転を利かせ、先生と別れることは辛いことだが、自分たちが米澤に残ることで解決するのなら……と進言し、その場を納めることになりました。
翌朝、残る三人の門人とともに米澤城下を急ぎ出立し、道を北へと辿ります。その日も雨でありましたが、この後の道中は雨続きとなり衣服が乾く間もなく歩き続けたことで身体を冷やすこととなります。赤湯で休憩し上山で泊まり、翌日は脇街道に道をとり寒河江を経て本道寺での宿坊泊。翌日も雨をやり過ごそうと宿坊での連泊としましたが次日も雨天。時を無駄にはできず横殴りの雨の中を出立。そこからは「六十里越街道」の道中は湯殿山への登り道となり、夕刻に田麦俣に到着し宿をとっております。幸いに翌日は雨も止み八ツ(午後二時)頃にようやく酒井家14万石の鶴岡城下に達しております[時の藩主は酒井忠篤(ただずみ)でありました]。庄内藩のもてなしは至れり尽くせりでした。自伝にもあるように、門人共々会津の地獄から極楽に来たようだと笑いあっております。しかし、夏に江戸を発ったままの衣服で連日の雨に打たれて冷え切った身体での逃避行は、確実に良順の身体を蝕み、筋肉と関節に痛みが発し日を追って激しさを増していったのです。所謂リューマチの炎症が発し、動くことも儘ならなくなったのでした。本間からは温泉での療養を勧められます。リューマチには温泉療法が効果的と知っていた良順はそれに従います。このことは既に指摘されている方もいらっしゃいますし、細かなことで申し訳ございませんが、吉村はその地を「湯田川」と記しておられます。綿密な取材に定評のある吉村のことですから何らかの根拠があるのかも知れませんが、『松本順自伝』には「本間氏に誘われて海岸に至りて、温泉に浴すること二週日余り」とあります。良順は具体的な温泉名を記してはおりませんが、庄内で海岸にある古湯と言えば「湯野浜」が相当致します。おそらくはその誤りではありますまいか。小生は藤沢周平を偏愛し、世に出た作品の恐らく全てを読んでいると自負するものであります。湯田川は藤沢にとっても所縁の地であり、個人的には藤沢が小学校教師であった時分の教え子であった女将さん経営になる、湯宿「九兵衛旅館」でお世話になったこともございます。しかし、湯田川は海辺にはなく相当に内陸部に立地する温泉地であります。
温泉療法によって快方に向かった良順でしたが、会津藩に派遣されて負傷した庄内藩士が戻ってくるにつけ、嫌がおうにも会津の悲惨な情勢が耳に入ってきます。そして、会津を平らげた後には、過たずこの庄内藩が次なる餌食となり、その圧倒的な兵力で圧し掛かってくるのは疑いなきことであり、それを思うと良順は暗澹たる思いに駆られるのでした。そのような時に、良順は庄内藩士の本間から、仙台からの急飛脚によって届いた良順宛書状2通を受け取ります。内一通は老中職にあった備中松山城主板倉勝静より、もう一通は幕府海軍副総裁の榎本武揚からのものでした。それによれば、薩長勢力に徹底抗戦するために、幕府海軍軍艦8隻を擁して江戸から蝦夷地に向かっており、現在は仙台至近にある松島湾に停泊していることを伝え、同時に緊急の会議を行いたいので至急こちらに来られたいとの要請ともなっていたのです。本間に文面を見せたところ、これだけの方々からの要請を断ることはできなかろう、直ぐに仙台に向っていただきたいとの決定が下されます。良順は未だ脚の不具合が残ることから、庄内藩では肩輿を用意し歩くことなく仙台に届けることとし、庄内藩への義理を果たすために門人3名は庄内に預けおき、翌日に付き添いとともに単身鶴岡を発つことになったのです。
仙台に到着した良順は「奥羽越列藩同盟」が擁している輪王寺宮に拝謁した後、松島湾に碇泊する軍艦に乗船する榎本と面会しております。その要件とは、案の定、蝦夷地での戦いには良順の先進的な医術が不可欠であり、是非とも同行を願いたいとの要請でありました。しかし、良順は、会津での戦いに従事して得た感触から、最早新政府優勢は覆うべくもなく、遅かれ早かれ旧幕府軍もそれに飲み込まれることは確実であると確信できること、これ以上徒に死者を増やし続けることが果たして我が国の将来に益することになるのか、良順自身にしたところで蝦夷地に出かければ恐らく待っているのは死であり、松平容保からも言われたように人命を救う知見を将来に活かすことが叶わなくなるであろうこと、しかし、一方で旧幕臣として蝦夷で戦い潔く散るのが務めだとも考え、その心は激しく揺れ動くのでした。そのような心情で宿所に戻った良順に、思いもかけず旧知の人物が訪れます。新選組副長であった土方歳三でありました。土方は、近藤勇が既にこの世の人ではないことを告げ、榎本からの要請を受けるかどうかを良順に問うのでした。「まだ思い決しかねております」と答える良順に、土方は思いもかけないことを語りかけるのでした。吉村は土方にこう言わせております。「先生は前途有為なお方です。蝦夷などにはいかず、この地から江戸におもどりになられるべきです。戦乱にまきこまれ、命を失うようなことがあってはなりません。江戸にお帰りください」「私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり奮戦し、国のために殉じるべきだと思っております。それがわれらの定めなのです」と。吉村は、土方の言葉によって良順は眼の前に立ち込めていた霧が一時に晴れる思いとなったと記し、江戸へも戻る決意を固めたとしております。自伝にもこの時に土方から江戸に戻ることを諭されたことが書かれますが、その文句までが記録されているわけではございません。勿論、自伝ですから自らの行動に辻褄を合わせる目的がないとは申せませんでしょうが、如何にも土方らしい物言いであり、良順らしき決断だと思わされます。そして、横浜に戻るプロイセンの人スネル(弟のエドワルドだと思われます)の船「バルカン号」が塩釜に停泊しているから同船させてもらうように……と、土方から助言されております。スネル兄弟は旧幕府側勢力に武器を供給することで莫大な利益を得ていた政商でした。秘密裡に塩釜に移った良順はスネルの同意を取り付け、その脚で奥州を離れ横浜に戻ったのでした。仙台とその周辺を舞台とする場面は本小説の山場の一つでもございますが、それぞれ断腸の思いを伴う万感の想いと、その場が後の人生の岐路となることを知る者として、切ないほどの心持となるのです。
横浜に戻った良順はスネルの商館に潜伏しますが、結果として新政府官憲に捕縛され拘束されることとなります。ただ、尋問後も牢に監禁されるようなことはなく、最終的には本郷にある加賀藩江戸藩邸(現在の東京大学の地)内に新たに増築された座敷牢に移されます。しかし、罪人とは名ばかりの丁重な扱いを受けております。前田家の家臣も良順を“先生”と呼び、様々な書物も提供されて読書に耽ることすら許されていたといいます。良順は、鶴ヶ城落城後の松平容保の身の上を案じておりましたが、これも「死一等ヲ減ズ」との沙汰が下ったことを伝えられ深い安堵を覚えております。そして、明治2年(1869)6月榎本武揚率いられ函館五稜郭で新政府軍に交戦していた旧幕府軍が降伏したこともここで知ることになりました。良順への沙汰は、同年12月に加賀藩邸に役人が訪れて伝えられることになりました。それは「特典を以て死を免じ、徳川亀之助邸にて謹慎を命ずる」とのものであり、当日静岡藩邸に送られております。そして、晴れて謹慎を解かれて自由の身になったのが翌明治3年(1870)のことです。その後、スネルを始めとする旧交深き人々からの寄付の数々を受けるなどして、東京郊外の早稲田の地に予てからの念願であった私設の西洋式病院「蘭疇院」を設立、新たなる明治の世で一人の医家としての道を歩もうと決意を新たにするのでした。吉村の小説では良順が如何に多くの人々から厚い信頼を受けていたのかを知ることができます。これも、常に自己の正しいと思う信念を貫きながらも、相手を人として尊重してきた良順の人生哲学の成せる業かと感じさせられます。
しかし、時代は彼を町の一介の医家として放っておくことはありませんでした。明治4年(1981)の春、一人の男が蘭疇院を訪ね良順への面会を求めたのです。渡された名刺には「山県狂介(後の有朋)」とあり、元長州藩士で今は新政府で兵部少輔の要職にある人物でした。病院を見せて欲しいと請う山県を良順は案内し、病棟・薬局・厨房・浴室・厠まで見せて回りました。山県は、良順の洋式病院施設の設備が完璧に整えられ、素晴らしく清潔であることに感銘を受けたと語り、続けて兵部省に衛生部(軍医部)がないこと、その理由は主宰するに相応しい医家が兵部省に存在しないからであり、自分が全面的に支援するので是非とも良順に力を貸してほしいと懇願をされることになりました。しかし、良順には幕府を瓦解に追い込み、死ななくてもよかった有為なる旧友を死に追いやった新政府に仕える気は微塵もありませんでした。以下に、吉村の小説から山県と良順の言葉の遣り取りを引用させていただきましょう。個人的には良順の心意気に打たれますし、何よりもその想いを汲み取ってものされた吉村の文章に打たれます。山県も、準備が整うまでは役所への出勤をする必要はないこと、用があれば山県の自宅に来ていただければよいとの条件を出しました。
ただ、急いで付加しておきますが、良順はただ闇雲に旧幕府の存在に囚われていた人物ではありませんでした。同時に、場当たり的で徹底的に危機管理の欠如している幕府首脳部の無能振りに対しては徹底的に罵倒を交えて批判をしております。そのことと幕府という組織への恩義とは分けて考えることのできる合理的思考を有する人物であったということです。実は、江戸を離れて会津へ向かう前、実父泰然に自身の去就について相談した際、父が良順に与えた助言もまた殆ど同趣旨の内容でした。その点で、この後の良順の人生を見ていくと、その人生スタイルは全くぶれていないことが見てとれます。明治政府に仕えることも決して「寄らば大樹の陰」的な思考は微塵もなく、納得できる大義に従っただけなのです。従って、彼らに誤りがあれば痛罵することも、維新後間もない時期であろうと旧幕府の人間を堂々と追悼することも厭わないのです。正に斯く在りたいと思える人物だと存じます。
「今は人それぞれに国家のためにつくす時であり、そのような御謙遜は無用です。ひたすら国家のことを最優先に考えるべきで、それとも、なにか朝廷に恨みをお持ちですか」(山形) 「この国で、だれ一人として天子様を敵視する者などおりませぬ。私は、幕府の医官であった身として、これまで徳川家に殉ずる思いで行動してきたのです。幕府の恩顧をこうむった譜代大名や諸大名が、情勢不利と判断して幕府を崩壊させるため兵を動かしたことを、少しも恥じていないのを蔑(さげす)んでいるのです。そうしたことから、明治政府に仕える気持ちにはなれないのです」(良順)
[吉村 昭『暁の旅人』2008年(講談社文庫)より] |
良順は、そう回答しながらも、山県の熱意と良順への畏敬の思いをひしひしと感じて心が揺れ動くのです。同時に、これまでの戦争で傷ついた膨大な負傷者の治療に当たってきた折のことが頻りと甦るのでした。そして、多くの生死に見えてきた者として、自分の生きてきた意味は戦傷者の治療にこそあるのではないかとの思いに至るのでした。良順は熟考の末に山県の目を見据えて「お引き受けしましょう」と思い切って伝えました。山県は「来た甲斐がありました」と頭を下げたと吉村は記しております。すぐさまに良順に辞令が下り、同年から兵部省に出仕。軍医部制度を構築するとともに、私設の「蘭疇院」を公立「陸海軍病院」に改めました。そして、新たなる人生のスタートに当たって、これまでの幕府医官であった時代の「良順」という名から訣別し、新たに生きていくための名「順」に改名したのです。そして、同6年(1873)に大日本帝国陸軍初代軍医総監となります。その後も陸軍の医療制度の改革に務め、軍馬治療の仕組みも整えていくことになります。一方で、温泉浴や海水浴の医療的効能を唱え、特に明治18年(1885)に大磯に国内初の海水浴場を開設することを働きかけるなど、医療・衛生の増進に向けて情熱をもって残された人生を歩んでいくことになります。一方、本小説でとりあげられてはおりませんが、新政府にも唯々諾々と従うことはなく、正しいと信ずる主張を曲げることはありませんでした。そのため、謹慎処分を受けることも数度に及びます。また、明治9年(1876)には、元新撰組元隊士の永倉新八が発起人となった「近藤勇と隊士供養塔」の建立に全面的に協力するなど(国内初の新撰組の顕彰活動!!)、その反骨精神は決して衰えることはありませんでした。他方、私生活では、尊崇する実父佐藤泰然、養父松本良甫、愛する妻に相次いで先立たれただけではなく、最愛の子息2人を病と事故で失うこととなるなど、その晩年は悲哀に満ちてもおりました。吉村は、そうした順の姿からも目をそらすことなく、良順(順)を一人の等身大の人として描いております。その点にも吉村小説の醍醐味を感じます。順の最晩年の活動は本小説では余り採り上げられておりませんが、明治40年(1907)3月12日に息を引き取り、別荘のあった大磯の地に葬られました。享年76歳でございました。
最後に、吉村昭『暁の旅人』から離れ、前編冒頭で述べました飯坂温泉と松本良順(順)との関係に戻りたいと存じます。その縁が良順と親交深い、南部精一という人物に由来することは前編末尾で触れた通りであります。これまでの内容と重なる部分もございますが、良順(順)との関係を南部の視点から纏めてみましょう。南部精一(1834~1911年)は、安政3年(1856)に佐倉順天堂の佐藤泰然の門下生となりました。つまり良順にとっては弟弟子にあたるのです(時間的に順天堂で机を並べたことはないようです)。南部は佐倉で4年間の勉学に励んだ後、万延元年(1860)会津藩からの選出を受け長崎に留学し、彼の地の医学伝習所でポンペから蘭方医学を学んでもおります。つまり、長崎で南部は良順門弟として4年の間ともに蘭方医術を学ぶ身となったのです。その後(1864)南部は会津藩に戻って藩医として勤めておりましたが、文久4年藩主容保が京都守護職となり上京する際に同行することになります。京では藩医として勤める傍ら、京都木屋町で開業もしていたと言います。そこに、将軍家に同行して上京することとなった良順が、洛中木屋町にあった南部の居宅に寄宿することとなり、会津藩医であった南部と伴に新撰組隊士の治療に当たるなどを通じて、更に親交を深めることとなるのでした。そして、「鳥羽伏見の戦い」の後、江戸に戻った良順が会津へ向かう途次に佐倉城下で南部に偶然再会し、連れだって会津へ向かったことも先に述べた通りでございます。会津での新政府との激戦を、南部は会津日新館病院長として良順らと伴に戦傷者の治療に邁進。藩主容保の命により良順一行が会津を去り庄内へ向かった後も、塩川村野戦病院長として転戦し、会津藩降伏にいたるまで献身的に藩士の治療にあたったのです。明治以降の経歴には明確でない点も多いようですが、外山氏のご教示に拠れば、会津藩を離れた後に官軍の黒田清隆の知遇を受け、北海道開拓御用係、県立松山病院長、盛岡県立病院長、静岡城東病院長を歴任しているとのことであります。そして、この南部精一の生地こそが“飯坂”の地に他ならなかったのです。その故郷である飯坂温泉が、明治21年(1888)4月5日に大火に見舞われ壊滅的な被害を受けたことを知った南部は、病院長の要職を辞して帰郷し飯坂温泉復興に奔走するのです。南部の志に感銘を受けた松本順は、温泉地の象徴とも言うべき「鯖湖湯」「透達湯」の再建にも協力を惜しまず、再建された各建物の扁額に揮毫して激励したのです。それが現存する松本順筆になる扁額でございます。残念ながら「透達湯」は平成4年(1992)に廃湯となりましたが、平成5年(1993)に「透達湯」跡に再建された「鯖湖湯」に、現在も松本潤の筆になる“複製扁額”が正面を飾っております。かつて伴に学び戦った友への心尽くしでありましょう。「新選組供養碑」の建立もしかり、良順(順)とは涙が零れ落ちるほどに心底“情熱き御仁”であり、“美しき人生を送った人物”であると存じます。南部精一は、その後は飯坂に腰を落ち着け、飯坂町滝ノ町に「南部病院」を開設し地域医療に力を注ぎ、住民から“名医”として尊崇を受けたと言います。明治28年(1895)頃に出版された飯坂温泉の鳥観図「飯坂真図」にも関わるなど、南部は医療に留まることなく地域振興にも務めたのです(図中には「南部病院」の姿も描き込まれております)。
最期になりますが、吉村昭には幕末から明治にかけて活動した12人の医家を描いた短編集があり、その名を『日本医家伝』といいます[昭和46年(1971)刊行]。大変に世話になった編集者の求めに応じて執筆したものの、本人にとっては大変な難産の小説集であり、何度途中で放棄しようと思ったことか……と回顧されております。そこで採り上げられた医家の名のみをざっと紹介致しますと、山脇東洋・前野良沢・伊東玄朴・土生玄碩・稲本いね・中川五郎治・笠原良策・松本良順・相良知安・萩野ぎん・高木兼寛・秦佐八郎となります。しかし、その呻吟の末の小さな作品群を、吉村は後に長編小説へと昇華していくことになります。笠原良策は『めっちゃ医家伝』(1971年)[後『雪の花』改題]へ、前野良沢は『冬の鷹』(1974年)へ、中川五郎治は『北天の星』(1975年)へ、稲本いねは『ふぉん・しいほるとの娘』(1978年)へ、高木兼寛は『白い航跡』(1991年)へ、そして今回御紹介した松本良順(順)は『暁の旅人』(2005年)へと、それぞれの世界を広げておられます。その意味でも、その出発点となった『日本医家伝』の執筆は、吉村にとっても運命的なものであったことでしょうし、『日本医家伝』で短編として採り上げた松本良順(順)という奇跡の人の歩みを『暁の旅人』という作品に磨き上げてくれたこと、及びその素晴らしい作品にこの年齢で出会って大きな感動を頂いたことに、今は亡き吉村昭という不世出の作家に心底の感謝を捧げたいと存じております。吉村は、更に『日本医家伝』で採り上げていない医家を主人公にした長編小説も物されるなど、所謂“吉村昭の医家物”ともいうべき一大ジャンルを築きあげてもおられます。優れた作家だと多くの読書家の友人から薦められてはいたのですが、これまでその作品群を敬して遠ざけて来たことを後悔しております、しかし、人生の晩節に至って、これから沢山の作品と出会える喜びが待っているのです。何という幸福でございましょう。今からワクワク感を抑える事ができないほどでございます。
令和5年10月ももうじき終わりを告げようとしております。このひと月を振り返ると、9月までの酷暑の影響でしょうか、自然界でも例年とは異なる状況が幾つか出来していたように思います。一つ目は、例年9月の彼岸前後に花をつける曼殊沙華(彼岸花)が例年より開花が遅れたことでございます。概ね一週間程度は遅れのではありますまいか。我が家の場合、2年前に植え付けた彼岸花は、一週間を過ぎても待てど暮らせど花芽を出さず、結局咲かず仕舞いに終わりました。この曼殊沙華、流石に植え付け一昨年は葉のみで終わりましたが、昨年は美しい花を咲かせてくれたのです。きっと、余りの酷暑続きで球根がやられてしまったのだろうと思うしかありません。本当にガッカリと気落ちしておりました。ところが、10月半ばになってふと見ると青々とした葉が出ているではありませんか。球根は死太く生き残っていたのです。植物の強靭なる生命力に感銘をいただいた次第でございます。来年は是非再会を期待したいものであります。
二つ目は、遅くとも例年9月末には街々に芳香を漂わせる金木犀でございます。我が家にはございませんが、近所の庭には数本の金木犀を数えます。何よりも、毎年9月後半になれば今年は街にあの芳香が漂うのは何時の事だろうと待ち遠しい想いともなります。ところが、月を越えても一向に薫り立つ気配がございません。どうしたのだろうかと心配になった10月13日(金)、貴宅するため本館から外へ出た途端に、微かにその香が漂ったように感じたのです。そこで、帰り路にある勝手知ったるお宅の金木犀に目をやったところ、あの薄橙の細かなる花々が目にとまりました。いやはや、例年より2~3週間は後れておりましょう(因みに昨年は“9月28日亥鼻山にて香る”と手帳にありました)。おまけに、何故か例年に比べて薫りが淡いように感じます。金木犀の開花が10月半ばまでずれ込んだ記憶は少なくとも小生にはございません。9月の気温はそれほどに高かったということでございましょう。皆様の地域では如何だったでしょうか。
最後の三つ目は、ここ4年間ほど続けて育てている朝顔でございます。例年沢山の花を付けておりますので、それに応じて実も沢山できておりました。ところが、本年は「花は咲けど実らず」の状態が続きました。これが9月までの酷暑と関係しているのかは分かりません。しかし、ようやく花期も終わりに近づいた10月以降にようやく大きな実がつき始めましたので、あながち無縁とも言えなさそうな気が致します。花が咲いても受粉しなければ実がつくことはありませんから、ひょっとすると花粉を媒介する昆虫の活動が、余りの厚さ故に鈍かったからではないかとも考えました。実際に、ここ20年間に限っても、東京下町で目にする昆虫の数はめっきり減っていると実感します。これはこれで極めて深刻な問題であろうかと存じます。しかし、まぁ、それでも昨年までは沢山の種を収穫できましたから、このことが原因とは申せますまい。ただ、過日「蚊もこの暑さ故に本来の最盛期に活動できず、気温の下がった10月になって活発な活動が見られている」との報道に接しました。尤も、報道の趣旨は例年と異なり涼しくなってから殺虫剤等の売れ行きが伸びている……とのオチでありました。しかし、蚊だけに留まらず、花粉を媒介する昆虫たちにとっても事情は同じであったのではありますまいか。そうであるのならば、10月に入ってから急に実がつきだした意味も説明できそうです。何れにしましても、何とも人騒がせな今年の酷暑でございました。
何れにしましても、霜月11月を目前にして流石に秋めいて参ったことは疑うべくもございません。そこで、冒頭歌には、秋・冬の叙景歌に独自の感性を打ち出した、「京極派」の創始者として夙に知られる為兼の詠歌を引かせていただいた次第でございます。そして、久しぶりに塚本氏のアンソロジーから選ばせていただきました。例によって塚本氏の寸評も併せて引用をいたしております。秋らしさを感じさせる夕暮の尾花(薄)は、茜色或いは銅色(あかがねいろ)に輝き、他に代えがたき秋の一景でございます。その光景を、塚本氏もご指摘のように「秋ぞうかべる」と表現した為兼の歌才は抜きんでております。正にピカイチの嵌り文句かと存じますが、皆様は如何お感じになられましょうか。尤も、本稿の執筆時点(10/16)で、小生は未だ薄(すすき)には出会えておりません。
三夕の寂連を髣髴させる第二句が「夕暮の尾花」を巧者に表現してゐる。更に、定家も顔色無しの大膽な修辭「秋ぞうかべる」が、この一首を凡百の尾花詠から際立たせた。同じ秋上、進子内親王の「秋さむき 夕日は峯に かげろひて 丘の尾花に 風すさぶなり」は、清楚でストイックな叙景で、為兼の歌とは對照の妙をなし、これもまた捨てがたい。
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さて、杉本郁太郎氏の商業回顧談も残すところ後2回となりました。今回はその第八弾となります。引き続いて最終章となる「第Ⅲ章:百貨店奈良屋の歩み」から、「第3節:戦前における千葉商業界の動向と戦時の経営」、「第4節:経営規模の推移」(「第1項:資本金と配当の推移」・「第2項:売上高の推移」・「第3項:店員数の推移」)、「第5節:百貨店法と日本百貨店協会への加入」、そして「第6節:戦後における経営の革新と百貨店経営法の根本」、以上4節のご紹介となります。当時の千葉市中心街における商家の様子、また七夕空襲に遭遇した際の郁太郎氏の実際の行動等の証言も、大変に興味を惹かれる貴重な内容かと存じます。それでは、「杉本郁太郎かく語りき」第八弾にお付き合いくださいませ。
Ⅲ 百貨店奈良屋の歩み
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今回は、ここまでとさせていただきます。如何だったでしょうか。長く続けて参りました不定期連載「杉本郁太郎かく語りき」も、次回第九弾が最終回となります。現状では11月10日(金)のアップの予定でおります。そこでは、この百貨店の商売に関わる杉本郁太郎の根幹に関わるお考えも語られております。是非ともお楽しみにされていてください。
霜月11月に入り、本年も残すところ2カ月弱を残すのみとなりました。本来であれば、いよいよ秋本番の頃合いとなって然るべき時節でこざいます。ところが、本年は9月一杯まで続いた猛暑の余燼が未だに燻っているのでしょうか、本稿を執筆している10月末日時点でも、昼間はお天道様が顔を出しさえすれば、日差しの強さに汗を拭わねばならぬほどの陽気となります。それは就寝時まで覿面に及び、未だに厚手のタオルケットで充分な程です(東京・千葉では暫く昼間の最高気温が25度となるようです。夏日です!!)。ところが朝方には薄手の掛布団が欲しくなるのですから困ります。かような日格差故か、周囲でも鼻声の方々に出会う機会が増えているように感じます。我々も体調管理に用心せねばなりません。尤も、寒暖の差の大きさは美しい紅葉の重要な要素になるともいいますから、今年の山々の色づきは鮮やかになるのかもしれません。何れにしましても、異常気象の余波は思いの他に大きなものだと実感させられます。
さて、小生の個人的な都合で誠に恐縮でございますが、現在少々館内リニューアル等を含む仕事が建て込んでおります。斯様な次第で、ここに書きたい話題も多々ございますが、内容を精査している時間がございません。そこで、今回はこの時期に各博物館で開催されている企画展のうち、皆様も気軽にお出かけになっていただけそうな関東地方で開催中の展示会のうち、小生の気になるものを幾つか紹介したいと存じます。ただ、それだけでは如何にも薄っぺらになりましょうから、既に小生が拝観に及んだ副題に掲げる展示会について、後半では少々詳しく取り上げたいと存じます。どうぞ、ご気楽にお付き合いをいただけましたら幸いでございます。
まず、美術系の展覧会でありますが、「東京国立博物館」で開催中の『やまと絵-受け継がれる王朝の美-』(会期:10/11~12/3)が絶対的にお薦めでございます。かつて同館で開催された『やまと絵』展(1993年)以来の開催となりますから、ちょうど30年振りの総合的な「やまと絵」展覧会となります。今回も、国内を代表する「やまと絵」の名品が集大成する大規模な内容となっております。勿論、30年前の内容も素晴らしいものでありまして、小生にとっては滅多にないことですが2度脚を運んだほどでありました。その時の図録は今でも時々紐解く充実の内容でございましたが、今回も流石に天下の東博!!御多分に漏れず国宝・重要文化財クラスの優品が目白押しであります。30年前に出会った作品に再び見えることができるのも楽しみです。その中の一つが、大阪府河内長野市にある天野山金剛寺所蔵の「日月四季山水図屏風」でございます(15年程前に実際に当寺に脚を運んだ際、本屏風に再会できるかと期待しておりましたが、残念ながら特別公開期間以外は非公開とのことでした)。「文化財オンライン」では「入浜松の背後に四季の山並みを置き、空に日月を浮かべる。山や波の大きなうねりに松や波頭が絡みつき、それが大胆な金銀の装飾と響き合って、現在でも観者に強く訴えかけてくる。絵画性と装飾性が融合した日本絵画の特質をよく表した逸品である」と解説されるなど、実に華麗なる見応え十二分の「やまと絵」大作でございます。入館料と図録購入費を合わせれば優に5千円は超えますが、それだけの価値がある展示会だと確信いたします。次の「やまと絵」展が30年後だとすれば、少なくとも小生がその機会に脚を運べる可能性は限りなく低いと思いますので、今回は万難を排して出かけるつもりでございます。相当な混雑が予想されますので、小生は週末の夜間開館を利用して出かけようと思っております(21時まで開館~20:30まで入館可)。
続いて、都道府県クラスの歴史・民俗系博物館では、何を置いても「群馬県立博物館」開催中の『温泉大国ぐんま』(会期:10/7~11/26)に興味を惹かれます。草津・四万・伊香保等々の名湯が集積する群馬県、その温泉の歴史と民俗の世界に迫る展示会は極めて魅力的でございます。元来温泉は湯治を通して病と向き合う場でありました。以前にも申し上げたことがございますが、草津温泉は古くからハンセン病患者の方々の療養に用いられ、現在も国立療養所栗生楽泉園が設置されております。また、四万温泉の奥には国重要文化財に指定される「日向見薬師堂」が鎮座していることからも、病の治療・療養としての機能が求められる庶民信仰の舞台でもあったのです。そうした温泉の多様な姿を知るためにも、個人的に本展示会への関心は極めて高いものがございます。尤も、高崎までは少々遠方でもあり時間的に難しいかもしれません。まぁ、最低でも図録だけでも購入しようとは思っております。もう一つ、その毎回その展示を楽しみにしている「千葉県立関宿城博物館」では『地図は世につれ 人につれ』が開催中です(9/26~11/26)。パンフレットには「江戸時代以降に描かれた地図を題材に、地図から読み取り、時代によって変化する様子、当時の人々の暮らしなどを紹介します」とあります。関宿周辺は近世初頭に「利根川東遷」の大土木工事が行われ、その前後で河川の流路に大きな変化が生じておりますし、近世以降も多かれ少なかれ河川改修による流路の変遷が見られるようです。これを是非とも確認したいとの思いが強くございます。ただ、小生の居住する葛飾区からでさえ相当な距離があり、しかも公共交通機関の便も極めてよろしくございません。しかし、せっかくの機会です。かつて自家用車でも相当に時間が掛かりウンザリした記憶が甦りますが、修行だと割り切って出かけねばと決心したところでございます。
続いて市町村クラスの歴史・民族系博物館であります。まず、会期は今月末からとなりますが「小田原城天守閣」で開催される『関東の雄 北条氏綱』展(会期:11/31~1/14)が注目です。当館では平成28年(2016)の大規模リニューアルオープン以来、小田原北条氏関係の展示会に力を入れておられます。同29年『小田原北条氏の絆-小田原城とその支城—』展、同30年『小田原開府五百年—北条氏綱から続くあゆみ—』展、令和元年『伊勢宗瑞の時代』展、同3年『没後450年 北条氏康』展、そして本年度は北条氏綱が取り上げられます。この流れでいくと、今後数年間に亘って氏政と氏直の特別展がそれぞれ開催されることが予想されます。これまでも充実した図録を制作されおります。名字を伊勢から北条に変え、名実ともに関東の支配者として君臨することを目指した氏綱の存在に如何に焦点があてられるのか、今から期待が高まります。もう一つが、東京の「大田区立郷土博物館」開催中の『海苔商たちの底力』展(会期:10/3~12/3)でございます。海苔は東京湾の特産品でありますが、海苔づくりは江戸時代中期頃に大森から品川にかけての沿岸部で始められたといい、江戸末から明治にかけてその品質のよさから生産量も増加します。しかし、埋立と臨海工場地帯の建設に伴う生育環境の変化もあり、大田区周辺では昭和30年代半ばに歴史ある海苔づくりは幕を下ろしました。しかし、今日なお大田区は海苔商の本場的な位置づけを保っております。本展では様々な条件の変化に応じて東日本における海苔販売を主導してきた、大森を含む東京の海苔商が果たした役割を歴史的に振り返える内容となっております。東京湾東側の千葉市域で海苔生産が盛んになるのは後れて明治以降となりますが、その関連からも先進地である西岸の海苔生産と販売の在り方を掴んでおきたいと考えるものでございます。そして、最後に「たばこと塩の博物館」で開催中の『芥川龍之介の見た江戸・東京』(会期:9/16~11/12)でございますが、こちらにつきましては過日出かけて参りましたので、以下にその内容の一端をご紹介させていただこうと存じます。
「たばこと塩の博物館」につきましては、本年5月頃に開催された太田南畝に関する展示会を採り上げ、本稿でご紹介したことを御記憶の方もいらっしゃいましょう。晴れて(!?)本年度2度目の登場となります。改めて当館について
申せば、長く繁華な渋谷の地にございましたが、東京スカイツリー至近にあった墨田区横川の「日本たばこ産業」の倉庫を改装して移転し、平成27年(2015)に再開館した施設となります。以前にも賞賛の念を捧げさせていただきましたが、当館はこうした世知辛いご時世にも関わらず、例え特別展開催時であっても入場料は常に大人¥100(小中高生・65歳以上は¥50)という設定でございます。実に天晴な志だと存じます。小生は嗜みませんし、その匂いを嗅ぐのも嫌でありますが、昨今いたって肩身の狭い思いをされている愛煙家の皆様の御貢献あってこその料金設定でございましょう。そのことに、少しは感謝の念を払わねばと思っております。さて、今回の特別展『芥川龍之介がみた江戸・東京』でございますが、当館で何故芥川龍之介を採り上げた理由の一つは、彼が大変な愛煙家であったことにもございましょう。田端にあった自宅で子供と伴に過ごす、麦藁帽子を被った最晩年の芥川の貴重な映像が残っておりますが、そこでも紙巻煙草に火を付け美味そうに燻らせておりました。その姿は展示会場でも上映されておりましたので是非ともご覧きただければと存じます。何でも、一日180本程を吸っていたといいますから、6時間睡眠として18時間が生活時間と仮定しても、単純に割算すれば1時間あたり10本を吸っていたことになります。食事や入浴を除けば、ほぼ5分に一本のペースとなりましょう。所謂“チェーンスモーカー”の典型と言っても宜しい人であったものと思われます。
実のところ、小生にとって本展示会への興味は、愛煙家であることは脇に置いて、それ以外に当館で芥川を採り上げる理由は奈辺にありや……ということに尽きました。何故ならば、芥川が東京生まれであることは知っておりましたが、例えば永井荷風がその典型であるような、「江戸・東京」の風物・風俗を描いた作家という印象が無かったからでございます。しかも、伝記的に芥川の生涯を追うほどに熱烈な愛読者であったわけでもございませんでした。斯様な次第で、本館での展示を拝見させていただいたお蔭で、芥川と東京との関係性についての小生の断片的な知識が、相当に繋がって見えてきたことは大きな収穫でした。また、その系譜等においての我らが千葉との繋がりが多少なりともあることも知れたことも幸甚でございました(後述)。尤も、知らぬ存ぜぬを決めて込んで述べている芥川でありますが、実際には高校3年の夏から配本が開始された菊判『芥川龍之介全集』(岩波書店)を配本順に購入し、全12巻は今でも我が家の書棚に架蔵されております。しかし、お恥ずかしながら隅から隅まで読破したとは到底言い難い状況のまま今日を迎えております。帰宅後に、基本的に作品を年代順に並べた全集第一巻を紐解くと、冒頭から三作目に「大川の水」なる随筆が掲載されております(本展でも極々一部が紹介されておりましたが)。つまり極々初期の作品と云うことになります。解題によれば、大正3年(1914)発行の雑誌『心の花』第18巻第4号に「柳川隆之介」の署名で掲載され、単行本には収められなかった……とありますから、ここで内容を御紹介することにも多少なりとも意味があろうかと存じます。本作などは、確かに、芥川が東京を故郷とする作家であることを表明する内容となっております。所謂“若書き”故の捻りのない素直な文体ではございますが、その鋭敏な感性と瑞々しい感性の在り様は既に疑いなきものがございます。正に「栴檀は双葉より芳し」でございます。そして、ここには既に忍び寄る「死」の影さえ垣間見えることにも驚かされました。飽くまでも抜粋ではございますが、どうぞ芥川の若書きを御堪能いただければと存じます。
余談ではございますが、以下の文中に「アカシア」の花についての記述がございますが、花の色から勘案するにこちらはよく混同される「ニセアカシア」でございましょう。本樹木は明治初期に移植されたいわば外来種にあたりますから、“江戸情緒”とは通じないことをご承知おきください。実は、本樹木を日本に齎した人物も分かっており、それが津田仙(1837~1908年)でございます。仙は下総国佐倉藩士小島良親の三男として生れ、藩主堀田正睦の洋学志向の影響の下、藩校成徳書院で学びつつ、藩主の命でオランダ語・英語の他に洋楽を学んだ人物であり、後の文化年間に御三卿田安家家臣の津田家に婿養子に入ります。その英語能力を買われ、安政年間に幕府の外国奉行の通弁(通訳)に採用され、慶應3年(1867)の幕府による遣米派遣使節団の一員としてアメリカに渡って見聞を広めます。元来「農業」の在り方に関心を有した津田仙は、明治維新後に派遣された外国派遣使節の一員にも選ばれております。明治6年(1873)オーストリアで開催されたウィーン万国博覧会にも随行し、その間6カ月の滞在中に農場見学、園芸学講義の視察を精力的に行うとともに、数々の農産物種子を購入して日本に持ち帰っております。その中に、ウィーンにおけるニセアカシアの街路樹の美しさに感銘したことから購入したその種子があったのです。津田仙のもたらした「ニセアカシア」は成長も早く、瞬く間に日本に広まることになりました(それが日本在来種を駆逐して問題になっているそうですが)。芥川の目にしていた大川(隅田川)岸辺のそれも津田仙由来の樹木でございましょう。農学者・教育者としての津田仙の大きな業績について、ここではこれ以上述べることはいたしませんが、一つだけ追加するとすれば、日本における女子教育のパイオニアとして獅子奮迅の活躍をすることとなる津田梅子(1864~1929年)は仙の娘でございます。
自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉に掩われた、黒塀の多い横綱の小路をぬけると、直あの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。幼い時から、中學を卒業するまで、自分は殆毎日のやうに、あの川を見た。水と船と橋と砂州と、水の上に生まれて水の上に暮しててゐるあわたゞしい人々の生活とを見た。眞昼の日の午すぎ、燬けた砂を踏みながら、水泳を習ひに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにほひも、今では年と共に、親しく思ひ出されるやうな氣がする。 (芥川龍之介「大川の水」1912年 岩波書店『芥川龍之介全集』第1巻より) |
さて、芥川龍之介は、明治25年(1892)外国人居留地の一角である東京市京橋句入船町(現在東京都中央区所在の聖路加国際病院の敷地内)で、当時は牛乳製造販売業「耕牧舎」支配人であった父新原敏三(1850~1919年)と母“ふく”の長男として生を受けております。父は周防国生見村(現:岩国市)に生まれ、幕末には長州藩の諸隊中の「御旗隊」一員として幕府軍と戦った記録が残るそうです。維新後には「下総種畜場」(後の「下総御料牧場」)での勤務を経て、渋沢栄一らが設立した耕牧舎に勤め、明治16年(1883)から東京での牛乳販売の責任者として経営に携わった人物でございます。しかし、生後七ヶ月頃に母“ふく”が精神に異常を来したこともあって、母の実家である芥川家に引き取られることになり、叔母“ふき”に養育されることになります。そして11歳の時に実母が亡くなったことで叔父である道章夫妻の養子となり「芥川」姓を名乗ることとなったのです。養母は実母ふく・叔母“ふき”の姉妹である“とも”ですが、実際に龍之介を養育したのは叔母“ふき”であり、龍之介はこの“ふき”から大きな愛情と恩恵とを授けられたことを語っております。その芥川家は代々、江戸城内の茶室を管理し、将軍・大名を茶の湯で接待した奥坊主の家柄であり、当寺の住まいは本所区小泉町(現在の両国駅至近の回向院の斜め向かい辺り)にありました(以上、入館者全員に頒布される本展小冊子より:本展の展示図録は制作されておりません)。「江戸切絵図(本所絵図)」でも芥川家の屋敷地を確認出来ますので、恐らく近世以来の拝領屋敷であったのだと思われます。そして、龍之介は18歳になる明治末まで本所・両国周辺で過ごしたのです。上述の「大川の水」で記される感慨もまた宜なるものかなと思わせます。また、現在その本所にある当館で芥川龍之介を採り上げる展示会を開催された由縁にも思いが至った次第でございます。
芥川家には、家中に芸能等々を愛好する所謂“文人趣味”が残っていたこと(育ての親である“ふき”は浄瑠璃の一種である一中節の名取でした)、更には本所・深川という粋で鯔背な地域性を色濃く有していたことが龍之介の文士気質の基盤を形成する要因となったものと思われます。加えて、母側の血統には幕末に大通(人情・世事、遊興の道に深く通じている人物を指す)として名を馳せた細木香以[ほそき(本来“さいき”が正しいようです)こうい](1822~1870年)がおり、芥川自身も大変に香以には関心を有し、その遺作・遺品を大切にしていたことが知れます(展示会には香以愛用の煙管が展示されておりました)。ここで、話題が唐突に急展開して恐縮ですが、皆様も先刻ご承知のことと存じますが、森鷗外(1862~1922年)の作品中に「史伝」と称されるジャンルの作品群がございます。その中の傑作とされるのが、文化・文政期を中心に生きた医家であり漢学者であった文人達の伝記的作品である『渋江抽斎』(1916年)、『伊沢蘭軒』(1916~17年)、『北條霞亭』(1917年)の三部作であることは夙に知られておりましょう。しかし、その他にも採り上げられた人物は幾人もあり、その中には、芥川と縁戚関係のあった香以を採り上げた史伝『細木香以』(1917~18年)もございます。鷗外は、本作の冒頭で鷗外の愛読する為永春水の人情本(『梅暦』)に度々登場する「津藤」という人物に興味を持ったことが執筆の契機となったことを語っております。この「津藤」こそが、「攝津國屋(つのくにや)」なる酒屋を営んでいた藤次郎の「津」と「藤」をくっ付けた通称に他ならず、細木香以その人を指しているのです。また、本作中には「文士芥川龍之介さんは香以の親戚だそうである」と記されており、本作の刊行後に芥川からの書簡を受け取り、実際に鷗外邸を訪れた芥川から聞き取った香以のことについても、補遺の形で後に作品に付加までしております。それだけ芥川もこの大通であった縁者には関心を寄せていたことが知れるのです。小生は、芥川と云えば「漱石山房」の人という印象を持っておりましたが、意外なところで鷗外とも接点を有していたことを知り、大いに感銘を受けた次第でございます。
ところで、この細木香以ですが放蕩の末に家業が傾き、隠居した晩年の一時期に千葉の寒川に足掛け四年ほど逼塞していたそうです。芥川関係で千葉との意外な関係に気づかされたと上述したのは、正にこのことでございます。該当部分を森鷗外『細木香以』から引用しておきましょう。因みに、文中にある寒川の「白旗八幡宮」とは、現在新宿町にある「白旗神社」のことでございましょう。以前はこの地を「向寒川」と称しておりましたから。ただ、現在はかつて「結城稲荷」と称したように“稲荷神”を主神として祀っておりますが、そもそも源氏の白旗所縁の社であることからも元来は“八幡社”であったことは確実でございます。現在でも境内に誉田別命(ほんだわけのみこと)を祀る末社があり、辛うじてかつて八幡社であった頃の名残を留めております。因みに、これまた文中にある「天保銭」は正しくは「天保通宝」と称し、天保6年(1835)に幕府が鋳造した小判を意識した楕円形の大型通貨であります(中央には寛永通宝と同様に正方形の穴があけられております)。こちらの貨幣価値は百文でございましたから(寛永通宝が一文ですから基本的にはその百個分の価値があったのです)、従って、香以に招集された寒川の子供たちは、この天保銭を纏頭(てんとう)[心づけ・褒美のことです!]とした相撲の取り組みに相当に熱心に参加したものと想像されましょう。
文久三年の春であつた。親戚某が世話をして、香以は下総國千葉郡寒川の白旗八幡前に退隠した。寒川は漁村である。文字を識って俳諧の心得などのあるものは、僅かに二三人に過ぎない。香以は濱の砂地に土俵を作らせ、村の子供を集めて相撲を取らせて、勝つたものには天保銭一枚の纏頭を遣りなどした。 (森鴎外「細木香以」1917年 岩波書店『森鴎外全集』第18巻より) |
さて、長かった寄り道からぼちぼち芥川に話題を戻しましょう。幼少期を本所・両国界隈で過ごした龍之介は、その後、東京府立第三中学校(現:両国高校)へ進学。帝国大学の予科に位置づけられた第一高等学校には無試験検定で入学を許可されます。そして、大正2年(1913)に東京帝国大学文学科へ進学すると、翌年には菊池寛らとともに同人誌『新思潮』を刊行。その2年後には代表作の一つ『羅生門』を発表。大正5年(1916)の『鼻』は夏目漱石に絶賛され一躍文壇に雄飛します。しかし、文士としての芥川を述べることが本展示会の趣旨ではございませんので、ここでも以降の芥川のことについて述べることはいたしません。芥川龍之介と其の周辺についてうろうろ低回しておりまして、肝心の「たばこと塩の博物館」での特別展の内容についてほとんど触れずにきてしまいました。以上で述べてきましたように、本展では芥川が幼少期を過ごしてきた大川(隅田川)周辺の様子を、主に絵葉書等の写真資料で紹介することを主眼としております。それとともに、文士として自立した大正期に遭遇する関東大震災から、昭和2年(1927)「ぼんやりした不安」を動機とする服毒によって35歳を一期に自死を選択するまでの間における、芥川龍之介の生きた時代の東京の風景とを重ねて展示をしております。関東大震災で失われることとなる、江戸の風情を色濃く残す下町の風景に出会える有意義な展示会であることは間違いございません。会期は残すところ1週間程となります。御興味がございますようでしたらお見逃し無きように。
最後になりますが、本来であれば、本館も例年であればこの時期に特別展を開催しております。ただ、本年度は館内設備工事等の関係があって、特例として年明けの開催となったのです。本年度の特別展は、令和8年度「千葉開府900年」に向けた千葉氏関連の展示会であり、「享徳の乱」における千葉氏の動向を採り上げる内容となります。これまで特別展のタイトルは仮に「千葉城落城」としておりましたが、過日約2時間かけて悩みに悩んで検討した結果、以下のような正式名称となりました。時間をかけた割には「これぞ決定打」とはならなかったかもしれませんが、何卒ご寛恕のほどをお願いいたします。しかし、その中身については充実の内容とすべく、現在鋭意準備を進めておるところでございます。こちらは展示図録を作成し、開幕と同時に販売開始いたしますので是非ともご期待くださいませ。皆様のご来館をお待ちしております。
【令和5年度 千葉市立郷土博物館 特別展】関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏-宗家の交代・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動-会期:令和6年1月16日(火)~同年3月3日(日)会場:千葉市立郷土博物館2階展示室 |
本年度の企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』(会期:7/11~9/3)に併せる形で展開して参りました本連載も今回が最終回となります。長らくお付き合いをいただきましたことに改めまして御礼を申し上げます。本書は、千葉敬愛経済大学(現:千葉敬愛大学)によって企画され、千葉の経済界でご活躍をされる経営者の方々の証言集編纂の一環として纏められた回顧録でございますが、出版社から上梓されたものではなく大学からの出版であったこともあって恐らく刊行部数も限られたものであったと思われます。従って、現在は入手不能の状態であることは勿論のこと、本書が寄贈された公共機関も多くなかったことに起因するものか、残念ながら県内図書館にも収蔵されていないところが多いのです。要するに、読もうにも中々それも叶わないのが実情でありました。しかし、実際に手にとってみれば、「奈良屋」最後の社長でいらした杉本郁太郎氏御自身が語られる、近世以来の自社の歩みについての証言は大変に興味深い内容でしたし、それにとどまらず同時代における千葉の商業活動の様子を如実に示す記述にもあふれておりました。これを埋もれさせておくことは如何にも惜しいと考えたことが、本連載を挙行することの大きな動機となったのです。
幸いなことに、本書は既に「パブリックドメイン」の状態となっており、著作権の問題もクリア―しておりましたので、この場をお借りして全文面を御紹介できましたことを、改めまして幸運であったことと存じます。その結果、本日アップの9回目をもって、めでたく(!?)すべてのご紹介を終了することができました。その間、書籍と睨めっこをしながら漏れ落ちなきよう、只管キーボードを打ってまいりましたので、どことなく郁太郎氏の口吻を通して、その為人に親しく接することができたように思います。そして、これまでとは比較にならないほどに郁太郎氏のことを身近な人と感じられるようにもなりましたし、何より気高い志に基づく確固たる経済人としての在り方に、衷心よりの尊敬の念を捧げたいとの想いを新たに致した次第でございます。改めて生前にその謦咳に接することができなかったことが悔やまれます。さて、最終回となる本稿では、第Ⅲ章「百貨店奈良屋のあゆみ」から、第7節「千葉県経済の発展に伴う諸影響」[(1)消費人口の増大に伴う影響と千葉商業界の諸問題、(2)仕入れ関係について]、第8節「氏の経営理念と人間性」、第9節「県内経済界等における諸活動」の、3つの節のご紹介となります。皆様、どうぞお楽しみくださいますように。
Ⅲ 百貨店奈良屋の歩み
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以上で「杉本郁太郎氏商業回顧談」は完結となります。これまでじっくりと郁太郎氏のお話に耳を傾けていただいた皆様は如何お感じになられたでしょうか。伝統ある「奈良屋」百貨店は、本書刊行の四年の後となる昭和46年(1971)に、「三越」と合弁の「ニューナラヤ」を創立することとなり、当時の千葉に進出した「そごう」百貨店の隣となる千葉駅近くの地に移転することになります(旧店舗は「セントラルプラザ」に衣替えしました)。郁太郎氏の回顧談にもありましたが、千葉に多くの百貨店が進出し過当競争が激化していったこと、昭和38年(1963)年の千葉駅移転(それまでは現在の東千葉駅の場所に立地)によって人流が大きく変化したことにより従来の千葉中心街の地盤沈下が生じたこと、更には本回顧談の段階で建設が進められていた店舗拡張による経費が増加したこと等々により、債務が大きく膨らんでいたことが「三越」との提携の道を撰ばざるを得ない状況を生み出したものと想像されます。更に、昭和59年(1984)にに「ニューナラヤ」経営権を三越に委譲し、郁太郎氏は実質的に百貨店経営の第一線から身を引くことになったのでした。そして、昭和の世の終焉と符号を合わせるように、5年後の平成元年(1989)奈良屋杉本家八代目は鬼籍にお入りになられました。郁太郎氏の心の内は計りかねますが、無念の想いが皆無であったとは申せませんでしょうが、走りきった……との思いも大きかったのではありますまいか。そして、新世紀に移行した平成13年(2001)「セントラルプラザ」もまた営業を終了し、杉本家の千葉との永きに亘る関係も完全に終止符を打つことになったのです。それは同時に、初代杉本新右衛門が寛保3年(1743)独立してから(「宿場入り」)、大凡二世紀半にもなる歴史の終焉でもございました。
こうした「奈良屋」の辿った終焉への道筋を見るにつけ、本回顧談で語られる郁太郎氏の発言に、その原因を求める向きが多いのではないかと小生は想像をいたします。「労働組合が無いからこそ社員を気遣ってあげることが大切」、「自分は社員を使うのではなく、社員に使われる存在だと思っている」、「消費は美徳とばかりに無用なものを売ることで経営が成立つようでは駄目」、「毎日毎日をお客さんに奉仕していれば自然に利も生まれてくる」といった発言を“生ぬるい”ものと認識され、郁太郎氏に経営者失格の烙印を押される方々もまた多のではありますまいか。しかし、本当にそうなのでしょうか、小生の思いは相当に異なります。「こんな考えでいるから会社を潰してしまうんだ」と云う前に、郁太郎氏の経営理念を、今こそじっくりと噛みしめて反芻して頂きたいもだのと存じ上げる次第でございます。口幅ったい物言いで誠に申し訳なくも存じますが、一言申し上げさせて頂ければと存じます。癇に障るようでしたら、どうか老いの繰り言と思し召してご寛恕くださいませ。
つまり、郁太郎氏が仰っていることの肝要は、商売をするからには自身の人格的陶冶が必要であることに収斂するものと考えるものであります。勿論、殆どの経営者の方は至極真っ当なる活動をされているのだと存じますが、数値目標を達成するためには如何なる手段をとっても憚ることがない、そのために労働者を酷使して精神的・肉体的なダメージを与えることも厭わない等々、日々報道される企業の不正事案の眼を掩うばかりの実態に、暗澹たる思いに駆られるのは果たして私だけでしょうか。また、行政側の施策でも決して弱者の為にはならないのではないかと疑問符がつくことも度々ございます。決して宗教的な背景を有すべきなどと申したいわけではございません。しかし、郁太郎氏で申せば、近世以来の儒教的・仏教的・心学的な思想を背景とした、商売人であること以前の、“人として”の在るべき姿を追求する姿勢と、豊かな文化的世界を内面に育もうとする奥深い精神世界とを、その背景にお持ちであることをしみじみと感じさせられます。その一方、自身の商業活動が社会全体の貢献へと繋がるべきだとのスタンスも顕著でございます。「百貨店の社会性から、儲を度外視して経費を惜しまずに(文化事業を支援して)やってあげなければいけないと思っております。百貨店というのは社会の公器ですからね。これは文化面での大きな使命です」と語る郁太郎氏の言葉の持つ意味は、私企業は勿論のこと「公共」を担う行政の立場にある我々もまた、深く胸に刻み込む必要があるのではありますまいか。「今はそんな時代ではない」と仰る方がいることを理解できないわけではございません。しかし、小生は、敢えて申し上げたいと存じます。「それは現代社会の在り方の方にこそ問題があるのではないか」、「もしかしたら社会全体が誤ったベクトルに向かっている可能性が大きいのではないのか」……と。そして、同時に今なら未だ軌道修正はで可能ではないかとも思っております。小生は、杉本郁太郎氏の回顧談を拝読させていただき、以上のような考えに至りましたが皆様は如何でございましょうか。
本稿を執筆しておりますのは11月初旬でありますが、相も変わらずに昼間の気温は高くて往生いたします。まぁ、もともと同じ月であっても新暦と旧暦との時季の誤差がございますが、それでも「霜月」という名に相応しい陽気とは到底申せますまい。ここ数日、朝の通勤時に京葉線から目にする沿線の景色も、あたかも春のような「霞」が棚引いております。いや霞というよりも「靄」といったほうが実景に近いとさえ言えるようなモヤモヤ感でございます。まさか、今年の秋から冬にかけての気候が斯様な儘に推移するとは思えませんが、それでも暖冬傾向の可能性はございましょう。今冬は厚手の防寒コートの出番はあまりないのかもしれません。それよりも、国内では例年になく熊による被害が多発していると日々報道されております。これも、この暑さ故でしょうか、餌となる木の実が記録的な不作であることが原因と聞きました。これから例年、斯様な秋・冬となるのであれば、そもそも通常は冬眠する動物たちも、通年で活動できるようになりましょう。そうかといって、冬になれば食料そのものは減っていくことでしょうから、自ずと連中が人里に出没する機会がいや増しになるのではありますまいか。熊だって、なるべく楽に食料を確保できる機会があればそうするでしょうから、更に人と熊との遭遇の機会が増えることは間違いございますまい。それでも山村に居住されている方々にとっては極めて深刻な問題でございましょう。一概に殺処分することが良いことでないことは申すまでもございませんが、そうかといって「かわいそう」で済まされる問題ではないことも厳然たる事実であります。勿論、熊に罪はございません。こうした熊の出没の背景には人里に出ざるを得ない環境を作り出した人間の側に責任があることは深く自覚すべきでしょう。人も自然のなかの一部であることは言うまでもございません。熊の頻繁な人里への出没とは、その共存を如何に図っていくのかを、我々人間に突き付けていることだと考えるべきです。
さて、過日の本稿で、飯坂温泉を採り上げたところ、当該温泉と松本良順(順)との思いがけない関係が浮かび上がってきたことから、別稿として松本良順(順)について述べたところでございました。しかし、当稿を読まれた芦田副館長から、松本順と現在の千葉市域との浅からぬ縁もあることを御教示いただきました。そこで、今回はそのことを述べたいと存じます。まるで「連想ゲーム」のような塩梅でございますが、人の知見と興味とはこうして際限なく広がってくのでしょう。とても楽しいことでございます。ところで、余談でありますが、「連想ゲーム」と申せば、レギュラー回答者であった大和田獏さんと岡江久美子さんとの微笑ましい遣り取りを懐かしく思い出します。案の定お二人はその後に結ばれて、傍目にも羨まれるほどの良好なご夫婦関係を構築されているように感じておりました。しかし、無残にも岡江さんはコロナ感染症流行の初期に物故されたことは皆様もご存じのことでございましょう。個人的には最期まで岡江さんの大ファンでしたから、今「連想ゲーム」を引き合いに出して、ついつい彼女のことを連想して大いにブルーな想いが萌しております。まぁ、個人的な感傷に浸っている場合ではございません。気を取り直して肝心な内容に入っていきたいと存じます。今回の主たる話題は、明治になってからの松本良順(「順」と改名してからのこととなりますので以後「順」で通します)との関係を有することとなる、現在も千葉市花見川区柏井町に屋敷を構える旧家「川口家」についてのことになります。柏井町といってもピンと来ない方もいらっしゃいましょう。突拍子もないことを申すようですが、千葉市の市街局番は「043」です。ところが、現在市内に100校強ほどある公立小学校で市外局番が唯一「047」の学校があります。それが「千葉市立柏井小学校」に他なりません(NTT資料を見ると同区横戸町も「047」とありますが、同住所にある「千葉市立横戸小学校」の市外局番は「043」となっております。横戸町内で区分されているのでしょうか??)。「047」の市外局番を有す地域は松戸市・市川市・浦安市・船橋市(一部)・習志野市・八千代市・白井市・鎌ヶ谷市(一部)となることからも明らかなように、凡その位置関係が想像できましょう。「政令指定都市」千葉市の北端に存在し、隣接市に突き出したような境界領域となります。電車線としても京成本線の八千代台駅と勝田台駅が至近の駅になろうかと存じます。
かような位置関係にある柏井町に、少なくとも近世以来の歴史を有する旧家「川口家」がございます。近世後期に人工的に掘り切られた花見川の深い渓谷沿いの左岸に、あたかも中世の土豪屋敷を思わせるような屋敷を構えていらっしゃいます。花見川に架橋された柏井橋の袂に、右岸に戦後造成された花見川団地の光景と隔絶した土塁を回したように見える、恰も武家屋敷のような門構を有するお宅を眼にされた記憶のある方は多かろうと存じます。小生は一年間だけですが「青少年サポートセンター花見川分室」に勤務したことがあり、管轄内をパトロールする際に、その偉容に何度も接して圧倒される想いでございました。そして、一体如何なる方がお住まいのお宅なのだろうと不思議にも思っていたのです。第一、外からは内部の建物すら拝見することができません。こちらが、現在も御子孫が住まわれている「川口家」のお屋敷に他なりません。それでは、この川口家とは如何なる歴史を有するお宅なのでしょうか。この件に関しましては、幸い『千葉県の歴史 通史編 近世2』2008年(千葉県)内の第八編「地域有力者と周辺社会」に第四章「北柏井村の豪農と周辺社会」が章立てされており、30頁強を割いて川口家の歩みが記述されておりますので、前編では本書に導かれて、まずは近世における姿を追ってみたいと存じます。
さて、川口家の存在する柏井町は、近世には南北2つの村に分かれており、川口家と関係するのは北柏井村となります。当初は旗本小栗氏の知行所であったようですが、その後の天明年間(1781~89年)に行われた印旛沼掘割普請の関係で一部が幕府領となったとのことです。現在も、ほぼ台地状の本村中央を南北に深い渓谷状に花見川が南流し、村を東西に分断しております。尤も、数度に亘って開削された「印旛沼掘割筋」でありますが、現状のように滔々とした水が流れ下るようになるのは、戦後になってから昭和41年(1966)に「大和田排水機場」が完成して以来のことであり、近世はもとより明治以降もずっと水溜まりのある谷間状の地形のままに放置されておりました。この北柏井村の天保期の村高は160石余りであり、このうち幕府領が約83石、旗本小栗氏領が77石余りの、所謂「相給地」となっていたとのことです。家数は幕末安政期で25軒、人口は150人ほどを数えます。本村落の名主を18世紀後半安永期から勤めている旧家が川口家であります。当家の出自・由来等については家系図等の伝来がなく不明であるようですが、質地を集積することを通して家産の増大にも務め、近世後半には周辺地域でも屈指の豪農に成長した様子がうかがえます。豊かな経済力を背景に名主として地域支配の一翼を担っていたのです。
しかし、川口家には大きな悲願があったようです。それは名主とともに、幕府から「牧士(もくし)」の仕事を拝命することでありました。「牧士」とは何かを知るためには、江戸幕府の牛馬育成の在り方を押さえておくことが前提となります。幕府は、牛馬育成のための直営牧場を江戸周辺の地に配していたのです。その牧場が「牧」に他なりません。申すまでもなく、武士にとって馬とは「軍馬」であり、また日常の「乗馬」にも必要不可欠の存在でありました。今で申せば「戦車」であり「自家用車」と同様の存在だったわけです。従って、組織だって育成を図ることが不可欠であったのです[尤も、幕府に納入される優良馬以外の馬(「駄馬」)は民間に払い下げられました。馬は農耕馬や荷駄運搬用として不可欠の存在であり民間の需要も大きなものでした]。そのために設けられた「牧」が以下の4牧となります。もっとも、全てが新規に設けられたわけではなく、古代・中世以来の関東での軍馬育成の流れを継承して再編成をしたというのが実態に近いものと思われます。それぞれ広大な台地上に設置された4つの「牧」の内には、更に細分化された牧が営まれていたのです。それが以下の通りでございます。下総国の「小金牧(高田台牧・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧の5牧からなる)」と「佐倉牧(小間子牧・取香牧・矢作牧・油田牧・柳沢牧・内野牧の7牧からなる)」、安房国内の「嶺岡牧(西一牧・西二牧・東上牧・東下牧・柱木牧の5牧からなる)」、そして駿河国内の「愛鷹牧(元野牧・尾上牧・霞野牧の3牧からなる)」となります。幕府の牛馬育成の殆どを担ったのが現在の千葉県域であり、特に下総国であったことが理解されましょう。江戸からも至近であり、牛馬育成に不可欠の平坦で広大な台地状の地形が連なっていたのが下総だからでございましょうが、何よりも中世武士団による軍馬育成の伝統を継承している地であったからではありますまいか。その下総国に設置された牧のうち、「小金牧」中の「下野牧(しものまき)」南端(現:花見川区付近)と「佐倉牧」中の「小間子牧(おまごまき)」南端(現:若葉区付近)が現在千葉市域内に含まれております。牛馬育成と言いながら、牛のことはどうなっているのか疑問も生じましょう。これにつきましては、安房の嶺岡牧では八代将軍吉宗がインド産白牛3頭を輸入して飼育し、「白牛酪」という乳製品を製造させていることを申し述べておきましょう(嶺岡が日本酪農発祥地を称する由縁)。
さて、実際の「牧」の運営に関しては、江戸幕府は「牧」周辺の村を「牧付村」に指定し、その夫役によって「牧」の維持にあたらせることにします。そして、現地における維持管理の責任者として「牧士」を任命したのです。「牧士」は勢子(せこ)と呼ばれる人足を使役して牧内の設備と馬[実際には放牧されているので「野馬(のま)」と言います]の管理等に従事していました。「牧士」に任命されるのが有力農民である「名主」であり、「牧士」を拝命すると「牧」の任務にあたる時に限って「名字・帯刀御免」「麻裃の着用」「乗馬鉄砲」等の身分的特権が認められましたから大変な名誉職でもあったのです。しかし、「牧士」になるには「名主」であればよいわけではなく、馬の扱いに慣れていることは勿論のこと、実直で村内・近隣の村々からも評判の良い人格者であること、及び経済的に裕福であることも重要な要件であったといいます。しかも、「牧士」の人数は限られており、近世後期には相当に緩やかになっていた模様ですが、その多くは世襲であり新たに牧士に参入するのは簡単ではなかったようです。しかし、北柏井村の名主であった川口理右衛門(1815~1885年)は、どうにかして「牧士」になりたいと願い、牧の人足手配や野馬除土手(馬が逃げて田畑を荒らすなど集落への被害を防ぐために周囲と集落とを隔てる土手のことで、通常は二重の土手が築かれるため間は堀状となります)の修復等に積極的に関わるなどの貢献を重ねたことで、ついに嘉永5年(1852)「牧士役」を拝命することになったのでした。理右衛門の子義蔵(1838~1885年)も牧士見習となり父の仕事を手伝うことになり、慶応3年(1867)には、ナポレオン三世から幕府に贈られたアラビア馬の飼育方法をフランス人から授かる、「伝習御用」を命じられるなどの重責をも担うことにもなったのです。ところが、翌慶応4年に「鳥羽伏見の戦い」が始まり事態は一変します。川口義蔵はアラビア馬とともに江戸騎兵所に移り、その後松戸のアラビア馬厩に配属となるなどしているうちに幕府自体が瓦解することになりました。そして、明治になると「牧」のほとんどは開墾地に転用され姿を消すことになったのです。せっかく悲願を達成し、現在の千葉市域で唯一の「牧士」の地位を手に入れた川口家も、その後は牧との関係を一切失うことになりました。川口家と「牧士」との関係性につきましては、本館刊行の一般向“千葉市通史”『史料で学ぶ 千葉市の今むかし』(2022年)[1冊税込¥1.000という価格破壊的「特価」にて絶賛販売中です]に納められるコラム「牧士になりたかった男-市域唯一の牧士家・川口理右衛門と義蔵」(執筆:高見澤美紀氏)を、是非ともお読みくださいませ。
最後に余談ではございますが、明治以降に廃され、開拓地に転用されることとなった「佐倉牧」と「小金牧」の地でありますが、元来が広大な放牧地でありましたから、その中には固有地名が存在しませんでした。そこで、開墾入植計画の順にその番号に併せた地名が近代以降に付されることとなったのです。皆様は先刻ご承知のことかとは存じますが、県内には違和感満載の不思議な数的地名が数多存在するのはその故でございます。以下に一覧を掲げましょう。
初富(はつとみ)中野牧~現:鎌ヶ谷市) 二和(ふたわ)下野牧~現:船橋市) 三咲(みさき)下野牧~現:船橋市) 豊四季(とよしき)上野牧~現:柏市) 五香(ごこう)中野牧~現:松戸市) 六実(むつみ)中野牧~現:松戸市) 七栄(ななえ)内野牧~現:冨里市) 八街(やちまた)柳沢牧~現:八街市) 九美上(くみあげ)油田牧~現:香取市) 十倉(とくら)高野牧・現:冨里市) 十余一(とよいち)印西牧~現:白井市) 十余二(とよふた)高田台牧~現:柏市) 十余三(とよみ)矢作牧~現:成田市・現:多古町) |
(後編に続く)
後編では、明治の世における川口家の有り様について追ってみましょう。ここで、松本順(明治4年に「良順」から「順」に改名)との深い関係が生じて参ります。江戸幕府の瓦解と共に「牧士」としての仕事を失ったものの、明治以降も大地主として地域における有力者であった川口家において、新たな時代のパイオニアとなる人物が義蔵を継いで八代目当主となる新之丞(しんのじょう)(1864~1903年)でございます。ここで、初代「陸軍軍医総監」となった松本順との深い関係の一つを先にご紹介しておきたいと存じます。それが、明治24年(1891)に新之丞が順の長女である“石(いし)”を妻として迎えていることです。明治以前では余計にそうでありますが、婚姻関係は現在のように個人の恋愛感情に基づいて成立するものではなく、両家の関係性を深めることを目的としておりましたから、松本順が娘を嫁に出したことは、順が川口家との関係性を重く捕らえていた事実を照射いたしましょう。川口家は、江戸と佐倉を結ぶ佐倉街道(成田街道)に至近に立地し、「牧士」を拝命している地域の富裕な名家でありました。従って、佐倉藩との関係性に鑑みて、順が近世の段階から聴き知った家であった可能性がないとは申すことはできないかもしれません。しかし、それが両家の婚姻関係にまで発展する直接的な理由にはなりますまい。その理由につきましては、以後に御紹介しますように、川口家の新たな当主である新之丞が、明治以降に関わる新たな事業、及びそのことに纏わるゴタゴタと深い関係性を有するものと思われます。これ以降は、前編でも御紹介させて頂いた『千葉県の歴史 通史編 近世2』該当頁にある「コラム 愛生館と川口家」、及び「千葉市史編集委員」として本館でも大変にお世話になっております中澤惠子先生執筆にかかる論考、「川口新之丞と愛生館-明治初期に行われた薬販売の一例-」(2014年)[『千葉いまむかし』第27号(千葉市教育委員会)]に全面的に依拠して記述させていただきます。本冊は既に品切れしておりますが、本稿をお読み下さり詳細をお知りになりたき向きがございましたら、本館ホームページ内のコンテンツ「刊行物」を開いていただけますと、これまで刊行された『千葉いまむかし』一覧がアップされております。そこで第27号を探って頂けますと、PDFファイル化した道号の全容を容易くお読み頂けますのでどうぞご活用くださいませ。
さて、川口新之丞の活動に入る前に、明治維新以降の薬品事情と社会の動向について押さえておきたいと存じます。古来日本における薬品は、所謂「漢方薬」と称される薬効を有する主に動植物等を原料とする物が主流でありました(勿論現在でも漢方薬は広く用いられておりますが)。しかし、一方で幕末以来の西洋医学の導入と伴に、化学薬品である所謂「洋薬」が輸入されるようなります。しかし、旧幕時代は勿論のこと、明治2年(1869)明治政府が西洋医学(ドイツ医学)の採用を正式に決めたことを機に、その需要が急増したにも関わらず、新政府による「洋薬」に関する品質検査や販売制度の整備には至っていなかったのが実情であったのです。その結果、外国商人からは安全性に疑問符の付く粗悪品が流入する弊害が生じてもいたとされます。そこで明治政府は制度化に取り組み、段階的に薬事関係制度の整備を進めていきことになります。そして、明治22年(1889)「薬品営業並薬品取扱規則」によって近代的薬事制度の骨格はほぼ確立をみるに至ったとされております。しかし一方で、西洋医学による試験に合格しなければ新たに医業の開設が出来なくなったことで、漢方医学界は大きな打撃を被ることとなります。その結果、慢性的な医師不足が生じ、患者が容易に受診できない状況を惹起するといった弊害をももたらすことになったのです。そうした実情を憂いた高松保郎(1864~1893年)によって、その前年となる明治21年(1888)東京に設立されたのが、売薬営業を主たる目的とする「愛生館」でございます。
この「愛生館」における薬品販売事業とは、松本順から伝授された36種類の薬品の製造・販売、及び松本順口述・高橋保郎筆記による『通俗民間治療法』の発行・販売にありました。中澤先生によれば、その設立趣意書には、医療や薬の普及が進んだとはいえ、地方ではそれらが行き届かず、病に罹患しても手遅れとなって死に至ることも多いことを指摘し、医薬品入手の地域差を是正することを目的とすると述べられているとのことであります。その薬品の品質保証を担保したのが初代陸軍軍医総監として高名な医家「松本順」の存在であったのでしょう。高松から相談を受けた松本自身も、高松の事業に賛同と協力を惜しむことなく、自身の研究成果をおしげもなく提供すると同時に、「愛生館」の顧問にも就任しております。高松は、趣意書において本事業における松本順との関係を以下のように述べております。また、その運営については「趣旨に賛同する人々から出資をうけ、薬品製造・販売資金に充てる」こと、「出身金は高松保郎の借金として受け、出資者に配当金を支払う」こと、「各地に請負・大売捌(支部等)をおいて販路を拡大する」こと等を方針として打ち出しました。
(前略) 大医松本先生に就て其意見の程を陳へ且つ賛成を請ひたりしに、先生亦多年こゝに刻志せらるゝ所ありしを以て大に此挙を賞せられ頓に賛成の力を労すへきことを諾されるのみならず、先生数十年の実験を積て考定さるゝ所の良剤素十方を挙て余輩に嘱し、予が志を嘉するの余り天下の為め之を指す授与すると称して具に其薬方を伝授されたり、(後略) (高松保郎「愛生舘旨意書 写」川口家家蔵文書より) |
こうした高松の趣旨に賛同した一人が、川口新之丞その人に他なりませんでした。どうやら、新之丞はそれ以前から高松と親しい間柄にあったようで、書簡の遣り取りをしたり、高松自身が柏井にある川口邸へ来泊することもあったようです。そうした関係性故でございましょう、明治22年(1889)5月、高松から新之丞に愛生館の薬剤の販売についての本格的な勧誘があり、趣旨に賛同した新之丞は翌月東京に赴きます。そこで、千葉・茨城・栃木・群馬の四県で愛生館の薬剤・書籍を請売する契約を交わし、矢継ぎ早にその帰路“犢橋村役場(現:千葉市内)”に立ち寄り薬剤の請売願書と書籍の小売営業届を提出しております。そして、同年8月には「愛生館第一支部」して「雷鳴館」を設立し、雷鳴館と契約を結んだ特約店に薬剤と書籍とを卸す、所謂“問屋業務”を始めることとなったのです。また、同年10月に新之丞は「雷鳴堂」の従業員として秋山康之進という人物を雇い入れております。当人物は、後に再び登場しますので記憶の片隅に留めておいて下さいませ。康之進は千葉郡武石村(現:千葉市内)の芝田元達の次男で秋山新八家に養子に入った人物でありますが、実父元達は佐倉藩医(蘭方医)であり、川口家の主治医でもありました。そうした人的な繋がりから採用され、新之丞の側近として実務を担うことになったようです。そして、新之丞の意を受けて東京の愛生館に頻繁に出入りしていた関係から、各地での愛生館支店開設を任されるようにもなっていたのです。
さて、愛生館の経営方針にもあったように、経営資金は賛同者からの出資金で賄われることになっておりましたから、新之丞も多額の出資を行っております。現在本館に帰宅され保管されている「川口家文書群」の中から確認されている関係する証文の一覧が中澤先生の論考に掲げてございます。それによれば明治22年(1889)12月から翌年3月までの4ヶ月間に、都合6回に亘って合計で4.530円を出資しております。ちょっと現在の貨幣価値との比較は出来かねますが、明治半ばの4千円とは相当な巨額であることは間違い在りますまい。ところが、度重なる出資に対する配当金が支給されないことから、新之丞は明治23年(1890)の段階で既に高松保郎に対して不信感と疑念を抱くようになっていきます。その結果、新之丞は高松に対して出資金の返済を催促したり、愛生館支部解約の申し入れを行ったり、最終的には裁判の準備まで始めることになるのです。川口家文書中には当該裁判の準備のための文書が残されております。新之丞の主張は、一つは上述したような「金銭問題」であり、二つに「愛生館第一支部への処遇問題」に尽きるようです。後者については、川口家の「雷鳴堂」を経由することなく、愛生館が本来「雷鳴堂」の下部支店へ直接に薬剤を送っていることへの不満でありますが、確かにこれは約定違反として憤懣を抱えるのは当然でございましょう。新之丞は、愛生館顧問の松本順にも相談を持ちかけながら裁判に向けての準備を着々と進めておりました。しかし、明治23年(1890)10月下旬に出訴を停止し裁判を取り下げております。一転して裁判を取りやめた理由は現段階では不明という他ございません。
ここからは、飽くまでも小生の想像に過ぎませんが、愛生館顧問である松本順から「問題を荒立てずにソフトランディングできないか」との働きかけもあったのではないでしょうか。何故ならば、その翌年である明治24年(1891)に松本順の長女“石”が川口家に嫁ぎ、新之丞の妻になっているからでございます。飽くまでも下種の勘ぐりに過ぎませんが、迷惑を掛けてしまったお詫びとして自身の娘との婚姻を働きかけたのではありますまいか。勿論、これは根拠のない邪推にすぎません。しかし、松本順らしいケジメの付け方のようにも想像致します(父の都合で嫁入先をきめられた“石”の心情を思うと複雑ですが)。話を元に戻しますが、前者の金銭問題(出資金返済)の解決はその後も長引いたようで、明治25年(1892)の記録として400円の返済があったことがわかりますが、残金4.130円に当たる金額の返済に関する記録は存在しないようです。貸借関係の文書は後々の証拠として、一般的には最も大切に保管されるものであります。従って、それが無いということは踏み倒された可能性が大きいのではありますまいか。こうした混乱のなかで愛生館の経営が不振に陥り、明治26年(1893)経営の総帥である高松保郎が死去するとともに、その事業は頓挫することになるのでした。高松の志は高邁ではありましたが、その運営実務の面で躓いたということになりましょうか。
「愛生館第一支部」の契約を解消した新之丞は、明治26年(1893)千葉県知事に対し、松本順が処方した薬種を直接入手して営業することを届け出、鑑札の交付を申請することになります。そして、その交付を受けた新之丞は明治28年(1985)「太平洋売薬店」の営業を開始することになります。新之丞の新たな出発に対して、松本潤は当店の推薦文を自ら記し、娘婿の支援をしております。中澤先生の論考によれば、松本は「売薬は国家一日も欠くへからざる最必要の物」と位置づけ、「これを売る人々は苟(いやしく)も人の性命にあつかる者なれは甚貴重の者なるに」、「多年の悪弊皆目前の小利に迷ひ無益の装飾に其資本を費し方剤の如何を問はす低廉粗悪の薬品を以て無根の虚利をむさほらんことを欲するもの多きか為めに終に世の中に擯斥せられ最下等の者」と評されて来たと、当時の実情を述べ、更に続けて新之丞の「太平洋売薬店」について以下のように述べているとし以下の松本順の文を引用されます。そして、小生もそのままここに引きたいと存じます。松本順は、その後も娘婿である新之丞の売薬業へ諸々とアドバイスを行っていることも知られます。しかし、明治36年(1903)に新之丞が若くして没すると売薬店そのものも畳んだようであります。川口家にはそれ以降の医薬品販売に関係する記録が一切残されていないことから、斯様に考えられるとのことでございます。つまり新之丞一代限りの事業であったようです[松本順は明治40年(1907)に76歳で死没]。
茲に太平洋売薬店(下総国千葉郡旧柏井村)は予は殊に心を用ひて良薬を売らしむものなり、願くは売薬商たる人々無用の粗剤を廃し太平洋売薬店の良品を以て相当の利益と済生の隠徳とを幷ひ得て子孫の余慶を庶希せられむ殊を希望するなり、釈経明文あり、人の不幸は貧にして病にかゝる者より甚しきはなく、目前其不幸を見てこれを救はす寺院に寄附し大法会施餓鬼を行ふは却て其罪を増すとも微塵の冥福を得ることなしと、仏教の教、実に敬服の外なし、良薬をうりて生計となし子孫永久の余慶を遺されむ事予か売薬社会に祈念する処なり、諸彦此意を得られなは此書を壁頭に掲け日々一読あらむ事を請ふ。 明治二十八年七月相模国大磯の隠栖に於て
(松本順「太平洋売薬店推薦文」~印刷物「太平洋売約方名効能」の裏面 川口家家蔵文書より) |
松本順は、一般の人々への衛生知識の普及活動や貧困故に医療を受けられない人々への無料診断といった社会事業をも実践した人物でありますが、遺された川口家文書からも、順が当地域において無料診断を行っていたことがわかるといいます。また、先にちょっと振っておいた武石村出身で新之丞の側近であった秋山康之進でございますが、新之丞と高松との関係がぎくしゃくしていた頃に北海道に渡って札幌支店の開設に奔走しており、実際に明治24年に札幌に支店を開設しております。その後に愛生館が破綻した後には独立し、札幌支店を「秋山愛生館」と改称して独自に売薬業を継続することにしたのです。そしてその後、開拓時代の道民の健康を支える社会的使命を果たすことになるのです。千葉の地で新たに「太平洋売薬店」として再出発を果たした川口新之丞も、康之進の北海道での活動に深い理解を示し、その事業を支援することを惜しまなかったといいます。そして、高松保郎、川口新之丞、そして松本順の抱いた理念は、秋山康之進の見事なバトンパスを介して、その没後も営々と現在に至るまで北海道で継承されているのです。因みに、「秋山愛生舘」は、平成10年に愛知県の企業「スズケン」と合併し、現在は「スズケン」の店名で薬品販売を継続されているとのことです。別に「秋山記念生命科学振興財団」が設立され、令和元年(2019)この地で唯一名を残した「愛生館」の歩みを永年保存すべく、当財団の手により札幌に薬品販売の歴史資料室「愛生館文庫」をオープンしているとのことです。北海道に足を運ぶ機会があれば是非とも訪問してみたいものでございます。
最後に、その後の川口家の歴史上、特筆すべき“現代”の人物についてご紹介して本稿を閉じたいと存じます。それが、明治42年(1909)に印旛郡志津村(現:佐倉市内)の豊田家から川口家に養子に迎えられ、その後「新宅」を構えて独立することになる川口為之助(1881~1962年)でございます。何が特筆すべきかと申せば、氏名をお読みになった方で既にお気づきの方も多かろうと存じますが、戦後に「日本国憲法」制定後の初代民選「千葉県知事」に就任した人物であるからでございます(明治からの通算では36代目となります)。そうした政治上の画期に知事を務めた功績の故でございましょう、現在千葉県庁前に立派な銅像が建立されております。小生もそれが誰なのかを気にしたこともなかったのですが、近世以来の旧家・名家である「川口家」由来の人物であったのでした。因みに、彼の政治家志向は大正期に遡り、大正4年(1915)立憲政友会から千葉県議会議員に初当選し4期16年間を務めているそうです(途中犢橋村村長就任による中断期あり)。この間、昭和3年(1928)より一年間県「議長」も務めてもおります。昭和15年(1940)「大政翼賛会」が成立し、立憲政友会が解散しすると県議を辞職し公職から退いております。しかし、戦後旧政友会系新党である「日本自由党」が結成されるとこれに参加し政治活動を再開。その後昭和22年(1947)初の県知事公選に自由党から出馬して当選を果たすことになったのです。また、知事辞任後には参議院議員を務め、「自由民主党」が成立すると県連会長となり千葉日報社長も務めてもいるとのことです。
以上、今回は、千葉市域の旧家「川口家」の近世・近代・現代を辿ってみました。それぞれの時代の中、如何に社会に関わるかを模索されて来た、多彩な歴史と人物像が浮かび上がってくるように思われます。その中で、松本順といった人物との深い関係性を有しても来た一家の歴史を少しでも知っていただければ幸いでございます。
何とかの一つ憶えのように、毎度毎度の“陽気”話題にて恐縮でございますが、ここのところ、月初めの夏日が一転したかのような冷え込みとなりました。これも毎度お馴染みとなりましたが、あたかも芝居の“回舞台”のように、秋を通り越して夏から冬へと舞台が急転換をしたかのようです。何でも、報道ではアパレル業界から「これでは折角仕入れた“秋物”が全く捌けない……」との悲鳴が届いているとございましたが、それも宜なるかな……と頷かざるを得ません。この関東でさえ、半袖から冬物コートに入れ替えなくてはならないほどの冷え込みですから。これからの我が国では商業戦略の転換を図らなくてはならないのかも知れません。さて、今回の本稿では、本館における「教育普及」の一環として令和2年(2020)度より配置されております「エデュケーター」の活動につきまして、主にここ一カ月の間に学校からの御依頼を受けて実施をいたしました「出張出前授業」を中心に、子供達にいかなる成果をもたらしているのかをご紹介させていただきたいと存じます。ただ、前半部では以前にも述べさせていただいたことがありますが、その前提として、「エデュケーター」の機能、それに携わる職員に求められる適正といった、一般論から始めさせていただきたいと存じます。小中学生を相手とする「エデュケーター」の職務は決して誰にでも務まるような生易しい仕事ではないことも知っていただきたいと思い、過去の内容を再論させていただくことをご容赦くださいませ。
現状におきて、本館における「エデュケーター」配置に関しましては、前館長さんの熱心な働きかけが実を結び、ザックリとした物言いで申しせば「一人配置」の予算が3年半前に実現できたのです(小生の館長就任の年であります)。ただ、一人配置では必ずしも充分ではございません。何故ならば、小学校と中学校とでは成長段階の観点から、それぞれ固有の専門性が必要であり、小学生と中学生ではそれぞれ別の方に担っていただくことが重要だからでございます。より正確に言えば、同じ小学生であっても一年生と六年生では理解力の差が極めて大きくなります。小学校で、6年間持ち上がって担任をするケースが稀であり、低学年(1・2年生)・中学年(3・4年生)・高学年(5・6年生)をそれぞれ専門で担う職員も多くなる由縁であります。つまり、同じアプローチでは全く対応できないからであります。逆に、中学生では余りに単純で分かりやすいことでは飽きてしまいます。知的な投げかけや、生徒の既存の認識をひっくり返すような資料を提示して、その驚きから課題解決への強い動機付けを与えるなどの手法が求められます。教える教材に関する専門性が求められることは言うまでもございませんが、それは必要条件であって充分条件ではございません。大人とは異なる、子供の発達条件に適合したアプローチが重要な条件となるのです。それが誰にでも行うことのできない高度に専門性を要することは論を俟ちますまい。従いまして、「エデュケーター」として求められるのは、「小学生担当」と「中学生担当」の二人であることが大前提となります。でありましから、予算を折半してお二人を雇用することにせざるをえませんでした。基本的に「週4日配置」を折半し、それぞれ「2日勤務」という厳しい時間的な制約の中で、出前授業は勿論、現場教員からの地域教材を用いての授業相談、郷土博物館に来館される学校の子ども達への学習プリント等の作成、はたまた展示リニューアルに向けての解説文面の検討(小中学校在籍児童生徒の理解が可能か)等々、山のような業務を果たしていただいている現状にあります。
また、以上述べたことからも明らかなように、「エデュケーター」に相応しい人材は、過去に小中学校教諭として、現場で卓越した授業実践の実績を上げてこられた教職員OBの方である必要がございます。それが、小学校担当の染谷一道教諭、中学校担当の平成司教諭のお二人の「エデュケーター」でございます。そう言うと、今でも「教育普及なんて知っていること喋ればいいのだから、館の職員が担えばよいではないか」といったご意見が、思いのほか根強く存在いたします。それは、上述いたしましたような教職員による仕事を「ただ一方的に知っていることを伝える」ことであり、(確かに保護者対応等では大変かも知れないが)「こと授業に関しては誰でも出来る仕事だろう……」との認識を前提にされている認識に他ならないと存じます。小生に言わせれば、それはとんでもない誤認と申し上げるしかございません。小生は、そうしたことを宣われる方には、常々「貴方御自身が一度生徒に授業をなさってみたら如何ですか?それがどれほど難しいことはすぐにお分かりになりますよ」と申し上げて参りました。子供の実態に無関心で、知っていることだけを一方的にしゃべっているだけでは子供は「置いてけ堀」となり、その内に飽きて私語を始めます。それを続けていれば間違いなく「授業崩壊」の状況に陥りましょう。余程優秀な児童生徒さんだけが集まっている特殊な学校では「授業崩壊」には至りません。しかし、こんな訳の分からん授業など時間の浪費だと判断して、個々の児童生徒が教師を無視して勝手に自習を開始することでしょう(小生の勤務した千葉大学教育学部附属中学校の生徒が正にそれでございました)。
繰り返しになりますが、子ども達に対する教授行為における専門性の中には、もちろん豊かな「専門的知識」を有すること、常にそれを最新の知見に更新し続ける不断の「教材研究」の努力の必要性は論を俟ちません。しかし、それと同等に求められることが、児童生徒が当該教材について理解を深めるためには如何なる道筋でアプロ―チとすることが必要かを見極めることであり、それに応じた教材を選択することであります。同時に、その教材を如何なる切り口で生徒に提示することが児童生徒の理解に繋がるかを見極めなければなりません。つまり、それは児童生徒の実態に基づいて授業計画を構築することであり、より具体的に申せば「資史料」を仲介した、教師の「問い」と児童生徒の「答え」との不断の遣り取りによって系統的に児童生徒の理解を深めていく作業に他ならないのです。特に教師には如何なる「問い」を子ども達に投げかけるかが勝負となります。その意味で、教師は言語の達人である必要さえございます。ここまでご説明して、この仕事が誰にでもできる簡単なことではないことを御理解いただけましたでしょうか。
こうした教師としての専門性は、例え大学の教育学部出身の教師であっても一朝一夕に身に付くこととも思えませんし、現職の先生方にもこれだけの意識を強く有して授業実践をされている方は必ずしも多くはないと存じます。それは、必ずしも教師の怠慢に帰すべきことでもありません。何故ならば、教師の本務である授業準備以外の負担が余りにも膨大で、それらに忙殺されている状況にあるからです。考えてみてください。教師が明日の授業の準備をするのでしょう。部活動が終わった19時以降に取り組むしかないのです。教師の労働時間が減らない大きな要因であります。しかも、相手の児童生徒は一人ひとり異なる人間の集団です。「専門性」もそれぞれの子供達の実態に適合させてカスタマイズされる必要もあるのです。それには、長い思考錯誤と訓練を経た経験則が必要となります。つまり、高度な専門的知見を有する研究者が、教育者として必ずしも一流であるとは限らないことからも、小生の述べていることが偽りではないことを御理解頂けましょう。これらのことから、本館では指導能力と力量の面で優れた選りすぐりの小学校教諭OBと中学校教諭OBの方を狙い撃ちしてお願いをさせていただいたのです。そして、本年度は配置から4年目を迎えております。
最初の一年間は授業内容の検討と計画づくりに費やしましたので、実際に各学校からの要請に基づく出張出前授業を開始してから3年目に入りました。お蔭様をもちまして、特に小学校からは年々歳々「要請」が増加してきておりますし、その成果も着々と上がってきていると実感しております。しかし一方で、各学校からの多様な要望に応えるために、授業内容も事前に例示している一律共通のものから、個々の学校毎の必要に基づくカスタマイズして実施せねばならない事例も増えて参りました。特に中学校ではそれが顕著でございます。嬉しい悲鳴ではございますが、今やエデュケーターの勤務日数の増加を求めていかねばならない状況にあると申さねばなりません。授業に出かける前に、その準備に時間を十分にかける必要があるからに他ならないからでございます。今後ともに、予算の確保に努めて参らねばならないと確信をするものであります。郷土愛の基盤とは、郷土が如何なる歩みで今日に至ったのかを正しく理解することから芽生えてくるものであり、それは小中学校の時代に育まれることが不可欠だと考えます。以下に、本年度に小・中学校で行われた出張出前授業の実例を、主に実施校からご提供頂いた児童生徒の感想を中心に御紹介をさせていただきます。以上で小生が縷々述べてきたことが、決して「絵に描いた餅」ではないことをご確認頂けると存じます。ただ、小学校の実施事例における児童の感想でありますが、個人を特定できるような情報はございませんが、多くの文面を引用する関係もありますので、敢えて学校名は明らかにしておりません。皆様におかれましては、ご理解をいただけましたら幸いでございます。
まず、中学校での授業実践事例からとなります。昨年度の「館長メッセージ」で、千葉市立誉田中学校「地域ふれあい学習」における一講座として要請を受けました「千葉市緑区誉田地区の歴史的な位置づけ」を学ぶ内容であり、それを「地域に残る城郭遺跡」等から探る授業を展開したこと、及び生徒の認識の変化についてをご紹介させていただきました。本年も昨年度に引き続き誉田中からの要請を頂き、昨年と異なる生徒を対象に同内容での授業展開を実施。本年度も以下のような受講生徒からの感想が寄せられておりますので紹介をさせていただきます。自身の居住する地域における過去の人々の営みを知ることで、これまで全く意識すらしてこなかった居住地域の歴史的な位置づけを知ることで、地域への誇りを持てるようになったとの感想でございます。まさに、本館が義務教育の段階で是非とも身に付けもらいたいと考える、地域の歴史を背景にした地域認識の高まりが見て取れると考えております。この成果を受けて、本年度は年明けに千葉市立星久喜中学校からも中学校一年生を対象とする、同様の趣旨による授業要請を受けている状況であります。今後ともに、中学校におけるこうした地域学習の普及に力を入れて参りたいと考えております。本館のホームページ内のコンテンツ「教育活動」内にございます「出前授業」を開いていただきますと、小学校・中学校のそれぞれの出張出前授業の事例が挙げられております。そのうち、中学校における「地域学習」の事例を4つ挙げておりますので、以下にタイトルのみでありますがご紹介をさせていただきます(詳細はホームページでご確認いただけます)。もちろん、これを基本として各学校からの希望に合せてカスタマイズした授業を実施させていただきます。そのため、少なくとも授業実施の2~3か月前には要請をいただければと存じます。「来週にお願い」では流石にカスタマイズして授業づくりをする時間がございません。ご要望後に担当者が学校にお邪魔をさせていただき、生徒の実態と学校からの希望を確認してから授業構成をさせていただきますので、その点はご理解をいただけましたら幸いでございます。
「地理的な視点で、昔、国の境であったこと、高い土地で守りがかためられるといったことから考えたが、古墳の時代と戦国の時代の資料と授業者の話を受けて、もう一度見比べた。そこで、時代が変化しても、この地域が交通の要衝として重要な地域であることに感銘を受けた。様々な時代の人々が、この地域の地形の特色を活かして、城をつくり、商いを行い、生活をしていた。そんな地に自分が今住み、生活をしていることに誇りを持てた」
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地域1 | 『戦争で燃えた千葉のまち』 ―空襲の標的になった軍都・千葉― ~千葉市中心部・中央区・稲毛区 周辺 の地域学習として~ |
地域2 | 『郷土に残る城郭から考える○○地域 』 ~緑区・若葉区周辺 の地域学習として~ |
地域3 | 『遠浅の干潟から工業地帯と大規模住宅団地へ 』 ~千葉市 の 沿岸部、中央区、美浜区 周辺 の地域学習として~ |
地域4 | 『大規模住宅団地と内陸工業団地の開発 』 ~千葉市 北西部 ・ 花見川 区 ・ 稲毛区・若葉区) 周辺 の地域学習として~ |
続いて、小学校での実施事例に移りましょう。小学校6年生児童を対象とした『千葉常胤を父のように信頼した源頼朝』の授業展開のご紹介をさせていただきます。授業の内容は、先にも述べました本館ホームページ「教育活動~出前授業」から当該授業についての全体を引用して以下にお示しをさせていただきます。実際には、これに若干のアレンジを加えた授業となりましたが、基本はこの形での実践となりました。以下に、授業を受けた児童40名弱の感想を適宜選択してお示しさせていただきます。論より証拠、子供たちにとっても大変に有意義な内容の授業であったものと思っていただけると存じます。
千葉市立郷土博物館 小学校用 出前授業プログラム 6年-11 題材名 『千葉常胤を父のように信頼した源頼朝』 <6年 社会科 歴史的分野> 2 授業のねらい ① 千葉市の歴史に深くかかわっている千葉常胤を、鎌倉幕府を起こした源頼朝は「父のように思う」とまで言って深く信頼していました。年齢も立場も異なる2人は、なぜこの様な信頼関係で結ばれていたのかを中心的な内容として取り上げて学習します。 ② 小学生でも理解しやすいように、千葉市発行漫画「千葉常胤公ものがたり」を中心資料として、頼朝と常胤の信頼関係を通して「御恩と奉公」という個人的な関係で結びついていた将軍と武士のつながり(封建制度)を学習します。 ③ 本年は市政 100 周年の記念の年です。改めて千葉常胤が鎌倉幕府の成立と深く関わっていたことを学習することによって、千葉氏と千葉市の歴史に対する理解と興味関心を深めたいと思います。 3 指導計画上の位置付け ◇6年社会科指導計画 4「武士の世の中へ」と関連します。 ◇教科書P48「源氏と平氏が戦う」の学習後に、学ぶと効果的な1 時間の学習です。 4 予想される授業の流れと指導資料 ① 源頼朝と千葉常胤(2人共に当館展示物)の2人の写真と「千葉常胤公ものがたり」のページ資料から2人の基本的立場や年齢を提示して、2人の関係を確認したり、写真の感想を聞いたりします。 ② キーワード「父の様に思う」の言葉を提示して、お互いの関係について自由に意見を話し合います。 *頼朝と常胤はまるで親子のような関係か? 信頼関係が作られるまで色々な出来事があったろうな *なぜこんな信頼関係になったのだろう? 実際は親子ではないのにふしぎ ③ 上記の話し合いを受けて、頼朝と常胤の信頼関係を考えるために、3枚のヒントカード1枚ずつ提示して学習することを伝え、ヒントカードごとに2人の信頼関係について資料をもとに話し合います。また、2人の気持ちの高まりを確認するため「信頼度メーター」という方法も使うことを伝えます。 *ヒントカード1「知り合うきっかけ」 『保元の乱で常胤と頼朝の父親が一緒に戦う』 ・細かい歴史事項をではなく、2人の関係がどう深まっていくのかの視点で話し合っていく。 ・ヒントカードの話し合い毎に、児童の意見で信頼度メーターにシールを積み重ねていく。 *ヒントカード2「第2の知り合うきっかけ」 『頼朝は常胤に助けを求めるが、さて?』 ・上記の関係や話し合いをもとに、常胤は頼朝を助けるかどうか話し合う。 必要に応じて資料の補足 *ヒントカード3「父のように思う?」 「頼朝が常胤を父のように信頼できたのはなぜ?」 ・<頼朝>は、助けてもらえるか不安だった。でも真っ先に助けてくれてとてもうれしかった。 ・<常胤>は、真っ先に助けてほしいと求めれうれしかった、でもこれから大丈夫か、不安もあるな? ④ その後の常胤の活躍を、漫画第4章や巻末資料で確認しながら日本地図に張り付けて行って、千葉氏のワークシートで「御恩と奉公」で繋がっていた封建制度についてまとめ、発表します。 <活用する資料> (本館ホームページ 「教育活動」 「出前授業」 より引用) |
授業の振り返り「千葉常胤を父のようにしたう源頼朝」を学習して
1 この授業を始める前に「千葉常胤」を知っていましたか。 ・千葉常胤の漫画を読んで常胤のことはだいたい知っている (47%) ・何回も聞いて知っている (21%) ・少し名前は聞いたことがある (29%) ・ほとんど知らなかった ( 3%)
2 約850年前に源頼朝を助勢して、千葉市域や全国で大きな活躍をして鎌倉幕府の成立に深く関わった歴史上の人物「千葉常胤」について、授業を通して市民の一人としてどう思いましたか。 ・日本全体の歴史に影響するような活躍をしたのは凄いことだ。 ・千葉市民として誇りに思う(多数)。 ・自分たちの未来を頼朝にかけた決断がすごいと思った。 ・常胤がいなかったらその後の歴史が大きく変わっていたかもしれない。 ・今の千葉市の人が全国で大きな活躍をしていたことが嬉しかった(多数)。 ・常重が本拠を移していなければ900年の歴史はおろか常胤も千葉にこなかったのだから歴史が変わっていたかもしれない。 ・常重からの900年間の千葉市の歴史を知りたいと思う。(多数) ・千葉市は短い歴史しかないところだと思って、その歴史に関心もなかったけど、こんなに長くて立派な歴史があることに驚いた。この歴史を大切にしなければと思った。(多数) ・昔の人々の積み重ねで今の自分や町があることは凄いことだと思った。
4 今日の授業は楽しく役に立ちましたか。 ・とても楽しく役に立った (37%) ・楽しく役に立った (63%) ・少し楽しく役に立った ( 0%) ・あまり楽しくなく役にも立たなかった ( 0%) <理 由> ・知らなかったことをたくさん知れたし、先生の授業は分かりやすく楽しかったから。 ・染谷先生が細かいところまですごい情熱で説明してくれたから。 ・黒板にたくさんの紙をはって整理しながら説明してくれたから。 ・普段の授業ではそんなに詳しくないから専門的な内容で新鮮だったから。 ・クイズなどの問題や自分で考える時間があったりしたから。 ・映像があったり、先生の話が面白くて引きこまれたから。 ・さまさまなことを予想したり想像できる授業だったから。 ・みんなで意見を言い合うのが楽しく、互いの意見を尊重しあえたのもよかったし、自分が思っていた考えと違った意見が聞けて新鮮だったから。 ・「どうする常胤!?」が楽しかった。 ・今までこうした授業をあんまり受けたことがなかったから。
5 今回の授業について自由に感想を書いてください。 ・初めての60分授業だったけど説明が分かりやすいし、自分が参加して考える時間もあったので、あっという間だって感じるくらいに楽しい授業でした。 ・これからは、事実だけではなく自分の想像や意見も大切にしたいと思った。 ・千葉氏や源氏のことは知っていたけれど、なぜ二人が協力し合うことになったのか、スライドなどを使ってくれたのでよく理解できた。 ・「もし〇〇だったら?」という発想で考えたことがなかったので社会が面白くなりました。 ・頼朝がどうして千葉に来たのか、常胤がなんで頼朝に味方をしたのか、親や先生に聞いてもよくわからなかったのに、今日の授業でやっと理解できてうれしかった。 ・一人の人間の決断で未来が変わることもあるのだと知って、歴史は面白いなと思いました。 ・歴史の楽しみ方を知ることができた。武士の「領地がすべて!」との考えは凄いと思いました。 ・先生のギャグが面白かったし、内容もすごく役に立ちました。染谷先生が自分の好きなことを仕事として続けているのがすごいと思いました。 ・今日のように、歴史上の人物について自分の意見で考えることはとても貴重な経験になると思いました。
(小学校6年生児童を対象とした出張出前授業校における授業後の感想文から適宜編集して引用) |
以上、お読み頂いて如何お感じになられたでしょうか。本館の実践する出張出前授業が児童生徒の地域認識を高めていることを御理解頂けたのではないかと存じます。各学校からの期待に応えることが出来るように、我々も精一杯取り組んでまいりますので、是非とも要請をご検討頂ければと存じます。誉田中学校の事例にもございましたように、決して社会科の授業である必要はございません。「総合的な学習の時間」や「学校行事」の一環のなかでの地域学習の時間でも一向に構いません。「こんなことで活用したいのだが可能か?」等々がございましたら、遠慮無く本館に電話でお問い合わせをいただけましたら幸いでございます。また、本年度に顕著な新たな動向として、社会科を担当する教師御自身からの地域学習についての資史料の御相談も相応数ございます。そちらにつきましても、小中の担当職員へお電話でご相談下さい。必要に応じて学校に出向いて相談に応じた事例もございます。また、市外からの要請への対応は難しいのですが、本年度の新たな動向として幕張に所在する「インターナショナルスクール」からの授業要請にも応えて授業を行っております。まずは、本館のホームページから、如何なる授業が可能かどうかをご確認頂くことから始めてみては如何でしょうか。多くの学校からのご要請が届くことに期待を寄せております。
一時、所謂「落語ブーム」と言われた時期がございまして、大勢の若い方々が寄席へ脚を運ぶようになったことを喜ばしく思っておりました。しかし、その流行も下火となったためか、昨今ではそんな噂もさっぱり耳にしなくなったように思います。ただ、このことは再び落語が忘れ去られるようになったというより、ブームを契機に、落語への安定的な人気が保たれるようになった証拠なのかもしれません。そうであれば、下手に騒ぎ立てられるような存在になるよりも、大いに結構な状況であると存じます。ただ、テレビで噺家の活躍するレギュラー番組で延びているのは「笑点」くらいではありますまいか。長寿番組ではございますが今では30分枠となっております。尤も、正月には「初笑」と称して新宿の「末広亭」、上野の「鈴本演芸場」、浅草六区にある「浅草演芸ホール」等からの「寄席中継」が長尺で放映されることはございます。しかし、それも年に一度のことでございます。小生が子供の頃にラジオやテレビで出会うことのできた「落語番組」も、今ではまともに落語のネタに接することができるのは、NHK教育放送で時折放映される「古典芸能」の時間くらいでしょうか。このことは、落語が「博物館」級の遺産として認定されたということ捉えるべきなのかもしれませんが、一方ではそれでよいのかとの複雑な思いも頭をもたげて参ります。
話題は個人的なことに及びますが、小生が落語の世界に開眼したのは、20歳前後の大学生の頃のことでした。両親が落語を好んでおりテレビ・ラジオでの落語放送に親しんでいたこともありましたが、同級の友人にその世界に通じた者がおり、その影響で噺家の話芸への関心が高まったことが大きかったと思います。勿論、寄席にも脚を運びましたが、寄席では芸人が入れ代わり立ち代わり芸を披露するため、惜しむらくは一人あたりの持ち時間は極めて短いのです。従って、落語でもじっくりと話芸を味わえる長尺のネタに接することは叶いませんでした。また、落語以外の芸能が間に挟まりますから(声体模写・手品・曲芸・漫談等々)、落語ばかりを耳にもできません。丁度その頃に、名人と言われた6代目三遊亭圓生が亡くなったことも大きかったと思いますが[昭和54年(1979)没]、次第に寄席からは脚が遠のいてしまいました。その分、当時カセットテープで販売されていた既に物故していた名人の高座音源をコツコツと入手して楽しむようになりました(今でも相当数のテープコレクションがありますが、テープ自体とカセットデッキの劣化で殆ど聞くことが叶わないのが残念です)。林家三平のような顕著なタレント性で笑わせる噺や新作落語のような世界よりも、当初から「古典落語」の世界に惹かれました。そのための格好の指南書となったのが、筑摩書房より昭和43年(1968)から刊行された『古典落語(第1期・第2期)』であり、当時古書で仕入れた全10冊本は今でも時折お世話になる愛読書でございます。特に、五代目・古今亭志ん生(1890~1973年)、黒門町の師匠八代目・桂文楽(1892~1971年)、上述した六代目・三遊亭圓生(1900~1979年)、渋い芸風ですが忘れがたい八代目・三笑亭可楽(1897~1964年)等々は大の贔屓筋でございました。もっとも、圓生以外は既に物故された後であり、生前の口演に接したことはございません。しかし、残された音源・文字記録からでさえ、その名人ぶりは“超ド級”であることは歴然としており、当時現存の若手の噺などとは段違いの格の差がございました。従って、必然的に故人の落語にばかり親しむようになっていくことになったのです。そうした中で、出会って最もお気に入りの噺家となったのが、小生が2歳になる直前には既に鬼籍にお入りになられていた三代目・桂三木助(1902~1961年)に他なりませんでした。そして、その思いは今日に至るまで変わっておりません。
今回、その三木助を何故採り上げることになったのか、その切っ掛けは一月ほど前に山の神と出かけた人形町「甘酒横町」にある、「草加屋」という煎餅屋に立ち寄ったことでした。その店内に思いもかけず三木助の写真が飾ってあり、正確な言葉までは覚えておりませんが「三木助師匠の御贔屓にあずかった煎餅」といった文言があったことに由来いたします。食べ物に五月蠅かった三木助に愛された煎餅屋であったことを宣伝文句とする、小売商でよく見かける仕掛けでございましょうが(「宮内庁御用達」みたいなもんでしょう)、それが三木助であるとすれば軽々には扱えません。調べてみると、三木助最後の内弟子であった林家木久扇(初名は木久男)が以下のように証言していることからも、三木助自身が大の好物としていたことが明らかだとわかりました。お読みいただければ、三木助にとって当店の煎餅がどれほどの存在であったかかが知れましょう。同時に愛嬌溢れる三木助の素顔に微笑ましさすら感じさせられます。因みに、この木久扇は、この度「笑点」から引退することになった、あの“木久扇”のことです。彼は、三木助への弟子入り後、半年足らずで師匠が亡くなってしまったこともあって、八代目「林家正蔵」(1895~1982年)[晩年に「彦六」に改名しております]に引き取られた際、三木助から与えられた“木久”に正蔵の“蔵”をつけて名乗としたのです)。20歳代から30歳代にかけて夢中になって聴き込んだ三木助に、こんなところで再会を果たして、若い頃に夢中になって聴いていた三木助の噺が沸々と甦ってきたのでした。後にもふれますように、人形町は、ある意味で半世紀ほど前に、小生と三木助が初めて出会った場でもあり(!?)、また、今は無き戦前の寄席の息吹を伝えていた畳敷の寄席「人形町末廣」のあった、三木助とも深い縁で結ばれた町でもあります。そんな街の煎餅屋で、偶然に再会した三木助の写真に大いなる縁を感じた次第であります。そこで、余計なお世話とはお存じましたが、彼のことをご存じない方にも、この不世出の名人について親しんでいただく契機にでもなれば……と思い、本稿でご紹介をと考えた次第でございます。因みに、小生もその煎餅を購入して食しました。三木助に愛されるくらいですから美味でないことなどあるはずもございません。しかし、煎餅というのは相当に個人的な嗜好によって好みが異なります。大いに期待しましたが、小生の好みとはちょいと異なりました。余計な情報ですが、当方のイチオシは、足立区の竹ノ塚にある「澤田商店」の煎餅でございます。
(前略) 師匠は大変なグルメで、米の炊き方や味噌汁の作り方のはてまで細かいこだわりがある。ラッキョウは神田のどこそこ、煮込みにする鶏のモツは人形町のどこそこという具合で、それぞれ買う店も決まっていた。電車賃のほうがかかるんじゃないかと思ったくらいです。日本橋人形町の『草加屋』の煎餅も大好物で、これは部屋の金庫に入れていた。夕方、「おーい」と呼ばれたので、行ってみたら、師匠がお煎餅をちょうど金庫にしまおうとしていた。あたくしが、そんなに早く駆けつけるとは思っていなかったんじゃないでしょうね。そのときは煎餅を一枚くれて、「おい、ほかのヤツに言うなよ」(笑)。 (後略)
[林家木久扇「『小型じゃだめだよ』 とことん貫いた美学」より |
さて、小生が三木助との初めての出会いが「人形町」でのあったということの顛末とは以下のようなことでございました。それは学生時代のことでしたので、ざっと45年を遡ることであります。何度かここでも述べたことがございますが、我が家は曽祖父の時代から築地魚河岸(日本橋魚河岸から移転)で仲買商を営んでおりました。小生も子供の時分から廃業するまでは、最大の繁忙期である年末年始には家業の手伝いをすることが慣例でありました。魚河岸の朝が早いことは皆様もご存じでございましょう。小生が大学生の頃には、仕事の往復は父親の運転する自家用車での移動となっておりましたが、築地に向かう年末の真っ暗な早朝の町をゆく車中で、NHKラジオから流れて来たのが三木助による人情話『芝浜』であったのです。その放送が始まった時に走っていたのが、日々抜け道としていた「人形町」の細い道であったことをしっかり記憶しております。人形町から築地までは車で10分もございませんから、その時に聴けたのは全体で40分近くにもなる口演の最初の四分の一ほどにすぎませんでしたが、それだけでもその小粋な語り口にすっかり魅了されるに充分な時間でありました。そして、三木助の名は確実に小生の耳朶に刻まれることとなったのです。噺の中に「未だ外は真っ暗だ。起きてるやつなんか一人もいやしねえや、魚屋なんてつくづく因果な商売だ」という科白があり、まさにその時の自分自身の状況と照らして共感したことも懐かしく想い出します。その時に運転していた父親が「三木助は上手いなぁ」と独り言ちたこと、同乗していた母親がその昔「池袋演芸場」で実際に目の当たりにした三木助の高座が素晴らしく、その時の演目が有名な『時そば』であったと語ったこともよく憶えております。その時の三木助が、吝い蕎麦屋の余りに薄く切られた蒲鉾を、扇子で眼前にまで持ち上げる仕草で夜空に翳すようにして、「月が透けて見えらぁ」とやった時の姿の美しさに感銘を受けたとも。
それからというもの『芝浜』を皮切りに、既に亡くなってから20年近くも経過していた三木助の「カセットテープ」音源を可能な限り仕入れては、貪るように聴いたものです。また、飯島友治編『桂三木助集』1963年(青蛙房)にも大変にお世話になりました。ただ、三木助は名人と言われた方々の中でも早くに亡くなったためでしょう、残念ながらその映像は全く残っていないようです。後10年永らえてくれれば……と残念でなりません。70年代まで存命であった志ん生や文楽の映像は、決して多くはありませんがちゃんと残っておりますから。三木助は踊りの師匠でもございましたから、その手の動きや仕草は惚れ惚れとするほどだったと伝わりますし、実際に目にした母親もそういっておりました。是非とも高座での動く姿に接してみたいと切に願うものですが、現在それを確認する術がないことが惜しまれます。その残された音源自体も決して多くはなく、カセットテープで発売されているネタ数も当時は20話ほどに過ぎませんでした。しかし、その中には駄演というべき口演は一つもございません。その何れもが聞きものとなっており、益々その人に惹かれていきました。持ちネタは決して多かったとは言えない三木助ですが、それでも記録に残るだけでも80ほどのネタを有していたと言います。永く、他の音源が残っていないものかもどかしい想いを払拭することが出来ずにおりました。
ところが、そうした不満を一気に解消してくれる画期的な出版物が平成22年(2010)に世に出たのです。それが新潮社から刊行された『CDブック完全版 三代目桂 三木助 落語全集』でございます。本作には、刊行時点で存在が確認された三木助音源の全てが収録されております。その数は40演目(46席)にものぼります。これでようやく持ちネタの半分が聞けることになりました。初めて世に出た音源も多く、昨今の不景気風が吹き荒れている出版会における偉業だと存じます。新潮社には感謝以外の言葉はございません。また、3万3千円という値段設定にも一言の文句も申し上げることはできません。その価値からすれば、それでもお安いとさえ思います。しかし、おいそれとは支出できる金額にあらず、10年ほども購入を見合わせておりました。ところが過日、古本屋で三分の二弱の値付けで販売されているのを発見!!それでも清水の舞台から飛び降りる思いで購入の決断をいたしました。しかし、今では大枚を叩いたことに一縷の後悔もございません。私的にマイクでラジオ放送を録音したためでしょう、家の中で遊ぶ子供の声まで収録されている音源があったり、最晩年の病の進行のためでしょうか、若干精彩を欠く高座が皆無とは申せません。しかし、それでも能う限りの三木助の口演に接することが出来る喜びは何にも代えがたいものであるからでございます。今では、本当によい買い物ができたとの揺るぎない確信を持つことが出来ます(中でも『近日息子』の秀演はこれまでソフト化されてこなかったのが信じられないほどの素晴らしい語りだと思いました)。口述筆記の記録でした読むことしかできなかった『時そば』の音源まで発掘され、その口演にも初めて接することが叶ったことも欣喜雀躍の思いでした。その音源からは、今は無き母親から聞いた三木助の姿を彷彿とさせられて感無量ともなったのでした。
ところで、今回採り上げている名人「桂三木助」は三代目にあたりますが、その名を継ぐ噺家は当代で五代を数えます。その五代目(1984年~)は標題に三代目の外孫(娘の子)であり、平成13年(2001)40代半ばで自死を選んだ四代目(1957~2001年)は三代目の実子でありました。当代の噺には一度も接したことがありませんから何とも言及の仕様もございませんが、四代目の口演はテレビで何度か拝見したことがございます。父の十八番でもあった『へっつい幽霊』では、語り口の生硬さに少々痛々しさを感じましたが、テレビでの上っ面の笑いにかまかけたりせず、真摯に落語に向き合って稽古を重ねれば、きっと父親のように晩年に至って大成するだけの素質は充分に持ち合わせていると思えました。それだけに早世には大層落胆をいたしました。同時に、その報に接した際には、四代目の幼少期に既に鬼籍に入っていたとは申せ、偉大なる父「桂三木助」名跡はそれほどまでに大きかったのだとも思わされも致しました。四代目の精神はその重圧に耐えるには余りにナイーブに過ぎたのではなかったのではありますまいか。そして、テレビ等では明るく振る舞っていた四代目その人の心の有り様に、暗澹たる思いにもさせられたのです。三代目の芸の大きさと奥深さは、四代目には越えることの出来ない越え難き「壁」、渡り難き「溝」として彼の前に厳然として立ちはだかったのではありますまいか。偉大な父を持った子ゆえの苦悩があったことと推察いたします。気の毒としか申し上げようがございません。
その肝心な三代目が如何なる人物であったのか……、その芸歴について、晩年の三木助と特に親しくし、取り分け高く評価していた作家の安藤鶴夫(1908~1969年)[通称「“あんつる”さん」の、簡にして要を得た文章を以下に引用をさせて頂きますのでご確認くださいませ。少なくとも、三木助の芸歴については、必要にして充分にお知り頂けましょう。ただ、ここに小林七郎(三木助の実名)としての歩みを重ねれば、数倍する文字数が必要になるとは存じます。ここでそれを加えるのであれば、若い頃は落語に身が入らず、“丁半博打”に入れ込み、鉄火場で「隼の七」との異名をとった博徒でもあったこと、舞踊師匠をしていた頃に女弟子であった26歳も年下の女性に惹かれ、結婚を両親と本人に認めてもらうため、博打からもスッパリと足を洗い、一角の噺家となるべく一心不乱に落語の稽古に精進したことを述べておくべきでしょう。桂三木助を襲名した昭和25年(1950)、三木助48歳、仲子22歳の時に晴れて二人は結ばれることとなりました。その後、三人の子にも恵まれますが、その幸福は長く続くことはありませんでした。昭和36年(1961)享年58にて胃癌のため鬼籍に入られたからでございます。二人の生活は僅か10年程で終止符をうつことになったのでした。未亡人となった仲子さんは今もご健在でいらっしゃり、50年前を回想されて記した文面も続けて引用をさせていただきましょう。
桂三木助 かつらみきすけ(1903~1961)三代目。本名、小林七郎。戸籍では明治三十六年とあるが、もう一年ぐらい前に生まれたような気がするといっていた。湯島の姿見楼という床屋の息子として育ったが、ほんとうの親はわからない。はじめ春風亭華柳(かりゅう)の弟子となり、華柳没後、柳橋(りゅうきょう)の門に入って春風亭柏葉(はくよう)。二ツ目となって小柳(こりゅう)、のち、大阪の二代目・三木助のところで修行、桂三木男を名乗る。帰京後、橋之助(きょうのすけ)。さらに柳昇(りゅうしょう)となって真打となり、小柳枝(こりゅうし)を名乗る。一時、寄席の衰退で花柳寿兵衛となり、また太兵衛と改めて舞踊の師匠となった。それからもとの落語家となって橘ノ圓(まどか)を襲名し、NHK“とんち教室”のレギュラー・メンバーに加えられ、人気が出た。昭和二十四年、三代目・三木助を襲名し、以来、崇徳院、ざこ八、化け物使いその他、こまかな神経と、いかにも東京落語らしいいきとどいたことばの選定と、いきな動きのある芸を展開して、急速な生長をとげた。昭和二十九年には、“芝浜”で芸術祭奨励賞を受賞したが、このとき、先輩、文楽が芸術祭賞を受けたために、同時に落語から二つの芸術祭賞を出すことができないという理由のため、奨励賞に終わったものの、このときの“芝浜”はまた、見事、大賞に価する出来ばえであった。昭和三十六年没、芸ざかりであった。青蛙房から飯島友治・編“桂三木助集”が出ている。
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早いもので、三木助が旅立ってから、五〇年が過ぎようとしています。
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(後編に続く)
後編では、三代目・桂三木助の代表作として知られる『芝浜』を中心に彼の芸風について述べてみたいと思います。力不足は重々承知の上でございますが、人形町「草加屋」にて偶然の再会を果たした三木助へのオマージュとならんことを祈念いたしまして、恥を忍んで書き記してみたいと存じます。併せて、この『芝浜』という噺が大晦日を含む年末の江戸を舞台とする内容であることも、ここで本噺を採り上げる由縁でもございます。
改めて申し上げたいと存じますが、小生がこれまで耳にして参りました三木助の音源で「これはいけません……」といった高座は一つもございません。一つひとつの噺が十二分に吟味・琢磨された「作品」として仕上げられております。しかし、当然個人的な贔屓はございまして、『へっつい幽霊』、『御神酒徳利』、『宿屋の仇討』、『ざこ八』、『味噌蔵』、『化け物使い』、『たがや』『道具屋』、『三井の大黒』辺りは、何れも逸品中の逸品だと存じます。ただ、どれもこれも採り上げる訳には参りませんので、三木助の持ちネタの中でも別格の輝きを有し、三木助本人にとっても格段に拘りぬいた名作『芝浜』を採り上げたいと存じます。三木助は、昭和29年(1954)本噺により「芸術祭奨励賞」を受賞することにもなりましたから。まぁ、所謂「落語」としての笑いに溢れているのは、先に挙げた噺の数々の方に軍配が上がるかも知れませんし、臍曲がりで知られた立川談志(1936~2011年)などは、三木助の口演でどれか一席を……と問われれば『へっつい幽霊』だろうな……と述べているほどであります。それに対して『芝浜』はじっくりと聞かせる人情噺でございます。かような噺は落語ではない……などと仰る方もおりますが、落語はただ笑えればよいといった薄っぺらな芸能でもございません。勿論、小生も、笑いを徹底的に追求した芸が駄目だという「原理主義者」ではございません。漫才やコントの面白さはまさにナンセンスな話の構成にこそあって、そうした笑いが決して嫌いな訳ではございません。しかし、落語ともなれば登場人物の人間像や舞台の空気感を描き出してこそ「名人」たるに相応しい芸の保有者だと考えるものあります。こうした点において三木助の右に出る噺家はそうはいないと確信いたします。まぁ、管見の限りにおいてではございますが、六代目・桂文楽はそれに勝るとも劣らぬ名人であると存じます。特に『心眼』と『夢の酒』は素晴らしい。
さて、その『芝浜』でございますが、その成立は三遊亭圓朝(1839~1900年)が「酔払い・芝浜・皮財布」の三題噺として創作したものを嚆矢とすると伝えられております。「三題噺」とは、寄席で客から貰った三つの“お題”を絡めて、その場で即席にて語られる噺を指しますが、『円朝全集』には採録されておらず真偽のほどは定かではないとされております。それ以前にも類似の物語があり、本作が圓朝作であるとしても、そうした先行の話が母体になって纏められた噺でございましょう。圓朝以後は、四代目・三遊亭圓生、四代目・橘屋圓喬、初代・談州楼燕枝、初代・三遊亭圓右らによって継承され、それぞれに磨かれてゆき、19世紀半ばには人情噺『芝浜』として寄席の重要な演目となっていたと言います。尤も、本作を夫婦の情愛を描いた屈指の人情噺として仕上げたのは、取りも直さず、本稿で取り上げております三代目・桂三木助に他なりません。三木助自身は本話を五代目・柳家つばめから伝えて貰ったとのことですが、独自の工夫を随所に織り込むことで「三木助の芝浜」として練り上げたと言っても過言ではないと存じます。それには、晩年に親交を結んだ安藤鶴夫や久保田万太郎の力添えも預かって余りあるのですが、それでも三木助の小粋な語りあってこその『芝浜』であることは間違いございません。その紹介の前に、落語好きの方には余計なお世話でございましょうが、ご存知ない方のために『芝浜』の粗筋を書き記しておきましょう。
天秤棒の両側に木製の平たく円い盤台を下げて、街々へと新鮮な魚介を売り歩く行商(当時は「棒手売(ぼてふり)」と称されました)の勝五郎。腕はよく町方の者たちからも良い品を扱うことが評判です。しかし、大酒飲みで怠け者と来ており、さっぱりと卯建の上がらぬ貧乏長屋住いで燻っている始末。年末の掻き入れ時だというのに昨晩からの酒が祟って一向に目を覚ます気配も商売に出る気もありません。その日も、未だ真っ暗な内に女房から叩き起こされ、女房の懇願の末に、ようやく渋々と極寒の中を芝の浜にある魚河岸に仕入れにでかけるのです。ところが、河岸の問屋は一軒も店を開いておりません。その時鳴り響いた芝の切通しの鐘でその理由が判明します。ウッカリ者の女房が一刻(今の約2時間)間違えて早くに送り出してしまったのでした。ひとしきり文句を言いながらも、家に戻るのも何だと芝の浜に腰を下ろして煙管を吹かしているうちに夜が明けてきます。その時、ふと足元に目をやると揺らめく海中に汚い革財布があることに気づきます。引き上げて中身を見ると、そこには驚くような大金が入っております。驚いた勝五郎、それを腹掛けの丼に押し込むと一目散に裏長屋に取って返します。数えてみればずっと遊んで暮らせるような金額でした(三木助は42両としております)。すっかり有頂天となった勝五郎は、早速に仲間を集めて飲めや食えやの大騒ぎ。挙句の果てに、べろべろになって寝付きました。ところが、その翌朝、勝五郎は二日酔いの中で女房に叩き起こされ、仕事に行ってくれと催促されます。寝ぼけながらも、昨日の金がありゃ何でもないじゃないかと言う勝五郎に、女房はそんな金がどこにあるんだい……と言い、お前さんは夢でも見ていたんだろうと告げるのでした。確かに探せど金はどこにも見当たらず、愕然としてありゃ夢だったのか……と諦めるのでした。高価なものをたくさん誂えて飲み食いした、その支払いさえできずに困っているのに、お前さんっていう人は……と涙ぐむ女房をみた勝五郎。自らの身の上を初めて自覚して一念発起。あれだけ好きだった酒をすっぱりと断ち、死に物狂いで商売に精をだすようになります。元来が腕の良い商売人で魚を見る目も人一倍に利きますから、たちまちに評判が評判を呼んで、三年もたたぬうちには表通りに小店を構え、小僧を何人か使えるようにまでの身上となります。そして、その年の大晦日の晩のこと。女房に礼を伝える勝五郎に対して、女房は三年前の狂言について切々と告白するのでした。あの日、自分は勝五郎の拾ってきたという大金に困惑したこと、当時は十両盗めば首が飛ぶと言われた時代、発覚すれば勝五郎は死罪となることは必定と慄いたこと、長屋の大家と相談して夢だと勝五郎を言いくるめることに決めたこと等々を。そして、その金は落とし主が不明で、奉行所からお下げ渡しになっていると「あの時の財布」を差し出すのです。お前さんに噓をついてしまって、申し訳なかったと涙ながらに語る女房を、勝五郎を一切責めることなく、道を踏み外しそうとした自分を真人間へと導いてくれたことに心よりの感謝の気持ちを述べるのでした。そして、勝五郎に久しぶりにお燗をつけた酒を勧める女房。最初は拒んだものの、やがておずおずと杯に手を伸ばす勝五郎。その香りに陶然としながら口元まで杯を運んだものの、急に真顔になって「よそう。また夢ンなるといけねえ」というのがサゲとなります。
まず最初に申し上げておきたいことは、この『芝浜』という噺そのものが正に三代目・桂三木助、いや小林七郎自身の人生とオーバーラップしているかのように思えることでございます。若き女房である仲子との出会いで博打の世界から足を洗って稽古に精を出し、晩年になって噺家として「芸ざかり」を迎えた三木助。だからこそ、博徒と酒という違いはあれど、この『芝浜』という人情噺における勝五郎の心情への共感は大きかったものと推察できます。そして、その思い入れを丹精込めて練り上げていったのが「三木助の芝浜」に結実しているのだと存じます。上述した話の骨格に三木助が如何なる色付けをしていったのかの一端を以下でご紹介いたしましょう。まずは、噺の枕の部分を全文引用させていただきましょう。出囃子「浅妻(つくま)」の下座と伴に高座に上がった三木助がしばしの間を採り、「芝浜」の語り始めとなるところとなります。
東京が江戸と申しました時代と、ただいまとは大変な違いですな。
[「東横落語会口演記録」による 飯島友治編『桂 三木助集』1963年(青蛙房)] |
如何でございましょうか。落語の枕、つまり噺に入る前の導入部ということになりますが、落語でここまで長々と詩的に語られる枕も珍しかろうと存じます。一昨年に物故された十代目・柳家小三治(1939~2021年)は小生の偏愛する噺家の一人でございまして、噺の上手さも格別でしたが、特にその枕の面白さは無類であり、枕のみを集成して聴いても充分に満足できるほどでございました。ただ、それだけ本編とは自立して成立しうる面白いお話ということでもございます。その点、三木助の枕は、この後の「芝浜」の舞台の露払い的な有機的な連続性を有する、江戸の昔へと誘う極めて詩的な前振りとなっておりませんでしょうか。これを聞いているうちに、聴き手の身体にも今は失われた戦前から明治の、いや、お江戸の昔からの微風が吹いてくるようにすら思えます。そして、この枕が終わるやいなや、「ねェ、おまえさん……おまえさんッ」と女房が勝五郎を叩き起こす台詞から、師走のうらびれた裏長屋を舞台とした噺の幕が上がり、勝は渋々真冬の暗闇の中へと追い出されることとなります。
これ以降の「三木助の芝浜」で顕著な特色の一つは、その情景描写の濃やかさにあると存じます。三木助は「落語とは絵」と語っているそうですが、以下の芝の浜で煙管を吹かしながら夜明けを迎える場面などはその典型でございましょう。「芝浜」で実際に芝の浜の情景が登場するのはここだけであります。であるからこそ、それを印象付けようと話の筋とは関係せずとも濃やかな描写を加えているのだと思われます。ただ、ひとつだけ苦言を。芝の浜からだと向こう岸が見えないことはありません。逆によく見えると思います。東京湾は内湾でありますから、クッキリとシルエットになった房総の陸地が広がっていたはずです。
あァ、ぽおゥッと白んできやがった……あァ、いい色だなァ……、ええ?よく空色ッてえとあの青い色一色なんだけどねェ、青い色ばかしじゃなねえや、白いようなところもあるし、なんかこう橙色みてえなところもありゃがるし、どす黒いところもあるし、あァ、いい色……あァ、お天道さまが出てきた……(と、上手へ向かい、ぱんぱんとふたつ柏手)へい、今日から商えに出ますからお頼ン申します。どうでぇ、あァ、帆かけ舟が見えやがらあ。なんだ、もう帰えるんだな、あいつァ、え?こっちが早えと思ったら、まだ早えやつがいやがらあ……どうでえ?海ッてやつァいつ見ても悪くねえが、ずいぶん広いね、こいつァ……むこう岸の見えたことがねえんだからねェ……
[「東横落語会口演記録」による 飯島友治編『桂 三木助集』1963年(青蛙房)] |
もう一つ、一寸した情景描写の妙を。大晦日の夜に店仕舞いをして出かけた湯屋から戻った勝五郎と、女房を取り巻く年の瀬の何とも風情ある情景が目に浮かぶ光景の描写であります。そして、ここには「三木助の芝浜」で見られる二つ目の優れた点も同時に現れているように存じます。そうした情景を背景にして描かれる、ちょっとした心の動き……、つまり心理描写の見事さでございます。ずっと嘘をついてきて申し訳ないと思う女房の心情と、強がる勝の心との目に見えぬ想いの遣り取りが見事です(最後の2行)。両者の間に流れる空気感とその間の取り方、ちょっとした口調に差し込む翳の表現等々、こればかりは到底文章では伝えきれません。
「今ちょうど除夜の鐘が鳴ってえる。福茶がはいったから福茶をおあがンなさいな」 「なにさらさら音がしてきた」 「おまえさんものみたいだろうねェ」 「いやァ のみたかねえや、うん。(後略)」
[「東横落語会口演記録」による 飯島友治編『桂 三木助集』1963年(青蛙房)] |
他に心理描写の見事さの具体例としては、大金の入った革財布を拾ってからの勝五郎の反応がございます。終始無言でありますから、録音や筆録でははっきりとはわかりかねますが、小刻みに震えながら腹掛けの丼にそれをねじ込むまで、息を詰めるような緊迫感が音源からも伝わってまいります。そのあと、裏長屋に一目散に駆け戻って戸を叩き、ものも言わずに中に転がり込む場面転換と、一瞬で家の外と内という空気感を変える見事さにも舌を巻きます。そこには緊張から解放された勝五郎の安堵の心情までが表現されております。勿論、人情噺とは申せ「落語」でありますから、こうした色濃い人情噺にもちょっとした気の利いたクスグリが幾つも散りばめられており、それが濃やかな話に明るい光のような安堵感を与えており、この『芝浜』という話を湿っぽさ一辺倒にしないことに大いに寄与していると存じます。大金を拾って派手に飲み食いした翌朝、それが夢であったと女房に諭され、一大決心をして再び魚河岸へと出かけようとするときに女房と交わした会話は、ほとんど前夜の早朝に交わした遣り取りと変わらないのです。それに、勝五郎がちょっと考えてから「夢にもそんなところがありゃァがったなァ……よし、行ってくらあ……うん」と戸口を開けて長屋を飛び出していくくだりに、息を詰めて聴き入っていた客から笑いが沸き起こっていることがわかります。緊張とその開放という見事な三木助の噺家としての卓越した手腕が横溢している場面ではないかと存じます。まぁ、キリがございませんので、このあたりにしておきますが、今さら何を言うんだと叱られそうですが、「三木助の芝浜」は実際に噺として聴いていただくことでしか、その真価は伝わらないと存じます。
その、三木助の十八番である「芝浜」の音源でございますが、現存するのは昭和29年(1954)にNHKでの放送音源のみであり、今日各社から発売されるCDも全て同一音源を元としております。ただ、実際に寄席で三木助口演の「芝浜」を聴いた経験のある方の証言には、本音源は時間的な制約のあるラジオ放送故の短縮版であり、実際はもっともっと素晴らしかったとも伝わります(それでも残された音源も36分強の高座であります)。しかし、ないものは仕方がございません。小生は、これだけでも十分に「三木助の芝浜」の素晴らしさは伝わると存じます。今回ご紹介した全録音集までは兎も角、個別の噺はそこそこのお値段でCDにて入手可能でありますのでどうぞ接してみていただければと存じます(YouTubeにてお手軽に接することも可能でしょう)。尤も、「芝浜」以外の噺でここまで琢磨されたものは流石に多くはございません。しかし、どの噺からも登場人物の姿が立ち上る優れた高座になっているとお感じになられましょう。是非どうぞ。また、小説等で描かれた三木助として、ここで2冊の小説をご紹介させていただきます。一つは、晩年の10年間実際に三木助と深い親交を結んで、三木助の『芝浜』の構想にも関与された、安藤鶴夫最後の作品『三木助歳時記』を挙げさせていただきます。新聞連載の途中で「あんつる」が急逝されたため、未完に終わりましたが、全体構想の五分の四程までは完成しております。小生は今や無き「旺文社文庫」(一冊)で読みましたが、現在は「河出文庫」版(上下二冊)で入手できようかと存じます。
因みに、本書はその昔に、不躾にも久保田万太郎がお好きであった山中裕先生にお贈りさせていただいたことがございます。どこかしらその世界に通じる感触があると思ったものですから。今思えば若気の至りでございます。その後になってご丁寧にも封書で感想を寄越してくださり「安藤鶴夫の作品を初めて読みましたが、久保田万太郎を彷彿とさせる作品に感銘をうけました」と書かれてございました。お優しかった先生のことですから、リップサービスであったこととは存じますが、お恥ずかしくも忘れ難き遠い日の記憶でございます。小生も、今回本稿をものするにあたって40年ぶりに本作を再読いたしました。その結果、「あんつる」が三木助と出会う前、その幼少期から青年期(博打に明け暮れた前半生)を描く部分が極めて精細を放っているの対して、後半では「あんつる」自身が「近藤亀雄(こんかめ)」の名で頻繁にしゃしゃり出てくるのが少々五月蠅い感じがいたしました。年齢を重ねて書物への感じ方も変わって参ります。何れにしましても、自らの不明に恥じ入ることが多くなりました。もう一冊は、山本昌代『三世 桂三木助』1997年(新潮社)であります。三木助に弟子入する光永(木久八)という青年から見た晩年の三木助の姿が描かれており、しみじみとした良い小説に仕上がっております。ただ、未だ文庫本にはなっていないようです。
この度は、ひょんな切っ掛けから、希代の噺家三代目・桂三木助を採り上げさせていただきました。三木助以外にも、名人が綺羅星のようにひしめいていた昭和30~40年代は本当に落語の黄金時代であったと思います。それを、「人形町末廣」の畳敷きの座席で接してみたかったものでございます。皆様も年末の夜長に、しっぽりと粋な人情噺などに接してみては如何でござんしょうか。
12 月に入り令和5年も残すところ僅かとなりました。ここのところ、ようやく師走らしい陽気になって参りましたが、皆様は如何お過ごしでいらっしゃいましょうか。今年度も恒例の「千葉市埋蔵文化財調査センター」主催になる特別展が開催される時節となりました。そして、現在本館を会場に「前期展示」が絶賛開催中でございます(11/23より開幕)。会期等の詳細につきましては、「後期展示」も含め以下に明示いたしておりますのでご確認ください。これも毎年恒例でありますが、「後期展示」は本家本元の「千葉市埋蔵文化財調査センター」が会場となりますが、「前期展示」と展示品が一部入替となるとのことです。従いまして「考古ファン」の皆様におかれましては、是非とも前後期ともにご観覧いたでけますと宜しいかと存じます。また、現時点では「展示パンフレット」が未完成で、配布しているのは「展示目録」のみとなっております。パンフレット完成時期は未定とのことですが、必ず制作して配布をするともことですので暫くお待ちください……と言付かっております。
ところで、千葉市で「考古展」と申せば、縄文遺跡のメッカである市域を有するが故、どうしても「縄文時代」が採り上げられ勝ちでありますが(「原始」)、今回の展示は標記の如く「古代」に焦点が当てられております。「古代」とは大雑把に申せば、国内統一が進み天皇を中心とする国づくりが進められた時代を指します。もう少し時間軸に沿って申せば、縄文・弥生時代と言った「原始」という時代が終焉を迎え、畿内に形成された大和政権の下で各地豪族が纏められ、規格にそった前方後円墳が各地に造営された時代であり、その後に大王・天皇を頂点とする全国支配の仕組み(「律令制」)が整えられ政治が行われた時代であります。その拠点として奈良に大規模な宮都(平城京)が造営され、仏教による鎮護国家思想の下で都に東大寺(大仏)が、全国各国毎にに国分寺・国分尼寺が建立され、都を中心にした華やかな天平文化が花開いた時代でもございます。その後、平安京への遷都と藤原氏による摂関政治を経て徐々に律令制が崩壊し、武士階級の成長と符合を合わせるように、国内でもこれまでとは異なった社会が生まれるようになります(以降を「中世」と時代区分いたします)。つまり、「古代」とは、政治の行われた場を基軸にした時代区分で申せば、古墳時代から飛鳥時代・奈良時代を経て、平安時代後期中葉くらいまでの時代を指すことになります。
今回の展示は、そうした古代の人々の「精神世界」を、下総国の地で出土した豊富な考古資料から探ろうとする極めて意欲的な内容であり、実際に展示されている考古資料自体も極めて素晴らしい逸品揃いであると存じます。「この史料は後々“指定文化財”になっても不思議ではない」と思わされるような、凄い出土品が並んでおります。個人的には、下総国分寺膝下の旧河道跡から出土した土器片に墨書で描かれた「仏像(おそらく国分寺本尊の薬師如来)」の姿に驚愕いたしました(市川市での出土品)。しかも、光背まで描き込まれているではありませんが。本品を見るためだけに来館されても決して時間の無駄にはならないと存じます。因みに、全国に建立された国分寺で、創建当初の本尊(おそらく丈六仏であったはずであります)「薬師如来像」が現存しているところは皆無でございます。本像は土器にサラッと書き流したかのような筆致ではありますが、琢磨ざるして仏の威光を表現する、実に趣深い仏画になりえており、見飽きることがございません。勿論、これが下総国分寺本尊である確証はございませんが、全国唯一の国分寺本尊を写した絵画史料である可能性も否定できない遺物だと存じます。正直、小生は心底の感銘を受けた資料であり、展示内容でございました。
斯様な特別展でございます。皆様も是非ともご来館いただければと存じあげます。以下、前後期の特別展の開催日程、及び本展を企画された「千葉市埋蔵文化財調査センター」西野雅人所長(小生が心底尊敬する研究者の方でございます)の手になる、「はじめに」「各章概説と見どころ」「おわりに」の全文を掲載させていただきます。また、最後に「関連講座」の御案内もさせていただいております。こちらをお読みいただければ、少しでも歴史に関心のある方であれば、居ても立ってもいられず、展示に脚を運びたくなるのでないかと推察いたします。何卒お見逃しなきよう、衷心よりお薦め申し上げます。
【前期展示】(入館無料) 【後期展示】(入館無料)
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はじめに
千葉に生きた古代の人々は、農民として米や布を納め、兵士として東北や九州に赴任し、政府要人の家人も勤めるなど、律令国家の基盤づくりにさまざまな形で関わりました。千葉の特質は、国内のどこより多くの古墳や横穴墓をつくり、多くの文字を土器に書き残したことにあります。昭和・平成の大発掘の時代に考古資料から見えてきたのは、かつて教科書等で強調された軍事や国分寺造営の負担に苦しみ窮乏した人たちの姿ではなく、積極的に幸福を求め、活発に生きた人たちの姿だったのです。
千葉市埋蔵文化財調査センター 所長 西野 雅人 |
第1章「聖武天皇の願い-国分寺と民衆仏教の開花-」
最初に、大仏と国分寺造営に込めた聖武天皇の願いを紹介します。二つの大事業は、庶民を苦しめた面があったことは明らかですが、ことさらにそれを強調することには賛成できません。発掘成果から別の見方ができそうです。今回掲載した「さいごに」という文章に私の考えを書いておりますが、ぜひ展示した実物資料を見ていただいてご判断をいただければと思います。
第2章 「神仏に祈りを-悔過と祓い-」 国府や国分寺で、穢れを祓い清める神祗祭祀や悔過が行われ、ムラにも導入されたことを示す資料を展示しました。市川市の北下遺跡は国府の「祓所(はらえど)」と呼ばれる場所であった可能性が高く、出土した木製人形(ひとがた)、下総国内の郡・郷名墨書土器などを展示しました。国内でも類例の少ない仏像墨画土器は、二つの如来を描いた逸品です。わたしが調査を担当していて、今までに一番感激した出土品です。ぜひ見ていただきたいです。
第3章 「星に願いを-古代房総の星信仰-」 古代日本には中国の天文学と占星術が伝えられて政治や天皇の行動の指針とされ、庶民に至るまで生命や運命を左右するものと信じられました。千葉県内の遺跡からは、古代の星信仰に関連する資料が比較的多く出土しています。上総・下総の特徴の一つとして取り上げ、中世千葉氏の妙見信仰につながった可能性に触れます。
第4章 「幸福の印-『福』施印土器と宝印-」 土気地区の南河原坂窯跡群(みなみかわらざかかまあとぐん)から、「福」という文字がくっきりと付けられた土器が出土しています。銅印を使っておされたものです。この土器の意味を文献史料や変化観音像がもつ印章の事例などから読み解いていくなかで、古代の銅印や「福」という文字の使われ方が見えてきました。銅印の一部は、仏が「滅罪」「招福」を証明する法具として、「福」印は幸福を分配する器として使用された可能性があります。
以上執筆 千葉市埋蔵文化財調査センター 所長 西野 雅人 |
さいごに
国分寺の造営やその後の経営を担った人々は、国府や国分寺で行われる荘厳な法会を見る機会があったからこそ、自分たちの香印盤をつくり、土器に「福」印を捺すアイディアをもちえたのだと考えることができます。こうした事実から、幸福を積極的に願い、神仏に祈った民衆の姿をうかがうことができます。聖武天皇の願いは、遠く房総の地まで届いたとみて大過はないでしょう。
千葉市埋蔵文化財調査センター 所長 西野 雅人 |
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師走も半ばとなり、流石に冬らしい厳しい寒さを実感する陽気に身が引き締まる思いをする日に出会うことも多くなりました。ただ、一方で、この関東では、時に春一番のような生暖かい強風の日があったりと、何時までたっても「これぞ冬!」と言える陽気には転じません。関東以外は如何なのでしょうか。しかし、そうはいっても師走です。どこかしら街々にも浮き立ったような“花やいだ風情”も感じられるようになりました。世間一般がすっかりと「年の瀬」の装いとなるのも間近でございましょう。さて、既に一カ月も前のこととなりますが(11/10)、長年の付き合いである朝日新聞販売店のうっかりミスでしょう、誤って「日本経済新聞」が新聞受に投函されておりました。同じ販売店で双方の新聞を取り扱っているためでございましょう。しかし、そのお蔭で日経新聞の文化欄に掲載される「忠犬ハチ公 真の物語」(「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」学芸員の松井圭太氏の執筆になる)を大変に興味深く拝読できることとなりました。ほんの少しですが関心もあった内容でもございましたので、不思議な縁を感じた次第でありました。正に、「瓢箪から駒」、「嘘から出た誠」、いや「災い転じて福となす」とでも申せましょうか(もっと適切な言い方があるように思いますが残念ながら思いつきません)。“朝日新聞販売店さまさま”の思いでございます。
尤も、ちょっとした関心があったと申しても、それは「忠犬ハチ公」の物語に関してではなく、その「ハチ」が良く知られる“秋田犬”という犬種の「日本犬」であることによる“ひっかっかり”に過ぎませんでした。「日本犬」は西洋犬のように人間の用途に基いた改良が殆ど加えられていないことから、その先祖とされる「狼」の血を相当に色濃く継いでいる犬種という印象が強く、各地の縄文遺跡から出土する所謂「縄文犬」との関係性も含めて、極めて興味を惹かれる存在であったのです。そして、その「日本犬」としての属性と、「ハチ公」の行動との因果関係が如何なるものであるのか……等々が気になってもことがございました。斯様な次第でしたから、「忠犬ハチ公」としての物語自体には殆ど関心が向かず、国内で上映されて大ヒットした松竹映画『ハチ公物語』(1987年)も、アメリカでリメイクされたリチャード・ギア主演になるハリウッド映画『HACHI 約束の犬』(2009年)も拝見したこともございませんでした。要するに、小生が「忠犬ハチ公」について知ることと言えば、東大教授であった飼い主が亡くなった後も、毎日のように渋谷駅に出迎えに行っては二度と帰ってくることのない故主を待ち続けていた犬であること、その死後に「忠犬」であると顕彰され「忠犬ハチ公」像が渋谷駅前に据えられ、今や渋谷の名所となっていることくらいでした。いや、恥ずかしながらそれが全てと言っても過言ではありませんでしたから、ひょんな切っ掛けから「ハチ公」について多くのことを知り得たことは、正に「目から鱗」の思いでございました。勿論、渋谷駅にある「ハチ公」の銅像なら何度も目にしております。しかし、銅像が何時造られたのか、顕彰活動がどのような経緯で始まったのか等々も含め、全く関心もなく過ごしてきたのでした。ですから、今回本記事のお蔭で少々「ハチの生涯」にも触れることが叶ったことは本当に幸いでした。そこで、まず「日本経済新聞」本記事の概要から紹介をさせていただきたいと存じます。
そもそも、今更「忠犬ハチ公」の記事が掲載されたのは何故なのか。そのことは本記事の冒頭で明らかとなりました。それは、標題にもいたしましたように、「ハチ」が秋田県で生を受けたのが大正12年(1923)11月10日であり、記事の掲載日が「ハチ」生誕の日であったこと(「ハチ」誕生の約2カ月前、後に「ハチ」の生活の舞台となる関東で「大震災」が発生していたこととなります)、また当日は「ハチ生誕100周年」にもあたっていたのでした。つまり、今年は「ハチ」にとって極めて重要なアニヴァーサリーイヤーであったのです。その割には、世間では余りそのことが取沙汰されているように思えません。そういえば、その前後にテレビで『HACHI 約束の犬』が放映されていたようですが、その関係だったのでしょう。調べてみると、ハチは昭和10年(1935)3月8日に亡くなっているそうですから、その生涯は僅か11年に過ぎなかったことも知れました。実際に我が家で犬を飼ったことはございませんから確かなことは申せませんが、犬の寿命は人間よりずっと短いものでありましょうが、10年強の生涯は流石に秋田犬としても長い方ではなかったのではありますまいか。その波乱の生涯故の短命だったのかもしれません。尤も、たった11年という短い生涯にも関わらず、殆どの日本人が少なくとも名のみでも知っている“超メジャー”な「犬」となったのは、恐らく歴史的にも「ハチ」一頭だけではありますまいか。まぁ、それに匹敵しうるのは、同じく映画にもなった「日本犬」の犬種“樺太犬(北海道犬)”の「タロ」・「ジロ」かもしれません(因みに樺太犬は雑種化が進み最早純血種は絶えております)。何れにしましても、個人的にはこのことを契機に、初めて「ハチ」の一生を「歴史」として位置づけることができたのでした。
さて、その「ハチ」の生涯とその後の歴史についてでございます。本新聞記事以外に「ハチ」に関する資料が手元になかったため、「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」で平成25年(2013)年に開催された特別展『ハチ公』の展示図録を求めようとしましたが、残念ながら既に品切れでありました。もう10年前の図録でございますから当然でありましょうが、古書でも相当な高値となっているようです。従いまして、本稿執筆までには入手が叶いませんでした。渋谷区には、生誕百周年を機に是非とも再販していただけることを希望したいところでございます。また、書籍も探してみたのですが、その殆どが映画関係や子供向絵本のような“物語”的作品であり、歴史資料となりうる書籍は本年に出版された伊東真弓『生誕百周年記念 ハチ公』2023年(Independently pubrished)位しか見つけられませんでした。ただ、本稿執筆までには入手が叶いませんでした。従いまして、結果として、インターネット記事「Wikipedia」情報を下敷きにせざるを得なかったことを最初に申し上げておきます。それを基盤に、松井氏が遺族らに丹念に聞き取られた調査によって明らかにされた情報を基に記された「忠犬ハチ公 真の物語」を加味しながら、本稿を進めさせていただくことにさせていただきます。
後に「忠犬ハチ公」として顕彰されることとなる本犬は、大正12年(1923)11月10日、秋田県北秋田郡二井田村(現:大館市内)大子内にある斉藤義一宅で、父犬「オオシナイ(大子内)」と母犬「ゴマ(胡麻)」の間に産まれた八頭の「秋田犬」の一頭としてこの世に生を受けております。性別はオスで、赤毛の仔犬あったといいます(成犬になってからは白犬であったとのこと)。その頃、秋田犬の仔犬を飼いたいとの希望を有していた東京帝国大学(現:東京大学)農学部教授の上野英三郎(1872~1925年)に、当時30円で譲られることとなり、翌大正13年(1924)1月14日に米俵に入れられて大館駅を出発、急行列車の荷物室に乗せられ20時間後に上野駅に到着したといいます。上野教授の自宅は東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向にありました。因みに、「ハチ」の名前の由来でありますが、「末広がり」となる縁起を担いだ名前であるという説、座った時の足が「八」の文字に似ていた説……等々、諸説あるようですが実際の所は明らかではないようです。「ハチ」はその地で、既に上野教授に飼われていた「ジョン」「エス」の名で呼ばれる二頭の洋犬と一緒に育てられました。大変な愛犬家であった上野教授は、頻繁に渋谷駅まで「ハチ」を伴ったそうで、そうでなくとも毎日の博士の出勤時には玄関先や門前で主人を見送り、時には博士の帰宅の時間帯に最寄りの渋谷駅まで迎えに出向くことすらあったといいます。
ところが、上野教授はハチを飼い始めて一年余り後に、勤務先で脳溢血により急逝されてしまったのです。「ハチ」は、その後3日間は餌も一切食さなかったそうで、上野博士の通夜の日も「ジョン」「エス」と伴に渋谷駅まで戻ってくるはずのない博士を出迎えに行っていたとのことです。小生が子供の頃もそうでしたが、犬を鎖で繋いでおくことは必須ではなかったためか、現在の猫のように飼犬も自由に街中を歩きまわっていた時代の話でございます。上野教授没後の「ハチ」は、上野夫人(坂野八重子)の親戚である日本橋伝馬町にあった呉服屋に預けられることになりましたが、人懐こい性格が災いし来店する顧客に抱き着いてしまうため商売の邪魔となったため、浅草の高橋千吉という人物に引き取られました。しかし、散歩中に渋谷に向かって逃走しようとしたり、近所の住人との間に「ハチ」を巡ってトラブルが惹起したこともあり、再び渋谷の家に戻されることになります。ところが、渋谷でも近所の畑で走り回るなどして農作物に被害をもたらしたこともあり、昭和2年(1927)今度は渋谷の隣にある豊多摩郡代々幡町大字代々木字富ヶ谷にある、「ハチ」のことを幼少時から可愛がっていた上野家出入りの“植木職”小林菊三郎のもとに預けられることになります。その後は菊三郎から大切に愛育されていた「ハチ」でしたが、この頃から渋谷駅で上野教授の帰宅時間にあたる頃合いに渋谷駅に佇む「ハチ」の姿が頻繁に目撃されるようになったと言います。また、小林家から渋谷家への往復の途中に、旧上野邸に立ち寄り、窓から室内を覗くことさえあったともあります。これには古来その是非を巡って議論があるそうですが、犬には「帰家能力」があるともされております。外国では実際に数千キロ先から自力で戻って来た事例もあると言いますし、日本でも近世の記録に琵琶湖西岸へと舟で運ばれた犬が、20日余り後に琵琶湖東岸にある旧宅に戻ってきたとの記録が残るそうです。そうであれば、たかが数キロメートルの距離であれば容易い往復であったことでしょう。
ところで、八重子未亡人がそのままハチを飼い続けることをしなかったのは何故かとの疑問も湧きましょう。そもそも、夫人は上述いたしましたように坂野を名字としておりました。しかも「ハチ」をすぐに他所に預けたことから、当時から「博士の愛人」であり、「犬嫌い」の人物という噂が囁かれていたそうです(松井氏の記事より)。小生は実際に拝見したことがないのは先述の通りですが、映画『ハチ公物語』でも、八重子夫人は「犬嫌い」の人物として設定されていたようです。しかし、松井氏が八重子未亡人のご遺族や、最後にハチの面倒を見た小林菊三郎の遺族から綿密な聴き取り調査を実施したことから、これが根も葉もない噂であることが判明したそうです。松井氏はそれを以下のように記されておりますので、その部分を引用させていただきましょう。映画でその配役であった故・八千草薫さんは、生前に松井氏の調査結果を知り「今度はあなたの脚本で同じ役を演じてみたいわ」と漏らされたことを松井氏は書き記されております。さもありなんでございましょう。
(前略) 博士は幼少期病弱で、先は長くないと考え、早くから結婚しないと決めていたようだ。夫人も、幼女に入った坂野家の後継ぎで、姓を変えられない事情があった。それで籍を入れなかったのだ。
[松井圭太「忠犬ハチ公 真の物語」(令和5年11月10日)『日本経済新聞』より] |
さて、八重子未亡人から一端離れ、渋谷駅に通うようになった「ハチ」について確認してみましょう。渋谷駅で帰ってくることのない故主を待っていた「ハチ」が周囲から受けた現実は、当方が何となく抱いていた甘い認識とは全く異なる、通行人・商売人からの頻繁なる虐待であった……との事実に、何とも暗澹たる思いになったのです。まぁ、渋谷駅を使用していた、その事情を知らぬ多くの人々の目には、毎日のように駅前に佇む秋田犬の姿は、恐らく「異物」としてしか映らなかったのでしょう。身につけられた「胴輪」ですら何度も盗まれたといいますし(安産祈願のためだと想像されます)、その結果度々の“野犬狩り”にも遭って何度も捕獲されたといいます。駅の小荷物室に入り込んでは駅員にひっぱたかれ、大人しいことをよいことに墨で顔に悪戯書をされたりするなど、散々な目に遭っていたとのことです。また、晩年の「ハチ」の左耳は直立せず垂れていたのですが、これは野犬にかまれた後遺症だと考えられているそうです(野生の狼の耳は必ず立っているので、秋田犬が先祖であるニホンオオカミのDNAを濃厚に引き継いでいる証拠であるとされます)。ところが、斯様に人々から邪慳にされていた「ハチ」を哀れんだ人物が現れます。それが「日本犬保存会」初代会長となった齋藤弘吉であり、昭和7年(1932)『東京朝日新聞』に「いとしや老犬物語」を寄稿し、その内容が多くの人々の琴線に触れたといいます。こうして一躍有名となった「ハチ」は一転して「ハチ公」と呼ばれるようになり、人々から愛玩されるようになったといいます。それまで「ハチ」に冷淡であった渋谷駅でも、掌を反すように「ハチ」が駅で寝泊りすることを許すようになったりもしたといいます。更に、その美談に感動した彫塑家の安藤照の提案により、諸々の経緯を経て、昭和9年(1934)渋谷駅前に「忠犬ハチ公」銅像が設置され、「ハチ」自身、飼い主の八重子未亡人、多くの「ハチ公」ファンの参列の下で、盛大な除幕式が執り行われたとのことです。生前に銅像にまでなった「ハチ」の心境を知る由もありませんが、このことで、只管故主に再会したいと願っていた思いが報われたとは到底思うことはできません。
「ハチ」は、その翌年となる昭和10年(1935)3月8日午前6時過ぎ、渋谷川に架かる稲荷橋付近で息絶えているのが発見されたのです(ここは渋谷駅の反対側で普段は「ハチ」の立ち寄らない場所であったそうです)。12日には、渋谷駅で盛大に葬儀が営まれ、青山霊園にある上野博士の墓石右手に小さな墓がつくられました。故主の没後10年を経てようやく愛する人の元へと旅立ったということでしょう。しかし、その11年の生涯は、決して順風満帆なものではなく、人間の都合によって翻弄され続けた波乱の月日でもございました。しかし、あの世に旅立ったハチは、その後も「忠犬ハチ公」として時代の荒波に巻き込まれていくことになります。それもまた、人間の都合によってでございます。因みに、「ハチ」の遺体は故・上野博士の勤務先であった東京帝国大学農学部で病理解剖されたとのことです。その結果、死因は心臓に大量に寄生していたフィラリアに伴う腹水の貯留によるものであったようです。また、胃の中からは焼き鳥の串と思われるものが3・4本見つかったそうです。解剖後に剥製が製作され、内臓はホルマリン漬けにして保存されました。ハチの剥製は現在「国立科学博物館」が所蔵し、上野本館の日本館2階北翼に展示されているそうです。小生も子供時分には何度もでかけているのですが、恥ずかしながら全く存知ませんでした。一方、遺骨は骨格標本とされましたが、昭和20年(1945)の所謂「山の手空襲」で焼失したそうです。要は、ハチの墓には埋葬物はないということでしょうか。
時代に翻弄される「ハチ」について若干ですが述べさせていただきましょう。正しくは「ハチ」生前のこととなりますが、銅像が設置された昭和9年(1934)に尋常小学校2年生「修身」の教科書に「恩ヲ忘レルナ」の話題としてハチの物語が採用されているそうです。尤も、「ハチ」の物語が修身の教材に採り上げられたのはこの時だけであったそうですが、その3年後には「日中戦争」が始まるわけですから、こうした世相と全く無関係という訳ではございますまい。一方、「忠犬ハチ公」銅像には戦争が暗い影を落とすことになります。昭和16年(1941)は12月に日米開戦し、太平洋戦争に突入した年でありますが、同年勅令で「金属類回収令」が発令されております。そのため、渋谷駅の「忠犬ハチ公像」も金属供出の網に掛かります。これを知った齋藤弘吉は強硬な抗議活動を展開しますが、何分にも寺院の梵鐘ですら供出せねばならないご時世にあっては、それこそ“犬の遠吠え”に過ぎませんでした。昭和19年(1944)1月「戦争終結まで別所にて保管する」との名目で折り合いが付けられ、渋谷駅前から撤去されることになったのでした。渋谷駅前の「忠犬ハチ公像」には「日の丸」の襷がかけられ盛大な「出陣式」までが挙行されたと言います。しかし、それも空手形に終わります。ポツダム宣言受諾の前日にあたる、昭和20年(1945)8月14日、「忠犬ハチ公像」は鉄道省浜松工機部で溶解され機関車の部品になったのでした。つまり、現在の「忠犬ハチ公像」は戦後に再建された二代目ということになります。その再建は、未だGHQ統治下であった昭和23年(1948)に行われたそうですが、欧米でも広く知られていた「ハチの物語」に感銘を受けていた、GHQの愛犬家有志の支援を受けて行われたとのことであります。その除幕式にはGHQの代表者も参列したそうです(ハリウッド映画が制作される淵源は戦前に芽生えていたことも初めて知りました)。再建に当たっては戦時をイメージさせる「忠犬」を廃し、「愛犬」に変更しようという意見もあったそうですが、最終的に戦前のままとなった経緯もあるといいます。これまた「ハチ」が時代に翻弄されたエピソードに他なりますまい。
最後に、再び松井氏の「忠犬ハチ公 真の物語」に立ち戻って、そこに記述される八重子未亡人のその後についてご紹介させていただきましょう。坂野八重子は昭和36年(1961)に物故されましたが、生前、亡き夫と「ハチ」の眠る墓地の灯篭の下でもよいから、彼らの近くに埋葬されることを望んでいらしたとのことです。しかし、実質的に入籍もされていない法的に内縁関係であったことから、その希望は叶えられることはありませんでした。しかし、今から10年前となる平成25年(2013)、「忠犬ハチ公生誕90周年」を記念して「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」で開催された特別展「ハチ公」を契機に話が進展したといいます。東京大学が墓地関係の交渉を、松井氏が両家遺族との交渉を、それぞれ進められた結果、同28年(2016)晴れて夫妻とハチは泉下で再会を果たすことができたのです。松井氏は、本稿の末尾を「真のハチ公物語。それは上野夫妻とハチ公の愛が、周囲の人々に奇跡のように広がってゆく愛の物語である」と締めくくっていらっしゃいます。松井氏は、最初からハチに関心があったわけではなかったものの、仕事柄館に頻繁に寄せられる「ハチ公について教えてほしい」との要望に、“通り一遍”の事しか解答できないことに忸怩たる思いを抱かれ、調べ始めたことが切っ掛けとして今に至ったと書かれております。それが、「ハチ」とその周囲の人々を巡る「愛の物語」の歴史であると、自信と確信に基いて決然と言い切ることに結実されているのでしょう。このことに、小生は大いなる感動をいただきました。
今回の本稿では、ハチ公を出発点にして「ニホンオオカミ」や「日本犬」にまで、更に昨今話題の「熊」のことにまで敷衍し、動物と人間との共生についても話を広げたいと思っておりました。しかし、これ以降は数日かかっても終わる分量ではないと判断し、ここまでとさせていただきます。今回の「ハチ公」のことに関しても、入手を画策していた資料が手に入らず、結果として「Wikipedia」「忠犬ハチ公」の記載を再構成するような内容になってしまったことをお詫び申し上げます。また、もしかしたら事実誤認のこともあるやもしれません。今回入手が叶わなかった資料を入手した暁に、もう少し「ハチ」の実像に肉迫できるような再論を、また「ニホンオオカミ」やその血を色濃く有する「日本犬」等への言及をも期したいと存じます。今回は斯様な内容にてご寛恕くださいますよう、伏してお願い申し上げる次第でございます。
国内・国外共々、諸々の社会情勢に翻弄された令和5年(2023)でありましたが、それも残すところ10日程となりました。そして、ようやく今週の初め辺りから本格的に冬めいて参ったように感じます。お蔭で、本館5階の展望回廊からも、西に富士山・相模大山が、北に筑波山が、明瞭な隈取をもって眺められるようになっております。これまで巻頭歌として冬らしい詠歌を……と思いながらも、斯様なる陽気に出会えずに半ばお預けを喰らっておりました。しかし、ようやく機が熟した感がございます。本日アップの本稿を令和5年の最終号としようと思いますから、本号では大晦日を思わせる定家歌、如何にも冬らしき為子歌をご紹介させていただきました。小生の偏愛する「新古今調」と「玉葉・風雅調」から一首ずつとなっておりますが、何れも恒例の塚本邦雄撰のアンソロジーからの引用となります。本来はこれで充分でございますが、もう一首は欲張った「オマケ」となります。後にも触れることとなりますが、過日、本年のNHK大河ドラマ『どうする家康』が目出度く大団円を迎えましたので、それへの若干の敬意を込めての家康歌引用でございます。藤原定家とその後裔である為子(「京極派」の泰斗京極為兼の姉)につきましては、過去の本稿で何度か採り上げ、その為人もご説明申し上げておりますので、この場で改めてご紹介することは致しません。何れも「象徴主義」を思わせる幻想的な作風に何時接しても魅了されます。これまた以前にも申し上げましたが、京極派の作品は秋冬の情景に透徹した美しさを見出した作品が多いように思います。以下、何時ものように塚本氏の短評を引用させていただきます。小生が御託を並べるよりも遥かに引用歌の傑出をご理解いただけましょう。どうぞご精読いただけますように。因みに、家康詠歌につきましては、塚本氏のアンソロジーとは縁も所縁もございません。後に、大河ドラマを振り返る際にちょいとばかり触れさせていただこうと存じます。
定家三十一歳、天馬空を行く技巧の冱えを見せる六百番歌合の中でも、「薄氷 こほる寂しさの果て」は比類のない秀作だが、新古今集以後いづれの勅撰集からも洩れてゐる。盲千人、半者の俊成さへ「雪も深くや侍らむとこそ覚え侍るを」などと見當違ひなことを言ひ、珠玉の結句は方人達の非難の的となつた。名作も評価されるとは限らない。 梢の花を雪と見紛ふ錯視歌も夥しいが、「花よただ」と絶句調の初句で聲を呑み、木が潤み曇るさまを「梢かをれる」と表現し、雲もまた曇りの模糊とした景色、まこと春隣(はるどなり)であつて、雪すら華やぐ。言葉を盡し心を盡し、玉葉風雅時代女流の筆頭の一人の力倆、この一首だけからも十分に察知できよう。風雅・冬の中でも屈指の名作と言ひたい。
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さて、この令和5年を振り返っての雑感ということで、まずは、この時期にマスコミで報道される「今年の○○」といった類の企画から、2つを採り上げ本年の世相を顧みたいと存じます。その一つ目が斯様なる企画を代表するものと目される「新語・流行語大賞」でございます。こちらは「自由国民社」が昭和59年(1984)から始めた企画を淵源とするということでありますから、ざっと40年にも及んでいるものでございます。逆に申せば、それだけ国民に深く根付いた企画と申せましょう。そして、今年の大賞は『アレ(A.R.E)』となり、阪神タイガースの第35代監督岡田彰布氏が受賞されたとのことです。阪神ファンでも何でもない小生などが申すのも烏滸がましいことですが、報道等で「アレ」という言葉は屡々耳にしていたものの、これが大賞であると聞いた時はそこに「A.R.E」なる文字が附属していることも知らず、何故斯様な“指示代名詞”が大賞になったのか大いに疑問でございました。そこで、調べてみたところ、この「A.R.E」は岡田監督の掲げたチームスローガン「Aim(明確なる目標)、Respect(野球・先輩方への尊敬)、Empower(更なるパワーアップ)」の頭文字からとったものであり、チーム再生への思いが込められていたとのことでした。そんなことすら今回初めて知ることになりました。斯様なことは、阪神ファンであればいざ知らず、皆様にとっても周知のことであったのでしょうか。しかし、その“ローマ字読み”である「アレ」がチームの「優勝」を暗喩したコトバとして使用されており、よく監督も口にし、マスコミにも広く採り上げられていたように存じます。小生が耳にしていたのは主としてこちらの用法であり、本来の意味ではなかったのです。ただ、その原意が霞んで暗喩の方が一人歩きしてしまったような気もいたしますが、何れにしましても岡田監督の願いが選手たちに浸透したためでしょうか、今年の阪神タイガースは破竹の勢い。「リーグ優勝」は元より38年振りの「日本一」にも輝きました。大阪の盛り上がりはすさまじいものであったようで、誠に以て慶賀の念に堪えません。
ここで、少々の脱線となりますが、『どうする家康』でも「大坂冬の陣」で大坂城に英国製「大筒(大砲)」を撃ち込ませる命を下す場面で、家康が大筒を「アレ」と発言したことが話題となりました。誰が発案したのか知りませんが、恐らくこのセリフの採用は“確信犯”でございましょう。如何せん、舞台は大坂(明治に至るまでの大阪の表記)でございますから。中々に気の利いたご対応に思わずにニヤリとさせられました。またまた、野球に戻りますが、小生は「東京ヤクルト:スワローズ」のファンでございます(決して熱烈という訳ではございませんが)。しかし、流石に神宮球場では、通常の毎試合で甲子園球場のような「興奮の坩堝」状態が惹起することは少ないと思います。生活そのものが阪神タイガースの応援を軸にして廻っているような、熱狂的、いや狂信的とも言うべきファンに囲まれている球団は国内でも阪神タイガースが随一ではございますまいか。その暑苦しいまでのファンの熱量は正に「敵ながら天晴!!」であり、誠に敬意を捧げる以外の言葉が見つからないほどでございます。これで、大坂の地がこれまで以上に盛り上がり、経済的な好循環にも繋がることを願ってやみません。何処かのチームが優勝を独占するようでは、各地域が盛り上がりません。こうした群雄割拠こそが地域活性化にもつながります。来年は、是非とも名古屋あたりで花火が打ち上げられんことに期待を寄せたいところでございます。そうは言いつつ、ヤクルト「スワローズ」の復活も高津監督には切にお願いしたいところです。今年の「新語・流行語大賞」は一年間の明るい話題に基く「回顧」と言うことになりましょう。
続いて採り上げまする二つ目は、日本漢字能力検定協会の募集する「今年の漢字」であります。今年のそれが「税」に決まり、去る12日に京都清水寺で発表されたことは皆様もご存知でございましょう。正直申し上げて少々意外の念にもとらわれましたが、報道によればこの1年間を通して増税議論を含む租税の議論が活発に行われるなど(所得税・住民税の4万円の定額減税、インボイス制度、ふるさと納税等々)、多岐に亘って税に纏わる話題が取沙汰されたことが背景であるとのことです。確かに、小生の居住する葛飾区亀有では、この一年の内に、小生の行きつけであった医院も含め、個人経営病院の閉院が相次ぎました。管見の及ぶ範囲ではありますが「整形外科」は近所から消えて無くなったと思われます。何れも医院長が高齢でありましたから、それが閉院の理由と思っておりました。ところが、よくよく聞いてみると「保険証マイナンバーカード化」に伴う多額の設備投資等までして継続する意味が見出せなかったことも大きな理由であったようです。特に後継者がいない医院であれば、それは起こるべくして起こった必然の成り行きであったことございましょう。どの先生方もこんなことがなければできる限りは開業し続けたいと思われていたようですが、これがよい潮時と判断されたのだと思われます。しかし、我々住民にとってみれば病院の消滅は、それこそ“死活問題”にも直結することでございます。閉院と「インボイス制度」までが関係するのか分かりかねますが、個人タクシーを経営される方からは、相当な負担増となり悩ましい現状と聞いております(必要機材導入は全額自己負担、その設置に要する日時は営業に出ることも叶わず収入を失うにも関わらず保証もないそうです)。そして、こうした情勢下で噴出したのが政治家による「パー券裏金問題」の報道でございます。こうしたご時世、殆どの国民にとっては到底納得のいく事案でありませんでしょう。そう考えれば、最初に「今年の漢字」=「税」に感じた違和感は薄らぎ、そこには国民の確かな「怨嗟」の念が内包された選択であったのだ……と、小生の認識も変わっていくことになりました。令和5年における「税」を巡る事案は極めて大きな国民の関心事であったのだと……。
因みに「今年の漢字」の2位以下でありますが、2位「暑」、3位「戦」、4位「虎」、5位「勝」と続いたとのこと。4位「虎」は申すまでもなく「阪神タイガース」由来、5位の「勝」は「2023ワールドベースボールクラシック」での日本優勝に由来するものでしょうか。それであれば、「勝」より希望に満ちた未来に繋がりそうな「翔」あたりが相応しいような気がいたしますが如何でしょうか。それは取りも直さず、本大会で「二刀流」で大活躍し優勝に貢献し、MLBでは満票のMVPに選出され、年末には史上最高額となる大型契約で「ドジャース」への移籍が決まった「大谷翔平」その人に由来する「今年の漢字」でございます。そういえば、昨年の「今年の漢字」はロシアのウクライナ侵攻を理由とする「戦」だったことを記憶していらっしゃる方も多かろうと存じますが、その戦争は未だに継続中であります。更に「パレスチナ紛争」も最早「紛争」を通り越して泥沼の「戦争」状態に陥っております。これを機に是非とも今日に至るまでの「パレスチナ」の歩みを学び直すことも必要でございましょう。一方、東アジアの状況も到ってキナ臭く、世界は東西冷戦のイデオロギー対立時よりも一層不安定化しているように感じさせられます。本年も3位に「戦」が入っておりますが、その実情は昨年以上に本年の方がより深刻であり、今年にこそより相応しいようにすら思われます。世界は一体何処に向かっているのでしょうか……。地球環境問題も既にデッドラインにまで迫っており、今地球の人々が手に手を取り合って解決に取り組まねば手遅れになる、今が引き返すラストチャンスであると指摘する研究者もございます。歴史的な因縁に基く紛争の解決が簡単ではないことは百も承知でございますが、現状は仲間割れをしている場合ではないのではありますまいか。地球上の誰もが地球で生きることすら難しくなるかもしれない、要するに「共倒れ」となる瀬戸際かもしれないのですから。
ここで、巻頭歌として3つ目に引用をさせていただきました、徳川家康絡みの話題……取り分け本年を通じて放映されました大河ドラマ『どうする家康』の話題に転じさせていただき、この一年を振り返ることにさせていただきます。まず巻頭歌でございますが、こちらはネット掲載される『千人万首』内にある「徳川家康」の項目から引っ張ってまいりました。しかし、本項で引用されている家康詠歌は本首一首のみであり、当項を執筆者されている方も「家康が特に和歌を好んだ形跡はない」とされ、「『徳川実記』や『富士之煙』(徳川将軍家の歌を集めた書:近藤重蔵編)等に少数の和歌を伝えている」と書かれております。因みに、本歌が掲載される『武家百人一首』は、姫路藩主榊原忠次(※徳川四天王の一人榊原康政の孫にあたる榊原家第三代当主)の撰と伝わる歌集だそうで、如何にも家康が自身の長い歩みを振り返ったような歌意でございます。俗にいう「でき過ぎ」の感は否めず、誰かの仮託作の可能性が高いのではありますまいか。『千人万首』では、それに引き続き「伝家康作の和歌としては『富士之煙』に天正3年(1575)長篠御陣の頃の作と伝える“ころは秋 ころは夕ぐれ 身はひとつ 何に落葉の とまるべきかは”、また『徳川実記』所載の“人多し 人の中にも 人ぞなき 人となせ人 人となれ人”なども名高い」と補注されております。これら三首に鑑みれば、家康は俗にいう「歌詠み」ではなかったのでございましょう。
さて、その徳川家康の生涯を描く本年の大河ドラマ『どうする家康』も過日大団円を迎えました。旧ジャニーズの大立者『嵐』メンバーの松本潤を主人公に据え、鳴り物入りで始まった大河ドラマではございましたが、思いの他に視聴率では苦戦したと耳にいたします。小生もじっくりと拝見した訳ではなく、見逃した回もない訳ではございませんでしたが、一年間ほぼお付き合いをさせていただきました。多くの皆さんからも指摘されておりますように、「歴史」ドラマとしてみた場合には、前半で余りに史実から乖離した設定が長々と続き、流石に続けて視聴することを断念しようかと何度も思わされました。特に「築山殿」の構想する「平和構想(!?)」は流石に「ファンタジー」に過ぎて、正直「唖然」といたしました。また、こなれていないように感じさせるCGの多用にも馴染めませんでした。更に歴史的にはあり得ない光景(まるで紫禁城のような清州城!!)、何を根拠にしているのか理解できない施設の描写(三河一向一揆の拠点)等々、正直鼻白む場面のオンパレードに流石に堪忍袋の緒が切れそうになることも間々ございました。ただ、それが歴史的事実か否かは別にして、ドラマの終盤で、家康が「戦国の世」を終焉させるため一切のダークサイドを一身に背負って生涯を終えようと「苦悩」する姿を描く「ドラマ設定」には新鮮味を感じさせられました。そこには、これまでよく見られたような、「徳川の世を盤石する基盤のすべてを成し遂げ福徳円満に大往生する家康」……の面影は微塵も感じられませんでした。少なくとも、功成り名を遂げた人物の「ハッピーエンド」として家康を描こうとはされておりません。その意味で、斯くも“気の毒”で“痛々しい”までの「家康像」も珍しいのではありますまいか。少なくとも、その点においてドラマを紡いできた脚本家古沢良太氏の力量を評価することは吝かではございません。まぁ、「歴史」としてみれば余りにセンチメンタルに人物を描き過ぎようかとの思いは否めませんが、一年間ドラマを貫く「必ずしも野心家ではなかった主人公が、天下人となることで戦国の世を終結させ争いのない世を創造できたのは、そうした人故であった……」なる、一貫した人物の軌跡を描き得たとは申せましょうか。もっとも、現実の家康はすさまじいまでのリアリストであり、晩年の「鷹狩」三昧でさえも、決して好々爺然とした趣味であった訳ではございません。「大阪の陣」で豊臣氏を滅ばした後の死に至るまでの一年間でも、自身の没後の徳川政権を盤石とすべく、最後の総仕上げとも申すべき仕事を幾つも成し遂げております。それが、「武家諸法度」等々の諸法令の整備を進めることであり、実子松平忠輝と伊達政宗との関係性の懸念から忠輝を果敢に処断する等々に見られる姿に他なりません。その意味で、家康は最期まで「マキャベリスト」の顔を失うことがなかったことは看過すべきではありますまい。
以上、この一年を振り返る一環として大河ドラマを振り返らせていただきました。「千葉を訪れた徳川家康」に関しましては、本館でも何れ本格的な展示会を開催する必要があると考えるものですが、如何せん現在は「千葉開府900年」が最優先事項でございます。そこで、本年度は関連展示として、ミニ展示『来てたの!?家康』を開催させていただきました。「なんだ!?散々文句を言っておいてちゃっかり相乗りしてるじゃないか」と指摘されると面目ございませんが、昨年の『鎌倉殿の13人』とは比較にはならないものの、本年も大河ドラマにお世話になったことは紛れもない事実でございます。まぁ、その恩返しの気持ちもありましたので、この場でも採り上げさせていただいた次第でございます。そして、来年の大河ドラマは紫式部を主人公とする『光る君へ』(平安時代の京都が舞台)、令和7年は蔦屋重三郎をメインに据えた『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』(田沼政権期を中心とする江戸が舞台)、そして、本市が「千葉開府900年」を寿ぐ令和8年は松平慶永(春嶽)を主人公に据え、福井藩からの視点で幕末維新期を描く内容となると聞いております。春嶽は幕末維新期政局の一翼を担う重要人物の一人でありますが、一向にメインストリームとして書籍で採り上げられることの少ない人物であります。そのことを予て不思議に思っておりましたから、これを機に多くの書籍が刊行されることを大いに期待しております。また、同時期に福井藩の思想的支柱となる横井小楠の存在にも焦点が当てられましょう。こちらも楽しみでございます。
ただ、残念ながら、今後の2年間の大河ドラマと本市との関わりはこれまで以上に希薄となります。尤も、次年度の紫式部を扱う大河ドラマが、如何に平安時代の貴族政治を描くかによって、コラボする意義も変わってまいりましょう。少なくとも、一年をかけて主人公の人生を追いながら、その時代像を描き出すことを主眼とする「大河ドラマ」でございますから、流石に「王朝物語」が描くような宮廷内の色恋沙汰だけを描く内容とはなりますまい。当時の貴族社会に留まらず、国内諸国、あるいは日本周辺諸国の動向などにも触れることでしょう。大河ドラマは、単なる古代を舞台とする「ラブストーリードラマ」ではございません。是非とも藤原道長や紫式部といった人の目を通して、平安中期の時代像を描いていただきたいものでございます。皆様も、是非とも年表で「藤原道長の時代」をご覧ください。その前後には、日本各地でも様々な動向が惹起していることが知れましょうし、就中外国からの侵攻すら受けております(「刀伊の入寇」)。その時代像は紫式部が『源氏物語』に紡いだ、男女の色恋模様や権力闘争(とはいっても飽くまでも優雅に描かれます)のみで語り切ることはできないのです。それを大河ドラマという器の中で如何に描き出していこうとするのか……“御手並み拝見”と参りたいと思います。是非、視聴者をぎゃふんと言わせるような、「歴史ドラマ」に仕上げていただきたいと願うものでございます。それに併せて、本館でも若干ながら展示活動にタイアップして参る所存でございます。
本館のことで、今年一年を振り返ると、小生にとって最も忘れがたく意義あることは、『商人(あきんど)たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』を開催することができたことでございます。特に念願としていた「奈良屋」を採り上げ、近世からの商家としての歩みを、千葉の皆様にご紹介できたことでございました。併せて、後裔でいらっしゃる杉本家の皆様とも交流を持つことも叶い、貴重な資料も借用できましたことも得難いことでございました。「奈良屋」最後の社長でいらした杉本郁太郎氏は諦めるしかございませんが、小生の私淑するフランス文学者であり名随筆家でもいらっしゃった、御子息の秀太郎氏が御存命でいらしたら本展も御覧いただけたのに……と、残念でなりません。お亡くなりになったのが平成27年(2015)満84歳であったと存じます。それから8年、病さえ無かりせば今年で齢92歳でいらした筈でございます。今日日であれば、まだまだお元気でいらっしゃる御歳でございましたことでしょう。返す返すも悔やまれることでございました。ただ、「奈良屋」のことは、これまで本稿を通じて多くのことをお伝えさせていただきましたので、この場で“屋上屋を架す”ことは避けたいと存じます。ただただ、小生の人生を通じて本当に貴重な想いをさせていただいた一年となったことに感謝を申し上げたいと存じます。
年末から年始にかけての本館の開館につきましては、副題にお示しさせていただきました通りでございます。くれぐれもご確認の上、ご来館の際は御間違い無きように。本年一年、様々なる機会を通じて多くの皆様にご来館いただきましたことに心より御礼申し上げます。ありがとうございました。そして、新年も本館事業へのご理解とご支援とを賜りましたら幸いでございます。皆様、何卒“佳き御歳”をお迎えくださいませ。
しめやかに、新たな歳である令和6年(2024)を迎えることとなりました。本年は、「十干十二支(じっかんじゅうにし)」[通常は略して「干支(えと)」と称します]で申しますと「甲辰(きのえ・たつ)」となります。十干のうちの「甲」は、十干のうち一番トップに位置づき「優勢であることを表し、まっすぐに堂々とそそり立つ大木」を象徴するそうであり、十二支のうちの「辰」(龍)は「竜巻や雷などの自然現象を起こす大自然の躍動を象徴する」ことを指し、両者が「甲辰」として合わさると「成功という芽が成長していき姿を整えていく」という縁起のよさを意味するようです。昨年来、相も変わらずに継続する国際秩序の混迷が更に深刻化しているようにも思えますし、国内に目を向けても政局の混乱は目を覆うばかりでもございます。「甲辰」の干支に因んで、この一年が新たに芽吹いた植物がすくすくと成長してより良き姿に整っていくような、再出発のの契機となる歳であることを願ってやみません。皆様におかれましても、本館におきましても、本年が健やかな一年であり、躍進の年月となることを心より祈念申し上げたいと存じます。
何時もの塚本邦雄氏のアンソロジーから新年に当たって選びました巻頭歌は、ただ単純に新春を寿ぐだけではない、どこかしらに影をも内包したようにも感じさせる迎春歌でございます。それは取りも直さず昨年が混迷の一年であったからでもございます。だからこそ、新しい春を迎えた希望の光を、未だ見ぬ将来に向けて差し込ませたいとの思いを撰歌にも籠めたつもりでございます。作者は、本稿でも度々御出座を願っております藤原(九条)義経であります。後鳥羽院の下で源頼朝と渡り合った藤原(九条)兼実の実子であり、天才歌人としても夙に名高い貴公子であります。その私家集『秋篠月清集』は名歌集として知られ、瞠目すべき傑作が目白押しです。ただ、残念ながら手頃な書籍で接することができません。新年早々でございますが、是非とも岩波書店あたりから、委曲を尽くした脚注を付したる文庫本を上梓していただけないものかと存じます。
十二世紀の天才歌人、新古今集仮名序作者、後京極摂政二十代の作。百首歌の第一首で、冬・春・夢・うつつの照応鮮やかに、迎春のときめきを歌った。おどろくとは目を覚ます意。だがこの「春」は必ずしも爛漫の時を暗示してはゐないところに、作者の特徴あり。良経は「西洞隠士」、「南海漁夫」、「式部史生秋篠月清」等の雅号を持っていた。
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国際情勢の不安定化するなかでの初春ではございますが、そうは申しても、せめて「三が日」くらいは晴れやかな想いでいたいものでございます。皆様の中におかれましては、「初日出」を拝みに九十九里浜に出かけられた方、終日運行の電車で何処かの社寺にお参りへお出かけ等々、それぞれの新春を満喫されておられることでございましょう。小生は専ら「寝正月」を決め込んでおりますが、それでも、初春の御節料理に舌鼓を打ち、朝も早よから一献、いや二三献と御神酒をいただくのは至福の時でございます。まぁ、それぞれのご家庭での新年の風景もまた各地方毎、各ご家庭毎にでもそれぞれ違っておりましょう。そういえば、小生が中学校社会科教員であった時分、この時節に併せて生徒諸君に冬季休業中の宿題として「我が家の年末年始の風習」レポートを課しておりました。短期間の休みですから提出は任意としましたが、それでも興味をもってくれた生徒が毎年何人かは提出をしてくれたものです。特に、住宅団地に立地する学校は全国各地の出身の方が集まっているわけですから、報告される風習も実に多彩なものでありました。年明けの授業で(勿論氏名は伏せてですが)生徒諸君に紹介すると、特に正月料理の地方ごとの違いに驚く生徒が多くいたことを思い出します。逆に、初任校の千葉市立更科中学校は内陸部の農村地帯にある、当時市内で最小規模の学校でしたから古くからの住民ばかりの学校でした。従って、東京生まれの小生としましては、そのレポートによって下総の農村における伝統的な年末年始の風習を知れたことに繋がり、小生にとっても大変に貴重な学びとなりました。今では各ご家庭の個人情報的な問題もあって、こうした宿題を出すこと自体が難しいのかもしれませんが、子供たちが自身の家族のルーツや国内文化の多様性を知る、極めて貴重な機会だと思っておりました。是非、この機に各ご家庭内で斯様なお話をされてみては如何でしょうか。お子さんたちにとってもとても意義ある学びにつながりましょう。
さて、以下では、本年(令和5年)度末(1~3月)、及び次年度(令和6年度)の本館事業について簡単に述べさせていただきますが、まずは年度末のことから。2週間後から、本館における本年度の最大事業に位置づく展示会が開催されます。それが、1月16日(火)から3月3日(日)に渡る令和5年度特別展『関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏-宗家の交代・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動-』となります。例年特別展は概ね10月~12月の日程で開催しておりましたが、今年は館内修繕工事等により開催時期を変更しての実施となりました。展示概要につきましては次回の本稿にて採り上げたいと存じますので、本日は簡単に述べるに止めます。取り扱う内容は、端的に申せば「15世紀半ばの関東政治情勢とその下での千葉一族の動向」となります。前後の時代との関連で申せば、南北朝の動乱が一応の終結し、京を中心とする応仁の乱が勃発する間の「室町時代」のこととなります。千葉氏と言えば一昨年の大河ドラマでも描かれましたように、専ら千葉常胤ばかりが採り上げられ源頼朝との関係がクローズアップされ勝ちですが、千葉氏の下総における支配者としての在り方は常胤が建仁元年(1201)に没した以降400年近くにも亘って引き継がれていきます。今回採り上げるのは、常胤死後250年程を経過した時代の内容となります(千葉介が滅亡するのはそれから大凡150年後の秀吉による小田原攻めの時のことです)。凡その時間軸がご理解いただけましたでしょうか。
この頃、千葉一族内で大きな事件が出来し、以後の千葉介の在り方が大きく転換していくことになるのです。しかし、これまで、その歴史的事象について本館でも詳細には扱われては参りませんでした。それには、歴史的な事実関係が複雑で錯綜しており理解がしにくいことがあると思われますが、それ以上に千葉介がこれを機に“衰退の道”を辿った……とのマイナスのイメージを纏った出来事であることが背景となっていようかとも存じます。また、これを機に千葉介は本拠を本佐倉に移すことになることから、これまで250年もの間本拠してきた「千葉」の町が衰退する契機となったといった、誤った事実認識が流布していたこととも無関係ではないようにも思われます。従って、千葉市として扱う価値が無いとの考えに繋がったのかもしれません。先に申し上げておきますが、その両者共に歴史的に適切な評価ではないと我々は考えております。それを皆様にお伝えすべく今回の展示を企画いたしました。是非とも楽しみにされていて下さい。本展につきましての詳細は、次号で述べさせていただきたいと存じます。
次に、本館1階展示場で開催中の極めて刺激的な内容の展示、令和5年度千葉市埋蔵文化財調査センター特別展『幸福を祈る-古代人の願いと造形―』でございます。本館での前期開催は1月28日(日)までとなりますが、その後は「埋蔵文化財調査センター」に会場を移し、2月13日(火)から3月3日(日)までの会期で後期展示が行われます。遅くとも後期展示開催までには「展示図録」も配布できましょうし、後期展示だけの出土遺物の展示も行われると聞いておりますので、是非後期展示にも脚をお運びいただければと存じます。また、前期展示終了後の本館の1階展示室で、令和2年度に本館で開催いたしました千葉氏パネル展『将門と忠常-千葉氏のルーツを探る-』の再展示を行います。こちらは、本年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の関連企画ということになります。「将門・忠常と大河ドラマと如何なる関連があるのか!?」……と疑問に思われる方も多かろうと存じます。しかし、坂東の地で惹起しこの地を混乱に陥れた「平将門の乱」(939~940年)と「平忠常の乱」(1028~1031年)が勃発した時期は、正に摂関政治の始まりから全盛期にかけての時期と重なるのです。平将門(生年不詳~940年)は10歳代の半ばに京に上り、初めて関白となった藤原基経(836~891年)の子忠平(880~949年)に仕え、主従関係を取り結んでいたことはよく知られておりましょう。その忠平の曾孫が摂関政治全盛期を象徴する藤原道長(966~1028年)[父が兼家(929~990年)]に他なりません。そして、その娘で一条天皇(980~1011年)皇后となるのが彰子(988~1074年)であり、その後宮に仕えたのが本年の大河ドラマの主人公紫式部(生没年不詳)でございます。生没年をご覧いただければお分かりの通り、平忠常は道長の没年に房総の地で兵をあげており、その結果当地は当時「亡国と化した」とまで評されたのです。つまり、摂関政治や平安京後宮で「国風文化」が華やかに開花する時代と、東国における相次ぐ武士の反乱とは相前後する同時代の出来事であることを、改めまして皆様にご理解いただきたいとの思いがあり、この度本パネルの再展示をさせていただいた次第でございます。何よりも、その忠常の後裔の一流こそ、我らが「千葉氏」となるのです。これらのことが本展示を“大河ドラマ関連展示”と位置付ける由縁でございます。なお、本展ブックレットは¥100にて販売中でございます。
本年度末の最後に、これからの本館刊行物について述べておきたいと存じます。第一に、特別展『関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏-宗家の交代・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動-』展示図録でございます。こちらは、会期の幕開けと同時に発売を開始いたします。お値段に関しましては次回の本稿にて御紹介できると存じます。また、12月9日(土)に開催致しました、千葉市・千葉大学共催市民講演会『東アジア文化の受容と千葉氏-妙見像と貿易陶磁器からみた文化と権威-』講演録を3月末よりご希望の方に配付させていただきます(無料)。因みに、こちらに関しましては例年と同じく「千葉氏ポータルサイト」にもアップをさせていただきますので、そちらでお読みいただくことも可能です。続いて、こちらも3月末となりますが恒例の『研究紀要』第30号(無料)、『千葉いまむかし』第37号(販売価格未定)の刊行がございます。希望される方に無料配付となります「講演録」・「研究紀要」に関しましては、基本的に御来館を頂いた方のみに手渡しとさせていただいておりますのでご承知おき下さい。それに加えて、3月末には、「市史編纂事業」の成果として、令和2年度に引き続く史料編である『千葉市史 史料編11 近代2』(販売価格未定)がいよいよ世に出ることになります。前回が「明治期編」であったのに続き、今回は「大正期・昭和期(戦前・戦中)編」となります。更に、次年度から編纂作業が開始され令和8年度末刊行予定の「昭和(戦後)・平成編」を以て『千葉市史史料編』の全てがひとまずの完結を迎えることになります。もうひとつ、本年度開催の企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』の展示資料、そして千葉氏パネル展『京(みやこ)と千葉氏』のブックレットにつきましても、年度末の刊行を目指して準備を進めております。こちらは観覧いただいた多くの皆様から絶大なる刊行の御要望が寄せられております。その御心にお応えできますよう尽力してまいります。何卒お楽しみにお待ちになっていてくださいませ。以上本館刊行物の具体的な販売・頒布日程につきましては、決定次第「本館ホームページ」にてお知らせをさせていただきます。
因みに、上記刊行物とも関係する「千葉市史」編纂事業でございますが、こちらも折に触れて申し上げておりますように、令和8年度末の史料編最終刊の刊行を以て終了というわけではございません。本市の市史編纂事業は財政状況の問題等による長い中断期間があったりしたことから、一応の完結を見るまでに半世紀を越える年月を要することになります。様々な研究の進展にとって50年を越える歳月の間に様々な発見による研究の進展は著しく、ここまで長引いてしまったがゆえに、初期の『通史編』(全3巻)と『史料編 原始・古代・中世』(全1巻)は、既に完全に時代遅れの“過去の産物”となり果てております。従って、以上4巻に関しましては現在絶版としております。通史編に関しましては、「千葉市中央図書館」ホームページ内のデジタル化されてアップされておりますので、もし希望がございましたらお読み頂くことは可能ですが、お読みになれば現代の研究レベルとは隔絶していることが確認できましょう。また、その後の史料編近世編においても、刊行が長くなってしまった関係で、刊行後に重要な資料群が数多見出されており、その公表も求められております。何れにしましても、令和8年度末で市史編纂事業が完結できる状況には全くございません。「新編通史編」、「史料集補遺編(旧原始・古代・中世編の内容は余りに薄いもので新規に編纂し直さねばなりません)」・「古写真資料集」の編纂、「テーマ別史料集」等々の刊行等々が不可欠でございます。まずは、令和8年度末の最終巻編纂が優先となりますが、その後の市史編纂事業の継続に向けた事業立案も同時に進めて参る所存でございます。
次に、次年度令和6年度の事業に関しましてです。こちらにつきましては、4月になりましたら改めて見通しをお示しさせていただきますが、ここでは一つだけ述べさせて頂きたいと存じます。それが、本館の「展示リニューアル」事業に関してとなります。このことにつきましては、昨年の『千葉日報』(12月8日)にて「千葉市教委 郷土博展示刷新へ」の記事となっておりますので(同時にネット記事としても公表されております)、多くの方が眼にされていらっしゃることと存じます。現段階で具体的な内容を申し上げることはできません。ただ、本記事の内容が皆様に誤解をもたらしてしまう可能性がゼロではなく、あえて補足説明をしておく必要があると考えた次第でございます。当該記事にもございましたように、本リニューアルの本旨が「古代から近現代までの通史展示を実現する」ことにあることは間違いございません。本館に訪れたことのない方であれば「何を世迷い言を……、特定の目的で設置される博物館ではない、一般の市町村立の「歴史民俗系博物館」で“通史展示”がなされていない博物館なんてあるのか??」というのが、至極ご尤もなる感想でございましょう。しかし、残念ながら本館の現況は紛れもなくそうした状態にございます。つまり、今日なお「歴史総合博物館」の体を成していないのであります。因みに、現状政令指定都市で「歴史総合博物館」が存在しないのは、広島市と千葉市のみであります。ただ、広島市につきましては「総合計画」は既に完成しており、折を見てそれを具現化する段階に到っているようです(広島市は原爆を含めた国内に留まることのない広範な事業を抱えているのですから優先順の問題が背景にございましょう)。更には、人口10万人を切るような市町村にすら、本館を数倍する規模と優れた展示内容を誇る「総合歴史博物館」も多々ございます。
具体的に申せば、本館は「千葉市立郷土博物館」と名乗りながら、現状では千葉市の「原始」「古代」「近世」の通史展示は一切存在しません。「原始」に関しては「千葉市立加曽利貝塚博物館」があるから必要ないとのご意見もございましょう。しかし、当館は飽くまでも「加曽利貝塚」という特定の縄文遺跡〔國特別史跡〕を扱う博物館であって、「歴史総合博物館」に位置づけるべき施設ではございません。市内の「原始世界」を総合的に描く展示が別途必要です。因みに、かつては「近現代」展示もございませんでした。以前本館に存在した「プラネタリウム」機能が「千葉市科学館」に移ったことで、空き空間となった4階に急遽設えられたのが現在ある「近現代展示」でございます。「それじゃ、お前のところでは何を展示しているのか」との疑問が湧きましょう。それが「千葉氏」に関する展示でございます(それに加えて武具・武器の展示がされております)。3階の展示室は、武士の起こりから千葉氏の盛衰、その信仰である「妙見信仰」について全フロアーを用いて展示しております。
今回のリニューアルについて、「中世」の展示についてだけで申せば、「中世という時代の中に千葉氏の動向を適切に位置づける」展示に改めることが、より我々が目指す方向として正確な物言いかと存じます。つまり、現状では「千葉氏」の歩みが、当該時代の社会情勢と必ずしも関連して展示されているわけではないのです。従って、千葉市における「中世」という時代の中での千葉氏の位置づけが明確とは言えない状態にあるということです。そのことは取りも直さず「中世」という時代像が明確に焦点を結び得ないことに直結いたします。中世は千葉氏の歴史とイコールではなく、庶民を含む多くの人たちが時代を担って生きていたのですから。そのことが現状の「中世」展示の課題となっているのです。つまり、中世社会の様々な社会的な動向の中に千葉氏の有り様が位置づけられることによって、皆様が「中世」という時代像を掴んで頂くことができるようになると考えております。時代像と言うことに関しては、それ以前の「古代」と、それ以降の「近世」の時代像と、千葉氏の活躍した「中世」の時代像との関連性も現状では掴むことができません。如何せん「古代」「近世」展示が一切成されていない現状ですから自明のことです。千葉氏の活躍した中世は唐突に産まれ出たのではございません。それを生み出した「古代社会」の有り様を背景にして、その中から成立してくるのです。また、「中世社会」に活躍した千葉氏と広範な人々の活動を遺産として引き継ぐことで、新たな「近世世界」が産まれます。更には、過去の歴史の蓄積を背景にして「近現代社会」が築かれ、現在の我々の社会があることを理解することが必要です。中世の千葉氏のことだけを知っても今の我々の生活とは直結しないのです。その間の流れを丁寧に追っていくことで、初めて現在地の位置づけを明確に出来るのであります。市民の皆様が「郷土の歴史を知る」「郷土の歩みに誇りを持つ」とは、斯様な営みを通じて醸成されるものと考えるものでございます。
ですから、今回の「館内展示リニューアル事業」とは上述した課題の解決にあるということになります。つまりは、各時代の提示と、それぞれの連関を把握することが可能な、常設の「通史展示」を実現することに他ならないのです。「千葉開府900年」を控えての展示リニューアルでございますから、千葉氏に焦点を当てることは勿論でありますが、今を生きる市民の皆様にとって、「中世」が現代とは断絶した遠い遠い過去の話ではなく、その前後の「原始」「古代」、そして「近世」「近現代」と言う時代の遺産と密接に絡み合って今に繋がり、その歴史遺産の上に我々の生活があるという意味・意義を皆様に理解をして頂ける展示に改めようとする試み……、それが今回の本館の展示リニューアルの眼目に他なりません。「千葉氏」の展示という視点から申せば、「千葉氏の動向を千葉市の歴史全体の中に適切に位置づける」ことであり、新聞記事からそう理解される懸念のある「千葉氏のことを前面に打ち出して一族の歩みだけをクローズアップする展示」とすることではないと御理解いただければ幸いでございます。そのことだけは、新年にあたって、より正確に御理解頂きたく、松の内からここで記述をさせて頂いた次第であります。なお、詳細な日程は未定でございますが、リニューアル工事期間は閉館となり、館内の利用・見学は出来なくなります。工期は概ね「令和6年下半期~令和7年上半期」(前後する可能性あり)の凡そ一年間前後を予定しております。従いまして、毎年恒例で行っております本館の各事業につきましても、実施可能なものと不可能なものが出て参ります。これらにつきましては、次年度に入りまして極力早い時期にお知らせをさせて頂きます。
以上、新年のご挨拶としながらも、諸々とご連絡まで長々と申し上げることになってしまいました。新春早々無粋なことにて申し訳ございませんでした。本年も本館の活動・事業に関しまして、御理解とご支援を賜りますようお願いを申し上げます。なお、新年1月の開館日で通常以外の特殊なものは以下にお示しした通りでございます。お間違いなきよう御確認の上で脚をお運び下さいますようにお願いいたします。改めまして、本年もよろしくお願いを申し上げます。
①年始につきましては1月3日(水)まで休館。翌4日(木)より開館となります。ご確認の上ご来館くださいますようお願いいたします。 ②1月8日(月)「成人の日」は開館、翌9日(火)が休館となります。変則休館日となりますのでご来館の際にはご注意ください。 |
歳が改まり未だ数日しか経過しておりませんが、新年早々の再来週より本年度“目玉事業”である標記特別展が開催されます。千葉市では「本市が活力を維持し持続的に発展し続けるために、本市固有の歴史やルーツに基く『加曾利貝塚』『オオガハス』『千葉氏』『海辺』の4つの地域資源を起点・基準として活用し千葉市らしさを確立すること」を目指し、戦略プランを策定した取り組みを推進しているところでございます。こうした施策に基づき、市民の皆様に広く本市の歴史への理解を深めていただくため、本館でも4つの地域資源のうち、特に「千葉氏」を中心として、地域に誇る歴史を皆様に広く知っていただくことを目的に諸事業を展開しているところでございます。折しも、本市は2年後に「千葉開府900年」という記念すべき時を迎えることになります。これは、大治元年(1126)6月朔日(1日)、千葉常胤の父常重が本拠を内陸の大椎(現:千葉市緑区)から現在の千葉市の中心地に移し、「千葉」という町の礎を築いたことから数え、令和8年(2026)6月1日が900年目にあたることに由来いたします。
従いまして、本館におきましても当該年度に向けた事業として、「館内常設展示のリニューアル」及び『千葉氏関係史料集(仮称)』の刊行を予定しており、着々と準備を進めておるところでございます。一方、当該年度に照準を定め、これまでも皆様が「千葉氏」への興味・関心を高めていただけるよう、様々な機会を通じてその周知を図る事業を展開してまいりました。毎年一度、テーマを設けて千葉氏関連の各側面に迫ることを目論んで開催しております「千葉氏パネル展」もその一環であり、本年度は『京(みやこ)と千葉氏』を開催したところでございます。また、昨年度の特別展『我、関東の将軍とならん-小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏-』も、足利義明をメインに据えた内容でありましたが、同時に同時代における千葉氏と地域社会の姿を理解することを目指した内容でもございました。そして、本年度の特別展は、それより少し遡った室町前半期における関東の政治状況に千葉氏を位置付けることで、千葉とその周辺の地域が戦乱の世に移行する時代像に迫ることを目論んでおります。中世の下総国に君臨した千葉氏にとって極めて大きな転換点となる、関東における戦乱「享徳の乱」と、その渦中にあった千葉氏の動向を採り上げる、本館において初めての展示会となります(常設展では簡単に紹介しております)。これを機に是非とも特別展をご覧いただけますようお願いを申し上げる次第でございます。以下「特別展概要」、「各章構成」、「はじめに」、「各章概説」を掲載させていただきます。なお、各章概説の執筆は遠山成一、外山信司、錦織和彦、白井千万子によります。
特 別 展 概 要
※2/12(月曜日)「建国記念日(振替休日)」開館→2/13(火曜日)休館 ※2/23(金曜日)「天皇誕生日」開館 〇ギャラリートーク(本館学芸員による)[事前予約不要]
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※本稿アップの時点で明後日(1月7日)が申込締切日となっております!!
本日以降に申し込まれる場合は「郵送」では間に合いません(現状で土日の郵便配達は行っておりません)。「電子申請」での申込みならば未だ受付
可能です(本館メールアドレスでの申込みは受けつけておりません)。
特別展 各 章 標 題( 展 示 構 成 )
プロローグ 「千葉城」はどこにあったのか 第 1 章 鎌倉府統治下の関東と千葉氏 第 2 章 享徳の乱の勃発と千葉氏宗家の滅亡 第 3 章 下総千葉氏・武蔵千葉氏の分立 第 4 章 千葉氏の本拠の移動 平山から本佐倉へ 第 5 章 「大名」千葉氏、戦国を生きる エピローグ 馬加康胤 伝承の世界 |
展 示 図 録 の 販 売
◎図録名称 『関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏 -宗家の交代・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動-』 ◎販売価格 ¥800-(税込) ◎販売場所 本館受付 ◎販売開始 令和6年1月16日(火曜日)特別展開催日より |
は じ め に
千葉市の都市としての礎を築いたとされるように、中世武士団千葉氏の存在は本市の歴史と分かちがたいものがあります。しかし、千葉氏はその成立から滅亡まで一貫してこの地を本拠にしていたのではありません。享徳3年(1454)に勃発した「享徳の乱」における一連の抗争の結果、千葉氏は宗家の交代が起き、さらに一族が下総と武蔵に分裂するとともに、下総の一族は幾度かの変遷を経て、本拠の地を千葉から本佐倉(現在の酒々井町と佐倉市の一部)へと移しました。そして千葉氏は、天正18年(1590)の滅亡までのおよそ150年間、名字の地である千葉に本拠を戻すことはなかったのです。 千葉市立郷土博物館長 天野 良介 |
各 章 概 説
プロローグ 「千葉城」はどこにあったのか 享徳の乱の勃発後、間もなく千葉氏の宗家交替が起こった。重臣円城寺(えんじょうじ)氏と対立していた千葉氏の庶家筋にあたる重臣原(はら)氏との抗争から、上杉方についていた宗家胤直(たねなお)を、成氏方の原胤房(たねふさ)が千葉城に襲ったのである。享徳4年(1455)3月のこととされる。胤直や円城寺氏らは、千田荘(ちだのしょう)多古(たこ)に逃れ、多古・島(しま)両城に籠城した。そして、8月、原胤房と千葉氏庶家の馬加康胤(まくわりやすたね)は、両城を攻めて胤直や円城寺氏らを滅ぼした。
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以上となります。これまで源頼朝との関係から頻繁に採り上げられて参りました千葉常胤より後の時代における、千葉一族400年の歩みへの関心と理解とを深めていただく契機にしていただけますためにも、皆様のご来館を心よりお待ち申し上げる次第でございます。
元政(げんせい)。姓は菅原、名字は石井。元和9年(1623)毛利輝元(1553~1625年)の家臣であった父の末子に生まれました。長兄元秀が彦根藩主井伊直孝(1590~1659年)[「徳川四天王」の一人井伊直政の次男]に仕官、また長姉が直孝側室となった縁をもって、齢13で彦根に赴き井伊家に仕えます。やがて発心し、26歳に出家に及び日蓮宗妙顕寺に入ることになりました。明暦元年(1655)33歳の折、師の日豊上人が池上本門寺へ晋山したのを機に、洛南深草の地に隠棲し、後に瑞光寺を開くことになります。そして、母を送った翌年の寛文8年(1668)46歳を一期に遷化し、隠栖の地に葬られました。元政は当代屈指の学僧・文人僧であり、その著作も宗門関係の著述は勿論のこと、漢詩集(『草山集』)・歌集(『草山和歌集』)・紀行(母を伴って久遠寺に赴いた記録『身延道の記』)に到るまで多岐に亘ります。和歌は松永貞徳に学び、度々の歌会を催すとともに、堂上家の歌会にも参席しているなど広い交友関係を構築しております。それ以上に漢詩人として著名であり、同時代に洛北「詩仙堂」に隠栖し漢詩人として著名であった石川丈山(1583~1672年)、明から我が国に亡命し尾張藩に仕官していた陳元贇(ちんげんぴん)(1587~1671年)との深い交流はよく知られております。元贇との間で交わされた詩の唱和は『元元唱和集』として纏められてもおります。一方で、単なる“朴念仁”ではないことは、冒頭の戯歌でお確かめいただけましょう。それに引き続いて引用させて頂いた狂歌の作者四方赤良(太田南畝)(1749~1823年)は、その元政をこよなく敬愛し、本狂歌もこの元政作を本歌としております。「春」が「貼る」との掛言葉であることは申すまでもございますまい。新年早々ではございますが、あたかも我が家の正月風景と合い似たり……との思いから引用をさせて頂いた次第でございます。
因みに、本歌の作者である元政なる人物に小生が初めて出会ったのは、学生時代のことですから既に半世紀近く前のこととなります。中村真一郎の小説『雲のゆき来』1966年(筑摩書店)に元政が採り上げられていたことが切っ掛けでした。その人への憧憬の念から、未だ国鉄時代の「奈良線」線路脇にある墓所にも香華を手向けに参ったことがございます。石塔もない、生前の元政が愛したという竹が3本植えられただけの極々質素な墓に、しみじみとした哀感を抱いたことも忘れ難き想い出でございます。しかし、その当時は元政をそれ以上深く知るための手軽な書物は入手できませんでしたから、植木雅俊『江戸の大詩人 元政上人-京都深草で育んだ詩心と仏教-』2018年(中公叢書)がある現在は本当に良き時代になったものだと存じます。以下は余談でございますが、やはり学生時代である半世紀近く前、学生時代に所属していた古美術愛好会の夏合宿の折、元政と交流の深かった石川丈山の墓所にも参ったことがございます。その墓は、観光客で賑わう詩仙堂と裏腹に、草深い山路を上り詰めた人気の一切ない小山の頂上に卜しておりました。死してなお隠栖しているかの如き、その墓は立派な自然石の石塔であり、前面は丈山の親友であったという儒者の野間三竹(1608~1676年)撰になる碑文で埋められておりました。ちょうど日が傾き掛けた頃で、その墓石に夕陽が差し込んで静かに輝いておりました。そんな若き日の情景を今でも在り在りと思い出します。
さて、令和6年(2024)初春は、年明けの華やいだ風情を嘲笑うような激甚災害と、こんなことが起こるのかと目を疑うような航空機事故との発生に、まさに「泰平の世の眠りを覚まされる」かの如き思いにさせられました。特に、元日の夕刻に北陸で発生いたしました所謂「能登半島地震」の報には驚かされました。本項の執筆時は発生から丁度一週間が経過した段階でございますが、日に日に報道される被害の大きさに胸が潰れる思いに苛まれます。今朝の朝刊には死者数が既に130名程にも達し、なおそれに倍する安否未確認者がいらっしゃるとのこと。連日の映像を拝見すれば、全壊・半壊の家々とその下で救助を待つ家族の姿、土砂崩れによって孤立化した数々の集落、寸断された交通網に起因する物資の窮乏等々が事態を深刻にしているように思わせます(何でも能登に到る道路が現状では一本のみしか確保できず交通渋滞を惹起しているとの報道もございます)。更に、この時期の日本海岸特有の積雪が被害に追い打ちを掛けており、現地に計り知れない苦痛を齎していることは間違いございますまい。折しも年末年始休暇の最中であり、危機管理の準備はされているとは申せ、如何せん県市職員の動員ですら儘なりますまい。救助に携わっていらっしゃる自衛隊員の皆さんの救助の懸命さが伝わり心打たれます。ただ、如何せん予想を遙かに上まわる深刻な被災に手を焼いていると聞きます。何よりも活断層は未だに活発な状況にあり、規模の大きな余震が引き続いて続発していることも、救出活動への大きな障壁となっているようです。能登半島という自衛隊拠点が殆ど存在しない地域であるからこその動員の難しさもございましょうが、政府には積極的な増強を図って頂きたいと存じます。また、飽くまでも個人的な意見でございますが、何処かの自治体で開催予定の大規模なイヴェントの開催を延期してでも、能登への重点的な財政投入と必要機材の優先的配置を進めるべきかと強く考えます。どちらが優先事項であるかは、国内は勿論のこと、国際的な視野から言っても誰もが理解することでございましょう。未だ、個人レベルでの救援活動は控えて欲しいとのことですが、現状で何も出来ていない自分自身への苛立ちも募ります。庁内でも救援募金等が行われると存じますが、まずはそこから取り組みたいと存じております。
一方で、能登半島と申せば、歴史・民俗の面においても貴重な文化の宝庫でもございます。尤も、最も大きな被害を受けていらっしゃるのが石川県であることは申すまでもございませんが、周辺の富山県・新潟県・福井県でも文化財への大きな被害が及んでいることが懸念されております。勿論、人命の問題を最優先すべきことは申すまでもございませんが、それらの辿る今後の動向も、正直なところ気が気でならぬ思いでもございます。東日本大震災の際にも深刻なる事態ではございましたが、今回も罹災旧家の所蔵する貴重な資料群も同様に被災しております。それらを救い出し守っていくための、所謂「文化財レスキュー」の活動も長期的なスパンで行っていかねばなりますまい。これらの地域には個人的にも深い想い出に彩られており、思い入れもまた一入でございます。若い頃に出かけたことのある、懐かしい輪島の朝市通り周辺も灰燼に帰してしまいました。その旅の途中に立ち寄った羽咋の日蓮宗寺院「妙成寺」の壮大な伽藍はどうなったのでしょうか。北前船の寄港地として栄えた美しい福浦湊(志賀町!)への津波の被害は如何だったのでしょうか。また、中肩教員として2週間程滞在しての研修でお世話になった富山県高岡市の皆様や、作家堀田善衛の故郷である伏木の街や、その地にある真宗の巨刹「勝興寺」は大丈夫だったでしょうか。庄川を挟んだ射水市新湊「放生津」の美しい街の面影も思い浮かび、それがどうなってしまったのかも気になっております。教員時代最後の修学旅行引率で出かけた際、一夜の宿りをいただいた「能登島」南岸にある海辺の民宿は無事だったでしょうか。また、出かけたことはございませんが、珠洲市で国内唯一の伝統的製法を頑なに守る「揚浜式塩田」での塩づくりの現場と、輪島市の海辺に広がる美しい棚田「白米千枚田」はどうなったのでしょうか。故網野善彦氏が“非農業民論”の着想を得たとされる能登の旧家“”上下(かみしも)の両「時国家住宅」は無事でしょうか。元日の報道以来、様々なる思いが去来しております。今回の活断層の活動によって、能登半島の北西部を中心に高いところでは4メートル弱の土地の隆起が発生しているとのことです。従って、海岸線が200メートル以上も遠のいてしまい、漁港も干上がってしまったとの報道にも接しました。上述の塩田もまた、最早以前の儘の状況では操業することも叶いますまい。尤も、逆にその異常なまでの高い隆起の所為で、津波が想定よりも低く抑えられる結果にも繋がったとの専門家の説明にも接しました。隆起した地盤が元に戻ることはありませんから、生活インフラの再整備にも長い時間と予算を要しましょう。
以下は極々私事に亘る内容でございます。小生には現在石川県金沢市に居住する教員時代からの旧友がおります。ただ、そのご実家は同県内の輪島市門前にあり(我が家の信徒寺である亀有の曹洞宗寺院の本山にあたる「総持寺祖院」のある地であり、それが地名の由来であります)、しかも最大震度7を観測した志賀町に至近にございます。そちらには、現在も旧友のご両親が居住していることも知っておりましたので、すぐさま正月は里帰りをしており地震の直撃をうけたであろうと思ったのでした。そうは申しても被害の最中に無暗に連絡するのも迷惑至極であろうと考え、連絡を差し控えておりました。しかし、やはり心配の思いは止みがたく数日後に電話をいたしました。すると電話口に元気な声が聞こえて心底安堵したのでした。旧友の言によれば、当日は輪島の実家に戻っていたが、所用があって昼食後に自家用車で自宅に戻ったとのこと。地震発生時には金沢市内の大型商業施設駐車場にあり、その時の揺れの大きさは人生で初めて経験するような大きなものであり、流石に恐怖にかられたとことでありました。そして、幸いにも輪島市内の家屋も倒壊を免れご両親もご無事との報に接して胸を撫で下ろしました。確か、ご実家は大工業を営んでいると聞いたことがございますので、自宅は相当に堅牢に建築されていたのでございましょう。しかし、それでも相当のダメージを受けているとも語っておりました。ご両親は旧友とその御兄弟の下で避難生活を送られてるようです。同じ石川県内でも、現在旧友が居住する金沢市内は、新興住宅地で住宅被害は数件生じたものの、眼で見る限り住宅・道路等の目立った被害は皆無だそうで、北陸新幹線も翌2日には運転を再開したとのことでした。小生には地学的なことには全く暗い者でありますが、同じ石川県でも、日本海側で唯一日本海に大きく突き出したように存在する能登半島とは土地の成り立ちが異なっているのでしょうか。
調べてみても正確なことは理解し難く、正確か否かは保証の限りではございませんが、能登半島は北アメリカプレートとの境界に近いユーラシア大陸プレートの内部にあたる地域にあり、その成り立ちは浅瀬に堆積した地層が南東から押されて隆起して成立したと考えられているそうであります。その結果、この地域には多くの褶曲地形があるとともに逆断層や、陸地側は横ずれ断層も見られるなど、地震の発生しやすい土地であるようです。確かに、過去100年間に限っても比較的大規模な地震が何度も発生している地域であり、ここ15年程をみても震度5以上の地震が5回も発生しております。そもそも小規模な群発地震が続いていたことが頻繁に報道されておりました。そうした事態が継続的にあったのにも関わらず、それが今回の大地震への備えに直結してはいなかったのか等々、今後の検証が求められましょう。併せて、能登での現状を他山の石とすることなく、南海トラフ地震や東海地震、ましてや関東大震災以降百年以上に亘って巨大地震の空白地帯である我らが関東の都道府県・市町村、及び住民は深刻に受け止め対処策を講じることが求められましょう。関東地方は、何と申しても一寸やそっとの活断層レベルとは比較にならないほどの大規模断層の真っ直中に存在するのですから(「フォッサマグナ(大地溝帯)」)。相手は自然であります。何時・何処で地殻運動が勃発するかは正確に予測することはできません。その発生は神のみぞ知るでございます。我々人間ができることは、災害を甘く見ることなく、後回しにすることなく備えをしていくことだけしかございません。
それに対して、2日の羽田空港の事故は、何らかの管制官・日航機・海上保安庁機との間に、何らかの意思の疎通に行き違いがあったことが原因でありましょうし、現在その調査が進められております。映像を見た瞬間には、これは大変な事故であり犠牲者数も数知れず……と肝を冷やしましたが、実際には日航機乗務員の的確な判断の下で、搭乗者全員の生命が救われたことに感銘を受けました。しかし、海保機に搭乗した機長以外の職員は生命を落とされたとのことです。地震被災地へ物資を届けに向かうための飛行であったと聞きました。地震さえ無かりせば……との思いも拭えませんが、何よりも人災としての側面を徹底究明する必要がございましょう。実は、本事故においても、個人的に大変に心配な思いをさせられたのでした。同日は、年末年始を北海道にある奥方のご実家で過ごされた畏友が、新千歳空港から東京に戻って来る日であろうと予想されたからでございます。事故機の搭乗者が全員無事避難を終えたとの情報に安堵し安堵はしましたが、メールで確認したところ、その直前に別便で成田に到着しており無事であるとの返信がございました。尤も、到着後に直ぐに電車で移動をされたたため、事故の報に接したのは帰宅後であったそうです。それでも間一髪で事故に巻き込まれずに済んだことに安堵されておりました。同時に、身近な友人が災害・事故に遭遇した(しそうになった)ことで、小生自身と致しましても、今年の新春ほど災害・事故を身近な問題として感じたことはございませんでした。月次ではございますが、一刻一刻を大切に生きなければならないなと実感をした次第でもございます。
自然災害・事故の話題から離れた内容を幾つか。年末・年始には、これまで録画していたものの見ることが叶わなかった番組も沢山視聴いたしましたが、特に以下の2本の番組には強く印象に残りました。一つは12月15日に放送された『タモリステーション』(テレビ朝日)での「沸騰する地球~2023気候変動が生む負の連鎖~」であります。改めて、地球温暖化が現在地球規模で発生する異状気象の根本的な要因であり、この儘こうした状況に抑制が加えられなければ、この地上に生きる人類を含む生命体全体にとんでもない悲劇が降り注ぐことを目の当たりにしたように思います(改めて戦争などしている場合ではないと心底思わされました)。また、もう一本が12月6日に放送された『フロンティア-その先に見える世界』(NHK)における「日本人とは何物なのか」でございました。最近急激な精度を増した「古代DNA解析」技術の進展に伴い、原始・古代の人骨のDNA解析が進んだ結果の驚くべき実際に大いに驚愕させられたのです。小生などは、古くからの縄文人に、後に日本の地に移ってきたとされる弥生人との交雑が進んで、現在の「日本人」が形成されたと単純に思い込んでおりました。そして、多くに方々がそう考えていらっしゃったと思います。しかし、そんな常識が覆ろうとしているのです。浮かび上がってきたのは“最初の日本人”の意外な姿。アフリカから最初に東アジアにやってきた人類との密接なつながりであり、今の日本人のDNAを決定づける“謎の集団”との混血の証拠であります。後者は「古墳時代」にその淵源があることまで明らかになったのです。古代史で「空白の4世紀」なる言葉を耳に致します。記録が殆ど存在しない時代であるからです。その弥生時代から古代国家成立までの時代に、おそらく日本の社会に極めてドラスチックな変化が生じていた可能性があることを知ったのです。これは小生にとって実に驚異的な知見でした。異民族とされる「蝦夷」「隼人」などの存在も別の視点から考える必要さえあるのかもしれません。到って刺激的な内容に興奮させられる、極めて良質な番組でございました。
さて、来週の16日(火)より本年度の特別展『関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏-宗家の滅亡・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動-』が始まります。皆様の御来館をお待ち申し上げております。また、本館1階展示室で開催中の千葉市埋蔵文化財調査センターによる特別展『幸福を祈る―古代人の願いと造形―』も同時にご覧頂けます。こちらは、本館での前期開催は今月の28日(土)までとなります。その後「令和6年2月13日(火)~令和6年3月3日(日)」の会期で後期展示が「千葉市埋蔵文化財調査センター」で開催されます。因みに、本展の「展示図録」が完成し、本館の特別展「享徳の乱」開催時からは配布できる運びとなりそうです。埋文センターでの後期展示には前期展示ではパネルのみであった展示遺物の実物展示もされますから、そちらにも是非脚を運んで頂きたいのですが、本館での残された2週間の会期中であれば、本館の特別展と併せて双方ともにご覧頂けます。しかも、埋文センター特別展図録も入手出来ます(こちらは無償頒布となりますが、「享徳の乱」図録は¥800での販売となります)。何度も申しあげておりますが、『幸福を祈る』展の内容は密度の濃い、かつ実に提案性に満ち溢れた極めて優れた内容でございます。ご覧頂いて損は無いばかりか、古代史に関する新たなる視座を与えてくれる内容でございます。是非ともお運び下さいませ。もちろん、本館の「享徳の乱」に関する展示にもご期待の程を!!
令和5年度の特別展『関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏-宗家の交代・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動-』の幕が開いて4日目となりました。14日(日)に「毎日新聞(千葉版)」に大々的に取り上げていただいたこともあってか、平日にも関わらず連日沢山の皆様にお運びを頂いております。ありがたいことと存じあげます。会期は3月3日(日)までとなります。前号でも述べましたように、1月28日(日)までにご来会でいただけましたら、1階で開催しております埋蔵文化財調査センターの極めて意義深い優れた特別展『幸福を祈る-古代人の願いと造形-』(前期展示)と併せてご覧いただけます。両者ともに見どころ満載の展示会でございますし、埋文センター展示図録も完成し現在は頒布もしております(無料)。“一粒で二度美味しい”観覧となります本館に、是非とも万障お繰り合わせのうえお出で頂けますようお願いを申し上げます。また、本館特別展の展示図録は1冊800円で絶賛販売中でございますので、お買い求めいただけましたら幸いでございます。
斯様な本館のことから転じた“藪から棒”の話題となり恐縮でありますが、NHKで不定期放送される番組に「超入門落語THE MOVIE」がございます。先日の三代目桂三木助に続いてまた落語の話題かよ……と思われる向きがございましょうが、ちょっぴり毛色の変わった落語番組のご紹介を通じて、今回は「日本犬」について少々考えてみようとする内容でございますので、何卒お付き合いのほどをお願い申し上げます。尤も、「枕」(落語)の部分がそこそこ長くなるとは存じますので少々御辛抱を頂けましたら幸いであります。かて加えて、本稿は資料が手に入らず中途半端になってしまっている「忠犬ハチ公」回の関連内容ともなります(続編的な内容)。これには、前稿をお読みくださった、埋文センターの西野所長から、「犬」に関する沢山の関連図書をお貸し頂いたことも背景にございます。有り難きことと心よりの感謝を申しあげたく存じます。それでは、まずは本番組についてから語り起こして参りましょう。
落語というのは、通常落語家が一人で登場人物を演じ分けて語る演芸でございます。ところが、本番組は、落語家の噺は音声としてはそのままに(部分部分で寄席にて語る噺家の姿は映りますが)、映像では登場人物それぞれに俳優をあて、きちんとつくり込んだセットの中で落語家の語る噺に合わせ、アテブリ芝居を演じる内容となっております。そして、この新春には「古今亭志ん生スペシャル」と銘打つ特集が組まれ、昭和の大名人と目される志ん生の落語ワールドを充分に堪能させる演目が採り上げられておりました。過日、小生の最も敬愛する噺家として三代目桂三木助をご紹介いたしましたが、志ん生も同じように敬愛しております。残された音源数が多い分、志ん生の演目は三木助を数倍するほど所有しているほどであります。桂文楽や桂三木助のような細部に至るまで作り込んだ笑いとはちょっと異なる、破天荒で飄々とした語り口により瞬く間に噺の世界に誘われ、登場人物の遣り取りに腹の底から爆笑させられてしまう、天性の明るく開放的な笑いの世界を作りあげてくれる稀有なる噺家でございます。そして、今回の「超入門落語THE MOVIE」で採り上げられたのが、志ん生の十八番である『火焔太鼓』と『犬の災難』の2作でございました[その後にモノクロで残された志ん生の口演をカラー化した映像も放送されましたが(『風呂敷』『巌流島』)、見た目からして落語の世界から抜け出てきたような姿形に、今では絶無となった最後の噺家となってしまったことを痛感した次第でございました。今回の放送では、実際の口演は、『火焔太鼓』が孫弟子にあたる古今亭菊之丞、『犬の災難』が曾孫弟子にあたる桃月庵白酒が担当しておりました。今回の本稿は「日本犬」についての話題となりますので、必然的に後者『犬の災難』を振り(枕)にしながら本論に入っていこうと存じます。なお、本作のアテブリで大活躍するのは、裏長屋住いの大の酒好きの貧乏職人主役である熊五郎が“お笑い芸人”の「ハリウッドザコシショウ」、相方の“兄貴”が同じく「コウメ太夫(ただし白塗り無しの素顔での登場)」となります。誰が人選したのか知りませんが、二人とも中々の芸達者であり感心させられました。また、話のキモを担う「犬」につきましては、実際の犬ではなくCGでの登場となります。まぁ、噺の内容自体は本稿の趣旨とは直接は関係しませんが、せっかくの機会ですから粗筋だけでもご紹介しておきたいと存じます。
一杯引っかけたいにも関わらず、今日も一文無しで飲めずに、裏長屋で暇を託っている熊五郎の姿があります。そこに、鶏屋が上等の鶏肉を届けに来ます。ウチじゃ頼んでないよと言う熊五郎に、鳥屋は隣の婆さんから湯屋に行っている間に熊五郎に預かってもらうように頼まれていると伝えます。気安くそれを預かった熊五郎でしたが、目の前にある旨そうな鶏肉に対峙しているうちに、何とも悶々とした思いに駆られてくるのです。そんなところに、「一緒に酒を飲もうと」兄貴分がやってきます。「しめた!これで飲めるぞ!!」と内心喜ぶ熊五郎でしたが、兄貴は熊五郎の魂胆を見透かすかのように、酒は俺が用意するが、お前も肴を用意するようにと釘を刺します。兄貴はそう言いながら熊五郎の前に佇む上等の鶏肉の包みを目にとめます。そして、「なんだ!おめぇ上等な鶏肉じゃねぇか。買ったのかい?これを摘まみながら一杯やれるとはねぇ……」と畳み込むように言い募るのでした。熊五郎は兄貴の勢いと、酒を飲みたい一心から、実は隣の婆さんの肉を預かっていると言い出せなくなってしまうのです。兄貴は俺が酒を買ってくる間に、お前は鶏肉を調理しておくようにと言い残して長屋を出ていきます。ところが入れ替わりのように湯屋から戻った隣の婆さんがやって来て、鶏肉を引き取っていってしまうのです。困った熊五郎は言い訳を思案することになります。その結論が、犬が裏長屋に侵入して鶏肉を咥えて逃げてしまったことにする算段でした。そこに酒の一杯に詰まった貧乏徳利を下げた兄貴が戻ってきます。熊五郎は、白犬が入り込んで鶏肉を咥えて逃げてしまったこと、追いかけたものの四つ足には追い付かずに取り戻せなかったことを語り、「兄貴すまねぇ……」と不必要なまでに大袈裟に詫びるのです。それを聞いた兄貴は「しょうがねぇな……、まぁ相手が犬じゃぁ仕方がねぇ」と認め、今回は俺が肴も用意するから待ってろと再び出かけることになります。「いやぁ、兄貴が馬鹿で助かった」と、首尾よく誤魔化せたことを喜ぶ熊五郎でしたが、今度は目の前にある貧乏徳利を前に悶々として参ります。そこで、減った分は水で薄めりゃいいだろうと飲みながら待つことにするのです。しかし、何時まで経っても兄貴は戻ってきません。気が付いたときには貧乏徳利は底をついてしまいました。そして、すっかり赤ら顔となり呂律さえ回らなくなってしまった熊五郎。流石にこりゃ拙いと、さっき上手くいった犬を出汁に使った言い訳の悪巧み。それが、犬が入って来て貧乏徳利を倒して逃げてしまったことにすることでした。アリバイづくりのために、ふらつきながらも畳に水を垂らして準備をしたところに兄貴が戻ってきます。赤ら顔に気づかれないように項垂れた熊五郎は、「兄貴すまねぇ」と、泣くようにしながらでっち上げた事情を説明するのです。兄貴に「その犬は、お前はさっき鶏肉を取っていった白犬か」と問いただされた熊五郎は、「おめぇはさっきの犬か!?」言ったら、ちゃんと頷いたから間違いねぇと言わずもがなのことまで喋るのでした。当然の如く、兄貴からは犬が返事するわけねぇだろうと返された上に、明らかに疑って掛る兄貴から顔を上げてみろと責められます。顔を上げるや否や「真っ赤じゃねぇか!?酔っぱらってるだろう!?ホントウは待っている間に一人で飲んじまったんじゃねぇのか!」と図星の指摘をされるのです。しかし、熊五郎はめげることなく、半ば呂律の合わらぬ口で言い訳にもならない言い訳でこう返すのです。「酔っぱらってますよ!」「でもですねぇ、“飲んだ”んじゃねぇんですよ」「そのままじゃ全部畳に沁みちまうんで、あんまりもったいねぇんで畳に口をつけて“吸った”んですよ……」と。更に「吸う酒は飲むよりも廻りますねぇ」とも。その時、熊五郎の裏長屋にホントウの「赤犬」が迷い込んできます。「こいつですよ」と苦し紛れに言う熊五郎に、兄貴は「おめぇ、さっきは白犬だって言ってたじゃねぇか」とやり込められそうになりますが、あろうことか「こいつ、酒飲みやがったんだな」と、飽くまでも犬に罪をなすりつけて言い逃れようとします。流石に呆れて「お前が食ったり飲んだりしたのはホントウなのか!?」と赤犬に畳みかける兄貴に、赤犬が「クワン!クワン!」と吠えて返す……というのが本噺の“サゲ”となります。
以上が「犬の災難」の粗筋でございます。因みに、本作は三代目の柳屋小さんが上方から伝えた話だそうですが、上方では『猫の災難』として演じられていたそうです。ところが猫嫌いの志ん生が猫を犬に変えて翻案したとのこと。何れにしましても、舞台を江戸末期から明治初頭に設定した噺であります。さて、ここで漸く話題を本筋に戻して参りたいと存じます。ここで、皆様に御質問をさせていただきましょう。この熊五郎の長屋に迷い込んだ赤犬は、一体如何なる犬種でありましょうか。まぁ、そんなこと解かる訳がないだろう……というのが正しいと思われますが、一つだけ明らかなことはこの犬がポインターやダルメシアンやポメラニアン、はたまた大谷翔平の飼い犬で過日ハイタッチをし合っていた“でこぴん”君の犬種コーイケルホンディエといったような、所謂「洋犬」ではないことでございます。欧米で過去数百年に亘って人間の都合によって徹底的に改良され続けた「洋犬」は、南蛮貿易が行われた時代から江戸時代までの間に平戸・長崎を通じて断続的に日本に入ってはおります。しかし、それを手にして飼育した可能性が高いのは将軍家・大名諸侯のような一部の支配階層だけであり、巷に出没して一般庶民が目にすることのできる状況には全くありませんでした。従って、「洋犬」の殆どは明治維新後の「文明開化」以降に国内各地で急速なる勢いで広まることになったのです。明治時代に洋犬の事を「カメ」と呼称していたことをご存知の方も多かろうと存じます。これは、連中を日本に齎した欧米人が飼犬を呼ぶときに「Come Here!!」と言うのを、「カメや!!」と言っていると聞き違えたことに由来するそうです。それでは、改めて問わせていただきましょう。洋犬である可能性が限りなくゼロに近い時代を時代設定とした「犬の災難」に登場する犬種は何でしょうか……と。おそらく、敢えて申せば「名もなき野犬(野良犬)」といったところが一般的な回答でしょう。
まず、以下に述べることは、谷口研語氏の著作『犬の日本史-人間とともに歩んだ一万年の物語-』2012年(吉川弘文館 シリーズ「読み直す日本史」)に全面的に依拠した内容となることを申し添えておきたいと存じますが、その解答は「日本犬」とするのが最も適切であると、本書を拝読して考えるところでございます[本書は2000年に「PHP新書」の一冊として刊行されましたが、吉川弘文館本は同書に補論を追加して後に再刊されたものです。小生は新書版で読み、西野氏からお借りした吉川版で補論部分を拝読させていただきました。類書は殆どございませんので大いに参考になりましたが、新書が他社から一般書籍で再版されるという極々珍しいケースが何より「良書」である証明となりましょう]。恐らく、犬好きの方であれば以下のように反論をされることでございましょう。「えっ??日本犬とは言えないでしょう。だって、日本犬って“秋田犬”とか“柴犬”とか“紀州犬”のことを指すんでしょう?そんことは噺のどこにも出てこないじゃありませんか!」……と。しかし、広く「日本犬」として認識されている犬種が如何なる犬たちかを探れば、小生の言っていることが強ち暴論ではないことにお気づきになられることと存じます。因みに、戦前は元より、縄文の昔から、日本において犬は、飼犬であっても放し飼いが基本中の基本であり、現在のような首輪をつけて縄で繋いでおくことは極少数の例外(鷹狩で用いられる猟犬)を除いて無かったことを確認しておきたいと存じます。当然「登録制」もありませんから、飼犬であっても野犬であっても判別は不能な状況にあったのです。つまり、江戸時代以前の日本国内の犬は、町と言わず村と言わず、人の手の一切加わっていない“ありのまま”の犬であったのです。そのことは、江戸時代以前に描かれた絵画に描かれた犬の姿を見れば、直ぐに確認できることでもございます。
さて、明治と言う時代が、全般において科学技術の進んだ欧米諸国に追いつくことを至上命題とした時代であったことに、異論を差し挟まれる方は多くはありますまい。「文明開化」は正にそうした時代を象徴するムーブメントでございました。その結果、明治の世を通じて、日本という国家が良きにつけ悪しきにつけ、近代国家の相貌を呈するようになったことは確かでございましょう。ただ、その反面で、日本という国のおかれた地勢的・地理的条件故に、海外との交流が広く行われて来なかったことを背景に独自に育まれてきた、伝統文化・伝統技術や文物が黴の生えた古くさい遺物として軽んじられ、無批判に排除・放棄された経緯も存在した時代であったことを、誰も比定することは出来ますまい。初代文部大臣となった森有礼(1847~1889年)に到っては、日本語を廃して日本も英語を国語とすべし……との提唱まで行った程でございます(仏文学者・哲学者であった孫の森有正には書籍を通じてお世話になりましたが爺さんの暴論は流石に首肯できません!)。こうした動向は「犬」にまで及んだと谷口氏は述べております。「明治維新以降、洋犬をありがたがり、日本在来犬を“つとめて”殺す風潮があったのである」と。上述のように放し飼いが当たり前の時代、増え続ける洋犬と日本在来犬との交雑は際限もなく進むこととなったことは知り得ておりましたが、意図的に在来犬が殺されていたという歴史があったことに大いに衝撃を受けた次第でございます。かくして、気づいた時には国内には純粋な日本在来犬が絶えて久しくなる状況に陥ったのでした。
斯様な状況が急速に進展する中、明治の末頃に危機感を募らせる動向が芽生え始め、やがて日本在来犬種の保存運動が起こったと言います。谷口氏は「それは昭和3年(1928)の日本犬保存会の設立という形で結実し、同会は発足から6年後の同9年、あるべき日本犬の理念系を日本犬標準として提示した。すなわち“日本犬の理想像”を定めたのである」と書かれております。しかし、時期既に遅きに失しており、彼らが標準系として示した「立耳」「巻尾」の理想的な日本在来犬を捜索する運動は困難を極めたと言います。幸いに、山間部の猟犬には、未だ比較的純粋な在来犬が残されていることが分かり、それらが発掘されて保存されることになったのです。そして、日本在来犬が天然記念物の指定を受けることになったのです。それが以下にお示しした7犬種(内一種は現在純血種絶滅)となります(括弧内は天然記念物に指定された元号)。
秋田犬(昭和6年)、甲斐犬(昭和9年)、紀州犬(同左)、越の犬(同左)[現絶滅]、柴犬(昭和11年)、土佐犬(昭和12年)[土佐闘犬ではなく四国犬]、北海道犬(同左) |
ただ、これらの犬種が日本在来種であることは間違いないとしても、大きな疑問も残されましょう。つまり、これら指定犬種は何れも“猟犬”という、国内でも極めて特殊な犬種を源流としていることであります。谷口氏は以下のように述べておられます。「日本は長く農耕社会だったのであり、生業としての狩猟は、弥生時代以来、二次的な物となっていた。したがって、日本史上の犬を総体として考えたならば、今は絶滅してしまった「町の犬」「村の犬」が主流であって、狩猟犬は特殊な犬だとしたほうがいいのである」と。つまり、架空の噺である落語「犬の災難」に登場する犬にこそ、恐らく日本犬主流の面影が色濃く宿っていたことになるのです。更に、一覧表をご覧頂ければ、日本犬が天然記念物に指定された動機として、当時の思想的・政治的な背景が透けて見えて参りましょう。国家主義的な潮流の中で、排外主義や国粋主義的な動向が明確化していく時代であったことが、(指定に向けて取り組まれていた方々の意図とは必ずしもリンクしていなかったかもしれませんが)恐らく影を落としていたことであります。以前に本稿で採り上げました、秋田犬のハチが生前に「忠犬ハチ公」として顕彰されたのが昭和9年(1934)[ハチの死没は翌10 年のことです]であることとも見事に付合いたします。尤も、軍用犬として日本陸軍に重視された犬種が洋犬の「ジャーマン・シェパード」であったことには何ともシニカルなものを感じさせられますが。このことについては、谷口氏は実に示唆に富む話題を提供しておられます。それが、日本人にとって古くから愛玩犬として大切にされてきた狆(チン)に関することでございます。狆は日本産犬として古くからヨーロッパでも人気がある犬種でありますが、その起源については明らかではないそうです。しかし、ポッと出の犬種ではございません。現在では、西域にいた小型犬種が唐代に中国にもたらされ、やがて日本に伝わったのが室町時代のことであるという説が有力のようです。そして「犬将軍」徳川綱吉もこの狆を大変に愛玩したことはよく知られております。つまり、狆は、猟犬たちが天然記念物に指定された時点で既に500年からの歴史を有する日本固有の犬種に他なりません。それにも関わらず、狆が天然記念物の指定を受けることはありませんでした。そのことは、狆は体軀重厚で野性味も併せ持つ日本犬の在るべき姿とは程遠い姿であり、時代の趨勢が求める日本古来の犬には相応しくなかったからでございましょう。つまり、「日本犬」という概念そのものが、時代の産物に他ならないと言うことになりましょう。更に付加するとすれば、一方で国内では戦局に暗雲が立ち籠め食糧事情が悪化すると、国内の犬を献納させて食肉として積極的に利用した歴史があることも忘れてはなりますまい。「何て残酷な!!」というなかれ!!韓国で現在も犬食文化が残るように、我が国にも弥生時代以来、現代に到るまでの連綿とした犬食文化が存在していたのです(縄文犬の骨には食肉に加工された痕跡は殆ど認められていないようです)。このことを愛犬家の方々もまたお知りになるべきかと存じます。我々の先祖様は、犬たちを食して生き延びてきたことも厳然たる事実なのです。こうした歴史を無かったことにしてはなりますまい。
ここまで申せば、「犬の災難」に登場する赤犬もまた、今では複雑に交雑が進んでその姿を見ることのできない、立派な「日本犬」の一匹であったと称することも間違いではないことを御理解頂けたものと存じます。そもそも、日本犬に「純粋な血統」などといったものは存在せず、この島国という閉塞空間で交雑を繰り返して形成されてきた犬種であることを前提に理解することが重要でありましょう。小生は以前にも申しましたように犬を飼ったことも、今後に飼おうとも思っておりませんが、もし飼うことになるのなら所謂「日本犬」を第一に選択することになりましょう。ただ、日本犬が優れているとか、忠犬であるとか言ったことが理由ではございません。純粋にその犬としての立ち姿が美しいと思うからでございます。忠犬であるのであれば洋犬だって同じ資質をもっております。要は優劣の問題ではなく、単なる好みの問題であると言うことでございます。
さて、今回の「犬」の話題はここまでとさせて頂こうと存じます。「犬」に関する小生の興味は未だ未だ尽きることがございません。例えば、猟犬を出自とする現在の所謂「日本犬」と、縄文遺跡から出土する「縄文犬」との関係や如何?弥生時代に表れる「弥生犬」とそれ以前の「縄文犬」との関係や如何??更にはそれらが明治以降に絶滅してしまった「ニホンオオカミ」から分かれて来た種なのか……等々でございます。幸いに西野氏からは他にも数冊の書物をお借りしております。何か興味深いことが見つかりましたら、不定期とはなりますが本稿で紹介をさせていただきたく存じます。動物と人間との関係と言うことでは、日本在来馬の運命にも興味を引かれております。日本の名だたる武将達がその馬に跨って勇名を馳せてきたにも関わらず、“短足寸胴”であることから軍馬としては見栄えが悪いと、明治以降に人の都合で絶滅に追い込まれていった在来馬の歴史にも何れ迫ってみたいとも考えております(その復興への取り組みも)。こうした動向は、平たく言うのならば、アラビア馬に比べて体裁が悪い劣等な種など絶滅に追い込んでも構わない……という人間の見栄の問題に帰着いたします。こうした発想自体が、忌避すべき所謂「優生思想」以外の何物でもございますまい。これを人間様に当てはめて考えれば、どれほどに身勝手で理不尽な発想かは容易に理解されることでございましょう。
「能登半島大地震」と羽田空港での航空機事故で幕を開けたような令和6年でございますが、もうじき一カ月が過ぎ去ろうとしております。しかし、地震の被害は過ぎ去ったどころか、日々の報道からも明らかなように、実態把握ですら未だに追い付いていない現状にございます。つまり、未だ地震災害の真っ只中というのが正しい状況であります。平成23年(2011)3月11日に発生した、「東日本大震災」は、13年経過した現在にあっても復興の手は充分には行き届いていない状況であることに照らせば、今回の大地震の復興にも途方もない月日が必要となることは明々白々でございましょう。更に、先の1月17日(水)早暁、神戸で行われた「阪神・淡路大震災」慰霊祭の様子を拝見すれば、平成7年(1995)1月17 日の地震発生以来30年弱の月日が経過しても、被災された皆様の心の傷は少しも癒えてはいないことが痛いほどに伝わって参りました。実際に可能であったか否かは別として、大切な方を守ってあげることが叶わなかったことへの自責の念は、今も強烈な悔悟と深い哀惜とによって生き残った人々を苛んでいるように思われます。その思いは、もしも自分自身に降りかかったとすれば……と思いさえ致せば、誰もが容易に理解できる筈でございましょう。小生の教員時代の同僚女性にも、阪神淡路大震災で大切なフィアンセを亡くされた方がいらっしゃいました。その後、地元を出て関東の地で新たな出会いをされ、今では幸福な家庭を築かれていらっしゃいます。その事実を淡々と語られてはおりましたが、心の奥底には癒しても癒しきれないほどの、計り知れない悲しみが今も渦巻いていることが垣間見えて流石に返す言葉に詰まったほどでした。ところで、近年に発生した3つの大地震が、いずれも1月と3月という寒い時期であることは偶然なのでしょうが(流石に地殻運動と気象の問題とは連動しますまい)、それでも罹災された皆さんのことを思えば何もこんな時期に……との思いは拭えません。勿論、酷暑の中であっても厳しい環境には全く変わりないことは申すまでもございませんでしょうが……。
さて、前々回の本稿にて、昨年の12月6日に放送された『フロンティア-その先に見える世界』(NHK)「日本人とは何者なのか」について、ホンの少しでしたが御紹介をいたしました。そして、近年急激な精度を増した「DNA解析技術」の急速な進展に伴い、原始・古代人骨のDNA解析が進んだことによる、我々“日本人”の起源に関する研究の最前線に大いに驚愕させられた……と書かせていただきました。小生のような完全なる「文系」思考(志向!?)の人間にとっては、本来的に「自然科学」の分野にあたる斯様な研究については、あまり感心が向かなかったのが正直なところでございました。しかし、これまで「人類の歴史」を長く牽引してきた「人文科学」の分野の研究からは迫り得なかった次元にまで「自然科学」の分野が迫りつつあることに、遅蒔きながら直面して驚き、また大いなる興味を惹かれたのでございます。そこで、番組に出演されていらっしゃいました国立科学博物館館長の篠田謙一氏による、標題に掲げた著書『新版 日本人になった祖先たち-DNAが解明する多元的構造-』2019年(NHKブックス1255)を仕入れ、一読に及んだところでございます。
本書が「新版」と銘打っていることからもお分かりの通り、最初の出版は平成19年(2007)でありました。しかし、著者が“あとがき”で述べられておりますように、「この分野の発展は速く、読み返してみると明らかに時代遅れの記述が目立つように」なったため、「今回改訂版を出すことにした」こと、「実際に作業を始めてみると部分的な修正ではとても間に合わず、多くの部分を新たに書き直すことになった」ことにより、ほぼ新著に近い内容になったとのことでございます。特に、平成22年(2010)以降の古代ゲノム研究の進展によって、それ以前とは比較にならないほど精緻な人類拡散のシナリオが描かれるようになったため、旧著における古代人骨のDNA分析データも基本的に採用していないといいます。この間、僅か10年余りでございます。解析技術と研究の長足の進展が偲ばれるというものでございましょう。逆に本来であれば、旧版のまま絶版となり世間から消え去る運命であったものが、「新版」として“アップトゥーデイト”されたわけですから、それだけ価値ある書籍であったことも知れましょう。こうした知見から取り残されている「浦島太郎」は、小生のような呑気な文系人だけだったのかも知れません。そして、その新版の発行からですら、早くも5年が経過しております。先程の理屈から類推すれば、本書ですら既に最新の知見からは遅れていることでございましょう。そのことは、新版の最後に篠田氏が述べていらっしゃる、平成30年(2018)度より文科省の大型科学研究費(「ゲノム配列を核としたヤポネシア人の起源と成立の解明」)が採択されたと書かれていらっしゃることからも容易に想像できます。そして「研究が終了する5年後には新たな日本人起源論を提示できることと思います」ともございます。その5年後とは正に本年度にあたりますから、その報告の要旨こそが、先日のNHKによる実に刺激的な放送内容に当たるのだと存じます。
そこで、本稿では、NHKでの放送内容については若干触れるに留め、篠田氏による『新版』における“日本人の起源”の問題を中心に、同氏による『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」-』2022年(中公新書)も適宜参照しながら、今日に至るまでの段階で明らかになった「日本人の由来」について御紹介をさせていただきたいと存じます。NHK番組で拝見した最新の研究成果につきましては、何れ篠田氏による本書『新々版』として結実することでございましょう。その日を楽しみに待ちたいと存じます。ただ、篠田氏は番組末尾で今後新たに“科研費”が認められるのであれば、今回の研究で判明した日本人の起源で極めて重要な意味を持つ「古墳時代」の位置づけを明らかにしたいと、力強く語られていたのが印象的でございました。是非とも文科省におかれましては、その追求を後押しして頂ければと存じます。ところで、本書の紹介とは申しても、このような一般書を以てしても、遺伝子ゲノムの話と、それを如何に分析すると斯様なことが分かってくるのかについての理解は、小生のような者にはチンプンカンプンに近い程度でしかございません。従って、最も重要なプロセスの部分についてはほぼスルーして、そこから判明したことについてのみを御紹介させていただくつもりでございます。
その核心となるのが、母親からのみ受け継がれる「ミトコンドリアDNA」と、父親からのみ受け継がれる「Y染色体DNA」の存在であり、その構造を分析することで、それぞれの遺伝的な形質をグループ化して把握することが可能になったということであるようなのです(適当な説明で申し訳ございません!)。このグループを「ハブログループ」と呼ぶそうでありますが、それらを地域ごとの纏まりとして分析することで、人類の発生以来の人類の移動の跡が見えてくるということになるのだと存じます。これを可能にしたのが、発掘される良質な古代人骨からDNA情報を抽出して解析する技術が急速に進展してきたことでございます。つまり、遺伝子のゲノム情報と言う紛れもない科学的な情報によって人類の起源とその後の拡散経路が紛れもない形で明らかにできるようになったのです。これまで、人骨の形態学的な比較検討に頼ってきた分析から、飛躍的に精緻な分析に基づく研究が進展したということになります。その実例として、本論に入る前に、篠田謙一氏による研究成果についての一例をご紹介させていただきます。それが、寛文8年(1668)に日本に潜入して捕らえられたイタリア人カトリック宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチの埋葬骨の分析に関する成果でございます。その埋葬骨のDNA調査によって、シドッチと推定される人骨が、間違いなくヨーロッパ系の人であることを明らかにされたのです。シドッチは正徳4年(1714)の死没まで江戸切支丹屋敷で幽閉されており(現文京区小日向)、その屋敷跡から発掘された人骨であって、しかもヨーロッパ人であればシドッチであることに疑いはないと、論争に決着をつけられたのです[篠田謙一『江戸の骨は語る-甦った宣教師シドッチのDNA-』2018年(岩波新書)]。これまでの人骨の比較形態調査からは決して判明しない、科学的データによる紛れもない証拠が決定打となったのであります。余談ではございますが、時の幕政を切り盛りしていた新井白石(1657~1725年)が、幽閉されていたシドッチとの対話をもとに『西洋紀聞』などを著したことはよく知られておりましょう。自然科学系の頭脳の持ち主でいらっしゃれば、この辺りの詳細をお知りになりたかろうと存じますが、それは是非とも上記させていただきました篠田氏著書に直接当たっていただければと存じます。これ以上のご説明は少なくとも小生には荷が重すぎますので。
さて、現代人の直接の祖先となる「新人」は、DNA分析と化石の研究から、20万年~10万年前のアフリカに措いてと考えられているそうで、それが世界中の現代人の共通の祖先なのだといいます(ネアンデルタール人とは別の種となります)。そして、「新人」が“出アフリカ”を果たすのが、約6万年前のことであると考えられるそうです(北エジプトから紅海北端を通って中東に抜けるコースと、現在のエチオピア周辺の海岸から海を越えてアラビア半島に向かうコースの2ルートが想定されており、DNA分析からは後者が主たるルートと想定されるようです)。そして、アフリカを旅立った「新人」が現在のオーストラリアの地にまで至ったのが約4万7000千年前で、東アジアにもほぼ同時期にあ足を踏み入れることになったと考えられるとのこと。そして、若干後には現在のヨーロッパへ、更に2万年前以降になると当時“陸橋”であったベーリング海峡を越え、瞬く間にアメリカ大陸の南端にまで到達したことが想定されているようであり、この人類の旅路を「初期拡散」と呼ぶとのことです。ただ、この段階で「各地に展開した集団が、現段階で各地域に居住する直接の祖先というわけではなく、その後の集団間での離合集散によって、まったく異なる遺伝的な特徴をもった人々が居住することになったことが、古代人のゲノム研究の結果で明らかになりつつあるそうです。
そして、「新人」は考古学的資料から判断して、4万年程前に我らの居住する現在の日本列島の地にも移動してきたと考えられております。この時代は、所謂「旧石器時代」として時代区分されておりますが、残念ながら沖縄の数例以外は人骨が発見されておらず、未だDNA的に系譜を辿るまでには至っていないようです。そして、彼らの後裔にあたるのが所謂「縄文人」ということになると想定されるとのことです。旧石器人DNA解析がほとんど存在しない中で何故そう言えるかと言えば、日本の各地から数多く出土する縄文人骨のDNA解析の結果、日本列島内における縄文人同士のDNA差は比較的少なく、共通性の方が遥かに高いこと、逆に周辺大陸における集団のDNAとは大きく離れていることが判明したからです。このことは、日本列島に移動した人々が、大陸集団から相当に早い段階で分岐し、日本列島の中で長期に亘って独自の遺伝的特徴を獲得してきたことを示しております。そうであれば、その遺伝的な特色は縄文以前となる旧石器人から引き継いでいる蓋然性が極めて高いと考えることができるからと篠田氏は述べておられます。ただ、共通性の方が優勢な縄文人のDNAを子細に分析すると、地域ごとの違いもまた発見でき、このことは日本列島への移動のルート(「南から北へ」or「北から南へ」)との関係もあることが指摘されております。
それでは、現代日本人のDNAの中に縄文人の遺伝子はどれほど伝えられているのでしょうか?その比較調査によれば、現代人の中に引き継がれている縄文人の遺伝的要素は、本土日本人では概ね10%程度、琉球列島日本人で概ね30%程度、そして北海道のアイヌの方々で70%となるそうであり、少なくとも現代日本人の大多数を占める本土日本人に、縄文人のDNAは思いの他に少ないことが分かります。縄文人が、その後現代までに到る時間軸の5倍以上に亘る長い歴史をこの地で歩んできたことを思えば、小生はこの結果に相当な違和感を抱きました。逆に言えば、その後の2~3千年という極めて短い時間軸の間に、複雑な遺伝的要素を獲得して現在日本人に至っていることになりましょう。また、縄文人のDNAを仔細に見ると、先にも触れましたように列島東西で明らかにDNAに差が見られるとのことであり、それを現代日本人のDNAと比較すると、意外なことに現在の関東以北の人々に西日本系縄文人のDNAが強く顕れているとのことです。縄文文化と言うのは、皆様もよくご存じの通り、千葉市域が“縄文遺跡銀座”であるように、東国において極めて興隆した文化であるにも関わらず、現代日本人には西国系統縄文人DNAが強いことは、その後の日本列島における西から東への、大規模な人の移動があったことを想起させましょう。また、日本列島の南に位置する琉球列島と、北にあたる北海道のアイヌの人々に縄文遺伝子が色濃いことも、その後の歴史を通じての人的移動を考えさせることに繋がります。何れにしましても、上記のデータからは、現代日本人の人口の大多数を占める人々のDNAには、今も我々を魅了してやまない世界に冠たる「縄文文化」の担い手である縄文人のDNAは、思いのほか引き継がれていないのです。つまり、このことからは、現代日本人に伝わる遺伝的形質には、縄文時代以降に大陸(おそらく朝鮮半島)から日本列島に移動した人々による遺伝的要素によって規定されてきた可能性が大きいことを示しましょう。そのことは、現代日本人の形成に決定的に影響をもたらすのが、所謂「弥生時代」以降の歴史にあることを理解することに繋がります。勿論、ここで言う「日本」とは「日本国」を示していないないことを前提としておくことが必要です。そもそも当該時代には「国家」などは存在しません。人の移動は自然的条件を除けば、相当に広く自由に行われていたことを前提として理解しておく必要がございます。
それでは、次の弥生時代の人々のDNA分析からは如何なることが分かるのでしょうか。篠田氏は、まず日本列島全土が同時に弥生時代の生活に移行したわけではないことを指摘されるとともに、一般的に「稲作」の開始によって縄文時代と区別される弥生時代であるものの、他に「弥生式土器」と「金属器」の使用という要素を加えた「三要素」を有する社会に時代の特性を見出すべき……とされます。そして、その内の「稲作」と「金属器」の伝来は必ずしも密接に結びついたものではなく、世界各地の人の集団からみると、両者を発明した集団の起源地と各地への進出時期とは異なり、日本列島では両者がたまたま同じ時期にやってきただけだということを理解しておくべきことも指摘されます。その内の「稲作文化」は長江中流域で始まり拡散していったのであり、日本列島における「青銅器」の源流は北東アジアにあるとのことです。そうは申しても、弥生時代を形成した人々の集団が大陸から渡ってきたことは明らかでございます。その所謂「弥生人」につきましては、従来から九州で「甕棺墓」に納められて大量に出土する、保存状態のよい人骨の形態分析が行われてきました。その成果によれば、特に北部九州で出土する人骨の形態は、明らかに縄文人が共通して有する特色とは異なることが指摘されて参りました。例えば頭蓋骨では、縄文人の眼窩は角張っているが、弥生人は円形を成している等々が分かり易い特色だと言います。そのことが、弥生人が大陸からの渡来人である証拠ともされてきたのです。しかし、同じ九州であっても、北西部(現在の長崎県)からの出土人骨は明らかに縄文人的な形態を色濃く有しているなど、同じ九州でも地域毎に人骨の形態は異なっているとのことです。
しかし、実際にDNA分析を行うと、当初「現代の朝鮮半島・中国の現代人と相似のDNA」であると予想されていたにも関わらず、実際のデータは「現代日本人の範疇に納まるDNA」であり、その中でもむしろ縄文人にやや近い集団に位置付く結果が示されたのです。このことは、韓国の釜山(プサン)郊外で発掘された同時期の人骨のゲノムが、現代の韓国人よりも寧ろ多くの縄文的要素を有し、ほぼ現代日本人と同じグループに属していることや、むしろ日本の縄文人DNAと殆ど同じ人骨があることからも、朝鮮半島でも古い時代には、日本ほどではないにせよ縄文的遺伝子の割合が多くなっており、九州北部の縄文人と朝鮮半島南部の集団と間での人的交流があったことが理解できると言います。また、九州北西から発掘された縄文人的形態を有する人骨のDNA分析からも、彼らが縄文人と伝代日本人との中間に位置することが判明したそうです。つまり形態が縄文的であっても、ゲノムでは渡来系の人々の交雑が進んでいるのです。もっとも、岩手県から出土した弥生時代後期の人骨のDNAはほぼ縄文人直系と言いうるものであり、一般に「弥生人」と称するものの、そこに集団としての実態は存在しないことが理解できるのであり、弥生時代という時代が日本列島で遺伝的に最も多様な人々が暮らしていた時代であるとも篠田氏は指摘されております。
篠田氏は続けて、「弥生時代初期に北部九州で縄文人との混血が始まり、当初は遺伝的に異質だった両者が時間の経過とともに均一化に向かいました。そこで誕生した本土の現代日本人の祖先集団は、やがて稲作の拡大とともに東進を開始し、在来集団を巻き込みながら東北地方まで進んでいくことになったのです。」と述べた上で、東北に到達した渡来系農耕民は人口の面でも在来集団を大きく上回っており、両者の混合は在来集団を吸収に近い形で行われたと想定されておられます。そのことが、東北の縄文人に多数を占めていたDNAの形質の現代日本人における比率を小さくしたことに繋がった想定されているのでしょう。ただ、そうであったとしても、そうした渡来系農耕民達は、東進によって各地の縄文人の遺伝子を次々に取り込んでいった訳ですから、渡来系農耕民のDNA形質に多くの縄文的な形質が引き継がれていった筈なのです。しかし、実際には現代日本人(特に本土日本人)のDNAは縄文人集団近くには位置付いてはいないのです。この事実は、弥生時代以降も大陸から多くの人々が引き続いて渡来したこと、また彼らとの交雑が広範に進んだことを想定しない限り、現代日本人の遺伝的な特性を説明できないと篠田氏は指摘されます。今回のNHK番組では、近年になって始まった古墳時代人骨のDNA調査によって、弥生時代以降の古墳時代に渡来した人々によって、現代日本人のDNA形質がほぼ確立した可能性が極めて高いことが想定されると示されました。今回御紹介させていただいた篠田氏の著書には、「コラム」として鳥取県青谷町にある「青谷上寺地遺跡」で発掘された大凡百体にも及ぶ良質な人骨のDNA調査の結果が報告されております(現在ここには「鳥取市青谷上寺地遺跡展示館」が併設されております)。出土人骨は二世紀後半のものであるとのことですから、弥生後半から古墳時代へと移行する時期に当たっており、人骨の多くに殺傷痕が残るなど「倭国大乱」の痕跡を留めるものであったそうです。そのDNA解析によれば、各個体は全てが現代日本人の範疇に入ることが判明したとのことです。やはり、古墳時代の分析こそが「日本人とは何者か」を解明するための極めて重大な鍵を有していると言えるのでしょう。その解明が待たれます。
本来は、琉球列島と北海道のアイヌの人々のDNA分析についても御紹介させていただこうと考えていたのですが、長くなりましたのでここまでとさせて頂きます。また、一つだけ申し上げなければならないことがございます。そのことは篠田氏も仰せでございますが、DNA分析によって「人類の歴史」の追求が、人文科学から自然科学の分野へ移ったこと、つまり人文科学分野は“お払い箱”になったことを意味してはいないことです。そもそも、発掘調査による出土人骨が存在しない限りDNA調査は出来ないのですし、これまでの発掘調査のノウハウを元にして精緻な遺物の時代特定が求められます。そして何よりもDNA分析で明らかになるのは集団間の関係性であり、何故そうした人類の移動が行われたのかの原因の追及には及びません。そこには発掘された物的資料の比較調査を通じての考察による解明という、人文科学の重要な役割が求められましょう。つまりは、各専門分野の「蛸壺」に閉じこもっているのではなく、より広範な学問分野の横断的な連携こそが求められる時代になったと言うことになろうかと存じます。少しでも御興味を盛られた方がいらっしゃいましたら、是非とも本稿内で御紹介させて頂きました篠田謙一氏の著書をお読み頂ければと存じます。特に「あとがき」の末尾にございます“謝辞”が他に類を見ないものであったことが印象的でございましたので、引用させていただいて本論を締めくくろうと存じます。お世話になった方々への謝辞に続くホントウの末尾でのお言葉に大きな感銘を頂いた次第であることを白状したいと存じます。
そして、本書の完成にもっとも重要な貢献をしたのは、貴重なDNAデータを提供して頂いた、かつて日本列島に生活し、亡くなった皆さんだということを強調しておきます。私たちは彼らの遺骨からのメッセージの一部を読みとったにすぎませんが、そこから組み立てられた日本人の物語は、今を生きる私たちに多くの示唆を与えるものになったと思います。最後にそのことに感謝して筆をおきます。 [『新版 日本人になった祖先たち-DNAが解明する多元的構造-』 |
最後に、何とかの一つ憶えのようで恐縮でございますが、去る16日(火)より開催されております本館の特別展『関東の30年戦争「享徳の乱」-宗家の交代・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動-』も、ご好評を賜り平日にも関わりませず沢山の皆様にご覧いただき、展示図録も想定以上にお買い求めいただいております。誠に有り難たきことと御礼申し上げます。本館特別展に関しましては、明日1月27日(土)14:00より、担当者による凡そ50分間の「ギャラリートーク」を開催いたしますので宜しければご参加ください[2回目:2/11(日)14:00~・3回目:2/24(土)10:00~ 何れも参加費無料]。また、明後日28日(日)を以て本館を会場とする埋蔵文化財調査センター特別展『幸福を祈る-古代人の願いと造形-』(前期展示)が終幕を迎えます。この土日は一度に両者をご覧いただける最後のチャンスとなります。また、ようやく本格的な冬の陽気となり、5階からの眺望が一段と美しくご覧いただけるようになっております。東京湾の向こうに屹立する雪を戴く富嶽の姿は、昼だけでなく暮れなずむ閉館間際のシルエットも筆舌に尽くしがたき美しさでございます。条件さえ整えば、富嶽と並び賞される坂東二代峰の一方の雄“筑波嶺”もまた一緒にご覧いただけます。明日と明後日が良い天気であれば、“一粒で三度も美味しい”本館に、是非とも脚をお運びくださいませ。皆様のご来館をお待ち申し上げております。
睦月「一月」も瞬く間に過ぎ去り如月「二月」へと移りました。端から極々私的な話題からとなり恐縮でございますが、お恥ずかしながら一月末にインフルエンザに罹患致しまして、暫く館に出勤できない状況にございました。公共交通機関で通勤しておりますから、通勤中にはマスクを欠かさず着用するなど用心に用心を重ねてまいったつもりでした。しかし、一方で「インフルエンザには罹った記憶が一度もない……!」などと豪語もして参りましたし、罹患しない一寸した自負もございました。斯様な心の隙をウィルスには突かれたように思います。「もの言えば 唇寒し……何とやら……」と申しますように、大口を叩くものではないと改めて深く深く反省した次第でございます。ところで、若干の覚悟はしておりましたが、通院での検査の結果「インフルエンザA型」を医者から宣告された時には、「とうとう齢65年近くになってウィルスに捕っちまった!」との無念さが先立ちました。まぁ、今回の感染は「健康に関して謙虚になるべし……」とのウィルスからの有り難き御託宣に違いないと自戒の念をもって理解すようと考えております。幸いにインフルエンザで一般的な症状である高熱には到りませんでしたが、咳が激しく腹部の筋肉痛に陥ったほどですし、頭痛が結構長く続いて仕事にも手が付きませんでした。職場の皆さんにもご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳なく思っております。「年寄りの冷や水」なる文句がございますが、小生も少しはトシに応じた生活を心がけなければならないと痛感致します。さて、今回の本稿では、本館でボランティアとして活躍されていらっしゃる京都市御出身の方からご教示頂いた、京都市における「番組小学校」という教育機関について御紹介をさせて頂くと伴に、ボランティア活動の在るべき姿を体現されるその御方との関連性についても、少々ですが触れてみたいと存じます。まずは、「ボランティア活動」とは如何なるものかについてから。
一ヶ月前に発生した「能登半島大地震」被災地では、去る1月27日から被災地での一般ボランティアの方々による「災害ボランティア」活動の解禁がなされ、その地で懸命にご活躍される方々の姿に頭が下がる思いでございました。併せて、地元の皆様が「これでようやく復興の足がかりになる」と拝まんばかりに歓迎をされている姿には、心底心打たれた次第でございます。こうした「ボランティア活動」は、今日の社会では必要不可欠の社会活動となっておりましょうし、実際に我々の周辺を見回しても何らかの「ボランティア活動」に携わっていらっしゃる方を目にする機会が多くなっておりましょう。勿論、博物館業界も蚊帳の外ではありません。国内の多くの博物館が推進しているように「博物館ボランティア」の活動が本館にもございますし、本日段階で〇〇名もの皆様の登録がございます。そして、それぞれの方のご都合とライフスタイルに合わせた形で、「展示解説ボランティア」に、「古文書読解ボランティア」に、「体験的学習活動」等々に……と、得意分野とご自身の興味関心に従って、活き活きとご活躍されていらっしゃいます。今回は、その中のお一人の御紹介を通じて、そのお方からご教示いただいた興味深い歴史的な事実について述べてみようと存じます。
さて、その方を仮にKさんと呼ばせていただきます。本館のボランティアの皆様には魅力的な方が沢山いらっしゃいますが、その中でKさんをご紹介をさせていただくかと申しますれば、Kさんが「ボランティア精神」の在り方を一身で体現されている方のお一人であるとともに、本稿の主たる内容となる「番組小学校」なる存在について小生に教えてくださった恩人でもあるからでございます。ところで、Kさんと小生とは、館内でお会いして交わす会話以外の接点はございませんし、交わす会話も、例えば小生の執筆する「館長メッセージ」の内容についてであったり、Kさんが興味をもたれ御自身で追求されていらっしゃることであったり、解説ボランティアで接したお客様との対話の感銘であったり、または社会情勢についての問題についてであったりであって、それらが個人的なことに及ぶことは殆どございません。しかし、どんな時でも、Kさんは愉しそうにそうしたお話をされます。自分自身の喜びを語られるKさんに、小生もまたワクワクとさせられるのです。互いに個人的なことについては話の必要上で語ることはあっても、こちらから訊くこともなければKさんから問われることもありません。
小生がKさんの個人的なことで知ることと申せば、京都市のお生まれで学生時代まで京都で過ごされたこと、その際に日本近世絵画の研究者でいらした土居次義先生の下で、京都の古寺に残される多くの障屏画に接する機会をお持ちになられたこと、そしてご実家が東福寺近くの伏見街道沿いで呉服商を営んでいらしたことぐらいであります(実のところ「番組小学校」とは明治初期に京都市中で創設された小学校なのです。つまり、Kさん御自身の個人史と深く関係性のあることとなります)。従いまして、Kさんのリタイア-されるまでの職歴やご家族のことなどは全く存じませんし、また敢えて知る必要性を感じたこともございません。尤も、小生が本稿で「飯坂温泉」を採り上げた後にお会いした際、Kさんが就職された最初の赴任地が福島市であり、頻繁に飯坂温泉に出掛けたが当時の飯坂温泉は正に歓楽の巷であって、小生の記した温泉のイメージとは程遠い地であったと伺ったことがございますが……。因みに、Kさんは小生の学生時代以来その著作を通じて大いにお世話になった、土居先生との繋がりをもっていらしたことは嬉しい偶然でございました。土居次義『近世日本絵画の研究』1970年(美術出版社)は今でも時に紐解く小生にとっても大切な書籍の一冊でもあるからでございます。学生時代から土居先生の著作からは、近世絵画の素晴らしき知見をご提供していただきました。そんなKさんの「好奇心」の門戸は常に広く開放されており、知らないことに触れる喜びを常に心待ちにされる、そんな若々しい精神に満ち溢れていらっしゃいます。展示解説ボランティアの際にも、お客さんとの知的な会話を楽しまれていらっしゃるのだと存じます。その意味で、何時でもボランティア活動自体を心から愉しんでいらっしゃるのです。相手に求め過ぎず、自分自身の持っていらっしゃる世界を少しでも広げるために自己研鑽を重ねられる姿に打たれます。本館のボランティアの皆様は、自己研鑽の場として有志による「自主勉強会」を開催されていらっしゃいますが、勿論Kさんも本会に参加されていらっしゃいます。そして、過日「自主勉強会」の担当として故郷の「番組小学校」について発表するとお聞きしたのでした。お恥ずかしながら、小生は「番組小学校」と耳にしても全くピンと来るところがございませんでしたので、Kさんに伺うと明治初期に京都市中で創設された小学校であり、その創立・運営には「京町衆」が深く関わっているとのこと。お話しを伺っているうちに、小生も俄然に興味が湧いて参りました。そして、是非とも報告された後にレジュメを頂けないかとお願いしたのでした。更に、関連資料までお貸し頂いて多少なりとも理解ができましたので、是非ともこの場で紹介をさせて頂こうと考えた次第でございます。勿論、Kさんの了解を頂いております。
さて、「番組小学校」における「番組」とは何かということを知るためには、最初に京都の町の変遷から話を始めるべきかと存じます。現在放映中のNHK大河ドラマ『光る君へ』でも描かれる京の町は、俗に「千年の都」などと称されるように、あたかも延暦3年(794)に「長岡京」から遷都された「平安京」以来の町が今に連綿と伝わったようにイメージされがちです。確かに碁盤目状の町割が現在も継承されておりますから、そう考えるのも無理はないかも知れません。しかし、その実、大河ドラマの「王朝文化」華やかなりし頃には、初期段階から未完成で、低湿地であるが故に居住地に適さなかった平安京西半分(右京)は急速に衰退し農村化していくことになります。そして、上級貴族の多くは都の東側(左京)北部に居住するようになるのでした。そして、平安時代末に到ると、そもそも東側に偏っていた都市域内における南北で独自の展開が見られるようになります。つまり、貴族の邸宅や官庁の集まる北部の「上京」(一条・二条辺り)と、庶民の生活空間であり諸産業の場である南部の「下京」(三条から七条辺り)とが形成されるようになるのです。併せて、洛外となる鴨川以東北部の白河や、その南部の鳥羽に巨大な寺院群や貴族の別荘が相次いで建設されていくことで、「平安京」という町の枠組み自体が解体する方向に向かいます。そして、14世紀に入ると律令国家の政庁であるべき「大内裏」は荒廃して「内野」と呼ばれる空閑地と化し、天皇の住いである「御所」も室町幕府の「室町第」も、上京北部に集まるようになります。そして、京を戦場とした「応仁・文明の乱」を通して、京都は更に「上京」と「下京」という、恰も“砂時計”のような中間部が細く括れた、南北の二つの町に収斂することになります。
この時代に京の都市規模は最も小さくなったとされますが、逆にこの時期に公家や武家や僧侶、職人や商人等が混住するような状況が生じたことで、各階層同士が密度の高い交流を有する都市空間が形成されるようになり、その結果として現在に続く都市文化の熟成が見られるようになったものと考えられております。そして、その形成に大きな役割を果たすことになるのが、都市の豊かな商工業者である「町衆」の存在であり、「祇園祭」を主導するなど文化の推進者ともなっていきます。また、周辺部に発展した門前町や河湊(津)のような経済拠点をも一体的に“京の町”として認識するようにもなったといいます(「洛中洛外図」の世界観)。そして、16世紀の末に豊臣秀吉が、京の地に「聚楽第」や「御土居」を造営し、京を「近世都市」へと改造を計ったことはよく知られておりましょう。意外にも、その際に市街地における条坊制の街路が整備復活を見たと言います。現在に残る短冊状の整然とした地割や、公家町・寺町の在り方は秀吉に拠るところが大きいのです。正に「ブラタモリ」で度々タモリが語る「まっすぐ好きな秀吉」の面目躍如でございます。また、京の南部の巨椋池に面する伏見の地が政治(軍事)的だけでなく、物流の要衝として経済的な優位性を有することを見抜き、秀吉が当地に拠点城郭を築き城下町の整備に取り組んだことにより、京と伏見とを結ぶ街道筋が重要となり、街道沿いに街場が形成されるようもなります。続く江戸時代になると、京は幕府の直轄地として支配されるようになり、産業・文化の成熟した都市として更なる経済的発展を遂げることになります。その結果、秀吉の造成した御土居を越えて街場が拡大することにもなります。そのため、不要な御土居も撤去されていくことになりました。これらが近世までの大まかな京の街の歩みと言うことになりましょう。
さて、このことを前提として「番組」とは何かに迫ってまいりましょう。端的に申せば、京の「町衆」によって結ばれた「町組(ちょうぐみ)」の後身となる自治組織のこととなります。この町組が資料上で初めて顕れるのが天文5年(1536)に京の市中で勃発した「天文法華の乱」の翌年のことだそうです。この時、下京の各町組から1名ずつ撰ばれた代表者5名が、室町殿である足利義晴に年賀の挨拶に出掛ける際、彼らが法華一揆の集結地であった六角堂に集まり費用の割り当てを協議した史料が残るそうです。このことからも、町組の結成はそれを暫し遡る頃と想定できましょう。上京での所見はやや遅れ、天文18年(1549)に5つの町組が存在していた資料が残るそうです。各町組には「町年寄」という町組を代表する役職があり「月行事(がちぎょうじ)」とも称されたとのことです。これは一ヶ月交替で、町触の伝達や諸経費の徴収にあたりましたが、実際の町組の運営は10名の「総代」があたったようです。彼らは富裕な酒屋・土倉といった有力町衆でありました。更に、上京・下京それぞれで、各町組をこえた広域な結合も生まれ、幕府や武将から洛中への布告・通達も「上京中」「下京中」といった宛名で出されているといいます。それだけ、自治的組織として大きな影響力を有していたことが知れます。室町期に上京・下京でそれぞれ5組ずつあった町組ですが、織豊政権下でもその数に変更はありませんでしたが、江戸時代に入って16世紀末から17世紀初頭になると、市街の発展により新しい町が成立していくことになり、これらの町を新たに町組に加入させるとともに町組全体の再編が行われたといいます。ただ、諸々の経緯から各町組毎の規模も分布も大変に複雑に入り組んでいる状態になっていたのです。
そこに出来したのが明治維新による幕府の瓦解と東京への遷都でした。公家の殆どが東京に移るなどしたため、京都の人口は三分の二程へと激減するなど、その後の都市としての在り方に深刻な危機を迎えることになります。そこで、京都府は近世の複雑な町組からの脱却を目指し、明治元年(1868)の1回目の再編を経て、翌2年1月に街路ごとの町割りに依拠する整然とした均一な町組に再編することにしたようです。この新たな町組を「番組」と称し、結果として上京33番組、下京31番組に再編して再出発を果たすことになりました。更に、京都府は衰退した町に必要なのは優れた人材の育成に他ならないと考え、新たな「番組」毎に1校ずつ小学校を建設することにします。これが明治2年(1969)5月のこととなります。皆さんも御存知の通り、明治政府による学区制小学校の創設は明治5年(1872)「学制」発布に拠りますから、それより3年も先だって京都では独自に学区制小学校が創設されたのでした。その先取性には驚かされます。ただし、京都における先進的な小学校の在り方は、新たなに再編されたとは言う物の、中世以来の自治組織である「町組」を存立基盤とする、複数の町の連合体である「番組」に依拠していたことが大きな特徴であります。正に「古い器に新たな酒が注がれた」ことになりましょうか。これが、地域と学校との関係性に、他地域ではみられない特殊な在り方をもたらすことにもなるのです。そもそも明治政府の「学制」に先んじた創立でありますから、学制後も小学校区は「番組」の儘で引き継がれ、明治半ばに「学区」と改称されても「番組」の実態が継続し続け、それは昭和戦時中に到って「番組」が制度的に廃止されてなお、今日に至っても地域共同体(自治活動の基盤)として根強く生き残っているといいます。つまり、中世以来の伝統の枠組の中に成立した近代教育機関であるのが、旧上京区・下京区の「番組小学校」を起源とする学校組織なのであります。
「番組小学校」は、子ども達の学習の場であることは勿論ですが、それ以外の機能をも併せ持っておりました。そのことは各番組小学校には、町組会所、徴税・戸籍・消防・警察・府兵駐屯所等が併設されていたことからも伺えます。これらは町衆の意見を京都府が具現化することで実現したとことであります。更に「望火楼(火見櫓)」と「報時鼓」が設置された建造物が建てられ、各「番組」内の防火と時報を知らせる役割も有するようにもなります。まさに、「番組小学校」が子供たちの教育施設であると同時に、地域住民のための公共施設として機能する姿が見て取れましょう。60以上もある各番組に「望火楼」が林立する都市景観もさぞかし壮観であったことでございましょうし、その姿は各「番組」住民の自治の象徴たる存在として、各番組に居住する市民の誇りとして強く認識された筈でございます。その建設のための敷地の提供から校舎建設までの必要資金の多くは、各「番組」内の有力「京町衆」からの寄附によっており、その後の学校運営資金も「竈金(かまどきん)」と称する「番組」内に居住する住民からの徴収金で賄われております。この「竈金」は明治22年になると「学区市税」という名実ともに税金となり、学区教育費として活用されることになります。後に、ある小学校で校舎の老朽化による建て替えが急務となった際に、市の財政の関係で数年後になると聞いた「番組」の町衆が寄付金を募ることで独自に改築してしまった事例すらあったと言います。それが、適切か否かはひとまず置いて、小学校が我らの町衆の手になる、誇るべき自治活動を象徴する施設であるとの強烈な自負をそこに感じ取るべきかと存じます。国内の小学校でここまで地域と深く精神的に紐帯する学校が他にありましょうや。また、初期においては、番組小学校では近世以来の「読み・書き・算盤」といった学習をしていたようでありますが、勿論それは子供達が卒業後にそれぞれの「番組」を支える人材としての活躍が期待されていたからであり、地域と学校との双方向的な発展が目指された一つのモデルとして位置づけられると言います(和崎光太郎「京都番組小学校にみる町衆の自治と教育参加」2015年『日本教育行政学界年報No.41』)。本年度の企画展『商人達の選択』で採り上げさせて頂いた「奈良屋杉本家」も有力町衆として「番組小学校」設立に深く関わられてのではありますまいか。そうした京という町の伝統の持つ力に全く以て驚かされます。
Kさんのレジュメによりますと、室町戦国期から継承されて来た「京町衆」の自治的気風が江戸時代に継承され、更に大きく発展するようになる背景には、江戸時代の京の町の支配にあることが指摘できるとのことです。Kさんからお借りした資料の中には、同志社大学の小林丈広氏による「幕末維新期の京都と教育」なる講演記録が掲載されており、そこに西陣生れの猪飼敬所という町人学者が記した考えが引用されております。それをここでもご紹介させていただきたいと存じます。
今年[天保五年]江戸にも京にも、餓死なきにあらず。京には米価高直にて、家普請少なく、日傭之者業を失ひ、西陣織物少く、其下職之失業乞食を成者あり、夫婦離散する者あり。江戸も京も、去冬は施行する者、窮民に、あらさる者も、是を受けて遊惰す。官より触出て、是を戒む。当春より夏に到り、実に気がにも及ふに、京も江戸も、施行する人なし。是御蔭参り報捨と同しく、名聞にて人そはへ[人戯]するなりと、何方にても嘲り候。愚意には諸侯は国人を我民とせらるゝ故に、仙台なとの飢饉の国も、恵下に及ふ。江戸京なとは、郡県の吏と同しく、如此に行届かさる事あり。其中に江戸は将軍之御膝下故に、去年も今年も上より御救米出つ。是は上意に出るなるへし。是を我民と思召さるゝ故也。京はお救米不出。此は吏たる人、其民にあらさればなり。公儀より諸侯、囲米をせさるやうに、度々号令あり。京にても米価高直に不拘、町屋面々普請せよと令せらる。然れとも上下共に各其私を計り、世を救ふの心なき故に、令出るも従はす。余毎に言ふ、伊勢尾張より西は、大抵七八分、西国は豊作、米は不乏、諸国武家かた、米価貴くて、皆勝手宜し。貧民の米価貴きに困しむを、上之利を分ちて救はゝ難き事なしと。所聞余か推量の如くなり。貴説もおなし。愚意には諸侯之執事之人、若今年諸国、如奥州凶作なれは、大に困厄也と。是を懼れて米を囲うなり。各己一分を憂うなり。(中略)、農民は麦熟すれは食あり、又雑物にても食し、飢餓に及はす。市民之失業者、飢餓に至る。此京江戸繁華の地に飢民ある処なり。平日に無頼之者を容れ置候。其困窮不可不救。[中略]、我土に住せは、皆民なり。民とせぬ心なれは、初より沙汰して容ましきなり。 (京都市立学校教育博物館『研究紀要 第7号』2018年 より) |
ここで猪飼が言っていることは、幕府役人によって支配される京の在り方への痛烈なる幕政批判に他なりません。つまり、大名が自らの所領に住む人々を「我民」として扱うのに対して、京都所司代や京都町奉行の支配する天領においては、三年から五年程度で異動となり、更なる上のポストに就くためには何よりも落ち度を作らないという自己都合を優先することから、京の庶民の生活などには関心もないのだということでございます(近世大坂も同様な状況にあり「大塩平八郎の乱」の背景にも同様な思いが渦巻いていたことが知られます)。つまり、「京町衆」の中には権威に頼らず……という精神的な下地が脈々と息づいているということでもございましょう。そうした「京町衆」の具体的な事例として、小林氏は、天保期に「鳩居堂」主人として、京で積極的に社会的な活動を展開した熊谷直恭・直孝親子について採り上げて紹介されております。また、近世に京都に多く存在した私塾の存在も、明治以降の学校設立を下支えした風土であると小林氏はお考えでいらっしゃいます。京町衆の自治意識の伝統に大いに感銘をうけます。尤も、そうした自負心が、一方で強烈な京都「中華思想」(!?)的意識に繋がることもあることは、大ベストセラーとなった国際日本文化研究センター所長・教授である井上章一氏の著作、『京都ぎらい』2015年(朝日新書)に具体的な事例を幾つも採り上げて面白おかしく描かれております。ここには、小生が敬愛してやまない奈良屋杉本家当主でいらした杉本秀太郎氏も登場しております。最後の京都学派として健筆をふるったリベラルの権化とも目される秀太郎氏にも京町衆としての強烈な自意識が存在したことにも目を開かされた書物でもございます。もし、未だお読みでなかったら是非どうぞ。無類に面白い読み物でございます。また、京都府では、京都市中における「番組小学校」創設から遅れること3年となる明治5年1月から、郡部においても小学校の設立が進められました。こちらも「学制」の発令と同年ではありますが、学制より時間的に先立つ施策となりますことを付加しておきたいと存じます。これを「郡中小学校」と称します。「番組小学校」の先進性の影に隠れておりますが、これもまた京都府が明治初頭に取り組んだ偉業であると存じます。
最後に少々。小生は、こうした「番組小」と関わって来られた町衆の姿に、どことなく本館ボランティアのKさんの在り方が透けて見えてくるように思うのです。お訊きしておりませんが、Kさんの御卒業された小学校も「下京31番組小学校」の後身に当たる学校なのではないと存じます。その「町衆」的な精神風土がKさんの中にも脈々と流れているように感じさせられるのです。Kさんの、誰が何と言われようが「斯く在ろう」と信念を貫く姿勢には少しの“ぶれ”もございません。自らが決められたことを不言実行される姿にも打たれます。だからといって頑なさは微塵も感じさせないのです。常に他者の意見を理解する柔軟性をも持ち合わせていらっしゃいます。そして、「むかしあそび」で子ども達と向き合っていらっしゃる時の柔和な表情からは、将来を担うことも達への惜しみない愛情と責務とを見て取ることすら出来ます。まさに、京町衆の衣鉢を継ぐダンディズムを感じさせられ、益々の尊敬の念を抱かざるを得なくなります。今回の本稿では、Kさんのお蔭をもちまして、未知の京の歴史に目を開かされました。改めまして、Kさんには衷心よりの感謝を捧げたいと存じます。
最後の最後に、小生はお恥ずかしながら今回の学びを通じて、京都市に「京都市学校歴史博物館」があることを初めて知りましたのでご紹介だけさせていただきます。平成10(1998)年、元京都市立開智小学校(明治2年「下京第11番組小学校」として開校)の施設を改修整備して開設されたとのことです。外観には極力手を入れずに学校のイメージを保つように配慮され、これまでに「番組小学校」「郡中小学校」に関する企画展も開催されているようです。未だ訪れたことのない「杉本家住宅」と併せて、次の京都詣での際には是非とも拝観にお邪魔させて頂きたいものと存じております。そうそう、久しぶりに出町柳に店を出す「出町ふたば」の豆大福も食したいものでございます。何れにしましても、京はホントウに奥が深く、幾ら汲んでも汲み尽くせないほどに湧き出る泉のような歴史に溢れる町であります。今直ぐにでも飛んでいきたいほどでございます。
2月は雪に出会うことが多く、自身もそうでしたが倅の時にも入試の日や合否発表の日に「雪」との縁が深かったように記憶しております。そして、今年も、予報通り5日(月)午後からの雪が夜半に入ってから強まって、街々は瞬く間に純白の世界へと様変わりしました。普通ならば、雪の降る夜は深々と静まり返る者でありますが、今回は左にあらず。葛飾区内ではあまつさえ雷鳴までが轟き、大いに驚かされました。これまで65年近く生きて参りましたが、積雪の中で雷が鳴るなど経験したことがございません。今の季節は一体何時なのか……と、何とも狐に摘ままれたような思いともなりました。翌朝に出勤した際、小生と同年配の職員にも確認いたしましたが、やはり千葉県内でも雷鳴が轟いたそうです。小生と同様、かつての記憶にもない珍事と驚かれておられました。東京では大雪警報が発令されておりましたが、下町方面では思った程の積雪には至らず、早朝の暗闇中で一人黙々と行った除雪作業も比較的楽ちんで済みました。尤も、覚悟の上やる気満々で出勤した千葉市内は遥かに少ない積雪で、大いに拍子抜けいたしました。従ってあっという間に片付いてしまいました。何時も「雪が降って嬉しいのは子供と犬だけ」だと申しますが、翌日が休みであれば大人もちょっぴりは嬉しい思いともなり雪見酒など一献傾けたくなりますが、今回は巡り合わせでそうはならず少々残念な思いとなりました。
さて、前回の本稿において、京都御出身の本館ボランティアの方が学生時代に土居次義先生の下で近世絵画の調査に携われ、多くの作品に触れた経験を有していらっしゃることについて触れたところでございます。そして、小生もまた若輩の時分から、土居先生を始めとする近世絵画に関する著作を通じて、未だ見ぬ作品への憧れを募らせて参りましたし、その後今日に至るまで日本近世絵画への興味・関心は尽きることなく、脈々と小生の中で息づいております。尤も、近世絵画と申してもその裾野は到って広大なものであり、狩野派・長谷川派・海北派・雲谷派のような「漢画系」の画派、土佐派・住吉派のような「やまと絵」の画派といった、幕府・朝廷の所謂お抱え絵師集団(「御用絵師」)から、俵屋宗達(生没年不詳)・尾形光琳(1658~1716年)といった「琳派」の系譜や、円山応挙(1733~1795年)・呉春(1752~1811年)らから始まる「円山・四条派」のような「写生画」の流派のように、上層町人を主たる対象とした絵師集団、儒者や風流人といった所謂「文人」趣味を有する人々の手になる「南画」系の作品、はたまた庶民を対象にした風俗画としての「錦絵」等々……、枚挙に暇なき数多の絵師・画工の作品が近世には存在いたします。併せて、例えば「大津絵」のような名も伝わらぬ庶民の画工達の作品にも限りない愛着をおぼえます。こうした多様な絵画ジャンルがそれぞれの相貌を有しながら、互いに交流しながら多彩に展開するのが近世絵画の何よりの魅力であります。勿論、今回その全貌を御紹介することは流石に不可能でございます。従いまして、本項ではその口切りとして「狩野派」を採り上げて、その概要を御紹介させていただこうと存じます。
実は、個人的に近世絵画への愛着の出発点が「狩野派」の絵画にあるのでございます。まぁ、小学校の頃に“永谷園の御茶漬海苔”に付録として付いていた葛飾北斎(1760~1849年)・歌川広重(1797~1858年)の錦絵を美しいと思って集めたりしていたこともありました。もしかしたら近世の絵画の魅力に初めて惹かれた切っ掛けは“永谷園”だったのかもしれません。ただ、正しく“近世絵画に出会った……”との手応えを感じ得たのは、ずっと後になってからの学生時代のこと。京都の寺社で頻繁に出会うこととなる「狩野派」絵画との邂逅であったと思います。何故ならば、毎度申し上げておりますが、学生時代に所属していたサークル「古美術愛好会」で、毎夏に京都・奈良へと合宿に脚を運んでいたからでございます。サークル活動は、基本的に3年間で「仏像」「建築」「庭園」の3テーマを巡回させて、全員で共通のテーマでの学習を深めておりましたから、合宿自体も当該年度のテーマの追求が主眼でした。しかし、特に京都が合宿の舞台であれば、何処に出掛けても概ね寺社の書院・方丈等の建物の内部は、水墨画や色彩鮮やかなる障壁画で荘厳されておりますから、幾らテーマ追求のための訪問であろうと、否が応うにもそうした絵画に出会うことになります。「二条城二の丸御殿」室内の絢爛たる狩野派絵画の数々には正直圧倒されましたし、多くの禅宗寺院の方丈を飾る障壁画、仏殿・法堂(はっとう)の鏡天井に描かれる渦巻く雲の中を泳ぐ巨大な雲龍の姿に圧倒されました。こうして、知らず知らずに彼らの絵画に惹かれていった小生でしたが、サークルの活動として「絵画」をテーマにすることがありませんでしたから、同好の士を募って「日本近世絵画史」のゼミを立ち上げ、出版されたばかりの水尾比呂志『障壁画史-荘厳から装飾-』1978年(美術出版社)をテキストに勉強会を続けました。そして、ゼミメンバーとは可能な限り作品見学に脚を運びました。その際には、勿論「狩野派」に限ることなく、その対象は長谷川等伯(1539~1610年)や海北友松(1533~1615年)、琳派、円山四条派、浮世絵等々……、近世絵画であれば如何なる流派であれ貪欲に拝見して廻りました。もっと後のことになりますが、応挙の弟子である長澤芦雪(1754~1799年)作品を実見したい一心で和歌山県南端の串本にある「無量寺」にまで脚を運んだことも、応挙・芦雪といった円山派作品の宝庫である兵庫県日本海側の香住にある「大乗寺」に一人訪れたこともございます。
ただ、現在と異なり、おいそれと学生が旅行などにはいけない時代でしたから、自ずと実際の作品に触れることができる機会は、夏に京都・奈良を舞台に行っていたサークル合宿期間に限られました。ただ、上述しましたように合宿そのものが「仏像」「建築」「庭園」の何れかのテーマの学習の実地見学の機会でありましたから、個人的な関心の追求は合宿期間の前後に期日を延長して対応するしかございませんでした。金銭的には到って厳しい状況にありましたが、幸いに時間的余裕だけはたっぷりとあるのが学生の特権でございました。勿論、京都との往復に新幹線などを利用することなど無駄遣い以外の何物でもありませんでしたから、当時関西方面に向かう唯一の夜行普通鈍行列車を活用し、宿も極々低廉なるところで済ませました。因みに、その列車が東京駅23:30頃発の「大垣行」であり、リクライニング機能など皆無の向かい合わせ椅子での夜間移動となります。それでも、同じ思いの乗客が多かったのでしょう。列車は何時も満員に近い状況でした。夜が更ければ、中には床に新聞紙を敷いて横になる人がいたり、網棚で寝ている強者もおりましたが、何れにせよ良質な睡眠とは程遠い状況下であり、翌朝大垣駅で接続時間が結構タイトな中、「西明石駅行」鈍行に乗り換えるのが結構しんどかった記憶がございます。尤も、卒業間際になるとアルバイトで若干金銭的な余裕ができ、「大垣行」に組み込まれていたグリーン車を利用する贅沢を覚えました。定時になると減灯されリクライニングシートで安眠できる快適さを実感してからは、もはや後戻りできなくなりましたが、それでも新幹線の利用より遙かに格安で京都まで辿り着けたのです(帰りも同じ接続で朝早くに東京まで帰って来れる電車がございましたが、往路は気持ちの高ぶりの所為か堪えるに充分でしたが、復路の夜行利用は旅の疲れも相俟って若い時分でも相当にこたえたものでした)。京都駅到着は確か午前9時過ぎであったと記憶しております。従って、初日は寝ぼけ眼を擦りながら京都を中心する古寺にて作品を鑑賞して回ったものです。
江戸を引き継ぐ東京にも、その昔であれば江戸城・各大名屋敷、関連寺社に京都を遙かに超える作品群が残されていた筈です。しかし、明治以降の大名屋敷の撤退、震災・戦災による寺社が焼失等々により、残念ながら残された近世以来の伝来品は極めて少ないのが現実です。その分、東京には美術館が多くあり、近世絵画の展示会も度々開催されたことで、渇を癒す機会となったのです。その中で最も頼りになったのは、やはり大御所の東京国立博物館でした。小生が大学3年生であった昭和56年(1981)に開催された特別展『狩野派の絵画』は、恐らく狩野派の絵画を室町期から明治至るまでを、体系的扱った国内初の画期的な展覧会であったと思います。当時は今とは異なって国立博物館組織の観覧料も極めてリーズナブルでしたので、手元不如意の小生でも何度も通うことができたのです。展示図録は時代を反映してモノクロ図版が多いのが玉に傷ではございますが、今でも大切に活用させていただいております。また、未だ赤坂見附のサントリー本社内にあった「サントリー美術館」でも、当時『土佐派の絵画』(1982年)、『江戸のやまと絵-住吉如慶・具慶-』等々、近世絵画の展示会が頻繁に開催されておりました。これら二つの画派は(単純には分類できませんが)、「漢画系」の狩野派に対して「やまと絵」系の画派でございます。ともに、画派の全体像の展示としては国内初の快挙であったと存じます。こちらも当時の図録を大切に活用しておりますが、こちらも如何せんモノクロ図版が殆どであり、色彩豊かさが売りの「やまと絵」図録としては致命的であります。ただ、当時はそれに代わりうる書物も図録も他には存在していなかったのですから貴重でした。また新参館としては、平成7年(1995)に開館した我らが千葉市美術館が「近世絵画」をコレクションの展示の核に据えると標榜しており(何故千葉で近世絵画なのかという基本的な疑問はさておき)、現在開催中の国内初の『鳥文齋栄之』展に到るまで、実に意欲的な近世絵画展示を続けてくれております。嬉しい限りでございます。ただ、千葉市美術館におかれましては、初代館長の辻氏の下で、近世のおける絵画作品の系譜の中でも「奇想の系譜」に相当に注力されてきた経緯もございます。それはそれで結構であったのですが、是非とも狩野派・土佐派といった近世絵画の王道とも言うべき「ふつうの系譜」を紹介する展示会の開催を積極的に行って頂き、近世絵画についてのバランスのとれた理解に寄与していただきたい……との思いは拭えません。当時の「基準」を掴まなければ、一体何が「異端(奇想)」であるかは理解できません。何事においても、まずは判断の物差しを優先すべきでございましょう。大いに期待をするところでございます。そもそも、昨今の近世絵画の評価は各作家の“個性重視”に傾く傾向があるように思われます。小生は、近世以前の絵画を、それ以降の近現代の作家と同様の俎上に乗せて評価することは正しくはないと存じます。近世の画家はコンクールでの表彰を目指していたわけではございません。明らかな個性が見て取れない絵画はレベルの低い作品であるとするのは明らかな誤りなのです。そして、以下で述べる「狩野派」こそ、明治以降にそうした低評価の弊害に晒されがちであったのであります。
さて、ようやく今回の中心的な話題である肝心の「狩野派」についての話題に移らせていただきましょう。近世絵画の王道とも称される「狩野派」でございますが、国民の極々標準的な認識を形成するであろう、中学校での社会科教科書、高等学校の日本史教科書では如何なる記述がされておりましょうか。そこで、まず中高教科書を紐解いて確認をすることから初めてみましょう。市内中学校で使用される東京書籍『新しい社会 歴史』(2023年)では、「桃山文化」の項目に、天下人によって築かれた壮大な城郭内の建物の襖・天井、または屏風として金銀の鮮やかな色彩による煌びやかな絵画(濃絵)が描かれたとし、その代表的な作者として「狩野永徳(1543~1590年)」の名が挙げられます。しかし、狩野派に関する記述は歴史上でこれのみです。後にも先にもこれ以外の記述は一切登場しません。続いて高等学校教科書。ちょっと古いものですが山川出版社『詳説 日本史』(2011年)によれば、最初の記述は「東山文化」の項目であり、狩野正信(1434?~1530年)・元信(1476?~1559年)父子が、水墨画に伝統大和絵の手法を取り入れ新しく「狩野派」をおこしたと簡単に記述されます(口絵に伝元信筆『大徳寺大仙院花鳥図』掲載)。続いて現れるのが、中学校社会科教科書と同じく「桃山美術」の項目であり、障壁画の中心となった狩野派に「狩野永徳」が現れ、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図を持つ新しい装飾画を大成したとし、門人の「狩野山楽(1559~1635年)」とともに多くの障壁画を描いたと記します(口絵に永徳筆『唐獅子図屏風』掲載)。中学校より一人多くの絵師が紹介されております。更に、江戸時代に入っての「寛永期の文化」で、「狩野探幽(1602~1674年)」が幕府の御用絵師となったが、その子孫は様式の踏襲に留まったと記述し、恰も狩野派が創造性を失った絵画を描き続けたような書きぶりとなっております。そして、最後の記述が「明治の芸術」の中にございます。「狩野派」という用語は一切用いられておりませんが、アメリカ人のフェノロサや岡倉天心らの影響の下で、伝統的美術育成の気風が芽生え、政府の保護にも支えられて「狩野芳崖(1828~1888年)」「橋本雅邦(1835~1908年)」らが優れた日本画を創作したことが記され、教科書冒頭の口絵の部分に芳崖作「悲母観音」が掲げられます。これらの中で、太文字で標記される、所謂“重要語句”扱いが「狩野派」「狩野永徳」「狩野山楽」「狩野探幽」の4つとなります。つまり、「狩野派」のピークは桃山文化の時代にあって、極論すればその前後については左程の価値は認められないという一般的な認識となりましょうか。これでは、殆どの日本国民の方々に狩野派への関心が高まらないのも宜なるかなと申せましょう。しかし、ここで、改めて申し上げなければならないことは、「狩野派」とは“日本絵画史上で最大かつ最も優秀な絵画集団(画派)”であり、室町時代半ばから江戸時代の終焉に至るまでの約400年に亘って国内の画壇の中核をなし、世界市場でも類を見ない、一貫して国内に君臨した絵師集団なのだということでございます。その意味で、教科書の記述は余りと言えば余りに“お座なり”の内容に過ぎましょう。狩野派については、今一度近世絵画における位置づけを再考する必要がございます。
「狩野派」の優れた在り方の根源の一つは、取りも直さず血縁者と門弟の中で卓抜な能力を有する絵師を育てあげていったことであり、二つ目には常には権力者に仕え(「御用絵師」)彼らのニーズに応える作品を量産できる体制を組織したことにあると思います。まず、前者について述べるのであれば、狩野永徳が元信の実孫であり、狩野探幽は永徳の実孫にあたることからも、血縁者から卓越した絵師を育てあげていったことが理解いただけましょう。ただ、ここで注意しなければならないのは、狩野派の後継者たちは、決して、高等学校の教科書にあったような「様式の踏襲に留まった」画派ではなかったことであります。狩野永徳が、織田信長・豊臣秀吉といった天下一統の気風を体現したかのような豪壮な構図を特色としたことは広く知られておりましょう。安土城や大坂城の障壁画は永徳が健筆を振るったことが知られます。それに対して、孫の探幽は、徳川家の幕藩体制が確立する過程で的確に画風の転換を図っていくことになります。それは、同じ徳川家による城郭建築である御殿内に描かれた絵画の変遷に見て取ることができます。京都にある二条城は、徳川家の上洛時の宿館として整備された城郭でありますが、現在の「二の丸御殿」に残る約3600面にものぼる障壁画は、寛永3年(1626)の後水尾天皇(1596~1680年)行幸のために大改築された際、幕府御用絵師の若き棟梁であった狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したものです。その作品は、正に幕府権力を誇示するような圧倒的な存在感と迫力を表現するものであり、その意味では祖父永徳の画業を正当に継承して発展させたものでございます。それに対して、8年後の寛永11年(1634)、3代将軍徳川家光が上洛する際に、尾張徳川家が家光用の宿泊施設として名古屋城本丸内に新たに増築した「上洛殿」に描かれた作風の変化には目を見張るものがございます。この襖絵は、二条城二の丸御殿と同じく、狩野探幽を筆頭とする狩野派一門が手がけたものでありますから、その比較が容易でございます。勿論、二条城二の丸御殿と名古屋城本丸「上洛殿」とは、同じ城郭御殿とは言っても建設意図も異なり、当然描かれる絵画の題材にも変化が生じることは当然としても、名古屋城の絵画には、見る者を威圧するような対象物を誇張して描く筆致は微塵も存在しません。ゆったりとした空間の中に、淡く柔らかな光を帯びたような潤いに満ちた対象を描き込む筆致こそ、江戸時代という安定した時代に相応しい作風に違いないと確信させられるのです。その瀟洒さと爽やかさの同居する気品の高さこそ、天下に君臨する将軍としての高潔さを表象する絵画に相応しいとの探幽の確信が存在すると思わせます。その作品が『雪中梅竹遊禽図襖』に他なりません。ここに図版を掲載できないことが残念ですが、ネットで検索されればすぐにでもご確認いただけましょう。なお、名古屋城の本丸は天守閣・御殿とともに明治以降も完全な形で残されておりましたが、残念ながら第二次世界大戦中の空襲で全焼しました。しかし、幸いに障壁画の多くは避難させていたために現在に伝わります。また、現在旧来通りに木造で本丸御殿が再建途上にあり、その御殿内の在るべきところに複製された障壁画が収まっております。こちらは是非ともお出かけになってご覧ください。天守・小天守の木造での再建には未だ検討課題がありそうですが。
続いて、常に権力者に仕え(「御用絵師」)彼らのニーズに応える作品を量産できる体制を組織したことにあります。狩野探幽は、永徳の孫であると申しましたが、永徳の長男である狩野光信(1565?~1608年)の弟である狩野孝信(1571~1618年)の子となります。永徳門弟の山楽と惣領の光信が豊臣氏との関係性を強く有したのに対して、光信弟の孝信は徳川氏との結びつきを深めるのです。孝信には、守信(探幽)・尚信(1607~1650年)・安信(1613~1685年)の3人の優秀な子があり、それぞれが、その卓抜な画才をもって幕府に召し抱えられることになります。そして、探幽の後裔は「鍛冶橋狩野家」、尚信の後裔は「木挽町狩野家」、末弟の安信は狩野宗家嫡流が絶えたこともあり宗家を継ぎ「中橋狩野家」として幕末まで続きます。木挽町狩野家からは後に「浜町狩野家」が分れ、以上4家が御目見え以上の資格を有する「奥絵師」となり、その下にそれぞれの狩野家で学んだ有力な一族や門弟が開いた「表絵師」約15家が、あたかもピラミッド状の絵画組織を形成し、幕府からの求めに応じた膨大な作品群を制作する体制を構築いたします。それぞれの狩野家には絵を学びに全国から入門者が集まり、ここで絵画技術を徹底的に学び絵画技法を身に付けていくことになります。そして、幕藩体制の在り方そのままに、彼らが自らの国許に返って各藩の御用絵師となり、狩野派の画法を全国に広めていくことになるのです。狩野安信が画論書『画道要訣』に「絵画には天才が才能に任せて描く『質画』と、古典の学習を重ねた末に得る『学画』がある」とした上で、天才による如何に素晴らしい作品でも一代限りで終わってしまう「質画」よりも、徹底した訓練に基づき習得する「学画」が勝ると述べております。勿論、安信も「質画」を否定しているのではありません。しかし、長谷川派が等伯の死後、海北派が友松の没後、それぞれ衰退の道を辿ったことに鑑みれば、安信の語っていることは組織の在り方を考えるときに示唆すべきことが多いようにも思えます。世の中に天才など滅多に現れませんから。
尤も、だからこそ高校の教科書に「様式の踏襲に留まった」と書かれる所以ともなったものと思われます。しかし、そのように評する方々は、江戸時代の狩野派である所謂「江戸狩野」の作品をどれほど実際に目にしてそう言っておられるのか甚だ疑問でございます。実際に彼らの作品に接すれば、“たかが伝統墨守に過ぎない”と一刀両断に片づけることなど到底不適切と思うことができます。何れの狩野家であっても、優れた技量を有する絵師ばかりですし、絵師それぞれの工夫も表現する多様性を持ち合わせております。特に「奥絵師」4家の内で江戸時代に最も繁栄した「木挽町狩野家」は、多くの優れた絵師を輩出することになります。その中で最も注目すべき存在が、狩野晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)(1796~1846年)であります。その膨大な古画研究の成果を活かした新画風は狩野派に新たな画風をもたらしたと思います。明治の日本画家として教科書にも記される、狩野芳崖と橋本雅邦も木挽町狩野家で絵画学習を行ったことが絵師としての基本となっております。彼らも、絵の基本を学ぶために狩野派の画法学習は極めて優れていたことを述べております。事実、彼ら二人に留まらず、江戸時代において独自の絵画表現を成し遂げた殆どの絵師もまた、「狩野派」で絵画技法を学び、そこから独立して独自の表現を確立していったのです。琳派の尾形光琳(1658~1716年)・渡辺始興(1683~1755年)、江戸琳派の酒井抱一(1761~1829年)、写生派の円山応挙、そして鬼才として昨今大人気の伊藤若冲(1716~1800年)もまた狩野派に学んでいることを看過すべきではありますまい。尤も、京都には、桃山時代の狩野山楽の後裔が、江戸に移らず京に腰を据えて伝統の狩野派画法を維持し続け、「京狩野」としての一派を形成していたことを付加しておきます。この流派からもマニエリスム的な作風を有する狩野山雪(1589~1651年)、その子で画論『本朝画史』で探幽以後の「江戸狩野」の画風一変を批判した狩野永納(1634~1700年)、そして幕末の狩野永岳(1790~1867年)と優れた画家が輩出いたいます。一方、狩野派の故地である京に江戸狩野から打ち込まれた楔として、京都で活躍する一派「鶴沢派」の動向にも注目すべきかと思われます。
従いまして、狩野派を「権力に寄り添って生き延びた画派」「創意工夫を失った没個性の作品制作集団」といった、明治以降に定着してきた紋切型の評価から解放し、4百年にも亘る狩野派の系譜について正統に絵画史に位置付けて評価することが求められましょう。狩野探幽についても、近世に比類ない大名人として高く評価されてきたものが、幕藩体制の瓦解と歩調を併せるように明治以降不当に貶められてきたように思えます。流石に、昨今はそこまで酷い評価がくだされることはなくなりましたが、その後の「江戸狩野」における個々の絵師たちへの再評価については、未だ未だ充分になされているとは申せません。江戸狩野につきましては、「板橋区立美術館」が相当に気炎を吐いた展示会を開催されて参りましたが、ここのところ少々影を潜めているのが残念です。また、小生も中々そこまで手が回りませんが、全国の各大名家に仕えた狩野派「御用絵師」集団にも、昨今は各地の市町村立美術館・博物館が光を当て始めております。特に小生の注目する絵師である狩野興以(生年未詳~1636年)は、優れた技量により師光信より狩野姓を賜るだけでなく、弟孝信の早世後に残された未だ幼い守信(探幽)・尚信・安信の三兄弟の育成を任された逸材でありました。残された作品は決して多くはないのですが、その何れもが極めて優れたものであります。小生は、上記三兄弟の内、次男の尚信に最も心惹かれるとともに、興以の衣鉢が色濃く引き継がれているように思うのです。尚信も早世しますが、その子の狩野常信(1636~1713年)がその父譲りの画才と努力で自家の覇権を確立し、その後は探幽後裔の「鍛冶橋狩野家」を大きく凌ぎ、「木挽町狩野家」が「奥絵師」筆頭として画壇に君臨するのは、狩野興以仕込みの故と信じるものでございます。狩野興以の長男狩野興甫(生年未詳~1671年)は紀州徳川家の御用絵師となり、次男狩野興也(生年未詳~1673年)は水戸徳川家の御用絵師として、その後も後裔が両藩の御用絵師として継承しました。また、三男狩野興之(生没年未詳)は一時的な仕官であったようですが尾張徳川家に仕えるなど、その血統が徳川御三家「御用絵師」を席巻するなど重く用いられたことも、江戸時代における狩野派興隆の指針を決定づけた功績が認められていた証左と申せましょう。
長くなりましたので今回はここまでとさせていただきますが、狩野派絵師個々の業績等々、また狩野派以外の近世画壇諸派の動向なども機会がありましたら採り上げてみたいと存じます。いや、近世画壇の世界はすさまじいまでに多彩かつ多様でございます。皆様も、こうした近世絵画の世界に大いに遊ばれることをお薦めいたします。特に「ふつうの系譜」に属する絵師に対するご興味をお持ちいただけますよう衷心より祈念致す次第でございます。
今回は、久しぶりに音楽の話題と参りたいと存じます。こうした話題を採り上げるにつけ、千葉市の御出身の音楽家でもいらっしゃれば……と思うのですが、残念ながら小生は寡聞にして存じ上げる方が思い浮かびません。まぁ、強いて挙げるとすれば、佐村河内守(さむらごうちまもる)氏の「替え玉作曲家事件」で一躍“時の人”となった、新垣隆(にいがきたかし)氏が中高時代を本市内で過ごされたことを知るくらいでございます。一世を風靡した『交響曲第1番HIROSHIMA』を始めとする20曲ほどを佐村河内氏に提供し、佐村河内守作曲名義とする代わりに対価を得ていたとされる事件でございます。今から10年を遡る平成26年(2014)の出来事ですから、皆様の中にも御記憶の方が多かろうと存じます。何故新垣氏が替え玉作曲に手を染めることになったのか、詳細な経緯につきましては感心もなく存じあげません。しかし、新垣氏御自身は人柄面でも作曲家としての才能においても、仕事場の同僚・学生からも、厚い信望を寄せられている方だそうですから、事件後に彼を擁護する声も盛んであったことも思い起こされます。その後、どういう訳か、ヴァラエティ番組で雛壇芸人のような扱いでテレビに出演され、映画「ゴースト・バスターズ」のテーマに乗せて登場(申すまでもなく「ゴースト・ライター」の捩り)、周囲から弄られるキャラでお茶の間を賑わす存在となられました。それを拝見する限り、確かに誠実そうな方であり嫌味な感じを微塵も感じませんでしたし、むしろ小生などは好感を抱いたほどでありました。しかし、昨今はマスコミでその姿を拝見することもございません。佐村河内氏の作品として世に出た作品群は、極めて高い世評を得ていたのですから、元来作曲家としての実力も折紙付なのでございましょう。恐らくは、芸人のような際物的な扱いをされる場に早々に見切りをつけ、現在は本来の作曲家としての生き方を追求されていらっしゃるのでしょう。小生としましては、千葉市所縁の作曲家として大成されることを願う次第でございます。本当は新垣隆作曲『交響曲第1番HIROSHIMA』も是非とも聴いてみたいものですが、流石に現在は廃盤扱いとなっておりましょう。
さて、斯様な次第で、話は千葉市から一気に20世紀前半期の“花の都”パリに飛び、フランス音楽の話題とさせていただきます。何故フランスかと申せば、つい最近ジェルメーヌ・タイユフェール:小林緑翻訳『ちょっと辛口-タイユフェール回想録-』(2002年)[春秋社]を読了し、当時のパリを中心とした芸術家たちの目映いばかりの交友の有様に感銘を受け、その様子を少しでもご紹介できたら……との思いに駆られたからでございます。皆様の中で本書の作者であるタイユフェールなる名を以て、即座にその人物像や作品を思い浮かべることのできる方は殆どいらっしゃらないことと存じます。1892年にパリの近郊パルク=サン=モールで生まれ、1983年に91歳でパリに没するまで作品を発表し続けたフランスの作曲家であり、しかも当時は極めて稀な女性のそれでございます。もしかしたら、「フランス6人組」の一人としてその名を耳にされたことがあるかもしれません。「フランス6人組」とは20世紀前半にフランスを中心に活躍した作曲家の集団を指し、その6人を生年順に挙げると、ルイ・デュレ(1888~1979年)、アルテュール・オネゲル(1892~1955年)、ダリウス・ミヨー(1892~1974年)、ジェルメール・タイユフェール(1892~1983年)、フランシス・プーランク(1899~1963年)、ジョルジュ・オーリック(1899~1983年)の以上6人となります。そして、改めて申し上げますが、6人中の紅一点がタイユフェールでございます。ただ、彼ら6人は元々交友関係のある親しい音楽仲間でありましたが、作曲家としての趣向性にはそれぞれの方向性があり、必ずしも共通点ばかりではなかったのが正解に近いと思われますし、現に全員が合作した作品は、デュレを除く5人がコクトー作品に楽曲を分担して音楽をつけた『エッフェル塔の花嫁花婿』(1921年)等の数作があるのみとなります。
その意味で、彼ら6人に共通点があるとすれば、それは何れも全音階(ドレミファソラシド)による作品制作に可能性を求めた最後の世代であることであり、それが共通の“音楽家集団”と目されたことの背景かと存じます。つまり、同時代の独墺において顕著となった、調性を廃した「無調音楽」や「十二音技法」のような前衛的傾向には基本的に与しなかった最後の世代という共通性でございます。例えば、アルノルト・シェーンベルク(1874~1951年)、アントン・ウェーベルン(1883~1945年)、アルバン・ベルク(1885~1935年)らに典型的な「新ウィーン楽派」の作風とは異なり、「フランス6人組」の作品は基本的に耳に心地よく、至って穏健で聴きやすい作風を有していると申して宜しいでしょう。そもそも、この呼称は彼らが自ら名乗った訳ではございません。「印象派に代わる新たなフランス音楽の創造」を説いた、彼らの共通の友人であった詩人のジャン・コクトー(1889~1963年)の主張を受けた、批評家のアンリ・コレ(1885~1951年)が彼らを「6人組」と名付け、1920年刊行の雑誌に「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」なる論考に掲載した名称であり、これが契機となり広く世間に知られるようになったと言われております。「フランス6人組」とグルーピングされた彼らが、“印象派音楽家”の頭目と目されクロード・ドビュッシー(1862~1918年)(タイユフェールが作品を提出したコンクール審査員の一人でもありました)、後に彼女と深い交友関係を結ぶモーリス・ラヴェル(1875~1937年)よりは一世代後に、また彼女のパリ音楽院在学中に師であったガブリエル・フォーレ(1845~1924年)の二世代後に位置づく存在であること、以下にも触れるようにロシア芸術の影響力が日増しに高まる時代に、コクトーらがそうした才気煥発の若手の台頭にドビュッシーやラヴェルに代わる新たなフランス音楽の息吹を感じ、彼らに音楽を通じたフランス芸術の覇権を託そうとしたことを、それぞれ想像させます。尤も、後にプーランクが証言しておりますように、“十羽人からげ”にされた側としては、何とも歯がゆい思いではあったようですが。
一方、アンリ・コレの論考には、「フランス6人組」に19世紀末葉にロシアで勃興した「ロシアの民族主義的音楽」の創造を志向した音楽家集団「ロシア5人組」の存在が対置されていることに注意を向ける必要があると存じます。そもそも「ロシア5人組」とは、基本的には専門的音楽理論の学習とは縁の薄い、ミリイ・バラキレフ(1837~1910年)を筆頭にした、ツェーザリ・キュイ(1835~1918年)、モデスト・ムソルグスキー(1839~1881年)、アレクサンドル・ボロディン(1833~1887年)、ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844~1908年)の5人を指しますが、彼らはロシアで従来広く親しまれていたピョートル・チャイコフスキー(1840~1893年)やアレクサンドル・グラズノフ(1865~1936年)といった西欧の影響の色濃い音楽へのアンチテーゼを突き付けた作曲家達であるからでございます。もっとも、チャイコフスキーとグラズノフはともに5人組とは距離を置きながらも、彼らの作品には理解を示しており、ボロディンの死後に未完で残されたオペラ『イーゴリ公』を補筆完成させたのはグラズノフの功績でございます(一説にグラズノフの創作に近いとも)。一方、「フランス6人組」の活躍した20世紀前半は、セルゲイ・ディアギレフ(1972~1929年)率いる「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」が西欧で旋風を巻き起こしていた時代であり、その音楽家として抜擢された、リムスキー=コルサコフの弟子イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971年)による、バレエ三部作[『火の鳥』(1910年初演)、『ペトルーシュカ』(1911年初演)、『春の祭典』(1913年初演)]が何れもパリで初演され、特に『春の祭典』の初演では音楽の持つバーバリズムが一大センセーションを巻き起こすなど、ロシア芸術が一大ムーブメントを引き起こしていたことも重要な背景にございましょう。そのことと「フランス6人組」の命名とは密接なる関係性を有していることは間違いございますまい。ムソルグスキーが1874年に作曲した傑作ピアノ組曲『展覧会の絵』が、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキ―(1874~1951年)の依頼を受けたラヴェルにより、1922年に編曲された管弦楽版によって広く親しまれていることは皆様もご存知でございましょう。それほどまでに、当時のフランスではロシア発の民俗的音楽を背景にした芸術の影響は大きなものであったのです。余談ですが、個人的には、「展覧会の絵」なる作品はピアノ版の原曲が何百倍も優れていると思いますし、それで聞くことの方が圧倒的に多いのです。まぁ、今日オーケストラ演奏会における基本レパートリーとして定着しているラヴェル版も嫌いではございませんが、もしオケ版にしか触れたことがないのであれば、是非とも原曲に接して頂ければと存じます。要は、第一次世界大戦前後のヨーロッパの国際関係を反映している動向でもあることを認識しておくと理解しやすいのではありますまいか。
さて、ようやく肝心のタイユフェールその人と交友について、読了したばかりの彼女の回想録を参考に述べてみたいと存じます。えっ??肝心要の音楽については触れないのかと疑問に思われましょう。ご尤もでございます。少しは触れさせていただきます。ただ、彼女の作曲家としての概要を大まかにでも語るほどの音盤が存在しないのです。現在手軽に入手できるものは、ピアノ曲と多少の室内楽曲集のみであり、その数も決して多くはありません。市場には既に入手不能となった古い音盤ならば多少は出ておりますが、概ね高額で取引をされており小生には高嶺の花で手が出せません。悲しいかな現在所有するタイユフェール作品の音盤もたったの5枚に過ぎません。しかも、おそらく彼女の本領ともいうべき、劇音楽・バレエ音楽・映画のための音楽といった管弦楽曲や協奏曲、はたまた交友のあった眼も眩むような大文学者との共作作品といった独唱と大規模な合唱を伴った作品も、殆ど音盤化されていないのが現実なのです。初演されたころの世評をみると大変に好評であり、批評家や高名な文化人(作家・詩人・音楽家・俳優等々)からの広範な高評価を得てもいる作品であっても状況は変わりません。まさに、その作品は不当なほどに等閑に付されていると存じます。タイユフェール以外の「フランス6人組」の面々の作品は、途中で彼らと袂を分かったデュレを除けば、特にプーランク・オネゲル・ミヨーの作品集は山のように音盤化されております。特に多作で知られたミヨーの作品はとても手が回らぬほどです。個人的には、プーランクの作品集を最も沢山所有しておりますし、その他にもオーリックを含めた彼らの作品の音盤はそこそこに手元にあり聴き及んでおります。何れも軽妙なエスプリに溢れた耳に心地よい如何にもフランス風の味わいの作品が多く、独墺系の作曲家とは明らかに異なります。どちらが優れているということとは無関係に、双方ともに大いに愛好しております。
勿論、彼らの作品は軽妙さだけを特色としているわけではなく、プーランクのオペラ『カルメル派修道女の対話』、オネゲルのオラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』のようなシリアスな傑作にも事欠きません。後者では過日物故された小澤征爾指揮:フランス国立管弦楽団による好演盤もございます。大きなお世話であろうと存じますが、追悼を兼ねてお耳にされては如何でしょうか。彼らの作風はとても多彩なのです。だからこそ、もっともっとタイユフェール作品に接したいのですが、現実はそれを許しません。残念至極でございます。ピアノ作品や室内楽も素敵で小生も大好きですが、それでだけで彼女の音楽を語れるものではないことは明らかです。回想録を翻訳された小林緑氏は、その「あとがき」の中で、タイユフェールの作品の特色を以下のように紹介されておりますので、引用をさせていただきます。彼女は、音盤に限らず残される楽譜まで博捜された上でお書きになっていらっしゃいますから、その音楽性の評は過たず正鵠を射ていると思われます。因みに、その文中に登場する同時代の女流画家マリー・ローランサン(1883~1956年)とタイユフェールとは親しい交友関係にあったこと、文中の“耳のローランサン”との評は、「フランス6人組」との交友関係が深かった詩人ジャン・コクトーによるものであることを付加させていただきます。一方で、彼女の芸術への感心は音楽に留まるだけではなく、美術にも興味をもち、絵画作品の制作から、骨董家具の修理、自ら制作したタペストリーの販売、また、気球の操縦を学んで大空を飛行することを趣味とするなど、多才かつ多方面への好奇心にあふれる人でもあったことにも、その為人を知るためには重要なのかも知れません。
タイユフェールの魅力とは何だろうか。(途中略)彼女のキャッチフレーズともなっている「新古典主義」の奥深さである。印象主義の思わせぶり、後期ロマン派の誇張、表現主義の毒性、無調の難解さ……。これらから明確に一線を画した、明晰で軽やかな、真にフランス風の音楽。コクトーの《雄鶏とアルルカン》を引き合いに出すまでもなく、その方向性は明らかだか、タイユフェールの多彩な作品群からは、さらに、スカルラッティ調、民謡調、時にはジャズの洒脱、そしてミニマル・ミュージックの萌芽まで響いてくる。しばしば使われる“耳のローランサン”という喩えの、いかに一面的で、見当はずれなことか。
ジェルメーヌ・タイユフェール:小林緑訳『ちょっと辛口-タイユフェール回想録』(2002年)[春秋社]所収 「あとがき」(小林緑)より |
さて、本回想録を拝読してまず第一に実感させられることは、彼女が家庭生活の面においては、決して恵まれていた環境にいた訳ではないということでございます。19世紀末という時代的背景が大きいのだと思われますが、少女時代は、横暴で家庭を顧みることなく、女性の自立にも無理解な実父に翻弄されておりました。幸いに修道院附属の学校で学んだ母親の理解の下で音楽的才能を発見され、父親に内緒で音楽の専門教育を受けるのでした。従って、父の死に出会うまでは積極的な支援をうけることもできず、経済的にも苦しい状態を強いられるのでした。また、お名前をお聞きになれば音楽好きの方であれば誰もが知る名ヴァイオリニストのジャック・ティボー(1880~1953年)との交際と破局(1921~1923年)[ヴァイオリン・ソナタ第一番はティボーに献呈された作品]、その傷心からアメリカ人風刺漫画家のラルフ・バートンとの結婚(1926年)と、アメリカはニューヨーク「マンハッタン」への移住、そして再びフランスへの帰還。妻の交友関係に由来する夫の嫉妬に起因する精神錯乱(妻への発砲未遂事件)による離婚(1931年:ほどなくバートンは拳銃自殺)。翌年“美男でロマンチックな若い弁護士(タイユフェールによる)”のジャン・ラジャと再婚するものの、病気発症によって精神不安定となった夫の介護と暴力・暴言による苦悩等々。そして、第二次世界大戦の勃発による再びのアメリカへの避難と戦後のフランス帰国とジャンとの離婚(1955年)と、目くるめく様な慌ただしき私生活の変転が続くのです。これだけ見れば明らかに家庭的幸福とは縁の薄い人生を送ってきた女性音楽家と申すしかないものでございましょう。しかし、全貌を知ることができないので何とも申せませんが、少ないながらも所有する音盤からは、彼女の不幸の色合いを感じることはございません。それには、彼女が何時、如何なる土地に住まおうが、とてつもない才人達と出会い、豊かに交友してきたことが大きいのではなかったか……と本書を読んで実感致します。以下に、彼女の交友関係と関連して産み落とされた作品とを年表形式にし、掻い摘んでご紹介いたしましょう。そこに登場する面々の多彩さと大物振りに多くの皆様は驚愕されることでございましょう。
1892年( 0歳) パリ近郊に生まれる。
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上記略年表をご覧いただいて如何なる印象を抱かれましたでしょうか。当時の一流の文化人・芸術家とのこれほど広範囲な交友を有していたタイユフェールの人間的な包容力の大きさを如実に知ることができましょう。仕事上仕方が無く……というのは誰でもございましょうが、気のそぐわない人物と私的な交友を長く続けるなど願い下げでございましょうから、これらの交友とは互いへの深い信頼と愛情に基づいていることは間違いございますまい。しかも、同じ音楽家仲間だけではなく、チャップリンのような高名な喜劇役者(映画制作者)から、女性の社会進出の象徴でもあったファッション界の巨人シャネル、コクトー、クローデル、ヴァレリーのような“超”の文字を幾つ付加しても不思議ではない大文学者達との交流と、彼らから是非にと請われて成った作品の数々、更にモジリアニやここにはありませんがピカソとの交流といった、これまた“超ド級”の画家達との交流にも驚かされます。超一流の指揮者や演奏家達との作品を通しての交流も枚挙に暇がございません。先輩作曲家(ラヴェル、サティ等々)・同輩(フランス6人組)との生涯を通じての交友、若手作曲家(メシアン)への支援等々。ここには記しきれないほどのフランスやアメリカの文化人や高貴な貴族達との交友関係もございます。
家庭的には必ずしも幸多い生涯とは言えなかったかも知れませんが、これだけの人々との目くるめくような交流を通じて得た精神的な資産が、彼女の創作の源泉であったものと容易に想像することができます。その意味で、彼女の音楽作品に充分に接することの出来ないもどかしさを、この回想録は補って余りあります。もう一つの優れた作品と申し上げることに何らの躊躇もございません。彼女のような決してポピュラーとは言い難い音楽家の回想録を上梓された春秋社には感謝以外の言葉がございません。そうそう、上記の年表中にも引用をさせて頂いておりますが、タイユフェールはチャップリンに映画作品への音楽を懇願されたにも関わらず、それを断わり自身で作曲するように薦めたことも、決して上辺だけの交流ではない、対等な人同士の付き合いを通して彼女がチャップリンと言う人物の持つ才能を充分に見極める眼を有していたからでございましょう。それは、1929年以降に制作されたチャップリンの映画作品を並べてみれば、自ずと明らかになります。それらが、彼自身が音楽を充てるようになった『街の灯』(1931年)から始まり、『モダン・タイムス』(1936年)、『独裁者』(1940年)、『殺人狂時代』(1947年)を経て、『ライムライト』(1952年)にまで到る作品群でございます。映画をご覧になった経験をお持ちであれば、多くの方がそう感じられるであろうように、笑いながら涙するといった、喜劇でありながらも切なくも哀感に満ちた人間模様が描き込まれた作品ばかりであります。そして、よくよく考えれば、その感銘にはチャップリンの見事な演技の背後に、常に彼自身の手になる忘れ難き音楽があることを想い浮かべることができましょう。もし、もしタイユフェールがチャップリンからの懇望に負けて映画の音楽を引き受けていたらどうだったでしょうか。聞くことが叶わなかったタイユフェール音楽によるチャップリン映画を想像するのも愉快なことですし、当時から飛ぶ鳥を落とすが如き人気者であった喜劇俳優チャップリンからの依頼を受ければ、当時経済的に苦しい時期であったタイユフェールに巨額の収入をもたらしたことは間違いありますまい。しかし、果たして、あの『街の灯』の感銘はあったのか……。そう思うと彼女の勇気ある決断に頭が下がる思いでございます。
それに致しましても、20世紀の前半期の欧米社会の有り様には大いに興味をそそられます。帝国主義の横行と、その行き着く先に勃発する第一次世界大戦、戦後に生じる新たな時代を生み出そうとする人々と理想と現実の乖離、その結果としての第二次世界大戦の悲劇。しかし、その間に時代の徒花として多くの創造性溢れる芸術や文化が花開いた……、ざっくり申せば、そんな時代像が浮かび上がって参ります。都市の爛熟が人と物との坩堝を生じさせ、そこに高貴な芸術と猥雑という両面を併せ持った「眩惑の都市文化」が産み落とされたのだと存じます。ホントウに興味深い時代でございます。当時のパリやベルリン、またはニューヨークには“怖い物見たさ”も手伝って、可能であるのなら是非とも行ってみたいものでございます。今「フランス6人組」の数少なき共作となる『エッフェル塔の花嫁花婿』の唯一の音盤[デグローブ指揮/エルヴァルトゥンク・アンサンブル盤(マルコボーロ)]を聴きながら、そんなことを思うのです。そして、共作中の2曲を担当するタイユフェール作曲の「ワルツ」「カドリーユ」を聴き、そのあまりの洒脱な音楽に心底魅了されるのです。そして、彼女の管弦楽作品が何故音盤化されないのか不思議に思い、またヴァレリーとのカンタータ『ナルシス』を耳に出来ないことを心の底から悲しみを抱くのでした。
最後になりますが、今回は「人と音楽」という主題を掲げながら、少なくともタイユフェールの音楽そのものについては殆ど触れることが出来ず、我ながら何とも隔靴掻痒の思いでございますし、何より忸怩たる念抑え難きものがございます。昨夏に採り上げさせていただきましたフレデリック・ディーリアスに輪を掛けて、今回のジェルメーヌ・タイユフェールは多くの皆さまには縁遠き作曲家であったことでございましょう。偶には、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンでも採り上げてみようか……と、思うことがないわけではございませんし、何よりもタイユフェールの何十倍もの音盤が手元にあって聴き及んでもおります。しかし、彼らのことは小生などが駄弁を弄する必要はないほどに沢山の音盤や書物が巷に溢れております。斯様な訳で、小生の「天の邪鬼」がこんなところでも顔を出してしまいます。まぁ、今回は音楽家その人の紹介にも増して、彼女を通して19世紀末から20世紀前半にかけての欧米における文化的状況をお知り頂くことが主眼でもございましたので、何卒ご寛恕のほどをお願い申し上げる次第でございます。お後が宜しいようですので、今回はこの辺りで本稿の筆を置くことに致したく存じます。戦後になっての彼女の作品「ハープ・ソナタ」でも聴いて、本日は安らかな眠りに付くことにいたします。
2月も後半に入り残すところ一週間となりました。本年は閏年に当たりますので、所謂「オリンピックイヤー」と言うことになります。小生は、飽くまでも個人的な思いにすぎませんが、とことん商業主義に塗れてしまった昨今の五輪には全く興味・関心も湧くこともありません。ただ、一応調べてみたところ、本年7月26日から8月11日までを会期とし、「第39回夏季オリンピック競技大会」として花の都パリにて開催されるとのことであります。そういえば、すっかり記憶からも抜け落ちておりましたが、前回大会は“コロナ禍”に翻弄された中で開催された「東京大会」であったのでしたね。尤も、それは4年前の事ではなく僅か3年前のことであったのに、取り分けて印象が薄いように思うのはこちらが歳を重ねた所為でしょうか。今思うと思い起こすのは只管に糞暑い中で開催された五輪であり、当初掲げられた「復興五輪」のスローガンも何処へやら……、開催することが目的化してしまったような五輪ではなかったかとも思えてしまいます。皆様は今振り返って如何なる五輪であったとお考えになられましょうか。尤も、小生にとって閏年が重要なのは、4年に一度の学生時代に所属した「古美術愛好会」同窓旅行の開催年に当たるからであります。ただ、コロナ禍の下、東京大会の折には未実施でございましたので、8年ぶりに挙行することになります。本稿執筆の翌日から週末に西播磨(兵庫県西部)の古寺を6名で巡る旅に出かける予定でございますから、追って機会がございましたらご報告をさせていただきたいと存じます。
さて、1月末の本稿で、国立科学博物館で館長をお勤めでいらっしゃる篠田謙一氏の古人骨のDNA分析研究により、「日本人のルーツ」が徐々に明らかになってきたことについてご紹介をさせていただきました。今回は、その折にご紹介をしておきながら、実際には拝読していなかった標題の書籍をご紹介させていただき、その関連で新井白石のことにも少しばかり及んでみようかと存じます。皆さまにはお勧めしておきながら自身では読んでいないことに心苦しい思いでもございましたから、ようやくホッと胸を撫でおろした次第でございます。そのことがバレバレであったのは、お恥ずかしながら本書を「岩波新書」本だと思い込んでいたことにも覿面に露呈しておりました。早速の訂正をさせていただきますが、岩波書店の刊行ではありますが通常の単行本としての刊行でございました。中身につきましては、小生にとってはDNA分析絡みの科学的な内容についての理解は及びませんが、予想通りに無類に面白い読み物でございましたので、改めましてお薦めをさせていただきたいと存じます。
そのシドッチにつきましては、中学校の教科書で記述されることはなく、高等学校の教科書には欄外の脚注に触れられるのみでございます。前回と同じく、山川出版の少々古い『改訂版 詳説 日本史』(2011年)を紐解くと、その名は「化政文化」という大項目中にある「洋学の発達」なる小項目にその名を見出すことができます。そこでは、西洋の学術研究や知識の習得については鎖国体制の下で困難であったこと、その中でも西川如見(1648~1724年)や新井白石(1657~1725年)が世界の地理・物産・民俗などを説いてその先駆けになったと記されます。そして、それに対する脚注として、イタリア人宣教師シドッチが、宝永5年(1708)にキリスト教布教を目的に屋久島に潜入して捕らえられ、江戸小石川にある「切支丹屋敷」に幽閉されて5年後に死んだこと、その間に新井白石がシドッチに訊問して得た知見をもとに『西洋紀聞』と『采覧異言』を著したことが小さな文字で記述されております。本文に戻れば、それに引き続き8代将軍徳川吉宗(1684~1751年)が漢訳洋書の輸入制限をゆるめ、青木昆陽(1698~1769年)・野呂元丈(1694~1761年)らにオランダ語を学ばせたので、洋学は「蘭学」として発達したとあります。昆陽と元丈は太文字で記されますが、説明は皆無でありますから一体何をした人物かも分かりません(ずっと前にページにある「享保の改革」に薩摩芋栽培が記されますが昆陽には触れておらず両者の繋がりも理解できません)。まして、これでは太文字で記された野呂元丈が何故重要人物なのか……すら見当がつきますまい(元丈は「本草学者」です)。まぁ、膨大な内容をコンパクトに纏めねばならない教科書故の制約がありますからやむをえますまいが、この記述では各事項間の関連性について関連性をもって理解することは難しかろうと存じます。しかも、白石という希有なる「知の巨人」とシドッチという西洋人との交流を通じて伝えられた「西洋文化」が、徳川吉宗以降の幕政にも実に大きな影響をもたらしている事実は、ほとんど等閑に伏されているように存じます。また、シドッチなる人物が近世社会にも齎した影響が極めて大きなものであったことも理解できますまい。以後、シドッチについて、篠田氏の著書の記述を中心に簡潔に御紹介をさせていただきましょう。
ジョバンニ・バッティスタ・シドッチは、1668年(日本では寛文8年)に現イタリアに属するシチリア島パレルモで、貴族の第三子として生を受けております。成長したシドッチは聖職者を目指してローマに出、やがてその学識・能力を認められローマ教皇庁の法律顧問に就きました。その勤務の際、アジアへ布教に赴いた宣教師からの報告書に接したことで、日本における宣教師とキリスト教信者の殉教を知り、日本への渡航を決意したといいます(シドッチ個人の決意が固かったことは間違いないものの、そこには教皇庁の意思が働いていた可能性があるとの一説もございます)。シドッチは、教皇クレメンス11世(1649~1721年)に願い出て宣教師となった上でアジアに渡航し、1704年(日本では宝永元年)にマニラに到着しております。そして、その地で4年間に亘って奉仕しております。その間、切支丹であるが故に日本を追放され、その地に居住していた日本人から日本語や日本の習俗を学ぶなど、相当に周到な準備を進めていたようです。そして4年後[1708年(日本では宝永5年)]に鎖国下への日本へ向けて旅立ち、50日の航海の末に屋久島に到着しました。その時にシドッチは、月代・髷姿であり、マニラで調達した和服帯刀の武士の身なりで単身上陸してきたといいます。しかし、余りの異形と理解の出来ない言葉に恐れを成した島民に通報され、敢えなく捕縛されることとなりました。恐らく屋久島の方言とは異なる日本語であったことも言葉が通じなかった原因でしょう。しかし、例え流暢に屋久島方言が話せたとしても、その容姿と装いとの違和感は途轍もないものでありましたでしょうから、無事に日本へ潜入・潜伏できる可能性は皆無であったとしか言いようがありません。つまり、初手にてシドッチの大望は敢えなく水泡に帰すことになったのでした。シドッチには申し訳なくは思いますが、日本国内の社会情勢の変化を充分に掴み得ない状況で渡航したことは、無謀であったと申すほかございません。
長崎に送られたシドッチは、翌宝永6年(1709)に江戸へと護送され、「切支丹屋敷」(江戸小石川にあった)に幽閉されることとなります。そして、6代将軍徳川家宣[1662(在位1709)~1712 年]の信任を受け、その子である7代家継(1709~1716年)の代に到るまで幕政を取り仕切った、新井白石その人から4回に亘って直接に尋問を受けることになります[因みに、この時に白石とシドッチの通訳に当たった人物がオランダ通司であった今村英生(1671~1736年)であり、尋問終了後にもシドッチと面会しては知識の吸収に努め、白石やその後の吉宗の洋学推進を陰で支えた人物となります]。その成果が、教科書に記される2冊の著書に他なりません。『西洋紀聞』は上・中・下の三巻からなり、上巻にはシドッチの尋問までの経緯とその状況を、中巻には聞き取った世界に関する政治・風俗・地理・歴史などが(因みに地理の部分を書き改めた本格的な世界地理の概説書が『采覧異言』となります)、下巻にはキリスト教の教義や、教皇庁の職制等の解説と、それに対する白石の考えが、それぞれ著されております。特に下巻では、感情論は抜きに、キリスト教義の矛盾を論理的に鋭く突くなど批判を加えております(「児戯に等しい考え」とまで!)。しかし、白石がシドッチとの対話から、従来考えられてきたような宣教師の潜入は「日本への侵略の意図を有したものではない」との理解を示したこと、西洋の科学・技術の優越性と合理性についての理解を深めたことは極めて重要であると存じます。何故ならば、その後の幕政に極めて大きな影響をもたらしたからでございます。白石の認識が、以後の8代将軍徳川吉宗[1684(在位:1716)~1751(在位:1745)年]の時代に、キリスト教に関する内容以外の漢訳蘭書の輸入禁止緩和に直結し、その後の蘭学の興隆への道筋をつけたからに他ならないからであります。その意味で、シドッチの潜入と白石との邂逅は、計り知れぬ程の大きな意義を江戸の世にもたらしたと申すべきでございましょう。
しかも、白石は尋問を通して、シドッチの人格と深い学識とに感銘を受け、その後のシドッチの処遇に関しても、これまで日本で行われていた拷問によって棄教を強要する方針を蹈襲しませんでした。因みに白石は、将軍に対して3つの対応を上申しております。上策は「本国への送還」(「一見難しく感じるが実は最も易しい対応」)、中策として「囚人として幽閉」(「一見簡単に感じるが実は難しい対応」)、下策として「処刑」としております。白石が上策とした「本国送還」は、当時は異例中の異例の対応であります。結果として、警戒した幕府中枢は中策を採用し、シドッチを小石川の「切支丹屋敷」に幽閉することに決しましたが、処刑は免れることとなりました。勿論、審理中もその後の幽閉中も拷問等を加えられることも一切ありませんでした。しかも、毎年金子25両3分・銀3匁を支給されることになります。これも、白石がシドッチを人格者として高く処遇した証と申せましょう。しかし、4年後の正徳3年(1713)に、「切支丹屋敷」の獄卒としてシドッチの世話をしていた老夫婦が、シドッチによって洗礼を受けていたことを告白したため、3名とも屋敷内の地下牢に監禁されることになるのでした。そして、シドッチは10ヶ月後の正徳4年(1714)に数え年47歳で衰弱死したとされております。因みに、獄卒の老夫婦の夫である“長助”はシドッチに先立って没していることが分かっているそうですが、妻“はる”の記録は存在していないとのことです。何処に葬られたのかの記録もありません。しかし、状況からして間違いなく「切支丹屋敷」敷地内であろうかと思われます。そして、その敷地の跡地から発見されたのが、横一列に葬られた3体の人骨であったことは如何にも思わせぶりでございます。当然の如くシドッチと獄卒の老夫婦ではないかとの憶説が蔓延ることになりました。その興味深い調査の一端を担ったのが、篠田謙一氏を中心とするグループであり、その紆余曲折の顛末等々について綴ったのが副題に掲げた書物でございます。ただ、一度そこから離れ、そもそも「切支丹屋敷」とは何なのかについても纏めておこうかと存じます。
こちらは切支丹弾圧の歴史と関わることでありますが、その最後に位置付く頃に成立することになります。つまり、徳川幕府による禁教令が、三代将軍徳川家光の頃には切支丹を苛烈な拷問にかけて、積極的に改宗させる方向に転換することで壊滅状態になったことはよく知られておりましょう(教科書にも「踏絵」が掲載されております)。しかし、その時期にもその数としては多くはなかったものの、相変わらず宣教師の潜入・潜伏は続いており、寛永14年(1637)にも密入国を企てたドメニコ会宣教師4名が捕縛され長崎で処刑されているそうです。また、寛永20年(1643)にも筑前国(現:福岡県の一部)に宣教師が漂着し捕縛され、その後に江戸に送られております(ジュゼッペ・キアラ、ペトロ・マルクエズら10名)。篠田氏の著書によれば、彼らは想像を絶するような拷問を受けた末に信仰を捨てたので処刑されることはありませんでしたが、そうかと言って市中に住まわせるわけにもいきません。そのため、その後の余生を隔離した状態で送らせるため、当時「宗門奉行」の役職にあった井上正成(1585~1661年)の小石川の下屋敷に彼らの収容施設を建設します。つまり、これが「切支丹屋敷」誕生の契機となりました。因みにこの井上政重は「島原・天草一揆」の発生した寛永15年(1638)には上使として九州に御赴いております。その功績によるかどうか分かりませんが、寛政17年(1640)に1万石に加増されて、我ら千葉県に所縁のある下総国高岡藩初代藩主となり諸侯に列することになりました(子孫は明治に到るまでこの地を領有することとなります)。余談をもう一つ。この時に“転んだ”キアラは、遠藤周作の名作『沈黙』に描かれるセバスチャン・ロドリゴのモデルとして知られます。余談ではございますが、このキアラもシドッチと同じパレルモの人であります。
こうして、相次ぐ宣教師の棄教の報がバチカンに伝わると、流石にローマ教皇庁は日本への宣教師派遣を断念したと言います。幽閉・隔離された10名は、その死後に全員が火葬に伏され、遺骨は小石川の無量院に埋葬されたことが記録に残るとのこと。篠田氏は、そもそも江戸時代の通常の埋葬様式は土葬であり、棄教していたとは申せキリスト教徒に忌避されていた火葬が選択されたことからも、幕府の切支丹弾圧への強い意志が感じ取れると述べておられますが、さもありなんと思わされます。10人中の最後の一人が没したのが元禄14年(1701)であり、それを期に「切支丹屋敷」は縮小され、面積も大幅に減じております。つまり、苛烈な弾圧の歴史が忘れ去られようとしていた頃にひょっこりと現れた宣教師がシドッチであったことになります。そして、正徳4年(1714)のシドッチ没後は収容される宣教師も絶え、享保年間に屋敷が焼失した後は、再建されることもなく放置され、更に寛政4年(1792)に宗門奉行廃止と同時に正式に廃されたとのことです。跡地は旗本屋敷等に分割されていくことになります。その跡地から平成26年(2014)出土したのが、土葬された状態で発見された3体の人骨であったのです。
これ以降は、これまで以上に篠田氏の著作に導かれて出土人骨の状況とその後の調査と導き出された結果とを御紹介させていただきます。尤も、前回にも申し上げました通り、遺伝子の知見は皆無に等しいものですから、専門的なDNA解析の諸々につきましてはほとんど省略させていただくしかございません。ご興味のある方は是非とも副題に掲げてあります書籍に当たっていただければと存じます。小生は、そうした自然科学的分野の解説があってもなお大変に興味深い内容であり、先が知りたいばかりにあっという間に読了いたしました。シドッチにつきましては、白石の著作以外の同時代記録は存在しないようですが、手掛かりが皆無というわけではありません。シドッチ没後100年以上経過しての記録とはなりますが、「昌平坂学問所」内の「地誌取調所」に出仕していた旗本で地誌学者の間宮士信(まみやことのぶ)(1777~1841年)が、文化7年(1824)に著した『小日向志』がそれであります。そこには「切支丹屋敷」内の建物配置と長助・はるの墓の場所が描きこまれております。士信は安永6年(1777)生まれで、切支丹屋敷の前に住まいがあった人物でもあったのです。実際に彼の青年期までは「切支丹屋敷」は存在していたのであり、その記録には一定の信憑性を認めることができるのです。
実際に発掘で出土した東西に並列して連なる三基の墓所は、一番西側が江戸時代に一般的であった円形木棺(早桶)であったのに対して、中央と東側は方形をなしており明らかにそれぞれが異なった形状を呈していたと言います。ただ、底面はほぼ同じ高さであったことからこれら三基は比較的短期間に造営されたことは明らかであるとのことです。方形の遺構からはともに金具が出土しており、中央の墓のそれは形状から「長持ち」(衣装を収納するための移動可能な家具)であることが判明したそうです。皆様も博物館等ではご覧になったことがございましょうが、直方体の形状をなす蓋つきの大きな箱であります。蓋の両側には金具がつき、それに竿を通して二人で担いで運搬することも可能です。つまり、西側の早桶に納棺された人物が座葬という当時の日本における極々一般的な埋葬方法であったのに対し、中央の人物は横向きの伸展葬であり、かつ下肢を膝で折り曲げた形状で葬られるという、当時としては特異な埋葬となっていたのです。東側の方形墓は棺も小ぶりであり、骨の残存状態が極めて悪かったため正確にはわからないそうですが、おそらく横向きの屈葬であったとみられるとのことであります。中央に葬られた人物の伸展葬という形態は、実は東京市街地で発掘されたキリシタンの墓にも共通するものだそうで(棺内からロザリオが出土していることからキリシタン墓と考えられる)、中央墓は寸法的な問題から脚を無理に曲げて押し込んだものと想定されると考えられるとのことであります。このことからも、中央墓の被葬者がキリシタンであり、しかもシドッチ以前の収容者が死後に火葬に処せられておりますから、それらの人物には当たらないことは明らかであります。つまり、中央の人骨がシドッチその人である蓋然性は極めて大きなものと考えられたのです。また、シドッチは最後まで改宗を強要されることなく、一キリスト教信者として死去しておりますからキリスト教徒として葬られた可能性が高まりましょう。そうかといって、狭い範囲とはいえ長助・はるの夫婦を入信させた罪は決して軽くはないでしょうし、火葬に処せられても不思議ではありますまい。もし、中央墓の人物がシドッチだとすれば、この判断は如何なる事実を示しておりましょうか。小生は、この切支丹としての埋葬には、シドッチの人格を高く評価していた白石の思いが介在していたことを予想いたします。シドッチが没した際にも新井白石は幕政の中核に位置づいており、『西洋紀聞』にもシドッチの死についての記事がありますが、実に淡々とした事実のみの記述であり、埋葬方法についての記述もいっさいございません。少なくとも、幕府の宗教政策上極めて重大な決定事項に為政者の意思を反映させずに現場処理で済ませることはありますまい。おそらく、ここにシドッチに対する白石の個人的な敬意を見て取るべきでございましょう。
ここからは、三つの墓から出土した人骨のDNA鑑定の内容に移らせていただきましょう。まず、最も東側の人骨は残存状態が劣悪であったためDNA採取ができなかったようで、そのためDNAの調査は叶わなかったことを最初に申し上げておきたいと存じます。残りの二体につきましては、西側の人骨に関しては辛うじて、中央の人骨についてはそれなりのDNAサンプルが抽出できたそうです。その後のミトコンドリアDNA分析の結果、そのデータのハブログループに関して以下のような分析が得られたのです。それは、西側の早桶に入った人骨は、東南アジアから東アジアの集団に普遍的に存在するグループに属する人骨であり、日本人と判断して問題がないことであります。一方、長持ちに伸展葬で納棺されていた人骨のDNAのハブログループは、ヨーロッパ人に特有なデータを示したとのことであります。つまり、中央の人物はアジア人ではなく、ヨーロッパ由来の人物であるのです。ただ、ミトコンドリアDNAの簡易分析だけでは決定的な証拠とは言えないとの意見も出たことで、更なる調査が加えられることになったと言います。そして次世代シークエンサーによる精密なミトコンドリアDNA分析が行われましたが、やはり簡易分析と同じ結果に至りました。ただ、ミトコンドリアDNAからの分析では、両者の男女別と、中央の人骨がヨーロッパの何処の人物かの特定までには到らないことから、更に「核ゲノム分析」が行われることになりました。その結果、両者ともにデータは男性であることを明らかにしました。ここまでの調査分析からは、西側の早桶の人骨が「長助」、中央の長持ちの人骨が「シドッチ」であることがほぼ明らかになったことになります。また、状況証拠からDNA分析が叶わなかった東側の人骨が「はる」にあたるのではないかとの想定ができることになったのです。更に中央の人骨の「ヒトゲノム」分析の結果は、その人物がイタリアのトスカーナの人々のヴァリエーションに含まれる可能性が極めて高いことまで明らかにしたのです。ここまでくれば、最早中央の人骨を「シドッチ」であることを敢えて否定する材料はないと申してよろしいでしょう。原題の科学の進展はすさまじいものだと大いに感銘を受けた次第でございます。
本稿では敢えて触れておりませんが、本調査に関する行政を含む各機関との遣り取りに関する実にもどかしくなるような実際なども、篠田氏は敢えて本書では触れており、同じ行政に籍を置くものとして考えさせられることも多くございました。以下の篠田さんの文章もそうした一環から記されたものと心得ております。含みのある文章として敢えて引用をさせていただいた次第でございます。
シドッチは二度、日本に現れた。最初の出現では、彼の意図したことではなかったかもしれないが、白石との邂逅によって、日本に西洋科学導入のきっかけをつくることになった。日本における科学の発達を考えたとき、その功績には計りしれないものがあると思う。一方、二度目の出現は科学と技術の進歩と発掘の時期がマッチした結果である。わたしはこのことにも意義を見いだすべきだと考えている。なぜならば昨今では技術と結びついた科学を、お金を儲ける手段としてしかとらえてない風潮がある。しかし、科学は社会を豊かにする文化としての側面ももっている。技術の基礎となって応用への道を開くのは、科学の持つ可能性の一部に過ぎない。われわれはそのことを忘れていないだろうか。今回のシドッチの出現は、それをわれわれに教えているようにも思えるのだ。 [篠田謙一『江戸の骨は語る-甦った宣教師シドッチのDNA-』2018年(岩波書店)] |
最後になりますが、発掘された遺骨がシドッチ本人であることがほぼ確実であると判明したことは、すぐさまテレビ・新聞等で報道されたことも記憶に新しいと存じます。また、その折には関心があったわけではなく出かけることもありませんでしたが、平成28年(2016)に国立科学博物館でニュース展示『よみがえる江戸の宣教師-シドッチ神父の遺骨の発見と復顔-』が開催され、遺骨を含む出土遺物と、そこから復元されたシドッチの顔等が展示されたそうです(書籍にはその写真が掲載されておりますがナカナカの男前であります)。また、会場には、諸他の事情から現物は難しかったようですが、シドッチが日本に持参したとされ、現在は国重要文化財に指定されるカルロ・ドルチ作『親指のマリア』なる聖母像、(1672)にオランダ商館長から四代将軍徳川家綱の時に贈られたヨハン・ブラウ作『新世界全図』の、それぞれデジタル画像展示もされたようです(現品は東京国立博物館蔵)。後者の地図は、白石とシドッチが実際にこの地図を用いて世界の地理・歴史を語り合ったといわれている現物となります。今から思うと出かけなかったことが悔やまれます。
今回は新井白石のことに話題を広げることが叶わなかったことをお詫び申し上げます。白石は大変に興味深い人物でもありますので、機会があれば別に採り上げてみたいと存じます。因みに、最後の最後に、シドッチが登場する小説3作品を御紹介させていただきましょう。一冊目は、新井白石を主人公にした作品でありますが、その中にシドッチも登場しております藤沢周平『市塵(上・下)』(講談社文庫)です。世に知られぬ下級武士や庶民の陰のある生き様を描くことが多い藤沢作品にしては珍しく、歴史上著名な人物を採り上げた小説でございます。尤も、白石もまた晩年はどちらかと言えば不遇の裡に人生を終えた人物かもしれません。こうした屈折した心情を内に秘めた人物を描いて、藤沢の右に出る時代小説家は決して多くはありますまい。是非ともオススメいたしたい作品でございます。また、太宰治の短編「地球図」[『晩年』(新潮文庫)所収]、坂口安吾「イノチガケ」[『信長・イノチガケ』(講談社文芸文庫)所収]もシドッチを主人公にした作品とのことです。小生はこの2冊は未読でございますので、早速注文をしたところであります。
本館の近くに立地する千葉市美術館は、コレクション・展示の柱の一つとして、近世絵画を中心に据えた作品の収集・研究を掲げており、これまでも充実した近世絵画に関する展覧会を開催しております。何時も申しますが、所謂「奇想の絵師」と称される絵師の回顧展では、数多くの注目すべき展覧会を開催されて、広くその周知を図られたことは極めて大きな功績だと存じております。一年前にも『亜欧堂田善展』もホントウに充実した展覧会であり、大いに感銘を受けたことを一年前の本稿で採り上げさせていただきました。そうした「近世絵画」の中には浮世絵(錦絵)もその範疇に含まれて入っていることは申すまでもございません。平成7年(1995)開館時の開館記念特別展が『喜多川歌麿展』であり、その後も絵師・画工個人の回顧展だけに限っても、『歌川国芳展』(1996年)、『菱川師宣展』(2000年)、『鈴木春信展』(2002年)、『岩佐又兵衛展』(2004年)、『鳥居清長展』(2007年)、『溪斎英泉展』(2017年)と、矢継ぎ早に優れた展覧会を開催しております。それ以外にも、複数の画工・絵師を組み合わせた展覧会や、海外美術館所蔵の錦絵展なども回顧展の合間に実施しているなど、本市の身内褒めとなってしまうようで恐縮でございますが、その成果は計り知れないものであると考えるものであります。そして、本年度に採り上げられたのが、副題にも掲げさせていただきました鳥文斎栄之(1756~1829年)でございます。
鳥文斎栄之とお聞きになって、すぐさまに作者の為人(ひととなり)や、その作品を思いうかべられる方は、そうは多くはないものと推察いたします。正直申し上げて、近世絵画フリークである小生にとっても名のみ知る浮世絵師でありました。その名は太田南畝の原本に手の加わった『浮世絵類考』にも採り上げられているほどに著名な浮世絵師でありますし、本年度の初め頃「たばこと塩の博物館」で開催された特別展『没後200年 江戸の知の巨星 大田南畝の世界展』では、南畝自身が賛を添えた栄之の描いた大田南畝の肖像画が展示されておりましたから、南畝とも相当に親しい間柄であったのであろうとも思ってはおりました。しかし、個人的には美人画・役者絵のジャンルに左程の関心がなかったこともあり、その作品に対して積極的なアプローチをすることもなく、ごく最近まで過ごしてまいったというのが正直なところでございました。今回、本展を拝観にでかけた動機も、国内初の栄之の回顧展でありますし、何より大きなことは近世絵画理解の一環として出かけてみよう……くらいの極々軽い気持ちであったのが間違いのないところでございました。しかし、実際に会場に入って一つひとつの作品に接してみれば、そうした自らの安直なる認識は木っ端微塵に吹き飛ばされる瞠目するような素晴らしい作品ばかりでした!何れにしましても、ここまで栄之の作品の質が高いことに、そして、斯くも優れた浮世絵師がこれまで広く知られずにいたことに、正に驚愕の思いで一杯となったのでした。といった訳で、本稿では知られざる浮世絵師、鳥文斎栄之について採り上げてみたいと存じます。とは申しても、小生自身が栄之について知る処は極々僅かでございます。そこで、同展の展示図録所収の論考に従って、鳥文斎栄之とは如何なる人物であるのか等々につきましてご紹介をさせていただきましょう。それが、本展の担当でいらっしゃる学芸の染谷美穂氏「知られざる絵師、鳥文斎栄之の生涯と功績」でございます。大変に学ぶことの多い論考でございました。
鳥文斎栄之(1756~1829年)は、直参旗本で禄高500石の細田家に生まれているとのことであります(実名は時富)。『寛政重修諸家譜』によれば、細田家は藤原秀郷流の首藤五郎左衛門の後裔であり武田家に仕えていたと言います。そして、栄之の祖父である時敏は勘定奉行を勤めているなど、代々勘定方の任にあたることの多い家柄であったようです。父の早逝に伴い17歳で家督を継いだ栄之は、天明元年(1781)に将軍に近侍して日常の世話をする「小納戸役」となり、画を描くことを好んだ10代将軍家治の“絵の具方”を務めていたといいます(「栄之」の号を名乗ったのも家治の意によるものとも言われます)。しかし、2年ほど後には職を辞し「寄合」(無役の役人)にはいることになりました。このあたりの事情は明確ではないようですが、当時権勢を誇った田沼意次の失脚等の政局の激変、及び栄之がその後に作画の世界に足を踏み入れていくことと無関係ではないのかもしれません。何れにしましても、本展の副題に示されるように「サムライ、浮世絵師となる!」のタイトルは伊達ではございません。栄之は紛れもない武士であり、しかも履いて捨てるほどいた“貧乏侍”にあらず、きちんとした身分を有する由緒ある直参旗本なのでございます。
さて、その栄之が最初に画を学んだのは、将軍家治自身もその門人であった狩野栄川院典信(えいせんいんみちのぶ)(1730~1790年)であり、将軍がその命名に関わったとされる、号の「栄之」の“栄”は師の号に由来するものと考えられているようです。確かに、栄之の作品(特に肉筆画)の繊細な描線と、好んで描いた隅田川の情景を描いた作品からは、狩野派からの学習の跡が色濃く感じられます。師の栄川院は、過日も取り上げた江戸狩野派の総帥となる「木挽町狩野家」の6代目当主であります(初代は探幽弟の尚信)。栄川院は探幽以来の江戸狩野における瀟洒な画風に飽き足らず、その淵源である“古法眼”[狩野元信(1476?~1559年)]の力強い漢画の復権を目指した絵師であったのであります。つまり現状に安穏とすることのない、進取の気風にあふれた人物であったことは注目されるべきでございましょう。木挽町狩野家が以後も幕末に至るまで江戸狩野派に君臨していくのは、栄川院典信の伝統墨守に甘んじない制作姿勢が後裔に引き継がれていったからに他なりますまい。同家9代に名手晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)(1796~1846年)が現れるのは決して偶然ではないのです。栄之は、その後に狩野派から離れ、浮世絵という風俗画の世界に進出していくことになりますから、自ずと栄川院から破門の憂き目にあうことになります。しかし、生涯に亘って師の名に由来する「栄」の字を名乗り続けております。このことからも、師に対する終生の敬慕を持ち続けたことは間違いございますまい。実際に、その後の栄之の作品からは狩野派の伝統が脈々と引き継がれていることを見て取ることができます。余計なお世話かもしれませんが、栄川院につきましては、徳島城博物館の特別展『狩野栄川院と徳島藩の画家たち』(2013年)が、晴川院につきましては板橋区立博物館の特別展『狩野晴川院養信の全貌』(1995年)が開催されており、ともに個人の名を冠した国内初の展覧会でありました。ともに図録が刊行されており、前者は未だ新本で購入が可能ですし、後者も古書でならば比較的容易に入手できましょう。お手に取られてみていただければと存じます。
さて、栄之は「寄合」に入った天明6年(1786)頃、浮世絵の版下絵を手掛けるようになったといいます。このころに黄表紙の絵を描く他に、既に錦絵にも取り組み早々に版元から出版もされております。しかも、初期の段階から大版を出版するなど、他の画工と比べれば破格の扱いを受けていると言います。これも、おそらくその出自が500石の禄を食む直参旗本であることを背景にしているからでございましょう。このころの錦絵作品は、当時一世を風靡していた鳥居清長(1752~1815年)の影響を強く受けた、12頭身美人を中心とする作品が主体となっております。相当に清長に私淑していた模様でありますが、栄之の描く女性の姿は清長の明るい闊達さよりも、ちょっとした仕草に表出される女性としての美しさを強めて表現しているように思われます。何よりも、次の動作へ移る「動き」を感じさせる、細かく繊細な筆の運びに圧倒されます。栄之の描く題材は基本的には美人画であり、その中心は吉原の遊女を描くものでございます。
その意味で、同種の作風を売り物とする同世代の画工である浮世絵師の喜多川歌麿(1753~1806年)と双璧の存在であろうかと存じますし、実際にライバル関係にもありました。ただ、栄之は歌麿のような「大首絵」はほとんど手掛けることなく、女性の全身像を描くことに拘っていたように見受けられます。歌麿の美人画は勿論素晴らしいものでありますが、栄之の描く女性は歌麿以上に繊細さを纏っており、何よりも如何なる女性からも上品さと気高さとが匂い立つように感じさせるのは、出自である武家としての節度ある矜持のなせる業なのかもしれません。因みに、歌麿を売り出した版元は、来年のNHK大河ドラマで主人公となる蔦屋重三郎(1750~1797年)であります。東洲斎写楽のような謎の画工の発掘を始めとする、“機を見るに敏”な新興プロデューサー的存在として世に知られます。これに対して栄之の版元は“老舗”の西村屋であったことも、両者の作風の違いの背景となっているかもしれません。何よりも新興の版元はこれまでになかったインパクトが世間の耳目を集めるために求められましょう。老舗としての対応とは自ずと異なることは申すまでもございますまい。このあたりの江戸における各版元の動向も興味深いものでありますが、ここではこれ以上深入りはいたしません。因みに、来年の大河ドラマの主人公が蔦重であるということは、そこに歌麿が登場することは間違いありますまい。当然、ライバル関係にあった栄之も登場するのではないかと推察されます。是非とも登場の機会があることに期待をしたいものでございます。
寛政元年(1789)家督を養子に譲ってからの栄之は、浮世絵師としての活動により一層注力するようになります。このころから清長の影響から脱し、栄之の個性が発揮されるようになり、女性の表情には清長と異なる嫋やかさが加わったと言います。しかし、一方で直接的に女性の美しさを描写する作品からは次第に距離を置くようになり、描かれる美人画は、『源氏物語』や『平家物語』等々の古典作品に由来する物語的な背景を纏わされることになっていくのです。つまり、青楼を舞台にした遊女を描きつつ、そこには古典文学に仮託された物語を忍び込ませるという、所謂「やつし絵」に傾注するようになるのです。これには、「寛政の改革」による風俗取り締まり政策の影響であろうかと考えられてもいるようですが、こうした知的な遊びに長けた人々を購買者として想定した作品であることでもございましょう。そのことは、作画上の技法面でも「栄之の紅嫌い」と言われるように、派手な「紅」の使用を避け「紫」という一見地味でありつつ、上品な色合いを用いていることにも表れておりましょう。しかし、そのことが逆に、落ち着きのある色調の中に配される美人の群像を、静謐で風雅な姿に際立たせることに繋がっているように思わされます。政治の方向性を逆手にとったことによる、新たな美意識の発見とでも申せましょうか。しかし、そこには、そうした“御上”の在り方に反発して作画を続けた蔦重や歌麿のような、あからさまな反逆の姿勢は見て取れません。洗練された大人の対応とも申せましょう。当然のごとく、蔦重や歌麿は処罰の対象となっておりますが、栄之はそうした御咎めを受けることもありませんでした。そこには、直参旗本として幕命に反した作品をものすることを避けるという、身分的制約があったことは間違いございますまいが、社会的制約の中でどうすれば新たな創作ができるのかという、可能性の模索の姿勢があるようにも考えるのです。小生は、栄之が社会的な制約から創造性の発露を生み出していることに感銘を受けますし、事実、栄之はそれを見事に成し遂げております。一方、これを機に、栄之は、寛政10年(1798)頃を境にして一枚物の錦絵という、広く大衆に希求する版画作品の世界からは次第に距離を置くようになるのでございます。
その結果、それ以降の享和年間(1801~1804年)から文化年間(1804~1818年)にかけて、栄之は専ら肉筆の美人画制作に転身することになるのです。肉筆画は版画のような複製芸術ではございませんから、飽くまでも一点物として描かれます。つまり、特定の個人からの注文に基づく制作でありますから、世間一般を騒がすこともなく風俗の取り締まりからも比較的にフリーの立場になりましょう。更には、錦絵の原画作成を担う「画工」という職人扱いから、格上の「絵師」扱いともなることとなります。このことも、栄之の直参旗本としての身分意識とも合致することとなったものとも想像されます。今回の展覧会では、この肉筆画期の作品が多く集められており、小生は錦絵以上に大きな感銘を受けました。歌麿にも肉筆画作品がございますが、栄之の描く錦絵と同様に、繊細な筆使いで描かれる女性たちの清麗さと上品さは際立っており、栄之ならではの“唯一無二”の作品に昇華されているように感じさせられました。上質な顔料を使用しているのでございましょうし、今日にいたるまで大切に扱われてきたこともありましょうが、けばけばしさとは無縁のシックな色彩の妙が際立つ作品の連続に、時のたつのも忘れて酔い痴れた次第でございました。併せて、肉筆で描かれたもう一つの題材である所謂「隅田川図」は、一転して若き頃に栄川院から引き継いだ狩野派の骨法を反映した作品であり、まさに「絵師」として相応しい仕事でございます。寛政12年(1800)、妙法院真仁法親王(門跡)が江戸に下向した際、11代将軍家斉が栄之に命じて描かせ贈り物としたのも隅田川図(絵巻)であったとされます。因みに、京に戻った妙法院は後桜町上皇に献上したところ殊の外に喜ばれ、仙洞の御文庫に納められることになったとの後日談が伝わります。その評判が江戸にも伝わり、その後に栄之への隅田川絵図への注文は引きも切らない状態であったとも。現在も隅田川両岸を描いた肉筆画は20点ほどを数えることからも、それが単なる噂話ではないことが知れましょう。
このように、栄之の後半生は、青楼の女性を描く「肉筆風俗画」、そして浅草の北に位置した吉原を意識した、そこへ猪牙舟で通う道筋としての隅田川両岸の情景を描く絵師としての名声は富に高まっていったようです。そして、文化12年(1829)数えで74年にて絵画三昧の生涯を終えたのです。墓所は現在の台東区谷中の蓮華寺に営まれましたが、現在は合祀墓に移され墓石は残らないそうです。染谷氏は論考「おわりに」を以下のように締めくくっておりますので、引用をさせていただきましょう。
鳥文斎栄之の浮世絵は、ジャポニズムの潮流のなか、早くからその作品の大半が海外にわたり、歌麿を愛好したエドモン・ド・ゴンクール(1822~1896年)にも絶賛された。その結果、日本に残っている作品数が少ないために見過ごされてきたが、じつは、深い教養と優れた色彩感覚、そして洗練された美意識によって、数々の美しい作品を生み出していった重要な絵師であった。栄之は他の浮世絵師とは異なり、さまざまな分野で、浮世絵の枠を超えて活躍した絵師ともいえるであろう。歌麿と同時代に、華やかな活躍をみせたその功績を、いままさに再評価する時なのである。 [千葉市美術館『鳥文斎栄之展』図録所収 染谷美穂「知られざる絵師、鳥文斎栄之の生涯と功績」より(2024年)] |
最後になりますが、本展示会では栄之のみならず、彼の弟子筋にあたる作者たちの作品も数多く展示されております。所謂「細田派」とも称すべき人々の作品を纏めて鑑賞する機会など滅多に望むことすらできませんから、ホントウに痒い所に手の届く誠に以って気配りの行き届いた万全の回顧展となりえていると存じあげます。引用させていただきました染谷氏の論考にもございますように、栄之の優れた作品群の多くは現在海外に流出してしまっております。それは今回の展示物の多くが海外の美術館や海外のコレクターからの借用品であることからも窺い知ることが出来ます。逆に申せば、これだけの作品が一堂に会する展示会が、今後時間を置かずに開催できるとは到底思うことができません。20年後に開催できれば御の字でございますまいか。本展の会期は、本館で現在開催中の特別展『関東の30年戦争「京享徳の乱」と千葉氏』と、千葉市埋蔵文化財調査センターの特別展『古代人の祈りと造形』の会期と、同日3月3日(日)が最終日となります。もっと早くに出かけていれば、皆様にも年明け早々にでも御紹介できたのでしょうが、如何せん栄之が斯くも超ド級の画人であることなど全く知らなかったのですから始末に負えません。先にも記したように、2月も末になって軽い気持ちで会場に脚を運んだのですからお恥ずかしい限りでございます。しかし、しかしです!!幸運なことに、今日を含めて丸々3日もの会期が残されております。しかも、本日(金)・明日(土)は20時までの開館となっております。本稿のアップは3月1日(金)8時となりますから、もし本稿に目を止められて少しでも興味が湧かれたのでしたら、今すぐにでもお出かけになられれば相当にゆったりと鑑賞できます。近世絵画、浮世絵にご興味のある方でしたら、万難を排してお出かけになられるべきだと存じます。展示図録も実に充実の内容でございます。また、会場の最後に「武士と絵画」と題した、栄之と同様に武士であり絵師でもあった人々の館蔵作品も多く採り上げて紹介されております。海北友松、宮本武蔵、渡辺崋山、浦上玉堂等々が採り上げられております。因みに、こちらも3月3日までとなります。これらも見逃すことができません。かくも優れた美術館を有することを心底誇りに思う次第でございます。
先の3月3日(日)をもちまして、本年度の本館特別展『関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏-宗家の交代・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動-』展が大団円を迎えました。会期中にはたくさんの皆様にお運びをいただき、会期終了数日前に展示図録が完売してしまうなど、概ねご好評を賜りましたことに衷心よりの感謝を申し上げます。今回の特別展は、当時の関東における極めて複雑な政治動向を示す「享徳の乱」と、その中での千葉氏の動向を採り上げる内容でございましたが、今回の特別展は如何だったでしょうか。展示としてはまだまだ改善の余地のある内容かもしれませんが、この間にいただきましたご意見等を真摯に受け止め、今後の展示の在り方の改善に向けて参りたいと存じております。ご来館いただきました皆様には、この場をお借りして改めまして御礼を申し上げます。ありがとうございました。
ところで、本稿でもこれまで何度か申し上げておりますように、次年度となる令和6年度後半から令和7年度前半にかけての凡そ1年間強の期間は、本館の展示リニューアル工事の関係で閉館となります。従いまして、次年度と令和7年度前半期には特別展・企画展の開催はいたしません。斯様に申しますと「令和6年度は前半期開館しているのだから開催は可能ではないか?」と言われてしまいそうです。このことにつきましては、よく庁内でさえも誤解されている向きがございますので、敢えて申し上げておきたいと存じます。全館リニューアルのための、新たな展示構成、展示史資料の選択、展示説明文の執筆等々は、全て我々館職員が担うことになります。これまでも申し上げておりますように、今回の展示リニューアルの第一の眼目は「通史展示」の実現にありますから、現段階においても時代毎に担当を決めて準備を進めております。ただ、実際の展示内容の資料選択の最終調整と解説の執筆等々は、令和6年度の前半期に集中的に行うことになります。それも、担当者に“丸投げ”という訳には参りません。一般の観覧者にも理解できる記述になりえているのか、全体的な記述の統一性・一貫性が確保できているのか、前後の時代との関連性は明確に示されているのか……、リニューアル方針」「展示テーマ」との整合性は採れているのか等々、それらの担保のための会議を頻繁に重ね、その調整をしながら期間中に統一性のある展示に構成していかなくてはなりません。つまり、業者にお任せでは作業は一切進捗いたしません。黙っていても業者が一から十まで作り上げてくれるものではないのです(「一年間閉館で仕事がなくなるねぇ」などと言われることがあるのは、我々としましても何とも心外なのでございます……)。勿論、この過程で業者が担うことは極めて大きなものです。しかし、彼らに求められることは、極論すれば、我々の展示リニューアル構想を“如何に効果的に見せるか”という点における専門性にこそ存するのであり、飽くまでも展示内容制作の主体は我々の手の内にあるのでございます。要するに、次年度からリニューアルオープンまでの期間とは、通常開催される特別展の数十回分の作業を、限られた期間に一気に行うことと同等、いやそれ以上の重大な作業が待っているのでございます。従いまして、次年度は工事に入るまでの前半期は開館を続けますが、その期間には11月からリニューアル工事が開始できるだけの内容を完成させなければなりません。そうでなければ、工事自体を開始させることができなくなります。だからこそ、次年度は特別展・企画展は開催することができないのです。正しくはそれだけの余裕がないということとなります。
ただ、「千葉開府900年」を控えておりますから、例年開催しております「千葉氏パネル展」のみは次年度5月末日より開催をいたします。その詳細は、次年度初めにお伝えをさせていただきましょう。本格的な特別展・企画展の開催は、リニューアルオープンが予定されている令和7年度後半期になってからとなります。ただし、現在の社会情勢に鑑みれば、大阪での“万博”工事の大幅遅滞に見るように、期間は諸々の事情で遅れがちになる可能性もゼロではございません。そうならぬことを祈るばかりでございますが、そこから令和8年度「千葉開府900年」の年にかけて、千葉氏関係の特別展・企画展を続けて打っていく所存であります。積年の課題であった我らにとても念願であった通史展示の具現化となる新たな常設展示と併せ、何卒ご期待のほどをお願い申し上げる次第でございます。斯様な次第でありますから、工事を含めた前後の期間は、様々な皆様に多大なるご迷惑をおかけいたしますことは申し上げるまでもございません。以上の状況をご斟酌いただけましたら幸いに存じます。
さて、先月初旬の本稿で、4年に一度の五輪年に学生時代に所属していたサークル「古美術愛好会」の同窓旅行を開催していること、本年が開催年にあたり2月半ばに西播磨に出かけること、加えて機会があればその顛末を報告させていただく旨を述べております。そんな個人の旅行の報告などどうでもよいというのが皆様の正直な想いでございましょうが、気軽にお付き合いをいただけましたら嬉しく存じます。何よりも、還暦を過ぎた前期高齢者突入間際になっても、こんなことを続けている連中がいるのかとの発見に繋がり、私たちも似たような取り組みを始めてみようかとの思いに誘ってくれれば何よりも幸甚でございます。最初に申し上げておきたいと存じますが、小生にとっては4年後にどこに行って何を発見できるかと考えるだけで今から胸が高鳴ります。今では残された人生の希望の一つとなっており、こうした旅を仲間と継続してきたこと、そして今後も継続していけることを何にも増して倖せと感じる次第でございます。ところで、同期の仲間による同窓旅行と言っても、左程に厳密なものではありません。同じ釜の飯を喰った気の合った“同好の士”というのが実態に近いものです。長く続ける秘訣はそこにあります。従って、同期と言っても全員が参加しているわけではございません。事実、“同行の士”は6名構成ですが、同期5人に加え一年下の学年の小野一之氏もご一緒してもらっております。彼は、同期5名にとっても大切な気の合う仲間ですし、何よりも小野氏の同期ではこうした旅行をする機会もないそうです。小野氏の参加は我々同期5名としても願ったり叶ったりであります。当たり前のことではございますが、その6名は定年前の職業も住まいもバラバラです。現在でこそ東京近隣に4名、長野に2名の状況にありますが、サラリーマン故の転勤で一時は福岡や名古屋に居住する仲間がいたこともございました。しかし、それでも4年に一度の旅行には、余程の都合でもない限り一同に介して参りました。
そうは申しましても、卒業時に同窓旅行の計画を決めた訳ではございません。学生時代の「合宿」で古寺を巡ったことを懐かしく思い出すようになった、卒業から10年程が経過した頃、誰言うともなく旧交を温めるための旅行を始めようではないか……との話が出て、賛同を得たことが始まりでした。そして、基本的に、オリンピックイヤーの開催とすること(4年サイクル)、6人を三分割し2人組ずつ幹事を交代で務めること(全員が12年に一回幹事を務める)、国内一泊二日の計画で行うことを原則とすること、古美術の鑑賞をメインとする計画立案をすること……等々を、何となくの共通理解として実施することにしたのでした。もっとも、振り返ってみれば、後述するように必ずしもその原則通りに行えたわけではありませんでした。やはり働き盛りの30~40歳の頃には、幹事に計画立案の余裕がなかったり、仕事の都合で参加できなかったりすることもあり、自ずと開催の期間があいたりすることにもなりましたし、極最近ではコロナ禍の影響で今年の「西播磨紀行」は8年振りの開催ともなったのです。この手の同窓旅行では、往々にして毎年実施を謳っているグループが多いのですが、やはりそれは重荷となるようで結果的に自然消滅してしまうところが多いと聞きます。従って、無理をせず長く続けようと最初に決めたのです。その結果、途中で紆余曲折があったものの今日まで継続できているのだと思っております。かような訳で、本稿で我々の“弥次喜多”道中を採り上げてみようと存じます。歴史好き、文化財好きの皆様には、少しは旅行案内的な読み物になってくれればとの想いもございます。まず、初回は過去の旅行について振り返ってみたいと存じます。そして、追って機を見て今回の「西播磨への古寺巡礼」の御紹介とさせていただきたいと存じます。
さて、その記念すべき(!?)第一回目が、今を遡ること31年前の平成5年(1993)「近江(滋賀県)紀行」となります。立ち上げの回でありましたし、少々無茶な日程での計画となった所為で、参加者は3人に留りました。計画立案に当たった小生と小野氏が当時独身者であったこともあり、省みる家族がいないことを良いことに3泊4日の計画をたてたのでした。如何せん、近江国は訪れるべき文化財の宝庫でありますから、あれもこれも……と入れ込んでいるうちに、斯くも計画自体が膨らんでしまったのです。今から思えば既婚者であったもう一人が、よくもこの無謀なスケジュールで参加してくれたものと感謝を致します。その工程とは、初日、米原駅集合。手始めに旧中山道を辿り、鎌倉幕府終焉の地の一つ、北条仲時末期の地である番場宿の蓮華寺に立ち寄りました。途次の摺針峠では眼下に広がる「近江の淡海 琵琶湖」と、その先に横たわる比良山系の光景に感動したことを忘れることが出来ません。近世にこの景勝地には「望湖堂」なる建物があり、参勤交代の諸侯や旅の人々の憩いの場となっていたことが納得の絶景でありました(残念ながらこの茶屋建築は戦後になってから失火で失われました)。そこから旧中山道を南下し、文化財の宝庫である天台寺院“湖東三山”(西明寺・金剛輪寺・百済寺)から、近江商人所縁の五箇荘を経て、佐々木六角氏の居城「観音寺城」膝下の石寺集落を経てから近江八幡に到着。時代劇撮影で頻繁に利用される八幡堀界隈の街並を散策し、当地を初日の宿といたしました。二日目は、長命寺・芦浦観音寺を皮切りに、旧中山道と旧朝鮮人街道の宿場町を辿り、甲賀方面へ移動して長寿寺・常楽寺を経て、山岳地帯の金勝寺を廻って、東海道草津宿本陣と矢橋渡舟場遺構を見てから瀬田唐橋を渡って大津泊。三日目は、学生時代にも何度か訪れた石山寺と園城寺へ。続く比叡山お膝元の坂本では、延暦寺里坊の数々と日吉神社、創業三百年を数える蕎麦の名店「鶴喜」で舌鼓。西教寺と聖衆来迎寺(ここで拝見した狩野尚信落款のある水墨の襖絵に感銘を受けたことを思い出します)から湖西を北に辿り、堅田の居初氏庭園(天然図画亭)・浮御堂、伝勾当内侍墓(新田義貞の妻)に参ってから、今津の琵琶湖畔に立地する歴史の宿「丁子屋」泊、琵琶湖の幸を堪能致しました。最終日は、若狭街道を下って熊川宿の景観を楽しみ、若狭には至ることなくとって返して、都落ちした将軍足利義晴所縁の朽木旧秀隣寺庭園から鯖街道を南下。中世荘園史料の残る古刹葛川明王院を経て、花折峠から貴船神社・鞍馬寺、そして学生時代「庭園」テーマ年に訪れた円通寺の借景庭園を眺めて無事にオーラス。京都駅で解散という、至って盛沢山のコースでございましたが、近江の歴史と文化財を浴びるように味わえた忘れがたき幕開けの旅となったのでした。
2回目は、規約通り(!?)の平成8年(1997)「郡上(岐阜県)紀行」となりました。その間に小生も家庭を有し、参加者の殆どが既婚者となったこともあって、ここからは一泊二日の計画での土日実施となりました。ただ、時間の確保が可能である面々は、前乗りするなどでコース以外のお目当てを巡ることも通例となりました。現在は町村合併で郡上市となっておりますが、その北部に当たる旧白鳥町で待ち合わせ、白山信仰の一大拠点「美濃番場」長瀧白山神社とその社家で近世半ば建築の住宅を博物館としている若宮修古館、白山信仰の神仏習合時代の名残である長瀧寺の威容を拝観。その後は白山禅定道を北上し、峠を越えた石徹白(いとしろ)大師堂に。その収蔵庫に大切に納められている藤原秀衡寄進と伝わる絶美の平安仏「銅像虚空蔵菩薩坐像」を御参拝させて頂きました。数多くの仏像を見て回りましたが、今でも個人的には5本の指に入るほどの忘れがたき仏様であると確信しております。白山信仰の拠点には「美濃馬場」以外に、白山頂からの下山仏が残される石川県白山市白峯にある林西寺と麓の白山寺白山神社を含む「加賀馬場」、福井県の平泉寺白山神社の「越前馬場」と3つの存在があり、それぞれ出かけたことがございます。そのうちで最も忘れ難き遺構は広大な平泉寺跡の残る「越前馬場」であります。ただ、石徹白の虚空蔵様を含めた「美濃馬場」も忘れがたき場でございました。その後は往路を戻って、旧大和町に残る我らが千葉氏一族である東氏所縁の「古今伝授の里」へ。明建神社(申すまでもなく千葉から勧請された妙見を祀っております)と隣接する「古今伝授の里ミュージアム」、そして発掘によって発見され整備の末に公開されている、国名勝指定「旧東氏館跡庭園遺構」を拝観(残念ながら時間の都合で東氏居城である篠脇城には登れず仕舞いでした)。その後、郡上八幡の名宿「八幡屋」泊。この折に味わった味噌汁の旨さに感激し、今でも我が家では「郡上味噌」は必需品であり欠かすことがございません。二日目は、郡上八幡市内散策の後、南に下り旧美濃国の関市に至り、その地に多くの古建築群と名勝指定の客殿庭園を残す名刹「新長谷寺」を訪れ、ゆったりとした昼食をとってから解散。それぞれの帰路についたのでした。
三回目は、6年を隔てて実施した平成16年(2004)に近場で実施した「上野・信濃紀行」でした。年齢を重ねてきたこともあり宿泊先も「四万温泉」となりました。ただ、そこは古美術愛好会同窓旅行でありますので、恐らく日本最古の湯宿建築の残る名旅館「積善館」に宿泊いたしました。この温泉宿には様々な時代の湯宿建築が残り、それぞれが登録有形文化財に指定されるなど、文化財の宝庫ともいえる宿でございますが、白眉は四万川を渡る橋の正面に見える本館でございまして、何と!!元禄期の建築と伝わります(県指定重要文化財)。温泉地にある湯宿建築は、どうしても温泉の湿気にやられてしまい、古い建物が現存することは極めて稀なことです。不思議に思ってはいたのですが、出かけてみて合点がいきました。その地面を触ったこところ、地面そのものが相当に熱を有しているのです。そうした条件であれば、最もダメージを受けやすい建築の基礎部分が湿気に冒されることが少ないのだと思えました。もっとも、この本館には現在宿泊することはできませんが、中に入って見学することは可能で、近世における湯治の様を想像することが可能でございます。名湯宿でありますので未だの方であれば、一度は宿泊をされると宜しいかと存じます。初日は湯治場としての信仰の場「日向見薬師堂」(国重要文化財指定)を見学。二日目は、榛名信仰の拠点、巨岩の聳える境内が印象深い榛名神社と、門前に残る榛名御師の屋敷を。国境を越えて信濃に移り三重塔の残る真楽寺と、堀辰雄・立原道造、それを慕う福永武彦らを始めとする近代文学との由緒を有する旧中山道追分宿を巡り、軽井沢駅で解散となりました。
四回目は、これまた6年を隔てて平成22年(2010)実施の「東海道の宿場と奥浜名の古刹探訪の旅」となりました。JR豊橋駅に集合し、豊川稲荷、三河国分寺跡・三河総社と巡り、東海道御油宿と赤坂宿を散策。当夜は赤坂宿で江戸時代初期から営業を継続されていた旅籠「大橋屋」泊としました。その建物は、文化6年(1809)の大火で焼失後に再建された江戸時代の旅籠建築でありました。近世の旅籠に宿泊できる機会など滅多にございませんから、その雰囲気を大いに味わうことができたことは何にも代えがたき体験でございました。何故ならば、それから5年後の平成27年(2015)には「大橋屋」は旅館業を廃業されてしまったからです。幸いに、豊川市に寄贈された建物は、その後修復を経て現在は旅籠屋建築として一般公開されているようです。実のところ、御油・赤坂宿は同窓旅行を遡る10年程前に個人的に散策したことがあり、その頃には特に旧東海道御油宿には近世以来の旅籠建築が軒を連ねる素晴らしい街並みを有していたのです。その様は東海道「関宿」程ではございませんが、それに匹敵するほどの旧情を残していたものです。ところが、この平成22年の段階では、それらの旧家の殆どが撤去され味気のない現代の建物に入れ替わってしまっており、旧道の景観を殆ど喪失してしおりました。その後の大橋屋の廃業も宜なるかなと、悲しい思いに駆られたのでした。2日目は、奥浜名へと移動し、摩訶耶寺・大福寺・方広寺と巡り、近世大名として生き残ることとなる井伊家出自の地である井伊谷(いいのや)へ。井伊家菩提寺の龍潭寺では美しい庭園を堪能しました(因みに、龍潭寺は近世に井伊家が城を構えた彦根にも建立されて同じく菩提寺としております。こちらも美しい庭園が残ります)。その後、旗本近藤家の菩提寺である本地域には珍しい黄檗宗の宝林寺を経て、姫街道の気賀関所の拝観の後に浜松駅で解散となりました。昼食に鰻を食したことは申すまでもございません。小生としましては、谷文晁の手になる障壁画の残る、湖西市の日蓮宗寺院「本興寺」に寄ることができなかったことが心残りです。因みに、この回は小生と小野氏が幹事であり、初日は小野氏と遠江国に早入りし、東海道二川宿を散策するとともに「二川宿本陣資料館」を拝観しております。
五回目でありますが、これまでの帳尻合わせの意味合いもあって、2年後の平成24年(2012)に挙行となりました。場所は前回と至近の「名古屋~篠島・知多半島~熱田神宮を巡る癒しの旅」と題する旅となりました。当日は名古屋駅から名鉄線で知多半島を南下。河和港から観光船で三河湾に浮かぶ篠島へ。決して広くはない島内を散策。宿泊も篠島内の民宿で河豚料理を堪能致しました。実は、小生にとって篠島は2度目の訪問でありました。教員になって4~5年目に所属した学年職員旅行で訪れたことがあったのです。その折には渥美半島から篠島に渡り、島内を散策後には宿泊をせず、渥美半島へ戻り伊良湖岬から船で伊勢湾を横断、三島由紀夫『潮騒』の舞台である神島を左舷に見ながら伊勢に渡ったのでした。篠島は、南朝関係の遺跡が残されていたり、近世初頭の名古屋城築城に当たっての石切り場としても利用されたようで海岸縁に所謂「残念石」(切り出したものの運ばれずに放棄された石材)を見ることができるなど、歴史の香りも高き小島でございました。もう生涯で二度と訪れることもあるまいと島を離れたのですが、まさか四半世紀後に再訪することになるとは夢にも思いませんでした。翌日は、知多半島に戻って北へ路をとり内海町(うつみまち)へ。近世に日本海側から大坂までの航路を舞台に大活躍した買積船の「北前船」は広く知られております。日本海側には北前船経営にあたった船主の豪壮な屋敷の残る港町が点在していることもよく知られておりましょう。それに対して、主に太平洋岸を舞台に活躍した買積船が「内海船(うつみぶね)」であることは殆ど知られていないのではありますまいか。当然の如く房総の地にも「内海船」は進出しております(房総沖での難船記録に「尾州廻船」とあるのは主としてこの「内海船」を指している様です)、その根拠地がこの知多半島の内海であります。今でも船主であった旧家の豪壮な屋敷が幾棟も残り往時の繁栄を偲ばせる町でございます。そこからは、更に北上して熱田神宮に参拝、最後は「ひつまぶし」の名店で〆る予定でしたが、日曜日の御午時を外したにも関わらず、店前には驚くほどの行列ができており2~3時間待ちと伝えられ断念。鰻への心を残して名古屋駅での解散と相成りました。
6回目は、前2回の東海地方から一転して日本海側へと舞台を移し、平成28年(2016)「越中(富山)への旅」となりました。富山駅集合で、現在の上皇・上皇后陛下もご訪問された「富山県立イタイイタイ病資料館」へ。ここは観光地となっておらず、ガイドブックにも掲載されていない資料館ですが、忘れてはならない近現代の公害史を学ぶためにも、是非ともお出かけ頂きたい施設でございます。そこから道を東へ採り「立山風土記の丘」へ向かいました。そこには、立山信仰の歴史を伝える素晴らしい展示内容を誇る富山県立立山博物館があります。また、芦峅寺集落に残る御師屋敷(教算坊)、雄山神社、女人救済の儀式として存在した「布橋灌頂会」に関する閻魔堂と姥堂(復元)と、両堂を結ぶ此岸と彼岸との境に架橋されたことを象徴的表す「布橋」が復元されております。こうした所謂「立山信仰」の拠点を巡りました。その後、富山へ戻って北前船の寄港地としても知られる岩瀬集落へ。今も残る豪壮な廻船問屋の屋敷等を拝見しつつ集落の散策。そして、一路宿泊先の氷見温泉へ。季節は師走でありましたから寒鰤に舌鼓を打ちました。二日目は、雨晴海岸から雪を戴く富山湾越しの立山連峰の景観を楽しみ、その後は歴史的には放生津として知られる新湊へ。「流れ公方」として知られる足利義材が「亡命政権」を維持した放生津と、水路の両岸に広がる古い街並み、そして放生津八幡宮の落ち着いたたたずまいとに感銘をうけました。その脚で伏木に移動。当時は未だ解体修理中であった浄土真宗の一大拠点である勝興寺、望楼の残る北前船資料館を拝見してから、高岡へ廻り大伴家持が越中国府に赴任したことに由来する「高岡市立万葉歴史館」、そして前田利家の子で高岡城主となった前田家2代当主利長の墓所でもある国宝建築の宝庫「瑞龍寺」にも寄っております。当山の方丈には教科書でもお馴染み「夕顔棚納涼図屏風」の作者として知られる久隅守景(狩野探幽の弟子)の水墨画が多く残されております。それから富山駅まで戻って解散。今回の内容は、イタイイタイ病資料館の他は、ほとんど平成10年(1988)内地留学なる研修制度の派遣員として2週間高岡市の中学校でお世話になった際に訪れたところばかりでしたが、仲間との再訪で改めてその良さを堪能した次第でございました。最後に、4年後の東京五輪の際、ほぼ全員が定年退職を迎えるのを期して、二泊三日の大盤振る舞いの旅とすることを約して別れたのでした。その際に幹事を務めるのが小生と小野氏でありましたから、二人で相談の末で行先も「西播磨の古寺巡礼」と決めてメンバーに告知もして別れたのです。ところが、無念のコロナ禍で延期となり、結果的に8年後となる今年実施となったのが、7回目となる「西播磨紀行」であったのです。今回の弥次喜多道中での想いの数々は、何れ「その2」「その3」として綴ってみようかと思っております。
最後に、斯様な形で過去の旅の再現が可能となったのは、メンバーの小野氏がこうした過去の記録をしっかり残してくれていたからに他なりません。出かけたことも、概ね何処に寄ったのかも記憶はしておりますが、その前後関係や正確な年月は曖昧模糊としております。何時もの事でありますが、小野氏からは記録を残すことの重要さを学ばせていただいております。しかし、無精者ゆえになかなか真似ができずにおります。何れに致しましても、家族旅行も結構でありますが、昔からの同好の士との旅は忘れ難きものとして脳裏に焼き付いております。長く、個人的な駄弁を連々とお付き合いをさせてしまい誠に申し訳ありませんでした。ちょっとした「文化財拝観ツアー」の雛型としてご参考にでもしてくださいましたら幸いでございます。
月並みな物言いで恐縮でございますが「光陰矢の如し」と申します。3月もアッという間に半ばに到り、本年度も半月ばかりを残すのみとなりました。本来であれば「三寒四温」と言われるように、寒い日と暖かな日を短い周期で繰り返し乍ら、次第に春めいてくる……というのが「弥生3月」らしさでございましょう。ところが、執筆時の2月第二週はスッキリしない雨や曇り続きで、身体に応えるような底冷えのする毎日です。これまでの暖冬が嘘のような、あたかも日本海側のような空模様となっております。音楽趣味を通じたお付き合いのある秋田県内陸部にお住まいの方からは、1・2月は温かくて例年のようなドカ雪もなく、このまま春になってくれることを願っている旨をお知らせ頂きました。しかし、ここのところの予報によれば、3月に入る前後から大雪に見舞われているようです。鈴木牧之『北越雪譜』を引き合いに出すまでもなく、雪国にお住まいの皆様にとっては、積雪は少ないに越したことはございますまい(まぁ、雪がないと別の問題を惹起するので降らなければ“御の字”とは言えないのですが)。そうしたせめてもの淡き期待が長続きしたものですから、3月になってからの大雪への落胆はさぞかし大きなものであったことと拝察いたします。ホントウにお気の毒としか申し様がございません。我が家の庭では「沈丁花」が今や盛りと花を開き、香しき薫りを漂わせておりますが、ここのところのお天気の所為か、その勢いも何処となしか遠慮勝ちのようにも感じます。本館の梅もそろそろ仕舞いとなりそうですが、我が家の杏は未だに花を開かせずにおります。従って、今年も杏の実は不作となりましょう。残念です。ただ、この時季になると毎年のように述べておりますように、毎朝の通勤で渡る常磐線江戸川橋梁から眺める河畔の柳樹に、既にうっすらと新緑が芽吹き、風に靡いているのを過日発見致しました。嬉しい春の気配でございます。
さて、本館では令和2年度に特別展『軍都千葉と千葉空襲-軍と歩んだまち・戦時下の人びと-』を開催いたしました。勿論、その中心として採り上げたことが、陸軍関係部隊や学校が蝟集する「軍都(軍郷)」としての姿、軍を誘致して地域の経済発展を目論む地域社会の在り方、その結果として招き寄せられることにもなった大規模な市内中心部への空襲被害と、その下における人々の暮らしの実態であることは申すまでもございません。また、千葉市内の義務教育学校でも平和教育の一環として、「千葉空襲」による被害の実態等について採り上げられることも多いことと存じます。しかし、現在の千葉市域で、戦争によって日常の生活に大きな影響を受けることになっていたのは、何も本市に居住する学童ばかりではありませんでした。本展では、その一例として東京都本所区(現墨田区の南部)から現在の千葉市域に疎開して来た子ども達がいたことを採り上げ、本市内でも殆ど忘れ去られてしまった歴史の一頁を御紹介させていただきました。展示図録ではたったの一頁に過ぎませんが、それでも特別展開催時には、千葉市域に学童疎開をしてきた子ども達がいたことを初めて知った……との声が多く聴かれたことは大きな成果であったと存じます。決して豊富な資料とは言えないまでも、その事実を御紹介できたことの意義は極めて大きなものであったと考えるものでございます。その分、展示会では触れ得なかったことについて「館長メッセージ」で補ったつもりでございます。『忘れ去られている現千葉市域への「集団疎開」-本所区(現墨田区南部)国民学校学童たちの太平洋戦争-』標題にて、令和2年11月27日(金)にアップ致しました。当稿につきましては、現在も本館ホームページ内「館長メッセージ」にてお読み頂くことができます。そちらでは、「学童疎開」が行われることとなった社会的背景や実施地域、「学童疎開」には「縁故疎開」と「集団疎開」とがあったこと、具体的に本所区内の何処の国民学校が千葉市域の何処に疎開してきたのか、彼らが受け入れ先の地域で如何なる毎日を送り、如何なる思いでいたのか、また受け入れた地域の方々の対応は如何なるものであったのか……等々、記録から拾って御紹介をさせて頂いております。
一点、 そこでは触れていないことがございます。本稿をお読みくださった皆
様のお耳には、小生が以下で最初に記述することが、極めて不適切な物言いとして聞こえてしまうかもしれません。しかし、しばらく読み進めてくだされば小生の言わんとしていることをご理解いただけると存じますから、敢えて述べさせていただきます。それが、こうした疎開した学童にとって、空襲から免れて幸いにして戦後に生命を繋いだことが、ホントウに彼らにとって幸福に繋がったのか……との疑念を呼び起こさざるを得ない事実が戦後に惹起していたことでございます。普通、「命あっての物種」などと言われるように、空襲で生命を奪われることに比べれば、身一つでも残されたことがどれほど幸せかと考えることが当たり前でございましょう。しかし、その科白は自身の力で生きていける大人にとってのみ当てはまることでありましょう。現実としては、空前絶後の大規模空襲によって両親・親戚を全て失い、戦後に天涯孤独の身になってしまった学童も大変に多かったのでございます。年端も行かぬ、10歳にも至らない子ども達に一体何ができましょうか。彼らの戦後は、知れば知るほどに、小生の心に暗澹たる思いを呼び起こします。実際、戦時中に疎開させた子供を天涯孤独にさせたくない……、つまり死ぬなら家族一緒にと考え、疎開先から子供を引き取った保護者もおりました。かれらの懸念は、果たして戦後に現実のものとなります。戦後に、所謂「戦災孤児」を待ち受けていた運命は信じられないほどに過酷だったからです。保護施設で大切にされたのではないのか……と、誰でも考えることでしょう。ところが、現実は天と地ほどに異なっておりました。政治も世間も、戦災孤児をまるで邪魔者扱いにしたというのが実態に近いと存じます。中には、ホントウに数少ない心ある人々の善意を受けることが出来た子供達もおりました。しかし、多くの子ども達は、食べるものも住むところもない「浮浪児」としての生活を強いられ、餓死・凍死・病死をしていった子どもが多かったのも現実なのです。生き残った子ども達は、窃盗などの罪を犯さなければ生命を繋ぐことすら出来ませんでした。ここで、そのことを書くことは人として忍びないほどでございます。かような訳で、是非とも、これから御紹介する書籍に触れて頂きたいと存じます。それが、石井光太『浮浪児 1945~ 戦争が生んだ子供たち』2014年(新潮社)[2017年に文庫化されております(新潮文庫)]でございます。終戦後の混乱期、誰もが苦しい時代で周囲に思いやりを分け与える余裕すらない時代であったことは理解できます。しかし、何の罪もなく戦災孤児に追い込まれた幼い子ども達に、日本の人々・社会がここまで残酷になりえてしまうのか……との思いに、哀しみと怒りとが心中で交錯いたしました。その結果、何度も文字が追えなくなるほどであったことを白状せねばなりません。是非とも、ご一読をいただきたい書籍でございます。戦いの最中は勿論のこと、その後にも多くの禍根を残して行くのが戦争の実態であることを、世界各地での戦火が収まりを見せないばかりか、それを煽りさえするような風潮すら生み出す昨今の情勢に接するにつけ、改めて振り返らねばならないと考える次第でございます。
さて、千葉市における学童疎開の実情を、風化させることなく伝えていくことは我々博物館の責務であるとの思いが小生にはございますし、同時に本館エデュケーターの方にも共通するものでありました。特に、戦後になって墨田区で生まれ育ち、千葉市内の小学校教諭を勤めてきた小学校担当のエデュケーター染谷一道氏には一入の思いがあることを実感いたしました。現在千葉市の学校で学んでいる子供達の同年代の子供達が、親元を離れて千葉市域で学び生活をせざるを得なかった事実があったこと、それが如何なる時代であったのかといったことを知ること、そうした時代に思いを致す授業を行いたいとの思いは切なるものがあったのです。当時、現千葉市域で学童疎開との関係を有し、実際に学童を受け入れた中心は寺院であり、そこから地域の小学校(当時は「国民学校」)に出かけて学習もしていたのです。具体的には、旧浜野村(本行寺・本満寺)[錦糸国民学校4年生男女78名]、椎名村(上行寺・長徳寺)[錦糸国民学校3年生男女71名]、土気町(本寿寺・善勝寺)[菊川国民学校4年男子61名、同5年男子52名]であり、その他に本所区が千葉市登戸に所有していた「本所健康学校」に日進国民学校4~6年の男女164名……、全て合計すると426名の学童が「集団疎開」の形で、昭和19年(1944)7月から10月にかけて、親元を離れて千葉市域にやってきたのです。しかし、同20年3月10日に信じがたいほどの規模で強行された「東京大空襲」、疎開した現千葉市域にも艦載戦闘機による機銃掃射などが加えられるなどの危険が迫ったこと、更に戦況の悪化に伴い敵軍が千葉県・茨城県から上陸して当地が本土決戦の舞台となる可能性が高いこと等々……が、総合的に判断した結果、子どもたちは千葉県内から岩手県への再疎開(二次疎開)が実行に移されるのです。千葉市域への疎開は約半年ほどとなりましたが、それでもその時の地元の人々との繋がりは戦後も継続し、大人になってからも疎開先となった寺院に訪れるなどの繋がりを持ち続ける人が多かったとお聞きしました。上行寺には、かれらが戦後に建立した「学童疎開の碑」と、植樹をした銀杏が成長して今も残ります。
斯様な訳で、今回の出張出前授業につきましては、染谷エデュケーターが別の授業依頼を受けて椎名小学校での別件で授業を行った際、当小学校区に東京からの学童疎開があったことを担当教諭に投げかけたことを切っ掛けにして実現したものでございます(木村校長先生からも御理解を頂きましたことを記して感謝申し上げたいと存じます)。従って、今回の授業内容は椎名小のためにカスタマイズして創り上げたものとなります。対象学年は、歴史学習を行っている児童であることが望ましいとの判断から6年生での実施と決めました。そして、授業単元内にどう位置づけるか等々を含めた打ち合わせを何度か持ち、その結果2月中での実施と致したのです。実際には本館の都合で卒業式の練習も始まる3月初旬での実施となってしまい、学校にはご迷惑を掛けてしまった面もございました。また、内容が内容だけに事実関係の整理だけでもかなりの時間を要するとの判断から、染谷エデュケーターとしては60分での展開を希望しました。ただ、こればかりは学校の都合を最優先にするしかございません。結果として通常の一コマ授業45分内で納めることとなりました。そのため、実際の展開では相当に内容を端折ったこともあって、十全の形で子ども達に意図が伝わったのか検討の余地を残しました。しかし、小生も参観させて頂きましたが、椎名地区に生まれ育った子ども達が、知られざる地域における東京の子ども達との交流を知り、併せて悲惨な戦争への思いを致してくれることは最低限叶えることが出来たものと思っております。染谷エデュケーターは、今回の実践における課題を改善し、授業内容を市内の何処の学校でも実践可能な内容にリファインし、次年度には本館ホームページ内のコンテンツ「教育普及活動」内の「指導事例集」に指導計画をアップすることを目論んでおります。従って、ここでは敢えて指導案を掲載することは差し控えさせていただきます。その代わり、椎名小学校の授業で当日使用した「学習ワークシート(学習資料)」の一枚を掲載させて頂き、更に子ども達が寄せてくれた感想の一部を御紹介させて頂こうと存じます。ワークシートにある2人の回想は、もちろん当時のものではなく、ずっと後に当時を回想したものでありますが、当時の様子を知る貴重な記録となっておりまます。こちらで、授業の様子とその成果が如何なる物であったのかを御想像頂けましたら幸いでございます。
千葉空襲と学童疎開の学習 ワークシート
東京都墨田区郷土資料館『語りつごう平和への願い~学童疎開墨田体験集~』より (1)椎名村長徳寺に疎開した 3年生女子児童の記録 (長徳寺:女子34名疎開)
(2)椎名村の上行寺に疎開した3年生男子児童の記録 (上行寺:男子37名疎開)
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今回の出張出前授業に関する内容は以上でございます。資料をゆっくり読み込んだり、じっくりと考えたりする時間を充分に確保できなかった中ではありましたが、児童の皆さん一人ひとりが感じたことを自分の言葉で書き記してくれていることが分かります。ただ、やはり、子供の感想に広がりが感じられないのは、全く子どもたちの所為ではなく、全面的に我々の授業展開の問題に帰すべきことでございます。染谷氏の授業づくりには小生も関わり何かと意見なども述べて参っただけに、染谷エデュケーターにもご迷惑をおかけしてしまったのではないかと、個人的には半生頻りでございます。今後、指導計画のネットアップにむけて再度打ち合わせをもち、手直しを加えて参りたいと存じます。もし、こうした展開にすればよいのではないかとのご意見がございましたら、本館にお寄せいただけましたら幸いでございます。
最後になりますが、桜の開花情報によれば「いのはな山」では3月22日(金)の開花予報が出ているようです。最盛期はそれから一週間程後でございましょうか。従いまして、本年度の「千葉城さくら祭り」の会期「3月23日(土)~同31日(日)は“どんぴしゃり”の期間設定であると存じます。会期中のイヴェントや出店情報等につきましては「千葉城さくら祭り」で検索されてホームページでご確認いただけます。また会期中の月曜日(3月25日)は本館も「臨時開館」いたします。因みに、本館も共催に名を連ねてはおりますが、「千葉城さくら祭り」主催は飽くまでも「千葉城さくら祭り実行委員会」でございますので、雨天時の開催の有無等を含む問いあわせは、「千葉市観光協会」内に所在する同会へお願いいたします(電話:043-307-5003)。
① 『千葉市史 史料編11 近代2』(3,000円) ② 企画展関連書籍『商人(あきんど)たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』(1,000円) ③ 千葉氏パネル展ブックレット『京(みやこ)と千葉氏』(100円) ④ 『千葉いまむかし』第37号(400円) |
令和5年度も残すところ今日を入れて10日となりました。本館の一年間を振り返ると、何より令和8年(2026)に迎える「千葉開府900年」に向けてのロードマップ事業でもある、「館内展示リニューアル」に向けての準備作業に忙殺された一年間だったということに尽きるように思えます。併せて、2年後に迎えるアニヴァーサリーイヤーに向けて開催した「千葉氏」の活動を周知するための展示会の開催が思い起こされます。それが特別展『関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏-宗家の交代・本拠の変遷、そして戦国の世の胎動―』と千葉氏関連パネル展『京(みやこ)と千葉氏』であり、加えて本市の歩みに関する重要な内容である企画展『商人(あきんど)たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』の準備・開催もございました。また、幾つもの講演会の企画・運営等々もあり準備と運営にも追われました。正直なところ、国・都道府県規模の博物館とは比較にならない人的・物的・予算規模で運営せざるを得ない、当館のような市町村立博物館においては、上述する事業の全てに職員が関わらざるを得ない環境にあります。従って、力量のある職員には当然の如く業務が集中することとなります。
それを如何にかするのが管理職の責務であることは重々承知しておりますが、無い袖は振れないのが現状でございます。我ながら忸怩たる思いでございます。そうした状況においても、一つひとつの事業をより良いものとすべく、熱心に取り組んでくれている職員の姿勢には頭が下がる思いでございます(身内褒めになってしまって恐縮ではございますが)。それぞれに成果に課題がない訳ではなかったとは申せ、限られた予算と厳しい人的環境の中、一人何役もの業務をこなし乍ら、相応の成果を挙げてくれていることには申し訳なくも、心より感謝しておる次第でございます。そして、何よりも、そうした我々の心尽くしの展示会、講座等々へ脚を運んでくださいました多くの皆様方に、この場をお借りして感謝を申し上げたいと存じます。アンケート等を通じて皆様から頂戴いたしましたご意見を、充分に精査させていただき次年度以降の改善に繋げて参る所存でございます。その中でも、展示内容に高い評価のご意見をお寄せいただいた方々からは大きな勇気を頂きました。職員一同、日頃の多忙による疲労を忘れるほどの元気を賜りましたことを申し添えたいと存じます。本当にありがとうございました。
さて、年度末になりますと所謂「刊行物祭り」となります。本稿では、有償販売となる4冊を御紹介させていただきますが、最初に、本館の重要任務である「市史編纂事業」の成果として、3年間の編集作業の成果となる『千葉市史 史料編11 近代2』を採り上げたく存じます。本冊では、大正期から昭和戦前期までの重要資料を収録いたします。この時代は、令和3年度「千葉市制施行100周年記念」として開催を致しました『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』とピタリ重なる時期となります。千葉市域にも現代社会に繋がる大衆社会が花開くなど社会の近代化が進む一方、次第に戦争の影が忍び寄り最終的に空襲にも遭遇し、市民生活に多大なる影響を齎す時代となります。当該時代を読み解くのに必要不可欠となる資料を厳選して収録しておりますので、是非ともお手に取られご活用いただけましたら幸いに存じます。本書の各章構成は以下の通りとなります。
『千葉市史 史料編11 近代2』(3,000円)
はじめに-大正期から昭和戦前・戦中期にかけての千葉市域のあゆみ- 第1節「明治末・大正初期の千葉町」 第2節「市制の施行と市会の動向」 第3節「大正・昭和初期の町村」 第4節「大正デモクラシー期の政治情勢」 第5節「軍郷千葉の成立」 第2章「都市化の進展と産業・経済」 第1節「都市計画とインフラ整備」 第2節「大正・昭和初期の商工業と金融」商業/澱粉工業/不況と金融 第3節「大正・昭和初期の農業」農業団体等/近郊農業と副業/農業環境の整備 第4節「ノリ・貝類養殖業の展開」 第3章「市制施行前後の社会」 第1節「第一次世界大戦後の社会」 震災救助/国民道徳涵養と協和会/保安組合/青年団と処女会、青年訓練所 第2節「社会事業の展開」 生浜感化院と千葉県帰性会/職業紹介事業/方面委員制度から救護法へ 第3節「新しい教育の動向」海浜学校の開校/手塚岸衛の欧州学事視察 第4節「伝染病予防と衛生」 伝染病予防/流行性感冒(スペイン風邪)の大流行/関東大震災時の伝染病と医療対策 第5節「千葉開府八百年祭」 第2編「戦争の時代」 第1節「満州事変と戦争支持熱の高まり」 第2節「混乱する市政と選挙粛清運動」 第3節「大千葉市」の誕生」 第4節「軍事施設の拡充」 第5節「翼賛体制下の町村」大政翼賛会の活動/翼賛選挙の展開 第2章「統制下の産業・経済」 第1節「戦時下の商工業・金融・労働」 戦時体制と商業/戦時体制と金融/戦時下の労働 第2節「農業生産の整備と統制」農業生産の整備/戦時下の農業 第3節「戦時下の漁業協同組合と漁業権」 第4節「軍需工業の進出と都市計画」 第3章「戦時下の社会と生活」 第1節「銃後の諸団体」銃後奉公会/警防団/国防婦人会/大日本婦人会 第2節「戦時下のくらし」戦時生活の実践/町内会・部落会/配給/疎開 第3節「義務としての健康」 乳幼児の保護/国民体力管理制度と健民運動/国民健康保険制度のはじまり /国民優生法の普及 第4節「教育・娯楽・宗教の変容」 戦時体制下の初等教育/映画興行の隆盛/千葉県仏教社会事業協会 第5節「防空対策と空襲」防空対策/米軍資料の翻訳 別編1「日本赤十字社千葉支部の戦時救護活動」 |
続いて、予算的な制約があって開催時には刊行の叶わなかった企画展『商人たちの選択』関係資料集の刊行についてでございます。こちらにつきましては、年度末になってどうにかこうにか予算の遣り繰りで都合がついたことで、昨年度開催の『甘藷先生の置き土産-青木昆陽と千葉のさつまいも-』と同様、幸いにも刊行することが叶いました。開催時のアンケート調査でも殆どの方が展示図録の刊行を切望されていらっしゃいましたし、我々としましても力を入れて資料の収集に勤めて参った企画だっただけに資料集の刊行は悲願でもございました。それだけに、その想いを叶えることができた喜びも一入でございます。本書は題して『企画展関連書籍 商人たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』といたしました。昨年度刊行の青木昆陽展の刊行物が「企画展関連資料集」と題する、基本的に会期中の展示資料の紹介であったのに対し、今回の資料は敢えて「企画展関連書籍」と致しております。その理由は、「巻頭言」にも記したように展示内容を“読物”的に再構成したことに起因いたします。つまり、会期終了から半年以上も経過した現段階であっても、本書籍としてお読みいただければ展示意図を理解できるよう、読物的要素を加味して内容を再構成したのでございます。それが単なる「資料集」ではなく「書籍」と命名した理由となります。是非ともお手にとって“お読み”いただければ、すんなりと展示内容とその意図とがご理解いただけましょう。何よりもご年配の方々にとっては、懐かしく思い起こされることばかりであろうかと存じます。手前味噌ではございますが、小生も自信をもってオススメできる“逸品”になり得ていると自負するものでございます。以下に、小生の「巻頭言」と「全体構成(目次)」を引用させていただきますのでご参考にされてくださいませ。特別展図録を凌ぐ、オールカラー全91頁の書籍となります。地図・絵図等の図版も大きくして文字が読み取れるようにも配慮致しました。若干お値段は張りますが、充分にご理解いただけるものと確信致す次第でございます。しつこいようですが、“自信作”となり得ております!!
『企画展関連書籍 商人たちの選択-千葉を生きた商家の近世・近現代-』(1,000円)
はじめに
(千葉市立郷土博物館長 天野 良介)
目 次 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 |
3冊目です。本年度5月から11月にかけて開催しておりました、千葉氏関連パネル展『京(みやこ)と千葉氏』ブックレットが、これまた予算の算段が付いて晴れて刊行できることになりました。これまでは会期と同時に欠かすことなく販売できていたブックレットでありましたから、今年度は予算が如何ともしがたい状況であって、同時刊行が叶わなかったことを心底情けなく思っておりました。それが、会期終了後4カ月を経過してしまいましたが、ようやく日の目を見ることができたことを、我々職員も喜びとするところでございます。しかも、例年のブックレットは一項目で見開2頁構成としておりましたが、今回は「総論」と7つの「テーマ項目」を全て見開4頁構成と改めております。その分、毎回不評であった掲載資料が小さくて読み取りにくい状況の改善に、少しは資するものになったかと考えるものでございます(そもそもがB6サイズ版型でありますので見違えるような改善ではないかもしれませんが)。お値段がお値段ですので、表紙以外は全てモノクロ印刷でありますが、少しは利用し易くなったものと存じます。これまで「草深い東国に土着して質実剛健な精神風土を有する」存在とされてきた千葉氏を始めとする東国武士が、京(みやこ)と密接に結びついていたことを如実に知ることのできる、お手軽な資料集となっているものと存じます。是非とも一家に一冊どうぞ!!以下に目次を紹介いたします。
ブックレット『京(みやこ)と千葉氏』(100円)
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最後に御紹介する4冊目が、毎年恒例の刊行物である『千葉いまむかし 第37号』でございます。例年大変に興味深い論考と報告が寄せられ、毎年必ずご購入されてくださるファンもいらっしゃるなど、根強い人気を誇る冊子の最新作となります。目次を以下に引用させていただきますので、ご参考の上でお買い求め頂けましたら幸いでございます。
『千葉いまむかし 第37号』(400円)
【紙上古文書講座】神職であることの証明 遠藤真由美(千葉市立郷土博物館)・ 2 作山古墳群 平成八年度の調査成果 小林嵩・高坂優佑(千葉市教育振興財団)・15 千葉市千葉神社周辺のボーリングコアから得られた貝殻について 黒住耐二(千葉県立中央博物館)・29 【新聞にみる千葉のむかし】明治千葉町と兵士 小林啓祐(千葉市史編集委員)・45 【千葉市史 史料編11 近代2 資料補遺】町村制施行~終戦の市長・町村長一覧 佐々木美香(千葉市立郷土博物館)・49 令和五年度千葉市史研究講座・「江戸と千葉」・研究会報告要旨・・・・・・・・ 58 【活動の記録】講座・市史研究会・「江戸と千葉」研究会・市史協力員・ニューズレター・受贈図書一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 64 |
以上、本館より出版となる有償頒布となる刊行物4冊をご紹介させていただきました。実際のところ、販売開始は令和6年度当初になってしまいますが、10日余り後には刊行されますので、どうぞお楽しみにされていてくださいませ。来週29日(金)もございますが、新年度まで残すところ3日のみであることをよいことに、本稿を以て令和5年度の最終稿とさせていただきます。実のところ、今月末までに次年度の千葉氏関連パネル展の担当原稿を仕上げねばなりませんが、お恥ずかしながら未だ手付かずの状態にございます。従いまして、この時間を当該原稿の執筆に充てさせていただこうと存じております。改めまして、本年度に本館の諸事業にお寄せいただきました皆様のご愛顧に、衷心よりの感謝を捧げたく存じます。そして、次年度も何卒宜しくお願いを申し上げます。ありがとうございました。
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