更新日:2022年4月1日
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令和2年度の館長メッセージは →こちらへ
本年度も、昨年から引き続いて館長を仰せつかりました天野良介と申します。令和3年度も何卒よろしくお願いいたします。「緊急事態宣言」解除後も、コロナ禍が終息する気配を見せないどころか、日々感染者が増加しつつある今日この頃であります。しかし、かような情勢下であっても、猪鼻山の満開の桜に祝福されるように、千葉市立郷土博物館の新年度が幕を開けました。表題にもお示ししましたように、本年は大正10年(1921)1月1日に千葉町が「千葉市」に衣替えして新たなスタートを切ってから100年目を迎えております。そして千葉市では、令和3年度をその記念年度と位置付け、様々な事業を推進して参ります。本館も、その一翼を担い、「プレ年度」としての昨年度に引き続き、本年度も千葉市の100年間に焦点を当てた特別展・企画展等々を執り行って参ります。
始めに、桜の季節に因んだ話題から。古くから千葉市にお住いの方であれば、猪鼻山といえば昔からの「桜の名所」であることは自明のことかと思われます。しかし、明治44年に刊行された『千葉街案内』における「猪鼻山」の項目には、桜の「さ」の字も記されてはおりません。そこには「丘上十数株の老松亭々として天を摩す」「老松の間より皎月を仰げば頗る身の塵世に在るを忘る」とあることから、明治時代には老いた松樹が生い茂る場であったことがわかります。そうなると、何時から猪鼻山は「桜の名所」に転じたのでしょうか。調べてみると、昭和元年(1926)「千葉開府800年」を迎えたことを契機に、その3年後にあたる昭和4年(1929)、猪鼻山に今も残る「千葉開府800年」石碑建立と併せて、染井吉野(ソメイヨシノ)をこの猪鼻山に植樹したことが起源となっているようです。
それから、凡そ100年弱の歳月が流れました。皆様も御存知のことでしょうが、染井吉野は近世後期に江戸に北方にある染井村で(現在の山手線駒込駅北)、品種改良の結果生み出された比較的新しい桜の品種であります。その優雅な命名は、村名と桜の名所である「吉野」とを結びつけことに由来しましょう。今では桜と言えば染井吉野を指すほどに、日本全国を席巻した最もポピュラーな桜だと思われます。ただ、この桜は自らの繁殖することが不可能な品種です。つまり、日本国中の数えきれないほどの染井吉野は、一つの樹木から複製され続けたクローンであり、すべての染井吉野を遡れば遺伝的に一本の原木にたどり着くということです。詳細は分かりませんが、データ複製にバグが生じるケースがあるためなのか、古来自然界に存在してきた桜樹と比べれば、一般的に樹命が短いことを特色としております。うろ覚えですが、凡そ100年前後の樹命と耳にしたことがあります。染井吉野ではヤマザクラのような樹齢300年を越える古木は存在し得ないということなのでしょう。従って、令和8年度に「千葉開府900年」を控えているのですから、猪鼻山の染井吉野もそろそろ寿命が尽きようとしている時期にあたるのだと思われます。確かに、当方が千葉にやって来た40年程前には、芭蕉の句ではありませんが、下から見上げた桜はまるで「花の雲」のようでしたし、現在の博物館最上階から見下ろせば「花の絨毯」ともいうべき見事な光景でありました。しかし、それも今や昔のお話です。昨今は樹勢が衰えてしまっており、どこか寂し気な気配の漂う「桜の名所」となっております。こうした状況を憂い、「千葉城さくら祭」実行委員会では、平成28年(2016)「千葉城さくら植樹基金」を設立し、「千葉開府900年」を迎える令和8年(2026)までの樹木更新を目指して募金活動を展開されております。本館内にも募金箱が設置され寄付を募っておりますが、資金は思うように集まっていないと聞き及びます。確かに、今の樹勢から判断すると、花見の名所としての命運は残すところ僅かのように感じさせられます。千葉市としても、今後どうするのかを含めた検討が求められましょう。最早待ったなしの状況にあるのは間違いありません。
さて、令和3年度における本館事業に話を戻すことにいたしましょう。まずは、職員のことについてです。コロナ禍による財政状況逼迫の中ではありますが、本年度より「研究員」一名を増員していただけることとなりました。研究を推進するにも、事業を行うにも、何より重要なことは「人」の手当てをすることです。いくらハードとしての施設を充実させたところで、ソフトとしての中身を作り出すのは「人」に他なりません。その手当を欠いては博物館機能の向上は難しいとの、博物館からの切なる要望について理解を頂けたものと思っております。一般に自治体財政の硬直化が言われて久しい中ですが、千葉市行政が健全に機能していることを思い知らされた次第であります。ありがたいことであります。週3日の御勤務でありますが、昨年度の「千葉市・千葉大学公開市民講座」でも講師をお勤めいただきました、遠山成一先生をお迎えできることになったことを僥倖に存じます。今後、特別展・企画展等をはじめする本館研究体制の更なる充実が期待できるものと考えております。
その特別展・企画展でありますが、本年度の中核となるのが「市制施行100周年」を記念する内容を予定してございます。千葉市100年間の歩みを振り返ってそのトピックとなる出来事の一つが戦争の歴史であることは論を待ちません。それについて扱ったのが昨年度の特別展『軍都千葉と千葉空襲』となります。それに引き続き、本年度特別展では、千葉市の様相が大きく変貌した「高度経済成長期」について取り上げようと考えております。千葉市にお住いの皆様にとっても身近な時代となりましょう。そして、今回その切り口とするのが、当時千葉市内の義務教育学校で学んでいた児童生徒の作文であります。大きく移りゆく千葉市の姿が、子供たちの瞳にどのように映っていたのか、その変化を彼らが如何にとらえていたのか。彼らの瞳を通して高度経済成長期の変わりゆく千葉市の姿に切り込むことを目論む特別展となります。海岸線の埋め立て、工業化の進展、内陸台地の大規模団地化、そして公害の発生等等々、大きく変わりゆく千葉市の姿が、そこから浮かび上がってくることと存じております。併せて、国語教育における「作文教育」の重要性にも焦点が当てられたらと願うところでございます。一般市民の皆様は勿論のこと、国語教育に携っていらっしゃる教職員の皆さん、また各学校で作文を書くことの多い小中学生の皆さんにも是非とも観覧いただきたい内容だと思います。夏季休業中から会期を始める意図もここにあります。
また、引き続いて開催する企画展では、時代を遡って千葉市が市制を施行した100年前の時代を取り上げます。また、本企画展は『千葉市史 資料編10 近代編1』の刊行を記念する展示会としての位置づけも有しております。明治末からの千葉町の歩みを振り返りながら、主に大正から昭和初頭にかけての世相を御紹介することを目論むものです。100年前の市制への移行は、現在の新型コロナウィルス感染症流行を思わせる、「スペイン風邪」パンデミックの中で始まっております。また、京成電車が千葉にやって来たのもこの頃のことです(現在のJRは未だ非電化でした)。大正デモクラシーの風潮の中、千葉市内でも自由教育や大衆芸能としての映画・演劇が盛んになった時代であり、女学生のファッションとして「銘仙」が大流行した華やかな時代でもあります。当時の写真が白黒であるためモノクロームとしてその時代像を描き勝ちでありますが、実のところ、銘仙の華やかさ、都市を飾る電飾の煌びやかさ際立つ「総天然色」の時代であったものと思われます。そうした時代像を感じ取れる展示会とできますように尽力したいと考えております。
併せて、例年の如く特別展・企画展の前後には、小企画展・パネル展示の開催をいたします。新年度になって初めての展示会ともなる小企画展『陸軍気球連隊と第2格納庫』は、昨年惜しまれつつ解体された本市作草部に存在した陸軍気球連隊第2格納庫についての記憶を後世に伝えることを一義に、国内で唯一の部隊であった気球連隊のあゆみと、知られざる軍用気球の運用について紹介する内容となります。本展示では、「千葉市近現代を知る会」の全面的協力を仰ぎ、日本の軍用気球についての貴重な資料を数多ご所有でいらっしゃる伊藤奈津絵さんのコレクションの紹介をも兼ねる内容となります。軍用気球には如何なる機能が期待されていたのか?気球と飛行船の違いとは何なのか?千葉市に来る前の気球隊前史、そして、解体された第2格納庫に用いられた戦前の画期的建築技術としての「ダイヤモンドトラス」について、お分けいただいた実物部材と第2格納庫模型とを展示しながらご紹介いたします。このことにつきましては、本市在住で、上記「千葉市近現代を知る会」の代表でもいらっしゃる建築家市原徹さんの全面的協力を賜ります。本館1階を会場といたしますが、相当にてんこ盛りの内容となることが予想されます。皆様におかれましても、大いに期待をされていただいて結構でもある充実の内容と確信するところでございます。
続いて、6年後に迫る「千葉開府900年」を踏まえて、一昨年度からスタートした「千葉氏パネル展」を本年度も継続開催いたします。本年度は、令和4年放映を予定するNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(脚本:三谷幸喜)を当て込んで、令和4年1月末から3月初旬までに設定をいたしました。前回のパネル展が千葉氏前史としての『将門と忠常』でありましたが、今回は千葉常胤とその後の鎌倉幕府初期の時代を取り上げ、主に同時代の千葉氏を中心とした有力鎌倉御家人の諸相を紹介する内容を考えております。ご覧になれば、大河ドラマをより深く理解できるようになること間違いなしの内容とする所存でございます。こちらにつきましても是非とも楽しみにお待ちいただければと存じます。
以上、特別展・企画展につきましては何れも「展示図録」を、小企画展・パネル展につきましても何れも「ブックレット」の刊行を予定しております。後者につきましては、会期後の刊行となる可能性が大きいと思われますが、これにつきましてもご期待いただければと存じます。
最後に、昨年度「館長メッセージ」最終号でもお知らせしましたように、『千葉市の歴史読本(仮称)』の刊行が本年末に予定されており、現在鋭意編集作業を進めているところです。千葉市として、一般の読者を対象とした初めての歴史読本であり、高校生以上の読者を想定した記述としております。これは、本市の公立小中学校に在籍している全児童・生徒には、それぞれ学習資料として『私たちの千葉市』『千葉常胤公ものがたり』(小学生対象)、『伸びゆく千葉市』(中学生対象)が配布されておりますが、義務教育を終えた後の高校生を含む一般市民の皆様を対象とした、郷土の歴史を学ぶための一般書籍が存在していないことに意を用いたからであります。その問題点については、予てから指摘されてきましたが、市制施行100周年を記念して本年の刊行が可能となったことは、我々にとっても本望であり、心の底からの喜びを覚えるしだいでございます。内容は、「原始・古代」「中世」「近世」「近現代」の時代毎に、「各時代のあらまし(総論)」、「様々なテーマを設定しての時代像の探究」、テーマと関連する「コラム」を適宜配置しております。また、各テーマは「見る」「読む」「学ぶ」の形をとり、「原史料」を読み解きながら郷土の歴史を理解できる構成としております。執筆陣も、各時代研究の一線でご活躍の豪華顔ぶれにお願いしておりますことを申し添えておきます。「乞うご期待」と自信をもって宣言できる内容と確信しております。
以上、本年度の本館の事業につきまして、特別展をはじめとする展示会概要、歴史読本刊行、そして研究体制充実といった側面から、その概要を申し述べさせていただきました。そのほかにも、例年行っております市民講座等も行ってまいります。コロナ禍の状況につきまして、今後も予断を許さない状況にありますが、千葉市の方針に基づき、公共機関としての本務を忘れることなく、可能な限り事業を推進して参りたいと考えております(ただし、予防対策の徹底は継続して参りますので、ご来館の皆様もこれまで以上の感染予防意識と対策をとられた上でのご来館・ご参加をお願いいたします)。本年度の千葉市立郷土博物館の活動につきまして、是非ともご支援を賜りますことをお願いいたしまして、年度当初のご挨拶とさせていただきます。本年度も何卒宜しくお願いいたします。
(1) 小企画展[会期:令和3年5月26日(水曜日)~令和3年7月11日(日曜日)]
『陸軍気球連隊と第2格納庫 ―知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス―』
(2) 特 別 展[会期:令和3年8月3日(火曜日)~令和3年10月17日(日曜日)]
『子供たちの瞳に映った高度経済成長期の千葉市 (仮称)』
(3) 企 画 展[会期:令和3年10月19日(火曜日)~令和3年12月12日(日曜日)]
『黎明期の千葉市 (仮称)』
(4)パネル展[会期:令和4年1月26日(水曜日)~令和4年3月6日(日曜日)]
『千葉常胤と鎌倉殿の13人 南関東編 (仮称)』
うちなびき 春くる風の いろなれや 日をへて染むる 青柳のいと(藤原定家)
新年度の二回目となる今回は、広く知られた定家卿の歌からの幕開けとさせていただきました。我らが猪鼻山も、何時の間にやら桜から新緑の季節へと移ろう頃となりました。この周辺では見受けられませんが、水辺の光景と相性の宜しい柳の新緑が目に眩しい時節ともなっております。当方が毎日通勤経路として渡っている江戸川鉄橋から見下ろす河川敷にも、御多分に漏れず沢山の柳が植えられております。既に3月半ばから柳の糸が薄っすらと緑色に染められたように感じておりましたが、ここ2・3週間で見違えるほどの強い色合いへと移ろい、暖かな風にしなやかな糸を靡かせるようになりました。私も「春くる風」の移ろう彩を、走りゆく電車の窓越しに眺めることを日々楽しんでおります。
柳の新緑は、春を表象する題材として『古今集』以来の数多歌人に詠み継がれてまいりました。素性法師(生年未詳~910年頃)による著名な「みわたせば 桜やなぎを こきまぜて 都ぞ春の 錦なりける」も、代表的な作品の一つとして挙げられましょう。藤原定家(1162~1241年)の手になる標記詠歌も王朝作品の本歌取りとなります。彼の詠歌としては格段に優れたものとは言いかねますが、さらりとした素直な流れが心地よく響く作品であると思います。それ故に人口に膾炙した作品となり得ているのでしょう。わが国で言う柳は、所謂シダレヤナギのことを指すことが多いと思われ、風にそよぐ枝の姿が「柳に風と受け流す」との例えにも用いられます。元来が、大陸原産の樹木のようで、仏教伝来の頃に本邦にもたらされたものと伝えられます。その堅固な根張り故に、治水に有効とのことから、河川堤に植えられることの多い樹木であります。しかし、そうした実用とは離れ、桜花と併せて春を告げる象徴として日本人に親しまれました。特に、平安期以降の王朝人に好まれ、古来多くの和歌や絵画にも取り上げられてまいりました。和歌についてはかくの如しであります。
絵画の世界に目を転じれば、古来「淀の川瀬の水車」と謡われ、12世紀末成立『梁塵秘抄』にも採録される、淀の水車を描いた絵画作品にも「青柳の糸」が定番として描き込まれております。淀の地には古くから灌漑のための水車が設けられていたようですが、天正14年(1586)に淀水運支配河村与三右衛門(生年不詳~1615)の手により、淀城の北にあたる桂川・宇治川の合流点附近に大小二基の水車が設けられました。大は直径8間、小は6間の大きさを誇り、川の水を掬い上げて淀城内の泉水に引いておりました。それは江戸時代の淀城にも引き継がれ、近世になってからその意匠性が喜ばれ、数多の絵画に描かれることになったのです。それらの作品からは、大きな水車と水辺の柳をそよがせる爽やかな薫風を感じさせられます。しかし、「青柳の糸」を描いた優品と言えば、個人的に小村雪岱(1887~1940)の版画作品、その名もズバリ『青柳』を筆頭に挙げたいと存じます。過日出かけた三井記念美術館開催の企画展『小村雪岱スタイル』にも出品されておりました。当方も久方振りに再会し、改めてその素晴らしさに心打たれるものがありました。もし、当作品を御存知なきようでしたら、是非ともネット等で作品をご確認いただければと存じます。
小村雪岱は武州川越の生まれ。幼くして父を失い、家庭的に恵まれぬ幼年時代を過ごしたようですが16歳の時に親戚を頼って上京。翌年に東京美術学校に入学し下村観山(1873~1930)の下で学んでおります。そして、20歳のときに予て敬愛していた小説家泉鏡花(1973~1939年)と出会い、鏡花より「雪岱」の画号を授かりました。27歳にして鏡花作の小説『日本橋』装丁を手掛け、これを機に鏡花をはじめとする作家作品装丁に数多取り組んでおります。数号前にも述べさせていただきましたが、『日本橋』は単なる書籍にはあらず、それ自体が優れた芸術作品であると思います。日本橋の花柳界を舞台にした当小説の表紙は、日本橋川両岸に立ち並ぶ土蔵と川を行き交う荷船とが、極めて意匠的に俯瞰され、その全面に色とりどりの蝶が無数に宙を乱舞する様が描かれます。そして表紙と裏表紙の見返しには、それぞれ春夏・秋冬の日本橋界隈の版画4枚が配され、粋な花柳界の四季が惚れ惚れとする構図で描写されます。思わず息を飲む絵画とは、このような作品を言うのだと思います。中でも、春を描いた一枚は白眉であります。
本作は、俯瞰された構図で座敷が描かれておりますが、開け放たれた座敷の青々とした畳に三線と鼓が整然と置かれているだけで、そこには誰一人描かれておりません。しかし、そこには人の気配と温もりを強く感じさせます(人を描かずに気配を表現する「留守模様」という古典的な趣向でもあります)。そして、樹木本体を描くことなく、降り注ぐように画面全体に配される「青柳の糸」が、しなやかさを売りとする花柳界の小粋さを表象しているように感じさせます。また、鼓の調緒と半分開けた障子から覗く鳥籠と思しき調度に配された僅かな朱色が効いているのでしょう、そこが艶なる花柳界であるとの風情となっております。軒下に一株描かれる笹の新緑も効果的であります。おそらく、その何れも数ミリずれただけで、絵画世界の調和に破綻が生じましょう。それほどに、それぞれの舞台装置が絶妙に配置されていると思います。それだけにあらず、春のほの暖かい空気まで肌感覚として伝える秘密は何処にあるのか不思議でなりません。見る度に驚かされます。同じモチーフは、後に絹本彩色作品として残され、更に雪岱没後に木版画として上梓されております。その名も同じ『青柳』。小説『日本橋』の見返し画から、更に余計な描写を捨象し、これ以上ないほどに舞台装置を絞り込んでおり、もはやデザインと紙一重ともいえる作品になっております。しかし、そこに漂う凛とした静謐さと艶冶な空気の共存は、更に強められているようにすら感じられます。雪岱一世一代の作と申し上げて一向に差し支えなかろうかと存じますし、傑作の名に恥じない名作だと確信いたします。同時に刷られた、秋『落葉』、冬『雪の朝』は、鏡花『日本橋』の見返し絵とは大きく図柄が変えられており、より意匠性と抽象性が勝った作品となっておりますが、これらも名作だと思います。夏の作品は制作されなかったのでしょうか、それを想像するのも楽しいことです。
また、雪岱は、女性の方にとっては極々身近な企業であろう「資生堂」の社員であったこともあり、今でも用いられている、あの独特な「資生堂書体」と称されるロゴデザインも雪岱の手になります。その意味では、雪岱は、画家・絵師というよりも、今で言うところのグラフィックデザイナーに近い作家であったとも申し上げることができようかと思われます。しかし、そこは名手下村観山に学び、日本画の基礎的技量を十二分に身に着けた雪岱だけあって、単なるデザインを超えた芸術作品となりえているのだと思います。現在三井記念美術館にて開催中の本展でありますが、会期は4月18日(日曜日)までとなっております。その後は、富山県水墨美術館(4月27日~6月13日)・山口県立美術館(7月8日~8月29日)と巡回いたしますが、流石に千葉から出かけるにはチト遠方に過ぎましょう。残す会期は10日程でありますが、ご興味がございましたら、三井越後屋の故地に建つ重要文化財「三井本館」7階にある当館へと是非脚をお運びくださいませ。強力にお薦めしたい美術展であります。たった一作『青柳』に出会うだけで、心の中が「春くる風の色」で染め上げられること必定かと存じます。
本稿の後半は、令和2年度の事業になりますが、これまで取り上げる機会がありませんでしたので、昨度末に本館で刊行いたしました冊子等について紹介させていただきます。まずは、無償配布の冊子についてです。一冊目は、既に「千葉氏ポータルサイト」で動画配信しております「千葉市・千葉大学公開市民講座」講演録であります。動画にてご覧いただいた方も多かろうと存じますが、予てご連絡させていただいたとおり、文字記録としての『講演録』も動画と併せて同ページ内にアップいたしました。併せて3月末に冊子として刊行もいたしております。こちらは、ネット環境が整っていない、冊子で読みたいとのご希望に応えたものです。二冊目は、同じく年度末刊行となった本館『研究紀要』(第27号)です。目次を以下にお示ししましたが、内容について簡単にご説明をさせていただきます。まずは、平成30年度から本館からの委託により実施していただいている「千葉氏関係史料調査」についての該報です。今回は、昨年度コロナウィルス感染症拡大により、県内石造遺物調査を除いた史料調査が実施できなかった関係で、宗胤寺(千葉市中央区)・勝胤寺(佐倉市)・妙光寺(多古町)・東福寺(多古町)石造遺物調査、及び中世後期の下総千葉氏の性質や権力構造を解明するための基礎作業として、千葉氏関係文書目録を掲載しております。また、地域に根付いた「うつし霊場」廻りの民俗についての本館白井千万子研究員による調査報告、そして令和2年度の本館特別展『軍都千葉と千葉空襲』関連歴史講座「戦争の惨禍を伝える」でご講演をいただきました先生2名のご講演要旨となります。何れも貴重な報告・ご提言となっているものと考えます。広く活用していただくことを期待するものであります。何れも、本館へご来館できる方にのみに、受付で無償にて進呈させていただいております。ご遠慮なく『講演録』冊子希望の旨をお申しつけください。ただ、部数に限りがこざいますので、お一人様一冊に限定させていただきます、
【 研 究 紀 要 第27号 】
〇千葉氏関係史料調査会概報(三)[千葉氏関係史料調査会]
・千葉市関連石造史料調査録(2)[早川正司]
・中世後期における下総千葉氏関係文書について(後編)[石橋一展]
〇令和2年11月15日開催 歴史講座「戦争の惨禍を伝える」講演要旨
・東京大空襲 ―千葉県との関わり―[石橋星志(すみだ郷土文化資料館 学芸員)]
・千葉市の鉄道連隊遺跡の保存と活用について[小笠原永隆(帝京大学経済学部観光経営学科 准教授)]
〇千葉寺十善講調査報告 ―今も続くお大師まいり―[白井千万子(本館 研究員)]
続いて、千葉市史編纂事業の一環として、年度末に刊行をしております『千葉いまむかし』最新号(第34号)が刊行となりましたので、ご紹介いたします。なお、こちらにつきましては明日10日より有償販売となります(¥400)。本館でのみの販売となりますので、ご希望がありましたら受付にてお求めください。こちらについても、以下に目次を掲載しております。主な内容につきましては下記の通りです。コロナウィルス感染症に翻弄されたこの一年を象徴するかのように、千葉町(千葉市)における、江戸時代のコレラ流行について、紙上古文書講座で取り上げております。更に大正期のスペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)流行に関する論考が掲載されております。また、中央大学の宮間純一准教授による、江戸から明治にかけての政権交代期における高札の在り方の検討からは、政権移行期の社会的な混乱が理解できます。更に、「千葉市近現代を知る会」代表であり建築家でもいらっしゃる市原徹さんによる投稿していただいた論考を掲載しております。本稿は、昭和12年千葉市の熱心な誘致活動の結果、千葉市検見川に設営された「東京帝国大学総合運動場」と、周辺地区の住宅地を想定した土地区画整理事業(街路計画)について論じた極めて興味深い内容となっております。落ち着いた新検見川の街路と街の現況が如何に形成されたのかが理解できる論考であります。因みに、市原さんも触れておられますが、千葉市内には嘗て東京大学関連施設がもう一つ存在しました。それが、西千葉の地に昭和17年開学された「東京帝国大学第二工学部」であります。本学部は短命に終わり、戦後に大部分が千葉大学西千葉キャンパスとして譲渡され、一部が「東京大学生産技術研究所」実験場として残されました。しかし、それも平成29年に閉鎖され柏に移転となりました。跡地は売却され住宅地として再開発されるそうです(現存していた戦前の第二工学部時代の木造校舎が解体されるのは残念でありましたが)。併せて、最新の『ちば市史編さん便り』26号も無償配布中です。連載中の「千葉市の明治・大正・昭和が見える!!」、第5回「千葉郡の海でノリ養殖がはじまるまで」(森脇孝広)、第6回「土地を「有(も)つ」ということ」(大庭邦彦)が掲載されておりますので、是非ご覧ください(お二方とも千葉市史編集委員でいらっしゃいます)。
【 『 千葉いまむかし 』 第34号 】
〇紙上古文書講座 安政五年のコレラ流行と千葉市域の村々[遠藤真由美]
〇慶応四年の「政権交代」と「五榜の掲示」
―下総国における考察の掛け替え― [宮間 純一]
〇千葉市の弥生土器・石器
―房地遺跡・根崎遺跡・南台遺跡・大北遺跡・谷津遺跡―[小林 嵩]
〇【投稿論文】東大検見川グランドと検見川区画整理事業 [市原 徹]
〇新聞にみる千葉のむかし 大正千葉町に襲来したスペイン・インフルエンザ[小林 啓祐]
〇令和二年度千葉市史研究講座要旨
〇活動の記録
最後に、本館で作成したものではありませんが、千葉市制100周年を記念して、千葉市総合政策局総合政策部都市アイデンティティ推進課が作成した冊子『データで見る千葉市100年の軌跡』を本館でも有償販売を開始いたしました(こちらについては、中央コミュニティセンター2階市政情報室でも販売しております)。一冊700円となります。内容は、千葉市の100年間について、「人口」「経済基盤・産業」「仕事・雇用」「子育て・教育」「健康・医療・福祉」「住まいと環境」「交通」「安心・安全」「暮らし」の項目毎に、様々なグラフを用いて推移を追い、分析を加えた内容となっております。「データから迫る千葉市史」とも言うべき、大変に使い勝手の良い編集になっております。様々な分野でご活用いただける冊子となっていようかと存じます。昨年度に刊行され、現在も継続販売中である『千葉市市制100周年記念誌』『百の歴史を千の未来へ―千葉市制100周年記念漫画―』(各200円)と併せて、是非お買い求めください。
後半は、昨年度末から新年度にかけて、本館にて無償配布・有償販売をする幾つかの書籍・リーフレット等々のご紹介をさせていただきました。皆様にご活用いただけますことを祈念申し上げております。
新年度が始まりましたが、早いもので、もうじき「風薫る五月」を迎えます。これからは梅雨に入るまで、青空に映えた新緑が一年のうちで最も美しい季節となります。もっとも、草木の成長は著しく、猫の額の我が家の庭でも、既に緑色が日々濃くなり、各所から正に雨後の筍が如く様々なる草が繁茂しだしております。その生育疾きこと風の如し(お恥ずかしながら草木に用いる適切な表現を思いつきませんでしたので武田軍旗の援用でお茶を濁しております)。八重葎となるのも時間の問題です。1週間も目にしなければ、庭の呆れるほどの様変わりに正に茫然自失となります。かようなる次第で、ゴールデンウィークにおける我が家(正しくは私個人)の恒例行事が迫って参りました。2週間後の日のことを思うと少々気が重くなります。しかし、放置しておけば夏までには過たず「藪知らず」と化しましょう。その代償は途轍もなく大きなものになります。麻の如く乱れる我が心ここに在りですが、安穏なる家庭生活の維持のためには、山の神からの「愚痴言う暇があれば手を動かせ」との御下命に従うに如くはなしとのことに落ち着きましょう。因みに、あまりに牽強付会ではございますが、現在市川歴史博物館で企画展「葛飾八幡宮と八幡の藪知らず」が開催中ですので、この場でご紹介させていただきます。[会期5月9日(日曜日)まで]。図録も作成されているようです。当方も是非拝観することを願っております。
さて、まずは表題の一件について御連絡をさせてください。実のところ、こちらも前回と同様、昨年度事業としての刊行物となります。本館では、毎秋、一般財団法人「千葉市馬術協会」様の全面的な御協力を賜り、イベント「鎌倉騎馬武者体験」を開催しております。公募後抽選で選ばれし50名前後の一般市民の方に、実際に甲冑を着用し馬に跨っていただきます。流石に走行することは素人には危険ですので、馬術協会の皆さんが引馬をしてくださり、猪鼻山を騎乗して歩くという貴重な体験をしていただいております(甲冑姿で疾駆する実演は馬術協会の方の披露を間近でご覧いただきます)。一昨年には、御年齢90を前にしたご老体が騎馬武者姿となり、あたかも源平合戦における三浦介義明(88歳)・斎藤実盛(72歳)もかくやと彷彿させる、凛々しき御姿であったと耳にしております。しかし、昨年度は、残念ながら新型コロナウィルス感染症の影響により実施を断念する他ありませんでした。また、本年度につきましても、現状「非常事態宣言」が解除されたとは申せ、コロナ禍が終息したとは到底言えない状況にあり、今後のことは全く五里霧中であります。千葉市が市制を施行した百年前に大流行して多く被害をもたらしたスペイン風邪(スパニッシュ・インフルエンザ)の終息にも足掛け3年を費やしていることに鑑みれば、今回の流行がそう簡単に収まることはなかろうというのが極めて全うなる認識でございましょう。本体験学習では、甲冑の着付け等において、どうしても甲冑の使いまわしをせざるを得ず、感染防止措置の徹底に大いなる不安を残す事業であります。更に、ご協力を頂く千葉市馬術協会の皆様への感染の危険も決して軽視できません。
こうした状況下、何らかの代替措置ができないものかと本館でも検討を重ねました。しかも、今後数年間にわたる中止判断をも想定すべき状況にあります。そうした諸条件を勘案し、騎馬武者体験で獲得し得る学びを、長期間の中断にも耐え得る形で代替的に可能にするには、冊子の刊行をもってするしかないと結論づけた次第であります。それとは別に、馬術協会の皆さんの実演を映像収録して動画配信する案も検討いたしましたが、実演をしていただく皆様同士の密着状態を回避することには困難を伴い、協力していただく馬術協会の皆様を感染の危険に晒すことになると判断いたしました。申し上げるまでもなく、「騎馬武者体験」は、遊戯施設におけるアミューズメント体験として実施しているわけではありません。飽くまでも博物館における「教育普及活動」を目的としております。従って、これまでも体験と併せて必ず解説などの「学習」も実施してまいりました。「鎌倉武士」の「戦い」の在り方をしっかりと学んだうえでの体験としていた訳です。そこで、その「学習」の部分だけを取り出し、誰にでも読みやすい形で刊行することで、本事業の代替とすることに致しました。それが、今回刊行することとなった標記ブックレットであります。本館の受付にて1冊100円で販売をいたしております(4月10日より)。その目次を以下に掲げます。
1 武士とは その起源と成立
本ブックレットは、上記の目次をご覧いただければ明々白々のように、千葉常胤が源頼朝に従って鎌倉幕府成立に大いに活躍した、平安後期から鎌倉時代初めにかけての時代における、武士の戦いの諸相について解説した内容となっております。一口に武士と言っても、鎌倉時代の武士と江戸時代の武士との違いは思いのほかに大きいものです。特に、戦いに用いる装備も、戦いの作法も大きく異なっております。また、実際の戦いの様子たるや、時代劇に見る合戦の光景とは大きく異なっているのです。その点で、本ブックレットは、鎌倉武士の戦いとその基本となる武具等々の在り方を実にコンパクトにまとめております。本館2階の常設展示「武具」を理解するのにも打ってつけの内容となっております(火縄銃については時代が下りますので本冊子では扱いません)。
また、来年の1月から始まるNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の視聴にあたっても、その理解に大いに寄与する冊子だと存じます。更に「エピローグ」では、武具や戦闘方法が後の時代にどのように変わっていくのかにも触れており、鎌倉時代に限らず、時代を追った武士の戦いの変化についても知ることができるようにしております。執筆は本館の錦織和彦主査によります。決して身贔屓にあらず、大変に充実した記述内容となっております。残念ながら表紙以外はモノクロでありますが、写真・図版・イラスト等も数多く取り上げ、わかりやすさにも配慮しております。初心者には勿論のこと、ある程度のことを御存知の方にも知識を整理するのに役立つ内容になっていようかと確信するところです。何よりもお買い求めやすい価格設定であります。是非とも広く皆様にお求めいただきますようお薦めいたします。
続いて、令和8年度「千葉開府900年」に向けた本市施策に則った「千葉氏PR計画」の一環として、千葉市教育委員会生涯学習部文化財課と本館との取り組みとして「千葉氏ゆかりの地」案内看板設置事業を昨年度より開始いたしました。その結果、第一弾として、3月末日に市内5か所に当該看板が設置されましたので、ご紹介をさせていただきます。前後編2回に分けて、今回設置された5か所の「看板解説文面」のみを掲載させていただきます。
猪鼻城跡(千葉市中央区亥鼻1丁目)猪鼻城跡はかつて鎌倉時代以来の千葉氏の城とされていました。平常兼(たいらのつねかね)の子常重(つねしげ)が大治元年(1126)、上総国大椎(千葉市緑区)から千葉に本拠を移し、千葉という地名を名字とし、千葉常重(ちばつねしげ)と称しました。常重の子・常胤(つねたね)は源頼朝を助け鎌倉幕府の創設に大きく貢献し、その功績で北は東北地方から南は九州地方まで多くの所領を得ました。 ところが、これまで猪鼻城跡で行われた発掘調査では、鎌倉時代の城や館の跡は見つかっていません。ここにあった城は、室町時代後期(戦国時代)に千葉氏の有力家臣にあたる原氏により城郭として整備されたものという説が有力で、火葬骨を納めた13世紀の壺が発見されたことから、それ以前は墓域であったと考えられています。 郷土博物館西側の公園内を見回すと周囲が少し高くなっています。これは土塁(どるい)の跡です。外からの攻撃をくい止めるために、城内部の平地周辺に土を盛り上げて高くしていました。その内側の郭(くるわ)と呼ばれた一画は城の中心で、江戸時代には本丸と呼ばれた場所にあたります。北にある神明社のあたりは物見台の跡だと言われています。そこからはかつて東京湾の海岸線や、足下にあった千葉の港を一望することができました。本丸と物見台の跡との間が低くなっていますが、これは防衛手段の一つとして設けられた空堀(水のない堀)の跡です。 では、千葉氏が館としていた場所は実際にどこであったのでしょうか。かつて方形の堀・土塁に囲まれて「御殿跡(ごてんあと)」と呼ばれた現千葉地方裁判所の場所あたりではないかという説があります。康正元年(1455)、一族の馬加康胤(まくわりやすたね)・原胤房(はらたねふさ)が宗家の千葉胤直(ちばたねなお)を攻め滅ぼした後、千葉氏が本拠地を千葉から本佐倉(酒々井町・佐倉市)に移したことや、遺構や決定的な史料が見つかっていないこともあり、現在も千葉氏の館の場所は明確になっていません。 |
(後編に続く)
昨日の最後に「千葉氏ゆかりの地案内看板」の解説文面「猪鼻城」について御紹介をさせていただきましたが、本日は残る4件(「お茶の水」「大日寺跡」「本円寺」「浜野城跡」)の解説文をご紹介させていただきます。
お茶の水(千葉市中央区亥鼻1丁目)この場所は「お茶の水」と呼ばれています。もともと湧水があり、泉の側には不動明王が祀られていることから、「不動の泉」という呼び名もあります。湧水はかなり前に枯れてしまいましたが、ここが「お茶の水」と呼ばれるようになった由来として、その名にちなんだ二つの伝説が伝えられています。 一つ目は、源頼朝にまつわる伝説です。源頼朝は治承4年(1180)相模国石橋山(神奈川県小田原市)の合戦で敗れた後、舟で安房国にわたり、千葉氏を始めとする房総の武士団に支えられて勢力を盛り返し鎌倉に入りました。その道中、千葉(ちば)常(つね)胤(たね)の本拠地に足を止めた源頼朝に、ここの水でたてたお茶を差し上げたというものです。平安時代初期には国内でお茶の栽培が始まっていますが、まだ一般に普及していなかったため、後の時代に作られた話の可能性もあります。 二つ目は徳川家康にまつわる伝説です。慶長19年(1614)、徳川家康が東金方面へ鷹狩りに向かう途中で千葉に泊まり、ここの水でたてたお茶を飲んだというものです。それから60年後の延宝2年(1674)にこの地を訪れた徳川光圀(みつくに)(家康の孫、水戸黄門として知られる)も「古城の山根に水あり、『東照宮(徳川家康の神号)お茶の水』と伝う。右の方松の森あり、『東照宮御旅館の跡なり』と云う。」と書き残しています。 この湧き水は台地上の城を守る人には大事な水源であり、また街道をいく人や馬にとって喉を潤す場所でもありました。江戸時代の関東地方では広く不動尊に対する信仰が庶民に広まり、人にとって大切な水を守る水神信仰と結びつきました。不動尊信仰の場として、千葉県では成田山新勝寺(成田市)がよく知られていますが、ここに不動明王が祀られているのは、その大切な水を守るという考えからだと解釈されています。 |
大日寺跡(千葉市中央区中央1丁目4)ここはかつて「千葉家累代の墓塔(ぼとう)」と伝えられる五輪塔群(千葉市指定文化財)を有する阿毘廬山密乗院大日寺(あびらさんみつじょういんだいにちじ)(真言宗)があった場所です。千葉氏の守護神「妙見」を祀る金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)と大日寺が軒を連ねたこの付近は、中世の千葉のまちの中心であり、聖なる空間として意識されていたことがうかがえます。大日寺は、昭和20年(1945)の空襲で焼失したため、戦後に稲毛区轟町へ移転し、跡地は戦災復興の都市計画によって公園となりました。 称名寺(しょうみょうじ)(横浜市金沢区)に残る聖教(しょうぎょう)(僧侶の修学や宗教活動に用いられた仏教の典籍類)には「下州千葉之庄大日堂」などと記録があり、大日寺の前身とも考えられます。大日堂では称名寺長老の剱阿(けんあ)が聖教を書写するなど、関東における真言律宗の中心的な寺院であった称名寺との深い結びつきがありました。 また、『鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)』には、大日寺は千葉頼胤(ちばよりたね)が鎌倉極楽寺の良観(りょうかん)(忍性(にんしょう))を開山として小金の馬橋(松戸市)に建立した千葉氏の代々の冥福を祈った寺で、孫貞胤(さだたね)の時に千葉へ移ったこと、康正元年(1455)、千葉胤直(たねなお)たちが多古城・島城(多古町)で滅んだ際、胤直らの遺骨が大日寺へ送られ、石造五輪塔が建てられたことが記されています。 昭和38年(1963)、公園整備工事を行っていた際に、地下から康永3年(1344)に造られたという銘文のある梵鐘(ぼんしょう)(千葉市指定文化財)が出土しました。突然出土した南北朝時代の梵鐘は、都市化のため破壊し尽くされたと思われてきた中世の千葉のまちが、足元に眠っている可能性を示しています。 |
本円寺(中央区本町1丁目6−14)本円寺は日蓮宗の寺院です。顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)(妙満寺(みょうまんじ)派)の祖である日什(にちじゅう)と下総守護千葉満胤(ちばみつたね)によって弘和元年(1381)に開かれ、日什の弟子日義(にちぎ)に帰依した、千葉氏重臣の円城寺胤久(えんじょうじたねひさ)が道場を建立したと伝えられています。 『門徒古事(もんとこじ)』には、日義が守護千葉介(ちばのすけ)(満胤と考えられます)の祈祷所に出向いたことや千葉介が日什を招いてその教えを聞きたがっていたことが記されており、日蓮宗が千葉に進出して千葉氏に信仰されたことがうかがえます。また、他宗派が千葉近郷の仏像の鼻を欠き落として日蓮宗の仕業と称したことなど、宗派同士の対立が生じていたことも記されています。日義が千葉氏の祈祷所に出向いたことや、千葉近郷でこのような事件が起きたことから、千葉氏の館が本円寺からさほど遠くない場所(千葉のまちのどこか)にあったと推測できます。 本円寺の近くには本敬寺(ほんきょうじ)(日蓮宗)があり、かつては正妙寺(しょうみょうじ)(日蓮宗、明治期に本敬寺に合併)もありました。本敬寺は、日蓮の6人の高弟の一人日向(にこう)が開いた、藻原寺(そうげんじ)(茂原市)の十世をつとめた日伝(にちでん)が明応元年(1492)に開いたと伝えられます。また、正妙寺は法華経寺(ほけきょうじ)(市川市)の末寺で、日高(にちこう)が正和元年(1312)に開いたと伝えられます。 中世・近世の千葉のメインストリートは、千葉氏の守護神「妙見」を祀る金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)から都川に架かる大和橋までの「本町通り」と、これに続いて寒川方面に至る「市場町通り」でした。まちの東側に位置する本町付近に、主に商工業者の信仰を集めた日蓮宗寺院が集まっていたことから、千葉の都市としての発展をうかがうことができます。 |
浜野城跡(千葉市中央区浜野町)浜野は東京湾を臨む地で、北には浜野川(塩田川)が流れ、海岸沿いに南北に貫く街路に北・南・東の三つに分かれる宿町(しゅくまち)が形成されました。発掘調査の結果、古墳時代には、この地域が陸地化していたことが明らかとなり、海岸近くの安定した土地に湊が形成されたことがうかがえます。また、土気・東金両酒井氏の祖酒井定隆(さかいさだたか)と本行寺(ほんぎょうじ)の開祖日泰(にったい)にまつわる伝説(※)は、この地が中世から品川と航路で結びついた湊であったことを反映したものと考えられます。 江戸時代にこの付近を治めた生実藩の米蔵「浜御蔵(はまおくら)」が町場の北側に置かれましたが、「浜野村地先澪絵図(はまのむらちさきみおえず)」(宝暦5年(1755))には御蔵東側の三日月型の土地に「城ノ内」と記載があり、中世にはここが城であったことを示しています。これを浜野城跡と呼びますが、その城域には隣接する本行寺を含んでいたと想定されます。この城跡で注目すべき点は、過去の資料や発掘調査の結果などから、北側の浜野川に開口する堀の復元が可能なことです(堀の推定復元箇所は『浜野城想定復元図』の黄緑色網掛け部分)。この部分は城の防御施設であったほか、船の係留や荷揚げ場を兼ねた可能性があります。出土遺物は15世紀後半から16世紀前半のものが主であることから、浜野城は、千葉氏の重臣である原氏が生実城(おゆみじょう)主であった時期に機能していた城であることが判明しました。 浜野が内房の重要な湊として登場するのも、原氏が生実城に本拠を置いたことが影響していると考えられます。永正6年(1509)に原氏の館を訪ねた連歌師(れんがし)宗長(そうちょう)が本行寺を宿舎としていることからも、生実城と浜野との密接な関係をうかがい知ることができます。また、この地域は海上交通だけでなく、土気や茂原へ向かう街道の交通の結節点でもあったことから、陸海の交通の要衝である浜野の湊が浜野城として城郭化されたものと考えられています。 (※)海路で酒井定隆が品川から浜野に向かう途中に嵐にあった時、同船していた日泰が経を唱えて嵐を鎮めました。定隆は日泰に帰依し、「自分が城主となった時は、日泰を迎え、領内ことごとく日蓮宗とする。」と誓ったと伝えられています。
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以上、昨年度作成し、昨年度末の3月に設置いたしました「千葉氏ゆかりの地」案内看板5件について解説文面のみを取り上げ、ご紹介させていただきました。実物の看板には、説明文に加えて写真・地図・絵画等々も掲載されており、なかなかに素敵な出来栄えになっております。是非お近くにお寄りの際にご覧くださいませ。因みに、それぞれの看板にQRコードが掲示されており、スマホで読み込むと「案内看板ホームページ」にアクセスできます。そちらには、「英・中・韓」三か国語による解説文翻訳も掲載されております。国際都市千葉市のインバウンド対応ということになりましょう。是非、お知り合いに外国の方がいらっしゃいましたら、お伝えいただけましたら幸いでございます。
「千葉氏ゆかりの地案内看板」は、令和8年度「千葉開府900年」に向けて、今後、毎年度継続して設置数を増やして参ります。昨年度は中央区に設置いたしましたが、今年度以降中央区以外の区へと設置の範囲を拡大していく予定でおります。なお、今回設置「看板」5枚と設置場所周辺の光景につきましては、本館ツイッターにてご紹介をさせていただいておりますので、こちらもご参照くださいますように。関西を中心に変異ウィルスの広がりが続き、関東でも飛び火も懸念される今日この頃ではございますが、看板文面をご覧になって興味を持たれましたら、是非とも現地へと足をお運びください。これら看板の建つあたりが「三密」状態となることは、まずございますまい。千葉市民として、足元の歴史である千葉氏の歩みについて少しでも関心をもたれ、更にその知見を深めていただく契機となることを祈念する次第でございます。
本館エレベーターですが、4月6日(火曜日)より故障のために運転を中止させていただいております。5階開閉扉の不具合が発生し、利用されたお客様に大いに御心配をおかけしてしまったことを誠に申し訳なく存じております。それ以降、2週間にわたって運転中止を継続させていただいておりますので、毎日来館されるお客さまには多大なるご不便をおかけしております。まずは、そのことに心よりお詫び申し上げます。申し訳ございません。
この間、保守点検業者による徹底した検査を実施した結果、5階扉の開閉に関するスイッチ部品の不具合が発見されました。本館のエレベーターに関しましては、平成12年(2000)年に本館リニューアルオープンの際に、全面新装して設置したものであり、今日に到るまで定期メンテナンスを欠かすことなく実施しております。そして、不具合についてはその都度修繕をして参りました。しかし、開設以来凡そ20年が経過しており、今回の故障も、経年による当該部品の劣化が主たる要因と考えられるということでした。
そこで、これを機に、扉開閉スイッチ部品の全てを交換することで、最大限の安全確保を担保する対応をとらせていただく判断をいたしました。従って、部品の到着・交換が完了するまでは、今後もエレベーター運行は継続して中止とさせていただきます。メーカーへの部品の発注に相当の時間を要する状況が続いております。今後も暫くはそのための時間を要するとの報告も受けておりますが、極力急いでくれるよう、今後とも働きかけを続けて参ります。
長きにわたってお客さまにご迷惑をおかけすることとなり、本館としましても心苦しい次第ではございますが、「取り合えず運転する」とのスタンスは一切採りません。何故ならば、エレベーター事故が発生すれば、すなわち利用する皆様の生命に直結する可能性が極めて高いことが、これまで国内各地で発生したエレベーター事故事例から明らかだからです。「利便性の確保」と「生命の確保」とを天秤にかければ、後者が最優先であることは言うまでもございません。万が一にでも発生する危険を想定し、それを排除することこそが館長としての責務と考える次第であります。
以上、何卒ご理解を頂けましたら幸いでございます。今後、運転再開の日程等につきましては本館ホームページ・ツイッター等でお知らせいたしますので、ご来館前に確認いただけますと幸いです。お手数をおかけいたしますが、何卒宜しくお願いいたします。
私のように、高度経済成長期を迎える時分に生を受けた男子が、幼少期に鉄道趣味の洗礼と無縁に過ごすことは極めて稀であったように思います。ご多分に漏れず、私も中学1年生までは一端の鉄道マニアでした。小学生の頃から月刊鉄道3誌を定期購読しており、毎月隅から隅まで舐めるように読み漁っては(『鉄道ピクトリアル』『鉄道ファン』『鉄道ジャーナル』)、学校では鉄道好きの友人に、知り得たことを自慢げに吹聴したものです(客観的に自身を振り返れば嫌な子供であります)。何より、自宅の極々至近を常磐線が通っております。高架化される以前の地ベタをゆく列車を日がな一日眺めている裡に、「門前の小僧」宜しく、何時の間にやら鉄道の魅力に絡めとられておりました。“国電”の通称で通勤客を運ぶ葡萄色の73系旧型電車、上野から青森に向かう特急「はつかり」キハ81気動車。因みに、当初「はつかり」は常磐線経由でしたが、583系寝台電車に切り替わるのを機に東北線経由となり、常磐線経由は「ゆうづる」名称となりました。稀に配給電車クモル24・クル29の2両編成に出会った時は幸福感で満たされました。その他、路面電車にも心奪われました。生まれ育った葛飾区内には路面電車の路線は全く存在しませんでしたが、都内の到るところに「都電」路線が四通八達しておりました。都心へ出かける折があれば、多くの系統を行き来する、様々な形式の路面電車を眺めているだけで時を忘れました。一方で、Nゲージ(昔は「9ミリゲージ」と称したように記憶しております)など未だ存在しない時代、鉄道模型の王道は「HOゲージ」でありました。ただ、子どもには到底手を出すことなど叶わぬ代物であり、正に垂涎の的としか言う他ない「贅沢品」でありました。幼少時には街の彼方此方にあった「模型店」展示ケースを、恨めしそうに指をくわえて眺めることが専らであったことを思い出します。要するに、鉄道好きの子供達にとっては、雑誌類で未だ見ぬ鉄道について想いを馳せること、何よりも身近の実物を眺めることが喝を癒す唯一・最大の手段であったのです。
その中でも、最高の御馳走は客車や貨車を重そうに引く蒸気機関車(以後SL)に接することでした。その走る姿はまるで生き物のようでした。D51・C57・C58が当時の常磐線で見ることのできたSLでしたが、昭和44年(1969)3月15日に、上野~成田間の客車を牽引するC57の最終運行により常磐線から鉄路の煙が絶えました。恐らく、貨物を牽引するSLを含めて、これが都内の常磐線におけるSL運行の最終便であったと思います。このC57は「貴婦人」の愛称で知られ、その優美な姿で私の一番大好きな蒸気機関車でもありました。しかし、未だ総武線はSLの牙城であり、常磐線での最終運行後も半年ほどは客車を引いて運行されておりましたし、貨物輸送にはその後一年程はSLが用いられておりました[調べたところ、昭和45年(1970)3月24日にD51ナメクジ型21号機牽引貨物列車が蘇我駅から越中島貨物駅まで運行されたのが、総武線エリア・都内23区内でのSL運転最終日とのことです]。当時私は小3から小4にかけての頃でしたが、鉄道好きの友人達と自転車を連ねて区内を南下、亀有から「新小岩機関区」まで度々遠征していたことをよく覚えております。そこにはナメクジ型という煙突を持つD51亜種が2台おり(21・50号機)、見つけると得をした気持ちになりました。機関区には転車台(ターンテーブル)もあり、その上を悠然と転換する機関車の勇姿、モクモクと吐き出される黒煙と蒸気、噎せ返るような石炭の匂いに陶然としたものです。当時、機関区敷地には外部からの侵入を防止する柵など一切存在せず、毎度機関区の奥まで侵入して見物しておりました。しかし、不思議なことに「小言幸兵衛」に一人として出会った記憶がありません。もっとも、子ども達も「絶対迷惑を掛けてはならない」との鉄の不文律を共有しておりました。今振り返れば、大人・子供の相互に自ずからなる信頼関係が醸成されていたのだと思います。何でもコンプライアンスがどうだと“目くじら”を立てる昨今の風潮とは隔世の感があります。思えばよき時代でした。総武線でのSL消滅後、近隣でSLに出会えた路線が八高線でした。そちらにC58とD51を見に出張ったことも懐かしい想い出です。今回調べてみると、八高線のSL運行も昭和45年(1970)年9月27日に最後を迎えたそうですから、何度か高麗川鉄橋あたりに脚を運んだのは、今思えば小学校5年生の夏のことだったのだと思います。その後、中学校2・3年生の頃には興味の対象が移り鉄道趣味は自然と消滅しました。しかし、昔取った杵柄か、今でも鉄道には無関心ではいられません。「雀百まで踊り忘れず」とはこのことでありましょう。
自身の生活圏が都内にあったこともあり、房総の鉄道事情には詳しくないのですが、それでも何度か接した千葉の鉄道事情も瞼に焼き付いております。小学生低学年の頃、電車が通っていたのは千葉駅までで、そこから先は非電化区間でありました。蒸気機関車の消えゆく時代、千葉県は正に気動車王国。鉄路では赤・肌色ツートンカラーの様々な気動車が幅を利かせておりました。稲毛・西千葉駅間の線路際に中学校時代の友人宅があり、高架化前地上を走っていた線路越しに今は無き広大な「千葉気動車区」が見えたことも思い出されます。当時の房総半島に特急列車は存在せず、すべて気動車運行の急行・準急であり、その発着駅は総武鉄道以来房総方面へのターミナルであった「両国駅」でした。今も総武緩行線北に残る一段下の寂れた3番ホームと、隅田川方面に建つオールドファッションの駅舎がその名残です。当時は6番線まであり、夏になると海水浴客で殷賑を極めていたのをよく憶えています。総武線が錦糸町から新たな地下路線で東京駅に通じ、電車特急が運行開始されたのは昭和47年(1972)7月15日です。同時に総武本線の起点が東京駅に改められ、錦糸町駅からお茶の水駅までが枝線とされました。更に、従来の「房総東線」が「外房線」に、「房総西線」が「内房線」へと改称され、房総半島を一周する両線が全て電化されてつながったのも、その時のことになります。
私自身が千葉駅より先の鉄路に初めて脚を踏み入れたのは、その昭和47年(1972)夏のことです。中学校に入学した1年生時に歴史研究部に所属した私は、夏休みに高校生の先輩達が泊まり込みでアルバイトをしていた遺跡発掘を手伝うために房総に向かいました。車両全体をカナリア色に塗装された101系電車に揺られた私が千葉駅で乗り継いだのが改称されたばかりの内房線でした。私の記憶では気動車に乗り換えたと永く思っておりましたが、調べてみたところ、房総東線の千葉駅~蘇我駅間、房総西線の蘇我駅~木更津駅間が電化されたのは昭和43年(1968)7月13日のことのようです。つまり、千葉駅から私が乗車したのは電車であった可能性が高いものと思われます。もう一つの記憶として、その時千葉駅プラットホームから昭和42年(1967)建築の本館(当時は「千葉市郷土館」)の建物が見えたことが鮮明なのですが、これも外房線車窓からの光景だったのかもしれません(千葉駅から蘇我駅までの区間は外房線になります)。つくづく、人の記憶の曖昧さを思い知らされます。その時に、降り立った内房線「八幡宿駅」は、記憶によれば前近代的ないでたちの店舗が数件立ち並ぶだけの駅前風景。埃っぽい風が吹き抜ける、絵に描いたような“田舎の駅”でした。駅まで迎えに来て下さった先輩の自転車荷台に乗り、単調な直線道路を内陸部に向かいました。到着した遺跡発掘現場には赤茶けた荒涼たる土地が広がっておりました。そもそも何も知らないズブの素人にも関わらず、一切説明も無い中での見様見真似の発掘作業であったのですから、当然の如く、担当の職員から「君!君!!そこを掘っちゃ駄目だよ!!」と厳しく叱責されました。場所は、現在の辰巳台団地か、手前の若宮団地となった辺りかと思いますが定かではありません。縄文遺跡だとばかり思っておりましたが、担当の職員が「あそこに見えるのは古墳だ」と言っていたことも耳に残っております。複合遺跡であったのでしょう。
因みに、その時に八幡宿駅まで自転車で迎えに来てくれた先輩は、後に「永井画廊」を興し、テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」で長く洋画鑑定士を勤めた永井龍之介さん(当時高2)であったと記憶しております(ご本人に確認すれば「俺じゃないよ」とおっしゃるかも知れませんが)。夏休みに泊まり込みで発掘アルバイトをしていた歴史研究部のメンバー中に永井先輩がいらしたことは間違いありません。歴史研究部会誌等に寄せる文面等から判断して、高校生の頃から図抜けて文学的・芸術的センスに秀でた方であることは、13歳のヒヨッ子にも充分すぎるほどに伝わりましたので、後にテレビで拝見したときには、「栴檀は双葉より芳し……」だと合点がいった次第であります。
(後編に続く)
前編で、当方の幼き頃の鉄道趣味と房総の鉄路の遠い記憶について述べさせていただきました。後編は、もそっと近い時代のお話です。具体的には、当方が毎日通勤でお世話になっている京葉線についての話題となります。申し上げるまでもなく、房総鉄路の中では圧倒的な新参者であります。現在は流石に熱心な鉄道ファンと申せませんので、あまり注意深く観察もしておりませんから、現状如何なる状況かよくわかりませんが、しばらく前までは「京葉線全通30周年」ヘッドマークを付けた電車が運行されておりました。もっとも、何をもって「全通」なのか、如何様に判断して「30周年」を設定されたのかはよく分かりません。新木場駅から蘇我駅までの開通は昭和63年(1988)12 月1日ですから、ざっと2年前「平成30年(2018)」がそれにあたります。別に、東京駅まで延伸された現況をもって全通とするならば、それは平成2年(1990)3月10日ですから、昨年「令和2年(2020)」が「30周年」になりましょう。もっとも、周年記念ヘッドマークを付けた電車は前職場で京葉線を利用していた2年前にも目にしておりますので、そのあたりは、JRとしても極々大雑把にとらえて設定していたのかと思われます。
何れにしましても、現在の京葉線は極めて複雑な経緯を経て現在の運行形態となった鉄道路線であります。そもそもが、東京湾臨海部の工業地帯に関わる貨物を、ダイヤの建て込む都心部の旅客路線を回避して輸送する貨物専用路線として、昭和40年代終わり頃に計画されました。従って、それは昭和30年代から相次いで進められた千葉県沿岸の埋め立て事業と一体化した事業でもあったのです。当該時点での埋立地造成の目的は大規模工業用地利用に他なりませんでしたから(「京葉工業地域」と称されることとなります)、当初は現在のような「東京駅」発着の旅客営業運転は想定されておらず、現在の「新木場駅」から「東京臨海高速鉄道りんかい線」として再利用されている路線を経由し、「東京貨物ターミナル駅」へと接続する計画でありました(ここから東海道貨物線が更に先へと続いております)。これが、国鉄(現JR東日本)「京葉線」、国鉄(現JR貨物)と千葉県との出資による「京葉臨海鉄道」の設営目的でした。後者は、蘇我駅から内房線から分岐し臨海工業地帯を南下する貨物運搬専用鉄道として現在も運行されています。加えて「西船橋駅」で接続する「武蔵野線」と併せ、「東京外環状貨物路線」を構成する鉄道として位置づけられてもいたのです。つまりは、京葉工業地域と全国市場とをダイレクトに結びつける物資輸送路として計画されていたということになります。
実際、現在、京葉線として利用されている路線中、最初に設営されたのは、昭和50年(1975)の蘇我駅から、新たに設置された「千葉貨物ターミナル駅」[平成12年(2000)廃止]までの区間でありました。外房線から分岐する完全な貨物専用支線としての開業でした。昭和39年(1964)から開始された千葉中央地区の埋め立て事業の結果、同年に発足した「千葉食品コンビナート」に関連する工場群が当該埋立地に進出し始め、千葉中央地区埋立地が京葉工業地域の一翼を担うこととなる時期と符合します。現在は跡形もなく消滅した千葉貨物ターミナル駅ですが、「千葉みなと駅」と「稲毛海岸駅」の間、現在退避路線として高架線が設営されている海側一帯に存在しておりました。京葉線と並行する形で何本もの操車用線路が引かれた広大な駅跡地区画には、現在は、イエローハット・洋服の青山・ちば県民保健予防財団医療センターをはじめとする諸施設が立ち並んでおり、遺構は全く残っていないのではないかと思われます。当該駅から食品コンビナートに向かう2本の引き込み線も設営され、それぞれに「食品北駅」「食品南駅」が存在しておりました。最近まで「山崎製パン」千葉工場前に鉄路が残っておりましたが、今ではそれも撤去されました。開業当初の路線は、蘇我駅から千葉貨物ターミナル駅までであり、そこで行き止まりとなっておりました。それは、黒砂水路より北側の埋め立て事業が、当時正に進行中であったからです。稲毛地区・検見川地区の埋め立てが昭和44年(1969)~同51年(1976)、その北の幕張地区は更に遅れて昭和48年(1973)~昭和55年(1980)でありますから、線路を敷設しようにも、当該地区は未だ海中であったり造成途中にあったりしたからです。
もう一つ、当該区間においては、現京葉線と異なる部分があったことにも触れておきましょう。それは現在の「千葉みなと駅」と「蘇我駅」とを結ぶ経路にあります。開業時の路線は、現在の「千葉みなと」方面から進むと、都川を渡った先で高架線を下り、現在の寒川船溜の脇を抜けて川崎製鉄構内(現在アリオ蘇我の敷地)に入り、川崎製鉄専用線を利用して、交通量の極めて多い国道14号線を平面交差で横切って蘇我駅に到達するルートをとっておりました。現在でも、京葉線の車窓から都川橋梁付近の海側を見ていると、船溜まりに沿って下降していく高架線跡を発見できます。また、現在は道路となっておりますが、蘇我駅構内から福正寺の墓地北側をかすめるように海側に向かっていく軌道跡を明確に追うことができます。当該路線の国道14号線踏切は交通渋滞の大きな要因にもなっておりました。それでも、こうした企業専用線を間借りするという変則的路線形態を採用せざるをえなかった背景には、既に市街地化していた蘇我駅周辺での用地買収が難航し、現在使用している当初計画路線での開業が見込めなかったためと考えられます。当面の回避措置として止むを得ずとられた措置であったのです。おそらく、地域住民にとって貨物専用路線の建設は生活上の利点が存在しなかったことも、計画路線での開業に反対する市民感情となっていたものと推測できます。因みに、川崎製鉄は、将来的に京葉線が貨物路線として全国に繋がることを見越し、全通後に工業製品を当該路線で輸送することを目論んでいたのでしょう。見返りとして、川鉄工場への貨物列車出入構のための待機用線路を本線上に設けることを求めたものと思われます。都川橋梁付近には、現在も不必要な程のスペースが残され、上下線の間にレールが撤去された待機線路跡を相当の距離で見ることができます。川崎製鉄から出入する貨物列車がここで待機し、通過列車をやり過ごしてから、先の仮線路で工場敷地に入り込む計画であったものと思われます。飽くまで貨物専用路線としての京葉線像が浮かび上がります。
これまで京葉線の濫觴について述べて参りましたが、それでは、現状の路線展開と旅客営業形態への方針転換は如何なる経緯を経たものなのでしょうか。最後に簡略にそのことに触れて、現在の在り様に繋げておきたいと存じます。詳述するまでもなく、それこそ、オイルショックを経た昭和50年代(1975年以降)に入ってからの国内経済状況の変化に求めることができましょう。実際のところ、千葉市沿岸の埋立地の土地利用を見れば、そのことは歴然と見て取れます。千葉貨物ターミナル駅から北へ延伸された路線が、至近にある黒砂水路を渡れば、そこに存在する稲毛・検見川埋立地(昭和51年完成)一帯は巨大住宅団地となっており、一切工場用地となってはおりません。黒砂水路以南には今でも一般住宅がほぼほぼ存在しないことと著しい対象をなしております。黒砂水路を隔てた南北の埋立地景観のあまりに大きな相違は、時代の移り変わりを見事なまでに表象していると思われます。併せて、当時の政治・社会情勢も垣間見えます。千葉県が、成田空港への航空燃料鉄道輸送の期間延長を認める見返りに、京葉線の旅客化と東京駅までの乗り入れの実現を要求した経緯があったこと。この間のモータリゼーションの爆発的普及により鉄道貨物需要が激減したことも方針転換を後押ししました。その結果、昭和61年(1986)3月に、第1期として、西船橋駅~千葉港駅(現:千葉みなと駅)旅客営業開始。翌62年(1987)12月に第2期として、新木場駅~南船橋駅、市川塩浜駅~西船橋駅、千葉港駅~蘇我駅の旅客営業が開始。同時に武蔵野線との相互乗り入れも始まりました。この時、懸案であった川崎製鉄専用線を用いる変則的な経路が解消され、当初の計画路線である現状の経路が建設されました。旅客営業であれば地元住民に限りないメリットが生じますから、とんとん拍子で用地買収が進むことになったのでしょう。そして、平成2年(1990)3月、第3期として東京駅~新木場駅間が開業し、現営業形態となったのです。因みに、当区間は貨物路線の転用ではなく、頓挫した成田新幹線用に買収していた敷地や計画等を一部援用しながら東京都心に新規設営した路線となりましたので、第2期開業から2年半程の歳月を要しております。そして、実質的に長く休止状態にあった千葉貨物ターミナル駅も、平成12年(2000)正式廃止となり、すべての線路が撤去されました。それからたかが20年程しか経過しておりませんが、今ではそこに貨物駅があった面影すら感じさせぬ変貌ぶりに驚かされます。京葉線による貨物輸送自体は現在も行われておりますが、現状貨物路線としての機能は大きく減退していると申し上げる他ありません。歌番組での文句ではありませんが「鉄路は世に連れ人に連れ」といったところでしょうか。
こうしてみると、京葉線(そして武蔵野線)に期待された鉄道としての機能は、戦後の時代像を刻々と反映しながら、推移してきたことが理解できます。その意味で、昨今、東京貨物ターミナル駅から羽田空港地下を通って、川崎から更に南へと向かう東海道貨物線が、都心と羽田空港を結ぶアクセス路線として旅客路線利用する計画が浮上していることも興味深いことであります。ところで、利便性という点で、現時点での京葉線終着駅である東京における他路線への乗り継ぎの不便さは誰でも感じるところでしょう。京葉線東京駅地下ホームから地上に出ると、そこは東京国際フォーラム前となります。これでは有楽町駅であるといっても疑義は一切生じますまい。ただ、これには京葉線に関する将来的な青写真が深く影を落としていると思われます。それは、東京駅から新宿駅、更に三鷹駅までの路線延伸が見込まれているからです。京葉線東京駅が既存諸路線とは方向が唯一異なり、東西方向にクロスして建設されているのはそのためです。しかし、東京駅中心付近で交差させてしまえば、流石に延伸経路を江戸城跡(皇居)の真下を通すことはできなかろうと思いますので、それを避けるためには複数の急カーブを伴う迂回路線の建設を強いられることになりそうです。その不都合の回避も一因となり、大きく南に偏った路線計画となったのではありますまいか。その他、総武線の船橋駅と京葉線の新浦安駅とを繋ぐ、総武・京葉連絡線の計画も存在すると聞きます。京葉・総武線の相互の乗り入れ運行が行われれば、それはそれで大幅な利便性向上に繋がりましょう。それらの日は、果たして何時の日となりましょうか。千葉市に奉職するものとして大いに待ち遠しく思います。
なお、最後になりますが、特に「後編」での話題は、本年度8月より開始となる、千葉市の高度経済成長期を扱った特別展とも極めて密接に関わっております。そのための誘い水になってくれることを期待するところでもあります。もっとも、自分自身が京葉線敷設当初の生活地盤が千葉にはなく、旅客営業開始から全線開通時までは千葉市に奉職していたものの、若葉区内の学校勤務であって京葉線との接点が一切なかったこともあり、事実と異なる部分があるかもしれません。その点、お気づきの段等ございましたら、是非とも館メール等にてご指摘いただけましたら幸いでございます。
4月も晦日となり、明日からは「風薫る」とも称される「五月(さつき)」に入ります。俗に言うゴールデン・ウィーク(大型連休)も目前です。そして、“復興五輪”を掲げてスタートし、コロナ禍の影響によって一年延期となった「東京オリパラ」の開催まで、既に100日を切っております。しかし、コロナ禍は一向に終息する気配が見られず、「緊急事態宣言」を発令せざるを得ない都府県も出ております。聖火リレーですら断念せざるを得ない地方公共団体すら表れております。かような状況下で果たして本当に開催するのか、よしんば開催したとしても、国内に留まらぬ我が国を訪れた外国人選手等の感染防止を果たして保障できるのか等々、個人的に疑問符ばかりが脳裏を行き来しております。ワクチン接種の実施状況も本来優先されるべき医療関係者ですら現段階で2度接種が完了しているのは2割弱にすぎないと耳にします。何れにせよ、変異株の増加が顕著な状態にあります。100年前のスペイン風邪でも第2波での死亡率が高くなっていることに鑑みれば、(飽くまでも素人考えにすぎませんが)現況は相当に危機的状況にあるといっても過言ではありますまい。しかし、かような事態に立ち至っても、「東京五輪は何が何でもやり遂げる」という政府のスタンスには変化が見られません。
こうなると臍曲がりの当方としては、誰のための五輪なのかと問い返したくもなります。最早、国民の大多数の待ち望む五輪とはなっておりますまい。いつの間にか「復興五輪」のスローガンも何処へやら。昨今では、終息の道筋すら見えていない「コロナ禍に打ち勝った証としての五輪」などという、空虚極まりなき言葉まで流布する始末です。これでは災害被災者の皆さんも浮かばれますまい。かような状況に鑑みれば、週刊各誌で取りざたされているように、五輪強行の背景には何らか別の要因があるのではないかと邪推するのも極自然でありますし、実際に国民の多くも薄々そう感じているのではありますまいか。勿論、オリパラを目指してこれまで努力を重ねてきたアスリートの皆さんのことを思えば、中止の決断には多大なる断腸の念を伴うことは間違いありません。しかし、日本という国家の構成員である国民全体の福利を考えての判断になりえているのか、増してや、責任ある国際社会の構成員として全世界の人々への配慮ある判断となりえているのか、国民と世界全体に責務を負う政権を担う皆様には、是非とも冷徹に判断・決断をしていただきたいと考える次第であります。私には、かような現状分析を欠いて、希望的観測をもって開戦に及び、形成的評価による科学的根拠に基づく方針変更を加えることもなく、「自らが見たいと念願する」空想だけを頼りに破滅の道を突き進んだ、あの太平洋戦争の時代と今回のこととが重なって見えて仕方がありません。皆様は如何お考えでしょうか。戦後の行き過ぎた開発にも全く同じことが言えるわけですが、鯔の詰まり、あれだけの痛みを経験しても我々の精神構造は一向に変わっていないのではないかと、暗澹たる思いに駆られるのです(公平を期すために申し添えますが、かような状況は決して日本だけの問題に留まらず、英仏共同開発になる超音速旅客機コンコルド開発でも指摘されております。ただ、残念ながら本邦に於いて枚挙に暇なき程に顕著であることは否めますまい)。
百歩譲って、東京オリパラの開会までに国産ワクチンでも開発され、直ちに全国民への2度接種が可能となるならいざ知らず、その可能性は殆ど黒と判別できない程の灰色でしょう。ところで、外国製ワクチンの届くのを今か今かと待ち詫びているのは何故でしょうか。コロナワクチンと申せば、アメリカのファイザー、イギリスのアストラゼネカ等の外国製品ばかりです。国産ワクチンは存在しないのかと疑問に思われるのも当然かと存じます。何せ、世界に「技術立国」を自称する日本です。実のところ、日本の製薬会社も新型コロナワクチン開発を行ってはおります。しかし、悲しいかな、全く追いついていないのが現状であります。感染症拡大からの月日は他国とさほど大きく異なっているとは言えず、開発期間にさほどの違いがないにも関わらずです。国産ワクチン開発がかくもその他先進諸国の後塵を拝しているのは何故でしょうか。かようなことを思い巡らしていたところ、過日当該事項を取り扱った新聞記事に出会いましたので、ご紹介しつつ、その背景について述べてみたいと存じます(「朝日新聞」2021年4月11日)。
まず、前提として挙げられるのが、日本人の伝統的メンタリズムとして予防接種のように体内に異物注入されることへの根強い忌避感があると言います(如何なる民族にも多かれ少なかれ存在すると思いますが)。幕末に佐倉藩等で実施された「種痘」(牛痘を人体に植え付けて抗体を形成する)が、初期において広まらなかった背景にもこうした事情が働いておりましょう。更に、日本では1970年頃から、学校等で一斉摂取していた予防接種を原因とする死亡事故・後遺症事故が社会問題となり訴訟も相次いだこともあり(国が全面敗訴)、それ以降20年間は新しいワクチン開発が停滞する状況が続いたことも大きいと指摘されております(ワクチンギャップ)。加えて、近年におけるSARS(重症急性呼吸器症候群)、MERS(中東呼吸器症候群)、エボラ出血熱といった死亡率の高いウィルス性感染症への対応として、対応ワクチン開発が世界中で急がれた中、日本国内ではこれら感染症の大きな被害を受けることなく推移してしまったことも、今思えば逆風となったと考えざるを得ません。今回の感染症防止が極めて有効に機能した台湾での成功要因は、近い過去における感染症対策失敗の経験から徹底的に学んだことにあると言っても過言ではありません(現状、日本では死者一万人を数えておりますが、台湾は経済活動の抑制など行うことなく、人口が日本の1月5日とは申せ、本邦の1/200の死者11人に抑える圧倒的な成果をあげているので)。そして、何にも増して、人体に直接接種するワクチンには高度な安全性が求められます。従って、開発と安全性の治験を重ねるためには、相当に長い時間と莫大な開発費が必要となります。わが国では、従来から、政府が小規模企業の多い薬品会社に補助を行いワクチンの開発・製造を行ってきました。しかし、上記の如く、学校での一斉摂取が行われなくなったこと、少子化の進展等により、国からの支援は先細りしていく一方であったのです。つまり、私企業である薬品会社には開発意欲の著しい減衰が生じ、結果として国内においてワクチン開発自体が停滞する構造的問題が用意されてしまったことを指摘しております。
こうした中で発生したのが今回の新型コロナウィルス感染症という訳です。詰まるところ、国産ワクチン開発は初手から躓いている状態にあったということです。その前提を一先ず置いたとしても、感染蔓延といった危機的状況において、一国の政府として迅速に対応せねばならないことは言うまでもありません。しかし、その段階においてすら、我が国の対応は緩慢極まりないものでした。コロナ禍の対応では、とかく世界中から非難を浴びたアメリカのトランプ政権でありますが、それでも「ワープスピード作戦」を掲げ有望なワクチン候補に1兆円規模の資金を投じているのです。かような中で、我らが政府はどうだったのかと申せば、この期に及んで開発支援のために割いた当初予算は100億円であったとのことです。勿論、単純な比較は慎むべきとは思いますが、日本のワクチン開発支援資金供給はアメリカのたった1/100に過ぎないことには、最大限の注意を払うべきかと存じます。この差が、ワクチン開発のスタートダッシュに決定的な遅れをもたらしたことが、結果として現在まで暗い影を落としていると報告されております。飽くまでも新聞記事の報告であり、実際に自分自身で確認した訳ではありませんが、「後編」で述べさせていただくことから類推して、決して的外れとは言えないのだろうと考えざるをえません。まさに「当たらずとも遠からじ」といったところでございましょう。
更に、当該記事は、日本という国家の在り方を巡る重大な指摘で締めくくられております。それは、ワクチン開発は、決して日本という国家の国益と日本国民の福利にのみに収斂する話ではないとの指摘であります。国際社会の安定に大きな責務を負う国家であれば、当然にワクチン開発のノウハウを持たざる国家の人命にも十二分なる意を用いていることが求められましょう。換言すれば、ワクチン開発は、国民の安全保障上重大な意味を持つという極々内向きな問題に留まらず、周辺諸国の安全保障にも貢献する意味において国家としての在り方の問題に他ならないということです。国内が如何なる状況にあれ、日本という国家が日常的にワクチン開発を推し進めていれば、今回のような緊急事態に即座に対応し、世界に先駆けて周辺諸国へワクチン提供を開始することを通じて、広く国境を超えて人々の生命保障に貢献する重責を担えたのではないかとの指摘です。その点で、我が国のワクチン開発政策は、諸多に事情があるにせよ、国内にしか目を向けてこなかった帰結であるとの誹りは免れますまい(平たく言えばこれは一企業に丸投げすることではなく国家戦略上の問題だということです)。アメリカやイギリスのメーカーによる自国に限らない日本を含めた国家へのワクチン供給は、勿論メーカーの企業経営に帰すべきことでありながら、先進国としての国際社会への責任ある貢献といった側面が極めて大きいということです。それによる国家としての信頼感は、高まりこそすれ、決して低まることはありますまい。それが、世界に冠たるリーダーシップを発揮する国家の在るべき姿ではないか。かように私は考えますが如何でしょうか。後編は、日本人「ノーベル賞」受賞の話題を通じて、更に話を広げたいと存じます。
(後編に続く)
(株)旭化成名誉フェローである吉野彰が「ノーベル化学賞」を授与されたのは、今を遡ること2年前の平成31年(2019)のことでした。受賞を喜ぶ吉野氏の屈託のない満面の笑顔が新聞やテレビで大々的に報道されたことも記憶に新しいところです。受賞理由は「リチウムイオン電池」の開発が新たな生活様式を生み出すことに大きく寄与したことにあります。当方のような根っからの文系人間には皆目見当もつきませんが、新聞報道によればそれは以下のようなものだそうです。
「リチウムイオンが、充電時には正極(+)から負極(-)へ、放電時には負極から正極への移動することによって機能する電池。電極の劣化は少なく、繰り返し充電しても能力が落ちにくい。電圧は約4ボルトで、1.5ボルトのアルカリ乾電池の約2.7倍。溜め込む電気量も多いため、小型軽量化を可能とした。」(2019 10月10日「毎日新聞」) |
この電池は、申すまでもなく我々が日常使用するスマートフォンやパソコン等のモバイル機能に不可欠のものであり、正に現代社会を支える画期的な発明であることだけは容易に理解できます。日本人としては、1949年湯川秀樹博士による初の物理学賞受賞以来、平成30年の本庶祐受賞(医学生理学賞)に次いで27人目の快挙となります。そのうち自然科学3賞(医学生理学・物理学・化学)受賞は24人で世界6位(2001年以降に限定すれば18人となりアメリカに次ぐ2位を誇ります)。しかし、天邪鬼の私としては、「技術立国日本の精華」などと自惚れている場合ではないと強く思っております。周辺からは「中国は大国だと言っているがノーベル賞(自然科学3賞)受賞者は日本人に比べてずっと少ないではないか!」と嘯く声が耳に入って参りますが、そんな呑気な認識は早々に改めるべきでしょう。その理由について以下に述べてみたいと存じます。現在の優位が何時まで続くのかについて、私は大いに悲観的な認識に立っております。正直なところ、楽観的でいられる要因を見つけることが難しい状況にあると考えるのです。
吉野氏は昭和24年(1948)生まれ。受賞時には71歳でいらっしゃいました。前年の本庶氏しかり、受賞者が軒並み高齢であることを不思議に思われませんでしょうか。ノーベル賞は老齢功労賞ではありません。それには明確な理由が存在します。研究の着手から相応の成果を導き出すまでに相応の時間が必要だからです。地道な「基礎研究」を通じた画期的な「発見」から、発見に基づく開発が行われ、その果実としての「受賞」に到るまでには、概ね30年近くの歳月を要するのが通常です。吉野さんの場合も1980年代の基礎研究への着手が実を結び受賞に至りました。つまり近年の日本人受賞研究のほぼ全ては、「基礎研究」に潤沢な資金が投じられていた時代の遺産、つまり「昭和の遺産」に他なりません。吉野さんの発見は、電気を通すプラスチックである「ポリアスチレン」と出会ったことが契機でした。常識外れの物質との出会いに好奇心をくすぐられ、後に電池の電極への利用に照準を絞った研究を進め、幾多のトライ&エラー連続といった紆余曲折の末の結実だったのです。決して一朝一夕の成果などではないのです。素材探究という地道な「基礎研究」の賜物であることに気づくべきかと存じます。
これまで幾度となく用いた「基礎研究」とは如何なる研究なのでしょうか。それは、自然の原理の発見や全く新しい物質の創生などの「0から1を生む」研究を言います。そして、基礎研究こそが研究者の純粋な探求心に由来する研究なのであり、その成果にこそ「画期性」の有無が存在しているのです。その点で、端から事業化(金儲け)目的が明確な「応用研究」とは異なります。そして、結果的に大きな利潤に直結する応用研究の望ましい成果とは、「基礎研究」のそれを基盤とした独創性ある製品であるか否かにかかっているのです。つまり、金儲けに直接繋がらない「基礎研究」の充実こそが、これまでの「技術立国日本」の存立基盤でありました。しかし、我国の「お家芸」と言うべき「基礎研究」に危機が迫っています。朝日新聞(2019年10月18日)に、現代日本のお寒い研究事情が報道されておりましたので、ここでご紹介いたしましょう。
それによれば、基礎研究の提出論文数が、平成7年(1995)、アメリカに次いで世界2位であった日本でしたが、10年後の平成17年(2005)に、その数で中国に抜かれ、更に10年を経過した平成27年(2015)に世界4位にまで落ち込んでいるとのことです。しかも、当該年度の日本の論文数5万件に対し、今や世界2位に浮上した中国論文数は日本の5倍にあたる25万件にまで達し、1位のアメリカに肉薄しているのです。皆様の中には「数じゃない!論文の中身の問題だ!!」とお考えの方が多いことでしょう。そこで、次に論文の中身(質)を問題にしてみましょう。論文の価値を計る指標となるのが、他研究者に当該論文が引用されている数であります。それによれば、日本の引用論文数は平成16~18年度(2004~06)平均で、世界4位であったのに対し(1位アメリカ・2位イギリス・3位ドイツ)、10年後の平成26~28年度(2014~16)平均では、何と9位にまで下落しております。今や中国はアメリカに次ぐ2位に達し、日本はイタリア・フランス・オーストラリア・カナダの後塵を拝している有様です。「平成の遺産」として令和の時代に花咲く基盤となるべき「基礎研究」。それが平成以降、我国では加速度的に衰退しているのです。今言えることは、恐らく30年後に日本人による自然科学分野におけるノーベル賞の受賞は、相当に難しい事態に立ち至るであろうということです。
話題はノーベル賞から外れますが、私の敬愛する東北大学文学部教授の佐藤弘夫(日本中世宗教思想史)による著書『起請文の精神史』(講談社メチエ)「あとがき」は、自然科学における基礎研究衰退の予兆が、社会科学の分野では2006年に既に顕在化している実態を伝えます。2004年の国立大学の国立大学法人への衣替えを機に、大学内部では如何に社会貢献をすべきか、如何に産業界との連携を深めるかが日々議論されるようになったこと。こうした情勢の中で文系学部が肩身の狭い思いを強いられていること。元来金儲けとは無縁で伝統的に地味な基礎研究を重視してきた文学部はとりわけ冷たい視線に晒されていること等々(佐藤氏は文学部とはあたかも個性的な職人が寄り集まった中小企業とも言うべき性格をもっているとも述べています)。そして、こうした状況は私にとって身近な千葉県内総合大学にも、ひたひたと確実に押し寄せていることを「肌感覚」として実感します。人材育成を担う教授の多くが、人員削減と研究以前の雑務(研究費自己調達)に忙殺され疲弊されているのが偽らざる状況です。最も驚いたことは、昨年度のことになりますが、ゼミ授業で学生が提案する資料コピー代まで担当教授の個人研究費による自弁に変更されたと知ったことでした。正直なところ「果たしてここは教育機関なのか?」との思いを禁じ得ません。誰がかような方針を決めているのでしょうか?これでは、ただでさえ削られる研究費を護るために、ゼミの受け入れ学生を削減するか、レポート枚数を少なくするように学生に求めるかしかありますまい。本末転倒この上なきことが、教育界ですら現実に行われていることに驚愕いたします。
問題の所在は、社会科学のおかれた状況にわかりやすい形で覿面に表出していますが、一事が万事であると思わざるをえません。魹のつまり目の前の「金儲け(資金獲得)に繋がるかどうか」だけが問題にされているのです。そうした価値だけが大手を振るい、それに直結しない研究・学問は価値の有無さえ問われることなく弾き出される精神構造ができあがりつつあります。佐藤氏は「人文科学を育む土嬢である学問的で根源的な思考よりも、即効性をもったノウハウのほうがはるかに重宝され重視される時代になってしまった」と述べています。「人文科学」を「自然科学の基礎研究」に置換すれば、今日の自然科学分野における基礎研究軽視の動向と軌を一にすることが理解できましょう。企業は競争に勝ち抜くための目先の製品開発に傾注し、金儲けには直結しない基礎研究の予算を大幅に削減しているのが現実です。それは大学でも大同小異。こうした動向こそが、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、そして日本における中曽根内閣あたりを端緒とし、1970年代後半から力強く推進されるようになる「新自由主義的(ネオリベラリズム)」思想に基づく諸政策推進の成れの果てに他ならないと考えるのです。確かに、こうした施策が当時の弛緩した社会へのカンフル剤として機能した面があることを否定しようとは思いません。しかし、昨今の状況は、負の側面、弊害の部分ばかりが露呈しているように思えて仕方がありません。今の在り様が、将来に渡たって更なる「じり貧」を惹起する、そんな行く末に気づかない企業など存在しないと信じたいところであります。ただ、百歩譲って、現状における企業・独立行政法人としての体力にも、それを許容せざるを得ない実情があるのかもしれません。
こうした中で、日本の明るい未来を描けと言う方が正直難しいのではないでしょうか。事実、国内の研究体制に希望を見いだせない理系の優秀な研究者の多くが、日本を離れて国外の大学や企業へと流出しております。じっくり基礎研究に取り組みたいと願う志の高い研究者ほど、潤沢な資金と恵まれた研究環境にある国外の研究機関を嘱望するのが当然の道理でありましょう。諸外国もそのことを知って盛んに引き抜きを行っております。そこには国境などありはしないのです。そして、教育界においても、子ども達に明るい未来像を語ることが、これからの時代に果たして可能か否かを問い直してみる必要もあろうかと存じます。大人が自信をもって明るい未来への希望を語れない、そんな国家は決して健全とは申せますまい。初任校の離任式で生徒から告げられた「先生からは沢山の夢を分けてもらいました」という言葉を、自身の教職生活における最大の宝としてきたロートルとして、そのことに深く憂慮を覚えます。そう言ってくれた生徒も、今では50歳を過ぎました。そして日々元気に仕事をし、明るい家庭生活を営んでくれています。
最後になりますが、こうした現実を踏まえ、危機感に基づく政策見直しに努めようとする政権の気概も残念ながら見えて参りません。しかし、改めて申し上げますが、その代償は甚大だと考えます。将来における独創性ある製品誕生の阻害要因として、未来の我が国の国際競争力大幅低下を惹起するのはほぼ確実でしょう。今回のコロナ禍における国産ワクチン開発の停滞に鑑みれば、既に現実化している問題とさえ申せましょう。今さえ良ければよいのか。「子孫に美田を残す」との美徳すら置き去りにする「精神の貧困」に暗然たる思いです。単なる取り越し苦労であれかしと心底願っておりますが、正直、還暦を過ぎて曰く言い難き憂鬱で心が晴れません。
令和2年度のゴールデンウィークも一陣の風の如くに過ぎ去りました。関東での東京都を中心にした「緊急事態宣言」発令も、その期限までを残すところ4日ほどですが、どうなることでしょうか??宣言の延長となるか否かは本稿執筆中には未だ未確定でありますが、2週間かそこいらで納まるものなのか、正直懐疑的な思いばかりであります。何れにいたしましても、蔓延防止対策が広く行われたGW中、昨年に引き続いて遠出を御控えになられた皆様が殆どでございましょう。当方は、例年、人混みを見に行くようなこの時節は遠出しないことをモットーとしておりますので、以前に書いたように本年も恒例の庭木伐採と除草に費やすこととなりました。大いに草臥れましたが、お陰で庭がこざっぱりとして大いに気分が宜しいものです。体力は大いに費やしましたが、精神的には大いに潤った連休となりました。さて、今回は、本館において4月から新たに立ち上がった活動を2点ほどご紹介させていただき宣伝を兼ねたいと存じます。
その一つ目です。本館は「本館の使命(ミッション)」として、幾つかの大きな柱を立てており、その何れも本館が事業を推し進めるうえでの指針といたしております。ホームページ内にも同名コンテンツを掲げておりますので、もし、宜しければ、是非一度ご覧になっていただければと存じます。何事に取り組みにも、何より重要なことは、その事業・活動を通じて何を目指すのか、十分に吟味してその中に据えて掛かることだと思っております。その中に、以下の項目も掲げております。
〇学校教育と強固な連携関係にある博物館次代を担う子どもたちへの郷土史への理解を深めるために、館内学習機能の充実と出前授業などアウトリーチ活動の充実に努めます。 |
私たちは、千葉市内にある公共施設としての博物館として、市民の皆さんに地域の来し方(歴史)や地域社会の在り方(民俗等々)について、広く親しみをもって理解を深めていただき、自身の生活空間である千葉市への誇りをもっていただきたいとの願いを込めて活動しております。そして、特に我々が大切にしたいのが、本市で生まれ育つこととなる「子供」達の存在です。その意味では、子供達が集い学ぶ教育機関としての「学校」との関係を深めることこそが肝要と考えております。端的に申せば「教育普及活動」の重視ということに他なりません。ところが、そう言いつつも、従来は、飽くまでも児童生徒の皆さんが本館へ来館されることを前提とした、基本的に内向きの活動を主としたものが中心でありました、また、本館での学習に供する「教材」も、必ずしも児童生徒の学習活動に則したものとはなり得てはおりませんでした。どちらかと言えば大人向に傾斜したシートであったのです。つまり、目指すところと実態との間に大きな乖離が存在することは否めない状況にありました。そこで、前朝生館長が課題解決に向けて永く地道に働きかけてこられた成果が実を結び、ようやく昨年度より本館でも「エデュケーター」の配置が決まりました(博物館に「教育普及活動」に専門的に携わるエデュケーターを配置することは極々一般的であり、配置されないことが稀であることを申し添えておきたいと存じます)。具体的には小学校担当1名(染谷一道)、中学校担当1名(平成司)の計2名であります。ともに、千葉市公立学校で社会科教育についてキャリアを積んでこられた教員OBであります(やはり「餅屋は餅屋」だと考えます)。共に、週2日の勤務であり、本館としましては未だ必要充分なる条件が満たされたと認識しておりませんが、それでも配置して頂けたことは、限りなく大きな一歩であると存じております。
そこで、昨年度前半は「館内展示」「館周辺史跡」を題材とした学習機能の充実を最優先に取り組み、その学習活動に関わる「学習シート」の整備をすすめました。特に、小中学校の団体見学(社会科見学等)で来館される機会の多い本館では、その充実が不可欠です。以下、目次のみを一覧で挙げさせていただきました。具体的な内容につきましては、本館ホームぺージ内のコンテンツ「学習活動」に全てアップして御座います。そこには、「教師用解説」「解答」も付属してありますので、本館にご来館される先生方は、必要に応じて学校で印刷をされてご活用ください。プリントによっては、学校での事前・事後学習としての利用も可能かと存じます。目次中【公開終了】とあるのは、本館開催の特別展・企画展の内容に関しての学習シートでありますので、会期終了とともに終了としたものです。つまり、今後もそうした期間限定の学習シートも作成していきますし、これ以外の学習シートも加えていく等、更新を欠かさないようにして参ります。是非とも、学校の先生方や、児童生徒の皆さんからも「こんな学習シートがあったらよい」といったご意見をお寄せいただければ幸いです。双方向の遣り取りができることが望ましい在り方だと思っております。ご意見をお待ちしております。昨年後半に本館にいらした学校にも多数ご利用をいただいており、指導上に役になったと先生方からも大変にご好評をいただいております。ホントウは、児童生徒の皆さんからのご意見もお聞きしたいところではあります。今後とも、学校現場からの様々なご意見をお待ちしたいと存じております。
さて、本来は明日の後編の最後に述べようと思っておりましたが、前編の内容が若干少なくなり、前後編のバランスに著しい不均衡が生じそうですので、お話しの途中ではございますが、「閑話休題」にて前編最後に「カットイン」の形で記載をさせていただきます。それは、先週の「館長メッセージ」宣伝ツイッターへコメントをいただいた「小太りじいさん」様への御礼であります。前回の内容は房総の鉄道に関するものでありましたが、そのことに関して当方の知り得なかったことをご教示いただきました。それは、「千葉気動車区」内の稲毛駅よりに蒸気機関車反転に使用する転車台(ターンテーブル)が存在しており、千葉駅まで到着した蒸気機関車がここまで牽引されて戻り(ディーゼル機関車が牽引していたのでしょうか?それとも自走してきたのでしょうか?)、反転して千葉駅に戻っていたとのことです。ご存知の通り、現在の千葉市民会館の位置に存在した千葉駅が現在位置に移転し、総武線と房総東線(後の外房線)とが千葉駅から二股に分かれる形式になったのが昭和38年(1963)のことであります。それ以前には、東京方面から外房・内房方面へと向かう列車は千葉駅で一度スイッチバックしなければならなかったのです。その不都合を解消するための路線付け替えと千葉駅の移転であったのでしょう。しかし、その反面で現在「千葉駅南口」あたりに存在した「千葉機関区」(京都の梅小路機関区のような大型の扇形機関車庫と転車台が存在しました)は、昭和36年(1961)には廃止され撤去されました。まぁ、蒸気機関車の時代の終焉を見越した対応でもあったのでしょうが、その後も昭和40年代半ばまでは旅客・貨物ともに蒸気機関車が活用されておりました。昭和38年の千葉駅移転と千葉機関区廃止後に、千葉駅周辺での蒸気機関車の反転を要する場合、何処で作業をしていたのか、長らく疑問でございましたが、ようやくその疑問が氷解いたしました。まさか、千葉気動車区内に転車台が存在していたなど知るよしもございませんでした。佐倉駅にも転車台があったそうですから、そこまで長い距離を移動していたのかと勘ぐってさえおりました。西千葉・稲毛駅間であれば、新設千葉駅からも極々至近でありますので納得でございます。この場をお借りして「小太りじいさん」様には御礼申しあげます。誠にありがとうございました。
《「学習シート」目次(令和3年4月現在)》 ☆小学校3年生用 ☆【公開終了】
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前編で述べさせていただいたエデュケーターの活動について更に続きます。ある意味ではこれからが本丸のお話しになります。昨年度の館内外での学習シートの作成に一区切りを付け、令和3年度からより積極的なアウトリーチ活動を開始することを目途に定めました。そして、昨年度後半からはエデュケーターを中心に館内にプロジェクトチームを編成し、小中学校に向けての出張出前授業のプログラムの検討を進めて参りました。「何でもご依頼ください」と募集を掛けても、学校現場からしてみれば、実際には何をどのように依頼するべきか困惑しようかと想定し、小中学校向の「出前授業プログラム」幾つかを本館で作成し、学校現場に提示させていただけば利用もしやすかろうと考えました。勿論、「新学習指導要領」を踏まえた内容でありますし、一人一台タブレット配布(ギガスクール)も考慮した授業にも意を用いました。その結果として、小中学校用それぞれ9つのプログラムを作成。新年度になった4月中に「千葉市小中校長研修会」「千葉市教育研究会社会科部会総会」にてお時間を頂き、趣旨・内容についてご説明申し上げたところです。以下に各授業タイトル・授業内容概略を一覧にして掲載をさせていただきましたが、こちらにつきましても本館ホームページ内「教育活動」に、各授業プログラムの詳細についてアップしてございますので、是非ともご確認ください。授業プログラムは、歴史的な内容だけに留まらず、千葉市の社会科的な理解に繋がると考える内容をも含んで構成いたしました。従って、地理的・公民的な内容も一部含んでおります。また、小中学校で同じ題材を取り上げている場合もございますが、発達段階を考慮したアプローチをしております。特に中学校歴史的分野では、地域の題材を用いて日本史全般(各時代社会構造等の理解)への理解に到達できる構成としております。勿論、これら9つの学習プログラム以外の授業の要望にも、可能な限り応じて参りたいと考えております。ただ、如何せん、小中学校担当のエデュケーターは、それぞれ週2日の勤務であり、物理的にお受けできる数的な限度がございます。その点では本年度ご依頼いただいた全てのお応えできるか少々心許ない部分がございます。ご希望が多くて困るのはこちらとしても大いに望むところでございますので、次年度以降のエデュケーターの勤務日数増等への働きかけを漸次進めて参る所存でございます。
実際のところ、本稿執筆の4月末日現在、1週間ほどの間に既に10校程からのご依頼を頂いております。誠にありがたいことと存じます。ただ、こちらからの説明不足の所為もあり、一点確認をさせていただきたいことがございましたので、ここで付記させていただきます。本出張出前授業の目的は、飽くまでも児童生徒の皆さんに、千葉市の歴史等についての「興味を持ってもらえること」「理解を深めてもらうこと」でございますので再度ご理解を下さますようお願いいたします。「若手の先生方の授業力を高めるためのお手本を示してほしい」「社会科教育の授業実践の指導をして欲しい」との御依頼がございましたが、結果的にかような目的に資することがあるにせよ、本館の出張出前授業の趣旨とは異なりますので、ご承知おき頂ければ幸いです。その役割は主に「教育委員会学校教育部指導課」の守備範囲となりましょう。または、初任教職員に配属される「初任者指導教員」へご依頼いただくのが筋であろうかと存じます。改めまして、その点のみご確認をさせていただきます。
《「小学校:出張出前授業」プログラム(目次)》
(1)3年 『わたしの学校はどんなところにあるのかな?友達に紹介しよう』 |
《「中学校:出張出前授業」プログラム(目次)》
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ようやく二つめに入ります。本館ホームページ内のコンテンツ「活動日誌」中に「研究員の部屋」なる項目がございます。頻繁に更新しておりますので、大体トップページの「お知らせ」に掲示されておりますから、こちらからアクセスされる機会は少ないかも知れませんが、外山信司統括主任研究員、白井千万子研究員を主たる執筆陣としたコラム連載は大変にご好評をいただいております。特にシリーズ「千葉氏ゆかりの地をめぐり(千葉市内編)」、江戸時代の旅、市内開催の祭礼等々に関する民俗学的なアプローチには大いに学ぶところが多く、当方も毎回の新作登場を大いに心待ちにするところです。そして、今回、本年度より着任された遠山成一研究員による新シリーズ「中世の城跡をめぐる」がスタートいたしました。遠山研究員は、千葉県教育委員会による「千葉県城郭悉皆調査」の調査員でいらっしゃいましたし、「千葉県城郭研究会」の中心メンバー(事務局長でもいらっしゃいました)として県内各地の中世城郭についての論考を数多く発表されるなど、中世城郭研究者として夙に名高き方でございます。当然の如く研究者としての人脈も幅広くお持ちであり、昨今NHKに引っ張り蛸の奈良大学教授千田嘉博教授ともお親しく、城郭フリークの春風亭昇太師匠との対談もされております。それだけに留まらず、かつて当方も末席を汚させていただいた「千葉県の歴史の道調査」の調査員としてのご活用を契機に、交通史への造詣も深くされていらっしゃいます。その意味で、歴史地理学的な研究アプローチから中世の権力の在り方に肉迫する研究を自家薬籠中のもとされておられると申しても決して過言ではありません。それは、昨年度の千葉市・千葉大学公開市民講座「千葉氏の領域における交通と流通 -水と陸でつながる人・モノの中世-」にて講師をお勤めいただき、「内海を臨む都市 千葉 -中世水陸交通の視点から-」の御講演をいただきましたことからも夙に明らかでございます(御講演内容は「千葉氏ポータルサイト」に動画・講演録の形で公開しておりますので是非是非ご覧くださいませ)。
今回の新連載の開始は、土気・東金を根城に戦国期に国衆として、両総の境目に覇をとなえた両酒井氏の濫觴の地となったと伝えられる、市内若葉区にある「中野城」を取り上げておられます。別に、その候補の地として市原「中野」の可能性にも触れられておりますが、そのことは上総国・下総国の境目の地を抑える酒井氏の在り方を踏まえたご指摘であり、その領国境を流れる村田川の水運等をも視野に入れた極めて興味深い内容となっております。現在「中野城」として比定される若葉区内の城跡につきましても、鹿島川とその最下流に位置する原氏の本城の一つとしての臼井城との地勢的関係を基に考察されるなど、正に歴史地理学的なアプローチが際だっております。凡百の所謂「お城案内」が、単なる縄張解説に終始していることと比較して、更に広範なる各中世城郭間の関連性へと思考を誘われるコラムともなっております。その点で深い知的好奇心を刺激される内容だと確信しております。今後の展開が大いに楽しみになって参りました。皆様も是非ともご期待いただければと存じます。
今回は、新年度になってからの本館の活動に関しての新たな動きについて、前後編の2回にわたってご紹介をいたしました。今月末26日(水曜日)からは小企画展『陸軍気球連隊と第2格納庫 -知られざる軍用気球と技術遺産ダイヤモンドトラス-』が開催となります。本館1階を会場といたしますが、相当に濃い内容となります。昨年惜しまれつつ解体された川光倉庫の一部部材も展示致します。更に、近々に例年6月に実施しております『千葉氏公開市民講座』のご案内もさせていただけるものと存じます。『千葉市制施行100周年』を記念する年度としての令和3年度、コロナ禍で様々に厳しい状況下ではありますが、当館としてできることを粛々と着実に実施して参る所存でございます。是非ともご期待くださいますよう御願い申しあげます。
現在、NHKで放映中の大河ドラマ『青天を衝け』は、「近代日本資本主義の父」と評され、また昨今はその著作『論語と算盤』を通じて広く企業経営者からも企業家としての在り方の指針ともされる、「渋沢栄一」という人物の歩みを描こうとする物語であります。本稿を執筆しているのは4月末ですが、5月半ばの時点での放映は、恐らく尊王攘夷思想にかぶれた過激な幕末志士から、平岡円四郎の誘いに乗って一橋家の家臣となり、更に仕える徳川慶喜が宗家を相続し後に征夷大将軍となったことから計らずも幕臣となり、自ら抱く理念と今在る自らの現実との相克に煩悶している頃かもしれません。物語展開が早いようですので、もしかしたら慶喜の異母弟にあたる徳川昭武を主とする訪欧使節団の随行員に選ばれ、その悩みを忘れるかの如く、嬉々として渡仏する頃でしょうか。
当方も、正直なところ、渋沢栄一については「近代日本資本主義」の成立に多大なる貢献を為した人物、大部となる『徳川慶喜公伝』(平凡社:東洋文庫)や未完となった松平定信の評伝『楽翁公伝』(岩波書店)を編集した人物くらいの認識しかなく(松平定信は渋沢が心底尊敬した人でありました)、その人となりと業績についてはほとんど蒙昧のままに馬齢を重ねて参りました。その反省から、昨今はほとんどマトモに接して来なかったNHK大河ドラマ『青天を衝け』を、今年度は通しで視聴しようと決意したところであります(数年前の『真田丸』以来のことです)。併せて、時流に乗じて刊行される渋沢関係の書籍のうち、これはと思われるものには是非とも接してみようとも思っております。そして、時あたかも「埼玉県立歴史と民俗の博物館」と「NHK埼玉放送局」との共催にかかる標記特別展が、前者を会場に開催されておりますので、4月初めにこれ幸いと出かけて参りました。その全容をお伝えすることは到底当方の手に余りますので、その中で大いに感じ入ったことを簡単にご紹介したいと存じます。会期は5月16日(日曜日)までであり、本日の段階で会期は残すところ4日しかございません。もっと早くにご紹介できれば宜しかったのですが、諸々あって押せ押せになってしまいました。誠に申し訳ございません。先月に「緊急事態宣言」が発令された都府県につきましては、更に今月末までその期間延長がされました。我々の千葉市や埼玉県は「蔓延防止等重点措置」地域に入るため、一律閉館の対応はしておりません。従って、埼玉県でも会期終了まで開催されることと存じます。もっとも、こうしたご時世ゆえに是非にとお薦めするわけには参りませんが、少なくとも無知蒙昧な当方にとっては、極めて価値ある特別展であったことをご報告させていただきたいと存じます。以下に「図録」目次を引用させていただきましたので、特別展の概要をおつかみいただければと存じます。
プロローグ 原 点 血洗島 第1章 転 機 一橋家家臣から幕臣へ 第2章 改 革 明治維新政府官僚 第3章 経 済 資本主義の礎 第1節 企業を起こす 第2節 企業を活かす 第4章 社 会 社会事業に生きる 第1節 福祉 第2節 文化 第3節 教育 第4節 美術 第5章 平 和 民間外交 エピローグ 遺 産 論語と算盤 |
展示は、幕末の天保11年(1840)(翌年から老中水野忠邦による改革政治が行われます)武蔵国榛澤郡血洗島村の裕福な農民の家に生まれた渋沢が、如何にして資本主義経済の寵児となるのか、また、それに留まらない多彩な(ただし根っ子は一つの)生き方についても豊富な資料を用いて、時間の流れと各テーマとを織り交ぜながら追いかけ、渋沢という人物の全体像に迫ろうとする内容となっております。もとより、昭和6年(1931)11月11日鬼籍に入った、91年にも及ぶ生涯の全貌を描くことは流石に困難を伴います。しかし、本展では生涯に渡る活動を、それぞれテーマ毎に的確に要点を押さえて迫っていると考えます。当方は、最後まで拝見させていただき、大きな感銘を受けたことを白状せねばなりません。因みに、渋沢が息を引き取った11月11日は、彼が生涯希求して止むことのなかった「国際平和」を記念する日であるとのことです。物故した日付にすら、何事も投げ出すことなく粘り強く事を成し遂げていった渋沢栄一という人物の、執念ともいえる粘り腰を感じさせる、そのような人生の幕引きであるように思います。流石であります!!本稿では、その中で特に大きな印象を受けた第5章の内容について主に述べたいと存じますが、それと関連して「近代日本資本主義の父」としての側面に、まずは少しだけ触れておきたいと存じます。
近代日本における資本主義経済の確立に貢献した経済人や企業等を挙げることは容易でありましょう。彼の盟友でもあり、時にライバルともなった益田孝(「鈍翁」と号した稀代の数寄者です)の関係する「三井財閥」(経営基盤は「三井同苗」呼ばれる江戸時代以来の同族集団)、岩崎弥太郎由縁の「三菱財閥」、安田善次郎由縁の「安田財閥」(余談ですがJR鶴見線「安善駅」は前身となる鶴見臨海鉄道を安田善次郎が支援したことに因んで命名されました。東大の「安田講堂」も彼の寄贈に掛かる建造物です)等々であります。それらの人物と渋沢とは明らかに同等、乃至は彼らを凌駕するほどの活動と貢献をした経済人であることは間違いありません。しかし、彼らと一線を画するのは、渋沢は自らの名を冠するような「財閥」を形成しなかったことです(現存する「渋沢」名を冠する企業は唯一「澁澤倉庫」のみ)。つまりは、自らの広範な企業活動を通じて、その莫大な利益を「私財化」することに邁進することがなかったことにあると考えます。渋沢の求めたものは、民間企業の活性化を通じた、国家経済の基盤となる農業経営の安定化をも広く包含する、国民生活の全体的な向上にこそあったと申せましょう。従って、渋沢は自らのよって立つ主義主張を「資本主義」にあらず、「合本主義」と唱えました。それは「公益を追及するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本とを集め、事業を推進するという在り方」(木村昌人『渋沢栄一-日本のインフラを創った民間経済の巨人-』2020年ちくま新書)を意味します。ただ、これだけでは、単なる株式会社組織の説明だろうと思われるかもしれませんが、渋沢の企業活動の根底には「公益に資する」ことが中核に厳然と据えられていることを見逃してはなりません。私的欲求の充足を一義とはしていなかったということです(ここに「資本主義」を称することのなかった所以があると思います)。そして、そのことが、特別展の4・5章に取り上げられる、そして当方が最も心打たれた、生涯に渡って取り組まれる「社会事業」、戦争を回避し平和を希求しようとする「民間外交」に一貫して尽力する、その「生き様」に最も端的に表出していると考えるのです。
それにしましても、生涯に創立に関わった企業数が500にも及ぶという渋沢です。従って、明治以降の歴史を綴った書物を読んでいると、思いもよらぬところで渋沢の名に遭遇することがあります。しかも、極々頻繁に。直近では、武田尚子『ミルクと日本人-近代日本の「元気の源」-』2017年(中公新書)で出会ったばかりです。渋沢が、明治の牛乳・牛肉食の普及に牧畜業の振興を通じて深く関わっていたことであります。そして、さもありなんと深く合点の行く思いがいたしました。幕末の洋行の際に、横浜からマルセイユに向かうフランス郵船の洋上で、毎食のように供されるバターやミルクに大いに舌鼓を打った渋沢がいたことを知っていたからです。勿論、渋沢による起業の意図は「自分の好物で一儲け!」といった短絡的発想にはありません。滋味豊かな糧食を広めることにより「国民の健康の維持向上に寄与すべし」という「公益」の追及にこそ、その根源を求めるべきことを付記させていただきたいと存じます。因みに、余談ではございますが、この時に渋沢が支援した「牧場ビジネス」の中核を担った「耕牧舎」の経営を担ったのが新原敏三という人物であり、作家芥川龍之介の実父に他なりません(母方実家を継承したため「芥川」を名字とします)。彼の『点鬼簿』等の作品で回想される幼少期のことについては、「僕の父は牛乳屋」といった記述から既知のことでしたが、まさか渋沢とかくも昵懇の間柄にある人物であったとは!!お恥ずかしながら本書にて接するまで知ることがありませんでした。渋沢栄一、正に恐るべしであります。
さて、本特別展で、もっとも当方が心打たれたのが、前編で記述したように第4・5章の内容でありますので、後編ではその点について触れてみたいと存じます。即ち、広範なる「社会事業」へ向ける眼差し(社会的弱者自立へ向けての救済システム構築)、平和を希求することを目的とした「民間外交」に関する内容です。以下、主に第5章「平和 民間外交」について述べさせていただきます。まず、「図録」第5章の扉に掲げられる「概説」をここに引用をいたします。
晩年の栄一の活動では、国際平和活動が特筆されるが、実業化時代からすでに目を向けていた。 元アメリカ大統領であったグラント将軍やノーベル文学賞の詩人・タゴール、のちに中国国民党総裁となる蒋介石、イギリス救世軍創立者のブースなどを飛鳥山邸に招待して交流を深め、上野公演にグラント将軍夫妻の植樹碑、下田玉泉寺にはアメリカ総領事ハリス顕彰碑などを建立。交際連盟協会を設立し会長として、国際連盟精神の普及に努めた。 また、明治41年(1908)には、アメリカ太平洋沿岸の商工会議所の実業団を日本に招待した。これは前年、日本人移民排斥運動が起きたことから、日米の親善と相互理解が必要という栄一の考えであった。翌年には、アメリカから招待を受け、渡米実業団として全米各地を視察して親善交流を果たし、その後もサンフランシスコ万博、ワシントン軍縮会議に出席し、国際協調を図るためのロビー外交を行っている。 最晩年の昭和2年(1927)には、排日移民法の成立による関係悪化を危惧したシドニー・ルイス・ギューリックの求めに賛同し、日米人形交流事業を行い、アメリカから友情人形、いわゆる青い目の人形が、日本からは答礼人形が贈られた。 このような平和外交の活動により、ノーベル平和賞候補に2回推薦されるなど、栄一は平和を希求する民間外交官としての顔を持っていた。 |
これをお読みいただければ、渋沢が、本来政府が行うべき役割を「一民間人」として広範に担っていたことが理解できましょう。そして、そのことは同時に、現在の我が国に、かような高邁なる精神の下に私財を投げ打ってまで「公益」に尽くそうとされる「企業人」がどれほど存在していようか、と思いにもつながることでもあります。勿論、渋沢は、それが日本の「公益」に資するとの思いから果敢に取り組んでいるのです。
本展の最後の展示室では、所謂「青い目の人形」の数々に出会うことができます。そして、その解説に接して、過去における日米の間に横たわった暗い歴史を解決しようと、渋沢が取り組んだ活動が一筋の明るい光として、今を生きる我々を照らしてくれることに、深い感銘の念を覚えましたので、ここにご紹介をさせていただきます。皆様は先刻ご承知のことかと存じますが。展示される多くの「青い目の人形」こそがアメリカからやって来た「友情人形」であり、その答礼として我が国からアメリカに贈られた「答礼人形」であります。つまりは人形の交換を通した民間の国際親善交流事業の推進に他なりません。渋沢自身が、日本の安全保障上、通商をつうじた経済関係構築上、最も重要なパートナーとして位置付けていたアメリカとの関係が、日本人移民の問題からギクシャクしていたことを何とか打開すべく活動した一環としての事業となります。きっかけは、日本での生活経験のあるアメリカ人宣教師ギューリックから渋沢への呼びかけにありました(彼は以前に同志社での教師経験がありました)。日本に「雛祭り」や「五月人形」等の人形文化が根付いていることに着目したギューリックは、全米の子ども達に呼びかけて「友情人形」として「青い目の人形」を日本に贈る活動を行ったのです。勿論、渋沢もこの趣旨に賛同し、外務省・文部省の関与も得て「日本国際児童親善会」を設立し、自らその代表として受け入れに尽力するのでした。「友情人形」は日本全国の小学校・幼稚園等を中心に配付されることとなり、各地で盛大な人形歓迎式が挙行されました。この時アメリカから贈られた人形総数は約12.000体にも及びます。一体一体には名前が付けられ、その名を記したパスポートがそれぞれに添えられて日本にやって来たのです。
特別展を行っている埼玉県には、その内の178体が割り当てられたことが分かっております。しかし、現在まで残っているのはたったの12体のみであります。何故、残存数がかくも少ないのかは申し上げるまでもありますまい。その後の日米開戦により、敵国の人形として廃棄や焼却の対象となるという不幸な歴史を経たからです。場合によっては竹槍で貫くような酷い処遇を受けた人形もあったと耳にします。そうした中で、何らかの事情で偶然に残された12体が今回一同に会して展示されております。もっとも、中には発見の状況から判断して、偶然ではなく人形をどうにかして護り抜こうとした日本の人々がいたことを推察させます。為政者の意図に反して、こうして今に残った人形たちがいることを私たちも知っておきたいと思います。この時に日本に到来した「友情人形」は、それ以前の大正10年(1921)に流行した童謡『青い目の人形』(詞:野口雨情・曲:本居長世)に因んで、先にもかような表記をしたように、その名で呼ばれることも多くあります。以下に述べることとも関連しますので、その歌詞を引いておきます。皆さんも幾度となく耳にした歌でありましょう。
青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド 日本の港へ着いたとき 一杯涙をうかべてた 「わたしは言葉がわからない 迷ひ子になったらなんとせう」 やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲よく遊んでやつてくれ |
※太平洋戦争中には、「友情人形」の受けた 不当とも言える扱いと同様、この童謡も、 同作詞家・同作曲家の手になる童謡 「赤い靴」と併せて、歌うことを禁じられた 不幸な歴史を持ちます。 |
上記したように「友情人形」のお返しとして、日本からは各都道府県等による「市松人形」58体が答礼人形としてアメリカに贈られております。こちらは、全米を巡回して歓迎会が開かれるなど、日米の親善関係の改善に明るい兆しをもたらすことになったとされております。ところで、余計なことかもしれませんが、当方が本展を拝見して思わず目頭が熱くなったのがこの場面となります。埼玉県に残される「友情人形」の中には、何故か日本の「市松人形」とセットになって残されているものが幾つかあり(中には手書きの両国旗を付けて箱の中にな大事に納められているものもあります)、しかし、何故アメリカからの「友情人形」と、本来アメリカに贈った「市松人形」とが一緒に残されているのかは長く不明のままであったそうです。しかし、その理由が今回の調査で判明したとのことです。その答が、上記『青い目の人形』の歌詞に隠されていたとの解説に接したことにあります。つまり、一人でやって来たアメリカの人形が可哀そうだということから、地元で日本のお友達として「答礼人形」とは別に市松人形が誂えられ、「青い目の人形」と一緒にして飾られたケースが多くあったということです。「やさしい日本の嬢ちゃん 仲よく遊んでやつてくれ」との歌詞内容をどうにか叶えたいと、強く思い実行した子供達の心根を思うと、一教育者の端くれであった身として涙を禁じえなかったのです。何という麗しきお話ではありましょうか。それは、まさに渋沢栄一自身の願いとも重なるものではありますまいか。そして、そうした感動の念とは別に、その願いも虚しく無残な扱いを受けた沢山の友情人形が存在したこと、子供達の心根を無残にも引き千切った当時の大人の無残な仕打ちがあったことに、今更乍ら慚愧の念に胸を掻きむしられる思いであったことを白状せねばなりません。
因みに、この時に我らが千葉県には214体の友情人形が割り当てられております。ただ、やはり埼玉県と同様に現在までのところ11体が確認されているのみとのことです。残念ながら、千葉市への5体、千葉郡への10体は一体も残されていないようです。残存の内訳は、印旛郡1体、香取郡で3体、海上郡1体、山武郡1体、君津郡2体、安房郡3体とのことです。これらが残された経緯についても知りたいと思います。しかし、未だ未だ埋もれたままの人形があるかもしれません。我々がそのことを踏まえているかどうかで、新発見の可能性は高まると思います。『青天を衝け』放映の令和3年中にその報に接することができることを大いに期待したいところです。またとない「平和教育」の題材ともなりましょうし、泉下の渋沢も大いに喜ぶことでしょう。また、千葉県と渋沢との関係としては、彼が晩年に頻繁に千葉県を訪問していることです。一つ挙げれば、大正7年(1918)にハワイで知り合い懇意にしていた飯田佐治兵衛(1912年にハワイで醤油醸造を成功させた人物)に懇請されて千葉県旭町の町立尋常高等小学校での講演をおこなっているとのことです。その時に、渋沢は記念に楠木を植樹。それが、現在移植されて千葉県立東部図書館に堂々たる姿をとどめているそうです(前掲書)。
本来は、第4章「社会事業」についても述べたいことが多くありますが、渋沢が生涯を通じて深く関わった、経済的困窮にある人々への救済事業の数々、女子高等教育機関設立への支援等々、その社会事業への貢献も創立企業数と比肩しうる程であることは申し添えておきたいと存じます。後者で一つ例示すれば、NHK朝の連続テレビ小説『朝が来る』で御馴染みの、女性実業家でもあった広岡浅子による日本女子大学設立への渋沢の支援も極めて大きなものでありました(ドラマでは大隈重信ばかりが協力者として取り上げられており三宅裕司演じる渋沢の役割は殆ど描かれませんでした)。
初代校長成瀬仁蔵の後に第三代目校長にも就任しております。何れにしましても、渋沢栄一というあまりにも巨大な人物像を描くことは簡単なことではありません。しかし、その一部分に触れるだけでも、その人としての器の大きさと根っ子にある精神の共通性には理解が及ぼうかと存じます。未だ、当方は先に挙げた書籍にしか触れ得ておりませんが、当該書籍は、渋沢栄一の生涯と事業とを時系列で追った内容になっております。渋沢に関する書籍は、彼の取り組んだ事業を中核としてテーマごとに記述されているものが多い中、珍しい内容構成かと思います。しかし、逆に、時系列に人生を追うからこそ見えてくることも多いと思われます。当方は、これ以後各テーマについて各論として深堀りしていこうと思っているところであります。
臍曲がりを自認する当方としては、大河ドラマのブームに乗ったようで少々忸怩たる思いではありますが、今回は大河ドラマでの出会いを切っ掛けとして、新たに知見を広めることにしようと考えるところであります。聞くところによると、今回の所謂「渋沢ブーム」が地域の歴史・文化の交流に一役買っていることも多いようです。一例にすぎませんが、埼玉県入間市に今も残る旧「黒須銀行」本店についても当てはまります。明治42年(1909)建築となる土蔵造建造物は、入間市指定文化財となっているにも関わらず老朽化したままであったものが、昨年度に急転直下予算がついて今後の整備計画立案に到ったとのことです(当該計画書は入間市ホームページにアップされており手軽にご覧いただけます)。この方針転換の背景は、他でもない、養蚕・織物業で栄えた入間の産業を支えた黒須銀行の創立に渋沢栄一が深く関わっていたからではありますまいか。因みに、この銀行は別名『道徳銀行』と呼称されるほど倫理観高き経営でも知られていたようです。その創立理念の基盤になったのが、元佐倉藩士であり明治以降思想家として活躍した西村茂樹の思想であり、そのことに渋沢が強く共感したことが創立に対しての多大なる支援に繋がったとされております(渋沢は当該銀行の顧問となっております)。こうなると、大河ドラマ『青天を衝け』は一過性のブームに留まらぬ何物かを後世に残すことに繋がるかもしれません。そのことに大いに期待して、今回は当方もそいつに一丁乗ってみようかと思っているところであります。
暮れてゆく 春の湊(みなと)は 知らねども
霞(かすみ)におつる 宇治の柴舟
(寂蓮法師)[新古今和歌集 春]
本来ならば、この時節は、年間を通じて最も春らしい五月が暮れゆき、初夏の陽気へと移ろいゆく時節かと存じます。表題歌は、そうした「行く春」を詠んだ代表的な作品ではないでしょうか。しかし、昨今は、かような微妙な季節の移り変わりを感じさせる気候条件そのものが雲散霧消してしまったように感じます。季節が極端に展開していくことが多くなり、そのことが風流を感じさせる心を鈍麻させているようにすら感じます。王朝歌人から芭蕉等近世の俳人に到るまで、我が国の詩人たちは「過ぎ行く春」に、心動かされる何物かを感じたのでありましょう。忘れ難き名作が選り取り見取りのように思います。しかし、昨今「惜春」といった風流すら日本人からは失われてしまったようにも感じます。冒頭歌は世に名高い8番目となる勅撰集「新古今集」に納められております。一般にその特色とされる耽美性・象徴性・絵画性・技巧性・幻想性等々の条件の全てを満たす、正に“新古今風”を全身に纏っているかのような、シンボリックな詠歌ではないかと思います。当方にとっても取り分けて愛唱する和歌の一つでもあります。因みに、作者である「寂連」は平安末から鎌倉初期にかけて活躍した歌人であり、俗名は藤原定長といいます。叔父である藤原俊成(定家の父)猶子となりますが三十代半ばで出家しました。その後諸国行脚の旅に出たと言い、東国にも脚を運んだとされております。晩年に「新古今集」の寄人にも選ばれております。藤原良経、藤原定家、藤原家隆、式子内親王を始めとする、時代を代表する綺羅星の如き名歌人の一翼を担っている人物であることは間違いありません。
さて、予てより予告しておりました標記小企画展が、いよいよ来週から開催となります。以下、企画展の「趣旨」(展示会冒頭「はじめに」をそのまま引用)と「展示構成」について掲載をさせていただきます。それによって、まずは本展のあらましをお掴み頂ければと存じます。
は じ め に 千葉市立郷土博物館 館 長 天野 良介 |
《 展 示 構 成 》
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本館では、本年度に迎えた「市制施行100周年」を記念すべく、関連した展示会を企画・運営して参りますが、その第一弾が昨年度開催の特別展『軍都千葉と千葉空襲』でありました。千葉市域は、戦前に多くの陸軍施設が置かれた軍都であり(研究者によっては戦闘部隊が存在していなかったことを理由に「軍郷」と称すことが適切ではないかとの主張もあり傾聴すべきご意見かと存じます)、その中に「気球連隊」が存在していたことはよく知られていることと存じます。日本陸軍において国内唯一の気球部隊であり、「所沢」に置かれていた「気球隊」が昭和2年(1927)に千葉市に移転してきました。その移転には千葉市からの熱烈なラブコール(誘致活動)があったこと、その割には大規模な部隊ではないことから千葉市民が落胆していることを伝える憲兵隊作成にかかる資料を、昨年度の特別展にて展示いたしました(地元経済振興に寄与しないとの謂いであります)。その後、昭和11年(1936)に「気球隊」は「気球連隊」に昇格。日中戦争・太平洋戦争と戦歴を重ね、最後には「風船爆弾」の実行部隊ともなり、昭和20年(1945)の終戦を迎えることとなります。千葉市内の陸軍施設は大戦末に米軍機の空爆を受け、気球連隊も本部・兵舎等が被災しております。しかし、気球を格納する巨大な「第一・第二格納庫」2棟は決定的な被害を受けることなく、戦後も稲毛区作草部の故地にそのままのかたちで生き残ることになったのです。「第一格納庫」は昭和30年代初頭に解体されましたが、「第二格納庫」は倉庫業者により活用され続け、千葉市における戦争の時代を忍ぶ縁ともなっておりました。更には、所有者(「川光倉庫」様)のご厚情により「平和教育」の教材として利用させてもいただいて参りました。その「第二格納庫」が、老朽化等を理由に、令和2年(2020)惜しまれつつ解体されることになりました。
本年度、本館で小企画展「気球連隊」を開催する契機となったのが、その際に地域の博物館として「第二格納庫」部材をお譲りいただいたことにあったことを「はじめに」で記載いたしました。そのことに加えて、決定的な要因となったのが、そうした活動を通じて「第二格納庫」に用いられた建築技術について調査研究を重ね、その保存活動に熱心に取り組まれていた「千葉市の近現代を知る会」代表の市原徹さんとお知り合いになれたことです。市原さんは、建築技術の追求に留まることなく、「気球隊」の歴史やその知られざる活動の実態に迫る研究を重ねて来られました。「展示構成」につきましても、市原様と本館との度重なる意見交換の末に決定を見たものでございます。また、今回の展示の中核をなす第4~6章・第9章につきましては、展示内容作成も全面的にお願いもしております。併せて、同会の会員でもいらっしゃる伊藤奈津絵様との面識を得ることができたことも何にも増して幸運でございました。何故ならば、伊藤さんは本館でも所蔵していない「気球隊(気球連隊)」に関する膨大な資料を個人的に収集されておられるからであります。本展での展示資料(写真・絵葉書・雑誌類・同時代の新聞記事・除隊盃等々)の殆どは、「伊藤コレクション」に由来するものであるといっても過言ではありません。市原様と伊藤様の全面的なご理解とご協力を賜ったことが、今回の小企画展開催を可能とした決定的な要因となったことは、何度強調してもしすぎることはございません。
前編の最後に、本稿の趣旨と外れる内容を、またまたカットインの形で挿入させてください。理由は、前回同様に前後編のバランスの問題であります。4月末日「館長メッセージ」房総の鉄道に関する内容に関して、「小太りジイサン」様への御礼を再びということでございます。先様におかれましてはかつて存在した「千葉気動車区」内の転車台につきましての情報をいただき誠にありがとうございました。本件につきまして、SLは千葉駅と千葉気動車区間は単体自走で往復していたとの再度のご教示をいただき、誠に有難とうございました。そういえば、後に山口線で「山口号」を牽引したC57 1号機が千葉気動車区内に停車している写真を見たことを思い出しました。飽くまでも気動車区でありますが、転車台も備えられていたことからSLにも用いられることもあったことがよくわかりました。当方もこれを機に調べてみたところ、当該時期には千葉駅まで客車を牽引してきたSLは、今回ご指摘を賜りましたように、西千葉駅・稲毛駅間にあった「千葉気動車区」に戻るか、蘇我駅を内房線沿いに進んだ右手に現在も存在する「千葉機関区」(現千葉駅の場所に存在した旧「千葉機関区」廃止後に蘇我駅先にある機関区が「千葉機関区」と呼称され現在に及んでいるそうです)にかつて存在した転車台まで進むかして、何れかの転車台で方向転換して千葉駅まで戻っていたようです。自ら実見に及んではおりませんが、後者の転車台は撤去されたものの、現在も何台もの電気機関車が繋留される機関区として機能しているとのことです。
(後編に続く)
今回取り扱う「気球」について、そのイメージを問われれば、多くの方が空中にふんわりと呑気に浮遊する平和の象徴のような姿でありましょうか。そこからは凡そ軍事的な機能を有していたことなど感じ取ることすらできますまい。しかし、日本に限らず気球はその誕生直後から軍事利用されるようになります。そもそも軍隊の中で、気球は如何なる役割を期待されていたのでしょうか。気球・飛行船等々様々な呼称があります。これらは同じものなのでしょうか。それとも違いがあるのでしょうか。本稿では、本展でのオープニングで説明される「第1章」の内容について御説明させていただき、まずは知られざる「軍用気球」の概要をおつかみいただければと存じます。
フォークグループ「赤い鳥」が『翼をください』(1971年)で歌ったように、空を自由に飛んでみたいという人類の願いは、神話の昔から世の東西を問わず存在しておりました。そして、多くの開発者による試行錯誤を経て、そのことが具現化されるのが18世紀後半、ヨーロッパでのこととなります。それが、大気より軽量のガスを気密性のある気嚢(きのう)に注入し、その浮力で昇騰する「気球(軽気球とも)」に他なりませんでした。そして、その開発直後から軍事利用に対する期待がされるようになり、その活用法が種々考案されていくことになります。以後、20世紀初頭のライト兄弟による飛行の成功を契機に、急速に進歩することとなる「飛行機」と併せ、航空技術の軍事利用は相互に補完・代替しながら進んでいくことになります。ただし、大雑把に申せば、「気球」に期待される機能の多くが、次第に「飛行機」にとって代わられていくという経緯を辿ることとなります。それは、昭和11年(1936)に「気球隊」から「気球連隊」に昇格した段階で、本隊が創設以来の「航空兵科」から「砲兵科」部隊へと移行することになった事実からも見てとれましょう。ただ、海軍とは異なり、陸軍では戦争の終結に到るまで気球部隊が維持されることには留意すべきであります。
「軍用気球」は、その機能上「自由気球」と「繋留気球」とに大きく二分されます。共に人が乗って活動するための「吊籠」が下げられて用いられました。前者は主に球状に成形され、風力を利用して空中を浮揚します(動力は附属しませんので単なる風任せの飛行となります)。それに対して、後者は繋留索(けいりゅうさく)と称されるロープで、地上や地上に置かれた牽引車に繋げられて使用されました。主に前後に長い紡錘型に成形されることが多く、空中での安定のために一方の先端部に鰭(ひれ)状の舵嚢(だのう)を伴います。こうした気球の主たる用途は、第一に、高度ある地点まで昇騰し、対峙する敵軍の動向を探る「偵察機能」にありました。飛行機の存在しない時代には、気球による偵察が、地上から把握し得ない敵軍の動向をつかむ唯一の方法であり、作戦の立案上極めて重要な情報源となったからです。二つ目に、自軍の放った砲弾の着弾地点を観測し、地上にその修正を伝達する機能が求められました(「射弾測定機能」)。今回の展示は陸軍における気球についてが中心となり、海軍における気球については「トピック」として簡単にしか扱いませんが、海軍でも気球は活用されました。艦船から昇騰し、敵艦船・敵潜水艦の動向の偵察、敵艦隊から発せられる魚雷の観測、更に自艦から発射された射弾の測定等に活用されたのです。従って、地上・艦上と電話線による情報伝達を行う必要があることから、主に「繋留気球」にこそに利用価値が求められ、コントロール機能のない「自由気球」の軍用的価値は少ないものでした。そして、その用途は「繋留気球」を地上と繋ぎとめる繋留索が何等かの事情で切断された場合、自力着陸をするための練習用に活用されることに止まるようになりました。ここまで説明した「偵察機能」「射弾機能」が気球に期待された基本的な機能となります。しかし、航空技術における飛行機の急速な発達、及び戦争末期における著しい攻撃資材の不足にともない、別途機能が気球に求められるようになるのです。それが、以下の第三・第四の機能です。
その三つ目にあたる機能とは、皮肉なことに同じ航空技術としての敵航空機から国内への地上攻撃を防御する機能に他なりませんでした。つまり「防空(阻塞)機能」を果たすことが求められるようになったのです。具体的には、都市周辺に複数の繋留気球を昇騰することで(場合によっては網状の索を垂れ下げることもありました)、敵航空機の進路を妨害する機能が期待されたのです。こうした「繋留気球」の機能分化に伴い、「繋留気球」は昭和9年(1934)年から「偵察気球」と「防空気球」とに分けて制式制定されることとなりました。しかし、「防空気球」については、低空で地上に迫り機銃掃射を行う敵戦闘機に対しての有効性はある程度認められたものの、次第に高々度飛行が可能な爆撃機(B29)による爆弾・焼夷弾の投下に重点が移るとともに、その機能はほとんど実効性を伴わないものとなっていきました。
そして、四つめの機能が、戦局の悪化と極端な国内の物資窮乏に追いこまれた太平洋戦争末期に行われた「風船爆弾」による「攻撃機能」に他なりません。これは、爆弾を搭載した「自由気球」を日本の太平洋岸から放球し、偏西風に乗せて北アメリカ大陸まで飛翔させて投下させる攻撃でした(飛行機も燃料も不要です)。物資窮乏の中で気嚢の材料とされたのが、蒟蒻糊で接着された和紙であり、その作業に従事したのが勤労動員の女学生や徴用され女子挺進隊員となった女性でありました。大本営の立案・計画になる本作戦でありますが、実行部隊は、気球に関しての知見・経験のある気球連隊を中心に編成され、昭和19年(1944)に気球連隊本部自体が千葉から茨城県大津に移されております。そして、大津・勿来(福島県)・一宮(千葉県)の三か所からアメリカに向け、最終的に合計約9000発強の「風船爆弾」が放球されることとなりました(実際に北アメリカに到達したのは300前後とされ、数は少ないとは言えアメリカではその爆発による死者も出しております)。偏西風の関係で昭和20年(1944)3月に放球を終了しておりますが、次の冬に向けた準備を進めるなかで終戦となりました。「防空気球」・「風船爆弾」には、ともに吊籠は未設置であり、無人で昇騰・放球されました。ただ、後者では、慣れぬ作業の中で誤爆も屡々おこり、多くの兵士が尊い生命を失っております。もっとも「風船爆弾」では有人飛行による所謂「特攻」も検討されましたが実現には至っておりません。そもそも気球は成層圏まで上昇することを想定しているのですから、生身の人間はアメリカに到達する前に絶命しましょう。海軍における「伏龍」計画と双璧をなす言語道断の攻撃案でありましょう。因みに「伏龍」攻撃とは潜水服を着用した人が浅瀬で待機し、上陸する敵揚陸船底に機雷を直接に装着して自爆する「特攻」に他なりません。あまりに非効率で実効性も伴わないとして実行に移されることはありませんでしたが、実験段階で多くの予科練所属の若者の尊い生命が失われていることを忘れてはなりません。
「自由気球」「繋留気球」の他に、「気球」自体に動力・舵・客室を付属させ、有人による操縦飛行を可能とした気球も開発され、これを「飛行船(航空気球)」と称します。世界で最も広く知られた「飛行船」がドイツで開発された「ツェッペリン号」でありましょう。昭和4年(1929)「グラーフ・ツェッペリン号LZ-127」が、世界一周飛行(8月8日~29)の際に我が国にも立ち寄っております。8月19日に東京・横浜上空を飛行した後、茨城県の海軍「霞ケ浦飛行場」に着陸しました。ここには第一次世界大戦の際にドイツより戦利品として接収した巨大な気球格納庫があり、当日は当格納庫に納められました。しかし、「グラーフ・ツェッペリン号」があまりに巨大すぎ、全体を格納できず先端部がはみ出したそうです。それもその筈、飛行船の全長は何と236.6mにも及び、正に空飛ぶ巨鯨の名に相応しいものでした。因みに、巨艦として世に名高い戦艦「大和」より30m弱短いだけなのですから、如何に超弩級の大きさであったのか偲ばれましょう。もっとも、その割に旅客乗員は20名に過ぎませんでした。鯔の詰まり、飛行船の効率がどれ程に低いかが、ここに如実に露呈していると申せましょう。日本でも、陸軍・海軍ともに軍用「飛行船」の開発を行いましたが、飛行機技術の急速な発達に伴い、飛行船研究・開発の費用対効果に疑問が呈されるようになり、陸軍では「雄飛号」を最後として大正9年(1920)には開発を中止しております。ただ、海軍では飛行機より少ない燃料で長時間の飛行が可能となることから、飛行船による海上偵察上のメリットがあるとして、昭和10年(1935)前後までは利用・研究が継続されていることを申し添えておきます。もっとも、海軍では同時に気球自体の研究・活用も中止しており、陸軍よりも早くに気球から全面撤退を決めております。ところで、全くの余談ではございますが、上記したように飛行船を「鯨」に例えたのには訳がございます。大瀧詠一が「はっぴいえんど」解散前の1971年にリリースした、第2弾ソロシングル『空飛ぶくじら』がどうしても思い返されるからであります。クラリネット・バスクラリネット・アコーディオンを用いたなんとも懐古的なムード、鼻濁音の効いた心地よい大瀧の声色、そして耳に残るスキャット等々、私にとっても忘れ難き大切な一曲であります。詞は当方の偏愛する江戸門弾鉄(松本隆の変名)。歌詞冒頭を以下に引用しておきます。「空飛ぶくじら」が飛行船と重なるシュールな内容です。因みに作曲者も多羅尾伴内なる大瀧の変名クレジットになっております。
街角にぼくはひとり 空飛ぶくじらが (くじる ら くじる え ろれる られる な)
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寄り道が過ぎました。本展とは直接関係のない話題となりますが、「気球」は軍用だけではなく、民間でも活用されることがありました。これが所謂「アドバルーン」であります。気球の分類で申せば「広告気球」と称される利用法となります。大正末から都市で商店の宣伝に活用されるようになりました。しかし、1930年代に入ると気球の民間利用には軍部による制限が掛かるようになり、結果的に戦時中は全面禁止になりました。もっとも、例外があり、昭和11年(1936)に勃発した「二・二六事件」では、陸軍の手により西新橋にあった飛行館なる建物屋上から反乱軍に対して、「勅命下る軍旗に手向かうな」とアッピールする広告用アドバルーンが軍部の手により昇騰されております。このことは数々の写真資料で皆様にも御馴染みの光景でございましょう。従って、アドバルーンが盛んに活用されるのは専ら戦後、特に高度経済成長期になります。当時に幼少時代を過ごした当方などは、都心の百貨店やら街のスパーマーケットにアドバルーンが揚がると、ワクワク浮き浮きした思いを押さえることができませんでした。今ではすっかりその姿を拝むことが叶わなくなり、少々と寂しい気もします。これも当該時期に生まれ育った者特有の想いなのかもしれません。また、戦後は、スカイスポーツとして「熱気球」が広く親しまれているようで、昨今もテレビ等で取り上げられているのを目にします。今流行の「SDG’S」の趣旨にも叶うものかもしれません。気球は今の人々にとっては「古くて新しい」乗り物となりましょうか。
以上、日本における「軍用気球」の活用法とその歩みにつきまして極々大雑把に述べて参りました。本企画展では、以上述べてきた概略について、前編に掲げた「展示構成」に従って、その詳細に迫ってまいります。また、「気球連隊」跡地の戦後についても扱っております。これまで、昭和30年代初頭に解体された「第一格納庫」の部材を再利用して「千葉公園体育館」が建造されたという、所謂「都市伝説」の是非にも迫っております。また、昨年解体された「第二格納庫」建設に用いられた、昭和初期に開発された画期的な建築技術である「ダイヤモンドトラス構造」にも迫る展示もございます。解体の際に、積水化学工業様にお譲りいただいた実際に利用されていた部材の一部、市原徹さん作成に掛かる1/100スケールのペーパークラフト模型(昨年度『軍都千葉と千葉空襲』展に会期途中から展示)、それに加えて、先日新たに「千葉実年大学校 歴史倶楽部一同」様より本館に御寄贈を頂いた同縮尺の「第二格納庫ダイヤモンドトラス構造模型」(市原様製作の模型が紙を材料としているがゆえに再現できなかったトラス構造を立体的に再現した模型となります)の展示もいたします。昭和初期につくられた「気球隊の歌」も、残された楽譜を用いて新たに収録した音源を展示会場で流す予定です。なかなかに素敵な歌であります。
最後になりますが、今回の展示は「小企画展」であり、会場も本館の1階展示室という決して規模の大きな展示会では御座いませんが、内容は盛りだくさんと自負するところでございます。千葉市にかつて存在した「気球連隊(気球隊)」の歩みを知ることを通して、何よりも、ご覧いただいた皆様に、改めて不戦の誓いと平和への強い想いを抱いていただけることを心から祈念するところでございます。千葉市は現在「蔓延防止等重点措置」地区に指定される最中にありますので、本来それを抑えるべき公的機関が積極的にご来館を促すことはご法度かと存じますが、一方で公共サービス提供の要請もされているのが現状でございます。従って、もし可能であれば脚をお運びいただけますと幸いです……と、歯切れ悪く申し上げるしかないのかと存じます。
そうでした。一つお伝えすることを失念しておりました。会期中の刊行にはなりませんが、本展の内容につきましては「ブックレット」の形に纏め、年度内のできるだけ早い時期に刊行する予定でおります。そちらも楽しみにお待ちいただけましたら幸いです。
小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-」が始まって3日が経過いたしますが、かようなご時世の中ではございますが、思いのほか沢山の皆様にご来館をいただいております。この場をお借りして衷心よりの感謝を申しあげます。もっとも、入場制限をするほどの混雑状況にはござませんので、ご自身の体調とご都合とを勘案され、ご来館の場合は感染予防に充分に配慮されておいでください。会期は7月11日(日曜日)までとなります。比較的短めの設定となっておりますので、ご都合がつくようでしたら脚をお運びくださいましたら幸いです。
一点、 本小企画展について、急遽追加の展示資料がございましたので、この場にて紹介をさせていただきます。それは、これまでその具体像が殆ど見えてこなかった、「気球隊」が「中野」に在った時代の実像を明らかにする資料となります。陸軍の「気球隊」は、明治40年(1907)年に東京「中野」の地で呱々の声をあげておりますが、大正2年(1913)に埼玉県「所沢」に移転しており、中野での活動は6年間に過ぎません。従って、中野での気球隊の実像については明確な焦点が結ばれていない現状にありました。ところが、この度、本館でも大変にお世話になっている航空史研究家の小暮達夫氏の精力的な調査活動により、中野における「気球格納庫」の写真が初めて日の目を見ることとなりました。当該資料は、千葉市稲毛海岸における民間航空事業に深く関わっていた、伊藤音二郎のアルバム中から発見されたとのことです。その写真には、おそらく伊藤自身の手になると思われる「中野気球隊ニテ」と「左 奈良原第一号機」「右 グラデ―式」「両機共全竹製」の文字が記載されており、格納庫とその前に佇む2機の飛行機が写り込んでおります。格納庫は、間違いなく気球の格納庫であり、これまで知られていた所沢の格納庫とも、海軍の霞ケ浦の格納庫とも、勿論のこと千葉における2棟の格納庫とも異なる建物であります。また、小暮様の研究によれば、この2機が同時に写り込む可能性があるのは、明治43年(1910)5月~明治44年(1911)5月あたりまでにほぼ絞り込めるとのことです。従って、正に中野に気球隊が置かれていた時期と一致します。大変に重要な発見だと存じます。今回、御子孫にあたる方のご厚意も賜り、本展に「新発見資料」として急遽展示してご紹介をさせていただくことが可能となりました。第3章「陸軍の気球隊 千葉移転まで」での展示となります。小暮様にも、衷心よりの感謝を申し上げる次第でございます。ありがとうございました。
さて、話題は急転直下、今回は所謂「笑い」について少しばかり。人生にとって「笑い」ほど人生を豊かにしてくれるものはないとの思いを抱く皆様は多いことでしょう。当方も、全く同感でございます。「笑いの無い人生なんて、○○のないコーヒーのようだ」と、昔のCМを気取りたくなるほどであります。もっとも、一言で「笑い」と申しても様々な種類がございましょう。漢和辞典で「笑」という文字を引きてみれば、大笑・爆笑・微笑・笑顔といった、精神を高揚させるようなプラスのベクトルのものばかりとは限らず、失笑・冷笑・苦笑・艶笑・哄笑・媚笑・嬌笑・失笑といった、どちらかというとマイナスのベクトルを有する言葉も沢山出て参りますし、むしろそちらの方が多いようにすら見えます。また、誰にでも伝わる即物的な「笑い」もある一方で、知的な捻りを利かせた分かる人だけに伝わる「笑い」もあるように、「笑い」の質もまた多種多様でありましょう。そうした幅広い「笑い」の中で人々は暮らしております。そして、時に愉快にさせられ、時に不快にも寄与するものでもあることは誰でも納得されましょう。勿論、前者が多いことが望ましいことなのですが、後者のような「笑い」に存在する社会的な意味や機能を意識しておくことは重要でしょう。つまり、昨今は何から何までひっくるめて「お笑い」と称され、世の「笑い」を一手に引き受けているようにも見える芸能の世界においても、多様なる「笑い」の世界を守備範囲としてるのだと思います。
しかし、何時もの「天の邪鬼」が働く所為か、当方としては昨今の「お笑いブーム」「落語ブーム」なる風潮には少々冷ややかな間合いをとっております。従って、最近テレビの「お笑い番組」や「寄席」の世界とも若干の距離ができております。勿論、誰もが苦虫を噛み潰したようなしかめ面をしている息苦しき社会と比べれば、結構な風潮であることは論を待ちません。また、こうした上げ潮に乗ってか、一時は絶滅を危惧された話芸のひとつ「講談」までに日の目が当たるようになったことには大いに慶賀に絶えない思いであります。しかし、昨今の「お笑い」が薄っぺらに思えることも一方ならずにございます。最も、これは、「笑い」を生み出す側ではなく、それを利用しようとする側(マスコミ)、受け取る我々にこそ原因があるように思いますが、そのことは追って述べようと存じます。まぁ、こうした認識は、山の神からよく指摘されるように「歳」をとった証であり、許容範囲が偏狭化していることに他なりますまい。そうなりたくと思っていた、「昨今の若いもんの風潮には困ったもんだ!」と言いがちな、頑迷固陋な老人になりつつあるのだと思います。大いに自省すべし。
しかし、元来は当方にとって芸能としての「笑い」、特に「落語」は最高のご馳走であります。日本橋人形町にかつて存在した落語定席「末廣」華やかなりし時代に、寄席を賑わした綺羅星のような名人の高座の質の高さは、正に比肩するものを見出すことすら難しいものであると思います。勿論、それら名高き師匠の多くは、当方の幼き頃には既にあの世に召されており、残念ながらその謦咳に接することができた訳ではありません。しかし、幸いに残されている沢山の音源やら、実際にその高座に接した人々から(当方の母親もその一人でした)、その瞠目すべき芸の凄さと深さとを実感させられたのです。「黒門町の師匠」と呼ばれ、無駄のない謹厳なる名文のように一席を磨き上げた名人八代目桂文楽(1892~1971)、その人間性を象徴するような破天荒な話芸で死後も圧倒的な人気を誇る五代目古今亭志ん生(1980~1973)、江戸っ子らしい「鯔背」を体現したかような小粋な語りを持ち味とする三代目桂三木助(1902~1961)、地味で朴訥な語り口から登場人物像を飄々と描き出す八代目三笑亭可楽(1898~1964)、人情話を自家薬籠中のものとし、晩年には明治の名人三遊亭円朝(1839~1900)の長編演目(『牡丹灯籠』『真景累ケ淵』等)に果敢に取り組んだ六代目三遊亭円生(1900~1979)等々、枚挙に暇無き名人がおります。若い頃には好みではなかった三代目三遊亭金馬(1894~1964)、創作落語で売り出した柳亭痴楽(1921~1993:最後の20年間は脳卒中で活動できず)も、今聞いてみれば現存の落語家など足元にも及ばぬ話芸の持ち主と知れます。勿論、現在の落語家や漫才師にも優れた方々はおられます。しかし、必ずしも正当な扱いを受けているわけではないと思います。因みに、今残っていれば確実に文化財に指定されていたに違いない人形町「末廣」は、東京に最後まで残った畳敷の寄席でありました。テレビ等の普及による経営悪化から昭和45年(1970)に閉席、保存運動も虚しく翌年に解体されております。当時「江戸東京博物館建物園」があれば、間違いなく移築保存されたことでありましょう。残念至極であります。
そして、今日日の「お笑い」の姿に目を転ずれば、それは一種の「社会現象」とも言うべきものになっているとさえ感じさせます。テレビ等のメディアで「芸人」と名の付く人物の姿を目にしない時間帯は皆無といってよい程です。寄りによって、今や公共放送としての役割を担うNHKとて例外ではありません。何時でも何処でも民放で顔を見る芸人ばかりが登場し、その番組内容も最早それらと選ぶところがありません。どこかの政治グループではありませんが、受信料により運営しているのですから、もっと気骨ある内容の番組制作、及び、人気ばかりを優先した安直極まりない出演者選びについて再考を願いたいものであります。勿論、現在でもNHKらしい実ある番組は数多ありますが(例えば『ブラタモリ』『NHK特集』『青天を衝け』等々)、以前に比較べればその数は遥かに減少しているように思いますし、アナウンサーが担っていてもまるで芸人か民放の女子アナと変わらぬヤケに軽い進行に失望させられることも間々あります(何も謹厳実直・重厚長大にすべしと申し上げているのではありません)。本題の「笑い」に戻れば、そうした芸人に期待されているのは、MCかコメンテイターとして、その場を当意即妙に盛り上げる役割に限定されているように感じます。それが一概に悪いとばかりは言えませんが、所謂「たいこもち」にしか見えないことは、否めぬ現実でございましょう(本当の「幇間」からはあんな芸と一緒にするなと叱られそうですが)。端的に申せば、番組制作者は、芸人をあまりにも一過性の笑いにだけに使いまわしているだけに思えて仕方がないのです。少なくとも、その持てる「芸」そのものを鍛えるような扱いをすべきでありましょうし、鍛えるようなプロデューサー自体の度量こそが求められましょう。こうした扱いばかりでは、芸人として息切れし早晩にお払い箱となりましょう。つまりは芸人の使い捨てに直結するものと思われます。制作者がかような意識でありますから、質の高い落語や漫才をじっくりと鑑賞する番組がほとんど姿を消したのも宜なるかなでありましょう。早朝にNHKで放映される「日本の話芸」くらいではありますまいか。「笑点」は長寿番組で人気もあるようですが、馴れ合い体質が露呈した昨今の質の低下は目を覆うばかりです。「大喜利」メンバーは、少なくとも実力ある落語家のローテーション出演に変更すべきでありましょう。鍛えられる場がないのですから、質の高い「笑い」は消滅し、一過性の刹那的な「笑い」ばかりが跋扈するのです。「グレシャムの法則」ではありませんが、正に「悪貨は良貨を駆逐する」的な状況に他なりません。
(後編に続く)
かような思いを抱いていた数年前のこと、お世話になっている元校長先生からお誘いをいただき、千葉市民会館小ホールで開催された「松元ヒロ:ソロライブ」に足を運ぶ機会を得ました。松元ヒロといってもピンと来ない方ばかりでございましょう。知る人ぞ知る「お笑い」芸人であります。当日も「千葉中央親子劇場」主催による会場は、コアなファンで覆いつくされ、ほぼ満席の盛況であったことに吃驚でした。そして、そのステージに初めて接して、その内容の充実に更に驚かされることとなったのです。大凡2時間に及ぶステージに、腹の底から笑い、時に目頭を熱くし、同時に実に多くのことを考えさせられました。同じ空間にいた観客の多くも同じことを感じたと想像します。ヒロさんは昭和27年(1952)鹿児島県生まれ。パントマイマーとして活躍後(当日のアンコールでは天気予報のアナウンスにパントマイムを被せるという、奇想天外なパフォーマンスで会場を爆笑の渦に巻き込みました)、1985年「お笑いスター誕生」で優勝。昭和63年(1988)社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」結成。平成10年(1998)に独立し、以後は所謂「ピン芸人」として舞台を活動の中心とされています(「ザ・ニュースペーパー」もメンバーを変えて現在も活動を続けております)。
「お笑い」の世界に限りませんが、昨今は知的刺激に満ちた番組の肩身が狭くなったように感じます。報道番組でもコメンテイターの言説はどこでも大同小異。その差たるやコカコーラとペプシコーラの差程度にしか感じられません。世間での炎上を避けようとするためでしょう、自主規制が働き内容も当たり障りのないことばかりです。世に「毒舌芸人」との異名を持つ者もおりますが、仲間同士の内輪の弄りあいや、立場の弱い者への攻撃(口撃?)で笑いをとるのは感心できません。そのような中、松元ヒロの芸風に、未だ奥深い「笑い」が健在であることを確認し安堵しました。それは風刺色が強く、知的な毒をたっぷりと含んだものです。決して「快活」なプラスのベクトルを志向する「笑い」とは異なります。しかし、その毒舌は決して弱き立場の者へは向きません。つまりは、常に世の中の強き立場の側に向かっていくのです。その意味で「政治権力者」こそ恰好なターゲットとなります。ご本人は「笑いは下剋上」だとも述べておられます。強き者の言説に声高に正面から否を訴えるのではなく、斜めの視線からその欺瞞や奢りを滑稽にすり替えて笑い飛ばす。その内容は、強い立場の者にとって、極めて痛烈かつ辛辣に響くことでしょう。恐らく、直言以上に耳に痛く感じられることと思います。逆に、庶民はそれで留飲を下げることになります。その知的操作に工夫があればあるほど、「にやり」とさせられます。そこには正に「深い笑い」の世界が展開されていたのです。
私がその舞台に接したのはその一度きりでありますが、「非常事態宣言」下でありステージに登る機会は限られましょうが、昨今の政府要人や知事たちのコロナ対応をどれほどに風刺して笑いに変えているのか、考えるだけでもワクワク・ゾクゾクといたします。今ほど彼らを風刺するネタに事欠かない好機はございますまい。彼がテレビに全くと言ってよいほどに露出しないのはそのためでしょう(事後対応を恐れるプロデューサーの自主規制だと推察できます)。実際に、政権担当者に鋭い突っ込みを入れたために左遷されたと取り沙汰されるキャスターもおりますから。昨今、若者のテレビ離れが喧伝されますが、どれもこれも同じような内容なのですから、成るべくしてなった結末との感を強くいたします。大学生である倅の下宿にあるテレビも埃塗れで、ほとんど使用された形跡がありません。倅曰く「どのチャンネルでも似たり寄ったりの番組で飽き飽き」「くだらない内容ばかりで時間の無駄」「必要な情報はスマホで得ることができる」等々。還暦を過ぎた当方でも、キャスターの論評を視聴して白けること夥しい思いになります。今のままでは、テレビ業界の未来は極めて暗いものでありましょう。その点で、AМラジオ放送(除:NHK)における言説は相当に本音のオンパレードであり、辛辣な物言いが未だに健在であることを申し添えておきたいと存じます。
松元ヒロの話題に戻ります。彼の持ちネタの一つに、生前の井上ひさし・立川談志・永六輔らから激賞された『憲法くん』があります。元来、平成9年(1997)「日本国憲法制定50周年」を機に創作したネタとのことです。「憲法」を話者に仕立て、周囲に自分自身(憲法)、とりわけ9条「平和主義」について語りかける一種の一人芝居です。その中にはいくつもの印象的な場面があります。「私を変えたいという人に、どうして私を変えようとするんですか?」と問いかけたときの反応「現実にあわないからだよ」に対しての反論、「理想と現実が違っていたら、むしろ現実を理想に近づけるように努力するものではないでしょうか」と訴える場面。「確かに私のからだにはアメリカの血が混じっているかもしれません。でも、そのことと、わたしの命の大切さとは、なにか関係があるのでしょうか?」と問い返す場面。「わたしのことを自虐的だとか、プライドがないとか、もっと誇りを持て」という人々に、「わたしは、この間、たった一度も戦争という名前の付いたおこないで、人を殺したことも、人に殺されたこともありません。そのことを誇りに思っています」と反論する場面等々。この『憲法くん』も当日の演目の一つでありました。勿論、日本国憲法については、松元が「笑い」のネタとしている理由だけではない、真摯な改憲の必要性の論拠をお持ちの方もございましょうし、そうした論拠の下に改憲の必要性説く主張もございましょう。そもそも憲法で「言論の自由」が保障されている我が国でありますので、特別な理由がない限り如何なる主張があっても宜しいと思いますし、相互の意見交換こそが重要なことであります。『憲法くん』も社会風刺としての「笑い」という機能を通しての松元自身の主張に他なりません。口角泡を飛ばしての声高な主張でないだけに、かえって「笑い」を通じて深く考えさせられる機会となるのではないかと考えるのです。平成28年(2016)にその内容は『憲法くん』と題して、武田美穂さんの素敵な絵画を添えた絵本として刊行されましたので(講談社)、どなたでも手軽に接することが出来るようになりました。しかし、その持つ説得力は松元さんの「話芸」には遠く及びません。迫真の舞台はYouTube等でも見ることが可能ですのでどうぞ。
そもそも「笑い」とは如何なる現象なのか。その機能について大マジメに考えた人物がいます。ドイツの哲学者ベルグソンです。当方にはその著書『笑い』の詳細を説明する読解力も表現力もございませんが、その中で「人は、人との協調関係のなかで笑うのであることから、笑いには社会(人間間の結びつき)を形成する機能があり、社会の枠から突出した人を呼び戻す機能があること。機械的に硬直して見えるものに対する反応であること」等が論じられます。分かったようでチンプンカンプンの部分もあります。そこで百科事典で「笑い」を引いてみたところ、以下のように説明されておりました。「笑いが発生する機構には、優越感、緊張からの解放、期待と現実のズレ等が古くから指摘されており、そのもつ社会的機能についても、社会的緊張の緩和、苦痛からの防衛、愚行に対する拒絶行為、自由にして柔軟な生に対立した凝固状態に対する社会的罰としての役割がある」(『ブリタニカ国際大百科事典』より)。まぁ、こうした小難しい内容を極端に単純化すれば「笑いとは人間社会を円滑にする潤滑油」という極々当たり前のことになりましょうか。事実、笑いほど人生を豊かにする行為はないでしょう。「健全な笑い」で溢れる世の中にしたいものです。ここで申し上げたいことは、「健全な笑い」とは、必ずしも快活で明るい笑いばかりではないということです。勿論、弱き立場の者を見下したりする質の悪い「笑い」が許されてはなりません。しかし、強き者や不正を働く者を笑い飛ばす「知的な笑い」もまた「健全な笑い」に属するものなのだと思います。しかし、そうした「笑い」が生き延びるためには、まずは平和であること、自由・平等の保障される社会であることが不可欠です。それは取りも直さず松本ヒロが『憲法くん』で訴える、「日本国憲法」の謳う社会の姿に他なりません。それらが満たされなければ(戦争状態や格差社会等々)、猜疑心と偏狭とが幅を利かせる「不寛容」な世となることは歴史が証明しております。現在世界を席巻しつつある政治的状況「ポピュリズム」も、正にかような地平を出自とする動向だと申せましょう。
我が国で、江戸から明治・大正、軍国主義の下で言論弾圧が蔓延る前まで数多存在していた健全な笑いが(江戸の川柳・狂歌から明治以降の大衆娯楽芸能まで)、権力からの抑圧を受けることなく輝く世で在り続けたいものです。目を世界に転じれば、欧米では知的な風刺芸が笑いの王道でありますし、その浮沈こそが社会の健全性を計るバロメーターだと考えます。そのことを「松元ヒロ:ソロライブ」に接して痛感したのでした。
広島市内の爆心地から1kmもない地点で被爆し、その原体験をもとに執筆された原爆被災を内容とする傑作小説『夏の花』。その作者である「原民喜」が、昭和26年(1951)3月に吉祥寺駅と西荻窪駅間の中央線路上にて自死を選んで46年の生涯を終えてから、ちょうど70年の歳月が流れました(不謹慎ではございますが著作権が切れたこともあり、以下に作品を遠慮することなく引用させて頂こうと存じます)。その時、遅く起床した民喜は便所にいて一命を取り留めたのでした。その、民喜が私たちの千葉市とも深い関係があり、その地で目に映った光景やその折々の暮らしを筆に残していることは意外なほどに知られておりません。
原民喜は、明治38年(1905)に広島市幟町(のぼりちょう)に生まれております。生家は陸海軍・官庁御用達の繊維商を営む裕福な家であり、その名は日露戦争勝利で民が喜んだことに因んで父親が付けたものと伝わります。その父親が小学校6年生の時に亡くなり、民喜の少年時代に聖書を伝えた姉の早世等もあり、内向的な性格になったと言われます(後に遭遇する妻の死、そして原爆による膨大な「死」と向き合う作風の根幹はここで形成されたものと思われます)。小学生の時分より作文を得意とし、他の兄弟と家庭内同人誌を編集して作品を掲載していたほどの早熟を示しており、中学生時分には将来の希望は作家以外の考えは一切なかったとのことです。大正13年(1924)年、慶応義塾大学文学部予科に入学するため上京。その在学中にも、同人誌に俳句・小説・随筆等々を寄せるなど文才を発揮しており、同時に左翼運動にも関心を深めていったのでした。地方から上京した純粋なインテリ学生によくみるパターンと言えましょう。大学を卒業した27歳の時には色恋沙汰から自殺未遂も起こしています。
そして、翌年28歳にして、故郷広島県出身の永井貞恵と見合いの末に結婚(貞恵の実弟には文芸評論家として著名な佐々木基一がおります)。夫妻ともに、官憲からの社会主義運動の嫌疑を受けて検束されたことを経て(一晩で釈放)、昭和9年(1934)に千葉市大字寒川字羽根子(現在・千葉市中央区登戸二丁目)に転居しております。その家屋は京成電車「新千葉駅」に程近い台地上にあり、埋立前の東京湾とその上に果てなく広がる虚空とを、臨むことのできる場所であったようです(京成電車は、今から100年前の大正11年に市制施行と同時に津田沼から千葉まで延伸されており、成田までの本線より早期の開通となりました。また国鉄が非電化であったため「電車」が千葉に乗り入れたのは京成電車が初となります)。千葉で暮らしていた、その前半期は、決して長いとは言えない民喜の作家生活の中で、実り多い年月であったように思われます。妻の支えによって多くの作品をその地で物しているのですから。私自身が、胸を締め付けられるような思いで読んだ、夫婦間の美しくも切ない遣り取りが、戦後になって書かれた『苦く美しき夏』に留められておりますので、以下に引用をいたします。
「こんな小説はどう思う」彼は妻に話しかけた。 「子供がはじめて乗合馬車に乗せてもらって、川へ連れて行ってもらう。それから川で海 老を獲るのだが、瓶のなかから海老が跳ねて子供は泣き出す」 妻の目は大きく見ひらかれた。それは無心なものに視入ったり憧れたりするときの、一番 懐かしそうな眼だった。それから急に迸るような悦びが顔一面にひろがった。 「お書きなさい。それはきっといいものが書けます」 その祈るような眼は遙か遠くにあるものに対(むか)って、不思議な透視を働かせている ようだった。彼もまた弾む心で殆ど妻の透視しているものを信じてもいいとおもえたの だが……。
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これを書いたときに、妻の貞恵は既にこの世の人ではありませんでした。だから余計にその麗しさが切なさを伴って心に染みるのです。私は、目頭を熱くせずにこの部分を読むことができません。貞恵はこの地で、当時は不治の国民病とも称された死病に取り付かれたのです。肺結核でした(後に糖尿病を併発)。そして昭和14年(1939)に、官立千葉医科大学附属病院(現・千葉大学医学部附属病院)入院。それ以降、自宅療養を含めて5年間にわたる闘病生活を送ることになりました。しかし、献身的な民喜の看病の甲斐も実ることなく、昭和19年(1944)に登戸の家で息を引き取りました。その時に貞恵が入院し、民喜が毎日のように見舞いに通った病棟が、今に残る千葉大学医学部本館に他なりません(この建物につきましては後編で述べたいと存じます)。その間、民喜は、療養のための糧を得るために、昭和17年(1942)船橋市立船橋中学校(2年後に「県立」に移管。現・千葉県立船橋高等学校)に嘱託の英語講師として二年間にわたり週三回の勤務をしております。そうしたこともあって、千葉での生活の後半は作品発表が次第に少なくなっていくことにも繋がりました。しかし、この際の妻との親密な遣り取りと煩悶、そしてついには妻を失った際の募る思いの数々とが、戦後になって書かれることとなる、静かなこの世のものとも思われないほどの美しい文章による奇跡のような珠玉の作品として結晶することになるのです。前者については『苦しき美しき夏』『秋日和』『冬日和』として、後者につきましては『美しき死の岸に』『死のなかの風景』として。その余りにも静謐な美しさに打たれないのであれば、所詮は文学とは無縁の衆生であろうとさえ言い切ることができるほどの名作、そして名文に他ならないと私は確信いたします。民喜と申せば『夏の花』ばかりが喧伝されますが(その世界観を共有することを承知の上で)、私個人は上記の作品群にこそ最も心を惹かれます。標記作品が一同に介する「新潮文庫」末解説で、大江健三郎が「若い読者がめぐりあうべき、現代日本文学の、もっとも美しい散文家のひとりが原民喜であると僕が信じている……」と述べておりますが、自分自身の想いと正しく呼応いたします。
妻を失って、民喜は千葉の家を畳み、昭和20年(1945)1月に故郷の広島市幟町にある実兄の下に身を寄せることになりました。しかし、そのことがこの作家に更なる不幸を呼び込むことになろうとは、その時の民喜は知る由もありませんでした。その「更なる不幸」とは、同年8月6日午前8時15分、「原爆」との遭遇に他なりません(皮肉なことにその体験を通じて、原民喜は作家として今日の名声を残すことになるのですが)。遅く起きた民喜は便所に入っていて被爆しました。爆心地から1.2kmで一命を取り留め得たのは、一重に裕福であったが故の頑丈な普請に起因します。もっとも、その後の火災で屋敷は全焼しました。
『夏の花』は、被爆直後の日記「原爆被災時のノート」をもとに、その直後に疎開先の広島県佐伯郡八幡村で執筆されたと言います。GHQの検閲に鑑み、本人の承諾の下で、被爆者描写等の幾つかの箇所の削除がなされ、昭和22年(1947)に発表されています。そして、続いて発表された原爆投下の前後を描いた『壊滅の序曲』『廃墟から』とあわせて「夏の花三部作」と称され、現在入手しやすい文庫本等では、この三部作の形で収録されていることが殆どであります。しかし、あえて今回これら名作にはこれ以上立ち入ることはいたしません。何故ならば、その手の紹介は世に溢れているからに他なりません。本稿では、民喜が広島に戻って被災する以前の、千葉市における暮らしに焦点を当ててみようと思います。そして、現在本館で開催中の小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫 -知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-」と、多少は関連づけようとも目論んでおります。原民喜における、千葉市内で営まれた妻貞恵との幸福と絶望との間を大きな振幅で行き来した生活の時代が、正に「気球連隊」がこの千葉市内に置かれていた時代と重なるからであります。彼の作品に描かれている戦前の千葉市内の光景を、彼の作品の中から拾い上げてご紹介いたしましょう。
実際に、今回本稿を執筆する契機となったのが、他でもない現在本館で開催されている小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫」と深く関わることとなります。それは、本展準備中に、今回の展示品の中核をなす資料群の所有者である伊藤奈津絵さん(「千葉市の近現代を知る会」会員)から、「原民喜の作品に千葉市内の気球について書かれているものがある」こと、そこには気球に描かれる「日の丸」を「赤い眼」と表現していること、それが確か彼の詩作品であったように思うと、ご教示いただいたことだったのです。民喜の作品はその昔に手に入れた『夏の花』しか所有しておりませんでしたので、早速岩波文庫『原民喜全詩集』を購入して最初から最後まで眼を皿のようにして調べました。しかし、残念ながら「気球」を詠んだ詩は以下の一点だけ。しかも、そこには、伊藤さんからお聞きした印象的な「赤い眼」の表現を見出すことは叶いませんでした。
師走 |
本作品は、『断章』とのタイトルで一括りに纏められた20数篇の作品群のひとつでありますが、最後の「後期」に「ここに集めた詩は大正12年から昭和3年頃の頃のものであるが、……(中略)……昭和16年9月2日、空襲避難の貴重品を纏めんとして、取り急ぎ清書す。」と追記されております。従って、千葉市内で清書をしたことはほぼ間違いありませんが、当作品における「気球」は千葉市内の気球連隊のものである可能性は低いものと思われます(伊藤さんの申されていた作品につきましては後述いたします)。そこで、嘗て読んだ原民喜の小説集を書庫から探し出して再読することにいたしました(『夏の花・心願の国』新潮文庫)。しかし、そこにも「気球」への言及を見つけることができませんでした。ただし、嘗て読んだときには読み飛ばしていて、一切気づくことすらなかった戦前の千葉市の光景が、彼の小説には豊富に描き込まれていることに一驚いたしました。今と引き比べても、民喜が何処を歩き、何を見ているのかが手に取るように伝わります。もっとも、当方には埋め立て以前の海岸の情景と重ねることは叶いませんが、それを知る皆様には大いに共感できる記述ではありますまいか。「後編」では、その幾つかを紹介させていただきます。
(後編に続く)
まず、彼らが居住した京成電鉄「新千葉駅」に程近い「登戸」周辺の様子について。埋め立て前は、国号の目前に遠浅の海が広がっており、現在とは似ても似つかない光景でありました。馴れぬ千葉の気象と相俟って、瀬戸内育ちの夫婦には心身に大きな負担になったこと等が伝わってまいります。
「彼等二人がはじめてその土地に居着いた年の夏……。その年は狂気の追憶のように彼に刻まれている。居着いた借家-それは今も彼の棲んでいる家だったが-は海の見える茫漠とした高台の一隅にあった。彼はその家のなかで傷ついた獣のように呻吟していた。狭い庭にある二本の黐(もち)の樹の燃え立つ青葉が油のような青空を支えていて、ほど遠からぬところにある野づらや海のいきれがくらくらと彼の額に感じられた。朝の陽光がじりじりと縁側の端を照りつけているのを見ただけでも彼は堪らない気持ちをそそられる。すべては烈しすぎて、すべては彼にとって強すぎたのだ。」
「陽が沈んで国道が薄鼠色に変わっていく頃、彼は妻と一緒によく外に出た。平屋建の黝(くろず)んだ家屋が広いアスファルトの両側に続いて、海岸から街の方へ通じる国道は古い絵はがきの景色か何かのようにおもえた。」 「妻は夜更けに彼を外に誘った。一歩外に出ると、白いと埃(ほこり)をかむったトタン屋根の四五軒の平屋が、その屋根の上に乾ききった星空があった。家並みが杜切れたところから、海岸へ降りる路が白く茫と浮かんでいる。伸びきった空地と叢(くさむら)と白っぽい埃の路は星明かりに悶え魘(うな)されているようだった。」 (以上『苦しく美しき夏』より 昭和24年) |
続いて、妻貞恵の入院することとなった、官立千葉医科大学附属病院(現・千葉大学医学部附属病院)と、そこから眺めた周辺風景、及び自宅から通う千葉の街の光景等について。この建物こそ、現在も千葉大学医学部本館として使用される建造物であります[昭和11年(1936)年完成]。現在も続く大林組の手になる当時東洋一を誇る病院建築として著名でした。妻貞恵が入院したのは完成後3年後になります。関東大震災後に普及した鉄筋コンクリート造の大規模建築であり、全面を覆うスクラッチタイル、水平線を強調した重苦しさを階段室の縦窓で緩和する破調も優れたデザインであります。更に玄関車寄と玄関内ホールの意匠にも優れたものがあります。間違いなく国の「登録有形文化財」指定に値する建造物であります。戦中の所謂「七夕空襲」では幾多焼夷弾を受けながらも持ちこたえました。そして、焼け跡から見上げた猪鼻山に屹立していた姿は、市民にとっての戦後復興の希望の象徴ともなりました。その意味で、文化財的価値に止まることのない、正に千葉市民の「記憶遺産」としての意味合いを重視せねばならない記念碑でもあるのです。千葉市にとって決して疎かにすべきではない建造物であります。それは、本館の側に建つ昭和2年(1927)建築「旧精神科病棟(現・千葉大学医学部サークル棟)」にも言えることです。この建物には当時欧米で流行したアールデコ装飾が到るところに見て取れます。その点において極めて美術史的価値のある歴史遺産でもあります。こちらも、間違いなく登録有形文化財への指定が穏当な建築物と言うことができます。空襲により千葉市の歴史を伝える建築物が残らない千葉市にとって、これほど重要な近代建築物が残っていることを我々は誇りとすべきかと存じます。以下に、原民喜の文章から幾つかを引いてみましょう。なお、以下の引用文中の「※文章」は当方による注釈となります。
「街は日の光でひどく眩しかった。それは忽ち喘ぐように彼を疲らせてしまった。だが、病院の玄関に辿り着くと、朝の廊下は水のように澄んでいた。」
「彼はそっと椅子を立ち上がって窓の外へ出る扉を押した。そのベランダに出ると、明るい灝気(こうき)がじかに押しよせて来るようだった。すぐ近くに見おろせる精神科の棟や、石炭貯蔵所から、裏門の垣をへだてて、その向うは広漠とした田野であった。人家や径(みち)が色づいた野づらを匐(は)っていたが、遮るもののない空は大きな弧を描いて目の前に垂れさがっていた。」
「彼はそっと窓の方の扉をあけて、いつものベランダに出てみた。冷たい空気が頬にあたり、すぐ真下に見え鈴懸の並木がはっと色づいていた。と、何かヒラヒラするものがうごき、無数の落葉が眼の奥で渦巻いた。いま建物の蔭から見習看護婦の群が現れると、つぎつぎに裏門の方へ消えて行くのだった。その宿舎へ帰っていくらしい少女たちの賑やかな足並は、次第にやさしい祈りを含んでいるように思えた。と、この大きな病院全体が、ふと彼には寺院の幻想となっていった。高台の上に建つこの大伽藍は、はてしない天にむかって、じっと祈りを捧げているのではないか。明るい空気のなかに、かすかに靄が顫(ふる)えながら立罩(こ)めてくるようだった。」 「冷え冷えとした内庭に面した病室の窓から向側の棟をのぞむと、夕ぐれに近い乳白色の空気が硬い建物のまわりにおりて来て、内庭の柱の鈴蘭灯に、ほっと吐息のような灯がついていた。あのもの云わぬ灯の色は今でも彼の眼に残っているのだったが……。」
「停車場とその病院の間を往来するバスが、病院の玄関に横づけにされた。すると、折鞄を抱えた若い医師が二人、彼の座席のすぐ側に腰を下ろした。雨はバスの屋根を洗うように流れ、窓の隙間からしぶきが吹き込んだ。「よく降りますね、今年は雨の豊年でしょうか」と医師たちは身を縮めて話し合っていた。やがて、バスは揺れて、真っ暗な坂路を走っていった。銀行の角でバスを降りると、彼はずぶ濡れの舗道を電車駅の方へ歩いた。雨に痛めつけられた人々がホームにぼんやり立ち並んでいた。次の停留場で電車を降りると、袋路の方は真っ暗であった。彼は真っ暗な奥の方へとっとと歩いて行った。」 「薄暗い病院の廊下から表玄関へ出ると、パッと向こうの空は明るかった。だが、そこの坂を下って、橋のところまでいくうちに、靄につつまれた街は刻々とうつろって行く。どこの店でも早くから戸を鎖し、人々は黙々と家路に急いでいた。たまに灯をつけた書店があると、彼は立寄って書棚を眺めた。彼ははじめて、この街を訪れた漂泊者のような気持ちで、ひとりゆっくりと歩いていた。」
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続いて、千葉市における「気球」についてです。前編の最後に申し上げた通り、当方の所有するたった2冊の文庫本からは、伊藤さんが仰せの記事を見つけ出すことができませんでした。ところが、思いもかけず、伊藤さんから関連資料をご教示いただき、関連作品の写しまで頂きましたので、ご厚意に甘えて、この場でご紹介をさせていただきたいと存じます。それらは、どうやら『原民喜全集』[彼の作品を最も網羅しているのは「定本原民喜全集3巻+別巻1巻の4冊本」1978年(青土社)かと思われます]でしか読むことの叶わないものであり、「随筆(エッセー)」「書簡」部門に納められているようです。せっかくの機会ですから、その前後にある「千葉市」の記述も併せて引用させていただきましょう。
「荒木山。私の家から荒木山まで二三十分で行ける。麓から上に登るには三分位である。山上には荒木大尉の銅像がある。今年の1月5日の午後、私は行つてみた。途中の畑道は固く凍ててゐたが、冬晴の空に魚型の気球が一つ浮いてゐて、麦は丘に煙つてゐた。藁を被せた畑があちこちのあつた。二人づれの子供がひそひそ笑つて向からやつて来たが、見ると、一人は生きてゐる鳩を両手で握つてゐた。山の麓の辺の畑と路とが紛らわしくなつてゐて、麦の芽が、下駄で踏み躙れてゐた。荒木山猟犬飼育所と立札がある空地の方へ這入つてみると、金網張の犬小屋があり、箱のなかにゐた黒い犬が急に飛出して金網に這い登つて来た。銅像のところから下を見下ろすと、小さな沼があって、枯尾花が白く光つてゐた。」 ※「荒木山」→鉄道第一連隊の兵により建立された、殉職した荒木大尉を悼む銅像の建つ小山を「荒木山」と称する。銅像は戦時中供出され現存しない。「山に登るのに二三分」とあるのは不明。土盛りに近い小丘であり天辺までかような時間を要しない。
「海岸。海岸へは五分位で行ける。去年の9月3日の夜、私が外へ出ると、軒毎に御神燈が点されてゐて、暗いアスファルトの国号も少し人通りがあつた。登戸神社の祭なのだつた。海岸へ来てみると、海は曇つた夜空と溶け合つてゐて、茫とした闇だつた。その闇のなかに二つ三つ、微かに白い線が浮かんでゐるのは、捨小船であった。」
「拝啓 シベリア鉄道は長い長い蛇体でしたか 日本では「忘れちゃいやよ」といふレコードが發賣禁止になり 男お定が出没して居ります。千葉は梅雨で眼の赤い気球がゆらゆら揺れて居ります 柳町の叔父さんはこの間下関まで君を見送り 帰りに秋吉の鍾乳洞を見物したさうです 善次郎君はこの夏は北海道旅行をする由です 北海道もビイルはうまいといふ話だがドイツのビイルはどんなにかうまいことかと想像します ドイツで飲むからうまいらしい さて代表軍の元氣は盛ですか この間東京出發の際は少し痩れて居たやうだが 長の旅路のこと故 勢と自愛が肝要ですぞ デエトリツヒのやうな女どもが右往左往して居る伯林 ナチスのナスビ鬚 それから柳町ではまた遠からず芽出度いことがあるさうです
追伸 千葉の小犬は大分娘らしくなりました。今年の暮頃には子を産むかもしれないといふ噂です。」
※「忘れちゃいやよ」→渡邊はま子の歌 ※「男お定」→不明。著名な「阿部定事件」が同年に発生しているので関連か。 ※「善次郎」→名字は永井。妻貞恵の弟で著名な文芸評論家。筆名は佐々木基一。 ※「伯林」→ドイツの首都「ベルリン」のこと ※「デエトリツヒ」→マレーネ・デートリヒのこと。ワイマール共和国時代を代表するドイツ出身の女優・歌手。 ※「ナチスのナスビ鬚」→不明。ヒトラーのナチス政権の下、同年8月に「ベルリンオリンピック」が開催されている。 ※「村岡 敏」→原民喜の17歳下の末弟。村岡家に養子に入った。ホッケー代表選手としてベルリンオリンピック出場のために渡独中。
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その他、当時の作品には、当時勤務していた船橋市立中学校とその周囲の光景、その通勤に用いた京成電車の車窓から眺めた風景等々、戦前の千葉市とその近隣の風景が多く描き込まれております。今でも新刊本として入手可能な新潮文庫版が、代表作と戦前の千葉市について記した作品を網羅しており、便利だと思われます。当方も、是非ともいつか全集本を入手したいと思うようになりました。最後に、『原民喜全詩集』(岩波文庫)より、彼の居住した千葉の海岸を詠んだ詩「千葉海岸の詩」を全文引用して本稿を〆たいと存じます。鳥海宗一郎『房総文学散歩(上)』(1973年多田屋刊)によれば、本作は、千葉県立図書館の郷土資料室が、東京の古書即売会で民喜自筆原稿を発見し入手に到ったとのことです。そのまま埋もれることなく見出されたことを喜びたいと存じます。上記のように、今では岩波文庫本に活字となって納められております。
最後の最後に、妻貞恵との美しい暮らしと、民喜に絶望をもたらした別離の故地である千葉市に、彼の文学碑の一つも建立されていないのは如何なる訳でしょうか。そういえば、多くの都道府県には所謂「文学館」なる施設がございますが、千葉県にはそうした施設がございません。決して文学との縁のない県ではないのですが。市町村レベルでは、県内市川市・我孫子市には存在し、優れた市川市関連作家・白樺派の展示をされております。市川市では、当方の偏愛する永井荷風の展示会も何度も行っております。新築された市役所1階には、荷風散人が終焉を迎えた市内八幡にあった自室が移築保存されております。未だ出かける機会に恵まれませんが、コロナ禍の塩梅を勘案の上、近いうちに日和下駄でもつっかけて、金阜山人の表敬訪問と散歩を洒落込むことを願っております。
千 葉 海 岸 の 詩 |
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a 我れ生存に行き暮れて b あはれそのかみののぞき眼鏡に c ここに来て空気のにほひを感じる d 青空に照りかがやく樹がある e 広い眺めは横につらなる |
f 暗い海には三日月が出てゐる g 外に出てみると月がある h 夜の海の霧は i 日は丘にあるが
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最後の最後に追伸です。本稿執筆後に梯久美子『原民喜 -死と愛と孤独の肖像-』2018年(岩波新書)に接し、深い感銘とともに読了いたしました。本稿のネットアップまでには間がありましたので追記をさせていただきます。どの部分も読みごたえがあり、巻を措く能わずに読み終えました。本書の全ての頁から、原民喜という稀有なる人物が余すところなく立ち上がってくるように感じました。久しぶりに心を揺り動かされた読書体験となりました。最終章「孤独の章」の末尾、自死を決断してからの彼の行動と残した遺書の数々、原を心底敬愛していた遠藤周作や晩年に出会った人々との心の交流ともいえる遣り取りに、目頭を熱くさせられました。本作を類書なき「評伝」作品の名作と申し上げることに何の躊躇もありません。読了後に、序章に掲載される、原の葬儀における埴谷雄高による弔辞を読み返し、改めて原民喜という人物を知りえた幸福をしみじみと実感した次第でございます。是非とも皆様にお薦めしたい一冊です。ただ、本作は、彼の作品をある程度接してからお読みになった方が、感銘はより深くなろうかと存じます。まだ原民喜に接したことが無い方は、まずは新潮文庫から手にされては如何でしょうか。
5月末に、ひとしきり雨模様の続く頃があり、関東地方も史上最速の「梅雨入」かと騒がれましたが、雨がちな週間と曇天の時期とを繰り返しつつ、最終的には、平年並みの入梅となりそうです。千葉市では「蔓延防止等重点措置」が先月末に延長され、現在もその措置下にありますし、暫くはこれまで以上に鬱陶しい毎日を過ごさねばなりますまい。しかし、文句を言っても始まりません。「集中豪雨」は困りものでありますが、「梅雨」そのものは稲作にとっては必要不可欠のものであって、まさに「恵みの雨」に他なりません。また、コロナの問題につきましても、大正の「スペイン風邪」ではその終息まで足掛け4年は掛かっております。その時代よりも社会自体がグローバル化し、遥かに複雑になっているのですから、そんなに早くに終息することは難しいのだと思います。本当に困ったことでありますが、現状のような我が国の政府対応であれば、より長期化する可能性すらありえましょう。そもそも、ウィルス自体は、人間よりも遥かに以前からの世界の先住民(!?)であって、その在り方は少しも変っておりません。その出自は、生命の誕生と軌を一にしているとさえ考えられているのですから、決して人間社会への闖入者ではないのです(ウィルスに言わせれば、人間こそが圧倒的に新参者であり闖入者以外の何者でもないと猛抗議をするに違いありません)。変わっているのは人間の生活環境であって、そのことでウィルスと人間との接触環境が劇的に変化したことが、パンデミックの生成要因に他ならないと考えます。現況を顧みる必要があるのは、我々人間に他なりません。そもそも「コロナウィルスに打ち勝つ」などと言うスローガンが的外れなのだと考えざるを得ません。人間が、まずはそのことを理解し、今後彼らと如何に共存していくしかを模索することしか手はないのだと思われます。
まず初めに、例年この時期に開催しております「千葉氏公開市民講座」についてのご案内です。昨年度は、ちょうどコロナ禍下での閉館中であったこともあり、会場での公開講座については中止といたしました。その代替として、当日の講師をお願いしていたお二方の先生に、講演内容を論考形式で御執筆いただき、「講演録」の形で「千葉氏ポータルサイト」アップと冊子刊行との対応をいたしました。講演録は現在もネットでお読みいただけますし、冊子も在庫がございますので、本館に脚を運ばれた際に、受付にて「令和2年度 千葉氏公開市民講座 講演録(武家社会確立期の権力と権威-千葉氏をはじめとした東国武士の動向から読み解く-)」とご用命いただければ差し上げますので、お気軽にお声がけくださいませ。ただし、在庫限りとなりますので御理解ください。
本年度につきましては、現状の「蔓延防止等重点措置」対応の下、大幅に定員を絞り盛り込んだ形で会場での実施をいたします(80名)。従って、ご希望が多い場合には抽選とさせていただきます。例年以上に狭き門となると存じますが、現状を鑑みてご理解を賜りますようお願いいたします。内容は、昨年の「武家社会成立期(鎌倉幕府の成立後)」を若干遡った「武家政権成立期」のことに焦点を当てております。東国で源頼朝が源氏再興の兵を挙げるにあたって、千葉一族を中心とする東国武士が如何なる考えを基に、それに加担していったのか、その「心性」にメスを入れてみようとの目論見であります。平たく言えば、東国武士の「ホンネ」と「タテマエ」に迫ろうとするものと言っても宜しいかと存じます。源頼朝が挙兵した際に、三浦義明が「我は源氏累代の家人で、幸いにその貴種再興のときに逢った」と述べたとされます。その際に義明の述べた「貴種」とは何を念頭に置いた発言なのか。また、そうした認識と並行して、東国において武士団が行っていた在地領主としての心性(伝統的権威との軋轢)との関係に迫る、大変に興味深い内容となるものと確信するところであります。申し込み方法等につきましては、各所で配布している「チラシ」及び本館のホームページでご確認ください。締め切りは6月11日(金曜日)です。明日になりますが、電子申請はまだ充分間に合いますので、ご関心があるようでしたらお申し込みください。
「武家政権成立期の東国武士の心性 ―「貴種」頼朝と千葉一族―」
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さて、そろそろ本題に入らせていただきます。紫陽花や菖蒲・燕子花等々の花々が「眼」に嬉しい季節となりました。こうした目にする、「五感」でいえば「視覚」についての話題には枚挙に暇がありませんが、「嗅覚」、平たく言えば「匂い」に関してのそれが取り上げられる機会はさほど多くはありません。特に、現在のような「梅雨」の季節は、「鼻」に嬉しい(??)時節到来とは言い難いこともあります。毎日のじめじめした陽気の中、漂う「匂い」と言えば、専ら、食物が傷んでしまった「饐えた匂い」、この時季に猛威を振るう菌類に起因する「黴臭」、生乾きの洗濯物に発生する雑菌を原因とする「蒸臭」、蒸し暑さによる発汗等の活発な新陳代謝作用に由来するのであろう、人混みでの噎せ返るような「人いきれ」、雨の街をゆけば旺盛な生育の時季に由来する草木からの「草いきれ」、そして、何よりも家内から戸外に到るまで遍く漂う「水の匂い」等々。基本的に鼻に優しい「匂い」ではなく、むしろマイナスのベクトルをもつ「匂い」のオンパレードといっても宜しいほどでありましょう。従って、「匂い」が話題として取り上げられる機会もありません。この時節の花で麗しい「香り」を漂わせるのは、あえて挙げれば「クチナシ」「タイサンボク」位しか思いつきませんが、身の回りでそう容易く出会うことの叶わない花でありましょう。何れにせよ、まず少なき「芳香」にせよ、そこいら中で出会う所謂「悪臭」にせよ、濃密な湿度が、余計に「匂い」そのものを際立たせる季節でもあります。
しかし、「良し悪し」を問わず、これらの「匂い」の総体こそが梅雨の季節を象徴するものに他ならないのも事実です。そして、我らが風土に暮らしてきた先人達は、これら「匂い」「香り」を受け入れ、楽しんできたのではないかと思われます。そして、古くから我々の食世界を豊かにしてきた発酵食品の数々もまた、「梅雨」の季節とは無縁ではありません。いやむしろ、この季節を象徴する「匂い」「薫り」のひとつとさえ考えます。この蒸し暑き時節にこそ「発酵」は大いに進み、結果として人間に有益な食糧を提供することになるのです。それらは、決して「芳香」と名乗るには程遠い「匂い」のものが多々ございます。「納豆」しかり、「糠漬」しかり、「味噌・醤油」しかり、日本人独特の「旨味」成分を生み出す「鰹節」しかり、開いた青魚を強烈な匂いを発する発酵液に漬け込み乾燥させた「クサヤ」しかり。余計なことですが、当方の曾祖母は出身地が伊豆大島の波浮港であったこともあり、よく「くさや」が送られてきました(魚は専らムロアジでした)。従って、幼いころから我が家では頻繁に食しておりました。その所為か自分では全く違和感なく美味しく頂きますが、出会った方々の殆どが強烈な発酵臭に一様に顔を背けます(なんでも集合住宅で焼く事はできないと聞きます)。これら「発酵」という現象は、「腐敗」と全く同様の微生物による分解活動に他なりません(「麹」は一種の黴です)。つまり、全く同じ微生物の活動について、人間にとって良い結果をもたらす作用を「発酵」と称し、悪い結果をもたらす作用を「腐敗」と定義したにすぎず、全面的に人間の都合による勝手な分類にすぎません(人間にとって必要のない草を「雑草」と総称するのと一緒)。従って、確かに腐敗と紙一重の部分もございましょう。当方も近江の「鮒寿司」は得意ではありません。こうした好悪の分かれる発酵臭ゆえに、文学作品(特に古典の世界)に描かれることは寡聞にして目にいたしません。「古典文学」の世界に見える嗅覚に関わる世界と申せば、もっぱら花々の「香り」であったり、貴人の放つ「残り香」であったりであり、「黴」や「腐臭」といった風流と無縁の「匂い」世界が描かれないのは当然でありましょう。しかし、こうした「匂い」を表現しなかった謂わば「風流人」たちも、強烈な発酵臭を「好ましき香り」と認識し、好んで食していた筈です。その意味で、「文学作品」だけの世界から「匂い」世界を考えることは難しいことでしょう。
かように、多様に存在する「匂い」世界でありますが、昨今の世界は、総じて「匂い」、特にマイナスベクトルと認識されがちな「匂い」を徹底的に排除する方向に進みすぎているように思うのですが如何でしょうか。つまり、多様な「匂い」が抑え込まれてしまって、「匂い」そのものが単一化されており、人の嗅覚も逆に敏感では無くなっているようにさえ思われます。街々からも家の中からも、季節の移ろいを感じさせる春夏秋冬の「匂い」も、所謂「生活臭」と言われる「匂い」も、昨今はあまり感じることがありません。幼き頃には、まだ玄関を開けて外へ出たときに「あっ!!夏の匂いだ!!」「あっ、今日から秋だ!!」といった感覚を嗅覚で感じ取れたものです。また、秋になれば七輪で焼く「秋刀魚」の匂いが街を漂ってきたものです。今や、何処にも及ぶことになった空調設備の普及、自治体によるごみ収集の徹底等々もあり、季節の「匂い」をはじめとする街々の「匂い」が姿を消しております。そして、並行して人間もまた「匂い」への感性を鈍麻させているように感じます。勿論、それ自体は「衛生」観念の徹底といったプラスへの貢献が多大な訳でありますが、何もそこまで……といったことにまで「匂い」の抑制が進んでいるように思います。それは、食品、特に、上述した発酵食品に顕著であるように思われます。つまりは、「匂い」もまた、「文化」に他ならないことを深く自覚するべきかと考えるのです。
世に「匂わ納豆」なる商品名の納豆があります。「納豆臭がしない」ことを売り物にした納豆に他なりません(もっとも実際に食すると納豆臭が抑えられているというのが正確です)。確かに、私が若い頃までは、納豆食文化のない関西の方には納豆は極めて不人気でした(関西人にとっての「納豆」とは、我々東国人の言う「甘納豆」を指すと何度も聞かされました)。「あんな豆の腐ったものをよく口にできるね」「あの匂いを嗅いだだけで吐き気を催す」等々、幾万の悪口三昧を耳にしました。従って、「匂わ納豆」の開発とは、納豆業者の皆さんによる「関西方面への市場開拓」に向けた涙ぐましい商品開発の賜物に他なりますまい。しかし、当方のような天邪鬼にとっては、納豆臭のしない納豆は、もはや納豆と称すべきではないと思います。今流行の表現で申せば「納豆風味覚食物」とでも言うべきでございましょう。あの「納豆臭」こそが、納豆を構成する必要不可欠な要素なのであります。例えば、コーヒーの香りが苦手という人のために「無臭コーヒー」なる商品を売り出すことなどありましましょうか!?恐らく「すこし酸味の利いた苦いだけの飲料」となりましょう。もはや、それがコーヒーとは似ても似つかぬ代物であることは納得していただけましょう。誰も、そこまでして珈琲を飲もうとは思いますまい。つまり、納豆は納豆としての特質をより打ち出すことこそが、正しい販売戦略ではありますまいか。そして、何よりも正しい意味における食文化の継承に繋がるのだと考える次第であります。
(後編に続く)
前編最後に述べた「匂わ納豆」の話題に続いて発酵食品の話です。納豆以上に、当方にとって昨今における最大の不服の産物が「沢庵漬」に他なりません。現在スーパーマーケットや乾物屋で売っている「沢庵漬」なる商品は、もはや沢庵の名に値しない「まがい物」に他なりません。何故なら、発酵臭が殆ど感じられず、しかも甘すぎます。それもその筈です。砂糖を相当量添加しております。しかも、大規模な工場で、黄色の味付液につけてつくられる、発酵とは一切無縁の浅漬け的な「漬物」と化しております。「沢庵和尚」起源によるホンモノの「沢庵漬」とは、適度に寒干した大根を糠床に長期間漬け込んだものであり、漬け込むに従い発酵した糠の持つ旨味と香りとが強烈に発散される食品となります。暑い時期まで漬け込めば今度は乳酸発酵が進み酸味も加わります。しかし、この酸っぱくなるまで発酵した「沢庵漬」もまた別の味わいで美味なるものです。そもそもが、塩辛さを本来の持ち味とする漬物であり、甘みは大根自体が本来有するものだけに限られます(もっとも糠床に柿皮も入れたりしますのでその甘さも加わりましょうが)。これが、高僧「沢庵宗彭(1573~1646)に由来する「沢庵漬」の実像です。その昔は、流石に「沢庵漬」を公共交通機関へ持ち込むことは憚られたほどに、相当に強い発酵臭を撒き散らす食物でした。申すまでもなく、糠とは正しくは「米糠」であり、玄米を白米に精米する際に生ずる副産物です。つまり、弥生時代以来の稲作文化の伝統を引き継ぎます(もっとも、現在のような糠漬となったのは精米した白米を食することが一般的となった江戸時代初期からと考えられますが、それでも長い歴史を背景に持つことには違いありません)。こうした、正しく伝統を受け継ぐ食文化が今や衰退の一途を辿っております。今では、糠漬けの習慣すら一般家庭からは失われつつあり、農家でも精米後の糠の殆どは販売すらされず廃棄されると耳にいたしました。嘆かわしい限りであります。地元に古くからある乾物屋にきいてみても、「今の連中には本物の沢庵を出しても沢庵だと思ってもらえないし、そもそも臭いと言われて買ってもらえないんだよ」との回答が。爾後の日本では、あの似て非なる漬物が「沢庵漬」の定義となりましょう。まさに「まがい物」ばかりが跋扈する、薄っぺらな経済大国と化しつつあります。
余談ではありますが、当方は東京の荒川区三ノ輪にある商店街「ジョイフル三ノ輪」にかつて存在した、八百屋「藤野商店」の親父が漬けていた「沢庵漬」が、子供の頃に自宅で食していたものに近似しており大好きでした。しかし、当方にとって「最大の悲劇」が起こりました。親父の老齢化を理由に数年前に廃業してしまったのです。心底嘆き悲しみました。また、名古屋方面に出掛けると、これも伝統の沢庵漬である「伊勢沢庵」を必ず購入して土産としておりました。しかし、数年前に名古屋駅近くの百貨店で購入しようと立寄ったところ、最近では作っている店がほとんどなくなり滅多に入荷しないとのこと。こちらも絶滅危惧種であることを知り驚愕いたしました。以前は、伊勢商人が全国に商に出掛ける時には決まって土産品として持参した、名物の「伊勢沢庵」ですらこの有様かと悲しくなりました。こうなったら、自作するしかありません。仕事を完全リタイア―してから取り組むべき第一は、「糠床」をつくって糠漬を楽しむこと。そして、その発展形として思い切り発酵が進んで、最早電車やバス内には持ち込めない程に発酵臭芬々たる「沢庵漬」を食することと心に決めております。ご存知の通り、糠床は毎日手を入れて攪拌しなければよい糠床にはなりません。完全リタイア―しない限り、実行はなかなかに難しいことなのです。山の神が一時挑戦しましたが、少し手入れを怠れば糠床自体がオジャンとなります。結局自然消滅とあいなりました。その際の捨台詞が「定年してから自分でやって!!」でありました。そこまで言われて尻込みしていては、男が廃るというべきでしょう。意地でも遂行したいと思っております。子どもの頃に、曾祖母や祖母、母親が漬けてくれた味の再現を目指して参ります。そして、昨今の「匂い」少なき、所謂「無臭」の世に物申す、胡散臭い偏屈爺さんと化すことを期しております。
更に話題を敷衍すれば、日本人に欠かすことのできない「味噌」も発酵食品であります。当方は、これについても、昨今の当たり障りの無い大人しい味噌に飽き足らない思いでおります。子ども時分に食した味噌にはもっと個性がありました。従って、今でも発酵臭のキツい味噌が好みです。しかし、味噌に付いては、未だ未だ頑迷固陋に伝統を受け継ぐ味噌蔵が残っております。当方のお気に入りを2つご紹介させていただきます。一つ目は、ここ25年程欠かすことなく、飽きもせずに取り寄せて味わっている味噌になります。岐阜県は郡上地域で食される所謂「郡上味噌」であります。溜まり醤油と一緒くたになったような半液体状の味噌となります。あまり地域外にでることがないのでしょう、東京の味噌専門店でも全く見たことがありません(全国の味噌を幅広く渉猟する東京亀戸の「佐野味噌店」にも置いてありません)。近隣の名古屋でさえ親しまれていません。もっとも、尾張・三河は豆味噌である、かの「八丁味噌」の牙城でありますので(個人的にはこれも大好物であり欠かしたことがありません)、郡上味噌の出る幕はないのかもしれません。二つ目は、相当に癖の強い美味なる味噌であります。こちらは店名を出させていただきますが、長野県松本市にある天保年間創業の味噌蔵「萬年屋」であります。昔は一般的であったものの、手間がかかるために今ではほとんど行われない、味噌玉の状態で充分に発酵させてから樽に漬け込こむ二段熟成を行っていることもあり、香りはまるでブルーチーズのように相当に濃厚なものです。一度はまったら抜け出せない程の豊潤さは、外国人から人気というのも納得の味わいです。世にいう所謂「信州味噌」とは一味も二味も異なったものです。従って、両者ともに、通常スーパーマーケットで販売される味噌の味に慣れている方にはお薦めいたしません。しかし、これぞ発酵食品としての味噌の精髄であり、今ではすっかり牙を抜かれてしまった味噌本来の「匂い」に他ならないと存じます。年配の方であれば、子どもの頃に、目が覚めると台所から寝床まで、日本家屋の中を漂ってきた味噌汁の香りを思い出されましょう。まさに「手前味噌」として各家で味わっていた「匂い」の世界を思い出されることと存じます。
ここで少々脱線し、「匂い」ではなく「味」の話をさせていただきます。まぁ、「味」と「匂い」とは混然一体となって、味覚を形成するものでもありますので、ご容赦頂ければと存じます。一つ目は、「梅干」です。昨今出回っている、ちっととも酸っぱくもなければ、塩辛くもない、まるでデザートの如き、「梅干」と称する「まがい物」の氾濫に苦言を呈しておきたいと存じます。少なくとも「梅干風食品」とでも明記すべきでありましょう。昨今の子供に本物の梅干を食させると「何これ!?」と吐き出すそうです。「何これ!?」とは片腹痛し!!「これが梅干というものなんじゃい!!」と説教のひとつも垂れたくなります。昨今の「はちみつ味」とかいう梅干もどきは、クエン酸を抜いて甘みを添加して製造するそうです。これを少なくとも「梅干」として売ることだけはやめていただきたい。我が家では、南高梅の産地である紀州は「みなべ町」の梅農家から梅干を取り寄せておりますが、何と!そこでも注文時に「無調整の素のままの梅干にしてくれ」と伝えない限り、食べやすく味を調整した商品となってしまうのです。嘆かわしい。もっとも、母親の生前には我が家でも自家製の梅干をつくっており、幼少時代からその作り方には精通しております。従って、これも完全リタイア―後に自作するつもりであります。
二つ目は「甘酒」です。昨今は、美容に宜しいとかで女性に大人気と聞きます。「酒粕」を湯に溶いて砂糖を加えた簡易甘酒も大好きですが、やはり麹で発酵させる本当の甘酒は格別です。江戸の昔、甘酒はこれからの季節、つまりは水の悪くなりやすい気温湿度の高い夏に冷やして飲むものでした。お腹に優しい飲料として重宝されたのです。それは「歳時記」を紐解くと「甘酒」が夏の季語となっていることからも明らかです。しかし、店舗で購入しようと成分表を見ると「砂糖」と明記されているものが多いことに驚かされます。麹菌が米の澱粉成分を分解して糖を生成するのが甘酒ですが、それは驚くほどの濃度の甘さとなります(これに酵母菌を加え、彼ら微生物が糖分を食してアルコールに変換したものが所謂「日本酒」であります)。何故、それに敢えて砂糖を加えなければならないのか??全く以て不可解以外の何物でもありません。自然な発酵だけで十分すぎるほどに甘くなるのにも関わらず……。これまた、「自然発酵甘酒」と称して堂々と売られているのです。すくなくとも「砂糖添加」と大きく明記すべきです。勿論、当方はそのような「まがい物」は絶対に購入いたしません。日本酒も、戦後の米不足の中で、糖類・醸造アルコール・調味料を添加して増量した所謂「三増酒」が幅を利かせるようになったことで、結果としてその後の日本酒の不人気に繋がったことを思い出すべきでしょう。昨今の日本酒ブームは、本物の日本酒再生を目指して地道な取り組みをされた地方蔵元の功績を起源とし、それに大手酒造も追随していったことが大きいと思います。今から30年近く前に東海道新幹線の車内販売で購入した、その名もズバリ「山口の酒」なる山口県産の日本酒の味の酷さに閉口した経験から、不味い酒の集積地と個人的に認識していた山口県からも、今では「獺祭」なる世界に冠たる銘酒を生む蔵元が出てきたことを見逃してはなりません。じり貧の酒蔵が血の滲む努力を重ねて見事に再生(更正!?)した物語はテレビ番組でも取り上げられました。「まがい物」ではない、「ホンモノ」を追求していくことが、これからの成熟社会では何よりも重要であることを端無くも明らかにした事例とは申せますまいか。
皆様は、2013年に「和食」の食文化が「世界無形文化遺産」に指定されたことをご存知でしょう。その指定理由とは以下のようなことにあります。つまり「自然を尊重する日本人の心を表現したものであり、伝統的な社会慣習として世代を越えて受け継がれ、伝統的な食の在り方を伝えること」。しかし、私にとっては、「えーっ!どこが??」との思いが正直なところです。何処を観てかような評価が下ったのでしょうか??一流の料亭文化からだけで判断した、まさにお門違いの指定ではないかと思うのです。実際のところを申せば、こと発酵食品一つとっても、かくもお寒い現状と言わざるをえません。困ったものです。かような「まがい物」食品だらけが出回っている、日本伝統の「和食」文化は実際には絶滅に瀕しているとさえ申せるのではないでしょうか。
今回は、思いついたことを脈絡もなく申し募って参りました。「匂い」について最後に一言申しあげて、そろそろ当方の放言を〆たいと存じます。勿論、「匂い」への感じ方は人それぞれであり、当方の感じ方を押しつけようとは存じません。ところで、私事にわたりますが、我が家では、山の神から「加齢臭」について屡々指摘されることがあります。還暦も越えましたのでこれも致し方がないかと思ってはおります。当方も、周囲を気遣い何らかの対応をせねばならないかとも思うことがございます。しかし、余程の事情でも出来しない限り、日々の入浴を欠かしたことはなく清潔を保つようにしております(ただ、周囲から如何に思われるかとは無関係に、自分自身の気分が宜しいのでそうしているだけです)。それで「臭い」と言われても正直困ります。しかし、これは我が家だけに固有の問題ではなさそうです。テレビでもしばしば「デオドラント効果」を謳う商品のCMを目にすることからも明らかであると思われます。勿論、不潔に由来する「匂い」が宜しくないことは論をまちません。そもそも、欧米で香水が利用されるのは、白人は基本的に体臭がきつく出る傾向があるためと言われます。また、我が国における王朝文化華やかなりし頃の「残り香」に象徴される「香り」(「伽羅」「白檀」等の「香木」由来)は、偶にしか入浴できない当時の入浴事情に起因する「臭い消し」として用いる必要があったからです。殆どの人々が毎日入浴する習慣を持つようになった今日、さほどに「匂い」をとやかく言うこと自体、もはや「匂い」ファッショとでも申すべき悪習(悪臭にあらず!)に他ならないと思いますが、皆様は如何お感じでいらっしゃいましょうか(恐らく年配の男性からの共感がある程度得られるものと推察致します)。まして、「梅雨」時期に固有の、一般に歓迎されない「匂い」であっても、余程ひどい状況になければ季節の風物詩としてとらえる、人としての余裕が求められましょう。何でもかんでも「匂い」を消し去ろうとする方が不自然であり、異常なことだと思われて仕方がありません。
そのくせ、現代は人工的な強烈な匂いには鈍感なのではありますまいか。我が家の至近にある大型ショッピングモール内に、店頭で石鹸を調合して販売している店舗がありますが、個人的にはその余りに強烈なる「匂い」に辟易しております。実際にこれをマトモに嗅ぐと嘘偽りなく気持ちが悪くなるので、当方は鼻を摘んで前を通り過ぎることにしております。まぁ、これを「いい匂い」と感じる方が多いから「匂い」を平然と垂れ流し続けているのでしょうが、過日当該店舗から50メートル以上も離れた食品売場にまで石鹸臭が強烈に漂っており、流石に堪忍袋の緒が切れました。そこで、モール全体を管理する会社にひとしきり苦言を呈して参りましたが、その後どうなったのかまでは確認はしておりません。かそけく「香る」ならまだしも、直径で100メートル四方にまで強烈にそれが及べば、それは立派な「匂い」暴力に他ならないと思います。今ありありと思い出しましたが、学校現場におりました際には、三者面接や謝恩会等での女性保護者の皆さんの発する強烈な香水臭にも相当に悩まされました。ホントウに具合が悪くなるのです。
つまり、大切なことは不潔にしないことであり、それを越えてかそけく匂ってくることに、余りに目くじらをたてるべきにあらずということを申しあげたいのです。特に、「人」に関しては。とても人間らしいことの表現に「人間臭い」があります。逆に「匂い」のない人とは、無個性で、人間性を感じさせない人(情に欠ける機械的な判断しか下すことのできない人)と言い換えることすら可能ではありますまいか。つまりは、清濁併せのむ度量の大きな人、人情味のある判断を下すことのできる人等、プラスの人格を持つ人を「人間臭い」と申すのでありましょう。人にはそれぞれに固有の匂いがあって(実際の匂いに限らず「同じ匂いを感じる」等の表現にも用いられましょう)、「匂い」とは、その人の「人となり」をも示すものに他ならないとすら考える次第であります。そうした意味で、多様な季節の「匂い」「香り」を一概に消し去ろうとするのではなく、それぞれ個性を持ったものとして受け止め、それを楽しむ心の余裕が社会全体に広がることが重要かと存じます。これこそ多様性を許容する社会と申すのではありますまいか。勿論、それぞれの「季節」を味わうことでもあることは申すまでもありません。
5月最後の日曜日。入梅前の束の間の好天をこれ幸いに、山の神と連れだって珍しくハイキングなるものに出かけて参りました。政策としての一貫性について全く合点のいかぬ政権・東京都判断による「非常事態宣言」継続の中、人混みの都心に出掛けることも叶いません。かような次第で、普段は山歩きなどとは一切無縁の当方でありますが、山の神の「巣籠もり」ストレス解消のためにでかけることになったのでした。山歩きであれば「密」なる状況に出会うこともあるまいとの思いもありました。もっとも、夫婦ともに今後ともに「登山」を趣味にもする気も更々にありませんので、近場でのハイキングと相成った訳であります。かような事情の下で、出掛先に選択されたのが埼玉県の飯能市でありました。数年前に近隣にある古代帰化人に縁ある「高麗神社」近隣を歩いたことがあり、曼珠沙華の群落で知られる「巾着田」あたりを散策した際の好印象があったからでもあります。もっとも、その折には彼岸花の季節は既に終わってしまっておりましたが、のんびりとした里山らしい低山の連なる優しげな景観が心に染みました。何より、自宅から1時間半もあれば到着できます。
ハイキングコースは、西武線の飯能駅から徒歩20分程の禅寺「能仁寺」からスタート。明治天皇が明治16年(1883)に頂上から近衛兵の春季小演習を天覧されたことから命名された天覧山(てんらんざん)(標高197m)に登り、そこから整備された遊歩道を登ったり下ったり。頂上に近世の経塚(経文を記した12.000個もの石が埋納されていたそうです)の残る多峯主山(とうのすやま)(標高271m)までの往復となるハイキングでありました。後者は、このことからも判明するように地域における霊山と認識されていたのでありましょう。そして、今回の話題は、その霊山「多峯主山」山頂南麓直下の斜面に構えられた墓とその主についてであります。標高をご覧になれば一億瞭然。素人でも登ることのできる低山ではありますが、それでも相当に山深く、滅多に人も通わない場所であります(ハイキングを楽しむ人しか立ち入らないところです)。かような中に、忽然と現れる一基の大きな墓塔と墓域の違和感たるや、相当に半端ないものがありました。今でも自動車で山頂に到達することはできません。「ぽつんと一軒家」なる人気テレビ番組がありますが、正に「ぽつんと個人墓」の趣があります。御遺骸は兎も角として、重機など存在しない頃に、かくも大きな石材を山の天辺まで運び上げるだけでも大変な苦労があったことでしょう。埋葬地は石の玉垣で囲まれており、墓室の真上に大きな自然石を置いております。そしてその斜面下に三方を石垣に囲まれた平場を造成し、そこに立派な墓碑が建立されております。また、正面右手には江戸の儒学者・経世家である太宰春台(1680~1747)撰・筆になる頌徳碑が、周囲には家臣団による奉献灯籠までもが数基建立されており(奉献灯籠に名のある森氏は黒田家の家老職にあり、森蘭丸とも関係のある森氏の一末流家であります)、大名墓に相応しい堂々たる墓域を形成しておりました。そして、墓碑には以下のような文字が陰刻されております。
萬松院殿故中太夫拾遺兼前豊前州太守丹治真人関鉄直邦大居士
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この墓の主こそ、黒田直邦(1666~1735)なる大名に他なりません。かく申し上げても、「誰?その人?」「知らない!」とお思いの方が殆どでございましょう。生没年から判断して、江戸時代前半期を生きた人物であることが知れましょうが、余程の歴史マニアでもなければその人を知ることはありますまい。千葉県との関係で申せば、黒田直邦の次代となる直純(1705~1775)の時に、上総国に転封となり、それ以降は幕府瓦解まで久留里藩3万石として続く譜代の大名家であります。その点において、決して我々の地域と無縁の人物ではありません。参勤交代時には、千葉市域の房総往還を行き来さえしていたのですから。
黒田直邦は、寛文6年(1666)に旗本中山直張の三男に生まれ、徳川綱吉(1680~1709)を藩主に擁した舘林藩家老である外祖父黒田用綱(1616~1672)に養育され黒田氏を称します(黒田官兵衛由来の福岡藩黒田氏とは無関係です)。その後、徳川徳松(綱吉長男)の養育係となりますが、4代将軍家綱が子を設けずに亡くなったこともあり、綱吉が5代将軍となったことに伴い幕臣となりました。徳松早逝後は徳川綱吉の側近となり30人扶持を拝し側用人として重用されます。その点、著名な同時代人である柳沢吉保と近似し、同様に出世街道を邁進することになります。後に、常陸国下館で1万石の城主となり大名に列しました。そして、綱吉死後にも引き続いて重用され、享保8年(1723)には奏者番と寺社奉行とを兼任。更に、晩年に3万8千石に加増され上野国沼田城主となりますが、享保20年(1735)2月に病を得て3月末に没しております(同年は青木昆陽が馬加で甘藷栽培を開始した年でもあります)。享年70歳。飯能にある能仁寺に葬られました。直邦の後嗣となった養嗣子の直純(本田正矩次男)の手により、直邦墓所は後に現在の場所に移されておりますが、以後の黒田氏の歴代藩主も能仁寺を菩提寺とし、基本的に同寺に葬られることになるのです(最後の藩主だけは久留里に墓所があります)。その直純は、上記の通り、寛保2年(1742)に上州沼田から上総国久留里への転封を命じられます。下館、沼田、そして久留里と転封を繰り返した黒田家ですが、一見、縁もゆかりもなさそうな武蔵国南西部に位置する飯能の地に菩提寺が置かれ、しかもその葬地となったのは何故でしょうか。一つだけ申せば、3万石の所領の一部に飯能に領地があったのは間違いがありません。しかし、主要な領地でもなければ、本城のある場所でもありません。ましてや、その2で記述するように、殆どの大名家が菩提寺を構えた江戸御府内でもありません(黒田家は江戸府内に菩提寺を設けなかった極数少ない大名家の一つです)。これにつきましては、以下の「余談」の後に考えてみたいと存じます。
その「余談」であります。黒田家が移る前の久留里藩主は土屋家であります。しかし、新井白石(1657~1725)とその父が仕えていた土屋家は、延宝7年(1679)藩主土屋直樹(1634~1681)の狂気を理由に改易され、久留里城も破却されました。従って、黒田直純が久留里城に入部するまでの63年間久留里城は廃城でありました。そこで、黒田直純には城の再興費用として5千両が幕府から特別に支給されております。因みに、改易後の土屋家は父祖の功績に免じて断絶を免れ、幕末に到るまで3000石の旗本として続きます。そして、その後の歴史上よく知られた事件との関係で、その名を残しておりますのでご紹介をいたしましょう。それは、改易の原因をつくった直樹の嫡男として家を継いだ土屋逵直(1659~1730)の時のことになります。「時は元禄15年(1703)12月14日。折しも雪の降りしきる江戸府内で……」とくれば、この事件が何を指すのか直ぐにお分かりになりましょう。本所吉良邸に赤穂浪士が討ち入ったその日。吉良邸と壁を接する隣屋敷の住人こそが、この旗本土屋家に他ならず、その時逵直が屋敷に在宅していたのです。映画や舞台で演じられる「元禄忠臣蔵」では、必ずと言ってよいほどに、土屋逵直が吉良家へ加勢しないことを赤穂浪士に約し、更には隣家との境を画する壁際に数多の高張提灯を挙げて浪士の活動を助けたこと。更には壁を乗り越え逃げくる吉良家臣がいれば成敗するよう家臣に命じたことが物語られます。しかし、これは儒学者の室鳩巣(1658~1734)から新井白石が聞き取った話を情報源としており、その他の資料からは一切読み取れない内容であることから、現在は史実ではなく「創作」であろうと考えられております。しかし、よくできた話なので、今後ともに「物語」として語り継がれていくことでしょう。最後になりますが、土浦城主の大名土屋家は、この旗本土屋家の分家にあたります。つまり、旗本になった土屋家こそが本家筋にあたります。
さて、黒田直邦(黒田家)の話に戻ります。何故、彼らが「飯能」の地を奥津城に選んだのかに迫りましょう。その答は、墓碑の文字に求められます。そこには何処にも「黒田」の文字は記されておりません。しかし、そのこと自体は普通のことです。つまり、正しく自らを名乗る場合には「本姓」を記すことになるからです。「黒田」は本姓にあらず「名字」に他なりません。例えば、将軍家の名字は「徳川」ですが本姓は「源」であります。「徳川家康」の正式の名乗りは「源家康」(みなもとのいえやす)となります。我らが千葉常胤(ちばつねたね)の「千葉」は「名字」であり、本姓は「平」であります。従って、「平常胤(たいらのつねたね)」が正式の名乗りとなります(本姓と名前の間には「の」を入れて言うのが通例です。源頼朝は、「みなもとのよりとも」)。現在は「姓」と「名字」とは混合されており、ほぼ一緒くたにされておりますので、そのようなことは重要ではないと認識しがちですが、名門一族としては、朝廷から与えられた本姓が源氏なのか平氏なのか等々、「本姓」が何かが極めて重要なことであったのです。因みに、豊臣秀吉の「豊臣」は朝廷から与えられた「姓」ですので、本来は「とよとみのひでよし」と読むことが正しいと思います。彼の名字は「羽柴」であり亡くなるまでそうです。従って教科書等では、その他の将軍も大名も「名字」表記されているのに、なぜ秀吉だけが「本姓」表記をされるのか全く以て不可解です。本来は「羽柴秀吉」と表記するのが整合性のとれた記載だと考えます。
最後の方に「丹治真人」とある部分にご注目ください。前半の「丹治」は「多治比」とイコールであり、古代豪族の一族のことです。28代の天皇と言われる「宣化天皇(467?~539?)」(越前国から入って大王を継承した継体天皇の子)の後裔が名乗った氏の名であります。その「多治比(丹治)」氏に天皇から賜姓されたのが「真人(まひと)」なる姓なのです(天皇は「姓」を与える立場なので、自らは「姓」を持たない存在なのです)。それが、後半部の「真人」の意味であります。つまり、黒田直邦は、「平」「源」といった姓より、圧倒的に古い6世紀にまで遡るような古代豪族の血統を引く由緒をここで示しているのです。これが事実か否かはわかりません。飽くまでも自らはそのように認識し、かように称していたのです。しかし、歴史を遡ると、先祖を「多治比(丹治)」と称する武士団が存在します。それと黒田直邦とは何等かの関係があるのでしょうか。
(その2に続く)
その1では、黒田直邦と「多治比氏」との関係について述べましたが、その関係を追及すると以下のようなことが判明します。平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた武士団に俗に言う「武蔵七党」がありました[南北朝期頃成立とされる『武蔵七党系図』によれば、横山党・猪俣党・野与党・村山党・西(野)党・児玉党・丹(治)党の七つを指すとされます]。そのうちの「丹(治)党」が「多治比」氏後裔を称しており、武蔵国の南西部(入間郡・秩父郡・児玉郡西部)で勢力を張っていたことが分かります。丹党は多くの派生一族を生み出し、比較的狭い範囲を本拠としておりました(円子氏・丹氏・新里氏・榛沢氏・安保氏・長浜氏・勅使河原氏・中村氏・中山氏・大関氏・加治氏・横瀬氏・薄氏・小鹿野氏・大河原氏・青木氏・小串氏・志村氏等々)。その中で、特に注目していただきたいのが「中山氏」の存在です。先に、黒田直邦が、旗本の中山家から黒田家に入った人物であると述べました。そのことを思い出していただいた方は合点がいかれたことでしょう。この旗本中山氏こそ、戦国期に到るまで飯能周辺に勢力を張った中山氏の末裔に他ならないのです。
中山氏は、高麗郡加治郷に定着した丹党の分流加治氏13代目にあたるとされる家勝が同郷中山村に移転し、「中山」を名字として名乗ったことに始まるとされます。家勝は山内上杉氏に仕えましたが、小田原北条氏の台頭により、後に北条氏康(1515~1571)に従うこととなりました。その子の家範(勝範)(1548~1590)は北条氏照(1542~1590)とともにあり、天正18年(1590)秀吉による小田原合戦の際に留守を守る八王子城で討死。そして、家範の嫡男である照守(家守)(1570~1634)は北条氏滅亡後に、関八州の支配者となる徳川家康に仕え旗本となるのです。因みに、飯能市の天覧山麓にある曹洞宗能仁寺は、文亀元年(1501)に家勝が創建。天正元年(1573)に子の家範が父の菩提を弔うために小庵を本格的な寺院としたとされます。そして宝永2年(1705)年に黒田直邦が下館藩主の時代に、七堂伽藍を備えた寺院として整備。以後黒田家の菩提寺とされました。今でも歴代藩主等の墓塔が建ち並んでおります(直邦のみ多峯主山頂直下)。また、黒田直邦の出自である旗本中山氏の菩提寺もここ「能仁寺」であり歴代・一族の墓塔がございます。一方、照守の弟の中山信吉(1577~1642)ですが、彼も徳川家康に近習として仕え、11男頼房(1603~1661)が常陸国下妻10万石に配されるに伴い、家老として附属。慶長14年(1609)頼房の水戸転封に伴い合計1万5000石を給されることとなります。以後は徳川御三家の一つ水戸藩附家老家として代々存続しました。附家老家は、幕府から御三家藩主のお目付け役的な機能を期待されており、単純に御三家の家臣であったわけではありませんでした(表向きは将軍の直属家臣)。しかし、万石以上の所領があっても、実質的には藩主の家臣の形をとりましたので、他の尾張・紀州の附家老家とともに近世を通じて大名昇格運動を展開します[尾張藩:成瀬家(犬山)・竹腰家(今尾)、紀州藩:安藤家(田辺)・水野家(新宮)]。そして維新後にようやく水戸藩から独立した「藩」として認められました(常陸松岡藩)。もっとも、あっという間に廃藩置県となりますが。実は、この水戸藩附家老中山氏の菩提寺も同じく飯能市内にあります。能仁寺から程近い智観寺には、初代中山信吉以下の歴代当主の墓塔が立ち並んでいるのです。
その意味で、歴史ある武士団にとって、先祖の由緒、そして一族にとっての「名字の地」「根本所領の地(本願地)」に対する執着はかほどに強く深いものがあるのです。更に、譜代大名黒田氏にとっての藩祖である黒田直邦のみが、菩提寺ではなく、一族の故地である地域を見下ろす霊山「多峯主山」に葬られた理由にも思いが至ります(能仁寺から徒歩で小一時間は掛かります)。当方が私淑する東北大学教授佐藤弘夫の近著『日本人と神』2021年(講談社現代新書)で、原始から古代にかけての日本人の精神性について述べた、以下の記事と結びついたからでもあります。
墓が巨大化するだけでなく、山に上ると言う現象の背景には、そこに葬られた人物を、一般人と次元を異にする特別の存在に祭り上げようとする指向性を読み取ることができる。埋葬された首長を、死後も特別の存在として遇しようとする動きが生じるのである。 |
佐藤弘夫は、我が国に古来根付く人々の精神性について、従来のような「神」世界と「仏」世界の二元論や、その全てを「神仏習合」世界に帰着させようとする説明で、分かったつもりになっている認識を一度シャッフルすることが必要であること、従って、かようなステレオタイプの認識から零れ落ちてしまっている日本人の精神的世界を、総体として再構築すべきとの問題提起をされております。つまり、畏敬の念を抱く対象としての「カミ」とは、決して神道に集約される「神」、仏教に集約される「仏」、及び両者の習合した姿に止まらないのであり、人が畏敬を感じる「超越的な存在」の全てを「カミ」と把握したうえで一度同列において議論すべきではということにあります。その点で、藩祖を霊山の頂上に祀る行為こそ、上記した原始・古代の精神性の反映に他なりますまい。ある意味で、中山氏・黒田氏が、古代豪族「多治比(丹治)」氏を継承する一族であるという在り方を、忠実に反映した行動なのかもしれないということです。
さて、本編の最後に、武士における「中世」と「近世」の違いについて言及し、そのことを踏まえて、改めて武士(大名)にとっての墓制の問題とその実に迫りたいと存じます。学生に、「中世」と「近世」の違いを問うと、なかなか適切に解答できません。どちらも「武士の支配する時代」となり、その違いが浮かび上がってこないことが多いのです。もっとも、それは教える側の認識の欠如にこそ責任があると教師が自省すべきことでもあります。「中世」までは武士(大名)の支配地は、彼ら自身の所有地に他ならず、多くの武士団はその土地の名を一族の「名字」として名乗ることになります。戦国時代には、戦国大名は他国に攻め入り、実力で領地(所有地)を獲得していったのです。しかし、秀吉による全国統一政権は、新たに「公権力」としての性格を明確に打ち出し、中世的な土地支配の在り方にメスを入れるのです。その基幹ともいえる重要施策が「太閤検地」による統一基準による全国の土地の把握と、それ基づく大名への支配地の配分に他なりません。これ以降、大名に配分された支配地は彼らの「所有地」ではなく、飽くまでも支配者(秀吉)から支配を委任された「領有地」にすぎないことが基本的スタンスとなります。つまり、「公権力」を行使する支配者は、配下の大名を鉢植のようにしてその領有地を変えることができ(転封)、かつ不首尾があれば公権力としての裁定の下で「改易」することすら可能な支配体制になったのです。このことは、大名の権力基盤となる土地所有と支配との関係を切り離すこととなり、結果として諸侯の権力基盤の弱体化を目途ともしていたのです。これが「近世」社会であり、同じ武士が支配していた「中世」と決定的に異なる点です。しかし、秀吉の支配体制を全面的に導入し継承することとなった江戸幕府の支配においては、次第にその理念自体が崩れ、特に有力外様大名の場合には転封によって「領有地」が変えられること自体が行われませんでしたから、実質的に「領有地」が固定化していくことになります。このことは、必然的に「領有地」=「所有地」との意識を生み出すことになるのです。これが、後に所謂「西南雄藩」を生み出す下地にもなるものと思われます。
しかし、黒田氏の場合のような譜代大名の多くにとって転封は極々頻繁に実施されており、特定の土地と深い関係を有するような大名は殆ど存在しません。譜代大名の場合、元来が徳川氏の本願地であった三河国周辺の在地領主であったケースが多く、江戸幕府成立後に国内全土に配された城も所領も、彼らにとってはアウェー以外の何物でもありませんでした(一度も転封を経験していない譜代の大藩である彦根藩主井伊家ですら本願地は彦根ではありません。遠江国浜名湖裏にある井伊谷になります)。しかし、それだからこそ……と、いうべきなのかもしれせんが、先祖の由緒に繋がる名字の地(本願地)への想いは強烈に増幅されたのかもしれません。死後だけでも先祖の故地に戻って眠りたい、先祖と繋がりたいとの意識が強く働いたのではないでしょうか。例えば、徳川家康の家臣であり、関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城での戦いで討死した松平家忠の子孫である深溝松平家は、関ヶ原合戦後に家忠の子忠利が深溝1万石と旧領に復帰できたものの、その後は点々と転封を繰り返します[吉田藩(三河)→刈谷藩(三河)→福知山藩(丹波)→島原藩(肥前)→宇都宮藩(下野)→島原藩(肥前)]。最後は九州に所領があったのです。しかし、その墓所は、一貫して一族にとってかつて本願地であった深溝(三河)に置かれました。当主は、江戸で亡くなろうが、島原で物故しようが、必ず三河国の本願地まで運ばれて埋葬されたのです。愛知県内の深溝にある本光寺には「島原藩主深溝松平家墓所」として国指定史跡となった広大な墓域が残されております。外様の有力大名であっても、例えば米沢藩上杉氏が、戊辰戦争の際に「奥羽越列藩同盟」に参加したことの背景には、新政府への異議申し立てといった大義以上に、これを切っ掛けに上杉謙信由来の旧領越後国への復帰を果たせんかなとの動機があったともいわれます。それだけ、旧領・本願地への想いは根深く、強いものであったと考えざるを得ません。もっとも、生実藩1万石譜代大名の森川氏のように、本願地は尾張国と思われますが、歴代の墓域は陣屋のあった千葉市内生実にある重俊院に置かれました。従って、必ずしも本願地に拘った大名ばかりではないのでしょう。各大名家が如何なる思惑で墓所の地を選択したのか研究する価値はありそうです。
港区立郷土資料館の特別展図録『江戸の大名菩提寺』(2012)によれば、一般的には、大名家は所領(基本的に城・陣屋の置かれた所謂「国元」)と江戸屋敷の置かれた江戸の、大きく2か所に菩提寺を設けていることが殆どであることが知れます。文化5年(1808)版『武鑑』によれば、大名264家中で江戸府内に菩提寺を設けていな大名家は3家のみです。その内、彦根藩井伊家の豪徳寺は江戸府内からは外れますが、現在は世田谷区になるのでさほど遠方とは申せません。しかし、久留里藩黒田家の飯能は相当に遠方に位置しているといえましょう。何故、江戸に菩提寺が必要かと申せば、大名にとっては江戸屋敷に妻子を置かざるを得なかったことが最も大きな理由かと思われます。江戸屋敷で物故した妻子の葬地が不可欠であり、かつ江戸屋敷に常駐するものにとっての先祖祭祀の場が必要であったからに他なりません。藩主であっても、江戸屋敷で亡くなった場合は江戸の菩提寺に、国元で薨去したばあいは国元の菩提寺にと、はっきりと分けて埋葬している大名家も多々あります。実際に、葬儀も江戸と国元と2度行うことが通常でした。何故ならば、大名同士の交流は江戸で行われておりましたので、江戸で葬儀を行うことが理に叶っていたからです。数か月前に述べた津藩藤堂家のケースもそれにあたります。そもそも、頻繁に転封を繰り返した譜代大名の場合、国元自体の永続性が担保できないのですから、深溝松平家のように本願地に菩提寺を固定しないのであれば、必然的に江戸菩提寺の存在意義が大きくなったことも理解できましょう。従って、江戸という都市には、膨大な大名一族の菩提寺と大名一族係累の墓所が存在することになりました。
ただ、江戸の大名菩提寺は、度重なる災害(震災・戦災等々)、そして再開発計画等々によって墓所の整理が進んでおり、明治以降、特に高度成長期以降に貴重な大名墓所遺構が急速に消滅しつつあります。城・陣屋遺構が明治以降に旧権力の象徴として粗雑に扱われ、完全な形で残っている遺構が殆どない状況の下(姫路城ですら外郭遺構は殆ど破壊されています)、大名墓所は近世大名権力構造の研究に欠かすことのできない歴史資料に他ならないと考えるところであります。残念なことですが、昨今の状況は、子孫である大名家自体が墓所の管理を担いきれないことが最も大きな原因となっております。江戸の昔には大大名家であった墓所でも、目を覆うばかりの荒廃に瀕しているケースが多いものです。当方は機会に恵まれれば個人的に大名墓巡りを致しますが、多くの墓所では石塔が傾いたり、雑草に覆われてたり、酷いものでは墓室が露わになってしまっているものなど、荒廃の極みとすら言える状況にあります。史跡等に指定されていなければ補助金等は一切ありませんから、飽くまでも個人墓として扱われ子孫が維持管理をせねばなりません。まして、今や大名家の子孫であっても一介のサラリーマンにすぎないことが殆どでありましょう。幾十・幾百とある墓塔の管理し続けることは経済的に困難な状況にあるのが実態です。我が家のように、たった一つの墓地であってすら、その維持には相当な労力と経費を必要とするのですから。それは、今から150年程前まで我が国の統治者であった徳川将軍家であっても例外ではありません。
(その3に続く)
これまでは、飯能市でのハイキングの最中、多峯主山の山頂直下で出会った黒田直邦の墓を切っ掛けにして考えたことを綴ってまいりました。しかし、実は、今回の散策ではもう一つ驚くべき発見がありましたので、以降の2編で述べさせていただき、その検証を加えてみたいと思います。これも、大名墓繋がりの話題、特にその2の最後で少し触れさせていただいた徳川将軍家とも関係する内容となりますのでお付き合いくださいませ。
その発見は、天覧山へのハイキングの前に立ち寄った黒田家菩提寺「能仁寺」でのことになります。山門前に、如何にも由緒ありげな、高4メートルにも及ぼうとする巨大な石塔が一基屹立しておりました。石塔の様式としては「宝筐五輪塔」という特殊な形態のものであり、一般的な宝篋印塔[方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起がある石塔]と五輪塔[下から地輪(立法体)・水輪(球形)・火輪(方形の笠)・空輪(宝珠)・風輪(半円形の受)の5つの輪を積み上げて構成されている石塔]の特色を併せ持った所謂“合いの子”の石塔であります。この立派な石塔については、周辺を見回しても何の解説板もなく由緒も分かりません。そこで、見上げると塔身軸部に文字が刻まれております。辛うじて以下の文字のみが読み取れました。もしかしたら読み取りミスがあるかもしれませんが、その点寛恕願いたく存じます。まず、以下に引用させていただきます。
(正面) 清揚院殿 正三位前参議 円誉天安永和 大居士神儀 ( 右 ) 延宝六戌子年 ( 左 ) 九月十四日 |
この「清揚院」なる法名をもつ人物でありますが、俗名をご存知でございましょうか。必ずしも広く知られる人物ではありませんが、幕府内の要人であることは間違いありません。それは、誰あろう甲府宰相徳川綱重(1644~1678)に他なりません。かように立派な石塔です。おそらくは、その埋葬地に建てられていた綱重の墓塔そのものであることは確実です。家光の三男であった綱重は(二男は早逝)、兄である4代将軍徳川家綱(1641~1680)が子をなすことなく没するよりも先に物故しておりました。従って、紆余曲折の末に5代将軍職を継いだのは館林宰相であった弟の徳川綱吉(1646~1709)でした。しかし、綱吉にも成人した男子はおらず、結果的に兄綱重の実子で甲府藩主徳川綱豊(1662~1712)を世子として迎え入れました。因みに、このことに尽力した人物こそ水戸徳川家2代藩主であった光圀(1628~1701)に他なりません。その結果、綱豊が、延宝6年(1709)、綱吉の死後に家宣と名を改めて6代将軍となります。この墓塔は、征夷大将軍となった人物の父親として、「前将軍」に準じた扱いを受けた人物に相応しい堂々たる石塔になっております。因みに、綱重と飯能の地、能仁寺とは何の縁もありません。後に述べますが、西武線沿線には徳川家に関わる墓所関係遺物(特に大名家から奉納された奉献灯籠)が数多く存在するのですが(この能仁寺にも御多分に漏れず数多の奉献灯籠があります)、まさか将軍家の中でも核をなす人物の墓塔までが、この地に移されていることに大いに驚かされたのです。その理由と、そこから浮かび上がった疑問について以下に綴らせていただきます。
歴代徳川将軍の奥津城は、初代家康(東照宮)廟と3代家光(大猷院)廟が日光に造営されていること(家光廟は上野の寛永寺にも同時に造営されましたが享保期に焼失して再建されず)、大正時代に物故した15代慶喜が谷中霊園に造営されたことを別とすると、その他12人は綺麗に半分ずつ上野の東叡山寛永寺(天台宗)と芝の三縁山増上寺(浄土宗)に葬られており、それぞれに豪華な霊廟建築が造営されております。戦前までは、寛永寺には4代家綱(厳有院)廟・5代綱吉(常憲院)廟が、増上寺には2代秀忠(台徳院)廟と正室である江(崇源院)廟が本堂南側(南廟)に、6代家宣(文昭院)廟・7代家継(有章院)廟が本堂北側(北廟)に、それぞれ大々的に展開しており、写真で見るだけでもこの世の極楽とも称すべき壮観でありました。8代の吉宗以降の7人については、財政倹約の方針の下で新たな霊廟建築を建設しないこととなり、これまである霊廟に合祀されることになりました。その他に、徳川家康の生母である「於大の方(1528~1602)」や、かの「千姫(1597~1666)」が葬られる小石川の無量山傳通院(於大の戒名)(浄土宗)も徳川家縁の寺院となります。これら寺院、特に上野と芝に造営されていた豪華絢爛たる霊廟建築は、ともに先の大戦の空襲でほとんどが灰燼に帰し、残された建物はほんの一部の門・水盤舎等に過ぎません。更に、増上寺北廟の広大な墓域は、戦後徳川宗家が土地を西武鉄道グループに売却したため、南廟も併せて全ての墓所を発掘調査したうえで改葬されました[昭和33年(1958)~35年(1960)]。そのため、増上寺においては将軍家墓域の痕跡は全く地上から消滅してしまいました。そして、北廟跡地には、昭和39年(1964)開催の東京五輪を機に、東京プリンスホテルが建設され、現在もその地で営業が行われております。その際に、全国の大名家から薨去した将軍へ寄進された膨大な数の奉献灯籠は不要となり、これらはほとんど調査らしい調査も行われぬままに、跡地を購入した西武鉄道沿線の何の縁も関係もない寺院等々に譲られました。これが西武線沿線に大名による奉献灯籠が脈絡もなく存在している理由です。そして、今回出かけた飯能駅に程近い能仁寺境内にも相当数の増上寺大名奉献灯籠があったことの理由でもあります。しかし、門前に建っているのは、奉献灯籠ではなく、墓所の核心となる墓塔に違いありません。そこで、徳川綱重の死去と埋葬について、帰宅後に手持ちの諸資料にあたって調べてみました。因みに、大名による奉献灯籠の行方については、最近になって、港区教育委員会が地道に移設地の追跡調査をされております(文化財行政の鑑だと思います)。
徳川綱重の話題に戻ります。綱重は、江戸藩邸での薨去後、「清揚院」との法名を与えられ小石川の傳通院に葬られました。しかし、その後に嫡子綱豊が将軍世子となることに伴い、その将軍宣下4年前に将軍家縁の寺院増上寺への改葬が行われました。次期将軍の父親として処遇をうけることとなったわけです。併せて、綱豊の生母「お保良の方」の改葬も行われております。彼女は、綱豊の同母弟清武が養子に入った、越智家(越智松平)菩提寺である下谷の善性寺に葬られておりましたが、徳川将軍家由緒の墓域である「寛永寺御裏方墓所」に改葬されています。その墓前には一際立派な柳沢吉保からの奉献灯籠がありましたがどうなったのでしょうか(後述)。改葬にあたって、綱重(清揚院)霊廟建築が新たに増上寺本堂の裏手に造営されました。それは、秀忠・江の霊廟の在る南廟でも、後に家宣・家継の霊廟が造営されることとなる北廟の場とも異なる場所となります。しかし、その霊廟は老朽化のため、明治半ばに解体されてしまったそうで写真もほとんど残っておりません。現在まで残る建造物は「水盤舎」のみとなっております。ただ、ここにひとつ疑問が浮かびます。増上寺徳川家墓所の改葬は学術調査もかねて行われたため、詳細な報告書が出版されておりますが[当方が所有するのは、後に出版された一般書である鈴木尚『骨は語る徳川将軍・大名の人々』1985年(東京大学出版会)]、それによれば綱重墳墓の地には石塔が存在せず、円墳状の土饅頭の下に墓室が構築されていたとされているのです。
そうであるならば、この能仁寺に移設された綱重の墓塔は何処にあったものなのでしょうか。増上寺から能仁寺に移されたものであることは間違いありません。それにしても不可解なことではあります。当方の手元にある資料と自らの記憶の下で今推察していることを申せば、この宝篋印塔は当初の墓所であった伝通院に建立されたものではないかということです。何故ならば、傳通院に残る千姫や、家光の正室であった鷹司孝子等の墓塔が、まさにこの綱重のものとほぼ同形式の宝筐五輪塔として造営されているからです。つまり、綱重墓改葬時に墓塔も増上寺に運ばれているのでしょう。しかし、少なくとも墓所に建てられていなかったことは明らかですので、恐らく何処かに保管されていたものと思われます。ただ、そのことを確認することはできません。では、何故それが増上寺に建立されなかったのでしょうか。それは、案ずるに宝篋五輪塔は増上寺に葬られる徳川将軍家近親者の墓塔としては相応しくなかったからではありますまいか。何故ならば、増上寺に存在する墓塔は、将軍であれ、その正室・側室であれ、全てが「宝塔」形式(軸部が円筒・八角筒の形状でつくられ、その上に方形の笠と相輪が乗る形式の墓塔)で建立されており、それ以外の墓塔は一切存在しないからであります。ただ、それでは何故宝塔形式で新たに建造せずに土饅頭のままであったのかに対する解答にはなりません。これは不明と言うしかありません。改葬という特別な事情が関係しているのかもしれません。
ここまで、もっともらしく述べてきた当方の仮設でありますが、注意深くお読みになった方はその破綻にお気づきでしょうか?この仮説が成立し得ない決定的な根拠があるのです。それは、石塔に刻印されている年であります。延宝6年(1709)は、綱重の薨去した年でもなければ、綱重墓が増上寺に改葬された年でもありません。5代綱吉が薨去し綱豊が家宣と改名して将軍宣下を受けた年に他ならないからです。つまり、刻印された年を信ずるとすれば、死の床でも「生類憐みの令」の継続を願ってやまなかった綱吉の死後、早々にそれを撤回した家宣が将軍となった、その時に造営されたことになります。しかし、再度申し上げますが、綱重墳墓の地にはこの石塔が建立されてはいなかったのです。こうして、当方の捜索は再び振り出しに戻ってしまいました。現状での当方の持ち駒資料からはこれ以上の追及は不可能です。そもそも、「清揚院霊廟」そのものが明治半ばに解体されてしまっていることから、元の霊廟の結構の詳細が判明しないことも足枷です。もっとも、この年号が「後刻(後になってから彫られる)」された可能性がないわけではありません。このあたりは、詳細な金石文字の分析検討が必要でしょうが、当方にはその力がないのが残念です。ただ、最終編では、この石塔自体が延宝6年段階に新規造立された可能性の適否について迫っておきたいと思います。結論から先に申せば、この「宝筐五輪塔」という墓塔の形式が、当該時期に新規につくられ、しかも増上寺に据えられる可能性は限りなくゼロに近かったことを明らかにしておきたいのです。
(その4に続く)
増上寺に最初に造営された徳川家墓所は、寛永3年(1626)年9月15日に没した秀忠正室「江(ごう)」のものであります(崇源院)。その際には、彼女のためだけに立派な霊廟建築が造営されました[因みに、徳川歴代将軍の正室中、夫と同等の形式による独立の霊廟建築が造営されたのは唯一崇源院のみであります(ただ、将軍の霊廟ではないので正しくは「霊牌所」と称するそうですが)]。この崇源院霊廟は、「江」の死後間もなく建設されたことが資料から読み取れます。即ち「普請奉行八木勘十郎、棟梁鈴木遠江守長治之を承って、寛永3年10月その工に着手し、同5年9月竣成した」とあるからです。しかし、別に『正保録』によれば「正保4年3月15日、崇源院殿霊屋御造営依令出来、午刻増上寺に御参詣、同寅刻入佛卯刻読経始る、巳刻終る」とあり、更に3月17日に霊屋普請完了に付、奉行酒井下総守、八木勘十郎、白銀30枚と綿衣三つを拝領し、大工の木原木工允(義久)、鈴木修理(長恒)が黄金1枚宛と綿衣一宛を拝領したとの記録も残されているのです。寛永3年とは西暦1626年、正保4年とは西暦1647年になります。その間は21年。これら記事が正しいとすると崇源院廟は20年後に新築されたことになります。それは何故でしょうか。正史等の記録からはその理由は読み取れません。しかし、類推することはできましょう。
それは、夫である2代将軍秀忠との関係であります。秀忠は「江」の死から遅れること6年、寛永9年(1632)正月24日に54歳にて薨去いたしました。台徳院の法名の下で増上寺に霊廟の造営が開始され、早くも同年7月には完成となったと記録されます。何と!6カ月の早業です。もっとも、出来上がった普請が後継者である家光の意に召さなかったため、その後に改築され寛永12年(1635)に成就したとの記録も残ります。かような短期間であの結構を完成させるのは到底無理です。これが正しき流れでございましょう。さて、増上寺の南廟ですが、空襲による焼失前には「秀忠・江」夫婦の霊廟建築が仲良く並んで存在していたのです。つまり、台徳院(秀忠)廟の完成後に、その正室であった崇源院(江)廟を寄り添う形で新規に建設したという解釈です(このことは建築様式の面からも証明されるそうです)。新規の崇源院廟完成の正保4年は、秀忠廟の完成後11年後になります。これならば、時系列上も無理がなく、新規に造営した意味も理解できます。
それでは、最初に造営された崇源院廟はどうなったのでしょうか。まだまだ解体するには惜しい状態であったはずです。そもそも論として、境内中の何処に建っていたのかも不明です。その記録も残りません。しかし、これも類推することができます。それは、実際に葬られた崇源院の墓塔の在り処です。崇源院の火葬骨を埋葬した墓塔は、戦前まで存在した崇源院廟建築から、本堂を挟んで数百メートルも離れた、北廟の中に存在しました。つまり、寛永12年に最初に造営された崇源院廟は墓塔のあった、後に「北廟」が造営される場所に建てられていた可能性が高いものと考えられます。戦前に著された田辺泰『徳川家霊廟』1942(彰国社)も、かように推察しております。それでは、20年しかたっていない最初の建物はどうなったのでしょうか。それにも解答がございます。それは、鎌倉にある臨済宗の名刹建長寺の「仏殿」と方丈「唐門」に「崇源院霊廟を移築した建物」との伝承が残っているからです。そして、解体修理の結果、重要文化財に指定された建長寺仏殿が他の場所から移築された建築物であることが判明しました。おそらく、増上寺に最初に建築された崇源院霊廟建築であると考えて間違いありますまい。増上寺・寛永寺の霊廟建築が戦災で焼失した現在、もっとも古体を残す霊廟建築遺構が鎌倉に残っていることは僥倖以外の何物でもありません。続いて、その崇源院の墓塔についてです。
北廟にあった崇源院の墓塔は、増上寺にある徳川家関連墓塔と共通の宝塔形式(石造)のものでした(八角筒)。しかし、第二次世界大戦後改葬のために発掘調査したところ、その下から廃棄された当初の崇源院墓塔が出現したのです。それは、高さ5mを越える超巨大な宝篋印塔でした。つまり、霊廟建築は秀忠廟の隣に新規に造営されたものの、墓塔はそのまま旧地に残され、後に造営される6代家宣廟・7代家継廟の敷地内に取り残されることになったのでしょう。そして、何時の段階かは不明ですが、その他の墓の形態に合わせて宝塔形式で造営しなおされたのではないかということです。そして、不要となった宝篋印塔は地中深く埋められることになったのでしょう。崇源院の墓塔の周辺には将軍の正室・側室の墓が多く存在しておりますが、増上寺において、正室・側室関連の墓塔で崇源院に引き続いて造営された墓塔は、5代徳川綱吉の生母「桂昌院」のものです。彼女は宝永2年(1705)年に没しておりますが、その墓塔の形式は宝塔(青銅製円筒)であり、崇源院と形状と材質は若干異なれど形式としては同じものとなります。つまり、増上寺においては、崇源院を除く、それより後に造営された墓塔は宝塔形式で統一されたということだと考えられます。因みに、高野山金剛峰寺の奥の院には、権力者から庶民に到るまでの膨大な墓塔が林立しておりますが、その中で最大の規模を誇るものが誰あろう、この崇源院の五輪塔です。その高さは何と!!6メートルを越えております!!本人の意思とは無関係でしょうが、巨大嗜好の持ち主だったのかもしれません。
つまり、増上寺に限らず、徳川家においては、初期段階の墓塔は宝篋印塔・五輪塔等も併用されていたものの、徳川家宣が将軍となった延宝6年(1709)の段階で、将軍家菩提寺に宝塔形式以外の墓塔が造立される可能性は限りなくゼロに近かったことが分かります。宝塔以外の石塔は、徳川家関連の石塔では古体を示す形態なのです。因みに、増上寺で2番目に造営された秀忠(台徳院)廟の墓塔は木製の宝塔です。徳川将軍家歴代の墓塔のうち、覆屋建築で囲われた木製墓塔をもつのは秀忠廟のみです。その結構の素晴らしさは以後の将軍の比ではありません。三代家光廟も、父である神君家康公でさえも露天の青銅製宝塔であります。ところで、増上寺の徳川家霊廟に関しては、増上寺も、港区教育委員会でも実態を解明するための調査研究が積極的に推し進められております。平成21年度港区立港郷土資料館における特別展『徳川家霊廟』は現在における研究の集大成ともいえる充実の内容でしたし、展示図録も大変に優れた内容です。ただ、残念なことに現在品切れとなっております。是非とも新規の知見を増補した新版を刊行されることに期待したいところです。
乗りかかった舟ですので、最後に寛永寺の徳川家墓所にも触れておきましょう。寛永寺の徳川将軍家墓域は、現在東京国立博物館の寛永寺本坊(正式には円頓院といいました)の裏手に造営されました。東博正門前の道路を挟んだ地にある竹の台の噴水の地点に巨大な本堂(根本中堂)がありましたが、幕末に新政府軍と彰義隊の戦争で焼失しました。ただ、霊廟のある場所は、彰義隊との闘いでも戦火は及ばず無事に生き延びたのです。しかし、先にも触れたように家綱廟・綱吉廟の建造物はともに空襲を免れることは叶わず焼失いたしました。ただし、幸いにして、埋葬地そのものは空襲被害をうけず6名の将軍と10代家治嫡子で後継者と目されていたものの急逝した家基の墓所は、改葬もされることなく今に到っております。現在は2か所の墓域は周囲を高い石垣の塀によって囲繞されておりますが、これは明治以降に造営されたものです(一説に勝海舟が墓域を護るために造営したと言われますが真相や如何!?)。しかし、その北裏に広大に存在していた「徳川家御裏方墓所」(主に各将軍の正室・側室24人が埋葬された墓域)の墓塔群は最近発掘調査の上で改葬され、全て撤去されてしまいました。当方は、荒れ果ててはおりましたが自由に出入りできたこの地が大好きで、上野に出掛けるたびに散策したものです。そのうちに柵が巡らされて侵入できなくなりました。先に述べた家宣生母「お保良の方(法名:浄昌院)」の改葬墓もここにありました。今では全面的に整地され、跡地は「寛永寺徳川浄園」として広く一般に墓所として分譲販売されているようです。寛永寺のHPによれば、最小「一区画1.32平方メートル498万円から」、最大「一区画6.63平方メートル2.062万円から」となっております。かくも由緒正しき霊園はまたとございません。寛永寺の回し者ではございませんが、お考えの向きが御座いましたら検討をされては如何でしょうか。しかし、古を知る私としては時の移り変わりに暗然たる思いではあります。これは、この改葬は今世紀に入ってから、平成の御代におけることに他なりません。発掘成果は2012年に吉川弘文館から『東叡山寛永寺 徳川将軍家御裏方霊廟』として刊行されております。一般販売もされておりますが、如何せんお値段が¥165.000となると流石に手が出せません。しっかりとした記録に残されただけ幸いでしたが、それでも貴重な「近世大名家墓所」の一つが失われたことを心底残念に思っております。しかし、増上寺・港区と異なり、寛永寺・台東区からは適当な徳川家霊廟についての一般向調査研究書が出版されておりません。寛永寺の関係者である浦井正明による『もうひとつの徳川物語-将軍家の霊廟-』1983年(誠文堂新光社)、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』2007年(吉川弘文館)がありますが、将軍の葬送儀礼については詳しいのですが、霊廟建築・墓制の問題に関しては隔靴掻痒の感拭い難き内容です。大いに残念、かつ不満であります。台東区・寛永寺ともに、是非、港区・増上寺の爪の垢を煎じて飲んでいただきたいものであります。
今回は、たまたまハイキングで出会った黒田直邦の墓塔と徳川綱重の宝筐五輪塔から、将軍家墓所も含めた大名家の墓所の話題を連々と述べて参りました。あっちに飛び、こっちに飛びの妄想にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。最後まで御一緒してくださった方は本当に辛抱強いお方であると存じます。頭が下がります。ありがとうございました。もし大名墓所に興味が生じましたら、岡崎守恭『墓が語る江戸の真実』2018年(新潮新書)あたりからアプローチされてみては如何でしょうか。著者は歴史研究者では御座いませんが、それだけに読みやすいエッセイ集となっており、興味を惹かれる話題が多いものとなっていると思います。
(完)
おのづから 心に秋も ありぬべし
卯の花月夜(うのはなづくよ) うちながめつつ
(藤原良経 『秋篠月淸集』夏)
「卯の花」は「卯木(うつぎ)」に咲く花のこと。花期は5月~7月にかけてであり、その花は古から初夏を彩る風物詩とされて参りました。その名は「空木(うつぎ)」から来ており、茎が中空であることに由来するそうです。卯月(旧暦4月)に花を咲かせたことから「卯の花」と称されるようになったのでしょう。枝先に沢山の白い花を付けます。その色合い転じて豆腐の絞り粕(おから)の例えとしても用いられます(おからを使った料理名にも)。王朝物語・随筆にも数多登場する花の一つと申せましょう。また、当該時期を彩るもう一つの風物である時鳥(ホトトギス)の声とともに、古典和歌の題材として詠まれることの多い花でもあります。標題作は藤原(名字は「九条」)良経(1169~1206)の手になる作品ですが、一度も勅撰集に採られていないのが不可解なほどの名作、いや傑作かと存じます。良経は平安末から鎌倉初期に生きた公卿であり、この時代を学ぶ者にとって不可欠な史料『玉葉』を著した藤原(九条)兼実(1149~1207)の次男であります。官位従一位、摂政・太政大臣と世俗権力の頂点にも登りましたが、元久3年(1206)3月7日深夜に頓死いたしました。父兼実に先立つこと1年。齢38という若さでした。和歌・漢詩・書の何れにおいても天才の名をほしいままとしておりますが、特に和歌の世界においては、所謂「良経歌壇」なる存在こそが、後に編まれることとなる「新古今風」を醸成する母体となったと評されます。そして、自撰による歌集『秋篠月淸集(あきしのげっせいしゅう)』は名私家集として知られます。事実、残された作品の多くが胸を打つ傑作・名作揃いです。その作は、標題歌からもお分かりのように、どこか諦念を含んだ心情を宿し、更に申せば遙かに遠い彼方へ向けた眼差しすら感じさせる(それは彼岸的な超越世界ではありますまいか)、そんな極めて内省的なる精神を内包しております。人臣位を極めた者でありながら、常に醒めた視点で自身、そして現実を述懐するような歌が多く、現代人である私の胸をも打つのです。近代文学において顕著な「若くして死す」との主題を遥か昔に先取りするかのような、自らの運命を予感しているかのような詠歌の数々が心に響きます。藤原定家(1162~1241)の主筋にあたる人物でもあり、また定家卿とも相互に影響を受けあった人でもあろうかと存じます。標題歌の解説については、当方などがとやかく申すよりも、現代名歌人塚本邦雄(1920~2005)の「鑑賞文」をお読みいただければそれに勝るものはありません。以下に引用させていただきましょう。他にも忘れ難き作品が数多あります。またの機会が御座いましたらご紹介をさせていただきます。
白い月光の下に幻のやうに咲き続く、その月光の色の花卯木、真夏も近い卯月とはいへ、人の心には、いつの間にか秋が忍び寄ってゐる。人生の秋は春も問はぬ。光溢れる日にさへ翳る反面に思ひを馳せずにゐられない。これこそ、不世出の詩人、良経の本領の一つであった。放心状態を示すような下句の調べもゆかしく、かつ忘れがたい。 [塚本邦雄『淸唱千首』1983年(冨山房百科文庫)]より |
因みに、『淸唱千首』は副題に「白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる一千年の歌から選りすぐった絶唱千首」とあるように、塚本の編んだ古典和歌のアンソロジー集であります。当方が所有する「冨山房百科文庫」初版が世に出たのが1983年のこと(冨山房は当方が初めて購入して愛用した国語辞典の出版社でした)。大学卒業後に一年間の就職浪人の末、夢に見た教員となることが叶い、千葉市立更科中学校に赴任した正にその4月の刊行になります(愛蔵版が一か月後に刊行されておりますがその名に値する美しい書籍です)。当方が入手したのはもう少し後になるかと記憶しておりますが、塚本の編んだ多くの古典和歌アンソロジー中で、憚ることなく最高傑作と申すことのできる一冊だと確信するところでございます。選ばれた千に及ぶ知られざる、そして瞠目すべき古典和歌の数々と、一作一作への愛情に溢れた的確な鑑賞文とにより、古典和歌の世界の豊穣への扉を開けてくれた、当方にとって記念碑とも言うべき最も大切な書籍の一つであります。今でも書斎の直ぐ手に届くところに配架しております。藤原(九条)良経という不世出の歌人に出会えたのも偏に塚本のお陰に他なりません。
ここで、少しの脱線をお許しください。源義経(1159~1189)という人物について、日本人ならば誰でも耳にしたことがございましょう。因みに、上記の藤原(九条)良経とは正に同時代を生きた人であります。しかし、彼が兄源頼朝(1147~1199)に平泉で討たれた時、少なくとも公式上はその名前ではなかったことをご存知でしょうか。その時には「義顕(よしあき)」の名で呼ばれていたのです。従って、公式記録にも「義経」という名では記されておりません。実は、そのことと藤原(九条)良経とは大いに関係のあることなので、ここに記させていただこうと思うのです。義経の改名は、文治2年(1186)、後白河法皇から義経追捕の院宣が出されたときに、源頼朝によって行われています。何故ならば、「よしつね」の音が、京都朝廷の要人である藤原(九条)良経と同訓であるのは恐れ多いとして、(本人の意思とは無関係に)名を改めた上で追捕の対象とされたのです。ただし、その時の名は「義行(よしゆき)」でした。しかし、その後、「義行」は日本中を逃げ回りなかなか捕縛できなかったこともよく知られておりましょう。この原因は改名後の「義行」という名前にあると源頼朝は考えたようです。『吾妻鏡」』よれば、「義行」という名は「よくゆく」と読める(よく隠れるという意味でもある)。そこで、同年末に、「よく顕(あらわ)れる」という意味の名に改名することになったというのです。それが「義顕(よしあき)」に他なりません。嘘のようなホントウの話です。結果として義経、もとい義顕は平泉で討たれました。頼朝の立場からすれば「めでたし!めでたし!」のお話しでありましょうが、それでも改名から10年以上も経過しておりますので、その効果の程は疑わしい限りでありましょう。逃げ続ける義経本人の与り知らぬところで、今から考えればかような茶番劇が繰り広げられていたのです。もっとも、頼朝としては真剣に考えてこうしたことを行ったのでしょうが、何ともはやの思いであります。また、忖度された側の藤原(九条)良経は如何に思ったのかも知りたいところであります。
さて、現在開催中の小企画展『陸軍気球連隊と第二格納庫 -知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-』の閉幕まで残すところ2週間余りとなりました。まず、申しあげるべきは、本展は、その企画、準備、そして運営まで全面的にご協力をいただきました「千葉市の近現代を知る会」代表である市原徹様、同会会員でもいらっしゃる伊藤奈津絵様の膨大な「気球関連コレクション」のご提供を快諾していただいたことで成立したものであります。それだけに留まらず、同会員の皆様には、展示場の装飾(入口上の気球や奉祝門等々)までのご尽力を賜っております。まずは、改めて同会の皆様には感謝を申し上げる次第でございます。ホントウに頭の下がる思いでございます。そして、そのお陰もあって、現在までにたくさんの皆様に御観覧をいただいていることに心より感謝を申し上げたく存じます。
また、メディア関係でも、今週の月曜日(6月21日)には毎日新聞・東京新聞(千葉版)で取り上げていただきました。未だ放映には至っておりませんが、その他、NHK千葉放送局等のメディアからの取材、そして軍事関係の雑誌『丸』(潮光人新社)から記事掲載の要請も頂くなど、広く注目を集めている展示内容となっております。また、かつて親族の方が気球隊・気球連隊に入隊されていた関係された皆様のご来館も賜り、我々が掴んでいなかった新たな情報等も集まってきております。一方で、昨年惜しまれながらも解体された第2格納庫に用いられた技術の紹介をしている関係で、設計建築にあたった会社(巴コーポレーション)関係の方をはじめ、建築士の方々にも多数ご来館を賜っていることを嬉しく存じます。表題にもあるように、手前味噌ではございますが、今回の展示会は「小企画展」を名乗ってはいるものの、その内容は「特別展」にも匹敵する内容だと胸をはって申しあげることができます。これを好機に、これまた国内で初めての「軍用気球」に焦点をあてた本館の展示を是非ともご覧くださり、千葉市にかつて存在した日本陸軍唯一の部隊であった「気球隊・気球連隊」についての知見を深めていただくこと、昭和初期に日本人の手により発明され、今も用いられている画期的な建築技術について御理いただけることを願っております。併せて、こうした歴史を振り返ることを通じて、恒久平和への想いを強く心に持ちいただけることを心より期する想い出ございます。今回は、以下、改めて本展の「見どころ」について「20選」を申しあげたいと存じます。
小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫」
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☆その1:軍用気球の分類とその機能がわかります!!
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☆その2:千葉市に移転してくる前の「陸軍気球隊」前史を概観できます!!
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☆その3:海軍の気球活用にも焦点を当てています!!
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☆その4:各時代の気球格納庫の変遷を全てみることができます。
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☆その5:気球隊が所沢から千葉に移転したのは何故か??
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☆その6:千葉市に気球隊・気球連隊の建物の全体像をみることができます!!
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☆その7:気球連隊に昇格した際の記念祭の門飾りを復元しています!!
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(後編に続く)
☆その8:隊員が歌った「気球隊の歌」を新録音で聞くことができます!!
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☆その9:千葉移転から終戦までの気球隊(連隊)の活動の全容を年表で整理!
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☆その10:戦時の気球隊の大陸等での活動について隊員の手帳から復元!!
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☆その11:戦線の拡大と戦況の劣勢に伴って、気球隊(連隊)の活動が、国外から国内に移行し、期待される機能に変化が生じたことを知ることができます。 |
☆その12:戦中の婦人誌・子供誌で宣伝された気球隊と実態を知れます!!
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☆その13:風船爆弾に関わった気球隊のようすを知れます(特に県内の一宮)!
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☆その14:戦後の気球連隊跡地利用について知ることができます!!
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☆その15:「千葉公園体育館」は解体された気球連隊「第一格納庫」の部材で建てられた」との言説は真実か否か、初めて明確に検証されました!!
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※以下は、「見どころ案内」ではありませんが、その15に関しまして皆様に情報をご提供して頂きたいことが御座いますので、この場でお願いをさせてください。それは、「千葉市立本町小学校講堂(本町小では体育館ではなくかように称しております)」が、戦後になって、陸軍関係の格納庫の部材を再利用して建設されたとされていることについてです。この情報は、当時千葉市役所で勤務されていた方や、本町小OBの方等、複数の情報筋からのものですので、動かぬ事実だと思われます。当講堂は、昭和36年(1961)年10月23日から昭和38年(1963)年2月16日に新庁舎が完成するまで、千葉市役所の仮庁舎として利用されてもおりました(現在「千葉トヨペット本社屋」として使用され登録有形文化財に指定される市庁舎から、昭和45年に建設される現市庁舎屋に移転するまで使用されることになる市庁舎完成までの期間:立地は現在の千葉県警察本部の建つ場所)。そこで勤務されていた方もかように証言しておられます。ただ、それら証言には大きく2つの内容が混在しております。「気球連隊の第一格納庫の部材を用いて作られた」との話と、「何処かの飛行場の格納庫」であった」との話であります。第一格納庫が昭和30年過ぎまで現地に残っていたことは明確です。従って、正確に何時解体されたのか、本町小講堂建築が何時かを、それぞれ特定することが必要でしょう。「何処かの飛行場の格納庫」という説でいえば、近くで言えば「下志津飛行学校」であろうかと思います。確かに、そこにも格納庫が存在していたことは確かです(戦前の航空写真で確認すると本町小講堂の外観とよく似たが見て取れます。第二格納庫という建物です)。ただし、下志津飛行学校内に存在した建物の戦後の状況については、未だ調査が行き届いてはおりません。同時に、こうしたことを調べる必要がありましょう。かような訳で、今回の企画展ではこのことには触れておりません。飽くまでも「千葉公園体育館が第一格納庫の部材で建設されたことは明らかな誤り」ことを明らかにできたのみです。もし皆さんのなかで、本町小講堂の部材について確か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非とも本館までお寄せいただけましたら幸いです。
☆その16:第2格納庫に用いられた画期的な建築技術が理解できます!!
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☆その17:模型展示が充実しています!!
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☆その18:第二格納庫に用いられていた部材の一部を見ることができます!
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☆その19:第二格納庫の解体経過を写真でみることができます。
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☆その20:「千葉市近現代を知る会」代表:市原徹さんによる軍用気球研究、建築家としてのダイヤモンドトラス構造の研究成果、そして同会会員:伊藤奈津絵さんの貴重な「気球隊関係コレクション」を目のあたりにできる展示総数160点にも及ぶ日本初の軍用気球に関する画期的な展示会です。
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以上、本展の「見どころ20選」を2日間にわたって連載させていただきました。会期の終了まで2週間となします。どうか、この機会を逃さずにご来館くださいませ。館職員一同、皆様の御出でをお待ち申し上げております。本展をご覧いただき、改めて戦争の時代を振り返り、恒久平和への思いを新たにしていたける機会ともしていただきたいと存じております。勿論、未だに千葉市は「蔓延防止等重点措置」地区として継続中でございます。ご来館の際には、皆様お一人おひとりも、感染防止対策を充分にお願いいたします。
最後の序でとして付け加えさせて頂きますが、そんなに簡単なことではないのは重々承知の上で、今回の第二格納庫のように、貴重な建築がいとも簡単に解体されて地上から消滅してしまうことを心の底から残念に思います。ダイヤモンドトラス構造体としては90年を越えて、殆ど老朽化の痕跡は見られなかったのです。私企業、公的機関(国・地方公共団体等)、そして一般市民の力を結集すれば、他の道もあり得たのではないでしょうか。今現在も、千葉市内だけに限っても、貴重な文化財級の建物が解体の危機に瀕しております。地道な保存活動が行われてもおりますが、「聞く耳持たぬ」的な対応で門前払いというケースが殆どです(まるでどこかの国のトップの方の答弁と選ぶところがありません)。申し訳ありませんが、その理由の大きな部分は経済効率に反することに帰結します。平たく申せば、金儲けに繋がらない建物は理由の如何を問わず、とやかく言われる前にさっさと壊してしまえというのが世間一般の趨勢であります。百歩譲って私企業であればまだしも、そうとは限らないのが現実であり、暗澹たる思いに駆られることが多いのです。今後、おそらく際限なく続くこうした文化遺産の破壊を如何にしてくい止めて豊かな未来へと繋いでいくのか、そんなことをも考える切っ掛けにして頂ければと心底願っております。
関東地方も梅雨に入り、10日ほどが経過しました。昨年もそうでしたが、コロナ禍に起因する感染予防対策下での生活は、この時節やはり相当に身体に応えます。梅雨寒や一日の中での寒暖差もかなりダメージをうけます。まぁ、大切な長雨の時期を心地よく過ごせるよう、せめてお互いに気配り心配りをしつつ、人間関係での波風を立てぬようにしたいものです。できる限り心穏やかに過ごすことがなによりでございましょう。館の外ではものすごいスピードで燕たちが飛び交っております。何処かで子育てをしているのでしょう。この姿が辛うじて心を和ませてくれております。
さて、今回はここ何年かのNHK大河ドラマでは、江戸時代の教育の在り方が描かれることが多くなりました。今回は、コロナ禍という「非常事態」であり、そのこととも関連して教育の機能について考えたことが御座いましたので、そのことについて記させていただきます。江戸時代の教育機関については、高等学校の教科書で説明されている要点を纏めて掻い摘んでお示しすれば、以下のようになりましょうか。
1. 幕府は儒学による武士の教育を推奨し、中でも幕府体制を支える理論として朱子学が重んじられ、特に「寛政の改革」では朱子学を正学として、官立の学校としての「昌平坂学問所」が設立されたこと。 2. 諸藩でも藩士の子弟教育を目的とする「藩校」が設けられ、朱子学・武術を中心に、後には洋学・国学等も取り入れることもあったこと。
4. 民間でも、武士・学者・町人によって「私塾」が開かれ、儒学や国学・洋学などが講義されたこと(大阪の懐徳堂、広瀬淡窓の咸宜園、吉田松陰の松下村塾等々)。
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以上のことを整理すれば、まず、近世社会においては、近代国家において一般的に行われている国民国家の形成を目指した全国一律の教育システム(日本の学習指導要領・英国のナショナルカリキュラム等)は存在していなかったということであります。大名が藩の子弟教育のために設置した「藩校」においても、行われている学習カリキュラムは藩ごとに大きく異なっておりましたし、ましてや庶民に対する教育施策はほとんど無きに等しく(上記3.のようなケースは決して多くはありません)、主に私的な教育機関であった所謂「寺子屋」が「読み・書き・算盤」を中心とした実学教育を担っていたに過ぎませんでした。中身も統一されたテキストがあるわけではありませんので、寺子屋の師匠の考えによって内容も左右されがちであったことでしょう。もっとも、近世後期になって、日本全国に爆発的とも言える規模で広がった寺子屋のお陰をもって、当時の日本人の識字率は世界最高峰であったと考えられていますので、生活に必要とされる基礎学力の育成に確実に寄与したことは間違いありません。しかし、私は何となく幾つかの事例を挙げて簡単に扱われている「私塾」の存在こそが、江戸時代における日本人の知的レベルを飛躍的に向上させる機能を果たしたと考えるのですが、このことは寺子屋における教育の在り方と併せて、いつか別に論じてみたいと考えております。現在放映中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』でも、渋沢栄一が従妹である尾高惇忠の営む私塾で学問の基礎基本を身に着けたことが描かれておりました(あれは寺子屋ではありません)。以降では、基本的に藩毎に大きく異なる武士階級に対する教育理念やその姿について述べてみたいと思います。
数年前にNHKの大河ドラマとして放映された『西郷どん』。言うまでもなく、主人公は薩摩藩の西郷隆盛であります。討幕運動の中核として活躍し、明治維新をもたらした最大の功労者の一人であり、また明治政府を去った後に新政府への不満分子に担がれ、兵を挙げたものの敗死した人物に他なりません(「西南の役」)。正直に申し上げますと、この大河ドラマについては、偶々初回のみ視聴に及んだだけで、その後は一切視聴することはありませんでした。因みに、当時「読売新聞」に連載されていた「古今をちこち」(磯田道史)によれば、初回視聴率は関東が15.4%と振るわなかったのに対し、関西では19.8%(地元鹿児島県は34.9%)に達したとのこと。磯田は、東西での視聴率差の要因を「西南日本の薩長史観と、東北日本のアンチ薩長=徳川評価史観の地域対立がいまなおある」ことに求めていますが、当方にも頷ける部分がございます。当方の友人に先祖代々浅草に住んでいる者がありますが、よく「薩長の連中がこの江戸の街を駄目にした」と嘆いていたのをよく覚えております。当方の山の神は会津に連なる人でありますが、やはり新政府軍には「いいようにやられた」との思いを何処かに抱いております。私も、大した出自では御座いませんが、天領の農民として、明治から東京に住むものとして、学べば学ぶほどに幕末における薩長の遣り口には納得のいかない思いを感じます。本当は脚を運んでみたくて仕方がないのですが、未だ鹿児島県には一歩も脚を踏み入れたことがない理由として(勿論冗談ですが)、「敵地だからね」ということを常としております。山口県にも数年前に必要があって初めて行きました。瀬戸内沿いの光市の学校へ視察に行かざるを得なくなったためです。しかし、周囲には「あそこは周防国であって長門国ではないからさ。敵の本丸には未だ脚を踏み入れていない」などと嘯いておりました(もっとも、両方とも毛利氏の所領でありますが)。以上は、勿論、話のネタであって、本心ではないことを急いで付け加えさせていただきます。両県出身の親しい方が何人もいらっしゃいます。しかし、今回は興味深いこの問題には立ち入らず、その初回で描かれた江戸期の藩士に対する子弟教育について述べることといたします。特にここでは、現在『青天を衝け』でも正に取り上げられている幕末における会津藩と薩摩藩とにおける藩士子弟への教育の在り方を取りあげてみましょう。申すまでもなく両藩は幕末に干戈を交えることとなり、会津藩が一敗地に塗れる結末を迎えます(「白虎隊」の悲劇等)。今回は磯田道史『歴史の読み解き方』(朝日新書)に導かれてのご案内となります、両藩の教育の哲学は両端といえるほどに異なっております。まずは、それが幕末の政治状況に如何に反映したのか探ってみましょう。
(後編に続く)
会津藩には「日新館」という優秀な藩校がありました。その故地にではありませんが、別の場所に全施設が木造復元されており、その結構は圧巻であります。甲冑を着ての水連をするための所謂「プール施設」まで復元する徹底ぶりです。会津藩では、一定身分以上の藩士には修学が義務づけられ、藩祖保科正之の考えに基づく朱子学の理念教育(「かくあるべし」)と武芸の鍛錬とが徹底して行われました。その眼目は藩士の「人の道」の育成であり、統治と教育との一体化が目指されました。その成果として、在籍者の文武両道の優秀さは際だっていたと言われます。当時の最高学府である幕府「昌平坂学問所」では各藩から優秀者を集め、その内の最優秀者を舎長にしましたが、同藩から四人もそれを輩出したのは会津藩だけであったことがその証となりましょう。更に、学校外でも「什の掟(じゅうのおきて)」による道徳教育が徹底されました。最後に記された「ならぬものはならぬものです」でよく知られておりましょう。
対する薩摩藩の子弟教育は「郷中(ごじゅう)教育」と言われ、現在の少年団に近いものです。異年齢の青少年で構成される「郷中」という小集団で共に学び合う形式であり、読み書き等の実学以上に具体的な問題への対処法が重視されました。そもそも決まった学校が存在せず、学習するためにはまず場所を借りる実務的な交渉から始まるそうです。そこでの学びも、例えば先輩からの問「道の端を歩いていて、石垣の上から唾を吐きかけられたらどうする」に、各々が解答を用意して徹底的に議論し合うことが中心です。元より正解はありませんが、「道の端を歩くからそうした無礼にもあう。道の真ん中を歩くようにせよ」、つまり、日常から起こりうるあらゆる事態を想定して、自身の一挙手一投足を決めることを学びます。理念重視の会津藩と異なり、状況に応じた判断力を徹底的に鍛える教育の在り方がここにはあります。そこでは日本人の言い逃れの常套句「想定外」は通用しません(東日本大震災でもコロナ禍においても、嫌になるほどに「想定外」との言葉を耳にしたことには誰もが頷いていただけましょう)。薩摩藩士の精神的支柱となっている、戦国時代の当主島津忠良(1492~1568)[彼の孫が関ヶ原の合戦の頃の当事者島津義弘・義久兄弟であります]の作とされる『島津日新公(しまづじっしんこう)いろは歌』47首中の巻頭歌を以下に引用します。これこそ、薩摩教育の何たるかを物語っています。反面、薩摩藩士子弟の識字率は、他藩と比べて相当に低かったとされていることは申し添えておかねばなりません。
いにしえの 道を聞きても 唱えても 我が行いに せずば かいなし (当方による意訳:昔の賢者の立派な教えや学問も、口に唱えるだけで実行をしないのであれば無いのに等しい。実践・実行こそが何にも増して重要なことなのである。) |
二代将軍徳川秀忠の庶子を藩祖とし、徳川幕府の藩屛となることを運命づけられた会津藩と、外様の雄藩として元来独立独歩の気風の強い薩摩藩とは置かれた立場も異なり、その優劣を現代人が軽々に判定すべきではありますまい。ただ、「乱世」と「安定した世」に求められる教育とは自ずと異なりましょう。それは、現代社会で申せば、「緊急時」と「平常時」とに置き換えることもできましょう。いざ戦となれば、幾ら精鋭揃いの会津兵とて大いに分が悪かろうと思います。圧倒的に優勢な兵力を擁しながら「鳥羽伏見の戦い」に敗れたことは、幕府(会津)軍にとって、正に「想定外」の事態であったことでしょう。しかし、何千回もの思考訓練を繰り返してきた薩摩藩士にとっては、練り上げた戦略・戦術の在るべき帰結だったと思います。恐らく、場合分けした幾多の想定(シミュレーション)を経たうえで、それぞれの対応を練っていたことでしょう。これぞ、「郷中教育」の精華に他なりません。従って、目的達成のためなら「人の道」に反する悪辣な謀略やテロでも躊躇無く断行しております。そのことが当方にとっては途轍もなく癇に障り、どうしても好意的に捉えることができませんが、それが新たな歴史の扉を開ける原動力として働いたことは間違いありません。しかし、「在るべき人」となるべく指導を展開する会津藩の教育理念に大きな価値があることも疑いがありません。両藩の基本的な学びの在り方は、何れともに期待される教育の機能ではありますまいか。このことは、今後の教育の在り方を考える重要な指針となるように思うのです。まさに、「温故知新」であります。
そうした意味において、今現在が如何なる状況下にあるのかは言うまでもございますまい。今の政権を担う皆さんが、コロナ禍で習うべきは薩摩の「郷中教育」に他なりません。平時であれば、ある意味、どのような人物がリーダーであっても、如何様にも乗り切ることができましょう。しかし、緊急事態時にはそうは参りません。的確な現状認識と決断力、そのことが将来如何なる結果をもたらすべきかのヴィジョン・シナリオを描くことのできる人物であること、そして腹を据えてそれを実践・実行に移すことのできる胆力ある人物こそが求められます。そして、何よりも、そのことを説得力ある人間味溢れる言葉で国民・住民に伝える言語能力が求められましょう。悲しいかな、「非常事態」は、そうした資質の有無を残酷なまでに暴き出しているのだと存じます。こうした非常時は、人としての度量・本領を冷酷なまでに白日の下に晒すことになりました。こうした方々にこそ、「郷中教育」の何たるべきかを学んでいただきたい。真摯に歴史に学んでいただきたいとの思いを禁じ得ません。しかし、何よりも、このような現実において、今後皆様国民の一人ひとりが現状を的確に認識して判断・行動することが求められていることを忘れてはなりません。ただ現状を冷笑しているだけでは、批判する対象と全く選ぶところがないと自省すべきでございます。それが、日本のよりよい未来への行動指針ともなりましょう。まさに、我々自身が「島津日新公」の教えを噛みしめる必要があるのだと存じます。
最後になりますが、この場をお借りしまして、少し前に4回にも及ぶ長編メッセージを辛抱強く丁寧にお読みくださりコメントを賜りました「小太りじいさん」様に御礼を申し上げさせてください。日常のちょっとした疑問から、歴史を追求することができる、そんな面白さをお伝えしたかったのですが、そのことを的確に言い当ててくださったことに衷心よりの感謝を申し上げます。ありがとうございました。本メッセージを書き記すことへの勇気が湧いて参りました。
7月に入ってからは梅雨も本番となったように感じられます。大雨、または鈍より天気続きであり、ここ1週間ほどお天道様の顔を拝むことも叶いません。そうは申しても、この時節ならではの愉しみもございます。そろそろ花の時季は仕舞いとなりますが、本館玄関前にある雨に濡れた紫陽花の青紫色が未だ美しさを保っております。また、本館の環境整備をして下さっているスタッフの方が植えてくださった向日葵の花も徐々に開き始めております。今でこそ遠慮がちに咲いておりますが、梅雨が明ければ夏そのものを謳歌するような立姿となりましょう。愛新覚羅溥傑と嵯峨浩夫妻由来の日中友好の朝顔もちらほらと開花を始めております。花と申せば、昨年植え付けたものの花をつけることが叶わなかった懸案の大賀蓮。2年目に開花する可能性が高いと聞いてはおりますが、今のところは浮葉・立葉ばかりで花芽は一向に出て参りません。千葉公園では既に沢山の花に出会えるそうですが、中々に気難しい御仁のようです。皆様も、散歩序でに亥鼻山での花見物でも如何でしょうか。
さて、一昨日は「七夕」でした。皆様のお宅では七夕飾りをされたでしょうか。当日は生憎のお天気でしたので、御気の毒ではありますが、牽牛と織女の年一度の逢瀬は叶わなかったのかもしれません。学校で仕事をしている頃には、必ずこの時期には生徒が願い事を記すことのできるよう学年ごとに竹を立てておりました。そして、毎年、竹はあっという間に生徒諸君の願い事で一杯に。中にはホントウに微笑ましい内容のものもあり、毎年それを覗き見ることを楽しみにしていたものです。我が家でも、特に子供が小さな頃には、なるべく古くから伝わる風習を伝えようとの思いもあって、一般的な年中行事については欠かさずに執り行っておりましたが、流石に子供が家を出て夫婦2人の生活となると、どうしても怠け者の性分が顔を出してしまいます。必然的に、取捨選択の意識が働き、今年も節分の豆撒きは挙行しましたが、端午の節句は流石に鯉のぼりを出す気にもなれず、コロナ禍退散を祈念する意味から「鍾馗」さまを飾ったのみ。「七夕」に到ってはもう何年も無精を決め込んでおります。豆撒きも東京下町でも近所で行っているのは我が家のみとなりました。小さな子供でもいればなんでもないのですが、流石にいい初老夫婦世帯で「鬼は外!福は内!!」などと大声を出すのも気恥ずかしく、柄にもなく世間体を気にしたりしております(山の神は豆の仕入れ専門であり、汚れ役?は専ら当方の管轄となります)。元来は、裃でも纏って威勢良く行うのが筋でありましょうが、かような訳で昨今は極めて遠慮勝ちに行っております。かような心構えでは、そもそも邪気払いはもとより、招福の効果も期待できますまい。もう還暦も過ぎたことですし、そろそろ店仕舞といたそうかと、弱気な風に吹かれる仕儀に立ち至っております。
その「七夕」ですが、今から76年前の7月7日未明、テニアン西飛行場を進発した129機のB29爆撃機が889.5トンもの焼夷弾を千葉市中心市街地に投下し、死傷者1,204人、被災戸数8,489戸という大きな被害をもたらしました。所謂「七夕空襲」です。昨年度の本館の特別展『軍都千葉と千葉空襲-軍と歩んだまち・戦時下のひとびと-』で取り上げておりますが、同年6月10日に日立航空千葉工場を標的にして蘇我周辺を焼き払った空襲とともに、千葉市制施行100周年を迎える今年、いや未来永劫に千葉市民が忘れてはならない日であります。現在、千葉市総合政策局総合政策部都市アイデンティティ推進課の行っている「千葉市制100周年 七夕平和プロジェクト」の一環として「短冊に平和の祈りと願いを込めて」とのスローガンの下、市内各所のショッピングセンターや公共施設に竹を立ててございます。本館もこれに協賛しており、正面玄関の受付奥に短冊を付ける竹を立ててあります。ご来館の際に、もしよろしければご活用くださいませ。当初7日(水曜日)までとしておりましたが、7月11日(日曜日)まで延長したいと存じます。飽くまでも趣旨は「平和への祈り願い」となります。「コロナ禍の終息」のお願いならいざ知らず、「お小遣いがアップしますように」といった個人的な内容ではありませんので、悪しからずご承知おきくださいませ(もっとも個人的には身につまされる重大な願い事ではありますが)。
話は本題に移りますが、5月末から開催して参りました標記小企画展の会期も、残すところ明日と明後日の2日間となりました。戦前に日本で唯一陸軍の「気球隊(気球連隊)」の置かれていたこの千葉市に存在する博物館施設として、国内初の「軍用気球」を扱った展示会特に、毎日・東京新聞、NHKテレビ・ラジオで取り上げていただいてからは、毎日のようにたくさんの皆様にご来館いただきましたことに感謝申し上げます。最後の土日に、お見逃しなきようご来館いただけましたら幸いでございます。会期終了後になりますが、本小企画展のブックレットを作成して刊行する予定でおります。ただ、発行時期につきましては、現段階では何時と明言できません。申し訳ございません。観覧された皆様のアンケートには「図録が無いのが残念」「是非とも図録の刊行をしていただきたい」とのご意見を数多頂いております。そして、何にも増して、本展示の核となりご活躍を頂きました「千葉市の近現代を知る会」の皆様方のご協力とご支援に、とりわけ代表の市原徹様の八面六臂のご活躍と、数々の貴重な資料の拝借をお許しくださいました伊藤奈津絵様のご厚情とに、衷心よりの感謝を申しあげる次第でございます。また、本展を切っ掛けにして、御尊父が気球隊に所属されていた、叔父が気球隊としてノモンハンで戦い命からがらで逃げてきた、自宅で気球に関する資料が見つかったので寄贈したい等々、当事者の方々のお声も沢山耳にさせていただきましたこと。改めて、今この展示会を開催して本当に良かったと思っております。有難うございました。
そして、8月3日(火曜日)から10月17日(日曜日)までの会期で、本年度の本館のメインイヴェントである特別展『高度成長期の千葉市-子どもたちが見たまちとくらしの-』の開催となります。そして、特別展の会期が終了後、10月19日(火曜日)から12月12日(日曜日)の会期で、特別展に次ぐ展示会として企画展『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』を矢継ぎ早に開催いたします(本館では「企画展」の上位展示が「特別企画展」、略して「特別展」と言う位置づけになります)。昨年度の特別展『軍都千葉と千葉空襲-軍と歩んだまち・戦時下のひとびと-』と併せ、「千葉市制施行100年」間を、トピックとなる3つの時期に切り取って振り返ることを目論むものでございます。本館では、これまで展示会としては、規模の大きな特別展を基本的に年度一回の開催として参りましたが、本年度以降は2回の開催を継続していくことを予定しております。それが、特別展を2回とするのか、企画展で2回なのか、はたまた本年度のように特別展・企画展とするのかは、時々の諸事情によると思われます。
本年度は千葉市にとってのアニヴァーサリーイヤーでもあり、以前から2回の特別展として準備を進めて参りましたが、今日日このコロナ禍中で市財源の逼迫もあり、残念ながら2回分の特別展予算が認められませんでした。致し方のない仕儀ではありますが、そうかといって準備してきた展示会を今さら反故にすることもできません。今年度開催することに特別な意義があるのですから。従って、泣く泣くの対応でありますが、1回分の予算を切り裂いて2回の開催をさせていただきます。その結果として、一方は規模を若干縮小しての企画展とせざるを得なくなりました。何方かを中止するよりも、若干規模を縮小しても、市民の皆様にこの百年を振り返っていただける機会をご提供するべきとの判断であります。従って、今回は経費節減のためポスター・チラシに関しましても、特別展と企画展とを併せて一枚としてございます。ポスター・チラシに関しましては、そろそろ、あちらこちらでお目にされる機会も増えてくるかと存じます。是非とも皆様のご来館をお待ち申しあげております。
さて、ようやく8月3日からの特別展に関してです。まずは、チラシに掲載された本展の案内を引用してみましょう。
本展では、現在の千葉市の姿を形作った1950年代半ば~1970年代初頭の「高度経済成長期」をテーマにしました。工業化の進展や大規模団地の造成、家電の普及や公害の克服等この時代の諸相を多感な心で見つめた小中学生たちの作文や詩を手掛かりにして、千葉市の街並みや人々の生活が大きく変貌していく様子を紹介していきます。本展を通して、喧騒と希望に満ちたあの懐かしい時代を振り返ってみてはいかがでしょうか。 |
今回の特別展で特筆したいことが、上記文にもございますように、「子どもの目線」から高度経済成長期という日本社会が大きく変貌していった時代を切り取ってみようと試みることにあります。特別展の会期を本年度は小中学校の夏季休業中のスタートとしたのも、会期を10月半ばまでと長く設定したのも、児童生徒の皆さん、そして何よりも教職員の皆様に是非ともご覧頂きたかったからであります。夏休みにお出で頂きたいことと、9月・10月は年間で小中校生の団体見学の多い時期でもありますので、団体見学の場として本館を選んでいただけることに期待を寄せております。本特別展で活用させて頂く「作文・詩」は、昭和30年代から今日に至るまで、千葉市の国語教育部会の皆さんが営々と編集と刊行を継続していらっしゃる文集・詩集『ともしび』であります。そして、それら冊子の初期のものには、時代の変化を見つめる優れた作品が多くあることに気づかされます。近年のものと比較すればそれは歴然としております。昨今の作文に希薄となっているものこそが、児童生徒の「社会を見つめる視点」に他なりません。子供が現実の社会を如何にとらえ、それをどう思っているのか、そして自らが如何にそれに関わろうとしているのかといった児童生徒の姿が感じられないのです。しかし、そのことの原因を子供達に帰すことはできません。口幅ったい物言いで恐縮でありますが、国語教育のエキスパートであるべき教員の意識と指導の在り方に最も大きな要因が存する物と存じます。勿論、一概に国語科教員の問題ではなく、「言語活動」の在り方を問う観点から申せば、全教科における教師の指導の問題に敷衍できる問題でもありましょう。その点で、当方は教員の皆さんにこそ本特別展をご覧頂きたいのです。昨今の大人ですら驚くような鋭い視線を社会に向けております。当時の小中学生の記した作文が歴史史料としても優れていることは、延いては教員の指導の賜に他なりません。作文教育の在り方には、大正期の鈴木三重吉による「赤い鳥」運動、文学者の手から子供達を取り戻そうとの呼びかけの下で行われた「生活綴り方」運動(左翼的な指向性をもっておりましたので戦時下で徹底的に弾圧されます)等、様々な取り組みが行われて参りました。そのことを振り返る特別展でもあります。
詳細は、追ってお知らせ致しますが(本館ホームページ等)、特別展関連講演会も、高度経済成長期を様々な視点から切り取っていただこうと、「歴史学(埋立による社会の変化)」「自然誌(埋立による生物環境への影響)」「教育(作文指導の在り方)」の専門性の異なる三分野から、それぞれの講師の先生にお話しを頂くことになっております。特別展の内容につきましては、これ以降「本館ツイッター」「館長メッセージ」等々でもご紹介してまいりますので、是非ともお楽しみにされてください。勿論、図録販売も8月3日から開始致します。今回は、企画展「千葉市誕生」については言及できませんでしたが、追々とご紹介をさせていただきたいと存じます。
過日、活発な梅雨前線の大雨のなか、関東近県でも大きな自然災害が引き起こされました。中でも温泉保養地として知られる伊豆半島の熱海での土石流被害は、誰もが忘れることのできない大きな記憶として残り続けることでしょう。何よりも自然災害によって生命を奪われた方とそのご家族・親類の皆様の悲しさと悔しさは想像に余りあります。それにしましても、以前にはそうではなかったかと思いますが、この時節に毎年のように繰り返される大雨・台風による大きな自然災害によって、尊い生命が失われていることに心を痛めることが多くなりました。一昨年の九州豪雨、房総の台風被害、長野県での千曲川の大規模な水害も忘れてはなりません。その前は広島市を中心とした瀬戸内での豪雨被害も発生しました。地震等の自然災害が発生することに我々人間は抗うことはできませんが、こうした自然災害は地球の温暖化等を含む人間の活動に由来する側面が大きいものと、素人ながらに思ったりもいたします。また、理不尽にも事故で生命を奪われた八街市の小学生の報道も遣り切れない思いで一杯でした。そして、就中、コロナ禍の現在も、日本に限らず世界中で驚くような数の生命が危機に晒されております。勿論、日本とて他山の石ではありません。デルタ株の流入を兎も角も水際で防止せねばなりますまい。希望をもって生きて来られた方の生命が突然に断ち切られることの理不尽さに思いを馳せれば、還暦を過ぎた自分自身の「生命」、そして人として「生きる」ことの何たるかに想いを及ぼさざるを得なくなります。今回は、このような話題とさせていただこうと存じます。
20歳の頃に見て感動した『生きる』という映画作品があります。「世界のクロサワ」と称された黒沢明監督の作品で、昭和27年(1952)に公開されました。主人公は役所勤務の公務員。波風を立てずに日々を送れればよしとする、「事なかれ主義」の権化ともいえる役人でした。そんな人物が、ある時を境に、住民から訴えのあった困難な地域改善事業に邁進する人物に様変わりしたのですから周囲は驚きます。彼を変えたもの、それは余命宣告を受けるほどの重い病でした。主人公は余命宣告を受けた後、これまで脚を踏み入れたこともないようなところへも出かけ、現実逃避することで死の重圧から逃れようとするのです。しかし、かえって虚しさは増すばかりでした。そうした煩悶の中で、主人公が選び取ったことが、現実の社会問題から目を背けることなく、全身全霊を傾注して課題解決と向き合い、他人のために「生きよう」とすることでした。その藻掻き苦しみながら真剣に住民のために「生きよう」とする姿は、彼が死病に取りつかれたことなど知らない同僚からは奇異の目で迎えられます。しかし、主人公は住民達から心から慕われることとなのです。そして、雪の散る中、ついに重責を成し遂げた、地域改善事業の象徴である公園のブランコに一人揺られながら息を引き取ります。その時、主人公が呟くように歌う「ゴンドラの歌(♪命短し、恋せよ乙女・・・)」に、涙なしに接することができる人などおりますまい。定年退職を間近にした主人公が、死を目前にした短い時間、人として「真に価値ある生を送ろう」とした姿に、心底打たれたことが昨日のようです。主人公は如何なる気持ちで死を迎えたのでしょうか。おそらくは、大切な何かをこの世で成し遂げた充足感をもって逝かれたと信じたいところであります。決して「なんの価値のない一生だった」との想いはなかったのではないでしょうか。しかし、黒沢は、映画の最後で、主人公のいなくなった職場で、「事なかれ主義」が百年一日のように繰り返される冷酷なる現実を提示し、この物語を単なる“美談”として終わらせていません。流石にクロサワと思わされます。
もう一つの『生きる』。それは天才詩人谷川俊太郎の詩作品です。教科書に掲載されていたと聞いたこともありますので、授業で眼にされた方も多いのではないでしょうか。谷川は昭和6年(1931)の御生まれですので、本年はおそらく卒寿(数えで90歳)を迎えるのではありますまいか。現在も極めてお元気で、旺盛な仕事を続けていらっしゃいます。著作権の問題もあり全文引用はできませんが、最初と最後のパラグラフを以下に引用させていただきます。是非とも全文に接していただきたいと思う次第でございます。
生 き る |
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生きているということ (以後4パラグラフ略) |
生きているということ 谷川 俊太郎 |
作品は周囲にある何気ない存在の羅列のように見えますが、生命維持に関わる内容が注意深く選ばれているように思います。それら一つひとつから、生きることの慶びと掛け替えのない生命の存在とが、穏やかにしかし力強く湧き上がってくるようです。この感覚は、この作品に初めて接したときから変わることがありません。
以上ご紹介した、2つの『生きる』の扱う世界は対照的でありながらも、その世界観は共通しています。価値ある生を生み出す源泉は、有限である人生とその不可逆性への自覚であり、外界の何物かを感じとり、それを内界における慶びや意思に変換する力に他ならないことだと、私は考えるのです。
話題は一転しますが、上記と必ずしも無関係なことではございませんので、もう少しお付き合いくださいませ。21世紀も早いもので5分の1が経過しようとしておりますが、たかが20年間の社会の激変たるや驚くべきものです。私のようなロートルには到底ついていくこともできません。もっとも飽くまでも個人的な思いにすぎませんが、私自身は例えば現在も所謂“ガラケー”を用いておりますが、不便に思うことはサラサラございません。電話とメールができればその他の機能は何一つ必要ありませんので、現段階でスマホに乗り換える気もございません。自家用車もこれまで購入してきた自動車は全て3ペダルのマニュアルトランスミッションです。オートマだから高齢者の自動車事故も増えるのだと思いますし、そもそも状況を的確に判断して適切なギアを選択して操る楽しさを味わうことができるのはマニュアルしかできないことです。つまり、正確に申せば、新たな技術に何から何まで適応する必要性も感じておりません。しかし、この時代に生まれ育った子どもたちにとっては、当方のような呑気なことは言ってはおれません。そして、その激変は今後更に加速化するものと思われます。IT技術やAI技術の進歩と、それに伴う社会のグローバル化は、良きにつけ悪しきにつけ、人間社会そのものをドラスティックに変貌させていくことでしょう。そしてコロナ禍の現実もそれに拍車をかけることとなりましょう。近未来の社会について、欧米の学者達が示す変貌予測は正に衝撃的なものです。
・「近い将来、10人中9人は,今とは違う仕事をしている。」(米:ラリー・ペイジ) ・「20年以内に、今の仕事の47%は機械が行う。」(英:マイケル・オズボーン) ・「2011年入学児童の就職先の65%は、現在は存在しない職業」(米:キャシー・デビットソン) |
これは凡そ10年前の言説であり、今振り返れば、流石にここまでのスピード感はないかとも思われます。しかし、それほどまでの社会の変貌が着々と進行していることは認めざるを得ますまい。自動車メーカーですら近い将来にガソリン車を全廃する方向性をとろうとしております(ポルシェやフェラーリといったスポーツカーメーカーでもそうです)。自動車関連でもう一つ例示すれば、自動運転が軌道に乗れば、確かに「運転手」という職は必要性なくなることになりましょう。今の児童生徒がこれから「生きる」時代は、かくまでもドラスティックに変わってゆく可能性が大きいのです。
このことは同時に、我々大人がこれまで集積してきた常識が通用しなくなることをも意味します。「御爺さん・御婆さんの頃は……」といった経験則は言うまでもなく、「お父さん・お母さんの頃は……」ですら通用しなくなる時代になるのだと考えておくべきかと存じます。進路選択で申せば、より偏差値の高い学校へ進学すれば将来は安泰という公式は過去のモノになる可能性が大きいのです。既存の知識・経験だけでは物事に対処できない時代。進学した学校よりも、そこでどのような力を身に付けたかが問われる時代が到来することは確実です。いや、現実の社会では、既にそうしたシフトになりつつありましょう。人生への明確なヴィジョンをもつこと、変わりゆく社会に対応できる柔軟な思考、新たなことを学ぼうとする能動的な姿勢、初対面の人とも適切に協働できるコミュニケーション力等々、より広範な「基礎的・汎用的能力」を身につけることが求められているのです。
ただし、重要な前提を忘れてはならないと思います。その基礎となるべきは「人としての在り方」を重視することであろうかと存じます。人として如何にあることが望ましいのか、企業活動が社会と如何なる関係性を取り結ぶのか、といった理想・理念を欠いて機械的に行われてしまえば、それは単なる効率主義と利益第一主義と堕し、結果として貧富の差の拡大した分断社会を生み出すだけでしょう。その結果が、ポピュリズムの負の側面に端的に顕現していると思います(歴史的にはプラスの側面を有した事実があることを見落とすべきではありませんが)。それでは、未来を担う子どもを育む教育は如何にあるべきでしょうか。
それこそが、所謂「キャリア教育」なのだと思います。単なる「学校選び」「仕事選び」のみに陥り勝ちであった「進路教育」からの脱却が急務になっているのです。これには、理想と現実とは違うという声が聞こえてきそうです。確かに,従来その指摘に頷かざるを得ない実態がありましたが、必ずしも順調に進んでいるとは言いかねますが、政府は高校授業改革・大学入試改革にメスを入れはじめております。所謂「出口改革」です。高校教育も必然的に変化せざるを得ますまい。高校に勤務する教え子からも対策に日々追われていると聞きます。こうした変貌する社会を生き抜く力としての「広範な基礎的・汎用的能力」は、何か特別な手立てにより獲得するものかと問われれば、私は左にあらずと思う次第でございます。極々一般的に行われている学校行事や生徒会活動や部活動といった日常の活動、日々の授業で充分に身につけることのできるものです。ただ、その場にいる「お客さん」意識からは決して習得できないこと。自ら主体的に参画する意識を持って行動することが決定的要件となりましょう。これらは、諸活動・学習に能動的に参画することで身につく力なのです。つまり、キャリア教育とは何も特別な教育ではなく、学校における教育活動そのものに他ならないと考えます。
人生は一度きりです。大きく変貌するこれからの社会を、主体性をもって「生きる」ことによって、子どもたち一人ひとりが意義ある幸福な人生を獲得してくれることを願います。その実現のためには、我々大人が同じ土俵にたち、子ども達の「広範な基礎的・汎用的能力」を育成することが、重要になってきているのだと思います。我々のような博物館でもそのことを強く意識していかざるを得ませんし、教育普及事業の根幹に据えることだと考える次第でございます。そして、その前提は、予期せぬ病気や事故による生命の喪失、希望を持てずに自死を選択する人々を生み出さない、社会のシステム、セイフティーネットをつくりあげることだとも存じます。不慮の事故や疾病により、希望にあふれた「生きる」ことを中断させてはなりません。その大きな役割を担うのが我々のような公的機関なのだと思います。そうした理念をもった政府・自治体であることが今後更に強く求められて参りましょう。
過日、非番の日であることを幸い、本年2月にBSフジで放送され録画しておいた標記「時代劇」作品を視聴に及び大いに感銘を受けました。何よりも久方ぶりに接することのできた極めて良質の時代劇に、その世界が脈々と息づいていることに喜びを感じた次第であります。しかし、反面で、客観的に考えて決して明るいとは言えない「時代劇」の未来を思わざるを得なかったのも実際でございます。今回はかような「時代劇」について話題とさせていただきます。
まず、今回視聴した表題作品について御紹介をさせていただきます。タイトルからもお分かりの通り、フジテレビで放映されていた時代劇シリーズ『鬼平犯科帳』の外伝という位置づけの作品となります(従って“鬼平”こと長谷川平蔵は登場しません)。平成25年(2013)に制作され、有料時代劇チャンネルにて単発で放送されたものです。監督は井上昭(1928年生、時代劇制作で最も王道路線として知られた「大映京都撮影所」で鍛えられた大ベテラン)、脚本は金子成人(1949年生、倉本聰の門下の脚本家)の手になる作品です。当年にギャラクシー賞テレビ部門11月月間賞、第3回衛星放送協会オリジナル番組アワード最優秀賞を受賞しております。当方はそれから8年後にBSフジで放送された本作を録画したものを最近になって視聴に及んだということになります。
テレビ時代劇としての『鬼平犯科帳』は、申すまでもなく、池波正太郎(1923~1990)によって昭和51年(1968)から死による中断(未完の「誘拐」)まで、営々と描き継がれた合計135編(他に番外編あり)の同タイトルの作品群を原作として制作された「時代劇」に他なりません。原作は新潮文庫で容易に手に入ります(全24巻+別館1巻)。池波作品としては、『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』等と並ぶ大ベストセラー作であり、今更当方がこの場で言を弄する必要はございますまい。江戸中期に幕府の火付盗賊改を勤めた実在の旗本長谷川平蔵宣以(のぶため)(1745~1795)が、信頼関係のある密偵を使って暗躍する盗賊集団を捕縛する快刀乱麻の活躍を描く物語作品であります(勿論、物語そのものは史実ではありません)。当方も原作は全て読んでおりますが、時たま読み返したくなる作品であります。
そして、原作を映像化したテレビ時代劇の話となりますが、何よりも驚くべきことは、その出来栄えが原作と遜色ないばかりか、それを遙かに凌駕する高みに達しているケースが間々みられることです。勿論、それは一重に原作の出来に由来することでありますが、プロデユーサーを筆頭とし、照明・小道具等の裏方まで含めた時代劇制作スタッフ陣の層の厚さ(「松竹京都撮影所」)、そして配役の妙によるものと考えます。私が改めて申しあげるまでもないと存じますが、そんじょそこらのお手軽時代劇とは格が違います。また、比較的に良質な時代劇の多いNHK作品をも凌駕する、力の入った作品群に仕上がっていると思います。『鬼平犯科帳』としてテレビ時代劇で長谷川平蔵を演じたのは、古い方から8代目松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之介となりますが、私にとっての“鬼平”とは、その後を引き継ぎ、平成元年(1989)から平成28年(2016)までの27年間にわたり9シリーズ合計138作、スペシャル版等含めれば150作を数える作品で主役を張った2代目中村吉右衛門以外には考えられません。何より歌舞伎俳優としての吉右衛門の存在感は他の追随を許しません。余人をもって代え難き存在です。因みに、彼は初代鬼平である幸四郎の子息でありますので、親子で鬼平を演じたことになります。その吉右衛門は今でも本職である歌舞伎の舞台には立ちますが、残念ながら平成という時代の終焉を間近にして、鬼平からきっぱりと脚を洗われました。
テレビ時代劇『鬼平犯科帳』のドラマトゥルギーの核心となるのが、盗人や周辺の人々との間に描かれる、平蔵の酸いも甘いも噛分けた人間味あふれる遣り取りと、そして悪に立ち向かう鬼気迫る鬼平の凛々しさ、その太刀姿の美しさにあると言ってよいと思います。自分自身、本作を視て何度目頭を熱くしたか知れません。そして、背景となる江戸の街の描きこみも、他時代劇の追随を許しません。飽くまでも物語ですから、史実と照らしてすべて正しいわけではありませんし、そのことをとやかくいうべきではありません。しかし、本作は如何にも江戸時代らしく見せる「様式美」において他時代劇からは一頭地抜きんでていると思います。
その後、シリーズとしての鬼平は作成されず、「外伝」の形でスペシャル版が偶さか制作されるのみとなりました。しかし、飽くまでも外伝でありますから、もう男が見ても惚れ惚れするようなあの吉右衛門演じる新作の鬼平を目にすることは叶いません。吉右衛門の脇を固めた練達の役者陣の多くも既に物故されております。最早あの総合芸術とも称すべき時代劇の傑作の再現は難しかろうと存じます。しかし、吉右衛門がおらずとも、鬼平スタッフの創り上げる時代劇は、感銘深き名作ばかりであります。今回取り上げる『正月四日の客』も例外ではありません。こちらの原作は、同じく池波の筆になる『にっぽん怪盗伝』(角川文庫)に収録された短編作品であります。粗筋は以下のようなものであります。
本所・枕橋にある小さな蕎麦屋「さなだや」は、亭主のうつ蕎麦と、女房のおこうの客あしらいのうまさで客を呼んでいた。この店は、亭主の決めた習わしで正月四日には「さなだ蕎麦」だけを出していた。すりおろしたねずみ大根の汁を蕎麦つゆに入れて食べるのが「さなだ蕎麦」だった。亭主が育った信州の地元では冬のこの時期にはよく食べられているというが、ねずみ大根のあまりの辛さに常連客は閉口し、正月四日に「さなだや」を訪ねる客はもう何年もいなかった。 そんな男が来るのを亭主は心待ちするようになっていた。ある年の秋、おこうが病であっという間に亡くなった。気落ちした亭主は店じまいも考えたが、常連客から励まされ、なんとか店を続けることにした。 正月に現れた男は、おこうの位牌に線香をあげていった。ある寒い日、亭主は亀の小五朗という大泥棒の話を耳にする。岡っ引きの清蔵によると、小五朗は腕に亀の小さな入れ墨を入れているのだとか。亭主はどきりとした。男が位牌に線香をあげてくれた時、その右腕に入れ墨があるのを眼にしていた。
(ウィキペディアより引用させて頂きました) |
「亀の小五朗」演じる松平健と、「さなだや」店主演じる柄本明の重厚な演技は言うまでもなく、池波の原作以上に両者の人間ドラマに迫った金子成人の手になる脚本の素晴らしさ、かつて時代劇制作の正に王道を歩んだ大映京都撮影所で溝口健二らに鍛えられた老監督:井上昭(1928生)による緻密な映像美が本作の感銘を深くしております。原作と比べて、映像作品は「さなだや」亭主の生い立ちと過酷な運命(トラウマ)を相当に稠密に描き込んでおります。併せて、盗賊「亀の小五朗」のそれも。単純な勧善懲悪に堕することなく、如何ともし難い運命に翻弄されてきた二人の出会いと、心の交流、それがために真実を知った後の亭主の葛藤が、心憎いまでに美しい背景のなかで紡がれていくのです。そして、ドラマの末尾で火付盗賊改方に捕縛される「亀の小五朗」の描き方も映像作品の一日の長があります。原作における伝法な姿を廃し、盗賊自身の過去への向き合いと、亭主の心の迷いという、二者それぞれの揺れ動く情念を丹念に掬いあげて描き込んでおります。そのために、視聴後の余韻がいつまでも内面に響いて居る感じを持ちます。これぞ、時代劇を視る喜びでございましょう。同じ題材を現代劇で描こうとすれば、リアル感を出そうと、自ずと遙かに凄惨さを強調せざるを得なくなるでしょう。そして、こんなことはあり得ないとの違和感を抱かれることとなりましょう。しかし、時代劇ではそうは見えないのです。ずっと昔の世界を舞台にしていることにより、主題の純粋さ(それは一歩間違うと嘘臭さに転じる可能性の高いモノであります)を際だたせることができるからだと思うのです。従って、時代劇とは歴史的事実を表現するドラマではないのだと思います。よく「こんな事は、江戸時代には無かった」「歴史的考証に難あり」と論う向きがございますが、それをとやかく言っていてはドラマトゥルギーに心揺らすことは叶いません。江戸言葉であれば「野暮の骨頂」ということになりましょうか。ドラマは学問とイコールではありません。「時代劇・映画史研究家」の肩書きを持つ春日太一が、先日の千葉日報紙面で語っていた談話は、正に「時代劇とは何か」についての正鵠を射ていると内容かと存じますので、以下に引用しておきます。
時代劇は「再現」(※舞台となる時代像の再現)ではなく、現代人が「こうならいいな」と創作したファンタジー。だから実際の江戸よりも背景の情感は豊かで、多彩な神社仏閣や山河を擁する京都で撮影されてきました。(※は当方に依ります) |
鬼平以外に、もうひとつ、当方が愛して止まない傑作時代劇シリーズがございます。それが、同じフジテレビ系列で放送されていた、時代劇制作の王道を行った大映京都撮影所閉鎖後に、その時代劇スタッフがつくった制作チーム「映像京都」制作にかかる『御家人斬九郎』(1995~2002)であります(原作は柴田錬三郎原作による)。残念ながら「映像京都」は後編でも述べますように、2010年に解散を余儀なくされております。貧乏御家人であるものの、血筋だけは由緒正しく(しかし決して「三葉葵」の紋所をひけらかすことはありません)、滅法剣の腕の立つ御家人「松平残九郎家正」演じる渡辺謙の硬軟を使い分ける人間性の表現、辰巳芸者の蔦吉を演じる若村麻由美の艶やかな姿。まずは、この2人の存在そのものが本作を極めて魅力的な作品としております。特に若村の芸者姿は本当に惚れ惚れする美しさで、ホンモノの芸者さんから日本舞踊の素晴らしさを誉め称えられた程の技量には、物語をついつい忘れて見とれてしまうほどです。兎にも角にも、蔦吉姐さんの美しさは際だっております。今では、ここまで着物を着こなして所作のできる女優はそうはおりますまい。おきゃんでありながら人情にも厚い、正に理想の辰巳芸者を体現させた役どころであります。その他の周囲を固める俳優陣もこれはと思う人ばかり。その代表が残九郎の老母を演じる岸田今日子であります。母親の旺盛な美食を支える必要からも、残九郎は内々の犯罪人の処理人(斬首担当者)という裏稼業(片手業)を持たざるを得ない境遇にあり(それが“斬九郎”と称される所以となっております)、そのことを巡る我儘な母親(麻佐女)と息子残九郎とのウィットに富んだ軽妙な遣り取りは秀逸であります。救いがたいほどに重たい内容を扱った作品であっても、その陰惨さを中和してくれております。他のレギュラー陣の配役もきっちりとキャラが立っており、決してユーモアのセンスも欠かすことなく、しみじみとした人間ドラマとしても成立する、時代劇の傑作だと考える次第でございます。同じ柴田錬三郎原作で無類の剣豪を描く『眠狂四郎』(円月殺法!!)と対比され、斬九郎が「陽気な狂四郎」とも称される由縁であります。しかし、再放送はされるものの、未だにDVD等のソフト化がされておりません。何らかの権利関係等で引っ掛かっているのかもしれませんが、本当に残念です。是非ともソフト化を切望いたします。是非とも手元に置いて繰り返し視たい作品群なのです。5シリーズ全50話であり、一つとしてハズレがないのも驚異的であります。何れの作品もハイレベルに仕上がり見応えがあります。こんな時代劇を制作したグループ「映像京都」が消滅の憂き目に逢うとは途轍もない損失に他なりません。まさに“時代劇文化”の消滅を象徴する出来事だと思います。
前編では、表題作について縷々述べて参りましたが、ここで何を今更の質問をさせていただきます。皆さんは所謂「時代劇」なるジャンルのテレビドラマにご興味がございましょうか。何をもって「時代劇」というのかと問われても正式な定義があるわけではありません。現代・未来を題材にしたドラマ以外は総じて「時代劇」と称するのが道理でありましょうが、一般には明治から遡った時代を描いた作品、云わば“お侍さん”の登場する、(シリーズ物であれ)基本的に一話完結となる作品が「時代劇」と認識されておりましょう。当方もそれでよろしいかと存じます。もっとも、戦国時代に自衛隊がタイムスリップして戦国大名と戦闘する作品は云わば「SF」であって、「時代劇」のジャンルからは外れましょう。
まぁ、堅苦しいことは抜きにしても、今や「時代劇」と名が付く番組であれば必ず視聴に及ぶという方は極々稀であるように思われます。「絶対に善が勝って悪は滅びるというマンネリのドラマだろう!?」「どうせ中身のない“チャンバラ劇”なんだろう!?」といった冷めた見方をされる方も多かろうと存じます。まぁ、そういわれても致し方がない作品もありますので全否定は致しません。しかし、「時代劇」は前編で具体例をお示ししましたように、決して“痛快活劇”や“単純な勧善懲悪”に止まらぬ、現代ドラマでは描くことのできない、この世の奥深い人間ドラマを描くことのできるコンテンツだと思っております。しかし、そもそも論として、昨今のテレビ欄を見回してみても、地上波・衛星波ともに新作の時代劇枠など一向に見あたりません。あるのは、昔日の制作にかかる作品の再放送ばかりです。もっとも、質の高い時代劇が再放送の機会に恵まれますから、何度視ても感銘を受ける次第であります。しかし、NHKの「大河ドラマ」や偶に何回かのシリーズとしてNHKが制作される以外に、民放にて新作時代劇に接することのできない状況は、私の子供の頃には決してありえないことでした。
自分自身を振り返ると、高度経済成長期に子供時代を過ごした子供の頃、布で覆われて茶の間に鎮座ましましていたテレビ受像器を前に、祖父母らが視聴する番組と申せば、それは専ら「時代劇」でありました。そして、その選択肢は多岐にわたり、何れのチャンネルでも時代劇は選り取り見取りの状態であったと記憶しております。従って、組織だった視聴の仕方は全くしておりませんし、時代劇について何か語ることのできるほどの知識も力量もありません。ただ、門前の小僧宜しく多少の知見はございますし、愛着は深いものがあります。以下は、「ミミズの戯言」と聞き流していただければと存じます。
幼少期に最も接する機会の多かったのは、御多分に漏れず、当時は国民番組とも目されていた東野英治郎演ずる『水戸黄門』になりましょう。同局で同時間帯に放送されていた加藤剛演じる『大岡越前』、中村梅之介や松方弘樹で知られた『遠山の金さん』といった所謂江戸町奉行を主人公とした作品群。大川橋蔵の当たり役で、子供心にも格好いいなと思わせる粋で鯔背な十手持(岡っ引き)を描いた『銭形平次』のような所謂「捕物帖」等々、ざっくりジャンル分けすれば勧善懲悪をテーマとした、子供であってもわかりやすい時代劇定番の作品群には大いにお世話になりました。一方で、少し年嵩となると、流石に単純な勧善懲悪には飽き足らなくなります。少々年嵩になってからその魅力を知ったのが、所謂アウトロー世界を描いた数々の作品群でありました。勝新太郎以外に演じることなど想像できない盲目の剣豪を主人公とした『座頭市』(子供心にも太刀捌きのもの凄さが伝わりました)、「あっしには関わりないことでござんす」の名台詞でお馴染み、中村敦夫演じるニヒルな渡世人の飄々とした生き様と上條恒彦の唄う主題歌『誰かが風の中で』(小室等作)にて忘れ難き『木枯らし紋次郎』、藤田まことの当たり役『必殺』シリーズも、先日惜しまれつつご逝去された田村正和のイメージが強烈な『眠狂四郎』(片岡孝夫の方が長く演じておりますが)もこのジャンルに入りましょうか。もっとも、これらアウトロー路線の作品も「悪が栄える」ことを良しとする作品ではありませんので、広義には“勧善懲悪”モノといっても宜しいのかもしれません。
何れにしましても、当方の少年期にはテレビの画面は、時代劇の花盛りであったと記憶しております。正直に申し上げて、自分自身としては、現代ドラマよりも圧倒的に好みでした。そもそも、当時の現代ドラマを挙げてみろと言われても、一つとして思い浮かばない程です。その他、NHK『大河ドラマ』を「時代劇」といって宜しいかはわかりませんが(「歴史ドラマ」というのが正確かと存じますが)、それにも大いにお世話になりました。幼少時代に見ていた大河ドラマを通じて、歴史好きになったと言っても過言ではありません。かような訳で、幼少時代のテレビ番組の記憶と言えば、時代劇を除けば、専ら特撮作品(「ウルトラマン」シリーズ・「サンダーバード」)、アニメ(「エイトマン」・「オバケのQ太郎」・「鉄腕アトム」・「ジャングル大帝レオ」等々)、子供向け人形劇・ドラマ(「ひょっこりひょうたん島」、「悪魔くん」等々)、あるいは、今でいうワイドショー的な「おはよう!こどもショー」(“ロバくん”・“ガマ親分”は忘れ難きキャラクターであります)等々の、所謂“子供向け番組”の他には殆ど記憶にすら残っておりません。
その後、自分自身が青年期に入ると、自然に「時代劇」からは遠ざかっていきましたが、NHKの大河ドラマくらいは視ておりました。しかし、それも内容が時代衣装コスチュームによる“ホームドラマ”的作風になった時期に、その世界とのお付き合いも絶えてしまいました。しかし、時代劇に惹かれる意識はずっと底流を流れ続けており、前編で申しあげたような優れた作品群に触れることを喜びとして参りました。しかし、昨今は、こうした優れた作品ですら滅多に制作されることもありません。放送局もボランティアで経営している訳ではありませんので、人気がなければ制作されなくなるのも致し方がないのかもしれません。特に民放では、どちらかと言えば高齢者に人気のある時代劇をスポンサーが敬遠すると言った事情もございましょう。しかし、CS放送では時代劇専門チャンネルなどもあり、そこそこの人気を集めていると聞きます。つまりは、決して需要が途絶えたわけではないのです。そして、これまた前編で述べましたように、時代劇だからこそ表現できる表現世界というのがあると思うのです。これを絶やしてしまうのは如何にも残念であります。しかし、春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』2014年(新潮新書)に接し、時代劇制作の実態は思いの他に深刻であることを知ることになりました。本書は相当に売れたと耳にしましたので、皆様の中にもお読みになられたかたがいらっしゃいましょう。
本書によれば、時代劇の全盛は1950年代であり、当方が盛んにテレビで接していた1960年代は下り坂に向かう時期に当たっていたとのことです。もっとも、1950年代は娯楽の殿堂は映画であったので、時代劇そのものも映画作品として人気を博していたのです。しかし、春日は、1960年に168本製作されていた時代劇が、2年後には77本に急減し、更に5年後の1967年には15本にまで落ち込んでいることを指摘されております。これがよく言われる、1964年の「東京五輪」を起爆剤としてテレビが急速に普及したこととリンクする動向であることは一目瞭然でありましょう。つまり、時代劇に限らず、映画産業自体が斜陽となる時代に当たっているものと思われます。当然、これまで銀幕でしか出会えなかった時代劇の大看板や、ゴジラ等の怪獣の主戦場がテレビ画面へと移行していく時期となるのです。1960年代後半から1970年代は、映画時代劇の製作システムが、テレビ時代劇制作システムに大々的に吸収されていく時代だったということのようです。それが、当方が子供の頃のことであり、テレビ時代劇が花盛りであった背景ともなっていたのでした。つまり、表面的には時代劇の衰退などは微塵も感じさせなかった訳であります。
その後は、フジテレビ系列の『鬼平犯科帳』等のヒット作が出たこともあり、辛うじて「時代劇」はテレビで命脈を繋いでいましたが、21世紀に入ると、状況は一気に暗転していきます。制作コストが現代ドラマと比較にならない程の掛かるわりに、爆発的な視聴率を獲得できない時代劇がリストラの対象にされていきます。つまり、テレビの世界では、時代劇がコストパフォーマンスの低い「お荷物」とみなされて行くのです。平成14年(2003)、フジテレビでのレギュラー枠の消滅、唯一孤塁を護っていたTBS『水戸黄門』も平成23年(2011)終了。テレビ画面からレギュラー枠としての時代劇が絶滅する憂き目にあうのです。以降は、ジャニーズ等に所属する人気若手俳優を起用して視聴率を稼ごうとする、所謂スペシャル枠の時代劇が年に数度制作されるのみの状況となります。年に数カ月しか仕事が舞い込んでこなければ、そもそも、時代劇製作スタッフの生活が成り立たなくなります。大映撮影所の由緒を受け継ぐ時代劇制作の名門「映像京都」が平成22年(2010)に解散に追い込まれたことは、正に時代劇衰退を象徴する出来事であったと思われます。しかも人気若手俳優は、時代劇の中で揉まれてきたわけではありません。着物を着て歩く姿も全く様になっておらず、悲しいかな見るのが嫌になるほどです。
春日氏の手になる『なぜ時代劇は滅びるのか』は、時代劇衰退の理由を事細かに分析されており、大変に納得のいく内容となっております。そして、その事情の深刻さに胸を締め付けられるように思います。問題は、時代劇という特別なジャンルを制作する「伝統芸能」の消滅といっても過言ではありますまい。例えば、歌舞伎や能楽の伝統が消滅する危機になれば、政府(文化庁)は血眼になってその育成を補助しましょう。しかし、時代劇にまではそのような配慮はなされぬままに、今貴重な伝統文化が絶えようとしているのだという冷厳なる現実を、少なくとも私たちは認識しておく必要があると思うのです。これ以降は、是非とも本書をお読みいただければと存じます。春日氏は、本書の他にも時代劇の素晴らしさを伝える諸々の書物を上梓されており、当方も大いに楽しみに拝読をさせていただいております。今真っ先にすべきことは、何にも増して、質の高い時代劇を視聴することを通じて支援することしかないと思われます。愛する時代劇存亡の危機に抗い、地道に応援をし続けていく所存であります。それが、子どもの頃からお世話になってきた多様なる表現を可能とするジャンルとしての「時代劇」への恩返しと心得ております。「時代劇よ 永遠なれ!!」
熱海市における悲劇的な土石流被害等の傷跡を残し、本年の梅雨も過ぎ去りました。今では、梅雨であったことが嘘のようにギラギラとした陽光が地面を焦がしております。それにしましても、梅雨と言えば、専らしとしとと雨が続くといったイメージもどこへやら、昨今では驚くようなゲリラ豪雨襲来が恒例となったように思います。しかし、熱海市の場合をみれば明らかなように、被害をより甚大なものへと後押ししたのは、雨という自然現象の要因以上に、不適切な残土処理場の現実であり、これらは言ってみれば人災といっても過言ではありますまい。適切に処理されていれば、少なくとも、ここまでの被害には至らなかった可能性が高いものと思われます。
今回の被害と直接に関連しているのかどうかは判然とはいたしませんが、熱海市の土石流の発端となった谷の両側の尾根に沿って、営々と「太陽光発電」用と思われるソーラーパネルが設置されていたことも気になりました。「脱炭素社会」へ向けて、化石燃料に頼らないエネルギー供給源としての太陽光発電が推奨されており、それに対する補助金や助成のためのシステムが構築されております。それ自体には何の問題もありません。しかし、現実にはその設置が、大規模な森林破壊につながっていることをご存知でしょうか。助成による収入を当て込んで、途轍もないペースでソーラーパネル設置が行われております。事業者側としては、発電すれば必ず買い取ってもらえること、更には一定程度の面積以内の設置であれば許認可を得ないで設置が可能となることから、小規模な開発が、あちらこちらと無秩序に行われている現状があります。つまり、里山に限らず、結構な山奥であってもが森林があっという間に伐採されて更地になり、そこにソーラーパネルが大々的に設置されるのですから、これが深刻な自然破壊に直結しているのです。森林が国土の土壌の確保と保水に果たす重大な機能を負っていることを改めて強く認識すべきです。それを軽んじたツケが大規模土石流等発生を助長していることは覚えておくべきかと存じます。都市にて家屋の屋根にソーラーパネルを設置するのとは訳が違うのです。私自身は、そうした方向性(今後新築される戸建や集合住宅の屋根にソーラーパネル設置を義務付ける)を模索すべきではないかと考えております。少なくとも自宅で利用する電力は自給するといった方向性こそが国民の当事者意識をも喚起することに繋がりましょう。皆様は如何お考えでしょうか。
さて、閑話休題。本年度が「千葉市制施行100周年」であることに因んだ、令和3年度特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』が、いよいよ来週8月3日(火曜日)より幕を開けます。以前から何度かそのあらましについて触れて参りましたが、高度経済成長期の千葉市は、海岸部の埋立て、工業化の進展、大規模団地の造成などにより街の様子が大きく変貌しました。また、それに伴って家電の普及やレジャーの多様化等をつうじた生活スタイルの大幅な変化をもたらした時代でもあります。それは、「戦前と戦後」といった区分と比較にならないほどの、前後の国内社会のドラスティックな変化をも生み出したのです。そして、豊かな生活と引き換えに、公害の発生等の社会問題ももたらすことになりました。今回の特別展では、そのような「街と人々の生活の変化」について、当時の子どもたちが、その姿を最も大きく変えたこの時期をどのように見ていたのか、残されている作文や詩を手掛かりとして振り返ってみようという展示となります。現在の千葉市を形作った「高度経済成長期」の本市の様子を知ることのできる貴重な機会ですので、ぜひご覧いただきたいと存じます。
まず、以下に本特別展に寄せた館長の「はじめに」全文を以下に掲載させていただきましょう。上に記したことと被りますが、何事も趣旨が重要ですのでご拝読ください。
は じ め に
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本特別展で扱う時代は、正に現在を生きる皆様方にとっても記憶の範囲でございましょう。昭和34年(1959)この世に生を受けた当方にとっても、まさに幼少期から少年期にかけてが「高度成長期」と重なります。上記のような街や社会の変貌を、どちらかというと苦々しく思ってきた当方でありますが、当時の子供達の作文からも、私が子供であった時代に感じとった葛藤が色濃く表現されていることに驚かされます。思ってみれば、見慣れた目の前の景色がどんどんと変わっていくこと、子供達の遊び場が奪われていくこととが、自分たちの生活圏を大人たちに壊される危機として感じたことを、自分自身の経験からもよくよく理解できます。開発による正の側面よりも、どちらかというと負の側面に目が行くことも首肯できます。しかし、一方で、子供達の目は、変わりゆく未来へのかすかな希望とともに映っていることも見逃すことができません。さて、同時代を過ごされた皆さんは、その時代をどのようなものとして感じられたのでしょうか。恐らく、当時ご自分がどれ程の年齢であるかによって相当な違いがありましょう。今回の特別展は、高度成長期に小中学生であった子供達によって書かれた散文や詩を窓口にして時代像をとらえてみようとするものであります。今では、当方と同じ60代前後の世代が子供の頃のことになりましょう。「高度成長」によって千葉市が大きく様変わりしていった時代にタイムスリップすることで、再びご自分が当時抱いた思いを振り返ってみては如何でしょうか。
併せて、その時代を終えて生まれた方々、そして現在小中学生である皆さん、そして教育に携われる教職員の方々にも是非ともご覧いただきたく存じます。当時の子供たちが、時代の姿を如何にとらえて文章表現をしていたのかを知っていただくことで、現在の作文の指導の在り方を振り返ってみる機会ともしていただければと存じます。また、校外学習等を活用され、児童生徒の皆さんに本特別展を是非とも観覧する機会を設けていただければ幸いです。本年度、特別展を夏季休業中から始め、10月半ばまでの期間として設定させていただいた理由もそこにあります。明日は、引き続いて、本特別展の各章の内容、そして関連行事としての「歴史講座」について御紹介させていただきたいと存じます。 (後編に続く)
それでは、以下に、今回の特別展に関する全体構成、つまり「序章」と「1~4」各章の表題と内容概要について御紹介をさせていただきます。それぞれ、本特別展の担当である錦織和彦主査の執筆になります(展覧会場・図録の各章冒頭に掲載されている内容です)。極めて端的に各章毎の内容を纏めておりますので、事前にお読みいただいてから会場に脚をお運び頂けると、展示内容についてより深くご理解を頂けるものと存じます。
『ともしび』は、市内小中学校の児童生徒の文・詩・読書感想文集である。本誌は、各校の国語教諭などの関係者の不断の努力により発展を続け、昭和30年(1955)から発行された。また、特集号として創刊20周年を記念して昭和51年(1976)に『ともしびの子ら第1集』を、市制80周年を記念して平成14年(2002)『ともしびの子ら第2集』をそれぞれ発行している。 『ともしび』には、子ども達の感動や発見が収められている。高度経済成長下での様々な変化にさらされたこの時代の千葉市の様子と、そこに生きた人の姿を瑞々しい感性でとらえた作文や詩には、子ども達の日々の喜びや、悲しみ、希望、そして時には社会へのとまどいや反発などが活写されている。 このように、「子ども達の瞳を通して時代を写す鏡」となった本誌は、時代の貴重な資料集であるとともに、未来への遺産であるといえる。この意味で、『ともしび』は、本市の作文教育・国語教育の精華である。 本展はこの『ともしび』を基に高度経済成長期の本市の姿を紹介していくが、その序章として、『ともしび』と、発行当時の子ども達の姿を紹介するものとする。 |
戦後の千葉市はその市域を大きく拡大した、その背景として、昭和に入り千葉市は東京の近郊都市として次第に発展し、市域の拡大による都市形成の必要に迫られたことがあった。 『ともしび』には、海での遊びや埋立てに関する作文や詩が多い。戦前から観光地として愛された美しい海岸、海苔漁や貝漁など海と深く結びついた暮らしが失われつつあること、そのため海水浴や潮干狩りができないことへの悲しみをつづった作品が多いが、単純に喪失への悲哀を記録するのではなく、埋立地の発展にも言及した作文には、悲しみを相殺するため埋立後の未来へ向けた一抹の希望を感じることができる。また、千葉市との合併を経て開発が進む代償に破壊される自然を残したいとの思いも描かれている。 |
戦後の千葉市は復興への足がかりを、海岸埋立地への工場誘致や内陸工業地帯の造成に求めた。京葉臨海工業地帯誕生のきっかけとなった昭和28年(1953)6月の川崎製鉄千葉製鉄所1号高炉の運転開始や、翌29年(1954)の国際貿易港としての千葉港の正式開港、昭和34年(1959)の東京電力千葉発電所の開設、昭和39年(1964)の千葉食品コンビナートの発足など、海岸部での大規模工業化が展開されるとともに、昭和38年(1963)の千葉鉄工業団地の造成に代表されるように、内陸部でも旧軍用地を中心とした工業化などが進められた。このように、高度経済成長期の本市は、消費都市から生産都市への大転換を図った時期であった。 子ども達にとって工業化の進展はどこか遠い話題なのであろうか。『ともしび』に掲載された作文や詩はあまり多くはなかったが、それでも何点かの子ども達の詩文からは、大小様々な船が行きかうなど、国際港として発展する千葉港の情景と、港内の船との取引で生計を立てる一家の姿や、昼夜を分かたず稼働する川崎製鉄千葉工場の様子を記した文章から、当時のまちの姿やそこに暮らす人の姿を垣間見ることができた。 本章では、臨海部と内陸部における工場などの諸施設の設置、工場の設置に伴い地方から本市への転入してきた人々の姿を紹介する。 |
日本経済が史上まれな高度経済成長を続けた結果、大都市への人口集中の問題が顕在化した。東京に近接する千葉市も人口急増への対策が市政の重要課題となり、ベッドタウンとして大規模な住宅団地が次々と造成された。また、昭和40年代ごろには、人口の都市集中や自動車の増加により市内での交通渋滞が慢性化したことから、鉄道や高速道路などの公共交通機関の整備が重要課題となった。現在のJR千葉駅や京成千葉中央駅の位置変更、京葉道路などの道路網の整備がこの時期に行われている。また、この時期は小中学校の整備が最も進められた時期でもあった。 『ともしび』には、団地に暮らす子ども達による発展を続ける団地の様子や友達が増えることへの喜び、拡張する道路や、通勤ラッシュの様子を一歩引いた視点から眺めた詩などが見られた。当時は学校の増設が進むなか、通学する子どもとその親にとっても大きな関心事である交通事故について言及した作品もあった。 本章では、内陸部などでの団地造成や、国鉄・京成両千葉駅の移転や高速道路の延伸などの発展する交通網などについて紹介する。 |
高度経済成長期から人々の暮らしが急速に豊かになった。「三種の神器」と称されたテレビ・洗濯機・冷蔵庫などの電気器具の家庭への普及、マイカーブームに伴うレジャーの普及と多様化など、当時の日本人は生活面で大きな変化を経験した。一方、共働き家庭の増加と昭和40年代以降の核家族化の進行は社会問題としての「かぎっ子」を出現させた。 また、進展する工業化の弊害として、市民が光化学スモッグや工場排煙を原因とする喘息にかかるなどの公害に苦しむという発展の負の面を体験することとなり、その克服が市政の急務となった。一方、この時期は昭和39年(1964)の東京オリンピック、昭和48年(1973)の若潮国体といったスポーツの祭典が本市でも実施され、発展する千葉市を象徴する出来事として市民に記憶された。 子供達の身近な分野であるため、『ともしび』には当時の生活を記した文章を数多く見ることができる。ラジオのある生活、キャンプでカレーライスを楽しむ姿、当時数多くオープンした遊園地での一時、東京オリンピックの聖火リレーなどである。だが、『ともしび』にはこのような楽しい作品ばかりではない、「かぎっ子」の悲哀や、公害病の苦しみとその克服を信じる生徒の作品など、この時代の負の側面を記した作品にも目を向けなければならない。 本章では、高度経済成長期における日常生活に焦点を当て、当時の千葉市に暮らす人々の様子を紹介する。 |
以上、序章から第4章までの表題と各章概要をご紹介させていただきました。最後の最後には、子どもたちの詩をいくつかご紹介しエピローグとさせていただいております。そこからは、変わりゆく風景を目の当たりにした希望と不安との入り混じった想いと、併せていつまでも変わらないこと願う家族の絆へ願いとを読み取ることができるように思います。
併せて、特別展の関連行事として「歴史講座」を開催いたします。こちらにつきましては、過去20年近く千葉経済大学との共催イベントとして開催をさせていただいて参った事業でもございます。昨年度は、コロナ禍のために千葉経済大学での開催が叶わず、千葉県文化会館小ホールでの開催となりましたが、本年度は、少なくとも現状においては恒例の千葉経済大学での開催ができそうな気配であります。3回開催される講座の講師・講演タイトルにつきましては、以下の通りでございます。「高度成長期」を経済・社会史的にとらえるだけではなく、「東京湾の大規模な埋め立てが生物環境にもたらした影響」といった自然誌的な視点、これまで縷々述べて参りましたように「子供達の時代をとらえる目の育成」といった教育的側面から、それぞれ時代像に迫る内容として構成して御座います。
講演会につきましては、3回連続講座としての応募が条件となりますのでご承知おきください(各回毎の申し込みはいたしません)。なお、こちらは「千葉経済大学地域経済博物館」で開催される特別展『房総と海』(11月12日~2月5日)とも共催した事業ともなっております。3回目の講演につきましては、その会期とも重なりますので、講演に脚を運ばれた際に、是非とも「千葉経済大学地域経済博物館」で開催中の特別展もご覧いただければと存じます。
歴史講座「高度成長期の千葉を伝える」(全3回)
2. 10月16日「高度成長期の千葉市臨海開発」 3. 11月20日「東京湾の埋めたてと自然環境-その変遷と再生の試み-」 |
千葉経済大学地域経済博物館 【住 所】〒263-0021 千葉市稲毛区轟町3-59-5 |
最後になりますが、「千葉市制施行100周年」を記念して開催いたします今回の本館での特別展に是非とも脚をお運び頂けますよう本館職員一同お待ち申し上げております。勿論、コロナウイルス感染症の状況は日々刻々と移り変わっておりますので、今後のことは予断を許しませんが、現状においては非常事態宣言下の東京都であっても博物館等公共施設閉館の措置はとられておりません。従いまして、皆様におかれましては、くれぐれも感染防止等の自衛に努められた上でご観覧をいただけますよう、改めてお願い申し上げる次第でございます。
なお、特別展図録は1冊600円にて初日の8月2日(火曜日)より受付にて販売いたします。奮ってお買い求めください。
梅雨明け後の連日の猛暑に流石に音を上げております。過日、現在開催中の特別展関係ポスター・チラシを添付等のお願いする、所謂“営業活動”のため、「溝板選挙」ならぬ「溝板勧誘」を敢行して参りました。午下がりに市内の百貨店・ショッピングモール等を経巡り歩きましたが、流石に夏の日差しの強烈さに一瞬意識が遠のく程でした。個人的には、早く嵐が過ぎ去って欲しいとしか思えなくなった五輪ではありますが、選手の皆さんが、かくも過酷なる環境の下で熱戦を繰り広げざるを得なくなっていることを、誠にもって心苦しく思う次第でございます。真夏の五輪開催にはアメリカ国内の諸都合が勘案されたことが要因と聞いております。しかし、1年延期したのですから、今更ながらではございますが、コロナの感染拡大の中での開催の是非はさておき、せめて実施時期を再検討すべきだったのではないかと改めて思います。鍛えられた選手ですら、この気温・湿度の下でベストを尽くせるとは到底思うことができません。実際に海外の選手達からのクレームも数多あると耳にします。宜なるかな。更には、専門家の予想通りの感染者の急増、そして東日本への台風上陸等々、まさに踏んだり蹴ったりの五輪の現況ではないかと思う次第であります。ここで、一言苦言を呈しておきたいと存じますが、テレビ等の公共放送において、コロナ感染状況や台風の情報が、五輪中継を優先する番組編成の影響で二の次にされているように感じます。流石に、この対応はいただけません。どちらも人命に関わる情報ですので、優先順位を逆さまにするのはご法度だと思いますが如何でしょうか。
さて、令和3年度の本館特別展『高度成長期の千葉』幕開けから4日が経過いたしました。改めまして、これまでの「蔓延等重点措置」転じて、8月2日から再度の発出となった「非常事態宣言」下、たくさんの皆様にご来館を頂きましておりますことに、衷心よりの感謝を申し上げる次第でございます。今回の展示の内容が、ちょうど50~60歳代の皆様が子供時代と重なっていることもあり、ご来館の皆様からは「懐かしかった」「子供時代の忘れていた風景を思い出した」「我が家でもこれがあった」等々の、当事者感覚でのご意見を賜っております。特に、今回の展示の窓口として使っている、当時の児童生徒の作文・詩作品を書いた方々が、現在の年齢で振り返ることのできる高度経済成長期という時代を振り返ってみることで、改めて自身の歩んだ千葉市の歴史をとらえなおすことができるのではないかと考えます。現段階では、これまで東京都が「緊急事態宣言」下で行ってきた対応に右へ倣え。千葉県下におきましても博物館・美術館につきましては「感染予防対応を行いながら開館を続ける」との判断が下っております。ただ、今後の感染状況を鑑みて方針の転換がある可能性を残しております。従いまして、現段階では特別展も継続して開催するものの、今後は如何なることになるかわかりません。ご興味のおありになる皆様は、なるべく早めに脚をお運びいただけましたら幸いでございます。きっとお喜びいただけるものと自負するところであります。皆様のご来館をお待ちしております。その際、各自で充分なる感染対策をなさってくださいますようお願いを申し上げます。
そろそろ本題に移らせていただきましょう。本館の近くに「千葉寺」という寺院があることはご存知のことでございましょう。一般には「ちばでら」と呼称されますが、正しくは海上山歓喜院青蓮千葉寺(かいじょうさんかんぎいんじょうれんせんようじ)と称します。千葉市内においても最も古い由緒を誇る名刹に他なりません。また、その起源を中世まで遡ることのできる「坂東33観音霊場」の29番目の札所として、現在も巡礼者が絶えることがありません[因みに、一つ前の28番札所は滑川観音龍正院(成田市)次の30番札所は高倉観音高蔵寺(木更津市)となります]。現在は真言宗豊山派に属する寺院であり、本尊は十一面観世音菩薩であります。太平洋戦争の際(所謂「七夕空襲」)に被災して本堂を焼失。現本堂は昭和51年(1976)建築の鉄筋コンクリート製となっておりますが、山門・鐘楼については焼夷弾を免れ、江戸後期天保年間の結構を今に伝えております。また、本堂前には高27m程、幹周10m程の銀杏の巨木が屹立しており、千葉県指定の天然記念物となっております。これまた余談ですが、昨年度の本館『研究紀要』第27号には、本館研究員白井千万子による「千葉寺十善講調査報告―今も続くお大師詣り―」が掲載されておりますので、ご参考にされていただけましたら幸いです。
その大銀杏の足元に一枚の看板が立てられており、そこには以下のことが記載されております。かような次第で、今回は、「千葉寺」とかつて本寺を舞台として行われたという、この「千葉笑」という風習について述べてみようと存じます。併せて、後編では岡本綺堂がそれを小戯曲として創作した『千葉笑い』全文も掲載させていただきます。綺堂の作品は、傑作『半七捕物帳』をはじめとする「読み物」についてはかなり復権してきておりますが、その本領である「戯曲」世界の復権はほとんどなされないままであり、大いに残念であります。従って、本作も現況に於いて手軽に読むことのできない作品となっております。是非ともこれを機に接していただければと存じます。「千葉笑」の雰囲気を御理解いただけましょう。
千葉笑
[『相馬日記』高田與清(文政元年)] 千葉寺や 隅に子どもも むり笑い [小林一茶(文政6年)] |
再び、千葉笑の舞台となる千葉寺に戻ります。先に簡単にその由緒を述べましたが、寺伝によれば、行基(668~749)が諸国巡錫中に、和銅2年(709)聖武天皇の勅願により、当地に丈六の十一面観音を安置して創建されたとしております。これは日本全国津々浦々に伝わる所謂“行基伝説”の一つであり、史実の可能性は限りなく低いものと申せましょうが、本寺の創建がほぼ伝承と見合っていることは間違いありません。何故ならば、戦後早い段階での発掘調査により境内から奈良時代の布目瓦が出土しており、西暦700年前後に創建された古代寺院であることが明らかになっております(710年が平城京遷都であります)。恐らく、郡名の「千葉」を冠していることから、下総国千葉郡を支配する千葉郡司(千葉国造の後裔)の造営にかかる、所謂「郡寺」にあたる寺院であると想定されます(「郡寺」は飽くまでも郡司が私的に造営した寺院であり、国分寺のような公的寺院ではありません)。因みに、千葉寺の谷を挟んだ青葉の森公園内に残る終末期古墳とされる「荒久古墳」(千葉市指定史跡)は、千葉寺を臨む台地の縁辺に造営された方墳であり、用いられている石室の造営技術等から判断して、千葉寺と同時期の造営であることが想定されております。つまり、荒久古墳の被葬者は千葉郡司の蓋然性が高いものと考えられます。このことは、日本土着の埋葬と仏教という外来思想とが混在していた実態を示した実例として興味深いものであります。ただ、今日に到るまで、千葉郡を支配した役所である郡家(ぐうけ)[郡衙(ぐんが)とも]の場所は特定されていません。千葉寺周辺の台地上の何処かに存在した筈です。将来的に遺構が発見されることを期待したいところです。
千葉寺についてもう少し突っ込んでみたいと思います。今しばしお付き合いください。古代律令国家が解体する「中世」という時代になると、古代の権力者の庇護の下にあった寺社は、経済的支援母体の没落によって、自活の道を模索せざるを得ない状況に追い込まれることとなります。そして、その路を開拓できなかった寺社は、たとえ如何なる由緒をもっていても廃滅する運命が待っておりました。その典型的な存在が国分寺・国分尼寺に他なりません。これらは、全国60余州に国家プロジェクトして漏れなく造営された、現在で申せば「国立(官営)寺院」であります。日本の何処でも金堂・講堂・七重塔を備えた壮麗な伽藍を誇っていたはずですし、現在の千葉県域には上総・下総・安房に3つの壮麗なる国分寺・国分尼寺が建立されていたのです。しかし、一部なりとも奈良時代の結構を残したままで現在まで営々と存続しているそれは、ただの一つも存在しておりません。現状において、現在創建伽藍の残る国分寺・国分尼寺は皆無ですし、創建時の国分寺に安置されていた仏像ですら全て失われ一体も残っていないのです(以前、蟹満寺本尊となっている丈六の釈迦如来坐像が山城国分寺の本尊を移したものではないかと言われたこともありましたがどうやら違っているようです)。そもそも、寺院として廃滅したところが多々あります。当時の政府が主導して造営された国営寺院でさえこの有様なのです。それでは、今各地に残る国分寺と名のついた寺院は如何なる由緒をもつのかと申せば、それらは、名のみ残して中身は別個の寺院となっているのが実際の所であります。つまり、古代寺院とは直接的な系譜関係に連なることのない、中世以降に再興された姿に他なりません(叡尊・忍性よる真言律宗が国分寺復興運動に関与していることが分かっております)。つまりは、殆どの国分寺は律令国家による経済的庇護を失って自活できずに廃滅していったのです。それは、今日世界最古の木造建造物が残る法隆寺であれ、廬舎那仏のある東大寺であれ(大仏殿も大仏の大部分も江戸時代の再興になります)、鑑真縁の唐招提寺であれ、伊勢神宮等の天皇家との深い由緒を持つ神社であれ、例外ではなかったのです。
逆に申せば、現在も奈良時代の創建伽藍や遺物を今に残している寺社や、創建伽藍は残っていなくても寺社経営が古代以来連綿と受け継がれている寺社は、律令国家の庇護を得られなくなった時代に、自ら寺社経営基盤を開拓し得た寺社に他ならないということです。先ほど千葉寺は古代寺院であると申し上げました。千葉郡司は、恐らく古代国家の解体と同時に没落したことでしょう。その後、千葉寺はどうなったのか。これも、上記したように自活の路を切り開くことを可能としたが故に、今日この日まで寺院として生き残っているのです。つまり、古代に創建されて今に残る寺社の殆どは、かような歴史を歩んできたことになります。千葉寺につきましては、新たな権力者である武士団との関係を取り結びます。つまりは千葉氏の祈願所として、その庇護をうけることになるのです。併せて、中世に次第に社会的な力をつけるようになる庶民層からの信仰も取り付けていくようになっていくのです。それこそが「坂東33観音霊場」としての位置づけに他なりません。当方は「地域歴史散策」の際に千葉寺を訪れた際に、必ず以下のような話をさせていただいております。つまり、今残る古代寺院とは、「決して古代の姿・在り方ではないこと」「中世から現代にかけて各時代の社会の変化に適応して柔軟に寺社経営を行ってきた」後の姿に他ならないということ。目の前の千葉寺も、そうした歴史的な経緯を経て今日があることを知っていただきたいとのことであります。
例えば、奈良の「唐招提寺」で、戒律を我が国に伝えようと何度もの渡航に失敗の末に盲目となり、それにもめげることなく来朝した不屈の精神を有する「鑑真和上」へ想いを馳せることは大いに結構でありますし、そのこと自体を否定するものではありません。しかし、そこにとどまっていては歴史のダイナミズムを理解することとはできません。平安時代には唐招提寺は衰微して、天平建立の現在の国宝建造物の多くが倒壊の危機に追い込まれていたのです。そうした状況を見かねて、鎌倉時代に勃興する戒律復興と釈迦信仰の高まりを背景に唐招提寺復興に取り組んだのが、叡尊・忍性とも関係の深い戒律僧の覚盛(かくじょう)であり、真言律宗の活動に他なりません(廃滅の危機にさらされていた国分寺復興の動向も彼らによって主導されたものと考えられております)。また、寺院経営の組織も構築され、「斎戒衆」なる実働部隊の僧侶による経済基盤の安定化も図られていくのです。彼らの活動の拠点となった場所が、唐招提寺門前から西へ向かい、近鉄の踏切を越えたところにある「西方院」であります。現在、優美な快慶作の阿弥陀如来像を所蔵されております。ここは、いつ行っても観光客に出会うことすらありません。しかし、この場所で活動した人々の存在が無ければ、唐招提寺はとうの昔に廃滅していたことでしょう。更に、南北朝・戦国の時代に再び衰微した本寺では、江戸時代の半ばに5代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の帰依を取り付け、その寄進に寄り伽藍の修理がおこなわれました。こうした各時代の寺院経営の結果として、鑑真の時代に建立された現在国宝指定の建造物が今に伝わってきたことを見逃してはなりません。つまり、同じことは千葉寺にも言えるのです。そして、こうした重層的に歴史をとらえることが、歴史を知ること、歴史に学ぶことだと思います。
この後、中編では、千葉寺を舞台に繰り広げられてきた「千葉笑」なる風習について迫ってみましょう。
(中編に続く)
中編では、千葉寺を舞台としてかつて行われていた「千葉笑」なる奇習について述べてみたいと存じます。以下の内容の多くは、小島貞二『千葉笑い』1988年(恒文社)に負っていることをまず最初に申し上げておきます。本書は、半分が「千葉笑」についての歴史的な検証に、半分が作者による現代版「千葉笑」の提唱の内容となっております。本書がユニークなのは、その2部を冊子の両側から読み始めることができるように構成されていることです。つまり、本書は、中央部で上下が入れ替わって製本されているのです。一方を読み終えたら、書籍をひっくり返して逆側からもう一編を読み始めるように製本されているユニークな書籍です。因みに、本稿に関係するのは前部分となります。著者の小島貞二(1919~2003)は、相撲・プロレス・演芸評論家として名高い方であり、稀代の名人である古今亭志ん生関係の書籍を多く出されております。愛知県豊橋市出身でありますが、戦後は一貫して市川市中山にお住まいでありました。そのご近所付き合いとして「千葉笑」のことが射程に入ったのだと思われます。
さて、「千葉笑」につきましては、前編で千葉寺に掲げられている説明看板にて、その概要をお示しいたしたが、一年に一度、大晦日の夜から新年に到るまで、地元の人々が顔を覆い隠して千葉寺に集まり、権力者の不正や人の良くない行いなどを罵り合い、笑って年を越すという風習を言います。岩波書店刊行の国語辞典『広辞苑』にも項目だてられておりますし、平凡社刊行の『俳句歳時記』にも掲載されておりますので、以下にご紹介いたしましょう。ここからも明らかなように、広く知られた風習であることは間違いありませんが、現在には伝わっておらず、その実態については不明瞭であります。
下総国千葉寺で、大晦日の夜、土地の人が集まって、顔を隠し頭を包み声を変えて、所の奉行・頭人・庄屋・年寄などのえこひいき、善悪などを言い立て、また行状の悪い人、不忠・不孝の輩に対して大いに笑い、褒貶したこと。 千葉にある海上観音寺で、昔大晦日の夜、人々が顔をかくして集り、奉行・頭人・庄屋などの善悪不正を大きに笑って褒貶した。また個人の行状についても数え上げて笑い合ったの
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その発祥(起源)についてはよくわかっておりませんが、近世に記された文献類や俳諧の中から辛うじて、その様子が伝わって参ります。少なくとも歳時記に冬の季語として項目立てられていることから、俳人には比較的知られていた風習と思われます。看板にある『相馬日記』の著者高田與清は、武蔵国多摩郡小山田村に生まれ、後に江戸の豪商高田家に養子に入った人であり、村田春海について国学を修めました。その人物が成田へ遊んだ時の記録が『相馬日記』となります[文化元年(1804)]。更に古い記録を遡ると、元文年間(1736~1740)頃の成立とされる作者不詳の『千葉伝考記』内の「千葉介親胤の事、ならびに武蔵野合戦。附、千葉笑という事」に同様の内容が記されております。つまり古記録から遡ることのできるのは江戸時代中期までとなります。因みに後者では、千葉笑を千葉介親胤[天文10年(1541)生]頃のこととして書き留めているのでしょう。それが事実であるとすれば、500年近い歴史を有する習俗となりますが、流石にそこまで遡れるとは思えません。看板には『相馬日記』の記事と併せて小林一茶の作品が掲げられております。他にも近世半ば以降の俳諧にも詠まれているので、おそらく江戸時代の半ばに始まった習俗なのではないかと想像します。しかし、実際にどのようなかたちで行われていたのかまで記録はされておりません。
もうひとつ、十方庵大浄という江戸の僧侶(浄土真宗)の手になる著名な『遊歴雑記』にも千葉笑の記事が見えます。この作品は文化11年(1814)から文政11年(1828)まで、筆者が各地を歩き回って珍奇なる話を書き留めた作品であります。筆者は千葉郡須賀村の人から直に噺を聞き取ったまま書いたと言っていますので地元情報に由来しましょう。ここからは、この千葉笑の習俗が千葉寺の本堂(観音堂)内で行われること(外は寒い時期ですので)、元日の午前4時頃まで行われることが分かります。ここには引用しませんが、作者は返す刀で江戸の現状に思いをよせ、江戸の役人どもの腐敗を大いに批判し、それと引き比べて「千葉笑」の行われる当地の大らかさを称揚しております。そして、下総国千葉郡で行われるこの習俗が、決してローカルなものでなく、江戸でも広く知られる行事であったことを知ることができます。小島貞二の著作では、想像力を大いに飛翔させ、千葉笑の生みの親が千葉介常胤であると述べておりますが、流石にそれは贔屓の引き倒しでございましょう。よく見られる、何でもその淵源を有名人(偉人)に帰してしまいがちな、庶民の願望の現れであろうと存じます。
下総の国千葉郡千葉寺には、毎年極月晦日の夜、諸人道内に集合し、顔面を隠し、頭をつつみ、声を替えて、思い思いに、所の奉行、代官、大庄屋、年寄の依怙贔屓のよしあし、我意、物欲等を大音に判談し、笑いて褒美するあり、謗るもありていいとめし時、またかたわらより行跡あしき人、主、親へ忠孝ならざるものを批判してどっと笑えば、また此方より不貞心の女房は勿論、下女小婢にいたるまで、身持ちのよしあしを吹聴してどっと笑いて、寅の刻まで誰いうとは知らざれど、交る交るに一村人を明細に評判し、各どっと笑って退散せり、これによって諸役人より下男下女まで、この笑いに逢わじと互いに自今をつつしみ、身を嗜むとなん。天人を以ていわしむるの戒、自然よき教訓也。これを千葉わらいといえり。
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実のところ、「千葉笑」にみられる「所属を明かすことなく普段は言えない人への悪口を吐き出す」といった習俗は、全国各地に散見されるものであります。所謂“悪態祭(悪口祭)”と広く称される習俗に他なりません(他に、千葉笑には“年籠り”と関連する行事としての位置づけもありますが)。それは「祭の参詣者が互いに悪口を交え、その勝敗によって幸運を占う」行事の在り方に他なりません。こうした「悪態祭」には他に、伊勢神宮における「伊勢の除夜」、京都の八坂社における「おけら詣で」(現在の「おけら参り」からは悪態祭の要素が消失)、下野国足利の八幡宮に伝わる「悪態まつり」、陸前は塩竃、神社に伝わる「ざっとな」、常陸国笠間の飯綱神社に伝わる「悪態まつり」、近所で挙げれば千住宿にも存在したことが記録から知られており、我が国に広く存在した習俗であると考えられます。「千葉笑」もまた、こうした民間習俗を引き継ぐ「悪態祭」の一ヴァリエーションに他なりますまい。しかし、千葉寺での悪態祭は、明治の御代になって途絶してしまったようで、その伝統は今には伝えられてはいないのです。
さて、最後に岡本綺堂作『千葉笑い』について。本作は、小説家であり劇作家でもある岡本綺堂(1872~1939)が、大正元年(1912)秋に雑誌『太陽』に発表した一幕物の短編史劇であります。後に戯曲集『夜雪集』1921(春陽堂)に納められております。綺堂が何故、千葉寺に伝わっていた奇習に目を付けたのかは判然としません。しかし、近世の刊本や古句にも精通していた綺堂のことですから、それらに接して興味を抱いたのではありますまいか。ただ、少なくとも大劇場で上演された記録は存在していないようです。ただ「千葉市開府800年祭」における記念行事の一環として、大正15年(1926)6月1日より3日間、亥鼻劇場(後に映画館)にて上演されているそうです。因みに、綺堂の養子となった岡本経一が後に興した出版社「青蛙房」から昭和63年(1988)に出版された『岡本綺堂日記』の大正15年4月の記事に、県立千葉高等女学校(現:千葉女子高校)の高野校長が綺堂家を訪問し、本戯曲の上演許可をもらった旨があるとのことですので、初演は千葉高女であった可能性もありましょう。本作品は綺堂41歳の時の作品であり、傑作戯曲『修禅寺物語』(後に本人が小説に仕立て直した版もあります)を物した明治42年(1909)、いつか本メッセージで取り上げてみたい傑作連作小説『半七捕物帳』の連載を始めた大正5年(1916)の間という、綺堂の脂の乗り切った頃の作品であり、単純な筋立てではありますが、名文家綺堂の面目躍如たる一品に仕上がっていると存じます。最後の最後に千葉之介の呟く台詞はなかなかに深いものであり、何時までも余韻が残ります。単なるお気軽な一編には終わらせていない文筆家綺堂の老連さを思わされます。後編にて、全文を一気に掲載をさせていただきますので、皆様、是非とも味わってくださいませ。
(後編に続く)
登場人物 千葉之介(ちばのすけ) 妻 呉竹(くれたけ) 娘 小松(こまつ) |
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(能舞台の模様にて、ほかに道具を要せず。幕徐(しずか)にあくと、千葉之介出ず。家来小藤太つづいて出ず。) |
千葉之介 |
これは下総国に隠れもない大名。小藤太あるか。 |
小藤太 |
はあ。おん前に……。 |
千葉之介 |
一年も早や夢のように打過ぎて今宵は大晦日(おおつごもり)じゃ。 |
小藤太 |
仰せの通り、一夜あくればめでたい初春にございまする。 |
千葉之介 |
それがしは弓矢を取って向うに前なく、戦えばかならず勝ち、攻むれば必ず取るに因って、近国の大小名ことごとくそれがしの威勢になびき、四方より旗下(はたもと)に寄りあつまる。明日も元日の祝儀を申そうとて、おびただしき出仕であろうぞ。 |
小藤太 |
お屋形の御門前は、人と馬とで埋まるほどでござりましょう。 |
千葉之介 |
それがしも左様存ずる。就ては当屋形に於いても、それだけの設けをせね |
小藤太 |
御念には及びませぬ。わたくしは確かと心得まして、大庭には幔幕を張りまわし、御門前には駒をつなぐ杭などあまた打たせましたれば、何千人一度に出仕致しまそうとも、決して慌つるようなことはござりませぬ。 |
千葉之介 |
流石にそちは賢いものじゃ。よい家来を有(も)って、それがしも仕合せに存ずる。さて、出仕の面々に対して、祝儀の酒を参らせねばなるまい。雑煮の餅をも喫(た)べさせねばなるまい。それもよかろうな。 |
小藤太 |
よろしゅうござりまする。 |
千葉之介 |
注連飾や門松もよかろうな。 |
小藤太 |
みな吉例の通りに仕りました。 |
千葉之介 |
おお、よい、よい。やれ、やれ、これで落着いた。大名になっても歳の暮は何とやら心忙しいものじゃ。 |
小藤太 |
何かとお気疲れでござりましょう。大晦日の御祝儀傍々(かたがた)、上られては如何でござりまする。 |
千葉之介 |
何さま一献めぐらして、めでたく越年(おつねん)いたそうか。さあ、さあ、仕度いたせ。 |
小藤太 | かしこまってござる。 |
(小藤太一礼して去る。千葉之介はあとを見送る。) | |
千葉之介 | 彼もなかなかの忠義者じゃ。繰返して申そう。よい家来を持って、千葉之介も仕合せに存ずる。 |
(千葉之介は悠々と座に着く。千葉之介の妻呉竹、娘小松出ず。その後につづきて小藤太をはじめ、源二、橘内、平六の家来どもは、銚子、土器(かわらけ)又は下物(さかな)などを三宝に乗せてささげ出ず。) | |
千葉之介 | おお、奥も姫も打揃うてまいったか。今宵は大晦日じゃに因って、めでとう越年の酒宴(さかもり)を開こうと存ずる。 |
呉竹 | それは宜しゅうござりましょう。 |
小松 | わたくしも御祝儀もうしあげまする。 |
千葉之介 | 酌は小藤太一人でよかろう。余の者共は遠侍にて控えて居れ。 |
三人 | はッ。 |
(源二、橘内、平六は一礼して去る。) | |
千葉之介 | 扨(さて)ゆるゆると飲もうか喃(のう)。 |
(千葉之介先ず土器を取れば、小藤太は酌に立つ。千葉之介はかたむけて妻に献(さ)し、呉竹はかたむけて返杯すれば、千葉之介は再び傾けて、更に娘に献す。小松もいただきて返杯す。) | |
千葉之介 | さらば小藤太にも取らそうぞ。 |
小藤太 | お流れ頂戴いたしまする。 |
(小藤太進んで土器をいただけば、小松は立寄って酌をする。) | |
小藤太 | 謹んで御返杯つかまつりまする。 |
呉竹 | 常とは違うて、今宵はめでたい折柄じゃ。そのような小さい器では興が薄い。小藤太、先頃鎌倉のお人から贈られた大杯(おおさかづき)を持って来やれ。 |
千葉之介 | いや、それは迷惑なことじゃ。そち達も知っての通り、それがしは生来の下戸じゃに因って、大杯などでは迚(とて)も堪らぬ。無用におしやれ。 |
小藤太 | 何さま殿は下戸でおわしました。 |
小松 | はて、吞込の悪い男じゃ。今宵は大晦日ではないか。 |
小藤太 | それは心得て居りまするが……。 |
呉竹 | まだ解せぬか、成ほど呑込の悪いことじゃ。今宵は大晦日じゃに因って……。千葉寺へ……。のう、判ったか、判ったか。 |
小藤太 | 判りました。判りました。いや、ずんと呑込ましてございまする(打笑む。)初春の御用意の忙しなさに取りまぎれて、その儀を頓と失念して居りました。 |
小松 | じゃに因って、父の殿へ……。(眼で知らせる)大杯を早う、早う。 |
小藤太 | はは、心得ましてございまする。では、しばらくお待ち下されませ。 |
千葉之介 | いや、いや、それがしは一向の下戸じゃと申すに……。待て、待て。 |
小藤太 | いや、わたくしよりもお前様こそ、しばらくお待ちくださりませ。 |
千葉之介 | えい、待てと云うに……。 |
小藤太 | お待ちくださりませ。 |
千葉之介 | 待たぬか。 |
小藤太 | お待ち下さりませ。 |
(小藤太早々に去る。) | |
千葉之介 | 他の詞(ことば)をも能く聞かいで、いつもながら粗忽な奴じゃ。 |
呉竹 | 若い者は皆あのようでござりまする。お前様も若い時には覚えがござろう。 |
千葉之介 | はは、これはあやまった。時に今そちが云うた千葉寺のこと喃。それがしも礑(はた)と打忘れて居ったよ。 |
小松 | そのようなことは、お忘れなされても苦しゅうござりませぬ。 |
千葉之介 | いや、物忘れするというは良くないことじゃ。当所の千葉寺は阪東三十三観音の一つで、霊験あらたかなるは遍く人の知る所。年々の大晦日の夜には、遠近(おちこち)の里人この寺に参詣し、思い思いの仮面をつけて己が面を掩(おお)い、誰を誰とも見分かぬようにして、上は領主より下は商人百姓に到るまで、人の善からぬ事どもを憚りなく数え立てて罵り合い、果てはどっと笑いはやす。これが幾百年来の古きためしで、千葉笑いと云えば世にかくれもない不思議の習わしじゃ。今宵は恰(あたか)もその大晦日の夜であれば、それがしも忍びやかに千葉寺へ詣で、諸人の笑いを見物いたそうと存ずる。 |
呉竹 | それはお止めになされたが宜しゅうござりまする。 |
千葉之介 | なぜな。 |
呉竹 | 一年に一度の千葉笑いに、諸人が憚りもなく罵り興じて居るところへ、お前様がお越しなされたら、皆が口を噤(つぐ)んでしまいまする。 |
千葉之介 | 何さまそれも然(そ)うじゃ。 |
小松 | じゃに因って、左様なところへは一切お立寄りなされず、諸人の云いたいままに云わせてお置きなされませ。のう、母上……。 |
呉竹 | これは娘の申す通り、今宵の御参詣はお見あわせを願いまする。 |
千葉之介 | とは云え、何やら行って見たいようにも存ずるが。 |
呉竹 | いえ、いえ、お止めなされませ。 |
小松 | お止めになされたが宜しゅうございまする。 |
(呉竹と小松は頻りに遮る、小藤太は三宝に朱塗の大杯を載せてささげ出ず) | |
小藤太 | お杯を持参いたしました。 |
呉竹 | 年のう早かった。殿にもお待兼じゃ。おん前にささげてまいれ。 |
千葉之介 | 何の待兼ねて居ろうぞ。そのような大杯は見るも嫌いじゃ。措け、措け。 |
小藤太 | 常の時とは違いまする。今宵は年越しの御祝儀にめでとうお過ごしなされませ。 |
(小藤太は進んで大杯をささぐ。) | |
千葉之介 | これで飲めとか。やれ、情けないことじゃ。 |
呉竹 | 御卑怯なことを云わせますな。 |
千葉之介 | それがしも武士じゃ。卑怯者と云われては弓矢の恥辱とも相成ろうずるに因って、一生けんめいに飲うで見しょうわ。 |
小藤太 | わたくしが御下物いたしまする。 |
千葉之介 | 下物に舞うか。 |
小藤太 | 舞いまする。 |
千葉之介 | 面白かろう。早う起(た)って見せい。 |
小藤太 | はッ。 |
小松 | わたくしも唄いまする。 |
千葉之介 | これは一段と面白かろう。唄え、唄え。 |
小松 | 心得ました。(扇を取り直して唄う)めぐりて尽きぬ年の瀬や。流れ流れて今日もまた……。 |
唄『年に一度の大晦日は、春の設けは忙しく、君が宮居は注連を張る。殿が屋形は松を積む。武士の馬には鞍を置く。賤が伏屋は餅をつく。めでたき御代こそ楽しけれ。』 | |
(小藤太は起って舞う。この間に呉竹は進んで酌に立つ。千葉之介は大杯を取って傾ける。小藤太やがて舞い終わる。) | |
千葉之介 | いや、面白いことであったぞ。例(いつ)もながらそちの舞振の面白さに、これ見い。我知らずこの大杯をうかうかと飲み尽くしてしもうたわ。ははははは。 |
小藤太 | 御賞美恐れいりまする。 |
小松 | 小藤太の舞が御意にかのうたれば、今一盞(さん)お重ねなされませ。 |
千葉之介 | まだ飲めと申すか。そち達がこれほどまでに心を尽くして欵待(もてな)して呉るるものを、無下に断るも興がない。よい、よい。今一盞重ねると致そうか。 |
呉竹 | では、飲うで下さるか。嬉しや、嬉しや。それでほっといたしました。 |
千葉之介 | それがしが酒を飲むのが、それほどに嬉しいか。 |
呉竹 | 大名と申すものは、うわべは不足のないように見えても、心の底には人知れぬ苦労が数々あるものでございまする。先ず第一には上への御奉公、次には近国の大小名の抑え方、領内の御政治向、家来どもの取締、それからそれへ心を配らせられては、ほんに夜の目も碌々に合わぬほどの御苦労と、わたくし共も常々お察し申して居りまする。そのお気疲れを休むるには、愁いを攘(はら)う玉箒(たまはばき)の酒に如(し)くものはございませぬ。 |
小松 | 父上がお杯を過ごされて、眼もとろとろと御機嫌の好い体を拝みますると、わたし共も心嬉しゅう存じまする。 |
小藤太 | 皆様もあのように仰せられますれば、さあ、さあ、お重ね遊ばしませ。 |
千葉之介 | さらば、注いで呉りゃれ。 |
(小藤太進んで酌をする。) | |
千葉之介 | やあ、やあ、嗌(こぼ)るるほどになみなみと注ぎおったわ。が、まあ、よい、よい。酒に酔うて管巻くを、下世話では太平楽の巻物をひろげるとか申すそうじゃが、私も酔うて云うではなけれども、陸奥筑紫の果ては知らず、およそ関東八州を見渡したところでは、この千葉之介ほどの果報人は二人とあるまいぞ。(漸く酔の廻りし体。)はて、何故と云やれ。第一に上の覚えはめでたし、近国の大小名はみな帰服する。領分内の民百姓はありがたい御政治じゃと喜んで居る。又、おのれが住む屋形の内を見廻せば……。(呉竹と小松を見て。)二世の誓いをかためた妻は貞女、可愛の娘は孝行者、揃いも揃うてわしを大事にかけて、朝夕ねんごろに介抱して呉るる。いや、妻子ばかりではない。家来共もみなそうじゃ。この小藤太を始めとして、源二、橘内、平六、その余の者共も油断なく忠勤を励んでくるる。右を見ても、左を見ても、不足ということは露程も知らぬ千葉之介。なんと果報者ではあるまいか。ははははは。 |
小藤太 | 仰せの通り、憚りながら殿が日本一の御果報人に渡らせらるることは、世に隠れもない取沙汰。かばかりに好い御主君を持ちましたるは、我々どもの仕合せにございまする。 |
千葉之介 | そち達も仕合せに存ずるか。いや、頼もしいことじゃ。 |
(千葉之介は興に乗じて大杯をかたむく。) | |
呉竹 | 今宵のように御機嫌の麗しいは近頃に珍しいこと。わたくし共も嬉しゅうて嬉しゅうてなりませぬ。 |
(云いつつ娘に目配せすれば、小松うなずく。) | |
小松 | 父上様。その御機嫌の麗しいところで、今一盞お過ぎしなされては如何でございまする。 |
千葉之介 | いや、何と云うても此上は迚(とて)も堪らぬ。もう許してくりゃれ。 |
小藤太 | ではござりますれど、一年一度の御祝儀でございますれば……。 |
千葉之介 | はて、そち迄が其様なことを……。なんぼ快いと云うて、この上に飲うだら酔潰れてしまうわ。これ、見い。この通り足も腰もふらふらと、いやもう他愛のないことじゃ。 |
(千葉之介はよろめきながら起き上がりて、つまずき倒れんとする。小藤太走り寄って支える。) | |
小藤太 | お危うございまする。 |
千葉之介 | ははははは。このように酔うた例はついぞ覚えぬ。小藤太の顔がちらちらと二つにも三つにも見えるわ。はは、面白い、面白い。(手にて拍子を取りつつ唄う。)……武夫(もののふ)矢並つくろう小手の上に……。 |
唄『霰ふりしは昔のことよ。今は我等も厚衾(ふすま)、かさねて夜半の雨を聴く。さりとは目でたや、めでたやな。』 | |
(千葉之介は足も四度路に舞い唄いしが、果ては疲れて其場に倒れしまま正体無し。呉竹と小松とは顔を見合わせてささやき合い、小藤太は『この間に早く行け』と眼で知らすれば、二人はうなずきて呉竹先ず起ち上がり、隙を見て窃(そ)っと立去る。小松は起ち兼ねて躊躇せしが、これも小藤太に促されて窃っと立去る。小藤太も漸次(しだい)に後退りして、遂に立去る。千葉之介はやがて起き上がる。) | |
千葉之介 | いのほかに酒を過した上に、舞いつ唄いつした程に、喉が渇いてならぬ。小藤太、水を汲んでまいれ。これ、小藤太……子藤……(四辺を見まわす。)や、小藤太は居らぬ。呉竹も……小松も見えぬ。揃いも揃うて何れへまいったぞ。ははあ、聞えた。わしが酔うて正体のない間に、次の間へ退って休息して居ると見えるな。それにしても水が欲しい。これ、誰そ居らぬか。早うまいれ。 |
(呼び立つれば、源二と橘内と平六出ず。) | |
源二 | 召しましたか。 |
千葉之介 | 呼んだは他でもない。水を持て。 |
平六 | 心得てござりまする。 |
(平六去る。) | |
源二 | 今宵は例になく御酩酊のように御見受け申しまする。 |
千葉之介 | おお、酔うた。酔うた。正体もなく酔い倒れている中に、誰も彼も皆往んでしもうた。これ、小藤太は何れにある。 |
橘内 | 小藤太は唯今いずこへか罷り出ました。 |
千葉之介 | 左様か。して、奥や姫は如何いたした。 |
源二 | 奥方も姫君もお忍びの姿にて、これも何処かへお越しに成られました。 |
千葉之介 | はて、合点が行かぬ。どれもこれも何処へ参ったのであろうな。(考える。) むむ、読めた。彼らは私を出し抜いて、千葉寺へ参詣に行ったと相見える。 |
橘内 | 内。何さま今宵は大晦日で、千葉笑いの古例を行う夜でございまする。 |
千葉之介 | それ、それ、その千葉笑いを見物にまいったに相違あるまい。わしには見に行くなと意見をしておきながら、おのれ等ばかり見物にまいるとは我儘な奴等じゃ。ははははは。よい、よい。私もあとから参ると致そう。 |
(平六は水をささげて出ず、千葉之介は快く飲み干す。) | |
千葉之介 | 下戸でも酔醒の水の味は格別じゃ。さあ、千葉寺へ参るぞ。仕度いたせ。 |
源二 | はあ。 |
千葉之介 | そち達もまいれ。 |
二人 | はあ。 |
(千葉之介去る。家来三人はあたりに取散らしたる杯盤を片付けて去る。) |
(これより常磐津の浄瑠璃となる。) | |
浄『常闇の、岩戸がくれの昔より、神が教えし故事を、あずまの果てに伝え来て、今も変わらぬ千葉寺の、師走の夜ぞ賑わしき。』 | |
(千葉之介再び出ず。源二、橘内、平六もつづいて出ず。) | |
千葉之介 | 屋形からは阪東道の一里に足らぬに因って、早や千葉寺に参り着いた。ははあ、おびただしい群集かな。来る人も、男も女もみな一様に仮面を着けて居るので、いずこの誰やら一向に判らぬ。面白いことじゃ。 |
源二 | あれ、あれ、大勢がこなたを指して動揺(どよ)めいてまいりまする。 |
浄『仮の面に色こそ見えね、香やは隠るる梅の花、松も柳もこき交ぜて、男女の一群れが、押しつ押されつ集い来る。』 | |
(男女大勢。思い思いの仮面を着けて出ず。その中に般若の仮面を着けたる呉竹と阿多福の仮面を着けたる小松、鬼の仮面を着けたる小藤太にまじりて出ず。千葉之介等はあとに退りて見物す。) | |
男一 | さあ、さあ、今宵は一年に一度という千葉笑いの当日じゃ。天下晴れて悪口を云うでもたがよいぞ。 |
男二 | そうじゃ、そうじゃ。今夜ばかりは遠慮なしに、誰の悪口でも列(なら)べた。列べた。 |
男三 | したが、大勢が一度にがやがやと喚いては、なにが何やら判るまい。 |
男一 | 交わる交わるにこれへ出で、云いたいままに云うたがよかろう。 |
大勢 | さあ、さあ、誰でも出さっしゃれ。 |
浄『おっと合点の鬼が出る。』 | |
(小藤太先ず進み出ず。) | |
小藤太 | 先ず第一に云おうなら、御領主の千葉之介殿じゃ。彼の御仁は表(うわ)べは情深う、分別ありげに見ゆれども、裏と表は大きな相違で、おのれが家来に対しては、情けというもの微塵もござらぬ。 |
浄『たとえば地獄の牛頭馬頭が、罪ある亡者を追うように、あけても暮れても責め使い、斃れるまでも追い立て追い立て、邪慳の笞(しもと)を振りかざす。さりとは無慈悲と思えども、仮にも主と名がつけば、われは我慢の胸を撫で、人目忍んで泣くばかり。』 | |
(小藤太は鬼の仮面の眼を拭いつつ泣く。小松走り寄る。) | |
小松 | あ、もし……。(小藤太の手を把りて、口説模様になる。) |
浄『そなたばかりか妾(わたし)とて、年頃日ごろ頑拗(かたくな)な、父の教に縛られて、巣立の日から籠の鳥、うき世の春を知りながら、翼ひろげて面白う、飛ぶに飛ばれぬ悲しさよ。わたしの恨みばかりでも、父の最後は知れてある。』 | |
小松 | 大方は名もない雑兵の手にかかって、首を取らるるか、生捕りか、世間に恥を晒さるるであろう。おお、笑止……。 |
浄『笑えば母もうなずいて……。』 | |
(呉竹も仮面をつけしまま進み出ず。) | |
呉竹 | おお、それ、それ、あの千葉之介殿という人は、裕福にも似ず物吝(ものおし)みする男で、天晴れ大名ともあろう身が……。 |
浄『おのればかりが栄耀して、いとしの妻に綾錦、着せて見とうはないかいな。四季おりおりの衣更え、その度毎に着るものを、買うの買わぬの喧嘩(いさかい)に、たった一重の晴衣さえ、思うままには奈良の鹿、角目立つとは浅ましや。』 | |
呉竹 | こんな夫は古着も同様、捨ててしまおうと思えども。 |
浄『うき世の義理がままならぬ。ええ、ままならぬ悔しさよ。』 | |
呉竹 | 思えば思えば千葉之介殿は憎い人じゃ。 |
小松 | 恨めしい人じゃ。 |
小藤太 | 情けを知らぬ人じゃ。 |
男女一同 | そうか喃。 |
小藤太 | これで少しは胸も晴れた。さあ、古例に依って皆も笑うてくだされ。わはははは。 |
一同 | はははははは。 |
浄『千葉之介腹に据え兼ね、思わずつッと進み出で。』 | |
(先刻より千葉之介は立腹を堪えていたるが、余りのことに堪忍ならず、太刀に手をかけて進み出ず。) | |
千葉之介 | やあ、喧しいおのれ等。千葉笑いは古き習わしと、胸を撫(さす)って聴いて居れば、云いたいままの悪口雑言。もはや堪忍相成らぬぞ。彼の三人を引捉えよ。 |
家来三人 | はッ。 |
浄『うけたまわると駆寄って、逃げんとするを引据ゆる。機(はずみ)に仮面は地に落ちて、初めて露わす顔と顔。』 | |
(家来三人駆寄って、呉竹と小松と小藤太とを引据えんとし、こなたは逃げんと争う中に、着けたる仮面落ちる。家来どもはその顔を見ておどろく。) | |
源二 | や、奥方でござりましたか。 |
橘内 | これは姫君……。 |
平六 | これは小藤太。 |
家来三人 | こりゃ何うじゃ。 |
浄『惘(あき)れて詞もなかりけり。』 | |
呉竹 | 斯(こ)う露見しては面目もござりませぬ。 |
小松 | 父上、お免(ゆる)しくださいませ。 |
小藤太 | 殿、ご免されい。 |
(呉竹等三人逃げんとするを、千葉之介よび止める。) | |
千葉之介 | いや、待て、待て。今まで貞女と思うた妻も、孝行者と思うた娘も、忠臣と思うた家来も……。(思案して)なまじいに面を見たが私のあやまりじゃ。もとのように仮面を着せて置け。 |
家来三人 | はッ。 |
(家来どもが落ちたる仮面を拾いて、呉竹等に旧のように着せる。) | |
千葉之介 | はは、そうして置けば誰やら判らぬ。人には仮面をかぶせて置くものじゃ。 (謡のように。)ただ何事も烏羽玉の……。 |
浄『ただ何事も烏羽玉の、闇こそ浮世の習いなれ。』 | |
千葉之介 | 闇こそ浮世の習なれ。 |
浄『悟りすまして千葉之介、屋形へこそは帰りけれ。』 | |
(千葉之介は徐(しずか)に歩み去る。家来どもは付き添いゆく。幕。) |
お暑うございます。皆様におかれましては、コロナ禍の中で概ね無観客開催となった東京五輪をご自宅のテレビ等でご観戦の方が多かろうと存じます。そろそろパラ五輪に移行する頃でしょうか。当方は、飽くまでも個人的な思いから「東京五輪」からは距離をとっております。幸いに、街に出ても五輪ムードは皆無でございます。何時も乍らの日常が淡々と流れていることに、むしろ爽快感すら感じる次第でございます。東京都の住民である当方でありますが、葛飾区からは7月当初にワクチン接種の案内が届いておりますが、未だにワクチンが確保できないそうで、予約すら中断しております。我が居住地以外では、当方よりずっと若い40代の方々でも2回の接種が終了しているのにも関わらず。昨今のデルタ株の拡大にともなう感染者の激増の中、何度目か(あまりに頻繁なので失念しました)の「緊急事態宣言」が千葉においても発出されましたが、今後は感染の広がる若年層に優先的に接種する方針であると耳にします。実際に社会を支えて日々通勤して「感染危機」の最前線にいる40代・50代の方々、我ら夫婦のように65歳に満たない中途半端な定年世代が、またまた「置いてけ堀」(本稿で取り上げる岡本綺堂作の優れた同タイトル読み物あり!!)状態となるのでしょうか。こうした世代が「ワクチン難民」、いや正に「ワクチン棄民」状態にされているようにすら感じてしまいます。被害妄想と言われようが正直不安で仕方がありません。その現状についての説明さえもが「五輪」狂騒曲の喧噪に紛れて有耶無耶にされているように感じてしまいます。
さて、特別展が開幕して10日が経過いたしましたが、予想した以上に多くの皆様に御観覧をいただいております。千葉県・千葉市における新型コロナウィルス感染症の感染者数の増加とそれによる蔓延防止対策から「非常事態宣言」への移行等もあるなか、そしてこの猛暑の最中に脚をお運び頂いた方々には心の底より感謝申し上げます。ありがとうございました。特に、私と同年代の皆様にとっては懐かしい世界との再会となり、「懐かしい」といった感想が多々聞こえて参りました。幼少時代から千葉市にお住いの年配の方々からは、文集・詩集『ともしび』に自らの作品が掲載されたことを思い出される方もいらっしゃいました。特に夏休みからの開催ということで、児童生徒の皆さん、教職員の方々に是非ともご観覧を頂きたいと願っております。
さて、改めまして、本年「千葉市制施行100周年」であることに因んだ、令和3年度特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』についてでございます。タイトルにございますように、本展は当時の児童生徒であった子どもが記述した作文・詩作品を窓口に、子ども達の眼に映った高度成長期の時代像を描き出そうとする内容となります。そのための前提として、まずは当時の作文が資料として残されていることが条件となります。次に、残っていても、その作品に「時代の変化」が記録されていなければ史料として活用することができません。従って、当該企画が成立した前提にあるのは、その条件が整っていたからに他なりません。これは、一重に当該時期における千葉市教育委員会と国語科指導教員の先達の方々の高い志と尽力があってこその果報であると申しあげねばなりません。何よりも志高き編集方針の下、児童生徒の作文集が継続的に編まれたこと、それが今日の日にまで営々と引き継がれてきたことに頭の下がる思いでございます。先日も外部から「子どもの作文から見るというが、どうせ国語の授業で描いたものだから大した内容じゃなかろう。そんな作文から社会が見えるはずないだろう」といった趣旨内容のご意見を賜りましたが、正直に申し上げて「こんなに内容のある作文を書けるものなら、是非貴方様がお書きになってみたら如何ですか?」「きっと当時の子どもより優れた作文は大人でもなかなか書けないと存じますよ」と出かけた言葉を呑み込んだほどでした。それほどに優れた作品が多々あります。子どもの視線や感じ方を侮ってはなりません。大人のような忖度もすることもなく、移り変わる社会の姿の本質に直感的に掬い上げて、その思いを飾らずに表現していると思います。少なくとも、そんじょそこらの自称“訳知り顔”の大人など足元にも及ばぬ、そうした御仁の顔色を無からしめるほどの作文が数多く存在していると認識しております。つまり、結果として選び残された作文作品は、計らずも当時の変貌する千葉市の姿を照らし出す、優れた「歴史史料」となっていると申しても決して過言ではありません。それが、千葉市教育委員会が毎年発行し続けている、文集(昭和30年創刊)・読書感想文集(昭和39年創刊)・詩集(昭和44年創刊)の『ともしび』に他なりません。
その中でも、作品群を拝読させていただき、特に「高度成長期」に当たる初期の児童生徒の作品には心に残るものが極めて多いと感じます。そして、その行間からは、「子どもたちの優れた作文作品を後世の鑑とすべく」尽力される、当時の国語科教育を牽引された先生方の熱い思いと、志と見識の高さとが滲み出ているように感じさせられます。その姿勢に、同じ教育者としての経験値のある者として、心底から畏敬の念を覚える次第でございます。その間、2度にわたって、傑作選ともいうべき記念号が刊行されております。すなわち、昭和51年(1976)年に『ともしび』刊行20周年を記念して作成された『ともしびの子ら』(編集:「ともしびの子ら」編集委員会・千葉市教育委員会・千葉市教育研究会国語部会・千葉市国語主任会)、及び平成14年(2002)にその後の作品から選りすぐられた作品集成としての『ともしびの子ら 第二集』(編集:「ともしびの子ら」編集委員会・千葉市教育委員会)の二冊であります。それから既に20年が経過しようとしておりますので、是非とも近い将来に『ともしびの子ら 第三集』が編まれることに期待が高まります。
こうしたアンソロジー集を編むことは、実のところ、編集作業を通じて教師が過去の児童生徒作品に接することが、現役の先生方に大きなメリットをもたらすものと思われます。作文指導を巡る国語教師としての自らの指導の在り方を再認識して頂くという、重大な意味と価値を併せ持つ重要な意味をもつと考えるからであります。先にも申しあげましたように、第一集に選ばれた作品の質の高さは際立っております。その作品群は、自身の回りのことだけに留まらず、社会全体への視野を踏まえて自らの想いを語るといった「綴り」の在り方が色濃く感じられます。しかも、内容だけに止まらず、作文能力といった技能的側面においても優れていると感じます。今ここで、現役の千葉市における国語の先生方に、『ともしびの子ら』2冊を熟読玩味された方がどれほどおられるかを問うてみたい思いに駆られます。失礼を承知で申しあげれば、それら冊子は、概ね図書室に死蔵されているのが関の山でございましょう。しかし、私としては「とんでもない!私は熟読の上で、今現在の作文指導に活用している」との国語科の現役教師からの反論が沢山寄せられることを期待しているのです。ただ、残念ながら、それが叶えられることにはありますまい。では、何故に初期の文集の質が高いのでしょうか。そのことを、後編では考えて見たいと思っております。
その前に、今少し『ともしびの子ら 第一集』にお付き合いください。巻頭言「発行にあたって」は当時千葉市立新宿中学校校長であった山本清(国語科)によるものです。そこで、山本は千葉市で『ともしび』が20年以上継続して編まれてきたこと、国語科において作文教育が活発に行われてきたことを指摘されております。また、巻末に座談会形式による「『ともしび』を語る」があり、創刊から作成に取り組まれてきた先生方のご苦労が語られており、関係者による印象的な発言が見られます。その中で、かつて編集に携わってこられた安藤操は次のように述べております。
千葉市の生徒諸君は、一人ひとりが、作文をすることによって、自分というものをしっかりととらえ、豊かにふくらませ、考え方を強く深く育ててきたのであります。言わば、千葉市の教育を大きく支えてきた一本の柱は作文なのだといっても過言ではありません。
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千葉市の作文集を、どういうふうに編集するかという大問題ですが、編集のねらう所は、千葉市の子ども達に日本語による文章表現力をつけることでしょう。そしてその基底には、地域と生活に根ざした子どもなりのものの見方、感じ方、考え方などの認識諸能力を育てることがあるでしょう。この両者が統一された所に作文教育の真の意味があると思います。(中略)究極のねらいは、あくまでも書かせることによって、表現力・認識力を育てることですから形式技能的なものの指導にのみ走らないことが大切でしょう。 作文教育というのは、教育の中でとてもだいじなものであるということですね。それが入試や、ワーク・ブックの点数にストレートに繋がらないとしても、逆説的にいえば、それだからこそ大切なんです。人間の教育、人間の思考力・認識諸能力の育成にとって、作文教育は独自の大きな役割をになっているわけです。そのことを「ともしび」の編集活動をとおして、千葉市のすべての先生方に訴えていきたいと思います。
(安藤操の発言) |
一読して誠にしかり。正に至言であります。こうした先人の語る言葉こそ、後輩の我々は是非とも真摯に受け止める必要がございましょう。国語科における、実用的な文章作成技術の指導といった袋小路に留まることのない、作文指導を通じて他教科にも広く通底する表現力の育成、そして社会認識の涵養と育成といった、広範で深遠なる「教育」の機能を見据えていることが読み取れます。まさに、戦後教育の目指した姿がここに示されているとさえ申せましょう。改めて申しあげますが、これらは、昭和51年(1976)の発言です。是非とも「熟読玩味」されて頂きたく存じます。そこで、後編では、こうした国語教師の発言が如何なる背景をもって語られたものかを、作文指導(教育)というものが教育の中で如何に扱われてきたのかを中心に探ってみたいとおもいます。
(後編に続く)
後編では、初期の文集『ともしび』掲載作品群に優れたものが多いのは何故かを、歴史を遡って探って参りたいと存じます。まず最初に確認しておきたいことは、当時の生徒の質が今と比較して優れていたからではないということです。放っておいて生徒が優れた作文を書いてくることは極めて稀でありましょう。そこには、教師を含む大人の指導助言が欠かせません。そして、作文指導(教育)の方向性として大雑把に申し上げれば、2つの指導の側面を意識することが必要であると思われます。それは、第一の「どのように書くのか」であり、二つ目には「何を書くのか」ということになりましょう。前者は、いわば「表現技能」を、後者は「表現内容」の問題と置換できましょうか。その両者の兼ね合いが無ければ、優れた作文としては成立しえないのだと存じます。
しかし、「表現技術」、つまりどのように書くのかという、文章としての表現能力の向上といった技術的な側面の指導も然ることながら、その前提として「何に着眼して何を書くのか」「自分自身の想いをそれに乗せて表現する」ことは極めて重要であります。前者は、組織だって系統立てて指導することが可能でしょうが(ただし、最後に述べるように日本の作文技能指導は現状に於いても諸外国の指導と比較しても十分な状態とは言えないと考えます)、後者は系統的に指導することは決して簡単ではないと存じます。しかし、当時の先生方は、そのこともまたを子どもたちに丁寧に伝えたのに違いありません。出来上がった作品が論より証拠となります。まさに「内容」としても優れた作文になり得ております。
それでは、基本的な確認作業から。明治以降の学校で、国語科指導の中で作文指導が如何に位置付けられていたのかを時系列でみてみましょう。併せて、民間における作文の在り方への考え方等にも目を向けて探りたいと思います。その際、申し上げておかねばならないことは、当方は社会科教師であり、国語科の指導の動向については全くの門外漢であります。作文指導が教育史のなかで如何なる位置付けとされてきたのかについても、詳らかにできる能力もございません。あくまでも俄か仕込みの聞きかじりを基に述べますので、誤りも多いかとも存じます。もしお気づきになることが御座いましたら、遠慮なく御教示を賜れればと存じております。
そもそも、「作文」を学校で教えることが明確に定められたのは明治以降のことであります。近世の寺子屋では、文字の読み書き、あるいは定型となる書面の書き方等を学ぶことはあっても、自由に思いを連ねるような意味における作文を書かせることはありませんでした。明治以降の作文指導について、まずは「小学校令」(戦時下は「国民学校令」)に記載された当該指導について、政府が如何に位置付けていたかを時代を追って確認してみます。以下、菅原稔の論文「戦後作文・綴り方教育史研究―昭和22年度・昭和26年度「学習指導要領」公刊当時の状況を中心に-」2015年(岡山大学大学院研究科研究集録)を紹介する形でそれらについて述べてみたいと存じます。戦前における「小学校令」の文面におけるカタカナは平仮名に直し、適宜読みやすく文を整えております。
1. 小学校令[明治19年(1886)] 第十条 作文 尋常小学校においては仮名の単語 短句 簡易なる漢字交じりの短句漢字交じりの口上文 書類及日用書類 高等小学科においては漢字交じり文及日用書類 2. 小学校令[明治23年(1890)] 第三条 作文は読書又は他の教科目において授けたる事項、児童の日常見聞せる事項及処処世に必須なる事項を記述せしめ行文平易にして旨趣明瞭ならしめんことを要す 3. 小学校令[明治33年(1900)] 第三条 文章の綴り方は読み方又は……(※以後は明治23年令と同じ) 4. 国民学校令[昭和16年(1941)] 第四条 綴り方においては児童の生活を中心として事物現象の見方考え方に付訂適性なる指導を為し平明に表現するの能を得しむると共に創造力を養うべし |
ここからは、よく言われるように明治の作文教育は単なる範文を頭に入れるのみであったとの認識が、少なくとも法規上から見る限り正しくないことが分かります。むしろ、戦時下の国民学校令の内容からは、文言を整えて現代文にすれば、戦後の法令のようにも思えませんでしょうか。作文教育における「事物現象の見方考え方」の指導、「創造力」の育成等、戦後教育に連なる側面をもっていたこと(少なくとも理念上は)を看過してはならないと思います。また、「作文」なる用語が、明治末には「綴り方」と称されるようになっていたことも分かります。ただ、ここからは具体的に如何なる作文教育が実施されたか判然とは致しません。政府の方針としては、少なくとも、「表現技能」を高めることでも、「表現内容」に工夫を凝らすことでもなく、飽くまでも児童の「日用」「日常」に根差して(しかし「生活から必要以上に離れることなく」)「書く」ことが目指されていたと言うことでしょう。ただ、この後に触れる、大正期に民間から勃興する作文教育の改革の動きから判断すれば、明治期の作文教育では、相当に形式主義的な作文指導が行われて居た可能性が高いものと想像されます。
続いて、大正デモクラシーを背景にしながら国内の様々な場面から作文指導に意味を付与する動きが勃興するようになります。その動向は様々な側面をもっておりますので、一概に定義し難い面もあります。その代表的な動向が、歴史的に最も大々的に取り組まれた児童作文運動としての「赤い鳥」の取り組みであり(小説『桑の実』で知られる鈴木三重吉が主導した児童文学運動)、後にその反動ともいうべき「作文教育を文学者の手から取り戻そう」といった教師達の手によって主に展開された所謂「生活綴方教育」であったものと考えられます。前者は、子どもの純真な感じ方を大切にして自由に表現させる、云わば「文学的作文」を推奨したことにその指向性があり、後者は、作文指導において、子どもに自らの置かれた厳しい生活実態(現実の社会)に目を向けさせることに向かっていくことになります。いわゆるプロレタリア運動としての側面を色濃く持っていました。つまり、後者の言う『綴り方』とは、純粋な「作文指導」というよりも、「生徒(生活)指導」的側面が強く意識された活動であると申せましょう。従って、昭和の戦時下においては弾圧の対象となっていくことになります。ここでは、広島大学名誉教授である大槻和夫による整理に従って、「生活綴方教育」が多様な意味合いを持って使われてきた概要についてお掴みいただければと存じます。方向性は異なれども、何れも子どもたちの「表現内容」に偏重した作文指導の在り方と言っても宜しいかと存じます。
生活者としての子供や青年が、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで文章に表現すること、またはそのようにして生み出された作品を「生活綴方」といい、こうした作品を生み出す前提における指導、文章表現の過程における指導、作品を集団のなかで検討していく過程での指導、これらをまとめて「生活綴方の仕事」「生活綴方教育」あるいは単に「生活綴方」とよんでいる。この生活綴方の仕事を発展させ、その普及を図ろうとする民間の教育運動が「生活綴方運動」である。ただし、それについてはさまざまな考え方があり、まだ、一致をみるに至っていない。 こうした動きのなかから、1934年前後に、東北地方の青年教師らによって「北方性教育運動」が開始された。これに刺激されて地方的な運動や中央的な運動[たとえば、35年に『工程』を創刊した百田宗治(ももたそうじ)らを中心とする運動や、『綴方生活』などの運動]もしだいに質的な転換をみせていくようになり、生活綴方運動の本格的な展開が始まった。これらの運動は、やがて日中戦争の拡大を迎え、40年国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断されるに至った(40~42年にかけての、いわゆる「生活綴方事件」による検挙者は約300人に及んだ)。第二次世界大戦後、生活綴方運動は復活し、50年(昭和25)「日本綴方の会」が誕生(翌年「日本作文の会」と改称)し、この会を中心に活発な活動を展開しながら今日に及んでいる。 生活綴方運動は、その成立、展開の過程で深化と分化も進行した。たとえば、「綴方」という一教科にすぎなかったものが生活指導のための綴方指導に拡大されていった反面、それに対する批判も生まれた。また、東北地方の綴方教師たちの北方系または東北型と、北方性論批判派の、鳥取県の伯西(ほうせい)教育を中心とした南方系または西南型との分化も生じた。今日においても、生活指導と生活綴方との関係、生活綴方と教科指導との関係は、生活綴方によって子供たちの実感や欲求を引き出しながら、それをどのようにしてどこまで認識の世界へと踏み込ませていくことができるのかという実践と、教科指導において道徳や科学を子供たちの実感や欲求の世界へと踏み込ませていく実践との、両側からの接近が必要になってくるのである。 |
次に、戦後のGHQの統治下で策定された「学習指導要領」において作文指導がどのように捉えられているのかを見てみましょう。昭和22年(1947)の「学習指導要領国語科編」で注目すべきは、戦前までの作文指導が「書き方」「綴り方」という「方法(技術)」論とされていたのに対して、戦後の学習指導要領では「書くこと」「綴ること」といった表現に変わっていることです。つまりは、技術論としての作文指導に偏することなく、子どもの生活経験を踏まえた表現活動としての方向性が示されていることだと考えられます。更に、発達段階を踏まえた表現力の育成についても触れるなど、現在においても示唆に富む内容となっております。さらに、昭和26年(1951)の「学習指導要領国語科編」では、作文指導について極めて具体的に明示していることが注目されます。それが、「国語能力表」の存在に他なりません。これは「国語の様々な能力を、児童の発達段階に応じて、学年別に、一つの表として、組織、配列したものである」と説明されております。そのうちの小学校における「書くことの能力(作文)」の部分を以下に引用してみましょう(1・4・6年生分)。更に、論者の菅原がこれを評した部分も引用させていただきます。まさに同感であり、当方が付加することは一切存在しないからであります。
1年 | 能 力 | 継続学年 |
1 |
文字で書くことに興味がわいてくる。 | 1-2 |
2 | 簡単な口頭作文ができる。 | 1-2 |
3 | 自分で描いた絵に、簡単な説明をつけることができる。 | 1-2 |
4 | 家庭への伝言など、簡単なメモを書くことができる。 | 1-2 |
5 | 自分自身の行動や身辺のできごとなどについて簡単な文をかくことができる。 | 1-2 |
4年 | 能 力 | 継続学年 |
1 | 読んだ本について、その荒筋や感想が書ける。 | 3-5 |
2 | いろいろな行事についての標語や宣伝・広告の分が書ける。 | 3-5 |
3 | 見学、調査などの簡単な報告の文が書ける。 | 3-4 |
4 | ゲームの解説や作業計画などについて、説明の文を書くことができる。 | 3-5 |
5 | 児童詩をつくることができる。 | 3-6 |
6 | 物語や脚本を書くことができる。 | 3-6 |
7 | 多角的に取材して、まとまりのある生活日記を書くことができる。 | 3-6 |
8 | 文の組み立てを考えて、段落のはっきりした文を書くことができる。 | 3-5 |
9 | 敬体と常体との使い分けをすることができる。 | 3-4 |
6年 | 能 力 | 継続学年 |
1 | 映画・演劇・放送などについて、感想や意見を書くことができる。 | 5- |
2 | 自分の意見を効果的に発言するために、原稿を書くことができる。 | 5- |
3 | 自分の生活を反省し、文を書くことによって思索することができる。 | 5-6 |
4 | 読んだ本について紹介、鑑賞、批評の文を書くことができる。 | 5- |
5 | 学校の内外の諸活動に必要なきまりを書くことができる。 | 5-6 |
6 | 学校新聞を編集することができる。 | 6― |
この「能力表」に示された項目は、ただ学習者の能力のありようをとらえるだけのものではない。どのような事柄を、どこまで指導すべきか、指導の範囲、幅、内容、活動とともに、「書くこと(作文)」指導としておこなうべき具体的な観点、方法、目標までを示すものであり、今もなお、新鮮な価値と意味を持つものと言える。作文指導が、いわゆる技能主義、活動主義、行事・出来事主義に陥りやすいのは、この「昭和26年学習指導要領国語科編」の当時だけではない。今もなお、日常の平凡な生活の中での事柄をただ時間の順に羅列して書くだけの生活作文、あるいは、日常の生活とは異なる行事や出来事、あるいは特異な事件を「珍しさ」「驚き」を中心に表現する事柄・出来事作文が、圧倒的に多い。そのような中にあって、昭和26年(1951)に、すでにこれだけの「国語能力表」が示されたことは注目に値する。この「国語能力表」は、単なる「能力表」ではない。教師にとっては、「指導事項表」「指導能力表」であり、同時に、「取材指導観点表」、「構成(構想)指導表」、また、「指導事項表」でもある。ここに示されて何時多様な観点や項目の持つ意義や価値に、改めて目を向けたいものである。 |
そして、この4年後に千葉市の児童生徒作文集『ともしび』が刊行されたことに鑑みれば、この昭和26年に告示された「学習指導要領」との強い連関に想いを寄せざるを得ません。安藤操の語っていた作文指導の在り方・考え方とまさに通底するものが、ここに明示されておりましょう。更には、教師自身が戦前の教育で体験してきた「生活綴り方」からの影響もまた見逃すわけには参りますまい。つまり、千葉市における初期『ともしび』とは、大正デモクラシーにまで遡る「綴り方」と「戦後民主教育」として提示された理念、及び戦後教育の初期に目指された「学びの総合化」(例えば社会科が「コア・カリキュラム」とされたように)といった、教育の在り方のハイブリッドであるとも申すことができましょう。これら戦後の教育における息吹が具現化された作品そのものが、すなわち初期『ともしび』における基調を成しているのだと考えた次第であります。長い旅路の末に、初期の作品群から受け取る圧倒的な感銘にはこうした背景があることに辿り着きました。
その後、現在における作文教育が如何様に実践されているかを詳らかにはしえませんが、少なくとも、我が倅が東京都葛飾区立小学校に在籍していた頃に担任教師から受けていた作文指導は、「なんでも好きなことを書きましょう」という、まさに「丸投げ」に他なりませんでした。少なくとも、昭和26年段階における理念は全く継承されずに断絶していると感じました。夏休みの「自由研究」も同じ。如何なることに取り組めば「研究」として成立するのか、といった指導は一切なしで「好きなことを研究してきましょう」でありました。これでは、子供の如何なる力も育成できません。「子供がやろうとしている研究内容」を一人ひとり面接することで、より良いものにブラッシュアップしなければ学習活動にはなり得ないと、三者面談等で学級担任に意見してまいりましたが、一切活かされた例がありませんでした。従って、多くの家庭では、「子供」」自由研究にあらずして、「子と親」の、いや有体に言えば「殆ど親の自由研究」と化している為体というのが実態に他なりますまい。
最後に、作文の指導に関して、欧米の動向をお示しして稿を閉じたいと存じます。何故ならば、我が倅の実地体験を通じて、日本の教育界に於いて昭和26年学習指導要領の後に、組織だった計画的な作文指導が行われているのか疑問に思うことが多かったからであります。先にも申し上げたように、生徒の好きなように自由に書かせていて作文能力が向上することは、ほとんどあり得ません。慶松勝太郎の論文「我が国における作文教育の問題点」(LEC会計大学院紀要9号)によれば、アメリカでは、ハイスクール卒業までに正確・明晰・簡潔な文章を書く訓練が要求されており、「読むこと」よりも「書くこと」の授業に重点がおかれているとのことです。「アメリカの国語教育が目指すものは、様々な文章とその書き方を教え、それらを状況に応じて書き分けられるようにすること」であり、例えば小学校5年生の教科書には、「物語」「詩」「手紙(ビジネスレターと親密な手紙)」「説明文」「説得文」「写真エッセイ」「レポート」「インタビュー」「広告」「本の紹介」「自伝」「戯曲」の12の異なるジャンルの書き方が紹介されており、各ジャンルで特有の表現について繰り返し練習が行われるとのことです。また、フランスでは、初等教育では文法が学習の中心に据えられており、国語(フランス語)の内容は、「文法」「動詞の活用」「綴り方」「語彙」「文学活動(話す・読む・書く)」「詩」「演劇」の8項目に分けられ、書くための基本項目を徹底して身に着けることが目指されるとの事です。つまり、フランスでは小学校で文法的に「正しい」文を書くことが、中学校では「美しい文」を書くことが、高等学校では「論理的な構造」で書くとことといった、段階的な到達目標が掲げられ作文指導がされているとのことです。改めて、我が国が作文指導の在り方として学ぶべきことばかりであると考えますが如何でしょうか。
その点で、日本における現状の作文指導の位相とは如何なるものにありましょうか。社会生活において必要とされる作文能力が如何なるものかという、一貫した思想的な背景を基に作文指導がされているのか疑問です。また、その育成のために成長段階に応じた体系的・階層的な一貫した指導計画が組まれているのでしょうか。その何れもが素人考えに過ぎないかも知れませんが、我が国では十分に機能しているのか不安にも思われます。アメリカやフランスの教育の在り方に鑑みれば、作文に限らず、語ることも含めて欧米における表現能力に日本よりも一日の長があることを認めざるをえません。こと為政者の発言風景一つをとっても、語る相手と目を合せ「自身の言葉」で堂々と訴える、切々と語りかけるという点において、また、誰にでも伝わる一般的な用語を用いて訴えかけるという点において(やたらと英単語を差し挟んで相手を煙に巻こうとする安直さに鼻白むことが屡々であります)、大いに見劣りがすることは否めません。
今回は、生徒の眼がとらえた高度経済成長の展示となります。これを機に、作文指導(教育)の在り方、文章表現力についても思いを致すことを願ってやみません。関連講座で、青山学院大学特任教授の高橋邦伯先生から、作文教育の在り方についてのご講演を賜るようにお願い申しあげた背景に、かような思いがあったからに他なりません。是非とも関連講座も楽しみにされてください。ご参加には申し込みが必要です。現在応募期間であり、9月15日(水曜日)が申し込みの締め切りとなっております。お忘れなきように。お申込みの詳細等につきましては、本館ホームページにてご確認ください。
暦の上では季節は既に秋に移り、それから随分と経過しておりますが、現実にはその気配を微塵も感じることができません。しかし、あと1週間もすれば、夕暮れ時から鳴き始める蟲の声がかそけく聞こえてくることでしょう。「蝉しぐれ」も、けたたましいアブラゼミ・ミンミンゼミやチーという高い声のニイニイゼミから、夏の終わりを告げるツクツクボウシへと主役の座を空け渡す頃でもあります。もっとも、昨今は温暖化の影響により、本来は西日本を生息域とするクマゼミの関東への進出にも著しいものがあります(シャシャシャという暑苦しい鳴き声でそれと知れます)。先日もこの亥鼻山でも耳にいたしました。東国生まれ坂東育ちの当方としては、どこかしら豊臣勢力に圧迫されつつある小田原北条氏の感すら覚えて、正直あまりいい気持ちはいたしません。また、この辺りでは一切出会うことが叶いませんが、夕暮れ時のヒグラシの聲を耳にすれば、それが恰も行く夏への挽歌のように響きます。暑さはとことん苦手であり、秋冬が待ち遠しくはありますが、それでも季節の移り変わりは、どことなく寂し気な想いに誘われます。
さて、寂しさ(悲しさ)ということでは、去る7月22日に児童文学者の那須正幹(なすまさもと)さんが、お住まいのある山口県防府市で逝去されたとの報道に接したことも、私自身にとっては大きなことでありました。享年79歳。肺気腫であったそうです。那須さんと言えば、子供たちにとって忘れ難きシリーズ作品「それいけズッコケ三人組」で広く愛されていた作家の御一人であることは疑いありません。本作の第一作「それいけずっこけ三人組」は、昭和53年(1978)に世に出ており、平成16年(2004)の最終巻『ズッコケ三人組の卒業』までの26年間で50巻が、その翌年から続編として書かれた「ズッコケ中年三人組」10巻と、平成27年(2015)「ズッコケ熟年三人組」1巻の合計11巻をもって惜しまれつつ筆を措かれるまで、営々37年間にわたって書き続けていらっしゃいました。総巻数61冊を数える児童文学の金字塔とも申しあげることができるのではないかと存じます(もっとも、中年編・熟年編の11冊は児童図書ではなく一般図書扱いでした)。何よりシリーズ累計で2500万部を超える大ヒットとなったことがその証となりましょう。おっちょこちょいですが実行力のある「ハチベイ」、理屈屋の「ハカセ」、そしてのんびり屋で心優しき「モーちゃん」という、小学校6年生の3人組が繰り広げる冒険譚や事件を解決していく姿が多くの子供達の心を引き付けて止まなかったのだと推察いたします。確か、テレビシリーズにもなって人気を博したのではありますまいか。
当方の倅も子供の頃にお世話になっていたと記憶しておりますが、当方のような還暦前後の世代にとって、本シリーズに接する機会はございませんでした。個人的には初編刊行年は大学入学の年、最終編は中学校教員を定年退職する5年前となります。那須作品の読者のターゲットは主として小中学生であり、刊行期間の自分は最早ジュブナイルの読者層からは外れていたからです。勿論、その存在はよく存じ上げてはいたものの、残念ながら「ズッコケシリーズ」に接する機会はありませんでしたし、その他の作品についてもほとんど接して来なかったというのが正直なところでございます。そんな私が那須さんの御逝去の報に接して寂しさを感じたのには、他に大きな理由があるからに他なりません。
その理由のひとつは、那須正幹さんが昭和17年(1942)に広島市に生まれ、3歳の時にその地で被爆されていることに由来します。そのこともあり、彼はとりわけて平和の大切さを次世代に伝えることを責務とされ、著作活動にも取り組まれていたのです。勿論、原爆を題材とした作品の執筆にも力をいれておられました。中でも綿密な取材に基づいた子供向けの絵本『絵で読む広島の原爆』の評価は極めて高いものがあります。決して忘れてはならない作品のひとつであります。二つ目は、たった一度の機会となりますが、私自身が直接に那須さん御本人とお会いして、お話をする機会に恵まれたことにあります。今から20年以上も前のことです。以下、その想い出を中心に、那須さんの児童文学者としての目を見張るべき在り方について述べてみたいと思っております。
平成11年(1999)当時、私は千葉市立葛城中学校に奉職しており、第一学年の学年主任をしておりました。そして、地区内の学校が持ち回りにて担当する千葉市教職員組合執行委員として、たった一年間でありましたが勤務時間後の“組合活動”にも携わっておりました。その場で当方がその一員として関わった仕事が、教育実践情報誌「LEM」の編集であったのです。そして、偶々同年に特集記事として那須さんとの対談が企画されたのでした。勿論企画をされたのは上司にあたる方であり、当方は飽くまでも「その他大勢」の一人として参加したに過ぎませんでした。今思い出せば、“駄目元”で打診をさせていただいた那須さんと対談企画でしたが、正に「瓢箪から駒」の例えのごとく、とんとん拍子に話が進んで、それが実現することになったのでした。何でも、「ズッコケシリーズ」出版元ポプラ社の企画で、那須さんが市川市の公立小学校で児童たちとの交流会に出掛ける序でがあるので、その折に時間を割いて頂けることになったのだと記憶しております。編集者の方も同席することが条件でありました。
お会いするのが、数が月後の同年11月19日。しかし、当方はその時に至るまで、お恥ずかしながら那須さんの著作に一冊たりとも接したことがありませんでした。そこで、書店に走って当時40数巻ほどのシリーズとして刊行されていた「ズッコケシリーズ」中から適宜選び取った2~3冊を貪るように拝読させていただいたのでした。その題名が何であったか、その筋立てすら粗方頭の中から消え去っております。書籍は書庫の奥深くに入ってしまっており、今回探し出すことも叶いませんでした。しかし、その時に感じた思いは明確に記憶しております。作品世界から浮かび上がってきたもの、それは私自身の子ども時代を彷彿とさせる限りない懐かしさでありました。なんだ、そんなことかと思われるでしょうが、当時でさえも子ども達は仲間同士で連れ立って遊ぶことが少なくなり、自宅に巣籠もりしてゲームに夢中……、そんな時代でありました。ところが、作品から色濃く漂ってくる世界は、当方が子どもであった頃(恐らくそれは那須さんの子ども時代とも共通する世界観であろうかと思いますが)に、仲間同士で一緒に秘密基地をつくったり、みんなで水元公園に魚を捕りにいったり、自転車で何処まで行けるか“冒険”に出かけたりした、斯様な世界であることにとてつもなく驚かされたのでした。何故ならば、上記したように当時の子ども達にとっては恐らく縁遠い世界であり、こうした作品の子ども達が惹かれていることを不思議に思ったからに他なりませんでした。併せて、数少ない読書から感じ獲ったもう一つのことは、作品には大人の都合や大人の論理の世界とは無縁の、子ども達の世界が描かれているのですが、それらが決して大人と子どもの世界の対立関係としては描かれていないことでした。子ども達にとっての大人という存在は、必ずしも味方ではないけれども、中に見守ってくれている信頼に値する大人の世界が背景あることを強く感じとれた点にありました。大人の存在は決して作品内で表立つことはありません、しかし、大人が陰となり日向になり、三人組をはじめとする子供達の世界を仄かに覆っていることを感じとったのでした。
実際に、お会いした当時の那須さんは、3年後に還暦をお迎えになる御歳であり、頭髪はほとんど白髪の勝る胡麻塩でありました。しかし、至って闊達なご様子であり、こちらからの質問にもはきはきと明確にお答えくださる方でありました。そして御聡明さが言葉の端々に感じ取れたことをよく記憶しております。それは、以下に引用させていただく「LEM」の文面からも実感していただけるものと存じます。対談にはこちらから7名が出張ったのでしたが、皆さん遠慮されてあまり質問をされないので、自然と当方と那須さんとの対談のようになってしまいました。那須さんは、私のような若造の質問にも実に御丁寧にお答えをくださり、改めてその真摯なお人柄に強く惹かれることとなったのです。対談の中身につきましては、翌年(2000)5月刊行の「LEM Vol.5」に掲載されております。しかし、本冊子も今では誰でもが手軽に手にとることの叶わない状況にあります(千葉市教育会館にある千葉市教職員組合書記局にはバックナンバーが保存されております)。明日は、その時に那須さんからお聞きしたお話しについて、この場でご紹介をさせていただこうと存じます。教職員にとっては勿論のこと、子育てをされている多くの皆さんにも響く内容があると思っております。ただし、今から20年を遡る時代の話であることをご承知おきくださいませ。
(中編に続く)
今回は、対談を通じて那須さんがお話しされた内容をご紹介いたしたく存じます。まずは、作品を通して私自身が感じた「懐かしさ」を感じる由縁について。
皆さんには、現代の子どもを知っていると言われるのだけれども、僕としては、あの作品はかなり古典的な作品、いわゆる悪童物語というか、極めて古典的な腕白坊主たちの冒険物語ですから、それほど自分であの作品が現代の子どもたちにアピールするというものじゃないという気がするわけです。これは非常に傲慢な言い方になりますが30年前であってもおそらく子どもは読んでくれるであろうし、逆に言えば今から30年後経ってもあの子どもたち、主人公というのは、読者に受け入れられていると思っています。ですから、ことさら3人のキャラクターが今の子どもたちにアピールするものじゃないという気がするんですね。 |
つまり、時代に迎合した物語とはせず、飽くまでも普遍的な人間というものを頭に置いた展開をお考えであるとのことでございましょう。しかし、漫然とノスタルジーに浸った作品を書かれているのではなく、子ども達の変化も見逃しておられませんでした。
ズッコケを雑誌に座した最初の頃、例えば「文化祭事件」なんかを読んだ子どもたちは、自分たちの学校で自分たちだけで劇をしましたとか、「あやうしズッコケ探検隊」を読んで、イカダを作って海に出ましたとか秘密基地を作りましたとか、結構あの本が一種のアジテーションとなって、その本の通りをやったりと、現実社会でも様々な冒険をする子がいたんです。ところが、最近のファンレターには「三人組」は私のできないことをやってくれるから嬉しいとか書いてくるんですよ。今の子ども達は自主規制していて、せいぜい本を読んで、その中で「体験」しているんでしょうかね。その意味では、今の子はかわいそうだなという気がします。 |
そして、那須さんが「ズッコケシリーズ」の執筆を通して、子ども達に何を託そうとされているのかとの質問には以下のように答えておられます。
僕は主人公は最後に変わらなくちゃいけないという考えかたには疑問があります。確かに、人間というのは、劇的に変わることもあるし、勿論、肉体的に成長すれば大きく変わるのだけれども、変わらない部分もあるんじゃないかと思う。そこで、この主人公たちは肉体的にも精神的にも絶対成長をさせないという堅い決意をもって話を作ってきました。ずっと6年生のままでいこうと。また、ズッコケシリーズでは子どもの遊びの世界を物語にしようと考えたのです。僕は戦後小学校に入って、当時ですから物のない時代ですから、親は全く生活に追われていて、子どもの面倒はほとんど見なかったんですよ。学校だって56人クラスにいましたからね。先生も目が届きません。けど、子どもたちが自分たちで何でも決めて行動していった訳ですよ。そういう世界だったんですね。また、子どもの「時空間」の中には、学校の場と家庭の場と、もうひとつ子どもだけの遊びの場がありましたね。原っぱ、路地裏空間というのが僕たちの時代にはあったし、そこはもう子どもの論理の世界だった訳ですね。大人の論理は全く通用しない子どもだけの論理で、僕はその中で凄く成長したという思いがあったので、今はもう失われている子どもの遊びの世界だけで書こうと考えたんです。常に、子どもたちが自分で考えて、行動してそれが何らかの結果を出す。大人の介入しない世界を書こうと思ったんです。それとズッコケるって言葉を使ったのは、どんなに努力してもいい結果が出ない悲哀みたいなものを、結構今の子どもたちに感じるんですよね。僕らでも子ども時代、「あれだけ勉強したのにいい結果がでなかったなあ」という思いがありますよね。プロセスが評価されずに、全部結果だけで評価されるという、そんな見当外れのことをしている子どもたち。それをぼくはズッコケると表現したわけです。 |
何事においても、結果が優先される中で、子ども達が躓いたり、失敗する体験の悲哀と、逆にそのことを通じて人間としての幅が広がっていくことへの期待を込めて那須さんが作品を作り続けていることに大いに感銘を受けた次第であります。続いて、「子どもが変わったといわれるようになって久しいが、那須さんはそれを如何にとらえていらっしゃるか」との質問には以下のようにお答えでした。そのお話の中で、国語教育の在り方についても言及されております。
確かに変わった変わったというけれども、子どもの本質はそんなに変わっていないんじゃないかなと思う。もし変わったとするならば、いわゆる状況が変わっているんじゃないかと思う。子どもは素直なんですよ。戦前の軍国主義の華やかなりし頃には、押しなべて軍国主義少年少女であったろうし、我々は戦後の民主主義の中で、平和と民主主義を希求してきたんですよ。外側が変わってきている。そして大人がやっぱり変わったと言うことかな。つまり、昨日より明日が信じられなくなった時点がありますよね。60年安保の頃までは、昨日より明日が信じられましたね。明日は絶対良くなるんだと。そして、その60年代から70年代にかけて、日本の分岐点があったような気がします。そのへんから、僕は、もしも子どもが変わったということが言われるんだったら、その時代から大人も変わってきたし、大人が変われば子どもも変わって来たんじゃないかという気がします。子どもがキレるというけど、あれは大人がキレるんですね。大人が我慢できない。 今の子はコミュニケーションが下手になってますね。結局、表現力が無いんだね。暴れるしか自己表現ができないんですね。本当は、もっとしゃべってやればいいんだけど、ディスカッションの仕方も今の子は知らないし、表現力は非常に乏しいんだな。これはやっぱり生活体験が乏しいことから来ていると思う。今の子どもの生活は単調で、決まり切ったことの繰り返しでなかなか新しい発見か新しい体験をしていない。例えば、「海」という言葉をひとつとっても、僕は瀬戸内育ちですからのんびりした海を想像したり、暑い夏に「あっちいあっちい」といって水際まで砂浜を走ったり、あるいはこう体にベタベタした塩のついたちょっと気持ちの悪い感触ですとかね。海という言葉を聞いただけでもいろいろなイメージが沸いてくる。本当に海で遊びほうけた事のない子どもたちは、「海」という言葉を聞いてもそれほど頭の中にシーンが浮かんでこないんですね。今の学校の国語教育では、言葉の意味は教えても言葉の持つイメージまでつっこんだ教育というのはなかなかされていないと思う。言葉の意味さえ分かれば文章は理解できるかというとそうじゃないと思う。生活体験が乏しくなると言葉に対する感性が鈍ってしまう。 |
この後、那須さんは、このことが子どものコミュニケーションする言語の能力低下の原因であること、語彙の少なさ、言葉から広がるイメージの幅の狭さゆえに、子供同士の喧嘩のような場面ですら、「むかつく」やら「テメェ、締めたる」といったような、乱暴な決まり文句しか出てこないなど、言語感覚が鈍磨していることを指摘されております。また、当時は「総合的な学習の時間」導入の時期でもあり、子どもの生活体験の広がりを模索して子どもの「生きる力」を育成しようとする機運の高まりを意識されたご発言であったことと思われます。更に、教育現場での在り方に関して、学級人数を減らすことで教師によるきめ細かな指導を実現しようとする動向に対しての先生らしいご意見も伺いました。その中には、戦後初期にみられた教育動向としての「経験主義」と言われる「実際の経験の中から課題を見つけて真理に迫る」という教育思想の洗礼を那須さんもうけておられていることがわかり、興味深い物がございました。
僕は30人学級は本当によいのだろうかと考えてしまう。僕なんか56人学級でやってたから、先生はあてにならんという思いがある。数が少なけりゃいいってもんじゃない。とりあえず、ごった煮のおもしろさがある。30人学級によってゆきとどいた教育をということがよくいわれるけれど、教えやすい環境作りと学びやすい環境作りとは違うと思うんですよ。今やっている教育改革というのは、教えやすい環境作りであって、決して学びやすい環境作りではないんじゃないかと思うが、どうでしょう。学校の授業が分からないと子どもは学校がいやになりますよ。確かに、先生がマンツーマンでやればわかるようになるかもしれないけれど。学校というのはやっぱり子ども立ちが集団の中で共に学んでいくことが大事なんじゃないでしょうか。僕は1949年(昭和24年)に小学校に入学したんだけれども、そのころのカリキュラムでは漢字は648文字しか学んでいないですね。だから、ものすごいのんきにやっていたんですね。ゆっくり教えてもらえたし、ひとつずつ体験からイメージを作り、理解することができた。今の文部省が考えているゆとりというものが何をもってゆとりというのかがよくわかりませんね…。「中教審」に子どもが参加して、これは難しいから教えないでください、なんていうのはどうでしょうかね(笑い)。 |
最後に、那須さんは、教師(大人)と子どもとの関係性において意識すべきことがあると以下のように語られています。この時から20年以上が経過しておりますが、今日でも通用する傾聴すべき御提言だと私は思っております。それが「よい子ども作るのではなく、よい大人を作ることが教育の重要な機能である」とのメッセージに他なりません。皆様は、中編を通じて如何なることをお考えになったでしょうか。私は、那須さんとの対談を通じて、彼の中に脈々と息づく、戦後の初期教育の理念である、人間(その中でも特に子ども)への基本的な信頼感の存在、人間としての自立へ向かう志向、そして水平思考を垣間見る思いが致しました。
子どもに任せるところは任せるというスタンスが大切だと思うんですね。でも、それはすごく大変なことなんですよ。辛抱がいるんですね。大人の側に。そして、どこまで任せっきりにできるかというとこで大人が試されるところがあるんじゃないかって思うんですよ。僕は子どもの立場に立つという言葉が大嫌いでね。本当に子どもの立場に立てる訳じゃないと思うんです。教育という営みは、お互いの共有する立場を見つける作業じゃないのかという気がします。大人がわざわざ子どもの立場に立たんでもね。大人には大人の立場がありますからね。児童文学の世界でも、こっちの立場まで曲げて、子どもにサービスする必要ないし、僕はそこまでしないです。これは絶対難しい言葉で書かないといけないと思えば、難しい言葉で書くし、それは自分で意味を調べればいいことだし。 もうひとつ、僕は子育てという言葉が大嫌いで、子どもは育つもんで育てるもんじゃないかと思うんです。子どもを産むと言うけれど、生まれる物であって産むものじゃない。子どもを産むという意識の中には、非常に親の傲慢さがあって、逆に言えば産まないこともありうると。今の教育というのは、よい子をつくろうとするけれど、よい教育とはよい大人を作るということであり、よい子どもを作ることではない。よい大人を親も目指さないといけないし、学校の先生もよい大人を育ててほしいんですね。先生の言うことを聞くのがよい子なんてとんでもない。先生がいない時でもちゃんと判断できるのがよい大人なんです。そんなこと言ってたら、耳のよい子ばっかりになってしまう(笑い)。よい大人をつくるというスタンスでやっていきたいとものですね。でもなかなか良い大人がおらんようになって、よい子はあるかもわからんが、よい大人はだんだん減ってるんですかね…。 |
こうして、小一時間の那須さんとの対談は終了しました。終始にこやかに懇切丁寧にお話をされる姿に接して、正に至福の一刻を過ごすことができたことに感謝するとともに、何にも増してその誠実なお人柄に魅了されたのでした。その後も、那須さんの御活躍を傍目から注目をさせていただいておりましたが、だからと言って、その後に熱心に那須さんの近作を追ってみることもなく20幾余年が経過し、端無くも1か月前の訃報に接することとなったのです。人生でたった一度、しかもごく短い時間の邂逅ではありましたが、直接にお話を伺う機会を得て貴重なお話をいただきながら、その後の先生には不義理をしてしまったような、何とも後ろめたい思いに今更ながらに駆られたのです。その思いは、那須さんの死を悼む新聞記事に接する度に、自身の内部で大きくなるようにも感じたのです。後編では、新聞各紙に寄せられた心打つ那須さんへの追悼文をご紹介しながら、児童文学者としての那須さんのお姿、そしてその世界を越境されようとする果敢な精神の在り方をご紹介し、広い意味での「文学者」「教育者」としての那須さんの活動の裾野についても触れてみたいと存じます。
(後編に続く)
中編の最後に申し上げましたように、後編では朝日新聞と千葉日報に掲載された那須さんへの追悼文が印象的でありましたので、その内容をご紹介したいと思うのです。那須さんの作家としての、いや広い意味での教育者としての人間性を余すところなく掬い上げた内容に、自分自身が心打たれる思いであったからに他なりません。当方としましては、この場で少しでも那須正幹という児童文学者について皆様に知っていただき、かつその作品に接していただけるようになることが、那須さんへの「恩返し」「罪滅ぼし(?)」になろうかとも考えるのであります。
まずは、朝日新聞に掲載された追悼文から。7月30日に朝日新聞に掲載された、作家の辻村深月(つじむらみづき)さんの手になる追悼文です。辻村さんは、昭和55年(1980)に山梨県石和町に生まれ、千葉大学教育学部で学ばれた方でいらっしゃいますので、本市にも縁のある方でございます(なんでも千葉大に進学されたのは「ミステリ研究会」なるサークルがあったからと言いますが真実や如何)。平成24年(2012)に『鍵のない夢を見る』にて、第147回直木賞を受賞された気鋭の女流作家でございます。追悼文で取り上げていらっしゃるのは、代表作「それいけズッコケ三人組」シリーズから、最も辻村さんが愛してやまない『ズッコケ文化祭事件』なる作品です。辻村さんが本作に出会ったのは小学校5年生の時であったそうです。その時、「読み進めながら、子ども心に『ええっ?』と衝撃の連続だったこと」を今でも鮮明に覚えていらっしゃるとのこと。本作については、当方も拝読しておりませんので、辻村さんの御案内に従って、当作品から辻村さんが受けた感銘について御紹介をさせていただきましょう。
ハチベエ、ハカセ、モーちゃん。いつもの三人組のクラスで文化祭に劇を上演することとなり、彼らはその脚本を近所の住む童話作家に依頼する。作家は自分が思う「子どもらしい」劇の脚本を仕上げて渡すが、受け取った子どもたちは勝手にあれこれアレンジしてしまう。主人公の三兄弟は「みんな男子なのは男女差別」と女の子も加わり、彼らの親を攫う悪い「大魔王」は、社会問題として二ユースを騒がせていた「地上げ屋」へ。クライマックスのなぞなぞ対決は「幼稚園の子どもがやるみたいでおもしろくない」と、中味を片栗粉に入れ替えた消火器を使っての乱闘シーンへ。 作中、自分の脚本を勝手に変えられ、怒り狂う童話作家に向け、ハチベエたちの担任・宅和先生がこう告げる。「あんたは、じぶんの心のなかにある子ども像をこわされるのがこわい。そうじゃないですか。」子ども時代、誰しも皆、一度くらいは「子どもなんだから」「子どもらしくない」という言葉を聞かされて育つ。今ここにいる等身大の自分ではない、大人が思う「子ども」の枠にはめられ、そのようにふるまわなければならないと繰り返し言われることで、そういうものだと知り、ある種の諦めのようなものを抱くように、その時の私もなっていた。 この本を読んだときの驚きと感動は、だからこそ凄まじかった。「大人」の中にも、自分たちの理解者がいる。那須先生の本はどれもそうで、「子ども」をあんなに描きながら、主人公たちのことも、読者の私たちのことも決して「子ども扱い」しない。だからみんな、大好きなのだ。
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那須さんと直接対談される機会のあった辻村さんが、「ご自身ではどの本が一番印象に残っていますか」の問に対して、那須さんが挙げられたのが『ズッコケ家出大旅行』、だったとのこと。これを読んで、「那須正幹先生のところに行きます」と書置きして家出をした子どもがおり、警察からは、もし来たら保護してください」と頼まれたことがあったとお話になられたと言います(すぐに無事に見つかったそうですが)。そのことについて、辻村さんは続けてこう述べています。
その子どもにどんな事情があったのかはわからない。だけど、その話を聞いて、私はその気持ちが痛いほど分かった。周りの大人がみんな敵だらけに見えて信頼できない気持ちでいた時、この本を書いた人のところへ行けば、きっと救ってもらえると思ったのだろう。那須先生は本を開けばいつでも出会える。私たちにとって、「信頼できる大人」の象徴のような存在だった。
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辻村さんの追悼文は、自分自身が20年程前に那須さんとの対談を控え、採るものも取りあえずに拝読した「ズッコケ三人組」から感じ取った読後感と図らずも軌を一にしておりました。成長期の子どもにとって「信頼に値する大人」にたった一人でもいいから出会えることが、その子どもの成長にどれだけプラスに働くか、そして那須さんの作品は、子ども以上に、大人にそう在るべきことを指し示してくれているように思うのです。決して子供に迎合するのではなく、時に子供にとって耳に痛いことであっても、それを見て見ないふりをしたり、胡麻化して済まそうとせず、人として何が望ましいことかを理を尽くして伝えようとできる大人こそが、この時代には取り分けて求められるのではないかと思っております。こうした、三人組を遠巻きにして見守っている大人の存在、その安心感が那須さんの「ズッコケシリーズ」に通底していることを私自身も実感いたします。
そして、自分自身も教育者の端くれとして、たとえ欠陥だらけであろうと、在るべき姿を目指して生きていくことを自らの矜持としてきたことを思いだして、深い感慨を覚えた次第であります。「信頼に値する大人」とは、何も真面目腐って持論を滔々と述べることでも、自らの信ずる正義を振りかざすことでもありません。人間としてのより良い在り方を模索し続ける大人なのだと思います。どんなに繕っても、そういう人か否かは子どもはすぐに嗅ぎつけます。その意味で、子どもたちほど、恐ろしい鑑定者はおりません。因みに、よく保護者の皆さんには、それはできれば両親以外に存在していることが望ましいと伝えてきました。身近にいる血のつながった者同士だと、どうしても水平な目線で子どもと対峙することが難しいからです。岡目八目で子どもと対することのできる、子どもが信頼できる大人であることが望ましいのです。それは、学校の先生でも、離れて田舎に住んでいる御爺さんや御婆さんでも、隣家の年嵩のお兄さんお姉さんでも、近所の叔父さんでもよいのです。勿論、子どもが一目置けたり、尊敬できる何かを持っている人であることが必要です。
続いては、千葉日報に寄せられた宮川健郎(みやかわたけお)さんの追悼文から。宮川さんは、昭和30年(1955)に東京都生まれの児童文学研究者であります。武蔵野大学名誉教授であり、日本児童文学会の会長でもいらっしゃいます。共編著として『ズッコケ三人組の研究』全3巻1990・2000・2005年(ポプラ社)がございます。ここで宮川さんが取り上げていらっしゃる那須さんの作品の一つが、『ぼくらは海へ』1980年(偕成社)なる物語であります。当方も宮川さんの紹介で本作の存在を始めて知りました。そして大いに興味を惹かれ早速購入して一読に及んだのでした。本作品の主人公たちは、瀬戸内海沿岸の街に暮らす小学校6年生の仲間でありますから、あの「ズッコケシリーズ」と同学年の物語であり、物語の舞台もほぼ共通しております。しかし、そこで那須さんは紡ぐ子ども達の群像物語は、同じ作者のものとは思えない程に異質な世界となっています。少なくとも、その読後感は「爽やかさ」「晴れ晴れした思い」とは程遠いものであります。おそらく、「ズッコケシリーズ」の読後感を期待されて読まれた方は、いつまでも後味の悪さが残る作品だと思いますし、反発する思いすら抱かれるかもしれません。こうした作品を、「ズッコケシリーズ」開始の2年後に並行して書かれていることに驚かされました。しかし、同時に20年も前の対談で、那須さんが語っていらした「どんなに努力してもいい結果が出ない悲哀みたいなものを、結構今の子どもたちに感じるんですよね」というご発言に思い至ったのです。私自身は、決して子供達の生きている現実は夢物語でもないし、その未来が明るく開かれているとは限らないこと、それを描くことは児童文学の世界を越境することになるかもしれない。しかし、筆を執られたことに児童文学の新たな地平を切り開こうとされた、そのような精神の飛翔を感じて感動をさせられました。本作を世に問うことは、当時であれかなり勇気のいる構想ではかなったかと思うのです。そのことは、宮川さんが書かれている以下の文章から御理解いただけましょう。この作品の主人公たちは、誰もが表面に見えている世界とは異なる、満たされない心を抱いて悶々とする日常を生きています。それは、思春期を迎えようとする子供達が一様に抱える大人(親や教師)への不信感であり、大人の論理への反発に他なりません。そして、そこに濃厚な死の気配すら漂っているのです。しかし、子供の世界が美しく純真だけの世界であるとは、自らを振り返るだけで正しくないことは、誰でも思い至りましょう。こうした児童文学を越境しようとされた作品が那須さんには他にもあると言います。是非とも接してみようと思っております。
那須正幹の長編児童文学『ぼくらは海へ』は、小学校6年生たちの夏の物語だ。彼らは、受験や家庭崩壊に直面している自分たちの心の中の何かを投げ込むように船づくりに熱中する。やがて、2人が、その小さないかだで海へ出てしまう。そして、ひと月たっても帰らない…。60年前後に出発した日本の現代児童文学は、子どもを巡る問題は必ず子どものエネルギーで克服できるという理想主義に基づいて書かれていた。那須は、困難な現実を逃れて船出する少年たちを描いて、問題は必ず乗り越えられるかどうか分からないという前提に立った。これは、子どもの読者を少し自由にしたのではないか。
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更に、宮川さんは、那須さんが「ズッコケシリーズ」の筆を措いたことの背景にも踏み込んでおられます。因みに、平成16年(2004)『ズッコケ三人組の卒業』でシリーズを50巻で終了させた際、那須さんは「私の作品と、現在の子どもたちとの間に溝を感じたから」と述べておられているそうです。そして、平成27年(2015)に『ズッコケ熟年三人組』をもって「それゆけズッコケシリーズ」の全幕を降ろされた那須さんへの想いを以下のように述べて追悼を締めくくっておられます。その話題は「熟年編」後期にある那須さんの言葉から始まっております。被爆者のお一人として、心から平和を希求されてきた那須さんの矜持を見る思いがして、背筋が伸びるように思わされた次第であります。遅ればせながら、私自身も先生の作品を紐解くことで、那須さんがこの世界に残した願いを噛みしめたいと思っております。そして、現実には二度と叶うことのない、あの時の先生と再会したいと願うものであります。先生、安らかにお休みください。
「もしかすると、「戦前」となるかもしれない時代に、とても三人組の物語を書き続ける気にはなれない」とあった。この年、安全保障関連2法が成立している。後書きを読み直しながら、99年夏の広島を不意に思い出す。3歳で被爆した那須さんの生家の跡から平和公園まで、那須さんと一緒に何人かで歩いたのだ。児童文学研究者の石井直人と私が編集した『ズッコケ三人組の大研究2.』のグラビアの準備中だった。那須には『絵で読む広島の原爆』などの作品もある。7月22日、那須正幹さんが79歳で亡くなった。那須さん、「ズッコケワールド」で存分に遊び、三人組とさまざまなことを考えたたくさんの子どもたち、元読者の大人たちは、間もなく76年になる「戦後」をきっと終わらせない。だから、どうぞ、安らかにお休みください。合掌。
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早いもので、来週からは9月の声を聴くことになります。猛暑続きであった夏も、流石に朝夕には秋の気配と匂いとを感じるようになりました。しかし、今年は梅雨の時期から大きなゲリラ豪雨があっただけでなく、8月の半ばにもまるで「戻り梅雨」のような雨続きの毎日で、日本各地に大きな被害の爪痕を残しました。しかし、本来であれば、これからが台風の季節の到来となります。まだまだ警戒を緩めることはできません。当方のような東京下町の住人にとって、河川洪水の危機は決して他人事ではありません。特に、近隣の増水以上に恐ろしいのが利根川中流域の堤防決壊です。終戦直後の昭和22年(1947)9月に発生した所謂“カスリ―ン台風”では、15日午前0時頃に埼玉県加須市あたりで決壊した利根川が、関東平野を流れ下り、4日目に東京東部下町を直撃しております。葛飾区一帯もまるで泥海の如くと化し、我が家もその時に床上浸水したと言います。ビルなど存在しない時代ですから、家族は近所の微高地にある見性寺境内に蚊帳を吊って水が引くまでの数日を過ごしたと聞きました。その際、当時18歳前後であった亡父は、上流から流れてきた陶器の壺を拾ったとのこと。今でも後生大事に実家の床の間に鎮座しておりますが、素人の自分が鑑定しても全く価値のない代物だと思います。
地球温暖化に伴う気象変動に伴う、豪雨と内水面氾濫の危険性は今後数十年間で更に高まって行くことが予想されております。地球温暖化の抑制は、待ったなしの状況にあるとの国際機関の報告もありました。「脱炭素社会」への転換を推し進めながら、例年繰り返される豪雨被害に翻弄されるばかりではない、新たな河川整備計画を含む国土改造を推し進めるプロジェクトの推進が、今この時代にこそ求められているのではありますまいか。かつての田中角栄首相による「日本列島改造論」ではありませんが、防災国家の建設を目指すべく、「第二の日本列島改造」を提言するスケールの大きな政治家は最早現れないのでしょうか。もっとも、それは国土をコンクリートで覆い尽くす金儲けを主眼とする列島改造にあらず、自然保護・生物多様性との共存を図りながら、持続可能な国土計画をデザインする、壮大なる国家プロジェクトであることが求められましょう。
さて、本題の入る前にもう一つ時事ネタにお付き合いの程を。本年度に入った4月30日・5月1日にアップいたしました「館長メッセージ」[「国産ワクチン」の来し方・行く末と日本人の「ノーベル賞」受賞について-または「昭和遺産」と「技術立国」の黄昏のこと-]にて、昨今の日本の科学者による「自然科学3賞(医学生理学・物理学・化学)」受賞は、「昭和の遺産」であり、平成・令和の遺産として将来的に日本人が受賞する可能性は大いに低いものと予測されると申し上げました。併せて、何故斯様に考えるのかの根拠についても縷々述べさせていただきました。過日、それが更に加速化していることを裏付ける記事が新聞各紙で報道されておりましたので、ご覧にならった方もいらっしゃいましょう。それは、世界において、「科学者に数多く引用される注目される論文数」ランキングに関する報道であります。その筋の専門家から引用される論文とは、それだけ「注目すべき価値ある内容」であることの証明となるのです。「科学技術指標2021」によると、これまで一位を独走してきたアメリカを中国が抜き去り一位となったこと(中国が、アメリカの37,124本を大きく凌駕する40,219本に)、イギリスが8,687本で三位、以下続けて四位ドイツ、五位イタリア、六位オーストラリア、七位カナダ、八位フランス、九位インド。我らが日本はどこに位置付いているかと申せば、3,787本で辛うじてトップ10の末席を汚すまでに降下しているとの報道でございます。僅か20年前には、我が国が4位に位置づいていたことに鑑みれば、国際的な自然科学分野における貢献度において、日本の凋落ぶりは著しいと言わざるを得ますまい。同時に中国の驚異的な躍進振りに驚かされます。様々なご意見はございましょうが、これはそのまま上昇気流に乗る中国の国家状況を反映している数値かと存じます。記者は、この原因を以下のように分析しておりますので、引用をさせていただきましょう。
(日本の)低迷の要因の一つは研究者数の伸び悩み。年間の博士号取得者は米国が年約九万人、中国は年約六万人だが、日本は約一万五千人。右肩上がりの米中に対し、日本は2006年以降は減少傾向にある。また、日本では多くの大学が研究費不足に悩んでおり、教員がさまざまな業務に追われるため研究に打ち込む時間も削られると指摘されている。
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前稿では、あと20~30年後にノーベル賞自然科学分野での受賞者に日本人が名を連ねる可能性は大きく後退するだろうと書きましたが、その傾向は更に加速化している実態にあることが明らかになったと申せましょう。改めて申しあげますが、日本人の現在の受賞の殆どは、基礎研究に手厚い資金が投じられていた「昭和の遺産」によるものに他ならないのです。我が国の現状は、大学・企業共に、研究者が研究費の工面に汲々としている状況に陥っているのです。その体制を根本的に見直し、研究者が基礎研究に邁進できる環境を早急に整えなければ、日本の凋落は早晩訪れましょう。頻繁に申しあげますように、当方は、行きすぎた“ネオリベラリズム(新自由主義)”の当然の帰結であろうと思っております。研究者になっても就職先すら見つからず、立場の不安定な時間講師に甘んじざるを得ない環境下では、熱心に研究に取り組もうとする意欲すら湧いてきますまい。場合に拠っては日々の生活にすら事欠く“オーバードクター”がどれ程いるのかを思えば、誰一人研究者になろうとも思わないのが自明の理でありましょう。それがどれだけ我が国の将来に禍根をもたらすかを、政権も企業も危機意識を有して政策に反映することが求められましょう。最早相当に手遅れかもしれませんが、今手を打たなければ日本の黄昏はより早まることは間違いないと考えます。
さて、ようやく本題に入ります。今回は高度成長期に変貌する千葉市域の海についての話題とさせていただきます。当時の子供たちは変わりゆく海の姿をどのように見ていたのでしょうか。また、千葉市域の埋め立ては如何なる目的で、どのような経緯で進められていったのかを追ってみたいと思います。まずは、幕張海岸の埋め立て当時の児童生徒の作文(文集『ともしび』掲載作品)を、それぞれ一遍ずつご紹介させていただきます(小学生のものは後編)。これら作文は、特別展の第一章冒頭で掲示もさせていただいております。図録も含めて抜粋としておりますが、会場で配布する別紙史料には、以下に引用するのと同様に全文をお示ししております。幕張中の一年生女子の手になる文章は、何度読んでも心の奥底にまで染み渡る名作だと、私は思います。正に当時の子どもの心を代弁するような揺れ動く心情が吐露されております。また、それを断ち切って、明るい未来へ目を向けようとする決然とした思いにも打たれます。
「うめたて」 幕張中1年 女子
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(後編に続く)
前編に引き続き、文集『ともしび』から、もう一作をご紹介させていただきます。本作は当時千葉市立幕張小学校の5年生であった児童作品です。
「なくなる幕張海岸」 幕張小5年生 男子
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前編と上記の2作品の舞台となる幕張町は、昭和29年(1954)に町村合併により千葉市域に入ることになりました。2つめに挙げた作品中に、田中角栄総理大臣の「日本列島改造論」「中国訪問」のことが触れられておりますので、昭和47年(1972)の作品であることが分かります。その翌年、第四次中東戦争を契機にする「オイルショック」が惹起することで、経済成長に冷や水が差されることになりますから、まさに高度成長「イケイケどんどん」の最末期、未だ天井知らずの経済発展に社会が邁進していた、最後の輝き呈していた時期と申せましょう。千葉の象徴ともいうべき、東京湾東岸に広大に存在した遠浅の干潟は、臨海部に居住する市民にとっては漁業(貝・魚・海苔養殖等)をはじめとする生業の場であり、東京方面から潮干狩等々で脚を運ぶ名所でもありました。稲毛から千葉へ向かう海岸線には季節になると納涼や海水浴を目当てに来葉する保養地でもあったのです。文化人が別荘を営む正に“白砂青松”の地でした。
しかし、子供たちにとっては、何よりも格好の遊びの場に他なりませんでした。その海が日に日に消えて行くことを、子供達は一様に悲しいこととして綴っております。女子にとっての貝殻集めや海藻を用いてのままごと遊び。男子は貝殻遠投(!?)、そして男女ともに楽しんでいた魚介類の採取や海水浴等々、海こそが子供たちにとって無尽蔵の遊びを提供する場であったことが分かります。目の前にある宝の海を奪われることへの限りない哀惜の想いに心を打たれます。一方で、海を生活の舞台としている家庭の子供たちの中には、自分の家の生計が今後どうなっていくのかに不安を抱える内容も見ることができます。幼いながらに将来の家計に不安を致す姿も健気であります。しかし、その一方で埋め立て後の生活への希望や、子供らしい解決策の提案などを読み取ることができます。これを書いた児童生徒は、恐らく現在は当方と同じ60歳前後の年齢でございましょう。その後も更に大規模な変貌を遂げていった千葉市。その姿を今は如何にとらえていらっしゃるのかをご本人にお聞きしてみたいとの希望もございます。それにしましても、作文からは、子供たちと海との心理的な距離の至近さと親密さ、そして何よりも掛け替えのない場としての熱い愛情を実感します。当方は、教員生活最後の4年間を埋立地にある高浜中学校で過ごさせていただきましたが、生徒たちからも地域の方々からも、海と分かちがたく結びついて日々の生活が営なまれていること、また海の存在を身近なものとして意識していらっしゃることを、正直申し上げて微塵も感じることがありませんでした。勿論、作文で海のことを話題にする生徒もありませんでした。その意味において、現在では人と海とは全く疎遠になってしまった、いや、それ以上にほとんど意識の外の存在となってしまったことを、上記の作文を読むたびに思わざるをえないのです。縄文から一万年もの間連綿と続いてきた、千葉市のおける人と海との親密な関係性は、高度成長期を境にするたった数十年のうちに雲散霧消してしまいました。
今更にはなりますが、埋め立て前の千葉市の海岸線は現在の国道14・16号線のラインとなります。タモリ(森田一義)も推薦される名著、貝塚爽平『東京の自然史(増補第二版)』1979年(紀伊國屋書店)によれば、東京湾東岸(千葉県側)の自然海岸線はほぼなめらかであり、その海岸線から1km~2kmは潮間帯と推進1~2mの浅海であり(俗に干潟と言われる場所です)、その場所は埋立前には浅蜊や蛤等の貝類の格好の漁場でありました。千葉市南方の市原市青柳の地で多く水揚げされたことに因んで、バカガイの足のことを寿司ネタで「アオヤギ」と、当地に因んだ一般名詞として呼称されていることはご存知でございましょう(同様に検見川が主産地であったことから、かつて東京の寿司店では赤貝を「ケミガワ」と呼びならわしていたとの書きものを目にした記憶があるのですがどうなのでしょうか)。それだけ魚介類の名産地であったのです。また、上でも触れたように、その地では東京湾西岸からは遅れて始まった海苔養殖が広範におこなわれる場でもありました。干潟に無数に立ち並ぶ「海苔ひび」や、冬季に収穫した海苔を刻み、漉いて板状にして天日干しにする光景は、正に千葉の海岸線の冬の風物詩でもあったのです。これも上記いたしましたように、千葉市の海岸線は、海を臨む景勝地として保養地、海水浴・潮干狩、釣人の集う場として、所謂“行楽地”として賑わってもいたのです。以前に述べたこともありますが、かつてはアオギス釣りのメッカであり、警戒心の強いアオギスに気づかれないように建てられた、太公望の脚立が潮間帯に林立する光景が夏の風物詩の一つであったと言います。埋立前の京成電鉄の広告にも「釣り案内」が頻繁に取り上げられておりました。残念ながらアオギスは東京湾では絶滅しております。また東京湾名産の天麩羅ネタであったマハゼも年々その数を激減させ、今では高級天婦羅ネタと化しております。その主たる要因が、埋立による砂地の浅瀬(干潟)の消失にあることは動かすことのできないところでございましょう。このあたりのことは、本展の関連講座第3回目にお話を賜る工藤孝浩先生(あの「サカナくん」の師匠であります)に是非ともおうかがいしたいところであります。因みにこの浅い海底は、水深5mの等深線を境として急な斜面となり、そこから水深10mまで下がっております。東京湾北部(本牧・富津ライン以北)では、この深度急変部斜面の下部以浅の底質が砂であり、以深は泥となっているのです。つまり、後に千葉市内の東京湾臨海部埋め立てが行われることとなる干潟は概ね砂質で構成される場所であったことになります。だからこそ、脚立を立てることができたり(泥質の海底であれば脚立は潜ってしまいます)、海岸線に日本初の民間飛行場の滑走路が立地可能となったのです。勿論、後に述べるように埋立にも最適な環境でした。
何れにいたしましても、埋立以前の東京湾東岸の干潟・浅瀬が生命の揺り籠として、豊富な食糧の供給源として、縄文人以降のこの地に暮らす人々の生活をささえていたことは疑いありません。縄文期の日本の人口の約半数が東京湾岸に集中していたと考える研究者もいるほどです。それだけの食を支えるだけの豊穣なる海が東京湾であったと言っても決して過言ではありません。そして、そこに住む生き物たちの営みは、東京湾の水質浄化の機能をも担っておりました。子ども達の作文は、勿論こうしたことを意識して書かれたものではないと思われますが、それでも自分たち人間と分かちがたく結びついてきた大切な海へという存在への、そしてその海が人の手で消失させられていくことへの、無意識のオマージュとして捧げられた一文だと信じて疑いません。いや、もしかしたら失われゆく海へのレクイエムなのかもしれません。
この豊かな海が埋め立てられていき、地域の姿が急速に変貌していった経緯については、本稿と同タイトル『子供の眼に映った高度成長期の海の変貌-臨海部「埋め立て」と消えゆく豊穣の海「東京湾」―』(2)として、次週に述べたいと存じます。
先週の(1)では主に埋め立てられる前の千葉の海を中心に述べて参りました。引き続き同タイトルとなる(2)では、本稿では千葉市域の埋立が、実際のところ如何なる目的で、如何なる経緯を経て行われていったのかについて述べて参りたいと存じます。以後は、千葉市史編纂委員でもいらっしゃる高林直樹「京葉臨海地域の開発 ―千葉市海岸の埋立と造成-」2020 年(『千葉いまむかし』33号)に多くを負いながらのご説明とさせていただきます。本稿は、その要約とも申しあげるべき内容となりますので、興味をお持ちになられましたら、是非とも『千葉いまむかし』33号をお求めになられてください。更なる深い御理解を頂けるものと存じます。
まず、千葉市域の埋立・造成の基本的なアウトラインについて、高林氏が冒頭で簡潔に纏めていらっしゃいますので以下に引用させていただきます。こちらで主として戦後における千葉市域埋立の目的・経緯の概略を「総論」として御理解いただき、それに引き続いて、各局面における動向について「各論」として御理解いただけるようにして参りたいと存じます。
東京湾の千葉県側は、対岸の京浜地区が明治のころから埋立が行われ工場が立地していたのと比べ、塩田開発のための小規模な干拓しか行われなかった。米と芋と鰯しかなかったところに、戦後は近代的な重工業がプラスされ、日本で五番目の工業地帯が出現することとなった。こうした急激な工業化は、一方で公害を引き起こし、非公害型の企業誘の誘致がおこなわれるようになった。さらに、経済の高度成長による急激な東京への人口集中を分散させるため、政府は千葉市を有力な住宅供給地の一つとして期待するようになり、加えて千葉市に衛星都市としての機能を持たせ、新都心の建設をになわせることとなった。こうして、住宅地として予定されていた幕張の埋立地に、新都心が建設されることになった。 |
千葉市域の埋立は、上記引用史料中にありますように、実際には既に戦前に始まっております。都川河口の出州周辺の規模の小さなもの、及びその南岸にあたる蘇我地先の大規模なものとなります。後者は昭和15年(1940)年12月に千葉市が埋立を開始し、海軍の後ろ盾を得て60万坪が埋め立てられました。その地には日立航空機が進出し、昭和19年から機体とエンジンの製作が開始されました(複座の零戦練習機の製造)。しかし、昭和20年(1945)6月10日、本工場を標的にした米軍機の空襲(海風の影響で爆弾が陸側に逸れたため、工場自体への被害は軽微であった反面、住民の居住する蘇我地区に甚大な被害をもたらしました)を受け、その後間もなくの終戦により日立航空機千葉工場は撤退します(終戦後に農機具工場と製粉工場として一部を使用)。
戦後のGHQ統治下、昭和24年(1949)税制に関するシャウプ勧告が出されました。これにより、地方税は市町村優先主義が採られ、県税は事業税、入場税、遊興飲食税等に限られることになります。その結果、現在の県民税が復活する昭和29年(1954)までは、県の税収不足は極めて深刻であったと言います。そこで、千葉県は事業税増収に力を入れざるを得なくなりました。それこそが、従来の軍都・消費都市から、生産都市への脱皮を図る根源的な要因となります(第一次産業から第二次産業を中核とする産業構造への転換)。その意図に基づき、千葉県・千葉市は上記した日立航空機跡地への企業誘致を画策することとなります。しかし、多くの企業に誘致を持ちかけたものの全て不調に終わります。大消費地である東京に至近、労働力も豊富に存在、なおかつ東京湾に面する広大な土地という輸送面でのメリットがあるにもかかわらず。その要因は、偏に港湾と電力不足にあったといいます。その時の千葉市長こそ、高度成長期市政の舵取りを担った宮内三朗に他なりませんでした。そうした苦境の中で、その誘致に関心を示す企業が現れました。その企業が西山弥太郎率いる「川崎製鉄(以後“川鉄”)」であったのです。この経緯については別稿にて述べようと思いますので本稿ではここまでと致しますが、千葉市制施行100周年記念漫画『百の歴史を千の未来へ』に収録される「日本の高度成長を支えた鉄人」(作画:アマットル・キナ)に平明に叙述されておりますので是非ともご覧いただければと存じます。漫画中には宮内市長も登場しており、川鉄進出前後の千葉市と川鉄の考え方等について御理解いただけると思います。本館・市政情報室にて1冊200円で販売しております。
結果として、川鉄は日立航空機千葉工場跡地に進出することになり、昭和28年(1953)6月に第一高炉が完成。その後、更に埋立地を拡張し最終的に第六高炉までの建設が行われました。第一高炉に灯が入れられる直前、市民による大歓迎の下、未だ川鉄専用港の状態にあった千葉港に初めて1万トン級の貨物船「高栄丸」が接岸しました。その時、5.500トンの鉄鉱石が搬入されたことは「千葉の夜明け」と称され、千葉市の戦後復興を象徴する出来事ともなっております(特別展では「千葉ポートタワー」よりお借りした精巧な「高栄丸」模型を展示しております)。こうして、農業・水産業を中核とした千葉市の産業が、工業化によって大きく様代わりしていく幕が開くこととなったのです。併せて、川鉄の千葉進出の条件として示された電力の確保のために、東京電力の火力発電所誘致を要請し、川鉄の南側に12万坪の埋立を行い、その地への進出が決まります(その際に蘇我漁業組合との漁業権を巡る埋立反対闘争も発生しております)。この埋立・造成は千葉県がこれを行い、進捗状況に応じて東電が県に支払ったとのことです。「東京電力千葉発電所」は、昭和32年(1957)4月に1号機を運転開始、2年後に4号機の運転開始により、総出力は60万kwとなりました。
こうした産業構造の大きな変化に伴い、千葉県・市の経済状況も好転していくなど、市民もその恩恵を受けるようになります。蘇我小学校[明治6年(1873)福正寺に今井小学校として開校。昭和22年(1947)年に蘇我小学校に改称して新校歌制定]、蘇我中学校[昭和27年(1952)開校、昭和31年(1956)年校歌制定]、そして千葉大学教育医学部附属小学校[昭和41年(1966)第一附属小と第二附属小が統合し現在ある西千葉に移転、同年新校歌制定]等の各校歌には、何れも「黒い煙」が栄える街の象徴であることを旨とする歌詞が歌い込まれていることに注目したいところです(以下に2校校歌の当該部分だけをお示ししましょう。特別展では全歌詞を展示しております)。正に高度成長期という時代像を反映している歌詞内容と申せましょう。しかし、一方で、このことが日本全国の工業地帯で「公害」という社会問題を引き起こすことに繋がったことも御存知の通りです。我らが千葉市も例外ではありませんでした。これにつきましても別稿にて述べたいと存じます。
蘇我中学校校歌(部分) 作詞 勝 承夫[昭和31年制定]
千葉大学教育学部附属小学校校歌(部分) 作詞 吉村比呂詩[昭和41年制定]
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さて、千葉県の台所事情が戦後の税制改革で極めて厳しい状況にあったこと、それ故に重工業化を計った企業誘致による事業税の確保を目指したことは先に申しあげたところです。しかし、そもそも、千葉の海岸線に工場用地の埋立・造成がされなければ企業は進出しようがありません。当時の千葉県は埋立事業を推進するための財政に事欠く状況にあったのです。そこで、この苦境を解決する方策として編み出されたのが、所謂「千葉方式」なる方法です。これは、公用水面埋立法に基づき、県が埋立免許を取得しますが、実際の埋立・造成・漁業保証等の費用は予め進出予定企業が県に納入し、完成後に各企業に工場用地を予約分譲するという、県にとっては到って都合の良い方法でした。この方式は昭和32年(1957)年から開始されます。この手法により、県財政を圧迫することなく、土地造成と企業誘致とを一体化して進めることが可能となったのです(江戸時代に幕府が江戸前の海を大名の屋敷地として配分、大名は自費でそこを埋立・造成することで屋敷地として確保するというパターンがあったとそうですが、その手法をヒントにしたのでしょうか)。先にも述べたように、千葉の海は遠浅の砂地でしたので、埋立工事は、事前に埋立予定地を枠で囲み込み、周囲の浅瀬を構成する砂地を浚渫船で掘り上げ、太いパイプを通して海水諸共埋立予定地枠内に流入させる方法が採られたのです(海水だけを排出すれば引き締まった砂地の地面ができあがります)。これにより、逆に砂地を掘り採られた海底の水深が深くなることで、大きな船の入港も可能になるという一石二鳥のメリットが生じることになったのです。その際に利用された浚渫船の模型も特別展では展示してございます。ただ、その代償に、干潟の砂地を生息域とする生物の生育環境が滅失したことは言うまでもありますまい。
これまで述べて参りましたように、川鉄・東電の進出と併せて取り組まれたのが千葉港の整備に他なりません。何故ならば、中編でご説明したとおり、千葉の自然海岸は1~2km先まで水深は1~2mの砂地からなる浅瀬であり、到底重工業化に伴う喫水の大型船舶の入港など不可能な海岸環境にあったからに他なりません。近世の五大力船や押送船等の小型木造船ですら、引き潮の際には接岸することができず、満潮時に河川が干潟に形成した溝、あるいは人工に掘った溝[共に「澪(みお)」と称します]を用いて接岸せざるを得ない状況にありました。鉄鉱石等の搬入、製品の搬出には到底利用できるものではありません。そこで、上記の如く千葉港造成のために掘り取られる大量の砂を、同時に新たな埋立地の造成に利用することにしました。こうして、千葉港の拡張は「千葉港中央地区(出洲地区とも)」と呼称される埋立事業と併せて実施されることになったのです。しかし、新たに生み出された150万坪の埋立地は、千葉市中心地と至近であることから、商業地・住宅地・都市施設等の公共用地としての用途も期待されることになりました。そうなると、商・住宅地は工業用地と異なり細分化せねばならず、これまでの「千葉方式」での事業実施は難しいと判断されました。そこで、昭和38年(1963)、千葉県と三井不動産との協定が取り交わされ、埋立造成費の三分の二を三井不動産が、残り三分の一を千葉県が負担し、出資比率に応じて造成地の配分を受け、それぞれが売却することになったのです。この埋立・造成方法は出州海岸から始められたため、地名に因んで「出州方式」と呼称されます。因みに、現在に至るまで、千葉市に限らず東京湾岸の埋立とその後の開発事業に三井不動産が深く関わっている歴史的背景はここに存しております(東京ディズニーランド、ららぽーと、プレミアムアウトレット、海浜幕張地区の開発等々)。その結果、出州地区の埋立造成工事は、昭和39年(1964)から昭和46年(1971)にかけて行われ、併せて千葉港の拡張整備が進められました。既に昭和29年(1954)に関税法上の「開港」(外国船入港と実際の貨物輸出入が可能な貿易港)に指定されていた千葉港は、昭和40年(1965)年に国内における重要な国際港を意味する「特定重要港湾(2011年より国際拠点港湾に改称)」に格上となります。そして千葉市役所が昭和45年(1970)に現在ある埋立地に移転、新官庁街が形成されることになりました。更に、現在本館の入る所謂「千葉城」の建物もまた、こうした動向と無関係ではないことを付記させていただきましょう。本館は、千葉市観光課所管の「千葉市郷土館」として昭和42年(1967)に建造されました。本建築の建造に深く関わられた現在80歳を越える千葉市役所OBの先輩のお話によれば、宮内市長は、千葉の地形は平坦であって千葉港へ入港するための目印(近世で言えば「日和山」にあたるもの)が見あたらないことを問題視。特定重要港湾としての千葉港を象徴する記念碑的建造物の必要性に鑑み、決して見誤ることのない近世城郭風天守閣建築を建造することを意図されたとのことであります。
千葉港を挟んで、川鉄・東電の北にあたる当該埋立地には、日本住宅公団による計画戸数6.000戸に及ぶ幸町団地が建設され、昭和44年(1969)から入居が開始されました。また、川鉄公害の問題を受けて、非公害型企業の誘致が行われることとなりました。昭和39年(1964)に千葉県開発庁(昭和49年から千葉県企業庁)・三井不動産・食品会社11社での用地分譲協定書が締結され、その結果、この地には「千葉食品コンビナート」が形成されています。大型船が直接接岸して小麦の陸揚げを可能とする岸壁・サイロ(現在特別展会場に千葉共同サイロ株式会社からお借りした精巧な模型を見ることができます)、製粉工場、砂糖・油脂を製造する工場、それらを原料として製パン事業を行う「ヤマザキパン」が進出するなど、関連工場施設が一同に集結するコンビナートとなるのです。昭和44年(1966)には、京成電鉄の現「千葉中央駅」海側の線路沿いに存在して戦前から水飴や澱粉を製造していた「参松工業」もこの出州地区に移転しております[平成16年(2004年)をもって事業を停止し撤退しました]。
後編では、本日述べた埋立事業の後、千葉市海岸線を北へと伸びる埋立事業について、事業目的の変化を時代的な要請の変化に基づき述べて参ろうと存じます。
(後編に続く)
後編では、出洲地区(千葉港中央地区)の北西側に展開する「千葉市北部地区(稲毛地区・検見川地区・幕張A・B・C地区)」埋立事業について述べようと存じます。先に皆さんにご紹介をいたしました、幕張小・中の児童生徒の作文は、まさに当該地区の埋立についての思いを綴ったものに他なりません。後編は、高度成長期終焉以降の現在までの内容に及びますが、本市「埋立事業」全容をお示ししておきたいと存じます。
この地域の埋立は、戦後早い時期に海岸地先の比較的狭い範囲で実施された、「旧稲毛地区」「旧幕張地区」がその嚆矢となりましたが、これらは、当初において戦後の厳しい食糧事情の改善に向けた「農地確保」が目的とされていたのです。しかし、その頃千葉県は京葉工業地域造成を計画しておりましたので、目的を農地開発から工場用地確保に転換して埋立を継続することとなりました。しかし、昭和40年(1965)代に入ると、経済成長にとともなって増加の一途を辿る、東京圏労働人口の受け皿(住宅事情問題解消)としての機能が求められるようになるのです。それに伴って、東京の周縁部にあたる千葉県内でも50万人規模を受け入れるための住宅が必要であるとされました。こうした社会的要請に基づき、千葉県(当時の知事は友納武人)は三度目となる埋立の目的変更に到ります。それこそが、昭和40年(1965)に発表された、臨海部埋立地と内陸部台地上への大規模ニュータウン造成事業に他なりません。一方、この計画は乱開発を未然に防ぎ計画的な都市計画を推し進める目論見を有しておりました。その方針の下、都市工学を専門とされる東京大学井上孝教授のまとめた「千葉海浜ニュータウン計画」が昭和42年(1967)に完成します。その内容は、貨物線として計画された京葉線の旅客併用化、駅周辺に高密度住宅(高層マンション)建設、その周辺部に中低層住宅(中層マンション・戸建)を配置するというものでした。この計画を基に、千葉県は昭和43年(1968)に「海浜ニュータウン計画」を立案し埋立事業を推進することになります。これにともない、稲毛・検見川・幕張にて漁業で生計を立てていた方々の漁業権は全面的に放棄となり補償が行われました。その結果、縄文時代以来の長い歴史を誇る、漁業なる生業は千葉市から姿を消すことになりました。まさに、児童生徒の作文の語るところに他なりません(ただ、子供の作文にはこうした漁業補償のことは触れられることはありません。流石にこうした生々しい金銭の遣り取りを大人は子供には伝えなかったのではありますまいか)。
以下、「海浜ニュータウン」の埋立の経緯について、高林さんの論文に従って概略を追ってみたいと存じます。まず、黒砂水路以北の「稲毛地区」の埋立・造成について。この地は、昭和44年(1969)から千葉市が主体となって埋立が行われました。これは上記した戦争直後の「旧稲毛地区」埋立を千葉市が担った経緯に由来するとのことです(他地区の埋立主体は全て千葉県となっています)。全体の竣工は昭和51年(1976)となりますが、その間の昭和47年(1972)からは整備の進んだ高洲地区から入居が始まり、同年には当地季最初の高洲第一小学校と高洲中学校が開校。昭和48年(1973)には住宅公団高洲第一団地の入居が開始となっております。因みに、京葉線の西船橋駅と千葉港駅(現:千葉みなと駅)間の開通と「稲毛海岸駅」開業は遅れて昭和61年(1986)となります。従って、それまでの13年間は、当該地区から電車を利用するにはバスで総武線幕張駅まで出る必要がありました(もっとも至近となる稲毛駅は駅構内が狭くバス発着場所を確保できなかったため)。
次に、草野水路以北「検見川地区」「幕張地区」の埋立・造成についてとなります。「検見川地区」は昭和45年(1970)年から埋立が開始され、竣工は稲毛地区と同年の昭和51年(1976)でした。また、花見川以北となる「幕張地区」では、まず自然海岸に近い「幕張B地区」が昭和49年(1974)に竣工。両者ともに戸建を中心とした住宅地として造成が行われました。続く「幕張A地区」は昭和53年(1978)年から埋立開始、竣工は同55年(1980)年です。本地区も当初は計画人口95.000人の住宅地として開発の予定でした。しかし、昭和43年(1968)に政府が打ち出した、都心への一極集中を是正するための衛星都市の整備方針を受け、千葉県が昭和48年(1973)年に作成された「千葉県第四次総合五か年計画」により、新たなる「幕張新都心構想」が打ち出されることになります。浜田川以北となる「幕張C地区」は昭和48年(1973)から埋立が開始され、昭和56年(1981)の竣工。こちらも、最終的に「幕張新都心拡大地区」として新都心としての一体的な開発が目指されることになります。幕張C地区は、バブル経済崩壊等で企業の進出が進まない時期が続きましたが、平成24年(2013)にイオンモールが進出。新たな開発が進められております。当該地区の利便性向上を目的とした、京葉線の海浜幕張駅と新習志野駅間に現在新駅が建設中であることは周知のことでございましょう。
以後は、高度経済成長期から外れた内容となりますが、埋立の全貌ということでお付き合いをいただければと存じます。「幕張A地区」における埋立地の活用として浮上した上記の「幕張新都心」建設について述べてまいりましょう。元来は海浜ニュータウンとして住宅地とする予定であったものが、社会的要請の変化に伴い如何様に変わり、その結果として現況に到っているかについて御理解いただければと存じます。「幕張新都心構想」が打ち出された昭和48年(1973)は、「石油ショック」により高度経済成長の時代が終焉を迎え時と重なります。このことは、必然的に新都心開発を巡る状況に大きな影響をもたらします。その結果、昭和51年(1976)、千葉県は新総合五か年計画を策定します。これは千葉県は幕張新都心整備計画について、これまでの中枢管理的業務機能誘致の再検討を進め、新たに教育文化機能の充実した新都心を目指す「学園のまちづくり」、市民に親しめる海岸線の利用を目指す「幕張の浜」構想が盛り込まれたものでした。こうした方向性の修正は、翌年の国土庁による第三次首都圏整備計画によっても後押しされます。そこでは、幕張地区を、事業業務に限らず教育文化・レクレーション・住宅機能をも有する都市として造成することが掲げられております。その結果、「幕張A地区」の開発は、まず文教地区の開発が先行して進められます。昭和55年(1980)から同62年(1987)にかけて、県立幕張三校、県立若葉看護学校(この四校は後に統合し幕張総合高校に)、渋谷学園幕張高等学校、昭和秀英高等学校、県立衛星短大、放送大学、神田外語大学、県立総合教育センターが開設されました。ただ、本地区の目玉とも目されていた、県議会が全会一致で決議した早稲田大学誘致は、競合関係にあった所沢市に軍配が上がり本地区への進出は実現することがありませんでした[昭和62年(1987)早稲田大学人間科学部として所沢市に開校しております]。
昭和58年(1983)、沼田武県知事の提唱による「新産業三角構想」が発表されます。これは、幕張の新都心構想に加え「上総新研究都市開発構想」「成田国際空港都市構想」とを併せて進めるというものでありましたが、中でも「幕張新都心構想」をその中核に位置付ける内容でありました。何故ならば、幕張の地が、首都東京と成田空港との中間に位置し、高速道路によって両地を密接に結ぶ立地にあるとの経済面での要地であることに期待が寄せられたからに他なりません。その中核施設として「メッセ」の設置が検討され、昭和62年(1987)に起工、平成元年(1989)にオープンとなります。つまり、幕張新都心は国際見本市・会議・交流事業会場としての「コンヴェンション機能」が付与されることとなったのです。更に、千葉県企業庁による幕張新都心計画に基づき、無秩序な開発が抑制する集団規定が作成され、ブロック毎の都市機能が定められました。それに基づき業務研究地区に平成2年(1990)24階のツインタワーが完成し先端企業100社が入居。更に海浜幕張駅を中心としたタウンセンター地区にホテルや商業施設のプレナ幕張がオープン。更に同年、県立幕張海浜公園の整備が進められた公園緑地地区に千葉マリンスタジアムが開場(翌年に千葉ロッテマリーンズの本拠球場)。そして、住宅地区では、平成3年(1991)千葉県企業庁作成「幕張新都心住宅都市デザインガイドライン」に基づく造成が行われました。その結果、バランスの取れたマンション群の建設が推し進められ、「パティオ」と称するヨーロッパを思わせる統一された街並みの居住区が完成。この住宅地は「幕張ベイタウン」と名付けられます。現在、本来は文教地区として予定されたものの、早稲田大学誘致が頓挫した結果、空地であった地への高層タワーマンション6棟の建設が進んでいます。令和元年(2019)から、今後15年をかけて建設と入居が進められていく計画とのことです。これから、幕張A・C地区の景観は大きく変貌していくことになりましょう(こちらにも三井不動産が関わっていることは言うまでもありません)。
最後は、高度成長期以降の動向を駆け足で見てまいりましたが、現状における「幕張新都心」として埋立・造成された本地区の機能は、県都千葉の中心街との関連性を殆ど持つことなく、東京都心と国内最大の物流拠点である成田国際空港との結びつきを核として、別個の歩みをしている地区ともなっております。そのことは、千葉市中心街と幕張新都心とを結びつけようとした過去の交通路線(バス等)が悉く頓挫していることからも明らかでしょう。つまり、千葉市中にあって、税収面での貢献は極めて大きいものがあることでしょうが、都市機能としては千葉市中心部との相関性は相対的に低く、別個に独立する中核都市となっている現状に他なりません。それが千葉市として望ましい都市としての在り方かどうかは議論の在る所でございましょうが、少なくとも埋立地として造成された「幕張地区」が、今や「新都心」として千葉市財政収入において、大きな比重を有する極めて重要地点となっていることは疑いのないところでございましょう。
以上、先週から今週にかけ4回にわたり、千葉市域の前に広がる豊穣の海「東京湾」のこと、及び戦後にその地で大規模に執り行われた埋立・造成について、その経緯と目的の変遷等を述べて参りました。長々しき内容にお付き合いいただきありがとうございました。ざっくりではありますが、千葉市内の埋立に関するビフォー・アフターについて御理解頂けることと存じます。埋立推移地図をご覧頂きながらお読みいただけると理解しやすい内容かと存じます。本館のツイッターには「特別展シリーズ」の一つとして当該推移図がアップされておりますので、そちらもご参照くださいませ。そして、高度経済成長期以降に千葉市の在り方(景観・産業構造・社会構造等々)が劇的に変貌を遂げたことも、海岸部の移り変わりからお掴みいただけたことと存じます。
最後に、改めて当時の子ども達が綴った作文に立ち戻って、大きく変貌を遂げようとしている高度経済成長期における故郷の海の姿に、児童生徒が込めた想いに触れていただければと存じます。感慨もまた新たになるものと信じてやみません。このような「非常事態宣言」下ではございますが、本館の特別展に脚をお運びいただき、併せて「展示図録」(1冊600円)をご購入いただけますと更に理解が深まること必定かと存じます。充分なる感染予防策をされた上、お越しくださいましたら幸いでございます。
世間一般では、大学などを除き各学校で夏季休業があけ、8月末あるいは9月当初から授業が再開される時期となりましたが、コロナ禍における「非常事態宣言」延長に伴い、本市においても授業時間短縮と下校時刻の繰り上げ(部活動中止も含む)等々の対応がとられております。また、本来であれば、これからの季節に開催されるであろう小中学校の体育祭・文化祭、高等学校における修学旅行等々、一生の想い出に残るであろう行事が、取りやめになったりするなど、子どもたちには気の毒としか言いようのない状況になっております。もっとも、コロナ禍は収まるどころか、更に猖獗を極めることにもなっており、これらも致し方のない判断かと存じます。誰かが言っていたように思いますが、「今は戦時だと思うしかない」のかもしれません。ただ、行政にも、国民にも、「どうにかなるのではないか」との不確かな根拠に基づく楽観的観測が蔓延しているように思えて仕方がありません。医療従事者・専門家の皆さんが強く訴える、その危機感が広く共有されないのは何故なのでしょうか。
早速の道草で恐縮でございます。9月5日(日曜日)にパラリンピックが閉会となり、様々な考えのあるなか実施されたスポーツの祭典が幕を閉じました。障碍のある皆さんの熱戦の数々は、人間の意思と可能性の広がりを我々に突き付け、多くの感動と勇気を与えてくれたように思います。特に、8月30 日(月曜日)朝日新聞で紹介されていた柔道(視覚障害)男子100キロ級に出場され、初戦で一本負けされた松本義和(59歳)さんの記事に心打たれた思いでございました。高校一年生の発症した緑内障により20歳で全盲となられた松本さん。親戚から「恥ずかしいからうちの前を歩くな」と言われたこともあるなかで、「絶対負けへんぞ。自分の力で生きていく」と決意。鍼灸マッサージ師の資格を取得するために入学した学校で視覚障害者柔道に出会われたといいます。のめり込んで取り組んだ結果、国内での優勝を勝ち取りますが本人は素直に喜べなかったと言います。「1位なのは諸視覚障害だからだ、と。全てを障害に結びつけて、後ろ向きになっていた」。そんな自分を帰ったのが「パラリンピック」の舞台だったとのこと。本パラでは、その後の敗者復活戦でも豪快な内股で一本を取られ2連敗で終わったとのことです。試合の後、ご本人は「何度も何度もくじけても、夢のために挑戦してきた。まあね、子どもたちに何かを感じとってもらえたらいいと思います」と少し照れながら笑われたそうですが、この記事を拝読させていただき、何とも爽やかな風が心の中を吹き抜けたような思いにさせられました。何故ならば、健常者と言われ我々にも「全てを何か(誰か)に結び付けて後ろ向きに」なることが多いと思うからに他なりません。ある意味では、誰もが、様々な限られた条件の中で生きているわけであり、「誰々が悪いから幸せになれない」「親が悪いから成績が伸びない」「コーチが悪いから野球が上達しない」等々、原因を自分以外位のものに転嫁して逃げてしまうことが(自分自身もですが)、間々あると思うからです。自分以外に原因を求めることは、自身を傷つけない最も楽な解決法でありましょう。勿論、何から何までを自己責任に帰すことは問題でありますが、松本さんの発言から、改めて自分自身に向き合わされたように思いました。
ただ、今回のオリパラでは、コロナ禍の下での開催といった問題の他に、報道でも殆ど言及されないことをも考えさせられたのでした。それは、以前に、ある五輪強化選手の後援会に参加して、当該選手を経済的に支援していた方からうかがった内容を思い出したからであります。つまり、五輪に出場するためには、国内外の大会に参加することが求められ、遠征費を含めて膨大な経費が必要であり、選手及びその家庭の負担だけでは到底賄いきれない金額であるとのことでした。そうかといって、外国のように公的資金による支援が乏しい日本では、周囲の人間が後援会組織を結成して、資金をかき集めて支援をしなければならない、一般人の厚意に支えられるお寒い状況にあるとのことでした。健常者によるオリンピックですらこの有様なのです。パラリンピックに参加するためには、競技にもよりましょうが、健常者を遥かに凌駕する経済的負担が求められることは論を待ちません。競技用具一つをとっても、一人ひとりの障碍に応じてカスタマイズされた特別な器具が必需品であり、当然のようにその負担は莫大なものになります。つまり、経済的弱者にとって、パラスポーツへの参加には高い障壁が厳然と立ちはだかっているのではないかとの思いを抑えること抱いた次第です。実際のところはどうなのか調査し尽くした訳では御座いませんが、五輪ですら上記のような厳しい状況にあるのです。突き詰めれば、パラリンピックに参加できる競技者は、障碍を持たれる方々中のほんの上澄みに過ぎなかろうと予想されます。実力の問題以前の「経済格差」の問題に大きく規定されていることを見逃してはならないかと存じます。その障壁を取り除き、参加を希望する全ての障碍者の皆さんが誰でもアプローチできる条件が整わなければ、経済的に恵まれた人たちだけのオリパラに他なりますまい。特に障碍のある方々に対しては、手厚い経済的支援という制度的構築こそが、本当の意味でのパラ競技の「バリアフリー化」に繋がるのではないかと考える次第であります。それこそが、オリパラ精神の具現化に他ならないと考えますが、皆様は如何お考えでしょうか。
本題に移らせていただきます。昨今、鉄道趣味は、当方が少年期の頃を遥かに凌駕する規模で広がっているようです。しかも、当方が少年であった時代のように鉄道を総体として愛好するのではなく、特定のジャンルを愛好するファンが少なくないなど、鉄道趣味も多様化・細分化しているようにも思えます。当方もよく知りませんが、すべての路線に乗車することを趣味とする「乗り鉄」、駅弁を食することを専らとする「食い鉄」、風景中に鉄道を取り込んだ写真作品を制作することを無常の喜びとする「撮り鉄」、NHK-BSで放映される六角精児出演番組のように車窓風景を肴に地酒を味わう「呑み鉄」なる種族までもが跋扈する、多士済々の在り様を呈しております。当方のような50年前に鉄道趣味から脚を洗ったものからすると、最早想像すら叶わぬ地平にまで至っているようにすら思われます。更に、一昔前に「鉄道趣味」と言えば、専ら男性の趣味であったのですが、昨今では「鉄女」なる新規ファン層も誕生しております。当方は、結婚前の独身時代に「鉄道好き」「釣り好き」であることを決して女性に伝えてはならない……と、年配女性から諭された記憶がございます。これら趣味は女性からは決して理解されないとの謂いでありましょうから、それだけ女性には縁遠い趣味(モテない男性たる重点要件)と考えられていたわけです。その意味では、昨今の動向はジェンダーフリーとして到って好ましいものでありましょう。それを思えば今や隔世の感すらあります。
一方、昨今は若い皆さんを中心に、所謂「御朱印」集めも人気だと耳にします。「御朱印」とは、元来「朱色の印」のことを言い、押印された公文書を「朱印状」と称することもあります(朱印状発行による幕府の認可状による江戸時代初期の貿易を「朱印船貿易」と称することもよく知られておりましょう)。しかし、昨今「御朱印」と言えば、寺社を訪れた参拝者が、幾ばくかを納付して発行してもらう一種の御札を思い浮かべるのが一般的でございましょう。多くの場合、朱印の上に寺社名や本尊・祭神等を筆書きすることから、斯様に呼称されるようになったものと思われます。各所で発行する御朱印を集める冊子が「朱印帳」で、昨今はそれを手に全国行脚するのが空前のブームともいえる状況であるそうです。「鉄女」のように御朱印集めに精出す「御朱印ガール」なる女性ファンの増加も著しいものと耳にします。
勿論、「撮り鉄」趣味も、「御朱印」趣味も、昨今俄かに沸き起こった訳ではありません。私が中学1年生の頃まで出かけていた鉄路では、三脚を立てて列車を撮影されている叔父さんによく出会いましたし、積極的に寺社巡りを始めた学生時分にも、学生仲間にも御朱印を集めている方々はおりました。しかし、それは「篤い」とまでは言えなくとも「信仰心」に根ざしておりましたし、「趣味」と言っては失礼にあたるものと認識しておりました。その点、昨今のブームである「御城印」なる“ポッと出”の流行とは訳が違います(「御城印」集めを趣味とされる皆さんに水を差すつもりはありませんが、如何なる意味があるのかは個人的に共感し難きモノがあります)。そもそも、寺社による御朱印の由来は、佛教大学で民俗学を研究する八木透教授によると「室町時代に写経を寺に納めた証として授与された納経印」が起源であり、本来は仏に対して「功徳を積んだ人間の証明」として渡されるものであったとのことです。私自身は、その折から今に至るまでかような嗜好はございませんが、朱印帳を拝見させて頂ければ、なかなか素敵なものだと感じることはありますし、朱印帳を紐解くことで心の安寧をおぼえる心情も理解できないわけではありません。鉄道写真でも芸術的な素晴らしい作品を拝見すれば、心躍るものを感じる次第でございます。しかし、昨今、加熱するブームが様々な問題を引き起こしているとの報道に接して、首をかしげざるを得ないことも多くなりました。後編では、そのことについて述べてみたいと存じます。
(後編に続く)
昨今、所謂“撮り鉄”なるジャンルの鉄道ファンを巡るトラブルを間々報道で接することがございます。入構を禁止されている構内や軌道内へ立ち入っての撮影、他人の敷地に立ち入るだけに止まらず、希望するアングルでの撮影のために私有地内樹木の恣意的伐採に及んだり、混乱を制止する駅員への暴言・暴力、撮影の邪魔となる一般人への罵詈雑言等々、枚挙に暇なきほどの過熱したファンの動向には、中一の頃まで鉄オタであった当方も呆れるばかりです。いい写真を撮りたい、他人などお構いなしに誰にも邪魔をされずに趣味に没入したいといった気持ちが分からないわけではありませんが、流石にかくも傍若無人な鉄道ファンに出会った記憶はございません。所謂“常識人”ばかりでありました。
以下は、時代が平成から令和に移り変わった頃の話題であり旧聞に属することとなりますが、当方にとって忘れ難き出来事でありますので、ここで取り上げさせていただきましょう。それは、東京は浅草寺の隣に鎮座する浅草神社で(隅田川に沈んでいた観音像を祀った功労者3人を祭神とした神社なので俗に「三社様」を称し、祭礼を「三社祭」と呼び習わします)、平成・令和の新旧元号入りの御朱印を数量限定で配布したときのことです。その「御朱印」を入手するために、途轍もない行列ができ、入手できなかった者が神主や巫女に「こっちはお客さんだぞ」と罵声を浴びせ、現場は大いに混乱したことが新聞報道にありました。しかも、この朱印状がネットオークションで5千円を超えて出品されており、神社としては転売を看過できないとして、三社祭で毎年配布していた特別な御朱印を取りやめたとも。また、別件でありますが、会津で白虎隊の墓守を続けている土産物店「飯盛分店」で、5代目墓守に当たる女性が一人ひとりの墓参者にあわせた御朱印を書いて渡していたが(一人10分以上かかる事もある)、「手際が悪い、何分かけてるんだ」と責められることが多くなったため書くことをやめたとのこと。しかし、改元にあたり予約制で再開したところ、今度は御朱印帳を郵送してきて「書いて返送して」という人が。更に、並ぶのが嫌だったのでしょうか、女性から「朱印帳を置いていくから書けたらホテルまで届けて」と言われたことも。代金の数百円は慈善事業に寄付していたが、こんな状態に呆れ「当分書くつもりはない」との決断をされたとありました。また、元号がわりに明治天皇を祭神とする明治神宮が発行した数百円の「プレミアム御朱印」にも10時間待ちの行列が。そしてついにはこの御朱印がネットで27万円にて出品されるまでになったそうです。実際には、これが1万円ほどで盛んに取引が行われていたと報道にはありました。
そもそも、前編に触れましたように寺社による御朱印の由来は、仏に対して「功徳を積んだ人間の証明」として渡されるものであったのです。ここからも最近の御朱印事情が本来の在り方から遠く隔たったものであることが分かりましょう。功徳とはほど遠い現代人の言動に、神仏もさぞかし目を丸くしていることでしょう。もっとも、江戸後期には既に宗教色が薄れ、参拝すれば誰もが手にできるようになっていたようです。しかし、先にも書きましたが40年前には今回の報道のような軽佻浮薄な状況は皆無であったと自信を持って言うことができます。
先述の如く、朱印帳を見ると達筆の文字と意匠化された朱印とが寺社毎に多様であり、それ自体が美しい作品集のようです。魅力を感じる人が多いこともよく理解できます。また、発行者(宗教法人)の事情に鑑みれば、御朱印が昨今の檀家数の減少に伴う経営難の救世主になっていることも分かります。私も、好きで御朱印を集めることや、それで寺社が潤うことに冷や水を浴びせるつもりは毛頭ありませんし、そんな権利があろう筈もありません。しかし、平然と傍若無人な振る舞いに及ぶ手合いには大いに苦言を呈したいところです。それは、何も相手が宗教団体であるから畏敬の念を持てといった類の話ではありません。現状において、御朱印が立派な経済活動として取引されている以上、その他商品と同様、取引自体をとやかく言うべきではないと思います。ただ、強烈な違和感は「俺たちはお客様だ」意識を基盤とした顧客の言動にこそあります。その昔、三波春夫の「お客様は神様でございます」なる決め台詞が一世を風靡しましたが、これは売り手が持つべき心構えをいったものであり、これを真に受けて「俺たちは偉い」と買い手が思うのだとすれば勘違いも甚だしいことです。そもそも「俺様意識」に基づく横柄な態度での取引は、本来対等な関係性を基盤に成立する資本主義経済の基盤を蔑ろにするものです。
江戸時代の「近江商人」が共有した商業訓に「三方よし」があります。三方とは「売り手」「買い手」「世間」を指し、商売は三者にとって「よい」ものであるべしという家訓です。売り手だけによい取引は、いずれ買い手からそっぽを向かれて永続しない。買い手だけによければ売り手を立ちゆかなくさせ買い手にも不利益となる。社会のためとの意識を忘れずに取引を行うことが世間の幸福に繋がる(江戸の街でも大商人は飢饉等で困窮する庶民救済に私財を投じました)。封建制の下でも斯様なる商取引のメンタリズムが存在しました。これに照らせば、上述の如き現代人の厚顔無恥はこうした倫理観の片鱗すら欠いていると考えますが如何でしょうか。お金を出せば何でも許されるという傲慢な消費者意識は、まさに天に唾する行為に他ならず、何れ自らに不利益をもたらすのです。後編では、「御朱印」が中心となり「撮り鉄」の件には殆ど言及できませんでしたが、ほぼ同様の精神構造に起因する問題かと存じます。ただでさえも、コロナ禍でぎすぎすした世界であるからこそ、こうしたことについて誰もが思いを致すことが円滑な社会生活に直結するものかと存じます。コロナ禍で、人々の怒りの沸点が低くなっている現況であるからこそ、極々当たり前であったはずの「倫理意識」が大切にされるべきであり、社会に求められる能力なのではありますまいか。
最後の最後に、本題から離れた寄り道をさせてくださいませ。少々長くはなりますがお付き合いください。過日朝日新聞の「天声人語」を拝読して初めて知って驚いたことがございました。論評士自身も最近知ったとされておりますので、おそらく多くの方々にとっても広く知られてはいないものと推察いたします。そして、このことは、前々回にも述べさせていただいた、昨今の我国における自然科学研究の在り方の課題を端無くも顕現していることだと思わされたのです。それこそが、現在のコロナ禍の下で、これ無くして日々の治療はなし難い“とある機器”を発明された方の話題です。その機器が「パルスオキシメーター」であり、この原理を考案した方こそ青柳卓雄さんという日本人技術者であることです。本機は、人差し指の先端に挟むだけで血中酸素飽和度が表示される到って利便性に優れた機材であります。この機器のお陰で採血しなければ判明しなかった血中の酸素飽和度が瞬く間に明らかにされることとなったのです。これが、どれほど画期的で、どれほど有効かは火を見るより明らかなことです。青柳氏は「新潟に生まれ、発明家になる夢を抱き、1971年に日本光電工業に入社。麻酔科医との会話がきっかけで、動脈血の酸素濃度を簡単に測れる装置開発の研究に打ち込まれた」との経歴をお持ちだそうです。徹底的に文科系頭脳の当方にはその原理がよく理解できませんが、動脈血だけの信号を取り出すことに成功し連続測定を可能にした技術とのことです。
しかし、「天声人語」によれば、この大発見にはすぐに光が当たったわけではなかったそうです。アメリカで麻酔中の酸欠事故が問題化した1980年代に有効性が理解され、企業によって相次いで製品化されることに繋がったと言います。つまりは、青柳さんの発見が極めて多くの人命を救ってきたことになります。青柳さんは、晩年までその改良に尽くされ、昨年4月に84歳でご逝去されたとのことです。そして、この功績を評価したアメリカの新聞各紙では長文の訃報が掲載されたそうです。そこには、その死を悼んだアメリカのエール大学名誉教授が、青柳さんをノーベル医学生理学賞の候補に推薦していたとの秘話までもが紹介されていたことも記されております。わが国では如何なる扱いであったのでしょうか。寡聞にして知ることがありませんが、それほど大きな記事として扱われていなかったと思われます。「天声人語」は、最後に「日本国内でももっと再評価されるべき発明であろう」とコラムを締めくくっていらっしゃいます。調べてみると、青柳さんは平成12年(2000)、パルスオキシメーター発明の功績により「科学技術庁長官賞」を受賞され、その2年後には「紫綬褒章」も受章もされていらっしゃるそうですが、これだけの方が国内ではさほどに広く知られておらず、一般の国民から、その功績に見合う敬意すら払われていなかったこと自体に逆に驚かされたのです。
ここには、当方がこれまで折に触れて縷々述べて参った、我が国の科学技術研究の課題が歴然と表出されていることと存じます。まずは、青柳さんの優れた業績が日本国内よりも、むしろ海外で高く評価され手厚い敬意を払われていたことであります。青柳さんは、活動の拠点を海外へ移されることをされなかったのでしょうが、おそらくアメリカで当該研究をされていたならば、今頃は世界的な大きな評価と、それに見合う経済的福利を享受されていたことでしょう。さらに、ここで強調したいことが、彼の画期的な発明が「昭和の遺産」であることです。これらのことを、我々日本人としてよくよく省みるべきことと存じます。地道な研究の継続こそが、将来における豊かな実りをもたらす、そんな恰好の事例ではありますまいか。目の前の利潤追求だけに汲々としているだけでは、子々孫々に美田を残すことは叶わないと思います。そうした研究者が公的に支援され、誇りをもってもらえる環境の醸成こそが求められているのだと考えます。
9月に入って10日余りが経過しました。今年は戻り梅雨が早めなのか、今月はじとじと天気続きで、結構肌寒い日々が続いております。例年9月当初と言えば厳しい残暑が続くのですが、彼岸前にどことなく秋の気配となっております。この亥鼻山周辺でも、夏の終わりを象徴するツクツクボウシの鳴き声も殆ど耳にしなくなり、秋の蟲たちの聲が賑やかになってまいりました。本原稿は9月12日(日曜日)に物しておりますが、昨日の帰宅時に宵の入となった街を金木犀の薫りが何処からともなく漂って参りました。ちょうど本館から池田坂を下って、智光院と胤重寺との間にある石畳を歩んでいるときでありましたが、改めて暦を確認した程、今年は随分と急ぎ足であるように思われます。例年は早くても彼岸の前後、遅い年は10月の声を聞いてからではありますまいか。これも異常気象の為せる業というものでございましょうか。季節感がどうにもチグハグになっているように感じます。帰宅後に、山の神も金木犀の薫りに出会ったと言っておりましたので、千葉市だけが特別な訳ではないようです。今朝新聞を開いた所にも「天声人語」に、昨日金木犀の香に今年初めて接したことを論評士が筆にとどめておられました。その中には、我々にとっての芳香は蝶や蜂には好まれていないようだとありましたが、本当でしょうか。確かに開花期の金木犀に虫たちが集まっている風景を眼にした記憶はないように思いますが、通常の場合、花は戦略として派手な色彩・芳香を発して虫たちを寄せて受粉の手助けをしてもらうのではないのでしょうか。そのあたりはよくわかりませんが、調べてみるとモンシロチョウなどに忌避される香であることが記されております。それでは一体誰のためにあのような香を発しているのでしょうか。ちょっと不思議な思いが致します。これも本日の記事で知りましたが、金木犀は中国原産であり、日本にある金木犀は全て江戸時代に雄株が渡来し、これが挿し木で国内に広まったそうです。つまり日本には雌株が導入されていないため自然の分布はないとのこと。本来であれば雌株に枸杞のような果実が実るとのことです。
さて、特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』の会期も残すところ1か月余りとなりました(10月17日まで)。その間に2回、特別展会期終了後に1回、合計3回開催となる特別展に関する歴史講座も開催されます。申し込みは一昨日(9月15日)に終了しておりますが、たくさんの皆様にお申し込みを頂きありがとうございました。1回目は10月2日(土曜日)に迫っておりますので、参加決定をされた方には早々にご連絡を差し上げますので、是非とも楽しみにされていてください。本館も歴史系博物館でありますから講演会の内容は、どうしても歴史関係の内容に偏ることは致し方がありませんが、歴史的な事象というのは、より複雑に様々な分野との関わりに置いて大きく規定されて生起しているものであります。とりわけ自然科学の知見はどうしても必要な視点であります。当方の偏愛する『ブラタモリ』の秀逸さは、対象を人文科学と自然科学との両面から切り取る点にありましょう。
その顰に倣い、今回の講演会講師の方も、高度計長期を様々な分野からの視点で分析していただけるご講演を構成しております。まずは、本館で担っております『千葉市史史料編(近現代)』編集委員長をお勤めいただいております池田順先生から、高度経済成長期の東京湾埋立造成事業の経緯を歴史的側面から(10月16日)、児童生徒の作文を窓口にして高度経済成長を扱った今回の特別展に因み、高橋邦伯先生(青山学院大学特任教授)から時代をとらえる作文指導の在り方と過去の歩みを巡って教育分野からの視点から(10月2日)、そして、特別展会期後の設定となりますが、工藤孝浩先生(本魚類学会)から、埋立で失われた東京湾の自然環境の特色とその再生の取り組みについて御専門とされる魚類を軸に自然科学の分野から(11月20日)、それぞれ当該時代像を切り取っていただこうと目論んでおります。本講演会は3回ともに「千葉経済大学」との共催事業として開催いたします関係もございまして、何れも千葉経済大学を会場とさせていただきます。3回目のご講演を本特別展会期から外しておりますのは、工藤先生のご講演が当該時期に千葉経済大学地域経済博物館で開催中の『令和3年度特別展「房総と海」』[【会 期】令和3年11月13日(土曜日)~令和4年2月5日(土曜日)]とも深く関連しているためでございます。当日のご講演の際には、当博物館で開催中の特別展も併せてご見学されていただければと存じます。
さて、今回は、高度経済成長を支えた働く人々の姿や在り様を記した子供たちの作文をご紹介させていただきます。章の冒頭に担当が述べているように、当時の人々の生業について記した作文は決して多くはありません。やはり、子どもは遊びの天才であり自らの日常の生活、特に保護者が収入を得ている仕事の分野へ向ける関心はさほど高くはなかったからだと思われます。特に、親御さんがサラリーマンであれば余計にそうでありましょう。しかし、自営業者の場合は、家族の仕事と子どもの生活圏とは相当にリンクしておりましょう。その数は決して多くはありませんが、親御さんの仕事を手伝っている印象的な作文がございました。更に、海辺から見た24時間体制で操業している工場群の風景から思ったこと等にも触れられた作品もございます。特に、過日述べさせていただいた海辺で働く人たち、そして海辺(埋立地)で展開される生産の在り様を記している作文が目につきます。それでは以下にご紹介をさせていただきます。是非とも子どもの想いに寄り添ってご拝読いただければ、高度成長期の伸びゆく日本の前向きな明るさに胸を打たれることと存じます。
『沖の配達』 末広中学校 2年 男子
全長10メートル、あまり大きくないが、頑丈さは格別だ。陸から配送できない時、この船を使う。 きょうは朝から忙しく、家族全員店の手伝いだ。夏休みで家にいた僕は、一番上の兄の助手として船に乗り込み、沖に停泊中の貨物船に荷を運ぶことになった。 晴れ渡った空には、真夏の太陽が輝き、水面はまぶしい位だ。 胸を躍らせて船に乗り込む。エンジンがかかった。10時30分。いよいよ出発だ。青い海の上をけたてて進む。実に気落ちが良い。エンジンは快調、一気に船だまりを出て千葉港にはいる。大きな船がゆったりと錨をおろしている。その間を通り抜けると赤燈台が見える。兄が「よし、スピードを出そう。」と言った。僕はエンジンのそばに行きレバーを引いた。すると、エンジンの音が、さっきより小刻みになり、スピードが加わった。「オーケー。」と、兄が満足そうに言う。右手にしゅんせつ船が見え、長いパイプが港の方まで尾を引いている。左手は正面岸壁で、レールの上の大きなクレーンが外国の荷を下ろしている。鉄の粉らしく、あげる度に黒い粉がたくさん落ちて、黒煙を挙げている。しばらくして赤燈台の堤防の上は釣りを楽しむひとでいっぱいだ。赤燈台を過ぎてからはブイをたよりに沖へ向かった。大きいだるま船が通ると、僕たちの乗った船はおもちゃのようにゆれる。赤燈台を離れて10分位たった頃、今まで見通しの良かった海上に、急にガスが発生しあたりが見えなくなった。どっちを見ても何も見えない。「どこかに千葉燈標は見えないか。」と兄が言う。千葉燈標を探すことにした。濃いガスが立ちこめているので、むずかしいと思ったが、わりあい簡単に見つかってほっとした。燈標は四本の支柱の上に立てられている。僕たちはここで、配達する船の位置を調べてもらう事にした。建物の下に入る階段の下は、カラス貝でまっ黒になっている。船をつけて建物のドアを開いた。中は思ったよりも広く、しかも2階になっているので驚いた。係りの人はひとりしかいなかった。兄はその人に船の位置を探してくれるように頼んだ。係りの人はさっそく信号所に問い合わせたところ、近くにいるということなので、灯標の望遠鏡を借りて探してみた。しかし、それらしいものは見えなかった。仕方がないので、しばらく灯標の中で休ませてもらうことにした。灯標の2階は円形になっていて、四方の見通しのきくガラス窓で囲まれている。室の中には大きな無線機や望遠鏡、探照灯がある。20分位たったころから、あたりのガスははれ始め、ぼんやりと目標の船が見えてきた。僕たちは係りの人に別れを告げて船に乗り込んだ。燈標をあとにして10分あまりたった頃だろうか、今まで静かだった海に風が出始め、海が荒れてきた。船が大きくゆれ始めた。僕はかじを握りしめた。エンジンはひるむ気配もなく快く回り続ける。「バッシャー、バッシャー」とたたきつける波の音と、エンジンの音がからみあってすさまじい。へさきが上下に大巾にゆれだした。波は、」グーと突き出たと見る間に、スーッとくぼみ、またすぐに突き上がる。 30分ほど悪戦苦闘したあげく、やっと目的の船に近づいたが、波にもまれて船体がぶつかりあってしまう。兄は船底から縄をつかむと、向こうの船に投げ込みしっかりとしばりつけてもらった。そして思いっきり引っ張った。兄の顔から汗がにじみ出し、見る間に流れ出した。やっと向こうの船に横づけすることができた。荷をバケツに入れて運び上げた。ビールを一本流してしまったが仕事は順調に進み、またたく間に終わってしまった。ほっとして気が付いたら、汗びっしょりだった。いよいよ帰り道だ。つなを解いて走り出した。行きとうって変わって帰り道は楽だった。ちょうど波に乗ったかっこうで、いちだんとスピードが増した。波の上をすべるように進んでたちまち千葉港に着いた。港は、沖のことなど何も知らぬげに静まり返っている。スピードを落としながら舟だまりに入り、橋の下に船をつけた。陸に上がってからしばらく足もとがふらついて変な気落ちだった。家について時計を見たら3時10分過ぎだった。畳の上にすわりこんだとたん、今まで忘れていた空腹感が、いっぺんにこみあげてきた。 |
一読して、何とも清々しい思いに駆られます。おそらく親御さんも配達で忙しかったのかもしれません。年上の兄と一緒に配達の仕事を頼まれて出かけた「沖の配達」。5時間にもわたる緊張感に満ちた仕事の体験と、それを成し遂げた喜びと満足感とが行間から滲みでてくるように生き生きと綴られております。中学2年生となった倅を信頼し、仕事を任せようとした親御さんの心情も垣間見えてくるような、高度成長期の夏休みの一齣に心打たれます。埋立前には、自然の海岸線には港湾施設は存在せず、漁をする舟は都川河口に舫っておかれておりました。過日の本館ツイッターにて都川河口でチャンバラをする高度成長期の子供達の写真をアップいたしましたが、対岸にたくさんの木造舟が写っていることにお気づきの方も多かったと存じます。埋立の際に整備されたこの「船溜まり」は、現在も京葉線の直下に存在しております。今ではその地に「T・ジョイ蘇我」なるシアターがありますが、電車からは、当時から続いていると思われる「(有)牧野船食」の店舗(この作文の主の店の可能性が高いと思われます)、「千葉船業協同組合」の建物を確認することができます。また、作文からは、「浚渫船」や長く尾を引くような「パイプ」の存在も見えており、埋立工事が正に進行中であったことにも気づかされます。正に、時代を写し取る極めて素晴らしい作品であると思います。後編でも高度経済成長期の子供達の作文を引き続きご紹介させていただき、併せて高度成長期の労働人口の移動がもたらしたであろう、社会の変化についても言及してみようと存じます。
(後編に続く)
前編に続いて、まずは高度経済成長期に書かれた生徒の作品(詩歌)をご紹介いたしましょう。ともに、昼夜を分かたず稼動し続ける埋立地に立地する工場の光景を描いたものです。本2作品はともに、昭和28年(1951)蘇我今井町の埋立地に進出した川崎製鉄(以後“川鉄”の略称で記載)の光景を描いた作品です。川鉄は、我が国で戦後初めて建設された「銑鋼一貫製鉄所」(原料となる鉄鉱石から鉄を取り出し鉄製品に到るまでを行程を一つの工場敷地内で連続して行うことのできる製鉄所のこと)です。同年に1号高炉への火入れ、そして昭和33年(1958)2号高炉への火入れと関連施設の設営により、一貫生産の体制を実現しております。最近では、海から工場夜景を鑑賞する船舶ツアーが流行りだそうですが、当時は夜中でも煌々と灯りをともして操業をする工場の光景は特異なものであったのだと思われます。誰もが日常の当たり前の光景は記録に残しませんから、それだけ珍しく印象的な光景であったものと思われます。
『川鉄工場』 蘇我小学校 4年 男子
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製鉄所が夜間も含めた24時間体制では操業を行うのは、何も注文がひっきりなしでフル操業しなければ生産が間に合わないからではありません。勿論、高度成長期のように輸出も堅調であったこの時期には、斯様な要因も大きかったでしょうが、「高炉」を用いて鉄鉱石から銑鉄を取り出す形式で行われる銑鋼一貫型製鉄所では、安定的に鉄を取り出すために、高炉を冷ますことが物理的にできないのです。つまり、一度火入れをしたら最後、本格的に改修するためか、役目を終えて火を落すまでは、延々と高炉を稼働し続けるしかないのです。従って、宿命的に製鉄所での労働は24時間勤務体制を組まなければなりません。当然、人間は寝ずに働き続けることは不可能ですから、三交代制での勤務シフトで勤務することになりました(8時間労働×3組)。一般的には、21日サイクルの三組三交代制を主体とした、各種の三交代制・二交代制が、作業工程の内容や繁忙期に対応して採用されておりました。恐らく川鉄も同様の勤務シフトを組んだものと思われます。しかし、それでも、製鉄に従事する労働は、真っ赤に熱せられた灼熱の鉄塊を目前にした肉体的に過酷な労働を続けることとなります。高度成長期には、イオン飲料などありませんでしたから、労働者は塩を嘗めながら水分を補給しながらの労働であったと言います。それだけ過酷な労働条件であったのす。そうした中で、三組三交代制では健康維持が難しいとのことから1970年からは、各製鉄メーカーで四組三交代制を採用することになったようです。
上記作品で小学校4年生の子どもが詩に表現した「あの炎の下で 今夜もおおぜいで 働いているのだろう」との内容は、その作者が蘇我小学校という川鉄膝下にある学校の児童であったことに鑑みれば、その親御さんは川鉄で働いていらした可能性が大きいのではないかと推察されます。その工場を夜になって見ている小学4年生の子どもは、どのような思いを本作に託したのだろうかと考えます。そのことを「誇る」気持ちと、どこかに「寂しさ」のような思いとが、この児童の内面で複雑に交差しているようにも感じ取れるのです。皆様は如何お思いになられましょうか。さて、以下の内容は、これまで述べてきたことと深く関係することではございますが、児童生徒の作品からは外れますので、少々気持ちを切り替えてお読みいただければと存じます。
川鉄が千葉市への進出を決めた条件の一つに、この地で豊富な労働力を得ることができることが存在しておりました。千葉市としても大企業誘致が成功すれば、結果として労働環境が整い、千葉市民の就業先となることで市民生活が潤い、延いては千葉市財政にも好影響をもたらすと皮算用したことは間違いありますまい。当然、川鉄も地元住民の雇用を推し進めました。これ以後の話は、当方が以前下宿していたアパートの大家さんからお聞きしたお話ですので、真偽の程は何とも申し上げられません。しかし、戦前から長く市内に住み続ける地元の方でありますので、当たらずとも遠からじではないかと推測されます。それは、千葉市地元から川鉄に就職した労働者の多くは、三校体制の厳しい労働条件に適応できず、その多くが幾年もしないうちに辞めてしまったとのことに他なりません。こうしたことは具体的なデータとしてはなかなか表には出てこないことです。しかし、この度川鉄の生みの親である「西山彌太郎」の著作を拝読して、それを思わせる発言を見出しましたので、ここに紹介をさせていただきます。お断りいたしておきますが、内容は一字一句に到るまで原文のままです。お読みになって不愉快な思いをされても、当方に怒りをぶつけられるのはお門違いですので悪しからず。
われわれがはじめて千葉へ行ったころには、いい若いもんが、あっちに三人、こっちに五人と、いかれた格好をして真昼間に遊んでいた。それでは仕事がないのかというと、女の子は人一倍働いていた。海に出て貝を拾ったり、海苔をつくったり、また会社に来て手伝いをする。力も強く、真黒になってよく働いた。どういうわけだろうか、と不思議に思っていた。 ところが、地元が出した誘致条件により、現地の若者を最優先的に採用しようとして、試験をしてみると、全部が全部、不合格なのである。からだも弱ければ頭もダメ、これでよく小学校が卒業できたな、と思うようなものばかりで、まったくお手あげであった。 しかし、このごろは変わった。遊んでいる者は一人もいなくなった。海岸一帯が工業地になったので、青年たちは一生懸命に働いている。第一、顔つきまで変わった。きりりっと引きしまっている。入社試験をしても、合格率はずんとよくなって、他の地方に負けないよういなっている。女の子のほうも変わった。先ず容姿が変わった。東京の女の子と、少しも変わらない。そのうえに健康美が輝いている。 町の様子も変わった。あのころは、五時か六時になると店はもう全部しまって夜は全然開かない。会社が終わってか買い物をしようと思っても、なに一つ買えない始末であった。それに、街灯がない。会社を一歩出るとまっくらであった。それが、最近に千葉の発展ぶりときたら驚くばかりである。このまえも「あのころ土地を買っていたら、いまごろ社長などやってやしないね」といって笑った。
『歴史をつくる人々 川崎製鉄社長 西山彌太郎 鉄づくり 会社づくり』1964年(ダイヤモンド社) |
おそらく、最初は「なんて失礼な!」と苦虫を噛み潰してお読みになったものが、後半では少し頬が緩むような文脈であろうかと存じます。勿論、西山の発言には、この地で工場を営むことに由来するリップサービス的側面もございましょうが、素直にそう言える部分があるからこその発言であろうかと存じます。しかし、ここで水を差すようで恐縮でございますが、ここで「この頃は変わった」と西山が言っている時期に注目し、西山の発言内容に若干の検討を加えてみるべきかと存じます。ここで言う「この頃」とは、本書発行年から推して昭和40年(1965)頃のことと思われますが、ここから如何なることを指摘できるのかを探ってみる必要があると思われます。この点について「千葉市人口における社会増減」グラフから読み取れることは(当該グラフは本展でも展示し、図録にも掲載しております)、昭和35年(1960)年から千葉市への転入人口が前年よりも一万人以上も増加しており、その後の10年間で倍増する時期に当たっていることです。そして、その後も一貫して転入人口が転出人口を大きく凌駕しているのです。つまり、西山が言う「千葉市の人が変わった」といっていることの背景にあるのは、それが「伝統的な千葉人」とは限らず、他所からの「転入者」が相当数含まれている可能性が大きいと考えられるのです。
先に、以前下宿していた大家さんの証言をご紹介いたしましたが、大家さんはその後、以下のように付け加えてくれたのでした。それが「地元の人が大方川鉄を退社してしまった後、川鉄の発展を支えたのは、関西や東北から仕事を求めて千葉に異動してきた人たちなんだよ」とのことであります。その発言内容と「千葉市人口における社会増減」グラフのデータとは、期しくも符合するように思いますが如何でございましょう。これが正しければ、高度成長期の大規模な人の移動は、地域の人の在り様や地域社会の様子までをも大きく変えることになったということになりましょう。当方としましては、戦前から地元に住む方から聞き取った内容と、データとの突き合わせて可能性を述べたものでありますので、事実無根であると言われてしまえば、これ以上の反論はできません。御腹立ちの向きが御座いましたら、何卒ご容赦くださいませ。当方自身は、東京下町に生まれ育ったものであり、同時代をこの千葉市内で過ごしてはありませんので、飽くまでも可能性として述べたまででございます。
もう一つ、本館のボランティア活動の中心としてご活躍されている方から伺ったお話も付加させていただきましょう。その方は、川鉄御勤務にはあらず、東京の企業にお勤めになるために高度成長期に広島県から千葉市に住居を求められた方です。そのお方が千葉市にお住まいになって困ったことは、当家伝統の宗派である浄土真宗寺院(本願寺派)が千葉市内にほぼ存在しないことにあったと申されておりました。確かに、政令指定都市として100万人弱の人口を抱えていながら、ホームページで調べると現在でも当該宗派寺院は僅か3カ寺にすぎません。実は、そのうちの1カ寺は、関西から千葉市に移り住まれた方々の多くが菩提寺のないことで困惑されておられていることから、その方のご尽力によって創設された寺院とお聞きしました。従って、現在はその方が檀家総代をお勤めとのことです。
また、千葉市内からは外れますし、本市には同様な事例はないものと思われますが、同じ千葉県内の君津市にはより顕著な具体例が御座いますので御紹介をいたしましょう。昨今は知られるようになったことであり、ご存知の方も多かろうと思われます。君津市内の東京湾岸埋立地に昭和40年(1965)進出した八幡製鉄所(後に新日本製鉄)[昭和40年(1965)操業開始し3年後から銑鋼一貫の製鉄所に]では、1960年代を通じて「北九州」という八幡製鉄の本拠地から2万人余りの人々が集中して君津市に移住されました。そのことが、現在君津市に「九州ラーメン」「九州おでん」といった九州食文化等がが根深く位置づいている根源的要因であります。
以上のように、高度成長期における日本国内の人口移動が、それぞれの地域社会に様々な影響をもたらしていることは、極めて興味深いことと当方は考えております。実のところ、明治以前の社会であっても規模はこれほど大きいものではなくとも、人の移動によって地域文化の移動が相当に生じていたものと考えるのであります。ある地域で、「地域の伝統文化」として把握されてきた民俗文化が、実際には全国を遍歴する芸能者によって齎されたものであること等も明らかになっているからです。「津軽じょんがら節」として知られるよく知られた音曲もまた、大坂で生まれ江戸に伝わった「ちょんがれ節」なる芸能が、各地に広まった末の変形であるとも指摘されておりますから。
今年は、9月11日に金木犀の香に接することになり、例年になく秋の訪れが早いとお伝えしたところです。そして、それから数日もしないうちに、今度は本館へ向かう石畳の道と我が家の近所で、「曼殊沙華」が咲き誇っているのに出会うこととなりました。秋の彼岸の頃に花をつけることから別に「彼岸花」と称されるように、夏から秋への季節の移り変わりを象徴するような花となります。しかし、金木犀と同様に今年は少し開花が前倒しのように思います。この花もあっという間に盛り終えてしまいます。僅かな花の盛りを楽しみたいと思っております。昨年、花の終わった後の球根を譲り受け我が家の庭に植えました。暫くするうちに細長い独特の葉を出しておりましたが、暑くなると葉も枯れてしまいました。秋になればスルスルと長い茎を伸ばし、真っ赤な花を楽しめるものと首を長くして待っておりましたが、植えた場所が悪かった所為かウンともスンともでございます。残念でございますが今年はスカのままに終わるように思います。昔から墓地に植えられていることの多い花ゆえ「縁起が悪い」などと言われますが、当方は大好きな花であります(球根には毒がありますが)。来年こそはと思っております。
さて、過日「千葉日報」紙(令和3年8月21日)で「生まれ変わるJFE高炉跡 川崎 シンボル失い 雇用不安も」なる記事を目にしました。飽くまでも「JFEスチール(2003年に川崎製鉄と日本鋼管が統合して成立した企業)」川崎工場(元来は日本鋼管の工場であったところです)の話題でありますが、海のこちら側にある川崎製鉄の本丸とも言うべき千葉工場とも無関係とは思えませんでした。記事には、「JFEスチールは2020年3月、京浜地区の第二高炉の休止を発表した。鉄鋼需要の低迷を受け、生産設備を合理化するためで、時期は2023年9月をめどとしている」とありました。我が千葉市中央区蘇我地先の広大な埋立地にも立地しているJFEスチールですが、東日本製鉄所で現存する高炉は、この「川崎工場第二高炉(もともとは日本鋼管の高炉)」と「千葉工場第六高炉(川崎製鉄由来の高炉)」の二基のみとなっており、現在改修中で火を落している千葉工場第六高炉の2023年火入れと入れ替わる形で、川崎工場第二高炉の役目を終えることとのことです。川崎製鉄時代の千葉工場には6機の高炉が存在していたことを考えると隔世の感があります(もっとも、同時期に稼働して高炉としては若干少なくなりましょうか)。本稿では、千葉市民にとって縁の深い製鉄という工業の在り方、川崎製鉄の千葉市への進出の経緯、そしてそれを推進した西山彌太郎という人物に焦点を当ててみようと思います。まさに、日本の高度成長期を体現するかのような、企業人の在り方、そして産業と企業の在り方に他ならないと存じます。
その「JFEスチール」の大元となる前身の「川崎製鉄」とは、1950年(昭和25)「川崎重工業」から同社製鉄部門を分離独立させる形で設立された企業であり、初代社長となったのが西山彌太郎(1893~1966)であります。西山彌太郎は、明治26年(1893)神奈川県二宮町に生まれ、大正8年(1919)7月に東京帝国大学工学部鉄冶金科を卒業し、川崎重工業の前身である川崎造船所に入社。それ以降、専ら製鉄部門の拡充と発展に努めた人物であります。その川崎重工業の前身は、明治期に東京築地に創設された川崎造船所でありました。つまり、戦前は主に「造船部門」と「製鉄部門」とで構成されていた企業であったのです。製鉄事業も、もともとは造船用鋳鋼品を自給するため神戸市に工場を建設した明治39年(1906)に始まっておりますから、製鉄事業の端緒はその時点に求めることができましょう。戦後の分社化は製鉄部門の総帥であった西山彌太郎の予てからの宿願であったと著書の中で語っております。西山自身は、経営責任が不明確になる企業の多角経営には懐疑的であったと。ただ戦後のGHQ統治下で財閥解体等の大企業分割政策が推し進められていたことも要因として大きかったものと考えられます。
しかし、戦前における我が国の製鉄事業は、お世辞にも世界レベルとは遠いモノでありました。その在り方とは、屑鉄(スクラップ)を熔解し、そこに若干の銑鉄を混ぜて鋼鉄にする方法が主流であり、鉄屑や銑鉄を海外から盛んに輸入しておりました(ABCD包囲網により、アメリカが日本への屑鉄輸出に制限を加える制裁が有効であった由縁です)。民間では、そうしたスクラップ製鉄法が経済的に圧倒的に有利であったからに他なりません。つまり、戦前の日本国内では、鉄鉱石から高炉で鉄をとりだし、その後も一貫して製品にまで同一の工場内で加工する製鉄所の数は僅かでした(これを「銑鋼一貫型製鉄」と称します)。本形式で製鉄事業を行えたのは、当初は、日清戦争による巨額の賠償金により北九州に官営工場として創立された「八幡製鉄所」のみだったのです。これは一朝有事の際に屑鉄や銑鉄の輸入が途絶えたことを考えて国策上建設された工場だからです。何よりも、高炉建設だけでも膨大な資金を要します。従って、「銑鋼一貫型」製鉄工場は国家予算を投入できる官営工場でないと建設・運営が難しかったのです。その後、昭和11年(1936)に神奈川県の扇町工場に溶鉱炉を完成させ、銑鉄の生産を成功させた日本鋼管のような民間企業の先駆者が現れますが、これは極々例外に過ぎませんでした。一般的に民間企業では巨額の資本を投じる「高炉」ではなく、「平炉」という小規模な施設での製鉄事業のレベルに留まっていたのが現実だったのです。平炉とは「反射炉」の一種のことです。つまり、斯様な屑鉄・銑鉄を溶解して新たな鋼鉄として再生する方法とは、近世末期になって我が国で導入された製鉄技術と、基本的には全く変わらぬ原理による製鉄法に他ならないものだったのです。
戦前、海外での製鉄事情を見聞していた川崎重工業製鉄部門の西山彌太郎は、予て「銑鋼一貫型」の製鉄事業に深いこだわりをもち、戦後にそれを千葉の地で実現することになりますが、千葉への進出後も初期の経営不安定期には、屑鉄を「平炉」で溶解してつくった鉄を販売することで、危機的な経営状況を凌いだと証言しております。当時、焼け跡に無尽蔵に転がっている屑鉄を二束三文で仕入れることができましたそうです。それを、とりあえず山のように購入してストックしていたことが奏功したといいます。何故なら戦後復興が進むに連れて屑鉄の値段も何倍にも跳ね上がったからです。今ではかような人々を見かけることも無くなりましたが、当方が子どもの時分には「屑鉄屋」なる職業の人が屑鉄を回収して廻っているのをよく見かけたものです。相当に高い値段で買い取ってくれたと聞きましたので、市価はそれを遙かに上回ったのでしょう。事実、戦後の千葉市では陸軍演習場跡地に埋もれていた廃弾・薬莢を子ども達が集めて小遣い稼ぎをしていたこと、市内の陸軍施設跡地に放置されていた鉄製品がドサクサに紛れて持ち出されて売却されていたこと等々の話が伝わることとも繋がりましょう。こうして、戦後の最も資金繰りの厳しい時期を乗り越えることができたと西山は語っております。ある意味、彼が相当に鼻のきく経営者であったことも分かります。
(中編に続く)
前編をお読み頂いていて、「鉄」「銑鉄」「鋼鉄」等々用語の頻出で、相当に混乱されていらっしゃる方もいらっしゃることかと存じます。「みんな鉄じゃいけないのか!!一体何が違うのだ??」と。もっともでございます。何れも「鉄(Fe)」であることは変わりませんが、あるモノの含有量によって「鉄」としての性格は極めて大きく変わってしまうので、こうして呼び分けているのです。そこで、ここで知っているようで意外と知られていない、「製鉄」が如何なる過程を経て製品となるのかを確認しながら、それらの違いも含めてご説明しておきたいと存じます。粗々申せば、製鉄の原理とは、地球に存在する資源としての酸化鉄に炭素を加え、還元反応によって酸素を分離して鉄だけを取り出す工程に他なりません。日本の中国地方等において古くから行われていた所謂「たたら製鉄」も同じ原理であり、原料の酸化鉄に「砂鉄」を、炭素に「木炭」を用います。それに対して、近代製鉄では、それに代わって原料には「鉄鉱石」と「石炭」が用いられることが一般的であります。近代製鉄には、大きく以下の4工程が存在します。
~主原料である「鉄鉱石」・「コークス(石炭を蒸し焼きにして製鉄に余計な成分の硫黄を除去したもの)」、及び副原料としての「石灰石[鉄鉱石に含まれる鉄以外の成分であるシリカやアルミナ等の余計な成分と結合してスラグ(鉄滓)を形成させ、鉄のみを取り出しやすくする働きをします]」を細かく粉砕して混合します。
~この段階でできあがる鉄は「銑鉄」[銑(づく)]なる炭素分を2~7%含んだ鉄です。鉄は炭素含有量によってその性質を大きく変化させます。銑鉄は硬度が高い反面、柔軟性には欠ける(脆い)ため加工が難しく、そのままの状態では鉄材としての利用価値は限られます。因みに、融解して鋳型に注いで成形する「鋳物」(代表的な製品が「鉄瓶」「茶釜」です)に用いられるのは銑鉄です。(鉄瓶に直接的な力を加えると割れたり折れたりするのは鋳物の原料が銑鉄だからです)。もっとも、日本の伝統的製鉄技法である「たたら製鉄」では、「銑押(づくおし)」といって、専ら銑鉄を取り出すことが盛んでした。近世以前に銑鉄が必要とされ盛んに流通していた背景には、第一に建築材のような形で鉄を使用する必要が無かったこと、第二に鉄を加工して製品化するためには、用途に応じた炭素含有量にする必要があったからです。つまり、炭素含有量の調節は鉄を加工する職人の領分であったからだと思われます。新たに鉄に炭素を加えることは困難ですが、除去することは鍛冶屋では通常に行う作業だからです。特に刀剣の制作には、刃となる鋼(はがね)を両側から様々な性質の鉄材を鍛造によって幾重にも重ねて挟み込むことで、折れることのない柔軟性を持ちながらも、頑丈な刀剣に鍛え上げていきます。こうして、世界最高とも言われる切れ味を誇り、かつ見た目にも優美な芸術性を併せ持った日本刀となるのです。その作成には職人が自在に炭素の含有量を調整できる「銑(づく)」が有用であったのだと思われます。
~融解して真っ赤な液体状の銑鉄を「転炉」という回転する湯壺に移して酸素を吹き付け、銑鉄に含まれる余計な炭素や不純物を除去し、炭素含有量が0.3~2%の「鋼鉄」に仕上げます。鋼鉄は靭性が高く、折れにくく粘り強い性質をもっています。そのため強靭で加工のし易い鉄材となります。用途に応じて、炭素量を調整して、硬さと靭性のバランスを決めていきます。つまり、近現代において鉄材として通常構造材等の需要される鉄のほとんどは、この「鋼鉄」ということになります。
※炭素量が0.3%未満の鉄は「軟鋼(軟鉄)」といって柔らかくなりすぎ、構造材としては利用できません。従って使用法は限られます。
~転炉で炭素量を調節して鋼鉄となった液状に溶解した鉄を型に入れて適度に冷却し、30センチほどの厚さのスラブに成形した後、それに圧力を加えて次第に薄くすることで鋼板として引き延ばしていきます(この時に使用する機材を「ストリップ・ミル」といい、ホット・ミルという熱を加えて引き延ばす工程と、コールド・ミルという冷ました段階で圧力を加えて引き延ばす工程があるとのことです)。ここで注文に合わせた厚さの鋼板に仕上げていきます。この際に、製造機器と鉄材を徐々に冷却するために大量の水が必要とされます(現在は水を何度も遣い回すシステムが開発されています)。また、機材運転には安定した大量の電気供給が欠かせません。
以上、製鉄の概要について御理解いただけたでしょうか。一般に「鉄」といっても様々な性質の鉄がありますし、それを効率よく「銑鋼一貫型」で生産するためには、様々な条件をクリアーしなくてはならないのです。海外のように地下資源に恵まれない日本では「原料立地型」工場建設可能地は限られます。従って、海岸縁に立地させる必要があります。言うまでもありませんが、原料の輸入や重厚長大な鉄製品の輸出・搬出をする必要性が極めて大きな条件であるからです。しかも、巨大な船舶が入港可能な港湾施設が必要です。また、「鉄は熱いうちに打て」と比喩に使われるように、原料から抽出した鉄が冷えてしまわないうちに、効率よく次の工程に移行して一気に製品化までもっていける工場レイアウト構築が何よりも肝心です。そのためには、広大で平坦、かつ地盤堅固な工場建設地が不可欠です。更に、大規模な機械群を間断なく稼働させるための大量で安定的な電力供給と、機材と製品を冷却するために大量の真水が確保できることも重要な条件となります。そして、24時間フル稼働をする生産体制を維持する豊富で優秀な労働資源も求められます。他にも、製品を大量に販売できる大規模市場が近隣にあればそれに越したことはありません。そして、何よりも、それだけのインフラを建設して維持し続けるためには膨大な資本が必要になります。ある意味で、資本の準備こそが最大の課題となることは言うまでもありません。
西山彌太郎の戦後とは、これから大々的に鉄鋼需要の増大することに鑑みて、それに応じた国際競争力を強化できる、最新式の「銑鋼一貫型」工場で鉄生産を開始するための歩みであったと言っても過言ではありません。そのためには、上記した難しい条件を一つ一つクリアーする必要があったのです。それを西山という人物は果敢に乗り越えていきました。彼がいなければ、日本の戦後復興はざっと5年は遅れていただろうとの評価もあるほどに、西山彌太郎と川崎製鉄が戦後復興と高度経済成長に果たした役割は大きかったことだけは言えます(反面、公害問題を引き起こしたことは決して忘れてはならないことです)。後編では、千葉市に川鉄が進出することになる経緯とその後について、極々簡単にですがその概略を追ってみましょう。
(後編に続く)
後編では、西山彌太郎と千葉との出会いについて述べて参ります。西山は大正時代から鉄一筋に企業人として関わり、戦前から製鉄技術の改良改善に向けて尽力。大正14年(1925)には「ルップマン式平炉製鉄法」を確立し、この功績によって昭和7年(1932)に授賞されております。それに留まることなく、「銑鋼一貫型製鉄所」製鉄の有効性を確信し、その実現を宿願としてきた人物であることを前中編で述べてまいりました。
第二次世界大戦では、関西にあった工場の殆どを空襲で破壊され、戦後のスタートは青息吐息であったようですが、持ち前の果敢な経営戦略でそれを乗り切り、念願であった川崎重工からの分離し「川崎製鉄」として独立したのが、昭和25年(1950)8月のことです。資本金は5億円、本社は神戸に置かれました。初代社長は言うまでもなく西山彌太郎であります。そして、同年11月に、千葉市に「銑鋼一貫型工場」を建設する計画を発表しております。これについては、世間一般から(同業者からも)暴挙だと批判を浴びたと本人は語っております。しかし、我が国の製鉄の進むべき道はこれよりほかにないと確信しており、そのために数々の周到な準備をしてきたのであって、単なる思い付きではなかったと回想もしております。そもそも、一貫工場の建設を決意したのは昭和16年に遡ると言います。
戦後の日本経済を立て直して、世界的な競争に耐え得る体力を持つためには、これまで日本で主流であったヨーロッパ式の小規模製鉄方式を改め、質の良い鉄を大量に生産できる工場を建設するしかない。それには、戦前からある工場を再利用して、それに継ぎ足しする程度の対応では生産効率に工場には期待ができない。従って、新たな土地を求め、新規に能率の良い生産レイアウトを持った工場を建設するしか方法はない。これが西山の基本的な考えとなります。そして、昭和25年夏頃に、その機が熟したと言います。そしてその進出先を選びが始まりました。先ず、戦前から進出していた愛知県の知多での建設を検討。しかし、敷地の制約による各工場施設レイアウト設計の難しさ、工業用水として期待した「愛知用水」建設の遅れから、当地での銑鋼一貫工場の建設を断念。次に山口県の光工廠跡地、更に徳山の燃料廠跡地の検討に移りましたが、土地が狭く(30万坪)、不便な上に土地の奥行きがなく、海が深くて埋立てができないことからここも断念。更に、同県の防府に100万坪の適地をみつけて調印寸前にまで漕ぎつけたところに、降って湧いたように舞い込んできたのが千葉市からの誘致の話であったと言います。西山はその時に「そんなバカなことがあるか、あんなところは、女の子がアサリ狩りをするところだ、製鉄所の建設なんて、とんでもない」と思ったと、後に語っております。ただ、信頼する筋からの話でもあり、千葉市が、企業に有利な条件を提示して熱心に誘致しているとの情報も得たこともあり、防府での調印を少し遅らせ、綿密に事前調査を行った上で現地視察に出掛けたといいます。
千葉市が熱心に企業誘致を目論んでいた地所が、戦前に蘇我地前の海岸を埋立て「日立航空千葉工場」が進出していたものの、敗戦後に撤退して空となっていた土地に他なりませんでした。地元では、跡地に紡績工場を誘致しようと幾つもの企業に働きかけたものの、彼らは概ね関西方面への進出を目論んでいたことから何れも頓挫しております。その矢先に川崎製鉄の話が飛び込んできたので、当時の千葉市長「宮内三郎」も熱心にデータ等を提供したと言います。特に重工業化に必要な重厚長大な施設建設に資する地質の問題については、戦前の日立航空機が進出する際に地盤調査を充分に行っており、そのデータからも建設可能な土地の条件を満たしていたとのことです(西山は干潟の海で女性が大八車を引いている光景を見て建設地の有用性を確信したと語っております)。工場用水については、干潟からも地下水が豊富に自噴していること、更に印旛沼から検見川に導く運河(現在の花見川)建設が計画されており、将来的に充分な水量を分けてもらえそうだとの見込みがあったこと。浅瀬の海岸も充分に掘削が可能で港湾として整備することが可能であること(千葉県側には大きな川がほとんどないため掘削した港が砂で埋もれる可能性が少なく維持管理に都合がよい)。後に課題となる電力の問題も当初は十分に確保されるとのことでありました。何よりも、東京という大消費地に近いこと。それらの条件を総合すると、西山は、条件的に千葉市が圧倒的優位であると判断したのです。その結果、防府市に代わって千葉市への進出が決定したのが、昭和25年(1950)10月末のことでした。
鉄鋼業界の反発や金融筋の警戒観が強いなか、西山は自己資本5億円で千葉製鉄所の建設に着手しました。しかし、前にも述べたように、溶鉱炉の建設だけでも莫大な資金を要する銑鋼一貫型工場の建設にはそれでも資金は充分ではありませんでした。先にも述べたように、大量に確保しておいたスクラップを原料とする「平炉」製鉄で生産した鉄材が思いのほかに大きな利益をもたらすなど、やりくり算段をして建設資金を捻出するなど苦しい経営時期を切り抜けております。しかも、建設工事に取り掛かると、電力供給量は圧倒的に不足し、建設機械を動かしても、夜間に大量の明かりを点灯するだけでも、停電して作業が中断することも屡々だったといいます。これについては、東京電力が直ぐに6万ボルトの電力を供給に応じて事なきを得ています(後に、工場南部の埋立地に東京電力の火力発電所が建設され15万ボルトが供給されるようになります)。ご難続きではありましたが、西山は諦めることなく、地道により良い鉄製品生産に邁進するとともに、それを各界にアピールすることで「銑鋼一貫」生産の有効性の周知を図っていきます。その結果、川崎製鉄の確固たる経営理念、経営環境の安定性、何よりもその将来性が高く評価され「日本開発銀行(現:日本政策投資銀行)」・「世界銀行」からの融資獲得に成功します。当初難色を示していた日本銀行も資金計画を承認。そして、建設開始から一年半後、昭和28年(1953)年に「第一高炉」に火が入り銑鋼一貫型工場が稼働し始めます。そして、昭和33(1958)には「第2高炉」、「ホット及びコールド・ストリップ・ミル工場施設」が完成し、千葉製鉄所の銑鋼一貫体制が確立しました。そして、昭和40年(1965)には東洋一の生産規模を誇る巨大工場にまで成長することになるのです。しかし、西山はそれも一里塚にすぎないとして、1960年代には千葉製鉄所の拡充を進める一方、岡山県水島地区に新製鉄所の建設を進め、昭和42(1967)「第1高炉」の完成をみています。両製鉄所の新増設と同時に、既存の工場の合理化・再編成を推進し、戦前からの知多工場は付加価値の高い製品の専門工場としての性格を強めるなど、生産体制の整備を推し進めていきました。千葉工場では、昭和52年(1977)に火入れされた「第6高炉」に到るまで、全6基の高炉が建設されました(現在残るのは「第6高炉」1基のみとなります)。
以上、千葉市・千葉県の経済を支えるのみならず、日本の戦後復興から高度成長に繋がる国内経済の急成長に大きく貢献した、西山彌太郎と川崎製鉄の歩みの概略を述べて参りました。その反面で、1960代からは経済成長の負の側面としての「公害」問題を引き起こすことにもなりました。当問題とその改善への取り組みにつきましては別稿にて述べたいと存じます。また、現在では中国の急激な鉄鋼生産の進展等に起因した構造的鉄鋼不況のただなかにあり、前編冒頭でも述べましたように「JFEスチール」も御多分に漏れず生産規模の縮小等の対応を迫られているようです。しかし、現在でも千葉市を代表する中核的な企業であることは間違いありません。日本の戦後復興と高度経済成長の推進力となり、戦後千葉市の歩みと切っても切れない企業の歩み御理解頂けましたら幸いでございます。なお、本件につきましては、何度かお薦めさせていただいておりますように、『千葉市制100周年記念漫画 百の歴史を千の未来へ』(千葉市)内に、「日本の高度経済成長を支えた鉄人 西山弥太郎」として漫画化されております。併せてお読みくださることをお薦めいたします。
明日から10月に入り、早いもので年度の峠を越えることになります。本館では、今月半ばより「市制施行100周年記念」企画展として『千葉市誕生—百年前の世相からみる街と人々—』(図録刊行)、12月末日を予定している『(仮称)千葉市の歴史読本』の刊行、1月後半から例年開催しております「千葉氏関連パネル展」第3弾として『(仮称)千葉常胤と鎌倉殿の13人(南関東編)』の開催(ブックレット刊行予定)、3月末日の『千葉いまむかし』35号・『研究紀要』28号の刊行、そしてその間に開催される各種講演会と、本年度の下半期にも上半期を凌ぐような企画を次々に準備しております(予算的な都合が付き次第、可能な限り本年度初頭に開催した小企画展『陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-』関連のブックレット刊行も期するところでございます)。今後の本館の活動に是非ともご期待をいただければ幸いでございます。
さて、今年は秋の訪れが前倒しのように感じると申し上げておりましたが、9月16日(日曜日)緑区内公民館での歴史講座から館に戻る際、風に靡く薄の穂を目にいたしました。青空の下で銀色の風を靡かせる薄が原の景色が大のお気に入りですが、今回のような夕陽に映えた赤銅色に輝く姿にも大いに心打たれた次第であります。その後の21日(火曜日)は十五夜、8年ぶりの邂逅が叶った今年の「中秋の名月」は、澄んだ秋の夜空に煌々と冴え渡りました。数日前に道端で目にした、あの尾花にさぞかし相性良く映えたことでありましょう。話題は変わって、またまた「天声人語」由来で恐縮ですが、この季節を古来代表する花は「萩」であり、「万葉集」で秋の花として詠まれる歌としては最多を数えるそうです。確かに、万葉集に限らず、その後の王朝国家編纂にかかる数多の勅撰和歌集でも、萩を詠みこんだ歌は目白押しです。花自体は小さなもので大目立ちはいたしませんが、そうしたかそけき在り方に古来の日本人は心惹かれたのかもしれません。そういえば、初夏の頃に藤原良経の歌をご紹介いたしましたが、そこで詠まれた「卯の花」も決して自己主張の強い花とは申せません。斯様な訳もございましょうが、今では季節の花として、さほどメジャーな花として認識されてはいないように思います。流石に「萩」はそこまでではありませんが、同じような位置づけの花であるような気もいたします。そして、面白いことに、「卯の花」が豆乳の搾り粕の名称に用いられるように、「萩」がこの時季を代表する菓子の名としても広く知られていることも共通しているように思います。秋の彼岸に墓前・仏前に供えることも多い「おはぎ」がそれです。団子状にしたご飯を小豆餡で包んだ菓子でありますが、どうやら粒餡の中に散在する小豆が萩の花に似ていることが命名の由来だそうです。果たしてそう見えるか、納得し難き思いは否めないところですが、近世の文化に顕著な「見立て」の世界観には感銘をうけます。
因みに、同じような菓子に「牡丹餅(ぼたもち)」があります。こちらは、本来牡丹が大輪の花を咲かせる時期に食されるもので、春の彼岸あたりをその時季としておりましょう。小豆の収穫時期に近く外皮が柔らかいことから、粒餡に仕立てる「おはぎ」と異なり、歳を跨いだ春には外皮が乾燥して硬くなった小豆を使用するため、「牡丹餅」は基本的に外皮を漉しとった漉餡で包むことが一般的です。一見全く同じ菓子の別称のように思えますが。本来は少々異なるものであります。従って、昨今、春の彼岸に店先で「おはぎ」と銘打って販売されているのはチト違和感を拭えません。店舗の言い分としては「ウチでは粒餡でつくっているから『おはぎ』です」ということでありましょうが、季節感の演出という点では如何なものかと存じます。もっとも、物の本によれば、両者の在り様と名称とは地域によって千差万別であり、所に寄っては糯米と粳米との違いで呼び分けるそうです(因みに、米粒の形状を残して捏ねた状態の「おはぎ」を「半殺し」、完全に潰して餅状にした状態のものを「本(皆)殺し」なる物騒な呼称とする地域もあります。一夜の宿を借りた旅人が、家人が「半殺し」にしようか、それとも「手打ち(蕎麦)」にしてくれようかと相談しているのを聞いて、獲るモノもとりあえず慌てて逃げ出したという笑い話もありました)。何れにしましても、小豆の「赤」は邪気を払うといった意味合いを持ちますので、春に農作業が始まる時季と秋の収穫期という農業にとって重要な時節に、その安寧と豊穣を祈って食されたという民俗学的な解釈もできましょうか。これから何度食することができるかわかりませんが、その味覚に舌鼓を打つことで、それぞれの季節を味わいつくしたいものだと思っております。
さて、前々回の本稿において、川鉄創始者の西山彌太郎の発言を引いて、千葉における労働者の地元と県外からの転入者との関係性について、当方の推測を述べさせていただきました。西山の「われわれがはじめて千葉へ行ったころには、いい若いもんが、あっちに三人、こっちに五人と、いかれた格好をして真昼間に遊んでいた。」との証言。あるいは当方がお世話になった下宿の大家さんからうかがった「当時の千葉市内で雇用された地元労働者の多くが昼夜三交代制に耐え切れずに辞めてしまった」との発言から見えてくる生え抜きの千葉人の「人となり」についてであります。しかし、これをお読みくださった「千葉市近現代を知る会」代表(建築家)でいらっしゃる市原徹さんから、斯様な「人となり」が、伝統的な県民性といった類の要因のみにあらず、戦後になって生じた社会的事情にも求められまいか……との貴重なご指摘を頂きました。それが、日本人の直面した「農地改革」と、千葉市臨海部で生じた埋立による「漁業補償」という戦後の状況に他なりません。市原さんが、古くから沿岸の半農半漁の生活をしていた市内「黒砂」地区の方からの聞き取りの際、この2つのことで地域の人心が一変してしまったとお話されていたからで、そのことをご教示くださったのです。
従って、本稿では、前々稿の補論の形で、「県民性」といった伝統的な要因、及びそれに留まらない戦後の政策や地域の大きな変貌が「人心」に及ぼした影響について検討してみたいと考えた次第でございます。つまり、千葉市に居住している方々の持つ「人となり」とは、千葉という地に古来より伝統的に培われてきたものだけなのか否かについて若干の考察を加えでたいと思います。実のところ、今回の高度成長期の展示では、東京湾海岸線の埋立事業に伴う東京湾で生業を営む方々(漁師・海苔養殖業等)の補償問題について(勿論、戦後改革としての農地解放も)、基本的には扱っておりません。何故かと申せば、本特展で扱う高度成長期は児童生徒の作文を窓口にしているからであり、子ども達の作文には、金銭の遣り取りと言った、生々しい、俗に言う“大人の事情”が描かれることがないからであります。しかし、これも市域の高度経済成長期を象徴する出来事の一つに他なりません。展示では扱っておりませんが、ここでその概略を述べて、そのことが当時の市民性の在り方に影響を齎している可能性について考えてみたいと思います。もとより、浅学非才故に、先行研究の孫引きや研究者の皆様の成果物等からの受け売りばかりになろうかと存じます。目の覚めるような論考を期待された向きには、当方が全くその人にあらずということを御承知の上で、少々のお付き合いをお願い申しあげます。
(その2に続く)
まずは、千葉市域の伝統的な「人となり」についてであります。そうは申しても、「千葉市の人となり」といった狭い範囲での研究成果は目にしたことはありません。一般的に取り上げられるのは所謂「県民性」なるものでございましょう。何時も引き合いに出してしまいますが、『秘密のケンミンショー』なるバラエティ番組を楽しく拝見する機会があり、日本各地の食文化や「人となり」の多彩さに今更ながらに驚かされることが間々あります。この手の書物も雨後の竹の子の如くに出版されておりますが、余りにも粗雑な内容のものがほとんどで(「雪国ゆえに根暗の人が多い」「一年中暖かい地域なので開放的な性格」といった類の、安直極まりなきステレオタイプの書籍が目白押しです)、承知の上で面白がって読むのならいざ知らず、マトモにうけとることなど到底できません。日本でだけ重宝されている「血液型性格類型」もそうですが、第一に多種多様な「個人」を棚に上げにして、特定の集団を一つの基準で十把一絡に括ってしまうことなど、学問的には暴挙との誹りを免れますまい。ただ、現在のようにこれだけ大規模に人の移動が行われる時代ならばいざ知らず、近世以前のように、大きな規模での人の移動が多くはなかった時代は、自然環境や幕藩体制下での大名の所領支配の強弱等々に起因する、人の地域性と言ったものが今よりも濃厚に存在したことは間違いありますまい。そのことを、この手持ちの史料を渉猟し、千葉県域についてピックアップし、古いところからご紹介をさせていただきましょう。果たして千葉県の「県民性」とは如何!?
まずは、16世紀に成立したとされる『人国記』は、房総三国の風俗・人となりについて以下のように記しております。房総は、まさに戦国時代であり、小田原北条氏と里見氏との攻防が猖獗を極めていた時代であり、そのことを象徴するような在り方に注目されます。しかし、逆に申せば、500年後から顧みると思いも寄らぬご当地の「人となり」に一驚するのではありますまいか。
安房の国の風俗は、人の気尖(するど)なること、譬(たと)へば、刃の如く和すること(すくのう)して、常の行作(ぎょうさ)もかたくへ(頑)なり。 (『図説 千葉県の歴史』1989年 河出書房新社「序説」より引用) |
さて、時代は下って武士の時代が終わって千葉県が成立した後、大正時代初期に陸軍の佐倉連隊区司令官から山県有朋元帥への報告書に記された記述から。以下で報告されている内容が、大戦前、未だ余所から大規模な人流の影響を受ける以前における、一般的に見られたご当地の「県民性」といって宜しいのではありますまいか。前半部をひっくるめれば「土地が豊饒であるため、日々の暮らしに困ることもない。従って、あくせく働くことは好まず、長期的な備えにも無頓着(刹那的?)、高い目標や理想に向けて直向きに人生を切り拓こうという進取の気風は希薄である」ということでありましょう。我ながら、チト悪い方向に寄せすぎたかとは思いますが、明け透けに申せば斯様なことでございましょう。つまりは「現状肯定(非上昇志向)」「超安定志向」「のんびり」といった「県民性」が浮かび上がって参りましょう。後半に記される「人情が軽薄ではない」が「純朴でもない」を、平たく言い直せば「人柄は温厚でしっかり者だが、その実は結構に強かで計算高かく、こすっからいところもある……」というイメージでありましょうか。これらの報告内容からは、どことなく、川鉄に採用された地元労働者の気風と重なるところが透けて参ったように感じますが如何でしょうか。ただ、元に戻りますが、「人」とは千葉県民に限らず須く斯様な存在ではありますまいか。本心を申せば。これは「千葉県民」の特性だけではなく、一般的に言うところの「人とは如何なる存在か」といった問への解答のように思えて仕方がありません。当方が基本的にこの手の類型化をこの好まない由縁であります。
土地豊穣にして、産物多く、人口に比して面積多大、生活の為めには、さして困難にあらざるを以て、皆小成に安んずる気味あるが如し、(中略)帝都に接近しある割合には、まだ人情が左程に軽薄にもあらず、さりとて純朴と称する訳にも参らず候、(下略) (『図説 千葉県の歴史』1989年 河出書房新社「序説」より引用) |
さて、引き続いて、戦後になってから。我々も若い頃に岩波新書等々で大変にお世話になった心理学者である宮城音弥の著作から。宮城は、ドイツの精神科医クレッチマー(1988~1964)による、体型による性格の違いから人間の特性を「分裂気質」・「循環(躁鬱)気質」・「粘着気質」の3つに分類した性格論を援用し、日本国内の県民性を主に「分裂質」か「躁鬱質」かを中心にして検討した著作を発表しております。それによりますと、千葉県は東北全域から関東沿岸部、東海・紀州、南四国、九州、沖縄と広く分布している「分裂質」タイプに属するとされ、そこがおそらく日本列島の先住民の系統を引く人々の多い地帯であると指摘しております。宮城の調査によれば、「生えぬき」の千葉県民を「日蓮」を事例にして以下のようい分析しておりますが、県民一般は弱気で神経質のタイプが意外に多いとしております。しかし、こうした心理学の分析を拝見しても、当方のような素人には今ひとつピンと来ないところがございます。
〇気質:「分裂質」 [東書選書『日本人の性格-県民性と歴史的人物』(宮城音弥)1977年:東京書籍] |
その他にも、手元には、国立民族学博物館名誉館長でいらした祖父江孝男や、明治学院大の武光誠の県民性に関する著書もございます。様々な専門分野の研究者が分析をされているように、それだけ興味深い研究題材とされているのでありましょう。しかし、キリがありませんので、この辺りで店仕舞いとさせていただきます。これらを鵜呑みにするつもりも、逆に埒外に置くつもりもございませんが、多くの皆様にしてみれば、大雑把に「やはりそんな感じがする」と頷ける、何となくの千葉県民としての大まかな傾向は認められるかも知れません。後編では、戦後の社会状況や社会状況の視点から探って見ようと思います。
(その3に続く)
「その3」では、西山彌太郎等によって指摘された千葉の「人となり」を形成した可能性のある、市原さんからご教示いただいた、戦後の政治状況や社会状況のうち、「農地改革」について若干の検討を加えてみたいと存じます。
まずは、戦後のGHQの間接統治下で挙行された「農地改革」であります。もっとも、これは千葉に限ったことではなく、日本国内において押し並べて推し進められた統治政策でありますから、千葉県の「人となり」の要因とばかりは申せません。しかし、この「農地改革」を実施するにあたっては、国内各地でも進捗状況の早遅、土地買い上げ状況の違い等が見られること、また、都道府県毎に農地の所有状況の違いがあり、そもそも論として前提条件が異なっていたこと等、実際には一律には論じきれない面もあるようです。教科書的に申せば、「農地改革」とは「不在地主の小作地全部と、在村地主の小作地のうち都府県で平均1町歩(約1ヘクタール)、北海道で4町歩を超える分を国が買い上げ、小作農民に売り渡した」というものです。まぁ、これが我々は極々一般的に把握している農地改革の説明の全てでございましょう。本政策による、農地の買収・譲渡については昭和22年(1947)から同25年(1950)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、大凡237万人の地主から買収され、約475万人の小作人に売り渡されたとされております。
「農地改革」は、戦前の農村における封建的な土地所有関係を解体することに大きな役割を果たしたとして、「財閥解体」とともに戦後の経済改革として高く評価される政策でございましょう。しかし、戦後にはハイパーインフレが発生しており、斯様な状況下で、戦後日本政府による、地主への土地代支払いと小作農からの土地代金徴収とは、ほとんど機能不全に陥ることとなったのが現実です。従って、地主の土地は強制的に無償で没収されたと同義となったのが実際であったのです。斯様な経済状況の中で小作農から土地代金の徴収など覚束なく、実際にはほとんど無償配布に近い形で農地が分けられました。勿論、小作農からすれば有り難いことであったことでしょうが、一方で政府への恨みを生涯忘れぬままに一生を終えたり、絶望して自死を選ぶ旧地主階層の方々も多かったことを忘れてはなりません(千葉県でも同様)。さて、千葉県ではこの「農地改革」がどのように進められたのかを、『郷土千葉の歴史』1984年(ぎょうせい)における池田宏樹の論考に導かれながら極々簡単にその概略をご紹介致しましょう。
それによれば、千葉県では、農地改革以前の小作地は全耕地の47%であり、市原・千葉・印旛・香取・東葛飾の五郡では50%を越えていたものの、安房郡のように28%を低い地域もあるなど、地域ごとの状況には相当なバラツキがあったと言います。また、田畑を小作農民に耕作に出していた地主層(不在地主+在地地主)の9割は、1町歩(約1ヘクタール)未満の土地を小作に出しているに過ぎず、日本海側のような大規模地主の農村支配といった状況とは相当に異なっていたと言えます。昭和21年12月末に県下一斉に行われた市町村「農地委員会」が選挙で選出され(地主3名・自作農2名・小作5名の委員構成)、更に翌22年には「部落補助委員」も選出され実務を担当しました。後者の委員は自小作農によって構成されているケースが多く、その後の運営に大きな影響をもたらすことになったと言います。政府への強制買い上げは、不在地主の小作地の全ての他に、千葉県では在村地主の平均1.2町歩を越える小作地、耕作農民で自己の所有地が平均3.6町歩を越える土地等が対象とされましたが、その後の進捗は遅々としていたと言います。結局、千葉県内での買収・売渡しともに98%を越えたのは昭和23年(1948)12月のことでした。この結果、県下での小作地率は47%から8%へと激減し、農村の封建的な土地支配体制が払拭されたとされております。しかし、当改革により、5反未満の零細農家は減少するどころか、逆に改革前よりも12%も増加したとのことです。池田は、そうした零細農民の増加が、改革前に指摘されていたような、高度経済成長期における零細農民の農業経営を破綻に老い込む要因となったことを指摘しております。しかし、ここでは、少なくとも、市内で半数を占めた戦前の小作農に土地が(実質的にほぼ無償で)配分され、市内農民のほとんどが土地所有者となったことを意味することをご確認頂ければと存じます。
さて、ここで西山が、千葉に初めてやってきた時に感じた千葉市内の若者の状況と照らし合わせて見ましょう。西山が、銑鋼一貫型製鉄所の建設地の検討を始めて、実地見学の下で千葉市への進出を決定したのが昭和25年です。つまり、この2年前には千葉県では農地改革は終了していたということになります。千葉市内の経済状況が好転して、市内で宅地化が急速に進展するのは、未だ若干先のことになりましょう。その時期に、戦後に土地所有者となった市内中心部の農家が、地価の上昇による土地売却により、相当な現金収入を得たことは想像に難くありません。俄に手元に入った多額の現金が人の性根を揺るがすことは古来枚挙に暇がないほどに例証がございます。あくせく働かずとも暮らしていけるという気の持ちようが、堅実な生活基盤の醸成への阻害要因となることは容易に想像ができます。しかし、西山が初めて来葉した際には、時期的に斯様なる状況が生じていたとは想定され得ないように考えます。つまり、西山の観察に基づく千葉市の「人となり」に、「農地改革」が及ぼした影響は大きいものではないと思われます。しかし、川鉄の第一期工事が終了するのが昭和30年(1955)となり、本格的な人の採用に踏み切っていったとすれば全く無関係とは申せますまい。それ以降の話であれは、時期が特定されてはいない、当方のお世話になった大家さんの証言が大いに関連する可能性が生じましょうか。元々、小作農の皆さんにとっては、極々一般的に想像すれば、その土地そのものに深い執着があるとは言えないのではありますまいか。零細な農業経営よりも、土地を売却することで大きな現金収入が得られるのであれば、比較的に容易に土地の売却が進んだことでありましょう。その点で、戦後入植されてから、血の滲む努力を重ねて0から農地を切り開いていった三里塚の人々にとって、空港建設反対運動、所謂「成田闘争」が必然的な行動であったこととは、そもそも「農民」としての立ち位置が相当に異なると想像致しますが如何でございましょうか。
(その4に続く)
続いて、埋立による「漁業補償」の件について検討を加えてみましょう。こちらにつきましても、前掲書における池田宏樹の論考と、千葉市史編集委員をお勤めいただいております森脇孝広氏の研究成果等に導かれての内容となります。本件について述べる際、まず確認しておくべきことは、東京湾西岸において戦後に展開される京葉工業地域形成の歴史とは、遠浅海岸の埋立・造成事業とそれに伴う漁業補償の歴史と同時並行的に進んだことであります。東京湾という「豊穣の海」が数え切れないほどの「海の幸」を我々人間にもたらし、同時にそれを生業とする多くの人々の生活基盤となっていたことは、申しあげるまでもございません。一方、戦後に一貫して重工業化を推し進める国・県・市の重点施策の下で、その海が大規模に埋立造成されようとしていたことも前稿において縷々述べて参ったところです。当然、両者の利害は並び立つことはありませんから、対立関係が生じたことは言うまでもありません。
昭和28年(1953)、船橋から五井までの内湾漁業組合の代表が千葉市内に結集。千葉県当局に、千葉・船橋両港建設に伴った16万坪埋立計画への反対を求めております。その2週間後に、2500名もの漁師を千葉県庁前に集めて「漁業権確保漁民大会」が開催され、警察隊が出動するほどの騒動となっております。当時の柴田県知事は、「一方的な埋立は行わない」と回答することでその場を納めたものの、実際には川鉄の工場建設は着々と進行しており、昭和29年(1954)には、東京電力が県に対して川鉄南の25万坪を埋め立て火力発電所を建設することを正式に申し入れています。発電所の候補地となった蘇我海岸の漁師二百数十名は、市役所と県庁に押しかけ反対陳情を行うことになりました。当該時期はちょうど千葉市長改選時期に当たっており、推進派と反対派の対立は政局の問題へ発展。県内では埋立を推し進めようとする保守政党の統一戦線が結成され、反対政党を破って推進派の宮内三朗市長が当選することとなったのです(千葉における保守政党の合同は国政に先だった動きであり、戦後政治史を語る上で重要な画期となるのですが、これ以上は踏み込みません)。県市は、その後に漁民への説得を協力に推し進め、絶対反対であった漁師に中にも条件付き受け入れに転換する者も現れ、運動は次第に条件闘争へと移行していきました。その結果、同年10月漁業組合員372名に漁業補償金1億7千万円が支払われることで漁業権の一部放棄に同意することで妥結しております(県には埋立地の外側に新たな漁場を造成する等の条件を呑ませております)。これ以降、昭和52年(1977)市川市行徳漁協が漁業権一部放棄するまでに、東京湾岸の37漁協が漁業権を手放しました(関係する組合員は2万人)。漁業補償総額は1.156億円をこえると言います(因みに、以前に申しあげた千葉県で埋立方式として編み出された「千葉方式」「出州方式」は、埋立地への進出企業・不動産会社に事前に漁業補償金を込みで納入させる手法でもあったのです)。
さて、農地改革と同様、西山の発言と対比させてみると、実際に漁民達への巨額の漁業補償金が支払われるのは、西山の言う「初めて千葉に来たとき」よりも後のことになりますが、時期的に申しあげて「農地改革」で手に入れた土地の売却益を得るよりは相当に早い段階で、漁師達は巨額の現金を手にすることになったものと思われます。しかも、個々の漁師だけではなく、海岸部の集落に、面的に押し並べて巨額の金が落ちたことが地域社会に与えた影響は極めて甚大なものであったことでしょうし、到底「耕地改革」の比ではなかったのではないでしょうか。川鉄が本格操業に移行する昭和30年以前のことであり、こうした時期的なことを踏まえれば地元民の優先採用にあたって、思いも寄らぬ大金を手にした地元住民、及び川鉄に採用された労働者の心理状況にも大きな影を落とすことになったことは容易に想像できます。少なくとも「こんなキツイ三交代勤務なんかやってられん」「こんな仕事辞めてやる」といった精神の動きを抑止するための機能を果たすものとはなりえなかったでしょうし、逆に「理性的判断」の箍(たが)を外す方向に寄与したことは大いにあり得ることです。イメージで申しあげることは憚られますが、札ビラに物言わせるような殺伐とした刹那的な空気が街に蔓延する……、それが市原さんが聞き取った「人心の一変」という聞き取りの実態ではありますまいか。当方が美浜区内の中学校に勤務している際、市内の北部臨海地域埋立とそれに対する漁業補償とを知る関係者の方にお話しをうかがう機会が御座いましたが、それも、概ねそうした人と街の実態を伝えてくれる内容でありました。漁業権放棄と漁業補償後は、相当に集落の人心と街としての在り方に不安定な何物かを齎し、それが落ち着くまでにはその後何年も要したと。もっとも、市域北部の埋立・漁業補償は時期的にもう少し後のことになるのですが。
ただ、埋立による漁業補償を受けた沿岸部の街場の全てがそうした状況であったとは言い切れないようです。実は、葛城中に奉職していた頃の教え子の御母堂が寒川出身の方で(四捨五入すると70歳となる方です)、幸いに今でも親しく連絡を取らせていただいていることもあり、これを機に当該時期の寒川湊の人心についてもお聞き致してみました。寒川ではその時期に、ちゃっかりと千葉信用金庫が進出し寒川支店が開店したといいます。少なくともその方の周辺の方々はそれを貯蓄に回され、漁業を離れた方も千葉市鮮魚市場へ転職されるなど、漁業権放棄後にも堅実に生活されていたとお話しされており、地域生活もまた平時とさほど変わらぬものであったと言います(その後に調べたところ、千葉信金の寒川支店開店は昭和25年12月であり、必ずしも漁業補償を当て込んでの出店とは言えないことが分かりましたが)。もっとも、その時期の寒川神社の祭礼は、前後と比較しても千葉神社を遙かに凌ぐほどに豪壮なものであったそうで、そこに漁業補償の影響を強く感じたと仰せでありました。これは寒川という街が純粋な漁村ではなく、江戸時代以来連綿と続く商業都市(「商業人」)としての伝統もまた根付いていたことに起因するように想像いたします。そのことが、俄(にわか)「成金」的・刹那的な金銭感覚を排除する抑止力として機能したのではないかと推察するのです。つまり、街場としての伝統的な在り方が、それぞれの街における漁業補償支給後の人・街の気風を左右していたのではないかと想像を巡らせるところでございます。もっとも、聞き取ったのは、極々少数の方に過ぎません。より広範な聞き取りを実施すれば、個々には様々な事象が惹起していた可能性がございましょう。
以上、長々と書き連ねて参りましたが、その割には、その結論は至って当たり前で平板なモノとなってしまったかも知れません。つまり、伝統的に培われた県民性と、社会情勢とが分かち難く結びついて、戦後高度成長期の「生え抜きの千葉民」の「人となり」を醸成したということでございましょう。少なくとも、西山や地元の方が語っていた「生え抜きの千葉民」のもつ性行(「人となり」)というものが、当方が当初考えていた伝統的に形成された在り方にとどまることなく、市原さんがご指摘のような時々の社会的要因によって大きく左右されるものであった可能性を整理できたことは、当方にとっても大きな意義を持つものになりました。今回、書かせていただいた内容は、必ずしも表立って述べるようなことではないのかもしれませんし、昔のことを掘り返されたようで不愉快になった方もいらっしゃるかもしれません。もし、そうであったならば、心よりお詫びを申し上げます。しかし、これらもまた、我々の地元で生じた歴史的な出来事であることに違いはありません。ただ、衷心から申し上げたく存じますが、そうした動向を非難したり中傷したりする意図は全くございません。それらも含めたものが我々人間社会というものだと思うからに他なりません。
(完)
先週末に坂東の地で猛威をふるった「野分」を境に、空気もすっかりと秋に入れ替わったように感じます。日差しは未だ強いのですが、それでも空をゆく雲は、既に季節が移ろったことを教えてくれます。因みに、恐らく「タイフーン」という英語の音を日本語に置き換えただけの「台風」なる呼称は、如何にも安直な命名と思いますが皆様は如何お考えでしょうか。厳密な気象学の概念からは外れるでしょうし、何をアナクロニズムなことをと嘲笑されましょうが、当方は王朝物語に頻出する「野分」という本来の倭言葉に風情を感じます。「野分」とは関係はございませんが、今回人口に膾炙している古今集に載る歌を冒頭に掲げてみました。解説の必要がないほど平明な古歌でありますが、現在のような季節の境目をぴたりと言い当てた名品ではありますまいか。昨今では、あっという間に冬に移行してしまい、希少な季節と化しつつある「秋」となってしまったことを残念至極に思いますが、一年で最も美しく、過ごしやすいこの季節を堪能したいものであります 。
そして、本館の特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』の会期も残すところ10日となりました[10月17日(日曜日)が最終日となります]。本稿も特別展と歩調を合わせながら、関連した内容を中心に据えた題材を扱って参りましたが、到底展示されている全章について触れることが叶わぬまま、もうじき会期を終えようとしております。実質的に、前回まで触れ得たのは、全4章中前半2章分まで内容に留まっており、本稿が初めて第3章に関係することとなります。特別展の終了後の翌々日である19日(火曜日)からは、企画展『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』が始まり、本欄でも「大正期」の内容を扱って参る所存であります。ただ、斯様な仕儀にて、併せて高度成長期の内容も織り交ぜながら進めて参ろうと存じます。折々の脱線もあろうかと存じますが、常日頃申しあげますように、所詮は“風来坊随想”に過ぎませんので、肩肘張らずにお付き合いくださいませ。何卒ご寛恕の程を。
さて、高度成長期につきまして、これまで主に東京湾の埋立と、それに伴う東京湾岸の工業化・宅地化といった内容を中心に述べて参りました。しかし、特別展でも大きく扱っているように、千葉市内の変貌は、何も臨海部だけで生じていた訳ではありません。同時並行的に、内陸部においても進行していたのです。いや、むしろ「変貌」の主役は内陸にあると言っても決して過言ではないほどに、大きな変貌を遂げていると申しあげることすらできましょう。本稿ではそれらのことについて触れてみたいと存じます。まずは、当時の児童が物した作文の紹介からです。当時千城台北小学校に在籍していた小学校3年生女子の作文です(令和2年4月1日に千城台西小と統合し、現在は「千城台わかば小学校」となっております)。千葉県住宅供給公社を事業主体とした「小倉台団地」(開発面積:71ha、建設戸数:約2300戸)の造成が完成したのは昭和41年(1966)、引き続いて千葉県都市公社を事業主体とした「千城台団地」(開発面積:約208ha、建設戸数:約7千戸)の造成が完成したのは昭和45(1970)となります。実際にその場に住宅団地や公共施設が建設されて人居が始まるのはそれ以降となります。以下にお示しする作文は、その千城台団地に一年前に入居した児童の作品です。極々初期に千城台へ入居した一家の児童作品です(集合団地ではなく戸建分譲地のようです)。従って、おそらく1970年代初頭、高度成長最末期の風景がここには切り取られているものと思われます。
「変わっていく千城台」 千葉市立千城台北小学校 3年 女子
「ずいぶん家がふえたなあ。」
朝のさんぽから帰ってきたらしいおとうさんの声がする。おとうさんは、日曜日になると千城台をよく一周する。いつもなら、私も自転車でおともするのだが、けさは本にむちゅうだったので、いかなかった。 「いままではおとなりだったYさんが、見えなくなってしまいましたね。」 わたしが、千城台にひっこしてきたのは、きょ年の文化の日だった。あれからもう1年半になろうとしている。1年前の千城台といまの千城台を比べてみると、いろいろなことが、変わってきている。けさも、家じゅうでお茶をのみながら、そのことについて話し合った。 まず、家の数についてみると、ずいぶんいろいろな形の家がふえた。1ブロックには、16けんの家ができるのだが、去年ひっこしてきたときは、2けんしかたっていなかった。でも、わずか1年のうちに新しく6けんもできた。だから、今では、となりの家がとおかったのに、1か月ぐらい前、うらにMさんがひっこしてきてからは、となりがちかくなった。でも、今まで見えていた遠くのとなりのYさんの家が、Mさんの影で見えなくなってしまった。おばあさんが、 つぎは、おみせやさんについてである。1年前は、近くにT商店しかなかった。そこは、たばこ、ざっか、おかしぐらいしかうっていなかったので、魚、肉、野菜などは、遠くのKストアまで買いにいかなければいけなくてふべんだった。でも今は、近くにFストアができて、食べ物はそこでみんなまにあうようになった。また、酒をうる店、リビングセンター、本屋、薬屋ができたのでとてもべんりになったし、あたりがにぎやかになってきた、Hマーケットや食堂、おかしやさんも建てられていて、もうじき開店するらしい。 そのつぎは、お医者さんのことだ。1年前には、東町には、お医者さんがぜんぜんいなかった。わたしは、かぜをひきやすいので、ひっこしてくる前から、このことが家中の心配のたねだった。でもことしの春、3げんの内科と小に科のお医者さん、それに歯医者さんができた。私は、夏休みに歯医者さんにむし歯をなおしてもらったし、この間は、つづけて2回も小に科のお医者さんにお世話になった。お医者さんができたことは、心づよいことだとみんなが、いつも話している。 おしまいは、学校のことだ。わたしが転校してきたときは、2学年は2組しかなかった。朝礼にでたとき、こんな大きな学校にこれだけしかいないのかと思ってびっくりした。先生の数も、今までいた学校よりずっと少なかった。3年生になってからは、転入してくる友達が多くなり、2組だったクラスが3組になった。転校してきたときは、学校にいく友だちが、近所にいなくてとてもさびしかったが、2月にとなりにTさんが、3月には、道をはさんでむかいにMさんが引っ越してきたので、学校にかようことが楽しくなった。 「らい年は、どんなにかわっていくかな。」と、私はときどき考えたり、いろいろとよそうするのが、なんだかおもしろくなってきた。
(引用者註:固有名詞はアルファベット標記にしております) |
何とも子どもらしい、未来への明るい希望に満ち溢れる、如何にも高度成長期を体現するような内容に、思わず“ほっこり”とさせられます。素朴ではありますが、琢磨ざる優れた作文ではないでしょうか。容易にこの味は出せません。この作文を選んだ当時の教師の思いに共感いたします。この地は、「千城台」なる名称から明らかなように、典型的な「下総台地」上に新たなに造成された住宅団地に他なりません。高度成長期には、膨れ上がる首都圏人口の受け皿として、千葉県内でも大規模住宅団地が造成されることとなったことは、以前に千葉市沿岸部の埋立を述べた際に取り上げました。また、その目的が、時代の要請によって、重工場から非公害型工業の立地へ、更には大規模住宅団地造成から第三次産業企業の立地へと推移していく過程も追いました。そうした動向は、内陸部でも例外なく連動していたのです。以下、昭和40年代を中心として、市内に開発造成された18の住宅団地を一覧表でお示しいたしました。その内、下線が引かれている5つの団地が新たに造成された埋立地に立地しております。逆に、残り13の団地は全て内陸部に造成されたことになります。入居戸数で比較すると、臨海埋立地に約31,000戸、内陸部に約57,000戸となり、内陸部が臨海部の凡そ2倍の戸数となっております(同時期開発の臨海部「稲毛海岸ニュータウン」と内陸部「東南部住宅団地」の超大規模団地が、事業主体は異なりますがほぼ同数の入所戸数として開発されたことは興味深いものがあります)。つまり、内陸部における住宅団地造成が大きな比重を占めていたことが御理解いただけましょう。そして、それらの立地は、名称に「台」の字が付されているか否かに関わらず、ほぼ内陸の台地上に造成されております。つまりは、高度成長期には、埋立地以上に、内陸部での住宅団地等の開発が、大規模、広範、そして急ピッチで進められたことを知ることができましょう。
|
団地名 |
面積(ha) |
建設戸数 |
完成年度(昭) |
事業主体 |
1 |
園生 |
3.1 |
438 |
38 |
日本住宅公団 |
2 |
小仲台 |
2.5 |
310 |
38 |
日本住宅公団 |
3 |
宮野木 |
14.3 |
407 |
40 |
千葉市 |
4 |
あやめ台 |
15.5 |
1,538 |
41 |
日本住宅公団 |
5 |
千草台 |
23.0 |
2,098 |
41 |
日本住宅公団 |
6 |
稲毛第1 |
4.3 |
528 |
41 |
千葉県住宅供給公社 |
7 |
小倉台 |
71.1 |
2,293 |
41 |
千葉県住宅供給公社 |
8 |
稲毛公務員 |
14.9 |
1,240 |
41 |
大蔵省 |
9 |
稲毛海岸3丁目 |
8.4 |
768 |
42 |
日本住宅公団 |
10 |
花見川 |
81.6 |
7,081 |
43 |
日本住宅公団 |
11 |
大宮 |
64.7 |
2,040 |
43 |
千葉県住宅供給公社 |
12 |
幸町 |
52.9 |
5,914 |
45 |
日本住宅公団 |
13 |
千城台 |
208.3 |
7,100 |
45 |
千葉県都市公社 |
14 |
新検見川 |
79.3 |
4,000 |
47 |
日本住宅公団 |
15 |
東寺山 |
102.5 |
4,970 |
47 |
日本住宅公団 |
16 |
稲毛海浜NT |
436.7 |
23,000 |
48 |
千葉県 |
17 |
こてはし |
80.1 |
2,422 |
48 |
千葉県住宅供給公社 |
18 |
東南部住宅団地 |
607.0 |
22,640 |
51 |
日本住宅公団 |
※日本住宅公団は、現在「UR都市機構」と改称されています。
さて、これら千葉市の内陸における台地上に、新たに造成された住宅団地の立地した場とは、果たして、それ以前には如何なる「場」であったのでしょうか。中編では、そのことをまず歴史的に追ってみたいと存じます。
(中編に続く)
昨年、本館で小企画展『野のうつりかわり—六方野の場合-』を開催いたしました。本館の芦田副館長の企画で、どちらかと申せば「地味」な内容ではありましたが、当方にとっては掛け値なしに昨年度最も知的好奇心を喚起させられ、かつ刺激に満ちあふれた内容であったと確信するところであります。身贔屓が過ぎようとの誹りを免れぬとは存じますが、これが偽らざる正直な思いでございます。幸いに読売新聞にも取り上げていただきました。誰にでも注目される「特別展」ならいざ知らず、こうした地味な企画に興味を示してくださり記事にもしていただいた、読売新聞社千葉支局の記者様の慧眼と、実際の報道に「ゴーサイン」を出されたデスク様の度量とに、大いに感銘を受けた次第です。そのお陰もあってか、本小企画展を目的に来館された皆様からご好評を賜りました。有り難いことと存じております。
「おい!藪から棒に何を言っているのだ!?この話題前編の内容と何の関係があるのか」……との思いを抱かれる向きがございましょう。しかし、これが関係大ありの話題なのです。まずは、内陸部の開発の舞台となった「野(原)」という存在の復習から始めさせて頂ければと存じます。千葉市を含めた周辺地には「〇〇野」という地名が数多存在します。千葉市内や近隣で言えば、「おゆみの野」や「習志野」といった地名がすぐに思い浮かびます。私の初任校である千葉市立更科中学区では、住所地名(小間子・下泉・富田・谷当等々)とは別に、周辺の台地を「宇津志野」と総称しておりました。つまり、「野(原)」とは、平たく言えば広大な台地上の平坦地をさしましょう。それらの地は、団地造成以前には如何なる土地であり、また如何なる利用をされて来たのかについて、まずは理解しておこうというのが中編での話題となります。そして、そのことと高度成長期の「野(原)」の開発とは密接に関わってくることを御理解頂きたいと願うものです。実は、このことについては、令和2年度8月中の「館長メッセージ」で粗々説明をさせていただきましたが、その復習に若干の内容を付加しつつ整理してみたいと存じます。因みに、当該原稿は本館HPでお読みいただけます。本年度「館長メッセージ」目次の最下部に「令和2年度の『館長メッセージ』はこちら」とございますので、そちらをクリックしますと、昨年度「館長メッセージ」目次に到ります。そちらをご確認ください。
歴史的に見れば、水田耕作を生産の中心据えるようになってからの我が国では、それに適する耕地近くの低地に人は居住地を求めることが多くなり、必然的にそうした土地に集落が形成されていくことになりました。こうした集落形成には東国と西国では大きな違いも見られるようですが、今はそのことに踏み込まず、東国は千葉市域周辺の在り方に限って述べていこうと存じます。現千葉市域の地形的な特色からお考えになればお分かりになりましょうが、千葉市域は所謂「下総台地」という台地地形がその多くを占めており、標高の高い山が存在しない代わりに大きな河川も存在せず、総じて大きな起伏が無く平坦な土地柄であります。そのことに起因し、大規模に稲作を展開する広大な沖積低地は限られます。従って、多くの場合、台地を小河川が長い年月を経て開削した狭隘な低地である「谷津」を水田とする農耕を行なうことになったのです(谷津田)。そして、その谷津田に面する台地下縁辺に「集落」が形成され、それらが一体的に「村」として把握され、その機能を果たしてきたのです(領主の支配下に置かれ年貢等の負担を担う等々)。今でも市内では、少し郊外に足を運べばこうした谷津田の集落風景を見ることができます。谷津田と農村集落、そして台地境の斜面に形成される林地を含めた集合体は、昨今では所謂「里山」と称されるようになりました。そして、人と生物とが共生する身近な自然空間として、都会人の人気を集めていると耳にします。多くの市町村では里山巡りハイキングコースやガイド施設等が整備され、広く市民に活用されていると耳にしますが、千葉市ではどうなのでしょう。
ここで、話を斯様な「里山」の上部に広がる台地上の平坦地に移しましょう。この地こそが本稿にとっての肝心要の話題となります。この地は歴史的に如何様に利用されてきたのでしょうか。「そりゃ畠に決まっているだろう」と半分呆れながら即答される方がほとんどでございましょう。確かに、それは間違いではありません。水利の面で不利な条件である台地上は、「村」の人々によって概ね「畠地」として利用されてきたのです。この畠としての台地利用については、あえてここで説明をする必要もございますまい(近世後期には「薩摩芋」生産の舞台ともなります)。しかし、近世の村絵絵図をみると、「村」とは屋敷地と谷津田のみにあらず、周辺の台地上も含めて、当該の村落領域として描いているものがほとんどです。そして、台地上は必ずしも「畠地」ばかりではなく、むしろ広大な「林野」あるいは「草地」と書き込まれている土地が思いのほかに多いことに気づかされます(先程掲げた昨年度の前稿にて、近世以前の農民にとって「ムラ」「ノラ」「ヤマ」といった同心円状の空間認識が存在したとの福田アジオの学説をご紹介しております)。こうした土地は単なる耕作放棄地かと申せば左にあらず。これら「草地」「林野」こそ、草・萱・柴や木の枝などの採集地として、むしろ積極的に活用される場であったのです。つまり、こうした台地上の土地が「野(原)」と総称される「場」に他ならないのです。こうした地は別に「秣場(まぐさば)」とも称されました。刈り取った草が牛馬(農耕や物資輸送に用いられました)の飼料とされたからです。草はまた、柴などとともに田畑に敷きこむ「刈敷」や、焼灰にして有用な肥料(「草木灰」)としても活用されたのです。つまり、こうした「野(原)」は、農村にとって極めて重要な機能を果たしていたのです。一方、萱は重要な建築資材(屋根葺)であり、灌木は薪炭として活用されるなど、「野」とは百姓にとっては無くてはならない場所であったことを忘れてはなりません。ガスや電気など存在しない時代なのです。こうした、「村」の領域に含まれた「野」を一般的に「内野(うちの)」と称することを覚えて置いてください。
上述した内容で、勘働きの鋭い方はお気づきになられたことでしょう。「ということは、『村』の領域に含まれない『野』なんてものもあるのか」と。ご名算でございます。そうした「野」もまた相当数存在していたのです。集落の近隣に立地する「内野」であればともかく、標高の高い台地上の「野(原)」は、水利の面も覚束ない高燥な土地であり、畠作にも向かない地でありました。当然の如く生産地としての価値が乏しく、何れの「村」の領域にも属することがなかったのです。千葉市域では、近世初頭に徳川家康によって開かれた「東金御成街道」の道筋周辺がそうした土地にあたります。本道は、内房の船橋と外房の東金とをほぼ直線で結ぶ街道であり、その多くは太平洋と東京湾の分水嶺にあたる地点に造営されております。つまり、周辺部は市内では(旧上総国に含まれる土気地区を除けば)最も標高の高い地となっております。昨年の小企画展でご紹介した「六方野」が、まさに何処の「村」の領域にも属さない「野」でした。しかし、こうした耕作には適さない土地であっても、決して利用価値のない放棄地であったわけではありません。何故ならば、上述したように、草木を有効使用していた農民達にとっては、無くてはならない土地であったからです。
「六方野」のような「野」は、周辺の「村」の住人にとって、村の境界も特段明確に定められておらず、特定の農村地主の所有にも帰属しない、周辺の村々が共同で利用しあう、村同士が緩やかに接している場でありました。欧米由来の近代的な土地所有観念・村落境界概念を持つ現代人からはなかなか理解できない実態だと存じます。こうした土地が所謂「入会地(いりあいち)」であり、特定の村に帰属する「内野」に対して、「入会野」とも称されました。ただし、こうした緩やかな関係性の下に存在していた「入会野」であっても、少なくとも近世の幕藩体制下では、決して無主の地であった訳ではなく、幕府支配下にある土地とされていました。従って、周辺の人々が好き勝手に利用できるわけではなく、「入会野」を利用する村々が幕府に「運上金」を納めることでその利用が認められていたのです。しかし、複数の村々の共同利用に起因する村同士の争いも屡々起こりました。因みに、近世後期になると、こうした「入会野」もまた「新田開発」対象地となり、幕府の許可を得た商人の資本が投下され開発が進むことになります(「六方野」でも一部で新田開発が行われています)。しかし、その結果として、「入会野」に肥料や薪炭を依存してきた周辺村落と「入会野」を新田開発しようとする主体との間に深刻な利害対立が生じ、入会野利用を求める訴訟が頻発するようになります。こうした、状況の下で迎えたのが「明治」という新しい世ということになります。
さて、後編では、明治以降の高度成長期にまで至る「野」の移りかわりの概略を探って参りましょう。
(後編に続く)
明治になると、新政府は地方制度の整備に力を入れます。現在まで続く市町村の基盤が形作られた時期となります(もっとも、その後の町村合併、町から市への昇格等で明治期のままの町村であることは稀ですが)。この際、江戸時代の「村」にも大きな変革が訪れております。一般的に、多くの方々は(お恥ずかしながら以前の私自身も)、江戸時代以来の範囲を引き継いで現在の「村」が存在しているとお考えかと存じます。しかし、それは事実とは全く異なります。新政府が藩を廃止して府県制を取り入れたことは教科書を通じて誰でも学んでいることですが、その際に江戸時代の村を大きくまとめ(飛び地として散在していた地点も基本的には統合して)、新たな村に再編しているのです。また、一つの村に複数の領主の支配権が複雑に入り組んでいた近世の土地支配の在り方(相給支配)の解消も目指されました。つまりは、西洋近代の土地所有の在り方に根ざした土地支配の在り方を創造すべく改革が行われたのです(ただ、近世の在り方が劣っていたわけでは決してなく、農村から遺漏なく確実に租税を徴収するための機能としては優れた面があったと言います)。昨今、こうした近代における農村支配の在り方の変革について論じた、大変に優れた書籍が刊行されましたので、これを機に皆様にもご紹介させていただきます。しかも手軽で安価な新書です。しかし、中身はそれに反して重く、価値ある内容であることを保障致します。荒木田岳『村の日本近代史』2020年(筑摩新書)こそがその書物にほかなりません。
さて、その結果として、江戸時代に全国で凡そ63,000あった村の数は、約16,000に激減しております。同時に、近代所有権概念の下で、これまで曖昧であった山林・林野等の「入会野」に境界線が確定され、何れかの村に属する土地とされました。更に、所有者が明確に区分されて登録されることとなったのです。もっとも、「入会野」の場合のように、元々公有地であった土地の多くは国有地化されています。ただ、面倒なことに、その上に存在していた入会の取り扱いは、民法上「入会権」として認められることが多かったのです。つまり、これまで「入会野」であった土地が、行政上で何れかの村の行政範囲に入り村境が明確になっでも、また所有権が国に移っても、その地が「野」の状態である限りは、近世以来の権利である草木等を入手できる「入会権」が継続して認められるケースが多かったのです(ただ、地域のよっても様々なケースがあるようで、全てが認められたかどうかは判然としないのが現状です)。
これを明治以降の千葉市内の「六方野」で見てみましょう。ここもご多分に漏れず国有地に編入されましたが、特異なのは、ここが「軍用地」として利用されるようになることです(軍事演習地)。今回の特別展では、秀明大学清水克志研究室からご提供いただいた克明なる「千葉市域の新旧土地利用彩色図」を展示してございます。そのうちの大正10年(1921)年の地形図を見ていただければ、千葉市の内陸部にひときわ巨大なオレンジ色に着彩された「荒地」を見ることができます。その地こそが入会野であった「六方野」であり、明治以降は陸軍の演習地として利用された土地に他なりません。しかし、その地を利用する村々は「入会権」を盾に政府との切実な交渉を重ね、結果として軍事演習時以外には採草地としての利用を認められております。そして、昭和20年(1945)の敗戦後には、軍の解体に伴って軍用地は民間へ払い下げられていきました。「六方野」には、陸軍「近衛部隊」であった人々や、満蒙開拓団からの引き揚げ者等が入植して、農地や酪農の地として戦後の新たな歩みを始めることになったのです。
そして、時は巡って戦後の高度成長期に到ります。この時代に、都市人口の増大に伴う東京から溢れた人々の受け皿として、大規模な住宅団地造成地として着目されたのが、こうした台地上の広大な平坦地に他なりませんでした。そもそもが、内陸に偏った交通等の利便性の悪い土地であり、その段階においては都市化することもなく、畠作農地や草木の生い茂る土地が茫漠と広がっていたからであります。また、戦後に国内へ広く普及することになる電気ガス等や、化学肥料の普及、更には農耕に牛馬を用いる機会の減少は、農村における採草地・薪炭等供給地であった「野(原)」の重要性を大幅に低減させていた社会事情も大きかったことでしょう。従って、別稿で述べた「三里塚」の事例が語るような、戦後になって入植して酪農・牧畜・開墾による農業に従事された方々は別として、台地上の農地・草木地等の買収も、臨海部の漁業補償を巡る対立や莫大な費用負担と比較すれば、概ね支障なく円滑に進捗したものと考えられます。そして、何より台地上の平坦地は、住宅団地造成には持って来いの至って好都合な土地でした。その地に、巨大な住宅団地が次々に造成されていったことは、前編の一覧表からお分かりいただける通りです。集合団地のシステム化された現代的な各部屋の間取りは、多くの勤労所得者(サラリーマン)にとって理想的な居住環境と目され、世に「憧れの団地生活」なる言説も流布しました。当方も、子どもの頃に、叔母夫婦の住む武蔵小金井市にあった「公務員住宅」が羨ましくて仕方がなかった想い出を有します。
しかし、こうした大規模な住宅団地は、元来が交通の利便性の悪い内陸部の立地であり、団地を少し外れれば、道路網も元の農村地帯であった時代と代わり映えしない状況にありました。例えば花見川団地であれば、戸数7,000強、人口26,000人強という全国有数の都市が突如できあがったわけですから、所謂「インフラ」整備が追いつかないことが当然のごとくに生じたのです。学校のマンモス化(プレハブ校舎の増設、当方が奉職した千城台南中のように各学年10学級=全30学級のマンモス校)、整備されない道路の交通渋滞、鉄道駅から離れているためのバス利用(車内大混雑)、これまで地方へ向かうローカル路線であった鉄道の乗車許容限度超過にともなう、通勤電車の信じがたいほどの寿司詰状態等々。更には、そうした住宅団地周辺に、民間業者による戸建て住宅の無秩序な開発が際限なく行われるなど、千葉市内でも所謂「スプロール現象」が急速に進行していきました。今でも、団地周辺では狭い道路の奥に犇めくように戸建て住宅が鮨折のように密集して立ち並ぶところが数え切れないほどにございます。こうした開発は、本来宅地には向かない低湿地であった土地を無理矢理に造成した住宅地も多く、欠陥住宅、地盤沈下による被害、上下水道等の都市インフラの整備の不完全さに起因する大雨時の冠水等、様々な社会問題をも生じさせました。
また、学校現場では、その時期に所謂「荒れる学校」なる社会現象も頻発しました。教師も学年全体の生徒ですら把握することが困難な状態であり、一人ひとりの生徒に丁寧に対応することすら難しい状況も生じました。正に高度成長期の歪みとも言うべき社会現象が全国大都市圏、つまりは我々の住む千葉市内でも頻繁に社会問題化し、その都度新聞紙面を賑わしたことも記憶に新しいのではありますまいか。その後、解決に向けた努力は続けているのでしょうが、全ての面で解消されたとは到底申せないのが現実ではありますまいか。例えば、千葉市内陸部の住宅団地周辺と周辺市を結ぶ一般道路網は、到底令和の世とは思えないほどに未整備であり、幹線道路でさえもが渋滞の巣窟と化しております。20年ほど前、船橋市高根台団地に居住していた時分に、千葉市中央区の職場に自家用車で通うには、往復で大凡3時間弱の時間を要することも間々ありました。あまりの精神的苦痛故に、後半は電車通勤に切り替えましたが、津田沼駅での乗り換えの不便さにも難渋させられたことも度々でした。大都市圏と称しながら、何故かくも不便なのか、何時改善されるのか等々、内心で呪詛の言葉を唱えたことも、お恥ずかしながら一度や二度ではございません。そして、21世紀に突入した今日、高度成長期に建造された住宅団地施設の老朽化、住民高齢化にともなう地域社会の機能不全等々、新たな問題もまた生まれております。解決すべき課題は山積しているように思われます。
最後に、この時代を、狭い住宅団地の住人として過ごした子どもの細やかな願いを吐露した詩、そしてどことなく大正時代『赤い鳥』の世界を彷彿とさせる、ちょっと文学的表現に傾いた「ラッシュアワー」に見舞われる駅の光景を描いた詩作品とを紹介させていただき、三回にわたった本稿を〆たいと存じます。
わたしの部屋 椿森中学校 2年生 女子
たった二畳でいい。 たった二畳でいい。 ああ!
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(完)
10月も半ばとなり、一段と秋の気配が色濃くなってまいりました。昨年もこの時期に「夕暮れ」の美しさについて書いたように記憶しておりますが、これから冬にかけては、透徹した空気の中、雲を多彩に染め上げながら沈みゆく夕景が一年を通じて最も美しい季節となります。古典和歌では「新古今和歌集」の秋の部に採られた所謂「三夕の歌」が広く世に知られておりましょう(三首ともに五句に「秋の夕暮」を配する西行・寂蓮・藤原定家の作品です)。しかし、当方は、同歌集に採られている冒頭歌が三首に取り上げられていないことが不思議でなりません。「三夕の歌」の淵源は16世紀初頭にまで遡れるようです。当然、その時代の和歌受容状況と評価基準とが、現代のそれとでは異なっていることは確実です(何をもって優れた作品とするのか)。例えそうであれ、良経の「秋の夕暮」歌が、「三夕の歌」を遥かに凌駕する作品であることは動かないと考えますが、皆様は如何お感じでしょうか。少なくとも当方にとって「別格本山」と申すことに何の躊躇もありません。本詠歌は、以前にご紹介させていただきました、塚本邦雄撰に掛かる名著『淸唱千首』にも採られております。正しく申せば、当方も塚本のお陰で、その歌人と本作の図抜けた素晴らしさに開眼させられたクチであります。前回同様、当方のような素人が四の五の申したところで、その素晴らしさをお伝えすること到底に能わず。塚本の鑑賞文を以下に引用させていただきます。良経作品に格別な思い入れのある塚本ですが、本詠歌へは珍しい程の賛辞を捧げているように思います。その所為もあって忘れ難き詠歌となっております。
正治二年院初度百首歌、秋二十首の第五首目にみえる極めつきの秀作。達観と言ふには若い三十一歳、その壮年の晩年に、獨り瞑目端座して過去の、四方(よも)の、永く廣く深い「時」の命を思ひかつ憶(おも)ふ。かつての憂ひも悲しみも、この秋の存在はなほ一入身に沁む、曰く言ひがたい思考であり感慨であらう。五句重く緩やかに連綿して類のない調べ。 (塚本邦雄撰『淸唱千首-白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年に歌から選りすぐった絶唱千首』-1983年 富山房百科文庫35 より) |
さて、本年度が「千葉市制施行100周年」であることに因んだ、令和3年度特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』が、明後日17日(日曜日)に大団円を迎えることになりました。千葉テレビを始め、新聞各紙にも取り上げていただくなど、大変にご好評をいただくなかで無事に閉幕を迎えることができそうです。館長といたしまして深い喜びに満たされる思いでございます。そして、矢継ぎ早に、来週19日(火曜日)からは企画展『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』が開幕となります。表題にもお示ししておりますように、昨年度から継続して開催する「市制施行100周年」を記念する展示会であり、3回目の本企画展を以って、「市制施行100周記念」を銘打った展示会は最終となります。
本展示会につきましては、当初「特別展」として開催することを目論んでおりましたが、予算上の都合により規模を縮小して開催することになりました。即ち「企画展」としての開催とさせていただいた……ということです。その結果、記念講演会の開催はございません。図録も若干紙質を落し、モノクロ図版中心となります。しかも、総頁数の関係で全ての展示品を収録することは叶いませんでした(「展示資料一覧表」にて全展示史資料は明示)。その分、一冊¥300というお求めやすい価格での販売とさせていただきます。しかし、だからと申して、会場展示と展示図録の内容に、一切の手抜きはございません。この点は幾ら強調しすぎても、し過ぎることはないと申し上げたく存じます。昨今、多くの博物館で「予算確保が儘ならならない」ことを理由に展示図録を刊行しないケースが多くなりました。素晴らしい内容の展示会なのに……と、残念に思うことが間々あります。本館近く千葉県立中央博物館ですら事情は同様です。しかし、「展示図録」を刊行しなければ、会期終了をもって、その内容はご覧いただいた個々の記憶の中にしか残ることがないのです。これでは、後の検証に用いることもできませんし、遠方にお住まいで展覧会に足を運べない方が内容を知ることすらできません。私は、これでは、博物館としての責務を果たせていないと考えるのです。従いまして、後世に「記録」として残すことができる「展示図録刊行」は必要不可欠であるとの認識を持っております。勿論、小企画展のような展覧会では「ブックレット」のような小冊子でも構わないと思います。このことを本館としての基本スタンスと参りたいと存じます。そして、予算の逼迫する中でも、手前味噌とはなりますが、担当者の尽力により、本展でもどうにか図録刊行が叶ったことに安堵をしております。展示資料の「三分の二」程の収録にはなりましたが、ご覧いただければ千葉市が誕生した大正期から、戦争という暗雲に覆われる前の昭和初期に到る「時代像」「世相」を把握できるよう、掲載史料を厳選しております。是非お求めいただけましたら幸いでございます。
まず、何時ものように、本展示会に館長として寄せた「はじめに」全文を以下に掲載させていただきます。千葉町が「市制」を施行。「千葉市」に衣替えをして、新たなスタートを切った「大正」という時代が、日本において如何なる時代であったのか。そして、それが紛れもなく世界的な動向とも連動していた時代であり、その時代の千葉市の街と人々の生活・世相にも色濃く反映していたことを、本展を通じて皆様に御理解を頂ければと願うものです。併せて、多くの皆様にとって、あまり深い印象を持たれているとは言い難い「大正」という時代が、現代社会の淵源となる極めて重要な時代であることにお気づきいただければと存じます。そして、斯様な展示になっているものと自負するところでございます。千葉市が市制を施行して100年という節目を迎えたことを好機会に、皆様もそのルーツとなる百年前の時代を振り返ってみては如何でしょうか。世に「初心忘れるべからず」「初心にかえれ」等々の価値ある箴言(警句?)がございます。誠にしかり。自らが居住する街が、「市」として歩み始めた第一歩を振り返ることは、自ずと現在ある「千葉市」の立ち位置を検証することを意味しましょう。それを蔑ろにすることは「未来」を蔑ろにすることと同義です。「歴史を学ぶ」ことは「歴史に学ぶ」ことでもあると思います。皆様、是非とも百年前の千葉市へお越しください。
後編では、今回の企画展の全体構成、つまり「序章」と「1~5章」の各「表題」・「内容概要」の御紹介をさせていただきます。こちらは、本企画展担当である本館の前田聡主任主事と遠山成一研究員の執筆となります(展覧会場・図録の各章冒頭に掲載されて内容です)。端的に各章毎の内容を纏めておりますので、本稿をご一読の上でご来館をいただけることをお薦めいたします。本展の理解が深まること必定と存じます。
は じ め に 本展で扱う「大正」から「昭和初期」に至る時代は、明治と昭和という大きな歴史に彩られた時代に挟まれた比較的影の薄い時代と考えられがちです。しかし、その実像は現代日本に直結する社会基盤が形成された、大きな「時代の転換期」に位置づけられる時代なのです。時代を象徴する「大正デモクラシー」「大正浪漫」等の歴史用語を耳にされたことがございましょう(両者とも同時代の史料用語ではなく戦後に生まれた学術用語です)。「デモクラシー」は「民主主義」の謂いであり、「浪漫」はロマンチックに由来する言葉で「 感情的・理想的に物事をとらえること」「夢や冒険等への強い憧れをもつこと」といった意味合いで用いられます。着目すべきは、その主体が「如何なる人々」であったかです。理想的な社会を志向し、その実現に憧れた人々、それはこの時代に歴史の表舞台に登場する「大衆」なる存在に他なりません。様々な社会的要因により明治末から勃興する名もなき一般人の集合体である「大衆」が、政治・社会で大きな存在感を示すことになる時代、それが「大正」という時代を特色付けます(諸々の社会改造運動の勃興)。そして、それら大衆によって牽引された文化的風潮が所謂「大正浪漫」であります。最早、時代は一部政治家だけの意思で動くものではなく、文化も一部富裕層ものではなくなるなど、大衆の躍動する空気が広く世相を覆う時代に移り変わっていくのです。勿論、それらは国内の動向に留まるものでなく、世界的潮流の中に位置付くことを見逃すことはできません。あまつさえ、市制施行前後に千葉市内でも吹き荒れた「スペイン風邪」なる、歓迎すべからざる疫病までもたらしております。一方、こうした巨大な大衆的奔流が、理性的志向への抑圧機能に転じ、昭和期に入って勃興する全体主義的動向を生み出す母体となったことも看過すべきではありますまい(軍部の台頭)。 この様に、市制施行前後の本市状況も、例外なく世界・国内動向に大きく規定されておりますが、本市のおかれた地域性も見逃すわけには参りません。明治期に県庁所在地となった千葉町ですが、多くのそれが旧城下町という近世に統治機能を有していた主要都市を継承したのに対し、本市はそうした基盤を有してはおりませんでした(ただし、決して寒村であったわけではありません)。従って、他県都は初手から市制を施行しましたが、本市の悲願達成は大正末までずれ込むことになりました。それまでに立ちはだかる多くの課題を乗り越え、紆余曲折の末に成し遂げられたのが本市制施行であったのです。それは、時代の風が本市にも及び、街や人々の生活が大きく様変わりしていく時代でもありました。白黒写真で目にする大正期の千葉市は、総じてモノクロームの印象が強いものですが、その実は総天然色に彩られた華やかな時代ではなかったかと推察いたします。本企画展は、そうした当該期における本市の多様な街と人の世相に迫ろうとするものでもあります。 最後になりましたが、当展示の開催にあたり、多大なるご厚意を賜り、貴重な史資料等の拝借につきまして御快諾いただきました所蔵者及び関係機関の皆様に、深甚の感謝を申し上げます。
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(後編に続く)
前編に引き続き、後編では各章(序章・第1章~第5章)の概要について、この場でご紹介をさせていただきます。前編最後にも述べました通り、こちらをご一読の上でご来館されますと、本展に対する御理解も深まること間違いなしと存じます。
今から100年前の大正10年(1921)1月1日、千葉町に県内初の市制が施行され、千葉市が誕生した。 市制が施行された大正時代を通して、戦前までの千葉市には道路や街並みなど、近世以来のまちの骨格が色濃く残っていた。 中心市街地がその姿を大きく変え、現在のまちの形となったのは、昭和20年(1945)7月の七夕空襲による市街地の焼失と、戦後の復興土地区画整理事業によるものであった。 序章では、地図と写真により、姿を変える前の市制施行期における千葉のまちを紹介する。 |
大正3年(1914)の第1次世界大戦の勃発は、日本にとって「大正新時代の天祐」とされ、空前の経済成長をもたらし、一時的には「大戦景気」とよばれる好景気に沸くことになった。大戦景気は、大正7年(1918)11月の大戦終結の影響による景気の落ち込みがあったものの、翌大正8年(1919)4以降回復し、ふたたび好景気になる。ところが、市制施行前年の大正9年(1920)3月に景気は大きく落ち込み、「戦後恐慌」となる。米価は同年が豊作であったことも裏目に出て、翌10年(1921)には半値まで下落した。 市制の施行から2年後の大正12(1923)年9月1日、関東大震災に見舞われ日本経済は大打撃を受けた。「震災恐慌」である。さらに、昭和2(1927)年3月には「金融恐慌」がおこり、政府のモラトリアム(支払猶予令)によってようやく事態を収拾した。しかし、それもつかの間、昭和4(1929)年10月にアメリカを発生源とする「世界恐慌」の影響が、昭和5年から6年にかけて日本を直撃し、戦前最大の不況「昭和恐慌」を引き起こした。 このように、戦後恐慌に始まる不景気が全国的に続く中、千葉のまちでもデフレーションと失業の波に襲われていた。この最中の大正10年(1921)1月1日、千葉のまちに市制が施行されたのである。 本章では、千葉のまちの職業構成や 物価、農業・漁業・商業に関する資料により、当時の千葉のまちの様子を紹介する。 |
明治5年(1872)の学制の発布から始まる近代日本の教育制度は、明治12年(1879)の教育令による学制廃止を経て、明治19年(1886)の小学校令・中学校令・師範学校令の制定により成立した。これらの法律に基づき、千葉のまちにも初等教育機関である「尋常小学校」「高等小学校(のちに初期中等教育機関の位置づけとなる)」、中等教育機関である「中学校」「高等女学校」「師範学校」が設置された。 その後、第1次世界大戦[大正3年(1914)~大正7年(1918)]時の経済的好況により、有産階級の増加や都市化の進展が進み、「大正ロマン」「大正デモクラシー」といった風潮が生まれた。この影響で、一般市民への進学熱の拡大と、それによる中学校などの中等教育機関の不足が問題となった。 千葉においても例外ではなく、大正12年(1923)時点で、市内の中学校は3校であったが、財政難から私立の中学校新規開設を支援した結果、大正15年(1926)は6校に倍増した。 初等教育においては、児童の個性の尊重、西欧教育思想家の影響を受けた児童観の普及などが見られた。特に、本市においては、千葉県師範学校附属小学校(現在の千葉大学教育学部附属小学校)で、手塚岸衛らにより大正年8(1919)9月から大正15年(1926)頃まで「自由教育」が実践されたことは特筆すべきことである。 自由教育は、児童の自治活動を重視し、自教育あるいは自己教育という考えから始まったが、次第に個の尊重へと力点が置かれ、能力適応教育となっていった。 本章では、大正期の千葉町(千葉市)内の学校やその資料、千葉師範学校附属小学校で展開された自由教育について紹介する。 |
大正の新時代は、第1次世界大戦の大戦景気にも支えられ、義務教育就学率がほぼ100%になったことや、中等教育への進学熱もあいまって、大衆が文化を享受するようになった。その結果、彼らを対象とした出版・映画・ラジオ放送などの「マスメディア」産業が華々しく台頭してきた。 また、産業構造も第2次、第3次産業の比率が増し、商業や流通が盛んとなった。さらに、都市近郊の鉄道網、自動車や乗合バスの発達もあり、都市部へ人口が集まる傾向にあった。 物資の集散地として歴史的背景をもつ千葉のまちは、県庁が置かれたことに より行政の中核となり、房総各地からの鉄道便、近郊からのバスの便にも恵まれ、人口は増加の一途をたどっていった。 また、大正デモクラシーの影響下、自由と開放感、躍動感にあふれた新しい文芸・音楽・演劇などの芸術が流行し、都市を中心とした大衆文化・消費文化が栄えた。その一方、江戸時代以来の庶民の娯楽である寺社の祭礼・縁日は、千葉神社や千葉寺など千葉のまちでも賑わいを見せている。 こうした時代背景のなか、女性の社会進出がおこり、女性雑誌が次々と創刊され、隆盛をみることになる。「衣」の分野では、華やかな大正ロマンを代表した「銘仙」が流行をみせた。 本章では、経済変動に翻弄されながらも、千葉のまちに花開いた大正ロマンの世界を紹介する。また、大衆文化を支えた演芸場、映画館などのほか、折しも市制施行の1921年(大正10)7月、京成千葉線開通によりにぎわいをみせた海辺の情景を紹介する。 |
明治以降に県庁所在地であった都市の多くは「市」としてスタートしたのに対して、千葉は「町」であり市政の施行は悲願であった。しかし、千葉の町から市への昇格は、順調に進んだわけではなかった。 明治39年(1906)年に人口30,000人を突破し、市制施行に必要な人口25,000人を大きく上回っていたこともあり、明治42年(1909)以降、市制施行への調査が断続的に行われ機運も高まったが、大きく立ちはだかったのは 不足する税収であった。原因は、町収入の大きな割合を占める戸数割付加税に基づく徴税方法では未納者が多いことであった。そこで町は、都市部で比較的採用されている家屋税付加税へ変更しようとした。増税による不公平感から強硬に反対する勢力もあり難航したが、大正8年度(1919)には家屋税付加税を賦課できるようになり、税収問題はいちおう解決をみた。 町にとっての大きな懸案が解決したこともあり、再び市制施行への機運が高まった。大正9年(1920)3月、町議会で市制施行のための建議を可決し、5月に内務省へ意見書を提出したが、12月21日に内務省から市制施行に時期尚早との否定的な回答があり、行き詰ったかにみえた。 そこで、折原巳(み)一郎千葉県知事が上京し関係各所に掛け合った結果、状況が好転し、12月23日に市制施行の諮問が折原知事から町議会に示され、12月27日、町議会は同意する答申を決定した。そしてわずか4日間の準備期間を経て、翌大正10年(1921)1月1日、市制が施行された。 これにより千葉郡から独立し、郡への負担金の支払いがなくなる財政的メリットもあったが、何よりも当時の千葉町にとって、県庁所在地として市制施行に向けてのプライドもあったのだろう。本章では、戸数割付加税から家屋税付加税への変更、市制施行までの経緯、お祝いムードに沸いた市制施行祝賀会について紹介する。 |
現在、世界的に猛威を振るう新型コロナウイルスの流行は、今から約100年前にも世界的な広がりをみせた流行性感冒(「スペイン風邪」)によく例えられる。市制施行前の大正7年から9年(1918~1920)にかけて、千葉のまちでも猛威を振るっていた。 大正12年(1923)9月1日には関東 大震災が発生し、千葉県でも南房総を中心に甚大な被害が発生した。千葉市は大きな被害を受けなかったものの、一時、東京・横浜からの避難民の受け入れや救護物資の送り出しで騒然としていた。震災は経済に大きな打撃を与え、市制 施行後の千葉のまちに暗い影を落とした。 こうした沈滞的な雰囲気を打ち払うべく大々的に行われたのが「千葉開府八百年記念祭」であった。大正15年(1926)は、千葉氏が上総国大椎(緑区大椎町)から千葉へ本拠を移して八百年の節目の年に当たるとして、子どもから大人まで千葉のまちをあげての一大祝賀行事が 行われた。 本章では、本企画展のエピローグとして、当時の新聞記事や実物資料をもとに、ほどなく戦争という暗い影が忍びよることになる市制施行前後の千葉のまちの様子をみていきたい。 |
以上となります。改めまして、10 月19日(火曜日)に開幕する本館企画展へのご来館を心よりお待ち申し上げております。
最後に、本展の内容とは直接に関係しない話題となりますが、一点情報提供をさせてください。本館で本年度5月から7月にかけて開催いたしました、小企画展「陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-」では、「千葉市近現代を知る会」の皆様に多大なるお力添えを賜りました。それどころか、同会の御力添えがなければ本展開催はかくも充実した内容とはなりえなかったことは確実です。特に、企画・展示等に到るまで全面的にご支援くださった、同会代表の市原徹さんの存在が我々の小企画展の原動力となったのです。その市原さんの手になる、気球連隊に関する論考が、現在発売中の雑誌『丸』11月号に掲載されております。四段組8ページにわたる論考は、掛け値なしに充実の内容でございます。今後の日本陸軍における「軍用気球」活用と気球隊(気球連隊)」の歩みを語るための基本文献として重用されることは必定だと思われます。また、本館展示でも山のような貴重な資料を御提供いただきました、同会員伊藤奈津絵さま所蔵の写真が、本誌中に数多く鮮明な形で収録されていることも特筆されます。以下、論考のタイトルと小見出しとを掲載させていただきます。一般書籍とは異なり、雑誌は品切れとなるのも早く、品切れると入手し難いものでもあります。御興味がございましたら、是非とも早めのご購入をお薦めいたします。「気球聯隊」に関しましては、本館でもブックレット刊行を期しておるところです。しかし、本稿を拝読させていただき、正直、市原さんの論考だけあれば充分ではないかと思わされるほどの素晴らしい内容であります。皆様にもご一読をお薦めいたしたく存じます。
「千葉にあった陸軍気球連隊クロニクル」市原 徹
[「雑誌『丸』2021年11月号 特集 日本の傑作軍艦 防空駆逐艦「秋月」型」(潮書房光人新社)] |
最初に長い「道草」となることをご容赦ください。最早旧聞に属することかもしれませんが、11月5日、スウェーデン王立科学アカデミーが、今年の「ノーベル物理学賞」を、アメリカのプリンストン大学上級研究員である真鍋淑郎さんら3人に贈ることを発表。6日(水曜日)付の朝刊にて国内各紙も1面トップで報道しておりました。新聞報道によれば、今回の受賞に到った彼の業績は概ね以下のようなものだということです。
真鍋さんは1960年代に地球の大気の状況変化をコンピュータで再現する方法を開発。大気中の二酸化炭素が増えると地表の温度が上がることを数値で示した。(中略)計算方法を改良し、気温や気圧、風向きといった大気中の複雑な現象を物理的な法則に基づいて数式におきかえ、コンピュータで計算する方法の基礎をつくった。
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現在、大気中の二酸化炭素濃度増加が地球温暖化の最大の要因であり、「脱炭素社会」への転換を図ることが喫緊の課題であることは、全世界で共有されるところでございましょう。2007年に「ノーベル平和賞」を受賞した「国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の温暖化報告書にも、彼の研究成果が反映されているとのことです。そして、その報告書が1997年「京都議定書」、2015年「パリ協定」等の世界の温暖化対策を大きく進める政策に繋がった……と申せば、その研究の価値が如何ほどに高いものであるかは、当方のような素人にも腑に落ちます。テレビ報道で、古くからの研究者仲間が「気象現象を物理学でとらえようとするなど常人では考えもつかないこと」とおっしゃっていたことが印象的でした。加えて、新聞報道は「日本のノーベル賞受賞は、2019年に化学賞を受けた吉野彰・旭化成名誉フェローに続き28人目になる」と報道していたのです。しかし、そこまで読み進め、当方は、その記事に曰く言い難い引っ掛かりを禁じ得なかったのです。おそらくそうした疑問を持たれた方は多いのではないでしょうか。何故ならば、同じ誌面に、真鍋さんについて以下のようにも書かれていたからです。
真鍋さんは愛媛県出身で、東京大学大学院で博士号を取得した。1975年に米国籍を得て、現在も米国に在住する。97年には一時、旧科学技術庁が発足させた研究チームに招かれ、米国から日本への「頭脳流出」と話題になったこともあった。
(同上) |
当方の抱いた「疑問」、何とも言えないモヤモヤ感の正体は、真鍋さんが50年近くも昔に「アメリカ国籍」を取得されていることです。今回のノーベル賞受賞は決して「日本の受賞」ではなく「アメリカの授賞」ではありますまいか。より正確に申せば「アメリカ人の受賞」でございましょう。今回の冒頭に取り上げてさせていただいている話題をご覧になって、本稿を続けてお読みになられている方が「またノーベル賞ネタが始まったよ」と、辟易とした表情をされている様子が眼に浮かぶようです。そして、「真鍋さんは90歳だというから、また昭和の遺産に落とすのだろう」と先読みをされていることも。しかし、今回は左にあらず。「昭和」どころか、今回の受賞という恩寵は100%「アメリカ」に帰すべきことでございましょう。米国においても、真鍋さんが一時日本の研究チームに加わった際に「頭脳流出」を懸念したというのですから、米国が真鍋さんを「アメリカ人」と認識していることは間違いありますまい。
まぁ、確かに日本に生まれ、大学院で博士号を取得され米国籍を取得するまでは日本人であったことは間違いありません。しかし、上述したように50年近くもアメリカに居住し研究生活を続け、あまつさえアメリカ国籍まで取得されているのです。今回の研究成果のほぼ全ても、アメリカでの研究成果に由来しましょう。真鍋さんは会見で、いみじくも日本の研究環境について以下のように語っておられます。当方も予てしつこいほどに申しあげていることですが、真鍋さんの口から出た言葉の重みは比類ありません。この発言を、日本の政策決定関係者、企業や大学の研究機関こそ、真正面から受け止めるべきでございましょう。もう、これが最後の機会かもしれません。ちょうど内閣総理大臣も代わったところです。真鍋さんの御発言が「新自由主義からの訣別」を宣言された新首相の政策実行への力強いバックボーンになりましょう。何故ならば我の国の「研究体制」が置かれている現状は、「新自由主義」的思考に基づく施策のもたらした行く末に他ならないからであります。「聞く耳」をもたれることをモット―とされる新首相のことですから、真鍋さんの御発言を是非とも諸政策に直結させていただけることを祈念する次第であります。勿論、大学や企業のトップの皆さんも同様ではありますまいか。
「好奇心に基づいた基礎研究」の積み重ねから、真の価値ある発見が生まれるのであり、それこそが画期的な比類ない製品に結びつくのであって、その逆は真ならずなのです。そうした基礎研究に力を入れてきた「昭和」に極々一般的であった理念の復活こそが起死回生の切り札に他ならないと考えます。そうでなければ、優秀な頭脳は今後も海外に流出し続けるでしょう。新聞報道では、ノーベル賞候補に名が挙がる東京理科大学の藤嶋昭:栄誉教授が中国の大学を研究活動の場とすることが明らかになったことにも言及しておりました。記事は「研究費が実用分野に重点配分され、基礎研究へのしわ寄せが続けば、頭脳流出に拍車がかかりかねない。」と綴じられております。研究を「ノルマ達成の仕事」として取り組むのか、「自らの好奇心に基づいた内発的行為」として行うのか、その違いは天と地ほどに異なりましょう。研究を進めるのは感情を持った「人間」に他ならないのですから。それを止めることができるのは、上記した方々の未来を見据えた舵取りに掛かっておりましょう。真鍋さんのご発言は限りなく重いモノだと思います。ただ、日本における記者会見での真鍋さんのご発言は相当に遠慮がちであり、随分と言葉を濁されているように感じさられたことが気になりました。いみじくも彼が日本社会の欠点として指摘される「日本の人々は常にお互いの心をわずらわせまいと気に掛けている」を、「日本という場」で発言される真鍋さんご自身にも強く感じたのです。日本社会に、良きにつけ悪しきにつけ蔓延するメンタリズムが、かほど根深いものであることに、ある意味愕然と致します。皆様は如何お感じになられましょうか。
「好奇心に基づいた研究が減っているのではないか。米国では他人がどう感じるかを気にせず、自分にやりたいことができる。研究者としても、自分がやりたい研究は何でもでき、私は自分が使いたいコンピュータをすべて使えた。日本は、政策決定者と科学者がお互いにどうコミュニケーションするか、もっと考えなければならない。」
「日本の研究には、好奇心に基づくものが以前よりもどんどん少なくなっていっているように思う」「どうしたら日本の教育が良くなるのかを考えてほしいと、心から願っている」「米国で暮らすって素晴らしいことですよ。私のような科学者が、研究でやりたいことを何でもやることができる」「私は調和の中で生きることができません。それが、日本に帰りたくない理由の一つなんです」「(専門家から)政治に対するアドバイスのシステムが、日本は難しい問題がいっぱいあると思う」「米国の科学アカデミーは、日本よりも遙かにいろんな意見が学者からあがっている。日本よりそういう意味でも、はるかにいい。だから、まあ、そういうところ、考える必要があるんじゃないですか」
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長い道草をしてしまいました。ようやく標題の内容に移らせていただきます。前々回には高度経済成長期の千葉市内陸部の開発について、台地上の「野」の開発という観点から「住宅団地」を中心に見て参りました。今回は、第二弾として内陸部への工場進出について見て参りたいと存じます。ところで、タイトルには「子どもの目に映った」とありますが、残念ながら内陸部の工業化について書かれた児童生徒作文を見いだすことは叶いませんでした。そのため、直接内容に入らせていただきます。「看板に偽りあり」の状態となりますが、前々回の標題と連続性を確保するために、かような仕儀に至った次第でございます。作文が存在しないからパスできる内容でもありません。千葉県内の工場進出もまた、住宅団地と同様に臨海部だけに留まることなく、内陸部へと展開されていったことが高度成長期に典型的な動向だからであります。後編で述べますように、千葉県内陸部への工場進出は、臨海部のような面積規模を有してはおりませんが、その数としては国内でも有数の規模になるのです。そして、千葉市においても県の動向と軌を一にして、幾つかの工業団地が形成されております。本展で取り上げた「千葉鉄工業団地」もその典型的な事例となります。また、その立地条件については、内陸部における住宅団地の在り方とも共通するものがございます。
また、上述したことを繰り返しますが、それらは、千葉市の政策である以前に、千葉県が戦後に推進した「農業・水産県から工業県へ」という基本的政策に基づいております。従いまして、後編では最初に千葉県の方針について把握し、その後に千葉市の動向と本特別展でも取り上げた「千葉鉄工業団地」について扱い、本県における内陸工業団地成立の歩みについて、極々簡単にですが追ってみたいと存じます。因みに、本稿は菊地一郎「千葉県内陸部における工業立地と工業団地の地域的展開」1993年(『教育学部研究紀要』文教大学)にその多くを負っておりますことを、まずお断りさせていただきます。前編では、主に序章ばかりが長引いてしまいまして、誠に申し訳ございませんでした。ついつい力が張ってしまったモノですから。明日の後編もこれに懲りずにお付き合いくださいますように。
(後編に続く)
令和3年度「市制施行100周年」を記念する企画展「千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-」が10月19日(火曜日)に開幕してから5日が経過しました。まだ宣伝が行き届かない所為か、お出でになる方はあまり多くはない状況でありますが、初の土日に多くのご観覧を賜りますことに期待を寄せるところでございます。先週までの特別展と異なり、開催期間が2ヶ月弱と短くなっております。是非ともお見逃しされませぬように、お早めに御脚をお運びくださいますと幸いに存じます。是非とも「大正」という、類稀なる時代の息吹をお感じ頂ければと祈念する次第でございます。
さて、後編での余談はこれくらいに、早速本題へと移らせていただきましょう。前編末尾でご紹介した菊池論文によれば、戦後における「千葉県内陸部への工業立地は、臨海部への工場進出と相前後して、京浜工業地帯からのオーバーフローという形で、東京都の隣接地で国道に沿った地域に見られた」とあります。それは「オーバーフロー」との表現に明らかなように、決して組織だったものではありませんでした。そうした動向に続くのが、京葉臨海部埋立地への重工業進出に伴うものであり、「化学、鉄鋼、石炭、石油など素材・装置型企業の関連産業が内陸志向を強めた」在り方であり、一方で「昭和40年頃から、所得格差の是正、地域振興、公害防止などの観点から内陸工業団地の造成が推進された」方向に舵を切ったと跡づけていらっしゃいます。確かに、我が国の産業自体が、高度経済成長期を通じて、鉄鋼・化学といった重厚長大路線を基調としながら、組み立て・加工型工業へと構造転換が進んでいったことを考えれば、これらが臨海部ではなく内陸部へと展開していった経緯がよく理解できようかと存じます。
上記したように、こうした構造転換の方向を担ったのが「千葉県」としての諸政策でありました。「千葉県の発展の50年」(千葉銀行)によれば、(千葉市域の話題からは外れますが)既に臨海工業地域の形成と並行して、昭和27年(1952)に日立製作所茂原工場の大拡張が、同31年(1956)に同じく茂原に東洋高圧工業が、それぞれ内陸部に進出しております。しかし、発展する臨海部と工業化の進まぬ内陸部との格差は埋めようもなく拡大して行ったのです。そこで、県は同33年(1959)、開発行政の調整・企画を担当する部局として「開発事務局」を設置し、臨海部での重工業生産と関連する産業の進出を促す目的で、県内の内陸部に661ha(200万坪)の工業用地を開発造成する方針を打ち出し、更に同35年(1960)に内陸部全体で3.300ha(1.000万坪)もの工業用地開発を進める「内陸工業用地造成計画」を策定しました。
同計画によれば、内陸工業地帯の開発に際しては、無秩序に工場が進出することがないようにするため、以下の4点が基本方針とされております。そして、この段階で内陸工業の力点は、臨海部との関連産業重視との方針と切り離され、以後独自の発展を見せるようになることになるのです。その他に、開発に当たっては、その半分を千葉県開発公社が、残り半分を市町村が設立する開発協会等が担うこととされました。つまり、千葉県の内陸工業団地の開発造成は、他県と比較して、県を中心とした公共団体が中心となって推進されており、計画的な工業用地供給が実施された比重の高さが特徴とされるとのことです。何よりも、それだけ、千葉県内陸部には工業団地造成に好適な台地上の平坦地(明治以降も山林や軍用地として活用されてきた所謂「野」という存在)が広大に広がっていたことが、前提となっていたと言えるのではないかと考えます。
1.工場はあらかじめ計画した地点(団地)に集団化する。 |
菊地の指摘によれば、上記した県の施策を忠実に反映するように、統計資料からも千葉県の業種別工場進出の状況が見てとれると言います。つまり、高度経済成長期にあたる昭和30年代~40年代前半までは、臨海部を中心に装置・素材型重化学工業が立地したのに対して、40年代後半からは臨海部での公害問題の影響もあって内陸工業の進出が顕著となること。そして、それらが加工・組立型の金属・機械工業等の立地的に自由の利きやすい業種であったのに対し、オイルショックによる高度成長期終焉以降から60年代の低成長記にかけては、円高やバブルによる地価高騰の煽りを受け、高付加価値型・都市型先端産業・成長産業が求められるようになっていること。しかし、現実的には未だに重化学関連企業の比率が高いことが千葉県の現状であり、更に県内での格差解消のために期待した県内中部以南への進出は伸び悩み、依然として首都圏と近隣にある東葛・葛南・千葉地区を中心とする課題も解消されていないと言います。しかし、そうした地域的な偏在はあるものの、菊地の論考に採られる平成5年(1993)段階というデータではありますが、当時の千葉県内の工業団地は、分譲中・造成中を含めて104も存在し、総面積は約8.726haにも及んでおります。そのうちの79団地が内陸工業団地であり、臨海部との比率は団地数で「3対1」と圧倒的に内陸部への進出が進んでいることが分かります(もっとも、面積で比較すると両者の比率は「1対3」と正反対となります)。
さて、ここで千葉市内の内陸工業団地に目を転じてみましょう。千葉市内における内陸工業団地の造成については、下表に示したように、平成5年段階まででは4工業団地となっております。その数は、概ね県内他市と同等数となっていますが、造成面積は捕獲的小規模に留まっています。しかし、その中でも千葉県の政策決定を受けて早い時期に工場の集団化を推し進めた「千葉鉄工業団地」と、追ってその隣地に進出した「千葉工業センター」は、事業種は別団体でありますが、同じ鉄鋼業を主とする内陸工業団地であります(道路一つを隔てただけです)。その面積は合計で約25haとなり、県内に造成された内陸工業団地として極一般的な規模となります(中には佐倉第三工業団地のように100haを越える大規なものもありますが)。この地は、近世以前には内陸の「入会野」であった土地であり、明治以降に下志津原の陸軍演習地として利用された土地です。更に戦後の昭和20年(1945)に、それまで天皇や皇居を警護する「近衛師団」が入植して開拓を行った土地でもあります。その地に高度成長期になって内陸工業団地が形成されたのです。近世から現代にかけての土地利用の劇的な変遷を描くことのできる土地であると申せましょう。因みに、住所地名「千種町」とは、宮中「千種の間」から採られて命名されたとのことです。そして、中小鉄工業企業の集う「鉄工業団地」として形成されました。その意味では、本工業団地の在り方は、戦後初期に県が内陸工業地開発の理念としていた「臨海部工場と密接に関連した業種」の内陸工場地として形成されたものといって宜しいでしょう(臨海部「川崎製鉄」との関連)。
工業団地名 | 業 種 | 事業主体 | 所在地(千葉市) | 面積(ha) | 事業年(昭和) |
千葉鉄工業団地 | 鉄工業 | 千葉鉄工業団地 協同組合 |
千種町 | 18.7 |
38~43 |
土気工業団地 | 繊維 (靴下) |
県土地開発公社 | 越智町 | 16.0 | 40~43 |
千葉市工業 センター |
鉄工業 | 千葉市工業センター協同組合 | 千種町 | 6.1 |
36~47 |
古市場工業団地 | 印刷業? | 千葉市 | 古市場町 | 8.6 | 49~54 |
※「古市場工業団地」については、現在ある「千葉印刷工業団地」と関連しているのか本稿執
筆までには明確にはできませんでした。
なお、高度成長期を外れますが、これ以降に千葉市内に造成され、現在も盛んに誘致募集をしている内陸工業団地が2カ所ございますので、工業団地つながりでご紹介をしておりましょう。一つは、千葉県土地開発公社を事業主とし、国内最大級の規模を謳う緑区大野台「土気緑の森工業団地」(106ha)であり、二つ目が、佐倉市西御門との上泉町に跨りますが三菱地所を事業主とする「ちばリサーチパーク」(62ha)であります。何れも、高速道路を活用して東京と成田空港と至近距離にあることを売りに、先端技術産業等の研究型製造施設、及び物流関係施設の誘致を進めていることが共通します。その点では、上記一覧のような古典的製造業の集積地から、高機能企業のそれへと工業団地造成の機能を変化させているものと申せましょう。
こうした千葉市内の工業団地として、本特別展では上記した現在花見川区千種町に立地する「千葉鉄工業団地」を取り上げました。上記一覧表でもお分かりいただけますように、市内で高度成長期のごく初期に造成された工業団地であり、現在もその姿を変化させ乍ら新たな時代に適合するべく活動を継続させているからに他なりません。以下の一覧表は、「千葉鉄工業団地協同組合」HPに見る「組合員紹介」(現在、本工業団地で企業活動を行う全企業名と事業概要)を抽出したものです。千葉市の戦後が臨海部への川崎製鉄の進出により工業県として幕を上げたことから、本内陸工業団地も「名は体を表す」との例えのように、「鉄鋼」を原材料とする加工型工場等が多くなっております(実際に現在もJFEの名を冠する企業があります)。しかし、現在では他の業種も進出を進めており、ざっくり纏めれば、業種としては「金属製品製造業」「一般機械器具製造業」「機械製造業」「医療材料」「道路貨物運送業」「小売業」等となろうかと存じます。
上記中、特に注目すべきは「道路貨物運送業」だと思います。千葉市内陸部に立地する本工業団地の近隣には、現在は東京と成田空港を結ぶ「東関東自動車道[本名称となるのは昭和54年(1979)から]」が走り、一般道との結節点である「千葉北IC」が極々至近であることと深く関連するからに他なりません。ただ、本高速道路は工業団地造成当初から存在したわけではありません。昭和46年(1971)に、京葉道路の宮野木JCから富里ICの開業[昭和44年(1969)に幕張IC~殿台町まで開通していた京葉道路と直結して東京と直結]。翌年に富里CT~成田IC間の開業、更に6年後の昭和53年(1978)「成田空港」開港を待って成田ICから新空港ICの開業。それ以降、首都と空港とを結ぶ物流の大動脈としての機能を果たすことになります。つまり、そのことが本工業団地への「運動業」「倉庫業」の進出を促したのだと思われます。「千葉鉄工業団地」もまた、時代の在り方に適合させる形での新たな「内陸工業団地」の在り方を模索されているのではありますまいか。
以上、長々と高度経済成長期を中心とした内陸部の光景を、内陸工業団地の進出という観点から眺望して参りました。内陸団地の開発とともに、高度成長期の千葉市内内陸部における変貌を象徴する出来事であろうかと存じます。決して見落とすことのできない、「時代」を切り取る動向に他ならないと改めて実感する次第でございます。
「千葉鉄工業団地」組合員一覧(全企業・事業概要)(令和3年度現在) |
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千葉電子工業 新日本金属工業 二宮産業 アスカ自動車工業 中臺工業 鷹長鐵工 坂戸工作所 大森工業 松本機械製作 内外マリアブル JFE商事電磁鋼板 ニッタクス アルケア 山口シャフト 興和合同 ハイテック精工 KANEYASU ラインワークス 西原屋 シック コイルセンターフジタ フジタ運輸倉庫 習志野トラックセンター 神畑養魚 クラフトジャパン クボタ 千葉コンビナックス |
各種産業用生産装置・設備の設計製作他 スチールコンテナ部品加工、梱包用各種部品加工販売他 金属製品の製造 自動車整備業 ジェット焼却炉製造元、特許消音器製造、特許破砕機製造 鉄鋼業 解体機製造及び販売 溶融亜鉛めっき・ポリエチレンライニング・鋼構造物製作他 機械製造業 鋳造業 鋼板のスリット加工 工業用特殊合板の製造 製造業(医療材料) 引抜磨棒鋼製造販売、 旋盤挽産業機械用長尺シャフト製作他 各種表面処理鋼板・冷延鋼板・延鋼板の加工販売 精密機器製造業 溶融亜鉛めっき鋼板、煎断加工及び折曲・穴明等二次加工販売 生産用機械器具製造業 食料品(供食弁当等)小売業 不動産管理業 ステンレス・チタン等特殊鋼帯のレベラー・スリット加工 倉庫業・一般貨物自動車運送業 運送業・倉庫業(定温、冷蔵、冷凍庫) 観賞魚の輸入卸売業、養殖業、観賞魚器具の販売 自動車鈑金塗装、車検、コーティング 建機部品製造、事務機器部品製造 各種商品小売業、損保代理業他(共同出資会社) |
(全27企業) |
瞬く間に、10月は過ぎ去り明後日からは11月となります。本年も残すところ2カ月余りです。現在、本館では2階展示室にて「千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-」を開催中でありますが、11月20日(土曜日)には今月半ばに閉幕した特別展「高度成長期の千葉」関連イベントである歴史講座の3回目「東京湾の埋立と自然環境-その変遷と再生の試み-」が開催されます。ご講演を賜りますのは日本魚類学会会員でいらっしゃる工藤孝浩先生でございます。東京湾を研究フィールドとされ、その環境変化と魚類の生態についての深い洞察に基づく研究成果の発表をされる気鋭の研究者でございます。しかし、象牙の塔に籠ることなど一切これなく、東京湾のアマモ場の復活等の活動やら横浜港の水中清掃等々の現場での実践を通じて、東京湾の自然環境の再生の試みを継続される活動家でもあります。上皇陛下・上皇后陛下への現場でのご説明や、各種マスコミでの番組企画等においても引張蛸であります。11月末に放送される東京湾の生き物を取り上げるNHK「ワイルドライフ」にも関係されていらっしゃいますし、TOKIO出演の人気番組「The 鉄腕DASH!!」での名物コーナー、東京湾内の工業地帯に古の東京湾を再現することを目指す「DSAH海岸」の企画にも深く携わっておられます。再々申し上げておりますが、工藤さんは、タレントで東京海洋大学名誉博士・客員准教授である「さかなクン」の師匠でもある方です。その豊富な知見を活かして、「サカナくん」が世に出る契機となったテレビ東京「テレビチャンピオン」で、彼を度重なる優勝に導いた陰の指南役(トレーナー!?)でもございます。そして、今でも深い交友関係を続けていらっしゃいます。当方は、新宿中学校創立60周年記念行事と、高浜中学校創立40周年記念行事での御講演をお願いして以来、個人的にもお付き合いを頂いております。これまでの2回は中学生を対象に「自らの夢をもって人生を切り拓くこと」についてのお話でしたが、今回は本格的な専門分野に関わるご講演になります。当方も大いに楽しみにするところでございます。高度成長期の東京湾の大規模埋め立てによる自然環境破壊がもたらしたものは何か。その再生のためには何が必要なのか等々、人と自然とのより良き共存の在り方を御提言いただけるのではないかと期待が高まります。それはまた、深く歴史を理解することにも直結することでもあるのです。
さて、本題に移りたいと存じます。標記タイトルにお示しいたしましたように、令和3年(2021)7月16日(金曜日)東京新聞(全国版)に「姿を消す戦時下の校舎-千葉の東大旧第二工学部-」なる記事が、更に1カ月半後の8月31日(火曜日)朝日新聞(千葉版)に「軍都・千葉の面影 取り壊し危機 稲毛・旧東京帝国大学第2工学部の木造校舎 -幅広い分野の専門家 保存を求める声-」なる記事が、そして9月3日(金曜日)読売新聞(千葉版)に「東京帝大校舎 解体始まる 軍都千葉 伝える建物 建築価値 訴える研究者も」なる記事が、矢継ぎ早に掲載されました。それぞれ相当な紙面を割いてこの一件を報じております。しかし、東京新聞・朝日新聞・読売新聞を購読されている皆様以外は知る由がないのは当然の事。両紙で当該記事を目にされた方にしても、あの東大と千葉市との関連にピンと来ない方も多く、うっかり読み飛ばしてしまった方が多いかもしれません。それも致し方のないことと存じます。しかし、今はよき時代であります。ネットで先程の記事名を打ち込んで検索いただけますと、各紙ともに当該記事を「ネットニュース」で読むことができます。皆様も、これを機に、是非とも各記事に接していただければと存じます。
今回記事となった、戦時下に建てられた旧東京帝国大学(現:東京大学)第二工学部の木造校舎が極々最近まで地上に存在していた場所は、JR総武線の西千葉駅前から極々至近にあった「東京大学生産技術研究所附属千葉実験所」敷地内となります。しかし、多くの人にとって当該地は「何となく閉鎖的な雰囲気」「中で何をしているのかわからない」「どことなく怪しげな場所」といった思いを抱かれる場所であり、実際に敷地内に脚を踏み入れたことのある方は、関係者以外殆どいらっしゃらないのではありますまいか。従って、内に貴重な建物が残っていたことを周辺の方々でも、ご存知ないのが当たり前なのだと推察するところであります。斯く言う私も、お恥ずかし乍ら、その地が旧東京帝国大学の敷地であったことの詳細を知ることになったのはつい最近……というのが偽らざるところでございます。まして、その地に貴重な木造校舎が残っていることなど知る由もありませんでした。そもそも、当該建物は外部からも千葉大学構内からも全く目にすることのできない場所に建っており、地域住民は勿論のこと、隣接する千葉大学工学部の先生方ですら、その存在を知ったのは極々最近のことであるようです。
その「東京大学生産技術研究所附属千葉実験所」ですが、東大は平成29年(2017)に西千葉の附属千葉実験所を柏市に移転させております。そのため、現在跡地は蛻の殻の状態にあります。そして、千葉実験所の跡地利用検討の結果、跡地に残る建物を全面的撤去の上、敷地については千葉大学へ若干の面積を移管し、その他の地所は売却することになったそうです。従って、当該木造校舎も解体撤去されることになったわけです。各新聞報道を総合すると、東京大学・千葉大学の先生方(学部を越えた50名程)、「日本歴史学会」、地域歴史研究団体から木造校舎保存の声が上がり、東大・千葉大の大学総長・学長等、及び文科大臣・文化庁長官への保存活用の要望書が提出されたとのことです。しかし、その段階では既に解体の方針が決まっており、再検討はされたものの方針が覆ることはなく解体に到ったとのことです。そのことについて、個人的に大変に残念に思います。昨年の気球聯隊「第二格納庫」解体、そして今回の木造校舎の解体と、空襲を生き延びて現在まで伝わった地域の歴史を物語る遺産が、令和の声を聞くとともに次々と姿を消していきました。古くは、明治44年竣工ルネサンス様式になる旧県庁舎さえ、高度成長期の昭和37年(1962)に解体されました。跡地は羽衣公園となっており、そのまま残しておくことは決して不可能ではなかった筈です。今残っていれば確実に国指定重要文化財となり(今に残る同時期建設県庁舎の殆どは指定文化財です)、地域の歴史を伝えるランドマークとなり、千葉の歴史を象徴する風景を醸していたことでしょう。
古い建物を残すことは、費用の問題を含めて簡単なことではありません。しかし、その後の有効活用の在り方を検討することで、所有者の経済的負担を軽減した保存等を進めていくことが重要だと思います。そのことが、地域の歴史を後世に伝え、どこにでもあるありふれた街とは異なる、世に一つしかない風格ある街を生み出す重要な要素に繋がるのではありますまいか。高度成長期のような「スクラップ&ビルド」から脱却し、新しい開発のモデルを構築することを官民挙げて検討していくことこそ、今求められる喫緊の課題なのかもしれません。文化財行政の一翼を担う者として、飽くまでも個人的にですが斯様に思っております。各新聞にも保存運動に取り組まれた大学の先生方の貴重な提言が掲載されておりますので、皆様もこうしたことを考える契機としていただけると宜しいかと存じます。実際に解体もされてしまったことですし、保存の問題にはこれ以上立ち入ることなく、以下、この西千葉の地の歴史について述べながら、かつてこの地に存在した「東京帝国大学第二工学部」と、現地に残されていた木造校舎が如何なる存在であったのかを述べさせていただこうと存じます。
西千葉駅を海とは反対側に出ると、駅前ロータリーの向こうに鬱蒼とした木々が眼に入ります。そこが「千葉大学西千葉キャンパス」であることを、千葉市民で知らない人は恐らく皆無でございましょう。しかも、概ねこの地が千葉大学の大本営的な場であると認識されておりましょう(他に千葉市亥鼻地区に医学部、松戸に園芸学部等々が分散して存在しますが)。それなのに、何故ここに東大の施設が、千葉大学敷地に張り付くように存在しているのでしょうか。まずは、そのことについて述べてみましょう。最初に結論から申し上げてしまうと、事実は全くあべこべです。つまり、元来ここは「旧東京帝国大学(現:東京大学)」の敷地であり、千葉大学が設立され、この地にやってきたのは戦後になってからです。歴史的に見れば、現在の千葉大学と東大生産技術研究所千葉実験場の地は全て、終戦前後の9年間「旧東京帝国大学第二工学部」が置かれていた地に他なりません。10年にも満たない歴史しか有しない学部ですので、今ではすっかり市民の記憶からも抜け落ちてしまっている可能性が大きいものと思われます。従って、今では一部残る東大の施設の方が、千葉大から間借りしているようにすら見えてしまうのです。しかし、この地にあった東京帝国大学第二工学部は、歴史的に極めて重要な意味をもった学部なのです。後述いたしますが、戦後暫くして同学部の廃止が決まった後、紆余曲折の末、千葉大学のキャンパスがここに置かれることになったのです。しかし、移管の際、東京大学の要望によって当地に実験機能を残す必要が生じたため、敷地の一画に東大の敷地が残されることになりました。それが「東京大学生産技術研究所附属千葉実験所」であり、これまでこの地に東大の敷地が存在してきた理由となります。従って、今回解体された木造校舎は当敷地内に奇跡的に残されていた「旧東京帝国大学第二工学部」校舎の遺構に他なりません。
明日の中編では、旧東京帝国大学(現:東京大学)の「第二工学部」が新たに開学され、更に、西千葉の地に進出してきた背景について述べてみたいと存じます。
(中編に続く)
この場所に東京大学の新たな学部が開学したのは、昭和17年(1942)4月のことです。その年を見れば、少しでも歴史に興味を持たれる方であれば、創設の意図が透けて参りましょう。第二工学部開学の前年である昭和16年(1941)の我が国の状況は、膠着する中国における戦線、深まるアメリカとの対立による日米開戦の不可避的状況にあったのです。鯔の詰まり、当時は、工業大国アメリカとの彼我の差を埋めるための軍事技術開発が喫緊の課題となっていたのです。歴史を知ることのできる私たちは、同年12月8日に真珠湾への奇襲攻撃をもって、アメリカとの戦争状態に火蓋が切られたことを知っております。従って、当該時期において、軍部としては喉から手が出るほどに優秀な工業系技術者を確保したかったのです。
このことが本学部開学の前提となります。つまり早急なる工業系技術者育成が教育機関に求められるようになり、それは最高学府である東京帝国大学とて例外ではなかったということです。昭和16年(1941)1月に、政府企画院・陸軍・海軍と東京大学との緊急会議が開催され、本郷の敷地内には新たな施設を増設するだけの用地を確保できないことから、別場所に新規に工学部を設立することが決定されました。その結果、既存の工学部を「第一工学部」(本郷)、新規設立の工学部を「第二工学部」とすることになったのです。当時の東大総長は平賀譲。海軍の技術者であり数多くの軍艦の設計等にも関わってきた人物でしたから、逆に東京帝国大学が狙い撃ちされたという側面もございましょう。その結果、急遽予算が組まれ、昭和17年4月の開学が決定され、用地の検討が進められました。従来の工学部と、ほぼ同一の学科を設け、同一規模の学部をたった一年で開学することが求められたのです。つまりは、軍部からの強力な要請が開学の背景にあったことを知っておく必要があるということです。このことが、戦後における同学部の命運を分ける最大の原因となるのですが。
そして、最終的に敷地として選ばれたのが千葉市内の弥生町でした。ここからは、「千葉市の近現代を知る会」代表の市原徹さんの手になる論文「千葉市に残った東京帝国大学第二工学部の校舎」(2018年)、今岡和彦『東京大学第二工学部』1987年(講談社)、中野明『東京大学第二工学部-なぜ、9年で消えたのか』2015年(祥伝社新書)等々に依拠しながら概略をご説明いたします。千葉市は、昭和12年(1937)から、東京帝国大学検見川グラウンド用地斡旋などを通じて、帝大総長を中心とする首脳部と旧知の関係にありました。従って、上記の決定を受けて積極的な誘致活動に動き出します。当時、市内亥鼻地区にあった千葉師範学校移転のための用地として確保していたものの、財政難のために頓挫していた有閑地がありました。それが西千葉の地の一部でありました。千葉市は、それを転用し、更に周辺農地を大規模に買収して用意することを提案。その結果、同年4月に当該用地15万坪(50ha)への誘致が成功したのでした。それが、現在千葉大学西千葉地区として利用されている土地に他なりません。
それから急ピッチで敷地造成と校舎建設が行われました。海岸線(国鉄線路)を基軸として、そちら側を正面とした敷地計画の下での造成が進められました。現在の千葉大正門と同位置に正門が置かれ、中央軸線にそって中央事務棟、その裏手に講堂、食堂、中央講義室。この中心軸の左右にそれぞれ各9ブロックが造成されました。そして、区画された各ブロック毎に、正面左手に建築・土木・電気機械・造兵・船舶工学の各学科が、正面右手に航空機体・航空原動機・冶金・応用化学、そして共通第1~3教室等々が割り当てられ、校舎の建設が進められることになりました。因みに、戦後に進出した千葉大は敷地構成を全面的に東西南北軸に改めましたので、第二工学部時代の地割の痕跡はほぼ跡を留めておりません。
工学部の校舎建築としては、頻繁に行われる火気を用いての実験等があるため、東京帝国大学の意向は防火性の高い鉄筋コンクリート造校舎であり、その旨の要望をしております。まぁ、至極当然の要望でございましょう。しかし、戦争中故の資金・工期・物資調達等の困難を背景に、それは不可能との判断が下ります。その結果、すべて木造2階建、外壁は下見板張ペンキ塗装という、あたかも陸軍兵舎を彷彿とさせる建物となったのです。この時に建設された校舎で現存していたのが、今回解体された「共通第三教室棟」(完存)と、戦前の火災(空襲以前)によって三分の二程を焼失した「応用化学棟」(部分存)でありました。幸いに当区画が戦後に東大の実験場となったことから、建築当初の地割上に奇跡的にそのままの状態で残されてきたのです。上述しましたように、千葉大が敷地地割を全面的に改めたことによって、第二工学部の地割・建築遺構は綺麗さっぱりと消去されてしまっておりますので、残存していた2棟だけが東大第二工学部時代を伝える貴重な遺構であり、時代の証言者たる極めて貴重な建築物であったということになります。
さて、戦前の話に戻ります。昭和17年(1942)4月、未だ多くの校舎が完成しない中、一部完成した校舎を使用して「第二工学部」は開学となりました。第一期生は421名でした。そして、戦後の昭和26年(1951)に閉学となるまで、都合9年間の第二工学部の歴史がここに刻まれることとなるのです。言うまでもなく、この9年間は東京帝国大学には2つの工学部が併存していたわけであります。置かれていた学科もほぼ同じでした。世に「第二学部」というと「夜間学部」との印象がありますが、東大工学部の場合は全く異なります。両者には上下関係は一切存在せず、全く対等の存在として位置づけられておりました。入学試験は工学部として同時に行い、合格者は本人の希望とは全く無関係に、学力が偏らぬよう第一・第二のどちらかに振り分けられ平準化が図られました。第二工学部に振り分けられた当時の学生の感想を読むと、特に地方からの学生は、憧れの本郷キャンパスではなく、千葉の片田舎に送り込まれたことに一様にショックの色を隠しておりません。急な開学故、周辺整備までには至らなかったのでしょう。学生は、当初稲毛駅から田の畔のような細い道を通って通学したことを報告しております。それも雨天時には泥濘となり到底歩けるような状況にはなかったとも証言しております。こうした労苦の改善に向け、同年10月1日に国鉄の千葉駅と稲毛駅間に「西千葉駅」が開設。更に京成電鉄の浜海岸駅を移動させ駅名を「帝大工学部前」と改称する等(現:みどり台駅)、追々通学環境の整備が図られました。また、地方から出てきた学生の下宿先もほとんどなかったことから、現千葉市立緑町小学校となっている敷地に寄宿舎も建設されました。併せて、多くの教員が新規に採用されております。ただ、如何せん急なことですので、実際に企業人として研究業務等に携わっていた実務経験者が多く採用されたと言います。何より、広大な農地等の中に突貫工事で造成された敷地ですから、風が吹けば途端に前が見えないほどの赤土の嵐に見舞われたとも。少なくとも本郷の第一工学部とは天と地ほどに異なる劣悪な環境であったようです。
しかし、卒業生の証言によれば、上記の如き新天地であったが故に、学部内の先輩後輩関係も存在せず、教員も実務経験者故の進取の気風に満ち溢れていたと言います。そのことが幸いし、学びの場でも理論に偏ることのない、極めて具体的で実践的な内容が多かったこと、更には、教員と学生間の関係も極めて親密であり、まるで「旧制高等学校」の延長のような生活を送ったと、卒業生の多くが一様に証言しております。また、東京に比べて戦時下の食糧事情も比較的恵まれており、学生食堂の盛りもよかったこと、時には、近くの畑で薩摩芋を、稲毛海岸にてハマグリ等を失敬し、つい最近まであった稲毛の総武線際にあった「アルコール製造工場」から仕入れてきた薩摩芋原料の精製アルコールで一杯といった、楽しい想い出を語る学生もおります。こうした環境下で「野人二工」「二工スピリット」とも称される、所謂“バンカラの気風”が醸成されたとも言います。彼らの中から、戦後経済を支える逸材が、第一工学部の卒業生を凌駕し、数多輩出されたことは特筆すべきことでありましょう。
最後の後編では主に戦後の動向と最近まで残っていた木造校舎について探ってみようと思います。
(後編に続く)
こうして船出をした東大第二工学部ですが、戦後になると一転して逆風に晒されることになりました。何故ならば、軍部が主導し、戦争遂行のための技術開発を期待されて成立した経緯が仇となったからであります。実際、造兵学科、航空学科などがあり、昨年の特別展でもご紹介した、日立航空機千葉工場で製作された特攻兵器「桜花」のエンジンの開発、日本初のジェット戦闘機である「橘花」の開発、更にロケットエンジン戦闘機「秋水」の開発にも関わっておりました。従って、廃止論者からは“戦犯学部”と揶揄されたりもしたようです。しかし、この批判は全く当たりません。何故ならば、戦時下においては、東京帝国大学の第一工学部でも、その他の工学係大学であっても、押し並べて戦時体制にどっぷり漬かって軍との協力体制を敷いていたのが現実であるからです。第二工学部の存在は、GHQ支配下の日本において、格好のスケープゴートにされた感が否めません。戦後の南原繁東大総長の下、戦前に思想的な問題から東大を追われ戦後に復職した経済学部の大内兵衛らの運動の結果、第二工学部の新入生募集は昭和23年(1948)度に入学した第八期生を最後に打ち切りとなります。そして翌24年(1949)5月31日には「東京大学生産技術研究所」が正式に誕生し、第二工学部敷地を所在の地と定めております。従って、第二工学部学生が卒業するまでは、両者がこの地で併存することとなるのです。そして、その八期生が卒業する昭和26年(1951)3月末日をもって「第二工学部」は閉学となりました。以上、主に第二工学部閉学に到るまでの動向を、東大側の動向を中心に追って参りました。
次に、第二工学部閉学前後における状況について、千葉県・千葉市の側から探ってみることにいたしましょう。戦後GHQの方針の下、文部省は昭和23年(1948)、一府県毎に国立大学1校を設ける「新制大学」の方針を固めました。千葉県においても、戦前から県内に存在した千葉医科大学・同附属千葉医科専門部・同附属薬学専門部、千葉師範学校・千葉青年師範学校・千葉農業専門学校・東京工業専門学校を統合し、新制大学とすることを県議会で決議。翌24年(1949)に「千葉大学」として開学しております。千葉県としては、当初、旧東京帝国大学第二工学部も千葉大学と統合することを目論んでいたのですが、東京大学はそれに異を唱え、独自に「生産技術研究所」なる研究機関として西千葉キャンパスを全面的に利用することを決定します。その結果、第二工学部跡地へ千葉大学を設置しようとしていた千葉県とは対立することになったのです。
これに対して、千葉県議会は、昭和25年(1950)「この地は千葉県・千葉市によって元来は千葉師範学校用地として確保していた用地を、時局の要請で第二工学部用地に変更した経緯があること。従って、第二工学部が解消すれば、当地は全面的に返却の上、千葉大学として活用することが至当である」との決議をしております(千葉市ではありますが、戦前に盛んに誘致活動を展開しておきながら、一転した戦後の掌返しは随分な塩対応に感じるのは私だけでしょうか)。しかし、東大の対応は迅速には進まず、凡そ10年間も経過した昭和36年(1961)になって、ようやく生産技術研究所の東京六本木への移転が決定し(昭和3年竣工の旧日本陸軍「歩兵第三連隊兵舎」の再利用となりました)、翌年から供用を開始いたしました。因みに、東大生産技術研究所は、平成13年(2001)に六本木から駒場キャンパスへ移転。跡地は国立新美術館となっております(巨大な「旧歩兵第三連隊兵舎」建築の解体時には大規模な建物保存運動がおこり、最終的に極一部を美術館別館として保存することで決着しました)。しかし、移転先の六本木は敷地面積が充分ではないことから、旧第二工学部敷地の五分の一を「生産技術研究所附属千葉実験所」として残すことを主張。結果として、それが入れられることになりました。つまり、最終的に残り五分の四の敷地を千葉大学が使用することに決し、ここに千葉大としての実質的統合が完了した経緯となっております。従って、西千葉における千葉大学の歩みは実質ここから始まったといっても過言ではありません。千葉大学開学から12年も後のことになります。一方、この西千葉に残された「生産技術研究所附属千葉実験場」では、糸川英夫教授による「ペンシルロケット」開発と実験成功といった、戦後の宇宙開発に向けての優れた研究成果があがっていることを付記させていただきます。現在、JR西千葉駅前にそれを記念する顕彰碑が建てられております。これが、西千葉の地に現在に至るまで東大の敷地9.8ヘクタールが残されてきた理由です。
最後に、この地に残っていて、残念ながら解体されてしまった木造校舎について簡単にご説明させていただきましょう。本敷地内の殆どの建築物は戦後の建築にかかるものですが、先にも述べたように、2棟のみは、旧東京帝国大学第二工学部時代の木造校舎であり、地割もそのままに旧敷地に建っていたのです。その内の1棟は「旧:共通講座第三教室棟」であり、戦後に同研究所の事務棟として実験場が閉鎖されるまで利用されてきたこともあり、保存状態も極めて良好であり、一部改装されたものの内装・設備を含めてほぼ完存した状態で残されていたといいます。もう1棟は「旧:応用化学棟」ですが、残念ながら昭和19年(1944)の失火で三分の二程が焼失した状態ですが、当初から存在した防火壁のお陰で、残された三分の一の建物には全く火が及んでおりません。ただし、長く使われておらず、維持管理も充分ではなく保存は良好とは言えない状態にあったとのことでした。
これ以降、特に前者「旧:共通講座第三教室棟」について述べたいと存じます。市原さんの紹介文によれば、建物は木造二階建で間口63m、中央部に奥行9mの教室群があり、その片翼は化学機械実験室として使用された奥行18mの建物が、反対側の片翼には化学分析室に使用され奥行21mの建物が、それぞれ附属していたとのことです。一見すると一体化した「コの字型」の両翼建築に見えますが、三棟はそれぞれ独立しており、それは火災の類焼を避けるための工夫であると考えられるようです。また、両翼にある化学分析室には、換気用のドラフトチャンバー等の設備もそのまま残されており、当時の科学技術の水準も見て取れると市原さんは指摘されております。残念ながら、これらの建物は一般の見学には一切供されることなく解体されてしまったため、当方も実見には及んでおりません。従って、これ以上は、当方の口からは説明することは差し控えます。その代わりに、皆様にこれらの建物の素晴らしさを知っていただける手段を以下に御紹介させていただきます。隔靴掻痒の思いで接して来られた皆様方は、是非とも残されてきた木造校舎に触れていただきたいと存じます。
本建物につきましては、解体の代替として、東大・千葉大両者による「3Dデータ保存」がなされました。実物が残らないことは痛恨事ではありますが、それでもデータだけでも残されたことは幸いでした。関係者の方々が制作された、当該建築を紹介する「愛」の沢山に籠ったサイトがネットアップされております。以下に、アドレス等と内容構成についてご紹介をさせていただきます。是非ともこの映像をご覧いただければと存じます。当時の写真、現在の写真、校舎の現状、内部空間の写真、第二工学部から千葉大学への敷地の航空写真による変遷の年代別状況等々、本当に感心させられる実に充実した内容となっております。また、これほどの素晴らしい建築が、あの人知れずに存在した不思議な空間に残っていたことに一驚されようかと存じます。
二工木造校舎アーカイブズ https://niko-u.com(外部サイトへリンク)(別ウインドウで開く)
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旧暦で申せば「霜月(しもつき)」の別称でも呼ばれる11月を迎えました。勿論、旧暦(太陰太陽暦)の11月は、概ね現在一般に用いられる新暦(太陽暦)で言うところの12月に当たりますので、文字通り「霜」がおりる季節からの命名でありましょう。暖国の千葉では流石に未だ霜が降りる季節ではありません。しかし、先月末から急に冷え込みがきつくなったように感じます。一時は10月にも関わらず12月の気温といった、まるで「冬」を思わせる陽気の日すらありました。我が家でも、慌てて冬物への入替をしたり、暖房器具を取り出したりと、慌ただしい休日を過ごした次第であります。その1週間前ほどまでは、逆に季節外れの暑さで寝苦しいほどでしたので、その温度差に多くの方々が体調を崩されたと耳にしております。当方も、ここのところどうもすっきりとはしない日々を過ごしております。現在コロナウィルス新規感染者数が激減していることから、これまでの営業上の規制等が次々に解除されておりますが、かつての感染症の歴史に照らせば、そう簡単に落ち着く可能性は低いのではありますまいか。今のように人と物とが広域に行き交う「グローバル社会」でなかった100年前ですら、スパニッシュインフルエンザの完全終息までには3年以上を要しております。況んや令和の世をや。余りにペシミスティックに過ぎると指弾されましょうが、ひょっとして、当方が棺桶に片足を突っ込むまで、マスクを手放すことの叶わない世界となるのかも知れないと、内心では覚悟もしております。
さて、今回は本館で現在開催中の企画展「千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-」からの話題です。まず、ひとつ確認して置かねばならないことがございます。それは、市制を施行した段階の「千葉市」とは、現在の市域とは全く異なる極めて狭い範囲であったことです。皆さんには、そのことを掴んでいただくため、本展「序章」は、市制が施行された100年前の市域を示す「詳密千葉町全図(縮尺三千分の一)」(多田屋書店)から幕を開けます。明治4年(1871)7月に「廃藩置県」を断行した新政府ですが、紆余曲折の末、明治6年(1873)6月「印旛・木更津の両県を廃して千葉県を置き、千葉町に県庁を置く」と公布しております。因みに、この辺りの「紆余曲折」の詳細をお知りになりたければ、現在「千葉県文書館」にて開催中の企画展「房総の廃藩置県-千葉県誕生までの移り変わり-」(~令和4年2月26日)をご覧ください。府県制導入直後における、複雑な県域の推移を極めて分かり易く展示しております。無料配布される14頁のブックレットもオールカラーで見やすく、的確に内容を纏める貴重な冊子となっております。
明治6年(1873)当時の千葉町は、市制施行時よりも更に狭い範囲でした。その後、明治22年(1889)「市制・町村制」施行の際、千葉町・寒川村・登戸村・黒砂村・千葉寺村の5町村の合併によって新たな「千葉町」が形成され、それが大正10年(1921)年元日に至るまで継続することになります。つまり、本展で取り扱っている「千葉市」の時代とは、ほぼ上記の範囲となることを承知して置いていただければと存じます。明治22年(1889)本市の現住人口は2万人弱でした。因みに、次に千葉市域が拡大するのは、昭和12年(1937)に検見川町・都賀村・都村・蘇我村が千葉市との合併をした際。更に昭和19年(1944)に千城村が加わり、現住人口11万強となり終戦を迎えております。戦後の千葉市域の拡大については、先の特別展で扱いました。そちらの図録等にてご確認いただければと存じます。
さて、県都となった千葉町でしたが、諸官庁の集まる行政都市とはなったものの、近世以来の物資の集散地として、商業・運送業に関わる都市的な機能を引き継いでおり、産業都市としての基盤は未成熟な状態でありました。そこで、千葉町は課題を如何に克服し、自立的な都市として変貌を遂げていくかに注力することになるのです。本市の市制施行へ向けての取り組みもまた、こうした課題の解決の一貫であったと申せましょう。他県の県庁所在都市の多くは、端から「市」としてスタートしております。何故ならば、それらの都市は、近世以来の城下町・商業都市等としてのインフラが相当なレベルで既に成立しており、従って当初から多くの人口を擁する、地域の中で隔絶した中枢都市であったからに他なりません。それに対して、千葉市はそこまでの規模・インフラを擁する都市とは言えませんでした。しかし、県都となってからは官庁街が形成されたこともあり順調に人口も流入。明治31年(1898)には、市制施行の一つの基準とされていた人口2万5千人を突破しました。ただし、これは飽くまでも現住人口であり、千葉町に本籍を置く人口は約1万人も少ない1万6千人に過ぎませんでした。このことは、県都であるが故に、千葉町の居住者には一時的な入寄留者が多く、出入りも激しかったことを示しておりましょう。しかし、人口が市制施行の基準をクリアーしたこともあり、これを契機に千葉町の市制施行を目指す運動が始まりました。
しかし、最初の運動は頓挫します。何故ならば、市制が施行された大正10年(1921)千葉市内の職業構成グラフでも明らかなように(会場展示、図録掲載、ツイッターでもアップ)、当時の千葉市では、商業従事世帯が40%、公務・自由業世帯が25%であり、それに続く工業世帯は10%、水産農業世帯を併せても10%にも満たない状態でした。その工業の業種も農水産品加工(薩摩芋から澱粉を取り出す工業が有名でした)等を中心とする零細なものであり、到底「生産都市」とは言えるレベルにはなかったからです。有体に申せば、財政基盤が脆弱であることが市制施行へむけての最大の障壁であったのです。千葉市は、所謂「消費都市」としての在り方を強く呈した都市であったのでした。また、このグラフには含まれない、軍都(軍郷)である千葉市に集っている陸軍軍人、学校(医科専門学校)の学生等を考慮すれば、一層に「消費都市」としての色彩が強まることを御理解いただけましょう。こうした状況では、富裕層に負担の重い「地価割」・「営業割」・「所得割」の増収には大きな期待が掛けられず、千葉市では住民に広く平均的に課税される「戸別割」に依存せざるを得ない状況にあったといいます。しかし、上述したとおり、千葉町の居住者には一時的な入寄留者が多く、また出入りも激しかったこともあって、町として課税対象者の把握にも困難を極める状況でありました。従って、慢性的な納税滞納額の増加に悩まされていたといいます。
その後、大正6年(1917)から再びの市制施行を目指した活動の機運が高まります。大きな課題であった財政基盤の確立が第一に志向されたことは言うまでもありません。そこで取り組まれたことが、「戸別割」に代えて、課税対象が明確な「家屋税」を導入することの検討でした。これは紆余曲折を経ながら、ようやく大正8年(1919)に千葉町議会にて僅差で可決され導入が決まりました。そして、財政基盤の安定を以て、晴れて市制施行が叶えられたのが大正10年1月のことだったのです(ただ、これもすんなりと進んだわけではありませんでした)。しかし、「家屋税」導入への賛同が反対を僅差で上回った状況にあり、この後、家屋税の取り扱いについては昭和に入ってもくすぶり続けることになりました。「市制施行」段階における千葉市の現住人口は5万6千人程に膨れ上がりましたが、この段階でも本籍人口は3万5千人程であり、相変わらず入寄留人口が大きな比重を占めていることがわかります。
こうして、大正末になって、ようやく千葉町は「千葉市」へと脱皮を遂げました。県都として市制施行が千葉市よりも遅かったのは、たった5県のみですから[那覇市(1921.5)→札幌市(1922.8)→宮崎市(1924.4)→山口市(1929.4)→浦和市(1934.2)]、相当に遅い市制施行だったことがお分かりになりましょう。しかし、首都圏にある千葉市・浦和市(最終)が遅くなったのは意外の感もございますが、逆に首都という大都市に至近であることが遠因としてあるのかもしれません。鉄道を通じて東京と人と物とが比較的容易に移動できるため、東京の商圏内に取り込まれてしまうからであります。事実、これ以降敗戦に到るまで千葉市では問屋的機能を果たすべき商店の多くが小売業に転業する結果をもたらしたとも言われております。アンカーの「浦和」も中山道の宿場町を起源としており、城下町のような近世における基幹都市ではありませんでした。千葉市以上に東京の商圏に取り込まれてしまう可能性の大きな都市でありましょう。
市役所は、大正2年(1913)に新築された千葉町役場の建物がそのまま使用されることとなりました。場所は千葉県庁前の現在千葉県警察本部が措かれる敷地内であり、市場町通りと末広通りとの交差点角に当たります。洋風2階建の建物であり、1階が事務室、2階が議事場でした。角にある入口玄関上に尖塔があり、県庁舎の丸いドームと向かい合うように街のランドマークともなっておりましたが、市役所になって暫くした後に尖塔は撤去されたようです。ただ、本市庁舎は昭和15年(1940)年に桃山御殿風の新市役所が谷津遊園から移築されるまで使用されました[この時移築された新市庁舎は、昭和36年(1961)に稲毛に移築され、現在「千葉トヨペット本社屋」として利用されております(国登録有形文化財に指定)]。大正2年建築の旧市庁舎は、その後も千葉新聞社屋として利用されるなどした後、昭和37年(1962)に解体され32年の生命を終えております。そして、市長臨時代理であった神田清治が市会によって承認され初代市長となったのでした。
さて、新たに千葉市に衣替えしたあとの、本市中心街の在り様は如何なるものだったのでしょうか。後編では趣向を変えて、当時の「双六」を題材にして迫ってみようと思います。
(中編に続く)
昨日は、千葉町が千葉市となるまでの経緯を追って参りましたが、中・後編では、大正時代の末に千葉市となってから、暗い戦争の影が忍び寄るまでの間、千葉市中心街が如何なる在り様を呈していたのかについて、興味深い資料を基に述べていきたいと思います。それが、副題に掲げた「福徳圓満壽呉録(ふくとくえんまんすごろく)」と題された双六(すごろく)であります。本資料については、本展への展示品が確定し、図録編集も終わった頃に展示が決まったこと、そして著作権の問題が不透明でクリアーできなかったこともあり「展示図録」に納めることが叶いませんでした(所有物を展示するだけであれば基本的には問題がないですが)。しかし、当時の千葉の街の世相を如実に伝えてくれる得難い貴重な史料でございますので、この場で内容について御紹介を致したいと存じます。ただし、ツイッターでもアップすることが叶いませんのでご承知おきください。興味を持たれましたら、是非とも本館まで脚をお運びいただけましたら幸いです。
さて、本史料は、恐らく昭和11年(1936)元旦に、各家に配達された「日刊千葉新聞社」朝刊に、“折り込み”として付せられていたものであると思われます(「寿呉録」の文字選択にも正月を寿ぐ思いが込められておりましょう。本展の市制施行前後の内容から申せばぎりぎり掠るくらいの頃合いかと存じますが、それにも関わらず展示に踏み切った理由は、何より「大正時代」における千葉市中心街の世相を色濃く反映した資料的価値の高さに由来いたします。横長の1枚物紙型の右下に配された「振り出し(俵上に坐したお目出度い大黒様が描かれた千葉合同銀行)」から始まり、外縁から中心部に向かって時計回りに33の店舗と一つの例外(後述)を経て、中心部の「上がり(大海で鯛を釣りあげる恵比寿様を描いた奈良屋呉服店)」に到るまでの駒で構成されております。「振り出し」「上がり」を含めた合計35の店舗すべてが当時の千葉市中心街に存在していたものであります。その他に、双六の両脇にある隙間に左右一店舗ずつ、駒には描かれない店舗広告が掲載されております。双六の体裁をとっておりますが、紛れもなく「広告」として制作されたものです。恐らく千葉新聞社が各店舗に掲載を募り、一定料金を納めた店舗を組み合わせて作成させたものでございましょう。左下に、神田「博文社」の印章がありますので、東京の印刷所に発注して制作されたものでありましょう。因みに、唯一の例外というのは、それ以外の「粋」なる世界からは遥かに隔たったところにある「千葉市役所」に他なりません。他の全てと比較して、異常に浮いております。以下の一覧表で御確認いただければ判明もしましょうが、書かれている文句も「納税を済ませて いつも にこにこ」です。粋とは無縁な異質物が紛れ込んだような無粋さに悲しさすら覚えます(役所として伝えるべき大事な内容ですが、何も正月早々から……と思わされます)。
それら店舗の主たる所在地は、当時の千葉市の中心街で最も賑やかな地であった「吾妻町」(昭和45年に「中央1・2」なる“味も素っ気もない”住居表示に変更され現在消滅)であります。そこには「蓮池」という県内随一と言われた「花街」が形成されてもおりました。つまり「艶っぽい」「粋な」街であったのです。そのことを象徴するように、展示資料は、店舗毎に関連する絵画が全面に描かれており、それを背景に店舗名・所在地・宣伝文句等が書かれております。残念ながら経年劣化による褪色が進んでおりますが、当初は相当に鮮やかであったものと想像できます。何より、絵画自体が「大正浪漫」風であり、色濃く時代の雰囲気を反映する作品だと思います。本展で別に展示する大正期の少女雑誌の双六・挿絵を思わせる懐かしい図柄で、一つひとつの店舗の絵画に愛おしさすら感じさせられます。飾っておくだけでも価値ある「双六」作品と言って宜しかろうと考えます。画家の名前らしきサインはありますが、崩しが強くて当方には読み取れません。ただ。作風筆跡に鑑みれば、全て同一人物の筆になるものと思われます。作者については、今後も継続して調査してみようと考えております。
それでは、双六から読み取れたことを纏めてみましたので、以下の一覧表をご覧くださいませ。
番号 |
|||
振出し | (株)千葉合同銀行 | 金融業(銀行) | |
1 | 處女林(蓮池) | 飲食接待業(カフェー) | |
2 | 大國圓 支店(梅松街) | 「本店:市場町大和橋通り」 | 茶商 |
3 | 新柳 | 菓子店 | |
4 | 松田屋 | 電気店(ラジオ・蓄音機) | |
5 | 美鶴デパート 履物部 | 百貨店(デパート) | |
6 | 袖ヶ浦自動車会社 | 乗合自動車業(タクシー) | |
7 | 美鶴 | 文具・煙草用具販売 | |
8 |
千葉演芸館・千葉新興館 |
「映画の殿堂」 | 演芸場 |
9 | 青山(蓮池 中通り) | 和洋結髪・美容・着付 | |
10 | 坂本呉服店(本町) | 呉服(和装) | |
11 | 小池薬店(吾妻町二丁目) | 化粧品・写真材用 | |
12 | 三守商店 | 「新年用 酒は両関」「市内配達」 | 酒販業 |
13 | 国民共済無尽会社 | 金融業 | |
14 | 千葉牛乳 | 牛乳業 | |
15 | 東京電灯 千葉支店(吾妻町) | 電気店(照明・ラジオ) | |
16 | 大石堂 本店(本町二) | 「パン・海苔羊羹・餅菓子・特製最中・おこし」 | パン菓子類販売業 |
17 | 参松合資会社 | 「赤ちゃんには葡萄糖」 | 製糖・砂糖類販売業 |
18 | ブラザー(千葉駅前通り) | 「歓楽の殿堂 カフェー界の(以下判読不能) 新進モダーンのブラザー」 | 飲食接待業(カフェー) |
19 | 尾張屋 君塚商店(吾妻町二丁目) | 米穀類・薪炭販売業 | |
20 | 丸正(市内通町) | 「皆様ご存知の家具・洋服の店」 | 家具・洋服商 |
21 | 植草(不動堂前) | 「誠意・勉強」「用命は植草」 | |
22 | 酒の家 正宗(蓮池) | 「酒は自慢」「御商談に御同伴に」「ゆっくり召し上がれます」 | 飲酒業 |
23 | 吉野(横町) | 「全廻転部防水式 三村マグネット号」 | 自転車販売業 |
24 | 旭写真館 | 「新春のお写真は是非」 | 写真館 |
25 | 並木(吾妻町) | 飲食業(和洋料理) | |
26 | 金坂(吾妻町) | 玩具(おもちゃ)販売 | |
27 | 塩田(吾妻町二丁目) | 「スタイル抜群 塩田の洋服」 | 洋服販売 |
28 | 富士屋(大和橋際) | 「洋食・志那料理は是非富士屋へ」 | 飲食業(洋食・中華)・喫茶 |
29 | 大原靴店(吾妻町 演芸館) | 履物商 | |
30 | 鈴木肉店(東千葉通り) | 精肉商 | |
31 | 宇津木市太郎商店(本町) | 化粧品・煙草販売 | |
32 | コドモヤ(羽衣橋際) | 洋装百貨・子ども服専門店 | |
33 | 千葉市役所 | 「納税を済ましていつもにこにこ」 | 公務 |
34 | 歌舞伎 | 飲食(関西料理)・飲酒業 | |
上り | 京 奈良屋 | 百貨店(呉服) | |
欄外(広告) | 三芳屋文具店(吾妻町羽衣橋際角) | 「万年筆はウエルかメトロ」「景品付特売中安売自慢」等々 | 文具商 |
欄外(広告) | 蛇の目寿司(蓮池) | 「寿司・天婦羅の御用命は蛇の目寿司」 | 飲食業 |
未だ紙面に余裕があるようですので、双六に描かれている内容について、若干の読み解きをして参ろうと存じます。まず、大正から昭和初頭にかけての時代は、女性の社会進出が盛んになった頃でもあります。こうした動向は、世界的情勢に鑑みれば、ヨーロッパを舞台とした第1次世界大戦と関わります。即ち、これまでの常備軍を中心とした戦争から、一般市民を含めた国民全員で戦うそれへと移り変わったことが背景となるのです。それが所謂「総力戦」に他なりません。つまり、世の男性は一般市民であれ徴兵されて戦線に投入されていったわけですから、必然的に戦争継続に必要な国内の生産体制は、重工業も含めて銃後の女性が担わなければならなくなりました。しかし、逆に、このことがその後の女性の社会進出を強力に促す潮流を生み出します。日本における大正期の女性の社会進出の動向は、決して欧米における潮流と無縁なものではなく、正に軌を一にするものなのです。イギリスで女性参政権が認められたのが1918年のことであることからもそれは御理解いただけましょう(1910年のロンドンを舞台とするディズニー映画『メリー・ポピンズ』でバンクス家の母親が女性選挙権獲得運動に熱中するあまり子供達が寂しさに苛まれている姿を思い出します)。第一次世界大戦では、日本国内が直接の戦場になることはありませんでした。しかし、それでも、国内では多くの女性が働く機会を求めて社会へ進出するようになるのです。本展でも大正期に市内で電話交換士として活躍する女性の姿を展示してございます。
当然、女性が労働を担うためには(仕事内容にも寄りますが)、従来の女性の服装(欧米でのコルセット着用、日本での和装)は適切な姿とは言いかねます。従って、機能を優先したモードへと転換が進んでいったのです(パリにおける「ココ・シャネル」の活躍も正にこの時期的に重なります)。従って、そうした女性が活発に活動できる服装として洋装が普及する時期となっています。高等女学校の制服も和装から洋装へと切り替わるのがちょうど当該時期と重なります。正に大正7年(1917)の跡夢学園(跡見学園の捩りでございましょう)を舞台に繰り広げられる人気漫画「はいからさんが通る」大和和紀[昭和50年(1975)~]の世界観に他なりません。また、和装においても、華やかでモダーンなデザインの「銘仙」が人気を博しました(本展でも展示しております)。大正~昭和初期の市内を撮影した写真でも、歳を経るに従って、男女に限らず洋装の人が増えていきます。また、モノクロゆえに色彩の判別は叶わないのですが、図柄から判断して銘仙だと思われる和装の女性も目につきます。
まだ、この話題は続きますが、少々長くなりましたので、残りは後編に譲ろうと思います。
(後編に続く)
中編に続いて、「福徳圓満壽呉録」の読み解きを進めようと存じます。本双六に描かれる女性(子供も含め)は29名おりますが、管見の限りその内で洋装は6名に過ぎませんでした。それは、和机で読書する姿を描いた「美鶴」7.、ソファーに腰掛けライトスタンドからの光を浴びてラジオを聴く女性を描いた「東京電灯」15.、和装の店員から箸で摘まれた菓子を受け取る男児と女児を描いた「大石堂」16.、店で購入した立方体と円筒形の包(後者は帽子でしょうか)を下げるコート姿の妙齢の女性を描いた「植草」21.、出来上がった料理と丸徳利を給仕する若い女性を描いた「富士屋」28.、テニスラケットを手にベンチに腰掛ける女性(足元にテニスシューズあり)を描いた「大原靴店」29.、時計塔のあるビル前で耳当のついたハンチングを被り、同色コートでコーディネートしたお嬢さんが腕時計を見ている姿を描いた「コドモヤ」32.の合計6名です。その他23名は全て和装(着物)姿で描かれております。本双六から見る限りは、まだ和装が主流であるように見えますが、これも本双六のメインフィールドが吾妻町であることが最も大きな要因でございましょう。
ただ、和装であっても、髪については洋式に改めている女性の割合が多いことにも気づかされます。和装で和髪を結っているのは6名のみであります。すなわち、「處女林」1.での女給らしき女性、「新柳」3.に菓子を購入に来たと思しき女性、蛇の目傘を傾けて腰を屈めながら「美鶴」5.に入店しようとする女性、美容「青山」9.で髪を結ってもらっている女性、「坂本呉服店」10.で反物を選んでいる女性、料理・飲酒店「歌舞伎」の店内から暖簾越に顔を覗かせる女性の合計6名です。残りの15名は洋髪であります(その内の6名は子ども)。「處女林」「歌舞伎」のような接待業に従事する女性はもとより、「新柳」で菓子を購入する女性、「青山」で髪を結っている女性、「坂本呉服店」で反物を見繕っている女性、その何れもが花柳界関係の粋な趣の感じられる女性として描かれております。やはり、吾妻町(花街の「蓮池」が立地する土地)を中核とした店舗を中核に据えた双六だけのことはあります。こうした洋式の髪型を行う店舗を「美容院」といいますが、千葉市内の「青山」も、描かれるような和髪を結うに留まらなかった店舗であると考えられます。何故ならば、宣伝文句に「美容」を謳っているからです。おそらく洋髪も扱っていたことでしょう。皆さんは、NHKでかつて放映された朝の連続テレビ小説『あぐり』を思い起こされましょう[平成9年(1997)]。ダダイスト詩人・小説家として名高い吉行エイスケの妻であり、小説家吉行淳之介・女優吉行和子の母である、「吉行あぐり(ドラマでは望月あぐり)」を主人公とした物語でした。大正14年(1925)に上京し、昭和4年(1929)年に独立して美容院を開店した時代の寵児でもあった人物です。女性がパーマネントでお洒落を楽しむ先駆けとなった動きもまた、大正末から昭和にかけての時代を象徴する潮流であることは間違いありません。
逆に、描かれた男性の数は少ないのですが、和装は3名のみ。「旭写真館」24.で撮影したと思しき御夫婦の写真を自宅で寛いで奥様と一緒に見ているパイプを持った男性、「酒の家 正宗」22.で幼いお嬢ちゃんと更に小さな子どもを前に頬を赤く染めて上機嫌に猪口を運んでいる初老の男性(大きさからみて二合徳利ですので男性は相当にいけるクチでありましょう)、そして「新柳」3.で和装・和髪の女性から菓子の注文を受ける店員、その三人のみです。前2者はオフタイムの姿、最後は和菓子店故の姿と申せましょうか。その他の男性は洋装ですが、「塩田洋服店」27.で購入したと思しきコートにハットを着込んだ如何にも会社員らしきダンディな男性以外は、米穀店・薬店・肉屋等の店員がそれぞれ職種に相応しい制服姿(?)で描かれます。
その他に、大正という時代の姿を映し出す店舗を幾つか取り上げてみましょう。その一つが「カフェー」であります。本双六にも2店舗が掲載されております(「處女林」1.、「ブラザー」18.)。ここに載るくらいですから相当に羽振りも宜しかったものと思われます。「カフェー」は明治末期に東京の銀座で生まれ、大正時代を通じて全国に広まったと言われております。以下の定義によれば、カフェーとは「コーヒーや洋酒などの西洋由来の飲み物と、ライスカレーやオムレツなど一品の洋食を提供する、洋風の設備(例えばテーブルと椅子)内装の店舗・システム」[『大正史講義【文化篇】』2021年(ちくま新書)掲載「カフェーの展開と女給の成立」斎藤光]であります。カウンター等でつくられた飲食物を、客が飲食歓談している空間を縫ってテーブルに運び、その後も客の会話に加わって接待し、次の注文に繋げる仕事を担ったのです。そうした女性を「女給」といい、その人気こそがカフェー繁盛の浮沈を握っているほどに重要な要素であったのです。これもまた、女性の社会進出の一類型と申せましょうか。これまたNHK連続テレビ小説ネタで恐縮ですが、昨年放映されて人気を博した、古関裕而の人生を描く『エール』でも、主人公の幼馴染が東京に出てきて、かつて許嫁であった女性の働くカフェーに現れて一悶着……といったシーンがありました。その女優さんの姿は、正に竹久夢二の絵から抜け出してきたようでした。正に大正浪漫を体現したかのような姿にすっかり魅了されましたが、皆様は如何だったでしょうか。「ブラザー」18.広告には「歓楽の殿堂」なる、なんとも軽い謳い文句が踊っております。
続いて、「新興館・演芸館」8.であります。「映画の殿堂」と宣伝しているように、大正時代は、映画産業の濫觴となった時代でもあります。「活動写真」人気の高まりは、いくつもの制作会社を東京・大阪等に立ち上げることに繋がり、次々に新作が発表されました。大正末にはその名称も「映画」と称されるようになり、新参者ではありましたが、庶民娯楽の代表となったと申せましょう。千葉市内にも幾つもの映画館が立ち並ぶようになりました。当初は、映像のみがスクリーンに投影され、物語を活動弁士が語る形式(無声映画)でありましたが、昭和の初期には今と同様、映像と音声とがシンクロする映画上映が行われるようになりました(「トーキー」と称されました)。本展で展示される昭和12年(1937)「羽衣館」写真にも「オールトーキー」の文字が看板に謳われています。当時主流であった映画は、所謂「チャンバラ」ものでありましたが、次第に、現代を舞台にした恋愛物も制作されるようになり人気を博したようです(写真には「恋愛べからず読本」なる映画タイトルが見えます)。
続いて、ラジオ・蓄音機の販売店が「松田屋」4.・「東京電灯千葉支店」15.の2店舗取り上げられております。ラジオ放送が日本国内で開始されたのは、大正14年(1925)年のこと。当日の受信許可数は3500世帯に過ぎませんでしたが、ラジオ受信契約数は昭和7年(1932)には100万を突破。3年後には200万をこえています(ただし契約者は圧倒的に都会中心でした)。本双六にも、所謂真空管式のラジオを楽しむ姿が描かれており、千葉市内でも富裕層を中心に、ラジオが普及している様子が見て取れます。大正期には、新聞ですら、後の「全国紙」のようなメディアとは成り得ておらず、ラジオは、広範な情報伝達メディアとして忽ちのうちに受信契約数の向上をもたらしたのです。初期のラジオ受信機は、鉱石式が10円、真空管式は120円であったとのことです。貨幣価値を現在と比べるのはなかなか難しいのですが、当時の10円は現在の2万円ほどに、120円は現在の24万円ほどとなりましょうから、相当な高額商品であったことがわかります。逆に申せば、千葉市域にも斯様な高額商品を購入できる中産階層の成長がみられるようになったことを示しておりましょう。更に、レコード鑑賞となると、蓄音機の購入が必要です。最高級の輸入蓄音機であれば当時の年収の2倍程の代物もあったとのことですが、国産の売れ筋では、ポータブル型が30~50円(現在で6万~10万円程)、卓上型が50~80円(現在で10万~16万円)という高額でありました。その他に消耗品の鉄針の購入も必要です。更に、肝心の音盤は片面で3~4分程しか収録できない、所謂“SPレコード”1枚で凡そ1円50銭ほど(現在の5千円ほどでしょうか)。当時の一般庶民にとっては総じて手の出ない価格でした。それでも、本双六中の「松田屋」4.にはラジオと並んでレコードを置いた素敵な蓄音機が描かれております。これまた市内では購入する需要が数多あったことを示しておりましょう。これまたNHKの朝ドラ『エール』ネタになりますが、大正末から昭和初期にかけて、古賀政男らの手になる所謂“大衆歌謡”が持て囃されていく姿が描かれました(その中で、クラシック音楽を基盤とした主人公古関裕而の音楽はなかなか受け入れられずにヒットを生み出せぬ苦悩が綴られました)。これも、また大正時代由来の世相に他なりません。
他にも、本双六からは、パンや牛乳、西洋料理の広がりから見える食生活の洋風化、千葉に進出した呉服商の奈良屋(追って百貨店経営に移行)、に見る消費生活の多様化など、大正末から昭和初期の千葉市中心街の華やかな街の諸相を読み取ることができます。また、テニスラケットを持つ女性を描く「大原靴店」29.からは、千葉市内においてもハイカラなスポーツを楽しむ階層が成長していることも窺わせますし、また展示にもありますように全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園の前身)が大正4年(1915)に始まり、大正15年(1926)には千葉師範学校が出場し、それら雑誌で報道されるなど「スポーツ観戦」(直接競技場に足を運ばなくても出版物で楽しむことができる)といった娯楽の多様化をも生む出すことにも繋がっていきました。
そろそろ、「福徳圓満壽呉録」の旅を終えようと存じます。1枚の双六ですが、まだまだ多くのことを読み取れましょう。正に尽きせぬ泉のような史料的価値をもっていると思います。そして、大正という時代が「大衆」という新たな中産階級を生み出し、彼らの嗜好の高まりが、時代の空気(世相)を形づくっていったことまで透けて見えてくるのではありますまいか。併せて、本企画展会場で展示しております松井天山「千葉市街鳥瞰」とを併せてご覧いただくと、市制施行期の千葉市街の在り様をより具体的に思い浮かべることができましょう。天山の作品は昭和2年(1927)の千葉市中心街を鳥の目線で俯瞰した絵地図であります。かなりデフォルメを利かせて描かれておりますので、最初は一体何処を描いているのか読み取りにくいと思われますが、現在の道路とつなぎ合わせることさえできれば、比較的簡単に読み解くことができます。細かな路地や店舗名まで詳細に写し取られておりますので、当時の千葉町の賑わいを感じ取れると思います。実際の姿をお示しできないことが残念で仕方がありません。ご興味を持たれた方が御座いましたら、是非とも本館の企画展まで脚をお運びくださいましたら幸いです(12月12日まで)。
最後に、大正時代について、手軽に時代像を把握されたい方にお勧めの書籍を御紹介して本稿を閉じたいと存じます。文中にも御紹介させていただきましたが、「ちくま新書」として極最近に上梓された2冊であります。テーマごとにとても分かりやすくまとめてございます。何れも500頁からなる大冊でありますが、実に読み応えのある内容でした。特に【文化篇】の面白さは無類であり、正に巻を措く能わずに読了致しました。
1.筒井清忠編『大正史講義』2021年(ちくま新書)
2.筒井清忠編『大正史講義【文化篇】』2021年(ちくま新書)
決して芸術作品には限りませんが、「未完成」作品は完成作品以上に、創作者への興味を掻き立ててくれるように思います。作者は「完成型」を如何に構想していたのかに想像を巡らすこと、完成に至らなかった人間ドラマを勝手に構築すること等々、「とりあえず完成した」不完全な作品を離れて思索の旅を愉しむことができるからです。場合に拠っては、作者とその他の作品をより深く知ることに通じる可能性すらあるように思います。逆に、元来が完成型であった作品が、経年劣化の挙げ句に「廃墟」化している姿にも「未完成」作品に接したときと似た感慨を覚えることもあります。思いを巡らすのが未来か過去かという違いがあるだけではありますまいか。「不完全な形」に宿るある種の憧憬に近い感情なのかもしれません。
何故斯様なことを取り上げようかと思ったのかと申せば、つい先日、20世紀最大のポピュラー音楽アーティストと目される「ビートルズ」のラストアルバムとなった『レットイットビー』が、未発表の音源を含む「スペシャル・エディション」版としてリマスターされて発売されたこと、そして個人的に購入に及んだことが発端になっております。通常、そのテの豪華愛蔵版のような代物には手を出さないのですが、その中の1枚に、彼らのファンであれば知らぬ人はいないと言っても過言ではない『ゲットバック』が含まれていたことに驚愕し、悩んだ末に2万円近くもする豪華エディションをまんまと購入させられる羽目に至ったのでした(『ゲットバック』はこのスペシャル版にしか含まれません)。「ゲットバック」なら知っているよ!有名な曲だしね」という方がおられましょうが、私が申し上げているのは、当曲も含まれたビートルズのアルバム作品のことです。その報に接したときには、正直、嘘偽りなく胸の鼓動が高まりました。何故ならば、当アルバムは、1969年当時に彼らの意思によって制作され、リリース可能な状態まで仕上げられながら、紆余曲折の末にお蔵入りしてしまった「幻のアルバム」だからです。その経緯は後編で述べたいと思いますが、それが、大凡半世紀という時空を隔て、初めて正規盤として日の目を見ることとなったのです。流失音源を基にした粗悪な海賊版としては世に出ていたそうですが、当方がビートルズに夢中になっていた時分、彼らの海賊版と言えば専ら当時正規盤として販売されていなかったコンサートでのライブ音源ばかりで、スタジオ録音アウトテイク等は一切流通しておりませんでした(因みに、彼らの正規ライブ盤は解散後の1977年にLPレコードで発売されただけで放置され、ようやく2016年の彼らの映画上映に併せて4曲追加されてCD化されました)。今ではポピュラー音楽盤を購入することは殆どありませんが、流石に昔取った杵柄です。当時聴きたくても聴けなかった羨望の的でもあった「幻のアルバム」正規盤の登場に血が騒がなかったと言ったら嘘になります。それにしても、何という喜びでしょうか!ビートルズファンであれば、このリリースをどれほど待ち望んだことかと存じます。商品の到着まで一日千秋で待ち暮らし早速試聴に及びました。そのことについては後編までのお預けとして、まずは前編で様々なる未完成作品について大まかに触れ、ビートルズとの関連させ、ビーチボーイズの「未完成アルバム」についても中編で述べてみたいと思います。
芸術作品には限りませんが、世に「未完成」と称される作品は数多ございます。そして、それを惹起した事情も様々であります。最も一般的なケースは、作者(作り手)の突然の死によって生じた「未完成」作品ではないかと思われます。例えば、建築家アントニ・ガウディ(1852~1926)設計になる、スペインはバルセロナにある「サグラダ・ファミリア」。その構想が余りにも壮大すぎて、完成まで300年を要するだろうと考えられていた教会建築です。事実、ガウディ生前にはその四分の一程度しか完成されませんでした。しかし、作者による構想が定まっておりましたので、その死後にもその遠大な計画の実現に向け、建築が粛々と継続されております。何でも昨今の建築技術の長足の進歩がその完成を早めることになるだろうと耳にしました。もしかしたらその完成型を当方も目にすることができるかも知れません。まぁ、これは「未完成」と言っても完成型は既に見えている極めて稀なケースです。多くの場合は、作者の死によって、言うまでもなく完成部分の先は永遠に闇の中に消えてしまいます。
当方の偏愛する作家の一人に福永武彦(1918~1979)がおります。『草の花』『風のかたみ』『死の島』等々、学生時代に貪るように読んだ作家ですが、今ではあまり知られていないかも知れません。実際のところ、現在は現役の文庫本は一冊も存在しないのではありますまいか。しかも、今では池澤夏樹の父親といった方が通りがよいかも知れません。その福永の絶筆となった小説に『山のちから』があります。子ども向けに書かれた未定稿(それすら完成してはおりません)を、決定稿へと書き直している最中の死によって中絶となりました。両者を読み比べれば、単なる子ども向けの話を、大人が読むに耐える「決定稿」へと変容させていくかの過程が垣間見えてきます。民俗学的な手法を借りて物語の舞台となる背景に厚みが加えられていく様に瞠目させられる思いでありました。作者が仕掛けた装置の的確さに舌を巻く思いでありますし、何よりもその在り方に深い感銘を覚えます。決定稿部分の素晴らしさ故に、本作の未完成が心底残念でなりません。福永に今暫しの生命が与えられ、完成された決定稿を是非とも読んでみたかったものであります。
音楽作品においても、他のジャンル以上に作曲家の死によって「未完成」となった作品はたくさんあります。モーツァルト(1756~1791)の『レクイエム』、ブルックナー(1824~1896)の『交響曲9番』、そしてマーラー(1860~1911)の『交響曲10番』、プッチーニ(1858~1924)のオペラ『トゥーランドット』等々であります。しかし、上記した4作品については、作者の意思を引き継いで、死後に補筆完成版として一応の「完成作品」として仕上げられております。モーツァルトの「レクイエム」(K.626)も場合、全14曲からなる作品中の第7曲「ラクリモーサ」8小節目までしか完成できず作曲者が世を去りました。しかし、死後直ぐに弟子のジェスマイヤーが残されたスケッチと、何も残されていない部分は自らが作曲して補筆完成させております。現在聴かれる名作「レクイエム」はこうした産物であります。ブルックナーの最終交響曲も全4楽章中の終楽章を残して中絶。最近は復元された4楽章として録音されることもありますが、哀しいかな、既存の楽章の音楽に比較して著しく劣った内容にガッカリさせられます。大体、3楽章が静かに消えるように終わるので、ブルックナー本人の意図には反するのでしょうが、素晴らしく余韻のあるクライマックスになりえてしまっているのです。補筆された4楽章が途轍もない夾雑物のように感じてしまいます。しかし、マーラーの第10交響曲は、かなりの本人のスケッチが残されていたこともあり、イギリスの音楽学者デイリー・クックの補筆完成版は、恰も冥界から作曲者が降臨したのではないかと思わせる程の完成度を誇っており、大いに感動させられます。これは、途轍もなく価値のある仕事だと思います。
しかし、「未完成」作品は、必ずしも作者の死によって中断された物ばかりでもありません。そうしたケースとして最も著名な「未完成」作品が、シューベルト(1797~1828)作、その名もズバリ「未完成交響曲」に他なりません。まぁ、シューベルトにはこの曲以外にも未完のフラグメントが数多残されておりますが、この作品は、全4楽章構成のうちの最初の2つの楽章は完全に仕上げられている点が異なります。しかし、何故か3楽章の途中まで作曲してそのまま放置されてしまいました。若死にしたとは申せ、シューベルトは「未完成交響曲」作曲から6年後に死去するまで、他にも沢山の曲を書いておりますので、何故そのままに放置されたのかは全くのミステリーなのです。死後に楽譜は忘れ去られ43年後に再発見され、目出度く古今東西の名曲の仲間入りを果たしたというわけです。結果として、現在ではこの曲は常に2楽章構成で演奏されます。2つの楽章共に緩やかで内省的な音楽となっており、心に染み入る名曲「交響曲」として成立しております。しかし、このような構成の交響曲は、少なくとも作曲者の生きていた19世紀初頭においては前代未聞であります。しかも、2つの楽章で優に30分に及ぶ作品となっております。この後の2つの楽章が加われば優に1時間を超える作品となったことでしょう。作曲家は、そのことを憂慮したのかも知れません。更には、この内省的な音楽を、この後どのように展開するのかで行き詰まってしまったのではありますまいか。ヘタをすると2楽章までの世界が台無しになりそうです。事実、後の音楽学者による補筆完成版もありますが、全く以ってトホホな作品に堕してしまっていると思います。シューベルトは、次をどう展開させようかと悩んでいるウチに、次の楽想が沸いて異なる作品に取りかかってしまい、そのウチに忘れ去られてしまった……というのが真実に最も近いのではないかと考えるところであります。
さて、「その1」もここら辺りまでといたしましょう。副題に掲げたビーチボーイズとビートルズのアルバムのことは「その2」以降ということで。
(「その2」に続く)
「その2」では、予告通りビーチボーイズの「幻のアルバム」について取り上げてみたいと思います。初めにお断りしておきますが、当方は大学生であった20歳頃を一期に、基本的にポピュラー音楽からは脚を洗い、山のようなLPレコードのほとんどを処分。その後は専らクラシック音楽の世界に遊ぶ人となりました。従って、私の知るポピュラー音楽の知識のほとんどは昭和55年(1980)前後より前のものに限られます。話を進める前に、当方の音楽生活を振り返りながらビートルズとビーチボーイズとの出会いから回想してみたいと存じます。
当方の音楽と伴にある生活は。中学校1年生の時に始まりました[昭和47年(1972)]。ラジオから流れてきたビートルズの音楽に打ちのめされたのです。その2年前である1970年にビートルズは解散しておりますので、当方は後追いのビートルズ世代であります。それ以降、ビートルズの音楽を時代を遡って、正規盤は勿論のこと海賊版まで聴きまくり、高校生の頃には一端のビートルマニアと化しておりました。しかし、ビーチボーイズの偉大さに気づくのは遅れました。ビートルズを筆頭に、ローリング・ストーンズ、フー、キンクス、ヤードバーズ(関連してエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、レッド・ツェッペリン)等々に心底魅了されました。後にピンク・フロイド、キング・クリムゾン、ジェネシス、イエスといったプログレッシブロックにも染まり、何を措いてもイギリス人の生み出す音楽にぞっこんでした。従って、アメリカ人のつくる音楽を小馬鹿にすらしておりましたし、特にビーチボーイズのサーフィン・ホットロッド的作品には嫌悪感すら感じていたほどです(モノを知らない人間の感想ほど当てにならないものはありません!今となっては自らの不明に恥じ入るばかりです)。それよりも、高校一年次頃に世に出た、新たな国内アーティスト達の創作する音楽に遙かに大きなシンパシーを感じていたほどです。私にとってその筆頭が、荒井由実(松任谷正隆と結婚したことで現在は松任谷由実)、そして「シュガーベイブ」なるバンドでした。そこから遡って“はっぴいえんど”等の素晴らしさに気づくのは直ぐでした(そのことは昨年度の本メッセージで述べたことがあります)。当時、日本中のバンド活動の実態はイギリス音楽のコピーであり、それらが一世を風靡していた時代でした。しかし、彗星の如くに登場した彼らのつくる音楽は、それとは全く異質で、底抜けに明るく心地よく、都会的なセンスに満ちあふれた音楽であり、一気に引き込まれたのです(名古屋のバンド「センチメンタル・シティ・ロマンス」にも似た匂いを感じました)。しかし、シュガーベイブは、たった一枚のアルバム『ソングス』を残して解散してしまいました。
そのリーダーこそ、今でも現役ソロアーチストとして次々と名作をリリースしている山下達郎に他なりません(大貫妙子もメンバーでした)。つまり、彼らの音楽のバックボーンがアメリカ音楽であり、その山下の偏愛しているアーティストこそビーチボーイズに他ならなかったのです。そして、当方が高校2年生であった昭和51年(1976)に、山下はニッポン放送の深夜番組「オールナイトニッポン」第2部(深夜3時から5時までの放送枠)を担当しており(週一回)、その中に山下の偏愛するビーチボーイズ全録音をストーリーとして紹介するコーナーがあり、眠い眼をこすりながら週一回の放送を聴いておりました。同じ曲でも、テイク違いも含めて網羅的に彼らの作品を解説付きでオンエアーしていました。今から45年も前の事です。実に画期的な放送内容であったと思います(現在FM東京で日曜14時から放送される山下達郎「サンデーソングブック」と、ほとんどスタイルが変わっていないことにも逆に驚かされますが)。もっとも、番組プロデューサーからマニアックな放送内容の変更を指示され、それを拒絶したことで度々喧嘩となったと後に回想しておりますが。つまり、当方は山下のお陰でこの比類無きバンドの素晴らしさに開眼したのでした。その恩返しの思いもあって、山下のソロ作品は『サーカス・タウン』以降ずっとお付き合いをさせていただいております(ペコリ)。
1962年にデビューしたビーチボーイズが、1966年にリリースしたアルバムが『ペット・サウンズ』です。その昔にLPレコードで摺り切れるほどに聴き、後にCDに買い換えてからも年に何度かは必ず聴いてきました。そして何度聞いても、これが1966年に製作されたことに驚異を覚えるアルバムです。一つひとつの曲の素晴らしさ、完璧なるコーラスワーク、そして消え入りそうになるような悲しみと哀愁を漂わせるアルバム全体を支配する音づくり、そして余りの完成度の高さ。正に一世一代の傑作でありましょう。当時、アルバムという存在は、シングルレコードの寄せ集めに過ぎませんでした。アルバム全体を一定の主題の下に構成するという、所謂「コンセプトアルバム」の奔りでなかったかと思います。創作の舵取りをしていたのがバンドリーダーであるブライアン・ウィルソン。彼は、1965年に発表されたビートルズのアルバム『ラバー・ソウル』の完成度の高さに愕然としたと後に語っております。かのイギリスのグループを凌駕する「作品」として本アルバムを構想したのです。逆に、本作を完成させてイギリス公演に飛んだビーチボーイズは、早速この音源をビートルズのメンバーに聴かせておりますが(ツアーメンバーであったブルース・ジョンストン)、ポール・マッカートニーはその作品としてのアルバム全体の完成度に度肝を抜かれたと証言しております。そして、この出会いを契機に、ビートルズの作家主義的な側面が更に際立って来ることになりますが、そのことは後編で述べたいと思います。その前に、ビーチボーイズの「幻のアルバム」について片付けておきましょう。
ビーチボーイズの「幻のアルバム」の名称は『スマイル』とされ、1967年にブライアンの主導(正確にはブライアン個人の意図)の下で制作され、発表まで告知されながらも最終的にはお蔵入りとなった作品であります。彼は、後に「神に捧げるティーンエイジ・シンフォニー"を作りたかった」と語っております。しかし、大傑作『ペット・サウンズ』を凌ぐ作品とするにはどうしたらよいのかとの煩悶が続く、孤独な制作の戦いでした。作詞家にヴァン・ダイン・パークスを招聘し、総合芸術作品として構成されるはずであった『スマイル』でしたが、ライヴァルであるビートルズの音楽家としての急成長を最大プレッシャーと感じながらの孤独な制作作業が、ナイーブなブライアンの精神を蝕みました。ビートルズと異なる彼らの悲劇は、ブライアン一人が創作を一手に担っていたことにもありました。あまつさえ、他のメンバーからも「これまでのビーチボーイズ路線から余りにもかけ離れた“理解しがたき作品”」との烙印を押されることになるのです。こうしてブライアンはパラノイアと化してしまったのでした。結果として、彼は本作を仕上げることができなくなり、本作は未完成作品となりお蔵入りしてしまったのです。本作に納められる予定の楽曲は、この後にブライアンの半引退状態の中で制作されることとなる彼らのアルバム中に、細切れとなって収録されることになりました。しかし、その転用された楽曲の素晴らしさ故に、逆に日の目を見ずに埋もれた『スマイル』がどれほどの作品であったのかの推測を呼び起こすこととなり、以後40年の長きにわたって、本作は世界で最も著名なる「未完成」アルバムと目されて参りました。
ところがです。パラノイアを克服したブライアンが、40年を経て再びパークスを呼び寄せて『スマイル』を完成させたとの報に接したのが2003年のこと。世界中で驚喜をもって迎えられたニュースでしたが、誰もが半信半疑でした。しかし、彼は自身のバンドを引いて実演に及び、その後に「ブライアン・ウィルソン」ソロ名義で、2005年『スマイル』をリリースしたのです。「幻のアルバム」が幻でなくなった瞬間でした。当然、当方もすぐさまに予約。一日千秋の思いでアルバムの到着を待ちわびました。そして試聴に及んで、期待を何万倍も上回る程の感動を覚えました。素材としては後のアルバムに納められた曲も多く、聞き慣れたモノが多いのですが、全体の構成として納まるべき所に納まった曲同士の構成と繋がりに、涙が出るほどに感銘を受けましたし、『ペット・サウンズ』に勝るとも劣らない傑作作品との確信を得たのです。勿論、これが当時ブライアンの抱いた構想そのものなのかは分かりません(きっと異なっておりましょう)。しかし、小一時間に及ぶ作品世界に浸ればそんなことはどうでもよくなります。正に比類なき素晴らしき音楽絵巻です。タイトルの意味する「微笑」に象徴されるように、前作の“神がかった”静謐と哀愁に満ちた作品とは一味異なる、哀愁を漂わせながらもどこかしらから微かな希望の光が天啓として差し込むような、聞き終えた後にそんな安息感を胸に残していく作品だと思います。今流行の言葉で申せば「ヒーリング(癒し)」でありましょうか。
更に、あろう事か、2011年には本家本元、ビーチボーイズが1966年に制作した音源による『スマイル』がキャピトル社から世に出されたのです。勿論、途中で放棄された作品ですので、これは完成品ではありません。実際、タイトルには「セッション」と銘打たれております。従って、ソロ名義と聴き比べれば、「ここには歌が入るところ」「合唱は??」といった違和感を感じさせられる部分があります。しかし、それを補って余りある、1966年当時のビーチボーイズ全盛期の「幻のアルバム」が世にでたことに狂喜しました。構成は基本的にブライアンのソロ作品に準じておりますが、それと一線を画していることは、当時20歳代であったビーチ・ボーイズメンバーの声色にこそあります。特に当時24歳であったブライアンの定評のある艶のある声色は、還暦を越したソロ名義の声とは隔絶したものであります。特にファルセットへ移り変わるときの声色の彩りの微妙な変化に震えます。美しい!美しすぎます!!更に、中断した当時、ここまで本作は完成していたのかとの驚きに感銘すら受けたのです。皆様も、ご興味がございましたら、是非とも双方共にお聞きになられることをオススメしたいところであります。当方は、生きて本作を聴くことができたことを心底感謝したいと、本稿を執筆にあたって再度この2枚を聴いてしみじみ思った次第であります。さて、「その3・4」で、ビートルズの「幻のアルバム」の世界について述べたいと思います。
(「その3」に続く)
「その3・4」では、ビートルズと彼らの「幻のアルバム」について述べようと思います。言わずもがなのことですが、ビートルズは、イギリスのリバプールで生まれ育った、ジョン・レノン(ギター)、ポール・マッカートニー(ベース)、ジョージ・ハリスン(ギター)の幼馴染みを格とし、後にリンゴ・スター(ドラム)が招き入れられることで成立したバンドです。1962年に「ラブ・ミー・ドゥー」でデビュー。たいした話題にもなりませんでしたが、翌年1月にリリースの2枚目シングル盤「プリーズ・プリーズ・ミー」が大当たり。その後のシングル盤もアルバム盤もことごとく大ヒットし、一躍スターダムにのし上がりました。彼らの公演にはファンが殺到し、会場には間断なく女性の金切り声が響いている有様でした。当時の公演のライブ録音を聴くと、昨今の人気アーティスト公演の比ではなく、野球スタジアムで開かれた公演では数万人の「キャー」の大音響に度肝を抜かれます。「キャー」というよりも「キーン」といった雑音が絶えることなく聞こえる中で、辛うじて彼らが演奏している音楽が聞こえてくるといった趣です。当時はPAシステムも簡単なモノであり、リンゴは騒音の中で他の3人の演奏など皆目聞こえず、3人の体の動きを見て曲の進行を読み取ってドラム叩いている有様だったと証言しております。最初こそ、喜んで演奏していた彼らでしたが、次第に演奏などはどうでも良いファンの在り方に苛立ちを募らせていきました。同時に、「人気者」ではなく「クリエーター」としての自らの在り方を模索する動きを示していきます。
そうしたクリエイター志向を採り始める画期となったアルバム盤が、1965年末にリリースされた『ラバー・ソウル』でした。先にも述べたように、ブライアン・ウィルソンがこれを聴いて、このグループが単なるアイドルではないことを確信して愕然としたという曰く付きの作品です。創作される曲のヴァラエティと独創性に衝撃を受けたのでしょう。これまでの5枚のアルバムとは異なる、格段の芸術的な深さが感じられる内容です。そして、1966年8月29日、サンフランシスコのキャンドルスティック・パーク(大リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)での公演を最後に、予て嫌気がさしていたライブ公演から完全に脚を洗うこととなり、以後はアルバムアーチストとしての路線を歩むことになるのです(同年日本武道館で最初で最後の来日公演もありました)。同時に収録を進めていた7枚目のアルバム『リボルバー』は、ライブ演奏では演奏ができないと思われる「トゥモロー・ネバー・ノーズ」等に見られるように、アーチスト、クリエーターとしての意識が、細部に至るまで張り巡らされた作品としてのアルバムとなりました。イギリスでは、未だにビートルズの最高傑作は、この『リボルバー』と称して憚らないファンが多いのも頷けます。
そして、同年にロンドンでブルース・ジョンストンから提供された『ペット・サウンズ』で示された音楽が、彼らの創作者としての精神に更なる油を注ぐことになったことは疑いありません。ライブ演奏から離れたことにより、ビートルズの4人は、純粋なスタジオワークを通じて、生演奏で実現できないレヴェルまで作品を彫琢して創造していく、アーティスト的なクリエーター色の強いバンドへと更なる飛躍を遂げることになるのです。それはあたかもビーチボーイズのブライアン・ウィルソンが志向した方向性と軌を一にするものでした。その結実こそが、1967年6月リリース『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』です。よく「20世紀におけるポピュラー音楽の最高傑作」「ロックを芸術の域にまで高めた作品」と讃えられる作品です。ポールの「アルバム全体でロールプレイを行う」というアイディアに従って、各メンバーを「ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の一員という別人格に置き換え、観客の前でコンサートを行うという趣向で制作されたアルバムです。このアルバムからは一切のシングル盤が切られていないことから、彼らがこの作品を「アルバム作品」として制作したことが分かります。そして、もはや演奏会で再現など不可能な複雑な楽曲構成となっております。まぁ、ファンの中には臍曲がりな人も多いモノですから、本アルバムを高く評価しない人が多いのも事実ですが、時代性を越えた普遍的完成度を誇る希有なる作品であることを認めない訳には参りますまい。そうはいっても、個人的な正直な思いとしては、繰り返してターンテーブルに乗せたいとは思えない盤であることもまた偽らざる事実です。スタジオワークでのテープの切り貼り作業が中心となり、どことなくそれ以前にあったバンドとしての一体感、4人の力が合わさって、正に今その場で音楽が創造されているといった空気感に欠けることが原因だと思います。次作の『ザ・ビートルズ』(真っ白いジャケットから通称“ホワイト・アルバム”と称されます)なる2枚組のアルバムですが、この収録に立ち会った人の証言によれば、最早ジョン、ポール、そしてジョージは別々のスタジオに籠もって自らの作品を制作するようになっていたとのことです。これではバンドの一体感などは生まれようもありません。このアルバムは、確かに実験的な曲を含む素晴らしい作品の宝庫ですが、アルバムという纏まったイメージをもたらすことのない、謂わば「ごった煮」的な印象をぬぐえない作品です。4人個々の作品の寄せ集め的アルバムと言っても間違いではありません(リンゴ自作の作品も1曲ですが収録されています)。こうして、次第に、バンドとしての一体感は次第に希薄になっていくことになりました。しかし、彼ら自身もまた、そうした問題点には気づいていたのです。
こうしたバンドとしての空中分解的状況を憂いたのが、ポール・マッカートニーでした。そこで彼の提案したアイデアが、4人体制のバンドとしての素の自分たちの在り方に戻ってみようとのことでした。正に原点回帰、つまりは『ゲット・バック(元の場所に戻る』ということになります。「昔のように4人で一緒に演奏しよう」とのコンセプトに基づいてセッションが組まれました。同時に、アルバムのジャケット写真の撮影も行われました。それは、ファーストアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』ジャケットを撮影したのと同じ場所で、かつ同じ構図で撮影するという凝った趣向でありました(アルバム制作が頓挫したため当該写真は解散後に発売された2組のベストアルバムのうちの青盤ジャケット写真となりました)。なお。本作は映画撮影とリンクしており、カメラは素の4人の姿を追っていきました。そうした悪く言えばダラダラと続けたセッションが72時間分あまりも収録されたと言います。救いは唯一、最終段階で彼らの会社であるアップル本社ビル屋上で開催された、いわゆる「ルーフトップコンサート」くらいでした。45分ほど行われた4人(+エレクトリック・ピアノで参加したビリー・プレストン)のコンサートは。彼らが人前で揃って演奏した最後となりました。
そして、その膨大なテープの編集を彼らから託されたのがグリン・ジョンズという人物でした。彼は、ローリング・ストーンズ、フー、スモール・フェイセス等の大物のアルバム制作にも関わっていた人物でした。ただ、彼はプロデューサーではなくエンジニアとして雇われたのです。デビュー以来彼らをプロデュースしてきた5人目のビートルズと呼ばれたジョージ・マーティンも外して、彼らは自らプロデュースをしようと考えたのでしょう。つまり、一度「外部からの意見から距離をおいてみる」という試みであったのだと思われます。しかし、テープを渡されたジョンズは途方に暮れたと言います。脈絡のない、曲を完成させるわけでもないセッションをどう纏めるべきか皆目見当がつかなかったからです。無理もありません。しかし、彼は逆転の発想を採りました。むしろヘタに纏めず、今あるままの姿を聴いてもらおうとの方向です。それこそがアルバムタイトル『ゲット・バック』に相応しい制作に繋がろうと考えたのです。因みに、この時のセッション映像は映画「レット・イット・ビー」として公開され、当方も何度も映画館で見ましたが、仲間同士の口論のシーンが納められていたりと、視聴後感としては決して芳しい印象を持てない作品でした。その所為もありましょう、現時点で、彼らの制作した映像作品中で唯一正規の形で販売されていない作品となっております。
(「その4」に続く)
最終的に、ジョンズは彼らのセッションを、彼らの遣り取りや演奏ミスも含めた「ミックス」を作成してメンバーに提示しました。これが、今回のスペシャルエディションに納められた幻のアルバム『ゲット・バック』のファースト・ヴァージョンに他なりません。後に、2曲が差し替えられてセカンド・ヴァージョンに変わりますが、その2曲も、オマケとして付けられた2枚のセッション録音の中に含まれておりますので、我々は今回のリリースで2つの版ともに聴くことが可能となったことになりました。当方が試聴した最初の偽らざる感想は「やけにスカスカな音だな」とのものでした。同じ「幻のアルバム」である、完成度が高く芸術志向の極めて濃厚なビーチボーイズ『スマイル』とは似ても似つかぬ、その対極にあるような代物であるということです。曲の冒頭部分の演奏し損ないによるやり直しの状況すら度々収録されています。演奏途中で歌詞を間違えて(?)笑いながら中断する風景、思いついたように誰かが演奏を始め、それに他のメンバーが間の手を入れて遊んでいる情景も含まれます。兎にも角にも、一切のオーバーダビングをしていない、素のままの4人(プラスしてビリー・ブレストン)の素のままのセッション風景となっているのです。過去4枚の懲りに凝って“創り上げられた”オリジナルアルバムを知る者にとっては、余りにも異なる隙間だらけの演奏、そしてラフな彼らの在り方に驚かされました。ただ、世評ではメンバーがこのジョンズ制作の音を聞き、あまりのレヴェルの低さに呆れて発売を中止させたとされておりますが、今回本盤に付けられた解説を読むと、メンバーはセカンドヴァージョンのリリースを本気で考えていたようです。
私もこの『ゲット・バック』を何度か繰り返して試聴しましたが、次第に彼らの制作意図が想像できるようになってきました。それは、今では当たり前になっている、過去の名作のアウトテイクや別録音、あるいはリハーサル風景といった、裏方の世界をあえてリリースする昨今の動向です。もしかしたら、その嚆矢となるはずの音盤だったのではないか……との強い確信です。愛するアーチストの秘密をこっそりと覗いてみたい……という、ファン心理を匠に突いた極めて意図的なアルバムだったのではないか。傑作とはとても言い難い内容ですが、彼らがここに込めようとした表現者としての素の姿の露出に、何とも言えない「人間味」を感じさせられて感銘を受けたのです。彼らが、「ゲット・バック」したかったのは、まさに楽しみながら仲間で音楽を創っていた心の在り方であったのでしょう。本盤に収録されている「ワン・アフター・909」は、これ以前のオリジナルアルバムには一切集録されておりませんが、実際にはジョンとポールが出会った頃に2人で創作した曲なのです。従って、このスカスカな音で出来上がっている『ゲット・バック』こそが、メンバーが望んでいた音盤だったと思うのです。
ただ、これがビートルズの「到達点でござい……」で、バンドとして終わらせたくは無かった筈です。だからこそ、その矜恃の為にも、実質的なラストアルバムとなる『アビーロード』では、デビュー以来の名伯楽ジョージ・マーティンをプロデューサーに招聘し、あれだけの完璧とも言える音楽世界を構築したのだと思えるのです。ある意味で傑作アルバム『アビーロード』は、ゲット・バックの帳尻合わせとして制作されたといっても当たらずとも遠からじだと思います。しかし、こうしたビートルズの発想自体は、ビーチボーイズが1965年にリリースしたアルバム『パーティ』をお手本としたのかもしれないとの思いにも至ったのです。本作は、彼らがスタジオでの仲間とパーティを開き、わいわいした雰囲気そのままに、アコースティックライブを行う姿そのものを収録してリリースした作品に他なりません。従って、演奏前後と曲の背景にもおしゃべりや笑い声が入っております(後にダビングしたものだそうですが)。オリジナル曲は過去の曲のメドレー1曲のみで、あとは他者の作品カバーです。あまつさえライバルのビートルズの曲を3曲も取り上げているのがご愛敬であります(「恋する二人」「テル・ミー・ホワイ」「悲しみをぶっとばせ」)。しかも、本作の次のアルバムが、まるで世界観のことなるあの大傑作『ペット・サウンズ』なのです!!ビートルズの『ゲット・バック』と『アビーロード』との流れと正に軌を一にしているのではないでしょうか。勿論、先駆者はビーチボーイズの方であります。もっとも、企画の趣旨はビートルズの一度「原点に戻ろう」といった思索の産物にはあらず、レコード会社との契約上、もう1枚のアルバムを制作しなければならないための苦肉の策であったとも言います。その点も、アメリカらしいおおらかさを感じさせます。因みに、『パーティ』は極上のエンターテイメントとなっております。つまり作品の出来は極上であります。最後に収録された「バーバラ・アン」は米英で大ヒット。フーのドラマーであるキース・ムーンのお気に入りの作品でもあります。彼らの映像作品内でもリハーサルでこの曲を演奏する姿が写し採られております。彼らの作風とは明後日の方向性をもつ作品を、たどたどしく不器用に演奏する姿に微笑ましさすら感じさせます。
残された『ゲット・バック』の音源ですが、新たなマネージャーとなったアラン・クラインによる「ビートルズの不名誉となる斯様な音源などリリースさせない」といった意向もあり、最終的にはジョンとジョージの提案により、アメリカの辣腕音楽プロデューサーであるフィル・スペクターにリプロデュースが依頼されました(この時ポールは蚊帳の外におかれ決定に関わっていなかったと言います)。そして、結果的に完成した作品が、発売順としてはラストアルバムとなった、その名も改めアルバム『レット・イット・ビー』としてリリースされたのです。今、改めて本盤を聴いてみて気づくことは、スペクターの手になる『レット・イット・ビー』には、2つの色合いを持ったテイク群が混在していることです。一つは『ゲット・バック』由来の素に近い在り方(メンバーの遣り取りの会話が附属しております)、もう一つはスペクターが徹底的に手を入れて創作した在り方です。後者として顕著な姿が「ザ・ロン・アンド・ワインディング・ロード」であり、元来がシンプルなピアノ伴奏の曲にフルオーケストラを追加し、驚く程の厚化粧の曲にしております。昔からスペクター版を聴いてきた当方にとって馴染んだ音楽でしたが、本来作者のポールが狙ったのは本来のアルバム『ゲット・バック』の趣旨から言っても、こうしたシンプルな世界にあったことを知ることができ、感銘をうけました。本人の与り知らぬところでオーケストラアレンジが付加されたことにポールが激怒したことも、今両者を聞き比べることで理解できるように思います。他にも「レット・イット・ビー」(ポール作)、「アクロス・ザ・ユニヴァース」(ジョン作)、「アイ・ミー・マイン」(ジョージ作)は、相当にオーバープロデュースされた世界をもった作品となっております。
こうした諸々の状況が重なって、1970年4月10日、ボールはビートルズからの脱退を表明し、法的には翌年に正式に解散が決定しました。そして、その後はそれぞれがソロ・アーチストとして大いに活躍していることを(残念ながらそのうちの2人は「活躍していた」といわねばなりませんが)皆さんもご存知のことでしょう。ジョンは1980年12月8日に自宅アパートであるニューヨークのダコタ・ハウス前で凶弾に倒れ、ジョージは2001年11月29日に肺癌・脳腫瘍のために泉下の人となりました。それにしましても、偉大なビートルズとしての活動期間は(前史を含めなければ)1962年から1970年までの8年強の期間に過ぎません。その間の音楽創造者としての考えられないような驚くべき長足の進歩と、成し遂げたことの大きさに正に畏敬の念を覚える次第です。しかも、解散時の彼らの年齢は、概ね28歳前後なのです。20代の青年がそれまでに成し遂げたことの大きさに驚愕させられます。何よりも自分自身の20歳代頃のヘナチョコ振りと引き比べて、何とも忸怩たる思に苛まれる思いでもあります。
長きにわたって、ビーチ・ボーイズとビートルズの「幻のアルバム」を中心に未完成作品の来し方・行く末について述べて参りました。ともに、半世紀近くの歳月を経て日の目を見ることになり、自分自身としてもこれまで生命を永らえてこられたことを喜びに思う次第であります。まだまだ「幻のアルバム」なるものは数多あるとは思いますが、個人的にはあと1つの「幻のアルバム」に心が残っております。それがザ・フーの『ライフハウス』であります。傑作ロック・オペラ『トミー』(1969年)と同『四重人格』(1973年)の谷間に制作された本作は、余りに壮大な構成であったこともあり、結果として創作者ピート・タウンゼントによって制作を中止された「幻のアルバム」作品なのです。その残欠を寄せ集めたとされる、アルバム『フーズ・ネクスト』(1971年)に納められる名作の数々に触れるに付け、この「幻のアルバム」への憧憬が深まります。何でもネットでピートが完成の試みを配信したと耳にしましたが、よくわかりません。彼も既に75歳を過ぎました。ザ・フーのメンバーも、リズム隊を支えた名手、ジョン・エントウィッスル(ベース)・キーズ・ムーン(ドラム)は既に鬼籍にはいっております。元気なウチに完成盤が市場に出てきてくれることを、衷心より祈る想いであります。
(完)
既にひと月半近く遡る出来事となりましたので、既に旧聞に属する話題となってしまい申し訳ございません。10月7日(木曜日)22時41分頃千葉県北西部を震源とするM5.9の地震が発生し、関東地方各地でも相当な揺れが観測されことに関しての内容です。我が家の隣組である東京都足立区でも震度5強を観測いたしました。東京都内で震度5を超える地震は平成23年(2011)「東日本大震災」以来であったと言います。当方は、ちょうど床についた寝入り端を急襲されて飛び起きました。寝ぼけ眼で時計を確認し、急いでラジオを点けたところ葛飾区は震度4とのこと。しかし、我家は10m先に区境があり、その先は足立区でありますから、恐らく限りなく震度5に迫る揺れであろうと思いつつ、睡魔には勝てずに再び寝入ってしまいました。翌朝に自宅・実家を確認すると、CDと怪獣フィギュアコレクションの幾つかが棚から落ちていたものの、東日本大震災時の比ではないほどに軽微な被害であり、何とも狐に摘ままれた思いでございました。翌朝は交通機関に大きな乱れがでましたが、翌日当方は非番であったため、直接的な被害には巻き込まれることはありませんでした。幸いに館の方も被害は確認されませんでしたので、安堵したところでございます。皆様のご家庭では如何だったのでしょうか。それにしましても、それ以降、昨今は日本全国でひっきりなしに地震が起こっているように感じますが如何せしょうか。少しづつガス抜きが行われることで、巨大な地震とはならない方向に働いてくれれば宜しいのですが……。
さて、10月に発生した地震と言えば、当方のような東京下町在住の人間にとって、忘れてはならない一つの地震に思い至ります。それが、今から166年前の安政2年(1855)10月2日22時頃に発生した巨大地震であり、世にいう「安政江戸地震」に他なりません。皆様も恐らく名前くらいは耳にされたことが御座いましょう。南関東直下型地震であり、当時の記録等から判断してマグニチュード7クラス、震度6以上と推定されております。直下型ゆえに被害の範囲は比較的狭いものでありますが、それでも現在の東京東部を中心として甚大な被害をもたらしました。それが「江戸地震」との命名由来となっております。浅瀬の埋立によって造成拡大してきた江戸の街を襲った地震故、東部低地地帯での被害は取り分け壊滅的なものとなりました。津波の記録はないようですが、家屋の倒壊・半壊、そして地震直後に発生した火災で、多くの大名・旗本屋敷、そして町屋が失われました。死者は5,000人前後とされております。著名人では、現在の水道橋駅近くの外堀際にあった水戸徳川家上屋敷(国特別名勝「後楽園」は当屋敷の庭園遺構の一部)の倒壊により、徳川斉昭腹心の藤田東湖が倒壊建物の下敷きとなり圧死しております。その死によって求心力を失った水戸家は大きく分裂(天狗党VS諸生党)。激烈な藩内抗争により多くの有為なる人材が失われました。水戸藩が明治以降の政局への影響力を持ち得なかった、遠因と目されるのが安政江戸地震だと評すことができるかもしれません。そもそも「後期水戸学」の思想こそが明治維新の原動力になったのですから、皮肉な結末としか申せません。もっとも、これらについて当方が熱弁を振るうまでもありせん。現在放映中の『青天を衝け』でも、渡辺いっけい演じる藤田東湖に、竹中直人演じる徳川斉昭が縋りつき、その名を絶叫し続ける悲痛なシーンが描かれました。また、水戸藩等の脱藩藩士による井伊大老の暗殺、所謂“天狗党”の挙兵と鎮圧の悲劇等々も描かれておりました。本大河ドラマも残すところ一か月余り。少なくとも当方にとっては、久しぶりに見るに値する優れた大河ドラマであると思います。明治以降の展開が余りに駆け足なのが少々残念ですが。
ところで、関東大震災なら兎も角、何でそんな昔の大地震を思い出したのかと不思議にお思いになられましょう。それには個人的な理由があります。何故ならば、当方の幼き頃には、当地震の震源地が「東京東部の亀有付近」と地名までピンポイントで特定されていたからであります。それを知った幼い頃の「驚天動地」の思いは未だに鮮明に記憶しております。かつての巨大地震震源地真上に居住して「頗る上機嫌」という人間がいるとすれば、余程に酔狂な御仁に違いありますまい。何でまたこんなところに寄りによって自宅を……と、曾祖父母に恨み言の一つも言ってやりたい思いに駆られたことも今や昔のことであります。もっとも、同時に、地震のメカニズムも、震源地・震度の計測法すら知られていない時代の地震について、何故震源地を斯様に正確に特定できるのか不思議でもありました。史料等に記された被害状況証拠を積みかさねての判断だとは思われますが、震度は兎も角として、江戸時代に震源地をここまで限定的に特定できる筈がありません。確かに、記録には「亀有では田畑に小山や沼ができた」との記録は残るものの、これは所謂“液状化”の発生を示す記録でありましょう。何を以って震源地と特定できたのかが皆目分かりません。今回、改めてこれを機に調べて見たところ、案の定、現在では「震源地は東京湾北部、荒川河口部と推定される」と、相当にアバウトな記載に変わっておりました。そうは言っても、隅田川東部から千葉県北西部というのは動かないようです(市川市内とする見解もあるとのことです)。以下では、地震発生の科学的メカニズムなど知られていなかった時代に、人々が地震という自然現象を如何にとらえていたのか、そして「安政江戸地震」の被災者である江戸の人々が、比類なき大惨事に如何に対峙したのかについて述べて参りましょう。
今でこそ、地震は「プレートテクトニクス」の理論で説明され、その発生メカニズムも相当なレベルで解明され、中学生ですらその原理は理解しておりましょう。しかし、当時は、欧米は勿論のこと、我が国においても斯様な地学の知見など更々ございませんでした。現在でも、地震の直前に動物が暴れた等の話を耳にされたり、実際に体験された方もございましょう。先月の地震でも江東区と江戸川区の境をなす旧中川で、地震の直前に多くの魚が飛び跳ねたことが報道されておりました。他にも、地震前に矢鱈と犬の遠吠えが聞こえた、セキセイインコが落ちつかなかった等の話も耳にしたこともあります。「兵庫県立人と自然の博物館」加藤茂弘氏の手になる「鯰絵にみる日本人の地震観の変遷」によると、古代中国では地震は「大地に蜂の巣のような隙間があり、そこで陰の気(水曜日)と陽の気(火曜日)が接触すると大激動を起こし地震が生じる」との陰陽説で説明され、「誤った政治を行った為政者への天の怒り(天罰)と考えられるなど、地震と社会とを結びつける思想が広まっていた」のに対して、太古の日本人による地震についての神話は見ることができないとしております(雷・大雨・山火事等の記述は存在)。しかし、日本でも飛鳥・奈良時代になると、古事記・日本書紀に地震の記録が現れるようになり、鎌倉時代になると、中国から伝わった陰陽説と日本の神祇信仰とが習合し、「地下に潜む龍や大魚が暴れることで大地震が起こる」との地震観が生まれてきたと指摘されております。そうした意識は、近世初頭に描かれた「伊勢暦」等の絵から読みとれるとのことです。その図には日本国内66州を丸く取り囲むように龍のような異形の生物が描かれ(地震虫・地震龍)、それらが暴れることで地震が発生すると説いております。しかし、何といっても地震と縁の深い生物と申せば、それは古来「鯰(なまず)」と相場が決まっておりましょう。そう、近代的な地震発生メカニズムが解明されるまでは、地震とは専ら地中で「鯰が大暴れすること」に起因して発生するものだと考えられていました。
では、鯰と地震との関係は何時生まれたのでしょうか。古くから鯰は捕らえ難いものの象徴のようにして扱われて参りました。南北朝時代の京師“相国寺”僧である「如拙」作の水墨画に「瓢鯰図(ひょうねんず)」があります(国宝)。そこには、男が手に持った瓢箪(ひょうたん)で水中の鯰を捕えようとする姿が描かれております。片や表面に角張ったところの一切ない瓢箪、片やヌメヌメとした身体の鯰、捕まえることなど到底叶わない「意味のない組み合わせ」であることから転じて、「瓢箪鯰」とは「役にたたない」「要領を得ない」ことの例えとして用いられます。また、「大津絵」においても「鬼の念仏」「藤娘」と並んで人気の絵柄ともなっております。しかし、そこからは鯰と地震との関係性を読み取ることはできません。一説によれば、伏見城で大地震に遭遇した羽柴(豊臣)秀吉の書簡中に、地震と鯰を関連させた記述があるとのことですが、どうやら江戸時代中期以降になって一般化する考えのようです。何でも、あの句聖「松尾芭蕉」が延宝7年(1679)に詠んだ句がその嚆矢とされるそうです。
大地震 つづいて龍や のぼるらん 似春、長十丈の鯰なるらん 桃青(芭蕉) |
そして、江戸時代中期以降は、地震と鯰とは切っても切れない縁で結ばれることとなり、地震は「鯰が暴れることから発生する」というコンセンサスが江戸時代に人々に共有されるものとなっていくようです。更に、こうした意識は主に関東に限られるのかもしれませんが、鹿島神宮(茨城県鹿島市)の神が、境内にある「要石(かなめいし)」で鯰が暴れ出すことを防いでいるとの認識も生み出すことになります。鹿島神宮には、現在でもその「要石」があります。地上にほんの少しだけ顔を出している要石ですが、それは地下深くまで伸びて鯰の頭を押さえつけ、連中がのたうって暴れないようにしていると信じられていたのでした。
そして、それから更に時を隔てた江戸時代後期「安政」期に発生した「安政江戸地震」の際、違った形で「鯰」が江戸の社会で一世を風靡することになります。それが「鯰絵」なる作品群に他なりません。それについては明日の後編にて。スペースの関係で、前編の最後に鯰絵関係のお薦めの書籍を御紹介させていただきましょう。先ずは何より、後編でご紹介致します国立歴史民俗博物館の特別展図録『鯰絵のイマジネーション』2021年[¥1,870(税込)]が、図版も多く解説も充実しておりお薦めです。お世辞抜きで、流石に歴博の展示図録だと感心させられます。これはお値打ちです。もう少し、鯰絵について深く知りたいと思われる方には、もはや古典的な作品となっているオランダの研究者C・アウエンハント『鯰絵-民俗的想像力の世界-』原著1964年~文庫2013年(岩波文庫)[¥1,440(税込)]をどうぞ。
(後編に続く)
佐倉にある国立歴史民俗博物館で、本年の7月13日(火曜日)~9月5日(日曜日)の会期で開催された特集展示『黄雀文庫所蔵 鯰絵のイマジネーション』をご覧になられましたでしょうか。当方はコロナ禍での外出自粛を受けて出かけることが叶いませんでしたが、幸いに展示図録を入手できましたので、図録を通してではありますが展示会の空気を楽しむことができました。展示については拝見できておりませんので何とも申し上げることが叶いませんが、図録の内容は図抜けて素晴らしいと思います。流石に歴博です。展示品の解説文も分かりやすく的確であり、初めて“面白み”の仕掛けが理解できた作品も多々ございました。
当方が所謂「鯰絵」に出会ったのは、平成5年(1993)に埼玉県立博物館(現在の埼玉県立歴史と民俗の博物館)で開催されていた特別展『鯰絵-鯰が踊れば世も動く-』開催の頃でありますから、ざっと30年近くも前のことになります。あまりにも愉快かつ痛快な世界に惹かれ、どうにか歴史授業での教材化ができないかを模索しておりました。ところが、その矢先の平成7年1月17日に「阪神淡路大震災」が発生。当時関わっていた歴史資料集の編纂会議でも「鯰絵」を取り上げる提案しておりましたが、「時節柄不適切」との判断が下り、お蔵入りとなった苦い経験がございます。編集者も「このご時世でなければ大変に優れた企画だったのに残念です」と仰せでありました。御存じない方には、そもそも「鯰絵」が如何なる作品群なのか、皆目見当がつかない方も多かろうと存じます。従って、まずはそこからご説明を申し上げたいと存じます。また、図録の目次を以下に御紹介させていただきましょう。
プロローグ 第一章 地震の被害 第二章 鹿島・要石・神馬(信仰と鯰絵) 第三章 損する人・得する人 |
第四章 パロディ 第五章 一枚刷り 第六章 その他 エピローグ |
安政2年(1855)10月2日に発生した「安政江戸地震」直後から、江戸府内では被災状況を伝える瓦版等々の様々な刷物が売り出されました。中でも大地震の元凶と目された大鯰を主人公に据えた錦絵が大量に出回り、同年末に幕命で禁止されるまでの凡そ2か月に、約200種類を超える作品が発行されております。これが所謂「鯰絵」と称される一連の作品群に他なりません。江戸時代には勝手な出版活動は許されず、特に錦絵には幕府検閲を通過した旨を証する「改印(あらためいん)」が押されてある必要がありました(広重や北斎等の錦絵の四周をご確認いただければ必ず何処かに押印されてあります)。しかし、本作品には、作者・版元の記載はもとより、改印も見当たりません。いうなれば無許可の、今で言う「海賊版」として売られたことになります。だからこそ、2か月余りで発行禁止処分にされたのでしょう。しかし、その主題・趣向は様々であり、版元のプロデュース力の卓抜さ、画工の技量の確かさ等々、まさに江戸という街と社会でしか生まれ得なかったであろう、痛快無比の作品群となっております。そもそも、200種もの鯰絵が次々に発行された背景には、被災者(主に庶民階層)からの熱い支持と広い需要があったからに違いありますまい。それだけ人気を博したのです。
さて、たった2カ月弱という短期間に売り出だされた「鯰絵」作品の数々を細見すると、時系列的に作品の主題と、描かれる内容に徐々に変化が生じていることに気付かされます。地震の発生した旧暦10月は「神無月(かんなづき)」とも呼ばれることを皆様ご存知でございましょう。古来「神無月」は、全国の神々が翌年についての評定を行うため、地元を留守にして杵築大社(出雲大社)に集う月であると信じられてもおり、それが11月の別称の由来と信じられてもいたのです(逆に出雲では全国から神様が集うため「神有月」と称するとも)。もっとも、これは出雲御師が全国に出雲信仰を広めるときに用いた俗説が起源だとされておりますが、詰まるところ、江戸っ子たちは、鹿島神が出張中で地元での神通力が及ばぬ留守を良いことに、鯰が「ひと暴れやらかした」と想像を巡らせたのでした。従って、初期の鯰絵に多い図柄は「鹿島神に叱責される鯰」「天照大神等の神々に詫びをいれる鯰」といったものとなります。『自身除妙法(じしんよけのみょうほう)』なる作品では、上座に陣取る鹿島神が、その前に居並び畏まって平伏する鯰達に説教する姿が描かれております。その内の頭の鯰が、「気候の不順が続き、地下に住む鯰の中に面白い時節になったと乱暴に騒ぐものがでたと深く詫び、今後は日本の土地を守ることを約束して許された」とあります(以下「 」内はすべて歴博の図録から引用したものです)。また、『地震のまもり』なる作品では、天照大神・地の神・井の神が居並ぶ前に、鹿島神が「それがしの守護役の角が立ち難く、蔑ろにする不埒者」と憤りながら鯰連を引っ立てております。それに対して鯰達が誓書に手形(鯰の手です!!)を次々に押して、二度と地震を起こさないことを誓っている姿が描かれております。また、『鯰のかば焼き大ばん振る舞い』では、大鯰が俎板の上に横たわる姿が描かれます。「鹿島神は、本国からの早飛脚で知らせを受け、その夜の内に鹿島へとって返し大鯰を取り押さえた」と記され、「話し合いを終えた全国の神々が見舞いに訪れるため、捕えた大鯰を蒲焼にして振舞おう」と、鹿島神が剣で鯰をおろそうとする姿が、その背後で讃岐金毘羅と西宮恵比寿とが忙しそうに立ち働く姿が描かれております、菰酒の銘柄が「要石」というのもウィットに富んだ趣向だと思います。
初期に頻繁に見られる次なる画題が、地震で甚大な被害を被った人々により、大鯰が仕返しをされる図柄であります。この地震で甚大な被災地となったのが、幕府公認の遊郭「新吉原」です。家屋の倒壊と地震後に発生した火災に飲み込まれ、多くの花魁をはじめとする廓関係者の生命が奪われました。吉原の周囲には俗に言う「鉄漿溝(おはぐろどぶ)」なる水堀が取り囲み、通常出入口は正面の大門(おおもん)だけです。従って、避難が遅れたことが被害を更に拡大することに繋がったものと思われます。『しんよし原大なまずゆらひ』なる作品では、花魁(おいらん)・芸者・幇間(ほうかん~たいこもち)と客などの吉原で被害を被った面々が、巨大な地震鯰に群がって恨みの丈をぶつけて袋叩きにしている姿が描かれます。しかし、大鯰はそんな非難も暴行も“何処吹く風”。「をいらんたちにのられて うれしいよ うれしいよ そんなにのると またもちあげるよ いすぶるよ いいかえ いいかえ」と嘯く始末。『持丸長者腹くらべ』等々の作品群では、鯰こそ描かれませんが、貯め込んだ金銀を口や尻から吐き出す持丸(金持ちのこと)が、被災した土蔵を背景に地震で被った損害をくどくどと愚痴っている姿が描かれています。彼ら金持ちにとっても地震による損害は甚大なものでした。
しかし、一方で、鯰絵には大地震で逆に潤った人々も描かれていることを見逃すわけには参りません。被災から時間の経過を経るに従い、こうした画題も頻出するようになるのです。つまり、彼らにとっては大地震を引き起こした鯰が、恩人(恩魚?)として描かれることになります。上記『しんよし原大なまずゆらひ』でも画面左上の遠方から現場に“おっとり刀で”駆け付ける鳶や職人の姿が描かれます。彼らは、袋叩きに来たわけではありません。かれらこそ地震後に大いに潤った人々だからです。崩れ家の再建や修理の注文が引きも切らずに来るようになったからに他なりません。地震復興景気の享受者なのですから、袋叩きの鯰を救済するためにやってきたとの趣向です。次に紹介する『太平の御恩沢に』なる作品は傑作です。その解説は本館の市史研究講座等の講師として度々お世話になっております久留島浩特任教授の手になります。これは、単に得をした人々を描くだけではなく、さり気なく当時の御政道への批判の側面を隠し持った内容であり、大いに興味をそそられます。その点で、右下にさり気なく描かれる、騒動とは無関係に完全なるノックアウト状態で仰向けに倒れている、気絶した猿の姿こそにご注目です。猿の片手には瓢箪が握られております。「瓢箪鯰」が「役に立たない」「要領を得ない」ことの例えであることを前編で述べましたが、そのことを念頭にされて、以下の久留島先生の解説全文をお読みください。きっとニヤリとさせられましょう。
神主・僧侶・武士・遊女・ごぜ・講釈師・蔵の鍵を振りかざす金持ち・新造(町人の妻)・料理人なる被害を受けて憤っている人々が、地震の張本人だとして鯰の親子になぐりかかるところを描く。見どころは二つある。一つは、左上に「君が代は千代に八千代にかなめいし(要石)のいはほ(巌)はぬ(抜)けじよしゆる(緩)ぐとも」という狂歌が書かれているが、その前書きに隠された意味である。素直に読めば、「天下太平を維持してきた将軍の徳が、地震をいつの間にか鎮めたのであろう。地震を押さえるという要石がゆるんでも抜けなかったのだから」と将軍の徳をたたえるようにも読めるが、「いつの間にか」という点が実はポイントである。右下には、鯰を瓢箪で取り押さえようとして、逆に鯰に吹っ飛ばされて気絶した猿がわざわざ描かれている。時の将軍家定が文政七年の申年生まれだという点に注意すると、この猿は、地震=鯰に吹っ飛ばされて気絶した家定を暗示しており、気絶している間に(将軍自身は何も手を打たないうちに)何時しか地震が収まったと揶揄しているとも読めそうである。二つ目のポイントは、多くの人々が殴りかかるなか、必死で止めようとしている人々の姿である。瓦版売り、「宮」という半纏を着た左官、火消しの装束を着た鳶人足たちであるが、いずれも地震・大火の復興過程で利益を得た人たちであった。もう一人、左上で後ろからとめているものは大工か。 |
こうした幕府政権へ向けた風刺や、所謂「世直し鯰」的な意図が読み取れるのが『鯰に金銀を吐かされる持丸』といった趣向の鯰絵です。これらでは、雲上にいる持丸(金持ち)が貯めこんだ金銀を、鯰からの強要で口や尻から無理やりに吐き出させられる姿が描かれ、下界では降り注ぐ金銀を群がり拾う大工や左官が描かれています。「震災で損害を被った富裕者と、復興で潤った建設業とを対置して風刺したもので、富の再配分による世直しへの期待も読み取れる。」のです。また、同趣向の作品では「黒ずくめの盗人装束に身を固めた鯰が、高利貸の盲人(座頭)や金持ちたちを強いて、口や尻から金銀の貨幣を吐きださせている姿も描かれます。職人たちに混じり金を拾う医者の姿は、地震による怪我人治療で潤ったことを風刺している。」つまり、次第に、鯰絵は「世直し」の象徴としての鯰の在り様を描くように変化していくことになるのです。その名もズバリ『世直し鯰の情(なさけ)』なる作品では、鯰たちが、地震でこわれた家から人を助け出し、手を引いたり負ぶったりして避難している様子を描いております。もっとも、詞書では地震を起こした鯰へ人々が浴びせかける非難(鯰に情けなどない)に対して、開き直った鯰が反論している詞書があります。すなわち「鯰が千百万寄ったところで大地が動くものか、地震は陰陽の気が原因」。だから「鯰を悪く言わない人だけを助けたのだ」と言わせております。「このやりとりの落ちは、では鯰にも少しは情けがあるんだな……と言われ、魚心あれば水心ありだ……と洒落るところにある。」とのこと。面白い趣向です。
最後に、もう一つの作品を御紹介いたします。それが『大鯰江戸の賑ひ』です。どう見ても河川には見えない、江戸前と思しき海に浮かぶ漆黒の巨体は、あたかも鯨に見える巨大鯰。しかし、鯨のように威勢よく金銀貨幣の潮を背から吹きだしており、海岸に集まる庶民がそれを有難く群がる姿が描かれます。そして「大国のつちうこかして市中の宝の山をつむそめでたき」の狂歌が添えられております。図録の解説にそのことは触れられておりませんが、当方は、これが前々年と前年の嘉永年間に来航した黒船(ペリー艦隊)の姿を鯰に見立てたものと考えます。庶民からすれば、異国の接近は必ずしも“攘夷”の対象ではないのではありますまいか。ここには、商売を通じた利益を生み出す主体となりえまいか……との、庶民の細やかな期待が込められているのではないかと邪推もいたします。皆様は如何お考えでしょうか。
今回は、巨大地震という未曽有の災害に対して江戸の人々が如何に対応したのかを「鯰絵」を中心に探って参りました。巨大地震は信じがたいほどの多くの不幸をもたらすことは、先の阪神淡路大震災・東日本大震災で痛烈に焼き付けられました。まして、大切なご家族や愛する人を亡くされたお気持ちを慮るに、軽々に物を言うべきではないとも存じております。しかし、少なくとも今から160年程前に発生した巨大地震による被災と悲劇とを、江戸の人々は相対化し、斯様に茶化して笑いや風刺に代えて伝えております。ここから学ぶべきこともまた大きいのではありますまいか。このことは何度かふれておりますが、私自身は、こうした江戸人のウィットと前向きな精神(メンタリズム)に強く心打たれるのです。そして、「見立て」という知的作業を加えて、現実社会へのピリッとした風刺や皮肉を込める姿勢にも痛快さを感じます。勿論、こうした「見立て」は、それを理解できる需要層が圧倒的に多かったことを示してもいるのです。江戸時代後期の文化(特に文芸作品)は低レベルなものであるとかつては言われたものですが、私は自身は斯様なご意見には全く同意できません。「不謹慎」「不真面目」等々の非難があることは承知の上で、是非とも見習いたい、前向きであり、知的であり、更に申せば積極性をもった生き方の表出に違いないと存じる次第でございます。
最後に、ご案内を二つ程。今週の水曜日(17日)から、本館1階展示室にて、千葉市埋蔵文化財調査センターによる「千葉市内出土 考古資料優品展」巡回展示が行われております(~令和4年1月23日)[2月3日~3月10日 千葉市埋蔵文化財調査センターにて]。例年実施されている「埋蔵文化財」巡回展でありますが、今回は従来よりも規模を拡大して展示を行うこともあり、本館と埋文との2カ所でのみの展示となります。いつも以上の逸品が勢揃いする本年度巡回展に是非とも脚をお運びください。また、関連講座も2回開催されますので、以下に御案内を掲載させていただきます。
1.令和4年1月22日(土曜日)10時00分~11時30分 「千葉市内出土の名宝(縄文時代)」 講 師 西 野 雅 人(千葉市埋蔵文化財調査センター 所長) 2.令和4年1月29日(土曜日)10時00分~11時30分 「千葉市内出土の名宝(古墳時代から平安時代)」 講 師 塚 原 勇 人(公益財団法人千葉市教育振興財団) ※会 場 千葉市生涯学習センター 3階 大研修室 ☆別途、オンライン(ZOOM)参加もできます。 ※定 員 会 場 参 加 40名 オンライン参加 100名 ※応募期間 令和3年12月6日(月曜日)~令和4年1月14日(金曜日)必着 ※申込方法 往復葉書・メール (ZOOM参加希望の方はメールにて申込、葉書申込の場合は会場かオンラインかの何れかの参加希望を明記してください!) ※申込・問い合わせ先 千葉市埋蔵文化財調査センター (本館ではございませんのでくれぐれもご注意ください) 〒 260-0814 千葉市中央区南生実町1210 Tel 043-266-5433 Mail maibun.fukyu@ccllf.jp |
もう一つ、千葉経済大学地域経済博物館で11月13日(土曜日)から開催されております特別展「房総と海 -海とともに歩んだ房総の人びと-」を御紹介させてください[~令和4年2月5日(土曜日)]。本展につきましては、「案内チラシ」に掲載される案内文を以下に引かせていただきました。私は開催初日にお邪魔をさせていただきましたが、展示施設自体は小ぶりではあるものの、埋立前の千葉市域海岸線の豊富な写真、当地で営業していた「海の家」宣伝入の色とりどりのマッチ箱、幼少期に訪れたことのある懐かしい「船橋ヘルスセンター」関係資料に感銘を受けました。お出かけになる価値のある展示会だと存じます。皆様も是非とも脚をお運びいただければと存じます。
三方を海に囲まれた房総半島では、古来より海を通じて歴史や文化が育まれてきました。江戸時代から重要な産業として漁業が行われ、各海域に即した漁法が発達しました。採れた魚を加工して船で江戸へ輸送する舟運も盛んに行われ、他地域の人々との交流が活発化しました。一方で沿岸の地域では、海難や難破船に遭遇することもありました。房総に生きる人びとの暮らしや生業を支えた海は、海水浴や潮干狩りといったレジャーを楽しむ場としても欠かせないものでした。本展示では、海とともに歩んできた房総半島とそこに生きた人びとの姿を、九十九里・外房・内房といった各地域の特色にも目を向けながらご紹介したいと思います。 |
早いもので、今年も残すところひと月余りとなりました。亥鼻山でも山茶花が盛りを迎えております。朝早くなど、地面に花びらが散り敷かれているのも大いに美しいものです。落葉樹も相当に葉を散らして冬支度を進めております。落葉は、管理する方としては厄介者であり、すべてが散り終わるまでの2ケ月間ほどは血豆が出来るほどに掃き続けなければなりません。まぁ、これが本来の季節の在り方なのですから、本来はそのままで在ることが望ましいとは思いますが、そうとばかりも言ってもおれません。もっとも、落葉は秋に限るものではなく、春には常緑広葉樹の落葉もあります。常緑樹と言っても若葉が芽吹く頃に古葉を落とします。従って、決して木々が丸裸になるわけではないのですが、特に楠木などの落葉は相当量になります。何れにせよ、落葉を踏みしだく“かさこそ”言う音を愉しんだり、何処からともなく漂ってくる落葉焚きの匂いなどの風情は、やはり秋から初冬にかけての風物詩といって宜しかろうと存じます。
ところが、昨今、都会ではこの落葉が歓迎されざる厄介者扱いをされていると聞きます。落葉に対する苦情の行く先は、当然の如くそうした落葉する樹木を有しているところとなります。つまりは、第一に地方公共団体等行政機関の管理する「公園」「学校」です。第2に、住宅地の中に立地する「寺社」があげられましょう。そして、第3に、庭に落葉樹木を植えてある庭付きの個人宅となりましょうか。その時節になると、公共機関である市町村役場には「落葉をどうにかしてくれ」との苦情が目白押しです。当方は昨年3月まで千葉市内公立中学校に勤務しておりましたので、やはり落葉の季節に苦情を頂いたことが何度かございました。従って、相当に気を使っておりました。しかし、如何せん高浜中学校は千葉市最大の校地面積を有する学校であり、それに比例して樹木の数も桁違いです。特に晩秋から初冬にかけては、伐採・落葉掃除に要する技能員さん(基本的に1校につき1人配置です)の労働負担はいや増しになっており、他の業務には手が回らない状況でありました。また、樹木の多いのは「寺社」も同様です。むしろ「鎮守の杜」といったりするよう、樹木が豊かである方が“神さびた”ムードを醸し御利益もまた大きい……との印象が強かろうと存じます。しかし、周辺住民からの落葉に対する苦情が多いことが寺社の大きな悩みの種と聞きます。そして、最後の個人宅からの落葉も、屡々ご近所トラブルを惹起する要因となっていることも頻繁に耳に致します。
こうした落葉に関する問題については、様々に考えさせられるものがございます。我が家にも猫の額の庭があり、そこには落葉樹があります。自宅の庭に散り敷く落葉については風流と言って済むことですが、風が吹けば落葉は敷地外にも散っていきます。古くからの御近所付き合いのある方であれ、流石に勘弁して……とは申せません。それは、公道に限らず所有地である私道であっても同様です。従って、完全に葉が落ちきるまで、我が家でも周辺道路の掃除は日課となります。そこには、我が家から飛んだ落葉だけではなく、悲しいかな、通行人がポイ捨てした煙草の吸殻は日常茶飯事、時にはコンビニ弁当等の容器すら放置されていることもあります。しかし、関係ないと放置することはできません。まぁ、現在は殆ど山の神の作業分担となっており、私自身は非番の日くらいにしか担当しませんが、それらを掃き清めれば、自ずと晴れ晴れした爽やかな心持になれます。従って、決して嫌な作業ではありません。ただ、少し気になるのは、こうした作業をされているのは古くから住まわれている年配の方々ばかりです。最近引越して来られた新しい住民の方で、自宅の前だけでも掃除をされる方すら決して多くはありません。「向こう三軒両隣」と言いますが、自身の住居だけではなく居住地域全体に目を配る「地域共同体」としての意識は、東京下町であっても確実に希薄化していることを実感します。
そもそも、自治会(町内会)活動への不参加住民も増えております。当方は、学校教育に携わっているころから、自治会活動の持つ重要性について幼少期から学ぶことが欠かせないと予て訴えて参りましたが、なかなか理解されないのが残念でした。そもそも教師自身も自ら居住する地域での自治会活動に携わっていないのが実情であり、中学校社会科「公民的分野」の教科書にも、そのような内容には触れられることがありません。実際のところ地方自治の学習は「君が市長になったら」から始められております。しかし、地方自治の理念を理解するのに飛躍がありすぎます。自らの周辺にある問題・課題を住民の力で解決する「共助」の精神を学ぶことが、地方自治の学びの出発点である必要があると考えます。こうした理念を理解していないことが、何から何まで「役所」への苦情に繋がるのだと思います。「ゴミ集積場が汚い」「ルールを守らない住民がいる」「夜間は暗いので街灯をつけてくれ」等々……、これらは全て一義的に住民間で解決すべき課題であり、町内自治会の行うべきことなのです。つまり「公助」の前に「共助」で解決する意識を持っていることが、市民社会形成の「基本のキ」であります。そのことが、昨今(もともと?)学校でも地域の中でも疎かになっているように感じます。「共助」の精神の欠如は、例えば巨大地震等の災害時における救助活動の成否すら左右するものと危惧するところであります。「阪神淡路大震災」発生時に、倒壊した建物の瓦礫中から救いだされて生命を失わずに済んだ人々の、実に7~8割は地域住民の力によることを見逃すべきではありません。広範囲な災害の場合は、公的な救助の手は殆ど期待できません(警察・消防署等々)。当たり前の話です。そうした状況を前提にして組織人数が配置されているわけではありません。つまりは、地域住民の横のつながりこそが、災害発生時の初期対応においては、被害の拡大を最小限に留めるための決定的な条件となるのです。誰が、何処に住んでいるかもわからない中では、そもそも「共助」が有効に機能しないのです。
話は、落葉の問題に戻りますが、公共の場である「公園」「学校」等からの落葉については、一義的に管理者の責務となるのは当然です。それを放置すれば、様々な課題が出て参りましょうから、適切に管理することが重要です。しかし、一方で、それら樹木は数少ない都会の緑地となり、市民の憩いの場としても、野生動物(野鳥や昆虫)の生息域としても貴重な存在ともなっております。そして、ある意味で寺社の境内林もほぼ同様の機能を地域内で果たしているのではありますまいか。そもそも樹木のない公園や学校、そして寺社など考えられません。勿論のこと、寺社は公共機関ではありませんので、個人自宅と同様に、寺社の経営者が適切な管理義務を負うことは当然であり、法規に照らしてみても苦情の趣旨は全く以て御説御尤も……一点の曇りすらございません。ただし、一考の余地が全くないわけではないとも思うのです。つまるところ、公園や学校は、地域社会の共用施設であり、地域住民の誰にも開かれた公共の場でもあるのです。そうした苦情からすっぽりと抜け落ちているのは、「公共性」と「個人」との折り合い(関係性)の視点だと思うのです。
「公園や学校は兎も角として、神社や寺院は関係なかろう」とのお言葉が返ってきそうです。しかし、私見によれば、寺社は僧侶・神主家族の所有物であると同時に、檀家・氏子のものであり、上記した通り、何より多くの樹木の存在によって地域に潤いをもたらす、地域の共有施設としての側面が大きいのではないでしょうか。当方の居住する東京の下町では、その昔から時節が到来すれば、町内会組織として氏神である神社境内に出向いて落葉掃きをすることが慣例ですし、その落葉を境内で焚いて出来上がる、副産物としての「焼き芋」を食するのが地域子供会の恒例行事ともなっております(勿論、子ども達も境内掃除の手伝いをするのが条件です)。こうして、子供のウチから地域社会(共同体)の一員であることの意識が醸成されるのだと思います。少なくとも、これが宗教活動ではないことは言うに及びません。落葉の季節となり、ふと以上のようなことを考えましたので、口幅ったい物言いですが述べさせていただいた次第でございます。
さて、本題に入らせていただきましょう。今回は現在開催中の企画展「千葉市誕生」とも関係のある話題として、ある小説家の戯曲作品をご紹介させていただきましょう。
以前に、岡本綺堂『千葉笑い』全文を執り上げてご紹介いたしましたが、今回は小説家「有島武郎」であります。有島は、明治11年(1878)に東京に生まれた人で、父親はもともと薩摩の郷士出身であります。弟に画家の有島生馬(1882~1974)、兄と同じ小説家となった里見弴(1888~1983)がおるなど、有島家は兄弟揃っての文化芸術の第一線で活躍する人材を輩出した名門と申せましょうか。志賀直哉(1883~1971)、武者小路実篤(1885~1976)と知り合い、大正(1910)に文芸雑誌『白樺』に同人として参加したこともあり、彼らとともに「白樺派」の範疇で括られることが多いのではありますまいか。文学史に詳しくはありませんが、ウィキペディアに拠れば、白樺派とは「大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に、人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向」とのことです。確かに彼の代表作『或る女』の女性主人公の奔放な生き方に、そうした特色は見られますし、正に大正という時代に書かれるべくして書かれた作品だと思います。実際、有島自身も、大正12年(1923)軽井沢にある別荘で人妻との情死を選んでおります。作品としてよく知られているのは、他に『カインの末裔』『生まれ出ずる悩み』等々がございます。
さて、今回御紹介させていただく有島の戯曲作品『御柱(おんばしら)』は、有島の死の2年前の作品となります。大正10年(1921)年10月に『白樺』に発表され、その後「新富座」にて初代中村吉右衛門(1886~1954)一座による10 月狂言興業で舞台にかけられました(申し上げるまでもなく本市が市制施行した年となります)。当時刊行された『演劇画報』(第8年11号)には有島自身の観劇時評が掲載されており、それは本企画展でも展示してございます(図録未掲載)。本作は、江戸時代末の安政年間の千葉妙見寺改築の際に、信州諏訪から来葉した彫物大工「龍川平四郎」の注力した彫刻物が放火によって焼失したことを題材としております。中心となるのは、平四郎と江戸の堂営大工嘉助との妙見寺焼失を巡る遣り取りにあり、揺れ動く両者の心の機微を丁寧に描いております。当方は、有島の戯曲作品中でも特に優れた力作だと思います。現在でも時に上演されているようで、主人公の平四郎を名優「大滝秀治」(1925~2012)が演じて見事であった……との観劇評をかつて読んだことがあります。
本作については、有島本人が折に触れて言及したものが数多に残されており、制作の経緯が判明いたします。それによれば、有島は大正10年6月13日に千葉稲毛に赴いており、その3日後に与謝野晶子宛に書簡を出しております。そこには「千葉の町に一朝薬をのみに行って心を打たれるものを見ました。これはお目にかかった時お話しします」とあるとのことです。実は、有島は稲毛海岸での保養中、参詣のために千葉神社に脚を運んでおります。その時に境内の掛小屋の中に、数多くの焼け残りの木像が放置されてあるのを見て興味を惹かれたようです。その中には、どう見ても逸品らしきものが含まれており、それが与謝野晶子宛書簡中にある「心打たれるもの」に他なりません。有島が居合わせた老爺に聞くと、案の定、作者の中に立川和四郎(作中では龍川平四郎)なる名人気質の工匠のいたことが判明。かくして、本作執筆の動機となったのでした。
立川家は歴代「和四郎」を名乗っており、有島はその中でも、延享・明和時代に活躍した初代和四郎富棟に興味を惹かれたようです。同人は、駿河浅間神社建立の功によって幕府から「内匠」の称号を許された達人であったとのこと。因みに、和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』昭和59年(千葉市教育委員会)の千葉神社の項に、安政年間の再建と立川和四郎のことが詳しく書かれておりますのでご参照ください。また、本作の中では本筋には関わらないのですが、焼失した建物から宮司の焼死体が発見されることが描かれますが、これは、妙見寺の最後の住職で、維新後に還俗して神職となった千葉良胤が、明治37年(1904)に千葉神社の火災の際に焼け跡から焼死体となって発見された事件を反映しているものと思われ、有島自身もそう語っております(「『御柱』劇余談」中央文学:大正10年12月)[『有島武郎全集』第8巻より(1980年刊)筑摩書房]。また、有島の本作執筆の動機について語った一文を以下に引用しておきたいと存じます[『有島武郎全集』第15巻より(1986年刊)筑摩書房]。併せて、作品を引用した末尾に、同じく有島が語った初演の舞台を観ての感想から、作品理解の助けになるかと思われる部分を引用しておりますのでご参照されてくださいませ。
彫刻に心を惹かれて着想した作
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それでは、短い一幕物ではありますが、そこそこの長さがありますので、明日アップ「その2」から、「その4」までの3回に分けて掲載させて頂きます。本作も現在では手軽に入手して読むことは叶いません。著作権もとうの昔に切れておりますので遠慮なく全文を引用させていただきます。有島武郎の力作をどうぞご堪能下さいませ。また、有島の信州・下総お国言葉の学習成果も、特に地元ご出身の方は是非ともご確認されては如何でしょうか(もっとも地元の方以外は慣れるまでは少々読みづらいと思います)。
(「その2」に続く)
[※引用者註~仮名遣い等は原文通りですが、一部旧字については現在一般的に用いられる文字に置き換えているものもございます。その点を御承知おきください。]
場所 ― 下総の或都会の東南半里程を距てた或村の百姓家。 龍川平四郎 ― 彫物大工。六十一歳。 |
風の音。幕静かに開く。 納屋を兼ねた五兵衛の裏庭の離れ。土間には筵を敷き、半成の木彫、彫刻用の器具、子どもの玩具等。土間に続きて座敷。その隣に小間。堺は古びた障子立て。 久和蔵泥まみれになり、疲れた様子で座敷に腰かけて草鞋を脱いでゐる。お初は土間の片隅で立ちながら泣いてゐる。行燈に薄く灯がともつて、朝は未だ明けきらぬ。 |
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久和蔵 | 見舞の人がそろそろ来るづら。顔洗ひ代りに渋茶でも……お前……お初……へえ泣いたつて追つくもんか…… |
お初久和蔵には答へず、涙を押拭つてせつせとそこらを片付けはじめる。久和蔵立つて七輪に炭をつぎ足さうとする。 | |
お 初 | いんね。それは私が今するに、お前はこれを(彫刻物を指し)その壁際になほしておくれ。一晩中ちつとも眠らなかったら五月というに朝冷えが… …お前まだ濡れたままだな。 |
二人は彫刻物を片付け始める。 | |
寒くはないかえ。 | |
久和蔵 | 何あに。……けんど寒いといへば寒いなあ。郷里(くに)では御柱の祭もへぇ明日といふだが……野郎、嘉助の野郎、妙見様の罰があたるものかあたらねえものか……己れの猜みからこんな取りかへしのつかねえ大事をしでかしやがつて……俺らあへえ(彫刻物を見やりながら)これをたたき割りてえよ。 |
お初 | そりやお前、お前の……萬が一にもお前の僻みぢやないかえ。 |
久和蔵 | (険しい目でお初を見やりながら)俺の僻みだ……今もよくいつて聞かしたに、考へても見ろ。下小屋に不寝番を置いて、火元に気を配るのは大工の衆の役目だで、あの衆が火を間違はねえで、誰が間違ふもんか。殊にも、明日は地鎮祭というその晩だ、粗相のある筈がねえに、……五つ時さがりから火の手が上がつてへえ……それもをかしなことだが、火元は一と所や二た所どころではねえ……つけ火だ。つけ火だ。嘉助が、あの嘉助の畜生が(このあたりより久和蔵は座敷に、お初は久和蔵に着物を着換へさせる)俺らあ家のおとつさまの評判を猜んで仕組んだことだわ。 |
お初 | だけんど…… |
久和助 | おとつさまが、へえ二年の上も、かうやつて他国の空で難儀をして、やうやく仕上げた宏大もない仕事が、昨夜一晩で他愛もなく灰になつただ。俺れもおとつさまに負けず骨を折つたつもりだつた。お前の甲斐々々しさもへえ一通りではなかった。それもこれも今は無駄なこんだ。……おおまだ燃えてるづら、半鐘が聞えるに…… |
お初 | (戸口なる急造の厠の方に行き、七輪をいぢりながら、小間の方に聞耳を立て)おとつさまは眼をお覚ましなさつたか知ら、音がするやうだえ。……あれ、まだ向こうの空が赤く見えるも何も。 |
五兵衛野菜物を下げて登場。 | |
あれ家主様済みましない、一晩中お寝みもなさりもせずに、何かと有り難う御座ります。 | |
五兵衛 | なあに、災難の節はお互ひのこんだよ。親方はよく休んだかなあ。本卦返りといやあ、はあ体を大事にしねえぢや……坊やもまだ眼が覚めねえだね……や、久和蔵さん帰つたけえ。 |
久和蔵 | やあ家主様お早う御座ります。 |
五兵衛 | (仕事場の方に廻り脱ぎ捨てた着物に眼をつけ)先づでつかい騒ぎだったんだんべ。えらい泥になつたなあ。お前さんとこの彫つたものはちつとは助かつたんべえか。 |
久和蔵 | 何から何までお世話になります。……(火鉢を持ち出しながら)あの風に煽られたぢやへえ一たまりもないで御座ります。……俺ら死んだも同然に力が落ちてしまひました。 |
五兵衛 | さうだつぺえともさ。時に…… |
久和蔵 | (神棚の下にある小欄間用の透彫二枚をみかへりながら)せめてはと思つて、手軽な奴をあれだけさらひ出しはしたものの、大工の衆と違って、俺らあ家は手不足だで……何せ、かうしてへえ親子ぎりのこんだから…… |
この会話の間お初五兵衛に茶をすすめ、小間の方に近づき隣室の寝息を伺ひ、更に愁を催す。 | |
五兵衛 | して大工の衆も、鳶の衆も、彫物小屋の方に手伝ひのしつこなしか……はあて……この火事についちや村にも妙な噂さが伝わつてゐるだよ。 |
久和蔵 | え、どんな噂が…… |
五兵衛 | そりや……一体噂といふものは、はあげえもねえもんだから聞いたら聞き流しにして貰うべえ……何んでもはあゆんべの妙見様の火事てえは怪火だといふだ。ただの過ちではねえ風だ。……誰れとなく見てゐただが、いかく燃え上つた火の中に、白装束をした白髪の姿のものがふつと現はれてな……それが見る見る火花の中に消えたといふこんだ。妙見様が怒りをなさつただ。もうお宮はどうあつても建つことはねえといつてゐたが…… |
久和蔵 | それなら俺もまざまざと見た。白い衣冠束帯のお姿が、勿体なくも火の中に消えていつただ。それを見たものは誰れ彼れとなく、へえ臍まで震へ上つたか、恐れをなして遁げ出しただよ。 |
五兵衛 | はてすさまじいこんだなあ……親方の腕が余り冴えてゐるで、妬みに思ふ奴がゐたかも知んねえだ。それでなくつて何であんな所からはあ火事が出べえさ……何しろおつかねえこんだ……やれやれ……ぢやまあ久和蔵さんもたんとがつかりしねえが分別だあ。何もはあ因縁ごとだかんなあ。… …別に何か用は無えかね。 |
久和蔵 | へえ俺れも帰つてゐますで、なな案じなして。……やいやいお初、茶呑茶碗がいくつかあるか。 |
お初 | あれ、いくつもなかつたわやれ。 |
久和蔵 | それぢや家主様、ちつと貸して下さりますか。見舞人が来ると思ふで。 |
五兵衛 |
安いことだともさ。ぢきに持って来ますべえよ。 |
久和蔵 | 辱う御座ります、 |
お初 | (同時に)有難う御座ります。 |
五兵衛退場。お初入口よりにじり上り行燈の灯を消して片隅によせ、久和蔵の真向うに座る。 | |
お初 | お前、仕事場に火をかけたのは嘉助親方に違ひないと思つてゐますかえ。 |
久和蔵 | …… |
お初 | 心底からさう思つてゐますかえ。 |
久和蔵 | おお、さう思うに不思議があるといふだか。お前はあの野郎に恩でも着せられてゐるづら…… |
お初 | あさましい……お前は……お前は男か……男かえ……男なら何でおめおめと帰って来ただえ。何んで嘉助という奴に仕返しはしてくれなかつただえ。これが浮世の年貢のなし納めだといつて、おとつさまがかうして仕上げなさつた大事な仕事を……おお私は胸が痛むやわれ、むごたらしい……その仕事を灰にし腐つた男に、お前は恨み言一つ云ひ得ずに帰つて来なすつただなあ。お前はどの面さげておとつさまにお辞儀しなさるえ。昨晩はおとつさまはここにかう座りきりで、村の衆が見て来たことを、笑つたなり聞いてゐなすつたが、その胸の中を思ひやると、側にゐた私は切なくて、泣かずにはゐられなんだ。……お前……久和蔵さん……お前の仕事にも煙に なつたに、まこと口惜しくはねえかえ。 |
久和蔵 | …… |
お初 | お前は恩知らずだえ。七つの歳からこの家に養はれて、仕事の手ほどきからして貰つてゐるに……ほんとに…… |
久和蔵 | 俺れが男でねえか、恩知らずか恩知らずでねえか、見てゐろ。 |
お初 | その高慢をいふ口がありや…… |
この時子供の呼び声小間より聞こゆ。お初はつとたつて小間の障子を開けてみる。 | |
平四郎 | (小間の中から)やいやいお前等がたんとわめき合うで仙太郎がうなされるわ。昨夜はおそかつたでまだねむいらに……やあ、よしよし何でもねえだ。ぢつと眠つてろ……やあ、よしよし。 |
お初小間に入る。入れ代わりに平氏郎寝衣の上に長半纏を羽織りながら登場。久和蔵いひ出る言葉もないやうにうづくまる。 | |
久和蔵いつ帰つたな。 | |
久和蔵 | さつきがた戻りました。 |
平四郎 | ご苦労だつたなあ。すつぱり焼けたか。 |
久和蔵 | …… |
平四郎 | さうか……何時だ。曇りだか晴れだか。まだ風は落ちねえな。 |
久和蔵 | 六つ少し前で御座いますづら……昨晩は少しはお休みなさりましたか。 |
平四郎 | うむ、彼れ是れ……仙太郎が時折り眼をさましてなあ……どれ顔でも洗はづ…… |
顔を洗ひに立たうとする。お初小間より出で来て、 | |
お初 | いんね、そこにおいでなして、今私が水を汲みますに。 |
お初厨に下りて水を汲みて土間の方へ持つて来る。平四郎顔を洗ひ終りて町の方を見ようとする、お初が何とかしてさうさせまいとするけれども頓着なし。 | |
平四郎 | (独白の如く)ふむ、……まだえらい煙だやわれ。何しろ山のような木材だでなあ……や、お袋さまか。お初、家主のお袋さまが茶碗を持つて見えたぞ。お早う御座ります。 |
五兵衛女房登場 | |
女房 | はあ眼が覚めただなあ……お早う御座りますよ。お初さ、こんななもので間に合うべえか。 |
お初 | 間に合ひますどころか、有難う御座ります。 |
女房 | 久和蔵さんも帰っただね。えらいまあ災難で。嘸(さぞ)難儀なことだんべえな。 |
平四郎神棚の方に向きながら、 | |
平四郎 | お袋様、昨夜お頼み申した御酒はへえ来ますだか。 |
お初 | それならここへ来てゐます。 |
女房 | 何ぞまだ用はないかね。お、用といへば、嘉助親方といふ人が来て、俺らが家で親方の眼をさますのを待つているだあよ。どうすべえなあ。 |
久和蔵 | 何、嘉助が…… |
久和蔵走り出ようとする。お初は思はずそれをとめる。 | |
平四郎 | やいやい久和蔵、手前づれの無分別者に嘉助がてこじろにあふ男かい。引込んでゐろ。手前は(土間の中央に長々と置かれたる雲龍の総彫りの虹梁を指し)そこにへたばってそこの肩の所の仕上げでもするだ。 |
五兵衛の妻、去りかねてまごまごしてゐる。 | |
女房 | 親方、嘉助親方は…… |
平四郎 | 来いと申して下さりまし。 |
五兵衛の妻退場。 | |
(久和蔵に向ひ)手前は嘉助が来ても出しゃばるぢゃねえぞ。俺れには俺の分別があるで。……縦例ほかの仕事は焼けをへても、その虹梁は仕上げてこの土地に残して行かづ。念入りに仕上げろよ。やいやいお初、お御酒を明神様に(神棚を指す)上てくれう。 | |
お初 | へえ上げました。 |
久和蔵渋々道具を揃へて仕事にかかる。 | |
平四郎 | さうか。今朝はむしやくしやするで顔洗ひをやるぞ。 |
平四郎神棚に行き祈念する。お初は朝酒の燗にかかる。平四郎祈祷を終へてふと久和蔵が持ち帰りし彫刻物に眼をつけ、 | |
平四郎 | 久和蔵。 |
久和蔵 | へ…… |
平四郎 | これはどうしただ。 |
久和蔵 | …… |
平四郎 | 焼け残りを拾つて来ただな。 |
久和蔵 | 火の中に飛び込んで、それだけは助けだしたけんど、手の足りない俺らあとこのこんだで、あとはへえ無残無残と焼け終へたで御座ります。 |
平四郎 | 未練がましい奴が…… |
(「その3」に続く)
大工嘉助、岡持をさげたる手代を連れ、五兵衛に案内されて登場。 | |
五兵衛 | 親方お早う御座いますよ。嘉助親方をここへお連れ申したから…… |
お初急ぎ小間の方へ退場。平四郎彫刻物を下に置き座りたるまま。五兵衛手代と共に退場。 | |
嘉助 | お免なせえまし。親方。寝ごみに押しかけたやうな仕儀になつちめえやして…… |
平四郎 | ま、お上り。 |
嘉助座敷に上がりよき所に座る。久和蔵不穏。 | |
久和蔵、その龍の肩の方が肉が厚いでそこを丹念にはつるだ。(嘉助に向ひ)お早う御座ります。 | |
嘉助 | お早う御座います。久和蔵さんへ、お早う御座います、……久和蔵さんはまだ仕事を……親方、何から申してよろしいやら、お互ひの災難とはいひながら、こんなことにならうとは、夢の夢にも思はねえことで御座いやした。口惜しいといつたんじや方圓がつくが、私の胸は方圓なしにかきむしられるやうで御座います。お悔やみを申しに来てゐて、こんなことをいつちや間抜けじみてゐやせうが、私の心の中もおもひやつて下せえまし。……親方と一緒になつてかうして二年の余も、誠心のありつけたけをこめて、江戸職人の名折になるまいと、夜の目も合はさずに精を出しやした。去年は去年で品川のお台場普請があるし、今年はまた炎上した御所の御造営で、第一に人手が引けるなり、西京への御寄進といふんで木場の材木は手つ払ひになるなり、手遠から手違いがつづきやした。だがかうなつちや私も損得づくぢや御座いません。痩腕ながら後々の人に後指をさされねえ仕事をしたいと念じ切つてゐやしたが、ふと魔がさしたとでもいふ……さあやつぱり魔がさしたんで御座いやせう、思ひも寄らねえ災難が持ち上つて……私は、親方、生きている空も無えようで御座いやす。 |
平四郎 | (不気味な沈黙の後)親方はいくつだな。 |
嘉助 | 何んで御座いやす。 |
平四郎 | 親方はいくつだといふだ。 |
嘉助 | はて丁度になりやすが、それが…… |
平四郎 | 四十かえ。……若いなあ。待てよ、ふむ、すれば亥の年づら。思慮分別にやたらつつ走る星まはりだわやれ。俺れは寅だ。寛政六の六十一で御座います……生ひ先のへえたんとねえお爺だよ、(放笑)……やいやいお初顔洗ひは如何しただ。 |
お初小間より出で来り、嘉助には挨拶もせず厨に行つて燗を見る。 | |
お初 | つい忘れてゐて、つき過ぎましたが…… |
平四郎 | 構はねえ。 |
お初燗徳利と猪口を取りそろへて平四郎の所に持つて来る。 | |
これは俺らが獨娘のお初といひますだ。お初、これが江戸の頭梁親方の嘉助親方だやわれ。かしこまつてお辞儀をしろ。 | |
お初父の命に従はず。 | |
親方、気を悪くしねえで下され。歳は二十七だが甘やかして育てたで、八つになる餓鬼を持ちながら己れが三つ子同様で御座りますだ。 | |
お初そのまま小間に入る。そつと土間と小間との隔ての障子を開け、久和蔵をそそのかして嘉助に害を与えようとする。 | |
嘉助 | (辛く憤りを鎮めながら)朝からけづりをおやりになさるなら、心ばかりでは御座いやすが、丁度御見舞にと思つてちよつとばかり肴を持たして来やしたから…… |
平四郎 | それは辱うございます。……やいやい久和蔵、親方からいただいた肴をそれ、戸間口にでも出しておけ。犬でも来て食ふづらに。 |
久和蔵立ちていひつけられた通りにする。 | |
嘉助 | (腹にすゑかねて)親方、それや何ぼ何んでも無体といふもんだ。何か私に意趣でもあるなら、この場ではつきりさういつて下さいやし。 |
平四郎 | 意趣……(笑)それは無えかといへば無えでも無え。……が……それはそれとして、江戸ではこれを朝酒といひなさるやうだが、俺らが在所の諏訪といふ山国では。顔洗ひといひますだ。これで一杯かう(燗徳利に手をかけ)あつつ、……熱いわ。熱過ぎるわ……これは全くお前様見たやうな酒だわやれ(放笑)。 |
長半纏の裾を徳利に巻いて酒をつぐ。 | |
嘉助 | …… |
平四郎 | 先ず毒味もしたに、親方も一杯行かうづ。 |
嘉助 | (苦り切つて)憚りながら顔を洗ふに人様の世話にはなりやせん。 |
平四郎 | さうか、へえ顔は洗つただか……頸根っ子も序でに、洗つて来さつしやると世話がなかつたに…… |
久和蔵潜かに釿(おの)を執り上げる。 | |
やいやい久和蔵、釿でそこをほつて何にする気だ。鑿で行くだそこは。顔が洗つてあれば俺らが言葉もちつたあ解らづ。……お前は仕事で俺れの向うに立つ気だつただな。 | |
嘉助 | 知れたこつた。お前も俺れも同じ伊藤平の下請だ。信州からぽつと出の彫物大工づれに、江戸の大工がひけを取つて引込んでゐられるかい。 |
平四郎 | (放笑)先ず拙いながらお前ほどの腕があつたら、物のよしあしは見極めがつく筈だ。……それがお前の不仕合わせになつただなあ。意気込みだけでは仕事の出来るものではねえからな。賤しい乍ら藝と名のつく仕事をする上は生まれ付きといふものが口をきくだぞ……修業が嘘はいはせねだぞ。俺れの仕事とお前の仕事とを己が眼でしつかと見比べるがいいだ。……やいやい久和蔵、手前は今朝は気でも狂ったか。そんな大鑿をつかつたら、龍の鱗はけし飛ばづ。小鑿で行くだそこは……五分鑿だ。……五分鑿でやれといふに、野郎……。(嘉助に向かい)お前は…… |
嘉助 | そりや、いふまでもない事だ。俺れも七つの年から年期を入れて、暑い寒いの辛い味から。鋸鉋の甘え味まで、この文身(ほりもの)同様身にしみついてゐるんだ。堂宮にかけちや、廣い江戸でも深川の嘉助で通る男を、お前の身くびりやうは、そりやほぞがちつとばかり外れてゐようぜ。寒天と蕎麦の名所では、薹がたつたばかりで凡くら者が名人と化けられるかは知らないが、憚りながら山のない江戸界隈ぢや、通らねえ。 |
平四郎 | お前みたやうな未熟者がそんな口を利いてゐたら、犬も尿をひりつけめえまでよ。 |
嘉助 | 何んだと……年嵩だと思やこそ、折れて見舞いに来れば…… |
久和蔵いきなり釿を取って嘉助に走りかからんとす。 | |
平四郎 | 馬鹿、研石はこつちには無え、そこの隅だわやい。(久和蔵手を下しかねる)見舞いに来ればではねえ、探りに来ればというだそこは(放笑)……さう短兵急に気をいらつちや、お前は寿命を取りにがさづ。孫奴が眼をさますで落着いて貰はうかな。久和蔵等も物々しいぞ。……久和蔵、村の衆が見舞いに来るとうるさいに……お初、鼻紙を……やあ、それにも及ぶめえ、その筵に「忌中だで……」……かうつと……「忌中だで客無用」と書いて戸間口につるしておけ。でつかく書け。 |
お初 | おとつさま延喜でもねえ、忌中だなんて誰が死にましたえ。 |
平四郎 | 木曽の義仲が死んだわやれ。 |
以下の会話の間に久和蔵命ぜられるままに筵に書いて、お初に手伝わせてそれを奥へ行き木立にかける。 | |
(嘉助に向ひ)ちつたあ気が落着いたづら。どれ俺れが一つ昔話をして聞かせづ。 偖(さ)て、俺らが在所に諏訪明神といふ、いやちこな荒神の鎮守がある(神棚を指し)な、こちらが当国の妙見様で、むかうが諏訪明神だ。こちらの宮造りは久和蔵がしただ。あちらは俺れだ。しつかと拝んでおくがいい。……この明神の御本体は建御名方尊といつて、大黒様のお子ぢやげな、その尊がな、仔細あつて信濃国に屏門になられただ。屏門といへば、家のぐるりに柵を打ちまはすが定だによつて、それが末代に残つて、寅の年申の年と、七年目には御柱の祭といふがあるだ。周り五抱へもあらづ立木を切り倒して、八ヶ岳の山中から、郷々のものが引き出すだが、そいつの里引きが丁度今月の明日にあたるわやれ。それを一本づつ社の四隅にぶつ立てるだ。それが柵の型を伝へたものだといふことだ。信濃国はさういふ国だ。山が高く、雪が深く、人の心も険しいが、一端腹をすゑて山を出た上は、出ただけのことはしねえではおかねえ人気だぞ。 |
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俺らが昔話といふはそれだけだ。 | |
偖て一昨年。下総の妙見神社といつて、由緒の深い御朱印二百石の御社 を、江戸から南に類の無え見事なものに建てかへると、彫物一切を引き受けたらと名古屋の頭梁から名指しがあつた時、俺れは死物狂ひで、山又山の柵を踏み越えて江戸の空へと転がり出ただ。相模の運慶、飛騨の甚五郎には及ばずとも、信濃国ではあばき足らぬこの腕つぶしを、根かぎり試して見づと思ひ立つただ。俺れの向槌にまはる大工といふがお前だつた。俺れにとつては不足千萬な生腕だ。……先づさう悪あがきをするものでねえ。……腕のちがひが知りたければ一度眼をすゑてしつかとこれを見たがいいだ。これを見ても誠頭が下がらずば、お前の心はへえ慢心の業病で息気の根が絶えるだぞ。 |
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平四郎久和蔵の持ち帰りたる彫刻物を嘉助の前に置く。喜助初めは軽蔑の態度を示せしが、段々と牽きつけられるやうになつて、それを熟視する。 | |
よつく見ろ……見えたか……手前もそれが見えねえ程のみじめな腕ではねえ筈だ。……それでもまだ頭が下がらねえか……口の先では何とでもいへ、手前づれが俺れと肩を列べられる大工かさうでねえか、胸に手をあてて思案して見ろ……たはけたこんだわ。……末代までも国の宝とならづものを、手前はよくも一晩の中に灰にしたな。(没義道に嘉助の膝許から彫刻物を奪い取る、嘉助その言葉に思はずぎょつとして平四郎を見守る)手前がへえ己一人の愚かさから国の宝を滅しただぞ。 | |
嘉助 | 飛んでもねえ。聞き捨てならねえよまひ言をほざく上は、俺れにも俺れの覚悟がある。老いの繰言と思つて黙って控へてゐれば方圓のねえ。 |
平四郎 | 俺れの言葉がまだ胸にはこたへねえか。仕事づくで争ひもし得ねえ畜生はかうしてくれるわ。久和蔵、釿をよこせ。 |
久和蔵素早く釿を平四郎に渡し、己れも得物を執り上げる、嘉助も懐ろに手を差し入れて身構へする。平四郎釿を手にし、やや暫く嘉助を睨みつめてゐたが、突然憤を発して自分の彫刻物を滅多打ちに打つて微塵に砕く。一同思はず固唾を呑む。 仙太郎その物音に眼を覚まし、大声に泣出す。お初小間にかけこむ。久和蔵その場にくづれて男泣きに泣く。 |
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平四郎 | (釿をがらりと投げ棄て)偖て俺れも年を喰ったなあ。愚に返り腐つたわやれ。……久和蔵、明日は俺れは在所に帰るぞ…… |
仙太郎母に伴晴れて登場 | |
やれ仙太、眼が覚めたか。(仙太を抱き取る)昨夜は火事でおつかなかつたづら。へえ何でもねえだぞ。案じるぢやねえ。 |
(「その4」に続く)
仙太郎 | (砕かれた彫刻物を見て)おじいさまか、今これを敲き割つたは。俺れはへえ驚いただえ。 |
平四郎 | うむ、気にすまねえ仕事は俺れはかうして敲き割るだ。……仙太、お前は諏訪に帰りてえ帰りてえといつてゐたなあ。 |
仙太郎 | ああよ。おばあさまが皆の帰るを待つてゐらるに。……俺れは御柱の祭も見てえだし。 |
平四郎 | げえもねえ。祭は明日だに、諏訪へ行くには両手の指の上も日がかかるだ。……さうだ、おばあさまも村の衆も俺らを待つてゐるら。明日はへえ帰るぞ。諏訪は今若葉になつて不如帰が啼きしきつてゐるづら。八ヶ岳の雪もあらかた解けて、山が青くみえるぞ。 |
仙太郎 | 俺れは御柱の祭が見てえだわやれ。 |
平四郎 | はて聞き分けのねえこんだお前は。 |
仙太郎 | だけんどおぢいさまの仕事はへえし終へただか。 |
平四郎 | へえ遂へたわやれ。 |
仙太郎 | し終へただけえ。 |
平四郎 | うん……遂へただ。 |
仙太郎 | (お初に)し終へただなあ、へえ帰るだで……俺れは今日おぢいさまの仕事を町に見に行くだ。 |
久和蔵 | やいやい仙太。俺ら達の彫つたものは、お宮が建つてから飾りつけるだに、お宮は木取りし終へたばつかで、俺らが家の彫物は大事に下小屋にかくまつてあるだ。 |
仙太郎 | したら、おぢいさまもまだお宮に飾つたを見ねえだな。 |
平四郎 | 誰れも見ねえだわやれ。 |
仙太郎 | それが見られねえなら、俺れは御柱の祭が見てえなあ…… |
平四郎 | よしよし。したらおぢいさまが見せてやらづ。久和蔵、その虹梁の鼻へ綱を巻けや、仙太、これからな、おぢいさまはへえ仕事はやめて、ゆるりとお前と遊び暮らすだ。へえ元のやうには腹は立てねえぞ。……お前だけを可哀がるとおとなしいおぢいさまになるらよ。嘉助親方。俺れも今は、ひとむきに腹を立てた。年を取るとこらへ性が失せるでなあ。……お前様はさつき魔がさしたといつたが、まつたくだ。人間冥利をぶつ越えた仕事をしたばつかに焼け終へたとおもへば、腹を立てるでもなかつただ。 |
嘉助 | 親方……平四郎親方……私や今になつて始めて眼が覚めやした。済まねえことを仕でかしてしまひやした。 |
仙太郎驚きて平四郎よりお初の膝に移る。 | |
平四郎 | 眼が覚めたか。 |
嘉助 | ええ私や何といふ人非人だ、わが身の腕の足らねえのは棚に上げて、町の人も村の衆も親方の仕事ばかりに眼をつけるのを腹にすゑかねて、かうし て普請が出来上がつた上、二人の名前が末代まで列んだら、死んでも死にきれねえ業曝しだと一図に思ひこんだその揚句が……何をお隠し申しませう、親方、仕事場一帯に…… |
平四郎 | 魔がさしただよ、誰の科でもねえわやれ。 |
嘉助 | さういつて安閑としては居られません。私は…… |
久和蔵 | したら手前が…… |
お初 | むごい事をし腐る人畜生…… |
平四郎 | (押しへだて)何んの、魔がさしただといふによ。……その魔性の奴の可哀さはやれ。……俺れはへえかうしたやくざな爺だが、一藝にはまり込んでこの長い月日を苦労したばつかで、その魔性のものの殊勝さがしみじみと胸にこたへますだ。……お前様の心持ちも今になると俺れにはよつく分る。手前だ、お前だと呼ばれる人間では無え、お前様は矢張りお前様だ。……お前様はまだ生ひ先が長いだから、念にかけて早まつたことをするではねえぞ。 |
嘉助 | …… |
消え半鐘の音近く聞ゆ。 | |
平四郎 | あれは何づら。 |
嘉助 | おお、しめつたな。 |
久和蔵 | 村でうつた消え半鐘で御座ります。 |
平四郎 | さうか、へえ火事も遂へたか、……ほう、風もねえいい朝げになつたなあ。 ……うらうらした景色だわやれ。 |
仙太郎 | あとつさま、綱がついたかえ。 |
お初 | この子といへば会釈のねえ。 |
久和蔵 | まてまて。 |
五兵衛、嘉助の手下の大工を案内して登場。 | |
大工 | こちらで……左様で……もし、やじやう、こちらですかい。大変だ。 |
嘉助 | (屹となり)何んだ。 |
大工 | 何んだつてやじやう、大事が持ち上がってしまひやした。火事場にとうとう人死が出来ちやつたんだ。それもなまやさしいんぢやねえ、神主様が、宮司様が、やじやう……宮司様が我れと進んで火の中に飛び込みなすつたんで御座います。……何でも真夜中頃、白装束の姿のものが火花の中に見え隠れしてゐたのは、やじやうも承知で御座いましせう。今から思へばそれが宮司様だつたんだ。 |
久和蔵 | それなら俺れもたしかに見た。 |
大工 | おいたはしい、それが眼もあてられねえ姿になつて…… |
嘉助 | それぢや何んだな、火事を出したのを済まねえ事におもひなすつて、妙見様にも代官所にも申訳の為め、我れと我が身をその火で焼いて……おしまひなすつたか。 |
大工 | 全くそれに違ひねえ。何でも書置きが残してあつたんで、大騒ぎになつて、私達も鳶の者も滅多やたらに火の中を尋ね廻つた揚句、骨にならんばかりの死骸を探しあてたんで御座いやす。……これは何をおいてもやじやうからも代官所に申立てねえじや落度になると思つて、私は取りあへず駆けつけやした。……すぐ帰つておくんなせえ。 |
嘉助 | よし、今行くから待つていろ。……今お聞きになつたやうな訳で御座いやす。つくづく私は罰あたりだ……私は…… |
平四郎 | 出る所に出てその届けをさつしやれ。早えがいい。だがな。お前様の仕事はこれからだで、夢にも短気はださねえもんだ。火の元は大工衆のあづかりだで、火事を仕でかしたは、何処までもお前様のあやまちだが、過ちは誰が身の上にもあるものだでなあ。この界隈の衆がどのやうな噂を立てようとも、びくともするではねえ。事が面倒になつたら俺れがここにひかへてゐるで……お前様の仕事も念の入った素晴らしいもんだつたに、それを無残無残に焼き遂へたお前様の心を思ふと、老いぼれは涙もろいで、貰い泣きになり腐りますだ。 |
嘉助 | 親方、腸をかきむしられるやうで御座いやす。私は今になつてはもう何も申しません。……若し私が生き延びてゐやしたら、長い眼で見てゐて下さいまし。 |
平四郎 | 長生きをさつしやれ。俺れは信濃の雪の中からじつくり見てゐるづらに。 |
嘉助 | では御免なさいまし、親方、久和蔵さん、ごしんさん。 |
平四郎 | 早々とお見舞いをかたじけのう御座りました。 |
久和蔵、お初相当の挨拶をする。嘉助及大工退場。 | |
五兵衛 | やれ、親方、(忌中と書いた筵を見やりながら)これははあお前さ、何を書くだ。いたづらにも程があるべえものを。 |
平四郎 | 家主様、俺らが国にな、昔、木曽の義仲といふ荒武者がゐて、信濃の山の中から西京眼がけて猪の子のやうに飛んで出ただが、力は余れど武運が拙くで、粟津が原の泥田に馬を駈けこまいて、犬死をして退けただ。今朝はふと、その昔を今のことのやうに思ひ出したでな、一つは今更らめかしい弔ひの心、一つは見舞いの人のうるささにああ書いてつるしたで御座ります。(放笑)……偖も、家主様、俺ら達は永々と御邪魔になりましたが、明日には発つて在所に帰りますに…… |
五兵衛 | それはまたあんまり火急だんべえさ。荷ごをりだけでせえはあ二日三日はかかるべえに。 |
平四郎 | いんね…… |
お初 | おとつさま、それはお前様のいつもの悪い癖の短気ではねえかえ。二年の上も住み慣れれば、名残りを申して廻らにやならぬ人様も数あるづらに。 |
平四郎 | (激怒を以て)親の心子知らずとは手前のこんだ。俺れがここに(足で床をふみ)へえ一時でもゐたたまれると思ふかやい。仕事が遂へればへえ、俺れは名もない他国のおいぼれ爺だぞ。こちらから暇乞ひしてまはる人様もありはしねえだ。……家主様よ、「これがまあつひの住処か雪五尺。」信濃國の山猿には、裸身の外にこをる荷物も御座りましねえ。ひよこりひよこりと親子四人で軽々とした道中をしませうづ。 |
仙太郎 | おぢいさま、おとつさまがこれに綱をつけ遂へたに、早く御柱を引かづ。俺れは待ち遠いやわれ。 |
平四郎 | や、待たしたなあ、(土間に下り)……仙太、ここは下総ではねえ、諏訪の山の中だぞ。あすこに見えるが、あれが(神棚を指し)八ヶ岳、あすこのむかうが木曽飛騨の山又山、ここからこれまでは諏訪の湖、廣い湖だぞ。そうれ岡谷の村も、下諏訪の宿も見えるら。ここが神宮寺村の明神様(壁際の積俵を指し)この脇にあるが俺ら達が住家だわやれ。今日は御柱をそこへ引くだ。おぢいさまの身のまはりに高々と四本ぶつ立てるだ。……高々と四本ぶつ立てるだ。……仙太は力がえらいで元綱をやれ、おとつさまは裏綱……おぢいさまはへえやくざだでここに(綱の中程を握る)立たづ。やれ見ろ仙太、在所のものも他国のものも俺らがためにいかいこと綱引きにとつどつて来たぞ。さあ皆の衆も綱を取つた……それ仙太、おぢいさまが木やりをやるぞ。 「お小屋の山のもみの木は里にひかれて神となる」やれえんやらさんのういえ―。 |
仙太郎 | (よろこび勇んで)やれえんやらさんのういえ― |
久和蔵、お初泣きしづむ。五兵衛も貰い泣きをしてゐる。 | |
何故に皆の衆は泣くづら。をかしいわやれ。 | |
平四郎 | をかしいなあ、それぢや仙太とおぢいさまと二人で引かづ。 |
仙太郎 | やれえんやらさんのういえ― |
平四郎 | やれえんやらさんのういえ― |
虹梁動かず。 | |
幕 | |
[『有島武郎全集』第5巻(1980年)筑摩書房] |
「『御柱』の舞台を観て」より抜粋
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早いもので、本年も12月(師走)に入り、大晦(おおつごもり)までもう直となりました。コロナ禍が猖獗を極める中で推移した本年ですが、少なくとも現状においては安定期を迎えており、一息をついているところであります。ただ、専門家の多くは、年明けには「第6波」が到来するであろうとの可能性を指摘されております。飽くまでも個人的な希望的観測に過ぎませんが、このまま終息を迎えられたらどんなによいことかとは思います。しかし、WHOは南アフリカで感染力の極めて高い変異株が発見されたことを発表しております。今後ともに、予断は許さない状況は続くことを覚悟せねばなりません。ただ、ごくわずかでも希望の光が差し込みますよう祈念していたいと思います。さて、ここ数回は長話が続きましたので、今回は気分転換に極々軽いお話を。しかも、前後編等一切無しの“一回ぽっきり”で参りたいと存じます。お付き合いの程を。暦の上では当の昔に秋を迎えておりますし、12月と申せば最早「冬」と目されるでしょう。従って、“何を今更!?”感は拭えませんが、「実りの秋」についての話題を一席。具体的にはこの時季の「果物」についてとさせていただきます。
さて、様々なる食材の内で、果物ほど季節を感じさせるものはございますまい。当方は、個人的に最も好む果物は「梨」であり、その時節になると無性にそわそわして参ります。そして、8月後半からこの時期にかけて、続けざまに世に出る様々品種を、間断なく食することを無上の愉しみとしております。8月末からの「幸水」を皮切りに、「二十世紀」「豊水」、更にそれに続いく「新高(にいたか)」「新興(しんこう)」。時期をずらして旬を迎える「梨」を追いかけていけば、凡そ2か月程は「梨」三昧の日々を過ごすことが可能です。もっとも、昨今は、よくわからない品種が次から次へと導入されており、最早訳が分かりません。従って、当方は安全パイで、良く知る上記した品種のみを“梯子すること”で満足するようにしております。個人的には、酸味が感じられる爽やかな「二十世紀」「豊水」「新興」の3点が好みですが、それ以外の品種も、それぞれに味や触感の違いがあり、どれもが捨てがたいものがあります。
「梨」は、元来が中国を原産とする落葉高木で、我々が食する上記の「梨」の全ては、北海道を除く国内に自生する野生種「ヤマナシ(山梨)」を基本種とする栽培品種だそうです。その栽培種は放っておけば樹高15メートルほどにもなり、4月頃に花をつけ8月下旬から11月頃にかけて果物が実ります(栽培農家では収穫の利便性のため横に這わせるように剪定します)。果肉は白色で果汁が多いため、大変に瑞々しく“シャリシャリ”とした独特の食感が特徴であります。原種となる野生のヤマナシにも出会ったことがありますが、その実は直径が2~3センチメートル程度の極々小さなものでした。皆様はご覧になったことがございましょうか。これがあの栽培種として改良された梨の原種だとは、俄かには信じ難い程の小振りさに驚かされました。流石に採って食しはしませんでしたが、口にされた方に窺うと、果肉が硬くて酸味が強く、とても食用には向かないそうです(得難いチャンスでしたので今となると思い切って噛り付いてみればよかったと後悔しております)。何れにしましても、かような果実を、あの美味なる食用種に改良した先人には足を向けては眠れません。大いに感謝せねばなりますまい。もっとも、どちらに脚を向けてはならないのか悩むところでありますが。因みに、ヤマナシは山奥には存在せず、基本的には人里付近にしか自生していないそうです。まるで、野鳥なのに人里にしか生息していない雀のような樹木であります。私がヤマナシに出会ったのも奥多摩の人里近くにある所謂「里山」でありました。道理で……。
話は元に戻ります。季節の移り変りに応じて楽しめる様々な梨の品種ですが、皆様は「長十郎」なる品種をご存知でございましょうか。当方が子供の頃に散々にお世話になった梨ですが、昨今は八百屋の店頭からも、スーパーマーケットの果実棚でもとんと見かけなくなりました。当方の子供の頃には、梨と言えば「赤梨(赤茶色)」に属する「長十郎」か、「青梨(黄と緑の中間色)」に属する美しい「二十世紀」の何れかしか、八百屋の店頭で見た記憶がありません。「二十世紀」については、後述させていただくこととして、まずは、「長十郎」なる如何にも古臭い名称の梨について述べたいと存じます。「長十郎」は、明治26年(1893)頃、現在の川崎市大師河原で梨農家を営んでいた、当麻辰次郎が偶然に発見した品種であります。当時流行した黒斑病により、ほとんどの梨樹が枯死した中、一本だけ生き残って大粒の実をつけた樹を辰次郎は発見しました。これが「長十郎」の原木であり、その名称は、辰次郎の「屋号」に因んでいるとのことです(他の梨に比べてあまりにも古風で特殊な名称の由来がようやく腑に落ちました)。因みに、この樹は野生の梨(やまなし)を接ぎ木したものであったとのことです。
それ以来、辰次郎は「長十郎」を増やすことで梨園の再起を図りました。それが奏功し、明治30年(1897)全国で再び黒斑病が流行った際にも、「長十郎」には殆ど被害がなかったとのことです。こうして、以後「長十郎」の作付は全国に広がることとなりました(余談ですが、黒斑病は「二十世紀」「新水」にも発生しますが、「幸水」「豊水」では発症しないそうです)。そして、戦後も高度成長期終焉に到る頃まで、全国で流通する梨の中核として君臨しました。それは、病気に強いことに加えて、「長十郎」以前に作付されてきた品種(「淡雪」等)に比べて格段に美味でもあったからに他なりません。その証拠に「長十郎」以前の品種は、現在市場に出回ることは皆無であります。殆ど全てが「長十郎」よって駆逐されてしまったのです。明治11年(1878)に、単身日本を訪れ東北・北海道まで旅したイギリスの旅行家イザベラ・バード(1831~1904)の手になる紀行文『日本奥地紀行』には、彼女が日本で食した梨の感想が記されているとの記事を読んだ記憶がありますが(時代的に「長十郎」発見以前の品種であります)。それによれば「酸味が強いばかりで香りがしない」と一刀両断の下に切り捨てているそうです。ただ、平凡社ライブラリーで翻訳されている手持ちの本書を斜め読みして確認した限り、当該記事を見出すことができませんでした。本書で翻訳されているのは東京から東北へ、そして北海道でアイヌの人々と接触した記事を中心としたものであります。彼女は、東京に戻ってから、返す刀で関西方面への旅に出かけており、そちらの紀行文も物されております。もしかしたらそちらに記載されているのかもしれません。因みにその部分を読むには同じく平凡社刊の東洋文庫版の本書(第4巻)を手にとるしかありませんが、これは手元にはございませんので確認がとれませんでした。もっとも、彼女が御国で食していた梨は所謂「洋梨」でありましょうから、それとの比較による感想であることも考慮する必要はございましょう。つまり、それ以前の品種と比較すれば、「長十郎」の甘さは当時としては目を見張るものだったのでしょう。「長十郎」が日本の梨界に君臨するのは当然でありました。当方も、幼き時分に「梨狩」で松戸市の梨園を何度も訪れましたが、その時にも「梨」=「長十郎」の図式は不動でありました。自分自身も何の疑いもなく「これこそが梨だ」との固定観念の下、美味しくいただいておりました。逆に言えば、その時分には「長十郎」以外の選択肢がなかったのでしょう。
ただ、暫く後に、別の梨に出会うことになりました。当方の記憶では「長十郎」より若干遅れて販売されるように思いますが、今回調べてみると、もっと早くから出回っていたようです。偶々、我が家への進出が遅れただけかもしれません。何れにせよ、当方がその梨に出会ったのは「長十郎」よりも後のことになります。その品種こそ「二十世紀」に他なりません。まずは、その名前に吃驚!!古風な「長十郎」に比べて如何にも“新しい風”を感じました。加えて「長十郎」の赤っぽい色とは全く異なる、爽やかな黄色と緑の入り混じったような鮮やかな見栄えに、二度吃驚!!店頭に並べられたその姿は目に眩しいほどでした。眩しさには他にも理由があり、「長十郎」より格段に値が張ったように記憶しております。それも自分自身が「二十世紀」に出会うのが遅れた要因かもしれません。それでも、「苺」などと同様に、体調が悪い時などに特別に食すことのできた果物であったようにも記憶しております。そして、初めて「二十世紀」を食して三度目の吃驚が!!!それまで食べ馴れた「長十郎」とは別次元の味と食感であったのです。「仄かな酸味」、「豊かな果汁」、「爽やかな香り」、何にも増して“シャリシャリ”とした軽い食感。それらは、「長十郎」とはあまりにも隔絶した世界であったのです。そんなことは極々一般的な梨の特色に過ぎなかろうと思われましょう。しかし、食したことのある方はご納得いただけましょう。「長十郎」を上記と同様に敢えて記載するのならば、「薄っすらした甘さ」、「豊かとは言い難い果汁」、「青臭い香り」、何にも増して「ゴリゴリ」した硬い食感といったところになりましょう。これまで満足していた「長十郎」優位が、ガラガラと音を立てて崩れた瞬間でありました。
さて、皆様は上述した「二十世紀」の原産地が、本県松戸市にあることはご存知でございましょうか。調べてみると、この品種は「長十郎」を5年も遡る明治21年(1888)に、八柱村(現:松戸市)の松戸覚之助によって偶然に発見された品種だと言います。その発見場所が“ごみ溜め”であったというから驚きです。それは、覚之助が親類の家の“ごみ溜”に自生していた、みすぼらしい幼木を発見したことから始まります。 当時13才であった覚之助少年は、一見してそれがこれまで育てた梨樹とは少々異なったものであることに気づいたようです。正に慧眼という他ありますまい。恐るべき13歳です。そして、覚之助はそれを自園に移植し、丹精を込めて育てることにしました。それにしましても、覚之助との出会いがなければ、恐らく「二十世紀」がこの世に存在することはありませんでしたし、その改良種となる現在の梨界の両横綱「幸水」「豊水」もこの世には存在していなかったのです。そう考えると、歴史における偶然の大きさを実感させられます。
しかし、この幼木は黒斑病などの病気に弱く、覚之助の10年にも及ぶ丹精の末に、 ようやく明治31年(1898)に初めて実をつけたのでした。それは、これまでに見たことも食したこともない、甘く果汁に富む美しい果実でした。そして、世紀の改まったことに因んで、明治37年(1904)に「二十世紀」と命名されたとのことです。ただ、千葉県では降雨が多く病気にかかりやすいため栽培が難しく、次第に作付けされなくなっていきました。松戸市内の梨農家の方にうかがったところ、松戸での栽培だと鳥取県産のような綺麗な色合いには仕上がらないそうです。味に遜色がなくとも、どうしても見た目の悪さ故、鳥取産と市場で競争することは難しいと言います。従って、今では「二十世紀」のお株は完全に鳥取県に奪われた格好となっております。しかし、今でも「原産地の松戸市から二十世紀の灯を消してはならない」との心意気から、頑なに「二十世紀」を作付けされている農家が何軒か残っております。本当に立派な見上げた心がけだと存じます。従って、我が家でも応援のために、松戸産「二十世紀」を毎年購入して食しておりましたが、この2年はコロナ禍の関係でお留守になっております。因みに、松戸覚之助がごみ溜めから救い出した「二十世紀」の原木は、昭和10年(1935)に「国天然記念物」の指定を受けましたが、残念ながら太平洋戦争での戦火に罹り昭和22年(1947)に枯死しました。現在、保存処理をされた原木の一部が「松戸市立博物館」で展示されております。もしご興味がございましたら、是非ともご覧いただければと存じます
以上、当方の幼少期にお世話になった「長十郎」「二十世紀」という梨界の往年の両巨頭を取り上げました。しかし、現在ではどうでしょうか。今日、両横綱の地位は間違いなく「幸水」「豊水」に取って代わられておりましょう。しかし、鳥取県産「二十世紀」も横綱の地位は明け渡したものの、未だに現役で市場に広く出回り続けておりますし、昔日と同様に根強い人気を誇っております(「梨番付」があるとすれば辛うじて「関脇」・「小結」位に喰らいついていると思います)。しかし、「長十郎」の凋落振りは余りに甚だしく、今日では市場に出回ることは殆どございません(梨番付では十両どころか幕下にすら入っていないと思われます)。黒斑病防止技術が完成されるとともに、より甘みが強く食感もよい梨への改良がすすみ、その座を奪われていくことになったからです。10年程前までは、季節になると松戸の梨農園直売場で目にしましたが、昨今ではそれも一切なくなりました。しかし、今でもその季節になると、無性にあの素朴な味わいの「長十郎」を食してみたいと思うのです。今流行の梨とは相当に異なる味・食感ではありますが、当方の身体には幼き頃の楽しい想い出とともに、「長十郎」の味と食感とが染みついているのだと思います。梨農家にお聞きしたところ、今でも授粉用花粉を採るために長十郎を残している農家が多いと聞いたことがありますので、決して栽培をやめてしまったわけではないようです。来年こそ、松戸から市川あたりの梨農園を渉猟し、幻の「長十郎」を発見して食してみようと思っております。それは、御世話になった「長十郎」への恩返しと、品種保存に少しでも寄与したいとの思いからでもあります。
続いて、リンゴの話題に移らせていただきます。個人的には、リンゴなる果物を嫌っている訳ではありませんでしたが、正直なところ梨と比べれば、好んで食べたいとは思えない果物でありました。しかし、偶々、教職員時代の同僚の方が岩手県一関市の出身で、地元農園から送られた「ふじ」の御裾分けをいただいたことが、「リンゴ」を好きになる契機となりました。今からざっと20 年程も前のことになります。それ以降、毎年この季節になると当該農園から必ず取り寄せております。たっぷりな蜜に満たされており、リンゴとはかくも豊潤なるものかと、その美味しさに開眼したのです。それもこれも、これまでマトモなリンゴを食して来なかった所為でありましょう。しかし、それ以来、様々な種類のリンゴを食した結果、最も自分の好みの品種は「紅玉(こうぎょく)」に他ならないと思い至りました。勿論、リンゴに開眼させてくれた「ふじ」も捨てがたいのですし、決して他品種を避けようとの意図はございません。しかし、一関から取り寄せの「ふじ」以外、今では我が家で購入するリンゴの主流は「紅玉」です。極端なことを申せば、「紅玉」さえあれば他のリンゴは不要……とまで申し上げても良い位です。それほどに「紅玉」に“ぞっこん”であります。
「紅玉」といえば、申し上げるまでもなく、今でも時期に必ず市場に出廻るリンゴ品種であります。従って、梨で言うところの「長十郎」のような“幻の果実”とは申せません。しかし、昨今の取り扱いは「御菓子づくりに最適なリンゴです」とスーパーマーケットに表示されるように、生食用ではなく加工用リンゴと位置づけられているのかと存じます(ジャムやアップルパイの材料用)。生食のリンゴとしては、当方がリンゴの美味しさに開眼した「ふじ系」、「デリシャス系」といった、もっと大ぶりで糖度高い品種が売場でも大手を振るっております。その所為か「紅玉」はすっかり日陰者扱いです。「紅玉」は酸味が強く、他の人気品種と比較して決して糖度が高いわけではないからです。だからこそ、砂糖を添加する菓子に向くのでしょう。しかし、酸味は味のアクセントともなります。しかも、生食で食しても決して甘味が低いわけではなく、必要充分な糖度であります。しかも、香りも素晴らしく、むしろ強い酸味が口内を爽やかにしてくれます。何より、他の品種と比べて「当たり外れ」がほとんどなく、常に安定した味を提供してくれます(他の品種でも“外れ”に当たる頻度は「桃」ほど酷くはありません)。また、酸味が強い所為か日持ちもしますし、嬉しいことにお値段もお手頃です。斯様な次第で、今では「紅玉」こそが、最も「リンゴ」らしい「リンゴ」と確信する次第であります。
さて、これまでナシを「梨」と漢字表記してきたのに、何故リンゴは「林檎」と漢字表記しないのか不思議に思った方はいらっしゃいませんでしょうか。それは「紅玉」も含めて、今日市場に出回っているリンゴの品種の全てが、幕末から明治以降に欧米から導入された「西洋リンゴ」の末裔に他ならないからです。では、「林檎」なる漢字は何にあたるのか??それもリンゴには違いありませんが、「和林檎」と称する古来日本に伝わる品種にこそ相応しいと考えるからに他なりません。そもそも、林檎は平安時代頃に中国から伝わったもので、その実も山梨と同様にとても小ぶりだそうです(直径3~4cm程)。酸味が強く、生食よりも仏前の供物として利用されてきた歴史を持つ和林檎は、明治以降「西洋リンゴ」に駆逐され、品種自体が絶えてしまったものも多いと聞きます。ただ、調べてみると、現在も細々と作付がされているそうです。長野県の飯綱町(旧牟礼町)で栽培される「高坂林檎」も和林檎の一種であり、原木は町天然記念物に指定されているとのことです。リンゴに含まれる有用物質として名高い“ポリフェノール”含有量は、「高坂林檎」での計測によれば「ふじ」の10倍にも及ぶとのことで、改めて和林檎の有用性が見直されているとのことです。是非とも一度口にしてみたいものだと思っております。
少々寄り道をしましたが、「紅玉」の話題に戻ります。「紅玉」の出身地は北アメリカ大陸のニューヨーク州で、1800年頃に発見されたそうです。明治4年(1871)に北海道開拓使によって日本にもたらされ、その深々とした紅色をもって「紅玉」名称に統一されたのが明治33年(1900)のことです。その後、以下に触れる「国光(こっこう)」とともに、日本国内での主要品種として作付されて流通しましたが、先に述べたようにより糖度の高い品種改良が進んだことにより、両横綱の地位を他の品種に譲ることになりました。それでも、「紅玉」は加工用として需要が高いこともあり、主に青森県で作付されております(全国の99%を生産)が、「国光」に到っては、幕下どころか序二段にも及ばぬほどに凋落。今では品種保存目的で青森県黒石市にて若干栽培されているだけとのことです。ただ、通信販売で購入はできるそうですので、一度取り寄せてみたいと思っております。当方も、子供の頃に「国光」を食していたのでしょうが、リンゴを「リンゴ」としてしか把握しておりませんでしたので、全く味の論評はできません。「国光」も原産地は北アメリカであり、日本への伝来は「紅玉」より若干早い慶応4・明治元年(1868)年であります。上記したように1950年代までは「紅玉」とならぶ国内の両横綱として国内市場に君臨しました。
今回は、極々軽い話題でしたが、日々食している食材の由来を探ってみるのもなかなかに楽しい時間でした。これを機に、「リンゴらしいリンゴ」である「紅玉」や、「梨らしい梨」である「長十郎」「二十世紀」の需要が高まってくれると嬉しいのですが、味覚は個人によって異なりますから、かような物言いは不遜に過ぎましょう。ただ、知らない……食わず嫌い……では、勿体ないと存じます。是非、これらのリンゴ・梨を見かけましたら、一度試していただければと存じます。今回、改めて自分自身の好みを振り返ってみると「単に糖度が高い」という果物は苦手であることを自覚できました。温州蜜柑でも、甘酸っぱくないと美味しいとは思えませんし、バナナですら若干の酸味が感じられる「台湾バナナ」が好みです(ただお値段は張ります)。他にもこの時季には「葡萄」「柿」「栗」、そしてちょっと変化球ではありますが「薩摩芋(甘藷)」等々が旬を迎えます。「薩摩芋」に関しては、幼少期に子供会で、新京成線の「北初富駅」すぐ脇の畑で毎年「芋掘り」をしたこと、未だ舗装されていなかった地元道路の真ん中での焚火にそのままくべて焼いた、表面がまっ黒に焦げた「焼き芋」の美味しさが忘れられません。そのようなことも思いつつ、過ぎ行く「実りの秋」を大いに楽しみたいと思っております。
閨(ねや)のうへは 積れる雪に 音もせで よこぎる霰 窓たたくなり
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師走も残すところ20日余りとなり、本年も暮れていこうとしております。冬の気配も一際色濃くなってまいりました。こうした中、10月より「千葉市制施行100周年」を記念して開催して参りました企画店『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』が、12日をもって閉幕を迎えます。昨年度から3回に分けて、千葉市100年間の中でトピックとなる3つの時期を選んで皆様に御紹介をして参りました展示会も、これにて大団円となります。従って、この2年間は主として千葉市の近現代史を扱うことになったわけですが(3回の特別展・企画店に留まらず、小企画展として開催した『陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球と技術遺産ダイヤモンドトラス-』もそれに当たります)、自分自身にとって必ずしも強い興味・関心の対象では無かった近現代史について、これを機に「千葉」という視点から、改めて学び直すことのできる貴重な機会となったと考えております。その結果、日本国内に及ばず、世界の大局的な動向の中で本市の在り方が見えてくることも多く、近現代史の面白さ、近現代史を学ぶことの重要さに改めて開眼した思いで御座います。その意味で、自分自身にとって途轍もなく重く価値ある2年間の展示会を経験したことは、何にも代え難い宝物となりました。
口幅ったい物言いで恐縮で御座いますが、私も含めて、歴史愛好家の傾向として、興味・関心の対象となる守備範囲が限られることが多いように感じます。関心のない時代には見向きもされない傾向がございませんでしょうか。それが、他分野(自然科学等)に及べば更なる無関心に拍車が掛かりましょう。斯く言う自分自身も、教員時代の歴史的分野の授業では、中近世史に比して近現代史に対して掛ける情熱が高いものとは言い難い実態にあったと思います。また、自身の興味・関心は高いのですが、こと教える対象としての地理的分野へのモチベーションは決して高いものではありませんでした。子どもは正直にそれを感じるようで、お恥ずかしながら「先生、地理は嫌いでしょう!?」とズバリ指摘されたことも一度や二度ではありませんでした。しかし、そうした分野でも向き合って見れば、「何と豊穣な世界が広がっていることか!」「興味・関心のある分野の理解に斯くも深く関連していることか!」と刮目させることが多いことに気づかされます。とりわけ、今回の「近現代史」に関しては、市原徹さんの率いられる「千葉市の近現代を知る会」の皆さんとの出会いが極めて大きなものであったと存じております。こうした皆様と交流を持てたこと、充実した価値ある活動を続けられている方々との出会いも、こうした近現代関連展示会を開催して参ったからこそと、深く感じ入る次第でございます。
未だ本展をご覧になっていらっしゃらない方がいらっしゃいましたら、是非とも残り僅かな会期中に脚をお運びくださいませ。百年前に「千葉市」として呱々の声をあげた頃の本市の世相を見つめ、その後の歩みと重ね合わせながら本市の歩みを振り返ることは、恐らく現在の千葉市の在り方を理解すること、ひいては今後の千葉市が歩むべき指針にも繋がりましょう。斯様な歴史空間を旅されることを皆様にお勧めしたいと考えております。コロナ禍の中で迎え、そしてコロナ禍の中で送りゆくこととなった「千葉市の100周年」は、正直申しあげて決して華々しいものとはなりませんでしたが、それで本市の百年を振り返る大切な契機を皆様に御呈示できたものと自負する次第でございます。「市制施行200周年」を迎える百年後には如何なる千葉市になっているか、全ては我々を含めた住民(国民)の双肩に委ねられているのです。自分自身としましては、子孫に美田を残せるように行動することを心に誓ったところでございます。
さて、冒頭に今の季節に因み「冬」の情景を詠み込んだ和歌を六首、季節は外れますが「春」の情景を詠みこんだ歌を一首、合計七首を掲げさせていただきました。今回は、それらの和歌に因んだ話題とさせていただきます。皆様は、これらの作品を一読されて如何なる御感想を抱かれましたでしょうか。案ずるに、『百人一首』のようなアンソロジーで慣れ親しんだ古典和歌の世界とは、相当に隔絶した作風との印象を受けられましょう。藤原定家によって撰ばれた百首が基とされる『百人一首』は、奈良時代に編まれた『万葉集』から、平安時代に編まれた最初の勅撰集『古今和歌集』[延喜5年(905)以降]を経て、定家卿も撰者の一人である8番目の勅撰集『新古今和歌集』[元久2年(1205)]までの、つまりは万葉集と所謂「八代集」の時代から採られております。従って、違和感をお持ちになるのも至極当然だと存じます。実のところ、今回ここでお示しさせていただいた作品群は、それより以降となる鎌倉時代末から室町時代初めにかけて歌壇を席巻した潮流の歌風に他ならないからであります。これこそ、「京極派」と呼ばれる歌風を顕著に示す作例であり、また当該流派の代表的作者たちに他なりません。
一般に、今日における学校での古典和歌の学習では、『万葉集』から始まり鎌倉時代初期の『新古今集』までの作品が取り上げられるのみです。そこから一気に800年を隔てた近現代作品にまでワープしてしまうのです。そのため、室町時代半ばに編まれた21番目となる最終勅撰和歌集『新続古今集』[永享11年(1439)]までの13勅撰和歌集の世界、そして豊穣なる近世和歌の世界が全く抜け落ちてしまい、正に等閑に付された状況にあります。そのこともあり、一般に知られることの少ない「京極派」の作品を紹介させていただこうと考えた次第であります。しかも、飽くまでも私見に拠りますが、「京極派」らしい透徹たる世界を示す秀歌は「冬」の詠歌に多いように思うことも、この時節に今回の話題を選んだ理由でもございます。そして、「京極派」歌壇の作風を色濃く反映した勅撰和歌集こそが、13番目の『玉葉集』(伏見院下命・京極為兼独撰)[正和元年(1312)]、17番目の『風雅集』(花園院下命・光厳院親撰)[貞和5年(1349)頃]となります(冒頭の花園院詠歌の納められた『新千載集』は18番目の勅撰集となります)。
さて、冒頭で引用した歌の作者5人中、伏見院(1265~1317)・光厳院(1313~1364)・花園院(1297~1348)は、何れも鎌倉末期から南北朝期にかけての天皇・上皇であり、西園寺実兼の娘で伏見院中宮となった永福門院(1271~1342)もまた同時代の人であります。彼らは、何れも鎌倉時代後期「両統迭立時代」において「持明院統」に属した皇族に他なりません。よって「京極派」とは「持明院統」に支持された和歌の流派ということも可能です。それに反して、対立する「大覚寺統」は別の流派を擁して対抗関係となります。それが「二条派」なる和歌の流派あります。つまり、当時の和歌の流派対立は、政治的な要因も色濃く影を落としていたのです。実際に『玉葉集』から『風雅集』までに間には2つの勅撰集が編まれておりますが、当該の時期に政権を担っていたのは「大覚寺統」でありましたので、15・16番目の勅撰和歌集は「大覚寺統(後宇多・後醍醐)」の下命により、「二条派」撰者(二条為世等)によって編まれております(『続千載集』・『続後拾遺集』)。到って分かりやすい構図ではあります。
こうした「持明院統」と「大覚寺統」の対立関係はひとまず置くとしても、実際のところ、当時和歌を詠む階層の人々に広く支持された作風とは、穏健な作風を採る「二条派」に他ならず、同時代において「京極派」は極めて斬新な作風と捉えられておりました。ともあれ、そうした異端ともいえる作風が一世を風靡した背景には、一重に「京極為兼」(1254~1332)という不世出の歌人による主導があったこと、それを強力にサポートした「持明院統」という存在があったからに他なりません。しかし、当該時代に強烈なる光芒をもたらしながらも、ある事件を契機に、その影響力は失速することになります。それが、南北朝動乱期における室町幕府内の内部抗争(「観応の擾乱」)に起因する「正平の一統」(1346~1370)に他なりません。この時、「北朝」が一時的に廃され、「南朝」が正当な朝廷として復活します。しかし、足利政権側の都合で成し遂げられた南北朝合一が長く続くわけもなく、直に対立が表面化することとなりました。こうした動向の中、三上皇(光厳院・光明院・崇光院)を含む「北朝」側の主だった全ての人物が、「南朝」の手によって拉致・連行され、当時「南朝」の本拠であった賀名生の地に幽閉される事件が発生しました。このことは、京都の地に、平安時代末から慣例化した次の天皇を践祚させる権限をもつ上皇が存在しなくなったことを意味します(勿論、持明院統の上皇である必要があります)。つまり、次期天皇を践祚させることが不可能な事態が惹起されたのです。このことは、足利尊氏政権にとって存立の正当性を保証する基盤を失うことを意味します(これこそが南朝の戦略でした)。ところが、足利尊氏政権も然るもの。苦肉の策として、光厳院・光明院の生母である広義門院を強引に「治天の君」に仕立て上げます。そして、継体天皇(6世紀初頭の天皇!!)の事例を先例にして、「群臣推挙」の形態をとって辛うじて都に残っていた崇光院弟の弥仁王(みつひとおう)を践祚・即位させ「後光厳天皇」とする、“ウルトラC”をもって切り抜けたのでした。このことは、「京極派」にとって、「北朝」宮廷という歌壇の支持基盤が滅失することを意味しました。後光厳天皇も「持明院統」の一流には違いありませんが、その傍流に過ぎず「京極派」の庇護者とはなりえなかったのでしょう。京極為兼も既にこの世になく、こうして歌壇における「京極派」興隆の時代は終焉を余儀なくされることになったのです。この辺りの動向につきましては、以下の書籍が大変に充実した読み物となっておりますので宜しければどうぞ。
飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』[歴史文化ライブラリー]2002年
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(後編に続く)
そもそも「京極派」の作風とは如何なるものなのでしょうか。冒頭の作品をご覧いただければ何となく感じて頂けましょうが、これまでの和歌には用いられない語感の言葉を積極的に導入したり(「むらむらと」)、三十一文字の一首中に幾つものイメージを喚起させる言葉を畳みかけるようにダイナミックに連ねたり(伏見院の掲載歌に顕著です「夕暮・雲・嵐・時雨」「飛ぶ・乱れる・荒れる・吹く・聞く」)、実景を再構築することで、あたかも虚構の人工的な美的情景を創り出してみせたり(何れの作品でも見てとれましょう)、繊細で感覚的な表現を重視したり等々、ご先祖にあたる藤原定家の作風を彫琢し、更にそれを純化させたような歌風を磨き上げたのでした。こうして、新古今集以降に沈滞していた鎌倉時代後期歌壇へ大きな衝撃を与えたのです。例えとして適切かどうか自信が御座いませんが、絵画や音楽における「印象派」の作風、更に踏み込んで「象徴主義(サンボリズム)」の気配すら香るといったら的外れでしょうか。個人的には、それが分かりやすい例えではないかとも思います。しかし、その奇抜とも言いうる型破りな表現に、時代が追いついていけなかった面も大きく、上述したような政治事情も働くことで、結果として「二条派」が復権。南北朝期に二条家が断絶した後も、その歌風が歌壇を席巻することになるのです。ただ、現代的な眼で見れば、魅力的な作風ということにおいて、圧倒的に「京極派」に軍配があがるのではないでしょうか。逆に、「二条派」の歌風は微温的に過ぎて面白みに欠け、その多くはマンネリズムに堕していると称することは決して言い過ぎには当たりますまい。
勿論、そこには、当時和歌というものが社会に如何に受容されていたのかという問題が関わります。つまり、当時の社会における「和歌」の創作とは、必ずしも芸術性の創造や個性の発露に重点が置かれるものではなかったということであります。そのことが、中世後期から近世にかけて京極派歌人を忘却の彼方に追いやり、逆に近現代になってからの復権に繋がった要因でもございましょう。鯔の詰まり、中世という時代における圧倒的な「個」としての「表現性」の要不要といった側面に、その浮沈の根拠を求めることが可能なのではありますまいか。この辺りについては、小川剛生『武士はなぜ歌を詠むのか』2017年(角川選書)に極めて明快に論じられておりますので、是非お手にされてみてください。小川は本作において、当時京極派に接した人の印象を現代に置き換えると、極一般的な演劇(二条派)を見慣れていた人が、突然に最新の前衛劇(京極派)を見せられて「なんだか凄いモノを見せられたがよく理解できなかった」といった感想を持つのに似ている……と評されておられますが、正に正鵠を射た例えだと存じます。余計なことですが、小川氏は専門としては国文学の分野の研究者でありますが、その著作を拝読させていただく度に、ほとんど歴史学者と見紛うほどの精緻な考察に舌を巻きます(中公新書『足利義満』・同『兼好法師』も極めて優れた歴史的論考だと確信いたします)。
最後になりましたが、京極派を主導した「京極為兼」その人について述べておきたいと存じます。京極家は「摂関政治」最盛期の人である藤原北家「藤原道長」に淵源があり、その六男「藤原長家」を祖とします(名字として名乗ることはありませんでしたが「御子左家」と称された家系です)。その後、平安時代末から鎌倉時代初めに、俊成・定家父子が和歌の家としての在り方を確立。そして、定家の子である為家の三人の子が、嫡流の二条家(為氏)、庶流の京極家(為教)・冷泉家(為相)の三流に分れました。因みに冷泉為相の母(為家晩年の室)が『十六夜日記』の作者「阿仏尼」その人であり、その内容は為家の遺産相続を巡る二条家との争論解決のため、鎌倉に訴訟に赴いた際の記録となります(京極家は冷泉家に好意的な立ち位置をとっておりました)。そして、その京極家の初代為教の子が為兼となります。因みに、その後の南北朝期に二条家・京極家は断絶しますが、冷泉家は今日に到るまで継承され、明治以降ほとんどの公家が東京に居を移した中、頑なに京に残って定家由来の貴重な古典籍を今日に伝えて参りました(「時雨亭文庫」)。京都御苑北の今出川通に南面する「冷泉家住宅」(江戸時代は寛政年間の建築)は、旧地に残る唯一の公家屋敷として国重要文化財に指定されていることも、皆様はご存知でございましょう。
京極為兼は、幼少期から従兄の二条為世とともに祖父為家から和歌の手ほどきを受け、幼き頃より天賦の才を発揮したとのこと。父の為教は当時から“下手の歌詠み”として定評があったそうですから、正に曾祖父定家卿からの隔世遺伝と申せましょうか。そして、関東申次を勤める主家の西園寺家に出仕し西園寺実兼に仕え、弘安3年(1280)にはその推挙に拠り東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕。その宮廷人に和歌を指南することで、為兼の理想とする歌風の拡大に繋げました。西園寺実兼の娘が伏見天皇中宮「永福門院」ともなり、「持明院統」は正に「京極派」の牙城ともなっていきます。事実、伏見院も永福門院も京極派を代表する歌人となります。伏見天皇が践祚した後は、歌人に留まることなく、その信頼厚き側近として政(まつりごと)を壟断することになりました。その結果、周囲の名門公家との軋轢が大きく膨らんでいたことは想像に難くありません。そして、永仁6年(1298)六波羅によって捕縛され、その後佐渡国に配流されることとなりました。ただ、その背景について、従来、主に国文学者によって唱えられてきた、持明院統と大覚寺統との対立に起因する公家衆からの讒言との説は、今谷明によって否定されております。今谷は、奈良を舞台とする「永仁の南都争乱」(大乗院と一条院の対立)の責を問われたものと明確に立証されておられます。5年後の嘉元元年(1303)帰京が許され、今度は勅撰和歌集の撰者をめぐって二条為世と激しい論争の末に、院宣を得て正和元年(1312年)『玉葉和歌集』を独撰することになりました。しかし、傲岸不遜・驕慢僭上な為兼の姿勢に眉を顰める者が多くなり、とりわけ彼を登用した主家筋にあたる西園寺家との抜き差しならぬ不和に発展したといいます。その結果、関東申次である西園寺家から幕府への讒訴により、正和4年(1315)再び鎌倉幕府によって召し捕られ、翌年には土佐国に配流。のちに安芸国、ついで和泉国に遷されたものの、ついに帰京を許されないまま、元弘2年(1313)に配流先に没しております(享年79)。実子なく、五人の養子も四散して跡を継ぐ者これなく、ここに京極家は途絶えることとなりました。
単なる歌人に留まることなく、持明院統の公家として、両統迭立といった朝幕関係の中、政治の世界に積極的に関わったことにより生じた2度の配流。そしてついには京に戻ることなく他国で客死する波乱万丈な人生を送った公家でありました。自信家で権勢欲にも塗れた人物であり、決して親しみやすい人物ではなかったようですが、定家卿もそうであったように、作品世界と結びつけてその創作物を貶めることは正しい芸術の評価とは申せません。その成し遂げた作品は、近現代の今に燦然と輝きを見せていると思います。もし、京極為兼、及び「京極派」の作品にご興味を持たれましたら、是非とも以下の書物をお手にされてみてください。
「京極為兼」という人物を知りたい方のために
「京極派」の作品に触れてみたい方のために
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本年11月の本メッセージで、標記作品の全文を御紹介させていただきました。御読みくださった方はご存知でございましょうが、近世末の安政期、千葉妙見寺再建のために信州は諏訪から来葉した彫物大工龍川平四郎と、江戸の造営大工嘉助との間に生じた葛藤と、その結果生じた一件に関する職人同士の人情の機微を描いた戯曲作品であります。本作は、白樺派の作家として名高い有島武郎の手になり、千葉市の市制施行の年である大正10年(1911)、東京の新富座で初代中村吉右衛門によって初演されております(過日惜しまれて物故された昭和・平成の名優2代目吉右衛門の祖父に当たります)。そして、主人公龍川平四郎のモデルとなったのが、近世末に信州諏訪を拠点に活躍した宮大工棟梁である「立川和四郎(たてかわわしろう)」に他なりません。そして、その率いる大工流派を「立川流(たてかわりゅう)」と称しております。今回は、文学作品を離れ、近世に実在した「大工(工匠)集団」の実像に迫ることができたらと考えております。
さて、有島は、和四郎を頗る職人気質の人物像として描き出しておりますが、調べてみると宮大工集団としての立川派の姿には、こう言っては失礼にあたりましょうが、地方の大工集団でありながら、案に反して意外なほどにシステマチックな生産組織としての在り方を敷いていることに驚かされたところであります。このことについては後に触れさせていただきますが、今回は、せっかく『御柱』を御紹介させていただいたことで遭遇できた近代の大工組織について、これを機に極簡単にではありますが、その在り方と動向について述べさせていただければと存じます。その際に参考にさせていただいたのが、吉澤政己の論文『立川和四郎富棟の建築活動と大工集団について』1994年(『日本建築学会計画系論文集』)そして、『改定 諏訪の社寺と名匠たち-大隅流・立川流の神髄を訪ねて』2014年(長野日報社)であり、それらに依拠しながらの記述になります。
その前に、和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年(千葉市教育委員会)により、幕末に千葉妙見寺再建に関わった「立川派」の動向について押さえておきましょう。ここに記録されている内容は、本市における郷土史研究家の草分けとも言うべき和田が、古老から聞き取った貴重な証言等を基に記述しております。戯曲からは読み取ることのできない、実際に千葉で再建事業に当たった「立川派」職人の実像を知ることができます。結果として、「立川流」の関与した妙見寺の造営事業は維新後に頓挫しております。和田はそのことを記述はしておりませんが、案ずるに、その背景には新政府による「神仏分離」政策と、その煽りで吹き荒れた「廃仏毀釈」の動向とが影を落としていることが想定されましょう。事実、千葉妙見寺は、維新後に「千葉神社」として衣替えをし、新時代の再スタートを切ることになりました。併せて、近世最後の住職となった千葉良胤が還俗して神職となったこと、更に、明治37年(1904)本社殿焼失の際、良胤が焼け跡から焼死体となった発見されるという“謎の死”を遂げたこと等を、先の原稿にてお示ししたとおりです。因みに、以下の引用文にもありますように、市内の「登渡神社」には「立川流」の手になる「十二支彫物」が残存しており、現在千葉市の指定文化財となっていることを付け加えさせていただきます。
安政6年(1859)、妙見堂の再建が計画され光明寺住職の出身地をたより、信州諏訪の宮大工立川内匠和四郎富昌を招いて造営にあたらせました。この和四郎は、往昔の飛騨の内匠甚五郎にも比すべき名手と噂される人でした。
[和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年(千葉市教育委員会)より] |
ここで、「立川和四郎」と「立川流」について改めて確認をさせていただきます。『御柱』でモデルとされた「立川和四郎」は、江戸時代後期以降から明治期にかけて社寺造営を担った、信濃国諏訪郡を本拠地に活動した宮大工の名跡であります。代々「和四郎」を継承し、初代和四郎の富棟(1744~1807)、2代和四郎の富昌(1782~1856)、そして3代和四郎の富重(1814~1873)と継承され、その後にも「立川」を名乗る人物や弟子筋による社寺造営記録が見られております。そして、その下で活動した大工集団を「立川流」と称します。有島は初代富棟に関心を示したとのことですが、生没年を確認いただければ判明いたしますように、実際に千葉妙見寺の造営事業に関わった「和四郎」は2代目「富昌」となります。
まずは、千葉での造営事業に携わった2代目富昌の先代(父)にあたる、諏訪における「立川流」創始者初代和四郎について述べたいと存じます。富棟は、延享元年(1744)信濃国諏訪郡の高島城下の下桑原村に、塚原忠右衛門泰義の次男として生まれております。塚原家は、代々桶職として諏訪藩に仕え、10俵二人扶持を食む家系でした。しかし、富棟は13歳のとき江戸へ出て大丸呉服店に入ったものの“星雲の志”止み難く、翌宝暦7年(1757)本所堅川通りにある幕府御用達建築彫刻家初代立川小兵衛富房に奉公[当流派は湯島聖堂・増上寺の徳川秀忠廟(台徳院霊廟)・日光の徳川家光廟(大猷院霊廟)等々の建築に関与しております]。富房の下での宮大工修行の末、「立川」の名乗りを許され、富房より「富」の一字をも譲られております。そして、その才を高く評され“職養子”となることまで懇望されました。しかし、これを断って20歳で故郷に戻り、翌明和元年(1764)、21歳にて地元で建築造営に携わっております。しかし、当時諏訪で隆盛を誇った「大隅流」大工の伊藤儀左衛門と弟子柴宮長左衛門ら工匠の妙技を目の当たりとし、自らの技量のさらに及ばざることに発奮。明和3年(1766)23歳にて再び江戸の地を踏み、名工小沢五右衛門常足(古沢三重郎)について宮彫を学び、技を納めて翌年再び諏訪に戻ります。そして、齢24にて一家を構え建築請負業を生業としたのでした。
(後編に続く)
前編で述べたことからも明らかなように、和四郎は、当時の大工組織に極一般的であったように、造営大工であると同時に、建物を装飾する彫刻の分野でも優れた技能を併せ持った一流を立ち上げたことになります。小括すれば、立川和四郎率いる諏訪の「立川流」とは江戸幕府作事方立川流の「地方分流」であり、堂宇を建築する「造営大工」と建物を飾る「彫物大工」との在り方を併せ持った大工集団であると申すことができましょう。有島が『御柱』で取り上げた「龍川平四郎」は飽くまでも「彫物大工」としての姿でありましたが、実際には広範な「造営大工」としての力量を誇った工匠集団であることが、信州等に遺存する作例からも明らかです。近世建築においては、近世初頭寛永期に建立された日光東照宮の建築に明瞭であるように、堂宇を飾り立てる彫刻は最早の建築と一体不可分のものとなっておりました。実際に、近世において「名人(名工)」とされる「彫物大工」の存在は枚挙に暇がないほどであります。その筆頭こそが「左甚五郎」であり、その名は全国に轟いておりましょう(その当否は知りませんが日光東照宮の彫物の名作として夙に名高い「眠り猫」は甚五郎作と伝わっております)。更には、「名人(名工)」と称される所謂“御当地”工匠もまた各地に生まれました。我らが千葉県域でも、南房総を活躍の舞台に5代にわたって名作を物した「武石(武志)伊八(千葉一族の武石氏の血統を引くとの異聞もあります)」を思い浮かべることができましょう。特に、初代「伊八」は「波の伊八」の異名でその名を知られ、その卓抜な「波濤」表現が葛飾北斎に決定的な影響を与えたとも評されます。そして、諏訪における「立川和四郎」とその門人で構成される「立川流」もまた、そうした「名人(名工)」として知られる大工集団であったということになります。
こうした、近世建築の在り方や造営大工の資質については、「過度の彫刻装飾によって建築の構造美をスポイルした」「規矩による定型的な建築に陥った」「創意工夫を失った」等々、建築物そのものの価値が低いかのように言われて参りました。今から40年を遡った当方の学生時代には、概ねかような近世建築の評価こそが主流であったと言っても過言ではありませんでした。それは、例えば、アカデミズム画派である「狩野派」が「粉本主義に陥り退屈な画風に堕した」といった論調と全く軌を一にしております。余りに酷い貶されように、憤懣やるかたない想いに駆られたことも一度や二度ではありません。当方は、こうした論調もまた、意図的に江戸時代(幕府支配)の在り方を貶ようとした、明治期以降の極々皮相なる薩長中心史観に他ならないと考えます。しかし、現在では、近世建築を西欧「バロック建築」に比すべき一潮流として、高く評価する論調もまた盛んになっております。当方としては大いに留飲を下げるところでございます。
さて、その立川流の建築造営の在り方として極めて興味深いことが、そのシステマチックな生産体制にあります。吉澤論文によれば「彫刻は軸部材と完全に切り離され、諏訪の工房で多量に製作され各地の現場に送られた」ことが推定されているようで、そのために「工事契約に当たって、精密な設計図を作成していることも注目される」とのことです。また、「図面と現存建物を比較してみると、工費に応じて、彫刻の数や、軸部洋式の一部(縁腰組等)が変更されており、一種のオプション方式であった」ともあります。ウィキペディアに「工房で彫刻を大量に作成して軸部完成後に運搬して取り付ける分業形態、施主の要望により彫刻をオプションとして付加する随意付加形式、事前にカタログを提示して請負契約をまとめる発注形式など、合理的に組織化された建築活動の基礎を構築し、短期間で多量の建築工事を可能とした。」と記されていることとも符合いたしましょう。つまり、「立川派」の大工仕事とは、設計・積算・施工に至る近現代にも通じた合理的な生産形態に特色が見られるということであり、立川和四郎とは大工集団を指揮・統率し、大規模な寺社造営を成し遂げる総合プランナーに他ならなかったということであります。建築にあたっての組織的な在り方の詳細につきましては、先に掲げた吉澤論が、「棟札関係史料」等の詳細な調査を基に分析的に紹介されておりますので、もし関心の向きがございましたら、是非ともそちらをご参照ください。
もっとも、「立川流」に限らず、近世において大規模な寺社造形・城郭建築(御殿も含め)に携わる大工集団は、多かれ少なかれ上記のようなシステマチックな造営システムを構築していたことを知っておく必要がございましょう。近世の建築物とは、古代・中世以上に、柱・壁や屋根の小屋組を構築することに止まらない、彫刻・絵画等々をも幅広く組み込んだ“総合作品”であるからに他なりません。そのため、造営規模が大きくなればなるほど、場当たり的な作業では到底全体の結構を成し遂げるなど叶いません。従って、宮大工棟梁には、必然的に技能に卓越した職人であることに止まらない、総合プランナー・総合プロデューサー的手腕こそが不可欠であったのです。例えば、上述した徳川家康を祀る社として知られる絢爛豪華な日光東照宮の建築群であります。現在見る姿は元和4年(1618)に造営した社殿を、徳川家光の命により全面的に大造替したものであります。家光は敬慕する祖父家康を顕彰するために、あえて絢爛豪華な社殿への造替を行ったのです。そして、それを担った工匠こそが「甲良大工」棟梁であった幕府作事方の甲良宗広(1574~1646)に他なりません。家光の下命が寛永11年(1634)、社殿完成は寛永13年(1636)であります。現在の通説では、その工期はたったの17カ月であったと考えられております(巨額の造営費用はかつて言われていたような諸大名へのお手伝い普請にあらず全て幕府予算で賄われております)。陽明門をはじめとするあの豪華絢爛な日光東照宮全体の建築群全てが、17カ月という短期間で成し遂げられたとは俄かには信じ難い話でありましょう。つまりは、江戸はもとより京・大坂の大工集団は元より、狩野派等絵師集団やその他の工芸職人集団等の工匠たちを無駄なく配置・段取りするなど、徹底的な分業体制を的確に組織し遂行させ得た甲良宗広の卓抜なプロデュース力こそが、この事業を成功に導いた最大の要因に他なりません。単に気難しい職人気質の人間が成し遂げられる事業でないことは明らかでございましょう。ここで申し上げたいのは、規模の大小はあるにせよ、立川平四郎もまた甲良宗広と同様の製作体制を敷く大工集団を率いていた人物であるということです。有島が描いている大工棟梁の姿は、必ずしも実在の立川和四郎の姿ではないこと、少なくともその全体像を写し取ったものではないことには留意しておくことが必要だと存じます。勿論、そのことと創作としての有島作品の優劣とは全く無関係であることは言うも更なりでございます。
余談ではございますが、元和2年(1616)に亡くなった家康は、その遺命により久能山に葬られ、その地に東照宮が造営されております。これが現在残る久能山東照宮であり、その多くの建物は国宝に指定されております。日光東照宮と比較すると、その社殿は豪華さよりも落ち着いた品の良さが際立っていると思います。更に、家康は「一年後に日光山に小堂を建て神として祀れ。我八州の鎮守とならん」とも遺言したとされております。それに従って、後継者秀忠の手により元和4年(1618)日光に社殿が建立されました(久能山に葬られた遺骸も日光に改葬されたとしております)。当社殿は、家光による「寛永の大造替」際に、徳川氏が出自とした「新田氏」縁の地に移築され、「世良田東照宮」として、今もその地に残されております。実際に見ればお分かりになりましょうが、その社殿は到って質素なものであり、秀忠が家康遺言に忠実に従ったことが判明します。逆に、家光による造替が如何に大規模で徹底的なものであったのか、また祖父家康に寄せる思慕が如何に強烈であったのかが手に取るように理解できます。以降の歴代徳川将軍の内、唯一日光東照宮近くに墓所を構えたのが家光であることもそれを裏付けましょう(「大猷院霊廟」として今に伝わります)。先の大戦の空襲により東京に残っていた徳川家霊廟建築の殆どが烏有に帰した中、今も家光霊廟は、江戸の昔その儘に日光東照宮至近の地で祖父に寄り添い続けております。まるで家光の思いの深さを象徴するかのようです。
さて、初代立川和四郎「富棟」に話題をもどしましょう。その後、彼は地元信州において、安永3年(1774)「白岩観音堂」(茅野市)の建築と彫刻の制作を手始めに、同9年(1780)「諏訪大社下社秋宮幣拝殿」(重要文化財)によって名声を高め、寛政元年(1789)には「善光寺大勧進表門」、享和2年(1802)からは一門を率いて30年にわたり「静岡浅間神社」彫刻を手掛けたと言います(絢爛なる彫刻作品群で知られる静岡市内の社殿です)。そして、文化4年(1807)に没しました。その跡を継いだ、千葉妙見寺再建にも関わった二代目和四郎「富昌」は、天明2年(1782)に富棟の長男として生まれ、寛政12年(1800)から現場の実質的棟梁として活動をしております。遺存している建築物としては「壷井八幡社本殿」文政7年(茅野市)、「諏訪大社上社本宮幣拝殿」天保6年(諏訪市)、「照光寺山門(旧諏訪大社神宮寺仁王門)」弘化3年(岡谷市)等があり、地元の諏訪周辺で嘉永・安政年間までその足跡をみることができます。また、その活動は信濃国内にとどまることなく、関東から近畿にかけて幅広く足跡が残されております。有島作『御柱』の題材にも採られた下総国「千葉妙見寺(現:千葉神社)」、江戸小石川「白山神社」、京都での「京都御所」御門の彫刻なども手掛けているのです。安政3年(1856)に没しておりますが、欄間や置物の彫刻は富昌次男の三代目和四郎「富種」やその弟子達に受け継がれたといいます。没年に鑑みれば、千葉妙見寺の造営に富昌が関わったのは、彼の最晩年であったことになります。彼らの残した現在に引き継がれた作品群につきましては、先に紹介させていただきました長野日報社刊行書籍(長野県に残る作品に限定されます)、また古くは細川隼人『立川流の建築』1975年(諏訪史談会)が豊富に作例を取り上げており優れております(ただ内容についてはその後の研究により修正が迫られている部分もあります)。ただ、前者がネットアップされていて直ぐに見ることができるのですが、後者は稀覯本となり古書市場で3~4万円程で取引されております。悲しいかな、当方には到底入手が叶いません。
今回は、有島作品紹介の「余話」としての話題となりました。文学作品としての愉しみもさることながら、それを関連して、通常あまり興味を抱くことのなかった建物・彫刻大工やその在り方に関心を持てたことを幸福に思います。近世の大工集団としては、上述した「甲良大工」や、近世初頭の京都大工頭で幕府関係城郭造営にあたった中井正清(1565~1619)等が良く知られておりますが、全国的に様々な流派が盤踞しており、国内を広範に活躍の舞台としていたことを知ることができたことも興味深いことと思わされた次第であります。古代・中世建築と比較して圧倒的に残存率が高く、比較的に目にする機会の多い近世建築とその衣鉢を継ぐ近代和風建築、及びその装飾としての彫刻作品をもっと身近に感じながら見てみようとする契機となりました。斯様なことを考えると、近所にある柴又題経寺(「柴又帝釈天」名の方が遥かに通りが宜しいでしょうが)の帝釈堂に残る夥しい数の近代彫刻製作に携わった「工匠集団」とは如何なる面々であったのかにも、俄然興味が沸いて参りました。斯様な訳で、当方としましては「興味・関心」の範囲が拡大する一方で、一向に収斂する気配がございません。しかし、世の中には、本当に面白いことに満ちあふれておりワクワクいたします。
春の花 秋の月にも 残りける 心の果ては 雪の夕暮れ
木の葉なき 空しき枝に 年暮れて また芽ぐむべき 春ぞ近づく
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今年の冬は暖かな日が続いているように思っておりましたが、歳末も押し詰まってようやく冬の気配が色濃くなって参りました。もっとも、寒い時期にはきちんと冷え込んでくれないと、悪影響はその後に様々な形で生じることになりましょう。その季節に相応しい陽気になってくれたことに安堵いたしております。巻頭に引用いたしました二首は、今の時節らしいものを……と、掲げさせていただきました。一首目は、以前にも御紹介した不世出の天才歌人藤原(九条)良経の私歌集より。まるで自らの拠って立つ「美学」を表明するかのような詠歌に痺れます。続く二首目は、つい先日紹介させていただいた京極為兼の作品であります。ただ、京極派らしい技巧を凝らした作風にあらず、素直で平易な詠み振りの作品であります。内容についても一切の説明を要しますまい。もっとも、波乱万丈の人生であった為兼その人を知った上で接すれば、自ずと滲む“思いの丈”を感じ取れましょう。ともに塚本邦雄の短評を引用しておきたいと存じます。鑑賞の参考にしていただければ幸いです。本年最後の本稿は、この一年を振り返りつつ、脈絡も埒もない“繰り言”とさせていただきます。ただ、最後に大切な“お知らせ”を一つ二つ。歳末のご多忙中でございましょうが、お付き合いの程をお願い申しあげます。
美は雪・月・花を三位一体とするとは、古来の考へ方であるが、良経はこの三者同格並列を解き放し、花から月へ、かつその極みに「雪」を別格として据ゑた。それも必ずしも美の極限としてのみならず、あはれを知る人の心が行きつく果ての、幽玄境を「雪の夕暮」と観じた。歌そのものが彼の美学であり、ここではつひに芸術論と化している。 裸木を眺めつつ、一陽来復を願ふ心であらう。歳末の感慨を「空しき枝に年暮れて」と歌つたところに、この歌の命が宿る。枝の空しさは、わが身の上の空しさ、初句はいかにも丁寧に過ぎるが、願ひをかけながら、近づく春も恃めぬような暗さを帯びるのも、上句の強調によるのだ。為兼の波乱万丈の生涯を思ふ時、この待春歌も一入にあはれ。
(塚本邦雄撰『淸唱千首-白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年に歌から選りすぐった絶唱千首』-1983年 富山房百科文庫35 より) |
まずは、良経が「心の果て」と讃えた「雪」に関する話題から。成熟とは程遠い人間性の当方といたしましては、それが仕事の日でなければ雪ほど心をワクワクとさせるモノはありません。特に、庭の木々を綿帽子のようにくるむ姿を眺めれば、俗に言う「雪見酒」でも一杯と、柄にもない風流心も沸き起ころうものでございます。しかし、世の中には雪を愛でる良経の詠歌を「何を呑気なことを……」と、顰面(しかめつら)で論難する向きもございましょう。舌の根の渇かぬうちに真逆なことを申しあげるようですが、当方とてそれが出勤日であれば呪詛の言葉の一つも吐きたくもなります。ましてや、毎冬に積雪の対応に追われる雪国の方々は、その比ではない負の感情を抱かれておられることは想像に難くありません。日本海側、特に中央高地を背にする越後国の年間降水量は、赤道直下「熱帯雨林気候」のそれを軽く凌駕することをご存知でございましょうか。ある意味、世界有数の降水量を有する地域性であるのです。勿論、それが雨ではなく冬季の雪に由来することは言うまでもございますまい。例えば、江戸時代後期の越後国塩沢宿で、名産「縮(ちぢみ)」の仲買商を営んだ鈴木牧之[すずきぼくし](1770~1842)その人などは、定めしその代表格となろうかと存じます。
温暖化の影響など皆無であった近世における越後国の積雪は、到底今日の比ではなかったものと思われます。更に、近代的な除雪システムなど存在しない時代でしたから、一度雪に埋もれたら最後、雪解けの季節を迎えるまで、人々の行動は大きく制限されたことでございましょう。こうした雪国の実態を、牧之は『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』なる作品に描き尽くしております。本書は紆余曲折の末に、天保8年(1837)江戸で上梓され、忽ちの裡に江戸の地でベストセラーとなりました。具体的に誰かの作品・発言に対しての言説ではございませんが、そこには暖国の人が雪に風流を感じることを揶揄するような言葉が並びます。今風に言えば「雪国の現実を何も知らないクセに!!」といった義憤を根底に、雪国の苦難に満ちた生活実態を縷々述べております。勿論、本書は雪国から届けられた「愚痴」の書にはあらず、雪国ならではの民俗等の紹介も豊富に含まれ、現在読んでも大いに学ぶことの多い書物であります。もっとも、自分が読んだのは40年以上も昔の話です。これを機に、再読してみたいとものと思っております。本書は今でも岩波文庫で手軽に購入できます。
案ずるところ、牧之が本稿で挙げた良経詠歌に接したとすれば、定めし失笑することは請け合いでございましょう。それどころか、笑止千万と叱責いたしましょう。もっとも、牧之は江戸の文化人と深く交友関係を結び、滝沢馬琴(1767~1848)とも懇意にしておりましたし、本書の刊行も江戸の戯作者 山東京伝(1761~1816)・京山(1766~1858)兄弟の支援あってのことでありました。しかも、経済的にも裕福な豪商でありました。決して単なる山深い雪国に住む単なる“田舎親父”ではなかったのです。同時に、相当な教養人でもありましたから、良経の歌などにも接していた可能性が高いと思われます。かつて中央公論社から上梓された『鈴木牧之全集』上下2巻本あたりに当たれば、そうした一端を確認できるのではないかと思っております。機会があれば図書館で確認してみたいものです。ただ、お気に入りの牧之でありますので、刊行当時に購入しておけばよかったと後悔しております。恐らく今では入手困難の稀覯本となっておりましょう。「平家落人伝説」で知られる、長野県と新潟県とに跨る秘境“秋山郷”に関する優れた調査記録『秋山記行』(“紀”ではなく現題が“記”であります。つまり実際に出かけて物した記録との意味でありましょう)は、近世における重要な民俗調査として夙に知られます。これは東洋文庫(平凡社)にて読むことが可能です。近世という時代は、江戸・大坂・京といった大都市に限ることなく、地方においても牧之のような知的好奇心に満ちあふれた人材を多数輩出した時代であったことが、こうした作品からもうかがい知ることができましょう。
因みに、以前に藤原(九条)良経について述べた際には触れておりませんでしたが、令和4年1月9日(日曜日)に幕を開ける新たな大河ドラマ関係で一件追加させていただきたいことがございます。1首目作者良経は、源頼朝と極近い関係にあった『玉葉』作者兼実の子であることは前回申しあげた通りですが、九条家と鎌倉との関係はそれだけに留まりません。良経の子である道家は、その母が一条能保と源頼朝娘との間に生まれた子となります。従って、九条家と源頼朝とは縁戚関係で結ばれていたことになります。そのことから、3代将軍源実朝が暗殺され頼朝の直系が途絶えた後、道家3男の三寅(みとら)[幼名]が京都から鎌倉へ下ることとなり、所謂“摂家将軍”として第4代将軍(鎌倉殿)に迎えられることになったのです(三寅の元服後の名前が頼経であります)。つまり、父道家は、その子頼経を通じて幕府と更に強いつながりを持つこととなり、それを背景に朝廷内で隠然たる権勢を誇るようになったのです。九条家は朝幕を繋ぐ要として全盛を迎えました。しかし、それも長くは続きませんでした。幕府内の混乱から頼経が京へ送還され、その子頼嗣が5代「鎌倉殿」となったのも束の間、やはり幕府内権力闘争に巻き込まれて京に追放。その後は「承久の乱」を経て、「鎌倉殿」は“皇族将軍”が下向することとなり、朝廷内での九条家の権勢も一転して斜陽となったからです。来年の『鎌倉殿の13人』で、このあたりまでが描かれるかどうかは不明ですが、九条家との関係をご承知の上でご覧になれば、ドラマを一段と深くお楽しみになれましょう。因みに、明日25日NHKから関連書籍が発売されるとのことですので、そのあたりのことはもう少しはっきりするかと存じますが。
二首目に掲げましたのは、前々回の本稿にて述べさせていただきました京極為兼の作品でございます。その折に、京極派歌人やその作品に興味を持たれた方のために、関連書籍の紹介をさせていただきました。そのことについて、本館ツイッターに京極派研究の第一人者である「岩佐美代子さんの著作が紹介されていないことが不思議」とのコメントが寄せられておりましたので一言。仰せの通り、京極派の研究者として岩佐美代子(1926~2020)のご業績を脇に置くことなどできないことは申すまでなく、お名前だけでも紹介をしておけばよかったかと反省仕切りございます。ただ、本稿は「研究論文」ではございませんし、「参考文献」として書籍を掲げたわけでもありません。本稿に限らず、本シリーズにて皆様に御紹介させていただく書籍は、基本的に入手しやすい手頃な価格帯の一般書に限らせていただいております。その点を何卒ご承知おきくださいませ。代表作『京極派歌人の研究』『京極派和歌の研究』(共に笠間書院)は古書市場で1~2万円、オンデマンドでもほぼ同等の値段となります。また、彼女の手になる『玉葉集』『風雅集』『光厳院全歌集』等々の全訳注本も、新刊本で1冊1~2万円程のお値段となっており(ものによって2~3分冊!)、到底入門書としてお薦めすることはできません。もし、入門書にてご興味をもたれ、更なる追及をしたいとの思いが沸き起こりましたら、是非とも岩佐さんの著作をお手にされることをお薦め致します。もっとも、「見わたせば 札も小銭も なかりけり 我が懐の 秋の夕暮」となることは御覚悟の上で(定家卿及び歌神として崇めていらっしゃる方には失礼の段ご容赦願います)。
因みに、岩佐さんは昨年齢93にて物故されました。その著書に散々お世話になりながら、その人物像はまったく存じ上げることが御座いませんでした。そこで、これを機に調べてみたところ、意外な実像が浮かび上がって参りましたので御紹介をさせていただきましょう。史料によれば、岩佐さんのご実家は穂積家であり、父方の曾祖父は渋沢栄一(1840~1931)なのです。栄一の長女歌子の配偶者となったのが法学者穂積陳重であり、その孫にあたるのが美代子ということになります。従って、長命であった栄一との面識もあったことでございましょう。美代子は、栄一が鬼籍に入る前年の昭和5年頃から、宮内省辞令の下で昭和天皇皇女の学友となったとのことです。その縁もあって、戦後に国文学者となってからは、北朝後裔となる現皇室のために、当時は必ずしも注目されているとは言い難かった北朝皇室(持明院統)周辺の歌人と作品の研究に取り組まれたのだそうです。彼女の京極派歌人の研究には、斯様な深い背景があったことを初めて知り大いに感銘を受けた次第でございます。まさに女性版“硬骨漢”と申せましょう(“烈女”というのもヘンですし、女性への適切な言葉が思い当たりません)。戦前の社会的風潮は、もっぱら南朝正閏論に傾き、その支援者であった楠木正成や新田義貞が臣民の鑑と奉られたのに対して、敵対者であった北朝政権の支援者足利尊氏等々が逆賊と蔑まれた時代でありましたから、余計に反発心が沸き起こったのでしょう。流石に渋沢栄一の血脈をお引きなっている方と妙に感心もいたしました。
(後編に続く)
渋沢栄一との関連で申せば、一年間を駆け抜けて来た令和3年NHK大河ドラマ『晴天を衝け』も、明26日(日曜日)に最終回を迎えることになります。確か2月半ばからスタートし、途中で東京オリパラ中継による中断期間もあった関係で、例年よりも放送日数が大幅に少なく、そのため明治維新後の描き込みが充分とは言えなかったことが残念至極であります。しかし、当方はその放送が待ち遠しく、一度も欠かすことなく拝見して参りました。そして、この一年のドラマの内容に大きな満足を得ております。その最大の理由として挙げるべきが、数多存在する明治維新前後を描いた従来の大河ドラマの何れとも異なる、「旧幕臣目線」「徳川慶喜目線」で描かれていることにあると個人的に思っております。これまでも、そのタイトルもズバリ『徳川慶喜』(本木雅弘主演)や、新撰組を採り上げた作品等々はございましたが、ここまでの旧幕府、幕臣から見た維新前後が描かれたことは無かったと思うのです(当時を舞台にする作品の多くは薩長陣営の人物を主人公に据えております)。維新後の慶喜の屈折した思いに切り込んだのにも好感が持てます。常に静謐を保ちながらも身体の奥底から滲み出る怒りや悲しみを表現する草薙剛の演技も素晴らしい。明治維新後に渋沢が度々指摘する、慶喜が明確な幕府崩壊後の国家構想を描いていたことや、そうした国家像を持たぬままに新政を進めた混乱を極めた薩長政権内部の有り様を描いたことにも、何度うなずかされたか知れません。何より、明治政府を支えた実質的な官僚組織は有能な幕臣達であったことを、充分とは言えないまでも描いていたことも嬉しい限りでした。
地元の水戸でも人気のない慶喜については、大阪経済大学経済学部教授家近良樹氏の著作をオススメいたします。勿論、幕末期において、慶喜が常に一点の曇り無き判断を下してきたかと言えば、必ずしもそうとは言い切れぬ点も少なからず数え上げられましょう。しかし、それは後の時代に振り返って論評できるからに他なりません。渦中における判断を一概に断罪することは出来ますまい。家近の著作をお読みいただければ、何処となく負のイメージを纏った人物像とは相当に異なる姿が浮かび上がってくることと存じます。維新後の慶喜については、書名もずばり『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』(講談社選書メチエor筑摩文庫)をどうぞ。また、ドラマでも描かれた慶喜自身への聞き取りの筆記記録を読んでみたいと思われる方は、東洋文庫『昔夢会筆記』(平凡社)を、更に渋沢が編纂した慶喜伝記を見てみたければ東洋文庫『徳川慶喜公伝』1~8巻(平凡社)に当たられてください。特に前者は慶喜の語りを筆記した記録でありますので、慶喜自身の口吻もそのままに人となりを身近に感じることができる書籍とされております(質問に対して言い淀む姿も間々みられるとのことです)。伝聞表現なのは、40年ほど前から何時か読んでやる……と思いつつ、購入もせぬまま馬齢を重ねて今日に至っているからです。オススメしておきながら、お恥ずかしき限りであります。
勿論、これまで余り関心を持って接してこなかった渋沢栄一という人物像についても、深く知る切っ掛けをつくっていただいた本作への感謝は計り知れません。主人公を演じる吉沢亮が、実在のご本人に比して余りにもイケメン過ぎるのが玉に瑕ではありましたが、まぁ、これは瑕瑾にすぎますまい。慶喜と栄一という二人を両天秤にかけて時代の激動を描いた、脚本を手がけた大森美香氏の手腕も大いに優れていたと感心させられました。その功績は誠に大なるものと存じます。渋沢栄一という人物を余りに過大に描きすぎることなく、史実に則って等身大に描いたことにも共感が持てました。長男を廃嫡せざるを得なくなった苦悩も、普通なら避けて通りがちな艶福家としての実像も描き込まれました。本妻が居りながら妾(大内くに)を自宅に同居させた事実も、家の外にも何人もの妾宅があり晩年に至るまで頻繁に訪れていた史実まで匂わせておりました。前回放送の最後で、自宅で第一次世界大戦後の日本政府への非難を家族に熱く語った舌の根も乾かぬうちに外出しようとする栄一。「何方へ??」と訊く妻に対して、「仕事を辞めることができても、人間としての務めは終生やめることはできないからね。ン……(微笑)」と返しながら出かける場面が描かれましたが、あれなどは定めし当該史実を匂わせた場面だと思われます。ゲスの勘繰りとの非難を甘受のうえで、思わずニヤリとさせられた次第でございます。大島優子演じる後室の兼子も栄一没後に、飽くまでも当方の記憶ではありますが「主人の書いたのが『論語と算盤』でよかった。これが『聖書と算盤』だったらとんでもないことになりました。」なる趣旨の発言をしていたことも、艶福家としての栄一の姿を忍ばせます。何れにしましても、ここまで感銘を受けた大河ドラマも久しぶりでした。名作と信じて止みません。その思いは「尽未来際」変わることはございますまい。今年の忘れ難き想い出の一つとして一筆まで。
続いての本年の回想として挙げたいことは、「東京ヤクルトスワローズ」リーグ優勝、及び日本一の達成です。渋沢栄一は「日本資本主義の父」との異名を持つように、明治以降の500にも及ぶ会社の立ち上げに関わりました。親会社の「ヤクルト」創設と渋沢との関係でもあれば前後の繋がりも万全でしたが、流石にそれは無いようです。ただ、“ちち”つながりで、栄一は乳業には相当に肩入れをしており、芥川龍之介実父経営の乳飲料会社等々を強力に支援しておりましたので、強ち無関係とは言えないかも知れません(牽強付会に過ぎましょうか??)。因みに、企業としての「ヤクルト」の起源は、栄一が物故する前年の昭和5年(1930)に代田稔が乳酸菌「ラクトパチルス・ガゼイ・シロタ株」の培養に成功し、昭和10年(1935)に福岡市で「代田保護菌研究所」を立ち上げ乳酸菌飲料の販売を開始したことにあります(「ヤクルト」商標登録はその3年後)。プロ野球団の親会社となったのは戦後の昭和45年(1970)のことです。当方の知るヤクルト球団は、その前身であった国鉄・サンケイ時代から弱小球団の代名詞であり、それはヤクルト球団に衣替えしても変わることはありませんでした。小学生の頃までは、当方も近所の空地で仲間と草野球を愉しむ野球少年で端くれでした。しかし、三つ子の魂にて幼少期から「天の邪鬼」でありましたから、V9時代の川上巨人軍に感心がありつつも、斜に構えて接していたように思います。その一方で弱小球団への「判官贔屓」からヤクルト球団を身近に感じておりました。もっとも、熱烈な応援団でも何でもなく、球団側からしたら毒にも薬にもならない「心情的隠れ応援団」の類であったように思います。
しかし、中学校以降は「勝ち負け」を至上の価値とするスポーツの在り方自体に、全くと言って良いほどに共感を抱けなくなっておりました。しかし、どことなく心の片隅では気にはなっていたのでしょう。そして、その後も相も変わらずの弱小球団のヤクルトスワローズが、昭和53年(1978)に初優勝・初日本一を獲得した際には、素直に嬉しさで一杯になったものです。ウィニングボールを投げた松岡弘投手が両手を挙げて歓喜していた、その雄姿を今でもはっきり覚えております。そして、平成2年(1990)~同10年(1998)野村克也監督の治世下で、4度のリーグ優勝と3度の日本一にも感動を頂きました。野球のことなど本当は何も知らないし、チームのことや選手のことですら碌すっぽ知りません。そもそも勝ち負けにはあまり興味がない。しかし、何故か野村監督の下で野球をする彼らに心惹かれたのです。野村監督の言うID野球を基盤とする采配や、試合後のぼやき節が魅力的でした。ある意味で試合以上に、その発言が無類のエンターテーメントであったと思います。そして、もっと後のことになりますが、監督へのリスペクトの想いから、縁も所縁も無い野球関連書籍、野村克也著『野村ノート』『野球論集成』まで手にいたしました。そして三読に及び心底驚かされました(後者は、確かお堅いことで夙に知られる朝日新聞書評に採り上げられたと記憶しております)。そこには、そんじょそこらの凡百のノウハウ本などとは隔絶した、極めて論理的に構成された整然たる「戦術論」・「技術論」・「組織論」が展開されておりました。「一芸に秀でる者は多芸に通ず」とはよく言われることでありますが、そこで述べる野球論は、そのまま人生哲学にも通じていることに瞠目させられましたし、何よりも選手「育成論」は当時の本務であった「教育論」にも通底する内容でもありました。俗に言う「精神論」を徹底的に排除した、実証的・実践的に展開される論考に目から鱗の連続でありました。
野村監督は、その後、阪神タイガース・楽天イーグルスの監督等を歴任され、昨年惜しまれつつ84歳を一期に鬼籍に入られました。あと少しの生命が与えられ、今年の愛弟子高津監督の雄姿を見ていただきたかったと思うのは私だけではありますまい。そして、もしそれが叶ったとしたら、何と語ったのかを想像するだけでも楽しめました。恐らく、素直に褒めたりすることなく、ぼやき節をもって婉曲的に表現をされたことでありましょう。是非とも耳にしたかったものです。それにしましても、没後にそんな期待をさせられる監督など他に一人もおりますまい。斯くの如く「オリパラ」がすっかりと霞むほどの感銘を頂いた次第でございます。ただ、懸念材料が一つ。1978年初リーグ優勝・初日本一獲得の翌年は、何と最下位に沈んでおります。その際にも前年日本一が翌年最下位となるケースは何十年ぶりの珍事と評されました。今回は逆パターンの喜ぶべき珍事でありましたが、如何せん浮き沈みの激しすぎる球団故、次年度のことが気に掛からないと申せば嘘になります。しかし、野村克也の薫陶宜しき高津監督です。この鬱屈したコロナ禍の中で、野村黄金時代の再来を目指して、沢山の夢を“俄ファン”にも分けていただきたいモノと祈念しております。そのためにも、せいぜいヤクルトを飲み続けることで応援したいと思っております(我が家ではここ数十年間ヤクルトレディに配達をしていただき愛飲しておりますから)。
最後の本年の回想となります。本年は、コロナ禍中で菅総理大臣が退陣。その後の自民党内での総裁選挙により岸田総裁が選出、その後の衆議院選挙の結果に基づき岸田総理大臣の指名と内閣が成立したことは忘れるわけには参りません。ただ、衆議院選での論戦は必ずしも与野党間の争点が明確にならず、何処となく生煮感の拭えぬものに映りました。その中で、当方が注目したことは、自民党・立憲民主党の双方ともに「新自由主義路線からの脱却・転換」の主張が見て取れたことです。ただ、どうも双方の用いる「新自由主義」の意味合いに齟齬が感じられ、その目指すところが噛み合っていないことが今一つ争点の不明確に繋がった要因のように思います。しかし、平成以来の政権が基本的な路線として推し進めてきた「新自由主義」政策からの「脱却・転換」なるスローガンが、令和の世に他ならぬ自民党政権内から発せられたことに大いに驚かされました。正直、岸田新首相の掲げた「新しい資本主義の創造」「新自由主義からの訣別」なるスローガンに「新たな風」を感じさせられたことは紛れもありません。少なくとも、レーガン、サッチャー、それ以降の日本国内政権が推し進めてきた「新自由主義」的政策が、今日行き詰まりを見せていることは衆目の一致するところでございましょう。
勿論、社会に競争は必要です。しかし、その成果を数値のみでしか図ろうとしない新自由主義の基本的な在り方が、人々の精神を疲弊させていることに目を向けねばならないと思います。当然のことでありますが、競争は必然的に勝ち負けを伴います。そして、その行きつく先は、深刻なる「格差社会」に他なりません。例え、競争に敗れて貧困に陥っても、そこに「公助」の手が厚く差し伸べられ、国民の「安心感」が担保されていれば別です。しかし、新自由主義では全ては「自己責任」に帰せられることになります。しかし、万歩譲ってその帰着が大人のみに帰せられればいざ知らず、その子供たちに「親の責任」を押し付けることは過酷にすぎましょう(子供にはどうすることもできませんから)。所謂「親ガチャ」なる言葉が喧伝される所以もここに存します。彼らが、夢を持って学び自己実現を図っていける新たなシステムを構築する必要こそが急務であると思います。是非とも、政権与党・野党の皆さんも政策論争を通じて、場当たり的な“手立て”ではなく、我が国の進むべき“道筋”を見据えた「政策(システムの構築)」を模索・立案し、実行する「歳」にして頂ければと心底祈念する次第です。その意味で、令和3年は、もしかしたら新たな日本に進むべく「種」が蒔かれた歳と言えるようになるかもしれないのです。それ発芽し、大樹として育ってくれますよう、心して育んでいかねばならないと思います。種だけは蒔いたが育てないというのでは、日本国民の明るい未来は決して到来しないと思います。
最後にご連絡です。これまで講演会等でお伝えをして参りました、市民向けの歴史概説書『千葉市の歴史読本(仮称)』につきまして、当初12月末日発行を目指しておりましたが、編集作業に手間取っております関係で、「本年度内の刊行」に変更をさせていただきます。つまり、令和4年3月末日までの刊行ということになります。楽しみにお待ちいただいた皆様には、誠に申し訳ありませんが、急いで刊行して誤りが多い書物とするより、より良い状態で市民の皆様の手に届けたいとの思いを優先させていただきました。今しばしお待ちいただけましたら幸いでございます。内容は、掛け値なしに充実しており、多くの市民の皆様にお喜びいただけるものと自負するところでございます。また、予てお伝えしながらも、予算執行状況の関係で刊行についてペンディングしております、本年度小企画展『陸軍気球聯隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-』ブックレットにつきましても、編集自体は概ね完了しております。予算執行状況を鑑み、可能な限り本年度内刊行を目指して参りたいと存じます。
最後になりますが、変異株「オミクロン株」が世界中で猛威を振るっており、年末に向けて国内での感染者数も徐々に拡大しているように思われます。専門家は、年末年始の国民の行動が、第6波発生の規模を大きく左右すると指摘しております。少しでも早期に自由な行動を可能にするためにも、今の不自由を甘受して行動を決めて参りましょう。斯様な中では御座いますが、皆様少しでも“よい御歳”をお迎えくださいませ。本年中は誠にお世話になり、ありがとうございました。来年も本館へのご支援を賜りますようお願い申し上げ、本年最後の脈絡なき「館長メッセージ」とさせていただきます。また、年末年始の開館日をサブタイトルに掲げております。ご来館の前に是非ともご確認をくださいますように。
しめやかに、新たな歳である令和4年(2022)を迎えることとなりました。皆様におかれましては、新年を如何お迎えでいらっしゃいましょうか。昨年も一昨年に引き続きコロナ禍に翻弄された一年でありました。変異ウィルス「オミクロン株」による第6波の流行が懸念されるところでございますが、可能な限り軽微な状況でおさまるようにせねばなりません。昨年末の鎮静期には、国内でも我々の気の緩みが指摘されましたが、それが冬本番の年明けに凶として現れることのないようにしなければなりません。
さて、「十干十二支(じっかんじゅうにし)」[通常は略して「干支(えと)」と呼びならわします]で申せば、本年は「壬寅(みずのえとら)」となります。十干のうちの「壬(みずのえ)」は「次の生命を育む準備をしている状態(賃厳冬・静謐・沈滞)」を意味し、十二支のうちの「寅(とら)」は「誕生(生命力)」を指すとのことです。併せて申せば「陽気を孕み、春の胎動を助く」状態、つまり「静から動へ」の始動を意味する干支ということになりましょうか。不思議と納得させられてしまう「干支」の持つ意味でございます。詰まるところ、コロナ禍の沈滞を破ってより良い方向へと進むとの意味合いととらえられましょうか。何れに致しましても、本年がコロナ禍終息とコロナ禍を乗り越えた「佳き歳」となることを祈念したいところでございます。昨年と今年の連続開催で何処かしらピンと参りませんが、2か月後には北京「冬季オリンピック」があります。世界では、それにつきましても様々な政治的な動向が漏れ聞こえて参ります。本来であれば、五輪にそうしたゴタゴタを持ち込んでもらいたくはありませんが。むしろ、多大な予算を要する開催の在り方、巨大資本によって左右されがちな五輪の在り方が大きな問題ではないかと、個人的には考えますが如何でしょうか。
さて、新年を迎えたばかりでありますが、令和3年度は未だ四分の一を残しております。そして、標記副題でお示し致しましたように、展示会としては本年度最後となるパネル展を標記会期にて開催致します。その名も『千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)』。本パネル展は、令和8年度に迎える「千葉開府900年」に向け、千葉氏の諸相についてテーマに沿って紹介をすることを目的にしております。要するに、大枠で申す「千葉氏関連パネル展」なるテーマ性をもった、一連のパネル展を構成する内容であり、平成28年(2016)度開催『全国に広がった千葉氏』、平成30年(2018)度開催『千葉常胤ゆかりの地』、平成31(令和元)年(2019)度開催『千葉氏Q&A』、令和2年(2020)度開催『千葉氏前史-将門と常胤-』に続く、シリーズ5回目のパネル展となります。これから令和8年度に至るまで、引き続いて毎年開催をして参る計画でございます。過去2回は夏前開催でしたが、本年度に限って年明けに開催する理由は、何処かで耳にした気もする本展タイトルをご覧になれば自ずと明らかでございましょう。本年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にあやかった企画だからに他なりません。企画自体としましては「乗っかれるモノなら乗ってしまえ……」的な安直さは正直否めないところですが、申し添えて起きたいことは、中身は一切手抜きなしの充実した内容と自負するところで御座います。皆様、是非ともご安心の上でご来館くださいますように。内容詳細につきましては、近くなりましたら御紹介をさせていただこうと存じます。また、過去2回と同様に関連『ブックレット』(1冊100円を予定)の刊行もいたします。ただし、会期当初の刊行は難しい状況であり、販売開始は2月中旬以降となってしまいます。その点を御承知いただけましたら幸いです。
そして、年度内刊行物と致しましては、その他、3月末日に毎年恒例『千葉いまむかし』・『研究紀要』最新号を、前回「館長メッセージ」でお知らせ致しましたように『千葉市の歴史読本(仮称)』をそれぞれ刊行いたします。また、ブックレット『陸軍気球連隊と第二格納庫』の年度内刊行も期するところでございます。また、催しといたしましては「歴史散歩」もご準備してございます(申込期間は、本日1月1日(土曜日)より同14日(金曜日)までとなります)。申し込み方法につきましては「本館ホームページ」「ちば市政だより1月号」にてご確認ください。今回は、昨年実施の第一弾「房総往還を歩く」に引き続く「第二弾」となり、前回の寒川から蘇我までのルートに続く経路である、蘇我から浜野までの旧道を歩きます。身近な地域の歴史をたくさん発見できるコースとなりますので、是非お申込みください。昨年同様に日を替えて同内容を2回実施いたしますので、何れかの参加で御申し込みください(応募者多数の場合は抽選となります)。
4月以降の新年度事業企画につきましては、予算配分もこれからであり、現段階で申しあげるのは時期尚早ではございますが、少しだけ“匂わせ紹介”をさせていただきます。特別展(企画展)としましては、この2年間が「市制施行100周年」に因んだ「近現代」を扱う内容でございました関係で、次年度は「中世」+「近世から近現代までに跨る時代」の内容を準備しております。双方ともに、よく知られた人物を切り口にして、各時代の様相、及び時代の移りかわりを皆様に御理解いただこうとの意欲的な内容になるものと存じます。是非ともご期待下さい。本館のホームページ・ツイッター等SNSを通じての情報、毎月配布される「ちば市政だより」、また公民館・学校等の公共施設に添付されるポスター等の情報にご注意をくださいますように。
言葉整いませんが、以上、初春のご挨拶とさせていただきます。本年も皆様の知的好奇心を大いに刺激すべく、様々な形での発信をして参りますので、何卒市民の皆様のご支援とご協力とをお願い申し上げる次第でございます。
本館は、副題にもございますように、年始につきましては3日(月曜日)まで休館。4日(火曜日)より開館となります。ご確認の上でご来館くださいますようにお願いいたします(翌週の「成人の日」は開館、翌日は閉館と変則になりますのでご注意ください)。 |
渋沢栄一を主人公とした昨年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』が好評の裡に終了しましたが、代わって令和4年(2022)の大河ドラマが、いよいよ明後日9日(日曜日)より幕を開けることになります。その名も『鎌倉殿の13人』。過去に『新選組』『真田丸』で大河ドラマを担当された三谷幸喜さんの脚本となります。近藤勇を元SMAPの香取慎吾が演じた前者はいざ知らず、堺雅人が真田信繁(幸村)に扮した後者については、ついつい引き込まれて結局のところ、その殆どを拝見する羽目に至りました。それだけ、三谷氏のストーリーテラーとしての力量が優れるということの証左でございましょう。従って、今回も良い意味で大いに翻弄される一年となることに期待するところ大であります。
今回取り上げられるのは平安時代末期から鎌倉時代初めにかけての時代。主人公は小栗旬の演ずる北条義時となります。この時期を描いた大河ドラマとしては、平成12年(2000)以降に限れば、滝沢秀明が主人公を演じた『義経』(2005)、松山ケンイチ主演の『平清盛』(2012)くらいかと思われます。今回の『鎌倉殿の13人』とほぼ同時代を扱い、更にドラマとして描かれる舞台と登場人物が重なるのは、『義経』を遡ること26年、昭和54年(1979)放映『草燃える』となりましょうか。勿論放映されたことは知ってはおりましたが、『義経』『平清盛』は視聴に及びませんでした。しかし、『草燃える』は放映当時それなりには接していた記憶がございます。丁度当方が20歳の頃、学生時代でありました。流人である源頼朝が決起し、源平の争乱を経て武家政権を樹立。それからの源氏将軍三代の歴史を描いた群像劇であったと記憶しております。元より主人公と目されるのは北条政子でありましょうが(演じた岩下志麻はまさに嵌り役だったと思いました)、周囲を固める役者陣も重厚でありました。どこか優男風な源頼朝を石坂浩二が、その子の二代将軍源頼家を郷ひろみが、三代将軍実朝を篠田三郎が、そして今回主人公となる北条義時を松平健が演じておりました。朧げな記憶ではありますが、その際にも義時はドラマ後半で、北条政子の弟として幕府内権力確立に向けて暗躍する重要な役回りとして描かれていたように思います。若い時分の純朴な青年が、幕府内部での権力闘争を経ることで、強かで冷徹な権力者へと変貌を遂げてゆく姿は印象的でした。特に、参詣に訪れた鶴ヶ岡八幡宮で将軍実朝が甥の公暁によって暗殺され、すぐさま公暁も斬り殺されたシーンでの義時の姿は、今でもはっきり覚えております。その際、不敵な笑みを浮かべる義時の姿に凄味すら感じさせられたこと、役者としての松平健の表現力に感銘を受けた次第でございます。当時は批評精神など更々無く漫然と見ておりましたが、今思えば「実朝暗殺の黒幕は義時」との設定だったのでしょう。
因みに、『草燃える』の原作は、永井路子(1925~)の小説作品『炎環』だそうですが、『北条政子』他の永井作品の要素も取り入れ、脚本家の中島丈博(1935~)が構成したようです。当方は歴史小説家としての永井作品にお世話になったことは皆無ですが、NHKの歴史関係番組でコメンテーターとして活躍されるお姿に度々接した記憶がございます。最近はその作品にもご本人の姿にも接する機会も絶えて久しくなりましたが、今回調べて驚いたことは、現在も97歳にてご存命でいらっしゃることです。また、脚本家の中島は、この後も大河ドラマの脚本を三本も手掛けております。合計で4本の大河ドラマを手がけた脚本家は、現在まで唯一中島丈博のみとのことです。『草燃える』以外の作品は、『春の波濤』(1985年)[川上貞奴]、『炎立つ』(1993年)[奥州藤原氏]、『元禄繚乱』(1999年)[忠臣蔵]の三本となります。当方は、中村勘三郎(当時は勘九郎)が大石内蔵助を演じた『元禄繚乱』を拝見しておりましたが、他は存じ上げません。
さて、いよいよ、本年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』についてであります。何も年明け早々、如何なる番組なのかも判然としない内に、NHKの片棒を担がなくても良いのではないか……とのご意見もございましょう。その御意見は誠にご尤もです。確かに、毎年恒例の大河ドラマであれば、当方が斯くも賑々しく取り扱うことなどしないことは確実です。しかし……、しかしです。今回の大河ドラマには我らが郷土縁の「千葉常胤」が登場致します。千葉市の博物館として、これを“知らんぷり”して通すことなどできるものでは御座いません。折角の機会が先方からやって来たのですから、これに乗らぬ手はないというものです。何よりも、千葉市民にも思いのほか知られているとは言い難い千葉常胤という人物、そして千葉一族について、少なくとも御理解をいただく契機にしたいものと存じております。
因みに、本作を取り上げようとして、当初はタイトルに「大河ドラマに千葉常胤が初登場!!」と、大々的に掲げておりました。しかし、「もしや……??」と思って、可能性のある先行作品に当たってみたところ、瞬く間に同時代に試聴していた筈の『草燃える』に千葉一族が4人も登場していることを発見!!いやはや、「馬脚を顕す」とはまさにこのことでございます。確かに、鎌倉幕府草創期を描いた作品で、千葉一族を描かないで済ませることは逆に難しいと思われます。何れにせよ、彼らが、どのような場面で如何なる形で登場したのか、当方には全く記憶が御座いません。資料に拠れば、小笠原弘が千葉常胤を、時本武が千葉(東)胤頼を、堀勝之祐が東重胤を、神田正夫が千葉胤綱を、それぞれ演じているとのことです(俳優につきましてはその姿がパッと浮かぶ方はいらっしゃいません)。いやはや迂闊でした。つまりは、二度目の出演ということだと思われます(もしかして他の大河ドラマにも出演していた可能性も無いわけではありません)。
そのような訳で、皆様に『鎌倉殿の13人』なる大河ドラマを御紹介するに当たって、流石に“丸腰”で臨むわけにもいかず、“NHK大河ドラマガイド”なるMOOK本を生まれて初めて購入することにいたしました。それが『鎌倉殿の13人(前編)』2021年(NHK出版)に他なりません。昨年末に発売された湯気のでるような新刊本であります。中身を拝見すると第20話までの粗筋なども掲載されております。今後「後編」「完結編」の刊行が予定されているようでありますが、そもそも、斯様な分冊で発売されていることも初耳でした。従って、本作の後半が如何様に進行するのかまでは現時点では分かりかねます。そもそも、北条義時(1163~1224)が主人公でありますから、生没年から考えても千葉常胤(1118~1201)御出座が前半のみであることはほぼ間違いありますまい。その後に追加キャストが発表され、後半で常胤後裔が登場する可能性が無い訳ではありませんが、頼朝も常胤も没した後に成立する「13人の合議制」なる体制中(後述いたします)に、千葉一族は選ばれてはおりませんので、常胤没後の後半で千葉一族の登場する可能性は低いモノと思われます。何れにしましても、源頼朝による武家政権の樹立に千葉常胤とその一族が果たした役割は誠に大なるものがあります。そして、天正18年(1590)羽柴(豊臣)秀吉による小田原攻めに連座して、千葉氏が滅亡するまでの大凡400年強にわたり、この下総の地で覇を唱えてきたこと。更には、一族が北は東北から南は九州の各地に展開することとなった起点こそが、頼朝と常胤の出会いと、常胤の類い希なる功績に発していることは間違いありますまい。我々の居住する「千葉市」とは、そうした意味でも「日本史上の画期」を生み出した一つの大きな震源地でもあるということを。是非ともドラマを見ながら興味・関心を持っていただく契機としていただければと祈念致す次第でございます。
(後編に続く)
MOOK本では、各配役をはじめとする方々のインタビュー記事が大部を占めておりますが、何よりも全体像を見渡している脚本家三谷幸喜の言葉を御紹介致しましょう。三谷氏は、自身が鎌倉時代の実像について細かく理解しているとは言えなかったと語った上で、多くの視聴者の方々でもそれは同様であろうとされております。その意味で、従来の大河ドラマにはない予測不可能な面白さがあるのではないか、そして、まさにそのことが鎌倉時代を描く動機になったと述べておられます。更に、タイトルの由来について、『鎌倉殿の13人』の「鎌倉殿」が頼朝のことであり、「13人」が頼朝の死後、合議制で政治を動かした人数を示していると語っておられます。その13人も権力闘争で徐々に脱落していくこと、そもそも頼朝の生前からパワーゲームが熾烈に繰り広げられており、今日の味方は明日の敵と言わんばかりの、予測も付かない御家人同士の立ち回りを、手に汗を握る思いでご覧頂けるであろうとも述べていらっしゃいます。また、執筆していると、当時の風俗や空気感、人々の思考や行動が戦国時代や江戸時代とはまるで異なっており、むしろ原始時代に近いのではないかと思うことすらあるとも。だからこそ、時代像を描くために、きちんと史料を読み込んで(『吾妻鏡』)、史実から外れることのないように書くことを心がけており、その意味で、自分の大河ドラマは決して荒唐無稽ではないと自負されております。また、主人公の北条義時については、御家人13人の中で最後に残ったのが義時であり、一番若い義時が最後に幕府の最高権力者となること、しかし恐らく義時にとってそれは当初からの目的ではなく、想像もしなかった時代のうねりに巻き込まれる中で選び取らざるを得なかった結末に過ぎず、こうした刻々の移りかわりを義時役の小栗旬がどう演じるのか楽しんでほしいとも。そして、印象的にこう締めくくられております。「結果として義時は勝者であるが、果たして本当の意味での人生の勝者だったのか、その答が最終回にある。彼が最後に見たものは何だったのか」と。
ここで、若干の補足をさせていただきましょう。ここで言う「鎌倉殿」とは、基本的には鎌倉幕府で征夷大将軍に任命された人物を指しますが、より正確には東国御家人によって推戴された「鎌倉」を拠点に定めた武家政権の棟梁を指すと申せましょう。何故ならば、頼朝が後鳥羽天皇から征夷大将軍に任じられるのは建久3年(1192)のことでありますが、それ以前に鎌倉の地で地盤を固めており、東国御家人から武家の棟梁として扱われておりました。更に、既に「鎌倉殿」として認識されてもいたからです(今では教科書でも鎌倉幕府の成立を、我々が「イイクニつくろう」で覚えた「1192年」として扱うこともなくなっております)。彼の子として将軍を継承した頼家・実朝も「鎌倉殿」であることは勿論、その断絶後の摂家将軍と親王将軍も「鎌倉殿」ということになりますが、「征夷大将軍」が正式に朝廷によって任じられる官職であるのに対し、「鎌倉殿」とは東国御家人たちが武家の棟梁として仰いだ人物に対する心情的な敬称であると言っても差し支えなかろうと存じます。
次に、13人とは誰のことであって、如何なる集団を意味しているのかを簡略にご説明申し上げます。これは、建久10年(1199)1月に頼朝が急死し、それによってその子頼家が後継将軍として「鎌倉殿」となった中、同年4月に幕府内で有力御家人13人による合議制が導入されたことを指します。従って、ここで言う「鎌倉殿」とは正確には二代将軍頼家を指し、その下で有力な御家人13人が18歳という経験値の低い「鎌倉殿」を補佐するために発足した体制ということになります。後の嘉禄元年(1225)、承久の乱において東国御家人の精神的支柱となった北条政子が死没。「鎌倉殿」として迎えられていた九条頼経が元服し、征夷大将軍に任官される新体制への移行に際し、北条泰時(義時の子)によって成立した有力御家人による合議体制「評定衆」の先駆けとなる体制と申せましょう。この13人に選ばれた御家人は、北条氏から2人(北条時政、その子の義時)、源氏将軍に近い有力御家人から7人。すなわち、頼朝の乳母の一人であった比企尼の甥(後に養子)で頼家の乳母の夫でもある比企能員、頼朝の寵臣で側近中の側近である梶原景時、頼朝が流人時代から近くで仕え千葉常胤を味方につける交渉に尽力した安達盛長(比企尼の娘婿でもある)、石橋山の合戦前後から頼朝に付き従い、父三浦義明が三浦半島の衣笠城で平家方に討たれた相模国在庁官人の三浦義澄、同じく三浦一族で義明の孫である和田義盛、常陸の御家人八田知家、平治の乱で頼朝の父義朝に従って奮戦した武蔵の御家人足立遠元。続いて、武力で幕府に奉仕する武士に対して朝廷との交渉や幕府内文書処理等を専らとする事務系家臣である文士(文官)から4名。すなわち、母が頼朝の乳母の妹で流人時代から頻繁に京の情勢を伝えていた三善康信、元朝廷に仕えた官人で頼朝から乞われてその臣下となった大江広元、大江広元の兄弟にあたる中原親能、藤原南家流工藤氏の流れをくみ、母は熱田神宮の大宮司藤原季範妹(頼朝母の叔母にあたる)二階堂行政。以上合計13人なる構成となっております。何れも、流人時代を含めた極々初期から頼朝を支え続けて来た面々、母系や乳母として頼朝と幼少期の縁で深く結びつく係累であるいって宜しかろうと思われます。
さて、話を元に戻します。何故、頼家政権下で斯様な合議制が採られることになったのかについては諸説があります。これまでよく言われてきたのが、これが頼家の独裁体制を掣肘するための体制整備であり、同時に頼家の外戚である比企氏の台頭を抑えることを目的として、北条氏の強い意向の下で行われたとの言説でありましょう。しかし、今日では、それらは結果から遡った類推に過ぎず、そもそも、合議制と言っても13人が一同に会して合議した事案は確認できていないことからも、若輩の将軍を豊富な経験値のある宿老が補佐するための体制整備であったとの主張される方もいらっしゃいます。しかし、この13人中には、乳母の係累に関して深い関係をもつ小山氏が含まれていなかったり、とりわけ頼朝時代に筆頭御家人として処遇を受けてきた千葉氏が選ばれていないこと等、不思議に思われる点もございましょう。実際のところ、千葉常胤を筆頭とするその子息達(千葉六党)は、頼家誕生や折々の成長儀礼を度々掌るなど、いわば頼家の“後見役”として頼朝から大いに期待されていた節が読み取れます。このことから、幕府創設の最大の功労者でもある常胤が頼朝を追うように建仁元年(1201)に死去したことを契機に、北条氏は頼家の与力勢力と目される有力御家人千葉一族を意図的に合議体制から外したとは考えられないでしょうか。飽くまでも素人の当てずっぽうにすぎないかもしれませんが、「13人の合議制」とは、以前から云われていたように、頼家独裁と支援勢力の掣肘のための体制であると言えるのではありますまいか。逆に、千葉氏は「13人の合議制」に入らなかったからこそ生き残れたのかもしれません[後続の「評定衆」に一族として唯一加えられた上総(千葉)秀胤は、宝治元年(1247)「宝治合戦」で三浦一族に連座する形で北条氏によって共に粛清されておりますから)。このあたりが、ドラマで如何に描かれるのかを愉しみにしたいところです。
明日放映の初回は、平安時代末期、平家政権全盛期における伊豆国から幕をあけるようです。平治の乱で平清盛との抗争によって敗死した父源義朝に連座し、永暦元年(1160)流人として伊豆に流されてから早15年。伊東祐親の監視下にあった頼朝と、祐親の娘との間に男児が生まれたことから、騒動が勃発することになります。平家政権下に置かれていた伊豆国で、流人として過ごす源氏に好き勝手が許される筈もなく、その子が生まれることは伊東祐親が平家からその責務を問われることに繋がるのです。斯様な状況下で、北条一族が如何に判断し、如何に対応するのかに注目してご覧下さい。因みに、よく言われるような「源氏の嫡流頼朝」という意識は後に頼朝が意図的に創り上げたものであって、源氏一族が各地に逼塞しながらも存在している当時、決して自明の理ではなかったことをお知りおきくださると宜しいかと存じます。第20話までに、伊豆の地で蜂起した頼朝が多くの東国武士に担がれて鎌倉に入り、平氏との戦いに勝利して実質的な武家政権の基盤を創り上げるまでが描かれるようです。20話では、兄頼朝と対立し、奥州藤原氏に庇護される源義経が描かれております。
最後に、本大河ドラマの前半を楽しむために是非ともオススメしたい書籍を御紹介致します。それは、細川重男『頼朝の武士団-鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」-』2021年(朝日新書)であります。本書は、2012年に洋泉新書として世に出た書籍に大幅に加筆して成立した書籍です(洋泉社が活動を停止したために長く入手困難でありました)。細川氏は中世内乱期・鎌倉幕府の政治体制についての優れた研究者のお一人でございますが、本書の書きっぶりは、お堅い学者夫子の手になるとも思えない、誰もが身近に歴史をとらえることを可能とする、極めて親しみやすいものとなっております。当初は一部の方々から「おふざけが過ぎるのではないか」と随分と指摘を受けられたようですが、細川氏としては、当時に生きた人々の実感を現代の感覚で理解して貰うために、あえて選んだ手法であると述べておられます。そして、細川氏の意図は充分に達成されていると存じます。これは専門書ではなく、誰もが手に取る一般書であります。当方は400頁を越える書籍をあっという間に読み終えました。正直「あぁ~、面白かった!!」「この時代が皮膚感覚として理解できた」との思いでございます。これが、税別で千円以下で販売されているのですから、申し訳なく思うほどで御座います。本書をお読みいただければ、少なくとも本大河ドラマの前半が何十倍も楽しめるようになることは請け合いです。以下に、承久の乱に際して北条政子が御家人に対して発した、よく知られる“声涙ともに下る大演説”を引用しておきましょう(歴史漫画・ドラマで屡々みられる政子が御家人を前に熱弁する姿は史実にはあらず、実際には政子の意思を安達景盛が代読したというのがホントウの姿に他なりません)。まずは『吾妻鏡』の原文を、以下に細川意訳を掲げます。著者曰く「わざわざ海を“溟渤”と書いたり、『吾妻鏡』特有のムダな難解さとムダな拡張高さがあり、名文と言えば名文なのかも知れないが、元が田舎娘に過ぎない政子がこんな難しい言葉を知っているわけがない」と。なんとも痛快ではありませんか。大河ドラマの後半は、本書の守備範囲から外れる部分もございますので、本館でも大変にお世話になっております野口実先生、その優秀な門下生の著作等を追って御紹介させていただきたいと存じます。
「皆、心を一にして、承るべし。これ、最期の詞なり。故右大将軍、朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い、俸禄と云い、その恩、既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し・報謝の志、浅からんや。しかるに今、逆臣の讒によりて、非議の綸旨を下さる。名を惜むの族は、早く秀康、胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。ただし、院生に参ぜんと欲するの者は、只今、申し切るべし。」 「みんな、心をひとつにして、聞いて。あたしの最後の言葉よ。あたしの佐殿(頼朝)が、悪い奴らを全部やっつけて、この関東(鎌倉幕府)を作ってくれてから、官位(官職と位階)でも、シノギ(収入)でも、佐殿が、みんなにしてくれたことの恩は、山よりも高くて海よりも深いでしょ?みんな、佐殿に、すッ!ごく!『ありがとう!』って思ってくれてるよね?それなのに、京都の卑怯者どものウソに騙されて、お内裏様(天皇)がトンデモないご命令をお出しになっちゃったのよ。自分の名に恥ずかしくなく生きているって思ってる勇士の人は、能登守ナントカいうヤツ(藤原秀康)や三浦平九郎(胤義)たちをソッコーで(ただちに)ブチ殺して、佐殿と太郎(頼家)と次郎(実朝)が残してくれたものを守るのよ!もし、こン中に、『関東より京都が良い』って思ってる人がいるンなら、ここでハッキリそう云って、トットと、こっから出て行きなさい!」 |
如何でしたか?須らくかような感じで描かれますが、事実を語る中身については研究者としての矜恃を一歩も外していないことが素晴らしい。兎にも角にも、無類なほど愉快に当該時代を深く御理解いただけること疑いなしの比類無き書物であると存じます。皆様も是非!!
今回は、のっけから「訂正」と「お詫び」から。前稿で本年度のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の御紹介をさせていただきました。その中で、源家最後の「鎌倉殿」実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁によって暗殺され露と消えた際、その場で直ぐ様斬られた公暁……と述べましたが、事実は随分と異なっていたようです。当稿が本館HPにアップされた当日、偶々読了した岩田慎平『北条義時-鎌倉殿を補佐した二代目執権-』2021
年12月25日刊(中公新書)には以下のようにありましたので引用させていただきます。
健保2年正月二十七日、夜になって雪が二尺(約60センチメートル)ほど積もったという。実朝の晴れ舞台である(引用者註:右大臣就任の儀式を指す)。京都からはゆかりのある貴族たちも多数下向し、この拝賀に参列した。だが、この日実朝の最側近として御剣役(剣を捧げ持つ役)を努めるはずであった義時は、直前になって心身に不調を来し、その役を源仲章に譲って自邸へ戻ったという。 (上記書籍159頁より) |
当方は、このトシに至るまで、てっきり前稿に記したように思い込んでおりました。自らの不明を恥じ入るばかりであり、まさに汗顔の至りでございます。『草燃える』では公暁は直ぐさまに斬られ、その場に居合わせた義時が不適な笑みを浮かべていたように記憶していたのですが……。改めて、人の記憶の曖昧さ、何事も思い込みで書くことの恐ろしさをしみじみと実感した次第でありました。ひたすら“反省”でございます。因みに、義時に代わって急遽剣持役を引き受けることになった源仲章もまた白刃の犠牲となりました。まぁ、かような次第でありますから、昔から「義時黒幕説」なるものが流布して参ったのでありましょう。しかし、岩田氏は、義時には実朝を闇に葬る動機が全く存在せず、飽くまでも追い詰められた公暁の単独犯であることを明確に論証し、当説を退けていらっしゃいます。それにしても、身代わりのようにして儚くなった仲章はお気の毒としか言いようがありません。余談ですが、本書で、法名である「公暁」を「くぎょう」ではなく「こうぎょう(こうきょう)」と訓ずるべきとする説があることも初めて知りました(本大河ドラマの時代考証を勤める坂井孝一氏による)。その根拠は、公暁の師である園城寺の公胤が、「こういん」と称したことによるとのことです。従うべきでございましょう。
前稿の最後に、細川重男氏の著書をお薦めし、追って北条義時関係の書籍を紹介させていただく旨のことを書きましたが、折角の機会でございますので、お詫びと併せてこの機会に数冊を御紹介させてください。その1冊目が、他ならぬ上記岩田氏の著作であります。書名は「北条義時」を冠しておりますが、源頼朝の挙兵から義時没後の公武関係まで扱っており、義時の活躍を描くのは主に半ば以降となっております。しかし、当方もよく講座講師の際にお伝えするように、優れた評伝(講義)とは、単に個人の業績にのみ焦点を当てるだけにあらず、前後の時代像の中に当該人物が明確に位置づけられ、当該時代・社会と当該人物が如何に斬り結んだのかが見えてくる作品である必要があるものと信じて疑いません。そうした過程を経ることで、人物を通して時代像が浮かびあがることこそが肝要です。その意味で、本書は理想的な内容だと存じます。細川氏のアプローチとは異なりますが、大変に充実した読書時間を過ごす事が出来ました。何よりも、鎌倉幕府成立前後の「武士」の把握が、若い頃に私たちが学んできた「東国の農村に土着して“一所懸命”所領経営を行う質実剛健な在地勢力」といった姿とは大いに異るものとして描き直されようとしているのです。その先陣を切って歩む研究者こそが野口実氏だと存じ上げます。そして、現在神奈川県愛川町郷土資料館主任研究員でいらっしゃる著者の岩田慎平氏もまた、野口実先生に学んだ門下生のお一人でございます。道理で、優れた内容であり、研究者の方であると合点のいく思いで御座います。
続けて、山本みなみ『史伝 北条義時 ―武家政権を確立した権力者の実像-』2021年12月28日刊(小学館)を読み始めたところです。著者の山本さんは現在鎌倉歴史文化交流館でご活躍の学芸員でいらっしゃいます。山本氏には昨年度本館開催の千葉氏市民講座での御講演を御願いしておりましたが、残念ながらコロナ禍で実施ができなくなり、代替として講演内容を論考形式でご執筆いただきました(「和田合戦と千葉一族」:論考は「千葉氏ポータルサイト」で御読みいただけます)。その内容が極めて明晰で示唆に富んでいることに瞠目させられておりましたので、今回の著作にも大いに期待して読み進めておりますが、最新の研究成果と反映した精緻な論述は、これまである“義時”の名を冠した書籍を超える新たな発見と刺激に満ちております。間違いなく、読了後に機会を見て第三弾としてご推薦をさせていただくことになろうかと存じます。因みに、彼女もまた野口門下の若手研究者でございます。最後に、これを機に鎌倉幕府の在り方や、それを支えた北条氏各流の人物像を一通り掴んでおきたいという向きに、この半年間に戎光祥出版から上梓された新刊本を御紹介いたします。それが、田中大喜編『図説 鎌倉幕府』と、野口実編『図説 鎌倉北条氏』の2冊でございます、ともに好評の「図説シリーズ」であり、入門書としても最適であるばかりか、当方のようななまじ聞きかじって知っていると思い込んでいる半可通にとっても、これまでの認識の修正を迫られる、最新の知見に満ちている優れた書籍になっているものと存じます。専門家が監修(時代考証)されているとは申せ、大河ドラマは飽くまでも“おはなし”であります。この機会に、皆様も最新研究成果で、頭脳データの「アップトゥーデイト」をされては如何でしょうか。
さて、ようやく本題に辿り着きました。昨年末から年始にかけて、北日本と日本海岸の地域では例年にない大雪に見舞われているとの情報を耳目にしておりました。しかし、カラッと晴れた坂東の地に居住する当方などからすれば、何処かしら他所事として受け止めていたのが正直なところでした。ところが、その報いを受けたのでしょう。新春早々6日に、関東南部でも能天気な太平楽を吹き飛ばすような大雪に見舞われました。過日『北越雪譜』を採り上げた際、暖国人の雪への憧憬を、雪国の方々が往々にしてシニカルな思いで受け止めていらっしゃることに触れましたが、翌日の報道を見ると案の定「あれで大雪とは片腹痛し」「臍で茶が沸く」等々のコメントのオンパレードでありました。まぁ、お腹立ちの筋はご尤もでございますが、砂漠に雨が降れば当地で大雨と認識されるようなモノです。コトの“大小”は相対的な認識でございますので、何卒ご容赦いただければと存じます。当方、当日は出勤日でありましたが、本館のあたりでは予報に反して午さがりからは本降りに変わり、あれよという間に亥鼻全山を挙げて雪化粧となりました。触ると指の隙間から零れ落ちていくような、この地方には珍しい“粉雪”であったように思います。それだけ上空に陣取る寒気の勢力が強かったのでしょう。気象学のことはさっぱりでありますが、斯様な様子を「冬将軍」の到来と称するのでしょうか。
深々と降り積もる雪に、街もまた森々とした静けさに包まれていきました。すっぽりと雪に覆われた街は、次第に純白に塗り替えられ、品の宜しからぬ色彩も須らく覆い隠されていきます。あたかも身も心も洗われてゆくように感じられます。日が落ちてからは、誰からも踏みしめられていない滑らかな雪面に光が反射し、夜目にも明るい「雪明かり」に亥鼻山が照らされていくようです。そして、山のあちらこちらに灯る水銀燈の裾野だけが暖色に照らされて、恰も「日だまり」のように見え、その美しさに陶然とする思いでございました。もっとも、温泉の露天風呂に浸かっての雪見酒を決め込んでいるわけではありませんので、その一方で、“明朝の残雪処理は如何に図ろうか”等々の業務上の諸問題やら、“電車は正常に動いているのか”“果たして無事に帰宅できるのか”“長靴を履いてくればよかった”等々の個人的な諸問題といった“冷や水”を矢継ぎ早に浴びせかけられ、風流な思いなどは瞬く間に覚めてしまいました。実際のところ、翌朝は4時起床で出勤し、同じく早朝から出勤に応じてくれた職員と警備・清掃担当の皆さんと力を併せて除雪作業を行いました。まさにカチンコチンに固まった凍雪のオンパレードで、作業は遅々として進まず、お陰で数日間は腰と腕の筋肉痛に悩まされました。
(中編に続く)
今回の積雪では、単に「美しい」、単に「困った」に留まらず、様々と思うこともまたございました。そのひとつは、当日駅から自宅まで雪を踏みしめて歩きながら、その昔に読んだ太宰治の作品『津軽』巻頭部分の記述を思い起こしたことから始まったのでした。そこには、確か幾つか「雪」に纏わる言葉が列べられてはいなかったかと。そして、その思いとは、我が国には「雪」を冠する言葉が数え切れないほどあるな……との想いでもありました。早速、帰宅後に書棚の奥から引っ張り出した本作を確認したところ、太宰が掲げているのが「津軽の雪 こな雪 つぶ雪 わた雪 みず雪 かた雪 ざらめ雪 こおり雪」であり、「東奥年鑑」と出展まで添えられておりました。当該書籍について調べたところ、何と!書名もそのままに、「令和4年(2022)版」が刊行されているではありませんか。どうやら、青森県の東奥日報社が昭和3年(1928)に刊行を開始した統計書であり、一時の休刊を経て本年度版が通巻87号に到るという、全国でも稀にみる長い歩みを続けるそれであるとのこと。何でも、「青森県内1年間の大きな出来事、各界の動きをコンパクトに収容している」書籍とのことです。
『津軽』は、太宰が昭和14年(1439)に居を三鷹に移してから5年後、心身ともに充実した太宰36歳の作となります[昭和19年(1944)]。つまり、既に『東奥年鑑』は巻を重ねていたというわけです。太宰が愛人と玉川上水に入水して享年38にて没したのが昭和23年(1948)ですので、ちょうど死の10年前となります。因みに、千葉市では御座いませんが、太宰は昭和10年(1935)から1年間強、船橋町五日市本宿(現船橋市宮本)の新築借家に居住しておりました。また、当時太宰が逗留して執筆を行った部屋が残る「玉川旅館」本館(登録有形文化財)も当時のままに残され営業を続けておられました。しかし、コロナ禍の中で料理旅館としての経営が立ち行かなくなったためか、保存運動も虚しく残念乍ら昨年に解体されております。船橋市への保存を求める運動も展開されたのですが……。当方も、今から10年程前に当館に投宿したことがございます。その折に、太宰の逗留した部屋を拝見させていただきましたが、宿代の代わりに万年筆等を置いていったというその部屋は至って質素で狭いものでした。それにいたしましても、千葉県内における貴重な建築遺産の相次ぐ滅失を惜しまずにおれません。
余談とはなりますが、太宰治『津軽』は一読すると旅行記・随筆に思えますが、あくまでもその形を借用した小説作品であると目されております。当方は、太宰の愛読者とは申せませんが、本作や『富嶽百景』等における飄々とした語り口の作品を好んでおります。太宰は津軽の旧家に生まれた御曹司でありますが、本作で紡がれる忘れ難き故郷の人々は、須らく旧家で使われる下男・下女といった人々ばかり。津軽の風土に生きる名もなき人々に寄せる共感に、世の中を下から見上げるような、彼の作風に通底する諧調を感じ取れるように思います。そして、その背景にはいつも津軽の冬枯れた風景と吹き付ける風の音とが、まるで通奏低音のように鳴っているとも感じます。その意味で、本作中に印象的に描かれた、縋れた「十三湖(じゅうさんこ)」の光景を忘れることができません。中世に安藤氏が十三湊(とさみなと)を拠点に栄華を誇った、その跡の“今”を是非ともこの目で見たいと思っておりますが、未だに果たせておりません。
話を元に戻しましょう。当日の宵の口に歩いた地元の積雪は、随分と沢山の人々に踏みしめられていていましたから、太宰の言う「かた雪」なのかもしれません(翌朝の凍り付いたカチカチの雪は間違いなく「こおり雪」でございましょう)。「こおり雪」には別に「凍雪(しみゆき)」なる呼称もございます。宮沢賢治の作品に親しんだ方であれば、その作品の一つ『雪渡り』で、子ども達が囃し立てる印象的な「かた雪かんこ、しみ雪しんこ」なる“囃子言葉”を想い浮かべるのではありますまいか。当方は、小学生の折に初めてこの作品に接してから今に至るまで、片時もこのフレーズを忘れることがありません。それほどに印象的な囃子言葉であります。申すまでもなく、賢治も奥州岩手県花巻の人であります。
かように、「雪」のつく言葉には印象に残るものが多くあります。現在大雪で難儀していらっしゃる方からは苦言を呈されそうですが、それだけ人々の心をとらえて放さなかったからに他なりますまい。ただ、『津軽』で太宰の挙げた雪の種類には、様々な雪の在り方が混在しているように思います。ここで、少しそれらを整理して分類してみると、概ね以下のように纏められますまいか。それにしましても、美しい言葉の目白押しです。当方の手元にはございませんが『歳時記』あたりを紐解けば、もっともっと沢山の雪に纏わる豊穣なる「季語」の世界に遊ぶことができようかと存じます。
1. 「降雪時期による呼称」 ~初雪・大雪(たいせつ)・小雪(しょうせつ)・暮雪(ぼせつ)・名残雪(なごりゆき) 等々 2. 「降雪状況・状態による呼称」 ~細雪(ささめゆき)・粉雪・牡丹雪・淡雪(あわゆき)・雪風 等々 3. 「積雪状況による呼称」 ~新雪・薄雪(うすゆき)・粗目雪(ざらめゆき)・堅雪(かたゆき)・氷雪・凍雪(しみゆき)・残雪・根雪・深雪(みゆき)・万年雪 等々 4. 「その他」 ~雪明かり・雪掻(ゆきかき)・雪踏・雪下ろし・雪吊(ゆきつり) 等々 |
しかし、雪の中を駅から歩いていると、かような風流心も雲散霧消するかのように、また別の想いも沸々とわき上がったのも事実で御座いました。以下に、“義憤編”として、その際に抱いた思いを述べさせていただこうと存じます。当日、当方が下車したのは19時過ぎであり、東京下町では雪はほぼやんでおりました。こうした天気の中でしたが、久しぶりの雪に誘われたものか、街は思いの他に活況を呈しており、人出も相当なものでした。ちょうど夕食時を迎える頃でもありましたから、飲食店も多くの客で賑わっていることも一瞥明らかでした。オミクロン株の急速な拡大で、東京でも何時営業制限が掛からぬとも知れぬ今日この頃です。このこと自体でとやかく申すことはございません。それどころか、飲食店経営の方々には慶賀の念をお伝えしたいところでございます。しかし、それよりも当方が大いに気に掛かったことがあったのです。当然の如く、雪は平等にそれぞれの店先にも降り積もっております。しかし、それは多くの通行人によって踏み固められ、滑りやすい危険な状態であったのです。駅から環状七号線信号機までの常磐線ガード下には、都合13軒程の店舗が営業をしておりますが、その中で店前を綺麗に雪掻きしてあったのはたった一店舗のみでありました(数度にわたって雪掻きしていることが状況から知れましたが、その折にも店員が雪掻きに精を出しており、こうした店舗こそ大いに贔屓にしようと思った次第でありました)。そのことは、残る12軒は昼過ぎから7時間を経過して店先には相当な積雪となっており、しかも圧雪状態で危険であるにも関わらず、それを放置していたということだと推察できました。午過ぎからは営業をされていたことでしょう。少なくともお午時を過ぎれば最低限自らの店舗前だけでも除雪する余裕が皆無であった筈はございますまい。来客の身の安全を図ることは、店舗が何より最優先で行うべき案件ではありますまいか。そのことが、ひいては軒を連ねる歩道を歩行する通行人の安全に結びつくのだと想起すべきだと思うのです。「当店はお客様を第一に考えた経営を心がけております」なる企業の宣伝文句を頻繁に耳に致しますが、こうした現況を見るにつけ、生来の“天の邪鬼”である当方としては、「正体見たり某」「巧言令色鮮し仁」といった言葉が脳裏をよぎるのです。更に、後に述べる住宅街でポツンと開業する医院でさえ(5日間ほどで自然に雪が溶けてしまうまで)、北側入口前はカチコチの雪の儘に放置されておりました。曲りなりにも健康安全を生業とする方々でしょうに。消費者は相当にシビアな目で企業活動の在り方を評価しております。
その状況は、翌朝になっても大幅に改善されることはなく(半分ほどの店舗で雪掻きをされておりましたが)、「放射冷却」で圧雪された雪が氷結し極めて危険な状況を惹起しておりました。朝の5時半に通行した当方も、何度も滑って尻餅をつきかけたほどです。お年寄りや受験生であれば、必ずや呪詛の言葉の一つも吐きたくなることでございましょう。環状七号線手前にあるコンビニエンスストアーでは、5日経過した本日の段階でも(1月11日現在)北向正面入口から公道に繋げる幅1メートル程の通路が一本つけてあるのみで、その周辺敷地は未だに全面カチカチの氷で覆われたままです。普段から利用者が店舗周辺で飲食・喫煙したゴミが散乱したまま放置しているコンビニですので、宜なるかなと思っておりますが、如何なものかと頭を抱えたくなりもします。もちろん、労働条件の面で、それに割ける人員の確保が儘ならない、道具の用意がされていない等々の考慮すべき点がないとは申しません。しかし、「公共性」の意識を感じさせない店舗(企業)の在り方に、日本の企業倫理の“劣化”を見るのは誤りでしょうか。昨今、企業だけに限らず国の役所であっても、不祥事を耳にしない日はないほどであることと、危険な積雪を放置して憚らない体質とは決して無縁ではないと思うのです。自分の土地ではないから知らない、公道なんだから役所が雪掻きすべきだ。確かに法規的な解釈において、それは誤りではありません。しかし、本当にそれは適切な判断と言えましょうか。かく言う方々でも、こうした現状が、折に触れて当方が述べている「公共性」「自治意識」を欠いた「判断・行動」であることは認めざるを得ますまい。
(後編に続く)
さて、環状七号線を渡り中編で触れたコンビニを過ぎれば、当方が幼少の頃より変わらぬ住宅街に入ります。実は、そこまで脚を先に進め、更に落胆する状況に接することになりました。日はとうに暮れて真っ暗な筈にも関わらず、普段は薄暗い街が妙に雪明かりで明るいのです。つまり、足跡と轍とがあるものの、ほとんど雪掻きされていないままの状況が広がっているからです。当方の居住する葛飾区は、言うまでもなく近世以来の“正統”な下町の系譜には属しません。しかし、我が家ですらこの地に居を定めてから既に100年に及ぶ歴史を経ており、現在でも比較的自治会活動も機能している地区でもあります。これまでの経験に照らしても、公道全てが綺麗に雪掻きされていることはないものの、少なくとも歩行する人々の便に利する歩行路だけは、各戸の住民の手によって確保されているであろう……との淡い期待はモノの見事に砕け散りました。まさに“淡雪”の如く……。
これには、地域の高齢化の進展、新住民への急激な入れ代わり、共働き家庭の増加、若者達に蔓延する自治意識・公共心の低下、次第に顕著になりつつある自治会活動の不活発化等々、様々なる要因が想定されましょうし、一概にとやかく言うべきではないことは承知しているつもりです。しかし、少なくとも、従来この地域では見られなかった状況に愕然としたというのが正直なところです。もっとも、平日の宵の口でありましたから、共働き家庭ではこの時間には雪掻きの担い手が未だ帰宅していないといった現状もあったことでしょう。恥を承知で申し上げれば、斯く言う我が家においても、山の神が非番で自宅にいたのにも関わらず、自宅周辺の除雪は全く手つかずでました。本人に確認したところ、体調不良で外に出られなかったとのこと。従って、当方が帰宅後に雪掻きをしたのであって、ことさら居丈高に申しあげる義理にないことは勿論なのです。しかし、後述いたしますように、それならば帰宅していた“子供世代”が担っていてもよさそうなものです(ところで、もっと小さな子達が“雪だるま”などを作ったり雪遊びした形跡が見られないことも驚きでした)。
ただ、それでも救いだったのは、我家のご近所に5年ほど前に引っ越して来られた、新住民の奥様お二人が暗い道路で黙々と雪掻きをされていたことです。お声掛けをして労苦を労わせていただくとともに、当方も荷物を玄関において長靴に履き替えて早速の参陣。雪掻きに精を出しました。翌朝は晴れるとの予報でしたので、放射冷却で凍雪になることが確実でありましたから勝負はその夜になります。公道に取り付く自宅前20メートルほどの私道、及び自宅周辺の公道にも幅1メートル程の歩行路を確保していきます。勿論、我が家に面する道路だけではありません。お隣さんの所有する私道であっても構わずに雪掻きをします。そこが凍り付けば、歩行する地域住民の利便性は大きく損なわれますし、第一危険な状態を惹起いたしますから。まだ、踏みしめられていない雪であれば比較的楽に除去できますので、雪も止んだ中で小一時間も作業すれば、ほぼほぼ通路の確保ができました。ご近所の皆さんとの共同作業で互いの絆も深まっていくことを実感した次第でありました。余談ですが、この奥様方も駅周辺の店舗が殆ど歩道の除雪さえしていないことに憤慨されており、決して当方一人の感想ではなかったことに安堵いたしました。
口幅ったい申し様で恐縮ではございますが、これが本来的な「地域共同体」としての在り方の基盤に他ならないと考えますが、皆様は如何お考えでございましょうか。つまり、斯様な活動こそが、「自助」から始まり「共助」へと拡大していった「自治活動」の発露に他ならないと思うのです。そして、それが、結果として自分の家だけに留まらず、地域住民のためにという「公共」の意識を創生することに繋がるのではないかと考えるのです。令和4年度にスタートする高等学校の新教科に「公共」なる科目がございます。当方もその中身を詳細に拝見した訳ではありませんので、軽々に物を申すことは控えなければならないとは思います。しかし、そもそも教室で第三者から「教え」てもらって「公共心」が身につくことに、大きな期待はできないのではありますまいか。重要なことは、身近な地域の中で活動することで「学ぶ」ことです。「教えられる」ことと「学ぶ」こととは決してイコールでは結ばれません。少なくとも、その双方向のベクトルが噛み合ってこそ実効性を持ちうるものだと考えるのです。その意味で残念に思ったことは、各家にいるはずの子ども達がこうした作業に一切参加して来なかったことです。現在大学生で下宿に住まう倅がいれば、何を言おうが引っ張り出して、必ずや手伝わせたのですが(自宅にいるときには必ず手伝わせました)。地域で困りごとがあれば周辺住民で助け合う意識は、地域における具体的な活動に参加することで、幼い頃から意識して育てる必要性があると思うからに他なりません。倅が自宅に住んでいた時分には、落ち葉の季節は掃き掃除、雪が降れば除雪、地域の子供会のゴミ拾い等々、多くの行事に連れ出したものです。もっとも、それが現在いかほどに倅の意識を形成しているかは自信はありませんが。
過日別項で述べた「落葉掃き」の問題等も含めてですが、当方のように曲がりなりにも37年にわたって教育に携わって来たものからすると、日本における教育の在り方に、何処かでボタンの掛け違いがあったのではないか、あるいは忘れてきてしまった何物かがありはしまいか……との想いを拭うことができないのです。俗に言う「モンスター・ペアレント」と言う、常識からは大きく外れた学校へのクレーマーの存在が話題になることがあります。まぁ、ここまでとは言わずとも、教育現場に籍を置く者は、多かれ少なかれ「どうして斯様な判断となるのだろう」と首を傾げざるを得ない保護者の方が決して少なくないことを実感されましょう(勿論、学校側の対処に問題がある場合も多いのも事実ですが)。しかし、そうした保護者(大人)を断罪する前に、教育者として、より広げて日本の教育施策策定に関わる担当者として、いやほとんどの人間が子育てに携わり人間教育を担う存在として、「こうした大人を育成してきたのは自分たちである」との自覚を持つべきであろうと考えるのです。我々が、どこかで忘れて来てしまったかもしれない「教育の核心」とは何か……改めて問い直すことが、今求められているのだと思います。そして、その解答を得るために、今、自分自身は一度過去に戻ってみることが重要ではないかとも考えております。学校教育の現場に籍を置いていたときにはなかなか取り組めなかった、これまで日本人が歩んできた教育の歴史を辿ることで、忘れてきた“何ものか”を発見できるかも知れないとも思っております。
併せて、学校だけではなく、各地域で担うべき自治活動の在り方を再構築していく必要もあろうかと存じます。新興の集合住宅であっても、そうした地域づくりに取り組もうとされている方がいらっしゃいます。以前勤務していた学区で、存在していなかった「自治会」をゼロから立ち上げ、住民同士の横の繋がりを構築することで、新たな故郷づくりを着々と進めようとされている、若いリーダーがいらっしゃいました。その方に、日々仕事と並行して熱心に自治会活動に取り組まれている原動力は何かを尋ねる機会がございました。その方は、以下のようにお答えになったことが印象的でした。「自治会活動に取り組むこととボランティア活動とを同じ次元で認識されている方が多いのですが、僕はそこに大き誤りがあると思います。ボランティアが自身の関心に基づく活動であるのに対して、自治会活動というのは地域の中で住民同士が横に繋がりあい、地域の住民の生活環境をより良く改めていくために行う活動なのです。ですから、誰もが関心をもって参加すべき活動だと思います。その意味で、お仕事等の関係で、関わり方の大小が生じても構わないのですが、決して興味・関心が無いと避けてはならない活動なのです。その点では「義務」と同等な重要な活動なのだと意識すべきだと思います。面倒だ、関心がないといって目を背けて済むことではないのです」と。
最後に、最近読了した教育史学者の沖田行司氏(同志社大学名誉教授・びわこ学院大学学長)の著作『日本人をつくった教育 -寺子屋・私塾・藩校-』2004年(大巧社)を採り上げて、上記の課題解明の糸口となりそうなヒントを御紹介して本稿を閉じたいと存じます。本書の序論で、沖田氏は、前近代から現代における教育の在り方についての変遷と、そこから透ける近現代教育における問題の所在、及びその解決の指針について、以下のような「見通し(見取図)」を示しておられますので、抜粋しながら引用させていただきましょう。個人的には、ここに、教育再生のための処方箋が秘められていると感じているところであります。今後、更に考えを深めて参りたいと思っております。因みに、引用文中の〈※○○〉は、(中略)のため文意が通らなくなることを防止するために引用者が付加した文言であります。ご承知おきくださいませ。
この国の近代教育は、明治5年(1872)に頒布された学生に始まる。(中略)〈※その趣旨は〉旧来の士農工商の身分制社会から市民平等の世をむかえ、(中略)〈※近世までの教育と転換し、〉天下国家を論じる士大夫の学問から日常生活に役立ち、しかも能力によって立身出世を目指す実学が主唱された。しかし、この反面、教育は目民の義務と位置づけされ、(中略)強制就学の方針がとられた。(中略)学制の施行によって、近世以来、庶民の生活のなかから登場し、根強い庶民の教育伝統を形成してきた寺子屋教育は、「お上」の学校にとってかえられたのである。(中略) しかし、政府の就学奨励によってつくりあげられた庶民の「立身出世」願望は、明治国家の富国強兵策と結びつくことによって、一種独特な教育に関する幻想を生み出した。厳しい身分制社会の江戸時代においては、お上と庶民の距離は超えることの出来ない絶対的なものであったが、明治維新は建て前上、四民平等を標榜し、現実の社会階層の差は教育を通して上昇することが可能であるとうたわれた。 教育が立身出世主義と結びつく度合いは、封建的な身分制社会が濃厚であった国ほど強烈である。この結果、教育に熾烈な競争の原理が導入されることになった。日本の近代教育を一貫して支配してきたのは、この競争の原理である。こうした国家主導型の教育システムにおいて、立身出世とは個人と国家との距離を縮めてゆくことを意味した。かくして、学問・教育のみならず、経済・文化にいたるまで、国家によってオーソライズされたものに価値をみいだすという思考パターンが国民のあいだに広く浸透していくのである。 第二次世界大戦が終わった昭和20年(1945)を境にし、新しく制定された日本国憲法の教育理念に則して教育基本法が定められ、軍国主義教育から民主主義教育へ、国家を主体とする教育から個人を主体とする教育へと理念上は大きな転換が用意されていた。(中略)戦後教育の目的のひとつに人権の尊重がある。他者の痛みや苦しみを理解し、お互いに人間としての尊厳を認め合う人権教育は、人間性あふれた社会を建設する主体を形成するはずであった。しかし、こうした戦後教育の理念はみごとに崩壊しつつある。 それまで国家の権威や権力で抑えられてきた民主的な思考や平等意識、人権意識が解放されたのと同時に、個人のエゴイズムと私的利害の追求も、そうした戦後民主主義を梃子にして市民権を獲得してきたのである。そして、いまや戦後民主主義そのものが、エゴイズムと私的利害の追求、および無責任体制を培養し、助長するものへと変質して、美しい言葉と露骨な競争意識だけを残して風化しつつある。(中略) かつて、民俗学者の柳田国男は近代教育の問題点を指摘して、前近代の教育が伝統として保持していた「一人前になる教育」の再評価を主張した。(中略)一個の人間の誕生から人生の終焉を迎えるまで、さまざまな行事や祭りを通して「学習」する「場」が存在した。子どもは家の子であるばかりでなく、村の子どもでもあった。遊びや労働など生活を通して人は絶え間なく学んだのである。ところが近代における学校教育は「学び」を「教え」に変換し、教育を学校に閉じ込めてしまった。くわえて、教育が金銭で授受もしくは売買されることを誰も疑わなくなった。(中略)学校の存在しなかった時代には、人生を生き抜くさまざまな学びの形があった。その時代の教育の豊かさをふりかえることによって、私たちは新たらしい教育のイメージを描き出すことができるかもしれない。(後略) |
沖田氏は、この後に近世における庶民教育機関であった「寺子屋」に留まらず、一般的には、支配者層である武士のエリート教育として捉えられがちな「藩校」における教育もまた、現在のエリート学校として観念される所謂“お受験校”とは全く異なり、エリートとしての在り方と責任倫理とを厳しく鍛えるための場であったと指摘されております。そして、藩校教育に飽き足らない有志による私塾教育においても、「国民のリーダーとしてのエリート」の育成が目指されてきたと述べ、今日エリート教育と称される教育過程が、こうしたエリートを育成するための如何なる方策をも持ち合わせていない欠陥を舌鋒鋭く断じておられます。であるからこそ「温故知新」、つまり“古きをたずねて新しきを知る”ことの重要さがあるのです。往々にして古くさい昔のことなど知って何の価値があるのかとの言説を耳にします。しかし、私は、往々にして解答は過去の人の歩みの中にこそあるのではないのかと考えます。
今回は、雪から教育の在り方まで、とっ散らかった話題で申し訳御座いませんでした。ソクラテスのように「歩きながら考える」ことができればよろしいのですが、「書きながら迷走(瞑想?)」していて、一向に話題が収斂していかないことを大いに情けなく存じております……。更なる迷走を避けるためにも、そろそろ、筆を措かねばなりますまい。お後が宜しいようで。
1月も後半に入ります。令和4年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』がスタートし、既に2回の放送がなされました。皆様は、ご覧になられて如何なるご感想をお持ちでいらっしゃいましょうか。ドラマ全体として骨太な構成をとりながらも、細部に大胆な軽妙さを盛り込む、如何にも三谷幸喜脚本らしい振れ幅の大きな作話になっているように感じております。当方などのようなロートルは、未だその軽妙さに慣れず、多少の違和感を感じる場面もございますが(北条時政が「首チョンパ」などと発言したり、頼朝へ科をつくってアプローチする北条政子の動作が余りに“吉本新喜劇”的ではあるまいか……等々)、若い皆さんにはむしろ違和感なく楽しめる内容になっているのかとも存じます。当方も、何れ“三谷マジック”の術中に嵌っていくことになりましょう。良い意味で翻弄される一年となることに期待が高まります。
さて、今回は、来週より開催となる標記パネル展について御紹介をさせていただきます。前々回の本稿でご説明をいたしました通り、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で言うところの“13人”とは、建久10年(1199)1月の頼朝急死後、「鎌倉殿」を継承した源頼家を支え、かつその独走を掣肘することを目的に選ばれた幕府内有力御家人13人のことを指します(選んだのは頼朝後家の北条政子と父時政と考えられます)。それが、北条時政、北条義時、比企能員、梶原景時、安達盛長、三浦義澄、和田義盛、八田知家、足立遠元、三善康信、大江広元、中原親能、二階堂行政の13人に他なりません。しかし、本館で開催する『千葉常胤と13人の御家人たち』で採り上る坂東武者のラインナップは、飽くまでも本館が任意で選出したものとなります。選出の基準は、治承4年(1180)源頼朝挙兵に従って決起し、ともに武家政権の端緒を切り開くことになった千葉常胤と有力な東国武者13人となります(合計14名)。従って、所謂「13人の合議制」の構成員と重なる面々もおりますが(上記13名中で下線を施した5名)、本パネル展での選とは直接には関係しません(何度も申し上げておりますように本展での“13人”なる数値に必然性はなく、飽くまでもドラマとのすり合わせに過ぎません)。また、今回は「南関東編」として千葉常胤を含む7名を、次年度5月末から開催予定「北関東編」で7名を紹介させていただきます。元より、頼朝に従って決起した面々はこの14人には限りません。2回のパネル展を通して、故郷の武士である千葉常胤に留まることなく、武家政権草創期に常胤と轡を並べて戦った、坂東各地に盤踞した有力武士たちへの視野を広げていただければ幸いです。そして、併せて武士時代の始まりへの理解を深めていただければ……との願いを込めての企画となっております。
展示では、採り上げる御家人毎にパネル1枚を割り当て、その中に当該人物を紹介する文面に加え、肖像画、系図、周辺地図、関連史跡の写真等をふんだんに散りばめ、その武士の具体像をご理解頂けるよう構成しております。また、当時のイメージをつかんでいただけるよう、イラストレーターの方に書き下ろしていただいた素晴らしいイメージ画像を「総論」パネルに掲載しております。その他、これまでのパネル展同様、各人物に関連する書籍等も併せて展示をいたします。ご覧いただければ、武家政権の樹立に向けて立ち上がった、千葉常胤と13人の武士たちの躍動する姿を御理解いただけるものと存じます(今回は「南関東編」7名ですが)。そのことを通じて、頼朝に集った多くの武士たちの活躍の末に武家の政権が形づくられていった、時代の大きな“うねり”を感じ取っていただければ幸いです。常識から考えれば無謀とも思える頼朝の挙兵に、何故多くの東国武士が与同したのかをお考えいただきたいと存じます。それぞれが何等かの事情を抱えていたことを知れば、「鎌倉殿」を推戴した彼らの思いに触れることができ、今後一年間の大河ドラマをより深くお楽しみいただけましょう。それでは、まず本展の冒頭に掲げられる「総論」を以下に紹介させていただきます。
【総 論】 統括主任研究員 外山 信司 |
改めて、今回採り上げる人物を御紹介させていただきます。千葉常胤[下総国]を筆頭に、葛西清重、下河辺行平[以上:下総国]、上総広常[上総国]、和田義盛、梶原景時[以上:相模国]、北条時政[伊豆国]の、南関東に本拠を置く以上7名の有力武武者でございます。それでは、以下、極々簡単に(少々キャッチ―な形で)この7名について御紹介をさせていただきます。余計なお世話かもしれませんが、今回の大河ドラマにおける配役も添えております(各武士の右手【〇〇〇〇】)。これをお読みくださり、もし興味をもっていただけましたら、その答を探しに本館に脚をお運びくださいましたら幸いです。皆様のご来館をお待ちしております。
頼朝からの使節に対し、まるで居眠りしているかのように目をつむって言葉を発しない常胤。痺れを切らした子等の催促に「ワシャ、佐殿(すけどの)が源氏再興に立ち上がってくれて、感激で言葉がでないんじゃ」と『吾妻鏡』にあります。感動的な光景!美しすぎる!でも、これはホンネでしょうか?常胤が乗るか反るかの「大博打」に賭けようとした真意とは?そのココロの内に分け入ってみましょう!
葛西氏は、千葉氏と肩を並べる下総国の有力武士です。その本拠は、現在の東京都東端に広がる低地にあたりますが、領地は決して広大なものとは言えません。そんな清重を頼朝が味方に引き入れようとしたのは何故か。清重の力の源泉はどこにあるのでしょうか!?ところで、彼の妻は千葉常胤娘なのですが、如何なる人だったのでしょうか。実は、その人と目される姿がパネル内に……。乞うご期待!!
ちょっと地味な存在かもしれませんが、源氏再興に向け最も早い時期に立ち上がった陰の功労者です。摂津源氏の頼政と深い関係により以仁王令旨に従って立ち上がったのです。しかし瞬く間にこの企ては潰えます。所領に逃れた後は頼朝に従い平家を追って西国を転戦。最終局面の豊後国「葦屋浦の戦い」で、行平がとった驚きの行動とは!?義理堅くも実直な行平の実像を、是非ともパネル展でご確認ください!
房総に逃れ頼朝に、直ちに協力した常胤と態度を保留した広常とを『吾妻鏡』は対象的に記します。追って下総国府で合流した広常をカンカンに叱りつける頼朝とニヤリと受け止める広常。その時率いた2万の大軍勢に対して、頼朝勢はたったの4~5千。捻り潰すのはいとも容易いこと。頼朝と広常との鬼気迫る「一幕狂言」の結末や如何??頼朝が最も期待を寄せた真の大物(実力者)の実像に迫ります。
頼朝が危機一髪で房総に逃れる緊迫した情勢の中、頼朝に「もし佐殿が天下をとったら自分を日本の侍のトップにして!!」と強請ってしまう義盛(実際に後に晴れて侍所長官にしてもらっています)。その後の平家追討における西日本への長期遠征では、重いホームシックに罹ってしまい、立場も忘れて「オレは故郷に帰る!!」と駄々を捏ねる義盛。人間味溢れる天真爛漫な猛将の実像に迫ります。
とかく御家人仲間から評判の悪い景時。しかし、頼朝からは絶大な信頼を寄せられ、側近中の側近として重用されました。武芸に留まらず実務能力にも相当に秀でていた武者なのでしょう。現在で申せば、自信満々で同僚から顰蹙を買うことが多いが、社長の意思をバリバリ具現化する辣腕社員でしょうか。しかし、組織の創設・確立期に必要不可欠の人材ではありますまいか?色々と考えさせられる人物です。
その昔『草燃える』での北条時政は、野菜を抱えた田舎武士として初登場したと憶えております。ただ、その姿と権謀術数に長けた野心家としての人物像とは長く重なりませんでした。しかし、斯様な北条時政像はその後の研究により根底から覆えされつつあります。時政の権力の源泉は、決して「娘政子が頼朝妻となった」ことだけではありません。都で堂々と貴族と渡り合う時政、伊豆の菩提寺(願成就院)で南都仏師「運慶」の造仏活動を可能とさせる時政とは一体何者なのでしょうか?
以上でございます。先走って予告をさせていただきますが、次年度5月末からの開催を予定する「北関東編」では、新田義重(にったよししげ)[上野国]、足利義兼(あしかがよしかね)、宇都宮朝綱(うつのみやともつな)、小山政光(おやままさみつ)[以上:下野国]、八田知家(はったともいえ)[常陸国]、畠山重忠(はたけやましげただ)、比企能員(ひきよしかず)[以上:武蔵国]以上7名を御紹介させていただきますので、楽しみにお待ちくださいませ。大河ドラマ明後日第3話では、いよいよ頼朝挙兵への道筋が描かれるようです。都では平家政権の栄華は極まり、後白河上皇を幽閉して朝議を壟断。そうした中で、以仁王は諸国の源氏に平家打倒の令旨を発出します。そして、それは伊豆国で流人生活を送る頼朝の元にも届けられるのです。さて、頼朝が如何なる判断を下すのか、それがどのように描かれるのでしょうか楽しみです。何より義時・政子と頼朝との関係性に注目しながら見て参りたいと思っております。
標題をご覧になって「またか……!?」との思いを抱かれる方が多いものと存じます。ここのところ、専ら大河ドラマ関連の内容ばかりで恐縮でございますが、今回も少々のお付き合いをお願い申しあげます。
今月14日付本稿において、源実朝が暗殺されたその際の状況について、当方がこれまで誤った認識でいたことを述べ、読了したばかりの岩田慎平『北条義時-鎌倉殿を補佐した二代目執権-』(中公新書)の該当部分を引用して御紹介したところでございます。ところが、標記させていただいた山本みなみ『史伝 北条義時-武家政権を確立した権力者の実像-』(小学館)における、上記事件についての彼女の分析を拝読し、大いに唸るところがございましたので、ここにその内容を御紹介し、更に本書を強力に皆様にお薦めをいたしたく筆を執った次第でございます。
山本氏の論考から判断すれば、岩田氏が記述されるような「実朝暗殺事件」の顛末は、基本的に『吾妻鏡』に記述される内容を典拠としたものであると言えそうです。ご覧くださる皆様にとっては釈迦に説法であろうかとは存じますが、山本氏の論考内容を御紹介する前に『吾妻鏡』なる史料について触れてみましょう。我々が当該時代の政治状況を知ろうと書物にあたれば、必ずや典拠史料としてその名を目にする史料に他なりません。更に、後編で触れる「源実朝暗殺事件」に関する山本氏の論拠の理解にも資することにも繋がろうと考え、まずは『吾妻鏡』なる史料の位置づけについておさえておこうと存じます。言うまでもなく、本資料は「将軍の年代記の体裁をとる鎌倉幕府編纂にかかる歴史書」に他なりません(『図説鎌倉幕府』「吾妻鏡-鎌倉幕府の正史-」田中大喜)。謂わば、鎌倉幕府が編纂した「鎌倉幕府正史」とも言うべき史料と申せましょう。
どうでも良い余談ではありますが、20歳代の昔、当方は当時復刊販売されて世に出た岩波文庫版(全5巻)を手に取り一瞥、直ぐ様「こりゃ俺には歯がたたん!!」と諦めました(原文のままではなく読み下し文にはなっておりましたが)。その頃には、当該時代に強い興味がなかったこともあり、それキリとなって今日に至っております。現在では五味文彦・本郷和人編訳・訳注『現代語訳 吾妻鏡』2007~2016年(吉川弘文館)が刊行されており、当時に比すれば遙かにアプローチしやすい環境となりましたが、原文は到底素人に読みこなせるようには思えませんでした。もっとも、上記現代語訳も「全16巻」という大部なシリーズで、全巻を揃えるにはざっと5~6万円程を要しましょう。おいそれと手にすることも叶わず、結果として現職に就いてから報いを大いに受ける羽目となっております。今回の大河ドラマを好機に、遅蒔き乍ら当該時代について一通りの理解を致さねばと、本館所蔵にかかる「現代語訳本」に目を通そうかと考える次第でございます。恥の上塗り序に申し上げますが、今回本館の外山総括主任研究員からのご教示により、岩波文庫5巻本は『吾妻鏡』全て網羅せず中絶したままの未完本であることを初めて知りました(冷汗)。
さて、田中氏によれば、本資料は「治承4年(1180)4月9日の東国武士への挙兵を促す以仁王の令旨が出された記事に始まり、文永3年(1266)年7月20日に前将軍宗尊親王が鎌倉を追われて京都に戻った記事をもって終える」とのことであり、元弘3年(1333)の幕府滅亡までを網羅する「幕府全史」とはなっておりません。つまり、87年間の幕府の事績を編年体で記す内容となっております。しかも、その間にも年単位で記事の欠けている12年分があります。よく知られるところでは、源頼朝の死の前後3年間は記事が欠落しております。これも、『吾妻鏡』そのものが未完の状態であるからなのか、それとも意図的に記載されなかったのかも今では確認のしようがありません。編纂者も不明だそうですが、田中氏に拠れば「北条一門の金沢氏の周辺、あるいは得宗の周辺の人物を中心に編纂されたと推測されている」とのことであり、「少なくとも3つの編纂グループが置かれ、同時並行で編纂を進めたと考えられる」とされております。つまり、編纂された当時の権力の中枢にあった北条得宗家が主体となり、「鎌倉幕府正史」編纂を意図して修史事業が行われたことは間違いありますまい。編纂された時期は、概ね鎌倉時代後期と目されているそうです。そして、編纂にあたって原史料として用いられたことが確認されているものが、「1.幕府奉行人が作成した行事記録や日記、2.幕府陰陽師の家や鶴岡八幡宮に伝わった記録、3.合戦に際して作成された記録(合戦記や申詞記)、4.公家の日記や朝廷から届いた文書、5.御家人や寺社が訴訟の際に提出した文書、6.幕府内部で作成した文書、7.伊勢神宮および善光寺の文書」などの多様な諸史料であるとのことです。それ以外に、おそらく各御家人の家伝文書等も参考にされたのではありますまいか。
従って、史料編纂が幕府関係者によって営まれ、更に同時代に編纂されたことに鑑みれば(とは申しても鎌倉末期から振り返る「源平争乱」はざっと100年強も昔のことになりますから必ずしも“同時代”とは言いかねましょうが)、『吾妻鏡』が当該時代研究にとって「第一級の根本史料」であることに疑いを差し挟むことはできますまい。しかし、当方は文学部史学科に学んだ者ではなく仄聞するのみですが、史学科学生が研究の基本として徹底的に叩き込まれるという「史料批判」の観点から申せば、その成立過程から内容をそのまま鵜呑みにはできないことも御推察頂けましょう(「史料批判」とは、歴史学研究で史料を用いる際、様々な面からその正当性・妥当性を検討することを言います)。何故ならば、第一に、北条得宗家の編纂に係りますから、彼らにとって都合の良いよい曲筆が加えられている可能性が大いにあり得ることです(実際に、過去の研究から多くの曲筆があることが明らかにされているそうです)。二つ目に、編纂当時(鎌倉時代中期)に用いた原史料そのものに偏在がある可能性が大きいことです。つまり、それまでに多くの御家人が滅ぼされておりますから、当該一族に伝来する史料を用いることができていない(あるいは存在していても用いていない)可能性も考慮する必要があるからです。勢い、当時に生き残った一族の家伝文書が多用されている可能性をも考慮する必要がございましょう。自らの一族の活躍を飾るべく相当に虚飾を施した家伝史料を差し出しても、反論すべき史料が対抗一族の滅亡により滅失していれば、それは一次史料として採用されていることも想定すべきです。つまり、北条得宗家や存続できた御家人の側の強いベクトルが加わっている内容であることを前提にせねばなりません。その活用には、同時代のより信頼できる他の史料との突き合わせが不可欠であること、また周囲の状況から執筆意図を検証し、場合によっては記述内容を割引いて把握する必要があることになります。逆に、そうした作業を経れば、曲筆の意図も含めて、歴史的事実を逆に照射することまで可能としましょう。
その意味では、一例に過ぎませんが、治承4年(1180)に頼朝が伊豆の地で挙兵し、石橋山での敗戦後に渡ってきた房総における武士団の動向に関する『吾妻鏡』の記述にも、相当に注意が必要と言うことになります。我々がよく知る「千葉常胤が直ちに頼朝に従ったのに対して、上総広常は一端態度を保留して状況が好転してから頼朝に合流した」、「常胤が累代の源氏家人として頼朝の挙兵に感涙に噎び言葉を失った」とすること、「鎌倉を本拠とするように献策した」等々、千葉常胤を顕彰する内容も、どこまで真実を伝えたモノか一度ならず疑ってかかる必要があるということです。何故ならば、相馬御厨の所属を巡る争論で、常胤は頼朝の父源義朝に相当に痛い目に遭わされており、必ずしも源氏に「恩義」を感じる謂われはないこと。また、千葉一族が初期に幕府筆頭御家人として処遇され、少なくとも鎌倉時代を生き延びたのに対し、上総広常は寿永2年(1183)12月、頼朝により謀殺され一族も粛清されているのです。
そもそも、この事実は『吾妻鏡』には記されておらず(寿永2年の記事自体が存在しない)、『愚管抄』(慈円)を典拠としております。そこで、慈円は、建久元年(1190年)頼朝が初めて京に上洛した際に、後白河法皇との対面で頼朝が語ったことして以下のように記録しております(慈円と『愚管抄』については後編でご説明いたします)。
「わたしは、朝廷・皇室のためを思い、君に変わったことが起これば、少しも私心もなくわが身にかえてもと存じておりますが、それはわたくしが(上総)介八郎広常を討ち取りましたことによっても明らかでございます。広常という者は、東国きっての有力者でございました。このわたくし頼朝が旗挙をして君の御敵をしりぞけようとし勝つことができましたのは、はじめに広常を呼び出して味方に加えましたからこそできたことでございました。したがって広常はわたしにとっては功績のあるものでございましたが、ややもすると、「いったい、頼朝はなんの理由で朝廷や皇室のことばかりみっともないくらい気にするのだ。ただわれわれが関東でやりたいようにやっていこうというのを、いったい誰がひっぱったり動かしたりできるというのか」などと申すような、謀反の心を持つものでございましたので、こんな者を郎党としていれば、頼朝まで神仏の加護を失うことになると思い、広常を殺したのでございます。」
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上述したように、功労者である広常粛清の記事ですら『吾妻鏡』には存在せず、京都の朝廷関係者である慈円の記録があってこそ知られる事実に他ならないのです(もっとも、『吾妻鏡』寿永3年の記事に、実は広常には謀反の心はなかったことが分かったとの苦しいフォローの記事があります)。つまり、上総広常に関する記述が少ない背景には、上総広常の独立性が強く頼朝の介入が困難であることから、関係資料が幕府側に残されていないといった側面もありましょうが、家そのものが消滅しているために関係資料が残存していないことが最大の要因でありましょう。更に、『吾妻鏡』に記載される広常像とは、頼朝に「下馬の礼」をとらなかった等、概ね「独立不羈」にして、ややもすると「不遜」な姿を示すものとなっております。要するに、『吾妻鏡』の編集者は、後に広常が頼朝に粛正されることが必然であるかのように、伏線を張りながら人物像を描いたことが想定できるのです。つまり、真実を覆い隠すことで、滅ぼした側の正当性を伝える記述に曲筆した可能性が大きいことを疑うことが必要だということです。同時に、その後「上総国の支配者」という実利の享受者となるのが千葉・三浦一族であることにも注意を払うことが必要でしょう。「頼朝政権を成立させた最大の功労者「常胤」と、自尊心・独立心が強く決して頼朝に従順ではない広常」というステレオタイプの記述にこそ、『吾妻鏡』編纂時の北条得宗家中枢で編纂に携わった編集者の意図と、当時生き残った御家人の都合とを読み取るべきではないかと思います。本稿の趣旨からは外れますので、ここではこれ以上の詮議は控えますが、ここで御理解いただきたいことは、『吾妻鏡』の記述は、そのまま鵜呑みにはできないということでございます。
(後編に続く)
後編では、前編でご説明させていただいた『吾妻鏡』の史料としての性格を踏まえ、山本氏が検証される「源実朝暗殺事件」の有り様について御紹介をさせていただきます。先にもお示ししたように、本件についての『吾妻鏡』が記述する事件の全容は、本稿前々回に引用をさせていただいた岩田氏がお書きになっている内容にほぼ尽きていようかと存じます。しかし、確かに何度読んでも不自然の感は否めません。直前になって体調不良となって剣持役を辞したことで難を逃れたことは(そして代役となった源仲章が身代わりのようにして討たれた)、あたかも「義時黒幕説」を喧伝するかのようです。先に申しあげたように、得宗家周辺で北条氏の都合を最優先にして編纂された『吾妻鏡』に、何故かような“一見して”義時に「不都合な真実」が記述されているのでしょうか。このことについて、山本氏はこれを編集者による曲筆とされた上で、この曲筆が北条氏にとって如何なる意味において「都合の良い内容」なのかを明晰に論じておられるのです。
彼女は、最初に事件の全容について再検討を加えております。その際に『吾妻鏡』と比較するために用いた史料が、前編でも登場した『愚管抄』であります。『愚管抄』は、当時の天台僧であった慈円(1155~1225)[何度かその最高地位である天台座主にも就いております]の手になる史論書であります。神武天皇から同時代の順徳天皇までの歴史を、「貴族」の世から「武士」の世への転換と捉えて記述していることで知られております(同母兄に源頼朝と関係深い『玉葉』著者の九条兼実がおります)。慈円は、当代随一と称すべき知識人であり、朝廷側の人間であるにも関わらず(立場上の限界はあるものの)頼朝の政治を“道理に叶っている”と評価するほど「相対的思考」を行いうる人物であります。そして、前編に紹介した上総広常の一件の如く、同時代人として幕府関連の記事を『愚管抄』に残しており、本事件についても記述されております。そこには、鎌倉に下向して、実朝の右大将就任拝賀に参列した5名の公卿を列挙した後、事件の顛末が以下のように記されております。山本氏の著作より、原文と山本氏による現代語訳を以下に引用をさせていただきましょう。最後の部分で公暁の発した言葉まで記録されておりますが、その場に居合わせたような臨場感に溢れております。
【原文】 【山本みなみ氏による現代語訳】 |
山本氏は、慈円が平光盛の行動を特筆していることから、彼が光盛の話を書き留めていたことを窺わせるとの推定に基づき、当該記事は殺害現場を実際に目撃した光盛自身の体験談が元となっていると判断され、信頼に値する記事であると指摘されております。第一、慈円には事実を曲筆する動機がありません。そうであるとすれば、ここには事件の現場が相当リアルに記録されていることになります。そして、そこから、驚くべき事実が読み取れます。つまり、事件発生時、義時もまた太刀を持つ剣持役として事件現場に居合わせていたのです。つまり、体調不良から剣持役を源仲章に譲って退出し、自邸に戻ったとの『吾妻鏡』の記事は編集者による曲筆ということになります。鯔のつまり『吾妻鏡』の記述とは、事件が義時の不在中に惹起したこととする内容に曲筆されたものに他なりません。更に、『吾妻鏡』には、事件以前に義時が霊夢の告げによって大倉薬師堂を建立していたが、「実朝暗殺事件」当日に霊夢に見た白犬が傍らにいるのをみて体調不良になったとの記述があることです。その時、大倉薬師堂内には戌神(じゅつしん)像(薬師如来守護の眷属である「十二神将」内の一体)も鎮座していなかった[それが事件当日に義時前に現れた白犬(戌)ということ]。つまり、義時は戌神の加護によって難を逃れることができた……とのストーリー構成となっているのです。これは、如何にも牽強付会としか言いようのない記事であり、何かを隠すためにつくりあげた弁明が、逆に虚実を明らかにするように感じさせます。まさに「語るに落ちる」なる慣用句の模範的な事例ではありますまいか(因みに、義時が建立した大倉薬師堂の後身が最も鎌倉らしい寺として知られる覚園寺に他なりません)。しかし、真実は、義時は本宮には入らず中門で控えているよう実朝から命じられていた結果、松明をもって実朝の前を歩く源仲章が誤って斬殺されたということです。結果として、義時は命拾いをすることになったのです。山本氏が指摘されるとおり、『愚管抄』の記述にこそ、遙かに信憑性の高さが認められましょう。
それでは、『吾妻鏡』が曲筆により何を糊塗しようとしたのでしょうか。山本氏は、『愚管抄』に見られる「大方用心せず、さ云ばかりなし」の記述に注目した平泉隆房(金沢工業大学教授・平泉寺白山神社神官、「皇国史観」をもって戦前・戦中に持て囃された平泉澄の曾孫に当たる歴史学者)の主張こそ傾聴すべきとされております。それが「かくも重大な事件を防ぐことの出来なかった幕府の無用心に対する批判をかわすために、『吾妻鏡』は義時不在を偽作し、義時への論難を回避する必要が生じたのではないか」との指摘に他なりません。実際に、京の公家には幕府の為体(ていたらく)への非難が相当に強かったことが知られているとのことです。確かに、実朝に実子が誕生しなかった暁に、上皇の子(親王)を将軍後継に据えることに同意していた後鳥羽上皇が、本事件発生後に不同意に転じた背景に、将軍の暗殺すら防げない幕府への強い不信が存在したことが言われております(結果的に後継は摂関家子弟に変更となりました)。こうした想定の蓋然性は極めて高いものと当方も考えます。こうした武家政権としての恥辱とも言える状況を糊塗することを目的に、無理くり辻褄合わせにでっちあげられた苦しいストーリー構成こそが、「義時の目が届かないところで発生した事件」との「創作」に他ならないとの御説であります。編纂者が相当な不自然さを覚悟で曲筆に及んだ苦衷を思わせます。山本氏の御説は誠に卓見であると存じます。本事件を以て「義時の生涯における最大の失態」と断ずる山本氏の筆の力に納得の思いでございます。
ここまで記述をさせていただき、改めて、山本みなみ『史伝 北条義時-武家政権を確立した権力者の実像-』(小学館)を強力にオススメさせていただきます。その理由は上記いたしました「実朝暗殺事件」の検証からも明らかで御座いましょう。全編にわたって、資料の読み込みと分析に優れており、先行研究をしっかりと踏まえ、しかしそれに臆することなく、まさに快刀乱麻の如くに北条義時という稀代の人物像を照らし出そうとされていることに感銘を受けます。惜しむらくは、義時の行動の背景に蠢く(!?)その他多くの御家人の動向にも触れていただけると、更に奥行きが加わったものと思われます。もっとも、このサイズの一般書籍であることに鑑みれば致し方なしでしょうし、そもそも義時の史伝でありますから筋違いの望みでございましょう。ただ、和田合戦の際における千葉一族の動向を論じていただいた本館市民講座の論考を拝読するにつけ、「山本氏の力量はこんなもんじゃない」との思いも湧き起こるのも正直なところです。それは、次回の単著への期待とさせていただきましょう。兎にも角にも、刺激に満ちあふれた極めて優れた書物であることは疑いありません。当方は大いに充実した読書時間を過ごすことができたことに、大いに満足させていただきました。改めて、力強くご推薦をさせていただきます。是非とも皆様もお求め下さいませ。新書・文庫本でもない、これだけ価値ある一般書籍が、たったの¥1,300(税別)で拝読できるなど奇跡に近いものがございます。同時に、著者と出版者には有り難くも申し訳なくも存じ上げる次第でございます。
最後に、『吾妻鏡』について、この度『図説 鎌倉幕府』の田中氏の論考に接して初めて知り得た事実があります。そんなことも知らなかったのか!!……との叱責を覚悟の上で恥を忍んで御紹介をさせていただき本稿を〆たく存じます。当方は、現存する『吾妻鏡』なる史料とは、北条氏縁の「金沢文庫」に保存されていた原本が、戦国期に小田原北条氏の手に渡り、その滅亡後に徳川家康の元に入ったとばかり思っておりました(江戸城内「紅葉山文庫」所蔵)。しかし、驚いたことに、事実は全く異なり、原本は相当に早い段階で散逸しており、室町時代には既に入手し難き稀覯本となっていたとのことであります。しかも、「揃いの完本の形では伝来しておらず、一部の記事のみを断片的に写し留めた抄出本や数年分の零本の形で伝わっている場合がほとんどだった」ことです。つまり原本は一切伝来しておらず、全ては後に筆写されたものであることです(従って、諸本によって記述内容に少なからぬ異同が見られるそうです)。また、現在伝わる「吉川本」「北条本」なる大部の纏まった『吾妻鏡』は「何者かによって42巻ないし43巻まで集められた本を入手した右田弘詮と徳川家康という二人が,さらに本文の収集と復元を行うことでまとめ上げた修正本」であり(「吉川本」右田弘詮、「北条本」徳川家康)、両本をはじめとする「『吾妻鏡』はどれも取り合わせ本にすぎず、現在では『吾妻鏡』の原型を知ることはできないという事実を認識なければならない」とあることです。当方は、こうした事実すら知らずに過ごして参りました。徳川家康が『吾妻鏡』を座右の書としていたことを存じてはおりましたが、散逸文書の収集と復元とにまで関わった重要人物であったとは(その意味では、後北条氏に因んだ「北条本」ではなく、家康の功績を賞するためにも「徳川本」と称する方が適切ではありますまいか)。この度は、自らの不明を恥じることが多々ありましたが、まだまだ学ぶべきコトばかりだとも思い、今後に新たな知見に出会うことがますます楽しみになってまいりました。
最後の最後に一点、過去原稿につきましての修正とお詫びを付記させてください。去る1月8日アップの本稿内に記載しました、後鳥羽上皇の北条義時追討の命に対して、北条政子が御家人に対して声涙下る演説を行った件につきまして、実際は自ら演説したのではなく、安達景盛が政子の言葉を代読したことを記載しましたが、その際「御簾から出て居並ぶ御家人の前に進み出たものの」と書いてしまいました。本記述につきまして、国立歴史民俗博物館教授小島道裕先生より「吾妻鏡の原文は『二品(政子)家人らを簾下に招き、秋田城介景盛を以て示し含めて曰く』ですから、(高貴な女性として)御簾の中に居たまま取次がせた、ということだと思います。」とのご指摘を賜りました。以前ご推薦した細川重男さんの著作にも「政子はこの時、従二位という途方もない位階を帯びた高貴な貴婦人なのである。このような身分の高い人は、おいそれと人前には出ないし、誰に出も直接語り掛けてはならないのである。本質が田舎のじゃじゃ馬な政子にしてみれば、窮屈この上無かったかもしれないが、仕方が無い。」「事実は、(中略) 安達景盛が、政子の言葉を御家人たちに伝え、政子は御簾(スダレ)の中にいたのである。御家人たちにはシルエットしか見えない。」とあったのですが、ついつい何処かで読んだことを思い出し余計なことを付加してしまったのでした。まさに汗顔の至りでございます。『吾妻鏡』原文も確認し、既に原稿の該当部分も削除修正させていただいております。ご指摘に衷心よりの感謝を申し上げ、更にお読みいただいた方には正確ならざる情報をお伝えしてしまったことを誠に申しわけなく存じ、この場をお借りしてお詫び申しあげます。
さて、明日放送の『鎌倉殿の13人』第4話では、いよいよ伊豆で頼朝が挙兵するまでが描かれるようです。伊豆の武士たちと頼朝との複雑な関係性も描かれるようで大いに楽しみです。千葉常胤の登場は第7話(2月中旬以降)になろうかと予想しておりますが、果たして如何!?
新春を迎えたと思う間もなく2月の声を聞くことになりました。誠に月並みな表現で恐縮ではございますが、トシの所為でしょうか「光陰矢のごとし」とはよく言ったものだと痛感を致します。本日は立春ですから暦の上では春を迎えたことになる訳ですが、冬本番はこれからです。しかも、これまでを振り返っても、今年の冬はここ数年に比べて寒さが一入に厳しく感じられます。予報では明日以降も厳しい寒波が襲来とのことでした。その所為か、今年は数年ぶりに諏訪湖の「御神渡り(おみわたり)」が出現しそうだ……との報道にも接しました。同じ「おみ」始まりではありますが、こちらは歓迎すべからざる新型コロナウィルス:オミクロン株の拡大は留まらぬところを知らず、猛威を振るっております。本県においても、俗に言う“蔓防”の網が現状で掛けられてはおりますが、大規模なイベント対象の内容であり、本館のような規模の施設との親和性はあまり強くありません。片や、我々としましては、千葉氏パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)』の観覧をオススメしており、自己撞着の念に悶々としない訳ではございません。現状、我々の出来る対策を粛々と行いながら、ご来館いただく皆様には、お運び頂く折には呉々も「自衛防衛」の手立てを充分にされてご来館くださいますようお願い申しあげるしかないものと考えております。何卒ご協力を宜しくお願い申しあげます。左様な訳もありまして、大河ドラマ・本館パネル展から離れた話題とさせていただこうと思います。
過日、朝日新聞2面に連載される「ひと」なるコラムで、埼玉県杉戸町職員の渡辺景己さんという方が紹介されておりました。渡辺さんは、杉戸町での事業公募に手を挙げ、建て替え予定の幼稚園の木造化を提案し採用され、初めて自ら設計も手掛け完成させ、これまでに町の観光施設や児童館など7つの木造施設建設を主導されたとのこと。しかし、渡辺さんが建築を本格的に学んだのは高校卒業後に町役場に就職してからのことであり、一念発起して役場を退職し大学の夜間コースで学んで10年がかりで1級建築士の試験に合格されたとのことです。渡辺さんは、「仕事や資格のために勉強したんじゃない。その分だけ木造のよさも分かった。木は建物が燃やされたり朽ち果てたりしなければ、二酸化炭素を大気中にはださない。温暖化対策でも世界が木造に注目しています」と語っていらっしゃいます。私も、学生の時代から全国の古建築を見て歩きましたが、堂宇に入ってまず嬉しく感じることは、何よりも木材の香りに包まれることです。古い建物であれば、今から五百~千年も前に建てられた建物に、その材として使用された檜・杉等の芳香が充ち満ちていることに感銘を受けます。昨今、公共施設でも木造建築が増えてきておりますが、第一に感じることは森林浴をしているかのような心地の良い香りと、木材の質感が持つ温もりにあると痛感致します。横文字で申せば“コンフォタブル”なる空間が生まれることかと存じます。古来、木造建築に居住してきた日本人のDNAに組み込まれている感覚なのかもしれません。渡辺さんは、“木造愛”が高じて5年前に自宅を独りで建ててしまったと報じられておりました。宜なるかな。
さて、ここまで書いてきて、皆さんに冷や水を浴びせかけるようで申し訳ございませんが、渡辺さんの建築されたご自宅は“木材を用いて建てられた建築”であることに疑いありませんが、おそらく日本人が古来営々と営んできた“伝統的な木造建築“ではないことを申し上げておこうと存じます。「渡辺さんのお宅は木材を材料として建てたんでしょ?どういうこと??意味が分からない!!」との疑問が湧き起こるのが当然でございましょう。このことについては、白井裕子氏(慶応義塾大学准教授)の著書『森林の崩壊-国土をめぐる負の連鎖-』2009年、『森林で日本は蘇る-林業の瓦解を食い止めよ-』2021年(ともに新潮新書)を続け様に拝読させていただき、実のところ当方も初めて知ったことなのです。令和2年(2020)年に我が国で新築された共同住宅をも含む住宅の約60%弱は木造建築であり、“一戸建”に限定すれば実に90%が木造で建築されているそうです。しかし、それらの一般的な木造住宅は、「在来木造(在来工法)」と呼ばれる工法になる建築であり、日本の伝統建築である「伝統木造(伝統工法)」とは区別されて把握されているとのことです。しかも、両者は“似て非なる建築”工法とのことであります。これでも初めて耳にする方は御理解できますまい。両者の違いとは何処にあるのでしょうか。それを、白井さんの著書に従って御紹介させていただきます。
今日一般的な「在来木造」と比較した「伝統木造」の特徴は、「足下(建築の地面に近い部位)」「軸組(骨組み)」「接合部」にあると筆者は説明されております。まず、「足下」では、建物が地面に繋がれておらず、石等の基礎に置かれているだけです。これを「石場建て」と称するそうです。白井氏は「地面が揺れても、縁が切れているため、大地震の時には、なんとそのまま、建物自体が基礎からずれることがある。そうして倒壊せずに、大地震に耐える。建物が変形したり、動いたりして、大きな地振動をかわしている間に、中の人は逃げられる。」と述べておられます(後に“曳家”することで元の基礎の上に柱を据え戻すことも直ぐにできる)。しかし、現行法規(以下「使用規定」)では、木造建築(「在来木造」)の足元は「木を横に寝かせた土台を土台コンクリート基礎に緊結すべし」となっているため、地面と建物とは必ず直結しなければいけないそうです。
二つ目の「軸組(骨組み)」について、「伝統木造」では木を縦横に組んで構造体とします。つまり、基本構造は壁ではなく木の骨組みです。白井さんによれば「縦に通る柱を始め、横に渡る梁・桁、足堅めや貫、差し鴨井という名の部材等が組まれており、地震でゆさゆさ揺れても、ぺシャンといかない。」とのこと。その結果、少し傾いたり、変形したくらいなら元に戻せるのです。一方の「在来木造」では、「使用規定」にある「壁量規定」は、壁の量で耐震性を評価することになっており、「伝統木造」における構造と根本的に構造の考えた方が異なっていると述べておられます。最後の「接合部」ですが、「伝統木造」の基本は木組みであり、パズルを解くように接合部を解いていけば、部材をバラバラのパーツに分解できます(この結び目のことを「継手」「仕口」と称します)。木材の腐った部分だけを継ぎ直すことも可能であり、そもそも「修繕ありき」の構造体であるとのこと。逆に骨組みだけを残して内装をすっかり変えることもできる、今風に言うと「スケルトン・インフィル」構造であると白井さんは述べておられます。今日一般的な「在来木造」による住宅建築と比較するのは如何なものかとは存じますが、「伝統木造」建築の代表選手である寺社建築が永く維持できる理由はこうしたことが理由になっておりましょう。世界最古の木造建造物とされる法隆寺西院伽藍の建造物は、勿論何回かの補修を経ておりますが、基本的な骨格をなす構造材はそのままに、千五百年近く経過して現在も斑鳩の地に屹立しているのです。一般の民家であっても江戸時代に建てられた古建築が現在でも現役であることが多いことも、その証左となりましょう。
以上の事からおわかりいただけるように、現行法規で建設できる木造建築(「在来木造」)は、一見して開口部が小さく壁が目立つ姿となり(壁量計算の結果です)、加えて高気密・高断熱住宅や機械換気の推奨が、更にその姿を強調するようになっています。その姿は「伝統木造」における広い開口部の目立つ外観とは全く異なっております。そもそも「在来木造」では、柱は壁の中に埋め込まれており、一見して木造なのか鉄骨なのかすら見分けがつきません。フローリングには木材が使われておりますが、表面の木目はほとんどの場合“印刷”によっていることを御存じでしょうか。これには、実際の木材の柱や床材に木材を用いて、その質感を出そうとすると、施主から「木材の節目がある」「木目の模様が嫌だ」等の苦情が寄せられるために、建築家自体がそうした自然材を見えないように建築する傾向が強いと、建築家の方からお聞きしたほどです。これでは、何のための木造建築なのかが分かりません。そもそも、「伝統木造」の優れた点、もっとさかのぼれば木材の質感等、本来あるべき木造建築の在り方への理解そのものが断絶してしまっているのです。
斯く言いながら、20年前に新築した当方の住まいは木造ではありません。俗に言う「鉄骨・ALCコンクリート造」であります。何故かと申せば、国内での木造建築の建て替えスパンが、平均して30年にも満たないことがデータとして示されていたからです。つまり、木造で新築しても、30年もしないうちにあちこちにガタが来て根本的に改築せざるを得ないのであれば、例え建築費が掛かってもロングライフ住宅を建築する方が経済的だと判断したことが大きかったのです。当時は「法隆寺などの木造建築が長持ちするのに、何故木造住宅がかくも短命なのか」と不思議にも思ったものです。しかし、今では理解できるように思います。つまりそれが、同じ木造建築ではあっても、「伝統木造」にあらず「在来木造」であったからなのではありますまいか。
余談でありますが、自宅を鉄骨・ALCコンクリート住宅にしたこと自体に後悔はないのですが、20年以上住んで実感することがあります。それは、「高気密・高断熱住宅」であるが故の弱点に他なりません。確かに冬には優位性が認められますが、湿度の高い日本の夏には正直全く不適合だと思います。ALCコンクリート自体の遮熱性・断熱性は優れていても、熱は開口部(窓)から出入りします。夏は外から入り込んだ熱が室内に籠ってしまい外へ出ていきません。「高気密・高断熱」とは室内の熱を外へ逃がさない構造でもあるのです。従って夏はエアコンなしで生活することは不可能です。自然な風の吹き抜けだけでは室内で生活できない程の室温になります。夏の電気代も馬鹿になりませんし、そもそもSDG’sの精神にも反しましょう。しかし、かつて両親の建てた隣に建つ木造建築に行くと信じられない程に涼しいのです。すでに建築してから50年近く経過して相当にガタの来ている建物であり、上記したような所謂「在来木造」なのでしょうが、既に物故している両親が昭和一桁の人間だったこともあり、法規上ギリギリまで広くとったと思われる開口部があることで、酷暑の夏であっても風が室内を拭き抜けて、特に1階で過ごす限りエアコンなしでも苦になりません。実際に、父親は寝室にエアコンを設置しましたが、その他の部屋には一切設置しないで過ごしました。改めて、『徒然草』に「家の作りやうは、夏をむねとすべし」「冬はいかなる所にも住まる暑き頃わろき住居は堪へがたき事なり」(第55段)と書いたことに強く首肯するものであります。つまり、冬の寒さは衣服の調節で如何様にも乗り切れるが、夏はそうは問屋が卸さないということです。今から700年ほど前に生きた兼好法師が宣うことは、地球温暖化の進む今日において、金言としての価値を更に高めているようにすら感じさせます。
(後編に続く)
さて、話を元にもどしましょう。本書に紹介されている、西澤英和『耐震木造技術の近現代史』2019年(学芸出版社)[2019年:日本建築学会賞受賞]では、「在来木造(在来工法)」と「伝統木造(伝統工法)」とを、以下のように整理されているそうですので引用し、改めて皆様に両者の違いを確認していただこうと存じます。
「在来工法」とは、文明開化で導入された洋風木造を土台に、「お上」の権威のもとに体系化された「官」の技術である。 「伝統木造」は、昔からの経験や技術の蓄積をもとに大工棟梁が培い逐次新しい様式や技術を旺盛に取り入れながら徐々に発展を遂げたいわば「民」の技術である。 「在来工法」と「伝統木造」とは似て非なるものである。 |
次に、両者の建築物としての特性への理解を更に深めていただくために、平成21年(2009)に兵庫県にある防災科学技術研究所にある世界最大級の振動台で行われた、三階建の「伝統家屋」「在来木造」2棟を同時に振動台に載せて行った「地震動実験」の結果について御紹介いたしましょう。そこには、実に驚愕すべき実験結果が報告されているのです。本実験材料となった伝統家屋は必ずしも「伝統木造」と称されるものとはイコールではないそうですが、特別な対策を一切施していない、概ね「伝統工法」に基づく木造住宅であります。それに対する一方の住宅は、現行の建築基準を遵守した“長期優良住宅仕様”の「在来木造」構造に、更に耐震補強を強化して施した超優等生の耐震木造住宅であったとのことです。多数の見学者が固唾をのんで見守る中での実験ですが、あろうことか、後者の超優等生の耐震住宅が一瞬にして倒壊してしまったのに対して、前者は何事もなかったかのように建っていたとのことです。西澤氏の報告は以下の通りです。「特別頑丈に造られた耐震住宅は1階が傾き始めたかと思うと、次の瞬間バランスを失って一瞬にして倒壊。実験施設の頑丈な床に叩きつけられて壁も柱も粉々に吹き飛び、周囲に猛烈な粉塵が舞い上がった。もし中に人がいたなら誰も助からないことは明らかであった。」「それとは対照的に濛々たる埃のなか、伝統的な木造家屋は激震に耐えて何事もなかったかのように建っていたのである。」と。白井氏は、これは「あくまでも一つの実験結果であり、これをもって講工法の良し悪しを断ずるつもりはない」と述べてはおられますが。地震国である我が国で永く用いられてきた「伝統木造」技術の優位性を示した動かぬ証拠ではありますまいか。
ここで、何を問題にしているのかを整理しておきますが、現在の木造建築を建造する国の基準(法規)に照らす限り(建築基準法)、施主が純粋な「伝統木造」の建設を望もうにも建築の許可がおりず、本来の形による「伝統木造」建築の建設は不可能であることです(もっとも、文化財のような歴史的建造物の修理等では例外的に認められているのでしょうが)。「伝統木造」には、上記のような耐震性等での優位が認められる実験結果が存在しているにも関わらず、それから10年以上も経過した今日でも、若干の規準修正は行われたモノの、根源的な問題であると思われる基礎コンクリ―トに柱を固定する「在来木造」工法を伴わない住宅の建築は未だに認められていないのです。何故なのか??その理由の一つが「計算で証明できないから」だそうです。これを読んだときには目を疑いました。多額の税金を投じて行われた上記の実験とは、一体何を目的に行ったのでしょうか。穿った見方かもしれませんが、この実験の所期の目的とは「在来木造」の耐震性能の卓越を喧伝することだったのではありますまいか。しかし、実験は真逆の望まざる結果に終わってしまったとの想像は邪推が過ぎましょうか。解決手段は至って単純明快なことだと思います。要は、実験結果を活かし、「伝統木造」での建築も許容するだけで済む問題なのではありますまいか。それでは「メンツが立たない」とでも申すのでしょうか。もしそうだとすれば、あまりと言えばあまりに硬直化した在り方です。
さらに深刻なことは、こうした法規制の中で、「伝統木造」に関わる技術そのものの伝承が難しくなってきていることです。現状においては「伝統工法や大工棟梁(建築大工技能士)存在しないも同然である。かたや外国から来た「ツーバイフォー(枠組壁工法)」や、戦後できた資格、一級建築士などの「建築士」の立場は明記されている。技能を持つ建築大工技能士が、さらに努力して腕を磨いても、現在の法制度においては、ほとんど何のメリットもない。電動ドリルでビスを打つぐらいしかできない人と同じ扱いになってしまう。これは職人個人の問題ではない。」と、白井氏は現状を鋭く指弾されております。これでは、長く厳しい修行を経て一人前の大工となる道を選び取る若者は現れますまい。「大工棟梁」とは、優れて伝統的な技能保持者であります。そうした高度な伝統技能を手にする者に敬意が払われ、それに見合う経済的福利が担保されていない社会とは何なのかとの命題を、われわれ国民は突きつけられているのだと思います。
「大工棟梁」の口を借りれば、現在の「在来木造」では、「木」の特性とは無関係に、単純な部材として全ての木材を平準化することに大きな問題が存在するとのことです。そもそも、「木材」には檜・杉・松・欅等々の木材によって特性が異なり、適材適所でそれらを使い分ける必要があり、更に同じ種類の樹木であっても生育環境によってその持つ特性には違いが生じるため、「大工棟梁」は木材の仕入れから関わるといいます。最高峰の仕事をする際には樹木のある山まで脚を運んで伐採する樹木を指定までするとのこと。また、特に地面からの湿気の影響をモロに受ける住宅の基礎には水に強い材を用いる必要があり、そもそも論として「在来木造」のように本来“縦”に生えていた木材を“横”にして基礎部分に遣うことには問題が多いと指摘されるとのこと。つまり、「大工棟梁」なる者は、それぞれの木材をどの部分で用いれば「生かす」ことができるかを決めることができなければできない仕事であると言います。彼らが、どれほどに高い技能を持つ職人集団であるか、このことからも明らかでありましょう。そうした考慮もないままに、工場で製材されてきた規格品を用いて単なる部材として組み合わせて、金属製のボルトで固定する「在来木造」なる木造建築が、往々にして短命なのは推して知るべしでございましょう。
しかし、現状の法体制では、純粋なる「伝統木造」は不的確建築であるとして建築できないのです。勿論、すべての木造住宅を「伝統木造」とすることは不可能であります。しかし、数々の優位性が認められる、日本で長く使われてきた純粋な「伝統木造」が希望しても建てられない国家とは一体何なのかという疑問は拭えません。こうした伝統技能の軽視は,これは大工棟梁に限った話ではなく、広く伝統技能に関わる職能全般に通底する問題であり、更に日本に固有な問題ではないかとさえ思うのです(少なくとも自国の伝統文化を何にも増して誇りとして尊重する欧米社会では考えられもしないことです)。これこそ、日本の伝統文化の軽視であり、世界の中における日本人としてのアイデンティティの喪失にも直結することへの危機感を一体どれほどの人々が自覚しているでしょうか。勿論何らかの手立てをされているとは存じますが、本当に充分なものなのかを建築行政を主導する方々に問うてみたいものであります。
余談にはなりますが、過日NHKのEテレで放送されていた草薙剛の番組『最後の○○』で採り上げられた、日本刀を研ぐ「天然砥石」採掘職人についての内容にも同じ意味で驚かされました。日本の刀剣とは、砂鉄と木炭から鋼鉄を取り出す蹈鞴製鉄、それらを材料にして刀剣を打つ刀鍛冶、切れ味と輝きとを生み出す研師らの総合作業の賜であります(それだけに留まらず、鞘師等の拵えの製作も重要です)。その後の維持管理にも不可欠な「研ぎ」の作業に必要不可欠な道具が砥石に他なりません。砥石には、研ぎ出す過程で幾つかの種類が必要になりますが、とりわけ最後の仕上げに用いる砥石の質は刀の美しさを左右するものです。日本刀に固有の美しい輝きと波打つような複雑な刃文は、刀鍛冶による鍛錬技術を基本と致しますが、研師の作業による部分もまた大きなものなのです。しかし、それを生み出せる砥石は、国内の特定の場所でしか切り出すことが出来ない特殊な石材を用いた「天然砥石」だけだそうです。腕の良い研師は口を揃えて「その砥石でしかあの波打つような美しい「波紋」を研ぎ出すことができない」と言うそうです。しかし、現在、この仕事を担っているのは日本に一人しかいらっしゃいません。京都亀山で「砥取屋」を経営する土橋要造氏たった一人が、山の奥深くにある坑道に入り、一人で石材を切り出して砥石に仕上げているだけなのです。土橋氏の生年は昭和24年(1950)であり既に70歳を越えております。しかし、残念なことに後継者はいらっしゃらないそうです。つまり、国内に残る「最後の職人」なのです。土橋氏の存在が、辛うじて今日の日本刀文化を支えているという厳然たる現実に接して、今日の俄に沸き起こったような「日本刀ブーム」とは何かに向き合わざるを得ませんでした。日本刀文化の断絶にまで直結する深刻な事態に、文化行政に関わる部署ではどう考え,如何なる対応をされようとしているのか、当方は寡聞に知りません。また、数日前に、日本刀制作を担う鍛治技術者をはじめとする様々な伝統技能保持者の激減に危機感を持った英国人による、技術伝承を目的とした後継者育成への取り組みがニュースで紹介されておりました。しかし、こうした動向を嬉しく思うと同時に、こうした動きが外国の方の危機感に頼らざるを得ない実態とは何なのか……と、ホントウに情けない思いで一杯となったのが正直なところでございます。
「伝統木造」建築の問題に戻りますが、これらの課題は、鯔のつまり木造建築で用いられる木材原料としての樹木育成が如何様に執り行われているのかといった疑問にもつながってまいります。つまりは、「林業」の在り方への視座であります。日本の国土の約7割は山林であることを知らない日本人は少なかろうと思います。国内旅行に出掛けて、車窓に移りゆく景色に目を馳せれば、当方などは緑の木々に覆われた山並みに心躍らされる思いとなります。しかし、実際に森林に入り込めば、遠くから見ていたのとは異なる姿に驚かれること必定です。山城調査に出掛けることの多い本館遠山研究員も述べておられましたが、戦後に植樹された針葉樹林の管理が全く成されておらず、人工林では地面に日が差し込むことなく昼でも薄暗いそうです。地面も痩せており生き物の気配さえ感じられないとのこと。数年前の千葉県を襲った大型台風によって、植林されたままに放置されていた生育の悪い杉が軒並みに倒れて送電線を切断。長期の停電に苦しめられたことも記憶に新しいところであります。
日本国内には有り余るほどの木材資源があるにも関わらず、国内住宅で用いられる木材のほとんどは外材です。そこには、戦後長く続けられた定見無き林業政策のツケが明らかであることを白井さんの著作は明確に教えてくれます。この2冊の本領は国内の林業政策の課題を炙り出し、これから以降、如何にあるべきかを提言する部分にあります。残念ながら、ここでは、その触りの部分のみの御紹介に留まり、肝心要の根源的問題としての日本林業の問題までには立ち入ることが出来ませんでした。本書をご一読されれば、日本という国の病理に目を覆いたくなります。しかし、私が心底愛する、美しき「我が祖国(国土)」を未来に引き継いでいくために目をつぶっていて良いことではありません。皆様にも白井裕子氏の著作を是非ともお読み頂くことをオススメいたします。まずは、この国の実態を知ることが大切だと思います。すべては、そこから始まるコトだと思います。
最後に、「建築」に関わる、我が国の「建築基準法」とフランスでそれにあたる法規の、それぞれ冒頭部分を御紹介して本稿を〆たいと存じます。お読み頂ければその在り方の違いに驚嘆されることと存じます。しかし、その違いは限りなく大きなモノであると思わざるをえません。ここには、諸多の分野において目にする「哲学の欠如」「対処療法」という、日本における最大の課題があるように感じて仕方がないのです。もっとも、これは今に始まったことではなく、歴史を遡れば往々にして出会うことではあります。飛躍をするようですが、幕末の熊本藩士であり、その才を見込まれて松平春嶽の越前福井藩に招聘された儒者横井小楠がこれを目にしたら何と言うだろうと思うのです。是非とも彼の意見を聞いてみたいモノであります。彼こそ、幕末に諸外国への対応に右往左往する為政者の場当たり主義に対して厳しい批判を投げかけ、政策判断で最も重要なことは根本となる哲学だとした人に他ならないからです。フランスでは、新たな建築を建てるにも、修復を加えるのにも、この「哲学」に基づき審査と許諾を行う機関に絶大な権限が与えられております。特に重要な景観地区においては,たとえ個人の庭における一本の樹木を伐採するだけでも、専門機関の審査を要するそうです。少なくとも、自由・平等といった個人の「基本的人権」を、「市民革命」によって勝ち取ってきた人々の精神に位置付く、建築への基本的なコンセンサスが、ここに集約されていることを知っておいて損はないでしょう。
「この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。」
「建築は文化の表現である。(中略)建築の創造、環境との調和、景観、そして建築遺産の尊重は公益である。(後略)」
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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も4日後の放送(第6話)で、石橋山の合戦で敗れた源頼朝が房総に逃れて来ることになります。そして、ガイド本によれば、恐らく2月20日放送の第7話に、満を持して岡本信人さん扮する千葉常胤が御出座となりそうです。いよいよ、房総から鎌倉の地へ向けての進軍が開始されることになります。ところで、過日放送の第4話最終場面で、挙兵を下知した頼朝が勝利の暁に定めるべき本拠を「鎌倉」と高らかに宣言するシーンがございましたが、これは飽くまでもドラマとしての演出であります。『吾妻鏡』では、要害の地であり源氏所縁の地でもある「鎌倉」を本拠地として定めるべきと薦めた人物は千葉常胤としております。ドラマに登場しないのであれば兎も角、千葉常胤は配役されているのですから、是非とも常胤の口から発せられる言葉として聞きたかった……と、千葉県民の多くは歯ぎしりしたのではありますまいか。当方としては、返す返すも残念な演出と感じた次第でございます。
さて、申すまでもないことではございますが「石橋山」で敗れて房総に逃れてきた頼朝にとって、房総における武士団の帰趨こそがその後の命運に決定的な意義をもたらしました。しかし、房総の武士団を味方に引き入れるための布石は、恐らく早い時期から計画的に打たれていたものと思われます。そもそも、戦いに勝敗はつきものでありますから、挙兵の際には敗れた場合の善後策を講じておくことが常道であり、この場合も例外であるはずがございません。その意味で、治承4年(1180)8月17日三嶋社祭礼の手薄を好機に伊豆国目代山木兼隆邸襲撃によって反平家の狼煙を挙げる、その2か月前の『吾妻鏡』記事を見落とす訳には参りません。それは、6月27日、三浦義澄と東胤頼が、京都での大番役を終えての帰国途中に伊豆北条邸に伺候、余人を交えずに頼朝と3人のみで「御閑談に刻を移す」とあることです。記事には一体何を話し合ったのかは記録されておりませんが、挙兵2カ月前の段階における「御閑談」が世間話に終始した筈はありません。常識的に考えて、挙兵後の段取について綿密に打ち合わせたと考えるのが至当でございましょう。ここで重要なことは、東胤頼が千葉常胤の六男であることです。つまりは、もし反平家の挙兵が思うに任せない状況に立ち至った暁に、房総へ逃れて再起を図ることは既定の行動であり、予め千葉氏を初めとする房総の武士との間には、内々の繋がりが持たれていたことでありましょう。勿論、安房に渡った後、上総広常の元に和田義盛を、千葉常胤には安達盛長を使者として遣わして参向を促したことは間違いないでしょうが、おそらく両者ともにその訪問が“寝耳に水”の状況にはなかったものと思われます(上述したように、常胤が鎌倉を本拠と定めるよう盛長を通じて進言したのもこの時のことです)。特に、頼朝は、上総のみならず国内有数とも言える武士団を統率する実力者である、上総広常を味方に加えることに大きな期待を寄せていたのです。
さて、ここからは、標記タイトルに沿って頼朝と葛西清重との関係、及び鎌倉に到るまでの葛西氏の動向を中心に述べさせていただこうと存じます。まずは、極々個人的なことから始めさせていただきます。今回のパネル展では千葉常胤を含めた鎌倉御家人7名を取りあげておりますが、その内の葛西清重執筆担当が当方でございました。自身が葛飾区に生まれ育ち、現在もその地で居住している身として、葛西一族のことには殆ど関心もなく過ごして生きてきたことには、少なからぬ慚愧の念が御座いました。そこで、これを好機に罪滅ぼしを……との思いも手伝って、執筆担当に手を挙げたという次第でございます。そして、手頃な資料が決して多いとは言えない葛西清重と葛西一族について、この機に関連一般書籍と博物館展示図録の合計5冊を読むことになり、初めてこの人物と葛西一族の概略を知ることで俄然興味・関心が沸いてまいりました。しかし、パネル展では紙幅の関係で泣く泣く割愛せざるを得ない内容も多々ございましたので、この場を借りて補説してみようとするものです。従って、ここではパネル展の葛西清重記述した内容には触れない可能性もございますのでご承知おきください。
さて、上述致しましたように、房総に渡った頼朝は、上総広常と千葉常胤へ参向を促す使者を派遣するとともに、前後にその他の有力武士に「それぞれ志のあるものを誘って参上するように」との内容を記した御書を送っております。『吾妻鏡』には、それが小山朝政・下河辺行平(両者は同族)、豊島清元・葛西清重(両者は親子)とあり、その4人の名前を挙げた後に続けて以下のように記します。どうも、他の3人と比べても葛西清重の参向に一際大きな期待を寄せている趣が感じられませんでしょうか。それには、如何なる背景があるのでしょうか。まずは、その理由を探ってみたいと存じます。そもそも、上総広常や千葉常胤と比較して、その存在は決してメジャーではないことにも天の邪鬼の当方としては興味をそそられます。その証拠に、悲しいかな今回の大河ドラマでは、葛西清重はキャスティングすらありません。その意味では、扱いが大きいとは申せませんが、市民としては常胤が登場することを慶賀とするしかないのかもしれません。
とりわけ「清重は、源氏に対して忠節をはげんでいる者であるが、その居所は江戸と河越の中間にあるので、動きが取りにくいであろう。早く海路を経てやってくるように。」という丁重な(頼朝の)仰せがあったという。
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その葛西氏でありますが、当一族は「秩父平氏」の流れを汲んでおります。「秩父平氏」とは、平良文の流れを汲む将恒が武蔵国秩父郡を本拠に「秩父氏」を称したことに始まるとされ、その後裔に位置づくのが、畠山氏・河越氏・江戸氏・豊島氏・葛西氏等となります。葛西氏が下総国を所領としますが、その他の一族は基本的に武蔵国に盤踞した一族と申して宜しかろうと存じます。その内、畠山・河越・江戸の各氏が「嫡流」であって、豊島・葛西はその「傍流」にあたります。そして、同族集団としての「秩父平氏」とは、武蔵国の奥地にあたる秩父から入間川流域を経て、現在の東京湾岸に至る一帯へと一族を輩出していった武士団であるとも言えましょう。その内、最下流の臨海部を本拠としたのが江戸氏と葛西氏に他なりません。「秩父平氏」の所領展開には、河川に沿って内陸部から海岸へといったベクトルがあることは、これ以降の葛西氏の在り方を理解する上でも重要なポイントであるように思いますので、気にとめておいていただけると宜しいかと存じます。武蔵国豊島郡を本拠とする豊島清元の子である三郎清重が、治承元年(1177)以降、源頼朝が挙兵する治承4年(1180)までの期間に、父の所領の一部であった下総国葛西郡を譲り受け(時期は未定ながら伊勢神宮に寄進し「葛西御厨」としています)、その郡名を名字としたことで葛西氏が成立しました。因みに、その所領とは、現在の東京都葛飾区・江戸川区・墨田区・江東区域に相当します。当該地域は、律令国家の成立以来下総国・武蔵国の境界ラインが古隅田川に定められていた関係で下総国に属しておりましたが、江戸時代初期にその境界線が古隅田川から江戸川(中世の太日川)に改められたことで、武蔵国に編入された経緯があります(移管前の近世初頭に隅田川に架橋した橋を「両国橋」と命名した由縁でもあります)。つまり、葛西氏は下総国に地盤を持った武士団ということであり、下総国一宮である香取神宮社殿の20年に一度の式年造替を千葉氏と交互で担うことからも明らかであるように、その勢力は国内で千葉氏と肩を並べるものであったと考えられます。
さて、葛西清重と父の豊島清元は、頼朝が房総に逃れてきた極早い段階で頼朝陣営の傘下に入ったわけですが、頼朝は彼らに何を期待していたのでしょうか。また、清元・清重親子が「年末ジャンボで一山当てよう!!」的な、ある意味で危険極まりない“ギャンブル”とも称すべき頼朝挙兵に何故一味同心したのでしょうか。前者については、ある程度予想がつきます。頼朝にとって、房総から武蔵国、そしてその後に相模国の鎌倉へと歩みを進めるためには、どうしてもそのルート上に存在する敵対勢力を傘下に納める必要があったからです。その敵対勢力が、石橋山の合戦で敗退の憂き目を負わされた平家方勢力に他ならないのです。そして、その武蔵国に隠然たる勢力を扶植していたのが「秩父平氏」であり、その段階においては主流である畠山氏・河越氏・江戸氏は何れも平氏方として頼朝と敵対していたからです。その最前線とも言うべき下総国葛西をおさえる清重と、その父で武蔵国豊島郡を本拠とする清元の帰趨は、頼朝にとって極めて大きな意味を持っていたことが最大の要因と考えられましょう。同時に、古隅田川を挟んで隣接する武蔵国足立郡を地盤とする藤原北家魚名流の足立遠元も頼朝傘下に加えております。遠元は、後に「13人の合議制」メンバーに選ばれる人物でもあります。
(中編に続く)
その一方で、「秩父平氏」である豊島氏・葛西氏が頼朝陣営に加わる動機については、今回調べた範囲では、当方の腑に落ちる確たる理由を見つけることができず、何とも悶々とした思いではあります。一つ想定されることは、豊島・葛西氏は「秩父平氏」の傍流であることに起因する可能性がないかということです。平氏方勢力に加わった、主流である畠山氏・河越氏・江戸氏と対抗して一族の地位を向上させる目的があったという想像です。しかし、「秩父平氏」主流から余程の圧迫を加えられていたことでもなければ、そもそも論として成り立ち得ません。中編では、それを、飽くまでも傍証に過ぎなかろうとは存じますが、諸史料から探ってみたいと存じます。
頼朝が挙兵に及んだ治承4年(1180)における、『吾妻鏡』8月26日の記事に以下の記述が見られます。状況としては、未だに畠山・河越・江戸といった「秩父平氏」嫡流系一族が平氏方につき、頼朝与力となっていた三浦氏を討つために立ち上がろうとする際の記事となります。ここからは、畠山重忠の「秩父平氏」としての強烈な嫡流意識を読みとることができましょう。同じ嫡流系の河越氏や江戸氏に対する意識にも、明らかに優越する自意識を持っているようにさえみえます。まして、庶流である豊島氏・葛西氏は同族でありながら、歯牙にもかけられていないとの印象すら受けませんでしょうか。これを豊島・葛西の両氏が面白く思わないであろうことは容易に想像できることです。つまりは、傍流系の豊島・葛西には同族間での不満が燻っていたとの想像を惹起させる記述ではないかと考えるものであります。
「武蔵国の畠山次郎重忠は、平氏の恩に報いるため、そしてまた油井浦での敗戦の屈辱を雪ぐため、三浦の者たちを襲撃しようとしていた。そこで武蔵国の多くの党を引き連れ集まるようにと河越太郎重頼に伝え送った。この重頼は、秩父の家では次男の流れではあったが家督を継承し、武蔵国の党を従えていたので知らせたという。江戸太郎重長もやはりこれに味方した。」 (五味文彦・本郷和人編 『現代語訳 吾妻鏡』吉川弘文館) |
続いて、後の寿永元年(1182)ことになりますが、北条政子が産気づいた際、頼朝は安産祈願のために奉幣の使いを近国の神社に遣わしたことが『吾妻鏡』8月11日の条に見えます。その時に選ばれた神社と派遣された御家人が以下の一覧であります。是非ともご注目ください。なお、翌12日に頼朝後継として後に「鎌倉殿」となる頼家が誕生しております。
伊 豆 山 [土肥弥太郎(遠平)] 箱 根 [佐野太郎(基綱)]
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「葛西清重も選ばれているのか!!頼朝から重用されているじゃないか!?」と感心されているばかりではなりません。ここで注目すべきは、むしろ何故武蔵国の奉幣に下総国の御家人である清重が選ばれているかです。清重以外は、すべて各地方の中枢とも言うべき神社に当該地域の有力者と目される御家人が遣わされているからです。しかも、そもそも葛西氏は、前編でも触れたとおり、千葉氏と交互に下総国一宮である香取神宮の式年造替という重責を担う一族なのです。まぁ、この場合は千葉胤正がそれに選ばれたので、葛西清重には別のところを……ということかもしれません。しかし、「武蔵六所宮」とは「武蔵国惣社」であり、国府官衙(国衙)に隣接して造営される、武蔵国の神祇経営に欠かせぬ機能を有する国府附属の神社に他なりません(現在も東京都府中市に所在する大國魂神社)。そして、武蔵国在庁としてその国衙機能の重責を担っていたのは「秩父平氏」の主流である畠山氏・河越氏に他ならならないのです。それにも関わらず、葛西清重が選ばれていることの意味を考慮する必要があるのではないでしょうか。当方は、ここに、本来傍流である葛西氏を「秩父平氏」内で本流と対等に扱おうとする頼朝の意思を見てとるべきではないかと考えるものであります(互いに牽制させる)。その意味からは、葛西氏は頼朝に加勢し功績を挙げることで、明らかに「秩父平氏」の中での地位の向上を果たしたと言えるのではありますまいか。逆に、嫡流系の畠山等々にしてみれば、その対応に何某かの不愉快と危機感とを抱いた可能性を否定できますまい。更に、20年強も後の元久2年(1205)発生する「畠山重忠の乱」では、北条義時・時房の率いる大軍によって重忠は武蔵国の二俣川で滅ぼされるのですが、その時に義時軍の先陣を勤めたのは葛西清重であり、このことからも、「秩父平氏」同族間では熾烈な、鎬を削る権力闘争が予て燻っていたことをも思わせます。
さて、ここで、一つ付説しておくべきことがございます。時系列が前後して申し訳ございませんが、頼朝による佐竹攻め直後に『吾妻鏡』に記された記事について注目してみたいと思います。まずは、その経緯からご説明すると、治承4年(1180)10月「富士川の合戦」で平氏方に勝利した頼朝が、勝ち馬に乗って平氏方を追って上洛しようとすることを上総広常・千葉常胤・三浦義澄が諫めたことに由来します。それが、常陸国の佐竹一族等々、坂東の地には未だ頼朝方に服属しない勢力がおり、それを従えることこそ優先すべしとの主張でありました。その諫言を受け入れた頼朝は、その後に佐竹氏追討に向かいましたが苦戦を強いられます。しかし、上総広常の進言による攻撃が功を奏してようやく佐竹氏を下すことができたのでした。合戦後、鎌倉に向かう頼朝はその途次に葛西清重の館に一夜の宿りをいたします。その時に頼朝が「武蔵国丸子庄を葛西三郎清重に賜った」と『吾妻鏡』は記します(清重が佐竹攻めに従軍したか否かは記されておらず、この恩賞が如何なる理由に拠るモノかは不明としかいいようがありません)。この地は、多摩川の中下流域に立地しており、多摩川を遡れば武蔵国府に到達しますし、下れば直ぐに現在の東京湾に到達し、内海をゆけば本拠地である葛西郡も指呼の地となります。従って、清重が武蔵国と無関係であったとは申せません。しかし、ここで葛西清重がこの役を任された理由が武蔵国丸子庄を所領としていたことから説明することには躊躇せざるをえません。因みに、後編で葛西氏の所領の在り方について触れてみたいと存じますので、この清重が武蔵国丸子庄を渉猟としたことを記憶に留めておいていただけると宜しいかと存じます。
ところで、上述した、佐竹攻めの帰途に頼朝が清重邸に宿泊した際のこととして、『吾妻鏡』はあろうことか以下のような記事を記します。それが「清重は妻女に頼朝の御膳を備えさせた。ただし、清重はそのことを申さず、お気に召していただこうと他所から若い女を招いたと申し上げたという」と。平たく謂えば、要は自らの妻女を頼朝に献上しようとしたということです。過日ご推薦した細川重男氏の『頼朝の武士団』(朝日新書)では、この事実を取りあげ、「気付いた頼朝が断っている」と書かれておりますが、少なくとも『吾妻鏡』原文からはそうした事実は読み取れないように思われます。『続群書類従本 笠井系図』によれば清重室は千葉常胤娘だとのことですが、この女性がその人にあたるものかは判然とはいたしません。もしそうだとしたら父の常胤は如何様に思うものでしょうか。少なくとも喜ばしい話とは受け取ることはありますまい(もっとも、古代・中世には現代人にとって理解の埒外の習慣・法理・道徳等々が目白押しですので、斯様なことに疎い当方の憂慮が全く的外れの可能性も大いにありえましょう)。しかし、何よりも、現代社会の目から見ればこの記事をもってして「清重ファン」を降りる方がいや増しになるのではないかと懸念いたします(特にご婦人方は……)。当方としましては、地元所縁の人物を殊更に貶める不名誉を、わざわざこの場で述べることに若干の躊躇が無かったと言えばウソになります。しかし、事実は事実として覆い隠してはならぬと思い、蛮勇を振るって記載をさせていただいた次第でございます。
さて、房総に逃げて来た頼朝には、房総の武士団が続々と味方をすることになり、特に千葉常胤を筆頭とする千葉一族の活躍は目覚ましいものがあったことは申すまでもありますまい。頼朝を迎えるより前に、下総国府の目代(その人物名は不明です)を討ち取り、源頼朝陣営の旗印を鮮明にしました。つまり、この段階で千葉氏も明確な国家への反逆者となったのです。最早後戻りの出来ない段階に脚を踏み入れたのです(俗に言う「ルビコン川を渡る」の譬えが当てはまりましょう)。続けて、そのことを知って千田庄から千葉常胤討伐に進軍してきた、平氏と深い関係にある藤原親政を常胤孫の千葉成胤が生け捕ることに成功します(結城浜の合戦)。そのことを踏まえ、『吾妻鏡』の記述によれば、頼朝は未だ上総広常が参向せぬ儘に、千葉一族に迎えられて下総国府に向かい、治承4年(1180)9月17日に国衙機能を制圧します。ここで藤原親政は頼朝の前に引き出されます(その後の動静は不明)。このことに象徴されるように、ここに頼朝が下総国を事実上掌握したことが示されております(因みに、常胤が頼朝から「これからは司馬(常胤)を父として遇する」との言葉を掛けられたのはこの時のことです)。
そして、頼朝は下総国府で一度進軍を止めることになります。何よりも国衙を制圧したことを内外に示す意図もあったことでしょう。そして、更に大きな理由が、未だに充分とは言い難い勢力の拡充を目指すべく、頼朝が最も頼みにしていた上総広常の到着を待つことにしたのでありましょう。そしてようやく広常は頼朝の下に参上することになるのですが、ここではそのことについてこれ以上踏み込みません。『吾妻鏡』によれば、その数は二万騎としております。これ以降に頼朝軍は二万七千騎としておりますから、房総に渡って下総国府に到着した段階では、頼朝軍勢は千葉一族を加えても七千騎ほどであったことがうかがえます。頼朝が広常の参向をどれほど心待ちにしていたのか、このことからも御理解いただけましょう。当方は、頼朝がこの段階で大軍勢を要することになったこと、下総の国衙機能を掌握したことをもって、豊島・葛西の両氏は頼朝への参向の意思を確たるモノとしたのではないかと推察するものです。この勢いには決して抗うことはできないと確信したのではありますまいか。また、地域の武士団にとっては、国家機能の地方中枢機関である国衙の実権を如何なる勢力が握っているのかは、未だに極めて重大な意味を持ったと考えるからでもあります。
そして、いよいよ、下総国府から太日川(江戸川)を渡河し、今で言う東京東部低地へと進軍することになります。ここは葛西清重の本拠とする所領であり、下総国府から武蔵国府に向かう古代官道が領内を東西に横切っているのです。そして隅田川を渡れば武蔵国へ脚を踏み入れることになります。しかし、前述したように、その段階では武蔵国に盤踞する「秩父平氏」主流の畠山・川越。江戸の各氏は頼朝に敵対する立場にあり、隅田川右岸を抑える彼らを従えなければ鎌倉への道が開けないのです。こう考えると、両勢力の緩衝としての葛西氏の立ち位置の重要性が鮮明となりましょう。葛西清重は、この時に頼朝から、頼朝に従おうとしない江戸重長を「偽って誘い出し,討ち取るよう」命じられております。そして「清重と重長は一族ではあるが、清重は二心を抱いていないので、このように命じたという」と『吾妻鏡』は記します。しかし、吾妻鏡と同時期(鎌倉時代後期)編纂になる説話集『沙石集』には「頼朝が武蔵国に入ろうとした時、江戸重長が頼朝の命令に従おうとしなかったため、頼朝は清重を呼び、重長を抹殺すれば重長の所領を没収し清重に与えると言ったが、清重はこれを固辞した。頼朝は怒り、今度は清重の所領を没収すると責めたが、清重が同族である重長を思ってなおも固辞する態度に、頼朝も感服し、清重を責めるのも江戸氏の所領を没収することもやめた」との逸話が掲載されております。つまり、江戸氏は葛西氏と嫡流・傍流と格差が存在するものの同族であったこともあり、清重が何とか重長を説得して頼朝に味方させたということでありましょう。
また、室町時代の成立と目される『義経記』には、この時のこととして千葉常胤と葛西清重とが江戸重長に協力して隅田川に舟橋を設営する様子が記されております。そこには、所領である海人の釣舟を数万艘集め(個人的な話で恐縮でありますが、ここには清重の所領の一つとして、当方が居住する「亀有」の旧名である「亀梨」が現れることで忘れ難い記事でもあります)、江戸重長は西国船を数千艘用意して三日の内に浮橋を設営して武蔵国へと軍勢と渡したとしております。物語としての誇張は否めませんが、ともに臨海部を所領とする「秩父平氏」としての江戸氏と葛西氏とが多くの西国船を束ねていたこと(葛西御厨自体が伊勢との海運を前提にして成立していたことも忘れてはならないでしょう)、つまりは海を介在した流通活動を掌握する存在であったことをも想起させる記事としても注目されましょう。その結果、頼朝の軍勢は、10月2日には無事に武蔵国入りを果たし、川を渡った頼朝を豊島清元・葛西清重親子が出迎えております。挙兵直後において、葛西氏と豊島氏の果たした功績は、頼朝にとって上総氏・千葉氏と並び立つほどに大きなモノであったことが御理解いただけましょう。これ以降の葛西清重の活動、つまり平氏政権との戦いでの活躍、奥州藤原氏攻めでの活躍、そして幕府内での活動の数々については、それだけでも数回を要する内容となるため、これ以上述べることは差し控えさせていただきます。その代わりといってはナンですが、後編では葛西氏の所領の在り方、特に奥州における葛西氏の動向について簡単に述べてみたいと存じます。
(後編に続く)
文治5年(1189)「奥州合戦」で抜群の武功を挙げた清重は、奥州藤原氏滅亡後の陸奥国の御家人の奉行を命じられ、頼朝が鎌倉に帰還した後にもその地に留まり、治安の維持や戦乱で荒廃した奥州の復興を託されております(「奥州惣奉行」)。併せて、戦功の恩賞として、平泉の位置する岩井郡と隣接する胆沢郡・江刺郡・気仙郡・興田保・黄海保、それらから離れた石巻が位置する南の牡鹿郡を所領として賜ったのでした(「五郡二保」)。葛西氏の本拠は下総国葛西郡でしたから、平泉には別に屋敷を構え、代官を派遣して所領の統治を進めております。因みに、古文書には代官として「青戸二郎重茂」の名がみえており、この人物が葛西氏本拠の地で葛西氏に仕える武士であり、名字の地である「青戸」(現在の葛飾区青戸)から奥州に下向した人物であることが分かります。また、奥州藤原氏歴代の尊崇の厚かった名刹「中尊寺」は、以後鎌倉幕府の護願所として扱われることになります。清重は勿論、それ以降も葛西氏が神事仏事を取り仕切っていることが中尊寺文書から明らかです(但し、中尊寺・毛通寺との間で屡々争論が繰り返されていることも事実です)。
その後の葛西氏本宗家は、6代清貞の頃には葛西を退去して奥州に移ったようで、以後は奥州を本拠地とするようになります(千葉一族内の相馬氏・武石氏と同様の御家人「北遷」の事例と重なりましょうか)。そして、南北朝期には後醍醐天皇から「無二之忠」と賞される等、南朝の陣営として活躍しております。しかし、その後に北朝に転ずるなど、動乱の時代を潜り抜け、後に戦国大名として奥州の地に君臨するようにまでなります。しかし、天正18年(1590)羽柴(豊臣)秀吉による小田原北条氏攻めの際、その呼びかけに応じることなく参陣しなかったことを咎められて所領を没収されました。ここに大名としての葛西氏は滅亡します。同年、秀吉による奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏の旧臣による新領主の木村吉清・清久父子に対する反乱が起こりますが鎮圧されます(「葛西・大崎一揆」)。その結果、旧臣の多くは帰農し、地域の有力者として近世を生き延びることとなります。よく知られる伝承として、今でも当該地域の旧家に多く見られる庭木「槐(サイカチ)」は、旧臣が葛西氏の再興を期して植えたとの話が伝わっております。つまり「再勝ち」「葛西勝ち」の意味を込めたものという内容に他なりません。この伝承が何時如何なる状況で生まれたのかはわかりませんし、恐らく彼らが滅亡してからかなり遅れて生まれたものかと推察致します。しかし、逆に地域には葛西氏支配の記憶を再生しようする動向があったことになりましょう。その意味でも興味深い事実であります。因みに、「千葉」もそうですが、「葛西」も東北に多く見られる名字であることも申し添えておきたいと存じます。
因みに、平泉にある中尊寺内「金色堂」は、藤原清衡が天治元年(1124)に建立した堂宇であり、奥州藤原氏歴代の亡骸が納められる、謂わば「墓堂」とも言うべき建築であります。全体に金箔の施された類い希な建築遺構として「国宝」指定がされております。その保護のため、現在では、昭和40年(1965)建立の鉄筋コンクリート製覆堂内に、外気から遮断されたガラスケース内に納められております。しかし、それ以前にも、金色堂を保護するため、室町時代半ばに建立された木造覆堂の中で500年にわたって保護されてきたのです。その旧覆堂も近くに移築保存されており重要文化財に指定されております。こうした覆堂の存在は、正応元年(1288)鎌倉将軍惟康親王の命で建設されたことを嚆矢とするそうですが、中尊寺の大檀那として、その覆堂の修理・維持に葛西氏が深く関わってきたことが、中尊寺に残される資料から読み解けるのです。その意味で、葛西氏は奥州藤原氏遺跡を今日まで伝えた、まさに功労者とも言うべき存在であると言えるのかもしれません。永徳4年(1384)に覆堂の修理の際の棟札がそれにあたり、そこには「平伊豆守沙弥光清」「平妙宗女」の名が記されます(これが現存する旧覆堂に関するものか否かは判然と致しません)。これは、出家後の葛西清貞とその妻と推定されているのです。
次に、葛西氏の支配領域の在り方について若干述べたいと存じます。先に葛西氏が、千葉氏と交代で下総国一宮である香取神宮の式年遷宮を執り行う一族であったことを述べました(基本的には20年ごとの造替)。こうした巨額の経済的負担に耐える葛西氏の経済的基盤とは何処に存在したのでしょうか。葛西氏の本領である葛西郡は決して広大な所領とは言いかねます。しかし、武蔵国府と下総国府とを結ぶ古代から続く官道(現在で言う国道)が東西を串のように貫いており、南北には幾筋もの河川が所領内を貫いております。しかも、その河川はすべて内海に注ぎ込む最下流部にあたるのです。つまりは、この地は海運と内陸河川水運との結節点であり、更には東西を貫く陸上交通と南北を貫く水上交通との結節点でもあったことになります。旧葛西郡にあたる現在の東京東部低地には、亀戸・青戸・奥戸等々の「戸」を付す古くからの地名が現在も沢山残っております。この「戸」は「津」の転化と言われます。つまり「湊(港)」の謂いであります。また、「渡(と)」の転化であるとも想定されてもおります。つまり、道が河川を渡る地点に存在する「渡し場」の意味であります。何れにせよ、軍事上・経済上な要衝に他ならないことは御理解いただけましょう。上記いたしました『義経記』の記事からも、ここが西国からの交易船が蝟集する場であったことは、決して物語上の創作に留まるものではありますまい。少なくとも『義経記』の成立した室町期には斯様な状況を呈していたことだけは確実です。それが更に遡ることは確かであると思われます。つまり、陸路・水路を掌握することで、坂東内陸部と国内各地との物資の交流に深く関わる一族であったことが想定できるのです。先にも触れているように、時期は明確ではないのですが、おそらく12世紀後半から13世紀初頭に掛けて、葛西氏はこの所領を伊勢神宮に寄進して所領支配の安定化を図ってもおります(「葛西御厨」の成立)。
このように考えると、奥州における葛西氏の所領経営にもそうした在り方を重ねられるのではありますまいか(広く秩父平氏と置き換えれば更に理解し易いかもしれません)。つまり、内陸の平泉周辺所領と、そこから孤立して存在する石巻を中核とする所領との関係性であります。今日の石巻を想定されれば御理解頂けましょうが、ここは臨海部に存在します(それ故に東日本大震災での津波被害を受けたのです)。何より注目すべき事は、石巻と内陸所領とは北上川一本で直接に結びついているのです。つまり、政治・経済上の拠点を抑え、水運等を通じて所領を掌握する形態であります。さらに、前編で記した、頼朝の佐竹攻めの直後に清重が賜った武蔵国丸子庄にも同じ理屈があてはまりましょう。ここは多摩川の河口ではありませんが中下流域に位置します。更に、ここは鎌倉街道中ツ道の多摩川渡河地点とも目されているのです(近世でも中原街道の渡河地点として「丸子の渡し」がおかれた地点です)。奥州藤原氏攻めの際には頼朝を総大将とする大手軍が多摩川を渡河して奥州へと向かったルートとも目されております。多摩川を遡れば武蔵国府にも直結する、まさに交通の要衝に他なりません。これらは「葛飾区郷土と天文の博物館」学芸員を長く務められた谷口榮さんが提起されている御説を紹介させていただいているのであり、元より当方の思いつきではありませんが、これを単なる偶然とは申せますまい。つまりは、恩賞としての葛西氏への所領配分は、決して思いつきにはあらず。「秩父平氏」葛西氏の特性を充分に把握した上での周到な計画に基づいていることが推定できるというわけです。頼朝という人物……やはり只者ではありません。葛西氏一つをとってもこれなのですから。
葛西氏についての話題の最後に、青森県西津軽郡深浦町にある円覚寺なる真言宗寺院の「棟札」について御紹介させていただきます。青森県の日本海側海岸線に所在する決して大きな町とは言えない深浦町の古びた寺院に残るこの棟札は、永正2年(1506)に本寺の本堂等を再建した際のものとなります。注目すべき事は、ここに当事業を成し遂げた人物名として「葛西木庭袋伊予守頼清」なる人物名が記されていることです。この「木庭袋」は「きばぶくろ」と訓じるのですが、応永5年(1398)「葛西御厨田数注文」に記される葛西地内の地名であり、戦国期には読みの転化に起因すると思われる「千葉袋(ちばぶくろ)」として記録に表れる地名でもあります。そして、その地とは、当方にとって幼少期から遊びのフィールドであった「上千葉」「下千葉」という地名として引き継がれた土地でもあります(現在は歴史とも文化とも無関係の、単なる行政上の都合による「西亀有」「西堀切」なる無粋極まりない住所表示となっております)。つまり、この深浦の「葛西木庭袋氏」とは、戦国期よりも以前の段階で名字の地を名乗ったまま、冬季には日本海から吹き付ける雪風に埋もれる青森の地に移った(北遷した)、紛れることない葛西氏一族に他ならないのです。「木庭袋」の地は、現在では小水路と化しているものの、かつては大河であったであろう古隅田川の左岸にあたり、恐らく大きな樹木の少ない東京低地の土地柄ゆえに、建築資材として上流から下した材木を貯木する場であったことに由来する地名であると推察されております(近世江戸の「木場」地名のように)。自らの地の利のある場所から、如何なる事情があったモノかは知り得ませんが、室町期の前半に斯くも遠方にまで活路を求めた葛西氏一流が存在したことに、なんとも謂えぬ感慨を覚えた次第でございました。そして、普段何気なく見て来た風景の中に、悠久の歴史を身近かにした瞬間でもあったのでした。
最後になりますが、標記パネル展が開催されて2週間強が経過いたしました。過日「朝日新聞」千葉版にも取り上げて頂きましたこともあって、今週に入ってからは取り分け多くの皆様に御来館をいただいており、誠に有難いことと存じおります。本展の会期は3月6日(日曜日)までとなっておりますので、早いもので既に会期は1か月を切っております。源頼朝に従って立ち上がり武家政権の基盤をつくりあげた武者は、決して千葉一族だけではありません。それぞれの武士団の事情を抱えながら頼朝の挙兵に掛けた多くの東国武士について、是非とも御理解いただく絶好の機会としてくださいますよう、お願い申しあげます。未だの皆様のご来館をお待ち申しあげております。
厳しい冷え込みが続き、春の足音が聞こえてくる気配は未だ感じられません。しかし、それでも梅樹には花の蕾が顔を出しているようにも見えます。何でも、千葉界隈での今年の桜開花予想は3月8日頃と耳にしました。かつて、猪鼻山と申せば桜の名所として夙に名高い場でありましたが、「千葉開府800年」を記念して植樹された「染井吉野」の樹勢も、百年を経過して目に見えて衰えております。その所為もあってか、昨今の「さくら祭」の賑わいもまた、当方が千葉市にやって来た40年前とは比べるべくもないほどであります。そして、足掛け3年に及ぶコロナ禍の影響で、この度、21回目となる今春の「千葉城さくら祭り」中止が正式に決定いたしました。本館も、この期間に限って建物のライトアップをさせていただいてきており、格好の“夜桜の鑑賞・撮影スポット”としてご好評をいただいております。しかし、コロナウィルス(オミクロン株)が猛威を振るっているなか、この判断も致し方がございますまい。一刻も早い終息を祈るばかりでございます。そんなこんなで、今回は少し明るい話題として、タイトルにもある『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(以後、略称である「こち亀」)を中心とした漫画についてとりあげようと存じます。
それにしても、藪から棒に漫画、わけても何故『こち亀』なのかと申せば、第一に、2月8日(火曜日)朝日新聞「東京川の手版」に掲載された以下の記事に接したこと(朝日新聞東京版は「川の手版」「山の手版」2種となっており前者は都内東部地方版となります)、第二に、当方の「生まれも育ち」が漫画の舞台である東京都葛飾区亀有であること、第三に(これが最も大きいものですが)、これまで半世紀近くにも及ばんとする『こち亀』との長い付き合いによるという、極々個人的な理由が大半を占めるものであります。申し訳御座いませんが、暫しお付き合いの程お願いいたします。
「こち亀」も聖地を 観光施設を建設へ 葛飾区
(抜井規泰) |
さて、当方は、現在でも引き続き、亀有に居住する者であります。自分で申し上げるのも気が引けますが、初対面で自己紹介をする際には、世に広く知られる本作品に助けられることが多くあります。殆どのケースで、出身地を述べるだけで「あの亀有ですか!?」と親しみを持った反応が返ってくるからです。ひとしき本作の話題となることで、早々に双方の距離が縮まるように感じております。自分が生まれ育った町を悪しざまに言うのは気が引けますが、今では大した特色もなくパッとしない町である「亀有」に親しみを感じていただけるのは、偏にこの漫画の存在の賜物に他なりません。誠にもって有難いことと存じております。因みに、取り分けて青年期に愛着を持てなかった生まれ故郷ですが、今ではホントウに“良い街”だったと思うことができます。狭い路地に仕舞屋が建ち並び、あちらこちらに駄菓子屋や銭湯があって子ども達の溜まり場でした。駄菓子屋では少ない小遣いで「もんじゃ焼き」をつつき、銭湯では身体中石鹸を塗りたぐってタイル上を滑って遊びました(湯船後方に細いタイル貼通路がある銭湯があり絶好の遊び場でした)。適度に町外れであったため、空き地も彼方此方にあって草野球をするにも最適、入り組んだ路地は“缶蹴”・“泥警”・“かくれんぼ”等々に打って付けでした。自動車の入り込まない路地はバケツにシートを張った“ベーゴマ”や“面子”の舞台でした(“王”“長嶋”“国松”等々の当時の巨人軍選手を鋳だしたベーゴマは駄菓子屋で安価で売っていました。今でも自宅の納屋を探せば実物が残っていると思います)。しかし、そんな忘れ難き街の面影は、既にこの世からは消滅しております。今では高架となった亀有駅と、後になって完成した道路“環状七号線”沿いは高層マンションだらけ。町工場も郊外へ移転して跡地は大規模住宅団地や大型ショッピングモールに。その打撃を被ってか地元商店街も火が消えたようです。シャッター通りにはなっておりませんが、ラーメンや居酒屋ばかりが増えて賑わいが喪失しております。空き地も住宅となり、曳舟川も埋立てられ道路に様変わりしました。傍若無人に遊びまわるそんな子供たちを叱ってくれる地元の頑固親父(小言幸兵衛)も多かったのですが、物わかりの良い大人ばかりとなりそれも絶滅いたしました。今では何処にでもある個性もへったくれもない味気のない街へと変貌を遂げてしまいました。しかし、『こち亀』の世界には、当方が過ごした時代の亀有、そして東京東部低地の空気を濃密に感じさせられるのです。
それもその筈です。何故ならば、作者の秋本治さんもまた亀有に生まれ、現在も葛飾区内に住居兼事務所(「アトリエびーだま」)を構えていらっしゃるからです。おそらく、故郷の街の変貌を同じように見てこられた筈です。秋本さんの生年は昭和27年(1952)ですので、当方は生まれたときには、既に小学校2年生であったと思います。従って、学校ではすれ違いであり、当然のごとく面識もございません。御生家は旧水戸街道(近世以来の街道です)に南面して鮮魚店を営んでいたと聞いております。周辺は当方の遊び場でもあったのですが、記憶のネガにはその店は全く残っておりません。なんでも、秋本さんは9歳の時に御尊父と死別され、病弱の御母堂に育てられたそうですから、当方の記憶の及ぶ時分には既に店を畳まれていたのかもしれません。むしろ記憶に鮮明なのは、秋本さんの生家の直ぐ近くの並びにあった古い映画館であります。そこは「亀有東映」といって、夏休みの「東映まんがまつり」で大いにお世話になりました。幼少期には記憶しているだけでも亀有には「大映」「オデオン座」「日立館」等々の5つの映画館がありましたが、櫛の歯が書けるように閉館となり最後まで残ったのが「亀有東映」でした。もっとも、1980年代からは館の名称も「亀有名画座」となり、専ら成人映画専門上映館となり、カルトな人気を博す映画館として広く知られておりました。しかし、旧水戸街道の拡幅工事に伴い惜しまれつつ平成11年(1999)2月に閉館。閉館日には「平成ガメラ3部作」(大映)・『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(東宝)監督で知られる金子修介監督が来館されたと聞きました。彼は、ゴジラ・ガメラ双方でメガホンをとった唯一の監督であり、その何れも傑出した特撮映画であります。若い頃、俗に言う“ピンク映画”の監督を長くされていたことから本館とも縁が深かったようです。
さて脱線が過ぎました。『こち亀』の話題に戻りましょう。本作が「週刊少年ジャンプ」に連載開始されたのは昭和51年(1976)であり、私は高校2年生でした。他の漫画と比べて圧倒的に濃密に描き込まれた黒々とした画面と、破天荒な警察官である主人公“両津勘吉”と派出所の仲間達が繰り広げる抱腹絶倒な漫画世界にたちまち引き込まれ、腹を抱えて笑い転げたことを懐かしく思い出します。デビュー当初は、当時人気を博していた「がきデカ」の作者“山上(やまがみ)たつひこ)”を捩った“山止(やまどめ)たつひこ”をペンネームとしておりましたが、山上氏からのクレームが入り、その後は本名を名乗って今日に到っております。従って、最初期の単行本コミックス1~6巻は「山止たつひこ」名義で出版されておりますが、再販から「秋本治」名義に改められております(単行本コミックスは全巻所有し、読破もしておりますが初期の山止名義本は残念ながら所有しておりません)。その後、営々と、「こち亀」を“書きも書いたり40年”。その間、一度も休載することなく『週刊少年ジャンプ』の連載を続けてこられました。しかも、その制作においてはご本人もアシスタントスタッフも勤務時間を厳守し、決して残業をさせないことをモットーとしておられたと聞いております。昨今世間を賑わす「働き方改革」を遙か昔から完全実施されてきた点においても、見上げた労使関係を構築されてこられた果ての偉業でありました。
しかし、連載40周年アニヴァーサリーイヤーとなる平成28年(2016)をもって連載を終えることを発表された時には驚かされました。本作への人気は、少しも衰えることを知らなかったからであります。そして、そのご意志通り、同日発売の第200巻で単行本コミックスも一区切りとされたのです。誌面には「あの不真面目でいい加減な両さんが40年間休まず勤務したので、この辺で有給休暇を与え、休ませてあげようと思います」との、如何にも秋本さんらしい心のこもったコメントがあったことが忘れられません。もっとも、秋本さんは、今後も折々に両津を登場させると公言しておりました。事実、昨年秋には、連載終結後に単発で発表されてきた作品を集成した、単行本コミックス第201巻を刊行されました。これにより「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」としてギネス世界記録に認定された“さいとう・たかを”『ゴルゴ13』の記録に並ぶことになりました(「ゴルゴ13」は203巻ですが「こち亀」には通巻の他に999号等の別巻があります)。さいとう氏は昨年9月惜しまれつつ鬼籍にはいられましたので、この後の秋本さんによる記録更新はほぼ間違いないことでありましょう。作品の質も全く往時の儘であり、当方が本作品の「キモ」と考えているカウンターキャラとしての“大原部長”との痛快な遣り取りも健在でありました。既に還暦を過ぎた身で、今更「少年漫画」に現を抜かすのも如何なものかと思わない訳ではありませんが、正直なところ、久しぶりの新作群も大いに楽しませていただいたのでした。もっとも、こうして欠かさずに接する漫画は、ここ40年以上「こち亀」のみでありますが。
(後編に続く)
私にとって、こうした少年漫画誌との付き合いは小学生の頃に遡ります。今では一国の首相が漫画(ゲーム)ギャラクターに扮して地球の反対側に現れたことが不思議にも思われない時代となりました。それだけ漫画(アニメ)文化が日本を代表するものとの認識が世界で共有化されているのでしょう。しかし、私の幼少時には「漫画は教育上よろしくないもの」との認識が、世間の親には一般であったように思います。ご多分に漏れず、我が家でも漫画誌購入は御法度でした(それにも関わらずテレビアニメや特撮番組にはさほどに五月蠅く言われなかったのが不思議でしたが)。しかし、駄目と言わると余計に触れたくなるのが人情でありましょう。当方の場合、自宅前の棟割長屋に住んでいたご一家の長男坊であった「せいちゃん」という5~6歳年嵩のお兄さんの家に沢山の少年漫画誌があったことが幸いしました。「少年サンデー」(小学館)[1959年~]、「少年マガジン」(講談社)[1959年~]、「少年キング」(少年画報社)[1963~1982年]の所謂三大誌から、後発組の「少年ジャンプ」(集英社)[1968年~]、「少年チャンピオン」(秋田書店)[1969年~]まで、あらゆる少年漫画誌が揃っておりましたし、遊びに行けば快く読ませてくれたからです。「せいちゃん」のご両親もお姉さんもホントウに良い方で大好きなご一家でしたが、私が中学に入学する頃には引っ越されてしまいました。自身の興味も他の世界に移り、こうして当方の漫画誌との付き合いは概ね終焉を迎えることになりました。その間も、そう頻繁にお邪魔することができるはずもなく、連載作品を継続して読むこともなかなか叶わないこともあり、正直に申しあげて当時の漫画作品の記憶はテレビアニメ作品に比すれば鮮明ではありません。高校生の時に始まった「こち亀」との付き合いは極々例外的な存在でありました。それにしましても、優しかった「せいちゃん」は今どうしておられるでしょう(名字の音は“すだ”さんでありました)。随分前に長屋は取り壊され今では戸建に変わっております。その縁はかろうじて記憶の印画紙に留まるに過ぎません。しかし、今でも「せいちゃん」のことを思い出すことがあります。
それにいたしましても、少年の時分に触れた少年漫画誌は、月並みですが夢と冒険に満ち溢れていました。そこで、今回、本年度特別展『高度成長期の千葉市』に展示した当時の少年漫画誌4冊に掲載された作品名と作者名、各作品の鑑頁に謳われた作品紹介の文句を以下に引用してみることにいたします。本来は、特別展開催中に取り上げる予定でした。しかし、今回「こち亀」を取りあげるにあたり、遅ればせ乍らご紹介をさせていただきます。その意味では『高度成長期の千葉-こどもたちが見たまちとくらしの変貌-』紹介補遺といった趣の内容となります。幼少期をこの千葉ですごした皆様にとっても、東京者の当方が述べていることに無縁であった筈はありますまい。以下に引用致します少年漫画誌の世界にどっぷりと身も心も浸した方々は多かろうと思われます。
当方も半世紀以上を経てこれら4冊を紐解いてみましたが、改めて、その漫画世界の“豊穣・多彩・多様”に目を見張るものがあることを実感いたしました。描かれた世界の多様(宇宙・海・過去・他国等々)、描かれた対象の豊穣(スポーツ・チャンバラ・SF・軍記・歴史等々)、漫画ジャンルの裾野の多彩(史伝・ギャグ・スポ根・冒険・怪奇・怪獣等々)……、各作品に付せられたキャッチフレーズを読むだけで、大人になった今でも「血沸き肉躍る」思いに駆られました。また、録画機材などない時代、テレビで見逃した番組は二度と見ることのできないものでしたから、実写番組のコミカライズ作品も沢山制作されていたことも思い出します。是非とも、以下をご覧になって、その世界を今一度思い浮かべていただければと存じます。改めて、作者を一覧しただけで壮観であります。その後の日本漫画史上に燦然と輝くお歴々が、これだけ一堂に会していることに驚愕の思いすら抱かされます。その意味でも、高度経済成長期の躍動する時代の風を感じさせられます(「ゲゲゲの鬼太郎」が最初は「墓場の鬼太郎」というタイトルであり、実に薄気味悪い作品であったことも久しぶりに思い出しました)。潜水艦漫画の小沢さとる「青の6号」は、前作「サブマリン707」と併せて取り分けお気に入りでした。記憶によれば何故かこの単行本コミックスだけは所有を許されておりました(父親もお気に入りだったのかもしれません)。販売されていたプラモデルを組み立てては銭湯へ持参して遊んだものです(自宅に内風呂ができたのは小4の時でしたから)。
『週刊 少年サンデー』 昭和42年(1967) 2月19日号』(小学館)
「にせパーマンがあらわれた!!おこったミツ夫くんが、正体をあばこうとするんだけど」 〇「ガボンテン島」(え・久松 文雄) テレビ化決定!!
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『週刊 少年マガジン』 昭和42年(1967) 8月6日号』(講談社)
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『週刊 少年マガジン』 昭和43年(1968) 9月29日号』(講談社)
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『週刊 少年サンデー』 昭和44年(1969) 1月1日号』(小学館)
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以上でございます。如何でありましたでしょうか??おそらく、高度成長期を過ごされた方々にとっては、一覧をご覧になってワクワクとした記憶を思い出されたのではありますまいか。しかし、当時の少年漫画誌は、決して子供たちに夢や冒険だけを与えていた訳ではないのです。事実、今回ご紹介いたしました上記『少年マガジン』(昭和43年)冒頭では「20世紀の戦争」なる特集記事が16頁にわたって編まれております。日本を始め世界各地で起こっている戦争・紛争が取りあげられており、戦火の下で苦しむ人々の姿が多くの写真で紹介されているのです。そこには、戦争が終わって20年、高度経済成長の夢や冒険に現を抜かして浮かれていてはならないこと、過去・現実における負の歴史や社会問題にも向き合ってほしい……との、編集者の真摯な願いが込められていることを感じさせられます。そうした点で、個人的に今でも忘れられない作品があります。身体中に痛みが発症する謎の病に苦しむ患者に寄り添い、その原因が鉱山廃液にあることを告発して戦う医師を主人公とした漫画でありました。今思えば、原因不明の奇病とされたイタイイタイ病が公害病であることを証明するために、飽くなき情熱を捧げた医師の萩野昇(1915~1990)さんをモデルにした作品であったのでしょう。
今回調べてみたところ、この作品が昭和45年(1970)「週間少年ジャンプ」38・39号の2回連載『悪魔の水』(篠原幸雄)であることが判明いたしました。作者の篠原さんについても調べてみたところ、現在京都精華大学マンガ学部マンガ学科カーツゥーンコース教授の篠原ユキオ氏に当たりましたが、果たして両者が同一人物なのかは判然といたしませんでした。篠原ユキオ氏は1948 年生まれとのことですので、ご本人であれば20歳頃の作品となり可能性がないわけでは無いと思えますが……。現在も新聞の法廷画を描かれる(和歌山毒入カレー事件、大阪教育大附属池田小事件等々)を描かれているとのことですので、同じ社会派作家としての面影は重なると思うのです。真相や如何!?『悪魔の水』に戻りますが、当時小学校5年生の自分にとっては衝撃的な画面の連続であり、今でもありありと画面が蘇ります。その他の漫画作品の記憶が消え失せてしまうほどに衝撃的な作品であり、今でもその記憶は鮮明です。少なくとも自分自身にとって、「イタイイタイ病」や「公害問題」を知ったのは本作品に接したからに間違いありません。昨今では考えられもしませんが、当時の少年漫画誌は、子どもが通常は知り得ない「社会問題」をも垣間見せてくれる、社会を知るツール的な機能も果たしていたのです。当時の編集者の皆さんの志の高さには畏敬の念すら覚える次第です。因みに、今から10年ほど前に「富山県立イタイイタイ病資料館」を訪れた際、学芸員の方に本作品についてお尋ねする機会がございましたが、残念ながら専門の方でもご存知ありませんでした。是非とも館蔵資料として収集されることをオススメいたしたいと存じます。
「せいちゃん」一家の引っ越しもさることながら、中学校に入ると興味の対象自体が他に移り、次第に漫画の世界とは疎遠になっていきました。接する対象が文字媒体となり、音楽世界にも夢中になっていったからであります。しかし、小学生の頃に触れた漫画・アニメ・特撮の世界は、その後の人生における興味・関心の基盤をなしているように思えて仕方がありません。日本人宇宙飛行士の古川聡さんが「ウルトラセブン」を見て宇宙飛行士になる夢をもち、それを実現しようと努力したことを語っておりました。私にとっても大いに共感できる話であります。今の子ども達にとって、ある漫画との出会いが将来の夢や未来の生き方に繋がったら素晴らしいと思いますし、そうした価値ある作品が今後も創造されていくことを願ってやみません。
最後になりますが、前編にて報告いたしました2年後開館予定の「こち亀」観光施設を楽しみにしたいと思っております。是非ともその作品世界、特に「こち亀」作品の紹介を通じて、下町の風景・風俗・人情を伝える施設にしていただければと祈念いたします。「こち亀」は単なるギャグ漫画に留まらぬ、人情漫画的な側面、実験漫画的な側面、下町案内としての観光漫画的な側面、そしてオタク的なサブカル文化的側面等々の多様な世界を包含する作品であります。是非ともそうした多彩な世界を伝える価値ある展示施設にしていただきたいものです。記事にもあるように、地元ではこれまで「こち亀」キャラクター銅像の建立、「こち亀」キャラクターマンホール等々の設置等に取り組んでおり、台湾等外国からの来訪者の人気を呼んで参りました。しかし、当方に言わせるとその徹底度・真剣度は誠に持って不充分だと思わざるをえませんでした。水木しげるさんの生地である鳥取県境港市における「妖怪キャラクター」の圧巻の設置状況、資料館の充実に比すれば、まさに「月と鼈」だと思わざるを得ません。これまでのキャラクター路線にしても、40年以上に及ぶ連載に現れたキャラクターは数知れず、それぞれに根強いファンが付いているのです。現状では、その数も不十分なら、設置キャラクターも極々限られております。「こち亀」は両津勘吉だけで成立しているわけではありません。第一に、作品中の重要キャラとして当方が挙げさせていただいた大原部長の等身大像ですら存在しません(亀有駅南口前にある等身大の両津勘吉、中川圭一、秋本・カトリーヌ・礼子3人のカラー銅像足元に10センチほどのミニサイズがあるのみ)。作品ファンであれば、大原大次郎部長のいない「こち亀」世界など想像すら出来ないのではありますまいか。当方は、相当前から町内会の寄り合いなどで日暮熟睡男(ひぐらしねるお)の熟睡銅像制作を提言しております。それを4年に一度のオリンピックイヤーのみ公開すれば特別な記念行事として地元の振興にも直結すると訴えて参りましたが、残念ながら未だに実現されません。
「こち亀」で街の活性化を図ろうとするのならば、中途半端な取り組みが一番始末に負えないと思います。一度来れば充分な内容であれば、その場限りの一過性のブームにしかなりません。やるならリピーターを生み出せるものとすべく戦略を練り、継続性をもたせるべく徹底した方針で臨むべきです。葛飾区担当者には、是非とも、地方都市である境港市の“本気度”と“半端ない弾けぶり”に触れて、その思いのエネルギーの大きさに圧倒されていただきたいものであります。そうすれば、これまでの取り組みの中途半端さに、恐らくはお気づきになられましょう。その覚醒と覚悟をもって「こち亀」観光施設建設に立ち向かっていただけることを期待するものでございます。地元を愛する者の独り言に過ぎませんが、おそらく正論であるとは思います。もっとも、予算という先立つものとの相談になりましょうが。しかし、最も重要なことは、できる限り良いものにしたいとの「思い」であり「コンセプト」にあると思います。それは、何をするにせよ同じことであり、我らが千葉市でも同様だと考える次第であります。
毎回同じようなことを書いていて恐縮でございますが、2月も飛ぶように過ぎ去り、間もなく弥生3月の声を聞こうとしております。例年より一入寒さ身に沁む今冬でございましたが、少しずつではございますが、そろそろ春の便りも聞こえてまいりましょう。厳寒の中に凛とした立ち姿で香しい薫りを放っていた水仙。その季節ももうじき終わりを告げ、それと入れ替わるように梅花が春香のバトンを引き継いでいくことでしょう。実際のところ、あちこちで紅白の梅が開花しているのを眼にするようになりました。そして、1週間後には「桃の節句」……、つまりは「雛祭」を迎えることになります。
昨今、古くから続く家々の残る地方都市で、店頭に人形の飾り付けをするなどして街ゆく人々に供覧されているところが多くなりました。本来は各家々の内で行うことでありましょうが、華やかなお内裏様とお雛様、三人官女を初めとする色とりどりの眷属達、その他の付属する雛飾りの賑々しさも含めて、段飾りの絢爛豪華さにより街がパッと華やぐように感じられます。こうした動向はつい最近に始まった新たな風習ではありましょうが、街に賑わいをもたらし、何よりも春の季節感を演出するナカナカに結構な取り組みと思うものでございます。そういえば、千葉県内でも、近世在郷町の面影色濃き佐原にて(「国重要伝統物群保存地区」指定)、“佐原おかみさん会”運営による「佐原まちぐるみ博物館」の企画展の一つ「佐原雛めぐり」を開催されております(3月27日まで)。また、2月22日「千葉日報」に、東金の八鶴湖畔にある国登録有形文化財「八鶴館」で「八鶴館のひな祭り展」が開催され、約300体の雛人形が歴史ある建物内で展示されているとの報道もございました(3月5日まで)。更には「千葉県立 房総のむら」でも「ビックひなまつり」を開催中であります(3月6日まで)。以下、それぞれの内容を各HPより引用させていただきますので、御興味がございましたら是非とも脚をお運び下さいませ。何れも左程に離れてはおりませんので、梯子をされて春の気配を満喫されては如何でしょうか。なお、お出掛けの際には、「開館日」「入場料」等々、必ずHP等にてご確認の上、お運びくださいますようお願いいたします。
「佐原まちぐるみ博物館に参加している店舗の半数以上で期間中、江戸・明治期の古びなや御所を模した建物に人形が収まる御殿飾りなど各家に伝わる大切な雛人形が店頭に飾られます。また、伊能忠敬記念館や佐原町並み交流館などの周辺施設でも雛人形を飾るなど、まち全体で春の空間を演出しています。店先の桃色のまねき布が展示場所の目印です。どんどん中に入ってご覧ください。月曜日や水曜日はお休みが多いです。」
「かつて、ひな祭りは厄除け、無病息災を祈って行われた行事であったといわれています。コロナ禍の終息を祈りながら、湖畔の国登録有形文化財建物をたくさんの雛飾りで華やかに彩ります。生まれてきた娘の健やかな成長を願う雛飾りには、ひとつひとつにあったか~い家族の物語が宿っているようで眺めているだけで優しい気持ちになってきます。」
「180体を超えるひな人形を七段飾りにし農村歌舞伎舞台へ展示します。これらのひな人形は、多くの方々から寄贈していただいたもので、それぞれのひな人形には寄贈していただいたご家庭の思い出がたくさんつまっています。華やかなひな人形がずらりと並ぶ姿は圧巻です!ぜひお越しください。」 (千葉県立「房総のむら」公式HPより) |
私事にわたって恐縮でありますが、こう書いていて想い出したことがございます。歳の離れた妹が生まれた際、母親の断っての願いで、雛人形を購入するため人形の街として知られる岩槻にまで同行したことを。もっとも、旧家にある立派な段飾りにあらず、小じんまりしたお内裏様とお雛様だけの対の人形でありましたが、それでも心底嬉しそうにしている、今はなき母親の姿をよく憶えております。その時に、戦時下で雛人形を揃えてもらえなかったことを心の澱と感じていたと、母親が話してくれたことも耳朶に残っており忘れることができません。確か、当方が小学校4年生頃のことでした。古くから続く、こうした年中行事は大切にせねばと常々思っておりますが、残念なことに我が夫婦には女の子が授かることがありませんでした。その代わりに「端午」の節句だけは欠かさずに行って参りました(当方が幼少時の五月人形を使い回し、鯉のぼりも極々小さなものです)。中高生になってからは流石に鯉のぼりの出番はなくなり、学生になって下宿先に移ってからは、コロナ禍もあって邪気払の意味をもつ「鍾馗」様のみの御出座とするなど、年々歳々規模の縮小は如何ともしがたいものではありましたが、それでも細々とは続けてまいりました。
しかし、その倅もこの4月から社会人となります。間違いなく、以降は箪笥の肥やしと化すことになりましょう。もっとも、孫として男児が生まれることがあれば直ぐに出座を可能とすべく、管理は欠かさぬようにしなければとは思っております。古くからの年中行事の話では、一ヶ月も前の「節分」の頃に改めて実感したことでありますが、それらしい街の風情もすっかり街から消え去ってしまいました。我が家のある下町の葛飾でも、今では周辺の街々から一切の豆撒きの声が届きません。我が家だけが、未だに大声を出して豆撒きをしております。悪いことをしているわけでもないのに、今では気恥ずかしさすら感じる程です。それに、昨今では翌朝ご近所迷惑とならぬよう道路に散った豆を掃きとっております。もっとも、我が家でも簡素化の流れは止めようもなく、今では鰯の頭を刺した柊を玄関先に据えることはなくなり、夕食にウルメイワシの目刺しを食してその代替としております。まぁ、各家内での行事であります。我が家で細々と続けていけばよいことでございますが……。
さて、今回は本館で刊行を開始した2冊のブックレットの“宣伝”をさせて頂きます。先ずはお待たせをしておりました、現在開催中のパネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)』ブックレットが完成。既に本館ホームペ―ジとツイッターでもご紹介しておりますように、先週2月18日(金曜日)より販売を開始しております。お値段は一冊ワンコイン(100円)という、お求めやすい価格設定とさせていただいております。恒例の宣伝文句で恐縮でございますが、「“ナリ”は小さくとも“ナカミ”は大型!!」をモットーに作成しております。中身は、過日御紹介をさせていただいた、千葉常胤を含む、南関東の御家人7名を紹介する内容となります。廉価故、表紙以外はモノクロではございますが、今回の南関東編パネル内でお示した内容は完全に網羅しております(表紙は、本パネル展のために尾野さまが描き下ろしてくださった、素敵なカラーイラストでございます)。今回の「南関東編」をお手元にされ、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』視聴の御供としていただけましたら幸いでございます。参考文献等も最後に纏めておりますので、もしご興味を持たれましたら、そちらから当該書籍にお進みいただき、理解を更に深めてくださることに期待するものです。理解が深まれば、物語世界鑑賞にも寄与することは間違い御座いません。その最初の一歩として本ブックレットをご活用くださいますように。因みに、次年度5月末から開催を予定しております「北関東編」でも同様にブックレットを作成・販売いたします。未だ先の話で鬼に笑われそうですが、その節は「南関東編」と併せてお求めくださいますよう、先回りしてお願いしておきたいと存じます。
続けて“宣伝”第二弾と参ります。本年度当初に開催し、ご覧いただいた皆様から大変にご好評を賜りました小企画展『陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-』でしたが、予算の目途が付き、ようやくブックレットが刊行できる運びとなりました。この間「いつ刊行されるのか?」との問い合わせを何度も頂いておりました。楽しみにしていてくださった皆様には、大変にお待たせを致しましたことを衷心よりお詫び申し上げます。我々といたしましても、本展の内容を展示だけで終わらせたくない、是非とも形として世に残したい……と、心の底より祈念していただけに、刊行に漕ぎつけることができましたことを最大の喜びとしております。2月27日(日曜日)より本館1階受付での販売とさせていただきます。以下、ブックレットの「はじめに」と「目次」を掲載させていただきます。
は じ め に
千葉市立郷土博物館 館 長 天野 良介 |
目 次
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「はじめに」で記したように、本小企画展の展示資料は、特別展並みとなる160点という多数に及びました関係もあり、紙幅の関係上、本ブックレット内に全てを盛り込むことは到底不可能でありました。その結果、収録資料点数は凡そ“三分の一”程となる51点となりました。また、展示会で扱った「トピック 海軍における気球」についても残念ながら割愛せざるをえませんでした。しかし、一読いただければ、知っているようでほとんど知られることのなかった、陸軍における気球部隊の黎明から解体に至るまでの「気球隊の歩み」、軍用気球に求められた「気球の機能」と「気球の類型」、実戦における「気球部隊の活動」、戦争末期における「風船爆弾」、千葉市内に置かれた「気球部隊における平時の隊員の生活」、戦時下に期待された「気球部隊の役割」、国家による「宣伝活動」、そして一昨年までこの地上に残されていた気球連隊第二格納庫と技術遺産としてのダイヤモンドトラスの「構造」等々、我々が展示に込めたエッセンスは充分に盛り込めたものと自負するところでございます。また、小企画展で展示しました160点に余る資料一覧につきましては、本館HP内にアップさせていただきます。御必要とあればそちらからダウンロードをしていただけます。何れにしましても、こちらも同様に「身なりは小さい」のですが、“日本初”となる「陸軍気球隊(連隊)」に関する資料集であることは間違いございません。1冊100円での販売となります。小企画展をご覧になった方も、そうでない方もご興味を持たれましたら是非ともお手にされてください。
最後に、新刊ではございませんが、長らく品切れとなって入手不能の状況にあった、ブックレット『将門と忠常-千葉氏のルーツを探る-』の増刷・再販ができることになりました。千葉氏を語る際に欠かすことができない、その御先祖に関する内容となっております。こちらは令和2年度の千葉氏関連パネル展関連ブックレットとして作成した冊子でございましたが、ご好評をいただきました関係もあり1年足らずで品切れとなったままでございました。その後の再販のご要望も多かったこともあり増刷に踏み切った次第で御座います。こちらも、以下に目次のみですがご紹介をさせていただきます。未だお手元にされておらず、ご興味を持たれましたらどうぞご購入のほどをお願いいたします。こちらも1冊¥100での販売となります。
目 次
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今回は、本館で刊行するブックレット新刊2冊と再販1冊の御紹介をさせていただきました。千葉氏の歩みに関連する2冊と、近現代を理解するために欠かすことのできない軍都(軍郷)としての千葉市の姿を知るための1冊という、どれも貴重な史料と目することのできる冊子となっております。展示をご覧になった方もそうではない方も、未だ本冊を御手にされていない皆様は、是非ともこれを機に併せてお手元に置いてくだいましたら幸いです。
最後の最後に、先週の大河ドラマ出演の千葉常胤について一言を……。岡本信人さん演じる常胤像でございますが、ご本人には失礼の段お許しいただきたいのですが、予想に反してとても素晴らしいものだったと受け止めた次第です。皆様は、如何お感じになられましたでしょうか。上総広常の付けたりのような扱いは否めませんし、何よりも“キャラ立ち”した広常と比べれば、決して目立つ存在として描かれないのも致し方なしではございましょう。しかし、逆に恰も決意を内に秘めたように、頼朝に対峙する辺りを払った冷静沈着な姿に大いに打たれました。ただ、その際、常胤がそれより前に平氏の息のかかった下総国目代を討ち取り、その首級を手土産に持参したことに対する頼朝と安達盛長の演出には大いに違和感を抱いた次第であります。「何でこんな時に物騒な手土産を持ってきて……」といった、あたかも常胤の行為を軽はずみであるかのように、どこか“コメディタッチ”で描くのは如何でしょうか??少なくとも当方には、如何にも常識知らずの“田舎武士”的な常胤像を想定されている感を受け取ったのです。
そもそも、常胤が下総国衙の実質的な中心人物である「目代」の首級をあげたことは、明確な国家(平氏政権)への反逆行為であり、決して軽はずみに行えるものではないのです。つまり、後戻りのできない不退転の決意をもって頼朝の下に馳せ参じたのです。頼朝という人物は、「ルビコン川を渡った」人物の行動の重さを、かくも軽々しく扱うような“唐変木”でもなければ、そうした相手の想いの機微に通じない“朴念仁”でもありません。そもそも、敵首級の首実検をすることで、その活躍に報いる「論功行賞」を行うことが「武家の棟梁」としての最も重要な条件の一つに挙げるべきと考えます。それにしては、斯様に重大局面の描き方として、頼朝主従の反応はあまりに軽妙に過ぎましょう。この段階での行動としては、2万の軍勢を率いて参陣した広常よりも、寡兵を以て常胤が採った行動にこそ、より重大な意味合いを認めるべきであり、それを踏まえての「そなたを父として処遇する」との頼朝の言葉であると考えるものです。その言葉にも、誰にでもかけている“リップサービス”的な軽さが否めませんでした。もっとも、頼朝が「堅物」ではないことも確かであります。現代の道徳観でもって断じるのは問題ありとは存じますが、特に女性に対しての節操のなさについては、ドラマ中でも描かれていたような側面があったのは確かでありましょう……。「たかがドラマにそんな目くじらをたてるな!!」とのご高説は御尤もだとは存じますが、武士の行動の最も根本的な在り方を外した描き方は残念至極と存じ、あえて一筆申し上げた次第でございます。つまりは、時代像・武士像を根底に置いたうえで、メリハリをつけた人物像を演出してくださることを、是非ともお願いしたいということに他なりません。
既に旧聞に属することとなってしまいましたが、1月末と2月初めの2回、本館主催の行事「歴史散歩」を開催いたしました。昨年度から新たに始まった「房総往還をゆく」第2弾企画でありました。今年度は、昨年度実施した本千葉から蘇我までの区間の先となる、蘇我から浜野までの「房総往還」旧道を散策しながら街道沿に散在する文化財・史跡等を巡る企画でした。
足かけ3年にわたって猛威をふるうコロナウィルス感染症(オミクロン株)拡大の下で、今回もまた“密状態”を避けるため定員を大幅に絞らせていただきました。その代わりに、少しでもたくさんの皆様にご参加いただけますよう同一内容2回の開催といたしました。しかし、それでも参加希望の申し込みが多く、抽選によりお断りせざるをえない人数の方が多くなる結果となってしまいました。参加を楽しみにされていた皆様には、この場をお借りしてお詫び申し上げます。時勢を鑑みての判断でございますので、何卒ご寛恕の程をお願い申し上げます。代替措置として、昨年同様に散策コースを“本館ツイッター”にて連載の形で御紹介をさせていただいております。すなわち、先月半ばよりアップしている「房総往還をゆく」シリーズでございます。今後も浜野に到る街道の見所を順次アップして参りますので、ご参加が叶わなかった皆様におかれましては、是非ともそちらをご覧いただけますようお願い申しあげます。そして、お天気の宜しい日を選んで、是非ともお仲間と連れだって散策してみては如何でしょうか。
初日は、当方も担当として参加いたしました。その結果、(自画自賛となって恐縮ですが)、昨年度に数倍する大いに充実したコース内容であることを確信したところでございます。今回散策した「房総往還」なる道が如何なる機能を有していたのかについては、周辺の街道、及び水運との関連も含めて、昨年度の館長メッセージ「千葉市域を通る主要古道「房総往還(前後編)」(1月22・23日付)にてご説明申し上げました(「本館HP」→「館長メッセージ」→「令和2年度分はこちら」と順に入り込んでいただけますと昨年度分の原稿一覧ございますので該当タイトル名をクリックください)。また、ツイッターでもシリーズの最初の3回に分けてご説明をさせていただいております。ただ、昨年の「メッセージ」では、「政治の道(参勤交代・幕末の海防の道、等々)」「経済の道[公用物資の運搬(年貢米・藩専売品 等々)、商品の運搬(浜方荷物:干鰯・〆粕 等々)]」という両面の機能の説明に止まり、もう一つの重要なそれである「信仰(巡礼)の道」としての在り方に触れておりませんでしたので、ここで補説しておきたいと存じます。
当たり前のことですが、「道」とは近隣同士を結ぶだけに留まらず、地域と国内諸地域とを結びつけ、更には河川や海上を用いた水運とも連結し、広域にヒトとモノの行き交うネットワーク機能を有する社会装置であります。そして、それは鉄道等の存在しない明治より前の時代においては、今日以上に重大な役割を担っていたことは言うまでもございません。中でも、武士にも庶民にも移動制限が掛けられていた近世でありましたが、庶民については参詣・巡礼などの“信仰”や、湯治などの“医療行為”等を理由とする移動には比較的寛容な状況がありました(広域な移動を通なう場合、庶民については基本的に在住地の檀那寺・名主等が発行する「往来手形」交付を要しました:身元証明のための現代の“パスポート”に当たる書類)。従って、現在の千葉市域においても「お伊勢参り(現在の三重県)」「出羽三山参り(現在の山形県)」「西国33カ所観音霊場巡礼(関西2府5県)」を始めとする広域な参詣、関東地方を主なフィールドとする「相模大山(現在の神奈川県)」「坂東33カ所観音霊場巡礼(関東地方1都6県)」等々、更には「成田参詣」や地域におけるミニ巡礼等(例えば昨年の「研究紀要」で白井研究員が報告した「千葉寺大師講巡礼」)といった近隣の参詣(これらでは「往来手形」の発行までは求められなかったようです)等々が、盛んにおこなわれておりました。
その際には、当然ながら主要「街道」や稠密に張り巡らされる道が移動経路として用いられていたのです。昨年の歴史散歩でも観ていただいたように、「房総往還」から「坂東33カ所観音霊場」29番札所「千葉寺」へ向かう道の分岐点に道標が存在しております。延享2年(1745)2月16日造立にかかるもので、正面「奉造立南無庚申尊」左側面「右ハかつさみち」右側面「左ハちばでら道」と刻印されております。28番札所「滑川観音」(成田市)から、乃至は30番札所「高倉観音」(木更津市)から「房総往還」を歩行してきた巡礼者たちは、おそらくこの道標に一瞥をくれてから千葉寺へいそいそと向かったことでありましょう。今年度のコースにも「房総往還」から大巌寺へ向かう道の分岐点に道標が残っております(年記載はないが近世の造立と考えられ「大かん寺江の道」と力強い文字が深く刻まれる優れた道標遺構であります)。大巌寺は16世紀中頃生実城主の原胤栄の開基、道誉上人を開山として開かれた浄土宗の檀林寺院(僧侶養成寺院)であり、江戸時代には徳川家康による保護を受けていることもあり、人の出入が多かったのでしょう。一方、遠方の寺社からは師檀関係を取り結んだ家々に「御師(おし)」が来訪し、それに対して地域の「講」が母体となり数か月にもわたる参詣に脚を運ぶなど、道は今日よりも遥かに色濃く“信仰”を繋ぐ機能を果たしてもいたのです。今でも、出羽三山に出掛けたことを記念する講が建立した「石塔」が数多残っており、よく目にいたします。
さて、今回の散策ルートに戻りますが、大巌寺道標から市内屈指の由緒を誇る古社である「蘇我比咩(そがひめ)神社」(平安時代編纂「延喜式」に記載される所謂「式内社」)をへて、明治以降陸軍軍馬の飼葉を扱って栄えた商家である「宮本家住宅」(大正時代に建築された優れた意匠を有する市内屈指の価値ある商家建築)へ。更に南下して「曽我野藩陣屋跡」から「塩田天満宮」を経て、千葉市指定有形文化財に指定される昭和7年(1932)建築「旧生浜街役場」内の見学。そこから川を渡り、かつて栄えたことを偲ばせる“街場”の面影色濃き「浜野」地区に入ります。ここは、中世以来の内湾水運の重要な拠点(湊)として栄えた場であり、対岸の品川湊等との深い繋がりを持つ湊でした。それだけに、地域の宗教拠点としての顕本法華宗(日蓮宗)本行寺が鎮座、また、湊の機能を守備する城郭として「浜野城」が立地する要地でした。浜野城については今でもその痕跡を辿ることが可能です(本館HP「研究員の部屋」における遠山成一研究員のコラムで本城郭の詳細を知ることができます)。また、近世には千葉市内に本拠を置く唯一の大名である生実藩(森川氏)の御用湊として用いられるなど、継続して地域の重要な経済拠点でもありました。かような歴史的な雰囲気を今でも色濃く留めた街場であります。また、この浜野は、内房を南下する「房総往還」と、ここから分れて内陸を経て茂原方面へ、更に外房を南下して安房方面へと向かう大動脈「伊南房州路往還」との分岐点でもあり、恐らく中世以来の陸上・海上交通の結節点として賑わいを見せた街場でもありました。
昨年度と本年度にコース設定した千葉市の「房総往還」散歩の価値を高めているのは、以上のような文化財としての見所が多いことも然ることながら、何よりも道路が拡幅されず江戸時代から変わらぬ古道の雰囲気を、今日でも色濃く留めていることだと存じます。日本の道路は、自動車の登場と戦後におけるその爆発的な普及に伴い、自動車通行に耐える道路整備が「道路行政」の重点とされることとなりました。それと引き替えに、自動車通行にとって邪魔な並木は伐採され、交通遺産とも言うべき一里塚や道標なども一顧だにされずに撤去されていきました。更には大型自動車通行の利便性向上のために道路拡幅が実施され、歴史的価値の高い道路の痕跡が次々に失われていったのです。道路拡幅は当然の如く両側に建て込む建築物撤去(乃至はその後退)を余儀なくし、特に高度経済成長期を境にして、急速に歴史的建造物消失と統一感ある町並景観とを失っていくことになったのです。
(後編に続く)
現在において、近世の面影を僅かながらに留める道路遺構とは、ごく僅かな例外を除いて偶然に左右されて遺存したケースが殆どだと思われます。逆に、意思の力によって残された数少ないケースの代表が、東京都北区滝野川を通る旧「日光御成街道」(将軍の日光参詣のための街道)に残存する「西ケ原一里塚」遺構です。これは至近の飛鳥山に屋敷のあった渋沢栄一が保存運動をおこなった結果残されたものです。今では国指定史跡となっております。一方、遺構の残った街道とは、旧道改修を行うより低コストで新たな道路を建設できる条件がある場合(例えば人家の少ない土地に元々の街道と平行して広幅員直線道路が建設可能である等)に新道が設営された結果、以前の道筋が所謂「旧道」として残されることになったケースであります。昨年度・今年度の2回に渡って散策をした「房総往還」(寒川~浜野)も、こうした経緯で残されてきた旧道に他なりません。つまり、高度成長期に埋立の進んだ海岸線に湾岸道路(国道357号線)が新道として設営されたため、偶々並行する旧道が新道に飲み込まれることなく残存したのです。
その「房総往還」は、高度成長期を通じて両側に建ち並ぶ家屋の改築が進んではいるものの、前編で述べた「宮本家住宅」をはじめとする内房臨海に共通する「棟入民家」が散在し、千葉の「地域性」を色濃く残している街道と申せましょう。何よりも「幅員」は近世の状況をほぼ留めておりますし、併せて「道標」などの交通関連遺物も近世以来の儘に路傍に残されていることも貴重です。寒川地区には昔ながらの「銭湯建築」も残され、今日も営業を続けて街道の景観に彩りを添えております。しかし、寒川地区では、現在、斯様に魅力的な旧道拡幅工事が着々と進行しております。寒川大橋から市場郵便局間では既に拡幅がほぼ終了しました。その結果、以前の景観は完全に滅失し、今では、日本国中何処にでも見られる道路景観となり果てました。市場郵便局より南は未だ手が付けられておりませんので、工事の行われていない道路に変わった途端に、見た目の道幅の狭さとは正反対に、こちらの精神状態は広々と開放されるように感じさせられるのです。むしろ広々とした無味乾燥な道に窮屈さを感じるのは何故でしょうか。やはり、狭い「房総往還」がもともと“人が歩くための道”であったからでありましょう。しかし、こうした景観を見ることが出来るのもあと僅かかと思うと残念でなりません。
道路を拡幅する理由は「通行の利便性向上」であり、加えて「歩行者の安全性向上」も謳われます。確かに、一聴して、何れも至極全うな改修理由に聞えます。特に後者については、歩道・ガードレール未設置が大きな要因となり、昨年に県内八街市で飲酒運転トラックによる痛ましい小学生死傷事が発生したように、喫緊の最重要課題でもあることは言うまでもありません。道路改修を須く進捗すべしとの方針には間違いがないように思えます。こうした点から申せば、歴史的な価値を有する「旧道」とは、幅員は狭く歩道等歩行者専用設備のないところがほとんどです(元来が道路全面が歩行者専用路であったのですから当然のことなのです)。その意味では、例え歴史的価値の高い道路であろうが、道路拡幅も止む無しとの結論にいたりましょう。しかし、立ち止まって、よくよく考えていただきたいと存じます。当方は、斯様な理解は極めて一面的な視野でしか道路行政を把握していないと考えるものであります。
繰り返しますが、“そもそも論”として、道路(特に歴史的街道)は“人の移動”と“人馬の運ぶことが可能な荷物”の移動を目的に造られたものであり、まさにそのことにこそ価値があるのです。しかし、昨今の議論は全てに優先されて「自動車が通行する」ことを根本に据えた道路整備になっていることに問題があるのだと思います。当方も自動車を利用する者として、自動車通行の便を図ることに異議を唱える意図は毛頭御座いません。しかし、如何なる道路であっても一律に整備して良いはずもありません。価値ある旧道にはしかるべき道路整備の仕方が選ばれることこそが必要ではないかと述べたいだけです。つまり、そうした歴史的価値の認められる旧道では(斯様な道の数も距離も決して多くはありません)、むしろ自動車の通行こそが規制されて然るべきではありますまいか。勿論、それは生活圏・商業圏として道を利用される方々の通行までを制限することを意味しません。しかし、実際に旧道を歩行していて思うことは、ほとんどの自動車(特に大型車)は、新道の“抜け道”として旧道を利用しているのだと考えます。元々が人が歩くための道に、大型車が対向通行すれば、歩行者に危険が及ぶのは当たり前のことです。大型車は新道を通行すべきなのです。そのための新道を整備したのではないのでしょうか。詰まるところ、基本的に居住者と当該道路で営業する店舗関係車両以外の自動車(特に大型車両)通行に制限を掛けるだけで、多くの問題は解決するのではありますまいか。第一に、巨額の予算を掛けて道路拡幅をする必要も生じません。
それでも、自動車の通行をゼロにはできないのだから、八街のような小学生死亡事故が発生する可能性がある。従って、道路を拡幅して歩道やガードレールを設置することが必要だろうとの反論がございましょう。しかし、本当にそう言えるでしょうか。「通行規制」を多様に展開することで、そうした課題にも充分に対応できると私は考えます。小学生の登下校時間帯に危険性の高い通学路における「(大型)自動車通行禁止」「一方通行」等の通行規制を設けることで、そうした課題にもほとんど対応できるものと考えます。つまり「スクールゾーン」の現在より強力な徹底運用に他なりません。これが、歩行者を優先した道路行政であり、歴史的価値を有する街道を保護活用する道路行政にも直結する対策に他ならないと考えますが、皆様は如何お考えでしょうか。
当方の意見には「それは地元住民の利便性を奪うことだ!!」なる反論が寄せられることが容易に想像できます。しかし、一方で、実際に危険な状態の道路で子供の死傷事故が発生すれば「こんな危険な道路を放置していて行政は何をしているのだ」とお考えになりませんか。まさかこれを小学生の自業自得とは思われますまい。もし両者が同じ口から発せられているとしたら、それは“自己撞着”ではございますまいか。悲しいかな、これは日本各地で実際に起こっている現実なのです。学校現場で働いてきた身として肌身に感じることは、児童生徒の安全確保のための道路通行制限の提案が、地元住民の皆さんからの大反対により頓挫する事例は枚挙に暇がないのです。「子供を含む人命の安全確保」と「自動車の通行の利便性」と何れを優先すべきか、私には議論の余地など存在しない自明の理と考えます。確かに、状況は多様であり、一概に結論を下すことが難しいのは百も承知でございます。しかし、飽くまでも一般論には過ぎませんが、皆さんに途轍もない不自由を強いることでもありません。少なくとも通行制限が掛かるのは朝夕の限られた時間帯に過ぎませんし、対面通行から一方通行への変更にせよ、通行ができなくなるわけではありません。若干の遠回りを強いられるだけのことでございましょう。ケースにより異なりましょうが、一般的に通常より5~10分程度の余計な時間を要するほどではありますまいか。「……だけ……とは何だ!!住民の不便さも知らないで!!」とのお叱りが聞こえてくるようです。しかし、それによって尊い人命が、将来ある子供の生命が奪われることに比べれば、「これくらいのことで……」なる言い分がどれほど適切なものか、重々御納得いただけるのではありますまいか。
話題が「安全性確保」の問題に傾いてしまいましたが、以上のことは、今回の話題としてとりあげている「歴史的に価値の認められる街道」の保全にも当てはまることだと思います。確かに、歩道設置や道路拡幅は致し方がない社会的要請だとは存じますが、一律に対応するのではなく由緒ある道筋に関しては「歴史古道」として整備する対応の仕方も考慮されてしかるべきではないかということです。ここで採り上げたいのが、国土交通省が行っている「歴史国道」選定事業であります。これは、文化庁の実施する「伝統的建造物群保存地区」の指定とは異なり、「歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的に価値を有する道路」で、「往時の面影を留めて道路」を文化的遺産として選定すること、更に国土交通省が中心となり、その復元と整備に取り組むことを目的にした制度であります。その選定基準として示されているのが以下の4点となっております。既に、北海道から沖縄にいたるまで全国で、当該指定に預かって地域資源としての整備が進められております。残念ながら「関東地方整備局管内」では、現状で「三国街道須川宿」(群馬県みなかみ町)と「中山道追分宿(長野県軽井沢町)」との2カ所のみであります。ここで示された規準でもっとも重要なキモは、一つ目に示される「地域において歴史・文化を活かした地域づくりの整備構想などがある」にこそございましょう。地域における文化的な価値を的確に見いだすことであり、「道」もまた重要な文化的遺産に他なりません。その道も、「房総往還」が実際にそうであるように、迅速に手をうたなければ、櫛の歯が欠けるようにその景観も、その価値も失われていきます。
私が初めて教師として赴任した千葉市立更科中学校区を走る「東金御成街道」は、古道の面影がそのまま残る、まさに文化財的な古道だと思っておりましたが、あれよあれよという間に拡幅されてしまい、今では古道としての価値を失ってしまった区間が圧倒的に多くなってしまいました。私は、古道を価値ある歴史として保護・活用していくことは、「文化都市」としての千葉市を創造する重点にすら位置づけることが出来るものと考えます。少なくとも巨額の道路整備事業費を予算化するよりも、遥かに低廉な予算で実行できると考えます。そんな千葉市であるとよいと思っておりますし、少しでも本館の活動を通じて、市民の皆さんに千葉市内における、そしてそこから全国へと繋がっていく「歴史の道」の価値を伝える援護射撃をして参りたいと考えるものでございます。
・地域において歴史・文化を活かした地域づくりの整備構想などがあり、地域の活性化に資するものであること。 ・文献などで歴史的な評価が定まっており、原則として江戸時代以前において広域的なネットワークを形成していた道路の一部であること。 ・地域間の交流に重要な役割を果たしていたことが明らかであること。 ・一里塚、関所、並木、宿場などの歴史的な面影を一定の延長以上にわたって残していること。 |
最後になりますが、ご好評をいただいて開催しておりました千葉氏関連パネル展『千葉常胤と13人の御家人(南関東編)』も、明日3月6日(日曜日)で閉幕を迎えます。これまで脚をお運び頂いた沢山の皆様に心よりの感謝申し上げますとともに、未だご覧いただけていない方の本日の午後か明日一日かのご来館を是非ともお待ちしております。ブックレットは引き続き販売をしておりますので、ご来館の序でにお求めいただけますようお願いいたします。
2年間に渡って、「千葉市史編纂委員会」の下で企画・編集作業を進めて参りました標記図書の刊行がいよいよ本日より開始となります。千葉市では、教育委員会の手になる、小学生に向けの社会科副読本『わたしたちの千葉市』(昭和40年初版発行・平成14年全面改訂)、漫画『千葉常胤公ものがたり』(平成30年)を、中学生向けの社会科副読本『伸びゆく千葉市』(平成14年初版発行・以後継続改訂)を、それぞれ児童生徒全員に配布しております。千葉市教育委員会では、授業や諸活動で活用することによる、義務教育の段階で“郷土”の諸相に触れて、成長段階に応じてその理解を深めることを目指しております。
特に、当方が平成13年(2001)初版編集から関わった中学校副読本『伸びゆく千葉市』については、地理的分野編「千葉市の街の様子」、歴史的分野編「千葉市のあゆみ」、公民的分野編「千葉市の政治とくらす」の3部構成となっております。当方の担当は歴史的分野であり、主に「中世」の内容を執筆いたしました。当時は郷土学習を実施しようにも「テクスト」すら全く存在しない状況にありましたから、そうした状況の打開を図るため、休みも返上して相当な熱量を傾注して作成に携わったことを昨日のように思い出します。当時は、中学生には難しすぎるとのご意見も頂きましたが、以下に述べますように、それ以降の段階で更に深く学ぶべきテクストも存在しない状況に鑑み、中学校時代は勿論のこと、卒業後に社会人となってからも活用可能なレベルの内容とすべく尽力したつもりであります。今読み返してみても、何処に出しても恥ずかしくない視点と内容とを保持しているものとなり得ていると存じますし、事実、適宜部分改訂を進めながら、今日でも大規模改稿の必要を認めない資料集と自負するところでございます。
しかし、市民を対象とした郷土千葉の歩み(歴史)を概観した一般図書につきましては、それ以降も実現される気配もこれなく、凡そ20年という月日が経過いたしました。勿論、「千葉市制施行50周年」を記念して、昭和44年(1969)年より事業開始となった『千葉市史』の編集・刊行は半世紀を超えて、現在も続けられております。しかし、『通史編』3冊は50年の歳月を経て、流石に内容自体が最早“歴史的遺産”と化している部分が多くなり、現在では“絶版”扱いとしております。そして、通史刊行以降、これまでに『資料編』が10冊(ただし資料編第1巻「原始・古代・中世編」は絶版)、令和8年までに残る2冊刊行によって、全12巻が一先ず完結予定となります。しかし、これらは、極めて重要な歴史資料集として極めて価値ある内容であることは論を待たないものの、一般市民の方が気軽に手に取って千葉市の歴史を学ぶことのできる書籍とは申せません。
従って、当方が嘗て「千葉市史編さん会議」委員であった頃にも、「一般向けの千葉市歴史書を刊行する」ことの必要性を訴えたのでした。しかし、それは当方が言うまでもなく、ずっと以前から課題として取り上げてられてきたことであり、とりわけ会長をお努め頂いている吉田伸之先生の悲願であったことを知りました。そうした「編さん会議」委員の想いを真摯に受け止めてくださり、刊行に向けての道筋をつけていただいたのが、前館長の朝生智明氏に他ならないと当方は受け止めております。そして、朝生氏の敷いてくださった路線を走ることで、今日の日を迎えることができましたことを、何にも増して喜ぶものでございます。また、私事に渡ることで恐縮でございますが、朝生氏への恩返しがようやく叶った思いでもございます。勿論、吉田伸之先生を始めとする「千葉市史編さん会議」の皆様の大いなる御支援、及び本冊への執筆を引き受けてくださった諸先生の御力添えがあってこその成果に他なりません。皆様には衷心よりの感謝を申し上げたいと存じます。更に、極めて手前味噌となりますが、それに加えて、本日刊行に到るまで真摯なる編纂作業に尽力をしてくれた本館職員に、館長として深甚の感謝を献呈させていただきたくことをお許しいただきたいと存じます。
本日は、以下に千葉市長神谷俊一による『序-刊行にあたって-』、編さん会議会吉田伸之会長による『編さんの辞』を。明日の「後編」では本書の核心となる「目次」及び各項目「執筆者」とを引用させていただきます。
序 ― 刊行にあたって ―
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編 さ ん の 辞
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(後編に続く)
さて、いよいよ後編は、本書の構成を知っていただくため、「目次」と各項目・コラムの「執筆陣」につきましてご紹介をさせていただきます。本書に御執筆を頂きました錚々たる顔ぶれにご一驚される方がございましょう。それ以上に、各時代を切り取る「テーマ項目」と「コラム」をご覧いただければ、早く手に取って読んでみたいと思われることと期待するものでもございます。何を措いても、以下にお示しした一覧を篤とご覧くださりませ。
本書の構成(目次)
第1章 原始・古代(時代概説、テーマ項目5、コラム7)
第3章 近 世(時代概説、テーマ項目7、コラム14)
第4章 近現代(時代概説、テーマ項目7、コラム7) 近現代2「鉄道開通と千葉市の変化」 町田 祐一(日本大学生産工学部専任講師・千葉市史編集委員)
付 録(時代概説、テーマ項目6、コラム11) |
以上ご覧になって如何お感じになられましたでしょうか。こちらと致しましては、相当に「わくわく」とした思いを抱いてくださる方がいらっしゃり、すぐにでも入手したいと気が急かれている状態である市民の方が多いことと期待するところではございます。流石にそれほどでもない……と、お感じの方でも少しは興味をお持ちになられる項目もございませんでしょうか。それであれば、これ幸いと、是非とも本書をお手にとられてみては如何でしょうか。そこから本市の歩みへの広い理解が始まってくだされば、私たちが本書を刊行した意義は充分に満たされるものと考える次第でございます。記念すべき刊行に当たって、多くの皆様にお手軽にお求めいただけますよう、破格の1冊1,000円(税込)での販売とさせていただいております。市民に皆様に限らず、広く千葉市の歴史に興味をもって深く御理解いただくためのお供にご活用くださいますよう、衷心よりお願い申し上げます。
最後になりましたが、ご好評をいただいたなか、去る3月6日(日曜日)本年度の千葉氏関連パネル展『千葉常胤と13人の御家人(南関東編)』を終了いたしました。その間、朝日新聞・東京新聞・読売新聞(五十音順)にてお取り上げいただいたこともあって、大勢の皆様に御来館をいただきました。この場をお借りして心よりの御礼を申しあげます。しかし、この間「開催期間が短いのでは」とのご意見も多々賜りました。
そこで、展示会としての開催は終了することで展示ケース内の資料は撤去いたしますが、千葉常胤を含む7名の御家人の解説パネルにつきましては、そのまま暫く展示を継続して参ります。それだけでは申し訳ございませんので、それに加えて、過去に開催した展示会『千葉常胤ゆかりの地』パネルも併せて展示させていただきますので、うっかり見逃してしまった方も、未だ間に合います!!是非ともお運びくださいますようお願い申し上げます。
去る2月24日に、ロシアによる「電撃的なウクライナへの軍事侵攻」の一報が入ってから、もうじき1ヶ月が経過しようとしております。それ以前の報道でも、侵攻が何時始まってもおかしくない危機的な状況にあるとは耳にしておりました。しかし、21世紀の今日、流石にプーチン大統領もこうした軍事侵攻を行うほどに軽率な指導者ではあるまい……と、正直なところ多寡をくくっている自分がいたことも白状せねばなりません。自分自身こそが愚か者であったのでありましょうが、それでも世界中の殆どの人が、斯様な認識であったのではありますまいか。しかも、飽くまでもゼレンスキー政権への威嚇にすぎず、直ぐに撤兵するだろうとの甘い見通しも空しく、日々激しさを増す攻撃と、一般市民の惨状の報道を耳目にするたびに暗澹たる思いに駆られます。「国際社会は何をしているのですか!?早く私たちに救いの手を差し伸べて下さい!!」と訴えるウクライナ国民に何一つ応えられない自分に忸怩たる思いが募ります。
「平和憲法」を有する我が国が軍事的強力をすることができないことは論を待ちませんし、例え許されていたとしても“報復が報復を呼ぶ”ことにしか繋がらない行為は避けるべきであります。だからこそ、言論や平和的な手段による何らかの行動を、我々も起こす必要があると思われます。ウクライナのことを決めるのはウクライナであることは当然です。しかし、何にも増して「ウクライナ国民一人ひとりの生命」あってこその「ウクライナ」であります。そのためにも、何にも増して、まずは攻撃を回避する道を模索して頂きたいと願います。引き裂かれたウクライナ国民の涙を目にする度に、そう願わざるを得ません。侵略を行うロシアの側でも、自国政権への抗議と、それに対する諦念から、かつて東西分割の象徴ともいわれた「鉄のカーテン」が再びこの世のものとならないうちに、母国を見限って出国するロシア人が急増していると報道されております。また、ロシア国営テレビの生放送(報道番組)で電撃的な反戦主張が行われるなど、当たり前のこととは思いますが、ロシア国民も決して一枚岩でないことが垣間見えております。戦闘行為は、どちらの国人をも幸福にしません。一体、誰のための何のための戦いなのか、自国民の幸福を実現するのが政権の務めであり、それは諸国民の共和の中にしかなしえないものであることを、為政者こそ歴史に学ぶべきです。決して権力者の権益・権力誇示ファーストを許容する訳には参りません。
日本各地でも、一般市民のレベルに止まることなく、ウクライナ支援やロシアへの抗議の態度を明確にしている地方公共団体(議会)の数も日増しになってきております。千葉市でも、3月5日(土曜日)から中心街の千葉都市モノレールのアーチ橋「セントラルアーチ」を、軍事侵攻への抗議とウクライナ国民への連帯を表そうと、青・黄のウクライナ国旗色でライトアップをしております。こうした動向には「そんなことをして戦争が止められるのか……」「一地方公共団体が声を上げて何になる……」との冷ややかな言葉も聞こえてまいります。確かに戦争を停止させるための直接的な効力はありません。しかし、無関心でいる人々にも、かような事態に目を向けていただく切っ掛けにもなるだけでも、何もしないよりは遥かにマシだと存じます。これを契機にして、少しでも多くの人々が、草の根から、多くの地方自治体のレベルから等々……多彩に声を上げることで、支援と抗議の輪を広げていくことができれば、それだけでも意味ある行為だと思います。こうした行動には、政治性とも党派利害とも無関係です。まさか、人の生命を理不尽に奪う政策を是とする党派は存在しますまい。つまり「人道支援」に他なりません。「地方公共団体は地方のことだけに眼をむけてればよい」との狭量な精神から脱却するのは、こうしたケースにおいてではないでしょうか。本市を含む、各地方公共団体のこうした動向に、当方は大いなる勇気を頂く思いです。当方も、市のホームページでかようなことを述べることには正直なところ躊躇を感じましたが、人の生命を危機にさらす(実際に一般市民の生命を奪っている)行為に、敢えて抗議の声を挙げたいと存じます。当方には、まったく政治的な意図はございません。直ちに、戦闘行為を終息させることのみを願います。何か、交渉すべきことがあるのであれば、まずは、戦闘行為を中止した後のこととして進めるべきであると訴えたいだけです。
一方、個人的にロシアとウクライナのことを殆ど何も知らずに馬齢を重ねてきたことを猛省しております。こうした悲劇的な戦争が起こってからでは遅いのですが、それでもこの儘ではならないと自省し、興味本位ではなく彼らのことを知ろうと決意しました。この紛争の根幹には何があるのかを、歴史的な観点も含めて追求しなければならないと思っております。この問題に無関心であってはなりませんし、過去から解きほぐして理解していなければ、戦争後の我々の支援もまたお門違いなものにもなりかねませんから……。歴史を学ぶ意味、そしてそれを広く伝えていく意味はここに存するのであり、我々のような地方自治体の博物館であっても、当方は必ずしも自らの地域の殻だけに閉じこもる必要はないと考えております。勿論、地域の歴史こそが我々の活動のメインフィールドであることは言うまでもありませんし、常にそのことに注力しなければなりません。しかし、幅広いパースペクティブによる視座をも併せ持っていることも重要だと考えております。専門性を掘り下げて見えてくる世界もあれば、広く俯瞰するからこそ見えてくることも多々あるのです。当方が、本稿において地域博物館から大きく外れた内容を書き散らすことを、定めし分不相応と苦々しいお思いでいらっしゃる方もございましょうが、当方は斯くのごとき問題意識をもって、広く世界と社会とを眺めてみようとしております。それはサブカルチャーをも広く包含するものであろうと存じます。決して、知識を開陳することが目的ではありません。一件無関係とも思えることから、歴史の本質や日本人の在り方や、はたまた地域性が炙り出されることもあるのです。一方、その最後の世代として自認するところの、今や揶揄の言葉となり果てた「教養主義」の在り方、すなわち“総合化された人文知”の意味と価値とを守護したいとの思いもございます。「教養主義」については、その在り方自体が、明治末期から戦後にかけて大きく変化しており、その変遷を追って見えてくることもございますが、流石にこの場でそれを追うのは無理があります。何時か機会があれば述べてみたいことであります。
前編は、昨今の出来事の中でも、とりわけて“重たい”話題に終始してしまったように思います。誠に申し訳御座いませんでしたが、誰にでも無関係なことないのだと思います。1日も早い戦争状態の終結のために、当方も個人的にもできることをして参る所存で御座います。
(後編に続く)
さて、前編は、相当に重大な話題となりました。しかし、後編では打って変わった内容で恐縮でございますし、何にも増して不適切との誹りを免れぬかとは存じますが、最近でかけた家族での一泊旅で思ったことを少々。足掛けで申せば4年目に突入した「コロナ禍」でありますが、特に我々公務員は率先して旅行に行くことも憚られる状況にあります。従って、この間は宿泊を伴う所謂「旅行」をすることは、仲間内であれ、家族間であれ、皆無でありました(所謂「飲み会」も万止むを得ず業務上の1回のみ)。我々のような歴史・民俗系博物館に勤務する者にとっては、歴史の舞台を実見すること、文化財に触れること、何にも増して特別展・企画展等を初めとする他館の訪問は不可欠なことであり、それが叶わぬことは博物館職員として手足をもがれる思いであるのが正直なところでございます。しかも、遠方への宿泊を伴う旅はもとより、日帰の訪問でも大手を振るってとは参らず、極々近隣の地(博物館)に脚を運ぶのが関の山でございました(昨春に山の神と日帰りで飯能に出掛けたくらいかと存じます)。同業の博物館では、昨年度当初に本館がそうであったように、館自体を閉館にしたり、特別展を中止せざるを得ない館も多々御座いました。しかし、昨今では様々な対応をとることで、展示会の開催を行う館も増えて参りました。ただ、私個人としては、まだまだ拝観は自粛し「展示図録」を取り寄せて渇を癒すケースが多いのが現実であります。つまりは、巣籠りで「読書」「音楽鑑賞」こそが自らの世界を広げる主たる手段であって、昨今における本稿でも専ら「書物」等からの情報に依拠するケースが多くなっていたのです。
しかしながら、私事に亘ることで恐縮ではございますが、已むに已まれぬ想いに駆られ、この度、自らに課してきた箍を外して“一泊の家族旅行”を挙行することにいたしました。第一に、倅が4月から社会人として自立する前に家族での時間を持ちたかったこと(コロナ禍もあって学生4年間に実現できた家族旅行は1度切りでした)、二つ目に、在職時代に大変にお世話になった恩人の方が会社を早期退職され、奥日光湯元温泉にある観光ホテル支配人に転職されたことから是非とも表敬訪問をしたかったこと、三つ目は、少々言い訳じみた理由ですが、次年度開催の千葉氏関連パネル展『千葉常胤と13人の御家人たち(北関東編)』取材(パネル掲載のための現地での写真撮影と展示資料収集)という仕事絡みの理由があったことでございます。そこで、週休日の2日間を有効につかって下野国(栃木県)へと出かけたのでした。当方は、自家用車は所有するものの、通勤と旅行は基本的に公共交通機関で……を原則としておりますが(必要な場合は現地レンタカー)、如何せんこのコロナ禍であり、接触環境を減少させるために今回は自家用車利用といたしました。これ以降の話題は、その旅で感じたことをひとつふたつ……。
最初の目的地としたのが茨城県に接する栃木県南部に位置する益子町であります。大正時代に柳宗悦の主導する民芸運動に共感した、イギリス人陶芸家バーナード・リーチや濱田庄司の陶芸活動で広く知られる「益子焼」産地であります。もっとも、この町が陶芸の街になったのはさほど古くはなく、その起源は近世末のことであります。何でも笠間で学んだ陶工が嘉永年間に開窯したことを起源とするとのこと。ただし、今回の焼物巡りが目的にあらず。出かけた先は、益子町上大羽という、益子町の中心から更に東に数km離れた狭隘な山間に所在する鄙びた里山であります。中世には「尾羽」と称されたその地に「地蔵院」なる寺院がひっそりと佇んでおります。この寺院こそ、坂東武士として頼朝の挙兵に従って立ち上がり、その後500年にも及び下野国に君臨した宇都宮氏、第三代当主朝綱が一族の菩提寺として開基した寺院に他なりません。この朝綱こそが源頼朝の挙兵に従って大きな功績をあげた人物となります。そして、朝綱は本拠の宇都宮から東に35kmも離れた地に初代宗円、27歳で早世した嫡子業綱の墓塔を建立して弔い、自らもその地に隠棲し83歳で没してからは自らもその傍らに葬られました。そして、以後歴代も営々とこの地を葬地とします。天正年間に豊臣(羽柴)秀吉によって突然改易された22代当主国綱までは勿論、紆余曲折の末に家老職として水戸徳川家に召し抱えられた近世の当主もこの地を墓所とします。中世に主君の墓所を維持管理するために置かれた家臣の家もそのままに近代を迎えたといいます。平安時代末から近代に到るまでの歴代33の墓塔が一カ所に残るかような墓所は、全国的に見ても珍しいとされております。しかも、近世の大名墓とは異なり、何れの墓塔も適度な大きさの慎ましいものであって、その古色蒼然とした佇まいに奥ゆかしさすら感じさせました。近世大名墓のような威圧感は全くなく、如何にも中世武士団の奥津城に相応しい景観でありました。実際に目にできたことを心底嬉しく思った次第でございます。中世武士団としての宇都宮氏の在り方への興味が大いに沸いて参りました。
この地蔵院は、元来は尾羽寺と称し、寺地も現在とは若干離れた場所に七堂伽藍を備えて存在したようです。現在は室町時代中頃の再建に掛かる国重要文化財指定の阿弥陀堂が残り、中世和様建築の姿を留める凛とした佇まいの清々しい建造物です。また、朝綱が土佐国に流罪となった際、現地で祈願を欠かさなかった賀茂社を勧請した、同じく国重文指定の綱神社茅葺本殿の意匠も素晴らしいものでした。因みに、阿弥陀堂内には快慶の手になると伝わる阿弥陀造両脇侍の観音菩薩像・勢至菩薩像が納められております(非公開)。かつては、源頼朝寄進と伝わる多宝塔も存在したといいます。更には、北関東に広く存在する浄土庭園も備えた寺院であった事が分かっております。現在その一部が発掘され「鶴亀の池」として復元されておりますが、その全貌は足利氏の樺崎寺のような威容であったと推察されております。是非とも全域の発掘が行われ、往時の姿が取り戻されると宜しかろうと存じます。宇都宮朝綱は、5月より開催の『千葉常胤と13人の御家人(北関東編)』で採り上げますので、その際に宇都宮氏とも関連づけて再度述べたいものと考えております。また、北関東編で採り上げる御家人の経営に関わる寺院に多く見られる「浄土庭園」についてもその折に是非にと思っております。
続いて、20年振りの再訪であった真岡市でも同じことを感じたのですが、取り分けて日光鉢石の景観の変化について衝撃を覚えたことを書き記しておきたいと存じます。「鉢石宿」は日光街道21宿中の最後の宿場であり、同時に日光山の門前町としても賑わいを見せた街場であります。その範囲は、現在はひっそりとしているJR日光駅(大正元年落成になるクラシカルな美しい駅舎です)の辺りにかつて存在した“木戸”から、大谷川に架橋されている国重要文化財「神橋」に到るまでを範囲とする緩やかな坂道に展開する宿場町となっております。天保14年(1843)『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣2軒、旅籠が19軒、宿内家数は223軒、人口985人といった規模でありました。かつてNHK放映「ブラタモリ」でも紹介されたように、近世の絵図をみると、緩やかな坂道は現在のような平面の道路ではなく、長く続く階段状の道路として造成されていたことが知られます。現在も、道路両側の旧家敷地にその段差の跡を確認できるところが御座います。
ここは、二社一寺(二荒山神社・東照宮という二つの神社と輪王寺の一寺)からなる日光山の門前町でもあったので、現在でも土産店が立ち並びます。特に有名なのが、江戸時代の旅人からも「日光の羊羹は江戸以上」と讃えられた羊羹店が軒を連ねることに目を見張ります。余計な話ですが、数多の店舗中「菱屋」の羊羹が個人的な好みです。昔ながらの店舗で販売される羊羹は、ビニールパックに詰められた何時までも食感の変わらぬものではなく、昔乍らの竹皮に包まれた状態で売られております。従って、若干の時間を経ると表面の糖分が固まり、側だけがカリっと中身はしっとりとした触感が味わえる状態になります。私の子供の頃までは何処の羊羹もこうした食感が楽しめましたが、当方が知る限り日光でもこうした昔ながらの羊羹を販売しているのは「菱屋」だけではないかと存じます。勿論、食感だけにあらず味も抜群だと思っております。今回も当然の如く土産としました。その他にも酒蒸饅頭の名店、日光名物の唐辛子巻を売る漬物店、名物の日光湯波の店舗等々が軒を連ねます(日光では湯葉を“湯波”と書きます)。その中でも、神橋に接して富士屋ホテルへと上がる道の手前に、明治後期建設にかかる「日光物産商会」の堂々たる建築は目を引きます。この建物は、現存する日本最古のリゾートホテルとされる日光金谷ホテルの土産品店として創業したものであり、現在国登録有形文化財に指定され、鉢石宿の最終地点のランドマークともなっております。こうした歴史的景観を有する鉢石宿の散策は、見所満載の日光中でも大きな楽しみの一つでもあったのです。
ところがです。今回の旅で最大のショックが、愛する鉢石宿の見るも無残な変貌に他なりませんでした。まだ「日光物産商会」辺りまでには及んでおらず、羊羹の名店「菱屋」の佇まいもそのままでした。しかし、道路改修工事は東武日光駅から始まり、その近隣にまで及んでおります。しかも、よく申し上げるように、日本国中の何処とも変わらぬ小洒落た道路となり変わりつつあるのです。つまり、伝統的な店舗を取り壊してセットバックさせることで両側に広い歩道を確保。当然のように各店舗は何処にでもある建物に成り代わり、広い歩道にはこれまた小洒落た街灯が延々と立ち並ぶようになりつつあるのです。確かに、統一感のある、歩行者にとって安全な道路にはなります。しかし、これは果たして「世界遺産日光」門前町として相応しい景観なのでしょうか。しかも、道路改修に反対を訴える看板も目にしましたので、必ずしもすべての住民の方々が賛同している事業でもなさそうです。それにも関わらず、なぜこうしたことが平気で行われているのでしょうか。数回前に、房総往還寒川の景観で述べたことが、そのまま鉢石宿でさえ見られたことに大いに衝撃を次第でございます。日光の前に訪れた、かつて真岡木綿で栄えた真岡町中心街もほぼ同様の道路景観と変わり果て心底残念でありましたが、まさかこんなことが日光でも!!というのが正直な思いであります。何故、こうした画一的な整備しか行おうとしないのでしょうか。行政には、地域の伝統文化への敬意も尊重も存在しないのでしょうか。失礼を承知で申しあげますが、余りといえば余りの精神の貧困ではないかと思うのです。正直なところ、開いた口が塞がらなかったというのが本心です。
今回は、令和3年度末に出掛けた下野国で出会ったことと感想・感慨を二つほどつらつらと脈絡もなしに述べさせていただきました。昨今、どうも「憤慨編」ばかりで、自分自身でも愉快ではないのですが、云わずに済ませることなどできないことばかりなので敢えて申し上げさせていただいた次第でございます。何卒ご寛恕くださいますように。さて、次年度まで残すところ2週間程となりました。年度最後のご挨拶を次回に残して、今回はここまでとさせていただきます。皆様を、長々と彼方此方へと連れまわしてしまったことを心よりお詫び申し上げます。
「千葉市制施行100周年」記念年度としての令和3年度がもうじき幕を閉じようとしております。昨年度に引き続いてコロナ禍に振り回された一年となりました。それでも、賛否両論あったものの一年延期して実施された東京五輪、先日終幕した冬季北京五輪と、「スポーツの祭典」が挙行された一年でもありました。その「平和の祭典」の最中にロシアによるウクライナ侵攻が勃発。そして、東日本大震災から11年目となる3月16日(水曜日)23時26分、宮城県・福島県で震度6強の地震が発生し、関東でも相当に大きな揺れを感じました。報道では震度4とのことでしたが、誰の口からも「もっと巨大な地震に感じた」との声が発せられておりました。実は当方も斯様に感じた一人であります。脱線してジグザクになっている新幹線車両の映像は、やはりショッキングなものでございました。11年という月日は人間にとっては長いものですが、地球の歴史に当てはめて見れば1秒にも満たない極々一瞬の時間軸に過ぎなかろうと存じます。まだまだ、我々は「東日本大震災」渦中にあることを、改めて自覚させられた出来事でございました。
さて、本館における「千葉市制施行100周年」となる一年間を振り返りますと、何にも増してそれを記念して企画した展示会を無事開催できたことに指を屈します。すなわち特別展『高度成長期の千葉-子どもたちが見たまちとくらしの変貌-』(8月3日~10月17日)、企画展『千葉市誕生-百年前の世相からみる街と人びと-』(10月19日~12月12日)でございます。令和2年度開催の特別展『軍都千葉と千葉空襲-軍と歩んだまち・戦時下のひとびと-』と併せ、「市制施行100周年」記念する展示会3部作が無事完結できましたことを何よりの喜びとしております。そして、市民の皆様にもご好評をいただき、たくさんのお客様にご来館いただけましたことにも感謝申し上げます。特に、高度成長期の展示につきましては、同時代を千葉市内で小中学生として過ごした子供の作文を窓口にして当該の時代に光を当てる試みであったこともあり、その意味でも世間からの注目を集める展示となりました。子どもの作文を切口として特定の“時代”に焦点を当てる取り組みは、おそらく国内でも初めての試みであったからであると存じます。また、そのことにより、周辺市町村から御出でくださった観覧者から「千葉市は児童生徒の作文集が高度成長期から今日に到るまで継続して編まれているのが羨ましい」との御言葉をいただく機会が間々ございました。そのことは、とりもなおさず、千葉市内における国語科教師が担った戦後教育の取り組みの賜物とも申すことができ、市内での教育活動を担ってきた当方にとっても誇らしい思いでもございました。また、黎明期の千葉市に焦点をあてた後者の企画展における、有産市民の勃興が千葉市の世相にもたらした豊穣なる精神的・物的世界の多様さに目を見張らせられる思いでありました。ご覧くださった皆様も同様に、この100年間のトピックとなる3つの画期を振り返ることで、現在に繋がる「千葉市」の位相の移り変わりに、これを機に少しでもアプローチできたのでしたら展示会を企画した意味があったものと存じ上げます。
更に、小企画展として年度当初に開催いたしました『陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス-』は、小企画展を称しておりますが、展示資料160点という特別展並みの規模での開催となりました。陸軍気球連隊跡地に残っていた第二格納庫が一昨年に惜しまれつつ解体されたことを切っ掛けに、市原徹氏が会長を務める「千葉市の近現代を知る会」との交流が始まり、その全面的な御力添えを頂けることが展示会開催の最大の動機となったのです。当該建築に用いられていた技術遺産としてのダイヤモンドトラス構造の価値を広く知っていただくこと、更には、決して広く知られることのなかった軍用気球の機能を明らかにし、国内唯一の陸軍部隊であり、かつて本市に存在した「気球連隊」について紹介しようとする国内初の試みでありました。手前味噌とはなりますが、その内容の濃さは瞠目させられるものがございました。その結果、市内に限らず広く全国からのお客様を惹きつけた展示会となったものでありました。更に、例年開催の千葉氏パネル展の第5弾で、つい先日まで開催していた『千葉常胤と13人の御家人たち(南関東編)』も、大河ドラマ効果は予想を上回るものであり、多くの皆様にご覧いただけました。これまた、感謝申し上げる次第でございます。
これまで、特別展・企画展・小企画展・パネル展と4つの展示会を振り返りましたが、それぞれで、何らかの形で冊子を作成できたことを我々としては大きな成果として掲げたいと存じます(展示図録・ブックレット)。いつも申し上げますが、国内の博物館では素晴らしい展示会が開催されても、昨今の予算的な制約の下で展示図録を作成しないケースが多くなっているのが現実です。折角の内容が展示会終了と同時に消えてなくなってしまうのは避けたいとの一心から、こうした時流にあえて抗ったのです。手に取って確認できる冊子がありさえすれば、展示会終了後であっても継続して触れることができ、その成果を基にして更なるステップへの礎ともなっていくのです。『高度成長期の千葉市』については、ご好評につき既に完売いたしましたが、その他の3点は現在も販売を継続しております。展示会をご覧いただけなくとも、今現在でも展示内容を知ることができる状況となっております。ただ、『千葉市誕生』につきましては、残部は余り多いとは申せません。もしご必要でしたらお早めにお求めくださいますように。
次に、本館として特筆すべき「市史編纂事業」では、現在は令和8年度完結を目指して『千葉市史 史料編 近現代』全3巻の編纂を進めているところでございますが(1巻目は既刊)、市制施行100年という記念すべき年に、一般市民向けとなる通史の歴史読本を刊行したいとの予てからの悲願が叶い、先日ついに『千葉市歴史読本 史料で学ぶ 千葉市の今むかし』刊行が叶いましたことを、本稿でもツイッター等でも度々発信をさせていただいております。幸いに、“飛ぶように”とまでは参りませんが、平日であっても多くのお客様がお求めくださっております。他市からも「HPを見て購入にきた」とおっしゃる方も多く、概ね御好評をいただいておりますことを嬉しく存じ上げております。オールカラーの220頁で1冊1,000円というお求めやすい破格のお値段を設定して御座います。市内図書館にも配布しておりますので、まずは一度手に取ってご覧いただけましたら、その価値にお気づき頂けるものと自負しております。是非とも、もっともっと多くの市民の皆様にお手にとっていただけるよう、今後も宣伝活動にも努めてまいりたいと存じております。
一年間を振り返って、御紹介をさせていただきたいことはその他にも沢山御座いますが、最後にひとつふたつ。その一つ目が「教育普及活動」の成果となります。本館では昨年度から配置致しましたエデュケーター2名(小・中学校担当各1名)の方とともに準備を重ね、本年度からアウトリーチ活動として、市内小学校からの要請に基づく「出張出前授業」を開始いたしました。義務教育の段階で、千葉市の歴史に少しでも触れて興味をもっていただき、千葉市民としての基盤と誇りとを育んでいくことを願っての活動を趣旨としております。そして、「学習指導要領」の趣旨を踏まえた授業指導案をHP内に小中各9ずつ掲載しました。各学校からは、そちらから選んでいただいても結構ですし、全く異なった内容の授業内容の要望にも可能な限り応えることをモットーに働きかけをおこないました。
その結果、1年間で小学校から11校(内3校はコロナ禍等による事情で中止)、中学校からは3校(内1校は特別支援学級)(内1校はコロナ禍で中止)、学校外からの要望が3施設と、多くの学校・施設からの要請をいただき、実質数で1,000名を越える児童生徒への授業を実施することができました。小学校で特にご好評をいただいたのが、小学校では「昔の道具とくらし」における“室内照明”の変遷に関する授業、「染谷源右衛門と印旛沼」における“印旛沼干拓と水路開削事業”に関する内容であり、中学校では「千葉常胤」「千葉市の災害と対策」の内容でありました。小学校では、実際の民俗資料等を学校に持ち込んでの授業であり、実際に教室を真っ暗にした中で行燈が思った以上の照度である事実を知ることで、行燈の普及が夜間への生活圏を広げることを理解できたことを、多くの児童が感銘を以て理解していたことが印象的でした。中学校の特別支援学級における「伊能忠敬 測量日誌と測量体験」では、校庭で実際に歩いて距離を測量する体験を通じて、伊能忠敬が行った事業の意味を実感できたとの感想が寄せられております。
ただ、学校内の諸行事との関連もあって、どうしても要請が少なくなる時期的な偏りが生じる等の課題があることも判明しました。今後は、必ずしもエデュケーターが出張せずとも「授業道具」を手軽に貸し出せる状況を整えることで、授業者が自ら歴史史料を用いた授業に取り組めるようにすること、新たな授業単元例を提案すること、地域の歴史授業展開についてエデュケーターが現場教員の指導を支援する体制を整えること(資料の活用や貸し出しの支援を通じて現場教員が授業を行う手助けをする)、更には「ギガスクール」に対応した博物館資料を手軽に学校現場で一人ひとりの児童生徒が触れることができる体制を整備する等々、更なる改善を加えることなどを検討していきたいと思っております。そのためにも、エデュケーターの勤務日数を更に拡充していただけるよう、次年度以降も働きかけていきたいと存じます。ただ、我々の教育普及活動は、教科指導法の援助ではありません(それは教育委員会指導課の社会科担当指導主事の任務に他なりません)。我々の本務は、飽くまでも子どもたちに地域の歴史を知ってもらう支援にありますので、その基本的スタンスは堅持して参りたいと存じます。その点を御理解いただけましたら幸いです。次年度には更なる要請が届きますように、我々も工夫を重ねて参る所存でございます。
最後に、コロナ禍という社会全般の事態の中で、SNSを通じての発信の重要性に鑑み、ツイッター等による発信に力をいれてまいりました。本館での展示会の紹介は元より、歴史散歩の訪問場所の紹介、更には市史編纂事業に関するもの等、多彩な発信としております。多少雑多になっているとの思いもございますが、ある意味でこうした多様な内容こそがSNSの良さであろうとも考えて、実施するところでございます。お陰様で、10月段階で2.600弱であったフォロアー数が、5か月後の本日現在3.100強にまで大幅にアップしております。今後とも、皆様の御支援を賜り、多彩さを意識しつつ少しずつ内容の充実を図って参りたいと存じております。是非ともご期待くださいませ。
本年度の本館事業としましては、これ以降、毎年恒例となる以下の刊行物が控えておりますのでご紹介をさせていただきます(執筆者敬称略)。有償刊行物以外はお一人さま一冊に限ってご進呈をさせていただきますので、お入り用の際は本館窓口にて遠慮なくお声がけくださいませ。ただ、部数には限りがございますので、在庫がなくなり次第終了とさせていただきます。こちらも御理解の程をお願い申し上げます。
〇千葉氏関係資料調査会調査概報(四)
・岩手県奥州市所蔵「椎名家文献」調査報告 滝川 恒昭(千葉氏関係資料調査会)
・村上文庫所蔵「尾張文書通覧」調査報告 滝川 恒昭(千葉氏関係資料調査会)
・千葉氏関連石造史料調査録(3) 早川 正司(千葉氏関係資料調査会)
〇千葉市制一〇〇周年記念令和三年度企画展「千葉市誕生」に関する小考察
・作曲家引田龍太郎の父引田正郎について 遠山 成一(千葉市立郷土博物館)
・本誌の関東大震災における建物の被害状況について-震災後の市調査史料から-
前田 聡(千葉市立郷土博物館)
〇紙上古文書講座「変化する旗本と知行所村々との関係」
遠藤真由美(千葉市立郷土博物館)
〇【史料紹介】「日本赤十字社千葉支部戦時救護班の記録」
中澤 恵子(千葉市史編集委員)
〇【史料紹介】「入会野の近代-小間子野を事例に-」
上山 知徳(昭和学院中学校・高等学校)
〇「都川河口砂州の発掘調査について」西野 雅人(千葉市立埋蔵文化財調査センター)
〇「千葉市の弥生土器・石器-猪鼻城跡-」 小林 崇(千葉市教育振興財団)
〇「新聞にみる千葉のむかし 新聞にみる明治千葉町の見どころ」
小林 啓祐(千葉市史編集委員)
〇「令和三年度千葉市史研究講座要旨」
〇【活動の記録】
〇千葉市の明治・大正・昭和がみえる!!
・第9回「千葉町(市)の大火」 中村 政弘(千葉市史編集委員)
・第10回「日立航空機進出と「千葉方式」」 小林 啓祐(千葉市史編集委員)
〇【講演1】「中世東アジア世界の中の房総・千葉氏」
山田 賢(千葉大学大学院人文科学研究院・教授)
〇【講演2】「千葉一族・臼井氏と五山文学」
川本 慎自(東京大学史料編纂所・准教授)
〇【クロストーク】 進行 池田 忍(千葉大学大学院人文科学研究員・教授)
※千葉氏ポータルサイト内への講演録アップも同日を予定しております。
※講演・クロストーク等の動画については既に同サイト内にて配信しております。
令和3年度の一年間、皆様におかれましては、様々な局面で本館の事業に参加していただいたり、触れていただいたりするなかで、本館の活動への一方ならぬご支援を賜りましたことに、館を代表いたしまして改めて衷心より御礼申し上げまして、本年度最後となる本稿を閉じさせていただこうと存じます。誠にありがとうございました。そして、職員一同、今後とも皆様のご期待に添うことのできる活動を展開して参る所存でございます。次年度も本館の諸事業に多大なるご支援を賜りますようお願い申し上げます。
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