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更新日:2021年10月23日

館長の考古学日記

2021年10月23日 火事にならない火のたき方

中国雲南省の民家を調査した民俗学・文化人類学研究者の鳥越憲三郎(とりごえ・けんさぶろう)さんと若林弘子(わかばやし・ひろこ)さんは、ふだんはつるしていないつり棚(火棚・ひだな)も、囲炉裏に火をいれるときにはかならずつるという、防火の役わりとしてのつり棚を紹介しています(『弥生文化の源流考』1993)。

通常、囲炉裏では薪を燃やしますが、暖房や照明のために屋外でのキャンプファイアのようなおおきな炎をあげる、火の粉をまいあげるような燃やし方はしません。
調理するときには火をおおきくしますが、ナベの底を五徳(ごとく)でもちあげて、炎の上に「ふた」をするようにおきます。
おおきな炎は火事になる危険性がたかまることはもちろん、薪の消費がはやく、効率的ではありません。
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囲炉裏の火でせんべいを焼く。

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料理をするときはナベを五徳にかけて。

 

日常生活でつかう燃料を薪にたよる生活では、山野から薪をあつめることは重要で、とてもたいへんなお仕事です。
仕事で山にはいると手ぶらではかえってきません、薪にする木をもってかえります。
山でくらしているからと言って、いたるところに薪になる木があって、湯水のごとく薪を燃やしているわけではありません。
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ちなみに山地のくらしでは水くみもまた、薪あつめに負けずおとらずたいへんなお仕事です。
「湯水」は、ほんとうに貴重な資源です。
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毎日欠かせないお仕事、水くみ。

 

 

 

2021年10月20日 (市原市祇園原貝塚展)過去をうつしだす玉

ソフトボールくらいの大きさの不思議な玉。
うらない師があなたの未来をうつしだす玉?

これは市原市祇園原遺跡から出土した黒曜石(こくようせき)のかたまりで、当館開催中の「祇園原貝塚-千年続いたムラ」展(会期は令和3年12月5日まで)でご覧いただくことができます。

黒曜石とは、名まえのように黒く光る石。
これは地下のマグマが急速に冷えてかたまってできたガラス質の岩石です。
ガラス質なので、われるとするどい刃になります。
このような性質は、モノを切る、けずる石器には格好の素材です。
ということで黒曜石は、石器の素材として旧石器時代から人びとが好んでつかってきました。

しかしこの黒曜石、どこにでもある岩石ではなく、産地がかぎられています。
関東地方では、長野県信州、静岡県伊豆、神奈川県箱根、栃木県高原山(たかはらやま)、そして伊豆諸島の中の神津島(こうづしま)。

展示している黒曜石は神津島産。
神津島ではこの黒曜石の厚い地層が、テレビのサスペンス・ドラマの最後のシーンにでてくるような海の波に洗われる断崖絶壁で露出しています。
そんなところで縄文時代の人びとはどうやって黒曜石を手にいれていたのでしょうか?
どうやって海をわたって祇園原貝塚までもってきたのでしょうか?
そして、どうしてまるいのでしょうか?
この黒曜石の玉は、さまざまな問題を考える上で重要な資料のひとつです。

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なお、特別史跡加曽利貝塚でも黒曜石製の石器が出土しています。
その産地は栃木県、長野県産がありますが、神津島産が多数を占めています。
その一部を常設展示でご覧いただけます。
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2021年10月17日 よそのつり棚をのぞいてみる

いま、私たちの日常生活の中で「つり棚」を見かけることはなくなってしまいました。
そこで、人と火、煙とのかかわりの中で「つり棚」が実際にどのような役わりがあって、どのようにあつかわれてきたのか、ちょっとよそで現役の炉と「つり棚」をのぞいてみましょう。
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それはいまも日常生活で囲炉裏をつかう、東南アジア大陸部山地で田畑をいとなむ人びとの家にある炉と「つり棚」です。

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また「狩猟採集民と農耕民では生活、環境がちがうのに!」とおしかりをうけるかもしれません。
たしかにいつ、どこでも炉があればつり棚があって、みなおなじようにつかっているわけではありません。

人と他の動物とのちがいについて、火をおそれない、火をつかうことがあげられます。
人が火をあつかうことはとても文化的な行為・行動であって、モノから文化にせまる考古学にとって重要な研究テーマのひとつです。
火そのものは消えてしまいますし、「煙のように・・・」とたとえられるように煙も消えます。
しかし、その痕跡は遺跡に残されています。

人が火、煙、ススとどのようにつきあっているのか、その具体的な知識・情報をもつことは、縄文時代の人びとを火のあつかい方、つきあい方、そしてその痕跡を調べるための方法を考えるうえで知っておいて損はないのでは?

もっとも、これからご紹介する炉とつり棚は、それを知ろうと思ってあつめた事例ではなく、たまたまの「いただきもの」(7月3日をご覧ください)なので、その程度のおはなしと思っておつきあいください。
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2021年10月9日 縄文時代でみつかっている?

それでは、縄文時代の遺跡で「つり棚」の痕跡は見つかっているのでしょうか?
炭化材が出土する、いわゆる焼失竪穴住居から、柱や梁にかけていたモノが床の上に落ちたように見える状態で発見される例はあります。

長野県藤内(とうない)遺跡では、多くの炭化材が出土した縄文時代中期の竪穴住居跡の炉跡の横から、長さ約1メートル、直径2,3センチメートルの木材を格子のように組んだ炭化材が出土しており、その上に20リットル分の焼けこげたクリの実がのっていました(藤森栄一編『井戸尻』1965)。
これは竪穴住居の屋根が火事で燃えおちたとき、クリの実をのせた「つり棚」が床に落下した状況を想像させてくれます。

しかし、竪穴住居跡の床の上からたくさんのこげた木の実がまとまって出土したから「つり棚」があった、と言うわけにはいきません。
土屋根の実験考古学でご紹介した岩手県御所野遺跡でも、縄文時代中期の竪穴住居跡の炉跡の中とその周辺から多数のこげたトチの実が出土しています。
また、竪穴住居跡だけでなく、掘立柱建物跡の柱穴の中からもおなじように焼けこげた木の実がまとまって出土しています。
このような状況から、住居跡の炉のまわりや引きぬかれた柱の穴のちかくでわざと木の実をこがす行為をとっていたと考えられています(御所野縄文博物館編『縄文ムラの原風景』2020)。

なお、市原市祇園原貝塚のからも小竪穴の中から貝とともに多数のこげたクルミが出土しており、その一部は当館で開催中の「祇園原貝塚-千年続いたムラ-」展(会期は10月2日から12月5日まで)でご覧いただくことができます。
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竪穴住居跡などからこげた木の実がまとまって出土する遺跡の調査例がふえており、なぜ木の実がこげたのか、こがしたのか、その理由についての研究が進められているところです。

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次回の予告。
戸張(とばり)のむこうに何が見える?

 

2021年10月2日 「つり棚」をさかのぼる

古民家の囲炉裏の上にある「つり棚」。
そのルーツを縄文時代までたどることはできるのでしょうか。
そもそも復元住居で批判されたように、民家の歴史自体まだよくわかっていないことが多く、その一部である囲炉裏、そしてそれにともなう「つり棚」の歴史もまたおなじです。

歴史資料のうち、たとえば「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)」(平安時代)、「西行物語絵巻(さいぎょうものがたりえまき)」(鎌倉時代)、「慕帰絵詞(ぼきえことば)」(室町時代)など絵画資料にはお寺やお屋敷の台所が描かれています。
そこにある囲炉裏では、五徳(ごとく)の上にかけられた鉄なべ・かまが描かれているだけで、「つり棚」は見あたりません。
しいてあげるならば、「慕帰絵詞」では、煙が天井をつたって建物じゅうに広がらないようにする防煙壁が囲炉裏の上にあり、そこに柿をつるして干している場面は描かれています。

ただし、空から見おろすアングルの絵巻物では、「つり棚」はじゃまになるので描かれなかったかもしれませんし、天井が高いお屋敷の台所には「つり棚」はつかないのかもしれません。

他方、考古資料では、日本列島にカマドが入ってくる古墳時代以降、住居跡から炉の姿が見えなくなっていきます。
遺跡で見えなくなったから「なくなった」とはかぎりませんが、考古資料でも囲炉裏・「つり棚」の歴史をさかのぼることは、いまのところむずかしいようです。

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カマドのある古墳時代の竪穴住居跡(千葉市越川戸遺跡)

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平安時代竪穴住居跡のカマド(千葉市芳賀輪遺跡)

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炉とカマドと子どもとイヌと。

左端で炎があがっているのが炉で、なべをのせるための五徳がおかれています。

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2021年9月30日 祇園原貝塚展、準備中

加曽利貝塚博物館では、令和3年10月2日(土曜日)から12月5日(日曜日)の会期で「祇園原貝塚-千年続いた縄文のムラ-」展を開催します。

市原市に所在する祇園原(ぎおんばら)貝塚は、縄文時代後期を中心とする貝塚をともなう集落遺跡で、東京湾岸でも有数の大規模な貝塚遺跡です。
この遺跡からは、大型竪穴建物跡や100体をこえる埋葬人骨をはじめ、当時のくらしや地域間の交流、精神世界の一端にせまることができるさまざまなモノが出土しており、その質と量は全国的に注目されています(くわしくは「加曽利のヒトNの部屋」をご覧ください)。

祇園原貝塚の調査成果は縄文時代・縄文文化、そして特別史跡加曽利貝塚を考えるうえでとても重要な資料です。
そして、祇園原貝塚はその価値が評価され、令和3年(2021)に市原市指定史跡に指定されました。

市原市ではあたらしい博物館「(仮称)市原歴史博物館」の開館を令和4年(2022)秋に予定しています。
本展は、その開館のプレ・イベントのひとつとして開催するものです。

いま、その展示準備が進行中!
この機会に本展をご覧いただき、モノがもつ、圧倒的なチカラをじかに体験してください!!

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2021年9月25日 復元住居と「つり棚」

前回で「史跡整備の花形・復元住居」編はおわり。
今回はその番外編、と言うよりは延長戦・・・

特別史跡加曽利貝塚の復元住居では、もうひとつ復元されているものがあります。
それは「つり棚」。
炉と天井のあいだにぶら下がっている棚が「つり棚」です。
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これも古民家にはよく見られるもので、加曽利貝塚内に移築された江戸時代の古民家・大須賀家(おおすかけ)住宅の炉・囲炉裏(いろり)でも、鉄瓶(てつびん)をひっかけた自在鉤(じざいかぎ)の上につり下がっています

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何のため、「つり棚」はあるのか?いくつかの理由があります。
炉・囲炉裏には暖房の役目があります。
炉の火であたためられた空気は軽くなって上にのぼりますが、そのまま天井にのぼると炉のまわりや室内はあたたまりません。
そのため、すぐに天井に熱が逃げないよう炉の上を「つり棚」でおおって熱を反射させ、暖房の効果をあげようとするものです。

次に防火。
薪(まき)を燃やすと炎がたち上がり、火の粉が散ります。
このような火の粉が熱による上昇気流にのってまいあがり、屋根裏のカヤに火がつかないよう、「つり棚」が「ふた」をするというもの。

ちなみに日本民家の囲炉裏では2種類の燃料、薪(まき)と木炭がつかわれます。
薪はおもに調理・暖房でつかう大きな囲炉裏で燃やされ、木炭は茶道の茶室などで湯をわかす小さな囲炉裏で燃やされます。

一般的に囲炉裏では、燃やすと炎があがる薪をつかう炉には「つり棚」があり、大きな炎をあげずに赤く燃える木炭から発する輻射熱(ふくしゃねつ)を利用する炉には「つり棚」はありません。


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薪をつかうキャンプファイヤーと木炭をつかうバーベキューと言うと、イメージしやすいでしょうか?

もうひとつは、保存です。
モノを燃やすと煙があがり、その煙にあたったモノに黒いススがつきます。
このススには腐敗をふせぎ、防水の効果を高めるはたらきがあります。
たき火の熱でモノを乾燥させ、ススの防腐効果でモノの保存性を高めることができます。

 

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2021年9月18日 加曽利貝塚、復元住居のこれから

戦後しばらくの復元設計された当時は、鉄など金属製の道具のない縄文時代には木を加工して木材と木材を組み合わせる、つぎ合わせる技術はなかったと考えられていました。
1980年代以降、木がくさることなく出土する低湿地の縄文時代の遺跡が発掘調査されるようになると、富山県桜町(さくらまち)遺跡のように木材をとおす「貫き穴(ぬきあな)」のある建築材が発見されるなど、縄文時代に高度な木材加工技術と、それに裏づけられた建築技術があったことがわかってきました。
そして、御所野遺跡の発掘調査・住居復元・焼失実験の成果によって、縄文時代竪穴住居に土屋根があったことがはっきりしました。
このように、史跡整備における住居復元をとりまく環境はおおきくかわっています。

当初、戦後の新たな歴史像・アイデンティティの確立への期待など、社会的要望にこたえるかたちではじまった復元住居建設ですが、今日では史跡にさまざまな学習、地域振興・活性化の資源としての役割も期待されています。
根拠のない、とぼしい復元(復原)を批判した山岸さんも、「文化財「復原」無用論」という刺激的な題名がクローズアップされがちですが、その中で同時に「復原」図や「復原」模型の製作が不要かと言うならば、それはあまりにも乱暴だとして、学術的根拠、「復原」の考え方がわかる方法で展示することを考えるべきと提案しています。
そして近年は、バーチャル・リアリティ(仮想現実)など、復元・再現の展示方法でも技術的な選択肢がひろがっています。

このように史跡の整備の建物復元には、学術的成果、社会的要請、技術的な選択肢などさまざまな要素がからみあっています。
それらをふまえ、史跡整備の望ましい方法については、いまもさまざまな議論が続けられています。

特別史跡加曽利貝塚は縄文時代の遺跡です。
しかし、加曽利貝塚と人とのかかわり、つまり加曽利貝塚の「形成」は縄文時代で終わったわけではありません。
特別史跡加曽利貝塚は、これからも復元住居をふくめ、考古学研究や史跡整備というかたちで人とのかかわりの歴史をつみかさねていきます。
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平成5年(1993)度南貝塚整備後の加曽利貝塚

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斧で製材して・・・

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斧でホゾ穴をあける。
かつてこういう加工は、石器ではできないだろう、と思われていましたが、貫き穴や継ぎ手(つぎて)のある縄文時代の建築材の出土や、石器など道具の実験考古学がすすむことで、こうした「常識」も変わりました。

 

2021年9月11日 復元住居はいらない?

御所野遺跡の調査成果によって、縄文時代中期の竪穴住居が土屋根だったことがわかりました。
しかしながら、加曽利貝塚ではまだ、どういう屋根だったのかわかる資料は得られていません。
御所野遺跡の竪穴住居と同じだったのか?
あるいはまたちがう構造があったのか?
今後の調査・研究における重要な宿題のひとつです。
御所野遺跡の調査と実験・研究成果は、今後も加曽利貝塚の調査・研究に影響を与えていくことでしょう。

さて、史跡の整備などにおける学術的根拠のない、根拠のとぼしい復元に対しては、遺跡の活用を名目に「一般大衆をだます」ものとして、建築史研究者の山岸常人(やまぎし・つねと)さんが問題提起しています(「文化財「復原」無用論-歴史学研究の観点から-」『建築史研究』第23号1994)。

復元にたずさわった建築学研究者は、その問題点がわかっていました。
それを承知のうえで実際にたててみるという実験によって、より確からしい構造にしていくという研究の発展を期待していたのではないでしょうか。
また、当時の設計者は博物館の教育普及で活用されることを念頭に、耐震や耐火など利用者の安全確保、施設としての維持管理と長寿命化など、現代の建築家としての責務を同時にはたそうとされたことも、わすれることはできません。

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ただしい床下のつかい方?(2017年個人撮影)
特別史跡登呂遺跡にて、つよい陽ざしをさけての体験教室。
掲載にあたっては静岡市立登呂博物館様のご協力をいただきました。


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ただしい床下のつかい方。

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急に雨がふってきたので、床下でお仕事。

 

 

2021年9月8日 いよいよ実りの秋

ここ最近、木の下から実りぐあいを見ようとしてもなかなか見えなかったマテバシイの実が、このところの雨と風でいっきに落ちました。

当館では、復元住居とともにこれらも野外博物館としてのりっぱな「展示品」です。

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2021年9月5日 特別史跡加曽利貝塚の復元住居

昭和41年(1966)の加曾利貝塚博物館の開館後、博物館建物の横、現在の「発掘ひろば」の場所に円錐形の復元住居を設置していました。
私もはじめて史跡(当時)加曽利貝塚を五体投地しながら訪れたときに見た思い出があります。
(※一部表現に誇張があります。)

昭和57年(1982)、千葉市教育委員会は千葉市内に所在する史跡・遺跡の保存・活用の方向性をしめす「千葉市史跡整備基本構想」をまとめ、その中で史跡加曽利貝塚を野外博物館として整備していくこととしました。
これをふまえた「史跡加曽利貝塚南貝塚整備基本設計」では、屋外展示と体験学習の場として、南貝塚の南東外側に発掘調査の成果にもとづいて縄文時代中期集落を復元することとします。
そして、平成3年度(1991)にカヤぶき屋根の復元住居6棟と上屋の軸組だけの復元住居2棟をたてます。
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このときにたてた復元住居は、その後の老朽化などで撤去されましたが、現在は3棟(うち1棟は閉鎖中)を再建しています。

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でも、この2棟・・・形がちがう?
加曽利貝塚では、竪穴住居の上屋を復元できる資料がないことから、あえて複数の構造案で復元しています。

あと1点・・・カヤのふき方のちがいにもご注目。
1棟はカヤの先を外にむけていますが、もう1棟は根もとを外にむけてふいています。
古民家のカヤぶきは後者、根もとを外にむけてふいています。
カヤは根もとの方がかたくてじょうぶなので、水をとおしにくく、ながもちします。
ただし、根もとを外にむけて屋根をふくためには、かたいカヤの根もとの切り口をそろえて刈る、あるていど刃がながくてじょうぶな道具が必要になります。
しかし、縄文時代の道具の中に、それに適するものが見あたりません。
そこでもう1棟は、カヤの葉先を外にむけてふいた場合のカヤぶきにしてます。


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根もとの方を外側にした屋根。

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葉先を外側にした屋根。

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葉先を外側にそろえてふくためのくふうのひとつ。
カヤのうえでほしているみどり色のものは川のりで、屋根とは関係ありません。

 

2021年8月28日 土屋根の実験考古学

御所野遺跡では、この調査成果をもとに土屋根の復元住居がたてられます。
出土した炭化材から主柱と桁、垂木を復元し、垂木のうえを木の皮と小枝でおおってから厚さ約10センチの土をかぶせています。
屋根の勾配は、カヤぶきだと雨水が流れ落ちる45度でしたが、土屋根では土が流れ落ちない35度が最適とされました。

そして室温や湿度など「住みごごち」の記録をとった後、実際に復元住居を燃やしています。
燃やした結果、残った炭化材と焼土の状況を、発掘調査の記録をくらべることで、復元した構造とどこまで一致するのか検証しています。
その結果によって復元された竪穴住居が現在の御所野遺跡で展示されています。
これらは「実験考古学」の手法です。

ちなみにこの実験では、土屋根の竪穴住居はなかなか燃えないということがわかっています。
火をつけた時は燃えるのですが、屋根が土でおおわれているため、すぐに室内が酸素欠乏状態になって火が消えるというのです。
つまり、焼けた住居は「失火」の可能性が低く、わざと土屋根に穴をあけて住居内に空気がとおるようにしてから、火をつけた可能性が高いことがわかりました(御所野縄文博物館『縄文ムラの原風景』2020)。

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御所野遺跡での土屋根竪穴住居の焼失実験
(画像は一戸町教育委員会からご提供いただきました。)

土屋根ならば、竪穴住居跡の炭化材のでき方は、木炭のつくり方と同じ。

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穴の中に木をいれて・・・

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木のうえに、木の皮をかぶせ・・・

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木の皮のうえに草をかぶせて・・・
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草のうえを土でおおってから内部に火をつけて・・・

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空気をふさいで蒸し焼きにすると・・・
木炭になります。
土屋根の焼失住居とおなじ!

2021年8月22日 土屋根、あらわれる!

昭和61年(1986)、群馬県で榛名山の噴火による火砕流(かさいりゅう)でいっきに埋まった1500年前の古墳時代集落跡が発掘されます。
この中筋(なかすじ)遺跡で、火砕流の埋もれてその熱でむし焼きになった竪穴住居の上屋の痕跡が見つかります。
それによると、垂木の上にうすくカヤをしいて、その上に土をのせる・・・さらにカヤ、土の順でかさねていました。
火事で焼けた竪穴住居跡から焼土が出土する例があり、屋根に土をかぶせていたのではないかという見方は、沼遺跡の発掘調査以来ありました。
それが中筋遺跡ではっきり確認されることとなりました。

平成元年(1989)、岩手県御所野遺跡の発掘調査がはじまります。
この発掘調査で炭化した木材が数多く出土する縄文時代中期の竪穴住居跡が見つかります。

木材は完全に燃えると灰になります。
たき火が燃えつきると、あとには白い灰しか残っていないのを見たことはありませんか?
木が燃える途中で水をかけたり酸素が欠乏したりして火が消えてしてしまう、いわゆる不完全燃焼の状態にすると、BBQでも見なれた木の形をした黒い炭になります。

この炭の状態になった木材を炭化材(たんかざい)とよびます。

竪穴住居跡から炭化材が出土するということは、ただ火事になったというだけでなく、柱や屋根材が燃えつきて灰になる前に火が消えたということ・・・どうすればこうなるのでしょうか?さっそく「現場検証」です。
御所野遺跡では、炭化材はたくさん残っていましたが、カヤが燃えた痕跡はなく、炭化材の上を焼けた土・焼土がおおっていました。
この状況は、上屋の骨組みが燃える途中でくずれおち、その上をおちてきた屋根材、つまり土がおおいかぶさったため、燃えている木材がむし焼きにされて炭化材になったと考えられました。


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ふたたび、御所野遺跡の土屋根
(画像は一戸町教育委員会様からご提供いただきました。)


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燃えた・・・まっ白に・・・燃えつきた・・・まっ白な灰に

 

2021年8月18日 さかのぼるって、むずかしい

「さかのぼり」と「つながり」の話題でもうひとつ。
民族誌から考古資料を復元・解釈する方法について、ちがう環境・条件の文化・社会どうしをくらべるなんて!といった批判があることはご紹介しました。
ならば、「おなじ文化・社会」でくらべるのであれば、その問題は解決することになるのでしょうか?

実際、おなじ環境・条件にある、あるいは文化系譜・系統がつながる社会・文化の中であれば、現在あるいは記録のある過去(民族誌)からさかのぼって、考古資料につなげて解釈できるという考え方があります。
その方法は、「歴史遡及法(れきしそきゅうほう)」「直接歴史的接近法」などと呼ばれています。
民族誌をつかうことに批判的な考古学研究者の中でも、この歴史遡及法にはある程度理解をしめすむきもあるようです。

その一方で、人類学研究者の野林厚志(のばやし・あつし)さんは、歴史遡及法・直接歴史的接近法は系統・系譜がつながっていることを前提にする以上、「縄文時代の集団と連続性をもった集団について記述された民族誌や歴史資料を探すのはもちろん不可能」なので、この方法は縄文時代の復元にはつかえないという例をあげて、これがつかえる文化集団、さかのぼることができる時間の幅は非常に限られていると、その限界を指摘しています(『イノシシ狩猟の民族考古学』2008)。

野林さんや建築学研究者の石原さんの指摘は、「歴史をさかのぼってつなげる」ことはそうかんかんたんでないことに気づかせてくれます。

戦後の復元住居の研究では、家屋文鏡の画像などにくわえて、「同じ文化(民族)の系譜にある」という前提や、当時の文化人類学(民族学)・民俗学などの考え方の影響があったのでしょうか、高殿や古民家の「生きた化石」から一足とびにジャンプして先史の「民家」へとつなげようとしています。
しかし、「いま」を研究対象とする文化人類学や民俗学には、時間をさかのぼる自前の方法はありません。
そのため、いまからさかのぼって過去につなげようとするならば、歴史学や考古学の研究成果をつかって順番にたどっていく必要があります。

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「伝統」と言われることも、さかのぼるとなるとむずかしい・・・

このところ、竪穴住居の復元のテーマから脱線していっているって?
それでは次回、本題にもどりましょう。

2021年8月14日 変わるモノ、変わらないモノからたどる方法

変化のスピードがちがうモノ、ほかは変化しても変わらず残るモノがある・・・それは、私たちの身近、というよりもからだの中にもあります。
それは背骨、脊椎(せきつい)の下端につく「尾骨(びこつ)」とよばれる骨です。
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(原図は『貝塚博物館研究資料集第6集』より転載)

こう書きながら、つい自分のおしりをさすってしまいましたが、みなさまはどうですか?

これは字のとおり私たちの遠いご先祖さまのしっぽのなごりとされる骨で、いまは何の役目もありません。
時間とともに生物が変化してきた道すじ、進化を明らかにする古生物学(こせいぶつがく)では、生物化石を各部分の特徴で分類して、その特徴の変化のスピードのちがいから変化の順番を想定します。
そして、下の地層から出てくる化石のほうがふるいという原則にもとづいて、その変化の順番を確かめ、地層が堆積した年代から変化がおきた時間をはかり、40億年の生物進化の過程を明らかにしてきました。
これは「パラパラまんが」にたとえられることも・・・ページごとの絵のちがいが変化する生物の特徴、各ページが地層。ページが入れかわると、動きが変だぞ!?となります。

その考え方・方法を受けついでいる考古学では、モノの特徴を分類する「型式学」、モノが出てくる地層の上下関係で新旧を知る「層位学(そういがく)」という方法によって、モノの変化と変化する方向、それがいつおきたかを知る手段をもっています。

文化人類学ぎらいのイギリスの社会人類学研究者、エドマンド・リーチさんは、考古学による原始・古代像の復元に対しても「サイエンス・フィクション」ときびしい目をむけています。
そんなリーチさんも、モノの時間をさかのぼることができる考古学の方法には、文化人類学の考え方への批判の意味をこめて一種の「敬意」をいだくと言っています(長島信弘訳『社会人類学案内』1991)。


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加曽利貝塚博物館「遺跡の名を冠した土器」の展示で「型式学」を紹介しています。

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何が、「加曽利E式土器」なの?
くわしくは「加曽利のヒトTの部屋」(令和2年4月25日)へ!
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どうして「B」は、「E」よりあたらしいの?

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どうしてみんなおなじなの?

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どこがちがうの?

「型式学」と「層位学」については、また機会をあらためて。

 

 

2021年8月11日 「生きた化石」からたどれる?

関野さんの高殿、原口さんのカヤぶきの技術のように、いまに残る古い要素をさがしだし、そこから文化をさかのぼろうとする考え方は、考古学とおなじくモノと歴史に関心をよせる民俗学や文化人類学などの研究分野で見ることができました。

20世紀の前半、文化人類学(民族学)において、「文化」は生業、親族組織、宗教などさまざまな要素がモザイクのように集まって形づくられているという見方がありました。
これはスーパーマーケットでのお買いものにたとえることができるかもしれません。

スーパーマーケットのレジにならぶ買いもの客のカゴの中身には、野菜、くだもの、肉、牛乳・・・人によって種類だけでなく、サイズ・量、メーカなどおなじものがあればちがうものがあります。
その組み合わせには、買いもの客の好みはもちろん、家族構成、くらしのパターンなどのちがいがあらわれます。
この買いものカゴが「文化」・・・「文化」は買いものリストのように、たとえば「谷底でくらし、田んぼで米をつくり、もち米を主食にして、木と竹でつくった高床(たかゆか)の家に住み、仏教を信じる・・・」というぐあいに説明されます。
これでいくと縄文文化は、野焼きで土器をつくり、弓矢で動物を狩って、釣りやモリ、網で水産物をとって、木の実など食用植物をあつめて・・・このへんでご勘弁ください!
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さて、ふたたびスーパーマーケットのシーン・・・お父さんが「我が家はむかしからこの味なんだ!」とある銘柄のカレールーを握りしめている横で、お母さんは「チコちゃんちでつかっていて、便利そうだったから」と、これまで買ったことのないものを買いものカゴへ。
でもお父さん、そのルー、最近の健康志向に合わせて減塩・減脂肪になって、むかしと味はちがいますよ・・・(※これはフィクションであり、実在する人物等とは一切関係ありません。)

モザイク状の文化は、よその文化要素がくわわり、互いに影響しあうなどして変化していきます。
その一方で、文化の中でもそういう影響をうけにくく、変化がちいさいもの、変化しないものがある、つまり文化の中に「生きた化石」があり、それを見つけだしてたどることで、文化の歴史が復元・再現できると考えられていました。

ちなみに人類学では、いまはもう、このような見方はしていません。
文化とは人の行動を決める原則、認識のあり方とされています。
ここで買いものリストにたとえた「文化要素」は、文化にもとづく人の行動の「結果」と言えるでしょう。
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屋根はかわったけど、構造(軸組)はかわらないことも・・・

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2021年8月8日 復元住居と実験考古学、民族(俗)考古学

戦後の復元住居の建設ラッシュの背後には、社会的な要請がありました。
その一方で建築学においても、実際に復元住居をたてることで復元案を構造・技術的に検証し、新たな課題を見いだすという実験的な意味があったようです。

先に紹介した石原さんは、竪穴住居の復元研究の方向性として、発掘調査による考古学的資料によって復元することを第一としつつ、民俗・民族誌、文献記録から日本の民家史をさかのぼる方法をあげています。
これは古民家をかたちづくっている要素をそのみなもとまでさかのぼっていく方法ですが、石原さんはそれらがかならずしも竪穴住居につながるとはかぎらないとクギをさしています。

関野さんはそのつながりを高殿に求めました。
他方、堀口さんはカヤぶき屋根がつねに最新の建築技術を習得する大工ではなく、地元の農民によってつくられることから、そのなかに古い技術が代々継承されていると考えました。
そして、四角い屋根の隅をささえる隅木(すみき)がない奈良県慈光院のカヤぶき屋根の構造に最古の建築様式が残ると見て、これを参考に与助尾根遺跡の復元住居の上屋を設計しています。
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屋根のてっぺんが棟、そこから屋根の平面どうしをつなぐラインが隅棟(すみむね)、あるいは下り棟(くだりむね)などとよばれます。

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通常、垂木とおなじく隅木(矢印)はカヤなどの屋根材と天井にはさまれているので見えにくい。

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村びと全員で家のたてかえ

 

2021年8月5日 カヤぶき屋根への?

与助尾根遺跡を発掘調査した考古学研究者の宮坂英弌(みやさか・ふさかず)さんは、竪穴住居にカヤぶき屋根とは別のイメージ、八ヶ岳山麓の農村に古くから伝わる「穴倉(あなぐら)」を思い浮かべていたそうです。
「穴倉」とは、竪穴の外の地上にたてた叉首に柱を組み合わせ、そのてっぺんから地上にかけて棟木をわたし、これにカヤかワラで屋根をふいて、その上に土をかぶせる、冬の作業場です(『尖石』1998)。

また、沼遺跡では、炭化した木材とともに焼けた赤い土・焼土(しょうど)が出土したことから、屋根に土がつかわれた可能性があるとしていました(津山市郷土館『津山弥生住居址群の研究-西地区-』1957)。

建築学研究者の中でも、当初から竪穴住居の復元の方法に疑問がもたれています。
先に紹介した『建築雑誌』の復元住居特集号で、民家建築・都市計画研究者の石原憲治(いしはら・けんじ)さんは、登呂遺跡の復元のもとになった高殿がふるい建築様式を残すとすることに疑問を投げかけ、考古学的な出土資料が乏しい中での復元を「空想」と断じています。
この特集号では、石原さん以外にも村田治郎(むらた・じろう)さんが樺太アイヌなど竪穴住居をつかっていた北方民族や、宮坂さんが思いおこしていたような北関東の室(むろ)の例を参考にすることを提唱しています。
そのような民族・民俗の事例には、竪穴住居の屋根を土でおおうものがありました。


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2021年8月1日 カヤぶき屋根の源流をたどる

登呂遺跡では、発掘調査で竪穴住居跡から屋根の一部が「葺(ふ)き草」をのせたまま押しつぶされて出土したと報告されています(上田三平「駿河富士見原に於ける原始農耕聚落遺跡の研究」『登呂遺跡第1次調査の記録』1990)。

また、竪穴住居の上屋復元におおきな影響を与えた佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡に描かれた建物の屋根の勾配は45度で、現在の古民家のカヤぶき屋根とおなじです。
この45度という屋根の勾配は、雨が表面のカヤをつたって軒先から流れおちるために必要な角度です。
これよりも屋根の勾配がゆるいと、雨水がカヤの中をしみこみ、雨もりしてカヤがくさってしまいます。
このような屋根のシルエットが、「竪穴住居はカヤぶき」というイメージを強くしたのかもしれません。

日本民家のルーツをもとめた竪穴住居の建築学的研究では、カヤぶき屋根のルーツもまた竪穴住居にかさねられていたようです。

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奈良県佐味田宝塚古墳出土家屋文鏡「竪穴住居」とされる図形。
屋根の左にテラスのようなものが見えるなど竪穴住居ではない、というご意見もあります。
(原資料は、宮内庁書陵部所蔵)
画像掲載にあたっては、宮内庁書陵部様のご許可をいただきました。

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テラスがあるとすれば、こういう感じ?

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そういう建物を絵にすると、こういう感じ。

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2021年7月29日 戦後の復元住居研究

世界文化遺産となった「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する御所野遺跡の紹介からはじまった「史跡の花形・復元住居」編、まだつづきます。

戦後まもなく、登呂遺跡をはじめ各地の遺跡で復元住居がたてられています。
たとえば、復元住居の先がけとなる昭和24年(1948)の長野県与助尾根(よすけおね)遺跡にはじまり、登呂遺跡と同じく昭和26年(1950)に長野県平出(ひらいで)遺跡、昭和30年(1954)に岡山県沼(ぬま)遺跡などでたてられます。

与助尾根遺跡では和風建築家の堀口捨巳(ほりぐち・すてみ)さん、平出遺跡では古建築研究者の藤島亥治郎(ふじしま・がいじろう)さん、沼遺跡では建築学研究者の渋谷泰彦(しぶや・やすひこ)さんが上屋構造を設計しています。

設計者のみなさんは、奈良県佐味田宝塚(さみだたからづか)古墳の家屋文鏡(かおくもんきょう)に描かれた竪穴建物と思われる図形や古墳出土の家形埴輪を意識しつつ、堀口さんは奈良県のお寺、慈光院(じこういん)のカヤぶき屋根の構造から、藤島さんと渋谷さんは竪穴住居跡から出土した炭化材の位置や形から設計をこころみています。

戦後まもなく、各地の遺跡の保存・活用の中で復元住居が各地でたてられた背景には、新たな日本の歴史像、アイデンティティを模索する中で、そのルーツを明らかにする考古学の調査成果を目に見える形にすることへの期待があったと思われます。
そして、著名な建築家が積極的に復元住居にかかわったことは、建築学においても日本民家のルーツとしての竪穴住居への関心が高かったことをうかがわせます。
それは、昭和27年(1951)に建築学の学術誌『建築雑誌』774・775号で復元住居が特集されたことにもあらわれています。

登呂遺跡をはじめ、この時に設計された復元構造案がその後の史跡等における竪穴住居復元の基本となり、今日まで引きつがれます。
加曽利貝塚の復元住居の構造も、この流れをくんでいます。

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今日も竪穴住居をはじめ、古代建造物の復元に大きな影響をあたえている佐味田宝塚古墳出土家屋文鏡(原資料は、宮内庁書陵部所蔵)
画像掲載にあたっては、宮内庁書陵部様からご許可をいただきました。

2021年7月28日 祝!世界遺産登録!! 

昨日、ユネスコ世界文化遺産委員会は「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産への登録を決定いたしました!おめでとうございます!!

今回の登録は、縄文文化の「普遍的価値」を世界にむけて発信することとなり、史跡の保護、整備、活用に取りくむ私たちにもおおいに力をあたえてもらえました。
今後は加曽利貝塚もその価値、魅力をよりいっそう高め、発信してまいります!

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加曽利貝塚博物館でも紹介しています。


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2021年7月25日 登呂遺跡の復元住居

登呂遺跡のめざましい発掘調査成果によって、遺跡の保存と博物館・遺跡公園の整備の機運が高まります。
この遺跡整備構想の中で、竪穴住居の復元への要望の声も高まり、その設計を関野さんが担うこととなります。

登呂遺跡は湿地の中に所在する遺跡です。
そのため、洪水で地下深く埋もれた建物の建材の一部が地下水の影響でくさらずに残っていました。
関野さんは戦前からの研究成果と、残された建材などをもとに復元住居を設計します。
登呂遺跡出土の建材などには、鉄器をつかう高度な木材加工技術の痕跡が認められたことから、木材をつなぎ合わせ、組み合わせる技術があったと想定しています。
そのため、棟木をささえる建材は扠首を地上からのばすのではなく、桁の上にたてる構造で復元することで、建築学的に縄文時代より発展した構造とされました。
 
特別史跡登呂遺跡では、平成11年(1999)から15年(2003)にかけて再発掘調査が行われました。
その結果、竪穴住居跡では、地上に扠首をたてた痕跡はみつかりませんでした。
この再発掘調査の成果にもとづいた史跡の再整備では、復元住居の基本的な構造は引きつがれています(静岡市教育委員会『特別史跡登呂遺跡再整備事業報告書』2012)。

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特別史跡 登呂遺跡の旧・復元住居(2017年個人撮影)

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再整備後の新・復元住居(2017年個人撮影)

画像掲載にあたっては静岡市立登呂博物館様のご協力をいただきました。

 

2021年7月21日 登呂遺跡の発見

太平洋戦争中の昭和18年(1943)、静岡市内の工場建設にともない、水田の下から遺跡が発見されます。
それが洪水で埋没した弥生時代の集落遺跡、登呂(とろ)遺跡です。
登呂遺跡では、戦後まもなくの昭和22年(1947)から25年(1950)にかけて本格的な発掘調査が行われ、12棟の竪穴住居跡、2棟の掘立柱建物跡、8ヘクタールの水田跡が発見されます。

この発掘調査成果は、今日までつづく日本の稲作文化のみなもととしての弥生時代のイメージをつくりあげ、定着させることになります。
また、その発掘調査には考古学のほか、地理学、動物学、植物学そして建築学の研究者が参加しており、いまで言う学際的調査が行われました。
そして、この発掘調査をきっかけに、考古学研究者による全国組織「日本考古学協会」が発足します。

このような成果が評価され、登呂遺跡は昭和27年(1952)に特別史跡に指定されます。
弥生時代のイメージをつくりあげ、社会に影響をあたえた遺跡、日本の考古学研究におおきく貢献した遺跡・・・時代はちがいますが、加曽利貝塚と似ていませんか?
ちなみに私の中学生くらいのころ、五体投地(ごたいとうち)して訪れるべき遺跡の三大聖地は「加曽利、登呂、田能(たの)」でした(※個人の感想です)。

登呂遺跡の学際的な発掘調査に参加した建築史研究者が、関野さんでした。

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特別史跡の大先輩、登呂遺跡(2017年個人撮影)
画像掲載にあたっては静岡市立登呂博物館様のご協力をいただきました。

 

2021年7月17日 うしなわれた屋根をもとめて

竪穴住居の復元研究は、太平洋戦争前から建築史研究者を中心に着手されています。
特に関野克(せきの・まさる)さんは、はやくから日本住宅史の観点から竪穴住居跡を研究し、うしなわれた上屋構造の復元をこころみています。
この中で関野さんは、江戸時代のたたら吹き製鉄の技術書『鉄山秘書(てつざんひしょ)』に記録された製鉄工場、高殿(たかどの)の構造につよい関心をむけます。

この『鉄山秘書』によると、高殿は皮をはいだだけの木の主柱を方形に配置し、そのまわりを上から見た平面の形が方形あるいは隅丸方形に壁をめぐらせます。
そして、四隅の主柱周辺の垂木は、地上までのびて接地していたとされています。
この柱の痕跡(柱穴)のならびだけを想像すると・・・そう、竪穴住居跡とそっくり。

関野さんは、これらの構造は古民家には見られないもので、むしろ竪穴住居跡と共通しているほか、柱はてっぺんが二股(ふたまた)にわかれた木材を利用し、桁とのつなぎ合わせに葛蔓(かずらつる)をつかうという記述から、高殿の構造に古い時代の建築様式が残っていると考えました。(「鐡山秘書高殿に就いて(原始時代一建築構想の啓示)」『考古学雑誌』昭和13年7月号1938)

現在、高殿は唯一、島根県雲南市に所在する有形民俗文化財「菅谷(すがや)たたら山内(さんない)」に残っています。
ぜひ、現地をおとずれて、実際に確認してみてください!
また、宮崎駿さんのアニメ映画『もののけ姫』にも高殿が登場するので、ご覧になる機会があれば、そこにもご注目ください。

これをもとに、関野さんはいくつかの復元案をつくります。
その中の縄文時代の復元案では、木材を加工して組み合わせる技術が未発達とみて、棟木をささえる扠首を地上からのびる木材を桁によりかけさせて、そのてっぺんでX字状に交差させる構造として設計しました。

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島根県雲南市の重要有形民俗文化財「菅谷たたら山内」の菅谷高殿(2010年個人撮影)
画像掲載にあたっては、雲南市教育委員会、公益財団法人鉄の歴史村地域振興財団様のご協力をいただきました。

2021年7月14日 復元住居の上屋

ここで、あらためて今ある加曽利貝塚の復元住居の上屋構造をご紹介しましょう。
この復元住居では、竪穴の上に円錐形のカヤぶき屋根が地面までふきおろされています。

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つづいて復元住居を中から見てみましょう。
竪穴の壁沿いに柱をたてたと考えられる穴「柱穴(ちゅうけつ)」がめぐっていたので、その位置に屋根をささえる柱「主柱(しゅちゅう)」がたっています。
となりあう主柱のふたまたになったてっぺんをつないで渡す木材が「桁(けた)」。
桁は建物の壁に沿って配置される材です。


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向かいあう主柱のてっぺんをつなぐ木材が「梁(はり)」。
梁は建物の中にいる人の頭の上を行きかうことになります。
これらが屋根をささえる構造「軸組(じくくみ)」です。

 

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この軸組より上の屋根の構造を「小屋組(こやくみ)」とよびます。
屋根のてっぺんにある横一本の木材が棟木(むなぎ)。
この棟木は地上から梁の両端にもたれさせてのばした2本の材の先端を交差させる「扠首(さす)」でささえられています。
棟木から桁にかけてタテにならぶ木材を「垂木(たるき)」と呼びます。
この垂木は、棟木から地面までのびています。
垂木の上にはタテヨコにならぶ屋根の骨組「下地(したじ)」があり、その上に直物のカヤの屋根材をふきます。
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ところで、「復元住居」と「復原住居」はちがう?
一般的に辞書では「復原・復元」というようにならんで書かれ、意味にちがいはないようです。
しかし、建築の専門家はつかい分けています。
「復元」はすでに存在しない建造物を、すべて新しい材料でつくりなおすこと。
「復原」は、たとえば改修・改造をほどこされ、形・構造がかわった建造物を、最初にたてられたときの姿にもどすこと。
ということで、ここでは「復元住居」とします。

 

 

2021年7月11日 残る柱穴、残らない柱

「考古学って、なに?」で、残らないモノ、残りにくいモノがあることはふれました。
建物の建築材でも石やレンガなどは残りやすいのですが、日本の古民家のように木や竹などの植物質、有機質の材料でつくられた建物は、住まなくなってうちすてられると、時間の経過とともにくさってなくなっていきます。
イタリアのポンペイ遺跡のように火山灰などが降りつもって、一気に地下深く埋まる、そして地下水によって空気が遮断されて木などがくさらないかぎり、竪穴住居の屋根などの上屋(うわや)がそのままの姿で残ることは期待できません。
そのため、遺跡からは多くの場合、竪穴と柱をたてた穴、火をたいた炉(ろ)の跡、ときどき火事で焼け残った建築材の一部が出土するだけです。

加曽利貝塚でもこれまでの発掘調査では、竪穴住居跡の竪穴や柱穴以外で、屋根など上屋の構造を知ることができるものは、まだ見つかっていません。

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加曽利貝塚の竪穴住居跡

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上屋はくさってなくなるだけではありません。
引っ越すと上屋もいっしょに・・・
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みんな持っていったことだってあったかも!?

 

 

2021年7月8日 史跡の花形!?

5月20・27日にお知らせした千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景-御所野遺跡」のパネル展が6月27日に終了いたしました。
また、これにあわせて開催していました当館の「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡」展も、7月4日に終了いたしました。
御来場・御来館のみなさま、ありがとうございました。
あとは今月予定されている「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録決定をまつのみ!

ところで、本展開催をお知らせした際、御所野(ごしょの)遺跡と加曽利貝塚の屋外展示、復元住居の画像をご紹介しました。
縄文時代の史跡と言えば、復元された竪穴住居!というイメージがあるかも?
復元住居は、整備された史跡の「花形」かもしれません。

ここで加曽利貝塚と御所野遺跡の画像を再度見くらべてみましょう。
なにかがちがう・・・加曽利貝塚や千葉市生涯学習センターの展示をご覧になったみなさまは、もうお気づきでしょう。
屋根がちがう・・・加曽利貝塚はカヤぶき屋根、御所野遺跡は、草が生えている?つち?土?そう、土屋根です。
どうしてちがうのか?そこからは、考古学、建築学と遺跡・史跡整備の歴史をうかがうことができます。

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史跡 御所野遺跡の復元住居
画像は一戸町教育委員会様からご提供いただきました。

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特別史跡 加曽利貝塚の復元住居

 

2021年7月3日 加曽利貝塚の「なんで?」

お知らせやひとりごとをはさみましたが、今回が「考古学って、なに?」編の最終回。

実験考古学も民族考古学も、いま、目の前で人の行動・行為とモノ・痕跡の関係を見ることができます。
そしてその成果は、人の行為・行動とモノの関係の可能性をひろげたり、しぼり込みます。
そのため、実験考古学と民族考古学をおなじものとする考え方があります。

イギリスの人類学研究者、ティム・インゴルドさんは、人類学の現地調査(フィールドワーク)では観察者(研究者)が期待する、しないに関係なく、相手から「与えられたものをありがたく受け取る」のに対して、実験では人工的につくられた場所で、「モノの秘密が無理やりにあるいはトリッキーに、暴かれ」ると、ちょっと刺激的にそのちがいを説明しています(奥野克巳ほか訳『人類学とは何か』2020)。

民族考古学では、考古学的なテーマを設けて現地で調査・研究しています。
けれども調査の場では、それにかぎらない、さまざまなものを与えられ、いただいています。

次回からは、そんないただきものをまじえながら、特別史跡加曽利貝塚の風景や展示の中から(しつこいようですがチコちゃん風に)「なんで?」を、みなさまといっしょに考えていきたいと思います。

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しばし、おわかれ。

 

 

2021年7月1日 千葉市立郷土博物館小企画展「陸軍気球連帯と第二格納庫」

7月の初日、ここで「鉄オタ」(「鉄」は「鉄道」ではありません)のひとりごと・・・

現在、千葉市立郷土博物館において7月11日までの会期で、小企画展「陸軍気球連帯と第二格納庫」を開催しています。
昨年、千葉市内に所在した旧日本軍唯一の気球連隊の遺構、「第二格納庫」が老朽化のため解体されました。
これを機会に陸軍気球連隊の全貌にせまる調査が行われ、本展ではその成果が公開されています。
陸軍気球連隊の「第二格納庫」は、「ダイヤモンドトラス」構造をつかって設計・建設されました。

トラスとは、建材を三角形に組んだ構造をつなぎあわせて強度を増す技術で、古くから屋根の骨組みなどで使われてきました。
18世紀の産業革命で製鉄産業が発展すると、建造物の建材に鉄がつかわれるようになります。
当時はまだかたさとしなやかさをあわせもつ鉄鋼の大量生産技術が未熟だったため、やわらかい錬鉄(れんてつ)が主な材料でした。
そんな錬鉄でもトラス構造をつかってパリのエッフェル塔がたてられています。
そのエッフェル塔がたてられたパリ万国博覧会(1855~1900年)の時期は、第二次産業革命とも呼ばれ、製鉄技術がおおきく発達します。
特にベッセマー転炉(てんろ)という精錬(せいれん)炉による製鋼技術が発明されると、鉄鋼の大量生産の道が開けました。
建築でも鉄鋼を建材にすることで、柱の数を少なくしながら、高い天井、広い空間もつ建造物をたてることが可能となります。

日本では、昭和7年(1932)に従来のトラス構造よりもじょうぶで、屋根をささえる柱をすくなくして、より大きな空間をもつ建物をたてることができる画期的な技術、ひし形構造の「ダイヤモンドトラス」が発明されます。
そして、昭和9年(1934)に完成した気球連隊「第二格納庫」にこの最新技術・ダイヤモンドトラス構造がつかわれます。

日本の軍用気球を運用した唯一の気球連隊、それにかかわる建造物と技術・・・日本の近代史はもちろん、建築史そして鉄の歴史(「鉄オタ」の「鉄」はこちらの鉄)に関心のある方は見のがすことのできない展示ですね。
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解体前の「第二格納庫」(千葉市立郷土博物館提供)

 

2021年6月30日 「なんで?」のきっかけ、民族誌

自分のまわりでもモノと人の行為・行動の関係を観察することはできます。実際にその調査・研究は行われています。
ならば、なぜ、わざわざ時間とお金をかけてまで批判のタネとなる、はなれた、ちがう社会・文化で調べるのでしょうか?
人によって理由はさまざまでしょうが、自分が属する文化・社会では当たり前、常識と思っていることが、外部の人の目からはちがって見えることがあるからだと私は考えています。

アメリカの政治・人類学研究者、ジェームス・C・スコットさんは、東南アジアの歴史研究において国家の歴史だけでなく、山地民(いわゆる少数民族)の歴史からの視点が必要であるにもかかわらず、これまでそれが不十分であると問題提起しています。
その原因として、山地民がみずからの文字記録をもたず、ちいさな集団がひんぱんに山から山へと移動して、そのくらしの痕跡が見つけられないため、研究者が関心を向けてこなかったことをあげています(佐藤仁ほか訳『ゾミア』2013)。

いや、考古学の調査手法ならば彼らのくらしの痕跡を見つけることができる!そして、彼らの歴史を明らかにできる!!と反論したいところです。
このような条件こそ、考古学の本領発揮!のはずですが、そもそも考古学研究者がそういう目で山を見る意識、山のうえのちいさなくらしへの関心をもたないかぎり、見つけることはできないでしょう。
そういう意味で、スコットさんが言われることは正しい。

他者の文化・社会を観察することは、日ごろ気にすることもなく見すごしてしまうようなモノと痕跡、それらと人の関係を気づかせてくれます。
考古学的民族誌は、そのような経験を多くの人と共有することができます。
それによって、研究者みずからが「である」「と考えられる」とする根拠を問いなおす機会となり、より確かなものにしてくれることでしょう。

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この風景は、考古学になにか気づかせてくれるのでしょうか?

 

 

2021年6月27日 民族誌をつかう?つかわない?

民族誌、特に考古学的民族誌は、どういう環境・条件、文化・社会のもとで人とモノの関係はどうなのか、その関係を他者と具体的に共有して理解するうえで有効です。
「確からしい」「もっともらしい」と判断する情報源には、意識・無意識のさまざまなものがあることはふれました。その中には、民族誌も含まれることがあります。
それにもかかわらず、先に紹介したような民族誌の利用や民族考古学への批判があることに、考古学・人類学研究者の後藤明さんは次のようにこたえています。

意識していなくても民族(俗)学的な類推は行われてきたのだから、「役に立たない」と頭から決めてかかるより、民族資料を考古学に役立てるための手続きをもっと体系化、そして明示化する方が生産的だと、私は思う(『民族考古学』2001)。

もうひとつ、民族誌・考古学的民族誌は、モノと人の関係に影響を及ぼす環境・条件がどれだけあるのかを教えてくれます。
このような情報は、考古学研究においてなにが問題であり、その解明のためになにをどのように解決しなければならないのか、考えるきっかけになります。
それは、モノと人の関係が「こうだからこうなるにちがいない、こうなるはずだ」と考えるにいたるまでに、「では、こういう場合はどうか?」「こういう場合もあるのでは?」というハードルをもうけることです。
このようなハードルは、調査・研究方法の開発や改善につながることが期待できます。

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自分で見てみる、記録する・・・前館長、土器づくりのロクロを激写!
現在、尼崎市立歴史博物館田能(たの)資料館では、9月19日までの会期で企画展「チャレンジ★やよい人!-弥生土器づくり」を開催しています。
本展では、昨年度の当館「館長の考古学日記」で公開しました「ラオスの土器づくり」の映像を上映しています。
この映像はYouTubeの加曽利貝塚博物館「ラオスの土器づくり」でもご覧になれますが、展示の中でご覧になると、よりいっそう土器づくりの雰囲気を身近に感じることができるのではないでしょうか。

 

2021年6月23日 考古学と民族誌、ふたたび

ここからは、これまで紹介したモノ・痕跡と人の行為・行動、文化・社会を結びつける方法のうち、今を生きる人びとを観察し、記録する方法を掘りさげてみましょう。

この「民族誌による考古資料の解釈」や「民族考古学」の考え方・方法に対しては、たとえば縄文時代と同じ環境・文化・社会は現存しないように、「生きた化石」など存在しない、つまり、まったく同じ環境・社会・文化はなく、似ているから同じとは言えない、ちがう環境・社会・文化のモノどうしを比較することはできない、といった批判があります。

これらの批判は正しいと思います。
ただし、それは考古資料の解釈において、民族誌や民族考古学の成果に唯一の解答を期待した場合です。
民族誌は、さまざまな環境・条件において、人の行為・行動がどのようにモノ・痕跡として残される可能性があるのか、文化・社会とどう関係するのか、その選択肢を示してくれると考えるのはいかがでしょうか?
とくに考古学研究者みずからが調査地におもむき、考古学的視点・問題意識にもとづいて観察し、記録した民族誌(ここでは考古学的民族誌と呼びます)では、さまざまな環境・条件のもとでの人とモノの関係を知ることができます。

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いまどきのデジタル技術を使わず、アナログに生きる私は、「生きた化石」。

 

2021年6月19日 祝・船橋市取掛西貝塚の史跡指定答申!

梅雨のじめじめした日に、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産への登録勧告に続き、うれしいニュースです!
このたび国の文化審議会は文部科学大臣に対し、船橋市に所在する取掛西(とりかけにし)貝塚を史跡に指定することを答申いたしました!!
このあと、官報告示をもって史跡指定となることが見込まれます。

取掛西貝塚は、約1万年前の縄文時代早期と約6千年前の縄文時代前期の2つの時期からなる貝塚集落跡です。
縄文時代早期の集落遺跡としては最大級の規模であり、これにともなうヤマトシジミなどからなる貝塚は、特に貝塚遺跡が集中する東京湾東岸でも最古クラスです。
また、この貝塚の下からは、イノシシやシカの頭の骨が集められた状態で出土するなど、当時の人びとのくらしや考え方にせまることができる遺跡です。

加曽利貝塚は、日本で最大級の貝塚集落跡ですが、本貝塚だけで東京湾東岸に集中する貝塚遺跡、そして縄文時代をかたることはできません。
ながい縄文時代の中で貝塚集落は、その時期、場所によってそれぞれの特徴がちがいます。
取掛西貝塚は、加曽利貝塚の貝塚がつくられはじめる縄文時代中期より前の貝塚集落のありかたを知ることができ、なぜ加曽利貝塚が営まれたのかを考えるうえでも重要な遺跡です。

船橋市には縄文時代早期の市指定史跡・飛ノ台(とびのだい)貝塚も所在し、その隣には飛ノ台史跡公園博物館があります。
こちらでは本日から7月11日まで、取掛西貝塚の調査成果を紹介するミニ展示「いよいよ国史跡指定へ 取掛西貝塚」を開催しています。

東京湾東岸では、市川考古博物館(史跡・堀之内貝塚ほか)、飛ノ台史跡公園博物館、袖ケ浦市郷土博物館(史跡・山野貝塚)、そして当館が貝塚遺跡の史跡の保存と公開をしています。
取掛貝塚の史跡指定を機会に、当館をはじめとする博物館・史跡を訪れて、縄文時代、縄文文化への関心を深めていただければと思います。

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みなさまのご来館をおまち申しあげます。

 

 

2021年6月16日 考古学は三段とび

考古学の方法は、モノ・痕跡を見つけだして記録する(ホップ)、その記録から人の行為・行動を再現・復元する(ステップ)、そこから人の行為・行動から歴史・文化を解明する(ジャンプ)と、三段とびのようなものかもしれません。
三段とびでは、ホップ、ステップで失敗するとジャンプの距離がのびない、場合によっては失格になることもあります。

考古学研究でも、その目的を達成するためには、その前のホップ、ステップにあたる手つづきがとても重要です。

博物館の常設展示では、このホップを基本に展示しつつ、ステップ、そして時にはジャンプまで展示することがあります。
他方、テーマが決まった企画展・特別展ではステップ・ジャンプまで、最新の研究成果が紹介されます。

みなさまも博物館の展示をご覧になる時には、「ここはホップ、ここはステップ・・・」などと意識して見てはいかがでしょうか。
また、博物館の展示室は、だれもが「検察官」、「弁護人」、「裁判官」になることができる「法廷」でもあります。

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加曽利貝塚博物館の展示室は「法廷」?
くれぐれも館内での本当の三段とびはご遠慮ください。

 

2021年6月13日 モノからコトへ、歴史・文化へ、人へ

またまた事故・事件のはなしにもどります。
現場検証は、記録・調書をつくることが目的ではありません。
これらを証拠に、いつ、だれが、どこで、なにをしたのか、どうしてその行為・行動に及んだのかを認定したうえで、裁判に付されます。

さしずめ考古学研究者は、証拠を集める鑑識官、それらから人の行為・行動を再現し、その動機までを立証する検察官で、学会・論文が法廷、その他の研究者が弁護人・裁判官・陪審員というイメージかもしれません。
現場検証が不十分、証拠が不十分では事実の認定はできませんし、動機も解明できません。

それでは、裁判では判決に大きく影響する行為・行動の「動機」は、考古学ではなにでしょうか。
それは、人類の歴史、あるいは人の行動を決める文化、そして人とはなにか?です。

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突然ですが、「5月23日 モノからコトへ」のナゾかけのこたえ、です。

 

2021年6月9日 モノからコトヘ、見てみる

現在の人間集団(民族)を観察するもうひとつの方法、「民族考古学」。
民族考古学は、現在の人の行為・行動とモノの関係は、過去でもなり立つという考え方にもとづいています。

「民族誌による考古資料の解釈」では、探検隊やキリスト教宣教師、植民地の行政官などにはじまり、人類学研究者(民族誌研究者)よる記録まで、さまざまな民族誌が使われます。

民族考古学では、考古学研究者みずからがモノと人の関係という考古学的な問題意識にしたがって観察し、記録します。
ここでは、観察の対象となる人間集団が「生きた化石」かどうかは、関係ありません。
考古学研究者が見てみたいと思うモノと行為・行動の関係が見えやすい社会・集団が選ばれます。
そこでは現在進行形の「変化」もまた、観察の対象とされます。

以上がモノ・痕跡と人の行為・行動をつなぐ方法としての「歴史考古学」「実験考古学」「民族考古学」です。
なお、ビンフォードさんのもとで学ばれた考古学研究者の阿子島香さんは、自然科学的分析の中にも広い意味でその方法に加えることができるものがあるとしています(「ミドルレンジセオリー」『考古学論叢』1983)。

これらの方法が、モノ・痕跡と人の行為・行動の関係を説明するうえで有効であるのか、それぞれ議論があるところです。
しかし、「確からしい」と考える根拠をはっきりさせる必要があることには、異論はないでしょう。

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これぐらいの大きさの集団であれば、モノと人の関係は見えやすい。

 

2021年6月6日 モノからコトヘ、くらべてみる

モノ・痕跡と人の行為・行動をつなぐ方法の最後は、現在の人、人間集団(民族)を観察する方法です。
これは、環境・条件が同じならば、人は同じ行為・行動を行い、その結果、同じようなモノ・痕跡が残るという「斉一性(さいいつせい)」の原則にもとづいています。
この方法は、大きく「民族誌による考古資料の解釈」と「民族考古学」に分けられます。

「民族」とは、ある文化を共有する(と信じている)集団で、「誌」とは文字・図・写真などで書きあらわしたものです。ようするに「民族誌」とは、文化をともにする人間集団を、その文化に属さない人が観察した記録です。

人は、むかしから自分とちがう文化・社会の人びとに出あうと、どうしてちがうのか、その理由を考えてきました。その中には、進歩がとまった人たち、自分たちの先祖とおなじ生活をする人たちがいるという見方がありました。
このような見方は、19世紀後半以降のヨーロッパにおいて、生物進化とおなじく社会も進化してきたという社会進化論として、科学的な体裁をととのえていきます。

この社会進化論の観点から考古資料の機能・役わりなどを説明しようとしたのが、「民族誌による考古資料の解釈」のはじまりです。
つまり、いまもむかしの文化・社会を保持している人びと、「生きた化石」が存在しており、考古資料とおなじような文化・社会を記録した民族誌とくらべてかさねることで、その考古資料が説明できるとする考え方が根もとにあります。

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遮光器土偶(しゃこうきどぐう)(複製品・当館蔵)

名前の由来は、北方狩猟採集民の雪に反射する光から目をまもるメガネ・遮光器に「似ているから」

 

2021年6月2日 モノからコトヘ、やってみる

モノや痕跡から行為・行動を再現・復元するための方法、「実験考古学」。
「実験」とは、「こうすると、こうなるだろう」と仮説をたてて、それにもとづいて実際にやってみる方法です。
つまり、「実験考古学」では、モノや痕跡からそれを残した行為・行動の仮説をたて、やってみて、実際にできるのか、効果はどうか、考古資料と同じモノと痕跡が残るのかなどを確認します。

実験考古学では、人がどう行動すれば(原因)、どのようなモノや痕跡を残すか(結果)、直接観察することができます。
くりかえし実験して同じ結果がえられると、その仮説の説得力は増します。
しかし、「できた」からそれを「していた」とはかぎりません。
実験で「できる」条件・環境がどれだけあるのか確認したうえで、「していた」ことにしぼり込む方法を考える必要があります。

また、「できなかった」ことは、その実験が失敗、むだと言うことにはなりません。
「できなかった」原因を知ることで仮説を修正し、実験をくり返すことが、仮説の「確からしさ」を高めていきます。

加曽利貝塚博物館は、その開設当時からこの実験考古学に取り組んできました。
特に縄文土器の研究における土器をつくる、使う実験では先駆的と評価されています。
このことも特別史跡加曽利貝塚の価値のひとつです。

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実験考古学の成果の一部は、「土器をつくる」の展示でご覧いただけます。

 

2021年5月30日 モノからコトへ、たどってみる

モノや痕跡から行為・行動(コト)を再現・復元するための方法、「歴史考古学」。
文字記録(文献)に残っており、だれがなにをしたのか、過去のできごとがあらかじめわかっている場所を発掘調査することによって、人の行為・行動がどのようにモノ・痕跡として残るのか、たどってみる方法です。

なお、考古学では、文字のない時代を研究対象とする「先史考古学」、文字記録のある時代を研究対象とする「歴史考古学」に区分されることがあります。さらに、その中間に文字があらわれる過渡期を「原史」とする区分もあります。

その区分によると、日本考古学では、文字記録のない弥生時代以前が「先史」、文字・文字記録があらわれる古墳時代が「原史」、飛鳥時代以後が「歴史」になります。
ちなみに、弥生時代はビミョー・・・今後、文字を使っていたことが確認されるかも?

はなしをもどしましょう。
この方法は「歴史考古学」に含まれます。ただし、日本の考古学でいう「歴史考古学」とは性格がちがいます。
前者はモノと人の行為・行動、文化・社会の関係を、後者は文献記録のある時代の歴史の再構成におもな関心を向けています。

ビンフォードさんが、モノと人の行為・行動をつなぐ方法として「歴史考古学」をあげた背景には、アメリカの考古学事情があるものと思われます。
アメリカでは、「歴史時代」はコロンブスのアメリカ大陸到達(1492年)以後。
そのため、アメリカの「歴史考古学」では、多くの文字記録が残されているできごとを、モノ・痕跡から検証することができます。

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最近、「原史」は耳にしなくなった?

2021年5月28日 モノからコトへ(その2)

5月23日からの続きです。
「確からしい」「もっともらしい」と判断すること、「常識」とする知識の源は、自分で見て、聞いて、体験したことにはじまり、人から聞いたり、本で読んだり、テレビやインターネットで見たり・・・意識する、しないを問わず、さまざまです。
「確からしい」「もっともらしい」判断には、根拠はあります。しかし、このようなさまざまな情報・知識が複雑にからみ合っているため、根拠とされる情報・知識が明示されにくく、正確さのレベルもちがう情報が混じりあい、同じ体験や情報、価値観などを共有していない人から(チコちゃん風に)「なんで?」と聞かれた時、「・・・」となることがあります(大竹まことさんをイメージしてみました)。
それでは、モノと人の行為・行動の関係を、だれもが「そうだね」と理解できるよう説明する方法はあるのでしょうか?アメリカの考古学・人類学研究者、ルイス・ビンフォードさんは3つの方法をあげています。それは、「歴史考古学」「実験考古学」「民族考古学」です。

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昨年度からの再登場・・・「確からしさ」のタネ

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私は、どちらかといえばこっち

2021年5月27日 祝!世界遺産登録勧告

我が国から世界文化遺産に推薦された「北海道・北東北の縄文遺跡群」について,ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関・イコモスは、世界遺産への登録が適当と勧告しました。
今後、7月に開催予定の世界遺産委員会において、世界遺産一覧表への記載の可否が決定されます。
すでにお知らせしたところですが、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録の機運を盛りあげるため、千葉市においても現在、下記のとおり「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する史跡を紹介する場を設けています。ぜひこの機会に世界遺産登録に大きく近づいた「北海道・北東北の縄文遺跡群」への理解を深めていただければと思います。


千葉そごう「目指せ世界遺産!北海道・北東北の縄文遺跡群」5月30日まで(会期あとわずか!)
千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」6月27日まで
千葉市立加曽利貝塚博物館「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」7月4日まで
※各施設の開館・営業日及び時間等の詳細については、各施設ホームページにてご確認ください。

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史跡 御所野遺跡(一戸町教育委員会提供)

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千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」展

 

2021年5月23日モノからコトへ

ちょっと中断してしまいましたが、まだまだ「考古学って、なに?」は続きます。
はなしをパンアメリカン103便墜落事件にもどしましょう。どうなると破片がこのように散らばるのか、どうするとこのような機体のこわれ方や変形がおこるのか、どうすればスーツケースはこげるのかなど、あらかじめわかっているからこそ、爆発・爆破という原因にたどり着くことができました。つまり、モノや痕跡からできごと、行為・行動を再現・復元するには、どうすればそのようなモノや痕跡が残るのか、互いに結びつけるための情報・知識が必要です。
その知識・情報の代表格は、直接的・間接的な体験をたばね、編んだようなもので、他者と共有される(と信じる)知識です。このような知識・情報による判断は、「確からしい」「もっともらしい」または「常識」と呼ばれ、「こうだからこうなる」「こうするとこうなる」といえば、他者から「そうだよね」と同意されます。このようなさまざまな知識を総合して「常識的に判断する」能力をもつことは、ホモ・サピエンスの大きな特徴とも言われます。

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なにをすれば、このようなモノ・痕跡はのこるのでしょうか?

2021年5月20日当館「縄文ムラの原風景」展

前回、さわりだけご案内しました当館の「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」展。加曽利貝塚と同じく、縄文時代中期の集落遺跡の史跡である岩手県御所野(ごしょの)遺跡を紹介する千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」パネル展にあわせて、千葉市に所在する同時代の遺跡を紹介します。ここでは、沢ノ台(さわのだい)遺跡出土ヒスイ大珠(たいしゅ)や愛生(あいおい)遺跡の柄鏡形(えかがみがた)住居跡出土の加曽利E4.式土器のほか、荒屋敷(あらやしき)貝塚・月ノ木(つきのき)貝塚の出土品などを展示しています。地味ですが、荒屋敷貝塚で確認されたマメ科植物の種子の痕跡のある土器片も注目!当館・千葉市生涯学習センターの展示をとおして、縄文時代中期のくらしへの関心を高めていただければ幸いです。
なお、千葉市生涯学習センターのパネル展示について、前回(5月18日)に会期を6月20日までとしましたが、正しくは6月27日までです。訂正してお詫び申し上げます。

会期のご案内(各展示の会期は異なりますのでご注意ください)
千葉市立加曽利貝塚博物館「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」7月4日まで

千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」6月27日まで
千葉そごう「目指せ世界遺産!北海道・北東北の縄文遺跡群」5月30日まで
※各施設の開館・営業日及び時間等の詳細については、各施設ホームページにてご確認ください。

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史跡 御所野遺跡(一戸町教育委員会提供)

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特別史跡 加曾利貝塚

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当館「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」展

2021年5月18日縄文ムラの原風景

5月18日から6月20日までの会期で、千葉市生涯学習センター1階アナトリウムを会場に「縄文ムラの原風景」を開催します。
北海道、青森県、岩手県及び秋田県では、加曽利貝塚と同じ特別史跡の三内丸山遺跡のほか、16の縄文時代遺跡が史跡に指定さています。これら17の特別史跡・史跡は、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、ユネスコの世界遺産登録に推薦されました。
本展示は、その遺跡群のひとつ、岩手県一戸町に所在する史跡、御所野遺跡を紹介するパネル展示です。御所野遺跡は約5千年前から約800年続いた集落遺跡です。その発掘調査の成果は、縄文時代集落研究に新たな知見をもたらし、当時のくらしをいきいきと再現することができました。
この機会に「北海道・北東北の縄文遺跡群」への理解を深めていただき、世界遺産登録を応援しましょう!
また、本展示とともに、千葉そごう6階催事場で「目指せ世界遺産!北海道・北東北の縄文遺跡群」パネル展を開催しています。本展のもうひとつの注目は、戸村正己さん(千葉市埋蔵文化財センター)による北海道・東北地方の縄文時代遺跡から出土した縄文土器・土製品をモデルとした作品群です。生涯学習センターの展示とあわせて、みなさまを縄文時代の世界へといざないます。千葉そごうの展示は、5月30日まで。
なお、当館ではこれら展示に呼応して、5月18日から7月4日までの会期で、御所野遺跡と同時期の千葉市内の遺跡を紹介する「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」を開催しています。こちらの詳細は次で!

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千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」展

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千葉そごう「目指せ世界遺産!北海道・北東北の縄文遺跡群」展

2021年5月16日時とともにかわる「残るもの」

ここでハラリさんに反論させてください。確かに考古学研究では、遺跡に残るモノ、遺跡で見つかるモノでその時代、文化のイメージをつくりあげてきました。しかし、今日の考古学は、研究対象とするモノを幅広くとらえ、それらの中からさまざまな痕跡を見つけだすことで、失われたモノ、新たなモノの存在を明らかにし、人類史・文化像をより具体的なものへと書きかえています。残されたものから残らないモノ、残りにくいモノの存在をどのようにあぶりだしていくのか、これも考古学の重要な研究テーマです。そのために考古学は、自然科学を含めた他の研究分野とも協力しています。さまざまな学問領域と関係をもって研究できることも、考古学の大きな特徴と言えるでしょう。
15ヘクタールに及ぶ加曽利貝塚は、これまで約8%が発掘調査されています。その8%で見つかったモノ・痕跡の一部は、加曽利貝塚博物館でご覧いただけます。そして、館外に広がる手つかずの92%には、未知のさまざまなモノと痕跡が将来の研究のために残されています。そのこともまた、加曽利貝塚の価値のひとつです。


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新たなモノ、痕跡をもとめて、今年も南貝塚の発掘調査を実施する予定です。

 

 

2021年5月12日残るモノ、残らないモノ

しかし、ことばのように残らないモノ、時間の経過とともに残りにくくなるモノ、失われるモノもあります。刑事ドラマで聞いたことありませんか?主人公に無理やり事件現場に連れだされた鑑識官のセリフ、「時間がたっているので、新しい証拠が出るかはむずかしいと思いますが・・・」(六角精児さんをイメージしてみました)。
あのベストセラー作品『サピエンス全史』で、著者のユヴァル・ノア・ハラリさんは、木や竹、革など、時間の経過とともに腐ってなくなりやすい材料の道具を使っていたはずなのに、残りやすい石器や骨だけで「石器時代」がイメージされてきたとして、「現代まで残った人工物を手掛かりに、古代の狩猟採集民の暮らしを再現しようとする試みはどんなものであれ、はなはだ問題が多い」(柴田裕之訳2016)とかなり手きびしく考古学を評価しています。

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3千年後も残るものは?

2021年5月9日人とモノ

アメリカの経済学者、ケネス・E・ボールディングさんは、生産活動の基本要素を「ノウハウ」「エネルギー」「物質」としました(猪木武徳ほか訳『社会進化の経済学』1987)。これは人の営み、人の行動全般に当てはまることです。近年。考古学・歴史学などさまざまな分野でも「人、モノ、コト(あるいは情報)」などのキーワードが使われています。ちなみにボールディングさんも「人」を入れるか迷ったようですが、「人」は「ノウハウ」を保持するものであり、それを実行する「エネルギー」であり、そして身体としての「物質」でもあるとして、「人」もまた、この3要素の組み合わせであると位置づけています。
くり返しになりますが、私たちは常にモノとかかわり、生きていると言っても過言ではありません。そのため、考古学が扱うモノの範囲も、大きく広がっていく可能性をもっています。考古学の研究対象とするモノやその考え方は、私たちの身近にあるものなのです。

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「人」は「ノウハウ」であり「エネルギー」であり、空間を占有する「物質」。

2021年5月5日考古学って、なに?(その3)

発掘調査もまた、遺跡という現場から人の活動に関係するモノを探しだし、それが残された場所・状態を記録し、採取・回収し、観察し、お互いの関係を分析し、その結果を文字・図・写真で記述し、記録します。この記録が発掘調査報告書です。
このように残されたモノ・痕跡からそこでなにが行われたのかを再現・復元する、それが考古学の基本です。人はモノに囲まれ、モノとかかわって生きています。モノと人のかかわりといえば、道具や衣服、家屋などがイメージしやすいのですが、たとえば「ことば」はどうでしょうか。人体の声帯という器官(モノ)を使って空気(モノ)を振動させ、鼓膜(モノ)で感知する、やはりモノがかかわっています。このように人はかならずと言ってよいほどモノとかかわって生きています。

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出土したモノはその場所に残して・・・

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出土した状態を記録します。

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過去の調査成果を現在の視点で記録しなおした総括報告書。

2021年5月2日考古学って、なに?(その2)

パンアメリカン103便墜落の調査は、墜落した航空機の破片を徹底的に回収することからはじまりました。この時、最初に行われたことは、機体のどの破片がどこで回収されたのか記録がとることでした。そうすると、かなり広い範囲で破片が散らばっていることがわかりました。これは高高度で航空機の機体が破裂、空中分解したことを示しています。
続いて、回収した破片を本来の航空機にあわせて組み立てます。すると特に破損がひどく、失われた部分がありました。それが貨物室でした。さらにその貨物室の破片には強い圧力が加わって変形したものがみつかります。これによって、貨物室が何らかの圧力によって破損・破裂した可能性がでてきました。そこで回収された荷物を調べると、こげたスーツケースやタイマーがみつかり、さらにそれを分析すると爆発物の成分が・・・
これによってパンアメリカン103便は、爆破されて墜落したことが判明しました。9千mの上空で誰も見ていない出来事を、残されたモノと痕跡から再現したのです。さらにスーツケースに残された繊維片からある服が特定され、その流通経路をたどることで、爆発物がどのように機内に持ちこまれたのか、犯人の行動までせまっていきます。

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2021年4月28日考古学って、なに?

一般的に「考古学」と聞くと、「スコップや竹べらで土器や石器を掘り出している」と言われるように、考古学イコール発掘調査のイメージが強いかもしれません。
この発掘調査の方法・考え方については、事故・事件の現場で警察が行う現場検証を例にして説明されることがあります。
現場検証では、現場に残された遺留品や痕跡などを採取・記録し、その場所で何が起きたのか再現・復元します。テレビの刑事ドラマやサスペンス劇場でおなじみの場面ですね。最近は現場検証を行う鑑識官を主人公にしたシリーズも人気です。
少し長くなりますが、ここからは現場検証の実例を紹介してみましょう。それは1988年にイギリスで起きたパンアメリカン103便墜落事件です。
アメリカに向かうため、ロンドンを飛び立ったパンアメリカン103便は、40分後、スコットランドで墜落します。これは事故か、事件なのか?上空9千mに目撃者はいません。それを確かめるため、調査、現場検証が行われます。

 

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2021年4月24日「ちばが学べる施設紹介」に出展しています

千葉市生涯学習センターの1階アナトリウムで開催中の「ちばが学べる施設紹介」(会期4月29日(木曜日)まで)で、特別史跡加曽利貝塚を紹介しています。千葉市内に所在する博物館・美術館・図書館等が一堂に会して、それぞれの施設がやっていること、できることをアピールしていますので、お近くにお越しの際は、ぜひ、お立ち寄りください。これからも他の施設の皆さんに負けず、加曽利貝塚博物館をアピールしていきたいと思います。

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2021年4月23日考古学と加曽利貝塚

考古学のもつさまざまな魅力をお伝えする「館長日記」、今年度は硬いあいさつからはじめてみました。
これからはこういう路線で行くの?と心配されている方もいらっしゃるかもしれませんが、引き続き「考古学とは何か」「考古学はどう考えるのか」について、加曽利貝塚を通して皆さまとともに考えていきたいと思います。

さて、言うまでもなく、ここ加曽利貝塚は特別史跡です。
文化財保護法では、貝塚や古墳など「我が国にとつて歴史上又は学術上価値の高い」遺跡のうち、重要なものを史跡、そして、史跡のなかでも「特に重要なもの」を特別史跡に指定することができるとされています。加曽利貝塚は、昭和46年(1971)の北貝塚の史跡指定にはじまり、平成29年(2017)には特別史跡に指定されました。
では、加曽利貝塚の何が「特に重要なもの」とされているのか?
日本で最大級の貝塚を伴う縄文時代集落遺跡であること、市民による文化財保護活動、先駆的な遺跡整備と活用手法、そして、日本における近代考古学研究の発展への寄与があげられます。
これらの指定理由を意識して加曽利貝塚を見ていくと、縄文時代研究のみならず、(チコちゃん風に)「考古学って、なに?」を考えるうえで格好の場所であることがわかるかと思います。縄文時代に限らず、考古学に関心があるという方々もぜひ、加曽利貝塚博物館にお越しください。


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2021年4月13日ごあいさつ

令和3年(2021)4月に館長に着任しました。
着任にあたり御挨拶申し上げます。
千葉市立加曽利貝塚博物館は、昭和41年(1966)に加曽利貝塚を中心とする縄文時代の調査・研究と、その成果の公開・普及を目的に設置されました。約15haの敷地内には、加曽利貝塚への理解を深めるため、貝層断面観覧施設・竪穴住居跡群観覧施設・復元集落(復元竪穴住居)が整備され、縄文時代の景観再現を試みた植栽を含め、縄文時代を体感することのできる博物館です。そして、加曽利貝塚は日本最大級の規模を誇る貝塚であることに加え、先駆的な遺跡の保存・整備・活用の取組みが再評価され、平成29年(2017)、特別史跡に指定されました。
ただし、残念なことですが、現在、新型コロナウイルス感染症拡大予防のため、当館における施設利用や教育・普及活動に制約を設けざるを得ない状況が続いており、利用者の皆さまには御不便をおかけしております。その中にあっても、皆様には特別史跡加曽利貝塚の魅力に触れていただけるよう努めてまいります
これからも安心・安全な博物館運営を心がけながら、特別史跡加曽利貝塚の価値を高めるよう取り組んでまいります。職員一同、皆さまの御来館をお待ち申し上げます。

 

 

 

 

このページの情報発信元

教育委員会事務局生涯学習部文化財課加曽利貝塚博物館

千葉市若葉区桜木8丁目33番1号

電話:043-231-0129

ファックス:043-231-4986

kasorikaiduka.EDL@city.chiba.lg.jp

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