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更新日:2022年5月21日

館長の考古学日記

2022年5月21日 クリを切る 

新潟県青田遺跡のクリ材から縄文時代の集落のあり方にせまった荒川隆史さんは、建物の柱の太さだけでなく、枝がついていた痕跡に注目しています。
枝がついていたということは、樹冠の中の幹をつかったと言うこと。
これを柱にしたと言うことは、樹冠の中の幹がまっすぐでながいということ、それは幹の低い位置から枝がのびていたこと、樹冠がひくいことをしめしています。
これはどういう環境で育ったクリの木なのか?
荒川さんはクリ農園など、現在のクリ林を観察しています。
その結果、樹木の間があいていると陽あたりがよいため、低い位置から枝がヨコにのびて葉がしげりますが、せまいと日光をもとめて樹木のてっぺんに樹冠をつくることを確認しています。
これは、青田遺跡の柱につかわれたクリ材が樹木の間があいた、ひらけた林の中で育ったことを示しています(「青田遺跡の環境と縄文時代のクリ利用」『季刊考古学』第145号2018)。

ひとことで「木を切る」と言っても、かんたんではありません。
道具のつかい方をとおして環境と人類の関係を研究する山田昌久(やまだ・まさひさ)さんの研究グループでは。木を切る、削る方法の技術的な発展とその歴史的意義を、実際に木を切る実験からせまっています。

その実験は、遺跡出土の石斧・木の柄の複製品をつかい、東北地方のコナラやクリをふくむ二次林の樹木を切ることで、石斧の効果、柄のながさと石斧の関係、石斧の刃の消耗ぐあい、切った痕跡と出土木材に残る痕跡や鉄斧との比較、切られる木材としてのクリ材の特徴、さらに切り株の萌芽更新の状況など、テーマは多岐にわたっています。

磨製石斧で樹木を切るということは、鉄斧やノコギリのように木の繊維を切断するのではなく、厚くておもい刃の摩擦によって木をえぐるように切ることになります。
このような切り方で、クリ、コナラ、サクラ属、カエデ属の樹木を切るのに要した時間と石斧をふった回数をくらべたところ、クリがもっとも時間・回数がすくない、つまりおなじふとさでもクリは切りやすいことがわかりました。
カエデ属などは、年輪の幅がせまい、木の繊維がち密でかたいので、切りにくい、と言うよりえぐりにくい・・・
それにたいしてクリは、木材としてじょうぶであると同時に石斧で切りやすい、この性質もまた縄文時代にクリが柱などの木材として多用された理由だった可能性が指摘されています(工藤雄一郎・岩瀬彬「木材伐採実験」『人類誌集報2002』東京都立大学人類誌調査グループ)。


ところで、これらの実験では、ながさ1メートルほどの樹木であれば、縄文時代の磨製石斧でもタテに割ることができました。
しかし、それ以上ながい樹木をタテに割ることは、また別の技術が必要となることがわかっています。
それはタテに割れ目をいれて、そこにクサビを打ちこみながら割れ目をひろげていく技術です。
この技術をつかっても、幹がよじれて育つ広葉樹ではまっすぐに割ることはむずかしく、その割れ目をコントロールするワザもまた必要であることが実験でわかっています(山田昌久「日本原始・古代の木工技術」『モノと技術の古代史木器編』2018)。

史跡真脇遺跡や史跡チカモリ遺跡では、直径約90センチメートルのクリの樹木をタテに割って、円形にならべてたてていました。
このような遺構は「環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)」とよばれ、縄文時代晩期に北陸地方を中心に見つかっています。
このような遺構は、縄文時代晩期にあらたな木材加工技術がつかわれはじめてたことをうかがわせます。


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石斧でクヌギを切ると・・・

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高い樹幹。幹はまっすぐだけど枝がない・・・

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低い樹冠。
広葉樹の樹冠の中では、幹がわかれたり、よじれたりするものもあります。
いずれも特別史跡加曽利貝塚において、そのちがいをご覧いただけます。

クリがこげるとちいさくなるとか、ひろい場所で育つ樹木は樹冠がひくくひろがるとか、クリの花粉は虫がはこぶからひろがらないとか、年輪の幅がつまったかたい木は切りにくいとか・・・そういうこと、しらべなくても経験的にわかる!と言われるかもしれません。
たしかにその出発点は経験的な「気づき」ですが、「経験的」「常識的」なことがほんとうにそうであるか、再確認することはたいせつです。
この再確認するプロセスを記録し、だれもが見てわかるようにしめすことを、「科学的」と言います。

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史跡真脇遺跡の環状木柱列の検出状況。
能登半島に所在する真脇遺跡は入り江の奥の低地上に位置する縄文時代前期から晩期の遺構・遺物がたくさん出土した遺跡です。
低湿地であったことから木製品や動植物の遺体がよく残っており。その中でも縄文時代前期末から中期にかけてイルカの骨が多数出土したことでも注目されています。
そして縄文時代晩期の地層からは、クリの大木をタテに割ってたてた跡・環状木柱列が見つかっています。
画像は、真脇遺跡縄文館様からご提供いただきました。
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史跡真脇遺跡で復元された環状木柱列。
史跡真脇遺跡では、縄文時代晩期の環状木柱列の姿を復元、展示しています。
また、その一部が重要文化財に指定されている出土品は、真脇遺跡縄文館でご覧になることができます。
画像は、真脇遺跡縄文館様からご提供いただきました。

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タテに割る。

 

 

2022年5月15日 クリの大木

クリなど果実のなる樹木は、おおきく育つほどたくさん実がなるわけではありません。
農業経済学によると、クリは樹齢6年あたりが実のなる最盛期で、樹齢16年ころ以降、実がすくなくなっていき、木の勢いがおとろえていくとされています。
「ももくり三年」と言われるようにクリは成長がはやく、そのピークも早い。

樹木のおおくは幹から枝葉がのび、そこに花や実がつきます。
この枝葉がしげる部分を「樹冠(じゅかん)」とよびますが、樹木が育って樹冠が高くなるほど実も高いところでみのり、それを人がとるのはたいへんになって、ほかのライバルたちとの競争もはげしくなります。

縄文時代の木組遺構でご紹介したように、そこにはおもに直径10センチメートルほどの材がつかわれていました。
それは二次林の樹木が大木になる前に利用する、効率的な方法だったのかもしれません。
その一方で木組遺構の骨組みに直径90センチメートルのふとい材を割ってつかう、大型建物の柱に直径30センチメートルくらいの丸木をつかうように、クリの大木があったこともわかっています。
とくにクリの大木でよく知られている例は、青森県の特別史跡三内丸山遺跡、石川県の史跡真脇(まわき)遺跡や史跡チカモリ遺跡の木柱列でしょう。

三内丸山遺跡では、直径約1.メートルのクリの木柱6本がたてられていました。
このほかの縄文時代遺跡でも木柱そのものは残っていませんが、とてもおおきい柱穴からなる「柱穴列(ちゅうけつれつ)」とよばれる遺構がみつかっています。

大木を切りたおす・・・その技術自体は、大木をくりぬいてつくる丸木舟(まるきぶね)のように縄文時代早期からあったことは知られており、そのはじまりはさらにさかのぼるものと考えられています。

木を切る技術の発達は、打製石器から磨製石器へ、石器から鉄器へと言う道具の変化だけではありません。
樹木が育つ環境と、それにあわせて樹木をどのように利用するのかという人の行動が関係しながら発展していきます。
クリの「大木」、それも柱につかうことができる、まっすぐなクリの木をいくつもそろえることができたということも、当時のクリ林の景観、管理の方法、木材利用技術の関係を知る手がかりになります。


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特別史跡三内丸山遺跡のクリ材の柱列跡とクリ材。
出典:JOMON ARCHIVES(三内丸山遺跡センター所蔵)


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直径70センチメートルちかいムクノキをつかった市川市雷下(かみなりした)遺跡出土の丸木舟。
画像は、千葉県教育委員会様からご提供いただきました。

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いまも見ることができる大木をたてる行為。
直径約1メートル、長さ約17メートルのモミによる長野県諏訪大社の御柱(おんばしら)。

 

 

2022年5月8日 管理って、なに?

縄文時代の遺跡から炭化したクリの実の出土がおおい、炭化材の樹種はクリがおおい、出土したクリの実は野生よりおおきい・・・はやくから二次林の樹種の中でもクリがえらばれて「管理」されていたと考えられてきました。
でも、「管理」って、なに?
クリの木をどうすると管理になる?
酒詰仲男さんは、下草を刈り、害虫を駆除し、肥料をあたえていたと考えていたことはご紹介しました。

そもそも本当にクリの実はおおきくなるのか?
遺跡出土クリを計測した古植物学研究者の南木睦彦(みなき・むつひこ)さんは、縄文時代早期までは現在の野生クリとおなじおおきさのものであったのが、縄文時代前期以降おおきいものがあらわれ、縄文時代後期・晩期には現在の栽培種にちかいおおきさのものがあることを指摘しました(「縄文時代以降のクリの生産量に関する予備的研究(1)」『植生史研究』2-1、1994)。

古環境研究者の吉川純子(よしかわ・じゅんこ)さんは、さらにくわしく遺跡出土のクリの実のおおきさを検証しています。
遺跡出土の炭化したクリは、外側の皮の部分と、なかみの子葉(しよう)にわかれます。
果皮と、果皮のない子葉のおおきさをおなじように比較することはできません。
さらに炭化しているということは、本来のおおきさとちがって縮んでいる・・・と言うことで、現在のクリの子葉をわざと炭化させてその縮みぐあいを計測し、炭化した子葉から果皮のついた実のおおきさを復原する実験をおこなっています。

その実験成果にもとづいて、吉川さんは縄文時代各時期のクリの実のおおきさを復原してくらべています。
その結果、たしかに中期まではおおきくなる傾向があるものの、それ以降、とくに晩期になるとおおきな実がある一方でちいさいものもあること、つまりばらつきのあることが示されました(「縄文時代におけるクリ果実の大きさの変化」『植生史研究』18-2、2011)。

植物遺伝学研究者の佐藤洋一郎(さとう・よういちろう)さんは、実がおおきくなることがただちに栽培によるものとはかぎらず、植物遺伝学的に栽培とは、遺伝子の組合せがそろうこととしています。
佐藤さんは、三内丸山遺跡周辺の野生のクリと、遺跡から出土したクリから遺伝子をとり出して比較したところ、野生とちがい、遺跡出土のクリは遺伝子の組合せはそろう傾向があることを確認しています。
しかし、すべての縄文時代遺跡出土のクリの遺伝子組合せがそろうわけではなく、そうではない遺跡があることも明らかにしています(『縄文農耕の世界』2000)。

生態学研究者のユージン・オダムさんは、「農生態系(のうせいたいけい)」として、次の条件をあげています。
・太陽エネルギー(日光)を特定の生産物に集中させていること。
・人によって肥料や水など補助的なエネルギーが管理されていること。
・生産物の生産性を最大にするため、人によって生物の多様性を最小にされていること。
・生産物は自然淘汰ではなく、人為淘汰されていること(三島次郎訳『生態学の基礎』1974)。

民族植物学研究者の中尾佐助(なかお・さすけ)さんがつかった植物と人の関係における「半栽培(はんさいばい)」と言うことばが、この「管理」の意味にちかいかもしれません。
「栽培」でもなければ、「自然」「野生」でもない「半栽培」・・・中尾さんは人類が植物とかかわってきた歴史には、「農耕」「栽培」がはじまるまでに人が意識的・無意識的に植物の選別と保護をおこなった段階があると指摘しています(「半栽培という段階について」『どるめん』No.13、1977)。

これを受けて福井勝義さんは、「半栽培」の段階の内容をさらにくわしく次のように説明しています。
・ある種類の植物をわざと除去しない段階。
・その成長をじゃまする他の植物は除去して成長をうながす段階。
・鳥や動物にたべられないよう保護する段階。
・人がその植物に有利な環境に変えてしまう段階(「焼畑農耕の普遍性と進化」『日本民俗文化体系5-山民と海人』1995)。

オダムさんの言う農生態系の条件を「栽培」「農耕」「農業」とするならば、その条件がそろっていく過程を「半栽培」「管理」とすることができるかもしれません。
縄文時代のクリのおおきさや遺伝子の組合せのばらつきは、その過程がみなおなじではない、いろいろまじっている、あるいはいったりもどったりしていたことを示していて、縄文時代のすべての地域・遺跡でおなじように「管理」されていたわけではなさそうです。

ところで、私の食生活は栄養的に管理されていますが、「買いぐい」して自然にもどってしまうことがあります。

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特別史跡加曽利貝塚の「野良」のクリ(右)と栽培クリ(左)

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現生クリの子葉(左)と果皮(右)・・・甘栗を分解するとよくわかります。

 

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森からの帰り道。

 

 

 

2022年4月30日 「令和3年度発掘調査速報展」へのおさそい

いよいよ5月のゴールデン・ウィーク!

そして、当館では令和4年7月3日(日曜日)までの会期で「令和3年度発掘調査速報展」を開催中。

貝塚が円形にめぐる「環状貝塚(かんじょうかいづか)」では、その中心がくぼみ、そこには遺構がすくないことははやくから知られていました。
どうしてそのようになるのか?
平らな台地上に自然現象でくぼみができることがあり、縄文時代の人びとがそのような地形にあわせて、くぼみをとりかこむようにすんでいた・・・
いやいや、縄文時代の人びとが円形に家を配置していき、家の前・・・つまり円の中心を広場としてつかっていた・・・
さらに縄文時代の人びとがわざと掘りくぼめて整地していた・・・などなど、いくつかの説があり、ながらく議論がかわされてきました。

特別史跡加曽利貝塚では、貝塚の構造を解明し、今後の史跡整備に反映させるべく平成29年度(2017)から南貝塚で発掘調査をおこなっています。
そして、令和2年度(2020)からは、南貝塚のくぼみ、「中央窪地(ちゅうおうくぼち)」の発掘調査に着手しています。

中央窪地はいつからくぼんでいたのか、縄文時代の中央窪地はどういう景観だったのか、そこからなにが、どのように出土したのか・・・今、ここではご紹介できません!
ぜひ、当館にてナマで南貝塚の中央窪地と出土資料をご覧ください!

これにあわせて平成29年(2017)から令和元年(2019)まで実施した縄文時代晩期集落跡の発掘調査の成果を紹介しています。
特別史跡加曽利貝塚と言えば、縄文時代中期の北貝塚、後期の南貝塚として知られていますが、これまでの発掘調査で晩期にも人びとがこの土地を利用していたことが知られていました。
今回の発掘調査によってそのすがたがはっきりとらえられ、特別史跡加曽利貝塚は縄文晩期の集落遺跡として重要であることが明らかになりました。
本展では、その出土土器が今後の縄文時代晩期の土器研究に影響をおよぼす資料を展示しています。

また、5月4日(水・祝)と5月5日(木・祝)は「縄文春まつり」を開催いたします。
本展示とあわせてお楽しみください。
皆さまのご来館を心よりお待ち申しあげます。

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2022年4月23日 コーの木の下で

ラオス北部では焼畑後の二次林をつくる樹木の種類に、コーとよばれる樹木があります。
はじめてその樹木のことを知ったのは、現地の鍛冶屋さんがつかう木炭には、火もちのよい「コーの木が最良」というお言葉から。
コーはどのような木?
いろいろな人から話を聞いていくと、どうも「赤いコー」と「黒いコー」があり、そのうち「黒いコー」は堅果がみのり、それを食べるらしい。
たべてよし、燃やしてよしと、とても役にたつので、焼畑ではわかいコーの木はなるべく切らないで残す・・・などなど。
これらの話をあわせていくと、地域によっていくつか種類があるようですが、日本でいうシイ?クリ?みたいな木?

そうしているうちに、焼畑地の片隅でクヌギよりひとまわりちいさい、縁がギザギザした葉のコーの木と出あうことができました。
その木の下で地元の方に日本からもっていった甘栗を見せたところ、「これはコーの実だ。」食べると「やはりコーの実だ。」

季節があわないためか、なかなかコーの実にお目にかかることはできませんでしたが、その後10年ほどして、やっとコーの実に出あうこととなります。
それは堅果ですが、クリのイメージとは何かちょっとちがう・・・直径1センチメートルもないちいさなまるい実です。

村の人が集まって囲炉裏をかこんで話をしていると、炒ったコーの実がお椀にもられてでてきました。
食感と味は、たしかにクリです。
そのちいさな実を爪さきで割って食べる、食べては話す、話しては食べる。
食事ではなく、おやつ、お茶うけのような食べかたです。
そして、食事後のお酒の席でもおつまみとしてコーの実。
こちらはすぐに爪さきが痛くなり、ちいさいので食べるのもめんどうになっていきます。
でも、皆さん、食べては話し、話しては食べる・・・コーがなくなるとおかわりが出てくる。

食事ではないコーの実は、栄養的にたいした意味はないのでしょう。
そのときは、何もこんなちいさな、めんどうくさい実を食べなくても・・・と思っていました。
しかし、いま振りかえってみると、この光景の記憶は、ちいさな木の実にもそれだけではない意味があるのではないかと思わせてくれます。


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焼畑地に残るコーの木.

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甘栗。

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おなじコーとよばれていても、いくつか種類があるようです。

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コーの実をかこんで。

 

2022年4月17日 遷移をとめるな!

農村・漁村の「里山」では、人が二次林の遷移をある段階でとめて、維持していました。

縄文時代では、人のかく乱によってクリなど特定の樹木からなる二次林をつくっていた可能性が指摘されてきました。
そして、低湿地遺跡の木組遺構などに利用されている樹木の種類やふとさなど樹木のつかい方から、二次林のつくり方が具体的に復元されつつあります。

人による森林の管理・利用の方法は、遷移をある段階にとめるだけではありません。
遷移をとめない森林の利用方法があります。
その代表例は、焼畑(やきはた)です。
焼畑と言えば森林を焼いて畑にする・・・森林利用どころか森林破壊では?

世界各地の焼畑を調査・研究した文化人類学研究者の福井勝義(ふくい・かつよし)さんは、焼畑は森林を焼いて耕作することでおわるのではないと言います。
たとえば中国南西部から東南アジア大陸部にかけての伝統的な焼畑では、森林を焼きはらい、1年から3年ほど耕作してから30年ほどかけて森林をもどしていく方法でいとなまれてきました。
この焼きはらいと耕作が、人によるかく乱です。
焼畑地は焼きはらわれた後、ただちに遷移がはじまります。
それが「雑草」です。
耕作は「雑草」との戦い、除草という人為的なかく乱によって遷移をとめることで、人にとって有用な植物つまり作物を育てようとする行動です。

葉や茎をとっても地下で根をはりつづける草木の遷移をとめるには、土をふかくたがやしてその根を取りのぞく必要があります。
しかし、それには大きな手間がかかるうえ、たがやすことで栄養のある地表の土が風雨でながされやすくなり、その結果、作物の生産量がへるリスクがあります。
そこで、遷移をとめる労力と生産量がつりあわなくなると判断されると、畑をやめてしまいます。
耕作をやめた焼畑地は草地から二次林へと遷移し、高くてふとい樹木からなる極相林になる手前でふたたび樹木を切りたおし、焼いて畑にする・・・これをくり返すことが、本来の焼畑のすがたです。

樹木を切るときは、人の腰の高さで切ります。
これは切りやすさのほか、切り株からの萌芽更新も期待されています。

つまり、焼畑では遷移することを前提としています。
耕作をやめた焼畑地は、遷移がすすんで陽あたりのよい草地になり、その中でワラビやゼンマイなど食用や薬用になる野草が育ち、さらに陽あたりをこのむ樹木が育ちます。
草地に育ってくる樹木には、樹液が乳香(にゅうこう)というバニラのような香りをはなつ高級香料となるトンキンエゴノキや樹皮から繊維をとるカジノキなど、葉・実・樹皮・樹液などが人にとって価値のある樹木があります。

さらに樹木が高く育ち、枝葉をのばしていくと、背が低い樹木や草がすがたを消していき、樹木の下やあいだには日光をそれほど必要としない植物たちが育ちます。
樹木は育つにつれて食用の果実がなり、良質な燃料や建築材などに適するようになっていきます。
このように耕作をやめてからの時間の経過によって、集落のまわりに性質のちがう二次林がいくつもでき、それぞれの二次林の性質にあわせた資源が利用されます。

福井さんは、焼畑を焼き入れ・耕作からはじまり、耕作放棄後の遷移による二次林を生産の場とする資源利用の方法であるとして、「遷移畑(せんいはた)」という概念を提唱しています(「焼畑農耕の普遍性と進化」『日本民俗文化体系5山民と海人』1995)。

この遷移による資源利用に注目した地理学研究者の横山智(よこやま・さとし)さんは、ラオス北部の焼畑でその利用方法を具体的に明らかにしています。
それによると、現地の人びとは焼畑の耕作をやめてから経過した年によって、二次林を「何年ものの森」というようなよび名をもって管理し、それぞれの状態で利用できる資源を把握し、採取しています。
そして、集落のまわりにはさまざまな段階の二次林がとりまき、それぞれに特有の多様な資源を利用することで集落でのくらしを維持していることを指摘しています(「焼畑とともに暮らす」『ラオス農山村地域研究』2008)。


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火入れと火入れ後。

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焼畑のみのり。

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収穫後の焼畑地。

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焼畑地、二次林、極相林。

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さぁ、森の産物をとりにいこう!

 

 

2022年4月10日 水のつかい方

渡辺誠さんは、本格的な低湿地遺跡の調査が進む前から堅果の出土状況に2つのパターンがあることに気づいていました。
ひとつは、シイ類やイチイガシなどアクの少ない堅果を、皮がついたまま穴に入った状態で出土するパターン。
もうひとつは、トチノキの実の皮だけが低湿地の泥炭から出土するパターン。
その当時はまだ、泥炭の中からどのように出土するのか具体的な姿はわかっていませんでしたが、渡辺さんはそれがアクぬきの方法と関係しているのではないかと推測しています(『縄文時代の植物食』1975)。

その後、低湿地遺跡の調査が行われ、縄文時代の木組遺構が見つかるようになると、その周辺からトチノキの実の果皮がたくさん出土することが確認されます。
中には「トチ塚」ともよばれるように、まとまって出土することもあります。
トチノキは、ムクロジ科の落葉広葉樹で、その実はおおきいのですが、とてもつよいアクがあり、そのままたべることはできません。
そんなトチノキの実は現在もたべられています。
たとえば、トチノキの実を粉にしてモチ米と混ぜてついた「栃餅(とちもち)」があります。

落葉広葉樹の堅果、ドングリのおおくには、タンニンというアクがふくまれ、そのままたべるとにがみ、しぶみがあります。
タンニンは水にとけるので、たべるためには水にさらしてアクをぬく必要があります。
他方、トチノキの実には水にとけにくいアク、サポニンが含まれます。
このトチノキの実のアクをぬくには、皮をむいて水にさらすだけでなく、ゆでるなど加熱する手間が必要です。
水辺にある木組遺構では、トチノキの実などのアクぬきのための皮むきと「水さらし」をしていたのかもしれません。
ただし、すべての木組遺構がトチノキの実を加工する場所だったわけではなく、そのほかの水をつかう作業もおこなわれていたと考えられています。
このような木組遺構の調査・分析がすすむことで、縄文時代の資源開発・利用の方法がさらに明らかになっていくことでしょう。

下宅部遺跡のような木組遺構でのクリ材使用率の減少や、アクのつよいトチノキの実を加工した痕跡の増加は、縄文時代後期以降、クリがすくなくなったと言うことを示しているのでしょうか?
ふといクリ材と陽がさしこむ明るい環境で育つ樹木をつかいわけていたことは、引きつづきクリ林の管理・維持がおこなわれていたことをうかがわせます。
縄文時代後期以降、トチノキがクリとともに、西田正視さんの言う「メジャーフード」にくわわったのかもしれません。
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トチノキの実

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チノキの実をアクぬきして粉にして、上新粉にまぜた栃餅。
たべた後、しぶみをすこし感じました。

千葉県は低湿地遺跡の調査では「先進地域」でした。
低湿地遺跡の発掘調査が本格化する1980年代以前に南房総市加茂(かも)遺跡(1938年)、匝瑳市多古田(たこだ)遺跡(1962年)などが調査されています。
千葉市内でも昭和23年(1948)に花見川下流の低湿地に位置する落合(おちあい)遺跡が発掘され、泥炭層の中からカヤの丸木舟が出土しました。
このときの調査成果をきっかけに、昭和26年(1951)には植物学研究者の大賀一郎(おおが・いちろう)さんが発掘をおこない、泥炭層から見つけたハスのタネの発芽に成功して、今日の「オオガハス」につながります。
「オオガハス」の年代を知るため、丸木舟をリビーさんが確立したばかりの放射性炭素年代をはかり、約2千年前と言う結果が出されています。

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昭和22年(1947)、燃料用に採掘していた泥炭の中から丸木舟(まるきぶね)と櫂(かい)が発見され、落合遺跡の存在が知られるようになりました。

その後の発掘調査で丸木舟とともにハスの実が出土します。

(画像は千葉市郷土博物館所蔵)


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大賀さんによる調査の風景・・・泥炭をあらってタネをさがしています。
(画像は千葉市立郷土博物館所蔵)

 

 

2022年4月3日 林のつかい方

今年度も引きつづき特別史跡加曽利貝塚をとおして考古学とはなにか、考古学がどう考えてきたのかを紹介してまいります。

縄文時代後期以降の木組遺構は、各地の遺跡で確認されています。

遺跡出土の樹木など植物質遺物を研究する能城修一(のしろ・しゅういち)さんは、縄文時代の木組遺構につかわれた樹木の種類・太さ・樹齢などの関係から、当時の森林利用のあり方にせまっています。
栃木県寺野東(てらのひがし)遺跡、埼玉県寿能(じゅのう)泥炭遺跡や赤山陣屋跡(あかやまじんやあと)遺跡では、使用された木材の50パーセントから80パーセントがクリ材でした。
西田正視さんらが指摘したように、自然林ではクリが優勢な樹種にならないので、これだけたくさんのクリの木を自然林からさがしてそろえるのは、かなりむずかしいと考えられます。
ここからも、縄文時代の人びとが落葉広葉樹林の中でクリの木が優勢になるよう、クリの木に適した環境に「管理」していたと考えられています。

他方、東京都下宅部(しもやけべ)遺跡の木組遺構では、クリ材は50パーセントを下まわり、ヤマグワやウルシなどの落葉広葉樹と組み合わされていました。
現在の落葉広葉樹林、樹木の特性から見て、クリ以外につかわれた樹木は、日当たりのよい林、つまり光がさしこむ二次林、落葉広葉樹林の中、あるいはそのまわりに育つ樹種です。
また、樹木の太さは直径10センチメートルほどのものをおもにつかいながら、骨組となるクリ材には直径90センチメートルのものをタテに割るなどしてつかっています。

このような木材のつかい方は、縄文時代の人びとの身のまわりにクリを中心とした二次林があり、その中に育ってきたクリ以外の樹木も計画的に利用していたことをうかがわせています(能城修一・佐々木由香「遺跡出土植物遺体からみた縄文時代の森林資源利用」『国立歴史民俗博物館研究報告』第187集 2014)。

樹木、林のつかい方は、集落のいとなみにもかかわっていたと考えられています。
考古学研究者の荒川隆史(あらかわ・たかし)さんは、新潟県青田(あおた)遺跡の発掘調査成果にもとづいて森林管理の方法を具体的に復原しています。
青田遺跡は、低地上に立地する縄文時代晩期の集落跡ですが、低地にいとなまれたため建物跡の柱穴の中に柱材がくさることなく残っていました。
その柱材の年輪による年代測定をおこなったところ、集落が50年ほどの空白期をはさんでいとなまれていたこと、それぞれの集落は10~20年間ほどいとなまれたことがわかりました。
そして、最初の集落で柱材につかわれたクリは全体の25パーセントだったのが、ふたたび集落をいとなまれときには42パーセントにまでふえていました。
また、クリ材は大形の建物跡の柱材につかわれ、その年輪は10年から61年でしたが、ふとさは直径15センチメートルから28センチメートルに集中していました。

荒川さんは、青田遺跡ではクリ林の生育期間が50年ほどであること、それとほぼおなじ50年ほどの集落形成の空白期をはさむこと、そしてその空白期のあとの集落ではクリ材の利用率がふえることから、クリ林の生育期間50年と集落形成期間10年をひとつのサイクルとして、クリ林をつくり、その資源を利用したあと集落を移し、クリ林が更新・再生するともどってくる生活パターンがあったと推定しています(「北陸の縄文晩期社会と社会組織」『季刊考古学』別冊25号2018)。

私たちは1日、1年(四季)、人の一生などいくつもの「こよみ」があって、それにしたがって生活のスタイルをかえています。
縄文時代の人びとにもさまざまな「こよみ」があって、その中には樹木の成長、林の遷移などもあったことでしょう。

特別史跡加曽利貝塚のように長期間「続いた」遺跡も、クリにかぎらずさまざまな資源のあり方にあわせて集落自体が出たり入ったりくりかえしながら形成された可能性があるということになります。
 (令和3年2月の「館長の考古学日記-縄文時代のムラを考える」シリーズを思いおこしてみましょう・・・これまでの発掘調査で確認された住居跡の数や出土土器の型式変化から同時存在する住居の数をシミュレーションして、現状で言えることは「加曽利貝塚では、2,000年以上、くりかえし、土地が利用され続けていた」)

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加曽利貝塚のかさなった竪穴住居跡。

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北貝塚の竪穴住居跡群観覧施設でご覧いただけます。

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木組遺構でクリ材とともにつかわれたイヌシデが芽ぶいてきました。

 

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お引越し。

 

2022年3月26日 木のつかい方

復元住居編でもご紹介したように、地下深く、地下水につかった状態であれば、木材だけでなく植物のタネや葉など植物質はくさることなく残ることがあります。
酒詰さんは、縄文時代の植物利用の解明を飛躍的に進めるカギとして、低湿地にある遺跡の調査に期待をかけています。

また、植物の利用が人類をふくめた霊長類の基本的ななりわいであるとして、その研究の重要性を喚起した考古学研究者の渡辺誠(わたなべ・まこと)さんは、低湿地遺跡の調査方法としての水洗選別法の有効性を指摘しています(『縄文時代の植物食』1975)。
水洗選別法については、昨年12月1日に貝塚調査での意義についてご紹介しましたが、貝塚のちいさな骨だけでなく、低湿地遺跡でも泥にまみれた植物のタネなどを見つけだすことができます。

1980年代以降、縄文時代の低湿地遺跡の発掘調査が本格化すると、タネなど植物質の遺物が多数出土し、酒詰さんや渡辺さんが予期したとおりに研究がおおきく進展します。
この低湿地遺跡でとくに注目されている調査成果が、川ぞいにもうけられた木を組みあわせた構造物です。
それにつかわれた樹木の種類や大きさ、切り方、遺構の周辺から出土した植物のタネや堅果類などから、縄文時代の植物資源の利用、特に森林資源の利用方法が具体的に明らかにされています。

千葉県でも、市川市の史跡堀之内(ほりのうち)貝塚がある台地のふもとの低湿地から木材を組みあわせた遺構が見つかっています。
史跡堀之内貝塚は縄文時代後期~晩期の環状貝塚で、特別史跡加曽利貝塚とおなじく日本考古学の黎明期からたびたび発掘され、考古学研究の発展におおきく寄与してきた遺跡です。
縄文時代中期の「加曽利E式土器」のように、ここから出土した縄文時代後期前半の土器は「堀之内式土器」と命名されています。

この史跡堀之内貝塚のふもとに位置する市川市道免き谷津(どうめきやつ)遺跡では、堀之内貝塚とほぼ同時期の木組遺構が7か所みつかっています。
これらは、木材で地面に四角く枠を組んで杭で固定し、その上にヨシズのようにほそい材をしきつめた、スノコのような構造です
ここにつかわれたおもな木材の樹種をくわしく調べたところ、ハシゴのように組んだ骨組となる木材はクリ、そのあいだをうめるようにハンノキ、コナラ、イヌシデ、トネリコといった落葉広葉樹がつかわれていました。
このように、じょうぶな骨格となる部分をクリ材、それ以外を他の落葉広葉樹の材でつかいわけていたようです(公益財団法人千葉県教育振興財団『東京外かく環状道路埋蔵文化財調査報告書5』2014)。

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市川市道免き谷津遺跡の木組遺構。
ヨシズのようにしきつめられているのは、タケ亜科。
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道免き谷津遺跡の木組遺構の骨組。
画像は、千葉県教育委員会様からご提供いただきました。

 

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2022年3月20日 遷移をとめろ!

日本の伝統的な農村・漁村では、二次林を利用してきました。
そのような村では、集落・家や田畑など人がつくり、人がくらす世界を「里(さと)」、極相林がひろがる、通常は人が立ちいらない世界を「山(やま)」または「奥山(おくやま)」、「里」と「山」のあいだにあって人が立ちいって山野の資源を利用する「里山(さとやま)」の世界に区分していました。
この「里山」が二次林です。

考古学・人類学研究者の西田正視(にしだ・まさき)さんは、鳥浜貝塚から出土した動物・植物の研究をとおして、クルミ・ヒシ・クリ・シイの実、つまり「ナッツ」が重要な食料源「メジャーフード」であったと評価しました。
とくにクルミやクリは陽あたりのよい場所で育つことから、集落の周辺に落葉広葉樹の二次林がひろがり、さらに二次林の樹種の中でもけっして主要な樹種にはならないクリの利用が多いことから、クリの木が育ちやすくするよう人の手がはいっていた、つまり「管理」されていたと考えました。
そして、縄文時代にも「里」「里山」「山」に似た、集落を中心とした同心円状の世界と資源利用がおこなわれていた可能性をあげています(『定住革命』1986)。

「里山」では、二次林の落葉広葉樹を建築材、農具・漁具などの用材や燃料にしたほか、木の実などの食料、陽の光がとどく地面で育つ食用や薬用の草、カゴなど工芸品の材料となるツルやササなどの繊維を採集し、落ち葉や下草などを田畑の肥料にしていました。
なお、二次林を構成する樹種のおおくは、幹をあるていどの高さで切ったり、枝を落としたりしても、その切り口のまわりからあたらしい芽が出てきて再生する、「萌芽更新(ほうがこうしん)」という性質があります。
「里山」とは、このような二次林の樹木の性質を利用して、人が資源をとる「かく乱」によってある段階で遷移をとめ、その段階の資源を利用しつづける方法です。

「里山」は農村、つまり農耕社会をささえるための二次林の利用方法です。
さらに薪や木炭など「里山」の産物が都市におくりだされるなど、市場経済・貨幣経済ともつながって発達してきた資源利用のあり方でもあります。
縄文時代の二次林利用の可能性を指摘する考古学研究者は、農村の「里山」から山林の管理とその資源の利用方法のヒントをたくさんえてきましたが、縄文時代に「里山」とおなじ森林の管理方法がおこなわれていたと考えているわけではありません。
考古学では、縄文時代の森林利用のあり方を知るために、遺跡から出土する植物質の遺物をたんねんに集め、その植物がどのような環境で育ち、人がどのように利用できるのか、現在の植物や里山でつかわれた技術などと照らしあわせながら研究をすすめています。
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かつて水田のまわりの台地斜面にあった二次林のなごり。

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切り株のまわりかたあらたな枝が・・・萌芽更新。

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「里山」からの帰り道・・・産物は食べものだけではありません・・・ほうき草(タイガーグラス)。

 

2022年3月12日 どんぐりのなる林

極相林がかく乱をうけると、植物たちの競争、遷移がはじまります。
最初は日光を好む草が芽ぶき、つづいて樹木が育っていきます。
このような極相林がかく乱されたあとに育つ樹木で構成される林、極相林にいたるまでの林のことを「二次林」とよびます。
照葉樹林を極相とする地域では、このかく乱のあとの二次林には、常緑広葉樹と落葉広葉樹いろいろな樹種が混じります。
そういう二次林を「雑木林(ぞうきばやし)」とよぶこともあります。
しかし、時間の経過とともに遷移がすすむと、しだいに照葉樹が優勢になり、照葉樹の極相林にもどることはご紹介したとおりです。

さて、この二次林を構成する落葉広葉樹には、コナラ・クヌギ・クリ・クルミなどかたいカラにつつまれた実、堅果(けんか)がなる樹種があります。
堅果は「どんぐり」または「ナッツ」とよばれ、デンプンをおおく含みます。
また、これらの樹木はかたく、建築材・土木材、木製道具の用材のほか、火もちのよい薪や木炭の原木にも適しています。
このように二次林の落葉広葉樹のおおくは、人のくらしに役立つ性質をいくつかかねそなえています。
そして、縄文時代の人びとがこの落葉広葉樹の産物を積極的に利用していた可能性が指摘されてきました。

縄文時代の植物質遺物については、遺跡に残りにくい資料上の制約がありますが、考古学研究の発展に歩調をあわせるかのように、それに関心をむける考古学研究者がふえていきました。
その研究の進展の中で、縄文時代における二次林の産物利用が言及されるようになります。
たとえば、考古学研究者の酒詰仲男(さかづめ・なかお)さんは、縄文時代遺跡から出土する動物・植物の遺体を網羅的に調べあげていく過程で、とくにクリに注目しました。
まだ縄文時代の遺跡からの植物質遺物の出土例が限られていたものの、その中でクリが出土する例が多く、しかも野生のクリは小粒なのに対して、遺跡出土のクリはおおきいとして着目しています。
そして、下草を刈り、害虫を駆除し、肥料をやるなど、クリの木を「管理」した可能性をとなえました(「日本原始農業試論」1956)。

また、昭和26年(1951)には、新聞の評論ではありますが、信州の詩人、伊沢幸平さんが東日本にかたよる縄文時代遺跡とクリの分布の範囲がかさなるとして、縄文時代「栗文化帯論」をとなえています(藤森栄一『縄文農耕』1970)。
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草やぶの中からクヌギの木。

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人によるかく乱後の落葉広葉樹の二次林。

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どんぐりと言えば・・・コナラの実。

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ちょっとしめっぽいところが好きなオニグルミ。

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かなりしぶいクヌギの実。

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これからの主役、クリ。

 

2022年3月6日 人によるかく乱

特別史跡加曽利貝塚の東、坂月川のボーリング調査の結果では、縄文時代に照葉樹がふえはじめるものの落葉広葉樹もまけてはいません。

このような状況は、ほかの縄文時代の遺跡でも確認されています。
たとえば、先にご紹介した三方湖の花粉分析の成果でも、縄文時代草創期には温暖化によっておもな樹木が針葉樹から落葉広葉樹にかわりはじめ、もっともあたたかくなる前期には照葉樹が北上してきたことがうかがえます。
ところが鳥浜貝塚の周辺では縄文時代前期後半になると、照葉樹が減少します(安田喜憲「縄文時代の環境と生業-花粉分析の結果から」『畑作文化の誕生』1988)

温暖になったといえ、気温の低下や雨の量の減少など気候の変化をくりかえしていたとみられます。
実際、縄文時代中期~後期、晩期には気温のさがった時期があったことが知られています。

加曽利貝塚のある房総半島の海沿いは照葉樹林の北限。
ちょっとした気候の変化などで照葉樹林と落葉広葉樹林がいれかわることがあったかもしれません。
また、乾燥したつめたい季節風のふく方向や、養分がすくなく乾きやすい土など気温だけでなく照葉樹が極相化しにくい場所もあったことでしょう。

これら自然環境の影響のほかに、照葉樹の拡大をさまたげる要因としてかく乱がおきていた可能性があげられます。
かく乱の原因として前回、台風や大風・大雨など気象現象を例としてあげましたが、もうひとつ、人が樹木を切りたおした、人によるかく乱の可能性があります。

なぜ、縄文時代の人びとは照葉樹林を切りたおしていたのでしょうか?
縄文時代の人びとは集落をいとなむにあたり、周囲の樹木を切りたおして家の建材にしていた、または日常生活の薪などにしていたことは容易に想像できます。
しかし、縄文時代遺跡の花粉分析の成果などは、それにとどまらない可能性を見せています。
そしてそのカギとなるのは、極相林がかく乱をうけたあとにできる「二次林(にじりん)」にあると考えられています。
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突然の寒波で枯れた常緑広葉樹林。

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おおきなかく乱。

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ちいさなかく乱。

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雪の中の落葉広葉樹・・・特別史跡加曽利貝塚にて。

 

 

2022年2月26日 森に行きつくまで

落葉広葉樹は、さむくなる冬季や雨がふらなくなる乾季に成長をとめて、休眠してすごします。
この休眠期間中、葉がおちるので落葉広葉樹。
気温によって春に芽吹き、秋に落葉する広葉樹を「夏緑林(かりょくりん)」、乾季と雨季にはっきりわかれる気候で、雨季に葉をつけて乾季に落葉する「雨緑林(うりょくりん)」があります。
日本列島の落葉広葉樹と言えば、夏緑林。
他方、東南アジア大陸部内陸のサバナ気候下の雨緑林では、真夏のようなあつさにもかかわらず、乾季のかわいた風が吹くと、足もとを落ち葉の一群がふきぬけていく、夏緑林にくらす私たちからすると晩秋のような、ちょっとふしぎな光景に出くわすことがあります。

落葉広葉樹は常緑広葉樹より冷涼な気候に適応しており、日本列島では常緑広葉樹、照葉樹林より北、あるいは高いところ(内陸部)で極相林をつくります。
日本列島ではブナ科ブナ属の落葉広葉樹による極相林、「ブナ林」の名前をよく耳にします。

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夏緑林と言えば紅葉。
照葉樹林のはずれで見かけた紅葉。

しかし、照葉樹と落葉樹がまじって育つ林では、落葉樹がひとやすみしているうちにも葉をしげらせる照葉樹に太陽の光を独占され、日光争奪戦にまけた日当りをこのむ植物がその場所から姿をけしていく・・・そして最後は照葉樹の極相林に行きつきます。
このように極相林にむかっていく過程で植物の種類が入れかわっていくことを、「遷移(せんい)」とよびます。

極相林と聞くと最終的に行きついた森林、そこからはもう変化しない森林のイメージをうけるかもしれません。
しかし、極相林の中でもさまざまな理由で変化、遷移がおこっています。
たとえばおおきな日影をつくっていた木がかれてしまう、台風による大風などでたおれる、地すべりがおきるなどすると、極相林の中にポッカリ穴があきます。
そのような穴があくことを「攪乱(かくらん)」とよびます。
極相林の中にかく乱がおきると、太陽の光が地表面にとどき、その場所で「よーい、ドン!」と照葉樹と落葉樹など植物どうしの競争、遷移がはじまります。
これを極相林のあちこちでくりかえすことで、森林はうまれかわっています。

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冬の特別史跡加曽利貝塚。
冬でも葉が落ちない常緑広葉樹と、葉が落ちる落葉広葉樹。

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冬の天然記念物「笠森寺自然林(かさもりでらしぜんりん)」。
長南町に所在する笠森寺の周辺は寺域として保護されてきました。
そのため、スダジイやアラカシなど常緑広葉樹の極相林が発達しています。
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冬の県指定天然記念物「大福山自然林(だいふくやましぜんりん)」。
養老渓谷ちかくに所在する常緑広葉樹の極相林です。
白鳥神社の社域として保護されたため、房総半島南部の典型的な極相林のすがたが残っています。

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房総半島南部では、丘陵の頂上に常緑樹林、その下にスギなどの人工林、ふもとに屋敷林といった風景を見ることができます。

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遺跡の発掘調査でも「かく乱」ということばがつかわれます。
たとえば、竪穴住居跡に畑の耕作がおよんでこわしていると、「かく乱でこわされている!」などと、遺構・遺物がつくられたあとの時代、その中でもとくに近現代の影響を「かく乱」と表現することがあります。
その一方で、時代を問わず、遺跡がどのような過程(歴史)をたどっていまに至ったのかに関心をよせる考古学では、遺跡に残るすべての痕跡が「遺構」「遺物」であって、「かく乱などない!」という考え方もあります。

 

2022年2月20日 ツルツル、テカテカ

シイノキ属のスダジイ・マテバシイやアカガシ亜属のシラカシなどは、一年中葉をつけている常緑広葉樹の中で「照葉樹(しょうようじゅ)」ともよばれます。
照葉樹とは、葉があつぼったく、表面がツルツルで、テカテカにひかる木、身近な樹種にはツバキやチャノキ(お茶の木)があります。
このツルツル、テカテカにひかる理由は、葉の表面をクチクラ層というロウがあつくおおっているからです。
クチクラ層は葉を乾燥やさむさからまもるやくわりがある、つまり、照葉樹は温暖なところで一年中葉をつける常緑広葉樹の中でも、低温や乾燥につよい樹木です。

旧石器時代から縄文時代へと地球の温暖化がすすむと、日本列島では寒冷地の針葉樹から温暖地の広葉樹へと樹木の種類がかわっていきます。
さらに温暖化が進むと、南から常緑広葉樹が北上していきますが、この常緑樹北上の先頭にたつのが照葉樹です。
照葉樹は、縄文時代前期には関東地方の海沿いにまで達していたようです。

照葉樹はぶあつい葉が一年中しげっている・・・ということは、その木の下は一年中かげっています。
そのため、照葉樹がおおきく育つにつれて、光合成をするほかの植物は育ちにくい環境になる・・・その結果、照葉樹の樹木ばかりがおおきく育ち、日あたりを好むほかの樹木が育ちにくい森林になっていきます。
この照葉樹からなる森林を「照葉樹林(しょうようじゅりん)」とよび、ほかの樹種ときそいあったあとにできる照葉樹林のような「最後に行きつく」すがたの森林を「極相林(きょくそうりん)」とよびます。

縄文時代に加曽利貝塚の周辺に照葉樹がひろがってきたということは、いずれ照葉樹の極相林になったのでは?・・・なのに花粉分析の結果ではそうなっていません。
落葉広葉樹の森林もまたひろがっていた、もしかすると照葉樹林を押しかえした可能性もあります。


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ツルツルテカテカ、厚ぼったい葉。

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特別史跡加曽利貝塚、夏のシイノキとその木かげ。

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特別史跡加曽利貝塚、冬の風景。

 

2022年2月12日 加曽利貝塚の花粉

残念ながら、特別史跡加曽利貝塚のまわりには湖や池など水がたまる場所はありませんが、その東を流れる坂月川(さかつきかわ)沿いに低湿地があります。
川によって形成された低湿地なので、湖の底とちがい土はつもるだけでなく、流されることもあったでしょう。
しかし、縄文時代からその流れをおおきく変えることなく。ゆるやかな川であることから、縄文時代のふるい地層が残っていることが期待されます。
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特別史跡加曽利貝塚と坂月川。

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坂月川にむかって、まわりの台地から雨や湧き水によって土砂が流れこみ、低湿地を形成します。

 

そこで、昭和51年(1976)と昭和60年(1985)に加曽利貝塚に隣接する坂月川のほとりで地質学研究者の田原豊(たはら・ゆたか)さんがボーリング調査をおこない、そのサンプルから花粉の種類と量の変化をしらべています。

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まず、左はしのタテながの図を見てみましょう。
地下400センチメートルより下には、砂が堆積しています。
砂が堆積すると言うことは、水のながれがはやい環境で、土の中のおおきい、おもい粒だけが残ったということ・・・かるい花粉はながされて残りにくい・・・
それよりも上、地下約200センチメートルまでは「ピート」が堆積しています。
ピートとは泥炭(でいたん)。
泥炭は、植物が枯れたあと、水につかってくさることなく地下に残った土で、これまでご紹介してきた登呂遺跡、桜町遺跡、鳥浜貝塚など低湿地遺跡で木材など植物質の遺物が残る理由とおなじです。
北海道の釧路湿原の泥炭層がよく知られています。
泥炭があるということは、水がたまる湿地があったこと・・・花粉が残りやすい環境です。
地下約200センチメートルより上になると細かい砂、そして粘土が堆積するようになります。
それまでの湿地が乾燥化したと言うことでしょうか。


つづいて花粉を見てみましょう。
このグラフ、花粉ダイアグラムでは、見わけることができた花粉を樹種ごとにその増減を右側の凹凸であらわしています。
これは個数をあらわすのではなく、その層で確認できた花粉の数のなかでその樹種の花粉が何個あったのか、わりあい、パーセンテージをしめしています。
なお、花粉統計学では、全部で200個以上の花粉があれば、その周辺の植生を代表させることができると考えられています。
このサンプルの花粉から見ると、地下約200センチメートルあたりでおおきくかわることがわかります。
下ではハンノキ属が多く、アカガシ亜属、コナラ属、そしてシイ-クリ属がつづきます。
上では、突然マツがふえ、それまでおおかったハンノキ属、コナラ属、アカガシ亜属がすくなくなります。
こうして見ると、地下約200センチメートルあたりでかわる土の質と樹木の種類がおたがいに関係しており、それをさかいにおおきな環境の変化があったことをうかがわせています。

地層の年代はどうでしょうか?
2回のボーリング調査では放射性炭素年代測定が行われ、その成果を総合して地下320~290センチメートルの層を2,310±100BPよりふるく、8,000±170BP以降に堆積したと推定しています。
そこで、この深さの泥炭層が縄文時代に堆積した可能性が高いとして、昭和60年(1985)の2回目のボーリング調査でさらにくわしく花粉分析を行っています。
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その成果によると、はじめはクリ-シイノキ属とケヤキ・ニレ属がおおかったのが、しだいにコナラ属・アカガシ亜属がふえていきます。
なお、ハンノキ属は一貫して検出されていますが、ハンノキは湿地に生育する樹種であることが反映されていると見られています。


この結果にもとづいて、史跡(当時)加曽利貝塚では、昭和63年(1988)から平成5年(1993)にかけて史跡内の植栽をふくむ整備事業をおこない、いまの景観にいたっています。

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湿地など水辺に育つハンノキ。

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コナラの葉っぱ。

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シラカシの葉っぱ。

 

 

2022年2月6日 年代をただす

放射性炭素年代測定の方法が確立した当初から、世界中でその測定値の誤差を修正する調査・研究がおこなわれてきました。
その方法としては、あらかじめ年代のわかるモノの炭素14を測定して、それをつなぎあわせていくことがあげられます。

その方法に適したモノのひとつは、いつ切りたおしたのかわかる樹木の年輪。
樹木の年輪は夏と冬での成長速度のちがいによって、1年で色の濃淡による2層が形成されます。
したがって、外側から年輪をかぞえていくと、切った年から何年まえという年輪が特定できます。
この年輪にふくまれる炭素14の量を計測すると、ピンポイントの年、たとえば木を切った年から何年前の炭素14の量がわかります。
これを年輪ごとに計測することで、炭素14の濃度がどのように変化していったのかつないでいくことができます。
(参考:国立歴史民俗博物館『弥生はいつから!?-年代研究の最前線-』2007)

もうひとつが湖の底にたまった堆積物、地層。
これは「年輪の地層版」の方法で、とくに水月湖の年縞はそれに適したサンプルです。
縞(しま)の数で年をさかのぼり、木の葉など生物の遺体のある層で放射性炭素年代を測定することができます。
年縞からは年代だけでなく、約45メートルにおよぶ地層の各層にふくまれる花粉化石や火山灰をしらべることで、およそ6万年にわたる気候の変化や火山噴火などの災害史を明らかにできます。
これが水月湖の年縞が世界的に注目される理由です。

それでは、海洋リザーバー現象の影響は?
これまでも海洋生物の炭素14を測定する研究が行われてきましたが、現在は地球規模の海流調査による海水の流れのシミュレーション、海域ごとの炭素量の調査にもとづいた研究が行われています。

このような方法で放射性炭素年代測定の測定値を「炭素14の経年変化」にあわせてただすことを較正(こうせい)、ただした年代を較正年代とよび、Cal BPと表記します。

世界的な「水月湖の水縞」は、水月湖のおとなり、三方湖(みかたこ)沿いに所在する福井県鳥浜(とりはま)貝塚の環境復元のための調査・研究がきっかけになって発見されました。
鳥浜貝塚は、川沿いにある縄文時代草創期から前期にかけての低湿地遺跡で、昭和37年(1962)から10回にわたって発掘調査が行われ、木材、ヒョウタンなど栽培植物や漆製品など、台地の上の遺跡では残りにくいさまざまな種類の遺物が出土しています(田中祐二『縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚』2016)。
縄文時代像をゆたかにした鳥浜貝塚の出土遺物は、重要文化財に指定されています。
現在では各地で低湿地の遺跡が発掘調査され、めざましい成果をあげていますが、鳥浜貝塚はそれに先だつ画期的な調査のひとつと言えるでしょう。
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どうして樹木の年輪から、切りたおされたとき(木が死んだとき)よりふるい時代の炭素14の量がわかるの?
それは、「お前(ふるい年輪)はもう死んでいる」から(ケンシロウさんをイメージしてみました)。


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2022年1月29日 じつはおなじではない炭素14

この放射性炭素年代測定の原理は、1947年にアメリカの化学研究者のウィラード・リビーさんが確立し、その功績から1960年にノーベル化学賞を受賞しています。

日本でも昭和34年(1959)に縄文時代早期の神奈川県夏島(なつしま)貝塚出土の木炭・貝がこの方法で測定され、9,500年前という結果がえられています。
この年代は当時考えられていた縄文時代のはじまりを大きくさかのぼるもので、縄文土器が「世界最古の土器」として注目されました。

放射性炭素年代測定の理論的前提は、大気中の炭素14の濃度はいつもおなじ・・・だから出発点(死んだとき)の炭素14の量はみなおなじ。
しかし、放射性炭素年代測定の方法が確立した当初から、リビーさんをはじめとする化学・地球物理学研究者のあいだでは、炭素14の濃度が場所・時代によってちがうのではないか?という「炭素14の経年(けいねん)変化」へのつよい関心がありました。
実際、この方法で算出した年代には場所と時代で誤差があることがわかっています。
そしてこのことが、考古学研究者の中の「放射性炭素年代測定はだいじょうぶ?」という慎重論につながっています。

誤差が生じる原因のひとつは、大気中に一定量の炭素14があると考えられていたものが、太陽の活動の変動によって、地球にふりそそぐ宇宙線の量のちがう時代があったらしいこと。

もうひとつは、海のなかの炭素。
大気中の二酸化炭素は水・海水にも溶けこみ、たまっていきます。
これを海洋リザーバー効果とよびますが、近年、この現象は地球温暖化対策という視点から「ブルー・カーボン」などと呼ばれて注目されています。
海中の炭素14は、植物性プランクトンが光合成のために取りこみます。
そして地上のたべてたべられてとおなじ関係が海の中でもくりひろげられることで、海の生物の中でもおなじ炭素14が共有される・・・はずです。

しかし、実際には海にとけたこんだ炭素14の中には植物プランクトンに取りこまれることなく海流によって光がとどかない深海にはこばれ、そこで崩壊していくものもあります。
そしてそれがながい時間をかけた海水の循環によって、ふたたび浅い海にもどってくる・・・
そうなると海の浅いところにも深海からもどってきた「ふるい海水」があるなど、海の深さや深海からの海流がふきあがる場所・海域によって炭素14の量がちがうことになります。
つまり、おなじ時代であっても海の生物はその生活の場所によって体内に取りいれられる炭素14の量がちがう、さらに陸の生物ともちがうことになります。

そのため、海洋生物やそれをおおくたべた人・動物の放射性炭素年代を測定すると、海洋リザーバー効果の影響で、実際よりも数百年ふるい年代測定値がでてくることがあります。


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海はひろくて深い。

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砂浜でみつけたちいさな貝塚?
これは自然現象?だれかがたべたあと?あそび?宗教儀礼のあと?それとも・・・?
どうすればそれに迫ることができるのでしょうか。

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2022年1月23日 年代をはかる

前回ご紹介したとおり、地層の年代は木の葉など生物の遺体の放射性炭素年代でもとめています。

地球の大気上空では、宇宙線が窒素に衝突して原子核の構造が変化することで、炭素14という原子核が陽子6個・中性子8個からなる炭素(合計14個で炭素14)がつくられます。
大気上空でできた炭素14は、酸素と結びついて二酸化炭素になり(これを酸化とよびます)、大気中を循環します。

地上の植物は、大気中の二酸化炭素を吸収して光合成をして成長します。
二酸化炭素として炭素14は植物の中にはいってたくわえられ、その植物を動物がたべると、炭素14もまた動物の体内に取りこまれます。
さらに植物をたべた動物をほかの動物がたべると、またまた炭素14がその動物の体内に取りこまれます。
このたべてたべられての食物連鎖(しょくもつれんさ)によって、大気中にあった炭素14は地球上の生物みんなの体内にひろがり、共有されていきます。
そして、植物も動物も死ぬと、あらたな炭素14は体内に入ってきません。

この炭素14の原子核は、宇宙線が衝突してできた不安定な構造であるため、安定した構造にもどろうとします。

そして、原子核の中性子を陽子に転化させることで安定化させますが、このときに放射線(ベータ線)が放出されます。
このように、原子核がベータ線をだしながら変化(ベータ崩壊)する炭素14を「放射性炭素」とよびます。
放射性炭素は原子核が崩壊して窒素にもどっていくので、時間の経過とともに減少していきます。

その減少の速度は、5,730年で半分の量になることがわかっており、この時間の単位を半減期(はんげんき)とよびます。
理論的にはエネルギーを放出してこわれていく炭素14の量と、大気上空でつくられる炭素14の量はおなじため、大気中の炭素14はいつも一定の濃度であるとされます。

この原理にもとづいて、地層や遺跡からでてきた生物の遺体の中の炭素14の量を計測することで「何年前」という数字を計算するしくみが、放射性炭素年代測定です。
つまり、生き物はみな、炭素14という死ぬと動き出す時計をもっていることになります。

なお、この放射性炭素年代をあらわすとき、たとえば1,136BPとしたばあい、1,136年は西暦年ではなく、1950年を基準点に1,136年前という意味です。
この方法だけでピンポイントの西暦何年などをしめすことができるわけではありません。
(参考:国立歴史民俗博物館『弥生はいつから!?-年代研究の最前線-』2007)
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炭素14の不安定な核の中性子が陽子に転化することで窒素14にもどって安定化します。
このとき、放射線が放出されます。


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大気中の炭素を吸収した植物をたべて・・・

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たべられて・・・

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たべて・・・ウシもヒトもイヌも、みないっしょの炭素14を共有します。

 

2022年1月15日 花粉から見える過去

植物の花粉は、つよい酸にもとけないじょうぶなかたいカラにつつまれており、土の中でもくさることなく残ります。
そこで、地層の中に残る花粉の種類をしらべてその数をカウントすると、その地層が堆積した時代の自然環境を知る手がかりになります。

とくに時間が連続してつもった地層では、それぞれの層で花粉の種類や数がどのように変化していったかをたどることができ、その場所の環境の変化を復元することができます。
この「時間が連続してつもってできた地層」としてもっとも適しているのが、周囲から土や花粉が流れ込んでたまる湖やおだやかな内湾などの底の堆積物です。

深い湖や海の底には、雪がつもるようにプランクトンや陸地から流れこんだ砂、落葉などがしずかに堆積していくため、ながい年月のあいだに連続した地層が形成されます。
このような地層をつらぬくようにボーリングでぬきとると、下に行くほどふるい一連の地層のサンプルを手にいれることができます。
その地層サンプルの中に、年代がわかるものがあれば、その地層が堆積した時代がわかります。
この年代がわかるものとは、落葉など生物の遺体です。

どうして落葉など生物の遺体から年代がわかるのか?
それは落葉から放射性炭素年代(ほうしゃせいたんそねんだい)を測定することができるから。
ただし、うまく地層サンプルのすべての層の中に落葉が入るわけではないので、運よく落葉が入った地層の年代を測定して、その間の地層の年代は年代のわかる上下の層との位置、堆積の状態などから推測されます。
しかし、まれに条件にめぐまれると、木の年輪のように土砂が規則的につもる湖や内湾があり、そこでは正確な年代を知ることができます。

このような地層サンプルの代表が福井県「水月湖(すいげつこ)の年縞(ねんこう)」や大分県「別府湾の年縞」です。
とくに水月湖は、山にかこまれ、大きな川が流れこまないことから、湖底が水の流れで乱されることなくしずかに砂やホコリ、プランクトンなどがたまりつづけ、その地層は世界的にも注目されています。
なお、年縞とは、夏と冬で堆積物の種類がちがうことから、1年で2枚の層が毎年くりかえし堆積し、その地層がしま模様になる現象をさします。 


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福井県水月湖年縞の掘削
出展:福井県年縞博物館 年縞アーカイブ

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年縞のできるしくみ。
出展:福井県年縞博物館 年縞アーカイブ

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水縞ステンドグラス(水縞のサンプル)
出展:福井県年縞博物館 年縞アーカイブ


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福井県年縞博物館
出展:福井県年縞博物館 年縞アーカイブ

 

2022年1月9日 これも展示、あれも展示

当館では、1月8日から加曽利E式土器に焦点をあてた「これもE、あれもE」展を開催!(会期は令和4年3月6日まで)

「これも展示、あれも展示」と、何でも特別史跡加曽利貝塚の展示と言うこの日記、今度は何を「これも展示」と言いはるのか?

加曽利貝塚博物館では、特別史跡加曽利貝塚を史跡公園として整備し、公開しています。
復元住居が史跡整備構想・計画によってたてられたことは以前ご紹介しましたが、それだけでなくさまざまな整備がおこなわれています。

この史跡整備構想・計画は、縄文時代の景観をできるだけ復元するとともに、現地で生活・生産・交易・祭祀などの様相がイメージされるように、関連遺構の復元などによって、遺跡そのものを展示する「屋外博物館」として整備することを目ざしていました(後藤和民「加曽利貝塚の整備計画」『加曽利貝塚博物館20年の歩み』千葉市立加曽利貝塚博物館1987)。
そして、この「縄文時代の景観を復原する」という計画(『史跡加曽利南貝塚整備基本設計』1986)にもとづいて、昭和63年(1988)から木々を植え、いまの「林」の景観にいたっています。
つまり、史跡公園敷地内の木々は屋外博物館の「展示」です。

現在、北貝塚・南貝塚をめぐってナラ、クヌギ、クリなど、両貝塚のあいだにシイ、坂月川をのぞむ斜面にはオニグルミやハンノキなどが植えられています
このような樹木をえらんで植えたのには、理由、根拠があります。
それは花粉です。
あの花粉症の原因、花粉です。
まだ花粉症ということばがそれほど一般的ではなかったころ、花粉症の知人から「花粉症になると、とんでいる花粉が見えるようになる!」と言われ、「うらない師でもあるまいし」と思ったことがありましたが、それほどちいさなモノから特別史跡加曽利貝塚の林は復元されました。

ちなみに、10年ほど前に花粉症デビューしましたが、いまだにとんでいる花粉が見えたことはありません。


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昭和40年(1965)ころの加曽利貝塚。

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昭和47年(1972)ころの加曽利貝塚。

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平成6年(1994)ころの加曽利貝塚。

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そして、最近の加曽利貝塚。

 

2021年12月28日 「村のおまじない」から

昨年度のこの「考古学日記」ではいくつかの動画を紹介しています。
それらはユーチューブでご覧いただくことができます。
その中の1本、「ラオスの音2 村のおまじない」は、家の中でのおまじないの声・音を外で採録したものです。
家の中でいったい何をしているのか、気になりませんか?
どんなおまじないが行われているのか、それをうかがうことができる映画をご紹介しましょう。

それは、クリント・イーストウッドさん監督・主演の2008年公開「グラン・トリノ」です。
その舞台はアメリカ北西部のまち。
「いまどき」価値観をもつ息子家族に反発しながらひとりぐらしをはじめた「ポーランド系」アメリカ人男性が主人公。
題名は、1970年代にアメリカで製造された自動車の車種名で、その自動車が縁ではじまった、主人公ととなりに越してきた移民姉弟との交流を描いた作品です。
この移民とは、東南アジア大陸部の北東部にくらす「モン」という人びと、「村のおまじない」とおなじ人びとです。
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「モン」のお正月行事・・・まり投げ

映画の舞台はアメリカの住宅地でありながら、小道具のこまかいところまでこだわってそこでくらす「モン」の人びとが描かれています。
その中にあの「おまじない」のシーンがありますので、機会があればご覧ください。
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音の正体

ところで、主人公はとなりの家族が「モン」であることを神父から聞いてはじめて知るのですが、その「モン」家族の姉との会話で、どうして東南アジアの「ハモン」がアメリカにきたのかとたずね、「モン」と訂正されるシーンがあります。
主人公はなぜ「ハモン」と言ったのか?

この「モン」の発音を表記すると、Hmong。
東南アジア大陸部には「先住民」ともされる別の「モン」(Mon)とよばれる人びとがおり、日本の研究者はそれと区別するため「フモン」「モン(グ)」と表記することがあります。

弟が気にしている「モン」の娘さん・・・主人公はここでもなまえをたびたびまちがっては訂正され、最後はめんどうになって勝手になまえをつけてしまう。
がんこおやじの聞きまちがえ、思いこみですませてしまう場面です。

でも、日常的にLとRやSIとSH、NとNGといった音声のちがいにむとんちゃくだと聞きのがす「モン」のHの「音」も、こういう音声に敏感な言語の話者には「聞こえる」のだろうか?脚本家はどういう意図で主人公に「ハモン」と言わせたのか?などと考えさせてくれます。

ここでは「モン」だけでなく、「イタリア系」、「アフリカ系」、「アジア系」、「ムスリム系」などの人びとも登場して、最後は病院で主人公自身も看護師さんから自分のなまえをよみ「まちがえ」られます。
ことば・言語のむずかしさ、ふしぎさ、そして世代、宗教、職業などをまたぐさまざまつながりの描写から、文化、「民族」とは何か、ちょっと考えさせてくれる作品です。

今年の日記は、しめくくりも考古学と「無関係な」お話になってしまいました。

来年は脱線しないようにこころがけます。

それではみなさま、よいお年をおむかえください。


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2021年12月26日 においを展示する

特別史跡加曽利貝塚では、復元住居の屋根のカヤを乾燥するため、当館のボランティア・ガイドが開館日のほぼ毎日、内部の炉で薪を燃やしながら維持・管理しています。
復元住居の中で火をたくことによって、その熱が屋根材のカヤを乾燥させ、ススがカヤについて保護します。

加曽利貝塚の竪穴住居の構造がどうだったかははっきりしていませんが、復元住居の中にこもった、ちょっとしめっぽい煙とススのにおい、これは縄文時代の人びとがかいだにおいとおなじでは?

一般的に博物館では、モノ(展示資料)やパネル、映像など視覚にうったえる展示を中心に、音声など聴覚、そして現在は感染症予防対策でむずかしくはなってはいますが、手でさわる、触覚にうったえる展示があります。
しかし、博物館のなかでのにおい、嗅覚にうったえる展示はさまざまな理由からやりにくい・・・
その中で、日常生活の中から囲炉裏やカマドがなくなったいまの日本では、復元住居の中のにおいは、りっぱな「嗅覚の展示」ではないかと思います。
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2021年12月18日 「ススの考古学」のすすめ

竪穴住居に「つり棚」があったのか、はっきりしたことはわかっていませんが、縄文時代の人びとも煙やススとはつきあっていたはず。

でも、そもそも「つり棚」があったか、なかったかなんてささいな、どうでもいいことでは?
火のたき方とか、火事にならないくふうとか、自分の家でつかう道具やたべものの保存、煙やススとのつきあい方など、おおきな建物をたてる、とおい場所のめずらしい品々をやりとりする縄文時代の文化・社会を解明するうえで、ごくちいさな、とるにたらないことでは?

それでも気になってしまうのです、「ススの考古学」が。
捜査本部の方針とちがう捜査をする刑事のセリフ、「ちいさなことが気になってしまう、わるいクセがありまして・・・」と言ったところでしょうか(水谷豊さんをイメージしてみました)。

そう考えはじめると、つぎは「柴(しば)かりの考古学」、「水くみの考古学」・・・
これらはどれも人が生きていく上で、あたりまえの行動、ごくふつうの日常生活のひとコマ。
これらの行動は、人が生きていくための「あたりまえの」行動、とても「個人的な」行動であるがゆえに、その社会がおおきく、複雑になるほどちいさなことに見えるかもしれません。
しかし、どんなにおおきなお墓やりっぱな神殿をつくる社会であろうと、宇宙にロケットをうちあげる社会であろうと、このような行動があってはじめてなりたっています。
そして、これらがいかに社会的・文化的ないとなみであるか、私たちも停電や断水などで思い知らされています。

そうであれば、たとえば縄文時代の人びとが薪をどこでどれだけ、だれが、どうやって、どういう道具をつかって手にいれていたのか、燃やしたススや灰は利用していたのか、こういった人の行動・活動もまた、文化・社会につながっているはずです。
おなじく水は?

考古学的には、特別なイベントよりも、あたりまえの、日常の行動を復元することのほうが意外とむずかしいことがあります。
だから、ここで火をつかっていた、燃やしていた、水をつかっていたことがわかればそれで十分という考え方があるかもしれません。
それでも、あたりまえとされる行動・活動にも目をむけ、それらをたどり、たばねてあわせていくことは、よりたしかな社会・文化像へとみちびいてくれることでしょう。
そして、そういうアプローチができる可能性をもっていることこそが、モノを研究対象にする考古学の大きな特徴、強みではないでしょうか。
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2021年12月12日 土屋根とつり棚

ここまで紹介したのは、いわゆる農耕社会における火・ススとつり棚の例です。
そして、それはカヤ(草・葉)ぶき屋根の家での例です。
そこでは、防火のほか、その家がつかう道具の乾燥やたべものを保存するため炉の熱と煙・ススが利用されていました。

それでは、土屋根の家ではどうでしょうか?
御所野遺跡の竪穴住居焼失の実験で指摘されたように、土屋根は火事になりにくい。
そうであれば、土屋根では防火としての「つり棚」の意味はない?

20世紀代までシベリア、カムチャッカ、北千島、北アメリカ大陸にかけてきびしい寒さの冬をすごすため、土屋根の竪穴住居がつかわれていました。
それらに考古学・建築史研究者が関心をむけてきたことは、復元住居編でふれたところです。
その考古学・建築学が参考にした竪穴住居の記録・民族誌には、竪穴住居の図面やスケッチ、写真の記録はありますが、炉やその上の天井が具体的にどうだったのか、記録を見つけることはできませんでした。

ところで、その民族誌の中には、炉の上、屋根の中央に穴があって、炉の横にたてたハシゴをつかってそこから人が出入りする竪穴住居がありました。
つまり炉の上の天井に出入口があり、人が出入りするときは煙のため、息をとめて一気にハシゴをのぼりおりしていたと記録されています(武藤康弘「民族誌からみた縄文時代の竪穴住居」『帝京大学山梨文化財研究所』第6集、佐藤浩司「民族誌からみた北東アジア・北アメリカの竪穴住居」『先史日本の住居とその周辺』1998)。
このような構造であれば、炉の上のつり棚は人の出入りのじゃまになりそうです。

その一方で、狩猟採集民の食料貯蔵に注目したフランスの人類学研究者、アラン・テスタールさんは、カナダ・バンクーバー島で家がまるで巨大な倉庫のように、屋根の下に干した魚などをたくさんたくわえていたという、アメリカの文化人類学研究者、フランツ・ボアズさんによる民族誌を引用しています。
北アメリカ大陸北西部では、季節的に集中してたくさんとることができるサケなどを干して冬にそなえていましたが、そのような干ものを家の中でも炉の熱と煙で乾燥、スモークすることで長期間保存しようとしていたようです(山内昶訳『新不平等起源論』1995)。

ここで思いだされるのは、10月9日にご紹介した長野県藤内遺跡からまとまって出土したクリの実・・・考古学研究者で当館の元館長、堀越正行さんは、この事例から縄文時代の食料貯蔵の方法として、竪穴住居の炉の上、天井(火棚)にクリの実などを保存していた可能性をあげています(「小竪穴考(4)」『史館』9号1977)。

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史跡御所野遺跡 冬の風景
(出展:JOMON ACHIVES 一戸町教育委員会撮影)

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特別史跡加曽利貝塚 雪の風景

 

 

 

2021年12月4日 つり棚の上のかわりだね

炉の上やつり棚で乾かす、日常のたべものを保存することをご紹介してきました。
最後は「かわりだね」をご紹介します。

まずは土製品(どせいひん)。
文字どおり、土(粘土)でかたちづくられたもの。
これは羽口(はぐち)とよばれる製鉄炉の中に空気を送りこむための土管(どかん)。
つり棚の上で乾かして、じょうぶにしています。
ちなみにナベ・カマにする土器のような最後に焼きあげる土製品は、こういう方法で乾かすことはありません。
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つぎは塩。
レンガのように焼きかためた塩のかたまりをバナナの葉でつつみ、つり棚の上で保存していました。
長いあいだつり棚の上においておくと、外はまっ黒に。
でも葉につつまれた中身は白い塩のまま、「永久に」と言うくらいながく保存できるそうです。

 

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1年ちかくつり棚の上でいぶされ、つつんでいる葉が黒くなった塩のかたまり。

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いまでは市販のポリ袋入りの塩(青魚印)が一般的につかわれていますが、そのおき場は「つり棚」の上。

 

2021年12月1日 (市原市祇園原貝塚展)ちいさな骨から

貝塚はその名前のとおり貝がらがたくさんつもった遺構ですが、その中からは魚や動物の骨なども出土することはみなさまもご存じのことでしょう。
当館の常設展示でも特別史跡加曽利貝塚で出土した骨の一部をご覧いただくことができます。
このような骨からは、縄文時代の人びとがどのような食べものを、どのような方法で得ていたのか、資源の開発・利用、そしてそれを基盤とした社会のあり方を知ることができます。

発掘調査は、人がおこないます。
そこでは通常、発掘する人が見えた、認識したモノを遺物として記録し、とりあげていきます。
これは土器も石器も、そして骨もおなじです。
しかし、ちいさなモノ、とくに骨はバラバラになる、こわれるなどして土の中にちらばると見えにくくなります。
おおきな動物や魚にもちいさな骨がありますが、さらにちいさな動物・魚になると、その骨は土の中でますます見つけにくくなります。

このことは、茨城県上高津(かみたかつ)貝塚の発掘調査ではっきりしめされました。
貝塚出土の骨を目で確認できるものを取りあげていくと、たとえばクロダイのアゴの骨では、おおきいもの(約1センチメートル以上)にかたよります。
アゴの骨のおおきさからクロダイの全長を復元することができるのですが、この結果では、縄文時代の人びとが体長20~40センチメートルのクロダイをねらってとっていたという解釈ができます。
しかし、残った土をフルイにかけると、1センチメートルより小さい骨もみつかります。
その結果、体長20センチメートルよりちいさなクロダイもとられていたことがわかりました(小宮孟・鈴木公雄「貝塚産魚類の体長組成復元における標本採取法の影響について-特にクロダイ体長組成について-」『第四紀研究』16巻2号1977)。
つまり、発掘調査では目に見えやすいモノ以外にも、土にまぎれて見のがしてしまうちいさなモノが出土している・・・これをサンプリング・エラーとよびます。

現在、当館で開催中の「市原市祇園原貝塚-千年続いたムラ」展(会期は令和3年12月5日まで)では、通常ならば見のがしても不思議でないほど、ちいさな動物や魚などの骨を展示しています。
これは、祇園原貝塚で貝塚の土をすべて水で洗ってフルイにかける「水洗選別(すいせんせんべつ)」という発掘調査方法を実施した成果の一部です。
この調査方法によって、ネズミやスズメ、カエルなどの小動物、イワシやフナなどのちいさな魚の骨のほか、カニ、ウニなども確認されました。
これらすべてがたべてあとの骨かはさておいて、ここからは祇園原貝塚が当時どのような環境にあって、その中の資源をどのように利用していたか、うかがうことができます。
この方法では、骨だけでなく、ちいさな玉などのアクセサリー類もみつけることができました。
本展示の会期もあとわずか!(12月5日まで)
ぜひ、この機会にご覧ください!
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なお、当館の常設展示でも水洗選別法を紹介していますので、あわせてご覧ください。

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(2009年撮影)

 

2021年11月28日 肉がたべたい

「とんかつはロース派?ヒレ派?」
「豚肉と言えばあぶら身のうまさ、ロースでしょう!」
「でも、健康診断の数値が・・・とんかつはコロモをはずして、あぶら身は切りはなしてからたべなさいと言われたらどうしよう・・・」
なんて会話をいまではふつうにしていますが、かつて肉は何か大事な節目の行事・「ハレ」など、特別なときにたべるものでした。

いまでも山間の農耕社会では、お正月のような年中行事、結婚式などの儀式でブタやニワトリなどの家畜の肉を、また田畑のお仕事のあいまにおこなう狩猟でえものがあったときに、肉をたべます。
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肉は、注目のまと。

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精霊(せいれい)のお食事はバナナの花やイモ、青菜のスープ、そして肉。

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精霊が食事をすませると、肉は人がいただきます。

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おわかれの儀式のあとの宴会にも・・・

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肉料理は欠かせません。

こういうときは、村・親類・ご近所でわけあって食べきることがおおいのですが、その一部を保存することもあります。

肉の保存でも炉の上で肉を乾燥、いぶしてくんせいにする方法があります。
こちらはお正月料理のため、解体したブタの部位を炉の上で乾燥、煙でいぶしながら保存しています。
ブタの肉のかたまり・内臓・皮と、バナナの葉で肉を包んだいわゆる「ソーセージ」をいぶしています。
葉に包まれたソーセージは中身が発酵して、すっぱい味になります。
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あぶら身は人気のある部位ですが、いたみやすいので、煙でいぶしても保存期間は限られます。
あぶら身はお湯で煮て、浮いたあぶらをすくいとって保存し、炒めものやスープなどにいれます。
鍛冶屋さんでも、刃物の刃をじょうぶにする「焼きいれ」という処理の中で、このようなブタのあぶらに熱した刃をいれてゆっくり冷ますという方法がありましたが、いまは市販のエンジンオイルがつかわれています。

ちなみにブタの内臓脂肪はとてもおいしい・・・でもそれとおなじものがじぶんのおなかの中にあると思うと、とてもおそろしい。

最後に、小さな動物は・・・
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(2014年撮影)

魚はどうか?
魚を干して保存することはありますし、海の産物も干ものとして市場などで売られています。

ただし、この地域ではおもに魚をまたべつの方法で保存しています。
それについては、機会をあらためてご紹介しましょう。


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2021年11月24日(市原市祇園原貝塚展) 縄文バスケット

竹カゴ・ザルの話題から現在、当館で開催中の「祇園原貝塚展-千年続いたムラ」展へ。

縄文時代の容器と言えば、縄文土器。
でも、土器以外にもいろいろな容器があったことが想像され、そのいくつかは実際に遺跡から出土しています。

そのひとつが植物のつるや皮、繊維で編んだカゴ。
このような植物質の繊維を編む技術があったことは、土器を焼く前の底にはりついた編みものの痕跡によって、はやくから知られてきました。
そして、植物質のモノがくさりにくい低湿地遺跡の発掘調査がすすむと、カゴそのものが出土し、その実態がはっきりしてきました。
その代表的なものは、縄文時代早期(約7千年前)の佐賀県東名(ひがしみょう)遺跡から出土した多数のカゴや、青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡の縄文時代前期(約5千5百年前)の地層から出土したクルミ入りの「縄文ポシェット」などがあります。
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三内丸山遺跡 縄文ポシェット
出典:JOMON ARCHIVES(三内丸山遺跡センター所蔵)

さて、市原市祇園原貝塚では、編み目がついた土器の底だけでなく、あきらかにカゴのかたちをまねした土器が出土しています。
通常、台地の上の遺跡からは植物質の遺物がそのまま出土することはありません。
その中で、それをまねた土器が出土していることはとても貴重です。
そしてその造形のなんとリアルなことか!
「縄文バスケット」です。

現在、このカゴ形土器は、当館で開催中の「祇園原貝塚-千年続いたムラ」展(会期は、令和3年12月5日まで)でご覧いただけます。
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祇園原貝塚の「縄文バスケット」形土器

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2021年11月21日 炉でいぶす、かわかす

こちらはつり棚の上にさいた竹のたばと竹かご。
さいた竹は竹かごの材料や、ヒモあるいは輪ゴムようにたばねたり、結びつけるのにつかわれます。
竹かごもつかったあとは炉の熱でかわかし、煙でいぶしてじょうぶにします。


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竹カゴの材料づくり。

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竹のひも。

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いぶした竹であんだカゴ・・・いぶして黒くなった竹とそうでない竹をくみあわせて格子目(こうしめ)にあんでいます。

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火をたいたときの室内・・・人もからだじゅう煙でいぶされます。
ここでは、つり棚の上にカゴ・ザルをおいていぶし、乾燥させています。

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下半分が煙でいぶされた竹カゴ。
いぶし方によっては見た目もきれいに。
こちらはちょっとわかりにくいかもしれませんが、まっ黒なまるいもの・・・ヒョウタン。
竹筒やヒョウタンなど水をはこぶ容器を乾かし、ススでの防水効果をたかめてじょうぶにしています。
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この「つり棚」では、上の段にさかさにおいたヒョウタン、下の段にはトウガラシ。
この画像、モヤがかかったようで見にくい?
撮影者のウデがわるい?

たしかにそれはありますが、このモヤの正体は空中にただよう灰やスス。
早朝、お台所の暗やみの中でストロボ撮影したところ、室内を舞う灰・ススに光が乱反射して、モヤがかかったようになりました。
おなじようにススが写りこんだ画像をもうひとつ。
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調理のときにおおきく火を燃やすと、このようにススが舞いますが、このススが屋根の下地やカヤにつくことで、じょうぶにしてくさりにくくしています。

 

2021年11月14日 ススも資源?

つづいて「つり棚」におかれるモノ・・・
薪が燃やすとでる煙・・・この煙の正体は燃えきれていない炭素のつぶ、ススです。
このススにはモノがくさることをふせぐ効果、防腐効果があります。
炉の火による熱でモノを乾かす効果と、ススによる防腐効果・・・
これらの効果を利用するため、「つり棚」はなくても、炉の上にさまざまなものがつるされます。
ここでつるされているのは、ほそいイモ・・・キャッサバのたばです。
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こちらはつり棚より上にトウモロコシ、稲穂、つり棚上にほそくさいた竹のたば。

 

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通常、モミやトウモロコシなどの穀物の保存は屋外で日光にあてて乾かす天日干しをしますが、いそいで乾燥させたいとき、じゅうぶん乾燥させたいときは炉の上やつり棚におきます。
その理由は、確実に乾燥させて保存するため、あるいは脱穀しやすくするため。
鳥越さんと若林さんの雲南省における調査でも、天候がめぐまれず、モミをじゅうぶん乾燥できないときは、つり棚の上で乾かしているところが確認されています。
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アクセサリーも天日干し。

 

2021年11月10日 (市原市祇園原貝塚展) ゆがむ縄文土器

粘土は乾燥するとかたくなります。
でも、水をあたえるとまたやわらかくなります。
粘土は非常にこまかい鉱物の粒があつまったものです。
その粒のあいだに水がはいると、粒が動きやすくなり、やわらかくなります。
しかし、これに500度以上の熱がくわわると鉱物が化学変化をおこし、鉱物どうしがつながり、固定します。
そうなると、水をあたえても鉱物の粒のあいだに水がはいらず、もとの粘土にもどることはありません。

粘土のこうした性質を利用してつくられた道具が、土器です。
イギリスの考古学研究者、ゴードン・チャイルドさんは、土器を人がはじめて化学変化を利用してつくった道具と言っています(ねず・まさし訳『文明の起源』1951)。

しかし、あまりにも高い温度になると粘土、鉱物がアメのようにとけだします。
このとけない限界の温度を粘土の耐火度(たいかど)とよびます。
おなじ「粘土」と言っても、それを構成する鉱物の種類によって耐火度がちがいます。
一般的に海の底で堆積した地層が隆起してできた房総半島の粘土は、耐火度がひくめと言われています。

前回、縄文土器のつかい方で、薪を燃やしてできるオキがもっとも安定した高温になることをご紹介しましたが、土器を焼くときもこのオキ火を利用していたと考えられています。
オキ火の温度は、通常約800度で1,000度をこえることはありません。

それでは、現在当館で開催中の「祇園原貝塚-千年続いたムラ」展(会期は令和3年12月5日まで)で展示されているこちらの縄文土器をご覧ください。
土器のくびの破片ですが、何か変?!
ゆがんでいる?色が変?表面がブツブツ、ザラザラ?
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粘土が高温でとけはじめると、表面が沸騰するように泡だって、ブツブツ、ザラザラになり、
さらに高温がつづくと、とけたアメ、ガラスのようにグニャリと曲がったりします。
祇園原貝塚の土器はまさに、そのとけだそうとした土器です。
この土器につかわれた粘土がとけだす温度をしらべたところ1,000~1,200度、オキ火より高温です。

通常、薪を燃やしてはこのような高温になることはありません。
そのため、熱でとけた粘土は、青銅や鉄などの金属を加工しはじめる弥生時代以降の遺跡で見つかるようになります。
そこでは木炭を燃料にしてわざと空気を送りこんで燃やすことによって、炉の中を粘土がとけるほどの高温にしています。
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熱で変色し、ブツブツ、ザラザラになって(上半分)、とけはじめた製鉄炉の壁(下半分)。

 

祇園原貝塚のとけかけた土器が出土したのは、最大のながさが18メートルになる竪穴住居跡で、ここからは壁ぞいに焼けて赤くなった土、炭化材、そしてけものの骨もたくさん出土しています。
竪穴住居の中がまるでカマドのようになっていたのでしょうか?
この竪穴住居で何をしていたのでしょうか?
これもまた、祇園原貝塚のなぞのひとつです。

 

 

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2021年11月7日 炉の火と縄文土器

炉の火のあつかい方となると、縄文時代の炉ではどうだったのでしょうか?
火そのものは消えてなくなりますが、その痕跡は縄文土器の表面に見ることができます。

考古学研究者の小林正史(こばやし・まさし)さんは、縄文土器の表面に残る火をうけた痕跡と、実際に複製土器を煮炊きしてできる痕跡をくらべる実験的な研究を行っています。
その結果によると、炉の中においた土器のまわりで薪を燃やした後にできる赤く熱したオキを土器のまわりに寄せ、そのオキ火の高温で加熱していたことがわかりました(「鍋の形・作り方の変化」『モノと技術の古代史-陶芸偏』2017)。

土器製作技術研究者の戸村正巳さんによると、縄文時代においてもっとも安定して高熱をだす熱源がオキであり、縄文土器を焼くときも、薪が炎をあげて燃えたあとにできるオキ火の高温で焼き上げるようコントロールするのかがコツとのことです。
そうであれば、縄文時代に人びとは「オキ火づかい」の達人といったところでしょうか。

日常生活の燃料としての木が貴重な資源で、それをあつめるにはたいへんなエネルギーが必要です。
燃料としての薪のエネルギーを最大限、効率的にひきだすこのような火のあつかい方は、それに適した方法でしょう。

ただし、炉の中で薪をオキにするために、最初は土器のまわりに薪をくべ、おおきな炎をあげて燃やすので、そのときは火の粉があがるなど火災のリスクはたかまるかもしれません。
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加曽利貝塚出土「加曽利E式土器」の火をうけた痕跡。
黒い帯がススの痕跡、その下の白く変色している部分がもっとも高温にさらされていた部分とみられます。
小林さんがおこなった縄文土器の使用実験によると、最初、土器の外側に薪からでた燃えきらない炭素の粒・ススがつきますが、その後、安定して高温のオキが接すると、その部分のススが完全に燃えきってなくなります。

加曽利貝塚でも・・・
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最初は薪をもやしてオキをつくります。
このときに土器の表面にススがついて黒くなります。
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そのあと、オキ火でゆっくりと加熱していきます。
オキ火の安定した高温でススが燃えきるため、土器の表面の下の方は赤あるいは黄色になります。

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おおきい火をあつかうときは、屋外という方法も。

 

 

2021年10月30日 火の用心、風のひとふき火事のもと

囲炉裏の火はおおきく燃やさない・・・それは温暖な東南アジアだからでは?
ここでご紹介した例は、標高600メートルから1300メートルの山の中。
乾季の夕方、陽がかげってくると息が白くなるほどさむくなります。
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さむくて、ネコもコンロでまるくなる♬

 

ところで、このように注意ぶかく火のあつかっていても、火事はおこってしまいます。

 鳥越さんと若林さんは、調査した雲南省の村のおおくで火事があったというはなし、中には村全体を燃えつくしてしまうような火事があったはなしを記録しています。
ただし、その原因は炉の火ではなく、懐中電灯や街路灯がないため、暗い室内を照らそうとした灯明(とうみょう)や、夜道を照らす松明(たいまつ)の火があやまって屋根のカヤについたとのことです。
そうであれば、懐中電灯など電気による照明器具が普及すれば火事は減っていくことでしょう。
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夜、屋外でお仕事をするときの竹製トーチ。

それでも火事にあった家に行きあうことがあります。
火事の原因をたずねると、「予想していなかった風が家の中にふきこんで炉の炎がたちあがり、屋根に燃えうつった」とのこと。
人がコントロールできない風が炉の炎や火の粉をまきあげ、屋根や壁に火がうつって火事になることがあります。


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火事のあとしまつ。

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大きな火をあつかう鍛冶屋さんは風に気をつかいますが、それでもコントロールできない風がふいて火事になることがあると言います。

 

 

 

2021年10月23日 火事にならない火のたき方

中国雲南省の民家を調査した民俗学・文化人類学研究者の鳥越憲三郎(とりごえ・けんさぶろう)さんと若林弘子(わかばやし・ひろこ)さんは、ふだんはつるしていないつり棚(火棚・ひだな)も、囲炉裏に火をいれるときにはかならずつるという、防火の役わりとしてのつり棚を紹介しています(『弥生文化の源流考』1993)。

通常、囲炉裏では薪を燃やしますが、暖房や照明のために屋外でのキャンプファイアのようなおおきな炎をあげる、火の粉をまいあげるような燃やし方はしません。
調理するときには火をおおきくしますが、ナベの底を五徳(ごとく)でもちあげて、炎の上に「ふた」をするようにおきます。
おおきな炎は火事になる危険性がたかまることはもちろん、薪の消費がはやく、効率的ではありません。
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囲炉裏の火でせんべいを焼く。

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料理をするときはナベを五徳にかけて。

 

日常生活でつかう燃料を薪にたよる生活では、山野から薪をあつめることは重要で、とてもたいへんなお仕事です。
仕事で山にはいると手ぶらではかえってきません、薪にする木をもってかえります。
山でくらしているからと言って、いたるところに薪になる木があって、湯水のごとく薪を燃やしているわけではありません。
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ちなみに山地のくらしでは水くみもまた、薪あつめに負けずおとらずたいへんなお仕事です。
「湯水」は、ほんとうに貴重な資源です。
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毎日欠かせないお仕事、水くみ。

 

 

 

2021年10月20日 (市原市祇園原貝塚展)過去をうつしだす玉

ソフトボールくらいの大きさの不思議な玉。
うらない師があなたの未来をうつしだす玉?

これは市原市祇園原遺跡から出土した黒曜石(こくようせき)のかたまりで、当館開催中の「祇園原貝塚-千年続いたムラ」展(会期は令和3年12月5日まで)でご覧いただくことができます。

黒曜石とは、名まえのように黒く光る石。
これは地下のマグマが急速に冷えてかたまってできたガラス質の岩石です。
ガラス質なので、われるとするどい刃になります。
このような性質は、モノを切る、けずる石器には格好の素材です。
ということで黒曜石は、石器の素材として旧石器時代から人びとが好んでつかってきました。

しかしこの黒曜石、どこにでもある岩石ではなく、産地がかぎられています。
関東地方では、長野県信州、静岡県伊豆、神奈川県箱根、栃木県高原山(たかはらやま)、そして伊豆諸島の中の神津島(こうづしま)。

展示している黒曜石は神津島産。
神津島ではこの黒曜石の厚い地層が、テレビのサスペンス・ドラマの最後のシーンにでてくるような海の波に洗われる断崖絶壁で露出しています。
そんなところで縄文時代の人びとはどうやって黒曜石を手にいれていたのでしょうか?
どうやって海をわたって祇園原貝塚までもってきたのでしょうか?
そして、どうしてまるいのでしょうか?
この黒曜石の玉は、さまざまな問題を考える上で重要な資料のひとつです。

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なお、特別史跡加曽利貝塚でも黒曜石製の石器が出土しています。
その産地は栃木県、長野県産がありますが、神津島産が多数を占めています。
その一部を常設展示でご覧いただけます。
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2021年10月17日 よそのつり棚をのぞいてみる

いま、私たちの日常生活の中で「つり棚」を見かけることはなくなってしまいました。
そこで、人と火、煙とのかかわりの中で「つり棚」が実際にどのような役わりがあって、どのようにあつかわれてきたのか、ちょっとよそで現役の炉と「つり棚」をのぞいてみましょう。
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それはいまも日常生活で囲炉裏をつかう、東南アジア大陸部山地で田畑をいとなむ人びとの家にある炉と「つり棚」です。

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また「狩猟採集民と農耕民では生活、環境がちがうのに!」とおしかりをうけるかもしれません。
たしかにいつ、どこでも炉があればつり棚があって、みなおなじようにつかっているわけではありません。

人と他の動物とのちがいについて、火をおそれない、火をつかうことがあげられます。
人が火をあつかうことはとても文化的な行為・行動であって、モノから文化にせまる考古学にとって重要な研究テーマのひとつです。
火そのものは消えてしまいますし、「煙のように・・・」とたとえられるように煙も消えます。
しかし、その痕跡は遺跡に残されています。

人が火、煙、ススとどのようにつきあっているのか、その具体的な知識・情報をもつことは、縄文時代の人びとを火のあつかい方、つきあい方、そしてその痕跡を調べるための方法を考えるうえで知っておいて損はないのでは?

もっとも、これからご紹介する炉とつり棚は、それを知ろうと思ってあつめた事例ではなく、たまたまの「いただきもの」(7月3日をご覧ください)なので、その程度のおはなしと思っておつきあいください。
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2021年10月9日 縄文時代でみつかっている?

それでは、縄文時代の遺跡で「つり棚」の痕跡は見つかっているのでしょうか?
炭化材が出土する、いわゆる焼失竪穴住居から、柱や梁にかけていたモノが床の上に落ちたように見える状態で発見される例はあります。

長野県藤内(とうない)遺跡では、多くの炭化材が出土した縄文時代中期の竪穴住居跡の炉跡の横から、長さ約1メートル、直径2,3センチメートルの木材を格子のように組んだ炭化材が出土しており、その上に20リットル分の焼けこげたクリの実がのっていました(藤森栄一編『井戸尻』1965)。
これは竪穴住居の屋根が火事で燃えおちたとき、クリの実をのせた「つり棚」が床に落下した状況を想像させてくれます。

しかし、竪穴住居跡の床の上からたくさんのこげた木の実がまとまって出土したから「つり棚」があった、と言うわけにはいきません。
土屋根の実験考古学でご紹介した岩手県御所野遺跡でも、縄文時代中期の竪穴住居跡の炉跡の中とその周辺から多数のこげたトチの実が出土しています。
また、竪穴住居跡だけでなく、掘立柱建物跡の柱穴の中からもおなじように焼けこげた木の実がまとまって出土しています。
このような状況から、住居跡の炉のまわりや引きぬかれた柱の穴のちかくでわざと木の実をこがす行為をとっていたと考えられています(御所野縄文博物館編『縄文ムラの原風景』2020)。

なお、市原市祇園原貝塚のからも小竪穴の中から貝とともに多数のこげたクルミが出土しており、その一部は当館で開催中の「祇園原貝塚-千年続いたムラ-」展(会期は10月2日から12月5日まで)でご覧いただくことができます。
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竪穴住居跡などからこげた木の実がまとまって出土する遺跡の調査例がふえており、なぜ木の実がこげたのか、こがしたのか、その理由についての研究が進められているところです。

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次回の予告。
戸張(とばり)のむこうに何が見える?

 

2021年10月2日 「つり棚」をさかのぼる

古民家の囲炉裏の上にある「つり棚」。
そのルーツを縄文時代までたどることはできるのでしょうか。
そもそも復元住居で批判されたように、民家の歴史自体まだよくわかっていないことが多く、その一部である囲炉裏、そしてそれにともなう「つり棚」の歴史もまたおなじです。

歴史資料のうち、たとえば「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)」(平安時代)、「西行物語絵巻(さいぎょうものがたりえまき)」(鎌倉時代)、「慕帰絵詞(ぼきえことば)」(室町時代)など絵画資料にはお寺やお屋敷の台所が描かれています。
そこにある囲炉裏では、五徳(ごとく)の上にかけられた鉄なべ・かまが描かれているだけで、「つり棚」は見あたりません。
しいてあげるならば、「慕帰絵詞」では、煙が天井をつたって建物じゅうに広がらないようにする防煙壁が囲炉裏の上にあり、そこに柿をつるして干している場面は描かれています。

ただし、空から見おろすアングルの絵巻物では、「つり棚」はじゃまになるので描かれなかったかもしれませんし、天井が高いお屋敷の台所には「つり棚」はつかないのかもしれません。

他方、考古資料では、日本列島にカマドが入ってくる古墳時代以降、住居跡から炉の姿が見えなくなっていきます。
遺跡で見えなくなったから「なくなった」とはかぎりませんが、考古資料でも囲炉裏・「つり棚」の歴史をさかのぼることは、いまのところむずかしいようです。

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カマドのある古墳時代の竪穴住居跡(千葉市越川戸遺跡)

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平安時代竪穴住居跡のカマド(千葉市芳賀輪遺跡)

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炉とカマドと子どもとイヌと。

左端で炎があがっているのが炉で、なべをのせるための五徳がおかれています。

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2021年9月30日 祇園原貝塚展、準備中

加曽利貝塚博物館では、令和3年10月2日(土曜日)から12月5日(日曜日)の会期で「祇園原貝塚-千年続いた縄文のムラ-」展を開催します。

市原市に所在する祇園原(ぎおんばら)貝塚は、縄文時代後期を中心とする貝塚をともなう集落遺跡で、東京湾岸でも有数の大規模な貝塚遺跡です。
この遺跡からは、大型竪穴建物跡や100体をこえる埋葬人骨をはじめ、当時のくらしや地域間の交流、精神世界の一端にせまることができるさまざまなモノが出土しており、その質と量は全国的に注目されています(くわしくは「加曽利のヒトNの部屋」をご覧ください)。

祇園原貝塚の調査成果は縄文時代・縄文文化、そして特別史跡加曽利貝塚を考えるうえでとても重要な資料です。
そして、祇園原貝塚はその価値が評価され、令和3年(2021)に市原市指定史跡に指定されました。

市原市ではあたらしい博物館「(仮称)市原歴史博物館」の開館を令和4年(2022)秋に予定しています。
本展は、その開館のプレ・イベントのひとつとして開催するものです。

いま、その展示準備が進行中!
この機会に本展をご覧いただき、モノがもつ、圧倒的なチカラをじかに体験してください!!

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2021年9月25日 復元住居と「つり棚」

前回で「史跡整備の花形・復元住居」編はおわり。
今回はその番外編、と言うよりは延長戦・・・

特別史跡加曽利貝塚の復元住居では、もうひとつ復元されているものがあります。
それは「つり棚」。
炉と天井のあいだにぶら下がっている棚が「つり棚」です。
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これも古民家にはよく見られるもので、加曽利貝塚内に移築された江戸時代の古民家・大須賀家(おおすかけ)住宅の炉・囲炉裏(いろり)でも、鉄瓶(てつびん)をひっかけた自在鉤(じざいかぎ)の上につり下がっています

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何のため、「つり棚」はあるのか?いくつかの理由があります。
炉・囲炉裏には暖房の役目があります。
炉の火であたためられた空気は軽くなって上にのぼりますが、そのまま天井にのぼると炉のまわりや室内はあたたまりません。
そのため、すぐに天井に熱が逃げないよう炉の上を「つり棚」でおおって熱を反射させ、暖房の効果をあげようとするものです。

次に防火。
薪(まき)を燃やすと炎がたち上がり、火の粉が散ります。
このような火の粉が熱による上昇気流にのってまいあがり、屋根裏のカヤに火がつかないよう、「つり棚」が「ふた」をするというもの。

ちなみに日本民家の囲炉裏では2種類の燃料、薪(まき)と木炭がつかわれます。
薪はおもに調理・暖房でつかう大きな囲炉裏で燃やされ、木炭は茶道の茶室などで湯をわかす小さな囲炉裏で燃やされます。

一般的に囲炉裏では、燃やすと炎があがる薪をつかう炉には「つり棚」があり、大きな炎をあげずに赤く燃える木炭から発する輻射熱(ふくしゃねつ)を利用する炉には「つり棚」はありません。


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薪をつかうキャンプファイヤーと木炭をつかうバーベキューと言うと、イメージしやすいでしょうか?

もうひとつは、保存です。
モノを燃やすと煙があがり、その煙にあたったモノに黒いススがつきます。
このススには腐敗をふせぎ、防水の効果を高めるはたらきがあります。
たき火の熱でモノを乾燥させ、ススの防腐効果でモノの保存性を高めることができます。

 

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2021年9月18日 加曽利貝塚、復元住居のこれから

戦後しばらくの復元設計された当時は、鉄など金属製の道具のない縄文時代には木を加工して木材と木材を組み合わせる、つぎ合わせる技術はなかったと考えられていました。
1980年代以降、木がくさることなく出土する低湿地の縄文時代の遺跡が発掘調査されるようになると、富山県桜町(さくらまち)遺跡のように木材をとおす「貫き穴(ぬきあな)」のある建築材が発見されるなど、縄文時代に高度な木材加工技術と、それに裏づけられた建築技術があったことがわかってきました。
そして、御所野遺跡の発掘調査・住居復元・焼失実験の成果によって、縄文時代竪穴住居に土屋根があったことがはっきりしました。
このように、史跡整備における住居復元をとりまく環境はおおきくかわっています。

当初、戦後の新たな歴史像・アイデンティティの確立への期待など、社会的要望にこたえるかたちではじまった復元住居建設ですが、今日では史跡にさまざまな学習、地域振興・活性化の資源としての役割も期待されています。
根拠のない、とぼしい復元(復原)を批判した山岸さんも、「文化財「復原」無用論」という刺激的な題名がクローズアップされがちですが、その中で同時に「復原」図や「復原」模型の製作が不要かと言うならば、それはあまりにも乱暴だとして、学術的根拠、「復原」の考え方がわかる方法で展示することを考えるべきと提案しています。
そして近年は、バーチャル・リアリティ(仮想現実)など、復元・再現の展示方法でも技術的な選択肢がひろがっています。

このように史跡の整備の建物復元には、学術的成果、社会的要請、技術的な選択肢などさまざまな要素がからみあっています。
それらをふまえ、史跡整備の望ましい方法については、いまもさまざまな議論が続けられています。

特別史跡加曽利貝塚は縄文時代の遺跡です。
しかし、加曽利貝塚と人とのかかわり、つまり加曽利貝塚の「形成」は縄文時代で終わったわけではありません。
特別史跡加曽利貝塚は、これからも復元住居をふくめ、考古学研究や史跡整備というかたちで人とのかかわりの歴史をつみかさねていきます。
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平成5年(1993)度南貝塚整備後の加曽利貝塚

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斧で製材して・・・

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斧でホゾ穴をあける。
かつてこういう加工は、石器ではできないだろう、と思われていましたが、貫き穴や継ぎ手(つぎて)のある縄文時代の建築材の出土や、石器など道具の実験考古学がすすむことで、こうした「常識」も変わりました。

 

2021年9月11日 復元住居はいらない?

御所野遺跡の調査成果によって、縄文時代中期の竪穴住居が土屋根だったことがわかりました。
しかしながら、加曽利貝塚ではまだ、どういう屋根だったのかわかる資料は得られていません。
御所野遺跡の竪穴住居と同じだったのか?
あるいはまたちがう構造があったのか?
今後の調査・研究における重要な宿題のひとつです。
御所野遺跡の調査と実験・研究成果は、今後も加曽利貝塚の調査・研究に影響を与えていくことでしょう。

さて、史跡の整備などにおける学術的根拠のない、根拠のとぼしい復元に対しては、遺跡の活用を名目に「一般大衆をだます」ものとして、建築史研究者の山岸常人(やまぎし・つねと)さんが問題提起しています(「文化財「復原」無用論-歴史学研究の観点から-」『建築史研究』第23号1994)。

復元にたずさわった建築学研究者は、その問題点がわかっていました。
それを承知のうえで実際にたててみるという実験によって、より確からしい構造にしていくという研究の発展を期待していたのではないでしょうか。
また、当時の設計者は博物館の教育普及で活用されることを念頭に、耐震や耐火など利用者の安全確保、施設としての維持管理と長寿命化など、現代の建築家としての責務を同時にはたそうとされたことも、わすれることはできません。

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ただしい床下のつかい方?(2017年個人撮影)
特別史跡登呂遺跡にて、つよい陽ざしをさけての体験教室。
掲載にあたっては静岡市立登呂博物館様のご協力をいただきました。


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ただしい床下のつかい方。

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急に雨がふってきたので、床下でお仕事。

 

 

2021年9月8日 いよいよ実りの秋

ここ最近、木の下から実りぐあいを見ようとしてもなかなか見えなかったマテバシイの実が、このところの雨と風でいっきに落ちました。

当館では、復元住居とともにこれらも野外博物館としてのりっぱな「展示品」です。

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2021年9月5日 特別史跡加曽利貝塚の復元住居

昭和41年(1966)の加曾利貝塚博物館の開館後、博物館建物の横、現在の「発掘ひろば」の場所に円錐形の復元住居を設置していました。
私もはじめて史跡(当時)加曽利貝塚を五体投地しながら訪れたときに見た思い出があります。
(※一部表現に誇張があります。)

昭和57年(1982)、千葉市教育委員会は千葉市内に所在する史跡・遺跡の保存・活用の方向性をしめす「千葉市史跡整備基本構想」をまとめ、その中で史跡加曽利貝塚を野外博物館として整備していくこととしました。
これをふまえた「史跡加曽利貝塚南貝塚整備基本設計」では、屋外展示と体験学習の場として、南貝塚の南東外側に発掘調査の成果にもとづいて縄文時代中期集落を復元することとします。
そして、平成3年度(1991)にカヤぶき屋根の復元住居6棟と上屋の軸組だけの復元住居2棟をたてます。
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このときにたてた復元住居は、その後の老朽化などで撤去されましたが、現在は3棟(うち1棟は閉鎖中)を再建しています。

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でも、この2棟・・・形がちがう?
加曽利貝塚では、竪穴住居の上屋を復元できる資料がないことから、あえて複数の構造案で復元しています。

あと1点・・・カヤのふき方のちがいにもご注目。
1棟はカヤの先を外にむけていますが、もう1棟は根もとを外にむけてふいています。
古民家のカヤぶきは後者、根もとを外にむけてふいています。
カヤは根もとの方がかたくてじょうぶなので、水をとおしにくく、ながもちします。
ただし、根もとを外にむけて屋根をふくためには、かたいカヤの根もとの切り口をそろえて刈る、あるていど刃がながくてじょうぶな道具が必要になります。
しかし、縄文時代の道具の中に、それに適するものが見あたりません。
そこでもう1棟は、カヤの葉先を外にむけてふいた場合のカヤぶきにしてます。


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根もとの方を外側にした屋根。

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葉先を外側にした屋根。

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葉先を外側にそろえてふくためのくふうのひとつ。
カヤのうえでほしているみどり色のものは川のりで、屋根とは関係ありません。

 

2021年8月28日 土屋根の実験考古学

御所野遺跡では、この調査成果をもとに土屋根の復元住居がたてられます。
出土した炭化材から主柱と桁、垂木を復元し、垂木のうえを木の皮と小枝でおおってから厚さ約10センチの土をかぶせています。
屋根の勾配は、カヤぶきだと雨水が流れ落ちる45度でしたが、土屋根では土が流れ落ちない35度が最適とされました。

そして室温や湿度など「住みごごち」の記録をとった後、実際に復元住居を燃やしています。
燃やした結果、残った炭化材と焼土の状況を、発掘調査の記録をくらべることで、復元した構造とどこまで一致するのか検証しています。
その結果によって復元された竪穴住居が現在の御所野遺跡で展示されています。
これらは「実験考古学」の手法です。

ちなみにこの実験では、土屋根の竪穴住居はなかなか燃えないということがわかっています。
火をつけた時は燃えるのですが、屋根が土でおおわれているため、すぐに室内が酸素欠乏状態になって火が消えるというのです。
つまり、焼けた住居は「失火」の可能性が低く、わざと土屋根に穴をあけて住居内に空気がとおるようにしてから、火をつけた可能性が高いことがわかりました(御所野縄文博物館『縄文ムラの原風景』2020)。

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御所野遺跡での土屋根竪穴住居の焼失実験
(画像は一戸町教育委員会からご提供いただきました。)

土屋根ならば、竪穴住居跡の炭化材のでき方は、木炭のつくり方と同じ。

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穴の中に木をいれて・・・

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木のうえに、木の皮をかぶせ・・・

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木の皮のうえに草をかぶせて・・・
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草のうえを土でおおってから内部に火をつけて・・・

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空気をふさいで蒸し焼きにすると・・・
木炭になります。
土屋根の焼失住居とおなじ!

2021年8月22日 土屋根、あらわれる!

昭和61年(1986)、群馬県で榛名山の噴火による火砕流(かさいりゅう)でいっきに埋まった1500年前の古墳時代集落跡が発掘されます。
この中筋(なかすじ)遺跡で、火砕流の埋もれてその熱でむし焼きになった竪穴住居の上屋の痕跡が見つかります。
それによると、垂木の上にうすくカヤをしいて、その上に土をのせる・・・さらにカヤ、土の順でかさねていました。
火事で焼けた竪穴住居跡から焼土が出土する例があり、屋根に土をかぶせていたのではないかという見方は、沼遺跡の発掘調査以来ありました。
それが中筋遺跡ではっきり確認されることとなりました。

平成元年(1989)、岩手県御所野遺跡の発掘調査がはじまります。
この発掘調査で炭化した木材が数多く出土する縄文時代中期の竪穴住居跡が見つかります。

木材は完全に燃えると灰になります。
たき火が燃えつきると、あとには白い灰しか残っていないのを見たことはありませんか?
木が燃える途中で水をかけたり酸素が欠乏したりして火が消えてしてしまう、いわゆる不完全燃焼の状態にすると、BBQでも見なれた木の形をした黒い炭になります。

この炭の状態になった木材を炭化材(たんかざい)とよびます。

竪穴住居跡から炭化材が出土するということは、ただ火事になったというだけでなく、柱や屋根材が燃えつきて灰になる前に火が消えたということ・・・どうすればこうなるのでしょうか?さっそく「現場検証」です。
御所野遺跡では、炭化材はたくさん残っていましたが、カヤが燃えた痕跡はなく、炭化材の上を焼けた土・焼土がおおっていました。
この状況は、上屋の骨組みが燃える途中でくずれおち、その上をおちてきた屋根材、つまり土がおおいかぶさったため、燃えている木材がむし焼きにされて炭化材になったと考えられました。


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ふたたび、御所野遺跡の土屋根
(画像は一戸町教育委員会様からご提供いただきました。)


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燃えた・・・まっ白に・・・燃えつきた・・・まっ白な灰に

 

2021年8月18日 さかのぼるって、むずかしい

「さかのぼり」と「つながり」の話題でもうひとつ。
民族誌から考古資料を復元・解釈する方法について、ちがう環境・条件の文化・社会どうしをくらべるなんて!といった批判があることはご紹介しました。
ならば、「おなじ文化・社会」でくらべるのであれば、その問題は解決することになるのでしょうか?

実際、おなじ環境・条件にある、あるいは文化系譜・系統がつながる社会・文化の中であれば、現在あるいは記録のある過去(民族誌)からさかのぼって、考古資料につなげて解釈できるという考え方があります。
その方法は、「歴史遡及法(れきしそきゅうほう)」「直接歴史的接近法」などと呼ばれています。
民族誌をつかうことに批判的な考古学研究者の中でも、この歴史遡及法にはある程度理解をしめすむきもあるようです。

その一方で、人類学研究者の野林厚志(のばやし・あつし)さんは、歴史遡及法・直接歴史的接近法は系統・系譜がつながっていることを前提にする以上、「縄文時代の集団と連続性をもった集団について記述された民族誌や歴史資料を探すのはもちろん不可能」なので、この方法は縄文時代の復元にはつかえないという例をあげて、これがつかえる文化集団、さかのぼることができる時間の幅は非常に限られていると、その限界を指摘しています(『イノシシ狩猟の民族考古学』2008)。

野林さんや建築学研究者の石原さんの指摘は、「歴史をさかのぼってつなげる」ことはそうかんかんたんでないことに気づかせてくれます。

戦後の復元住居の研究では、家屋文鏡の画像などにくわえて、「同じ文化(民族)の系譜にある」という前提や、当時の文化人類学(民族学)・民俗学などの考え方の影響があったのでしょうか、高殿や古民家の「生きた化石」から一足とびにジャンプして先史の「民家」へとつなげようとしています。
しかし、「いま」を研究対象とする文化人類学や民俗学には、時間をさかのぼる自前の方法はありません。
そのため、いまからさかのぼって過去につなげようとするならば、歴史学や考古学の研究成果をつかって順番にたどっていく必要があります。

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「伝統」と言われることも、さかのぼるとなるとむずかしい・・・

このところ、竪穴住居の復元のテーマから脱線していっているって?
それでは次回、本題にもどりましょう。

2021年8月14日 変わるモノ、変わらないモノからたどる方法

変化のスピードがちがうモノ、ほかは変化しても変わらず残るモノがある・・・それは、私たちの身近、というよりもからだの中にもあります。
それは背骨、脊椎(せきつい)の下端につく「尾骨(びこつ)」とよばれる骨です。
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(原図は『貝塚博物館研究資料集第6集』より転載)

こう書きながら、つい自分のおしりをさすってしまいましたが、みなさまはどうですか?

これは字のとおり私たちの遠いご先祖さまのしっぽのなごりとされる骨で、いまは何の役目もありません。
時間とともに生物が変化してきた道すじ、進化を明らかにする古生物学(こせいぶつがく)では、生物化石を各部分の特徴で分類して、その特徴の変化のスピードのちがいから変化の順番を想定します。
そして、下の地層から出てくる化石のほうがふるいという原則にもとづいて、その変化の順番を確かめ、地層が堆積した年代から変化がおきた時間をはかり、40億年の生物進化の過程を明らかにしてきました。
これは「パラパラまんが」にたとえられることも・・・ページごとの絵のちがいが変化する生物の特徴、各ページが地層。ページが入れかわると、動きが変だぞ!?となります。

その考え方・方法を受けついでいる考古学では、モノの特徴を分類する「型式学」、モノが出てくる地層の上下関係で新旧を知る「層位学(そういがく)」という方法によって、モノの変化と変化する方向、それがいつおきたかを知る手段をもっています。

文化人類学ぎらいのイギリスの社会人類学研究者、エドマンド・リーチさんは、考古学による原始・古代像の復元に対しても「サイエンス・フィクション」ときびしい目をむけています。
そんなリーチさんも、モノの時間をさかのぼることができる考古学の方法には、文化人類学の考え方への批判の意味をこめて一種の「敬意」をいだくと言っています(長島信弘訳『社会人類学案内』1991)。


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加曽利貝塚博物館「遺跡の名を冠した土器」の展示で「型式学」を紹介しています。

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何が、「加曽利E式土器」なの?
くわしくは「加曽利のヒトTの部屋」(令和2年4月25日)へ!
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どうして「B」は、「E」よりあたらしいの?

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どうしてみんなおなじなの?

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どこがちがうの?

「型式学」と「層位学」については、また機会をあらためて。

 

 

2021年8月11日 「生きた化石」からたどれる?

関野さんの高殿、原口さんのカヤぶきの技術のように、いまに残る古い要素をさがしだし、そこから文化をさかのぼろうとする考え方は、考古学とおなじくモノと歴史に関心をよせる民俗学や文化人類学などの研究分野で見ることができました。

20世紀の前半、文化人類学(民族学)において、「文化」は生業、親族組織、宗教などさまざまな要素がモザイクのように集まって形づくられているという見方がありました。
これはスーパーマーケットでのお買いものにたとえることができるかもしれません。

スーパーマーケットのレジにならぶ買いもの客のカゴの中身には、野菜、くだもの、肉、牛乳・・・人によって種類だけでなく、サイズ・量、メーカなどおなじものがあればちがうものがあります。
その組み合わせには、買いもの客の好みはもちろん、家族構成、くらしのパターンなどのちがいがあらわれます。
この買いものカゴが「文化」・・・「文化」は買いものリストのように、たとえば「谷底でくらし、田んぼで米をつくり、もち米を主食にして、木と竹でつくった高床(たかゆか)の家に住み、仏教を信じる・・・」というぐあいに説明されます。
これでいくと縄文文化は、野焼きで土器をつくり、弓矢で動物を狩って、釣りやモリ、網で水産物をとって、木の実など食用植物をあつめて・・・このへんでご勘弁ください!
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さて、ふたたびスーパーマーケットのシーン・・・お父さんが「我が家はむかしからこの味なんだ!」とある銘柄のカレールーを握りしめている横で、お母さんは「チコちゃんちでつかっていて、便利そうだったから」と、これまで買ったことのないものを買いものカゴへ。
でもお父さん、そのルー、最近の健康志向に合わせて減塩・減脂肪になって、むかしと味はちがいますよ・・・(※これはフィクションであり、実在する人物等とは一切関係ありません。)

モザイク状の文化は、よその文化要素がくわわり、互いに影響しあうなどして変化していきます。
その一方で、文化の中でもそういう影響をうけにくく、変化がちいさいもの、変化しないものがある、つまり文化の中に「生きた化石」があり、それを見つけだしてたどることで、文化の歴史が復元・再現できると考えられていました。

ちなみに人類学では、いまはもう、このような見方はしていません。
文化とは人の行動を決める原則、認識のあり方とされています。
ここで買いものリストにたとえた「文化要素」は、文化にもとづく人の行動の「結果」と言えるでしょう。
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屋根はかわったけど、構造(軸組)はかわらないことも・・・

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2021年8月8日 復元住居と実験考古学、民族(俗)考古学

戦後の復元住居の建設ラッシュの背後には、社会的な要請がありました。
その一方で建築学においても、実際に復元住居をたてることで復元案を構造・技術的に検証し、新たな課題を見いだすという実験的な意味があったようです。

先に紹介した石原さんは、竪穴住居の復元研究の方向性として、発掘調査による考古学的資料によって復元することを第一としつつ、民俗・民族誌、文献記録から日本の民家史をさかのぼる方法をあげています。
これは古民家をかたちづくっている要素をそのみなもとまでさかのぼっていく方法ですが、石原さんはそれらがかならずしも竪穴住居につながるとはかぎらないとクギをさしています。

関野さんはそのつながりを高殿に求めました。
他方、堀口さんはカヤぶき屋根がつねに最新の建築技術を習得する大工ではなく、地元の農民によってつくられることから、そのなかに古い技術が代々継承されていると考えました。
そして、四角い屋根の隅をささえる隅木(すみき)がない奈良県慈光院のカヤぶき屋根の構造に最古の建築様式が残ると見て、これを参考に与助尾根遺跡の復元住居の上屋を設計しています。
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屋根のてっぺんが棟、そこから屋根の平面どうしをつなぐラインが隅棟(すみむね)、あるいは下り棟(くだりむね)などとよばれます。

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通常、垂木とおなじく隅木(矢印)はカヤなどの屋根材と天井にはさまれているので見えにくい。

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村びと全員で家のたてかえ

 

2021年8月5日 カヤぶき屋根への?

与助尾根遺跡を発掘調査した考古学研究者の宮坂英弌(みやさか・ふさかず)さんは、竪穴住居にカヤぶき屋根とは別のイメージ、八ヶ岳山麓の農村に古くから伝わる「穴倉(あなぐら)」を思い浮かべていたそうです。
「穴倉」とは、竪穴の外の地上にたてた叉首に柱を組み合わせ、そのてっぺんから地上にかけて棟木をわたし、これにカヤかワラで屋根をふいて、その上に土をかぶせる、冬の作業場です(『尖石』1998)。

また、沼遺跡では、炭化した木材とともに焼けた赤い土・焼土(しょうど)が出土したことから、屋根に土がつかわれた可能性があるとしていました(津山市郷土館『津山弥生住居址群の研究-西地区-』1957)。

建築学研究者の中でも、当初から竪穴住居の復元の方法に疑問がもたれています。
先に紹介した『建築雑誌』の復元住居特集号で、民家建築・都市計画研究者の石原憲治(いしはら・けんじ)さんは、登呂遺跡の復元のもとになった高殿がふるい建築様式を残すとすることに疑問を投げかけ、考古学的な出土資料が乏しい中での復元を「空想」と断じています。
この特集号では、石原さん以外にも村田治郎(むらた・じろう)さんが樺太アイヌなど竪穴住居をつかっていた北方民族や、宮坂さんが思いおこしていたような北関東の室(むろ)の例を参考にすることを提唱しています。
そのような民族・民俗の事例には、竪穴住居の屋根を土でおおうものがありました。


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2021年8月1日 カヤぶき屋根の源流をたどる

登呂遺跡では、発掘調査で竪穴住居跡から屋根の一部が「葺(ふ)き草」をのせたまま押しつぶされて出土したと報告されています(上田三平「駿河富士見原に於ける原始農耕聚落遺跡の研究」『登呂遺跡第1次調査の記録』1990)。

また、竪穴住居の上屋復元におおきな影響を与えた佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡に描かれた建物の屋根の勾配は45度で、現在の古民家のカヤぶき屋根とおなじです。
この45度という屋根の勾配は、雨が表面のカヤをつたって軒先から流れおちるために必要な角度です。
これよりも屋根の勾配がゆるいと、雨水がカヤの中をしみこみ、雨もりしてカヤがくさってしまいます。
このような屋根のシルエットが、「竪穴住居はカヤぶき」というイメージを強くしたのかもしれません。

日本民家のルーツをもとめた竪穴住居の建築学的研究では、カヤぶき屋根のルーツもまた竪穴住居にかさねられていたようです。

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奈良県佐味田宝塚古墳出土家屋文鏡「竪穴住居」とされる図形。
屋根の左にテラスのようなものが見えるなど竪穴住居ではない、というご意見もあります。
(原資料は、宮内庁書陵部所蔵)
画像掲載にあたっては、宮内庁書陵部様のご許可をいただきました。

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テラスがあるとすれば、こういう感じ?

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そういう建物を絵にすると、こういう感じ。

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2021年7月29日 戦後の復元住居研究

世界文化遺産となった「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する御所野遺跡の紹介からはじまった「史跡の花形・復元住居」編、まだつづきます。

戦後まもなく、登呂遺跡をはじめ各地の遺跡で復元住居がたてられています。
たとえば、復元住居の先がけとなる昭和24年(1948)の長野県与助尾根(よすけおね)遺跡にはじまり、登呂遺跡と同じく昭和26年(1950)に長野県平出(ひらいで)遺跡、昭和30年(1954)に岡山県沼(ぬま)遺跡などでたてられます。

与助尾根遺跡では和風建築家の堀口捨巳(ほりぐち・すてみ)さん、平出遺跡では古建築研究者の藤島亥治郎(ふじしま・がいじろう)さん、沼遺跡では建築学研究者の渋谷泰彦(しぶや・やすひこ)さんが上屋構造を設計しています。

設計者のみなさんは、奈良県佐味田宝塚(さみだたからづか)古墳の家屋文鏡(かおくもんきょう)に描かれた竪穴建物と思われる図形や古墳出土の家形埴輪を意識しつつ、堀口さんは奈良県のお寺、慈光院(じこういん)のカヤぶき屋根の構造から、藤島さんと渋谷さんは竪穴住居跡から出土した炭化材の位置や形から設計をこころみています。

戦後まもなく、各地の遺跡の保存・活用の中で復元住居が各地でたてられた背景には、新たな日本の歴史像、アイデンティティを模索する中で、そのルーツを明らかにする考古学の調査成果を目に見える形にすることへの期待があったと思われます。
そして、著名な建築家が積極的に復元住居にかかわったことは、建築学においても日本民家のルーツとしての竪穴住居への関心が高かったことをうかがわせます。
それは、昭和27年(1951)に建築学の学術誌『建築雑誌』774・775号で復元住居が特集されたことにもあらわれています。

登呂遺跡をはじめ、この時に設計された復元構造案がその後の史跡等における竪穴住居復元の基本となり、今日まで引きつがれます。
加曽利貝塚の復元住居の構造も、この流れをくんでいます。

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今日も竪穴住居をはじめ、古代建造物の復元に大きな影響をあたえている佐味田宝塚古墳出土家屋文鏡(原資料は、宮内庁書陵部所蔵)
画像掲載にあたっては、宮内庁書陵部様からご許可をいただきました。

2021年7月28日 祝!世界遺産登録!! 

昨日、ユネスコ世界文化遺産委員会は「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産への登録を決定いたしました!おめでとうございます!!

今回の登録は、縄文文化の「普遍的価値」を世界にむけて発信することとなり、史跡の保護、整備、活用に取りくむ私たちにもおおいに力をあたえてもらえました。
今後は加曽利貝塚もその価値、魅力をよりいっそう高め、発信してまいります!

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加曽利貝塚博物館でも紹介しています。


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2021年7月25日 登呂遺跡の復元住居

登呂遺跡のめざましい発掘調査成果によって、遺跡の保存と博物館・遺跡公園の整備の機運が高まります。
この遺跡整備構想の中で、竪穴住居の復元への要望の声も高まり、その設計を関野さんが担うこととなります。

登呂遺跡は湿地の中に所在する遺跡です。
そのため、洪水で地下深く埋もれた建物の建材の一部が地下水の影響でくさらずに残っていました。
関野さんは戦前からの研究成果と、残された建材などをもとに復元住居を設計します。
登呂遺跡出土の建材などには、鉄器をつかう高度な木材加工技術の痕跡が認められたことから、木材をつなぎ合わせ、組み合わせる技術があったと想定しています。
そのため、棟木をささえる建材は扠首を地上からのばすのではなく、桁の上にたてる構造で復元することで、建築学的に縄文時代より発展した構造とされました。
 
特別史跡登呂遺跡では、平成11年(1999)から15年(2003)にかけて再発掘調査が行われました。
その結果、竪穴住居跡では、地上に扠首をたてた痕跡はみつかりませんでした。
この再発掘調査の成果にもとづいた史跡の再整備では、復元住居の基本的な構造は引きつがれています(静岡市教育委員会『特別史跡登呂遺跡再整備事業報告書』2012)。

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特別史跡 登呂遺跡の旧・復元住居(2017年個人撮影)

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再整備後の新・復元住居(2017年個人撮影)

画像掲載にあたっては静岡市立登呂博物館様のご協力をいただきました。

 

2021年7月21日 登呂遺跡の発見

太平洋戦争中の昭和18年(1943)、静岡市内の工場建設にともない、水田の下から遺跡が発見されます。
それが洪水で埋没した弥生時代の集落遺跡、登呂(とろ)遺跡です。
登呂遺跡では、戦後まもなくの昭和22年(1947)から25年(1950)にかけて本格的な発掘調査が行われ、12棟の竪穴住居跡、2棟の掘立柱建物跡、8ヘクタールの水田跡が発見されます。

この発掘調査成果は、今日までつづく日本の稲作文化のみなもととしての弥生時代のイメージをつくりあげ、定着させることになります。
また、その発掘調査には考古学のほか、地理学、動物学、植物学そして建築学の研究者が参加しており、いまで言う学際的調査が行われました。
そして、この発掘調査をきっかけに、考古学研究者による全国組織「日本考古学協会」が発足します。

このような成果が評価され、登呂遺跡は昭和27年(1952)に特別史跡に指定されます。
弥生時代のイメージをつくりあげ、社会に影響をあたえた遺跡、日本の考古学研究におおきく貢献した遺跡・・・時代はちがいますが、加曽利貝塚と似ていませんか?
ちなみに私の中学生くらいのころ、五体投地(ごたいとうち)して訪れるべき遺跡の三大聖地は「加曽利、登呂、田能(たの)」でした(※個人の感想です)。

登呂遺跡の学際的な発掘調査に参加した建築史研究者が、関野さんでした。

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特別史跡の大先輩、登呂遺跡(2017年個人撮影)
画像掲載にあたっては静岡市立登呂博物館様のご協力をいただきました。

 

2021年7月17日 うしなわれた屋根をもとめて

竪穴住居の復元研究は、太平洋戦争前から建築史研究者を中心に着手されています。
特に関野克(せきの・まさる)さんは、はやくから日本住宅史の観点から竪穴住居跡を研究し、うしなわれた上屋構造の復元をこころみています。
この中で関野さんは、江戸時代のたたら吹き製鉄の技術書『鉄山秘書(てつざんひしょ)』に記録された製鉄工場、高殿(たかどの)の構造につよい関心をむけます。

この『鉄山秘書』によると、高殿は皮をはいだだけの木の主柱を方形に配置し、そのまわりを上から見た平面の形が方形あるいは隅丸方形に壁をめぐらせます。
そして、四隅の主柱周辺の垂木は、地上までのびて接地していたとされています。
この柱の痕跡(柱穴)のならびだけを想像すると・・・そう、竪穴住居跡とそっくり。

関野さんは、これらの構造は古民家には見られないもので、むしろ竪穴住居跡と共通しているほか、柱はてっぺんが二股(ふたまた)にわかれた木材を利用し、桁とのつなぎ合わせに葛蔓(かずらつる)をつかうという記述から、高殿の構造に古い時代の建築様式が残っていると考えました。(「鐡山秘書高殿に就いて(原始時代一建築構想の啓示)」『考古学雑誌』昭和13年7月号1938)

現在、高殿は唯一、島根県雲南市に所在する有形民俗文化財「菅谷(すがや)たたら山内(さんない)」に残っています。
ぜひ、現地をおとずれて、実際に確認してみてください!
また、宮崎駿さんのアニメ映画『もののけ姫』にも高殿が登場するので、ご覧になる機会があれば、そこにもご注目ください。

これをもとに、関野さんはいくつかの復元案をつくります。
その中の縄文時代の復元案では、木材を加工して組み合わせる技術が未発達とみて、棟木をささえる扠首を地上からのびる木材を桁によりかけさせて、そのてっぺんでX字状に交差させる構造として設計しました。

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島根県雲南市の重要有形民俗文化財「菅谷たたら山内」の菅谷高殿(2010年個人撮影)
画像掲載にあたっては、雲南市教育委員会、公益財団法人鉄の歴史村地域振興財団様のご協力をいただきました。

2021年7月14日 復元住居の上屋

ここで、あらためて今ある加曽利貝塚の復元住居の上屋構造をご紹介しましょう。
この復元住居では、竪穴の上に円錐形のカヤぶき屋根が地面までふきおろされています。

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つづいて復元住居を中から見てみましょう。
竪穴の壁沿いに柱をたてたと考えられる穴「柱穴(ちゅうけつ)」がめぐっていたので、その位置に屋根をささえる柱「主柱(しゅちゅう)」がたっています。
となりあう主柱のふたまたになったてっぺんをつないで渡す木材が「桁(けた)」。
桁は建物の壁に沿って配置される材です。


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向かいあう主柱のてっぺんをつなぐ木材が「梁(はり)」。
梁は建物の中にいる人の頭の上を行きかうことになります。
これらが屋根をささえる構造「軸組(じくくみ)」です。

 

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この軸組より上の屋根の構造を「小屋組(こやくみ)」とよびます。
屋根のてっぺんにある横一本の木材が棟木(むなぎ)。
この棟木は地上から梁の両端にもたれさせてのばした2本の材の先端を交差させる「扠首(さす)」でささえられています。
棟木から桁にかけてタテにならぶ木材を「垂木(たるき)」と呼びます。
この垂木は、棟木から地面までのびています。
垂木の上にはタテヨコにならぶ屋根の骨組「下地(したじ)」があり、その上に直物のカヤの屋根材をふきます。
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ところで、「復元住居」と「復原住居」はちがう?
一般的に辞書では「復原・復元」というようにならんで書かれ、意味にちがいはないようです。
しかし、建築の専門家はつかい分けています。
「復元」はすでに存在しない建造物を、すべて新しい材料でつくりなおすこと。
「復原」は、たとえば改修・改造をほどこされ、形・構造がかわった建造物を、最初にたてられたときの姿にもどすこと。
ということで、ここでは「復元住居」とします。

 

 

2021年7月11日 残る柱穴、残らない柱

「考古学って、なに?」で、残らないモノ、残りにくいモノがあることはふれました。
建物の建築材でも石やレンガなどは残りやすいのですが、日本の古民家のように木や竹などの植物質、有機質の材料でつくられた建物は、住まなくなってうちすてられると、時間の経過とともにくさってなくなっていきます。
イタリアのポンペイ遺跡のように火山灰などが降りつもって、一気に地下深く埋まる、そして地下水によって空気が遮断されて木などがくさらないかぎり、竪穴住居の屋根などの上屋(うわや)がそのままの姿で残ることは期待できません。
そのため、遺跡からは多くの場合、竪穴と柱をたてた穴、火をたいた炉(ろ)の跡、ときどき火事で焼け残った建築材の一部が出土するだけです。

加曽利貝塚でもこれまでの発掘調査では、竪穴住居跡の竪穴や柱穴以外で、屋根など上屋の構造を知ることができるものは、まだ見つかっていません。

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加曽利貝塚の竪穴住居跡

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上屋はくさってなくなるだけではありません。
引っ越すと上屋もいっしょに・・・
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みんな持っていったことだってあったかも!?

 

 

2021年7月8日 史跡の花形!?

5月20・27日にお知らせした千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景-御所野遺跡」のパネル展が6月27日に終了いたしました。
また、これにあわせて開催していました当館の「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡」展も、7月4日に終了いたしました。
御来場・御来館のみなさま、ありがとうございました。
あとは今月予定されている「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録決定をまつのみ!

ところで、本展開催をお知らせした際、御所野(ごしょの)遺跡と加曽利貝塚の屋外展示、復元住居の画像をご紹介しました。
縄文時代の史跡と言えば、復元された竪穴住居!というイメージがあるかも?
復元住居は、整備された史跡の「花形」かもしれません。

ここで加曽利貝塚と御所野遺跡の画像を再度見くらべてみましょう。
なにかがちがう・・・加曽利貝塚や千葉市生涯学習センターの展示をご覧になったみなさまは、もうお気づきでしょう。
屋根がちがう・・・加曽利貝塚はカヤぶき屋根、御所野遺跡は、草が生えている?つち?土?そう、土屋根です。
どうしてちがうのか?そこからは、考古学、建築学と遺跡・史跡整備の歴史をうかがうことができます。

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史跡 御所野遺跡の復元住居
画像は一戸町教育委員会様からご提供いただきました。

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特別史跡 加曽利貝塚の復元住居

 

2021年7月3日 加曽利貝塚の「なんで?」

お知らせやひとりごとをはさみましたが、今回が「考古学って、なに?」編の最終回。

実験考古学も民族考古学も、いま、目の前で人の行動・行為とモノ・痕跡の関係を見ることができます。
そしてその成果は、人の行為・行動とモノの関係の可能性をひろげたり、しぼり込みます。
そのため、実験考古学と民族考古学をおなじものとする考え方があります。

イギリスの人類学研究者、ティム・インゴルドさんは、人類学の現地調査(フィールドワーク)では観察者(研究者)が期待する、しないに関係なく、相手から「与えられたものをありがたく受け取る」のに対して、実験では人工的につくられた場所で、「モノの秘密が無理やりにあるいはトリッキーに、暴かれ」ると、ちょっと刺激的にそのちがいを説明しています(奥野克巳ほか訳『人類学とは何か』2020)。

民族考古学では、考古学的なテーマを設けて現地で調査・研究しています。
けれども調査の場では、それにかぎらない、さまざまなものを与えられ、いただいています。

次回からは、そんないただきものをまじえながら、特別史跡加曽利貝塚の風景や展示の中から(しつこいようですがチコちゃん風に)「なんで?」を、みなさまといっしょに考えていきたいと思います。

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しばし、おわかれ。

 

 

2021年7月1日 千葉市立郷土博物館小企画展「陸軍気球連帯と第二格納庫」

7月の初日、ここで「鉄オタ」(「鉄」は「鉄道」ではありません)のひとりごと・・・

現在、千葉市立郷土博物館において7月11日までの会期で、小企画展「陸軍気球連帯と第二格納庫」を開催しています。
昨年、千葉市内に所在した旧日本軍唯一の気球連隊の遺構、「第二格納庫」が老朽化のため解体されました。
これを機会に陸軍気球連隊の全貌にせまる調査が行われ、本展ではその成果が公開されています。
陸軍気球連隊の「第二格納庫」は、「ダイヤモンドトラス」構造をつかって設計・建設されました。

トラスとは、建材を三角形に組んだ構造をつなぎあわせて強度を増す技術で、古くから屋根の骨組みなどで使われてきました。
18世紀の産業革命で製鉄産業が発展すると、建造物の建材に鉄がつかわれるようになります。
当時はまだかたさとしなやかさをあわせもつ鉄鋼の大量生産技術が未熟だったため、やわらかい錬鉄(れんてつ)が主な材料でした。
そんな錬鉄でもトラス構造をつかってパリのエッフェル塔がたてられています。
そのエッフェル塔がたてられたパリ万国博覧会(1855~1900年)の時期は、第二次産業革命とも呼ばれ、製鉄技術がおおきく発達します。
特にベッセマー転炉(てんろ)という精錬(せいれん)炉による製鋼技術が発明されると、鉄鋼の大量生産の道が開けました。
建築でも鉄鋼を建材にすることで、柱の数を少なくしながら、高い天井、広い空間もつ建造物をたてることが可能となります。

日本では、昭和7年(1932)に従来のトラス構造よりもじょうぶで、屋根をささえる柱をすくなくして、より大きな空間をもつ建物をたてることができる画期的な技術、ひし形構造の「ダイヤモンドトラス」が発明されます。
そして、昭和9年(1934)に完成した気球連隊「第二格納庫」にこの最新技術・ダイヤモンドトラス構造がつかわれます。

日本の軍用気球を運用した唯一の気球連隊、それにかかわる建造物と技術・・・日本の近代史はもちろん、建築史そして鉄の歴史(「鉄オタ」の「鉄」はこちらの鉄)に関心のある方は見のがすことのできない展示ですね。
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解体前の「第二格納庫」(千葉市立郷土博物館提供)

 

2021年6月30日 「なんで?」のきっかけ、民族誌

自分のまわりでもモノと人の行為・行動の関係を観察することはできます。実際にその調査・研究は行われています。
ならば、なぜ、わざわざ時間とお金をかけてまで批判のタネとなる、はなれた、ちがう社会・文化で調べるのでしょうか?
人によって理由はさまざまでしょうが、自分が属する文化・社会では当たり前、常識と思っていることが、外部の人の目からはちがって見えることがあるからだと私は考えています。

アメリカの政治・人類学研究者、ジェームス・C・スコットさんは、東南アジアの歴史研究において国家の歴史だけでなく、山地民(いわゆる少数民族)の歴史からの視点が必要であるにもかかわらず、これまでそれが不十分であると問題提起しています。
その原因として、山地民がみずからの文字記録をもたず、ちいさな集団がひんぱんに山から山へと移動して、そのくらしの痕跡が見つけられないため、研究者が関心を向けてこなかったことをあげています(佐藤仁ほか訳『ゾミア』2013)。

いや、考古学の調査手法ならば彼らのくらしの痕跡を見つけることができる!そして、彼らの歴史を明らかにできる!!と反論したいところです。
このような条件こそ、考古学の本領発揮!のはずですが、そもそも考古学研究者がそういう目で山を見る意識、山のうえのちいさなくらしへの関心をもたないかぎり、見つけることはできないでしょう。
そういう意味で、スコットさんが言われることは正しい。

他者の文化・社会を観察することは、日ごろ気にすることもなく見すごしてしまうようなモノと痕跡、それらと人の関係を気づかせてくれます。
考古学的民族誌は、そのような経験を多くの人と共有することができます。
それによって、研究者みずからが「である」「と考えられる」とする根拠を問いなおす機会となり、より確かなものにしてくれることでしょう。

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この風景は、考古学になにか気づかせてくれるのでしょうか?

 

 

2021年6月27日 民族誌をつかう?つかわない?

民族誌、特に考古学的民族誌は、どういう環境・条件、文化・社会のもとで人とモノの関係はどうなのか、その関係を他者と具体的に共有して理解するうえで有効です。
「確からしい」「もっともらしい」と判断する情報源には、意識・無意識のさまざまなものがあることはふれました。その中には、民族誌も含まれることがあります。
それにもかかわらず、先に紹介したような民族誌の利用や民族考古学への批判があることに、考古学・人類学研究者の後藤明さんは次のようにこたえています。

意識していなくても民族(俗)学的な類推は行われてきたのだから、「役に立たない」と頭から決めてかかるより、民族資料を考古学に役立てるための手続きをもっと体系化、そして明示化する方が生産的だと、私は思う(『民族考古学』2001)。

もうひとつ、民族誌・考古学的民族誌は、モノと人の関係に影響を及ぼす環境・条件がどれだけあるのかを教えてくれます。
このような情報は、考古学研究においてなにが問題であり、その解明のためになにをどのように解決しなければならないのか、考えるきっかけになります。
それは、モノと人の関係が「こうだからこうなるにちがいない、こうなるはずだ」と考えるにいたるまでに、「では、こういう場合はどうか?」「こういう場合もあるのでは?」というハードルをもうけることです。
このようなハードルは、調査・研究方法の開発や改善につながることが期待できます。

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自分で見てみる、記録する・・・前館長、土器づくりのロクロを激写!
現在、尼崎市立歴史博物館田能(たの)資料館では、9月19日までの会期で企画展「チャレンジ★やよい人!-弥生土器づくり」を開催しています。
本展では、昨年度の当館「館長の考古学日記」で公開しました「ラオスの土器づくり」の映像を上映しています。
この映像はYouTubeの加曽利貝塚博物館「ラオスの土器づくり」でもご覧になれますが、展示の中でご覧になると、よりいっそう土器づくりの雰囲気を身近に感じることができるのではないでしょうか。

 

2021年6月23日 考古学と民族誌、ふたたび

ここからは、これまで紹介したモノ・痕跡と人の行為・行動、文化・社会を結びつける方法のうち、今を生きる人びとを観察し、記録する方法を掘りさげてみましょう。

この「民族誌による考古資料の解釈」や「民族考古学」の考え方・方法に対しては、たとえば縄文時代と同じ環境・文化・社会は現存しないように、「生きた化石」など存在しない、つまり、まったく同じ環境・社会・文化はなく、似ているから同じとは言えない、ちがう環境・社会・文化のモノどうしを比較することはできない、といった批判があります。

これらの批判は正しいと思います。
ただし、それは考古資料の解釈において、民族誌や民族考古学の成果に唯一の解答を期待した場合です。
民族誌は、さまざまな環境・条件において、人の行為・行動がどのようにモノ・痕跡として残される可能性があるのか、文化・社会とどう関係するのか、その選択肢を示してくれると考えるのはいかがでしょうか?
とくに考古学研究者みずからが調査地におもむき、考古学的視点・問題意識にもとづいて観察し、記録した民族誌(ここでは考古学的民族誌と呼びます)では、さまざまな環境・条件のもとでの人とモノの関係を知ることができます。

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いまどきのデジタル技術を使わず、アナログに生きる私は、「生きた化石」。

 

2021年6月19日 祝・船橋市取掛西貝塚の史跡指定答申!

梅雨のじめじめした日に、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産への登録勧告に続き、うれしいニュースです!
このたび国の文化審議会は文部科学大臣に対し、船橋市に所在する取掛西(とりかけにし)貝塚を史跡に指定することを答申いたしました!!
このあと、官報告示をもって史跡指定となることが見込まれます。

取掛西貝塚は、約1万年前の縄文時代早期と約6千年前の縄文時代前期の2つの時期からなる貝塚集落跡です。
縄文時代早期の集落遺跡としては最大級の規模であり、これにともなうヤマトシジミなどからなる貝塚は、特に貝塚遺跡が集中する東京湾東岸でも最古クラスです。
また、この貝塚の下からは、イノシシやシカの頭の骨が集められた状態で出土するなど、当時の人びとのくらしや考え方にせまることができる遺跡です。

加曽利貝塚は、日本で最大級の貝塚集落跡ですが、本貝塚だけで東京湾東岸に集中する貝塚遺跡、そして縄文時代をかたることはできません。
ながい縄文時代の中で貝塚集落は、その時期、場所によってそれぞれの特徴がちがいます。
取掛西貝塚は、加曽利貝塚の貝塚がつくられはじめる縄文時代中期より前の貝塚集落のありかたを知ることができ、なぜ加曽利貝塚が営まれたのかを考えるうえでも重要な遺跡です。

船橋市には縄文時代早期の市指定史跡・飛ノ台(とびのだい)貝塚も所在し、その隣には飛ノ台史跡公園博物館があります。
こちらでは本日から7月11日まで、取掛西貝塚の調査成果を紹介するミニ展示「いよいよ国史跡指定へ 取掛西貝塚」を開催しています。

東京湾東岸では、市川考古博物館(史跡・堀之内貝塚ほか)、飛ノ台史跡公園博物館、袖ケ浦市郷土博物館(史跡・山野貝塚)、そして当館が貝塚遺跡の史跡の保存と公開をしています。
取掛貝塚の史跡指定を機会に、当館をはじめとする博物館・史跡を訪れて、縄文時代、縄文文化への関心を深めていただければと思います。

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みなさまのご来館をおまち申しあげます。

 

 

2021年6月16日 考古学は三段とび

考古学の方法は、モノ・痕跡を見つけだして記録する(ホップ)、その記録から人の行為・行動を再現・復元する(ステップ)、そこから人の行為・行動から歴史・文化を解明する(ジャンプ)と、三段とびのようなものかもしれません。
三段とびでは、ホップ、ステップで失敗するとジャンプの距離がのびない、場合によっては失格になることもあります。

考古学研究でも、その目的を達成するためには、その前のホップ、ステップにあたる手つづきがとても重要です。

博物館の常設展示では、このホップを基本に展示しつつ、ステップ、そして時にはジャンプまで展示することがあります。
他方、テーマが決まった企画展・特別展ではステップ・ジャンプまで、最新の研究成果が紹介されます。

みなさまも博物館の展示をご覧になる時には、「ここはホップ、ここはステップ・・・」などと意識して見てはいかがでしょうか。
また、博物館の展示室は、だれもが「検察官」、「弁護人」、「裁判官」になることができる「法廷」でもあります。

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加曽利貝塚博物館の展示室は「法廷」?
くれぐれも館内での本当の三段とびはご遠慮ください。

 

2021年6月13日 モノからコトへ、歴史・文化へ、人へ

またまた事故・事件のはなしにもどります。
現場検証は、記録・調書をつくることが目的ではありません。
これらを証拠に、いつ、だれが、どこで、なにをしたのか、どうしてその行為・行動に及んだのかを認定したうえで、裁判に付されます。

さしずめ考古学研究者は、証拠を集める鑑識官、それらから人の行為・行動を再現し、その動機までを立証する検察官で、学会・論文が法廷、その他の研究者が弁護人・裁判官・陪審員というイメージかもしれません。
現場検証が不十分、証拠が不十分では事実の認定はできませんし、動機も解明できません。

それでは、裁判では判決に大きく影響する行為・行動の「動機」は、考古学ではなにでしょうか。
それは、人類の歴史、あるいは人の行動を決める文化、そして人とはなにか?です。

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突然ですが、「5月23日 モノからコトへ」のナゾかけのこたえ、です。

 

2021年6月9日 モノからコトヘ、見てみる

現在の人間集団(民族)を観察するもうひとつの方法、「民族考古学」。
民族考古学は、現在の人の行為・行動とモノの関係は、過去でもなり立つという考え方にもとづいています。

「民族誌による考古資料の解釈」では、探検隊やキリスト教宣教師、植民地の行政官などにはじまり、人類学研究者(民族誌研究者)よる記録まで、さまざまな民族誌が使われます。

民族考古学では、考古学研究者みずからがモノと人の関係という考古学的な問題意識にしたがって観察し、記録します。
ここでは、観察の対象となる人間集団が「生きた化石」かどうかは、関係ありません。
考古学研究者が見てみたいと思うモノと行為・行動の関係が見えやすい社会・集団が選ばれます。
そこでは現在進行形の「変化」もまた、観察の対象とされます。

以上がモノ・痕跡と人の行為・行動をつなぐ方法としての「歴史考古学」「実験考古学」「民族考古学」です。
なお、ビンフォードさんのもとで学ばれた考古学研究者の阿子島香さんは、自然科学的分析の中にも広い意味でその方法に加えることができるものがあるとしています(「ミドルレンジセオリー」『考古学論叢』1983)。

これらの方法が、モノ・痕跡と人の行為・行動の関係を説明するうえで有効であるのか、それぞれ議論があるところです。
しかし、「確からしい」と考える根拠をはっきりさせる必要があることには、異論はないでしょう。

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これぐらいの大きさの集団であれば、モノと人の関係は見えやすい。

 

2021年6月6日 モノからコトヘ、くらべてみる

モノ・痕跡と人の行為・行動をつなぐ方法の最後は、現在の人、人間集団(民族)を観察する方法です。
これは、環境・条件が同じならば、人は同じ行為・行動を行い、その結果、同じようなモノ・痕跡が残るという「斉一性(さいいつせい)」の原則にもとづいています。
この方法は、大きく「民族誌による考古資料の解釈」と「民族考古学」に分けられます。

「民族」とは、ある文化を共有する(と信じている)集団で、「誌」とは文字・図・写真などで書きあらわしたものです。ようするに「民族誌」とは、文化をともにする人間集団を、その文化に属さない人が観察した記録です。

人は、むかしから自分とちがう文化・社会の人びとに出あうと、どうしてちがうのか、その理由を考えてきました。その中には、進歩がとまった人たち、自分たちの先祖とおなじ生活をする人たちがいるという見方がありました。
このような見方は、19世紀後半以降のヨーロッパにおいて、生物進化とおなじく社会も進化してきたという社会進化論として、科学的な体裁をととのえていきます。

この社会進化論の観点から考古資料の機能・役わりなどを説明しようとしたのが、「民族誌による考古資料の解釈」のはじまりです。
つまり、いまもむかしの文化・社会を保持している人びと、「生きた化石」が存在しており、考古資料とおなじような文化・社会を記録した民族誌とくらべてかさねることで、その考古資料が説明できるとする考え方が根もとにあります。

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遮光器土偶(しゃこうきどぐう)(複製品・当館蔵)

名前の由来は、北方狩猟採集民の雪に反射する光から目をまもるメガネ・遮光器に「似ているから」

 

2021年6月2日 モノからコトヘ、やってみる

モノや痕跡から行為・行動を再現・復元するための方法、「実験考古学」。
「実験」とは、「こうすると、こうなるだろう」と仮説をたてて、それにもとづいて実際にやってみる方法です。
つまり、「実験考古学」では、モノや痕跡からそれを残した行為・行動の仮説をたて、やってみて、実際にできるのか、効果はどうか、考古資料と同じモノと痕跡が残るのかなどを確認します。

実験考古学では、人がどう行動すれば(原因)、どのようなモノや痕跡を残すか(結果)、直接観察することができます。
くりかえし実験して同じ結果がえられると、その仮説の説得力は増します。
しかし、「できた」からそれを「していた」とはかぎりません。
実験で「できる」条件・環境がどれだけあるのか確認したうえで、「していた」ことにしぼり込む方法を考える必要があります。

また、「できなかった」ことは、その実験が失敗、むだと言うことにはなりません。
「できなかった」原因を知ることで仮説を修正し、実験をくり返すことが、仮説の「確からしさ」を高めていきます。

加曽利貝塚博物館は、その開設当時からこの実験考古学に取り組んできました。
特に縄文土器の研究における土器をつくる、使う実験では先駆的と評価されています。
このことも特別史跡加曽利貝塚の価値のひとつです。

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実験考古学の成果の一部は、「土器をつくる」の展示でご覧いただけます。

 

2021年5月30日 モノからコトへ、たどってみる

モノや痕跡から行為・行動(コト)を再現・復元するための方法、「歴史考古学」。
文字記録(文献)に残っており、だれがなにをしたのか、過去のできごとがあらかじめわかっている場所を発掘調査することによって、人の行為・行動がどのようにモノ・痕跡として残るのか、たどってみる方法です。

なお、考古学では、文字のない時代を研究対象とする「先史考古学」、文字記録のある時代を研究対象とする「歴史考古学」に区分されることがあります。さらに、その中間に文字があらわれる過渡期を「原史」とする区分もあります。

その区分によると、日本考古学では、文字記録のない弥生時代以前が「先史」、文字・文字記録があらわれる古墳時代が「原史」、飛鳥時代以後が「歴史」になります。
ちなみに、弥生時代はビミョー・・・今後、文字を使っていたことが確認されるかも?

はなしをもどしましょう。
この方法は「歴史考古学」に含まれます。ただし、日本の考古学でいう「歴史考古学」とは性格がちがいます。
前者はモノと人の行為・行動、文化・社会の関係を、後者は文献記録のある時代の歴史の再構成におもな関心を向けています。

ビンフォードさんが、モノと人の行為・行動をつなぐ方法として「歴史考古学」をあげた背景には、アメリカの考古学事情があるものと思われます。
アメリカでは、「歴史時代」はコロンブスのアメリカ大陸到達(1492年)以後。
そのため、アメリカの「歴史考古学」では、多くの文字記録が残されているできごとを、モノ・痕跡から検証することができます。

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最近、「原史」は耳にしなくなった?

2021年5月28日 モノからコトへ(その2)

5月23日からの続きです。
「確からしい」「もっともらしい」と判断すること、「常識」とする知識の源は、自分で見て、聞いて、体験したことにはじまり、人から聞いたり、本で読んだり、テレビやインターネットで見たり・・・意識する、しないを問わず、さまざまです。
「確からしい」「もっともらしい」判断には、根拠はあります。しかし、このようなさまざまな情報・知識が複雑にからみ合っているため、根拠とされる情報・知識が明示されにくく、正確さのレベルもちがう情報が混じりあい、同じ体験や情報、価値観などを共有していない人から(チコちゃん風に)「なんで?」と聞かれた時、「・・・」となることがあります(大竹まことさんをイメージしてみました)。
それでは、モノと人の行為・行動の関係を、だれもが「そうだね」と理解できるよう説明する方法はあるのでしょうか?アメリカの考古学・人類学研究者、ルイス・ビンフォードさんは3つの方法をあげています。それは、「歴史考古学」「実験考古学」「民族考古学」です。

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昨年度からの再登場・・・「確からしさ」のタネ

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私は、どちらかといえばこっち

2021年5月27日 祝!世界遺産登録勧告

我が国から世界文化遺産に推薦された「北海道・北東北の縄文遺跡群」について,ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関・イコモスは、世界遺産への登録が適当と勧告しました。
今後、7月に開催予定の世界遺産委員会において、世界遺産一覧表への記載の可否が決定されます。
すでにお知らせしたところですが、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録の機運を盛りあげるため、千葉市においても現在、下記のとおり「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する史跡を紹介する場を設けています。ぜひこの機会に世界遺産登録に大きく近づいた「北海道・北東北の縄文遺跡群」への理解を深めていただければと思います。


千葉そごう「目指せ世界遺産!北海道・北東北の縄文遺跡群」5月30日まで(会期あとわずか!)
千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」6月27日まで
千葉市立加曽利貝塚博物館「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」7月4日まで
※各施設の開館・営業日及び時間等の詳細については、各施設ホームページにてご確認ください。

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史跡 御所野遺跡(一戸町教育委員会提供)

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千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」展

 

2021年5月23日モノからコトへ

ちょっと中断してしまいましたが、まだまだ「考古学って、なに?」は続きます。
はなしをパンアメリカン103便墜落事件にもどしましょう。どうなると破片がこのように散らばるのか、どうするとこのような機体のこわれ方や変形がおこるのか、どうすればスーツケースはこげるのかなど、あらかじめわかっているからこそ、爆発・爆破という原因にたどり着くことができました。つまり、モノや痕跡からできごと、行為・行動を再現・復元するには、どうすればそのようなモノや痕跡が残るのか、互いに結びつけるための情報・知識が必要です。
その知識・情報の代表格は、直接的・間接的な体験をたばね、編んだようなもので、他者と共有される(と信じる)知識です。このような知識・情報による判断は、「確からしい」「もっともらしい」または「常識」と呼ばれ、「こうだからこうなる」「こうするとこうなる」といえば、他者から「そうだよね」と同意されます。このようなさまざまな知識を総合して「常識的に判断する」能力をもつことは、ホモ・サピエンスの大きな特徴とも言われます。

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なにをすれば、このようなモノ・痕跡はのこるのでしょうか?

2021年5月20日当館「縄文ムラの原風景」展

前回、さわりだけご案内しました当館の「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」展。加曽利貝塚と同じく、縄文時代中期の集落遺跡の史跡である岩手県御所野(ごしょの)遺跡を紹介する千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」パネル展にあわせて、千葉市に所在する同時代の遺跡を紹介します。ここでは、沢ノ台(さわのだい)遺跡出土ヒスイ大珠(たいしゅ)や愛生(あいおい)遺跡の柄鏡形(えかがみがた)住居跡出土の加曽利E4.式土器のほか、荒屋敷(あらやしき)貝塚・月ノ木(つきのき)貝塚の出土品などを展示しています。地味ですが、荒屋敷貝塚で確認されたマメ科植物の種子の痕跡のある土器片も注目!当館・千葉市生涯学習センターの展示をとおして、縄文時代中期のくらしへの関心を高めていただければ幸いです。
なお、千葉市生涯学習センターのパネル展示について、前回(5月18日)に会期を6月20日までとしましたが、正しくは6月27日までです。訂正してお詫び申し上げます。

会期のご案内(各展示の会期は異なりますのでご注意ください)
千葉市立加曽利貝塚博物館「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」7月4日まで

千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」6月27日まで
千葉そごう「目指せ世界遺産!北海道・北東北の縄文遺跡群」5月30日まで
※各施設の開館・営業日及び時間等の詳細については、各施設ホームページにてご確認ください。

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史跡 御所野遺跡(一戸町教育委員会提供)

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特別史跡 加曾利貝塚

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当館「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」展

2021年5月18日縄文ムラの原風景

5月18日から6月20日までの会期で、千葉市生涯学習センター1階アナトリウムを会場に「縄文ムラの原風景」を開催します。
北海道、青森県、岩手県及び秋田県では、加曽利貝塚と同じ特別史跡の三内丸山遺跡のほか、16の縄文時代遺跡が史跡に指定さています。これら17の特別史跡・史跡は、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、ユネスコの世界遺産登録に推薦されました。
本展示は、その遺跡群のひとつ、岩手県一戸町に所在する史跡、御所野遺跡を紹介するパネル展示です。御所野遺跡は約5千年前から約800年続いた集落遺跡です。その発掘調査の成果は、縄文時代集落研究に新たな知見をもたらし、当時のくらしをいきいきと再現することができました。
この機会に「北海道・北東北の縄文遺跡群」への理解を深めていただき、世界遺産登録を応援しましょう!
また、本展示とともに、千葉そごう6階催事場で「目指せ世界遺産!北海道・北東北の縄文遺跡群」パネル展を開催しています。本展のもうひとつの注目は、戸村正己さん(千葉市埋蔵文化財センター)による北海道・東北地方の縄文時代遺跡から出土した縄文土器・土製品をモデルとした作品群です。生涯学習センターの展示とあわせて、みなさまを縄文時代の世界へといざないます。千葉そごうの展示は、5月30日まで。
なお、当館ではこれら展示に呼応して、5月18日から7月4日までの会期で、御所野遺跡と同時期の千葉市内の遺跡を紹介する「縄文ムラの原風景-千葉市内の縄文遺跡-」を開催しています。こちらの詳細は次で!

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千葉市生涯学習センター「縄文ムラの原風景」展

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千葉そごう「目指せ世界遺産!北海道・北東北の縄文遺跡群」展

2021年5月16日時とともにかわる「残るもの」

ここでハラリさんに反論させてください。確かに考古学研究では、遺跡に残るモノ、遺跡で見つかるモノでその時代、文化のイメージをつくりあげてきました。しかし、今日の考古学は、研究対象とするモノを幅広くとらえ、それらの中からさまざまな痕跡を見つけだすことで、失われたモノ、新たなモノの存在を明らかにし、人類史・文化像をより具体的なものへと書きかえています。残されたものから残らないモノ、残りにくいモノの存在をどのようにあぶりだしていくのか、これも考古学の重要な研究テーマです。そのために考古学は、自然科学を含めた他の研究分野とも協力しています。さまざまな学問領域と関係をもって研究できることも、考古学の大きな特徴と言えるでしょう。
15ヘクタールに及ぶ加曽利貝塚は、これまで約8%が発掘調査されています。その8%で見つかったモノ・痕跡の一部は、加曽利貝塚博物館でご覧いただけます。そして、館外に広がる手つかずの92%には、未知のさまざまなモノと痕跡が将来の研究のために残されています。そのこともまた、加曽利貝塚の価値のひとつです。


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新たなモノ、痕跡をもとめて、今年も南貝塚の発掘調査を実施する予定です。

 

 

2021年5月12日残るモノ、残らないモノ

しかし、ことばのように残らないモノ、時間の経過とともに残りにくくなるモノ、失われるモノもあります。刑事ドラマで聞いたことありませんか?主人公に無理やり事件現場に連れだされた鑑識官のセリフ、「時間がたっているので、新しい証拠が出るかはむずかしいと思いますが・・・」(六角精児さんをイメージしてみました)。
あのベストセラー作品『サピエンス全史』で、著者のユヴァル・ノア・ハラリさんは、木や竹、革など、時間の経過とともに腐ってなくなりやすい材料の道具を使っていたはずなのに、残りやすい石器や骨だけで「石器時代」がイメージされてきたとして、「現代まで残った人工物を手掛かりに、古代の狩猟採集民の暮らしを再現しようとする試みはどんなものであれ、はなはだ問題が多い」(柴田裕之訳2016)とかなり手きびしく考古学を評価しています。

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3千年後も残るものは?

2021年5月9日人とモノ

アメリカの経済学者、ケネス・E・ボールディングさんは、生産活動の基本要素を「ノウハウ」「エネルギー」「物質」としました(猪木武徳ほか訳『社会進化の経済学』1987)。これは人の営み、人の行動全般に当てはまることです。近年。考古学・歴史学などさまざまな分野でも「人、モノ、コト(あるいは情報)」などのキーワードが使われています。ちなみにボールディングさんも「人」を入れるか迷ったようですが、「人」は「ノウハウ」を保持するものであり、それを実行する「エネルギー」であり、そして身体としての「物質」でもあるとして、「人」もまた、この3要素の組み合わせであると位置づけています。
くり返しになりますが、私たちは常にモノとかかわり、生きていると言っても過言ではありません。そのため、考古学が扱うモノの範囲も、大きく広がっていく可能性をもっています。考古学の研究対象とするモノやその考え方は、私たちの身近にあるものなのです。

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「人」は「ノウハウ」であり「エネルギー」であり、空間を占有する「物質」。

2021年5月5日考古学って、なに?(その3)

発掘調査もまた、遺跡という現場から人の活動に関係するモノを探しだし、それが残された場所・状態を記録し、採取・回収し、観察し、お互いの関係を分析し、その結果を文字・図・写真で記述し、記録します。この記録が発掘調査報告書です。
このように残されたモノ・痕跡からそこでなにが行われたのかを再現・復元する、それが考古学の基本です。人はモノに囲まれ、モノとかかわって生きています。モノと人のかかわりといえば、道具や衣服、家屋などがイメージしやすいのですが、たとえば「ことば」はどうでしょうか。人体の声帯という器官(モノ)を使って空気(モノ)を振動させ、鼓膜(モノ)で感知する、やはりモノがかかわっています。このように人はかならずと言ってよいほどモノとかかわって生きています。

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出土したモノはその場所に残して・・・

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出土した状態を記録します。

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過去の調査成果を現在の視点で記録しなおした総括報告書。

2021年5月2日考古学って、なに?(その2)

パンアメリカン103便墜落の調査は、墜落した航空機の破片を徹底的に回収することからはじまりました。この時、最初に行われたことは、機体のどの破片がどこで回収されたのか記録をとることでした。そうすると、かなり広い範囲で破片が散らばっていることがわかりました。これは高高度で航空機の機体が破裂、空中分解したことを示しています。
続いて、回収した破片を本来の航空機にあわせて組み立てます。すると特に破損がひどく、失われた部分がありました。それが貨物室でした。さらにその貨物室の破片には強い圧力が加わって変形したものがみつかります。これによって、貨物室が何らかの圧力によって破損・破裂した可能性がでてきました。そこで回収された荷物を調べると、こげたスーツケースやタイマーがみつかり、さらにそれを分析すると爆発物の成分が・・・
これによってパンアメリカン103便は、爆破されて墜落したことが判明しました。9千mの上空で誰も見ていない出来事を、残されたモノと痕跡から再現したのです。さらにスーツケースに残された繊維片からある服が特定され、その流通経路をたどることで、爆発物がどのように機内に持ちこまれたのか、犯人の行動までせまっていきます。

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2021年4月28日考古学って、なに?

一般的に「考古学」と聞くと、「スコップや竹べらで土器や石器を掘り出している」と言われるように、考古学イコール発掘調査のイメージが強いかもしれません。
この発掘調査の方法・考え方については、事故・事件の現場で警察が行う現場検証を例にして説明されることがあります。
現場検証では、現場に残された遺留品や痕跡などを採取・記録し、その場所で何が起きたのか再現・復元します。テレビの刑事ドラマやサスペンス劇場でおなじみの場面ですね。最近は現場検証を行う鑑識官を主人公にしたシリーズも人気です。
少し長くなりますが、ここからは現場検証の実例を紹介してみましょう。それは1988年にイギリスで起きたパンアメリカン103便墜落事件です。
アメリカに向かうため、ロンドンを飛び立ったパンアメリカン103便は、40分後、スコットランドで墜落します。これは事故か、事件なのか?上空9千mに目撃者はいません。それを確かめるため、調査、現場検証が行われます。

 

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2021年4月24日「ちばが学べる施設紹介」に出展しています

千葉市生涯学習センターの1階アナトリウムで開催中の「ちばが学べる施設紹介」(会期4月29日(木曜日)まで)で、特別史跡加曽利貝塚を紹介しています。千葉市内に所在する博物館・美術館・図書館等が一堂に会して、それぞれの施設がやっていること、できることをアピールしていますので、お近くにお越しの際は、ぜひ、お立ち寄りください。これからも他の施設の皆さんに負けず、加曽利貝塚博物館をアピールしていきたいと思います。

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2021年4月23日考古学と加曽利貝塚

考古学のもつさまざまな魅力をお伝えする「館長日記」、今年度は硬いあいさつからはじめてみました。
これからはこういう路線で行くの?と心配されている方もいらっしゃるかもしれませんが、引き続き「考古学とは何か」「考古学はどう考えるのか」について、加曽利貝塚を通して皆さまとともに考えていきたいと思います。

さて、言うまでもなく、ここ加曽利貝塚は特別史跡です。
文化財保護法では、貝塚や古墳など「我が国にとつて歴史上又は学術上価値の高い」遺跡のうち、重要なものを史跡、そして、史跡のなかでも「特に重要なもの」を特別史跡に指定することができるとされています。加曽利貝塚は、昭和46年(1971)の北貝塚の史跡指定にはじまり、平成29年(2017)には特別史跡に指定されました。
では、加曽利貝塚の何が「特に重要なもの」とされているのか?
日本で最大級の貝塚を伴う縄文時代集落遺跡であること、市民による文化財保護活動、先駆的な遺跡整備と活用手法、そして、日本における近代考古学研究の発展への寄与があげられます。
これらの指定理由を意識して加曽利貝塚を見ていくと、縄文時代研究のみならず、(チコちゃん風に)「考古学って、なに?」を考えるうえで格好の場所であることがわかるかと思います。縄文時代に限らず、考古学に関心があるという方々もぜひ、加曽利貝塚博物館にお越しください。


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2021年4月13日ごあいさつ

令和3年(2021)4月に館長に着任しました。
着任にあたり御挨拶申し上げます。
千葉市立加曽利貝塚博物館は、昭和41年(1966)に加曽利貝塚を中心とする縄文時代の調査・研究と、その成果の公開・普及を目的に設置されました。約15haの敷地内には、加曽利貝塚への理解を深めるため、貝層断面観覧施設・竪穴住居跡群観覧施設・復元集落(復元竪穴住居)が整備され、縄文時代の景観再現を試みた植栽を含め、縄文時代を体感することのできる博物館です。そして、加曽利貝塚は日本最大級の規模を誇る貝塚であることに加え、先駆的な遺跡の保存・整備・活用の取組みが再評価され、平成29年(2017)、特別史跡に指定されました。
ただし、残念なことですが、現在、新型コロナウイルス感染症拡大予防のため、当館における施設利用や教育・普及活動に制約を設けざるを得ない状況が続いており、利用者の皆さまには御不便をおかけしております。その中にあっても、皆様には特別史跡加曽利貝塚の魅力に触れていただけるよう努めてまいります
これからも安心・安全な博物館運営を心がけながら、特別史跡加曽利貝塚の価値を高めるよう取り組んでまいります。職員一同、皆さまの御来館をお待ち申し上げます。

 

 

 

 

このページの情報発信元

教育委員会事務局生涯学習部文化財課加曽利貝塚博物館

千葉市若葉区桜木8丁目33番1号

電話:043-231-0129

ファックス:043-231-4986

kasorikaiduka.EDL@city.chiba.lg.jp

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