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更新日:2020年10月15日

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研究員の部屋

  コラム:千葉氏ゆかりの地めぐり(千葉市内編)

 外山 信司(郷土博物館総括主任研究員)

 

 当コラムでは、千葉市内にある千葉氏ゆかりの史跡や神社・寺院、伝承地などについて紹介します。千葉の地は、中世には千葉庄(ちばのしょう)という荘園でした。桓武平氏の一族で、ここを本拠とし、名字として名乗ったのが千葉氏です。千葉庄の中心であり、当館が位置する中心市街地から取り上げていきたいと思います。近年はまち歩きブームですので、皆様がこれを参考に千葉市内を歩き、千葉氏の歴史に触れていただければ幸いです。

1 千葉神社(1) 

 千葉氏やその一族家臣が氏神・軍神として篤く信仰した妙見を祀る神社で、千葉妙見宮、妙見社と呼ばれ、千葉氏の妙見信仰の中心でした。『千学集抜粋』(『千学集抄』)によれば、平忠常の乱を起こしたことで知られる忠常の子である覚算が、長保2年(1000)に開いたとされますので、一千年以上の歴史を有することになります。
妙見は北極星や北斗七星が神格化されたものですが、仏教と習合して妙見菩薩とも称されました。妙見宮は、中世には別当寺である北斗山金剛授寺尊光院と一体化し、一族や家臣が建立した六院六坊という寺院が付属していました。金剛授寺の座主(住職)には、千葉家当主の子や千葉家当主に近い人物が就任し、代々の千葉家嫡子が元服するなど、千葉氏の精神的支配の中枢としての役割を果たしました。
関東に戦国時代の幕開けを告げた享徳の乱の後、千葉氏は本拠を本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に移しましたが、妙見宮は本佐倉に移ることはなく千葉の地に留まり、現代に至るまで千葉の人々の信仰を集めています。

2 千葉神社(2) 

 千葉神社の祭神は、明治維新後の神仏分離によって天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)とされましたが、江戸時代までは妙見でした。中世の北斗山金剛授寺尊光院が、近世には妙見寺と改称されたのも、そのことをよく示しています。
妙見が千葉氏の氏神・軍神であったことは広く知られていますが、戦国時代になって千葉氏が本拠を本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に移しても、千葉氏と一緒に本佐倉へ移らなかったのはなぜでしょうか。
妙見は、常に北の空にある北極星や北斗七星が神格化された神であり、方位方向や進路を示す神でした。『千学集抜粋』には、平将門と千葉氏の祖である平良文が上野国に攻め入った際に、染谷川(群馬県高崎市)で「此の川わたすべし」と言う妙見に浅瀬を教えられ、合戦に勝つことができたとの話が記されています。この説話は妙見の本来の性質をよく示しています。
したがって、妙見は船を操る海の民(水運業者や漁業者)に信仰されていました。近世の史料ですが、千葉神社と関係が深い現登渡神社(とわたりじんじゃ、千葉市中央区登戸)の「妙見尊宝前」に、多くの登戸の船乗りたちが「大般若経」を奉納しています(日色義忠「善光寺蔵大般若経の調査について」『四街道市の文化財』20号、1994年)。さらに人生を導き、運を開く神として商工業者(商人や職人)にも信仰されました。現在も関西では、能勢妙見(大阪府豊能郡能勢町)が人々の信仰を広く集めています。
つまり、妙見には千葉氏の氏神・軍神のほかに、湊町・商業都市として発展していた千葉のまちに住む人々の神という面も併せ持っていたのです。だからこそ本佐倉に移ることなく、千葉に在り続けたのではないでしょうか。武神としてだけではない、妙見の多様な面にも注目していきたいと考えています。

3 千葉神社(3) 

 戦国時代の永正6年(1509)、連歌師の宗長は、原胤隆の小弓館(千葉市中央区生実町)や本行寺(千葉市中央区浜野町)で連歌を詠み、千葉を訪れています。この宗長の旅は、紀行文「東路(あずまじ)のつと」(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』小学館、1994年)に描かれています。
ちなみに、宗長は千葉一族の東常縁(とうのつねより)から「古今伝授」を受けた宗祇の高弟で、宗祇・肖柏とともに詠んだ「水無瀬三吟百韻」は、連歌の最高傑作とされています。
宗長は、11月14日・15日の妙見宮(もちろん現在の千葉神社です)の祭礼に出かけ、300頭の早馬が街中を疾走する勇壮な様子を見物し、16日には延年の猿楽を見ました。
この記述から、千葉氏が本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に本拠を移しても、千葉が廃れた寒村になったのではなく、湊町・商業都市・門前町として賑わっていたことがわかります。この繁栄を支えていたのは、千葉の水運業者や漁業者、商工業者たちでしょう。彼らは『千学集抜粋』に「千葉百姓中」とみえます(この「百姓」とは農民という意味ではなく、武士以外の様々な人々を示します)。
この「千葉百姓中」の妙見への厚い信仰が、千葉氏が本佐倉城へ移った後も千葉妙見宮を支えたのです。武神・軍神ではない、民衆を導き、運を開く神としての妙見の在り方が表れていると考えられます。
そして、戦国時代には、千葉氏当主の嫡男は本佐倉城から千葉へ来て、妙見宮で元服することが習わしになっていたのです。
なお、千葉神社の大祭といえば、北斗七星を神格化した妙見にちなんで7月に七日間行われましたが(現在は8月に行われています)、11月15日前後の祭礼も、7月に劣らぬ大規模なものであったことがわかります。『千学集抜粋』には、11月の「望(もち)」の日、つまり旧暦では満月の日である15日に祭礼があったことが記されています。 

4 千葉神社(4) 

 
千葉妙見宮・尊光院金剛授寺のトップは座主(ざす)と呼ばれました。初代の座主は平忠常の子の覚算です。覚算が大僧正であったように、歴代の座主は僧正・僧都・法印といった位を持つ僧侶でした。「神仏習合」のあり方をよく示していますが、武神・軍神として千葉氏の信仰を集めたため、座主には歴代の千葉氏当主の子が就任することになっていました。その中で異色なのは第十二代の範覚です。
『千学集抜粋』には「原胤隆の子範覚、十三歳にて座主とならせられ、四十三歳にて遷化、御神の御奉公三十年也」とあります。つまり、範覚は千葉氏の子ではなく、小弓城(千葉市中央区生実町)の城主で、千葉氏の重臣として大きな勢力を有した原胤隆の子でした。胤隆は連歌師宗長を招いて小弓で連歌の宴を催した人物です(「東路のつと」)。
戦国時代の原氏は、千葉氏胤の子の胤高に始まります。胤高の孫の胤房は、享徳の乱で馬加康胤を擁立し、千葉宗家の胤直たちを滅亡させた人物として知られています。千葉氏が本拠を本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に移すと、千葉の地は原氏の支配下に置かれました。戦国時代の千葉氏が「香取の海」(現在の利根川水系に当たる、銚子から霞ケ浦・北浦・印旛沼・手賀沼などに至る湖沼が一体となった広大な内海)にシフトすると、江戸湾(現在の東京湾)に面した千葉は小弓城の原氏のテリトリーとなったのです。
そのため、原胤隆は子の範覚を座主として送り込んだと考えられます。妙見宮としても、遠い本佐倉の千葉氏より近くの小弓を本拠とする原氏の庇護を受ける方が、何かと好都合だったのでしょう。
事実、天文13年(1544)には原胤清が、元亀2年(1571)には原胤栄(たねよし)が神官の地位を認めています(「千葉神社文書」『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』)。胤清は範覚の兄弟に当たります。
このように小弓の原氏の強い影響下にあったことも、妙見宮が本佐倉に移らずに千葉に残った理由と考えられます。

 

5 千葉神社(5) 


『千学集抜粋』には、天文19年(1550、ただし干支は「辛亥」とあるので、これに従えば翌1551年のこととなります)に妙見宮の遷宮が行われたことが記されています。社殿の建立は天文16年に始まりましたが、数年の歳月を費やして完成し、御神体を新しい社殿に遷す儀式が盛大に行われたのです。
最初に「国守」で「大檀那」の千葉親胤(ちかたね)が馬と太刀を奉納しました。馬を引いたのは馬場胤平、太刀を持ったのは原胤安でした。二番目に原胤清が馬と太刀を奉納しました。馬を引いたのは原胤行、太刀を持ったのは牛尾(うしのお)胤道です。三番目には牛尾胤貞が馬と太刀を奉納しました。馬の役は原胤次、太刀持ちは斎藤清家でした。まず下総の権力者トップスリーが、武士のシンボルである馬と太刀を神前に捧げたのです。
その次に、千葉氏の一族である「御一家」、親胤の近臣である「御近習侍衆」、領国内の武士たちである「国中諸侍衆」の順で、馬と太刀の奉納が行われました。
千葉氏の当主で「千葉介(ちばのすけ)」を称する親胤が、最初に守護神・軍神である妙見へ奉納するのは当然です。しかし、千葉一族である「御一家」より先に、原胤清とその嫡子の牛尾胤貞が奉納していることが注目されます。
なお、胤貞はこの時に「牛尾」を称していますが、牛尾(多古町)は原氏にゆかりの深い土地で、原氏は出身地ともいうべき千田庄(ちだのしょう、多古町)に大きな勢力を持ち、一族の牛尾氏もいました。このため、胤清は自分の嫡男に牛尾を名乗らせたのでしょう。胤貞はこの後、臼井氏を追って臼井城(佐倉市)を手に入れ、さらに原氏を発展させます。
千葉氏の権力をアピールする絶好の機会であった遷宮でしたが、実際は戦国期の下総国が千葉氏と原氏の連立によって支配されていたことを示す場となったのです。しかも、千葉宗家は親胤一人でしたが、原氏は当主の胤清と嫡男胤貞の二人が馬・太刀を奉納し、主君の親胤より存在感を示しています。このことからも、千葉妙見宮と原氏との結び付きがうかがわれます。
ちなみに、黒田基樹氏はこの記事を詳しく分析し、戦国時代の千葉氏の権力のあり方を明らかにしています(「戦国期千葉氏権力の政治構造」『千葉県の歴史』13号、2007年)。
妙見宮(千葉神社)に伝わった古記録である『千学集抜粋』には様々なことが記されていますが、特に「ハレ」の場である儀式の記事には、権力のあり方や社会の様子がよく反映されています。その丹念な読み込みによって中世を明らかにすることができるのです。

 

6 宝幢院 

 千葉神社の北側、院内1丁目にある真言宗寺院です。千葉妙見宮と一体となっていた北斗山金剛授寺(近世には妙見寺)には、「六院六坊」などと呼ばれた子院(しいん)が付属し、その僧侶たちは、大祢宜(おおねぎ)たち神官とともに妙見宮・金剛授寺に出仕していました。円満山宝幢院(ほうどういん)はただ一つ現存する子院ですが、現在は独立した寺院となっています。
『千学集抜粋』によると、千葉常重の子で金剛授寺三世の宥覚(ゆうかく)が保延3年(1137)に開きました。当寺について『千学集抜粋』には次のように記されています。
「先代ハ、住寺(持)・供分菩薩所法東院といふ院家に、位牌を立おき、夏中経、二記の彼岸経をハ、六人参て読給ふ、盆の棚をも此院家に結ひて、住持供分まゐりて、水を手向け、代々を吊(弔か)申也、住持の居所には位牌を立すして、彼院家に立て申也、」
文中の「法東院」とは宝幢院のことです。長い引用になりましたが、これを読んでいただくと、宝幢院が座主(ざす)や僧侶の位牌所であったことがよくわかります。前にも述べたように、金剛授寺の住持(住職)である座主は僧侶でした。しかし、亡くなった座主の供養は金剛授寺では行わず、宝幢院に位牌を置き、盂蘭盆(うらぼん)の法要や読経を行っていたのです。近世には座主や僧侶だけでなく、妙見寺の寺領に住む門前百姓の回向(えこう)も行っていました。境内には、今も歴代座主や僧侶の墓碑である五輪塔や卵塔などが残されています。
現代の私たちは、お寺と言えば墓があり、葬式や先祖の供養を行うというイメージを持ちますが、中世や近世にはもっぱら祈願を行い、死者の供養をしない寺院もありました。金剛授寺(妙見寺)もそのような寺院でした。他にも、檀林と呼ばれる寺院は檀家がないところも多く、僧侶を養成し勉学を深めるための学問所でした。

 

7 大内氏の妙見信仰(1) 

千葉に住む私たちにとって、千葉氏と言えば妙見、妙見と言えば千葉氏というように、千葉氏と妙見は切っても切れない関係にあります。しかし、妙見を篤く信仰した武士は千葉氏だけではありません。中国地方の雄として知られる戦国大名の大内氏も篤く妙見を信仰していました。
少々脱線しますが、妙見をまつる千葉神社とその子院であった宝幢院の次に、大内氏の妙見信仰について紹介したいと思います。
大内氏は周防国(山口県)の多々良氏(たたらし)の一門で、同国吉敷郡大内村(山口市大内)を名字の地とします。大内氏は、有力な在庁官人として国司の二等官である「介(すけ)」となり、「大内介(おおうちのすけ)」を称しました。この「地名+介」の名乗り方は、「千葉介(ちばのすけ)」を称した千葉氏とまったく同じパターンです。国府には京から赴任した国司のほかに、現地の有力者も役人として勤めていました。彼らを在庁官人と言いますが、千葉氏は下総国の、大内氏は周防国の介でした。
大内氏は、大内村にあった興隆寺(天台宗)の氷上山妙見社に祀られた北辰妙見菩薩を「氏神」として信仰し、延命祈願から農耕のための請雨(雨乞い)、戦の勝利まで、領国支配の安定を祈っていたのです。
大内政弘の幼名(元服前の名前)は「亀童丸」です。その嫡子の義興、さらに義隆も「亀童丸」で、三代にわたり同じ幼名を称しました。これにより一族の中で、惣領家の正当性を示す意図があったと考えられています。
ちなみに、この「亀童丸」は千葉頼胤の幼名「亀若丸」と大変よく似ています。妙見は霊亀(玄武)に乗る童子の姿で表されます。大内氏も千葉氏も、嫡子に氏神である妙見の加護を願い、その正当性を示すため、妙見にちなむ「亀」を用いた幼名を付けたのです。
このほかにも千葉氏と大内氏との共通性がありますので、次回も紹介していきます。なお、大内氏の妙見信仰については、平瀬直樹氏『大内氏の領国支配と宗教』(塙書房、2017年)などを参照しました。

 

8 大内氏の妙見信仰(2) 

 千葉氏が「桓武平氏」に属することは言うまでもありません。桓武天皇の皇子葛原親王の孫である高望王が「平」の姓を賜り、桓武平氏の祖となりました。千葉氏はその子孫で、平良文(たいらのよしぶみ)の流れなので良文流平氏と言われます。
桓武天皇の母は高野新笠(たかののにいかさ、790年没)です。新笠の父は和乙継(やまとのおとつぐ)で、和氏は百済(くだら)の武寧王の子孫とされています。つまり、桓武平氏は、その祖である桓武天皇の時から百済系渡来人と深い縁がありました。そして、桓武平氏が武士として発展する過程で、武芸に不可欠な馬などに関する技術を持った渡来系の人々の信仰である妙見を取り入れたと考えられています。
ところで、大内氏は百済の聖明王の第三王子である琳聖太子が祖であると主張しました。その背後には朝鮮との貿易を有利に進めたいという思惑もあったと考えられます。その真偽はともかく、百済とのゆかりは妙見信仰を持つうえで大きな意味があったはずです。百済との関係も、桓武平氏と共通するものがあります。
さらに、大内氏は妙見が琳聖太子を守護するために周防国に下降したという先祖伝説を作り上げ、妙見と大内氏とを結び付けます。こうして妙見信仰を領国支配のイデオロギーとしていくことも、政治的な危機に際して、妙見に加護された惣領のもとに一族が強固に団結したというストーリーを作った千葉氏とまったく同じです。このように、千葉氏と大内氏はともに妙見を篤く信仰し、いくつもの共通点を持っていました。
また、秩父夜祭りで有名な秩父神社もかつては「秩父妙見宮」と呼ばれ、妙見をまつっています。秩父氏も良文流平氏で、妙見信仰が関東や甲信越の牧が多かった地帯に広がっていることもよく知られています。
北陸の名族である富樫氏も北斗七星と北極星を信仰し、家紋は北斗七星と北極星を表す八曜紋です。室町期の成春の幼名は「亀童丸」でした。富樫氏は加賀国(石川県)の「介」を世襲したので、「富樫介」(とがしのすけ)と称しました。これも「地名+介」のパターンで、千葉氏と同じです。
妙見信仰を千葉県内、千葉氏との関係だけで考えるのではなく、全国的、さらには東アジア的な広い視野で考えることが大切であると思っています。

 

9 大日寺跡(現在の通町公園)(1) 

 「千葉家累代の墓塔」と伝えられる五輪塔群(千葉市指定文化財)で知られる阿毘廬山密乗院大日寺(あびらさんみつじょういんだいにちじ、真言宗)は、かつて千葉神社の南側に隣接する通町公園の場所にありました。昭和20年(1945)の空襲で焼失し、戦後、稲毛区轟町へ移転し、戦災復興の都市計画により跡地は公園となりました。
轟町の大日寺には、千葉常兼から胤直・胤将までのものとされる五輪塔のほか、層塔もみられます。現在も残る部材を数えると、五輪塔は100基以上あったと考えられます。その中でも高さ約250cmを測る安山岩製の五輪塔(1号塔)は、律宗様式の本格的な大型塔で、鎌倉時代後期から南北朝時代の優れた石造物です。
大日寺の石造物については、当館の委託により早川正司氏が調査を行いました。その成果は当館の『研究紀要』26号(2020年)に発表されています。
金沢称名寺(横浜市金沢区)に残る聖教(しょうぎょう、僧侶の修学や宗教活動に用いられた仏教の典籍類)には「下州千葉之庄大日堂」などとみえ、大日寺の前身とも考えられます(『千葉県史料 中世篇 県外文書』1966年などを参照)。大日堂では称名寺長老の剱阿(けんあ)が聖教を書写するなど、関東における律宗の中心的な寺院であった称名寺と深い結びつきがあったことが明らかになっています。
中世・近世の千葉は、現在の東京湾(当時は「内海」などと呼ばれていました)に面した湊町でした。称名寺や千葉の僧侶たちは、船で東京湾を往来しました。だからこそ、本格的な律宗様式の五輪塔が千葉に作られたのです。下総国内に多くあった称名寺領の年貢も、千葉から船で送られたことでしょう。
船で称名寺のある金沢に着き、朝比奈峠を越せばすぐに鎌倉です。千葉氏もこのルートで鎌倉の幕府と行き来していたはずです。称名寺との密接な関係は、盛んな水運とそれをもとにした鎌倉と千葉の結びつきを物語っています。
なお、弘化2年(1845)に書かれた大日寺の縁起によれば、創建時には「覆溺の患い」を除くことを祈ったとされます(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。「覆溺」とは船が転覆し乗っていた人が溺れることです。このことも千葉のまちが水運によって栄えていたことを示しているように思えます。

 

10 大日寺跡(現在の通町公園)(2) 

縁起にみる律宗との関係

 『鎌倉大草紙』は、室町時代の関東について記した軍記物として高い史料価値を持っていますが、大日寺について次のような記述があります。(『改訂房総叢書』第5輯、1959年所収)。
・大日寺は千葉頼胤が鎌倉極楽寺の良観を開山として小金の馬橋(松戸市)に建立した千葉氏の菩提寺で、貞胤の時に千葉へ移った。
・康正元年(1455)、胤直たち千葉宗家が多古城・島城(多古町)で馬加康胤・原胤房に滅ぼされた際、胤直ら遺骨が大日寺へ送られ、石造の五輪塔が建てられた。
良観とは、西大寺流律宗(真言律宗)の僧侶として有名な忍性(にんしょう)の号です。忍性は鎌倉の極楽寺や三村山清凉院極楽寺(茨城県つくば市)を拠点として律宗を広めました。大日寺が忍性によって開かれたと伝えられていることは、大日寺が律宗寺院であったことを意味します。
宝治合戦(1247)の後、北条氏の勢力拡大とともに房総に律宗が広がりますが、そのような流れの中で大日寺も律宗系の寺院となったのでしょう。北条氏を後ろ盾とした律宗と禅宗(臨済禅)は、当時最先端の宗派でした。
前回述べたように、金沢称名寺と大日寺は深い結びつきを持っていました。称名寺が極楽寺・清凉寺とともに関東における律宗の拠点だったことをふまえれば、忍性が大日寺を開いたという伝承は無視できません。
現在、大日寺に残る大型の五輪塔は「本格的な律宗様式」の石塔ですが、律宗寺院であった大日寺にこのような優れた石造物があるのも当然といえましょう。ちなみに律宗様式の五輪塔には銘文がありませんが、大日寺の五輪塔のほとんどに銘文が見られないのも律宗の様式にのっとっているからかもしれません。
なお、弘化2年(1845)の大日寺縁起によれば、「仁生菩薩」が天平宝字元年(757)に当寺を建立したと伝えられていますが、この仁生は忍性のことでしょう。律宗は古代寺院を復興することが多く、新しく寺院を開いた場合も古代からあった寺院であると主張しました。この縁起にも、そのような律宗の特徴がよく表れています。

 

11 大日寺跡(現在の通町公園)(3) 

 昭和38年(1963)3月、通町公園の整備工事を行っていたところ、地下約1m 20cm から梵鐘が出土しました。その場所は、和田茂右衛門氏によれば、戦災で焼失した大日寺本堂の向拝(ごはい)の下付近にあたるそうです(『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。
銅で鋳造されたこの梵鐘は、千葉市指定文化財(工芸品)に指定され、当館に収蔵されています。高さ1m15cm、口径66cmで、次のような銘文が刻まれています(『千葉県史料 金石文篇 一』1975年)。

  (梵字)アビラウンケン
諸行無常 是生滅法
生滅々已 寂滅為楽
下総国相馬郡安楽寺推鐘
大勧進沙門栄金
大檀那尼 覚妙
大工神屋 行家
康永三年甲申十一月一日

梵字(サンスクリット)で書かれていますが、「アビラウンケン」とは地水火風空を象徴する真言(しんごん)です。「諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽」とは『涅槃経』(ねはんぎょう)の有名な一節です。
この銘文によって、下総国相馬郡安楽寺の梵鐘で、康永3年(1344年)に勧進僧の栄金、大檀那の尼覚妙によって造られたことがわかります。神屋行家は鋳物師の棟梁です。
安楽寺は、現在も龍ケ崎市川原代町(かわらしろまち)にある天台宗の寺院で、JR常磐線龍ケ崎市駅(今年の3月に佐貫駅から改称)の近くに位置します。
安楽寺には文和2年(1353年)、「天台堅者賢海法印」が住持であった際に「大勧進沙門栄金」が造った鰐口(わにぐち)が遺されています(茨城県指定文化財)。この栄金は梵鐘の銘文にある栄金と同一人物ですが、ほぼ同時期に同じ人物が造ったもののうち、なぜ梵鐘だけが千葉に運ばれ、大日寺の地下に埋められたのか、ミステリーとしか言いようがありません。しかも、大日寺にはこのような梵鐘があったという記録はまったくありません。
しかし、突然出土した670年も前の梵鐘は、都市化のため破壊され尽したと思われてきた中世の千葉のまちが、足元に眠っている可能性を示しています。かつてこの場所に大日寺があった時は、千葉神社と大日寺が甍を並べ、壮観だったことでしょう。千葉市では2026年の「千葉開府900年」を目指して、通町公園を中世を感じられるスポットとして整備する計画が進んでいます。

 

 

12 来迎寺跡(現在の道場北1丁目)(1) 

 智東山聖聚院来迎寺(ちとうさんしょうじゅういんらいこうじ)は、中世には時宗の寺院でした。近世には浄土宗に属し、天正18年(1590)に徳川家康から朱印地10石を寄進されました。かつては千葉神社の北東約300メートルに位置する中央区道場北1丁目に広い境内がありましたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、戦後、大日寺とともに稲毛区轟町へ移転しました。その跡地は住宅地となっています。
寺伝によれば、建治2年(1276)に千葉貞胤が一遍を開山として建立し、「来光寺」と称したとされます。一遍智真は時宗の開祖で、全国各地を巡り踊念仏を通して布教し、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と呼ばれました。
時宗では寺を「道場」と称しました。道場といえば、現代の私たちは柔道や剣道などの武道を行う場所をイメージしますが、時宗では地名を冠して寺を呼びました。例えば、藤沢道場とは清浄光寺(神奈川県藤沢市)、当麻道場とは無量光寺(神奈川県相模原市南区)、芝崎道場は日輪寺(東京都台東区)のことです。中央区道場北・道場南という町名は「千葉道場」、すなわち来迎寺があったことに由来します。
来迎寺本尊の木造阿弥陀如来立像(市指定文化財・彫刻)は13世紀後半の美しい仏像で、創建時以来の本尊と考えられています(『千葉市の仏像』1992年)。
今も境内には、千葉氏胤(語阿弥陀仏)、氏胤の夫人と伝えられる円勝禅尼、千葉満胤(弥阿弥陀仏)、吉原見阿、光阿弥、母妙仏、某禅定門の7基の石造五輪塔(市指定文化財・建造物)が並んでいます。これらのうち、円勝禅尼、千葉満胤、某禅定門以外の4基は、いずれも応永32年(1425)2月15日という同じ年月日が刻まれています。旧暦の2月15日は彼岸に当たるので、氏胤とそのゆかりの人たちの追善供養のため同時に建立されたものと考えられます。室町期に制作されたことが明らかな比較的大型の五輪塔がまとまって残り、千葉氏関係の文化財として貴重です。
なお、来迎寺の石造物については、大日寺等とともに早川正司氏が調査を行いました。その成果は当館の『研究紀要』26号(2020年)に発表されています。

 

13 来迎寺跡(現在の道場北1丁目)(2) 

 今回は、来迎寺に五輪塔のある千葉氏胤について紹介します。
氏胤の曾祖父頼胤には、宗胤・胤宗の二人の男子がいましたが、長男の宗胤はモンゴル襲来(元寇)に備えるため、九州にあった所領の肥前国小城郡(佐賀県)に留まりました。これに対して弟の胤宗は下総を支配したため、千葉氏は肥前千葉氏と下総千葉氏に分裂したのです。
さらにこの対立に南北朝の内乱がリンクし、一族の争いは激化しました。肥前千葉氏は北朝に属したのに対し、下総千葉氏は南朝に属したのです。ところが、氏胤の父貞胤は北朝方に降伏しました。足利尊氏は貞胤に本国の下総を安堵しただけでなく、伊賀(三重県)・遠江(静岡県)の守護にも任じ、当初は南朝方でありながら足利政権に一定程度重く用いられました。室町時代の千葉氏の発展は、貞胤によってもたらされたといえましょう。
氏胤も尊氏に仕え、父と同じく下総・伊賀の守護となり、さらに下総に隣接する上総の守護職も手中にしました。鎌倉時代の宝治合戦(1247年)で上総千葉氏が滅亡して以来、上総での千葉氏の勢力は著しく低下しましたが、氏胤が守護となったことは、千葉氏が上総へ勢力を伸ばすうえで大きな意味がありました。なお、貞胤・氏胤父子は基本的には京都にいたようです。
氏胤は歌人でもありました。『新千載和歌集』(1359年)は、足利尊氏の意向を受けた北朝の後光厳天皇の命で編纂された18番目の勅撰和歌集です。その第11巻「恋歌1」に、忍ぶ恋の悲しさを詠んだ氏胤の和歌が載せられています。


 題しらず 平 氏胤
人しれずいつしかおつる涙河わたるとなしに袖ぬらすらん(1084)


 古代・中世では、天皇の命で作られた勅撰集に自分の歌が載ること、つまり勅撰歌人となることはこの上ない名誉とされました。千葉氏の一族で勅撰歌人となったのは、「歌の家」として知られる東氏(とうし)以外には氏胤だけです。
氏胤が勅撰歌人となったのは、血統の上では嫡流の肥前千葉氏に対して、庶流であった下総千葉氏の地位が、足利氏の治める当時の社会で正当な権力であることが認められたことを意味しています。氏胤は下総千葉氏の地位を確立したという点で大きな功績がありました。
氏胤は貞治4年(1365)9月13日に没しました(『本土寺過去帳』、『千学集抜粋』)。来迎寺の氏胤塔の銘文には応永32年(1425)2月15日とありますので、31回忌を迎えた年の彼岸に建立されたのかもしれません。

 

14 来迎寺跡(現在の道場北1丁目)(3) 

 千葉氏胤と仏教との関わりで忘れてはならないのが、その子であった酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)です。浄土宗の大本山で、徳川将軍家の菩提寺となった増上寺(東京都港区)を開いたことで知られています。幼名は徳千代丸といいましたが、僧籍に入って真言密教を学び、後に浄土宗の高僧聖冏(しょうげい)の弟子になりました。浄土宗は徳川家康の帰依を受けましたが、当寺は家康の命で時宗から浄土宗に改められたと伝えられています。ちなみに、市内の大巌寺(中央区)も徳川家の保護を受け、檀林として繁栄しました。
氏胤には、酉誉と嫡子満胤の他に千田宗胤、馬場重胤、原胤高といった子たちがいました。重胤の曾孫が、馬加千葉氏(まくわりちばし)を継承し、本佐倉城(酒々井町・佐倉市)を築き、千葉から本拠を移したとされる輔胤です。胤高は戦国時代に小弓城(中央区)や臼井城(佐倉市)を拠点に、千葉氏に匹敵する地域権力に成長を遂げた原氏の祖です。氏胤の子どもたちは、仏教、政治の両面で後世に大きな影響を与えていくことになります。
ところで、前にも述べたように、当寺は時宗(時衆)の「千葉道場」でした。氏胤の父貞胤が時宗を取り入れたのです。『千学集抜粋』には、貞胤について「此御代より時宗にならせられ」と記されています。孫満胤の法号は「徳阿弥陀仏」で、以後の千葉氏当主は漢字1文字+阿弥陀仏という時宗式の法号を持つようになりました。例えば、千葉昌胤は法阿弥陀仏、親胤(ちかたね)は眼阿弥陀仏です。戦国時代の千葉氏の菩提寺で、千葉氏歴代の石塔が残る海隣寺(佐倉市)も時宗です。
当麻山無量光寺(神奈川県相模原市南区)は、清浄光寺(神奈川県藤沢市)と並ぶ時宗の大本山ですが、千葉昌胤は同寺27代住職の智光に帰依しました。昌胤は智光の訪問を受けて面会できたことを「満足至極に候」と喜んでいます(「千葉昌胤書状」『千葉県の歴史 資料編 中世4(県外文書1)』2003年)。
来迎寺は千葉氏の保護を受けて寺勢も盛んでした。無量光寺の歴代住職をみると、第5代慈光(康永3年・1344没)から28代良元(天文20年・1551没)までの23代のうち、15人が当寺から就任しています(『当麻山の歴史』1974年)。当寺が時宗教団の中で大変有力な存在であったことがうかがわれます。

 

15 来迎寺跡(現在の道場北1丁目)(4) 

 前にも述べたように、千葉妙見宮(現在の千葉神社)と来迎寺は近い位置にありました。妙見宮は真言宗の金剛授寺と一体化していましたが、時宗(時衆)は妙見宮にも勢力を伸ばしていったようです。『千学集抜粋』には、金剛授寺の住職がいなくなったとしても「時宗なと申立る事叶ふまし」とあって、時宗に対する強い反発がみられます。しかし、千葉氏を檀那とした時宗が、軍神・氏神として深く千葉氏と結びついていた妙見宮に入り込んでいくのは当然ともいえましょう。
真名本系の『曾我物語』には、曾我十郎の恋人であった大磯の虎御前が、兄弟の母を訪ねたあと、非業の最期を遂げた兄弟の骨を首に掛け、鎮魂のために諸国の霊場を巡拝したことがみえます。虎御前は善光寺(長野県長野市)から碓井峠を越えて関東に入り、板鼻宿(群馬県安中市)、二荒山神社(栃木県宇都宮市)、中禅寺(同日光市)などを経て千葉妙見宮へ参詣します。そして浅草寺(東京都台東区)、慈光山(埼玉県ときがわ町)などを経由して曾我(神奈川県小田原市)へ帰りました(梶原正昭他『新日本古典文学全集53 曾我物語』2002年)。一遍が開いた板鼻宿の聞名寺が善光寺参詣の拠点であったように、虎御前は時宗の遊行廻国のコースをたどっています。この虎御前の行動は「念仏聖」そのものであり、『曾我物語』の成立に時宗教団が深く関わっていたことが明らかになっています(角川源義「貴重古典叢刊3 妙本寺本曾我物語」1969年)。
金井清光氏は「全国各街道の時衆道場は遊行僧ばかりでなく、御師・山伏・行商人など、種々雑多な旅人が休息したり宿泊したりする。当然、時衆道場には諸国の珍談奇聞や世間話などの情報が集中する。住職は居ながらにして諸国の説話や情報を仕入れることができ、それをまた遊行者に語って聞かせる。遊行者は時衆道場で聞いた話を、行く先々に語り伝えてゆく。つまり街道上の時衆道場は、在地の念仏信仰の中心であると同時に、説話など語り物文芸の集散所でもあった。」と述べています(『時衆の美術と文芸-遊行聖の世界』1995年)。
「千葉道場」(来迎寺)もそのような場であり、千葉妙見宮が真名本『曾我物語』に登場することは、時宗のネットワークの中にあったことを意味します。『千学集抜粋』などに記された様々な説話の中には、時宗によってもたらされたものもあることでしょう。『千学集抜粋』には、千葉胤宗が千葉庄内に7体の阿弥陀を建立したという記事がありますが、北斗七星を神格化した妙見との関連がうかがえます。妙見信仰と時宗などの浄土信仰との習合を示していると考えられます。
千葉には、本町に本円寺、本敬寺といった日蓮宗寺院があり、時宗だった来迎寺、律宗系寺院であった大日寺もありました。金剛授寺に加えて、これらの宗派の寺院が集まっていたことは、中世の千葉が都市的な場として繁栄していたことを示しています。

 

16 光明寺(中央区中央4丁目) 

 真言宗の寺院で、近世には妙見寺(中世には妙見宮・金剛授寺、現在の千葉神社)の末寺でした。本尊は木造不動明王立像です。頭部と首の内側に記された墨書銘によると、文明2年(1470)2月に千葉寺に住む河野修理某によって彩色され、同年4月に千葉寺の大覚坊涼順の志によって造立されたことがわかります。昭和20年(1945)の空襲によって体部・光背・台座が焼失し、頭部のみが残されたことは大変惜しまれますが、リアルな肉付きと迫力ある憤怒の面相は15世紀の関東地方の彫刻の中で屈指の正統的・本格的な作例として高く評価されています(千葉市教育委員会『千葉市の仏像』1992年)。
「下総国千葉郷北斗山妙見寺縁起」には、千葉常重が妙見宮の南方に虚空蔵堂を営み「月処山光明寺」と号したとみえます(千葉市立郷土博物館『妙見信仰調査報告書』1992年)。『千葉大系図』には、大治元年(1126)に常重が本拠地を千葉へ移した際に「月処山光明寺、本尊不動明王」を建立したと記されています(『改訂房総叢書 第五輯』1959年)。また、戦時中に金属献納のため失われた、元禄4年(1691)に鋳造された梵鐘の銘文は、金剛授寺の住持であった栄慶が記したものですが、一条天皇の勅願によって妙見堂と同じ所に造営されたとありました。その後、衰えたこともあったようですが、永禄9年(1566)に千葉勝胤の子で金剛授寺十三世常覚が再興したと伝えられています(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。明治以降は独立した寺院となりました。このように、妙見宮と密接な結び付きを持ち、常重が千葉のまちを開いた時から今に続く寺院として重要です。
当寺はかつてQiball(きぼーる)前の大通りの下り車線から北側、現在の中央3丁目にあり、虚空蔵堂と地蔵堂が東に面して建っていました。当寺の境内にあった蓮の茂る池が花街として知られた「蓮池」の由来とされます。
ところが、本町交差点から京成千葉中央駅を結ぶ大通り(市道京成千葉中央駅線)の拡幅のため、大通り南側、現在Qiballのある場所に移りました。さらにQiball建設のため、吾妻橋を渡る通りに面した現在地に移りました。このように寺地は度々変わりましたが、今も「千葉の不動尊」として人々の変わらぬ信仰を集めています。

 

17 宗胤寺跡(中央区中央4丁目) 

 
千葉県庁から都川に架かる羽衣橋を過ぎ、スクランブル交差点を渡ると左側に県庁立体駐車場があります。その敷地が宗胤寺のあったところです。交差点に面して「明治天皇行在所旧蹟」の大きな石碑が建っています。明治15年(1582)に明治天皇が千葉へ行幸されたことを記念した碑で、陸軍大将一戸兵衛の書です。
当寺は、曹洞宗の寺院で山号は本光山、御本尊は十一面観音です。寺伝によると千葉宗胤が父頼胤や一族家臣のために建立し、境内に「伝千葉宗胤五輪塔」(千葉市指定文化財)がありました。その傍には「御廟の松」と呼ばれた古い松の木があったそうです。昭和20年(1945)の千葉空襲で堂宇を焼失し、戦後、千葉競輪場に隣接する中央区弁天町の現在地へ移転しました。宗胤の五輪塔もここへ移されています。この石塔は、空風輪は後世に補われたものですが、火輪・水輪・地輪にはそれぞれ梵字が刻まれ、15世紀中葉頃のものと考えられています。
当寺を開いたとされる千葉宗胤は、肥前千葉氏の祖となった人物です。宗胤の父胤頼は鎌倉幕府の命令で、モンゴル襲来に備えて九州に滞在していました。常胤以来、肥前国小城郡(佐賀県小城市)は千葉氏の領地であったからです。そして、頼胤は文永の役(1274)で受けた疵のため、建治元年(1275)に没してしまいました。頼胤には嫡子宗胤と二男胤宗の二人の男子がいましたが、兄の宗胤は引き続き小城に残り、弟胤宗が下総の支配を担当することになりました。宗胤の子孫は肥前千葉氏となり、胤宗の子孫は下総千葉氏となりますが、モンゴル襲来は千葉氏の分裂を招いたのです。そして、南北朝の内乱に肥前千葉氏と下総千葉氏との対立がリンクし、下総国内も深刻な戦乱状態に陥ることになります。
宗胤は大隅国(鹿児島県東部)の守護となり、同国の御家人たちを率いて異国警固番役を務めるとともに小城郡の支配も進めて行きました。宗胤は禅宗に帰依し、円通寺(佐賀県小城市、臨済宗)へ常胤以来代々の菩提を弔うために寺領を寄進しています。永仁2年(1294)に宗胤は九州で没しましたが、肥前千葉氏は戦国期にかけて勢力を伸ばしていきます(千葉氏研究プロジェクト(代表宮島敬一)編『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2009)。
その後、肥前千葉氏は内紛を起こし、一族は近世には鍋島氏の家臣として存続していきます。明治維新の際に活躍して司法卿となり、佐賀の乱で首領となって敗死した江藤新平も肥前千葉氏に仕えた家の子孫とされています。
千葉氏の名字の地である千葉に、血統の上では嫡流であった肥前千葉氏の祖である宗胤ゆかりの寺院が今も残ることは大変重要なことです。また、当寺はかつて都川に面した場所にありましたが、千葉氏と水運との関わりという点でも注目されます。

 

 18 御殿跡(中央区中央4丁目)

 千葉銀座通りを挟んで宗胤寺跡(県庁立体駐車場)の反対側に、千葉地方裁判所等があります。その敷地が「御殿跡」と呼ばれた場所です。現在は大きなビルが建っていますが、一辺約100メートルの方形の区画であり、宗胤寺跡と同じく南側は都川に面しています。それ以外の周囲は堀の跡と考えられる水田と土塁に囲まれていました(簗瀬裕一「中世の千葉-千葉堀内の景観について-」『千葉いまむかし』11号、2000年)。
この場所が徳川家康の滞在した「千葉御殿」の跡です。家康は鷹狩りのため何度も下総や上総を訪れました。水戸黄門として知られる徳川光圀は、延宝2年(1674)4月27日に千葉へ来ましたが、その紀行文「甲寅紀行」(『改訂房総叢書』第4輯、1959年)には次のように記されています。
千葉の町を出づる所の左の方に、古城あり。伊野花と云ふ。(中略)右の方に松の森あり。「東照宮御旅館の跡なり」と云ふ。
光圀は佐倉街道(現在の国道51号線)を通って千葉の町に入り、妙見寺(現千葉神社)と来迎寺(道場北にあった)について記しています。その次にこの記述があるので、本町通り・市場町通りを経て寒川へ行き、房総往還を通って上総・安房へ向かったと考えられます。市場町通り、今の県庁あたりから見ると、左に亥鼻山、右に「御殿跡」が位置するので、光圀の記載内容と一致します。光圀は家康(東照宮)の孫ですから、祖父の滞在した御殿の跡にひときわ関心を持ち、正確に記録したのでしょう。
千葉市内にあった徳川家康の御殿としては、土塁・空堀等の遺構が良好に残る「千葉御茶屋御殿」(市指定文化財、若葉区御殿町)が有名です。しかし、これとは別に「千葉御殿」が設けられていたのです。近世初期の姿を伝える絵図「下総一国之図」(船橋市西図書館蔵)でも、川(都川)に面した御殿と御成街道に面した御殿の二つが明確に描き分けられています。市内には徳川将軍家の二つの御殿があったのです(簗瀬裕一「千葉におけるもう一つの御殿跡-千葉御殿と千葉御茶屋御殿-」『千葉いまむかし』18号、2005年)。
ところで、この「御殿跡」について和田茂右衛門氏は「御殿跡の御殿が、千葉氏の屋敷跡ではないかと考えると、亥鼻山上に城を築き忠常はこの屋敷に住まい、一朝有事の際には、山上に家族郎党の者どもと籠って敵と戦ったのではないでしょうか。」と述べています(『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。忠常についてはともかく、「御殿跡」が千葉氏の館の跡ではないかと推定されたことは注目されます。
千葉氏の館の位置は不明ですが、「御殿跡」はその候補地の一つです。ちなみに、光圀は「甲寅紀行」で「妙見寺の東に、千葉屋敷あり。」と記しているので、「御殿跡」とは別の場所と考えていたようです。しかし、千葉氏の館は中心市街地(現中央・院内付近)の微高地上のどこかにあったと考えられます。

 

 19 堀内(中央区中央・院内・本町付近)

 
平安時代末期から室町時代に千葉氏の館がどこにあったのか、つまり千葉氏がどこで日常生活を送っていたのかというのは、千葉の中世史を考える上で極めて大きな問題です。しかし、結論から申せば、現時点では千葉氏の居館があった場所を示す中世の史料は残されておらず、不明としか言えません。前回紹介した「御殿跡」もその有力な候補地の一つですが、断定できる史料はありません。
しかし、『千学集抜粋』には、治承4年(1180)に平家方の藤原親政が攻め寄せた際に「千葉の館」に残っていた千葉成胤が妙見の加護を受けて奮戦したことがみえます。また、『源平闘諍録』では、この「千葉館」を「重代相伝ノ堀内(ほりのうち)」とも言っています。
『千学集抜粋』には「屋形の堀内に妙見おはせしときは」「屋形様御堀内に妙見のおハせし時ハ」といった記載がみられます。この「屋形」「屋形様」とは、もちろん千葉氏当主のことです。「堀内」はその居館で、その中に妙見が祀られていました。つまり、「千葉の館」と「屋形の堀内」「屋形様御堀内」は同じものであることがわかります。
また、同書は金剛授寺(妙見宮、現在の千葉神社)について「下総国千葉庄池田堀内北斗山金剛授寺」と記しています。さらに千葉の守護神の一つである「堀内牛頭天王」は、佐倉街道(現在の国道51号線)に面した八坂神社(本町1丁目)に比定されています(簗瀬裕一「中世の千葉-千葉堀内の景観について-」『千葉いまむかし』11号、2000年)。「金沢文庫文書」にみえる「堀内光明院」は現在の神明町にありました(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。
このような例をみると、簗瀬氏が前掲論文で明らかにしているように、「堀内」は千葉氏の居館そのものを指す場合(狭義の「堀内」)と、居館を含む千葉氏の本拠地である千葉のまちを示す場合(広義の「堀内」)の二通りの意味で使われていることがわかります。つまり、「堀内」は前者の外に後者が広がるという二重の円のような構造だったのです。しかし、後者の広義の場合でも「堀内」は千葉神社のある院内、八坂神社のある本町、光明院のあった神明町にわたる範囲、すなわち現在の千葉の中心市街地に当たることが明らかになります。当然ながら狭義の「堀内」は広義の「堀内」の内部にあったはずですから千葉氏の居館も千葉の中心市街地のどこかにあったことが判明します。
大日寺跡である通町公園の地下から南北朝時代の梵鐘が出土したことを以前書きましたが、
中心市街地のどこかの地下に千葉氏の居館が眠っているはずです。
なお、千葉の「堀内」は「千葉庄堀籠郷」とも呼ばれていました(「中山法華経寺文書」)。

 

 20 【番外編】鎌倉に住んでいた千葉氏(神奈川県鎌倉市)

 千葉氏の全盛期と言える鎌倉時代、千葉氏は主に鎌倉に住み幕府に出仕していたようです。
「六条八幡宮造営注文写」(国立歴史民俗博物館蔵、『千葉県の歴史 資料編 中世5(県外文書2・記録典籍)』2005年)には、建治元年(1275)の御家人のリストがあります。これをみると、鎌倉幕府の御家人は「鎌倉中」、「在京」、「諸国」という三種類に分けられていたことがわかります。
そして、千葉氏嫡流家や相馬・武石・大須賀・国分・東といった「千葉六党(ちばりくとう)」と言われる庶子家、遠山方・白井・木内氏は「鎌倉中」として記載されているのです。「下総国」の御家人として記載されているのではありません。
これについて「「鎌倉中」として格付けされた御家人は鎌倉に館をもち、交代で御所内の諸番役を勤めていたのであり、いわば彼らの本籍が「鎌倉中」であった」とされています。「在京」は京都にいる御家人、「諸国」は各国にいる御家人で、国別にまとめて書き上げられています(海老名尚・福田豊彦『田中穣氏旧蔵典籍古文書』「六条八幡宮造営注文について」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第45集、1992年)。
言うまでもなく千葉氏は下総国千葉庄を本拠地とする有力御家人ですが、幕府は千葉常胤の直系子孫に当たる一族を「鎌倉中」、つまり鎌倉に住む御家人として位置付けていたのです。
これに対して、臼井氏や常胤の弟である胤光に始まる椎名氏は、「下総国」の御家人として記されています。常胤より前に分かれた一族は、たとえ常胤の弟であっても「諸国」の御家人として位置付けられたのです。
千葉氏は草深い下総で質実剛健な生活を送っていたのではなく、華やかな中世都市鎌倉で過ごすことの多い、都市的な武士であったことがわかります。もちろん、本拠地千葉に帰ることもありましたが、多くは鎌倉にいて幕府に出仕したり、『吾妻鑑』にみえるように儀式に参列したり、将軍の外出に随兵として供奉したりしていました。
鎌倉での千葉氏の屋敷をみると、成胤・胤綱の家は「甘縄」にありました(『吾妻鑑』)。相馬師常の屋敷は現在の扇ガ谷付近にあり、鎌倉駅西口に近い千葉地遺跡は千葉氏の屋敷跡と伝えられているので、千葉一族の屋敷は鎌倉の西側にまとまっていたようです。なお、常胤・胤正は「弁谷殿(べんがやつどの)」と呼ばれているので、東側の材木座付近にも屋敷があったようです。また、妙隆寺(鎌倉市小町、日蓮宗)は千葉胤貞の屋敷を寺院としたものです。
意外なことですが、千葉氏は鎌倉時代にはあまり千葉で暮らしていなかったようです。このことも千葉氏の館の記憶や伝承が早く失われた理由の一つかもしれません。

 

 21 結城(中央区寒川・港町・神明町・新宿町付近)

 前々回、治承4年(1180)に平家方の藤原親政が攻め寄せた際に、「千葉館」に残っていた千葉成胤が妙見の加護を受けて奮戦したことに触れました。『源平闘諍録』には、一千余騎の軍兵を率いた親政は赤旗を差して白馬に乗り、「匝瑳北条之内山ノ館」(匝瑳市内山)から「白井ノ馬渡ノ橋」(佐倉市馬渡)で鹿島川を渡り、「千葉結城」へ攻め寄せましたが、親政軍が「結城浜」に現れたことを聞いた成胤は、わずか7騎で立ち向かったとみえます。
また、『千学集抜粋』では、祖父常胤たちに遅れて源頼朝を迎えるため上総へ向かった成胤は、「曽加野」(蘇我付近)から引き返して「結城・渋河」で親政軍と戦ったとされています。
ところで、この合戦の舞台となった「結城」は、現在の行政上の地名としては残されていません。以前から千葉にお住いの方であれば御存じかもしれませんが、今では耳にすることはほとんどありません。わずかに残る痕跡を拾ってみましょう。
JR本千葉駅の改札を出て寒川方面に行くと、港町に「結城幼稚園」がありました。その近くには「結城山満蔵寺」(曹洞宗)がありましたが、現在では別院であった星久喜町に移っています。『千学集抜粋』には「結城は今の寒川なり」とみえます。
また、安政5年(1858)の『成田名所図会』(『成田参詣記』、有峰書店、1973年)には、次のように記されています。


○寒川村は天正以前までは結城と称せし地にて、此地方の埜(の)を今も結城埜と称し、結城山満蔵寺と云寺もあり。新田は向寒川(むかふさむかは)と云所なり。此地に結城明神と称する社あり。


この「結城明神」は、寒川から大橋を渡った「向寒川」に鎮座する神明神社(神明町)のことでしょう。その別当寺が光明院でした。また、白幡神社(新宿1丁目)は「結城稲荷」と称していましたが、頼朝が白旗を奉納したという伝承から明治時代になって社号を改めたそうです(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。今も境内には「正一位結城稲荷大明神」の祠があります。また、新宿2丁目には「結城」を冠したビルもみられます。
これらをふまえると「結城」の範囲は、現在の千葉市中心市街地の南側、都川が東京湾に注ぐ河口の寒川・港町から、対岸の神明町、新宿、新田付近にわたったことがわかります。かつての東京湾に面した地域です。
野口実氏は、この地で行われた千葉氏と藤原親政との合戦を「坂東における有力な平家方の一角が崩れた」戦いで、「千葉氏の歴史の中で画期的な大事件」であり、「その意義は鎌倉政権樹立の中で、極めて大きいものがある」と高く評価しています(『坂東武士団と鎌倉』戎光祥出版、2013年)。
千葉氏の飛躍のきっかけとなった結城浜合戦の古戦場であることを伝える貴重な歴史的地名が消え去ろうとしていることは、誠に寂しいものがあります。

 

  22 本円寺・本敬寺(中央区本町1丁目)

 
中世・近世の千葉のメインストリートは、千葉妙見宮(現在の千葉神社)から都川に架かる大和橋までの「本町通り」、これに続いて大和橋から寒川方面に至る「市場町通り」でした。現在も自動車の往来が絶えない大通りですが、実際に歩いてみると、本町通りは微高地のなかで一番高い位置を、あたかも背骨のように走っていることがわかります。
その本町通りの東側に、本円寺と本敬寺(ほんぎょうじ)という二つの日蓮宗寺院があります。さらに、近くにはかつて正妙寺(しょうみょうじ)という日蓮宗のお寺もありましたが、明治29年(1896)に本敬寺と合併し、廃寺となったそうです(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』千葉市教育委員会、1984年)。
本円寺は、日蓮宗のなかでも日什を祖とする妙満寺派(顕本法華宗ともいいます)のお寺です。千葉一族の円城寺胤久が日什の弟子の日義に帰依し、日什を開山として康暦元年(1379)に開いたとも、日什によって創建された寺を日喜が永徳2年(1382)に中興開山したとも伝えられています(前掲『社寺よりみた千葉の歴史』)。湯浅治久氏が「東国の日蓮宗」(網野善彦・石井進編『中世の風景を読む 第二巻 都市鎌倉と坂東の海に暮らす』新人物往来社、1994年)で紹介しているように、『門徒古事』という記録には日義が守護千葉介(満胤か)の祈祷所に出向いた際の記事があります。これによると、千葉介が日什の教えを聞きたがったので、これを妨げるため千葉の諸宗の僧侶たちが自分の寺に千葉介を招いて日什に会わせないようにし、千葉近郷の仏像の鼻を欠き落として日蓮宗の仕業と称したといいます(『日蓮宗宗学全書 顕本法華宗部 旧称妙満寺派(第一)』1921年)。
これにより、本円寺からさほど遠くない場所(千葉のどこか)に千葉氏の守護所があったこと、日蓮宗が千葉に進出して千葉氏にも接近していたこと、それに他の宗派の僧侶たちが反発していたことがわかります。
本敬寺は、日蓮宗の古刹として有名な藻原寺(茂原市)の末寺で、藻原寺の十世をつとめた日伝が明応元年(1492)に開いたと伝えられます。また、正妙寺は中山法華経寺の末寺で、日高が正和元年(1312)に開いたと伝えられます。
このように千葉まちの東側、本町に日蓮宗の三つの門流の寺院が集まっていたことは注目されます。京都の町衆たちが日蓮宗の信者となり、比叡山延暦寺と対立して天文法華の乱(1536年)を引き起こしたように、日蓮宗は都市の商工業者に強く支持されました。中世の開創を伝える日蓮宗寺院が集まっていることは、千葉が都市的な発展を遂げ、商工業者が本町付近に多くいたことを示していると考えられます。
なお、千葉神社には土気城(緑区)の酒井胤治・康治父子が永禄7年(1564)に出した「酒井胤治・康治連署制札」が残ります(『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』2001年)。酒井氏は俗に「上総七里法華」といわれるように妙満寺派(顕本法華宗)の日蓮宗信仰を持っていました。第二次国府台合戦の後に出された制札ですが、酒井氏が千葉に影響を及ぼしていたことを示す史料でもあります。

 

 23 中世の千葉まちの範囲(1)

 中世の千葉のまちの範囲はどこからどこまでだったのでしょうか。『千学集抜粋』には、大治元年(1126)、千葉常重が千葉のまちを立てたときの記述として「曽場鷹大明神より御達保稲荷の宮の前まて七里の間御宿也」とあります。
これによると、北東側、常陸(茨城県)や佐倉の方から千葉へ通じる街道(現在の国道51号線、古代の東海道、近世の南年貢道)でいえば、車坂の上にあった曽場鷹大明神(そばたかだいみょうじん、若葉区貝塚町)までが千葉でした。また、南側、市原方面から千葉へ通じる街道(現在の国道16号線の旧道、近世の房総往還)でいえば、海に面した御達保稲荷(ごたっぽいなり、中央区稲荷町)までが千葉でした。曽場鷹大明神から御達保稲荷までが宿(しゅく)、つまり武士、商人や職人、宗教者といった人々が集住するまちだったことがわかります。
それでは、このほかの方角はどうだったのでしょうか。まず、北側です。佐倉から四街道を経て千葉へ通じる街道(近世の北年貢道)でいえば、高品(若葉区)を過ぎると千葉でした。旧道脇には幕末の文久3年(1863)に建てられた「高品の常夜塔」が残り、ここが千葉の出入り口だったことを今に伝えています。高品城は、戦国時代の千葉氏当主の嫡男が本佐倉城(酒々井町・佐倉市)から来て、千葉妙見宮(千葉神社)で元服の式を行う際の拠点として重要な役割を担っていました(拙稿「戦国期千葉氏の元服」『中世東国の政治構造 中世東国論 上』2007年)。
次に北西側、八千代や穴川方面から千葉へ通じる街道(現在の国道16号線)でいえば、作草部(稲毛区)からは千葉の外とされていたようです。原豊前の家来である石出氏が妙見宮の神領に乱入して狼藉を働きましたが、『千学集抜粋』には罪人を処罰したときのこととして、次のような記事があります。
「…本人を縄うちて出させける、さくさ辺のおりとにて、千葉ヘハ入すして、山崎民部少輔に仰せ、頭をきりて…」
これによれば、千葉の内には入れずに「さくさ辺」、つまり作草部で処刑しています。なお、「おりと」という地名は作草部に残っていません。ちなみに、モノレール作草部駅の近くには、享和元年(1801)に建てられた「縄しばり塔」と呼ばれる、道標を兼ねた百万遍塔があります。その右側面には「千葉町へ二十町」と刻まれています(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。江戸時代の人々にも、この辺りが千葉の入り口と意識されていたのでしょう。
以上をまとめると、作草部、高品、曽場鷹大明神、御達保稲荷を結ぶラインの内側が千葉のまちだったと考えられます。
なお、東側の土気往還・東金街道(病院坂を経て現在の大網街道につながる)については不明です。次回は西側について考えたいと思います。

 


 

 

 コラム:新聞にみる千葉のむかし スペイン風邪の蔓延 ~大正7年パンデミックから何を学ぶ?~

大関真由美(郷土博物館研究員)


新型コロナウイルスによる世界的なパンデミックの影響が随所に及んでいる今日この頃、本コラムでは「過去のパンデミックはどうだったのか?」について、ご紹介したいと思います。
大正7年(1918)、全世界で「スペイン風邪」が流行、日本でも8月下旬から流行がはじまり、11月には全国的な流行となりました。千葉県内も例外ではなく、東京日日新聞10月26日の記事では「怖しい西班牙感冒(スパニッシュインフルエンザ) 千葉町にも猛威を揮ふ」として記事を載せています。これによれば、この時点で「官署に勤める役人、材料廠へ通ふ職工、旅館、下宿屋の女中さては荒くれた寒川の漁師達に至る迄皆閉口して居る、殊に蓮池七十の芸者中廿余名は休業」とし、千葉中学校では生徒24名と教師3名が罹患、女子師範学校でも6名の罹患者がでていることが書かれています。木更津駅でも駅員9名が罹患し、周辺の駅から応援を呼んで営業している状態です。「三日風邪の烈しいもの」として不摂生をしないように注意喚起がされています。
翌27日には、「人込を避けよ」という新井県警察医の談話を載せ、症状についての説明をした後に「患者はなるべく健康者と隔離」する必要を説いています。31日の「世界かぜ益蔓延 何日になつたら終熄するか」という記事では、各郡の状況を載せたうえで、県庁内で40余名、千葉中学校60名、高等女学校30名、男子師範17名、女子師範23名、千葉尋常小学校と第一~第四各小学校合わせて250名もの罹患者の増加、ならびに郵便局の集配人や電話交換手でも罹患者増加のため業務に支障がでている旨を報じており、確実に生活への影響がではじめていることがわかります。
11月4日には佐原高女が前日から一週間の休校となった旨が報じられ、6日には県下の患者数が約5万人に達する見込みであること、医師ですら罹患して診察ができない状態であるとの記事が出ています。罹患者からの死亡者(小学生)も出て、いよいよ退っ引きならない状態になってきました。
7日には「各所の製糸工場も遂に休業す 欠席休校日に次々」、そして千葉中学校も5日から10日までの臨時休校となったことを報じています。印旛郡当局は、各町村に対し全ての集会の中止を通達し、ますます今回のコロナウイルスと同様の様相を呈してきます。連日のように患者数や休校の情報が紙面にあがっています。その後記事は次第に減少し、28日には「やつと終熄か」の記事がでます。初発以来の県内患者数は182,541名、死亡者646名で罹患率は2.09%、死亡率は0.353%とのことでした。
全国的にも12月頃には勢いが低下、当時の内務省衛生局は、日本国内の総人口5,719万人に対し、第1回流行期間中の総患者数は2,116万8千人(約37%)と報告、総死亡者数は25万7千人で単純計算すると致死率は1.2%とのことなので、千葉県内は決して高くはない罹患率と死亡率であるとはいえ、その混乱はかなりのものであったことは想像に難くありません。
今回の新型コロナウイルスへの政府の対応は、患者との接触をさけるという観点から休校・不要不急の外出や集会を避けることに集約されると思いますが、大正7年時点でもやはり同様の対応がなされていたことがわかります。
大正7年のパンデミック同様、必ず終息する日が来ると思います。まだまだ先は不透明ですが、ひとつの希望を見出すこともできるのではないでしょうか。

(ちば市史編さん便りNo.24より転載)

 

 

 コラム: 卯兵衛さんの旅~江戸の旅と信仰

白井千万子(郷土博物館研究員)


今年は新型コロナウイルスの影響で外出自粛の要請が続いているため、ゴールデンウイークもステイホームウィークとなってしまいました。こんなときは千葉市立郷土博物館のホームページを開いて、在宅での旅をしてみてください。そして、コロナ禍が収まった暁には、今外出を我慢している分まで存分に旅を楽しみましょう。
今回は、江戸時代の旅のようすを紹介します。街道や宿場が整備され、庶民が旅に出やすくなったのは江戸時代も中期以降です。滑稽な旅のようすを描いたベストセラー「東海道中膝栗毛」や「旅行用心集」など、現在のガイドブックにあたる道中記が盛んに出版されたこともあり、文化文政期以降に旅の一大ブームが起こりました。「一生に一度はお伊勢参りをしたい」という庶民の強い願望もあり、伊勢の御師たちは伊勢参宮パッケージツアーを企画して、人々を伊勢の旅へと誘いました。
しかし、幕府は支配政策の一環として全国各地に関所を置いたため、そこを通過するには往来手形や関所手形が必要でした。そこで庶民は寺社参詣、あるいは湯治という療養を名目に領主の許可得て、村役人や寺の発行した手形を持って旅に出かけました。関所を通るときには手形改めが行われましたが、箱根の関所ではとくに厳しい監視体制がとられ、箱根御番所奉行宛の関所手形が必要でした。往来手形は旦那寺が発行する身分証明書で、現在のパスポートのような役割を果たしており、他国へ出かける旅人にとっては必携品です。
下の史料は下総国千葉郡星久喜村の百姓が上野国の草津へ湯治に出かけたときに、星久喜村の千手院が発行した往来手形です。天台宗の千手院が旦那寺となって百姓3人の身分を証明しており、関所の通行、不慮の事態が起きた場合の宿場や村々での対応について依頼しています。

 

往来手形写真

翻刻文1


翻刻文2
(『千葉市史史料編2近世』)

 

信仰の旅には地元の寺社に参詣する日帰りの手軽な旅と、伊勢参宮など他国へ出かける大掛かりな旅がありました。伊勢参宮の旅は、行きと帰りでは同じ道を通らず、途中で善光寺など諸国の有名な寺社へ参詣したり、京都、大坂、奈良などを見物するなど、一生に一度の大旅行でした。遠くの寺社への参詣には多くの日数を費やし、多額の費用もかかりました。そこで庶民は同じ神仏を信仰する仲間で「講」という組織をつくり、参詣のための費用を積み立てました。参詣の順番をくじ引きなどで決める「代参講」という形をとり、講員が交代で参詣に出かけました。江戸時代の千葉市域には伊勢講のほかにも出羽三山講(出羽国羽黒山・月山・湯殿山への参詣)、秩父観音講(秩父三十四番札所への参詣)、富士講(富士山への登拝)、大山講(相模国大山石尊への参詣)などがありました。講員は参詣から戻ると、地元の寺社などに参拝記念の石碑を建てました。各地に残された石碑を見ると、参詣に出かけた場所、時期、同行した人数などがわかります。

伊勢参宮道中記

千葉郡中野郷鎌田(現千葉市若葉区中野町)の高橋卯兵衛さんは、嘉永5年(1852)に伊勢参宮の旅に出かけ、「伊勢参宮日記控帳」(千葉市の郷土史家和田茂右衛門氏収集資料)を残しています。この道中記をもとにして、卯兵衛さんがたどった旅のルートを追体験してみましょう。


<旅のルート>旅のルート

 

<卯兵衛さんの旅> 

・旅の行程‥6月1日千葉町出立~7月12日千葉町帰着
6月1日千葉町(暑気払)―寒川(舟)…6月2日江戸神田町(鰻飯)―大宮―6月3日熊谷(すいか)―6月4日高崎―6月5日榛名山(餅)―6月6日妙義山(茶)―横川(関所)―6月8日川中島(古戦場)―善光寺(参詣)―6月9日稲荷山(蕎麦)―猿ヶ馬場峠(柏餅)―6月10日赤坂峠(餅)―奈良井―6月11日福島(関所)―上松(名物ねさめそば)―6月12日妻籠―6月13日坂下―6月14日名古屋―6月15日津嶋(牛頭天王祭礼見物、夜舟乗)―6月16日佐屋(舟)…桑名―6月17日四日市―6月18日草津―6月19日三井寺(茶、すいか)―6月20日京都―伏見(舟)…6月21日大坂(名物虎屋まんちう)―6月22日奈良(白酒)―6月23日山辺(桃)―6月24日粟生山峠(茶)―松坂―6月25日伊勢山田龍太夫門迄馬乗・櫛田渡―6月26日大神宮(参拝)・朝間ケ嶽(萬金丹)・二見ケ浦(西瓜)―6月27日櫛田―6月28日六見(酒肴)―6月29日神戸(酒)―四日市(舟)…岡崎(枇杷湯、桃)―7月1日御油(甘酒、西瓜)―新居(関所)―7月2日浜松―天竜川(舟渡)―7月3日掛川(西瓜、酒)―7月4日左よう中山(あめ餅)―金谷・大井川(輦台)―安倍川(徒渡)―府中(今川義元御霊屋)―7月5日江尻(梨)―7月6日富士川(舟渡)―原(酒肴、富士山眺望)―三嶋(三嶋大社)―7月7日箱根(関所)―小田原(酒肴)―酒匂川(舟渡)―7月8日藤沢(そば)―馬入川(舟渡)―川崎―7月9日六郷川(舟渡)―品川(甘酒)―7月10日、11日江戸小伝馬町(土産購入)―深川(酒肴) ―行徳川(舟)…船橋(なし、すし)―7月12日登戸(酒肴)―千葉町(酒肴)
・旅の期間‥41日間
嘉永5年(1852)6月1日~7月12日
・旅の費用‥23貫448文
宿泊費29%・交通費(舟、馬、駕籠)14%・休憩(水菓子、菓子、酒肴)14%・昼食13%・その他(草履、草鞋、衣類、見物銭、案内銭、土産)30%
・旅の土産代…1両2分3朱
高崎(脇差、煙草入)・川中島(武田由来記)・善光寺(きせる、善光寺画図)・京都(脇差、画図)・大坂(きせる、煙草入)・奈良(絵図)・朝間(萬金丹)・江戸(めりやす、大森細工、結城縞、縮緬、鰹節、お茶、からし油、雨傘、画紙、忠臣蔵読本、めくら嶋足袋)・千葉町(緋縮緬、扇子、日傘)

卯兵衛さんの道中記は千葉町から始まります。薄荷園での暑気払いを済ますと、舟で江戸へ向かいます。行きは中山道を通り、途中で川中島を見物して「武田由来記」を購入し、「一生に一度はお参りしないと極楽へ行けない」という信仰のある善光寺にお参りしています。木曾十一宿は中山道の山間部にあり、最も標高の高い旅の難所である鳥居峠を控えて、奈良井で宿泊しています。中山道六十七宿の真ん中にある奈良井宿は、最も栄えた宿場町で「奈良井千軒」と謳われ、町並は現在、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
津嶋では牛頭天王の祭礼を見物し、夜舟で宵祭りを楽しんでいます。津嶋天王祭は「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコの無形文化遺産に登録されています。京都、大坂、奈良では案内人を雇って上方の見物をして、土産物を購入しています。
松坂から伊勢山田まで馬に乗り、櫛田川を渡って宮川を越えると伊勢神宮です。関東をカスミ(檀那場)とする御師龍太夫の屋敷に宿泊し、豪華な接待を受けています。伊勢神宮外宮への参拝を済ませ、朝間ケ嶽にお参りして伊勢の萬金丹を購入し、二見ケ浦を見物して旅の目的達成です。
帰りは東海道を通り、一筆書きのような行程をたどっています。東海道には天竜川、大井川、安倍川、富士川など大河川が多く、舟渡し、輦台、人足による徒渡しの費用がかかります。舟や徒の渡し賃16文から46文に対して、大井川の輦台は人足4人分と輦台の借り賃を合わせて313文もかかっています。人足を雇うために購入する川札の値段は、川の水量によって48文から94文と異なり、大雨などで増水すると川留めで逗留を余儀なくされることもあります。
江戸では見物やさまざまな土産物購入のために3泊し、船橋では鮨を食して1泊します。41日間の旅では、途中で茶店に入って各地の名物を堪能して疲れを癒したり、名所旧跡や祭礼などを見物したりと、徒歩での旅を楽しみながら、長旅を終えて無事に千葉町に戻りました。

 

  • 江戸時代の貨幣価値…1両(=4分=16朱)=4貫(=4000文)=米1石
  • 江戸時代の太陰太陽暦…月が地球をまわる周期は約29.5日のため、大小対暦表で大の月(30日)と小の月(29日)を調整します。1年は354日になるため、32ケ月又は33ケ月に一度の閏月を設けます。嘉永5年は大の月が1、2、3、4、7、9、11月、小の月が閏2、5、6、8、10、12月で、6月1日から7月12日までの卯兵衛さんの旅の期間は41日間となります。

 

<旅装束>

徒歩を基本とした江戸時代の旅は道中笠、道中合羽、手甲、脚絆、草鞋姿に振り分け荷物が一般的な旅の姿です。旅の持ち物はちょうちん、ろうそく、つけ木(マッチ)、矢立(携帯用筆記具)、弁当箱、手形(往来手形・関所手形)、衣類、手ぬぐい、はな紙、財布、巾着(小銭入れ)、ふろしき、髪結道具、扇、針糸など必要最小限にとどめ、振り分け荷物に納めて持ち歩きます。旅に必要な物は途中で購入することもでき、卯兵衛さんは草履やわらじなどを買い求めています。

<伊勢神宮と「おかげまいり」>

伊勢神宮は皇室の祖先神である天照大神を祀る内宮と、衣食住をはじめとする産業の守り神である豊受大御神を祀る外宮に分れます。外宮は江戸時代には農業神としての信仰をあつめ、伊勢暦は農民にとって農業暦として重要な役割を果たしました。御師は積極的に活動して全国に伊勢信仰を広めるとともに、伊勢参宮の客を屋敷に宿泊させてもてなし、大々神楽をあげるなどの世話をしたため、多くの人々が伊勢神宮を訪れました。
およそ60年毎に来る「おかげまいり」の年には、伊勢参りをする人の数が倍以上になりました。人々は集団で伊勢参りに出かけ、この時は沿道の人々が無料で食事や宿を提供したため、お金がなくとも旅ができました。

 

 コラム:坂東巡礼~房総の札所めぐり(前編)

 白井千万子(郷土博物館研究員)

 <坂東札所とは>
寺社信仰は伊勢参りや善光寺参りなど一つの寺社を目的とした参詣と、各地の札所を巡り歩くことを目的とする四国、西国、坂東、秩父などの巡礼があります。四国遍路や西国巡礼は平安時代に始まったといわれ、僧や貴族の信仰をあつめました。坂東の札所は花山法皇(在位984~985)の時に制定されたという伝説がありますが、実際は関東に基盤を置く武家政権である鎌倉幕府が成立すると、西国巡礼の在り方を関東にうつしたといわれています。坂東巡礼の信仰は武士の間に広まり、将軍源頼朝・実朝も観音信仰に帰依しました。そして、札所の制定にも大きな力を果たしたといわれています。第一番鎌倉の杉本寺から始まり第三十三番安房の那古寺で終わると、船を利用して鎌倉へ戻る札所巡礼ルートは、鎌倉在住者に都合の良い順路といえます。また相模国に最も多い九カ所の札所が制定されたことからも、鎌倉の存在の大きさがうかがえます。
江戸時代になると物見遊山を兼ねた庶民の旅が盛んになりますが、西国や秩父に比べると坂東札所は真摯な巡礼者が多かったといわれます。巡礼の順番も江戸から始まることが多くなり、自分の都合に合わせて自由にコースを決めるようになります。今回紹介する道中記の巡礼では、三十三カ所のうち安房、上総、下総の札所6カ所を巡り、納札を行っています。

 

<坂東三十三札所>

第一番大蔵山杉本寺(神奈川県鎌倉)、第二番海雲山岩殿寺(神奈川県逗子)、第三番祇園山安養院(神奈川県鎌倉)、第四番海光山長谷寺(神奈川県鎌倉)、第五番飯泉山勝福寺(神奈川県小田原)、第六番飯上山長谷寺(神奈川県厚木)、第七番金目山光明寺(神奈川県平塚)、第八番妙法山星谷寺(神奈川県座間)、第九番都幾山慈光寺(埼玉県比企)、第十番岩殿山正法寺(埼玉県東松山)、第十一番岩殿山安楽寺(埼玉県比企)、第十二番華林山慈恩寺(埼玉県岩槻)、第十三番金龍山浅草寺(東京都台東)、第十四番瑞応山弘明寺(神奈川県横浜)、第十五番白岩山長谷寺(群馬県群馬)、第十六番五徳山水沢寺(群馬県北群馬)、第十七番出流山満願寺(栃木県栃木)、第十八番補陀洛山中禅寺(栃木県日光)、第十九番天開山大谷寺(栃木県宇都宮)、第二十番独鈷山西明寺(栃木県芳賀)、第二十一番八溝山日輪寺(茨城県久慈)、第二十二番妙福山佐竹寺(茨城県常陸太田)、第二十三番佐白山観世音寺(茨城県笠間)、第二十四番雨引山楽法寺(茨城県真壁)、第二十五番筑波山大御堂(茨城県筑波)、第二十六番南明山清滝寺(茨城県新治)、第二十七番飯沼山円福寺(千葉県銚子・下総)、第二十八番滑川山龍正院(千葉県香取・下総)、第二十九番海上山千葉寺(千葉県千葉・下総)、第三十番平野山高蔵寺(千葉県木更津・上総)、第三十一番大悲山笠森寺(千葉県長生・上総)、第三十二番音羽山清水寺(千葉県夷隅・上総)、第三十三番補陀洛山那古寺(千葉県館山・安房)

 

 地域別分布
相模国9(現神奈川県)、常陸国6(現茨城県)、武蔵国5(現東京都1・埼玉県4)、下野国4(現栃木県)、下総国3(現千葉県)、上総国3(現千葉県)、上野国2(現群馬県)、安房国1(現千葉県)

 

 <房総版坂東札所めぐり>
今回は『享和元年(1801)閏三月十一日 道中記 吉田氏』(千葉市の郷土史家和田茂右衛門氏収集資料)から、江戸時代の坂東札所めぐりの旅を紹介します。道中記は3月16日の「出立、成田山よりなめ川江三里、此所ニ泊リ角や」から始まり、4月1日の「姉ヶ崎より五井江壱り八丁遠し 五井入口江舟渡し」で終わっています。日記を書いた人物の詳細は不明ですが、原所蔵者は千葉市稲毛区園生町の吉田氏であることから現千葉市域在住者と思われます。この旅日記をもとに、「房総版坂東札所めぐりの旅16日間」のルートをたどってみましょう。下の地図を参照しながら、ご覧ください。

 

・旅の行程‥3月16日成田山出立~4月1日五井到着
3月16日成田山―なめ川(泊角や)―3月17日廿八番札納なめ川観音(芭蕉の碑)―源太河岸…あバ…押砂(昼食)…佐原―香取・香取大神宮参詣―津宮…常陸国かな新田(泊)―3月18日鹿嶋大神宮参詣…息栖・息栖大神宮参詣(昼食)―息栖(泊朝田や・雨逗留)―3月19日息栖…小見川―五郷内村樹林寺―岩井(昼食)―さる田・猿田彦大神宮―てうし今宮村(泊)―3月20日いゝぬま・廿七番札納(芭蕉の碑)―高野・妙見宮開帳参詣―へた(昼食)―飯岡(泊蕪木屋)―3月21日東谷―高村・稲荷大明神―横芝(昼食)―成東 (泊大津屋)・不動尊参詣―3月22日田間・山王ノ社―東金―大網―本納・橘大明神(昼食)―もばら―千手堂・奥院弁財天開帳参詣―長南(泊現金屋)―3月23日丗一番笠森札納(芭蕉の碑)―桑田(渡し)―清水・丗二番札納清水寺―ながし(3月24日・3月25日宿清八・雨逗留)―3月26日新宿―おん宿―かつ浦(昼食)―おきつ―誕生寺・小湊(泊)―3月27日小湊(舟渡し)―天津―清澄(かち渡り)―清澄寺参詣―浜萩(昼食)―前原(渡し)―不動明王・百観音―いミ(泊)―3月28日和田―松田(かち渡り)――なご・丗三番なご寺札納(昼食)―木の根(渡し)―ほた・鋸山登(泊)―3月29日仁王門口―金谷―竹岡―天神山(舟渡り・昼食)―神野山下町(泊長嶋屋)―3月30日神野山(舟渡し)―高倉・三十番札納―横田村(渡し・昼食)―三箇村―上和泉―あまふだ―笠上・笠上観世音開帳―姉ヶ崎(泊いし渡)―4月1日姉ヶ崎(舟渡し)―五井 [―徒歩・…舟利用]
・旅の期間‥16日間
享和元年(1801)3月16日~4月1日

旅の記録は成田山から始まり、坂東札所の二十八番滑川観音にお札を納めています。札所を見ると巡礼者が納めたお札が御堂に張られている光景を見かけますが、これらの納札はかつての参拝者の動向を知る手掛かりになります。「観音の面も見やりつ花曇」は滑川観音を詠んだ芭蕉の句ですが、飯沼観音や笠森観音にも芭蕉の句碑があり、松尾芭蕉が訪れたことがわかります。
滑川から10丁(約1090m)ほどの源太河岸から佐原までは、200文かけて「さわらや嘉七舟宿」の舟を利用しての舟旅を楽しんでいます。佐原で舟を降りて香取神宮へ参詣し、再度舟で常陸国かな新田へ行き、鹿嶋神宮や息栖神宮に参詣した後、雨のため息栖に逗留します。香取・鹿嶋・息栖は江戸時代には木下茶船を利用して、江戸からの旅人が多く訪れた人気の場所です。
小見川からは陸路で銚子へ向かい、二十七番札所飯沼観音にお札を納め、高野妙見宮開帳にお参りしています。銚子については岩不動明王、川口白神大明神、千人塚、さるの石など、さまざまな名所を紹介しています。銚子を出ると横芝の稲荷大明神、成東の不動尊、田間山王社、本納の橘大明神、茂原の千手堂奥の院開帳を参詣して長南に向かいます。翌日は朝食前に三十一番札所笠森にお札を納めた後、付近に宿も見あたらない五里半(約21.5km)の道を三十二番札所清水寺に向かい、お札を納めます。
ながし(夷隅郡長志村は房総南部を貫く要道上にあり、定期市で名高い)では雨のため3泊逗留して新宿へ向かい、その後は浜通りを海岸沿いに御宿、勝浦、興津と進み、2里(約7.8km)程磯の難所を越えて小湊に到着します。小湊の誕生寺、清澄の清澄寺と日蓮ゆかりの寺に参詣し、浜萩、前原、江見、和田、松田を経て三十三番札所那古寺にお札を納めています。木の根峠を越えて保田に着くと鋸山に登り、翌朝仁王門口から金谷、竹岡、天神山を経て鹿野山の麓で宿泊しています。翌日は三十番札所高倉観音にお札を納め、笠上入口台方の笠上観世音開帳に参詣して姉ヶ崎で宿をとります。4月1日姉ヶ崎から五井入口への舟渡しで日記は終わっています。
旅の費用についての記載は宿賃の「木銭六十文」「米百文壱升」、「舟宿壱人前銭弐百文」、「千手堂開帳百文」、「舟渡し」3文~5文のみです。合計額は642文ですが、昼食代や休憩費の記載はなく、宿泊費は2日分の記述しかないため、旅全体の費用を把握することはできません。木銭と米は木賃宿と呼ばれる安価な宿の費用で、旅人に宿泊と自炊施設を提供していました。江戸時代中期以降になると、街道が整備されて庶民の旅が盛んになり、食事を出す宿も増えて身軽な旅ができるようになりました。
道中記の筆者がたどった行程を見ると、坂東札所へのお札納めと寺社参詣が中心で、篤い信仰心がうかがえます。物見遊山、各地の名物、土産物の購入などの記述が見られないことからも、幕府が認めた本来の信仰の旅に近いことがうかがえます。

 

<参詣した寺社~道中記より>

・坂東札所
第二十八番滑川山龍正院(香取)、第二十七番飯沼山円福寺(銚子)、第三十一番大悲山笠森寺(長生)、第三十二番音羽山清水寺(夷隅)、第三十三番補陀洛山那古寺(館山)、第三十番平野山高蔵寺(木更津)の6つの札所でお札納めをしています。

・札所以外の寺社
香取神宮、鹿島神宮、息栖明神、高野妙見宮、成東不動尊、千手堂弁財天、清澄寺、鋸山日本寺と8つの寺社にお参りし、旅の行程の途中にあるその他の寺社についても紹介しています。



3月16日から4月1日までの旅の行程(1~56の番号は地図中の番号と一致)

3月16日 1成田山 2滑川
3月17日 3佐原 4香取 5津宮 6かな新田
3月18日 鹿島神宮
3月19日 7息栖 8小見川 9五郷内村 10岩井 11猿田 12銚子今宮村 
3月20日 13飯沼 14飯岡
3月21日 15東谷 16横芝 17成東
3月22日 18東金 19田間山王社 20大網 21本納 22茂原 23千手堂
3月23日 24長南 25笠森 26桑田 27清水
3/24.3/25 28ながし(長志)
326 29新宿 30御宿 31勝浦 32興津
3月27日 33小湊 34天津 35清澄 36浜萩 37前原
3月28日 38江見 39和田 40松田 41那古寺 42木の根 43保田
3月29日 44鋸山 45金谷 46竹岡 47天神山
3月30日 48鹿野山 49高倉 50横田村 51三箇村 52上和泉 53天羽田 54台宿 55笠上
4月1日 56五井

旅の行程

 

 コラム:坂東巡礼~房総の札所めぐり(後編)

 白井千万子(郷土博物館研究員)

<『房総道中記』と『利根川図志』>
享和元年「坂東札所道中記」には名所旧跡の紹介が少ないので、江戸時代の房総について記した書物『房総道中記』と『利根川図志』で少し補っておきたいと思います。
『房総道中記』は十辺舎一九の作で、「房総ひざ久利毛」と呼ばれることもありますが、正式名称は外題「方言修行金草鞋十七編」、内題「小湊参詣金草鞋」で、文政10年(1827)の出版といわれています。一九の代表作「東海道中膝栗毛」は享和2年(1802)の出版ですが、その後も続膝栗毛は「金毘羅参詣」、「宮嶋参詣」、「木曾海道」、「善光寺道中」、「上州草津温泉道中」、「中山道」が出されます。膝栗毛は文が主であるのに対して、金草鞋は絵が主の記行(紀行はとき、ところが示されるが、記行にはときがない)です。文化10年(1814)の「江戸見物」から始まり、「東海道」、「大坂見物」、「京見物」、「木曽路巻」、「奥州」、「仙台」、「出羽」、「西国順礼」、「坂東順礼」、「秩父順礼道中」、「身延道中之記」、「善光寺参詣」、「東都大師巡八十八箇所」、「二十四輩御旧跡巡拝」、「小湊参詣」(房総道中記)、「越中立山参詣記行」、「白山参詣」、「四国遍路」、「西海航路」、「西海陸路」、「伊豆記行」、「箱根山七温泉江之島鎌倉廻」と続きます。膝栗毛が戯作であるのに対して、金草鞋は実用的な道中案内記的役割をもっています。
『利根川図志』は全六巻からなり、安政4年(1857)に下総布川の町医者赤松宗旦義知によって出版されました。中・下利根川流域の名所旧跡、神社仏閣、産業、交通、地理、歴史、人情や風俗、動物や植物の生態など、幅広い分野にわたって記録した地誌です。絵や図も豊富で沿岸の風景、神社仏閣の祭礼、鮭や藻類などの動植物、カッパ、アシカ、印旛沼の図、銚子磯めぐりの図、利根川全図(上越国境の利根川源流から銚子川口までの沿岸の地名を記入)などが取り入れられています。赤松宗旦は利根川河岸の布川で生まれ、印旛沼沿岸で青春時代を過ごし、医学や種々の学問を求めて遊歴したといわれます。再び布川に戻って医師として開業する傍ら、豊富な知識や広い教養を身につけた文人としても活躍しました。

<江戸時代の房総~『房総道中記』より>
『房総道中記』の旅は、「坂東札所道中記」と重なる部分が多く見られます。旅の始まりは江戸小網町で、行徳までは船に乗り、そこから船橋・馬加、毛見川・登戸、寒河・曽我野、浜野・八幡、五井、姉ヶ崎、奈良和・木更津、鹿生山・佐貫、天神山・百首、金谷、保田・勝山、市部・那古、広瀬・加茂、和多・江美、前原・小松原、小湊、天津・清澄、豆原初日峰、松野、大滝、長南、笠もり、茂原、わしのす、六地蔵、宇留井土と徒歩の旅を続けます。帰路は寒川から江戸へ船で戻り、房総の旅を終えています。
房総各地の名物として行徳の笹屋うどん、中山蒟蒻、那古の飴などが登場しますが、土産の記述はありません。江戸時代から明治初年までのお土産は、紙刷の名所旧跡図や地図、旅人宿で出す引札、神社仏閣のお札等軽くてかさばらないものが一般的でした。また、神社仏閣で製造された秘伝の妙薬もお土産の定番で、成田山の一粒丸(血止め、傷薬)は有名です。長旅のため日持ちのしない食べ物はお土産には不向きで、各地の名物を堪能することは旅人の特権であり、旅の楽しみのひとつでもありました。
次に、「坂東札所道中記」に登場する鹿野山、保田、那古、和田・江見、小松原、小湊、天津・清澄、笠森について、『房総道中記』に記された江戸時代のようすを紹介します。

 

鹿野山…観音の霊験があらたなるゆえ、参詣たへず。境内に大木の桜あり。神野寺不動の滝。
天神山…天神の社あり。
保田…日本寺といふ寺、石の五百羅漢、石の大仏、そのほかさまざまの仏像、自然石にてきざみたるめづらしき景致なり。
和田・江見…和田のさきより、又海端をゆく道あり。此あたりも海辺にて景色よし。江見の宿、此あたりも海辺にて景色よし。
小松原…小松原鏡忍寺といふは、日暁上人開基の寺なり。什物品々あり。
小湊…房州長狭郡小湊、高光山誕生寺は、日蓮上人誕生の所なるゆへ、中老僧日家上人ここに開基せられし寺なり。
天津・清澄…天津に天照太神宮の社あり。
那古…飴の名物、観音、門前に飴やおほし。那古寺は千手観音、坂東巡礼第三十三番目の札所なり。
笠森…笠森観音、坂東三十一番の札所なり。


(『房総道中記』より抜粋)

<江戸時代の房総~『利根川図志』より>
『利根川図志』は地元のことを知り尽くしている赤松宗旦が著者であるため、記述内容も詳細を極めています。続いて「坂東札所道中記」に登場する成田山新勝寺、滑川観世音、香取大神宮、鹿島大神宮、息洲神社、銚子、飯沼観世音について、『利根川図志』をもとにして江戸時代のようすを紹介します。


成田山新勝寺…埴生郡成田村にある。不動明王と二童子を祀っている。弘法大師の御作で、始めは山城国高雄山護国寺護摩堂の本尊であった。天慶二年(939)相馬の将門が乱を起したとき、寛朝僧正に命じて、調伏の法を修めさせた。僧正はこの尊像を奉持して将門の新都近くで調伏の護摩を修めたところ、効験利益がたちまちあらわれ、翌天慶三年二月将門はついに降伏した。僧正が尊像を奉じて京都に帰ろうとした時、尊像がたちまち重くなってもちあげることができなかった。かつまた、夢の告げるところがあったので、尊像を京都に持ち帰ることなく、永く成田の地にとどめることにした。そこで伽藍を建て、高雄山の寺号に準じて「神護新勝寺」とした。このことは『縁起』にくわしい。
滑川観世音…滑川村にある。滑川山龍正院という。坂東順礼二十八番の霊場である。本尊は十一面観世音(御身長は一丈二尺=約三・六メートル、定朝の御作である)、脇立は不動明王と毘沙門天である。承和七庚申の年(840)に創建した。御堂の側に船越地蔵の堂がある。この地蔵尊は網で朝日淵からすくいあげたという。観世音(御身長は一寸三分=約三・五センチメートル)は、御本尊の胎中に納められてあるという(『縁起趣意』。
香取大神宮…下総国香取郡にある。正殿は経津主大神である。神代から鎮座まします古い神様である。相殿神は比売神、天児屋命、武甕槌神である。摂社、末祠はすべてで八十末社である。大小の祭祀はすべてで九十余たび行なわれ、そのうち十八回は大祭祀である。神宝は広矛。干潮と満潮をつかさどる両顆の明珠。神楯、太刀、矢、鞭でこのほかに古器や古書が数多い。名所は亀甲山、木母杉、弓掛杉、斥候杉、三本杉、牧野、釜塚、笠塚、鹿塚、星塚。神井は御手洗井、氷室井、亀井、大坂井、琵琶井、下の井、真禰井、西隠井、東隠井、奴久井、石井、大刀洗井である。七橋は大坂橋、五段田橋、萱田橋、小山橋、下井橋、地口橋である。八坂とは大坂、亀辺坂、若宮坂、下井坂、氷室坂、御手洗坂、奴久井坂、幸若坂である。このほかにも、名勝古跡の数が多い。
鹿島大神宮…常陸国鹿島郡にある。正殿には武甕槌神、相殿の神の右は経津主命、左は天児屋命を祭っている。神代の昔からここに鎮座まします大神であって、たいへん、たいへん古いことである。『風土記』に「淡海大津の御代(天智天皇の御代)に、初めて使者を派遣して神の宮を造らせ、これ以来修造が絶えず行なわれた」と記してある。摂社、末祠はすべてで八十末社がある。祭礼は年中の例祭・大神事は百三十三度。小神事は七日余度、そのうち常陸帯の祭(正月十四日)、祭頭(二月十五日昼夜)、御田植祭(五月五日)、御軍祭(七月十日)、御船祭(七月十一日夜)、新嘗祭(八月初丑の日)、相撲(九月九日夜)である。名所、要石、御笠山、御手洗川、高間の原、末無川、碁石浜、鹿島浦、角折浜、甕山、神の池、浪逆海、七不思議は要石、御手洗の水、末無川、御藤、海の音、根あがり松、松の箸。七井は染井、成井、莘柄井、清水井、保太井、寸府井、波左間井。名物は洲浜の菓子。土地の人びとは一般に「デンチュウ」という。
息洲神社…息洲村の海辺にある。住吉の三神である底筒男と中筒男と表筒男の命を祭っている。『総常日記』は「水際から三十間(約五、六十メートル)ほど離れて、海中に鳥居が立っている。鳥居のそばから二、三間(約四、五メートル)離れて、神代からという瓶が大小二つある。大きいのはさしわたし六尺(約一・八メートル)ばかりで、小さいのはその半分ほどもあろうか。」と述べている。
木下…むかし、この土地にはわずか十軒ほどしか人家がなかったが、寛文年間(1661~1673)のころここに旅客の行舟「木下茶船」をしつらえたことがもとになって、たいへん繁栄するに至った。それは鹿島・香取・息栖の三社に参詣し、かつ銚子浦に遊覧する人が多いからである。問屋七郎左衛門がこの番船をあづかって、旅人のわずらわしい骨折りをいたわり、助けてやった。
銚子…下総国海上郡の銚子の港は、日本の国の東の果てである。一名を犬坊崎という。そもそも銚子は関東第一の港であり、人家は五千を越えるという。西は松岸、垣根、芝崎まで、南は三崎、小浜までである。北は利根川の末の港に至り、東は大海(太平洋)である。その間は二、三里(約十キロメートル)四方におよぶ。仏院には妙福寺(法華宗)の妙見堂、法満寺(一向宗)の伽藍がすばらしく、浄福寺(浄土宗)の五百羅漢の石造は庭のかたわらにある。松岸の良福寺の庭の中の糸桜がすばらしい。高神の石山寺(天台宗)や威徳寺(真言宗)の薬師如来は遠く天竺からお渡りなさった尊い仏だと言い伝えられている。東の方につき出ている山の上には和田の不動堂があり、石段の左右には滝がある。この山にのぼれば、うしろの方は蒼々とした松の色が少し黒ずんで眉墨色にこまやかで、前方は大海にのぞみ、珍らしい形をした岩が左右にそびえていてその景色はとても美しい。浜めぐりの人も、まずはここで休み、しばらくの間、時の移るのも忘れるほどすばらしい景勝地である。
名物…チリメン白魚、鰹の塩辛、鱸、牡蠣、防風、松露、やまさの醤油、広屋のひしほ、吉野屋の料理、そして海藻蒟蒻(世間の人は飯沼こんにゃくという)。このこんにゃくを味噌汁に煮ると産婦のあとはら(出産後の腹病)に効く薬になるという。
川口明神…川口の方にさし出た山の上にある。拝殿に「白紙大明神」の額がかかっている。これから川口を眼下に見おろすことができる。また常陸原から鹿島の浦や奥州の浦々までも見渡すことができる。
千人塚…川口にある。むかし、漁師が漁の最中に海で溺死したのを祭った塚だという。石像の地蔵尊が建っている。毎年七月に、銚子中の寺々は、その日、その日の定めがある。この塚の上では、施餓鬼(餓鬼道に落ちこんで苦しんでいる亡者たちに食物を施して供養すること)が行われる。また、漁船にとって風が悪く、帰りの遅いときには、この塚の上で火を焚いてまるで燈台のように川口の目印とすることで、塚のてっぺんに火を焚いた跡がある。この塚のそばに鉄砲の台場がある。この付近の人は、これを御台場とよんでいる。
川口…つまり銚子口のことである。岸にそって一の岩、二の岩といって、大きな岩が二つある。その間はおよそ五、六十間(約百メートル)ばかりである。これから南の方へ磯つづきにゆくのを「浜めぐり」とよんでいる。名所が多い。
飯沼観世音…飯沼山円福寺は十一面観音(坂東巡礼二十七番)、仁王門の鐘楼は石垣、本堂の額は円通殿(書は徳水)、石の鳥居がある。境内には見世物、軽わざ、芝居のほか茶店が多く、たいへんにぎやかである。定打の芝居は今宮の芝町にあって、座本は梅本妻太夫である。

(『利根川図志』より抜粋)

 江戸時代に房総を訪れた人々は、寺社詣や風光明媚な景勝地を楽しむ旅を満喫しました。特に成田山新勝寺は、江戸での出開帳(普段は見せない秘仏を寺以外の場所で人々に拝ませること)、歌舞伎役者市川団十郎の成田山信仰の影響などもあり、江戸時代には庶民の間で成田詣がさかんになりました。江戸の人々は16里(約63Km)の道のりを成田山に向かいましたが、成田講を組織して定宿に泊まり、集団で参詣する人々も見られました。また、木下茶船をしつらえての船旅も、香取・鹿島・息栖の三社詣と銚子浦遊覧を兼ねた旅として人々の心をひきつけました。夕刻、江戸からの船に乗ると翌朝には木下河岸に着くため、人々は徒歩の労から解放されて気楽に旅を楽しむことができます。江戸の人々にとって房総は、近場で手ごろな旅先として人気のスポットとなりました。
江戸に近いという地理的条件もあり、房総は物資の供給地として江戸の台所を支えました。さまざまな産業が発達した房総では、舟を利用して特産品を江戸へ運んだため、江戸と房総を結ぶ舟運が発達しました。舟は物資の運搬のみにとどまらず、江戸の人々を房総へと誘う役割も果たしました。交通の便が良くなると、人々は房総へ足を運んで札所の一部を廻るなど、房総での気軽な旅を楽しむことができるようになります。政治や経済だけでなく、文化の面でも房総と江戸の間には深いつながりが見られました。

 

 千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No.1)

 

一時下火になっていた新型コロナウイルスの第二波が懸念される中、各地で毎年の恒例行事として行われている祭りも、今年は自粛の動きがみられます。本来、いにしえの夏祭りは京都八坂神社の祇園祭に代表されるように、疫病退散を祈願するために行われた行事でした。現代に目を向けると、新型コロナウイルス退散の祈禱を行っている寺社や守護神の登場も見受けられ、今も昔も困ったときの神頼みという人間の気持ちは変わらないようです。本来の趣旨からすれば、こんな時だからこそ感染症の退散を願って盛大にお祭りを行いたいところです。しかし、感染拡大を招いてしまっては元も子もないということで、例年通りの祭礼を開催するのは難しそうです。そこで今年は次回の開催に備えて、祭礼に関する知識を蓄える年とするのも一つの方法です。現在、千葉市立郷土博物館ではミニ企画展「ちばの夏祭り・秋祭り」(会期は7月15日から10月25日まで)を開催しています。会場には氏子着用の祭衣装、祭うちわ、神楽舞の衣装、祭りの写真、関連書籍などを展示しています。各地の祭り見物に出かけることは無理かもしれませんが、登渡神社のお囃子の音色が響く郷土博物館の展示室で、少しでもお祭り気分を味わって頂けたらと思います。期間中の水・土・日曜と祝祭日には、県指定無形民俗文化財「下総三山の七年祭り」のビデオ上映も行われています。七年ごとに開催されるこの祭りは、来年が開催の年に当たりますので早めの情報収集に役立ててください。
今回のミニ企画展では千葉神社、寒川神社、稲毛浅間神社、検見川神社、登渡神社の祭礼、下総三山の七年祭りについての展示をおこなっています。これらの祭礼について、順次紹介していきます。

展示風景1

 

 

 千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No.2)

【千葉神社妙見大祭】(千葉だらだら祭り)8月16日~22日
千葉市中央区院内の千葉神社で、毎年開催される大祭です。妙見尊を祀る妙見堂と、付属しておかれた北斗山金剛授寺尊光院が一つの境内にあったことから、かつては妙見寺あるいは妙見社と呼ばれました。明治政府が神仏分離令を出した時に、千葉神社と改称しました。大祭が7日間にわたって行われるのは、祭神の妙見に因んでいるといわれます。旧暦の7月16日から22日に行われていましたが、明治時代中頃からは新暦で行うようになりました。千葉常重が千葉に本拠を定めた翌年の大治2年(1127)に始まり、毎年途切れることなく開催されているといわれます。8月16日の宮出しでは、千葉神社を出た神輿は向かい側にある香取神社の前で孔雀を飾りつけます。そして町内を渡御し、夕刻亥鼻山の麓にある市場町の御仮屋に入ります。22日の本祭では、御仮屋を出た神輿は市場町、院内を渡御した後、香取神社に寄って孔雀をはずします。千葉神社に戻ると、前庭で門前の若者と神輿方の当番との間で大きく差し揉みした後、宮入りとなります。香取神社は経津主命を祭神として、仁和元年(885)9月25日村人により勧請されたといわれる古い神社です。千葉神社の神輿が、香取神社の前で孔雀の取りつけ、取りはずしを行うのは、地主の神であると考えられる香取神社への遠慮からといわれています。

<千葉神社妙見大祭関係の展示>
[展示品]
<半被と祭うちわ>
祭り2

 

  • 半被(千葉氏顕彰会より借用)
    半被は祭礼で着用する衣服で、襟に町名を入れて使用します。襟字は町名ごとに異なりますが、展示の半被には「本町」の襟字が入れてあります。
  • 祭うちわ(昭和40年代)(当館蔵)
    神輿は16日の宮出しと22日の本祭で各町内を渡御しますが、氏子が町内を練り歩くときには祭うちわが使われます。展示の祭うちわは、「吾妻町二丁目町会」が所有していたものですが、昭和40年代に当館に寄贈されました。「吾妻町」は昭和45年(1970)の行政区画変更時に消失した地名であることから、祭うちわはそれ以前に使用されたものと思われます。

[展示写真]

  • 祭礼の列(大正11年頃)(当館作成)
    市場町の御仮屋から寒川神社に向かう祭礼の列で、写真は旧市役所前から亥鼻山方面を撮影したものです。
  • 祭礼稚児と記念写真(大正14年頃)(当館蔵)
    花笠をかぶり、鼻筋に白粉を塗ったお稚児さんが記念写真に収まっています。神輿巡幸に先立ち、子どもたちたちは「ヤーレンマ、ヤーレンマ」といって御鉾車を曳いて回りました。
  • 祭礼稚児行列(昭和10年代)(当館蔵)
    髪飾りをつけて華やかに着飾った稚児行列の背後には、商店名が書かれた大きな祭うちわがみられます。
  • 祭礼稚児(昭和10年代)(当館蔵)
    本町通り千葉神社前では、稚児の周辺に祭礼の見物客が大勢集まっています。
  • 神輿渡御(昭和10年代)(当館蔵)
    16日の宮出しで神輿は香取神社から町内を渡御し、亥鼻山の麓にある市場町の御仮屋に納められます。22日の本祭では、御仮屋を出た神輿は市場町、院内を渡御し、香取神社を経由して千葉神社に宮入りします。
  • 祭礼太鼓山車(昭和10年代)(当館蔵)
    神輿の先導役を務める大太鼓は直径1メートル以上もあり、両側から2人ずつでたたく4人によるアイウチ「二段打ち」という特殊なたたき方をします。一日でこれをたたき破るのが、若衆の心意気とされました。
  • 子ども神輿の巡行(昭和33年)(当館蔵)
    吾妻町2丁目の子ども神輿で、町内会ごとに子どもたちが神輿をかついで祭りを盛り上げました。旧国鉄千葉駅(JR東千葉駅付近)へと通じる栄町商店街には、露店も多く出て賑わいました。
  • 子ども神輿(昭和32年)(当館蔵)
    子ども神輿の巡幸は中央通りで一休みし、大人も子どももアイスキャンディーをほおばっています。
  • 千葉神社御仮屋(当館蔵)
    16日に宮出しされて町内を渡御した神輿は、16日夜から22日の本祭まで亥鼻山の麓にある市場町の御仮屋に納められます。この間千葉神社の職員は、御仮屋に滞在して神輿の警固をしています。御仮屋は戦災にも遭わず、昔のままの建物が残されていましたが、平成30年に建て替えられました。

 

 千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No.3)

【寒川神社大祭】8月19日~21日
千葉市中央区寒川の寒川神社で、毎年開催される大祭です。天照皇太神、寒川比古命、寒川比売命の三神が祀られ、神明社あるいは伊勢明神といわれましたが、明治元年に寒川神社と改められました。御神体として祀られている獅子頭には、「文明十三年」(1481)の朱墨銘があります。伝承では、獅子頭が漁師の投げた網に入ったため神明社に祀ったところ、沖を航行する船の沈没が続いたといわれます。そこで神殿の下に石室を築造して封じ込めると、船の事故がなくなったといわれ、獅子頭は海の守り神とされています。
寒川の氏子たちは妙見様に豊漁を祈願するため、太治2年(1127)に千葉神社の妙見祭に参加したと伝えられています。千葉妙見の祭礼では二基の大舟を仕立てて、舟山車が作られました。明治10年(1877)ころまでは、千葉から出る「男舟(千葉舟)」と寒川から出る「女舟(結城舟)」が神輿を送って海中まで行き、御舟は神輿より先に上がって神輿の還御を待ちました。寒川神社伝来の「大舟の飾り幕」は結城舟の回りを飾り付けた幕で、現在千葉市立郷土博物館に保管されています。緋羅紗の布で仕立てた飾り幕の中央には、千葉氏の家紋である月星紋と九曜紋が描かれています。
昭和15年(1940)までは、19日に寒川の若衆が御仮屋から千葉神社の神輿を引き受け、20日早朝から寒川町内を渡御しました。夕刻になると、出洲のふもとの大鳥居をくぐって海に入り、深夜まで妙見洲で神輿かついで禊を行い、21日未明のうちに御仮屋に納めました。昭和20年(1945)の戦災で千葉神社の神輿が焼失するまで、千葉妙見の祭礼は千葉町と寒川が一体となって行っていました。昭和24年(1949)に千葉神社と寒川神社がそれぞれ神輿を新調すると、祭礼も別々に行われるようになりました。かつぎ手の減少、交通事情の変化により、戦後まもなく寒川では神輿巡幸に車輌を用いるようになりました。昭和55年(1980)まで使われた寒川の神輿は、現在当館2階に展示されています。
昭和30年代後半まで寒川の人々によって行われていた御浜下りは、埋め立て開始により一時途絶えました。昭和43年(1968)から平成10年(1998)までは御座船を仕立てて、千葉港内の船渡御を行っていました。平成11年に復活した御浜下りは、現在出洲海岸の埋立地先・千葉ポートパークの砂浜で行われています。会場では巫女舞の奉納や餅撒きが行われ、その後各町内会の高張提灯とともに浜に入った神輿は、かつぎ手によって大きく揉まれます。

<寒川神社大祭関係の展示>
[展示写真]
・寒川祭日(昭和11年頃)(当館蔵)
写真は祭りの全景で、神輿をかつぐようすが写っています。19日に寒川の若衆が御仮屋から神輿を引き受け、20日早朝から寒川町内を渡御しました。花形の太鼓打ち(4人によるアイウチ)から始まり、頭に花笠を被った子どもたちが「ヤーレンマ、ヤーレンマ」とかけ声をかけながら御鉾車を曳き、神輿は「ホリャ、ホリャ」とかけ声をかけてかつぎました。各町会の巡幸を終えた神輿は、夕刻御浜下りの神事を執り行います。
・御浜下り(平成30年)(当館蔵)
平成11年(1999)に復活した御浜下りは、現在出洲海岸の埋立地先・千葉ポートパークの砂浜で行われています。巫女舞の奉納後、神輿が各町内会の高張提灯とともに浜に入り、祭りはクライマックスを迎えます。

<寒川神社の神輿>
祭り3

 

 

 千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No.4)

【稲毛浅間神社例大祭】7月14日.15日
千葉市稲毛区稲毛の稲毛浅間神社で、毎年開催される例大祭です。大同3年(808)5月晦日に小中台のシロヤマへ勧請された神社が、のちに稲毛に移されたといわれます。治承4年(1180)9月17日には、源頼朝が海辺を通ったときに参詣したといわれます(『千葉県千葉郡誌』)。文治3年(1187)3月15日再建の際には、富士山に見立て砂山を盛り、登山道のようにして参道を設けて、はるか海上に富士山を仰げるようにしたと伝えられます。祭神は瓊々杵尊、木花咲耶姫命、猿田彦命の三神です。木花咲耶姫命が瓊々杵尊の妃となり、お産の時に土を塗り込めて火を放った産屋で安産をした神話に因み、火難除け、安産子育ての神といわれ、近郷から子ども連れの参拝者が多く訪れます。例大祭中のお参りは、1年間毎日参詣するのと同じ御利益があるとされ、昔から多くの人々で賑わいました。参拝者はお札、子育ての笹などを神社からいただきます。祭りの期間中は境内に幟旗が立てられ、神楽殿では千葉県無形民俗文化財の「浅間神社の神楽」が奉納されます。稚児行列なども行われ、地元では「せんげんまつり」として親しまれており、露店も多く出て賑わいます。

<子育ての笹>
子育ての笹

 

 <稲毛浅間神社例大祭関係の展示>
[展示写真]
・渡船の参道(昭和30年代)(当館作成)
例大祭の日には稲毛漁業協同組合の和船を並べて、その上に板を敷いて参道を作りました。参道脇には長さ7~8メートルほどの竹が、海中まで通して立てられました。参拝者は渡り賃を納めて海の中にある一の鳥居まで行き、子どもの無病息災を祈願してお祓いを受けました。写真奥に見える鳥居は、現在国道14号・357号線の上り車線脇に残っています。
・例大祭のようす(昭和30年代)(当館作成)
7月15日には火難除・安産子育て守護神の祭礼が行われます。例大祭では1歳、3歳、5歳、7歳の子どもを連れた大勢の親たちが、行列をなして海の中にある一の鳥居に向かいます。写真右手には海の家の看板、海の中には一の鳥居が見えます。

 

 千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No.5)

【検見川神社(八坂神社)例大祭】8月1日~3日
千葉市花見川区検見川の検見川神社で、毎年開催される例大祭です。嵯峨天皇に仕えた五位蔵人の後胤が承平4年(934)に造営したとの伝承から、当初は嵯峨神社と呼ばれました。中世には牛頭天皇社、江戸末期には検見川神社、明治以降は八坂神社と改称され、現在は検見川八坂神社と称しています。祭神は倉稲魂命(稲荷神社)、素戔嗚命(中央の八坂神社)、伊邪那美大神(熊野神社)で、検見川神社の境内には三社が並んでいます。神社付近から素戔嗚命の御神鏡が出土したので、これを合祀して八坂神社と改称したという伝承があります。素戔嗚命を祀る例祭の起源は疫病退散の祈願といわれ、京都八坂神社の祇園祭と同様に夏の祭礼です。1日夕刻に神社を出発した神輿は町内を渡御した後、御仮屋に納められます。3日午後、神輿は御仮屋を出て町内を巡行し、夜になると境内に戻ります。平成23年からは例大祭の期間に合わせて、境内で「ほおずき市」が開催されています。

<検見川神社例大祭関係の展示>
[展示品]
・ハクチョウ・タスキ(当館蔵)
ハクチョウは神輿のかつぎ手が着用する衣装で、その上に掛けるタスキは各丁ごとに色が異なります。展示の紫のタスキは2丁目のもので、1丁目は赤、3丁目は青、5丁目は黄のタスキです。

<ハクチョウとタスキ>

展示の様子 

・カラゲヒモ(当館蔵)
カラゲヒモは例大祭でかつぐ神輿とかつぎ棒を固定するための紐で、材料の麻を撚っている途中のものもあります。検見川「からげの会」の会員が、カラゲヒモの作成、かつぎ棒の固定、神輿の組み上げ、かつぎ終えた後の神輿収納など、裏方の作業を担当しています。

[展示写真]
・神輿をかつぐようす(昭和20年代)(当館蔵)
8月1日の夕方、神輿は検見川神社から出て巡幸した後、3日まで御仮屋に納められます。3日午後になると神輿は御仮屋を出て巡幸し、夜検見川神社境内に戻って神輿の揉み上げが行われます。神輿をかつぐときは「さしてもめ」のかけ声のもと、かつぎ手は足と腰で調子を取り、神輿が落ちるので腕は決して曲げないといわれます。
・神輿を迎えに行く若衆(昭和28年)(当館蔵)
最終日の3日には、年番町内の若衆がハクチョウの上にそろいの浴衣を着て、御仮屋に納められた神輿を迎えに行きます。

 

 

 千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No.6)

【登渡神社例祭】9月4日~6日
千葉市中央区登戸の登渡神社で、毎年開催される例祭です。祭神は天御中主命、天日鷲命、高皇産霊命、神皇産霊命の四柱で、かつては白蛇山真光院定胤寺と称しました。寛永21年(1644)9月千葉家の末孫登戸権之介定胤が、祖先追善供養のため千葉妙見寺の末寺として建立したといわれ、別殿に妙見尊を祀っています。明治維新の神仏分離令で天御中主命を祭神とし、登渡神社と改称しました。神輿の町内巡行は5日ですが、奉納演芸は3日間にわたって行われます。演芸では、千葉市地域無形民俗文化財に指定されている「登戸の神楽囃子」が奉納されます。中でも「寿獅子二頭舞」とよばれる獅子舞は金獅子、赤獅子もどきで演じられ、千葉市内では他に例を見ない演目です。

<登渡神社例大祭関係の展示>
[展示品]
・神楽衣装(当館蔵)
登渡神社の神楽「三番叟舞」で翁が着用した直衣、神楽「巫女舞」で巫女が着用した上着、神楽舞でおかめが着用した着物と帯、神楽舞でおかめとひょっとこが着用したちゃんちゃんこの衣装を順次展示します。巫女舞は9月5日の例祭に奉納されます。

<巫女舞の衣装>
巫女舞の衣装

 

[展示写真]
・神楽衣装(登渡神社登戸神楽囃子連提供)
写真左は金獅子の頭をつけた獅子で、神楽「寿獅子二頭舞・仁羽獅子舞」で着用します。例祭では獅子頭二つが、神輿巡幸のお供をします。写真右は打出の木槌を持った大黒様で、これらの衣装は登渡神社登戸神楽囃子連が神楽舞のときに着用します。
・神楽舞(登渡神社登戸神楽囃子連提供)
狐の面をつけて神楽「天狐舞」を舞っているようすで、登渡神社登戸神楽囃子連が舞を奉納します。

[録音音声]
・登戸神楽囃子
平成29年元旦の神楽囃子の録音音声を流しています。
登戸神楽囃子は東京葛西囃子系深川囃子を継承しているといわれ、平成20年(2008)に千葉市地域無形民俗文化財に指定されました。現在は登戸囃子連が祭り囃子や神楽の保存、継承などの活動をしています。祭囃子や神楽は9月4日の宵祭と、6日のハナナガシで奉納されます。登渡神社の神楽には仁羽舞(道化)、寿獅子二頭舞、仁羽獅子舞、三番叟舞、巫女舞、天狐舞、鬼舞、出世稲荷初午神楽、節分神楽、収穫祭神楽があります。展示中の衣装は、そのときに用いられたものです。
5日の例祭では大太鼓、獅子頭二つ、神輿(宮司)、小太鼓二つ、子ども神輿、お囃子(天狗面を被った男性)の順に車載巡幸が行われ、移動中は常にお囃子が演奏されています。

 

 

 

 千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No.7)

【下総三山の七年祭り】丑年・未年(7年に1度)
船橋市三山の二宮神社をはじめとした旧千葉郡の9社が参加する大祭で、県指定無形民俗文化財に指定されています。現在の市域では千葉市、船橋市、習志野市、八千代市の4市にまたがる広い地域のお祭りです。七年祭りの詳細については、千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No.8)で紹介します。

<下総三山の七年祭り関係の展示>
[展示品]
・子安神社社名旗(当館蔵)
社名旗は、七年祭りの神輿渡御行列や幕張の磯出式などで使用されます。展示の社名旗は昭和53年(1978)に、畑町子安神社より寄贈を受けました。

<子安神社社名旗>
子安神社社名旗

[展示写真]
・二宮神社への昇殿参拝(昭和48年)(当館蔵)
写真は畑町子安神社の神輿が、三山の二宮神社へ昇殿参拝するようすです。七年祭りの起源は馬加康胤奥方の安産祈願と安産御礼の祭事に由来するといわれ、9社が参加する「三山の大祭」と4社が参加する「幕張の磯出大祭」からなります。
・幕張での磯出式(昭和48年)(当館蔵)
写真は磯出式会場の入口のようすで、畑町子安神社の神輿と社名旗が見えます。二宮神社への昇殿参拝後、二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の4社の神輿は幕張海岸に集まり、夜半から行われる磯出式に臨みます。出産の儀式である「産屋の神事」では、畑町の両男女(りょうとめ)が子安神社の神輿前に置かれたタライの中で向き合い、ハマグリ交換のしぐさをします。「産屋の神事」を終えると、西の広場(磯出式場付近の旧街道)で二宮神社と子安神社の「神輿合わせ」が行われます。両社の神輿はその場で勢いよく揉まれた後、別れを惜しみながら去って行きます。

[調査報告書]
1三山の七年祭(昭和50年 千葉市教育委員会発行)(当館蔵)
2七年祭り―九社が寄り合う安産子育て祈願の大祭り―(平成22年 千葉県地域文化芸術振興プラン推進実行委員会発行)
3千葉いまむかしNo.18(平成17年 千葉市教育委員会)
※当館で販売中(1冊700円)、購入希望の方は入口受付でお申し付け下さい。

[ビデオ上映]
・ビデオふるさと講座5「畑町子安神社 七年に一度のお祭」(1991年 千葉市教育委員会)(当館蔵)
平成3未年(1991)に行われた「下総三山の七年祭り」について、畑町子安神社の動きを中心に式年大祭のようすを記録したビデオです(約1時間25分)。子安神社をはじめとする他神社の祭りに参加する人々の衣装、神輿のかつぎ方、祭りのしきたりなど、当時の七年祭りのようすがわかる貴重な映像です。子安神社社名旗が祭りで実際に使用されているようすも、ビデオの中で確認できます。
上映時間は毎週水曜日・日曜日13時30分~15時00分、土曜日・祝祭日10時30分~12時00分です。

 ※上映の日時が変更になる場合があります。詳しくは企画展のページをご確認ください。

 

 

 

 下総三山の七年祭り~ハレの日と信仰(No.1)

 

丑年・未年(7年に1度)~七年祭り参加神社
現在の七年祭り参加神社は「三山の大祭」が二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神
社、菊田神社、八王子神社、高津比咩神社、時平神社、大宮大原神社の9社、「幕張の磯出大祭」が二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の4社です。それぞれの神社が七年祭りで果たす役割や由緒など、9社の概要を紹介します。

<七年祭り参加神社の概要>

神社名(役割)

二宮神社(夫)

祭神:速須左之男命、稲田比売命、大国主命、藤原時平命、大雀命、誉田別命

由緒:近郷23カ村の総鎮守、藤原師経左遷の折祭祀、弘仁年間(810~823)創建

所在地:千葉郡三山村字西ノ庭2番

(伝説)1.藤原師経が左遷されて都を追われ、船で袖ケ浦を渡り当地付近の海岸に上陸する。一族とともに居住し、二宮神社を創建して祖藤原時平を合祀する。2.二宮は父、畑は母、武石は乳母、馬加は子守、その他19か村は一族郎党。3.上総の姉崎は二宮の姉君で一船先に同所に着き、弟君が来るのを待ちわびて涙にくれたと伝わる。古には姉崎の神輿は、遥か海路を渡り大祭に参加した。4.二宮の神が船中より遥かに火口を認め、上陸した場所が火の口で久々田と鷺沼の間にある。大祭の帰路、二宮神社は火ノ口で当時の式事を行う。5.旧暦11月13日に萱を持ち寄り、庭先で払暁より大焚火を行う古例は、先に着いた姉君に己の所在を知らせる縁起という。

子安神社(妻)

祭神:稲田姫命

由緒:千葉常胤造営、建久4年(1193)創建、建久四年九月一七日の棟札

所在地:千葉郡畑村字宮ノ後

(伝説)1.千葉常胤息姫が畑の子安神社に参籠し、帰路幕張の磯辺で安産となり、建久4年(1193)千葉常胤が社殿を造営する。(建久四年九月一七日の棟札)2.千葉常胤の奥方が子安神社で安産祈願し、帰路幕張の浜で無事男子を出産する。翌建久4年(1193)常胤が御礼に子安神社本殿を造営し、盛大な祭礼を行ったのが七年祭りの始まりで、畑町から両男女を出す由来という。

 

子守神社(子守)

祭神:稲田姫命、武速素戔鳴尊、大己貴命

由緒:千葉常胤四男大須賀四郎胤信造営、建久5年(1194)創建

所在地:千葉郡馬加村字北下川

(伝説)1.建久5年(1194)源頼朝が富士の裾野で牧狩りを行い、大須加四郎胤信は父千葉常胤とともに参勤する。その折に子守神社に参詣祈願し、無事に御用を勤めたので社殿を造営する。(建久の棟札)2.永仁6年(1298)須加本郷で疫病が数カ月流行し、宮司が疫神を祀る。無事に疫病が退散したので、氏子が社殿を造営する。(永仁の棟札)3.享徳元年(1452)馬加康胤の奥方が懐妊し、子守神社宮司が安産の加持祈祷を行う。無事男子が誕生したので、康胤は盛大な祭事を行って社殿を造営する。(享徳の棟札)4.永正5年(1508)康胤父子が討死すると、家臣は本郷須加から浜辺へ移住する。氏子たちは三社を一殿に祀り、社殿を造営して遷座する。(永正の棟札)5.永禄11年(1568)千葉家27代当主千葉胤富が、須加天王社へ祈願して神鏡を献上する。磯出祭礼に馬を曳かせて礼参し、社殿を造営する(永禄の棟札)。

 

三代王神社(産婆)

祭神:天種子命

由緒:千葉常胤三男武石三郎胤盛造営、建仁2年(1202)創建

所在地:千葉郡武石村字三代内

 

菊田神社(叔父)

祭神:大己貴命、藤原時平命

由緒:藤原師経左遷の折、当社を祭祀、弘仁年間(810~823)創建

所在地:千葉郡久々田村字東宮ノ腰

(伝説)1.治承5年(1181)藤原時平の苗裔藤原師経が下総へ配流された折、海上が荒れて一族郎党は久々田浦へ到着する。弘仁年間(810~823)創建の社を改築し、久々田明神を祭祀する。2.その後師経は山深い地を求めて菊田川を遡上し、三山社(二宮社)を改築して康正元年(1455)9月19日に遷宮する。3.宝暦年間(1751~1763)菊田大明神と改名する。

 

八王子神社(末息子)

祭神:天忍穂耳命、天照皇大神、豊受姫命、猿田彦命、倉稲魂命

由緒:大同2年(807)創建

所在地:千葉郡古和釜村字八王子

 

高津比咩神社(娘)

祭神:多岐都比売命

由緒:明応元年(1492)創建

所在地:千葉郡高津村字宮ノ前

 

時平神社(長男)

祭神:藤原時平命

由緒:大和田:慶長15年(1610)創建、山車が七年祭に参加。萱田町:元和元年(1615)創建、神輿が七年祭に参加

所在地:千葉郡大和田村字出戸、千葉郡萱田町字台畑

 

大原神社(叔母)

祭神:伊弉冉尊

由緒:文禄元年(1592)創建

所在地:千葉郡実籾村字葉板

明治41年(1908)4月21日大宮神社を合祀し、大原大宮神社となる。祭神は伊弉冉尊(大
原神社)と伊弉諾尊(大宮神社)で、後に大宮大原神社と改称する。

以上、明治初年『千葉県神社明細書』より

 

  下総三山の七年祭り~ハレの日と信仰(No.2)

 

丑年・未年(7年に1度)~七年祭りの概要
七年祭りの正式名称は「二宮神社式年大祭」で、「神揃の祭」「昇殿参拝の祭」「磯出祭」からなります。平成16年(2004)3月30日付で、「下総三山の七年祭り」として千葉県指定無形民俗文化財に指定されています。安産御礼の昇殿参拝が先に行われ、安産祈祷の産屋の神事が後になることから、「三山の祭、後が先」といわれます。二宮神社は延喜式の寒川神社に比定される古社で、下総国「一の宮」の香取神宮に次ぐ「二の宮」として位置づけられています。千葉郡北西部の総鎮守的存在で、王朝時代に三山庄の総社として建立されたため、二宮神社に対する礼を失しないためといわれています。
七年祭りへの参加神社9社は、地元船橋市三山の二宮神社(夫役)、千葉市花見川区畑町の子安神社(妻役)、花見川区幕張町の子守神社(子守役)、花見川区武石町の三代王神社(産婆役)(以上4社は「磯出祭」にも参加)、習志野市久々田(津田沼)の菊田神社(叔父役)、実籾の大宮大原神社(叔母役)、船橋市古和釜の八王子神社(末息子役)、八千代市高津の高津比咩神社(娘役)、大和田の時平神社(山車が参加)と萱田の時平神社(神輿が参加)(長男役)です。千葉市、習志野市、船橋市、八千代市の広範囲にわたりますが、かつてこれらの神社はすべて千葉郡に属していました。
祭りは9月13日の小祭から始まり、11月21日の禊式、11月22日の大祭(「神揃の祭」「昇殿参拝の祭」「磯出祭」)、11月23日からの花流し(各神社での村祭り)となります。次に、平成27年の七年祭りの概要を紹介します。


<平成27年の七年祭り>

小祭 9月13日

三山の人々が神輿を担いで、町内を渡御します。大祭当日、三山地区の人々は接待で忙しいため、小祭で神輿を担ぎます。かつては二宮神社の大祭の日取りを決めるため、小祭で湯立神事が行われました。

 禊式 11月21日

大祭の前夜、二宮神社と三山地区の人々は全員習志野市鷺沼海岸へ赴き、運動公園で行われる禊式に参加します。禊式会場には水桶が用意され、その中に海から汲み上げた海水とあさりが入っています。午後8時過ぎに神主が禊式を行うと、参加者は水桶の海水で手を清め、桶の底からあさりを一掴みとって持ち帰ります。かつて海岸で禊を行っていた時、海に入って縁起物として貝を拾ってきたなごりといわれます。地元鷺沼にある根神社の氏子が、禊式の世話役を務めます。禊式が終わると、三山の人々は鷺沼のヤドで接待受けます。このときにアサリのフウカシが出されましたが、現在はアサリの味噌汁です。禊式に参加した一行は、夜遅く三山に帰還します。大祭に参加しない鷺沼の人たちは、当日お客として招かれてます。神揃場には桟敷席が用意され、禊式の御礼に接待を受けます。

 

大祭 11月22日

二宮神社では千葉県神社庁からの献幣使を迎えて、社殿で神事が行われます。献幣使の神事が終わると、二宮神社の神輿は8社の神社の神輿を迎えに、献幣使とともに神揃場へ向かいます。二宮神社の神輿は神揃場で献幣の儀を済ますと、他の神社より一足先に二宮神社に戻ります。神輿は田喜野井(船橋市)と藤崎(習志野市)の舁夫が交互に担ぎ、三山の人々は大祭に参加する神社の接待役を務めます。大祭当日、最初に二宮神社に昇殿参拝するのは畑の稚児行列です。神揃場に参集した8社の神輿は献幣の儀を終えると、途中決められたヤドで休憩をとりながら、順次二宮神社に昇殿参拝します。昔は神揃場に9社の神輿がすべて揃いましたが、現在は献幣の儀を終えると順次二宮神社へ向かうので、全神輿が揃うことはなくなりました。

 

磯出式 11月22日夜半~23日未明

二宮神社への昇殿参拝後、二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の4社の神輿は幕張海岸へ赴き、磯出式に臨みます。高津比咩神社の神輿は昇殿参拝を終えると、午後7時過ぎにヤドを立ちます。そして、三山商店街通りの路上中央で大きくさし揉みをしますが、これは磯出式に向かう二宮神社の一行を見送るためといわれます。磯出式は出産の儀式で、「産屋の祭り」、あるいは「湯舟の祭り」といわれます。神事は満潮時に合わせて行われるため、開始時刻は毎回異なります。幕張海岸では子守神社の神輿が3社の神輿を出迎え、御旅所へと誘導します。神輿に続いて各社の関係者、白丁姿の者に背負われた畑の両男女が入場します。神輿の前に供物が供えられると、周囲の灯りを一切消して、暗闇の中で神事が執り行われます。子安神社の神輿の前で行われる「産屋の神事」では、両男女が盥の中でハマグリ交換のしぐさをします。式が終わると二宮神社、子安神社の神輿は磯出式場を後にします。そして西の広場でツガって揉み合い、別れを惜しみながら去っていきます。帰途、二宮神社の神輿は習志野市鷺沼の神之台(火の口台)で最後の神事を行い、三山に戻ります。

 

花流し 11月23日~24日

大祭が終わると、翌日からは9社の地元で花流しが行われます。神輿巡行、踊り、演芸など、地域ごとに特色のあるさまざまな行事が繰り広げられます。

 

 下総三山の七年祭り~ハレの日と信仰(No.3)

 

丑年・未年(7年に1度)~七年祭りの起源
七年祭りは「神揃の祭」「昇殿参拝の祭」「磯出祭」の順に行われます。「神揃の祭」は一族が一堂に集まる祭り、「昇殿参拝の祭」は安産の御礼に二宮神社に昇殿して参拝する祭り、「磯出祭」は安産を祈願する祭りという性格を持ちます。
七年祭りの起源には、馬加康胤と藤原師経に関する伝承があります。馬加康胤については安産祈願と安産御礼に関する伝承、藤原師経については藤原一族が一同に集まるいわれと安産御礼に関する伝承です。安産に関する伝承は共通しており、安産にちなむ幕張の地で七年祭りが始まったことを伝えています。一方、貴人漂着にまつわる伝承では、七年祭りを藤原時平の子孫である藤原師経に結びつけています。七年祭りへの参加神社がそれぞれの役割を持ち、神揃場には藤原一族が集合するなど、そこに一門の結束をうかがうことができます。

 

<七年祭りの起源に関する伝承>

安産祈願にまつわる伝承

・文安2丑年(1445)馬加康胤の奥方が臨月を過ぎても出産の気配がなく、康胤は心配して素加天王と宮山の神主に安産の加持祈祷を命じる。すると満願の夜に「素加と宮山の両社の神影を重ね、波に寄せて浄め、磯辺に暫く祭れば無事に出産を迎えるであろう。」との神託がある。9月16日に両社の神輿を素加の磯辺に神幸して祭事を行うと、その夜海中から龍灯が揚がって素加神社へ飛来し、翌17日七ツ時(4時)に男子が誕生する。康胤は領地の村々に触れを廻し、素加の磯辺で盛大な祭事を行う。それ以来、安産祈願と御礼の祭事が行われるようになる。
(史料「下総国千葉郡清地荘本郷素加天王神社」永正5年(1508)中須賀家文書)


・治承4年(1180)藤原師経は左遷されて久々田の浦に流れ着き、しばらくして三山村へ移る。千葉常胤の娘が師経に嫁いで身籠るが、臨月を過ぎてもお産の気配がない。そこで領内21カ村の里の娘たちに姫のお供をさせて、葛飾の浦に行くと馬加村の塩浜でお産となり、郷中の人々がお祝いに赤飯を持って集まる。7年に一度の祭礼は、この故事にちなんで行われる。祭礼では三山と畑の神輿が馬加の浜へ神幸して産屋の神事を行い、21郷の人々が屋台を飾って神輿のお供をする。三山の神輿は馬加からの帰路、神の台で祭事を行った後、三山の社に帰る。神の台は久々田と鷺沼の間にある菊田神社のお旅所で、ご先祖を祀る旧跡である。火の口ともいわれ、二宮の神が船中より遥かに火口を認めてそこから上陸したので、二宮神社は大祭のしめくくりに当時の式事を行うといわれる。
(史料「磯出御祭礼由来」万延元年(1860)中須賀家文書)


・治承4年(1180)11月藤原時平の子孫である藤原諸常は都を追われて、舟で東国へ漂着する。そこの浦にあった大素加庄本郷素加天王神社を修繕して祀り、しばらくすると奥方が安産で子をもうける。3年後諸常は三山に移り、その子は素加天王を三山に勧請して神主となる。
(史料「下総国千葉郡清地荘本郷素加天王神社」永正5年(1860)中須賀家文書)

・千葉常胤の奥方が子安神社で安産祈願すると、帰路幕張の浜で無事男子を出産する。翌建久4年(1193)常胤は御礼に子安神社本殿を造営し、盛大な祭礼を行う。これが七年祭りの始まりで、両男女を畑町から出す由来となる。
(子安神社宮司が語る子安神社の伝承)

 

貴人漂着にまつわる伝承

・治承4年(1180) 藤原時平の子孫藤原師経が左遷され、相模国から渡航する途中に海上が大荒れとなり、下総国久々田(習志野市鷺沼海岸)に漂着する。その地で久々田明神(のちの菊田神社)を崇め、永住の地と定めて祖先藤原時平を祀る。その後安住の地を求めて菊田川を遡り、三山に移り住む。そこに社を建て祀られたのが二宮神社で、藤原師経が神主となる。
(史料「下総国千葉郡清地荘本郷素加天王神社」永正5年(1860)中須賀家文書)


・高津(八千代市)には時平の娘が住み着いたといわれ、藤原時平に関する伝承が多く伝わる。付近には時平神社が集まり、萱田、大和田、小板橋などに祀られている。藤原一族の荘園があったともいわれ、三山に家族一同が集まることが祭りの始まりとされる。このため七年祭りに参加する九社には、それぞれ役割が定められている。
(『船橋市史民俗・文化財編』)

 

 

 

 

 

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