更新日:2024年10月11日
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市史編纂事業と和田茂右衛門氏(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)(白井千万子)
外山 信司(郷土博物館総括主任研究員)
当コラムでは、千葉市内にある千葉氏ゆかりの史跡や神社・寺院、伝承地などについて紹介します。千葉の地は、中世には千葉庄(ちばのしょう)という荘園でした。桓武平氏の一族で、ここを本拠とし、名字として名乗ったのが千葉氏です。千葉庄の中心であり、当館が位置する中心市街地から取り上げていきたいと思います。近年はまち歩きブームですので、皆様がこれを参考に千葉市内を歩き、千葉氏の歴史に触れていただければ幸いです。
千葉氏やその一族家臣が氏神・軍神として篤く信仰した妙見を祀る神社で、千葉妙見宮、妙見社と呼ばれ、千葉氏の妙見信仰の中心でした。『千学集抜粋』(『千学集抄』)によれば、平忠常の乱を起こしたことで知られる忠常の子である覚算が、長保2年(1000)に開いたとされますので、一千年以上の歴史を有することになります。
妙見は北極星や北斗七星が神格化されたものですが、仏教と習合して妙見菩薩とも称されました。妙見宮は、中世には別当寺である北斗山金剛授寺尊光院と一体化し、一族や家臣が建立した六院六坊という寺院が付属していました。金剛授寺の座主(住職)には、千葉家当主の子や千葉家当主に近い人物が就任し、代々の千葉家嫡子が元服するなど、千葉氏の精神的支配の中枢としての役割を果たしました。
関東に戦国時代の幕開けを告げた享徳の乱の後、千葉氏は本拠を本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に移しましたが、妙見宮は本佐倉に移ることはなく千葉の地に留まり、現代に至るまで千葉の人々の信仰を集めています。
千葉神社の祭神は、明治維新後の神仏分離によって天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)とされましたが、江戸時代までは妙見でした。中世の北斗山金剛授寺尊光院が、近世には妙見寺と改称されたのも、そのことをよく示しています。
妙見が千葉氏の氏神・軍神であったことは広く知られていますが、戦国時代になって千葉氏が本拠を本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に移しても、千葉氏と一緒に本佐倉へ移らなかったのはなぜでしょうか。
妙見は、常に北の空にある北極星や北斗七星が神格化された神であり、方位方向や進路を示す神でした。『千学集抜粋』には、平将門と千葉氏の祖である平良文が上野国に攻め入った際に、染谷川(群馬県高崎市)で「此の川わたすべし」と言う妙見に浅瀬を教えられ、合戦に勝つことができたとの話が記されています。この説話は妙見の本来の性質をよく示しています。
したがって、妙見は船を操る海の民(水運業者や漁業者)に信仰されていました。近世の史料ですが、千葉神社と関係が深い現登渡神社(とわたりじんじゃ、千葉市中央区登戸)の「妙見尊宝前」に、多くの登戸の船乗りたちが「大般若経」を奉納しています(日色義忠「善光寺蔵大般若経の調査について」『四街道市の文化財』20号、1994年)。さらに人生を導き、運を開く神として商工業者(商人や職人)にも信仰されました。現在も関西では、能勢妙見(大阪府豊能郡能勢町)が人々の信仰を広く集めています。
つまり、妙見には千葉氏の氏神・軍神のほかに、湊町・商業都市として発展していた千葉のまちに住む人々の神という面も併せ持っていたのです。だからこそ本佐倉に移ることなく、千葉に在り続けたのではないでしょうか。武神としてだけではない、妙見の多様な面にも注目していきたいと考えています。
戦国時代の永正6年(1509)、連歌師の宗長は、原胤隆の小弓館(千葉市中央区生実町)や本行寺(千葉市中央区浜野町)で連歌を詠み、千葉を訪れています。この宗長の旅は、紀行文「東路(あずまじ)のつと」(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』小学館、1994年)に描かれています。
ちなみに、宗長は千葉一族の東常縁(とうのつねより)から「古今伝授」を受けた宗祇の高弟で、宗祇・肖柏とともに詠んだ「水無瀬三吟百韻」は、連歌の最高傑作とされています。
宗長は、11月14日・15日の妙見宮(もちろん現在の千葉神社です)の祭礼に出かけ、300頭の早馬が街中を疾走する勇壮な様子を見物し、16日には延年の猿楽を見ました。
この記述から、千葉氏が本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に本拠を移しても、千葉が廃れた寒村になったのではなく、湊町・商業都市・門前町として賑わっていたことがわかります。この繁栄を支えていたのは、千葉の水運業者や漁業者、商工業者たちでしょう。彼らは『千学集抜粋』に「千葉百姓中」とみえます(この「百姓」とは農民という意味ではなく、武士以外の様々な人々を示します)。
この「千葉百姓中」の妙見への厚い信仰が、千葉氏が本佐倉城へ移った後も千葉妙見宮を支えたのです。武神・軍神ではない、民衆を導き、運を開く神としての妙見の在り方が表れていると考えられます。
そして、戦国時代には、千葉氏当主の嫡男は本佐倉城から千葉へ来て、妙見宮で元服することが習わしになっていたのです。
なお、千葉神社の大祭といえば、北斗七星を神格化した妙見にちなんで7月に七日間行われましたが(現在は8月に行われています)、11月15日前後の祭礼も、7月に劣らぬ大規模なものであったことがわかります。『千学集抜粋』には、11月の「望(もち)」の日、つまり旧暦では満月の日である15日に祭礼があったことが記されています。
千葉妙見宮・尊光院金剛授寺のトップは座主(ざす)と呼ばれました。初代の座主は平忠常の子の覚算です。覚算が大僧正であったように、歴代の座主は僧正・僧都・法印といった位を持つ僧侶でした。「神仏習合」のあり方をよく示していますが、武神・軍神として千葉氏の信仰を集めたため、座主には歴代の千葉氏当主の子が就任することになっていました。その中で異色なのは第十二代の範覚です。
『千学集抜粋』には「原胤隆の子範覚、十三歳にて座主とならせられ、四十三歳にて遷化、御神の御奉公三十年也」とあります。つまり、範覚は千葉氏の子ではなく、小弓城(千葉市中央区生実町)の城主で、千葉氏の重臣として大きな勢力を有した原胤隆の子でした。胤隆は連歌師宗長を招いて小弓で連歌の宴を催した人物です(「東路のつと」)。
戦国時代の原氏は、千葉氏胤の子の胤高に始まります。胤高の孫の胤房は、享徳の乱で馬加康胤を擁立し、千葉宗家の胤直たちを滅亡させた人物として知られています。千葉氏が本拠を本佐倉城(酒々井町・佐倉市)に移すと、千葉の地は原氏の支配下に置かれました。戦国時代の千葉氏が「香取の海」(現在の利根川水系に当たる、銚子から霞ケ浦・北浦・印旛沼・手賀沼などに至る湖沼が一体となった広大な内海)にシフトすると、江戸湾(現在の東京湾)に面した千葉は小弓城の原氏のテリトリーとなったのです。
そのため、原胤隆は子の範覚を座主として送り込んだと考えられます。妙見宮としても、遠い本佐倉の千葉氏より近くの小弓を本拠とする原氏の庇護を受ける方が、何かと好都合だったのでしょう。
事実、天文13年(1544)には原胤清が、元亀2年(1571)には原胤栄(たねよし)が神官の地位を認めています(「千葉神社文書」『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』)。胤清は範覚の兄弟に当たります。
このように小弓の原氏の強い影響下にあったことも、妙見宮が本佐倉に移らずに千葉に残った理由と考えられます。
『千学集抜粋』には、天文19年(1550、ただし干支は「辛亥」とあるので、これに従えば翌1551年のこととなります)に妙見宮の遷宮が行われたことが記されています。社殿の建立は天文16年に始まりましたが、数年の歳月を費やして完成し、御神体を新しい社殿に遷す儀式が盛大に行われたのです。
最初に「国守」で「大檀那」の千葉親胤(ちかたね)が馬と太刀を奉納しました。馬を引いたのは馬場胤平、太刀を持ったのは原胤安でした。二番目に原胤清が馬と太刀を奉納しました。馬を引いたのは原胤行、太刀を持ったのは牛尾(うしのお)胤道です。三番目には牛尾胤貞が馬と太刀を奉納しました。馬の役は原胤次、太刀持ちは斎藤清家でした。まず下総の権力者トップスリーが、武士のシンボルである馬と太刀を神前に捧げたのです。
その次に、千葉氏の一族である「御一家」、親胤の近臣である「御近習侍衆」、領国内の武士たちである「国中諸侍衆」の順で、馬と太刀の奉納が行われました。
千葉氏の当主で「千葉介(ちばのすけ)」を称する親胤が、最初に守護神・軍神である妙見へ奉納するのは当然です。しかし、千葉一族である「御一家」より先に、原胤清とその嫡子の牛尾胤貞が奉納していることが注目されます。
なお、胤貞はこの時に「牛尾」を称していますが、牛尾(多古町)は原氏にゆかりの深い土地で、原氏は出身地ともいうべき千田庄(ちだのしょう、多古町)に大きな勢力を持ち、一族の牛尾氏もいました。このため、胤清は自分の嫡男に牛尾を名乗らせたのでしょう。胤貞はこの後、臼井氏を追って臼井城(佐倉市)を手に入れ、さらに原氏を発展させます。
千葉氏の権力をアピールする絶好の機会であった遷宮でしたが、実際は戦国期の下総国が千葉氏と原氏の連立によって支配されていたことを示す場となったのです。しかも、千葉宗家は親胤一人でしたが、原氏は当主の胤清と嫡男胤貞の二人が馬・太刀を奉納し、主君の親胤より存在感を示しています。このことからも、千葉妙見宮と原氏との結び付きがうかがわれます。
ちなみに、黒田基樹氏はこの記事を詳しく分析し、戦国時代の千葉氏の権力のあり方を明らかにしています(「戦国期千葉氏権力の政治構造」『千葉県の歴史』13号、2007年)。
妙見宮(千葉神社)に伝わった古記録である『千学集抜粋』には様々なことが記されていますが、特に「ハレ」の場である儀式の記事には、権力のあり方や社会の様子がよく反映されています。その丹念な読み込みによって中世を明らかにすることができるのです。
千葉神社の北側、院内1丁目にある真言宗寺院です。千葉妙見宮と一体となっていた北斗山金剛授寺(近世には妙見寺)には、「六院六坊」などと呼ばれた子院(しいん)が付属し、その僧侶たちは、大祢宜(おおねぎ)たち神官とともに妙見宮・金剛授寺に出仕していました。円満山宝幢院(ほうどういん)はただ一つ現存する子院ですが、現在は独立した寺院となっています。
『千学集抜粋』によると、千葉常重の子で金剛授寺三世の宥覚(ゆうかく)が保延3年(1137)に開きました。当寺について『千学集抜粋』には次のように記されています。
「先代ハ、住寺(持)・供分菩薩所法東院といふ院家に、位牌を立おき、夏中経、二記の彼岸経をハ、六人参て読給ふ、盆の棚をも此院家に結ひて、住持供分まゐりて、水を手向け、代々を吊(弔か)申也、住持の居所には位牌を立すして、彼院家に立て申也、」
文中の「法東院」とは宝幢院のことです。長い引用になりましたが、これを読んでいただくと、宝幢院が座主(ざす)や僧侶の位牌所であったことがよくわかります。前にも述べたように、金剛授寺の住持(住職)である座主は僧侶でした。しかし、亡くなった座主の供養は金剛授寺では行わず、宝幢院に位牌を置き、盂蘭盆(うらぼん)の法要や読経を行っていたのです。近世には座主や僧侶だけでなく、妙見寺の寺領に住む門前百姓の回向(えこう)も行っていました。境内には、今も歴代座主や僧侶の墓碑である五輪塔や卵塔などが残されています。
現代の私たちは、お寺と言えば墓があり、葬式や先祖の供養を行うというイメージを持ちますが、中世や近世にはもっぱら祈願を行い、死者の供養をしない寺院もありました。金剛授寺(妙見寺)もそのような寺院でした。他にも、檀林と呼ばれる寺院は檀家がないところも多く、僧侶を養成し勉学を深めるための学問所でした。
千葉に住む私たちにとって、千葉氏と言えば妙見、妙見と言えば千葉氏というように、千葉氏と妙見は切っても切れない関係にあります。しかし、妙見を篤く信仰した武士は千葉氏だけではありません。中国地方の雄として知られる戦国大名の大内氏も篤く妙見を信仰していました。
少々脱線しますが、妙見をまつる千葉神社とその子院であった宝幢院の次に、大内氏の妙見信仰について紹介したいと思います。
大内氏は周防国(山口県)の多々良氏(たたらし)の一門で、同国吉敷郡大内村(山口市大内)を名字の地とします。大内氏は、有力な在庁官人として国司の二等官である「介(すけ)」となり、「大内介(おおうちのすけ)」を称しました。この「地名+介」の名乗り方は、「千葉介(ちばのすけ)」を称した千葉氏とまったく同じパターンです。国府には京から赴任した国司のほかに、現地の有力者も役人として勤めていました。彼らを在庁官人と言いますが、千葉氏は下総国の、大内氏は周防国の介でした。
大内氏は、大内村にあった興隆寺(天台宗)の氷上山妙見社に祀られた北辰妙見菩薩を「氏神」として信仰し、延命祈願から農耕のための請雨(雨乞い)、戦の勝利まで、領国支配の安定を祈っていたのです。
大内政弘の幼名(元服前の名前)は「亀童丸」です。その嫡子の義興、さらに義隆も「亀童丸」で、三代にわたり同じ幼名を称しました。これにより一族の中で、惣領家の正当性を示す意図があったと考えられています。
ちなみに、この「亀童丸」は千葉頼胤の幼名「亀若丸」と大変よく似ています。妙見は霊亀(玄武)に乗る童子の姿で表されます。大内氏も千葉氏も、嫡子に氏神である妙見の加護を願い、その正当性を示すため、妙見にちなむ「亀」を用いた幼名を付けたのです。
このほかにも千葉氏と大内氏との共通性がありますので、次回も紹介していきます。なお、大内氏の妙見信仰については、平瀬直樹氏『大内氏の領国支配と宗教』(塙書房、2017年)などを参照しました。
千葉氏が「桓武平氏」に属することは言うまでもありません。桓武天皇の皇子葛原親王の孫である高望王が「平」の姓を賜り、桓武平氏の祖となりました。千葉氏はその子孫で、平良文(たいらのよしぶみ)の流れなので良文流平氏と言われます。
桓武天皇の母は高野新笠(たかののにいかさ、790年没)です。新笠の父は和乙継(やまとのおとつぐ)で、和氏は百済(くだら)の武寧王の子孫とされています。つまり、桓武平氏は、その祖である桓武天皇の時から百済系渡来人と深い縁がありました。そして、桓武平氏が武士として発展する過程で、武芸に不可欠な馬などに関する技術を持った渡来系の人々の信仰である妙見を取り入れたと考えられています。
ところで、大内氏は百済の聖明王の第三王子である琳聖太子が祖であると主張しました。その背後には朝鮮との貿易を有利に進めたいという思惑もあったと考えられます。その真偽はともかく、百済とのゆかりは妙見信仰を持つうえで大きな意味があったはずです。百済との関係も、桓武平氏と共通するものがあります。
さらに、大内氏は妙見が琳聖太子を守護するために周防国に下降したという先祖伝説を作り上げ、妙見と大内氏とを結び付けます。こうして妙見信仰を領国支配のイデオロギーとしていくことも、政治的な危機に際して、妙見に加護された惣領のもとに一族が強固に団結したというストーリーを作った千葉氏とまったく同じです。このように、千葉氏と大内氏はともに妙見を篤く信仰し、いくつもの共通点を持っていました。
また、秩父夜祭りで有名な秩父神社もかつては「秩父妙見宮」と呼ばれ、妙見をまつっています。秩父氏も良文流平氏で、妙見信仰が関東や甲信越の牧が多かった地帯に広がっていることもよく知られています。
北陸の名族である富樫氏も北斗七星と北極星を信仰し、家紋は北斗七星と北極星を表す八曜紋です。室町期の成春の幼名は「亀童丸」でした。富樫氏は加賀国(石川県)の「介」を世襲したので、「富樫介」(とがしのすけ)と称しました。これも「地名+介」のパターンで、千葉氏と同じです。
妙見信仰を千葉県内、千葉氏との関係だけで考えるのではなく、全国的、さらには東アジア的な広い視野で考えることが大切であると思っています。
「千葉家累代の墓塔」と伝えられる五輪塔群(千葉市指定文化財)で知られる阿毘廬山密乗院大日寺(あびらさんみつじょういんだいにちじ、真言宗)は、かつて千葉神社の南側に隣接する通町公園の場所にありました。昭和20年(1945)の空襲で焼失し、戦後、稲毛区轟町へ移転し、戦災復興の都市計画により跡地は公園となりました。
轟町の大日寺には、千葉常兼から胤直・胤将までのものとされる五輪塔のほか、層塔もみられます。現在も残る部材を数えると、五輪塔は100基以上あったと考えられます。その中でも高さ約250cmを測る安山岩製の五輪塔(1号塔)は、律宗様式の本格的な大型塔で、鎌倉時代後期から南北朝時代の優れた石造物です。
大日寺の石造物については、当館の委託により早川正司氏が調査を行いました。その成果は当館の『研究紀要』26号(2020年)に発表されています。
金沢称名寺(横浜市金沢区)に残る聖教(しょうぎょう、僧侶の修学や宗教活動に用いられた仏教の典籍類)には「下州千葉之庄大日堂」などとみえ、大日寺の前身とも考えられます(『千葉県史料 中世篇 県外文書』1966年などを参照)。大日堂では称名寺長老の剱阿(けんあ)が聖教を書写するなど、関東における律宗の中心的な寺院であった称名寺と深い結びつきがあったことが明らかになっています。
中世・近世の千葉は、現在の東京湾(当時は「内海」などと呼ばれていました)に面した湊町でした。称名寺や千葉の僧侶たちは、船で東京湾を往来しました。だからこそ、本格的な律宗様式の五輪塔が千葉に作られたのです。下総国内に多くあった称名寺領の年貢も、千葉から船で送られたことでしょう。
船で称名寺のある金沢に着き、朝比奈峠を越せばすぐに鎌倉です。千葉氏もこのルートで鎌倉の幕府と行き来していたはずです。称名寺との密接な関係は、盛んな水運とそれをもとにした鎌倉と千葉の結びつきを物語っています。
なお、弘化2年(1845)に書かれた大日寺の縁起によれば、創建時には「覆溺の患い」を除くことを祈ったとされます(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。「覆溺」とは船が転覆し乗っていた人が溺れることです。このことも千葉のまちが水運によって栄えていたことを示しているように思えます。
縁起にみる律宗との関係
『鎌倉大草紙』は、室町時代の関東について記した軍記物として高い史料価値を持っていますが、大日寺について次のような記述があります。(『改訂房総叢書』第5輯、1959年所収)。
・大日寺は千葉頼胤が鎌倉極楽寺の良観を開山として小金の馬橋(松戸市)に建立した千葉氏の菩提寺で、貞胤の時に千葉へ移った。
・康正元年(1455)、胤直たち千葉宗家が多古城・島城(多古町)で馬加康胤・原胤房に滅ぼされた際、胤直ら遺骨が大日寺へ送られ、石造の五輪塔が建てられた。
良観とは、西大寺流律宗(真言律宗)の僧侶として有名な忍性(にんしょう)の号です。忍性は鎌倉の極楽寺や三村山清凉院極楽寺(茨城県つくば市)を拠点として律宗を広めました。大日寺が忍性によって開かれたと伝えられていることは、大日寺が律宗寺院であったことを意味します。
宝治合戦(1247)の後、北条氏の勢力拡大とともに房総に律宗が広がりますが、そのような流れの中で大日寺も律宗系の寺院となったのでしょう。北条氏を後ろ盾とした律宗と禅宗(臨済禅)は、当時最先端の宗派でした。
前回述べたように、金沢称名寺と大日寺は深い結びつきを持っていました。称名寺が極楽寺・清凉寺とともに関東における律宗の拠点だったことをふまえれば、忍性が大日寺を開いたという伝承は無視できません。
現在、大日寺に残る大型の五輪塔は「本格的な律宗様式」の石塔ですが、律宗寺院であった大日寺にこのような優れた石造物があるのも当然といえましょう。ちなみに律宗様式の五輪塔には銘文がありませんが、大日寺の五輪塔のほとんどに銘文が見られないのも律宗の様式にのっとっているからかもしれません。
なお、弘化2年(1845)の大日寺縁起によれば、「仁生菩薩」が天平宝字元年(757)に当寺を建立したと伝えられていますが、この仁生は忍性のことでしょう。律宗は古代寺院を復興することが多く、新しく寺院を開いた場合も古代からあった寺院であると主張しました。この縁起にも、そのような律宗の特徴がよく表れています。
昭和38年(1963)3月、通町公園の整備工事を行っていたところ、地下約1m 20cm から梵鐘が出土しました。その場所は、和田茂右衛門氏によれば、戦災で焼失した大日寺本堂の向拝(ごはい)の下付近にあたるそうです(『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。
銅で鋳造されたこの梵鐘は、千葉市指定文化財(工芸品)に指定され、当館に収蔵されています。高さ1m15cm、口径66cmで、次のような銘文が刻まれています(『千葉県史料 金石文篇 一』1975年)。
(梵字)アビラウンケン
諸行無常 是生滅法
生滅々已 寂滅為楽
下総国相馬郡安楽寺推鐘
大勧進沙門栄金
大檀那尼 覚妙
大工神屋 行家
康永三年甲申十一月一日
梵字(サンスクリット)で書かれていますが、「アビラウンケン」とは地水火風空を象徴する真言(しんごん)です。「諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽」とは『涅槃経』(ねはんぎょう)の有名な一節です。
この銘文によって、下総国相馬郡安楽寺の梵鐘で、康永3年(1344年)に勧進僧の栄金、大檀那の尼覚妙によって造られたことがわかります。神屋行家は鋳物師の棟梁です。
安楽寺は、現在も龍ケ崎市川原代町(かわらしろまち)にある天台宗の寺院で、JR常磐線龍ケ崎市駅(今年の3月に佐貫駅から改称)の近くに位置します。
安楽寺には文和2年(1353年)、「天台堅者賢海法印」が住持であった際に「大勧進沙門栄金」が造った鰐口(わにぐち)が遺されています(茨城県指定文化財)。この栄金は梵鐘の銘文にある栄金と同一人物ですが、ほぼ同時期に同じ人物が造ったもののうち、なぜ梵鐘だけが千葉に運ばれ、大日寺の地下に埋められたのか、ミステリーとしか言いようがありません。しかも、大日寺にはこのような梵鐘があったという記録はまったくありません。
しかし、突然出土した670年も前の梵鐘は、都市化のため破壊され尽したと思われてきた中世の千葉のまちが、足元に眠っている可能性を示しています。かつてこの場所に大日寺があった時は、千葉神社と大日寺が甍を並べ、壮観だったことでしょう。千葉市では2026年の「千葉開府900年」を目指して、通町公園を中世を感じられるスポットとして整備する計画が進んでいます。
智東山聖聚院来迎寺(ちとうさんしょうじゅういんらいこうじ)は、中世には時宗の寺院でした。近世には浄土宗に属し、天正18年(1590)に徳川家康から朱印地10石を寄進されました。かつては千葉神社の北東約300メートルに位置する中央区道場北1丁目に広い境内がありましたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、戦後、大日寺とともに稲毛区轟町へ移転しました。その跡地は住宅地となっています。
寺伝によれば、建治2年(1276)に千葉貞胤が一遍を開山として建立し、「来光寺」と称したとされます。一遍智真は時宗の開祖で、全国各地を巡り踊念仏を通して布教し、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と呼ばれました。
時宗では寺を「道場」と称しました。道場といえば、現代の私たちは柔道や剣道などの武道を行う場所をイメージしますが、時宗では地名を冠して寺を呼びました。例えば、藤沢道場とは清浄光寺(神奈川県藤沢市)、当麻道場とは無量光寺(神奈川県相模原市南区)、芝崎道場は日輪寺(東京都台東区)のことです。中央区道場北・道場南という町名は「千葉道場」、すなわち来迎寺があったことに由来します。
来迎寺本尊の木造阿弥陀如来立像(市指定文化財・彫刻)は13世紀後半の美しい仏像で、創建時以来の本尊と考えられています(『千葉市の仏像』1992年)。
今も境内には、千葉氏胤(語阿弥陀仏)、氏胤の夫人と伝えられる円勝禅尼、千葉満胤(弥阿弥陀仏)、吉原見阿、光阿弥、母妙仏、某禅定門の7基の石造五輪塔(市指定文化財・建造物)が並んでいます。これらのうち、円勝禅尼、千葉満胤、某禅定門以外の4基は、いずれも応永32年(1425)2月15日という同じ年月日が刻まれています。旧暦の2月15日は彼岸に当たるので、氏胤とそのゆかりの人たちの追善供養のため同時に建立されたものと考えられます。室町期に制作されたことが明らかな比較的大型の五輪塔がまとまって残り、千葉氏関係の文化財として貴重です。
なお、来迎寺の石造物については、大日寺等とともに早川正司氏が調査を行いました。その成果は当館の『研究紀要』26号(2020年)に発表されています。
今回は、来迎寺に五輪塔のある千葉氏胤について紹介します。
氏胤の曾祖父頼胤には、宗胤・胤宗の二人の男子がいましたが、長男の宗胤はモンゴル襲来(元寇)に備えるため、九州にあった所領の肥前国小城郡(佐賀県)に留まりました。これに対して弟の胤宗は下総を支配したため、千葉氏は肥前千葉氏と下総千葉氏に分裂したのです。
さらにこの対立に南北朝の内乱がリンクし、一族の争いは激化しました。肥前千葉氏は北朝に属したのに対し、下総千葉氏は南朝に属したのです。ところが、氏胤の父貞胤は北朝方に降伏しました。足利尊氏は貞胤に本国の下総を安堵しただけでなく、伊賀(三重県)・遠江(静岡県)の守護にも任じ、当初は南朝方でありながら足利政権に一定程度重く用いられました。室町時代の千葉氏の発展は、貞胤によってもたらされたといえましょう。
氏胤も尊氏に仕え、父と同じく下総・伊賀の守護となり、さらに下総に隣接する上総の守護職も手中にしました。鎌倉時代の宝治合戦(1247年)で上総千葉氏が滅亡して以来、上総での千葉氏の勢力は著しく低下しましたが、氏胤が守護となったことは、千葉氏が上総へ勢力を伸ばすうえで大きな意味がありました。なお、貞胤・氏胤父子は基本的には京都にいたようです。
氏胤は歌人でもありました。『新千載和歌集』(1359年)は、足利尊氏の意向を受けた北朝の後光厳天皇の命で編纂された18番目の勅撰和歌集です。その第11巻「恋歌1」に、忍ぶ恋の悲しさを詠んだ氏胤の和歌が載せられています。
題しらず 平 氏胤
人しれずいつしかおつる涙河わたるとなしに袖ぬらすらん(1084)
古代・中世では、天皇の命で作られた勅撰集に自分の歌が載ること、つまり勅撰歌人となることはこの上ない名誉とされました。千葉氏の一族で勅撰歌人となったのは、「歌の家」として知られる東氏(とうし)以外には氏胤だけです。
氏胤が勅撰歌人となったのは、血統の上では嫡流の肥前千葉氏に対して、庶流であった下総千葉氏の地位が、足利氏の治める当時の社会で正当な権力であることが認められたことを意味しています。氏胤は下総千葉氏の地位を確立したという点で大きな功績がありました。
氏胤は貞治4年(1365)9月13日に没しました(『本土寺過去帳』、『千学集抜粋』)。来迎寺の氏胤塔の銘文には応永32年(1425)2月15日とありますので、31回忌を迎えた年の彼岸に建立されたのかもしれません。
千葉氏胤と仏教との関わりで忘れてはならないのが、その子であった酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)です。浄土宗の大本山で、徳川将軍家の菩提寺となった増上寺(東京都港区)を開いたことで知られています。幼名は徳千代丸といいましたが、僧籍に入って真言密教を学び、後に浄土宗の高僧聖冏(しょうげい)の弟子になりました。浄土宗は徳川家康の帰依を受けましたが、当寺は家康の命で時宗から浄土宗に改められたと伝えられています。ちなみに、市内の大巌寺(中央区)も徳川家の保護を受け、檀林として繁栄しました。
氏胤には、酉誉と嫡子満胤の他に千田宗胤、馬場重胤、原胤高といった子たちがいました。重胤の曾孫が、馬加千葉氏(まくわりちばし)を継承し、本佐倉城(酒々井町・佐倉市)を築き、千葉から本拠を移したとされる輔胤です。胤高は戦国時代に小弓城(中央区)や臼井城(佐倉市)を拠点に、千葉氏に匹敵する地域権力に成長を遂げた原氏の祖です。氏胤の子どもたちは、仏教、政治の両面で後世に大きな影響を与えていくことになります。
ところで、前にも述べたように、当寺は時宗(時衆)の「千葉道場」でした。氏胤の父貞胤が時宗を取り入れたのです。『千学集抜粋』には、貞胤について「此御代より時宗にならせられ」と記されています。孫満胤の法号は「徳阿弥陀仏」で、以後の千葉氏当主は漢字1文字+阿弥陀仏という時宗式の法号を持つようになりました。例えば、千葉昌胤は法阿弥陀仏、親胤(ちかたね)は眼阿弥陀仏です。戦国時代の千葉氏の菩提寺で、千葉氏歴代の石塔が残る海隣寺(佐倉市)も時宗です。
当麻山無量光寺(神奈川県相模原市南区)は、清浄光寺(神奈川県藤沢市)と並ぶ時宗の大本山ですが、千葉昌胤は同寺27代住職の智光に帰依しました。昌胤は智光の訪問を受けて面会できたことを「満足至極に候」と喜んでいます(「千葉昌胤書状」『千葉県の歴史 資料編 中世4(県外文書1)』2003年)。
来迎寺は千葉氏の保護を受けて寺勢も盛んでした。無量光寺の歴代住職をみると、第5代慈光(康永3年・1344没)から28代良元(天文20年・1551没)までの23代のうち、15人が当寺から就任しています(『当麻山の歴史』1974年)。当寺が時宗教団の中で大変有力な存在であったことがうかがわれます。
前にも述べたように、千葉妙見宮(現在の千葉神社)と来迎寺は近い位置にありました。妙見宮は真言宗の金剛授寺と一体化していましたが、時宗(時衆)は妙見宮にも勢力を伸ばしていったようです。『千学集抜粋』には、金剛授寺の住職がいなくなったとしても「時宗なと申立る事叶ふまし」とあって、時宗に対する強い反発がみられます。しかし、千葉氏を檀那とした時宗が、軍神・氏神として深く千葉氏と結びついていた妙見宮に入り込んでいくのは当然ともいえましょう。
真名本系の『曾我物語』には、曾我十郎の恋人であった大磯の虎御前が、兄弟の母を訪ねたあと、非業の最期を遂げた兄弟の骨を首に掛け、鎮魂のために諸国の霊場を巡拝したことがみえます。虎御前は善光寺(長野県長野市)から碓井峠を越えて関東に入り、板鼻宿(群馬県安中市)、二荒山神社(栃木県宇都宮市)、中禅寺(同日光市)などを経て千葉妙見宮へ参詣します。そして浅草寺(東京都台東区)、慈光山(埼玉県ときがわ町)などを経由して曾我(神奈川県小田原市)へ帰りました(梶原正昭他『新日本古典文学全集53 曾我物語』2002年)。一遍が開いた板鼻宿の聞名寺が善光寺参詣の拠点であったように、虎御前は時宗の遊行廻国のコースをたどっています。この虎御前の行動は「念仏聖」そのものであり、『曾我物語』の成立に時宗教団が深く関わっていたことが明らかになっています(角川源義「貴重古典叢刊3 妙本寺本曾我物語」1969年)。
金井清光氏は「全国各街道の時衆道場は遊行僧ばかりでなく、御師・山伏・行商人など、種々雑多な旅人が休息したり宿泊したりする。当然、時衆道場には諸国の珍談奇聞や世間話などの情報が集中する。住職は居ながらにして諸国の説話や情報を仕入れることができ、それをまた遊行者に語って聞かせる。遊行者は時衆道場で聞いた話を、行く先々に語り伝えてゆく。つまり街道上の時衆道場は、在地の念仏信仰の中心であると同時に、説話など語り物文芸の集散所でもあった。」と述べています(『時衆の美術と文芸-遊行聖の世界』1995年)。
「千葉道場」(来迎寺)もそのような場であり、千葉妙見宮が真名本『曾我物語』に登場することは、時宗のネットワークの中にあったことを意味します。『千学集抜粋』などに記された様々な説話の中には、時宗によってもたらされたものもあることでしょう。『千学集抜粋』には、千葉胤宗が千葉庄内に7体の阿弥陀を建立したという記事がありますが、北斗七星を神格化した妙見との関連がうかがえます。妙見信仰と時宗などの浄土信仰との習合を示していると考えられます。
千葉には、本町に本円寺、本敬寺といった日蓮宗寺院があり、時宗だった来迎寺、律宗系寺院であった大日寺もありました。金剛授寺に加えて、これらの宗派の寺院が集まっていたことは、中世の千葉が都市的な場として繁栄していたことを示しています。
真言宗の寺院で、近世には妙見寺(中世には妙見宮・金剛授寺、現在の千葉神社)の末寺でした。本尊は木造不動明王立像です。頭部と首の内側に記された墨書銘によると、文明2年(1470)2月に千葉寺に住む河野修理某によって彩色され、同年4月に千葉寺の大覚坊涼順の志によって造立されたことがわかります。昭和20年(1945)の空襲によって体部・光背・台座が焼失し、頭部のみが残されたことは大変惜しまれますが、リアルな肉付きと迫力ある憤怒の面相は15世紀の関東地方の彫刻の中で屈指の正統的・本格的な作例として高く評価されています(千葉市教育委員会『千葉市の仏像』1992年)。
「下総国千葉郷北斗山妙見寺縁起」には、千葉常重が妙見宮の南方に虚空蔵堂を営み「月処山光明寺」と号したとみえます(千葉市立郷土博物館『妙見信仰調査報告書』1992年)。『千葉大系図』には、大治元年(1126)に常重が本拠地を千葉へ移した際に「月処山光明寺、本尊不動明王」を建立したと記されています(『改訂房総叢書 第五輯』1959年)。また、戦時中に金属献納のため失われた、元禄4年(1691)に鋳造された梵鐘の銘文は、金剛授寺の住持であった栄慶が記したものですが、一条天皇の勅願によって妙見堂と同じ所に造営されたとありました。その後、衰えたこともあったようですが、永禄9年(1566)に千葉勝胤の子で金剛授寺十三世常覚が再興したと伝えられています(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。明治以降は独立した寺院となりました。このように、妙見宮と密接な結び付きを持ち、常重が千葉のまちを開いた時から今に続く寺院として重要です。
当寺はかつてQiball(きぼーる)前の大通りの下り車線から北側、現在の中央3丁目にあり、虚空蔵堂と地蔵堂が東に面して建っていました。当寺の境内にあった蓮の茂る池が花街として知られた「蓮池」の由来とされます。
ところが、本町交差点から京成千葉中央駅を結ぶ大通り(市道京成千葉中央駅線)の拡幅のため、大通り南側、現在Qiballのある場所に移りました。さらにQiball建設のため、吾妻橋を渡る通りに面した現在地に移りました。このように寺地は度々変わりましたが、今も「千葉の不動尊」として人々の変わらぬ信仰を集めています。
千葉県庁から都川に架かる羽衣橋を過ぎ、スクランブル交差点を渡ると左側に県庁立体駐車場があります。その敷地が宗胤寺のあったところです。交差点に面して「明治天皇行在所旧蹟」の大きな石碑が建っています。明治15年(1582)に明治天皇が千葉へ行幸されたことを記念した碑で、陸軍大将一戸兵衛の書です。
当寺は、曹洞宗の寺院で山号は本光山、御本尊は十一面観音です。寺伝によると千葉宗胤が父頼胤や一族家臣のために建立し、境内に「伝千葉宗胤五輪塔」(千葉市指定文化財)がありました。その傍には「御廟の松」と呼ばれた古い松の木があったそうです。昭和20年(1945)の千葉空襲で堂宇を焼失し、戦後、千葉競輪場に隣接する中央区弁天町の現在地へ移転しました。宗胤の五輪塔もここへ移されています。この石塔は、空風輪は後世に補われたものですが、火輪・水輪・地輪にはそれぞれ梵字が刻まれ、15世紀中葉頃のものと考えられています。
当寺を開いたとされる千葉宗胤は、肥前千葉氏の祖となった人物です。宗胤の父胤頼は鎌倉幕府の命令で、モンゴル襲来に備えて九州に滞在していました。常胤以来、肥前国小城郡(佐賀県小城市)は千葉氏の領地であったからです。そして、頼胤は文永の役(1274)で受けた疵のため、建治元年(1275)に没してしまいました。頼胤には嫡子宗胤と二男胤宗の二人の男子がいましたが、兄の宗胤は引き続き小城に残り、弟胤宗が下総の支配を担当することになりました。宗胤の子孫は肥前千葉氏となり、胤宗の子孫は下総千葉氏となりますが、モンゴル襲来は千葉氏の分裂を招いたのです。そして、南北朝の内乱に肥前千葉氏と下総千葉氏との対立がリンクし、下総国内も深刻な戦乱状態に陥ることになります。
宗胤は大隅国(鹿児島県東部)の守護となり、同国の御家人たちを率いて異国警固番役を務めるとともに小城郡の支配も進めて行きました。宗胤は禅宗に帰依し、円通寺(佐賀県小城市、臨済宗)へ常胤以来代々の菩提を弔うために寺領を寄進しています。永仁2年(1294)に宗胤は九州で没しましたが、肥前千葉氏は戦国期にかけて勢力を伸ばしていきます(千葉氏研究プロジェクト(代表宮島敬一)編『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2009)。
その後、肥前千葉氏は内紛を起こし、一族は近世には鍋島氏の家臣として存続していきます。明治維新の際に活躍して司法卿となり、佐賀の乱で首領となって敗死した江藤新平も肥前千葉氏に仕えた家の子孫とされています。
千葉氏の名字の地である千葉に、血統の上では嫡流であった肥前千葉氏の祖である宗胤ゆかりの寺院が今も残ることは大変重要なことです。また、当寺はかつて都川に面した場所にありましたが、千葉氏と水運との関わりという点でも注目されます。
千葉銀座通りを挟んで宗胤寺跡(県庁立体駐車場)の反対側に、千葉地方裁判所等があります。その敷地が「御殿跡」と呼ばれた場所です。現在は大きなビルが建っていますが、一辺約100メートルの方形の区画であり、宗胤寺跡と同じく南側は都川に面しています。それ以外の周囲は堀の跡と考えられる水田と土塁に囲まれていました(簗瀬裕一「中世の千葉-千葉堀内の景観について-」『千葉いまむかし』11号、2000年)。
この場所が徳川家康の滞在した「千葉御殿」の跡です。家康は鷹狩りのため何度も下総や上総を訪れました。水戸黄門として知られる徳川光圀は、延宝2年(1674)4月27日に千葉へ来ましたが、その紀行文「甲寅紀行」(『改訂房総叢書』第4輯、1959年)には次のように記されています。
千葉の町を出づる所の左の方に、古城あり。伊野花と云ふ。(中略)右の方に松の森あり。「東照宮御旅館の跡なり」と云ふ。
光圀は佐倉街道(現在の国道51号線)を通って千葉の町に入り、妙見寺(現千葉神社)と来迎寺(道場北にあった)について記しています。その次にこの記述があるので、本町通り・市場町通りを経て寒川へ行き、房総往還を通って上総・安房へ向かったと考えられます。市場町通り、今の県庁あたりから見ると、左に亥鼻山、右に「御殿跡」が位置するので、光圀の記載内容と一致します。光圀は家康(東照宮)の孫ですから、祖父の滞在した御殿の跡にひときわ関心を持ち、正確に記録したのでしょう。
千葉市内にあった徳川家康の御殿としては、土塁・空堀等の遺構が良好に残る「千葉御茶屋御殿」(市指定文化財、若葉区御殿町)が有名です。しかし、これとは別に「千葉御殿」が設けられていたのです。近世初期の姿を伝える絵図「下総一国之図」(船橋市西図書館蔵)でも、川(都川)に面した御殿と御成街道に面した御殿の二つが明確に描き分けられています。市内には徳川将軍家の二つの御殿があったのです(簗瀬裕一「千葉におけるもう一つの御殿跡-千葉御殿と千葉御茶屋御殿-」『千葉いまむかし』18号、2005年)。
ところで、この「御殿跡」について和田茂右衛門氏は「御殿跡の御殿が、千葉氏の屋敷跡ではないかと考えると、亥鼻山上に城を築き忠常はこの屋敷に住まい、一朝有事の際には、山上に家族郎党の者どもと籠って敵と戦ったのではないでしょうか。」と述べています(『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。忠常についてはともかく、「御殿跡」が千葉氏の館の跡ではないかと推定されたことは注目されます。
千葉氏の館の位置は不明ですが、「御殿跡」はその候補地の一つです。ちなみに、光圀は「甲寅紀行」で「妙見寺の東に、千葉屋敷あり。」と記しているので、「御殿跡」とは別の場所と考えていたようです。しかし、千葉氏の館は中心市街地(現中央・院内付近)の微高地上のどこかにあったと考えられます。
平安時代末期から室町時代に千葉氏の館がどこにあったのか、つまり千葉氏がどこで日常生活を送っていたのかというのは、千葉の中世史を考える上で極めて大きな問題です。しかし、結論から申せば、現時点では千葉氏の居館があった場所を示す中世の史料は残されておらず、不明としか言えません。前回紹介した「御殿跡」もその有力な候補地の一つですが、断定できる史料はありません。
しかし、『千学集抜粋』には、治承4年(1180)に平家方の藤原親政が攻め寄せた際に「千葉の館」に残っていた千葉成胤が妙見の加護を受けて奮戦したことがみえます。また、『源平闘諍録』では、この「千葉館」を「重代相伝ノ堀内(ほりのうち)」とも言っています。
『千学集抜粋』には「屋形の堀内に妙見おはせしときは」「屋形様御堀内に妙見のおハせし時ハ」といった記載がみられます。この「屋形」「屋形様」とは、もちろん千葉氏当主のことです。「堀内」はその居館で、その中に妙見が祀られていました。つまり、「千葉の館」と「屋形の堀内」「屋形様御堀内」は同じものであることがわかります。
また、同書は金剛授寺(妙見宮、現在の千葉神社)について「下総国千葉庄池田堀内北斗山金剛授寺」と記しています。さらに千葉の守護神の一つである「堀内牛頭天王」は、佐倉街道(現在の国道51号線)に面した八坂神社(本町1丁目)に比定されています(簗瀬裕一「中世の千葉-千葉堀内の景観について-」『千葉いまむかし』11号、2000年)。「金沢文庫文書」にみえる「堀内光明院」は現在の神明町にありました(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。
このような例をみると、簗瀬氏が前掲論文で明らかにしているように、「堀内」は千葉氏の居館そのものを指す場合(狭義の「堀内」)と、居館を含む千葉氏の本拠地である千葉のまちを示す場合(広義の「堀内」)の二通りの意味で使われていることがわかります。つまり、「堀内」は前者の外に後者が広がるという二重の円のような構造だったのです。しかし、後者の広義の場合でも「堀内」は千葉神社のある院内、八坂神社のある本町、光明院のあった神明町にわたる範囲、すなわち現在の千葉の中心市街地に当たることが明らかになります。当然ながら狭義の「堀内」は広義の「堀内」の内部にあったはずですから千葉氏の居館も千葉の中心市街地のどこかにあったことが判明します。
大日寺跡である通町公園の地下から南北朝時代の梵鐘が出土したことを以前書きましたが、
中心市街地のどこかの地下に千葉氏の居館が眠っているはずです。
なお、千葉の「堀内」は「千葉庄堀籠郷」とも呼ばれていました(「中山法華経寺文書」)。
千葉氏の全盛期と言える鎌倉時代、千葉氏は主に鎌倉に住み幕府に出仕していたようです。
「六条八幡宮造営注文写」(国立歴史民俗博物館蔵、『千葉県の歴史 資料編 中世5(県外文書2・記録典籍)』2005年)には、建治元年(1275)の御家人のリストがあります。これをみると、鎌倉幕府の御家人は「鎌倉中」、「在京」、「諸国」という三種類に分けられていたことがわかります。
そして、千葉氏嫡流家や相馬・武石・大須賀・国分・東といった「千葉六党(ちばりくとう)」と言われる庶子家、遠山方・白井・木内氏は「鎌倉中」として記載されているのです。「下総国」の御家人として記載されているのではありません。
これについて「「鎌倉中」として格付けされた御家人は鎌倉に館をもち、交代で御所内の諸番役を勤めていたのであり、いわば彼らの本籍が「鎌倉中」であった」とされています。「在京」は京都にいる御家人、「諸国」は各国にいる御家人で、国別にまとめて書き上げられています(海老名尚・福田豊彦『田中穣氏旧蔵典籍古文書』「六条八幡宮造営注文について」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第45集、1992年)。
言うまでもなく千葉氏は下総国千葉庄を本拠地とする有力御家人ですが、幕府は千葉常胤の直系子孫に当たる一族を「鎌倉中」、つまり鎌倉に住む御家人として位置付けていたのです。
これに対して、臼井氏や常胤の弟である胤光に始まる椎名氏は、「下総国」の御家人として記されています。常胤より前に分かれた一族は、たとえ常胤の弟であっても「諸国」の御家人として位置付けられたのです。
千葉氏は草深い下総で質実剛健な生活を送っていたのではなく、華やかな中世都市鎌倉で過ごすことの多い、都市的な武士であったことがわかります。もちろん、本拠地千葉に帰ることもありましたが、多くは鎌倉にいて幕府に出仕したり、『吾妻鑑』にみえるように儀式に参列したり、将軍の外出に随兵として供奉したりしていました。
鎌倉での千葉氏の屋敷をみると、成胤・胤綱の家は「甘縄」にありました(『吾妻鑑』)。相馬師常の屋敷は現在の扇ガ谷付近にあり、鎌倉駅西口に近い千葉地遺跡は千葉氏の屋敷跡と伝えられているので、千葉一族の屋敷は鎌倉の西側にまとまっていたようです。なお、常胤・胤正は「弁谷殿(べんがやつどの)」と呼ばれているので、東側の材木座付近にも屋敷があったようです。また、妙隆寺(鎌倉市小町、日蓮宗)は千葉胤貞の屋敷を寺院としたものです。
意外なことですが、千葉氏は鎌倉時代にはあまり千葉で暮らしていなかったようです。このことも千葉氏の館の記憶や伝承が早く失われた理由の一つかもしれません。
前々回、治承4年(1180)に平家方の藤原親政が攻め寄せた際に、「千葉館」に残っていた千葉成胤が妙見の加護を受けて奮戦したことに触れました。『源平闘諍録』には、一千余騎の軍兵を率いた親政は赤旗を差して白馬に乗り、「匝瑳北条之内山ノ館」(匝瑳市内山)から「白井ノ馬渡ノ橋」(佐倉市馬渡)で鹿島川を渡り、「千葉結城」へ攻め寄せましたが、親政軍が「結城浜」に現れたことを聞いた成胤は、わずか7騎で立ち向かったとみえます。
また、『千学集抜粋』では、祖父常胤たちに遅れて源頼朝を迎えるため上総へ向かった成胤は、「曽加野」(蘇我付近)から引き返して「結城・渋河」で親政軍と戦ったとされています。
ところで、この合戦の舞台となった「結城」は、現在の行政上の地名としては残されていません。以前から千葉にお住いの方であれば御存じかもしれませんが、今では耳にすることはほとんどありません。わずかに残る痕跡を拾ってみましょう。
JR本千葉駅の改札を出て寒川方面に行くと、港町に「結城幼稚園」がありました。その近くには「結城山満蔵寺」(曹洞宗)がありましたが、現在では別院であった星久喜町に移っています。『千学集抜粋』には「結城は今の寒川なり」とみえます。
また、安政5年(1858)の『成田名所図会』(『成田参詣記』、有峰書店、1973年)には、次のように記されています。
寒川村は天正以前までは結城と称せし地にて、此地方の埜(の)を今も結城埜と称し、結城山満蔵寺と云寺もあり。新田は向寒川(むかふさむかは)と云所なり。此地に結城明神と称する社あり。
この「結城明神」は、寒川から大橋を渡った「向寒川」に鎮座する神明神社(神明町)のことでしょう。その別当寺が光明院でした。また、白幡神社(新宿1丁目)は「結城稲荷」と称していましたが、頼朝が白旗を奉納したという伝承から明治時代になって社号を改めたそうです(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。今も境内には「正一位結城稲荷大明神」の祠があります。また、新宿2丁目には「結城」を冠したビルもみられます。
これらをふまえると「結城」の範囲は、現在の千葉市中心市街地の南側、都川が東京湾に注ぐ河口の寒川・港町から、対岸の神明町、新宿、新田付近にわたったことがわかります。かつての東京湾に面した地域です。
野口実氏は、この地で行われた千葉氏と藤原親政との合戦を「坂東における有力な平家方の一角が崩れた」戦いで、「千葉氏の歴史の中で画期的な大事件」であり、「その意義は鎌倉政権樹立の中で、極めて大きいものがある」と高く評価しています(『坂東武士団と鎌倉』戎光祥出版、2013年)。
千葉氏の飛躍のきっかけとなった結城浜合戦の古戦場であることを伝える貴重な歴史的地名が消え去ろうとしていることは、誠に寂しいものがあります。
中世・近世の千葉のメインストリートは、千葉妙見宮(現在の千葉神社)から都川に架かる大和橋までの「本町通り」、これに続いて大和橋から寒川方面に至る「市場町通り」でした。現在も自動車の往来が絶えない大通りですが、実際に歩いてみると、本町通りは微高地のなかで一番高い位置を、あたかも背骨のように走っていることがわかります。
その本町通りの東側に、本円寺と本敬寺(ほんぎょうじ)という二つの日蓮宗寺院があります。さらに、近くにはかつて正妙寺(しょうみょうじ)という日蓮宗のお寺もありましたが、明治29年(1896)に本敬寺と合併し、廃寺となったそうです(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』千葉市教育委員会、1984年)。
本円寺は、日蓮宗のなかでも日什を祖とする妙満寺派(顕本法華宗ともいいます)のお寺です。千葉一族の円城寺胤久が日什の弟子の日義に帰依し、日什を開山として康暦元年(1379)に開いたとも、日什によって創建された寺を日喜が永徳2年(1382)に中興開山したとも伝えられています(前掲『社寺よりみた千葉の歴史』)。湯浅治久氏が「東国の日蓮宗」(網野善彦・石井進編『中世の風景を読む 第二巻 都市鎌倉と坂東の海に暮らす』新人物往来社、1994年)で紹介しているように、『門徒古事』という記録には日義が守護千葉介(満胤か)の祈祷所に出向いた際の記事があります。これによると、千葉介が日什の教えを聞きたがったので、これを妨げるため千葉の諸宗の僧侶たちが自分の寺に千葉介を招いて日什に会わせないようにし、千葉近郷の仏像の鼻を欠き落として日蓮宗の仕業と称したといいます(『日蓮宗宗学全書 顕本法華宗部 旧称妙満寺派(第一)』1921年)。
これにより、本円寺からさほど遠くない場所(千葉のどこか)に千葉氏の守護所があったこと、日蓮宗が千葉に進出して千葉氏にも接近していたこと、それに他の宗派の僧侶たちが反発していたことがわかります。
本敬寺は、日蓮宗の古刹として有名な藻原寺(茂原市)の末寺で、藻原寺の十世をつとめた日伝が明応元年(1492)に開いたと伝えられます。また、正妙寺は中山法華経寺の末寺で、日高が正和元年(1312)に開いたと伝えられます。
このように千葉まちの東側、本町に日蓮宗の三つの門流の寺院が集まっていたことは注目されます。京都の町衆たちが日蓮宗の信者となり、比叡山延暦寺と対立して天文法華の乱(1536年)を引き起こしたように、日蓮宗は都市の商工業者に強く支持されました。中世の開創を伝える日蓮宗寺院が集まっていることは、千葉が都市的な発展を遂げ、商工業者が本町付近に多くいたことを示していると考えられます。
なお、千葉神社には土気城(緑区)の酒井胤治・康治父子が永禄7年(1564)に出した「酒井胤治・康治連署制札」が残ります(『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』2001年)。酒井氏は俗に「上総七里法華」といわれるように妙満寺派(顕本法華宗)の日蓮宗信仰を持っていました。第二次国府台合戦の後に出された制札ですが、酒井氏が千葉に影響を及ぼしていたことを示す史料でもあります。
中世の千葉のまちの範囲はどこからどこまでだったのでしょうか。『千学集抜粋』には、大治元年(1126)、千葉常重が千葉のまちを立てたときの記述として「曽場鷹大明神より御達保稲荷の宮の前まて七里の間御宿也」とあります。
これによると、北東側、常陸(茨城県)や佐倉の方から千葉へ通じる街道(現在の国道51号線、古代の東海道、近世の南年貢道)でいえば、車坂の上にあった曽場鷹大明神(そばたかだいみょうじん、若葉区貝塚町)までが千葉でした。また、南側、市原方面から千葉へ通じる街道(現在の国道16号線の旧道、近世の房総往還)でいえば、海に面した御達保稲荷(ごたっぽいなり、中央区稲荷町)までが千葉でした。曽場鷹大明神から御達保稲荷までが宿(しゅく)、つまり武士、商人や職人、宗教者といった人々が集住するまちだったことがわかります。
それでは、このほかの方角はどうだったのでしょうか。まず、北側です。佐倉から四街道を経て千葉へ通じる街道(近世の北年貢道)でいえば、高品(若葉区)を過ぎると千葉でした。旧道脇には幕末の文久3年(1863)に建てられた「高品の常夜塔」が残り、ここが千葉の出入り口だったことを今に伝えています。高品城は、戦国時代の千葉氏当主の嫡男が本佐倉城(酒々井町・佐倉市)から来て、千葉妙見宮(千葉神社)で元服の式を行う際の拠点として重要な役割を担っていました(拙稿「戦国期千葉氏の元服」『中世東国の政治構造 中世東国論 上』2007年)。
次に北西側、八千代や穴川方面から千葉へ通じる街道(現在の国道16号線)でいえば、作草部(稲毛区)からは千葉の外とされていたようです。原豊前の家来である石出氏が妙見宮の神領に乱入して狼藉を働きましたが、『千学集抜粋』には罪人を処罰したときのこととして、次のような記事があります。
「…本人を縄うちて出させける、さくさ辺のおりとにて、千葉ヘハ入すして、山崎民部少輔に仰せ、頭をきりて…」
これによれば、千葉の内には入れずに「さくさ辺」、つまり作草部で処刑しています。なお、「おりと」という地名は作草部に残っていません。ちなみに、モノレール作草部駅の近くには、享和元年(1801)に建てられた「縄しばり塔」と呼ばれる、道標を兼ねた百万遍塔があります。その右側面には「千葉町へ二十町」と刻まれています(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』1984年)。江戸時代の人々にも、この辺りが千葉の入り口と意識されていたのでしょう。
以上をまとめると、作草部、高品、曽場鷹大明神、御達保稲荷を結ぶラインの内側が千葉のまちだったと考えられます。
なお、東側の土気往還・東金街道(病院坂を経て現在の大網街道につながる)については不明です。次回は西側について考えたいと思います。
久々のコラムとなりましたことをお詫びいたします。さて、前回は中世の千葉のまちの範囲について、北側は高品、北東側は曽場鷹大明神(貝塚町)、北西側は作草部、南側については御達保稲荷(稲荷町)の内側としました。東側は不明ですが、千葉寺はもちろん千葉の内です。その東、仁戸名(かつては「にへな」と読んでいました)は別の村でしたので、千葉寺と仁戸名の間に境があったと考えられます。
残るは西側です。もっとも東京湾に沿って船橋を経て江戸へ至る街道(近世には「房総往還」、通称「千葉街道」、現在の国道14号線)は、波打ち際を通るため天候に影響され、安定した交通路ではなかったようです。
さて、菅原孝標女の『更級日記』の都への旅立ちを記した部分に「その夜は、くろとの浜といふ所にとまる。かたつ方はひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原しげりて」とあることは有名です。
ところで、戦国時代の永正11年(1514)に本佐倉城(酒々井町・佐倉市)の城下で、衲叟馴窓(のうそうじゅんそう)が編んだ『雲玉和歌集』(『新編国歌大観 第八巻 私家集編4.』)に、「くろとの浜」を詠んだ次のような歌と記述がみえます。
下総千葉の浦を よみ人しらず |
黒戸の浜がどこに当たるのかについては、黒砂(千葉市稲毛区)、畔戸(木更津市)の二説があります。しかし、明確に「下総千葉の浦」とあるので、黒砂であることが明らかです。松林と遠浅の浜の様子を描いた『更級日記』の記述も黒砂に相応しいと思われます。
二首のうち、後者の衲叟の歌にある「さばへ(五月蠅)」とは陰暦の五月に群がり騒ぐ蠅で、稲に付く害虫や、祟りをなす恐ろしい霊魂(御霊)といわれています。また、「さばえなす」は「騒ぐ」「荒ぶる」などにかかる枕詞で、「さばえなす神」とは「陰暦五月頃の蠅のように煩わしくいとわしい邪神・悪神。疫神。疫病神」とされます(『日本国語大辞典』)。「あしき人」の心によって黒くなった世の中と黒戸の浜の白波を対比した歌です。
この歌の注に「みそぎは此神をはらふなり」とありますが、この記述は黒戸の浜で穢れを払うみそぎが行われていたことを示すのでしょう。みそぎは穢れを外に追い出し、入り込まないようにするため、外界との境で行われます。このように考えると黒戸の浜が、中世の千葉のまちとの境界にあったことがわかります。つまり、西側については東京湾に沿った黒戸の浜、つまり黒砂までが千葉のまちだったと考えられます。なお、拙稿「『雲玉和歌集』と上総国」(『中世房総』10号)も参照していただければ幸いです。
今回から、大和橋を渡って都川の左岸にある「千葉氏ゆかりの地」を紹介します。
第22回「本円寺・本敬寺」でも述べたように、中世・近世の千葉のメインストリートは、千葉妙見宮(現在の千葉神社)から寒川の湊に至る通りでした。このうち都川に架かる大和橋までを「本町通り」、これに続いて大和橋から寒川方面を「市場町通り」と呼んでいます。つまり中世・近世の千葉のまちは、都川の右岸(東側)と左岸(西側)の二つの地域に大きく分かれ、大和橋が両地域をつないでいたのです。
ちなみに都川の左岸にある千葉県庁の所在地は、千葉市中央区市場町1-1です。『千学集抜粋』には「曽場鷹大明神より御達保稲荷の宮の前まて七里の間御宿也」とあり、さらに「橋より向、御達保まては宿人屋敷也、これによつて河向を市場と申なり」とあります。大和橋から千葉のまちの南側の境界である御達保(五田保、ごたっぽ)の稲荷神社(中央区稲荷町)の間には「宿人屋敷」があり、そのため都川の対岸を「市場」と言うと説明しています。
この「宿人」(シュクニンと読むのでしょう)とは、「市」が立つ場所に住み、そこが湊である寒川に隣接することを考えれば、商人、職人や漁業者、水運業者たちと考えられます。
小島道裕氏は戦国期城下町について、「大名と主従制結合を持つ人間によって作られた空間」である「広い意味での給人居住域」と「非主従制的な空間」である「市町」との両者によって構成されるとしています(「戦国期城下町の構造」『戦国・織豊期の都市と地域』青史出版、2005年)。
第19回「堀内」で述べたように、都川右岸の堀内(ほりのうち)は千葉氏の居館や家臣たちの屋敷、妙見宮などの千葉氏と関係の深い社寺があり、千葉氏の権力の中枢とも言うべき場でした。これに対して都川の対岸が市場と呼ばれることは、小島氏の提唱した「二元的」なあり方によって理解できます。斎藤慎一氏が指摘するように、千葉は川を挟んで位置する堀内と市場という「異質な空間」によって成り立つ「二元的な構成」を持つまちだったと考えられます(「戦国期城下町成立の前提」『歴史評論』572号、1997年)。
しかし、「堀内」と「市場」は対立するものではありません。『千葉妙見大縁起絵巻』に描かれているとおり、中世以来、千葉妙見の祭礼では神輿とともに千葉から出る「千葉舟」と寒川から出る「結城舟」がまちを巡行しました。本館ホームページのコラム「千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No. 1)」(白井千万子研究員)にあるように、戦前まで寒川は市場町にある千葉神社の「御仮屋(おかりや)」まで来た千葉神社の神輿を引き受け、海に入る「御浜下り(おはまおり)」を行い、再び「御仮屋」で神輿を千葉へ引き渡しました。妙見の祭礼は千葉と寒川が一体となって行われ、「堀内」である千葉と寒川をつなぐのが大和橋と「市場」であったのです。
なお、「大和橋」という名称ですが、『千学集抜粋』には単に「橋」とあり、江戸時代には「大橋」と呼ばれていました(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』千葉市教育委員会、1984年)。明治24年(1891)の『千葉繁昌記』には「大和橋」がみえます。
千葉県庁の一画、県議会議会棟の前に位置する羽衣公園に「羽衣の松」があります。この場所には、明治44年(1911)に完成し、ルネッサンス式の偉容を誇った旧県庁舎が建っていましたが、昭和37年(1963)に新庁舎(現中庁舎)が落成すると解体されました。
現在の松は昭和60年(1985)に、千葉県の人口が500万人を突破したことを記念して植え直されたものです。かつて、今の位置より東に池を中心とした「千葉公園」があり、その中に「羽衣の松」と呼ばれた古木がありました。下総の国学者宮負定雄の『下総名勝図絵』(弘化3年・1846のはしがきあり。川名登編、国書刊行会、1990年)には「田の中にあり。昔の松は枯れてなし。今ある松其の世継松なり。昔、天女降りて羽衣を此の松が枝に掛け、此の所の池にて水を浴みし所なりといひ伝ふ」とみえます。
千葉の「羽衣伝説」は様々なバリエーションがあるのですが、その代表である『妙見実録千集記』(『改訂房総叢書』第2輯、1959年)には次のように記されています。
千葉介常将。此の代に至って、天人降りて夫婦に成り給へり。子細は千葉の湯之花の城下に、池田の池とて清浄の池あり。此の池に蓮の花千葉に咲けり。貴賤上下して見物す。或夜人寝静まりし夜半過に、天人天下り、傍らの松の枝に羽衣を懸置き、池の辺へ立寄りて、千葉の蓮花を詠覧し給ふ。夫より湯の花の、城へ影向成りて、大将常将と嫁娶し給ひ、程無く懐胎有りて、翌年の夏の頃、恙無く男子産生し給ふ。是を常長と号す。
さらに、この話に感じ入った帝の「千葉(せんよう)の蓮花によって千葉を名乗れ」との叡慮によって千葉介を称したと続きます。「常長 天人の御子也」とあるように、羽衣伝説が千葉氏と結び付けられていることが大きな特徴となっています。千葉の支配者である千葉氏が「聖なる一族」であると主張するために、このような話が作られたのでしょう。この説話は「右天人は、妙見大菩薩の御変化也」と結ばれています。天女は千葉氏が氏神・武神として崇敬する妙見の変化(へんげ)、化身だったという種明かしです。
県庁の中庁舎の下を抜けて千葉地方裁判所の方へ渡る、都川に架けられた橋は「羽衣橋」です。オフィス街でロマン溢れる伝説に思いを馳せるのも楽しいことではないでしょうか。
なお、この伝説の舞台が、千葉氏の権力の中枢とも言うべき「堀内(ほりのうち)」ではなく、都川対岸の「市場」であることが気になります。「市」では商品や金銭がやり取りされますが、それは外部との出入りを意味します。ですから網野善彦氏が述べているように、「市」は「神々と関わる聖域」「冥界との境」でもあったのです(「市の立つ場」『増補 無縁・公界・楽-日本中世の自由と平和-』平凡社、1987年)。
都川に面し、寒川湊に隣接する「市場」にあった池に天女が現れたのは当然かもしれません。根拠は無いのですが、「羽衣の松」は天女だけでなく「市神」の依り代だったのかもしれないなどと想像をたくましくしています。
本町から大和橋を渡り、左折すると右手、猪鼻公園の入り口に「お茶の水」があります。傍らにある石碑には、次のように記されています(常用漢字に直し、句読点を付しました)。
治承の昔、千葉常胤卿源頼朝公を居城亥鼻山に迎へし時、此の水を以て茶を侑む。公深く之を賞味せりと伝ふ。爾来お茶の水と称し、星霜八百年、清水滾々として今に渇せず。
千葉市域にも少なからず伝えられる「頼朝伝説」の一つとして広く知られています。碑文には「滾々(こんこん)として今に渇せず」とありますが、残念ながら水が枯れて久しく、わずかにかつての雰囲気を偲ぶことができるのみです。
なお、「茶を侑(すすむ)む」とあることについて、常胤や頼朝の時代には茶はなかったという方がいます。教科書に載る栄西の『喫茶養生記』(建保2年・1214の成立)の印象が強いためでしょうか。しかし、古く奈良時代から喫茶は行われ、平清盛による日宋貿易によって茶ももたらされました。しかし、薬としての効能が求められたのであり、「茶の湯」が始まったのは室町時代で、毎日茶を飲むようになったのは江戸時代以降です。
ところで、このお茶の水については頼朝伝説ではない話も伝わっています。「水戸黄門」として有名な徳川光圀は、延宝2年(1674)に水戸から房総を経て鎌倉を訪れる旅をしました。この年の干支が庚寅(かのえとら)だったので、その記録は『庚寅紀行(こういんきこう)』と呼ばれます。これはもちろん漫遊ではなく、史料探訪のための真面目な旅でした。
光圀は神崎、成田、酒々井を通り、4月27日に千葉へ来ました。千葉のことを記した文のうち「千葉屋敷」の部分は本コラム第18回「御殿跡」で触れましたが、光圀はお茶の水について次のように記しています。
千葉の町を出づる所の左の方に、古城あり。伊野花と云ふ。(中略)古城の山根に水あり。「東照宮御茶の水」と、云ひ伝ふ。(『改訂房総叢書』第4輯、1959年)
これによれば、頼朝ではなく東照宮、つまり徳川家康のお茶の水だというのです。光圀が来たのは、家康が没したのは元和2年(1616)ですから、光圀が千葉へ来たのはそれから60年も経っていません。まして光圀は家康の孫ですから、無責任なことを書くとも思えません。千葉御殿を訪れた家康がこの湧き水を賞味したこともあったのでしょう。
いつの世でも湧き水は大切なものであり、聖人や偉人と結び付けられました。弘法大師が杖を刺したところ水が湧き出たという伝説は広く分布します。お茶の水もそういった文脈で考えるべきでしょう。
前回、お茶の水について頼朝伝説と家康伝承を紹介しました。今回は『千葉大系図』(『改訂房総叢書』第5輯、1959年所収)にみえる、千葉氏に関する言い伝えを紹介します。平忠頼(忠常の父)について次のように記されています。
延長八年庚寅六月十八日、下総国千葉郡千葉郷に誕生するなり。此の所に忽ち水湧き出づ。此の水を以て生湯と為す。後世、湯花水と号す。(読み下し文とし、句読点を付した。) |
これも有名人にまつわる湧水伝説ですが、忠頼の産湯として千葉氏と結び付けています。「湯花」は「ゆのはな」と読むのでしょう。
ところで、貴重な中世資料として知られる『本土寺過去帳』(『千葉県史料中世篇 本土寺過去帳』1982年)の二三日のところには、次のような記事がみえます。
永正三丙子八月 原蔵人丞殿法名朗寿 東六郎殿 千葉井花ニテ打死、諸人證仏果 |
永正3年の干支は丙寅で、「丙子」は永正13年に当たります。『千学集抜粋』(『妙見信仰調査報告書(二)』千葉市立郷土博物館、1993年)には次のように記されています。
一条院薄墨の御証文は、範覚の世に井鼻を持たれし時、永正十三丙子八月二十三日、三上但馬守、二千余騎にて打落す、此時薄墨の御証文は宝器ともみな失にける |
これによって『本土寺過去帳』の「永正三丙子」は「十」が脱字したことがわかります。永正13年(1516)8月23日に「井花・井鼻」で大きな合戦があり、原氏や東(とう)氏といった千葉氏の家臣や一族が討ち死にしたことが判明します。
ちなみに攻め寄せた三上氏は、近江(滋賀県)の佐々木氏の一族で、上総に勢力を有していました。また、「井鼻」に立て籠もった範覚は金剛授寺(千葉妙見宮)の座主です。
以上のとおり「湯花」「井花」「井鼻」はいずれも「いのはな」と読み、亥鼻・猪鼻のことです。当館のある亥鼻・猪鼻の語源については、イノシシの鼻のような地形だからとか、亥の方角(北北西)に突き出した地形だからと言われます。しかし、中世の史料である『本土寺過去帳』に「井花」あることから、井戸のある、イノシシの鼻のように北北西へ台地が突き出した場所と考えるべきでしょう。もちろん、この井戸はお茶の水のことです。
湧水や井戸は生命や産業にとってなくてはならないものであり、信仰の対象となりました。お茶の水には祠の中に安置された不動尊や寛保3年(1743)の不動尊をはじめ、地蔵などの石造物がいくつも並んでいます。お茶の水は、ここから南約200メートルにある智光院(真言宗)が支配していました。
お茶の水から「病院坂」を登り、千葉大学亥鼻キャンパスの正門を過ぎると、バス停「千葉大薬学部前」とバス停「中央博物館」の間の右側に、大木の生えた塚が二つあることに気づきます。説明板があるので、七天王塚であることがすぐにわかります。
因みに、このバス通りは近世の「東金街道・土気往還」で、現在の国道126号や県道20号千葉大網線(大網街道)が開通する前は、千葉と東上総を結ぶ重要な道でした。しかし、近代になって亥鼻の台地上に現在の千葉大学医学部附属病院ができると、街道の入り口に当たる坂は「病院坂」と呼ばれるようになりました。
七天王塚は、その名のとおり7基の塚からなります。残りの5基は千葉大学亥鼻キャンパスの中に点在し、タブノキ、クスノキ、エノキ、マツなど、鬱蒼とした木々が生えています。
これらの塚の上には、いずれも石碑が置かれています。その年号をみると、もっとも古いものは安永2年(1773)です。もっとも新しい花崗岩製のものは昭和53年(1978)とされます(大谷克己『千葉の牛頭天王』千葉市教育委員会、1982)。これらには「堀内牛天王」「牛頭天王」「七天皇」七天王」といった神の名前が刻まれています。これによって七天王塚に牛頭天王が祀られていることがわかります。
牛頭天王は牛の頭に人の体を持った神で、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一視されています。仏教では祇園精舎の守護神とされました。京都東山の祇園にある八坂神社の祭神は素戔嗚尊です。
荒ぶる神として知られる素戔嗚尊は、疫病を退散させる神として人々の信仰を集めました。山鉾巡行で有名な、京都の夏を彩る八坂神社の祇園祭は、かつて「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」と呼ばれ、疫病が流行した時に矛をまつり、疫神や悪霊を送ったことに始まるとされます。気温の高い夏は伝染病が流行りますが、昔の人はこれを鎮めるため、素戔嗚尊、つまり牛頭天王に祈ったのです。
新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、にわかに疫病を退治する妖怪「アマビエ」が脚光を浴びています。しかし、疫病退散の大先輩は牛頭天王です。荒ぶる神であるだけに、そのパワーも極めて強力です。最強の疫病退散の神といえましょう。
そのような牛頭天王が、七天王塚という「東金街道・土気往還」を挟むようにして点在する塚群にまつられているということは、やはり街道、陸上交通を意識したものでしょう。牛頭天王、つまり八坂神社は都市的な場や交通の要地にまつられることが多くあります。東上総方面から来ると、七天王塚を過ぎて「病院坂」(もちろん近世以前にはそのような名前は付いていませんでしたが)を下れば、そこは千葉のまちです。
なお、明治44年(1911)の『千葉街案内』には「七生松(ななをひのまつ)」として紹介され、七天王塚という名前ではありません。しかし、ともに「七」という数に意味があると考えられます。
七天王塚は、お茶の水と同じく智光院が支配していました。
様々な伝説に彩られた七天王塚については、大別すると次のようにいくつもの説がありますので、紹介していきます。
このうち1.~4.が千葉氏との関係を伝えています。まず、1.について考えを述べます。
確かに『千学集抜粋』(『千学集抄』)には千葉の守護神の一つとして「堀内牛頭天王」が記されています。以前は猪鼻城が鎌倉時代の千葉氏の居城だったと思われていました。このため、「堀内」は猪鼻城(千葉城)であり、その守護神として亥鼻城の近くに七天王塚が配置されたと考えられてきたのです。
ところが、当コラム第19回「堀内(ほりのうち)」で述べたように、千葉氏の本拠地である「堀内」は、都川の右岸、現在の中央区院内・中央・本町を中心とする地域でした。したがって、亥鼻の台地上にある七天王塚が「堀内牛頭天王」ではあり得ません。「堀内牛頭天王」は簗瀬裕一氏が指摘したように、現在も本町1丁目にある八坂神社の可能性が高いと考えられます(「中世の千葉」『千葉いまむかし』13号、2000年)。千葉まちの道路交通の基点とも言うべき通町交差点に近く、佐倉・香取へ通ずる街道(現国道51号線)に面する八坂神社は、交通の要衝である都市的な場に祀られる牛頭天王にふさわしい場所です。
前回、旧東金街道・土気往還に面して千葉まちの入り口に牛頭天王が祀られたのは、重要な交通路を意識したのではないかと述べました。そのとおりだと考えますが、『千学集抜粋』にみえる「堀内牛頭天王」ではないことは留意すべきです。
なお、塚にある安永2年(1773)の石碑に「堀内牛天王」とありますが、既に江戸時代後期には猪鼻城が鎌倉時代の千葉氏の城であると思われていたため、当時の人たちも『千学集抜粋』の「堀内牛頭天王」を七天王塚と考えたのでしょう。
次に2.・3.で重要な役割を果たす「七」という数に関して述べます。広く知られるように、千葉氏が信仰した妙見は北の方角を示す北斗七星、もしくは北極星が神格化された神です。そのため妙見信仰では、「七」は特別な意味を持つ聖なる数とされます。千葉妙見宮(現千葉神社)の祭礼が七日間行われるのも、その一例でしょう。北斗七星のかたちに配置されたと言われる7基の塚が、妙見信仰を通じて千葉氏と結びついたのは当然といえるでしょう。
明治期には「七生松(ななをひのまつ)」(古川国三郎編纂『千葉街案内』1911)、大正期には「七つ塚」と呼ばれていましたが(藤澤衛彦編著『日本伝説叢書 下総の巻』1919)、やはり「七」が冠されています。「七」に特別な意味が込められていたことがわかります。
今回は、3.の「平将門の影武者7人の墓」説について述べます。
千葉氏は将門と祖を同じくする坂東の桓武平氏であり、千葉常胤の二男師常(もろつね)に始まる相馬氏は、将門の子孫と称しました。相馬氏が移住した福島県浜通り地方で今も行われ、勇壮な戦国絵巻として有名な「相馬野馬追」(国重要無形文化財)が、将門が牧の野馬を敵に見立てて追ったことに由来すると伝えられるのも、千葉一族と将門との深い結びつきを示しています。
千葉氏は、東国の自立を目指したといわれ、志半ばで倒れた将門に対して強い同族意識を持っていました。例えば、治承4年(1180)の結城浜合戦で有力な平家方の藤原親政と戦った千葉常胤の孫の成胤は、「平親王将門には十代の末葉(ばつよう)、千葉の小太郎成胤、生年(しょうねん)十七歳に罷(まか)り成る。」と名乗りを上げたとされます(鎌倉時代末期に成立していた『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』による)。千葉氏は将門の子孫と称することもあったようです。
将門にはそっくりな影武者が7人いましたが、将門を裏切った小宰相(桔梗御前とも言われます)という女性が見分け方を教えたため討ち取られたという伝説があります。ここでも聖なる数「七」が大きく関係します。妙見信仰を通じて千葉氏と将門が結び付けられていたと言えるでしょう。
ところで、将門は坂東の英雄であるとともに非業の死を遂げた「怨霊」でもありました。大手町(東京都千代田区)の「首塚」に代表されるように、将門の怨霊は強い力を持ち、祟るとされてきました。前々回に述べましたが、七天王塚に祀られる牛頭天王も「荒ぶる神」でした。怨霊として「祟る」将門、「荒ぶる神」牛頭天王、強い力を持ち畏怖される神どうしとして、両者が次第に結びついていったのも当然と考えられます。
こうして「七天王塚の祟り」がまことしやかに語られることになったのでしょう。実際に訪れてみると、鬱蒼とした木々が生えて日が陰る塚の雰囲気も、不吉な気分を募らせます。医学部・薬学部・看護学部などのある千葉大学亥鼻地区では、工事の際に塚の上に生えていたクスノキの枝を払い落としてしまったため、事故が発生したり関係者に良からぬことが起きたりしたと語られています(大谷克己『千葉の牛頭天王』千葉市教育委員会、1982年)。5号塚にある牛頭天王の石碑には昭和53年(1978)の年号と某大手ゼネコンの社名が刻まれています。
これらの話についてはコメントできませんが、「祟り」によって塚や塚に生える樹木、つまり貴重な史跡や自然が残されてきたと言えるかもしれません。七天王塚は昭和34年(1959)に千葉市指定文化財(史跡)として指定されています。
今回は、6.の古墳群説、4.の「猪鼻城大手の土塁」残存説について述べます。
千葉大学亥鼻キャンパス内で、医薬系総合研究棟を建設するため平成14年(2002)の第1次調査~平成22年(2010)の第5次調査まで、千葉大学によって発掘調査が行われました。その成果は『千葉市中央区亥鼻城跡 千葉大学医薬系総合研究棟建設に伴う発掘調査報告書』(千葉大学亥鼻地区埋蔵文化財調査委員会・千葉大学文学部考古学研究室、2011年。以下『報告書』といいます)によって詳しく知ることができます。
医学部本館の東側、七天王塚の4号塚・5号塚・6号塚・7号塚に囲まれた場所を調査したところ、全長約28メートル、前方部約6メートル、後円部約22メートルを図る前方後円墳の1号墳と、やはり前方後円墳と考えられ2号墳が発掘されました。1号墳は前方部が小さくて後円部が大きい、「帆立貝式」といわれるタイプの古墳です。後円部の南側には軟質砂岩の切石を積んだ横穴式石室があり、埋葬された人物の歯も出土しています。検出された遺物から7世紀初頭に築かれたことがわかりました。また2号墳も7世紀前半に築かれたものです。さらに5号塚の周囲にも古墳時代の土坑がありました。
このような発掘調査の成果から、『報告書』は「七天王塚に囲まれる位置で前方後円墳が検出されており、それ以外にも、一番盛土が少ない七天王塚5号塚の周辺からも土壙墓と考えられる土坑が2基検出されていることからみて七天王塚は古墳の残存である可能性が極めて高い」と結論付けています。
これに従うと、自動的に「猪鼻城大手の土塁」残存説は成り立たなくなります。現状からみても七天王塚はそれぞれ独立した塚であり、かつて連続した土塁であったようには認められません。また、城郭の土塁であれば、これに伴って堀があるのが普通ですが、その痕跡もみられません。
最後に、5.の十王堂の名残り説について述べます。藤澤衛彦編著『日本伝説叢書 下総の巻』(日本伝説叢書刊行会、1919)には「七天皇」として「七天皇は、勿論、七王で、閻魔王を首(はじ)めとして、七王を祀れるもので、昔の十王堂(秦広王・楚江記・宋帝王・五官王・閻羅王・下城王・泰山王・都市王・平等王・転輪王を祀る。[筆者注 十尊の名は当該書のまま])の名残りである。そのうち七王を祀れる例は、伊豆(田方郡田中村大字御門六角堂に之を祀る。)などにもある(「伊豆の巻参照。」)が、この思想と、十三仏を祀る思想(例諸国に多い。)とが混じ、此塚も基礎をなしたものと思はれる」とあります。
十王は道教や仏教で亡者の審判を行うとされる十尊です。七天皇塚に十王が祀られており、仏教の十三仏の影響を述べる説は、この他にみることができません。しかし、はるか古代に古墳群があり、6号塚には墓塔もしくは供養塔である戦国期の小型五輪塔の空風輪部が3つあり、いずれ述べるように亥鼻の台地上が中世以降も葬送の地であったことを考え合わせると、十王の伝説が生じたのも一理あるように思えます。
お茶の水から亥鼻山の裾を南へ200メートルほど進むと、左手に智光院の立派な山門とお堂が見えます。郷土博物館のある亥鼻公園へ登る石畳の左側です。
当寺は、正式には「小河山 青蓮寺 智光院」と称する真言宗豊山派の寺院で、寺伝によると康正2年(1456)に千葉(馬加)康胤によって開かれたとされます。御本尊の木像不動明王立像はその頃の作で、貞享5年(1688)に妙見寺(現在の千葉神社)の僧栄慶が修理した旨の墨書が残り、当寺が近世には妙見寺と深いかかわりを持っていたことがわかります(『千葉市の仏像』千葉市教育委員会、1992)。境内には月星紋や九曜紋がみられ、千葉氏ゆかりのお寺であることが実感されます。
康胤は千葉満胤の二男で、馬加(まくわり、現在の花見川区幕張)に住み、千葉一族のなかで長老的な存在でした。享徳の乱が勃発すると、円城寺氏ら直臣層に支えられた千葉胤直たち千葉本宗家が管領上杉氏側に属したのに対し、康胤は庶子家の原胤房らとともに古河公方足利成氏に属しました。康正元年(1455)、胤房が千葉城を攻め落とし、敗走した胤直らが多古城・島城(多古町)に籠城すると、康胤・胤持父子は胤房とともに胤直らを攻めて自害させ、千葉本宗家は滅亡したのです。
公方成氏は、このような康胤の「忠節」を高く評価し、千葉氏を継承させました。康胤に始まる千葉氏を「馬加千葉氏」といいます。成氏は上杉方の地盤を切り崩すため、安房には里見氏、上総には武田氏を送り込みました。ところが、下総では外部勢力の侵攻ではなく、千葉氏内部の勢力交代によって上杉方から足利方の勢力圏になったのです。このことは中世の東国社会における千葉氏の存在の大きさを感じさせます。しかし、康胤は康正2年(1456)11月に上総八幡(市原市)の合戦で討死しました。八幡の無量寺(浄土宗)には、康胤・胤持父子の墓と伝えられる中世の五輪塔があります。
なお、智光院には銅造如来形立像(14世紀前半)、銅造菩薩形立像(鎌倉時代後期、善光寺式阿弥陀三尊像の脇侍)といった、創建年代よりも古い仏像が伝来しています(前掲『千葉市の仏像』)。智光院の前身となった寺院が既に存在していた可能性が考えられます。
智光院は猪鼻城跡の直下にあるため、この場所に千葉氏の居館があったのではないかという説があります。千葉本宗家を滅ぼした康胤が、千葉氏の菩提を弔うために館の跡に寺を建立したという考えはとても魅力的です。鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏が、北条氏の霊を弔うため執権屋敷の跡に宝戒寺(鎌倉市)を建立したという例もあります。
しかし、繰り返しになりますが、千葉氏の本拠である「堀内(ほりのうち)」は都川の対岸で、智光院が「市場」にあること、猪鼻城が戦国時代の城郭であること、智光院の地は千葉氏のような有力な守護クラスが居館を構えるには狭いことを考えると、千葉氏の館は他の場所に求めるべきと考えます。
智光院はお茶の水の不動や七天王塚を支配していました。本堂の裏側には「お茶の水清水不動尊」が遷座されています。
智光院の南、亥鼻公園へ登る石畳の道の右側が胤重寺(いんじゅうじ)です。光明山胤重寺と称する浄土宗の寺院で、寺伝によれば、開山の雲巌上人は武石胤重(たけしたねしげ)の子孫で、胤重の菩提を弔うため永禄元年(1558)に開いたとされます(『千葉県浄土宗寺院誌』千葉県浄土宗寺院誌刊行委員会、1982年)。雲巌上人は、浄土宗二祖で「鎮西上人」と呼ばれる聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう、1162~1238)の法脈を汲むとされます。
胤重は、千葉常胤の三男で「千葉六党」の一人として知られる武石三郎胤盛の子で、武石次郎を称しました(「神代本千葉系図」『改訂房総叢書』第5輯、1959年)。武石は現在の花見川区武石町で、今も真蔵院や武石神社などの武石氏ゆかりの史跡が残ります。胤盛は父常胤から千葉氏の本領である千葉庄(ちばのしょう)の西部に位置する武石周辺を分け与えられ、名字としたのです。
ところで、鎌倉末には成立していた、『平家物語』の異本である『源平闘諍録』(げんぺいとうじょうろく)には、千葉成胤が平家方の藤原親正を迎え撃った「結城浜合戦」の際に、成胤に続いた武士として「多部田の四郎胤信・国分の五郎胤通・千葉の六郎胤頼・堺の平次常秀・武石の次郎胤重」たちがみえます(福田豊彦・服部幸造全注釈『源平闘諍録(下)』講談社、2000年)。胤信は大須賀氏の祖、胤通は国分氏の祖、胤頼は東(とう)氏の祖で、いずれも常胤の子です。しかし、武石氏は胤信・胤通・胤頼の兄弟である胤盛ではなく、その子の胤重が参加していることが気になります。胤盛は父常胤とともに源頼朝の傍に従うなど、何らかの事情があって合戦に加わらなかったのかもしれません。しかし、胤重は若い時から武石氏の軍事行動を代表するような立場にあったとも考えられます。
松島の五大堂の鐘(嘉禄3年・1227)に「日(亘)理郡地頭武石二郎胤重」とあり、胤重が早くから陸奥国亘理郡(宮城県)へ進出していたことがわかります(岡田清一「陸奥の武石・亘理氏について」『千葉氏関係資料調査報告書2. 東北千葉氏と九州千葉氏の動向(亘理氏及び仙台千葉氏)』千葉市立郷土博物館、1997年)。ちなみに、東北へ移住した武石氏が亘理氏を称し、さらに近世には伊達氏の一門に列せられて涌谷伊達氏となったことはよく知られています。当寺が武石氏の祖である胤盛ではなく、胤重の供養のため建立されたとされることは、胤重が一族の中で重要な存在であったためかもしれません。
当寺の御本尊は木造阿弥陀如来立像です。この他に13世紀中ごろの銅造千手観音菩薩坐像、本来は懸仏(かけぼとけ、壁面に懸ける仏像)であった銅造薬師如来坐像が残されていますが、この二体は「円城寺」に安置されていたものです(『千葉市の仏像』千葉市教育委員会、1992年)。円城寺は佐倉市城(じょう)にあり、千葉氏の重臣として知られる円城寺氏と関係のある寺とも言われます。
本堂には月星紋がみられ、千葉氏の由緒を持つお寺であることがわかります。また、境内には、供えてある塩でなでるとイボが取れるといわれる「塩地蔵」、柔術の戸塚揚心流の祖である戸塚彦介英俊と子の英美の墓(千葉県指定史跡)があります。
胤重寺からさらに南へ進み、県立中央図書館を過ぎ、信号のある交差点を渡ると、左手に石柱の門があります。龍興山高徳寺、曹洞宗の寺院です。
寺伝によれば、原四郎胤高が北朝年号の貞治4年(1365、南朝年号では正平20年)に建てたとされます。胤高は千葉氏胤の子で、戦国時代に生実城(中央区)・臼井城(佐倉市)を拠点にして千葉氏に匹敵する地域権力に成長を遂げた原氏の祖に当たります。享徳の乱で千葉城を攻め、馬加(まくわり)康胤とともに本宗家を多古城・島城(多古町)で滅ぼしたことで知られる原胤房は、胤高の孫です。
また、近世の『千葉伝考記』には大日寺旧記を引用するかたちで、「氏胤の建立にて」とあります(『改訂房総叢書』1959)。いずれにせよ、当寺は南北朝時代に建立されたと考えられます。なお、宝徳元年(1499)に宗徳寺の機然正哲和尚が中興開山となったとも伝えられています。宗徳寺は生実の柏崎にありましたが、後に臼井へ移った曹洞宗の寺院で、原氏の菩提寺です。このことからも、当寺が原氏と深い結び付きを持っていたことがわかります。
御本尊はゆったりとしたお姿をした木造地蔵菩薩半跏像で、南北朝時代の作です。仏像の専門家も「創建時に遡り得る本尊像が伝わることは歴史的にも注目されよう。」と高く評価しています。左足を踏み下げて座っていますが、このような姿の地蔵を「延命地蔵」といいます。(『千葉市の仏像』千葉市教育委員会、1992)。
ところで、本寺の門を入るとすぐ左手に閻魔堂があります。その中に木造閻魔王座像が安置されています。座っていますが、像の高さは約168cmに及び、閻魔大王にふさわしく玉眼の入った目をカッと見開き、口を開いて一喝しているようで、たいへん迫力があります。いうまでもなく、閻魔は死後、人間の罪業を裁く十王の中心です。頭部内側には墨書による銘文があり、これによって明応4年(1495)に造立されたことが判明します。
その左側には木造奪衣婆坐像があります。奪衣婆は三途の川のほとりで、亡者から着衣を剥ぎ取る鬼婆で、その名にふさわしく恐ろしい形相です。この像にも墨書銘があり、天文12年(1543)に作られたことがわかります。戦国時代の閻魔王像と奪衣婆像があわせて残されていることは大変貴重です。さらに、閻魔と奪衣婆の上の壁面にある棚には、江戸時代の寛文9年(1669)に作られた、50cmほどの小振りな十王像がずらりと並んでいます(前掲『千葉市の仏像』)。
次回は、御本尊が地蔵菩薩であることに加え、当寺に閻魔をはじめとする十王や奪衣婆という冥界の者たちが揃っていることの意味を考えたいと思います。
前回申し上げたように、当寺の御本尊は南北朝時代の木造地蔵菩薩半跏像で、明応4年(1495)に造立された木造閻魔王座像、天文12年(1543)の木造奪衣婆坐像という、中世の仏像が3体も残されており、大変素晴らしいことです。また、江戸時代の十王像も揃っています。
地蔵菩薩は、よく知られているように地獄へ堕ちた衆生の苦しみを救う仏として信仰を集めました。多くは僧の姿とされ、地獄・餓鬼・修羅などの六道をめぐりながら衆生を救済するとされましたが、特に地獄での責め苦から救ってくれる仏と考えられてきました。
人間は死ぬと七日ごとに十王の裁きを受けるとされます。初七日の秦広王から始まり、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王と続き、四十九日の泰山王という順番です。これで決まらない場合は、百ケ日に平等王、一周忌に都市王、三回忌に五道転輪王の裁きがあります。これら十王の中でもっとも有名なのが、生前の善悪の振る舞いを映し出す「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)」を持つ閻魔王です。閻魔王の本地仏は地蔵菩薩とされました。
死後、最初に出会う奪衣婆は、三途の川のほとりで盗みをした者の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取り、懸衣翁という老爺の鬼が衣領樹という大樹にかけます。その重さには生前の行いが現れるとされます。さらに、奪衣婆は閻魔王の妻であるという説まで生じました。
このように亥鼻山(亥鼻台地)を背にした当寺に、冥界を代表する地蔵菩薩・閻魔王・奪衣婆が安置されることは、亥鼻山周辺が来世、冥界と関係の深い土地であったことを示す痕跡ではないかと考えられます。
詳細は後日、猪鼻城のところで述べたいと思いますが、戦国時代になって城郭が築かれる前、亥鼻台地は宗教的な空間、聖なる場であり、葬送の地でもあったと考えられます。七天王塚を紹介した際には、古墳があったこと、十王を祀った塚という伝承にも触れました。
石井進氏は「歴史の生き証人「柏槇(びゃくしん)」 建長寺」で、鎌倉の建長寺(臨済宗)について次のように述べています。
むかし北条時頼が執権の時、斉田(さいた)左衛門という武士が無実の罪で地獄谷で処刑されようとしたが、日頃あつく信仰している地蔵像が身代わりに立ったおかげで一命を助かった、その小像が心平寺の本尊の胎内に移され、さらに建長寺建立の際、仏殿本尊の頭部に納められたと伝えられている。刑場であり、葬送の谷であった地獄谷の名ごりが、地蔵菩薩への信仰として今も建長寺のなかに生きつづけているのもまことに理由あることであろう。(『風土と歴史をあるく もうひとつの鎌倉 歴史の風景』そしえて、1983)
亥鼻山と高徳寺との関係は、これにかなり似ていることがわかります。高徳寺に残る、冥界のトリオともいうべき地蔵菩薩・閻魔王・奪衣婆たちは「千葉氏の本拠である千葉城」とは異なる亥鼻山のイメージを示してくれます。
高徳寺の石の門を出て左手に行くと、道が二股に分かれます。左の方へ50メートルほど進み、三叉路をさらに左に折れ約30メートル行くと、また三叉路があります。右手には県立千葉高校の正門へ登る坂道が見えますが、左側の谷津(小支谷のことを南関東では「谷津(やつ)」とか「谷戸(やと)」、「谷(さく)」といいます)の中の道を進みます。亥鼻山の南側の裾を回り込むように200メートルほど行くと、右側に亥鼻保育園、左側にお寺があります。
ここが曹洞宗の金剛山東禅寺です。本堂の棟には月星紋が輝き、千葉氏ゆかりの寺院であることがわかります。寺伝によれば、千葉貞胤が円中規公を開山として嘉禄2年(1327)に建立したとされています。当初は臨済宗で、夢窓礎石の像がありました。
保育園に隣接して墓地があり、かつては道の両側、保育園などを含む谷津のなか全体を境内としていたことがわかります。この谷を「東禅寺作(さく)」と呼んでいたそうです。「作」は「谷」の当て字でしょう。江戸時代の終わり、海防のため佐倉藩が亥鼻山に藩士を駐屯させた際には、この谷津の中で鉄砲の調練を行ったといいます(和田茂右衛門『社寺よりみた千葉の歴史』千葉市教育委員会、1984)。弾が外に出る可能性が少ないためでしょう。
当寺の御本尊は木造薬師如来坐像で、『千葉市の仏像』(千葉市教育委員会、1992)では「鎌倉時代前期の慶派の作風に連なる」としています。穏やかな中にも力強い表情をした、美しくも堂々とした仏像で、同書は「市内はもとより県内の中世彫刻の中でも抜群の作行を示し、(中略)鎌倉時代の彫刻史上に重要な作例に挙げられる」と絶賛しています。個人的な感想ですが、千葉市美術館の特別展「房総の神と仏」(平成11年・1999)で初めて拝見した際に、大いに感銘を受けたことが思い出されます。
ちなみに、慶派とは康慶・運慶父子に始まる仏師の一派としてあまりに有名ですが、鎌倉時代の慶派の優れた作品が当寺に残されていることは、その造立の後ろ盾となった千葉氏が大きな力を有しており、鎌倉時代の千葉が高い文化水準を持っていたことを意味します。
なお、かつて当寺には元徳3年(1331)の梵鐘がありました。その銘文は中世の千葉のまちの姿を考える上で極めて重要なものですが、その内容の考察については後に譲ることとして、今回は「円覚首座比丘奇英為之銘曰」という一節がみえることだけを紹介しておきます(『千葉縣史料 金石文篇一』千葉県、1975)。
これによって円覚寺首座の比丘(びく、僧侶)が銘文を書いたことがわかります。鎌倉の円覚寺は北条時宗が無学祖元を開山として建立した臨済宗の大本山で、当寺が臨済宗であったことが裏付けられます。しかし、後に原氏の菩提寺である宗徳寺(曹洞宗、現在は佐倉市臼井台)の末寺となり、その二世の機然正哲和尚が中興開山となったため、曹洞宗に改められたと考えられます。前に紹介した高徳寺も機然正哲が中興し、宗徳寺の末寺となっていますから、戦国時代には亥鼻を含む千葉一帯が原氏の強い影響下にあったことがうかがえます。
遠山成一(郷土博物館研究員)
当コラムでは、最近ひそかなブームともいえる中世城郭を、それも千葉市内を中心に取り上げ、解説したいと思います。城歩きするときに、より有意義な散策が可能になれば幸いです。
なお、城歩きは季節的には晩秋から早春までが最適です。これ以外の季節は、害虫、害獣がいたり、草の繁茂などで遺構が見づらいこともあるので、おすすめできません。また、滑落で思わぬケガをしかねません。できるだけ複数で行かれることをおすすめします。
城跡が私有地の場合は、所有者の方の許可を得てから入るようにしてください。
中野城跡は、国道126号線で東金方面に向かう途中、中野バス停の手前左手に大きく「本城寺中野城跡」の看板があり、すぐに入口がわかります。国道から坂を下り、また上っていくと顕本法華宗長秀山本城寺の境内に入ります。中野城跡は、この本城寺を含む一帯が城域となっています。城域からやや離れて、南から東に鹿島川が蛇行して北流しています。城跡は台地上に築かれ、西から南西にかけては、鹿島川へ流れ込む小さな谷が天然の空堀として機能しています。
城跡は四方を空堀で囲まれていたと思われますが、台地続きの南東側は北東隅部を除くと土塁がわずかに残るだけで、空堀は埋められたのか、確認することができません。しかし、こちらに大手があったと思われます。これに比べ、北東から北西部は土塁と空堀がよく残ります。また国道から境内に向かう上り坂の右手には、斜面に二重の土塁がよく残っていて、一番の見どころと言えましょう。縄張構造からみて、戦国時代まで使用されていたと考えられます。
歴史的にみると、本城跡は房総酒井氏の祖とされる酒井定隆が、最初に入った城と一般には言われています。近世初頭に著された『土気城双廃記』によれば、 定隆は「上総と下総の境に中野村と云う所に住居成され(現代語訳)」とされています。この「中野村…住居」ということから、中野にある城、中野城が定隆の拠った城とされたものと考えられます。
しかし、両総国境の中野村は、千葉市緑区中野町だけでなく、市原市中野もこれに該当します。市原市中野は、土気に水源をもち千葉市中央区浜野で東京湾に注ぐ村田川(上総下総の国境となる)の中流域左岸に位置しています。日泰開基の本行寺があり、酒井氏ともゆかりの深い浜野と、土気の中間に位置しています。土気城にやがて進出する酒井氏が一時拠点を置いたのは、市原の「中野村」と考えることも十分可能だと思われます。
本城寺縁起(『千葉縣千葉郡誌』所収)によると、土気城に移った定隆により日泰を開山として延徳元年(1489)に本城寺が開基されたといいます。つまり城としての機能は、この時点で終わったということになります。しかし、縄張構造的には前述のように、少なくとも戦国時代まで使用されていたと考えられます。また、地理的にみて鹿島川の水源地に程近い土気城にとって、本城跡は鹿島川沿いに侵入してくる敵を迎え撃つ格好の位置にあります。ですので、本城跡は土気城の重要な支城(境目の城)の一つと言えるでしょう。
実際、永禄8年(1565)に北条氏政の軍勢が土気城を攻めた時、臼井原氏率いる一団が戦っていますが、こうした北方からの敵を抑える役割を果たしていたものと思われます。
このように考えますと、本城跡が城としての役割を終えたのは、少なくとも本城寺が開基された延徳元年よりも後へ下るのではないでしょうか。ともあれ中野城は、土気酒井氏にとって重要な支城であり、ここに日泰ゆかりの本城寺が建立されたのもうなずけます。
なお、下の鳥観図は余湖浩一氏のウェブページ「余湖くんのお城のページ」より、お借りいたしました。
JR総武線の新検見川駅を過ぎ幕張方面に向かうと、間もなく花見川の鉄橋を渡ります。山側の車窓からは、左の川岸に張り付いて、ぽつんと取り残されたこんもりとした小山が見えるはずです。これが唯一遺された大久保城の遺構です。城域の主要部は、戦後まもなく花見川の流路を直線に付け替えた時に、台地ごと消滅してしまいました。さらに遺された城域も宅地化によって大きく改変されてしまいました。そこには大学の寮がありますが、台地縁辺には腰曲輪も残るそうです。この大久保城跡の西側の道路は旧河道跡に造られており、窪んでいるのがわかります。ここを境に本城跡側は浪花町、西側は幕張と住居表示が分かれます。
大久保城跡の中心部のあった台地南麓からは旧花見川の河口に近く、また検見川神社(八坂社)が鎮座しています。神社の前には、街道に沿って本宿・上宿・中宿・下宿の街並みが広がります。16世紀初頭の永正2年に連歌師宗長が小弓の原胤隆のもとを訪ねた帰路、浦風が激しく検見川の宿に泊まることになりました(『東路のつと』)。中世の段階に、房総往還に該当する道沿いに宿場町が形成されていたことがわかります。
なお、『更級日記』の作者菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が歩いたはずの上総国府と下総国府とを結ぶ古代官道は、検見川神社のすぐ北に字「大道」があるので、海際の房州往還より高い台地上を通っていたと思われます。
また、旧花見川河口は湊としても機能していたと思われます。というわけで、検見川の宿は、宿場町、鳥居前町、湊町という複合的な機能をもった町として賑わったことでしょう。
それでは、大久保城跡はどのような機能を持った城だったのでしょうか。残念ながら、本城跡はほぼ消滅した関係で、縄張構造がまったくわからず、中世のどの段階に使用されたのか不明です。また、どのような主体が城に拠ったのかもよくわかりません。城と宿とは、やや距離が離れているので、城と城下集落という関係とは言い切れないと思われます。
ただ、これより上流は、千葉六党の武石氏の名字の地武石となります。武石氏といえば鎌倉時代初期に東北へ移住した一族は有名ですが、下総に残った一族もおり、これとの関連が推測されます。つまり、江戸内海(東京湾)への出口を確保すると同時に陸路(房総往還)を抑える、という役割を持った城だったのではないでしょうか。
なお、本コラムを書くにあたって「千葉市の遺跡を歩く会」のウェブページ「花見川水系の歴史的景観」を参照しました。
千葉市で平山町といえば、享徳の乱によって千葉宗家は佐倉千葉氏の祖である輔胤・孝胤(のりたね)系に替わり、本拠が千葉市中心街からいったん「平山」に移ったことが知られています(『千学集抜粋』)。平山町には輔胤から勝胤までの三代が居住した平山城跡があります。同城跡は都川支川の上流、亥鼻からは直線距離にして約8km奥へ入った地点にあります。同川に向かって南西に突出した半島状の台地に、城跡は位置しています。城域はおおよそ300m×170mと大規模で、部分的ではありますが、土塁もよく残っています。現状では、妙見社の建つ先端の曲輪以外は民家が建ち並んでいて、残念ながら詳しく見学することはできません。しかし、先端部の腰曲輪や城跡の縁辺部は遺構もよく残っていて、見応えがあります。
さて、この城で注目したいのは城本体よりも、やや離れて存在する字「しく」、つまり宿の部分です。宿といえば街道の宿場町のほか、城の城下集落として従来とらえられてきました。しかし、房総の宿という小字70例を調べたところ、街道とは無縁に形成された城下集落としての宿は、唯一この平山城の宿地区だけでした。他は街道に形成されたものか、城の直下の街道沿いに町場の宿を囲い込みながら形成されたものがほとんどです。これら街道に沿って展開する宿は、いわゆる短冊型地割という、間口が狭く奥行きが深い形状をとります。しかし、平山の宿は、方形の区画の中にブロック状の地割があるという、房総では極めて珍しい形状をとっています(『千葉市図誌 上』)。その理由は、この宿の形成された歴史的背景にあります。
15世紀半ばの享徳の乱によって、鎌倉公方足利成氏と対立する関東管領上杉方についた千葉胤直・宣胤父子は、馬加康胤・原胤房らによって千葉城を追われ、ついには千田庄多古で滅亡を遂げます。胤直・宣胤に代わって千葉宗家を襲った馬加康胤も、京都将軍家が上杉氏を助けるため遣わした東常縁によって討たれました。その結果、岩橋(酒々井町上岩橋・下岩橋)に本拠をもつ馬場氏系の輔胤の系統が千葉宗家を継ぐことになります。この輔胤が平山に入るのです。平山城と輔胤の家臣団が居住する宿は、この時に取り立てられたと思われます。
平山城は一時的な築城ではなく、縄張からみても本格的な城といえましょう。また、家臣団の居住地である宿をともなっています。
ところで、なぜ千葉の中心街から奥まった所に築城したのは、海からの直接の攻撃を避けたためと思われます。とはいえ、佐倉千葉氏と緊密な関係にあった小弓原氏の本拠小弓城とは、さほど離れてはいません。しかも、小弓と旧東金街道(松ヶ丘町から仁戸名・川戸町・大宮台・平山町を経て、川井町で国道126号線に合流する)とを結ぶ道から、平山城へ至るわけです。陸上交通からみても小弓にも亥鼻へも通じていました。
千葉宗家が平山・長峰を去り、文明年間に本佐倉城へ本格的に移転すると、地理的にも海岸部から奥まった位置を占める平山城は、その役割を終えたようです。城下の宿からは家臣団が消え、その後住む者もいなくなったと思われます。現状の「しく」は山林と化しています。とても人家が立ち並んだとは想像もつきません。
文中の鳥瞰図は、余湖浩一さんのウェブページ「余湖くんのお城のベージ」よりお借りしました。
前回の平山城で登場した東常縁(とうのつねより)に関する有名なエピソードを、今回ご紹介したいと思います。以下は、『鎌倉大草紙』という戦国時代には成立をみたと考えられる古記録に記された話です。
享徳の乱に端を発した千葉家の内紛により、康正元年(1455)八月、宗家の千葉胤直父子が馬加康胤・原胤房らに滅ぼされました。京都の将軍足利義政は近臣である常縁に対し、馬加康胤を退治し、武蔵へ逃れた実胤(胤直弟の賢胤の遺児)を千葉に連れ戻すよう命をくだしました。美濃の山田庄(岐阜県郡上市大和町)を本拠にしていた常縁は、祖先の故郷下総国へ下り、両総を転戦します。ついには康胤を討ち取りますが、武蔵の実胤を連れ戻すまでには至りません。美濃より同行した配下の浜春利を東金城に配し、自らは故地東庄へ戻りました。
常縁が下向して十年余りが経った1467年、京では応仁の乱が勃発します。西軍の山名方に属していた斎藤妙椿は、東軍勢を駆逐し美濃一国を平定しました。斎藤家は守護土岐氏の守護代を務める家柄で、妙椿は甥にあたる守護代斎藤利藤の後見役として権勢をふるっていました。この過程で、美濃東氏の本拠篠脇城(しのわきじょう:郡上市大和町)も妙椿に奪われてしまったのです。
承久年間に美濃山田庄を東素暹(胤氏)が得ると、その子行氏に伝領され、代々美濃東氏として発展していきました。常縁は、足利将軍の命で下総に下向している間に、二百年以上持ちこたえてきた故地を奪われてしまいました。悲嘆にくれた常縁は、父の命日に心情を和歌に託しました。
あるかうちに かかる世をしも見たりけり 人の昔もなほも恋しき
これを見た浜春利は、兄康慶に書状を送り、この歌を書き添えました。康慶もこの歌に感じ入り、諸所で披露しているうちに、妙椿にも知られるところとなります。歌人であった妙椿は、常縁に和歌を贈ってくれたら篠脇城を返す旨、伝えさせました。これを聞いた常縁は、十首の歌を詠むと春利を介して妙椿に贈りました。
堀川や 清き流れを隔て来て 住み難き世を 嘆くはかりそ
このほか九首を受けた妙椿は、常縁へ返歌を贈ります。
言の葉に 君の心はみつくきの 行く末とをくへ 跡は違わじ
こうして、将軍の許しを得て下総を離れた常縁は、本拠の篠脇城を妙椿より受け取ることができたのです。これが『鎌倉大草紙』に載る有名な話です。もちろん、単に和歌に通じた両者が心を通わせて実現した、という理由だけでかたづけられないでしょう。背景には、応仁の乱という複雑な政治力学があったと思われます。
ところで、篠脇城のある郡上市大和町は、国指定名勝の東氏館跡庭園や明建(妙見)神社、さらには古今伝授の里フィールドミュージアムがあり、見どころの多い町です。訪れてみて驚いたのは、明建神社の前の集落を歩いていた時です。家々の表札を見ると、なんと東総地区に多い千葉県ゆかりの姓がずらりと並んでいました。山麓の森の中に厳かに建つ神社と、八百年前から連綿と続くこの集落の歴史を思うと、不思議な感動を覚えたものです。
また、篠脇城跡は山頂の主郭の周りをぐるりと畝状竪堀(うねじょうたてぼり)が取り巻く、千葉県では目にすることのできない遺構があります。畝状竪堀とは、城の斜面に垂直な竪堀を連続して掘りこむものです。ちょうど斜面が畑の畝のようになります。敵が斜面を横に移動するのを妨げ、堀底を上ってくる敵を上から射撃しやすくするために造られると考えられています。篠脇城の場合は、山頂の曲輪の周囲をぐるりと連続して畝状竪堀が廻ります。筆者が訪れたのは、ちょうど有名な郡上の盆踊りが行われている最中でしたので、残念ながら草に埋もれた畝状竪堀は見ることができませんでした。登山道の途中で、マムシの子どもを見てしまったものですから、草を踏み分ける勇気がなかったのです。
国道126号線(東金街道)を東金方面に進み、大草町の千城台入口の交差点を過ぎてしばらく行くと、千葉市平和公園入口に至ります。ここを右折し、都川を渡るとすぐにまた右折します。バス停「平和公園いずみ台ローズタウン入口」を過ぎるとすぐに現れるY字路を右方面に進み、千葉へ戻るようにします。すると細い道の両側に、間口が比較的狭く奥行の長い家並が続きます。ここが宿地区です。しばらく行くと正面に小高い森があり、道はここにぶつかり左折します。多部田城跡は、この小高い森の中とその手前宿地区の南方にかけてとなります。
千葉常胤が鎌倉幕府創設に貢献し、大須賀郷(保)を新恩給与されると、四男胤信がここに入部します。多部田の地は胤信が初めに名のった名字で、宗家が大須賀へ移った後も胤信の次男胤秀一族が残り、「多辺田」を称しています。
多部田城跡概念図 外山信司氏作図 |
さて城跡は、切通で大きく東西二つの部分に分かれます。西側(千葉市街地寄り)が主たる曲輪としてよいでしょう。ここには妙見社の小さな祠が祀られており、成田市域の大須賀氏の城と共通するところです。なお、この城で注意しなければならないのは、第二次世界大戦中の軍部による地形改変です。聞き取りによってわかるだけでも、東側曲輪の妙見社裏の中途半端な掘り込みと、西側曲輪の東西方向に延びる二本の掘り込みは、旧日本軍が防空壕やその他の目的のために掘ったと言われています。妙見社裏の土橋は、東側字「松崎」の畑へ行くために盛り土して土橋状の通路にしたものだそうです。このように、一見すると高度な築城術かと誤解されかねない遺構は、どうやら後世の改変になるものと思われます。
しかし、西側曲輪の南側の堀は規模も大きく戦国時代後半まで使用されていたと思われます。それでは、戦国時代まで使用されていた理由は何でしょうか。そのカギは宿地区にあります。前述のように、ここの宿地区は間口が狭く、奥行きが長いという典型的な短冊型地割をしています。これは街道の宿(宿場町)によく見受けられる形です。つまり、城跡に隣接する一見城下集落としてみえる宿も、城が築かれる前に街道の宿として成立をみていたと考えられるのです。
それは、多部田地区は仁戸名方面からの道が通過しており、この街道の宿として発展したものと考えられるからです。具体的には、仁戸名から城の腰城跡を左に見ながら支川都川を渡り、突き当たる長峰地区で東へ折れます。千城小学校を経て途中太田町・坂月町方面に北上せずにさらに東へ進み、北大宮台から大宮台への進入道路を横断して進むと、小支谷を渡り多部田城跡の東西に分ける切通に至ります。現在水田となるこの小支谷の字を「馬渡」といいます。馬渡地名は川の渡河点につけられ、各地に残ります。よく知られるところでは、国道51号線が鹿島川を渡る千葉寄りの佐倉市馬渡地区で、これは古代末期には地名として確認できます。
多部田からは、都川左岸に沿って上り、旧東金街道に至る道や、高根町から北上して下泉町から佐倉方面に行く道などが想定されます。多部田の宿のさらに東方には字「豊前屋敷」「陣場」があります。豊前屋敷は重臣クラスの屋敷地であったと思われ、もともと街道の宿であった宿地区が城下集落として取り込まれ、さらに東方に城下集落が拡大したものと考えられます。
このように考えると、街道沿いに成立した宿とこれを取り込んだ多部田氏の屋敷(館)が基本にあり、その後、街道を抑える関所的な役割を果たす城郭が構えられ戦国期に至った、と考えられないでしょうか。また、秀吉による小田原合戦時に房総の小田原方の城々が攻め落とされていますが、この時、多部田城も攻撃を受け落城したという伝承が残っているそうです。これが事実を伝えるものとすれば、戦国最末期まで本城は使われていたことになります。ちなみに多部田氏の名は、多部田城と直接関係するかどうかわかりませんが、多辺田与太郎なる人物が天正2年(1574)9月の「千葉氏黒印状」(松本昌之家文書)に記載されています。
この記事を書くにあたり、ウェブページ「千葉市の遺跡を歩く」から「多部田の歴史を歩く 2」を参照させていただきました。また、概念図は外山信司氏作成図(『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1.』から)を使用させていただきました。
JR土気駅南口は1980年代に大型宅地開発をうけ、広大な農地や山林はあすみが丘の街並みに姿を変えています。大椎城跡はあすみが丘東地区の南西部に隣接する、東西400m、南北100mほどの昔の面影を残す独立丘状の台地に占地しています。
城は東西に細長い台地を南北に掘り切った四つの郭からなる、「直線連郭」の形態をとります。台地の先端にあたる西端部の郭が主郭(近世城郭でいう本丸に相当)で、2郭・3郭・4郭と並びます。東側の台地部と4郭とは、自然の沢を利用した馬の背状の土橋でつながります。
四つの郭はそれぞれ空堀で区画されますが、2郭と3郭、3郭と4郭の間の堀は「折り」(*1)とよばれる技法が使われています。主郭・2郭・3郭のそれぞれ東端には土塁が築かれています。しかし、2郭・3郭・4郭のそれぞれ西端には土塁は築かれていません。つまり優位な郭に相対する端(大椎城の場合は西端)には、土塁を築かないのです。なぜならば、敵が4郭→3郭→2郭と攻め進む時に、西端部に土塁が築かれていたとすると、敵にとって恰好の身を隠す場所を提供してしまうことになるからです。
主郭と2郭のそれぞれ東端の土塁には折りの技法が用いられ、隣接する土塁の開口部となった虎口(出入り口)に横矢(*2)がかかるように工夫されています。
城跡南麓には、台地裾部を数段のテラス状に整形した集落が展開しています。この中には「ねごや」、「ね」という屋号をもつお宅があります。ねごやとは根小屋とか根古谷などと書き、中世城郭の城下集落に相当する区画を指します。家臣や城主の居住空間となっていましたが、「小屋」ということで、あくまでも仮の住まいと考えられます。これに対し、日当たりの悪い北麓は自然のままに残されていたようです。
ところで大椎といえば、大治元年(1126) 千葉氏が常重の代に千葉市へ移住する前まで、本拠としていたとされる(『千学集抜粋』)地です。しかし、この大椎城は形態から見る限り、常重の頃のものとすることは到底できません。戦国時代も後期の、つまり土気酒井氏関連の城とみるのが妥当なところでしょう。実際、本城周辺には、宅地開発で消滅してしまったいくつかの城があったことがわかっています。後台城跡・御堂前城跡(大椎町)、大谷城跡(あすみが丘)です。大谷城跡はつくりかけの城と評価されています。これらの城は大椎城とともに、村田川沿いに侵入する敵に対する防御を担っていたと思われます。
この記事を書くにあたり、簗瀬裕一氏執筆の『千葉市の戦国時代城館跡』(千葉市立郷土博物館 2009年)および小高春雄氏『山武の城』(私家版 2006年)を参考にさせていただきました。また城の図面は、『千葉市の戦国時代城館跡』掲載の図(簗瀬裕一氏作図)をお借りしました。なお、城内に入るには南側の私有地である人家を抜けるのは避け、東側のあすみが丘東地区から土橋を渡る方法をとっていただきたいと思います。
(*1) 折り…「折ひずみ」とも言い、堀や土塁をわざと屈曲させて築くことをさす。堀底を進む敵は前方を見通せないことや、進行速度がおくれてしまう心理的負担を負うことになる。また、城内からは、敵の正面と側面を同時に攻撃しやすい利点が生ずる。
(*2) 横矢…「横矢をかける」という使い方をする。敵の側面を攻撃すること。例えば盾などで正面や左側面を守る(右ききは盾を左手でもつ関係で)ことができても、右側面は守ることができない。土塁に折りを入れて城に向かって攻めてくる敵の右側面を攻撃しやすくなる。これを横矢とか横矢をかける、という。
JR内房線浜野駅で下車し、千葉市街地方向へ向かって歩くと、十分足らずで顕本法華宗如意山本行寺が見えてきます。この一帯に、あまり知られていませんが中世の城がありました。生実藩蔵屋敷跡として一般に知られる浜野城跡です。残念ながら、現状では城の痕跡はまったくと言ってよいほど残っておりません。しかし宝暦5年(1755)の古絵図には、本行寺の西側は「城ノ内」とされており、城であったと、かつては認識されていたのです。
浜野は中世には「浜」とか「浜村」と呼ばれていました。塩田川(現浜野川)の河口を利用した湊は、東京湾の水上交通の拠点の一つとして大変重要な役割を果たしていました。この湊を管理する施設が、浜野城です。近世の生実藩の年貢米を江戸に運ぶための施設である生実藩蔵屋敷は、戦国期以来の浜野城を利用していると考えられます。
浜野の湊は、原氏の本拠小弓城の外港と位置付けられます。しかしながら、永禄から元亀年間にかけて、北上を試みる里見氏の前に、小弓城は落城を余儀なくされ里見氏の占領をうけました。元亀2年(1571)8月、小弓城の奪回をはかるべく北条氏は下総へ進攻しました。佐倉の千葉胤富も配下の東下総の軍勢に動員をかけていることが文書からわかります(「元亀二年ヵ八月廿八日付千葉胤富書状」『原文書』)。いったんは里見氏より城を奪い返したものの、再び奪いかえされています。
その後、原氏は小弓城を取り戻したようです。そして天正2年閏11月、三次にわたる攻撃の末、関宿城をついに手に入れた北条氏政は、いよいよ里見氏との対決に全力を注ぐことになりました。まずは里見方に下っていた東上総の土気・東金の両酒井氏を攻めます。天正3年8月16日、北条氏繁は「当口着陣早々御吏僧誠以喜悦候(当地に着陣したところ、早々とお使いの僧をよこしていただき、うれしく思います)」と本行寺に宛てて書状を認めています(「北条氏繁書状」『本行寺文書』)。ここで「当口」とは具体的には明らかにはできませんが、浜野に近い湊のある場所ではないかと思われます。というのも、玉縄(鎌倉市)衆を率いる氏繁は水軍の将であり、東京湾を船でやってきたと考えられるからです。氏繁は「明後日本納近所可為計□(略ヵ)間(あさってには本納城の近所を攻撃するつもりなので)」と書中で述べており、土気酒井氏方の本納城(茂原市)周辺を攻撃するとしています。
本納へは「当口」を発って茂原街道の潤井戸まで至れば、東国吉さらに金剛地(ともに市原市)を経て移動することが可能です。最終的に北条方による東上総攻略は成功し、猛攻をうけた土気・東金酒井氏は天正4年の段階では北条方に属することになりました。そして天正5年には北条氏と里見氏の和睦がなり、房総の地で両者がぶつかることはなくなりました。
浜野は、このように東上総方面(茂原市や長南町)、また安房方面にも陸上交通が伸びており、まさに水陸交通の要衝というべき地です。この地に築かれた浜野 城は「海城」ともいうべき性格をもっていました。浜野城の主郭は、本行寺の北西にあたる「御蔵」の部分で、その東側に三日月形に隣り合う曲輪が絵図では「城ノ内」と記されています。「城ノ内」の東側には堀が巡っていたようで、堀の北側からは塩田川の水を引き込んでおり(「浜野城想定復元図」『千葉市の戦国時代城館跡』)、舟の出入りが可能であったと考えられています。生実藩の蔵屋敷は、御蔵に入った年貢米を直接舟で東京湾に運びこむことができたはずです。
次回「浜野城跡 その二」では、浜野と関係の深い酒井氏(とくに東金酒井氏)との関わりを中心にみていきたいと思います。なお、記述にあたっては前掲『千葉市の戦国時代城館跡』を参考にいたしました。
浜野城跡の一画を占める如意山本行寺は、開基日泰上人の房総布教の根本寺院です。日什門流の品川妙蓮寺住僧であった日泰は、房総への教線拡大のため渡海して浜村(千葉市中央区浜野)に行き、一廃寺を再興したとされます。これが本行寺であり、時に文明元年(1468)のこととされます。
妙蓮寺と本行寺とを兼帯していた日泰は、品川から浜村へ渡る便船で酒井定隆と出会ったとされます(『土気古城再興伝来記』)。定隆と目される土気・東金酒井氏の祖清伝は、開基日泰ともに文明13年の鎌倉本興寺本堂建立の大檀那として記載されています(「本興寺棟札銘」)。清伝=酒井定隆としてよければ、文明年間初めに、日泰と定隆の間に交流があったことは認めてよいと思われます。
本行寺の位置する浜(浜野)と酒井氏の関係は、戦国時代末まで続きます。それは本行寺も同様で、東金酒井氏の本拠東金にある本漸寺住職は、本行寺と兼帯していたこともあります。
「本行寺文書」にある「遠山氏ヵ副状断簡」には、北条氏が本行寺に与えた禁制を「土気へも東金へも写彼文、袋ニ拙者書状ヲ指添進候、」と奏者である遠山氏と思われる人物が指示しています。この禁制は、元亀二年(一五七一)九月二日付で、里見氏に奪われた生実城の奪回を目指し、北条勢が生実近辺に進攻してきた時に、発給されたものと考えられています。本行寺と東金・土気の酒井氏領域の寺院との密接なつながりがうかがえます。
また、東金酒井氏の家臣鵜沢家に伝わった「鵜沢文書」(原本は行方不明、東京大学史料編纂所に謄写本あり)には、浜と東金酒井氏との密接なつながりを示す文書がいくつかあります。羽柴秀吉による小田原攻めを控えた天正17年(1589)頃のことですが、北条氏の配下にあった東金酒井氏の当主政辰(まさとき)は小田原城にいて、留守を預かる東金城の鵜沢氏らに宛て、何通かの書状を認めています。
年貢の徴収のことと兵糧のことが主な内容ですが、「はまにて与三兵へこしらへ候兵糧」と書かれているものがあります。浜野で米を集め、兵糧として小田原へ送ったのです。ところが、北条氏の定めた枡(榛原枡)で量らなかったため、北条氏に提出する兵糧(大途兵糧)としては枡目違いとなってしまいました。
さらに、伝馬を「はまへ出し候へく候」と指示もしています。東金で集めた兵糧米を浜野へ送ったり、あるいは湊町である当地に集められた米を買い求めた可能性もありますが、東金酒井氏にとって浜野湊は重要な場所であったことがわかります。
ところで東金と浜野は、旧東金街道を使って直接結ばれています。東金から現国道126号線を進み、若葉区高根町宮田の交差点を左折(県道66号線生実方面)します。途中、平山町で大宮町方面に右折(旧東金街道)せず、直進して鎌取町を経て北生実城にぶつかります。
土気からは浜野へは、大網街道を千葉方面に進み、緑区鎌取町で高根町宮田からの道(県道66号線)と交差するところを左折すると、同じく北生実城へ達します。
このように土気・東金酒井氏にとって、外房と内湾を隔てた武相方面とを結ぶ重要な湊でした。そのため浜野城は水堀で浜野川(塩田川)につながり、直接、内湾に荷だしできる港湾機能も持っていたと考えられます。なお、昭和58年(1983)と平成20年(2008)に発掘を受けており(未報告)、生実城と同時期に使用されていたことがわかっています。
記述にあたっては、同じく『千葉市の戦国時代城館跡』を参考にしました。
国道51号線を、千葉市中央区本町1丁目の広小路から佐倉方面に向かうと、若葉区貝塚町の千葉刑務所脇から四街道方面に左折する道があります(明治40年に千葉監獄が寒川より移転してくる以前は、貝塚町の大六天社で道が分岐していました)。江戸時代には「北年貢道」と呼ばれた、佐倉藩が千葉港へ年貢を陸送した道でした。この道は中世まで遡る、戦国時代の千葉氏の本拠本佐倉城と千葉とを結ぶ重要な道の一つでした。
現在の道でいうと、高品城は、椿森陸橋方面から京葉道路をまたぎ都賀方面に向かう道路と、千葉刑務所方面から来た道とが交差する地点から見て、正面やや左手(北西方向)奥のマンションの建つ辺りに存在していました。
マンション建設のため、平成6年(1994)と7年に主郭周辺の発掘調査が行われ、15世紀から近世初頭までの遺物と空堀・地下式坑・建物址・墓などが検出されました。これによって、15世紀代には建物と墓域として利用されたこと、城として取り立てられた16世紀代には造り替えをともなう二期があったことがわかっています。
高品は中世には高篠と呼ばれており、15世紀初頭には高篠地名が記録に残ります(『香取造営料足納帳』)。戦国期の15世紀後半には千葉氏は本佐倉(酒々井町本佐倉)に本拠を移します。本佐倉城です。
しかし、宗家の嫡男の元服は、最後の当主邦胤の時まで代々千葉の妙見社で行われました(『千学集抜粋』)。永正2年(1506)に元服した昌胤の記録をみてみましょう。本佐倉城から大勢の警固の供を連れ千葉に向かい、千葉の町の出入り口となる高篠で、昌胤(この時点ではまだ幼名ですが)はお供の者たちと待機します。
妙見社への使者原孫七は高篠を発ち、社前において元服にあたり実名を一字くじで選びます。千葉氏は通字を胤としていますので、胤の前につける一字を三通の中から選ぶわけです。くじを引いた後、孫七は高篠で待つ昌胤の元へ戻ります。そして警固の衆を引き連れ、元服式をあげるため妙見社へと昌胤は向かいます。
この時、千葉のまちの八幡社・麻利支天天神・御達報稲荷・瀧蔵権現に礼銭を納めに、安藤豊前守が遣わされます。高品城主安藤勘解由の先祖にあたる人物と思われます。
永正2年の千葉昌胤の元服と弘治元年(1555)の親胤の元服は、礼銭の使者を安藤豊前守が務めていますが、50年ほどの開きがあり、同じ受領名を名のる親子か祖父と孫と考えられます。
高品城跡の主郭直下、城内に等覚寺がありますが、こちらの薬師如来坐像には胎内銘があり、貴重な情報を伝えてくれています。元亀2年(1571)7月2日の日付で城主と思われる大檀那安藤勘解由ほか親族3名、無姓の者20数名が記されています。これら「高篠念仏衆」として結縁する無姓の人びとは、高篠郷に住んでいた民衆と思われます。左衛門・右衛門・兵衛など官途名を名のる者6名のほかは、名前のみで記されています。これら全員を有力名主層とみて、安藤氏の被官とする考えもあります。官途名をもつ6名はそう考えてもよいと思います。しかし、残りの無姓の人びとは、戦国後期に力を蓄えた作人層とみることはできないでしょうか。被官とできるかどうかは「高篠念仏衆」と記されていることから宗教的結合とみられ、直接結びつけることは慎重に考えたいと思います。
以上、外山信司氏「下総高品城と陸上交通」(『千葉城郭研究』第4号 1996年)および『千葉市の戦国城館跡』(千葉市立郷土博物館 2009年)を全面的に参考にしました。文中の写真はいずれも当館蔵のものを使用しました。
次回は、交通からみた高品城、および高品城の発掘の成果について述べたいと思います。
千葉氏は、大治元年(1206)大椎より千葉に移って以来(『千学集抜粋』)、千葉の町を本拠にしていました。ところが、15世紀半ば享徳の乱がおこると、宗家を襲った馬加氏は、上杉氏を支援する京都将軍家の派遣した東常縁によって、討伐をうけます。そのため水陸交通の要衝である千葉は、攻撃を受けやすいことから、内陸部の平山(緑区平山町)に本拠を移しました[本コラムの三 平山城]。
さらに、長峰(若葉区大宮町)を経て「佐倉」(酒々井町本佐倉・佐倉市大佐倉)に本佐倉城を築き、天正18年(1590)まで本拠とします。高品の地は、本佐倉城と千葉常重以来の本拠地である千葉とを結ぶ街道の一つである、近世でいう「北年貢道」が貫いています。前回みたように、高品城はこの街道を押さえる役割を果たしていました。
千葉の町から、現国道51号線で佐倉方面に向かい、道場坂下交差点から大六天社の北側を巻く道が本来の北年貢道で、明治年間に千葉監獄(現千葉刑務所)が貝塚町に移転した際、この道は無くなりました。現在は、千葉刑務所先の交差点を左折します。すると高品の集落に入り、都賀方面に道は延びます。
北年貢道は中世に遡ることは確実で、千葉市―四街道市―佐倉市―酒々井町を結んでいました。経路を詳しくみてみましょう。高品からは原町入口の交差点で、近道ですが急坂の「夫婦坂」のある道と、平坦ですがやや遠回りとなる道とが、分かれます。二つの道は、若松町の御成街道手前で合流して、四街道方面にまっすぐ伸びています。
四街道の語源といわれる四街道交差点を過ぎると、戦前の軍隊施設により途中道は無くなっていますが、四街道市役所脇を経て、物井、亀崎を通り、佐倉市羽鳥で鹿島川を渡り、寺崎に入ります。
中世の道は、佐倉市六崎から皿田橋で高崎川を渡り、野狐台(やっこだい)町、大蛇(おおじゃ)町、上代(かみだい)を経て長熊にて、佐倉市八木から来た古東海道香取路(地元の方は成田道と呼びます)と合流します。
本佐倉城と千葉の町を結ぶ街道は、北年貢道に相当するもののほか、古東海道香取路(佐倉市神門から千葉方面は南年貢道となる)や、鹿島川を佐倉市大篠塚で渡り、四街道市山梨を経て千葉市若葉区若松町で古東海道香取路と合流する道など複数本考えられます。
高品城は、北年貢道の千葉の町の玄関口ともいえる位置づけができます。『千学集抜粋』では、本佐倉城にいた千葉氏の嫡子が元服を迎える時、高品の地でお供の者たちといったん待機し、その後、妙見社に向かうとされます。このことから、戦国期の千葉氏は、元服にあたりこの北年貢道に相当する街道を通って千葉へ来ていたといえいます。逆に言えば、待機する場所としての城郭のあった高品を通る道が選ばれたといえるでしょう。現国道51号線に該当する南年貢道(古東海道香取路)では、千葉の町の境界にそのような場所は存在していません。
次に発掘の成果を簡潔に述べてみましょう。主郭のほか多くの曲輪面や、折りをともなう空堀、城に先行して存在していた地下式坑などが検出されました。遺物としては、常滑焼大甕(15世紀前半)、白磁皿(16世紀)、白磁碗(14世紀)、青磁皿(15世紀)、天目茶碗、かわらけ、すり鉢(15~16世紀)、内耳土器(16世紀)などです。
写真 主郭と空堀 |
常滑焼大甕 |
出土遺物の検討により、15世紀半ばから近世初頭まで使用されたことがわかりました。前回触れたように15世紀初頭の記録の載る『香取造営料足納帳』には、「高篠」(高品の古名)の地名が記されています。「平新左衛門」と「原越前入道」の両名が、それぞれ四町八反前後を領有していたことが記されています。15世紀半ばの地下式坑を伴う建物址や墓は、これらに関わる名主(みょうしゅ)などの屋敷であった可能性が高いと思われます。
その後16世紀になり、高品城が取立てられたようです。これは『千学集抜粋』の千葉氏の元服に関する記事に合致します。さらにもう一度、城の造り替えが行われたこともわかりましたが、高度な縄張から戦国末期、さらに言えば元亀2年(1571)の千葉邦胤の元服に関わる修築と考える説もあります。
元亀2年といえば、等覚寺の薬師如来坐像の胎内銘に載る城主安藤氏が思いだされます。この年の元服は、小弓城を占拠した里見氏のため、佐倉妙見宮(本佐倉城内)で行わざるをえませんでした。これは、逆に考えれば、小弓を攻撃する里見氏の脅威によって、最前線たる高品城を強化したことにつながるとも考えられましょう。
今回も、簗瀬裕一氏の編著になる『千葉市の戦国城館跡』および外山信司氏の「下総高品城と陸上交通」(『千葉城郭研究』4号)を参考にさせていただきました。文中の写真は当館蔵のものを使用しました。
今回は千葉氏の城から離れますが、千葉六党の城と題しまして大須賀氏の城をとりあげてみます。ところで大須賀氏とはどんな一族でしょうか。
大須賀氏は、千葉常胤四男の多辺田四郎胤信から出る一族です。常胤が源頼朝に従って鎌倉幕府創設に多大な貢献を果たすと、新恩給与を受けて下総各地に子息たちを分派させました。その一人が大須賀保に入部した四男の胤信です。当初、胤信は名のりを多辺田としており、千葉市若葉区多部田町周辺を領有していました。
大須賀保には、もともと上総氏一族である大須賀氏(前期大須賀氏)が領主としておりましたが、上総広常が頼朝に誅殺され所領を没収されたため、胤信が新しい領主として入ることになったと考えられます。
そして胤信は大須賀を名のることになりました(後期大須賀氏;一般に大須賀氏という場合こちらを指します)。前期大須賀氏もまったく滅亡してしまったわけでなく、小規模な土地を領有する武士としてしばらくは存続したことが史料からうかがえます。
胤信の子孫は、旧下総町名古屋周辺にも勢力を伸ばし、やがて助崎大須賀氏(助崎氏)と呼ばれる一族と、旧大栄町松子を本拠とする本宗家とに分かれていきます。
今回は、松子に拠った本宗家の本城である松子城をご紹介いたします。とは言っても、残念なことに成田空港建設にともなう1970年頃の土取りによって、ほとんど跡かたもない状態となっています。唯一、横堀の痕跡がかすかに残る「稲荷馬場」と呼ばれる区画が本城の北側に隣接して残ります。
幸いなことに実測図が残されており(図参照)、なんとか破壊前の状況を読み取ることができます。消滅した本体は、北から南に向かい「城ノ内」、「用害」、「後詰」の字名をもつ三つの郭から成り立っていました。いわゆる直線連郭の城といえます。城ノ内と用害の間は直線状空堀で分けられていましたが、「用害」と「後詰」の間は、発掘により屈曲した堀が発見されました。この堀の壁面には橋脚と思われる柱穴跡が見つかっており、木橋をかけて用害と後詰を結んでいたことがわかります。
後詰は西方斜面下に枡形空間(出入り口に附属して設ける小空間)を持ち、後詰に上る虎口(出入り口)があることから、中心的な郭(主郭)とは考えにくいと思われます。城ノ内と後詰に挟まれた独立的な郭である用害が主郭とみてよいでしょう。
周辺の字名から、城の出入り口を表す「戸張」、家臣団などの居住する「根古屋」が確認できます。さらに城の南東700mには「内宿」地名が残り、こちらも家臣団が居住していた城下集落と考えられます。
松子城跡と国道51線をはさんだ南側台地には馬洗城跡があり(こちらも公共施設建設により消滅)、香取方面へ向かう旧道が裾を巻いており、街道を監視する役割を果たしていました。
図 松子城跡実測図(『松子城跡調査概報』より) |
松子城跡の周りには馬洗城のほかにも多くの城跡が配置され、それらは支城として機能していたと思われます。伊能塙城跡・奈土城跡・久井崎城跡・中野城跡・津富良(つぶら)城跡・清水山城跡です。このうち、久井崎城跡は土取りによって、すでに消滅していますが、他は今もなお遺構をとどめています。
こうしてみると、松子城は戦国期には独立した勢力となっていた大須賀氏の本城として、城としての構造、城下集落、支城群とも申し分ない規模を持っていたといえるでしょう。
実測図は『大栄町史 通史編 中世補遺』よりお借りしました。図の左が北方向となります。
今回は、国分氏の城をとりあげます。治承4年(1180)9月に安房国へ逃れてきた頼朝一行を助けた千葉常胤とその子たちの中で、当時から千葉以外の名字を名のっていたのは三男武石胤盛、四男多辺田胤信と五男の国分胤通の三人でした。
武石は現在の市内花見川区武石町、多辺田は同じく若葉区多部田町を指します。国分氏は、下総国府に近い国分寺が置かれた国分(市川市国分)を名字に名のっていました。頼朝を助け鎌倉幕府創設に貢献した常胤は、上総広常の遺領をはじめ奥州、九州などに新恩給与を受けました。子息たちは両総をはじめ、全国各地に分派していきました。国分氏は奥州のほか香取神領(香取市)に所領を得、戦国末期まで香取地域で勢力を保っていきます。
ここでは、戦国後期の国分氏の本城であった大崎城(矢作城)を紹介したいと思います。
大崎城は、戦国後期から末期にかけて、国分氏の本城として使われていました。利根川に注ぐ香西川の中流域、北方へ突き出した標高20~30mほどの舌状台地を、長軸で約700m使った大規模な城です。特に、南端部白幡神社周辺の複雑な折りの入った堀切に代表される、南側からの脅威に対する防御施設が目をひきます。それというのも、城の北方は当時沼沢地が広がっていたと思われ、台地続きの南方から攻めるしかなかったからです。
現在、1.郭の中央を両総用水路が縦断しており、遺構は大きく改変されている可能性があります。しかし、1.郭と2.郭とを分ける二重堀切や、3.郭の南に向いた大土塁など見どころは豊富です(縄張図参照)。
2002年から03年にかけて、1.郭の北東部などが発掘調査され、台地裾部の土留め遺構や、低湿地を埋め立てた生活面などが検出されました(写真)。
ところで大崎城は、天正3年(1577)に上総小田喜(夷隅郡大多喜町)の正木憲時の軍勢によって、1月と4月の二度にわたって攻め立てられます。この時、城の西方約1kmの大竜寺の住持大虫和尚が本城に避難しており、その時の様子が『大虫和尚語録』に記されています。それによれば、大虫は城の一段低い平場に避難しており、上の曲輪から子犬が投げ捨てられたため、その犬に名前をつけ飼ったということです。また、4月の攻防戦では城に詰めていた成毛新九郎ら70余名が討ち死にしたことが記され、戦国時代の厳しい現実が伝わります(外山信司「下総矢作城(大崎城)と大虫和尚」『城郭と中世の東国』2005年)。
小田喜正木氏による大崎城攻めは、どのように行われたのでしょうか。永禄3年(1560)の正木氏による香取侵攻は、舟を使って小見川の富田台に「打ち上げ」(大祢宜実隆置文)『香取大祢宜家文書』)たことと、当時の香取内海に面した「相根塚」に城を構えてあしかけ七年ほど香取占領を続けたことから、水運を使ったことは確かでしょう。
大崎城跡縄張図(浅井達也氏作成) |
正木憲時による天正年間の香取侵攻は、千田庄多古から栗山川沿いに北上し、伊地山(香取市)、福田(同)、本矢作(同)を経て、大崎城の南方に達したのではないでしょうか(鈴木沙織「東禅寺から香取の海へ」『青山史学』31号)。千田庄中村の北中六所神社には、元亀3年(1572)に兵火にかかって焼けたという記録があり、同年12月、千田庄中村の峯妙興寺に正木憲時の奉じた里見氏禁制が出されていて、千田庄まで正木氏が出張ったことがわかります。
また、多古と香取市府馬を結ぶ街道の途中にあたる多古町東松崎の能満寺は、勝浦城主正木時通(日運)の開基とされます。また、能満寺は松崎城の一画にあり、同族正木憲時が松崎城に入った可能性も考えられます。つまり、香取方面への行軍の中継基地となったのではないでしょうか。
最後に、大崎城にいた国分氏がさらに新城を築いたとされる、岩ケ崎城について簡単に触れておきます。
利根川に面した岩ケ崎城跡は、稲敷市方面から見るとひときわ目立つ独立丘にあります。国分氏が築いてほどなく、小田原合戦で国分氏は滅びます。徳川家康の関東入部にともない天正18年(1590)、鳥居元忠が矢作藩四万石で同城に入ったとされます。しかし、慶長5年(1600)の関ケ原合戦の前哨戦伏見城の戦いで、元忠らは討死を遂げます。戦後、矢作藩を継いだ元忠の嫡男忠政は岩城平(磐城と改名)十万石に加増され転封されました。それにより、岩ケ崎城は廃城になりました。
近世の古文書によれば、国分氏は「天正十年之比同郡岩ヶ崎へ新城ヲ築」(「下総国香取郡矢作領佐原村古来ヨリ覚書」『佐原市史 資料編 別編一 部冊帳 前巻』)いたとされます。その理由として「大崎之城地分内狭要害悪鋪候ニ付」(同前)としています。つまり、大崎城は狭く要害性に劣るので、新たに岩ケ崎に城を築いたということです。
大崎城の城地はけっして狭いとは思いませんが、確かに城下集落をおく余地に乏しいと言えます。それに比べ岩ケ崎は香取内海に面し、「海夫注文」に載る岩ケ崎津もあって水運の拠点の一つで、国分氏が領域を経営するにはより発展性があったのでしょう。
国分氏が本拠を大崎城から岩ケ崎城へ移したのは、ここに大きな要因があると考えられます。
文中の縄張図は、浅井達也氏の図面(千葉城郭研究会編『図説房総の城郭』所収)をお借りしました。また、写真は2013年1月の香取郡市文化財センター主催現地見学会の際、筆者が撮影したものです。
千葉常胤の伯父にあたる海上常衡(上総氏系海上氏)が領有していた三崎庄(海上庄:現在の銚子市・旭市の一部)は、常衡の孫片岡常晴が佐竹義政に与した疑いで召し上げられ、千葉常胤に与えられました。そして、六男胤頼が橘庄(東庄:現在の東庄町)とともに領有するところになりました。胤頼は東氏を名のり、六党の一つ東氏が成立しました。
東氏からは、海上庄に基盤を置く海上氏(千葉氏系海上氏)が分派しました。一方、東氏惣領は承久の乱後、山田庄(岐阜県郡上市)の新補地頭*として入部し、以後、美濃東氏として続いていきます。シリーズ「4 東常縁余話」でとりあげた室町幕府奉公衆の東常縁はこの美濃東氏になります。
海上氏が海上庄を基盤に戦国末期まで領域支配を行えたのに対し、下総に残った東氏は、室町期に鎌倉府奉公衆としての活動はあるものの、戦国期ともなると目立った動きはありません。
須賀山城跡遠景(東方向より) |
さて、今回取りあげる須賀山城は、香取市(旧小見川町)と東庄町の市境に位置します。12世紀末に東胤頼が築いたとされています。須賀山城の東麓には、東氏ゆかりの東福寺が、西麓には芳泰寺(東胤頼供養塔と伝わる近世の石塔あり)があって、本城が東氏と関連深いことは確かでしょう。しかし、現在見ることのできる遺構は戦国後期のものと言ってよく、台地続きに築かれた森山城とそん色ない造りをしています。両城の主郭どうしは、直線距離にして約1.3kmも離れており、この間は遺構がほとんどみられない平坦な台地でつながっています。須賀山城と森山城は同時代に使われていたとみてよいと思います。
それを裏づけるのが「原文書」(当館蔵)です。年未詳九月六日付「千葉胤富書状」には、森山城将である海上中務少輔と石毛大和守宛に胤富は「其地新繰輪江野平外記木村大膳亮可罷移候」と命じています。つまり、森山城の新しく造った繰輪(曲輪)に野平・木村両名を移らせなさい、と胤富は指示しているのです。
同じく年未詳九月二十三日付「千葉胤富判物」には、海上蔵人と石毛大和守に宛てて舟曳の割当を命じた内容が記されています。それには、須賀山城の曲輪である「西くるわ衆」・「大ろくてんくるわ衆」が載っています(外山信司「原文書に見る森山城」『千葉城郭研究』2号)。
須賀山城跡概念図(外山信司氏作成) |
ところで、千葉氏の当主胤富は、以前、海上氏に養子として入り、森山城に在城していたことがありました。胤富が千葉氏の当主として呼び戻された後、森山城に城主は置かずに、城将が数名置かれていました。
胤富が宛先とした海上中務少輔と海上蔵人は、城将としての時代差があり、永禄8年(1565)に当たる「乙丑」の干支のある文書に中務少輔が宛てられています。同年と想定される文書にも同じく宛先としてあることから、中務少輔が森山城に在城していたのは、永禄年代(1558~1570)半ばと考えられます。
この頃、胤富が新しく森山城の曲輪を造らせた要因といえば、何と言っても永禄3年(1560)~9年(1566)にかけての里見氏の香取侵攻でしょう。つまり、須賀山城は、この時点で大改造をうけ、現在見ることのできる構造となったと考えられます(前掲外山論文)。
里見氏の香取侵攻は、永禄9年でいったんは収まりますが、天正3年(1575)には、香取市の国分氏の本城大崎城(矢作城)が攻められています。このように、里見氏の脅威は永禄年間以降も続いたわけです。さらに、国分氏による千葉氏への反乱(天正9年以前)や常陸南部の争乱があり、新たな須賀山城の曲輪には、「小門衆」・「西くるわ衆」・「大ろくてんくるわ衆」などとよばれる兵力が詰めていたと考えられます。
面白いことに、森山城の主郭を出たところに馬出**があり、須賀山城の主郭も同様に馬出状の曲輪(縄張図ではローマ数字で2と表記)があり、両城の共通性が感じられます。関東における馬出の分布と小田原北条氏との関係性が指摘されています。小田原北条氏の後ろ盾を得た森山原氏が城将として頭一つ抜け出すとともに、小田原北条氏の支配力が増したことが、両城に馬出が設けられた原因とされます(前掲外山論文)。
2郭(馬出曲輪)より主郭虎口をみる |
また、Wikipediaでは、須賀山城の主郭を天之宮神社周辺としています(標柱もたっています)が、この場所は城外で、遺構はこれよりも南側に少し離れたところに展開しています。注意が必要です。
執筆にあたっては、外山信司氏の「原文書に見る森山城」(石橋一展編著『下総千葉氏』戎光祥出版 2015年;初出前掲)を参考にさせていただきました。縄張図も同論文より借用しました。本文中の写真は筆者撮影によるものです。
新補地頭…しんぽじとう。承久の乱後、多くの東国御家人が西国を中心に地頭職を得て入部した。支配をめぐって現地の農民らとの間で紛争が増え、そのため、幕府は新補率法という法を定めた。新規に入部した地頭にこれを適用(新補地頭)させた。これに対し、頼朝以来の従来の地頭を本補地頭とよぶ。
馬出…うまだし。城郭の出入り口(虎口:こぐち)の前面に設けられた、防御力を増すための空間。多くの場合、城郭本体とは堀で隔てられ、土橋や木橋で接続することによって、万一馬出を敵に乗っ取られても守りきれる工夫がされている。城外に面した側には、土塁が築かれることが多い。形状によって、角馬出と丸馬出などと呼び分けられる。県内の事例としては、他に本佐倉城の向根古谷郭(酒々井町)や土気城(千葉氏緑区)、津辺城(山武市)などが知られる。
今回は、千葉市だけでなく千葉県からも離れて、茨城県守谷市の守谷城を取り上げます。なぜ茨城県なのかは、以下の文章をお読みいただきたいと思います。
千葉常胤の二男師常は、相馬氏を名のったことで知られていますが、岡田清一氏により、相馬氏を称したのは文治2年(1186)6月以降、文治5年(1189)8月以前であるとされます(『相馬氏の成立と展開』戎光祥出版)。相馬の名のりは、相馬御厨(現在の我孫子市・柏市・野田市の一部と茨城県取手市、守谷市の一部)によるものですが、治承寿永の内乱の初期までは、故あって上総氏の一族常晴が相馬氏を名のっていました。
上総広常の誅殺によって、相馬御厨の支配権は常胤に戻り、二男師常が継承して「そうまの二郎」と呼ばれるようになりました。師常の屋敷の有力な候補地として、現在は消滅してしまった羽黒前遺跡(我孫子市新木)があげられています。発掘により、古墳時代から近世までの複合遺跡ということが判明しましたが、なかでも13~15世紀と目される方形居館跡が検出されました。古代の相馬郡家の正倉(倉庫)群に比定される日秀西遺跡(ひびりにしいせき)の東方1kmに位置します。羽黒前遺跡は郡家関連施設として使われ、中世の段階では千葉氏の居館として使われた可能性が高いと考えられています(以上、前掲岡田書)。
小高城跡遠景(福島県南相馬市小高) 2006年3月撮影 同城に拠った相馬氏は、建武3年(1336)5月、南朝方に攻められ落城するも、後に奪い返した。その後、慶長11年(1606)に至るまで相馬氏の本拠となった。 |
奥州合戦の恩賞として、東海道大将軍を務めた常胤は奥州に新恩給与をうけ、二男師常は行方郡(南相馬市)を譲与されました。さらに、師常の子息義胤の代に高城保(宮城県松島町)を新恩給与されています。その後、相馬氏は奥州へ移った相馬氏と下総に残った相馬氏の二流に分かれます。
奥州相馬氏は、南北朝期に尊氏に従い北朝方として、南朝勢力の強かった奥州で小高城を落とされ、滅亡の危機に瀕しました。しかし、なんとか命脈を永らえ戦国大名、そして近世大名相馬中村藩6万石として続いていきました。
小高城跡に祀られる小高神社(祭神天御中主命=妙見) 撮影日 同前 |
一方、下総相馬氏は史料が少なく、戦国後期に至るまでの動向があまり明確とは言えません。『本土寺過去帳』には、享徳の乱の最中、康正2年(1456)正月の「市河合戦」で「相馬盛屋殿妙盛」が討死にしたと記録されています。盛屋とは守谷(茨城県守谷市)のことで、この頃の相馬氏はおそらく守谷城に拠っていたと思われます。市川合戦に至る経緯は以下の通りです。
前年の康正元年(1455)8月に多古・島合戦(香取郡多古町)で滅びた千葉宗家胤直父子と行動をともにしていた胤直弟の賢胤は、ひと月後の9月に島の栗山川下流にあたる小堤(小堤城か:横芝光町)で自害しています。この時、子息実胤、自胤(よりたね)兄弟はここを抜け出し、市川城まで逃れます。翌2年正月、足利成氏は簗田氏・南氏らに命じ、市川城を攻めさせました。市川合戦では相馬氏のほか、胤直方であった曽谷氏・円城寺氏・武石氏も亡くなっています。こうしたことから、下総に残った相馬氏は上杉方であった胤直についていたとみられ、享徳の乱においては逼塞を余儀なくされたものと思われます。
また『本土寺過去帳』には、文亀3年(1503)8月に「相馬守谷殿」が没しているとされ、守谷には引き続き相馬氏が拠っていたとわかります。しかし、古河(茨城県古河市)に近い地理的環境から、古河公方の家臣化していったようです。大永5年(1525)と目される古河公方足利高基書状には「相守因幡守」と書かれており、相馬守谷氏が高基に「無二励忠信(無二に忠信を励)」んでいるとされます。永禄年間に入ると、関宿城に拠っていた古河公方足利義氏の重臣簗田氏の配下に組み込まれます。そして小田原北条氏(以下北条氏)と簗田氏の抗争に巻き込まれ、簗田氏から守谷城を明け渡すよう迫られました。
そして公方義氏の御座所として北条氏も入り整備をしますが、北条氏と簗田氏の和議が破れ、最終的には義氏の移座は実現しませんでした。現在みることのできる守谷城は、構造的に北条氏の手が入ったものとみてよいでしょう。
それでは、守谷城の縄張構造を見ていきましょう。地理的には、城跡は小貝川の右岸に接する旧守谷沼に突き出した舌状台地に位置します。周囲を沼沢地に囲まれた要害の地といえます。
また、近世大名の菅沼氏が相馬氏の滅亡後、一万石で入部しており、台地続きの守谷小学校の敷地となっている部分まで広く使っていました。今でも、小学校付近には土塁の残欠が見られます。もっとも、この部分は、公方義氏の御座所として永禄年間に整備されていた可能性もあります。
台地部分からは木橋で渡ったと思われますが、一番近い曲輪は馬出状の曲輪(「御馬屋台))で、城外に向かって土塁が築かれ、虎口部分に枡形*を持っています。この御馬屋台から主郭(「平台」;ひらのだい)に渡るために、さらに木橋が使われていたと思われます。主郭の虎口にも枡形が設けられ、厳重な防御が施されています。
現状では主郭の北側、南西側(馬出曲輪側)、南東側一部に土塁が回っていますが、本来は全周していたものと思われます。北側には台地下の船着き場へ降りるための道があります。
主郭は平成7年(1995)に発掘調査が行われ、倉庫とみられる建物跡9棟のほか、多くの遺物が見つかっています。守谷市中央公民館の郷土資料展示コーナーに、一部が出品されています。
主郭と北東方向に堀を挟んで隣接する馬出へは、土橋でつながります。この馬出は細長い独特の形をしています。おそらく北条氏の手によって、平台の北東側に土橋を残して堀を掘り、この形状に造り出されたと思われます。馬出の北側部分には、平台方向から土橋を渡る者に対して、横矢がかかる工夫がされています。このことは、この馬出より北に、優位な曲輪があることを意味しています。実際、沼に近い先端の曲輪を「一の曲輪(本丸)」とする図面も存在します。確かに守谷城跡のように、半島状の地形(舌状台地)に曲輪をいくつか造る場合、先端の曲輪が一番優位(主郭)であることが一般的です。
しかし、実見した限りでは、平台が主郭として相応しいと思っています。その理由は、平台の防御が先端の曲輪よりも勝っていること、また、平台の方が、10m以上標高が高いことです。先端の曲輪は、いざという時の舟での脱出も想定した、詰の曲輪的な役割を果たしていたのではないでしょうか。
前回も触れたように、永禄年間になると北条氏と古河公方家臣の関宿城主簗田氏の対立のなかで、古河公方足利義氏の御座所として、相馬氏の守谷城が望まれることになりました。実際、北条氏の家臣が守谷城に入り、手が加わりました。縄張構造のうえでも、北条氏の関与が伺えます。しかし、簗田氏と北条氏の和議が破れてしまったため、守谷城はそのまま相馬氏が居続けたわけです。
こうして、元はと言えば千葉常胤の二男師常にルーツを有する相馬氏は、関東足利氏の奉公衆(直臣)として戦国の世の終焉を迎えました。また義氏も古河公方としての実質的な力は、北条氏によって奪われてしまい、氏姫という娘だけを残しました。
天正18年(1590)、北条氏が滅び、関東には徳川氏が江戸に入ります。秀吉は、側室にした島子(小弓公方足利義明の孫)の願いを入れ、島子の弟足利国朝と氏姫を結婚させ、名門足利氏の血統を残そうとしました。そして栃木県の喜連川(さくら市)に四千石を与えました。ところが国朝は文禄の役に従軍途中、病死してしまい、安房にいた弟頼氏が氏姫と再婚することになりました。
二人の間にできた義親以降、代々喜連川氏を名のり、四千石(のち五千石)ながら大名扱いされる特殊な家柄として、明治まで続きました。明治を迎えると、足利氏に戻し、現在も家として存続しています。
喜連川には相馬氏の墓石もあり、おそらく古河公方家臣としてこの地にやってきた相馬氏一族がいたものとみられます。
ちなみに江戸時代の文化14年(1817)、国学者の高田與清(ともきよ)という人物が、江戸を出て常陸南部から千葉方面に旅をした紀行文『相馬日記』を著しています。その中で、地元の人に守谷城を案内してもらった時の、大変興味深い記述がありますので、長文ですが最後にご紹介いたしましょう(出典:奈良女子大学学術情報センター所蔵資料電子画像集「相馬日記巻三」)。
まづ相馬小次郎師胤が城跡ありて今にから壕升形などのさまむかしのままに残れり。師胤ハ千葉介常胤が三郎子にて。その裔のひつぎ応仁年中までここの城主也といへり。後元和といふ年のころ土岐氏の君こゝにすまれしが、上野国沼田城へうつられてより此城遂にすたれぬとぞ。畠の中道を東へ廿町あまりゆけバ大壕曳橋などいふ所あり。平の臺といふところハいとたかき岡にて。こゝぞ将門がすみし所なる。まためくるめくばかりの深きほりきをわたりて 八幡廓にうつる。将門がいつきまつりし妙見・八幡とまうすがこゝに鎮座しを。今はこもり山の西林寺にうつしまゐらせたり。
今から二百年ほど前の守谷城の様子が、現地を見たことのある人であれば、手に取るようにわかる記述になっています。
縄張図は岡田武志氏の「守谷城縄張図」(茨城城郭研究会編『改訂版 図説茨城の城郭』)をお借りしました。また、「相馬日記」翻刻にあたっては外山信司氏のご助力をいただきました。
枡形…城の出入り口(虎口)などに設けられた、土塁などで区切られた小空間をいう。直接、敵を城内に入れることなく、枡形空間に留めることで城内からの攻撃を有効にできる。城内に造ったものを内枡形、虎口の外に造ったものを外枡形という。
左手が御馬屋打台、右手が平の台(主郭) 両者を木橋で渡したか |
平の台と馬出の間の堀切 「めくるめくほりき(り)」と表現された堀か |
立堀城跡は、外房有料道路の出入り口近く、支川都川右岸の丘陵上に位置します。千葉市斎場のすぐ南側となります。
本城跡は、本コラムの3回目で紹介した平山城の支城と言われています。しかし、平山城の西方約900mに位置してはいますが、平山城とは水系が異なっています。立堀城よりも下流で支川都川と合流する、同川のさらに支流が平山城のある水系です。ですから、平山城への侵入路を抑えるという役割は薄いと思われます。
それでは本城跡の存在理由は、いったい何でしょうか。それは街道を抑えることにあると考えます。と言いますのは、本城跡は現在も県道66号線浜野四街道長沼線が、外房有料道路と交差する辺を睨む格好の位置にあるからです。
この県道66号線の一部(生実―千葉市若葉区中田町区間)は、おそらく中世まで遡れることは間違いないと考えます。先ほど述べた交差点を南へ上ると、大網街道(県道20号線千葉大網線)と交差します。土気・大網の東上総方面に抜けることができ、これは東京湾側と九十九里側とを最短で結ぶ重要な街道です。この交差点を「野田十字路」(バス停名は「野田十文字」)と言います。野田十文字の名称は古く、戦国時代まで遡る可能性があります。
野田十字路を浜野方面に進むと、生実城跡の大手に至ります。生実城跡の発掘により、この道が大手口と重なっていることから、中世に遡る道であることは間違いありません。それどころか、古代の官道と関係の深い「大道」の小字が大手口の鎌取寄り一帯に残ることから、古代の道の可能性も考えられます。
永正15年(1518)に下総高柳(埼玉県久喜市)から足利義明が「総州御進発」し、その後生実城に入部し小弓御所様(いわゆる「小弓公方」)と呼ばれるようになります。そして、兄の古河公方足利高基と関東足利氏の正嫡をかけた争いに発展していきます。高基側についていた本佐倉城の千葉氏は義明と対立しますが、千葉氏方の弥富原氏(佐倉市岩富)の朗典(実名不詳)は生実城を攻めるため、天文4年(1535)4月20日「小弓野田合戦」で「小弓ニテ」討死しました(『教蔵寺過去帳』、なお『本土寺過去帳』では6月20日)。第一次国府台合戦で義明が敗死する三年ほど前の出来事です。
弥富原氏はどのような経路で生実へ行こうとしたのでしょうか。立堀城跡との関係もあるので、些末な説明になりますが、みていきたいと思います。まず弥富原氏の居城岩富城のある佐倉市岩富から、鹿島川沿いに南下します。千葉市若葉区中田町で支流平川が鹿島川に合流するところから、今度は平川沿いに南下します。千葉市内へ流れこむ都川と平川とが一番接近する地点(分水帯)-千葉市若葉区中田町の宮田交差点付近-から、分水帯を越えて県道66号線浜野四街道長沼線に入ります。これは旧東金街道で、間もなく都川を渡った後、若葉区川井町・佐和町を通過し、旧東金街道から別れ生実方面に進みます。そのまま進み平山町の台地を下って、支川都川を渡り、再び台地を上がると野田十文字に達します。旧東金街道方面から来てこの台地を下る道を、ちょうど見下ろす位置に立堀城跡が造られているのです。構造面からみても、崖際の南側土塁に物見台状の張り出しが造られており、道の監視をしやすくしています。
縄張図 簗瀬裕一氏作成(『千葉市の戦国時代城館跡』より) |
このように考えると、本城跡が使用された時代として、第一に永正15年から天文7年(1538)にかけての足利義明と千葉氏・原氏の対立していた頃が、浮かびあがります。実際、『本土寺過去帳』によりますと、弥富原氏の孫九郎郎久は永正14年(1517)5月15日に「ヤトミニテ」討死しています。岩富の地元の寺院の過去帳では、「坂戸押合ニテ」永正16年(1519)6月15日に討死したと記されています(『教蔵寺過去帳』、『長福寺過去帳』)。「坂戸押合」とは、岩富城の鹿島川をはさんだ対岸で、先に述べた生実城から野田十文字を経て、平山町の台地を上って旧東金街道から、平川沿いに岩富に向かう道を進むと坂戸に至ります。つまり、小弓公方勢が本佐倉城の千葉氏を攻撃するためには、岩富城の対岸の坂戸を通過せねばならないのです。朗久の討死した年は、義明が総州へ入った永正15年の後と考えるべきで、地名・年紀とも地元資料の方の蓋然性は高いと考えます。
第二に、里見氏が生実城を攻めるようになる16世紀中ごろ以降、生実と本佐倉・臼井方面とを結ぶ、この街道の重要性が増した時点があげられると思います。実際、原氏は生実城を里見氏に度々攻撃され、臼井に本拠を移しています。ちなみに生実-四街道-臼井-印西を結ぶ街道沿いには、立堀城のように土塁に突起部を持つ小型城郭が点在します。そして、県内でこうした城郭が十数例ある中で、ほとんどは陸上交通と関係していることがわかります(拙稿「戦国後期の陸上交通と城郭」『城郭と中世の東国』千葉城郭研究会編 高志書院 2005年)。
以上のように、平山城の支城として評価されてきた立堀城は、むしろ平山城の使われていた15世紀後半より後に、戦国後期まで交通路を抑える城として存在した可能性を考えてみました。
縄張図は、当館『千葉市の戦国時代城館跡』2009年 所収の簗瀬裕一氏作成のものをお借りしました。また、岩富原氏に関する記述は、外山信司・遠山成一「岩富原氏の研究」(石橋一展編著『下総千葉氏』戎光祥出版 2015年;初出1986年)を参照しました。
今、大河ドラマで千葉県内に知られるようになった千葉常胤ですが、いったいどこに住んでいたのでしょうか。千葉氏の屋敷は『吾妻鏡』によりますと、「常胤が門前に至りて案内するのところ、幾程を経ず、客亭に招請す。(中略)常胤、門客等を相率して、御迎へのために参向すべきの由、これを申す。」と記されています。つまり、常胤の屋敷には門や客亭があり、さらに幾人かの食客(門客)を置くだけの広さがあった、と考えられます。そして、常胤が千葉にいたことは、同じく「盛長(安達)、千葉より帰参して申して云はく」(治承4年9月9日条)と書かれていることから確かといえます。
それでは、千葉のどこにいたのでしょうか。これまで当館の建つ亥鼻の高台(いわゆる千葉城)に常胤の屋敷があったと、一般には流布されてきました。しかし、ここ三十年くらい前から、千葉氏の屋敷は沖積低地(現在の千葉市の中心街、千葉市中央区)のどこかにあったと考えられるようになってきました。
その有力候補地の一つが、千葉地方裁判所のある一画です(簗瀬裕一「千葉城跡概説―千葉氏居城の基礎的考察―」『千葉いまむかし』11号 1998年;のちに石橋一展編著『下総千葉氏』2015年 戎光祥出版 に再録)。
平安時代末から鎌倉時代初期にかけての武士の屋敷は、沖積低地や丘陵の端を掘りこんで造りだした平場に構えられることが多かったのです。
「千葉城」という文言が初めて登場するのは、建武2年(1335)の千田胤貞・相馬親胤による千葉攻めの時で(「吉良貞家披露状写」『相馬文書』)、別の文書によると同じ攻撃対象を「千葉楯」と記しています(「相馬松鶴丸著到軍忠状写」『相馬文書』)。この「千葉城(千葉楯)」とは、どこにあったのでしょうか。
南北朝初期の合戦では、「要害」、「城」、「館」、「楯」の用語が文書中に多く現れます。城・館・楯とは、おそらく低地の屋敷を城構えにした程度、つまり楯を置いたりして防御を強めたものだったと思われます。この頃、文書に「堀内構城郭」とか「屋形構城郭」などと登場します。堀内(ほりのうち)あるいは屋形とよばれた屋敷地を城郭構えにしたことを意味します。南北朝の内乱期に合戦が恒常化するなかで、屋敷を城構えにする、あるいは天険の地に籠って城と称するようになったのです。千葉市街地では、天険の地と呼べる所はありませんので、屋敷を城構えにしたのかもしれません。
千葉城における千田胤貞・相馬親胤連合軍と千葉貞胤の戦いは、足利尊氏の上洛があり、北朝方の胤貞らはこれについていったため、結局、決着がつかず中途で終わってしまいました。
この後、千葉城が歴史の舞台に上ってくるのは、享徳の乱のはじめの頃です。享徳4年(1455)3月、千葉宗家の胤直を、叔父馬加康胤と原胤房らが千葉城に襲って、千田庄(多古町)に逃亡させたことでした。この時の千葉城がどこを指すのか、大変悩ましい問題です。
といいますのは、最近の研究では15世紀後半頃から、武士は城を恒常的に維持するようになったとされます(齋藤慎一「武士の本拠」『中世の城と考古学』石井進・萩原三雄編 新人物往来社 1991年)。馬加康胤が襲った千葉城は、亥鼻(猪鼻)の高台に築かれた城であったのでしょうか。結論から言うと、そうではなく、南北朝期にあった千葉城合戦で使われたような、低地にある屋敷を城構えしたものであったと思われます。
その理由として、過去に行われた猪鼻城の発掘(1980年度より六次)から、1.主郭にあたる場所(当館の北西部、土塁に囲まれた区画)からは建物址が検出されていない、2.当館の建物の東側の一段低い部分(現駐車場)からは14世紀から15世紀中頃の建物址(礎石建物も)が検出されたが、城に関わるものか不明、3.千葉氏の宗家に相応しい陶磁器類の出土が少ないことなどがあげられています(『千葉市の戦国時代城館跡』千葉市立郷土博物館、前掲「千葉城概説」)。猪鼻城が歴史の舞台に登場するのは、永正年間(1504~21)になってからです。『千学集抜粋』によれば、永正13年(1516)に妙見座主範覚が「井鼻」を取り立てた、とあります。北斗山金剛授寺尊光院の首席僧侶である範覚は、原胤隆の子息でした。この年の8月23日、三上但馬守が二千騎で押し寄せて、亥鼻城を落とした、とされます。この時の戦闘で、弥富原氏の朗寿、東六郎ほかが討死しています(『本土寺過去帳』廿三日条)。
三上氏は近江佐々木氏の一族で、南北朝期に佐々木氏が上総国守護になった時から、上総に入ってきた可能性があります。三上氏は、当時、真里谷武田氏や原氏・千葉氏と対立していました。真里谷武田氏は、真名城(茂原市真名)を本城とした三上氏を追い落とすために、永正14年(1517)、伊勢宗瑞(北条早雲)の力を借りて真名城を落城させました。
このように戦国時代に入ると、本佐倉へ本拠を移した千葉氏に代わって、小弓の原氏が猪鼻城を取り立てたと思われます。しかし、直後の永正14年には、原氏の小弓城は真里谷武田氏によっておとされてしまいます。その後、小弓城には古河公方足利政氏の子にして足利高基の弟である足利義明が入り、小弓御所様(小弓公方)と呼ばれ房総の多くの武将を膝下においていました。そして高基とその跡を継いだ晴氏と対立を続けます。
しかし、その義明も天文7年(1538)に国府台合戦で敗死し、小弓城は再び原氏が入部することになります。亥鼻城も再び原氏の持ち城になったものと考えられます。
猪鼻城は、陸上交通の観点からみると、東上総への道(東金街道そして土気街道)が膝下を通っています。東金酒井氏と土気酒井氏の本拠へと通ずる道です。原氏は時に敵対することもありましたが、酒井氏とは密な関係にありました。
また、江戸と房州をむすぶ街道(近世の房州往還)も千葉の街中を通っており、陸上交通を抑えるには好都合でした。
一方、鎌倉時代には武総内海(東京湾)の要津の一つであった千葉湊と、そこに注ぐ都川も猪鼻城の間近にあり、水運にも恵まれていました。なお、戦国時代後期ともなると、蘇我や浜野の方が港湾としては多く利用されていたようです。
最後に、鎌倉時代から室町時代にかけての千葉氏の本拠となった屋敷はどこにあったのでしょうか。残念ながら、発掘に拠らないとはっきりとしたことはいえません。市街地化の進んだ街中ですが、もしかしたら千葉氏の屋敷の遺構が破壊されずに、どこかに眠っているかもしれません。なお、この点に関しては、本年3月に当館より刊行されました『千葉いまむかし』所収の、西野雅人氏の「都川河口砂州の発掘調査について」において、氏により貴重な提言がなされています。この提言が生かされ、近い将来、発掘により千葉氏の屋敷が姿を現してくれることを願ってやみません。
文中の概念図は、『千葉市の戦国時代城館跡』の簗瀬裕一氏によるものを使用させていただきました。
市内大宮町にある城山城は、小字名の「城山」からつけられたと思われますが、城山を固有地名として城名にするのは、少し抵抗があります。せめて大字名を入れて「○○城山城跡」ならばわかるのですが。ある市では、大字が「城」のため、そこにある城跡を「城城跡」と呼びならわしている例があります。閑話休題。
さて、大宮町にある城山城跡は、千葉東金有料道路が城跡の北東面すぐ脇を通っていて、反対方向の南西側は支川都川が造りだした低地に面しています。川を挟んだ向かい側には、仁戸名坂上で土気往還から分かれた旧東金街道が通り、この道は支川都川を城山城跡の南東200mほどのところで渡り、大宮町の台地上へと上っていきます。この立地こそが城山城の取立てられた理由と考えられます。
城跡の有料道路をはさんだ東方200mほどの所には、古くは北斗山金剛授寺と称した栄福寺があります。この山号寺号は、千葉神社の前身北斗山金剛授寺と全く同一です。栄福寺には、享禄元年(1528)に詞書が、天文19年(1550)に絵と詞書の二巻の絵巻物として成立した、『紙本著色千葉妙見大縁起絵巻』(非公開)が伝来しています。また、天正4年に臼井城内の妙見堂に納めるため、原胤栄の願いにより制作された「木造妙見菩薩立像」(非公開)と、同2年、原胤栄により臼井城内の妙見堂に吊るすために作られた「金透彫六角釣灯籠」が、同寺に所蔵されてきました。
享徳の乱の初期に、千葉宗家が千田庄で滅び、馬加系千葉氏が宗家を襲った時に、平山城(千葉市緑区平山町)に本拠を構え、のちに長峰(栄福寺とその北西域一帯)に移ったとされます(『千学集抜粋』)。さらに文明年間に、本佐倉城を築いて本拠を移します。この城山城跡が、この時の千葉氏の本拠に取り立てられた長峰の城でしょうか。私は、その可能性は低いと考えます。理由として、まず本城の縄張構造があげられます。
城山城は平山城と比べても平坦面が狭く、千葉氏が一時的とはいえ本城としたとは思えません。さらに特徴的なことに、支川都川を見下ろす櫓台状の高まりが、城の南西端に設けられている点です。これは明らかに旧東金街道を監視するため、と考えられます。縄張面からは、本城の役割は街道監視にあると言えます。強いて言うならば、東金酒井氏と原氏が敵対関係にあった時期に、原氏が抱えていた城ではなかろうかと考えます。ここを突破されると、原氏のいた亥鼻城に攻め込まれてしまうからです。あるいは、里見勢が小弓をなんどか攻略しており、里見軍の本佐倉城への侵攻を食い止める役割を負っていたかもしれません。
有料道路をはさんだ北には「宿」地名があり、これをもって城下集落ととらえる考えもあるでしょう。しかし、この宿は栄福寺に向かう街道にともなうもので、城下集落とみることには、私は否定的な考えを持っています。
この街道は旧東金街道から分かれ、栄福寺門前から直角に折れて旧長峰の中心部を経て、加曾利の国道126号線(東金街道)に合流します。宿は長峰の中心部からやや離れた栄福寺寄りに位置しているので、門前の宿と考えることができるかもしれません。同様な例は、多古町南玉造の蓮華寺の門前宿と大網白里市小西の正法寺前の宿があります。
また、少し古くなりますが、15世紀初頭には原氏が長峰に所領を持っていたことが記録されており(「香取造営料足納帳」)、長峰と原氏のつながりが窺えます。
城山城跡は、このように原氏と関連の深い栄福寺と長峰にあることから、戦国時代後期に、原氏の抱えた城であったと考えられます。
測量図は『千葉県中近世城館跡研究調査報告書 第9集 城山城跡・東金城跡』(千葉県教育振興財団文化財センター 1989年)掲載のものを使用させていただきました。
当館では、本年10月18日から12月11日まで、特別展「我、関東の将軍にならん ―小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏―」を開催いたします。そこでは、義明のいた小弓城について触れますので、今回は生実地区の城跡をとりあげたいと思います。
生実地区には、ふたつの「おゆみ城」があることはよく知られています。千葉市中央区生実町にある生実城(北生実城)と、同区南生実町にある南小弓城の二か城です。両者は、ほぼ南北に1.3kmほど離れて存在しています。もっとも北生実城の方は、ほとんど遺構を残しておらず、生実神社境内地にわずかに堀跡と土塁の痕跡を見るにすぎません。
両城の関係は、21世紀を迎える頃までは、南小弓城が古く北生実城の方が新しい城とされてきました。というのは、次のような通説があったからです。それは永正14年(1517)に真里谷武田氏と足利義明が南小弓城を攻め落とし、城主原氏を追い出して、義明が代わりに入部して小弓公方となった、というものでした。そして、天文7年(1538)の第一次国府台合戦で義明が敗死し、原氏が生実に戻ると、原氏は新たに北生実城を築きあげたとされました。しかし、後述のように、その後の研究の進展と北生実城跡の発掘により、これらは否定されることになります。
ここでは生実城(北生実城)を紹介しましょう。残念なことに、主郭を含む主要部分は1970年代初期に団地造成により、破壊されてしまいました。実測図は残りましたが、発掘は行われませんでした。今となっては痛恨の極みです。その後、幸か不幸か、北生実城の一画を計画道路が貫通することになり、1988年から1996年にかけて5次にわたる発掘調査が行われました(『千葉市生実城跡』千葉市教育委員会他 2002年)。筆者も、発掘現場を見学させてもらったことがありました。この発掘により、遺構や遺物が明らかにされ、新しい事実が判明したのです。
すなわち、北生実城からは天文7年以前の遺物が多く発見され、天文年間以前より城として使われていたことです。そして、義明と関連すると思われる享禄4年(1531)銘の庚申待武蔵板碑が井戸の足場として転用されていることがわかり、義明のいた小弓城とは、この北生実城であるとされたのです。さらに、文献面での調査により、簗瀬裕一氏は中村国香著『金ケさく紀行』の一節(「重俊院の僧の語りしは『寺を去ること東へ数歩にして、小弓御所義明の舘趾あり』」)を見出し、義明がいたのは北生実城主郭近辺であることを補強されたのです。
写真は生実神社脇の堀跡と土塁 2020年撮影 |
こうして、現在では北生実城こそが小弓公方義明にいた城である、と変わりました。そうなると、南小弓城はいつ造られたのだろうか、という問題になります。これは、残念ながら即答はできません。やはり発掘により確認するしかありません。
ただ言えることは、戦国時代後期に里見氏の攻勢が強まり、生実地区が里見勢によって占拠されることがありました。南小弓城は、村田川をはさんで里見氏勢力下にあった西上総方面と直接対峙しています。南小弓城の役割は、一つには里見氏の侵攻に対する防御にあったと思われます。
さて、北生実城は近世に入っても森川藩陣屋が一画に置かれ、明治に至るまで使用されてきました。発掘でも近世の遺物が多く出土しています。また大手跡(発掘により一部判明)では県内でも稀な丸馬出が検出されたほか、8.郭東端では畝堀が用いられていることがわかりました。これらは、戦国末期から近世初めの遺構かと思われます。
では、北生実城はいつから使われ始めたのでしょうか。その始期は、原越後入道道喜(胤房)が文明3年(1471)9月9日に「小弓館ニテ打死」しており(『本土寺過去帳』)、遺物面からもこの頃が北生実城の始まりとして整合性があるとされます(ただし、それ以前の遺物もある程度出土しているそうです)。
永正6年(1509)10月に、連歌師の柴屋軒宗長は原宮内少輔胤隆の小弓館を訪れ、千葉の街で妙見宮の祭礼や300頭の早馬を楽しんでいます(『東路のつと』)。彼は胤隆の館で連歌を興行し、館からみる絶景について記述しています。この胤隆の館こそ北生実城ではないかとされます。
それから10年もたたない永正14年(1517)10月には、真里谷武田氏の侵攻で小弓城(北生実城)は落とされ、城主原二郎が討たれたとされます(『快元僧都記』)。胤隆は天文5年(1536)まで生存しています(『本土寺過去帳』)ので、原二郎は別の人物を指すものと思われます。
そして翌永正15年7月に「雪下殿様(義明)総州御進発」(「不動寿丸書状」『鑁阿寺文書』)となりました。つまり、義明が高柳(埼玉県久喜市)から総州(上総・下総)へ移ったのは永正15年のことで、永正14年の小弓城攻めには、義明は参加していなかったことがわかりました。
ところで、この義明の「総州御進発」が、即、義明の北生実城入部を意味するものかは、悩ましいものがあります。というのも、市原市八幡宿に「小弓に入る前に、義明は八幡御所を構えていた」という伝承があるからです。年代的には矛盾しますが、義明は初め飯香岡八幡宮の別当寺霊応寺に入り、その後、八幡に御所を構え、小弓原氏を滅ぼしてから小弓城に移り、小弓公方となったというものです。
飯香岡八幡宮には、義明と兄高基のために家臣が奉納した六百巻の「大般若波羅密多経」も残されており、また伝八幡御所や伝義明夫妻の墓もあって、なんらかの義明とのつながりを物語るように思います。小弓城に入る前に、八幡にいた可能性、もしくは小弓と八幡の両所にいた可能性も考えてみてもよいのではないでしょうか。
北生実城は、主郭(字本城)の北側に字ネコヤがあります。ネコヤ、すなわち根小屋は、16世紀初頭の永正年間には当時の文書史料に登場しています。城の根(台地や山の麓)に造られた家臣団の小屋を指します。東日本に偏って地名が残り、一種の方言と考えられています。千葉県は根小屋地名(屋号も含む)が管見の限り64か所あり、全国でもっとも多く残ります。
生実池の北東にあたる花輪町・赤井町方面から流れ込む小河川の造った低地より、一段高い段丘面(千葉面;標高7mほど)に根小屋が形成され、標高17mほどの台地上に主郭など城本体が展開していました。現在は、主郭部は大きく削平され宅地と公園になって、まったく往時の面影はありません。
以下、生実城跡概念図にもとづいて縄張構造をみると、主郭から2.郭へは馬出状の小曲輪を経て土橋で接続された可能性が指摘されています。さら2.郭から3.郭へも、通称妙見山の馬出を経て土橋でつながっています。3.郭から通称天神山の曲輪(4.郭)も土橋で渡り、5.郭自体が馬出状となっていて6.郭となる字旧邸(近世の森川藩陣屋跡)へと続きます。このように馬出を連続させる技法は、県内ではあまり類例をみないものといえます。もっともこれは戦国末期の姿であって、義明の小弓御所の時代のものとはいえませんが、里見氏と対峙していた戦国末期に、高度に発達した構造をみせています。それでも、里見氏によって落城させられています。
最後に、発掘で明らかになった戦国時代の残酷な現実について、記しておきましょう。それは、生実神社のすぐ南側地区の発掘により、地下式坑(地面に竪穴を掘りさらに横へ掘り進めて直方体空間を作ったもの)で二体の人骨が発見されたことです。二体とも老女で、年齢の割には歯の減り具合は少なく、高貴な身分であったと推測されています。この二体の頭骨には、刀による漸創があり、ほぼ即死であったとされます。非戦闘員である老女が、このような凄惨な死に方をしたというのは、落城による混乱のなかで起きたものと考えられます。
北生実城は、永正14年(1517)10月に真里谷武田氏により城主原氏の時に落城したほか、天文7年(1538)10月、第一次国府台合戦で義明が敗死した後の落城、さらに元亀元年(1570)に里見氏による落城が記録されています。これらのどの時期にあたるかは何とも言えません。よく落城にともない、城内にいた足弱、こどもまでなで斬りにしたという話を聞きますが、身近なところで戦国の凄惨な現実を見せつけられた気がしました。
生実城跡実測図、生実城跡概念図ともに『千葉県の歴史 資料編 中世1(考古資料)』千葉県 2009年 から借用しました。
戦国時代後半になると生実地域は、真里谷武田氏領を侵食して上総に勢力を伸ばした安房里見氏が、下総を窺うようになりました。弘治元年(1555)10月、里見氏配下の正木時茂が千葉に侵攻し「宿中に放火」したとされます(『千学集抜粋』)。また永禄3年(1560)12月には、同じく時茂は小弓城の原胤貞と戦っています(「太田資正宛長尾景虎書状」『上杉文書』)。
永禄12年(1569)2月には、里見勢は松戸・市川まで出張り、帰路臼井筋の郷村に放火したうえで、椎津(市原市)へ着いた、と千葉胤富は書状に記しています(「豊前山城守宛千葉胤富書状」『間宮家文書』)。これは臼井―船橋―(海路)―椎津という経路を通ったと考えられ、東京湾の要津の一つ椎津湊(椎津城)は里見方が押さえていことを意味しています。
その翌年、元亀元年6月2日の日付で、胤富は上総大台(芝山町)城主井田平三郎に宛てて、次のように急を知らせています。長文になりますが、意訳してみます(元亀元年6月2日付井田平三郎宛「千葉胤富書状」〔井田文書〕)。
「このたび里見勢が久保田(袖ケ浦市)に、城を築こうとしている。完成すれば下総の西筋は里見勢の思い通りになってしまうので、完成する前に対策を講ずるべきであったが、遅々として進まなかった。ようやく一両日のうちに行動に移せるとのこと、いたしかたない。それなのに、里見勢はまた生実近辺に付城を築くための準備をしているので、久保田の普請が完成しだい、翌日には生実の普請に取り掛かるであろう。もしそうなったら、久保田一か所でも下総は手詰まりなのに、いわんや両城が完成してしまったら、西筋どころか下総の過半を里見方が手に入れる目前となってしまう。普請が未完成の内に、すぐに乗り込んで決着をつけるべきである。昨日、(生実城主の)原胤栄が牛尾胤仲を使者として申し上げたが、北条氏政にも加勢を望んだところである。久保田と生実(の付城)の両方が出来てしまうようであれば、いかんともしがたい。急ぎ行動に移すべき時は、まさに今なので、この5日には、軍勢を引き連れて当地近辺に必ず着陣するように。(後略)」
「付城」…敵の城を攻めるために、敵城近辺に攻撃拠点として築く城のこと。陣城、向城ともいう。
この「当地」を久保田・生実のどちらととるか判断が難しいですが、生実城主の胤栄が牛尾胤仲を使者にたてて氏政に申し述べていることから考えると、生実とみるべきかもしれません。実際は、この年の8月21日に、原氏の拠る小弓城(北生実城と南小弓城の両城と考えられます)は北条氏の加勢を得られず里見氏によって落とされてしまいました。そのため、原氏は臼井へ本拠を移すことになります。ここで問題となるのは、里見氏が「生実近辺」に「地利を見立て」たという、その場所です。
上総方面から里見勢が進軍すると、村田川を渡って椎名崎町周辺の台地上が候補の一つになろうかと思われます。この時、南小弓城がその前面に立ちはだかることになります。以前は、北生実城跡に比べ古い形態と考えられていた南小弓城跡は、今では、折の入った堀・土塁などの縄張構造からみても決して古くはなく、戦国後期の構造と考えられています。時期的には、この頃、本城があってもおかしくないわけです。
この南小弓城跡と大百池(おおどいけ)をはさんだ緑区おゆみ野中央2丁目に「大百池公園」があります。ここは「城の台」と呼ばれています。おゆみ野の開発にともない、公園造成のための事前発掘が行われました。その結果、柵列などは検出されましたが、ほとんど遺物はなく、土塁や虎口の遺構が確認されました。このことから、恒常的には使用されなかった中世城郭遺構という判断が下っています(『千葉東南部ニュータウン34-千葉市城ノ台遺跡-』千葉県教育振興財団 2006年)。
胤富の井田氏に宛てた文書でいう「生実近辺ニ敵地形見掛候」の「生実近辺」とは、すでに先学の指摘にもありますが、この城ノ台のことではないでしょうか。南小弓城跡とは大百池をはさんだ200mの至近距離ですので、疑問をもつ方もいらっしゃるようですが、胤富の他の文書には「てきまちかにとり出いたし候」(年月日不詳「平川後室宛千葉胤富書状写」〔豊前氏古文書抄〕)とあります。これを「敵、真近に砦いたし候」と読むことができれば、「とり出」を城ノ台ととれるのではないでしょうか。発掘の結果も、遺物もほとんどなく、柵列、腰曲輪、台地基部側の土塁と虎口など、付城の特徴を示していると思います。
このように、南小弓城は戦国後期に北上する里見氏勢力に対し、北生実城とセットで、最前線の城として機能していたことがうかがえます。
さて、この後、南小弓城と北生実城はどうなっていくのでしょうか。つづきは「南小弓城跡 その三」で述べたいと思います。
以下に掲げる南小弓城跡の縄張図は、『千葉市の戦国時代城館跡』(千葉市立郷土博物館 2009年)掲載のものを使用しました。「城ノ台」は図の右端中央部にわずかに顔をのぞかせています。
南小弓城と北生実城ともに、里見氏によって落されてから一年余り後、元亀2年(1571)9月2日付で浜村(中央区浜野町)の本行寺に宛てて、北条家の禁制が出されています。つまり、両城の奪還のために北条氏政が直々に出馬したとみられます。これには千葉胤富も配下の森山衆(香取市岡飯田の森山城を中心とした家臣団)を動員するなど(元亀2年ヵ8月28日付「千葉胤富書状」〔原文書〕)、総力をあげて対応しています。その結果、一時、原氏は生実城を取り戻したようですが、間もなく北条氏が引き上げると、再び里見氏の手に落ちた模様です(元亀2年ヵ9月8日付里見義頼宛「里見正五義堯書状」〔延命寺文書〕ほか)。「敵退散、我々満足同前可思食候」と述べています。
写真は「千葉胤富書状」(当館蔵) これによると、胤富は「氏政が今日(元亀2年8月28日)に江戸城へ着いたと、今書状が届いた。すぐに出馬するので、明後日の一日には全員引き払って菱田(芝山町)まで出てくるように…」と、森山衆に命令しています。 |
同年9月17日には市川の「府中六所宮」に宛てて里見家制札(須和田神社文書)が出されており、生実を拠点に、胤富の心配していた通り下総「西筋」まで里見の軍勢が席巻しています。また、『先学集抜粋』によれば、「一、元亀二年辛未十一月望、佐倉妙見宮にて邦胤御元服なされける、是ハ房州里見義弘小弓にありて、佐倉と御戦かりけるゆゑ、千葉へはまゐり給ハさる也、」とあり、この年の年末近くまでは里見氏の勢力が小弓・千葉周辺を支配していたようです。
こうした小弓をめぐる千葉氏・原氏と里見氏の抗争は、天正5年(1577)に里見義弘が北条氏政に屈服し和睦するまで続いたと思われます。一方、東上総から東下総方面では、元亀3年(1572)12月に正木憲時が里見氏の意向を奉じて、千田庄の峯妙興寺(多古町南中)に禁制を発給しています。また、天正3年(1575)正月と4月、小田喜正木憲時は千田庄を通過する経路を使い、国分氏の本拠矢作城(大崎城:香取市大崎)を攻撃しています。
しかし、天正2年閏10月に、北条氏政はようやく簗田氏の関宿城を落とすと、翌年より上総の里見氏勢力に猛攻撃をしかけます。そのため天正4年中には、里見氏の配下にいた土気・東金両酒井氏は北条方に下りました。翌5年には、前述のように里見義弘が北条氏政に屈服することになります。
これで、ようやく小弓の原氏による支配が回復されることになりました。以上、みてきたように、小弓地域は千葉氏・原氏と里見氏の取りあいが長い間続きました。南小弓城は、こうした背景のなかで造られていったものと思われます。
では、なぜ小弓がこれほどまでの取りあいとなったのでしょうか。これは足利義明が小弓に御所を設け、「小弓上様」などと呼ばれたことと同じ理由によると思われます。一言でいうと「小弓は水陸交通の要衝にあった」ということです。生実城の外港ともいうべき浜野の湊があり、浜野城が置かれていました。同時にこの地は、後の房総往還とよばれる内房沿岸の街道が通り、浜野―茂原を結ぶ茂原街道、浜野―小弓を経て東上総(土気・東金)へ至る大網街道・東金街道、さらには東金街道から分かれて佐倉・臼井方面に向かう道などのある、陸上交通では扇の要的な位置を占めています。
このように小弓地域は、政治的・軍事的にも経済的にも重要な地点といえます。ここに二つの大きな城が造られたのも、こうした地理的・歴史的背景があったからと考えられます。
いよいよ来る10月18日の火曜日から、本館令和4年度特別展「我、関東の将軍にならん-小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏-」(入館料無料)が始まります。小弓公方足利義明と北生実城跡・南小弓城跡の関係をはじめ、小弓・浜野地区に関する展示もありますので、ぜひご観覧くださいませ。図録も販売いたします。
皆様のお越しをお待ち申しております。
千葉市の東端、緑区土気町には、今も遺構をよく遺す土気城跡があります。主郭部にはかつての日本航空の研修所の建物が建ち、今は高齢者施設となっています。そのため、主郭部には無断で立ち入ることができません。しかし、施設外部には堀や土塁などよく遺っており、一見の価値があります。
土気城は、酒井氏によって15世紀後半に取立てられたとされます。酒井氏は、酒井定隆が初代で土気城に入り、妙満寺派日蓮宗(現顕本法華宗)を領内に広め、いわゆる「上総七里法華」を実現させたとされます。そして、のちに東金へも分派し、戦国時代を通じて東金酒井氏は土気酒井氏とともに、東上総の国衆として、北条氏と里見氏の間で離反を繰り返しました。
しかし、近年、酒井氏に関する研究も進んで、従来の説が覆されつつあります。まず、定隆という人物ですが、従来から指摘されるように一次史料には実名は残っていません。ただ、「清伝」という法号の人物が文明年間(1469~1486)には実在しており、80年ほど後の土気酒井氏や東金酒井氏から祖先として明確に位置づけられています。清伝が定隆であった可能性も考えられます。
文明13年(1481)に鎌倉本興寺(鎌倉市大町)本堂建立にあたり、日泰上人とともに大檀那となった酒井清伝ですが、永禄2年(1559)同寺本堂の再興に、東金酒井氏らとともに私財を投入した土気酒井氏の胤治は「故清伝之裔(こせいでんのすえ)」と自称しています。また、東金酒井氏の胤敏も書状の中で「曽祖為始清伝入道(そうそせいでんにゅうどうをはじめとなす)」と記しています。
このように、土気・東金両酒井氏ともに清伝の末裔を称していますが、清伝の出自に関しては諸説あって定まっていません。
さて、その清伝は『本土寺過去帳』によれば、没年月不詳で「山辺にて」死去していると記録されており、実際に土気城に拠っていたのか、他の史料にもなく不明です。「山辺」とは、土気城北麓の金谷郷、南麓の南玉、池田・大竹・餅木が近世の山辺村となっており、台地上の土気城に対して、麓にあたる周辺地域が「山辺」としてよいでしょう。
確実なところでは、清伝の子隆賢は永正17年(1520)4月21日、「土気にて」没しており、この人物は16世紀初頭に土気城に拠っていたと考えられます。また、出土遺物を検討した簗瀬裕一氏によれば、瀬戸美濃焼編年では15世紀後半(1460~1480年)から出土するようになるので、長享年間(1487~88)の土気城再興説も「全く事実無根でもなさそうで、ある程度史実を反映している可能性を否定できない」とされます。
また、「新発見の医書『江春記抜書』と田代三喜」という演題で、2011年に日本医史学会で発表がありました。ここで清伝に関して、興味深いことが紹介されました(『日本医史学会雑誌』2011年)。これによりますと、有名な室町・戦国期の医師で「医聖」と広く称された人物、田代三喜との交流が伺える事実が示されました。というのは、三喜の兄にあたる周林蔵主は鎌倉建長寺塔頭三代目江春庵とされ、この人物から清伝は『江春記抜書』という医書を借りたことが明らかにされました。
この中で、木香丸(もっこうがん)という腹痛に用いられる漢方薬の処方の箇所に、「清伝、虫起ル時可用」と記されているとのことです。鎌倉に田代一族が居住していた頃、周林、三喜とも建長寺の僧であったとされます(『今大路家記抄』)。清伝と田代一族は宗派こそは違え、交流があったことがわかります。
以上のことから、清伝という人物が文明年間に鎌倉を拠点として活動しており、この人物こそが、その後東上総に入部し、土気酒井氏の祖(定隆か)となった考えられること、そして同氏2代目とされる隆賢(実名不明)は15世紀末頃より土気城に拠っていた可能性が高いと思われます。
今回参考にさせていただいた文献は次の通りです。
小高春雄『山武の城』私家版 2006年
簗瀬裕一執筆『千葉市の戦国時代城館跡』千葉市立郷土博物館 2009年
遠藤次郎・鈴木達彦「新発見の医書『江春記抜書』と田代三喜」『日本医史学会雑誌』2011年 日本医史学会
滝川恒昭「房総酒井氏に関する基礎的考察」(佐藤博信編『中世房総と東国社会』岩田書院2012年
今回は土気城主酒井氏について述べましたが、次回は、土気城の構造について考えてみたいと思います。
土気城の構造を見るうえで注意しなければならないのは、今見ることのできる土気城跡は、城として使われた最後の段階の姿であることです。もちろん、これに加え、後世の改変が加わります。このことは中世城郭一般にあてはまりますが、とくに土気城の場合、造り変えられている部分が遺構として明確に残っており、稀有な例と言えます。
城を造り変える場合、堀幅を広げたり、曲輪を増設したりする例が多いのですが、堀を拡幅する場合、古い堀を掘り広げることが多く、古堀の痕跡は発掘によらないと明らかになりません。しかし、土気城の場合は古い堀を壊さず、新しく掘った堀と並べています(第2郭と第3郭の間)。両者は規模も違い、新しい堀には高い土塁もあり、一見して時代差がわかります。
写真 土気城跡第2郭の土塁と古堀の痕跡(土塁の向こう側竹林の部分) |
また、土気城は造り替えにともない、第3郭を増設し、さらに「井戸沢」から南へ屏風のような折りの入った大規模な空堀を入れ、第3郭には出入り口に馬出曲輪(字あらいとはり)を設けました。ちなみに「とはり」は戸張のことで、当時の書状によく表われる用語です。出入り口に設けられた木戸のような施設(もしくはその場所自体を指す)を意味します。
ところで、この造り替えはいつ行われたのでしょうか。これだけの大規模な改変は、羽柴秀吉の関東来襲の風聞のたった天正13年頃から、北条氏領国の主な城で一斉に行われており、土気城の場合もこの時期が考えられます(遠山執筆分「土気城」『千葉県歴史の道調査報告書 御成街道 附土気往還・東金街道』千葉県教育委員会 1989年)。
これから取り上げる文書史料は、永禄8年(1565)2月に、当時里見氏に従属していた土気酒井氏が、北条氏政の軍勢に土気城を攻められた時のものです。この時、城主の酒井胤治は、同盟する里見氏の援軍もなく、北条氏の攻撃を受け、それも長引くことが予想されるので、越後(新潟県)の上杉輝虎(のちの謙信)に一刻も早い関東出兵を請う書状を送りました(永禄8年2月18日付河田長親宛「酒井胤治書状」早稲田大学図書館所蔵文書)。
北条勢の主力は、臼井原氏と東金酒井氏の軍勢でした。土気酒井氏と同族の東金酒井氏は、土気城を攻め、多くの犠牲者を出しています。胤治と東金酒井氏当主の胤敏は、又従兄弟の関係となります。戦国時代のみならず武士の世界では、兄弟同士でも戦い殺しあうことも珍しいことではありません。ましてや、というところでしょうか。
さて、胤治書状を読むと、戦闘の状況がよくわかります。これをみると、城をめぐる攻防は出入り口(近世の軍学でいう「虎口(こぐち)」)で行われたことがわかります。当時の文書には「戸張」とか「木戸」という文言が登場しますが、これにあたります。本書状には戦闘のあった場所として、「宿城」、「金谷口」、「善生寺口」の三か所が登場します。
土気城は麓からの比高が60から70mほどあり、麓から攻めるのに急崖をよじ登って攻めるわけにはいきません。登城路を攻め上るしかなかったのです。一方、台地続きは平坦続きで攻められやすいので、空堀と土塁で厳重に防御しました。それでも、城内へ通ずる通路は確保しなければなりません。この通路に沿って、家臣や商工業者の住まう城下集落(宿)が造られていきます。
城攻めを行う時、敵はまっさきにこの宿に攻めこみ、焼き払うことを行いました。こうして宿や城下町を壊された城のことを、当時は「生城(はだかじろ)」、「裸城」などと言い、落城寸前の状態を指しています。そのために守る側は宿や城下町を堀や土塁などで囲み、敵の攻撃から守ろうとしました。宿を防御したものは「宿城」と称し、この書状にも「宿城」での合戦があったことが記されています。大手口に通ずる登城路の城に隣接して宿が造られ、これが永禄年間には宿城に発展していたことがわかります。
現在残る遺構をみると、字「あらいとはり」の区域が堀と切岸により三角形の馬出曲輪に形成されています(近年、手前の堀は埋められてしまいました)。これは前述のように、天正後期の改造になるものと考えられます。永禄8年の段階では、この「あらいとはり」から土気城第3郭にかけての部分に宿城が造られていたと、筆者は考えています(根拠は前掲『歴史の道報告書』に詳述してあります)。
次に、書状に載る「金谷口」とは具体的にどのあたりを指すのか、考えてみたいと思います。「金谷」とは、土気城跡の北方の小中川の最上流となる金谷郷を指します。文字通り谷津の最奥部となる上金谷の集落から、土気城へと上る切通状となる登城路があり、主郭直近に通じています。ここを突破されると、落城間近と言ってもよいでしょう。この登城路をクラン坂と呼んでいます。「暗み坂」の転訛とも言われています。この金谷口では、東金酒井氏配下の「河嶋新左衛門尉・市藤弥八郎・宮田・早野以下宗者共百余人」が討ち取られるという大激戦となっています。百余人をそのまま信じるかどうかはさておき、かなりの激しい戦いとなっています。切通しとなる上り坂が延々と続き、切通しの上から射撃されたら、ここを突破するのはかなり困難だと想像できます。
写真 金谷口の坂 |
長くなりましたので、この続きは次回の「その3」で述べたいと思います。
さて、永禄8年の北条氏による土気城攻めでは、宿城・金谷口・善生寺口の三か所で激戦があったと胤治書状には記されていました。宿城と金谷口は、ほぼ場所を特定できましたが、善生寺口に関しては、比定地は二つの考えがあり、どちらとも決め難いものがあります。
ひとつは、小高春雄氏によって比定されている第3郭と馬出曲輪(字あらいとはり)の南麓となる、大網白里市南玉(みなみたま)の辺りとする考えです。顕本法華宗善勝寺のある台地の東麓にあたります。南玉集落の西方にある南玉池のさらに西奥部が、腰曲輪をともなう遺構もあり、この辺りを考えています(小高春雄『山武の城』私家版)。
ちなみに善勝寺は、土気城跡主郭の西に「善生寺曲輪」とよばれる一画(現高齢者施設が建つ)があり、もともとこの地に善勝寺の前身にあたる寺院があったものと考えられます。永禄8年の段階では、現在地に移転されており、東麓が「善生寺口」と呼ばれてもおかしくはないでしょう。ただし、この一帯は、旧房総東線の時代に国鉄線路が敷かれたため、改変されてしまい、旧状を復元する(とくに台地上までどのような経路で行くか)うえで困難さをともないます。
縄張図(『千葉市の戦国時代城館跡』より) 永禄期はこの図とは異なる様相を示す |
もう一つの考え方として、善勝寺の西麓周辺を「善生寺口」にあてるものです。縄張図(『千葉市の戦国時代城館跡』より)を描いた簗瀬裕一氏は、この考えをとるようです。筆者も、以下に述べる理由で、こちらの考え方をとります。
善勝寺のある台地(善勝寺台地とします)は、南を頂点とする三角形状をしており、その南端は急崖となっています。台地上南端には、善勝寺砦跡とよばれる小さな城郭遺構があります。大網の市街地より土気・誉田方面に向かう県道(県道20号千葉大網線)を、ちょうど見下ろす位置になります。この県道は、善勝寺台地の南麓から東南東方向(大網の市街地方向)に延びる細尾根に造られていますが、土気城が機能していた頃から存在していたと考えられます。
また、善勝寺台地西麓の県道に突き当たるように、大椎・小食土町方面からの旧道(旧土気往還)が交わっています。これは千葉方面より土気市街地を経ずに、バイパスして大網に向かう道で、沿道には古代・中世の住居址や古墳群など遺跡が連なり、古代からの道と考えてよいものです。ただ、今はあすみが丘の団地となってしまい、旧道は拡幅されたりして古道を追うのは厳しい状況です。しかし、土気往還と思われる道路遺構が、発掘によって遺跡群の中から検出されています。このように、大網市街地からの道と千葉からの旧土気往還が交わるのが、善勝寺台地西麓ですので、この辺りが善生寺口の比定地候補の一つとできると考えます。
酒井胤治書状には、善生寺口で「十余人打候」と記されていますが、小高説を採るならば、金谷口を攻めた東金酒井氏の一団から分かれた軍勢が、南玉へ回ったと考えることができます。また、善勝寺西麓説を採るならば、宿城を攻めた臼井原氏に率いる軍勢の一部が、こちらへ回って攻めたと考えることができます。残念ながら、善生口で討ち取られた面々の名前が書かれていないので、どちらをとるか断定することはできません。
このように、酒井胤治書状は、当時の土気城の構造が垣間見える貴重な文書といえます。なお、胤治の書状をうけた謙信は2月24日には越山し、厩橋城(前橋市)に入ったこともあり、北条軍は退去したようで、土気酒井氏は攻撃に耐え抜いたようです。これも、堅い守りの土気城だったからこそでしょう。この後、土気酒井氏と東金酒井氏は、北条方につくことになりましたが、里見氏の攻勢の前に、元亀2年(1571)末には北条方から里見方にまた従属することになります。こうしたなか、土気城はさらなる北条方の攻撃を受けることになります。これは次回「その4」で述べたいと思います。
前回までは、永禄8年2月の北条氏政による土気城攻めについて、詳しくみてきました。土気城に関わる攻防戦は、実は最低でももう二回はあったと考えられます。一つは年未詳6月22日付の「村上民部大輔宛足利義氏書状」(『秋葉文書』)に記された土気城攻め、もう一つは、直接土気城が攻撃されたかは不明ですが、土気領を攻撃された天正3年の北条氏による東上総攻撃です。今回は、これまでいつ行われたのか明確にはなってこなかった(元亀年間から天正初期とされていた)前者について、みていきたいと思います。
金谷よりみた土気城跡(中央の小高いところが主郭周辺) |
年未詳6月22日付の村上民部大輔宛の古河公方足利義氏書状では、「向土気及行」、「酒井左衛門次郎者六十人討取」ったことを、村上民部大輔は義氏より賞せられています。「向土気及行」は「土気に向かいて行(てだて)におよび」と読み、土気城を攻撃したことを意味しています。
ところで、村上民部大輔とは何者でしょうか。村上氏といえば、武田信玄との激闘で知られる信濃の村上義清が有名です。村上民部大輔も祖先は信濃村上氏の出身と考えられ、戦国後期に八千代市の米本城主であった村上氏です。民部大輔を称するのは、村上綱清という人物で、高野山の「西門院文書」には民部大輔綱清の署名・花押が据えられた書状があり、戦国後期に実在したことがわかります。この綱清は文書の上からは永禄年間(1558~1569)まで活動していたことがわかります。そして、天正3年(1575)には、子息助三郎胤遠(たねとお)が文書に表れ始めるので、元亀から天正初期(1570~1574)に綱清から助三郎に代替わりがあったと考えられています。
さて、綱清が土気城を攻めたのはいつのことでしょうか。義氏の書状にはヒントになることが書かれています。それは、義氏のいた古河城を、敵対する小山氏が攻めたという記述です。義氏が古河城へ入城できたのは、永禄12年(1569)以降ですので、土気城攻めは元亀から天正初期(それも胤遠との代替わり前と考えられる天正2年まで)と考えることができます。
ところで、土気酒井氏は里見氏と千葉氏・北条氏との間で、情勢に応じて離反を繰り返す複雑な動きをとります。永禄8年2月に北条氏に攻められた後、北条方に従属し、同10年頃里見氏に本納城を攻められる事態がおこりました(「小田原編年録」)。その後、永禄12年まで北条方についていることが確認されていますが、里見氏の攻勢の前に、元亀2年(1571)12月には里見方についたことが史料からわかります(「宍倉文書」)。このことから、北条氏に土気城が攻められる事態となったのは、元亀3年6月以降のことと考えられます。
以上のことから、綱清の土気城攻めは、元亀3年(1572)から天正2年(1574)の間と限定されました。先の小山氏による古河城攻めに関しては、天正2年に関宿城が北条氏に攻められており、近接する古河城を攻める余裕が小山氏にはないと思われることから、元亀3年か天正元年(1573)のどちらかと、さらに絞れることになります。
それでは、どちらでしょうか。当時の里見氏と千葉氏との攻防の面からみると、元亀元年8月に里見氏によって小弓原氏の本拠小弓城が陥落します。そのため、小弓原氏はもう一つの本拠臼井城へ移らざるをえませんでした。米本城は、位置的にみて臼井城の西方の守りの要ともいえる城です。村上氏は、元亀2年から3年にかけて東京湾岸を席巻する里見氏に対し、臼井城を守るべく米本城において対処に追われていたものと考えられます。いまだ小弓城の回復もままならなかったはずの元亀3年6月に、村上氏が土気城を攻める余裕はなかったものと推測できます。
こうしてみると、村上氏が土気城を攻めたのは、天正元年(1573)6月のこととできます。そして、これが村上綱清の消息のわかる最後の史料となります。天正3年には、確実に子息助三郎胤遠は土気を含む東上総に進攻しています。また、前年の天正2年にも北関東に出張っていると思われる書状もあり、どうやら天正元年を境に、綱清と助三郎父子の当主の交替があったようです。その意味では、「酒井左衛門次郎者六十人討取」り、古河公方足利義氏から賞された土気城攻めは、綱清人生最後の活躍の場だったかもしれません。
参考文献
『八千代市の歴史 通史編』「第三編中世 第四章戦国時代 第四節米本城主村上氏について」(遠山成一執筆分)八千代市 2008年3月
外山信司「米本城主村上綱清と上総―清宮秀堅『下総旧事』を手がかりに―」『千葉県の文書館』第27号 2021年3月
遠山成一「もう一つの土気城合戦」『歴史研究』戎光祥出版 2023年3月
鎌倉時代初期に千葉常胤の六男胤頼が、東庄・三崎庄を得て東氏を名のり、その孫にあたる胤行の弟胤方が三崎庄を領有して海上氏と称することになりました(常胤系海上氏)。その後、室町期には、海上氏は鎌倉公方(のち古河公方)の奉公衆として活動しています。この海上氏の本拠の城が中島城(銚子市中島町)です。
中島城は、利根川の川湊である野尻・高田津に近く、また九十九里平野北端となる旭市(旧飯岡町)方面からの道を睨む、水陸交通の要衝を占めています。旧飯岡町は中世の塩業が行われていたことが文書からもわかっており(「原文書」『千葉市立郷土博物館所蔵原文書』)、この道を通って、塩荷が野尻津より「塩船」で内陸へと運ばれていました。また、道の途中の銚子市猿田町には交通に関る神猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀る猿田(さるだ)神社もあり、この道の重要性がわかります。
写真 高田町方面(利根川方面)からみた中島城跡 |
また当城の周辺には海上堀内妙見社(堀内神社)をはじめ、海上氏ゆかりの寺社がいくつか点在しています。海上堀内妙見社は、中島城跡の東方200mほどの所に位置し、明応9年と天文10年の造営に関る棟札写が残り(「宮内家文書」『戦国遺文 房総編』第2巻)、海上氏の当主が大檀那を務めていることがわかります。また、棟札に記載される家臣に加世(加瀬)・宮内・島田・大那木・平岩・飯岡・石毛の諸氏がみえ、家臣団構成がある程度判明しています。これらの名字は、現在も銚子市近辺に多くみられます。
中嶋城跡の南方200mほどの岡野台町にある、等覚寺に祀られる仏像3体のうち「木造薬師如来立像」2体は、明治初期の廃仏毀釈によって廃寺となった引摂寺(いんじょうじ)にあったものが引き取られたものとされています。2体とも鎌倉期のものとされ、千葉県の指定有形文化財となっていますが、とくに1体は、「運慶の作風に学んだ慶派仏師の作品」(千葉県教育委員会ウェブページ)と考えられています。
また等覚寺からは、建長4年(1252)銘のある金銅経筒が出土しました。ここには「施主平胤方」と記されており、海上氏の祖となった海上胤方が亡くなった母親の供養のため、写経し埋納したものと判明しました。また、当城の南約4kmにある常世田山常燈寺(じょうとうじ)にある木造薬師如来坐像(国重要文化財)の修理を、仁治4年(1243)に平胤方・藤原女の夫妻が他の人たちとお金を出し合って行っていることが、修理銘からわかっています。このように初代海上氏(常胤系)の時代からの遺蹟が残る当城一帯は、まさに海上氏の本拠地と呼ぶにふさわしいといえるでしょう。
以上のことは、既に半世紀前に、旧県史(『千葉縣史料』各篇)に携われた小笠原長和氏によって、詳細に解明されています。
現在、残る中島城の遺構は戦国後期の様相を示しますが、中世前期の海上氏の本拠となる屋敷は、現中島城跡の一画か、あるいは周辺の他の場所に設けられていたものと考えられます。高森良昌氏の「海上氏の墳塋と菩提寺考」(『研究紀要』第2号 千葉市立郷土博物館 1996年)では、「この場所(引摂寺-引用者)は海上氏の居館址と考えられている」とされ、等覚寺の東方に隣接した区画にあったとしています。
その引摂寺跡の北に隣接する堀内妙見社には、「堀内」(堀の内)の名称が遺ることからも、小笠原氏も指摘しますが、古い時代の武士の屋敷地がこの一帯にあったと考えることができるかと思います。
県指定有形文化財「金銅経筒(建長四年在銘)」 千葉県教育委員会ウェブページより |
中嶋城の構造等については、次回に述べたいと思います。参考文献も最後に掲載します。
中島城は戦国後期の形態を残す城郭で、東西500m、南北400mという県内でも有数の大規模城郭です。標高40m弱の台地上に、幅7~8mほどの空堀(現状は埋められて畑となる)で、大きく四つの曲輪から成り立っています。また、主郭東麓の腰曲輪にあたる部分には水堀と思われる窪みもあり、これは県内の城郭では珍しい部類に入ります。
写真 主郭(畑地の部分)にある「史跡 中島城跡」の石碑と堀跡(画面右の藪) |
城跡の南には、銚子市四日市場町に河口をもつ高田川が流れています。同じく北および東側には逆川が流れ、両川が自然の水堀の役割を果たしています。また、城の北東側は、往時は後背湿地(バックマーシュ)が広がっていたと思われ、なかなかの要害地形です。城域東端が主郭となっており、当時の香取内海に向かって眺望が開けています。
その主郭の台地麓に通称「大手口」があり、これより高田川に沿って、東南東方向へ一直線に道が伸びますが、ここ一帯は通称「宿」と呼ばれています(井上哲朗「中島城跡」『千葉県の歴史 資料編 中世1(考古資料)』千葉県 1998年)。現在、短冊地割(耕地整理の結果)となる水田が道の南側に見られます。明治時代の迅速測図をみると、現状とあまり変わらない直線道路が伸びておりますが、古い公図では短冊地割にはなっていませんでした。
水田の中央近くに牛頭天王(ごずてんのう)を祀った小さな祠があります。これは迅速測図で、神社の地図記号で確認できます。この辺り一帯は、昭和21年(1946)の空中写真をみると既に耕地整理が済んでしまっていて、旧状は追えません(戦前の早い段階で行われたためか、古い公図には直線道路の北側にあたる字関上だけ地割図が残っていませんでした)。
ところで牛頭天王は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一とされ、牛頭天王社は明治の神仏分離令によって素戔嗚尊を祀る八坂神社に強制的に変えさせられました。また牛頭天王は、釈迦の生誕地である祇園精舎の守護神とされ、八坂神社の祭礼が祇園祭(明治以前の祇園御霊会)と呼ばれるのもその関係からです。
祇園祭は、都市の祭礼として悪疫退散(ですから疫病の流行する夏にお祭りをします)を願うものです。中島城の「宿」に牛頭天王が祀られているのも、城下の商工業者たちの住んでいた城下集落(いわゆる「都市的な場)の名残と思われます。宿のすぐ裏(南側)には高田川が流れ、香取内海から入り込んだ舟が荷を搬出入していた可能性が考えられます。
写真 通称「宿」地区の牛頭天王社 |
次の史料は、直接中島城の「宿」ではありませんが、宿の裏の高田川を通り、中島城直下の根小屋集落へ荷を運んでいたことが想定されるものです。
正木時定ヵ判物写 (宮内家文書) 『戦国遺文 房総編』第二巻
須賀筋(旭市付近)より下しほ荷之事
一月之中十五日、舟木・野尻之宿ニ可下、後日於城取之上者、根小屋へ可引之者也、
仍如件、
永禄三年極月十四日 (花押)
野尻宿商人中
永禄3年(1560)10月、里見氏(主力は正木氏)は香取領に侵攻し、この後同9年まで占領を続けました。この文書は、一宮正木氏の正木時定と思われる人物が、野尻宿の商人らに宛てたものです。飯岡方面より運ばれた「しほ荷(塩荷)」について、月の内半分の15日間は舟木と野尻の宿へ塩荷をおろし、後日、城でこれを取る際は根小屋へ引き上げるよう指示したものと考えられます。
ここでいう根小屋をもつ「城」とは、舟木と野尻宿に近接する中島城のことを指すものでしょう。中島城膝下と言ってもよい舟木・野尻両宿は、香取内海(現在の利根川)に面して位置します。中嶋城に現在根小屋地名は残されていませんが、これに該当しそうな集落は、東麓・南麓そして西麓にみられます。ここでは高田川に面した、中島城南麓の集落が史料にある「根小屋」に該当すると思われます。舟木・野尻宿から塩荷を直接陸送し、城へ運ぶことも考えられますが、両者間を隔てる後背湿地を結ぶ道が確保されていたか疑問です。それよりも舟を使えば高田川河口から遡上し、根小屋直下の船着き場まで運ぶことが可能です。なお、現状の高田川は流れが急で、しかも、川底の岩盤が削れて凹凸が激しい箇所もあり、水量が少ないと航行が難しいと思われます。この点、水量の問題や船曳のことなども考える必要がありそうです。
ところで、この文書を発給した正木氏は一宮正木氏と考えられており(『戦国遺文 房総編』第二巻)、海上氏からみれば明らかに侵略者です。その正木氏が野尻宿の商人らに命じ、海上氏の本拠である中島城へ塩荷を運ばせることができたのは、不思議な感じがします。この時点で海上氏は本拠から撤退し、正木氏が中島城を占拠していたのではないかとのことです(滝川恒昭氏のご教示による)。塩荷などの輸送を担い広域に活動する「流通商人」である宮内氏は、それぞれの商圏における領主との関係を維持していたわけですから、敵も味方もないわけです。
この文書を現在に伝えた宮内氏は、塩の生産地である旧飯岡町の三川に給地を持っており、香取内海より奥深く遡上した関宿方面まで商圏にしていたことがわかっています(関宿城主簗田持助の発給した文書が宮内家文書として伝わる)。ちなみに銚子市の高田町や中島城の周りには、非常に多くの宮内姓が今もいらっしゃいます。
里見氏(正木氏)が香取侵略したのも、滝川氏が指摘するように香取内海の富の掌握にあったことが、この文書から理解できます。
なお、城跡周辺の公図閲覧にあたり、銚子市役所都市整備課土木室の職員の皆様にお世話になりました。記して感謝申しあげます。
参考文献 文中であげた他
小笠原長和「下総三崎荘と海上千葉氏」『中世房総の政治と文化』吉川弘文館 1985年(初出1969年)
井上哲朗『千葉県中近世城跡研究調査報告書11 中島城跡・鹿渡城郭』千葉県教育振興財団文化財センター 1991年
滝川恒昭「戦国期房総における流通商人の存在形態」『中世東国の地域権力と社会』千葉歴史学会編 岩田書院 1996年
『本佐倉城跡史跡指定20周年記念事業講演 敵を阻む城、にぎわう城下』(滝川恒昭氏執筆分「千葉氏と里見氏の香取侵攻」)2018年 酒々井町・佐倉市
廿五里(つうへいじ)城跡は、千葉都市モノレールで都賀駅から動物公園駅方面へ向かう途中、みつわ台駅の手前、向かって右方向直下に見える城です。市内ご在住の方には、かつての殿山ガーデンのあった所、と言ったらわかりやすいかと思います。残念なことに近年、モノレール線路側の台地が大きく削りとられて宅地化され、景観がすっかり変わってしまいました。
城本体はかつて殿山ガーデンとして使われており、施設内に城郭遺構らしきものも見られました(千葉市の遺跡を歩く会ウェブページ「みつわ台周辺-2 廿五里南・北貝塚と廿五里城跡」の空撮写真は1974年当時の空中写真が載っています)。
写真 廿五里城跡(画面左側が大きく削平された部分) 2017年2月 |
本城跡は東寺山町の町域北東端にあたり、字二十五里(小字名はこの字です)に位置します。この城を示すと思われる「寺山在番」、「寺山在城」と記載される史料が存在します。「秋山仙一家文書」中の永禄3年ヵ10月24日付大須賀薩摩丸宛「千葉胤富書状」です。これは永禄3年に、小田喜正木氏が里見氏の命により、香取へ侵攻した時のものと考えられています(『大栄町史 通史編 上巻 原始中世編』2000年)。胤富は、「寺山在番」から本拠地へ戻ったばかりの大須賀薩摩丸に対し、小見川の富田台(現香取市富田)へ上陸した房州衆に対処するよう求めています。この寺山とは廿五里城を指すと考えてよいでしょう(外山信司「下総高品城と陸上交通」『千葉城郭研究』第4号 1996年)。
この文書には「寺山在城之陣労」と記され、薩摩丸が寺山の城(廿五里城)に在番していたことがわかります。この背景には次のような出来事が関係します。永禄3年(1560)5月に、北条氏が陣城を築いて久留里城の里見氏を攻めたため、里見氏は越後の上杉謙信(当時は長尾景虎を名のる)に救援を求めました。これにより、謙信は初の関東進出(越山)を果たします。その報を聞いた北条氏は、直ちに久留里城の包囲陣を解き、謙信の軍勢に備え移動しました。
その年の10月、正木氏による香取侵攻が始まります。一方、東京湾岸の西上総・西下総でも里見氏の北上の脅威があったようです。廿五里城に詰めていた薩摩丸は、千葉と佐倉を結ぶ街道を押さえる高品城(当「研究員の部屋」コラム9・10で紹介済)の後方支援のため在城していたと思われます。
その脅威もいったんは薄らいだのか、薩摩丸は在番を解かれて本拠地へ帰りました。しかし、ほどなく正木氏の富田台上陸があったため、胤富から帰陣して間もなくですまないが、と富田台近辺への速やかな着陣を求められています。
ところで、東寺山町は古くからの中心地である字本郷の北に宮海道が、南には浜道がそれぞれ小字名として残ります。この両字名は廿五里城の交通網に関るものとしてとらえられてきましたが、明治期の迅速測図を読んでみると、宮海道は、むしろ西寺山(現若葉区源町)の中心地字本郷と東寺山の字本郷を結ぶ役割が大きかったと考えられます。また、浜道は東寺山の本郷より南へ下り、支谷を渡って高品城の北端(春日神社のすぐ南側)の堀切道を経由して千葉の街(湊)に行く、文字通りの浜道だったと考えられます。ですので、廿五里城の役割は、外山氏も指摘するように、あくまでも千葉と佐倉(本佐倉)を結ぶ「北年貢道」を押さえるためのもので、同じ役割を果たしていた高品城の後方支援の城としての性格が強いと思われます。
本城はモノレール建設に先立ち、発掘調査が行われました。以下、『千葉県の歴史』掲載の笹生衛氏の見解に従って記述します。台地縁辺部より、板碑や五輪塔・宝篋印塔をともなっていたと思われる墓域が広がっていたことが確認できました。板碑は25個体分出土しましたが、1基のみ「建武元(1334)年十月日」の紀年銘がありました。石塔は「15世紀を中心として年代が推定できる」とされます。
また、本城の西に隣接する地区(現高齢者施設)からは、発掘により和鏡が発掘されています(報告書未刊、『千葉市制100周年記念 千葉市内出土考古資料優品展』千葉市教育振興財団 2021年11月)。こちらまで墓域が広がっていたことが想定されます。
つまり、廿五里城のある台地は、「14世紀前半に板碑をともなう墓域が成立し、15世紀を通じて板碑・石塔をともなう土坑墓・火葬墓が営まれ」、16世紀後半にはこれらを撤去して城が築かれたと推定されます。ちょうど16世紀後半になると、里見氏(正木氏)の下総侵攻が始まり、想定される本城の果たした役割から考えると、築城の時期は合致すると思われます。
このように史料にも登場する中世城郭が、施設である程度壊されていたとはいえ、十分な調査もなく(ほぼ)消滅してしまったのは、残念なことと言わざるを得ません。なお、本稿執筆にあたっては、参考文献等、外山信司氏のご教示を得たところが大きかったことを書き添えます。
参考文献 文中に掲げた他
笹生衛「廿五里城跡」『千葉県の歴史 資料編 中世1(考古資料)』千葉県 1998年
『絵に見る図で読む 千葉市図誌 下巻』千葉市 1993年
今回ご紹介する南屋敷遺跡は、文字通り中世の城ではなく、これまでの呼び方では「館跡(かんせき:やかたあと)とされる分類に入るものです。ただし、1980年代より「館(やかた)」という言い方に対し疑義が出されています。私たちが持っている武士の居住空間は、いわゆる「方形館跡」という、土塁と堀で囲まれた正方形や長方形の区画をイメージします。しかし、これは、あくまでも戦国時代にはいってからの、防御性を高めた頃のものと近年認識されています(ただし、土塁をもった館も、発掘によって鎌倉時代から少数ですが存在したこともわかっています)。そのため、近年になって中世前期の武士の居住地を、「館」に代わり「屋敷」と呼ぶことが提唱されています(あまり定着しているとは言えないようですが)。
南屋敷遺跡は、堀と低い土塁をともなう長軸45m、短軸38mの小規模な「屋敷」跡です。特徴的なことに、周辺部より屋敷内部が低くなっており、「堀込式屋敷」と呼ばれています。当遺跡を発掘調査した簗瀬裕一氏のネーミングとのことです。同様なタイプとして、池の尻館跡(四街道市)、井野城跡・臼井屋敷跡(佐倉市)、埴谷周路館跡(山武市)、東中山台遺跡群(36)地点(船橋市)などが知られています。下の表は、管見の限りで類例を集めた堀込式屋敷の一覧表です。
遺跡名 | 所在地 | 外 寸 | 使用年代 |
南屋敷遺跡 | 千葉市若葉区 | 東西45m×南北38m | 15C代~16C前半 |
池の尻館跡 | 四街道市 | 南北52m×東西約29m | 15C後半~16C初 |
井野城跡 | 佐倉市 | 複郭 | 15C~16C |
臼井屋敷跡 | 佐倉市 | 長軸35m×短軸27m | 15C後半~ |
埴谷周路館跡 | 山武市 | 南北55m×東西40m※ | 14C後半~15C後 |
東中山台遺跡群(36)地点 | 船橋市 | 南北50m×東西30m? | 15C後半~16C末 |
※土塁内側の寸法 ここにあげた他、墨古沢遺跡(酒々井町)、米本城跡c地点(八千代市)が堀込屋敷跡にあたることを、道上文氏よりご教示いただきました。
南屋敷遺跡の土塁の内側平坦面は、土塁の頂部より2mほど掘り下げられていて、防御性に乏しくなっています。内部は主郭と二つに分かれた副郭があり、発掘により主郭から主屋(3期にわたり建て替えられています)が検出されています。また、南北に分かれた副郭からは、それぞれ軸線を主屋に合わせた小規模建物が見つかっています。
出土遺物としては瀬戸窯、瀬戸美濃窯、カワラケ、瓦質内耳土鍋、砥石などがあり、貿易陶磁は1点のみです。このことから、屋敷の主は上層農民(土豪層)と考えられています。つまり、村落の指導者クラスの屋敷ではないかということです。この点において、池の尻館跡(貿易陶磁も7点)・埴谷周路館跡(同2点)で、同じような傾向を示します。
また、成立年代も埴谷周路館跡を除くと、大半が15世紀台か15世紀後半です。15世紀といえば、政治史的にみると、15C半ばの1455年から享徳の乱が勃発し、両総各地で戦乱がおこります。城郭史学からは、恒常的に城郭が維持されるようになるのは15世紀後半からとされています。こうした政治状況が屋敷の主たちにどのような影響を与えたのか、戦国史研究においても大きなテーマといえるでしょう。残念ながら、これに即答はできませんが、ネゴヤとの関連が大きいと、筆者は考えています。
あえて見通しを述べさせてもらいますが、ネゴヤの史料上の初見は、管見の限りでは「喜連川文書案」の「道哲足利義明書状案」です。この文書は、昨年開催した「我、関東の将軍にならん-小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏-」でも展示したものです。この中で、「敵城近辺、田井・横山・小沢要害、根小屋以下悉被打散…」とあり、この書状は大永元年(1521)に比定できますので(当「研究員の部屋」の小弓公方関係を参照)、16世紀初頭にはネゴヤが形成されていたと考えてもよいと思われます。
つまり、堀込屋敷が廃れていくのと並行して、根小屋が各地に形成されていくということです。ただし、市村高男氏はネゴヤの「小屋」に注目され、あくまでも仮の小屋であることを強調されています。すなわち、ネゴヤの住民たち(家臣たち)は本拠を持っていて、あくまでも職住接近したネゴヤは仮の住まいである、という意味です。堀込屋敷とネゴヤの関係をみていくと、家臣団のネゴヤへの集住(定住)が進んでいく、と考えてもよいのではと思います。まだまだ深く検証する必要がありそうです。
参考資料
『千葉県の歴史 資料編 中世1(考古資料)』1998年
市村高男「中世東国の宿の風景」『中世の風景を読む 第二巻 鎌倉と坂東の海で暮らす』(網野善彦・石井進編 新人物往来社 1994年)
その他、各遺跡調査報告書
六党の城シリーズ13「東氏の城」で須賀山城を取り上げましたが、最近、新たな知見を得たので、再度書き足したいと思います。というのは、須賀山城が東に面する桁沼川は、水運で重要な役割を果たしていたのではないか、という論文に接したことがきっかけとなりました。鈴木哲雄氏の「海上千葉氏の領国支配-網代・製塩・「郷中開」-」(『都留文科大学大学院紀要』第27号、2023年3月)です。
研究員の部屋(遠山)27・28で紹介した「海上氏の城中島城 その1・その2」では、九十九里平野北端の須賀郷(旭市飯岡)で生産された塩を、台地を越えて高田・野尻津(銚子市)に運び、舟で上流へ運んだ旨を書きました。しかし鈴木論文では、もう一つの経路の可能性を指摘しています。それは、須賀郷より椿海へ直接出て、舟で北上し、椿海の北端からさらに奥まった東庄町青馬まで運びます。ここの地峡部で、積み荷を桁沼川(利根川に注ぐ)側に引き上げて(もしくは、舟を引き上げて)、同川を下って笹川津に着きます。ここから香取内海を行ったとする考えです。
鈴木氏は、青山宏夫「干拓依然の潟湖とその機能 椿海と下総の水上交通試論」(『国立歴史民俗博物館研究紀要』第118集、2004年)を参照しながら、この経路を須賀郷からの「塩舟」が航行した一つのそれと考えておられます。けだし、卓見と考えます。と言いますのは、氏が同論文の注で記しているように、「千葉胤冨判物」(「原文書」)にある「地摺役」を、「船引」「船越」するためのものと考えておられるからです。筆者は、十数年前に「原文書」の研究会で3年間学びましたが、この地摺役というものが何であるのか、当時理解できていませんでした。鈴木氏が想定されたように、舟を綱で引き上げて、分水嶺(帯)を越したということで、地を摺るための労役が地摺役だったのでしょう。
先日、東庄町青馬の字船引の現地を訪れましたが、東庄町立東庄中学校のすぐ西隣にあたる同地は、地峡部の幅は数十m(道路と住宅地一軒分ほど)ほどです。しかも、青山論文に指摘されていますが、青馬と反対側の同町窪野谷の谷頭にも舟引の小字が残ります。おそらく実際に斜面部を、舟が引き上げられたのではないでしょうか。こうして、中世当時は存在していたとされる桁沼に塩舟が入り込み、笹川の津へと運行されたと思われます。津は桁沼川河口部に近い場所に比定されています。
ちなみに、桁沼は、往時は香取内海に口を開いていたわけではありません。現在の桁沼川の最下流部の川幅とほぼ変わらないものと思われます。というのも、町場や古い寺社(八坂神社も存在する)があることから、これらの乗る砂州によって桁沼は塞がれており、桁沼川の下流部にあたる流路によって香取内海とつながっていたと考えます。
中世、おそらく戦国時代末頃までは、桁沼の地名通り大きな沼が笹川の街の背後に存在したと考えられます。そして、椿海からの舟が台地を越して、桁沼に入り込んできました。積み荷の主なものは塩です。
こうしてみると、須賀山城の存在意義として、この水運を掌握するものであったと考えることができます。そして実際、須賀山城の東には真言宗西福院という寺院が、田んぼのなかに存在します。
上写真:西福院(東庄町笹川)遠景 下写真:同土塁状遺構 |
往時は西福院近辺まで湖水が打ち寄せていたと思われます。規模は、100m×長辺100・短辺60mほどの多角方形です。西福院の敷地周囲には土塁が残り、小字南城(みなみしろ)とつけられていることからも、中世城郭の跡を寺院化したものではないかと考えられています。
つまり、流通経路を抑える役割を果たしていたのが、西福院の前身の城郭だったのではなでしょうか(仮称:西福院城跡)。
また、南北朝期14世紀後半の「海夫注文」(「旧香取大祢宜家文書」)には、笹川の津の知行主として「東六郎」(六郎は惣領が称する仮名)が記載されており、この笹川一帯は東氏の本拠地であったとわかります。西福院の敷地がもともと方一町(約100m四方)であったとすれば、東氏の屋敷地であったことも当然考えてよいと思います。須賀山城は、いざという時に立て籠もる城だった可能性があります。もちろん現在の形とはまったく異なるものだったはずです。
ところで、永禄3年(1560)から同9年(1568)まで、里見氏(主力は正木氏)が香取侵攻をした際に、軍記物ではありますが、「府馬左衛門・東六郎」が正木氏に与同した、とされています(『東国戦記』)。府馬氏に関しては、拙稿「里見氏の香取侵攻の経路に関する一考察-交通史の観点から-」(『里見氏研究』創刊号 2022年3月)にて、その蓋然性が高いことを述べましたが、東六郎に関しては、なぜ名前があがったのかも考えが及びませんでした。しかし今回、もう一つの「塩の道」を考えた時、東氏が正木氏に与同した蓋然性は高いと思うようになりました。二次史料とはいえ、何らかの史実を反映している可能性があります。すなわち、以下のような理由によります。
東氏の支族である海上氏は、後に千葉氏を継ぐことになる胤冨が一時養嗣子として入っていたこともあって、当地域一帯の流通をおさえ権力を握っていました。それに対し、本家筋にあたる東氏(六郎は、東氏祖の胤頼から代々惣領が名のる仮名)は海上氏の後塵を拝していたと思われます。こうしたなか、正木氏の侵略により、海上氏は正木氏に敵対して中島城を奪われるなど、一時逼塞を余儀なくされていたようです。
これに対し、東氏惣領家は富の源泉として重要な塩の流通経路を、正木氏と結び既述の椿海‐桁沼ルートに重点を移すことで、東総地域の支配権を一挙に挽回しようとしたのではないでしょうか。笹川の津をめぐる東氏と森山城代海上氏の確執も想定されます。
正木氏の香取支配は数年間続きましたが、最終的には永禄9年には撤退していきました。冒頭の胤冨判物で、椿海‐桁沼ルートが塩舟の経路として指定されているということは、おそらく東氏の掌握していた同ルートを、当地域の支配を回復した胤冨があらたに獲得し、高田・野尻ルートとともに掌握したことを意味すると考えます。
ちなみに、外山信司氏のご教示によれば、天正13年(1585)-この年に邦胤は家臣により暗殺されます‐に、東氏は東大社の大般若経を千葉邦胤らとともに奉納しています。このことからみて、東氏は正木氏の撤退で完全に勢力を失ったわけではないようです。ただし、東氏の須賀山城は、「原文書」にみられるように、永禄9年以降、森山城と一体化して胤冨に掌握されるようになっていきました。天正17年(1589)の北条氏による「森山表穀留」(米穀の流通を強制的に止めること)とは、実際には笹川の津(森山表)で行われたと考えるべきでしょう。千葉邦胤の死後、千葉氏領国が北条氏の支配下に入った天正末期には、森山城・須賀山城は、北条領国の一支城化していたといえます。
参考文献は、文中に記した通りです。また、西福院については平野剛氏のご教示をいただきました。現地見学には、東庄町教育委員会教育課のご協力をいただいたことを付記します。
前々回(5月24日)ご紹介した若葉区源町(旧西寺山地区)の南屋敷遺跡は、15世紀代の土豪クラスの屋敷跡と考えられています。実は市内には、まだいくつかの土豪もしくは名主(みょうしゅ:作人らの農民に名田を貸出し、賃料をとるだけで自らは耕作をしない上層農民)の屋敷に関連すると考えられる小字が散在しています。
例えば、殿山・殿台・殿内といった領主層の屋敷の存在を表す小字は、殿山は若葉区原町・貝塚町、花見川区畑町に、殿台は大字として若葉区殿台町に、殿内は若葉区中野町、殿内海道は若葉区源町にそれぞれ存在します。これらの小字に隣接して前畑・前田・門田といった、領主の直営地(佃や御正作:みしょうさく)を意味する地名があります。若葉区谷当町には堀ノ内と門田、同区川井町には竹ノ内(館ノ内か)と前畑という組み合わせもあります。
例えば大字となりますが若葉区殿台町に、小字で前畑・松葉(的場の転訛)があり、行政区的には稲毛区萩台町に属す前田が、台地上の前畑の麓付近に展開しています。
南屋敷遺跡には殿台堀込の小字が残り、前畑の小字が近接します。同遺跡はたまたま近年まで開発されず、遺構が残っていましたが、他の例ではほとんど遺構は残っていません。これをどう考えるかです。早いうちに、市街地化や耕作によって破壊されたと考えるのか、または初めから土塁や堀といった構造をしていなかったのかです。
近年の研究成果によれば、東国における中世前期の武士の屋敷は堀や土塁をともなうものはあまりなかった、と考えられています。土塁や水堀で囲まれた「館」のイメージは、実は戦国時代になってからのものです。そうであれば、武士よりも階級的には下となる土豪や上層農民の屋敷も、土塁や堀をもっていなかったと考えた方がよいでしょう。
15世紀代に、「堀込式屋敷」と名付けられた南屋敷遺跡のような特徴的遺構をもつ屋敷が、下総中心(8例中7例)に出現します。生活面が地表面より2メートル近く掘り下げられているのが特徴ですが、もう一つ台地先端や縁辺部ではなく、台地基部か、やや奥まったところに占地するという特徴をあげることができます。戦国期になると、防御しやすい舌状台地先端部を取り込む占地になります。その点、土豪層の屋敷は、防御性というものをさほど重視していなかったせいでしょう。
なお、南屋敷の存在する小字「殿台堀込」とは、示唆的な字名です。すなわち殿台だけでなく「堀込」と続くのは、地表面から掘りこんでいる特徴に因むものと考えられます。
また、先述の若葉区殿台町の前畑・松葉、前田(稲毛区萩台町)の小字群ですが、中山法華経寺文書「日蓮聖教紙背文書」中の「寺山郷百姓橘重光訴状」に登場する論人(被告)寺山殿を彷彿とさせます。寺山殿の本拠地は、寺山の地(若葉区東寺山町・源町・みつわ台)のどこかにあったと思われますが、殿台は、寺山殿同様千葉氏を支えていた地域の小領主層の屋敷地ではなかったかと考えます。周辺の若葉区原町、貝塚町に見られる殿のつく小字は、こうした領主層の屋敷地であった可能性が高いと思われます。
一方、「百姓橘重光」は下人を抱えており、名主級の有姓の農民(文字通り百姓:ひゃくせい)だったと思われますが、こうした名主層は鎌倉時代、どのような屋敷に住まっていたのでしょうか。おそらく、本郷の小字地名の残る村落中心部に、塊村(かいそん)状に屋敷を構えていたのではないかと思います。
※塊村…とくに計画もなく、街路に依存することもなく、不規則に家屋が集合して塊状の平面形を示す集村をいう。〔日本大百科全書〕
遺構は見られずとも、地名から中世村落の復元に迫るやり方は有効だと思われます。ただ、残念なことに、千葉市では住宅地などの開発が進んでおり、かつての景観が損なわれていて、旧状を復元するのが困難です。せめて小字や通称地名などの聞取りによる保全が重要になると考えます。今回も『絵にみる図で読む 千葉市図誌』下巻(千葉市、1993年)を参考にしました。
千葉市若葉区大井戸町は、土気に源を発し印旛沼に注ぎ込む、鹿島川中流域の沖積低地に形成された集落です。この集落の一画に、38m×27mほどの小規模な方形館跡が存在します。なぜか同館跡は、平成の初期に行われた千葉県の城館跡悉皆調査(千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査)では城館跡として掲載されていません。
しかし、筆者は外山信司氏と同行して、1980年代半ばに現地を踏査していました。また、後に知ったのですが、『さらしな風土記』(更科風土記研究会 1999年)には「大井戸館跡」として載せられています。
今回、同館跡をぜひこのコラムに掲載して、日の目を見させてあげたいと考え、本シリーズ(市内の城)の最後をこの大井戸館跡の記述で飾りたいと思います。なお、直近の現地踏査および写真は、外山研究員の手を煩わせました。
まず大井戸館跡の立地環境ですが、冒頭触れましたように土気に水源をもつ鹿島川中流域の左岸、標高20m弱の舌状に北東方向へ延びた段丘面に大井戸の集落があります。その中央西端にある大宮神社の北側に、同館跡は位置します。
写真 西方向から大井戸館跡をみる(写真撮影 外山信司氏 2023年6月) |
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写真 大井戸館跡西側土塁と空堀(撮影 外山信司氏 2023年6月) |
当地域は、中世前期の段階では白井荘に属していました。応永13年(1406)段階では、大井戸の下流1.2㎞ほどにある谷当(千葉市若葉区谷当町)は、円城寺近江入道が領有していました(「香取造営料足納帳」)。また、鹿島川支流弥富川流域にある、同じく白井荘に属する根古谷城(八街市根古谷)も城主円城寺氏の伝承を持っています。
大井戸館跡もこのような訳で、円城寺氏に関る領主の屋敷が元になった可能性があります。
しかし、遺構をみると、同館跡西側、すなわち金親町(千葉市若葉区)方面から注ぐ鹿島川支流に面した側に、小規模ながら堀と土塁を持っています。このことから、同館は戦国期の土豪のものであったと考えられます。
なお、谷当町には今は土取りで消滅した谷当城跡があったほか、鹿島川に面して堀の内、西に隣接して門田の小字があります。堀の内地名が必ずしも屋敷地を意味するものではありませんが、この門田は、まさに屋敷に隣接する領主の直営田(佃、御正作)であったのでしょう。ただ、前述の15世紀初頭に見られる円城寺近江入道との関係は、今一つ不明です。
ところで交通史的観点から大井戸をみると、小弓から千葉市若葉区中田町を経て、鹿島川支流の平川沿いに遡る「佐倉古道」(ルートは複数あるようです)が、大井戸集落の北側を通っています。また、金親町(若葉区)の金光院方面からの道も、同集落から支谷を隔てた西を通って谷当町方面に延びています。これらの道は、幹線とは言えないまでも、本佐倉城から四方へ延びる支線の一つと位置付けられると考えます。
このことは歴史的にみると、とくに小弓公方足利義明の存在した16世紀前半の永正~天文年間に、この経路が意味を持ってくることになると思います。『本土寺過去帳』には、永正14年(1517)5月に、「ヤトミ」(弥富:佐倉市岩富)で弥富原氏の朗久が討死しているとされます。岩富所在の寺院の過去帳では、永正16年6月に「坂戸押合」(佐倉市坂戸)にて朗久は討死したとあります。
永正14年10月には、真里谷武田氏は伊勢宗瑞の軍勢の助力を得て、三上氏を「三上城」(真名城:茂原市真名)から没落させています。そして、二日後には真里谷武田氏は小弓城を落として、小弓の原氏は小金(松戸市)へ逃れています。弥富原氏の朗久の討死を、『本土寺過去帳』の永正14年5月ととるならば、前年8月に三上氏が猪鼻城(千葉市中央区)を攻めた事件に関連して、三上氏による本佐倉城攻撃にともなう前哨戦であった可能性が考えられます。
茂原市真名から北上し、いくつかのルートはあろうかと思われますが、鹿島川(あるいは平川)水系に出て、大井戸を経て弥富方面に行くことは十分考えられます。もちろん大井戸館跡に拠って敵の軍勢と戦うには、同館は小規模(38m×27m)すぎるので戦略上の意味はあまりないと思われます。こうしたことから大井戸館跡は、平時は弥富原氏家臣層となるような大井戸集落の土豪の持ち城として、水陸交通の監視等に使われていたのかもしれません。
千葉市内の城の紹介は、前回の大井戸館跡をもってひとまず終了となりました。続いて新シリーズとして「鹿島川流域の城」を始めたいと思います。今回は、総論としてなぜ鹿島川の城をとりあげるのか、説明したいと思います。
鹿島川は土気(千葉市緑区)に源流を発し、ほぼ北に向かって下り印旛沼に注ぐ、全長32㎞弱の一級河川です。中世において、中流域には白井荘が、下流の高崎川との合流点付近には印東荘が成立していました。戦国期に入ると、千葉市内より佐倉(中世の佐倉は酒々井町本佐倉・佐倉市大佐倉周辺)に千葉氏は本拠を移します。それが本佐倉城です。これ以降の千葉氏を、とくに佐倉千葉氏と呼ぶことがあります。
佐倉千葉氏にとって鹿島川は、長大な天然の堀の役割を果たすことになります。今でこそ鹿島川の流路に沿った美田が眺望できますが、近代に入るまでは、鹿島川の流れは蛇行を繰り返し、氾濫原が広がっていました。ですから、最大七、八百メートル幅の谷底(こくてい)平野を渡るためには、どの場所でも、というわけにはいかず、古来より一定の場所に限られてきました。
例えば、古代の古東海道と同じような経路をたどったと思われる近世成田街道は、佐倉市馬渡で鹿島川を渡っていました。このことは、平安末期、源頼朝の挙兵に従った千葉氏を討伐しようと、匝瑳北条(現匝瑳市)より千田親雅が兵を引き連れ、千葉氏の本拠を襲う経路にも登場します。この時の経路は、『源平闘諍録』(『平家物語』の異本)によれば、以下の引用の通りです。
平家の方人千田の判官代藤原の親正、(中略)匝瑳の北条の内山の館より、右兵衛佐(源頼朝)の方へ向はんと欲す。(中略)一千余騎の軍兵を相ひ具して、武射の横路を越え、白井の馬渡の端を渡つて、千葉の結城へ罷り向ひけり。
現在の匝瑳市内山の館を出た親正は、台地際の道(現在の国道126号線より台地寄りか)を南下したと考えられます。山武市富田(旧成東町富田)から台地上に上がり(「武射の横路」)、境川を渡って山武市埴谷を経て、佐倉市岩富から同馬渡に向かい、馬渡で鹿島川を渡ったものと思われます。馬渡からは、親正はほぼ国道51号線に沿うような古東海道以来の古道を千葉市内に向かい、結城浜(現在の千葉市中央区神明町・新宿周辺)で迎え撃った千葉成胤と合戦をすることになります。
このように平安末期には、古代の古東海道の重要な渡河点としての馬渡が確認されます。ですので、国道51号線の旧道沿いに展開する馬渡の集落(宿)は、少なくとも中世前期には成立をしていたものと考えます。
このほかにも、鹿島川の渡河点はいくつか考えられますが、これらにはほとんどと言ってよいほど、中世城館が組み合わさっています。こうした城館跡は、佐倉千葉氏の領域の出入り口を防衛するなど、それぞれ存在理由を持っていると考えます。本シリーズでは、これらの城館跡を、主に同氏との関係から探ってみたいと思います。
写真 下流からみた馬渡(向って右が千葉方面:左が成田方面) |
佐倉千葉氏の成立した戦国期において、この鹿島川が焦点となったことは幾度かありました。まずは、16世紀初頭の「篠塚の陣」の時です。古河公方足利政氏・高氏(後の高基)父子が、千葉孝胤を討伐するため、古河を出て篠塚(佐倉市大篠塚・小篠塚周辺)に足かけ三年もの間、陣を敷いていたというものです。
次に焦点となったのは、小弓公方足利義明の時期です。永正18年(1521)6月ころ、安房の里見氏が義明の命によって、本佐倉城周辺を攻撃し、和良比堀込城(四街道市和良比)に帰還したと考えられています。この頃は、臼井氏も小弓方に付くことになり、鹿島川を挟んで古河公方足利高基方の佐倉千葉氏と小弓公方足利義明方の臼井氏との緊張状態が続いたものと思われます。大永2年(1522)8月、当時義明方の小西原氏家臣が「佐倉ニテ」討死したと『本土寺過去帳』に記録されており、本佐倉城周辺で合戦があったことを知る唯一の資料となっています。
小弓公方滅亡後は、安房の里見氏が下総まで攻め込むことが何度かあり、臼井周辺が里見氏の攻撃を受けたこともありました。こんどは里見氏の北上の危険性が高まってきました。
しかし、里見氏に鹿島川を越えて攻められたことは、少なくとも資料上では確認できないのでなかったものと思われます。
以上のように、鹿島川は戦国期佐倉千葉氏にとって、本拠本佐倉城の重要な防衛線であったことがわかります。それでは、同川両岸に並ぶ城館跡について、本シリーズで逐次紹介していきたいと思います。
鹿島川は馬渡を過ぎてから西北西方向に流れを変えますが、同川右岸の台地が西に向かって、猪の鼻のように突き出していて、川の流れはこれを取り巻くように西北西から北東へと、ほぼ90度変えます。
大篠塚城跡は、この真西に突き出した台地の南面の、ちょうど台地がほぼ直角になった角地に占地しています。崖面に向かい緩やかに傾斜した角地を削平し、城の居住面である平坦面を造り出したため、背後の台地続きから城内を見おろせるような構造となっています。これを防ぐため、背後の台地続きに空堀を入れ、さらに城内部を見透かされないように高土塁を造成しています。城内から土塁頂部までの高さは、5mほどを測る大土塁となっています。
この城は南面する鹿島川の谷底平野と、対岸とを結ぶ渡河点(四街道市山梨字東向井と大篠塚)を睨むように立地しています。ちなみに、対岸にあたる四街道市山梨字には、東向井城跡があり、渡河点両岸にそれぞれ城が築かれていることになります。もちろん、本城の役割はこれだけではなく、鹿島川を遡上する河川交通を監視する役目を負っていたことは十分想定できます。なお鹿島川の河川交通については、別項にて詳しく分析する予定です。
写真 南東方向よりみた大篠塚城跡(中央やや右寄り) |
さて、本城の造られた時期はいつ頃に求められるでしょうか。そこで重要だと考えられるのが、佐倉市石川の追分(岩富・東金方面と山梨・千葉方面の分岐点)より西南西方面(山梨・千葉方面)に分かれた道です。残念ながら、石川追分より大篠塚に延びるこの道は、東関東自動車道の建設によってほぼ消滅してしまいました。しかし、明治時代に作成された「迅速測図」におれば、石川からの道は本城を巻くようにして、鹿島川を渡って四街道市山梨に向かっています。現在も大篠塚から対岸四街道市に渡る道は、ほぼ明治時代の迅速測図に記載された道を踏襲しています。
本城は、構造的にみて背後からの攻撃には弱いといわざるをえません。背後からの攻撃はあまり想定しておらず、鹿島川とその渡河点を睨んだ構造といえます。とすると、その役割を発揮できた時期として、まずは篠塚陣をあげることができます。
篠塚陣とは、ようやく近年になって、その存在が実証できたという歴史的出来事です。それまでは『千学集抜粋』に記載されるのみで、事実を証明する確固たる史料がなく(傍証は可能であっても)、その存在が今一つ明確にできませんでした。ところが「篠塚陣」という文言の記載された文書が発見されたことで、実在が証明されました(滝川恒昭「戦国前期の房総里見氏に関する考察-新出足利政氏書状の紹介と検討を通じて-」『鎌倉』119号 2015年)。
それは足利政氏・高基(当時は高氏を名のる)父子が、本佐倉城に拠る千葉孝胤(のりたね)を討伐するため、佐倉市小篠塚・大篠塚一帯に陣をとり、文亀2年(1502)から永正元年(1504)までのあしかけ三年(ただし途中で古河へ帰った時期もあるとされる)にわたって在陣したものです。長い期間、篠塚に在陣したものですから、政氏は大勢の家臣を引き連れており、行政府として篠塚の地が機能していたことが想定されます。
こうしたなかで、大篠塚城はどのような役割を果たしていたのでしょうか。前述したように、構造的にみて本城は台地続きからの攻撃に弱いといえます。もし本佐倉から孝胤の軍勢が攻めてくるとしたら、台地続き方面からでしょうから、本城の高土塁はこうした事態を想定して盛られていると思われます。もっとも千葉氏にとって、古河公方はこの時点で半世紀にわたって仕えてきた主君ゆえ、積極的な攻撃をしかけたかどうかは疑問ですが。
あとは、政氏側に仕えていた臼井氏一族が守備する鹿島川左岸(西側)の城とともに、河川交通および渡河点を監視する役目を負っていたと思われます。というのも、常総内海(香取の海)から武相内海(東京湾)へ水運を使い物資を運ぶには、印旛沼に入り、鹿島川をさかのぼって現在の国道51号線近くにある荷揚げ場(馬渡馬場館跡の位置)へあげ、陸路千葉湊へ運搬するのが早い方法と思われるからです。さもなければ、関宿近くまで舟で運び、太日川(現在のほぼ江戸川に相当する中世段階の川)を下って武相内海へ出る方法が考えられますが、遠回りになります。政氏陣営に印旛沼から鹿島川に入り、陸路千葉へ運ぶ経路を抑えられてしまうと、この関宿経由の方法をとらざるを得ません。
浜宿湊を外港とし、領域経済に大きくていたと想定される千葉氏にとって、香取内海から印旛沼(当時は印旛浦と呼ばれる)に入る舟が減ることは、経済的に大きなマイナスになったはずです。大篠塚城が鹿島川水運を抑えるということは、単に軍事面だけでなく、経済面でも意味があったと考えられます。
次に、歴史的に本城が機能を発揮したと思われるのが、篠塚陣より20年ほどたった永正18年(大永元)の小弓公方足利義明(道哲)による本佐倉城攻めという事件が起きた時になります。こちらについては、「研究員の部屋(遠山)特別展 その7道哲が本佐倉城を攻めさせたのは事実か」に書きましたので、詳しくはご覧いただければと存じます。四街道市和良比の和良比堀込城が登場する文書があり、本佐倉城(酒々井町・佐倉市)の近辺を攻めた里見上野入道が和良比堀込城に帰陣したという内容です。四街道から陸路で本佐倉城を攻めるには、鹿島川を渡河しなければなりません。その一つの候補が大篠塚城と東向井城との間の道だったと思われます。
このように、小規模な城郭にも、以上みてきたような歴史的背景が想定できます。大規模であったり、高度な縄張構造を持つ城郭にばかり目がいきがちですが、何の変哲もないような小さな城館にも、存在理由(レーゾンデートル)があるものです。こうした城たちの無言の「声」を聞き逃さないようにしたいものです。
鹿島川左岸の佐倉市馬渡には、二か所館跡が残ります。国道51号線をはさんで、北側の馬渡集落にある馬渡館跡と、南側の馬渡馬場館跡です。後者は馬渡字馬場にある真言宗千蔵寺の境内となっています。短軸30m、長軸50mほどの小規模な館跡ですが、西と北には土塁と堀をともなっています(空中写真では、現在通路となる南側にも空堀が認められる)。
馬渡館跡の方は集落の中にある、北側に河岸段丘面をもつ武士の屋敷と評価できると思います。一方、馬渡馬場館跡の方は馬渡本村からは少々離れており、別の役割があろうかと推測されます。渡河点を守るという考え方もあるようですが、ここでは字馬場に注目してみ
ましょう。
写真 国土地理院空中写真(MKT617-C3-21)1961年9月28日撮影 写真中の黄色矢印先端部が馬渡馬場館跡の位置。画面左中央下辺より、斜め右上に向かう道路が国道51号線の旧道にあたる道。 |
馬場という地名には、いくつかの意味があると考えます。一つには、武士の屋敷の近くに設けられる馬の調練場、他にも神社の神事で流鏑馬を行う場所につく場合があります。また物資の積み下ろしをする場所にもつけられる場合があります。
馬場館跡のある現国道51号線の南側一帯は、字名を馬場といいます。ここでは、鹿島川水運で運ばれた荷を、馬などに積み替えて国道51号線とほぼ同じ経路で千葉まで運んだと考えられます。実際に鎌倉時代には、現在の東庄町から旭市北部にかけて存在した称名寺領荘園上代郷(かじろごう)の年貢を、香取内海水運を使い印旛沼(中世当時は印旛浦と呼ばれ入り江だった)から鹿島川に入って、馬渡馬場まで舟を使い運んできたものと考えられています。
室町時代に入ると、称名寺領荘園も実質的に消滅してしまいますが、香取内海からの物資や東京湾方面からの物資が、最短経路であるこの経路で行き来していたものと思われます。その意味で、戦国期の造作になると思われる本館跡も、物流の拠点を防衛する意味を持たされていたのかもしれません。もちろん渡河点を防衛する機能もあったでしょうが。
実はこうした物流の拠点につく馬場地名は、県内でいくつかの例があります。馬場地名に関して、いずれ別稿で述べたいと考えています。
太田要害城は、高崎川との合流点より直線距離で約2.7㎞上流の、鹿島川右岸の台地縁辺に位置しています。川を挟んだ400mほど対岸に、四街道市亀崎地区の突出した段丘面があり、最も両岸が狭まった地点となります。15世紀初頭の千葉氏被官の中小領主層の所領分布およびその面積などの載る『香取造営料足納帳』によれば、当城跡の周辺には「大和田」と「亀崎」の地名が存在しています。大和田は太田の古名とされ、亀崎は対岸の四街道市亀崎と考えられます。なお、匝瑳市にも亀崎地名があり、『納帳』に載っていても不思議ではありませんが、大和田と亀崎がセットで載るのは、鹿島川の重要な渡河点となる地を千葉氏被官が所領として有していたことを意味するものだと考えます。
太田要害城の「要害」は、天険の地を表すことから、そこに籠って戦うという意味で城を意味するようになりました。なお、正しい小字は用替(ようがえ:要害の転訛)です。南北朝時代に入ると、地名+要害で文書史料に頻出するようになります。本城跡は史料には登場しませんので、いつ頃築城されたかは不明です。しかし、交通史の面から考えると、佐倉市内を通過する「下総道」は、初期の頃、現在の国立歴史民俗博物館の台地下の鹿島橋の位置を渡れずに、南に迂回して太田と亀崎、もしくは大篠塚と四街道市山梨字東向井を渡っていた、と考えられています(高橋健一「戦国時代佐倉の鹿島宿」『旧国中世重要論文集成 下総国』戎光祥出版、2019年、初出1992年による)。
この下総道は、戦国後期には香取市下飯田(旧小見川町)の森山城と江戸城を結ぶ道として史料に現れます(小笠原長和「徳川家への献上柑子」『中世房総の政治と文化』吉川弘文館、1984年、初出1960年、および遠山成一「戦国後期下総における陸上交通について」同前『旧国中世重要論文集成』、初出1994年)。下飯田からは府馬(香取市)-鏑木(旭市)-大寺(匝瑳市)-多古(多古町)-佐倉(酒々井町本佐倉)-臼井(佐倉市)-大和田(八千代市)-船橋(船橋市)-八幡(同前)-市川-松戸-葛西(東京都葛飾区)-浅草(同)、そして江戸城へとつないでいます。安土桃山時代から江戸時代初期、柑子ミカンを江戸城の家康の元へ献上するために使われていた経路です。この経路は中世前期から存在したと思いますが、初期の下総道の臼井・佐倉間は、現在の国道296号線のように佐倉市角来と同田町間の現鹿島橋の所在地を渡河したのではなく、南へ迂回し太田と亀崎を渡っていたものと私は考えます。その理由は、鹿島川下流を渡河することが、初期の頃は後背湿地の広がりによって困難であったからと考えるからです。しかし、戦国時代後期になると、近世佐倉城跡と重複する位置にあった鹿島城跡の存在から、最短距離で臼井と本佐倉城を結ぶ経路である角来と田町の間が渡河できるようになったのではないでしょうか
私が、下総道は初期に太田・亀崎間を渡河していたと考えるのは、本城跡の北東に「宿」そして「馬場」地名が残ることも一つの理由です。古来より、ある程度の大きい川の岸辺には自然発生的に宿場が形成されるとされます(新城常三『鎌倉時代の交通』吉川弘文館、1995年)。馬渡の宿がまさにその例です。太田の宿もそのようなものであり、いわゆる城下集落として扱われる宿とは、性格が異なるものです。
さて、太田要害城跡の構造は、台地が鹿島川方向に突出した部分を利用し、台地とは土塁と空堀で区画した単郭の城です。前項の大篠塚城跡が緩傾斜地の先端を利用したため、城郭の背後が城の平面より高くなってしまったのとは異なり、本城跡はほぼ同一面で崖面近くまで等高線が伸びており、堀と土塁で十分防御できます。しかし、単郭の構造からは、領域支配ではなく、渡河点および河川交通の監視としての役割が窺えます。
また台地と城域を分ける土塁と堀の北端は台地側に櫓台状に突出しており、城郭用語でいう「折(おり)」となっています。これは敵の攻撃に対して、敵の側面(とくに楯をもつ左側ではなく、防御が難しい右側面)を狙う-これを「横矢をかける」といいます-目的で設けられるものです。こうした折をもつ城郭は、戦国時代になると多く見られるようになります。
図は『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書Ⅰ-旧下総地域-』より |
前々項(35 大篠塚城跡)でも述べましたが、1500年代の前半に、小弓公方足利義明が成立し、まもなく古河公方陣営にいた臼井氏が義明側に帰属してしまいます。臼井氏は、古河公方足利高基側についていた本佐倉城の千葉氏とは、敵対関係になったわけです。まさに鹿島川流域を境に両陣営が睨みあうことになりました。この状況下、里見上野入道による「敵城(本佐倉城と見なされる)近辺」の攻撃があったわけです。この時期には、既に本城は築かれており、機能していたと思われます。
戦国後期には、里見氏の北上によって千葉氏領国が脅かされるようになると、本佐倉城を本拠とする千葉氏にとって、鹿島川流域は重要な防衛ラインになりました。しかし、実際に鹿島川流域まで攻め込まれたという史料は残っていませんので、里見氏と千葉氏との当該地域での衝突はなかったものと思われます。
こうしてみると、本城跡は戦国時代後期まで存在意義はあったものと考えられます。
概念図は、外山信司氏の図(『千葉県中近世城館跡詳細分布調査報告Ⅰ 旧下総国地域』千葉県 1995年)をお借りしました。
先に平山城については、遠山の研究員の部屋「中世の城跡をめぐる」の№3で取り上げました。今回特別展「関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏」開催にあたり、平山城跡を本格的に踏査できましたので、その成果を述べたいと思います。
一番の疑問点であったのは、台地基部を隔絶する堀・土塁がなかったのか、という点でした。これまでは民家の密集地を抜けて山林に入るわけにいかなかったので、これを確認することができなかったのです。しかし、今回は当館の調査として、ご地元の方の許可をいただいて、内部まで調べることができました。その結果、台地を隔絶する土塁と堀跡一部を確認することができました。これにより、平山城の疑問点が解決しました。しっかりとした堀と土塁で、台地続きに侵入する敵を防ぐことが可能です。折の入った堀と土塁は完存しているわけではないのですが、ほぼ復元することができます。
しかしながら、全体的な縄張構造をみると16世紀の初頭の様相を示しており、文明年間に本佐倉城へ移転した千葉宗家は、その後、本城を常設的に使うことがなかったであろうことを裏づけます。例えば現在みることのできる堀幅は、上幅で4~5mほどで、民家建設による改変は考えられますが、戦国後期の城にともなうものとは思えません。
本城は、『千学集抜粋』の次の記述から、馬加康胤によって築かれたと考えられています。
(前略)康胤御子胤持、輔胤、孝胤、勝胤まて以上五世ハ、平山におはしけれハ、平山より御参詣ありて、(後略)
康胤は、康正元年(1454)11月に馬加城を落とされて千葉へ逃げ込み、さらに千葉を追われて平山に入ります。しかし、康正2年10月には東常縁によって市原八幡で討ち取られています。ですから、平山にいたのは一年にも満たない期間となります。ですので、康胤が築いたとしても今見ることのできる平山城とは異なった、簡素な構造ではなかったかと推測されます。
本格的に築城したのは、「岩橋殿」と呼ばれ、「岩橋(酒々井町)へ御上り也」と記された輔胤ではないかと考えます。そして、彼の連れてきた家臣団は、新しく造られた「宿」地区に居住したと考えます。前にも述べましたが、平山の宿は、県内の他例の中では、きわめて異例な地割をとっています。県内70例ある宿地名(屋号等も含む)のうち、ほとんどが道路に垂直に短冊地割(間口が狭く奥行きが長い敷地)をとるのに対し、平山の場合は道には関係なくブロック状が不規則に並ぶ形をとります。管見の限りでは、70例のうち唯一です。
文明16年(1484)頃、孝胤は本佐倉城を築きます。その後、まったく平山城が使われなかったかどうかは不明です。しかし、立堀城跡(緑区平山町)の存在から、戦国後期には平山城の存在価値は失われたものと推測できます〔立堀城跡については「中世の城跡をめぐる」№16をご覧ください〕。すなわち、小弓から旧東金街道に合流して佐倉方面を結ぶ、戦国期の古道を抑える格好の位置にある立堀城に比べ、この道から500mほど奥へ入った平山城の存在価値は小さいと言えるでしょう。縄張構造的にも、単郭ではありますが、立堀城の方が技巧的と言えます。
とくに、永禄から元亀年間にかけて、里見氏(正木氏が主体)の攻勢が続き、小弓の城(北生実城と南生実城の両方か)が里見勢に落とされたこともありました。小弓から佐倉方面に攻め込むことが、この街道を使えば可能です。本格的な里見勢の佐倉方面への進撃があると仮定すると、単郭の立堀城跡ではそれを食い止めるのは不可能かと思います。こうした事態が起これば、平山城にも兵力が詰められた可能性も考えられます。しかし、そうした事態に備えて平山城に手を入れた形跡も見当たらないので、そこまでは里見勢も動かなったのでしょう。
最後に、本城跡の探索は、くれぐれも地元の方からの許可をいただいたうえでお願いします。
(遠山成一)
享徳の乱で原氏と戦い敗れ、下総を追われて武蔵へ逃れた円城寺氏は、戦国後期になると千葉氏の家臣として下総へ復帰します。円城寺氏は系図上では日胤の跡を継いだことになっています。今回(2/16~3/3)展示させていただいた「圓城寺系図」(展示資料2-1-12)では、円城寺を名のる最初の人物は図書允貞政(ずしょのじょう さだまさ)となっています。
貞政は「円城寺氏を継いで千葉介の家臣第四に列する、下総国八木城に居城し、武功あり」と同系図には記されています。そして系図上では、貞政は千葉常胤の代にいたとされますが、同時代史料で円城寺氏が確認されるのは、早くとも鎌倉時代の終わり頃です。横浜市の「金沢称名寺文書」に、千田荘東禅寺(多古町寺作)の長老湛睿(たんえい)書状として「又土橋寺事、千葉介、図書左衛門、御寺方へも遣状候」とあり、この図書左衛門が後ほど触れます円城寺氏です。時代的には、ほぼ鎌倉時代末から南北朝初期と人物と考えられます。
ところで、貞政の貞は千葉貞胤の偏諱(主君の実名の一字をもらい受けること)と考えられます。実際、「田所家文書」(『千葉県の歴史 資料編 中世2』)には、円城寺図書右衛門入道に宛てた千葉貞胤書状案があります。これは建武政権が建武元年(1334)8月に発した徳政令の内容を、在京していた貞胤が下総にいる図書右衛門入道に知らせて、この法を守るように伝えたものです。この円城寺図書右衛門入道こそが系図に載る円城寺貞政その人だと考えます。
そして、同じく「田所家文書」には「九 徳政令につき香取文書具書案」の続きに、沙弥蓮一奉書案」が載ります。これは同年九月三日付で沙弥蓮一が香取政所の留守所へ「自下総守殿御状」、つまり前出の千葉胤貞書状案(の内容)を香取社家へ披露しなさい、としています。沙弥とは在家のまま髪を落とし仏道修行している人のことをいいますので、蓮一は図書右衛門入道を指すと考えられます。そして書き止めの文言は「仰せにより執達件の如し」となっており、この文書は上位者(下総守兼下総守護ヵ千葉貞胤)の意を奉じて、下位者(香取政所留守所)へ宛てたものとできます。つまり、蓮一(円城寺図書右衛門入道)は守護代的な地位にいることがわかります。こうしてみると、円城寺貞政が貞胤の偏諱を受けていることに納得できると思います。
ところで、ややこしいことに先ほどあげた者の他、少し下った時代の人物で「図書左衛門」の官途名を名のる円城寺氏も存在するのです。それは円城寺図書左衛門源胤朝という人物です。胤朝は、永和2年(1376)2月15日付の多古町妙光寺の日蓮坐像胎内銘に大檀那として記載されます。また、数年前の応安5年2月日付で中山本妙寺(後の中山法華経寺)の日祐に宛てて、千田義胤の意をうけた奉書を出しています。こちらも「図書左衛門尉源胤朝」の署名で「仰せに依り件の如し」としています(「中山法華経寺文書」『千葉県の歴史 資料編 中世2(県内文書1)』)。前述の湛睿書状に出てくる図書左衛門と同じ官途名を名のるので、胤朝の先祖にあたる、多古に所領をもつ円城寺氏と考えてよいと思います。
写真 島城跡遠景(栗山川・借当川合流点「並木のふけ」より) 現香取郡多古町島。 画面左に位置する「妙光(現正覚寺)ニテ」千葉胤直は自害した。(撮影 遠山成一) |
このように南北朝後期の千田荘には、「源姓」を名のる円城寺氏がいたことになります。本来、常胤の子日胤の後裔を標ぼうするならば平姓のはずです。実際、今回の展示でも「芝山観音教寺宝塔銅造棟札(複製)」および「竜腹寺宝塔銅造棟札(拓本)」に、円城寺肥前守平胤定が記載されています(展示資料1-2-3および1-2-5)。
また、他例では明徳元年(1390)10月15日付で円城寺ひやうへ三郎源満政が、香取社の社家である録司代家で文書などが盗まれたことを報告する披露状(「旧録司代家文書」『千葉縣史料 諸家文書』)を発給しています。さらに15世紀初頭の応永年間に作成された「香取造営料足納帳」(展示資料2-1-2)には、「円城寺源へ(兵)」、「円城寺源内左衛門」がいて、源姓の可能性があります。
ところで、平姓と源姓の円城寺氏がいるということは、どういうことでしょうか。先の円城寺図書左衛門源胤朝は、日蓮坐像胎内銘に大檀那である胤朝本人と並び「平氏女図書母」が記されています。つまり、胤朝の場合は、円城寺氏である母と源姓を名のる父をもつのではないかと考えます。他例も同様か、縁戚関係などで円城寺を名のったと思われます。先にあげた「香取造営料足納帳」には千葉荘・印東荘・千田荘・白井荘などに円城寺氏一族が散在しています。つまり、円城寺氏という一族は、日本史でいう、南北朝時代に血縁的一揆集団から地縁的一揆集団へと変化していくという流れを、まさに体現している一族ではないでしょうか。もともと、系図上でも千葉氏庶家から分かれた白井氏・鏑木氏一族に、円城寺氏の出自が求められます。この点、ライバルであり、円城寺氏が滅ぼされることになる原氏は、千葉氏胤の子で惣領満胤の弟にあたる胤高から出ており、対照的です。
次の「円城寺氏について その二」では、享徳の乱の起きる頃までに見られる円城寺氏について考えてみたいと思います。
(遠山成一)
【参考文献】
外山信司・遠山成一「岩富原氏について」(石橋一展編著『中世関東武士の研究17 下総千葉氏』戎光祥出版、2015年(初出『房総史学』26号、千葉県高等学校教育研究会歴史部会、1986年)
遠山成一「室町前期における下総千葉氏権力構造についての一考察-「香取造営料足納帳」の分析を中心に-」(前掲石橋『下総千葉氏』所収、初出『千葉史学』16号、千葉歴史学会、1990年)
遠山成一「円城寺氏について」(中世房総史研究会編『中世房総の権力と社会』髙科書店、1991年)
ここでは、享徳の乱前夜に出された円城寺氏に関ると考えられる二通の文書を紹介いたします。
まず一点目ですが、「香取旧大禰宜家文書」のなかに、姓未詳「前下野守胤仲」の土地打ち渡し状があります。日付は享徳3年(1454)6月13日付けで、以下のような内容です。
下総国香取神領の小野・織幡両村の事について、(主君の)病気治癒祈願として今月9日に出した寄附状の内容のとおり、土地を大禰宜胤房代官にお渡ししました。(病気治癒の)御祈禱については先例のとおり、処理してください。
この前下野守直仲は、私にとっては長い間謎の人物となっていました。ところが、ある研究会の席上、石橋一展氏から円城寺氏ではないかと思われる、という報告をいただき、即座に合点がいきました。
まず享徳3年6月13日の日づけですが、享徳の乱の始まる同年12月27日の半年ほど前となります。そして、主君の歓楽(病気)といえば、千葉胤将の亡くなるのが同年6月23日(『本土寺過去帳』)です。これが胤将に関るものだとすれば、打ち渡し状は亡くなる10日前に出されたことになります。
そして、前下野守の受領名は、今回展示した円城寺文書の「足利成氏書状」の宛所が円城寺下野守であり、なおかつ『本土寺過去帳』十二日条に千葉宣胤とともに亡くなった「圓城寺下野妙城」と同一です。つまり、前下野守直仲とは、この円城寺下野守のこととして間違いないでしょう。実名の直仲も、千葉胤直の偏諱とすることができます。
このことから見えてくるのは、円城寺下野守直仲は、胤直の偏諱を得て腹心でしたが、胤直が家督を胤将に譲ってからは、胤将に仕えたということです。そして胤将が享徳3年(1454)6月に亡くなると、再び胤直(この頃は入道しており常瑞を名のる)に仕えました。
前述「足利成氏書状」の内容は、上総国二宮荘(茂原市北西部)長尾郷に関して円城寺下野守が「申上旨」に対し、成氏は長棟(上杉憲実)が参上してから話し合い、(成氏の)安堵状(御判)を出すようにする、というものです。
長尾郷に関し「申上」げた内容とは、長尾郷の領有を求めたと考えられます。この書状の発給年は未詳ですが、宝徳年間と考えられています。宝徳年間には、既に千葉胤将が家督を継いでおり、胤将は足利成氏の忠実な配下として活躍しています。そして、円城寺下野守は胤将の守護代的立場で、成氏に「申上」げたものと考えられます。
胤将は文安3年(1446)4月に、上総国坂田(現横芝光町坂田)の霊通寺に宛てて紛失状(「千葉胤将紛失状」神保誠家文書)を発給していることから、上総国の守護職を持っていたと考えられています。ちなみに、文安3年は胤直から胤将に代替わりしたとされています。
こうしてみると、円城寺下野守直仲は、下総国守護で上総国も兼任していた胤将の守護代的立場にあったと考えることができるのではないでしょうか。
もう一点円城寺氏と思われる書状は、これもまた石橋一展氏からのご教示によりますが、宝徳2年(1450)10月27日付、姓未詳源壱岐守直貞寄進状です。本状は本妙寺(後の中山法華経寺)に宛てて、風早荘平賀(松戸市)の年貢のうち毎年二結(二貫文)を本妙寺に寄進することを約したものです。
源直貞を円城寺氏と考える理由は、(一)実名の「直」は胤直の偏諱の可能性があること、(二)源姓円城寺氏の存在が明らかであり、なおかつ千田氏に仕えていた円城寺図書左衛門源胤朝が中山法華経寺日祐に対し、八幡荘谷中郷(市川市中山・若宮・高石神)を千田義胤の命を奉じて安堵していること、があげられます。さらに(三)直貞の受領名壱岐守は、前述『本土寺過去帳』十二日の条に、円城寺下野妙城とともに壱岐守が記載されていて、これは直貞本人を指すと考えられるからです。
源姓円城寺氏が、東葛飾地域の八幡荘・風早荘に所領を有していた可能性があり、この点において小金周辺に地盤のあった原氏と競合関係にあったのではないでしょうか。これが享徳の乱において、原氏と円城寺氏が衝突した一つの原因となっていると思われます。
(遠山成一)
【参考文献】
石橋一展「千葉胤将の家督継承と死去」(『室町遺文』月報5 関東編第5巻、東京堂出版、 二〇二二年)
康正(こうしょう)元年(1455)8月12日と15日の両日、千葉を追われ千田荘多古に逃げていた千葉胤直・宣胤(のぶたね)父子は、多古城と島城でそれぞれ自害しました。『鎌倉大草紙』によれば、12日には宣胤が多古城で、15日には胤直は島城を追われ、土橋如来堂(多古町寺作)でそれぞれ自害したとされます。土橋如来堂とは多古町寺作の土橋山東禅寺の一堂とされ、東禅寺にある五輪塔は「伝千葉胤直墓」として町指定史跡になっています。
ところが、事実はそうではなかったことが、川戸彰氏によって明らかにされました。氏は『本土寺過去帳』15日条にある胤直の記事から、胤直の自害した「妙光ニテ御腹被召」の文言を手がかりに、「妙光」が島の本覚山妙光寺であることをつきとめました。つまり、島から栗山川を使って上流の多古町寺作にある東禅寺に逃げたわけでなく、島城に西に隣接する現正覚寺(写真1参照)で自害した、ということです。
島妙光寺は、茂原市の藻原寺(そうげんじ)(旧妙光寺)の日向(にこう)門流の僧が南北朝期に開基したものです。ところが同寺は明治41年(1908)に長崎県に移転しており、その跡地には成等山正覚寺が建立されています。邪教として幕府より厳しい弾圧を受けた妙光寺は、不受不施派から受布施派に転向せざるを得ませんでした。ところが、明治時代となって不受不施の教義が許されると、潜伏していた不受不施派の信者たちは、受不施に転向した妙光寺を受け入れなかったため、長崎県へ移転していったとのことです。
一方、宣胤は『鎌倉大草紙』によれば、「城外のむさといふ所の阿弥陀堂」で自害したとされます。「城外のむさ」とは『多古町史』には「ゐさ」(居射)の誤伝の可能性を指摘しています。多古町多古の小字で居射があり、多古城から出てここにあった阿弥陀堂で自害したと思われます。
『本土寺過去帳』12日条には、「五郎殿十三歳 千葉介宣胤法名妙宣」と記載されますが、
死亡した場所は書かれていません。ただ、一緒に列記される人物として「常陸大充殿妙充 同子息」とあり、常陸大掾(だいじょう)父子が死亡していることが目を引きます。これは上杉方として、胤直父子らの援軍に駆け付けたものの、島城で討死したか自害したものと思われますが、逆に胤直らを攻めて討死したという考えも出されています。
同じく「圓城寺下野妙城 同壹岐守妙宣 同日向守妙向」とあり、円城寺氏が三名並べられています。前回の研究員の部屋「その3 円城寺氏について2」で書いたように、円城寺下野守直仲と円城寺壱岐守直貞のこととして間違いないと思われます。
ちなみに嘉吉2年(1442)に千葉胤直・胤賢兄弟が大檀那となり造立した、芝山観音教寺(山武郡芝山町)および印西龍腹寺(印西市竜腹寺)の宝塔棟札に載る円城寺肥前守平胤定は、記載されていません。代替りで一線から退いたか、享徳康正の変の起こる以前に死去していたかと思われます。
〔写真1〕 国土地理院空中写真 1963年7月27日撮影 |
ところで、『鎌倉大草紙』の記述から、従来、享徳康正の変が勃発したのは享徳4年(1455)3月のこととされていました。しかし、最近の長塚孝氏らの研究により、享徳4年7月のこと(直後に康正元年に改元)とするのが正しいと考えられるようになりました。確かに、3月から滅びる8月まで5か月近くかかっており、疑問を感じることがありました。
7月に千田荘に逃げたとすれば、わずかひと月足らずで多古城・島城は陥落したことになります。これは城郭の縄張をみれば、得心がいくところです。とくに多古城に関しては、現在は多古町の切通地区の台地縁辺部にわずかに空堀が残るだけとなっていて、縄張構造が不明でした。しかし、戦後間もなく撮られた空中写真では、台地から東へ突き出した部分に、はっきりと曲輪の存在が認められます(上記写真2)。
〔写真2〕 多古城跡 国土地理院空中写真 1948年9月26日撮影 台地先端より台地続きまで、3から4郭構造だったと思われる。台地縁辺部には逆コの字形の堀切が、畑地となって現存する。 |
台地先端の東端の曲輪が主郭(近世城郭でいう本丸部分)にあたると思いますが、城郭として小規模であることがわかります。この縄張構造をみれば、5ヵ月も持ちこたえることは困難であったと思われます。
今回の特別展では、残念ながらこれまでの説で展示しましたが、今後は享徳康正の変の勃発に関して、享徳4年3月説から同7月説に変更せねばなりません。
(遠山成一)
【参考文献】
川戸彰「千葉介胤直と妙光寺」『中世房総』第10号、中世房総史研究所、1998年(後に石橋一展編著『下総千葉氏』戎光祥出版社、2015年、に再録)
この18日、火曜日より、標記特別展が始まりました。これまで足利義明をメインテーマとした展示は皆無であったといってよいでしょう。義明が御所を構えた小弓(中央区生実町)のある千葉市で、本展を開催できることは大変喜ばしいことであり、同時に責任をひしひしと感じます。
先学の研究成果に大きく拠りながら、謎の多い義明の実態解明に努めたつもりですが、いろいろ壁に突き当たりました。本コラムでは、図録や展示キャプションでは触れえなかった疑問点や、また紙数の都合で十分な説明ができなかったところなどを「アラカルト」的に取り上げてみたいと思います。
第1回目は、本展の序章でご紹介する市原市八幡に所在する飯香岡八幡宮の所蔵する「大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみたきょう)」を取り上げます。
大般若波羅蜜多経(以下、大般若経といいます)が神社に所蔵されていると聞いて不思議に思われた方もいらっしゃるかもしれません。明治時代になるまでは神仏習合の考えのもと、日本人は神と仏を同じものと捉えていました。本地垂迹説といって、本来の仏様(「本地」)が日本に出現した時に、かり(権)の姿(権に現れるで「権現」)である神様の姿をとったとする考え方です。ですから、天照大神の本地は大日如来、同じく素戔嗚(すさのお)は牛頭天王(薬師如来)、八幡神は阿弥陀如来、妙見のそれは十一面観音(あるいは薬師如来)などと考えられていました。
というわけで、お寺と神社が一緒にあっても不思議ではありません。今でも神社とお寺が近接して建立されているのは、この理由によります。
飯香岡八幡宮も、かつてはすぐ隣に神社と一体化した寺院(若宮寺=別当寺)がありました。それを霊応寺(れいおうじ;りょうおうじ)といいました。境内地は、JR八幡宿駅の構内及び西口ロータリーを中心とする一帯で、駅の東口にあたる地域に墓所(御墓堂遺跡)を構えていました。明治以降の神仏分離により今は廃滅しましたが、毎朝夕、通勤客や通学生徒で賑わう駅は、かつてはお寺と墓地だったのです。
大般若経は「飯香岡八幡宮宝殿」に寄進されたものですが、こうした理由で別当寺の僧侶たちが読経したものと思われます。
さて、この大般若経の巻五百には裏書があり、我々展示担当者の頭を悩ませる文言が記されています。それは「義明征夷将軍御家繁昌、子葉孫枝栄花松椿亀鶴之算、高基大樹将軍両君如シテ羽翼ノ、関東八ケ国掌中、(後略)」というものです。
この文言の何が問題かというと、大般若経が飯香岡八幡宮に奉納されたことから、少なくとも義明が小弓に移座した後のことと考えられます。とすると、義明と高基は対立関係にあるわけで、「両君羽翼の如くして」の文言と状況的に合わないわけです。
次に奉納した人物ですが、保生庵建清という関東足利氏の根本家臣と思われる人物です。「龔而保生庵建清、以懇志需全部六百巻、匣数六十箱、櫃三合、奉寄進」と記されています。「龔」とは「両手でうやうやしくそなえる」(『新版 漢字源』学習研究社)の意味があり、建清が寄進したことがわかります。
我々は建清とこの文言の前に載る「殊者俗名南在名小曾祢(彌)与三郎信直、武運長久、家門富貴、衆人愛敬之為」の小曾禰信直と同一人物と考えましたが、問題となるのはそれでよいのかということです。あるいは、建清と信直は同じ一族(例えば親子)という可能性も捨てきれません。
展示資料の5-4「パネル 佐野為綱・小曾禰胤盛連署書状」(潮田家文書)でわかるように、その後も小曾禰氏は小弓公方の家臣として仕え、義明の死後も子息頼淳の側近としてみえます。
小曾禰氏は、尊氏の側近高師直で知られる高氏一族の支族南氏の庶家にあたります。足利市の南部、渡良瀬川支流矢場川左岸に小曽根町という地名が残り、おそらくここが小曾禰氏の名字の地でしょう。小曾禰氏は、佐野氏同様、雪下殿(鎌倉の鶴岡八幡宮若宮の別当)の奉公人として仕え、義明について小弓に移ったものと考えられます。
そして最大の謎となるのが、次に紹介する文書の解釈です。「喜連川家文書案三」の「足利高基感状写」です。
「今度椎津被立御馬之砌、抽粉骨被走廻之条、感悦候、巨細園田信濃守ニ被仰含候、恐々不宣、 八月廿六日 高基御判 建請首座」
永正16年(1519)8月、足利高基は、前年小弓に入部した弟義明に対し、義明の擁立主体真里谷武田氏の東京湾に面した重要な湊であり、重要な支城椎津城のある椎津(市原市椎津)を攻撃しました。椎津は、小弓から南西に10数kmほどの距離にあります。
この攻撃には、高基の発給した感状などから、常陸の菅谷氏、羽生氏、下総の結城氏らが参加したことがわかります。また他の文書からも下総千葉氏が参陣したことが想定されます。
そして、高基の軍勢の中に「建請首座」がいたという事実です。建清と建請首座は同一人物と考えられます。そうであれば飯香岡八幡宮に大般若経を納めた義明側近が、義明を攻撃した軍勢の中にいたことになります。この矛盾をどう考えたらよいのでしょうか。
この矛盾を解く一つの仮説は、はじめ(永正16年段階)高基方についていた建清(建請)がのちに小弓方につき、それ以降、大般若経を寄進したと考えるものです。このように考えれば、高基と義明双方を立てて「両君比翼の如く」と願った気持ちも理解できます。
以上のように、飯香岡八幡宮に寄進された大般若波羅蜜多経の奥書をめぐっては、小弓公方成立に関わる重大な謎が隠されています。資料の精緻な分析により、思いもよらぬ発見につながる可能性があります。展示にあたり、まだ完全に解明できたわけではありませんが、観覧される皆様方に材料として提示し、一緒に考えていただければ僥倖です。
本文を擱筆するにあたり、貴重な資料の展示を快諾いただいた飯香岡八幡宮宮司平澤政人様、同じく氏子の皆様方にあつく御礼申し上げます 。
前回「大般若波羅蜜多経の謎」で触れた標記攻撃について、今回はもう少し深く掘り下げてみたいと思います。羽生上総介(はにゅうかずさのすけ)に宛てられた古河公方足利高基の感状写(展示番号3-26パネル「足利高基感状写」)は、国立公文書館所蔵の「常総文書」に記録されたものです。「常総文書」とは、常陸土浦藩の農政学者長島尉信(ながしまやすのぶ)が嘉永3年(1850)に刊行したもので、現在は亡失した中世文書を筆写しており、大変貴重なものとなっています。従来、この羽生氏について『水海道市史』などを除いては、茨城県行方市羽生の羽生氏と考えられてきました。霞ヶ浦の北部東岸に面した羽生を所領とした常陸大掾氏系の羽生氏です。
これに対して、常総市羽生町の羽生氏としたのが『水海道市史 上巻』(1983年)でした。ただし、同市史では感状の発給者を政氏として、年代も永正12年(1515)のこととしています。しかも、父足利政氏と子の高基の不和の中で、政氏が「上総椎津城(市原郡)の高基党、真里谷党を攻撃させ、戦功があったのをみて次の感状(「渡辺新兵衛尉宛高基感状写」[石塚文書]と「羽生上総介宛高基感状写」[常総文書]のこと―引用者)をあたえている」と記述しています。これらは基本的に事実誤認であり、高基と真里谷武田氏が結んだ事実はありませんし、この文書は高基の感状写であることは間違いありません。模写された花押(サイン)は高基のそれで、政氏の花押とは異なっています。
しかしながら、羽生氏を当時は横曽根城(常総市豊岡町乙)にいた羽生氏としたことは卓見といえましょう。羽生氏は元々羽生館(常総市羽生町の現法蔵寺)におり、その後、横曽根城に移ったとされます(前掲『水海道市史』)。横曽根城は羽生館の鬼怒川の下流1kmほど、鬼怒川に面したところに位置しています。
感状写の宛所羽生氏が同所の羽生氏である根拠は、「常総文書」の添書きの記載からです。この文書の伝来について長島は、「岡田郡横曽根村 羽生利右衛門所蔵…」と添書きしており、長島がこの感状を書写した幕末には、原本が横曽根村(現常総市豊岡町乙)の羽生利右衛門のもとにあったのです。以上のことから.永正16年(1519)の椎津城攻めで高基に従ったのは、利右衛門の先祖の羽生氏だったといえましょう。
ところで、この羽生氏ですが、「常総文書」の長島の添書きの続きには「羽生利右衛門所蔵 今渡辺を氏とす」とあります。このことは、以下に述べる理由から、羽生氏は元来の名字は渡辺氏で、当地の羽生町に入部したため羽生氏を名のり、後に(江戸時代以降か)渡辺に復姓したと思います。
渡辺氏といえば、大阪府の淀川河口の渡辺の地(残念なことに地名は無くなってしまいました)を本拠とする水軍の将渡辺党が思い浮かびます。結論から言えば、羽生氏はこの渡辺党につながる一族と考えられます。その理由は、この鬼怒川水系には他にも渡辺氏がおり、水軍を率いて戦闘に参加し、あるいは流通に従事している様子がみてとれるからです。例えば、常総市古間木(ふるまき)の渡辺氏は古間木城に拠って、ちょうど永正年代に政氏方と高基方の対立時に高基方(『水海道市史』では政氏方とする)として働いています。実は、椎津城攻めに関する高基の感状写に、渡辺新兵衛尉あてに出された永正16年の9月3日付のもの(「石塚文書」)があります。しかし、この文書は「なお、検討を要す」とされ、史料としては取り扱いに注意が必要とされています。筆者は、新兵衛尉が古間木渡辺氏かどうかはさておき、なんらかの史実を反映したものと考え、椎津城攻めにおける渡辺氏の従軍を肯定的にとらえています。
このほかにも先学により、小手指(茨城県猿島郡五霞町)や向古河(埼玉県加須市)の「流通商人」の渡辺氏の存在が指摘されています(佐藤博信「古河公方とその周辺-特に小手指と向古河の渡辺氏をめぐって」『千葉県の文書館』第3号 1997年、後に同『江戸湾の中世』第二部第八章「下総渡辺氏の歴史的性格」として再録 思文閣 2000年)。両所は古利根川・渡良瀬川水系に接し、陸路では小手指に奥大道が通るなど、古鬼怒川水系と連絡する要衝といえます。
また、千葉県でも印旛沼沿岸にいた渡辺氏が知られています。まず、佐倉市岩名玉泉寺の金剛力士像吽像の胎内簡札には、明応6年(1497)8月1日の日付で「地頭渡邊厳二良」と記されています(『千葉縣史料 金石文篇二』)。次に旧本埜村(現印西市)竜腹寺の龍腹寺の五重塔(今は亡失)の鋳銅棟札には、塔の建設は嘉吉2年(1442)11月に始まり、辛未年(宝徳3年:1451)に完成したとあり、「渡邊次郎左衛門慰(ママ)源廣豪」の名が、当主千葉胤直と重臣円城寺氏に次いで上位に刻まれています(『同前』)。両者は仮名の二郎(次郎)を同じくすることから、半世紀近くの開きがありますが、同一氏族の関係の可能性を考えてみてもよいでしょう。
佐倉市岩名は、鹿島川が印旛沼に注ぐ河口に面しています。そして、そこから北西2kmほどの印旛沼に面した地に飯野城跡があるのです。同城跡は単郭で沼に面しており、舟入とみられる地形があって、いかにも水軍の城にふさわしいといえます。
嘉吉2年に筆頭家臣円城寺氏に次ぐ位置にいた渡辺氏は、印旛沼水系を抑える水軍の将として重用されたものと考えられます(しかし、千葉氏が本佐倉に本拠を移した文明年間以降、渡辺氏の名は史料上みえなくなります。胤直らとともに享徳の乱で滅亡したのでしょうか)
このように、渡辺氏は水軍の将らしく、関東各地の河川湖沼の沿岸部に拠点を構えたことがみてとれます。鬼怒川沿岸の羽生の地に入部した渡辺氏(羽生氏)も、こうした渡辺党の一員だったと思います。
それでは、以上のことが椎津城攻めとどのように関係してくるのでしょうか。長くなりましたので、続きは次回に述べたいと思います。
前回ご紹介した永正16年の椎津城攻めに関連して、足利高基が発給した建請首座宛ての感状(喜連川家文書案三)があります。その文言に、「今度椎津被立御馬之砌」とあり、高基自身が出陣したことがわかります。それでは、古河城にいた高基はどのような経路で椎津城を攻めたのでしょうか。
まず高基の動員した軍勢には、他の感状等から菅谷氏(すげのやし:常陸宍倉城主)・結城氏(下総結城城主)・羽生氏、そして千葉氏・原氏・海上氏などがいたことがわかります。高基は、どのような経路で軍勢を率いて椎津城に至ったのでしょうか。
椎津城は、「寺社群と交易場を中心とした湊津の存在が十分想定される」(佐藤博信『江戸湾の中世』第3章「上総椎津中世的展開」 2000年:初出1996年)場に築かれた湊城(海城)というべき城です。椎津城の東300mに位置する、支城の正坊山砦跡の麓には境川が流れ、船着き場と伝承される場所があります。現在埋め立てが進んでいますが、第2次世界大戦直後、境川の河口はJR内房線の線路から200mもないところにありました(国土地理院 1946年2月28日撮影空中写真)。東京湾を行き来した船が、河口から船着き場まで十分に入ってこられる位置と言えましょう。
ところで高基は、船で攻めたのでしょうか。「御馬を立てられ」という感状の書き方から、陸路を想定するべきではないかという考え方もあるでしょう。しかし、これからみるように、海路(水路)を経たと考える方が合理的と思えるふしがあり、すでに先学により、その旨の指摘があります(佐藤博信「小弓公方足利氏の成立と展開」『中世東国政治史論』2006年:初出1992年)。
その経路で考えられるのは、第一に古河の高基は渡良瀬川より水運で、そして陸路を通って関宿へ出ます。そこから船で藺沼水系(現在の利根川)を経て、印旛浦(現在の印旛沼)に入って高基党の本佐倉城の千葉氏のもとに至る経路が考えられます。この経路を使えば、鬼怒川水系を使用できる結城氏や羽生氏、霞ヶ浦沿岸の宍倉城(かすみがうら市宍倉)の菅谷氏も香取内海から印旛浦へ入り、同様に本佐倉城に至ることが可能です。
しかし、問題は、本佐倉からどのような経路を使って椎津城を攻めるかです。ここでまた、二つの考え方があります。一つは、本佐倉より陸路で椎津城を攻めたという考え方。もう一つは、陸路で東京湾の湊津にいったん出て、そこから船で海路椎津城を攻めたとする考え方です。
本佐倉から陸路を直接椎津に向かうには、小弓を通るのが近道であり、それには小弓城にいる義明とぶつかることになり、この経路は考えにくいと思われます。
また本佐倉より大きく東上総へ回り、高基方についていた長南武田氏の領域を通り、山越えして椎津へ出るという経路も考えられますが、あまりにも遠回りとなって現実には考えにくいと思われます。また途中真里谷武田氏の領域を通過するので、椎津まで攻めこむのは困難でしょう。
一方、東京湾の湊津から船で椎津へ向かうのも、高基と敵対する臼井氏が印旛沼西端を抑えているので、東京湾まで出るのが困難と考えられます。
以上のように考えると、高基の軍勢が本佐倉まで来たと考えるのは、成り立ちにくいと思われます。
第二に、水路で古河より椎津へ至る経路を想定してみましょう。香取内海を通る経路は想定しにくいとなると、利根川東遷以前の河川交通で考えてみる必要があります。当時の流路は非常に複雑でわかりにくいのですが、簡潔に述べると、古利根川は直接、現在の東京湾に流れ込んでいましたし、渡良瀬川も太日川(現在の江戸川に近い流路)となって東京湾に注いでいました。現在の利根川は、当時藺沼・鬼怒川・小貝川を集めて香取内海に注いでおり、渡良瀬川・旧利根川水系とは結ばれていないと考えられています。なお、細い水路で両水系は繋がっていたと考える見方もあります。ここでは、前者、つまり両水系は直接繋がっていないと考える立場で、以下話を進めます。
さて、渡良瀬川沿いの古河に本拠をおく足利高基は、渡良瀬川より太日川を経て、直接東京湾に出ることが可能です。香取内海水系の菅谷氏、鬼怒川水系の結城氏・羽生氏らは、香取内海から藺沼を遡上し、陸路で五霞町小手指を経て、渡良瀬川水系へ連絡して、高基同様、東京湾にでることができます。もちろん、小手指で渡良瀬川を下る船の調達が問題となってきますが、小手指には、前回、紹介した佐藤博信氏の取り上げた小手指渡辺氏がいます。
問題は、川船と海船をどう使いわけたかです。渡良瀬川を行き来した船(川船)は、東京湾を航行できたかが問題となります。一般に川底の浅い河川を航行する船は、船底がフラットな高瀬舟のようなものが適しています。それに対し、海を行く船は波風で転覆しないよう、喫水線から船底までを大きくとる必要があります(そのためには船底に重量物を積み安定性を保つことが必要)。果たして、高基の軍船は、渡良瀬川から東京湾を自由に航行できたのでしょうか。現在の川の様子から、中世当時を想像するのは難しいことですが、古河から太日川河口まで東京湾を航行した船で、行き来することは可能だったと、私は考えています。
以上、推測に推測を重ね、迂遠な考証に終始しましたが、永正16年(1519)8月の足利高基による椎津城攻めは、水系を使い軍船で攻めたものと考えました。
なお、河川の水量についても考えねばなりませんが、旧暦の8月(現在では9月)の水量は、四万十川の例ですが、9月の長雨のせいか豊富といえます。関東でもほぼ同様と考えてよいでしょう。
(参考:https://www.jswe.or.jp/publications/jutaku/wsi/pdf/seikasyu-002.pdf(外部サイトへリンク))
足利義明が小弓に向かって進発したのは、今でこそ永正15年(1518)7月のことだとされています。しかし、これが定着したのは1990年代後半以降といえるでしょう。それまでは、『快元僧都記』の記事(展示資料2-13 パネル「快元僧都記(群書類従)」)から、永正14年10月15日よりすこし前の時期と考えられてきました。
同書には、「義明は父政氏に勘当され、奥州に下向していた時、上総の武田真里谷三河守入道に招請をうけた。そして、小弓の原氏と戦闘を繰り返しては敗れていた真里谷氏は、義明を大将にして小弓城を攻め落とし、「原次郎と家郎高城越前守父子」を滅亡させた。」とあり、傍書に小弓落城は永正14年10月15日と記されています。この記事が根拠とされ、長らく永正14年の小弓落城と、それ以前の義明下総入部が定説となっていたのです。
しかし、永正14年義明入部説を否定したのが、古河公方研究で知られる佐藤博信氏でした。その根拠となったのが、展示資料3―5「パネル不動寿丸書状(鑁阿寺文書)」の存在です(佐藤博信「雪下殿御座所考」『日本史研究』302号 1987年 の注において、すでに永正15年7月の可能性を示唆されています)。
書状の内容は、鑁阿寺の支院普賢院に宛てて、「雪下殿様(足利義明に比定)が「総州御進発」するので、御祈禱を依頼する(義明の)御書が出されました。この旨を(鑁阿寺へ)お伝えいたしましたので、よくよく御祈禱に励んでいただければ素晴らしいことです。」というものです。
鑁阿寺の支院は12院あり、それぞれ干支に対応して毎年ごとに事務を担当(年行事)する支院が代わりました。佐藤氏は、各支院宛ての多くの文書を検討した結果、普賢院は寅年の担当であるとしました(「鑁阿寺文書覚書」『日本歴史』402号 1982年、後に同氏『中世東国の支配構造』思文閣出版 1989年)。永正15年は戊寅(つちのえとら)の年です。このことから、佐藤氏は「雪下殿様総州御進発」つまり義明の下総国小弓への発向を、永正14年ではなく、同15年7月のこととしました。そして『快元僧都記』の諸本の検討から、群書類従本の記事は後筆の可能性が高いとし、内容の誤謬を指摘したのです(「小弓公方足利氏の成立と展開」『歴史学研究』635号 1992年、後に同『中世東国政治史論』塙書房 2006年 に再録)。
実際、以上のことは展示2-11のパネル「足利道長政氏書状(臼田文書)」で、裏付けられることになります。この書状の日付「閏十月廿八日」は、閏月から永正14年で間違いありません。この当時、子息高基との抗争に敗れ、埼玉県久喜市の館(後の甘棠院)に隠棲し、出家し道長と名のっていた政氏が、山内上杉氏の家臣臼田氏に宛てたものです。
内容をみると、日を追って(政氏の)義明との仲は親しい状態となっており、臼田氏は高柳(義明のこと)に忠節を尽くすべきである、と政氏が指示したものです(佐藤前掲「雪下殿御座所考」、後に前掲『中世東国の支配構造』に再録)。ここで注目すべきは、この時点で政氏は「義明」と呼んでいることです。つまり、永正14年閏10月には、還俗して空然(こうねん)から義明と名のり高柳に在所していることが窺われます。この点、『快元僧都記』では、この前月の10月15日に義明が下総で総大将として小弓城を攻め落としていることになっていますが、まずこれは考えられません。義明は、書中にあるように高柳(久喜市)[展示資料2-5 パネル高柳御所跡]にいることがわかります。
また、先学の指摘(滝川恒昭「小弓公方家臣・上総逸見氏について」『中世房総』6号 1992)に依拠しますが、恒岡源左衛門尉入道に宛てた道長(足利政氏)書状写(「常陸誌料雑記五一」所収)も、義明の総州進発に関し重要な手がかりを与えてくれます。同文書は年欠の「四月廿六日」に出されています。書状の内容には「建芳死去」とあり、内容からみて建芳(扇谷上杉朝良)が亡くなってあまり経たない頃のものと判断できます。建芳の死去は永正15年4月21日の事ですから、直後の同年4月26日に岩槻城主太田氏の家臣である恒岡氏に宛てて出されたものと言えます。太田氏は太田道灌で有名な扇谷上杉氏の家宰(重臣)です。そして道長の「高柳江仰含」との文言から、永正15年4月の段階まで、義明は高柳にいたことが判明したのです。
こうして、佐藤氏の一連の研究と先学の史料発掘により、義明の「総州御進発」の時期は永正15年7月と確定しました。ですから、繰り返しますが、永正14年10月の小弓城攻めには、義明は参加していなかったのです。
ただ、気になる点残っています。「総州」をどう解釈するかです。これを下総国小弓としてよいかです。本展の第6章でも取り上げましたが、市原市五所には義明の八幡御所(展示資料6-13 パネル「伝八幡御所」)があったという伝承があります。この伝承は時系列に誤りであることは明らかですが、まったく無視できないとも思えます。市原市八幡には雪下殿ゆかりの八幡社、飯香岡八幡宮が所在し、義明と高基兄弟の宥和を願った文言の載る大般若波羅蜜多経も同社に納められています(展示資料序-1)。八幡と義明のつながりは、何らかの史実を反映している可能性があるのではないでしょうか。総州=上総といえないだろうか、ということです。
また、下総国を「総州」と呼ぶのかという点も気になるところです。その点は、戦国時代に、下総を指して「総州」と呼んだ例は複数見つかっており、結論から言えば「総州御進発」を下総国小弓への進発ととらえて差し支えないと考えます。
いずれにしても、市原と義明の関係は、今後も研究の余地があるように思えます
(この点については、簗瀬裕一「小弓公方足利義明の御座所と生実・浜野の中世城郭」『千葉城郭研究』第6号 2000年に詳しい)。
古河公方足利高基は、義明についた臼井氏を書状の中で猛烈に非難しています。それも時を隔て二度にわたって述べていますので、高基の臼井氏に対する怒りは、かなりのものだったと思われます。
今回の展示には、この2点の文書が揃いました。高基の怒りが吐露された、これらの文書をみていきましょう。
一点目は、展示資料3—28「足利高基書状」(渡辺忠胤氏所蔵文書)です。千葉氏の当主勝胤に宛てて、ここでは「臼井の不忠先代未聞に候」と記されています。今回の展示では、この書状を永正16年の高基の椎津城攻めに関連したものと考えてみました。「十一月廿七日」の日付からみると、八月の攻撃時よりやや間が空きすぎる感はあります。しかし、冒頭の「不思議の子細に就きて」の解釈は、外山研究員によれば、「不思議」とは思いもよらないこと、またはけしからぬこととすべきだそうです。とすれば、「思いもよらない(理性的な思慮の及ばないけしからぬ)事態が生じたので、帰座したところ…」と読めます。
これと「臼井の不忠先代未聞に候」がどう関係するかですが、「臼井の不忠」こそが「不思議の子細」ではなかったか、これが外山氏とともに検討した結論です。そうなると、これが永正16年の椎津城攻めに関わることとしてよければ、以下のような文書解釈が考えられます。
(椎津城を攻めるため、高基自ら出陣したが、)味方とばかり思っていた臼井氏が突然、義明方に寝返った(「不思議の子細」)。そのため、(急遽)高基は軍を引いて古河へ帰還した。その時に、千葉昌胤をはじめ海上氏・原氏等が高基のお供についてくれた。これには大変うれしく感動した。(それに比べ)臼井の不忠は、これまで聞いたことがない、はなはだ驚くべきことだ。
臼井氏は印旛沼の西端、水陸交通の要衝臼井荘一帯を支配していた千葉氏の同族(千葉常胤の父常重の弟常康から始まる一族)です。高基にとってみれば、いわば突然退路を塞がれる事態となった訳です。それゆえ、「令帰座」しめざるを得なくなったと考えられます。
実は、このことはすでに黒田基樹氏が「(前略)臼井氏が千葉氏から離叛して小弓方に応じたことが知られるが、それはまさに高基の帰還の際のことであったとみられる。そのため高基の帰還は、かなり困難な状態に置かれたとみられる。」と書いておられます(「古河・小弓公方両家と千葉氏」『佐倉市史研究』第24号 2011年)。けだし卓見かと思われます。前述の解釈で、黒田氏の想定は裏づけられたのではないでしょうか。
さてもう一点は、展示資料3-31「長南三河守宛足利高基書状」(東京大学史料編纂所所蔵文書)です。こちらは高基自筆の書状で、先学により大永4年(1524)に比定されている、長文のものです。長南三河守とは長南武田氏を指し、同族の真里谷武田氏が義明を擁立した主体であったのに対し、初めから長南武田氏は高基方を貫きました。ここにはいろいろな情報が詰まっており、大変興味深い内容となっています。しかし、とても全文を説明できる力は筆者にはありませんので、臼井氏の裏切りについてのみ、ここでは触れてみます。
高基は、「私の命をなんとか長らえてまでも、彼の仁(臼井氏)の滅亡をみてみたいものだ」とまで書いています。ここまで高基に書かせたのも、前述のような突然の裏切りということもあったと考えますが、元来、臼井氏は忠実な高基方の氏族であったからではないでしょうか。
それは、16世紀初頭の篠塚の陣の頃まで遡ります。篠塚の陣とは、『千学集抜粋』の記事からその存在は知られていたものの、一次史料がないとされ、長い間歴史的事実であったのか不明とされてきました。足利政氏・高基父子が千葉孝胤を討伐するため、篠塚(佐倉市小篠塚・大篠塚周辺)に陣をとり、3年近く居続けたというものです。
近年になって、関連する史料・記録が相次いで指摘され、歴史的事実とほぼ確定しました(和氣俊行・佐藤博信・田中宏志各氏の論考)。そしてついに、「篠塚陣」の文言の載る、足利政氏の里見刑部大輔宛書状(原本)の存在が明らかになりました(滝川恒昭「戦国前期の房総里見氏に関する考察-新出足利政氏書状の紹介と検討を通じて-」『鎌倉』119 2015年)。
陣の置かれた期間は、文亀2年(1502)から永正元年(1504)のあしかけ3か年という説が有力です(和氣俊行「下総国篠塚陣についての基礎的考察」佐藤博信編『中世東国の政治構造』岩田書院 2007年)。この間、篠塚公方府ともいうべき行政府が出現したとされます(佐藤博信「下総篠塚の陣に関する一史料」『戦国史研究』59号 2010年)。そして、3年にわたって、鹿島川右岸(北岸)の篠塚の陣を、対岸の城郭群で支えていたのは臼井氏一族だったのです。千葉氏に味方する勢力が北上して、陣の背後を脅かすことのないよう、臼井氏は後方を固めていたと考えられます。
このように、政氏・高基父子の在陣を3年にもわたり支え、忠節を果たした臼井一族が、椎津城攻めでは不忠(主君に不利益になることを行うこと)をなした。これは高基にとって、とても許せることではなかったのでしょう。そうしたことが、5年後の大永4年(1524)になっても、「露命之ながらへ度も…」の表現につながったのではなでいでしょうか。
ちなみに、臼井氏が滅亡したのは、天文15年(1546)のことでした。高基自身は10年以上前の天文4年に、子の晴氏との抗争に敗れて亡くなっています。臼井氏の滅亡どころか、仇敵の弟義明の討死(天文7年)も見ることはなかったのです。
両史料の展示に快諾いただいた所蔵者・機関の皆様には、篤く御礼申し上げます。
今回、とくに外山研究員との話し合いのなかで、考えがまとまりました。その旨を明記します。
原基胤という人物を知っているという方は、房総戦国史にかなり詳しい方と思われます。原氏は知っているけれど基胤は知らない、という方がほとんどだと思われる、無名に近い人物です。しかし、今回の展示ではこの人物が義明と絡んで、注目に値する動きを見せるのです。
具体的には、展示資料3-32「パネル道哲判物写(井田康博氏所蔵文書)」です。年不詳12月11日に出されたこの文書で、道哲(義明)に「孫二郎(原基胤)は、道哲に対して不忠な態度をとらない旨、数度も誓詞を出して約束したので、油断をしていたところ」と書かれています。もともと小弓城にいて、道哲と対立する高基側についていた原氏です。そのため、道哲方に誓詞を何度も出さなければ信用されなかったのです。
ところが続けて「去る22日の夜に(不忠な)態度を明らかにした」とあり、ついには道哲から離反する姿勢をしめしました。これには道哲も井田氏に対して、小弓公方側についていた椎崎勝住と相談して小弓方であることを明らかにするよう求めています。
原基胤の父胤隆は、永正6年(1509)の連歌師宗長による小弓訪問の際「小弓館」の主でした。しかし、永正14年(1517)10月には、真里谷武田氏らの攻撃 をうけ、小弓城は落ち、「原次郎并家郎高城越前守父子滅亡」(展示資料2-13 パネル『快元僧都記』)という事態が起きます。胤隆は天文5年(1536)7月に布川(茨城県北相馬郡利根町)で亡くなっています(『本土寺過去帳』)ので、この「原次郎」とは胤隆の弟朝胤のこととされています。
小弓原氏の当主となった基胤は、小弓を追われてもともとの原氏の所領であった小金(松戸市)に拠ったとされます。そして大永4年(1524)4月1日までは、確実に高基方についていたことがわかります(展示資料3―31「足利高基書状」)。基胤の「基」は高基の偏諱をうけたものと考えられています。
それでは、「道哲判物写」にみる、基胤による義明からの離反はいつだったのでしょうか。それは、同文書にある道哲の花押(サイン)が重要なヒントを与えてくれます。義明は四度改名をし(愛松王→空然→宗斎→義明→道哲)、花押も生涯五つの形を用いています。佐藤博信氏の分類によれば、この「道哲判物写」に据えられた花押は、最終形の花押Eとわかります。一つ前の花押形Dの終見が天文3年閏正月10日付の道哲書状のものですので、それ以降ということになります。
しかし、基胤は、天文4年(1535)6月20日、小弓公方の軍勢と小弓野田(千葉市緑区おゆみ野・誉田町)で戦い、岩富原氏の朗典らとともに討死をとげています(『本土寺過去帳』)。原氏の本拠小弓城を奪回しようとしてのことと考えられています。
このことから、「道哲判物写」が出された時期は、天文3年12月11日と確定できます。つまり、大永4年4月以降のある時期、基胤は義明方につき、天文3年末頃には義明に反旗を翻したようで、翌4年6月に小弓軍と戦って討死を遂げたということになります。
小弓奪回を果たせず、むなしく討死した原基胤ですが、その3年後、第1次国府台合戦で義明らが敗死すると、原氏は故地小弓の奪回を果たすことになります。その時の原氏の当主は、基胤の弟胤清がついていました。
本文を書くにあたり、黒田基樹氏の「古河・小弓両公方家と千葉氏」(『佐倉市史研究』第24号 2011年)、および佐藤博信編『戦國遺文 古河公方編』(東京堂出版 2006年)を参考にさせていただきました。
展示資料3-14「文禄慶長御書案 道哲書状(喜連川文書)」には、道哲(足利義明)が里見上野入道(義通)に命じ、「敵城」を攻めさせたことが記されています。以下、読み下し文で全文を掲げます。
敵城近辺田井・横山・小沢要害・根小屋以下、悉く打ち散じられ、其の地蕨に至り帰陣の由、聞き候、目出たく簡要に候、此のたび関宿へ動(はたら)き、これ成されたく候、走り廻り候はば、いよいよ以て戦功たるべく候、其の東悦のため遣わし候、恐々謹言、
六月十八日 道哲
里見上野入道殿
この文書を最初に取り上げたのは、古河公方研究で知られる佐藤博信氏です(「小弓公方足利氏の成立と展開」『歴史学研究』685号 1992年、後に同『中世東国政治史論』塙書房 2006年 に再録)。佐藤氏は、「敵城」を千葉氏の本拠本佐倉城(酒々井町本佐倉・佐倉市大佐倉)に比定し、帰陣した「蕨」を四街道市和良比の和良比堀込城としたのです。そして、年欠文書を永正17年(1520)のもの、つまり前年の足利高基の椎津城攻めに対する反撃ととらえました。
これに対し、田井以下の地名が佐倉近辺に見当たらないことから、「蕨」は埼玉県蕨市という反論も出ました。そうであれば、「敵城」を本佐倉城とみることはできません。しかし、永正17年段階で、里見氏が埼玉県蕨市に橋頭堡を築くことはできないとする、有力な再反論もあって、敵城を本佐倉城とする佐藤説は定着していると言って過言ではないでしょう。
ただし、田井・横山・小沢の3地名について、依然として比定地が見つからないのが、今後の課題として残ります。
その後、黒田基樹氏は佐藤説を支持しながらも、年代を一年後の永正18年(大永元年)6月18日の可能性があることを示唆しました(「古河・小弓両公方家と千葉氏」『佐倉市史研究』第24号 2011年)。その根拠として挙げたのが、『本土寺過去帳』に載る次の記事です。
これは、高基方の簗田氏の拠る関宿城(野田市)を攻撃するため、小弓から出張った軍勢が、小金領(松戸市周辺:原氏・高城氏の支配領域)を攻めるも攻めきれず、市川まで押し戻され、そこで討死したというものです(市川合戦)。つまり、先の道哲の書状には「此のたび関宿へ動き、これ成されたく候」とあり、里見義通は関宿を攻めることを命じられています。関宿を攻めるために通過せざるを得ない小金領は、もともと原氏が小弓に来る以前に領有していたとされます。永正14年10月15日に小弓城を追われた原基胤らは、小金城に戻ったと考えられています。その後、小弓城に入った足利義明は道哲と道号を名のるようになりましたが、小金に拠る小弓原氏とは敵対していたのです。永正18年(大永元:1521)8月、道哲の遣わした軍勢には、「市東」(市原市)、「臼井」、「布佐」(布川豊島氏)、「葛西」(葛西城の大石氏)、そして「小弓」(道哲の直属軍)などがいました(前掲黒田論文)。里見氏の軍勢の記述がありませんが、『本土寺過去帳』の性格上、書かれていないだけで、この軍勢に里見氏も含まれていたと思われます。
もし、この道哲の書状が永正18年のことであれば、約二月後に小金城攻撃と市川合戦がおきたとみることができます。もちろん、永正17年に本佐倉城近辺を攻めた後、和良比へ帰陣した義通は、すぐには関宿城攻撃に移らず、翌年に行ったとも考えることは可能ですので、この書状をただちに永正18年と確定することはできません。
しかし、手がかりになりそうなことがあるのです。それは、同記事のすぐ隣りに記された、次の記載事項です。同記事を使った研究の中で、これまでこの点を指摘したものは、管見の限りではありません。
「妙高位タカハシ其(共ヵ)打死」
「臼井、布佐、葛西、小弓者共」が討死した記述のすぐ隣に、この記載がなされています。「妙高位タカハシ」とは誰でしょうか。大網白里市小西を本拠とする小西原氏の重臣に高橋氏がおり、一族は同過去帳にも数多く載せられています。さらに、干支で「壬午」の年の8月に、小西高橋與四郎其ほかが「佐倉ニテ打□(死ヵ)」している記載もあるのです(『本土寺過去帳』廿九日条)。妙高位タカハシとは小西の高橋氏のことでしょう。そして、「壬午」とは大永2年(永正18年8月に大永に改元)にあたります。「佐倉」は、本佐倉城のある酒々井町本佐倉・佐倉市大佐倉を指します。小弓原氏と同族の小西原氏ですが、事情により小弓軍に参加していたものと思われます。
細かい論証は別の機会に譲りたいと思いますが、上述のように大永2年に本佐倉城を攻めた小西原氏の軍勢で討死したものが出ていることを考えると、次のような流れを考えることができます。
すなわち、永正18(大永元)年6月、里見義通は道哲に命じられて本佐倉城近辺を攻撃し、和良比堀込城に帰陣します。その時道哲より関宿攻めの要請をうけて、二か月後には、小金で原氏と戦い、市川まで押し戻されて味方に多くの戦死者を出しました。翌年の大永2年8月に、反撃に出た義明方は、前年(永正18年)に続いて本佐倉城攻めを決行した、とみるわけです。
以上のことから、「その地蕨に至り帰陣」の「蕨」を埼玉県の蕨市に当てることは、かなり難しいことがわかります。この道哲書状が永正17年であれ、18年(大永元)であれ、小金の原氏と敵対したまま、里見氏が長駆、埼玉県の蕨市まで陣を進めるのは考えにくいと思われます。また、義明にとっての最終目標は、高基の拠る古河城です。埼玉県蕨市は、この点から考えても、「其の地蕨に至り帰陣」とは地理的にみて言えないと思われます。
書状の出された年を、永正17年とみるのか18年とみるのか、残念ながら断定するところまではいきませんが、永正18年(大永元)とみる方が、蓋然性は高いといえるでしょう。
蛇足になりますが、小西原氏の本拠である小西城は、戦国後期とみられる縄張構造をもった城跡でしたが、圏央道ができたため、そのほとんどが壊されてしまいました。それでも該当部の全面発掘をうけ報告書が刊行されたことが、せめてもの救いになりました。東金酒井氏と土気酒井氏との領域のはざまに位置する小西原氏でしたが、その動向はさらに精査する必要が感じられます。
本コラム「その6 原基胤とは何者か」で取り上げた天文4年(1535)6月の小弓野田合戦ですが、野田十文字原合戦として、近世の軍記物や地元の伝承では、以下のような話が三つほど伝わっています。
一つめは、天文7年(1538)10月の第1次国府台合戦で、義明方について敗れた里見勢を追いかけた北条氏の軍勢が、里見勢と野田十文字原で戦ったという話です。二つめは、永禄8年(1565)、土気酒井氏と里見氏との間で、野田十文字原(誉田1丁目から2丁目)で合戦があり、土気酒井氏が勝利したとされます。そして三つめが、天正18年(1590)に、野田十文字原において、原胤栄が徳川家の酒井家次と戦って討死したという話です。
このうち最後の話は、原胤栄は前年の天正17年には死去していますので、明確な誤りです。また、永禄8年の土気酒井氏は、2月に北条氏政の軍勢に土気城を攻められ、激しい戦いを繰り広げています。この時、土気酒井氏は里見方でしたが、里見氏からの援軍はないことを土気城主酒井胤治は嘆いています。ですから、この両者の闘いが同年にあったとは、信じ難いものがあります。
これらの伝承のもとになったのは、天文4年(1535)6月の原基胤らが討死した、史実としての小弓野田合戦であると思われます。同合戦が記録として残るのは、『本土寺過去帳』、『教蔵寺過去帳』(佐倉市岩富町)、『長福寺過去帳』(佐倉市岩富)という日蓮宗寺院の過去帳の記録によります。なお、本土寺の末寺が経蔵寺、長福寺です。というのも、討死した原氏一族は本土寺やその末寺の外護者であったためです。
これらの過去帳は、日牌形式(命日の日づけごとに死者の法名・実名・死亡日時・同場所などが記されたもの)で、自然死でない場合はその記録(「〇〇ニテ打死ニ」など)も載せられることがあります。
小弓野田合戦は、こうして『本土寺過去帳』以下に記録されたのです。
史料三の「原孫治郎殿桂覺」は原基胤のことです。「六月野田ニテ打□(死ヵ)」とは何を表すのかというと、史料一の「小弓野田合戦ノ時子息孫治郎臣下三十郎三人共討死原左衛門朗伝」の「子息孫治郎」が基胤のことで、「小弓野田合戦」で討死したという意味です。「野田」とは、現緑区誉田町の古名で、小弓の東に隣接する地域です。本コラム「その6」でも述べましたが、道哲(足利義明)に従っていた原基胤は離反して、足利高基方に復帰したのが、前年天文3年の11月のことでした。
この小弓野田合戦では、史料二の『本土寺過去帳』廿日条によりますと、「タカハシ」、「エクチ」、「サトウ」ら5人も「天文四乙未六月廿日未申剋打死」したとあります(ただし、経蔵寺の過去帳では死亡日が「四月二十日」となっていて、食い違ってはいます)。「未申剋」とは、今でいう午後1時から同5時の間、という意味です。前週のコラムでも触れましたが、高橋・江口氏は小西原氏(大網白里市小西に本拠をおく原氏一族)の家臣として、同過去帳に何人も記載されています。つまり、この小弓攻めには小弓原氏のみならず、一貫して高基方であった弥富原氏と、これまであまり注目されてはいませんでしたが、小西原氏も参加していたことがわかります。つまり、原氏一族を挙げての戦いであったのです。しかし、小弓原氏・弥冨原氏の当主を含め、原一族とその家臣は討死した者を多く出してしまいました。
小弓原氏は当主基胤が死去したため、弟で牛尾氏を継いでいた胤清が当主の座につきました。その後は、胤清-胤貞-胤栄(たねよし)と続いていきます。
なお、天文4年から3年を経た天文7年(1538)10月、第1次国府台合戦において小弓公方道哲(足利義明)らが討死すると、小弓原氏は20年余りの時を経て、故地小弓を奪回することになります。
小弓浜野・佐倉(弥富)・土気・市原市市東方面にそれぞれ通ずる陸上交通の要地野田でおきた、天文4年の小弓野田合戦の記憶が、冒頭の地元の伝承に形を変えたのではないでしょうか。
この11日の日曜日で特別展も閉幕を迎え、本コラムも今回で最終回となります。まだ書かねばならないこともいくつかありますが、別の機会に譲りたいと思います。最後まで閲覧賜り、ありがとうございました。
大永7年(1527)11月3日付で、古河公方足利高基は鮎川美濃守にあてて感状(戦功を賞する賞状)を与えています。鮎川氏が名都借要害を攻めて疵を蒙ったことを褒め讃えたものです。翌々年の享禄2年(1529)3月20日には、同じく大永7年の名都借要害攻めで疵を負った鮎河豊後守へ、同様な感状を与えています。美濃守と豊後守は、同族と思われます。
写真 名都狩城跡の西側土塁 |
名都借要害とは、流山名都借城跡を指すものと、一般には考えられています。今から10数年前、筆者の属する研究会の合宿で、現地を訪れたことがありました。同城跡には、民家が建っており、家人は御留守であったので敷地内は見学できず、周囲しか見ることができませんでした。北側斜面に横堀はあるものの、台地続きの東側には堀や土塁の痕跡もなく、小規模な館城という印象をもったものです。攻撃を受ければ、たちまち落城しそうなお城なのです。一見した感想は、なぜここの城を攻め、激戦があり、高基が感状を出したのだろうという素朴な疑問でした。
名都借城跡を見学した後、すぐ西に隣接する前ヶ崎城跡へ場所を移して、公園化された同城を見学しました。しっかりした土塁や堀が残り、当時はコンパクトな城と思ったものです。ところが、前ヶ崎城跡は、すでにその頃は第2郭・第3郭とも台地が削られていて、実際の大きさは、南北400m近い規模をもつ大規模城郭でした。筆者たちの見たのは、舌状台地北端に残る主郭部だけだったのです。土地勘がないせいで、残念なことに、この二つの城の関係性には思いが及びませんでした。いずれにしても、小規模な名都借城跡とそこをめぐる合戦とが頭の中で合致せず、頭の片隅に疑問として残ったまま、長い時間が過ぎてしまったのです。
写真 前ヶ崎城跡主郭部 |
今回の特別展で、義明(道哲)の動向を探るうち、史料でいう「名都借要害」とは前ヶ崎城のことを指すのではないか、と考えるようになりました。もっとも城関連のネットの記事などには、前ヶ崎城が「名都借要害」のことではないか、とする記述もみられますが、根拠等は示されておらず、不勉強ですが、これを述べた文献にもお目にかかったことがありません。
ここでは、両城について考えてみたいと思います。まず、なぜ名都借要害をめぐって合戦がおきたのか、です。そもそも、高基の感状を得た鮎川氏は、関宿城主簗田氏の家臣です。この合戦は、関宿城主簗田氏が主力となっていると考えてよいでしょう。
では、「名都借要害」に拠っていた主体は誰であったのでしょうか。それは、ずばり義明(道哲)と考えます。
というのも、「展示資料3―16足利高基書状(写真版)」に考えるヒントがあります。この書状には、年紀どころか月日も記されていません。高基が小山政長に宛てて、関宿城へ攻撃をしかけた義明に対し、政長は直ちに参陣して反撃をしたことを賞している内容です。注目したいのは、追って書きに「下口より押返し揺ぎ候」ということを高基が聞き及んだと書いていることです。
よく書状のなかで「〇〇口」と地名で記すことがあります。〇〇への出入り口という意味で、一定の広がりをもつ区域として使われます。しかし、この追って書きの部分では「下口」と、地名ではない特定の場所を示すと思われる書き方をしています。このことから、義明の軍勢は、関宿城の城下町を含む城域まで攻めこんだものと解釈できます。
これに対し、政長は出入り口(下口)の部分で、攻め寄せる義明軍を押し返し、反撃を加えたとされます。残念ながら、日時が書かれていないので、この文書だけではこれ以上のことはわかりません。
しかし、大胆に推理すれば、関宿へ攻め込んだ義明軍に対し、反撃に出た関宿の簗田軍は義明の拠る「名都借要害」(実は前ヶ崎城)に攻め込み、名都借要害合戦が行われたのではないでしょうか。年未詳の史料で、義明の「当地落居不可有程」、「公方様向当地被出御馬候」、「当地御在城」という文言のはいったものが三点あり、「当地」が何処を指すか重要な問題となってきます。ここでの細かい論証は避けますが、大永7年(1527)に、以上述べたような関宿をめぐる大きな動きがあったものと考えます。
なお、国土地理院のウェブページの「空中写真閲覧サービス」で、1961年6月3日国土地理院撮影の前ヶ崎城跡周辺のモノクロ空中写真を見ることができます。
1. 空中写真の検索方法(画面左側) 「空中写真」を選びクリックする
2. 整理番号 MKT613
3. コース番号 C40
4. 写真番号 22
とそれぞれ入れると該当画像1点のみが示されるので、地図上の〇囲みの「1」のマークをクリックすると、モノクロで写真が表示されます。さらに「高解像度」をクリックすると、拡大してもかなりはっきりと見ることができます。拡大縮小は自由にできます。この写真からは、破壊されるまえの北へ延びた舌状台地上の前ヶ崎城跡(堀跡も植生の違いで明瞭にわかる)を見ることができます。すぐ東には名都借城跡も見ることができます。
これをご覧いただければ、当時の高基らが前ヶ崎城(『本土寺過去帳』には前ヶ崎に城があったことが記録されている)を名都借にある要害と間違えても仕方ないと納得いただけるでしょう。それだけ両者は近接し、地元の者でない限り、前ヶ崎と名都借とが混同されやすいものと思われるからです。
小弓公方足利義明を支えた房総の主勢力に、真里谷武田氏と房総里見氏がいます。前者は永正14年(1517)10月15日に小弓城を攻め落とし、原氏や家老高城氏を小弓から駆逐しています。また、後者は「義明様小弓城ニ御移リ、房州里見、常陸鹿島、武州小府佐々木以下、悉ク奉随之」(『快元僧都記』)とあるように、義明の小弓入部からほどなく義明に従ったようです。
両者は天文2年(1533)から同3年にかけて、一族の間でそれぞれ内乱がおこります。先に里見家中で事件がおきました。天文2年7月、稲村城(館山市稲)でおきた当主里見義豊による正木通綱と叔父実堯誅殺についての従来の通説は、滝川恒昭氏によって大きく塗り替えられました(「房総里見氏の歴史過程における『天文の内訌』の位置付け」『千葉城郭研究会』第2号 1992年、後に同氏編著『房総里見氏』戎光祥出版 2014年、に再録)。
父を殺された里見義堯らは真里谷信隆の百首城に逃れ、義豊と敵対する相模国の北条氏を頼りました。やがて、北条氏の援軍を得た義堯方の勢力は義豊勢を追い詰め、義豊は真里谷恕鑑を頼り上総国へ逃れることになります。真里谷武田氏でも父恕鑑と子の信隆が、敵味方に分かれたのです。翌3年4月、恕鑑や小田喜武田朝信の支援をうけた義豊は、安房国へ攻め入りますが、犬掛(南房総市)で義堯軍と戦い敗れ討死しました。
写真 南方向(一ノ坪方面)からみた稲村城跡 |
こうして、里見義通・義豊と続いた本宗家は、義堯とその子孫へと交替しました。滝川氏によれば、この時に、義豊系統(前期里見氏)の痕跡は意識的に消されたということです。以後は、勝利した義堯の系統(後期里見氏)が近世初頭まで続いていくことになります。
この里見氏の内乱に、小弓公方足利義明の関った形跡は見当たりません。おそらく、小弓から遠く離れた安房国での出来事であったから、と思われます。
この里見氏の内乱では、真里谷武田氏は親子で義豊方と義堯方とに分かれましたが、この矛盾は天文3年(1534)、今度は真里谷武田氏の内紛となって現れます。恕鑑の跡目をめぐって対立、抗争した武田氏天文の内乱です。この年の7月1日に死去した恕鑑の家督を嫡子信応(のぶまさ)がとるか、庶子信隆(こちらを嫡子とみる説があります)がとるか争われました。既に同年5月10日の段階で、足利義明は信応に対して、上総が意のままになったならば、荘園を一つ与える旨述べています。恕鑑死去の前から、なにやら内部対立の気配が感じられます。
そのわずか十日後、足利義明は「上総衆(信隆ら)」退治のため出陣しています。そして11月20日には、義明は真里谷や椎津城を攻撃して「敵百余人」を討ち取ったとされます。庶子信隆とその支持勢力の籠っていた諸城です。真里谷城に庶子信隆が入っていたとなると、嫡子である信応は本拠となる真里谷城にいられなかったのでしょうか(信隆を嫡子とみれば問題ありません)。小弓公方足利義明を支える最大勢力である真里谷武田氏の内乱は、義明の力で信応方の勝利で終わりました。
しかし、諸矛盾の根本的解決にはならなかったようで、天文6年(1537)5月、再び上総国で内乱が勃発しました。第二次武田氏天文の内乱です。5月14日、信隆は「新地」の城に立て籠もり、信応の追放を義明に訴えました。実は、この「新地」の城についても、真里谷城(木更津市)に近接する天神台城(同前)とみる考え(通説)と、真里谷城を指すという考えの二通りの説が存在しています。本題からはずれますので、詳説はしませんが、末尾に参考文献をあげておきますので、興味がおありの方はご覧ください。以下は、通説に基づいて述べたいと思います。
さて、信隆の訴え=蜂起に対して、義明は天神台城をはじめ、信隆方として蜂起した峰上城(富津市)・百首城(同前)を攻撃しました。義明の命をうけ里見義堯は百首城を、信応は天神台城を攻めました。義明は峰上城を攻めましたが、これは反乱の拠点であったからとされます。信隆方は北条氏に救援を求め、北条氏は「特殊軍事部隊=大藤衆」である大藤金谷斎(おおとう きんこくさい)を天神台城に遣わしました。
ところが、信応方の攻勢の前に天神台城は窮地に陥りました。北条氏綱は、信応・義明方に和睦を申し入れ、その交渉の窓口となったのが、後に駆け込み寺として知られることになる鎌倉の尼寺、東慶寺主渭継尼(いけいに)らでした。彼女は義明の妹とされます。氏綱はこの関係を利用し、和睦を願ったものです。
写真 真里谷城跡の主郭 千畳敷 |
そして小弓公方義明の「御免」により、峰上城ほか二か城の籠城勢力の赦免と大藤金谷斎らの帰国も許されました。反乱の主体であった信隆は、峰上城を明け渡して降参しました。信隆は、当時の降参の作法として、鶴岡八幡宮や江の島への参詣という形をとりました。その後は北条氏の庇護のもと武蔵に留まることになりました。
このように、里見氏と真里谷武田氏の天文年間のそれぞれの内乱は、違った形で終結しましたが、とくに真里谷武田氏の場合、天文6年に内乱が再燃したことが小弓公方足利義明の運命に大きな影響を与えることになりました。天文7年の第1次国府台合戦における義明の敗死です。国府台合戦については、別の機会に譲りたいと思います。
【参考文献】 文中に示したほか
『千葉県の歴史 通史編 中世』千葉県 2007年 第三編第一章第五節「小弓公方と房総の諸氏」(佐藤博信氏執筆分)
黒田基樹『戦国の房総と北条氏』岩田書院 2008年
簗瀬裕一「真里谷城跡出土の遺物の歴史的位置-天文六年「新地」の城との関係を中心に-」(佐藤博信編『中世東国の政治構造』岩田書院 2007年、黒田基樹編『武田信長』戎光祥出版 2011年、に再録)
小高春雄「真里谷「新地」の城について」『千葉城郭研究』第3号 1994年(同前黒田基樹編『武田信長』)
旭市(旧海上町)見広から、県道71号線銚子旭線を台地上に上るところで、真南に突き出た半島状の出張部が左手に見えます。これが見広城跡です。城主島田三河守の伝承をもつ城で、この道を抑える役割を果たしています。
見広から台地上を上りきった所で、県道73号線銚子海上線が分かれ、銚子市小舟木へと向かっています。そのまま県道71号線を進むとJR倉橋駅前を通り、次の猿田駅を経て、中島城(本「研究員の部屋」千葉六党の城 中島城1・2で紹介済)に至ります。猿田駅のすぐ近くに猿田神社が鎮座しています。同社については、後編で取り上げます。
さて、県道73号線を小船木町方面に進むその途中から、野尻町方面へも道は分岐しています。野尻町は、塩の流通に深く関った商人宮内氏の本拠地で、実際、太平洋岸の旧飯岡町で生産された塩がこの道を運ばれてきました。以下、当館所蔵の「原文書」と、「宮内家文書」(『戦国遺文 房総編』)で、この事に関る部分がありますので、紹介したいと思います。
写真 年月日未詳千葉胤冨書状断簡 |
「原文書」千葉市立郷土博物館所蔵 |
この文書は、鈴木哲雄氏によれば、横根郷の百姓らが逃散したことに対する、千葉胤冨の対応を示したものとされます。村から逃げた大人に対し、「足弱」(老人や子ども)は村に残っていたのですが、それを許さず「とらせ」(捕らせ)ることを命じています。また、この間、塩竈を使うようなことがあれば、これを「打破」り「放火」することも命じています。
文中に「横根・三川・野中」と地名が出ていますが、これらは旭市(横根と三川は旧飯岡町)の九十九里平野北東端の地域です。「塩竈において塩など焼かせ申すまじく候」とあるように、この一帯は塩の生産地でした。「千葉胤冨判物」(原文書)によれば、「塩荷より五文役」、「塩舟の出役」、「地摺の役」という税(労役も含むか)が課せられていました。
「宮内家文書」の元亀3年(1572)閏正月3日付の「千葉胤冨黒印状写」によれば、流通商人の宮内清右衛門尉に対し、7貫500文を納めるよう命じています。宮内氏は三川で五反の田を持ち、塩の生産に関っていたことがわかります。また、「御舟」の生産に携わっているので、500文は免除すると追而書きにあります。「御舟」とあることから、千葉氏あるいは海上氏の舟の製造に関わっていたのでしょうか。宮内氏の本拠野尻に隣接して小船木があり(銚子市小船木町)、舟の製造に用いられる木材の供出地であったことが伺われます。
写真 元亀2年ヵ8月28日付宛先不詳千葉胤冨書状(前半部) |
「原文書」千葉市立郷土博物館所蔵 |
見広城主と伝承される島田氏は、一族と思われる島田図書助が伝馬に関るなど流通に関わっていました。元亀2年(1571)ヵ8月28日付宛先不詳「胤冨書状」からは、以下のように島田図書助が伝馬に関っていたことがわかります。写真上の行間追而書一行目に「島田図書助に」、以下「ことハられへく候」(同二行目)、「さて又東徳寺と」(同三行目)、「薬師堂之伝馬をハ」(同四行目)、「さいそくいたし図書助」(同五行目)、「めしつれ参へく候」(同六行目)と記されています。
「天文10年(1541)3月21日付海上堀内妙見社棟札写」(宮内家文書)に「島田図書助秀常」が、奉行人として記載されており、官途名を同一とすることから、元亀2年に登場する図書助の親にあたる人物かと思われます。堀内妙見社は中島城に近接して建立されており、代々の海上本宗家が崇拝していました。その妙見社建立の奉行人を務めていたのですから、島田氏は、海上氏の重臣級と考えられます。
見広城主とされる島田三河守と、この図書助が同一の系統か否か不明ですが、重要な街道を抑える城主三河守と、伝馬に関る人物である図書助とは近い一族、もしくは近親関係にあったのではないでしょうか。
【参考文献】
『海上郡誌』千葉県海上郡教育会 1917年
『匝瑳郡誌』千葉県匝瑳郡教育界 1921年
小笠原長和「戦国末期における下総千葉氏」『中世房総の政治と文化』吉川弘文館 1985年(初出1970年)
滝川恒昭「銚子野尻 ~今むかし~」『千葉県史料財団だより』1993年
遠山成一「戦国後期下総における陸上交通について」(石渡洋平編著『旧国重要論文集成 下総国』戎光祥出版 2019年(初出1994年)
石渡洋平「戦国期下総海上氏の展開と動向」『駒沢史学』83号 2014年
鈴木哲雄「海上千葉氏の領国支配―網代・製塩・「郷中開」―」『都留文科大学大学院紀要』第27集、2023年
さて県道71号線を見広から銚子方面に向かうと、総武本線に沿う形で道が伸び、やがて猿田駅に至ります。駅の手前を左に入ると大きな鳥居があり、総武本線を渡る跨線橋があって境内に入ります。猿田彦を祀る猿田神社(さるだじんじゃ)です。猿田彦は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨の際、道案内をしたとされ、交通の神とされます。銚子市の猿田神社は大同2年(807)の創建とされ、源頼朝や足利氏、千葉氏らの崇拝を受けてきたと伝承されてきました。
写真 猿田神社拝殿 |
飯岡方面から野尻町・高田町など香取内海へ抜ける「塩の道」沿いに、交通の神を祀る同社が存在するのも意味があることと考えられます。そして、同社には足利晴氏が奉納したという金印が所蔵されています。『海上郡誌』によると「天文の際関東管領(ママ)足利左兵衛督晴氏、北条氏綱と意を合わせて当国の国司御弓に住める義明朝臣を追はんとて、下総古河より発向其の節当社へ参拝神宝を奉納す」(旧字体は新字体に直す)とされます。足利晴氏が、小弓公方義明を追討するため下総古河から発向した事実は、史料等では確認できませんが、こうした伝承が存在したのかもしれません。
実際、天文7年(1538)10月におきた第1次国府合戦は、足利晴氏が北条氏綱に義明の「退治」を命じたものです。昨年度の特別展でも展示した史料に「先年亡父氏綱応 上意令進発」(「北条氏康条々」東京大学史料編纂所所蔵伊佐早文書)とあり、上意(晴氏の命令)に応じて氏綱が戦ったことがわかります。
晴氏が猿田神社に金印を奉納する意味を考えると、同社は導きの神(ニニギノミコトを道案内したところから)であり、交通の神であったことがまずあげられます。さらに銚子周辺を支配していた海上氏は、古くからの古河公方の奉公衆であったことが大きいと思われます。
これは想像になりますが、別稿(千葉市内の城 千葉六党の城 中島城1・2)で書いたように、海上氏の富の根源ともいえる「塩の道」を扼する同社への古河公方からの奉納は、海上氏にとって意義深いものであったと思われます。なお、前編でも紹介した飯岡と野尻とを結ぶ、この「塩の道」を最初に指摘されたのは、滝川恒昭氏でした。
写真 金印(レプリカ) | 写真 金印の印影(印文不詳) |
先日、筆者は宮司様のご厚意で金印レプリカ(昭和45年:1970年作製)を拝覧して参りました。上記写真は、その時に撮影したものです。印影は未解読です。「覇」の文字に見えますが、どなたかご教示いただければ幸に存じます。
続いて、匝瑳市生尾の老尾(おいお)神社には、「足利晴氏千葉胤富状を下して本社に大宮司大祢宜を匝海二郡諸社々の長たるへきを沙汰せられたり」(『匝瑳郡誌』)との伝承があります。このことについて『八日市場市史 上巻』では、「信頼できる写し」にもとづいて「天文二十三年」付の足利晴氏「下知状」なるものを紹介しています。なお、『戦国遺文 古河公方編』(佐藤博信編 2009年3刷り)には、744号「足利晴氏判物写」として、同文書が紹介されていますが、「本文書、なお検討を要す」とされています。
その後、東庄町教育委員会所蔵の旧東保胤氏文書の写し(これが『八日市場市史』にいう写しヵ)、を写真版で拝見する機会に恵まれました。書かれている文言でやや不自然な表現もあり、全面的に「信頼できる」か、やはり疑問があります。しかし、この「天文二十三年(1554)甲寅八月十二日」という年が、おおきな意味を持っていると考えます。
すなわち、この年の7月24日に晴氏は、子息義氏(当時はまだ梅千代王丸と幼名を名のる)と一緒にいた葛西(東京都)を離れ、古河へ帰座しました。そして、「古河城の普請を行い、一戦を交える覚悟を示した」(佐藤博信『中世東国の権力と構造』第2.部第四章第六節 天文時間の惹起-晴氏・藤氏の古河籠城-、2013年:初出2010年)とされます。すなわち、晴氏父子は小山氏らとともに「反旗を翻した」(同前)わけです。
晴氏は、すでに(不本意ながら)家督を譲った梅千代王丸(北条氏康の娘芳春院殿の子)との間で確執があり、梅千代王丸に家督をとって代わられた子息藤氏とともに、古河への籠城を決意したようです。しかし、この行動は公方家臣団の一部の支持を得ただけで、10月上旬には梅千代王側(北条氏側)に下り、晴氏は相模秦野(神奈川県)へ幽閉され、政治生命を絶たれることになりました。
晴氏の老尾神社への文書は、このような政治的背景で発給された可能性があります。すなわち、葛西の梅千代王に対抗し、古河城から古河公方としての権威で同社へ発給した、ということです。なぜ、老尾神社なのかは不明ですが、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)にも晴氏は多くの文書(巻数請取状)を発給しており、また猿田神社の晴氏奉納とされる金印の存在があります。鹿島・銚子・匝瑳地域に、晴氏の影がかたまって見えるのは興味深いことです。
なお、老尾神社の晴氏文書の存在ついては、滝川恒昭氏の御教示をいただきました。
擱筆にあたり、猿田神社宮司の猿田様には、金印の拝覧および写真の掲載につき、ご諒解賜り深謝申し上げます。また、晴氏下知状写の写真については、江澤一樹氏の御厚意により拝見いたしました。『海上郡誌』は外山信司氏にご教示いただきました。
はじめに
『平家物語』の異本である『源平闘諍録』は、千葉一族の活躍を特筆した軍記物として知られています。スペースの関係で、全文を収録することはかないませんが、『千葉氏史料集』(仮称、以下同)にも、千葉氏の動向をつづった「巻五」を抄録すべく、鋭意作業をすすめています。
その巻五に「妙見大菩薩之本地事」という一節があります。同節は、源頼朝の問いに千葉常胤が答えるかたちで、一族の崇敬する妙見菩薩の由緒を語ったものです。常胤が答えていうには、
そのむかし「蚕飼河(こがいがわ)の合戦」において、童子に化身して平将門を守護した妙見菩薩が、将門に対し、みずからの本地(本来の姿)と垂迹(仮りの姿)をあかし、また誓願とその利生(神仏が衆生に利益を施すこと)を語り、そして北方の角に向かって妙見菩薩の名号を唱え、これよりは笠験(かさじるし)に九曜の旗を掲げよ、と説示して、どこへともなく姿を消した・・・。
とのこと。ちなみに「九曜の旗」について『源平闘諍録』は「今に月星と号するもの」と割書しています。そしてこの「今に月星と号する」「九曜の旗」こそ、千葉氏の家紋や千葉市章のルーツであることは、周知のとおりです。
これまで『源平闘諍録』は、多くの先学によって翻刻や研究が積み重ねられてきましたが、さらに研究をすすめるべく精読していたところ、わずか一文字ながら、標題に掲げた既刊書の読みを改めることになりました。小稿はそのささやかな報告です。
1)先行刊本等について
まずは『源平闘諍録』の主な刊本・影印を掲げましょう。
①山下宏明編著『源平闘諍録と研究(未刊国文資料 第2期第14冊)』(未刊国文資料刊行会,1963年)
②早川厚一・弓削繁・山下宏明編著『内閣文庫蔵源平闘諍録』(和泉書院,1980年)
③千葉市立郷土博物館編刊『妙見信仰調査報告書(三)』(1994年)
④福田豊彦・服部幸造注釈『源平闘諍録』上下2巻(講談社学術文庫,1999-2000年)
⑤松尾葦江・山本岳史・小口雅史・遠藤祐太郎解題『源平闘諍録 将門記抜書 陸奥話記(内閣文庫所蔵史籍叢刊 古代中世篇第8巻)』(汲古書院,2012年)
①は『源平闘諍録』の全文を翻刻収録し、その内容について考究した著書で、今でも多くの研究者によって活用されています。②は内閣文庫に所蔵される写本の影印(図版)を収載し、さらに各巻の難読文字やオコトテンの付点箇所を摘記。また解題を設けるなど、研究上の便宜をはかっています。③は当館の刊行物で、『源平闘諍録』巻一・巻五を抄録。あわせて『妙見実録千集記』の翻刻文と、関連論文3編が収録されています。④は『源平闘諍録』の全文を書き下して収録し、詳細な注釈と解題を収めます。文庫版の、現下もっとも入手しやすい学術的かつ啓発的な書籍です。⑤は2色刷によって朱筆部がわかるよう、改めて刊行された影印本で、解題では研究史を要説。また②と同じく難読箇所を摘記し収録します。
その他、未完ですが、早川厚一「源平闘諍録全釈」(『名古屋学院大学研究年報』18,2005年~継続中、他誌にも掲載)は、文字どおり『源平闘諍録』全文の訳注を進める労作で、完結が鶴首されます。それから近年の研究では、源健一郎「源平闘諍録の成立環境―関東天台の動向から―」(関西軍記物語研究会編『軍記物語の窓』6集、和泉書院,2022年)によって、作者に関する先行研究およびその問題点、また多くの視角を学ぶことができました。
なお現在「国立公文書館デジタルアーカイブ(www.digital.archives.go.jp)」に、『源平闘諍録』全体の鮮明なデジタル画像が公開されていて、『千葉氏史料集』の底本にこれを用いたほか、小稿下掲の図版としても活用させていただきました。上掲の先行研究・機関に深く感謝申し上げます。
2)「妙見大菩薩之本地事」の一文字をめぐる
本題に入りましょう。問題箇所は下掲の【図1】朱線部です。
【図1】 |
一瞥して右さがりの特徴的な書風が看取されます。前述どおり、当該部は「蚕飼河の合戦」において、童子に化した妙見菩薩が平将門を守護し、本地を明かした上で「将門よ、北方の角に向かって吾が名号を唱えよ。そしてこれよりは、笠験(かさじるし)に九曜の旗を掲げよ」(取意)と説示し、姿を消したという一節です。
ただし前掲①以降の既刊書をはじめ、管見に入った先行論著は、いずれも「可差千九曜之旗(千九曜の旗を差すべし)」(【図1】朱線部)と翻刻、あるいは引用しています。つまり「九曜」に「千」が冠されて「千九曜」とされているのです。中には「千九曜」に「せんくえう」のルビを振ったもの、語訳に「千九曜」を立項したもの、また「千九曜」が平良文をへて千葉氏に伝承し、家紋とされた、と解説したものもあります。問題は「千九曜」の「千」の字です。
私見をいえば、当該文字は「千」ではなく「于」と読むべきです。すなわち【図1】朱線部は「可差于九曜之旗(九曜の旗を差すべし)」となります。客観的にこれを示しましょう。下掲【図2】をご覧下さい。
【図2】 |
左には問題箇所の図版、そして右側には『源平闘諍録』の原文に散見される「千」と「于」を掲げました。「千」の字から見ていくと、右より「千万輩」「千葉介」「千余騎」「千田ノ庄」です。ここに見られるとおり、写主は「千」を書く場合、一画目を左斜め下に払ってから、二画目を書いていることが看取されます。
つづいて「于」を見ましょう。右から「于今」「于時」「于景時」ですが、「千」の字形とは明らかに異なります。そして比較すれば一目瞭然、ここに掲げた「于」の字形は「于九曜」の「于」とまったくの同形といえるでしょう。
念のため、内閣文庫に所蔵されるもう一つの写本(副本)からも、同じ文字を拾って確認しましたが、結果は下掲【図3】のとおり全同でした。これによって問題の箇所は「千九曜」ではなく「于九曜」であることが明らかとなったのです。
【図3】 |
なお「可差于九曜之旗」にみられる「于」は前置詞(置き字=訓読時に読まない文字)で、場所・対象等をあらわす際に用いられます。参考として『源平闘諍録』にみられる前置詞「于」の用例をあげておきました(下掲【図4】)。
【図4】 |
右が問題箇所の図版と釈文で「九曜の旗を差すべし」と訓読し「于」は読みません。中央は「君に相随(あいしたが)い奉る」と読み、やはり「于」は読みません。そして左も「景時に免ずべし」で、むろん「于」は読みません。
このように問題の朱線部は「可差于九曜之旗(九曜の旗を差すべし)」と読まなければならず、もとより「千九曜之旗(千九曜の旗)」なるものは存在しなかった、と結論されるのです。「千」か「于」か、たかが一文字、されど一文字です。
おわりに
昭和時代、やはり「千」か「于」かをめぐって、物議を醸したことがありました。それは日本天台宗の祖、最澄筆『天台法華宗年分縁起』の一節です。問題となった箇所は「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人の言わく、径寸十枚(※金銀財宝のこと)、是れ国宝にあらず。一隅を照らす、此れ則ち国宝なり」の「一隅を照らす」〔(※ )内=坂井注〕です。
それまで原文は「照于一隅」とされてきたため、訓読は「一隅を照らす」でしたが、研究者から最澄の自筆は明らかに「照千一隅」である、との指摘がなされたのです。最澄の自筆は国宝に指定されているため、当該部の図版は比較的多く紹介されていて、その図版を見るに、もはや字形は「于」ではなく「千」であることが明らかです。
それはともかく「千」と「于」は字形が類似するため、誤読されることもしばしばです。活字と違い、筆を用いて書かれた文字は、人によって字形がまちまちで、特に癖字は、繰り返し読まなければ、解読できないことが多々あります。『千葉氏史料集』に抄録する『源平闘諍録』巻五の筆勢も右さがりの癖字です。小稿で図示したように、異なる文字を並べて比較すれば、その違いは一目瞭然ですが、墨書に覆われた紙面に埋もれてしまうと、その違いに気づくことは容易ではありません(下掲【図5】)。
【図5】 |
『千葉氏史料集』に抄録する『源平闘諍録』巻五については、今後さらに照校を重ねますが、字形や文意に注意しながら、繰り返し原文を読むことによって、また新たに見いだされることがあるかもしれません。
戦国期に房総で活躍した日我(にちが=1508~86)が「一字尽千思 一語廻万慮(一字に千思を尽くし、一語に万慮を廻らす)」(『いろは字』奥書)と語っているように、これからも、そんな思いで文書の一字一句と向き合い、編さんに従事する所存です。
『千葉氏史料集』(仮称、以下同)には、前回とりあげた『源平闘諍録』を抄録するほか、『千学集抜粋』(以下『千学集』)の全文を収録する予定です。『千学集』は、誤伝はみられるものの、今なお、中世の千葉氏をかたるに不可欠な史料です。既刊書として『房総叢書』・『戦国遺文(房総編)』、また当館編刊『妙見信仰調査報告書(二)』等がありますが、今回あらためて清宮家本を底本として、一から翻刻作業をすすめることにしました。
『千学集』の原本は、残念ながら失われてしまったようで、先行研究でも指摘されているように、清宮家本をさかのぼる写本は見つかっていません。『千葉氏史料集』の底本に清宮家本を選定したのは、かかる理由によります。
ちなみに清宮家本の伝えるところ「千学集と申すは、御家代々引付と、妙見御相伝の正月三日の夜の修正とハ、千文字・葉文字の二字を題として、よろつことの葉を続けて、年中の事を顕はし給ひて、妙見の御前にて慚愧懺悔をし、年中の悪念を払ひ祭ることの御鈴なり、是れ御一門及び国内繁昌の御祈念なり」とのこと。つまり毎年正月三日に行われる修正会(しゅしょうえ=国家安泰・五穀豊穣などを祈る法会)に合わせて、妙見菩薩に悪念払いと一族繁昌等を祈念していたようですが、『千学集』は、その由緒を記すために編まれた書物というのです。
『千学集抜粋』(清宮家本・個人蔵) |
おそらくは一族の歴史について、かように妙見菩薩の加護のもとに歩んできたことをつづり、未来永劫その冥護を得ようとしたのでしょう。また構成については「この千学集は三巻にて、千文字一巻、葉文字一巻<上下にて二巻>なり」といっています。
その『千学集』を抜粋したのが清宮家本です。いまこれを通覧してみると、本文とは別に、天地端奥、行間の余白部に、細字によるあまたの書き込みが確認され(上掲図版)、また「イ」と注記して書き込まれたものも散見されます。「イ」とは「異本」のこと。もとは同じ書物でありながら、伝来の過程における加除修正等により、異なる内容をもつにいたった本を指します。あたかも『平家物語』の異本として『源平闘諍録』があるように、清宮家本にみえる「イ」の注記によって『千学集』にも異本のあったことがわかるのです。
『千学集』で語られる項目は、一節一節で完結している話も多いのですが、細字による書き込みは、各節に照応する内容が多く、しかも場所や登場人物の異なる記事がみえることから、いずれも異本の文章と思われるのです。ちなみにこれらの細字は、既刊書には収録されていません。
また清宮家本は「栗飯原」に「粟ナラン(〝栗〟は〝粟〟の誤記ではないか、の意)」と頭注をくわえるなど、底本となった『千学集』の本文について、いくつかのコメントをのこしています。
そこで『千葉氏史料集』では、清宮家本の余白に書き込まれた細字や異同の注記についても収録することにしました。細字の書き込みについては、ほぼ入力作業を終え、目下、どの節に関連する記事であるのか照合しています。ただ書き込みは、前後のページや行間にわたっているため、そのまま翻刻すると煩雑になってしまいます。
どのようなかたちで収録するかについては、いくつかの案が出されていて、照応する各節の末尾にポイントを落とす、あるいはフォントを変えて収めるなど、思案中です。いまだ校正が不充分なため、ここに紹介することはできませんが、細字を含めた全文を収録することによって、より詳細な『千学集』の世界と全容を知っていただけると思います。どうぞお楽しみに。
(付記)
『千学集抜粋』(清宮家本・個人蔵)の図版を掲載するにあたり、所蔵者よりご許可をいただきました。衷心より御礼を申し上げます。なお図版は次回も掲載させていただきます。
【図1】(『千学集抜粋』清宮家本・個人蔵) |
まずは【図1】をご覧ください。前回から取りあげている『千学集』の一部です。①朱線部は「人々」と読み、後続の文章を加えると「人々まゐり(参)て」となります。次に②朱線部をみましょう。①下部の字形と同じに見えますが、「助々」ではおかしいので、私は「助之(の)」と読みました。前後を加えれば「御使は本庄図書之助の御下部三人」となります。
およそ①②朱線部の下部にみえる字形は「之(し)」か「々」か「候」で、字形だけでは判別は困難なため、文意によって読み分けることもしばしばです。
ところが②の読みは間違いでした。実は当初、『千学集』の校訂作業は、モノクロマイクロフィルムの引き伸ばし(【図1】)をもとに行っていたのですが、その後、カラー写真を拝見する僥倖にめぐまれ、改めて照合したところ、私が「之」と読んだ部分は、文字ではなく虫食いだったことがわかったのです(下掲【図2】左)。私の誤読(誤解)はこれにとどまりませんでした。下掲【図2】右は当初、モノクロによって「細燈を主るらん」と読みました。「主る」は「つかさどる」と読み「管理する」という語意があります。
問題は「主る」下の「らん」です。「らん」は推量の助動詞で「~だろう」と訳します。したがって「主るらん」は「管理するだろう」といった文意になるかと思いますが、文脈に違和感はもったものの、字形からそのように判断した次第です。
ところがカラー写真によって、私が「らん」とした箇所も虫食いであることがわかったのです(【図2】右)。正解は「細燈を主る(細燈を管理する)」でした。
【図2】(『千学集抜粋』清宮家本・個人蔵) |
紙魚(シミ=紙を喰らう虫)のいたずら? とも思える珍事でしたが、虫食いで字形ができるという話は、早く漢訳仏典『大般涅槃経』巻二などにみられ、これを受けて天台大師智顗(538~597)は『摩訶止観』巻一下に、
「若但聞名口説。如蟲食木偶得成字。是蟲不知是字非字(もしただ名を聞いて口に説くは、虫の木を食らい、たまたま字を成すことを得たれども、この虫はこれ字なるか、字にあらざるかを知らざるが如し)」(『大正新脩大蔵経』46巻10頁b)
と譬えています。当文は「六即(ろくそく)」という修行段階の一つ「観行即(かんぎょうそく)」に関する説示ですが、智顗は「修行の途上にある者は、語意も分からず、ただ聞いた言葉をなぞっているのと同じである。それはあたかも、虫が木を食べ進め、文字の形を作したとしても、その虫が文字かどうかも分かっていないようなものだ」というのです。
私は虫食いを虫喰いとは知らず、これを文字として読んでしまったわけですが、畢竟するに、まだまだ修行が足りないということでしょう。くずし字解読の修行は果てしなくつづきます。
平良文と平将門は桓武天皇の末裔である・・・。『千学集』は、良文・将門の系譜をもって起筆されます。そして時は承平元年(931)、将門は謀反を起こし、良文をともなって上野国(群馬県)へ乱入。平国香と一戦を交えた、という物語がはじまるのです。おりしも戦場を流れる染谷川は、増水によって渡ることができません。そこに現れたのが小童に化身した妙見菩薩です。小童は瀬踏(せぶみ=足を踏み入れて川の深さを測ること)をして良文と将門を先導。二人は無事に染谷川を渡ったのみならず、合戦では妙見が拾い与えた矢をもって、みごと国香の大軍を打ち破った、というのです。こうして二人と妙見菩薩との間に、浅からぬ因縁がむすばれました。
【図1】 |
そんな物語をつづる『千学集』ですが、この一節の中で、どうしても得心のゆかぬ一文がありました。それは【図1】拡大部の読みです。
ちなみに先行する写本・刊本では、次のように読んでいます。
馬のふと腹かくすにて渡す(内閣文庫本・大森金五郎写本【補注1】ほか)
馬ノフト腹カクスニテ渡ス(恩田信日渉園叢書)
馬の太腹隠すにて渡す (房総叢書)
馬のふと腹かゝすにて渡す(妙見信仰調査報告書2)
前文をまじえて読むと、小童が瀬踏をしたところ、染谷川の水かさは、瞬く間に下がり、そして「良文と将門を馬の太腹・・・・・にて対岸に渡した」となりましょう。しかし諸本アンダーライン部のように、馬の太腹を「かくす」なのか、あるいは「かゝす」なのか、さらに『房総叢書』は「かくす」を「隠す」と変換していますが、いずれであっても文意が判然としません。ただ悶々とするばかりでした。
そんな中、この字画が目に焼きついていたからでしょうか。校訂作業をすすめていたところ、類似する「へからす(べからず)」の連綿(つづけ字:【図2】)を目にしてハッとしました。問題の箇所は「かくす」ではなく、「かゝす」でもなく、「からす」ではないか?
【図2】と【図3】の連綿は、長短の違いこそあれ、ともに「からす」と読んで問題はありません。【図3】をみると、写主はまず「馬の頭」と書いたあと、挿入線を用いて書き落とした「ふと腹からす」を追記したと考えられますが、先行書は、なぜか「頭」の一字を読んでいません(あるいは「頭」を「す〔須〕」と読んで衍字とみたか?)。
ともかく私見では、当該部の読みは「馬のふと腹からす頭にて渡す」です。あとは、この読みで、語意と文意が通じるかどうかです。まず「からす頭」を辞書で引いてみたところ、「からす‐がしら【烏頭】」がありました。語意は「(「烏頭」の訓読)馬の後足の外部に向かった関節。くわゆき」(『日本国語辞典』2版)です。また「馬の太腹」は下腹ともいい、文字どおり馬の大きな腹のこと(同前)。また「膨らんで垂れたところ」(『日葡辞書』)とも解説されます。つまり「馬の太腹・烏頭にて渡す」の文意は、「妙見菩薩が霊威により、増水した染谷川の水位を馬の太腹・烏頭まで下げ、良文と将門を事なく対岸へ渡した」となりましょう【補注2】(※太腹・烏頭の部位は【図4】を参看)。
【図4】(『馬並馬具之圖』等を参照し描画) |
また『日国』には次のとおり、用例も挙げられていました。
*平家物語〔13C前〕一一・勝浦「塩干がたの、をりふし塩ひるさかりなれば、馬のからすがしら、ふと腹にたつ処もあり」
ここでは「引潮時になれば、馬の烏頭・太腹まで水位がさがる所もある」といっており、水位をしめす語句として「馬の烏頭・太腹」が用いられています。さらに『平家物語』の異本で、『千学集』とも関係の深い『源平闘諍録』八下(一谷・生田森合戦の事)にも用例があって、海面の様子をみた熊谷直家が「此の海は遠浅と覚へ候」といい、これにしたがって進んだところ「案の如く遠浅にて、馬の太腹・烏頭には過ぎず」(福田豊彦他注釈『源平闘諍録 下』講談社学術文庫。412P)といっています。これらは『千学集』の一節「馬の太腹・烏頭にて渡す」を理解するに、はなはだ有益な類例といえましょう。
また時代はさかのぼりますが、源頼信(968~1048)が香取の海を馬で渡った話が、次のとおり『今昔物語』などに見えます。
此ノ海ニハ浅キ道、堤ノ如クニテ、広サ一丈許ニテ直ク渡リアリ。深サ馬ノ太腹ニナム立ツナル(日本古典文学大系25『今昔物語集 四』386P)
本件については『宇治拾遺物語』巻十「河内守頼信、平忠恒ヲ責事」も、
この海の中には、堤のやうにて広さ一丈ばかりして、すぐに渡りたる道あるなり。深さは馬の太腹に立つと聞く…(中略)…誠に馬の太腹に立ちて渡る。
(新日本古典文学大系42『宇治拾遺物語 古本説話集』273P)
と、「烏頭」こそみえませんが、「馬の太腹」を水位をしめす語句として挙げているのです。おそらく当時の人々は「水深は馬の烏頭・太腹くらいだ」といえば、おおよその見当がついたのでしょう。むろん『千学集』の一節は挿話ですが、そんな想定のもとに書かれていることは間違いありません。
そして『千学集』当該部の改訂成果は、『千葉妙見大縁起絵巻』の詞書(ことばがき)にも及びます。詞書と『千学集』の本文が密接な関係にあることは、当館の『妙見信仰調査報告書』等にも報告されているので周知のことですが、このたび、詞書で解読されていなかった箇所を、読むことができました。
染谷川で良文と将門を先導する妙見菩薩(左) |
紙本著色千葉妙見大縁起絵巻(千葉市栄福寺蔵:非公開) |
【図5】 |
【図5】は、その場面を描いたもの。当館の正面入り口にも大きなパネルをもって掲げています。問題は、これにともなう詞書(【図5】拡大部)で、既刊書では「馬焉ママ顕太腹渡」・「馬ノ□頸・太腹ニテ渡ル」等と読まれていました。しかし、ここまでご覧いただいた方はお気づきのとおり、まさしくは、
馬ノ烏頭・太腹ニテ渡ル
で、いうまでもなく、文意は『千学集』と同じです。前掲『千学集』の一節とともに改訂しなければなりません。またこれによって『千学集』と詞書との密接な関係が、あらためて確認された、ともいえましょう。
ただ詞書に重点をおいてみると、絵巻に描かれた水位は「馬の太腹・烏頭」よりも少し高いように見えます。『千葉妙見大縁起絵巻』の原形は、詞書のみの縁起で、後に絵が加えられたと考えられていますが【補注3】、あるいは絵師が、詞書「馬ノ烏頭・太腹ニテ渡ル」の文意を、充分に理解していなかった可能性もありましょう。絵巻における絵と詞書との齟齬は、なにも『千葉妙見大縁起絵巻』に限ったことではなく、『源氏物語絵巻』等でも指摘されることですが、このたび改訂した箇所については、同絵巻の制作工程を考えるにあたって、留意すべきかと思います。
ともかく『千学集』と『千葉妙見大縁起絵巻』詞書の改訂により、両書における水位を示す語句「馬の烏頭」の使用が確認されました。今後、前掲『平家物語』・『源平闘諍録』等に加え、両書が用例の参考文献として挙げられることもあるでしょう。
それから今回とりあげた『千学集』『千葉妙見大縁起絵巻』にみえる「染谷川の合戦」は、先行研究によって指摘されているとおり、場所や登場人物に違いはあるものの、内容は『源平闘諍録』巻五の語る「蚕飼河(小貝川)合戦」に類似し、また『相馬当家系図』や『禅福寺縁起』、『建長寺年代記』にも類する話がみえます。さらに妙見の矢拾説話についても、先行する同様の話が散見されますが、これらと『千学集』および詞書が、どのような関係にあるのか、研究はいまだ十全な達成をみていません【補注4】。
なお川を渡る馬については、阿部猛『鎌倉武士の世界』(東京堂出版,1994年。197P以下)、同「馬筏と後矢」(『日本史研究』34号,1994年)等に詳細で、馬の博物館編『鎌倉の武士と馬』(名著出版,1999年)とあわせて参照した次第です。深く感謝申し上げます。
【補注1】 大森金五郎の筆写本は神奈川県立金沢文庫蔵。大森本は全体的に丁寧な筆致で写しとられており、『房総叢書』第二輯は、大森本の披見により「御蔭で不明の點が大部明かになつた事は感謝に堪へぬ」(222P)といっている。また『千学集』の写本は、ここに列挙した他、東京大学史料編纂所架蔵本(「千葉県庁蔵書」の転写)がある(後日調査)。「千葉県庁蔵書」本は未確認。
【補注2】 なお「染谷川の合戦」については、類似する話が『下総国千葉郷妙見寺大縁起』・『妙見実録千集記』等(当館『研究紀要』9号,2003年。「資料編」参看)にもみえるが、他の物語では、妙見菩薩(小童)が瀬踏をした場面について、水かさが減じたのではなく、陸地となって渡ることができたとする。
【補注3】 丸井敬司『千葉氏と妙見信仰』(岩田書院,2013年)225P。丸井氏は詞書について「少なくても五人の筆跡が確認される」(同上228P)と指摘する。これより先、松原茂「千葉妙見大縁起絵巻と片山三清」(『妙見信仰調査報告書』1992年)も「詞書は新旧数種の手が混在して複雑な様相を呈する。改装時の補筆は、他の文献などから重複を無視して加えられたものをも含み、原初の形態に復することはもはや不可能に近い」といっており、現状、詞書を原初形態に復元することは困難をきわめるが、なにより「詞書」の字句が刊本によって異なっているので、まずは栄福寺本の正確な翻刻を行わねばなるまい。
【補注4】 本件については先行研究もふくめ、佐々木紀一「『源平闘諍録』蚕飼河合戦譚成立について」(『国語国文』894号,2009年)に詳細で、文献で語られる妙見菩薩の容姿と、彫像・絵像との相違にも着目している。
源平の国のあらそひ、けふ(今日)をがぎりとぞ見えたりける(『平家物語』巻十一)
長きにわたった源平のいくさも、終わりを迎えようとしていました。敗戦に敗戦をかさね、西海の壇ノ浦へと追いつめられた平氏。決戦の舞台でも敗戦が濃厚となり、眼前に源氏の兵者がせまってきました。
かたきの手にはかかるまじ(同前)
最期をさとった二位尼(平時子)は、涙をおさえ、安徳天皇に語りかけます。
君はまだご存知ないでしょう。万乗の主(ばんじょうのあるじ=天子)となられるお方は、前世における十善(十戒)を受持した果報によって、帝位につかれるのです。しかしいま悪縁のために、その果報がつきてしまいました。もはやこれまでです。まずは東方に向かって天照太神においとまのご挨拶を申しあげ、続いて西方に向かい来迎をお祈りいたしましょう。(同前私訳)
天皇が「ちいさく、うつくしき御手をあはせ」称名すると、二位尼は幼帝を抱き「浪(なみ)の下にも都のさぶらふぞ」とて、船べりから海深くに身を投じたのです。その姿をまのあたりにした一門の人びともまた、次々と入水。ここに栄耀栄華をきわめ「この一門(平家)にあらざらむ人は皆人非人なるべし」(『平家物語』巻一)とおごりきわめた平家は滅亡しました。寿永4年(1185)3月のことでした。
もっともこれは族滅ではなく、諸行無常等をテーマとする『平家物語』のえがく終滅で、『平家物語』は盛者必衰・おごれる者の久しからざる様を語ればよいのです。実際『平家物語』は、安徳天皇の生母、建礼門院(平徳子)の余生を摘記してエピローグとしますし、平家には他にも生きながらえた人たちがいます【注1】。
しかし今はそのことよりも、二位尼が安徳天皇に語った「帝位に就く人は、前世で十善を受持した果報による」の一節と、千葉氏への連関を叙述することにしましょう。
まず帝位につく条件とされる前世の「十善」について、『日本国語大辞典(第2版)』は、語意を二つあげています。一つは、
(1)十悪を犯さないこと。不殺生・不偸盗(ちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不綺語(きご)・不悪口(あっく)・不両舌・不貪欲・不瞋恚(しんい)・不邪見の一〇種の善をいう。十善業。十善戒。十善業道。
です。文字どおり殺生や盗みなど十の悪業を犯さないことを「十善」といいますが、もう一つは、
(2)(前世に(1)を行った果報によって、この世で天子の位を受けるとする仏教思想による)天皇、天子のこと。十善の君。また、天子の位。
です。『日国』の解説する(2) 【注2】は、二位尼の語り(前掲)と同義ですし、都を落ちた平時忠は「平家の方には、十善帝王(安徳天皇)、三種の神器を帯してわたらせ給」(『平家物語』巻七)といっています。かように十善は天皇の代名詞でもあり、このほかにも天皇を「十善王」、「十善の君」等と呼ぶ例は、『栄花物語』『将門記』『とはずがたり』『太平記』『御伽草子』など枚挙に暇がありません。
そんな十善ですが、日本国の守護神たる八幡神(後に神仏習合により大菩薩となる)の御託宣(お告げ)とあいまって、特に十善の一つにかぞえる「不妄語(ふもうご)=いつわりごとをしない」が重視されるようになります。その託宣とは、一つに、「十善の百王(天皇百代)を守護する」こと、また「正直の頭をすみかとする」ことです【注3】。この託宣は、ことわざ「正直の頭に神宿る」の典拠ともされ、また正直は「不妄語」に通じるものであり【注4】、あるいは「天照太神モタヾ正直ヲノミ御心トシ給ヘル」(『神皇正統記』*天照太神は天皇の祖神)【注5】君徳(君主の備えるべき徳)でもありました【注6】。
とくに鎌倉時代、鶴岡八幡宮が象徴するように、八幡菩薩は武家の棟梁も崇める神仏ですから、その加護を得るためにも、当時の人々が正直を重視し、心がけたことはいうまでもありません。たとえば叡尊や日蓮は、八幡菩薩の加護を得るためには正直が肝要であることを説示し【注7】、また為政者の側も、北条泰時は「性稟廉直、以道理為先、可謂唐堯・虞舜之再誕歟(生来の正直者で道理を先とした人だった。まさに中国伝説の王、堯・舜の再誕のようであった)」【注8】と評され、北条重時は「心を正直にもつ人は、今生もすなをに、後生も極楽にまいり、親のよきには、子も天下に召し出さるゝ事おほし」【注9】といっています。まさに正直は、鎌倉時代を代表する倫理思想のひとつでした【注10】。
しかし二位尼の語りにもみられるとおり、不妄語(正直)等の十善の果報も、悪縁【注11】によって尽きたり、これによって王位を失うこともある、というのです。
そしてこの因縁覃は、『平家物語』の異本で、千葉氏の活躍を特筆した『源平闘諍録』へと及びます。『源平闘諍録』が『平家物語』諸本の、どの系統に属するのかは明瞭ではありませんが、あるいは流布していた「平家」等(『平家物語』の前身【注12】)がもとになっているかもしれません。なお検討したいと思います。
ここまで『平家物語』における二位尼の語りとその周辺について考えてみましたが、『源平闘諍録』をひらいてみると、そこには独自の因縁覃がつづられているのです。それは先に、このシリーズでもとりあげた巻五の場面です。再掲すると、戦場で平将門や良文を守護した小童が、本地(本来の姿)をあかして、次のように語りますり。
我れはこれ妙見大菩薩である。昔より今にいたるまで、心がいさましく慈悲深く、そして正直な者を守護するとの誓願をたててきた。汝はまさしく心が直な勇者である。だから我れは汝を守護するために来臨したのである。(私訳)
こうして将門は「妙見の御利生を蒙り、五ケ年の内に東八ケ国を打ち随へ、下総国相馬郡に京を立て、将門の親王(新皇)と号」しました。「正直なる者を守らん」と誓願した妙見菩薩の加護により、正直者の平将門は関八州を従え新皇になった、というのです。
ところがその後、将門は朝廷によって討伐されます。『源平闘諍録』の語るところ、その理由は次のようなものでした。
かくして新皇となった将門だったが、彼は正直な心を捨てて諂侫(てんねい)となってしまった。曲がった政治を行い、神や朝廷を恐れず、はばからず、仏神の田地を奪い取るなどした。そのようなわけで、妙見大菩薩は将門の家を出て、平良文のもとへと渡ったのである。将門は妙見に棄てられたのだ。(私訳)
「諂侫(てんねい)」は「諂曲(てんごく)」と同義で、心を曲げてこびへつらうこと、よこしまな心をもつことをいいます。将門は「正直」によって新皇となるも「諂侫」によって、その位を失ったというのです。これは八幡菩薩の託宣「正直乃人乃頂乎栖加土須。諂曲乃人乎波不稟(正直の人の頂〔いただき〕を栖〔すみか〕とす、諂曲〔てんごく〕の人をば稟〔う〕けず)」【注13】に照応するものです。
ちなみに『将門記』によると、将門は天慶2年(939)12月、八幡菩薩の使いという巫女のお告げによって、新皇になったということですが【注14】、この話がなぜ、『源平闘諍録』では、妙見菩薩の加護となっているのか、また妙見菩薩による「正直者を守護する」との誓願は、どのようなかたちで文献に現れてくるのか、など、不明な点は多く、今後も追尋しなければなりません。
ともかく『源平闘諍録』の一節からは「十善(正直等)によって帝位に就くも、これが尽きて(悪縁・諂曲)帝位を失う」という『平家物語』と同じ構図がみられますし、私は『源平闘諍録』の当文を読んだときに、まっさきに『平家物語』における二位尼の語りを想起しました。
ちなみに『源平闘諍録』は『平家物語』諸本とほぼ同じように起筆されています。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り。沙羅隻樹の花の色は、盛者必衰の理を顕せり。驕れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。武き者も遂には殄(ほろ)びぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝を訪へば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周異・唐の禄山…(中略)…近く本朝を尋ぬれば、承平の将門・天慶の純友・康和の義親・平治の信頼、驕れる心も武き事も取々にこそ有りしかども(後略)
ここに諸行無常、盛者必衰、「武き者も遂には殄(ほろ)」ぶという、和漢の古事が列挙され、本朝の例として「承平の将門」があげられています。『平家物語』は安徳天皇の入水についても、「悲しきかな、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな」と、やはり無常のさまを語り、十善の君徳を重ね合わせ、天子の終焉を記しました。
いっぽう『源平闘諍録』は、安徳天皇の入水(因縁覃)については触れず【注15】、かわりに将門をもって、「正直(十善)により神仏の加護を得て新皇となるも、諂侫によってその位を失う」という物語をなしたのです。むろん日本六十六カ国の天子(安徳天皇)と、関八州の新皇(平将門)とでは格差があります。しかしこの因縁覃のいわんとするところは、「統治する国々の大小にかかわらず、正直は統治者(主君)が備えるべき徳であり、これを失えば、その位も失う」を説示することにありましょう。たとえそれが一国一郡一郷の主であろうともです。
『源平闘諍録』は続けます。
さて将門のもとを去って良文のもとへと渡られた妙見大菩薩は、さらに忠頼のもとに渡られた。こうして嫡々と相い伝えて七代目の千葉常胤にいたるのである。(私訳)
妙見菩薩が「正直者を守護し、諂侫者には宿らず」という菩薩である以上、平良文より千葉常胤にいたる人々【注16】もまた、正直を旨としてきたであろうことは、いうまでもありません。そして『源平闘諍録』に示す因縁譚は、『千学集抜萃』にも次のようなかたちで引きつがれています。
尊星王菩薩(妙見菩薩)は大変に慈悲深く、正直甲(こう)なる者を守るべし、との誓願を立てられた。正直甲とは、たとえば「千騎の主」と「百騎の主」があったとしよう。時に千騎の主が曲論をいい、百騎の主は正論を述べた。その際、権勢をおそれて曲論に従うような者は甲の人ではない。これを妙見菩薩は捨させ給うのだ。非道を非道とし、道理を道理とする人こそが正直甲であり、これを妙見菩薩は加護されるのである。(私訳)
「甲(こう)」とは「強く勇猛なこと。また、そのさま。剛勇」(『日本国語大辞典〔第2版〕』)のことで、「日本第一ノ甲ノ者ナリ(日本第一の勇士である)」【注17】などの用例があります。ともかく『千学集』のつづる当文と、『源平闘諍録』における妙見菩薩の語りとを勘合すれば、「正直甲」とは、正直で武剛の者、相手が誰であれ、正直に勇気を持って正邪をいえる人を指しましょう。
今回はここまで。次回は千葉一族における正直の諸相について考えたいと思います。
【注】
(1)角田文衞『平家後抄』(朝日新聞社,1978年)など。
(2)本件に関する仏説をあげれば、『仁王般若波羅蜜経(仁王経)』巻上に「十善菩薩発大心。長別三界苦輪海。中下品善粟散王。上品十善鉄輪王(十善の菩薩は大心を発して長く三界苦輪の海に渡る。中下品の善は粟散王となり、上品の十善は鉄輪王となる)」(『大正新脩大蔵経』8巻827頁b。※鉄輪王は人間世界を治める王の意)とあり、また『菩薩瓔珞本業経』巻下に「是人復行十善。若一劫二劫三劫修十信。受六天果報。上善有三品。上品鉄輪王化一天下。中品粟散王。下品人中王(この人また十善を行ず。若しは一劫・二劫・三劫に十信を修すれば、六天の果報を受く。十善に三品あり。上品は鉄輪王にして一天下を化す。中品は粟散王、下品は人中の王なり)」(『大正新脩大蔵経』24巻1017頁a)とみえる。なお漢訳仏典における国王の位置づけについては、松長有慶氏による一連の研究(『インド密教の構造〔松長有慶著作集二〕』法蔵館,1998年)に詳細である。
(3)重松明久校注『八幡宇佐宮御託宣集』(現代思潮社,1986年)90,147P、237,257P。原文は中野幡能校注『神道大系 神社編四十七 宇佐』53P以下参看。
(4)日蓮『諫暁八幡抄』(『日蓮〔日本思想大系14〕』368P)など。また日本国王における不妄語(十善)と正直について取りあげた論著に、高木豊『鎌倉仏教史研究』(岩波書店,1982年)、細川涼一「仏教改革者の天皇観」(『講座 前近代の天皇4』岩波書店,1995年)などがある。
(5)『神皇正統記 増鏡(日本古典文学大系87)』82P。
(6)正直を君徳とするのは、中国王朝からうけた影響と思われる。たとえば『詩経』に「嗟爾君子 無恒安息 靖共爾位 好是正直 神之聞之 介爾景福(ああ君子よ恒に安息するなかれ。なんじの位を靖共し、この正直を好みせよ。神の之を聞けば、なんじに景福をあたえん)」(『詩経 中〔新訳漢文大系111〕』395P)とあり、『貞観政要』では、李大亮の示した当文について太宗が賞で(『貞観政要 上〔新訳漢文大系95〕』176P)、太宗自身も虚心正直を旨として天下を治めてきたと語っている(同184P)。『礼記』では孔子が当文を君徳として示しているし(『礼記 下〔新訳漢文体系29〕』841P。同書は「君主は恭敬にしてその位を守り、正直を旨として民に臨まねばならぬ」と訳す)、さらに『史記』に「王道正直(王道は正直なり)」(『史記 五世家上〔新釈漢文大系85〕』269P)とみえるなど、これら漢籍の記事といい、前掲(注2)漢訳仏典の説示といい、本邦における正直と国王との関連は、中国からの影響をぬきにして語ることはできない。なお日蓮は「正直に二あり」として世間・出世の二義をあげている(前掲『諫暁八幡抄』)。鎌倉期における正直(しょうじき・せいちょく)の語意については、なお検討を重ねたい。
(7)『感身学正記 1(東洋文庫664)』247P、前掲『諫暁八幡抄』等。
(8)『民経記』仁治三年六月二十日条。ただし『民経記』同年六月二十六日条には、藤原兼経の仰せとして、泰時は臨終の際、東大寺・興福寺を焼き討ちにした平清盛のごとき高熱に襲われたといい、「極重悪人之故歟」と記録している。まさに「両極端の評価」(尾上陽介「大日本古記録 民経記 八」〔『東京大学史料編纂所所報』36号、2000年〕)がある。また類似する記事が『平戸記』同年六月二十日条にもみえる。
(9)『中世政治社会思想 上(日本思想大系21)』(岩波書店)333P。これに関し仏説に典拠を求めれば、『維摩経』に「當知直心是菩薩浄土(まさに知るべし直き心はこれ菩薩の浄土なり)」(『大正新脩大蔵経』14巻538b)とみえる。なお丸井敬司『千葉氏と妙見信仰』(岩田書院,2013年。100P以下)も、妙見信仰と正直に関連する資料として「極楽寺殿御消息」をとりあげている。
(10)中野幡能『八幡信仰』(塙書房,1985年)206P。鎌倉期成立の説話集『十訓抄』が『十善業道経』(十善に関する仏説)をもとに作成されたことはよくしられ、『同』中などに正直に関する説示がある。また鎌倉時代における正直の理解を示すものとして、『塵袋』巻十一がある。同書は「正直(せいちよく)」を立項し、『春秋左氏伝』を挙げて「心ヲスグニナスヲ正トハイヒ、人ノマガレルヲナヲスヲ直卜云フ卜釈シタルナリ。コレハ今マ少シ大事ニヤ」(『塵袋2〔東洋文庫725〕』248P)といっている。ここで『塵袋』が正直に関して漢籍に着目していることは、前掲(注6)と合わせて興味深い。
(11)安徳天皇の「十善の果報」を失わせた悪縁については、さまざまに語られるが、天皇の祖父、平清盛による悪行も指摘される(『平家物語 下〔新日本古典文学大系45〕』294P脚注など)。この点、日蓮が安徳天皇の入水にいたった背景として、承久の乱における後鳥羽院の事例とあわせ「関東呪咀」を例示していることは特徴的である(『本尊問答抄』前掲『日蓮〔日本思想大系14〕』348Pなど)。
(12)「平家」等については、さしあたり今成元昭『平家物語流伝考』(風間書房,1971年)79P以下、『平家物語研究 今成元昭仏教文学論纂第四巻』(法蔵館,2015年)34P以下を参照した。
(13)前掲『八幡宇佐宮御託宣集』272P。また龍樹は『大智度論』に、妄語する者について「善神遠之(善神これを遠のく)」(『大正新脩大蔵経』25巻158c)といっている。
(14)『将門記(新編日本古典文学全集41)』62P。
(15)『源平闘諍録』は零本とされるいっぽうで、当初より現形で完結しているとの説もある(早川厚一「源平闘諍録考 ―巻立てから見た巻八下の読みについて―」〔『中世文学』31,1986年〕、同「『源平闘諍録』は五冊本で成立したか」〔『名古屋学院大学研究年報』23号、2010年〕など)。その場合、安徳天皇の因縁覃は、当初より構想からはずれていた可能性もあろう。
(16)この系譜は『源平闘諍録』の描くところで、同書は平良文について、将門の伯父でありながら養子になったとする。
(17)『神皇正統記 増鏡(日本古典文学大系87)』186P。
前回『平家物語』にみえる二位尼の語り(前世で十善を積んだ果報により帝位に就く)をもとに、その淵源(仏説等)と展開(『源平闘諍録』等)をつづり、とりわけ十善にかぞえる不妄語(正直)が重視されたこと、および八幡や妙見は正直者を守護し、諂侫・諂曲を受けざる菩薩【注1】であることを縷説しました。
今回は千葉一族における正直のありようを列叙したいと思います。
『源平闘諍録』は巻五において、妙見菩薩が正直をひるがえし諂侫となった将門のもとを去ったこと、また平良文のもとへ渡って以来、千葉常胤にいたる一族を守護してきたことを物語ります。これをうけて、千葉一族が妙見菩薩の加護を得るため、正直を旨としたであろうことはいうに及ばず、あわせて諂侫をいさめてきたであろうことも同断です。
その様相を示す資料の一つに、建長元年(1249)七月二十九日付「光綱書状」(「双紙要文」紙背文書=中山法華経寺蔵)【注2】があります。この書状は光綱が、主君(千葉氏)への忠義を誓ったものですが、書状の末尾に、
私の言葉に偽りがありましたなら、日本国中の神々の御罰、とりわけ妙見菩薩の御罰を蒙(こうむ)ります。(私訳)
と書かれています。このように自己の言動に偽りがあった場合、神仏の罰を蒙る旨を誓約した一文を「起請文言(きしょうもんごん)」といい、後年の「千葉胤清請文」(永徳2年=1382)にも「この条に偽りがあったなら八幡大菩薩・妙見大菩薩の御罰を蒙ります」(私訳)【注3】とみられます。前回ものべたましたが、十善の一つにかぞえる不妄語(ふもうご)とは「偽り言をせず=正直」ですから、正直を守護し、諂曲を受けずという妙見菩薩へ、正直の言葉を捧げることは、何よりの大事だったでしょう。
もう一つ「千葉胤貞願文写」【注4】(私訳)を掲げます。
敬白す、立願のこと。
妙見御前 田地一町
右、所願が成就したあかつきには、10日の内に進上いたします。
嘉暦元年(1326)七月二十一日 平胤貞(花押)
胤貞が、どのような願を立てたのかはわかりません。何か思うことがあったのでしょうか。ともかくその所願が成就したあかつきには、十日の内に妙見菩薩の御前に一町におよぶ田地を捧げる、との願文をしたためています。このように千葉一族は当主だけではなく、庶家や家人にいたるまで、妙見菩薩に正直の誓言を捧げ、加護を得てきました。
そんな千葉一族の中には、祈請(正直)を破る行為に対しての、義憤にも似た行動をとった人もいたようです。そのことを伝えるのが、次節に掲げる鎌倉時代成立の説話集『古今著聞集』です。
まずは当該部をかかげ、前後を追ってみましょう。
ある年の正月元旦、鎌倉幕府三代将軍、源実朝の御所に御家人達が群参していた。最上に着座するのは、幕府ナンバーⅡの三浦義村。そこに若年の千葉胤綱が、並みいる御家人をかきわけて、義村のさらに上座へ腰をおろした。義村は激怒していった。「下総の犬は寝床を知らぬようだ」。胤綱は間、髪をいれずに返した。「三浦の犬は友を食らうなり」と。(私訳)【注5】
痛烈きわめた一言に義村は言葉を返せなかったようです。胤綱のいう「友を食らうなり」とは、「和田合戦」における義村の裏切り行為を直言したものです。
時は建保元年(1213)5月、鎌倉幕府の政所(財政)トップの北条義時と、侍所(軍事)トップの和田義盛による抗争「和田合戦」が勃発。三浦義村は和田義盛との共闘を誓い、起請文までしたためました【注6】が、決起の直前、義村は義時側に寝返ったのです。これによっていくさは北条義時が勝利し、義時は幕府の財政と軍事を掌握。和田氏は族滅しました。
こうして北条義時は幕府における事実上の最高権力者に、サポートした義村は次位を手にしたわけですが、義村はまさに「友を食ら」い、その位を得たのです。千葉胤綱の一言「友を食らうなり」は「いかにも鋭くその間の事情をえぐった」【注7】痛快なエピソードといえるでしょう。
このエピソードからは、千葉一族が和田合戦における義村の動向を、非難していたことがうかがえます。起請文を破る(妄語・諂曲)という神仏への背信行為も、正直(不妄語)をモットーとし、妙見菩薩の冥利にあずかってきた千葉一族からすると、黙許できぬ行為だったに違いありません。
しかも三浦義村の裏切りは、諸人の知るところだったにもかかわらず、義村の威勢を恐れて、誰も口にすることはありませんでした。そんな中、妙見菩薩が守護する「正直甲(権勢を恐れず正邪をいう)」をもって義村にのぞんだのが胤綱だったのです。
ところで、当エピソードを考察した細川重男氏は、実朝の没年や、幕府の公式行事に参列する千葉氏当主(千葉介)の記事等を整理し、三浦義村と千葉胤綱の口論は、承久元年(1219)の一件と指摘しています【注8】。『吾妻鏡』によれば、同年、胤綱はかぞえで12歳。現代の感覚からすると「いまだ若者」(古今著聞集)どころではありません。
ただ胤綱の年齢については検討すべき問題があります。すなわち『吾妻鏡』は、安貞2年(1228)5月28日、「二十一歳」で没したとしますが、『本土寺過去帳』の記載は享年「三十一歳」【注9】です。「二」か「三」か。これによって、先の口論時の年齢も12歳か22歳かの何れかとなります【注10】。
ともあれこのエピソードは、正直を座右に据える千葉一族の面目躍如といえますが、『千学集抜萃』はじめ、千葉氏関係書物にはみえない話なので、ここに拾遺した次第です。
ここまでを小括しておくと、まずは当時ひろく流布していた『平家物語』(あるいはその前身「平家」)の話(安徳天皇と十善)が、『源平闘諍録』(東国版)では、平将門の正直と諂侫譚として語られ、これが千葉一族へと伝わり、一族にとって妙見信仰と正直は不可分・不可欠な存在、精神的支柱となりました。また中山法華経寺文書等によって、妙見信仰は千葉宗家だけではなく、庶家や家人にも浸透していた様がうかがえます。
ただ将門が正直によって妙見菩薩の加護を得て新皇となるも、諂侫によって、その位を失ったという話を格言する以上、千葉一族の興亡もまた、このいましめと関連づけなければなりません。
『千学集抜萃』に閑話休題すると、同書は古河公方(権力)からの偏諱を拒み、妙見菩薩(正直)の御前にて元服・実名を決めた千葉孝胤を「正直甲」とたたえる【注11】いっぽうで、康正元年(1455)8月、千葉胤直が自刃して果てた千葉宗家の滅亡について、理由は胤直が非道を道理としたため、つまり諂侫だったというのです。すなわち前掲「正直甲」に続けて次のように語り伝えます。
千葉家では胤直の御代に、重臣の原越後守胤房と圓城寺下野守直重が家風をめぐって口論したが、これは直重がみずからの非道を道理とし、胤房の道理を非道としたために起きた諍いであった。ところがこの時、胤直は、円城寺直重は多勢で、原胤房は無勢だったため、直重に肩入れしたのである。この諂侫により妙見菩薩は胤直を捨て給うたのである。 これに関して次のような出来事があった。享徳3年正月2日の明け方、胤直の郎党、片野胤定が籠りをされていたところ、夢中に甲冑をまとった12歳ほどの小童が現れて、一首を詠じた。
神風に 吹ちらされて 胤直の すけもはしらも かなはざりけり
胤定が「それでは原の方はどうか」と小童に問うたところ、つづけて、
神風の 長閑なりける 時にこそ 高間か原の 末そ久しき
と詠んで姿を消した。この二首の神詠を、後世に伝えるため、左衛門太夫秀義が『千学集』に入集したのである。(私訳)
おそらく「神風に 吹ちらされて 胤直の すけもはしらも かなはざりけり」の一首は、諂侫によって神に見放され(神風に吹き散らされ)た胤直は、たとえ介・柱(千葉介・千葉家の柱)といえども、敵にかなうことはない、の意で、もう一首「神風の 長閑なりける 時にこそ 高間か原の 末そ久しき」は、神に守護された(神風の長閑なりける)原氏が勝利し行く末久しいことを詠ったものと思われます。「高間か原」は「高天原(たかまがはら)=神々の住む聖地」で、原胤房の「原」にかけているのでしょう。
宗家胤直の滅亡については『下総国千葉郷妙見寺大縁起』も「胤直国主の器量あらずして」とか「胤直神慮にも違ひ、天神の極る所にやありけん、かかる事は良文より以来、終に例なき事なりけり」【注12】等と辛辣な文言をつらねています。
ちなみに『源平闘諍録』は「良兼は多勢、将門は無勢なり」という状況下、妙見菩薩は無勢の将門を正直・剛のゆえに守護したといいますが【注13】、対して上掲のとおり、胤直は、円城寺直重は非道であるにもかかわらず、多勢ゆえに肩入れし、妙見菩薩に捨てられたというのです。軌を一にした正直諂侫譚といえましょう。
これら『千学集抜萃』、また『源平闘諍録』等の編纂物の記すところは、いずれもエピソードですが、前掲、中山法華経寺文書の誓言・起請文言でみたように、千葉一族にとって妙見信仰と正直は一体で、これを一族の精神的支柱とし、独自にたもつことは、一族の結束・統率につながったでしょうし、一族の歴史に大きな役割を果たしてきたと思うのです。
過日、『千学集抜萃』の最古写本を伝える清宮家について調べていたところ、幕末~明治にかけて、房総に関する資料を収集整理し、みずからも著作をものした清宮秀堅(せいみや・ひでかた:1809~1879)の一代記『清宮秀堅先生小伝』が目にとまりました。筆者は秀堅の門人、桜井清治郎です。その桜井の語るところ、秀堅もまた「直キヲ愛シ曲レルヲ措ク」人だったといい【注14】、大いに感銘を受けました。
このエッセーでは、千葉氏における正直の系譜をかかげ、あわせてこれと不可分な妙見信仰をとりあげましたが、いまだ自分の中では消化しきれていないことが多々あります。よくしられるように、妙見菩薩は水神(『日本霊異記』【注15】)であり、また武神(『源平闘諍録』『千学集抜萃』等)でもあり、正直甲(剛)の守護神でもあります。その他、さまざまな側面をもちますが、最近、妙見菩薩はいったい反逆・謀反の神であったとの説に接し、一考を要すと思いました。
たとえば『千学集抜萃』は、『源平闘諍録』の描く蚕飼川(常陸国)合戦を、染谷川(上野国)合戦とし、妙見菩薩が〝謀反〟をおこした将門を守護した、とリメイクします。なぜ『千学集抜萃』は、わざわざ〝謀反〟を加えたのか、理解できずにいましたが、もともと星神は為政者に従わず討伐される側にあったようで(『日本書紀』【注16】)、描かれた合戦の舞台が上野国の群馬群(くるまぐん)だったことを踏まえると、なるほど、その下地はそろっていたのではないか、と思いつつあります(上野国は『神道集』に象徴される神話の宝庫)【注17】。これらは、なかなか実証的に論じることの困難な課題ですが、周縁を把握しておくこともまた、重事と認識させられました。
それから今回は、妙見信仰にスポットをあて叙述しましたけれども、「千葉の守護神は、曾場鷹大明神・堀内牛頭天王・結城の神明・御達報の稲荷大明神・千葉寺の龍蔵権現これなり。弓箭神と申は妙見・八幡・摩利支天大菩薩これなり」(『千学集抜萃』)というように、千葉一族の崇める神々は実に多彩です【注18】。
しかしこれらの子細は、今回のノートにはとても収めきれず、また書き尽くせず、一々を今後の課題として、このたびは擱筆いたします。
【注】
(1)前回とりあげた他にも、たとえば『沙石集』巻九に「正直ノ者ヲバ天是レヲ助ケ、幸ヲエシメ、諂曲ノ物ヲバ冥是レヲ罰シテ災イヲ與フ」(『沙石集〔日本古典文学大系85〕』371P)等とみえる。
(2)『千葉県の歴史 資料編 中世2(県内文書1)』1018P。本状については、野口実「千葉氏の嫡宗権と妙見信仰」(同『千葉氏の研究』名著出版,2000年)、『石井進著作集 第七巻 中世史料論の現在』(岩波書店,2005年。181P)等を参照されたい。
(3)『千葉県の歴史 資料編 中世2(県内文書1)』1126P。同書の注によると当文書には裏花押が据えられているものの、その花押形は、もう一通の胤清花押とは異なるという。この点、注意しておきたい。
(4)『同前』1111P。これより先、胤貞は「妙見御神田合二町」を寄進している(同)。土屋賢泰「千葉氏と妙見信仰」(千葉県郷土史研究連絡協議会編『論集 千葉氏研究の諸問題』千秋社、1977年)参照。
(5)『古今著聞集(日本古典文学大系84)』403P。なお両者は互いに「犬」と罵っているが、これは相手を卑下するための言葉である(森野宗明「下総犬と三浦犬」〔『日本語と国文学〕8号,1988年)。
(6)『吾妻鏡』建暦三年五月二日条。
(7)石井進「『古今著聞集』の鎌倉武士たち」(『古今著聞集〔日本古典文学大系84〕月報』1966年)。同『鎌倉幕府(日本の歴史07)』(中公文庫、2004年。300P以下)参照。
(8)細川重男「下総の子犬の話」(『古文書研究』52号,2000年)。
(9)『千葉県史料』本は没年齢を「廿一歳」と翻刻するが、天正本の原文(下二十七日)を確認するに、
千葉介胤綱〈安貞二戊子五月卅一才〉
である。
(10)『吾妻鏡』の記す胤綱の寂年齢については、前掲注(5)森野論文等が疑問を呈しており、福田豊彦「『源平闘諍録』の成立過程〔補論〕千葉介胤綱・時胤および千田泰胤の系譜上の位置」(『千葉県史研究』11号別冊,2003年)も『吾妻鏡』が記載を誤った可能性に言及。岡田清一氏(『千葉県の歴史 通史編 中世』千葉県,2007年。131P以下)は、『吾妻鏡』の記載は誤りとする。福田氏・岡田氏の指摘するように胤綱の没年を21歳とすると、前後の系譜・系図に無理が生じるいっぽう、系図自体、検討を要するかとも思われる。またこの話が事実であれば、12歳(満11歳)の言動であればともかく、22歳のそれとなれば、単なる口論ではすまなかったのではないか。ちなみに三浦義村の没年は延応元年(1239)、千葉胤綱のそれは安貞2年(1228)で、両者の口論を伝える『古今著聞集』の成立は建長6年(1254)とされる。当事者を知る世代で、すでにこの話が語られていたことがわかる。
(11)この前後における千葉氏の動向については、先行研究を含め、外山信司「戦国期千葉氏の元服」(佐藤博信編『中世東国の政治構造』岩田書院,2007年)を参照。外山氏は妙見の神前における元服儀式等を通じ、家督継承意識の表出や『千学集』成立事情を論じ「馬加千葉氏・佐倉千葉氏・原氏のもとで 『千学集』が整えられた」と指摘する。千葉嫡家の正統性を語るにあたり、妙見信仰が取り入れられたことは、福田豊彦「『源平闘諍録』その千葉氏関係の説話を中心として」(『日本文学研究大成 平家物語Ⅰ』国書刊行会,1990年)、前掲注(3)土屋論文、前掲注(2)野口論文等に論究されている。
(12)千葉市立郷土博物館編刊『妙見信仰調査報告書』(1992年)79~80P。
(13)福田豊彦・服部幸造注釈『源平闘諍録(下)』(講談社学術文庫,2000年)52P。
(14)小原大衛写本(千葉県立中央図書館蔵)による。その他、清宮秀堅の人となりを知る資料として、未見ながら秀堅の発信・受信した書簡などがあげられよう。これらの資料については(財)千葉県史料研究財団編『千葉県史編さん資料 千葉県地域資料現状記録調査報告書 佐原市清宮利右衛門家文書(正続)』第5集・6集(千葉県,1999・2000年)に書目が列挙されている。いずれ眼福の機会をえられればと思う。
(15)『日本霊異記(新日本古典文学大系30)』177P。『入唐求法巡礼行記1(東洋文庫157)』10P。これらはいずれも妙見菩薩が水難から救う菩薩であることを示している。
(16)『日本書紀』巻第二(『日本書紀 上〔日本古典文学大系67〕』140P・同頭注)に、次のごとく天津甕星は悪神であり、国を平定するため誅殺すべしとの話がみえる。
天神(あまつかみ)が経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を遣わし、葦原中国(あしはらのなかつくに=日本の古称)平定したが、二人の神は「天に悪神がおります。名を天津甕星といいます。まずはこの神を誅殺して、その後に葦原中国を平定したいと思います」と進言された。(私訳)
(17)角川源義「上野国の中世神話」(『角川源義全集』3巻。角川書店,1988年)等を参照。また上野国には、八幡菩薩による正直守護の託宣をおさめた『宇佐宮八幡御託宣集』の写しも早くから伝わっていた(『神道大系 神社編 宇佐』解題)。それから川村湊『増補新版 牛頭天王と蘇民将来伝説』(作品社,2021年)に次の指摘がある。
「そうした信仰を持ち込んだのが、朝鮮半島から渡来した馬飼い集団であり、これら高句麗、新羅から渡ってきた騎馬民族としての渡来人が住み着いたのが河内国で、ここにまず妙見信仰のメッカが生まれた。次いで、北関東に移住し、その末裔たちが牧場を開き、馬飼いを業とした(群馬や相馬といった「馬」の字が付く地名はここから生まれてきた)。妙見信仰が北関東をホーム・グランドとしているのは、こうした歴史が積み重なっているからだ。妙見信仰が、叛逆、謀反のシンボルとなった理由は、こうした北関東に散らばった渡来系の牧民集団を背景とした武装勢力の台頭にあったというべきだろう。むろん、その最大の〝新星〟が平将門である」(298P以下)。
(18)その他、前掲注(4)資料のとおり、千葉胤貞は元応二年(1320)十二月一日付で「妙見御神田」を寄進しているが、同日付で「十羅刹御神田」も寄進している(『千葉県の歴史 資料編 中世2(県内文書1)』1110P)。もって千葉氏の多彩な信仰を知らなければならない。
大関真由美(郷土博物館研究員)
新型コロナウイルスによる世界的なパンデミックの影響が随所に及んでいる今日この頃、本コラムでは「過去のパンデミックはどうだったのか?」について、ご紹介したいと思います。
大正7年(1918)、全世界で「スペイン風邪」が流行、日本でも8月下旬から流行がはじまり、11月には全国的な流行となりました。千葉県内も例外ではなく、東京日日新聞10月26日の記事では「怖しい西班牙感冒(スパニッシュインフルエンザ) 千葉町にも猛威を揮ふ」として記事を載せています。これによれば、この時点で「官署に勤める役人、材料廠へ通ふ職工、旅館、下宿屋の女中さては荒くれた寒川の漁師達に至る迄皆閉口して居る、殊に蓮池七十の芸者中廿余名は休業」とし、千葉中学校では生徒24名と教師3名が罹患、女子師範学校でも6名の罹患者がでていることが書かれています。木更津駅でも駅員9名が罹患し、周辺の駅から応援を呼んで営業している状態です。「三日風邪の烈しいもの」として不摂生をしないように注意喚起がされています。
翌27日には、「人込を避けよ」という新井県警察医の談話を載せ、症状についての説明をした後に「患者はなるべく健康者と隔離」する必要を説いています。31日の「世界かぜ益蔓延 何日になつたら終熄するか」という記事では、各郡の状況を載せたうえで、県庁内で40余名、千葉中学校60名、高等女学校30名、男子師範17名、女子師範23名、千葉尋常小学校と第一~第四各小学校合わせて250名もの罹患者の増加、ならびに郵便局の集配人や電話交換手でも罹患者増加のため業務に支障がでている旨を報じており、確実に生活への影響がではじめていることがわかります。
11月4日には佐原高女が前日から一週間の休校となった旨が報じられ、6日には県下の患者数が約5万人に達する見込みであること、医師ですら罹患して診察ができない状態であるとの記事が出ています。罹患者からの死亡者(小学生)も出て、いよいよ退っ引きならない状態になってきました。
7日には「各所の製糸工場も遂に休業す 欠席休校日に次々」、そして千葉中学校も5日から10日までの臨時休校となったことを報じています。印旛郡当局は、各町村に対し全ての集会の中止を通達し、ますます今回のコロナウイルスと同様の様相を呈してきます。連日のように患者数や休校の情報が紙面にあがっています。その後記事は次第に減少し、28日には「やつと終熄か」の記事がでます。初発以来の県内患者数は182,541名、死亡者646名で罹患率は2.09%、死亡率は0.353%とのことでした。
全国的にも12月頃には勢いが低下、当時の内務省衛生局は、日本国内の総人口5,719万人に対し、第1回流行期間中の総患者数は2,116万8千人(約37%)と報告、総死亡者数は25万7千人で単純計算すると致死率は1.2%とのことなので、千葉県内は決して高くはない罹患率と死亡率であるとはいえ、その混乱はかなりのものであったことは想像に難くありません。
今回の新型コロナウイルスへの政府の対応は、患者との接触をさけるという観点から休校・不要不急の外出や集会を避けることに集約されると思いますが、大正7年時点でもやはり同様の対応がなされていたことがわかります。
大正7年のパンデミック同様、必ず終息する日が来ると思います。まだまだ先は不透明ですが、ひとつの希望を見出すこともできるのではないでしょうか。
(ちば市史編さん便りNo.24より転載)
白井千万子(郷土博物館研究員)
今年は新型コロナウイルスの影響で外出自粛の要請が続いているため、ゴールデンウイークもステイホームウィークとなってしまいました。こんなときは千葉市立郷土博物館のホームページを開いて、在宅での旅をしてみてください。そして、コロナ禍が収まった暁には、今外出を我慢している分まで存分に旅を楽しみましょう。
今回は、江戸時代の旅のようすを紹介します。街道や宿場が整備され、庶民が旅に出やすくなったのは江戸時代も中期以降です。滑稽な旅のようすを描いたベストセラー「東海道中膝栗毛」や「旅行用心集」など、現在のガイドブックにあたる道中記が盛んに出版されたこともあり、文化文政期以降に旅の一大ブームが起こりました。「一生に一度はお伊勢参りをしたい」という庶民の強い願望もあり、伊勢の御師たちは伊勢参宮パッケージツアーを企画して、人々を伊勢の旅へと誘いました。
しかし、幕府は支配政策の一環として全国各地に関所を置いたため、そこを通過するには往来手形や関所手形が必要でした。そこで庶民は寺社参詣、あるいは湯治という療養を名目に領主の許可得て、村役人や寺の発行した手形を持って旅に出かけました。関所を通るときには手形改めが行われましたが、箱根の関所ではとくに厳しい監視体制がとられ、箱根御番所奉行宛の関所手形が必要でした。往来手形は旦那寺が発行する身分証明書で、現在のパスポートのような役割を果たしており、他国へ出かける旅人にとっては必携品です。
下の史料は下総国千葉郡星久喜村の百姓が上野国の草津へ湯治に出かけたときに、星久喜村の千手院が発行した往来手形です。天台宗の千手院が旦那寺となって百姓3人の身分を証明しており、関所の通行、不慮の事態が起きた場合の宿場や村々での対応について依頼しています。
(『千葉市史史料編2近世』)
信仰の旅には地元の寺社に参詣する日帰りの手軽な旅と、伊勢参宮など他国へ出かける大掛かりな旅がありました。伊勢参宮の旅は、行きと帰りでは同じ道を通らず、途中で善光寺など諸国の有名な寺社へ参詣したり、京都、大坂、奈良などを見物するなど、一生に一度の大旅行でした。遠くの寺社への参詣には多くの日数を費やし、多額の費用もかかりました。そこで庶民は同じ神仏を信仰する仲間で「講」という組織をつくり、参詣のための費用を積み立てました。参詣の順番をくじ引きなどで決める「代参講」という形をとり、講員が交代で参詣に出かけました。江戸時代の千葉市域には伊勢講のほかにも出羽三山講(出羽国羽黒山・月山・湯殿山への参詣)、秩父観音講(秩父三十四番札所への参詣)、富士講(富士山への登拝)、大山講(相模国大山石尊への参詣)などがありました。講員は参詣から戻ると、地元の寺社などに参拝記念の石碑を建てました。各地に残された石碑を見ると、参詣に出かけた場所、時期、同行した人数などがわかります。
伊勢参宮道中記
千葉郡中野郷鎌田(現千葉市若葉区中野町)の高橋卯兵衛さんは、嘉永5年(1852)に伊勢参宮の旅に出かけ、「伊勢参宮日記控帳」(千葉市の郷土史家和田茂右衛門氏収集資料)を残しています。この道中記をもとにして、卯兵衛さんがたどった旅のルートを追体験してみましょう。
<旅のルート>
<卯兵衛さんの旅>
・旅の行程‥6月1日千葉町出立~7月12日千葉町帰着 |
卯兵衛さんの道中記は千葉町から始まります。薄荷園での暑気払いを済ますと、舟で江戸へ向かいます。行きは中山道を通り、途中で川中島を見物して「武田由来記」を購入し、「一生に一度はお参りしないと極楽へ行けない」という信仰のある善光寺にお参りしています。木曾十一宿は中山道の山間部にあり、最も標高の高い旅の難所である鳥居峠を控えて、奈良井で宿泊しています。中山道六十七宿の真ん中にある奈良井宿は、最も栄えた宿場町で「奈良井千軒」と謳われ、町並は現在、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
津嶋では牛頭天王の祭礼を見物し、夜舟で宵祭りを楽しんでいます。津嶋天王祭は「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコの無形文化遺産に登録されています。京都、大坂、奈良では案内人を雇って上方の見物をして、土産物を購入しています。
松坂から伊勢山田まで馬に乗り、櫛田川を渡って宮川を越えると伊勢神宮です。関東をカスミ(檀那場)とする御師龍太夫の屋敷に宿泊し、豪華な接待を受けています。伊勢神宮外宮への参拝を済ませ、朝間ケ嶽にお参りして伊勢の萬金丹を購入し、二見ケ浦を見物して旅の目的達成です。
帰りは東海道を通り、一筆書きのような行程をたどっています。東海道には天竜川、大井川、安倍川、富士川など大河川が多く、舟渡し、輦台、人足による徒渡しの費用がかかります。舟や徒の渡し賃16文から46文に対して、大井川の輦台は人足4人分と輦台の借り賃を合わせて313文もかかっています。人足を雇うために購入する川札の値段は、川の水量によって48文から94文と異なり、大雨などで増水すると川留めで逗留を余儀なくされることもあります。
江戸では見物やさまざまな土産物購入のために3泊し、船橋では鮨を食して1泊します。41日間の旅では、途中で茶店に入って各地の名物を堪能して疲れを癒したり、名所旧跡や祭礼などを見物したりと、徒歩での旅を楽しみながら、長旅を終えて無事に千葉町に戻りました。
註
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<旅装束> 徒歩を基本とした江戸時代の旅は道中笠、道中合羽、手甲、脚絆、草鞋姿に振り分け荷物が一般的な旅の姿です。旅の持ち物はちょうちん、ろうそく、つけ木(マッチ)、矢立(携帯用筆記具)、弁当箱、手形(往来手形・関所手形)、衣類、手ぬぐい、はな紙、財布、巾着(小銭入れ)、ふろしき、髪結道具、扇、針糸など必要最小限にとどめ、振り分け荷物に納めて持ち歩きます。旅に必要な物は途中で購入することもでき、卯兵衛さんは草履やわらじなどを買い求めています。 <伊勢神宮と「おかげまいり」> 伊勢神宮は皇室の祖先神である天照大神を祀る内宮と、衣食住をはじめとする産業の守り神である豊受大御神を祀る外宮に分れます。外宮は江戸時代には農業神としての信仰をあつめ、伊勢暦は農民にとって農業暦として重要な役割を果たしました。御師は積極的に活動して全国に伊勢信仰を広めるとともに、伊勢参宮の客を屋敷に宿泊させてもてなし、大々神楽をあげるなどの世話をしたため、多くの人々が伊勢神宮を訪れました。 |
白井千万子(郷土博物館研究員)
<坂東札所とは>
寺社信仰は伊勢参りや善光寺参りなど一つの寺社を目的とした参詣と、各地の札所を巡り歩くことを目的とする四国、西国、坂東、秩父などの巡礼があります。四国遍路や西国巡礼は平安時代に始まったといわれ、僧や貴族の信仰をあつめました。坂東の札所は花山法皇(在位984~985)の時に制定されたという伝説がありますが、実際は関東に基盤を置く武家政権である鎌倉幕府が成立すると、西国巡礼の在り方を関東にうつしたといわれています。坂東巡礼の信仰は武士の間に広まり、将軍源頼朝・実朝も観音信仰に帰依しました。そして、札所の制定にも大きな力を果たしたといわれています。第一番鎌倉の杉本寺から始まり第三十三番安房の那古寺で終わると、船を利用して鎌倉へ戻る札所巡礼ルートは、鎌倉在住者に都合の良い順路といえます。また相模国に最も多い九カ所の札所が制定されたことからも、鎌倉の存在の大きさがうかがえます。
江戸時代になると物見遊山を兼ねた庶民の旅が盛んになりますが、西国や秩父に比べると坂東札所は真摯な巡礼者が多かったといわれます。巡礼の順番も江戸から始まることが多くなり、自分の都合に合わせて自由にコースを決めるようになります。今回紹介する道中記の巡礼では、三十三カ所のうち安房、上総、下総の札所6カ所を巡り、納札を行っています。
<坂東三十三札所> 第一番大蔵山杉本寺(神奈川県鎌倉)、第二番海雲山岩殿寺(神奈川県逗子)、第三番祇園山安養院(神奈川県鎌倉)、第四番海光山長谷寺(神奈川県鎌倉)、第五番飯泉山勝福寺(神奈川県小田原)、第六番飯上山長谷寺(神奈川県厚木)、第七番金目山光明寺(神奈川県平塚)、第八番妙法山星谷寺(神奈川県座間)、第九番都幾山慈光寺(埼玉県比企)、第十番岩殿山正法寺(埼玉県東松山)、第十一番岩殿山安楽寺(埼玉県比企)、第十二番華林山慈恩寺(埼玉県岩槻)、第十三番金龍山浅草寺(東京都台東)、第十四番瑞応山弘明寺(神奈川県横浜)、第十五番白岩山長谷寺(群馬県群馬)、第十六番五徳山水沢寺(群馬県北群馬)、第十七番出流山満願寺(栃木県栃木)、第十八番補陀洛山中禅寺(栃木県日光)、第十九番天開山大谷寺(栃木県宇都宮)、第二十番独鈷山西明寺(栃木県芳賀)、第二十一番八溝山日輪寺(茨城県久慈)、第二十二番妙福山佐竹寺(茨城県常陸太田)、第二十三番佐白山観世音寺(茨城県笠間)、第二十四番雨引山楽法寺(茨城県真壁)、第二十五番筑波山大御堂(茨城県筑波)、第二十六番南明山清滝寺(茨城県新治)、第二十七番飯沼山円福寺(千葉県銚子・下総)、第二十八番滑川山龍正院(千葉県香取・下総)、第二十九番海上山千葉寺(千葉県千葉・下総)、第三十番平野山高蔵寺(千葉県木更津・上総)、第三十一番大悲山笠森寺(千葉県長生・上総)、第三十二番音羽山清水寺(千葉県夷隅・上総)、第三十三番補陀洛山那古寺(千葉県館山・安房) 地域別分布 |
<房総版坂東札所めぐり>
今回は『享和元年(1801)閏三月十一日 道中記 吉田氏』(千葉市の郷土史家和田茂右衛門氏収集資料)から、江戸時代の坂東札所めぐりの旅を紹介します。道中記は3月16日の「出立、成田山よりなめ川江三里、此所ニ泊リ角や」から始まり、4月1日の「姉ヶ崎より五井江壱り八丁遠し 五井入口江舟渡し」で終わっています。日記を書いた人物の詳細は不明ですが、原所蔵者は千葉市稲毛区園生町の吉田氏であることから現千葉市域在住者と思われます。この旅日記をもとに、「房総版坂東札所めぐりの旅16日間」のルートをたどってみましょう。下の地図を参照しながら、ご覧ください。
・旅の行程‥3月16日成田山出立~4月1日五井到着 |
旅の記録は成田山から始まり、坂東札所の二十八番滑川観音にお札を納めています。札所を見ると巡礼者が納めたお札が御堂に張られている光景を見かけますが、これらの納札はかつての参拝者の動向を知る手掛かりになります。「観音の面も見やりつ花曇」は滑川観音を詠んだ芭蕉の句ですが、飯沼観音や笠森観音にも芭蕉の句碑があり、松尾芭蕉が訪れたことがわかります。
滑川から10丁(約1090m)ほどの源太河岸から佐原までは、200文かけて「さわらや嘉七舟宿」の舟を利用しての舟旅を楽しんでいます。佐原で舟を降りて香取神宮へ参詣し、再度舟で常陸国かな新田へ行き、鹿嶋神宮や息栖神宮に参詣した後、雨のため息栖に逗留します。香取・鹿嶋・息栖は江戸時代には木下茶船を利用して、江戸からの旅人が多く訪れた人気の場所です。
小見川からは陸路で銚子へ向かい、二十七番札所飯沼観音にお札を納め、高野妙見宮開帳にお参りしています。銚子については岩不動明王、川口白神大明神、千人塚、さるの石など、さまざまな名所を紹介しています。銚子を出ると横芝の稲荷大明神、成東の不動尊、田間山王社、本納の橘大明神、茂原の千手堂奥の院開帳を参詣して長南に向かいます。翌日は朝食前に三十一番札所笠森にお札を納めた後、付近に宿も見あたらない五里半(約21.5km)の道を三十二番札所清水寺に向かい、お札を納めます。
ながし(夷隅郡長志村は房総南部を貫く要道上にあり、定期市で名高い)では雨のため3泊逗留して新宿へ向かい、その後は浜通りを海岸沿いに御宿、勝浦、興津と進み、2里(約7.8km)程磯の難所を越えて小湊に到着します。小湊の誕生寺、清澄の清澄寺と日蓮ゆかりの寺に参詣し、浜萩、前原、江見、和田、松田を経て三十三番札所那古寺にお札を納めています。木の根峠を越えて保田に着くと鋸山に登り、翌朝仁王門口から金谷、竹岡、天神山を経て鹿野山の麓で宿泊しています。翌日は三十番札所高倉観音にお札を納め、笠上入口台方の笠上観世音開帳に参詣して姉ヶ崎で宿をとります。4月1日姉ヶ崎から五井入口への舟渡しで日記は終わっています。
旅の費用についての記載は宿賃の「木銭六十文」「米百文壱升」、「舟宿壱人前銭弐百文」、「千手堂開帳百文」、「舟渡し」3文~5文のみです。合計額は642文ですが、昼食代や休憩費の記載はなく、宿泊費は2日分の記述しかないため、旅全体の費用を把握することはできません。木銭と米は木賃宿と呼ばれる安価な宿の費用で、旅人に宿泊と自炊施設を提供していました。江戸時代中期以降になると、街道が整備されて庶民の旅が盛んになり、食事を出す宿も増えて身軽な旅ができるようになりました。
道中記の筆者がたどった行程を見ると、坂東札所へのお札納めと寺社参詣が中心で、篤い信仰心がうかがえます。物見遊山、各地の名物、土産物の購入などの記述が見られないことからも、幕府が認めた本来の信仰の旅に近いことがうかがえます。
<参詣した寺社~道中記より>
・坂東札所 ・札所以外の寺社 |
3月16日から4月1日までの旅の行程(1~56の番号は地図中の番号と一致)3月16日 1成田山 2滑川 |
白井千万子(郷土博物館研究員)
<『房総道中記』と『利根川図志』>
享和元年「坂東札所道中記」には名所旧跡の紹介が少ないので、江戸時代の房総について記した書物『房総道中記』と『利根川図志』で少し補っておきたいと思います。
『房総道中記』は十辺舎一九の作で、「房総ひざ久利毛」と呼ばれることもありますが、正式名称は外題「方言修行金草鞋十七編」、内題「小湊参詣金草鞋」で、文政10年(1827)の出版といわれています。一九の代表作「東海道中膝栗毛」は享和2年(1802)の出版ですが、その後も続膝栗毛は「金毘羅参詣」、「宮嶋参詣」、「木曾海道」、「善光寺道中」、「上州草津温泉道中」、「中山道」が出されます。膝栗毛は文が主であるのに対して、金草鞋は絵が主の記行(紀行はとき、ところが示されるが、記行にはときがない)です。文化10年(1814)の「江戸見物」から始まり、「東海道」、「大坂見物」、「京見物」、「木曽路巻」、「奥州」、「仙台」、「出羽」、「西国順礼」、「坂東順礼」、「秩父順礼道中」、「身延道中之記」、「善光寺参詣」、「東都大師巡八十八箇所」、「二十四輩御旧跡巡拝」、「小湊参詣」(房総道中記)、「越中立山参詣記行」、「白山参詣」、「四国遍路」、「西海航路」、「西海陸路」、「伊豆記行」、「箱根山七温泉江之島鎌倉廻」と続きます。膝栗毛が戯作であるのに対して、金草鞋は実用的な道中案内記的役割をもっています。
『利根川図志』は全六巻からなり、安政4年(1857)に下総布川の町医者赤松宗旦義知によって出版されました。中・下利根川流域の名所旧跡、神社仏閣、産業、交通、地理、歴史、人情や風俗、動物や植物の生態など、幅広い分野にわたって記録した地誌です。絵や図も豊富で沿岸の風景、神社仏閣の祭礼、鮭や藻類などの動植物、カッパ、アシカ、印旛沼の図、銚子磯めぐりの図、利根川全図(上越国境の利根川源流から銚子川口までの沿岸の地名を記入)などが取り入れられています。赤松宗旦は利根川河岸の布川で生まれ、印旛沼沿岸で青春時代を過ごし、医学や種々の学問を求めて遊歴したといわれます。再び布川に戻って医師として開業する傍ら、豊富な知識や広い教養を身につけた文人としても活躍しました。
<江戸時代の房総~『房総道中記』より>
『房総道中記』の旅は、「坂東札所道中記」と重なる部分が多く見られます。旅の始まりは江戸小網町で、行徳までは船に乗り、そこから船橋・馬加、毛見川・登戸、寒河・曽我野、浜野・八幡、五井、姉ヶ崎、奈良和・木更津、鹿生山・佐貫、天神山・百首、金谷、保田・勝山、市部・那古、広瀬・加茂、和多・江美、前原・小松原、小湊、天津・清澄、豆原初日峰、松野、大滝、長南、笠もり、茂原、わしのす、六地蔵、宇留井土と徒歩の旅を続けます。帰路は寒川から江戸へ船で戻り、房総の旅を終えています。
房総各地の名物として行徳の笹屋うどん、中山蒟蒻、那古の飴などが登場しますが、土産の記述はありません。江戸時代から明治初年までのお土産は、紙刷の名所旧跡図や地図、旅人宿で出す引札、神社仏閣のお札等軽くてかさばらないものが一般的でした。また、神社仏閣で製造された秘伝の妙薬もお土産の定番で、成田山の一粒丸(血止め、傷薬)は有名です。長旅のため日持ちのしない食べ物はお土産には不向きで、各地の名物を堪能することは旅人の特権であり、旅の楽しみのひとつでもありました。
次に、「坂東札所道中記」に登場する鹿野山、保田、那古、和田・江見、小松原、小湊、天津・清澄、笠森について、『房総道中記』に記された江戸時代のようすを紹介します。
鹿野山…観音の霊験があらたなるゆえ、参詣たへず。境内に大木の桜あり。神野寺不動の滝。 (『房総道中記』より抜粋) |
<江戸時代の房総~『利根川図志』より>
『利根川図志』は地元のことを知り尽くしている赤松宗旦が著者であるため、記述内容も詳細を極めています。続いて「坂東札所道中記」に登場する成田山新勝寺、滑川観世音、香取大神宮、鹿島大神宮、息洲神社、銚子、飯沼観世音について、『利根川図志』をもとにして江戸時代のようすを紹介します。
成田山新勝寺…埴生郡成田村にある。不動明王と二童子を祀っている。弘法大師の御作で、始めは山城国高雄山護国寺護摩堂の本尊であった。天慶二年(939)相馬の将門が乱を起したとき、寛朝僧正に命じて、調伏の法を修めさせた。僧正はこの尊像を奉持して将門の新都近くで調伏の護摩を修めたところ、効験利益がたちまちあらわれ、翌天慶三年二月将門はついに降伏した。僧正が尊像を奉じて京都に帰ろうとした時、尊像がたちまち重くなってもちあげることができなかった。かつまた、夢の告げるところがあったので、尊像を京都に持ち帰ることなく、永く成田の地にとどめることにした。そこで伽藍を建て、高雄山の寺号に準じて「神護新勝寺」とした。このことは『縁起』にくわしい。 (『利根川図志』より抜粋) |
江戸時代に房総を訪れた人々は、寺社詣や風光明媚な景勝地を楽しむ旅を満喫しました。特に成田山新勝寺は、江戸での出開帳(普段は見せない秘仏を寺以外の場所で人々に拝ませること)、歌舞伎役者市川団十郎の成田山信仰の影響などもあり、江戸時代には庶民の間で成田詣がさかんになりました。江戸の人々は16里(約63Km)の道のりを成田山に向かいましたが、成田講を組織して定宿に泊まり、集団で参詣する人々も見られました。また、木下茶船をしつらえての船旅も、香取・鹿島・息栖の三社詣と銚子浦遊覧を兼ねた旅として人々の心をひきつけました。夕刻、江戸からの船に乗ると翌朝には木下河岸に着くため、人々は徒歩の労から解放されて気楽に旅を楽しむことができます。江戸の人々にとって房総は、近場で手ごろな旅先として人気のスポットとなりました。
江戸に近いという地理的条件もあり、房総は物資の供給地として江戸の台所を支えました。さまざまな産業が発達した房総では、舟を利用して特産品を江戸へ運んだため、江戸と房総を結ぶ舟運が発達しました。舟は物資の運搬のみにとどまらず、江戸の人々を房総へと誘う役割も果たしました。交通の便が良くなると、人々は房総へ足を運んで札所の一部を廻るなど、房総での気軽な旅を楽しむことができるようになります。政治や経済だけでなく、文化の面でも房総と江戸の間には深いつながりが見られました。
一時下火になっていた新型コロナウイルスの第二波が懸念される中、各地で毎年の恒例行事として行われている祭りも、今年は自粛の動きがみられます。本来、いにしえの夏祭りは京都八坂神社の祇園祭に代表されるように、疫病退散を祈願するために行われた行事でした。現代に目を向けると、新型コロナウイルス退散の祈?を行っている寺社や守護神の登場も見受けられ、今も昔も困ったときの神頼みという人間の気持ちは変わらないようです。本来の趣旨からすれば、こんな時だからこそ感染症の退散を願って盛大にお祭りを行いたいところです。しかし、感染拡大を招いてしまっては元も子もないということで、例年通りの祭礼を開催するのは難しそうです。そこで今年は次回の開催に備えて、祭礼に関する知識を蓄える年とするのも一つの方法です。現在、千葉市立郷土博物館ではミニ企画展「ちばの夏祭り・秋祭り」(会期は7月15日から10月25日まで)を開催しています。会場には氏子着用の祭衣装、祭うちわ、神楽舞の衣装、祭りの写真、関連書籍などを展示しています。各地の祭り見物に出かけることは無理かもしれませんが、登渡神社のお囃子の音色が響く郷土博物館の展示室で、少しでもお祭り気分を味わって頂けたらと思います。期間中の水・土・日曜と祝祭日には、県指定無形民俗文化財「下総三山の七年祭り」のビデオ上映も行われています。七年ごとに開催されるこの祭りは、来年が開催の年に当たりますので早めの情報収集に役立ててください。
今回のミニ企画展では千葉神社、寒川神社、稲毛浅間神社、検見川神社、登渡神社の祭礼、下総三山の七年祭りについての展示をおこなっています。これらの祭礼について、順次紹介していきます。
【千葉神社妙見大祭】(千葉だらだら祭り)8月16日~22日
千葉市中央区院内の千葉神社で、毎年開催される大祭です。妙見尊を祀る妙見堂と、付属しておかれた北斗山金剛授寺尊光院が一つの境内にあったことから、かつては妙見寺あるいは妙見社と呼ばれました。明治政府が神仏分離令を出した時に、千葉神社と改称しました。大祭が7日間にわたって行われるのは、祭神の妙見に因んでいるといわれます。旧暦の7月16日から22日に行われていましたが、明治時代中頃からは新暦で行うようになりました。千葉常重が千葉に本拠を定めた翌年の大治2年(1127)に始まり、毎年途切れることなく開催されているといわれます。8月16日の宮出しでは、千葉神社を出た神輿は向かい側にある香取神社の前で孔雀を飾りつけます。そして町内を渡御し、夕刻亥鼻山の麓にある市場町の御仮屋に入ります。22日の本祭では、御仮屋を出た神輿は市場町、院内を渡御した後、香取神社に寄って孔雀をはずします。千葉神社に戻ると、前庭で門前の若者と神輿方の当番との間で大きく差し揉みした後、宮入りとなります。香取神社は経津主命を祭神として、仁和元年(885)9月25日村人により勧請されたといわれる古い神社です。千葉神社の神輿が、香取神社の前で孔雀の取りつけ、取りはずしを行うのは、地主の神であると考えられる香取神社への遠慮からといわれています。
<千葉神社妙見大祭関係の展示>
[展示品]
<半被と祭うちわ>
[展示写真]
【寒川神社大祭】8月19日~21日
千葉市中央区寒川の寒川神社で、毎年開催される大祭です。天照皇太神、寒川比古命、寒川比売命の三神が祀られ、神明社あるいは伊勢明神といわれましたが、明治元年に寒川神社と改められました。御神体として祀られている獅子頭には、「文明十三年」(1481)の朱墨銘があります。伝承では、獅子頭が漁師の投げた網に入ったため神明社に祀ったところ、沖を航行する船の沈没が続いたといわれます。そこで神殿の下に石室を築造して封じ込めると、船の事故がなくなったといわれ、獅子頭は海の守り神とされています。
寒川の氏子たちは妙見様に豊漁を祈願するため、太治2年(1127)に千葉神社の妙見祭に参加したと伝えられています。千葉妙見の祭礼では二基の大舟を仕立てて、舟山車が作られました。明治10年(1877)ころまでは、千葉から出る「男舟(千葉舟)」と寒川から出る「女舟(結城舟)」が神輿を送って海中まで行き、御舟は神輿より先に上がって神輿の還御を待ちました。寒川神社伝来の「大舟の飾り幕」は結城舟の回りを飾り付けた幕で、現在千葉市立郷土博物館に保管されています。緋羅紗の布で仕立てた飾り幕の中央には、千葉氏の家紋である月星紋と九曜紋が描かれています。
昭和15年(1940)までは、19日に寒川の若衆が御仮屋から千葉神社の神輿を引き受け、20日早朝から寒川町内を渡御しました。夕刻になると、出洲のふもとの大鳥居をくぐって海に入り、深夜まで妙見洲で神輿かついで禊を行い、21日未明のうちに御仮屋に納めました。昭和20年(1945)の戦災で千葉神社の神輿が焼失するまで、千葉妙見の祭礼は千葉町と寒川が一体となって行っていました。昭和24年(1949)に千葉神社と寒川神社がそれぞれ神輿を新調すると、祭礼も別々に行われるようになりました。かつぎ手の減少、交通事情の変化により、戦後まもなく寒川では神輿巡幸に車輌を用いるようになりました。昭和55年(1980)まで使われた寒川の神輿は、現在当館2階に展示されています。
昭和30年代後半まで寒川の人々によって行われていた御浜下りは、埋め立て開始により一時途絶えました。昭和43年(1968)から平成10年(1998)までは御座船を仕立てて、千葉港内の船渡御を行っていました。平成11年に復活した御浜下りは、現在出洲海岸の埋立地先・千葉ポートパークの砂浜で行われています。会場では巫女舞の奉納や餅撒きが行われ、その後各町内会の高張提灯とともに浜に入った神輿は、かつぎ手によって大きく揉まれます。
<寒川神社大祭関係の展示>
[展示写真]
・寒川祭日(昭和11年頃)(当館蔵)
写真は祭りの全景で、神輿をかつぐようすが写っています。19日に寒川の若衆が御仮屋から神輿を引き受け、20日早朝から寒川町内を渡御しました。花形の太鼓打ち(4人によるアイウチ)から始まり、頭に花笠を被った子どもたちが「ヤーレンマ、ヤーレンマ」とかけ声をかけながら御鉾車を曳き、神輿は「ホリャ、ホリャ」とかけ声をかけてかつぎました。各町会の巡幸を終えた神輿は、夕刻御浜下りの神事を執り行います。
・御浜下り(平成30年)(当館蔵)
平成11年(1999)に復活した御浜下りは、現在出洲海岸の埋立地先・千葉ポートパークの砂浜で行われています。巫女舞の奉納後、神輿が各町内会の高張提灯とともに浜に入り、祭りはクライマックスを迎えます。
<寒川神社の神輿>
【稲毛浅間神社例大祭】7月14日.15日
千葉市稲毛区稲毛の稲毛浅間神社で、毎年開催される例大祭です。大同3年(808)5月晦日に小中台のシロヤマへ勧請された神社が、のちに稲毛に移されたといわれます。治承4年(1180)9月17日には、源頼朝が海辺を通ったときに参詣したといわれます(『千葉県千葉郡誌』)。文治3年(1187)3月15日再建の際には、富士山に見立て砂山を盛り、登山道のようにして参道を設けて、はるか?上に富士山を仰げるようにしたと伝えられます。祭神は瓊々杵尊、木花咲耶姫命、猿田彦命の三神です。木花咲耶姫命が瓊々杵尊の妃となり、お産の時に土を塗り込めて火を放った産屋で安産をした神話に因み、火難除け、安産子育ての神といわれ、近郷から子ども連れの参拝者が多く訪れます。例大祭中のお参りは、1年間毎日参詣するのと同じ御利益があるとされ、昔から多くの人々で賑わいました。参拝者はお札、子育ての笹などを神社からいただきます。祭りの期間中は境内に幟旗が立てられ、神楽殿では千葉県無形民俗文化財の「浅間神社の神楽」が奉納されます。稚児行列なども行われ、地元では「せんげんまつり」として親しまれており、露店も多く出て賑わいます。
<子育ての笹>
<稲毛浅間神社例大祭関係の展示>
[展示写真]
・渡船の参道(昭和30年代)(当館作成)
例大祭の日には稲毛漁業協同組合の和船を並べて、その上に板を敷いて参道を作りました。参道脇には長さ7~8メートルほどの竹が、海中まで通して立てられました。参拝者は渡り賃を納めて海の中にある一の鳥居まで行き、子どもの無病息災を祈願してお祓いを受けました。写真奥に見える鳥居は、現在国道14号・357号線の上り車線脇に残っています。
・例大祭のようす(昭和30年代)(当館作成)
7月15日には火難除・安産子育て守護神の祭礼が行われます。例大祭では1歳、3歳、5歳、7歳の子どもを連れた大勢の親たちが、行列をなして海の中にある一の鳥居に向かいます。写真右手には海の家の看板、海の中には一の鳥居が見えます。
【検見川神社(八坂神社)例大祭】8月1日~3日
千葉市花見川区検見川の検見川神社で、毎年開催される例大祭です。嵯峨天皇に仕えた五位蔵人の後胤が承平4年(934)に造営したとの伝承から、当初は嵯峨神社と呼ばれました。中世には牛頭天皇社、江戸末期には検見川神社、明治以降は八坂神社と改称され、現在は検見川八坂神社と称しています。祭神は倉稲魂命(稲荷神社)、素戔嗚命(中央の八坂神社)、伊邪那美大神(熊野神社)で、検見川神社の境内には三社が並んでいます。神社付近から素戔嗚命の御神鏡が出土したので、これを合祀して八坂神社と改称したという伝承があります。素戔嗚命を祀る例祭の起源は疫病退散の祈願といわれ、京都八坂神社の祇園祭と同様に夏の祭礼です。1日夕刻に神社を出発した神輿は町内を渡御した後、御仮屋に納められます。3日午後、神輿は御仮屋を出て町内を巡行し、夜になると境内に戻ります。平成23年からは例大祭の期間に合わせて、境内で「ほおずき市」が開催されています。
<検見川神社例大祭関係の展示>
[展示品]
・ハクチョウ・タスキ(当館蔵)
ハクチョウは神輿のかつぎ手が着用する衣装で、その上に掛けるタスキは各丁ごとに色が異なります。展示の紫のタスキは2丁目のもので、1丁目は赤、3丁目は青、5丁目は黄のタスキです。
<ハクチョウとタスキ>
・カラゲヒモ(当館蔵)
カラゲヒモは例大祭でかつぐ神輿とかつぎ棒を固定するための紐で、材料の麻を撚っている途中のものもあります。検見川「からげの会」の会員が、カラゲヒモの作成、かつぎ棒の固定、神輿の組み上げ、かつぎ終えた後の神輿収納など、裏方の作業を担当しています。
[展示写真]
・神輿をかつぐようす(昭和20年代)(当館蔵)
8月1日の夕方、神輿は検見川神社から出て巡幸した後、3日まで御仮屋に納められます。3日午後になると神輿は御仮屋を出て巡幸し、夜検見川神社境内に戻って神輿の揉み上げが行われます。神輿をかつぐときは「さしてもめ」のかけ声のもと、かつぎ手は足と腰で調子を取り、神輿が落ちるので腕は決して曲げないといわれます。
・神輿を迎えに行く若衆(昭和28年)(当館蔵)
最終日の3日には、年番町内の若衆がハクチョウの上にそろいの浴衣を着て、御仮屋に納められた神輿を迎えに行きます。
【登渡神社例祭】9月4日~6日
千葉市中央区登戸の登渡神社で、毎年開催される例祭です。祭神は天御中主命、天日鷲命、高皇産霊命、神皇産霊命の四柱で、かつては白蛇山真光院定胤寺と称しました。寛永21年(1644)9月千葉家の末孫登戸権之介定胤が、祖先追善供養のため千葉妙見寺の末寺として建立したといわれ、別殿に妙見尊を祀っています。明治維新の神仏分離令で天御中主命を祭神とし、登渡神社と改称しました。神輿の町内巡行は5日ですが、奉納演芸は3日間にわたって行われます。演芸では、千葉市地域無形民俗文化財に指定されている「登戸の神楽囃子」が奉納されます。中でも「寿獅子二頭舞」とよばれる獅子舞は金獅子、赤獅子もどきで演じられ、千葉市内では他に例を見ない演目です。
<登渡神社例大祭関係の展示>
[展示品]
・神楽衣装(当館蔵)
登渡神社の神楽「三番叟舞」で翁が着用した直衣、神楽「巫女舞」で巫女が着用した上着、神楽舞でおかめが着用した着物と帯、神楽舞でおかめとひょっとこが着用したちゃんちゃんこの衣装を順次展示します。巫女舞は9月5日の例祭に奉納されます。
<巫女舞の衣装>
[展示写真]
・神楽衣装(登渡神社登戸神楽囃子連提供)
写真左は金獅子の頭をつけた獅子で、神楽「寿獅子二頭舞・仁羽獅子舞」で着用します。例祭では獅子頭二つが、神輿巡幸のお供をします。写真右は打出の木槌を持った大黒様で、これらの衣装は登渡神社登戸神楽囃子連が神楽舞のときに着用します。
・神楽舞(登渡神社登戸神楽囃子連提供)
狐の面をつけて神楽「天狐舞」を舞っているようすで、登渡神社登戸神楽囃子連が舞を奉納します。
[録音音声]
・登戸神楽囃子
平成29年元旦の神楽囃子の録音音声を流しています。
登戸神楽囃子は東京葛西囃子系深川囃子を継承しているといわれ、平成20年(2008)に千葉市地域無形民俗文化財に指定されました。現在は登戸囃子連が祭り囃子や神楽の保存、継承などの活動をしています。祭囃子や神楽は9月4日の宵祭と、6日のハナナガシで奉納されます。登渡神社の神楽には仁羽舞(道化)、寿獅子二頭舞、仁羽獅子舞、三番叟舞、巫女舞、天狐舞、鬼舞、出世稲荷初午神楽、節分神楽、収穫祭神楽があります。展示中の衣装は、そのときに用いられたものです。
5日の例祭では大太鼓、獅子頭二つ、神輿(宮司)、小太鼓二つ、子ども神輿、お囃子(天狗面を被った男性)の順に車載巡幸が行われ、移動中は常にお囃子が演奏されています。
【下総三山の七年祭り】丑年・未年(7年に1度)
船橋市三山の二宮神社をはじめとした旧千葉郡の9社が参加する大祭で、県指定無形民俗文化財に指定されています。現在の市域では千葉市、船橋市、習志野市、八千代市の4市にまたがる広い地域のお祭りです。七年祭りの詳細については、千葉の例大祭~ハレの日と信仰(No.8)で紹介します。
<下総三山の七年祭り関係の展示>
[展示品]
・子安神社社名旗(当館蔵)
社名旗は、七年祭りの神輿渡御行列や幕張の磯出式などで使用されます。展示の社名旗は昭和53年(1978)に、畑町子安神社より寄贈を受けました。
<子安神社社名旗>
[展示写真]
・二宮神社への昇殿参拝(昭和48年)(当館蔵)
写真は畑町子安神社の神輿が、三山の二宮神社へ昇殿参拝するようすです。七年祭りの起源は馬加康胤奥方の安産祈願と安産御礼の祭事に由来するといわれ、9社が参加する「三山の大祭」と4社が参加する「幕張の磯出大祭」からなります。
・幕張での磯出式(昭和48年)(当館蔵)
写真は磯出式会場の入口のようすで、畑町子安神社の神輿と社名旗が見えます。二宮神社への昇殿参拝後、二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の4社の神輿は幕張海岸に集まり、夜半から行われる磯出式に臨みます。出産の儀式である「産屋の神事」では、畑町の両男女(りょうとめ)が子安神社の神輿前に置かれたタライの中で向き合い、ハマグリ交換のしぐさをします。「産屋の神事」を終えると、西の広場(磯出式場付近の旧街道)で二宮神社と子安神社の「神輿合わせ」が行われます。両社の神輿はその場で勢いよく揉まれた後、別れを惜しみながら去って行きます。
[調査報告書]
1三山の七年祭(昭和50年 千葉市教育委員会発行)(当館蔵)
2七年祭り―九社が寄り合う安産子育て祈願の大祭り―(平成22年 千葉県地域文化芸術振興プラン推進実行委員会発行)
3千葉いまむかしNo.18(平成17年 千葉市教育委員会)
※当館で販売中(1冊700円)、購入希望の方は入口受付でお申し付け下さい。
[ビデオ上映]
・ビデオふるさと講座5「畑町子安神社 七年に一度のお祭」(1991年 千葉市教育委員会)(当館蔵)
平成3未年(1991)に行われた「下総三山の七年祭り」について、畑町子安神社の動きを中心に式年大祭のようすを記録したビデオです(約1時間25分)。子安神社をはじめとする他神社の祭りに参加する人々の衣装、神輿のかつぎ方、祭りのしきたりなど、当時の七年祭りのようすがわかる貴重な映像です。子安神社社名旗が祭りで実際に使用されているようすも、ビデオの中で確認できます。
上映時間は毎週水曜日・日曜日13時30分~15時00分、土曜日・祝祭日10時30分~12時00分です。
※上映の日時が変更になる場合があります。詳しくは企画展のページ (https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/kikakutenji/kikaku_2020matsuri.html)をご確認ください。
丑年・未年(7年に1度)~七年祭り参加神社
現在の七年祭り参加神社は「三山の大祭」が二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神
社、菊田神社、八王子神社、高津比咩神社、時平神社、大宮大原神社の9社、「幕張の磯出大祭」が二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の4社です。それぞれの神社が七年祭りで果たす役割や由緒など、9社の概要を紹介します。
<七年祭り参加神社の概要>
祭神:速須左之男命、稲田比売命、大国主命、藤原時平命、大雀命、誉田別命
由緒:近郷23カ村の総鎮守、藤原師経左遷の折祭祀、弘仁年間(810~823)創建
所在地:千葉郡三山村字西ノ庭2番
(伝説)1.藤原師経が左遷されて都を追われ、船で袖ケ浦を渡り当地付近の海岸に上陸する。一族とともに居住し、二宮神社を創建して祖藤原時平を合祀する。2.二宮は父、畑は母、武石は乳母、馬加は子守、その他19か村は一族郎党。3.上総の姉崎は二宮の姉君で一船先に同所に着き、弟君が来るのを待ちわびて涙にくれたと伝わる。古には姉崎の神輿は、遥か海路を渡り大祭に参加した。4.二宮の神が船中より遥かに火口を認め、上陸した場所が火の口で久々田と鷺沼の間にある。大祭の帰路、二宮神社は火ノ口で当時の式事を行う。5.旧暦11月13日に萱を持ち寄り、庭先で払暁より大焚火を行う古例は、先に着いた姉君に己の所在を知らせる縁起という。
祭神:稲田姫命
由緒:千葉常胤造営、建久4年(1193)創建、建久四年九月一七日の棟札
所在地:千葉郡畑村字宮ノ後
(伝説)1.千葉常胤息姫が畑の子安神社に参籠し、帰路幕張の磯辺で安産となり、建久4年(1193)千葉常胤が社殿を造営する。(建久四年九月一七日の棟札)2.千葉常胤の奥方が子安神社で安産祈願し、帰路幕張の浜で無事男子を出産する。翌建久4年(1193)常胤が御礼に子安神社本殿を造営し、盛大な祭礼を行ったのが七年祭りの始まりで、畑町から両男女を出す由来という。
祭神:稲田姫命、武速素戔鳴尊、大己貴命
由緒:千葉常胤四男大須賀四郎胤信造営、建久5年(1194)創建
所在地:千葉郡馬加村字北下川
(伝説)1.建久5年(1194)源頼朝が富士の裾野で牧狩りを行い、大須加四郎胤信は父千葉常胤とともに参勤する。その折に子守神社に参詣祈願し、無事に御用を勤めたので社殿を造営する。(建久の棟札)2.永仁6年(1298)須加本郷で疫病が数カ月流行し、宮司が疫神を祀る。無事に疫病が退散したので、氏子が社殿を造営する。(永仁の棟札)3.享徳元年(1452)馬加康胤の奥方が懐妊し、子守神社宮司が安産の加持祈祷を行う。無事男子が誕生したので、康胤は盛大な祭事を行って社殿を造営する。(享徳の棟札)4.永正5年(1508)康胤父子が討死すると、家臣は本郷須加から浜辺へ移住する。氏子たちは三社を一殿に祀り、社殿を造営して遷座する。(永正の棟札)5.永禄11年(1568)千葉家27代当主千葉胤富が、須加天王社へ祈願して神鏡を献上する。磯出祭礼に馬を曳かせて礼参し、社殿を造営する(永禄の棟札)。
祭神:天種子命
由緒:千葉常胤三男武石三郎胤盛造営、建仁2年(1202)創建
所在地:千葉郡武石村字三代内
祭神:大己貴命、藤原時平命
由緒:藤原師経左遷の折、当社を祭祀、弘仁年間(810~823)創建
所在地:千葉郡久々田村字東宮ノ腰
(伝説)1.治承5年(1181)藤原時平の苗裔藤原師経が下総へ配流された折、海上が荒れて一族郎党は久々田浦へ到着する。弘仁年間(810~823)創建の社を改築し、久々田明神を祭祀する。2.その後師経は山深い地を求めて菊田川を遡上し、三山社(二宮社)を改築して康正元年(1455)9月19日に遷宮する。3.宝暦年間(1751~1763)菊田大明神と改名する。
祭神:天忍穂耳命、天照皇大神、豊受姫命、猿田彦命、倉稲魂命
由緒:大同2年(807)創建
所在地:千葉郡古和釜村字八王子
祭神:多岐都比売命
由緒:明応元年(1492)創建
所在地:千葉郡高津村字宮ノ前
祭神:藤原時平命
由緒:大和田:慶長15年(1610)創建、山車が七年祭に参加。萱田町:元和元年(1615)創建、神輿が七年祭に参加
所在地:千葉郡大和田村字出戸、千葉郡萱田町字台畑
祭神:伊弉冉尊
由緒:文禄元年(1592)創建
所在地:千葉郡実籾村字葉板
明治41年(1908)4月21日大宮神社を合祀し、大原大宮神社となる。祭神は伊弉冉尊(大
原神社)と伊弉諾尊(大宮神社)で、後に大宮大原神社と改称する。
以上、明治初年『千葉県神社明細書』より
丑年・未年(7年に1度)~七年祭りの概要
七年祭りの正式名称は「二宮神社式年大祭」で、「神揃の祭」「昇殿参拝の祭」「磯出祭」からなります。平成16年(2004)3月30日付で、「下総三山の七年祭り」として千葉県指定無形民俗文化財に指定されています。安産御礼の昇殿参拝が先に行われ、安産祈祷の産屋の神事が後になることから、「三山の祭、後が先」といわれます。二宮神社は延喜式の寒川神社に比定される古社で、下総国「一の宮」の香取神宮に次ぐ「二の宮」として位置づけられています。千葉郡北西部の総鎮守的存在で、王朝時代に三山庄の総社として建立されたため、二宮神社に対する礼を失しないためといわれています。
七年祭りへの参加神社9社は、地元船橋市三山の二宮神社(夫役)、千葉市花見川区畑町の子安神社(妻役)、花見川区幕張町の子守神社(子守役)、花見川区武石町の三代王神社(産婆役)(以上4社は「磯出祭」にも参加)、習志野市久々田(津田沼)の菊田神社(叔父役)、実籾の大宮大原神社(叔母役)、船橋市古和釜の八王子神社(末息子役)、八千代市高津の高津比咩神社(娘役)、大和田の時平神社(山車が参加)と萱田の時平神社(神輿が参加)(長男役)です。千葉市、習志野市、船橋市、八千代市の広範囲にわたりますが、かつてこれらの神社はすべて千葉郡に属していました。
祭りは9月13日の小祭から始まり、11月21日の禊式、11月22日の大祭(「神揃の祭」「昇殿参拝の祭」「磯出祭」)、11月23日からの花流し(各神社での村祭り)となります。次に、平成27年の七年祭りの概要を紹介します。
<平成27年の七年祭り>
三山の人々が神輿を担いで、町内を渡御します。大祭当日、三山地区の人々は接待で忙しいため、小祭で神輿を担ぎます。かつては二宮神社の大祭の日取りを決めるため、小祭で湯立神事が行われました。
大祭の前夜、二宮神社と三山地区の人々は全員習志野市鷺沼海岸へ赴き、運動公園で行われる禊式に参加します。禊式会場には水桶が用意され、その中に海から汲み上げた海水とあさりが入っています。午後8時過ぎに神主が禊式を行うと、参加者は水桶の海水で手を清め、桶の底からあさりを一掴みとって持ち帰ります。かつて海岸で禊を行っていた時、海に入って縁起物として貝を拾ってきたなごりといわれます。地元鷺沼にある根神社の氏子が、禊式の世話役を務めます。禊式が終わると、三山の人々は鷺沼のヤドで接待受けます。このときにアサリのフウカシが出されましたが、現在はアサリの味噌汁です。禊式に参加した一行は、夜遅く三山に帰還します。大祭に参加しない鷺沼の人たちは、当日お客として招かれてます。神揃場には桟敷席が用意され、禊式の御礼に接待を受けます。
二宮神社では千葉県神社庁からの献幣使を迎えて、社殿で神事が行われます。献幣使の神事が終わると、二宮神社の神輿は8社の神社の神輿を迎えに、献幣使とともに神揃場へ向かいます。二宮神社の神輿は神揃場で献幣の儀を済ますと、他の神社より一足先に二宮神社に戻ります。神輿は田喜野井(船橋市)と藤崎(習志野市)の舁夫が交互に担ぎ、三山の人々は大祭に参加する神社の接待役を務めます。大祭当日、最初に二宮神社に昇殿参拝するのは畑の稚児行列です。神揃場に参集した8社の神輿は献幣の儀を終えると、途中決められたヤドで休憩をとりながら、順次二宮神社に昇殿参拝します。昔は神揃場に9社の神輿がすべて揃いましたが、現在は献幣の儀を終えると順次二宮神社へ向かうので、全神輿が揃うことはなくなりました。
二宮神社への昇殿参拝後、二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の4社の神輿は幕張海岸へ赴き、磯出式に臨みます。高津比咩神社の神輿は昇殿参拝を終えると、午後7時過ぎにヤドを立ちます。そして、三山商店街通りの路上中央で大きくさし揉みをしますが、これは磯出式に向かう二宮神社の一行を見送るためといわれます。磯出式は出産の儀式で、「産屋の祭り」、あるいは「湯舟の祭り」といわれます。神事は満潮時に合わせて行われるため、開始時刻は毎回異なります。幕張海岸では子守神社の神輿が3社の神輿を出迎え、御旅所へと誘導します。神輿に続いて各社の関係者、白丁姿の者に背負われた畑の両男女が入場します。神輿の前に供物が供えられると、周囲の灯りを一切消して、暗闇の中で神事が執り行われます。子安神社の神輿の前で行われる「産屋の神事」では、両男女が盥の中でハマグリ交換のしぐさをします。式が終わると二宮神社、子安神社の神輿は磯出式場を後にします。そして西の広場でツガって揉み合い、別れを惜しみながら去っていきます。帰途、二宮神社の神輿は習志野市鷺沼の神之台(火の口台)で最後の神事を行い、三山に戻ります。
大祭が終わると、翌日からは9社の地元で花流しが行われます。神輿巡行、踊り、演芸など、地域ごとに特色のあるさまざまな行事が繰り広げられます。
丑年・未年(7年に1度)~七年祭りの起源
七年祭りは「神揃の祭」「昇殿参拝の祭」「磯出祭」の順に行われます。「神揃の祭」は一族が一堂に集まる祭り、「昇殿参拝の祭」は安産の御礼に二宮神社に昇殿して参拝する祭り、「磯出祭」は安産を祈願する祭りという性格を持ちます。
七年祭りの起源には、馬加康胤と藤原師経に関する伝承があります。馬加康胤については安産祈願と安産御礼に関する伝承、藤原師経については藤原一族が一同に集まるいわれと安産御礼に関する伝承です。安産に関する伝承は共通しており、安産にちなむ幕張の地で七年祭りが始まったことを伝えています。一方、貴人漂着にまつわる伝承では、七年祭りを藤原時平の子孫である藤原師経に結びつけています。七年祭りへの参加神社がそれぞれの役割を持ち、神揃場には藤原一族が集合するなど、そこに一門の結束をうかがうことができます。
<七年祭りの起源に関する伝承>
・文安2丑年(1445)馬加康胤の奥方が臨月を過ぎても出産の気配がなく、康胤は心配して素加天王と宮山の神主に安産の加持祈祷を命じる。すると満願の夜に「素加と宮山の両社の神影を重ね、波に寄せて浄め、磯辺に暫く祭れば無事に出産を迎えるであろう。」との神託がある。9月16日に両社の神輿を素加の磯辺に神幸して祭事を行うと、その夜海中から龍灯が揚がって素加神社へ飛来し、翌17日七ツ時(4時)に男子が誕生する。康胤は領地の村々に触れを廻し、素加の磯辺で盛大な祭事を行う。それ以来、安産祈願と御礼の祭事が行われるようになる。
(史料「下総国千葉郡清地荘本郷素加天王神社」永正5年(1508)中須賀家文書)
・治承4年(1180)藤原師経は左遷されて久々田の浦に流れ着き、しばらくして三山村へ移る。千葉常胤の娘が師経に嫁いで身籠るが、臨月を過ぎてもお産の気配がない。そこで領内21カ村の里の娘たちに姫のお供をさせて、葛飾の浦に行くと馬加村の塩浜でお産となり、郷中の人々がお祝いに赤飯を持って集まる。7年に一度の祭礼は、この故事にちなんで行われる。祭礼では三山と畑の神輿が馬加の浜へ神幸して産屋の神事を行い、21郷の人々が屋台を飾って神輿のお供をする。三山の神輿は馬加からの帰路、神の台で祭事を行った後、三山の社に帰る。神の台は久々田と鷺沼の間にある菊田神社のお旅所で、ご先祖を祀る旧跡である。火の口ともいわれ、二宮の神が船中より遥かに火口を認めてそこから上陸したので、二宮神社は大祭のしめくくりに当時の式事を行うといわれる。
(史料「磯出御祭礼由来」万延元年(1860)中須賀家文書)
・治承4年(1180)11月藤原時平の子孫である藤原諸常は都を追われて、舟で東国へ漂着する。そこの浦にあった大素加庄本郷素加天王神社を修繕して祀り、しばらくすると奥方が安産で子をもうける。3年後諸常は三山に移り、その子は素加天王を三山に勧請して神主となる。
(史料「下総国千葉郡清地荘本郷素加天王神社」永正5年(1860)中須賀家文書)
・千葉常胤の奥方が子安神社で安産祈願すると、帰路幕張の浜で無事男子を出産する。翌建久4年(1193)常胤は御礼に子安神社本殿を造営し、盛大な祭礼を行う。これが七年祭りの始まりで、両男女を畑町から出す由来となる。
(子安神社宮司が語る子安神社の伝承)
・治承4年(1180) 藤原時平の子孫藤原師経が左遷され、相模国から渡航する途中に海上が大荒れとなり、下総国久々田(習志野市鷺沼海岸)に漂着する。その地で久々田明神(のちの菊田神社)を崇め、永住の地と定めて祖先藤原時平を祀る。その後安住の地を求めて菊田川を遡り、三山に移り住む。そこに社を建て祀られたのが二宮神社で、藤原師経が神主となる。
(史料「下総国千葉郡清地荘本郷素加天王神社」永正5年(1860)中須賀家文書)
・高津(八千代市)には時平の娘が住み着いたといわれ、藤原時平に関する伝承が多く伝わる。付近には時平神社が集まり、萱田、大和田、小板橋などに祀られている。藤原一族の荘園があったともいわれ、三山に家族一同が集まることが祭りの始まりとされる。このため七年祭りに参加する九社には、それぞれ役割が定められている。
(『船橋市史民俗・文化財編』)
丑年・未年(7年に1度)~江戸時代の三山の七年祭り(1)
関東が戦国時代に入ると千葉一族の間でも内乱が起こり、祭りの記録は一時途絶えます。1590年には豊臣秀吉が小田原城を攻め、千葉本宗家は北条氏とともに滅亡します。その後、江戸に幕府が開かれて世の中が安定すると、江戸時代中ごろから再び祭りが行われるようになります。「素加天王社傳記」によると、現在のような7年に1度の祭礼が始まったのは享保12未年(1727)からです。
古くは11月17日の神事であった「御磯出平産神事」が、享保12未年(1727)9月から7年に一度の祭礼となる。
【8月13日】
三山大明神の神前で馬加、畑、武石と共に、祭礼の日を占い定める神楽の神事が行われる。
【9月16日】
三山、武石、畑、馬加の神輿が巡行し、地踊りや狂言も行われる。三山村入口の芝地「神事揃」という場所に、4社の神輿が集まる。
【同日夜】
三山、武石、畑の神輿が、馬加の神社に集まり一泊する。弓、太刀、戈、榊、神馬の行列で須賀の磯辺へ神幸し、三山、武石、畑3社の神輿が、葉付きの竹で結った竹垣の中に安置される。盥、手桶、柄杓、むしろなどを並べて子守平産の神事を行い、この夜誕生した御子として三山大明神の神幣を馬加の神社に納める。
【9月17日】
武石、畑の祭事を馬加の神社で行い、続いて馬加町内を巡ってさまざまな舞踊の興行が行われる。
(史料「素加天王社傳記」享保17年(1732)中須賀家文書)
享保12未年(1727)
三山、武石、畑、馬加4社の神輿が、三山村入口の芝地「神事揃」に集まる。夜、三山、武石、畑の神輿が馬加の神社に集まり、子守平産の神事を行う。(「素加天王社傳記」)→三山、武石、畑、馬加の4社が「三山の大祭」と「幕張の磯出大祭」に参加
文化14年(1817)
注連下21カ村[長作村・畑村・武石村・馬加村(現千葉市域・4)、藤崎村・実籾村・鷺沼村・久々田村・谷津村(現習志野市域・5)、田喜野井村・中野木村・飯山満村・坪井村・古和釜村・大穴村・楠ケ山村・八木ケ谷村(現船橋市域・8)、麦丸村・萱田村・大和田村・高津村(現八千代市域・4)]が、二宮大明神祭礼にあたって神輿や幣帛、練り物などを差し出すこと、注連下同士で喧嘩をしないことなどを申し合せる。二宮神社神主あてに21カ村の名主、神主が連名で「一札之事」を提出する。(文化14年「御本所御用并社用留」『習志野市史第三巻資料編2.』)→注連下21カ村が「三山の大祭」に参加
享保12未年(1727)には三山村入口の芝地「神事揃」に三山、武石、畑、馬加4社の神輿が集まり、夜になると4社がそのまま馬加の神社で行われる子守平産の神事に参加しています。つまり、「三山の大祭」と「幕張の磯出大祭」に参加するのは4社で、この年から7年に一度の祭礼となります。90年後の文化14年(1817)になると、二宮神社の注連下二十一村が二宮大明神祭礼に参加しており、江戸時代後半には安産御礼の「三山の大祭」が盛大に行われたことがわかります。夜の「幕張の磯出大祭」には享保12年と同じように三山、武石、畑、馬加の4社が参加しており、大きな変化は見られなかったようです。
安産御礼大祭(「三山の大祭」)磯出式(「幕張の磯出大祭」)
文化14年:二宮大明神をお迎えする式:二宮大明神を馬加磯辺までお遷しする行事
文政6年:二宮大明神をお迎えする式:関連の記述なし
文政12年:二宮大明神をお迎えする式:関連の記述なし
天保6年:二宮大明神へ参詣する式:関連の記述なし
天保12年:二宮大明神へ参詣する式:関連の記述なし
(「神主日記」中須賀家文書)
「神主日記」は文化14年(1817)から弘化3年(1846)までの30年間、幕張子守神社の神官が3代にわたり神社での出来事を書き記した日記です。「神主日記」を見ると、文化14年の安産御礼大祭は「二宮神社をお迎えする式」、磯出式は「二宮神社を馬加の磯辺にお遷しする行事」と記されています。日記の記述を見る限りでは、子守神社を中心に祭りが進められている様子がうかがえます。その後の記述では、天保6年以降の安産御礼大祭は「二宮神社へ参詣する式」となっています。磯出式については文政6年以降、子守神社の立場を表わす記述が見られなくなります。江戸時代後半のわずか30年の間でも、七年祭りにおける二宮神社と子守神社の立ち位置の明らかな変化を読みとることができます。
丑年・未年(7年に1度)~江戸時代の三山の七年祭り(2)
江戸時代の七年祭りについて「神主日記」の中には、文化14(1817)丑年9月16日、文政6(1823)未年9月16日、文政12(1829)丑年9月16日、11月23日、天保6(1835)未年9月18日、天保12(1841)丑年9月16日の5回の記述が見られます。文政12年は2回に分けて行われていますが、これは9月16日に行われた「神揃の祭」と「昇殿参拝の祭」のときに、畑村と大和田村のけんかがあったためです。このときに神輿が打ち破られ、子安神社が参加する夜の「磯出祭」は延期となり、日を改めて11月23日に行われます。天保6年の記述は5回の中で最も詳細に記されているので、江戸時代の七年祭りのようすがよくわかります。
天保6年(1835)
8月13日:二宮大明神で湯立神楽があり、祭礼は9月18日に決まる。花相撲が行われ、東寺山村、西寺山村、殿台村、萩台村から大々御神楽講40人余りの参詣がある。
9月14日:当社の神輿を新たに造る。8月10日小伝馬町1丁目の三浦屋新吉に頼んだところ、このたび出来上がり、下宿寅蔵の持ち船に積んで運んできた。祭礼の山車も一緒に船に積んできた。
磯出御祭礼のための道普請が、村役人中の監督と世話で行われる。御旅所の竹垣は10間に5間、四方に門があり、南北の門は2間、東西の門は9尺である。門それぞれに注連縄を張り、葉付きの竹と榊を立て、四手を付ける。4社の御神輿を安置するところには芝の塊を畳み、高さは3尺くらいである。
9月18日:7年に一度の磯出御祭礼で、二宮大明神へ参詣する式は先年のように行われる。神主、東医寺は馬に乗り、名主源内は参詣せず、弥左衛門は歩きである。四ツ半時(11時)から囃子を出し、七ツ時(16時)二宮大明神の広前へ参詣、拝礼して七ツ半(17時)過ぎに帰宅する。
同夜:磯出安産神事の祭式が行われる。当鎮守磯出本社安産神子守大明神の御神輿は、角の惣助前で待機する。子の中刻(23時40分)頃子安大明神のお出があり、下刻(0時20分)頃二宮大明神、三代王神御神輿のお出がある。これらの村々から来た囃子、笛太鼓が賑やかである。大須加の磯辺につくられた竹垣の内へ一同が行幸し、暫く安居する。手桶、柄杓、盥、蓙、蓆を敷いて御神酒、御飯を奉り、「天下泰平、五穀成就、御地頭所長久、氏子繁栄にして万民安産なし、子孫永久」を祈る安産神事を行う。馬加村、三山村、畑村、武石村、実籾村、飯山満村の神主と東医寺が、村々の御神輿の前で奉幣や祝詞行事を行うことは先例のとおりである。武石村、畑村、三山村、藤崎村、田木ノ井村の役人と氏子中、近郷からの参詣者が多く集まり、実に賑やかである。門前には神燈が掲げられ、空は晴れて月は明るく、白昼のようである。御飯は名主源内方で炊き、新田の又右衛門もあげる。神供は当神主から村々へ配られる。信心の者より安産のお守りとして、全部で135本柄杓があげられる。名主源内の妻みわ女は御神酒を一荷あげる。丑の下刻(2時20分)に安産の祭式が済み、村々の御神輿が還御する。
9月19日:安産神事から下げた供物は、神主より村々へ配られる。畑村、武石村、三山村は神主家へお持ちし、藤崎村、田木ノ井村は名主家へお持ちする。畑村の伊原氏へ盥、武石村の小川氏へ手桶をお持ちするのは先例のとおりである。信心の者があげた柄杓には「磯出本社安産神子守大明神」の札を張り、それぞれに返される。新田から下宿まで山車を曳き、花流しである。提燈6張、蝋燭24、20挺、16、12挺、半紙2帖は氏子中。
9月22日:磯出安産神事の際、二宮大明神神主から当御社へ幣帛が捧げられ、当神主が拝受して本殿へ納め置くことは、旧例のとおりである。
(「神主日記」中須賀家文書)
天保6年の七年祭りでは二宮神社の神主が事前に地頭所に願い出て許可を受け、例年通り無事に祭礼を終えています。(「八千代市の歴史資料編4.」)祭りに際してこのような許可が必要になった背景には、幕藩体制の建て直しのために江戸幕府が実施した引き締め政策の影響があります。幕府は文化2年(1805)に関東取締出役を設置し、文政10年(1827)には関東全域の取り締まり強化のために、寄場組合を置いて文政改革を行います。関東取締出役は八州廻りともいわれ、勘定奉行の支配下に置かれました。代官の手付、手代の中から選任された役人が警察権を行使し、関東の治安を維持強化するために天領、私領を監視しました。その権威は「泣く子もだまる」といわれたほどです。このような状況の中で祭礼を恙なく行うために、地頭所の許可を得るという形がとられたようです。
天保12年(1841)には、幕府の老中水野忠邦による天保の改革(1841.9~1843.5)が始まります。この改革では、きびしい倹約令、出版風俗の取り締まり、株仲間の解散、農村から江戸への出稼ぎ農民の帰村、江戸・大坂周辺を幕府領にするなどの政策が打ち出されます。厳しい引き締め政策のもとで行われた天保12年の「昇殿参拝」は、「当村行列幣帛鉾斗也、外村々も御改革御趣意尓より囃出し物等なし」と神主日記に記されています。年々盛大になっていた「神揃の祭」「昇殿参拝の祭」は、改革の影響で寂しい祭りになったようです。
しかし、夜の「磯出祭」は例年通りに行われており、神事としての位置づけがなされていたことがうかがえます。「磯出祭」では氏子が柄杓を奉納しますが、柄杓は安産のお守りとされ、子守神社の札を貼って奉納者に返されます。文化14年から天保12年までの記録を見ると、柄杓の奉納数は15本(文化14年)、43本(文政6年)、77本(文政12年)、135本(天保6年)と年を追うごとに増え、天保12年には最多の218本となります。奉納の範囲も文化14年は現千葉市域のみですが、その後は現習志野市域、船橋市域へと広がり、さらに現東京都、茨城県にもおよんでいます。
七年祭りが終わると9月25日から10月9日にかけて、安産の御札や御神供の腹帯が子守神社から周辺の村々に配られます。その範囲は現千葉市、八千代市、佐倉市、習志野市、船橋市の63ヵ村・3ヵ寺領にわたっています。配札を受けると村々では、子守神社への御初穂を納めています。奉納された柄杓数の増加や配札が行われた多くの村々からも、江戸時代の後半になると、七年祭りに対する安産信仰は広い範囲におよんでいたことがわかります。
丑年・未年(7年に1度)~明治から昭和にかけての七年祭り
<明治以降の七年祭り>
明治40未年(1907)12月10.11日
大正2丑年(1913)11月25.26日
大正8未年(1919)11月25.26日
大正14丑年(1925)11月20.21日
昭和6未年(1931)11月22.23日
(『八千代市の歴史通史編』『船橋市史民俗・文化財編』)
<近年の七年祭りの変遷>
昭和12丑年(1937) 11月21日
すべての神輿が三山の神揃場に揃うまで待つ。
菊田神社(午後1時)、八王子神社(午後1時20分)、 高津比咩神社(午後1時40分)、時平神社(午後2時)、大原大宮神社(午後2時20分)、三代王神社(午後2時40分)、子安神社(午後3時)、子守神社(午後3時20分)の順に、20分ずつ間をおいて二宮神社に昇殿参拝する。
午後7時、二宮神社神輿が磯出式に出発する。
11月22日
午前2時~3時、幕張の浜で磯出式祭典が行われる。
昭和15辰年(1940) 11月12日 紀元二千六百年を記念して、初めて神輿の臨時渡御が行われる。
昭和18未年(1943) 11月21日 戦時下のため神輿は出さず、神幣(唐櫃)のみの神霊渡御となる。
昭和21戌年(1946) 11月15.16日 昭和21年11月3日の日本国憲法公布を祝い、二度目の神輿の臨時渡御が行われる。
昭和24丑年(1949) 11月21日 戦後の復興期でもあり、多数決で神幣渡御ではなく神輿渡御に決定する。
昭和30未年(1955) 11月20日 神揃場への神輿集合時刻が正午から午後1時になり、二宮神社への神輿渡御も1時間遅れとなる。献幣式が二宮神社拝殿から神揃場に変わり、各社の神輿は献幣式を終えると、順次二宮神社へ向かう。比較的小さい神輿が二宮神社拝殿内に乱入する。
昭和36丑年(1961) 11月23日 警察署への申請が必要となり、船橋、習志野、千葉の警察署から基本方針が示される。
昭和42未年(1967) 11月3日 七年祭りはこれ以降、11月3日に定着する。さまざまな条件付きで、警察署から国道の使用許可がおりる。
昭和48丑年(1973) 11月3日 二宮神社七年祭調査団が組織され、民俗調査が行われる。調査結果は詳細な記録として残される。
(『民俗調査報告書 三山の七年祭―二宮神社式年大祭―』昭和50年発行 千葉市教育委員会)
七年祭りは昭和36年まで、11月の後半に行われています。11月23日はかつて新嘗祭といわれ、新穀に感謝する祭祀が宮中で行われます。秋の収穫期に七年祭りが行わる背景には、五穀豊穣と安産祈願の共通性があると思われます。日待を祝うハレの日の行事は秋の収穫を済ませ、麦播きなどの農作業も一段落したところで、収穫に感謝して行われます。
昭和期の七年祭りのようすは、「三山の七年祭―二宮神社式年大祭―」の記述からその変遷を読み取ることができます。この中の「昭和十二年大祭資料」には、「昭和十二年丑年の大祭執行後、次回に引き継ぐための記録」として、明治40年以降引き継いできた記録の書き写しがあります。これによると明治末から昭和初期にかけては、ほぼ同じようなかたちで祭りが行われていることがわかります。紀元2600年にあたる昭和15年には、初めて二宮神社の神輿の臨時渡御が行われます。七年祭り以外では担がない二宮神社の神輿を担いで、三山、藤崎、田喜野井の3区で小祭が行われます。昭和18年は戦時下で、戦況悪化に伴う日常生活の統制もあり、神輿を出さずに神幣のみの渡御となります。
戦後は昭和21年に日本国憲法の公布を祝い、2度目の臨時大祭が行われます。昭和24年は戦後の復興期でもあり、議論の末、通常通り神輿を担いでの七年祭りが行われます。昭和30年になると七年祭りの内容に大きな変化が生じ、次の3点が変更されます。
1.神揃場への集合時間が正午から午後1時になり、二宮神社への神輿渡御も1時間遅れとなる。
2.千葉県神社庁の献幣使による献幣の儀が、二宮神社拝殿から神揃場に変わる。神揃場での献幣式を終えると、各社の神輿は順次二宮神社に向けて出発するため、9社の神輿がすべて神揃場に揃うことはなくなる。
3.最初に比較的小さい神社の神輿が二宮神社の拝殿内に乱入すると、他の神社の神輿も拝殿への参入を黙認される。現在は拝殿の入口で待機する子守神社を除く、7社の神輿が拝殿に入ってお祓いを受ける。
昭和36年になると神輿の移動に車を使うようになりますが、その背景には車社会の到来にともなう交通規制、若者の参加減少による舁夫の不足という問題があります。この年には警察署への申請が必要となり、船橋、習志野、千葉の警察署から以下の基本方針が示されます。
1.神輿渡御の際は国道を縦断せず、神輿を車載して運ぶ。
2.神輿渡御の際は一時的に国道の交通を止め、混雑をさけるため神輿は二社ごとに式場へ入場する。
3.磯出式終了後は海岸道路へ迂回する。
当日は明け方4時過ぎで車の往来が少なかったこともあり、神輿の渡御は従来通り行われます。昭和42年には二宮神社大祭合同準備会で11月3日の大祭案が出され、これ以降は11月3日の大祭が定着します。警察署への届出も厳しくなり、次の4点を確認した誓約書を提出しています。
1.飲酒した者は参加させない。
2.交通上の危険箇所や主要交差点には、主催者側で交通整理員を配置する。
3.一般交通車両に進路を譲る。
4.警察官の指示に従う。
昭和32年に幕張海岸の埋め立てが始まり、その後埋め立てがさらに拡大すると、磯出祭を行う場所の確保も大きな問題となります。このような状況を受けて、昭和48年に二宮神社七年祭調査団が組織され、大規模な民俗調査が行われます。調査結果は詳細な記録として残され、『民俗調査報告書 三山の七年祭―二宮神社式年大祭―』、『民俗調査報告書 三山の七年祭―二宮神社式年大祭―≪記録編》』が刊行されます。
来年は丑年、いよいよ七年祭りの年を迎えます。新型コロナ禍が収束して無事に七年祭りが開催できることを祈りつつ、見学する上でのポイントをいくつかあげておきます。
七年祭り参加神社の神輿を見分けるには、9社の御神紋や担ぎ手の着用する祭半纏の文字が参考になります。神輿や社名旗などにつけられている御神紋は、それぞれの神社の由来を表しています。二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社は月星紋の御神紋を用いています。千葉氏一門の家紋である月星紋にはいくつかの種類があり、本家と分家では少しずつ違いが見られます。千葉本家はかつて月星十曜紋を用いていたようですが、子守神社では千葉本宗家と同じ御神紋を用いています。七年祭りの起源をたどると、月星紋を用いた4社と千葉氏との関係を伺い知ることができます。
七年祭りは2日間かけて行われ、祭りの会場も三山の神揃場、二宮神社の社殿、幕張の磯出式場と3カ所に分かれています。「大祭当日の神揃場入場および二宮神社昇殿と磯出式の動き」の一覧表を参考にして、いつ、どこへ行き、どの神社の神輿を見るか決めて計画を立てるのも一つの方法です。七年に一度の祭りなので見逃すことがないように、祭りの見せ場を確認して見学するのがお薦めです。
<七年祭り参加神社の日程概要>
七年祭りの準備 | 安産御礼大祭(11月22日) | 磯出式(11月22日~23日) | 花流し(11月23日~24日) | |
二宮神社 | 神揃場の桟敷席設置・矢来組み(11月8日) 神揃場のツカツミ(11月15日)・オツカお祓い(18日) 神輿と山車の準備・御霊遷し・鷺沼での禊式(11月21日) |
献幣使の本殿到着→祭典執行(大祭の始まり)→発御式→神揃場→献幣式→二宮神社神輿の御仮屋安置→神輿の磯出祭発御 | 大宮大原神社→武石の宿→幕張の宿→磯出御旅所→式典執行→二宮神社と子安神社の儀式→菊田神社金棒の出迎え→神之台の神事 | 花流し(11月23日) 神之台→二宮神社→御霊遷し |
菊田神社 | 御神璽遷座式(御霊遷し)・山車と神輿の準備・勢揃式・神輿の神之台渡御(11月21日) | 神輿の神社発御→神揃場→献幣式→二宮神社昇殿→神社還御 | 金棒が神之台で二宮神社の神輿出迎え→二宮神社一行を接待 | 花流し(1日目) 神社発御→御仮屋着 花流し(2日目) 御仮屋→御霊遷し |
八王子神社 | 神輿準備・勢揃式・御霊遷し・演芸(11月21日) | 出発式→神揃場→献幣式→二宮神社昇殿→神社還御 | 花流し(1日目) 神社発御→神社着 花流し(2日目) 神社発御→御霊遷し |
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高津比咩神社 | 屋台と神輿の準備・勢揃式・御霊遷し(11月21日) | 出発式→神揃場→献幣式→二宮神社昇殿→神社還御 | 昇殿後社殿を回る→二宮神社神輿の磯出式発御を見送る | 花流し(11月23日) 神社発御→御霊遷し |
時平神社 | 大和田(山車)と萱田町(神輿)の準備・大和田(山車)が萱田町に到着・勢揃式・御霊遷し・大和田の見送り(11月21日) | 大和田(山車)の萱田町集合→発御→神揃場→献幣式→二宮神社昇殿→神社還御 | 花流し(11月23日) 大和田(山車)の発御・萱田町(神輿)の発御→山車と神輿の交わし→御霊遷し |
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大宮大原神社 | 神輿と屋台の準備・勢揃式・御霊遷し(11月21日) | 発御→神揃場→献幣式→二宮神社昇殿→神社還御 | 二宮神社神輿の出迎え→磯出式に向かう二宮神社神輿を接待 | 花流し(11月23日) 神社発御→御霊遷し |
三代王神社 | 神輿準備・勢揃式・御霊遷し(11月21日) | 発御→神揃場→献幣式→二宮神社昇殿→磯出式まで武石の宿に待機 | 武石の宿発御→幕張の宿→磯出御旅所→式典執行→武石の宿着御 | 花流し(11月23日) 宿発御→御霊遷し(24日ワラジヌキ) |
子安神社 | 神輿と山車の準備・御霊遷し(11月20日) 屋台の車造り・勢揃式・稚児の子安神社参拝・両男女の車造り(11月21日) |
出御→検見川神社での御迎式→神揃場→献幣式→二宮神社昇殿→磯出式まで武石の宿に待機 | 武石の宿発御→幕張の宿→磯出御旅所→式典執行→二宮神社と子安神社の儀式→神社還御 | (11月23日)稚児休養のため休み 花流し(11月24日) 神社発御→御霊遷し |
子守神社 | 磯出式場の矢来組み(11月15日) 各準備(11月21日) |
神輿準備→御霊遷し→出御→神揃場→献幣式→二宮神社昇殿→神社還御 | [磯出式準備] 3社神輿の出迎え→神社出御→磯出御旅所→式典執行→神社還御 |
花流し(11月23日) 神社出御→女金棒の参加→稚児の合流→金棒と稚児の解散→御霊遷し |
『七年祭り 九社が寄り合う安産子育て祈願の大祭り』平成22年発行より
「七年祭り参加神社の日程概要」は、七年祭りに参加する9社で行われる神事をまとめたものです。大祭だけでなく、その前後に地元の神社で行われる祭礼関連の神事や花流しなど、いろいろな神社に足を運んで七年に一度の大祭を楽しんでください。
参考文献一覽 |
郷土史家の和田茂右衛門氏は千葉市域に残る史料収集および調査活動のフロンティアであり、和田氏が影写した史料や執筆した原稿などは、現在、千葉市立郷土博物館に保管されています。その史料群の中から、千葉市立郷土博物館のある亥鼻周辺について紹介します。
<亥鼻神明社>
和田氏の収集史料のなかに「千葉亥鼻神明社境内の由来について」と題した、古老からの聞き書きを記した原稿があります。史料には「大蔵省に提出せる社領(境内地)拂下書に添付せる証言書 証言者亥鼻町一番地山谷藤三郎石材店の老母山谷とせ刀自八十六才 時昭和二十五年」という添書があります。山谷とせ氏は幕末の元治元年(1864)生まれで、先祖(祖父や父母)から代々口碑で謂い伝えてきた由来を受け継いできました。ここではその概要について紹介します。
まず、神明社領を含む亥鼻山一帯が亥鼻公園として整備され、現在に至る経過が明らかになる記述を史料から
紹介します。
「陵(丘)は元は広い地域が佐倉藩堀田侯領であったのを民間へ下附され、市場町の人達三名に管理をさせ、外七名には世話掛を申し付けられ、明治七年(1874)頃の事と思う。維新以来から今日に至るまで存置を見たものと信じます。而して、此処は清浄な地域の為め境内を拡張した上、祠を祀られてあることを謂い伝へてあったのです。此の丘の全部が官有地であったのを、明治初年(七年頃)土地の改正が施行されて、地権を民間に与えられ所有権を許され、(中略)現市場町、亥鼻町の氏神と崇め奉られて居た次第です。 |
次に、亥鼻神明社の来歴が明らかになる記述を紹介します。
「千葉始って以来の神社であるという事ですが、千葉では(式内社の)御神明社が最古で、院内の香取神社と此の亥鼻神明社が、是れに次ぐ古い御宮と申されて居るのです。 |
最後に、神明社に関する文献史料については、次のような記述が見られます。
「千葉は度々大火がありし上、今度の空襲(昭和二十年六月(七月か)七日)で市街の中心全土が焼失してしまい、神社や仏閣其の文献などは一葉もなきまでに焼かれて、此の遺跡のみ残りて、それを語るすべもなき有様です。」(「大蔵省に提出せる社領(境内地)拂下書」の記述より) |
以上が山谷とせ氏が語る、神明社の由来です。祖父からの口碑は江戸時代末、19世紀中頃のようすを伝えていると思われ、文献史料が存在しない中で、貴重な証言といえます。
<亥鼻神明社の鳥居と社殿・石碑「史跡猪鼻城趾」・亥鼻神明社に残る石垣>
<亥鼻神明社に関係の深い地名>
亥鼻町(いのはなちょう)
「相馬日記に「千葉に亥鼻と云ふ山あり、池などの上に崎のさしいでたる故の名にや云々」とあります。こんな処から名付けられた山の名を取って、町名としたものと思われます。大治元年(1126)千葉介常重が、平忠常の造られた城地を修理して、居城と定めた千葉城の城跡に出来た町で、昭和十一年の千葉市の町名改正時に発足した新町名です。町内に千葉城跡、七天王があります。」(『千葉市の町名』より) |
市場町(いちばちょう)
「千学集という本に「大治元年(1126)千葉介常胤が千葉を取立てた時河向を市場となす」とあって、千葉家の城下町時代、市場が開かれた名残りの町名だと思われます。この町には昔を語る古蹟が多く、池田橋池田坂、お茶の水、羽衣松、現在は暗渠になりましたが、丹後堰、胤重寺のいぼとり地蔵、戸塚彦介の墓などがあります。」(『千葉市の町名』より) |
本町三丁目(ほんちょうさんちょうめ)
「本町一丁目、本町二丁目、本町三丁目は明治末期までは、千葉の繁盛の地でした。千葉盛衰記、千学集などの古い本によると「表千軒裏千軒」と書かれて居り、文化文政頃に歌われたと云う町名歌込大津絵節に「表三丁裏三丁」とあって、又天明七年(1787)千葉の米屋うちこわし事件の時、うちこわされた家々の内に、表上町所左衛門、今湯屋万右衛門とあり、又同事件の「御仕置帳」に「千葉仲町六右衛門江申渡事」とあって、この仲町は六右衛門家の位置から考えて、表仲町の略かと考えられます。明治五年の壬申戸籍によれば、本上町、本仲町、本下町となって居りますことから考えて、古くは表町と呼ばれて、三町に分れておらず、戸数が増加して来たので、三町に分町して、表上町、表仲町、表下町となり、それが本上町、本仲町、本下町と変って来て、明治廿一年(1888)町村改正の時本町一丁目、本町二丁目、本町三丁目と改め、今日にいたったと推定出来ます。」(『千葉市の町名』より) |
千葉寺町(ちばでらちょう)
「町内にある千葉寺は、和銅二年(709)行基菩薩巡錫の途次、此の地で瑞蓮を感じて、十一面観世音を刻んで祀られたのが創めだと伝えています。延宝二年(1674)の水戸光圀の『甲寅紀行』には、「住僧がいはく昔此の地に千葉(せんよう)の蓮花から取って、寺名として千葉寺(せんようじ)と名付けたと古老から聞いています。又現住職も千葉寺(せんようじ)と読むのが正しい読み方だと話されていました。 |
千葉常重が大椎から亥鼻に本拠地を移してから900年余りが過ぎ、2026年は千葉開府九百年の年といわれます。常重の後継者である千葉常胤は、亥鼻山を中心とする街づくりを進めたため、その周辺には千葉氏と関係の深い地名が随所に見られます。千葉氏以前からの由緒ある地名「千葉寺」が、「せんようじ」から「ちばでら」に変わるなど、千葉氏が影響を与えたといわれる地名もあります。千葉氏との関わりは、現在に残る伝承とも結びついており、亥鼻山周辺が千葉氏とともに歩んできた歴史を物語っています。明治以降は明治21年(1888)の町村改正、昭和11年(1936)の町名改正で町の呼称も大きく変わりましたが、町名の変遷は町の歴史を知る上で貴重な資料といえます。
亥鼻神明社に続いて、亥鼻山参道入口の位置にあったといわれるお茶の水について紹介します。
<お茶の水>
「お茶の水」はかつて市場町の亥鼻山の山裾に湧出していた泉で、そばに不動尊が祀られていることから「不動の滝」とも呼ばれます。泉の脇には石碑があり、千葉常胤がこの泉を汲んで、茶をたてて源頼朝に勧めたことから名付けられたと、その由来が記されています。石碑には、次のように刻まれています。
「治承の昔千葉常胤卿源 頼朝公を居城亥鼻山に 迎へし時此の水を以て 茶を侑む公深く之を賞 味せりと傳ふ 爾來お 茶の水と稱し星霜八百 年清水滾々として今に 渇きず」 (「お茶の水」の石碑より) |
和田氏はお茶の水について、『千葉大系図』の平良文の子、忠頼の項に記された次のような説を紹介しています。
「延長八年(930)庚寅六月十八日。誕生三於二下総国千葉郡千葉郷一也。於二此所一忽水湧出。以二此水一為二生湯一矣。後世号湯花水。」<※数字は返り点>と書かれています。「後世、湯花水と号す」とありますが、亥鼻山の山裾から湧き出したから亥鼻山水、それが訛って湯花水(ゆのはなみず)と称したか、湧出した水があたたかであったから湯花水となったか、あるいは水の流れの底に温泉の湯花に似た白い沈殿物が出ているので、一種の鉱泉ではなかったかと思われます。それが温泉水、湯の花と呼ばれたか、また生湯水(うぶゆみず)とも呼ばれたものでしょうか。」(『社寺よりみた千葉の歴史』より) |
また、和田氏は延宝二年(1674)水戸光圀の手記『甲寅紀行』の記述を引用して、家康伝説についても次のように延べています。
「古城の山根に水あり、東照宮お茶の水と云ひ伝う、右の方松木あり、東照宮御旅館の跡なりと云ふ」とあります。その他の古書にも同様の権現様お茶の水とあります。光圀の旅行は、慶長十九年(1614)に家康が当地を通行後の六十年に相当しますので、かなり真実が伝えられているものと思われます。」(『社寺よりみた千葉の歴史』より) |
泉のそばにある小祠には石仏の不動尊が祀られており、そのなかの一基には「寛保三亥年(1743)十一月」の銘があります。和田氏は不動尊と妙見寺祭礼との関連について、土地の古老の話をもとに次のように紹介しています。
「昔、妙見寺門前の祭事に奉仕する人々は、八月十六日の未明寒川浦の妙見洲にはいって塩垢離と称して、みそぎを行し、帰りにお茶の水の不動尊に参詣して、祭事に参加した習慣があったそうです。今は塩垢離だけを残して、不動様に参詣する者はなくなりました。また、宇那谷村、横戸村、勝田村方面では、その年新盆のあった家では、千葉の妙見様の祭礼に参詣にきて、必ずこの不動様に参詣してから妙見様に参詣する風習が残っています。 |
お茶の水と石碑「お茶の水」・不動尊・「寛保三亥年(1743)十一月」銘のある不動尊
次に、山谷とせ氏の口碑にある、千葉で最も古い神社とされる神明神社について紹介します。
<神明神社>
神明町にある神明神社の祭神は、天照大神です。和田氏は、寒川村指出帳に記載されている伊勢明神が、神明神社ではないかとしています。延享三寅年(1746)二月「下総国千葉郡寒川村指出帳」には、次のような記載が見られます。
「一 宮三社 伊勢明神
白幡大明神
瀧蔵権現
一 宮壱社 伊勢明神」(延享三寅年(1746)二月「下総国千葉郡寒川村指出帳」より)
和田氏は宮三社の最初にある伊勢明神を、神明神社に比定しています。
また、和田氏は伴信友の『社名帳考証』に見られる、次のような記述を紹介しています。
「千葉郡寒川村ノ属邑寒川新田ト云フ処ニ古社アリテ今ハ神明ト称スレドモ式内寒川神社也村人ノ中ニテ鎰取ト云フテ撰定テ神事ニ預ル神体ハ所謂御幣ニテ祭日ニ新ニ調ヘテ田物ハ海ノ沖ヘ持出テ流ス也(中略)寒川ノ本村ニモ神明宮アレドソハ新田ナルヲ後ニ勧請シ祭レルナリトゾ」(『社寺よりみた千葉の歴史』より) |
『社名帳考証』の記述から、寒川新田の神明と称する古社は式内寒川神社であり、寒川の本村にある神明宮は新田から勧請したことがわかります。
寒川町にある寒川神社の祭神は天照皇大神、脇柱が寒川比古命、寒川比売命で三神を祀っています。江戸時代には神明社あるいは伊勢明神と称し、明治元年(1868)に寒川神社と改めました。神社奥殿には桐材漆塗の獅子頭が祀られており、文明十三年(1481)の朱墨銘があります。
和田氏は寒川神社について、次のように述べています。
「当社の霊験灼然たることは、往昔、海上往来の船が当社沖にさしかかれば、礼帆(れいはん)といって帆をなかば下げて航行し、また、社前を乗馬にて通行する者は必ず下馬して、敬意を表するを常としたということからもわかります。伝承から考えて、本社は神明町の神明神社から勧請されたとみる意見が妥当だと考えられます。(中略)あるいは延喜式に載るところの寒川神社であるとする説もあります。」(『社寺よりみた千葉の歴史』より) |
<神明神社に関係の深い地名>
○神明町(しんめいちょう)
「古くは結城野と呼ばれ、新宿町の白幡神社は元は結城稲荷と称したと、古老は申しております。『千学集』には、「結城舟は天福元年(1233)七月二十日千葉時胤の時、妙見祭礼の御浜下りの送り舟として、結城の村長(むらおさ)の宍倉出雲守永鏡のため造らる」、又、村岡良弼は『千葉日記』の中で、「天正年間までは結城と称せし所なり」と書いて居り、又、『千学集』に「結城に神明の祠あり、式内の社ならん」ともあります。又、町内の神明神社の古い棟札を見るに、享保六辛丑年(1721)十月の伊勢神明宝殿の棟札には、「下総国千葉郡向寒川村惣氏子」とあって、享保十五庚戌年(1730)七月の棟札には、「向寒川村別当神明寺光明院」、宝暦五乙亥年(1755)七月の棟札裏面に、「大日本国三千百三十余座之内下総国千葉郡寒川之神社也、向寒川」とあります。 |
寒川町(さむがわまち)
「町名に付いて、色々の本からその記事を抜書してみると、「承平二年(932)平良文が常陸の国に兵を進めんとして、鎌倉稲村ヶ崎より乗船して、結城が浦へ上陸せんとせしも云々」と、千葉家益田系譜、『千葉盛衰記』に出ています。又、「治承四年(1180)源頼朝一党と此の地に足跡を印して、結城の野に白旗を立てる」とあって、今の新宿町の白幡神社がその古跡です。 |
8世紀の行基、10世紀の平良文、12世紀の源頼朝、千葉常重と千葉常胤、17世紀の徳川光圀、18世紀末から19世紀初の伊能忠敬など歴史上の人物の伝承や事跡に関係する地名、当時の出版物に登場する地名、寺社の文書や棟札に記された地名、古地図に書き込まれた地名、公文書に記載された地名など、さまざまな手掛かりを通して地名の変遷を知ることができます。地名は歴史の証人であり、そこには地域の歴史が写し出されています。
最後、亥鼻神明社とともに最古の神明神社に次いで古いとされる、香取神社について紹介します。
<香取神社>
院内町にある香取神社の祭神は経津主命です。仁和元年(885)9月25日村人により勧請され、この地に居を構えたと思われる中臣系の豪族、およびその隷属民の信仰を集めました。和田氏は香取神社について、寒川神社宮司の粟飯原家に伝わる『千葉妙見社元由』(延宝8年(1680)千葉妙見社神職粟飯原右京の署名あり)をもとに、次のように述べています。
『千葉妙見社元由』という縁起書をみると「妙見社神体倭文神鎮星」とあり、この倭文神はシドリノカミ、シズリノカミと呼んで、天羽槌雄命(あめのはづちおのみこと)、天建羽槌命(あめのたけはづちのかみ)と申し、機織の祖神にして、倭文(しどり)氏の遠祖です。(中略)初め星の宮といわれた伽藍山歓喜院または北斗山金剛授寺歓喜院も、香取神社の摂社として祀られたものではないかと考えられます。(『社寺よりみた千葉の歴史』より) |
また、和田氏は香取山について、土地の古老から聞いた話を次のように伝えています。
現在の千葉神社境内および字香取山の地を合わせて、その昔は香取山と呼ばれた。したがって、香取神社は千葉神社の地主の神であると考えられています。それで鳥居も香取神社の鳥居であるからと、千葉神社では通行しません。千葉神社の神輿は香取神社の前では対面して置かれ、ほかの社の前ではその社を背後にして置かれます。また、千葉神社の神輿は香取神社までは孔雀を付けずにゆき、この社で始めて孔雀をつけて渡御します。還るときもこの社で孔雀をとりはずし帰ります。これみな地主神に対する遠慮であるとしています。(『社寺よりみた千葉の歴史』より) |
<香取神社に関係の深い地名>
院内町(いんないちょう)
当町の妙見様、今の千葉神社の御祭礼場(大庭)院内公園の脇に祀られて居る香取神社は、仁和元年(885)九月土民によって勧請されて居ります。当町はその様に古い部落で、長保二庚子年(1000)九月平忠常の二男覚算が星の神、即ち妙見尊を祭ってからは、先の香取神社と星の神の門前部落として栄えて来ました。 |
寺社の門前に由来する地名には、その地に祀られる寺社の歴史が現われています。院内は以前の地名を門前と称していましたが、その名称は9世紀末に勧請された香取神社、10世紀末に祀られた星の妙見、その後千葉氏が院内に遷座した妙見尊へと引き継がれてきました。現在まで900年近く、絶えることなく続くといわれる千葉妙見の祭礼では、時の流れを越えて受け継がれているしきたりがあります。それは地主神である香取神社に対する遠慮といわれますが、そこに歴史の面白さを感じます。
亥鼻散策の最後に、当時の亥鼻山を中心とした陰陽道に基づいた都市計画について紹介して、本稿を終えたいと思います。
<猪鼻築城と神仏信仰>
山谷とせ氏の口碑のなかに、「常胤公は神仏に帰依信仰することが厚かったので、常に武運長久を祈り観音堂を城内に建立せられ、妙見尊を病院東裏七天王の森中に移し堀之内妙見と称し、更に是を院内の地を選び此処に鎮座され、神明社を此の丘陵の突端に勧請された」という口述があります。そこで最後に、千葉氏の神仏信仰について、武田宗久氏の『千葉市歴史散歩』から紹介します。
武田宗久氏は郷土史に造詣が深く、千葉市内に残る遺跡や文化財についての調査及び資料収集活動を永年にわたり続け、その成果が『千葉市歴史散歩』にまとめられました。この中の「猪鼻築城と都市計画」で、武田氏は千葉の守護神について次のように述べています。
千葉の守護神は曽場鷹大明神、堀内牛頭天王、結城の明神、御達報の稲荷大明神、千葉寺の竜蔵権現これ也。弓ぜん神と申すは妙見、八幡、摩利支天大菩薩これ也」(『千学集抄』)(中略)文中にある曽場鷹大明神、堀内牛頭天王、結城の明神、御達報の稲荷大明神、千葉寺の竜蔵権現、妙見、八幡、摩利支天大菩薩等の神仏はいずれもかなり古い時代に祀ったもので、恐らく、猪鼻築城と同時に行われた都市計画の中に繰込まれて次第に奉斎され、常重の子常胤の頃には前掲の諸社は存在したものと見做される。 |
亥鼻散策と称して、亥鼻神明社およびそれにまつわる千葉の古社について、和田茂右衛門氏の著述を引用して紹介しました。千葉市立郷土博物館がある亥鼻山を訪れる際、参考にしていただければ幸いです。
<参考文献>
『社寺よりみた千葉の歴史』昭和59年3月31日 千葉市教育委員会発行
(原著者和田茂右衛門、和田茂右衛門氏の草稿を千葉市史編纂委員会が校訂・編集した著書である)
「千葉亥鼻神明社境内由来」
(和田茂右衛門氏が亥鼻町一番地山谷藤三郎石材店の老母山谷とせ氏から聞き取りをした内容を記した原稿で、「大蔵省に提出せる社領(境内地)拂下書に添付せる証言書 証言者亥鼻町一番地山谷藤三郎石材店の老母山谷とせ刀自八十六才 時昭和二十五年」という添書がある)
『千葉市の町名』昭和42年
(和田茂右衛門氏が「千葉市政だより」の昭和39年(1964)五月号から3カ年にわたって連載した町名についての草稿をまとめたもので、千葉市内の町名の起源や移り変わりについて古文書や金石文の史料をもとに紹介した著書である)
『千葉市歴史散歩』平成6年3月31日 千葉市教育委員会生涯学習部文化課発行
(執筆者武田宗久、武田宗久氏が永年にわたる調査及び資料収集活動を通して草稿をまとめた著書である)
※『社寺よりみた千葉の歴史』『千葉市歴史散歩』は本館にて購入可能
当館では現在、政令市移行30周年記念・令和4年度企画展「甘藷先生の置き土産~青木昆陽と千葉のさつまいも~」の展示を開催しています。会期は10月16日(日曜日)までです。展示している書籍のなかで、江戸から明治時代にかけて出版されたさつまいも関連の書物について紹介します。青木敦書(あつのり)(昆陽)の『蕃藷考(ばんしょこう)』享保二十年(1735)、大蔵永常編輯の『日用助食 竈(かまど)の賑ひ 全』明治十八年(1885)版、珍古樓(ちんころう)主人(しゅじん)の『甘藷百珍』寛政元年(1789)、の3冊を取り上げます。
<『蕃藷考』青木敦書(昆陽) 享保二十年 国立公文書館蔵>
『蕃藷考』は、宮崎安貞の『農業全書』や中国の農業書をもとにして青木昆陽が著した書物です。さつまいもの有毒説を否定し、飢饉に備える救荒作物として有効である点を強調しています。享保の飢饉の後、江戸町奉行与力加藤又左衛門枝直が大岡忠相に青木昆陽を推挙したところ、青木昆陽は大岡忠相に『蕃藷考』を提出します。大岡忠相が徳川吉宗に『蕃藷考』を呈上すると、吉宗は『蕃藷考』を書き改めさせて昆陽記名の『薩摩芋効能書?(ならびに)作り様の傳』とし、享保二十年(1735)に幕府の公認で出版します。その後青木昆陽は明和六年(1769)に、『蕃藷考補』を著します。なお、「蕃藷」とは異国から来た芋、つまりさつまいも(甘藷)のことです。
『蕃署考』に記されたさつまいもの栽培方法
唐芋苗持様植付之次第 一琉球芋唐芋かつらの様子同樣ニ相見得申候 |
『蕃藷考』(国立国会図書館蔵) |
『蕃藷考』の栽培方法を要約すると、次のようになります。
・種芋は9~10月霜の降りないうちに長さ1尺4.5寸(42~45cm)程に切り、日当たりの良い所を深さ4.5寸(12~15cm)掘っていけ、7.8寸(21~24cm)土をかけておく。 翌年2~3月頃苗を植えて育て、4~5月上旬に植付ける。 ・1月末~2月初苗床に馬ふんを1尺(30cm)余り置き、苗芋を並べて馬ふんをかぶせ藁やあくたをかける。 ・芽が出たらあくたを取り、7.8寸(21~24cm)に伸びたら芽を欠いて植付ける。苗芋が厚く重なる時は芽が出たら別の所に移し、芽が3.4尺(91~121cm)に成長したら7.8寸~1尺(21~30cm)に切って植える。 ・芋は9~10月霜の降らないうちに掘る。 |
佐藤信淵は昆陽の栽培方法は関東で収穫できないと批判し、『草木六部耕法』でさつまいもの栽培方法を次のように記しています。
・温暖な所に苗代を作り、小屋を建て風通し良くする。菰藁で寒気を防ぎ施肥する。 ・正月上旬に種芋を植え、芋苗を育てる。 ・八十八夜過に畑を耕し、芋苗を植える。 ・蔓が長く伸びたら切り、土で覆って埋める。 |
薩摩の浪人織田玄林は安永年間(1772~79)に薩摩から来て、武石村に滞在して苗床を用いた栽培法を伝授したといわれ、武石の真蔵院には玄林夫妻の墓が残っています。
『蕃藷考補』に記されたさつまいもの効能
甘藷有十二勝收入多一也色白味甘諸土種中特為夐絶二也益人与薯蕷同功三也偏地傳生剪莖作種今歳一莖次年便可種數十畝四也枝葉附地隨節生根風雨不能侵損五也可當米穀凶年不能災六也可充?實七也可醸酒八也乾久收蔵屑之旋作餅餌勝用?密九也生熟皆可食十也用地少易於灌漑十一也春夏種初冬收入枝葉極盛草穢不容但須壅土不用鋤耘不妨農工十二也 |
青木昆陽は『蕃藷?』のなかで「甘藷は土地が瘠せていてもできる、味は甘い、米穀の代わりになる、食味は薯蕷のようである、一畝で数十石とれる、五穀に次ぐ、救荒作物となる、茎を折って地に挿すと根を張る」と述べています。『蕃署考補』では十二の勝れた点をあげています。「収量が多い、色が白く甘い、薯蕷のように体によい、茎を種にして翌年は数十畝とれる、茎が地につき根が生え風雨の害を受けない、凶年には米穀の代わりになる、祭祀の供え物になる、酒を醸造できる、乾して保存し餅になる、生でも煮ても食べられる、瘠せた土地でも作れる、春夏に植え初冬に収穫するが枝葉が繁茂し耕耘の必要がない」の十二ですが、最後の蝗(いなご)の被害についての記述はありません。
甘藷の救荒作物としての効能 | (意訳) |
「蕃薯に十三品勝たる効能あり」 第六ニ五穀のかはりになり飢饉の禍を免るゝ |
「蕃薯に十三の勝れた効能がある」 第一一畝に植えると数十石できる 第二色は美しく味は甘い 第三薯蕷(とろろいも)と同じように薬になる 第四茎を切り種にすると茎一筋で翌年は数百畝に植えられる 第五茎葉が地について根が生え暴風雨でも損なわれない 第六五穀(米、麦、粟、黍、豆)の代わりになり、飢饉の禍を免れる 第七神仏先祖に供えて慙(はじ)ることがない 第八ニ酒に造られる 第九粉にして餅になる 第十生でも煮ても食べられる 第十一土地を消耗せず利益が多くて作り易い 第十二春夏に植えて九十月に収穫する、茎葉が重なり雑草にも強く土をかけておけばできる 第十三蝗(いなご)の被害を受けない |
(註)一畝=1アール 一石=1,000合 五穀=米、麦、粟、黍、豆
『蕃署?』『蕃署考補』『昆陽先生甘藷の由来』(渋谷周蔵)をもとに、甘藷栽培の有用性について十三項目をあげています。
<大蔵永常編輯 『日用助食 竈の賑ひ 全』 書肆文海堂發兌 明治十八年八月上梓>
『日用助食 竈の賑ひ 全』 |
「さつまいもの皮をむく図」 |
「子どもが粥を食べる図」 |
『日用助食 竈の賑ひ 全』は大蔵永常が編集し、江戸時代後期に刊行された書物です。大蔵永常は江戸時代後期の農学者で、『広益国産考』、『農家益』、『農具便利論』など多くの書物を著しています。豊富な挿絵と具体的な記述で先進的な農業を紹介し、多くの人に読まれています。
『竈の賑ひ』では飢饉で米価が高騰した時の対処法として、米に里芋や大根などを混ぜて分量を増す方法をあげています。米が不足した時の料理法として粥、団子汁、薩摩芋飯、薩摩芋茶粥、芋の葉飯など23品目を紹介しています。「さつまいもの皮をむく図」、「子どもが粥を食べる図」の2枚の図版があり、図のなかで解説を加えています。「さつまいもの皮をむく図」には竈の前で火吹を使う人、さつまいもを切る人、米を研ぐ人などが描かれ、当時の台所のようすがわかります。「子どもが粥を食べる図」には粥を炊いている人、粥をすする子どもが描かれています。企画展では『日用助食 竈の賑ひ 全』の書籍、「薩摩芋飯の調理法」の見開き、さつまいもの皮をむく図」のパネルを展示しています。
図版の翻刻
「さつまいもの皮をむく図」 | 「子どもが粥を食べる図」 |
とぎがまへめぢやあぬかくさい 少し水にしろみおるくらゐとはむづかしいかげんだのふこれでよかろふ をや 〉(をや)かはむくのぢやござりませんか いえ 〉(いえ)くさりはかりとれと申つけました 火用心 をや 〉(をや)かはむくのぢやないそうだと |
きのふのちやがゆはごふぎによかつた けさのきらずめしははらがへらいでめうだ こんやはしらかゆかいもちやがゆかきらずだんごもまたしてみろ いもばかりだぞ いもはもふしまいだよ もふよくさめたこれをたべろ |
「さつまいもの皮をむく図」では、米の研ぎ加減やさつまいもは皮をむかずに腐ったところを除くなど、料理の下準備について解説を加えています。
「子どもが粥を食べる図」では、茶粥、きらず飯、きらずだんごなどの料理名が紹介されています。
『日用助食 竈(かまど)の賑(にぎは)ひ 全』大蔵永常編の翻刻序文
今年(ことし)氣候不順(きこうふじゆん)にして東北(とうほく)の國(くに) 不作(ふさく)し米價(べいか)貴(たふと)くにちように苦(くるしむ) 事を嘆(なげ)きて其助(そのたす)けともならんよし 女子(めこ)などにもわかりやすきやう書(かき)つづり 世(よ)に弘(ひろ)くするい聊(いさゝか)僕(ぼく)が微志(びし)をのぶるのみ |
「気候不順による東北の不作で米価が高騰し、日常の生活が苦しいのでそれを助けるための方策を述べる。」と序文で述べています。
目録
きらず飯(めし) 唐(たう)なすめし 同かゆ 里(さと)いもめし 同かゆ さつまいも飯 同茶(ちや)かゆ 白(しら)かゆ 大(だい)こんかゆ 同かゆ ちやかゆ あげ茶かゆ 大こん葉(は)飯 芋(いも)の葉めし 入(いれ)茶かゆ 越前(えちぜん)大こんめし たうきびもち 葛(くず)ときらず団子(だんご) だんごしる 田家(ひやくしやう)食物(しよくもつ)の弁(べん) 摂州(つのくに)のおみ 麥(むぎ)飯たきやう 夏(なつ)飯たきやう |
目録では、唐なす、里いも、さつまいも、大根、唐きびを使った料理、いろいろな種類の粥など19品目を記しています。その他に田舎の食物、摂津国の料理、麦飯や夏飯の炊き方などをあげています。目録に続いて具体的な料理法を記載していますので、その中からさつまいもを用いた料理3種を紹介します。
料理法(さつまいもを用いた料理)
薩摩芋飯(さつまいもめし) 金薯 紫芋 甘藷 かみがたにてりうきういも西国にて唐(とう)いもといふ 薯(いも)の腐(くさ)りをよくさり皮(かは)を去(さら)ず其儘(そのまゝ) くさり多きは皮を むくべし いつも菜(さい)にたくより少(すこ)し細(ほそ)く切(きり)飯(めし)の 吹(ふき)あがる頃(ころ)入(いれ)て塩(しほ)も程(ほと)よくいれ蓋(ふた)をして焚(たき)あ げ暫(しばら)くむし置(おき)杓子(しやくし)にてかきまぜ食(しよく)して よし〇田家(いなか)の此芋(このいも)を作(つく)る所(ところ)にては此葉(このは)を取 きざみて日(ひ)に干(ほし)て麦飯(むぎめし)などの焚(たき)あげ頃(ころ)うへ に置塩(しほ)を入(いれ)しばらくむしてかきまぜ食して よろし米壱升に五厘(りん)分(ぶん)の芋をいれなば 四合のかはりはすべし |
〇薩摩(さつま)芋茶粥(ちやかゆ) 米は未(いま)だ水(みづ)の澄(すま)ざる位(くらゐ)ざつと洗ひ先茶を 煎(せん)じ出(いだ)し其茶(そのちや)を釜(かま)に入其茶の中へ米を いれ焚(たく)べし焚(にゑ)あがる時右飯に入たる位に芋(いも)を 切入(きりいれ)塩(しほ)も入て蓋(ふた)を取(と)らざる様(やう)次第(しだい)に火をほそ めて焚米を二三粒(りふ)すくひとりつまみ見るに 未(いま)だ真(しん)はかたき位を度(ど)として火を引爐(おき)も 引盡(つく)し暫(しばら)くむし置(おき)釜より碗(わん)に盛(もり)て 食(しよく)すべし始(はじ)め一椀(いちわん)はいまだ前目(まへめ)にてさらつき 二椀目は丁度(ちやうど)よきかげんなり三椀目はねば りて米(こめ)の體(たい)つぶるゝ位(くらゐ)なるもの也依(より)て火(ひ)かげ んを無油断(ゆだんなく)焚(たき)あげ右云如(いふごと)くむし早(はや)く食(しよく) すべし京 (ぎやう) 大阪(おほさか)堺(さかひ)にて冬分(ふゆぶん)小人数(こにんず)の家(いへ)に ては此粥(このかゆ)を焚(たい)て食(しよく)する也 |
〇芋(いも)の葉(は)飯(めし) 芋(いも)の葉(は)を生(なま)にて刻(きざ)み蔭干(かげぼし)にしてよく干(ほし) あげたるを茹(ゆで)て水(みづ)に一夜(いちや)浸置(ひたしおき)右大根葉飯(だいこんばめし) と同(おなじ)じやうに焚(たき)※食(しよく)すべし ※引あけてしぼり細(こま)かにきざみ飯(めし)の焚(たき)あぐりてじやくする時分(じぶん)上に置(おき)塩(しほ)も程(ほど)よく入て暫(しばら)く蒸置(むしおき)杓子(しやくし)もてかきまぜ食(しよく)してよし |
〇此外(このほか)田家(でんか)にて飢饉(きゝん)を助(たすく)る食物(しよくもつ)の仕様(しやう)さま 〉(さま)ありといへども挙(あぐ)るにいとまあらず右に記(しる)すは予 大尾 |
奥書
明治十八年七月廿三日御届 元板人 西村與八 愛知縣平民 名古屋本町四丁目 |
大蔵永常は明和五年(1768)に豊後国日田郡隈町の農家に生まれ、20歳頃から諸国を遍歴しています。文政八年(1825)江戸に居を構えてから本格的な執筆を行い、生前に27部69冊が出版されますが、6部10冊は未刊です。『日用助食 竈の賑ひ 全』は永常の死後、明治十八年(1885)に書肆文海堂から再版されます。明治時代以降も東北地方を中心に冷害による不作、飢饉に見舞われており、江戸時代の救荒書に光が当てられて、江戸時代の知恵が庶民に紹介されています。
<江戸時代の救荒書>
享保期には不作による飢饉が発生し、その後も飢饉のたびに各地で一揆も頻繁に起こるようになります。享保の飢饉(1732~33)、天明の飢饉(1782~87)、天保の飢饉(1833~37)は江戸時代の三大飢饉と呼ばれ、天明以降は恒常的な飢饉が多発します。天明の飢饉や天保の飢饉は冷害型の慢性的な飢饉で、東北を中心に多くの餓死者を出しています。天明の飢饉では食べられるものをすべて食べ尽し、最後は先に死んだ者の肉を切り取って食べたといわれており、地獄・餓鬼道さながらの様相を呈しています。このような悲惨な状況に対処するために、飢饉に備えて食用可能な野生植物を記した救荒書が作成され、命をつなぐためのさまざまな知恵が紹介されています。
一関藩医建部清庵 | 『民間備荒録』を著し、食用可能な植物の選別・解毒・調理法、飢餓人救済の方法などを記しています。『備荒草木図』には食用可能な草木104種の詳細図、簡潔な調理法が紹介されています。 |
米沢藩主上杉治憲 | 藩主の命で奉行莅戸善政・中条至資が『かてもの』を享和2年(1802)に編纂しています。「かてもの」は「主食である穀物とともに炊き合わせを行う食物」、転じて飢饉などで食糧不足に陥った際の救荒作物とされます。糧となる野草類を列記し、調理法や食べ方を紹介しています。 |
青木昆陽 | 一般向のサツマイモ栽培読本として、『蕃藷考』を著しています。飢饉に備える救荒作物としての有効性を強調し、さつまいもの効能、栽培方法などを紹介しています。 |
蘭学者高野長英 | 『二物考』を著し、代用食として早生ソバやジャガイモを紹介していますが、江戸時代にはあまり普及せず、これらの作物の栽培は明治以降です。 |
<『甘藷百珍』珍古樓主人 寛政元年 千葉県立中央図書館蔵>
『甘藷百珍』は寛政元年(1789)に珍古樓主人が著した料理書で、文化十三年(1816)に同一内容で再版されています。百珍物のさきがけである『豆腐百珍』に倣い、奇品・尋常品・妙品・絶品の4種に分けて、さつまいも料理123品目の調理法を記しています。形が珍しく人の意表をつく奇品63品目、どこの家庭でも日常みられる尋常品21品目、形が珍しく味が奇品より優る妙品28品目、妙品より上で極上級の絶品11品目をあげています。中でも「塩蒸やきいも」を第一品として紹介し、「焼きいも」については「完(まる)のまま、わらの熱灰(あつはい)にうづめるとよい。近年の新しい作り方は味がうづみ焼きに及ばない」としています。現在、千葉県立中央図書館に所蔵されている本書には「日州高千穂正念寺」の押印があり、前所蔵は宮崎県高千穂の正念寺であることがわかります。『甘藷百珍』には精進料理も掲載されており、寺院でも活用されていたと思われます。さつまいもは関東で栽培が普及すると商品作物として注目され、焼きいもや甘藷料理が日常食として庶民の間に広まります。このような中でさつまいもの料理書が刊行され、さらに27年後には再版されています。著者の詳細は不明ですが、「浪速 珍古樓主人 輯」との記載から大坂と関係の深い人物と思われます。
千葉県立佐倉東高等学校調理国際科では~千葉県の魅力発見!発信!生活産業のプロフェッショナルを目指そうプロジェクト「つなげる!広げる!甘藷百珍」~をテーマに掲げ、江戸時代の甘藷料理を再現しました。令和4年5月から7月にかけて調理国際科の生徒は「さつまいもと甘藷先生」「甘藷百珍」の講義を受けた後、5品目(奇品・御手洗いも(みたらしいも)・切鮓いも(きりずしいも)、尋常品・飛龍頭いも(ひりょうずいも)、妙品・打込いも(うちこみいも)、絶品・いもとじ)の甘藷料理を再現し、現代版のアレンジ料理も作成しました。
企画展では『甘藷百珍』の書籍、「琉球賣藷眞図」と「甘藷百珍目録」のパネルを展示しています。また、「甘藷百珍調理法」、佐倉東高校調理国際科での甘藷料理作成のようす、発表会で使用したイメージマップも紹介しています。展示会場では生徒が作成した甘藷料理のレシピと現代版アレンジを配布していますので、現代のさつまいも料理と比べながら江戸時代の甘藷料理を堪能してください。
『甘藷百珍』 |
「琉球賣藷眞圖」 |
「琉球賣藷眞圖」には甘藷を焼いて売るようすが描かれています。右図は琉球藷を買い求める母子、左図は琉球藷を焼いて売る商人です。甘藷は上方では琉球藷、西国では唐藷と呼ばれ、甘藷が日本へ伝わる経路が呼び名にも現れています。 |
かつて千葉市域では、生活と結びついたさまざまな行事が行われていました。「盆と正月がいっぺんに来たようだ。」という言葉を昔の人から聞いたことがありますが、正月行事と盆行事は民間年中行事の双璧をなしています。正月と盆の行事は農耕との関係が深く、日常とは異なる「ハレ」の行事として行われました。ここでは野呂町(千葉市若葉区)で行われていた年中行事について、三十年ほど前に伯父から聞いた内容を3回に分けて紹介します。地域により多少の違いはありますが、昔はこのような行事がどこの家でも普通に行われていました。
今回は正月の行事、次回は盆の行事、最後はその他の行事を取り上げます。
正月の行事
一月は正月の月で、「大正月」や「小正月」を中心に正月の行事が行われます。元日から六日までは「松の内」で、「大正月」といわれます。正月飾りはすべて飾られ、いろいろな正月行事が行われます。十五日は「小正月」、「女正月」ともいわれ、この日にも行事があります。正月を迎えるための準備は年の暮、「煤払い」から始まります。きれいになった神棚に正月飾りを作って供え、お節料理づくりや餅つきをして新しい年を迎えます。かつては1年の折り目を「節分」といい、神様へ「お節」を供えて「節句」の行事を行いました。「節分」の翌日が新年で、「お節」を作って神棚に供えた後、人間がおこぼれにあずかりました。
<元日>
元日は、早朝の「若水汲み」から始まります。新しい年を迎えると、一家の主(あるじ)が自ら井戸に出向き、新年の一番水を汲みます。まず、前日に汲んでおいた水で顔を洗って口を漱ぎ、井戸の前で御燈明の代わりに「火打ち石」を三回打ちます。「火打ち石」は伯父の家に代々伝わるもので、明治三十一年(1898)生まれの祖父(伯父の父)が子供のころ、既に使われていたといいます。
次に、「おさんご」(精米して袋に入れた白米)を持って井戸へ行き、袋の中から取り出した「おさんご」を井戸に三回あげます。そして、新しいバケツに水を汲み、藁を綯って作った丸い「お飾り」を掛けます。バケツの水は釜屋(台所)で沸かして、神棚にお茶をあげます。雑煮の汁もバケツの水で作り、味見をする前に神棚にあげます。雑煮の汁が人の口に合うかどうかよりも、まず神様に供えなくては罰当たりだといいます。「神の鉢」に生の小さな切り餅と煮汁の中の里芋を盛り、雑煮の汁を一滴垂らします。鰹節、青海苔、「ハバのり」をまぜて雑煮の上にかけ、それを神棚に供えます。神棚の脇に祀られた天神様と恵比寿様にあげる雑煮は、「神の鉢」ではなくアワビの殻を使います。
正月「三が日」は朝晩、神棚の燭台に蝋燭をつけ、「火打ち石」を三回ずつ打ちます。「火打ち石」は御燈明の元祖といわれ、昔はこれを使って火をつけました。野呂町にある日蓮宗の古刹妙興寺では、寺の行事や子安様の時に今も「火打ち石」が使われるとのことです。
<「松の内」の風習>
〇正月のお飾り
毎年十二月三十日には自分の家でとれた藁を使って、正月の「お飾り」を作ります。「お飾り」は糯(もち)米ではなく粳(うるち)米の藁を使い、必ず二把の藁からとって作ります。昔から「一把藁でとるものではない。」との言い伝えがあり、今でもそれが守られています。「お飾り」には神棚に飾るものと、井戸や物置に飾るものの二種類があります。神棚の「お飾り」は藁で神社の鳥居をかたどり、「だいだい」「ゆずり葉」「裏白」をつけて作ります。井戸や物置には、藁で縄を綯って丸めた「お飾り」を供えます。神棚に「お飾り」をあげるときは藁の根元を下座、穂先を上座にします。来客時に主が下座に座り、客を上座にして接待するのと同じ理屈だといいます。「お飾り」に付ける「だいだい」は、家の代々の繁栄を象徴し、「ゆずり葉」は春に新しい葉が出てから古い葉が落ちることから、これも家の繁栄を表わしています。
「一夜飾りは縁起がよくない。」「九の日は苦につながるのでよくない。」といわれ、「お飾り」は十二月三十日に飾ります。
〇正月のお供え
かつて伯父の家では「松の内」のお供え物として、新巻鮭を一疋のまま神棚の天井から吊り下げました。鮭は正月が終わると天井から下ろし、切り分けていただきます。数年前、家を新築して神棚に吊り下げる釘がなくなると、鮭の切り身を供えるようになりました。
〇正月の雑煮
「松の内」の間は、朝は雑煮と決まっていましたが、最近は「三が日」だけになりました。雑煮の具は里芋のみで、醤油の澄まし汁でつくります。四角く切った餅を焼いて、鰹節でとっただし汁の中に入れます。餅をお椀に盛り、鰹節、青海苔、「ハバのり」を揉んで混ぜたものをかけて食べます。「ハバのり」は房総の海で採れる海藻で、ハバが利くようにと験を担いでいます。千葉では「雑煮に「ハバのり」をかけて食べないと正月が来ない。」という年配者も少なくありません。今では生産が減り、なかなか手に入らなくなりました。
かつては餅を焼かずに、別の鍋で煮た餅を澄まし汁にうつして食べました。鍋の底には藁で作った敷物を敷き、その中で餅を煮ました。
〇正月の「お節」
伯父の家で作る昔ながらの「お節」は、寒天でよせた海藻に鰹節、「ハバのり」、醤油をかけたもの、羊羹、田作り、昆布巻、鮭、数の子、鶏肉とネギのぶつ切りの煮ものです。かつては「松の内」に家の中で四つ足のものを料理したり、食べたりしなかったといいますが、最近はだいぶ変わってきました。
<鍬入れ>
「鍬入れ」は一月四日に行われる儀式で、新年の仕事始めにあたります。鍬を持って自分の家の畑に行き、畑のかどに少し土を盛って、その上に松の小さな枝を立てます。畑のすみにひと鍬入れて土をすき返すことにより、新しい年の農耕が始まります。
<七草>
一月七日の朝は「七草がゆ」を炊いて食べ、一年の健康を願います。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが春の七草です。伯父の家では、新暦の一月七日でも手に入るスズナ(蕪)、スズシロ(大根)の葉、セリなどを入れて「七草がゆ」を炊きます。「七草」までは、青菜を調理したり食べたりしない風習が残あります。
<なり餅(ならし餅)>
一月十四日には、新年になって初めて搗いた餅で「なり餅(ならし餅)」をつくります。搗きたての餅を小さく丸め、栗の木に付けて「なり餅(ならし餅)」にします。餅つきの木臼を伏せた上に石臼を置き、そこに「なり餅(ならし餅)」を縛り付けます。「なり餅(ならし餅)」は新しい年の豊かな実りを願う行事で、やりくりがうまくいくようにと栗の木を使います。夜になると、新しく搗いた餅で汁粉をつくって食べます。
<どんどん焼>
子どもたちは一月十四日の夜、正月に書いた書初めを持って河原に集まります。河原では竹を組み、その周りに茅を置いて火を点けます。燃え盛る炎の中に、子どもたちの書初めや古いお札を投げ込みますが、書初めが高く上がれば上がるほど習字が上達するといわれます。子どもたちは篠竹に餅を刺して持ち寄り、その炎の中で焼いた餅を食べます。「どんどん焼」の行事は、昭和三十年代まで行われていました。
<小正月>
一月十五日の「小正月」に、伯父の家では小豆ご飯を炊いて食べます。小豆を入れて炊いた粳(うるち)米の中に、前日に搗いた餅を柳の箸で入れて小豆ご飯を作ります。
<えびす講>
一月二十日に行われる「えびす講」は、新しい年の豊作を祈る行事です。ご飯、牛蒡、大根、人参、里芋などを入れた醤油の澄まし汁とお頭付の魚で御膳を作り、昼飯の時えびす様にお供えします。昔は家の前を流れる小川で川えびをすくい、水を張ったどんぶりに入れて供えました。「えびす講」が終わると、川えびにその年の豊作を託してもとの小川に帰します。河川改修工事や農薬の影響で川えびがいなくなると、代わりにお頭付の魚を供えるようになりました。
「えびす講」は年に二回、年初めの一月二十日と年の暮十二月二十日に行われます。十二月の「えびす講」でも一月と同じ御膳を作って、夕飯の時えびす様にお供えします。川えびをもとの小川に帰す時には、「来年もまた、米をたくさん背負ってこい。」といって放します。一月の「えびす講」は豊作の祈願、十二月の「えびす講」は今年一年の豊作をえびす様に感謝するものです。えびす様は商売繁盛の神ですが、豊作をもたらす神でもあり、人々は「えびす講」を行い、えびす様を大切に祀りました。
盆の行事
今回は、盆の行事を取り上げます。盆行事は正月行事とともに民間年中行事の双璧をなしています。ここでは三十年ほど前に伯父から聞いた、野呂町(千葉市若葉区)で行われていた盆の行事について紹介します。
盆は先亡精霊を迎えて祭り、終わると再び送る行事です。盆の行事は旧暦七月十五日を中心に行われ、十三日の「精霊迎え」から十六日の「精霊送り」までとされます。七月に入ると墓を掃除して、「盆棚」つくりに使うものをそろえます。「精霊送り」の後「盆棚」を片付けて、先祖供養の行事を終えます。
<まこも馬>
かつて、「まこも馬」は旧暦七月七日の七夕に行われましたが、新暦では八月七日になります。前日の夕方、干しておいた真菰(まこも)で三十センチ位の大きさの馬と牛をつくります。七日の朝、子どもたちは「まこも馬」を引いて草刈りに行き、馬の背に刈り取った草を積んで持ってきます。家に帰ると母屋の縁側に草を敷き、その上に馬と牛を並べて置き、赤飯を炊いて供えます。夕方になると、縁側に置いた馬と牛を馬小屋の屋根に投げ上げ、「まこも馬」の行事を終えます。
八月に入るとすぐ真菰刈りに行き、真菰をよく干してから麦藁と稲藁を混ぜて「まこも馬」を作ります。刈り取った真菰は半分残しておき、「盆棚」作りに使います。昔はもっと大きな馬を作って色紙で飾り付けたり、売りに来た「まこも馬」を買ったりして、どこの家でも「まこも馬」の行事を行いました。今ではその風習もほとんど見られなくなり、「まこも馬」をつくるのは伯父の家ぐらいになりました。伯父は昭和三十七、八年頃まで、馬を連れて草刈りに行ったといいます。
「まこも馬」の行事には、次のようないわれがあります。お盆には亡くなった先祖が帰ってきますが、馬と牛はその時の乗り物です。来る時は馬に乗って早く来て、帰りは牛に乗ってゆっくりと帰ります。年に一度のことなので、できるだけ長く家に留まれるようにとの願いを込めて、盆行事と関連させて「まこも馬」を作りました。民俗学では、七夕は「ボンハジメ」「ナヌカボン」とよばれて盆行事の始まりとされ、「まこも馬」のいわれと相通じるところがあります。
<盆の準備>
一連の盆行事は、六日の「棚つり」から始まります。先祖代々の墓を掃除して、新しい竹を割いて墓前に棚を作ります。翌七日、新盆の家(前年の盆以降に死者が出た家)では庭に燈籠を立て、新しい仏を迎える準備をします。先祖を家に迎えるための準備を整えて、十三日から十五日までの三日間に先祖供養の行事を行います。
<迎え日>
十三日は盆の「迎え日」で、朝のうちに枝付きの竹を取ってきて「盆棚」をつくります。「盆棚」の周りに真菰で綯った縄を張って稲穂、鬼灯(ほおずき)を吊り下げ、御曼荼羅をあげます。ミソハギは数本束ねて元を半紙で包み、水の入った小鉢に入れて「盆棚」に置きます。稲穂は稲の実りを先祖に見せるために、鬼灯は提灯の代わりにあげます。各家を廻るお坊様は、ミソハギに浸した水を「盆棚」に撒いてから読経をします。「盆棚」には玉蜀黍(トウモロコシ)、南瓜、茄子、瓜、西瓜など、家で採れた季節の野菜をお供え物としてあげます。
夕方になると餅を搗いて、素焼きの皿に一つずつ盛り、餅に餡を添えて「盆棚」に供えます。素焼きの皿は伯父が子どものころからずっと使っているもので、お盆の間はいろいろなお供え物をする時に使います。買ってきた苧殻(おがら)を五、六センチ位に割って箸を作り、お供え物の皿ごとに一膳ずつ添えます。無縁仏(精霊を迎えて供養する人のいない仏)は茣蓙を掛けた「盆棚」の下に祭り、家の先祖と同じように御膳を供えて供養します。
先祖を迎える準備ができると、家紋入りの提灯を持って墓へ行きます。そこで火を点けて、提灯の中に先祖を迎え入れます。墓から帰ると座敷の廊下から家に上がり、提灯の灯を「盆棚」に移して先祖迎えをします。新盆の家では座敷の廊下に履物と水を汲んだ洗面器を置き、新しい仏を迎えます。
<盆供養>
十四日は先祖が田畑を見て回り、夜になると「盆市」に出かけます。伯父の家では瓜と茄子を刻んで洗い米を混ぜたお供え物を持って、早朝暗いうちに墓参りに行きます。新しく作った墓前の棚に里芋の葉を敷き、その上にお供え物をあげます。先祖の留守に墓参りに行くのもおかしな話ですが、伯父は年に一度の行事と解釈していると言います。
十四日の朝は「盆棚」にご飯と瓜の漬物、昼はうどんをあげます。夜は皿にご飯を薄く盛り、その上に丸い握り飯をのせて苧殻の箸を挿して供えます。夜になると先祖は下のご飯を食べ、握り飯を持って「盆市」に出かけます。
十三日と十四日の二日間にわたり、野呂町にある妙興寺の住職は檀家の家々を読経して廻ります。
<送り日>
十五日は盆の「送り日」で、先祖が墓に帰る日です。十四日と同じように朝はご飯、昼はうどんを供えます。夕方になると墓参りに行き、先祖へのみやげを墓に置いてきます。瓜と茄子を刻んで洗い米を混ぜ、里芋の葉に包んで真菰で縛ったものを先祖へのみやげとします。十五日の夜も、前日と同じものを「盆棚」に供えます。先祖は握り飯と、墓に置いてあるみやげを持って帰ります。
零時前後になると、先祖を墓へ送っていきます。少しでも長く家に留まってほしいとの願いから、できるだけ夜が更けてから行きます。「盆棚」に蝋燭を灯して線香をあげ、「来年もまた、早く来てください。」と言って蝋燭の火を提灯に移します。提灯を持って先祖を墓まで行き、そこで提灯の火を消して盆供養の行事を終えます。
<盆の片付け>
十六日の朝、「盆棚」の片付けを行います。昔は「盆棚」に使った用具やお供え物を家の前にある小川に流しましたが、今は裏山に持っていきます。
その他の行事
かつて千葉市域では、生活と結びついたさまざまな年中行事が行われていました。1回目は正月の行事、2回目は盆の行事を取り上げました。今回はその他の行事として、「さなぶり」「虫送り」「新箸(にいばし)」「月見」「秋祭り」「節句」について紹介します。農耕と深く係わるこれらの行事は、農事暦と結びついて日常の生活の中に根付いていました。
<さなぶり>
農家の竈には、台所の守護神である荒神様が祀られ、「竈三柱大神」と書かれた三宝荒神の御札が貼られています。田植えが終わると、荒神様に早苗とぼた餅を供える行事が「さなぶり」です。忙しい田植えの時期は一家総出で働いて家を留守にするため、荒神様が家を守ってくれます。田植えが無事に終わると荒神様にその報告をして、お礼にお供え物をします。きれいに洗って十本くらい束ねた苗を、荒神様の両側に一束ずつ供えます。ぼた餅を作って荒神様にお供えして自分たちも食べ、厳しい農作業への慰労も兼ねて骨休めをします。かつては、田植えが終わると家ごとに「さなぶり」を行いましたが、今ではほとんど見られなくなりました。
各家ごとの「さなぶり」に対して、「田植えの一万遍」は村で一斉に行われた行事です。年寄りたちは村の田植えが始まる前に鎮守様に集まり、「南無妙法蓮華経」のお題目を一万遍唱えます。田植えが無事に終わるように、年寄りたちがお題目を唱えて祈ると、各家々で田植えが始まります。昔は五月二十日ごろ、「田植えはじめの一万遍」が行われましたが、田植えの時期に合わせて「田植えはじめの一万遍」も早くなりました。村の田植えがすべて終わると、年寄りたちはまた鎮守様に集まります。今度は「お礼の一万遍」を唱え、村の田植えが無事に済んだことを報告して、「田植えの一万遍」の行事を終えます。
<虫送り>
「虫送り」は、作物に被害を及ぼす害虫を村はずれへ追いやり豊作を祈る行事で、七月の二十日前後に行われます。「虫送り」と盆行事の「まこも馬」は、子どもが主役となって行われる行事です。
真菰で三十センチ位の大きさの「つと」(藁で作った納豆の入れ物のような形のもの)を作り、その中に小麦万頭を二つ入れます。山から取ってきた新しい竹に「つと」を吊るし、自分の家で作った小豆、ササゲ、粟、大豆などの農作物を下げます。害虫を「つと」と一緒に山へ追いやり、五穀(米、麦、粟、豆、黍または稗などの穀物)豊穣を祈ります。子どもたちは山に着くと小麦万頭を一つ食べ、もう一つの万頭は「つと」ごと山へ置いて、虫のために残してきます。
明治以降は子どもたちの休みに合わせて、七月二十日前後の日曜日に「虫送り」が行われました。区長が日を決めて申し送りをすると、村では家ごとに「つと」を作って一斉に「虫送り」行いました。明治三十一年生まれの祖父のころには、野呂町の字「大池(おおいけ)」という所まで虫を送っていきました。その後池が埋められると、家の裏山へ「つと」を持っていくようになりました。川、池、村境など虫を送っていく先はいろいろですが、川井町(千葉市若葉区)には字「稲虫塚」という地名も残っています。
<新箸>
農作物がよく成就するようにとの祈りを込めて、七月二十七日に「新箸(にいばし)」の行事が行われます。山で取ってきた薄(ススキ)の根元で新しい箸を作り、その箸を使って朝炊いた赤飯を食べます。箸をとった残りの薄は、家の前の柱に縛りつけておきます。今では「新箸」の行事も、ほとんど行われなくなりました。
<月見>
十五夜は仲秋の名月とよばれ、今でも広く行われる行事です。十五夜の晩には秋の七草や月見団子を供えて、お月見をします。ここでは伯父が子どものころから行っている、「十五夜の月見」と「十三夜の月見」を紹介します。「十五夜の月見」には、一年の月数にあたる十二個の「芋ぼた餅」を供えます。炊いたご飯に半つぶしにした里芋を混ぜて、「芋ぼた餅」を作ります。十五夜は「芋名月」とも呼ばれ、里芋の祭儀の名残りがうかがえます。「芋ぼた餅」と一緒に茹栗、枝豆、柿など家でとれた農作物を供え、花立てに葉のついた栗の枝、尾花(ススキ)、坊主(ワレモコウ)、女郎花(オミナエシ)など秋の七草を生けます。
「十三夜の月見」は「嫁婿の月見」ともよばれ、生芋を供えればよいと言われます。「片方だけの月見をしてはいけない。」「十五夜の月見をしたら同じ場所で十三夜の月見もせよ。」という古くからの言い伝えがあり、伯父の家では十五夜と同じように十三夜の「月見」をします。「十五夜が当たる(月がよく出る)と小麦があたる。」「十三夜が当たると大麦があたる。」とされ、秋の麦撒きで小麦と大麦の割合を決めるとき、ひとつの目安にしたといいます。
<秋祭り>
野呂町では十月十七日に、年に一度の鎮守様の祭礼が行われます。秋祭りは収穫のお礼としての祭りで、十月十七日は「神のお立ち」と「神のお帰り」の間にあたります。「神のお立ち」は村の神様が出雲に出かけるのを送り出す儀式で、「神のお帰り」は神様が出雲から帰るのを迎える儀式です。年寄りたちは村の鎮守様に集まり、お題目を唱えて神様を送り出し、同じようにお題目を唱えて神様のお帰りを迎えます。神様が出雲に出かけた留守の間に、村では秋祭りが行われます。
昔は村の青年団が中心になり、祭りの行事を行いました。十六日の「宵まち」には、国道一二六号線沿から鎮守様へ向かう参道までぼんぼりを吊るし、「鎮守御祭礼」「六社大明神」の幟を立てます。青年団は夜になると酒や御馳走を持って鎮守様に集まり、一晩御籠をして騒ぎます。十七日は「本まち」で、小倉町(千葉市若葉区)から神官が来て祈祷を行います。村の年寄りたちは鎮守様に出かけていきます。青年団が中心になって作った舞台では、夕方から演芸などが行われます。各家では「宵まち」の夕方に、餅を搗いて神棚に供えます。「本まち」の朝、村の人々は鎮守様から不動様にかけて、七つの神様にお参りします。お供え餅を持参してひと供えあげ、神様に供えられた餅をひとついただいてきます。「本まち」の日は汁粉を作って食べ、いろいろな御馳走を作り、親戚の人々を迎えてもてなします。十八日の「あがりまち」には、青年団がぼんぼりや幟をはずして祭りの後片づけをします。
かつて、秋祭りは正月の大備射(歩射(びしゃ)、弓神事ともいわれ、弓で的を射て神意を占う神事)に合わせて十九日に行われていましたが、明治以降は十七日に定められました。野呂町より東の旧白井村では秋祭りが十七日に決められ、学校も休みになりました。明治初期の国家神道の影響もあり、伊勢皇大神宮の献穀祭に合わせたといわれます。今では農業も振るわなくなり、村祭りの中心となって活躍した青年団も解散してしまいました。
<節句>
五節句は人日(一月七日)、上巳(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(九月九日)をさしますが、これらは唐文化の影響を受けています。日本では古くから、一年の折り目、切り目に当たる時期を「節分」と呼び、農耕にとって重要な節目となりました。伯父の家では三月三日、五月五日、八月一日(新暦九月一日)に「節句」が行われました。特別な行事はありませんが、三月三日には汁粉、五月五日には砂糖餅(あんころ餅)を作って神仏に供えます。二百十日前後にあたる八朔の「節句」には、品変わりのものを作って供え、このころから夜なべ仕事が始まります。春の農事はじめ、田植えの開始、秋の豊穣への祈願などは「節句」と関連しており、農事暦も「節句」と深く関係しています。農耕の節目にはお供え物を作り、「節句」の行事を祝って神様に捧げ、自分たちも共にお供え物をいただいて農作業に励みました。
かつて、年中行事や農耕儀礼は日常生活と深く係わり、農耕社会と密接な関係をもっていました。「節」を分ける「節分」にはいろいろな行事が行われ、「節句」も農事暦と深く係わっていました。「節句」にはお供え物を作り、神様に供えました。そして自分たちも共に食して、日頃の厳しい農作業を労ってきました。しかし、日本の社会や産業構造が大きく変化していく中で、農耕と結びついたこれらの行事は次第に姿を消していきました。伯父は、「自分が生きている間は、昔ながらの伝統行事を守り続けたい。」と話していましたが、聞き取りの数年後には鬼籍に入りました。その後、行事はかたちを変えながらも引き継がれてきました。
千葉市史編纂事業の礎を築いた和田茂右衛門氏が亡くなって、今年で50年になります。
和田氏は明治31年(1898)1月15日生まれの郷土史家で、千葉市中心部および西北部の歴史を実地に踏査し、多くの資料を発掘収集してきました。和田氏の郷土に対する探究心は、敗戦の昭和20年(1845)8月15日から始まったといえます。同年6月10日と7月7日の2度にわたる空襲で千葉市の中心部は焦土と化し、歴史の拠り処となる大切な史資料が失われました。和田氏はそれを目の当たりにして、市の真ん中の空洞となった地区の歴史を今明らかにしておかなければ、永遠に悔いを残すと考えました。焼失を免れた周辺地域を徹底的に調査すれば、周辺の特質に加えて空洞部分の歴史を後づける手掛かりが得られるかもしれないとの望みを持たれたのです。
以来、和田氏は精力的に周辺地域を歩き回り、江戸時代の古文書収集、金石文・道標・石仏の調査、市内の町名および小字の調査等と、調査対象を広げていきました。千葉市域の仁戸名・院内・川戸・坂尾・坂月・星久喜・六通・園生・宇那谷・中野・下泉・上泉・中田・古泉・野呂・下郷谷津駒崎・上郷茂呂・刈田子・平山・遍田・南生実・有吉・村田・浜野・寒川・登戸・今井・稲荷・穴川・千葉・千葉寺・金親・大井戸・下田・武石・畑・犢橋・柏井・西寺山・東寺山・宮ノ木・小中台・高品・都町・辺田・大椎・大木戸・土気・平川・馬加と、広範囲にわたって膨大な史料を集め、それを翻刻して活字化しました。また、御成街道・寺社関係・寺社石造物・町名などテーマごとに分類して考察を加え、「千葉市の町名」「千葉市内小字調査」「千葉市字切図」「妙見寺と門前百姓」「昔話」「千葉巡り」「千葉市の散歩道」「千葉市の文化財を尋ねて」「史蹟案内」「史蹟めぐり」などの原稿を執筆しています。和田氏は独力で史料調査を進めながら、古文書の影写や翻刻史料のタイプ打ち・謄写印刷を行い、発行した史料集を市民・研究者・各種研究機関等に配布しました。戦後復興がすすみ、人々の文化的なものへの憧憬が次第に高まる中で、昭和44年(1969)12月に千葉市史の編纂事業が始まると、和田氏は千葉市史編纂委員会の委員として資料調査活動や市史の編纂に偉大な足跡を残されました。
和田氏は調査収集した史資料を自宅の書庫で公開し、広く市民や研究者に提供されました。和田氏が収集した膨大な資料は段ボール40箱に収納され、現在は本館に保管されています。収集した原文書のコピーとその翻刻や郷土史の草稿等、さまざまな資料の整理を進めていますが、未整理で埋もれた状態のものも多く見られます。和田氏は千葉の歴史を足元から掘り起こし、足で、目で、耳で集めた史料や伝承をもとに作成した資料を用いて、小中学校や公民館で郷土の歴史を市民にわかりやすく語りました。千葉市の史跡散歩では詳細な資料を準備して講師を務め、地域に残る史跡をめぐりながら身近な地域の歴史を紹介しました。現在、各地域の公民館などで行われている市民向けの講座や、さまざまな史跡散歩のさきがけをなしたのが和田氏といえます。
昭和58年(1983)6月に和田茂右衛門氏が85歳で亡くなると、和田氏の遺稿は『社寺よりみた千葉の歴史』として刊行されました。千葉市史編纂委員会が校訂・編集し、昭和59年(1984)3月31日に千葉市教育委員会が発行しましたが、郷土千葉の歴史を知るうえでたいへん貴重な財産です。本書(A5版233頁・1,440円)は、現在、千葉市立郷土博物館で販売しております。千葉市内の図書館にも配架されていますので、興味のある方はお手に取ってご覧ください。参考までに『社寺よりみた千葉の歴史』の目次を紹介しておきます。本書には貴重な写真図版が106図掲載され、大正14年(1925)発行『千葉市街図』が付図として添えられています。
『社寺よりみた千葉の歴史』目次
第一部 千葉の歴史をたどる |
院内・道場 1.千葉神社 妙見信仰、妙見尊像、創建、妙見寺の規模と寺領、消失と再建、立川和四郎の彫刻、門前の人口、門前の家々、明治維新と千葉神社、会所、祭礼、住職一覧 2.宝幢院 法東院、本尊と半鐘、僧侶の墓碑、寺領 3.香取神社 勧請、香取山 4.大日寺 千葉家の五輪塔、縁起、月日星三光の鏡、馬橋の大日寺、千葉への移転、江戸時代の大日寺、寺領と住職、安井敏雄 5.大日寺跡出土の梵鐘 安楽寺の鐘、鐘の伝来 6.来迎寺 創建、五輪塔、千葉氏胤、末寺、寺領と門前 <轟町の歴史> 7.田村吉右衛門 穴川野地、開発、穴川五人組、入植者 8.石尊神社(穴川神社) 再建の棟札 9.穴川の道祖神社 千葉三道祖神、道祖神、草鞋の奉納 <穴川の地名> 10.縄しばり塔 百万遍塔、江戸街道 11.醤油の近江屋 横町、近江屋仁兵衛、相撲見物 |
本町・吾妻町 12.正妙寺 千葉小学校、本町の商店 13.本敬寺 開山、住職一覧 14.本円寺 縁起、円城寺胤久 15.光明寺 もとの位置、縁日、不動堂の鐘銘、縁起、住職、門前地境争論 16.白井忠蔵 佐倉義民伝、壁の中の訴状、豊島屋横町 <吾妻町> |
市場・亥鼻 17.宗胤寺 創建、伽藍 18.御殿跡とその付近 千葉御殿、裁判所、千葉医学校 19.亥鼻山 忠常の築城、佐倉藩の海防 20.お茶の水 頼朝伝説、家康伝説、不動尊 21.智光院 22.胤重寺 創建、塩地蔵さま、戸塚彦介・彦九郎 23.高徳寺 創建、お閻魔さま 24.東禅寺 元徳三年の鐘銘、お薬師様 25.羽衣の松 松売渡証文、羽衣伝説 <大和橋付近> 26.千葉の交通 江戸時代、港、馬車・人力車、自動車、鉄道 27.金融界 進出、合併 28.吾妻橋付近 吾妻橋付近の店、将棋会所 29.戦災当時 空襲、戦災 |
第二部 寒川~幕張そして花島の歴史をたずねて |
寒川 1.寒川神社 海の守り神、獅子頭、社号 <寒川の地名> 2.神明神社 神名帳考証 3.白旗神社 結城稲荷 4.新田の道祖神社 5.光明院 6.満蔵寺 7.海蔵寺 8.真福寺 寒川小学校、千葉寺小学校の合併、高校の発祥地 9.君待橋 伝承、千葉町案内、小説 10.寒川港 御米蔵、寒川港、千葉港 11.丹後堰 矢作堰、千葉寺の塔 12.田中常弥 登戸 13.登渡神社 登戸の妙見様、千葉定胤、鷲宮、祭礼 14.登戸 千葉新介、年表 15.登戸湊 |
稲毛 16.浅間神社 建立、社領、稲毛浦 17.稲邨三伯 ハルマ和解、稲邨元厚、墓地 |
検見川 18.検見川の神社 八坂神社、はだか詣り、尾鷲神社、三峰神社 19.検見川の寺々 善勝寺、広徳院、宝蔵院 20.石仏 21.交通 東路の津登、駅の設置 22.漁業 23.教育 藤代市産、検見川小学校 |
幕張 24.幕張の社寺 子守神社、宝幢寺 25.青木昆陽 26.宮城野馬五郎 |
武石 27.武石三郎胤盛 地名、支配、出土品、武石系図、吾妻鏡などにみえる武石氏 28.愛宕神社と板碑 愛宕神社、真蔵院の板碑、板碑 29.真蔵院 30.三代王神社 明神、三代王神社、神楽 31.武石の石仏 石仏の銘文、釈迦堂 |
長作 32.長胤寺と夫婦梅 長胤寺、夫婦梅 |
天戸 33.天戸の社寺 稲荷神社、福寿院 |
34.花見川 伝承、亥鼻川 35.御成街道 御成街道、旧東金街道、東金街道の比較 |
長沼 36.駒形観音と露座の大仏 中興開山、露座の大仏 |
花島 37.花島観音 創建、十一面観音、勧進の序文 |
和田茂右衛門氏は発掘した史資料をもとに、郷土史に関する膨大な量の原稿を執筆しています。和田氏の労作を物語るこれらの著作物の中には、『社寺よりみた千葉の歴史』に収録しきれずに埋もれている千葉の歴史も多々あります。和田氏の残した原稿は郷土千葉を知るうえで貴重な手がかりとなるので、順を追って取り上げていきます。まずは和田氏がまとめた「千葉市の町名」から、千葉市内の地名のいわれについて、数回にわけて紹介します。
和田氏は昭和39年(1964)5月から昭和42年(1967)7月まで34回にわたり、『千葉市政だより』で「千葉市の町名」を紹介しています。和田氏は町名の起源や移り変わりについて、古文書や金石文をもとに全市にわたって調査しました。町名の呼び名については地元の古老などから聞き取り、旧来の発音を書き留めています。調査結果をタイプ印刷して、『千葉市の町名』上(昭和42年6月)・『千葉市の町名』下(昭和42年12月)の二巻にまとめました。昭和45年(1970)3月1日発行の『千葉市文化財叢書1 千葉市の町名考』は、和田茂右衛門氏の「千葉市の町名」をもとに千葉市加曾利貝塚博物館が編集したものです。町名は昭和39年3月現在の行政区画をもとにしており、引用した資料の注釈や索引が追加されています。
和田茂右衛門氏の原稿から、昭和39年当時の「千葉市の町名」あれこれを紹介します。尚、旧仮名遣いは新仮名遣いに改め、必要に応じて註釈等も加えました。
院内町(いんないちょう)
当町の妙見様、今の千葉神社の御祭礼場(大庭)、院内公園の脇に祀られる香取神社は、仁和元年(885)九月土民によって勧請されたと伝えられます。長保二庚子年(1000)九月平忠常の二男覚算が、星の神すなわち妙見尊を祀ってからは、香取神社と星の神の門前部落として栄えてきました。当町はこのように古い部落です。 さて、院内という町名ですが、何度かの火災で社も寺も氏子も焼けているので、文献資料などはほとんどありません。わずかに残された二、三の文書のなかに、明治五壬申年(1872)四月旧妙見寺領名主和田定右衛門の書写した「穴川野地」(註)という文献があります。この資料を見ると、 寛文九己酉年(1669)六月「穴川野地」訴訟文書に千葉妙見寺門前 享保二丁酉年(1717)七月「穴川野地」取替証文に千葉妙見寺領名主久右衛門 享保九辰年(1724)九月「穴川野地」一札に千葉町妙見寺領名主杢右衛門 享保十五庚戌年(1730)「穴川野地」野銭割に千葉町妙見寺門前名主文左衛門 とあります。また、天明七丁未年(1787)十月「大巌寺鐘楼起立勧進帳」(大巌寺蔵)寄進者の内に、千葉院内中、千葉院内文左衛門の名前が見えます。明治四年(1873)三月「未年宗門御改帳」末尾に、明治六年(1875)三月の院内町人口戸数の書込みがあります。それにはただ院内とあり、北道場町と南道場町の書き込みには町名がついています。伝承では、妙見社の別当寺尊光院(妙見寺)の地内なので院内と呼ばれたと伝えられます。天保四年(1833)「妙見寺門前水帳」には、屋敷地に該当する地の小字名は出ていませんが、その屋敷地が境内地の一部となっているので、院内と呼ばれたと推定されます。 以上の資料から判断すると、古くは門前と呼ばれ、次に院内と変化し、明治廿一年(1888)町村制改正の時に院内区となり、大正十一年(1922)町名改正の時院内町と変わったと考えられます。 (註)「穴川野地」寛文年間から天保年間の文書類を明治五壬申年(1872)四月旧妙見寺領名主和田定右衛門が書写、和田茂右衛門家蔵 |
祐光町(ゆうこうちょう)
葭川と院内小学校前の道路との間、小学校を中心とした地域で、大正十一年(1922)千葉市の町名改正の際、新たに旧院内区から分かれて独立した町です。 (註)『稿本千葉市史』中島喜代治編、昭和十年 |
道場北町(どうじょうきたまち)・道場南町(どうじょうみなみまち)
両町は古くは道場と呼ばれて、佐倉と寒川の御米蔵および江戸を結んだ街道沿いにできた宿場です。江戸中期から明治廿七年(1894)に鉄道ができるまでは、「千葉村のたからは今や馬のくそ」と歌われた繁盛の地でした。 この町に建治二年(1276)、千葉貞胤が一遍上人を開基として創建された時宗のお寺があります。初め来光寺と呼ばれ、天正十八年(1590)に至り徳川家康の保護を受け、浄土宗に改宗して今は松波町に移転しています。時宗のころ修行道場があったことから、それが小字となり町名に発展し、いつか南北の二つに分町し、北町の一部は来迎寺門前と呼ばれていました。分町した時期は明確ではありませんが、院内町の明治四年(1873)三月「未年宗門御改帳」末尾の人口戸数を記録した書き込みに、道場北町、道場南町とあります。 現在の町名は、昭和十一年(1936)に改められたものです。 |
鶴沢町(つるさわまち)
当町も昭和十一年(1936)の町名改正でできた町名です。 町内の小字に「鶴ヶ沢」という処があって、昔、鶴が群生していたことから名付けられた小字と伝承しています。その小字からとって、町名としたようです。 昔の地勢を想像してみると、都川が現在の矢作橋あたりから迂回して葭川に合流したと考えられるので、当町あたりは沼地であったと思われます。鶴が降りたと考えてもよいと思います。 |
東本町(ひがしほんちょう)
当町は本町一丁目、本町二丁目の一部を合わせて、昭和十一年(1936)町名改正の時にできた町名です。 明治八、九年(1875、1876)頃から官宅と呼ばれており、本町一、二丁目の一部でした。本町の東側にあって小字名が「東谷」であったところから、東本町と名付けられました。 |
旭町(あさひまち)
この町も本町三丁目の一部でしたが、小字「石川」「中溝」などから構成されています。町内に沿って流れる都川に架けられた旭橋からとったと聞いていますが、橋名の起源については不明です。 橋名から町名ができたか、町名から橋名ができたか、詳かではありません。 |
本町一丁目(ほんちょういっちょうめ)本町二丁目(ほんちょうにちょうめ)本町三丁目(ほんちょうさんちょうめ)
三町は明治末期まで、千葉の繁昌地でした。『千葉盛衰記』『千学集』(註)などの書物には、「表千軒裏千軒」と書かれています。文化文政ころ(1804~1829)に歌われたという「町名歌込大津絵節」には、「表三丁裏三丁」とあります。天明七年(1781)千葉の米屋打ちこわし事件の時、打ちこわされた家々のうちに表上町所左衛門、今湯屋万右衛門とあります。同事件の「御仕置帳」には「千葉仲町六右衛門江申渡事」とあり、この仲町は六右衛門家の位置から考えて、表仲町の略かと考えられます。 明治五年(1872)の「壬申戸籍」には本上町、本仲町、本下町となっています。このことから考えて、古くは表町と呼ばれて三町に分かれておらず、戸数が増加してきたので分町して表上町、表仲町、表下町となり、それが本上町、本仲町、本下町と変わります。明治廿一年(1888)町村制改正の時本町一丁目、本町二丁目、本町三丁目と改め、今日にいたったと推定されます。 (註)『千葉盛衰記』著者不明、徳川中期『千葉実録』とほとんど同文、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年 『千学集』著者不詳、天正年間、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年 |
亀井町(かめいちょう)
昭和十一年(1936)にできた町名で、大学病院の崖下の小字「亀井」を中心にできた町です。千葉氏が千葉に進出した時、病院の地に妙見尊が祀られたことが想像されます。その崖下に亀が群生していた泉があって、「亀井」と名付けられ、それが小字となり町名となったのでしょう。 |
亀ヶ岡町(かめがおかちょう)
亀井町と同じく町名改正の時にできた町名で、東金街道に沿った都川と医大とに挟まれた地です。小字「亀ヶ岡」を中心にした地域で、亀井の岡になっているところで、妙見に関係ある名だと思われます。 |
今回も引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。
青葉町(あおばちょう)
千葉寺町と矢作町の地籍を合わせて、昭和十一年(1936)の町名改正の時できた新しい町名です。農林省畜産試験所を中心とする地域です。試験所の木立の青葉滴るさまをとって、青葉町と名づけたそうです。 |
葛城町(かつらぎちょう)
千葉寺町と市場町との一部を合併して、昭和十一年(1936)町名改正の時できました。この町内の葛城台と呼ばれる、千葉一高(現千葉県立千葉高等学校)敷地の地名をとって、町名としました。 |
千葉寺町(ちばでらちょう)
町内にある千葉寺は、和銅二年(709)行基菩薩が巡錫の途次、この地で瑞蓮を感じて十一面観世音を刻んで祀られたのが創めだと伝えています。
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今井町(いまいちょう)
当町はその昔、台地の根方から湧き出でた泉を村人が飲料水に使用していたようで、今井村、泉水村と名づけられたと『今泉地録集』(註)の著者は説明しています。
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稲荷町(いなりちょう)
当町の町名について『千学集』『千葉盛衰記』などを見ると、大治二年(1127)頃は御達報村と呼ばれています。また『千葉八百年紀』には、御段保としてあります。
延享五年(1748)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に五反保 寛延四年(1751)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に五反保 寛延四年(1751)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に千葉寺村新田五反保 宝暦五年(1755)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に五反保 安永七年(1778)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に五反保 寛政三年(1791)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に五反保 天明元年(1781)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に五田保 天明四年(1784)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に五田保 文政十二年(1829)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に五田保 天保三年(1832)「福正寺過去帳」(福正寺蔵)に五田保 文禄三甲午年(1594)三月「御達報検地水帳」(稲荷町区有文書)に御達報村 明暦二丙申年(1656)三月「御達報検地水帳」(稲荷町区有文書)に御達報村 貞享四丁卯年(1687)正月「訴論訴状」(稲荷町区有文書)に千葉寺村新田 寛文九己酉年(1669)三月「訴論訴状」(稲荷町区有文書)に千葉寺村新田 元禄四未年(1691)四月「御検地御縄入水帳」(稲荷町区有文書)に御達報村 元禄九子年(1696)霜月「検地水帳」(稲荷町区有文書)に後達浦村 享保八年(1723)「水帳」(稲荷町区有文書)に後達浦村 宝暦八年(1758)正月「水帳写」(稲荷町区有文書)に後達浦村 文政二卯年(1819)二月「名寄帳」(稲荷町区有文書)に後達宝邑 以上のほかに、明治七年(1874)八月の書類には「千葉寺村内五田保」とあります。また、伊能忠敬の地図には「後田」と書き込まれており、『沿海測量日記』(註)によると、享和元年(1801)六月廿一日の項で「寒川村(此村駅場なり)、千葉村新田、後田方(両村入会)云々」とあります。(千葉村新田は千葉寺村新田の誤りかと思われます。)
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寒川町(さむがわまち)
町名について、いろいろな本からその記事を抜書してみます。
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神明町(しんめいちょう)
本町は古くは結城野と呼ばれ、新宿町の白旗神社は、もとは結城稲荷と称したと古老は申しています。
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新宿町(しんじゅくちょう)
本町も神明町と同じく、結城野に開発された部落で、古くは結城村に属しました。治承四年(1180)九月に源頼朝が結城稲荷に白旗を献納してから、白旗大明神と呼ばれるようになりました。本町はこの白旗大明神、すなわち白旗神社の所在地です。 神明町の開発に続いて、開拓された土地なので、新宿と名付けられたと推定されます。町内に散在する金石文や古文書からは、いつから新宿と呼ばれ、部落が発生したか詳らかにすることができません。 |
本千葉町(ほんちばちょう)
当町は新宿町、新田町から分町して、吾妻町の一部を合わせて、昭和十一年(1936)町名改正の時独立した町名です。町名の起源は明治廿九年(1896)二月廿五日房総線が本千葉駅(現京成ホテル跡)まで開通し、その駅名も最初は寒川駅と名づけられました。その後本千葉駅と改められ、その駅名をとって本千葉町と名付けられました。 |
市場町(いちばちょう)
『千学集』に「大治元年(1126)千葉介常重が千葉を取立てた時河向を市場となす」とあって、千葉家の城下町時代に市場が開かれた名残りの町名だと思われます。 この町には昔を語る古跡が多く、池田橋、池田坂、御茶の水、羽衣松、現在は暗渠になりましたが、丹後堰、胤重寺のいぼとり地蔵、戸塚彦介の墓などがあります。 |
亥鼻町(いのはなちょう)
『相馬日記』に「千葉に亥鼻と云ふ山あり、池などの上に崎のさしいでたる故の名にや云々」とあります。こんなところから名付けられた山の名をとって、町名としたものと思われます。
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前回に引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。今回は吾妻町三丁目、吾妻町二丁目、吾妻町一丁目、通町、要町、栄町、富士見町、弁天町、新町、新田町、登戸町、黒砂町の12町を取り上げます。その後町名改正が行われ、吾妻町三丁目、吾妻町二丁目、吾妻町一丁目、通町は現在使われていませんが、「通町公園」の名が残されています。昭和45年(1970)1月1日から中央1丁目、中央2丁目、中央3丁目、中央4丁目の新町名となりました。由緒ある地名の変更に際しては、各町内で新町名の主張が分かれました。一部の町名を採用することも相互折衷することもできず、千葉市の中心部で繁華街であったところから、「中央」と命名されたようです。
吾妻町三丁目(あづまちょうさんちょうめ)
天保七年(1836)四月六日に提出された、裏町不動堂正面横丁下水問題文書で吾妻町を裏町と呼んでいます。明治六年(1873)ころまでは三丁目を裏下町と呼んでおり、享保のころは民家が数戸だったので三軒町といい、天和二年(1682)ごろ大久保加賀守の御殿があったので、御殿前とも呼ばれていました。 町内に千葉宗胤が建立したという宗胤寺がありましたが、今は弁天町に移転しています。 |
吾妻町二丁目(あづまちょうにちょうめ)
吾妻町三丁目と同様、裏仲町と呼ばれていました。文化三年(1806)十二月の「羽衣松売買証文一札之事」という証文の宛名に、千葉裏中町忠蔵殿と記されています。 深川元儁の『房総三州漫録』に「辺田法道寺に鬼門除の不動ありしを、千葉村の裏町なる妙見寺持の不動堂に移す、法道寺は今地名となれり云々」とあります。深川元儁は天保時代の人です。 明治五年(1872)の「壬申戸籍」にも裏中町とあって、明治廿一年(1888)町村制改正の時から吾妻町二丁目と変わったようです。 さて、吾妻という言葉が一般にいわれているのは、日本武尊の「ああ吾が妻」と呼んだことによって、吾妻の地名ができたとする話です。この土地が関係があるか考えてみましょう。 竹野長次氏は「アは偉大さを表す美称で、ヅマは端の意味であって、ある時期における大和朝廷の勢力範囲の東端を示すものだろう。」と本の中で書いています。また一方、アヅマは南方海洋民族の安曇族(あづみぞく)の土着に関係があるとする見方もある。」としています。 千葉の吾妻がいかなる経緯で、裏町が突然吾妻町と変わったかいろいろ調査してみましたが、これを解決する手掛かりさえ見い出せません。しいてその関係を求めるならば、千葉家の一族東胤頼のやかたの所在が考えられますが、それも千葉駅の西北台地がそれであったようですから、これも無関係と考えられます。 なお、当町には古くから、妙見寺境外仏堂の光明寺の不動堂があります。 |
吾妻町一丁目(あづまちょういっちょうめ)
吾妻町三丁目、吾妻町二丁目と同様で、詳細は不明です。 |
通町(とうりちょう)
この町は、千葉神社前広小路から富士見橋に至る市街地で、大日寺の門前百姓が多かったようです。 古くは、当町は江戸街道と呼ばれ、登戸港に通じる街道でした。文政二卯年(1819)十月金親村名主大平治のせがれ新蔵の書いた「殿様金光院御成実記」(註)の内に、「右之通千葉町江戸街道中村屋太右衛門方にて云々」とあって、その当時江戸街道と呼ばれていたことが判明します。それが明治二十一年(1888)町村制改正の際、通町と改まりました。通町と名付けた意義は、登戸港までの旅行者、荷物運搬の小荷駄馬で賑ったのでつけられた名称でしょう。 町内には大日寺がありましたが、今は轟町に移転しています。 (註)『殿様金光院御成実記』金親町大平治倅新蔵著、文政二年(1819)十月、金親町松本家蔵 |
要町(かなめちょう)
大正十一年(1922)院内町から分町して、創設された町名です。旧千葉駅前東側で、当町の位置が扇の要のような位置にあるとして、名付けられたそうです。 この町は、栄町とともに妙見寺(現千葉神社)の御朱印地内で、はじめは門前、明治になって院内、それが東院内、西院内に分離して、西院内が要町と栄町に分けられました。小字から見ると「砂崎」と、大部分が「雲雀休」で、登戸村から佐倉へ雲雀を献上する時の中継所であったらしいのです。 |
栄町(さかえちょう)
要町と同様ですが、旧千葉駅前西側で、別段理由もなく思い付きで、栄えてもらいたいから栄町と名付けたようです。 |
富士見町(ふじみちょう)
葭川と房総東線(現外房線)・西線(現内房線)の間にはさまれた、今の東京街道に沿った葭川にかけられた富士見橋以西の地域です。小字でいうと「上西禅寺」「仲西禅寺」「番場田」「下池尻」「松原」、その他が含まれます。大正十一年(1922)千葉市が市制施行後行った町名改正で、新たにできた町名です。 裏仲町(吾妻町二丁目)の湯浅某が文化の初年に開発した土地ですが、文化五年(1808)の『千葉町明細図』によれば、富士見橋から先には、道の角に非人小屋が書き入れられているだけです。今の鉄道線路までの間、富士見町の地籍には町屋は一軒もない、松原続きでした。 町名の起源は、葭川にかけられた富士見橋の橋名をとって名付けられたものです。さて橋名の起こりはというと、晴れた日には橋の上から富士がよく見えたので名付けられたと推定できます。 |
弁天町(べんてんちょう)
「中島」「吾妻台」「扇松」「上院尻」「綿打池」などの小字をまとめて、大正十一年(1922)千葉市が市制施行後町名改正をした時、新たにできた町名です。 弁天町の町名の起りは、綿打池(今の千葉公園)の池畔に祀られた弁財天の名を取って、町名としたと聞いています。弁財天の西方台地を「吾妻台」と呼んでいます。これは東台と書く方がよいと思います。なぜならば千葉家が盛んな時、千葉常胤の六男東胤頼がこの台地に屋敷を構えていたので、東の「あづま」にいつか、吾妻の字を宛字するようになりました。 綿打池については、この付近が旗本領の作草部村と堀田領の寒川村、千葉村との境界になっていたので、綿打池の帰属について作草部村から訴訟を提起しました。その時に寒川村の人、綿打の太郎兵衛さんが、御役人の実地検分の前に寒川村のどこかの弁天様の碑石を移して置きました。検分を受けて見事勝訴になったので、太郎兵衛さんの機知を称賛して、綿打の池と名付けたと言い伝えています。その年代については研究中です。 |
新町(しんまち)
今の東京街道と富士見町と登戸町にはさまれた町です。小字「松原」は富士見町の項でのべたように、文化の初期吾妻町二丁目の湯浅某によって開発されました。本村の方も、登戸港に通ずる街道沿に発達した部落でした。しかしながら千葉と比較すると新しい部落なので、新町と名づけられました。 この町には弁天様と遊郭がありました。 |
新田町(しんでんちょう)
当町も新宿町と同じく、結城村の一部であったと推定できます。いつから寒川新田と呼ばれたかは不明です。新田町の鎮守である道祖神社の境内に、伊勢詣り同行の人々の奉納した狛犬があります。狛犬の台石には、天保十四癸夘年(1843)十月吉日、寒川新田、伊勢詣り同行者の銘が刻まれています。また別の台石には年代は不明ですが、寒川村新田の村名があります。道祖神社の創建については不明です。 少し話がそれますが、道祖神について考えてみましょう。柳田国男の『民俗学辞典』(註)によると、「一般に塞神(さえのかみ)と呼ばれ、また道祖神、道陸神(どうろくじん)とも呼ばれる、古くは塞神、訖神、道神とも記されている、猿田彦命に附会したり、種々の説をなすものがあるが、その名の如く、元来防塞の神であって、外から襲い来る悪霊悪神などを村境、峠、辻、橋のたもとなどで防ぐの意であり、また生者と死者、人間界と霊冥界の境を司る神の意である。(中略)またそこには人馬の往来繁く、子供の集り遊ぶ所ともなり、市などの開設とも関係するため、道祖神は村人の運命を知り、縁を結び、子供と特に親しい神となっている。」とあります。 また信仰的に考えると、道祖神が路傍に祀られていることから、旅の安全を祈願し、旅に出て息災に旅行のできるようにと草鞋(わらじ)を奉納する例は、各地に見られます。 新田町の道祖神は、古くは登戸村との境に近く、街道沿に祀られていたものが、ある事情から現在地に奉遷されました。以前は祭礼ごとに大きなわらじが奉納されたそうです。 今回、昭和四十年(1965)四月十一日交通安全を祈願して、祭典が施行されました。そのとき小さなわらじを和楽路と宛字して、これに守札を附けて授与しています。今の交通戦争時代に面白い行事だと見てきました。 神社の境内には、かつては街道沿に建てられていたと思われる、阪東三十三番観世音霊場詣りの参詣者の道標(みちしるべ)が野趣豊かな手法で刻まれています。これには「宝暦十二壬午年(1762)三月吉日阪東廿九番ちばでら江是より十八丁」の銘があります。 はじめは結城村と称したが、いつか寒川村と変わり、その寒川村に新たに開けた場所なので新田と呼ばれ、町名変更の時新田町になったと推定されます。 (註)『民俗学辞典』柳田国男監修、昭和二十年、東京堂出版 |
登戸町(のぶとちょう)
袖ヶ浦に面した海岸沿いの町で、江戸時代から明治二十七年(1894)まで港町として繫昌した土地です。 登戸の町名の起りは、名主鈴木利右衛門家の家譜に、「筑波根の峰の嵐を吹きおろすふじの波間を乃ぼり戸の船」という千葉新介の御歌より形どり登戸村(のぼりとむら)と名づくとあります。その家譜のうちに、元祖利右衛門重基の項で「天正年中寒川村より登戸村江住居す、登戸村慶長二丁酉年(1597)御縄入開発御料所御支配嶋田治兵衛」とあって、村の創設時を明記しています。天正年中に寒川村より登戸村へ移るとしてあるところから考えて、登戸村はその以前から部落はあったものと推定されます。 登戸村の読み方については、相模国の登戸と同様「のぼりと」と読んでいて、後に下総の登戸は、訛って「のぶと」あるいは「のぼっと」と変わってきました。ちなみに、宝永三丙戌年(1706)の「浜野本行寺庫裏改築奉加帳」には、「野婦戸村」とあります。 歌を作った千葉新介という人を『千葉大系図』(註)で調べてみると、新介を称した人は千葉六代の千葉胤政、千葉一胤、胤将の三名で、一胤はすなわち高胤で、貞胤の嫡子であり、氏胤の兄にして千葉新助と称しました。父貞胤も、弟氏胤も歌道の名誉人であり、一胤に作歌があっても不思議はないと思います。胤政、胤将の作歌は聞いていません。胤将は胤直の嫡子で、多古で父とともに討死しています。故に一胤の作歌と推定されます。それでは一胤はいつごろの人かというと、建武三年(延元に改元・1336)に三井寺の合戦で戦死しているので、その以前に詠まれた歌からとって、地名としたものと推定されます。 (註)『千葉大系図』作者不詳、寛永年間、『改訂房総叢書』第五輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年(1959) |
黒砂町(くろすなちょう)
町名について、土地の人々は『更級日記』(註)に出てくる まどろまじ今宵ならではいつか見む くろとの浜の秋の夜の月の黒戸の浜が、黒土の浜に変わり、さらに黒砂に変化してきたと申しています。 |
今回も引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。今回は稲毛町、検見川町、花園町、浪花町、朝日ヶ丘町、畑町、幕張町、武石町、長作町の9町を取上げます。
稲毛町(いなげちょう)
当町は小中台町の新田だと伝承しています。鎮守の浅間神社は「大同三年(806)五月三十日村人により創建され、治承四年(1180)三月十五日千葉常胤が頼朝の命により社殿を再建す」と浅間神社の「縁起」(註)にあります。これから見ても、古い村落であることがわかります。
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検見川町(けみがわちょう)
当町の宝蔵院は、宝亀五年(774)に開基されたお寺だそうです。こんな古い町で、『千葉盛衰記』には治承四年(1180)に検見川町を流れる花見川という川名に因んで、華見川(はなみがは)と呼ばれた時代もあったと書いてあります。
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花園町(はなぞのちょう)
昭和十一年(1936)町名改正の時新しくできた町名で、検見川町から分離独立しました。町名の由来は、小字などには見あたらず、思いつきで創造されたものでしょう。 |
浪花町(なにわちょう)
花園町と同様にできた町名で、とくに記すべきことはありません。 |
朝日ヶ丘町(あさひがおかまち)
花園町、浪花町と同じく町名改正でできた町名ですが、当町は検見川町と畑町からそれぞれ分離合同してできた町です。 |
畑町(はたまち)
当町の鎮守、子安神社の棟札に、建久四年(1193)九月十七日再建と書き入れられているところから見て、少なくとも七百七十四年(今年から逆算すると830年)以前から村ができていたことが裏書されます。町名については、古くは旗村と書かれた時代があって、この旗村については、治承四年(1180)源頼朝がこの地を通過の際、源家の白旗を押立てたので、旗村と呼ばれたという説もあります。 (註)『集落・地名論考』松尾俊郎著、昭和三十八年(1963)、古今書院刊 |
幕張町(まくはりちょう)
当町の宝幢寺は、大同元年(806)に宥恵法印によって開基されたと「宝幢寺縁起」に見え、海隣寺と阿弥陀寺はともに文治二年(1186)、鎌倉初期に千葉常胤の旦那である了空法印の開基創建と、「阿弥陀寺縁起」にあります。こんな古い部落です。
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武石町(たけしちょう)
当町には、大同元年(806)興教大師の開基と伝えられる加羅山三会寺真蔵院というお寺があって、古くから開けていたことが考えられます。 往古は千葉郡池田之庄武石郷と呼ばれ、天正年間(1573~1591)には、葛飾郡武石郷と呼ばれて葛飾郡に属し、元禄年間千葉郡に復帰したことが諸書に見られます。 『武石系図』(註)によると、「承安元卯年(1171)十一月十五日千葉常胤の三男胤盛武石三郎と称して、下総武石村の武石城に移る」とあります。「三代王神社縁起」によれば、建仁二壬戌年(1202)武石三郎胤盛、武石村に館を構えて郷中安全之守護神として三代王神社を勧進、初めは明神神社と称したと伝承しています。小字「須賀原(今の小字、検見川道)」に鎮座する愛宕神社の石宮の銘文によると、貞永二巳年(1233)三月下総国千葉郡武石之里とあります。 天正十年(1582)角田将監が武石村の代官となり、降って慶安元年(1648)武石村は江戸町奉行与力給与地となると、『千葉郡誌』(註)にあります。 資料を見ると、 享保七年(1722)十一月「三代王神社棟札」に千葉郡武石村
享保十七年(1732)十一月「三代王神社棟札」に武石村
宝暦八寅年(1758)八月「神道裁許状」武石町神官小川良之助家文書に下総国千葉郡武石村
宝暦九年(1759)九月「差上申一札之事」に下総国千葉郡武石村
天明七年(1787)霜月十日「金比羅大権現棟札」に下総国千葉郡武石村
文化八年(1811)十月「古地図」に武石村
文政八年(1825)一月「三代王神社棟札」に武石村
と明記されています。また、『幕張町誌』(註)には「本郷須賀の者共、在へ曳移り或は越馬村武石、或は西と名付村替り住故落居抔と申す」とあります。
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長作町(ながさくちょう)
当町は中古、葛飾郡三山庄長作郷と呼ばれ、弘長二年(1262)武石小三郎長胤が長胤寺を創建したことが諸書に見えています。その後天文年中(1532~1554)北条氏の所領となった時も、長作村とあります。 村名の起源は地形からきていると考えられ、長作村は、花見川すなわち印旛沼堀割に沿って、川に直角に伸びた長い作を形成しているところから長作という地名ができたと思われます。千葉市に合併後の町名改正の際、坊辺田を含めて長作町ができました。 文書資料から見ると、宝暦十一年(1761)五月、文化十年(1813)七月、弘化元年(1844)の文書に長作村とあり、文化十年の「六方野一件済口証文」にも長作村、坊辺田村と明記されています。以上から見て、古くから町名の変更はないようです。 |
今回今回も引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。今回は天戸町、花嶋町、犢橋町、柏井町、長沼町、小深町、宇那谷町の7町を取上げます。
天戸町(あまどちょう)
当町は「あまど」と呼ばれて、川渡しのあった処の地名ではないかと思われます。花見川、すなわち印旛沼堀割に沿った村落で、海岸地方から六方野(千葉野、小金ヶ原)を経て、県北部および常陸方面に出る脇街道でもあったから、川を渡したところとの意味ではないかと考えられます。 文献にあらわれてくる村名を取り上げてみると、宝永九年(正徳二年・1712)、享保十五年(1730)、宝暦十一年(1761)の文献には天戸村と書かれています。安永二年(1773)、天明二年(1782)の印旛沼堀割に関する文書と、文化十年(1813)の「六方野一件済口証文」にも天戸村とあります。 宝永以来、天戸村の村名に変化はないようです。 |
花嶋町(はなしまちょう)
旧犢橋村の一村にして、千葉市の北部を袖ヶ浦に注ぐ花見川、すなわち印旛沼堀割に沿った部落です。『千葉郡誌』によれば、「昔時三枝の郷六方野庄と称せられ、小金ヶ原の一部なりしが、今を去る凡三百年前慶長の頃来りて玆に土着せるものあり」とありますが、当町の花嶋山天福寺は、和銅二己酉年(709)四月行基菩薩が東国巡遊の折に聖観世音像を彫刻して、一宇を建立して祀られたのが始めだと称しています。寺に保存されている棟札を見ると、「慶長十七年(1612)正月十八日奉再興下総国千葉庄花島観音菩薩一宇」と「慶安五壬辰年(1652)霜月三日下總国葛飾郡千葉庄花島村観音堂」とあります。この二枚の棟札から見ると、慶長年間の開村でなく、もっと古く和銅年代にすでに多少の部落が存在していたものと思われます。
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犢橋町(こてはしまち)
旧犢橋村の一村にして、『千葉郡誌』に「昔時三枝の郷六方野庄と称せられ、小金ヶ原の一部なりしが、今を去る凡三百年前慶長の頃来りて玆に土着せるものあり」とあって、当町の開村は慶長年間であろうかと思われます。宝暦十一年(1761)五月には保田越前守組与力給地、小栗又兵衛、御領所、以上三家の相給地とあります。天保十四卯年(1843)六月「犢橋村差出明細帳」には篠田藤四郎、小栗左近、吉田収庵、鳥居甲斐守組与力給地とあって、四家の相給地でした。 町名について資料を見ると、 元禄十五年(1702)「佐倉藩領知郷村辻高帳」に犢橋村 文化十癸酉年(1813)七月「六方野一件済口証文写」に犢橋 文政三庚辰年(1820)二月「犢橋三社神社石鳥居銘」に犢橋村氏子中 天保十四卯年(1843)六月「犢橋村差出明細帳」に犢橋村 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改」刈田子町高梨家蔵に犢橋村 天保十五年(1844)七月「当新田萬控帳」に犢橋宿 嘉永元戊申年(1848)八月「乍恐以書付奉願上候(助郷歎願の事)」に犢橋村 安政五年(1858)十二月「以書付御窺申上候」院内町和田家蔵に犢橋村 安政七年(1860)三月「東寺山当申年宗門人別改帳」東寺山町豊田孫兵衛家蔵に犢橋村 明治二巳年(1869)六月「犢橋村差出明細帳」園生町吉田家蔵に犢橋村 明治二巳年(1869)七月「議定書(六方野秣場入会之件)」宇那谷町区有文書に犢橋村 以上の諸書いずれも犢橋村とあって、町名の移動は認められません。しかしながら、町名の起源については何ら資料なく不明です。 |
柏井町(かしわいちょう)
旧犢橋村の一村にして、三枝郷六方野庄に属し小金原の一部であったことは、『千葉郡誌』にも見えていますが、享保十五戌年(1739)八月花島村の検地帳に「小金野方戸柏新田の内」とあることは、柏井が小金原の一部で花島村の親村であったかとも想像してみます。支配関係も宝暦十一年(1761)五月には柏井村と北柏井村とに分かれて、柏井村に上杉采女、北柏井村に小栗力之助、寛政七乙卯年(1795)には下柏井村に小栗猪三郎となっています。 享和元年(1801)正月「金親村田野主人代々村記事」という本の本文中に柏井村が出てきます。天保十四卯年(1843)六月の「犢橋村差出明細帳」の本文中にも柏井村が出てきます。 町名は柏井、北柏井、下柏井、南柏井と分かれていたものを統合して、柏井村となったものと思われます。 町名の起源については、伝承および資料も出ていません。 |
長沼町(ながぬまちょう)
『千葉郡誌』に「元禄年間江戸の人薬種問屋野田源内の開墾せる所なりと云ふ、其の当時に於ける石高及戸数の如きは明ならざれども、ただ口碑に長沼新田八百八まちと称するに過ぎず、代官所の所領となり、島田寿平治名主役たり」とあります。 元禄年中に仏母山駒形観音堂が然誉和尚によって創建せられ、観音堂境内に露座しまします大仏は、元禄十六年(1703)四月に野田源内とその一門および有志によって、然誉和尚を開眼導師として創建されました。大仏に誌された銘文で見ると、「元禄十六年四月吉日、導師然誉和尚、鋳物師江戸浅草三間町橋本伊左衛門重広、下総国千葉郡長浪村」とあります。 町名のある資料を年代順にあげると、 天和三亥年(1683)七月二十三日「庚申塔の銘(犢橋支所東方細道の十字路にあり)」に長沼□□(□□は欠損) 元禄十六年(1703)四月「大仏像銘」に長浪村 享保十二丁未年(1727)十月十二日「地蔵像銘(長沼十字路東北角にあり)」に長沼 宝暦十一年(1761)五月「下総国各村級分」『改訂房総叢書』所収に長沼新田 享和元辛酉年(1801)三月「碑石、奉唱念光明真言百万遍塔(穴川中道入口商店角の道標石)」にながのま 明治二巳年(1869)六月「犢橋村差出明細帳」に長沼新田 以上で考えると長沼、長浪、長沼新田、長沼村と移動してきたことが判明します。 |
小深町(こぶけちょう)
「今より凡二百五十年前元和の頃、武州の人々の移住地にして、大日山の東方七八丁の所に在り、爾来、大いに発達し代官の所領となり、幕末の頃には、戸数四十に及び総石高百三十石と称せり、名主小島藤兵衛」と『千葉郡誌』に出ています。 (註)『地名の研究』柳田国男著、昭和二十二年(1947)、実業之日本社刊 |
宇那谷町(うなやちょう)
本町は内山部落も含めて、もと印旛郡に属し、明治二十一年(1888)当町が、犢橋村に編入と同時に千葉郡に帰属しました。 この地に、智証大師によって創建された大聖寺(大正十二年(1923)村人と共に若松町に移転)は、元慶十年(886)に開基されたと伝えています。元慶は八年で改元されていますので、仁和二年(886)に相当します。当町の開村も、この以前にさかのぼると思われます。そんなに古くからできた村です。 町名の移り変わりを資料から見ると、 元禄十五午年(1702)「佐倉藩領知郷村高辻帳」に宇那谷村 宝暦十一年(1761)五月「下総国各村級分」『改訂房総叢書』所収に宇那谷村 文化十癸酉年(1813)七月「堀田相模守領知」に宇那谷村 文化十癸酉年(1813)七月「六方野一件済口証文写」に宇那谷村 天保十四卯年(1843)六月「犢橋村差出明細帳」に宇那谷村 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改」に堀田備中守領知臼井庄宇那谷村 安政五午年(1858)十二月「以書付御窺申上候(西福寺普請及留守居の件)」に宇那谷村大聖寺 安政七申年(1860)三月「東寺山当申年宗門人別改帳下書」に宇那谷村大聖寺 明治二巳年(1869)七月「議定書(六方野秣場入会の件)」に宇那谷村 とあり、町名の移動のないことが了解されたと思います。町名の起源については、資料、伝承なく不明です。 |
今回も引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。今回は横戸町、山王町、長沼原町、六方町、三角町、千種町、大日町、宮野木町、園生町、小仲台町、萩台町、源町の12町を取上げます。
横戸町(よこどまち)
小金原の一部であり、上横戸、下横戸の二部落から構成されています。町名の起源については不明です。しかし、鎮守の三社大明神神社は、天正元年(1573)以前に勧請されたお宮で、村もそれより前に開村されたでしょう。また、第六天神社は、天御中主命を祭神とした妙見社であることと、『千葉郡誌』に「千葉氏の一族千脇作太郎名主役を相勤む」とあるところから考えて、往古は千葉家の勢力範囲だったと思われます。
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山王町(さんのうちょう)
旧陸軍用地であり、昭和二十七年(1952)二月一日に創設された町名です。 |
長沼原町(ながぬまはらまち)
当町も山王町と同様、旧陸軍用地であり、昭和二十七年(1952)二月一日に創設された町名です。明治十九年(1886)村全部を陸軍演習地に買収されて、村民は犢橋町、宇那谷町、長沼町、小深町にそれぞれ分散し、廃村になりました。この村は長沼原町と山王町の両町にまたがっており、下畑村のあとではないかと思われます。 |
六方町(ろっぽうちょう)
旧陸軍用地であり、昭和二十七年(1952)二月一日に創設された町です。町名は六方野原からとって、名付けたでしょう。 |
三角町(みすみちょう)千種町(ちぐさまち)
六方町と同時にできた町です。 |
大日町(だいにちちょう)
旧陸軍用地にできた新町名で、附近に大日山があるので名付けられたといいます。 |
宮野木町(みやのぎちょう)
当町の町名については、資料も伝承もなく不明です。町名の移り変わりについて、考えてみましょう。 文献にあるものから挙げると、慶長十九年(1614)十二月中山勘解由が大坂の陣の軍功により、高品村、宮野木村を拝領したことが、宝永八年(1711)の「高品村卯年改山高水帳」の末尾に記録してあります。『寛政重修諸家譜』にも軍功の記事が出ています。また、『千葉郡誌』には、宮野木村が中山勘解由と楠弥十郎との相給地であることが見えています。 『房総叢書』(註)のうち、宝暦十一年(1761)五月「下総国各村級分」宮野木村の項に、相給地のことが見えています。明和三戌年(1766)中山家の「御物成元帳」にも、宮野木村とあります。文久二戌年(1862)北原野関係の「下知書写」に「拾五年前宮野木村隣助より開発願出候に付云々」とあります。換算すると嘉永二酉年(1849)に開発願を提出したことになり、その頃も宮野木村と呼ばれていたことがわかります。以上で、町名は古くから変わりのなかったことがわかると思います。 (註)『房総叢書』『改訂房総叢書』房総叢書刊行会、昭和三十四年(1959) |
園生町(そのうちょう或はそんのうちょう)
当町は、薬園に奉仕した園部の集団居住地であったから名付けられた地名ではないかと思われます。なお、園生を「竹の園生」と連想して、なにか都、あるいは朝廷に関係ある地名ではないかと考える方々もあるようですが、詳細は不明です。 町名の移動を追ってみると、 |
小仲台町(こなかだいちょう)
当町も他町と同様資料も伝承も残っておらず、町名の由緒は不詳です。この町の地勢から推察すると、町名は地形からきていると思われます。 町名の移り変わりを追ってみると、 |
萩台町(はぎだいちょう)
当町の町名についての資料伝承は少なく不詳ですが、次のような伝承がただ一つ残っています。それは、萩の花の名所であったために、「萩の台」と呼んでいたという伝承です。それから取って、萩台村と名づけたと伝えています。 次に町名の推移を追ってみると、 |
源町(みなもとちょう)
当町は旧名を西寺山村といい、昭和十三年(1938)九月町名改正の時に改められました。 西寺山村と書き入れてある資料は、 |
今回も引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。今回は殿台町、作草部町、東寺山町、高品町、原町の5町を取上げます。
殿台町(とのだいちょう)
当町の町名に関して、清宮秀堅の『下総旧事考』(註)には、下総の国府、すなわち国造の所在地がこの殿台の地ではないかとしています。そうして町名も、それに関係があるものと考えているようです。この話についていろいろ調べてみると、古老の伝承として残っている話に、「近隣の東寺山村、西寺山村、萩台村を含めて、殿台村と称し、現在の殿台町が中心で役所があった」と話しています。
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作草部町(さくさべちょう)
『和名抄』(註)に「千葉郡三枝郷、今都賀村に大字作草部あり、即ち三枝部の遺地なり」とあります。
が載っています。平安後期に作草部に住んでいたか、または作草部にゆかりのあった婦人を詠んだ歌だと思われます。この頃から、作草部という地名があったと考えられます。 |
東寺山町(ひがしてらやまちょう)
当町は古くは、西寺山村(源町)を含めて寺山と総称されたようです。いつ東寺山村、西寺山村と分村したか詳かではありませんが、元禄十二己卯年(1699)四月十二日「田方卯年検地水帳」(註)には、東寺山村と明記されています。 また元文六辛酉年(1741)二月の「円蔵院祠堂金改帳」(註)にも東寺山村とあって、延享二年(1745)西寺山村薬王寺と東寺山村との「出入済口絵図」(註)にも東寺山村と書き込んであります。 安永九庚子年(1780)九月二十四日、妙見寺三十二世としてこの日入山した宥怡(ゆうい)法印の『千葉伝考記』(註)妙見寺住僧小伝によれば、「妙見寺の氏子東寺山中島氏の出なり」とあります。これで判断すると、寺山の地名は妙見寺の寺山であったためにつけられたというような、なにか、千葉の妙見寺に何らかの関係を持つものではないかと考えられます。 今、手持ち資料で判断すると、元禄以前に東寺山村、西寺山村と分村し、当村は妙見寺の氏子であったものと思われます。また寛永九年(1632)中山勘解由昭守が附近の村々、高品村、宮野木村、作草部村、西寺山村などと共に東寺山村も知行していたと思われますが、村名は出ていません。町名の移動は認められません。 (註)「田方卯年検地水帳」東寺山町豊田孫兵衛家文書 「円蔵院祠堂金改帳」東寺山町豊田孫兵衛家文書 「出入済口絵図」東寺山町豊田長右衛門家文書 |
高品町(たかしなちょう)
高品は古くは、高篠村と呼ばれた時代があったようです。『千学集』という妙見寺(千葉神社)の事を記録した本の木材切り出しの項に、「たかしの、さくさべの山にて伐る」と、また、「永正二乙卯年(1505)十一月十五日千葉昌胤御元服につき高篠村より妙見宮へ成らせらる」とあり、このほか本文中に五ヶ所も高篠村と記載されています。なお『千学集』の末尾に、「天文十三甲寅年(1554)十一月本庄伊豆守胤村」と書き入れてあります。 高品町の等覚寺の御本尊、薬師如来の胎内に墨書されている造像銘にも「奉造立薬師如来元亀二辛未年(1571)七月二日大旦那安藤勘解由、高篠村等覚寺大僧都宥朝」とあって、古くは高篠村と呼ばれた時代のあったことがわかります。 さて、いつごろ高品村に変わったかというと、宝永八辛卯年(1711)「高品村卯年改山高水帳」の末尾余白に「往昔は、元和元年改メ、元禄改メ、慶長十九甲寅年(1614)十二月廿六日、大坂夏御陣にて、千葉郡高品村、宮ノ木村拝領」とあります。 また、東金御成街道築造の際における、「村々割合書上帳」の断片が金親村の某家から発見され、「従舟橋東金新道作帳」が園生町の吉田家から発見されました。それによると、「五百十石、九町、原高品村」とあり、年号は慶長十九年(1614)と誌してあります。 等覚寺の梵鐘の「銘文写」(註)によると、「寛文十二癸丑年(1672)(寛文十二年は壬子で寛文十三年が癸丑年、寛文十三年九月に延宝と改元)二月千葉庄高品村」とあります。以上のように少ない資料からでは正確なものは出てきませんが、慶長ころから高品村に変わってきたものと推定できます。 次に町名の高品、高篠の起源は、村が千葉野のかたすみで一面の篠原であったと思われるので、それから高篠村と名付けられたのでしょう。「たかしの」が「たかしな」に変化して品の字が宛てられて、高品村となったのでしょう。 (註)等覚寺の梵鐘の「銘文写」現在、梵鐘は存在しない 「銘文写」院内町和田家蔵 |
原町(はらまち)
千葉野の続きなので原村と名付けられたか、原家が住居していたから、領主の「原」を村名に付けたか判然としません。 『千葉実録千集記』(註)に「原豊後守光胤(寛正七年二月七日死亡)は、原胤親の子息にして、下総国原村に住居す」とあります。寛正七年(1466)以前に原村に住居したということは、原村が古くから構成されていたことを物語っています。 次に高品町で取り上げた、東金御成街道築造時の記録「村々割合帳」によると、原高品村とあって、両村で僅か九丁を割り当てられたということは、両村とも小村であったということが考えられます。 (註)『千葉実録千集記』著者不詳、徳川中期の作、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年(1959) |
「千葉市の町名」あれこれ⑥で取り上げた町名の中に、昭和39年(1964)当時と現在の呼び名が違う町名が出てきました。和田茂右衛門氏の原稿では三角町が「みすみちょう」となっていますが、現在は「さんかくちょう」と呼んでいます。また、小仲台町は現在、「小中台町」「小仲台1丁目」~「小仲台4丁目」と「中」と「仲」の漢字を使い分けています。和田氏は原稿執筆にあたり、「町名の呼び方については、なるべく地元の古老などによる旧来の発音にもとづいて記載した。」としています。町名は町村合併などにより大きく変化する場合もありますが、地元での呼び名は世代が交代するなかで少しずつ変化して現在の呼び名になったと思われます。
次に、今までに紹介した町名およびこれから紹介する町名で、和田茂右衛門氏の原稿と現在の呼び名が異なる町名をあげてみます。
・亀ケ岡町(かめがおかちょう)→亀岡町(かめおかちょう)
・武石町(たけしちょう)→武石町(たけいしちょう)
・園生町(そのうちょう・そんのうちょう)→園生町(そんのうちょう)
・金親町(かのうやちょう)→金親町(かねおやちょう)
・星久喜町(ほしごきちょう)→星久喜町(ほしぐきちょう)
・仁戸名町(ねえなちょう)→仁戸名町(にとなちょう)
・大金沢町(おおかんざまち)→大金沢町(おおかねざわちょう)
・小金沢町(こかんざちょう)→小金沢町(こかねざわちょう)
・刈田子町(かったごちょう)→刈田子町(かりたごちょう)
・中田町(なかったちょう)→中田町(なかたちょう)
しばらくぶりの「千葉市の町名」ですが、前回に引き続き和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介します。今回は穴川町、轟町、松波町、椿森町、貝塚町、桜木町、若松町、都町の8町を取り上げます。
穴川町(あながわちょう)
当町は、天明四甲辰年(1784)正月に道祖神社が村人によって祀られ、すでに五人組と称する家々の祖先によって開拓されています。五人組の一軒、吉野五右衛門家の過去帳で見ると、初代五右衛門は天明三卯年(1783)六月十四日に死亡しています。 文政七年(1824)一月、宮野木町の能勢家の吉右衛門が、千葉町、寒川村、登戸村、黒砂村、妙見寺、大日寺、来迎寺の入会地になっている千葉野の開拓を願い出て、文政十一年(1828)に開発された新開地です。穴川の町名の縁起について、三つの伝承が残されています。 第一は、穴川は穴穂部の所在地で部民の集落の跡であるために、穴穂部が穴川に変化したとする説
第二は、佐倉藩が洋風兵法を採用して千葉野で塹壕掘りを練習し、その塹壕に雨水がたまって流れ出したので、穴から流れ出た、穴の川ができた、それが穴川と訛ったとする説
第三は、地下水が自然に湧出して流れとなり、黒砂谷津に流れた小溝があったので、穴川とする説
伝承として残ってはいませんが、『全国方言辞典』(註)では「あな」について、神奈川県では畦道のことを「あな」と呼ぶとあります。また山武郡では畑の周囲を「あな」と呼んでおり、千葉近傍でも畑の周囲の掘り上げた所に清水が湧出して流れ出て、「あな」から流れ出た、それが「あな」の川と呼ばれ、いつか「穴の川」が穴川につまったとは考えられないでしょうか。 さて資料から見ると、妙見寺に伝わる「穴川野地」と表題した、入会野地関係の訴訟状を収録した写本があります。これは明治五年(1872)四月に、旧妙見寺領名主和田定右衛門が筆写したものです。これを見ると、 寛文九年(1669)六月「穴川野地」訴状と同年極月「穴川野地」訴状に千葉町、寒川村、登戸村、黒砂村、妙見寺、大日寺、来迎寺、入会野地
享保九年(1724)七月「穴川野地」請書に千葉村野地新田
享保十一年(1726)七月「穴川野地」差上申一札之事に千葉村野
享保十五年(1730)五月「穴川野地」訴状に四ケ村入会野
享保二十年(1735)三月「穴川野地」訴状に四ケ村入会野
寛保二年(1742)五月「穴川野地」乍恐以書付奉願上候に四ケ村入会字穴川野地
寛保二年(1742)七月「穴川野地」取替証文に四ケ村入会穴川野地
安永二年(1773)九月「穴川野地」書付に四ケ村入会穴川野地
天保三年(1832)九月「穴川野地」書状に四ケ村入会穴川野地
とあります。これをもって見ると、初めは千葉野、寛保二年(1742)以降穴川野地と呼んでおり、安永、天保年度にも穴川野地と呼んでいるところからみて、穴川という地名は寛保頃から呼びならわされたとみるべきでしょう。
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轟町(とどろきちょう)
戦前、この町は兵器補給廠のあったところで、軍靴の音も賑やかな土地でしたので轟町と名付けられたということです。戦後にできた町名で、古くは千葉野、後に穴川野と呼ばれた入会地にできた町です。 現在、町内には大日寺と来迎寺が、ほぼ向かい合わせで建立されています。両寺は昭和二十年(1945)の戦災でともに全山焼失し、戦後大日寺は通町から、来迎寺は道場北町から移転してきました。 大日寺の境内には、もと園生町の「千葉山」にあった千葉常胤以下十六代の墓と伝えられる五輪塔が移されています。また、来迎寺の境内にも、千葉氏胤以下七基の追善供養碑(五輪塔)が安置されています。ともに千葉氏に関わる石造物として、千葉市重要文化財に指定されています。 |
松波町(まつなみちょう)
当町は、千葉町、寒川村、登戸村、黒砂村、妙見寺、大日寺、来迎寺の入会地の穴川野地と、登戸地籍とで昭和十一年(1936)にできた町名です。戦後は、松林といも畑が発展した町です。 町名の起こりは、松山続きで土地の高低から松の青葉が波の打ち寄せるように見えたところから、松波町と名付けられたそです。 |
椿森町(つばきもりちょう)
当町は、作草部町の一部でした。総武線の北側台地に大六天神社を祀った森があり、椿の大木に囲まれていたので、これを椿森と称していました。昭和十一年(1936)町名改正のとき作草部町から分離して、椿森の名を取って名付けられました。 この地域には百巻塚、石動など寺に関係ある地名が残っています。石動寺というお寺が陸橋の先左側台地にあったといわれ、人骨などが掘り出されたこともありました。 |
貝塚町(かいづかちょう)
当町には、小字「荒屋敷」「貝塚後」「大門」「草刈場」などに貝塚が散在しており、明治初期にはこの貝殻を集めて石灰を製造したこともあったほどです。それで貝塚と名付けられたと思われます。 |
桜木町(さくらぎちょう)
もと辺田町、現在の都町の一部と加曾利町の一部とで、昭和十一年(1936)にできた新しい町名です。町内の小字「京願台」にある貝塚は、一般に加曾利貝塚で知られています。縄文式土器の型式として加曾利E式、加曾利B式の標識名がこの貝塚で決定され、考古学の上では特に重要な遺跡です。近年の発掘で一躍世界に知られた貝塚で、北側貝塚を千葉市が買い取り、加曾利博物館(現加曾利貝塚博物館)を建設、史跡公園として一般に公開しています。(註) 町名の由来は、佐倉街道の両側に桜並木があったので、桜木町と名付けられました。 (筆者註)加曽利貝塚は平成29年に遺跡の国宝にあたる特別史跡となり、発掘調査は現在も継続しています。 新しい博物館構想が進めら、遺跡保存のため貝塚から離れた場所に建設の予定です。 |
若松町(わかまつちょう)
当町は、旧川野辺新田、鎌池、加曾利新田の一部と小倉町の一部を併せて、昭和十三年(1938)の町名改正のときに若松町と名付けられました。 古くは、糟〓郷に属しています。旧川野辺新田および鎌池は六方野秣場の内に含まれ、寛政年中から文化十年(1813)、天保十年(1839)までは御料所で、代官竹垣三左衛門の支配でした。 天保十五年(1844)からの知行は、次のように変わっています。 天保十五年(1844)七月 高木清左衛門知行所
慶応二年(1866)正月 福田所左衛門知行所
慶応三年(1867)三月 小笠原甫三郎
高田与清の『相馬日記』(文化年間の著書)によれば、「千葉郡の荒野に出ず、この野は横に二十里ばかり、たてには限り知れぬ広野なり、ただ尾花の色なり、白砂の浪かと疑われたる」とあります。このような荒野を文化十年(1813)十月、千葉郡辺田村の吉郎右衛門が請負人となって、先の願人寺内村彦右衛門から開墾権を三百両で買収し、開発に成功しています。天保十五辰年(1844)検地を請求して、村高三百七石三斗七升と検地されました。 |
〓草かんむりの下に依
都町(旧辺田町)(みやこちょう)
当町は、昭和十三年(1938)の町名改正のとき旧名の辺田町を捨てて、旧都村の「都」を取って都町と改めました。 古くは、『和名抄記』では糟〓郷に属しており、のち千葉郡となりました。町内の遺跡および出土品から考えても、古くから村落が営まれていたものと推定できます。 『千学集』の記事から推定すると、辺田は侍屋敷であったと思われます。妙見寺(現千葉神社)住持第十一世覚実法印のとき、長享元年(1487)から永正十年(1513)の間に起こった、次のような記事が『千学集』に出ています。 仁戸名牛尾三郎左衛門は、神領(妙見寺領)辺田の百姓三郎五郎といへる者を「わが被官を切れば」と、辺田へ押込み討ちを致せし所、覚実法印の仰せには、「被官たりとも神領へ押込み討ちは、在所の沙汰叶ふまじ」とて、御輿を御門まで出されけるとあって、その年代に辺田の村名があったことがわかります。 この辺田が現在の都町だとするには、改正前は辺田町であったことと、辺田と妙見寺との関係について、明治初期まで千葉妙見の祭礼には都町でも幟を立てて御祭をした、と伝えられていることがあります。また貝塚町、都町の人々は、妙見社の御神輿に奉仕したといわれています。当町に妙見寺領があったことも考えられ、『千学集』の辺田は、都町の旧名と判断してもよいと思われます。 町名の推移についてみると、 元禄十五壬午年(1702)「佐倉領村高改帳」に辺田村 文化十癸酉年(1813)七月「六方野一件済口証文」院内町和田家蔵に辺田村 天保八酉年(1837)「五穀成就御祈祷控」金親町金光院蔵に辺田村 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改帳」川戸町鈴木家蔵に辺田村 弘化四丁未年(1847)「差村高調書上帳」に辺田村 とあって、古くから辺田村と呼ばれ、昭和十三年(1938)都町に変わるまで変更は認められません。 町名の起源は、人家が台地の下、耕地のそばにへばりついて細く長く続き、田のそば、田のほとり、それが辺田と変化してきたのではないかと思われます。要するに、地形から取って名付けられたと考えられます。 |
〓草かんむりの下に依
今回も引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。今回は加曾利町、小倉町、坂月町、大草町、金親町、矢作町の6町を取り上げます。
加曾利町(かそりちょう)
当町は、古くは糟〓郷に属し、郷名を村名にしていましたが、後に「加曾利」の字を宛てて、今日の加曾利町となりました。 また、治承のころ千葉常胤の孫、成胤はこの町の台地に居館を構えて、地名をとって加曾利冠者小太郎成胤と称しました。 この町の高伝寺、円蔵寺の両寺は、長承二年(1133)大宮町の栄福寺の末寺二十八ケ寺の一寺として、導照僧正の創建された真言宗のお寺です。のちに円蔵寺は天台宗に改宗、高伝寺は大永二年(1522)日蓮宗に改宗し、改修前は寺号を光伝寺といいました。このように古い集落です。 町名を資料から年代順に抜き書きすると、次のようになります。 長承二癸丑年(1133)九月「光伝寺円蔵寺加曾利村に創建」大宮町栄福寺蔵に加曾利村 元禄十五壬午年(1702)三月「佐倉領村高改帳」に加曾利村 元文六酉年(1741)二月「金親村新田畑改書上帳」金親町松本家蔵に加曾利村 天明七丁未年(1787)十月「大巌寺鐘楼起立勧進序」大巌寺町大巌寺蔵に加曾利村 文政七申年(1824)「為取替申証文之事(用水出入の件)」に加曾利村 天保五甲午年(1834)八月「小倉村名寄帳(惣町歩覚)」小倉町平川家蔵に加曾利村 天保十年(1839)三月「六方野一件済口証文」に加曾利村 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改帳(堀田領)」に加曾利村 弘化四年(1847)四月「堀田領高調」に加曾利村 以上の諸書に加曾利村とあって、古くから町名の変更は認められません。 |
〓草かんむりの下に依
小倉町(おぐらちょう)
小倉という町名については、資料、伝承もなく由緒不明です。『日本地名小辞典』(註)を見ると、「おぐら、こくらと読まして、より低い所、山に囲まれた小さな谷をいう」としてあります。当町の町名も、このような地形から名付けられたのではないかと思われます。 この町の真浄寺は、長承二年(1133)九月二十二日に大宮町の栄福寺の末寺として、導照僧正の創建と伝えられています。初めは光福寺、のちに真福寺と改号した真言宗のお寺です。元禄四年(1691)日蓮宗に改宗し、寺号を真浄寺と改めました。こんな古い村です。 資料から町名の移り変わりを見ると、次のようになります。 長承二癸丑年(1133)九月「導照小倉村に光福寺を創建」大宮町栄福寺蔵に小倉村 天正十七年(1589)「小倉村芝切開村文書」小倉町平川家蔵に小倉村 元禄十一寅年(1698)二月「乍恐以書付奉願上候(検地請求の件)」に小倉村 元禄十五壬午年(1702)三月「佐倉領村高改帳」に小倉村 宝永四丁亥年(1707)九月「下総国千葉郡小倉村新々田検地水帳」小倉町平川家蔵に小倉村 享保八卯年(1723)九月「小倉村差出帳」小倉町平川家蔵に小倉村 享保十四年(1729)八月「下総国千葉郡小倉村検地水帳」小倉町平川家蔵に小倉村 享保二十乙卯年(1735)「乍恐以書付奉願上候(助郷村々取極の件)」に小倉村 延享三寅年(1746)七月「小倉村差出帳」に小倉村 寛延三庚午年(1750)「小倉村畑方田方名寄帳」小倉町平川家蔵に小倉村 文化十一戌年(1814)三月「乍恐以書付奉願上候(如来寺新田用水溜の件)」に小倉村 天保五甲午年(1834)八月「小倉村名寄覚帳(惣町歩覚)」に小倉村 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改(堀田領)」に小倉村 以上の諸書いずれも小倉村とあって、開村以来町名の変更は認められません。 (註)『日本地名小辞典』鏡味完二著、角川書店、昭和三十九年(1964) |
坂月町(さかづきちょう)
当町は、古くは糟〓郷に含まれて、『歌まくら藻塩草』という本に 「盃井と云うを挙げて下総とす」坂月のことにや、 「東路にさしてこんとは思はねど 盃の井に影をうつして」(歌まくら名寄) とありますが、これが地名の起源となったのではないでしょうか。『千葉郡誌』にもこの歌を坂月村の項で取り上げています。 資料から見ると、次の通りです。 万治三庚子年(1660)十二月四日「小倉村真浄寺過去帳(担家の肩書)」に坂月村 元禄十五壬午年(1702)三月「佐倉領村高改帳」に坂月村 享保二十年(1735)「乍恐以書付奉願上候(助郷村々取極の件)」に坂月村 延享年中(1744~1747)「小倉村真浄寺過去帳(担家の肩書)」に坂月村 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改帳(堀田領)」川戸町鈴木家蔵に坂月村 とあって、町名の変化は認められません。 |
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大草町(おおくさちょう)
当町も糟〓郷(かそりごう)に属し、町名の大草については資料、伝承もなく不明です。ただ手持ちの資料によれば、元禄以降町名の変化は認められません。資料は次の通りです。 元禄十五壬午年(1702)三月「佐倉領村高改帳」に大草 宝永七庚寅年(1710)十二月「金親村見取絵図」に大草村の書込 享保二十乙卯年(1735)「乍恐以書付奉願上候(助郷村々取極の件)」に大草村 寛政七卯年(1795)正月「日記(小金原御鹿狩勢子人足割之事)」刈田子町高梨家蔵に大草村 文政二卯年(1819)十月「御領主堀田相模守様御遠馬御席当院江被為成御入候留記」金親町松本家蔵に大草村 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改帳(堀田領)」川戸町鈴木家蔵に千葉庄大草村 安政二乙卯年(1855)八月「為取替済口証文之事(金親村金光院後住の件)」金親町松本家蔵に大草村 以上の記録のいずれにも大草村と明記されており、町名の変化は認められません。 |
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金親町(かのうやちょう)
当町の町名起源については不詳ですが、この町の愛染山延命寺金光院は正応二己丑年(1289)、貞成上人によって開基創建されたと縁起に出ています。 天文二十年(1551)金光院焼失の際、千葉家の支流原式部太夫胤清が山林二十余町歩を寄進、不入之証文を賜わりました。 なお、当町内には貝塚、包含地が点在しており、字「中原」の一角から布目瓦、土師器などが出土しています。また、正応二年二月の銘のある板碑も、金光院墓地から発見されています。これらから考えて、古い村落だということができます。 次に、資料から町名の推移を調べてみると、次の通りです。 正応二己丑年(1289)「金親に金光院貞成により創建」金親町金光院蔵に金親 天文二十年(1551)「原胤清金親金光院に山林二十余町歩を寄進」金親町金光院蔵に金親 元和元卯年(1615)九月「徳川家康東金への途次金親村金光院に参詣」金親町金光院蔵に金親村 寛永九壬申年(1632)三月十四日「弘法大師御厨子台座裏墨書銘」金親町金光院蔵に千葉庄金親 明暦元乙未年(1655)九月「下総国葛飾郡金親村田畑水帳」金親町松本家蔵に金親村 元禄十丁丑年(1697)十二月「金親村田畑水帳」金親町松本家蔵に金親村 元禄十五壬午年(1702)三月「佐倉領村高改帳」に金親村 宝永七庚寅年(1710)十二月「金親村見取絵図」金親町松本家蔵に金親村 享保五庚子年(1720)八月「金光院由緒幷重宝之事」金親町金光院蔵に千葉郡寒川筋金親村 享保八癸卯年(1723)九月「下総国千葉郡金親村寺社差出帳」金親町金光院蔵に金親村 享保二十乙卯年(1735)「乍恐以書付奉願上候(助郷村々取極の件)」に金親村 元文六卯(酉)年(1741)二月「千葉郡金親村新田畑書上」金親町松本家蔵に金親村 延享二丑年(1745)七月「千葉郡金親村田畑水帳」金親町松本家蔵に金親 明和六己丑年(1769)八月「大井戸村薬王寺墓所出入返答書」金親町金光院蔵に下総国千葉郡金親村 明和九辰年(1772)八月「申渡之事」金親町金光院蔵に金親村 寛政七卯年(1795)「乍恐以書付奉願上候(小金原御鹿狩勢子人足割之事)」金親町松本家蔵に金親村 享和元年(1801)正月「金親村田野主人代々村記事」金親町松本家蔵に金親村 文政二己卯年(1819)九月「堀田相模守様御遠馬之御席当院江被為成御入候留記」金親町松本家蔵に金親村 文政九戌年(1826)四月「乍恐以書付奉願上候(地境論訴訟の事)」金親町金光院蔵に金親村 天保八丁酉年(1837)四月「御領主より五穀成就御祈祷控」金親町金光院蔵に金親村金光院 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改(堀田領)」に金親村 弘化三午年(1846)八月「御領主堀田備中守様御遠馬留記」金親町松本家蔵に金親村 嘉永五子年(1852)十月「御領主堀田備中守様御遠馬留記」金親町金光院蔵に金親村 安政二乙卯年(1855)八月「為取替済口証文之事(金親村金光院後住の件)」金親町金光院蔵に金親村 以上の諸書から見て、正応二年以降町名の変化はありません。 |
矢作町(やはぎちょう)
当町は、古くは矢作部(やはぎべ)の集落地であったと考えられています。土地の老人のお話を総合すると、昔から矢を造っていた土地、矢をはいだ土地だと伝承しています。また、或る本に「矢の坂とて矢竹の叢生せる場所あり」とありました。以上から推定して、この町の名は矢をはいだ土地が「やはぎ」とつまり、それに矢作の字を宛て、「やはぎ」と読ませ、それが今日の町名として残ったものと思われます。 寛永年中(1624~1643)に宥山が創建したと伝えられる、千手院松林寺の過去帳に「下総国千葉郡矢作に創建」とあります。資料によって、町名の移り変わりを見ると、 元和元年(1615)『千葉郡誌』「遠山忠太郎矢作村を領知」に矢作村 元禄十五壬午年(1702)「佐倉領知郷村高辻帳」に矢作村 延享三年(1746)堀田家差上の「書上帳」に矢作村 宝暦十二午年(1762)三月「河戸村午年宗門御改帳」川戸町鈴木家蔵に矢作村 寛政七卯年(1795)正月「日記(小金原御鹿狩勢子人足割の件)」刈田子町高梨家蔵に千葉庄矢作村 天保十五年(1844)「御領分田畑高反歩取調控帳」に千葉庄矢作村 弘化四未年(1847)四月「差村取調書上帳」に矢作村 とあって、開村以来町名の変化はないようです。 |
今回も引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。今回は星久喜町、松ヶ丘町、仁戸名町、大宮町の4町を取り上げます。
星久喜町(ほしごきちょう)
千葉之庄池田郷に属し、町内の星久山千手院は今を去る八百三拾四年前長承二年(1133)九月、大宮町の栄福寺の開山導師導照僧正が二十八ヶ寺の末寺の一ヶ寺として創建されたと伝えています。古い村落だということは、おわかりと思います。しかしながら町名の起源については、何の手掛かりもありません。 町名の推移を資料から追ってみますと、 元禄十五壬午年(1702)「佐倉藩領知郷村高辻帳」に星久喜村
と見えます。元禄以来町名の変更は見当たりません。宝暦十一巳年(1761)「川戸村田畑山屋敷壱人名寄帳」川戸町鈴木家蔵に星久喜村 宝暦十二午年(1762)三月「河戸村午年宗門御改帳」川戸町鈴木家蔵に星久喜村 天明元年(1781)霜月「千葉郡坂尾村差出帳」大宮町林家蔵に星久喜村 文政七甲申年(1824)「川戸村覚帳(村反別高改)」川戸町鈴木家蔵に千葉庄星久喜村 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改」川戸町鈴木家蔵に千葉庄星久喜村 弘化四年(1847)四月「差村取調書上帳」に星久喜村 弘化四未年(1847)七月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の件)」に星久喜村 |
松ヶ丘町(まつがおかちょう)
千城村が昭和十九年(1944)千葉市に合併、直後の町名変更の際に仁戸名地籍と宮崎地籍とで新しくできた町名です。 |
仁戸名町(ねえなちょう)
当町は千葉之庄池田郷に属し、仁戸名と書いて土地の老人たちは「ねえな」と呼んでいます。千葉寺町の古川和市氏の御教示によると、「東北に一戸(いちのへ)とか八戸(はちのへ)という地名があります。戸は音(こ)、訓(と)、志那(中国)音(hu)、アイヌ音(He・戸という字の意味するものをアイヌではHeといった)、ともかく仁戸名は「にへな、ねーな」が正しい読み方ではないでしょうか、もっとも「ねえな」に近い音があって、仁戸名という字を宛てたのかもしれません。」以上のようなお手紙を頂いて、教えられました。正しい読み方は「にへな」と訂正します。「ねえな、にーな」は、ただ耳に響いたままを仮名で書いただけです。 この仁戸名村について、『千学集』という妙見寺の事を書いた本から記事を取り上げてみます。 「仁戸名の長、岡田善阿弥と申す者の妹婿、牛尾美濃守入道此の地に住す(永正十年(1513)十二月十五日大日寺にて寂す)。妙見寺第十一代の住持覚実法印の時、仁戸名の牛尾三郎左衛門は神領の辺田の百姓、三郎五郎といへる者を我が被官を切ればとて、辺田へ押込み討は在所の沙汰叶ふまじとて、御こしを御門までいだされける。牛尾美濃守大庭まで参られて、様々申され、三郎左衛門は山林にて切腹して落着きぬ。 又三郎左衛門の子、牛尾兵部少輔は仁戸名に柵の内といへる九貫五百の神領を押領せられし時(現在柵の内の小字なし)、妙見寺第十二代住持範覚法印(天文十二年(1543)一月廿五日佐倉城に於て寂せられし方)御ほこを立てられしに、小弓御所へ御馬を出され御とりなしなされし時、兵部少輔の子、宇那谷大聖寺の御弟子にて、稚子にてありしを範覚の御弟子に上げるべき約束にて落着きぬ。かかる事のありし故か、仁戸名の名字も絶へたり。」 今から四百五十年から四百二十年以前に仁戸名を姓とする者が居住しており、地名があって姓としたか、その姓から地名が名付けられたか詳らかでありませんが、その時代に仁戸名という村名があったことは明らかな事実です。 町の推移を考える資料としては、 永正十年頃及び天文十二年頃に仁戸名村が存在
とあります。永正十年以来仁戸名村と称し、その後村名の変更はない模様です。元禄十五午年(1702)三月「佐倉藩領知郷村高辻帳」に仁戸名村 享保十一年(1726)小倉町平川家文書に仁戸名村 元文三戊午年(1738)七月「四作野絵図面(土手境出入の件)」大宮町林家蔵に仁戸名村 宝暦十二午年(1762)三月「河戸村午年宗門御改帳」川戸町鈴木家蔵に仁戸名村 安永三年(1774)二月庚申塔に仁戸名村 安永六年(1777)諸願書控に仁戸名村 天明元年(1781)霜月「下総国千葉郡坂尾村差出帳」大宮町林家蔵に仁戸名村 文化六年(1809)「坂尾志み田堤絵図」大宮町林家蔵に仁戸名村 天保十五年(1844)「御領分田畑高反歩取調控帳」に千葉庄仁戸名村 弘化四未年(1847)四月「差村取調書上帳」に仁戸名村 明治四辛未年(1871)三月「川戸村未年別宗門五人組御改帳」川戸町鈴木家蔵に仁戸名村 明治九年(1876)七月「坂尾村高帳」大宮町林家蔵に仁戸名村 |
大宮町(おおみやちょう)
当村は、栄福寺の住持横山乗歓師が、代々の住持の口述を書き集めた『郷土研究資料』(註)によると、「千葉家の五代常長が源頼義の幕下に属して、安倍の貞任、宗任を追討の時、常長の旗本に馳せ集る郎党の内に、坂尾五郎治と云う者あり。戦功により、下総国池田郷に領地を賜りましたので、五郎治は、長承元年(1132)正月廿二日家来をして、それぞれ開墾帰農せしめて、上坂尾、下坂尾、坊谷津、鼻輪と四部落に分けて、坂尾五郎治の第一子新五郎を此の地に住はす。」とあります。 (註)『郷土研究資料』横山乗歓口演、鈴木乗繁筆記、昭和九年(1934)、大宮町栄福寺蔵 |
今回も引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。今回は川戸町、遍田町、鎌取町、平山町、東山科町の5町を取り上げます。
川戸町(かわどまち)
町名についての伝承などはありませんが、『日本地名小辞典』を見ますと、川戸は「かわど」と読ませて、河辺の物洗場、川の合流点、川渡場などとあります。当町は康正元年(1455)に東常縁が武将浜式部春利に造営させた旧東金街道沿の村なので、河辺の物洗場、あるいは川渡場であったために川戸と名付けられたのではないでしょうか。また、「戸」は場所、せまい所などという意味に用いる方言もありますから、せまい川渡の場所にある集落というような意味から名付けられたのではないかとも考えられます。 『千葉郡誌』によれば、当町は「千葉之庄池田郷に属す」とあります。 例によって、資料を見渡しますと、 宝永四丁亥年(1707)八月「川戸村亥改新田畑之覚」川戸町鈴木家蔵に川戸村
以上、いずれも川戸村とあって、宝永の昔から村名に変更はありません。ただ、宝暦十二年(1762)の宗門御改帳に「河戸村」とあるだけです。元文三戊午年(1738)七月「四作野絵図(土手境出入訴訟の件)」に川戸村 延享二年(1745)「川戸村新田畑山屋敷改帳」川戸町鈴木家蔵に川戸村 延享三年(1746)「川戸村差出帳」川戸町鈴木家蔵に川戸村 寛延三年(1750)「川戸村新田名寄帳」川戸町鈴木家蔵に川戸村 寛延三年(1750)川戸村より坊谷津に渡る三叉にある道標銘文に千葉領川戸邑 宝暦十一巳年(1761)「名付田畑山屋敷一人別名寄帳」川戸町鈴木家蔵に川戸村 宝暦十二午年(1762)三月「河戸村午年宗門御改帳」川戸町鈴木家蔵に川戸村 天明元年(1781)霜月「千葉郡坂尾村差出帳」大宮町林家蔵に川戸村 天明七年(1787)十月「大巌寺鐘楼起立勧進帳」大巌寺町大巌寺蔵に川戸村 享和四子年(1804)二月「乍恐以書付奉願上候(川戸村薬師開帳諸事控)」川戸町鈴木家蔵に川戸村 文政七申年(1824)「川戸村野山反弐畝歩出銭割帳」川戸町鈴木家蔵に川戸村 天保十一年(1840)「薬師如来開扉願書控」川戸町鈴木家蔵に川戸村 弘化四未年(1847)四月「差村取調書上帳」川戸町鈴木家蔵に川戸村 明治四年(1871)「川戸村人別宗門五人組改帳」川戸町鈴木家蔵に川戸村 明治五年(1872)「薬師如来開帳諸事控」に川戸村 |
遍田町(へたちょう)
当町は昔、平山郷に属し、元禄年中に平山村から分郷して独立したと伝えられています。町名については、地形から取って名付けられたと思われます。しかしながら、野田村の成立には、元和五年(1619)平山村、遍田村から分村しているところから考えると、元禄年中の遍田村の分村ということは、不合理なこととなります。 町の人々が御手持の古文書を公開してくださると、解明も早いのですが、なかなか思うようにはなりません。そこで他町村の資料から、遍田村関係を取り集めてみると次の通りです。 元禄十一寅年(1698)二月「差上申一札之事(分村被仰付候に付水帳詮議の処、文禄四未年(1595)御検地にては遍田、平山、野田、右三ヶ村水帳一冊にて御座候)」平山町永野家蔵に遍田村
宝暦十二午年(1762)三月「河戸村午年宗門御改帳」川戸町鈴木家蔵に遍田村
以上の資料はいずれも本文中に「遍田村」とあって、分村当時より町名の変更は認められません。明和五子年(1768)十月八日「御触書写」(平山村文書)に遍田村 安永三午年(1774)十月「小金一件諸入用割合控」(平山村文書)に遍田村 天明三卯年(1783)三月「御鷹御用組合議定証文」(平山村文書)に遍田村 寛政七卯年(1795)正月「乍恐以書付奉願上候(小金野鹿狩人足之件)」に遍田村 寛政七卯年(1795)正月「日記(小金原御鹿狩勢子人足割の件)」に遍田村 文化八未年(1811)六月「北生実村南生実村一件済口証文畦之議定」浜野町宍倉家蔵に遍田村 文政六未年(1823)八月「議定証文之事(助郷問題の件)」に遍田村 天保九戌年(1838)四月「御領分田畑髙反歩取調控帳之写」に遍田村 天保十四卯年(1843)十月「人馬助郷一件(歎願訴訟の件)」に遍田村 弘化四未年(1847)七月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の件)」に遍田村 嘉永三戌年(1850)六月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村訴訟の件)」に遍田村 嘉永五子年(1852)十一月「乍恐以書付奉御歎願申上候(人馬助郷訴訟の件)」に遍田村 文久三亥年(1863)八月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の件)」に遍田村 慶応四辰年(1868)三月「字中峠野出入済口証文別紙取替写」に遍田村 |
鎌取町(かまとりちょう)
昭和三十年(1955)二月十一日誉田村が千葉市に合併された直後、遍田町、生実町、有吉町の一部をまとめて独立し、町名を小字「鎌取場台」、「鎌取」から取って、鎌取町と名付けられた新しい町です。
(註)『妙見実録千集記』著者不詳、安永九年(1780)以後の作、『改訂房総叢書』第二輯所収、房総叢書刊行会、昭和三十四年(1959)『平山郷土史』伝金元某著、安政年間(1854~1860)、平山町長谷郷永野成之丞書写本、平山町永野家蔵 |
平山町(ひらやまちょう)
当町は昔、千葉庄平山郷に属し、文禄四年(1595)には葛飾郡平山郷となって、文安三丙寅年(1446)三月の「東光院七仏薬師堂縁起」(註)には、平山邑とあります。また『倭名類聚抄』には、「平山村は千葉郡に属す」とあって、『千葉大系図』には、平忠常の子常将の項で「平山寺を創す」と記され、『千学集』には、「千葉胤持平山城に居城」とあって、『妙見実録千集記』には「千葉輔胤延徳四壬子年(1492)二月十五日平山にて卒す」とあります。 また宝永二乙酉年(1705)平山村長谷部の住人永野金右衛門家の成之丞氏の書いた『平山郷史』によると、「天長元甲辰年(824)九月九日村人によって、平山字谷津山(今の谷津)に平山神社が勧請せられ、当時は神明宮と称したとありますから、八二四年以前より開村されていたことが推定され、平山の町名もその時分から相続されたと考えられます。 さて、次の資料を見て、町名の移り変りを考えてみましょう。 天長元甲辰年(824)九月九日「平山谷津山に村人によつて神明宮勧請せらる」『平山郷史』平山町永野家蔵に平山
文安三丙寅年(1446)三月「平山村東光院薬師如来縁起」平山町東光院蔵に平山村
文禄四未年(1595)「西郷弾正平山村を検地す」平山町永野家蔵に平山村
元禄十一寅年(1698)正月「下総国葛飾郡平山村差出帳」平山町永野家蔵に平山村
元禄十一寅年(1698)二月「差上申一札之事(分郷被仰付候に付水帳詮議の処文禄四未年(1595)御検地にては遍田、平山、野田三ヶ村水帳一冊にて御座候事)」平山町永野家蔵に平山村
正徳四甲子年(1714)十一月「平山村新畑検地之事」平山町永野家蔵に平山村
元文三戊午年(1738)七月「四作野絵図(土手境出入訴訟の件)」に平山村
宝暦十二午年(1762)三月「河戸村午年宗門御改帳」川戸町鈴木家蔵に平山村
明和五子年(1768)十月「御触書写」に平山村
安永三午年(1774)十月「小金一件諸入用割合控」に平山村
天明三卯年(1783)三月「御鷹御用組合議定証文之事」に平山村
寛政七卯年(1795)正月「乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の件)」に平山村
寛政七卯年(1795)正月「日記(小金原御鹿狩勢子人足割の件)」に平山村
文政六未年(1823)八月「議定証文之事(助郷歎願の件)」に平山村
天保八丁酉年(1837)十二月「為取替申水砂野議定書之事(境界争論の件)」に平山村
天保九戌年(1838)四月「御領分田畑高反歩取調控帳写」に平山村
天保十四卯年(1843)十月「人馬助郷一件(訴訟の件)」に平山村
弘化四未年(1847)四月「差村取調書上帳」に平山村
弘化四未年(1847)七月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷の件)」に平山村
嘉永三戌年(1850)六月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の件)」に平山村
嘉永五子年(1852)十一月「乍恐以書付奉歎願申上候(人馬助郷差村訴訟の事)」に平山村
安政二卯年(1855)三月「乍恐以書付奉願上候(水砂野野火の事)」に平山村
文久三亥年(1863)八月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の事)」に平山村
慶応三卯年(1867)七月「乍恐以書付御訴訟奉申上候(中峠野入会秣場出入之件)」に平山村
慶応四辰年(1868)三月「字中峠野出入済口証文幷別紙為取替写」に平山村
明治四辛未年(1871)二月「字中峠野議定書」に平山村
以上の資料から見て、平山という村名は天長元年以来変りなく、今日まで続いてきております。 (註)「東光院七仏薬師堂縁起」著者不詳、文安三年(1446)三月、平山町東光院蔵 |
東山科町(ひがしやますなちょう)
平山村に属して、広漠たる原野だったのを、明治九年(1876)か明治十年(1877)に京都山科の人、比留多権藤太が土着して開墾に着手し、近村の人々も参加して一部落が出来上がりました。京都山科から来たので、東の山科という意味で東山科町と名付けられたと伝えています。土地の人々は訛って、「やますな」と呼んでいます。 |
今回も引き続き、和田茂右衛門氏の原稿から昭和39年(1964)当時の「千葉市の町名」あれこれについて紹介していきます。今回は高田町、平川町、誉田町一丁目・誉田町二丁目・誉田町三丁目、大金沢町町、小金沢町の5町を取り上げます。
高田町(たかだちょう)
本町は永享年間(1429~1440)の開村と伝えており、その後分村した模様はありません。町名の高田については、資料伝承もなく不明です。この町は都川支流の水源地で、谷津の一番奥になっている高地ですから、田畑の地形から取って名付けられたのではないかと思われます。貞享三年(1686)以降戸田大学家の所領として、明治まで続きました。
寛永十九年(1642)八月「相渡申一札之事(鳥喰野争論の件)」に高田村
享保九辰年(1724)五月「一札之事(地境争論の件)」に高田村 安永六酉年(1777)八月「乍恐以書付奉願上候事(印旛郡砂村鷹匠勤方の件)」に高田村 寛政七卯年(1795)正月「御鹿狩御触書並御廻状控帳」に高田村 文政十二丑年(1829)八月「下総国千葉郡野呂村差出帳」野呂町石井家蔵に高田村 天保八酉年(1837)「乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の件)」に高田村 安政二卯年(1855)三月「乍恐以書付奉願上候(水砂野野火の件)」に戸田山城守知行所高田村 文久三亥年(1863)八月「差村一件願書写」に高田村 明治四未年(1871)三月「椎名下郷三ヶ村奉公人書上帳」に鶴舞藩支配所高田村 明治九子年(1876)五月『千葉郡誌』に「高田村小学校此の日高田村常真寺に開校」 |
平川町(ひらかわちょう)
往古は、千葉家の家臣平河氏の所領であったので、領主平河氏の姓をとって村名とし、のち平川と改めたと伝えています。古くは千葉家の所領で、天正の頃徳川家の所領となると、元和年中に一村を三分して、代官野田三右衛門、旗本林宗五郎、同神谷主水の三家の相給地となりました。
寛永十七年(1640)八月「相渡申一札之事(鳥喰野争論の件)」に平川村 元禄十五年(1702)三月「佐倉藩領知郷村高辻帳」に平川村 享保九辰年(1724)五月「一札之事(地境争論の件)」に平川村 享保九辰年(1724)五月「一札之事(秣場境界争論の件)」に平川村 宝暦十一年(1761)五月「下総国各村級分書上」『改訂房総叢書』所収に平川村 文政十二丑年(1829)八月「下総国千葉郡野呂村差出帳」野呂町石井家蔵に平川村 天保十五年(1844)「御領分御林新田高改」に土気庄平川村 文久三年(1863)八月「差村一件願書写」に平川村 文久四年(1864)二月「当年議定書」に平川村 以上、往古より町名平川村については、変化は認められません。 |
誉田町一丁目(ほんだちょういっちょうめ)・誉田町二丁目・誉田町三丁目
当町は元和五己未年(1619)二月平山村・遍田村から分村して、野田原に新村を開き、御伝馬継場の村として問屋場もできて、野田新田と名付けられました。
明応八己未年(1496)「里見、土気勢野田十文字にて戦ふ」『南総酒井伝記』『改訂房総叢書』第二輯所収に野田十文字 天正十八庚寅年(1590)「小弓城主原胤栄、豊臣勢と野田十文字原にて合戦、討死」『南総酒井伝記』『改訂房総叢書』第二輯所収に野田十文字原 元禄十一年(1698)二月「差上申一札之事(分郷被仰付候に付水帳詮議の処、文禄四未年(1595)御検地にては、遍田野田平山右三ヶ村水帳一冊にて御座候事)」に野田 明和五子年(1768)十月「御触書写」に野田新田 安永三午年(1774)十月「小金一件諸入用割合控」刈田子町高梨家蔵に野田 天明三卯年(1783)三月「御鷹御用組合議定証文」刈田子町高梨家蔵に野田 寛政七卯年(1795)正月「乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の件)」刈田子町高梨家蔵に野田村 寛政七卯年(1795)正月「日記(小金原御鹿狩勢子人足割の件)」刈田子町高梨家蔵に野田村 文政六未年(1823)八月「議定証文之事(助郷の件)」に野田村 天保九戌年(1838)四月「御領分田畑高反歩取調控帳写」に野田村 天保十四卯年(1843)十月「人馬助郷一件(助郷訴訟の件)」に野田村 弘化四未年(1847)七月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の件)」に野田村 嘉永五子年(1852)十一月「乍恐以書付奉嘆願申上候(人馬助郷差村訴訟の事)」に野田村 文久三亥年(1863)八月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の件)」に野田村 明治四辛未年(1871)三月「下総国千葉郡椎名下郷三ヶ村書上帳」刈田子町高梨家蔵に野田村 以上の資料のいずれも、表題あるいは本文中に野田十文字、野田新田、野田とあって、町名の移動がわかると思います。 |
大金沢町(おおかんざまち)
当町も千葉庄椎名郷に属し、『千葉大系図』に「千葉常胤の六子、胤光椎名六郎と称す。下総国千葉之庄椎名郷に居城し、此城堅固なるため大椎城の子城也」と記され、「子息の胤隆、椎名六郎太郎と称して、治承年中源頼朝に仕へて功あり」ともあります。按ずるに、居城は椎名崎町の台地と考えられ、城跡と呼ばれる地域があります。 今、諸文書について調べてみると、 延宝五年(1677)九月「大金沢村六通新田開発成功す」(鈴木源六家文書)に大金沢村 宝暦十一年(1761)五月「下総国各村級分書上(森川紀伊守領分大金沢村)」『改訂房総叢書』所収に大金沢村 安永三午年(1774)十月「小金一件諸入用割合控」刈田子町高梨家蔵に大金沢村 安永四乙未年(1775)三月「宗門御法度書」刈田子町高梨家蔵に大金沢村 寛政七卯年(1795)正月「日記(小金原御鹿狩勢子人足割之事)」刈田子町高梨家蔵に大金沢村 文政六未年(1823)「刈田子村髙梨家文書(上郷大膳野村名主善七)」に大膳野村 文政十三年(1830)八月「諸願書写」(高梨家文書)に大金沢村 天保九年(1838)四月「御領分田畑高反歩取調控帳写」刈田子町高梨家蔵に大金沢村 嘉永元年(1848)九月「村々髙覚帳」に大金沢村 嘉永五子年(1852)九月「覚(村高取調)」に大金沢村 嘉永五年(1852)十一月「乍恐以書付奉願上候」に大金沢村 文久三亥年(1863)八月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の事)」に大金沢村 明治五年(1872)「農間質渡世鑑札下附願書」刈田子町高梨家蔵に大金沢村 以上の諸書いずれも大金沢村とあって、ただ一つ文政六年の文書に大膳野とあるだけです。町名は大金沢村から大膳野村と変り、再び大金沢村と変ってきています。 |
小金沢町(こかんざちょう)
千葉之庄椎名郷に属し、当町も大金沢町と同様、町名については資料、伝承も残っていません。 資料から見ると、 宝暦十一年(1761)五月「下総国各村級分書上(森川紀伊守領分小金沢村)」『改訂房総叢書』所収に小金沢村 安永三午年(1774)十月「小金一件諸入用割合控」刈田子町高梨家蔵に小金沢村 寛政七卯年(1795)正月「乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の件)」刈田子町高梨家蔵に小金沢村 寛政七卯年(1795)正月「日記(小金原御鹿狩勢子人足割の件)」刈田子町高梨家蔵に小金沢村 文政十二年(1829)三月「富岡村長徳寺薬師堂棟札」富岡町長徳寺蔵に小金沢村 天保九年(1838)四月「御領分田畑高反歩取調控帳写」刈田子町高梨家蔵に小金沢村 嘉永元年(1848)九月「覚(村高取調)」に小金沢村 嘉永五年(1852)十一月「乍恐以書付御歎願奉申上候」に小金沢村 文久三亥年(1863)八月「乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の件)」に小金沢村 以上いずれも小金沢村とあって、分村後は、町名の移動は考えられません。 |
土屋雅人(郷土博物館市史編さん担当)
当館には、「薩摩芋御仁恵録」と「芋の記」の2冊が一緒に綴られている資料が寄託されています。前者は、「青木文蔵御用薩摩芋作場見分絵図其外書付写」とあり、北町奉行与力である加藤枝直の旧記の写本です。この写本も貴重ですが、今回は後者の「芋の記」を取り上げます。
1 「芋の記」を読む
「芋の記」表紙(当館寄託)
「芋の記」の冒頭は、『先哲叢談』から青木昆陽の伝記部分が書き写されています。『先哲叢談』は、江戸時代初期から宝暦期までの主要な儒者72人の評伝集で、儒者の原念斎が文化13年(1816)に著しました。
次に、昆陽の賀詞(註1)の草稿と、加藤枝直の短冊が書き写されています。そして、江戸在府の給知差配役(註2)だった豊田重三郎が、馬加村(現千葉市花見川区幕張町)名主の弥左衛門に、この2つの書を表装して送ること、『先哲叢談』にある青木昆陽の部分の書き抜きを廻すことが書かれています。
さらに、添え書きとして、豊田重三郎が儒者の杉原平助(直養)に、昆陽神社のご神体として昆陽の書を頂戴したい旨を相談したところ、平助は伝来の2枚のうち1枚の書を与えたことが記されています。この書こそ、昆陽の賀詞の草稿だったのです。
以降は、『千葉市史 史料編9 近世』に151号史料として翻刻・掲載されています。安政4年(1857)の昆陽神社遷宮式の祝詞、及び豊田重三郎と杉原平助との間で交わされた、遷宮式執行に関する書簡の内容が書き記されています。平助からは、遷宮式に伴うお供え餅の恵贈、及び青木家への報告などの返事がありました。そして最後に、幕臣で蘭学者の花井虎一が記した昆陽の評伝(刷物)が添付されています。
このように、「芋の記」には、昆陽神社のご神体や遷宮式に関することなど、貴重な内容がまとめられています。
2 杉原平助と青木昆陽
旗本杉原家は代々番方を勤めた家です。杉原平助は、天保11年(1840)から昌平坂学問所の御儒者となり、幕末の外交にも携わりました。杉原平助と青木昆陽は、どのような関係があったのでしょうか。
杉原平助の父の平左衛門(直休)は、青木昆陽の子の肇(三郎左衛門)の三男で、杉原家の養子となりました。つまり、杉原平助から見ると、青木昆陽は、曽祖父にあたります。平助は、親族の話または『先哲叢談』の記載などから、同じく幕府の御儒者として活躍した昆陽の事跡を知ったのかもしれません。ちなみに、昆陽神社のご神体として渡した書は、過去に青木家から杉原家が譲り受けたもののようです。
また、国立歴史民俗博物館所蔵の杉原平助関係資料の中に、昆陽神社建立願があります。これは、馬加村が寺社奉行に提出した願書の下書きです。青木昆陽による馬加村の試作を契機として周辺にさつまいもが普及したこと、芋神様として崇めてきた昆陽の小社建立は、村一同の念願であることが書かれています(註3)。豊田重三郎が杉原平助に昆陽神社のご神体の書を相談した際、この建立願が平助の手元に渡ったものと推測されます。
「芋の記」によると、杉原平助は、昆陽神社の遷宮式執行を悦び、さらに神社辺りに碑を建てることを豊田重三郎に提案しています。江戸時代に碑が立つことはありませんでしたが、遷宮式から62年後の大正8年(1919)、幕張町の有力者が中心となって、昆陽神社の向かいに「昆陽先生甘藷試作之地」の記念碑が建立されました。
註1:宝暦12年(1762)12月11日、10代将軍家治の若君誕生の時に作った七夜の賀詞である(平野元三郎『青木昆陽伝』隣人社、1943年)。
註2:給知差配役は、給知世話役(与力給知を一括支配)の指示に基づき、給知諸村の支配にあたった。江戸在府と諸村に配置された(須田茂「千葉市域の与力給知」『絵にみる図でよむ千葉市図誌』下巻、千葉市、p.p.193~195、1993年)。
註3:乍恐以書付奉願上候(薩摩芋養育御用青木文蔵の小社建立願につき)、史料番号H-1855-895。昆陽神社は、馬加村の給知差配役の中台弥十郎が主導し、弘化3年(1846)に社殿が建立された(大正5年『幕張町誌』当館蔵)。
※本稿は「ちば市史編さん便り」No.29から転載しました。
★令和4年度企画展関連資料集「甘藷先生の置き土産~青木昆陽と千葉のさつまいも~」を刊行しました(内容ページへリンク)
土屋雅人(郷土博物館市史編さん担当)
千葉御殿って何?
江戸時代に佐倉藩領の町や村の位置を描いた「佐倉藩領村々絵図」(註1)という絵図があります。この絵図の千葉町周辺に焦点を当てると、千葉町と書かれた左側に「御殿址」という表記があります(図1)。
図1 千葉町周辺 (「佐倉藩領村々絵図」)
この「御殿址」は、千葉御殿の跡地を表しています。千葉御殿は、徳川家康が東金方面への鷹狩りの際に宿泊した施設で、現在の千葉地方裁判所(千葉市中央区)の敷地に相当します(註2)。少なくとも慶長 19 年(1614)に家康が東金を訪問した際は、東金御成街道は造営中であった可能性が高く、既存の道路体系を用いたと考えられます。つまり、船橋御殿-千葉御殿-土気茶亭-東金御殿の土気往還を経由するルートを利用したのです(図2)。千葉御殿については、方一町ほどの周囲に土塁と堀を巡らした方形館跡であったと推定されます。徳川光圀の『甲寅紀行』には「右の方に森あり。東照宮御旅館の跡なりと云ふ。」とあり、光圀が訪れた延宝 2 年(1674)には、既に御殿の建物等は残っておらず、森林となっていました。
図2 房総の御殿 ・ 街道関連図
佐倉藩の御林となった千葉御殿跡
寛政元年(1789)5 月、佐倉藩は千葉町の忠蔵に御林守(おはやしもり)を任命します。御林守とは、支配領主が所持する森林(=御林)を管理する役職で、忠蔵は千葉町の有力者の 1 人でした。千葉町にある佐倉藩の御林は 8か所で、そのうち忠蔵が管理した御林は「猪鼻御林」と「御茶屋跡御林」の 2 か所でした(註3)。後者の「御茶屋跡御林」は、別の文言で「権現様御茶屋跡」とあり、千葉御殿の跡地であったことがわかります。その面積は、6 反 6 畝 20 歩(=約 6,600平方メートル)ありました。
戦国時代の城跡は、江戸時代に御林に指定され、勝手な立ち入りが禁止されました4。千葉御殿の跡地についても、佐倉藩は御林に指定し、旧跡として保護していたのです。
佐倉藩の御役所となった千葉御殿跡
江戸時代後期の「千葉町家並図」(註5)を見ると、川沿いに「御殿地入口」「御殿前」と書かれています(図3)。また、佐倉藩の「年寄部屋日記」(註6) 文政 8 年(1825)の条目に、「千葉町御殿地御役所」「千葉町御小屋御殿地」などと記されています。19 世紀に入ると、千葉御殿の跡地は、佐倉藩の千葉御役所として利活用されていたことがわかります。この千葉御役所では、江戸湾の沿岸防備における人足の動員や管理、または藩領内の年貢米の管理と江戸への廻米などを行っていました。
図 3 千葉町家並図 (部分)
さらに、文政 9 年(1826)8 月、千葉町の忠蔵は、「御茶屋跡」に所持していた新畑(反別 4 反 2 畝 24 歩=約 4,237平方メートル)を佐倉藩に譲り渡しています。藩はその場所を御用地とし、翌月に土地を譲り渡した忠蔵に、御礼として三組 盃 を与えています(註7)。佐倉藩は、文政 8 年(1825)に炭の専売制度を開始し、同 10 年 8 月~ 9 月頃に千葉町炭会所を設立します(註8)。千葉町炭会所は千葉御役所の脇にありましたので、佐倉藩が忠蔵に「御茶屋跡」の新畑を御用地として譲り渡すように要請した目的は、炭会所を設立するためであったと考えられます。
保護から利活用へ
徳川家康が宿泊した千葉御殿の跡地は、佐倉藩の御林による保護から、藩の千葉御役所・千葉町炭会所による利活用へと、管理の目的が変化していきました。
近代に入ると跡地には、明治 8 年(1875)頃に千葉地方裁判所が創設され(図4:註9)、現在に至っています。
図 4 裁判所 (明治 15 年迅速測図より)
周囲には土手が残されていることがみてとれる
註1 佐倉市所蔵文書 1-14878(佐倉市教育委員会所蔵)
註2 簗瀬裕一「千葉におけるもう一つの御殿跡-千葉御殿と千葉御茶屋御殿-」(『千葉いまむかし』18 号、 2005 年 3 月)
註3 拙稿「在地史料からみた下総台地藩領の森林~佐倉藩城付領と結城藩上総分領~」(『関東近世史研究』 90 号、2022 年 6 月)
註4 竹井英文『戦国の城の一生 つくる・壊す・蘇る』吉川弘文館、2018 年
註5 旧白井家文書 8(当館寄託)
註6 下総佐倉藩堀田家文書 6-113 ~ 118(日産厚生会佐倉厚生病院所蔵・佐倉市寄託)
註7 (明和 2 年~慶応 2 年)「(万控帳)」(旧白井家文書 2)
註8 拙稿「佐倉炭の流通と市域の四町村-千葉町・登戸村・寒川村・泉水村-」(『千葉いまむかし』19 号、 2006 年 3 月)
註9 古川國三郎編『千葉街案内』多田屋書店、1911 年
※本稿は「ちば市史編さん便り」No.30から転載しました。
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