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更新日:2020年3月8日

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平成29年度特別展「戦国時代の千葉氏―古文書が語る争乱―」

応仁の乱に先立つこと13年。関東地方は享徳3年(1454)の享徳の乱をきっかけに戦国時代に突入しました。
下総国を一貫して支配していたのは平安末期から続く名門千葉氏でした。
千葉氏内部の対立や動揺の中、北条氏や里見氏など諸勢力と協力や敵対関係を持ちながら渡り合っていきます。
今回の展示では戦国時代末期の千葉氏当主胤富と邦胤について、平成29年2月に千葉市指定文化財となった「原文書」を中心に、当時の関連資料や出土資料などをあわせてご紹介します。

会期

平成29年10月31日(火曜日)~平成30年1月14日(日曜日)

会場

郷土博物館 2階展示室

チラシ

チラシはこちらからダウンロードできます→「平成29年度特別展 戦国時代の千葉氏ー古文書が語る争乱ー」チラシ(PDF:4,878KB)(別ウインドウで開く)

展示資料

展示資料一覧はこちらからダウンロードできます→「平成29年度特別展 戦国時代の千葉氏ー古文書が語る争乱ー」展示資料一覧(PDF:249KB)(別ウインドウで開く)

図録

図録情報はこちらからご確認ください。
「平成29年度特別展 戦国時代の千葉氏―古文書が語る争乱―」展示図録

内容

原文書とは

原文書とは、越前国(福井県)福井藩士であった原氏に伝わった文書である。原氏は千葉氏の一族であったが、その宿老(いわゆる家老)であり、16世紀には小弓城(千葉市中央区生実町)や臼井城(佐倉市)を本拠としていた。「原文書」に登場する原氏はその分家で、森山城(香取市)を本拠としていた。原文書の主な内容は、室町時代末期~安土桃山時代に千葉氏の当主であった千葉胤富、邦胤からの森山領(香取市)内の支配に関わる指示が中心で、軍事・徴税・儀礼など多岐にわたっている。
天正18年(1590)、小田原の北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、北条氏に従っていた千葉氏やその家臣の原氏は領地を没収された。その後原氏は、徳川家康の子結城秀康に仕官することになった。「原文書」は原氏の家柄の正当性を示すものとして士官の際に利用されたと考えられており、江戸時代を通じて代々伝えられた。

戦国時代の千葉氏の本拠地 本佐倉城

1 享徳の乱

関東の戦国期は、享徳3年(1454)12月に勃発した享徳の乱に始まるとみられる。享徳の乱とは、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠を頂点とする関東武士の対立から起こった大規模な武力抗争である。
代々下総国守護職を受け継いできた下総千葉氏もこの抗争に巻き込まれ、康正元年(1455)3月、成氏方となった千葉氏庶流の馬加康胤と重臣原氏方が惣領千葉介胤直方の本拠千葉城(千葉市中央区)を急襲し、胤直は下総国千田庄(多古町)にまで逃れた。その後胤直は自害したため、下総千葉氏の実権は馬加康胤と原氏の手に移った。
しかし室町幕府の命令を受けて美濃国(岐阜県)から遠征してきた東常縁によって馬加康胤も敗死した。千葉氏惣領の地位は子息の胤持をへて、康胤の次男輔胤へと引き継がれた。

2 本佐倉城の築城

本佐倉城(酒々井町・佐倉市)は戦国時代の千葉氏の居城であり、千葉氏が千葉城から本拠を移してから約100年間、下総の政治・経済・文化の中心地として機能していた。
本佐倉城の築城時期は諸説あり不明確ではあるが、おおよそ文明年間(1469~89)に築城されたと考えられる。
本佐倉城は古河にいる成氏を支えるための軍事的拠点としてのほかに経済的拠点としてもすぐれていた。当時利根川下流一帯は大きな内海(香取の海)が広がっていた。印旛沼は鬼怒川とつながり、手賀沼や霞ケ浦・北浦とも容易に行き来ができ、銚子から関宿、さらには大井川(現江戸川水系)で江戸湾(東京湾)ともつながっていた。本佐倉城がある台地は北に印旛沼を臨み、このような河川交通によって広く関東各地と結ばれていた。さらに下総国を東西に結ぶ古道がすぐそばを通っており、千葉庄をはじめとする下総各地との陸上交通の便も良かったのである。

戦国時代の千葉町

本佐倉城に本拠地を移した後も千葉の町は千葉妙見宮(千葉神社)の門前町として都市的な場を形成していたと考えられ、引き続き千葉氏の精神的支柱として重要な場所だった。千葉氏当主たちは嫡子の元服を千葉妙見宮で執り行うことを原則としていたからである。
千葉と佐倉をつなぐ街道上には高品城(若葉区高品町)がおかれた。千葉昌胤の元服の際は「高篠」(高品の旧称)に立ち寄り、命名のためのくじをひき、装束や隊列を整えた記録が残っている。千葉の町はしばしば千葉氏の敵対勢力に侵攻され、高品城は最前線の城としても機能していた。

戦国時代の千葉氏当主 千葉胤富

千葉胤富は千葉昌胤の三男で、早くに海上氏の支流である森山海上氏の家督をつぎ、香取郡森山城(香取市)に在城していたが、弘治3年(1557)8月兄弟たちの早世により千葉宗家の家督を継ぎ、本佐倉城に移った。
弟親胤は家臣に暗殺されたとも言われており、胤富はこのような不安定な状況を北条氏との結びつきを強めることで乗り越えようとした。それは同時に北条氏と対立していた安房国(千葉県)の里見氏や常陸国(茨城県)の佐竹氏、越後国(新潟県)の上杉氏から敵とみなされることでもあった。千葉氏内にも内紛の火種が残る中で、胤富は内外の対処に奔走した。胤富の発給した文書には、交戦にかかわる文書が多く含まれている。

戦国時代の千葉氏当主 邦胤

胤富の嫡子の邦胤は、弘治3年(1557)に生まれた。元亀2年(1571)に佐倉妙見宮で元服し(「千学集抜粋」)、天正2年(1574)11月以前には家督を継承していたとみられる。
天正5年(1577)に里見氏と北条氏の和睦が成立したことにより、里見氏による千葉氏の所領への侵攻も収束したと考えられている。邦胤は北条氏政の娘芳桂院殿(ほうけいいんでん)と婚姻しており、北条氏と千葉氏の結びつきはますます強くなっていた。
だが天正7年(1579)の父胤富死去、天正8年(1580)の芳桂院殿の死去により、邦胤が北条氏から自立の傾向を示したことが指摘されている。それは花押と印判の変化や、後室に関東足利氏の流れをくむ新田岩松氏の女性を迎えたことに現れているとされる。
しかし天正13年(1585)5月、邦胤は家臣によって29歳で殺害される。殺害そのものは、家臣のある非礼が発端となったと伝えられているが、邦胤がみせた北条氏からの自立傾向に対して、家臣団内部で北条氏派・反北条氏派にわかれた権力争いが起こっていた可能性が考えられるのである。
邦胤の後継者選びをきっかけに、千葉氏家中では北条氏派(原胤長等)と反北条氏派(原親幹等)の対立が表面化した。原胤長の要請により、天正13年11月に北条氏当主氏直が佐倉領内に進軍した。この結果、原親幹は北条氏に従うことを認め、千葉氏の後継者として北条氏から婿を迎えることになった。これにより本佐倉城は完全に小田原城の支城のひとつとなり、千葉氏は北条氏の直接支配に組み込まれることとなった。

近世千葉氏をめぐる動き

天正18年(1590)北条氏が豊臣秀吉に敗れると、千葉氏も所領をすべて失い、武家としては滅びた。しかし、江戸時代には何度か千葉家を再興しようとする動きがみられ、家臣への官途状も発給された。
戦国時代の千葉妙見宮の別当寺であった金剛授寺は天正19年(1591)に寺号を北斗山妙見寺と改めた。その妙見寺に伝えられた「旧妙見寺文書」には千葉氏に関する史料が残されている。筆跡や文書形態から江戸時代に作成されたと推測でき、近世になってもなお、戦国期の千葉氏との結びつきを示す文書を作成する必要があったことがうかがえる。おそらく下総国において「千葉氏家臣である」というネームバリューが、非常に大きなものだったのだろう。

特別展示 千葉氏の印判状

印判状とは花押(自筆の装飾的な署名)のかわりに印章を捺した文書のことで、戦国時代になると、尾張以東の東国の大名たちの間で急速に広まった。そして印判を使用していた織田信長の上洛をきっかけに、東国以外の大名も使用するようになっていった。
印判状は花押を使用した文書と異なり、本人以外も捺印できる簡単な様式であるため、大名相互に取り交わされる対等な文書や大名から公方など上位の相手には用いられなかった。礼を要せず、また同文の文書を一度に多数発給する必要がある領国内の民政関係文書に主に用いられた。発給者の権威が無ければ機能しないため、印章は自然と領主の権威の象徴となっていった。
本展示では初めて千葉氏の現存する印判状をすべて展示する機会に恵まれた。本展示が今後の戦国期の関東の研究に貢献できれば幸いである。

鶴丸の黒印状

現在確認される「鶴丸印」使用例は7例を数えることができるが、そのうち原本は2例のみである。「千学集抜粋」によると、海上氏が鶴の紋章を用いており、海上氏を継いでいた千葉胤富が千葉本家を継ぐ際に海上氏の鶴の紋章を引き続き使用したと考えられる。「鶴丸印」の使用例はすべて海上郡・香取郡域で、旧香取内海沿いのきわめて限定された地域となっている。そのため、千葉家の家印として使用されていたのか、より限定的な場面で使用されていたのか議論が分かれている。

千葉邦胤の龍朱印状

現在確認される「龍印」の使用例は、わずかに5点である。「龍」字が選択された理由は、千葉の守護神の一つ千葉寺(中央区千葉寺町)の「龍蔵権現」信仰が背景にあったと指摘されている。
印文上に龍のデザインが配されているもの(ア)とそうでないもの(イ)があり、現在残っている使用例から、イは天正3年(1573)1月から同8年(1580)12月まで、アは天正10年(1582)9月から同13年(1585)1月まで使用されていたと考えられている。ちょうど邦胤の活躍期と重なっているため、龍朱印判状の発給者は邦胤と推測されている。
印影の変化の理由はわかっていないが、天正8年に北条氏から迎えていた夫人芳桂院殿が死去し、公方家とつながりを持つ新田岩松氏から後室を迎え、北条氏と邦胤の結びつきが弱まったという事実は注目に値するだろう。

関連事業 ※すべて終了しています

1.歴史講座「戦国時代の千葉と諸勢力」

千葉経済大学と千葉市立郷土博物館の共催事業です。
今年は特別展に関連して、戦国時代の千葉を取り上げます。

日程および内容

1.11月30日(木曜日)「千葉氏と里見氏の攻防」滝川恒昭氏(千葉市史編集委員)
2.12月1日(金曜日)「戦国時代の千葉氏」黒田基樹氏(駿河台大学教授)
3.12月8日(金曜日)「民衆の信仰と民俗」菅根幸裕氏(千葉経済大学教授)

以上全3回

時間

13時30分~15時30分

会場

千葉経済大学(稲毛区轟町3)

対象

市内在住・在勤・在学の方

定員
200名(定員を超えた場合抽選)

参加費

無料

2.ギャラリートーク

学芸員による展示解説を行います。

日時

1.11月5日(日曜日)
2.12月3日(日曜日)
3.12月17日(日曜日)

いずれも13時00分~13時30分

3.武家装束試着体験

1.11月3日(祝・金曜日)
2.12月2日(土曜日)
3.1月13日(日曜日)

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