更新日:2026年1月12日
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お城の人Nは、今年度の春に着任した学芸員系(考古学)の職員です。
このページでは、博物館内外の様々な出来事を紹介します。また、リニューアルにおいて、4階展示室の「原始・古代」を担当したので、展示資料の紹介も行います。
以後、お見知りおきを。
本日は成人の日、休日です。三連休の最終日。
今朝は、昨日の強風とはうって変わって、風もなく澄んだ景色が目に優しい日になりました。

5階の展望フロアから西のほうを望むと、富士山が朝日に照らされてくっきりと見えました。

北東方向には、筑波山も見えます。
昨日の強風が雲を吹き飛ばしてくれたせいなのか、富士山も筑波山も同時刻に見ることができる日は多くはない気がします。
午前中の来館者の入りは良いほうです。昨日は強風でしたが、気温が高かったことから、360人を超える来館がありました。連休最終日の今日は、どの程度の入りになるのか期待してしまいます。
【追伸】
夕方も天気が良く、5階の展望フロアからの夕焼けに浮かび上がる富士山もまた一興です。今時期の閉館直前しか見れませんけどね。

なお、本日の入館者は、昨日に比べると少なかったですが、300人を超える方々にお越しいただきました。
三連休中日です。

4階フロアに入ると目に留まるのがこのイラストではないでしょうか。
「いにしえチバウォール」です。
発掘調査では、土器や石器などの遺物、竪穴住居とや古墳などの遺構が発掘調査で見つかります。これらのものは、むかしの人々が残した情報なので、当時の使い方や姿などの情報は思いのほか少ないのが実情です。考古学は、少ない情報の中から現代人が理解しうる情報を見つけ、集め、研究をすることで当時の状況を少しでもわかりやすく世の中に提供するのが役割に一つといえます。
復元イラストはイメージを膨らませることに直結する役割を担っており、制作にあたっては相応の裏付けと検討、そして想像を膨らませる工夫が必要です。
このイラストに描かれているシーンが原始・古代の一幕に実在したかは、定かではありません。ですので、あくまでも博物館の責任において編集された想像の世界であるということを前提として眺めてください。
とはいえ、描くにあたっての検討の際、様々な紆余曲折があり、その中で各シーンに込められた意味などを、ここで一部だけ解説しておこうと思います。

まずは、旧石器時代から。
旧石器時代のシーンは、ふたつのシーンが描かれています。

このシーンは、川を挟んで上下に分かれていますね。ここ、ポイントです。
今から2万年以上昔のイメージを描いています。現代よりもはるかに寒かった時代なので、植物相が違います。多くの樹々がモミ・カラマツ・トウヒといった針葉樹で占められ、わずかに広葉樹が混ざり、草原化した低地が広がっていたようです。
ヒトはまだムラを作ったりはせず、狩人として動物の移動などとともに生活の場を変えながら暮らしていたといわれています。
川の上側に描かれているシーンは、そういった情報をイメージとして描いたものです。
シカはムカシジカをイメージしたので、現代のニホンジカの背にある斑点模様などは表現してません。ただ、失敗したのはオスの角の枝分かれを、3本ではなく4本以上にしてしまったのが悔やまれます。つまり、ムカシジカとニホンジカの要素を混在させてしまったわけです。このイラストの構想段階での勉強不足の影響です。
川の上側と下側にひとりづつ狩人がいます。
左側で手槍を投げているのは、旧石器時代のヒト、右側で投槍具(とうそうぐ)で槍を投げようとしているのは、縄文時代草創期のヒトをイメージしています。
旧石器時代のシーンになぜ縄文時代草創期のヒトが描かれているのか不思議ですよね。
現在の研究成果の中では、旧石器時代から縄文時代への転換期について様々な意見があり、結論には至っていない現状があります。ただ、縄文時代草創期という時期は、土器も少なく、定住した証拠である竪穴住居跡なども目立たないことなどから、旧石器時代的要素がまだ濃く残る時期と判断している研究者は少なくありません。ですので、このイラストでは時代の転換期を表現する意味で川をはさんで異なる道具で狩りをしている様子を再現しました。なお、右側のヒトの下側に一風変わった土器が描かれていますが、これは緑区の坂ノ越遺跡で出土した市内最古の土器になります。縄文時代草創期の土器なので、時代の転換期を表す象徴のひとつとして配置しました。
今回は、ここまで。「いにしえチバウォール」の次回の解説では、縄文時代のイラスト部分を紹介します。
正月明けの三連休初日です。
当館では、毎月の第2土曜日にボランティアガイドさんによる「むかしあそび」体験を開催してきました。
本日は令和8年1月の第2土曜日。つまり開催日です。

かざぐるまづくり、ブンブンごま、けん玉、パズルを体験できます。


博物館正面玄関には、体験実施中を知らせるかざぐるまが掲示されています。
今日は、強風なこともあり、6個のかざぐるまがグルグル高速で回転していました。
親子で体験するにはもってこいの企画ですので、ぜひ体験してみてください。
と書いたそばからですが、実は体験スペースとしていた部屋で、1月23日から3月8日の間、特別展が開催されます。
この間は、残念ながら「むかしあそび」は一時休止となります。
ですので、次回は4月になるかなあと思います。
本日は、仕事始め。明日は月曜日なので、いきなりの週休日ですが。
4階_原始・古代の展示品紹介4

「権」(けん)です。
古代から使われた計量器のセットを「権」と「棹秤(さおばかり)」といいます。「権」は、棹秤で使うおもりのことです。「棹秤」はそのおもりを竿の目盛りで調整して重さを測るはかり本体を指します。これらは「権衡(けんこう)」と総称され、古代の度量衡(長さ・容量・重さの単位)制度を支える重要な道具でした。
組織などの中で、権衡を図る立場の人(はかりで物の重さをはかる役目を担う人や、物事の軽重を判断する立場の人)は、文字が書けて、計算ができる知識を備えた人ということになります。
別の言い方をすると。「権」を自在に操ることができるということは、力を持った人とも言えます。「権」をうまく調整すると、税収を増やしたり減らしたりできたり、物事の釣り合いをとることができるということから「権力」や「権威」などの単語が生じたという俗説もあります。
この出土品は、緑区の土気地域にあった黒ハギ遺跡から見つかりました。土気地域の古代の豪族が、高度な知識を備えていた証拠の一つと言えるかもしれません。


これらの画像は、当館2階の近世展示で展示中の「棹秤」と権=分銅=おもりです。黒ハギ遺跡出土の「権」の子孫にあたる道具です。
4階_原始・古代の展示品紹介3

本例は、中央区の藤葉遺跡でみつかった奈良・平安時代の竪穴住居跡から出土しました。
温石は、平安時代末頃から江戸時代にかけて、石を温めて真綿や布などでくるみ懐中に入れて胸や腹などの暖を取るために用いた道具のことです。
防寒だけでなく治療の効果も期待されたもので、懐炉(かいろ)のご先祖に当たるようです。
私も冬場は毎日「貼るホッカイロ」を背中などに貼るのが習慣化しています。身体が冷えにくくなりますよね。
漢方医学の治療法のひとつだったようで、現代的には岩盤浴のご先祖ともなるのかもしれません。
俗説によると、「懐石料理」の語源として、「禅寺で修行僧が空腹や寒さをしのぐため温石を懐中に入れたことから、茶の席で出す一時の空腹しのぎ程度の軽い料理、あるいは客人をもてなす料理をそう呼んだという説」もあるのだとか。懐石=温石の構図ですね。
千葉県内からは本例を含めて6例ほどが知られているようです。(2022年現在)
類似例は、市原市の荒久遺跡C地点の温石(外部サイトへリンク)が、相似形です。
中国から伝わった医療が都を経て、地方まで及んでいたのですね。
4階_原始・古代の展示品紹介の2回目。

緑区の土気地域にある中鹿子第2遺跡から出土した墨書土器「圀」の異体字です。
「圀」は知る人ぞ知る漢字ですね。
水戸のご老公の名前「徳川光圀」の「圀」です。
この漢字、”則天文字”(そくてんもじ)の中の1字です。
則天文字とは、中国史上ただ一人の女帝、則天武后が7世紀末に制定した文字です。女帝失脚後は唐代の漢字に戻され、この文字もほどなく忘れ去られました。日本には奈良時代に伝わり、市域の例では平安時代の土師器に書かれたものが多いです。中国で忘れ去られた文字を長く使用し続けた理由は不明です。
「圀」は、「國」の「或」の部分が「惑」に通じるのを不吉と考え、国が八方に繫栄するようにという願いを込めて「八方」に変えられたのだそうです。
本例は、「立万」という吉祥句を部首の国がまえで囲い、国がめでたく繫栄することを願ったのかもしれません。※「万」はたくさんの意味。たくさんよいことがあってほしいという意味かもしれません。
今回の展示では、パネルに則天文字の例をいくつか掲示しましたが、市内出土の例は「日」「月」などが目立つイメージがあります。
墨書土器自体が、文字を理解し、書くことができる知識人の存在を示す遺物です。則天文字を書くということは、当時の知識人の中の何かしらのルールが表現されているとも解釈できるので、文字が残されることが少ない地方の在り方を推測する貴重な情報といえるでしょう。

紅葉 さて、この紅葉はどこの?いつの?ものでしょう。
正解は、今日の亥鼻公園内です。

公園内のほんの一部ですが見頃?なモミジが。
紅葉の原理は、「秋の気温低下と日照時間の減少により、葉の緑色色素(クロロフィル)が分解され、もともと葉に含まれる黄色色素(カロテノイド)が目立つこと(黄葉)、さらに葉に蓄積された糖分から新たに作られる赤色色素(アントシアニン)が加わることで起こり」「アントシアニンは、光合成が衰えた葉を紫外線から保護する役割も持ち、鮮やかな赤や紫を生み出」すとのこと。
関東では、12月中旬頃までは見かけるところもあるそうですが、元来はそうは多くなかったのだそうです。
近年の傾向のようですが、秋の気温上昇(10月下旬以降の気温が平年より高いと、紅葉が遅くなる)や、寒暖差が大きい日がまとまってないこと(昼夜の寒暖差が大きいほど鮮やかに色づくが、全体的に気温が高いと色づきが遅れる)などの影響が顕著になっているようです。
地球規模の気候変動の影響、つまり温暖化傾向が12月まで紅葉が続く地域の増加につながり、遅い所ではクリスマスともみじ狩りが重なるようなことが起こり始めているということのようです。


ハクセキレイのメス
ハクセキレイは、繁殖期(春から夏)にはつがい(ペア)で行動しますが、秋冬の昼間は主に単独で行動する傾向があるとのこと。これらの画像の個体は、冬ですが二羽で共に行動していました。ご夫婦なのでしょう。
「日本では近年北海道から生息地域が南下しており、現在では四国、九州でも繁殖が記録されています。海岸、河川、池沼などの水辺や、農耕地、駐車場、道路など他の鳥が生息しないような無機質な場所でも生息しているのを見ることができる」そうです。つまり、温暖化の影響で生息域が拡大中ということです。
道路や駐車場などでトコトコ歩きながらエサを捕る姿はよく見られる光景です。人を恐れず、人間が近づいても距離をとることはあっても逃げることはあまりないので、警戒心の薄い鳥なので「逃げない鳥」とも呼ばれているようです。
また、ホバリングも得意で、高い場所でホバリングしながらエサの捕りやすそうな場所を探し、地上で虫などを掘り起こして食べ、垂直に飛び上がって空中にいる昆虫をキャッチするのも上手とのこと。
アクロバティックな姿を見てみたいものです。
今日は弱めの雨が断続的に降っていました。気温が19℃近くまで上昇し、12月とは思えない生暖かい南風が吹く日でした。

ハナアブの一種です。
おそらくキゴシハナアブ(黄腰花虻?)。
名前に「アブ」とあるが、いわゆるアブの仲間ではなく、ハエの仲間らしい。
確かによく見るとハエにも見える。
4月から12月の間が活動期らしい。
ウィキペディアによると「ハナアブは変温動物であるため、気温が活動に適した範囲(一般的に10~30℃程度)になると活発になります。成虫は花の蜜や花粉を食べ、幼虫はアブラムシなどを捕食するため、農業においては益虫として知られています。 」とのこと。
見た目に反して、よい虫ではありませんか。

シュウメイギク(秋明菊)です。
名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間らしい。
中国から古い時代に入ってきた帰化植物らしく、日本の園芸書では「秋牡丹」「しめ菊」「紫衣菊」「加賀菊」「越前菊」「貴船菊」「唐菊」「高麗菊」「秋芍薬」などの多様な別名で呼ばれてきたとのこと。
本来の花色は赤紫色で花弁も牡丹のように多いそうだが、近年は他種との交配品種が市販されるようになり、弁数が少ない品種や白色の品種が多くみられるようになったのだとか。
写真例は、まさに花びら数が少なく白い。つまり交配品種ということなのでしょう。
アネモネと同様にプロトアネモニンを含み有毒で、乳液に触れるとかぶれを引き起こすとのこと。
かわいらしいからといってむやみに摘まないほうがよいということかな。
最初の投稿は、4階の目玉展示品、「木簡片のレプリカ」です。

「下総國千葉郡」と書かれています。
今現在、漢字・単語「千葉」の最古の出土例です。以下、実際の展示に付した解説文。
平成元年(1989)、奈良市の平城京左京二条二坊五坪の二条大路北側側溝出土の木簡で、736年前後の廃棄物です。
漢字「千葉」の最古の例で、奈良時代初頭には「千葉」の地名が知られていたことが分かります。
大治元年(1126)の千葉開府以降、両総平氏の一派が「千葉氏」を名乗るきっかけとなる地名の起源をたどれる貴重な出土品です。
「千葉」の地名が奈良時代の初頭には公的に認知されていた証拠です。けっこうむかしから知られていたんですねえ。
なお、万葉集では、”ちば”の音として「知波」をあてています。万葉仮名の起源が奈良時代以前のどれだけむかしにさかのぼることができるかは定かではありませんが、古墳時代の終わりにあたる飛鳥時代には「知波」は認識されていたのかもしれません。
【補足1】
「下総國千葉郡」木簡
【補足2】
『万葉集』に収録されている「千葉の野の児手柏のほほまれどあやにかなしみ置きて高来ぬ」は、千葉郡の大田部足人(おおたべのたるひと)が詠んだ歌です。
千葉の野の児手柏の花のつぼみのように、初々しくってかわいいけれど、とてもいとおしいので、何もせずに(遠く)ここまでやってきました
歌人:大田部足人(おおたべのたるひと)
歌体:短歌
好きだった娘さんに手も触れずに、防人(さきもり)として旅立ってきた様子を表していると考えられます。
防人歌とは、九州辺境防備のため東国諸国から徴発された防人やその妻たちの歌を指します。
防人歌は、東歌中にも数首見られますが、一般には巻二十所収の八十四首を指します。
万葉集には、さまざまな身分の人の歌が幅広く掲載されていますが、その中には、防人や、その家族の歌が100首近く収録されています。
奈良文化財研究所に保管されている貴重な資料で、レプリカ製作の専門業者さんたちと奈良まで出張して詳細を把握しました。少し苦労した展示品です。
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